鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

カテゴリ: 14 国際政治/ヨーロッパ

去年の後半あたりからずっと、国際連帯運動の結集点をもとめる試みが続いている。
ラテンアメリカも後退している。東アジアも先が見えにくくなっている。かろうじてヨーロッパ・アメリカでサンダース・コービン・メランションの運動が希望の星となっているが、国内事情を聞くとそう明るいばかりの話でもなさそうだ。
多分仕方がないのだろう。景気が悪くなると、どうしても目の前の話ばかりになってしまって、明日の世界を語るほどの高揚感は消え勝ちになる。
しかしこういうときこそ夢を語らなければならない。肝心なことは人々が夢で団結することだ。方法で団結する必要はない。

そう考えたのは、たまたまイタリア左翼の話が話題になったからだ。実は、戦後イタリアに行って居着いてしまって、左翼になった日本人というのは結構いるらしい。
実はそういう人とコンタクトがとれるというのでツァーを計画したのだ。しかしいろいろ検討していくうちに、果たしてそういう人たちと今でも思いを共有できるのかということになって、すこし情報を修してからにしよう。日本とイタリアのボルシェビストが傷口をなめ合うようなツァーをしても生産性ゼロだ。

数年前にイタリア共産主義再生運動の歴史をたぐったことがある。それはプッツンしていた。いま確認するとプッツンしたきりである。組織はずたずたになり活動家は四分五裂した。一方で民主党(旧共産党)の方はさらに右転落している。
一番はっきりしているのは、イタリア左翼はボルシェビズムに代わる新たな社会主義像を築き上げられなかったということだ。
おそらくそれはフランスにもスペインにもイギリスにも言えることであろう。だから私達がサンダース・コービン・メランション運動を語る際にはヨーロッパ・マルクス主義の再生、あるいはヨーロッパ社会民主運動の再構築と結びつけて語る以外にないのである。
さらに言うなら、我々みずからが日本での活動の経験をもとに社会主義運動構築へのプログラムを持ち、それと照合しながらヨーロッパの人々と語り合うことが必要なのだろうと思う。

以前あげていた年表からワイマール共和国成立史年表を外した残り部分です。
多分、同じ理屈で後半部分がヒトラー政権成立史として分離していくことになるでしょう。
とりあえず、それまでのつなぎとして…

1919年


19年2月

3.02 モスクワで第3インター(コミンテルン)創立大会が開かれる。

4.07 ミュンヘンでバイエルン州政府が倒され、スパルタクス団によるバイエルン・レーテ共和国が成立した。

5.01 ノスケ国防相がミュンヘンにフライコールを派遣し弾圧。レーテ共和国は崩壊する。このあとバイエルンは右翼の拠点となっていく。

6.20 ヴェルサイユ条約受諾をめぐり、民主党が連立を離脱。シャイデマン内閣は崩壊しバウアー内閣が発足。

6.28 ヴェルサイユ条約調印。その後多額の賠償金がドイツを苦しめる。

7.31 ヴァイマル憲法可決:賛成262票、反対75票、棄権1票

8.11 ヴァイマル憲法が公布される。大統領の権限の強い共和制、州(ラント)による連邦制、基本的人権の尊重が定められた。

11月 ヒンデンブルク前参謀総長が国民議会で証言。「敗戦は背後からの匕首のせい」と述べ、軍は敗北していなかったと主張。

 

1920年

20年3月

3月13日午前 カップ一揆が発生。ヴォルフガング・カップとエアハルト海兵旅団がベルリンへの進軍を開始する。

3月13日午前 エーベルト大統領は国軍に鎮圧を命じたが、陸軍統帥部長官ハンス・フォン・ゼークトは「軍は軍を撃たない」として出動命令を拒否した。

3月13日午後 カップは新政府樹立を宣言した。エーベルトはシュトゥットガルトに避難。ゼネストを呼びかける。

3月17日午前 カップが亡命して一揆は終結した。ゼネストを主導した全ドイツ労働組合同盟は責任者の処罰等を求め、ゼネストを続行。

3月17日午後 バウアー首相が退陣。ノスケも国防相を解任された。総司令官に就任したゼークトが軍の全権を掌握。

3月 ルール地方で暴動が発生。

6.06 最初の国会選挙。ヴァイマル連合勢力は退潮し、左派の独立社会民主党と右派のドイツ国家人民党やドイツ人民党が議席を伸ばす。

6月 社会民主党が政権を離脱。中央党と民主党と人民党の3党による中道右派連立内閣が成立。

10月 独立社会民主党、コミンテルンへの参加をめぐって分裂。左派は共産党に合流、右派は翌年社会民主党に復帰。

12月4日 ドイツ共産党がコミンテルンに加盟。コミンテルンは絶対服従を要求。指導者パウル・レヴィは更迭され、ハインリヒ・ブランドラーが書記長に就任。

 

1921年

3.08 連合国軍がデュイスブルク、ルールオルト、デュッセルドルフを占領。

3.20 ポーランドとの係争地帯であるオーバーシュレジエン地方の帰属をめぐる住民投票が行われる。ドイツ帰属派が多数を占めたが、ポーランド帰属派の「蜂起」を受けた国際調停により、ドイツ側に不利な分割が行われる。

3.23 ドイツ共産党、ザクセンやハンブルクで「中部ドイツ3月蜂起行動」を展開。コミンテルンのクン・ベーラ(ラーコシ・マチャーシュ)が指導し、中部ドイツのマンスフェルトを占領。軍によって数日後に鎮圧される。

3月 連合国によるロンドン会議。賠償額を1320億金マルクとするロンドン最後通牒を発する。支払い方式は、30年間にわたり年間20億マルクを払い、さらに輸出額の26%を天引きするという過酷なもの。

4.16 独ソ会談で、ソビエト政権の承認、独ソ双方の賠償・債務の放棄を定める。また軍同士による秘密協定も結ばれる。国内右派は一斉に反発。

5.10 ドイツ政府、ロンドン最後通牒を受諾。

6.24 独ソ協定に努力したラテナウ外相がコンスルによって暗殺される。政府は「敵は右側にいる」とし反政府活動への対処を始めた。

7.21 「共和国保護法」が成立。左右の過激派活動への取締りは強化され治安が回復。

7.29 ヒトラー、DNDAP党首となる。

8.29 バイエルンと政府との紛争。非常事態の布告。

10月 社会民主党に独立社会民主党の右派が合流した。

 

1922年

8月 インフレーション加速。

9月 ムソリーニのローマ進軍。

1923年

1.11 フランス・ベルギー連合軍、ドイツの賠償不履行を理由にルール地方に進軍。石炭やコークス・木材等の物資を接収して賠償にあてる。

1.11 ドイツ政府はフランスへの協力を禁止し、ストライキやサボタージュなどによる「消極的抵抗」を呼びかける。

8.12 「消極的抵抗」が、多大な犠牲を生む中で中止に追い込まれる。インフレは天文学的な規模になり、28%が完全失業者となり、42%が不完全就労状態となる。

8.13 シュトレーゼマンを首班とする大連合内閣が発足。「消極的抵抗」の打切りを宣言。全国に非常事態宣言。

10.10 ザクセンとチューリンゲンで社会主義政権樹立。ザクセンの社会民主党・共産党政府に対する中央政府の武力介入。バイエルンでも中央政府との紛争。

11.03 社会民主党、ザクセン、バイエルンでの中央政府の対応を不満とし、政府から離脱。

11.8 ヒトラーと国家社会主義ドイツ労働者党など極右派がドイツ闘争連盟を結成。ミュンヘン一揆を起こした。エーベルトは全執行権力をゼークト将軍に委任。

11.15 国有地を担保としたレンテンマルクへの通貨切り替え(デノミネーション)を行う。1兆紙幣マルクが1レンテンマルクとなる。これによりインフレの沈静化に成功した。

12月 イギリスとアメリカが賠償問題の解決に乗り出す。ドーズ委員会が設置された。

1924年

2.13 非常事態終結を宣言。

4.09 ドーズ委員会、連合国賠償委員会にドーズ案を提出。ドイツに8億マルクの借款を与え、一年あたりの支払い金額も緩和するもの。ドイツはこれを受諾。

5.04 第2回帝国議会選挙。社会民主党が敗北し、ドーズ案を「第二のヴェルサイユ条約」と批判する国家人民党と共産党が躍進。

12.07 第3回帝国議会選挙。ドーズ案の受け入れ後に景気は好転し、失業者もほとんど消滅したことから、ナチ、共産党ともに後退。

1925年

2月28日 エーベルトが死去、大統領選挙が行われる。右派の推すヒンデンブルク元参謀総長が160万票差で当選

7.14 フランス軍、ルール地区から撤退開始。連合国軍、デュッセルドルフ、デュイスブルク、ルールオルトからの撤兵。

10.5 ロカルノ会議が始まる。ヨーロッパにおける安全保障体制の構築を目指すもの。

 

1926年

4.24 独ソ両国の不可侵と局外中立を定めたベルリン条約が締結される。

9.08 国際連盟への加盟が満場一致で承認され、常任理事国となる。

12.10 シュトレーゼマン、ノーベル平和賞を受賞。

 

1927年

1.31 連合国軍事委員会、ドイツから撤収。

1928年

5.20 第4回帝国議会選挙:SPD、KPDの躍進。DNVPの議席大幅減少。

6.20 ミュラーを首班とする大連合内閣が発足。

8.27 不戦条約(ケロッグ-ブリアン条約)、15カ国がパリに集まり署名。

1929年

6.23 NSDAPがコーブルク市の政権を獲得。

6月 オーウェン・D・ヤングを委員長とする賠償金委員会、実質的な賠償金額の削減となるヤング案を提示する。

7.09 フーゲンベルクの指導下に「ドイツ国民請願全国委員会」(DNVP、鉄兜団、ナチ党の連合)が設立される。

11.25 ウォール街で株価大暴落。アメリカ資本の一斉引き揚げが始まる。

 

1930年

6.30 フランス・ベルギー連合軍、ラインラントから期限前に撤兵完了。

7.16 経済財政緊急令公布。帝国議会は緊急令を否決。大統領、議会を解散。

9.14 第5回帝国議会選挙。ヴェルサイユ体制の破棄を訴えるナチ党が第2党へ大躍進(12→107議席)

12.01 ブリューニング、緊急令によって財政経済政策を実施。

 

1931年

2月 失業者ほぼ500万人。

3.21 ブリューニング、ドイツとオーストリアとの関税同盟案を発表するが、フランスにより阻止される。

5.11 オーストリア最大の銀行クレディット-アンシュタルト(Kredit-Anstalt)倒産。フランスがオーストリアの資本を引き揚げたためとされる。これを機にヨーロッパ全土の経済に打撃。

6.05 第2次経済財政緊急令:公務員給与の引下げ、社会保障費と州地方交付金の削減。

6.20 フーバー大統領、西欧諸国とドイツに対する賠償と債務の支払いを一年間猶予すると宣言(フーバー・モラトリアム)。

7.13 ダルムシュタット・ナツィオナール銀行が倒産。政府はすべての金融機関の業務停止。

11月 バート・ハルツブルクで「国民的反対派」の集会が開かれる。

12.08 「鉄戦線」の編成(社会民主党、労働組合総同盟、労働者スポーツ協会、国旗団、黒・赤・金グループ)。

1932年

1月 コミンテルンから派遣されたドミトリー・マヌイルスキーは、「ナチスは社会民主党の組織を破壊するがゆえにプロレタリア独裁の先駆である」と述べる。共産党のヘルマン・レンメレは「ナチスの政権掌握は必至であり、その時共産党は静観するであろう」と述べる。

4月 大統領選挙。ヒンデンブルクは最多得票を獲得、2位にヒットラーが入る。

4月13日 国防相兼内相のヴィルヘルム・グレーナー、ナチの突撃隊と親衛隊に対し禁止命令。その後シュライヒャーの策動で失脚する。

4.24 各州選挙でナチ党上昇。

5.20 オーストリアでドルフス政権誕生。

5.30 グレーナーに代わり国防相となったシュライヒャー、ヒトラーと組んでブリューニング内閣を辞任に追い込み、盟友のパーペンを首相に据える。

7.20 プロイセン・クーデタ。パーペン首相はプロイセン州政府を解任して国家総督を置く。

7.31 第6回帝国議会選挙。ナチスが230議席を獲得し第1党となる。ブルジョワ政党の壊滅的後退。

8.13 ヒトラーが首相任命を要求するが、ヒンデンブルクは拒否する。

9.12 パーペン内閣不信任決議が可決、帝国議会解散。

11.06 第7回帝国議会選挙。ナチ党は後退(196議席)するが、依然として最大政党にとどまる。共産党がベルリンで投票総数の31%を獲得して単独第一党となる。

12.03 シュライヒャーはパーペンを辞職させ、自ら首相となる。パーペンはシュライヒャー打倒を目指すようになり、ヒトラーと組んでヒンデンブルグを説得。

1933年

1.04 ケルンでヒトラーとパーペンの会談。

1.30 ヒトラー内閣発足。

 

当初ワイマール共和国15年史という形で年表を作成し始めましたが、やっていくうちに興味が拡散してしまいました。ドイツの反戦からスパルタクスの反乱、そしてワイマール共和国の成立に至る過程が、それだけでめまぐるしいもので、とても単一の年表では語り尽くせなくなってしまうからです。

