鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

カテゴリ: 14 国際政治/ヨーロッパ

第三の男とウィーン

1945年3月12日 連合軍による大規模な空爆が行われ、ウィーン国立歌劇場やシュテファンドーム、ブルグ劇場、美術史博物館も被災する。

3月末 赤軍が国境を越えオーストリアに進出。

4月1日 ソ連軍、ウィーン郊外に到達。5日からウィーン周辺で大規模な戦闘が始まる。

4月10日 ソ連軍、市内中心部を確保。ナチス時代の措置の無効を宣言。

4月13日 ドイツ軍による組織的な抵抗が終結。ウィーンがナチス・ドイツから“解放”される。

1945年4月21日 カール・レンナー元首相(社会民主党)がウィーンに入る。ソ連の後ろ盾のもとに、国民議会の議長として社会党・人民党・共産党による臨時政府の協議に入る。

4月27日、レンナーと三党の代表者の名義で、1938年のアンシュルスは無劫とし、第一共和国憲法に基づく共和国の再建を宣言する。レンナーを首班とする臨時政府が活動開始。

1945年5月4日 西側連合がウィーン入りする。

7月9日 連合国協定。アメリカ・イギリス・フランス・ソ連が4つの占領区域を握り軍政が行われることとなる。国政の全体は連合国オーストリア委員会が権限を掌握する。

アメリカはザルツブルクと上オーストリア、イギリスはシュタイアーマルク、ケルンテルン、東ティロル、フランスは北ティロルとフォアアールベルク、ソ連が下オーストリアとブルゲンラント、ミュール地区を占領

9月1日 ソ連占領地区により取り囲まれたウィーンは、ベルリン同様に米英仏ソによる四分割統治となる。ウィーンに米英仏軍が進駐を開始。
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9月24日 レンナー議長のもと「諸州議会」が開かれる。本格的な政府の樹立について合意。

10月20日 連合国司令官、臨時政府の権限を承認。「制限的な主権を有する国家」となる。

10月24日 西側連合国、レンナーをオーストリア政府の代表者として正式に承認。

1945年11月25日 議会選挙。議会での投票の結果、国民党が僅差で社会党を抑えて第1党となる。共産党はソ連軍の略奪行為と法外な賠償要求が嫌われ惨敗。

12月20日 レンナーは全会一致で初代連邦大統領に選出される。レオポルト・フィグル政権が成立するが、実権はレンナーが掌握。

1946年7月に国有化法が制定される。これまでの水道・電気・鉄道に加え、銀行・大企業・炭坑が国有化される。

1947年1月 オーストリアは連合国と講和に向けて交渉をはじめる。ユーゴスラビアがケルンテン地方を要求する。

1948年2月 グレアム・グリーン、ウィーンに赴き、四分割統治下のウィーンを観察した上で脚本を執筆。

1948年10月22日 ウィーンで映画撮影を開始する。
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manhole
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1949年 総選挙。反ナチ法で参政権を剥奪されていた国内右派が選挙に参加可能となる。

1949年9月 カンヌ映画祭でグランプリを獲得。アントン・カラスの演奏する主題曲は大ヒットとなる。

1950年 レンナー、現職のままウィーンで死去。

1955年

5月15日 連合国諸国とオーストリア国家条約を締結。

7月27日 オーストリアが主権国家として独立を回復する。社会党と国民党が比例配分主義をとる。共産党は国民の支持を得られず、

10月26日 永世中立国を宣言。

1989年 ベルリンの壁崩壊。多くの東欧からの難民が流入する。


年表づくりの過程で、「赤いウィーンに労音があった」という記事を目にしました。
大変面白い記事で、ぜひご一読をおすすめしたいと思います。
いくつかのポイントを紹介すると、
「赤いウィーン」は労働者向けの音楽普及活動に力を入れた。この活動のコーディネータとなったのはD.J.バッハという人で、シェーンベルクやウェーベルンとも親交があった。
労働者向けのコンサートに取り組んだのはウィーン交響楽団だった。指揮者の一人としてウェーベルンも参加した。
20年代のウィーンではマーラーが流行したが、こういうユダヤ的音楽はナチの力が強くなるにつれて廃れてしまった。

チェコ現代史はウィキが抜群の情報量で、これだけでほとんど事足りる。


1918年 ハプスブルグ家が第一次世界大戦に負ける。チェコスロヴァキア国家が誕生。

1938年 ナチスドイツがチェコスロヴァキアを占領。

1945年 チェコスロバキアの“解放”

4月 チェコスロバキア共和国再建 

5月 ソ連進駐軍の支配下におかれる。

1946年 選挙で共産党が勝利。共産党委員長のゴットワルトが首相に就任。

1948年

2月 「チェコ・クーデター」により、共産党が支配体制を確立。社会主義国家に変貌。

6月 ベネシュが大統領を辞任しゴットワルトが大統領となる。

1951年 大規模な共産党内の粛清。スラーンスキー書記長や外相のクレメンティスら14人が告発・逮捕される。独裁を目指すゴットワルト委員長の陰謀によるとされる。

1952年 スラーンスキー、アメリカ帝国主義に加担した「トロツキー主義者・チトー主義者・シオニスト」の罪で、死刑となる。スロバキアの党組織も「ブルジョワ民族主義」と批判され、フサーク書記長は終身刑となる。
チェコスロバキアの共産党はチェコ共産党とスロバキア共産党の2つに分かれていた。一般にはスロバキア共産党は風下に置かれていた。
1953年

3月 スターリンが死亡。ゴットワルトがスターリンの葬儀から戻ったあと死亡。慢性アルコール症と言われる。スラーンスキーが呪いをかけたのかも知れない。
 
3月 ソ連の指示を受けたノボトニーが第一書記に就任。ゴットワルトに代わる党指導者となる。大統領にはザーポトツキーが就任。

1956年 フルシチョフのスターリン批判。チェコでは無風状態が続く。

1957年 ザーポトツキー大統領が死去。ノボトニーが第一書記職のまま大統領も兼任。

1960年 7月 新憲法が成立。「チェコスロバキア社会主義共和国」に改称。
「わが国では資本主義から社会主義への移行に関するあらゆる主要な課題はすでに解決された。社会主義の道としての人民民主主義は十分にその真価を発揮し」ているとする。
1967年

第4回チェコスロバキア作家同盟大会において、作家たちが党批判を行う。

10月 チェコスロバキア共産党中央委員会。ドゥプチェク・スロバキア共産党書紀らはノヴォトニー第一書記を公然と批判。(ドプチェク自身は改革派と言うより中間派に属していた)

10月末 プラハで学生が学生寮の設備をめぐる抗議デモ。官憲により強制解散。

12月 ブレジネフが非公式にプラハを訪問。ノボトニーがみずからへの支持の強化を訴えるが、ブレジネフは「あなたたちの問題だ」として、積極的なノヴォトニー支持を打ち出さなかった。
ノボトニーはソ連軍配備を拒否し、西ドイツ接近を図っていたため。ソ連の不興を買っていたと言われる。
12月末 チェコスロバキア共産党中央委員会総会。ブレジネフのノボトニー不支持発言を受けて、ノヴォトニー批判一色となる。
中央委員会総会の結果、事実上、検閲が廃止された。ノヴォトニーと体制の中核を担っていた党幹部や閣僚に対する批判が高まった。


1968年 プラハの春

1月5日 続開中央委員会総会において、ノボトニーが退陣。これに代わり、スロバキア共産党第一書記のドゥプチェクがチェコスロバキア共産党第一書記に就任した。ノボトニーは大統領職に留まる。
低迷した経済などの立て直しに向けた改革に乗り出す。市場経済の一部導入など社会主義の枠内で社会・政治制度の民主化を目指す。
1月中旬 ブレジネフがポーランドと東ドイツを訪問。両国首脳は「反社会主義」的影響に懸念を示す。

2月 国防省の幹部で、ノヴォトニーの側近ヤン・シェイナ将軍が公金の不正流用疑惑を受け、アメリカに亡命する。その後、シェイナはノヴォトニーの権力維持のためクーデターを企てていたことが発覚した。

3月21日、ノヴォトニーは大統領職を辞任。第二次世界大戦中の英雄であったルドヴィーク・スヴォボダが大統領に選出された。ノヴォトニー体制を支えてきた党や政府幹部も相次いで辞任。

3月23日 ドレスデンで東欧5カ国会議。チェコがポーランド、東ドイツ、ハンガリー、ブルガリアと多国間会談。各国は反革命の兆候を指摘。

3月 ドプチェク、「人間の顔をした社会主義」を提唱。政治犯の釈放や外国旅行の解禁、企業の自主管理など。メディアへの事前の検閲が廃止され、共産党の過去の「粛清」などタブーだった内容も報じられるようになった。

3月 ポーランドで学生デモ。「ポーランドにもドゥプチェクを!」と叫ぶ。

4月 1月に続き党中央委員会総会が開かれる。『行動綱領』が採択された。
「新しい社会主義モデル」を提起し、党への権限の一元的集中の是正、企業責任の拡大や市場機能の導入などの経済改革、言論や芸術活動の自由化をうたう。
4月 オルドジフ・チェルニークを首班とする新内閣が発足。52年に「ブルジョワ民族主義」者として終身刑を受けたフサークが復権し入閣する。

5月4日 ドゥプチェクらがソ連指導部と会談。ブレジネフは「ソ連は人間の顔をしていないのか」と不快感を示したと言う。

5月8日 チェコを除く東欧4カ国がモスクワ会談。チェコ国内での軍事演習を前倒しして実施すること、チェコの「健全勢力」を支援することで合意する。

5月末 6月予定のワルシャワ条約軍の合同軍事演習に向けたソ連軍がチェコ入りする。

5月末 党中央委員会総会が開催される。ソ連の圧力を受けて路線をソ連寄りに修正。
右派修正主義の危険性を強調し、国民戦線の枠外における政治組織を「反共活動」とみなす決議。さらに第14回党大会を前倒しして9月に開催することを決定。
6月18日 チェコスロバキア国内でワルシャワ条約機構軍の演習「シュマヴァ」が開始される。国内では軍事脅迫と受け止められる。

6月27日 作家同盟を中心に著名人を加えた「二千語宣言」が発表される。改革推進や共産党の権限抑制が謡われている。発起人は69人、賛同署名は7万に達する。
…最近、わが国の改革に外国勢力が介入してくるかもしれないという不安が生じている。われわれは武器をもってでも政府を擁護する。この社会主義体制を人間的なものにしようという改革は最後まで押し進めねばならない…
6月28日 ソ連の新聞「プラウダ」は、この宣言を「反革命への誘いだ」と批判する。

6月30日 合同軍事演習が終了。参加兵力は撤退せずそのまま残留する。

7月14日 ワルシャワで多国間会談。(チェコは欠席し、ルーマニア・ユーゴの参加する多国間会議を求めた)。ソ連を含む5カ国は「反革命勢力との戦いに対する全面支援」を記した共同書簡を採択。

7月29日 ソ連との国境の町チェルナで4日間にわたる両国会談。下記の項目で合意。
共産党の指導的役割の擁護、検閲の復活によるマスメディアのコントロール、非共産党系政治組織の解散、党内改革派の更迭。
8月9日 ブレジネフとドプチェクが二度にわたり電話会談。チェルナ合意の履行につき意見の相違が明らかになる。

8月15日 3日間にわたってソ連共産党政治局会議。チェコスロバキアへの軍事介入が最終決定される(17日)。

8月20日夜 ワルシャワ条約機構諸国が軍事介入を決行。「チェコの人民を、凶悪な反乱分子から守るため」に、ワルシャワ条約機構軍50万が国境を越え侵入。
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    素手で戦車を取り囲む市民・青年
8月21日朝 空挺部隊がプラハ城に降下し、ドブチェク党第一書記やチェルニク首相を拉致し、モスクワへ連行する。
ヴァーツラフ広場では戦車に対し、市民が放送局前にバリケードを築き抵抗。
ワルシャワ条約軍がチェコスロバキア全土を占拠。学生ヤン・パラフはこれに死をもって抗議。全国で100人余りの死者が出た。
8月21日 チェコスロバキア共産党幹部会、軍事介入を非難する声明を採択。党内保守派による多数派工作は失敗。

8月21日 国営放送は国歌を流し続ける。アマチュア無線などによって全世界に拡散される。

8月22日 ヴィソチャニ地区の工場で、第14回臨時党大会が開催された。軍事占領下に1,219名が集まる。大会は軍事介入を非難し、拘束されたドゥプチェクら党指導部への支持を表明する決議を採択する。

8月23日 スボボダ大統領ら代表団がソ連を訪問。事態収拾を目指す。東欧首脳は交渉そのものに反対し、軍事占領と革命労農政府の樹立を求める。

8月26日 「モスクワ議定書」が締結された。マスメディアの統制、改革派の更迭で合意。22日の臨時党大会を無効とする。ソ連側の譲歩内容は明らかにされず。

8月27日 ドゥプチェクたち指導部がモスクワから戻る。改革の継続を表明するが、実質的には改革はストップ。

9月26日 『プラウダ』に論文「主権と社会主義諸国の国際的責務」が掲載される。
「1国の社会主義の危機は社会主義ブロック全体にとっての危機であり、…全体の利益を守るために、一国の主権は乗越えられる」

11月13日 ポーランド統一労働者党大会でブレジネフが演説。プラウダ論文と同趣旨。その後ブレジネフ・ドクトリンと呼ばれるようになる。

1969年

1月16日、カレル大学の学生ヤン・パラフが軍事介入および改革の後退に抗議し、焼身自殺
ヤン・パラフ
      aquamarine_324さんのページより
3月 ストックホルムで開催していたアイスホッケー世界選手権でチェコスロバキア・チームがソ連チームに勝利。国民が街頭に繰り出し、自然発生デモとなる。

4月 ドゥプチェクは事件の責任を取る形で第一書記を辞職。ドゥプチェクに代わり、フサークが党第一書記に就任。ドゥプチェクは共産党に踏みとどまる。

69年 チェコスロバキア社会主義連邦共和国と改称。

1970年

1月 ドゥプチェクはトルコ大使へと就任。西側に亡命することを期待した人事だったとされる。その前に毒薬を飲まされたとも噂される。

6月 ドゥプチェクやチェルニーク、スムルコフスキーなどの改革派幹部は除名され、「プラハの春」は終焉。ドプチェクは本国に召還され党籍をはく奪される。

1970年 コスタ・ガブラス監督による「告白」が作られる。スラーンスキー事件を描いたもの。
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77年 ハベルら、人権擁護を訴える「憲章77」を発表し、同名の組織を結成

1989年、旧チェコスロヴァキアにおいて民主化を求める学生のデモ。これが発端となり、共産党政権が崩壊。「ビロード革命」といわれる。

12月 モスクワでワルシャワ条約機構会議が開かれる。「プラハの春」に介入した5ヵ国はこれが誤りであったことを認めた。

1990年3月 チェコスロバキア連邦共和国に改称。連邦議会議長にドプチェクを指名。

1993年1月、市場経済の移行政策や連邦政府との権限配分などをめぐってチェコとスロヴァキアは対立し、連邦を解消。

1997年に北大西洋条約機構(NATO)加盟、

2002年 宝塚の星組公演で、「プラハの春」が演じられる。

2004年に欧州連合(EU)に加盟


イタリアのレジスタンス闘争について勉強したが、フランスに比べても資料は少ない。
権力関係は上下・左右・南北と入り組んでいて、誰が敵で誰が味方かは見方によって変わってくる。
また最近ではイタリア共産党の消滅によって、歴史修正主義が台頭する傾向にある。
まずはとにかく客観的事実を並べて、その上で第二次大戦の含有する歴史的価値観、すなわち立憲リベラル思想と共和主義、さらに民主主義の視点から大づかみに評価すべきであろう。
以前、フランスのレジスタンスについて学んだ。その前にスペイン人民戦線についてもかなり深く学んだ。これらとの共通性と違いに留意しながら総括することも大事な視点だ。
比較という意味ではチトーに率いられたユーゴスラビアのパルチザン闘争、さらにギリシャの武装闘争も学ばなければならないが、これらに関する資料はさらに少ない。
ということで、とりあえずはフランスのレジスタンスを念頭に置きながら共通性を分析してみたい。
1.反ファシズム闘争
イタリアの戦いこそ文字通りファシズムとの直接対決であり、統一戦線の戦いであった。
ファシズムは反立憲主義であり、反共和主義であり、反民主主義である。エマヌエル国王とバドリオによる反ファシスト政権は反共和主義であり、反民主主義であるが、立憲主義であった。したがって反ファシズム統一戦線は、何よりも立憲思想によるファシズム独裁の政治的包囲であった。
2.外国の支配からの解放の戦い
世界の敵となったナチス・ドイツ。その直接支配を受けたものがこれを排除する、という民族的性格を担った闘争であった。(この性格はユーゴ・ギリシャの闘いではより顕著である)
3.左翼が中核を担う戦い
政治勢力として共産党と急進的労働運動が中心を担った。ファシスト支配下の43年3月、トリノから拡大した労働者の経済要求闘争が展望を指し示した、共産党の闘いなしに情勢は切り開けなかった。ソ連が支持・支援したからというのは、共産党が圧倒的支持を獲得した理由にはならない。(逆の理由にはなっても…)
4.連合軍勢力と結合した戦い
もともと米英両国が民主的な国というわけでもないし、左翼に対してはむしろ敵対的感情を抱く国々である。これらの国に反ファシズムの立場を貫かせることは、それ自体が政治闘争である。
戦争中はこれに成功し、戦後は野合することなく原則を貫いた。と私は評価する。
5.スターリンと一線を画する戦い
フランス共産党のトレーズは「人民の子」というキャッチフレーズで売り出したが、トレーズもトリアッチも紛うことなき「スターリンの子」であり、大粛清時代を生き残ったという“後ろ暗い過去”を引き摺っている。
にも拘らず、大衆の支持に支えられて幾多の政治的判断を自力で行った。スターリンもあえてそれには干渉しなかった。しかしそのような “慣れ合い” がほんとうに良かったのかどうかはわからない。

イタリア解放闘争(Combattimento della Resistenza Italiana)
言い方は定まってはいない。パルチザンだけでは意味が狭いので、使われない傾向にある。
ネットで使用できる資料は英語もふくめ限られている。
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  イタリア民族解放委員会の旗


42年に行動党、社会党、キリスト教民主党が相次いで結成された。(いずれも非合法。社会党は再建)
1943年
3月 北イタリア各地の工場でストライキ闘争に勝利。経済要求に基づくものだったが、共産党の影響力が強まる。

43年7月
7月24日 ファシスト党の評議会が開催される。党幹部グランディによる「統帥権と憲法上の大権の国王への返還」の動議が可決され、ムッソリーニが解任される。

7月25日 ムッソリーニは、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世に謁見し報告。その場で身柄を拘束され、ティレニア海の島に逮捕・監禁される。

7月25日 エマヌエーレ3世の指名を受け、パドリオ元帥が首相となる。バドリオは欧州大戦参戦に反対し、すべての職を辞していた。

7月26日 バドリオは就任演説で「戦争は依然続く」と述べる。

7月28日 エマヌエーレ3世、バドリオに対して休戦交渉の密勅を下す。国王の意向を受けたバドリオは、圧倒的に優勢な敵軍に対して対等な戦いをこれ以上続ける事は不可能と判断。

7月29日 ドイツはムッソリーニ支持の立場を明らかにする。ヒトラーはバドリオの寝返りを警戒し、オーストリア国境のブレンナー峠にドイツ軍を集結させローマ進駐の準備を進める。

7月31日 バドリオ政府、連合国側に特使を送り、秘密裏の休戦交渉を開始。

43年8月
8月17日 連合軍、シチリア島の解放を完了。島民は「イタリア万歳、国王万歳」を叫び街に繰り出したとされる。

8月17日 ドイツ軍はピサ・リミニの線を最終防衛線に設定。それより南はいざというときは放棄する戦略をとる。防衛線以北をロンメル将軍が統帥し、以南の作戦はケッセルリンクに委ねられる。

8月 連合軍、バドリオに終戦圧力を掛けるためトリノとミラノに激しい空爆。数千人の犠牲者を出し,多くの家屋を居住不能にする。労働者は戦争継続反対のストライキに立ち上がる。

8月 バドリオ政権、共産主義者や無政府主義者をふくむ政治犯を解放。

43年9月
9月3日 連合軍とバドリオ政権との間に秘密休戦協定が結ばれ、ローマはジュネーヴ条約上の「無防備地域」(Non-defended localitiesとされる。発表は適切な時期まで伏せられた。

9月8日 連合軍総司令官アイゼンハワー、「イタリア政府の休戦」と「イタリア国軍の無条件降伏」を公表。バドリオ政権が休戦協定の公表をためらい続けることにしびれを切らしたたためとされる。

9月8日午後7時 バドリオ首相、連合軍と休戦交渉中であることを認めるラジオ演説。

9月9日 連合軍、イタリア本土のサレルノへの上陸作戦を開始。アヴァランチ作戦と呼ばれる。ドイツ軍は6個師団を投入し反撃。

9月9日 ヒトラーは、ドイツ軍派遣司令官ケッセルリンクにイタリア占領を命じる。ドイツ軍はジュネーヴ条約を無視しローマ市内へ進撃。これに対しカドルナ将軍に率いられたイタリア軍が応戦する。

9月9日 バドリオ政権閣僚、国王一族らは密かにローマ脱出。南部のブリンディジまで逃亡。これに代わり、ローマ市民が2日間にわたり激しい抵抗。トスカナのピオンビノ港では港湾当局がドイツ軍艦の入港を拒否。

9月9日 逃亡したバトリオ政府に代わり、「イタリア国民解放委員会」(CLN)が設立される。6つの政党より構成され、ボノミが委員長に就任。

9月10日 ドイツ軍、ローマ制圧を完了。

9月10日 ドイツ軍はサレルノの連合軍上陸部隊を追い詰めるが、激しい砲撃と降下部隊の挟撃により停滞。

9月12日 ドイツ軍、バルレタ(Barletta)に侵入し市民多数を殺害。

9月13日 ドイツ軍、ムッソリーニ救出作戦を実施。ティレニア海からグラン・サッソへと身柄を移されていたムッソリーニの身柄確保に成功。東プロイセン州ラステンブルグの総統大本営に護送する。

9月15日 米戦艦2隻がサレルノ湾に入り、艦砲射撃を開始。またドイツ軍背後を戦略爆撃で壊滅させ、補給を断絶する。ドイツ軍はサレルノ奪還を断念して後退するが、連合軍も進軍できず。

9月18日 ムッソリーニ、イタリア国営放送を通じて声明。「イタリア社会共和国」(RSI) の建国を宣言。行政府をサロに置く。サロはミラノ東方90キロ、ガルダ湖畔の町。連合国は「サロ政権」と蔑称。
サロ共和国には3つの武装組織があった。第一に正規軍、第二に全国警備隊、第三にファシスト党直属の黒色旅団である。
9月27日 ナポリで市民蜂起。4日間にわたる市街戦の末、市民がドイツ軍を撤退させ連合軍を迎え入れる。
これを描いたのが「祖国はだれのものぞ」という映画。63年制作だ。すごく感激してみたのだが、その後まったく日本では上映されず、DVDにもなっていない。Youtubeでは英語の字幕付きで全編が鑑賞可能だ。(The Four Days of Naples/Le Quattro Giornate Di Napoli" (1962) w. English subtitles
43年10月
10月13日 バドリオは日独伊三国同盟を破棄しドイツに宣戦布告する。
軍の半数近くが枢軸側での継戦を訴えるムッソリーニに呼応してRSI軍に参加した。イタリアは南北に分断された形となり内戦状態に突入した
10月 反撃に出たドイツ軍がほぼ全土を制圧。北部ロンメル元帥が、南部はケッセルリンク元帥が指揮。米82空挺師団は作戦を中止しナポリの線まで撤退。

43年11月
11.14 ファシスト共和党、ヴェローナで党大会を開催。

11月 ミラノで「女性援護グループ」が結成される。パルチザン支援を主目的とする。伝令役は捕まれば処刑される危険があった。約3万5千人の女性がパルチザンに協力。2万人が愛国章を受けている。
Italien,_Rom,_erhängte_Frau
         ローマで首を吊られた女性パルチザン

1944年
44年1月
1月 ローマ南部アンツィオ港の解放作戦が始まる。モンテ・カッシーノの戦いが4ヶ月にわたり続く。
アンツィオ大作戦を書き始めると、延々と果てしなく続くので、ここでは省略。イタリア国民の抵抗運動に絞って掲載する。
1月8日 ヴェローナ裁判が開始される。

1月 連合軍支配区を拠点に「イタリア国民解放委員会」が発展。パルチザンやレジスタンスを結集しバドリオ政権と主導権を争う。
イタリア共産党はガリバルディ旅団を組織。ほかに社会党系のマテオッティ旅団、キリスト教民主党系の自治独立旅団などが存在した。
1月31日 ミラノにも北イタリア国民解放委員会が結成される。各地の反ファシスト政治家とパルティザンが結集。委員長にはカドルナが就任。行動党からパッリ、共産党からロンゴの二人が軍事委員として支える。

44年3月
3月 ソ連がバドリオ政権を承認。モスクワから戻ったトリアッチ書記長がバドリオ政権への参加の意志を表明する。トリアッチは反ファシズム統一戦線を提唱、政治的ゼネスト→全国民蜂起の路線を提起。

3月23日 ローマ中心部、ラセッラ通りでパルチザンの爆弾テロ。親衛隊33人が即死、70人以上が重傷を負う。ヒトラーは親衛隊員1人につき、イタリア人50人を処刑するよう指示(現地当局は10人に値切った)

3月24日 アルディアティーネ洞窟の虐殺。イタリア人政治囚335人が処刑される(5人は巻き込まれ犠牲者)。犠牲者のうち75人がユダヤ人。さらにローマの収容所内のユダヤ人1千人がドイツの収容所に送られた)

4月22日 「ローマ協定」が締結される。これを受け、国民解放委員会も加わった国民統一政府が樹立。

44年5月
5月 RSI政府の国防相グラツィアーニ、パルチザン数は北部トスカーナからエミリア地方を中心に7万~8万人に達すると語る。
ドイツ軍がパルチザン掃討にのり出した結果、農村はその犠牲となり、反独感情が高まった。国民解放地方委員会に所属しパルチザンの支持を受けるか、独自の武装組織を結成して抵抗を始めた。
5月 ローマの最後の防衛線カイザー線が連合軍により突破される。

44年6月

6月5日 ローマ、連合軍に解放される。
ロッセリーニの「無防備都市」(Roma Citta Aperta)はこの間の戦いを描いたもの、ローマ解放直後から撮影が開始され、1年後に完成・公開された。
6月9日 バドリオ政権がローマ入り。この後、バドリオら政府閣僚が総辞職。ボノーミ臨時政権が樹立される。エマヌエーレ3世も退陣しウンベルト王太子を摂政とする。
イヴァノエ・ボノーミは改良社会主義党総裁で、ムソリーニの前の首相をつとめた。43年7月に国民解放委員会議長に就任している。
6月18日 ボノーミは正式にイタリア王国首相に就任し、内務大臣や外務大臣をも兼任する。

6月19日 正規軍とは別に自由義勇軍が創設され、武装抵抗運動を束ねる。国軍反ファシスト派のラファエレ・カドルナ将軍が司令官となる。

6月 北部の武装パルチザンが「北イタリア国民解放委員会」(ミラノ)に統一され,旧軍人と活動家が合流する。諸政党の協力が進む。(行動党,プロレタリア統一社会党,共産党,キリスト教民主党,自由党,労働民主党の6政党)
北イタリア国民解放委員会は北イタリアの対ナチ・ファシストへの抵抗運動、パルティザン活動を一挙に拡大するため、同委員会内に「自由志願軍団」を創設、連合軍側も北イタリアの抵抗運動に物心両面の支援を行うことを確認した。
44年7月
7月 連合軍、ピサからフィレンツェにかけてのアルノ・ライン(ゴシックラインより南方30キロの防衛線)に到達。

