鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

カテゴリ: 14 国際政治/ヨーロッパ

 

1945年4月 

4月半ば ソビエト軍がベルリンに突入、中心部へ向け侵攻。ヒトラーは南部ベルヒテスガーデンへの疎開案を拒否。ベルリンの総統地下壕を最後の拠点と定める。

4月20日 総統誕生日。ヒトラーは国防軍最高司令部と政府閣僚の避難を許可。ドイツ軍の統帥を海軍総司令官カール・デーニッツ海軍元帥に委任した。デーニッツはプレーン(Plön)の海軍総司令部に移り執務開始。国防軍最高司令部のカイテル元帥、ヨードル上級大将らもプレーンに向かう。

4月21日 空軍総司令官ゲーリング、国防軍最高司令部・陸軍総司令部の主要メンバーはヒトラー総統専用のベルクホーフ山荘のあるオーバーザルツベルクへ疎開。

4月23日 軍中枢に続き、閣僚もプレーンに移動。プレーン近郊のオイティンで閣僚会議を開催。

4月23日 連合軍がポー川を突破。ムッソリーニはミラノからスイス国境のコモに逃走。

4月23日 ゲーリング、ヒトラーに国家指揮権を移譲を迫る。ヒトラーはゲーリングを全てのポストから解任。さらに一時監禁される。ヒトラー自殺後に解放される。

4月27日 ムッソリーニ、コモでパルチザンに逮捕される。 即決裁判により処刑される。 遺体はミラノ市のロレート広場に吊るされた後、無記名の墓に埋葬される。

4月27日 ヒトラーはゲーリングを全てのポストから解任。さらに一時監禁される。ヒトラー自殺後に解放される。

4月28日 早朝 SS全国長官ヒムラーが密かに進めていた和平交渉が失敗。その秘密がBBC放送で全世界に公表される。ヒトラーは激怒しデーニッツを後継者に指名、ヒムラーの解任と逮捕を命令する。

4月30日am 海軍総司令官カール・デーニッツ元帥が大統領(総統ではない)に指名され、新たな政府を組織した。デーニッツはヒムラーと会見し、ヒムラーが解任されたことを告げるが逮捕に至らず。

4月30日3pm ヒトラーが総統地下壕の一室で自殺。ボルマンを遺言執行人に指名。この時ソ連軍は地下壕から500メートルまで迫っていた。

4月30日深夜 ボルマンら、総統地下壕を脱出。その後行方不明となる。

1945年5月

5月1日 0am ヒムラーとデーニッツの2回目の会談。ヒムラーは首相職を要求したが、デーニッツはすでにヒムラーが連合国から交渉者失格と通告されているとして、これを拒否。

5.01 午後 ゲッベルスとボルマンの共同署名になるデーニッツあて電文が到着。ヒトラーが自殺し、デーニッツの大統領就任が発効した。(このあたりやや事実が錯綜)

5.01 8pm ゲッペルス夫妻、子供を毒殺したあと自決。

5.01 10pm デーニッツ、ハンブルク放送を通じて演説。ヒトラーから国家元首と国防軍最高司令官としての職責が託されたことを明らかにし、「英、米、ボルシェヴィズムと戦い続ける」と表明。「押し寄せる共産主義たちによる破滅からドイツ人を救うこと」を最大の任務と位置づける。

5.03 デーニッツ、クロージク財務相を閣僚首班に指名。フレンスブルク郊外の海軍士官学校に内閣を置く。

5月4日 西部戦線のドイツ軍が全面降伏する。

5月5日 ミラノのドイツ軍C軍集団が正式に降伏。イタリアの戦闘が終結。

5月5日 プラハ蜂起が発生。翌日にはソ連軍も到着。

5月6日 デーニッツ、ヒムラーら生え抜きのナチ幹部を解任。連合国との交渉に備える。

5月6日 デーニッツはドイツ軍作戦部長アルフレート・ヨードルに、連合軍に対する国防軍の降伏文書に署名する許可を与える。ヨードルがフランス国内(ランス)の連合国遠征軍総司令部に赴き、連合軍への降伏を交渉。

5月7日 48時間の猶予を得たドイツ軍は、西方総軍指揮下の各軍に対して西への脱出を命令。 デーニッツは西方での投降は受け入れ、東方では戦闘を継続し市民や兵士の避難のルートと時間を確保しようとつとめた。

5月8日 連合国軍司令官アイゼンハワーとヨードルが無条件降伏文書に調印。文書は英文のみで、ランスの連合国遠征軍総司令部で調印式。

5月9日 ベルリン郊外(カールスホルスト)の赤軍司令部で、カイテル元帥らドイツ代表が降伏文書を批准。こちらの文書は英・ロ・独文よりなる。旧ソ連諸国では5月9日が対独戦勝記念日となっている。

5月13日 ソ連軍はすべての進撃を停止。

5月14日 スロベニアでパルチザンとドイツ国防軍・クロアチア独立国軍の戦闘。翌日、ドイツ軍が降伏して戦闘が終了。

5月20日、ソ連政府はデーニッツ政府がどんな権力を持つことも許さないと表明。

5月23日 英軍がフレンスブルクの政府施設に侵入。アイゼンハワー命令に基づき、政府の解散とすべての要員の逮捕を執行。デーニッツらフレンスブルク政府の閣僚が逮捕され、ドイツ政府は解体・消滅する。

6月5日 連合国軍によってベルリン宣言が発令され、ドイツの中央政府消滅と米英仏ソ四国による主権掌握が発表された。


EUはどこへ行くか

イギリスの離脱、フランス大統領選での熱い論戦が示すように、EUがどこへ行くのかは重大な問題となっている。

そのEUの最高機関である欧州議会が開かれている。13日にユンケル委員長が施政方針演説を行い、翌日から討議が始まった。

ユンケル演説の骨子は以下の通り。

1.EUはギリシャの債務問題や難民流入、ユーロ懐疑派の台頭という危機を経験した。しかしEUは「打ちのめされ、傷ついた」状態から回復しつつある

2.経済成長が再開した。「欧州に流れが戻った。絶好の機会が訪れている」

3.すべての加盟国に訴える。ユーロ通貨圏や他のEU機関に参加しよう。ユーロはEU全体の通貨となるべきだ。

4.日本とEPAで合意に達した。米国とのFTAも交渉を加速させよう。対中国ではインフラやハイテク製造業、エネルギー分野における欧州企業買収を制限し戦略的利益を守る。

5.常任のEU財務相を置く。欧州安定メカニズム(ESM)を拡充し欧州版国際通貨基金(IMF)の創設を検討する。


討議の中で明らかになったのは、雇用の問題、富の不平等、福祉・貧困対策、労働条件などで問題が山積しているということであり、その根底にあるリーマン・ショック後10年に渡る緊縮政策の是非だ。

この間の緊縮政策は結局、多国籍企業の利益に沿ったものでしかなかった。

欧州では1億2千万人が貧困に陥っている。失業者は2千万を超えている。これは緊縮政策の結果であり、まさに「欧州の失われた10年」となっている。

「労働者は雇用を脅かされ、農家は農産物価格の低迷で市場から締め出され、失業者は放置されている」(欧州統一左翼)

「労働者は労働力柔軟化政策のもとで、長時間労働、劣悪な労働環境、低賃金で働かされている。これが社会的ダンピングとなって、さらに負の連鎖を引き起こしている」(欧州統一左翼)

これらの事態の原因のすべてがEUにあったのか、各国政府が担うべき責任は分からない。(ユンケルはルクセンブルクの首相だった時、アマゾンと租税優遇措置を取り決めた。この件については、現在も欧州議会税制特別委員会が調査を続けている)

しかしはっきりしていることがある。たとえその原因の多くが各国政府の責任であったとしても、それを救うためにEUは作られたはずだ。

少なくとも犠牲を助長するような政策であってはならないはずだ。

これらの点で、EUがその存在意義を問われる状況はこれからも続くことになろう。
EUの存在意義を欧州共同防衛というような内容に変質してはならないはずだ。それは多国籍企業のためのEUに変質するときの隠れ蓑にすぎない。


フランスの政治-かんたんな紹介

1.フランスの政治の歴史

フランスでは1789年にフランス大革命が起こりました。革命派の人々はルイ16世の王政を倒し、共和制を宣言しました。

それは「自由・平等・博愛」を宣言しました。これはフランスばかりではなく、現代の民主主義の精神的基礎となっています。

この考えはアメリカにも受け継がれ、日本の憲法もその流れのもとにあります。

自由の女神

ニューヨークの「自由の女神」はアメリカ独立を祝してフランスが送ったもので、アメリカの民主主義のシンボルとなっています

フランスは進歩と文化の中心地となりました。文学・絵画・音楽などの世界で、パリは世界の芸術の首都となりました。

そのフランスも、19世紀の後半にはアフリカ・アジアに植民地を抱える帝国主義の一国となります。例えばベトナムも半世紀にわたりフランスの植民地支配に苦しめられました。

しかし、ドイツでナチが政権を握った時、フランスでは「人民戦線」が政権を掌握し、庶民のための多くの改革が成し遂げられました。

バカンス(夏休み)という制度もこの時のものです。

人民戦線
1940年、フランスはナチス・ドイツに占領されてしまいました。しかしフランス人の心は占領されませんでした。芸術家をふくむ多くの人々がレジスタンス(抵抗)に立ち上がり、命がけで祖国と民主主義を守りました。
レジスタンス
レジスタンスのメンバーであった彼は、ナチスに捕らえられ銃殺される前に微笑んだという。 

