鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

カテゴリ: 14 国際政治/ヨーロッパ

「赤旗」の書評欄からの重複引用で、いささか気が引けますが、下記の一節が極めて衝撃的でした。

85万人の難民と聞くと大変な数に思えるかもしれない。しかしそれは約5億人の欧州連合(EU)の人口の0.2%程度で、世界一豊かな大陸が現実に吸収できる数だ。

人口450万人の隣国レバノンは120万人のシリア難民を受け入れている。ヨーロッパの指導者たちは恥じ入るべきだろう。

「難民危機」というが、それはそもそも難民が引き起こしたものではない。

難民を生み出した政治危機は、ヨーロッパの対応が引き起こしたのだ。欧州の政治家の怠慢こそが大混乱を生み出しているのだ。

 パトリック・キングスレー『シリア難民』(ダイヤモンド社)より

最後の段落についてはいろいろ意見もお有りでしょうが、最初の3連についてはまことにお説ごもっともです。

「数の問題ではなく“こころ持ち”の問題なのだ」、これはメルケル首相も盛んに強調しています。

ただそうは言っても問題は解決しないので、このささくれだった自己主張が横行する世の中をなんとかしなければならないのでしょう。

「トランプ現象」が世界を跋扈しています。身の回りになんと「小トランプ」の多いことでしょう。こういう人たちの「こころの機微」に触れ、凍りついた「優しさ」バルブを開け放つのには、どうしたらいいのでしょう。

2016年に我々が背負わなければならない、最大の課題でしょう。

1888年 ラッサール派のグループとマルクス派のグループが再統合され、オーストリア社会民主労働党(Sozialdemokratische Arbeiterpartei Österreichs)が結成される。結党時の党員数は15,000人とされる。

1893年 社会民主党と協調する自由労働組合連合が結成される。90年代に急速に発展した産業革命と結びついて勢力を拡大。

1890年代 ウィーン大学の社会主義学生グループが学習サークルを形成。カール・レンナーが指導し、マックス・アドラー、ルドルフ・ヒルファーディング、遅れてバウアーらが参加。オーストリア・マルクス主義の拠点となる。

1897年 総選挙。普通選挙が一部導入された結果、議会に14議席を獲得。

1897年6月 社会民主党が改組。5つの民族別(ドイツ系・チェコ系・ポーランド=ウクライナ系・イタリア系・南スラヴ系)に組織された党の連合組織となる。

1907年6月 初の普通平等直接選挙が実施される。社会民主党は87議席を獲得する。

1907年 月刊『闘争』(Der Kampf )が発行を開始。オーストリア社会民主党の理論機関誌となる。バウアーら、次世代の「オーストロ=マルクス主義者」の理論家たちの活動拠点となる。

1911年 社会民主党のチェコ人組織が分離し、チェコ社会民主党として独立する。

1914年 第一次世界大戦が勃発。V・アドラー、レンナーらの主流派は、「祖国防衛戦争」として戦争遂行政策を支持する。これに対しF.アドラーらの左派は反戦活動を展開。

1914年11月 バウアー、戦争に加わりロシア軍に捕らえられる。シベリアで3年間の捕虜生活を送り、17年9月に捕虜交換によりウィーンに戻る。

1918年4月 バウアー、民族自決権を承認しレンナーら主流派と決別。社会民主党左派に移る。

1918年 ボルシェビズムを唱えるオーストリア共産党が創立。その後一貫して弱小勢力にとどまる。

1918年11月 オーストリア帝国が崩壊し、オーストリア共和国が発足。社会民主党とキリスト教社会党の連立政権が国政を担う。社会民主党右派のレンナーが首相に就任。バウアーが外相となる。

1919年3月 レンナーはグラーツ大学教授シュンペーターを財務大臣に招聘。当初は熱心な社会化論者であったが、生産性原理と効率性原理を強調するようになり政権と袂を分かつ。

バウアーはこう評している。「彼は、革命の初期にはボルシェヴィズムに媚を呈し、社会民主党の社会化政策が積極的かつ急進的でないとしてしばしば反対した。しかし、やがて彼は完全に方向転換した」

1919年 バウアー、『社会主義への道―社会化の実践』を発表。政治革命ではなく、産業の社会化=社会革命が未来への道だとする。

1920年 キリスト教社会党との対立が表面化。社会民主党は政権を離脱する。

1920年 バウアー、『ボリシェヴィズムか社会民主主義か』を発表。ボリシェヴィキを「専制的社会主義」と批判。全人民の経済的自治を基盤とする民主的な社会主義を訴える。

1921年 オーストリア社会民主党を中心にウィーン・インターナショナル(第二半インターナショナル)が設立、社会主義者の国際組織の再統一をめざす。

1923年 ウィーン・インターナショナル、第二インターに吸収され消滅。

1923年 党の防衛組織として「防衛同盟」が発足する。

1926年 社会民主党大会、リンツ綱領を採択。「赤いウィーン」での実践をもとに、議会主義戦略を定式化。

*民主制に依拠して則法的に政権を獲得する
*「破局的なカタストローフの結果としてではなく、目標を意識した労働者の収穫として」社会主義の実現を目指そう
ただしブルジョワジーが反革命を起こした場合、国内戦により国家権力を掌握することも確認される。

1927年7月 労働者デモと警官隊の衝突事件。この後の弾圧で社会民主党は後退を余儀なくされる。

1933年1月 ドイツでナチスが政権を握る。間もなく共産党に対する大弾圧が始まる。

1934年2月 社会民主党と防衛同盟が蜂起。「2月反乱」と呼ばれる。ドルフス政権と「護国団」による挑発が引き金となる。

2月 社会民主党に解散処分がくだされる。バウアーら指導部の一部は国外に亡命して活動を続けた。

1週間いない間に世界は動いていた。

ドイツ銀行の経営危機の報道は目を疑った。それとともにメディアがこの情報をほとんど扱わないことにも驚いた。

ドイツ銀行といえば、以前より素行不良の噂が後を絶たず、いつかは何かが起こるだろうとは思っていたが、まずは状況がよく飲み込めない。

BLOGOSに以下の記事があったので斜め読みしてみる。

My Big Apple NY2016年10月02日 

バロンズ:ドイツ銀行問題は、リーマン・ショックの再来か

という恐ろしい見出し

A) 事件の顛末

1.ドイツ銀行の株価と債券価格は前週に急落した。すでにヘッジファンドはデリバティブの担保として預けていた資産を引き揚げた。

2.急落の原因は、米司法省が住宅ローン担保証券をめぐり140億ドルの和解金支払いをもとめたことだ。

3.ドイツ政府はドイツ銀行を救済しないとの報道が飛び出し、事態は深刻化した。

4.9月30日、ドイツ銀行経営者はヘッジファンドの資金引き揚げを認めた。そのうえで、その懸念には正当性がないと非難した。

5.同じ日、米司法省が和解金を54億ドルへ引き下げ、両者が合意したと報道された。これに市場は反応し、株価と債券価格は値を戻した。

というのが顛末。

B) 事件の背景

しかしその背景を見ると、決してめでたしめでたしではない。

1.ドイツ銀行の時価総額は200億ドルたらずで、身売りが囁かれているツイッターをやや上回る程度だ。

2.ドイツ銀行は60兆ドルものデリバティブを抱える。金融危機が発生すればカウンターバーティーが契約を履行できない恐れがある。

3.簿価の大幅な欠損によって必要な増資が困難となり、バランスシートを支えられない。

4.ドイツ政府は財政健全化を訴えてきただけに、大手銀行の救済には及び腰となるだろう。

C) 事件の波及効果

記事はアメリカと世界金融への影響についても触れている。

1.ヘッジファンドの欧州銀行からの資金引き揚げは、LIBOR(ドル3ヵ月物ロンドン銀行間取引金利)を押し上げるだろう

2.LIBORは米国内のローンの基準金利となり、住宅ローン金利を規定している。住宅建設にブレーキをかけるには十分だ。

3.金融市場に緊張が走れば、FOMC(米連邦公開市場委員会)の利上げペースにもブレーキが掛かるだろう。

D) 事件の裏側

記事は、以上のような背景を踏まえ、司法省が和解金を割り引いたのではないかと見ている。

逆に、140億ドルというのはブラフだったとも考えられる。EUのグーグル提訴への対抗措置だったとの観測もある。

それがヘッジファンドの素早い動きを見て、急激に方針転換した可能性もある。その背景としてはアメリカ大統領選があり、トランプを利するような情勢激変を避けたいとの判断が働いたのかもしれない。