ゴシック線 イタリア

7月 ボノミ政権内にファシズム粛清高等委員会が設立される。

44年8月
8月11日 フィレンツェが陥落。その後連合軍主力は南フランス上陸作戦にうつり、9月以降ゴシック線を境に戦線は膠着。
Florence,_14_August_1944
   8月14日 フローレンスにて(首に巻いたスカーフの色が自慢だった)
8月11日 カドルナ将軍、パルティザン活動を統括・指揮するため、イギリス軍情報将校とともに夜陰にまぎれて北イタリアに降下する。

8月 ミラノのロレート広場で政治犯15名が公開処刑。(後にこの広場にムソリーニの遺体が吊るされる)

8月 ボノミ首相、ミラノの北イタリア国民解放委員会に書簡。
戦争を早期に終結させるためにはドイツ軍を降伏させる以外にないと断言。北イタリア委員会を「ナチ・ファシスト占領下での国民的闘争のためのイタリア政府の北イタリア代表」と位置づけ、密接な協調をはかる。「ナチ占領下の抵抗運動における一切の政治的・軍事的権限」を付与する。
9月26日 米第88歩兵師団の3個中隊とパルチザン250人が、ドイツ第290連隊の守る基地を奇襲攻撃。攻略に成功。

44年9月
9月29日 アペニン山脈内のマルツァボット村でドイツ軍による住民虐殺事件が発生。1,836人が殺害される。(この数字は誇張されている可能性あり、最近の記載ではボローニャ近郊の人口7千人のかなり大きな村だ。犠牲者は771人で、内216人が子どもとされる)
中北部農村では集団虐殺が繰り返された。Sant'Anna di Stazzemaの虐殺では560人、マルツァボット虐殺で770人、サルソーラでは20人のゲリラ兵が拷問の後、報復として虐殺された。
9月 このころポー河の渓谷には、モンテ・フィオーリ、オッソラなど15余りのパルチザン共和国が誕生していた。最大のパルチザン集団はガリバルディ旅団(共産党系)で、都市では「愛国行動隊」の名でゲリラ戦を展開。(YoutubeのBella Ciao - Italian Partisans Songという動画が当時の雰囲気を伝えている)

ガリバルディ旅団
             ガリバルディ旅団
ドイツ軍が青年たちを捕まえてドイツへ送り強制労働に就かせていた。部隊は満足な武器もないのに、平野から来た志願者で膨れ上がっていた。
11月25日 ボノミ政権が総辞職。2週間後に第二次ボノミ政権が発足。

1945年
45年1月
1月 連合軍が攻撃を再開。ゴシック線を突破する。ドイツ軍はあらたに「ジンギス・カン線」「ポー線」「ヴェネツィア線」「アルビーノ線」という4重の防衛線を敷き直し抵抗を続ける。

45年4月
4月 ドイツC軍とムソリーニ軍はポー川ラインにまで戦線を後退。

4月19日 CLNが北部主要都市での総蜂起を呼びかける。 

4月19日 ボローニャで攻撃が開始される。
都市ゲリラ イタリア
都市ゲリラ
              ゲリラによる市街戦
4月21日 ボローニャ解放作戦が完了。連合軍司令部の指示の下にパルチザンとポーランド軍2軍団が加わる。1万7210名がパルチザンに参加し、そのうち2064人が殺される。

4月23日 トリノとミラノでゼネストが始まる。

4月24日  パルマとレッジョエミリアが解放される。

4月25日 ミラノなど北部の主要都市すべて解放されたため、解放記念日とされる。ムッソリーニはドイツへの逃亡を図る。
女性戦士
     女性ゲリラ戦士
4月27日 ジェノバのドイツ軍が降伏。14,000人以上が捕虜となる。

4月28日 ドイツに向け逃亡中のムッソリーニを捕え,処刑。ミラノなど北部の主要都市すべて解放されたため、解放記念日とされる。

パルチザン凱旋 イタリア
            山岳パルチザンの凱旋
20ヵ月の解放闘争で参加者は 25万人。そのうち戦死者は3万 5000人をこえる。虐殺された市民は1万5千人に達し、その多くが婦女子であった。
4月29日 ドイツ・イタリア方面軍司令官フィーティングホフが連合軍に休戦を申しいれ。最終降伏は5月2日。

去年の後半あたりからずっと、国際連帯運動の結集点をもとめる試みが続いている。
ラテンアメリカも後退している。東アジアも先が見えにくくなっている。かろうじてヨーロッパ・アメリカでサンダース・コービン・メランションの運動が希望の星となっているが、国内事情を聞くとそう明るいばかりの話でもなさそうだ。
多分仕方がないのだろう。景気が悪くなると、どうしても目の前の話ばかりになってしまって、明日の世界を語るほどの高揚感は消え勝ちになる。
しかしこういうときこそ夢を語らなければならない。肝心なことは人々が夢で団結することだ。方法で団結する必要はない。

そう考えたのは、たまたまイタリア左翼の話が話題になったからだ。実は、戦後イタリアに行って居着いてしまって、左翼になった日本人というのは結構いるらしい。
実はそういう人とコンタクトがとれるというのでツァーを計画したのだ。しかしいろいろ検討していくうちに、果たしてそういう人たちと今でも思いを共有できるのかということになって、すこし情報を修してからにしよう。日本とイタリアのボルシェビストが傷口をなめ合うようなツァーをしても生産性ゼロだ。

数年前にイタリア共産主義再生運動の歴史をたぐったことがある。それはプッツンしていた。いま確認するとプッツンしたきりである。組織はずたずたになり活動家は四分五裂した。一方で民主党(旧共産党)の方はさらに右転落している。
一番はっきりしているのは、イタリア左翼はボルシェビズムに代わる新たな社会主義像を築き上げられなかったということだ。
おそらくそれはフランスにもスペインにもイギリスにも言えることであろう。だから私達がサンダース・コービン・メランション運動を語る際にはヨーロッパ・マルクス主義の再生、あるいはヨーロッパ社会民主運動の再構築と結びつけて語る以外にないのである。
さらに言うなら、我々みずからが日本での活動の経験をもとに社会主義運動構築へのプログラムを持ち、それと照合しながらヨーロッパの人々と語り合うことが必要なのだろうと思う。

以前あげていた年表からワイマール共和国成立史年表を外した残り部分です。
多分、同じ理屈で後半部分がヒトラー政権成立史として分離していくことになるでしょう。
とりあえず、それまでのつなぎとして…

1919年


19年2月

3.02 モスクワで第3インター(コミンテルン)創立大会が開かれる。

4.07 ミュンヘンでバイエルン州政府が倒され、スパルタクス団によるバイエルン・レーテ共和国が成立した。

5.01 ノスケ国防相がミュンヘンにフライコールを派遣し弾圧。レーテ共和国は崩壊する。このあとバイエルンは右翼の拠点となっていく。

6.20 ヴェルサイユ条約受諾をめぐり、民主党が連立を離脱。シャイデマン内閣は崩壊しバウアー内閣が発足。

6.28 ヴェルサイユ条約調印。その後多額の賠償金がドイツを苦しめる。

7.31 ヴァイマル憲法可決:賛成262票、反対75票、棄権1票

8.11 ヴァイマル憲法が公布される。大統領の権限の強い共和制、州(ラント)による連邦制、基本的人権の尊重が定められた。

11月 ヒンデンブルク前参謀総長が国民議会で証言。「敗戦は背後からの匕首のせい」と述べ、軍は敗北していなかったと主張。

 

1920年

20年3月

3月13日午前 カップ一揆が発生。ヴォルフガング・カップとエアハルト海兵旅団がベルリンへの進軍を開始する。

3月13日午前 エーベルト大統領は国軍に鎮圧を命じたが、陸軍統帥部長官ハンス・フォン・ゼークトは「軍は軍を撃たない」として出動命令を拒否した。

3月13日午後 カップは新政府樹立を宣言した。エーベルトはシュトゥットガルトに避難。ゼネストを呼びかける。

3月17日午前 カップが亡命して一揆は終結した。ゼネストを主導した全ドイツ労働組合同盟は責任者の処罰等を求め、ゼネストを続行。

3月17日午後 バウアー首相が退陣。ノスケも国防相を解任された。総司令官に就任したゼークトが軍の全権を掌握。

3月 ルール地方で暴動が発生。

6.06 最初の国会選挙。ヴァイマル連合勢力は退潮し、左派の独立社会民主党と右派のドイツ国家人民党やドイツ人民党が議席を伸ばす。

6月 社会民主党が政権を離脱。中央党と民主党と人民党の3党による中道右派連立内閣が成立。

10月 独立社会民主党、コミンテルンへの参加をめぐって分裂。左派は共産党に合流、右派は翌年社会民主党に復帰。

12月4日 ドイツ共産党がコミンテルンに加盟。コミンテルンは絶対服従を要求。指導者パウル・レヴィは更迭され、ハインリヒ・ブランドラーが書記長に就任。

 

1921年

3.08 連合国軍がデュイスブルク、ルールオルト、デュッセルドルフを占領。

3.20 ポーランドとの係争地帯であるオーバーシュレジエン地方の帰属をめぐる住民投票が行われる。ドイツ帰属派が多数を占めたが、ポーランド帰属派の「蜂起」を受けた国際調停により、ドイツ側に不利な分割が行われる。

3.23 ドイツ共産党、ザクセンやハンブルクで「中部ドイツ3月蜂起行動」を展開。コミンテルンのクン・ベーラ(ラーコシ・マチャーシュ)が指導し、中部ドイツのマンスフェルトを占領。軍によって数日後に鎮圧される。

3月 連合国によるロンドン会議。賠償額を1320億金マルクとするロンドン最後通牒を発する。支払い方式は、30年間にわたり年間20億マルクを払い、さらに輸出額の26%を天引きするという過酷なもの。

4.16 独ソ会談で、ソビエト政権の承認、独ソ双方の賠償・債務の放棄を定める。また軍同士による秘密協定も結ばれる。国内右派は一斉に反発。

5.10 ドイツ政府、ロンドン最後通牒を受諾。

6.24 独ソ協定に努力したラテナウ外相がコンスルによって暗殺される。政府は「敵は右側にいる」とし反政府活動への対処を始めた。

7.21 「共和国保護法」が成立。左右の過激派活動への取締りは強化され治安が回復。

7.29 ヒトラー、DNDAP党首となる。

8.29 バイエルンと政府との紛争。非常事態の布告。

10月 社会民主党に独立社会民主党の右派が合流した。

 

1922年

8月 インフレーション加速。

9月 ムソリーニのローマ進軍。

1923年

1.11 フランス・ベルギー連合軍、ドイツの賠償不履行を理由にルール地方に進軍。石炭やコークス・木材等の物資を接収して賠償にあてる。

1.11 ドイツ政府はフランスへの協力を禁止し、ストライキやサボタージュなどによる「消極的抵抗」を呼びかける。

8.12 「消極的抵抗」が、多大な犠牲を生む中で中止に追い込まれる。インフレは天文学的な規模になり、28%が完全失業者となり、42%が不完全就労状態となる。

8.13 シュトレーゼマンを首班とする大連合内閣が発足。「消極的抵抗」の打切りを宣言。全国に非常事態宣言。

10.10 ザクセンとチューリンゲンで社会主義政権樹立。ザクセンの社会民主党・共産党政府に対する中央政府の武力介入。バイエルンでも中央政府との紛争。

11.03 社会民主党、ザクセン、バイエルンでの中央政府の対応を不満とし、政府から離脱。

11.8 ヒトラーと国家社会主義ドイツ労働者党など極右派がドイツ闘争連盟を結成。ミュンヘン一揆を起こした。エーベルトは全執行権力をゼークト将軍に委任。

11.15 国有地を担保としたレンテンマルクへの通貨切り替え(デノミネーション)を行う。1兆紙幣マルクが1レンテンマルクとなる。これによりインフレの沈静化に成功した。

12月 イギリスとアメリカが賠償問題の解決に乗り出す。ドーズ委員会が設置された。

1924年

2.13 非常事態終結を宣言。

4.09 ドーズ委員会、連合国賠償委員会にドーズ案を提出。ドイツに8億マルクの借款を与え、一年あたりの支払い金額も緩和するもの。ドイツはこれを受諾。

5.04 第2回帝国議会選挙。社会民主党が敗北し、ドーズ案を「第二のヴェルサイユ条約」と批判する国家人民党と共産党が躍進。

12.07 第3回帝国議会選挙。ドーズ案の受け入れ後に景気は好転し、失業者もほとんど消滅したことから、ナチ、共産党ともに後退。

1925年

2月28日 エーベルトが死去、大統領選挙が行われる。右派の推すヒンデンブルク元参謀総長が160万票差で当選

7.14 フランス軍、ルール地区から撤退開始。連合国軍、デュッセルドルフ、デュイスブルク、ルールオルトからの撤兵。

10.5 ロカルノ会議が始まる。ヨーロッパにおける安全保障体制の構築を目指すもの。

 

1926年

4.24 独ソ両国の不可侵と局外中立を定めたベルリン条約が締結される。

9.08 国際連盟への加盟が満場一致で承認され、常任理事国となる。

12.10 シュトレーゼマン、ノーベル平和賞を受賞。

 

1927年

1.31 連合国軍事委員会、ドイツから撤収。

1928年

5.20 第4回帝国議会選挙:SPD、KPDの躍進。DNVPの議席大幅減少。

6.20 ミュラーを首班とする大連合内閣が発足。

8.27 不戦条約(ケロッグ-ブリアン条約)、15カ国がパリに集まり署名。

1929年

6.23 NSDAPがコーブルク市の政権を獲得。

6月 オーウェン・D・ヤングを委員長とする賠償金委員会、実質的な賠償金額の削減となるヤング案を提示する。

7.09 フーゲンベルクの指導下に「ドイツ国民請願全国委員会」(DNVP、鉄兜団、ナチ党の連合)が設立される。

11.25 ウォール街で株価大暴落。アメリカ資本の一斉引き揚げが始まる。

 

1930年

6.30 フランス・ベルギー連合軍、ラインラントから期限前に撤兵完了。

7.16 経済財政緊急令公布。帝国議会は緊急令を否決。大統領、議会を解散。

9.14 第5回帝国議会選挙。ヴェルサイユ体制の破棄を訴えるナチ党が第2党へ大躍進(12→107議席)

12.01 ブリューニング、緊急令によって財政経済政策を実施。

 

1931年

2月 失業者ほぼ500万人。

3.21 ブリューニング、ドイツとオーストリアとの関税同盟案を発表するが、フランスにより阻止される。

5.11 オーストリア最大の銀行クレディット-アンシュタルト(Kredit-Anstalt)倒産。フランスがオーストリアの資本を引き揚げたためとされる。これを機にヨーロッパ全土の経済に打撃。

6.05 第2次経済財政緊急令:公務員給与の引下げ、社会保障費と州地方交付金の削減。

6.20 フーバー大統領、西欧諸国とドイツに対する賠償と債務の支払いを一年間猶予すると宣言(フーバー・モラトリアム)。

7.13 ダルムシュタット・ナツィオナール銀行が倒産。政府はすべての金融機関の業務停止。

11月 バート・ハルツブルクで「国民的反対派」の集会が開かれる。

12.08 「鉄戦線」の編成(社会民主党、労働組合総同盟、労働者スポーツ協会、国旗団、黒・赤・金グループ)。

1932年

1月 コミンテルンから派遣されたドミトリー・マヌイルスキーは、「ナチスは社会民主党の組織を破壊するがゆえにプロレタリア独裁の先駆である」と述べる。共産党のヘルマン・レンメレは「ナチスの政権掌握は必至であり、その時共産党は静観するであろう」と述べる。

4月 大統領選挙。ヒンデンブルクは最多得票を獲得、2位にヒットラーが入る。

4月13日 国防相兼内相のヴィルヘルム・グレーナー、ナチの突撃隊と親衛隊に対し禁止命令。その後シュライヒャーの策動で失脚する。

4.24 各州選挙でナチ党上昇。

5.20 オーストリアでドルフス政権誕生。

5.30 グレーナーに代わり国防相となったシュライヒャー、ヒトラーと組んでブリューニング内閣を辞任に追い込み、盟友のパーペンを首相に据える。

7.20 プロイセン・クーデタ。パーペン首相はプロイセン州政府を解任して国家総督を置く。

7.31 第6回帝国議会選挙。ナチスが230議席を獲得し第1党となる。ブルジョワ政党の壊滅的後退。

8.13 ヒトラーが首相任命を要求するが、ヒンデンブルクは拒否する。

9.12 パーペン内閣不信任決議が可決、帝国議会解散。

11.06 第7回帝国議会選挙。ナチ党は後退(196議席)するが、依然として最大政党にとどまる。共産党がベルリンで投票総数の31%を獲得して単独第一党となる。

12.03 シュライヒャーはパーペンを辞職させ、自ら首相となる。パーペンはシュライヒャー打倒を目指すようになり、ヒトラーと組んでヒンデンブルグを説得。

1933年

1.04 ケルンでヒトラーとパーペンの会談。

1.30 ヒトラー内閣発足。

 

当初ワイマール共和国15年史という形で年表を作成し始めましたが、やっていくうちに興味が拡散してしまいました。ドイツの反戦からスパルタクスの反乱、そしてワイマール共和国の成立に至る過程が、それだけでめまぐるしいもので、とても単一の年表では語り尽くせなくなってしまうからです。

そこでこの間約3ヶ月間を「ワイマール共和国成立年表」として別建てすることにしました。

かつて学生時代は、これを「ドイツ革命史年表」として学んだものですが、今では「ソヴェート」とか「ボルシェビキ」に対する感覚が相当変わっていることもあって、「善・悪」の基準をできるだけ混じえずに俯瞰していくよう心がけたいと思います。

もちろん、歴史に対する進歩の思想は持っているので、ベタに事実を描きだすのではなく、ワイマールの進歩性、歴史的限界、さらにナチス支配を生み出したモノへの批判的分析はきっちりと踏まえていきたいと思います。

1918年

1月8日 ウィルソン大統領が14カ条を発表。大戦の講和原則と大戦後の国際秩序の構想を示す。

1.28 ベルリンで1月ストライキ始まる

3月3日 ブレスト・リトフスク条約が締結される。(ブレスト・リトフスクは一つの地名で、現在のベラルーシのブレスト) ヴェルサイユ条約締結によって消滅する。

3月21日 ドイツ軍が西部戦線に兵力・火力を集中し、一斉攻撃に出る。「カイザー攻勢」と呼ばれる。当初の1ヶ月で防衛線を突破しパリに迫るが、27万人の死傷を出し補給が困難となる。

8月8日 連合国軍が西部戦線で反撃に出る。総勢210万人のアメリカ軍が投入されたことで兵力バランスが崩れ、第2次マルヌ会戦とアミアン会戦によりドイツ軍が劣勢に陥る。

9月29日 ドイツ軍大本営(在ベルギー)のパウル・フォン・ヒンデンブルク参謀総長と参謀次長エーリヒ・ルーデンドルフが連名で、ウィルソン休戦提案の受諾を求めた書簡を提出。

10月3日 マクシミリアン(バーデン卿マックス)、帝国宰相に任命され、ウィルソンとの休戦交渉開始。

10月 マクシミリアン、アメリカ側の意向を受け、議院内閣制や普通選挙など専制政治からの脱却を目論む。交渉継続に反対したルーデンドルフを解任。議会多数派の社会民主党はマクシミリアン工作を支持。

10.29 マクシミリアン、カイザーの退位を求める。カイザーはこれを拒否しベルギーのドイツ軍大本営に立てこもる。

10.28 ヴィルヘルムスハーフェンの海洋艦隊で「提督の叛乱」が発生。イギリス艦隊への攻撃を企図する。これに抗議する水兵の叛乱始まる。

10.29 出撃命令を拒絶した水兵1千名が逮捕され、キール軍港に送られる。

18年11月

11.03 オーストリア・ハンガリー帝国が連合国と休戦。

11.03 キールで水兵の釈放を求めるデモと官憲が衝突。暴動状態となる。

11.04 キールで「労働者・兵士レーテ」が結成され、4万人の水兵・兵士・労働者が市と港湾を制圧する。レーテは政府が派遣したグスタフ・ノスケ(社会民主党員)を総督として認め、反乱は鎮静化する。

11.05 キールから出動した活動家により蜂起が拡大。リューベック、ハンブルク、ブレーメン、ヴィルヘルムスハーフェン、ハノーファー、ケルンがレーテの支配下に入る。

11.07 ミュンヘンで革命政権が成立してバイエルン王ルートヴィヒ3世が退位する。独立社会民主党のクルト・アイスナーが首相に就任。他にザクセン、テューリンゲンで社会主義政権が成立。

11月09日

午前 マクシミリアン首相、皇帝ヴィルヘルム2世の退位を独断で宣言。みずからも首相を辞し、社会民主党党首フリードリヒ・エーベルトに禅譲する。ヴィルヘルムはオランダに亡命。

午前 ヴィルヘルムの退位を知ったカール・リープクネヒトが王宮に乗り込む。バルコニーから演説し、「社会主義共和国」の宣言(一種の決意表明であろう)をした。

午後 社会民主党の幹部フィリップ・シャイデマン、議会前に集まった群衆にドイツ共和国の成立を宣言。シャイデマン発言はリープクネヒトによる「社会主義共和国宣言」を防ぐための独断であったと言う。

午後 ベルリンで終戦を祝うデモ。ローザ・ルクセンブルクなどの政治犯も釈放される。

夕方 社会民主党、臨時共和政府の樹立に向け独立社会民主党への連立を呼びかける。「革命的オプロイテ」も議会に結集し、同意形成のための大衆的働きかけを強める。

革命的オプロイテ: ベルリン市内の職場や工場の組合指導者のグループ。約100名で構成され、12の中核組織を持っていた。政治的には独立社会民主党の左派に属しており、スパルタカス団とも親戚づきあいしていた。

夜10時 社会民主党の呼びかけを受けた独立社会民主党、シャイデマン評議会への参加を決める。

11月10日

午前 社会民主党と独立社会民主党の両党から3名づつの委員からなる「人民委員評議会」が成立。共同議長(首相)にエーベルトと独立社会民主党のハーゼが就任。

午後5時 「政府合意」を受けて労働者・兵士評議会(レーテ)の大会が招集される。3千名近くの代表を結集。会議を主導した「革命的オプロイテ」は、シャイデマン評議会を承認しつつ、いっぽうで「大ベルリン労兵レーテ執行評議会」の結成とレーテによる権力掌握へと動く。

大ベルリン労兵レーテ執行評議会: 労働者レーテから社会民主党、独立社会民主党、半数ずつの12名。兵士レーテから12名の構成とされた。「人民委員評議会」との権限の境界は曖昧なまま残された。

午後 リープクネヒトがレーテの大会で挨拶。軍とエーベルト政府による反革命の危機を訴えたが、統一と団結の声にかき消されたという。

夜 エーベルトと参謀次長ヴィルヘルム・グレーナー(ルーデンドルフの後任)とのあいだに合意が成立。軍は新政府に協力することになる。

合意事項: 革命の急進化を阻止し、議会の下ですみやかに秩序を回復すること、そしてこれらの目的達成のための実働部隊を軍部が提供すること、政府は旧来の将校組織を温存すること。(おそらく会談そのものも合意事項も極秘であろう)

11.11 パリ北東コンピエーニュの森で連合軍とドイツの休戦協定が調印される。戦死者180万人、戦傷者425万人。

11月15日 労働組合と大企業の間に「中央労働共同体」協定が結ばれた。団結権の承認など資本家側からの譲歩と労使協調を内容とする。

11月 評議会政府、首都・王宮の治安部隊として「人民海兵団」を組織。クックスハーフェンから召集した水兵とベルリンの水兵部隊より編成される。組織内に急速にレーテが浸透する。

18年12月

12.06 ベルリンで共和国兵士がスパルタクス団のデモ行進に発砲し、16名の死者を出す。

12.16 全国労働者・兵士協議会の第1回全国大会がベルリンで開催される。ベルリンのレーテを掌握した急進派は、政治権力をレーテに集中するよう提案する。しかし全国レベルではレーテ集中派は100票にすぎず、国民議会を支持する社会民主党の代議員が350票を握っていた。

12.16 ハンブルク代表団、叛乱水兵の意志を代表して軍制の徹底的改革を要求。この改革案は圧倒的多数で決議された。

1.統帥権は文民のコントロールの下に置く(具体的には臨時政府かレーテ)
2.懲戒権は兵士評議会のもとに置かれる。
3.将校の選出権は将兵全員にある。階級章は廃止される。勤務外の上下関係は否定される。
水兵たちは将校団こそが反革命の脅威であることを熟知しており、ここでは譲らなかった。

グレーナー参謀次長との交渉に入るが、軍が難色を示したため先送りとなる。エーベルト・グレーナー同盟の存在は誰も知らなかった。

12月21日 レーテの全国大会、急進派の提案を否決。社会民主党と共和政府のもとめる国民議会の選挙を受け入れる。レーテの決定を受けた「人民委員会会議」政府は国民議会の選挙実施を決定。

12.23 王宮に居座った「人民海兵団」に対し臨時政府が退去を求める。海兵団はこれを拒否したため、政府は給料の支払いを停止。抗議のデモに軍が発砲しにらみ合いとなる。

12.24 政府軍が海兵団宿舎を砲撃、市街戦となる。海兵団と政府の間に和解が成立し戦闘は停止されるが、一連の事態を通じて政府と軍との密約が明らかとなる。

これとは別にベルリン警視総監エミール・アイヒホルン(独立社会民主党)が「保安隊」を組織するなど、ベルリンの権力構造は各派がしのぎを削る状況となる。

12.29 独立社会民主党、人民海兵団の弾圧に抗議し人民委員政府から脱退。ただし国民議会への参加は前提とする。

12.30 ローザ・ルクセンブルクらのスパルタクス団を主体にドイツ共産党(KPD)が結成される。「全権力をレーテへ」を掲げ、国会選挙のボイコットを決定。「革命的オプロイテ」派はボイコット戦術に反対し、共産党に加わらず。

モスクワから潜入したボルシェビキのカール・ラデックが、ためらうローザ・ルクセンブルクを説き伏せ、ドイツ共産党の結成に踏み切らせたと言われる。

 

1919年

19年1月

1.05 アイヒホルンが解任される。アイヒホルンはこれを不当としてベルリン警視庁に籠城する。

1.05 共産党とオプロイテは、アイヒホルンの罷免に抗議する大規模なデモを展開。武装した共産党系労働者が主要施設などを占拠した。

1.05 ミュンヘンでドイツ労働者党(ナチ党の前身)が結成される。

1.06 社会民主党、弾圧を知らせるビラ「決着の時が近付く」を配布する。

1.06 リープクネヒトやゲオルク・レーデブール(独立社会民主党委員長)は、政府打倒を目的とする「革命委員会」を設立。ルクセンブルクやオプロイテの指導者リヒャルト・ミュラーは蜂起に反対。

1.06 エーベルトはグスタフ・ノスケ国防相に最高指揮権を与えた。ノスケは旧軍人により「ドイツ義勇軍」(フライコール)を組織。

1.08 独立社会民主党の右派が、エーベルトと「革命委員会」との調停に乗り出す。話し合いは不調に終わり、多くの活動家は戦線を離脱する。

1.09 フライコールがベルリン市内で武力行動を開始。12日に武力対峙は終わり、スパルタクスの残党狩りに移行。

1.12 バイエルンで議会選挙。与党独立社会民主党は180議席中3議席にとどまる惨敗。

1.15 ローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトが虐殺される。

1.18 パリ講和会議が始まる。

1.19 国民議会選挙。投票率は82.7%に達する。社会民主党163、中央党91、民主党75、という議席配分となる。この3党で「ヴァイマル連合」を結成し、政権を握る。

19年2月

2.06 ヴァイマル国民議会が始まる。人民委員会議長のエーベルトが(暫定)大統領に選出。

2.10 国民議会、「暫定的ライヒ権力法」を採択する。国家の政体を議会制民主主義共和国とすることが確認される。帝国時代の支配層である軍部、独占資本家、ユンカーなどは温存され

2.13 3党連合によるワイマル連合内閣が成立。社会民主党のシャイデマンが首相に選出される。

オーストリア社会民主党 年表

前記記事のごとく、まずは各年表に散らばったオーストリア社会民主党関連の事項を一本化することにした。

転載元は下記の年表である。

2016年11月27日2013年03月30日  
2013年03月28日 

オーストリア併合後の歴史については扱っていない。1885年から1935年までの50年間に限られる。ウィーン学派との論争もふくまれる。「赤いウィーン」も包摂されることになるが、これは全体像が形成された後にエッセンスを取り出す形でまとめていきたいと思う。