そこでこの間約3ヶ月間を「ワイマール共和国成立年表」として別建てすることにしました。

かつて学生時代は、これを「ドイツ革命史年表」として学んだものですが、今では「ソヴェート」とか「ボルシェビキ」に対する感覚が相当変わっていることもあって、「善・悪」の基準をできるだけ混じえずに俯瞰していくよう心がけたいと思います。

もちろん、歴史に対する進歩の思想は持っているので、ベタに事実を描きだすのではなく、ワイマールの進歩性、歴史的限界、さらにナチス支配を生み出したモノへの批判的分析はきっちりと踏まえていきたいと思います。

1918年

1月8日 ウィルソン大統領が14カ条を発表。大戦の講和原則と大戦後の国際秩序の構想を示す。

1.28 ベルリンで1月ストライキ始まる

3月3日 ブレスト・リトフスク条約が締結される。(ブレスト・リトフスクは一つの地名で、現在のベラルーシのブレスト) ヴェルサイユ条約締結によって消滅する。

3月21日 ドイツ軍が西部戦線に兵力・火力を集中し、一斉攻撃に出る。「カイザー攻勢」と呼ばれる。当初の1ヶ月で防衛線を突破しパリに迫るが、27万人の死傷を出し補給が困難となる。

8月8日 連合国軍が西部戦線で反撃に出る。総勢210万人のアメリカ軍が投入されたことで兵力バランスが崩れ、第2次マルヌ会戦とアミアン会戦によりドイツ軍が劣勢に陥る。

9月29日 ドイツ軍大本営(在ベルギー)のパウル・フォン・ヒンデンブルク参謀総長と参謀次長エーリヒ・ルーデンドルフが連名で、ウィルソン休戦提案の受諾を求めた書簡を提出。

10月3日 マクシミリアン(バーデン卿マックス)、帝国宰相に任命され、ウィルソンとの休戦交渉開始。

10月 マクシミリアン、アメリカ側の意向を受け、議院内閣制や普通選挙など専制政治からの脱却を目論む。交渉継続に反対したルーデンドルフを解任。議会多数派の社会民主党はマクシミリアン工作を支持。

10.29 マクシミリアン、カイザーの退位を求める。カイザーはこれを拒否しベルギーのドイツ軍大本営に立てこもる。

10.28 ヴィルヘルムスハーフェンの海洋艦隊で「提督の叛乱」が発生。イギリス艦隊への攻撃を企図する。これに抗議する水兵の叛乱始まる。

10.29 出撃命令を拒絶した水兵1千名が逮捕され、キール軍港に送られる。

18年11月

11.03 オーストリア・ハンガリー帝国が連合国と休戦。

11.03 キールで水兵の釈放を求めるデモと官憲が衝突。暴動状態となる。

11.04 キールで「労働者・兵士レーテ」が結成され、4万人の水兵・兵士・労働者が市と港湾を制圧する。レーテは政府が派遣したグスタフ・ノスケ(社会民主党員)を総督として認め、反乱は鎮静化する。

11.05 キールから出動した活動家により蜂起が拡大。リューベック、ハンブルク、ブレーメン、ヴィルヘルムスハーフェン、ハノーファー、ケルンがレーテの支配下に入る。

11.07 ミュンヘンで革命政権が成立してバイエルン王ルートヴィヒ3世が退位する。独立社会民主党のクルト・アイスナーが首相に就任。他にザクセン、テューリンゲンで社会主義政権が成立。

11月09日

午前 マクシミリアン首相、皇帝ヴィルヘルム2世の退位を独断で宣言。みずからも首相を辞し、社会民主党党首フリードリヒ・エーベルトに禅譲する。ヴィルヘルムはオランダに亡命。

午前 ヴィルヘルムの退位を知ったカール・リープクネヒトが王宮に乗り込む。バルコニーから演説し、「社会主義共和国」の宣言(一種の決意表明であろう)をした。

午後 社会民主党の幹部フィリップ・シャイデマン、議会前に集まった群衆にドイツ共和国の成立を宣言。シャイデマン発言はリープクネヒトによる「社会主義共和国宣言」を防ぐための独断であったと言う。

午後 ベルリンで終戦を祝うデモ。ローザ・ルクセンブルクなどの政治犯も釈放される。

夕方 社会民主党、臨時共和政府の樹立に向け独立社会民主党への連立を呼びかける。「革命的オプロイテ」も議会に結集し、同意形成のための大衆的働きかけを強める。

革命的オプロイテ: ベルリン市内の職場や工場の組合指導者のグループ。約100名で構成され、12の中核組織を持っていた。政治的には独立社会民主党の左派に属しており、スパルタカス団とも親戚づきあいしていた。

夜10時 社会民主党の呼びかけを受けた独立社会民主党、シャイデマン評議会への参加を決める。

11月10日

午前 社会民主党と独立社会民主党の両党から3名づつの委員からなる「人民委員評議会」が成立。共同議長(首相)にエーベルトと独立社会民主党のハーゼが就任。

午後5時 「政府合意」を受けて労働者・兵士評議会(レーテ)の大会が招集される。3千名近くの代表を結集。会議を主導した「革命的オプロイテ」は、シャイデマン評議会を承認しつつ、いっぽうで「大ベルリン労兵レーテ執行評議会」の結成とレーテによる権力掌握へと動く。

大ベルリン労兵レーテ執行評議会: 労働者レーテから社会民主党、独立社会民主党、半数ずつの12名。兵士レーテから12名の構成とされた。「人民委員評議会」との権限の境界は曖昧なまま残された。

午後 リープクネヒトがレーテの大会で挨拶。軍とエーベルト政府による反革命の危機を訴えたが、統一と団結の声にかき消されたという。

夜 エーベルトと参謀次長ヴィルヘルム・グレーナー(ルーデンドルフの後任)とのあいだに合意が成立。軍は新政府に協力することになる。

合意事項: 革命の急進化を阻止し、議会の下ですみやかに秩序を回復すること、そしてこれらの目的達成のための実働部隊を軍部が提供すること、政府は旧来の将校組織を温存すること。(おそらく会談そのものも合意事項も極秘であろう)

11.11 パリ北東コンピエーニュの森で連合軍とドイツの休戦協定が調印される。戦死者180万人、戦傷者425万人。

11月15日 労働組合と大企業の間に「中央労働共同体」協定が結ばれた。団結権の承認など資本家側からの譲歩と労使協調を内容とする。

11月 評議会政府、首都・王宮の治安部隊として「人民海兵団」を組織。クックスハーフェンから召集した水兵とベルリンの水兵部隊より編成される。組織内に急速にレーテが浸透する。

18年12月

12.06 ベルリンで共和国兵士がスパルタクス団のデモ行進に発砲し、16名の死者を出す。

12.16 全国労働者・兵士協議会の第1回全国大会がベルリンで開催される。ベルリンのレーテを掌握した急進派は、政治権力をレーテに集中するよう提案する。しかし全国レベルではレーテ集中派は100票にすぎず、国民議会を支持する社会民主党の代議員が350票を握っていた。

12.16 ハンブルク代表団、叛乱水兵の意志を代表して軍制の徹底的改革を要求。この改革案は圧倒的多数で決議された。

1.統帥権は文民のコントロールの下に置く(具体的には臨時政府かレーテ)
2.懲戒権は兵士評議会のもとに置かれる。
3.将校の選出権は将兵全員にある。階級章は廃止される。勤務外の上下関係は否定される。
水兵たちは将校団こそが反革命の脅威であることを熟知しており、ここでは譲らなかった。

グレーナー参謀次長との交渉に入るが、軍が難色を示したため先送りとなる。エーベルト・グレーナー同盟の存在は誰も知らなかった。

12月21日 レーテの全国大会、急進派の提案を否決。社会民主党と共和政府のもとめる国民議会の選挙を受け入れる。レーテの決定を受けた「人民委員会会議」政府は国民議会の選挙実施を決定。

12.23 王宮に居座った「人民海兵団」に対し臨時政府が退去を求める。海兵団はこれを拒否したため、政府は給料の支払いを停止。抗議のデモに軍が発砲しにらみ合いとなる。

12.24 政府軍が海兵団宿舎を砲撃、市街戦となる。海兵団と政府の間に和解が成立し戦闘は停止されるが、一連の事態を通じて政府と軍との密約が明らかとなる。

これとは別にベルリン警視総監エミール・アイヒホルン(独立社会民主党)が「保安隊」を組織するなど、ベルリンの権力構造は各派がしのぎを削る状況となる。

12.29 独立社会民主党、人民海兵団の弾圧に抗議し人民委員政府から脱退。ただし国民議会への参加は前提とする。

12.30 ローザ・ルクセンブルクらのスパルタクス団を主体にドイツ共産党(KPD)が結成される。「全権力をレーテへ」を掲げ、国会選挙のボイコットを決定。「革命的オプロイテ」派はボイコット戦術に反対し、共産党に加わらず。

モスクワから潜入したボルシェビキのカール・ラデックが、ためらうローザ・ルクセンブルクを説き伏せ、ドイツ共産党の結成に踏み切らせたと言われる。

 

1919年

19年1月

1.05 アイヒホルンが解任される。アイヒホルンはこれを不当としてベルリン警視庁に籠城する。

1.05 共産党とオプロイテは、アイヒホルンの罷免に抗議する大規模なデモを展開。武装した共産党系労働者が主要施設などを占拠した。

1.05 ミュンヘンでドイツ労働者党(ナチ党の前身)が結成される。

1.06 社会民主党、弾圧を知らせるビラ「決着の時が近付く」を配布する。

1.06 リープクネヒトやゲオルク・レーデブール(独立社会民主党委員長)は、政府打倒を目的とする「革命委員会」を設立。ルクセンブルクやオプロイテの指導者リヒャルト・ミュラーは蜂起に反対。

1.06 エーベルトはグスタフ・ノスケ国防相に最高指揮権を与えた。ノスケは旧軍人により「ドイツ義勇軍」(フライコール)を組織。

1.08 独立社会民主党の右派が、エーベルトと「革命委員会」との調停に乗り出す。話し合いは不調に終わり、多くの活動家は戦線を離脱する。

1.09 フライコールがベルリン市内で武力行動を開始。12日に武力対峙は終わり、スパルタクスの残党狩りに移行。

1.12 バイエルンで議会選挙。与党独立社会民主党は180議席中3議席にとどまる惨敗。

1.15 ローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトが虐殺される。

1.18 パリ講和会議が始まる。

1.19 国民議会選挙。投票率は82.7%に達する。社会民主党163、中央党91、民主党75、という議席配分となる。この3党で「ヴァイマル連合」を結成し、政権を握る。

19年2月

2.06 ヴァイマル国民議会が始まる。人民委員会議長のエーベルトが(暫定)大統領に選出。

2.10 国民議会、「暫定的ライヒ権力法」を採択する。国家の政体を議会制民主主義共和国とすることが確認される。帝国時代の支配層である軍部、独占資本家、ユンカーなどは温存され

2.13 3党連合によるワイマル連合内閣が成立。社会民主党のシャイデマンが首相に選出される。

オーストリア社会民主党 年表

前記記事のごとく、まずは各年表に散らばったオーストリア社会民主党関連の事項を一本化することにした。

転載元は下記の年表である。

2016年11月27日2013年03月30日  
2013年03月28日 

オーストリア併合後の歴史については扱っていない。1885年から1935年までの50年間に限られる。ウィーン学派との論争もふくまれる。「赤いウィーン」も包摂されることになるが、これは全体像が形成された後にエッセンスを取り出す形でまとめていきたいと思う。



1874年 オーストリア=ハンガリー二重帝国支配下の諸民族の社会主義政党がノイデルフル会議を開催。政党連合を結成。

1888年 政党連合がいったん解体した後、V・アドラーらの尽力で、ハインフェルト大会が開かれる。ラッサール派とマルクス派グループを中心に再統合され、社会主義政党連合としての「オーストリア社会民主労働党」(Sozialdemokratische Arbeiterpartei Österreichs)が結成される。結党時の党員数は15,000人とされる。


 ハインフェルト綱領: 労働者の経済的従属・政治的無権利状態からの解放、労働手段の社会化、労働者保護立法の制定、8時間労働制の実施、選挙法の改革など。


1893年 社会民主党と協調する自由労働組合連合が結成される。90年代に急速に発展した産業革命と結びついて勢力を拡大。
1893年 保守反ユダヤ的なカール・ルエーガーが諸団体を統合してキリスト教社会党を創立。

1895年 ウィーンの評議会議員選挙。キリスト教社会党が過半数を占める。市長にルエーガーが就任。

1897年 総選挙。普通選挙が一部導入された結果、議会に14議席を獲得。

1897年6月 社会民主党が改組。5つの民族別(ドイツ系・チェコ系・ポーランド=ウクライナ系・イタリア系・南スラヴ系)に組織された党の連合組織となる。

1899 社会民主党、ブリュン民族綱領を採択。ハプスブルグ帝国を諸民族の連邦に改組する構想を打ち出す。

1890年代 ウィーン大学に社会主義学生グループが形成される。カール・レンナーが指導し、マックス・アドラー、ルドルフ・ヒルファーディングが参加。オーストリア・マルクス主義の拠点となる。オットー・バウアーは1900年前後にグループに参加。若手理論グループの中核となった。