というのがこの記事の骨子。

中村平八 「ソ連を殺したのは誰か」

の全文がネットで読める。同志社商学 第52巻(2001年3月)というページでPDFになっている。

91年の事態は民衆とは関係のない宮廷革命であった

91年の時点で、ソ連の国家体制と民衆の間に決定的かつ敵対的な矛盾は存在しなかった。

バルト3国を覗く各共和国の民衆の大多数は、最後まで緩やかな連峰国家体制の維持と、改善された社会主義経済の存続を支持していた。

ソ連の民衆は次々に生まれる新党のいかなる党にも積極的関心を示すことはなかった。

ソ連を殺したのはロシア共和国のノメンクラトゥーラのなかの体制転換派(急進改革派)であった。

ソ連の「成功」を再確認する

ソ連は70年間失敗続きであったわけではない。それどころか、初期の40年間は大成功したとさえ言える。

だから、ソ連を批判する際には、まず、なぜソ連が成功したのかを分析し、それがなぜ成功因子を失い、右肩上がりの経済がどのようにして壁にぶつかり、ついに崩壊していったのかを明らかにしなければならない。

まずは経済的成功の場面から。

①スターリンの下でソ連は急速な工業化に成功した。第二次大戦後にはヨーロッパ第一位の工業国に到達した。

②第二次大戦では参戦国中最大の人的物的被害を被ったが、短期間で経済復興し、アメリカに次ぐ経済力(85年GNPでアメリカの55%)に達した。

③平均寿命、栄養摂取量、医療水準、識字率、普通中等教育終了率でソ連は西側先進諸国と肩を並べた。

④失業の恐怖、老後の心配、住宅・教育・医療費負担はなくなった。

これらを生み出したのが計画経済(著者によれば軍事共産主義供給制)であった。しかしそれは恐怖政治と非能率を伴っていた。(ただし非能率といえば、恐慌と失業ほど非能率なものはない)

ソ連型計画経済の特徴

①「不足の経済」の外延化

革命時の絶対貧困と、その後の国内戦のもとで、量産計画が全てであり、需要との照応は必要なかった。

党の独裁体制のもとで、立憲体制を乗り越え、人命まで含めた過度の収奪が可能となった。

②計画経済の負の成果

生産効率や生産物の質は二の次にされ、無駄の体系が作り上げられた。

行政機構の肥大と非能率化、官僚主義と腐敗。

主人公たるべき労働者・農民の疎外。労働資源化。



感想は、この記事の表題通り。不足だったから「不足の経済」が成功し、それが一定程度充足されることにより壁に突き当たる。問題はその次になにをするべきだったのかがはっきりしていないことだ。

60年代始めにリーベルマン構想が打ち出され、利益の出る構造への変革が打ち出されたが、結局うまく行かなかった。

私が思うには、自由な購買者の出現がないと、生産サイドの改革だけではうまく行かないのではないか。

生産の増大は消費の増大を伴う。消費の増大は欲望の増大をもたらす。増大した欲望が実需となり生産を刺激する。

この螺旋形構造が創りあげられないと経済のそれ以上の進展はない。

「不足の経済」のシステムは循環システムになっていないから、この問題に対応できない。利潤の導入は生産側のインセンティブにはなっても消費者には関係ない。

実はここに市場の最大の価値がある、と私は思う。市場の最大の役割、それは需要の創出にある。

なぜなら市場こそは貨幣経済の最大の実現の場だからだ。人々は職場においては奴隷として扱われる。しかし貨幣を持った一生活者として市場に登場したとき、彼は「王様」にだってなれるのである。

したがって市場は人々の「自由な真の需要」を表現する場になるのである。生産者は市場を見て生産を調整するだけでなく、需要を掘り起こし生産拡大に結びつける。

このような需要の拡大が、生産の増大をもたらし経済の発展へと結びつけていくのである。また労働者・農民の自由をもたらし、当局者の全面的圧政の軛からの解放へと繋がる。

市場の真の機能は競争にあるのではないし、需要と供給のバランスにあるのでもない。それは「欲望の見本市」であるところに最大の機能があるとみるべきだ。

この辺は稿を改めてもう少し検討してみたいと思う。


落ち穂拾いのついでに、レーニンとスターリンの対立点が二つ挙げられた箇所がある。ともに初耳の話なので紹介しておく。

1.国号問題

レーニンは国号問題で、国号に「社会主義」を入れたからといって、われわれの国が社会主義であるとは言えない、と主張しました。

これはロシア革命の性格規定の問題に関わっている。

旧ソ連史学では「社会主義革命」としていますが、レーニンは「社会主義をめざす」革命と言っております。

この論争は、国名に地名を入れないで「評議会社会主義」共和国とすることで妥協が成立したそうだ。

2.連邦か連合か

ソ連の英語表記はUSSR。UはUnion(Союз)である。アメリカはUnited States で諸国連合ということになる。アメリカの場合、州の独自性は日本の県よりは遥かに強いが、外国から見れば単一国家に近い。むしろ諸州連合と呼ぶほうがふさわしい。こういうのを連邦制(Federation)と呼ぶ。

一方、欧州連合(EU)は、今のところは未だ構成国の独自性がほぼそのまま生かされていて、諸国連合、ないし目的を限定した諸国同盟の形になっている。こういうのを連合制(Confederation )と呼ぶ。

というのを前提として、引用に移る。

1922年当時、複数のソヴェト共和国の結合形態をめぐって、ロシア共産党内には鋭い意見の対立がありました。それは諸ソヴェト国家の連合もしくは同盟を主張するレーニン派と、諸国家の連邦を主張するスターリン派の対立です。

スターリンは「軍事・外交・外国貿易その他の業務を統合する単一の連邦国家」を主張しました。

論争はスターリン派の勝利に終わった。病床のレーニンはほとんど発言の機会がなかった。

帝国主義国の強大な軍隊に包囲されている。だから、ウクライナなどの国が独自に外交権を持つならば、ソ連政権は存続できないというのが理屈でした。


むかしは、「ソ連というのは」ブルジョアの呼称で、正確には「ソ同盟」と呼ぶべきだと言われたことがあるような気がするが、それはレーニンの名残だったわけだ。


EUの最大のメリットは「平和」と「福祉」です。

しかし現実の姿としては、EUはそのようにかっこいいものではない。むしろ債務国にとっては「EU帝国主義」というか、諸悪の根源とすら映るところがある。

そのへんも書いておかないと不公平だろう。

EUの“PIGS”対応の諸問題についてはすでに明らかにしているので、そちらをご覧頂きたい。

総括すると以下のとおり

1.言うまでもなく現在の社会・経済システムの最大の問題は2つである。一つは国民の貧困化であり、その直接の原因は果てしなく続く緊縮財政政策である。もう一つは国民が貧困化する一方で所得格差が拡大し、超富裕層が世界の富を独り占めしていることである。