1874年 オーストリア=ハンガリー二重帝国支配下の諸民族の社会主義政党がノイデルフル会議を開催。政党連合を結成。

1888年 政党連合がいったん解体した後、V・アドラーらの尽力で、ハインフェルト大会が開かれる。ラッサール派とマルクス派グループを中心に再統合され、社会主義政党連合としての「オーストリア社会民主労働党」(Sozialdemokratische Arbeiterpartei Österreichs)が結成される。結党時の党員数は15,000人とされる。


 ハインフェルト綱領: 労働者の経済的従属・政治的無権利状態からの解放、労働手段の社会化、労働者保護立法の制定、8時間労働制の実施、選挙法の改革など。


1893年 社会民主党と協調する自由労働組合連合が結成される。90年代に急速に発展した産業革命と結びついて勢力を拡大。
1893年 保守反ユダヤ的なカール・ルエーガーが諸団体を統合してキリスト教社会党を創立。

1895年 ウィーンの評議会議員選挙。キリスト教社会党が過半数を占める。市長にルエーガーが就任。

1897年 総選挙。普通選挙が一部導入された結果、議会に14議席を獲得。

1897年6月 社会民主党が改組。5つの民族別(ドイツ系・チェコ系・ポーランド=ウクライナ系・イタリア系・南スラヴ系)に組織された党の連合組織となる。

1899 社会民主党、ブリュン民族綱領を採択。ハプスブルグ帝国を諸民族の連邦に改組する構想を打ち出す。

1890年代 ウィーン大学に社会主義学生グループが形成される。カール・レンナーが指導し、マックス・アドラー、ルドルフ・ヒルファーディングが参加。オーストリア・マルクス主義の拠点となる。オットー・バウアーは1900年前後にグループに参加。若手理論グループの中核となった。


1900年
1907年6月 初の普通平等直接選挙が実施される。社会民主党は87議席を獲得する。
1907年 月刊『闘争』(Der Kampf )が発行を開始。オーストリア社会民主党の理論機関誌となる。バウアーら、次世代の「オーストロ=マルクス主義者」の理論家たちの活動拠点となる。

1907 バウアー、「民族問題と社会民主党」を発表。民族問題の専門家をして名を挙げる。
1911年 総選挙。社会民主党が最大会派となる。その後チェコ人組織はチェコ社会民主党として分離する。

1914年8月 第一次世界大戦が始まる。社会民主党が事実上の分裂。レンナー、V.アドラーら主流派は戦争政策を支持。「城内平和」路線と呼ばれる。また多民族国家としてのオーストリアの維持を主張する。少数派(F・アドラーら)は「カール・マルクス協会」を結成。無賠償・無併合の即時停戦を主張する。

14年11月 バウアー、第一次大戦に応召。ロシア戦線で捕虜となり、シベリアで3年間の捕虜生活を送る。

1917年

9月 バウアー、戦争捕虜交換によって帰国。左翼反対派の「カール・マルクス団」に加わる。執行部の戦争協力政策を批判し、プロレタリア国際主義の観点に立ち、無併合・無賠償の平和を要求。

11月 ロシアでボリシェビキ革命が発生。


1918年

1月 戦争の長期化に抗議する労働者がストライキ。ロシア革命を受け労働者協議会(レーテ)を結成。

4月 バウアーは左翼民族綱領を提起。民族自決権を容認する。

18年10月

10.03 社会民主党議員団、左翼民族綱領を採択する。スラブ人やラテン系民族の自決を認めると同時に、ドイツ人領域をドイツ系オーストリア国家に統合すると主張。

10.15 バウアー、ドイツ人領域の経済自立は不可能と考え、共和主義ドイツへの併合を提案。

10.16 皇帝カールがオーストリア民族連邦国家構想を発表。しかし帝国内各民族はこれを無視して独立に動く。

10.21 ウィーンの属する下エステルライヒ州の議会にドイツ系国会議員が結集し、ドイツ系国家の立ち上げを検討。キリスト教社会党は立憲君主制と民族連邦国家を主張。社会民主党のアドラーは民族連邦制の断念と民主ドイツへの併合、共和制の採用を訴える。

10.21 議員集会、ドイツ系オーストリア国家の創立、臨時国民議会の成立で合意。議長は国民党、キリスト教社会党、社会民主党の三者による共同制となる。普通平等選挙による制憲議会の立ち上げで合意。

10.30 共和国の要求を掲げる社会民主党のデモ行進。臨時国民議会は社会民主党のレンナーを首班とする国務会議(Staatsrat)を形成する。外相にはアドラーが就任。重病のため次官のバウアーが実務を取り仕切る。

10.31 ウィーンで社会民主党大会が開かれる。基調報告を行ったバウアーは、ドイツ系オーストリア国家の建設、民主共和制の採用、民主ドイツへの併合を提示。社会主義の目標を提示せず。

18年11月

11.03 オーストリア帝国が連合国と休戦条約を締結。旧軍に代わるものとして国務会議は人民軍の創設に着手。

人民軍: 赤軍とは異なり、旧軍の編成はそのまま残され、各大隊ごとに協議会(レーテ)が創設された。同時に国務会議から政治委員が派遣され配置された。政治指導のトップは国防次官ユリウス・ドイッチ(社会民主党員)が掌握した。

11.03 フリードレンダー(夫妻)らがロシア革命路線を支持するオーストリア共産党を結成。ヨーロッパで最初の共産党となる。

11.09 ドイツで革命が発生。これに基づきオーストリア併合論が影響力を増す。

11.11 皇帝カルル、国事への関与を放棄。事実上の退位を宣言。国務会議は民主共和国の樹立を宣言。

11.12 臨時国民議会、ドイツ系オーストリア共和国とドイツへの併合を決議。

この時点でドイツ系オーストリアは食料や原料、さらに製品の販売先を非ドイツ系諸州に頼っていた。ウィーンの労働者部隊が農村の食糧徴発を行ったため、農民の抵抗が強まる。

11.12 第一次世界大戦が終了。オーストリア=ハンガリー帝国が崩壊し、第一共和国が成立する。

 ロシア占領地域からの難民が大量に流入。中産階級は没落し貧困層に転落した。食糧不足、住宅不足が深刻化し、伝染病が蔓延する。

11.21 アドラー外相が死去。バウアーが新外相に就任。

18年12月

12月 社会民主党とキリスト教社会党による連合政権が登場。社会民主党のカール・レンナーが首相となる。社会民主党は左右両派が合同。

12月 「労働評議会」と呼ばれる労働者による公的な合議機関が発足、8時間労働制や雇用保険制度が導入される。

12月 連合国のドイツ系オーストリア救護委員会が発足。アメリカの食料品がウィーンに流入。またシレジアの石炭も連合国の分配と流通により可能となる。

1918年 オーストリアにもボリシェビキ型の共産党が結成される。その後弱小政党にとどまる。

1919年

19年1月

1月 バウアー、党機関紙に『社会主義への道―社会化の実践』を発表。ボリシェビキ革命を批判し、政治革命と社会革命とは異なると主張。生産の計画化、組織化を中軸に据える「産業社会化」を社会主義への道として提起した。産業社会化の鍵となる「利害関係者による三者管理協議会」の提言は、革命ロシアの国民経済会議決定(18.5)の影響を受けたものとされる。

19年2月

2.09 共産党が第1回大会。社会民主党の急進派、ロシアから帰還した捕虜グループが加わり、党員数3千人を数える。「すべての権力をレーテ(ソヴェートに相当)へ」とし、レーテ独裁をもとめる。

2.16 制憲議会選挙が施行される。社会民主党は全投票数の40.8%を獲得して69議席を占め、この年の党員数は332,000人に達する。

2.19 リンツのレーテ(労働者協議会)大会、全国レーテ会議の招集を要請。

2月 バウアー外相、フランスの強硬な反対を前に、対独合併策をいったん保留。

19年3月

3.02 ハンガリー共産党が革命を起こし、協議会(レーテ)共和国が成立。ポラーニはプロレタリアート独裁の時代錯誤を批判する。

3.21 ハンガリー新政府のベラ・クーンはオーストリアに支援を要請。バウアー、諸般の事情と力関係を理由にハンガリー政府の要請を拒否。

3月 レンナーはグラーツ大学教授シュンペーターを財務大臣に招聘。当初は熱心な社会化論者であったが、生産性原理と効率性原理を強調するようになり政権と袂を分かつ。

バウアーのシュンペーター評: 彼は、革命の初期にはボルシェヴィズムに媚を呈し、社会民主党の社会化政策が積極的かつ急進的でないとしてしばしば反対した。しかし、やがて彼は完全に方向転換した。

5月4日 ウィーンの市議会議員選挙が行われ、社会民主党が絶対多数を獲得する。社会民主党党首のヤーコプ・ロイマンが市長に就任。



ウィーンの住宅事情は劣悪で、郊外では数千世帯が違法に立てた小屋に住み、自給自足の生活を送っていた。ウィーン市行政はこれらの家族を支援することからスタートする。


6月2日 オーストリアあてに講和条約の草案が示される。工業地域の多くが連合国に割譲されるなど、厳しいものとなる。

6月14日 共産党による蜂起計画が発覚。指導者が一斉逮捕される。この頃オーストリア共産党は4万人に党員が拡大。

7月 バウアーが外相を辞任。

8月 ハンガリー・レーテ共和国が崩壊。ポランニはウィーンに亡命。

9.10 草案より条件緩和されたサンジェルマン条約が批准される。ドイツへの併合は禁止される。

10 第二次連合政権が発足。引き続きレンナーが首相に就任。

11 労働者協議会と兵士協議会選挙。社会民主党急進派が「協働団」(SARA)を結成しかなりの支持を集める。

19年 バウアー、「レーテ独裁か民主主義か」を発表。レーテ独裁が客観的諸条件を無視した冒険主義であることを訴える。

 

1920年


6月 総選挙。社会民主党は大幅に後退し政権から離脱。社会化の動きは相次いで挫折する。

5月 第3回労働者レーテ全国大会。社会民主党はSARAの要求を入れ、連合政権より脱退する。

11月 社民党大会。バウアーら指導部はSARAを追放。

20年 フォン・ミーゼスの「社会主義共同体における経済計算」が発表される。社会主義経済では「市場」がないため、需要と供給の均衡が定まることがない。したがって、資源配分が恣意的になり破綻する、というもの。これを機に「社会主義経済計算論争」が始まる。

保守のキリスト教社会党の右傾化が進む。連合政権は崩壊し、社会民主党は野党に転落。ウィーンだけが残された牙城となる。

20年 バウアー、『ボリシェヴィズムか社会民主主義か』を発表。レーニンとボリシェヴィキを「専制的社会主義」として批判する。これに代わるものとして、全人民の経済的自治を基盤とする民主的な社会主義を訴える。

 批判を加えられたレーニンはバウアーを「博識なばか者」と酷評した。しかし、大テロル後の1937年にもなおバウアーは語った。「われわれは、ソ連邦における社会主義を信ずる。現にあるソ連邦ではなく、未来のソ連邦を 信ずる」 


1921年

1月 共産党第4回大会。社会民主党を排除されたSARAが共産党に合流。

オーストリア社会民主党を中心にウィーン・インターナショナル(いわゆる「第二半インターナショナル」)が設立される。第二インターとコミンテルンの分裂を調停し、社会主義者の国際組織の再統一をめざす。レーニンはこれを激しく批判。2年後には第2インターに吸収され消滅。
21年 ウィーン市によるジードルング計画がスタート。ジードルングは家庭菜園付きの郊外型戸建住宅。
1922年
 5月 ザイベルが首相に就任。国際連盟を仲介者として西欧各国に資金援助を申し入れる。オーストリアは,すでに第一次大戦以前から,慢性的な資本不足に悩まされ,金融的に外国に依存していた。
10月 ジュネーブ議定書が取り交される。イギリス,フランス,イタリア,チェ コが3千万ポンドの借款を提供する。列強の圧力を受け、労働者階級との徹底した対決路線をとる。


1923年

保守派が「護国団」(Heimwehr)と呼ばれる準軍事組織を組織。社会民主党はこれに対抗して「祖国防衛同盟」(Schutzbund)を発足させた。

23年 バウアー、「オーストリア革命」を発表。「封建制から資本主義へは長い移行過程をへなければならなかった。同様に,資本主義から社会主義への途上でも,人類は一連の長い革命的過程を要するだろう」
23年 市営集合住宅の大量建設が始まる。この年のウィーンの失業率は11%(24万人)を超える。

1924年

ウィーンに住む画学生ヒトラー、「我が闘争」を発表。多民族都市ウィーンに憎悪心をいだき、ドイツ民族至上主義と反ユダヤ主義を煽る。
24年 フロイトがウィーンの名誉市民に選出される。アドラーは社会民主党の社会教育に尽力する。

1925年

25 社会民主党、農業綱領を発表。近代的農業技術を前提とする小農保護政策を前面に打ち出す。

25年 ウィーン市庁、カール・マルクス・ホーフなど6万以上もの大規模な近代的アパート群の建設に乗り出す。公共住宅の建設費は、独自の州法で定められた住宅税や奢侈税により賄われ、賃貸料は勤労者世帯の収入の4%程度に抑えられる。

 市議会有力者は、「我々が若者向けの施設に投資することで、刑務所に金を使わなくて済むだろう。妊婦や新生児のケアに投資することで、精神病院に金を使わなくて済むだろう」と発言している。


1926年

クーデンホーフ=カレルギーの提唱で、ウィーンで第1回パン・ヨーロッパ会議がひらかれる。共通通貨、均等関税、水路の共用、軍事と外交政策の統一を基礎とするヨーロッパの連帯をうたう。

26年 社会民主党、リンツ綱領を採択。リンツ綱領を採択。「赤いウィーン」での実践をもとに、議会主義戦略を定式化。「改良主義とボリシェヴィズムの間の第三の道」を探る。

①破局的なカタストローフの結果としてではなく、目標を意識した労働者の収穫としての社会主義の実現を目指す。②「赤いウィーン」での実践をもとに、議会主義戦略を定式化。民主制に依拠して則法的に政権を獲得する。

ただしブルジョワジーが反革命を起こした場合、国内戦により国家権力を掌握することも確認される。

1926年 バウアー、『社会民主主義的農業政策』を発表。ボリシェヴィキの農業政策を酷評、「農民の収奪を考えるのは愚か者だけだ」と主張する。


1927年

初頭 右翼メンバーが、対抗デモのに参加した退役軍人と8歳の少年とを射殺。

7月 射殺犯3人に無罪判決。これに抗議するデモが各地に波及。

7月15日 「7月15日事件」が発生。ウィーンで労働者デモ隊が警察を襲撃。89人が死亡。その後の弾圧により社会民主党の勢力は後退を余儀なくされる。

1930年

世界大恐慌がウィーンにも波及。

1931年

4月 州議会選挙が実施される。保守派内部の地殻変動。キリ スト教社会党,大ドイツ人民党や農民同盟は得票を減らし,ナチスが大躍進をとげる。
5月 クレジット・アソシュタノレト銀行が破産。不況に加え通貨危機に陥いる。


1932年

7月 列強の借款を定めたロ ーザンヌ議定書が調印される。債権者の政治干渉が強まり、労働者へのしわ寄せが強まる。

1933年

1月 ドイツでナチスが政権を握る。間もなくドイツ共産党に対する大弾圧が始まる。

3月4日 エンゲルベルト・ドルフース首相(キリスト教社会党)、議会の混乱を理由に議会の機能を停止。戒厳令が公布され、祖国戦線の名のもとに共産党もナチ党も禁止される。

 ドルフースはファシストというよりオプス・デイ(キリスト教原理派)に近い。しかしナチスのオーストリア併合に抵抗しなかった、という点ではファシストと同列である。

3月7日 ドルフスの逆クーデター。第一次大戦時の戦時経済立法権に基づいて統治することを宣言。連邦大統領,キリ スト教社会党,郷土防衛運動,企業家団体,カトリック教会などがこれを支持。


9月 社会民主党、党が禁止されるなら武力蜂起すると決議。
33年 ウィーンの失業率が26%(56万人)に達する。

1934年

2月 ドルフス政権と「護国団」による挑発が引き金となり、「2月12日内乱」が発生。社会民主党および「共和国防衛同盟」が、リンツ、ウィーン、グラーツなどで蜂起する。4日後に敗北。

2月 ドルフース政権と「祖国戦線」の独裁に移行。社会民主党は解散処分を受け、ウィーンの社会民主党市政も終焉した。バウアーら指導部の一部は国外に亡命して活動を続ける。
5月 「五月憲法」が制定される。選挙に基づく制度はすべて廃止された。

34年 ドルフース、ナチのテロリストにより暗殺される。
34年 実質賃金は大恐慌前に比べ44%の減少をもたらす。

いささか持て余し気味で困っている。
これまであまり材料がない中で、いろんなところから切れ端を拾ってきては継ぎ合わせるという形で「赤いウィーン」年表を作ってきたのだが、上条勇さんの論文を見つけてしまったためにバランスが取れなくなってしまった。
まずとりあえずは論文の中心内容である大戦間のオーストリア社会民主党の歴史をテーマに、別途年表を起こしてみようと思う。

これはおそらく「赤いウィーン」前史と一本化して行くことになると思う。

そのうえで、かなり雑然となってしまった「赤いウィーン年表」を、ウィーンの動きそのものにシボり込む形で整理したいと思う。

そこで少々扱いに困るのがカール・ポランニーのところに書き溜めたハンガリーとブダペストの歴史である。

とりあえずはそのままにしておいて、「ポランニーを知りたい人のためにはオーストリア社会民主党の年表も見てください」、みたいな扱いにするしかないだろうと思う。

上条さんの論文を読んでみてわかったのだが、これまでポランニーのオリジナルの議論と思っていたものが、かなりオットー・バウアーとオーストリア社会民主党の所説を下敷きにしたものだということが分かった。

つまり、ポランニーの言っていることはかなりの程度までウィーンの論壇では共通の話題であったということである。しかもバウアーの議論はもっと前、カール・カウツキーの所説を発展させたものだということが分かってきた。

こうなると、どうも最初からやり直さなければならないということになりそうだ。

もちろん私にはもはやそれだけのガッツもないし、月日も残されていないだろうから、誰かが引き継いでくれるのを期待するばかりだ。





 

1945年4月 

4月半ば ソビエト軍がベルリンに突入、中心部へ向け侵攻。ヒトラーは南部ベルヒテスガーデンへの疎開案を拒否。ベルリンの総統地下壕を最後の拠点と定める。

4月20日 総統誕生日。ヒトラーは国防軍最高司令部と政府閣僚の避難を許可。ドイツ軍の統帥を海軍総司令官カール・デーニッツ海軍元帥に委任した。デーニッツはプレーン(Plön)の海軍総司令部に移り執務開始。国防軍最高司令部のカイテル元帥、ヨードル上級大将らもプレーンに向かう。

4月21日 空軍総司令官ゲーリング、国防軍最高司令部・陸軍総司令部の主要メンバーはヒトラー総統専用のベルクホーフ山荘のあるオーバーザルツベルクへ疎開。

4月23日 軍中枢に続き、閣僚もプレーンに移動。プレーン近郊のオイティンで閣僚会議を開催。

4月23日 連合軍がポー川を突破。ムッソリーニはミラノからスイス国境のコモに逃走。

4月23日 ゲーリング、ヒトラーに国家指揮権を移譲を迫る。ヒトラーはゲーリングを全てのポストから解任。さらに一時監禁される。ヒトラー自殺後に解放される。

4月27日 ムッソリーニ、コモでパルチザンに逮捕される。 即決裁判により処刑される。 遺体はミラノ市のロレート広場に吊るされた後、無記名の墓に埋葬される。

4月27日 ヒトラーはゲーリングを全てのポストから解任。さらに一時監禁される。ヒトラー自殺後に解放される。

4月28日 早朝 SS全国長官ヒムラーが密かに進めていた和平交渉が失敗。その秘密がBBC放送で全世界に公表される。ヒトラーは激怒しデーニッツを後継者に指名、ヒムラーの解任と逮捕を命令する。

4月30日am 海軍総司令官カール・デーニッツ元帥が大統領(総統ではない)に指名され、新たな政府を組織した。デーニッツはヒムラーと会見し、ヒムラーが解任されたことを告げるが逮捕に至らず。

4月30日3pm ヒトラーが総統地下壕の一室で自殺。ボルマンを遺言執行人に指名。この時ソ連軍は地下壕から500メートルまで迫っていた。

4月30日深夜 ボルマンら、総統地下壕を脱出。その後行方不明となる。

1945年5月

5月1日 0am ヒムラーとデーニッツの2回目の会談。ヒムラーは首相職を要求したが、デーニッツはすでにヒムラーが連合国から交渉者失格と通告されているとして、これを拒否。

5.01 午後 ゲッベルスとボルマンの共同署名になるデーニッツあて電文が到着。ヒトラーが自殺し、デーニッツの大統領就任が発効した。(このあたりやや事実が錯綜)

5.01 8pm ゲッペルス夫妻、子供を毒殺したあと自決。

5.01 10pm デーニッツ、ハンブルク放送を通じて演説。ヒトラーから国家元首と国防軍最高司令官としての職責が託されたことを明らかにし、「英、米、ボルシェヴィズムと戦い続ける」と表明。「押し寄せる共産主義たちによる破滅からドイツ人を救うこと」を最大の任務と位置づける。

5.03 デーニッツ、クロージク財務相を閣僚首班に指名。フレンスブルク郊外の海軍士官学校に内閣を置く。

5月4日 西部戦線のドイツ軍が全面降伏する。

5月5日 ミラノのドイツ軍C軍集団が正式に降伏。イタリアの戦闘が終結。

5月5日 プラハ蜂起が発生。翌日にはソ連軍も到着。

5月6日 デーニッツ、ヒムラーら生え抜きのナチ幹部を解任。連合国との交渉に備える。

5月6日 デーニッツはドイツ軍作戦部長アルフレート・ヨードルに、連合軍に対する国防軍の降伏文書に署名する許可を与える。ヨードルがフランス国内(ランス)の連合国遠征軍総司令部に赴き、連合軍への降伏を交渉。

5月7日 48時間の猶予を得たドイツ軍は、西方総軍指揮下の各軍に対して西への脱出を命令。 デーニッツは西方での投降は受け入れ、東方では戦闘を継続し市民や兵士の避難のルートと時間を確保しようとつとめた。

5月8日 連合国軍司令官アイゼンハワーとヨードルが無条件降伏文書に調印。文書は英文のみで、ランスの連合国遠征軍総司令部で調印式。

5月9日 ベルリン郊外(カールスホルスト)の赤軍司令部で、カイテル元帥らドイツ代表が降伏文書を批准。こちらの文書は英・ロ・独文よりなる。旧ソ連諸国では5月9日が対独戦勝記念日となっている。

5月13日 ソ連軍はすべての進撃を停止。

5月14日 スロベニアでパルチザンとドイツ国防軍・クロアチア独立国軍の戦闘。翌日、ドイツ軍が降伏して戦闘が終了。

5月20日、ソ連政府はデーニッツ政府がどんな権力を持つことも許さないと表明。

5月23日 英軍がフレンスブルクの政府施設に侵入。アイゼンハワー命令に基づき、政府の解散とすべての要員の逮捕を執行。デーニッツらフレンスブルク政府の閣僚が逮捕され、ドイツ政府は解体・消滅する。

6月5日 連合国軍によってベルリン宣言が発令され、ドイツの中央政府消滅と米英仏ソ四国による主権掌握が発表された。


EUはどこへ行くか

イギリスの離脱、フランス大統領選での熱い論戦が示すように、EUがどこへ行くのかは重大な問題となっている。

そのEUの最高機関である欧州議会が開かれている。13日にユンケル委員長が施政方針演説を行い、翌日から討議が始まった。

ユンケル演説の骨子は以下の通り。

1.EUはギリシャの債務問題や難民流入、ユーロ懐疑派の台頭という危機を経験した。しかしEUは「打ちのめされ、傷ついた」状態から回復しつつある

2.経済成長が再開した。「欧州に流れが戻った。絶好の機会が訪れている」

3.すべての加盟国に訴える。ユーロ通貨圏や他のEU機関に参加しよう。ユーロはEU全体の通貨となるべきだ。

4.日本とEPAで合意に達した。米国とのFTAも交渉を加速させよう。対中国ではインフラやハイテク製造業、エネルギー分野における欧州企業買収を制限し戦略的利益を守る。

5.常任のEU財務相を置く。欧州安定メカニズム(ESM)を拡充し欧州版国際通貨基金(IMF)の創設を検討する。


討議の中で明らかになったのは、雇用の問題、富の不平等、福祉・貧困対策、労働条件などで問題が山積しているということであり、その根底にあるリーマン・ショック後10年に渡る緊縮政策の是非だ。

この間の緊縮政策は結局、多国籍企業の利益に沿ったものでしかなかった。

欧州では1億2千万人が貧困に陥っている。失業者は2千万を超えている。これは緊縮政策の結果であり、まさに「欧州の失われた10年」となっている。

「労働者は雇用を脅かされ、農家は農産物価格の低迷で市場から締め出され、失業者は放置されている」(欧州統一左翼)

「労働者は労働力柔軟化政策のもとで、長時間労働、劣悪な労働環境、低賃金で働かされている。これが社会的ダンピングとなって、さらに負の連鎖を引き起こしている」(欧州統一左翼)

これらの事態の原因のすべてがEUにあったのか、各国政府が担うべき責任は分からない。(ユンケルはルクセンブルクの首相だった時、アマゾンと租税優遇措置を取り決めた。この件については、現在も欧州議会税制特別委員会が調査を続けている)

しかしはっきりしていることがある。たとえその原因の多くが各国政府の責任であったとしても、それを救うためにEUは作られたはずだ。

少なくとも犠牲を助長するような政策であってはならないはずだ。

これらの点で、EUがその存在意義を問われる状況はこれからも続くことになろう。
EUの存在意義を欧州共同防衛というような内容に変質してはならないはずだ。それは多国籍企業のためのEUに変質するときの隠れ蓑にすぎない。


フランスの政治-かんたんな紹介

1.フランスの政治の歴史

フランスでは1789年にフランス大革命が起こりました。革命派の人々はルイ16世の王政を倒し、共和制を宣言しました。

それは「自由・平等・博愛」を宣言しました。これはフランスばかりではなく、現代の民主主義の精神的基礎となっています。

この考えはアメリカにも受け継がれ、日本の憲法もその流れのもとにあります。

自由の女神

ニューヨークの「自由の女神」はアメリカ独立を祝してフランスが送ったもので、アメリカの民主主義のシンボルとなっています

フランスは進歩と文化の中心地となりました。文学・絵画・音楽などの世界で、パリは世界の芸術の首都となりました。

そのフランスも、19世紀の後半にはアフリカ・アジアに植民地を抱える帝国主義の一国となります。例えばベトナムも半世紀にわたりフランスの植民地支配に苦しめられました。

しかし、ドイツでナチが政権を握った時、フランスでは「人民戦線」が政権を掌握し、庶民のための多くの改革が成し遂げられました。

バカンス(夏休み)という制度もこの時のものです。

人民戦線
1940年、フランスはナチス・ドイツに占領されてしまいました。しかしフランス人の心は占領されませんでした。芸術家をふくむ多くの人々がレジスタンス(抵抗)に立ち上がり、命がけで祖国と民主主義を守りました。
レジスタンス
レジスタンスのメンバーであった彼は、ナチスに捕らえられ銃殺される前に微笑んだという。 

第二次大戦後は、国内の経済荒廃に加えベトナムやアルジェリアなどの植民地を失い苦境に立たされますが、依然として高い文化的プレステージを背景に強い影響力を保ち続けています。

政策的にはアメリカ主導のグローバリズムとは一線を画し、ドイツとの共同による国際経済新秩序の形成を目指してきました。

国内的には労働者・農民の発言力が強く、二度にわたり社会党が政権を握るなど左翼色が濃いのが特徴でしたが、リーマン・ショック後の長引く不況の中で企業よりの政策が強まっています。

それに対する批判が左翼の方向には向かわず、極右の排外主義に傾いているところに、目下の危険があるといえるでしょう。
こういう状況の中で2017年の総選挙が行われました。
おおかたの予想では社会党政権の地滑り的大敗北、左翼勢力の後退、極右勢力の躍進、場合によっては「国民戦線」の政権就任というものまでありましたが、その中で左翼のメランションが予想外の健闘、「国民戦線」の挫折という結果となりました。
この中でとりわけ目立ったのが若者の決起でした。その原因は何か、若者の政治回帰はどのようにして実現したのかがとりわけ興味深いところです。
そのあたりが今回のお話で聞きたいところです。


サンダース・コービン・メランション現象と連帯運動

以下は日本AALA総会での発言を補強したものである。

1.3つの選挙に共通する3つの流れ
この1年の間に欧米では大きな動きがありました。アメリカの大統領選挙、イギリスの国会議員選挙、フランスの大統領選挙の3つです。イギリスの国会選挙はその前のEU離脱国民投票がセットになっています。

選挙の結果は多くの識者により論じられていますが、私はAALA連帯運動の立場から考えてみたいと思います。

選挙には3つの大きな流れがありました。

一つはアメリカのトランプやフランスのルペンなど反動的な扇動政治の台頭です。これらはメディアによってポピュリストと一括されます。イギリスの離脱派にも似たような傾向がありました。

もう一つはアメリカのサンダース、イギリスのコービン、フランスのメランションらが打ち出した、富裕層の支配に反対し国民主権の政治を目指す流れです。

第三は、富裕層を地盤とし、“1%のためのグローバリズム”を標榜する既成政党が急激に弱体化するという流れです。
3つの流れはいずれも重要なものですが、長期的に見れば、一番は富裕層の政党が影響力を失いつつあることでしょう。

これらの流れが全体として意味するのは、富裕層の超国家的支配を拒否し、もういちど国民本位の政治に立ち帰ろうという国民の意識変化です。

それは国家・国民の復権と経済主権の回復を意味するので、反グローバリズム、新しい民族主義とも言うべき動きです。そして、途上国の民族的要求と根本において通じているものです。
2.良い民族主義と悪い民族主義

民族主義には良い民族主義と悪い民族主義があります。悪い民族主義は「排除する民族主義」です。彼らは植民地帝国だった「古き良き世界」に戻ろうとします。世界の人々を除け者にし、弱者をいけにえにしてみずからの地位を守ろうとします。
しかしそれは正しくないだけでなく実現不可能です。その先には未来はありません。だから一時的にそれに従った人々も、いまでは急速に離れつつあります。イギリスでEU離脱をシングルイシューとして躍進した政党はもはや影も形もありません。

これに対して、良い民族主義は国民主権、とりわけ経済主権を侵しているのが富裕層の超国家的支配であることを知っています。弱者も同じ被害者であり、彼らと敵対しても問題は解決しないことを理解しています。

また当面する困難の多くが、自国のみの力では解決できないことを知っており、諸国民との共同が必要であることを知っています。

それは連帯する民族主義であります。その流れが急速に先進諸国で力を得つつあることが、今回の3つの選挙で示されたのではないでしょうか。
3.選挙が指し示す今後の方向
富裕層のためのグローバリゼーション反対、国家と国民の経済主権を守れ、国際経済関係に公正なルールを、平等互恵・貧困と無知を撲滅する国内及び諸国関係の構築を!