1900年
1907年6月 初の普通平等直接選挙が実施される。社会民主党は87議席を獲得する。
1907年 月刊『闘争』(Der Kampf )が発行を開始。オーストリア社会民主党の理論機関誌となる。バウアーら、次世代の「オーストロ=マルクス主義者」の理論家たちの活動拠点となる。

1907 バウアー、「民族問題と社会民主党」を発表。民族問題の専門家をして名を挙げる。
1911年 総選挙。社会民主党が最大会派となる。その後チェコ人組織はチェコ社会民主党として分離する。

1914年8月 第一次世界大戦が始まる。社会民主党が事実上の分裂。レンナー、V.アドラーら主流派は戦争政策を支持。「城内平和」路線と呼ばれる。また多民族国家としてのオーストリアの維持を主張する。少数派(F・アドラーら)は「カール・マルクス協会」を結成。無賠償・無併合の即時停戦を主張する。

14年11月 バウアー、第一次大戦に応召。ロシア戦線で捕虜となり、シベリアで3年間の捕虜生活を送る。

1917年

9月 バウアー、戦争捕虜交換によって帰国。左翼反対派の「カール・マルクス団」に加わる。執行部の戦争協力政策を批判し、プロレタリア国際主義の観点に立ち、無併合・無賠償の平和を要求。

11月 ロシアでボリシェビキ革命が発生。


1918年

1月 戦争の長期化に抗議する労働者がストライキ。ロシア革命を受け労働者協議会(レーテ)を結成。

4月 バウアーは左翼民族綱領を提起。民族自決権を容認する。

18年10月

10.03 社会民主党議員団、左翼民族綱領を採択する。スラブ人やラテン系民族の自決を認めると同時に、ドイツ人領域をドイツ系オーストリア国家に統合すると主張。

10.15 バウアー、ドイツ人領域の経済自立は不可能と考え、共和主義ドイツへの併合を提案。

10.16 皇帝カールがオーストリア民族連邦国家構想を発表。しかし帝国内各民族はこれを無視して独立に動く。

10.21 ウィーンの属する下エステルライヒ州の議会にドイツ系国会議員が結集し、ドイツ系国家の立ち上げを検討。キリスト教社会党は立憲君主制と民族連邦国家を主張。社会民主党のアドラーは民族連邦制の断念と民主ドイツへの併合、共和制の採用を訴える。

10.21 議員集会、ドイツ系オーストリア国家の創立、臨時国民議会の成立で合意。議長は国民党、キリスト教社会党、社会民主党の三者による共同制となる。普通平等選挙による制憲議会の立ち上げで合意。

10.30 共和国の要求を掲げる社会民主党のデモ行進。臨時国民議会は社会民主党のレンナーを首班とする国務会議(Staatsrat)を形成する。外相にはアドラーが就任。重病のため次官のバウアーが実務を取り仕切る。

10.31 ウィーンで社会民主党大会が開かれる。基調報告を行ったバウアーは、ドイツ系オーストリア国家の建設、民主共和制の採用、民主ドイツへの併合を提示。社会主義の目標を提示せず。

18年11月

11.03 オーストリア帝国が連合国と休戦条約を締結。旧軍に代わるものとして国務会議は人民軍の創設に着手。

人民軍: 赤軍とは異なり、旧軍の編成はそのまま残され、各大隊ごとに協議会(レーテ)が創設された。同時に国務会議から政治委員が派遣され配置された。政治指導のトップは国防次官ユリウス・ドイッチ(社会民主党員)が掌握した。

11.03 フリードレンダー(夫妻)らがロシア革命路線を支持するオーストリア共産党を結成。ヨーロッパで最初の共産党となる。

11.09 ドイツで革命が発生。これに基づきオーストリア併合論が影響力を増す。

11.11 皇帝カルル、国事への関与を放棄。事実上の退位を宣言。国務会議は民主共和国の樹立を宣言。

11.12 臨時国民議会、ドイツ系オーストリア共和国とドイツへの併合を決議。

この時点でドイツ系オーストリアは食料や原料、さらに製品の販売先を非ドイツ系諸州に頼っていた。ウィーンの労働者部隊が農村の食糧徴発を行ったため、農民の抵抗が強まる。

11.12 第一次世界大戦が終了。オーストリア=ハンガリー帝国が崩壊し、第一共和国が成立する。

 ロシア占領地域からの難民が大量に流入。中産階級は没落し貧困層に転落した。食糧不足、住宅不足が深刻化し、伝染病が蔓延する。

11.21 アドラー外相が死去。バウアーが新外相に就任。

18年12月

12月 社会民主党とキリスト教社会党による連合政権が登場。社会民主党のカール・レンナーが首相となる。社会民主党は左右両派が合同。

12月 「労働評議会」と呼ばれる労働者による公的な合議機関が発足、8時間労働制や雇用保険制度が導入される。

12月 連合国のドイツ系オーストリア救護委員会が発足。アメリカの食料品がウィーンに流入。またシレジアの石炭も連合国の分配と流通により可能となる。

1918年 オーストリアにもボリシェビキ型の共産党が結成される。その後弱小政党にとどまる。

1919年

19年1月

1月 バウアー、党機関紙に『社会主義への道―社会化の実践』を発表。ボリシェビキ革命を批判し、政治革命と社会革命とは異なると主張。生産の計画化、組織化を中軸に据える「産業社会化」を社会主義への道として提起した。産業社会化の鍵となる「利害関係者による三者管理協議会」の提言は、革命ロシアの国民経済会議決定(18.5)の影響を受けたものとされる。

19年2月

2.09 共産党が第1回大会。社会民主党の急進派、ロシアから帰還した捕虜グループが加わり、党員数3千人を数える。「すべての権力をレーテ(ソヴェートに相当)へ」とし、レーテ独裁をもとめる。

2.16 制憲議会選挙が施行される。社会民主党は全投票数の40.8%を獲得して69議席を占め、この年の党員数は332,000人に達する。

2.19 リンツのレーテ(労働者協議会)大会、全国レーテ会議の招集を要請。

2月 バウアー外相、フランスの強硬な反対を前に、対独合併策をいったん保留。

19年3月

3.02 ハンガリー共産党が革命を起こし、協議会(レーテ)共和国が成立。ポラーニはプロレタリアート独裁の時代錯誤を批判する。

3.21 ハンガリー新政府のベラ・クーンはオーストリアに支援を要請。バウアー、諸般の事情と力関係を理由にハンガリー政府の要請を拒否。

3月 レンナーはグラーツ大学教授シュンペーターを財務大臣に招聘。当初は熱心な社会化論者であったが、生産性原理と効率性原理を強調するようになり政権と袂を分かつ。

バウアーのシュンペーター評: 彼は、革命の初期にはボルシェヴィズムに媚を呈し、社会民主党の社会化政策が積極的かつ急進的でないとしてしばしば反対した。しかし、やがて彼は完全に方向転換した。

5月4日 ウィーンの市議会議員選挙が行われ、社会民主党が絶対多数を獲得する。社会民主党党首のヤーコプ・ロイマンが市長に就任。



ウィーンの住宅事情は劣悪で、郊外では数千世帯が違法に立てた小屋に住み、自給自足の生活を送っていた。ウィーン市行政はこれらの家族を支援することからスタートする。


6月2日 オーストリアあてに講和条約の草案が示される。工業地域の多くが連合国に割譲されるなど、厳しいものとなる。

6月14日 共産党による蜂起計画が発覚。指導者が一斉逮捕される。この頃オーストリア共産党は4万人に党員が拡大。

7月 バウアーが外相を辞任。

8月 ハンガリー・レーテ共和国が崩壊。ポランニはウィーンに亡命。

9.10 草案より条件緩和されたサンジェルマン条約が批准される。ドイツへの併合は禁止される。

10 第二次連合政権が発足。引き続きレンナーが首相に就任。

11 労働者協議会と兵士協議会選挙。社会民主党急進派が「協働団」(SARA)を結成しかなりの支持を集める。

19年 バウアー、「レーテ独裁か民主主義か」を発表。レーテ独裁が客観的諸条件を無視した冒険主義であることを訴える。

 

1920年


6月 総選挙。社会民主党は大幅に後退し政権から離脱。社会化の動きは相次いで挫折する。

5月 第3回労働者レーテ全国大会。社会民主党はSARAの要求を入れ、連合政権より脱退する。

11月 社民党大会。バウアーら指導部はSARAを追放。

20年 フォン・ミーゼスの「社会主義共同体における経済計算」が発表される。社会主義経済では「市場」がないため、需要と供給の均衡が定まることがない。したがって、資源配分が恣意的になり破綻する、というもの。これを機に「社会主義経済計算論争」が始まる。

保守のキリスト教社会党の右傾化が進む。連合政権は崩壊し、社会民主党は野党に転落。ウィーンだけが残された牙城となる。

20年 バウアー、『ボリシェヴィズムか社会民主主義か』を発表。レーニンとボリシェヴィキを「専制的社会主義」として批判する。これに代わるものとして、全人民の経済的自治を基盤とする民主的な社会主義を訴える。

 批判を加えられたレーニンはバウアーを「博識なばか者」と酷評した。しかし、大テロル後の1937年にもなおバウアーは語った。「われわれは、ソ連邦における社会主義を信ずる。現にあるソ連邦ではなく、未来のソ連邦を 信ずる」 


1921年

1月 共産党第4回大会。社会民主党を排除されたSARAが共産党に合流。

オーストリア社会民主党を中心にウィーン・インターナショナル(いわゆる「第二半インターナショナル」)が設立される。第二インターとコミンテルンの分裂を調停し、社会主義者の国際組織の再統一をめざす。レーニンはこれを激しく批判。2年後には第2インターに吸収され消滅。
21年 ウィーン市によるジードルング計画がスタート。ジードルングは家庭菜園付きの郊外型戸建住宅。
1922年
 5月 ザイベルが首相に就任。国際連盟を仲介者として西欧各国に資金援助を申し入れる。オーストリアは,すでに第一次大戦以前から,慢性的な資本不足に悩まされ,金融的に外国に依存していた。
10月 ジュネーブ議定書が取り交される。イギリス,フランス,イタリア,チェ コが3千万ポンドの借款を提供する。列強の圧力を受け、労働者階級との徹底した対決路線をとる。


1923年

保守派が「護国団」(Heimwehr)と呼ばれる準軍事組織を組織。社会民主党はこれに対抗して「祖国防衛同盟」(Schutzbund)を発足させた。

23年 バウアー、「オーストリア革命」を発表。「封建制から資本主義へは長い移行過程をへなければならなかった。同様に,資本主義から社会主義への途上でも,人類は一連の長い革命的過程を要するだろう」
23年 市営集合住宅の大量建設が始まる。この年のウィーンの失業率は11%(24万人)を超える。

1924年

ウィーンに住む画学生ヒトラー、「我が闘争」を発表。多民族都市ウィーンに憎悪心をいだき、ドイツ民族至上主義と反ユダヤ主義を煽る。
24年 フロイトがウィーンの名誉市民に選出される。アドラーは社会民主党の社会教育に尽力する。

1925年

25 社会民主党、農業綱領を発表。近代的農業技術を前提とする小農保護政策を前面に打ち出す。

25年 ウィーン市庁、カール・マルクス・ホーフなど6万以上もの大規模な近代的アパート群の建設に乗り出す。公共住宅の建設費は、独自の州法で定められた住宅税や奢侈税により賄われ、賃貸料は勤労者世帯の収入の4%程度に抑えられる。

 市議会有力者は、「我々が若者向けの施設に投資することで、刑務所に金を使わなくて済むだろう。妊婦や新生児のケアに投資することで、精神病院に金を使わなくて済むだろう」と発言している。


1926年

クーデンホーフ=カレルギーの提唱で、ウィーンで第1回パン・ヨーロッパ会議がひらかれる。共通通貨、均等関税、水路の共用、軍事と外交政策の統一を基礎とするヨーロッパの連帯をうたう。

26年 社会民主党、リンツ綱領を採択。リンツ綱領を採択。「赤いウィーン」での実践をもとに、議会主義戦略を定式化。「改良主義とボリシェヴィズムの間の第三の道」を探る。

①破局的なカタストローフの結果としてではなく、目標を意識した労働者の収穫としての社会主義の実現を目指す。②「赤いウィーン」での実践をもとに、議会主義戦略を定式化。民主制に依拠して則法的に政権を獲得する。

ただしブルジョワジーが反革命を起こした場合、国内戦により国家権力を掌握することも確認される。

1926年 バウアー、『社会民主主義的農業政策』を発表。ボリシェヴィキの農業政策を酷評、「農民の収奪を考えるのは愚か者だけだ」と主張する。


1927年

初頭 右翼メンバーが、対抗デモのに参加した退役軍人と8歳の少年とを射殺。

7月 射殺犯3人に無罪判決。これに抗議するデモが各地に波及。

7月15日 「7月15日事件」が発生。ウィーンで労働者デモ隊が警察を襲撃。89人が死亡。その後の弾圧により社会民主党の勢力は後退を余儀なくされる。

1930年

世界大恐慌がウィーンにも波及。

1931年

4月 州議会選挙が実施される。保守派内部の地殻変動。キリ スト教社会党,大ドイツ人民党や農民同盟は得票を減らし,ナチスが大躍進をとげる。
5月 クレジット・アソシュタノレト銀行が破産。不況に加え通貨危機に陥いる。