2.EUはこれに対してどういう態度をとってきたか、そのいずれをも推進する方向ではなかったか。企業側の利益を優先し、環境・安全基準や労働者の権利を二の次にしてきた。金融・財政危機にあたってはPIGS諸国の民衆に犠牲を強いることをためらわなかった。

3.そうやってドイツだけが一人勝ちするようなシステムは、他の国が掛け金を払えなくなったとき瓦解する。結局は共倒れに終わるのではないか。

4.そのようなEUであるが、それを民衆目線で変革するような展望を持ちつつ残留するのであれば、残留には意味がある。

5.イギリスでは(そしてEU加盟国の殆どで)、「EU」は緊縮財政と富裕層優遇政策を合理化するための外圧として利用され、錦の御旗となった。これではEUが民衆いじめの象徴と受け止められても仕方ない。

6.「脱ければこんなに恐ろしい未来が待っている」と散々脅されつ続けてきた民衆は、「残ればさらに恐ろしい未来が待っている」と考えるようになった。

こんなところではないか。

なお離脱の世論にはTTIP交渉の動向も関わっているようだが、今のところコメントするだけの資料を持ち合わせていない。


EU離脱論に関して、日経新聞(2016/2/20)に比較的まともな解説が載っていたので紹介する。

1.EU離脱論の2つの背景

ひとつは2004年にEUに新規加盟したポーランドなど東欧諸国から英国へ流入した移民の急増だ。

08年のリーマン危機後に雇用低迷が深刻になると、低賃金で働く移民が雇用を奪っているとの不満が蓄積した。昨年以降の難民危機もEU批判に拍車を掛けている。

もうひとつはユーロ危機への対応に英国が巻き込まれたことへの不満だ。EUは危機の再発防止のために、金融監督の一元化など統合強化の動きをみせてきた。

以下略


というわけで、2つの背景はまったく異なっている。ひとつ目は国民大衆の不満と不安だ。

ふたつ目は、シティの投機家たちにとっての不満だ。EUが金融資本への規制を強化するのは、ロンドンのシティー(ユーロマネー市場)を生命線とする投機家にとっては大変危険な兆候である。

1.国民大衆の不満と不安

ひとつ目の理由については大変よく理解できるし、同情もする。ただその選択肢は正しいとはいえない。なぜなら敵を間違っているからである。

資本の流通のみ自由化していけば、先進国には富が途上国には貧困が蓄積する。そうすれば途上国からの人の移動が起きるのは当たり前である。

先進国は富を輸出し途上国は貧困を輸出するのである。これが難民問題(とくに経済難民)問題の本質である。

ただ、この傾向があながち悪いとばかりは言い切れないので、長い目で見ればそうやって世界の富は平均化し、世界の人々があまねく豊かになっていけるのだ。

問題は2つある。

一つはそのテンポだ。資本の移動は今日のハイテク社会ではほとんど瞬時に行われる。しかし人の移動には文化や習慣、社会の柔軟性の問題もあるから一朝一夕には行かない。場合によっては複数世代をまたいで初めて可能になる。

そこにはコンセンサスを基礎とした非商業的な息の長い計画が必要となる。

もう一つは今のグローバリゼーションが貧富の差の拡大を伴って進行していることである。それは投機資本や金融資本の横暴がまかり通っているためである。

労働問題や雇用問題は、すべて大衆の貧困問題に関係している。それは生産力が低下したためでなく、生産の果実をごく一部の富裕層が吸い取っているためである。

彼らから、奪われた金を取り戻さなければならない。EUから離脱するとかポーランド人労働者を追い出すことで済む話ではないのである。

2.ユーロマネー市場の不満

この記事で学んだこと、それはイギリスの支配層(の一部)が離脱の動きの陰にいることだ。

彼らサッチャリストがどのくらい本気で離脱を考えたかは知らないが、EU当局の動き、とくに規制強化を狙う動きには強い不快感を抱いている、このことは間違いないようだ。

この記事は2月20日のものだ。キャメロン首相が首脳会議で離脱不安を煽って見事成果をかっさらった時の記事だ。今や彼らは慌てふためき、声を潜めているだろうが、4ヶ月前までは離脱を囃し立てて、火に油を注いでいた可能性がある。

離脱の動きの背景にある、規制強化への嫌悪感。この問題はもう少しえぐりだしてもらいたいものだと思う。この点について、その後の日経の記事はどうなっているのだろうか。八十島記者に伺ってみたい。

下記もご覧ください

この文章は、目下の感想的意見であり、ほとんど根拠はありません。

はっきり言って、メディアでは分離派の要求をまともに報道しません。イギリスの支配層をふくめ、世界中がイギリスの離脱派を馬鹿にしています。

確かに算盤勘定では離脱して得になるようなことはないでしょう。

しかし

これだけ国を二分するような激しい議論を数カ月にわたって続けてきて、今もなお国民の半数が分離を要求し続けている理由は、そんなかんたんなことことではないと思います。

とすれば、議論はもう少し長期のことを見据えてのことだろうと思います。

このままEU残留を続けてもいいことはない。損得勘定で、国のあり方を考えるのはやめよう。

これが離脱派の提起している問題なのだろうと思います。ことはEUに限らず、何事につけそろばんだけで政策を決めてきた歴代政権への不信です。そして損得勘定だけでやってきたはずなのに、国民の生活は貧しく苦しくなっているのです。なぜなら「メリット」のほとんどを富裕層が享受しているからです。

だから残留のメリットも明確にできない連中が離脱のデメリットを語っても、「それはあんた方のデメリットでしょう」ということになります。そして残留派がそれに対する答えを打ち出せないから、議論が果てしなく続いているのだろうと思います。


現代資本主義の抱える問題がそこには集約されているのでしょう。一般的には経済・社会のグローバル化は必然です。しかし、そのことと貧富の差の拡大、大金持ちだけがいい目を見るような世界とは別の話です。

だから離脱派の究極の結論は、そんなグローバル化など糞食らえだということでしょう。

残留派はグローバル化は必然だといいますが、だったら貧民が飢えて死ぬのも必然なのでしょうか。

その質問が、さまざまな変奏曲の形で、まっとうな方向にも歪んだ方向にも噴出してきている、この流れを押さえていかなければならないと思います。

私の結論は、

グローバル化が必然だとしても、それを急ぐ必然性はない。国民が豊かになるグローバル化が出てきてから考えてもいいのではないか。

ということです。そしておそらくはそのスピードがいま議論の分かれ目になっているのだと思います。

いまの金融資本はそのスピードをさらに上げるか、少なくともそのスピードを維持するかを必然的な条件としています。

そのスピードが落ちた時、速度を失った自転車が立っていられなくなるのと同じように、彼らは深刻な矛盾に直面するでしょう。

それはいずれ遅かれ早かれやってきます。世界の人々が収奪に耐えかねて、逆さにしても鼻血も出なくなったとき、国家は破綻します。国家が破綻したとき、国家の寄生虫たる金融資本は、リーマンが一夜で消えたようにあっという間に消滅します。

イギリスは、おそらくEUを離脱してもいいのだろう。「青信号、渡らなくても怖くない」のだろう。

と思います。離脱しても、それなりの手も打つだろうし、たちまち奈落の底に沈むというわけでもないと思います。離脱して困るのは、案外ロンドン金融市場(シティー)の金の亡者たちだけかもしれません。

それぞれの国民がいったんグローバル化のスピードをシフトダウンして、国民国家たる国をもっと大事にすること自体は決して間違ったことではないと思います。

ただ、離脱派の主張は必ずしも理念的なものではなく、やはり損得勘定でもあります。離脱を支持するサン紙は

EUは無駄遣いの金食い虫だ。この間の危機対応でも無能さを暴露したではないか、と批判。有害無益な政策の押しつけを繰り返すEUから出れば、「より豊かで安全で自由になり、運命を自分で決められるようになる、