第二次大戦後は、国内の経済荒廃に加えベトナムやアルジェリアなどの植民地を失い苦境に立たされますが、依然として高い文化的プレステージを背景に強い影響力を保ち続けています。

政策的にはアメリカ主導のグローバリズムとは一線を画し、ドイツとの共同による国際経済新秩序の形成を目指してきました。

国内的には労働者・農民の発言力が強く、二度にわたり社会党が政権を握るなど左翼色が濃いのが特徴でしたが、リーマン・ショック後の長引く不況の中で企業よりの政策が強まっています。

それに対する批判が左翼の方向には向かわず、極右の排外主義に傾いているところに、目下の危険があるといえるでしょう。
こういう状況の中で2017年の総選挙が行われました。
おおかたの予想では社会党政権の地滑り的大敗北、左翼勢力の後退、極右勢力の躍進、場合によっては「国民戦線」の政権就任というものまでありましたが、その中で左翼のメランションが予想外の健闘、「国民戦線」の挫折という結果となりました。
この中でとりわけ目立ったのが若者の決起でした。その原因は何か、若者の政治回帰はどのようにして実現したのかがとりわけ興味深いところです。
そのあたりが今回のお話で聞きたいところです。


サンダース・コービン・メランション現象と連帯運動

以下は日本AALA総会での発言を補強したものである。

1.3つの選挙に共通する3つの流れ
この1年の間に欧米では大きな動きがありました。アメリカの大統領選挙、イギリスの国会議員選挙、フランスの大統領選挙の3つです。イギリスの国会選挙はその前のEU離脱国民投票がセットになっています。

選挙の結果は多くの識者により論じられていますが、私はAALA連帯運動の立場から考えてみたいと思います。

選挙には3つの大きな流れがありました。

一つはアメリカのトランプやフランスのルペンなど反動的な扇動政治の台頭です。これらはメディアによってポピュリストと一括されます。イギリスの離脱派にも似たような傾向がありました。

もう一つはアメリカのサンダース、イギリスのコービン、フランスのメランションらが打ち出した、富裕層の支配に反対し国民主権の政治を目指す流れです。

第三は、富裕層を地盤とし、“1%のためのグローバリズム”を標榜する既成政党が急激に弱体化するという流れです。
3つの流れはいずれも重要なものですが、長期的に見れば、一番は富裕層の政党が影響力を失いつつあることでしょう。

これらの流れが全体として意味するのは、富裕層の超国家的支配を拒否し、もういちど国民本位の政治に立ち帰ろうという国民の意識変化です。

それは国家・国民の復権と経済主権の回復を意味するので、反グローバリズム、新しい民族主義とも言うべき動きです。そして、途上国の民族的要求と根本において通じているものです。
2.良い民族主義と悪い民族主義

民族主義には良い民族主義と悪い民族主義があります。悪い民族主義は「排除する民族主義」です。彼らは植民地帝国だった「古き良き世界」に戻ろうとします。世界の人々を除け者にし、弱者をいけにえにしてみずからの地位を守ろうとします。
しかしそれは正しくないだけでなく実現不可能です。その先には未来はありません。だから一時的にそれに従った人々も、いまでは急速に離れつつあります。イギリスでEU離脱をシングルイシューとして躍進した政党はもはや影も形もありません。

これに対して、良い民族主義は国民主権、とりわけ経済主権を侵しているのが富裕層の超国家的支配であることを知っています。弱者も同じ被害者であり、彼らと敵対しても問題は解決しないことを理解しています。

また当面する困難の多くが、自国のみの力では解決できないことを知っており、諸国民との共同が必要であることを知っています。

それは連帯する民族主義であります。その流れが急速に先進諸国で力を得つつあることが、今回の3つの選挙で示されたのではないでしょうか。
3.選挙が指し示す今後の方向
富裕層のためのグローバリゼーション反対、国家と国民の経済主権を守れ、国際経済関係に公正なルールを、平等互恵・貧困と無知を撲滅する国内及び諸国関係の構築を!

というスローガンが今後打ち出されていく必要があるのではないでしょうか。

“もう一つの世界は可能だ”

正義と友愛にもとづく諸国民の連帯万歳!

三大選挙の評価については、下記の記事を参照されたい。


この1年間、国際政治面はこの3人の老人で埋められてきた。
アメリカのバーニー・サンダース、イギリスのジェレミー・コービン、そしてフランスのジャンリュク・メランションである。
おそらくはこの3人を結ぶ糸が、世界の明日へとつながる赤い糸なのだろうと思う。
それにしてもこんなことがいままでの世界であったろうか。こんな爺さまがデジタル時代の若者のカリスマになったことなどあったろうか。
そこには何か時代の特徴があるのかもしれない。「三題噺」としてはかっこうの話題だ。
これまでサンダースはコービンについては少し紹介してきたので、まずはメランションの紹介から始める。
1.ジャンリュク・メランションとはどんな人か
Jean-Luc Mélenchon の発音はここにある。メノンションとしかきこえない。
まずwikiの記載から紹介する。
1951年の生まれで65歳。他の二人よりは少し若い。フランス人だがモロッコ生まれ。父は郵便局員だと言うから少なくとも有産階級ではないようだ。哲学を学び教員となった。83年にマシーという街の市長となり政治家としてのキャリアを始める。86年に35歳で元老院(上院)議員となる。書かれていないがおそらく社会党に所属していと思われる。
2008年に社会党を離党し左翼党を結成した。欧州議会選挙に「左翼戦線」の一員として立候補し当選した。「左翼戦線」はフランス共産党・左翼党・統一左翼党の合同組織である。
2012年の大統領選挙では、「左翼戦線」の統一候補として立候補した。結果としては4位で得票率は11%にとどまったが、左翼陣営に社会党以外の現実的な選択肢を示した。
彼は共産主義者ではないが資本論を理解する社会主義者である。中南米のALBA諸国の経験を念頭に、民衆の立場に立った社会変革を目指す。

メランションはテレビ討論でペロンに対し、「この場にいるべきではない、国民の恐怖を無駄に煽っている」と批判し人気を博したとされる。これで社会党支持層の多くを取り込んだ。

富裕層への課税強化や最低賃金の大幅増も訴え、高失業率に苦しむ若者、特に教育水準の高い層の支持を集めるに至った。これも、サンダース氏と似通う。

集会の雰囲気は次のビデオで伺うことができる。
ただし言葉の分からない人は、24分位から再生したほうが良い。「銀行家ノー、人種主義者ノー」のシュプレヒコールが聞かれる。

2.メランションは極左か

当初は多くの報道が「極右のルペン、極左のメランション」と表現していた。
経過から言えば、社会党が中道左派、メランションが左派である。別に急進的ではないし、ましてや極左でもない。フランス人はそう考えているだろう。
さらに言えば、社会党のオランド政権のとった政策はむしろ中道右派である。経済相がマクロンだったのだからこれほどたしかなことはない。
かつて社会党は左派と見られ、共産党と統一戦線を組んだこともあった。それがミッテラン時代に右転換し、中道左派のポジションに変わった。
現在では中道左派と呼ぶことさえ難しい。党内左派と目されるボノワ・アモンですらせいぜい中道左派だ。
メランションは社会党が左派であった頃の党員である。社会党が右傾化を強めたときに、党を離れた。
彼はマルクスの理論にも共感を示すが、基本的には骨の髄からの社会党員である。そういう点から言えば、むしろ中道左派と言っても過言ではない。
座標軸がぶれているのは、極右の安倍晋三に優しい日本のメディアなのである。

3.メランションの政策
率直に言って、日本のメディアでメランションの政策を系統的に報道したものはない。
ほとんどが片言隻句を取り出したもので、半ばデマに近い。本当に日本のメディアも落ちたものだと感心する。
断片的な情報をつなぎ合わせると、メランションの政策の柱は平和と格差問題の解決だ。
「赤旗」の4月14日号では、島崎特派員の記事が掲載されている。とくに平和政策に焦点をあてている。


中東・シリア問題では「戦争ではなく対話と交渉、外交にこそ力を注ぐべきだ」と訴えた。
難民問題では全ての難民への全面的な支援を主張した。彼は「難民を生む根本問題」に取り組むと語った。そして発展途上国に不利な貿易協定の見直しを提起した。
また核問題では、核兵器禁止条約の交渉推進や非核地帯の拡大を訴えた。
この赤旗の記事では他候補のメランション批判も載せていて面白い。
マクロン候補は、「テロとのたたかいにおける非武装宣言」だと非難した。これはまさにそのとおりだ。テロに対して武装しても何の意味もないのだから。
緑の党は、「メランション氏は反米しか口にせず、ロシアの領土拡張主義を認めている」と述べた。事実とすれば少々気になるところである。
ついで経済政策だが、その柱は失業問題の解決と、貧困の撲滅からなる。
最低賃金の15%引き上げ、労働時間の短縮、労働法規の厳格化を行う。
このために総額30兆円の追加支出を行う。この内10兆円が景気刺激にあてられる。これは当面国債によって賄われるが、その多くは経済成長(とくに内需の拡大)が実現すれば減額される。長期的には富裕層の増税(とくに相続税の強化)によって財政は健全化される。
これらの政策が、高失業率に苦しむ若者、特に教育水準の高い層の支持を集めるに至った。これも、サンダース氏と似通う。


残念ながら、日本語のテキストが圧倒的に不足している。

目下のところは乏しい資料の中から読み解いていく他ない。

1.オランド「左派政権」の自壊と極右の伸長

リベラル勢力の希望を担って船出したオランド政権だったが、就任していきなりのリーマンショックはあまりにも過酷だった。

結局のところ、オランド政権はEUとECBの言うなりに、厳しい経済引き締め策を担わざるを得なかった。政権の実行したことはすべて就任時の公約と逆方向であった。そして逆コースの先頭に立ったのがほかならぬマクロンであった。

