鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

カテゴリ: 11 国際政治/東アジア(中国・朝鮮半島)

最近の不破さんの話はまことにスリリングで、どう受け止めたらいいのか、戸惑いを感じてしまうほどである。

要するに、とにかく「伝統」と呼ばれるものからスターリン的要素を剔抉して、徹底的に浄化しようということに執念を燃やしている。その迫力はこれまでの「反スタもの」に比べて格段の違いがある。

本日の「本と私」という党外の人に向けた講演でも、その思いは一貫している。

その中で、「うーむ」とうなった箇所を上げておく。

1949年の11月、新中国の誕生直後に北京で開かれたアジア太平洋州労働組合会議で、劉少奇が武装闘争の大号令をかけたんです。
翌年には、いわゆる「50年問題」で、日本共産党への武装闘争方針の押し付けが始まりました。
私たちは、そこに劉少奇演説の流れを見ていたのですが、この本 の第1冊に劉少奇のスターリン宛の手紙(49年8月)があり、“労働組合会議で武装闘争を呼びかけるのは反対だ”と訴えていました。それをスターリンは押し切ったのです。

ここでこの本 と言っているのは、2007年に不破さんが北京に行ったとき、たまたま本屋で見つけたという「建国以来 劉少奇文稿」である。

毛沢東以前の中国共産党について勉強したが、“お殿様の言うことは何でも飲み込む”姿勢は、中国共産党の習い性となっている。清朝時代の“美風”をそのままに引きずっている。近代市民文化の未成熟がその背景にあるのだろう。

それがスターリン主義を増長させた。酷な言い方だが、結局のところその“美風”は、客観的に見れば“下からのスターリン主義”と批判されても仕方ない。

ただその組織が国を支配するようになってくると、そこから抜け出す自由はもはやない。“美風”は“悪風”となる。そして劉少奇自らがその犠牲となった。

“悪風”は、最後は自分たちで克服していくほかないのである。


どうも書いていて、我ながら隔靴掻痒の感がある。

中国の伝統として白髪三千丈的な表現がある。言葉が踊るのだ。

だから言葉と実際の感情の間には乖離が生じることがある。それがスターリン的な荒っぽい表現を加えたために、一層それが激しくなる。それを外部の人間が見ると、とくに日本人だと非常に激しく受け取ってしまう。

事実としては、陳独秀も瞿秋白も李立三も、悪しざまに罵られ、指導部のポストを追われた。しかし党には残り、何時の日か再起している。あの王明ですら、革命後は政府の要職を務めている。

だから、政権交代劇はひょっとするとコミンテルンの顔を立てるために行われたにすぎないのかもしれない。

ということは、コミンテルンの指令は一応は受け取られるが、意に沿わないものであればいずれは破棄するつもりだったかもしれない。ただやるのであれば本気でやらなければならない。「それが民主集中制というものだ」ということか。

劉少奇にもその傾向がうかがわれる。勤工検留学生上がりに特有の気質かもしれない。

そこへ行くと王明は結構本気だった。彼の讒言で多くの活動家幹部が粛清されたり、敵に売り渡されたりしている。康生はもっと本気(むしろ狂気というべきか)だった。浅間山荘の連合赤軍連中のように、言葉と行いの間に隙間がなかった。

結局、1週間ほどをかけて「毛沢東のライバルたち」の年表に没頭しました。
どうやら完成です。
以前ブログに連載した「毛沢東以前の中国共産党」は拡充されて、この年表に一本化されています。
中国共産党の人脈は次のように分類されると思います。
1.マルクス主義の紹介者たち
この人たちの多くは日本留学組で、日本語訳された文献を通じてマルクス主義を知り、それを中国に紹介しました。1915年から20年ころにかけての時代です。この人たちの中から中国共産党が結成されることになります。
2.五四運動の世代
北京で軍閥政府の対外追従に抗議する大運動がありました。この時、共産党に飛び込んだ北京大学の学生を中心とするエリート世代があります。中国共産党の最古参に属する人たちです。
3.湖南湖北の農民運動
湖南湖北は中国の中でも遅れた農村地帯で、その分農村運動は激しいものがありました。これを代表したのが毛沢東たちです。
この地域は同時に勤工検留学生を多く輩出しました。したがって出身地域、年代ともに両者は重なっています。
4.勤工検留学生のグループ
同じ国外留学でも日本に留学したエリート層ではなく、フランスで働きながら学ぶという経験を積んだ人たちです。学ぶと言っても条件は劣悪で、ストライキを起こして強制送還させられた人もいます。戦前の共産党の主軸をになった人の多くがこのグループです。
5.コミンテルン・グループ
1930年までは1~4のグループが運動を担っていましたが、一斉蜂起戦術の失敗の後、コミンテルンの指示によって指導部メンバーは一新されます。
新たなメンバーはすべてモスクワ帰りの、ほとんど闘争経験を持たない新人でした。古手の活動家は粛清されるか、山岳ゲリラのもとに送り込まれるかしました。
ところが、彼らにとっては不幸なことに、その後1年も経たないうち、弾圧で上海での活動が不可能になってしまいました。こうして彼ら自身が解放区に入らざるを得なくなり、厳しい戦いの中で古参幹部の方針に従わざるを得なくなります。
6.その他のグループ
北京大学を中心に知識人のグループがありましたが、張作霖によって集団処刑されてしまいます。
上海、武漢、広州にはそれぞれ強大な労働者グループが形成され、労働者党員の幹部も生まれますが、その後の弾圧の中で消滅の運命をたどります。
国民党軍に潜入した共産党員も一連の武装蜂起に参加していますが、共産党の組織活動とは性格が異なるようです。
中国共産党にとっては、6大会というのが非常に大事な会議で、その後、はじめて諸活動の全面展開と党独自の組織づくりが始まります。その再建過程で左翼文化戦線も活発になります。党の活動が厳しくなったあとも合法面での活動がギリギリ維持されていました。彼らとスメドレーらは連携しながら党のパイプ役を勤めますが、ユージン・デブス事件で一網打尽にされてしまいます。
様々な理由から多くの党幹部がモスクワに在留していましたが、その殆どはスターリンの大粛清の犠牲となってしまいました。

ということで、それぞれのグループからこれはと思う名前を上げてみると、
1.陳独秀(徳田球一みたいな人)
2.李大釗(野坂参三みたいな人)
3.
張国燾(志賀義雄みたいな人)
4.
蔡和森 27年7月に陳独秀とともに指導部を降りている。その後モスクワでの療養生活に入る。
5.
瞿秋白(不破哲三みたいな人)
6.李立三 28年の6会大会(モスクワで開かれた再建大会)のあと党を再建
7.周恩来 中国のミコヤン。絶対にトップには立たない。
というわけで、並べてみると李立三が最強の指導者ということになります。ただ6大会では、本来は李立三ではなく蔡和森が就任するはずだったかもしれません。
ソ連=コミンテルンは一方で国民党との無原則的妥協を強いつつ、他方で極左冒険主義を煽るという犯罪的役割で一貫しています。李立三に無謀な蜂起を強いたのも当時のコミンテルンの極左方針そのものです。
そして最後には党指導部を事実上解体して、粛清屋の若者を送り込むという形で、中国共産党に引導を渡す結果となりました。
こういう経過を身をもって体験した毛沢東が、後年になって日本国民の闘争に野蛮な干渉をしたのは一体どうしてでしょうか。


とにかくまことに内容充実、脂っこい本である。AALAの全国総会の後、大塚駅前のブックオフで410円で買ったが、その10倍の値打ちはある。
まずこの本の骨組みを紹介しておこう。
この本の奥付は以下のようである。

岩波新書(新赤版)1251
シリーズ 中国近現代史 ③ 「革命とナショナリズム 1925-1945」
第1刷発行 2010年
著者は 石川禎浩(よしひろ)さん

1963年(昭和38年)生まれというから、私より二回り近く下の52歳だ。
京都大学の文学部卒業で、現在は人文研の准教授という肩書(准教授って知らないが、助教授より下か? もうポツダム教授で終わるかも知れない)

その博識ぶりと、見識の確かさには舌を巻く。私もいささか勉強したつもりだったが、共産党側と国民党側の見解の激しい相違の中で、情報の取捨選択に右往左往させられてきたので、このことには感服する。「実事求是」に対するひとつの拠り所を得た思いである。

蒋介石を回転軸としつつ、その右回りスピンよりは少し左側に中国民衆運動の重心を据えることで、20年代から30年代への確かな前進を確信していく作業が必要なのだろうと思う。
それによって共産党の運動を、毛沢東への流しこみでもなく、コミンテルンとスターリン主義の犠牲者としてペシミスティックに見るのでもない、積極的な視点が培われるのではないか。

私が毛沢東でない中国共産党の姿に興味を持ったきっかけは、映画監督の佐藤純彌さんの短いエッセイだった。上海のバンスに拠点を構え、巨大な生産都市にして歓楽都市の中で圧倒的な文化的影響力を発揮し続けた中国共産党のまばゆい姿が心に焼き付いている。その象徴が向警予だった。

結局、興味の持ち方がスケベェなんですね。

以下は岩波新書「シリーズ中国近現代史② 革命とナショナリズム」から編年風に抜書きしたものである。
いずれ「毛沢東以前の中国共産党」年表と合体するつもりだが、とりあえず掲載しておく。


1919年

10月 孫文らの中華革命党を中心として中国国民党(以下国民党)が結成される。

1921年

中国共産党が上海で第1回党大会を開催。この時の党員数は全国で50名余。

1922年

第一次奉直戦争。直隷派の勝利に終わる。

1923年

1月 孫文・ヨッフェ連合宣言が発表される。これによりソ連との連携方針が明らかになる。孫文は、「ソヴェート制度は中国には適さない」と留保。

この後、コミンテルン・ソ連から派遣されたマーリン、ボロジンらの助言を受け、党組織の改革「改進」が推進される。これまでの孫文専権党から、党大会を頂点とする近代政党に切り替わる。

3月 中国国民党、西南地方の軍閥を結集。広東で地方政権「大元帥府」を立ち上げる。

10月 北京の直隷派、「賄選」と呼ばれる議員買収で曹錕(金偏に昆)を大総統に選出する。直隷派は全国統一を目指し反対派(奉天派、安徽派)に圧力。

秋 国民党、党員の再登録を実施。広東省内の党員は3万から3千に減少する。

23年 孫文、ソ連に代表団を派遣。蒋介石も加わる。

蒋介石は日本に留学し陸軍で実習を積む。11年に帰国後は孫文の革命運動に加わり、軍事面で支え続けた。当初は必ずしも反共ではなく、孫文の連ソ容共方針にも積極的に賛同していた(石川)

1924年

1月 国民党、第1回全国代表大会を開催。国共合作を容認。ただし共産党員は国民党への二重加盟を求められた(党内合作)。共産党員の多数がこれに反対するが、コミンテルンに押し切られる。この時点で共産党員は全国で約500人。

6.16 広州の東郊外に黄埔軍官学校が開設される。総理に孫文、校長(軍の最高指導者)に蒋介石、党代表に廖仲愷が就任。ソ連軍事顧問団の指導を受ける。

9月 第二次奉直戦争が始まる。広東政府も反直隷同盟に加わる。両軍合わせ30万の兵力が動員される。南下した張作霖の奉天軍と直隷軍が北京東方の山海関付近で激突。

9月 国民党が広州の武力統一に乗り出す。翌年までに広東省の統一を実現。

10月 直隷軍の馮(ふう)玉祥が奉天軍に寝返る。北京を制圧し曹?を監禁する(北京政変)。背後を衝かれた直隷軍は総崩れとなる。

馮玉祥、自軍を「国民軍」と改称。皇帝退位後も紫禁城に住んでいた溥儀を放逐する。さらに張作霖の同意をえて、段祺瑞を北京政府の「臨時執政」に担ぎあげる。

12月 孫文、「北上宣言」を発し北京に入る。機能不全に陥った国会に代わり、全国の社会団体代表による「国民会議」を開催し、中央政治を一新せよと訴える。

国民党の党規約が制定される。ソ連共産党にならい、「民主主義的集権制度」を党の原則とする。

 

中国共産党の財政(石川:岩波新書中国近現代史③ より。以下石川と略す)
1924年度のデータで、総収入32千元。うち党費などによる収入は2千元足らずだった。すなわちソ連からの援助が3万元ということになる。党への直接援助の他に、労働組合やソ連政府援助の流用をあわせると10万元以上が中国共産党に流れたと考えられる。27年には援助総額は100万元に達した。石川の試算では当時の1元は現在の750円に相当するという。

レーニンが死亡。民族統一戦線を重視するソ連共産党・コミンテルンの対中方針はそのまま継続。

1925年

2月 上海の日系紡績工場「内外綿」で労働争議が始まる。

3.12 孫文、北京で軍閥政府と交渉中に死去。享年58歳。死因は肝臓がん。「革命なお未だ成功せず。同志なお須らく努力せよ」の遺言を残す。なお「連ソ容共」路線の継続を訴えるソ連あての遺言は、後の中華民国政府により無視された。

5月 広州で第2回全国労働大会が開かれる。「軍閥と国際帝国主義を打倒する革命」を決議。中華全国総工会の結成を宣言。166の組合、54万人の労働者を結集。

5.16 内外綿争議で、日本人職員が中国人労働者を射殺。共産党は糾弾闘争に立ち上がる。

5.30 「530事件」が発生。上海租界で、共産党の指導する判定示威運動。共同租界当局は群衆に対して発砲。13人の犠牲者を出す。

6月 上海総工会の呼びかけたゼネストに20万人が参加。総工会は中小企業家や学生団体とともに工商学連合会を結成し対外ボイコット運動を展開。都市機能は1ヶ月間麻痺状態に陥る。

6.23 広州の英仏租界の沙面を10万人が取り囲むデモが発生。恐慌をきたした守備隊の発砲により52人が死亡する。香港で働く13万人の労働者が広州に引き上げ。国民党政権の支援を受けた労働者糾察隊2千人が香港・広州間の交通を遮断し、香港と沙面を封鎖。

香港スト: 香港でのストは26年10月まで16ヶ月にわたり続けられた。この長期ストにより香港は「臭港」「死港」と化した(石川)。

6月 ロシア共産党政治局、中国(主に広東政府)への150万元の軍事援助を決定。これは4月から9月までの半年分とされる。

7月 広東の国民党政権、大元帥府から「国民政府」に改称。主席に汪精衛が就任。

8月 従来の諸軍を再編し国民革命軍が編成される。黄埔軍官学校の卒業生が中核を担う。

8月20日 孫文後継者と目された廖仲愷、広州市内で国民党右派により暗殺される。

夏 孫文側近の戴季陶、「孫文主義の哲学的基礎」、「国民革命と中国国民党」を相次いで発表。共産党の寄生政策を批判して、「純正民主主義」の徹底を訴える。

ただし戴季陶は蒋介石宛の私信で、「今日もっともよく奮闘せる青年は大多数が共産党であり、国民党の旧同志の腐敗・退廃は覆うべくもない」と告白している(石川)

秋 共産党員数が3千近くに達する。多くが国民党政府のメンバーとして活動。

11月 張作霖配下の郭松齢、馮玉祥と結び反乱を起こす。日本軍の支援を受けた張作霖は郭松齢の軍を殲滅。これを受けた馮玉祥の国民軍は北京を退去。西北方面で再起を狙う。

広州で「被抑圧民族連合会」、「ベトナム青年革命会」、「台湾革命青年団」などが結成される。

1926年

初頭 馮玉祥、国民党に加入し反乱を起こす。ソ連は国民軍を広東と並ぶ革命勢力とみなし、軍事顧問団の派遣や武器の援助を行う。蒋介石はソ連の二股膏薬に不信感を抱いたとされる。

1月 国民党第2回大会。左派が躍進したことから「左派による勝利の大会」と呼ばれる。汪精衛が最高得票を獲得。左派の支援も受けた蒋介石は、第2位で中央執行委員に選出される。

3.18 馮玉祥の国民軍と戦う張作霖に対し日本など列強が公然と支援。これに抗議する学生デモが北京で展開される。政府軍の発砲により47人が死亡。事件の責任を取り段祺瑞が引退。以後、奉天派支配のもとで直隷派との連合政府が成立するが、いずれも短命に終わる。(この年だけで5回の政権交代)

3月 中山(ちゅうざん)艦事件。国民革命軍の砲艦「中山」が蒋介石の承認なしに独自で航行。蒋介石は広州に戒厳令を布告し、ソ連軍事顧問団の公邸を包囲、労働者糾察隊の武器を押収。

蒋介石と広州訪問中のソ連使節団(団長ブブノフ)が事態の収拾をめぐり交渉。施設団はソ連軍事顧問団の越権行為を認め、顧問を更迭。さらに北伐の早期開始を容認し、そのために省港ストの収束方針を承認。

汪精衛はソ連の蒋介石への妥協に反発。国民政府軍軍事委員会主席の職を辞ししフランスへ去る。

4月 蒋介石が国民政府軍軍事委員会主席に就任。

5月 国民党、共産党員の国民党内での活動を制限する「整理党務案」を押し付ける。

5月 北伐を目指す国民革命軍が編成される。蒋介石が総司令に就任。

5月 北伐の前哨戦。国民革命軍北伐先遣隊が湖南省に入る。

呉佩孚が湖南省支配を狙うが、これに反発した省長代理の唐生智が戦を構える。国民革命軍はこれに介入し唐生智も国民革命軍に加わる(第8軍)。

6月 蒋介石、国民党主席(中央執行委員会常務委員会主席)のポストも獲得。

7月 国民党政府、「北伐宣言」を発表。国民革命軍動員令を発する。

北伐軍は全8軍、25師団編成。総兵力は10万を数えた。第1軍のみが黄埔学校卒業生を主体とする近代的軍隊で、残りは軍閥の部隊を再編したものであった。これに対抗したのは湖南の呉佩孚軍25万、江西の孫伝芳軍20万、彼らの背後には張作霖軍35万が控えていた。

7.09 北伐軍本隊が広州を出発。

7.11 呉佩孚軍、湖南の省都長沙を撤退。北伐先遣隊と唐生智の第8軍が制圧。

8月中旬 北伐軍、湖南省の主要部を制圧。

8月末 北伐軍、汀泗橋・賀勝橋で呉佩孚軍主力を撃破。

9.23 スターリン、モロトフ宛に「漢口はやがて中国のモスクワになるだろう」と書き送る。

9月 馮玉祥の軍、綏遠省で挙兵。陝西省方面へ攻勢をかける。

9月 イギリス砲艦、長江上流の万県に砲撃を加える。

秋 蒋介石、腹心の邵力子をモスクワに派遣。「ソ連共産党とコミンテルンの指導のもとに、その歴史的役割を完遂する」ことを明らかにする。

10.10 北伐軍が武漢を制圧。呉佩孚軍はまもなく壊滅。

10月 共産党が主導して上海で第1回目の蜂起。失敗に終わる。

11.08 蒋介石の率いる直属部隊と第7軍(軍長・李宗仁)が省都南昌を制圧。孫伝芳軍の前に苦戦し、1万を超える戦死傷者を出す。

11月 馮玉祥の軍、西安に進出。陝西省の大部分を制圧する。

11月 広州の国民党中央、党と政府の武漢への移転を決定する。

12.09 福建省の省都福州が北伐軍により制圧される。

12月 湖南・湖北の農民協会、半年で40万から160万に拡大。各地で武装し北伐軍を側面支援。

12月 国民党中央の先遣隊が武漢に到着。党中央と政府の臨時連席会議を組織する。

主要メンバーは徐謙(司法部長)、孫科(孫文の長男)、陳友仁(外交部長)及び政府顧問のボロディン。

1927年

4月 国共合作下の武漢で、第5回共産党大会。党員数6万人。労働者が6割、農民2割、知識人2割の構成。女性党員も8%を占める。

5月 コミンテルン第8回執行委員会総会。トロツキーは武漢国民党の反動化を警告するが、スターリンは国民党を通じた土地革命を想定し、中国共秋収産党に武漢政府への協力を求める。

陳独秀、武漢分共の責任を問われ、「右傾日和見主義」の批判のもとに解任される。

7月 スターリンのモロトフあて書簡。「中国共産党の中央委員会には簡単なやさしい要求がある。それはコミンテルン執行委員会の指令を達成することだ」と盲従を求める。

8.01 南昌蜂起。国民革命軍内の共産党派だった葉挺、賀龍、朱徳らの部隊が江西省の省都を中心に反乱。「中国国民党革命委員会」の名義で「革命の政党」を受け継ぐことを宣言。広東での政権樹立を狙い、南下を開始。

8.07 共産党、漢口で緊急会議を開催。陳独秀の路線を批判するとともに、南昌蜂起に呼応して「秋収蜂起」(湖北・湖南で秋の収穫期に蜂起する方針)を決定。湖南の農村活動家・毛沢東が指揮に当たることとなる。

9月 南昌蜂起部隊、広東までの間に国民党の攻撃を受け壊滅し四散。秋収蜂起もことごとく鎮圧される。

10月 毛沢東、秋収蜂起の残党1千名を率い井崗山にこもる。井岡山は湖南・江西の省境をなす山岳地帯。緑林・土匪を取り込み「工農革命軍第1軍第1師第1団」を組織。

11月 共産党、左派国民党を僭称することをやめ、共産党のもとにソヴェートを建設する方針を決定。広東省陸豊・海豊にたどり着いた南昌蜂起軍の残党がソヴェートを名乗るがまもなく殲滅される。

12月 広州蜂起。広州ソヴェートが樹立されるがまもなく鎮圧される。この時武装勢力に初めて紅軍の名が付けられる。

1927年

1.01 「武漢国民政府」が正式にスタートする。

1.03 武漢政府の臨時連席会議、3月に国民党中央総会(二期三中全会)を開催すると決定。軍(蒋介石)からの権限回復を図る。

南昌(江西省)に北伐軍総司令部を構える蒋介石は、臨時連席会議の正統性を認めず。南昌で独自の中央政治会議を開催。二期三中全会の南昌開催を決議。しかし南昌在留の党中央委員の多くが武漢に移ったことから、蒋介石の正統性は薄れる。

1月初め 漢口の英租界で反英闘争が激化。武漢政府は英租界臨時管理委員会を設置し、租界を接収する。その後、江西省の九江でも英租界が接収される。租界接収の動きを見た列強は、最大の租界を抱える上海に軍を結集。

武漢の労働運動指導者だった劉少奇は「労働者は企業を倒産させるという要求を掲げ、賃金を驚くべき水準に引き上げ、一方的に労働時間を1日4時感以下に短縮した」と述懐する。また農民運動は土地没収や地主の迫害を常態化させ、食料米の流通を阻害した。(石川)