と主張しています。言うことは当たっていないではありません。


ただ、EUというのは決して経済オンリーの共同体ではなく、千年に及んだ欧州戦争からの脱却と平和の構築を目指す共同体でもあります。しかしイギリス政府は(そして国民も)一貫してそのような関わり方はしてきませんでした。だからこんな有様になってしまったのです。

EUの最大のメリットは「平和」と「福祉」です。

残念ながら、今は大企業と金融資本のための共同体になってしまっていますが、この本来の理想とどう向き合うかというのもだいじな論点であろうかと思います。


それなりにしても、日本のネットの世界、掘り下げないなぁ。


2012年

5月 フランス大統領選の決選投票。「真の敵は金融界だとし、60の約束」を掲げたフランソワ・オランド(57)が、民衆運動連合(UMP)のサルコジを破り初当選。

オランドの政策は1.緊縮よりも経済成長、2.金融界への規制強化を柱とする。具体的には
①銀行の活動を投機から分離、②仏銀行の租税回避地での営業禁止、③ストックオプションの原則禁止、④銀行のボーナスの上限、⑤銀行税の15%増、⑤全ての金融取引への課税、⑥富裕層に45%の追加税率、⑦前政権による富裕税の軽減見直し、⑧資産収入に対する所得税と同等の課税
一方で民生充実のために
①半官半民の投資銀行の設立、②家賃の一部凍結、③60歳からの年金給付、④教育部門公務員職の創設、⑤公務員削減計画に見直し、などを打ち出した。
要するに「大きな政府」による国家の再分配機能の強化である。

5月 オランド当選を機に、ソシエテ・ジェネラル、クレディ・アグリコール、BNPパリバなど仏大手銀行の株価が急落。NY市場も200ドルの下落。

5月 ドイツのメルケル首相、オランドが求める「新財政協定」の再交渉を拒否。一方で欧州債務危機の解決に向け協力を呼びかける。

7月 フランス企業の競争力が急激に後退。政府は航空宇宙・防衛大手EADSのギャロワに対応策の策定を依頼。

ギャロワは個人消費や輸出の伸び悩み、固定資産投資の減少が競争力低下を招いているとし、「大きな政府」が残存する中での財政悪化の危険を指摘。

7月 会計検査院のミゴー議長、「財政赤字のGDPの3パーセント以下(EU基準)への削減のために、330億ユーロをひねり出す必要がある」と語る。

オランドはこれを受け、「今後、努力の半分を経費削減に投入する」と述べる。医療費、職業訓練費、地方自治体助成金などが削減対象となる。

11月 オランド政権、ギャロワ報告を受け企業減税策を発表。政策を事実上180度転換させる。

具体的には社会保障の雇用主負担分200億ユーロ(約2兆0500億円)の削減。このための財源として付加価値税(日本における消費税)と社会保障税の増税でカバーする。

2013年

3月 財界紙「レゼコー」、「オランド大統領は社会福祉の再検討、地方自治体への補助金削減、公共部門での生産性向上、労使間対話の根本的改善を選択した。これは「左派による自由主義政策》に向けての勇気ある選択だ」と褒め称える。

解雇規制法はもともとはフランス人労働者を移民から守るために設けられたもので、必ずしも労働者的とはいえない。

12月 13年度の成長率は0.4%と低迷し、失業率も10.2%に達し、若者の失業率は20%を超える。政府に通貨(ユーロ)発行権がないため金融出動策が打てず。

2014年

1月 政府、企業に対し「責任協定」の導入を提案。①企業が雇用や投資を拡大すること、②それを条件に、社会保険料の企業負担分を300 億ユーロ軽減する(これはGDP の1.5%分に相当)、③さらに法人税率を段階的に28%まで引き下げるというもの。

7月10日 モントブール経済相、マクロ経済政策の転換を提案。60億ユーロ(8千億円)規模の内需拡大計画を発表する。

歳出削減による余剰を赤字削減だけでなく、家計と企業向けの減税に充てるとする。また「(ギルド的)専門職の自由化」も提起。この発言は大統領の承認を得ないまま行われた。

8月24日 モントブール経済相、緊縮財政路線の撤回を主張。

モントブール発言: ドイツがリーマン・ショック後に押し付けた財政赤字削減策はユーロ圏経済を台無しにした。緊縮政策は財政赤字を縮小していないことを認めざるをえない。迅速に方針転換しなければ有権者はポピュリストや過激主義の政党に流れる。

8月26日 ヴァルス内閣が総辞職。オランド大統領はモントブールら3人の閣僚を更迭し、内閣を改造。ロスチャイルド銀行のマクロンを経済相に当てる。

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        モントブール経済相

8月27日 バルス首相、経団連総会に出席。「企業を愛している」と発言。引き続き赤字削減に取り組み、400億ユーロの法人税減税と規制緩和の前進を表明する。総会は拍手で応える。

9月 バルス首相がベルリンを訪問。均衡予算を求めるメルケルに対し「フランスに向けられた不信は理解している。改革をやりきる」と約束。オランド支持率は13%まで低下する。

2015年

2月 オランド政権が経済政策を発表。「マクロン法」と称される。年間5回だった「日曜開店」を12回に増やすなど。

6月 社会党大会。カンバデリス第一書記はモントブールの批判に対し、「社会党が消滅したらフランスは人間性を、フランス人は希望を失う」と反論。

その殆どはまだ萌芽的なものだが、政権を獲得するまでに至ったいくつかの試みもある。

その代表がフランスのオランド政権である。しかしこの政権の評価は芳しくない。あまりにも厳しい情勢だったから仕方ないといいわけもできようが、酷なようだが、厳しいからオランド政権が誕生したのだ。それは引かれ者の小唄でしか無い。

はたしてオランド政権は改革の試みに挫折したのか、それとも国民を裏切ったのか、そもそも1国での改革の試みは不可能なのか。

その辺を知りたいと思い、文献を探したが、なかなか見つからない。

とりあえず下記の文献を探したので、これから着手することにする。

仏オランド大統領の政策 国際戦略コラム 2012年5月

仏オランド政権が政策を180度転換。企業優遇と福祉削減にとうとう舵を切った!」 ニュースの教科書 2012/11/08

社会党政権の1年を振り返る フランス流に停滞する社会保障政策」ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2013年4月号

フランス経済の低迷とオランド政権の迷走極東ブログ2014.09.21

G20とフランスの政策転換三橋貴明の「経済記事にはもうだまされない! 2014/09/30

「緊縮政策に苦しむフランスの現況」(EJ第3978号)2015年02月20日

「不振が続くフランス経済」 伊藤忠経済研究所 2014/09/30

オランドは社会党か」 ニュース・ダイジェスト 18 juin 2015

各国経済の強さと弱さ PART19(欧州編)」金融そもそも講座2015年8月12日

マヌエラ・カルミナに関するAFPの報道はあまりにひどい。読み返してみたが、読むに耐えない。

他の情報も加えつつ整理する。

まず、どうやってマドリード市長に当選したかの経緯がさっぱりわからない。

選挙の経緯はこうだ。

マドリードの市長は間接選挙であり、議員選挙で選出される。

それで、その議会選挙だが、すでに5月に終わっている。

その選挙の結果だが、国政与党の国民党(AFP記事ではPopular Party)が第1党となった。

2位につけたのが、ポデモスの支持を受けた革新派グループ「アオラ・マドリ」、3位が第一野党の社会労働党だった。そこで2,3位連合の協議が始まり、6月にマヌエラ・カルメナ(71歳)を市長とすることで合意した。

カルメナはエリートの出身で、マドリード大学法学部を卒業。その後、フランコ独裁政権のもとで、共産党員弁護士として労働運動、人権運動の支援を続けてきた。民主化以降は、判事となり最高裁判事まで務めた。