1932年

7月 列強の借款を定めたロ ーザンヌ議定書が調印される。債権者の政治干渉が強まり、労働者へのしわ寄せが強まる。

1933年

1月 ドイツでナチスが政権を握る。間もなくドイツ共産党に対する大弾圧が始まる。

3月4日 エンゲルベルト・ドルフース首相(キリスト教社会党)、議会の混乱を理由に議会の機能を停止。戒厳令が公布され、祖国戦線の名のもとに共産党もナチ党も禁止される。

 ドルフースはファシストというよりオプス・デイ(キリスト教原理派)に近い。しかしナチスのオーストリア併合に抵抗しなかった、という点ではファシストと同列である。

3月7日 ドルフスの逆クーデター。第一次大戦時の戦時経済立法権に基づいて統治することを宣言。連邦大統領,キリ スト教社会党,郷土防衛運動,企業家団体,カトリック教会などがこれを支持。


9月 社会民主党、党が禁止されるなら武力蜂起すると決議。
33年 ウィーンの失業率が26%(56万人)に達する。

1934年

2月 ドルフス政権と「護国団」による挑発が引き金となり、「2月12日内乱」が発生。社会民主党および「共和国防衛同盟」が、リンツ、ウィーン、グラーツなどで蜂起する。4日後に敗北。

2月 ドルフース政権と「祖国戦線」の独裁に移行。社会民主党は解散処分を受け、ウィーンの社会民主党市政も終焉した。バウアーら指導部の一部は国外に亡命して活動を続ける。
5月 「五月憲法」が制定される。選挙に基づく制度はすべて廃止された。

34年 ドルフース、ナチのテロリストにより暗殺される。
34年 実質賃金は大恐慌前に比べ44%の減少をもたらす。

いささか持て余し気味で困っている。
これまであまり材料がない中で、いろんなところから切れ端を拾ってきては継ぎ合わせるという形で「赤いウィーン」年表を作ってきたのだが、上条勇さんの論文を見つけてしまったためにバランスが取れなくなってしまった。
まずとりあえずは論文の中心内容である大戦間のオーストリア社会民主党の歴史をテーマに、別途年表を起こしてみようと思う。

これはおそらく「赤いウィーン」前史と一本化して行くことになると思う。

そのうえで、かなり雑然となってしまった「赤いウィーン年表」を、ウィーンの動きそのものにシボり込む形で整理したいと思う。

そこで少々扱いに困るのがカール・ポランニーのところに書き溜めたハンガリーとブダペストの歴史である。

とりあえずはそのままにしておいて、「ポランニーを知りたい人のためにはオーストリア社会民主党の年表も見てください」、みたいな扱いにするしかないだろうと思う。

上条さんの論文を読んでみてわかったのだが、これまでポランニーのオリジナルの議論と思っていたものが、かなりオットー・バウアーとオーストリア社会民主党の所説を下敷きにしたものだということが分かった。

つまり、ポランニーの言っていることはかなりの程度までウィーンの論壇では共通の話題であったということである。しかもバウアーの議論はもっと前、カール・カウツキーの所説を発展させたものだということが分かってきた。

こうなると、どうも最初からやり直さなければならないということになりそうだ。

もちろん私にはもはやそれだけのガッツもないし、月日も残されていないだろうから、誰かが引き継いでくれるのを期待するばかりだ。





 

1945年4月 

4月半ば ソビエト軍がベルリンに突入、中心部へ向け侵攻。ヒトラーは南部ベルヒテスガーデンへの疎開案を拒否。ベルリンの総統地下壕を最後の拠点と定める。

4月20日 総統誕生日。ヒトラーは国防軍最高司令部と政府閣僚の避難を許可。ドイツ軍の統帥を海軍総司令官カール・デーニッツ海軍元帥に委任した。デーニッツはプレーン(Plön)の海軍総司令部に移り執務開始。国防軍最高司令部のカイテル元帥、ヨードル上級大将らもプレーンに向かう。

4月21日 空軍総司令官ゲーリング、国防軍最高司令部・陸軍総司令部の主要メンバーはヒトラー総統専用のベルクホーフ山荘のあるオーバーザルツベルクへ疎開。

4月23日 軍中枢に続き、閣僚もプレーンに移動。プレーン近郊のオイティンで閣僚会議を開催。

4月23日 連合軍がポー川を突破。ムッソリーニはミラノからスイス国境のコモに逃走。

4月23日 ゲーリング、ヒトラーに国家指揮権を移譲を迫る。ヒトラーはゲーリングを全てのポストから解任。さらに一時監禁される。ヒトラー自殺後に解放される。

4月27日 ムッソリーニ、コモでパルチザンに逮捕される。 即決裁判により処刑される。 遺体はミラノ市のロレート広場に吊るされた後、無記名の墓に埋葬される。

4月27日 ヒトラーはゲーリングを全てのポストから解任。さらに一時監禁される。ヒトラー自殺後に解放される。

4月28日 早朝 SS全国長官ヒムラーが密かに進めていた和平交渉が失敗。その秘密がBBC放送で全世界に公表される。ヒトラーは激怒しデーニッツを後継者に指名、ヒムラーの解任と逮捕を命令する。

4月30日am 海軍総司令官カール・デーニッツ元帥が大統領(総統ではない)に指名され、新たな政府を組織した。デーニッツはヒムラーと会見し、ヒムラーが解任されたことを告げるが逮捕に至らず。

4月30日3pm ヒトラーが総統地下壕の一室で自殺。ボルマンを遺言執行人に指名。この時ソ連軍は地下壕から500メートルまで迫っていた。

4月30日深夜 ボルマンら、総統地下壕を脱出。その後行方不明となる。

1945年5月

5月1日 0am ヒムラーとデーニッツの2回目の会談。ヒムラーは首相職を要求したが、デーニッツはすでにヒムラーが連合国から交渉者失格と通告されているとして、これを拒否。

5.01 午後 ゲッベルスとボルマンの共同署名になるデーニッツあて電文が到着。ヒトラーが自殺し、デーニッツの大統領就任が発効した。(このあたりやや事実が錯綜)

5.01 8pm ゲッペルス夫妻、子供を毒殺したあと自決。

5.01 10pm デーニッツ、ハンブルク放送を通じて演説。ヒトラーから国家元首と国防軍最高司令官としての職責が託されたことを明らかにし、「英、米、ボルシェヴィズムと戦い続ける」と表明。「押し寄せる共産主義たちによる破滅からドイツ人を救うこと」を最大の任務と位置づける。

5.03 デーニッツ、クロージク財務相を閣僚首班に指名。フレンスブルク郊外の海軍士官学校に内閣を置く。

5月4日 西部戦線のドイツ軍が全面降伏する。

5月5日 ミラノのドイツ軍C軍集団が正式に降伏。イタリアの戦闘が終結。

5月5日 プラハ蜂起が発生。翌日にはソ連軍も到着。

5月6日 デーニッツ、ヒムラーら生え抜きのナチ幹部を解任。連合国との交渉に備える。

5月6日 デーニッツはドイツ軍作戦部長アルフレート・ヨードルに、連合軍に対する国防軍の降伏文書に署名する許可を与える。ヨードルがフランス国内(ランス)の連合国遠征軍総司令部に赴き、連合軍への降伏を交渉。

5月7日 48時間の猶予を得たドイツ軍は、西方総軍指揮下の各軍に対して西への脱出を命令。 デーニッツは西方での投降は受け入れ、東方では戦闘を継続し市民や兵士の避難のルートと時間を確保しようとつとめた。

5月8日 連合国軍司令官アイゼンハワーとヨードルが無条件降伏文書に調印。文書は英文のみで、ランスの連合国遠征軍総司令部で調印式。

5月9日 ベルリン郊外(カールスホルスト)の赤軍司令部で、カイテル元帥らドイツ代表が降伏文書を批准。こちらの文書は英・ロ・独文よりなる。旧ソ連諸国では5月9日が対独戦勝記念日となっている。

5月13日 ソ連軍はすべての進撃を停止。

5月14日 スロベニアでパルチザンとドイツ国防軍・クロアチア独立国軍の戦闘。翌日、ドイツ軍が降伏して戦闘が終了。

5月20日、ソ連政府はデーニッツ政府がどんな権力を持つことも許さないと表明。

5月23日 英軍がフレンスブルクの政府施設に侵入。アイゼンハワー命令に基づき、政府の解散とすべての要員の逮捕を執行。デーニッツらフレンスブルク政府の閣僚が逮捕され、ドイツ政府は解体・消滅する。

6月5日 連合国軍によってベルリン宣言が発令され、ドイツの中央政府消滅と米英仏ソ四国による主権掌握が発表された。


EUはどこへ行くか

イギリスの離脱、フランス大統領選での熱い論戦が示すように、EUがどこへ行くのかは重大な問題となっている。

そのEUの最高機関である欧州議会が開かれている。13日にユンケル委員長が施政方針演説を行い、翌日から討議が始まった。

ユンケル演説の骨子は以下の通り。

1.EUはギリシャの債務問題や難民流入、ユーロ懐疑派の台頭という危機を経験した。しかしEUは「打ちのめされ、傷ついた」状態から回復しつつある

2.経済成長が再開した。「欧州に流れが戻った。絶好の機会が訪れている」

3.すべての加盟国に訴える。ユーロ通貨圏や他のEU機関に参加しよう。ユーロはEU全体の通貨となるべきだ。

4.日本とEPAで合意に達した。米国とのFTAも交渉を加速させよう。対中国ではインフラやハイテク製造業、エネルギー分野における欧州企業買収を制限し戦略的利益を守る。

5.常任のEU財務相を置く。欧州安定メカニズム(ESM)を拡充し欧州版国際通貨基金(IMF)の創設を検討する。


討議の中で明らかになったのは、雇用の問題、富の不平等、福祉・貧困対策、労働条件などで問題が山積しているということであり、その根底にあるリーマン・ショック後10年に渡る緊縮政策の是非だ。

この間の緊縮政策は結局、多国籍企業の利益に沿ったものでしかなかった。

欧州では1億2千万人が貧困に陥っている。失業者は2千万を超えている。これは緊縮政策の結果であり、まさに「欧州の失われた10年」となっている。

「労働者は雇用を脅かされ、農家は農産物価格の低迷で市場から締め出され、失業者は放置されている」(欧州統一左翼)

「労働者は労働力柔軟化政策のもとで、長時間労働、劣悪な労働環境、低賃金で働かされている。これが社会的ダンピングとなって、さらに負の連鎖を引き起こしている」(欧州統一左翼)

これらの事態の原因のすべてがEUにあったのか、各国政府が担うべき責任は分からない。(ユンケルはルクセンブルクの首相だった時、アマゾンと租税優遇措置を取り決めた。この件については、現在も欧州議会税制特別委員会が調査を続けている)

しかしはっきりしていることがある。たとえその原因の多くが各国政府の責任であったとしても、それを救うためにEUは作られたはずだ。

少なくとも犠牲を助長するような政策であってはならないはずだ。

これらの点で、EUがその存在意義を問われる状況はこれからも続くことになろう。
EUの存在意義を欧州共同防衛というような内容に変質してはならないはずだ。それは多国籍企業のためのEUに変質するときの隠れ蓑にすぎない。


フランスの政治-かんたんな紹介

1.フランスの政治の歴史

フランスでは1789年にフランス大革命が起こりました。革命派の人々はルイ16世の王政を倒し、共和制を宣言しました。

それは「自由・平等・博愛」を宣言しました。これはフランスばかりではなく、現代の民主主義の精神的基礎となっています。

この考えはアメリカにも受け継がれ、日本の憲法もその流れのもとにあります。

自由の女神

ニューヨークの「自由の女神」はアメリカ独立を祝してフランスが送ったもので、アメリカの民主主義のシンボルとなっています

フランスは進歩と文化の中心地となりました。文学・絵画・音楽などの世界で、パリは世界の芸術の首都となりました。

そのフランスも、19世紀の後半にはアフリカ・アジアに植民地を抱える帝国主義の一国となります。例えばベトナムも半世紀にわたりフランスの植民地支配に苦しめられました。

しかし、ドイツでナチが政権を握った時、フランスでは「人民戦線」が政権を掌握し、庶民のための多くの改革が成し遂げられました。

バカンス(夏休み)という制度もこの時のものです。

人民戦線
1940年、フランスはナチス・ドイツに占領されてしまいました。しかしフランス人の心は占領されませんでした。芸術家をふくむ多くの人々がレジスタンス(抵抗)に立ち上がり、命がけで祖国と民主主義を守りました。
レジスタンス
レジスタンスのメンバーであった彼は、ナチスに捕らえられ銃殺される前に微笑んだという。 

第二次大戦後は、国内の経済荒廃に加えベトナムやアルジェリアなどの植民地を失い苦境に立たされますが、依然として高い文化的プレステージを背景に強い影響力を保ち続けています。

政策的にはアメリカ主導のグローバリズムとは一線を画し、ドイツとの共同による国際経済新秩序の形成を目指してきました。

国内的には労働者・農民の発言力が強く、二度にわたり社会党が政権を握るなど左翼色が濃いのが特徴でしたが、リーマン・ショック後の長引く不況の中で企業よりの政策が強まっています。