2月 共産党、第2回目の上海蜂起。失敗に終わる。

3月 武漢で国民党中央総会(二期三中全会)が開催される。党常務委員会主席ポストの廃止、軍総司令の権限制限などを決定。労工部長、農政部長には共産党員が就任。

3.21 共産党、第3回目の上海ゼネスト・蜂起。2日間にわたる市街戦の末、奉天軍を放逐することに成功。当初、租界への攻撃はなく、外国軍との衝突はなし。

3.22 北伐軍の先鋒が上海に入る。ゼネスト勢力は「上海特別市臨時政府」を樹立。

3.24 国民革命軍の第2,6軍が孫伝芳軍を駆逐し南京に入る。一部が外国領事館や教会を襲撃し外国人数人を殺傷する。英米の砲艦が南京城内を報復攻撃。死者多数を出す。

蒋介石は日本政府に急使を送り、南京事件の誠意ある処理を約した。日本政府は報復に同調せず、蒋介石と国民政府内の過激分子粛清について密約した(石川)。

3.26 蒋介石が上海に入る。

3月末 コミンテルン、上海の共産党組織に対し、武力による租界突入を禁止する通達。また労働者糾察隊の銃刀器の携行を禁じる。

3月末 武漢の国民党中央、南京駐留中の第6軍(左派系)に対し蒋介石の逮捕を密命する。蒋介石は第6軍を南京から移動させ、直系の第1軍を配備。

4.01 汪精衛がソ連経由で上海に戻る。ただちに蒋介石や共産党の陳独秀らと会談に入る。

4.04 蒋介石、「共産党分子はデマを流し、団結を損なっている。これ以上の撹乱行為は反革命だと言わざるを得ない」と発言。

4.05 スターリン、「蒋介石など右派も帝国主義者と闘っており、今決裂する必要はない」と演説する。

4.05 汪精衛、陳独秀と共同宣言を発表。両党の友好関係を確認。また蒋介石への信頼を表明。その後武漢に向かう。

4.08 スターリン、蒋介石あてにみずからの肖像写真を送り、「中国国民革命軍総司令官蒋介石氏の勝利」を祝う。

4.08 国民党中央、産業の中心地である南京への遷都を決定。

4.09 蒋介石、駐留先の南京で左派系の集会を弾圧、さらに江蘇省党部を襲撃する。

4.11 広州でも蒋介石派の軍による左派弾圧が行われる。

4.12早朝 蒋介石隷下の第26軍、上海市内各所で労働者糾察隊の武装解除に乗り出す。この衝突で糾察隊員300人が死亡。小銃3千、機関銃20などの武器が押収される。

4.13 上海総工会が26軍にデモ。軍の発砲でさらに多数の死傷者。軍は総工会本部を占拠し左派・共産党系組織の解散を命令。その後広州でも同様の弾圧。

この後、上海は驚異的な発展を遂げる。人口は300万人(東京・大阪は200万人)、消費電力も東京を上回る。バンドには高層建築が林立。女性は摩登(モダン)な旗袍(チャイナドレス)で着飾る。活字、映画文化などが花開き、繁華街は電飾で不夜城と化した。(石川)

4月 北京を支配する張作霖、ソ連大使館を強制捜査。潜伏中の李大ら共産党幹部を逮捕・処刑。

6月 張作霖、「安国軍政府」大元帥に就任。みずから政権を握る。

4.17 武漢の国民党中央、蒋介石をすべての職務から解任。党からも除名する。

4.17 蒋介石、南京在留の党役員を集め国民党中央政治会議と中央軍事委員会を組織する。

4.18 南京に胡漢民(孫文とともに働いた古参幹部)を主席とする独自の国民政府が樹立される。蔡元培(元北京大学学長)らが蒋介石政府の支持に回る。

5.30 コミンテルンの中国に関する決議。これに基づきスターリンの「5月指示」が送られる。(中国への到着は6月初め)。中国共産党に極左的方針を持ち込む一方、国民党左派との連携を説く。

主な内容は①土地革命の断固実行、②武漢政府と国民党の再改組、③共産党員2万人の武装、④労働者・農民5万人の国民革命軍への加入、⑤反動的な武漢の将領の処罰など(石川)

6月初め コミンテルンの現地代表ロイ、「5月指示」を汪精衛にリーク。汪精衛はソ連の支援増強を条件に5月指示を受け入れる。

6月末 武漢政府は1500万ルーブルの援助を求めたが、200万ルーブルしか得られず。このため中央政府における汪精衛の地位は一気に弱体化する。

6.10 馮玉祥が武漢政府、南京政府と相次いで会談。蒋介石の側に立ち、武漢側に蒋介石との協力と労農運動の抑制を求める。

6月 日本政府、英・米の同調を得て第一次山東出兵。2ヶ月後に撤兵する。

7.15 武漢の国民党中央が会議を開催。汪精衛は5月指示の存在を明らかにする。会議は党・政府・軍における共産党員の職務停止を決議する(武漢分共)。第一次国共合作は終わりを告げる。

8月 孫伝芳軍の追撃に移った蒋介石軍、徐州の闘いで惨敗。蒋介石は下野を宣言する。

9月 国民党の最高機関として中央特別委員会が招集される。みずからの正統性を批判された汪精衛はこれを不満として引退を言明。

9月 無役となった蒋介石が私人の資格で日本を訪問。田中義一首相らと会談を重ねる。

蒋介石は、日本が「かつてのソ連のごとく」北伐を支援してくれるようもとめたが、北支の権益拡大を狙う日本側は確たる言質を与えなかった(石川)

27年末 蒋介石と汪精衛が不在の中央特別委員会は、何も決まらないまま解散。

1928年

1月 蒋介石が国民革命軍総司令官に復帰。2月には党の軍事委員会主席、3月には中央政治会議主席も兼任する。

国民革命軍の再編: 共産党・左派の占めていた軍は吸収併合され、4つの集団軍に統合される。第1集団軍・蒋介石、第2集団軍・馮玉祥(河南)、第3集団軍・閻錫山(山西)、第4集団軍・李宗仁(広東)が守備範囲となる。総勢は60万に達し、北方部隊合わせて20万を圧倒する。

第二次北伐を開始。

4月 日本、第二次山東出兵。第6師団5千人が省都済南に派遣される。

5.03 済南事変発生。済南に進出した北伐軍と日本軍が衝突。日本側の砲撃により中国側軍民3千人以上が死傷する。北伐軍が撤退迂回したため、済南は1年にわたり日本の占領下に置かれる。

済南事件はその後の対中侵略の雛形となった。①出先機関が事件を拡大・激化、②軍中央・政府が後追い、③世論が「暴支膺懲」論で後押しというパターン。いっぽう①中国国民の主要敵は英国から日本に移り、②蒋介石の親日方針は解消され、③英米両国が日本を批判的に見るようになった。(石川)

6.03 張作霖、特別列車で北京を脱出。奉天に向かう。

6.04早朝 張作霖を載せた特別列車、奉天直前で爆破される。後に関東軍の謀略であることが明らかになる。

6.08 国民革命軍(北伐軍)、北京に無血入城。天安門に孫文の肖像が掲げられる。この時点で軍勢は200万人にまで膨れ上がる。

6.15 国民政府、北伐と全国統一の完成を宣言。南京を首都とし、北京は北平と改称する。

7月 張作霖の息子張学良が東3省保安総司令となる。国民党と手を結ぶ道を選択。

10月 国民党、「訓政綱領」を発表。6年間の党独裁期(訓政期)を経たあと憲政に移行するというもの。

11月29日 張学良が易幟を断行。東3省にも青天白日旗が翻ることになる。国民政府は張学良を東北辺防軍司令長官に任命し内政の自治を承認する。

1928年

4月 朱徳の率いる南昌蜂起軍の残党2千人が井岡山に合流。中国工農紅軍第4軍を編成。軍長に朱徳、党代表に毛沢東が就任。

6月 共産党の第6会大会。国内での開催が困難となりモスクワで行われる。党員は最大時の6万人から1万数千に激減。

1929年

29年初め 毛沢東の第4軍、井岡山を離脱。江西省南部の瑞金に移動。

1929年

5月 張学良、ハルビンのソ連領事館を強制捜索。その後中東鉄道(シベリア鉄道の満州通過部分)の接収に踏み切る。

8月 ソ連が東北部に侵入。張学良軍を撃破する。

11月 ハバロフスク休戦協定。中東鉄道は引き続きソ連の支配下に置かれることとなる。

ソ連は共産党に「労働者階級の祖国ソ連を守れ」のキャンペーンを強制。これに異議を唱えた陳独秀は党を除名される。

1930年

3月 共産党の影響のもとに魯迅を押し立てた左翼作家連盟が結成される。

汪精衛ら「改組派」、青年党員を結集し反将運動を起こす。閻錫山、馮玉祥、李宗仁が改組派に合流。河北での大規模な内戦(中原大戦)に発展する。双方合わせ100万の軍を動員、死傷者は30万人に上る。

9月 北平に「国民政府」が樹立される。主席に閻錫山、政府委員に汪精衛、馮玉祥、李宗仁が就任。

9月 張学良が蒋介石を支持し北平・天津に進出。これにより中原大戦は収束に向かう。

1930年

3月 この時点で、「革命根拠地」(ソヴェート)は15ヶ所、軍勢は合計で6万、銃器3万丁を確保する。ただしその多くが「遊民」(はみ出し者)によって占められていたという。

7月末 紅軍ゲリラが湖南省都・長沙および江西省都・南昌を同時攻撃。長沙を攻撃した第3軍団(彭徳懐)は1周間にわたり長沙を占拠。湖南省ソヴェート政府の樹立を宣言。朱徳・毛沢東の第4軍は南昌を攻撃するが甚大な被害を出し撤退。

9月 共産党の6期3中全会、上海で開催。

11月 蒋介石軍、第1回めの囲巣作戦。3ヶ月にわたる。

30年 上海の租界に中国側の特区法院(裁判所)が設置される。租界警察から中国側に政治犯の受け渡しが行われるようになり、向警予、鄧中夏、趙世炎、彭湃、揮代英らが相次いで逮捕・処刑される。

1931年

1月 共産党の6期3中全会、上海で開催。王明、博古(秦邦憲)、洛甫(張聞天)ら「28人のボリシェビキ」(ソ連で教育を受けた若い党員)が中枢を握る。ボスの王明はモスクワに戻り、博古、洛甫が周恩来とともに党を取り仕切る。

4月 2ヶ月にわたる第二次囲巣作戦。

7月 3ヶ月にわたる第三次囲巣作戦。

9月 満州事変の勃発により囲巣作戦が中止される。

9月 寧都蜂起が発生。囲巣作戦に動員された国民党軍1万7千が共産党に寝返る。

11.07 瑞金を首都とする「中華ソヴェート共和国」の建国が宣言される。臨時政府の主席に毛沢東、副主席に項英と張国壽(張国壽は湖北の根拠地鄂豫皖をしきっていた)、軍事委員会主席に朱徳が就任。ただし共産党の序列では王明、秦邦憲らが指導的地位にあり、政府の軍事委員会は党の軍事委員会(書記は周恩来)の管轄のもとにあった。

31年 中国共産党幹部の顧順章、向忠発が検挙され転向。上海の共産党組織は事実上の機能停止に追い込まれる。

1931年

2月 党の元老格で立法院長の胡漢民、蒋介石の方針に反発。蒋介石は胡漢民を逮捕、立法院長の職を剥奪する。

5月 胡漢民派の牙城である広州で反乱発生。これに汪精衛、孫科(孫文の長子)、李宗仁らが合流。「国民政府」の樹立を宣言する。

9.18 柳条湖事件が発生。その日のうちに関東軍が奉天、営口、長春など18都市を占領。朝鮮軍(朝鮮在駐の日本軍)が独断で国境を越え奉天に向かう。

9月 日本製品ボイコット運動により、日本商品の輸入は5分の1に落ち込む(12月実績)。「安内攘外」路線に固執する蒋介石への不満が高まる。

1932年

1.28 第一次上海事変。日本側の謀略により市街戦が展開される。

1月 満州事変を機に広州派が妥協。蒋介石の下野を条件に南京政府に合流。孫科が首班(行政院長)となる。

3.01 「満州国」が建国を宣言。

3月 孫科が退陣。汪精衛が行政院長、蒋介石が軍事委員長の「蒋汪合作体制」が発足する。

12月 宋慶齢、魯迅、蔡元培らが中国民権保障同盟(以下民権同盟)を結成。政治犯の釈放や言論の自由を求める。

1932年

7月 第4回目の囲巣作戦が開始される。国民党中央軍60万人が動員され、9ヶ月に及ぶ長期作戦となる。鄂豫皖の根拠地が壊滅するが、周恩来の指導により本拠地の囲巣作戦の撃退に成功。

10月 共産党の寧都会議。毛沢東は「右傾」を理由に党活動の第一線から排斥される。

1933年

初め 上海を逃れた共産党中央が瑞金に入る。王明は毛沢東の遊撃戦路線を否定。軍事指導権を取り上げる。

3月 蒋介石、日本軍による熱河侵攻を受け、いったん囲巣作戦を中止。

10月 第5次囲巣作戦が開始される。中央根拠地に対し正面だけで40万、後備もふくめ100万の大軍で押し寄せる。

11月 第一次上海事変で日本軍と戦った国民党軍19路軍の一部が福州で蜂起。反将抗日を掲げる福建人民政府を樹立。まもなく蒋介石の攻撃を受け崩壊。

1933年

6月 民権同盟幹部の楊杏仏、蒋介石の私兵集団「力行社」により暗殺される。同盟は活動停止に追い込まれる。

1934年 

4月 瑞金の北100キロの広昌で最大の決戦となる。紅軍は多大な犠牲者を出し敗退。中央根拠地の崩壊は時間の問題となる。

10月 共産党、中央根拠地からの撤退を決定。党中央が瑞金を撤収する。紅軍の基幹部隊である第一方面軍8万人が西方への移動を開始する。(長征そのものの過程については省略)

1935年

1.15 貴州省北部の遵義で中央政治局拡大会議が開かれる。伝説が多すぎるが、結果としては、①毛沢東ら現場の突き上げで秦邦憲(博古)とブラウン(軍事顧問)が指導権を放棄、②周恩来が指導権を掌握、これに張聞天、王稼祥がつく、③周恩来は毛沢東を政治局常務委員に引き上げる。なおこの時点で、秦邦憲は総書記の地位にとどまるが、2月には職を辞し、王稼祥がこれに代わる。

以下は

鄭 敬娥 「アジア地域主義における「アジア的性格」の考察 ―アジア開発銀行(ADB)の創設過程を中心に―」 『広島平和科学』27 (2005)

の抜き書きと感想です。

独立は達成したが経済は崩壊した

多くのアジア諸国は第二次世界大戦後に独立を果たした。それらは新たな国家目標として、植民地的経済構造からの脱却と、国民経済の構築を設定した。

このために政府が積極的に経済活動に介入するとともに、外国資本の導入を極力制限した。

しかし、資金も技術も経営ノウハウも持たないこれら諸国において、このような初期の政策は無残な結果に終わった。

国内経済は深刻な停滞やインフレに陥った。外貨を獲得するにはモノカルチャー的な生産を強化しなければならないというディレンマが生じた。

このジレンマの説明はきわめて簡単である。植民地経済というのはただたんにむしりとる経済ではない。植民地に対し膨大な資金を投下し、その製品に対して豊かな市場を提供するのである。
植民地への投資はリスクは高いがきわめて魅力的だ。設備投資が少なく、人的経費の率が高いために剰余価値率も高いのだ。植民地側にしてみれば、高い利益率を確保しつつ、製品の販売市場が保障されているという魅力がある。需要予測も容易である。
別に現地労働者を奴隷のようにこき使わなくても、統治で普通の労働慣行を尊重したとしても、十分に元は取れるのだ。
植民地が独立するということは、この資金と市場を同時に失うことになるのだ。
にもかかわらず、「独立ほど尊いものはない」のだ。

旧宗主国から国際トラストへ

50年代半ばには、経済開発計画の多くは国際機関の援助(たとえばコロンボ・プラン)の受け皿として作成されるようになる。

しかしその際も、最終的なゴールは脱植民地化であり、外部資本の受入れはそのための多様な経済政策の一つとして理解されていた。

ナショナリズムと先進国資本の受入れとの間の矛盾は、そのような形でいちおう妥協の道を見出した。

アジア的性格と日本を先頭とする先進国との矛盾は、実はアジア諸国の内包する矛盾の反映であったということになる。であればこの対立は、突き放すようだが、アジア諸国が経済成長を遂げることによって自ら解決するしかない課題なのであろう。

輿望を担って発足したADB

すでに1959年には「米州開発銀行(IDB)」が創設されていたが、64年には「アフリカ開発銀行(AfDB)」が誕生した。

アジア諸国は、自分たちだけが取り残されるという危機感を強めていった。

ベトナム戦争が深刻化し、西側先進諸国の対外援助が減り続けるなか、日本の経済的浮上が地域協力に対するアジア諸国の期待を高めた。

1966年12月、アジア開発銀行(ADB)はアジア域内のほぼすべてを網羅し華々しく登場した。

ボタンの掛け違え

日本はADBを地域協力機構の一環として捉え、域内諸国の開発計画の調整を促すとともに、銀行としての健全運営を図った。

そのために、運営面においても域外先進諸国を積極的に参加させた。

しかし、アジア諸国はADBを途上国に対する経済協力機構として捉えた。そして資金面の協力は受け入れるが、運営における発言権は極力制限しようとした。

それがアジア人によるアジア人の銀行、いわゆるADBの「アジア的性格」の主張となった。

このようにして、ADBの創設は日本が加わったことにより、より複雑な道程を歩むことになった。

イントロを読んだだけでは、「アジア的性格」の主張はかなり分かりにくい。ADBが基本的に貸し手の機関なのか、借り手の機関なのかといえば、貸し手の機関に決まっている。
ただ「途上国のニーズに応え、その発展を援助する」という設立の趣旨から言えば、「主人公は途上国だ」という論理も分からなくもない。
これと似たような議論を昔やったことがある。「医療の主人公は患者だ」という主張である。病院というのはそもそも患者のニーズに応じて作られたものだから、患者の要求に応じて運営しなければならない。
しかし医療従事者から見れば、「それは違うでしょう」ということになる。病気を治そうとすれば、まずは医療の論理に従って動かなくてはならない。
だから次元を揃えた上で、どこかで議論を噛みあわせなくてはならないのである。その主たる責任は誰が負うか。「真面目な先進国」である。銀行の担当者ではない。

AIIBはADB以上の問題を内包している

今アセアンは域内貿易と資金調達により独自の道を歩こうとしている。しかし資金需要はあまりにも旺盛であり、自己調達レベルをはるかに超えている。

そんな時に新たな気前のいい融資先が名乗りを上げたのだから、基本的には大歓迎である。

かつて日本がアジア開銀を通じて強力な融資元として登場した時、日本は厳しいマクロ政策と財政規律を求めた。それは必ずしも悪いことではなかったと思う。

「厳しい兄貴だったが、おかげでグレずに済んだ」という側面もある。IMFの横暴には、それなりに体を張って抵抗してくれた。(それがどの程度のものだったかは別として)

中国が同じように「厳しいがいい兄貴」かどうかは保障の限りではない。とくに南シナ海では軍事的野心、領土的野心をむき出しにしているだけに、警戒心は持たざるをえない。

トラストの胴元としてのガバナンスや安定性にも問題がある。中国から金を借りたつもりが、いつの間にか華僑マネーに変身しないとも限らないのである。

日銀調査月報 1965年(昭和40年)8月号

アジア開発銀行設立の意義と問題点[PDF 843KB]


アジア開銀の設立は、本年末には最終結論をうる見通しである。

内容としては

1.資本金は10億ドル、うち域内6億ドル、域外4億ドルとし、広く欧米先進国などからの資金導入を図る。

2.本銀行の役割は域外から追加資金を導入し、世銀・第二世銀など既存金融機関の活動を補完しつつ、各種プロジェクトへの信用供与を行うことである。また各国の開発計画の調整、計画策定に関する技術協力も行う。

3.総裁はアジア人の中から選出する。

というのが柱。

この銀行はアジア人による銀行というアジア的性格と、先進国の発言権を確保するという国際的性格を併せ持つ。

このため、アジアの一員であると同時に域内唯一の先進工業国である我が国の役割発揮がもとめられる。

とここまでが「はしがき」

ついで背景説明に入る。

アジアにおける経済停滞の背景としては、多くの国が人口圧力と貧困という差し迫った問題に直面しながら、政情不安、軍事的緊張の激化から、乏しい資源のあまりにも多くを軍事目的に費消し、その結果、各国の資本不足がさらに拍車されていることによる。

1.エカフェ事務局の試算でアジア諸国では年間6~10億ドルの資金が不足している。政治・経済情勢の不安定が民間投資を抑制している。援助供与国が支援を政治的に利用することから不安定となっている。

2.先進国では戦後20年にいたり、生産過剰傾向が顕現化しつつある。今後の経済成長のためには、低開発国を含めた世界貿易の拡大が不可欠だ。

3.米国はベトナムを中心とするアジア情勢の緊迫化のなかで、民政安定と経済開発に積極的となっている。

ということで、いま考えれば相当あけすけにアジア開銀の目的を語っている。

次に、アジア開銀の目論見として、

1.開発銀行は長期安定外資を導入するチャンネルであり、域内各国における海外逃避資金を動員する呼び水となる。

2.アジアは世銀に好かれていないので、独自に資金調達するチャンネルを作る。(米州開銀が最初、ついでアフリカ開銀だった。アジアはもっとも政治的に不安定な地域だった)

3.開銀を作れば域内のいがみ合いも減るのではないか。

4.アジアの開発に必要なのは、資金もさることながら開発のノウハウではないか。

次に業務(とくに銀行業務)の内容について述べられる。

銀行業務は通常業務と特別業務に分けられる。両者は峻別される。

通常業務は健全経営主義の原則に基づき、元利支払い能力ありと認められるプロジェクトに限り融資される。

特別業務は特別基金と信託基金などに基づいて行われ、銀行の独自調査と判断に基づき、低利かつ長期の条件を出す。

ついでながら、

日銀のこのレポートを読むと、日本はさほど乗り気ではなかったことが感じられる。

韓国との国交回復は成ったものの、依然東南アジアなどの警戒心は強く、日本も米国との関係強化に専心しており、対アジア関係の煩わしさに巻き込まれたくないとの思いが見て取れる。