カルメナ

目玉公約をいくつか挙げておくと、

1.家を差し押さえられた人及び立ち退きさせられた人のための代替住宅を確保する。ほかに水道・電気代の支援、保健サービスへのアクセスの保証など。

2.公共サービスの民営化の停止、公有財産の売却停止。公的債務の公開監査を実施。

3.国民党の策定した都市開発計画の停止。長期失業者及び若者の雇用のための緊急計画。

4.市長報酬を現在の半額以下の550万円に。

ただしその出発点は厳しい。長く続いた国民党の市政は6千億円の借金とデタラメ都市計画を残した。

なお、マドリードのライバル都市バルセロナでも、独立左派の活動家アダ・コラウ(女性)が、ポデモスの支持を得て市長に就任している。こちらは41歳のパキパキのミリタントで、住宅強制退去に反対する直接行動で数十回警察に拘束されているという強者。

第3の都市バレンシアでも、24年君臨した市長を追い出し、革新市長が誕生した。国民党は、この他セビージャ、サラゴサ、トレド、コルドバ、カディスで政権を失った。


7月13日に発表されたユーロ圏首脳会議は、ツィプラス政権の屈服という形で幕を閉じた。
「屈服したとはいえ、なんかの成果はあったのだろう」と、うすうす思っていたが、赤旗の記事を見るとどうもそのような気配はなく、一方的な敗北のようだ。(それなりに裏はあるのだろうが)
赤旗は次のような仏トリビューン紙の評価を転記している。
ユーロはたんなる通貨ではない。…ユーロは加盟国のすべての希望を考慮に入れる政治的プロジェクトではなく、峡谷が弱小国を支配する道具だ。
そのことを欧州の人々は知ることになった。
EU提案の受け入れに反対して財務相を辞任した、バルファキス氏の作った表が切れ味鋭い。ちょっと長いが転載しとく。
バルファキス1
バルファキス2

Manuela Carmina, leftist ex-judge now Madrid mayor

AFP By Anna Cuenca June 13, 2015

という記事から紹介。

正直「これが記事?」と疑うほど、まとまりのない記載が、前後の脈絡なく続く。本当はもう一度整理しなければならないのだが、とりあえずそのまま掲載する。


カルミナは共産主義者で青春時代に人権活動家だった。そしてその後裁判官となった。そのカルミナがマドリードの市長になった。そして24年にわたり続いた首都の保守党による支配を終わらせた。

この71歳の女性は、2011年の金融危機で貶められた貧しい人々を擁護すると約束した。そして、この国を席巻した「怒りの運動」(Indignados)の呼びかけに応え、腐敗と経費削減と追い立てに向かう政府を攻撃した。

無名の候補だったカルミナは、左翼的な綱領「こんにちは、マドリード」(Ahora Madrid)を提示し、主要野党の社会党と同盟を結んだ。それは与党の国民党が地方選で惨敗を喫した2週間後の事だった。

「我々は、マドリード市民の奉仕者だ。我々は市民の訴えを聞いて市政を運営したい」

カルミナは市議会にこう訴えた。そして議会の過半数が彼女への支持を公にした。

彼女はスペインにおける貧困に焦点を当てる。

そこでは多くの生命が危険にさらされている。最悪の危機は過ぎたのに。

カルメナは、言った。「私はジュリア(63才の女性)のような人々のために戦いたい」

カルメナはジュリアとプエルタ・デル・ソルの広場で出会った。ジュリアは1ヶ月300ユーロ(4万円)で生活していた。

市長の座を争ったのはエスペランサ・アギレ(63)だった。

選挙戦が白熱しても、金髪のカルメナは微笑を忘れず、冷静さを決して失わなかった。

彼女はある女性を非難した。その女性は2003年から2012年までのマドリード市長であった。そして市政の腐敗について見て見ぬふりを続けた。

その時さえもカルメナは冷静だった。

選挙中の討論会で、カルメナはこう発言した。

「エスペランサさん、私にはわからない。あなたはひどい危害を与え続けてきた。それなのにまだ市政を司ろうとする。それはなぜなのか」

スペインの首都の選挙は5月24日に行われ、アギレ派は21議席を獲得した。「インディグナドス抗議運動」をふくむカルメナ綱領派は20議席だった。しかし社会党がカルメナ支持に回ったことで、逆転が起きた。

カルメナは議会の信任を受けて正式に市長に選ばれた。議場に急に喝采が響き始めた。

 

前裁判官カルメナは独裁者フランシスコ・フランコの下で法的なスキルを習得した。彼女の司法技術は労働者の権利を守るためのものあった。それは初めから地位を築きあげるためのものではなかった。

しかし、「私の友人は私に話した。我々は、経験をつんだ多くの知恵を持つ人が必要だ。より良い世界のために戦うことが必要だ。がんばれと」

「任意拘留に関する国連専門調査委員会」のメンバーを務めた後、カルメナは、1981年に裁判官になった。その頃スペインはまだ強い「女嫌い」(misogynistic)の時代だったが、彼女は徐々にランクを昇って、最高裁判所判事にまでなった。

カルメナは、腐敗を根絶すると約束した。公共輸送機関を充実させると約束した。貧しい家族のための助成金を増加すると約束した。そして、市長の給料を45,000ユーロ(600万円)に半減すると約束した。

彼女の活動手段は自転車と公共輸送機関である。彼女はインディグナードス運動の呼びかけに応えようとしている。その運動は4年前、新しい政治的なモデルを求めてスペインの広場を占領した。

インディグナードス運動はこう叫んでいる。「政治家たちは我々の期待を裏切った。社会はもっともっと直接の民主主義をもとめる」。カルメナは言った。「それは新しいテクノロジーによって可能になるかもしれない」

カルメナは1944年2月9日、マドリードの実業家の家に生まれた。カルメナは、子供の頃から「より良い世界のために戦うこと」を誓った。

彼女はマドリードでの法律を学びながら、「フランコとの戦い」に加わり、1960年代に共産党に加入した。

彼女は、卒業後、労働法を専門とする法律事務所の弁護士になった。

1977年、フランコが死んで2年後に、事務所は極右の攻撃を受けた。この事件で同僚の何人かが殺された。

抗議政党ポデモスはカルメナの綱領「アオラ・マドリード」の選挙戦を支援したが、彼女は、極左翼のグループを批評することをしりごみしなかった

たとえば、ベネズエラ左翼政権が反対派の意見を抑圧し、もの言えぬ体制を作っていることである。

カルメナは自立している。そしてライバルを納得させると約束する。「変化」に対する有権者の渇望こそがマドリードに必要なのだと。

彼女は言う。「変化は、素晴らしいものになるだろう」と、

 

 

ギリシア国民投票でツィプラス政権が圧勝した。(Alexis Tsipras=Τσίπρας だからチプラスとは書きにくい)

マスコミは狼狽している。「一体この圧倒的大差をどう評価したらいいのだろう?」 と。

答えははっきりしている。見方を根本から変えなさいということだ。

サラ金業者の驥尾に付して「借金返せ」の大合唱に加わるのではなく、多重債務者を保護する立場に移りなさいということだ。生活保護の受給者に「お前が悪い」と糾弾するのではなく、とりあえず保護することを優先すべきだ。

いろいろあったとしても、とりあえず、緊急に、それが必要だ。

これまでのマスコミの評価には三つの問題がある。

ひとつはギリシアの国民目線の欠如だ。ギリシアの一般国民にしてみれば、この借金は道楽息子の作り上げた借金で、国民に直接責任はない。息子を捕まえて吐き出させればよいのだ。大体、道楽息子にカネを貸し込んだ方も悪い。これがふつうの常識だろう。

とにかく、7年間、国民は借金を払い続けてきた。いまこれ以上いじめたら死んでしまうくらい国民は困窮し、事態は切迫している。だから国民の大多数はツィプラスを支持したのだ。

