鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

AALA関連記事は「aala_newsの編集日記」http://blog.livedoor.jp/aala_news/ に移りました(6Nov.2023) 中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 「ラテンアメリカの政治」(http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ )がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

カテゴリ: 11 国際政治/東アジア(中国・朝鮮半島)

このところ日本AALAが良い本を連発している。

ひとつはこの間も紹介した「日本AALAの60年」という本で、秋庭さんという長年日本AALAに関わった人の回想記だが、AALAの集めた貴重な資料が整理されて膨大な資料集ともなっている。編集者の努力を大とするものである。

ただしこれは「正史」ではない。37回総会前後に関する記述は、流行り言葉で言えば“オルタナティブ・ファクツ”である。あの頃、「ポスト・ミヤケン」の数年間はひどい時代だった。身の証を立てるための努力はいずれしようと思っている。

もう一つが日本AALAの理論情報誌第5号として発刊された南基正さんの講演録である。

こちらの方は「目からウロコ」の新発見と「なるほど納得」の連続で、これさえ読んでおけば「慰安婦問題」もばっちりだ。

私も過去20年間、膨大な年表を作成するなど歴史問題にはそれなりに関わってきたつもりだが、振り返ってみると“中抜け”の感を免れ得ない。

これは日本語資料の作成者のほとんどが在日朝鮮人であったことがかなり影響していると思う。1987年の激動を出発点とし、その後韓国社会の変化を身をもって体験しながら、イデオロギーに凝り固まらないリアルな視点を貫く学者の論文は初体験かもしれない。

パンフレットは薄いのだが、中身は重い。はじめる前からいささかたじろぐのだが、少し詳しく読書ノートを作っていきたい。


目次

1.日韓関係を見る視点

2.戦場国家と基地国家

3.韓国のナショナリズム

4.サンフランシスコ条約と韓国

5.朝鮮戦争と日本の役割

6.60年の学生革命: 近代化路線と日韓提携の模索

7.日韓条約と請求権協定

8.日韓関係のゆらぎと新冷戦時代

9.87年民主化、金泳三政権、金大中政権

10.二つの談話とパートナーシップ宣言

11.慰安婦問題

12.東アジアの平和の基礎


なお、私の韓国・朝鮮研究については下記を参照されたい。とくに南講演の歴史的背景を知るためには「戦後史年表」を参照していただくようお勧めする。

1.韓国の民主運動紹介

  朝鮮半島の戦後史評価に関して

朝鮮戦争終結50周年(03年の道AALA総会での講演のレジメです。朝鮮半島戦後史への視点を端的に要約しています)

韓国および北朝鮮の戦後史年表 0 (戦後史といいながら戦前編です)   

韓国および北朝鮮の戦後史年表 1    

韓国および北朝鮮の戦後史年表 朝鮮戦争   
韓国の朝鮮戦争後史年表(53年以降) 

北朝鮮の朝鮮戦争後史年表(53年以降)  

日本の植民地支配と朝鮮人民の闘争

  平和と真の独立,そして民族統一を目指す闘い.国家保安法に反対し,政治的自由と民主主義を勝ち取る闘い

紹介:韓国の民主運動(韓国政治問題の全般的紹介です。以下の論文については、この文章から進んでいただくようお勧めします)   韓米行政協定(SOFA)  梅香里射爆場の闘い 老斤里の住民虐殺事件  国家保安法の改正をめぐる闘い  女子中学生轢殺事件  「北」の影響:カンチョル・グループの場合  平沢の反基地闘争

(付)韓総連の自己紹介

  独占資本の横暴を許さず,国民生活を守る闘い.医療民主化を目指す闘い

韓国の労働運動(1998年)  民主労総のゼネスト(1998年執筆)  大宇自動車労組の闘い  民衆医療連合の「医療保険パンフレット」  保険・福祉連帯の決議文  弘津健康センターの紹介(1998年)  医薬分業と医師のスト

  民主勢力の結集に向けて.民主労働党の紹介

民主労働党の結成  民主労働党綱領  民主労働党党憲  民主労働党結党宣言  韓国における民主政党の歴史


日本AALA連帯委員会から秋庭稔男さんの『私と日本AALAの60年』という本が出た。

かなり中身の詰まった本であるが、その注がすごい1ポイント小さい字で書かれていて、年寄りには辛い本である。

その中でとんでもない資料が載せられている。

1955年(昭和30年)10月31日に日本アジア連帯委員会の設立総会が開かれた。そのときに記念講演が行われ、その記録が残されていたらしい。それが全文掲載されている。

演者は一橋大学教授(当時)の上原専禄さん、演題は『アジアは一つか、世界史における現代のアジア

秋庭さんはこの講演を次のように紹介している。

この講演は『設立の言葉』に凝縮された日本アジア連帯委員会の設立の背景と意義を深く掘り下げた内容で、私はこの講演録を読んで深く感動し、その後も折に触れて学習をしたものです。

ということだが読み始めると半端でなく難しい。読んでいると周期的に睡魔が襲ってくる。しかし考えさせる中身をたくさんふくんでいる(だから余計に読書が進まない)

まずは段落を切って見出しをつけるところから始めよう。


はじめに 1955年という年

世界とアジアと日本にとって重大な会議が開かれた。それがアジア諸国会議(ニューデリー)とアジア・アフリカ会議(いわゆるバンドン会議)である。そしてこれらを受けて設立されたこのアジア連帯委員会・日本委員会である。

以下に『世界史における現代アジア』を考える上での手がかりを提示したい。

1.アジアというものがあるのか

ある学者(白人)が「アジアというものがあるのか」と問題提起をしている。それは「一つのアジアというものがあるのか。それは一つのものとみなす意味があるのか」ということをふくんでいる。

たしかにアジアはヨーロッパのような単一性を持たない。しかし一体性を持とうとしている、一つのアジアになろうとしている。いわば「アジア・ナショナリズム」のような形で一体感が形成されつつあるのではないか。

つまり現在の態様の問題としての一体性ではなく、その置かれた状況、したがって課せられた課題、それを実現していくという意識の問題として共通性をもっていると考えるべきであろう。

2.現代アジアの歴史的共通性

アジア(およびアフリカ)は共通の「思い出」を持っている。それは世界でもっとも古い文化と宗教を作り出したという「思い出」である。

文化も宗教もかつては共通性としては自覚されてこなかったが、ヨーロッパの進出と植民地化に伴い、「思い出」として共通されるようになった。

それは非ヨーロッパ性において共通性を認識することである。非ヨーロッパ的な文化の中に、それだけにとどまらない共通性を発見することである。

そして、失われた過去を取り戻すだけでなく、さらに自主的な発展を目指す営みにおける共通性を見出すことである。

3.ヨーロッパの支配は何をもたらしたか

ヨーロッパ人はまずアジアを政治的・経済的に支配し、搾取した。これに続発して、文化的な隷属と伝統の破壊がもたらされた。

さらに、アジア地域の間に存在していた経済・文化の交流が断ち切られた。

したがって民族解放を成し遂げた人々は自国の文化を興隆させるだけではなく諸国民との交流を通じて絆を回復し、さらに「一つのアジア」の実現に向けて努力しなければならない。

4.「一つのアジア」を実現するための2つの課題

アジア・アフリカ会議に出席した人の多くはこれらの問題意識を共有している。しかしそのためには2つの課題がある。

一つはそういう心構えが、どうすればアジア・アフリカ14億の人々(当時の人口)の本当の意識になるだろうかという課題。もう一つは他の世界の人々がそれを妨害する動きに出ないかということ、さらに言えば他の世界が「一つのアジア」を積極的に是認してくれるかということ、是認してもらうためにはどうしたら良いのかということだ。

この2つの課題は、アジア諸国が一つにならなければ実現不可能な課題である。アジアが一つだというのはまさにこの大事な問題意識においてである。

5.アジア諸国の協力 4つの柱

第一の柱が経済協力である。まず二つの前提がある。一つはアジアが経済的に大変遅れているという事実である。もう一つはアジアには資本も技術も不足しており、ヨーロッパなどからの協力が不可欠だということである。

しかしそれがアジアの主体性、自主性を壊すようなものであっては元も子もない。そのような国際協力を引き出すためには、まずアジア自身の相互協力が実現しなければならない。

それはわかるのだが、ではどう協力すればよいのか、その具体的な処方箋が見えてこない。そのような処方箋があるのかどうかさえわからない。いろいろな調査・研究が必要である。

第二の柱が文化交流である。ただし文化交流については以下の点を踏まえておく必要がある。

「古い時代にアジアには共通の文化があった」ということはない。少なくとも中国、インド、中東の文明は別なものであった。少なくともヨーロッパ文明のような一体性はなかった。このことは押さえておいたほうが良い。

第三の柱が独立の支持・支援である。ただし時代の性格上は独立の課題が全面に出るが、これは本質的には人権と自由の確立の課題である。

第四の柱は世界平和への貢献である。当時は第二次大戦が終わってからまだ十年、朝鮮戦争と第一次インドシナ戦争が終結した直後であり、2つの戦争の舞台となったアジアにとって平和の課題は有無を言わせぬ課題であった。そのことに留意しておく必要があるだろう。

こういうような問題の共通性によって、アジア・アフリカは一つに結び付けられている、というのが「一つのアジア」の具体的中身なのだろうと思う。

6.現代アジアの動きの世界史における位置づけ

このような現代アジアの動きは世界史の歩みの中でどういう位置を持っているのだろうか。それにはいままでのアジアの動きを見ていかなければならない。

中国共産党の歴史は決して毛沢東の歴史ではありません。
むしろ毛沢東は傍流であり、一地方活動家に過ぎませんでした。
共産党の活動が弾圧の中で追い詰められ、瑞金の「解放区」に逃げ込まざるを得なくなったことで、党内の力関係が変わっていったのです。
といっても長征が成功しなければ、上海の党中央も毛沢東の農村ゲリラも共倒れに終わっていたに違いありません。
そういう意味では中国共産党が蒋介石軍の攻撃を受けながらも生きながらえることができた点で、毛沢東の功績(とくに軍事的な功績)は大きいものがあると言っていいでしょう。
これらの経過については「毛沢東のライヴァルたち」という題名で年表を作成しています。このブログで数回に分けて掲載していますが、最終的には一本化してホームページの方に収録しているのでご参照ください。
この年表は増補に増補を重ねてずいぶん膨大なものになっています。「毛沢東のライヴァルたち」と言いながら、実際には辛亥革命から国共合作までが盛り込まれています。ここまで分厚くなると、余分なものを独立させて、別年表を起こしたくなります。
毛沢東のライヴァルたちの活躍は上海を舞台としています。そして31年で事実上は終わっています。彼らの多くは瑞金に逃れ「中央ソヴィエト」に参加しています。しかしそのイニシアチブは程なく失われ、その後は毛沢東の子分となっていきます。
だから瑞金以後は別年表にしなければなりません。そのためには、どう党内の力関係が変わっていったのかを跡付けなければならないし、それは「瑞金・長征年表」みたいな形で総括しなければなりません。
今その作業の真っ最中なので、とりあえずはごたまぜで「毛沢東のライヴァルたち」年表に突っ込んでおきますので、興味ある方はご覧ください。

ネットを検索していて面白い文章にあたった。

中国領海法制定過程についての再検証 

副題が-「尖閣諸島」明記をめぐる内部対立-

という論文で、著者は西倉一喜さんという人。当時、共同通信の北京特派員として現地で取材し報道した人である。

「龍法 '15」となっているので、おそらく2015年に龍谷大学の学術誌に発表したものであろう。

長い文章なので出だし部分だけ紹介する。小見出しは私のつけたもの。

はじめに

この論文は1992年2月に中国で成立した「中華人民共和国領海および接続水域法」の成立過程を再検証したものである。

事実関係の骨格

中国の外務省と軍部の間で尖閤諸島(釣魚島)の明記をめぐって対立があった。

国務院(日本の内閣に相当)の外務省の草案には尖閤諸島は明記されていなかった。これに対し軍部は島名の明記を要求した。

最終的に軍部の主張が通り、外務省作成の草案が修正された。

また領海法は、領海を侵犯する者に対し、実力行使に訴えても排除する権限を軍当局に与えた。

以上の経過を把握した筆者は記事として発表したが、これが現在も唯一の情報となっている。

取材の経緯

1992年はどういう年だったか

1992年2月25日、全人代常務委員会は領海法を全会一致で採択した。1992年はどういう年だったか。

①天安門事件を契機とする対中制裁包囲網の突破の試み、

②鄧小平の南巡講話による改革・開放路線の再加速への撒、

③冷戦崩壊にともなう共産主義イデオロギーの効果消失とナショナリズムの台頭、

④中ソ(ロ)和解による中国の軍事政策の内陸から海洋への重点移動、

(と、筆者は書いているが、一般的には、これらは未だ兆しに過ぎなかったと考えるべきであろう。時代には文革と天安門後の挫折感、沈滞感が色濃く漂っていた。この中で、上の4つの方向を目指して模索し呻吟していた年だったと私は考える)

黄順興・全人代常務委員の情報

西倉さんは領海法の背景を知るために全人代常務委員の黄順興と接触した。黄は台湾で統一派として活躍した後大陸に移り、台湾を代表する全人代常務委員に選ばれた人物である。

西倉さんは黄から内部文書を提供された。

これは「領海法(草案)に関する中央関係部門と地方の意見」と題されたもので、全人代常務委員会弁公室秘書局が作成したとされる。

作成の日付は92年2月18日となっており、機密扱いに指定されている。

西倉記事の見出し

この文書と黄の説明を元に、西倉さんは記事を作成し、2月27日付で発信した。見出しは下記の通り。

主見出し

尖閣諸島は中国固有の領土、中国政府が領海法に明記、

脇見出し

侵犯には武力行使も辞さず、日本との紛争発生の恐れも

サイド記事見出し

対日政策の運営困難、尖閣で軍と外務省が対立

解説記事見出し

保守、改革派の対立表面化

開放路線への反発か、中国領海法

というものであった。ほとんど見出しだけで言い尽くしている感もある。
これだけ見ても、いかに西島さんと共同通信本社がこの記事を重要視したかが分かる。

内部議論の動向

以下内部文書の細部の検討に入る。

草案2条(台湾の付属諸島)をめぐる議論

草案第2条は台湾の付属諸島を列記した箇所。草案では釣魚島が抜けていた。東沙群島、西沙群島、南沙群島は草案段階でしっかり入っている。

この草案に軍事委員会法制局が噛み付いた。これに総参謀部弁公庁、海軍司令部が同調した。各地方の一部代表も加わった。

法制局は「この問題で少しでも暖昧なところがあってはならない。立法化を通じて問題を明らかにすれば、今後の日本側との談判の中で、われわれは主導権を握ることができる」と主張した。

外務省は、「釣魚島は台湾の付属諸島とみなされる」としつつ、領海法には明記せず、「その他の方法」で釣魚島に対する主権を主張すべきだとした。

その理由として、「われわれは一面で領土主権を防衛するとともに、もう一面で外交上の摩擦をできるだけ減らさなければならない」と主張。

とりあえず日本との矛盾衝突を避け、有利な国際環境の確保に努めるよう提起した。

孤立した外務省

こういう論争で、外務省が勝てるわけがない。外務省はこう言うべきだったのだろう。「尖閣=釣魚島の帰属については日本とのあいだで係争中であり、互いに言い分がある。中国固有の領土と明文化するのは、両国関係から見ても好ましくない」

外務省は孤立し、軍部の要求に全面的に屈した。

以下略


この文章から分かること

1.政務院・外務省と軍は対立の構図にある

2.軍の志向は開放路線にタガを嵌めることにある

3.軍は排外主義のラインで動いている

4.本気でケンカすれば軍の方が強い

ということだ。

ただ、むしろ重要なのはこの「対立」が生まれたのが、91年から92年の初めにかけてだったということであろう。

中国は国のあり方をめぐって重大な分岐点にあった。それは天安門事件により先鋭化し指導部の中にすら亀裂が走った。

それが鄧小平のプラグマティックな路線でいわば糊塗されるのだが、深部の亀裂はそのままに残された。

軍は治安出動により「国を守った」という自負があるのだろうが、それで「中国革命は守られたのか、社会主義は守られたのか?」という深い問いがある。

天安門事件後の経過の中で、軍はますます強権への信仰と排外主義への傾斜を深め、それを社会主義と強弁することにより自らの存在価値を主張してきた。

つまり領土・領海の議論は、軍の“歪んだナショナリズム”の露頭なのである。軍にとってそれは天安門の評価に遡って、原理的に譲れない一線となっている。

党指導部は、軍の規律強化という形で整頓を図っているようだが、それは“歪んだナショナリズム”を一層強化する方向で働く可能性もある。

向こうが「原則」で来るなら、こちらも原則で対抗しなくてはならない。大事なことは、中国共産党が「万国の労働者・被抑圧民族は団結せよ」というプロレタリア国際主義の旗を一層高く掲げ、目指すべき社会主義の実を示すことではないだろうか。(もちろん天安門の評価そのものはいずれ避けて通れないだろうが)


中国の南沙問題、尖閣問題は軍隊まで繰り出しての衝突のためにメディアにも大々的に扱われているが、基本的にはローカルな問題である。

しかし鉄鋼のダンピング輸出は、世界経済を撹乱しかねない由々しい問題となっており、世界各国が批判を繰り返すなど国際問題に発展している。

あまりニュースに取り上げられないので、紹介しておくことにする。

勝又壽良の経済時評 が手頃で読みやすい。

1.米国国際貿易委員会(ITC)は、米国最大の鉄鋼メーカー「USスチール」の提訴を受け入れ、中国製の鉄鋼製品に対する全面的な禁輸措置を執ることができる法的根拠について正式に検討を始めた。

2.米国のルー財務長官は、中国の産業政策について批判。中国の過剰生産能力が、世界の市場を歪め悪影響をもたらしていると指摘した。そして供給過剰の目立っている鉄鋼やアルミニウムなどの生産を削減するよう強く求めた。

3.WTOは中国を「非市場経済国」に指定している。中国が過剰生産を規制しなければ、「非市場経済国」のまま据え置かれる可能性がある。

4.G7志摩サミットは中国の鉄鋼問題で、「市場を歪曲する」政府や支援機関への懸念を表明した。さらに対抗措置の可能性まで示唆した。

5.これを受けたOECDは、、対中包囲網の強化を打ち出そうとしている。

というのが現下の状況で、勝又さんは以下のコメントを添えている。

中国による鉄鋼の過剰生産は、各国にとって死活的な問題になっている。各国は、中国の野放図な経済成長の尻ぬぐいをさせられている

さらに、高い経済成長率を背景にした軍事費拡大で、中国が周辺国を威嚇している構図になっている。

しかし「なぜか?」という疑問には必ずしも答えになっていない。


 上海年表を作ったが、それだけは面白く無い。やはり一度読み物の形にして置かなければならないだろう。

上海租界の成立

1842年にアヘン戦争が終わった。新帝国は屈辱的な敗北を被った。その結果華中・華南の5つの港を開き、欧米列強との交易を迫られた。

同時に5つの港に租借地を置くことを認めさせられた。

当時上海は県庁が置かれただけの田舎町であったが、長江の河口に位置することから列強によって特別な重要性が置かれた。

イギリス商人の居留のため黄浦江河畔(バンド地区)に租借地が認められる。当初の区画は幅500メートル長さ1キロの小規模な居留地であった。ただし、その後拡張を繰り返し約10倍に拡大している他にアメリカ、フランスも租借地をおいた。