政権末期、オランド政権の人気は地に落ちた。昨年の10月行われた世論調査ではオランドの支持率はなんと4%に過ぎなかった。メディアは「4%の人」と揶揄した。

一方で不満層を取り込んだ極右、ネオファシストの人気はうなぎ昇りとなった。

14年の欧州議会選挙は衝撃的だった。国民戦線は25%の得票を獲得し首位となった。その後も各種選挙で25%前後の得票を維持し続けた。左翼はもっとも依拠すべき人たちの支持を失った。

貧困層、労働者・農民などかつて左翼の強固な地盤だった階層が極右に雪崩を打って流れ込んだ。それはアメリカ中西部の「錆びたベルト」地帯の労働者が、一転してトランプの強固な支持者となったのと同じだった。

彼らは絶望のあまり敵を味方と取り違えたのである。

オーストリアでもオランダでも、極右が政権獲得の勢いを示した。今や欧州を極右、トランプ派が席巻しようとしていた。

2.「野党共闘」の兆し

16年11月、大統領選挙を半年後に控えて共産党のロラン党首は思い切った方針を打ち出した。社会党を離れ独自会派「屈しないフランス」(ラ・フランス・アンスミーズ)を結成したメランションを推すことを提起したのである。

それはファシズムの再来に対する深刻な危機意識の表現であったが、現場活動家にはそれは浸透しなかった。これまで通り一次選挙は独自候補で戦い、決選投票で社会党を支持すればよいという経験主義が未だ多数を占めていた。

ロランは統一の提案が全国活動者会議で否定されたあと、活動者会議の頭越しに全国討論を呼びかけ、最後は全党員投票を経てメランション支持を実現した。

これを元に共産党はメランション派と交渉し、大統領選での協力が実現した。これはファシズムを瀬戸際で食い止める上で大変重要な役割を果たしたと思う。メランションが第一次投票で20数%を獲得することがなければ、マクロンを国民的候補として決選投票に臨むことはできなかったろうし、もしそれができなければ今頃ファシズム政権が誕生していたかもしれない。

今年1月 オランド政権の与党、社会党が大統領候補の予備選を行った。ここでは党内左派のアモンが勝利した。ここで社会党は恥の上塗りをした。党首のヴァルスがマクロンを支持すると発表したのである。

アモンはメランションとの1本化の話し合いを試みたが不調に終わった。如何に党内左派といえど、さすがにA級戦犯である社会党と組むのは不可能である。

共産党とメランション派は、オランドが投げ捨てた国民の要求を実現するために、統一して闘った。メランションと野党共闘は若者の受け皿となった。しかし左派政権の裏切りに対する国民の幻滅は深く、その多くが極右へと流れた。

3.大統領選挙

4月に大統領選挙の第一次投票が行われた。財界を代表する共和党のフィヨンは本命と目されたが、スキャンダルが祟り票を伸ばすことができなかった。これに代わり保守系無党派の新人エマニュエル・マクロンが1位を占めた。

マクロンは若いだけではなく超富裕層でもあった。社会党政権で経済相(非党員)として抜擢され、グローバリズム政策を推進した。オランド政権変質の張本人である。富裕層は不安を持ちつつもマクロンに期待した。

これについで極右の国民戦線のルペン候補が2位につけた。得票率はマクロン24%に対しルペン21%と接近していた。恐れは現実となりつつあった。

注目すべきは、左翼に圧倒的な逆風が吹く中で「左派統一候補」のメランションが19%を獲得したことである。フィヨンに僅差の4位ではあったが、ルペン・フィヨン・メランションが20%前後の得票率で肩を並べたことは大きな意味がある。一方社会党のアモンは6%という惨敗であった。これにより左派を代表する勢力が社会党から左派統一に交代しつつあることが示された。


支持率推移

今年1月から第1次投票までの支持率の推移。NHKのサイトから転載。
メランション(赤)が社会党(黄)を追い抜いたのは3月下旬のことである。左派の共闘が大きく情勢を切り開いたことが分かる。
4月下旬になってマクロン人気が落ちた時、危機感からメランション支持がマクロン(橙)に移ったことが示されている。

決選投票での最大の問題事はファシストの政権獲得の可能性である。彼らは「保守主義者」のポーズでファシストとしての顔を隠した。選挙演説では「右も左も結集しよう」とさえ呼びかけた。

しかし多くの国民はそれを見逃そうとはしなかった。それが決選投票での圧倒的な票差となって示された。「ルペンに対する防御壁」となったマクロンは、第一次投票での24%から66%にまで跳ね上がった。これに対しルペンの得票は35%に留まる。

フランス共産党からサルコジ元大統領まで、左派労組の労働総同盟から財界団体まで反極右では一致した。マクロンに投票した有権者の43%は、ルペンの大統領選出を阻止するためだけに投票したという。

おそらくファシストを撃退したと言っても有権者のあいだに勝利感はないだろう。それが政治を良くする引き金になるわけではないし、ルペンの掲げた「反移民・反EU」のスローガンにはかなり同感する余地もあるからだ。

不気味なのは、ルペンが逆風の中で第一次投票から15%も上乗せしたことである。これはコアーなファシズム支持者の他にそれと同じくらいの消極的支持者がいることを示している。投票前の世論調査では最大41%を叩き出している。

4.国会議員選挙

今回、フランス国民は4回も投票しなければならない。大統領選挙の第一次投票と決選投票、それに国会議員選挙の第一次投票と決選投票である。

国会選挙が2回の投票とあるのは小選挙区制のためで、一回目が各政党で順位を競う。そして第1位と第2位の間で決選投票を争うのである。ただし1回目の投票で誰かが圧倒的な支持を集めれば、2回目は行われない。

共産党は第一次大統領選の結果をみて、強い危機感を抱いた。このままでは決選投票にも進めないと危惧したのである。

しかしこれにはメランションは応じなかった。1本化は2次選挙のときにやれば良いと主張したのである。たしかにこれには一理ある。もちろんメランション派が決選投票に残れると踏んだからではあろう。しかし「野党は共闘」こそがメランションの力の背景だということを、メランションは過小評価したのではないだろうか。

6月11日に国会議員選挙の第一次投票が行われた。ほとんどの議席は第一次投票では決せず、j決選投票に持ち込まれた。国会議員選挙はマクロンの一人勝ちであった。

マクロン旋風の原因は、①極右に勝利したヒーローとして期待されたこと。②二大政党制への不信が浸透したことである。ただし小選挙区制のマジックで増幅されたこともある。

左派陣営ではメランション派が多数を占めたが、それでも得票率は11%にとどまった。得票率30%に圧したマクロン旋風に太刀打ちすることはできなかった。共産党は2.7%にとどまった。

大統領選挙でメランションに吹いた風は止まってしまった。記録的な低投票率(棄権が51%)は、とりわけ若者を中心とするメランション派に“選挙疲れ”が出たことを示している。

国会議員は小選挙区であり、伝統や個人的人気なども無視し得ない。大統領選では惨敗した社会党も7.4%を確保している。状況はより困難だからこそ、風頼みではなく政策をしっかりと示し、野党共闘をイメージアップすることがより求められるのではないか。

6月18日に第二次投票が行われメランション派の17議席、共産党の10議席が確定した。

マクロン派     361議席

共和党       126議席

社会党        46議席

メランション派    16議席

共産党        10議席

国民戦線        8議席

国民戦線の議席数は、もともとドブ板選挙を不得意とする上に、大統領選挙での敗北の痛手が大きかったのではないか。共産党の得票率と議席数が乖離してるのは、相当選挙区を絞り込んだためではないだろうか。(情報なしの推測)

5.投票傾向の分析

選挙結果に関するおもしろい分析が提示されているので、紹介しておく。

階層別支持

 

 階級における政治からの「肉離れ」、ないし「原理派」化が見られる。国の民主主義の構造が下から崩れ液状化しつつある。比較的社会保障や労働者保護が浸透しているとされるフランスですらこういう危機的状況になっている。今や格差の進行は文明を揺るがしかねないところにまで進んでいると見るべきであろう。

これを食い止めるにはイギリス総選挙終盤での闘い方、弱者を保護し教育、医療などでポジティブな政策を明確に打ち出すこと。格差是正への方策を、国際的な協力での解決もふくめ明確に打ち出すことであろう。

今回のイギリス・フランスでの選挙はいずれもEU問題が俎上に上げられたが、ルペンの終盤での発言でも明らかなように、逆にこの問題で後戻りはできないことが明確になったと思う。

同時に、リーマンショック→欧州金融・財政危機で反人民的性格を強めたEUを、どうやって諸国民の立場に立つように変革していくかがもとめられることになるだろう。


イギリスの総選挙とほぼ並行してフランスの大統領選挙も戦われた。これについて本日の赤旗に興味深い記事が載った。

興味深いというのは、イギリスの総選挙との比較だ。イギリスはポスト離脱の展望をめぐる選挙であったし、フランスは離脱の是非そのものが問われている選挙だった。

しかし、イギリスの選挙を見た後で、フランスの選挙を見てみると、ことはもっと根の深いものなのだろうと思う。

そこをどう捉えるのか、

遠藤 乾(けん)さんという方は私より二回り若い。運動圏の人ではなさそうで、どうして赤旗に登場したのかは分からない。

北大教授ということで、ひょっとするとお世話になるかもしれない人だ。文章を紹介させて頂く。

1.フランス大統領選挙と反EU感情

大統領選挙の結果、EU残留派のマクロンが当選した。ただ投票の半分は反EU派に流れた。すなわち国民戦線+急進左派+泡沫候補の得票合計である。(ということは、EU問題は左右両派の真の対立点ではなかったということになる。それはイギリスも同じだ)