マスコミはツィプラスを悪意に満ちた無責任な施政者と断じてはばからない。しかし、それは、ギリシア国民を「愚かで生きるに値しない人々」だと断じているに等しい。

そのことにいい加減に気づけよ、馬鹿者よ。

もうひとつは、「どうすれば事態を解決できるか」という主体者の立場だ。

この7年間に行われた「救済策」はことごとく失敗した。このままではギリシア人は野垂れ死にだ。「どうすればこれを救うことができるのか」、これが緊急の課題だ。この課題から目を背けることこそ、最悪の無責任だ。

「公務員天国」とか「脱税天国」とか、唾を吐きかけるのは良い。しかし彼らはすでに死ぬほどの「罰」を受けた。

いまさらに、死にかけているものを鞭打つことに何の意味があるのか。そしてその先に何があるのか。

そのことにいい加減に気づけよ、馬鹿者よ。

そしてもうひとつは、ギリシア問題をギリシア単独の問題ではなく、ユーロ危機の表現として考えることだ。裏返して言えば、ギリシアを救うことはユーロを救うことなのだ。スペイン、ポルトガル、イタリアひいてはフランスを救うことなのだ。ギリシアを救えなければ、いずれドイツ以外のすべての国は救えないことになるだろう。

ギリシアを切り捨てることは、ユーロがドイツのための通貨、無責任な通貨でしかないということを告白することだ。


最近の経過を通じて、私のブログへのアクセスも高まるかと思ったが、全然及びではない。

世間は冷たく無関心だ。

もう一度、リンクを張っておく。

欧州議会選挙をどうみるか 2014-05-30 10:47:21

欧州危機 金融危機からソブリン危機へ 2014-05-29 23:48:49

ギリシャ人いじめは間違っている 2014-05-29 22:33:42

ギリシャの若者の失業問題 2014-04-25 15:10:14

破壊的緊縮政策 2013-06-12 12:25:23

ユーロ圏失業率が12%を突破 2013-06-03 12:16:53

ギリシャ報道の明らかな誤り 2012-06-25 16:13:30

ギリシャ危機と青年 4 2012-06-19 13:41:44

ギリシャ危機と青年 3 2012-06-19 13:41:02

ギリシャ危機と青年 2 2012-06-19 13:40:06

ギリシャ危機と青年 1 2012-06-19 13:39:06

ギリシャ新民主党の「勝利」の意味 2012-06-18 23:27:09

ツィプラスとドイツ左翼党の共同声明 2012-06-04 17:22:10

フィナンシャル・タイムズがツィプラスを評価 2012-05-31 14:00:27

欧州でもっとも危険な男 ツィプラス語録 2012-05-31 12:58:47

ギリシャの離脱はありえない 2012-05-21 10:44:25

ギリシャ危機年表 2012-05-16 16:41:53

ギリシャの債務削減 2012-05-10 10:53:20

EU危機は破滅的危機ではない 2012-05-08 11:06:28

ギリシャ、何が“緊縮”されるのか 2012-02-22 16:22:01

ギリシャ危機が銀行に波及 2011-09-27 11:00:00

「ギリシャ支援」と言わないで欲しい 2011-07-26 14:07:52


反ナチ「抵抗」考  ――グラス・ルーツ的視点

という星乃治彦さんの文章があって、そこに下記のように記載されていた。


東西ドイツの研究に共通していた傾向は、その党派性が強い故に、グラス・ルーツとして「反ファシズム」をとらえるという発想が弱いことであった。

戦後西ドイツは戦後体制の「反ファシズム」の源流を、白バラ運動や四四年七月二〇日ヒトラー暗殺事件に求め、そこに、西ドイツという国のアイデンティティが確認していた。

(東西ドイツという)党派性が強いドイツの歴史叙述の中で、(左右の)全体主義(に反対という)理論の影響の下、西ドイツでは、保守派や社会民主党系の抵抗運動は高く評価されるのに対して、ファシズムと同列に論じられることが多かったコミュニズムの抵抗運動は冷遇された。

一方、旧東ドイツの「反ファシズム」言説は、戦後東ドイツの支配政党となったコミュニスト政党―ドイツ社会主義統一党の、それも指導者たちの支配の正当性と、指導性の根拠とされた。

グラス・ルーツの抵抗行為は日陰の存在であったし、民衆を主体と見なさない姿勢は、東ドイツで民衆レヴェルでの「過去の克服」をも表面的なものにした。

うまく「四つ目表」の形でまとめられている。

そのとおりで、何も付け加えることはない。


と言いつつ付け加えるのだが、基本は東ドイツの総括だろうと思う。

西ドイツの対象とするは、何もかもがすべて起きてしまってからの、終わってしまってからの運動だ。

ニーメラーの言葉に尽きるように、共産党、社会民主党、労働組合が非合法化されたとき、もう抵抗運動の母体は失われていたのである。

むしろ終戦間際の敗勢を背景とした厭戦運動に括られるべきものと言ってもいい。

基本的には的はずれだ。

第二に成功した抵抗闘争においては、フランス、イタリア、ユーゴ、ギリシャなど、どこでも共産党が主体をなしていた。それがドイツに限ってなぜ排除されなければならないのか、それは実態と乖離しているのではないか、という疑問だ。

第三に、上の疑問とも関連するのだが、抵抗運動に関わって犠牲となった人の名前を党派別に並べて見てはどうか、という疑問というか提起だ。多分圧倒的に共産党系の人々が多いのではないかと想像する。

ということで、東ドイツ側の総括を基本的に踏襲しつつ、

1.指導者の支配の正当性に収斂させる議論を打破すること

2.グラス・ルーツの抵抗行為にもっと光を当てること

3.ファシズムの災厄を世界にもたらした国の国民であるという事実を、もっと深刻に受け止めること

という3つの提起を受けて、さらに実証的研究を積み上げることが必要なのだろう。


ナチス関係の記事は下記の通り

ドイツ国内における抵抗運動の評価は、旧東独において「ナチ時代において首尾一貫して断固たる抵抗運動を敢行したのは共産主義者のみだった」というドグマへの批判とも結びついている。

ということになっているが、日本では逆に非共産主義者の抵抗ばかりが拡散して、共産主義者の抵抗運動については殆ど触れられないという、逆状況にある。

自分でネットをあたって年表を作成してみたが、残念ながら、共産党・社民党の非合法化のあと、戦争末期に至るまでほとんど空白となっている。(日本語文献の範囲内で)

前項の研究は、その間隙を埋めるものとしての意義がある。

 

1933年

1月30日 ヒトラーが首相に指名され、ナチ政権が成立。共産党は反社民党、対ナチ協調の立場から事態を静観。テールマンは「ナチスに政権を取らせよ。ナチスには政権担当能力などなく、そうすれば明日には共産党が政権を取るだろう」と語る。

2月1日 ヒトラー、議会を解散し総選挙に打って出る。

2月3日 ヒトラー、プロイセンにおけるあらゆる共産主義活動を禁止。議会が解散中なのを利用して、大統領緊急命令を連発。

2月17日 ゲーリング無任所相、左翼勢力に対して「必要とあれば容赦なく武力を使用すること」を警察に命じる。内相ポストをナチスが握っていたため可能になる。

2月24日 警察が共産党本部を立ち入り捜査。メディアが共産主義革命の恐怖を伝えるプロパガンダを大々的に展開。

2月27日 ドイツ国会議事堂放火事件。政府は共産党の犯行であるとして、ただちに「民族と国家防衛のための緊急令」を公布。共産党の解散と一斉摘発に乗り出す。この日のうちに4千人の共産党活動家が逮捕される。