インドネシアのスカルノもアメリカ主導のアジア開銀への警戒心は強く、設立への動きをリードしていたのはむしろタイ、フィリピンなどだった。

このような動きを背景にして発足したアジア開銀は、冷戦終結とアジアの経済発展という一大変化を経て今でも有効性を発揮しているのだろうか。その辺に一定の疑問が抱かれるのは当然であろう。

その辺りに論及したのが下記の論文

アジア地域主義における「アジア的性格」の考察
―アジア開発銀行(ADB)の創設過程を中心に―

アジアインフラ投資銀行(以下AIIB)の評価は、相当じっくり考えなくてはいけない。AIIBの設立自体は決して悪いものではないし、IMF・世銀、アジア開発銀行の大国支配に風穴を開けるという政治的観点からも積極的に評価すべきだと思う。

ただその意義と限界についても冷静に見ておかなくてはならないと思う。

というわけで、AIIBの検討に入る前に、まずは総論のおさらい。

1.積極的な資金導入と安定的な通貨管理は表裏一体

97年の通貨危機を見ても、積極的な資金導入と安定的な通貨管理は表裏一体の関係にある。

実はもうひとつ、雇用の安定の問題があるのだが、これについては指摘するに留める。

2.導入する側と投資する側の論理

導入する側から見れば、国際投資は開発と発展のためにあるのだが、投資する側から見れば、その目的は利益の極大化にある。より率直に言えば、利潤一般ではなく超過利潤に目的がある。

これが国家間、あるいは国際機関との関係であれば、それなりの秩序は望める。しかし資本の完全な自由化のもとで投機資本までふくむ民間資本が自由に出入りすれば、資本の論理がむき出しになることは明らかだ。

3.カントリーリスクと担保

これを金融面で見た場合、投資する側は担保をもとめる。産業資本家であれば、投資のリスクは自らが全面的に負うことになるが、機関投資家は担保なしに貸し出すことはありえない。

担保となるのは国家財政の安定であり、通貨(金利)政策の着実さである。この他にも政治・労働環境の安定がもとめられるだろうが、ここでは省略する。それらの総合指標が通貨への格付けとして示される。

4.担保にこだわれば取引は成立しない

こうして貸す方も借りる方も担保能力に従ってやりとりすれば何の問題もない。ただあまりにも担保能力が低ければ、実際の投資はストップしてしまう。

そこで国際金融機関が信用を供与することによって、下駄を履かせることになる。これは政府間のODAとか借款に比べれば現ナマとしての有難味は薄いが、有効活用できる借金である。

5.資本自由化時代の国際投資

ところが、資本の自由化という局面に入ると話はガラッと変わってくる。

政府と民間に話は分断され、民間レベルでは無制限に資金が流入してくる可能性がある。そして実際に流入した。

どうなるか、まずは政府による流通資金量の調整ができなくなる。その結果バブル経済となる。資金にはレバレッジがかけられ、通貨発行量の数倍もの信用が生み出される。

6.経済発展と貿易赤字

第二に貿易赤字の拡大である。経済が発展するあいだ中、設備投資は増え続け、そのほとんどは輸入によって賄われるからである。これを資本収支の黒字が支える。

政府は歳入を増し、それをせっせとインフラ整備にあてる。外貨準備の積み増しをおこなう余裕はない。かくして身の丈の大きさと担保能力の間に格差が広がり、通貨は不安定なものとなる。

7.通貨危機と信用収縮

この2つが、限界に達したとき通貨危機が現れる。

外貨は羽が生えたように逃避する。膨らんだ信用には一気にデレバレッジがかかる。

あとに残るものは政府・民間の莫大な債務、失業者の群れ、通貨の暴落とハイパーインフレということになる。

もちろん景気循環の局面としてもこのような時期は出現するのであるが、問題は政府に対処すべき手段がまったく残っていないことである。

8.近代化、可視化、資本規制の3点セット

以上の点から、途上国に必要な援助の内容は明らかである。国家間の経済協力を柱とし、開銀がよりその枠割を高めて集中投資を可能にし、国家機能を損なうことなく経済発展が可能なようにすることが肝心なのである。

もちろん民間投資は重視しなければならない。それは本来足早なものではあるが、国家の富の再配分機構が良いものであれば、それはインフラにも回るし、内需の足腰を鍛えるのにも役立つ。

しかしそれは同時にバランス良く遂行されなければならないのである。そしてそれまでの間、行政システムの近代化、政治の可視化、なにがしかの資本規制は必ず必要なのである。

バンドン声明60年 東アジアへの歴史的視座

キーワードは「独立ほど尊いものはない」というホーチミンの言葉である。それは、人民はまず独立(自決)を勝ち取らなければならない、そして同時に平和を追求しなければならないということである。

つまり、諸民族の自決への尊重を基礎にして、平和・友好・連帯があり、その上に発展が築かれるという関係である。

Ⅰ 70年前(1945年) 日本帝国主義の崩壊と旧植民地主義者の復活

A) 反植民地主義闘争の初期を担ったのは左翼・急進勢力だった。彼らは独立を実現するために武装闘争をも辞さず闘った。中国、ベトナム、インドネシアでは勝利したが、多くは敗北した。

B) これに代わり、さまざまな色合いの中道勢力が、旧植民地勢力と妥協しながら独立を達成した。いくつかの国では、帝国主義に忠実な傀儡勢力が実権を握り続けた。

Ⅱ 60年前(1955年) 独立と平和での一致

A) 左翼・急進勢力と中道勢力は、内政での立場は異なるものの、民族自決の尊重と平和的な共存という点で一致した。これはこの年に結成された日本AALAの基本理念でもある。

B) しかしこの共同は、主要にはアメリカ帝国主義の干渉、副次的には東西冷戦という国際的枠組みの中で引き裂かれる。

Ⅲ 50年前(1965年) ニセの対立構図

A) 前年8月のトンキン湾事件により、ベトナムとアメリカ帝国主義の直接対決が始まった。この時、ベトナム連帯を掲げて北海道AALAが誕生した。

65年9月には中道派の旗頭インドネシアでクーデターが発生し、「親米か反米か」という無意味な対立構図が支配する下で、東アジアは敵と味方に分かれて闘うことになった。

B) 左翼勢力にも深刻な分裂がもたらされた。毛沢東は65年に文化大革命を開始し、法治主義を破壊し、国内外の左翼勢力を切り裂き、最後にニクソンと握手した。

C) おなじ1965年に日本は日韓条約を結び、これを機に、東アジアへの進出を開始した。特筆すべきは、アメリカ支援という重大な問題を抱えていたにせよ、それが憲法9条を遵守する平和的進出だったことである。

Ⅳ 40年前(1975年) 独立と平和に向けた再アプローチ

A) 75年の4月、ベトナムは最終的に勝利を実現した。それによって「ニセの対立構図」が解けたわけではないが、「ニセの対立」への深刻な反省は生まれた。

B) 平和が何よりも尊重された。軍事同盟であるSEATOは崩壊し、ASEANは平和を目指す非軍事的な機構として再発足した。

C) その後も10年にわたり、カンボジアなどで大規模な余震が続いた。東南アジアは明確な展望を示し得ないままに経過した。

Ⅴ 30年前(1985年) 平和と経済発展の道

A) ここには目立ったマイルストーンはない。軍事的に見ればカンボジアのポルポト政権への最終的決別である。それは対決オプションの最終的放棄である。89年のベトナム軍の撤退がピリオドと思われる。

B) 政治的に見れば、民主化の進行とアメリカ傀儡政権の後退である。フィリピンと韓国で独裁政権が打倒された。東南アジアのすべての国から米軍基地がなくなった。

C) 経済的には日本の企業進出による輸出立国型の経済体制の確立である。日本は第二次オイルショック後の不況をアメリカへの集中豪雨型輸出で切り抜けようとし、それは激しい経済摩擦を産んだ。

日本は東南アジアに工場を立て、アメリカへのいわゆる「迂回輸出」を促進した。それが「東南アジアの奇跡」と呼ばれるようになる。

D) それは政治的自由と平和的発展の道を後押しした。同時にそれはグローバル・スタンダードを不可避なものとし、国内の貧富の差の拡大をもたらした。

Ⅵ 20年前(1995年) 左翼と中道の再合流

A) 95年にベトナムがASEANに加盟した。

それは「独立と平和」を貫くための左翼と中道の共同というバンドン声明の再現とも言える。しかし一般的な友好ではなく、協力と協同に踏み込む前向きな関係である。この紐帯は97年の東アジア通貨危機を通じて強固なものとなった。

B) アメリカはこの歴史的な流れを妨害しようとし、さまざまな策謀を仕掛けている。たとえばAPECであり、たとえばTTPである。中国も南沙諸島で強権を行使する一方、アジアインフラ投資銀行(AIIB)で揺さぶりをかけている。

C) こうした中で、独立と平和に加え、連帯と発展が東南アジア諸国の合言葉となっている。さらにそれは平和の枠組みとして北東アジアにも影響を及ぼそうとしている。バンドン声明は、さらに進化した形でよみがえり、いまやアジアの進むべき「総路線」として生命力を発揮している。


これが第二次大戦後70年の東南アジアのたどった道筋である。

ということで、AIIBの評価に関わっていかなければならないのだが、その際に東アジア金融危機とアジア金融基金構想についておさらいをして置かなければならない。

東アジア金融危機は、一言で言えば、新自由主義という剥き出しの資本主義が、金融システムの未成熟な諸国で矛盾を噴出させた事象と言える。

なぜ金融危機という形で矛盾が表出したのか。それは米財務省・IMF・世銀というトロイカが金融自由化を煽り、途上国における金融の脆弱性に配慮しなかったためだ。

債務・株式スワップが導入され、債権そのものが取引の対象となり、投機の対象となった。これによりマクロ経済の小さな動きでも瞬時に増幅され、破壊的に作用するようになった。

途上国政府がさまざまな政策ツール(金利、通貨発行量、税制)を用いて介入しようとしたが、それらは市場原理に反する行為とされ、市場から排除されるようになった。

だから、資本収支(とくに短期資本)の悪化で未成熟な金融市場が撹乱されたとき、それはただちに無防備の中銀を直撃し、通貨危機をもたらした。政府も中銀もほとんど対応できないまま傷口を広げていった。

実はこれらの事態は、日本の大蔵省にとってはある程度予測されていた。7月にタイのバーツ危機が起き、そのわずか1か月後には省内でアジア通貨基金構想がまとめられている。

ギリギリまで発表されなかったのは、米国の干渉を避けるためだったとも考えられる。それほど衝撃的な内容だった。

1.参加予定国から米国が排除されている(日、中、韓、豪、香港,ASEAN5カ国)

2.「基本的にはIMFと協調するが,場合によっては独立して行動できる」との規定

米国はこれを日本によるクーデターと受け取った。連日のように強い圧力が加えられた。9月のアジア10カ国蔵相代理会議(香港)にはサマーズ副長官,フィッシャーIMF副専務理事が乗り込んで「オブザーバー」としてにらみを利かせた。

結果としてアジア通貨基金構想は流産した。しかしさらに日本は「新宮沢構想」を打ち出し、これがチェンマイ・イニシアチブへと結びついていく。

この演説で宮沢蔵相が述べたのが以下のセリフ。

<国際金融システムのあり方>
IMF・世銀のあり方を基本に立ち返って問いなおし,国際金融システムを再生させる時を迎えた。
短期的あるいは投機的な資本移動」が現在のシステムでは統制できない。ヘッジファンドなどの国際的な大規模な機関投資家に対する規制が必要になっている

<アジア危機とIMFの責任>
アジア危機は資本収支の急速な悪化から生じた。それは実体経済とは乖離したものだ。
市場経済のあり方にも,各国の歴史や文化,あるいは発展段階を反映して多様なものがありうる。対応については、タイミングや,社会的な影響等への配慮にもっと意を用いるべきだ。
にもかかわらず、IMFプログラムに、不必要かつ不適切な構造面でのコンディショナリティーを含め、途上国に性急に求めたこと(が,金融危機の原因である)。
それは「構造改革」計画(金融自由化)そのものの信頼性を損ねた。

堂々たる大演説である。

そして打ち出したのが、300億ドルの拠出。これで「短期及び中長期の資金支援」に当てようというものだ。


率直にいってここまでは良かった。

これから先は当初の位置づけからすれば、とてもうまく行っているとは思えない。

とくに先頭を切るべき日本がぐじゃぐじゃになって、理念を喪失しまったことが大きい。

理念とは何か、それは宮沢蔵相が言う如く、

1.新自由主義(金融自由化)の原理的否定

2.政府イニシアチブの尊重と擁護

3.投機資本の妄動に対する共同対処

4.実体経済の発展のための金融

といったあたりが柱になるのだろう。

しかしチェンマイ・イニシアチブはそれを入れるための受け皿とはならなかった。

IMFの指導の絶対、二国間に絞られたスワップでは目隠しされて猿轡を噛まされたようなものだ。

日本の没落、中国の台頭という地域内の力関係の変化もあった。しかし各国金融の安定的発展、これに基づく経済開発の促進という要望は依然として強烈なものがある。そしてそれこそが域内平和の礎である

やはり拠出型、多国間型の、ドルに縛られない相互支援機能を持つアジア通貨基金がどうしても必要だと思う。





先日の、AALAのシンポジウムで大西先生がアジア開発投資銀行(AIIB)構想を天まで持ち上げた時、私は少なからぬ違和感を抱いた。

97年の東アジア通貨危機がアメリカ主導のもとに収束された時、アジアには決定的にかけているものがあると感じた。それは通貨基金(ファンド)である。

投資資金を主体とするアジア開発銀行だけでは足りない。諸国が金を突っ込んで資金をプールし、それをスワップの形で回せるようにしなければ、アジア開銀だけでは息切れする。

投資(インヴェストメント)を金融(ファイナンス)がバックアップしない限り、投機資本に対抗はできない。

これが何よりも痛切な教訓であろう。

もちろん金融システムの強靭化は避けて通れない課題であり、それ抜きにファンドを語っても仕方ない。しかしいかに優良かつ堅実な投資を行おうと、投機資本に本気になってかかって来られたら勝てない。

関税、投資だけではなく金融(通貨)面での団結が必要なのだ。

中国はこの問題に手を付けるつもりはない。AIIBはアジア開銀の補完物にすぎない。酷評すれば、AIIBは通貨という勘どころを外した政治的イニシアチブに過ぎない。

実際日本はこの構想に着手しようとした。円を事実上の基軸とするアジア通貨基金計画である。しかしそれはIMFと米財務省の激しい攻撃を受けて流産した。国内的にも山一や拓銀の破産など弱点をさらけ出した。(しかし本気でやれば、まだあの時期なら勝てたのではないかと思っている)

「アジア通貨基金」構想は、多角的なスワップを基軸とするチェンマイ・イニシアチブに形を変え、地道に成果を重ねてきた。しかしこの構想を推進した日本は、その後日米同盟強化、ドル集中路線に舵を切り替えた。

この理由はいろいろ考えられるが、日本の支配的な経済団体における国家資本主義的な発想(シェアー重視)の後退が大きいと思っている。

彼らは日本国民と一体となって日本経済の発展(シェアの拡大)を目指すよりは、アメリカの支配層と肩を組み利益の極大化を目指すようになった。

もう一つは、円を支えるべき日本の商業銀行システムの弱体化である。巨大銀行がさらに再編され3つのメガバンクに統合されたが、その支配力に昔日の面影はない。円高は円の強さではなく弱さの反映となった。

結果としてチェンマイ・イニシアチブは停滞した。通貨スワップのネットワークは依然未完成である。

にもかかわらず、私はいまでもチェンマイ・イニシアチブがアジアの開発と経済発展の鍵を握っていると思っている。その再活性化こそがアジア開発の王道なのだ。

アジア開発投資銀行(AIIB)構想は、チェンマイ・イニシアチブが進展しないことへのいらだちの表明であり、裏返せば期待の表現でもあると感じている。

8千円も払って授業を聞いたのに、そのまま放って置くのももったいない。基本的にはケチだからなんとか多少でも元はとっておきたい。

ということで、シンポジウムの発言のまとめ。

1.地域協力のアイデアとメカニズム

最初は南京大学の歴史学者の発言。正直、国連の連中がよくやる制度設計コンペティションみたいなものだ。

まずは国家関係を4つの類型に分ける。

① エゴの衝突 自己が最高で他は最低という自己中心の発想

② 多様性の尊重と共存 多極化論ないし構造主義的見解に属するものか

③ ユニバーサリズムの下での共存 いつまでも多様性にこだわったままでは進歩しないので、それを乗り越える普遍性をもとめる動き

具体的にはデジタル・コミュニケーションや環境問題

④ 地球連邦としての国家の連合 将来的にはこういうものが登場するのではないか

これを①から④へと進めていく上で必要な物を3つ挙げている。

一つはラウンドテーブル方式だ。これはおそらく多国間主義(マルチラテラリズム)のことを言っているのだろうと思う

2つ目はウェーバー風になるが、政治に対する行政の優越、皮肉をまじえると「官僚主義」(ビューロクラシー)ということになる。(私見だが、これは完全な間違いだ。行政の洗練化は必須であるが、それは行政に対する政治の優越があってこそ実現される。それが真の法治主義だ)

3つ目が積極的非暴力主義(ガンジー風)である。安部首相の「積極平和主義」とは全く違うので注意。

というのが話のあらすじ。おそらく中国の現状を踏まえての話しだろう。


これだけでは面白くもなんともないので、自分に引きつけてこの4類型を考えてみたい。

国際政治の実際では、この類型よりもそれらのあいだの中間型が問題になる。

①の典型としてはイスラム原理主義が考えられるが、これは剥奪され極度の抑圧のもとにある人々の「余儀なくされた野獣性」であり、歴史の発展段階に位置づけられるものではない。

実際の①は、むしろウェストファリア体制として位置づけられるのであろう。ウェストファリアは弱肉強食体制の下での「どう食うか」というルール化に過ぎず、多極化論の萌芽としてとらえるべきではないと思う。

②は過ぐる二つの大戦、60年を挟んだ戦後数十年の民族解放の運動の中で端緒を踏み出したといえるだろう。しかしその動きは、アメリカの一極支配への野望、スターリン主義による民主運動の歪曲、新たに独立した国の新たな覇権主義などにより度々危機に瀕してきた。

現在も②の段階は完全に実現したとはいえない。大国主義の放棄はおそらく核兵器の全面禁止がそのメルクマールとなるであろう。

さりとて③、④の世界を構想することが無意味だというのではない。それらは並行するのであって、それらの運動なしには②の世界は実現しない。

小学校を卒業して中学を卒業して高校…という段階を踏むのではない。それらは並走するのである。国際機関プロパーの人たちには、どうもそういう下々の事情がわからないようだ。

「年表 毛沢東以前の中国共産党」全8回分がなかなかまとめて探しにくくなっています。

下記一覧にリンクを張っておきます。

ASEANの成立事情について詳しく書かれた論文を見つけたので、これに基づいて年表を増補します。

アジア冷戦とASEANの対応 ZOPFANをてがかりに」 黒柳米司
反共・親米のタイ、フィリピンと、反共・非同盟のインドネシアの間を取り持ちながら、マレーシアがまとめ役になって進んできたというのが経過のようです。
当初、フィリピン、タイはASEANに対して冷ややかでしたが、ベトナムのカンボジア侵入、中越戦争を挟んでASEANの重みを評価するようになったようです。
その後、フィリピンのマルコス政権打倒、インドシナ三国のASEAN加盟などを通じて影響力を広げてきました。
ASEANは経済共同体としての顔と、安全保障共同体としての顔を持っています。どちらもシステムとしては未成熟なものですが、ネゴシエーションの蓄積とノウハウについては学ぶべきものがあるでしょう。それがASEANを実態以上に大きく見せている秘密なのでしょう。

本日AALAの学習会でASEANについての講義があった。日本AALAの出したテキストを使っていろいろ説明がなされたが、かえって混迷を深めたようだ。
肝心なところは、ASEANの提唱したTACなどの平和枠組み構想にあるのであって、ASEANそのものにあるのではない。そこのところをわかってもらうとみんなスッキリしたようだ。
ASEANはあくまでも共同市場の枠組み構想なのだ。「コンセンサス方式で、一国でも反対があれば強制しない」というと、みんな「それは素晴らしい」というが、それは事柄が経済的な問題だからで、ビジネスの論理は基本的にそうなのだというと、目から鱗が落ちたように納得する。
こんな状況、前にも見たことがある。そうだコスタリカだ。
一時期、早乙女勝元さんというその筋では有名な物書きの影響で、コスタリカが民主主義の「天国」でもあるかのようにもてはやされたことがある。長年ラテンアメリカに携わってきた人間にとっては、かなり不愉快な経験だった。
正直のところコスタリカはどうでも良い。殆どの人はそんな国があることさえ知らないのだから、おとぎの世界だ。
しかしコスタリカを持ち上げる論理には危険がある。だから我々は警鐘を鳴らしたのだ。
ASEANについてはそうは行かない。変な幻想を持たれると実害が発生する。ましてそれを理想化して、日中韓三国がASEANのようになればいいなどと考えられると、正直困る。
とにかくレベルが違う。ASEANは全部足して1になるかどうかのレベルだ。日中韓は独立した大国関係なのだ。
我々はASEANやTACを大いに参考にすべきだと思う。しかしそんな生やさしい話ではないことも覚悟しておく必要がある。

をご参照ください

またもや中国で超大物の失脚が発生した。

今度は党中央統一戦線工作部長の令計画だ。令は胡錦濤が総書記を務めていた時代に党中央弁公庁主任として仕えていた人物。現存幹部の中では共青団グループのトップにおり、次期書記長を狙う地位にいた。

習近平の権力は、胡錦濤と連合することによって支えられいるとみられるため、今回の摘発は胡錦濤との関係を冷たくする可能性がある。

ただ、令計劃の場合はあまりにも派手なスキャンダルであるために、守り通すのは難しかった。周永康、徐才厚を切った返り血としてみておくべきかもしれない。

令の息子が北京市内でフェラーリを乗り回した末に事故死したのが2012年3月、それからすでに2年半が経過している。この間、令にお咎めがなかったほうが不思議だ。

事件発生直後、令はもみ消し工作を行ったらしい。これを知った胡錦濤は、弁公庁主任をおろし、統一戦線部長に転出させたという。しかしずいぶんと甘い処分だ。

やったのは息子だが、フェラーリを買う金はどこから出たのか、それが問題にならないわけはないのだ。一説では令計劃の預金総額は7100億円に達しているという。

ということで、令計劃の摘発は本線とは離れたケースと見ておくべきかもしれない。

なお事件に関して遠藤誉さんがコメントしていて、

1.令計画の背後には山西閥、あるいは電力閥が控えており、そこを狙った攻勢の可能性もある。

2.これらの閥の総帥は李鵬元首相である。

3.江沢民と石油閥への攻勢を終え、次は李鵬と電力閥がターゲットとなるかもしれない。

4.しかしこれは権力争いではなく、国有企業の大規模な構造改革への第一歩であると見るべきである。

と述べており、卓見であろう。

1997年度 北海道AALA定期総会議案から再掲します。

香港返還と台湾

香港の中国返還にともなって,台湾問題がさらに尖鋭化するのか,それとも安定していくのかは,にわかに論じることが出来ません.おそらくそのカギは,香港において民主主義が具体的にどのように尊重されていくのかにかかってくるでしょう.
新 執行部が定めた「香港基本法」は,これまでの条例中人権保護にかかわる部分にクレームを付けました.香港の民主派の組織「前線」や弁護士会などは,これに 対し一斉に反発しています.もし香港で「天安門事件」が再発するようなら,中国は世界中の反発を受け国家の存立そのものが危うくなります.
中国が台湾周辺で行った挑発的な軍事演習,南沙諸島への進出は,東アジア各国の警戒心を呼び起こしています.それは台湾が米国からF16戦闘機150機を購入するための絶好の口実ともなりました.ロッキード社はさぞかし大喜びしていることでしょう.
さっ らに中国はフリゲート艦3隻を南沙諸島に派遣.島に建造物を構築します.4月末にはさらにルソン島沖200キロのスカボロ島にも中国船が進出.フィリピン はこれに厳重抗議するとともにフリゲート艦2隻を急派,厳戒態勢を敷きます.一連の事態に,中国は「わが国の主権に対する挑戦であり,厳重な関心を表明す る」と非難します.
しかし中国の改革はもはや後戻りできないところまで来てしまっています.その生殺与奪の権利は事実上米国資本に握られつつあり ます.返還後の香港には,いま中国全土から巨額の資金が流入しつつあります.中国の金融市場とその構造にはまもなく激変が起こると予想されます.この激変 に耐えて中国政府が「一国二制度」の公約を守るならば,台湾問題は解消し,平和的統一が展望されることになるでしょう.
台湾問題の基本的視点は,中国という国の平和的,民主的統一にあります.中国は本来一つだし,一つであるべきです.台湾であろうと中国本土であろうと,民族統一は中国人すべての願いです.少なくともこの観点から議論を出発させないと,奇妙なことになります.