2.国民戦線の強さ

国民戦線は反自由主義的なポピュリスト政党である。「伝統的フランスへの回帰」のスローガンと反移民、反イスラムなど敵を作り出すことで雑多な民衆をまとめている。

それにラストベルトの民衆が取り込まれている。彼らの多くは元はリベラルだった。共産党員ですらあった。急進左派は、彼らには遠いものと映っている。彼らには異質なものである。

3.グローバル化のしわ寄せ

これはグローバル化の恩恵が富裕層に傾き、労働者にしわ寄せされている結果である。

EUの指導者は、こうした痛みに分け入って、真剣に取り組むのをおろそかにしてきた。これが反EU感情を生み出している。労働者の生活改善のために手を打たない限り、EUの危機は続くだろう。

4.政治学のトリレンマ

①グローバル化、②国家主権、③民主主義の3つの理想は同時に実現できないという概念。

これについては後で検討する。

5.国際協調で解決を

具体的には、投機資本の規制、租税回避対策、貿易ルール問題、環境などで国際協調が必要である。


EUからは国民投票をやって抜けようと思えば抜けられる。しかしグローバリゼーションという大きな流れからはそう簡単には抜けられない。

こういう言い方は、マルクス主義らしからぬようにも見えるが、グローバリゼーションは必然の流れであり、それをどうみんなにウィンウィンとなるようなものにしていくかを語るしかないのではないかとも思う。

そしてその方向での共通認識はすでに出来ていると思う。なぜなら今日の事態は、レーガン以来、アメリカが世界経済を強引に捻じ曲げ続けて来た結果起きたことであり、アメリカの勝手放題を止めさせれば済むことなのだから。

問題はそれをどうやって実現していくか、誰がアメリカの首に鈴をつけるかという話なのだろうと思う。

もう一つはアメリカの好き勝手をやめさせるのは結構だが、それまでのあいだ各国はどうしたら良いのかという問題だ。前提条件がすでに規定されている以上、各国がやれることには自ずから限界がある。とはいえ、国家としてやらなければならないことはある。


「政治のトリレンマ」について

私には初耳であった。政治学については素人ではあるが、初心者ではない。「…という疑念がある」と言われると「えっ?」と思ってしまう。

いずれ詳しく勉強した上で語りたいと思うが、この「不可能の三角形」は少々おかしいと思う。「3つの理想」と言われるが、国家主権と民主主義はともかくとしてグローバリゼーションを「理想」と呼ばれるのには抵抗がある。

グローバリゼーション自体を悪というわけではないが、それは政策を立てる上での「所与」である。それはとくに経済の開発を計画する上で、重い前提条件としてのしかかってくる。

これは、とくに発展途上国において、すでに1960年の初頭から懸案となっている事項である。国連開発会議(UNCTAD)などで議論が積み重ねられているが、いまだにスッキリとした結論は出ていない。正直に言えば、ネオリベラリズムが登場してからはぐじゃぐじゃになっている。

たかが金貸し風情が出過ぎたまねをするんじゃないよ

をご参照ください。
とりあえず、国家政策の三本柱としては以下のものが考えられている。

自主: 民族国家としての主権を守ることである。なんでもかんでも100%自由化という訳にはいかない。それは「食われる自由・飢える自由」しか残されないことを意味する。それは一見グローバリゼーションと矛盾するようだが、実はグローバリゼーションのための必須条件なのである。

民主: 国民生活を守ることである。論争の中で、ともすれば内需拡大と関連付けて語られがちだが、決して内需拡大のために国民生活を底上げするのではない。国民生活、生活権を守るのは手段ではなく目的である。

発展: 経済成長・財の蓄積を確保することである。それは豊かな心と豊かな人間を作っていくために必須の事柄である。その枠組みや方法についてはいろいろ議論があるだろうが、その重要性の認識は共有しなければならないだろう。

金融・通貨政策でのトリレンマは97年のアジア通貨危機を通じて、頻用された概念である。① 自由な資本移動、 ② 為替相場の安定、③ 独立した金融政策 の3つが同時に成立することは不可能であるというものだ。

それはすでに大方の関係者から承認されており、「公理」のごとく用いられている。金融の世界が無機質な数字の世界であり、しかも比較的短期で結論を出していかざるを得ない世界だからであろう。

政治の世界ではもう少し不確定要素が入ってきそうな気がする。同じ状況に置かれてもトランプを支持したり、労働党を支持したり、ルペンを支持したり反応は異なってくる。

イギリス総選挙 教訓とすべきこと

この度のイギリス総選挙でもっとも印象的なことは、労働党、あえて言えばコービンへの支持が驚くべきスピードで積み上げられたことである。若者を中心に「イギリスのサンダース現象」とも言える現象が出現した。

一方で、過半数を割るに至った保守党の後退は、メディアからは「オウンゴール」と表現されているが、それに尽きるとは思えない。そこにはより深刻な長期低落のトレンドがふくまれていると思う。

世界的な枠組みの中で見ると、EU 離脱の国民投票でイギリス国民は「トランプ支持」に類似した反応を示した。EU 残留を今日こに主張する保守党政権は吹き飛ばされた。

そこで保守党政権の接ぎ木とされたのが「ミニ・サッチャー」を気取るメイ首相だ。彼女は強硬離脱路線に衣を着替えて、離脱派国民の心をつなぎとめようとした。
(EU離脱は、Brexit と呼ばれる。これは British + exit をかけ合わせた造語。これに着陸のときの hard/soft を形容詞としてつけて表現する。アメリカ人ならHBEですますだろう)
この思い切った作戦が奏功した。国民は不満の吐け口を失ってしまったかに見える。しかし国民の不満が解消されたわけではない。

トランプ派がヒラリー派になるわけがないのである。そして、そもそも離脱派の本音はEUノーではなく、富裕層の支配ノーなのだ。その本質は、国民本位の政治を求めてさまよう「革新派」なのである。

それが収まるところに収まった瞬間、保守党の命運は尽きることになる。これが政治の流れの本流であろう。

まずは少し経過をおさらいしてみよう。


1.保守党の敗北とメイの登場
2016年7月、EU離脱の国民投票が行われ、提案者キャメロン首相は予想外の敗北を喫した。キャメロンは首相を辞職、内相だったテレサ・メイが後継首相となった。したがってメイは首相として選挙を闘ったわけではない。

メイは当初はキャメロンと同じ残留派であったが、そのご強硬離脱派に立場を変えた。

周囲の反対を押し切って離脱に踏み切った党派は、目標を失ってあっというまに衰退した。党内を離脱論で押さえ込んだメイに政敵はいなくなった。労働党は残留を主張していたが、党首コービンはEUに対する厳しい見方を貫いた。このため労働党は離脱論争の蚊帳の外にいた。
2.総選挙に打って出たメイ

今年になって4月18日、メイ首相は電撃的に総選挙の実施を表明した。本来であれば2020年実施予定であったが、これを前倒ししたのである。

彼女は記者会見でこう述べた。「議会は一体となるべきですが、現在は分断しています。国はまとまりつつありますが、政治家はそうではありません。総選挙が必要であり、ただちに実施する必要があります」

この時保守党は330議席を有し、単独過半数を超えていた。しかしEUとの離脱交渉を前に、自らの政治的な基盤を盤石にしたいとの狙いがあったとみられる。

メイは2019年3月末までにEU離脱の大枠を定める離脱協定の合意を目指していた。2020年では遅すぎるのである。しかし2020年が遅すぎるといっても、今すぐやる必要もない。それは「いまやれば圧勝する」という読みがあったからである。
3.選挙前半の情勢

保守党の支持率は、一時は最大野党・労働党を24% 引き離していた。メイ首相の支持率は44%。これに対し労働党のコービン党首の支持率は23%に過ぎなかった。

選挙戦半ばまではたしかに保守党の「歴史的大勝」を思わせる状況だった。

5月はじめに行われた地方選挙では、88の地方議会で合わせて4851議席が改選された。保守党は支持基盤の弱い中部や北部スコットランドでも支持を伸ばし、改選前を563議席上回る1899議席を獲得した。 これに対し労働党は382議席を失った。

多分、この大勝利が政権のおごりを生んだのであろう。メイは「強く安定したリーダーシップ」といった決まり文句をひたすら繰り返し、「メイ・ボット(自動応答プログラム)」とまで言われるに至った。
4.保守党政治への不満が噴出

このような選挙状況を一転させたのが、5月18日に両党から発表されたマニフェストである。投票日のわずか3週間前だ。

保守党のマニフェストは、国民から意外なほどに強い反発を受けた。一番の批判の的となったのが「認知症税」である。

要は高齢要介護者の介護費用なのだが、生きているあいだはとりあえず給付するのだが、死んだときには払ってもらう。その原資として持ち家を手放させることによって、ケア費用を捻出するという提案である。したがって家族は本人死亡によりホームレスとなる。実に悪魔的なアイデアだと感心してしまう。

この他にも、マニフェストには「高齢者の冬の暖房費補助のカット」など高齢者に負担増を強いる政策案が盛り込まれていた。

これが国民の怒りに一気に火をつけた。

「保守党は子供の貧困に取り組む姿勢を失った」との声もでた。NGO調査では、イギリスでは4人に1人の子供が貧困状態にあるとされる。子どもや高齢者の生活悪化は、それだけが切り離されてあるのではない。OECDによれば、英国の実質賃金の落ち込みは先進諸国の中で最悪になっている(ギリシャを除けば)