2月 ベルリン大学講師で神学者のディートリヒ・ボンヘッファー、ラジオ放送でナチ党の「指導者原理」を批判。放送は強制的に中断される。ボンヘッファーは、後にヒトラー暗殺計画に連座し絞首刑となる。

3月3日 総選挙実施。共産党は非合法化され、すべての宣伝手段を奪われたにもかかわらず81議席を獲得。

3月 共産党のテールマン議長が逮捕される。11年にわたる拘束の後、44年8月に処刑。3月末までにプロイセンだけで1万人以上が逮捕される。

4月 ゲーリング、航空省内に「調査局」を設置。電話盗聴を専門とする機関。後に「赤い楽団」の根城となる。

5月 ナチが労働組合の建物を接収。

6月 ナチ、ドイツ社会民主党の活動を禁止。指導部(Sopade)はプラハで運動を開始。(38年にパリへ、40年にロンドンへ移転)

7月 職業官吏再建法が制定される。ユダヤ人の公職からの追放を目的とする。教会にもいわゆる「アーリア条項」が適用される。この後、教会内部で親ナチ派の「ドイツ的キリスト者」が優勢となる。

9月21日 ボンヘッファーとマルティン・ニーメラー、牧師緊急同盟を結成。後の告白教会に繋がる。ニーメラーはヒトラーの支持者だったが、教会からのユダヤ人追放政策に反対し、反ナチに転じた。


1934年

1月30日 レーム蜂起が発生。これを体制内の危機と見た共産党は抵抗運動を強化する。


4月22日 牧師緊急同盟が主体となり告白教会を結成。ロンドン赴任中のボンヘンッファーも参加する。カール・バルト起草による「バルメン宣言」が発表される。

1935年

10月 ドイツ共産党がブリュッセルで党会議を開催。①ファシズムの過小評価(左翼の過大評価をふくむ)、②社会民主党への主要打撃論の2つの誤りを自己批判。“統一戦線ないし人民戦線政府”が提起される。

 

1936年

8月 ボンヘッファー、ナチスに対する反対により、ベルリン大学から解任される。

1937年

7月 ニーメラーが逮捕される。終戦までの8年間をダッハウなどの強制収容所で暮らす。下記の詩で有名。

ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった
私は共産主義者ではなかったから
社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった
私は社会民主主義ではなかったから
彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった
私は労働組合員ではなかったから
そして、彼らが私を攻撃したとき
私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった


10月 ブレーメン近郊デルメンホルストの共産党組織が摘発され、首謀者のヴィルヘルム・シュレールスが逮捕される。その後終戦までに49名が殺害された。

1938年

10月 ルートヴィヒ・ベック参謀本部総長が退役。反ヒトラー抵抗運動の中心人物となる。ヒトラー暗殺計画では、ベックが新政府の国家元首に就任する予定。

黒いオーケストラ: ドイツ国防軍内部の反ナチス派将校グループ。ルートヴィヒ・ベックやハンス・オスターを中心とする。その政治姿勢は決して民主主義的でも平和主義的でもなかった(ウィキペディア)。

クライザウ・グループ: 将校グループと連携する保守派グループ。モルトケ伯爵が所有するクラウザーの別荘を拠点とした。

1939年

ドイツ共産党がベルンで党会議を開催。ヒトラー後の国家を、資本主義制度を前提とする「新しい民主的共和国」と規定し,そのプログラムが作成される。

1940年

 

1941年

 

1942年

6月 ミュンヘンの「白いばら」グループ、最初の反戦ビラを配布。主要メンバーはハンス・ショルとその妹ゾフィー・ショル、クリストフ・プロープスト、ヴィリー・グラーフ、アレクサンダー・シュモレルの3人の学生、およびクルト・フーバー教授である。

12月 ハルナック夫妻など知識人グループ、ソ連に情報を流したとして逮捕され、軍法会議で無期判決。さらにヒトラーの指示で死刑判決。50数名が処刑される。共産党スパイ説は否定されている。

42年 ハインツ・カペレが処刑される。カペレは13年生まれ。青年共産主義組織に入り、反ナチの宣伝活動を続けた。

 

1943年

2月 「白いばら」グループが摘発され、6人が死刑判決を受ける。(多くの情報あり、ここでは省略)

 

1944年

7月20日、黒いオーケストラによるヒトラー暗殺計画は失敗に終わる。ベックは逮捕されピストル自殺。

7月 事件に連座した歴史学者アドルフ=ライヒヴァイン(社民党員)も処刑される。

10月 親衛隊全国指導者ハインリッヒ・ヒムラー、「青少年の徒党撲滅」を命令。エーデルヴァイス海賊団などの反ナチス青年グループを摘発。

海賊団の一部は地下組織に合流し、脱走兵や逃げ出した戦争捕虜、他国から連行されて強制労働に従事していた人々、強制収容所から逃げ出した囚人などの支援を行う。

1945年

4月9日 ボンヘッファー、ハンス・フォン・ドホナーニ、ハンス・オスター、カナリス提督らが処刑される。

 

 

ベルリンの片岡特派員が続けざまに、重要な歴史事実の掘り起こしを行っている。
今回はナチス下ドイツでのレジスタンスについて。
これはドイツのレジスタンス研究家ギュンター・ウェーナーさんへのインタビューである。
ウェーナーさんはゲシュタポの資料に基づいて「ナチ独裁に抵抗した人たちの思い」を引き出している。
2002年には共同執筆で「ベルリンのレジスタンス人名辞典」を刊行している。ベルリンの話は、その後の東西冷戦と、\の分厚い蓄積の下層に沈み込んでおり、これまであまり知ることができなかった。
初めて知る事実がたくさんある。
1.レジスタンスの全体像
当時のドイツの人口は8千万人くらいですが、その内2%がレジスタンスに加わっていたと言われます。大都市ではもっと多く、ベルリンでは名前が分かっているだけで約2万人が参加しました。多い時には1ヶ月で3千人が逮捕されました。その内7千人が処刑されました。
すごい数だ。参加者数もすごいし、それが決死の活動だったことも分かる。
2.ハインツ・カペレの活動
ハインツ・カペレは1913年生まれ、ナチが政権をとった時に20歳ということになる。彼は青年のレジスタンス組織を作り活動した。
ハインツ・カペレのグループは、ヒトラーの演説がいかにウソに満ちているか、戦争が近づく危険性を訴えたビラを1万2千枚作り、工場や電車で配布しました。それは手書きではなく印刷したビラでした。印刷工場に働く仲間の助けがあったのです。
3.「社会労働党」グループ
この党は、33年にヒトラーが権力を掌握したあと、偽の解散宣言をし、その後地下で30ヶ所以上の拠点を持ち、36年まで活動しました。その後は多くの活動家がスペイン内戦に参加しました。
この小さな政党グループは、これまで殆ど知られていなかったが、最近になってウェーナーさんがゲシュタポの資料の中から偶然見つけたものだそうだ。
4.「赤いオーケストラ」グループ
これはより直接的にソ連と接触していた半軍事的組織、スパイ組織のようだ。
「赤いオーケストラ」とナチスから名付けられたグループは、ドイツ軍の攻撃計画や輸送計画をソ連に伝えていた。
70あまりの企業に抵抗組織を持ち、2台の戦車まで準備していました。メンバーにはラジオ局で働く女性や空軍大佐もいました。
5.市民的抵抗
もちろんキリスト教徒や普通の市民のレジスタンスもたくさんあった。
軍需工場で働いていた人の中には、銃弾工場でわざとさんを多めに入れて使いものにならないようにしたり、42年に出るはずだった新しい機関銃の開発を遅らせて、44年まで引き伸ばしたりした人たちがいました。
安倍晋三が機密保護法などで国民をがんじがらめにし、戦争立法で国民を戦争へとかきたて、憲法改正でファシズムの支配する「美しい日本」の再現を推し進めようとしているいま、このような危機は明らかに迫りつつある。
ということでは、これらの活動をたんなる昔話として語ることができない時代に、我々は突入しつつあるのかもしれない。