上海は列強の中国本土への進出拠点であるだけでなく、中国の海外に向けられた貴重な門戸となった。

太平天国の乱と治外法権の確立

開港後10年目に、太平天国の乱が起き、上海に迫る中で上海租界はその性格を大きく変えていく。

太平天国も、その一派で上海を包囲した小刀会も、租借地首脳に安堵を保証した。しかし清国の庇護が受けられないもとでは、租借地を自ら守るべく武装自衛が必要となった。

英・米・仏は共同した統治機構を作り、武装部隊を組織した。それぞれの国の租借地は「共同の租界」として自立した。これにより租借地の自治権は大いに高まった。(フランスはイギリス人の支配を嫌い後に離脱し、独自の租界を形成)

また戦争を避けて難民が一挙に流入したため、当初は長崎の出島のような外国人居留地に過ぎなかった上海租界は、中国人の混住する一つの街のような存在となった。

国際都市「上海」の誕生である。

20年後の1862年、今度は太平天国の本隊が上海を攻めてきた。これは事実上の戦争であったが、上海の共同租界軍は半年に我々たる攻撃を持ちこたえただけでなく、逆に太平天国に甚大な損害を与えた。敗れた太平天国は2年後に崩壊する。

上海が東洋一の大都市に

滅亡した太平天国に代わり北京の清朝政府が戻ってきた。上海の責任者となったのが日清戦争の談判でも有名な李鴻章である。

李鴻章は上海を窓口として文明開化と富国強兵策(洋務運動)に乗り出した。上海租界は列強の窓口として温存されただけではなく、富国強兵のための技術導入の門戸として重視された。

中国最初の近代的軍事工場「江南機器製造総局」が虹口に建設されるなど、急速に上海は中国の最先端都市として発展を遂げる。

これに呼応して列強も本格的な資本注入を開始する。まず香港上海銀行(イギリス系)がバンドに上海支店を開設し、欧米の金融機関が追随した。

郵便、電報、定期便、鉄道などの交通・通信インフラが整備された。電気が通じ水道が給水を開始した。それらは常に日本の文明開化に一歩先んじていた。東洋初、東洋一などの形容詞は上海のためにあったといえる。

日本の維新政府も列強の東洋における最大拠点たる上海にさまざまなアクセスを試みている。

すでに太平天国との戦闘さなかの62年6月、江戸幕府の雇った千歳丸が上海に来航している。この船には薩摩藩の五代友厚や長州藩の高杉晋作ら各藩の俊秀が乗り込んでいた。

維新直後の明治6年には、岩倉使節団が米欧歴訪の後、上海の市内を見学している。定期船が運行されるようになり、三井・三菱が上海に支店を開設した。

ライバル日本は官民挙げての文明開化と富国強兵であった。千歳丸も、いま考えれば幕府も随分太っ腹だが、“オールジャパン”みたいな空気があったことの証だろう。

中国の場合はあくまでも封建的な北京の清帝国の枠内の改革に過ぎず、常に反発と揺り戻しがあり、決してスムーズなものではなかった。そこが上海が特殊な都市にとどまった最大の理由であろう。

サンクチュアリとしての上海

上海の統治を行っていたのは、いわば“居留民の自治会組織”である。ビジネスマンの自治組織としての性格を残したまま、それは軍隊・警察を持ち司法機構を持つようになった。

そして戦争のドサクサで混住が認められるようになってからは、中国人という“異民族”支配をも行うようになった。

それらを法文的に整理したのが69年の第三次土地章程である。それは①協議機関を居留外人の評議会とし、予算審議、執行部の選挙権を持たせる、②工部局の行政機能強化、③租界在住の中国人に対する代理裁判権を柱としている。

これにより工部局という、名前のとおりビジネスライクな、きわめて風通しの良い行政府が形成されたのである。

租界の行政府は去る者は追わず、来る者は拒まず、人間は氏素性を問われれず、他所で何をしたかではなく、ここで何をしたかで評価される。租界の存立基盤にかかわらないかぎり、ずべての人が「善良な市民」なのである。

日清戦争敗北の衝撃

清帝国はその後も負け続けた。アロー号戦争でイギリスに敗れ、清仏戦争ではフランスに敗れた。

それでも遅ればせながら軍の近代化に着手し、東洋の覇者としての意地を見せようとした。しかし94年の日清戦争は最後の誇りすら無残に打ち砕いた。

も体制内改革派の立場に立った皇帝が西太后のクーデターにより幽閉されると、はや頑迷固陋の北京政府に頼むものなしとの声が上がった。義和団の乱が起こり、北京に攻め込んだ。

義和団の乱が列強の介入により挫折すると、反北京の動きは華中、華南に拡大した。上海はその中心となった。

その運動はいまから見るとかなり奇妙なものだった。日本の幕末の運動は尊皇攘夷として始まりやがて倒幕・王政復古と富国強兵に収斂して行ったが、中国の革命運動はとにかくまずもって異人種である清王朝を打倒し漢民族の自立を勝ち取ることに主眼が置かれた。

攘夷はとりあえずは脇に置かれ、まずは自彊が目標となった。そこには反封建の思想も強く盛り込まれた。広い意味では反帝反封建であるが、かなり脇の甘いものであったといえる。

そしてそのモデルとされたのが、戦争の相手である日本であった。日露戦争に日本が勝利するにいたり、日本への幻想はますます広がった。知識人はこぞって日本へとわたり、日本を通して西欧思想に触れることになった。

30年後に始まる日中戦争のことを考えるとき、これは中国人民にとってある意味で不幸な出会いであったかもしれない。

秋瑾 反乱の狼煙

1907年、秋瑾は光復軍を組織し武装反乱を企てたが、捕らえられ斬首されている。

秋瑾は武田泰淳の筆により著しく異なるイメージで伝えられている。秋瑾は馬賊の頭目ではなく中国革命と女性解放のヘラルドとして正当に評価されるべきである。

彼女は清朝の名門の生まれであり、当時としては最高級の知識を身につけている。彼女は上海とその周辺の開放的雰囲気で育ち、北京で義和団の闘争を目撃し、婦人運動に目覚め、解放運動の戦士たらんと決意し、日本にわたり当時最高の女子教育の洗礼を受けた。

当時、東京は中国改革運動の震源地であった。そこで留学生運動の一方の旗頭として、武装蜂起もふくめ最も断固たる立場をとった。

たしかに当時の中国でとりうる唯一の戦略は武装蜂起以外になかった。それはその後の歴史が証明している。

果てしない議論を繰り返す留学生たちに突きつけた匕首の切っ先は、その象徴としての意味を持っていた。

学半ばにして上海に戻った秋瑾は旺盛な文筆活動を開始する。その一方で戦士の結集と教育に意を注ぎ、浙江省に武装組織「光復軍」を組織するに至る。

秋瑾は決してたんなる一揆主義者ではないし、孤立した陰謀主義者でもなかった。

時を同じくして東京の孫文は中国革命同盟会を組織して武装革命の準備にとりかかっている。そして秋瑾の死後5年後の1912年には、武漢の武装蜂起を引き金に辛亥革命が成立する。そういう怒涛の時代なのである。

残念ながら機が熟せぬままに陰謀が発覚し、刑場の露と消えていくのであるが、その思いはまさに中国の近代化を目指す流れの本流にある。

ここで押さえておきたいのは、秋瑾の運動にせよ辛亥革命にせよ、すべからく清朝末期の革命運動は上海を揺籃の地としていることである。それこそが上海が「魔都」となる所以であろう。

東洋一の大都会への成長

そのような中国の革命運動など知らぬげに、上海はますます殷賑を極め、東洋一の大都会へと成長していく。

共同租界中心部では建築ラッシュが始まった。中央区と西区(旧イギリス租界)では、バンド地区に各国の領事館や銀行、商館が並ぶ。絵葉書でお馴染みの光景である。バンドに直角に交わる南京路には路面電車が走り、ビック・フォーと呼ばれる百貨店が立ち並ぶ。

フランス租界の表通りは高級住宅街となる一方、裏通りには茶館、妓館、アヘン窟が集中する。まさに「魔窟」である。

 

辛亥革命と上海

秋瑾の死後4年にして清帝国に対する本格的反乱が始まった。11年の11月、武装蜂起が武漢で成功した。ほぼ同時に上海でも軍の反乱が発生した。陳其美将軍の率いる反乱軍はたちまちのうちに上海の華界を支配下に置いた。租界当局(工部局)はこれに呼応して租界内の司法権を全面掌握した。

12年の1月、東京の孫文が上海を経由して南京に入り、中華民国臨時政府の臨時大総統に就任した。しかし革命軍の勢いもここまでであった。上海軍は孫文の言うことに従わず、革命派を弾圧、要人を次々と粛清した。いっぽうで北京の軍部との間合いを図った。

2月には清朝皇帝が退位し袁世凱将軍が臨時大総統に就任した。皇帝は退位したものの、これまでの統治機構はそのまま温存された。

中国のもっとも重要な軍事拠点は上海華界の軍事工場軍「江南製造総局」であった。袁世凱はこの拠点を手放すつもりはなかった。

半年にわたるにらみ合いと小競り合いの後、陳其美は上海独立を宣言し、江南製造総局を攻撃した。攻撃は跳ね返され、陳其美は日本に亡命する。

こうして上海は引き続き北京政府の支配下に置かれる事になり、孫文もまた南京を去った。

1920年前後の上海

辛亥革命の流産後、革命派にとってはしばらく雌伏の時が続く。反清闘争のスローガンは「討袁」へと変わった。

孫文や陳其美はひそかに上海に入り、反乱を企てテロを繰り返したが、17年に陳其美が暗殺されるにおよび、こうした革命活動は困難となった。

もう一つが日本資本の急速な進出である。上海在留外国人の多くを日本人が占めるようになった。日本資本の繊維工場が相次いで建てられ、多くの中国人を使用した。

日本は第一次大戦に乗じて、「21ヶ条要求」を強要した。これにより中国人の反日感情が高まり、それは19年の北京での「五四運動」につながっていく。この闘争は北京政府の弾圧により弾圧されたが、遠く離れた上海では大規模な抗議行動に発展していった。

それは工場労働者、学生、商店の3つの勢力が合体したものであり、近代都市上海の階級的性格を反映したものとなった。そしてその闘争は共産主義運動と結びつく定めにあった。

共産党の設立経過などについては「毛沢東以前の共産党」に詳述してあるため、ここでは割愛する。

企業の上海進出に伴い、日本の文筆家も相次いで上海を訪れるようになる。その嚆矢となったのが21年に新聞社特派員として派遣された芥川龍之介である。

芥川自身はあまり作品を残さなかたようであるが、文士仲間には相当吹聴したらしい。まもなく村松梢風が上海に来訪。2ヶ月にわたり滞在した。帰国後発表したのが『魔都』である。ここから「魔都上海」の名が広がるようになった。

これについては「上海年表 補遺」をご参照いただきたい。また内山書店もこの頃から営業を開始し、文化の窓口として、また中国文化人の庇護役として貴重な役割を果たした。これについては「内山完造の動き」をご参照いただきたい。

魔都上海年表の補遺です

1923年、長崎港と上海の日本郵船匯山碼頭を結ぶ「日華連絡船」が就航した。

この年、村松梢風がはじめて上海へ渡る。2ヶ月にわたる滞在後、「不思議な都『上海』」を発表、のちに『魔都』と改題され出版される。

ただその中に立って私は歓喜に似た叫びを挙げているのである。華美に眼眩み婬蕩(いんとう)に爛れ(ただれ)、放縦に魂を失ってしまったあらゆる悪魔的生活の中に私は溺れきってしまった。

そうして、歓びとも、驚きとも、悲しみとも、なんとも名状しがたい一種の感激に撲(う)たれてしまったのである。

それは何故だろうか?只、私を牽き付けるものは、人間の自由な生活である。其処には伝統が無い代りに、一切の約束が取り除かれてゐる。人間は何をしようと勝手だ。気随気儘な感情だけが生き生きと露骨にうごめいてゐる。

そして、村松以後上海を訪れた者は、ここを魔の棲む場所「魔都」と呼 び、日本人の上海のキーワードとして「魔都」が定着することになる。(森田靖郎)

当時の上海租界はパスポート不要で入国できたし、厳密な戸籍管理も為されていなかった。

アジアにありながらヨーロッパのモダニズム文化に触れることもできる国際都市、高層ビル群と繁盛を極める茶館、裏通りを1本入ればナイトクラブやショービジネスの世界、そしてアヘン窟。賑やかさの裏側にのぞく危険な香り…

知識人たちがすっかり蠱惑したのも頷ける。

1927年、金子光晴が2年に及び滞在。「上海ゴロ」と呼ばれた底辺層を生きる日本人居留民の姿を浮き彫りにする。

今日でも上海は,漆喰と煉瓦と,赤甍の屋根とでできた,横ひろがりにひろがっただけの,なんの面白味もない街ではあるが,雑多な風俗の混淆や,世界の屑,ながれものの落ちてあつまるところとしてのやくざな魅力で衆目を寄せ,干いた赤いかさぶたのようにそれにつづいていた。

高見順の浅草モノみたいなものですかね。

上海歴史地図 その他より作成

1840年


8月 アヘン戦争が勃発。イギリス海軍は天津沖へ進出し北京政府に圧力。その後揚子江へ進入し京杭大運河を止める。清国軍は圧倒的な火力の差を目に為す術なし。

1842年

6月 アヘン戦争が終結。南京条約が締結される。上海、広州、福州、厦門、寧波の5港の開港と香港の割譲を認める。上海は対外通商港として開港する。

44年 イギリスに続き、アメリカ・フランスが清と条約を締結。上海を対外通商港とする。

44年  黄浦江流域にまずイギリス領事およびイギリス人の居留地が設けられる。初代イギリス領事としてジョージ・バルフォアが赴任。

1845年
11月 上海長官とバルフォア領事のあいだで第一次土地章程(Land Regulations)が締結される。

イギリス商人の居留のため黄浦江河畔(バンド地区)に租借地が認められる。当初の区画は幅500メートル長さ1キロの小規模な帯状地帯で、長崎の出島のレベルであった。その後拡張を繰り返し約10倍に拡大。

49年 アメリカ租界、フランス租界が認められる。アメリカ租界はイギリス租界の北側、フランス租界は南側に設定される。

49年 上海—ロンドン間の定期航路の運行が開始される。


1851年
1月11日  華南の新興宗教結社「拝上帝会」が武装蜂起。教祖の洪秀全はキリスト教に帰依し自身を天王と名乗る。国家を名乗り、国号を「太平天国」と称す。


1853年

1月 太平天国軍、武昌を陥落させる。

3月 太平天国軍、江寧(南京)を陥落させ、ここを天京(てんけい)と改名し、太平天国の王朝を立てる。太平天国軍は20万以上の兵力にふくれあがる。纏足の禁止や売春の禁止、女性向けの科挙などを実施。

4.27 英国公使ボンハムが天京を訪問。太平天国にも清国にも中立であることを告げる。

5月 太平天国軍が上海に迫る。イギリス、フランス、アメリカは共同し上海地方義勇隊を組織。義勇隊はのちの万国商団(Shanghai Volunteer Corps)となる。

5月 福建省の秘密結社「小刀会」が太平天国の影響を受けて蜂起。廈門に政権を樹立するに至る。税の免除を宣言。

9月 農民軍「小刀会」が上海でも蜂起。「反清復明」を掲げ上海知県の袁祖徳を殺害。1年半にわたり上海県城(フランス租界の南側)と周辺の嘉定・青浦を占領する。租界を攻撃せずの言明があり、アメリカ・イギリス・フランスは中立の姿勢をとる。

9月 小刀会の蜂起の結果、2万人を超える中国人難民が租界に流入し、上海は無国籍地帯と化す。清朝行政の機能はマヒし、各租界は自衛のための武装を固め、関税徴収も行なう。

1854年

4月 清軍が租界を攻撃。工部局は米英人居住者による義勇団(Shanghai Volunteer Corps )を組織し、これに対抗。泥城浜で激戦となる。小刀会が自警団側に加勢したため、清側は300人の死者を出し撤退する。

7月 イギリス領事オールコックは、米仏領事と協議し第二次土地章程を公布する。7名の選挙で選ばれた参事が、すべての自治権と行政権を握る。参事会のもとに「工部局」が創設され、関税徴収をふくむ行政一般の実務を担う。中国側には事後通告のみ。
内容としては①イギリス租界の拡張、②中国人の雑居の黙認、③三国領事の協議による運営・工部局(執行機関)と巡捕(警察)の設置である。工部局は後に租界の行政管理機構となる。

12月 小刀会追放を狙う清は、上海の税関と租界の権益を条件にアメリカ・イギリス・フランスの支持をもとめる。英米はこれに応じず。

1855年

2月 清軍と清側の提案に応じたフランス軍とが共闘し、小刀会のこもる県城を攻略。残党は太平天国領に逃れる。

2月 中国人の租界での居住が許可され、「華洋雑居」が始まる。

1856年

6月 一旦劣勢に陥った太平天国軍がふたたび攻勢に出て、江北・江南に基盤を確立。

10月8日 アロー号事件が発生。第二次阿片戦争が始まる。広州の官憲がイギリス船籍の中国船アロー号を臨検し船員12名を拘束。イギリスはこれに難癖をつけ、フランスを誘って武力干渉した。

10月 英国、上海における治外法権を拡大強化。領事法廷、監獄などが設置される。フランスもこれに続く。

1859年

6月17日 英仏の艦隊は天津で清軍の待ち伏せ攻撃を受けいったん撤退。

1860年

8月 李自成の率いる太平天国軍が江南地方に進出。第1次の上海攻撃を開始する。上海の官僚と商人は、西洋式の銃・大砲を整え租界にいた外国人を兵として雇用する。アメリカ人ウォードを指揮官とする「洋槍隊」が創設される。
10月、北京条約が締結される。英仏軍は大艦隊と約1万7千人の兵隊という大軍で北京を占領。天津の開港、九竜半島の割譲、苦力貿易の公認などを飲ませる。キリスト教の布教活動が自由化され広がる。
10月 欧米諸国は、北京条約を受け清朝につき、太平天国に敵対するようになる。

1861年

「洋槍隊」が「常勝軍」と改名。中国人を5千人ほど徴兵。

1862年

1月 太平天国軍の第二次上海攻撃。半年にわたる。

5月 英仏海軍が太平天国軍の拠点であった寧波を砲撃。山側から迫った清軍が市内に突入。この一連の戦闘で常勝軍隊長のウォードが戦死。イギリス人チャールズ・ゴードンが指揮官に就任する。

5月 イギリス主導を嫌うフランスは独自の執行機関「公董局」を設立。

6月2日 江戸幕府の御用船千歳丸が上海に到着。長州藩の高杉晋作ら各藩の俊秀が、2ヶ月にわたり情報収集にあたる。薩摩藩の五代才助(後の友厚)も水夫として乗り組む。

 高杉の『航海日録』:
5月6日 上海は外国船が停泊するもの常に三四百隻、その他軍艦十余隻という。支那人、外国人に使役されている。憐れ。わが国もついにこうならねばなるないのだろうか、そうならぬことを祈るばかり

5月10日 長髪族(太平天国軍)が上海から三里の地に来ている。明朝は砲声が聞こえるだろう

5月21日 つらつら情況を観るに、支那人はことごとく外国人の使役である。外人が街を歩くと、清人はみな傍らに道を譲る。上海の地は支那に属すというものの、実に英仏の属領なり

6月 曽国藩の軍が太平天国の首都天京を攻撃。これにより上海包囲軍はいったん天京に引き上げる。
7月5日 千歳丸、上海を立ち長崎に向かう。高杉は翌年に奇兵隊を組織し、馬関で挙兵。
8月 太平天国軍の第三次上海攻撃。11月まで続く。
62年 英租界の「工部局」会議が、南北道路に省名、東西道路に市名をつけることを提案。