多分、中国は虎の尾を踏んだことになると思う。初動の決定的な遅れは明らかだ。
香港は天安門ではない。
しかし最近の指導部には、そのことが分からなくなっている。
南沙諸島、尖閣と流れを見ていくと、かつての日本軍部と同じように、アメリカの出方を見ながら、1つづつ各個撃破しようとしているようにみえる。
これを見ていると非常に危うい。各個撃破を連結してひとつの論理が形成されると、こんどはその論理に引きずられて根っこが見えなくなってしまう。
香港は依然として中国金融のもう一つの中心であるとともに、華僑資本の本拠地でありハブ都市だ。ここを根城にして、華僑のネットワークはシンガポール、マレーシア、インドネシア、タイなどに展開している。
彼らは国内政治への関与を慎重に避けている。経済利害が一致する限りはどのような政治勢力とでも組む。香港でもできる範囲内での妥協を行ってきた。企業活動の自由が根本的に損なわれる危険があれば、そうばかりも言っていられなくなる。それは国際商業・金融資本のコンセンサスともなる可能性がある。
なかでももっとも危険な事態は、香港への天安門型対応の可能性だ。
これだけ国際経済のしがらみの中に入り込んでいる中国にとって、華僑資本と国際商業・金融資本が同盟した場合の破壊的影響は計り知れないものがあるだろう。
97年のアジア通貨危機のとき、ヘッジファンドの最終ターゲットは香港だった。華僑資本がいっせいに逃避して投機資本が仕手戦を挑んだとき、中国ははたして耐えられるだろうか。香港マーケットは維持できるだろうか。

どうということはないベタ記事だが、中国ネタ。
複数の中国政府高官の腐敗をインターネットで実名で告発した広東省の新聞「新快報」記者が、釈放されたというもの。
面白いなと思ったのは、釈放の理由が検察当局の指示によるものだということだ。
この記者は「誹謗」罪の容疑で北京市の公安局により拘束されていた。
たいていはそれでおしまいなのだろうが、今回は検察当局が公安局の起訴要求を退け、釈放を命じた。
どういうことなのかは想像するしかないが、周永康が仕切っていた公安当局の威勢が墜ちてきた兆候かもしれない。
検察官というのは元来が司法の畑だから、多少は違うのかもしれない。違うとしても五十歩百歩だろうが。
もっと深読みすると、問題の性格上、この決定が党最高幹部の判断なしに行われたとは思えない。したがって公安への強い牽制のサインと読むべきかもしれない。これを李克強の「人治から法治への長い道のり」の一歩と見るのは穿ち過ぎだろうか。


大躍進運動 年表

1957年

7月 毛沢東、「8ないし10回の5力年計画を経てアメリカに追いつき,追い越す」目標を提示する。

10月 共産党の第8期3中全会、「農業発展綱要」を採択。毛沢東の主張を反映した12年計画で、農業生産力を飛躍的に発展させることを目指す。

10月 大躍進運動が始まる。河南省からはじまった大規模な水利建設運動が全国に拡大。

11月 毛沢東が訪ソし、フルシチョフと会談。フルシチョフは15年で米国を追い越す構想を述べる。これを受けた毛沢東は15年で英国を追い越す構想を打ち出す。

1958年

1月 共産党政治局の「南寧会議」、地方工業生産額が10年内に農業総生産額を上回るようもとめる。

2月 四害駆除作戦が開始される。四害とは伝染病を媒介する蝿、蚊、ネズミと、農作物を食い荒らす雀のこと。北京だけでも300万人が動員され、3日間で40万羽のスズメを駆除した。スズメの駆除は、かえって害虫の大量発生を招いた。

3月 共産党政治局の「成都会議」が開催。第二次五ヵ年計画が発表される。鉄鋼生産量を年間2億7千万トン(前年比26倍)、穀物生産5億トン(前年比2倍)とするもの。このため農業合作社の大型化を提起。

5月 共産党の8全大会。鉄鋼生産目標値が大躍進政策のシンボルに据えられる。

6月 陳伯達、「合作社を、農業合作もあれば工業合作もある基層組織単位,農業と工業とを結合した人民公社とする」ことを提起。なお公社とはコミューンの中国語訳である。

レジェンドとしては、毛沢東が農村を視察した際に大農業集団組織に注目し、「人民公社は素晴らしい」と語ったのがきっかけとされる。

7月 フルシチョフが中国を訪問。人民公社化の行き過ぎを警告。フルシチョフが提案した防衛構想を中国は内政干渉としてはねつける。

8月 党中央政治局拡大会議、「人民公社決議」を採択。農産物の水増し報告を元に、重工業への力の集中を決定。

8月 中国、金門島への砲撃を開始。

9月 決議採択から1ヶ月で、全国のすべての農村に人民公社が設立される。私有資産の集団化や自留地の撤廃,公共食堂に象徴される現物供給制の実施,無償労働などが導入される。

10月 鉄鋼の大増産を目指す運動が開始される。原始的な溶鉱炉(土法炉)を用いた製鉄が全国で展開されるが、技術的未熟さから失敗に終わる。

11月 第8期6中全会(武昌会議)、「人民公社のいくつかの問題にかんする決議」を採択.社員の家屋や衣服,家具など生活用品の個人所有を確認。家畜や家禽の所有,小副業の可能性を認める。

1959年

4月 第8期7中全会(上海会議)、毛沢東の発案になる「人民公社にかんする18の問題」が承認される。自留地を復活させ,家畜の個人飼養を促進するなどの指示。

6月 ソ連が「国防新技術協定」の破棄を通告。国防新技術とは核兵器のこと。

7月 江西省の廬山で政治局拡大会議が開かれる。彭徳懐は「プチブル的熱狂主義」と呼んで、大躍進政策の問題点を指摘する。

彭徳懐の批判: 
(1) 大躍進の成果を強調しすぎて、共産党幹部が大衆から遊離している
(2) 経済発展の法則を無視するべきではない
(3) 左派の誤りを是正しにくくなっている
(4) 人民公社の建設は性急過ぎた
(5) 毛沢東の個人決定が多く、集団指導体制がない

7月23日 毛沢東が廬山会議で彭徳懐を批判する演説。「大躍進およぴ人民公社政策には誤りもあったが(1本の指),全体としては正しく(9本の指),否定的な側面ぱかりを見て肯定的な側面を見ないのは間違い」と主張。

8月 共産党八中全回が開かれる。毛沢東は「野心家、陰謀家、右翼日和見主義」として彭徳懐を失脚に追い込む。その後、一連の調整措置は全面否定され、さらに急進的な路線が展開される。

8月 ダライ・ラマの亡命を巡り、中印国境での武力衝突が発生。ソ連は中立の立場をとる。

9月 フルシチョフが中国訪問。交渉は決裂し、毛沢東は彭徳懐の背後にはソ連日和見主義があると非難。

9月 飢饉が本格化。

1960年

1月 政治局拡大会議(上海)、再ぴ高い粗鋼生産目標が定められる。

6月 上海会議。毛沢東は「大躍進」運動の誤りを総括し,「実事求是」の原則 を忘れていたと指摘。

7月 ソ連は中国に派遣していた1390人の技術者の引き上げと機械部品および原油供与の中止を発表。

7月 都市においても人民公社が作られ、都市人口総数の77%が参加。

11月 党中央が、「農村人民公社の当面の政策問題にかんする緊急指示の手紙」を発表。12項目の改善策を提起。

大躍進運動が失敗。毛沢東は責任を取り国家主席を辞任する。これに代わり劉少奇、鄧小平が経済再建にあたる。

1962年

1月 中国共産党拡大工作会議(7千人大会)、毛沢東は大躍進の失敗に対する自己批判。同時に安徽省における「責任田」方式も「中央を封鎖し,民主を圧制する」作風だと批判。

6月 郵小平が「黒猫白猫論」を展開し,農民生活が困難な地域では各種の方法をとることができると主張。

9月 第8期3中全会(少なくとも9中全会のはずだが?)が開催される。社会主義=過渡期」論が確立し,社会主義の全ての期間において階級闘争が継続するという,継続革命論が公式に採択される。

バニスターの推計した死亡率にもとづけぱ,犠牲者の数は1959-61年の3年間で2,608万人とされる。

 

以下、大躍進運動とその悲劇(甲南大学 青木浩治 藤川清史)より引用

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食糧生産量と米生産量は1958年から大きく落ち込む。回復には20年を要している。食糧250キロが飢餓線、300キロ以下が栄養不足とされる。

大躍進期から1965年くらいまでは、中国国民は飢餓水準にあった。都市部の工業地域で餓死者を出すわけにはいかないので、農村部ではさらに食糧事情が逼迫していた。

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片対数グラフであることに注意。力を入れたはずの鉱工業さえも深刻な落ち込みを経験し、回復には10年以上を要している。

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アメリカにおける大恐慌後のGNPの推移、日本における太平洋戦争によるGNPの推移、中国における実質物的総生産(かつての社会主義国のGNPに相当します)の推移を示す。

「大躍進」の失敗は、日本の敗戦の影響と大差ないほどの経済的インパクトを与えた。


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上図は、別の文献からの引用

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左が安徽省、中が四川省、右が上海の出生率・死亡率推移。

農村部に被害が集中し、上海はほとんど被害を受けていない。出生率の低下は構造的な傾向と思われる。

 安徽省ではそれまでの死亡率が約10%なのに対し、60年には70%近くに達している。単純に計算すると死者7人のうち6人は餓死ないし栄養失調死ということになる。

四川省の場合は、この状況が58年から61年まで4年間にわたって続いたことになる。つまり同じ農村地帯でも奥地に行けば行くほど、状況は深刻だったと考えられる。

チベット問題は情報のバイアスがあるので、そのままには受け取れないが、四川省以上に深刻であったろうことは容易に予想される。


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この図は中兼和津次さんの論文からの引用

1.人民公社制度のもつ平均主義的分配や労働力,資材の無償調達などの否定的影響。

2.無理な工業化による労働力の移動,農業への低い投資配分,過剰な食糧調達

3.それらが生産意欲の停滞をもたらし,生産は一層低落する,というメカニズム

と説明されている。

ただ、政策というのは誤りはつきものなので、問題はそれを是正するフィードバック機構が働くかどうかである。

当時は毛沢東の独裁体制であり、その上で毛沢東が過ちを犯したのだから、フィードバックは効きようがないし、救い道がない。

廬山会議での毛沢東の発狂が全てである。


朝日新聞の中国総局が編集した中国共産党の実録物「紅の党」が文庫本で手に入る。
遅読の私としては珍しく一気に読んだ。「なるほど、そういうことだったのか」という知識が満載である。とくに12大会直前の習近平の雲隠れについては、胡錦濤派と江沢民派の争いに巻き込まれないための自衛処置だったと言われると、つい説得されてしまう。
ただ読み終えた後の感想としては、意外に印象に残らない。
結局「政治部」の感覚で、政局とその裏側を追っているにすぎないのではないか、という思いがしてならない。

もっと「路線」の問題として考えるべきだろうと思う。
私は江沢民と胡錦濤の闘いではないと思う。たしかに人事をめぐってはそういう印象はある。しかし基本的には胡錦濤の脱政治路線・プラグマティズム路線が否定されたのが12回大会ではないかと思う。
とくに、テクノクラート重視と裏腹の関係で軍の「近代化」が推し進められ、胡錦濤がその力を背景に党支配を強化しようとしたことに警戒感が高まったのではないかと思う。
単純化すると、
1.国家が社会主義国家でなくなってしまう。
2.共産党が人民の党でなくなってしまう。
3.テクノクラートと軍の支配する国になってしまう。
ことへの危機感が、胡錦濤を引きずり下ろしたのではないだろうか。
もちろん汚職の問題は深刻だ。これは徹底してやらなければならない。しかしそれ以上に深刻なのは「路線」のブレではないだろうか。

もちろん毛沢東路線との決別は、いずれの派にとっても自明の問題だ。いまさら毛沢東路線の復活などを考えるものはいない。問題は毛沢東路線と決別しどこに向かうかだ。
文革終結後の疲弊した状況にあって、鄧小平のプラグマチズムは有効だった。あれがあったからこそ天安門事件も乗り切れたのだろう。しかしそれは本来は、非常時における緊急避難的なものであった。それは党の高い倫理性と闘う姿勢を犠牲にしたものであった。それが平時にもそのまま持ち越されるなら、党の指導力は、その根元を掘り崩される危険性がある。
羅針盤なき改革・解放はもはや弊害をもたらすのみだ。それはおそらく共産党を指導的地位から脱落させることになるだろう。

李克強首相が注目すべき発言をしている。

メルケル首相が訪中し、李克強と会談。その後の共同記者会見で、李克強が人権問題について発言した。

赤旗などによると、

1.我々の包括的な改革には政治、経済、環境などに加えて人権分野の改革も含まれる

2.我々は経済改革と同時に法治建設も強化する。

3.法治建設の責任は重大だが、前途は遠い。

4.相互尊重を前提に人権対話を行いたい。

これは【北京時事】の配信したもので、時事通信は独国際公共放送「ドイッチェ・ウェレ」(中国語版)から情報を得たようだ。

メルケルに対する多少のリップサービスもあるのだろうが、「前途は遠い」という言葉に真剣味を感じる。現在の人権政策のいちじるしい遅れを、率直に認めていると見て良いだろう。

この認識は非常に大事だろうと思う。


ただし中華網ではこの発言について触れていない。日本のメディアも盧溝橋事件へのコメントに言及するだけで、「相互尊重を前提とする人権対話」という提起には全く触れていない。

白善燁の本が全然進まない。
まだ序文だ。
ちょっといいところを抜粋。
世界で分断国家は、ここ韓半島だけとなった。この異常な事態はどうすれば打開できるのであろうか。それには将来を見通す視点を持たなければならない。
…ではどうすればその視点が得られるのであろうか。それにはやはり1894年(明治27年)に勃発した日清戦争から100年、この1世紀は韓半島にとっていかなる時代だったのかを、歴史的に評価する必要があるだろう。

未来志向で歴史を学ぶ、この視点が必要だということだろう。
ただよそ者の私にとっては、どうしても南北統一の悲願というあたりが理解しきれない。
(白は平壌出身だから特別強い思いがあるかもしれないが)
むしろ朝鮮半島の平和と繁栄、そして朝鮮半島を取り囲んで日本と中国とを含めた東アジア共同体の構築、あえて言えば「大東亜」共同体を形成していくことを目標とせざるを得ない。その上で核心となるのが、朝鮮半島の安定であることは論をまたないが。

韓国および北朝鮮の戦後史年表 0 (戦後史といいながら戦前編です)   韓国および北朝鮮の戦後史年表 1    韓国および北朝鮮の戦後史年表 朝鮮戦争   

韓国の朝鮮戦争後史年表(53年以降)     北朝鮮の朝鮮戦争後史年表(53年以降)  日本の植民地支配と朝鮮人民の闘争

中国共産党にまたもや激動が走った。

軍制服組のトップ(前職ではあるが)が収賄行為に関わったと認定し、党籍剥奪処分としたのだ。

その名は徐才厚。2012年に引退するまで中央政治局員、軍事委員会副主席として郭伯雄と肩を並べていた。薄煕来よりは上級である。

赤旗によれば江沢民の送り込んだ軍幹部とされているが、郭伯雄が江沢民政権のもとで2階級特進して軍事委副主席になっているのに対し、徐は胡錦濤の軍事委首席就任と同時に副主席になっており、そのへんの関係は良くわからない。

この発表が30日、同じ30日に周永康の側近2人も党籍剥奪処分が発表された。誰もが、周永康と徐才厚、そして薄煕来を一体のものと考えるに違いない。習近平政権もまちがいなくそれを意識していると思う。

とにかくただごとではない。

赤旗もふくめ報道は江沢民派の排除だという見方で一致しているようだが、はたしてそうであろうか。

習近平政権発足時の常務委員の顔ぶれのところでも書いたのだが、習政権はある意味で挙党一致政権ではないのか。そして軍・警察・石油独占を握る特権支配層の打倒にあったのではないか。

だとすれば、トップ7人は共通の強い危機感を持ち、その団結は堅いと見るべきではないか。

私はそこに注目している。

赤旗で、松本記者がシンガポールのアジア安全保障会議を取材した報告を載せている。
前者は安部首相やヘーゲル国防相も出席する大きな会議で、マレーシアの方は学者と政府高官のワークショップみたいなものだったようだ。
当然前者は意見の言い合いになるのだが、松本記者は米中以外の発言に注目している。
ほとんどの発言が中国の「挑発的行為」を問題視。マレーシア国防相も「2国間と地域的な関与を通じて中国に対処する」ことを強調し、「法の支配の実現」を呼びかけました。
というのを引用している。
もう一つは米日両国とASEANの論議で、「リバランス」をめぐるものだった。リバランス戦略は、結局軍事同盟の強化というところにつながっていくことが、議論を通じて見えてきた。
「リバランス」政策は国務省というより国防総省のラインから出てきたもので、そういう意味では90年代クリントン政権の「ナイ構想」につながっているところがある。
ただASEANがNATO型軍事同盟への懸念を表明したのに対し、ヘーゲル国防長官は次のように対応している。
「各国は自国の安全保障に責任をもつべきだ。しかし、もし集団安全保障や同盟に参加したいなら参加すべきだ」
ということで、今ひとつ真意がわからない。「本気度」が伺えないのだ。
これは結局、中国の第二列島線(伊豆・小笠原諸島からマリアナ諸島を経てニューギニアに至るライン)構想に対して明確な態度をとれていないことに起因するのだと思う。第2列島線というのは、かつて日本で叫ばれた「マラッカ海峡生命線」と同じような発想で、防衛という名の膨張路線である。絶対に認めることのできない思想だ。
「太平洋は広い」と言って勢力圏を分割する中国の提案に、アメリカは曖昧な態度を取り続けている。
はっきりしているのは、中国の南シナ海進出や尖閣での挑発(第一列島線)は、第二列島線の形成のための必須条件だということだ。海上の防衛線は原潜とイージス艦を抜きにしてありえない。それには南シナ海とバシー海峡が必須だ。
アメリカはこの中国の戦略に対して基本的なところで腰が座っていないから、南シナ海についても正確な態度が取れないのだ。そして結局は自国のエゴを追求するということになる。そうなると「リバランス」戦略に筋が通らなくなる。
これが今の状況ではないだろうか。


タイのこの10年間を見ていると痛感することが2つある。
ひとつは、腐敗した民主主義は「清潔な」独裁よりはるかにマシだということだ。「清潔な」民主主義は腐敗した民主主義の中から生じてくるが、清潔な独裁からは生まれてこない。
もうひとつは、民主主義が成熟して清潔な民主主義に向かうには時間がかかるということだ。腐敗した民主主義を糾弾することは清潔な独裁を支持することではない。なぜなら清潔な独裁は腐敗した民主主義からは生まれてこないからだ。清潔な独裁は腐敗した民主主義を利用して民主主義を否定するからだ。
まずは腐敗した民主主義を支持しなければならない。腐敗した民主主義は清潔な独裁が否定されたところから生まれてくる。清潔な独裁主義者が独裁を続けられなくなった時、彼らの一部は腐敗した民主主義者に生まれ変わる。
支配者が腐敗した民主主義者と清潔な独裁主義者に分裂した時は、清潔な民主主義者にとってチャンスなのだ。その裂け目をどれだけ深く、修復不可能なところまで持っていくかが大事なのだ。
時間がかかるのだ。一喜一憂していても始まらない。とりわけ労働者階級をどれだけ力強く組織できるかが決定的だ。農民・小作農・農村労働者を支配層からどれだけ切り離せるかが勝負だ。合法活動と非合法活動を組み合わせて、不抜の組織を構築していかなければならない。
度重なるクーデターがもはや時代遅れであるのと同様に、都市での赤色テロも農山村でのゲリラ活動も時代遅れだ。自警団や準軍事組織との闘いは厳しいものとなるに違いないが、生産点を握って離さない活動が必要だ。今はぎりぎりそれが可能な時代に入っている。
誤解を恐れずに言うなら、「民主化は韓国に学べ!」だ。
書くのが面倒くさくなったので、
韓国の朝鮮戦争後史年表(53年以降)紹介:韓国の民主運動を参照されたい。