要するに、映画「私はダニエル・ブレイク」の世界が全土に蔓延しているのだ。

つまり、メタンガスで充満した倉庫にマッチを投げ込んだようなものだ。
無風かと思われた情勢は一転した。メイ政権の支持率は急落した。メイは急きょ「認知症税」案を取り下げた。
5.コービンの反撃

労働党はどうだったか。

2015年5月、労働党は歴史的大敗を喫した。出直しのため9月に党首選が行われた。

ただの位置議員だったジェレミー・コービンが名乗りを上げた。コービンは「時代遅れの社会主義者」と呼ばれ、泡沫候補と見られていた。

党首選に立候補するための議員35名以上の推薦も集められなかった。しかし同情する人もいて、ギリギリに立候補が可能になった。

ところがフタを開けるとコービンの圧勝だった。上位2名の得票率は、

1位: コービン  59.5%

2位: バーナム 19%

コービンの率いる労働党は、国営の医療制度、NHSの拡充を訴えた。全ての小学生に給食を無償提供すると訴えた。教育予算の大幅な増額を盛り込んだ。

マニフェストで正面からの勝負を挑んだ。

それが、国民の希望と奇跡的な結びつきを実現した。とくに大学授業料再無料化の政策が、若者たちから絶大な支持を集め始めて来た。

労働党不人気の象徴と見られていたコービンがにわかに輝きを帯びてきた。サンダースは三日間の全国講演旅行で、コービンを支持するよう訴えた。

サンダースが、青年たちのカリスマとなったように、コービンも青年たちの希望の星となった。


6.コービンの選挙スタイル

コービンの選挙運動はメイとは対照的だった。

イギリスで保育士として働くブレイディみかこさんのレポートによると、

…屋外での数千人規模の集会も数多く組まれた。リラックスした雰囲気がそこでは支配した。熱狂的な支持者から「コービン、コービン」の大合唱を浴び「ロックスターが受けるような歓迎」を受けた。

…息子の学校の前でPTAが労働党のチラシを配っていた。息子のクラスメートの母親が、「労働党よ。お願いね」とチラシを渡してくれた。国立病院に行くと、外の舗道で人々が労働党のチラシを配っていた。「私たちの病院を守るために労働党に投票しましょう」入院したときに良くしてくれた看護師がチラシを配っていた。今年で英国に住んで21年目になるが、こんな選挙前の光景は見たこともない。

…誰かがバッシングされている姿を見て気晴らししながら自分も我慢するような、いびつな緊縮マインドの政治にこそ人々は飽き飽きしていた。それではいつまでたっても我慢大会は終わらないからだ。
7.イスラム過激派テロの選挙利用は失敗した

選挙中にあたかもリベラル政治に対する恐怖を植え付けるように、多くのテロが起きた。ロンドンでは3月と6月、2回のテロが発生した。マンチェスターでは人気歌手アリアナ・グランデさんのコンサート会場で爆弾テロが起き、22人が死亡した。

メイ首相は「イギリスは過激思想に寛容すぎた」として、対テロ戦略の見直しやインターネットの規制強化など治安強化を全面に押し立てた。しかし相次ぐテロを防げなかった責任、警察官の待遇悪化を厳しく追求されるなど、逆に窮地に追い込まれる結果となった。
8.互角勝負に持ち込んだコービン

投票日を1週間後に控えた6月はじめには形勢はほぼ互角となった。

6月6日の世論調査では労働党が4ポイント差に迫った。調査によっては労働党のほうが上回っているものも出てきた。24歳以下の世代では73%が労働党を支持、逆に65歳以上の高齢者では保守党支持が64%となった。

大手メディアの多くは保守党支持に回った。しかしデイリー・ミラー紙と高級紙ガーディアン、インディペンデントは労働党支持を打ち出した。

9.投票の結果をどう読むか

保守党が議席数を330から318に減らした。過半数(326)に8議席およばず、選挙前情勢を考えれば完敗といって良い。最大野党の労働党は261議席に躍進した。

EU離脱を主導したイギリス独立党は0議席に終わり、ナットル党首は辞任を表明。ツイッターとフェイスブックのアカウントを削除した

イギリスは小選挙区制のため、議席数だけでなく得票率も見ないと評価することは出来ない。保守党の得票率は42%、労働党は40%で、その差はわずかに2%である。選挙期間があと1週間長ければ労働党が逆転していた可能性が高い。

メディアの予想は大きく外れた。選挙結果は世論調査にかなり接近したものとなった。つまりメディアは青年の投票率を低く見すぎていたことになる。また地方選結果との乖離は青年層の政治関心の差を示す。

つまり、イギリスの青年たちは既存の労働党とは異なる魅力をコービンに感じただけでなく、コービンが何か変えてくれると感じ、具体的な行動に出たのである。ここがこの度の選挙の最大の特徴だ。
10.これからの政治の動きを予測する

かくして議会はハング・パーラメント(宙ぶらりんの議会)となった。

メイ首相は、「現段階で、この国は安定の時期を必要としている」と強調した。そして引き続き政権運営を担う意向を示した。ただし北アイルランドの保守政党、民主統一党(DUP)の連携協議が前提である。それが不調に終われば再選挙の可能性も否定できない。

ジェレミー・コービンは、「国民はもはや緊縮に背を向けた。そして未来への希望に投票した」と述べ、メイ首相の辞任を求めた。

追記

注目されるのが、「赤旗」特派員のレポート。伝えるところでは、サンダース躍進を担ったアメリカの青年が、大挙してイギリスにわたり、戸別訪問や電話かけなどを指導したと言われる。

体験上、若者の組織と確実な票の積み上げには組織された若者の力が不可欠だと思う。そうでないと線香花火のようにぷつんと途切れてしまう。

ここに的を絞ったフォロー記事があるとありがたいのだが…

「赤旗」の書評欄からの重複引用で、いささか気が引けますが、下記の一節が極めて衝撃的でした。

85万人の難民と聞くと大変な数に思えるかもしれない。しかしそれは約5億人の欧州連合(EU)の人口の0.2%程度で、世界一豊かな大陸が現実に吸収できる数だ。

人口450万人の隣国レバノンは120万人のシリア難民を受け入れている。ヨーロッパの指導者たちは恥じ入るべきだろう。

「難民危機」というが、それはそもそも難民が引き起こしたものではない。

難民を生み出した政治危機は、ヨーロッパの対応が引き起こしたのだ。欧州の政治家の怠慢こそが大混乱を生み出しているのだ。

 パトリック・キングスレー『シリア難民』(ダイヤモンド社)より

最後の段落についてはいろいろ意見もお有りでしょうが、最初の3連についてはまことにお説ごもっともです。

「数の問題ではなく“こころ持ち”の問題なのだ」、これはメルケル首相も盛んに強調しています。

ただそうは言っても問題は解決しないので、このささくれだった自己主張が横行する世の中をなんとかしなければならないのでしょう。

「トランプ現象」が世界を跋扈しています。身の回りになんと「小トランプ」の多いことでしょう。こういう人たちの「こころの機微」に触れ、凍りついた「優しさ」バルブを開け放つのには、どうしたらいいのでしょう。

2016年に我々が背負わなければならない、最大の課題でしょう。

1888年 ラッサール派のグループとマルクス派のグループが再統合され、オーストリア社会民主労働党(Sozialdemokratische Arbeiterpartei Österreichs)が結成される。結党時の党員数は15,000人とされる。

1893年 社会民主党と協調する自由労働組合連合が結成される。90年代に急速に発展した産業革命と結びついて勢力を拡大。

1890年代 ウィーン大学の社会主義学生グループが学習サークルを形成。カール・レンナーが指導し、マックス・アドラー、ルドルフ・ヒルファーディング、遅れてバウアーらが参加。オーストリア・マルクス主義の拠点となる。

1897年 総選挙。普通選挙が一部導入された結果、議会に14議席を獲得。

1897年6月 社会民主党が改組。5つの民族別(ドイツ系・チェコ系・ポーランド=ウクライナ系・イタリア系・南スラヴ系)に組織された党の連合組織となる。

1907年6月 初の普通平等直接選挙が実施される。社会民主党は87議席を獲得する。

1907年 月刊『闘争』(Der Kampf )が発行を開始。オーストリア社会民主党の理論機関誌となる。バウアーら、次世代の「オーストロ=マルクス主義者」の理論家たちの活動拠点となる。

1911年 社会民主党のチェコ人組織が分離し、チェコ社会民主党として独立する。

1914年 第一次世界大戦が勃発。V・アドラー、レンナーらの主流派は、「祖国防衛戦争」として戦争遂行政策を支持する。これに対しF.アドラーらの左派は反戦活動を展開。

1914年11月 バウアー、戦争に加わりロシア軍に捕らえられる。シベリアで3年間の捕虜生活を送り、17年9月に捕虜交換によりウィーンに戻る。

1918年4月 バウアー、民族自決権を承認しレンナーら主流派と決別。社会民主党左派に移る。

1918年 ボルシェビズムを唱えるオーストリア共産党が創立。その後一貫して弱小勢力にとどまる。

1918年11月 オーストリア帝国が崩壊し、オーストリア共和国が発足。社会民主党とキリスト教社会党の連立政権が国政を担う。社会民主党右派のレンナーが首相に就任。バウアーが外相となる。

1919年3月 レンナーはグラーツ大学教授シュンペーターを財務大臣に招聘。当初は熱心な社会化論者であったが、生産性原理と効率性原理を強調するようになり政権と袂を分かつ。