というスローガンが今後打ち出されていく必要があるのではないでしょうか。

“もう一つの世界は可能だ”

正義と友愛にもとづく諸国民の連帯万歳!

三大選挙の評価については、下記の記事を参照されたい。


この1年間、国際政治面はこの3人の老人で埋められてきた。
アメリカのバーニー・サンダース、イギリスのジェレミー・コービン、そしてフランスのジャンリュク・メランションである。
おそらくはこの3人を結ぶ糸が、世界の明日へとつながる赤い糸なのだろうと思う。
それにしてもこんなことがいままでの世界であったろうか。こんな爺さまがデジタル時代の若者のカリスマになったことなどあったろうか。
そこには何か時代の特徴があるのかもしれない。「三題噺」としてはかっこうの話題だ。
これまでサンダースはコービンについては少し紹介してきたので、まずはメランションの紹介から始める。
1.ジャンリュク・メランションとはどんな人か
Jean-Luc Mélenchon の発音はここにある。メノンションとしかきこえない。
まずwikiの記載から紹介する。
1951年の生まれで65歳。他の二人よりは少し若い。フランス人だがモロッコ生まれ。父は郵便局員だと言うから少なくとも有産階級ではないようだ。哲学を学び教員となった。83年にマシーという街の市長となり政治家としてのキャリアを始める。86年に35歳で元老院(上院)議員となる。書かれていないがおそらく社会党に所属していと思われる。
2008年に社会党を離党し左翼党を結成した。欧州議会選挙に「左翼戦線」の一員として立候補し当選した。「左翼戦線」はフランス共産党・左翼党・統一左翼党の合同組織である。
2012年の大統領選挙では、「左翼戦線」の統一候補として立候補した。結果としては4位で得票率は11%にとどまったが、左翼陣営に社会党以外の現実的な選択肢を示した。
彼は共産主義者ではないが資本論を理解する社会主義者である。中南米のALBA諸国の経験を念頭に、民衆の立場に立った社会変革を目指す。

メランションはテレビ討論でペロンに対し、「この場にいるべきではない、国民の恐怖を無駄に煽っている」と批判し人気を博したとされる。これで社会党支持層の多くを取り込んだ。

富裕層への課税強化や最低賃金の大幅増も訴え、高失業率に苦しむ若者、特に教育水準の高い層の支持を集めるに至った。これも、サンダース氏と似通う。

集会の雰囲気は次のビデオで伺うことができる。
ただし言葉の分からない人は、24分位から再生したほうが良い。「銀行家ノー、人種主義者ノー」のシュプレヒコールが聞かれる。

2.メランションは極左か

当初は多くの報道が「極右のルペン、極左のメランション」と表現していた。
経過から言えば、社会党が中道左派、メランションが左派である。別に急進的ではないし、ましてや極左でもない。フランス人はそう考えているだろう。
さらに言えば、社会党のオランド政権のとった政策はむしろ中道右派である。経済相がマクロンだったのだからこれほどたしかなことはない。
かつて社会党は左派と見られ、共産党と統一戦線を組んだこともあった。それがミッテラン時代に右転換し、中道左派のポジションに変わった。
現在では中道左派と呼ぶことさえ難しい。党内左派と目されるボノワ・アモンですらせいぜい中道左派だ。
メランションは社会党が左派であった頃の党員である。社会党が右傾化を強めたときに、党を離れた。
彼はマルクスの理論にも共感を示すが、基本的には骨の髄からの社会党員である。そういう点から言えば、むしろ中道左派と言っても過言ではない。
座標軸がぶれているのは、極右の安倍晋三に優しい日本のメディアなのである。

3.メランションの政策
率直に言って、日本のメディアでメランションの政策を系統的に報道したものはない。
ほとんどが片言隻句を取り出したもので、半ばデマに近い。本当に日本のメディアも落ちたものだと感心する。
断片的な情報をつなぎ合わせると、メランションの政策の柱は平和と格差問題の解決だ。
「赤旗」の4月14日号では、島崎特派員の記事が掲載されている。とくに平和政策に焦点をあてている。


中東・シリア問題では「戦争ではなく対話と交渉、外交にこそ力を注ぐべきだ」と訴えた。
難民問題では全ての難民への全面的な支援を主張した。彼は「難民を生む根本問題」に取り組むと語った。そして発展途上国に不利な貿易協定の見直しを提起した。
また核問題では、核兵器禁止条約の交渉推進や非核地帯の拡大を訴えた。
この赤旗の記事では他候補のメランション批判も載せていて面白い。
マクロン候補は、「テロとのたたかいにおける非武装宣言」だと非難した。これはまさにそのとおりだ。テロに対して武装しても何の意味もないのだから。
緑の党は、「メランション氏は反米しか口にせず、ロシアの領土拡張主義を認めている」と述べた。事実とすれば少々気になるところである。
ついで経済政策だが、その柱は失業問題の解決と、貧困の撲滅からなる。
最低賃金の15%引き上げ、労働時間の短縮、労働法規の厳格化を行う。
このために総額30兆円の追加支出を行う。この内10兆円が景気刺激にあてられる。これは当面国債によって賄われるが、その多くは経済成長(とくに内需の拡大)が実現すれば減額される。長期的には富裕層の増税(とくに相続税の強化)によって財政は健全化される。
これらの政策が、高失業率に苦しむ若者、特に教育水準の高い層の支持を集めるに至った。これも、サンダース氏と似通う。


残念ながら、日本語のテキストが圧倒的に不足している。

目下のところは乏しい資料の中から読み解いていく他ない。

1.オランド「左派政権」の自壊と極右の伸長

リベラル勢力の希望を担って船出したオランド政権だったが、就任していきなりのリーマンショックはあまりにも過酷だった。

結局のところ、オランド政権はEUとECBの言うなりに、厳しい経済引き締め策を担わざるを得なかった。政権の実行したことはすべて就任時の公約と逆方向であった。そして逆コースの先頭に立ったのがほかならぬマクロンであった。

政権末期、オランド政権の人気は地に落ちた。昨年の10月行われた世論調査ではオランドの支持率はなんと4%に過ぎなかった。メディアは「4%の人」と揶揄した。

一方で不満層を取り込んだ極右、ネオファシストの人気はうなぎ昇りとなった。

14年の欧州議会選挙は衝撃的だった。国民戦線は25%の得票を獲得し首位となった。その後も各種選挙で25%前後の得票を維持し続けた。左翼はもっとも依拠すべき人たちの支持を失った。

貧困層、労働者・農民などかつて左翼の強固な地盤だった階層が極右に雪崩を打って流れ込んだ。それはアメリカ中西部の「錆びたベルト」地帯の労働者が、一転してトランプの強固な支持者となったのと同じだった。

彼らは絶望のあまり敵を味方と取り違えたのである。

オーストリアでもオランダでも、極右が政権獲得の勢いを示した。今や欧州を極右、トランプ派が席巻しようとしていた。

2.「野党共闘」の兆し

16年11月、大統領選挙を半年後に控えて共産党のロラン党首は思い切った方針を打ち出した。社会党を離れ独自会派「屈しないフランス」(ラ・フランス・アンスミーズ)を結成したメランションを推すことを提起したのである。

それはファシズムの再来に対する深刻な危機意識の表現であったが、現場活動家にはそれは浸透しなかった。これまで通り一次選挙は独自候補で戦い、決選投票で社会党を支持すればよいという経験主義が未だ多数を占めていた。

ロランは統一の提案が全国活動者会議で否定されたあと、活動者会議の頭越しに全国討論を呼びかけ、最後は全党員投票を経てメランション支持を実現した。

これを元に共産党はメランション派と交渉し、大統領選での協力が実現した。これはファシズムを瀬戸際で食い止める上で大変重要な役割を果たしたと思う。メランションが第一次投票で20数%を獲得することがなければ、マクロンを国民的候補として決選投票に臨むことはできなかったろうし、もしそれができなければ今頃ファシズム政権が誕生していたかもしれない。

今年1月 オランド政権の与党、社会党が大統領候補の予備選を行った。ここでは党内左派のアモンが勝利した。ここで社会党は恥の上塗りをした。党首のヴァルスがマクロンを支持すると発表したのである。

アモンはメランションとの1本化の話し合いを試みたが不調に終わった。如何に党内左派といえど、さすがにA級戦犯である社会党と組むのは不可能である。

共産党とメランション派は、オランドが投げ捨てた国民の要求を実現するために、統一して闘った。メランションと野党共闘は若者の受け皿となった。しかし左派政権の裏切りに対する国民の幻滅は深く、その多くが極右へと流れた。

3.大統領選挙

4月に大統領選挙の第一次投票が行われた。財界を代表する共和党のフィヨンは本命と目されたが、スキャンダルが祟り票を伸ばすことができなかった。これに代わり保守系無党派の新人エマニュエル・マクロンが1位を占めた。

マクロンは若いだけではなく超富裕層でもあった。社会党政権で経済相(非党員)として抜擢され、グローバリズム政策を推進した。オランド政権変質の張本人である。富裕層は不安を持ちつつもマクロンに期待した。

これについで極右の国民戦線のルペン候補が2位につけた。得票率はマクロン24%に対しルペン21%と接近していた。恐れは現実となりつつあった。

注目すべきは、左翼に圧倒的な逆風が吹く中で「左派統一候補」のメランションが19%を獲得したことである。フィヨンに僅差の4位ではあったが、ルペン・フィヨン・メランションが20%前後の得票率で肩を並べたことは大きな意味がある。一方社会党のアモンは6%という惨敗であった。これにより左派を代表する勢力が社会党から左派統一に交代しつつあることが示された。


支持率推移

今年1月から第1次投票までの支持率の推移。NHKのサイトから転載。
メランション(赤)が社会党(黄)を追い抜いたのは3月下旬のことである。左派の共闘が大きく情勢を切り開いたことが分かる。
4月下旬になってマクロン人気が落ちた時、危機感からメランション支持がマクロン(橙)に移ったことが示されている。

決選投票での最大の問題事はファシストの政権獲得の可能性である。彼らは「保守主義者」のポーズでファシストとしての顔を隠した。選挙演説では「右も左も結集しよう」とさえ呼びかけた。

しかし多くの国民はそれを見逃そうとはしなかった。それが決選投票での圧倒的な票差となって示された。「ルペンに対する防御壁」となったマクロンは、第一次投票での24%から66%にまで跳ね上がった。これに対しルペンの得票は35%に留まる。

フランス共産党からサルコジ元大統領まで、左派労組の労働総同盟から財界団体まで反極右では一致した。マクロンに投票した有権者の43%は、ルペンの大統領選出を阻止するためだけに投票したという。

おそらくファシストを撃退したと言っても有権者のあいだに勝利感はないだろう。それが政治を良くする引き金になるわけではないし、ルペンの掲げた「反移民・反EU」のスローガンにはかなり同感する余地もあるからだ。

不気味なのは、ルペンが逆風の中で第一次投票から15%も上乗せしたことである。これはコアーなファシズム支持者の他にそれと同じくらいの消極的支持者がいることを示している。投票前の世論調査では最大41%を叩き出している。

4.国会議員選挙

今回、フランス国民は4回も投票しなければならない。大統領選挙の第一次投票と決選投票、それに国会議員選挙の第一次投票と決選投票である。

国会選挙が2回の投票とあるのは小選挙区制のためで、一回目が各政党で順位を競う。そして第1位と第2位の間で決選投票を争うのである。ただし1回目の投票で誰かが圧倒的な支持を集めれば、2回目は行われない。

共産党は第一次大統領選の結果をみて、強い危機感を抱いた。このままでは決選投票にも進めないと危惧したのである。

しかしこれにはメランションは応じなかった。1本化は2次選挙のときにやれば良いと主張したのである。たしかにこれには一理ある。もちろんメランション派が決選投票に残れると踏んだからではあろう。しかし「野党は共闘」こそがメランションの力の背景だということを、メランションは過小評価したのではないだろうか。

6月11日に国会議員選挙の第一次投票が行われた。ほとんどの議席は第一次投票では決せず、j決選投票に持ち込まれた。国会議員選挙はマクロンの一人勝ちであった。

マクロン旋風の原因は、①極右に勝利したヒーローとして期待されたこと。②二大政党制への不信が浸透したことである。ただし小選挙区制のマジックで増幅されたこともある。

左派陣営ではメランション派が多数を占めたが、それでも得票率は11%にとどまった。得票率30%に圧したマクロン旋風に太刀打ちすることはできなかった。共産党は2.7%にとどまった。

大統領選挙でメランションに吹いた風は止まってしまった。記録的な低投票率(棄権が51%)は、とりわけ若者を中心とするメランション派に“選挙疲れ”が出たことを示している。

国会議員は小選挙区であり、伝統や個人的人気なども無視し得ない。大統領選では惨敗した社会党も7.4%を確保している。状況はより困難だからこそ、風頼みではなく政策をしっかりと示し、野党共闘をイメージアップすることがより求められるのではないか。

6月18日に第二次投票が行われメランション派の17議席、共産党の10議席が確定した。

マクロン派     361議席

共和党       126議席

社会党        46議席

メランション派    16議席

共産党        10議席

国民戦線        8議席

国民戦線の議席数は、もともとドブ板選挙を不得意とする上に、大統領選挙での敗北の痛手が大きかったのではないか。共産党の得票率と議席数が乖離してるのは、相当選挙区を絞り込んだためではないだろうか。(情報なしの推測)

5.投票傾向の分析

選挙結果に関するおもしろい分析が提示されているので、紹介しておく。

階層別支持

 

 階級における政治からの「肉離れ」、ないし「原理派」化が見られる。国の民主主義の構造が下から崩れ液状化しつつある。比較的社会保障や労働者保護が浸透しているとされるフランスですらこういう危機的状況になっている。今や格差の進行は文明を揺るがしかねないところにまで進んでいると見るべきであろう。

これを食い止めるにはイギリス総選挙終盤での闘い方、弱者を保護し教育、医療などでポジティブな政策を明確に打ち出すこと。格差是正への方策を、国際的な協力での解決もふくめ明確に打ち出すことであろう。

今回のイギリス・フランスでの選挙はいずれもEU問題が俎上に上げられたが、ルペンの終盤での発言でも明らかなように、逆にこの問題で後戻りはできないことが明確になったと思う。

同時に、リーマンショック→欧州金融・財政危機で反人民的性格を強めたEUを、どうやって諸国民の立場に立つように変革していくかがもとめられることになるだろう。


イギリスの総選挙とほぼ並行してフランスの大統領選挙も戦われた。これについて本日の赤旗に興味深い記事が載った。

興味深いというのは、イギリスの総選挙との比較だ。イギリスはポスト離脱の展望をめぐる選挙であったし、フランスは離脱の是非そのものが問われている選挙だった。

しかし、イギリスの選挙を見た後で、フランスの選挙を見てみると、ことはもっと根の深いものなのだろうと思う。

そこをどう捉えるのか、

遠藤 乾(けん)さんという方は私より二回り若い。運動圏の人ではなさそうで、どうして赤旗に登場したのかは分からない。

北大教授ということで、ひょっとするとお世話になるかもしれない人だ。文章を紹介させて頂く。

1.フランス大統領選挙と反EU感情

大統領選挙の結果、EU残留派のマクロンが当選した。ただ投票の半分は反EU派に流れた。すなわち国民戦線+急進左派+泡沫候補の得票合計である。(ということは、EU問題は左右両派の真の対立点ではなかったということになる。それはイギリスも同じだ)

2.国民戦線の強さ

国民戦線は反自由主義的なポピュリスト政党である。「伝統的フランスへの回帰」のスローガンと反移民、反イスラムなど敵を作り出すことで雑多な民衆をまとめている。

それにラストベルトの民衆が取り込まれている。彼らの多くは元はリベラルだった。共産党員ですらあった。急進左派は、彼らには遠いものと映っている。彼らには異質なものである。

3.グローバル化のしわ寄せ

これはグローバル化の恩恵が富裕層に傾き、労働者にしわ寄せされている結果である。

EUの指導者は、こうした痛みに分け入って、真剣に取り組むのをおろそかにしてきた。これが反EU感情を生み出している。労働者の生活改善のために手を打たない限り、EUの危機は続くだろう。

4.政治学のトリレンマ

①グローバル化、②国家主権、③民主主義の3つの理想は同時に実現できないという概念。

これについては後で検討する。

5.国際協調で解決を

具体的には、投機資本の規制、租税回避対策、貿易ルール問題、環境などで国際協調が必要である。


EUからは国民投票をやって抜けようと思えば抜けられる。しかしグローバリゼーションという大きな流れからはそう簡単には抜けられない。

こういう言い方は、マルクス主義らしからぬようにも見えるが、グローバリゼーションは必然の流れであり、それをどうみんなにウィンウィンとなるようなものにしていくかを語るしかないのではないかとも思う。

そしてその方向での共通認識はすでに出来ていると思う。なぜなら今日の事態は、レーガン以来、アメリカが世界経済を強引に捻じ曲げ続けて来た結果起きたことであり、アメリカの勝手放題を止めさせれば済むことなのだから。

問題はそれをどうやって実現していくか、誰がアメリカの首に鈴をつけるかという話なのだろうと思う。

もう一つはアメリカの好き勝手をやめさせるのは結構だが、それまでのあいだ各国はどうしたら良いのかという問題だ。前提条件がすでに規定されている以上、各国がやれることには自ずから限界がある。とはいえ、国家としてやらなければならないことはある。


「政治のトリレンマ」について

私には初耳であった。政治学については素人ではあるが、初心者ではない。「…という疑念がある」と言われると「えっ?」と思ってしまう。

いずれ詳しく勉強した上で語りたいと思うが、この「不可能の三角形」は少々おかしいと思う。「3つの理想」と言われるが、国家主権と民主主義はともかくとしてグローバリゼーションを「理想」と呼ばれるのには抵抗がある。

グローバリゼーション自体を悪というわけではないが、それは政策を立てる上での「所与」である。それはとくに経済の開発を計画する上で、重い前提条件としてのしかかってくる。

これは、とくに発展途上国において、すでに1960年の初頭から懸案となっている事項である。国連開発会議(UNCTAD)などで議論が積み重ねられているが、いまだにスッキリとした結論は出ていない。正直に言えば、ネオリベラリズムが登場してからはぐじゃぐじゃになっている。

たかが金貸し風情が出過ぎたまねをするんじゃないよ

をご参照ください。
とりあえず、国家政策の三本柱としては以下のものが考えられている。

自主: 民族国家としての主権を守ることである。なんでもかんでも100%自由化という訳にはいかない。それは「食われる自由・飢える自由」しか残されないことを意味する。それは一見グローバリゼーションと矛盾するようだが、実はグローバリゼーションのための必須条件なのである。

民主: 国民生活を守ることである。論争の中で、ともすれば内需拡大と関連付けて語られがちだが、決して内需拡大のために国民生活を底上げするのではない。国民生活、生活権を守るのは手段ではなく目的である。

発展: 経済成長・財の蓄積を確保することである。それは豊かな心と豊かな人間を作っていくために必須の事柄である。その枠組みや方法についてはいろいろ議論があるだろうが、その重要性の認識は共有しなければならないだろう。

金融・通貨政策でのトリレンマは97年のアジア通貨危機を通じて、頻用された概念である。① 自由な資本移動、 ② 為替相場の安定、③ 独立した金融政策 の3つが同時に成立することは不可能であるというものだ。

それはすでに大方の関係者から承認されており、「公理」のごとく用いられている。金融の世界が無機質な数字の世界であり、しかも比較的短期で結論を出していかざるを得ない世界だからであろう。

政治の世界ではもう少し不確定要素が入ってきそうな気がする。同じ状況に置かれてもトランプを支持したり、労働党を支持したり、ルペンを支持したり反応は異なってくる。

イギリス総選挙 教訓とすべきこと

この度のイギリス総選挙でもっとも印象的なことは、労働党、あえて言えばコービンへの支持が驚くべきスピードで積み上げられたことである。若者を中心に「イギリスのサンダース現象」とも言える現象が出現した。

一方で、過半数を割るに至った保守党の後退は、メディアからは「オウンゴール」と表現されているが、それに尽きるとは思えない。そこにはより深刻な長期低落のトレンドがふくまれていると思う。

世界的な枠組みの中で見ると、EU 離脱の国民投票でイギリス国民は「トランプ支持」に類似した反応を示した。EU 残留を今日こに主張する保守党政権は吹き飛ばされた。

そこで保守党政権の接ぎ木とされたのが「ミニ・サッチャー」を気取るメイ首相だ。彼女は強硬離脱路線に衣を着替えて、離脱派国民の心をつなぎとめようとした。
(EU離脱は、Brexit と呼ばれる。これは British + exit をかけ合わせた造語。これに着陸のときの hard/soft を形容詞としてつけて表現する。アメリカ人ならHBEですますだろう)
この思い切った作戦が奏功した。国民は不満の吐け口を失ってしまったかに見える。しかし国民の不満が解消されたわけではない。

トランプ派がヒラリー派になるわけがないのである。そして、そもそも離脱派の本音はEUノーではなく、富裕層の支配ノーなのだ。その本質は、国民本位の政治を求めてさまよう「革新派」なのである。

それが収まるところに収まった瞬間、保守党の命運は尽きることになる。これが政治の流れの本流であろう。

まずは少し経過をおさらいしてみよう。


1.保守党の敗北とメイの登場
2016年7月、EU離脱の国民投票が行われ、提案者キャメロン首相は予想外の敗北を喫した。キャメロンは首相を辞職、内相だったテレサ・メイが後継首相となった。したがってメイは首相として選挙を闘ったわけではない。

メイは当初はキャメロンと同じ残留派であったが、そのご強硬離脱派に立場を変えた。

周囲の反対を押し切って離脱に踏み切った党派は、目標を失ってあっというまに衰退した。党内を離脱論で押さえ込んだメイに政敵はいなくなった。労働党は残留を主張していたが、党首コービンはEUに対する厳しい見方を貫いた。このため労働党は離脱論争の蚊帳の外にいた。
2.総選挙に打って出たメイ

今年になって4月18日、メイ首相は電撃的に総選挙の実施を表明した。本来であれば2020年実施予定であったが、これを前倒ししたのである。

彼女は記者会見でこう述べた。「議会は一体となるべきですが、現在は分断しています。国はまとまりつつありますが、政治家はそうではありません。総選挙が必要であり、ただちに実施する必要があります」

この時保守党は330議席を有し、単独過半数を超えていた。しかしEUとの離脱交渉を前に、自らの政治的な基盤を盤石にしたいとの狙いがあったとみられる。

メイは2019年3月末までにEU離脱の大枠を定める離脱協定の合意を目指していた。2020年では遅すぎるのである。しかし2020年が遅すぎるといっても、今すぐやる必要もない。それは「いまやれば圧勝する」という読みがあったからである。
3.選挙前半の情勢

保守党の支持率は、一時は最大野党・労働党を24% 引き離していた。メイ首相の支持率は44%。これに対し労働党のコービン党首の支持率は23%に過ぎなかった。

選挙戦半ばまではたしかに保守党の「歴史的大勝」を思わせる状況だった。

5月はじめに行われた地方選挙では、88の地方議会で合わせて4851議席が改選された。保守党は支持基盤の弱い中部や北部スコットランドでも支持を伸ばし、改選前を563議席上回る1899議席を獲得した。 これに対し労働党は382議席を失った。

多分、この大勝利が政権のおごりを生んだのであろう。メイは「強く安定したリーダーシップ」といった決まり文句をひたすら繰り返し、「メイ・ボット(自動応答プログラム)」とまで言われるに至った。
4.保守党政治への不満が噴出

このような選挙状況を一転させたのが、5月18日に両党から発表されたマニフェストである。投票日のわずか3週間前だ。

保守党のマニフェストは、国民から意外なほどに強い反発を受けた。一番の批判の的となったのが「認知症税」である。

要は高齢要介護者の介護費用なのだが、生きているあいだはとりあえず給付するのだが、死んだときには払ってもらう。その原資として持ち家を手放させることによって、ケア費用を捻出するという提案である。したがって家族は本人死亡によりホームレスとなる。実に悪魔的なアイデアだと感心してしまう。

この他にも、マニフェストには「高齢者の冬の暖房費補助のカット」など高齢者に負担増を強いる政策案が盛り込まれていた。

これが国民の怒りに一気に火をつけた。

「保守党は子供の貧困に取り組む姿勢を失った」との声もでた。NGO調査では、イギリスでは4人に1人の子供が貧困状態にあるとされる。子どもや高齢者の生活悪化は、それだけが切り離されてあるのではない。OECDによれば、英国の実質賃金の落ち込みは先進諸国の中で最悪になっている(ギリシャを除けば)

要するに、映画「私はダニエル・ブレイク」の世界が全土に蔓延しているのだ。

つまり、メタンガスで充満した倉庫にマッチを投げ込んだようなものだ。
無風かと思われた情勢は一転した。メイ政権の支持率は急落した。メイは急きょ「認知症税」案を取り下げた。
5.コービンの反撃