中国軍事戦略の趨勢と海軍

石油公社問題はいよいよ本丸、周永康に迫ってきた感があるが、これだけの騒動の渦中に南シナ海での石油掘削を強行したことは、南シナ海問題がどうも石油公社だけの話では無いようだと感じさせる。

そこでもう一方の旗頭である海軍の事情についても知って置かなければならないと考えた。しかし軍事問題は非常に専門用語が多くなかなか理解できない。

ここでは阿部純一さんという人の書いた上記のレポート(2011年)を抄読する。

1.毛沢東の軍事戦略

2.鄧小平の軍事戦略と海軍

3.江沢民の軍事戦略とハイテク化

4.胡錦濤の軍事戦略と情報化

アメリカの中東での戦闘では、衛星やインターネット、無人偵察機等、情報通信分野における技術革新が戦争の遂行形態を革命的に進化させた。中国にとってはそのキャッチアップが課題となった。

「国防整備と経済建設の調和のとれた発展」よりも踏み込み、まさに「富国強兵」に舵を切った。

5.海軍近代化の意図するもの

大陸国家である中国は、伝統的に沿海防御中心の考え方を採ってきた。

宿願である台湾との統一をめざし、「独立」を阻止するため、台湾海峡を中心とした海域における制海権、制空権の確保も人民解放軍に課せられた。

第一列島線は、(中国が主張する)排他的経済水域をカバーするものであり、絶対的な制海権を確保する対象である。

第二列島線は、中国の対米「接近阻止」戦略である。

6.南シナ海の「聖域」化がもたらす摩擦

中国が南シナ海を「核心的利益」とすることは、戦略的には異なった見方ができる。中国は南シナ海をミサイル原潜のための「聖域」にしたいのである。

これまで地上発射の戦略核ミサイルにのみ依存してきた核抑止力に、新たな核抑止力としてミサイル原潜を展開しようとしている。

しかし、この海域は日本や韓国にとっても重要な海上輸送ルートに当たり、中国がこの海域で海軍力を強めようとすれば、国際的な摩擦を生じることは避けられない。


ということで、中国海軍の狙いがおぼろげながら浮かび上がって来る。

中国は当然アメリカを仮想敵国として戦略を組み立てている。そこで一方では「太平洋を分割しましょう。そこまでは自由にやってください。そこからはこちらも反応しますから」という線を提案することになる。これが第二列島線だ。

とは言うものの、具体的な抑止力がなければ相手はそんな提案には目もくれない。そこでミサイル原潜による抑止網が必須のアイテムとなる。

ところが中国の沖合には広大な大陸棚が横たわっていて、原潜の活動にはきわめて不向きだ。おまけに東シナ海には沖縄列島があって、米軍の強大な基地もある。

となれば、南シナ海を舞台とし、バシー海峡を太平洋への出口として確保するしかない。これによって初めて第二列島線が実効性を持つことになるわけだ。

むしろ南シナ海の石油資源を巡る争いは、中国海軍にとって奇貨であり、利用しない手はない。

というのが海軍の本音だとすれば、ことはそう容易に形のつく問題ではなさそうだ。

フィリピンへの米軍基地再建も、むしろ海軍増強のチャンスなのかもしれない。ただしこの賭けは凶と出る可能性も十分ある。

根本的には第二列島線(対米防衛線)の考えを破棄することが一番なのだろうが、それはかなり長期的なものになりそうだ。

とすれば、これを自国の権益線と混同しないことがもっとも求められるのではないだろうか。

とりあえず、これまでの南沙関連ファイルを列挙します。



中国内部の指導権を巡っては











アジアの平和協力については、下記を参照のこと






下記はホームページの南シナ海・南沙諸島関連ファイル

中国における「中核的利益」突出の時系列
南シナ海と南沙諸島をめぐる紛争年表  を、ホームページに転載しました。
ブログに分割掲載していたものを増補・一本化しました。




いつかは来るとは思っていたが、それにしてもすごいスピードだ。
世界観を根本的に変えなければならない時が来ている。
安倍首相の時代遅れを批判するが、そういう我々さえ遅れているのかもしれない。
思えば鳩山首相がずっこけた時点で、周回遅れになって、今はトラックを逆に走っている状況だ。

14日のWTOの発表で、2013年に中国が米国を抜いて貿易世界一になったことが分かりました。
輸出入を合わせた貿易総額は中国が4兆2千億ドル、米国は3兆9千億ドルだった。
実は単純比較ではすでに12年時点で首位だったが、WTOの計算方式ではわずかに及ばなかったもの。

 

 国共合作期の動きをもっとも詳しく適確に展開した論文が下記のものである。

柴田誠一 「モスクワと中国革命の指導

北大スラブ研の「スラヴ研究」(Slavic Studies)に掲載されたもので、なんと1961年の発表だ。

その後、戦前の中国の革命運動については京都大学から共著で浩瀚な論文集が発表されているが、それと比べても出色だ。

ソ連が初めて極東に進出するのはロシア革命から1年余立った1920年の初め頃で、イルクーツクに拠点を構えた。

イルクーツクにはコミンテルンの極東支局が設けられ、日本・朝鮮・中国の解放闘争を指導するようになる。

このなかでは朝鮮への影響が圧倒的に強く、このあたりの経過は「朝鮮戦後史年表-0」に記載している。

中国への影響は限定的で、比較的早期からモスクワが直接乗り出して指導している。

しかし最初に中国に乗り込んだ共産党員ヴォイチンスキーはイルクーツクから上海に派遣された活動家である。

このコミンテルン極東支局というのは、ソ連政府、とくに外務部(外務省)の影響が強く、コミンテルンの名はむしろ隠れ蓑的な意味が強い。

当時はシベリアに侵入した日本軍を始め、ありとあらゆる帝国主義の敵意に囲まれていたから、世界革命の推進というよりはソ連の防衛に役立つか否かが評価の基準となっていた。

その後、孫文と会見したミーチンはモスクワから直接送り込まれた外務部の人物である。そして国共合作で連ソ・容共路線が打ち出されたとき、国民党政府の軍事顧問として送り込まれたボロディンも外務部のラインを通じて動いている。

厄介なのは、彼らがソ連政府外務部の方針に基づいて活動していたにもかかわらず、中国共産党にはコミンテルンの代表のごとくに接して、あれこれと指導したことである。

たしかに初期のコミンテルンには、各国の運動を指導する能力はなかったし、革命の初期においてはそれほど厳密な区別をする必要はなかったのかもしれない。しかし中国で北伐作戦が始まり、それに呼応して各地で農民や労働者の闘争が盛んになると、この矛盾は次第に深刻なものとなっていった。

ソ連政府にとっては、ソ連の隣に国民党が支配する友好的な国家ができればそれで十分であり、高望みする必要はなかった。いずれ熟したりんごが落ちるようにこちらに近づいてくると踏んだのだろうと思う。

しかし中国の人民、中国共産党、それに各国の階級闘争を指導するコミンテルンにすれば、それでは話は済まないのである。この矛盾が27年の蒋介石の反共クーデターを引き金として爆発した。だから中国人民の解放闘争は蒋介石にやられたというより、自らの抱える矛盾によって自爆したのである。

こういう経過が大変良くわかり、その後の路線のジグザグの背景を見るうえでも大変役に立った。

それにしても、これだけの論文が61年に書かれていたということには驚いた。なにせ50年以上も前の執筆なので、その後の研究で相当変更もあると思うが、随時フォローしていきたいと思う。

王柯さんが行方不明になったという。

かなり心配なはなしである。王柯さんは神戸大学教授で中国人。

『東トルキスタン共和国研究 : 中国のイスラムと民族問題』という本を出していて、いかにも危なそうなところに片足突っ込んでいたからだ。

東トルキスタン共和国は1944年11月に誕生した国家で、新疆北部のイスラム国家である。

当時の中華民国の圧制への抵抗がソ連の支援を受けてイスラム共和国建設に至った。

しかし第二次世界大戦の終結とともに、中国との関係改善を図ったソ連が共和国への支援を中止した。この後、共和国政府は中華民国との交渉に入ったが、内部闘争を繰り返しながら、ついに消滅を余儀なくされた。(小松久男氏の紹介文より)

王柯さんはまさにこの東トルキスタン共和国の研究家で、ウィグル人居住地域を「中核的権益」とする中国政府にとっては、もっとも危険な人物の一人だったかもしれない。

ネットで探すと、以下の文章がゲットできた。

報告「中国における多様な民族主義を考える……中華民族の言説とジェディッディズムの成立過程を通じて」(小島祐輔氏報告に対するコメント)

「中華民族」はあくまで一種の言説であり、国民統合を実現させる万能薬にならない。

中国が「中華民族による国家であると強調すればするほど、虚構の「民族国家」であることが感じられ、近代国家としての正統性が問われることになる。

ジェディッディズムと呼ばれる運動の実態については未だに究明されていない部分がある。

しかし運動の主体は間違いなくウイグル人で、その舞台となったのはウイグル社会であった。そして、この運動において「東トルキスタン民族」と呼ばれる抽象的な民族共同体はなかった。

近代社会を研究対象とする際に、ナショナリズムまで分析の視野を広めるとしても、ナショナリズムを絶対視することはやはり避けるべきだろう。

と、やや論旨不明瞭ながらも、ウイグル問題を民族問題に局在化させないための、双方の努力を強調している。


東トルキスタン共和国については下記の論文が詳しい。

『理論研究誌 季刊中国』2001年春号
「イスラム教の動向と中国の民族問題」(下)
「東トルキスタン共和国の成立と崩壊」
野口 信彦

ウィキペディアの記載は、やや主観的な偏りを感じる。


おそらく中国指導部は、漢民族と少数民族の統合された国民国家として「中華民族」を使っているのだろうが、「中華」という枠に括られることを少数民族が任用するだろうか、という問題がある。

それと同時に、言葉としてでなく実体として多民族を統合した「中国国民」の枠づくりの営為そのものは、多民族の統合の手法として不可避であることも認めなければならない、という主張なのかと思う。

いずれにせよ、いまは王柯氏の無事を祈るばかりである。

江田憲司さんの李立三路線の検証が非常に面白い。
李立三というのは1930年ころの中国共産党の指導者で、極左路線をとったとして批判されている人だ。
1930年といえば、世界大恐慌のまっただ中で蒋介石政権も大揺れに揺れていた。満州を日本に取られ、国内での人気も地に落ちていた。
そういうときに、政府の転覆を狙って総蜂起をかけるというのはありえない話ではない。
(もちろん内戦が20年も続いていた当時の中国で、ろくな武器も持たずにデモをやっても犠牲ばかりで勝つ見込みはないのだが)
ただ戦い方としては都市ゲリラ的なやり方もあるだろうし、ストライキやサボタージュで不安定化させることを主眼としてもよいのだから、形態はいろいろありうる。
問題は、それが極左かどうかということではなく、闘いの主舞台を都市と農村と、そのいずれに設定するかということなのではないか。

実はそれと似た状況が1959年5月のキューバにもあった。

韓国の進歩新党に期待したが、最近の情報を知るにつけ、がっくり来ている。

結局、洪世和(ホン・セファ)は逃げてしまった。「労働現場に戻る」といっているが、逃げたことに変わりはない。進歩新党から当選する可能性がないと見るや、気の利いた連中は一目散にいなくなった。

いまは
李鎕吉という人が出てきて、労働党と名を変えた。綱領を見るとまったく闘う党としてのイメージはない。ただの人畜無害な「緑の党」である。

結局「親北」の民主労働党への反感のみが、この集団の存在理由であって、それは反共意識と一体のものだったようだ。

多分、この記事は間違っていると思う。
どこかに革新統一への底流が渦巻いていると思う。
戦前の朝鮮共産党の時代から、朝鮮人は民主は得意だが集中は苦手だった。しかしそれはそれでいい。
日本風ではない、韓国風の革新運動が育つことを願っている。


国家情報院に関するその後の情報は、どうもあまりはかばかしいものではない。

10日に朴槿恵大統領の声明発表があり、同じ日にウル中央地検真相調査チームが国家情報院を家宅捜査するということで、歴史的な事件と見たが、政府としてはこれをもって手打ちにしたい様子だ。

まず家宅捜査がきわめて形式的なものであったということである。今回の事件の最終実務責任者だと言える対共捜査局長室には立ち入っていない。捜査終了後、対共捜査局長は「提出してほしいという書類だけ提出した」と話している。なめた話だ。

実は国情院の家宅捜査はこれが二度目で、一度目は2年前の大統領選挙での干渉事件のとき。そのときは捜査官25人を投入したが、今回は10名余りにすぎない。

そもそも検察の立場が矛盾したものだ。ある意味では共同被告である。外交関係もこれあり、しかたなしに行ったような様子を見せている。

正直のところ、野党の攻めも迫力を欠いているようだ。前回のような選挙干渉は最大の権力犯罪として国情院が指弾の対象となったが、今度はスパイ事件での「失策」であるため、怒りは分散する。

脱北者の中にスパイが紛れ込んでいる可能性は十分考えられるし、それに対する取り締まりが必要だということも世論としてある。そしてスパイというのは国家規模での作戦であるがゆえに、泥棒を捕まえるような訳にはいかないことも認識している。

となれば、問題は対中国関係だけとなるかもしれない。

ちょっとはしゃぎすぎたかな。

韓国がすごいことになっている。

韓国国家情報院といえばかつての国家保安院、KCIAとして悪名高い存在だ。

その国家情報院に対して、韓国検察庁の本格捜査に乗り出したのだ。

まず7日に国情院職員数人について出国禁止措置をとった。

10日にはついに国情院本丸の家宅捜索を断行した。一部情報ではすでに事情聴取も始まっているようだ。

この作戦は朴大統領が全面的にバックアップしている。

10日の演説で、「検察は一点の疑いも残さないよう徹底的に捜査し、国情院は積極的に協力しなければならない」と述べている。無論政治家の言うことだから、発言の背景をしっかり把握しないと正確な評価にはならないが。

国情院はこれまで、存在意義を問われると間髪をいれずに北朝鮮スパイ事件を演出し、もって延命を図ってきた。

今回もその伝でやろうとしたに違いないが、証拠として提出した中国側文書が偽造であることが発覚、その後も偽造関与を疑わせる情報がつい次と明らかになっている。

つまり放火犯が自分の服に火をつけてしまった格好である。

ほとんど前世紀の独裁時代の遺物なのだが、権力の壁に守られて今まで生き延びてきた。両金、盧大統領も手を付けられずに終わっている。

今度は、あの朴正熙の娘が、保守派の大統領として、KCIAに手を付けようとしている。この動きは本物だろうと思う。

しばらく目が離せない状況が続きそうだ。

1931年

1月 中国共産党、上海で六届四中全会。瞿秋白は中央指導者の職務を解かれる。同時に李立三路線も厳しく批判され、王明(陳紹禹)と博古(秦邦憲)らによる武力対決路線が開始される。

31年3月

3月 第二次囲剿。動員兵力20万人。蒋介石の右腕といわれる何応欽軍政部長が総司令となる。

3月 汪精衛が広東に国民政府を樹立。蒋介石に反発する軍閥勢力が連合。

5月 関東軍の石原莞爾参謀、武力による「満蒙問題」の解決を主張。満州国建設の計画を主導する。

7月 第三次囲剿。動員兵力30万人。蒋介石みずからが総司令となる。この囲剿戦は満州事変の勃発により中断。

共産党軍は毛沢東の「深く敵を誘い込む」作戦により、政府軍に打撃を与える。「根拠地」は拡大し湖南省境から江西南部、福建西部が解放された。紅軍の勢力は4万人から30万人に拡大した。

 

31年9月

9月 柳条湖事件が発生。関東軍は「暴戻なる支那軍」を打ち破るため軍事行動を開始。

9月 満州事変勃発。満州軍閥の張学良は全軍に撤退・不抵抗を指示。蒋介石軍は第三次囲剿で軍を割く余裕はなく日本軍の行動を傍観。

9月 中国人民の抗日運動が発生。上海では学生10万人、港湾労働者4万人がストに入る。20万人の抗日救国大会が開催され、対日経済断交を決議する。北平(北京)では20万人の抗日救国大会が持たれ、市民による抗日義勇軍が結成された。

9月 満州を除く中国全土の日本商品輸入は前年対比1/3、12月には1/5にまで低下、 上海では対日輸入がほとんど途絶、日本商船を利用する中国人の積荷は皆無となった。

31年10月

10月 日本軍、張学良の本拠とする錦州を爆撃。

11月7日 江西省南部の瑞金で「中華ソビエト共和国臨時中央政府」が樹立。毛沢東が自ら主席となる。最盛期人口1000万人程度の小さな政府であったが、はじめて「人民権力」の創出を実現した点で歴史的である。

12月 蒋介石と汪精衛広東国民政府とのあいだに妥協成立。蒋介石は一時下野する。南京新政権の主席には林森。

 

1932年

1月 「上海事変」が勃発。上海の日本人僧侶への襲撃事件を口実にして、日本軍陸戦隊が上海付近を軍事占領する。関東軍高級参謀大佐板垣征四郎が上海日本公使館付き武官少佐田中隆吉に依頼して起こした謀略事件とされる。

2月 蒋介石が復帰し、最高軍事指導者となる。

2月 関東軍、ハルピン占領。満州全域を軍事占領下に置く。

3.01 「満州国」が建国される。清朝廃帝溥儀が執政に就任。

4月 瑞金の中華ソビエト共和国臨時政府(主席・毛沢東)対日戦争宣言。

5月 上海事変に関して上海停戦協定調印。

6月 蒋介石、第4次共産分子囲剿戦開始。動員兵力は過去最高の50万人に達する。

10月 共産軍は劣勢に立たされ、毛沢東は軍の指揮権を剥奪される。

32年 宋慶齢、魯迅、蔡元培らが中国民権保障同盟を設立。国民党の特務統治に反対し、愛国民主抗日活動を積極的に展開、国共合作を支持する姿勢を明らかにする。

 

1933年

1月 共産党、国内停戦と対日共同抵抗を呼びかける。

1月 中国共産党、本部を上海から瑞金に移す。王明らのコミンテルン派(ソ連留学生グループ)は瑞金政府の指導権を掌握。毛沢東、鄧小平らの毛沢東派を厳しく批判。

コミンテルン派は「都市労働者中心のソ連型革命」を主張、これに対し毛沢東派は、農村に根拠地を作って都市を包囲する路線を主張。統一戦線論においては、コミンテルン派がプロレタリアート独裁路線、毛沢東派はブルジュアジーを含む広汎な民族統一戦線を主張。

2月 日本軍熱河侵攻。蒋介石は第4次囲剿戦の中止を余儀なくされる。

5月 塘沽協定締結。関東軍と国民党政府との間に結ばれる。国民政府は満州国の国境を承認。

10月 蒋介石、兵力100万人、空軍200機を動員し第5次共産分子囲剿戦開始。コミテルンから派遣された軍事顧問リトロフ (オットー・ブラウン)は正規軍による正面対決路線をとった。紅軍の拠点は次々と陥落、ほとんど壊滅状態となる。

10月 19路軍を中心に、反蒋抗日を掲げて福建人民政府成立。王明主導の共産党中央は「第三勢力」として連帯せず。

 

1934年

1月 上海で魯迅らとともに文芸戦線運動を続けていた瞿秋白、当局の手を逃れ瑞金に入る。要職にはつかず。

5月 宋慶令ら2000人の著名人が「中国人民対日作戦基本綱領」発表。すべての中国人民が武装蜂起して、日本帝国主義と闘うことを訴える。

10.18 壊滅寸前の紅軍主力(第一方面軍)が包囲網を突破して瑞金を脱出。その後1年間にわたる1万2000キロの「長征」が開始される。8万6000人が長征に加わり、残り約3万人は陳毅・項英の指導の下山岳地帯のゲリラ戦に入る。

 

1935年

1月 長征の途上貴州省遵義で、共産党中央政治局拡大会議が開かれる。王明らのコミンテルン路線が批判され、独自派の指導部が確立する。総書記にはソ連留学生派の張聞天が就く。毛沢東は政治局常務委員(軍事担当)となる。

1月 張国壽らが「敗北主義と解党主義」を唱え、長征軍から離脱。

2.24 瞿秋白、病気のため長征に同行せず、香港ルートでの脱出を図ったが、政府軍に捕らえられる。6月18日に処刑される。(秋白は、自分のような半人前の文人が政治に関わり、あまつさえ党の指導者となったことは、完全なる「歴史的誤解」であったと述べている)

8.01 中国共産党と中国ソビエト政府が、「抗日救国のために全同胞に告げる書」(8・1宣言)を発表。「すべてのものが内戦を停止 し、全ての国力を集中して抗日救国の神聖なる事業に奮闘すべきである」とし、全中国を統一した国防政府と抗日連軍を組織するよう訴える。

8.19 長征軍内で指導権が移動。毛沢東が周恩来に代わり軍事上の最高指導者となる。

10月 長征軍(第一方面軍)、呉起鎮(陝西省)に到着。8万6000人で出発した長征軍は8000人に減少するが、第二方面軍、第四方面軍と合流し4万人に達する。

12月9日 北平(北京)の学生5000人が「日本帝国主義打倒」「華北自治反対」を叫んでデモ行進。宋哲元の軍隊がこれを弾圧する。

12月16日 さらに1万人がデモ行進。軍隊・警察と衝突。

1936年

36年 モスクワの王明、中国左翼作家連盟の解散と中国文芸家協会の結成を指示。これに対し上海の魯迅、胡風、茅盾らは「中国文芸工作者宣言」を発し、「民族革命戦争の大衆文学」のスローガンを提起。上海文化界は激しい論戦に巻き込まれる。

36年10.19 魯迅が死去。上海の文芸界は「団結と自由の宣言」を出し、統一を実現。

 

1928年

2月 コミンテル執行委員会、一連の武装蜂起作戦を総括。「ソビエト化された農民地域を形成し、土地革命を実践し紅軍を建設する」ことを革命の主要任務とすると決定。

28年4月

4月 蒋介石が第二次北伐を開始。「軍閥、帝国主義打倒」の目標は破棄される。北伐軍は4軍構成で、第1軍は蒋介石、第2軍は馮玉章(もと直隷派軍閥)、第3軍は閻錫山(山西軍閥)、第4軍は李宗仁(広西軍閥)となり、軍閥混成軍の様相を呈す。

4月 日本軍、居留民保護を名目に第二次山東出兵。

28年4月

5月 斉南事変。斉南に侵入した北伐軍と済南守備の日本軍が武力衝突。国民党軍2000、日本軍230の死者を出す。日本人居留民にも16人の死者。

5月 井崗山の毛沢東部隊に朱徳の軍隊と湖南南部の農民軍が合流。兵力1万の紅軍が誕生する。「労農紅軍第4軍」を称する。軍長に朱徳、党代表に毛沢東、政治部主任に陳毅が就く。