バウアーはこう評している。「彼は、革命の初期にはボルシェヴィズムに媚を呈し、社会民主党の社会化政策が積極的かつ急進的でないとしてしばしば反対した。しかし、やがて彼は完全に方向転換した」

1919年 バウアー、『社会主義への道―社会化の実践』を発表。政治革命ではなく、産業の社会化=社会革命が未来への道だとする。

1920年 キリスト教社会党との対立が表面化。社会民主党は政権を離脱する。

1920年 バウアー、『ボリシェヴィズムか社会民主主義か』を発表。ボリシェヴィキを「専制的社会主義」と批判。全人民の経済的自治を基盤とする民主的な社会主義を訴える。

1921年 オーストリア社会民主党を中心にウィーン・インターナショナル(第二半インターナショナル)が設立、社会主義者の国際組織の再統一をめざす。

1923年 ウィーン・インターナショナル、第二インターに吸収され消滅。

1923年 党の防衛組織として「防衛同盟」が発足する。

1926年 社会民主党大会、リンツ綱領を採択。「赤いウィーン」での実践をもとに、議会主義戦略を定式化。

*民主制に依拠して則法的に政権を獲得する
*「破局的なカタストローフの結果としてではなく、目標を意識した労働者の収穫として」社会主義の実現を目指そう
ただしブルジョワジーが反革命を起こした場合、国内戦により国家権力を掌握することも確認される。

1927年7月 労働者デモと警官隊の衝突事件。この後の弾圧で社会民主党は後退を余儀なくされる。

1933年1月 ドイツでナチスが政権を握る。間もなく共産党に対する大弾圧が始まる。

1934年2月 社会民主党と防衛同盟が蜂起。「2月反乱」と呼ばれる。ドルフス政権と「護国団」による挑発が引き金となる。

2月 社会民主党に解散処分がくだされる。バウアーら指導部の一部は国外に亡命して活動を続けた。

1週間いない間に世界は動いていた。

ドイツ銀行の経営危機の報道は目を疑った。それとともにメディアがこの情報をほとんど扱わないことにも驚いた。

ドイツ銀行といえば、以前より素行不良の噂が後を絶たず、いつかは何かが起こるだろうとは思っていたが、まずは状況がよく飲み込めない。

BLOGOSに以下の記事があったので斜め読みしてみる。

My Big Apple NY2016年10月02日 

バロンズ:ドイツ銀行問題は、リーマン・ショックの再来か

という恐ろしい見出し

A) 事件の顛末

1.ドイツ銀行の株価と債券価格は前週に急落した。すでにヘッジファンドはデリバティブの担保として預けていた資産を引き揚げた。

2.急落の原因は、米司法省が住宅ローン担保証券をめぐり140億ドルの和解金支払いをもとめたことだ。

3.ドイツ政府はドイツ銀行を救済しないとの報道が飛び出し、事態は深刻化した。

4.9月30日、ドイツ銀行経営者はヘッジファンドの資金引き揚げを認めた。そのうえで、その懸念には正当性がないと非難した。

5.同じ日、米司法省が和解金を54億ドルへ引き下げ、両者が合意したと報道された。これに市場は反応し、株価と債券価格は値を戻した。

というのが顛末。

B) 事件の背景

しかしその背景を見ると、決してめでたしめでたしではない。

1.ドイツ銀行の時価総額は200億ドルたらずで、身売りが囁かれているツイッターをやや上回る程度だ。

2.ドイツ銀行は60兆ドルものデリバティブを抱える。金融危機が発生すればカウンターバーティーが契約を履行できない恐れがある。

3.簿価の大幅な欠損によって必要な増資が困難となり、バランスシートを支えられない。

4.ドイツ政府は財政健全化を訴えてきただけに、大手銀行の救済には及び腰となるだろう。

C) 事件の波及効果

記事はアメリカと世界金融への影響についても触れている。

1.ヘッジファンドの欧州銀行からの資金引き揚げは、LIBOR(ドル3ヵ月物ロンドン銀行間取引金利)を押し上げるだろう

2.LIBORは米国内のローンの基準金利となり、住宅ローン金利を規定している。住宅建設にブレーキをかけるには十分だ。

3.金融市場に緊張が走れば、FOMC(米連邦公開市場委員会)の利上げペースにもブレーキが掛かるだろう。

D) 事件の裏側

記事は、以上のような背景を踏まえ、司法省が和解金を割り引いたのではないかと見ている。

逆に、140億ドルというのはブラフだったとも考えられる。EUのグーグル提訴への対抗措置だったとの観測もある。

それがヘッジファンドの素早い動きを見て、急激に方針転換した可能性もある。その背景としてはアメリカ大統領選があり、トランプを利するような情勢激変を避けたいとの判断が働いたのかもしれない。

というのがこの記事の骨子。

中村平八 「ソ連を殺したのは誰か」

の全文がネットで読める。同志社商学 第52巻(2001年3月)というページでPDFになっている。

91年の事態は民衆とは関係のない宮廷革命であった

91年の時点で、ソ連の国家体制と民衆の間に決定的かつ敵対的な矛盾は存在しなかった。

バルト3国を覗く各共和国の民衆の大多数は、最後まで緩やかな連峰国家体制の維持と、改善された社会主義経済の存続を支持していた。

ソ連の民衆は次々に生まれる新党のいかなる党にも積極的関心を示すことはなかった。

ソ連を殺したのはロシア共和国のノメンクラトゥーラのなかの体制転換派(急進改革派)であった。

ソ連の「成功」を再確認する

ソ連は70年間失敗続きであったわけではない。それどころか、初期の40年間は大成功したとさえ言える。

だから、ソ連を批判する際には、まず、なぜソ連が成功したのかを分析し、それがなぜ成功因子を失い、右肩上がりの経済がどのようにして壁にぶつかり、ついに崩壊していったのかを明らかにしなければならない。

まずは経済的成功の場面から。

①スターリンの下でソ連は急速な工業化に成功した。第二次大戦後にはヨーロッパ第一位の工業国に到達した。

②第二次大戦では参戦国中最大の人的物的被害を被ったが、短期間で経済復興し、アメリカに次ぐ経済力(85年GNPでアメリカの55%)に達した。

③平均寿命、栄養摂取量、医療水準、識字率、普通中等教育終了率でソ連は西側先進諸国と肩を並べた。

④失業の恐怖、老後の心配、住宅・教育・医療費負担はなくなった。

これらを生み出したのが計画経済(著者によれば軍事共産主義供給制)であった。しかしそれは恐怖政治と非能率を伴っていた。(ただし非能率といえば、恐慌と失業ほど非能率なものはない)

ソ連型計画経済の特徴

①「不足の経済」の外延化

革命時の絶対貧困と、その後の国内戦のもとで、量産計画が全てであり、需要との照応は必要なかった。

党の独裁体制のもとで、立憲体制を乗り越え、人命まで含めた過度の収奪が可能となった。

②計画経済の負の成果

生産効率や生産物の質は二の次にされ、無駄の体系が作り上げられた。

行政機構の肥大と非能率化、官僚主義と腐敗。

主人公たるべき労働者・農民の疎外。労働資源化。



感想は、この記事の表題通り。不足だったから「不足の経済」が成功し、それが一定程度充足されることにより壁に突き当たる。問題はその次になにをするべきだったのかがはっきりしていないことだ。

60年代始めにリーベルマン構想が打ち出され、利益の出る構造への変革が打ち出されたが、結局うまく行かなかった。

私が思うには、自由な購買者の出現がないと、生産サイドの改革だけではうまく行かないのではないか。

生産の増大は消費の増大を伴う。消費の増大は欲望の増大をもたらす。増大した欲望が実需となり生産を刺激する。

この螺旋形構造が創りあげられないと経済のそれ以上の進展はない。

「不足の経済」のシステムは循環システムになっていないから、この問題に対応できない。利潤の導入は生産側のインセンティブにはなっても消費者には関係ない。

実はここに市場の最大の価値がある、と私は思う。市場の最大の役割、それは需要の創出にある。

なぜなら市場こそは貨幣経済の最大の実現の場だからだ。人々は職場においては奴隷として扱われる。しかし貨幣を持った一生活者として市場に登場したとき、彼は「王様」にだってなれるのである。

したがって市場は人々の「自由な真の需要」を表現する場になるのである。生産者は市場を見て生産を調整するだけでなく、需要を掘り起こし生産拡大に結びつける。

このような需要の拡大が、生産の増大をもたらし経済の発展へと結びつけていくのである。また労働者・農民の自由をもたらし、当局者の全面的圧政の軛からの解放へと繋がる。

市場の真の機能は競争にあるのではないし、需要と供給のバランスにあるのでもない。それは「欲望の見本市」であるところに最大の機能があるとみるべきだ。

この辺は稿を改めてもう少し検討してみたいと思う。


落ち穂拾いのついでに、レーニンとスターリンの対立点が二つ挙げられた箇所がある。ともに初耳の話なので紹介しておく。

1.国号問題

レーニンは国号問題で、国号に「社会主義」を入れたからといって、われわれの国が社会主義であるとは言えない、と主張しました。

これはロシア革命の性格規定の問題に関わっている。

旧ソ連史学では「社会主義革命」としていますが、レーニンは「社会主義をめざす」革命と言っております。

この論争は、国名に地名を入れないで「評議会社会主義」共和国とすることで妥協が成立したそうだ。

2.連邦か連合か

ソ連の英語表記はUSSR。UはUnion(Союз)である。アメリカはUnited States で諸国連合ということになる。アメリカの場合、州の独自性は日本の県よりは遥かに強いが、外国から見れば単一国家に近い。むしろ諸州連合と呼ぶほうがふさわしい。こういうのを連邦制(Federation)と呼ぶ。