1863年

3月 江蘇巡撫の李鴻章、洋務運動を展開。外国語学校の上海同文館を創設。

9月 英米租界が工部局のもとで正式に合併し、名前も「共同租界」と変更する。この時点で租界部の外国人人口は6千6百人。

1864年

7月 天京(現南京)が陥落し太平天国の乱は終結。この時城内の20万人が虐殺されたという。

1865年 

4月 香港上海銀行(イギリス系)がバンドに上海支店を開設する。この後、欧米の金融機関が本格的に上海進出を果たす。

5月 中国最初の近代的軍事工場「江南機器製造総局」が虹口に建設される。
1868年
戊辰戦争。日本が絶対主義天皇制に移行。

1969年
4月 『第三次土地章程』を発布する。一方的に決め中国側に押し付けたもの。工部局の機能を強化。警察、消防、衛生、教育、財務などあらゆる機能を果たす、完全な行政システムを成立させる。

①協議機関を居留外人の評議会とし、予算審議、執行部の選挙権を持たせる、②租界在住の中国人に対し租界内で裁く代理裁判権を実現する。フランス租界もこの制度を追随。

70年

パシフィック・メール社、上海—長崎—横浜間の航路を開設。

71年 

大北電報公司が上海—香港間、上海—長崎—ウラジオストック間の海底ケーブルを敷設。香港経由でロンドンまで電信が開通する。

72年

1月 日本が領事館を開設。

73年 日本の岩倉使節団が米欧遍歴の帰路に上海に立ち寄り、市内を見学。

74年

5月 日本から人力車(東洋車)300台が輸入され営業開始。

75年

2月 三菱汽船がフランス租界で開業。2年後には三井洋行(三井物産)が福州路に支店を開設。

76年

7月 上海—呉淞間に最初の鉄道が開業。住民の反対運動が起こり、清朝政府が買い上げて撤去。

81年

上海—天津間に電信線が開通。

82年

2月 大北電話公司が中国最初の電話交換所を設立。

7月 イギリス資本の電気会社、上海電光公司が発電を開始。大馬路、黄浦公園などに電灯が点灯。

83年

5月 イギリス資本の水道会社が公共租界と虹口地区に給水を開始。

84年

8月 清朝政府がフランスに宣戦布告(清仏戦争)。フランス租界の管轄をロシア領事が代行。

85年

日本郵船、三井洋行が支店を開設。

90年

6月 最初の日本語新聞、『上海新報』(週刊)が創刊。1年で停刊。

8月 江南製造局で労働時間延長に反対して約2000人の労働者が上海最初のストライキを行う。

* 共同租界中心部の建築ラッシュが始まる。フランス租界には茶館、妓館、アヘン窟が集中する。中央区と西区(旧イギリス租界)では、バンド地区に各国の領事館や銀行、商館が並び、これに直角に交わる南京路には、ビック・フォーと呼ばれる百貨店が立ち並ぶ。

93年

5月 貿易金融を専門とする「横浜正金銀行」が上海に支店を開設。

94年

3月 朝鮮開化党の指導者金玉均、市内で暗殺される。

8月 清朝が日本に宣戦布告。日清戦争が始まる。上海の領事団は中立を宣言。

1896年

1月 康有為が主催する上海強学会が発足。維新派の政治団体として活動するが3週間で清朝政府により閉鎖。
96年 露清銀行が上海に出店。ロシア帝国の中国(清王朝)における権益を代表するために設立されたフランスの銀行。
下関条約の賠償金を払うために清国が借款を募集した際、それを露仏銀行団が引受けた。その後香港のユダヤ資本が上海に向かって全面的に移転。

97年

5月 中国最初の民間銀行、「中国通商銀行」が開業する。

1898年

6月 北京の清朝政府、変法維新の詔勅を発布。「戊戌変法」と呼ばれる。3ヶ月後に西太后がクーデターを起こし、皇帝を幽閉。

7月 フランスの道路建設に反対する住民のデモにフランス軍水兵が発砲。17名の死者が出る。清朝政府はこれを罰せず。

8月 上海—呉淞間に鉄道が開通。

20世紀

00年

9月 華北で義和団の反乱が起こる。列強は8カ国連合軍を形成。

00年 上海の万国商団、海関隊を組織。日本人も加入。

01年 上海に初めて自動車が登場。香港からフォード車を2台搬入する。

1902年

4月 上海で中国教育会が成立。蔡元培、章炳麟、蒋智由らが発起人、蔡元培が会長をつとめる。200名余りの学生を集め愛国学社を設立。

1903年

4月 ロシア軍が東北三省へ侵入。これに抗議して愛国学社の師弟96名が「拒俄義勇軍」を組織。

6月 鄒容、章炳麟ら、革命を鼓吹する文章を発表し逮捕される。鄒容は1905年に獄死。

04年

2月 日露戦争が開始。上海道台は上海を中立区とすることを宣言。

11月 浙江省出身者を中心に光復会が結成される。会長は蔡元培、副会長は陶成章。蔡元培は秋瑾の入会を認めなかったという。

1905年

8月 中国革命同盟会(孫文)が日本東京で成立し、蔡元培が上海分会会長となる。アメリカの中国人移民制限法に抗議してアメリカ製品ボイコット運動を展開。

11月 上海・横浜・米国間の海底ケーブルが開通。

12月 「会審公廨事件」発生。イギリス副領事兼陪審官のトィーマンの横暴への抗議運動に対し警官が発砲。死者11人を出す。

05年 北四川路方面の開発が進む。虹口公園が北四川路奥に完成。

06年 パレスホテルが落成。

上海1906
               1906年の上海 

1907年

1月 『中国女報』(月刊)が創刊。秋瑾が主筆を務める。秋瑾は「光復軍」の組織と武装蜂起の準備を進めたが、7月に紹興で逮捕、処刑された。遺句「秋風秋雨、人を愁殺す」

4月 『神州日報』が創刊。革命派の主張を展開。

6月 上海城内の阿片館が政府の禁令に従って一斉に営業停止。各国領事も公共租界内の阿片館を段階的に閉鎖することを決定。
07年(明治40年) 虹口の入り口のガーデンブリッジが鉄骨橋になる。橋の北側にはロシア領事館とアスターハウス・ホテルが並ぶ。 

1908年

路面電車が公共租界、フランス租界で営業開始。最初の鉄筋コンクリート建築。電話の通話業務を開始。上海—南京間に鉄道が開通。
9月 タクシー(出租汽車)の営業が始まる。上海最初の映画館(虹口影戯院)が落成。東本願寺が建立。

1909年 

10月 革命派の文学団体「南社」が結成される。翌年には革命派の新聞『民立報』(日刊)が創刊。宋教仁らが筆を振るう。

1911年
辛亥革命

1月 黄浦江に浦東とを結ぶ官営フェリーの運航が始まる。

1月 断髪会が挙行され、1,000人余りが弁髪を切る。

2月 フランス人ファロンの操縦する飛行機が初めて上海の空を飛ぶ。

7月 中国革命同盟会の中部総会が上海に成立。

8月 江亢が社会主義研究会を組織。

10月 武昌で武装蜂起に成功。11回目の蜂起となる。その後全国に蜂起が拡大。24省中15省が清からの独立を宣言。辛亥革命が勃発。

10月 日本の内外棉株式会社が最初の工場を開設。

11月03日 上海でも革命軍が武装蜂起。閘北を制圧後、城内に侵攻し警察を占拠。翌朝までに上海の華界を支配下に置く。

11月03日 革命軍、滬軍都督府を開く。陳基美が滬軍都督に就任。

11月12日 工部局(列強機関)が会審公廨を管理することを宣言。清朝政府は租界内の司法権を失う。

11月 中国革命同盟会の会員だった北一輝が上海に渡る。

12月25日 孫文が上海に到着。自宅に同盟会の幹部を召集し臨時政府方案を策定。

孫文は蜂起を扇動して、敗れると海外亡命。そのたびに華僑から資金を獲得し再起する。このため「孫のホラ吹き」(孫大砲)とあだ名される。 

1912年

1月1日 南京で中華民国臨時政府が成立。孫文が臨時大総統に就任。

1月14日 光復会の領袖、陶成章が暗殺される。陳其美が蒋介石に暗殺を指示したとされる。

2月12日 北京で清帝(宣統帝)が退位。清朝が滅亡。上海は引き続き北京政府の支配下に置かれる。
3月 孫文、皇帝の退位を実現させた北京側の代表、袁世凱へ大総統の座を譲る。

3月20日 上海の革命派指導者の宋教仁が暗殺される。宋教仁は同盟会の領袖の一人で、新政府の内閣総理の有力候補者だった。追悼会の参列者は3万人にのぼる。

5月29日 徐企文に率いられた中華民国工党の武装部隊がを襲うが失敗に終わる。

7月18日 陳其美が上海独立を宣言。討袁軍が南市、龍華一帯を制圧後、江南製造総局を攻撃するが失敗。陳其美は租界に逃げ込み、日本に亡命。

11月 梅蘭芳が初めて上海で公演。上海中の評判となる。

1914年

4月 劉師培、無政府共産主義同志会を結成。

8月 第一次世界大戦勃発。中国政府は中立を宣言。

1915年

3月 日本が「21ヶ条要求」を強要。袁世凱はこれを受諾。日本に抗議する国民大会が開かれ3万人が参加。上海の埠頭労働者は日本郵船の仕事を拒否。

9月15日 陳独秀ら、『新青年』(原名は『青年雑誌』)を創刊。「文学革命」を牽引する。

10.29 陳其美が密かに日本から帰国。フランス租界に中華革命党の組織総機関部を設ける。

11.10 上海鎮守の鄭汝成、中華革命党員に暗殺される。

12. 5 陳其美率いる中華革命党が武装蜂起するが、失敗に終わる。

12.12 袁世凱が北京で皇帝即位を宣布。孫文は「討袁宣言」を発表。

15年 栄宗敬、栄徳生兄弟が申新紡績公司を設立。最大の民族資本の紡績会社となる。

1916年

5. 孫文が日本から帰国し、上海(フランス租界)で「第二次討袁宣言」を発表。

5.18 陳其美が暗殺される。北京政府の弾圧のため上海での活動は困難となる。

6. 7 北京で袁世凱が死去。黎元洪が大総統に就任。各地に軍閥が割拠する状態となる。

1917年

1. 『新青年』が胡適の「文学改良芻義」を発表。「文学革命」の嚆矢。『新青年』の編集部は陳独秀の北京大学文化学長就任にともない北京に移ったが、印刷発行は上海で行われた。

7. 3 孫文、章炳麟、唐紹儀らが協議。上海から広州へ南下し、護法運動を展開することを決定。

11月 ロシア革命が成立。

内山完造が四川路魏盛里に内山書店を開店

1918年

6.26 孫文が上海に戻る。

7.16 日本水兵の暴力沙汰に端を発し、日本人居留民が中国人警官と衝突、日本人2人が死亡、中国人警官4人が負傷。日本居留民団は日本総領事に日本人警官の配備強化をもとめる。

1919年

3.17 フランスへの勤工倹学留学生の第一陣89人が船で出発。毛沢東が胡南出身学生の見送りのために初めて上海に来る。

4.11 大韓民国臨時政府がフランス租界に成立。「三一独立運動」後に上海に亡命した29人が臨時議会と臨時政府の樹立を宣言。

5. 7 北京で「五四運動」が発生。学生の愛国運動を支援する集会に2万人が参加。商店が日本製品ボイコット運動を始め(罷市)、学生が授業を放棄して反日の宣伝活動を展開(罷課)。

6. 5 上海の労働者が北洋政府の学生弾圧に抗議してストライキに入る(罷工)。「罷市」「罷課」「罷工」の「三罷」闘争が展開される。

6.16 全国21地区の学生代表50数人が上海に集まり全国学生連合会が成立。

7. 1 ベルサイユ条約に中国政府代表が署名。市民約11万人が抗議大会を開く。

9.  『新青年』が「マルクス主義専号」を出す。

10.10 孫文、中華革命党を改組し中国国民党とする。

1920年

1.  公共租界の中国人商店の組織、上海各路商界連合会が参政権を要求して納税拒否。

4.  コミンテルンの派遣したヴォイチンスキー(維金斯基)が上海に入る。中俄通信社の看板を掲げ、北京から移転した陳独秀と会見するなど活動を開始。

5. 5 毛沢東が二度目の上海来訪。約二ヶ月滞在。

8.  上海共産主義小組が成立。本部を陳独秀の家に置く。『新青年』の編集部も兼ねる。

8.22 上海社会主義青年団が成立。

8.  『共産党宣言』中国語版が新青年出版社から出版。陳望道が日本語版から翻訳。

9.「新青年」、上海共産主義小組の機関誌となる。

11.21 上海機器工会が成立。上海共産主義小組の指導の下に組織された最初の労働組合。

* 日本人の大量進出が始まる。共同租界の北区(虹口地区)と東区(旧アメリカ租界)は、ほとんどが日本人に占められた。

Shanghai1920s
       1920年代の上海

1921年

1.  茅盾が『小説月報』の編集主任となり、「改革宣言」を発表。

3.30 芥川龍之介が大阪朝日新聞の特派員として上海に来訪し、5月17日まで市内各所を遊歴。

7.23 中国共産党第一回全国代表大会(~30日)。会場は李漢俊の家。

8.11 中国労働組合書記部が成立。中国共産党が組織した労働運動の指導機関。

12.13 『婦女声』(半月刊)を上海中華女界連合会が創刊。共産党の女性向け雑誌。

1922年

2.  平民女校が設立される。共産党の女性幹部養成のための学校。校長は李達。陳独秀、陳望道、茅盾などが教師をつとめる。年末には閉校。

7.16 中国共産党第二回全国代表大会(~23日)。会場は李達の家

8.13 上海最初のバスの運行が始まる。

8.23 李大創、孫文宅を訪れ会談。共産党員として初めて国民党に加入(二重党籍)。

10.23 上海大学が成立。共産党の運営による大学。于右仁が校長、履中夏が校務長、瞿秋白が教務長を務める。
* 上海工部局交響楽団(Shanghai Municipal Orchestra)が発足する。メンバーは租界に住む外国人とマニラからの呼び寄せ。

1923年

1.23 上海で中国最初のラジオ放送。3ヶ月で停業。

1.26 孫文とソ連大使ヨッフェが孫文宅で会見。「孫文・ヨッフェ共同宣言」を発表。

10.20 『中国青年』(週刊)が創刊。中国社会主義青年団の機関誌。履中夏、@代英などが編集。

11. 1 上海書店が開業。中国共産党の出版機構。

*  日本郵船が上海—長崎間の定期運航を開始。最強速力21ノットの快速客船長崎丸・上海丸が投入される。

* 芥川龍之介、毎日新聞記者として上海に渡る。村松梢風が2ヶ月にわたり上海に滞在。翌年、『魔都』を発表。

1924年

1  国民党が国共合作を決定。

6 毛沢東が上海での生活を始める。

9  江浙戦争勃発。斉燮元・孫伝芳軍が上海に進駐。

12  旧ロシア領事館にソ連領事館が開設される。
* 第5回コミンテルン大会。地域別書記局としてコミンテルン東方部が設定される。近東・中東・極東に分かれる。極東部がヴォイチンスキーの任務を引き継ぐ。

1925年
5.30事件

1.11 中国共産党第4回全国代表大会(~22日)。

2. 9 日本の内外棉工場で争議が発生。現場監督の暴力に抗議して9千人の労働者がストライキに突入。他の日系の21工場に波及し、約4万人が参加。工場側が要求の一部を受け入れて終結(~31日)。

3.12 孫文が北京の停戦会議に出席中に急死。4.12の追悼大会に10万人が参加。

5.15 内外棉工場で警備員の発砲により労働者代表の顧正紅が死亡、10数人が負傷。

5.30 「五・三〇事件」発生。公共租界各所で反日の宣伝活動を行った学生100人余りが逮捕される。

5.30 学生逮捕に抗議して押しかけた学生、市民に警官が発砲、13人が死亡、多数が負傷。

5.31 抗議運動の中で上海総工会が成立。執行委員長李立三の指揮の下に全市20万人の労働者のストライキを行う。

6. 4 中国共産党が『熱血日報』を発行。瞿秋白が編集を担当。鄭振鐸、葉聖陶、胡愈之などは『公理日報』を発行し、反帝闘争を呼びかける。

6.12 五・三〇死難烈士追悼大会に20万人が参加。

6.22 奉天軍が上海に進駐。戒厳令を敷き、集会、デモを禁止し、総工会などを封鎖。

7.  広州に国民政府が成立。

10.16 奉天軍が撤退し、孫伝芳軍が上海に進駐。戒厳令が解かれる。

1926年

3月 北京で「三・一八事件」が発生。

3.  金子光晴が初めて上海に来る。

10.24 上海第一次武装蜂起が失敗に終わる。

11.  南国電影劇社がソ連映画『戦艦ポチョムキン』の試写会を開催。ソ連映画が初めて紹介される。

1927年
蒋介石のクーデター

1. 1 公共租界の会審公廨の閉鎖が決定。上海公共租界臨時法院が成立
2月10日 周建人(魯迅)が上海に辿り着き、虹口地区に居を構える。

2.19 上海の労働者がゼネストに突入。ついで第二次武装蜂起を決行するが、失敗に終わる。

3.21 第三次武装蜂起。激闘の末に孫伝芳軍を駆逐、白崇禧率いる北伐軍を迎え入れ、上海臨時特別市政府を樹立。

4.12 蒋介石が「四・一二クーデター」を発動、各所の総工会、工人糾察隊の拠点を襲撃して労働者の武装を解除する。

社会主義的労働運動の台頭を懸念した浙江財閥が、蒋介石と提携し「上海クーデター」を決行したとされる。

4.13 工人糾察隊を中心とするデモ隊に蒋介石軍が発砲、多数の死傷者が出る。

4.18 蒋介石が南京に国民政府を樹立。以後、共産党とその支持者に対する弾圧(清党)を行う。諸外国や資本家、青幇の首領・杜月笙の援助を受けながら、共産党員300人以上を処刑する

4月 茅盾が虹口に隠れ住み、中編小説『幻滅』を書く。その後葉聖陶も虹口に移ってくる。

7.07 上海、中華民国(北京政府)の特別市となる。 人口は360万人に達する。工部局職員は7千名、租界警察も5千人に達する。日本人数は2万6千人に達し、外国人中最多となる。虹口(ホンキュウ)が最大の拠点として日本人街化する。

10. 5 魯迅が初めて内山書店を訪れる。

10.24 共産党機関誌として「ボルシェビキ」が創刊される。編集委員会主任は瞿秋白。32年まで存続する。

12.01 蒋介石と宋美麗が結婚。マジェスティックホテル(大華飯店)で披露宴。

当時下野していた蒋介石を支援するために、上海で秘密結社「中央倶楽部」(Central Club)が結成される。陳果夫、陳立夫兄弟が指導。のちにCC団と呼ばれるようになる。


1928年

4.  横光利一が上海を訪問。帰国後、長編小説『上海』を執筆。

5. 3 「済南事件」が発生。日本軍が山東省済南を占領。これに抗議して学生、市民、労働者が反日運動を展開。

5.22 約200人の日本軍兵士が在留日本人の保護を理由に虹口を武装行進。

5.30 「五・三〇運動」三周年を記念して南京路で約1万人の反日デモが行われる。
6月 中華民国の首都が北京市から南京市に移される。上海が事実上の首都となる。

8.  中国共産党中央政治局、商店を装って開設。周恩来が執務する。1931まで存続。

11月  尾崎秀実が大阪朝日新聞上海支局に着任。

尾崎、スメドレー、ゾルゲ関係は「2018年07月23日  尾崎秀実の上海」を参照されたい。

* 中国人納税者会の運動の結果、参事会に中国人枠(定員9名中3名)が認められる。租界税収の55パーセントは中国人によるものであった。また共同租界内とフランス租界内の公園が中国人にも開放される。