本日の赤旗に重い記事が載っていた。
ドイツの強制収容所での強制売春問題だ。
中心事実はこうだ。
男性収容者(彼らは収容所内の軍需工場の労働者でもあった)のために、収容所内に売春宿が造られた。
女性専用の収容所から女性が連れて来られた。女性は飢えと疫病のなかで死んでいくか、売春宿で働くかの選択を迫られた。
200人以上が働かされた。
平日は午前8時から午後10時まで、土日は終日働かされた。
男性一人に対して15分間、最大で1日15~16人を相手にした。
「強制収容所の売春宿」の著者ロベルト・ゾンマーさんとのインタビュー。ベルリン駐在の片岡特派員による記事だ。

感想を書くのもはばかられるほどおぞましい話だが、強制収容所の恐ろしいほどの非人間性という枠組みに括られるものであり、慰安婦問題とは別途に語られるべきものだろう。
「売春」という事象に思考が絡み取られてしまうと、事態の本質を見失う恐れがある。一方的戦争(侵略)という不条理な全体の中での、不条理な、非人間的な強制の一つとしての位置づけを忘れないことがもとめられる。

ポーランドについてのかんたんなお勉強

まずは地理から

面積は31万平方キロで、日本より少し狭い。ただほとんどが平野なので実際にははるかに広い。人口は4千万人弱だから日本に比べるとはるかにゆったりと暮らしている。

首都ワルシャワの人口は170万で札幌と同じ。南部の旧都クラクフが75万、旧ドイツ領ブレスラウ(現在はヴロツワフ)が63万、西部の町ポズナン(ドイツ名ポーゼン)が55万というところ。

GDPは約5千億ドル。一人あたり2万3千ドルとなっている。

略年表

10世紀 ミェシュコ1世が周辺部族を統合。ポーランド公国として認知される。現在のポーランド領とほぼ一致。首都はポズナニだった。ポーランドは英語圏の呼称で、自らはPolska と名乗る。

11世紀 ポーランド、王国となる。首都はクラクフに移る。

13世紀 ドイツ騎士団が異教徒征討を命じられバルト海沿岸に進出。ドイツ人の移住が進む。

13世紀 蒙古軍がポーランド南部に進出。ポーランド平原は略奪により無人の野と化す。ポーランドはいったん衰退。

14世紀 ポーランド=リトアニア連合王国が成立。ドイツ騎士団に対抗し、大学を設立しユダヤ人を積極的に受け入れるなど、発展を実現。

15世紀 連合王国がドイツ騎士団を壊滅に追い込む。版図は白ロシア、ウクライナ、ドナウ流域におよぶ。

16世紀 連合王国、オスマントルコとの闘いに敗北。ドナウ流域をトルコに割譲。

16世紀 ポーランド=リトアニア、「連合共和国」に移行。穀物輸出を背景に欧州最強最大の国家となる。立法権が議会(大地主)に与えられたため共和国と呼ぶ。

16世紀 クラクフ大学のコペルニクスが地動説を提唱。文化が隆盛を迎えポーランド・ルネッサンスと呼ばれる。

17世紀 スエーデンとの連合王国となり、首都がクラクフからワルシャワに移転。

17世紀 オスマントルコによる第二次ウィーン包囲。ポーランド軍がオスマントルコ軍を撃破する。

18世紀 国土が三度にわたり分割されたすえ、消滅(1795年)。

1807年 ナポレオンの支援を受けワルシャワ公国が創設されるが,ナポレオンの敗北により消滅。

1830年 ロシア帝国からの独立を求める蜂起。ショパンは、報せを聞いて革命のエチュードを書く。

1918年 第一次大戦後、国土が復活。名ピアニストのパデレフスキーが首相に就任(3年のみの半名誉職)。

1920年 ポーランド軍が成立直後のソ連に侵攻。逆にワルシャワ近くまで押し戻されるが、その後挽回し、停戦に持ち込む。

1939年 ドイツとソ連により侵略を受け、国家が消滅。

ソ連の占領下では、100万人以上がシベリアや中央アジアに強制移住。カティンの森では将兵2万人が虐殺される。

ドイツの占領下では、ユダヤ人300万のうち9割が殺害される。対独パルチザンの闘いでも数百万が死亡。

1940年 ロンドンでパデレフスキー(80歳)を首班とする国家評議会。

1944年 ロンドン亡命政府の呼びかけでワルシャワ蜂起。ソ連軍がこれを黙殺したため20万人が犠牲となる。

1945年 ポーランド人民共和国として「主権」を回復。その後ロンドンの評議会は排除される。

1980年 全国ストの中で自主管理労組「連帯」が結成される。

1981年 ヤルゼルスキ首相が戒厳令を布告。

1989年 民主化によりポーランド共和国となる。最初の選挙で統一労働者党は壊滅。

2009年 世界同時不況で、ヨーロッパでただ一国のみ経済拡大を続ける。

以上はウィキペディアより

勉強があっさりしたものだから、感想もあっさりとしたもの
1.ポーランドは妥協で成り立っている国
妥協と言っても「1+1/2」ではない。「ならぬ堪忍するが堪忍」ということになるが、その場合長期的視野が必ず必要だ。将来的にはこの妥協は無駄にはならないという見通しと、この妥協を無駄にはしないというしっかりした構えが必要になる。まぁ、それが活かされる場合もあるし、結局妥協に終わってしまう場合も少なからずあるとは思うが、シングル・イシューにならず総合的に見ていくことも必要だ。
それはたんなる弱者の知恵ではなく、発展期(例えば15~16世紀)においても妥協と寛容の精神が貫かれているところは見習わなければならないだろう。
2.中心国~周辺国関係の中の位置
ロンドンとパリがヨーロッパの中心であることは今も昔も変わりない。ただ経済的にはドイツに重心が移りつつあるのだが。
最初はドイツも周辺国であった。北ドイツはとくにそうであった。ポーランドはさらにその辺縁に位置づけられていた。そしてその奥に野蛮人の住む広大な土地があった。
ポーランド人はその野蛮人を征服するのではなく友好関係を結び、リトアニアと対等な同盟を結ぶことによって大きくなっていった。これはかなり商人的な発想である。そしてリトアニアはさらに東方に向けて旺盛な征服活動を続けた。
一方西方に対しては辺縁という位置をとり続けた。中心部の人口増に対応してヨーロッパの穀倉というスタンスをとり続けた。
その後モスクワに国家ができ、西方に進出してくると、「前門の虎、後門の狼」という関係になる。
このとき自分が中心から見てどれほど周辺的か、ロシアから見てどれほど中心的かの間合いを測る必要が出てくる。異なる相手との異なる形態での妥協が必要になる。
3.ポーランド王国没落の要因
これはとても難しいが、おそらく中世の没落と近代世界の出現に符丁を合わせているのであろう。プロイセンやハプスブルグの興隆と裏腹の関係にあるようだ。
基本的には農業国で、農産物の輸出で経済が成り立っていたと思われるから、欧州の農業をめぐる環境の激変があったのだろう。じゃがいもの新大陸からの導入あたりが原因なのか。
「民主主義の行き過ぎ」と書いてあるものもあるが、ナンセンスだ。
4.ポーランドがリーマン・ショックを免れた理由
これも政権の功績に帰す傾きがある(ウィキペディア)が、ナンセンスだ。
おそらくドイツの積極的投資がリセッションを上回ってもたらされたからだと思う。現に同じ時期、旧東ドイツは深刻な景気後退を経験している。ドイツの投資が旧東ドイツの頭上を通り越してポーランドへと向かったからだ。

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