それに対する批判が左翼の方向には向かわず、極右の排外主義に傾いているところに、目下の危険があるといえるでしょう。
こういう状況の中で2017年の総選挙が行われました。
おおかたの予想では社会党政権の地滑り的大敗北、左翼勢力の後退、極右勢力の躍進、場合によっては「国民戦線」の政権就任というものまでありましたが、その中で左翼のメランションが予想外の健闘、「国民戦線」の挫折という結果となりました。
この中でとりわけ目立ったのが若者の決起でした。その原因は何か、若者の政治回帰はどのようにして実現したのかがとりわけ興味深いところです。
そのあたりが今回のお話で聞きたいところです。


サンダース・コービン・メランション現象と連帯運動

以下は日本AALA総会での発言を補強したものである。

1.3つの選挙に共通する3つの流れ
この1年の間に欧米では大きな動きがありました。アメリカの大統領選挙、イギリスの国会議員選挙、フランスの大統領選挙の3つです。イギリスの国会選挙はその前のEU離脱国民投票がセットになっています。

選挙の結果は多くの識者により論じられていますが、私はAALA連帯運動の立場から考えてみたいと思います。

選挙には3つの大きな流れがありました。

一つはアメリカのトランプやフランスのルペンなど反動的な扇動政治の台頭です。これらはメディアによってポピュリストと一括されます。イギリスの離脱派にも似たような傾向がありました。

もう一つはアメリカのサンダース、イギリスのコービン、フランスのメランションらが打ち出した、富裕層の支配に反対し国民主権の政治を目指す流れです。

第三は、富裕層を地盤とし、“1%のためのグローバリズム”を標榜する既成政党が急激に弱体化するという流れです。
3つの流れはいずれも重要なものですが、長期的に見れば、一番は富裕層の政党が影響力を失いつつあることでしょう。

これらの流れが全体として意味するのは、富裕層の超国家的支配を拒否し、もういちど国民本位の政治に立ち帰ろうという国民の意識変化です。

それは国家・国民の復権と経済主権の回復を意味するので、反グローバリズム、新しい民族主義とも言うべき動きです。そして、途上国の民族的要求と根本において通じているものです。
2.良い民族主義と悪い民族主義

民族主義には良い民族主義と悪い民族主義があります。悪い民族主義は「排除する民族主義」です。彼らは植民地帝国だった「古き良き世界」に戻ろうとします。世界の人々を除け者にし、弱者をいけにえにしてみずからの地位を守ろうとします。
しかしそれは正しくないだけでなく実現不可能です。その先には未来はありません。だから一時的にそれに従った人々も、いまでは急速に離れつつあります。イギリスでEU離脱をシングルイシューとして躍進した政党はもはや影も形もありません。

これに対して、良い民族主義は国民主権、とりわけ経済主権を侵しているのが富裕層の超国家的支配であることを知っています。弱者も同じ被害者であり、彼らと敵対しても問題は解決しないことを理解しています。

また当面する困難の多くが、自国のみの力では解決できないことを知っており、諸国民との共同が必要であることを知っています。

それは連帯する民族主義であります。その流れが急速に先進諸国で力を得つつあることが、今回の3つの選挙で示されたのではないでしょうか。
3.選挙が指し示す今後の方向
富裕層のためのグローバリゼーション反対、国家と国民の経済主権を守れ、国際経済関係に公正なルールを、平等互恵・貧困と無知を撲滅する国内及び諸国関係の構築を!

というスローガンが今後打ち出されていく必要があるのではないでしょうか。

“もう一つの世界は可能だ”

正義と友愛にもとづく諸国民の連帯万歳!

三大選挙の評価については、下記の記事を参照されたい。


この1年間、国際政治面はこの3人の老人で埋められてきた。
アメリカのバーニー・サンダース、イギリスのジェレミー・コービン、そしてフランスのジャンリュク・メランションである。
おそらくはこの3人を結ぶ糸が、世界の明日へとつながる赤い糸なのだろうと思う。
それにしてもこんなことがいままでの世界であったろうか。こんな爺さまがデジタル時代の若者のカリスマになったことなどあったろうか。
そこには何か時代の特徴があるのかもしれない。「三題噺」としてはかっこうの話題だ。
これまでサンダースはコービンについては少し紹介してきたので、まずはメランションの紹介から始める。
1.ジャンリュク・メランションとはどんな人か
Jean-Luc Mélenchon の発音はここにある。メノンションとしかきこえない。
まずwikiの記載から紹介する。
1951年の生まれで65歳。他の二人よりは少し若い。フランス人だがモロッコ生まれ。父は郵便局員だと言うから少なくとも有産階級ではないようだ。哲学を学び教員となった。83年にマシーという街の市長となり政治家としてのキャリアを始める。86年に35歳で元老院(上院)議員となる。書かれていないがおそらく社会党に所属していと思われる。
2008年に社会党を離党し左翼党を結成した。欧州議会選挙に「左翼戦線」の一員として立候補し当選した。「左翼戦線」はフランス共産党・左翼党・統一左翼党の合同組織である。
2012年の大統領選挙では、「左翼戦線」の統一候補として立候補した。結果としては4位で得票率は11%にとどまったが、左翼陣営に社会党以外の現実的な選択肢を示した。
彼は共産主義者ではないが資本論を理解する社会主義者である。中南米のALBA諸国の経験を念頭に、民衆の立場に立った社会変革を目指す。

メランションはテレビ討論でペロンに対し、「この場にいるべきではない、国民の恐怖を無駄に煽っている」と批判し人気を博したとされる。これで社会党支持層の多くを取り込んだ。

富裕層への課税強化や最低賃金の大幅増も訴え、高失業率に苦しむ若者、特に教育水準の高い層の支持を集めるに至った。これも、サンダース氏と似通う。

集会の雰囲気は次のビデオで伺うことができる。
ただし言葉の分からない人は、24分位から再生したほうが良い。「銀行家ノー、人種主義者ノー」のシュプレヒコールが聞かれる。

2.メランションは極左か

当初は多くの報道が「極右のルペン、極左のメランション」と表現していた。
経過から言えば、社会党が中道左派、メランションが左派である。別に急進的ではないし、ましてや極左でもない。フランス人はそう考えているだろう。
さらに言えば、社会党のオランド政権のとった政策はむしろ中道右派である。経済相がマクロンだったのだからこれほどたしかなことはない。
かつて社会党は左派と見られ、共産党と統一戦線を組んだこともあった。それがミッテラン時代に右転換し、中道左派のポジションに変わった。
現在では中道左派と呼ぶことさえ難しい。党内左派と目されるボノワ・アモンですらせいぜい中道左派だ。
メランションは社会党が左派であった頃の党員である。社会党が右傾化を強めたときに、党を離れた。
彼はマルクスの理論にも共感を示すが、基本的には骨の髄からの社会党員である。そういう点から言えば、むしろ中道左派と言っても過言ではない。
座標軸がぶれているのは、極右の安倍晋三に優しい日本のメディアなのである。

3.メランションの政策
率直に言って、日本のメディアでメランションの政策を系統的に報道したものはない。
ほとんどが片言隻句を取り出したもので、半ばデマに近い。本当に日本のメディアも落ちたものだと感心する。
断片的な情報をつなぎ合わせると、メランションの政策の柱は平和と格差問題の解決だ。
「赤旗」の4月14日号では、島崎特派員の記事が掲載されている。とくに平和政策に焦点をあてている。


中東・シリア問題では「戦争ではなく対話と交渉、外交にこそ力を注ぐべきだ」と訴えた。
難民問題では全ての難民への全面的な支援を主張した。彼は「難民を生む根本問題」に取り組むと語った。そして発展途上国に不利な貿易協定の見直しを提起した。
また核問題では、核兵器禁止条約の交渉推進や非核地帯の拡大を訴えた。
この赤旗の記事では他候補のメランション批判も載せていて面白い。
マクロン候補は、「テロとのたたかいにおける非武装宣言」だと非難した。これはまさにそのとおりだ。テロに対して武装しても何の意味もないのだから。
緑の党は、「メランション氏は反米しか口にせず、ロシアの領土拡張主義を認めている」と述べた。事実とすれば少々気になるところである。
ついで経済政策だが、その柱は失業問題の解決と、貧困の撲滅からなる。
最低賃金の15%引き上げ、労働時間の短縮、労働法規の厳格化を行う。
このために総額30兆円の追加支出を行う。この内10兆円が景気刺激にあてられる。これは当面国債によって賄われるが、その多くは経済成長(とくに内需の拡大)が実現すれば減額される。長期的には富裕層の増税(とくに相続税の強化)によって財政は健全化される。
これらの政策が、高失業率に苦しむ若者、特に教育水準の高い層の支持を集めるに至った。これも、サンダース氏と似通う。


残念ながら、日本語のテキストが圧倒的に不足している。

目下のところは乏しい資料の中から読み解いていく他ない。

1.オランド「左派政権」の自壊と極右の伸長

リベラル勢力の希望を担って船出したオランド政権だったが、就任していきなりのリーマンショックはあまりにも過酷だった。

結局のところ、オランド政権はEUとECBの言うなりに、厳しい経済引き締め策を担わざるを得なかった。政権の実行したことはすべて就任時の公約と逆方向であった。そして逆コースの先頭に立ったのがほかならぬマクロンであった。

政権末期、オランド政権の人気は地に落ちた。昨年の10月行われた世論調査ではオランドの支持率はなんと4%に過ぎなかった。メディアは「4%の人」と揶揄した。

一方で不満層を取り込んだ極右、ネオファシストの人気はうなぎ昇りとなった。

14年の欧州議会選挙は衝撃的だった。国民戦線は25%の得票を獲得し首位となった。その後も各種選挙で25%前後の得票を維持し続けた。左翼はもっとも依拠すべき人たちの支持を失った。

貧困層、労働者・農民などかつて左翼の強固な地盤だった階層が極右に雪崩を打って流れ込んだ。それはアメリカ中西部の「錆びたベルト」地帯の労働者が、一転してトランプの強固な支持者となったのと同じだった。

彼らは絶望のあまり敵を味方と取り違えたのである。

オーストリアでもオランダでも、極右が政権獲得の勢いを示した。今や欧州を極右、トランプ派が席巻しようとしていた。

2.「野党共闘」の兆し

16年11月、大統領選挙を半年後に控えて共産党のロラン党首は思い切った方針を打ち出した。社会党を離れ独自会派「屈しないフランス」(ラ・フランス・アンスミーズ)を結成したメランションを推すことを提起したのである。

それはファシズムの再来に対する深刻な危機意識の表現であったが、現場活動家にはそれは浸透しなかった。これまで通り一次選挙は独自候補で戦い、決選投票で社会党を支持すればよいという経験主義が未だ多数を占めていた。

ロランは統一の提案が全国活動者会議で否定されたあと、活動者会議の頭越しに全国討論を呼びかけ、最後は全党員投票を経てメランション支持を実現した。

これを元に共産党はメランション派と交渉し、大統領選での協力が実現した。これはファシズムを瀬戸際で食い止める上で大変重要な役割を果たしたと思う。メランションが第一次投票で20数%を獲得することがなければ、マクロンを国民的候補として決選投票に臨むことはできなかったろうし、もしそれができなければ今頃ファシズム政権が誕生していたかもしれない。

今年1月 オランド政権の与党、社会党が大統領候補の予備選を行った。ここでは党内左派のアモンが勝利した。ここで社会党は恥の上塗りをした。党首のヴァルスがマクロンを支持すると発表したのである。

アモンはメランションとの1本化の話し合いを試みたが不調に終わった。如何に党内左派といえど、さすがにA級戦犯である社会党と組むのは不可能である。

共産党とメランション派は、オランドが投げ捨てた国民の要求を実現するために、統一して闘った。メランションと野党共闘は若者の受け皿となった。しかし左派政権の裏切りに対する国民の幻滅は深く、その多くが極右へと流れた。

3.大統領選挙

4月に大統領選挙の第一次投票が行われた。財界を代表する共和党のフィヨンは本命と目されたが、スキャンダルが祟り票を伸ばすことができなかった。これに代わり保守系無党派の新人エマニュエル・マクロンが1位を占めた。

マクロンは若いだけではなく超富裕層でもあった。社会党政権で経済相(非党員)として抜擢され、グローバリズム政策を推進した。オランド政権変質の張本人である。富裕層は不安を持ちつつもマクロンに期待した。

これについで極右の国民戦線のルペン候補が2位につけた。得票率はマクロン24%に対しルペン21%と接近していた。恐れは現実となりつつあった。

注目すべきは、左翼に圧倒的な逆風が吹く中で「左派統一候補」のメランションが19%を獲得したことである。フィヨンに僅差の4位ではあったが、ルペン・フィヨン・メランションが20%前後の得票率で肩を並べたことは大きな意味がある。一方社会党のアモンは6%という惨敗であった。これにより左派を代表する勢力が社会党から左派統一に交代しつつあることが示された。


支持率推移

今年1月から第1次投票までの支持率の推移。NHKのサイトから転載。
メランション(赤)が社会党(黄)を追い抜いたのは3月下旬のことである。左派の共闘が大きく情勢を切り開いたことが分かる。
4月下旬になってマクロン人気が落ちた時、危機感からメランション支持がマクロン(橙)に移ったことが示されている。

決選投票での最大の問題事はファシストの政権獲得の可能性である。彼らは「保守主義者」のポーズでファシストとしての顔を隠した。選挙演説では「右も左も結集しよう」とさえ呼びかけた。