一方、欧州連合(EU)は、今のところは未だ構成国の独自性がほぼそのまま生かされていて、諸国連合、ないし目的を限定した諸国同盟の形になっている。こういうのを連合制(Confederation )と呼ぶ。

というのを前提として、引用に移る。

1922年当時、複数のソヴェト共和国の結合形態をめぐって、ロシア共産党内には鋭い意見の対立がありました。それは諸ソヴェト国家の連合もしくは同盟を主張するレーニン派と、諸国家の連邦を主張するスターリン派の対立です。

スターリンは「軍事・外交・外国貿易その他の業務を統合する単一の連邦国家」を主張しました。

論争はスターリン派の勝利に終わった。病床のレーニンはほとんど発言の機会がなかった。

帝国主義国の強大な軍隊に包囲されている。だから、ウクライナなどの国が独自に外交権を持つならば、ソ連政権は存続できないというのが理屈でした。


むかしは、「ソ連というのは」ブルジョアの呼称で、正確には「ソ同盟」と呼ぶべきだと言われたことがあるような気がするが、それはレーニンの名残だったわけだ。


EUの最大のメリットは「平和」と「福祉」です。

しかし現実の姿としては、EUはそのようにかっこいいものではない。むしろ債務国にとっては「EU帝国主義」というか、諸悪の根源とすら映るところがある。

そのへんも書いておかないと不公平だろう。

EUの“PIGS”対応の諸問題についてはすでに明らかにしているので、そちらをご覧頂きたい。

総括すると以下のとおり

1.言うまでもなく現在の社会・経済システムの最大の問題は2つである。一つは国民の貧困化であり、その直接の原因は果てしなく続く緊縮財政政策である。もう一つは国民が貧困化する一方で所得格差が拡大し、超富裕層が世界の富を独り占めしていることである。

2.EUはこれに対してどういう態度をとってきたか、そのいずれをも推進する方向ではなかったか。企業側の利益を優先し、環境・安全基準や労働者の権利を二の次にしてきた。金融・財政危機にあたってはPIGS諸国の民衆に犠牲を強いることをためらわなかった。

3.そうやってドイツだけが一人勝ちするようなシステムは、他の国が掛け金を払えなくなったとき瓦解する。結局は共倒れに終わるのではないか。

4.そのようなEUであるが、それを民衆目線で変革するような展望を持ちつつ残留するのであれば、残留には意味がある。

5.イギリスでは(そしてEU加盟国の殆どで)、「EU」は緊縮財政と富裕層優遇政策を合理化するための外圧として利用され、錦の御旗となった。これではEUが民衆いじめの象徴と受け止められても仕方ない。

6.「脱ければこんなに恐ろしい未来が待っている」と散々脅されつ続けてきた民衆は、「残ればさらに恐ろしい未来が待っている」と考えるようになった。

こんなところではないか。

なお離脱の世論にはTTIP交渉の動向も関わっているようだが、今のところコメントするだけの資料を持ち合わせていない。


EU離脱論に関して、日経新聞(2016/2/20)に比較的まともな解説が載っていたので紹介する。

1.EU離脱論の2つの背景

ひとつは2004年にEUに新規加盟したポーランドなど東欧諸国から英国へ流入した移民の急増だ。

08年のリーマン危機後に雇用低迷が深刻になると、低賃金で働く移民が雇用を奪っているとの不満が蓄積した。昨年以降の難民危機もEU批判に拍車を掛けている。

もうひとつはユーロ危機への対応に英国が巻き込まれたことへの不満だ。EUは危機の再発防止のために、金融監督の一元化など統合強化の動きをみせてきた。

以下略


というわけで、2つの背景はまったく異なっている。ひとつ目は国民大衆の不満と不安だ。

ふたつ目は、シティの投機家たちにとっての不満だ。EUが金融資本への規制を強化するのは、ロンドンのシティー(ユーロマネー市場)を生命線とする投機家にとっては大変危険な兆候である。

1.国民大衆の不満と不安

ひとつ目の理由については大変よく理解できるし、同情もする。ただその選択肢は正しいとはいえない。なぜなら敵を間違っているからである。

資本の流通のみ自由化していけば、先進国には富が途上国には貧困が蓄積する。そうすれば途上国からの人の移動が起きるのは当たり前である。

先進国は富を輸出し途上国は貧困を輸出するのである。これが難民問題(とくに経済難民)問題の本質である。

ただ、この傾向があながち悪いとばかりは言い切れないので、長い目で見ればそうやって世界の富は平均化し、世界の人々があまねく豊かになっていけるのだ。

問題は2つある。

一つはそのテンポだ。資本の移動は今日のハイテク社会ではほとんど瞬時に行われる。しかし人の移動には文化や習慣、社会の柔軟性の問題もあるから一朝一夕には行かない。場合によっては複数世代をまたいで初めて可能になる。

そこにはコンセンサスを基礎とした非商業的な息の長い計画が必要となる。

もう一つは今のグローバリゼーションが貧富の差の拡大を伴って進行していることである。それは投機資本や金融資本の横暴がまかり通っているためである。

労働問題や雇用問題は、すべて大衆の貧困問題に関係している。それは生産力が低下したためでなく、生産の果実をごく一部の富裕層が吸い取っているためである。

彼らから、奪われた金を取り戻さなければならない。EUから離脱するとかポーランド人労働者を追い出すことで済む話ではないのである。

2.ユーロマネー市場の不満

この記事で学んだこと、それはイギリスの支配層(の一部)が離脱の動きの陰にいることだ。

彼らサッチャリストがどのくらい本気で離脱を考えたかは知らないが、EU当局の動き、とくに規制強化を狙う動きには強い不快感を抱いている、このことは間違いないようだ。

この記事は2月20日のものだ。キャメロン首相が首脳会議で離脱不安を煽って見事成果をかっさらった時の記事だ。今や彼らは慌てふためき、声を潜めているだろうが、4ヶ月前までは離脱を囃し立てて、火に油を注いでいた可能性がある。

離脱の動きの背景にある、規制強化への嫌悪感。この問題はもう少しえぐりだしてもらいたいものだと思う。この点について、その後の日経の記事はどうなっているのだろうか。八十島記者に伺ってみたい。

下記もご覧ください

この文章は、目下の感想的意見であり、ほとんど根拠はありません。

はっきり言って、メディアでは分離派の要求をまともに報道しません。イギリスの支配層をふくめ、世界中がイギリスの離脱派を馬鹿にしています。

確かに算盤勘定では離脱して得になるようなことはないでしょう。

しかし

これだけ国を二分するような激しい議論を数カ月にわたって続けてきて、今もなお国民の半数が分離を要求し続けている理由は、そんなかんたんなことことではないと思います。

とすれば、議論はもう少し長期のことを見据えてのことだろうと思います。

このままEU残留を続けてもいいことはない。損得勘定で、国のあり方を考えるのはやめよう。

これが離脱派の提起している問題なのだろうと思います。ことはEUに限らず、何事につけそろばんだけで政策を決めてきた歴代政権への不信です。そして損得勘定だけでやってきたはずなのに、国民の生活は貧しく苦しくなっているのです。なぜなら「メリット」のほとんどを富裕層が享受しているからです。

だから残留のメリットも明確にできない連中が離脱のデメリットを語っても、「それはあんた方のデメリットでしょう」ということになります。そして残留派がそれに対する答えを打ち出せないから、議論が果てしなく続いているのだろうと思います。


現代資本主義の抱える問題がそこには集約されているのでしょう。一般的には経済・社会のグローバル化は必然です。しかし、そのことと貧富の差の拡大、大金持ちだけがいい目を見るような世界とは別の話です。

だから離脱派の究極の結論は、そんなグローバル化など糞食らえだということでしょう。

残留派はグローバル化は必然だといいますが、だったら貧民が飢えて死ぬのも必然なのでしょうか。

その質問が、さまざまな変奏曲の形で、まっとうな方向にも歪んだ方向にも噴出してきている、この流れを押さえていかなければならないと思います。

私の結論は、

グローバル化が必然だとしても、それを急ぐ必然性はない。国民が豊かになるグローバル化が出てきてから考えてもいいのではないか。

ということです。そしておそらくはそのスピードがいま議論の分かれ目になっているのだと思います。

いまの金融資本はそのスピードをさらに上げるか、少なくともそのスピードを維持するかを必然的な条件としています。

そのスピードが落ちた時、速度を失った自転車が立っていられなくなるのと同じように、彼らは深刻な矛盾に直面するでしょう。

それはいずれ遅かれ早かれやってきます。世界の人々が収奪に耐えかねて、逆さにしても鼻血も出なくなったとき、国家は破綻します。国家が破綻したとき、国家の寄生虫たる金融資本は、リーマンが一夜で消えたようにあっという間に消滅します。

イギリスは、おそらくEUを離脱してもいいのだろう。「青信号、渡らなくても怖くない」のだろう。

と思います。離脱しても、それなりの手も打つだろうし、たちまち奈落の底に沈むというわけでもないと思います。離脱して困るのは、案外ロンドン金融市場(シティー)の金の亡者たちだけかもしれません。

それぞれの国民がいったんグローバル化のスピードをシフトダウンして、国民国家たる国をもっと大事にすること自体は決して間違ったことではないと思います。

ただ、離脱派の主張は必ずしも理念的なものではなく、やはり損得勘定でもあります。離脱を支持するサン紙は

EUは無駄遣いの金食い虫だ。この間の危機対応でも無能さを暴露したではないか、と批判。有害無益な政策の押しつけを繰り返すEUから出れば、「より豊かで安全で自由になり、運命を自分で決められるようになる、