1929年

4.28 国民党政府、上海総商会を閉鎖。新たに上海市特別総商会を作る。のちに上海市商会と改称。

7. 8 上海—南京の航空路線が運行開始。中国最初の航空路線。

7月 蒋介石政権、租界の東北部に新しい市街地の建設を計画。「大上海都市計画」と呼ばれる。

8.24 彭湃が上海市内で逮捕される。30日に処刑。

1930年

2.16 魯迅、馮雪峰、田漢、夏衍、鄭伯奇、蒋光慈など12人が左翼作家連盟の準備委員会を立ち上げ。

3. 2 中国左翼作家連盟(略称:左連)が中華芸術大学で成立大会を開く。

5. 6 @代英が上海市内で逮捕される。翌年に処刑。

7. 1 上海特別市が直轄市となり上海市に改称。

上海1930
            上海 1930年

10. 4 魯迅と内山完造、世界版画展覧会を開催。

10. 9 国産品ファッションショーがマジェスティックホテルで開かれる。

10.  中国左翼文化界総同盟(略称:文総)が成立。総書記は潘漢年。

11. 8 「日支闘争同盟」が市内の建物に反戦スローガンを書く。「日支闘争同盟」は日本人記者、学生、中国人同志からなる反戦組織。

* 青幇(チンバン)、杜月笙の下で最盛期を迎える。杜月笙は「夜の帝王」と呼ばれる。

1931年

1.17 左連のメンバー36人が逮捕される。その内の24人が処刑される。

1.  鹿地亘が剣劇団にまぎれこんで上海に渡る。

6.  瞿秋白が上海市内に潜入。

6月15日 ヌーラン(牛蘭)事件が発生。プロフィンテルンの上海支部のイレール・ヌーランが共同租界警察により逮捕される。このあとコミンテルン極東部のアジトが摘発される。極東部は東方部の一部を形成し、30年にイルクーツクから移設された。ゾルゲはこれらとの接触を避けていたと言う。

8.17 @寅達が上海市内で逮捕され、処刑される。@寅達は中国国民党臨時行動委員会(別称:第三党)の領袖であった。

9.18 満州事変が勃発。

9.20 湖風書局が開業。左連の雑誌を刊行。

9.22 5千人参加の反日市民大会、「上海抗日救国連合会」の結成を宣言。日本軍の駆逐と占領地の回復、救国義勇軍の組織、対日経済断絶を決議する。

9.24 3万人の港湾労働者が反日ストライキに突入。約10万人の学生が授業をボイコットして反日運動を展開。上海全市で反日・抗日運動が展開される。

9.26 800の団体の20万人が抗日救国大会を開く。郵便、水道、電気、紡績、皮革など約100の労働組合がストライキに入る。

10.13 上海抗日救国連合会、日本および日本人との関係断絶を決議。日貨検査隊が組織され、日貨を扱った中国商人は容赦なく処罰される。

10月 『支那小説集阿Q正伝』が日本で出版される。

10.27 南京、広州両国民政府が上海で「南北和平統一会議」を開催。

12. 6 北上して抗日軍に加わる280人余りの青年が出発。1万人が見送る。

* ニム・ウェールズ(寧謨・韋爾斯 Nym Wales)が上海に来る。ニム・ウェールズの本名はヘレン・フォスター・スノーでエドガー・スノーの妻。上海でジャーナリストとして活動中、招請を受け37年に延安入りした。

1932年

1. 1 蒋介石と汪精衛の合議により新国民政府が成立。1月5日に広州政府を解消。

第一次上海事変

1.18 日蓮宗(妙法寺)の托鉢寒行の僧侶が楊樹浦で中国人に襲撃され、1人が死亡、2人が重傷を負う。この事件をきっかけに日中両軍が臨戦態勢に入る。

上海公使館附陸軍武官補田中隆吉の証言: 板垣大佐に列国の注意を逸らすため上海で事件を起こすよう依頼された。これに従って自分が中国人を買収し僧侶を襲わせた。

1.22 日本は巡洋艦2隻、空母1隻、駆逐艦12隻、925名の陸戦隊員を上海に派遣。駐留部隊1千に加え増援部隊1700名を上陸させる。

1.28 第一次上海事変が勃発。日本海軍陸戦隊、虹口から北四川路に進出し、閘北一帯で19路軍と戦火を交える。市民の支援を受けた第78師が、国民政府の戦闘回避の指令を無視して抗戦。市街戦が始まる。

1.31 日本軍は、巡洋艦4隻、駆逐艦4隻、航空母艦2隻、陸戦隊約7000人を追加派遣。

2.02 予想外の苦戦に驚いた日本政府は、陸軍第9師団と混成第24旅団の派遣を決定。国民政府も第5軍(第87師、第88師など)を作戦に加える。

2.22 総攻撃が開始される。作戦は多大な犠牲者を出し難航。このため新たに上海派遣軍(第11師団、第14師団その他)が編成される。

3.01 満州国建国宣言。

3.02 日本軍増派を受けて、第十九路軍は後方に総退却、事実上の終戦。 日本人在留民自警団による暴行・虐殺が非難を浴びる。中国人難民が租界へ流入。路上には病死・凍死者が屍を晒す。

3.06 国民政府、停戦声明を発表。

3.24 上海市内のイギリス領事館で日中停戦談判が始まる。

3.  藍衣社が成立。正式名は中華民族復興社。ファシストの黒シャツに真似た青シャツを制服としたことから藍衣社と呼ばれる。

戴笠(たいりゅう)が中心となり、黄埔軍官学校出身者を組織化。蒋介石の親衛隊と位置づけられた。政治結社であるCC団とは異なり準軍事組織としての性格が強い。
在中ドイツ軍事顧問団団長のハンス・フォン・ゼークトの指導を受け、日本軍占領地の破壊ゲリラ活動、親日政府要人暗殺などの抗日テロ活動を行う。
南京に本部を置く。上海支部は南市、閘北、フランス租界、公共租界の四つの情報班と一つの行動班で構成された。

3.  丁玲、田漢ら、瞿秋白の立ち会いのもとに共産党に入党。

4.29 朝鮮「愛国団」の尹奉吉、虹口公園で挙行された天長節式典に爆弾を投擲。出席していた白川義則上海派遣軍司令官が死亡、第九師団長植田謙吉、日本公使重光葵などが重傷を負う。

5.05 英米仏の勧告のもと、上海停戦協定が調印される。日本軍の撤退および中国軍の駐兵制限(非武装地帯の設置)で合意。

7.17 共産党が反帝抗日大会を開く。参加者95人が逮捕される。

8.19 抗日映画『共赴国難』が公開される。

10.15 陳独秀が逮捕され、5年間にわたり勾留される。

12.17 中国民権保障同盟が発足。宋慶齢、蔡元培、楊杏仏などが発起人となる。

* 蒋介石は共産党への弾圧を強化。陳兄弟の率いる「特工総部」(特務工作総部)が先頭に立つ。

* パラマウント(百楽門舞庁)が開業。当時最も豪華なダンスホール。

1933年

2. 9 中国電影文化協会が成立。夏衍、田漢、洪深、鄭正秋、蔡楚生、孫瑜などが執行委員となる。

3. 6 魯迅と瞿秋白は共同作業を開始する。

3. 故宮の文物総計19557箱25万件が上海に運ばれ、フランス租界の某所に厳重に保管される。日本軍の手に渡るのを恐れて移送したもの。

5.14 左翼作家の丁玲が自宅から国民党特務機関に拉致される。南京に護送され、約3年間軟禁される。

5.  上海華商証券交易所が上海証券交易所を合併吸収し、極東最大の証券取引所となる。

6.18 中国民権保障同盟副会長の楊杏仏が国民党特務によって中央研究院前で暗殺される。

7.  何凝(瞿秋白の偽名)編の『魯迅雑感選集』が出版される。

8.  日本の上海海軍特別陸戦隊本部の建物が完成

33年 福建革命が起きる。第十九路軍の便衣隊は、中国共産党とともに上海で反蒋介石暴動を企画するが発覚。

1934年

1.15 張学良(当時上海在住)が談話を発表し、和平統一を主張。

2.19 国民党上海市党部が149種の新文芸と社会科学の書籍、76種の刊行物の出版・発行を禁止。

3.  電通影片公司が開設。左翼映画運動の拠点となる。

4. 1 上海に二階建てバスが初めて走る。

9.27 梅蘭芳、馬連良出演の歴史愛国劇『抗金兵』が初演。

11.13 申報館総支配人の史量才が国民党特務に暗殺される。史量才は「一・二八事変」では第十九路軍を積極的に支援し、その後も民権保証同盟の活動を支援していた。

11.30 魯迅が内山書店で初めて蕭軍、蕭紅(北東部出身の小説家夫婦)と会い、以後の生活を援助。蕭軍の中編小説『八月的郷村』と蕭紅の中編小説『生死場』の出版を実現する。

12. 1 パークホテルが落成。当時、上海で最も高い建物となる。ブロードウェイマンションが落成。外国人用のアパート兼ホテル。

12.05 ベーブ・ルース一行が来訪。中国チームと対戦し、22対1で大勝。

12.14 日本海軍陸戦隊2,500名が虹口の蘇州河両岸で実戦演習を強行。1ヶ月後には虹口、楊樹浦一帯で市街戦の演習を行う。

* 日本が全国的な凶作となる。

1935年

2.19 共産党上海中央局書記黄文傑をはじめ、田漢、陽翰笙など36人の共産党員が逮捕される。

5. 1 ラジオ放送が全国一斉に国語(北京語)になる。上海の各放送局も国語による放送を開始。

5.24 『風雲児女』(電通影片公司、監督:許広之)が公開。その主題歌『義勇軍行進曲』(作詞:田漢、作曲:聶耳)は広く歌われるようになり、新中国成立時に中華人民共和国国歌に制定された。

6.24 雑誌『新生』(週刊)が日本の天皇を侮辱する文章を載せたとして停刊処分を受け、総編集者兼発行人の杜重遠が懲役1年2ヶ月の判決を受ける。

8.  上海体育場が完成。その規模と施設は東アジアで一番といわれた。

11月9日 上海共同租界で、日本海軍陸戦隊の中山秀雄一等水兵が中国人により殺害される。第十九路軍の便衣隊による犯行とされる。事件後には、日本人が経営する商店が襲撃される。この後日本人居留者の暗殺事件が相次ぐ。

11.16 『大衆生活』(週刊)が創刊される。抗日統一戦線の主張を展開して読者を獲得し、毎期20万部発行という記録を作る。

12. 9 北京で抗日を要求する学生が弾圧される。上海でも各界に救国運動が広がる。

12.12 上海文化界の283人 が連名で「上海文化界救国運動宣言」を発表。

12.14 上海各大学学生救国連合会が成立。

21日 上海婦女救国会が成立。

12.23 復旦大学の学生約1,000名の請願団、首都南京に向かおうとする。上海北駅に押しかけ、列車が全線ストップ。さらに他の大学の約2,000名も加わる。

12.25 学生たちが列車に分乗して南京に向かうが、途中で阻止される。

12.27 上海文化界の約300人が集会を開き、上海文化界救国会が成立。

1936年

2.14 中国航空公司が上海—ハノイ間の航空路線を開設。中国最初の海外航空路線。広州経由でハノイに飛び、ハノイからフランス航空公司の欧州路線に接続。

2.17 国民党政府が「緊急治安法令」を公布。

3. 8 上海婦女救国会、上海女青年会など七つの団体が国際婦人デー拡大記念大会を開き、抗日救国を主張。

4. 22 張学良が西安から上海に来て潘漢年と会談。

4.  馮雪峰が解放区から上海に着き、地下の共産党組織との連絡を回復。

5. 5 映画スターの唐納と藍萍(江青)が結婚。他のスターたちと、合同結婚披露宴を行う。

5.31 全国各界救国連合会が結成される。華北、華中、華南と長江流域60数地区から救亡会の代表70数人が結集し、「抗日救国初歩政策」を策定。内戦を停止し一致団結して抗日にあたるよう主張。

5.  上海の文学界で「国防文学論争」が展開される

7.15 救国会の沈鈞儒、陶行知、章乃器、鄒韜奮の四人が抗日救国を要求する公開書簡を発表。

9.20 魯迅、茅盾、郭沫若、林語堂、包天笑、周痩鵑など21人が連名で「文芸界の団結と言論の自由のための宣言」を発表。抗日救国に向けて文芸界の統一戦線の成立を促す。

10.19 魯迅が自宅で死去。数万人が告別に訪れる。「民族魂」と書かれた錦の旗で覆われた棺が沿道を埋めた市民に見送られる。

11. 8 日本系の紡績工場で労働者が賃上げ、労働条件の改善などを要求して大規模なストライキを行う。日本海軍陸戦隊、工部局警察などが出動し、双方に負傷者 が出る。

11.28 紡績工場のストライキ、上海地方協会と総工会の調停により、工場側が労働者の要求をほぼ認めて妥結。

11.22 全国各界救国連合会の指導者、沈鈞儒、鄒韜奮、章乃器、李公樸、王造時、史良、沙千里が逮捕・投獄される(「七君子事件」)。翌年7月に釈放。

12.12 「西安事変」発生。

* エドガー・スノーの「中国の赤い星」が出版される。F.D.ルーズベルトは『赤い星』の愛読者だったが、当時のスターリニストからは批判の対象となった。

1937年

1. 1 上海—南京間に特急列車「首都特快」が運行。座席数378、時速80キロ。

6. 3 日独合作映画『新しき土地』が公開。日本軍の中国侵略を正当化している場面があると上海文化界が抗議し、上映中止となる。

7.07 盧溝橋事件が勃発。華北で全面戦争が始まる。上海各界抗敵後援会、中国婦女抗敵後援会、上海文化界救亡協会など各種の抗敵救亡団体が結成され、激しい抗日運動が展開される。

7.18 魯迅記念委員会が創設。宋慶齢、蔡元培、茅盾、許広平、スメドレー、内山完三、秋田雨雀など70数人が参加。

7月 虹口地区でふたたび緊張が高まり、数十万の市民が租界地区に逃れる。

8. 7 上海劇作家協会が完成した大型演劇『盧溝橋を守れ』が上演され、連日満員となる。

第二次上海事変

8.09 日本海軍陸戦隊の大山勇夫中尉らが虹橋飛行場でピストルを乱射。中国兵が反撃して射殺。この事件をきっかけに日中両軍間の緊張が高まり、双方が臨戦態勢に入る。

8.13 日本軍が閘北に侵攻し、中国軍が応戦。第二次上海事変が勃発。緒戦は数で勝る中国軍が優勢だったが、松井石根大将を司令官とする上海派遣軍が呉淞口などに上陸してから、戦況は日本側に傾く。

8.14 中国空軍機が誤って落とした爆弾が、共同租界中心部の繁華街で爆発。約二千人の死傷者がでる。

8月15日 蒋介石が陸海空の総司令官に就任。中国全国に総動員令が発せられる。

8.23 日本軍機の爆撃で市民173人が死亡、549人が負傷。

8.29 日本軍機が上海南駅を爆撃、市民約250人が死亡、500人余りが負傷。

8.24 『救亡日報』が創刊。郭沫若が社長。統一戦線的な編集委員会によって編集・発行され、11月22日まで上海での発行を続ける。

9. 7 宝山の中国軍守備隊が全滅。日本軍の上海包囲網が狭まる。

9. 9 蔡元培、宋慶齢、胡適など中国文化界の著名人が連名で世界各国の文化界に中国の抗戦に対する援助を呼びかける。

9.22 緑川英子が抗戦活動に参加し、日本のエスペランチストに反戦を訴える公開書簡を送る。

10.31 謝晋元率いる第85師団524連隊の「八百壮士」、倉庫に立てこもり、四昼夜にわたって日本軍の猛攻を撃退。その後撤退して租界に入る。

11.11 相次ぐ増派の末、日本軍が浦東を制圧。租界内に撤退した中国軍は工部局により武装解除される。南市守備軍が撤退。上海の華界が全て陥落し、租界が「孤島」となる。

11.21 租界内で中国人が行使していた行政権を代行することを日本が宣布。

11月 参謀本部第2部(情報部)に第8課(宣伝謀略課)を設置。影佐が初代課長に就任。民間人里見甫を指導し中国の地下組織・青幇(チンパン)や、紅幇(ホンパン)と連携し、アヘン売買を行う里見機関を設立。阿片権益による資金は関東軍へ流れたという。

12. 3 日本軍約6,000人が租界を示威行進。沿道から手榴弾が投げ込まれ、日本兵3人ほか市民数人が負傷。犯人は巡査に撃たれて死亡。

12. 5 日本が上海大道市政府設立。

12.13 2週間の攻防戦の末、国民政府の首都南京が陥落。蒋介石は南京を脱出し武漢に政府を樹立。

12.14 日本軍報道部が租界内の中国語新聞に対して検閲を実施することを宣布。これに抗議して『申報』『大公報』『時事新報』『国聞周報』などが自ら停刊。

12.  南京大虐殺事件が発生。日本軍が兵士、市民を殺戮する。

12月末 王克敏を首班とする南京臨時政府が樹立される。

1938年

1.25 『文匯報』(日刊)が創刊。抗日の姿勢を堅持し、39年5月10日まで発行を続ける。

1月 近衛内閣、「爾後国民政府を対手にせず」と声明。トラウトマン和平工作は流産。国民党、共産党系のテロ組織が上海市内での抗日テロ、漢奸狩りを一斉に開始。

CC団 陳其美の指導のもとに甥の陳果夫、陳立夫の兄弟が設立。国民党中央執行委員会付属の調査統計局の傘下に入ったことから「中統」の略称でも知られる。
藍衣社 ムソリーニの親衛隊に真似て藍色の中国服を制服としたことから俗称された。正式名称は中華民族復興社。後に軍事委員会調査統計局に属したこ とから「軍統」の名でも知られる。軍統の戴笠副局長が直接指導し、CC団とは異なり、独自のビジョンを持たないテロ組織である。
杜月笙ら青幇(ちんぱん)を引き入れて「蘇浙行動委員会」を組織、その下部に「忠義旧国軍」を置く。組織員数は1万人にのぼったとされる。知日、親日派の軍人・政治家をターゲットとするテロに集中。残虐な手口で恐れられた。

2.26 日系テロ集団黄道会、『社会晩報』社長の蔡鈞徒、滬江大学校長劉湛恩らを暗殺し、首を電柱に吊るす。

3. 1 エドガー・スノーの『Red Star Over China(中国の赤い星)』の中国語訳が書名を『西行漫記』として復社から出版。

3月 南京臨時政府に代わり、梁鴻志を首班とする維新政府が成立。国民の支持は皆無。

4.  日本軍による放送監督所の設置に反発して23の民間ラジオ局が登録を拒否し放送を停止する。

6.15 魯迅記念委員会編纂の『魯迅全集』全20巻が復社から出版。

7.07 盧溝橋事件1周年。上海各区の憲兵隊詰め所に手榴弾のプレゼント。

7月 満州国建国で暗躍した土肥原機関が上海の重光堂に居を構え、傀儡政権樹立に備え政治工作を開始。

9.30 藍衣社が唐紹儀を暗殺。唐紹儀は国民党の要人で、日本軍が傀儡政権に担ぎ出そうとしていた。

10.10 八路軍駐滬弁事処が『文献』(月刊)を創刊。主編は銭杏邨(阿英)。

10.19 ユダヤ難民援助委員会が成立。ナチスの迫害を逃れて上海に着いたユダヤ難民を受け入れる。

10 参謀本部ロシア課の小野寺信中佐が上海に「小野寺機関」を設立。独自に蒋介石との直接和平の可能性を探る。この時点で和平工作は土肥原機関の傀儡政権づくり、影佐らの汪兆銘擁立、小野寺機関という3つのオプションが並行していた。