28年6月

6.04 張作霖、蒋介石の北伐軍に敗れ満州に退去。奉天駅付近で関東軍の謀略により爆殺される。

6月 北伐軍、北京無血入城。国民党は南京を首都としていたため、北京を北平と改称。

28年7月

7月 モスクワで共産党第6回党大会が開催される。コミンテルン決定に基づきブルジョア民主主義革命の達成を目指す。瞿秋白は「左傾妄動主義」と批判され、蜂起失敗の責任を問われ委員長の職を解かれる。国内での闘争指導には李立三と向忠発があたる。毛沢東は中央委員に選出される。(なお瞿秋白はモスクワにとどまり、中国代表団団長を務める)

10月 南京国民政府発足。蒋介石主席に就任。実際は新軍閥連合。軍閥の長は各省主席に就任。

12月 井岡山で土地法が公布される。すべての土地を地主から没収して、家族数に応じて再分配する。農地管理のため土地革命委員会が組織される。革命根拠地が湖南の他、江西、福建省にも広がる。

12月末 張作霖の後をついだ張学良、国民政府に帰服を宣言する。これにより北伐が完成し全国統一が達成される。

28年 モスクワの第6回党大会に参加した蔡和森、帰国後に香港で捕らえられ処刑される。

 

1929年

3月 桂蒋戦争。蒋介石が軍事指揮権を中央に集中しようとしたことから各軍閥が反発。広西派軍閥との間に戦争。

5月 西北軍の馮玉章が叛旗を掲げ、10月には同じく宋哲元が叛旗。12月唐生智が叛旗。

5月 紅軍、福建省に進出。

6月 日本政府、米英に追随する形で南京政府を承認。

10月 世界大恐慌始まる。

11月 陳独秀、トロツキズムに転向。党を除名される。上海でトロツキスト組織「無産者社」を結成。

 

1930年

4月 「中原大戦」が始まる。国民党同士の内戦となり、蒋介石軍と反蒋で結束した各軍閥が戦った。最終的には張学良(奉天軍)が南京政府側についたため、蒋介石軍(南京政府)が勝利。北方政府は瓦解し、蒋介石に軍事指揮権が集中する。

蒋介石の権力は強大な軍事力と浙江財閥を基盤とする。浙江とは江蘇・浙江省のことだが、実際には上海の両省出身者のグループ。一方で外国の買弁資本、他方で地主・高利貸資本とも一体化する。しかし孫文以来の中国国民党の政治的正統性を受け継いだ側面もあり、薩長による明治維新と類似した性格を持つ。

7月 瞿秋白、モスクワ代表を罷免され中国に戻る。

9月 共産党の第6期中央委員会第3回総会(六届三中全会)が開かれる。中央指導者の瞿秋白が李立三の「左翼的偏向」を批判。毛沢東派もこれに同調したといわれる。

12月 江西省南部の赤色根拠地に対し、第一次囲剿(いそう)が開始される。動員兵力10万人。江西省主席の魯滌平が総司令となる。

30年 魯迅、「中国左翼作家連盟」(左聯)に加盟。国民党政府の弾圧やその御用文人に非妥協的な論争を挑む。

 

1927年

27年1月

1.03 蒋介石、武昌に向かう譚延ガイ主席代理を引き止め、南昌で政治会議臨時会議を開催。中央党部と国民政府は暫時南昌に留めおくと決議する。(ガイは門構えに豈)

1月 漢口と九江のイギリス租界で、英兵と民衆との間で流血事件。民衆は実力で両租界を回収する。

1月 毛沢東、「湖南農民運動視察報告」を発表。初めて農村からの武装革命路線を主張する。

1月 魯迅、北京を去り広東の中山大学教授に就任するが、4月クーデターに抗議して辞任。その後は上海に定住。プロレタリア派と「革命文学論戦」を展開する。

27年2月

2.11 共産党、上海地区代表大会を開催。二回目の武装蜂起について議論。「ストだけではなく、暴動を準備」し、上海を奪取することを決議。

2.18 国民革命軍、杭州を占領。

2.21 上海総工会代表大会の呼びかけによりストライキを開始。参加者は35万人に上る。ブルジョアジーは罷市で呼応せず、国民党の幹部も協力を拒む。

2.22 共産党、第2次上海蜂起を指示。臨時革命委員会を立ち上げる。蜂起は失敗し、戦死者四十数名、逮捕者三百数十名を出す。

2.24 上海総工会は労働者に復職を指示。「復業して大衆的な暴動を準備せよ」と呼びかける。

2月 この後共産党は第三次蜂起を目指し、労働者糾察隊の編成強化と民衆政権の母体としての市民代表会議の結成を目指す。

2月 国民政府とイギリスが外交交渉。イギリスは漢口と九江の租界を中国に返還することで合意。

27年3月

3.07 譚延ガイ、南昌をでて武漢に到着。国民党二期三中全会を開催。蒋介石は中央執行委員会常務委員会主席と政治会議主席からの辞任を通告する。

3月 蒋介石、国民党右派と手を結び、各地で農民運動・労働運動を弾圧。

蒋介石は、軍事力で安徽省や浙江省をおさえ、南京や上海などの大都市を確保し、豊富な資金源を後盾に武漢に対抗しようとはかる。

3.12 上海で第一回臨時市民代表会議が開催される。労働者100,商人50,その他50の配分。

3.17 国民党二期三中全会、中山艦事件後の暫定的機構を廃止し、中央執行委員会を設置。汪精衛、蒋介石をふくむ九名の常務委員が選出される。国民革命軍総司令に与えられていた独裁的権限は否定され、軍事委員会が主権を掌握する。国共合作は、国共両党間の対等の同盟へ変更される。

3月 国民革命軍、浙江軍閥の孫伝芳が支配する南京を占領。攻防戦の中で、外国領事館・住宅・教会が襲われ英・仏・米人6名が殺害される。(南京事件)

3月 英・米両国軍による南京報復作戦。軍艦が南京を砲撃し、軍民2000名が死亡。(南京砲撃事件)

英・米・日・仏・伊は国民革命軍に武力干渉を突きつけた。若槻内閣の幣原外相は、1.武力干渉は事態を紛糾させるだけ、2.蒋介石のような人物を押し立てて時局を収拾させるべき、と主張。 幣原は蒋介石の派遣した戴季陶と接触し、すでにその意志を確認していた。

3.20 北伐東路軍が松江を占領、先頭部隊の第一師団が上海近郊の龍華に到着する。

3.21 上海市民代表会議常務委員会は蜂起とゼネストをよびかける緊急命令を発出、同時に上海総工会もゼネスト命令を出す。

0PM 正午を期して全市八〇万にものぼる労働者がストライキにたちあがる。

1PM 労働者の蜂起がはじまる。労働者部隊は警察署や電話局、兵器工場や鉄道駅の接収に成功。奉魯連軍の司令部がある閘北では、激戦となる。

3.22 9AM 第2回市民代表会議が開会され、上海市臨時政府の委員19名が選出される。

6PM 奉魯連軍の最後の拠点である上海北駅が陥落する。

3.23 第1軍の本隊が上海に入る。

3.26 第1軍に続き、蒋介石が上海に到着する。共産党が頼みとする薛岳の第一師団を郊外に分散移転させ、上海を事実上の軍政下におく。

3.29 蒋介石が市政府の職務開始を阻む。国民党やブルジョアジーの政府委員も着任を拒否。

3.31 コミンテルンが緊急指令を打電。「公然たる闘争は(諸勢力の相互関係がすでにきわめて不利になっていることにかんがみ)当面採用してはならない。武器は引き渡してはならない」とする。

江田によれば、スターリンやブハーリンは北伐の続行を優先し、そのため蒋介石を、国共合作と統一戦線の枠内にとどめようとした。これをうけたヴォイチンスキーはクーデターの直前まで蒋介石との妥協を主張していたとされる。

3月 北伐軍は長江一帯を制圧、広東、広西に加え、湖南、湖北、江西、福建、浙江、安徽、江蘇の9省を支配下に収める。

3月 北伐作戦の中で共産党員は5万8千人に達する。労働組合員は28万人、農民組合には1千万人が組織される。

27年4月

4.05 汪精衛が上海に帰着。陳独秀との共同声明で、国共合作継続を声明。さらに蒋介石攻撃を非とする電報を武漢に打電する。

4.06 共産党上海地区委員会が活動分子会議。「もし蒋介石が糾察隊の武装を解除しようとすれば、すべての労働者がストにたちあがり、蒋介石軍の武装を解除する」とし、武器隠匿を拒否。

4月 英日両軍が上海を砲撃。

4.06 7カ国外交団がソ連大使館への監督強化を要請。張作霖の軍隊が北京のソビエト大使館を強制捜査し。李大釗ら共産党員を逮捕。重要書類を押収する。

4.12 蒋介石が「上海クーデタ」を起こす。上海の軍と暴力組織(青幇・紅幇)が総工会委員長の汪寿華を暗殺。共産党組織、労働者組織を襲撃。デモに立ち上がった労働者を軍が銃撃。

4月 国民党武漢政府は、蒋介石の党籍を剥奪、逮捕令を出した。

4.18 蒋介石はこれに対抗して、南京に独自政府を樹立、共産分子の粛清を宣言。国民党は武漢と南京に分裂。

4.26 北京のソ連大使館から連れ去られた中国人20人中19人が処刑される。

4.27 漢口で第5回共産党大会が開催される。武漢政府との共闘を確認。

4.29 党大会で、瞿秋白(政治局員)が指導部の路線を公然と糾弾するパンフレットを配布。

パンフレットは『中国革命における争論問題―第三インターか第〇インターか 中国革命のメンシェヴィズム』と題され、上海クーデターを許した陳独秀指導部の責任を問うもの。

27年5月

5月 呉佩孚、政権を放棄し、四川省へ逃走する。

5.30 コミンテルン第八回執行委員会総会、共産党の武漢政府への集中的参加と左翼化を打ち出す。

5月 唐生智麾下の第8軍、長沙で省総工会、農民協会、共産党諸機関を襲撃。1週間にわたって処刑を繰り返す。(馬日事変)

5月 上海政変に乗じ、日本が第一次山東出兵を行う。

27年6月

6.17 武漢政府はコミンテルン指令を警戒し、共産党の排除に動く。ボロジンの顧問職を解き、二名の共産党員部長にたいしても辞職を迫る。

6.29 漢口駐屯の三五軍が反共宣言。労働組合を占拠し、総工会労働者糾察隊を解散に追い込む。

27年7月

7.03 共産党が中央拡大会議を開催。「国共両党関係決議」を採択。「中国国民党は国民革命を指導する立場にある。労働者・農民などの民衆団体は、すべて国民党党部の指導と監督をうける」など全面屈服の方針を提起。

7.12 陳独秀は国共合作に失敗した責任を問われ、総書記の職務を停止させられる。張国燾が代理として共産党中央の責任者となる。瞿秋白も責任を問われ臨時中央常務委員会から排除される。

7月 共産党、武漢政府と決別し退去。国共合作は最終的に解体。国民党は容共政策を破棄、第一次国共合作は崩壊した。

27年8月

8月1日 共産党の武装勢力(賀竜、葉挺、朱徳の部隊)、南昌で蜂起。中国人民解放軍の建軍記念日とされる。

8.07 漢口の日本租界で共産党中央緊急会議を開催(八七会議)。陳独秀を右翼日和見主義と批判し解任。瞿秋白が臨時中央政治局常務委員兼中央指導者に任命される。

会議は新たに配置されたコミンテルン代表ルミナス(Besso Lominadze)とHeinz Neumannの指導。湖北・湖南・江西・広東で収穫時期に合わせて武装蜂起することを決定。

27年9月

9月 共産党の武装蜂起が劣勢になる。主力は根拠地を国民党軍に制圧され広東に南下する。毛沢東は湖南省長沙で武装蜂起するが失敗し、井崗山に立てこもる。

9月 共産党内では李立三と王明の都市蜂起論が主流になる。

9.09 南京と武漢の国民党は、蒋介石のもとに統一。

27年10月

10月 井崗山の毛沢東は、「三湾改編」(軍と党の一体化、財政公開、軍隊内民主主義)を実施。

11月 瞿秋白、「間断なき革命」論を提起。さらに武装暴動路線を推進する。

11月 毛沢東、長沙蜂起の責任を問われ、政治局候補委員から解任される。

12月 共産党の都市武装蜂起がことごとく失敗に終わる。

12月 葉剣英の指揮する部隊は広州で蜂起、広州コミューンを樹立。その後国民党軍の包囲を受け数千の犠牲を出して全滅。残る拠点は毛沢東の井岡山だけとなった。コミンテルンは瞿秋白を公然と批判する。

 

1926年

1.04 広州で中国国民党第二次全国代表大会が開かれる。蒋介石は北伐の実行を力説。ソ連軍事顧問団のキサンガは北伐が時期尚早であると反対。

代表278名のうち左派と共産党員が168名をしめていた。しかしヴォイチンスキーの判断で右派にたいする譲歩・妥協が行われ、中央執行委員会には7名の共産党員にとどまる。
しかし9名の常執中では左派が3名、共産党が3名で優位を握る。また党内各部人事では、譚平山が組織部長、林祖涵が農民部長、毛沢東が宣伝部長代行となる。
軍における影響力も強く、第1~6軍の殆どで党代表・政治部主任を共産党員が占めた。

1月 親共派の汪精衛(汪兆銘)が全権を握る。国民政府主席、国民党政治委員会主席、国民政府軍事委員会主席、各軍総党代表を兼任し、政治と軍事の最高責任者となる。

1月 北京政府で政変。馮玉祥が失脚。

2月 北京で共産党が中央特別会議を開催。陳独秀は病気のため欠席し、李大釗、瞿秋白らが主導。北伐作戦への支持を明らかにする。

現在のもっとも主要な任務は、広州国民革命勢力の進攻を準備すること、農民工作を強化することである。
とりわけ北伐の過程ににおいて労農の革命的同盟の基礎をきづき、国民革命の全国規模での勝利を達成することである。

26年3月

3.13 コミンテルン第六回拡大執行委員会、「中国問題についての決議」を採択。「四民ブロック論」を提起する。

国民党を「労働者・農民・インテリゲンチャ・都市民主層の革命的ブロック」とし、国民革命軍を馮玉祥の国民軍とともに「革命的民主主義的な民族的軍隊」の基盤と位置づける。
それを前提に、共産党に民族ブルジョアジーとの統一戦線維持を命じる。

3.18 中山艦事件が発生国民党海軍局所轄の軍艦「中山」が、黄埔軍官学校の沖合に航される。蒋介石は「自らを拉致しようとする国民党左派・共産党のしわざ」と判断したという。

3.20 蒋介石、広州市内に戒厳令を敷き、中山艦艦長の李之竜(共産党員)をはじめ共産党・ソ連軍事顧問団関係者を逮捕。ソ連人顧問団の居住区と省港罷工委員会を閉鎖、労働者糾察隊の武器を没収する。

3.21 蒋介石、李之竜以外の共産党員を釈放し、ソ連軍事顧問団の住居とストライキ委員会の建物に対する包囲を解く。

3.22 ソ連領事館と蒋介石が接触。蒋介石は「今回の事件はソ連に反対するものではなく、個人的な問題から起こった」と弁明する。

江田によれば以下のとおり
 おりしも広州で事件に遭遇したソ連共産党派遣のブブノフ使節団は、蒋介石との折衝のすえ、北伐に反対していた軍事顧問団長キサンカの召喚などの蒋の要求を受け入れ、統一戦線の維持をはかった。
使節団から説明をうけた上海の党中央は、「中国革命勢力の統一」の名のもとに譲歩を表明せざるをえなかった。

3.23 汪精衛はすべての党職を離れる。5月には妻を伴いフランスへ逃れる。

3月 蒋介石が国民党内の実権を握る。「整理党務案」を発し国民党の要職から共産党員を排除、共産党員の服従を強いる。

3月 スターリンの意向を受けたソ連軍事顧問団は、国共合作を維持する立場から蒋介石の行動を是認。ソ連軍事顧問団の首席顧問キサンカ(Kisanka)とロガチョフ(Rogachev)を召還する。

3月 唐生智、長沙で軍閥の長としての覇権を確立。国民政府、呉佩孚の双方に覇権の承認を求める。

唐生智は当時37歳。保定陸軍軍官学校を卒業し、湖南省南部を地盤に覇権争いに加わった。長沙の省長の追放に成功し、軍閥として独り立ちした。

3月 毛沢東が「中国社会各階級の分析」を発表。陳独秀を批判する。

4.16 蒋介石の主導で国民党二期二中全会。「党務整理案」を決議。蒋介石は国民政府軍事委員会主席に就任。

5.08 呉佩孚、北京を制圧。その後奉天軍と和平を結び、国民党の北伐軍の進攻阻止に力を集中する。

5月 広州に帰着したボロジン、共産党の頭越しに蒋介石と協議をおこない、「党務整理案」を共産党に受け入れさせる。

5月 唐生智、呉佩孚軍に攻めこまれ湖南省南部に退く。反撃のため国民党軍への加入を決断。第八軍として国民革命軍に編入される。

26年6月

6.04 共産党、「中国共産党の中国国民党に致す書」を発表。「党内合作か党外合作かの合作方式は固定される必要はない」とのべて、国民党からの脱退を公然と主張する。

6.04 蒋介石の主導のもとに、国民党の中央執行委員会臨時全体会議が開かれる。「迅行出師北伐案」および「任蒋介石国民革命軍総司令案」を可決。「帝国主義と売国軍閥を打倒して人民の統一政府を建設する」ため、北伐作戦を決定。約10万の国民革命軍が組織される。

26年7月

7.01 蒋介石が全軍に動員令を発する。

7.07 国民政府が「国民革命軍総司令部組織大綱」を公布。蒋介石の独裁権力が明文化される。

7.12 共産党、ヴォイチンスキー参加のもと、上海で第四期二中全会をひらく。「軍事運動決議案」を採択。「武装闘争の工作に参加し、進歩的な軍事勢力を援助し、反動的な軍閥勢力を壊滅させ、しだいに労農大衆の武装勢力を発展させるべき」とする。

7.12 第四期二中全会では、蒋介石突出後の国民党の再評価も討議された。「国民党左派(汪精衛ら)と連合し反動派(孫科ら)を攻撃し、中間派の発展を防ぎ、彼らが右を離れて左に就くように迫る」との方針を採択。中間派には「新右派」(戴季陶や蒋介石)がふくまれている。

蒋介石を「反動」ではなく「中間派」としたのはヴォイチンスキーの指示とされる。彼は「社会の勢力の中で、現在はまだブルジョアジーを敵視できない。ときにはまだ中間派を援助しなければならない」と主張した。
決議には「ブルジョアジーが将来の敵であり、あるいは一年か三年後の敵であることはわかっているが、現在は友軍、しかも有力な友軍と見なさないわけにはいかない」との苦渋の表現。

7月 広東の国共合同「国民革命軍」が北伐戦争を開始する。 

北伐の基本戦略: 湖南・湖北の呉佩孚軍を基本打撃対象とし、江蘇の孫伝芳を第二次対象とする。西路軍(唐生智)が先鋒となり長沙から武昌を狙う。中央軍(蒋介石)は西路軍の右翼を守るとともに本拠地の広州を防衛する。東路軍(何応欽)は中央軍の右翼を防衛するとともに、福建方面で積極防衛を図る。
作戦の策定には新任のソ連軍事顧問ブリュッヘルがあたる。

7月 国民革命軍、長沙を占領。

26年8月

8.25 湖北省咸寧近郊の汀泗橋で3日間にわたる激戦。国民革命軍の第4軍が呉佩孚軍と対決。第七、第八軍が戰場左翼で吳軍を壓制する。

8月 陳独秀、党機関紙『嚮導』に、「北伐論」を発表。民衆を無視しかねないものとして批判的に取り扱う。

陳独秀は「国民革命軍の北伐を論ず」を発表。
1.北伐は一種の軍事行動であって、中国民族革命の全的な意義を代表するものではない。
2.投機的な軍人・政客の権勢欲のためのものとなりかねない
3.北伐の意義を「防禦戦争」に限定し、戦費を民衆から調達してはならない。

8月 上海のヴォイチンスキーと瞿秋白が広州に入る。現地のボロディンらと会談し蒋介石との妥協を説く。現地は左派の指導権を回復することを主張。

8.07 瞿秋白、「北伐の革命戦争としての意義」を書く。革命戦争たる北伐の過程でプロレタリアートがヘゲモニーをかちとる必要性を強調。「嚮導」はこの論文を掲載せず。

26年9月

9月 広州の共産党と国民党左派、汪精衛復帰のキャンペーン(迎汪運動)を開始する。

9.09 唐生智の率いる西路軍(国民革命第八軍)が漢口と漢陽を占領。長江を挟んで武昌の呉佩孚軍と対決。

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古い世界地図」より転載

9.09 蒋介石は張静江に打電。国民政府の常務委員が広州から武漢に移動し、政治権力を掌握するよう要請。

蒋介石は西路軍の総指揮をとる唐生智を警戒し、広州政府が武漢に移転することにより、唐生智が自らのライバルとなることを阻止しようと図った。

9.12 蒋介石、上海の陳独秀に対し汪精衛の帰国に賛成しないように要請する。これを受けた上海の共産党中央は、コミンテルン極東局と合同の会議を開催。「迎汪は倒蒋を目的とせず汪蒋合作を目的とする」と決定。

9.16 蒋介石と唐生智が直接協議。臨時政務会議を設置して湖北省の支配を委ねることで合意。

10.03 蒋介石、共産党の中立方針を受けた上で、汪精衛の復帰をもとめる態度を明らかにする。

10.15 広州で、中国国民党の中央委員・各省・各特別区市・海外総支部の聯席会議が開かれる。汪精衛に対する復帰要請が、党員全体の意志として決議される。

10月 唐生智の率いる西路軍が武昌を占領。湖南・湖北から、呉佩孚軍(直隷派)を駆逐する。

西路軍軍事顧問テルニーによれば、
1.唐生智は蒋介石にとってかわろうとしてしていた。 2.そのためにソ連や共産党に接近しようとしていた。 3.上海の孫伝芳と交渉し蒋介石の敗北を画策した。
以上の事実を踏まえ 4.テルニーは蒋介石を支持し唐生智の権力拡大に反対である。