労働党はどうだったか。

2015年5月、労働党は歴史的大敗を喫した。出直しのため9月に党首選が行われた。

ただの位置議員だったジェレミー・コービンが名乗りを上げた。コービンは「時代遅れの社会主義者」と呼ばれ、泡沫候補と見られていた。

党首選に立候補するための議員35名以上の推薦も集められなかった。しかし同情する人もいて、ギリギリに立候補が可能になった。

ところがフタを開けるとコービンの圧勝だった。上位2名の得票率は、

1位: コービン  59.5%

2位: バーナム 19%

コービンの率いる労働党は、国営の医療制度、NHSの拡充を訴えた。全ての小学生に給食を無償提供すると訴えた。教育予算の大幅な増額を盛り込んだ。

マニフェストで正面からの勝負を挑んだ。

それが、国民の希望と奇跡的な結びつきを実現した。とくに大学授業料再無料化の政策が、若者たちから絶大な支持を集め始めて来た。

労働党不人気の象徴と見られていたコービンがにわかに輝きを帯びてきた。サンダースは三日間の全国講演旅行で、コービンを支持するよう訴えた。

サンダースが、青年たちのカリスマとなったように、コービンも青年たちの希望の星となった。


6.コービンの選挙スタイル

コービンの選挙運動はメイとは対照的だった。

イギリスで保育士として働くブレイディみかこさんのレポートによると、

…屋外での数千人規模の集会も数多く組まれた。リラックスした雰囲気がそこでは支配した。熱狂的な支持者から「コービン、コービン」の大合唱を浴び「ロックスターが受けるような歓迎」を受けた。

…息子の学校の前でPTAが労働党のチラシを配っていた。息子のクラスメートの母親が、「労働党よ。お願いね」とチラシを渡してくれた。国立病院に行くと、外の舗道で人々が労働党のチラシを配っていた。「私たちの病院を守るために労働党に投票しましょう」入院したときに良くしてくれた看護師がチラシを配っていた。今年で英国に住んで21年目になるが、こんな選挙前の光景は見たこともない。

…誰かがバッシングされている姿を見て気晴らししながら自分も我慢するような、いびつな緊縮マインドの政治にこそ人々は飽き飽きしていた。それではいつまでたっても我慢大会は終わらないからだ。
7.イスラム過激派テロの選挙利用は失敗した

選挙中にあたかもリベラル政治に対する恐怖を植え付けるように、多くのテロが起きた。ロンドンでは3月と6月、2回のテロが発生した。マンチェスターでは人気歌手アリアナ・グランデさんのコンサート会場で爆弾テロが起き、22人が死亡した。

メイ首相は「イギリスは過激思想に寛容すぎた」として、対テロ戦略の見直しやインターネットの規制強化など治安強化を全面に押し立てた。しかし相次ぐテロを防げなかった責任、警察官の待遇悪化を厳しく追求されるなど、逆に窮地に追い込まれる結果となった。
8.互角勝負に持ち込んだコービン

投票日を1週間後に控えた6月はじめには形勢はほぼ互角となった。

6月6日の世論調査では労働党が4ポイント差に迫った。調査によっては労働党のほうが上回っているものも出てきた。24歳以下の世代では73%が労働党を支持、逆に65歳以上の高齢者では保守党支持が64%となった。

大手メディアの多くは保守党支持に回った。しかしデイリー・ミラー紙と高級紙ガーディアン、インディペンデントは労働党支持を打ち出した。

9.投票の結果をどう読むか

保守党が議席数を330から318に減らした。過半数(326)に8議席およばず、選挙前情勢を考えれば完敗といって良い。最大野党の労働党は261議席に躍進した。

EU離脱を主導したイギリス独立党は0議席に終わり、ナットル党首は辞任を表明。ツイッターとフェイスブックのアカウントを削除した

イギリスは小選挙区制のため、議席数だけでなく得票率も見ないと評価することは出来ない。保守党の得票率は42%、労働党は40%で、その差はわずかに2%である。選挙期間があと1週間長ければ労働党が逆転していた可能性が高い。

メディアの予想は大きく外れた。選挙結果は世論調査にかなり接近したものとなった。つまりメディアは青年の投票率を低く見すぎていたことになる。また地方選結果との乖離は青年層の政治関心の差を示す。

つまり、イギリスの青年たちは既存の労働党とは異なる魅力をコービンに感じただけでなく、コービンが何か変えてくれると感じ、具体的な行動に出たのである。ここがこの度の選挙の最大の特徴だ。
10.これからの政治の動きを予測する

かくして議会はハング・パーラメント(宙ぶらりんの議会)となった。

メイ首相は、「現段階で、この国は安定の時期を必要としている」と強調した。そして引き続き政権運営を担う意向を示した。ただし北アイルランドの保守政党、民主統一党(DUP)の連携協議が前提である。それが不調に終われば再選挙の可能性も否定できない。

ジェレミー・コービンは、「国民はもはや緊縮に背を向けた。そして未来への希望に投票した」と述べ、メイ首相の辞任を求めた。

追記

注目されるのが、「赤旗」特派員のレポート。伝えるところでは、サンダース躍進を担ったアメリカの青年が、大挙してイギリスにわたり、戸別訪問や電話かけなどを指導したと言われる。

体験上、若者の組織と確実な票の積み上げには組織された若者の力が不可欠だと思う。そうでないと線香花火のようにぷつんと途切れてしまう。

ここに的を絞ったフォロー記事があるとありがたいのだが…

「赤旗」の書評欄からの重複引用で、いささか気が引けますが、下記の一節が極めて衝撃的でした。

85万人の難民と聞くと大変な数に思えるかもしれない。しかしそれは約5億人の欧州連合(EU)の人口の0.2%程度で、世界一豊かな大陸が現実に吸収できる数だ。

人口450万人の隣国レバノンは120万人のシリア難民を受け入れている。ヨーロッパの指導者たちは恥じ入るべきだろう。

「難民危機」というが、それはそもそも難民が引き起こしたものではない。

難民を生み出した政治危機は、ヨーロッパの対応が引き起こしたのだ。欧州の政治家の怠慢こそが大混乱を生み出しているのだ。

 パトリック・キングスレー『シリア難民』(ダイヤモンド社)より

最後の段落についてはいろいろ意見もお有りでしょうが、最初の3連についてはまことにお説ごもっともです。

「数の問題ではなく“こころ持ち”の問題なのだ」、これはメルケル首相も盛んに強調しています。

ただそうは言っても問題は解決しないので、このささくれだった自己主張が横行する世の中をなんとかしなければならないのでしょう。

「トランプ現象」が世界を跋扈しています。身の回りになんと「小トランプ」の多いことでしょう。こういう人たちの「こころの機微」に触れ、凍りついた「優しさ」バルブを開け放つのには、どうしたらいいのでしょう。

2016年に我々が背負わなければならない、最大の課題でしょう。

1888年 ラッサール派のグループとマルクス派のグループが再統合され、オーストリア社会民主労働党(Sozialdemokratische Arbeiterpartei Österreichs)が結成される。結党時の党員数は15,000人とされる。

1893年 社会民主党と協調する自由労働組合連合が結成される。90年代に急速に発展した産業革命と結びついて勢力を拡大。

1890年代 ウィーン大学の社会主義学生グループが学習サークルを形成。カール・レンナーが指導し、マックス・アドラー、ルドルフ・ヒルファーディング、遅れてバウアーらが参加。オーストリア・マルクス主義の拠点となる。

1897年 総選挙。普通選挙が一部導入された結果、議会に14議席を獲得。

1897年6月 社会民主党が改組。5つの民族別(ドイツ系・チェコ系・ポーランド=ウクライナ系・イタリア系・南スラヴ系)に組織された党の連合組織となる。

1907年6月 初の普通平等直接選挙が実施される。社会民主党は87議席を獲得する。

1907年 月刊『闘争』(Der Kampf )が発行を開始。オーストリア社会民主党の理論機関誌となる。バウアーら、次世代の「オーストロ=マルクス主義者」の理論家たちの活動拠点となる。

1911年 社会民主党のチェコ人組織が分離し、チェコ社会民主党として独立する。

1914年 第一次世界大戦が勃発。V・アドラー、レンナーらの主流派は、「祖国防衛戦争」として戦争遂行政策を支持する。これに対しF.アドラーらの左派は反戦活動を展開。

1914年11月 バウアー、戦争に加わりロシア軍に捕らえられる。シベリアで3年間の捕虜生活を送り、17年9月に捕虜交換によりウィーンに戻る。

1918年4月 バウアー、民族自決権を承認しレンナーら主流派と決別。社会民主党左派に移る。

1918年 ボルシェビズムを唱えるオーストリア共産党が創立。その後一貫して弱小勢力にとどまる。

1918年11月 オーストリア帝国が崩壊し、オーストリア共和国が発足。社会民主党とキリスト教社会党の連立政権が国政を担う。社会民主党右派のレンナーが首相に就任。バウアーが外相となる。

1919年3月 レンナーはグラーツ大学教授シュンペーターを財務大臣に招聘。当初は熱心な社会化論者であったが、生産性原理と効率性原理を強調するようになり政権と袂を分かつ。

バウアーはこう評している。「彼は、革命の初期にはボルシェヴィズムに媚を呈し、社会民主党の社会化政策が積極的かつ急進的でないとしてしばしば反対した。しかし、やがて彼は完全に方向転換した」

1919年 バウアー、『社会主義への道―社会化の実践』を発表。政治革命ではなく、産業の社会化=社会革命が未来への道だとする。

1920年 キリスト教社会党との対立が表面化。社会民主党は政権を離脱する。

1920年 バウアー、『ボリシェヴィズムか社会民主主義か』を発表。ボリシェヴィキを「専制的社会主義」と批判。全人民の経済的自治を基盤とする民主的な社会主義を訴える。

1921年 オーストリア社会民主党を中心にウィーン・インターナショナル(第二半インターナショナル)が設立、社会主義者の国際組織の再統一をめざす。

1923年 ウィーン・インターナショナル、第二インターに吸収され消滅。

1923年 党の防衛組織として「防衛同盟」が発足する。

1926年 社会民主党大会、リンツ綱領を採択。「赤いウィーン」での実践をもとに、議会主義戦略を定式化。

*民主制に依拠して則法的に政権を獲得する
*「破局的なカタストローフの結果としてではなく、目標を意識した労働者の収穫として」社会主義の実現を目指そう
ただしブルジョワジーが反革命を起こした場合、国内戦により国家権力を掌握することも確認される。

1927年7月 労働者デモと警官隊の衝突事件。この後の弾圧で社会民主党は後退を余儀なくされる。

1933年1月 ドイツでナチスが政権を握る。間もなく共産党に対する大弾圧が始まる。

1934年2月 社会民主党と防衛同盟が蜂起。「2月反乱」と呼ばれる。ドルフス政権と「護国団」による挑発が引き金となる。

2月 社会民主党に解散処分がくだされる。バウアーら指導部の一部は国外に亡命して活動を続けた。

1週間いない間に世界は動いていた。

ドイツ銀行の経営危機の報道は目を疑った。それとともにメディアがこの情報をほとんど扱わないことにも驚いた。

ドイツ銀行といえば、以前より素行不良の噂が後を絶たず、いつかは何かが起こるだろうとは思っていたが、まずは状況がよく飲み込めない。

BLOGOSに以下の記事があったので斜め読みしてみる。

My Big Apple NY2016年10月02日 

バロンズ:ドイツ銀行問題は、リーマン・ショックの再来か

という恐ろしい見出し

A) 事件の顛末

1.ドイツ銀行の株価と債券価格は前週に急落した。すでにヘッジファンドはデリバティブの担保として預けていた資産を引き揚げた。

2.急落の原因は、米司法省が住宅ローン担保証券をめぐり140億ドルの和解金支払いをもとめたことだ。

3.ドイツ政府はドイツ銀行を救済しないとの報道が飛び出し、事態は深刻化した。

4.9月30日、ドイツ銀行経営者はヘッジファンドの資金引き揚げを認めた。そのうえで、その懸念には正当性がないと非難した。

5.同じ日、米司法省が和解金を54億ドルへ引き下げ、両者が合意したと報道された。これに市場は反応し、株価と債券価格は値を戻した。

というのが顛末。

B) 事件の背景

しかしその背景を見ると、決してめでたしめでたしではない。

1.ドイツ銀行の時価総額は200億ドルたらずで、身売りが囁かれているツイッターをやや上回る程度だ。

2.ドイツ銀行は60兆ドルものデリバティブを抱える。金融危機が発生すればカウンターバーティーが契約を履行できない恐れがある。

3.簿価の大幅な欠損によって必要な増資が困難となり、バランスシートを支えられない。

4.ドイツ政府は財政健全化を訴えてきただけに、大手銀行の救済には及び腰となるだろう。

C) 事件の波及効果

記事はアメリカと世界金融への影響についても触れている。

1.ヘッジファンドの欧州銀行からの資金引き揚げは、LIBOR(ドル3ヵ月物ロンドン銀行間取引金利)を押し上げるだろう

2.LIBORは米国内のローンの基準金利となり、住宅ローン金利を規定している。住宅建設にブレーキをかけるには十分だ。

3.金融市場に緊張が走れば、FOMC(米連邦公開市場委員会)の利上げペースにもブレーキが掛かるだろう。

D) 事件の裏側

記事は、以上のような背景を踏まえ、司法省が和解金を割り引いたのではないかと見ている。

逆に、140億ドルというのはブラフだったとも考えられる。EUのグーグル提訴への対抗措置だったとの観測もある。

それがヘッジファンドの素早い動きを見て、急激に方針転換した可能性もある。その背景としてはアメリカ大統領選があり、トランプを利するような情勢激変を避けたいとの判断が働いたのかもしれない。

というのがこの記事の骨子。

中村平八 「ソ連を殺したのは誰か」

の全文がネットで読める。同志社商学 第52巻(2001年3月)というページでPDFになっている。

91年の事態は民衆とは関係のない宮廷革命であった

91年の時点で、ソ連の国家体制と民衆の間に決定的かつ敵対的な矛盾は存在しなかった。

バルト3国を覗く各共和国の民衆の大多数は、最後まで緩やかな連峰国家体制の維持と、改善された社会主義経済の存続を支持していた。

ソ連の民衆は次々に生まれる新党のいかなる党にも積極的関心を示すことはなかった。

ソ連を殺したのはロシア共和国のノメンクラトゥーラのなかの体制転換派(急進改革派)であった。

ソ連の「成功」を再確認する

ソ連は70年間失敗続きであったわけではない。それどころか、初期の40年間は大成功したとさえ言える。

だから、ソ連を批判する際には、まず、なぜソ連が成功したのかを分析し、それがなぜ成功因子を失い、右肩上がりの経済がどのようにして壁にぶつかり、ついに崩壊していったのかを明らかにしなければならない。

まずは経済的成功の場面から。

①スターリンの下でソ連は急速な工業化に成功した。第二次大戦後にはヨーロッパ第一位の工業国に到達した。

②第二次大戦では参戦国中最大の人的物的被害を被ったが、短期間で経済復興し、アメリカに次ぐ経済力(85年GNPでアメリカの55%)に達した。

③平均寿命、栄養摂取量、医療水準、識字率、普通中等教育終了率でソ連は西側先進諸国と肩を並べた。

④失業の恐怖、老後の心配、住宅・教育・医療費負担はなくなった。

これらを生み出したのが計画経済(著者によれば軍事共産主義供給制)であった。しかしそれは恐怖政治と非能率を伴っていた。(ただし非能率といえば、恐慌と失業ほど非能率なものはない)

ソ連型計画経済の特徴

①「不足の経済」の外延化

革命時の絶対貧困と、その後の国内戦のもとで、量産計画が全てであり、需要との照応は必要なかった。

党の独裁体制のもとで、立憲体制を乗り越え、人命まで含めた過度の収奪が可能となった。

②計画経済の負の成果

生産効率や生産物の質は二の次にされ、無駄の体系が作り上げられた。

行政機構の肥大と非能率化、官僚主義と腐敗。

主人公たるべき労働者・農民の疎外。労働資源化。



感想は、この記事の表題通り。不足だったから「不足の経済」が成功し、それが一定程度充足されることにより壁に突き当たる。問題はその次になにをするべきだったのかがはっきりしていないことだ。

60年代始めにリーベルマン構想が打ち出され、利益の出る構造への変革が打ち出されたが、結局うまく行かなかった。

私が思うには、自由な購買者の出現がないと、生産サイドの改革だけではうまく行かないのではないか。

生産の増大は消費の増大を伴う。消費の増大は欲望の増大をもたらす。増大した欲望が実需となり生産を刺激する。

この螺旋形構造が創りあげられないと経済のそれ以上の進展はない。

「不足の経済」のシステムは循環システムになっていないから、この問題に対応できない。利潤の導入は生産側のインセンティブにはなっても消費者には関係ない。

実はここに市場の最大の価値がある、と私は思う。市場の最大の役割、それは需要の創出にある。

なぜなら市場こそは貨幣経済の最大の実現の場だからだ。人々は職場においては奴隷として扱われる。しかし貨幣を持った一生活者として市場に登場したとき、彼は「王様」にだってなれるのである。

したがって市場は人々の「自由な真の需要」を表現する場になるのである。生産者は市場を見て生産を調整するだけでなく、需要を掘り起こし生産拡大に結びつける。

このような需要の拡大が、生産の増大をもたらし経済の発展へと結びつけていくのである。また労働者・農民の自由をもたらし、当局者の全面的圧政の軛からの解放へと繋がる。

市場の真の機能は競争にあるのではないし、需要と供給のバランスにあるのでもない。それは「欲望の見本市」であるところに最大の機能があるとみるべきだ。

この辺は稿を改めてもう少し検討してみたいと思う。


落ち穂拾いのついでに、レーニンとスターリンの対立点が二つ挙げられた箇所がある。ともに初耳の話なので紹介しておく。

1.国号問題

レーニンは国号問題で、国号に「社会主義」を入れたからといって、われわれの国が社会主義であるとは言えない、と主張しました。

これはロシア革命の性格規定の問題に関わっている。

旧ソ連史学では「社会主義革命」としていますが、レーニンは「社会主義をめざす」革命と言っております。

この論争は、国名に地名を入れないで「評議会社会主義」共和国とすることで妥協が成立したそうだ。

2.連邦か連合か

ソ連の英語表記はUSSR。UはUnion(Союз)である。アメリカはUnited States で諸国連合ということになる。アメリカの場合、州の独自性は日本の県よりは遥かに強いが、外国から見れば単一国家に近い。むしろ諸州連合と呼ぶほうがふさわしい。こういうのを連邦制(Federation)と呼ぶ。

一方、欧州連合(EU)は、今のところは未だ構成国の独自性がほぼそのまま生かされていて、諸国連合、ないし目的を限定した諸国同盟の形になっている。こういうのを連合制(Confederation )と呼ぶ。

というのを前提として、引用に移る。

1922年当時、複数のソヴェト共和国の結合形態をめぐって、ロシア共産党内には鋭い意見の対立がありました。それは諸ソヴェト国家の連合もしくは同盟を主張するレーニン派と、諸国家の連邦を主張するスターリン派の対立です。

スターリンは「軍事・外交・外国貿易その他の業務を統合する単一の連邦国家」を主張しました。

論争はスターリン派の勝利に終わった。病床のレーニンはほとんど発言の機会がなかった。

帝国主義国の強大な軍隊に包囲されている。だから、ウクライナなどの国が独自に外交権を持つならば、ソ連政権は存続できないというのが理屈でした。


むかしは、「ソ連というのは」ブルジョアの呼称で、正確には「ソ同盟」と呼ぶべきだと言われたことがあるような気がするが、それはレーニンの名残だったわけだ。


EUの最大のメリットは「平和」と「福祉」です。

しかし現実の姿としては、EUはそのようにかっこいいものではない。むしろ債務国にとっては「EU帝国主義」というか、諸悪の根源とすら映るところがある。

そのへんも書いておかないと不公平だろう。

EUの“PIGS”対応の諸問題についてはすでに明らかにしているので、そちらをご覧頂きたい。

総括すると以下のとおり

1.言うまでもなく現在の社会・経済システムの最大の問題は2つである。一つは国民の貧困化であり、その直接の原因は果てしなく続く緊縮財政政策である。もう一つは国民が貧困化する一方で所得格差が拡大し、超富裕層が世界の富を独り占めしていることである。

2.EUはこれに対してどういう態度をとってきたか、そのいずれをも推進する方向ではなかったか。企業側の利益を優先し、環境・安全基準や労働者の権利を二の次にしてきた。金融・財政危機にあたってはPIGS諸国の民衆に犠牲を強いることをためらわなかった。

3.そうやってドイツだけが一人勝ちするようなシステムは、他の国が掛け金を払えなくなったとき瓦解する。結局は共倒れに終わるのではないか。

4.そのようなEUであるが、それを民衆目線で変革するような展望を持ちつつ残留するのであれば、残留には意味がある。

5.イギリスでは(そしてEU加盟国の殆どで)、「EU」は緊縮財政と富裕層優遇政策を合理化するための外圧として利用され、錦の御旗となった。これではEUが民衆いじめの象徴と受け止められても仕方ない。

6.「脱ければこんなに恐ろしい未来が待っている」と散々脅されつ続けてきた民衆は、「残ればさらに恐ろしい未来が待っている」と考えるようになった。

こんなところではないか。

なお離脱の世論にはTTIP交渉の動向も関わっているようだが、今のところコメントするだけの資料を持ち合わせていない。


EU離脱論に関して、日経新聞(2016/2/20)に比較的まともな解説が載っていたので紹介する。

1.EU離脱論の2つの背景

ひとつは2004年にEUに新規加盟したポーランドなど東欧諸国から英国へ流入した移民の急増だ。

08年のリーマン危機後に雇用低迷が深刻になると、低賃金で働く移民が雇用を奪っているとの不満が蓄積した。昨年以降の難民危機もEU批判に拍車を掛けている。

もうひとつはユーロ危機への対応に英国が巻き込まれたことへの不満だ。EUは危機の再発防止のために、金融監督の一元化など統合強化の動きをみせてきた。

以下略


というわけで、2つの背景はまったく異なっている。ひとつ目は国民大衆の不満と不安だ。

ふたつ目は、シティの投機家たちにとっての不満だ。EUが金融資本への規制を強化するのは、ロンドンのシティー(ユーロマネー市場)を生命線とする投機家にとっては大変危険な兆候である。

1.国民大衆の不満と不安

ひとつ目の理由については大変よく理解できるし、同情もする。ただその選択肢は正しいとはいえない。なぜなら敵を間違っているからである。

資本の流通のみ自由化していけば、先進国には富が途上国には貧困が蓄積する。そうすれば途上国からの人の移動が起きるのは当たり前である。

先進国は富を輸出し途上国は貧困を輸出するのである。これが難民問題(とくに経済難民)問題の本質である。

ただ、この傾向があながち悪いとばかりは言い切れないので、長い目で見ればそうやって世界の富は平均化し、世界の人々があまねく豊かになっていけるのだ。

問題は2つある。

一つはそのテンポだ。資本の移動は今日のハイテク社会ではほとんど瞬時に行われる。しかし人の移動には文化や習慣、社会の柔軟性の問題もあるから一朝一夕には行かない。場合によっては複数世代をまたいで初めて可能になる。

そこにはコンセンサスを基礎とした非商業的な息の長い計画が必要となる。

もう一つは今のグローバリゼーションが貧富の差の拡大を伴って進行していることである。それは投機資本や金融資本の横暴がまかり通っているためである。

労働問題や雇用問題は、すべて大衆の貧困問題に関係している。それは生産力が低下したためでなく、生産の果実をごく一部の富裕層が吸い取っているためである。

彼らから、奪われた金を取り戻さなければならない。EUから離脱するとかポーランド人労働者を追い出すことで済む話ではないのである。

2.ユーロマネー市場の不満

この記事で学んだこと、それはイギリスの支配層(の一部)が離脱の動きの陰にいることだ。

彼らサッチャリストがどのくらい本気で離脱を考えたかは知らないが、EU当局の動き、とくに規制強化を狙う動きには強い不快感を抱いている、このことは間違いないようだ。

この記事は2月20日のものだ。キャメロン首相が首脳会議で離脱不安を煽って見事成果をかっさらった時の記事だ。今や彼らは慌てふためき、声を潜めているだろうが、4ヶ月前までは離脱を囃し立てて、火に油を注いでいた可能性がある。

離脱の動きの背景にある、規制強化への嫌悪感。この問題はもう少しえぐりだしてもらいたいものだと思う。この点について、その後の日経の記事はどうなっているのだろうか。八十島記者に伺ってみたい。

下記もご覧ください

この文章は、目下の感想的意見であり、ほとんど根拠はありません。

はっきり言って、メディアでは分離派の要求をまともに報道しません。イギリスの支配層をふくめ、世界中がイギリスの離脱派を馬鹿にしています。

確かに算盤勘定では離脱して得になるようなことはないでしょう。

しかし

これだけ国を二分するような激しい議論を数カ月にわたって続けてきて、今もなお国民の半数が分離を要求し続けている理由は、そんなかんたんなことことではないと思います。

とすれば、議論はもう少し長期のことを見据えてのことだろうと思います。

このままEU残留を続けてもいいことはない。損得勘定で、国のあり方を考えるのはやめよう。

これが離脱派の提起している問題なのだろうと思います。ことはEUに限らず、何事につけそろばんだけで政策を決めてきた歴代政権への不信です。そして損得勘定だけでやってきたはずなのに、国民の生活は貧しく苦しくなっているのです。なぜなら「メリット」のほとんどを富裕層が享受しているからです。

だから残留のメリットも明確にできない連中が離脱のデメリットを語っても、「それはあんた方のデメリットでしょう」ということになります。そして残留派がそれに対する答えを打ち出せないから、議論が果てしなく続いているのだろうと思います。


現代資本主義の抱える問題がそこには集約されているのでしょう。一般的には経済・社会のグローバル化は必然です。しかし、そのことと貧富の差の拡大、大金持ちだけがいい目を見るような世界とは別の話です。

だから離脱派の究極の結論は、そんなグローバル化など糞食らえだということでしょう。

残留派はグローバル化は必然だといいますが、だったら貧民が飢えて死ぬのも必然なのでしょうか。

その質問が、さまざまな変奏曲の形で、まっとうな方向にも歪んだ方向にも噴出してきている、この流れを押さえていかなければならないと思います。

私の結論は、

グローバル化が必然だとしても、それを急ぐ必然性はない。国民が豊かになるグローバル化が出てきてから考えてもいいのではないか。

ということです。そしておそらくはそのスピードがいま議論の分かれ目になっているのだと思います。

いまの金融資本はそのスピードをさらに上げるか、少なくともそのスピードを維持するかを必然的な条件としています。

そのスピードが落ちた時、速度を失った自転車が立っていられなくなるのと同じように、彼らは深刻な矛盾に直面するでしょう。

それはいずれ遅かれ早かれやってきます。世界の人々が収奪に耐えかねて、逆さにしても鼻血も出なくなったとき、国家は破綻します。国家が破綻したとき、国家の寄生虫たる金融資本は、リーマンが一夜で消えたようにあっという間に消滅します。

イギリスは、おそらくEUを離脱してもいいのだろう。「青信号、渡らなくても怖くない」のだろう。

と思います。離脱しても、それなりの手も打つだろうし、たちまち奈落の底に沈むというわけでもないと思います。離脱して困るのは、案外ロンドン金融市場(シティー)の金の亡者たちだけかもしれません。

それぞれの国民がいったんグローバル化のスピードをシフトダウンして、国民国家たる国をもっと大事にすること自体は決して間違ったことではないと思います。

ただ、離脱派の主張は必ずしも理念的なものではなく、やはり損得勘定でもあります。離脱を支持するサン紙は

EUは無駄遣いの金食い虫だ。この間の危機対応でも無能さを暴露したではないか、と批判。有害無益な政策の押しつけを繰り返すEUから出れば、「より豊かで安全で自由になり、運命を自分で決められるようになる、

と主張しています。言うことは当たっていないではありません。


ただ、EUというのは決して経済オンリーの共同体ではなく、千年に及んだ欧州戦争からの脱却と平和の構築を目指す共同体でもあります。しかしイギリス政府は(そして国民も)一貫してそのような関わり方はしてきませんでした。だからこんな有様になってしまったのです。