11.20 汪精衛の密使と日本側代表今井武夫らが「重光堂会談」。カイライ政権の樹立をめぐり協議。2年以内の日本軍の撤兵を引き換えに様々な要求が突きつけられる。

11月 御前会議では「重光堂会談」とはまったく異なる方針「日支新関係調整方針」が定められる。①日本軍の駐屯、②中国人による中央政府の否認、③撤兵時期は明示しない

12.18 汪兆銘が国民政府から離反。重慶を脱出し空路ハノイに向かう。CC団幹部の周仏海、梅思平らが汪兆銘に従う。

12月 上海各界救亡協会が民衆慰労団を組織。その第一陣が皖南(安徽省南部)の新四軍の駐屯地に向けて出発。

* 蒋介石は軍事委員会調査統計局を改組し、CC団系の中央調査統計局(中統)と藍衣社系の軍事委員会弁公庁調査統計局(軍統)に分割する。

* ナチスに追われたユダヤ人難民が上海に大量流入。2万人に達する。

1939年

1. 4 『申報』が皖南の新四軍を紹介する記事を連載(~15日)。『大美晩報』特派員ジャック・ベルデンが提供したもの。

2月 国民政府の軍統幹部、丁黙邨(ていもくそん)と李士群が土肥原機関の晴気慶胤少佐に接触。和平救国のために重慶テロへの対策を進言。支援をもとめる。李士群は元共産党員。

2月10日 参謀本部の影佐軍務課長はただちに丁黙邨らの計画を承認。同時に汪兆銘擁立と土肥原機関の解体を指示。

3月 参謀本部の承認を受け特別工作がスタート。共同租界のイタリア警備区域に接する越界路区であるジェスフィールド路76号(極司非爾路76號)に本部を確保する。工部局の警官を引きぬき、チンピラをかき集め300名の部隊を確保。


   ジェスフィールド七六号跡 

4.15 ニム・ウェールズの「赤い中国の内側」が、『続西行漫記』として復社から出版される。

5.06 重慶を脱出してハノイに逃れていた汪精衛が日本船北光丸で上海に着く。

5.08 汪精衛と丁黙邨・李士群が会見。76号を汪政権の特務工作総司令部(特工総部)とすることで合意。丁黙邨が上海の国民党の懐柔、李士群がテロ組織の弾圧に当たる。

丁黙邨は中央執行委員・常務委員に任命される。「76号」は正式な政府機関となり、国民党中央委員会特務委員会特工総部と称する。

6.06 閣議で汪兆銘擁立工作が正式に承認される。これを機に小野寺機関は解体される。

8.22 影佐禎昭、支那派遣軍総司令部付となる。汪精衛政権の擁立に向け工作機関を組織する。本部を梅花堂に設けたので「梅機関」と呼ばれる。

8.28 汪兆銘が招集した国民党第6次全国国民代表大会が開催される。76号が会場に当てられた。

9. 5 汪精衛が国民党第6期1中全会を召集、国民党カイライ派の中央が成立。

10.19 抗日軍支援の活動を行った中国仏教会会長円瑛法師が、日本憲兵隊本部に連行される。

12.12 中国職業婦女倶楽部主席の茅麗瑛、「76号」の特務に暗殺される。

12.15 日本軍が租界への米の搬入を禁止。米の価格が高騰し、市内各所で米騒動が起きる。

12.23 丁黙邨、鄭蘋茹に誘われ、市内の毛皮店に入る。暗殺者に気づき防弾車で逃亡。これを機に丁黙邨は失脚。

12.30 汪精衛と「梅機関」との間で「日汪密約」が調印される。

1940年

2月 鄭蘋如、銃殺刑に処せられる。「顔は撃たないで」と懇願し、後頭部に銃弾を受けたという。

3.29 汪精衛政府と横浜正金銀行が4000万元の「政治借款契約書」を交わす。

3.30 汪兆銘新政権が南京で成立。重慶からの「遷都」を称する。

3月 「梅機関」が解散。影佐は汪政府の軍事最高顧問に就任する。

6.14 7人の外国人記者が汪精衛政府から国外退去を命ぜられる。

7.25 女性実業家方液仙が「76号」の特務に暗殺される。汪精衛政権成立時に実業部長への就任要請を拒絶したためとされる。

8. 2 上海白ロシア僑民委員会主席メツラー、日本軍特務機関により暗殺される。

8.14 日本軍と関係を深めていた張嘯林が暗殺される。

8.19 上海駐留イギリス陸軍の撤退が宣布される。

10.11 上海市長傅筱安が虹口施高塔路の自宅で暗殺される。

1941年

3.21 中国銀行職員宿舎が「76号」の特務に襲われ、約200人が連行される。重慶側特務のテロ活動の停止を釈放の条件とし、4月8日までに全員が釈放。

4.24 「八百壮士」の残軍の指揮官謝晋元が刺殺される。弔問者は約13万人にのぼる。

5.10 日本海軍陸戦隊、蘇州河の小型運搬船約250艘を沈める。抗日分子の捜索を理由とする。

6.17 工部局警察特別警視副総監赤木親之が重慶側の特務に狙撃され死亡

8.28 日本軍が租界の外周に鉄条網をめぐらし、中国人の夜間の虹口、楊樹浦への通行を禁止する。

11.28 アメリカ海兵隊が上海から撤退。

12. 8 太平洋戦争が勃発。日本軍は公共租界を占領し、市内各所に歩哨所を設ける。

12.15 許広平(魯迅夫人)が日本憲兵隊本部に連行される。何度も拷問を受けるが内山完造の尽力により3月1日に釈放。

1942年

1.  日本軍が公共租界のイギリス、アメリカの7つの公共事業関係の企業を接収。3月までに82の外資系企業と15の外資系銀行を接収・管理。永安、先施、新新、大新の四大デパートも日本の軍事管理下に置かれる。

6.  上海のすべての地区のラジオ所有者が登録を義務づけられる。

8.12 日本陸海軍防空司令部が灯火管制を敷き、広告や装飾用のネオンが消える。

9. 3 警務処に音楽検査科が開設され、ダンスホール、ナイトクラブなどで演奏される曲の検査を始める。アメリカ、イギリスの曲や「何日君再来」などが禁止される。

10.16 日本軍が「敵性国」居留民の娯楽施設への立ち入りを禁止する条例を発布。このため映画館、ダンスホール、ナイトクラブなどが次々と営業停止に追い込まれる。

11.  日本陸海軍司令部が「敵性国」居留民の短波ラジオ、カメラ、望遠鏡を没収。

1943年

1. 9 汪精衛政府がイギリス、アメリカ両国に宣戦布告し、日本と「日華共同宣言」を発表。

1.  汪精衛政府がイギリス、アメリカの映画の上映を禁止。

7.30 汪精衛政府が仏租界を接収。続いて 8月 1日に公共租界を接収。この時点で上海在留日本人は10万人に達する。

9.9 特工総部の権力を独占した李士群、反対派の手にかかり毒殺される。腐敗堕落した特工総部への怒りのためとされる。

1944年

2月 英中友好条約が締結。イギリスは中国に租界を「返還」する。

3. 3 日本陸海軍防空司令部が市内に戦時灯火管制を敷く。

6.12 米軍機が初めて上海上空に飛来。

6.  武田泰淳が上海に来て中日文化協会に着任。

11.10 汪精衛、銃創の悪化により日本の名古屋で病没。12日、陳公博が代理政府主席兼行政院院長に就任。

1945年

1.15 周仏海が上海市長兼警察局長に就任。

5.  李香蘭(山口淑子)のリサイタルが開かれる。

7.17 米軍機約60機が滬東を空襲。23,24日には約100機が市内を空襲。

8. 1 ソ連映画『スターリングラードの戦い』が公開される。

8.11 日本が降伏するとのニュースが伝わり、パークホテル【3-C3】の屋上に青天白日旗が翻る。

8.15 日本が無条件降伏。上海全市が歓喜に沸き返る。

8.18 米軍が上海に上陸。20日、米軍陸軍使節団が上海に到着。

9.初 湯恩伯率いる国民党政府軍第三方面軍が上海に入る。

9.12 日本の降伏調印式が行われる。14日から日本軍の武装解除が始まり、約15万の将兵が江湾と浦東の集中営に収容される。

* 工業消費電力はピーク時(36年)の4割に低下。中国人経営の工場の生産は事実上停止。

1946年

4.  中国共産党中央上海局が成立。劉暁が書記、劉長勝が副書記。

8.20 ミス上海のコンテストが開催される。

10. 2 ブロードウェイ・マンションが国防部に接収され、右翼団体励志社の上海本部となる。

1947年

1.  輸入品販売店が急増し、アメリカ商品が市場を独占。

2. 9 「国産品愛用・アメリカ商品規制運動」の大会に国民党特務が乱入し死者1名、負傷者数十名。

5.19 上海の14の大学の学生約7000人が「反内戦、反飢餓」の集会を開き、デモ行進を行う。

5.末 国民党が軍隊、警察を大量動員して市内の各大学を捜査し、多数の学生を逮捕。これに対して学生、教師が授業をボイコットし、市民の支援も得て抗議運動を展開。

7月 丁黙邨、死刑となる。

10月 川島芳子、国民党政府により処刑される。

1948年

1.末 申新棉紡績廠で7千人の労働者がストライキに入り、警官隊と衝突し、200人余りが逮捕される

8.  蒋経国が経済管制委員会の督導員として着任し経済管制を敷く。物価の凍結、隠匿物資の摘発、汚職官吏の処罰などの「打虎運動」を実行するが、11月に南京に召還。

12. 7 中央銀行に金銀への兌換を求める群衆が押しかけ大混乱となる。蒋介石は中央銀行の現金を台湾に移させる。

1949年

2.25 国民党の最新型巡洋艦重慶号が艦長以下574名の将兵ともに解放区へ亡命。

2月 各大学に「応変委員会」が作られ、糾察隊、儲糧隊、救護隊、宣伝隊が組織される。

4.14 上海市長呉国禎が台湾に逃亡。

4.22 人民解放軍が南京に入城。国民政府の機関と要員が上海に移る。淞滬警備司令部が上海が戦時状態に入ったことを宣布し、全面軍事管制を敷く。

5.12 陳毅率いる人民解放軍第三野戦軍が上海攻略作戦を開始。

5.27 人民解放軍が上海全市を「解放」し、上海市軍事管制委員会が成立。

5.28 上海市人民政府が成立。陳毅が市長に就任。

7. 6 百万人を超える兵士、市民が上海の「解放」を祝って市内を行進。

10.10 中華人民共和国が成立。外国資本は香港に撤収する。数10万人の資本家や秘密結社の構成員、文化人、技術者、熟練工が香港にうつる。「魔都上海」の終焉。

 
 

 

 

 

 

 

 

 

最初にお断りですが、たいへん読みにくい記事になってしまいました。
ウィキペディアの抜粋から初めて、最後はウィキペディアのほぼ全否定になってしまいました。
ただ、結果的には、世上流布された秋瑾像を見直すのには役立つだろうと思います。


上海の歴史を勉強していて、とんでもない人物に出くわした。

多分知らない私が世間知らずなのであろうが、勉強したことを書き出してみる。

彼女の名は秋瑾(チウ・チン)。今風に言えば武闘派女子である。山崎厚子は著書の表題を「秋瑾 火焔の女」としている。

懐に短剣、背にモーゼル銃、鹿毛の馬に跨(またが)って駆ける男装の麗人。秋瑾(しゅうきん)は、今もって、中国女性の胸に燦然(さんぜん)と輝く革命家である。

さすがにひどい。これではまるで満州の女馬賊だ。

まず有名な写真

秋瑾

写真館で撮らせたものだろうが、なかなかの美人で、お金ならいくらでもありそうな身なりだ。

当時の秋瑾は清服を嫌って和服を着用し、好んで短刀を身につけていた。(日本大百科全書)

それにしてもドスをこれみよがしにかざすとは相当に物騒な女性である。間違っても褥を共にしたくはない。

しかし、どうもこのオドロオドロしい写真だけでは、エキセントリックな面が誇張されてしまいそうだ。

もう1枚の写真がある。おそらく、平凡な若奥様の時代であろう。

秋瑾2
   互動百科からの転載

これを見ると多少おてんばではあるが、品行方正な若奥様が、北京での政治状況に心を動かし、革命に目覚め、変身を遂げていくというストーリーのほうがすっきりする。

毎度おなじみの年表形式で、資料を整理していくことにする。ウィキから始めて周辺資料でふくらませていくやり方もいつものとおり。

まずは人名録的なところから。

姓が秋で、名が瑾。元の名は秋閨瑾(けいきん)、競雄あるいは鑑湖女侠と号した。

瑾は玉(硬玉)の意味。余分なことだが「瑕瑾」(玉に瑕)ということばが日本で知られている。あの「瑾」である。(ただしこれは和製漢語)

 

1875年11月8日 福建省の厦門で生まれた。日本で言えば明治8年である。(77,78,79年の諸説)

本籍は浙江省の紹興府である。厦門は祖父の赴任先であり、これに一家が帯同したためである。

祖父・秋嘉禾は廈門府の長官であった。当時厦門はイギリスの実質的支配下にあり、横暴なイギリス人に苦汁をなめさせられたようである。

すでに幼少の頃より男勝りの気性は発揮されていたようで、乗馬や撃剣・走り幅跳び・走り高跳びなどで体を鍛えた。男装して町を闊歩したとの話もある。

ただこれらの逸話も、異端性を強調する結果になっている。むしろ強調すべきは、女性には不要とされていた学問や詩作を、それこそ「男勝り」の高度なレベルで習得していたことであろう。

1899年、24歳のときに父の勧めに従い結婚。北京に住み二人の子が生まれる。しかし結婚生活には満足できなかった。

このウィキの記載は、少し省略がある。

1894年、秋瑾の父は税務署長として湖南省に赴任した。赴任先の豪商の息子が秋瑾に一目惚れ、手練手管で両親を籠絡し、秋瑾はいやいや嫁ぐこととなった。これが99年のことになる。

互動百科には姑がいびったと書いてあるが、これは眉唾。上海から見れば湖南はど田舎、気性激しき秋瑾の事ゆえ、いやいや嫁入りした先の姑やしきたりなど心中見下していたに違いない。

この夫は買官に成功し、家族ともども北京に移住することになった。この時までに秋瑾は二人の娘を生んでいる。

世界大百科事典によれば

そのときの北京は義和団の運動が敗北し,ヨーロッパ列強に対してなすすべを失い、狼狽ただならぬ清朝政府の中央でしかなかった。

武田によれば、「居常(いつも)、即ち酒に逃る。しかして沈酣(酔っぱらって)もって往き、覚えず悲歌撃節、剣を払って起ちて舞い、気また壮んなること甚だし」という状態になってしまう。

これは明らかに病的な躁状態である。この結果、結婚状態は破綻した。直接には義和団の運動に感化されたと言われるが、家庭環境も悪化していただろう。

1904年、秋瑾は家族を置き、単身日本に留学することになる。日本では明治37年、日露戦争後の軍国主義高揚期である。それが彼女の躁状態に火に油を注ぐ結果となったことは想像に難くない。

どうも、このあたりウィキ(ということはおそらく武田泰淳)は書き過ぎのようである。

秋瑾が運動へ傾斜していくのは、フェミニズム運動を通じてのようである。

秋瑾は、女性を「三寸金蓮」の纏足から解放しようと「天足会」の運動に加わった。自らは背広・洋靴・帽子という姿の男装をしてみせた。

秋瑾3
      1904年始,秋瑾开始着男装

運動の中で京師大学堂の日本人教師と知り合い、その縁で日本留学を決意した。教師は実践女学校の校長である下田歌子に秋瑾を推薦した。

夫は二人の子供もあるので引き留めようとしたが、秋瑾は「子供を連れて留学する」と言いはった。夫は仕方なくそれを認め、息子を自分が引き取り娘を秋瑾に押し付けた。

6月28日、秋瑾はまだ三歳になっていない娘を抱いて、日本の客船に乗り、7月24日に東京に着いた。

先ず中国留学生会館の日本語講座に入り、翌05年8月、実践女学校の特別科に入学した。

ここで教育・工芸・看護学などを学んだが、何よりも下田歌子の「男女の学問の平等」という精神に最も強く感銘を受けたという。

なおウィキによると、

来日後は日本語を勉強するかたわら、麹町神楽坂の武術会にも通った。射撃を練習したほか、爆薬の製法まで学んでいる。

深夜まで読書と執筆にふけり、感極まると胸を打って痛哭するという日常を送った。

と、記載されている。「別の一面があったのか」とも思われるが、どうも他の資料も読み進めるうちに、いささか疑念の湧くところである。

したがって、最初に書いた次の一節はいずれ書き改めなければならないかとも思っている。

ここまでだけでも結構なエクセントリックぶりだが、その後はこれに民族主義の方向性が与えられていく。

浙江同郷会の週1回の会合には必ず出席した。横浜の洪門天地会(三合会)には来日直後に入会し「白扇」(軍師)になっている。

そして同郷志向に飽きたらない秋瑾は革命運動にまで首を突っ込んでいくようになる。

ここで、当時の中国の革命組織の流れを見ておく。これには2つの流れがあり、一つは05年8月に孫文らが東京で結成した「中国同盟会」、もう一つが上海の「光復会」であった。

「光復会」は浙江省の出身者を中心に組織され、秋瑾の郷里紹興府もこれに統合されていた。のちに「中国同盟会」に加わることになるが、当時は別組織である。

秋瑾はまず「光復会」の東京の責任者・陶成章に会い入会をもとめた。ウィキによれば、彼女の依頼は「執拗」だったらしい。

陶成章は根負けしたのであろう。紹介状を書くという形で、上海の蔡元培会長と紹興の指導者・徐錫麟へ下駄を預けた。

1905年2月、一時帰国した秋瑾は「光復会」との接触を図る。蔡元培は入会を認めなかったが、紹興の徐錫麟(しゃくりん)は入会を認めるに至る。

東京に戻った秋瑾は勇躍活動家の組織に乗り出した。

浙江の人間はそれまで団結心がないといわれていた。それを「光復会」に結集させたのは、強い説得力と彼女が培ってきた人的関係のなせるわざであろう。

また女子留学生を「共愛会」に組織し、自ら会長に収まった。留学生の組織で実績を上げた秋瑾は、孫文が率いる革命団体「中国同盟会」への加入を認められる。そして浙江省の責任者となった。1905年(明治38年)9月のことである。

そして11月2日、秋瑾の最初の見せ場がやってくる。

清国の要請を受けた日本政府が、清国留学生に対する取締規定を発した。これに反発した学生が授業のボイコット運動(同盟休校)をおこす。

強硬派学生(秋瑾を含む)はさらに同盟休校にとどまらず一斉退学と全員帰国を主張した。

中国留学生会館で浙江同郷会の集会が開かれた。一斉退学に反対する学生達との議論が白熱した。秋瑾は興奮し、いつも身に付けていた短刀を演台に突き刺し、彼らに「死刑」を宣告した。

その中には同じ紹興の出身、魯迅も含まれていた。

魯迅の弟である周作人は、その様子を著書『魯迅の故家』で次の様に書いている。(ウィキペディアより)

秋瑾が先頭になって全員帰国を主張した。年輩の留学生は、取締りという言葉は決してそう悪い意味でないことを知っていたから、賛成しない人が多かったが、この人たちは留学生会館で秋瑾に死刑を宣告された。魯迅や許寿裳もその中に入っていた。魯迅は彼女が一ふりの短刀をテーブルの上になげつけて、威嚇したことも目撃している