10.22 蒋介石、国民政府を広州に残し国民党中央を武漢へ移転するよう主張。

10.23 共産党による上海蜂起。直前に中止となり、失敗に終わる。

10.28 連席会議が終了。国民党各派及び共産党は、奉天派への配慮から慎重な態度をとり、武漢への移転は見送られる。

唐生智に対する共産党は上海と広州とで分かれる。広東では唐生智を投機的で危険な人物と評価。上海の共産党中央は 1.唐生智は民衆運動を圧迫した事実が全く無い。 2.汪精衛復帰に賛成している ことを重視し、
 唐生智を左傾させ、蒋介石を牽制し、汪精衛復帰への道をひらく方針を出す。

26年11月

11.07 蒋介石の度重なる要請を受けた国民政府および国民党、武漢移転の方向を打ち出す。

11.08 蒋介石の率いる中央軍部隊が江西省の南昌(省都)、九江を占領。

11.16 国民政府の四人の部長(大臣に相当)、および宋慶齢ら国民党の要人が武昌に向かう。ボロディンもこれに随行する。国民党要人不在となった広州では共産党の李済深が省権力の実態を掌握。

11.22 モスクワでコミンテルン第七回中央執行委員会全体会議が開かれる。蒋介石は代表(邵力子)を送り、スターリンの支持取り付けを図る。

11.28 共産党代表の譚平山がコミンテルンで報告。「一定の条件下で民族ブルジョアジーとも連合する必要がある。国民党中間派が左へ歩みより、左派との提携の可能性が生まれている」と評価する。

11.30 スターリンが中国委員会で演説。きたるべき権力は、反帝・非資本主義の過渡的な権力だと規定。またブハーリンは、後進国革命は労働者階級の決定的な影響のもとにおかれ、ソ連と密接な連係をもつ小ブル国家が成立することになると演説。

11月 北伐軍が占領した湖南・湖北省で労働者・農民の運動が急拡大。湖南の農民協会員は140万人、湖北省総工会は30万人の労働者を結集する。

26年12月

12.07 江西省南昌近郊の廬山で「廬山会議」が開かれる。蒋介石と国民政府・国民党の代表が参加する。

廬山会議は蒋介石と共産党との関係にとり、一つの転換点となった。このあと蒋介石は態度を変化させ、武漢移転に公然と反対するようになる。

12.13 徐謙主席が招集した中国国民党中央執行委員会及国民政府委員の臨時聯席会議が武昌で開催される。国民政府と中央党部の武昌への移転が完了するまでは、臨時聯席会議が国民党の最高職権を行使すると決議。

12.16 コミンテルン中央執行委員会総会、「中国情勢の問題にかんする決議」を採択。中国共産党の任務として、「革命の一層の発展と帝国主義との妥協の間を動揺している中間派を、徹底的に批判すること」を掲げる。

これにより、共産党四期二中全会で決定された蒋介石との妥協路線は、公式に破棄される。ただしこのあとも水面下では、ヴォイチンスキーによる妥協の動きが存続する。

12月 国民革命軍、福州を占領。

1925年

1月 共産党第4回全国代表者大会。「民族革命運動についての決議」を採択。国民党は、運動の「重要な道具のひとつにすぎない」とし、労働運動を主軸とするヘゲモニー獲得に乗り出す。ソ連より帰国直後の彭述之が起草したといわれる。

2月 日本人の経営する上海の「内外綿紡績」で労働争議が発生。闘いは2ヶ月にわたる。

3.13 孫文、北京で死去。要を失った党内では左右の対立が激化する。

25年5月 五卅慘案

5月 広州で第2回全国労働大会。「中華全国総工会」の創立を宣言。

5.15 「内外綿紡績」で労働者の暴動が発生。日本人監督が指導者願正紅(共産党員)を射殺する。

5.18 国民党の三中全会。孫文の意志を継ぐとし、「宣言」の継承を決議。

5.24 願正紅を殉教者とする大規模な葬儀デモ。

5.28 中国国民党の上海委員会、30日に大規模なデモを決行するよう呼びかける。

5.29 青島の日本人紡績工場でストライキ。日本軍と北洋政府(実体は奉天軍閥の保安隊)の弾圧により8人の死者と数十名の負傷者、70数名の逮捕者を出す。

5.30 デモ当日朝に、学生運動指導者15人が租界警察に連行される。民衆が学生らの釈放と「租界回収」を求め、数千人規模のデモ。

「20万人が参加する上海市民大会。英日軍隊の永久撤退と領事裁判権の廃止を含む17項目の要求を、租界当局と北京政府に提出」という記事があったが他資料で確認できず。

5.30 租界当局は、英・日・米・伊の陸戦隊を投入。警察の発砲で学生・労働者に13人の死者と40人余りの負傷者が出る。(実際に発砲したのはイギリスのシーク教徒雇い兵だった)

25年6月

6.01 上海学生連合会はストライキ(罷課)を開始、上海総商会と上海各馬路商界連合総会に働きかけて公共租界の商店スト(罷市)を実現。

6.02 結成直後の上海総工会(委員長・李立三、総務主任・劉少奇)が全市に反帝ゼネスト(罷業)を指令。上海の22工場、青島の10工場(いずれも日本資本)でストライキが発生。

6.04 総工会と上海学連、全国学連、各馬路商界連合総会が、工商学連合会を結成。三罷運動の指導部を形成する。

ストライキ参加者は海員や港湾苦力を中心に15万人に達する。6月下旬には総商会の要求によって公共租界罷市は中止される。

6.19 省港大罷工(香港スト)が開始される。19日に香港、21日には広州の沙面租界の労働者が「上海5.30運動支援」を掲げストライキを開始。蘇兆徴(共産党)率いるストライキ委員会の下、広東と香が連携し港湾ストを15ヶ月にわたり続ける。

蘇兆徴: 古くからの船員活動家で、この年共産党に入党。27年の武漢国民政府では労工部長の要職についた。国共分裂後,八・七会議で臨時中央政治局に入り,ソ連に赴いたが,帰国後に病没。

6.23 広州市内の沙面島租界で、デモ行進に英仏両軍が機銃掃射を浴びせる。50人以上の中国人デモ隊が死亡し、120人以上が負傷。シャーキーの虐殺と呼ばれる。

7月末までに中国人25万人が広東省に去った。植民地はゴーストタウンと化した。
香港全体の貿易は、50%にまで落ち、海運は40%にまで減少した
。イギリス政府は経済を崩壊させないために300万ポンドの融資を行った。

7.01 広東で国民政府が成立する。汪兆銘(別名汪精衛)が主席に就任。広東国民党政権は一地方政権から全国革命運動の中心勢力へと成長。

8.12 ゼネスト体制の中核をなしていた日系紡績ストの復業交渉が妥結。碼頭苦力と海員のストも総商会の介入で妥結に向かう。上海の闘いは終焉に向かう。総工会指導部は闘争を英国系企業に絞り条件闘争に切り替える。

8月 国民党左派の指導者、廖仲愷が、右派に暗殺される。共産党から廖仲愷暗殺の首謀者とされた右派の胡漢民(大本営大元帥兼広東省長)は党中央から追放され、モスクワ送りとなる。

9.18 上海に進駐していた奉天軍閥の戒厳司令部が総工会本部を封鎖、指導者たちを逮捕する。5.30闘争は終焉を迎える。

25年10月

10月 北京政府内の軍閥抗争激化。華中まで南下した奉天軍閥の張作霖に対し、浙江軍閥の孫伝芳が反撃。反奉戦争と呼ばれる。

10月 武漢の呉佩孚が再起。武漢軍閥と組み、孫伝芳と連携し、馮玉祥率いる国民軍と対決する。(直隷連軍)

10月 共産党が拡大執行委員会を開催。「革命的民衆政権」とともに「工農商学兵代表の国民会議」と「国民革命軍の組織」などのスローガンを打ち出し、労働者の武装、労働者自衛軍の組織をすすめることを決議する

陳独秀は「革命戦争」の概念を提起。人民が武装してたちあがり、反奉戦争の指導的立場をかちとるよう訴える。瞿秋白も5.30闘争の敗北の反省から、人民の武装の問題を提起する。

25年11月

11月 郭松齢事件発生。張作霖麾下の最強部隊を率いる郭松齢が、張作霖に叛旗を翻す。関東軍が軍事介入し郭松齢軍を鎮圧。郭松齢は銃殺される。

12.02 西山会議(自称4中全会)。国民党左派の排除を狙う戴季陶らが北京郊外の西山碧雲寺で会議を開き、広東政府との対決姿勢を示す。広州の蒋介石は右派につながり、国民党左派・共産党ブロックと対立するようになる。

共産党員の譚平山、李大釗、于樹徳、毛沢東、瞿秋白、張国壽らを中央委員会から追放することを決議。ボロディンの顧問解任と汪精衛の党員権停止をもとめる。

12.23 上海のソ連領事館で、コミンテルン極東局のヴォイチンスキーと国民党中央派の孫科が会談。「連ソ・容共」の原則を確認した上で、共産党員の二重加盟問題解決の道を探る。

12.24 上記に陳独秀、瞿秋白、張国壽を加え会談。共産党員が基本的に国民党のポストから離れることについては同意。完全撤退及びボロディンの広州撤退については保留となる。

譚平山を中心とする共産党の広州グループは、「孫科らは西山グループと同断」として中央の方針に抵抗。汪精衛グループと連携し国民党支配を目論む。

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譚平山: 広東省の生まれ。教員を勤めた後北京大学に進学。5・4運動を通じて共産党に接近1920年、広東に共産主義グループ創設のため戻る。1921年の中国共産党成立以後、中共広東支部書記に任命される。1924年、中国国民党第一次全国代表大会で中央委員となり、国民党中央組織部長に就任。1927年8月、南昌蜂起に参加。蜂起失敗の責任を問われ党籍を剥奪された。

 

1923年

1月 孫文、「改進宣言」を発表。「連ソ容共」に転じる。ソ連代表のヨッフェと会談し「孫文=ヨッフェ共同宣言」を発する。「中国にとって最も緊急の課題は民国の統一と完全なる独立にあり、ソ連はこの大事業に対して熱烈なる共感をもって援助する」との内容。

1月 コミンテルンが「1月決議」を採択。「中国労働者階級は独立した社会勢力とはなっていない、国民党に党の独立性を保持したまま加入せよ」との指令を発する。

1.31 モスクワから帰国した瞿秋白が「政治運動と知識階級」を発表。ブルジョアジーに反革命勢力と革命勢力があると主張。

瞿(く)秋白: 苦学し北京のロシア語専修館に学費免除で合格。五四運動に参加し、李大釗らが主催したマルクス主義研究会に加入している。ソ連に特派員で派遣されている間に入党。23年に中国に戻り、新設された上海大学の教授となる。一方で「新青年」の編集を担当。国民党改変に伴い党から広州に派遣される。

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23年2月

2.01 中国最大の京漢鉄道(北京~漢口間)の労働者が総工会を結成。大会を鄭州で挙行する。直隷派の呉佩孚が干渉し、大会を武力で解散させる。

2.04 京漢鉄道総工会が京漢鉄道の全線で抗議ストライキに入る。

2.07 「ニ・七惨案」が発生。呉佩孚軍が出動。総工会本部のあった漢口の江岸鉄道工場で32人が殺された。ほか鄭州,長辛店などで死者40人以上,負傷者数百人,逮捕者40人以上を出す。被解雇者は1千人以上にのぼる。

2.21 第三次広東政府が成立。孫文は大元帥に就任する。

2月 民族資本家が主導する「旅順・大連回収運動」が展開される。日本に対し経済絶交を呼びかける。学生・労働者もこれに賛同し運動に参加する。

23年3月

3月 北京政府、「旅順・大連回収運動」の高揚を受け、日本に対し「21ヶ条条約」の廃棄を通告する。日本はこれを拒否。

4.25 陳独秀、瞿秋白論文を受け、「ブルジョア革命と革命的ブルジョアジー」を発表。国民党に革命的ブルジョアジーを指導して民主主義革命を遂行するようよびかける。

23年6月

6月 中国共産党の第3回全国代表大会。「広範な反帝国主義民族戦線の建設」の目標のもとに、「国共合作」の方針を確認する。

瞿秋白が階級分析に基づき国共合作の正統性を主張し、陳独秀・李大釗も同調する。
 蔡和森と張国壽ら「左派」は、「独立した労働者党を建設することは国民運動を破壊するのではなく、促進する。共産党を発展させる唯一の道は独立した行動だ」と主張。

6月 毛沢東、この大会で5人の中央執行委員会のひとりとして選出される。

7月 瞿秋白、「新青年」で「新青年の新宣言」を発表。「中国の真の革命は、労働階級だけが担うことになる。たとえブルジョア革命であっても、労働階級が指導しなければ成功できない」と強調。

7月 広州に派遣された瞿秋白、中央機関誌「前鋒」を発行。

23年9月

9月 毛沢東、湖南地区で岳北農工会を結成。10万余の農民が結集する。

23.9 蒋介石、3ヶ月にわたりソ連赤軍で研修。

10.06 コミンテルン代表ミハイル・ボロディンが広州に到着。孫文の軍事顧問として討議に加わる。

10.28 国民党臨時中央委員会が発足。共産党の譚平山、李大釗がメンバーに加わる。

10月 呉佩孚に代わり、直隷派の総帥曹錕が大総統に就任。選出にあたり多数の国会議員を買収する。

11月 軍閥を仕切る趙恒惕将軍、岳北農工会を弾圧。軍の攻撃により指導者67名が銃殺され、農工会は解散させられる。

12月 広州で国民党綱領の素案が作成され、上海執行部で討議が行われる。この討議には執行委員の他に蒋介石、瞿秋白(共産党員)も加わる。

23年 蒋介石、日本の陸軍士官学校を出た後、孫文の運動に加わる。ソ連を訪問し軍を視察。ソ連方式に強い反感を抱き帰国する。(となっているが、浙江財閥の代表として国民党に送り込まれた人物と見たほうが正確であろう)

23年 魯迅、「中国小説史略」を発表。


 

1924年

24年1月

1.20 中国国民党が広東高等師範学校の大講堂で第一回全国大会を開催。「新三民主義」を柱とする国民党宣言を採択する。

新三民主義: 民族主義、民権主義、民生主義からなる。1,帝国主義の侵略に対して民族解放と国内諸民族の平等、2,封建軍閥の専制に反対して民衆の自由と権利、3,土地集中と独占資本を制限して民衆の福利をまもる。この内判定・民生の問題で激論が交わされる。

1月24日 レーニンが死去。国民党大会は服喪のため2日間休会。

1.28 民主集中制にもとづき、党員の規律厳守を規定した「党章」が採択される。二重党籍の問題(跨党禁止)は、最終的には曖昧に処理される。

李大釗の発言: 共産党の組織を解体することはできないので、組織をのこしたまま共産党員一人ひとりが中国国民党に加入する。それは国民党の政綱を受け入れたからであって、本党に共産党の党綱を受け入れさせるためではない。加入したからには党の政綱を執行し紀律を遵守する。紀律を守らなければ懲戒すればよい。

1.30 国民党大会、役員を選出し閉幕。共産党員が中央執行委員24名中3名、17名の執行委員候補のうち7名を占める。大会後には譚平山と林祖涵がそれぞれ党中央組織部長と農民部長に任命された。ボロディンは国民党最高顧問となる。

2月 共産党が中央執行委員会を開催。「楽観しすぎてはならないが、国民党の宣言書には、国民精神が凝縮されている」と評価する。

5月 共産党が中央拡大執行委員会を開催。京漢鉄道スト敗北以来の労働運動の後退を克服し、鉄道・海員・鉱山など近代産業における組織を強化する。

5月 広州の長洲島にある黄埔に黄埔軍官学校(正式名称は中国国民党陸軍軍官学校)が設立される。ブリュヘルらソ連軍事顧問団10名余が教官に就任し、ソ連式の教育により将校を育成する。三民主義とマルクス主義が同時に教えられる。

蒋介石が校長に就任し、国民党幹部の廖仲愷・戴季陶はそれぞれ軍校駐在の国民党代表、政治部主任に就任する。教授部副主任、政治部副主任には共産党の葉剣英・周恩来がそれぞれ就任。1期生は350人。毛沢東も安源炭鉱の労働者や秋収蜂起の農民指導者を送り込む。

7.07 国民党右派から、共産党の分派活動を非難する「弾劾案」が提出されるが、胡漢民、汪精衛、廖仲愷らが「規律だけを基準とする」よう訴え、もみ消す。

7月 国民党の農民運動講習所が開設される。主任や教官はほとんど共産党員がしめ、のちには毛沢東が所長を務めるなど共産党の牙城となる。

24年9月

9月 第二次奉直戦争。直隷派に対して、奉天派(張作霖)が反攻。安徽派(段祺瑞)、広東政府(孫文)とも連合する。

9月 直隷派第3軍の馮玉祥が、張作霖の買収工作を受けて寝返る。曹を逮捕・拘禁して北京を掌握。これを機に直隷派は総崩れとなり、北京から一掃される。

張作霖の買収工作は日本陸軍の示唆によるとされる。旧清朝の一族は退位後も紫禁城に籠っていたが、馮玉祥により追放される。

9月 馮玉祥、孫文の北上を要請。

10月 孫文、北上作戦を宣言。全国統一を図る国民会議を呼びかける。

11月 段祺瑞が復活し、北京政府の臨時執政に就任。張作霖はその下で奉天・直隷・山東・安徽・江蘇をその勢力下におく。

11月 孫文が神戸で講演。大アジア主義を説く。

日本は功利と強権をほしいままとする『西洋覇道の番犬』となるのか、それとも公理にかなった『東洋王道の牙城』となるのか」が問われている。中国だけでなく全アジア被圧迫民族の解放に力を貸すことが、アジアで最初に独立と富強を達成した日本の進路である。

12月 彭述之がソ連より帰国。「誰是中国国民革命之領導者」で、「中国労働者階級は天然に国民革命の指導者である」と主張。また二段階革命が連続して進むか否かは、社会的な客観条件に規定されるとする。

 

1920年

1月 陳独秀、北京を離れ上海に移る。

3月 ロシア共産党極東支局のグリゴリー・ヴォイチンスキー(Vvedensky)、中国共産党創設の使命を帯びて訪中。北京大学でロシア語を教授していたポレヴォイ(Polevoy)を通じて李大釗と接触。

3月 北京大学で李大釗,鄧中夏らがマルクス学説研究会を秘密裏に設立。

4月 ヴォイチンスキー、上海で陳独秀と接触。これを受け、上海でもマルクス主義研究会共産主義小組が結成される。「労働界」を発行し、青年・学生の間に共産主義の影響力が広がる。

石川によれば、上海グループの中心は後に国民党右派の代表となる戴季陶だった。国民党内きっての理論家として上海で最もマルクス主義学説に通暁していたとされる。載季陶はその後孫文の反対を受けグループを離れた。
他に「共産党宣言」を翻訳した陳望道や李達、沈沢民、張聞天らがいる。 なおここで沈玄龍と書かれているのは沈玄廬のことか? 

7月 安直戦争が勃発。呉は曹錕と共に安徽派に対する事実上の宣戦布告。奉天派の張作霖と連合し北京を攻略。

7月 毛沢東らが湖南の長沙で、新文化普及のため「文化書社」を設立。

7月 段祺瑞が失脚。安徽派は直隷派に敗れ衰退する。

8月 陳独秀、李漢俊、沈玄龍、俞秀松、施存統(元アナーキスト)など上海小組グループが活動を強化。

上海小組をリードしたのは李漢俊(又名李人傑)。暁星中学・東京帝国大学で学び、18年に帰国。多くの翻訳書を通じて青年たちに影響を与えた。党の結成会議は李漢俊の自宅で行われている。武漢で工作活動に当たったが意見の違いから離党。26年には国民党に参加している。27年、軍閥により殺害される。

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 李 漢俊

9月 『新青年』編集部が北京から上海に戻る。党の刊行物として位置づけられる。

10月 李大釗、張国壽らが北京共産主義小組を結成。このほか長沙,武漢,済南,広州などで,国外では日本,フランスで相次いで共産主義小組が結成される。

11月 「新青年」とは別に秘密刊行物として「共産党」が発行される.