EUの最大のメリットは「平和」と「福祉」です。

残念ながら、今は大企業と金融資本のための共同体になってしまっていますが、この本来の理想とどう向き合うかというのもだいじな論点であろうかと思います。


それなりにしても、日本のネットの世界、掘り下げないなぁ。


2012年

5月 フランス大統領選の決選投票。「真の敵は金融界だとし、60の約束」を掲げたフランソワ・オランド(57)が、民衆運動連合(UMP)のサルコジを破り初当選。

オランドの政策は1.緊縮よりも経済成長、2.金融界への規制強化を柱とする。具体的には
①銀行の活動を投機から分離、②仏銀行の租税回避地での営業禁止、③ストックオプションの原則禁止、④銀行のボーナスの上限、⑤銀行税の15%増、⑤全ての金融取引への課税、⑥富裕層に45%の追加税率、⑦前政権による富裕税の軽減見直し、⑧資産収入に対する所得税と同等の課税
一方で民生充実のために
①半官半民の投資銀行の設立、②家賃の一部凍結、③60歳からの年金給付、④教育部門公務員職の創設、⑤公務員削減計画に見直し、などを打ち出した。
要するに「大きな政府」による国家の再分配機能の強化である。

5月 オランド当選を機に、ソシエテ・ジェネラル、クレディ・アグリコール、BNPパリバなど仏大手銀行の株価が急落。NY市場も200ドルの下落。

5月 ドイツのメルケル首相、オランドが求める「新財政協定」の再交渉を拒否。一方で欧州債務危機の解決に向け協力を呼びかける。

7月 フランス企業の競争力が急激に後退。政府は航空宇宙・防衛大手EADSのギャロワに対応策の策定を依頼。

ギャロワは個人消費や輸出の伸び悩み、固定資産投資の減少が競争力低下を招いているとし、「大きな政府」が残存する中での財政悪化の危険を指摘。

7月 会計検査院のミゴー議長、「財政赤字のGDPの3パーセント以下(EU基準)への削減のために、330億ユーロをひねり出す必要がある」と語る。

オランドはこれを受け、「今後、努力の半分を経費削減に投入する」と述べる。医療費、職業訓練費、地方自治体助成金などが削減対象となる。

11月 オランド政権、ギャロワ報告を受け企業減税策を発表。政策を事実上180度転換させる。

具体的には社会保障の雇用主負担分200億ユーロ(約2兆0500億円)の削減。このための財源として付加価値税(日本における消費税)と社会保障税の増税でカバーする。

2013年

3月 財界紙「レゼコー」、「オランド大統領は社会福祉の再検討、地方自治体への補助金削減、公共部門での生産性向上、労使間対話の根本的改善を選択した。これは「左派による自由主義政策》に向けての勇気ある選択だ」と褒め称える。

解雇規制法はもともとはフランス人労働者を移民から守るために設けられたもので、必ずしも労働者的とはいえない。

12月 13年度の成長率は0.4%と低迷し、失業率も10.2%に達し、若者の失業率は20%を超える。政府に通貨(ユーロ)発行権がないため金融出動策が打てず。

2014年

1月 政府、企業に対し「責任協定」の導入を提案。①企業が雇用や投資を拡大すること、②それを条件に、社会保険料の企業負担分を300 億ユーロ軽減する(これはGDP の1.5%分に相当)、③さらに法人税率を段階的に28%まで引き下げるというもの。

7月10日 モントブール経済相、マクロ経済政策の転換を提案。60億ユーロ(8千億円)規模の内需拡大計画を発表する。

歳出削減による余剰を赤字削減だけでなく、家計と企業向けの減税に充てるとする。また「(ギルド的)専門職の自由化」も提起。この発言は大統領の承認を得ないまま行われた。

8月24日 モントブール経済相、緊縮財政路線の撤回を主張。

モントブール発言: ドイツがリーマン・ショック後に押し付けた財政赤字削減策はユーロ圏経済を台無しにした。緊縮政策は財政赤字を縮小していないことを認めざるをえない。迅速に方針転換しなければ有権者はポピュリストや過激主義の政党に流れる。

8月26日 ヴァルス内閣が総辞職。オランド大統領はモントブールら3人の閣僚を更迭し、内閣を改造。ロスチャイルド銀行のマクロンを経済相に当てる。

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        モントブール経済相

8月27日 バルス首相、経団連総会に出席。「企業を愛している」と発言。引き続き赤字削減に取り組み、400億ユーロの法人税減税と規制緩和の前進を表明する。総会は拍手で応える。

9月 バルス首相がベルリンを訪問。均衡予算を求めるメルケルに対し「フランスに向けられた不信は理解している。改革をやりきる」と約束。オランド支持率は13%まで低下する。

2015年

2月 オランド政権が経済政策を発表。「マクロン法」と称される。年間5回だった「日曜開店」を12回に増やすなど。

6月 社会党大会。カンバデリス第一書記はモントブールの批判に対し、「社会党が消滅したらフランスは人間性を、フランス人は希望を失う」と反論。

その殆どはまだ萌芽的なものだが、政権を獲得するまでに至ったいくつかの試みもある。

その代表がフランスのオランド政権である。しかしこの政権の評価は芳しくない。あまりにも厳しい情勢だったから仕方ないといいわけもできようが、酷なようだが、厳しいからオランド政権が誕生したのだ。それは引かれ者の小唄でしか無い。

はたしてオランド政権は改革の試みに挫折したのか、それとも国民を裏切ったのか、そもそも1国での改革の試みは不可能なのか。

その辺を知りたいと思い、文献を探したが、なかなか見つからない。

とりあえず下記の文献を探したので、これから着手することにする。

仏オランド大統領の政策 国際戦略コラム 2012年5月

仏オランド政権が政策を180度転換。企業優遇と福祉削減にとうとう舵を切った!」 ニュースの教科書 2012/11/08

社会党政権の1年を振り返る フランス流に停滞する社会保障政策」ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2013年4月号

フランス経済の低迷とオランド政権の迷走極東ブログ2014.09.21

G20とフランスの政策転換三橋貴明の「経済記事にはもうだまされない! 2014/09/30

「緊縮政策に苦しむフランスの現況」(EJ第3978号)2015年02月20日

「不振が続くフランス経済」 伊藤忠経済研究所 2014/09/30

オランドは社会党か」 ニュース・ダイジェスト 18 juin 2015

各国経済の強さと弱さ PART19(欧州編)」金融そもそも講座2015年8月12日

マヌエラ・カルミナに関するAFPの報道はあまりにひどい。読み返してみたが、読むに耐えない。

他の情報も加えつつ整理する。

まず、どうやってマドリード市長に当選したかの経緯がさっぱりわからない。

選挙の経緯はこうだ。

マドリードの市長は間接選挙であり、議員選挙で選出される。

それで、その議会選挙だが、すでに5月に終わっている。

その選挙の結果だが、国政与党の国民党(AFP記事ではPopular Party)が第1党となった。

2位につけたのが、ポデモスの支持を受けた革新派グループ「アオラ・マドリ」、3位が第一野党の社会労働党だった。そこで2,3位連合の協議が始まり、6月にマヌエラ・カルメナ(71歳)を市長とすることで合意した。

カルメナはエリートの出身で、マドリード大学法学部を卒業。その後、フランコ独裁政権のもとで、共産党員弁護士として労働運動、人権運動の支援を続けてきた。民主化以降は、判事となり最高裁判事まで務めた。

カルメナ

目玉公約をいくつか挙げておくと、

1.家を差し押さえられた人及び立ち退きさせられた人のための代替住宅を確保する。ほかに水道・電気代の支援、保健サービスへのアクセスの保証など。

2.公共サービスの民営化の停止、公有財産の売却停止。公的債務の公開監査を実施。

3.国民党の策定した都市開発計画の停止。長期失業者及び若者の雇用のための緊急計画。

4.市長報酬を現在の半額以下の550万円に。

ただしその出発点は厳しい。長く続いた国民党の市政は6千億円の借金とデタラメ都市計画を残した。

なお、マドリードのライバル都市バルセロナでも、独立左派の活動家アダ・コラウ(女性)が、ポデモスの支持を得て市長に就任している。こちらは41歳のパキパキのミリタントで、住宅強制退去に反対する直接行動で数十回警察に拘束されているという強者。

第3の都市バレンシアでも、24年君臨した市長を追い出し、革新市長が誕生した。国民党は、この他セビージャ、サラゴサ、トレド、コルドバ、カディスで政権を失った。


7月13日に発表されたユーロ圏首脳会議は、ツィプラス政権の屈服という形で幕を閉じた。
「屈服したとはいえ、なんかの成果はあったのだろう」と、うすうす思っていたが、赤旗の記事を見るとどうもそのような気配はなく、一方的な敗北のようだ。(それなりに裏はあるのだろうが)
赤旗は次のような仏トリビューン紙の評価を転記している。
ユーロはたんなる通貨ではない。…ユーロは加盟国のすべての希望を考慮に入れる政治的プロジェクトではなく、峡谷が弱小国を支配する道具だ。
そのことを欧州の人々は知ることになった。
EU提案の受け入れに反対して財務相を辞任した、バルファキス氏の作った表が切れ味鋭い。ちょっと長いが転載しとく。
バルファキス1
バルファキス2

Manuela Carmina, leftist ex-judge now Madrid mayor

AFP By Anna Cuenca June 13, 2015

という記事から紹介。

正直「これが記事?」と疑うほど、まとまりのない記載が、前後の脈絡なく続く。本当はもう一度整理しなければならないのだが、とりあえずそのまま掲載する。


カルミナは共産主義者で青春時代に人権活動家だった。そしてその後裁判官となった。そのカルミナがマドリードの市長になった。そして24年にわたり続いた首都の保守党による支配を終わらせた。

この71歳の女性は、2011年の金融危機で貶められた貧しい人々を擁護すると約束した。そして、この国を席巻した「怒りの運動」(Indignados)の呼びかけに応え、腐敗と経費削減と追い立てに向かう政府を攻撃した。

無名の候補だったカルミナは、左翼的な綱領「こんにちは、マドリード」(Ahora Madrid)を提示し、主要野党の社会党と同盟を結んだ。それは与党の国民党が地方選で惨敗を喫した2週間後の事だった。

「我々は、マドリード市民の奉仕者だ。我々は市民の訴えを聞いて市政を運営したい」

カルミナは市議会にこう訴えた。そして議会の過半数が彼女への支持を公にした。

彼女はスペインにおける貧困に焦点を当てる。

そこでは多くの生命が危険にさらされている。最悪の危機は過ぎたのに。

カルメナは、言った。「私はジュリア(63才の女性)のような人々のために戦いたい」

カルメナはジュリアとプエルタ・デル・ソルの広場で出会った。ジュリアは1ヶ月300ユーロ(4万円)で生活していた。

市長の座を争ったのはエスペランサ・アギレ(63)だった。

選挙戦が白熱しても、金髪のカルメナは微笑を忘れず、冷静さを決して失わなかった。

彼女はある女性を非難した。その女性は2003年から2012年までのマドリード市長であった。そして市政の腐敗について見て見ぬふりを続けた。

その時さえもカルメナは冷静だった。

選挙中の討論会で、カルメナはこう発言した。

「エスペランサさん、私にはわからない。あなたはひどい危害を与え続けてきた。それなのにまだ市政を司ろうとする。それはなぜなのか」

スペインの首都の選挙は5月24日に行われ、アギレ派は21議席を獲得した。「インディグナドス抗議運動」をふくむカルメナ綱領派は20議席だった。しかし社会党がカルメナ支持に回ったことで、逆転が起きた。

カルメナは議会の信任を受けて正式に市長に選ばれた。議場に急に喝采が響き始めた。

 

前裁判官カルメナは独裁者フランシスコ・フランコの下で法的なスキルを習得した。彼女の司法技術は労働者の権利を守るためのものあった。それは初めから地位を築きあげるためのものではなかった。

しかし、「私の友人は私に話した。我々は、経験をつんだ多くの知恵を持つ人が必要だ。より良い世界のために戦うことが必要だ。がんばれと」

「任意拘留に関する国連専門調査委員会」のメンバーを務めた後、カルメナは、1981年に裁判官になった。その頃スペインはまだ強い「女嫌い」(misogynistic)の時代だったが、彼女は徐々にランクを昇って、最高裁判所判事にまでなった。

カルメナは、腐敗を根絶すると約束した。公共輸送機関を充実させると約束した。貧しい家族のための助成金を増加すると約束した。そして、市長の給料を45,000ユーロ(600万円)に半減すると約束した。

彼女の活動手段は自転車と公共輸送機関である。彼女はインディグナードス運動の呼びかけに応えようとしている。その運動は4年前、新しい政治的なモデルを求めてスペインの広場を占領した。

インディグナードス運動はこう叫んでいる。「政治家たちは我々の期待を裏切った。社会はもっともっと直接の民主主義をもとめる」。カルメナは言った。「それは新しいテクノロジーによって可能になるかもしれない」

カルメナは1944年2月9日、マドリードの実業家の家に生まれた。カルメナは、子供の頃から「より良い世界のために戦うこと」を誓った。

彼女はマドリードでの法律を学びながら、「フランコとの戦い」に加わり、1960年代に共産党に加入した。

彼女は、卒業後、労働法を専門とする法律事務所の弁護士になった。

1977年、フランコが死んで2年後に、事務所は極右の攻撃を受けた。この事件で同僚の何人かが殺された。

抗議政党ポデモスはカルメナの綱領「アオラ・マドリード」の選挙戦を支援したが、彼女は、極左翼のグループを批評することをしりごみしなかった

たとえば、ベネズエラ左翼政権が反対派の意見を抑圧し、もの言えぬ体制を作っていることである。

カルメナは自立している。そしてライバルを納得させると約束する。「変化」に対する有権者の渇望こそがマドリードに必要なのだと。

彼女は言う。「変化は、素晴らしいものになるだろう」と、

 

 

ギリシア国民投票でツィプラス政権が圧勝した。(Alexis Tsipras=Τσίπρας だからチプラスとは書きにくい)

マスコミは狼狽している。「一体この圧倒的大差をどう評価したらいいのだろう?」 と。

答えははっきりしている。見方を根本から変えなさいということだ。

サラ金業者の驥尾に付して「借金返せ」の大合唱に加わるのではなく、多重債務者を保護する立場に移りなさいということだ。生活保護の受給者に「お前が悪い」と糾弾するのではなく、とりあえず保護することを優先すべきだ。

いろいろあったとしても、とりあえず、緊急に、それが必要だ。

これまでのマスコミの評価には三つの問題がある。

ひとつはギリシアの国民目線の欠如だ。ギリシアの一般国民にしてみれば、この借金は道楽息子の作り上げた借金で、国民に直接責任はない。息子を捕まえて吐き出させればよいのだ。大体、道楽息子にカネを貸し込んだ方も悪い。これがふつうの常識だろう。

とにかく、7年間、国民は借金を払い続けてきた。いまこれ以上いじめたら死んでしまうくらい国民は困窮し、事態は切迫している。だから国民の大多数はツィプラスを支持したのだ。

マスコミはツィプラスを悪意に満ちた無責任な施政者と断じてはばからない。しかし、それは、ギリシア国民を「愚かで生きるに値しない人々」だと断じているに等しい。

そのことにいい加減に気づけよ、馬鹿者よ。

もうひとつは、「どうすれば事態を解決できるか」という主体者の立場だ。

この7年間に行われた「救済策」はことごとく失敗した。このままではギリシア人は野垂れ死にだ。「どうすればこれを救うことができるのか」、これが緊急の課題だ。この課題から目を背けることこそ、最悪の無責任だ。

「公務員天国」とか「脱税天国」とか、唾を吐きかけるのは良い。しかし彼らはすでに死ぬほどの「罰」を受けた。

いまさらに、死にかけているものを鞭打つことに何の意味があるのか。そしてその先に何があるのか。

そのことにいい加減に気づけよ、馬鹿者よ。

そしてもうひとつは、ギリシア問題をギリシア単独の問題ではなく、ユーロ危機の表現として考えることだ。裏返して言えば、ギリシアを救うことはユーロを救うことなのだ。スペイン、ポルトガル、イタリアひいてはフランスを救うことなのだ。ギリシアを救えなければ、いずれドイツ以外のすべての国は救えないことになるだろう。

ギリシアを切り捨てることは、ユーロがドイツのための通貨、無責任な通貨でしかないということを告白することだ。


最近の経過を通じて、私のブログへのアクセスも高まるかと思ったが、全然及びではない。

世間は冷たく無関心だ。

もう一度、リンクを張っておく。

欧州議会選挙をどうみるか 2014-05-30 10:47:21

欧州危機 金融危機からソブリン危機へ 2014-05-29 23:48:49

ギリシャ人いじめは間違っている 2014-05-29 22:33:42

ギリシャの若者の失業問題 2014-04-25 15:10:14

破壊的緊縮政策 2013-06-12 12:25:23

ユーロ圏失業率が12%を突破 2013-06-03 12:16:53

ギリシャ報道の明らかな誤り 2012-06-25 16:13:30

ギリシャ危機と青年 4 2012-06-19 13:41:44

ギリシャ危機と青年 3 2012-06-19 13:41:02

ギリシャ危機と青年 2 2012-06-19 13:40:06

ギリシャ危機と青年 1 2012-06-19 13:39:06

ギリシャ新民主党の「勝利」の意味 2012-06-18 23:27:09

ツィプラスとドイツ左翼党の共同声明 2012-06-04 17:22:10

フィナンシャル・タイムズがツィプラスを評価 2012-05-31 14:00:27

欧州でもっとも危険な男 ツィプラス語録 2012-05-31 12:58:47

ギリシャの離脱はありえない 2012-05-21 10:44:25

ギリシャ危機年表 2012-05-16 16:41:53

ギリシャの債務削減 2012-05-10 10:53:20

EU危機は破滅的危機ではない 2012-05-08 11:06:28

ギリシャ、何が“緊縮”されるのか 2012-02-22 16:22:01

ギリシャ危機が銀行に波及 2011-09-27 11:00:00

「ギリシャ支援」と言わないで欲しい 2011-07-26 14:07:52


反ナチ「抵抗」考  ――グラス・ルーツ的視点

という星乃治彦さんの文章があって、そこに下記のように記載されていた。


東西ドイツの研究に共通していた傾向は、その党派性が強い故に、グラス・ルーツとして「反ファシズム」をとらえるという発想が弱いことであった。

戦後西ドイツは戦後体制の「反ファシズム」の源流を、白バラ運動や四四年七月二〇日ヒトラー暗殺事件に求め、そこに、西ドイツという国のアイデンティティが確認していた。

(東西ドイツという)党派性が強いドイツの歴史叙述の中で、(左右の)全体主義(に反対という)理論の影響の下、西ドイツでは、保守派や社会民主党系の抵抗運動は高く評価されるのに対して、ファシズムと同列に論じられることが多かったコミュニズムの抵抗運動は冷遇された。

一方、旧東ドイツの「反ファシズム」言説は、戦後東ドイツの支配政党となったコミュニスト政党―ドイツ社会主義統一党の、それも指導者たちの支配の正当性と、指導性の根拠とされた。

グラス・ルーツの抵抗行為は日陰の存在であったし、民衆を主体と見なさない姿勢は、東ドイツで民衆レヴェルでの「過去の克服」をも表面的なものにした。

うまく「四つ目表」の形でまとめられている。

そのとおりで、何も付け加えることはない。


と言いつつ付け加えるのだが、基本は東ドイツの総括だろうと思う。

西ドイツの対象とするは、何もかもがすべて起きてしまってからの、終わってしまってからの運動だ。

ニーメラーの言葉に尽きるように、共産党、社会民主党、労働組合が非合法化されたとき、もう抵抗運動の母体は失われていたのである。

むしろ終戦間際の敗勢を背景とした厭戦運動に括られるべきものと言ってもいい。

基本的には的はずれだ。

第二に成功した抵抗闘争においては、フランス、イタリア、ユーゴ、ギリシャなど、どこでも共産党が主体をなしていた。それがドイツに限ってなぜ排除されなければならないのか、それは実態と乖離しているのではないか、という疑問だ。

第三に、上の疑問とも関連するのだが、抵抗運動に関わって犠牲となった人の名前を党派別に並べて見てはどうか、という疑問というか提起だ。多分圧倒的に共産党系の人々が多いのではないかと想像する。

ということで、東ドイツ側の総括を基本的に踏襲しつつ、

1.指導者の支配の正当性に収斂させる議論を打破すること

2.グラス・ルーツの抵抗行為にもっと光を当てること

3.ファシズムの災厄を世界にもたらした国の国民であるという事実を、もっと深刻に受け止めること

という3つの提起を受けて、さらに実証的研究を積み上げることが必要なのだろう。


ナチス関係の記事は下記の通り

ドイツ国内における抵抗運動の評価は、旧東独において「ナチ時代において首尾一貫して断固たる抵抗運動を敢行したのは共産主義者のみだった」というドグマへの批判とも結びついている。

ということになっているが、日本では逆に非共産主義者の抵抗ばかりが拡散して、共産主義者の抵抗運動については殆ど触れられないという、逆状況にある。

自分でネットをあたって年表を作成してみたが、残念ながら、共産党・社民党の非合法化のあと、戦争末期に至るまでほとんど空白となっている。(日本語文献の範囲内で)

前項の研究は、その間隙を埋めるものとしての意義がある。

 

1933年

1月30日 ヒトラーが首相に指名され、ナチ政権が成立。共産党は反社民党、対ナチ協調の立場から事態を静観。テールマンは「ナチスに政権を取らせよ。ナチスには政権担当能力などなく、そうすれば明日には共産党が政権を取るだろう」と語る。

2月1日 ヒトラー、議会を解散し総選挙に打って出る。

2月3日 ヒトラー、プロイセンにおけるあらゆる共産主義活動を禁止。議会が解散中なのを利用して、大統領緊急命令を連発。

2月17日 ゲーリング無任所相、左翼勢力に対して「必要とあれば容赦なく武力を使用すること」を警察に命じる。内相ポストをナチスが握っていたため可能になる。

2月24日 警察が共産党本部を立ち入り捜査。メディアが共産主義革命の恐怖を伝えるプロパガンダを大々的に展開。

2月27日 ドイツ国会議事堂放火事件。政府は共産党の犯行であるとして、ただちに「民族と国家防衛のための緊急令」を公布。共産党の解散と一斉摘発に乗り出す。この日のうちに4千人の共産党活動家が逮捕される。

2月 ベルリン大学講師で神学者のディートリヒ・ボンヘッファー、ラジオ放送でナチ党の「指導者原理」を批判。放送は強制的に中断される。ボンヘッファーは、後にヒトラー暗殺計画に連座し絞首刑となる。

3月3日 総選挙実施。共産党は非合法化され、すべての宣伝手段を奪われたにもかかわらず81議席を獲得。

3月 共産党のテールマン議長が逮捕される。11年にわたる拘束の後、44年8月に処刑。3月末までにプロイセンだけで1万人以上が逮捕される。

4月 ゲーリング、航空省内に「調査局」を設置。電話盗聴を専門とする機関。後に「赤い楽団」の根城となる。

5月 ナチが労働組合の建物を接収。

6月 ナチ、ドイツ社会民主党の活動を禁止。指導部(Sopade)はプラハで運動を開始。(38年にパリへ、40年にロンドンへ移転)

7月 職業官吏再建法が制定される。ユダヤ人の公職からの追放を目的とする。教会にもいわゆる「アーリア条項」が適用される。この後、教会内部で親ナチ派の「ドイツ的キリスト者」が優勢となる。

9月21日 ボンヘッファーとマルティン・ニーメラー、牧師緊急同盟を結成。後の告白教会に繋がる。ニーメラーはヒトラーの支持者だったが、教会からのユダヤ人追放政策に反対し、反ナチに転じた。


1934年

1月30日 レーム蜂起が発生。これを体制内の危機と見た共産党は抵抗運動を強化する。


4月22日 牧師緊急同盟が主体となり告白教会を結成。ロンドン赴任中のボンヘンッファーも参加する。カール・バルト起草による「バルメン宣言」が発表される。

1935年

10月 ドイツ共産党がブリュッセルで党会議を開催。①ファシズムの過小評価(左翼の過大評価をふくむ)、②社会民主党への主要打撃論の2つの誤りを自己批判。“統一戦線ないし人民戦線政府”が提起される。

 

1936年

8月 ボンヘッファー、ナチスに対する反対により、ベルリン大学から解任される。

1937年

7月 ニーメラーが逮捕される。終戦までの8年間をダッハウなどの強制収容所で暮らす。下記の詩で有名。

ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった
私は共産主義者ではなかったから
社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった
私は社会民主主義ではなかったから
彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった
私は労働組合員ではなかったから
そして、彼らが私を攻撃したとき
私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった


10月 ブレーメン近郊デルメンホルストの共産党組織が摘発され、首謀者のヴィルヘルム・シュレールスが逮捕される。その後終戦までに49名が殺害された。

1938年

10月 ルートヴィヒ・ベック参謀本部総長が退役。反ヒトラー抵抗運動の中心人物となる。ヒトラー暗殺計画では、ベックが新政府の国家元首に就任する予定。

黒いオーケストラ: ドイツ国防軍内部の反ナチス派将校グループ。ルートヴィヒ・ベックやハンス・オスターを中心とする。その政治姿勢は決して民主主義的でも平和主義的でもなかった(ウィキペディア)。

クライザウ・グループ: 将校グループと連携する保守派グループ。モルトケ伯爵が所有するクラウザーの別荘を拠点とした。

1939年

ドイツ共産党がベルンで党会議を開催。ヒトラー後の国家を、資本主義制度を前提とする「新しい民主的共和国」と規定し,そのプログラムが作成される。

1940年

 

1941年

 

1942年

6月 ミュンヘンの「白いばら」グループ、最初の反戦ビラを配布。主要メンバーはハンス・ショルとその妹ゾフィー・ショル、クリストフ・プロープスト、ヴィリー・グラーフ、アレクサンダー・シュモレルの3人の学生、およびクルト・フーバー教授である。

12月 ハルナック夫妻など知識人グループ、ソ連に情報を流したとして逮捕され、軍法会議で無期判決。さらにヒトラーの指示で死刑判決。50数名が処刑される。共産党スパイ説は否定されている。

42年 ハインツ・カペレが処刑される。カペレは13年生まれ。青年共産主義組織に入り、反ナチの宣伝活動を続けた。

 

1943年

2月 「白いばら」グループが摘発され、6人が死刑判決を受ける。(多くの情報あり、ここでは省略)

 

1944年

7月20日、黒いオーケストラによるヒトラー暗殺計画は失敗に終わる。ベックは逮捕されピストル自殺。

7月 事件に連座した歴史学者アドルフ=ライヒヴァイン(社民党員)も処刑される。

10月 親衛隊全国指導者ハインリッヒ・ヒムラー、「青少年の徒党撲滅」を命令。エーデルヴァイス海賊団などの反ナチス青年グループを摘発。

海賊団の一部は地下組織に合流し、脱走兵や逃げ出した戦争捕虜、他国から連行されて強制労働に従事していた人々、強制収容所から逃げ出した囚人などの支援を行う。

1945年

4月9日 ボンヘッファー、ハンス・フォン・ドホナーニ、ハンス・オスター、カナリス提督らが処刑される。

 

 