大見得を切った秋瑾は12月に故郷紹興に戻る。その時、「私は帰国後、革命に尽力し、皆様と中原で会うことを臨んでいる」と同級生に語ったという。

ウィキでは1906年の生活についての記載はない。

他資料での検索の結果は以下のごとくである。

1906年はじめ、紹興の「光復会」は彼女を受け容れた。彼女は徐锡麟の紹介により光復会に加入した。互動百科

崔淑芬によれば、

紹興に戻った秋瑾は明道女学校、浙江省の潯渓女学校の教員を歴任した。あわせて紹興で『中国時報』を発刊、女権、女子革命を主張した。

女性の自立手段として、習ったばかりの日本の看護学の教科書を中国語に翻訳した。(永田圭介

06年の夏になって、秋瑾は上海に出て『中国女報』を創刊した。

秋瑾らは上海に革命機関を设立し、「中国女報」を発行した。最初に提案したのが「婦人協会」創建の主張だった。彼女は近代女性の解放のために第一声のラッパを吹き鳴らした。-互動百科

したがってウィキで1907年とされている『中国女報』の記載はあやまちである。

崔淑芬は「中国女報」における秋瑾の主張を、秋瑾の活動の真髄として重視し、丁寧に紹介している。

まず発刊の辞から。

本報の発刊の目的は、女学を振興し、女性を解放するためであり、団体化するためである。

とし、「将来は中国の婦人協会もつくろう」と提起している。

次に「警告妹妹們」という文章。

多くの女同胞はまだ真っ暗地獄にいるようだ。一人の人間として志を持たなければならない。志を持っているなら、自立することができる。‥‥女子は教育を受けるべきだ。そうすれば家業が興隆、男子に敬重される。

また日本を例に上げ、

女子教育の発展と国家の発展との関係は切っても切れない関係にあり、その重要性を認識すべきだ

と強調した。

その年の冬、秋瑾は紹興に戻って大通学堂を指導することになる。

大通学堂はもともと徐锡麟、陶成章らが始めたもので、光復会の幹部、大衆を組織する革命の拠点となるものだった。

おそらく以下のウィキの記載は1906年の初頭のことであろう。

正月、紹興に光復会幹部の養成を目指す大通学堂が開かれた。

光復会の幹部は「会党」と呼ばれる秘密結社に二重加盟した。それは明確に革命を目指す政治結社だった。紹興においては竜華会(りゆうげかい)と呼ばれた。

そして以下の記載は06年後半の出来事だろうと思う。

秋瑾が大通学堂の代表となった。しかし秋瑾の目標は幹部の育成にとどまらなかった。

秋瑾はここを拠点として「体育会」を組織し、会党のメンバーや革命青年を集めて軍事訓練を行った。

また、浙江省各地の会党と連携して「光復軍」を結成し、武装蜂起に向けた準備を進めて行ったのである。

そして1907年、秋瑾の最後の半年が始まる。

ウィキによれば

5月 武装蜂起の計画が確定した。徐錫麟が安徽省安慶で武装蜂起。秋瑾がこれに呼応して浙江で蜂起するという筋書きだった。

7月6日、安慶で徐錫麟が行動を起こした。清朝政府の安徽巡撫を刺殺したものの、たちまち鎮圧・処刑されてしまう。

当局は秋瑾の浙江での蜂起計画も察知。紹興に押し寄せた。

7月13日、大通学堂の秋瑾は、短刀を抜くことも一発のピストルを撃つこともなく逮捕された。

そして2日後の15日、紹興市内で斬首された。享年31歳。辞世の辞は「秋風秋雨、人を愁殺す」

なお「6月5日」とあるのは旧暦表記である。

正直に言えば、秋瑾が武装蜂起をセッティングしたというウィキの記載は疑わしい。武装蜂起の覚悟はあったにせよ、具体的な決行の意図があったかどうかは疑問もある。

処刑の様子については永田圭介さんのエッセイがある。

7月14日、秋瑾は最初に知県(県知事)の尋問を受けた。このとき、「秋風秋雨人を愁殺す」の絶唱を書き遺した。

その後取り調べを拒否し、火煉瓦、火鎖などの虐殺的拷問を受けたが、「革命党員は死を恐れない。 殺したければ殺せ」と叫んだのみで、目を閉じ、歯を食いしばって遂に一言も吐かなかった。

官側は、衰弱死を恐れて拷問を打ちきり、贋造した供述書に力ずくで拇印を押させ、死刑宣告の体裁を作った。

7月15日、午前3時に監獄から曳き出された彼女は、県衙門で即刻死刑の宣告を受けた。知県は袒衣(斬首前に衣服を剥ぐこと)と梟首(さらし首)をせぬことを約束した。

秋瑾は足に鎖枷をつけられ、腕は背後に縛り上げられて刑場に向かった。極度の疲労でよろめく秋瑾を支えようとした護送兵に、彼女は一喝した。「自分で歩く!手出し無用」

処刑は公開で執行された。場所は市内繁華街の軒亭口である。

午前3時に山陰県監獄から曳き出された彼女は、県衙門で即刻死刑の宣告を受けたとき、動じる色もなく知県(県 知事)の李宗嶽に訣別の遺書を書かせよ、袒衣(斬首前に衣服を剥ぐこと)をするな、梟首(さらし首)をするな、と三つの要求をした。

知県は時間がかかる遺書を除き、袒衣と梟首をせぬことを約束した。


ウィキペディアの記事は、武田泰淳『秋風秋雨人を愁殺す・秋瑾女士伝』(1968年)を下敷きにしたものらしく、名文である。しかしその分彼女の異端性を強調する方向での脚色があるようだ。

調べていくうちに、どうも武田泰淳によって作られたイメージは実態とは相当かけ離れているのではないかと思うようになった。山崎厚子さんはその傾向をさらに強めている。

崔淑芬 秋瑾と日本 を読んでその疑念は確信に変わりつつある。

秋瑾は女盗賊のような野蛮な人間ではない。その戦闘性は高い知性と貶められた女性への深い共感に裏付けられている。

私はマヤコフスキーの詩の一節「議論はもうたくさんだ。同志モーゼルよ!」を想起する。

19世紀末から20世紀初頭における理性のあり方の一つの典型として、もう一度本当の秋瑾像を構築しなければならないのではないかと思う。(誰かさん、お願いします)


ソロスが「中国が危ない」としゃべって、それをみんなではやしているようだ。どうもみな軽佻浮薄でいけない。つい1,2年前まで「これからは中国が世界の王者だ」とか「中国脅威論」を騒いでいたのは誰か。

少し頭を冷やして考えてみよう。

中国が急成長を開始したのは1990年代の後半からだ。その理由は日本がガンガン資本を突っ込んだからだ。

だから中国は発展すればするほど「日本型」経済機構(日本にではない)に組み込まれる。それは対米輸出を中軸とする輸出志向型経済だ。したがってますますアメリカの政策に依存するようになる。

いわば「普通の国」になってしまっているわけで、世界の経済の動きから隔絶した「社会主義経済の優位性」などもはや存在していないのである。人並みに「なべ底不況」も味わなければならないのだ。

また、これから減少するであろう日本からの資本輸出の影響も深刻となる。コストアップや少子化の影響も急速に現れるだろう。

したがって2000年代のふた桁成長は今後は望めない。

という中長期的状況から見て、そろそろ成長率を下方修正しなければならない時期だった。その時にアクセルを踏んだのではクラッシュは必然である。

ふたつ目にはリーマン・ショック時の異常な公共投資だ。

深刻なリセッションを公共投資・内需の拡大で凌ぐというのは正しいやり方だ。日本のように全て国民に押し付けたのでは、景気後退は長期化せざるを得ない。

ただし、その目標はGDP成長率をゼロ、あるいはゼロに近いマイナスに調整することであったはずである。しかしまだ中国国民の爆買い需要は旺盛であるから、厳格なゼロではなくプラス数%乗せても持つかもしれない。

それでも今までの差額分はどこかで払わなければならない。要するにこの際の財政出動はハードランディングを避けるためのものであり、ランディングはしなければならないのである。

外貨が潤沢だから韓国のような事にはならないだろうと言われるが、外貨のほとんどは米国国債という形で、すなわち売り掛け金の形であるにすぎない。アメリカが返すと思いますか? 絶対に返しません。

欲しいのはそういう塩水ではなく真水(投資資金)だ。今までなら日本資本が頼みの綱だったが、日本はもう以前のようには貸せないし貸さないだろう。

だから、中国はインフラなどへの公共投資による景気の維持という方針から、ある程度のハードランディングは覚悟して、社会政策によって貧困者を救済し、公共事業は失業対策的な投資に的を絞るべきであろう。

それと感情的には煮えくりかえる思いであるにしても、日本に頭を下げる道を探らなくてはならないだろう。ずいぶんか細くなったといえども、頼りにできるカネの出所はそこしかない。

日本のバブル崩壊の時とはだいぶ状況が違う。まだ発展の伸びしろはある。4,5年のうちには経済は回復するだろう。金融界には相当の後遺症は残るであろうが。

一番心配なのは、それによって生じる社会不安だが、多分大したことはないだろう。たかだか10年ちょっと、世間がまだ「いい夢を見た」と笑って過ごせるくらいの日にちしか経っていないからだ。

最近の不破さんの話はまことにスリリングで、どう受け止めたらいいのか、戸惑いを感じてしまうほどである。

要するに、とにかく「伝統」と呼ばれるものからスターリン的要素を剔抉して、徹底的に浄化しようということに執念を燃やしている。その迫力はこれまでの「反スタもの」に比べて格段の違いがある。

本日の「本と私」という党外の人に向けた講演でも、その思いは一貫している。

その中で、「うーむ」とうなった箇所を上げておく。

1949年の11月、新中国の誕生直後に北京で開かれたアジア太平洋州労働組合会議で、劉少奇が武装闘争の大号令をかけたんです。
翌年には、いわゆる「50年問題」で、日本共産党への武装闘争方針の押し付けが始まりました。
私たちは、そこに劉少奇演説の流れを見ていたのですが、この本 の第1冊に劉少奇のスターリン宛の手紙(49年8月)があり、“労働組合会議で武装闘争を呼びかけるのは反対だ”と訴えていました。それをスターリンは押し切ったのです。

ここでこの本 と言っているのは、2007年に不破さんが北京に行ったとき、たまたま本屋で見つけたという「建国以来 劉少奇文稿」である。

毛沢東以前の中国共産党について勉強したが、“お殿様の言うことは何でも飲み込む”姿勢は、中国共産党の習い性となっている。清朝時代の“美風”をそのままに引きずっている。近代市民文化の未成熟がその背景にあるのだろう。

それがスターリン主義を増長させた。酷な言い方だが、結局のところその“美風”は、客観的に見れば“下からのスターリン主義”と批判されても仕方ない。

ただその組織が国を支配するようになってくると、そこから抜け出す自由はもはやない。“美風”は“悪風”となる。そして劉少奇自らがその犠牲となった。

“悪風”は、最後は自分たちで克服していくほかないのである。


どうも書いていて、我ながら隔靴掻痒の感がある。

中国の伝統として白髪三千丈的な表現がある。言葉が踊るのだ。

だから言葉と実際の感情の間には乖離が生じることがある。それがスターリン的な荒っぽい表現を加えたために、一層それが激しくなる。それを外部の人間が見ると、とくに日本人だと非常に激しく受け取ってしまう。

事実としては、陳独秀も瞿秋白も李立三も、悪しざまに罵られ、指導部のポストを追われた。しかし党には残り、何時の日か再起している。あの王明ですら、革命後は政府の要職を務めている。

だから、政権交代劇はひょっとするとコミンテルンの顔を立てるために行われたにすぎないのかもしれない。

ということは、コミンテルンの指令は一応は受け取られるが、意に沿わないものであればいずれは破棄するつもりだったかもしれない。ただやるのであれば本気でやらなければならない。「それが民主集中制というものだ」ということか。

劉少奇にもその傾向がうかがわれる。勤工検留学生上がりに特有の気質かもしれない。

そこへ行くと王明は結構本気だった。彼の讒言で多くの活動家幹部が粛清されたり、敵に売り渡されたりしている。康生はもっと本気(むしろ狂気というべきか)だった。浅間山荘の連合赤軍連中のように、言葉と行いの間に隙間がなかった。

結局、1週間ほどをかけて「毛沢東のライバルたち」の年表に没頭しました。
どうやら完成です。
以前ブログに連載した「毛沢東以前の中国共産党」は拡充されて、この年表に一本化されています。
中国共産党の人脈は次のように分類されると思います。
1.マルクス主義の紹介者たち
この人たちの多くは日本留学組で、日本語訳された文献を通じてマルクス主義を知り、それを中国に紹介しました。1915年から20年ころにかけての時代です。この人たちの中から中国共産党が結成されることになります。
2.五四運動の世代
北京で軍閥政府の対外追従に抗議する大運動がありました。この時、共産党に飛び込んだ北京大学の学生を中心とするエリート世代があります。中国共産党の最古参に属する人たちです。
3.湖南湖北の農民運動
湖南湖北は中国の中でも遅れた農村地帯で、その分農村運動は激しいものがありました。これを代表したのが毛沢東たちです。
この地域は同時に勤工検留学生を多く輩出しました。したがって出身地域、年代ともに両者は重なっています。
4.勤工検留学生のグループ
同じ国外留学でも日本に留学したエリート層ではなく、フランスで働きながら学ぶという経験を積んだ人たちです。学ぶと言っても条件は劣悪で、ストライキを起こして強制送還させられた人もいます。戦前の共産党の主軸をになった人の多くがこのグループです。
5.コミンテルン・グループ
1930年までは1~4のグループが運動を担っていましたが、一斉蜂起戦術の失敗の後、コミンテルンの指示によって指導部メンバーは一新されます。
新たなメンバーはすべてモスクワ帰りの、ほとんど闘争経験を持たない新人でした。古手の活動家は粛清されるか、山岳ゲリラのもとに送り込まれるかしました。
ところが、彼らにとっては不幸なことに、その後1年も経たないうち、弾圧で上海での活動が不可能になってしまいました。こうして彼ら自身が解放区に入らざるを得なくなり、厳しい戦いの中で古参幹部の方針に従わざるを得なくなります。
6.その他のグループ
北京大学を中心に知識人のグループがありましたが、張作霖によって集団処刑されてしまいます。
上海、武漢、広州にはそれぞれ強大な労働者グループが形成され、労働者党員の幹部も生まれますが、その後の弾圧の中で消滅の運命をたどります。
国民党軍に潜入した共産党員も一連の武装蜂起に参加していますが、共産党の組織活動とは性格が異なるようです。
中国共産党にとっては、6大会というのが非常に大事な会議で、その後、はじめて諸活動の全面展開と党独自の組織づくりが始まります。その再建過程で左翼文化戦線も活発になります。党の活動が厳しくなったあとも合法面での活動がギリギリ維持されていました。彼らとスメドレーらは連携しながら党のパイプ役を勤めますが、ユージン・デブス事件で一網打尽にされてしまいます。
様々な理由から多くの党幹部がモスクワに在留していましたが、その殆どはスターリンの大粛清の犠牲となってしまいました。

ということで、それぞれのグループからこれはと思う名前を上げてみると、
1.陳独秀(徳田球一みたいな人)
2.李大釗(野坂参三みたいな人)
3.
張国燾(志賀義雄みたいな人)
4.
蔡和森 27年7月に陳独秀とともに指導部を降りている。その後モスクワでの療養生活に入る。
5.
瞿秋白(不破哲三みたいな人)
6.李立三 28年の6会大会(モスクワで開かれた再建大会)のあと党を再建
7.周恩来 中国のミコヤン。絶対にトップには立たない。
というわけで、並べてみると李立三が最強の指導者ということになります。ただ6大会では、本来は李立三ではなく蔡和森が就任するはずだったかもしれません。
ソ連=コミンテルンは一方で国民党との無原則的妥協を強いつつ、他方で極左冒険主義を煽るという犯罪的役割で一貫しています。李立三に無謀な蜂起を強いたのも当時のコミンテルンの極左方針そのものです。
そして最後には党指導部を事実上解体して、粛清屋の若者を送り込むという形で、中国共産党に引導を渡す結果となりました。
こういう経過を身をもって体験した毛沢東が、後年になって日本国民の闘争に野蛮な干渉をしたのは一体どうしてでしょうか。


とにかくまことに内容充実、脂っこい本である。AALAの全国総会の後、大塚駅前のブックオフで410円で買ったが、その10倍の値打ちはある。
まずこの本の骨組みを紹介しておこう。
この本の奥付は以下のようである。

岩波新書(新赤版)1251
シリーズ 中国近現代史 ③ 「革命とナショナリズム 1925-1945」
第1刷発行 2010年
著者は 石川禎浩(よしひろ)さん

1963年(昭和38年)生まれというから、私より二回り近く下の52歳だ。
京都大学の文学部卒業で、現在は人文研の准教授という肩書(准教授って知らないが、助教授より下か? もうポツダム教授で終わるかも知れない)

その博識ぶりと、見識の確かさには舌を巻く。私もいささか勉強したつもりだったが、共産党側と国民党側の見解の激しい相違の中で、情報の取捨選択に右往左往させられてきたので、このことには感服する。「実事求是」に対するひとつの拠り所を得た思いである。

蒋介石を回転軸としつつ、その右回りスピンよりは少し左側に中国民衆運動の重心を据えることで、20年代から30年代への確かな前進を確信していく作業が必要なのだろうと思う。
それによって共産党の運動を、毛沢東への流しこみでもなく、コミンテルンとスターリン主義の犠牲者としてペシミスティックに見るのでもない、積極的な視点が培われるのではないか。

私が毛沢東でない中国共産党の姿に興味を持ったきっかけは、映画監督の佐藤純彌さんの短いエッセイだった。上海のバンスに拠点を構え、巨大な生産都市にして歓楽都市の中で圧倒的な文化的影響力を発揮し続けた中国共産党のまばゆい姿が心に焼き付いている。その象徴が向警予だった。

結局、興味の持ち方がスケベェなんですね。

以下は岩波新書「シリーズ中国近現代史② 革命とナショナリズム」から編年風に抜書きしたものである。

いずれ「毛沢東以前の中国共産党」年表と合体するつもりだが、とりあえず掲載しておく。


2020年8月、西里竜夫「革命の上海でーある日本人中国共産党員の記録」日中出版 1977年からの情報を補充する。この本は昨日図書館で見つけた本だ。


西里は上海で東亜同文書院に学び、学友とともに中国共産党に集団入党した活動家である。西里は同志の名として白井行幸、河村好雄、新庄憲好、水野成、中西功、浜津良勝の名を挙げている。






1919年


5月 屈辱的な山東条約に抗議し、5・4運動が全国で盛り上がる


10月 孫文、中華革命党の生き残り分子を中心に中国国民党(以下国民党)を再結成する。本部は上海に置かれる。ロシア革命の影響を受け、「連ソ容共・労農扶助」を掲げる。


1921年


中国共産党が上海で第1回党大会を開催。この時の党員数は全国で50名余。


1922年


第一次奉直戦争が発生。奉は奉天派、直は直隷派の略。奉天派は満州軍閥の張作霖が率い、日本軍のカイライであった。北京を支配する張作霖に対し直隷派が反乱を引き起こす。戦いは直隷派の勝利に終わり、張作霖は満州に撤退。呉佩孚が首班となり直隷派の政権が成立。


1923年


1月 孫文・ヨッフェ連合宣言が発表される。これによりソ連との連携方針が明らかになる。孫文は、「ソヴェート制度は中国には適さない」と留保。


この後、コミンテルン・ソ連から派遣されたマーリン、ボロジンらの助言を受け、党組織の改革「改進」が推進される。これまでの孫文専権党から、党大会を頂点とする近代政党に切り替わる。