しかし多くの国民はそれを見逃そうとはしなかった。それが決選投票での圧倒的な票差となって示された。「ルペンに対する防御壁」となったマクロンは、第一次投票での24%から66%にまで跳ね上がった。これに対しルペンの得票は35%に留まる。

フランス共産党からサルコジ元大統領まで、左派労組の労働総同盟から財界団体まで反極右では一致した。マクロンに投票した有権者の43%は、ルペンの大統領選出を阻止するためだけに投票したという。

おそらくファシストを撃退したと言っても有権者のあいだに勝利感はないだろう。それが政治を良くする引き金になるわけではないし、ルペンの掲げた「反移民・反EU」のスローガンにはかなり同感する余地もあるからだ。

不気味なのは、ルペンが逆風の中で第一次投票から15%も上乗せしたことである。これはコアーなファシズム支持者の他にそれと同じくらいの消極的支持者がいることを示している。投票前の世論調査では最大41%を叩き出している。

4.国会議員選挙

今回、フランス国民は4回も投票しなければならない。大統領選挙の第一次投票と決選投票、それに国会議員選挙の第一次投票と決選投票である。

国会選挙が2回の投票とあるのは小選挙区制のためで、一回目が各政党で順位を競う。そして第1位と第2位の間で決選投票を争うのである。ただし1回目の投票で誰かが圧倒的な支持を集めれば、2回目は行われない。

共産党は第一次大統領選の結果をみて、強い危機感を抱いた。このままでは決選投票にも進めないと危惧したのである。

しかしこれにはメランションは応じなかった。1本化は2次選挙のときにやれば良いと主張したのである。たしかにこれには一理ある。もちろんメランション派が決選投票に残れると踏んだからではあろう。しかし「野党は共闘」こそがメランションの力の背景だということを、メランションは過小評価したのではないだろうか。

6月11日に国会議員選挙の第一次投票が行われた。ほとんどの議席は第一次投票では決せず、j決選投票に持ち込まれた。国会議員選挙はマクロンの一人勝ちであった。

マクロン旋風の原因は、①極右に勝利したヒーローとして期待されたこと。②二大政党制への不信が浸透したことである。ただし小選挙区制のマジックで増幅されたこともある。

左派陣営ではメランション派が多数を占めたが、それでも得票率は11%にとどまった。得票率30%に圧したマクロン旋風に太刀打ちすることはできなかった。共産党は2.7%にとどまった。

大統領選挙でメランションに吹いた風は止まってしまった。記録的な低投票率(棄権が51%)は、とりわけ若者を中心とするメランション派に“選挙疲れ”が出たことを示している。

国会議員は小選挙区であり、伝統や個人的人気なども無視し得ない。大統領選では惨敗した社会党も7.4%を確保している。状況はより困難だからこそ、風頼みではなく政策をしっかりと示し、野党共闘をイメージアップすることがより求められるのではないか。

6月18日に第二次投票が行われメランション派の17議席、共産党の10議席が確定した。

マクロン派     361議席

共和党       126議席

社会党        46議席

メランション派    16議席

共産党        10議席

国民戦線        8議席

国民戦線の議席数は、もともとドブ板選挙を不得意とする上に、大統領選挙での敗北の痛手が大きかったのではないか。共産党の得票率と議席数が乖離してるのは、相当選挙区を絞り込んだためではないだろうか。(情報なしの推測)

5.投票傾向の分析

選挙結果に関するおもしろい分析が提示されているので、紹介しておく。

階層別支持

 

 階級における政治からの「肉離れ」、ないし「原理派」化が見られる。国の民主主義の構造が下から崩れ液状化しつつある。比較的社会保障や労働者保護が浸透しているとされるフランスですらこういう危機的状況になっている。今や格差の進行は文明を揺るがしかねないところにまで進んでいると見るべきであろう。

これを食い止めるにはイギリス総選挙終盤での闘い方、弱者を保護し教育、医療などでポジティブな政策を明確に打ち出すこと。格差是正への方策を、国際的な協力での解決もふくめ明確に打ち出すことであろう。

今回のイギリス・フランスでの選挙はいずれもEU問題が俎上に上げられたが、ルペンの終盤での発言でも明らかなように、逆にこの問題で後戻りはできないことが明確になったと思う。

同時に、リーマンショック→欧州金融・財政危機で反人民的性格を強めたEUを、どうやって諸国民の立場に立つように変革していくかがもとめられることになるだろう。


イギリスの総選挙とほぼ並行してフランスの大統領選挙も戦われた。これについて本日の赤旗に興味深い記事が載った。

興味深いというのは、イギリスの総選挙との比較だ。イギリスはポスト離脱の展望をめぐる選挙であったし、フランスは離脱の是非そのものが問われている選挙だった。

しかし、イギリスの選挙を見た後で、フランスの選挙を見てみると、ことはもっと根の深いものなのだろうと思う。

そこをどう捉えるのか、

遠藤 乾(けん)さんという方は私より二回り若い。運動圏の人ではなさそうで、どうして赤旗に登場したのかは分からない。

北大教授ということで、ひょっとするとお世話になるかもしれない人だ。文章を紹介させて頂く。

1.フランス大統領選挙と反EU感情

大統領選挙の結果、EU残留派のマクロンが当選した。ただ投票の半分は反EU派に流れた。すなわち国民戦線+急進左派+泡沫候補の得票合計である。(ということは、EU問題は左右両派の真の対立点ではなかったということになる。それはイギリスも同じだ)

2.国民戦線の強さ

国民戦線は反自由主義的なポピュリスト政党である。「伝統的フランスへの回帰」のスローガンと反移民、反イスラムなど敵を作り出すことで雑多な民衆をまとめている。

それにラストベルトの民衆が取り込まれている。彼らの多くは元はリベラルだった。共産党員ですらあった。急進左派は、彼らには遠いものと映っている。彼らには異質なものである。

3.グローバル化のしわ寄せ

これはグローバル化の恩恵が富裕層に傾き、労働者にしわ寄せされている結果である。

EUの指導者は、こうした痛みに分け入って、真剣に取り組むのをおろそかにしてきた。これが反EU感情を生み出している。労働者の生活改善のために手を打たない限り、EUの危機は続くだろう。

4.政治学のトリレンマ

①グローバル化、②国家主権、③民主主義の3つの理想は同時に実現できないという概念。

これについては後で検討する。

5.国際協調で解決を

具体的には、投機資本の規制、租税回避対策、貿易ルール問題、環境などで国際協調が必要である。


EUからは国民投票をやって抜けようと思えば抜けられる。しかしグローバリゼーションという大きな流れからはそう簡単には抜けられない。

こういう言い方は、マルクス主義らしからぬようにも見えるが、グローバリゼーションは必然の流れであり、それをどうみんなにウィンウィンとなるようなものにしていくかを語るしかないのではないかとも思う。

そしてその方向での共通認識はすでに出来ていると思う。なぜなら今日の事態は、レーガン以来、アメリカが世界経済を強引に捻じ曲げ続けて来た結果起きたことであり、アメリカの勝手放題を止めさせれば済むことなのだから。

問題はそれをどうやって実現していくか、誰がアメリカの首に鈴をつけるかという話なのだろうと思う。

もう一つはアメリカの好き勝手をやめさせるのは結構だが、それまでのあいだ各国はどうしたら良いのかという問題だ。前提条件がすでに規定されている以上、各国がやれることには自ずから限界がある。とはいえ、国家としてやらなければならないことはある。


「政治のトリレンマ」について

私には初耳であった。政治学については素人ではあるが、初心者ではない。「…という疑念がある」と言われると「えっ?」と思ってしまう。

いずれ詳しく勉強した上で語りたいと思うが、この「不可能の三角形」は少々おかしいと思う。「3つの理想」と言われるが、国家主権と民主主義はともかくとしてグローバリゼーションを「理想」と呼ばれるのには抵抗がある。

グローバリゼーション自体を悪というわけではないが、それは政策を立てる上での「所与」である。それはとくに経済の開発を計画する上で、重い前提条件としてのしかかってくる。

これは、とくに発展途上国において、すでに1960年の初頭から懸案となっている事項である。国連開発会議(UNCTAD)などで議論が積み重ねられているが、いまだにスッキリとした結論は出ていない。正直に言えば、ネオリベラリズムが登場してからはぐじゃぐじゃになっている。

たかが金貸し風情が出過ぎたまねをするんじゃないよ

をご参照ください。
とりあえず、国家政策の三本柱としては以下のものが考えられている。

自主: 民族国家としての主権を守ることである。なんでもかんでも100%自由化という訳にはいかない。それは「食われる自由・飢える自由」しか残されないことを意味する。それは一見グローバリゼーションと矛盾するようだが、実はグローバリゼーションのための必須条件なのである。

民主: 国民生活を守ることである。論争の中で、ともすれば内需拡大と関連付けて語られがちだが、決して内需拡大のために国民生活を底上げするのではない。国民生活、生活権を守るのは手段ではなく目的である。

発展: 経済成長・財の蓄積を確保することである。それは豊かな心と豊かな人間を作っていくために必須の事柄である。その枠組みや方法についてはいろいろ議論があるだろうが、その重要性の認識は共有しなければならないだろう。

金融・通貨政策でのトリレンマは97年のアジア通貨危機を通じて、頻用された概念である。① 自由な資本移動、 ② 為替相場の安定、③ 独立した金融政策 の3つが同時に成立することは不可能であるというものだ。

それはすでに大方の関係者から承認されており、「公理」のごとく用いられている。金融の世界が無機質な数字の世界であり、しかも比較的短期で結論を出していかざるを得ない世界だからであろう。

政治の世界ではもう少し不確定要素が入ってきそうな気がする。同じ状況に置かれてもトランプを支持したり、労働党を支持したり、ルペンを支持したり反応は異なってくる。

イギリス総選挙 教訓とすべきこと

この度のイギリス総選挙でもっとも印象的なことは、労働党、あえて言えばコービンへの支持が驚くべきスピードで積み上げられたことである。若者を中心に「イギリスのサンダース現象」とも言える現象が出現した。

一方で、過半数を割るに至った保守党の後退は、メディアからは「オウンゴール」と表現されているが、それに尽きるとは思えない。そこにはより深刻な長期低落のトレンドがふくまれていると思う。

世界的な枠組みの中で見ると、EU 離脱の国民投票でイギリス国民は「トランプ支持」に類似した反応を示した。EU 残留を今日こに主張する保守党政権は吹き飛ばされた。

そこで保守党政権の接ぎ木とされたのが「ミニ・サッチャー」を気取るメイ首相だ。彼女は強硬離脱路線に衣を着替えて、離脱派国民の心をつなぎとめようとした。
(EU離脱は、Brexit と呼ばれる。これは British + exit をかけ合わせた造語。これに着陸のときの hard/soft を形容詞としてつけて表現する。アメリカ人ならHBEですますだろう)
この思い切った作戦が奏功した。国民は不満の吐け口を失ってしまったかに見える。しかし国民の不満が解消されたわけではない。

トランプ派がヒラリー派になるわけがないのである。そして、そもそも離脱派の本音はEUノーではなく、富裕層の支配ノーなのだ。その本質は、国民本位の政治を求めてさまよう「革新派」なのである。

それが収まるところに収まった瞬間、保守党の命運は尽きることになる。これが政治の流れの本流であろう。

まずは少し経過をおさらいしてみよう。


1.保守党の敗北とメイの登場
2016年7月、EU離脱の国民投票が行われ、提案者キャメロン首相は予想外の敗北を喫した。キャメロンは首相を辞職、内相だったテレサ・メイが後継首相となった。したがってメイは首相として選挙を闘ったわけではない。

メイは当初はキャメロンと同じ残留派であったが、そのご強硬離脱派に立場を変えた。

周囲の反対を押し切って離脱に踏み切った党派は、目標を失ってあっというまに衰退した。党内を離脱論で押さえ込んだメイに政敵はいなくなった。労働党は残留を主張していたが、党首コービンはEUに対する厳しい見方を貫いた。このため労働党は離脱論争の蚊帳の外にいた。
2.総選挙に打って出たメイ

今年になって4月18日、メイ首相は電撃的に総選挙の実施を表明した。本来であれば2020年実施予定であったが、これを前倒ししたのである。

彼女は記者会見でこう述べた。「議会は一体となるべきですが、現在は分断しています。国はまとまりつつありますが、政治家はそうではありません。総選挙が必要であり、ただちに実施する必要があります」

この時保守党は330議席を有し、単独過半数を超えていた。しかしEUとの離脱交渉を前に、自らの政治的な基盤を盤石にしたいとの狙いがあったとみられる。

メイは2019年3月末までにEU離脱の大枠を定める離脱協定の合意を目指していた。2020年では遅すぎるのである。しかし2020年が遅すぎるといっても、今すぐやる必要もない。それは「いまやれば圧勝する」という読みがあったからである。
3.選挙前半の情勢

保守党の支持率は、一時は最大野党・労働党を24% 引き離していた。メイ首相の支持率は44%。これに対し労働党のコービン党首の支持率は23%に過ぎなかった。

選挙戦半ばまではたしかに保守党の「歴史的大勝」を思わせる状況だった。

5月はじめに行われた地方選挙では、88の地方議会で合わせて4851議席が改選された。保守党は支持基盤の弱い中部や北部スコットランドでも支持を伸ばし、改選前を563議席上回る1899議席を獲得した。 これに対し労働党は382議席を失った。