ベルリンの片岡特派員が続けざまに、重要な歴史事実の掘り起こしを行っている。
今回はナチス下ドイツでのレジスタンスについて。
これはドイツのレジスタンス研究家ギュンター・ウェーナーさんへのインタビューである。
ウェーナーさんはゲシュタポの資料に基づいて「ナチ独裁に抵抗した人たちの思い」を引き出している。
2002年には共同執筆で「ベルリンのレジスタンス人名辞典」を刊行している。ベルリンの話は、その後の東西冷戦と、\の分厚い蓄積の下層に沈み込んでおり、これまであまり知ることができなかった。
初めて知る事実がたくさんある。
1.レジスタンスの全体像
当時のドイツの人口は8千万人くらいですが、その内2%がレジスタンスに加わっていたと言われます。大都市ではもっと多く、ベルリンでは名前が分かっているだけで約2万人が参加しました。多い時には1ヶ月で3千人が逮捕されました。その内7千人が処刑されました。
すごい数だ。参加者数もすごいし、それが決死の活動だったことも分かる。
2.ハインツ・カペレの活動
ハインツ・カペレは1913年生まれ、ナチが政権をとった時に20歳ということになる。彼は青年のレジスタンス組織を作り活動した。
ハインツ・カペレのグループは、ヒトラーの演説がいかにウソに満ちているか、戦争が近づく危険性を訴えたビラを1万2千枚作り、工場や電車で配布しました。それは手書きではなく印刷したビラでした。印刷工場に働く仲間の助けがあったのです。
3.「社会労働党」グループ
この党は、33年にヒトラーが権力を掌握したあと、偽の解散宣言をし、その後地下で30ヶ所以上の拠点を持ち、36年まで活動しました。その後は多くの活動家がスペイン内戦に参加しました。
この小さな政党グループは、これまで殆ど知られていなかったが、最近になってウェーナーさんがゲシュタポの資料の中から偶然見つけたものだそうだ。
4.「赤いオーケストラ」グループ
これはより直接的にソ連と接触していた半軍事的組織、スパイ組織のようだ。
「赤いオーケストラ」とナチスから名付けられたグループは、ドイツ軍の攻撃計画や輸送計画をソ連に伝えていた。
70あまりの企業に抵抗組織を持ち、2台の戦車まで準備していました。メンバーにはラジオ局で働く女性や空軍大佐もいました。
5.市民的抵抗
もちろんキリスト教徒や普通の市民のレジスタンスもたくさんあった。
軍需工場で働いていた人の中には、銃弾工場でわざとさんを多めに入れて使いものにならないようにしたり、42年に出るはずだった新しい機関銃の開発を遅らせて、44年まで引き伸ばしたりした人たちがいました。
安倍晋三が機密保護法などで国民をがんじがらめにし、戦争立法で国民を戦争へとかきたて、憲法改正でファシズムの支配する「美しい日本」の再現を推し進めようとしているいま、このような危機は明らかに迫りつつある。
ということでは、これらの活動をたんなる昔話として語ることができない時代に、我々は突入しつつあるのかもしれない。

本日の赤旗に重い記事が載っていた。
ドイツの強制収容所での強制売春問題だ。
中心事実はこうだ。
男性収容者(彼らは収容所内の軍需工場の労働者でもあった)のために、収容所内に売春宿が造られた。
女性専用の収容所から女性が連れて来られた。女性は飢えと疫病のなかで死んでいくか、売春宿で働くかの選択を迫られた。
200人以上が働かされた。
平日は午前8時から午後10時まで、土日は終日働かされた。
男性一人に対して15分間、最大で1日15~16人を相手にした。
「強制収容所の売春宿」の著者ロベルト・ゾンマーさんとのインタビュー。ベルリン駐在の片岡特派員による記事だ。

感想を書くのもはばかられるほどおぞましい話だが、強制収容所の恐ろしいほどの非人間性という枠組みに括られるものであり、慰安婦問題とは別途に語られるべきものだろう。
「売春」という事象に思考が絡み取られてしまうと、事態の本質を見失う恐れがある。一方的戦争(侵略)という不条理な全体の中での、不条理な、非人間的な強制の一つとしての位置づけを忘れないことがもとめられる。

ポーランドについてのかんたんなお勉強

まずは地理から

面積は31万平方キロで、日本より少し狭い。ただほとんどが平野なので実際にははるかに広い。人口は4千万人弱だから日本に比べるとはるかにゆったりと暮らしている。

首都ワルシャワの人口は170万で札幌と同じ。南部の旧都クラクフが75万、旧ドイツ領ブレスラウ(現在はヴロツワフ)が63万、西部の町ポズナン(ドイツ名ポーゼン)が55万というところ。

GDPは約5千億ドル。一人あたり2万3千ドルとなっている。

略年表

10世紀 ミェシュコ1世が周辺部族を統合。ポーランド公国として認知される。現在のポーランド領とほぼ一致。首都はポズナニだった。ポーランドは英語圏の呼称で、自らはPolska と名乗る。

11世紀 ポーランド、王国となる。首都はクラクフに移る。

13世紀 ドイツ騎士団が異教徒征討を命じられバルト海沿岸に進出。ドイツ人の移住が進む。

13世紀 蒙古軍がポーランド南部に進出。ポーランド平原は略奪により無人の野と化す。ポーランドはいったん衰退。

14世紀 ポーランド=リトアニア連合王国が成立。ドイツ騎士団に対抗し、大学を設立しユダヤ人を積極的に受け入れるなど、発展を実現。

15世紀 連合王国がドイツ騎士団を壊滅に追い込む。版図は白ロシア、ウクライナ、ドナウ流域におよぶ。

16世紀 連合王国、オスマントルコとの闘いに敗北。ドナウ流域をトルコに割譲。

16世紀 ポーランド=リトアニア、「連合共和国」に移行。穀物輸出を背景に欧州最強最大の国家となる。立法権が議会(大地主)に与えられたため共和国と呼ぶ。

16世紀 クラクフ大学のコペルニクスが地動説を提唱。文化が隆盛を迎えポーランド・ルネッサンスと呼ばれる。

17世紀 スエーデンとの連合王国となり、首都がクラクフからワルシャワに移転。

17世紀 オスマントルコによる第二次ウィーン包囲。ポーランド軍がオスマントルコ軍を撃破する。

18世紀 国土が三度にわたり分割されたすえ、消滅(1795年)。

1807年 ナポレオンの支援を受けワルシャワ公国が創設されるが,ナポレオンの敗北により消滅。

1830年 ロシア帝国からの独立を求める蜂起。ショパンは、報せを聞いて革命のエチュードを書く。

1918年 第一次大戦後、国土が復活。名ピアニストのパデレフスキーが首相に就任(3年のみの半名誉職)。

1920年 ポーランド軍が成立直後のソ連に侵攻。逆にワルシャワ近くまで押し戻されるが、その後挽回し、停戦に持ち込む。

1939年 ドイツとソ連により侵略を受け、国家が消滅。

ソ連の占領下では、100万人以上がシベリアや中央アジアに強制移住。カティンの森では将兵2万人が虐殺される。

ドイツの占領下では、ユダヤ人300万のうち9割が殺害される。対独パルチザンの闘いでも数百万が死亡。

1940年 ロンドンでパデレフスキー(80歳)を首班とする国家評議会。

1944年 ロンドン亡命政府の呼びかけでワルシャワ蜂起。ソ連軍がこれを黙殺したため20万人が犠牲となる。

1945年 ポーランド人民共和国として「主権」を回復。その後ロンドンの評議会は排除される。

1980年 全国ストの中で自主管理労組「連帯」が結成される。

1981年 ヤルゼルスキ首相が戒厳令を布告。

1989年 民主化によりポーランド共和国となる。最初の選挙で統一労働者党は壊滅。

2009年 世界同時不況で、ヨーロッパでただ一国のみ経済拡大を続ける。

以上はウィキペディアより

勉強があっさりしたものだから、感想もあっさりとしたもの
1.ポーランドは妥協で成り立っている国
妥協と言っても「1+1/2」ではない。「ならぬ堪忍するが堪忍」ということになるが、その場合長期的視野が必ず必要だ。将来的にはこの妥協は無駄にはならないという見通しと、この妥協を無駄にはしないというしっかりした構えが必要になる。まぁ、それが活かされる場合もあるし、結局妥協に終わってしまう場合も少なからずあるとは思うが、シングル・イシューにならず総合的に見ていくことも必要だ。
それはたんなる弱者の知恵ではなく、発展期(例えば15~16世紀)においても妥協と寛容の精神が貫かれているところは見習わなければならないだろう。
2.中心国~周辺国関係の中の位置
ロンドンとパリがヨーロッパの中心であることは今も昔も変わりない。ただ経済的にはドイツに重心が移りつつあるのだが。
最初はドイツも周辺国であった。北ドイツはとくにそうであった。ポーランドはさらにその辺縁に位置づけられていた。そしてその奥に野蛮人の住む広大な土地があった。
ポーランド人はその野蛮人を征服するのではなく友好関係を結び、リトアニアと対等な同盟を結ぶことによって大きくなっていった。これはかなり商人的な発想である。そしてリトアニアはさらに東方に向けて旺盛な征服活動を続けた。
一方西方に対しては辺縁という位置をとり続けた。中心部の人口増に対応してヨーロッパの穀倉というスタンスをとり続けた。
その後モスクワに国家ができ、西方に進出してくると、「前門の虎、後門の狼」という関係になる。
このとき自分が中心から見てどれほど周辺的か、ロシアから見てどれほど中心的かの間合いを測る必要が出てくる。異なる相手との異なる形態での妥協が必要になる。
3.ポーランド王国没落の要因
これはとても難しいが、おそらく中世の没落と近代世界の出現に符丁を合わせているのであろう。プロイセンやハプスブルグの興隆と裏腹の関係にあるようだ。
基本的には農業国で、農産物の輸出で経済が成り立っていたと思われるから、欧州の農業をめぐる環境の激変があったのだろう。じゃがいもの新大陸からの導入あたりが原因なのか。
「民主主義の行き過ぎ」と書いてあるものもあるが、ナンセンスだ。
4.ポーランドがリーマン・ショックを免れた理由
これも政権の功績に帰す傾きがある(ウィキペディア)が、ナンセンスだ。
おそらくドイツの積極的投資がリセッションを上回ってもたらされたからだと思う。現に同じ時期、旧東ドイツは深刻な景気後退を経験している。ドイツの投資が旧東ドイツの頭上を通り越してポーランドへと向かったからだ。

以下の記事はルモンド・ディプロマティーク(英語版)の2月5日付の記事。フランス人特有の癖があって、ちょいとうざったい。

参考までにウィキペディアから支持率の推移図を転載しておく。



「5月15日」からポデモスへ

2011年5月15日、国際報道機関がlos indignadosとしてに紹介した何十万人ものデモ参加者は、プエルタ・デル・ソール広場(マドリード)にあつまり、銀行の完全な支配する経済と、民主主義のに対してノーを突きつけた。

彼らは組織や政党の旗、しるしとスピーチを拒否した。そして、スローガンを持った。

「連合した人々は政党を必要としない」

広場は、もはや占拠されていない。

変化に対する欲求は残るが、意外にも新しい政党「ポデモス」(我々には可能だ)のまわりでできた。

ヨーロッパ中の大部分の政党が不評であるのに、ポデモスは先例のない成功を持っている。

「それは、信じるのが難しい」と、ポデモス幹部のパブロ・エチェニクが最近話した。

直接民主主義から政党結成へ

「我々の政党は、2014年1月につくられた。5ヵ月のあと、我々はEU選挙で8%の投票を得た。今日、全ての投票は我々が国での最大の政治的な勢力であることをしめしている。

ポデモスのリーダーは、世論調査と選挙が同じものでないということを知っている。

1月の選挙は、社会主義労働者党と人民党より前にポデモスを置いた。

総選挙(それは、2015年12月20日までに持たれなければならない)でのポデモス勝利の可能性は依然として確かなことだ。

ポデモスの創設は 「5月15日」運動が政治の社会運動に基づく概念に閉じ込もっていたことに端を発する。と、社会学者ホルヘ・ラーゴ(ポデモス幹部)はいう。

「デモ参加者の強さの建設が必然的に政治的な結果をもたらすだろうという考えは、間違っていることがわかった。

入居者追い立てと闘う会と、医療セクターの切り捨てに対する抵抗ネットワークは確立された。しかし運動は蒸気が尽きて、ばらばらになっていった。

投票行動に対する失望もあった。

80%の人々は運動に同意すると言った。しかし、彼らは同じ古い方法で投票し続けた。そして保守党は2011年11月の総選挙で地すべりに勝った。

それは、ポデモス創設者に質問を投げかけた。

15-Mに同情した人は何を代弁して欲しかったのか。それは今でもそうなのか? そして、国家の装置を使うとしたら、それは社会変化のために必要な条件なのか?

「5月」の精神

プエルタ・デルソールの運動は直接民主主義に基づいていた。しかしポデモスは「5月の精神」の相続人でありたい。とくに大衆への依拠、透明度と集団的意思決定についてだ。

同時に、そのメンバーは全ての古い垂直政治的な構造を廃止するというところに、罠の一部を認めた。

昨年10月政党の最初の会議で、エチェニクは脱集権化と党の平らな構造、柔軟性を増すべきだとする動議を提出した。

パブロ・イグレシアス(ポデモス指導者)は、「運動の目的を達成することは、組織の内部議論にあまり熱中しないことを意味する」と答え、動議を拒否した。

彼は、地すべり的に勝った。

「M-15」の最も熱心な支持者にとって、これは自治の裏切りのように聞こえた

新党は、もはやシステムの自発的な手先でしかないだろう。

「ポデモスは、社会エネルギーを伝達する方法として、また大規模な実験のプロセスとして起こった」とバルセロナ活動家Nuria Alabaoは言う。

「イグレシアスの側近グループは、ポデモスが15Mの運動を包含するのではなく、闘いを進める新しい方法を提供したのだ」

腐敗は構造的である

ポデモスが敵対するのは「カースト」と言う国のエリートである。

スペインでの横領のレベルは、フランスをさえ高潔に見えさせる。

ほぼ2,000の横領事件が公式の調査のもとにある。少なくとも500人の高級公務員が横領に関係していると推定され、年間の被害総額は400億ユーロ(5兆円)に達する。

主な政党は与党の右翼の国民党(PP)とPSOE(社会主義労働党)である。彼らは「違法な献金を受けた個人の法的責任の制限」について同意を結んでいる。そして政党が法的限度を超えて利益を得ることを可能にしている

長い間不可触とされた王室さえ例外ではない。新しい王の妹(Infanta Cristina De Borbon)のスキャンダルがそれを示している。

35の最大の会社のうちの33が子会社を通してタックスヘイブンで税を避ける。これに対し失業者の半分は何の支援も与えられない。

ラホイ国民党政権になった2009年以降、50万人の子供たちは貧困に陥れられた。いっぽうスペインの超金持ちの富は67%増加した。

昨年12月、気難しい民衆の激怒を避けるために、「市民安全保障」法が制定された。この法律は2011年の動員を避けるためにあらゆるものを非合法化した。公共の場での集会が禁止され、リーフレットの配布すら禁止された。

ポデモスは、スペインの不動産泡がはじけたとき、それが1978の憲法から始まっているコンセンサスの基礎を破壊したと考えている。

経済危機が政治的な危機を引き起こす。どんな深い社会変化でも先人が必要だ。2011年5月の思い出とともに、いまや立憲過程の機が熟した。

それは国家のメカニズムによって国家を変えることだ。

ポデモスと既成左翼

しかし、スペインの状況は、ポデモスの最近の上昇を説明しない。

統一左翼(IU)は長く類似した政治的なプログラムを進めてきた。しかしこの国政治秩序を変えるには至っていない。

ポデモスのリーダーは、左翼は長く難解な分析、曖昧な論拠と不透明な言語の集団だったと考える。

人々はイデオロギー、文化または価値によって誰かに投票するわけではない。彼に賛成するから投票するのだ。候補が普通に、好い人で、ユーモアのセンスを持つならば。

経済民主主義

ポデモスの最初の作業は、左翼の従来の語法をできるだけ平明に翻訳することだった。最も幅広い支援を得るにはそれが必要と考えたからだ。

それが民主主義、主権と社会正義だ。「我々は、資本主義について話さない」と、ラーゴは言う。

我々は、経済民主主義の考えを守る。そして、左右の議論には乗らない。なぜなら分割は、いま我々のような民主主義を守る人と、エリート、銀行、市場の味方との間にあるからだ。それはトップとボトムとの間、一握りのエリートと大多数の間にあるからだ。

マルクス主義の正統性の保護者は、この未分化の社会評価を批判する。

昨年8月、ひとりの活動家が「プロレタリアート」の用語を決して使わない理由について尋ねた。

イグレシアスは、答えた。

「15Mの運動が開始したとき、マルクスとレーニンを読んだ非常に政治化された学生たちも参加した。彼らは最初は一般学生と肩を組んで行進した。

しかしすぐその後、彼らは変装を解いて、『かれらは、何も理解しない!』と叫び始めた。

ポデモスの指導者の一部は極左運動の出身だ。しかし、2014年のEU議会選挙では、右翼の支持者からも10%の得票を得た。

スペイン中で1000以上の「ポデモス集団」が創設された。それを通じてポデモスは支持を獲得するようになった。

都市の大学で教育を受けた若いメンバーは、その後ホワイトカラーやブルーカラーの労働者、地方住民の中に参加した。

このような階級同盟は、もっと良いものが出現すればばらばらになる。それが歴史的傾向だ。ポデモスはこのような運命を避ける事ができるのだろうか。

それはわからない。しかしいま勝利の可能性がある時にそこから逃げることはできない。それは辺縁化した左翼に代わり、将来に向けてのシェルターにはなるだろう。

スペインのエリートは憂慮する

12月、経団連のフアン・ロセルは、ポデモスに対抗してPPとOSOEがドイツ型大連合を組むよう提案した。

ポデモスのプログラムに過激な内容はまったくないのだが。それでもスペインのエリートたちは憂慮している。

憲法制定議会が成立すれば、エネルギー、税制改革、負債リストラ、定年引き上げ、35時間労働、君主制に関する国民投票、スペインの自決とブリュッセルに奪われた権限の回復などが議論の俎上に載せられる。

反共攻撃はすでに厳しさを増している。「エル・ムンド」の記者はイグレシアスをルーマニアのかつての独裁者チャウシェスクに例えている。

「彼は最貧困層の血を最後の一滴まで垂らし続けるだろう」

国民党の議員はもっと直截である。

「誰かが弾丸を彼の後頭部に打ち込まなければならない」

欧州不況が長引き、深刻化しつつある。
問題はますますはっきりしている。
「ユーロ諸国民はドイツ首相を選べない」ということだ。
経済はユーロによってますます単一化しつつあるというのに、政治は旧態依然のままだ。メルケルは基本的にはドイツ国民の首相であり、いくらユーロ圏を重視しようとしても、ドイツ国民の意向に従わざるをえない。
ドイツはユーロ圏諸国から儲けをあげて、ドイツ国民だけで分配することになる。
3年前のソブリン危機の時は、周辺国の財政規律、景気の後退局面、リーマンショックの残務整理などの側面もあった。それらに対しては相応する対策が立てられた。
しかしその後3年間、景気はまったく浮上しない。
ということは、問題が一過性のものではなく、高度に構造的なものだということだ。
ドイツが根本的に思考を変えない限り、ユーロ圏は崩壊せざるをえないだろう。ドイツ以外の国にとって、ユーロ圏にとどまることの犠牲はあまりにも大きくなりすぎた。
ユーロ圏の崩壊は、いずれドイツの没落を招くだろう。そしてふたたびヨーロッパの混乱を招くだろう。
ドイツがやれることはただひとつ、ユーロ圏を守るという強い意思表示を行うこと、経済主権の根幹をEUに預けるということだ。
欧州債、投機資本への規制、ユーロ券発行の一元化など、部分的・段階的にやれることはたくさんある。これらの積み重ねが主権の移動をもたらすことになる。ただそこには、確固とした見通しと固い意志が必要だ。

ツィプラスの最近の演説がハフィントンポストで読める。

このブログはハフポストギリシャ版に掲載されたものを翻訳しました。

ということで大変ありがたい話だ。

要約して紹介する。小見出しは私がつけたもの。


急進左派連合はヨーロッパの理性の声だ

ヨーロッパは政策転換なくしてユーロ危機から抜け出すことはできない。

SYRIZA(急進左派連合)は鬼ではない。ヨーロッパにとっての大きな脅威でもない。理性の声である。

SYRIZAは2012年の時のように大きな脅威としては扱われない。変革への挑戦と受け止められている。

急進左派連合の再建計画

サマラス首相は失敗した「メモランダム」(ドイツなどとの合意に基づく超緊縮政策)を続ける以外の政策を打ち出していない。

SYRIZAは財政安定化のための政策「テッサロニキ・プログラム」を打ち出した。それは具体的で費用対効果のバランスが取れたものだ。

私たちの目的は2009年(ギリシャ財政危機発生の年)に戻ることではない、すべてを変えることだ。

それは経済の再出発、過去最悪の失業率を改善するための対策、国家経済を成長へと転換させるという計画だ。そのために国と公共機関・公共事業のあり方を大胆に改革する。

縁故主義、国民を敵に回す国家、脱税と税金回避、ブラックマネー、燃料や煙草の密輸。これらは何年もの間国を支配してきた勢力図の一面でしかない。この体系がギリシャを失望させてきた。

急進左派連合はユーロ圏を救う

SYRIZAは崩壊を望んでいるのではない。ユーロ圏を救おうというのだ。債務の問題はギリシャに限ったことではなく、ヨーロッパも同じだ。

我々は次のような返済条件を求めている。

残された資源を成長に向けて使えるようにする。そのために大部分の公債の額面価格は処理(割引)されるべきだ、返済(期限)の猶予があるべきだ、残りの借金を返済するためには成長が必要だ。そのための成長項目を導入すべきだ。

急進左派連合は欧州中銀に賛成する

今、ヨーロッパの将来について2つの正反対の戦略がある。一つは、ドイツのショイブレ財務相が言うように、これまで行われてきた法律や規則 を、それが上手く行くかどうかには関わらず、実行し続けること。

もう一つはユーロを守るために「何でもする」戦略だ。これはもともと、我々ではなく欧州中央銀行のリーダーが唱えたものだ。

私は様々な理由から、後者の戦略が勝ると考えている。


最後の見出しは少し勇み足かもしれません。ただドイツの孤立はますます明らかになっており、その裂け目を広げようというのがツィプラスの戦略であろうかと感じられます

急進左派連合とツィプラスについては、下記の記事もご参照ください。

欧州議会選挙をどうみるか 2014-05-30 10:47:21

欧州危機 金融危機からソブリン危機へ 2014-05-29 23:48:49

ギリシャ人いじめは間違っている 2014-05-29 22:33:42

ギリシャの若者の失業問題 2014-04-25 15:10:14

破壊的緊縮政策 2013-06-12 12:25:23

ユーロ圏失業率が12%を突破 2013-06-03 12:16:53

ギリシャ報道の明らかな誤り 2012-06-25 16:13:30

ギリシャ危機と青年 4 2012-06-19 13:41:44

ギリシャ危機と青年 3 2012-06-19 13:41:02

ギリシャ危機と青年 2 2012-06-19 13:40:06

ギリシャ危機と青年 1 2012-06-19 13:39:06

ギリシャ新民主党の「勝利」の意味 2012-06-18 23:27:09

ツィプラスとドイツ左翼党の共同声明 2012-06-04 17:22:10

フィナンシャル・タイムズがツィプラスを評価 2012-05-31 14:00:27

欧州でもっとも危険な男 ツィプラス語録 2012-05-31 12:58:47

ギリシャの離脱はありえない 2012-05-21 10:44:25

ギリシャ危機年表 2012-05-16 16:41:53

ギリシャの債務削減 2012-05-10 10:53:20

EU危機は破滅的危機ではない 2012-05-08 11:06:28

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「ギリシャ支援」と言わないで欲しい 2011-07-26 14:07:52

国際政治/ヨーロッパ (66本)

 

欧州議会選挙をどうみるか 2014-05-30 10:47:21

欧州危機 金融危機からソブリン危機へ 2014-05-29 23:48:49

ギリシャ人いじめは間違っている 2014-05-29 22:33:42

ギリシャの若者の失業問題 2014-04-25 15:10:14

鼻血が出た。恐ろしいことだ 2014-04-17 10:22:51

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破壊的緊縮政策 2013-06-12 12:25:23

ユーロ圏失業率が12%を突破 2013-06-03 12:16:53

スロベニアの危機 2013-04-09 14:52:15

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ギリシャ危機年表 2012-05-16 16:41:53

オランドショックがドイツに波及 2012-05-15 09:45:36

ギリシャの債務削減 2012-05-10 10:53:20

オランド勝利の意味 2012-05-08 11:20:54

EU危機は破滅的危機ではない 2012-05-08 11:06:28

ギリシャ、何が“緊縮”されるのか 2012-02-22 16:22:01

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社会主義 ○、資本主義 ☓ フランス世論調査 2012-01-14 13:12:42

イギリスの銀行改革 2011-12-26 16:50:24

ユーロ危機は3月が山場 2011-12-22 12:27:55

いよいよイタリアだ 2011-11-09 11:24:28

欧州中銀が共同債に抵抗 2011-11-07 15:48:25

国民投票などどうということはない 2011-11-02 15:18:31

特別目的事業体(SPV)はダメ 2011-11-01 16:06:25

メルケルは顔で得している 2011-10-26 10:39:15

ギリシャ危機が銀行に波及 2011-09-27 11:00:00

富裕層増税を掲げた野党が勝利(デンマーク) 2011-09-20 17:40:35

欧州財政危機、共同債が焦点に 2011-09-01 11:10:43

欧州市場で空売り規制が始まった 2011-08-19 12:29:18

スティグリッツ、EU債務の再構築を呼びかける 2011-08-18 23:37:41

ユーロ共同債とスティグリッツ 2011-08-18 17:46:30

さすがネオリベの本家 イギリス 2011-08-09 14:11:20

「ギリシャ支援」と言わないで欲しい 2011-07-26 14:07:52

金融取引税導入の動きが本格化 2011-06-28 13:34:48

こんな感じでぼちぼち行きましょうか。本日はお疲れ

欧州議会選挙では極右が伸びたことが大きく取り上げられているが、もう少し注意深い分析が必要だ。

極右は全体としてはバラバラで、一定の潮流ではない。基本はあくまで移民反対と自国エゴ優先だ。一つのムードにすぎないから、その先に何があるというものではない。

欧州議会の主流はあくまでも伝統的な保守勢力だ。これらの勢力が激減したことが、今回の選挙の最大の特徴だ。

保守派は欧州人民党と欧州自由民主同盟、欧州保守改革グループなどから形成されている。これらの勢力を合わせ407議席持っていたのが今回は77議席を失って330議席となった。議席定数は751(前回より15議席減)だから、これまで保守が過半数を握っていたのが、その座を失ったことになる。

その代わりに増えたのが無所属・新加盟で72議席を増やした。ここに極右がふくまれている。

社会民主主義勢力は191議席と微減したが、議席定数の減を考えればほぼ現状維持で、最大会派の欧州人民党と肩を並べることになった。

統一左翼は7議席増やして42となったが、まだまだ影響力は低い。ただギリシャ、イタリア、スペインでは躍進しており、PIIGS諸国の不満をすくい取ったといえる。


個人的な感想だが、欧州議会にそれ程の力があるとは思っていないし、それぞれの会派がそれほどの集中力を保持しているかも疑問である。

いわば各種のイデオロギーに対する人気投票と見ておいたほうが良いのかもしれない。ただ保守に対する不満がズルッと極右に流れてしまう風潮には、我が国の動向とも合わせ危険なものを感じる。

極右の最大の特徴は不寛容、とくに弱者に対する不寛容にある。弱者に対する「擬似的強者」となることによって、つかの間のカタルシスをえようというのが極右の心情的本質だ。この不寛容を招いた最大の犯人は新自由主義だ。
EUは、依然「希望の虹」というフィクションにとどまっている。そしていま、それを根底から破壊しようとしているのが新自由主義=大企業・富裕層エゴイズムだ。
だから、当面する極右との闘いの先に、我々は新自由主義を見据えておかなければならないのである。



  B) EU諸国の金融危機→債務危機

2007年

8.09 フランスBNPパリバ傘下のファンドが、サブプライムローンの焦げ付きで破綻。欧州でもサブプライムローン問題が注目され始める。

2008年

08年9月

9.15 リーマンブラザースが倒産。ダウは504 ドル安をつける。

9.16 FRB、保険大手AIGに850 億ドルの融資を決める。3週後には400億ドルの追加支援。

AIG救済の理由: 1.潰すには大きすぎる。取引金融機関が膨大で、破綻すれば世界的な金融恐慌に繋がる。2.とくにAIGの保証するCDSが価値を失えば、CDS市場そのものが崩壊する。

9.18 英国ロイズTSBが、HBOSを救済合併。その後、ドイツ不動産金融大手のHRE、ベルギーの金融大手フォルティス、デクシアが相次いで破綻。

9.18 民間ドル資金が市場から姿を消す。日米欧の6中央銀行が通貨スワップ協定による大量のドル供給を開始。白川日本銀行総裁、「ドルの短期流動性は枯渇した」と発言。