3月 中国国民党、西南地方の軍閥を結集。広東で地方政権「大元帥府」を立ち上げる。


10月 北京の直隷派、「賄選」と呼ばれる議員買収で曹錕を大総統に選出する。直隷派は全国統一を目指し反対派(奉天派、安徽派)に圧力。


秋 国民党、党員の再登録を実施。広東省内の党員は3万から3千に減少する。


23年 孫文、ソ連に代表団を派遣。蒋介石も加わる。


蒋介石は日本に留学し陸軍で実習を積む。11年に帰国後は孫文の革命運動に加わり、軍事面で支え続けた。当初は必ずしも反共ではなく、孫文の連ソ容共方針にも積極的に賛同していた(石川)


1924年


1月 国民党、第1回全国代表大会を開催。国共合作を容認。ただし共産党員は国民党への二重加盟を求められた(党内合作)。共産党員の多数がこれに反対するが、コミンテルンに押し切られる。この時点で共産党員は全国で約500人。


6.16 広州の東郊外に黄埔軍官学校が開設される。総理に孫文、校長(軍の最高指導者)に蒋介石、党代表に廖仲愷が就任。ソ連軍事顧問団の指導を受ける。


9月 第二次奉直戦争が始まる。広東政府も反直隷同盟に加わる。両軍合わせ30万の兵力が動員される。南下した張作霖の奉天軍と直隷軍が北京東方の山海関付近で激突。


9月 国民党が広州の武力統一に乗り出す。翌年までに広東省の統一を実現。


10月 直隷軍の馮(ふう)玉祥が奉天軍に寝返る。北京を制圧し曹?を監禁する(北京政変)。背後を衝かれた直隷軍は総崩れとなる。


馮玉祥、自軍を「国民軍」と改称。皇帝退位後も紫禁城に住んでいた溥儀を放逐する。さらに張作霖の同意をえて、段祺瑞を北京政府の「臨時執政」に担ぎあげる。


12月 孫文、「北上宣言」を発し北京に入る。機能不全に陥った国会に代わり、全国の社会団体代表による「国民会議」を開催し、中央政治を一新せよと訴える。


国民党の党規約が制定される。ソ連共産党にならい、「民主主義的集権制度」を党の原則とする。


中国共産党の財政(石川:岩波新書中国近現代史③ より。以下石川と略す)

1924年度のデータで、総収入32千元。うち党費などによる収入は2千元足らずだった。すなわちソ連からの援助が3万元ということになる。党への直接援助の他に、労働組合やソ連政府援助の流用をあわせると10万元以上が中国共産党に流れたと考えられる。27年には援助総額は100万元に達した。石川の試算では当時の1元は現在の750円に相当するという。


レーニンが死亡。民族統一戦線を重視するソ連共産党・コミンテルンの対中方針はそのまま継続。


1925年


2月 上海の日系紡績工場「内外綿」で労働争議が始まる。


3.12 孫文、北京で軍閥政府と交渉中に死去。享年58歳。死因は肝臓がん。「革命なお未だ成功せず。同志なお須らく努力せよ」の遺言を残す。なお「連ソ容共」路線の継続を訴えるソ連あての遺言は、後の中華民国政府により無視された。


5月 広州で第2回全国労働大会が開かれる。「軍閥と国際帝国主義を打倒する革命」を決議。中華全国総工会の結成を宣言。166の組合、54万人の労働者を結集。


5.16 内外綿争議で、日本人職員が中国人労働者を射殺。共産党は糾弾闘争に立ち上がる。


5.30 「530事件」が発生。上海租界で、共産党の指導する判定示威運動。共同租界当局は群衆に対して発砲。13人の犠牲者を出す。


6月 上海総工会の呼びかけたゼネストに20万人が参加。総工会は中小企業家や学生団体とともに工商学連合会を結成し対外ボイコット運動を展開。都市機能は1ヶ月間麻痺状態に陥る。


6.23 広州の英仏租界の沙面を10万人が取り囲むデモが発生。恐慌をきたした守備隊の発砲により52人が死亡する。香港で働く13万人の労働者が広州に引き上げ。国民党政権の支援を受けた労働者糾察隊2千人が香港・広州間の交通を遮断し、香港と沙面を封鎖。


香港スト: 香港でのストは26年10月まで16ヶ月にわたり続けられた。この長期ストにより香港は「臭港」「死港」と化した(石川)。


6月 ロシア共産党政治局、中国(主に広東政府)への150万元の軍事援助を決定。これは4月から9月までの半年分とされる。


7月 広東の国民党政権、大元帥府から「国民政府」に改称。主席に汪精衛が就任。


8月 従来の諸軍を再編し国民革命軍が編成される。黄埔軍官学校の卒業生が中核を担う。


8月20日 孫文後継者と目された廖仲愷、広州市内で国民党右派により暗殺される。


夏 孫文側近の戴季陶、「孫文主義の哲学的基礎」、「国民革命と中国国民党」を相次いで発表。共産党の寄生政策を批判して、「純正民主主義」の徹底を訴える。


ただし戴季陶は蒋介石宛の私信で、「今日もっともよく奮闘せる青年は大多数が共産党であり、国民党の旧同志の腐敗・退廃は覆うべくもない」と告白している(石川)


秋 共産党員数が3千近くに達する。多くが国民党政府のメンバーとして活動。


11月 張作霖配下の郭松齢、馮玉祥と結び反乱を起こす。日本軍の支援を受けた張作霖は郭松齢の軍を殲滅。これを受けた馮玉祥の国民軍は北京を退去。西北方面で再起を狙う。


広州で「被抑圧民族連合会」、「ベトナム青年革命会」、「台湾革命青年団」などが結成される。


1926年


初頭 馮玉祥、国民党に加入し反乱を起こす。ソ連は国民軍を広東と並ぶ革命勢力とみなし、軍事顧問団の派遣や武器の援助を行う。蒋介石はソ連の二股膏薬に不信感を抱いたとされる。


1月 国民党第2回大会。左派が躍進したことから「左派による勝利の大会」と呼ばれる。汪精衛が最高得票を獲得。左派の支援も受けた蒋介石は、第2位で中央執行委員に選出される。


3.18 馮玉祥の国民軍と戦う張作霖に対し日本など列強が公然と支援。これに抗議する学生デモが北京で展開される。政府軍の発砲により47人が死亡。事件の責任を取り段祺瑞が引退。以後、奉天派支配のもとで直隷派との連合政府が成立するが、いずれも短命に終わる。(この年だけで5回の政権交代)


3月 中山(ちゅうざん)艦事件。国民革命軍の砲艦「中山」が蒋介石の承認なしに独自で航行。蒋介石は広州に戒厳令を布告し、ソ連軍事顧問団の公邸を包囲、労働者糾察隊の武器を押収。


蒋介石と広州訪問中のソ連使節団(団長ブブノフ)が事態の収拾をめぐり交渉。施設団はソ連軍事顧問団の越権行為を認め、顧問を更迭。さらに北伐の早期開始を容認し、そのために省港ストの収束方針を承認。


汪精衛はソ連の蒋介石への妥協に反発。国民政府軍軍事委員会主席の職を辞ししフランスへ去る。


4月 蒋介石が国民政府軍軍事委員会主席に就任。


5月 国民党、共産党員の国民党内での活動を制限する「整理党務案」を押し付ける。


5月 北伐を目指す国民革命軍が編成される。蒋介石が総司令に就任。


5月 北伐の前哨戦。国民革命軍北伐先遣隊が湖南省に入る。


呉佩孚が湖南省支配を狙うが、これに反発した省長代理の唐生智が戦を構える。国民革命軍はこれに介入し唐生智も国民革命軍に加わる(第8軍)。


6月 蒋介石、国民党主席(中央執行委員会常務委員会主席)のポストも獲得。


7月 国民党政府、「北伐宣言」を発表。国民革命軍動員令を発する。


北伐軍は全8軍、25師団編成。総兵力は10万を数えた。第1軍のみが黄埔学校卒業生を主体とする近代的軍隊で、残りは軍閥の部隊を再編したものであった。これに対抗したのは湖南の呉佩孚軍25万、江西の孫伝芳軍20万、彼らの背後には張作霖軍35万が控えていた。


7.09 北伐軍本隊が広州を出発。


7.11 呉佩孚軍、湖南の省都長沙を撤退。北伐先遣隊と唐生智の第8軍が制圧。


8月中旬 北伐軍、湖南省の主要部を制圧。


8月末 北伐軍、汀泗橋・賀勝橋で呉佩孚軍主力を撃破。


9.23 スターリン、モロトフ宛に「漢口はやがて中国のモスクワになるだろう」と書き送る。


9月 馮玉祥の軍、綏遠省で挙兵。陝西省方面へ攻勢をかける。


9月 イギリス砲艦、長江上流の万県に砲撃を加える。


秋 蒋介石、腹心の邵力子をモスクワに派遣。「ソ連共産党とコミンテルンの指導のもとに、その歴史的役割を完遂する」ことを明らかにする。


10.10 北伐軍が武漢を制圧。呉佩孚軍はまもなく壊滅。


10月 共産党が主導して上海で第1回目の蜂起。失敗に終わる。


11.08 蒋介石の率いる直属部隊と第7軍(軍長・李宗仁)が省都南昌を制圧。孫伝芳軍の前に苦戦し、1万を超える戦死傷者を出す。


11月 馮玉祥の軍、西安に進出。陝西省の大部分を制圧する。


11月 広州の国民党中央、党と政府の武漢への移転を決定する。


12.09 福建省の省都福州が北伐軍により制圧される。


12月 湖南・湖北の農民協会、半年で40万から160万に拡大。各地で武装し北伐軍を側面支援。


12月 国民党中央の先遣隊が武漢に到着。党中央と政府の臨時連席会議を組織する。


主要メンバーは徐謙(司法部長)、孫科(孫文の長男)、陳友仁(外交部長)及び政府顧問のボロディン。


26年 上海の東亜同文書院(院長は近衛文麿)に26期生120名が入学。(同文書院はフランス租界から西南法に伸びた虹橋路にあった)


1927年


4月 国共合作下の武漢で、第5回共産党大会。党員数6万人。労働者が6割、農民2割、知識人2割の構成。女性党員も8%を占める。


5月 コミンテルン第8回執行委員会総会。トロツキーは武漢国民党の反動化を警告するが、スターリンは国民党を通じた土地革命を想定し、中国共秋収産党に武漢政府への協力を求める。


陳独秀、武漢分共の責任を問われ、「右傾日和見主義」の批判のもとに解任される。


7月 スターリンのモロトフあて書簡。「中国共産党の中央委員会には簡単なやさしい要求がある。それはコミンテルン執行委員会の指令を達成することだ」と盲従を求める。


8.01 南昌蜂起。国民革命軍内の共産党派だった葉挺、賀龍、朱徳らの部隊が江西省の省都を中心に反乱。「中国国民党革命委員会」の名義で「革命の政党」を受け継ぐことを宣言。広東での政権樹立を狙い、南下を開始。


8.07 共産党、漢口で緊急会議を開催。陳独秀の路線を批判するとともに、南昌蜂起に呼応して「秋収蜂起」(湖北・湖南で秋の収穫期に蜂起する方針)を決定。湖南の農村活動家・毛沢東が指揮に当たることとなる。


9月 南昌蜂起部隊、広東までの間に国民党の攻撃を受け壊滅し四散。秋収蜂起もことごとく鎮圧される。


10月 毛沢東、秋収蜂起の残党1千名を率い井崗山にこもる。井岡山は湖南・江西の省境をなす山岳地帯。緑林・土匪を取り込み「工農革命軍第1軍第1師第1団」を組織。


11月 共産党、左派国民党を僭称することをやめ、共産党のもとにソヴェートを建設する方針を決定。広東省陸豊・海豊にたどり着いた南昌蜂起軍の残党がソヴェートを名乗るがまもなく殲滅される。


12月 広州蜂起。広州ソヴェートが樹立されるがまもなく鎮圧される。この時武装勢力に初めて紅軍の名が付けられる。


1927年


1.01 「武漢国民政府」が正式にスタートする。


1.03 武漢政府の臨時連席会議、3月に国民党中央総会(二期三中全会)を開催すると決定。軍(蒋介石)からの権限回復を図る。


南昌(江西省)に北伐軍総司令部を構える蒋介石は、臨時連席会議の正統性を認めず。南昌で独自の中央政治会議を開催。二期三中全会の南昌開催を決議。しかし南昌在留の党中央委員の多くが武漢に移ったことから、蒋介石の正統性は薄れる。


1月初め 漢口の英租界で反英闘争が激化。武漢政府は英租界臨時管理委員会を設置し、租界を接収する。その後、江西省の九江でも英租界が接収される。租界接収の動きを見た列強は、最大の租界を抱える上海に軍を結集。


武漢の労働運動指導者だった劉少奇は「労働者は企業を倒産させるという要求を掲げ、賃金を驚くべき水準に引き上げ、一方的に労働時間を1日4時感以下に短縮した」と述懐する。また農民運動は土地没収や地主の迫害を常態化させ、食料米の流通を阻害した。(石川)


2月 共産党、第2回目の上海蜂起。失敗に終わる。


3月 武漢で国民党中央総会(二期三中全会)が開催される。党常務委員会主席ポストの廃止、軍総司令の権限制限などを決定。労工部長、農政部長には共産党員が就任。


3.21 共産党、第3回目の上海ゼネスト・蜂起。2日間にわたる市街戦の末、奉天軍を放逐することに成功。当初、租界への攻撃はなく、外国軍との衝突はなし。


3.22 北伐軍の先鋒が上海に入る。ゼネスト勢力は「上海特別市臨時政府」を樹立。


3.24 国民革命軍の第2,6軍が孫伝芳軍を駆逐し南京に入る。一部が外国領事館や教会を襲撃し外国人数人を殺傷する。英米の砲艦が南京城内を報復攻撃。死者多数を出す。


蒋介石は日本政府に急使を送り、南京事件の誠意ある処理を約した。日本政府は報復に同調せず、蒋介石と国民政府内の過激分子粛清について密約した(石川)。


3.26 蒋介石が上海に入る。


3月末 コミンテルン、上海の共産党組織に対し、武力による租界突入を禁止する通達。また労働者糾察隊の銃刀器の携行を禁じる。


3月末 武漢の国民党中央、南京駐留中の第6軍(左派系)に対し蒋介石の逮捕を密命する。蒋介石は第6軍を南京から移動させ、直系の第1軍を配備。


4.01 汪精衛がソ連経由で上海に戻る。ただちに蒋介石や共産党の陳独秀らと会談に入る。


4.04 蒋介石、「共産党分子はデマを流し、団結を損なっている。これ以上の撹乱行為は反革命だと言わざるを得ない」と発言。


4.05 スターリン、「蒋介石など右派も帝国主義者と闘っており、今決裂する必要はない」と演説する。


4.05 汪精衛、陳独秀と共同宣言を発表。両党の友好関係を確認。また蒋介石への信頼を表明。その後武漢に向かう。


4.08 スターリン、蒋介石あてにみずからの肖像写真を送り、「中国国民革命軍総司令官蒋介石氏の勝利」を祝う。


4.08 国民党中央、産業の中心地である南京への遷都を決定。


4.09 蒋介石、駐留先の南京で左派系の集会を弾圧、さらに江蘇省党部を襲撃する。


4.11 広州でも蒋介石派の軍による左派弾圧が行われる。


4.12早朝 蒋介石隷下の第26軍、上海市内各所で労働者糾察隊の武装解除に乗り出す。この衝突で糾察隊員300人が死亡。小銃3千、機関銃20などの武器が押収される。


4.13 上海総工会が26軍にデモ。軍の発砲でさらに多数の死傷者。軍は総工会本部を占拠し左派・共産党系組織の解散を命令。その後広州でも同様の弾圧。


この後、上海は驚異的な発展を遂げる。人口は300万人(東京・大阪は200万人)、消費電力も東京を上回る。バンドには高層建築が林立。女性は摩登(モダン)な旗袍(チャイナドレス)で着飾る。活字、映画文化などが花開き、繁華街は電飾で不夜城と化した。(石川)


4月 北京を支配する張作霖、ソ連大使館を強制捜査。潜伏中の李大釗ら共産党幹部を逮捕・処刑。


6月 張作霖、「安国軍政府」大元帥に就任。みずから政権を握る。


4.17 武漢の国民党中央、蒋介石をすべての職務から解任。党からも除名する。


4.17 蒋介石、南京在留の党役員を集め国民党中央政治会議と中央軍事委員会を組織する。


4.18 南京に胡漢民(孫文とともに働いた古参幹部)を主席とする独自の国民政府が樹立される。蔡元培(元北京大学学長)らが蒋介石政府の支持に回る。


5.30 コミンテルンの中国に関する決議。これに基づきスターリンの「5月指示」が送られる。(中国への到着は6月初め)。中国共産党に極左的方針を持ち込む一方、国民党左派との連携を説く。


主な内容は①土地革命の断固実行、②武漢政府と国民党の再改組、③共産党員2万人の武装、④労働者・農民5万人の国民革命軍への加入、⑤反動的な武漢の将領の処罰など(石川)


6月初め コミンテルンの現地代表ロイ、「5月指示」を汪精衛にリーク。汪精衛はソ連の支援増強を条件に5月指示を受け入れる。


6月末 武漢政府は1500万ルーブルの援助を求めたが、200万ルーブルしか得られず。このため中央政府における汪精衛の地位は一気に弱体化する。


6.10 馮玉祥が武漢政府、南京政府と相次いで会談。蒋介石の側に立ち、武漢側に蒋介石との協力と労農運動の抑制を求める。


6月 日本政府、英・米の同調を得て第一次山東出兵。2ヶ月後に撤兵する。


7.15 武漢の国民党中央が会議を開催。汪精衛は5月指示の存在を明らかにする。会議は党・政府・軍における共産党員の職務停止を決議する(武漢分共)。第一次国共合作は終わりを告げる。


8月 孫伝芳軍の追撃に移った蒋介石軍、徐州の闘いで惨敗。蒋介石は下野を宣言する。


9月 国民党の最高機関として中央特別委員会が招集される。みずからの正統性を批判された汪精衛はこれを不満として引退を言明。


9月 無役となった蒋介石が私人の資格で日本を訪問。田中義一首相らと会談を重ねる。


蒋介石は、日本が「かつてのソ連のごとく」北伐を支援してくれるようもとめたが、北支の権益拡大を狙う日本側は確たる言質を与えなかった(石川)


27年末 蒋介石と汪精衛が不在の中央特別委員会は、何も決まらないまま解散。


1928年


1月 蒋介石が国民革命軍総司令官に復帰。2月には党の軍事委員会主席、3月には中央政治会議主席も兼任する。


国民革命軍の再編: 共産党・左派の占めていた軍は吸収併合され、4つの集団軍に統合される。第1集団軍・蒋介石、第2集団軍・馮玉祥(河南)、第3集団軍・閻錫山(山西)、第4集団軍・李宗仁(広東)が守備範囲となる。総勢は60万に達し、北方部隊合わせて20万を圧倒する。


第二次北伐を開始。


4月 日本、第二次山東出兵。第6師団5千人が省都済南に派遣される。


5.03 済南事変発生。済南に進出した北伐軍と日本軍が衝突。日本側の砲撃により中国側軍民3千人以上が死傷する。北伐軍が撤退迂回したため、済南は1年にわたり日本の占領下に置かれる。


済南事件はその後の対中侵略の雛形となった。①出先機関が事件を拡大・激化、②軍中央・政府が後追い、③世論が「暴支膺懲」論で後押しというパターン。いっぽう①中国国民の主要敵は英国から日本に移り、②蒋介石の親日方針は解消され、③英米両国が日本を批判的に見るようになった。(石川)