と主張しています。言うことは当たっていないではありません。


ただ、EUというのは決して経済オンリーの共同体ではなく、千年に及んだ欧州戦争からの脱却と平和の構築を目指す共同体でもあります。しかしイギリス政府は(そして国民も)一貫してそのような関わり方はしてきませんでした。だからこんな有様になってしまったのです。

EUの最大のメリットは「平和」と「福祉」です。

残念ながら、今は大企業と金融資本のための共同体になってしまっていますが、この本来の理想とどう向き合うかというのもだいじな論点であろうかと思います。


それなりにしても、日本のネットの世界、掘り下げないなぁ。


2012年

5月 フランス大統領選の決選投票。「真の敵は金融界だとし、60の約束」を掲げたフランソワ・オランド(57)が、民衆運動連合(UMP)のサルコジを破り初当選。

オランドの政策は1.緊縮よりも経済成長、2.金融界への規制強化を柱とする。具体的には
①銀行の活動を投機から分離、②仏銀行の租税回避地での営業禁止、③ストックオプションの原則禁止、④銀行のボーナスの上限、⑤銀行税の15%増、⑤全ての金融取引への課税、⑥富裕層に45%の追加税率、⑦前政権による富裕税の軽減見直し、⑧資産収入に対する所得税と同等の課税
一方で民生充実のために
①半官半民の投資銀行の設立、②家賃の一部凍結、③60歳からの年金給付、④教育部門公務員職の創設、⑤公務員削減計画に見直し、などを打ち出した。
要するに「大きな政府」による国家の再分配機能の強化である。

5月 オランド当選を機に、ソシエテ・ジェネラル、クレディ・アグリコール、BNPパリバなど仏大手銀行の株価が急落。NY市場も200ドルの下落。

5月 ドイツのメルケル首相、オランドが求める「新財政協定」の再交渉を拒否。一方で欧州債務危機の解決に向け協力を呼びかける。

7月 フランス企業の競争力が急激に後退。政府は航空宇宙・防衛大手EADSのギャロワに対応策の策定を依頼。

ギャロワは個人消費や輸出の伸び悩み、固定資産投資の減少が競争力低下を招いているとし、「大きな政府」が残存する中での財政悪化の危険を指摘。

7月 会計検査院のミゴー議長、「財政赤字のGDPの3パーセント以下(EU基準)への削減のために、330億ユーロをひねり出す必要がある」と語る。

オランドはこれを受け、「今後、努力の半分を経費削減に投入する」と述べる。医療費、職業訓練費、地方自治体助成金などが削減対象となる。

11月 オランド政権、ギャロワ報告を受け企業減税策を発表。政策を事実上180度転換させる。

具体的には社会保障の雇用主負担分200億ユーロ(約2兆0500億円)の削減。このための財源として付加価値税(日本における消費税)と社会保障税の増税でカバーする。

2013年

3月 財界紙「レゼコー」、「オランド大統領は社会福祉の再検討、地方自治体への補助金削減、公共部門での生産性向上、労使間対話の根本的改善を選択した。これは「左派による自由主義政策》に向けての勇気ある選択だ」と褒め称える。

解雇規制法はもともとはフランス人労働者を移民から守るために設けられたもので、必ずしも労働者的とはいえない。

12月 13年度の成長率は0.4%と低迷し、失業率も10.2%に達し、若者の失業率は20%を超える。政府に通貨(ユーロ)発行権がないため金融出動策が打てず。

2014年

1月 政府、企業に対し「責任協定」の導入を提案。①企業が雇用や投資を拡大すること、②それを条件に、社会保険料の企業負担分を300 億ユーロ軽減する(これはGDP の1.5%分に相当)、③さらに法人税率を段階的に28%まで引き下げるというもの。

7月10日 モントブール経済相、マクロ経済政策の転換を提案。60億ユーロ(8千億円)規模の内需拡大計画を発表する。

歳出削減による余剰を赤字削減だけでなく、家計と企業向けの減税に充てるとする。また「(ギルド的)専門職の自由化」も提起。この発言は大統領の承認を得ないまま行われた。

8月24日 モントブール経済相、緊縮財政路線の撤回を主張。

モントブール発言: ドイツがリーマン・ショック後に押し付けた財政赤字削減策はユーロ圏経済を台無しにした。緊縮政策は財政赤字を縮小していないことを認めざるをえない。迅速に方針転換しなければ有権者はポピュリストや過激主義の政党に流れる。

8月26日 ヴァルス内閣が総辞職。オランド大統領はモントブールら3人の閣僚を更迭し、内閣を改造。ロスチャイルド銀行のマクロンを経済相に当てる。

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        モントブール経済相

8月27日 バルス首相、経団連総会に出席。「企業を愛している」と発言。引き続き赤字削減に取り組み、400億ユーロの法人税減税と規制緩和の前進を表明する。総会は拍手で応える。

9月 バルス首相がベルリンを訪問。均衡予算を求めるメルケルに対し「フランスに向けられた不信は理解している。改革をやりきる」と約束。オランド支持率は13%まで低下する。

2015年

2月 オランド政権が経済政策を発表。「マクロン法」と称される。年間5回だった「日曜開店」を12回に増やすなど。

6月 社会党大会。カンバデリス第一書記はモントブールの批判に対し、「社会党が消滅したらフランスは人間性を、フランス人は希望を失う」と反論。

その殆どはまだ萌芽的なものだが、政権を獲得するまでに至ったいくつかの試みもある。

その代表がフランスのオランド政権である。しかしこの政権の評価は芳しくない。あまりにも厳しい情勢だったから仕方ないといいわけもできようが、酷なようだが、厳しいからオランド政権が誕生したのだ。それは引かれ者の小唄でしか無い。

はたしてオランド政権は改革の試みに挫折したのか、それとも国民を裏切ったのか、そもそも1国での改革の試みは不可能なのか。

その辺を知りたいと思い、文献を探したが、なかなか見つからない。

とりあえず下記の文献を探したので、これから着手することにする。

仏オランド大統領の政策 国際戦略コラム 2012年5月

仏オランド政権が政策を180度転換。企業優遇と福祉削減にとうとう舵を切った!」 ニュースの教科書 2012/11/08

社会党政権の1年を振り返る フランス流に停滞する社会保障政策」ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2013年4月号

フランス経済の低迷とオランド政権の迷走極東ブログ2014.09.21

G20とフランスの政策転換三橋貴明の「経済記事にはもうだまされない! 2014/09/30

「緊縮政策に苦しむフランスの現況」(EJ第3978号)2015年02月20日

「不振が続くフランス経済」 伊藤忠経済研究所 2014/09/30

オランドは社会党か」 ニュース・ダイジェスト 18 juin 2015

各国経済の強さと弱さ PART19(欧州編)」金融そもそも講座2015年8月12日

マヌエラ・カルミナに関するAFPの報道はあまりにひどい。読み返してみたが、読むに耐えない。

他の情報も加えつつ整理する。

まず、どうやってマドリード市長に当選したかの経緯がさっぱりわからない。

選挙の経緯はこうだ。

マドリードの市長は間接選挙であり、議員選挙で選出される。

それで、その議会選挙だが、すでに5月に終わっている。

その選挙の結果だが、国政与党の国民党(AFP記事ではPopular Party)が第1党となった。

2位につけたのが、ポデモスの支持を受けた革新派グループ「アオラ・マドリ」、3位が第一野党の社会労働党だった。そこで2,3位連合の協議が始まり、6月にマヌエラ・カルメナ(71歳)を市長とすることで合意した。

カルメナはエリートの出身で、マドリード大学法学部を卒業。その後、フランコ独裁政権のもとで、共産党員弁護士として労働運動、人権運動の支援を続けてきた。民主化以降は、判事となり最高裁判事まで務めた。

カルメナ

目玉公約をいくつか挙げておくと、

1.家を差し押さえられた人及び立ち退きさせられた人のための代替住宅を確保する。ほかに水道・電気代の支援、保健サービスへのアクセスの保証など。

2.公共サービスの民営化の停止、公有財産の売却停止。公的債務の公開監査を実施。

3.国民党の策定した都市開発計画の停止。長期失業者及び若者の雇用のための緊急計画。

4.市長報酬を現在の半額以下の550万円に。

ただしその出発点は厳しい。長く続いた国民党の市政は6千億円の借金とデタラメ都市計画を残した。

なお、マドリードのライバル都市バルセロナでも、独立左派の活動家アダ・コラウ(女性)が、ポデモスの支持を得て市長に就任している。こちらは41歳のパキパキのミリタントで、住宅強制退去に反対する直接行動で数十回警察に拘束されているという強者。

第3の都市バレンシアでも、24年君臨した市長を追い出し、革新市長が誕生した。国民党は、この他セビージャ、サラゴサ、トレド、コルドバ、カディスで政権を失った。


7月13日に発表されたユーロ圏首脳会議は、ツィプラス政権の屈服という形で幕を閉じた。
「屈服したとはいえ、なんかの成果はあったのだろう」と、うすうす思っていたが、赤旗の記事を見るとどうもそのような気配はなく、一方的な敗北のようだ。(それなりに裏はあるのだろうが)
赤旗は次のような仏トリビューン紙の評価を転記している。
ユーロはたんなる通貨ではない。…ユーロは加盟国のすべての希望を考慮に入れる政治的プロジェクトではなく、峡谷が弱小国を支配する道具だ。
そのことを欧州の人々は知ることになった。
EU提案の受け入れに反対して財務相を辞任した、バルファキス氏の作った表が切れ味鋭い。ちょっと長いが転載しとく。
バルファキス1
バルファキス2

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