11月 上海小組、「中国共産党宣言」を制定。「共産主義者の目的は国際共産主義の理想に照らして,新たな社会を創る」ことと規定する。

12月 東京で「日本社会主義同盟」が発足。李大釗は創立時から会員に加わる。

 

1921年

4月 広州で国民党政府が成立。孫文が総統に就任する。「第一次国内革命戦争」が始まる。

広東は省の名前で、首都が広州である。ただ広州を指して広東と呼ぶこともある。広東省はむかし越と呼ばれたことから、越の別字である「粤」と表現されることもある。

7.23 上海で第1回中国共産党全国代表大会が開かれる。全国各地の共産主義グループから13名の代表が集まり結党が宣せられた。(成立記念日は7月1日と決定される)

石川によれば、6月に上海に到着したマーリンの督促を受けて、李達が各地の共産主義グループに参集の通知を送ったとされる。主な発言者は張国壽、劉仁静、李漢俊、利達らで、地方代表の毛沢東や董必武、陳潭秋らはほとんど聞くだけだった。北京代表の劉仁静はこの時19歳、「ラジカル」な言動で持て余されたという。

7.23 陳独秀が総書記に就任(ただし会議に出席はしていない)。李達、張国燾、毛沢東、董必武らが指導部を形成。 この時点で党員数は57名。

李達は湖南省出身で李漢俊と同じ東大卒。この大会で中央宣伝主任となるが、後に戦線離脱し北平大学法学院教授となる。張国燾については後述。董必武も日本留学組で、大会には武漢代表として参加している。文革を生き延び、国家副主席として生涯を終えている。

7.23 湖南省で農民運動を指導していた毛沢東は、湖南省代表としてこの大会に出席。その後湖南地区委員会書記となる。

12月 共産党代表大会に参加したレーニンの秘書マーリン(Marling) 、桂林で孫文と会談。このあと孫文は革命ロシアとの連合に踏み切る。

 

1922年

5月 共産党の指導下に、第一回全国労働大会が開かれる。全国のストライキは100 を超え,参加者は30 万人余りに達した。

4月 第1次奉直戦争。直隷派の呉佩孚が日本と結ぶ奉天派を打ち破る。張作霖はいったん満州まで撤退。

7月 中国共産党、第2回全国代表大会が開かれる。コミンテルンへの加盟に関する決議。行動綱領を確定する。

行動綱領: 当面の革命の性質は民主革命である。革命の対象は帝国主義と封建軍閥である。革命の原動力は労働者,農民,少ブルおよび民族ブルジョアの協力戦である。革命の目標は国の完全な独立、軍閥権力の打倒を勝ち取り真の民主共和国を打ち立てることである。そのためには国民党を含めた広範な「民主連合戦線」を結成しなければならない。

7月 雑誌『新青年』の最終号。この後内部対立により廃刊となる。(一説にその後季刊4冊,不定期刊5冊が出され,最終号は26年7月の〈世界革命号〉とあり)

8月 共産党が杭州西湖会議を開催。マーリンの提案にもとづき、国民党への二重加入の方針を決定。陳独秀は、階級未分化論と国民党=階級連合政党論を前提に国共合作の理論を構築する。

10月 直隷派の曹錕が「賄選」により大総統となる。呉は、洛陽を中心として独自の勢力圏確立を図る。

10月 華北最大の開欒炭坑(イギリス人経営)でスト。英国政府はイギリス資本の要請に応じインド兵を派遣、さらに北京の直隷派政権は保安隊を派遣して武力弾圧にあたる。

22年 アドルフ・ヨッフェ、ソ連の中国駐在代表として赴任。ヨッフェはソ連外交界の指導的人物で、革命期間中はトロツキーと行動を共にした。トロツキー追放直後に自殺。

 

年表  毛沢東以前の人々


先日、佐藤純彌監督の文章を紹介した時、あまりにも20年代の中国共産党についての知識が乏しいことに、我ながら唖然とした。

そこで、「とりあえず簡単な年表でも」と思って始めたのだが、これが意外と難物。1週間を過ぎても、とても終わるどころではない。読まなければならない資料が積み重なるばかりだ。

一廉のことを言うにはもう2,3週間必要だろうと思うが、いささか疲れても来たので、とりあえず上梓する。

なお、長大なので最初からホームページと同時掲載にする。この後の増補はホームページのほうで行うので、とりあえずの予告編と思ってご覧いただければと思う。

1912年

1.01 「中華民国南京臨時政府」が成立。アジア最初の民主共和国となる。アメリカから帰国した孫文が臨時大総統に就任。国内の実質的な指導者は宋教仁であった。

2月 北洋軍閥の総帥である袁世凱が寝返り、清朝が崩壊。最後の皇帝、宣統帝が退位。

3月 袁世凱が臨時大総統に就任。臨時約法を公布。孫文政権は事態を静観。

3月 袁世凱は共和国樹立を約束しつつ、実際は「中華民国」の実権を奪おうとする。

8月 中国革命同盟会が国民党に改組される。

12月 初の国政選挙が行われ、大総統選では国民党の宋教仁が圧勝、国会議員選でも国民党が第一党となる。

 

1913年

3月 袁世凱、宋教仁を暗殺し。政権居座りを図る。

6月 国民党急進派が「討袁蜂起」を起こす。第二革命と呼ばれる。

7月 第二革命が失敗に終わる。

9月 孫文ら、日本に亡命。第二革命に加わった陳独秀も日本に逃れる。

10月 袁世凱、正式に大総統を名乗る。国民党に解散命令を発し、国民党議員全員を追放する。

1914年

6月 孫文、中華革命党結成。

7月 第一次世界大戦勃発。中国は中立を宣言。日本がドイツに対し宣戦布告。

8月 日本軍、山東半島に上陸し青島を制圧。

 

1915年

1月 日本政府、北京の袁世凱政府に「対華21か条要求」を突きつける。(山東省のドイツ権益継承と南満州・東内蒙古の鉄道・鉱山利権の割譲をもとめる)

5月 袁世凱の屈服により「21ヶ条条約」が締結される。

9.15 日本から戻った陳独秀が、上海で近代思想を紹介する『新青年』(初号は「青年雑誌」)を刊行。「新文化運動」を提唱し、徹底した儒教批判を行う。

魯迅・胡適らの「白話文運動」(白話文とは口語文のこと)も合流。著名な作家や学者、政治家を多く生み出した。毛沢東も愛読者で投稿者の一人だった。

12月 四川省を中心に護国戦争(第三革命)が勃発。

 

1916年

1月 袁世凱、帝政を復活し自ら皇帝に即位。国号を「中華帝国」とする。

3月 袁世凱、日本政府や国内各派の批判を受け退位。

6月 袁世凱が病死する。段祺瑞が後継者となる。この後、北洋軍閥は、日本の支持を受けた安徽派(段祺瑞)と英米の支持を受けた直隷派(馮国璋)に分裂。北京政府の権威は失墜し。満州には日本と結びついた張作霖、山西には閻錫山など、各地に軍閥・革命派・独立派が割拠する。

 

1917年

1月 北京大学の学長に蔡元培が就任し、大学改革を開始。陳独秀、胡適、李大釗、周作人(魯迅の弟)などの人材を結集する。

1912年,北京大学と改称したが,当時はまだ官吏養成機関としての性格が強かった。改革によりアカデミックな性格を強めた。五・四運動の先頭に立ったのは北京大学の学生であった。

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       蔡元培

1月 陳独秀の北京移転に伴い、『新青年』編集部も北京に移転する。

1月 胡適が《新青年》に「文学改良芻議」を発表。形骸化した文語文にかわって俗語・俗字を使用し,〈今日の文学〉をつくろうと主張。

2月 「新青年」翌号に陳独秀が「文学革命論」を発表。陳腐で難解な貴族古典文学を排し,社会現象を反映する平易な国民写実文学を提言する。

8月 孫文らによる第一次護法運動。西南軍閥の支持を取り付け、広州で広東軍政府を組織。

10月 ロシア革命が成立。労・農・兵ソビエト政権が誕生。

 

1918年

4月 湖南省長沙の第一師範で、毛沢東、蔡和森らが新文化運動に共鳴し「新民学会」を結成。主要メンバーは共産党や社会主義青年団に加わる。

蔡和森はこの年にフランス留学。フランスで周恩来らと共産主義運動をはじめた。21年帰国して中共に入党,機関誌「嚮導」の責任者として活躍した。
レーニンの帝国主義論をより直截に導入して,「中国革命が帝国主義の世界支配と直接対峙する性質を有する」と主張。

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 婚礼的女主角是向警予,男主角是蔡和森

5月 北京の段祺瑞政権と日本との間に秘密軍事協定が結ばれる。「学生救国会」成立され、全国各地で抗議行動を展開する。

日華軍事防敵協定: 日本軍の中国国内における行動を無制限とし、また中国軍を日本軍の下位におくこととする。

7月 李大釗、陳独秀とともに「毎週評論」を発行。

李大釗: 早大政治学科に留学。16年に帰国し北京で『晨鐘報』を創刊。翌年に蔡元培のすすめで北京大学教授、図書館長となる。(陳独秀が紹介した)
初期中国共産党の理論的指導者である。「フランス革命とロシア革命の比較」,「ボルシェビズムの勝利」などをたて続けに発表。十月革命をたたえ、マルクス=レーニン主義を紹介することで、中国共産主義運動の先駆者となった。
「中国の今日は、世界経済のうえでは世界のプロレタリア階級にならんとする地位に立っている」という「プロレタリア民族論」が有名。

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8月 日本がソビエト・ロシアに干渉しシベリアに出兵。

18年 魯迅、『新青年』に『狂人日記』を発表、胡適の唱えた白話文学を実践。

 

1919年

2月 ソ連、世界革命の実現のためコミンテルンを設立。各国に共産党を組織する活動を開始する。

3.01 朝鮮で反日民族運動「三・一マンセー運動」が発生。日本の弾圧で死傷者2万3000人を出す。

4.30 ベルサイユの戦勝国会議、山東省のドイツ権益を日本に譲渡することで合意。

4.01 北京の「晨報副刊」、淵泉訳「近世社会主義鼻祖馬克思之奮闘生涯」を連載。河上肇「マルクスの『資本論』」ほかの抄訳。5月には「馬克思的唯物史観」を掲載。これも河上肇「マルクスの唯物史観」の抄訳。

5.03 首都の学生代表が北京大学に集合。ベルサイユ条約の拒否を決議する。

列強が「ウィルソンの14ヶ条原則」を裏切ったことから怒りが爆発。ヴェルサイユ条約反対や親日派要人の罷免などを要求する。

5.04 中国で反日「五・四運動」が発生。北京13校の学生3千人が、天安門広場からデモ行進。一部が親日派の襲撃や焼き討ちに及ぶ。北京の軍閥政権は学生を多数逮捕し弾圧。

鄧中夏: 北京學生聯合會總務幹事として学生デモを指導。その後李大釗とともにマルクス主義研究会を組織。北京の共産党組織を立ち上げる。北京長辛店の工人運動に携わった後上海に移り党活動に専念。33年9月南京にて刑死。

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5.04 陳独秀は街頭でビラ配りをしているところを逮捕され、3ヶ月間にわたり勾留される。これを機に急速にマルクス主義に接近。

5.05 北京市内の学生は、5月4日を国恥の日とし、ストライキやデモを敢行。逮捕された学生の釈放、売国賊の罷免、講和条約調印拒否を要求する。

5.19 北京の中等以上の学校でストライキ。代表を全国各地へ派遣し、社会各層が広範に参加する全人民運動へと発展させる。

5月 李大釗らは『毎週評論』で、「パリ講和会議は列強の盗みとったものを振り分ける会議」だと批判。学生運動の機関紙としての役割を担う。

6.01 北洋政府、学生の行動を取り締まる方針を打ち出す。

6.03 全国主要都市で学生のストライキとデモ行進が決行される。

6.05 上海で「罷課」(大学スト)。これに呼応して罷市(商店スト)、罷工(労働者スト)の三罷闘争が起こる。港湾労働者は日本船の荷揚げを拒否。交通・通信労働者のストにより上海全市が麻痺状態となる。日本製品ボイコットは1年続く。

6.10 北京政権、逮捕した学生を釈放。

6.28 パリの中国代表団、政府の意向を無視しヴェルサイユ条約への調印を拒否する。

6月 直隷派の曹錕と呉佩孚、公然と学生運動を支持し、ヴェルサイユ条約調印反対を主張。さらに北京政府による南北武力統一路線への反対を公然と表明する。

8月 李大釗が「我的馬克思主義観」(「私のマルクス主義観」)を発表。マルクス主義の概要を紹介。批判的視点を含めてマルクス主義に対する見解を明らかにする。

10.10 孫文、中華革命党を中国国民党に改組。

12月 直隷派のボス馮国璋が死去。実権は曹錕と呉佩孚の手に移る。

 

古本屋に行くとけっこう「現代思想」という雑誌が並んでいたものだ。
たいていはなんだか訳の分からない講釈が垂れてあって、「どうだ難しいだろう」と上から目線で迫ってきた。
たしかに難しかったが、半分は紹介者の悪文の故であったろう。
危険なのは難解趣味がいつの間にか移ってしまうことだ。変に性格が柔軟だから、感化されやすい。
しかし思考を一塊のブロックとして処理する際には便利だからつい使ってしまうところがある。

閑話休題
その雑誌に佐藤純彌監督が連載でエッセイを書いていて、これが分かりやすく面白い。
ついそれが読みたくて「現代思想」を買ってしまう。といっても古本屋だから一山買っても2,3千円だ。映画より安い。
連載の題名は「映画の作り方」
これの83年3月号が「台本の論理 その3」というもので、日中合作映画「未完の対局」の台本作りに関わるエピソードだが、時代背景の研究にのめり込んでいる。

多分余程のことがないと原文を見るチャンスはないと思うので、少し紹介する。

…僕が北京に到着した1981年3月の時点の中国は、江青、張春橋、姚文元、王洪文の4人組に判決が下りた直後であり、プロレタリア文化大革命および毛沢東に対する統一評価を発表すべく、6中全会の準備作業の真っ最中であり、…軍と党の間に評価の対立が生まれ、文芸作家たちが軍の批判に抵抗しつつあった時期であり、やがてそれは「苦恋問題」として大きな呼びおこすことになる。
…中国映画界は、1949年の共和国成立以来…ソ連の指導のもとに発展した。映画学院の教科書はソ連のものであり、ロシア語は必修科目だった。そして、現在、指導的立場にいる映画人の相当多数がソ連留学経験者であった。
…「紅都女帝」と称された江青は、30年代上海で藍頻という芸名で女優をしていたことは確からしいが、本人は有望な新進女優だったと言い、多くの評伝では三流女優にしか過ぎなかったという。
…中国共産党員であったが、1935年に党を除名され、37年、上海を脱出、毛沢東がこもる延安に潜入した。

と、ここまでが書き出しである。
まことに見事なものである。というのも全く関係のない事柄を何の説明もなく書き連ねながら、どことなく差し迫った、容易ならない時代の気分を湛え、その中から江青という人物を鮮やかに登場させている。
叙述には無駄がなく、筋肉質の迫力がある
こういうのを筆力と言うんでしょうね。

ここから時代背景の説明に入るが、じつに息を継がせぬ面白さ…
しかしここまでやっていると、とても追いつかない。
別の文章にして自分なりに調べもして、いずれアップしたい。
そこで一気に最後の段落。

上海の江青はトロツキストとして除名される。
江青は、終生、この時のことを恨みに思い、1966年文化大革命以後権力を握ると、全映画界を粛清する。
北京撮影所はソ連修正主義の巣窟だと閉鎖させ、映画界の指導的幹部、著明俳優を誰かれの区別なく労働改造学校に放り込む。撮影所長は文革の10年映画を作らなかったが、豚の飼育と田植えではベテランになったと笑い、若き江青が片思いしてふられた趙丹も、その妻黄宗恵も、赤い帽子を被せられて街中を引き回されたと、涙を浮かべながら語った。
「革命という言葉を聞いて連想するのは文化大革命のこと」と話してくれた40歳の男に、「文化大革命とは何だったのか」と尋ねると、しばらく間があって、「内乱」と一言答えが返って来た。

あの頃のことを思い出してしまう。
こんな女がのさばったのが文化大革命という時代だった。そして彼女を偏愛し、勝手放題に振る舞わせたのが毛沢東だった。
それだけでも毛沢東など許せないと思うが、未だに中国は毛沢東に対して口をつぐんだままである。
昭和天皇に対して日本国民が口をつぐみ続けたのと同じような力が、そこには反映されているのだろうか。

話が飛んでしまった。

習近平の注意深いが鋭い毛沢東批判は、今日の赤旗国際面に載ったものだ。

この記事は

文革の「紅衛兵」 被害者へ相次ぎ謝罪

“同じこと起きないように”

という題名で、北京の小林卓也特派員が書いたものだ。

リード部分は

かつて中国を混乱に陥れた「文化大革命」(文革)で、毛沢東を崇拝し、知識人や教師に過激な攻撃を加えた「紅衛兵」が、50年近い時を経て被害者への謝罪を始めています。

というもの。明らかに一つのキャンペーンが始まったと見て良いだろう。

謝罪の中身そのものは、すでに我々にはおなじみのもの。しかし中国の若者にはあまり知られていないらしく、結構な衝撃を与えているようだ。

そしてそのキャンペーンの背景として、小林記者は先程の習近平演説をあげているわけだ。

一般紙が、「習近平は毛沢東路線を支持し、その復活を狙っている」と観測しているのとは、まったく逆の見方だ。

どちらが正しいか、それはもう少し経過を見ていく必要があるだろう。

どうでも良いニュースみたいだが、面白くなくもないので、紹介しておく。

ニューズウィークに去年10月に掲載された「中国 風見鶏だより」というコラムである。執筆者はふるまい よしこさんという方。

毛沢東生誕120周年の2ヶ月前に習仲勲生誕百年という記念式が行われたそうだ。

習近平の実父である。文革時代には迫害された。習近平自身も下放されている。後に復活し鄧小平に引き立てられて、深セン特区の発展に尽力したらしい。

ここでも習近平は演説を行っている。

毛沢東問題評価にはあまり触れなかったようだ。記事によると、

習近平ら兄弟も父が毛沢東一派の迫害を受けている最中に生まれたために子供の頃からつましい生活を迫られたこと、父に厳しく育てられ、「控えめに生きるよう」しつけられたと強調された。

そうである。

この式典に参加したメンバーが注目された。記事によると、

鄧小平、劉少奇、胡耀邦、彭真、王震、楊尚昆、陳雲、李維漢らの子女、つまり「太子党」が集まった。

そうだ。

習はこの新たな協力関係を築くことによって、鄧小平以降、つまり江沢民や胡錦濤らによる政治操作を離脱、「紅二代」と呼ばれる二代目共産党員による政治を確立しようとしているという。

問題は、もっと上ではないか。

劉少奇・彭真ら文革前の「良き時代」の復興ということではないか。とすれば、習政権成立以降の政策の骨格も見えてきそうな気がする。


中国通信 2013.12.27

中国共産党が毛沢東生誕120周年座談会 習近平氏が重要演説

26日午前、北京の人民大会堂で毛沢東生誕120周年記念座談会が開かれた。

党中央政治局常務委員が出席し、習近平党総書記・国家主席・中央軍事委主席が重要演説を行った。

習氏は次のように指摘した。

1.毛沢東同志ら先輩革命家はみな、近代以降の中国の歴史的発展の時勢の中で生まれた偉大な人物である。

2.毛沢東思想は独創的理論でマルクス主義を豊かにし、発展させた。われわれは永遠に毛沢東思想の旗印を掲げ 前進する。

3.歴史的人物の評価は、その時代と社会的歴史条件において分析すべきだ。今日の時代条件、発展水準、認識水準で前人をはかることはできない。

4.革命の指導者は神ではない。その偉大さから神のように崇めることはできない。ミスや誤りを指摘し、正すことも必要だ

5.われわれは平和的方法による国際紛争の解決を主張する。覇権主義、強権政治に反対し、永遠に覇権を求めず、永遠に拡張を行わない。

6.しかし、いかなる外国もわれわれが核心の利益を取引材料にすることを期待してはならない。


ということで、赤旗が引用したような踏み込んだ文言は出てこない。別な場所での演説かもしれない。

あるいは、中国通信が日本向けの配信で意図的にカットした可能性もある。


他にも時事通信、産経が演説内容を紹介しているが、同じ演説かと思うほど内容が異なる。

新華社通信で全文を配信しているということなので、その日本語訳を読みたいところだ。




初めて知ったが、重大なニュースだと思う。
囲み記事のなかで、付け足し的に書かれているが、詳報を聞きたい。
とりあえず、記事のその部分だけ抜粋する。

習近平国家主席は、昨年12月26日に行った毛沢東生誕120週年を記念する演説のなかで、
「毛沢東同士が晩年、とくに文革のなかで重大な誤りを犯したことは否定できないと指摘。
「この誤りは、全面的に、歴史的に、弁証法的に取り扱い、分析しなければならない」と述べています。



私は文革後に党が再建されたとき、中国共産党の中央委員会が悲痛な自己批判的分析を行った文章を思い出します。

たしか「世界政治資料」に掲載されたのですが、散逸したらしく、探しても見当たりません。

あれから30年を経て、毛沢東批判は全面化されないまま、人々の記憶の底に沈殿しています。

なぜなら鄧小平の思想が毛沢東思想の「漫画版」でしかないのに、鄧小平まで批判することが困難だからです。

2000年代初頭にかなり実質的な手直しが行われましたが、やはり付け焼き刃だったのでしょう。なにか最近は元の木阿弥に戻りそうな感じでした。

習近平の登場が、毛沢東思想(鄧小平も含めた)を社会主義の原則からの逸脱として、「全面的に、歴史的に、弁証法的に」総括する動きに結びついていくことを、心から期待します。


南シナ海に「九段線」

九段線といっても靖国神社のそばの地下鉄のことではない。

中国が南シナ海での行動を一段とエスカレートさせたというニュースである。

それが「九段線」という境界線。南シナ海の9つのポイントで境界を設定したもの。この9つのポイントを結んでいくと、南シナ海の6割が中国領ということになる。

もちろん西沙、南沙諸島も含まれる。

この九段線はもう1年前から中国が主張しているものだが、今度はその範囲内に入った船を拿捕するという条例が施行され、実際に発動されたというものだ。

実際に2日と3日には複数のベトナム漁船が中国の監視船により停船させられ、漁具を破壊された上、機材や魚を没収された。

おかしなことに、この漁業規制は海南省が施行した条例によるものだという(中国メディアによる)。この国では省に外国船を攻撃する権利が与えられているのだろうか。

人民網日本語版では連続して強硬論が発表されている。

見出しだけ列挙しておく。

南中国海問題:「多国間枠組みで解決」との日本の提案について

南中国海問題は多国間の場で議論すべきではない

南中国海問題:火に油を注ぐ日本

専門家:海・空軍を強化し、東・南中国海の新情勢に対応へ

海上摩擦:中国は交渉だけではだめだ

米国に南中国海で武力を行使する勇気はない

南中国海問題に手出しする日本に中国はどう対応すべきか

空母+開発こそ中国の領海主権を守る最も力強い方法

専門家:南中国海に公海は存在せず

外交部「サビナ礁は中国領、フィリピンはもめ事を起こすな」

南中国海での軍事的摩擦による損害を誇張するなかれ

中国は南中国海問題において確固たる意志を持つ

ただしこれらの記事はいずれも2011年後半のものであり、その後、多少態度を変更した可能性もある。

 

中国共産党の三中全会で創設が決まった二つの「小組」が発足したようだ。

一つは「全面改革進化指導小組」で、もう一つが「国家安全委員会」、いずれも習近平がトップに就任するという。

「小組」といえば文化大革命、「党中党」だ。とくに国家安全委員会は関係する部署がたくさんありそうだ。

薄煕来事件は胡錦濤体制のもとで起きた事件だ。周永康の事件は現在進行形である。

前にも書いたように、周永康は公安部のボスであり、石油公社にも強い影響力を持っている。もちろん周永康の背後にも別の大物が控えている可能性があるが、そこまでは分からない。

総書記の最大の力の源は軍であり、軍事委員会にある。国家安全保障に関しては軍に任せればよい。あえてこれとは別に「国家安全委員会」を作る理由は何だろうか。

むしろ、軍の独走を押さえるためではないだろうか、と思う。

「戦争が外交の延長」であるなら、外交と軍は国家安全のための「車の両輪」でなければならない。

もしそういう方向で「国家安全委員会」を構想しているとするならば、習近平は大統領制に近いシステムを想定しているのかもしれない。

ただそれが政府部内ではなく、共産党の内部に形成されることについては違和感を感じざるをえないところであるが。

「全面改革」の方は、なにやらさっぱり分からない。これまで内政について、江沢民は朱鎔基に、胡錦濤は温家宝に任せてきた。習近平はこの二人三脚体制を変えようとしているのかもしれない。

いずれにしても、習近平には自前のキャビネットを作る必要が迫られている。中央政治局常務委員の多くが1期限りのお目付け役で、2期目までに安定した統治体制を作らなければならないからだ。

そしてそれには、党に対抗する軍の一部の独走を押さえる保障がもとめられているからだ。


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