多分、この大勝利が政権のおごりを生んだのであろう。メイは「強く安定したリーダーシップ」といった決まり文句をひたすら繰り返し、「メイ・ボット(自動応答プログラム)」とまで言われるに至った。
4.保守党政治への不満が噴出

このような選挙状況を一転させたのが、5月18日に両党から発表されたマニフェストである。投票日のわずか3週間前だ。

保守党のマニフェストは、国民から意外なほどに強い反発を受けた。一番の批判の的となったのが「認知症税」である。

要は高齢要介護者の介護費用なのだが、生きているあいだはとりあえず給付するのだが、死んだときには払ってもらう。その原資として持ち家を手放させることによって、ケア費用を捻出するという提案である。したがって家族は本人死亡によりホームレスとなる。実に悪魔的なアイデアだと感心してしまう。

この他にも、マニフェストには「高齢者の冬の暖房費補助のカット」など高齢者に負担増を強いる政策案が盛り込まれていた。

これが国民の怒りに一気に火をつけた。

「保守党は子供の貧困に取り組む姿勢を失った」との声もでた。NGO調査では、イギリスでは4人に1人の子供が貧困状態にあるとされる。子どもや高齢者の生活悪化は、それだけが切り離されてあるのではない。OECDによれば、英国の実質賃金の落ち込みは先進諸国の中で最悪になっている(ギリシャを除けば)

要するに、映画「私はダニエル・ブレイク」の世界が全土に蔓延しているのだ。

つまり、メタンガスで充満した倉庫にマッチを投げ込んだようなものだ。
無風かと思われた情勢は一転した。メイ政権の支持率は急落した。メイは急きょ「認知症税」案を取り下げた。
5.コービンの反撃

労働党はどうだったか。

2015年5月、労働党は歴史的大敗を喫した。出直しのため9月に党首選が行われた。

ただの位置議員だったジェレミー・コービンが名乗りを上げた。コービンは「時代遅れの社会主義者」と呼ばれ、泡沫候補と見られていた。

党首選に立候補するための議員35名以上の推薦も集められなかった。しかし同情する人もいて、ギリギリに立候補が可能になった。

ところがフタを開けるとコービンの圧勝だった。上位2名の得票率は、

1位: コービン  59.5%

2位: バーナム 19%

コービンの率いる労働党は、国営の医療制度、NHSの拡充を訴えた。全ての小学生に給食を無償提供すると訴えた。教育予算の大幅な増額を盛り込んだ。

マニフェストで正面からの勝負を挑んだ。

それが、国民の希望と奇跡的な結びつきを実現した。とくに大学授業料再無料化の政策が、若者たちから絶大な支持を集め始めて来た。

労働党不人気の象徴と見られていたコービンがにわかに輝きを帯びてきた。サンダースは三日間の全国講演旅行で、コービンを支持するよう訴えた。

サンダースが、青年たちのカリスマとなったように、コービンも青年たちの希望の星となった。


6.コービンの選挙スタイル

コービンの選挙運動はメイとは対照的だった。

イギリスで保育士として働くブレイディみかこさんのレポートによると、

…屋外での数千人規模の集会も数多く組まれた。リラックスした雰囲気がそこでは支配した。熱狂的な支持者から「コービン、コービン」の大合唱を浴び「ロックスターが受けるような歓迎」を受けた。

…息子の学校の前でPTAが労働党のチラシを配っていた。息子のクラスメートの母親が、「労働党よ。お願いね」とチラシを渡してくれた。国立病院に行くと、外の舗道で人々が労働党のチラシを配っていた。「私たちの病院を守るために労働党に投票しましょう」入院したときに良くしてくれた看護師がチラシを配っていた。今年で英国に住んで21年目になるが、こんな選挙前の光景は見たこともない。

…誰かがバッシングされている姿を見て気晴らししながら自分も我慢するような、いびつな緊縮マインドの政治にこそ人々は飽き飽きしていた。それではいつまでたっても我慢大会は終わらないからだ。
7.イスラム過激派テロの選挙利用は失敗した

選挙中にあたかもリベラル政治に対する恐怖を植え付けるように、多くのテロが起きた。ロンドンでは3月と6月、2回のテロが発生した。マンチェスターでは人気歌手アリアナ・グランデさんのコンサート会場で爆弾テロが起き、22人が死亡した。

メイ首相は「イギリスは過激思想に寛容すぎた」として、対テロ戦略の見直しやインターネットの規制強化など治安強化を全面に押し立てた。しかし相次ぐテロを防げなかった責任、警察官の待遇悪化を厳しく追求されるなど、逆に窮地に追い込まれる結果となった。
8.互角勝負に持ち込んだコービン

投票日を1週間後に控えた6月はじめには形勢はほぼ互角となった。

6月6日の世論調査では労働党が4ポイント差に迫った。調査によっては労働党のほうが上回っているものも出てきた。24歳以下の世代では73%が労働党を支持、逆に65歳以上の高齢者では保守党支持が64%となった。

大手メディアの多くは保守党支持に回った。しかしデイリー・ミラー紙と高級紙ガーディアン、インディペンデントは労働党支持を打ち出した。

9.投票の結果をどう読むか

保守党が議席数を330から318に減らした。過半数(326)に8議席およばず、選挙前情勢を考えれば完敗といって良い。最大野党の労働党は261議席に躍進した。

EU離脱を主導したイギリス独立党は0議席に終わり、ナットル党首は辞任を表明。ツイッターとフェイスブックのアカウントを削除した

イギリスは小選挙区制のため、議席数だけでなく得票率も見ないと評価することは出来ない。保守党の得票率は42%、労働党は40%で、その差はわずかに2%である。選挙期間があと1週間長ければ労働党が逆転していた可能性が高い。

メディアの予想は大きく外れた。選挙結果は世論調査にかなり接近したものとなった。つまりメディアは青年の投票率を低く見すぎていたことになる。また地方選結果との乖離は青年層の政治関心の差を示す。

つまり、イギリスの青年たちは既存の労働党とは異なる魅力をコービンに感じただけでなく、コービンが何か変えてくれると感じ、具体的な行動に出たのである。ここがこの度の選挙の最大の特徴だ。
10.これからの政治の動きを予測する

かくして議会はハング・パーラメント(宙ぶらりんの議会)となった。

メイ首相は、「現段階で、この国は安定の時期を必要としている」と強調した。そして引き続き政権運営を担う意向を示した。ただし北アイルランドの保守政党、民主統一党(DUP)の連携協議が前提である。それが不調に終われば再選挙の可能性も否定できない。

ジェレミー・コービンは、「国民はもはや緊縮に背を向けた。そして未来への希望に投票した」と述べ、メイ首相の辞任を求めた。

追記

注目されるのが、「赤旗」特派員のレポート。伝えるところでは、サンダース躍進を担ったアメリカの青年が、大挙してイギリスにわたり、戸別訪問や電話かけなどを指導したと言われる。

体験上、若者の組織と確実な票の積み上げには組織された若者の力が不可欠だと思う。そうでないと線香花火のようにぷつんと途切れてしまう。

ここに的を絞ったフォロー記事があるとありがたいのだが…

「赤旗」の書評欄からの重複引用で、いささか気が引けますが、下記の一節が極めて衝撃的でした。

85万人の難民と聞くと大変な数に思えるかもしれない。しかしそれは約5億人の欧州連合(EU)の人口の0.2%程度で、世界一豊かな大陸が現実に吸収できる数だ。

人口450万人の隣国レバノンは120万人のシリア難民を受け入れている。ヨーロッパの指導者たちは恥じ入るべきだろう。

「難民危機」というが、それはそもそも難民が引き起こしたものではない。

難民を生み出した政治危機は、ヨーロッパの対応が引き起こしたのだ。欧州の政治家の怠慢こそが大混乱を生み出しているのだ。

 パトリック・キングスレー『シリア難民』(ダイヤモンド社)より

最後の段落についてはいろいろ意見もお有りでしょうが、最初の3連についてはまことにお説ごもっともです。

「数の問題ではなく“こころ持ち”の問題なのだ」、これはメルケル首相も盛んに強調しています。

ただそうは言っても問題は解決しないので、このささくれだった自己主張が横行する世の中をなんとかしなければならないのでしょう。

「トランプ現象」が世界を跋扈しています。身の回りになんと「小トランプ」の多いことでしょう。こういう人たちの「こころの機微」に触れ、凍りついた「優しさ」バルブを開け放つのには、どうしたらいいのでしょう。

2016年に我々が背負わなければならない、最大の課題でしょう。

1888年 ラッサール派のグループとマルクス派のグループが再統合され、オーストリア社会民主労働党(Sozialdemokratische Arbeiterpartei Österreichs)が結成される。結党時の党員数は15,000人とされる。

1893年 社会民主党と協調する自由労働組合連合が結成される。90年代に急速に発展した産業革命と結びついて勢力を拡大。

1890年代 ウィーン大学の社会主義学生グループが学習サークルを形成。カール・レンナーが指導し、マックス・アドラー、ルドルフ・ヒルファーディング、遅れてバウアーらが参加。オーストリア・マルクス主義の拠点となる。

1897年 総選挙。普通選挙が一部導入された結果、議会に14議席を獲得。

1897年6月 社会民主党が改組。5つの民族別(ドイツ系・チェコ系・ポーランド=ウクライナ系・イタリア系・南スラヴ系)に組織された党の連合組織となる。

1907年6月 初の普通平等直接選挙が実施される。社会民主党は87議席を獲得する。

1907年 月刊『闘争』(Der Kampf )が発行を開始。オーストリア社会民主党の理論機関誌となる。バウアーら、次世代の「オーストロ=マルクス主義者」の理論家たちの活動拠点となる。

1911年 社会民主党のチェコ人組織が分離し、チェコ社会民主党として独立する。

1914年 第一次世界大戦が勃発。V・アドラー、レンナーらの主流派は、「祖国防衛戦争」として戦争遂行政策を支持する。これに対しF.アドラーらの左派は反戦活動を展開。

1914年11月 バウアー、戦争に加わりロシア軍に捕らえられる。シベリアで3年間の捕虜生活を送り、17年9月に捕虜交換によりウィーンに戻る。

1918年4月 バウアー、民族自決権を承認しレンナーら主流派と決別。社会民主党左派に移る。

1918年 ボルシェビズムを唱えるオーストリア共産党が創立。その後一貫して弱小勢力にとどまる。

1918年11月 オーストリア帝国が崩壊し、オーストリア共和国が発足。社会民主党とキリスト教社会党の連立政権が国政を担う。社会民主党右派のレンナーが首相に就任。バウアーが外相となる。

1919年3月 レンナーはグラーツ大学教授シュンペーターを財務大臣に招聘。当初は熱心な社会化論者であったが、生産性原理と効率性原理を強調するようになり政権と袂を分かつ。

バウアーはこう評している。「彼は、革命の初期にはボルシェヴィズムに媚を呈し、社会民主党の社会化政策が積極的かつ急進的でないとしてしばしば反対した。しかし、やがて彼は完全に方向転換した」

1919年 バウアー、『社会主義への道―社会化の実践』を発表。政治革命ではなく、産業の社会化=社会革命が未来への道だとする。

1920年 キリスト教社会党との対立が表面化。社会民主党は政権を離脱する。

1920年 バウアー、『ボリシェヴィズムか社会民主主義か』を発表。ボリシェヴィキを「専制的社会主義」と批判。全人民の経済的自治を基盤とする民主的な社会主義を訴える。

1921年 オーストリア社会民主党を中心にウィーン・インターナショナル(第二半インターナショナル)が設立、社会主義者の国際組織の再統一をめざす。

1923年 ウィーン・インターナショナル、第二インターに吸収され消滅。

1923年 党の防衛組織として「防衛同盟」が発足する。

1926年 社会民主党大会、リンツ綱領を採択。「赤いウィーン」での実践をもとに、議会主義戦略を定式化。

*民主制に依拠して則法的に政権を獲得する
*「破局的なカタストローフの結果としてではなく、目標を意識した労働者の収穫として」社会主義の実現を目指そう
ただしブルジョワジーが反革命を起こした場合、国内戦により国家権力を掌握することも確認される。