9.25 米貯蓄金融機関監督局(OTS)、ワシントン・ミューチュアルに業務停止を命じる。WMは米貯蓄貸付組合最大手で、総資産は3千億ドル。米史上最大の銀行破綻となる。

9月 米連銀、欧州中央銀行などが金融機関に支援開始。年末までに2兆5千億ドルが供給される。さらに主要な銀行の新規発行優先株式 1兆5千億ドルを買い取り。

9.29 米下院が緊急経済安定化法案を否決(4日後に可決)。ダウ平均株価は史上最大の777ドルの暴落を記録。金融危機はヨーロッパを中心に各国に連鎖的に拡大。

08年10月

10.03 ドイツ、HREに500億ユーロの公的資金投入。ベネルクス3国、フォルティスに対し公的資金300億ユーロを投入。

10.04 フランス政府が3000億ユーロの銀行救済基金創設を提唱。ドイツはこれを一蹴。

10.07  「€バブル」破綻。ロシアで株価ストップ安、アイスランドで通貨暴落。ハンガリーの金融危機。IMFが200億ユーロの支援を実施。

10.07 オペル、BMW、ダイムラーが生産の一時停止を発表。GM、フォードの格付けはジャンク級まで低下。

10.12 ユーロ圏首脳会議、緊急の金融救済策に合意。英国も加わり、包括的対応策を次々と実施。

10.17 ロイター集計による、世界中の公的資金注入状況。米国25兆円、英国9兆円、ドイツ11兆円、フランス6兆円、欧米で総額60兆円。

10.16 UBS経営危機に対し、スイス政府が60億スイスフラン(5220億円)投入。

08年11月

11.15 G20 金融サミット、①金融システムの安定に必要なあらゆる追加的措置をとると宣言。金融支援、財政確立、金融の透明化、格付会社への監督強化などを盛り込む。

12月 アイルランドの三大銀行が経営危機に陥る。政府は総額55億ユーロの公的資金を注入。さらに1千億ユーロに上る不良資産買取を実施。

年末時点で、世界中の金融機関が計上した評価損失額は約 7,500億ドル。国際通貨基金は、評価損は最終的に 1兆5千億ドルに達すると予測。

2009年

3.14 G20財相・中銀総裁会議。ゼロ金利、量的緩和など非伝統的手法を含むあらゆる金融政策をとると声明。

4月 IMF、 金融機関の被害総額を上方修正。累計で 4兆ドルを超えると推計。

6月 欧州委員会、金融機関への資本注入が3千億ユーロ、政府保証などを含め総額3兆7億ユーロに達したと発表。

EU加盟国の救済資金は最終的に4.6兆ユーロに達した。この結果政府の公的債務が対GDP比80%以上に達する。また通貨取引以外にもデリバティブなど危険な金融市場が数多く存在していることが明らかになる。

9月 リーマン・ショック後の経済危機の中、ピッツバーグ・サミットが開催される。「銀行システムの修復のために各国政府が負担を負った。これに対し金融セクターがどう貢献するか」を検討することで合意。

11月 イギリスでG20会議が開かれる。「強固で持続可能かつ均衡 ある成長のための枠組み」を導入することで合意。ブラウン首相は、「好調時は少数の金融機関が利益を享受し、破綻時の損失は国民が負担するというのは許容 できない」と述べ、国際金融機関の破綻に備えるために金融取引課税を提唱。

C)欧州債務危機

2009年

10月 ギリシャでパパンドレウ政権が発足。この時、前政府による財政赤字の隠蔽が発覚。財政赤字額は対GDP比3.7%とされていたが、実際には13.6%にのぼっていた。ギリシャの赤字隠し発覚を機にユーロ通貨が売られ、EU全体に経済的な影響が及ぶ。

12月 ギリシャの財政危機が表面化。欧州委員会、ギリシャに対する制裁手続を強化、さらに財政赤字の4%削減を目標とし、財政引き締めの強化をもとめる。

PIGS: 「豚ども」ときわめて侮蔑的に表現されたのがPポルトガル、Iアイルランド、Gギリシャ、Sスペインの4カ国であり、のちにイタリアも加えてPIIGS とも呼ばれるようになった。実際にはユーロ圏内の「弱者」として矛盾をシワよせされたにすぎないのだが。

2010年

4月 スタンダード&プアーズ、ギリシャ国債をBBB+からCCCへ3段階の大幅引き下げ。ムーディーズは4段階の引き下げ。

5月 、EUとIMF、ギリシャに対して総額1,100 億ユーロの金融支援を決定。さらに「欧州安定化メカニズム」の創設など包括的な対策を打ち出す。これにもとづき欧州中銀がギリシャ国債の直接買い取りを開始する。

11月 アイルランドが金融支援を要請。EUとIMFが総額850億ユーロのアイルランド支援を決定。

11月 イタリア国債の利回りが7%台を付ける。

2011年

3月 ギリシャの2010年12月失業率は過去最悪の14.8%へ。GDPは前期比-6.6%まで悪化。追加の財政再建策撤回を求めてギリシャ労働総同盟・ギリシャ公務員連合がゼネスト。275万人が参加する。

5月 ポルトガル総選挙で中道右派の野党が勝利し、IMF の融資条件履行を確認。

6月 ギリシャでいっそうの緊縮を強いる財政法案が可決。法案反対のゼネストがおこなわれる。

7月 スペイン、イタリアの国債の利回りが上昇する。イタリア議会は総額480億ユーロの緊縮財政法案を可決。

8月 S&P、米国債を「AAA」から「AA+」に1段階引き下げ。

10月 フランスとベルギー合弁の金融機関デクシア、ギリシャ向けに多額の債権を持つことから株価が急落。フランスとベルギー両政府の管理下に入る。

10月 ユーロ圏首脳会議、民間保有分を含め、ギリシャの債務を50%削減することで合意。

11月 ベルルスコーニ首相、予算関連法案成立にともない辞任。これに代わり、元欧州委員会委員のモンティを首班とする超然内閣が成立。緊縮財政法案を暫定的に施行。

11月 スペインの総選挙。保守派の国民党が過半数を獲得。

12月 ハンガリー国債が投資不適格に。

3月 EU首脳会議。ユーロ圏各国の退職年齢や年金制度の統合等、幅広い分野の協調を目指す「ユーロ・プラス協定」が採択される。

4月 ポルトガルが金融支援を要請。

9月 IMF、「世界経済は大きなダウンサイドリスクを伴う危険な局面に入った」と指摘。

10.09 フランス・ベルギーの両政府、デクシア(Dexia)を解体・再編成することで合意。デクシアはヨーロッパを代表する金融大手で、ギリシアの国債を大量に保有。不良債権の総額は800億ユーロに達していた。

2012年

1月 S&P、トリプルAを保持してきたフランスの格下げ。フランスの金融機関はギリシャ国債約757億ユーロを保有しているとされ、波及が懸念された。

3月 ギリシャGDP、4年連続のマイナスとなる。しかも下げ幅は0.1から6.8%に拡大。にもかかわらず財政、経常収支は改善せず。

4月 スペインの財政が一段と悪化。主要銀行16行の経営危機が表面化する。

5月 JPモルガン銀行が過去1カ月半で計20億ドルの損失を計上したと発表。「ロンドンのクジラ」と呼ばれる投機ファンドが、ギリシャのクレジット・デフォルト・スワップで失敗したことが原因とされる。

5月 スペインの大手銀行バンキアが経営破たん。政府は190億ユーロを投じて救済。国債利回りは7%を超える。

7.06 ユーロの政策金利が0.75%に切り下げ。このあと1ユーロ100円を割り込む。

9月 ドイツ憲法裁判所、欧州安定メカニズム(ESM)の批准を認める。この後ユーロ安は止まる。

日本がEUだとしたら、北海道はさしづめギリシャみたいなものだ。
ユーロ圏というのは、たてまえとしては単一経済圏だから、どこに住んでいようと経済的には「ユーロ人」なはずだ。
それが苦しくなったら、お前は日本人じゃなくて北海道人だと言われても困る。
もう20年位前になるが、北海道を代表する都銀の拓殖銀行が潰れた。カブトデコムとか色々乱脈経営もあったようだが、それはどこも同じ。バブル全盛期にはどこの銀行も似たようなことをやって、バブルが弾けると同時にひどい目にあった。
それは拓殖銀行の責任であって俺の責任ではない。現に俺のメーンバンクは拓銀じゃなくて札幌銀行だった。
ところが、もし、北海道拓殖銀行の破産の責任は北海道庁の責任であり、北海道庁の責任は北海道民一人ひとりが負うべきだと言われたらどうします?
「そんな馬鹿な話ないでしょ」といいます。
ギリシャいじめはそれと同じことです。
たしかに拓銀破綻は北海道庁にも責任ないとはいえません。横路知事の時代にバブルに踊って、苫小牧東部開発などという馬鹿なことをやって、何代かけても払いきれないような借金を残したのは事実です。
だからといって北海道民が死んでお詫びしなければならないわけではありません。北海道民は北海道民である前に日本国民であり、日本国憲法のもとで日本中の人と平等なはずだからです。
福島原発の地元の町だって、「お前ら原発に賛成したんだから、自己責任で苦しめ」という話にはなりません。「お前ら自民党に投票したんだから、安部首相の言うとおりに戦争に行って、人殺しをして、殺されれば良い」とも言えません。
だから、ギリシャの話はどこかが狂っているのです。

日本と双璧をなす、お馬鹿首相のベルルスコーニが、「ドイツ人によれば『カチンの森事件』(ソ連によるポーランド人捕虜の銃殺)はあっ たが、強制収容所はなかったということだ」と発言し、物議をかもしている。
首相といっても現在は犯罪人で、5月から労働奉仕が義務付けられているが、なにせ世界有数のお金持ちだから、政治的影響力は衰えていない。
それで、ミラノ で開いた政治集会で上記のごとく発言したことになっている。
もちろん日本のネトウヨのように本気で「収容所などなかった」と信じているわけではない。「ドイツ人にはそう信じている奴がいる」という強烈な当てこすりだ。
イタリア国民の一部には「ドイツから財政緊縮策を押し付けられた」との不満があり、元首相はそうした世論に便乗して、このような下品な攻撃をかけたわけだ。
ドイツ政府報道官は28日、「愚かすぎる発言で、政府は特にコメントしない」と説明したそうだ。

しかし日本では「愚かすぎる」人物が、愚かさを売りにして、過去を反省することを拒否し、堂々と首相をつとめている。なんとも嘆かわしくやりきれない。

フランスのレジスタンスに関する文献を探したが、重箱の隅をほじくるような文章ばかりで、「あんたの意見が聞きたいわけじゃない」と怒鳴りたくなるようなものばかりだ。

やっと見つけたのがこれ。おそらく何かの雑誌に掲載されたものだろうと思うが、山崎雅弘さんの文章「栄光のレジスタンス 祖国フランスを解放した不屈の地下組織」が、良くまとまっていて読みやすい。

これを柱にして、そのほかいくつかのファイルから、共産党系のFTPを中心に抜き出してみる。

1940年

5月10日、ドイツ軍が西部戦線で大規模な攻勢を開始。電撃作戦でマジノ線を突破。

6月14日、パリはドイツ軍に無血占領される。ソ連はフランス共産党に非抵抗を指示。各地で非共産党系のゲリラによる散発的な抵抗。

6月16日、徹底抗戦を主張したポール・レイノー内閣が総辞職。後継のペタン元帥がドイツに降伏。ドイツは北部を直轄下に置き、南部にヴィシー政府の設立を許す。

6月17日、ド・ゴール、イギリスにわたりフランス国民に抵抗を呼びかける。

7月10日、国民議会の選挙でペタンが圧倒的勝利。ドイツとのコラボラシオンを訴える。アメリカ、ソ連はヴィシー政権を承認。

10月3日、ヴィシー政権がユダヤ人迫害法を制定。

11月11日、ヴィシー政府、モントワール協定を受諾。ドイツへの物資支援を推進するもの。これに対しパリで学生5千人の抗議デモが展開される。

1941年

5月、ドイツ軍が反抗者を銃殺。これに抗議してド・カレ炭坑で10万人が参加するストライキ。

5月15日、地下のフランス共産党が、独立をめざす「国民戦線」の結成を呼びかける。

6月22日、ドイツがソ連への侵攻を開始。この後、共産党は「義勇兵パルチザン」(Francs Tireurs et Partisans francais: FTP)を組織。大衆的な武力闘争の展開を呼びかける。

FTPは山岳部ゲリラ(Maquis)とともに、ヴィシー政府の管轄地からドイツ軍の占領地域に潜入し破壊活動を開始する。

8月21日、パリの地下鉄駅でレジスタンスがドイツ兵を殺害。以後要人などへのテロが相次ぐ。

10月23日、ドイツ軍、FTPの破壊活動に対する報復として50人(うち共産党員44人)を銃殺。

12月15日、共産党幹部のガブリエル・ペリを含む100人が処刑される。国民の間に憤激が広がる。ペリは共産党中央委員で、「ユマニテ」紙の国際部長。セーヌ・エ・オワーズ県の議員でもあった。

1942年

4月、ヴィシー政権、親ナチのピエール・ラヴァルが首相に就任。ペタンは事実上の引退。これに伴いレジスタンスへの参加者が急速に増加。

9月、ラヴァル政権、南部フランス人をドイツでの強制労働に駆り出す。多くの農民が山に逃げマキに参加。

11月 米英軍が北アフリカに上陸。スターリングラードでの戦闘が激化。

11月、ドイツ軍はヴィシー政権の支配区を占領し、フランス全土を支配下に置く。

1942年末、レジスタンスへの参加者は1年前の1千人から7万人に増加。非共産党系のコンバ、リベラシオン、フラン・ティルールなども勢力を増す。

(ただしこれら3つは南部を基盤とした“闘わない抵抗組織”であった)

1943年

1月、ド・ゴール派のジャン・ムーラン、3つの南部抵抗組織の統合に成功。統一レジスタンス運動(MUR)を結成する。

1月 共産党、ドゴールの「戦うフランス」に正式参加する。

1月、フランス人のナチスト民兵団「ミリス・フランセーズ」が創設。終戦までに3万人のレジスタンス活動家を殺害したと言われる。

1月、ヴィシー政府、新たな強制労働義務(STO)を課す。

2月、スターリングラードの戦い、ドイツ軍の敗北に終わる。フランス占領軍は東部戦線への動員により弱体化。

6月 ムーランがゲシュタポに捕らえられ虐殺される。拷問にあたったのがクラウス・バルビー。

12月 9月からの3ヶ月で、709人のヴィシー政府治安関係者が殺害され、9千件の爆弾事件、600の電車脱線事件が起こる。

1944年

2月、ソ連の指示を受けた共産党・FTPが全国レジスタンス評議会に参加。フランス国内軍(FFI)に編成される。レジスタンス活動家は20万人に達する。

6月6日、ノルマンディー上陸作戦。これに前後して国内で鉄道の破壊工作が600件におよび、ドイツ軍の補給路は寸断される。

(これを描いたのがルネ・クレマンの「鉄路の闘い」で、マキのような山岳ゲリラではなく、組織された鉄道労働者の闘いであったことがわかる。CIAはこの映画にヒントを得て松川、三鷹の事件をデッチあげたのではないか、とひそかに思っている)

6月10日 オラドゥール村の虐殺。

8月 連合軍がプロヴァンスにも上陸。

8月19日、パリで共産党の一斉蜂起が始まる。共産党によるパリ解放を恐れたアイゼンハワー最高司令官は、ドゴールのパリ進攻を許可。

8月25日、ドイツ軍の降伏によりパリが明け渡される。ド・ゴールが凱旋パレードを行う。

9月2日、フランス共和国臨時政府が成立。第一次ドゴール政権がスタートする。

10月28日、レジスタンスに対する武装解除が布告される。ソ連の指示を受けた共産党・FTPはこれに応じる。


ネットを見るとどうも変な文章ばかりが氾濫している。レジスタンスは大したことはなかった、国民はヴィシー政権に満足していた、ヴィシー政権は実は愛国者だった、共産党は国民ではなくソ連のことしか考えていなかった…

そのうちアウシュビッツはなかった、ヒトラーは善人だったと言い出しかねない勢いである。

もちろんさまざまな事実に目を背けず、きちっと相対する立場も必要だが、全体を見失ってはいけない。たとえばフランス共産党の対ソ盲従をもってその闘いを否定することなどだ。

これは我々人間の主体性に関わることである。とにかく三度世界大戦を起こしてはならないのであり、三度原爆を使ってはならないのであり、そのための教訓を我々は歴史から学び取らなければならない。

あれこれと批判する人に、一番欠けているのがその視点である。あなたはいま差し迫るファシズムの危機に抵抗しているだろうか。自分の立場を明確にしているだろうか。

もしそうでないのなら、口を閉じてこの場から立ち去ってくれ。

議論は2チャンなり別の場所ですればよい。

ギリシャは08年のリーマン・ショックと、それに続くユーロ危機のなかで6年以上も続く景気後退の中にある。

この間、財政赤字に取り組むため広範囲な緊縮処置が取られてきた。このためギリシャ経済は収縮した。GDPは年間5%も減少している。

最新の失業率は17%、25才以下のギリシア人では40%に達している。やっと仕事を見つけても、それはしばしば生活費の収支を合わせるのには程遠い。

若いギリシア人の6割はヨーロッパの他の国で働こうとしている。なぜなら、彼らは就業する希望のない、成功する機会のない状況に不満を募らせているからだ。

大学卒業生の3人に1人はギリシャで失業中である。学位保持者の失業率は、過去4年でほぼ二倍になった。大学卒業生の9パーセントと、PhD保有者の51パーセントが国を去った。

それでは就職できた人たちは幸せかというと、そうではない。

公共部門の給料は過去2年でおよそ30パーセント削減された。民間部門の給与もまた第1四半期だけで6.2パーセント下がっている。

ギリシア人の平均年棒は約300万円で、ユーロ諸国平均の4分の3にすぎない。若者の初任給は6万円にとどまる。(ちなみにアテネのいわゆるワンルーム・アパートは最低でも3万円と言われる)

最大の試練に直面しているのは、若い家族である。2人の子供を持つギリシア人夫婦が受け取る年収は200万円程度とされる。

仕事と賃金に絞って話を進めてきたが、医療でも状況は深刻である。それが本日の赤旗記事だ。(島崎記者の記事だが、相当ひどい。もう少し数字にあたってから書くべきだ。私が編集長ならそのまま屑カゴ)。

医療予算は半減させられた。医療保険のない人が国民の2~3割という。EUの調査でも必要な医療を受けられない人が1.5倍に増えているそうだ。


上の数字はちょっと古い。
14年1月のデータを見ると、失業率は26.7%で、若年層の失業率は60.4%に達している。

実質GDPはリーマン・ショック後の6年で23.5%減少した。不良債権は融資全体の38%台に達している。

ギリシャ280万世帯のうち 230万世帯が税金を滞納している。

わずか350万人の就業者が、失業者など470万人を支えなくてはならない状況にある。



メドヴェージェフは軽い男だ。
外信によれば、以下のごとく発言した。
「ウクライナは内戦の危機にある。恐ろしいことだ」
そうしているのはオマエではないか!

人を殴ったら、鼻血が出た。
そうしたら、「鼻血が出た。恐ろしいことだ」と叫んでいるようなものだ。

前回ウクライナの記事を書いていて、農業の姿がまったく見えないことが不思議だった。「鉄がダメなら農業があるさ」ということにならないのはなぜなのだろうか。

ネットで調べたところ、ウクライナの農業の状況について、農水省の平成24年末のレポートがあった。

「独立」後の経過概要

a.ウクライナは、旧ソ連地域の中でも肥沃な黒土地帯を有し農産物生産国として潜在力が最も高い国である。

b.計画経済から市場経済への移行に伴う混乱やインフレ等のため、穀物生産は半減した。

c.その後、穀物等生産及び輸出量は回復・増加傾向にある。

その背景として、農地改革と農業企業の民営化などの農業制度改革、肥料や農薬の普及、世界的な食料需要の高まり、があげられる。

d.農作物・食品輸出国としての地位を急速に獲得しつつある。

農業生産高

まず驚くべきことは、生産高の驚異的な伸びである。

10年間で、大豆の生産量は約5万トンから約220万トン(44倍)、とうもろこしの生産量は約400万トンから約2,300 万トン(5.75倍)に増大した。

しかもこの数字は過渡的なものとされている。

近代的な農業機械、高収量の種子・農薬及び肥料への投資は未だ不十分である。
現在の生産量は潜在的な生産能力の半分程度とされ、将来は倍加するとも言われている。

ということで、当面のハイリスクを補って余りある魅力となっている。

ただし社会主義時代には4700万トンを生産していたことに留意する必要がある。さらにとうもろこしの生産増大に対し小麦の生産量が減少していることも注意。

大豆の輸出は120万トン、トウモロコシは1400万トンで、トウモロコシの輸出高は世界2位である。

主な輸出先はギリシャ、トルコ、北アフリカ、中東諸国。

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貧弱なインフラ

豊かな可能性に対し、現実はきわめて貧弱である。

a.低い品質

大豆・トウモロコシともに、小粒でたんぱく含有量が低く、硬く、また不良大豆の混入がある。飼料用と油糧用であり食用としては課題が残る。

違法にGMO作物が栽培されている状況があるが、検査・管理は為されていない。

b.劣悪な物流インフラ

穀物エレベーターの保管能力は低く、老朽化も激しい。

内陸輸送の大部分を担う鉄道インフラは、深刻な貨車不足があり、輸出へのボトルネックとなっている。

パナマックス船が接岸できる港は4港に限られる。バースやエレベーターも不足している。

特異な農業生産構造

農業企業(旧コルホーズ・ソホーズ)は、農業経営体全体の0.3%だが、農地面積の78%を保有する。

90年代以降、多国籍企業が進出。主として大豆とトウモロコシを生産。最大のカーネル社は9万haの農地を保有し240万トンを生産する。

法的・政治的環境

問題だらけである。列挙すると、

a.農産物の品質などの情報が乏しい

b.法制度の不備と突然の変更、紛争メカニズムの欠如、土地リース契約の煩雑さなど

c.国内生産状況や国際価格の高騰等を理由に、突然行われる輸出規制

と、投資家にとってはほとんど最悪。


ということで、これまでウクライナ経済を支えてきた製鉄産業が見通し真っ暗、一方でアグリビジネスによる農業発展が今後の支えになるとすれば、企業にフレンドリーな国作りを目指さなければならない。

ただこの国の農業生産構造を考えれば、農地がほぼすべて多国籍企業のものになってしまう危険もある。

言わば「持てる国の悩み」なのだが、国の将来について厳しい選択を迫られているといえるだろう。


ウクライナを把握するのは相当手強い。

一筋縄ではいかない。

我々が学校で習ったのは豊かな穀倉地帯だということで、地理の試験問題風に言えば「ウクライナ=黒土地帯」だ。

これは現在もあながち誤りではなさそうで、ウクライナを「大いなる田舎」として把握すること自体は今でも誤りではなさそうだ。

小学校の頃、「ボルガ・ドン運河」というのが完成して、なにか世界最大とかというのでニュースになった。映画館でニュースで見た覚えがある。

あとはずっと降って、チェルノブイリだ。

一般人にはこのくらいだろう。

あとはムソルグスキーの「展覧会の絵」のフィナーレが「キエフの大門」、それから「屋根の上のバイオリン弾き」がウクライナが舞台だったかもしれないな、という程度。

左翼系の人だと、これに「戦艦ポチョムキン」の舞台となったオデッサの街、スターリンによる農業の強制集団化、いわゆる「祖国大戦争」の舞台としてのウクライナが加わる。

これでウクライナのイメージを持てと言われても、なかなか容易ではない。

スラブ人でギリシャ正教ということで、西側のポーランド、ルーマニアとは自然国境がありそうだ。しかしベラルーシ、ロシアとは区別がつかない。

結局言語と歴史ということになるか。しかしめまぐるしい歴史を見ると、ウクライナ民族としてのエンタイティをすくい取るのはなかなか難しい。これはベラルーシも同様だ。

私は、その国を見る場合、たいていその歴史から入るのだが、率直にいってこの国の歴史は七面倒くさい。しかもあまりポジティブではないから、やる気が湧いてこない。

まず一般地理から入るか。

面積は60万平方キロ、日本の2倍近い。ほとんどが農耕可能な平地だから、実感としては10倍位になるだろう。

人口はおよそ5千万人、日本の半分だから多いとはいえない。

同じ農業国のアルゼンチンと比較すると、アルゼンチンの面積300万平方キロの1/5、人口はアルゼンチンの4千万より一回り大きい。

アルゼンチンの可耕地は国土の半分程度だろうから、似たような国土構成だ。

GDPはアルゼンチンの6千億ドル、一人1万4千ドルに対し、3千億ドル、一人7千ドルだから経済規模は半分である。

ヨーロッパ市場に陸続きで隣接していることを考えれば、とくに農業の近代化という面で、かなり遅れをとっていることが分かる。

ウクライナの産業構成

農業の近代化の遅れと書いたが、じつは輸出品のトップは農産物ではなかった。ウクライナの輸出品トップは鉄鋼だ。

今回の政変も根っこは鉄鋼不況にある。ウクライナは製鉄に必要な鉄鉱山と石炭鉱を併せ持っている。すべて自まかない可能だから有利だが、技術が低いため国際競争力に乏しい。

それがリーマン・ショック後の国際不況のアオリをまともに食らった。輸出は激減し、財政は破綻し、対外債務は急増した。すでに事実上のデフォールト状態にある。

これは2001年12月のアルゼンチンと似たような状況だ。暴動が起きるのは時間の問題だった。しかし暴動で政府が転覆されても事態が好転する見込みはない。

ここが双方にとって辛いところだろう。

人口分布を見てみる

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北西部に高く南東部に低い傾向がある。

ウクライナそのものが一種の辺境だが、その中でも南東部が辺境となっているといえる。(ただし、ただの辺境ではない。ここに製鉄産業が集中している)

民族構成を見ると、意外に単独構成で、ロシア人の17%を除けば他民族は1%以下の存在である。旧ユーゴのような多民族のモザイク国家ではない。このことは抑えておく必要があるだろう。

ところが、民族構成と言語構成は必ずしも一致しない。

ウィキペディアには以下のように記載されている。

統計によれば、ウクライナ語を母語とする国民は5割強であり、多くの国民はウクライナ語とロシア語の2言語を理解する。実際に、ウクライナ語のみで日常生活を送る国民は西部を中心とした一部地域に限られ、大半の国民はウクライナ語とロシア語を併用している。

ただしこのくだりには、[要出典]のタグがバチバチ貼られている。

言語分布は人口分布と類似するパターンを取る。この読み方は難しい。

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ロシア語使用者の比率により色分けした図である。

数字から見てロシア語を使用するウクライナ人が相当の数に昇ることが分かる(首都キエフにおける高い使用率がそれを示唆する)。もう一つはこれらの地域からウクライナ人が排除された可能性があることである(オデッサの高使用率)。クリミア半島については、もともとウクライナの一部ではなかった可能性もある。

ただいずれにせよ、

1.ごく一部の地域を除けばウクライナ人でウクライナ語を話す人が過半数を占めており、

2.しかも人口分布ではウクライナ語圏である中西部に人口が集中している。

このことから、民族・言語の問題はウクライナにおいて決定的な問題ではないといえる。

ウクライナ人の立場に立って考えてみる

とりあえずの話だが、ウクライナは一つだ。割れることはない。

ソ連には頼らざるをえないが、そのままでは未来はない。投資が必要だが、あてはない。

製鉄産業は民営化と積極的誘致以外にはない。

農産物輸出はマーケットの開拓なしには望めない。

やはり長期的にはEUとの関係強化しか道はない。

ここまではウクライナ国民の共通認識だろう。

まずは債務の整理だ。もう一度国民には泣いてもらわなければならないし、その覚悟を促さなくてはならない。

EU諸国への過度の幻想が深刻な結果をもたらすことは、前の大統領の時に経験済みだ。

黒海周辺国の共同市場づくりなど、経済建設にはより自主的な目と構えが必要だろう。

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