1927年7月 労働者デモと警官隊の衝突事件。この後の弾圧で社会民主党は後退を余儀なくされる。

1933年1月 ドイツでナチスが政権を握る。間もなく共産党に対する大弾圧が始まる。

1934年2月 社会民主党と防衛同盟が蜂起。「2月反乱」と呼ばれる。ドルフス政権と「護国団」による挑発が引き金となる。

2月 社会民主党に解散処分がくだされる。バウアーら指導部の一部は国外に亡命して活動を続けた。

1週間いない間に世界は動いていた。

ドイツ銀行の経営危機の報道は目を疑った。それとともにメディアがこの情報をほとんど扱わないことにも驚いた。

ドイツ銀行といえば、以前より素行不良の噂が後を絶たず、いつかは何かが起こるだろうとは思っていたが、まずは状況がよく飲み込めない。

BLOGOSに以下の記事があったので斜め読みしてみる。

My Big Apple NY2016年10月02日 

バロンズ:ドイツ銀行問題は、リーマン・ショックの再来か

という恐ろしい見出し

A) 事件の顛末

1.ドイツ銀行の株価と債券価格は前週に急落した。すでにヘッジファンドはデリバティブの担保として預けていた資産を引き揚げた。

2.急落の原因は、米司法省が住宅ローン担保証券をめぐり140億ドルの和解金支払いをもとめたことだ。

3.ドイツ政府はドイツ銀行を救済しないとの報道が飛び出し、事態は深刻化した。

4.9月30日、ドイツ銀行経営者はヘッジファンドの資金引き揚げを認めた。そのうえで、その懸念には正当性がないと非難した。

5.同じ日、米司法省が和解金を54億ドルへ引き下げ、両者が合意したと報道された。これに市場は反応し、株価と債券価格は値を戻した。

というのが顛末。

B) 事件の背景

しかしその背景を見ると、決してめでたしめでたしではない。

1.ドイツ銀行の時価総額は200億ドルたらずで、身売りが囁かれているツイッターをやや上回る程度だ。

2.ドイツ銀行は60兆ドルものデリバティブを抱える。金融危機が発生すればカウンターバーティーが契約を履行できない恐れがある。

3.簿価の大幅な欠損によって必要な増資が困難となり、バランスシートを支えられない。

4.ドイツ政府は財政健全化を訴えてきただけに、大手銀行の救済には及び腰となるだろう。

C) 事件の波及効果

記事はアメリカと世界金融への影響についても触れている。

1.ヘッジファンドの欧州銀行からの資金引き揚げは、LIBOR(ドル3ヵ月物ロンドン銀行間取引金利)を押し上げるだろう

2.LIBORは米国内のローンの基準金利となり、住宅ローン金利を規定している。住宅建設にブレーキをかけるには十分だ。

3.金融市場に緊張が走れば、FOMC(米連邦公開市場委員会)の利上げペースにもブレーキが掛かるだろう。

D) 事件の裏側

記事は、以上のような背景を踏まえ、司法省が和解金を割り引いたのではないかと見ている。

逆に、140億ドルというのはブラフだったとも考えられる。EUのグーグル提訴への対抗措置だったとの観測もある。

それがヘッジファンドの素早い動きを見て、急激に方針転換した可能性もある。その背景としてはアメリカ大統領選があり、トランプを利するような情勢激変を避けたいとの判断が働いたのかもしれない。

というのがこの記事の骨子。

中村平八 「ソ連を殺したのは誰か」

の全文がネットで読める。同志社商学 第52巻(2001年3月)というページでPDFになっている。

91年の事態は民衆とは関係のない宮廷革命であった

91年の時点で、ソ連の国家体制と民衆の間に決定的かつ敵対的な矛盾は存在しなかった。

バルト3国を覗く各共和国の民衆の大多数は、最後まで緩やかな連峰国家体制の維持と、改善された社会主義経済の存続を支持していた。

ソ連の民衆は次々に生まれる新党のいかなる党にも積極的関心を示すことはなかった。

ソ連を殺したのはロシア共和国のノメンクラトゥーラのなかの体制転換派(急進改革派)であった。

ソ連の「成功」を再確認する

ソ連は70年間失敗続きであったわけではない。それどころか、初期の40年間は大成功したとさえ言える。

だから、ソ連を批判する際には、まず、なぜソ連が成功したのかを分析し、それがなぜ成功因子を失い、右肩上がりの経済がどのようにして壁にぶつかり、ついに崩壊していったのかを明らかにしなければならない。

まずは経済的成功の場面から。

①スターリンの下でソ連は急速な工業化に成功した。第二次大戦後にはヨーロッパ第一位の工業国に到達した。

②第二次大戦では参戦国中最大の人的物的被害を被ったが、短期間で経済復興し、アメリカに次ぐ経済力(85年GNPでアメリカの55%)に達した。

③平均寿命、栄養摂取量、医療水準、識字率、普通中等教育終了率でソ連は西側先進諸国と肩を並べた。

④失業の恐怖、老後の心配、住宅・教育・医療費負担はなくなった。

これらを生み出したのが計画経済(著者によれば軍事共産主義供給制)であった。しかしそれは恐怖政治と非能率を伴っていた。(ただし非能率といえば、恐慌と失業ほど非能率なものはない)

ソ連型計画経済の特徴

①「不足の経済」の外延化

革命時の絶対貧困と、その後の国内戦のもとで、量産計画が全てであり、需要との照応は必要なかった。

党の独裁体制のもとで、立憲体制を乗り越え、人命まで含めた過度の収奪が可能となった。

②計画経済の負の成果

生産効率や生産物の質は二の次にされ、無駄の体系が作り上げられた。

行政機構の肥大と非能率化、官僚主義と腐敗。

主人公たるべき労働者・農民の疎外。労働資源化。



感想は、この記事の表題通り。不足だったから「不足の経済」が成功し、それが一定程度充足されることにより壁に突き当たる。問題はその次になにをするべきだったのかがはっきりしていないことだ。

60年代始めにリーベルマン構想が打ち出され、利益の出る構造への変革が打ち出されたが、結局うまく行かなかった。

私が思うには、自由な購買者の出現がないと、生産サイドの改革だけではうまく行かないのではないか。

生産の増大は消費の増大を伴う。消費の増大は欲望の増大をもたらす。増大した欲望が実需となり生産を刺激する。

この螺旋形構造が創りあげられないと経済のそれ以上の進展はない。

「不足の経済」のシステムは循環システムになっていないから、この問題に対応できない。利潤の導入は生産側のインセンティブにはなっても消費者には関係ない。

実はここに市場の最大の価値がある、と私は思う。市場の最大の役割、それは需要の創出にある。

なぜなら市場こそは貨幣経済の最大の実現の場だからだ。人々は職場においては奴隷として扱われる。しかし貨幣を持った一生活者として市場に登場したとき、彼は「王様」にだってなれるのである。

したがって市場は人々の「自由な真の需要」を表現する場になるのである。生産者は市場を見て生産を調整するだけでなく、需要を掘り起こし生産拡大に結びつける。

このような需要の拡大が、生産の増大をもたらし経済の発展へと結びつけていくのである。また労働者・農民の自由をもたらし、当局者の全面的圧政の軛からの解放へと繋がる。

市場の真の機能は競争にあるのではないし、需要と供給のバランスにあるのでもない。それは「欲望の見本市」であるところに最大の機能があるとみるべきだ。

この辺は稿を改めてもう少し検討してみたいと思う。


落ち穂拾いのついでに、レーニンとスターリンの対立点が二つ挙げられた箇所がある。ともに初耳の話なので紹介しておく。

1.国号問題

レーニンは国号問題で、国号に「社会主義」を入れたからといって、われわれの国が社会主義であるとは言えない、と主張しました。

これはロシア革命の性格規定の問題に関わっている。

旧ソ連史学では「社会主義革命」としていますが、レーニンは「社会主義をめざす」革命と言っております。

この論争は、国名に地名を入れないで「評議会社会主義」共和国とすることで妥協が成立したそうだ。

2.連邦か連合か

ソ連の英語表記はUSSR。UはUnion(Союз)である。アメリカはUnited States で諸国連合ということになる。アメリカの場合、州の独自性は日本の県よりは遥かに強いが、外国から見れば単一国家に近い。むしろ諸州連合と呼ぶほうがふさわしい。こういうのを連邦制(Federation)と呼ぶ。

一方、欧州連合(EU)は、今のところは未だ構成国の独自性がほぼそのまま生かされていて、諸国連合、ないし目的を限定した諸国同盟の形になっている。こういうのを連合制(Confederation )と呼ぶ。

というのを前提として、引用に移る。

1922年当時、複数のソヴェト共和国の結合形態をめぐって、ロシア共産党内には鋭い意見の対立がありました。それは諸ソヴェト国家の連合もしくは同盟を主張するレーニン派と、諸国家の連邦を主張するスターリン派の対立です。

スターリンは「軍事・外交・外国貿易その他の業務を統合する単一の連邦国家」を主張しました。

論争はスターリン派の勝利に終わった。病床のレーニンはほとんど発言の機会がなかった。

帝国主義国の強大な軍隊に包囲されている。だから、ウクライナなどの国が独自に外交権を持つならば、ソ連政権は存続できないというのが理屈でした。


むかしは、「ソ連というのは」ブルジョアの呼称で、正確には「ソ同盟」と呼ぶべきだと言われたことがあるような気がするが、それはレーニンの名残だったわけだ。


EUの最大のメリットは「平和」と「福祉」です。

しかし現実の姿としては、EUはそのようにかっこいいものではない。むしろ債務国にとっては「EU帝国主義」というか、諸悪の根源とすら映るところがある。

そのへんも書いておかないと不公平だろう。

EUの“PIGS”対応の諸問題についてはすでに明らかにしているので、そちらをご覧頂きたい。

総括すると以下のとおり

1.言うまでもなく現在の社会・経済システムの最大の問題は2つである。一つは国民の貧困化であり、その直接の原因は果てしなく続く緊縮財政政策である。もう一つは国民が貧困化する一方で所得格差が拡大し、超富裕層が世界の富を独り占めしていることである。

2.EUはこれに対してどういう態度をとってきたか、そのいずれをも推進する方向ではなかったか。企業側の利益を優先し、環境・安全基準や労働者の権利を二の次にしてきた。金融・財政危機にあたってはPIGS諸国の民衆に犠牲を強いることをためらわなかった。

3.そうやってドイツだけが一人勝ちするようなシステムは、他の国が掛け金を払えなくなったとき瓦解する。結局は共倒れに終わるのではないか。

4.そのようなEUであるが、それを民衆目線で変革するような展望を持ちつつ残留するのであれば、残留には意味がある。

5.イギリスでは(そしてEU加盟国の殆どで)、「EU」は緊縮財政と富裕層優遇政策を合理化するための外圧として利用され、錦の御旗となった。これではEUが民衆いじめの象徴と受け止められても仕方ない。

6.「脱ければこんなに恐ろしい未来が待っている」と散々脅されつ続けてきた民衆は、「残ればさらに恐ろしい未来が待っている」と考えるようになった。

こんなところではないか。

なお離脱の世論にはTTIP交渉の動向も関わっているようだが、今のところコメントするだけの資料を持ち合わせていない。


EU離脱論に関して、日経新聞(2016/2/20)に比較的まともな解説が載っていたので紹介する。

1.EU離脱論の2つの背景

ひとつは2004年にEUに新規加盟したポーランドなど東欧諸国から英国へ流入した移民の急増だ。

08年のリーマン危機後に雇用低迷が深刻になると、低賃金で働く移民が雇用を奪っているとの不満が蓄積した。昨年以降の難民危機もEU批判に拍車を掛けている。

もうひとつはユーロ危機への対応に英国が巻き込まれたことへの不満だ。EUは危機の再発防止のために、金融監督の一元化など統合強化の動きをみせてきた。

以下略


というわけで、2つの背景はまったく異なっている。ひとつ目は国民大衆の不満と不安だ。

ふたつ目は、シティの投機家たちにとっての不満だ。EUが金融資本への規制を強化するのは、ロンドンのシティー(ユーロマネー市場)を生命線とする投機家にとっては大変危険な兆候である。

1.国民大衆の不満と不安

ひとつ目の理由については大変よく理解できるし、同情もする。ただその選択肢は正しいとはいえない。なぜなら敵を間違っているからである。

資本の流通のみ自由化していけば、先進国には富が途上国には貧困が蓄積する。そうすれば途上国からの人の移動が起きるのは当たり前である。

先進国は富を輸出し途上国は貧困を輸出するのである。これが難民問題(とくに経済難民)問題の本質である。

ただ、この傾向があながち悪いとばかりは言い切れないので、長い目で見ればそうやって世界の富は平均化し、世界の人々があまねく豊かになっていけるのだ。

問題は2つある。

一つはそのテンポだ。資本の移動は今日のハイテク社会ではほとんど瞬時に行われる。しかし人の移動には文化や習慣、社会の柔軟性の問題もあるから一朝一夕には行かない。場合によっては複数世代をまたいで初めて可能になる。

そこにはコンセンサスを基礎とした非商業的な息の長い計画が必要となる。

もう一つは今のグローバリゼーションが貧富の差の拡大を伴って進行していることである。それは投機資本や金融資本の横暴がまかり通っているためである。

労働問題や雇用問題は、すべて大衆の貧困問題に関係している。それは生産力が低下したためでなく、生産の果実をごく一部の富裕層が吸い取っているためである。

彼らから、奪われた金を取り戻さなければならない。EUから離脱するとかポーランド人労働者を追い出すことで済む話ではないのである。

2.ユーロマネー市場の不満

この記事で学んだこと、それはイギリスの支配層(の一部)が離脱の動きの陰にいることだ。

彼らサッチャリストがどのくらい本気で離脱を考えたかは知らないが、EU当局の動き、とくに規制強化を狙う動きには強い不快感を抱いている、このことは間違いないようだ。

この記事は2月20日のものだ。キャメロン首相が首脳会議で離脱不安を煽って見事成果をかっさらった時の記事だ。今や彼らは慌てふためき、声を潜めているだろうが、4ヶ月前までは離脱を囃し立てて、火に油を注いでいた可能性がある。

離脱の動きの背景にある、規制強化への嫌悪感。この問題はもう少しえぐりだしてもらいたいものだと思う。この点について、その後の日経の記事はどうなっているのだろうか。八十島記者に伺ってみたい。

下記もご覧ください

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