6.03 張作霖、特別列車で北京を脱出。奉天に向かう。


6.04早朝 張作霖を載せた特別列車、奉天直前で爆破される。後に関東軍の謀略であることが明らかになる。


6.08 国民革命軍(北伐軍)、北京に無血入城。天安門に孫文の肖像が掲げられる。この時点で軍勢は200万人にまで膨れ上がる。


6.15 国民政府、北伐と全国統一の完成を宣言。南京を首都とし、北京は北平と改称する。


7月 張作霖の息子張学良が東3省保安総司令となる。国民党と手を結ぶ道を選択。


10月 国民党、「訓政綱領」を発表。6年間の党独裁期(訓政期)を経たあと憲政に移行するというもの。


11月29日 張学良が易幟を断行。東3省にも青天白日旗が翻ることになる。国民政府は張学良を東北辺防軍司令長官に任命し内政の自治を承認する。


1928年


4月 朱徳の率いる南昌蜂起軍の残党2千人が井岡山に合流。中国工農紅軍第4軍を編成。軍長に朱徳、党代表に毛沢東が就任。


6月 共産党の第6会大会。国内での開催が困難となりモスクワで行われる。党員は最大時の6万人から1万数千に激減。


1929年


29年初め 毛沢東の第4軍、井岡山を離脱。江西省南部の瑞金に移動。


1929年


5月 張学良、ハルビンのソ連領事館を強制捜索。その後中東鉄道(シベリア鉄道の満州通過部分)の接収に踏み切る。


8月 ソ連が東北部に侵入。張学良軍を撃破する。


11月 ハバロフスク休戦協定。中東鉄道は引き続きソ連の支配下に置かれることとなる。


ソ連は共産党に「労働者階級の祖国ソ連を守れ」のキャンペーンを強制。これに異議を唱えた陳独秀は党を除名される。


1930年


3月 共産党の影響のもとに魯迅を押し立てた左翼作家連盟が結成される。


汪精衛ら「改組派」、青年党員を結集し反将運動を起こす。閻錫山、馮玉祥、李宗仁が改組派に合流。河北での大規模な内戦(中原大戦)に発展する。双方合わせ100万の軍を動員、死傷者は30万人に上る。


9月 北平に「国民政府」が樹立される。主席に閻錫山、政府委員に汪精衛、馮玉祥、李宗仁が就任。


9月 張学良が蒋介石を支持し北平・天津に進出。これにより中原大戦は収束に向かう。


1930年


3月 この時点で、「革命根拠地」(ソヴェート)は15ヶ所、軍勢は合計で6万、銃器3万丁を確保する。ただしその多くが「遊民」(はみ出し者)によって占められていたという。


7月末 紅軍ゲリラが湖南省都・長沙および江西省都・南昌を同時攻撃。長沙を攻撃した第3軍団(彭徳懐)は1周間にわたり長沙を占拠。湖南省ソヴェート政府の樹立を宣言。朱徳・毛沢東の第4軍は南昌を攻撃するが甚大な被害を出し撤退。


9月 共産党の6期3中全会、上海で開催。


11月 蒋介石軍、第1回めの囲巣作戦。3ヶ月にわたる。


30年 上海の租界に中国側の特区法院(裁判所)が設置される。租界警察から中国側に政治犯の受け渡しが行われるようになり、向警予、鄧中夏、趙世炎、彭湃、揮代英らが相次いで逮捕・処刑される。


1931年


1月 共産党の6期3中全会、上海で開催。王明、博古(秦邦憲)、洛甫(張聞天)ら「28人のボリシェビキ」(ソ連で教育を受けた若い党員)が中枢を握る。ボスの王明はモスクワに戻り、博古、洛甫が周恩来とともに党を取り仕切る。


4月 2ヶ月にわたる第二次囲巣作戦。


7月 3ヶ月にわたる第三次囲巣作戦。


9月 満州事変の勃発により囲巣作戦が中止される。


9月 寧都蜂起が発生。囲巣作戦に動員された国民党軍1万7千が共産党に寝返る。


11.07 瑞金を首都とする「中華ソヴェート共和国」の建国が宣言される。臨時政府の主席に毛沢東、副主席に項英と張国壽(張国壽は湖北の根拠地鄂豫皖をしきっていた)、軍事委員会主席に朱徳が就任。ただし共産党の序列では王明、秦邦憲らが指導的地位にあり、政府の軍事委員会は党の軍事委員会(書記は周恩来)の管轄のもとにあった。


31年 中国共産党幹部の顧順章、向忠発が検挙され転向。上海の共産党組織は事実上の機能停止に追い込まれる。


1931年


2月 党の元老格で立法院長の胡漢民、蒋介石の方針に反発。蒋介石は胡漢民を逮捕、立法院長の職を剥奪する。


5月 胡漢民派の牙城である広州で反乱発生。これに汪精衛、孫科(孫文の長子)、李宗仁らが合流。「国民政府」の樹立を宣言する。


9.18 柳条湖事件が発生。その日のうちに関東軍が奉天、営口、長春など18都市を占領。朝鮮軍(朝鮮在駐の日本軍)が独断で国境を越え奉天に向かう。


9月 日本製品ボイコット運動により、日本商品の輸入は5分の1に落ち込む(12月実績)。「安内攘外」路線に固執する蒋介石への不満が高まる。


1932年


1.28 第一次上海事変。日本側の謀略により市街戦が展開される。


1月 満州事変を機に広州派が妥協。蒋介石の下野を条件に南京政府に合流。孫科が首班(行政院長)となる。


3.01 「満州国」が建国を宣言。


3月 孫科が退陣。汪精衛が行政院長、蒋介石が軍事委員長の「蒋汪合作体制」が発足する。


12月 宋慶齢、魯迅、蔡元培らが中国民権保障同盟(以下民権同盟)を結成。政治犯の釈放や言論の自由を求める。


1932年


7月 第4回目の囲巣作戦が開始される。国民党中央軍60万人が動員され、9ヶ月に及ぶ長期作戦となる。鄂豫皖の根拠地が壊滅するが、周恩来の指導により本拠地の囲巣作戦の撃退に成功。


10月 共産党の寧都会議。毛沢東は「右傾」を理由に党活動の第一線から排斥される。


1933年


初め 上海を逃れた共産党中央が瑞金に入る。王明は毛沢東の遊撃戦路線を否定。軍事指導権を取り上げる。


3月 蒋介石、日本軍による熱河侵攻を受け、いったん囲巣作戦を中止。


10月 第5次囲巣作戦が開始される。中央根拠地に対し正面だけで40万、後備もふくめ100万の大軍で押し寄せる。


11月 第一次上海事変で日本軍と戦った国民党軍19路軍の一部が福州で蜂起。反将抗日を掲げる福建人民政府を樹立。まもなく蒋介石の攻撃を受け崩壊。


1933年


6月 民権同盟幹部の楊杏仏、蒋介石の私兵集団「力行社」により暗殺される。同盟は活動停止に追い込まれる。


1934年 


4月 瑞金の北100キロの広昌で最大の決戦となる。紅軍は多大な犠牲者を出し敗退。中央根拠地の崩壊は時間の問題となる。


10月 共産党、中央根拠地からの撤退を決定。党中央が瑞金を撤収する。紅軍の基幹部隊である第一方面軍8万人が西方への移動を開始する。(長征そのものの過程については省略)


1935年


1.15 貴州省北部の遵義で中央政治局拡大会議が開かれる。伝説が多すぎるが、結果としては、①毛沢東ら現場の突き上げで秦邦憲(博古)とブラウン(軍事顧問)が指導権を放棄、②周恩来が指導権を掌握、これに張聞天、王稼祥がつく、③周恩来は毛沢東を政治局常務委員に引き上げる。なおこの時点で、秦邦憲は総書記の地位にとどまるが、2月には職を辞し、王稼祥がこれに代わる。

以下は

鄭 敬娥 「アジア地域主義における「アジア的性格」の考察 ―アジア開発銀行(ADB)の創設過程を中心に―」 『広島平和科学』27 (2005)

の抜き書きと感想です。

独立は達成したが経済は崩壊した

多くのアジア諸国は第二次世界大戦後に独立を果たした。それらは新たな国家目標として、植民地的経済構造からの脱却と、国民経済の構築を設定した。

このために政府が積極的に経済活動に介入するとともに、外国資本の導入を極力制限した。

しかし、資金も技術も経営ノウハウも持たないこれら諸国において、このような初期の政策は無残な結果に終わった。

国内経済は深刻な停滞やインフレに陥った。外貨を獲得するにはモノカルチャー的な生産を強化しなければならないというディレンマが生じた。

このジレンマの説明はきわめて簡単である。植民地経済というのはただたんにむしりとる経済ではない。植民地に対し膨大な資金を投下し、その製品に対して豊かな市場を提供するのである。
植民地への投資はリスクは高いがきわめて魅力的だ。設備投資が少なく、人的経費の率が高いために剰余価値率も高いのだ。植民地側にしてみれば、高い利益率を確保しつつ、製品の販売市場が保障されているという魅力がある。需要予測も容易である。
別に現地労働者を奴隷のようにこき使わなくても、統治で普通の労働慣行を尊重したとしても、十分に元は取れるのだ。
植民地が独立するということは、この資金と市場を同時に失うことになるのだ。
にもかかわらず、「独立ほど尊いものはない」のだ。

旧宗主国から国際トラストへ

50年代半ばには、経済開発計画の多くは国際機関の援助(たとえばコロンボ・プラン)の受け皿として作成されるようになる。

しかしその際も、最終的なゴールは脱植民地化であり、外部資本の受入れはそのための多様な経済政策の一つとして理解されていた。

ナショナリズムと先進国資本の受入れとの間の矛盾は、そのような形でいちおう妥協の道を見出した。

アジア的性格と日本を先頭とする先進国との矛盾は、実はアジア諸国の内包する矛盾の反映であったということになる。であればこの対立は、突き放すようだが、アジア諸国が経済成長を遂げることによって自ら解決するしかない課題なのであろう。

輿望を担って発足したADB

すでに1959年には「米州開発銀行(IDB)」が創設されていたが、64年には「アフリカ開発銀行(AfDB)」が誕生した。

アジア諸国は、自分たちだけが取り残されるという危機感を強めていった。

ベトナム戦争が深刻化し、西側先進諸国の対外援助が減り続けるなか、日本の経済的浮上が地域協力に対するアジア諸国の期待を高めた。

1966年12月、アジア開発銀行(ADB)はアジア域内のほぼすべてを網羅し華々しく登場した。

ボタンの掛け違え

日本はADBを地域協力機構の一環として捉え、域内諸国の開発計画の調整を促すとともに、銀行としての健全運営を図った。

そのために、運営面においても域外先進諸国を積極的に参加させた。

しかし、アジア諸国はADBを途上国に対する経済協力機構として捉えた。そして資金面の協力は受け入れるが、運営における発言権は極力制限しようとした。

それがアジア人によるアジア人の銀行、いわゆるADBの「アジア的性格」の主張となった。

このようにして、ADBの創設は日本が加わったことにより、より複雑な道程を歩むことになった。

イントロを読んだだけでは、「アジア的性格」の主張はかなり分かりにくい。ADBが基本的に貸し手の機関なのか、借り手の機関なのかといえば、貸し手の機関に決まっている。
ただ「途上国のニーズに応え、その発展を援助する」という設立の趣旨から言えば、「主人公は途上国だ」という論理も分からなくもない。
これと似たような議論を昔やったことがある。「医療の主人公は患者だ」という主張である。病院というのはそもそも患者のニーズに応じて作られたものだから、患者の要求に応じて運営しなければならない。
しかし医療従事者から見れば、「それは違うでしょう」ということになる。病気を治そうとすれば、まずは医療の論理に従って動かなくてはならない。
だから次元を揃えた上で、どこかで議論を噛みあわせなくてはならないのである。その主たる責任は誰が負うか。「真面目な先進国」である。銀行の担当者ではない。

AIIBはADB以上の問題を内包している

今アセアンは域内貿易と資金調達により独自の道を歩こうとしている。しかし資金需要はあまりにも旺盛であり、自己調達レベルをはるかに超えている。

そんな時に新たな気前のいい融資先が名乗りを上げたのだから、基本的には大歓迎である。

かつて日本がアジア開銀を通じて強力な融資元として登場した時、日本は厳しいマクロ政策と財政規律を求めた。それは必ずしも悪いことではなかったと思う。

「厳しい兄貴だったが、おかげでグレずに済んだ」という側面もある。IMFの横暴には、それなりに体を張って抵抗してくれた。(それがどの程度のものだったかは別として)

中国が同じように「厳しいがいい兄貴」かどうかは保障の限りではない。とくに南シナ海では軍事的野心、領土的野心をむき出しにしているだけに、警戒心は持たざるをえない。

トラストの胴元としてのガバナンスや安定性にも問題がある。中国から金を借りたつもりが、いつの間にか華僑マネーに変身しないとも限らないのである。

日銀調査月報 1965年(昭和40年)8月号

アジア開発銀行設立の意義と問題点[PDF 843KB]


アジア開銀の設立は、本年末には最終結論をうる見通しである。

内容としては

1.資本金は10億ドル、うち域内6億ドル、域外4億ドルとし、広く欧米先進国などからの資金導入を図る。

2.本銀行の役割は域外から追加資金を導入し、世銀・第二世銀など既存金融機関の活動を補完しつつ、各種プロジェクトへの信用供与を行うことである。また各国の開発計画の調整、計画策定に関する技術協力も行う。

3.総裁はアジア人の中から選出する。

というのが柱。

この銀行はアジア人による銀行というアジア的性格と、先進国の発言権を確保するという国際的性格を併せ持つ。

このため、アジアの一員であると同時に域内唯一の先進工業国である我が国の役割発揮がもとめられる。

とここまでが「はしがき」

ついで背景説明に入る。

アジアにおける経済停滞の背景としては、多くの国が人口圧力と貧困という差し迫った問題に直面しながら、政情不安、軍事的緊張の激化から、乏しい資源のあまりにも多くを軍事目的に費消し、その結果、各国の資本不足がさらに拍車されていることによる。

1.エカフェ事務局の試算でアジア諸国では年間6~10億ドルの資金が不足している。政治・経済情勢の不安定が民間投資を抑制している。援助供与国が支援を政治的に利用することから不安定となっている。

2.先進国では戦後20年にいたり、生産過剰傾向が顕現化しつつある。今後の経済成長のためには、低開発国を含めた世界貿易の拡大が不可欠だ。

3.米国はベトナムを中心とするアジア情勢の緊迫化のなかで、民政安定と経済開発に積極的となっている。

ということで、いま考えれば相当あけすけにアジア開銀の目的を語っている。

次に、アジア開銀の目論見として、

1.開発銀行は長期安定外資を導入するチャンネルであり、域内各国における海外逃避資金を動員する呼び水となる。

2.アジアは世銀に好かれていないので、独自に資金調達するチャンネルを作る。(米州開銀が最初、ついでアフリカ開銀だった。アジアはもっとも政治的に不安定な地域だった)

3.開銀を作れば域内のいがみ合いも減るのではないか。

4.アジアの開発に必要なのは、資金もさることながら開発のノウハウではないか。

次に業務(とくに銀行業務)の内容について述べられる。

銀行業務は通常業務と特別業務に分けられる。両者は峻別される。

通常業務は健全経営主義の原則に基づき、元利支払い能力ありと認められるプロジェクトに限り融資される。

特別業務は特別基金と信託基金などに基づいて行われ、銀行の独自調査と判断に基づき、低利かつ長期の条件を出す。

ついでながら、

日銀のこのレポートを読むと、日本はさほど乗り気ではなかったことが感じられる。

韓国との国交回復は成ったものの、依然東南アジアなどの警戒心は強く、日本も米国との関係強化に専心しており、対アジア関係の煩わしさに巻き込まれたくないとの思いが見て取れる。

インドネシアのスカルノもアメリカ主導のアジア開銀への警戒心は強く、設立への動きをリードしていたのはむしろタイ、フィリピンなどだった。

このような動きを背景にして発足したアジア開銀は、冷戦終結とアジアの経済発展という一大変化を経て今でも有効性を発揮しているのだろうか。その辺に一定の疑問が抱かれるのは当然であろう。

その辺りに論及したのが下記の論文

アジア地域主義における「アジア的性格」の考察
―アジア開発銀行(ADB)の創設過程を中心に―

アジアインフラ投資銀行(以下AIIB)の評価は、相当じっくり考えなくてはいけない。AIIBの設立自体は決して悪いものではないし、IMF・世銀、アジア開発銀行の大国支配に風穴を開けるという政治的観点からも積極的に評価すべきだと思う。

ただその意義と限界についても冷静に見ておかなくてはならないと思う。

というわけで、AIIBの検討に入る前に、まずは総論のおさらい。

1.積極的な資金導入と安定的な通貨管理は表裏一体

97年の通貨危機を見ても、積極的な資金導入と安定的な通貨管理は表裏一体の関係にある。

実はもうひとつ、雇用の安定の問題があるのだが、これについては指摘するに留める。

2.導入する側と投資する側の論理

導入する側から見れば、国際投資は開発と発展のためにあるのだが、投資する側から見れば、その目的は利益の極大化にある。より率直に言えば、利潤一般ではなく超過利潤に目的がある。

これが国家間、あるいは国際機関との関係であれば、それなりの秩序は望める。しかし資本の完全な自由化のもとで投機資本までふくむ民間資本が自由に出入りすれば、資本の論理がむき出しになることは明らかだ。

3.カントリーリスクと担保

これを金融面で見た場合、投資する側は担保をもとめる。産業資本家であれば、投資のリスクは自らが全面的に負うことになるが、機関投資家は担保なしに貸し出すことはありえない。

担保となるのは国家財政の安定であり、通貨(金利)政策の着実さである。この他にも政治・労働環境の安定がもとめられるだろうが、ここでは省略する。それらの総合指標が通貨への格付けとして示される。

4.担保にこだわれば取引は成立しない

こうして貸す方も借りる方も担保能力に従ってやりとりすれば何の問題もない。ただあまりにも担保能力が低ければ、実際の投資はストップしてしまう。

そこで国際金融機関が信用を供与することによって、下駄を履かせることになる。これは政府間のODAとか借款に比べれば現ナマとしての有難味は薄いが、有効活用できる借金である。

5.資本自由化時代の国際投資

ところが、資本の自由化という局面に入ると話はガラッと変わってくる。

政府と民間に話は分断され、民間レベルでは無制限に資金が流入してくる可能性がある。そして実際に流入した。

どうなるか、まずは政府による流通資金量の調整ができなくなる。その結果バブル経済となる。資金にはレバレッジがかけられ、通貨発行量の数倍もの信用が生み出される。

6.経済発展と貿易赤字

第二に貿易赤字の拡大である。経済が発展するあいだ中、設備投資は増え続け、そのほとんどは輸入によって賄われるからである。これを資本収支の黒字が支える。

政府は歳入を増し、それをせっせとインフラ整備にあてる。外貨準備の積み増しをおこなう余裕はない。かくして身の丈の大きさと担保能力の間に格差が広がり、通貨は不安定なものとなる。

7.通貨危機と信用収縮

この2つが、限界に達したとき通貨危機が現れる。

外貨は羽が生えたように逃避する。膨らんだ信用には一気にデレバレッジがかかる。

あとに残るものは政府・民間の莫大な債務、失業者の群れ、通貨の暴落とハイパーインフレということになる。

もちろん景気循環の局面としてもこのような時期は出現するのであるが、問題は政府に対処すべき手段がまったく残っていないことである。

8.近代化、可視化、資本規制の3点セット

以上の点から、途上国に必要な援助の内容は明らかである。国家間の経済協力を柱とし、開銀がよりその枠割を高めて集中投資を可能にし、国家機能を損なうことなく経済発展が可能なようにすることが肝心なのである。

もちろん民間投資は重視しなければならない。それは本来足早なものではあるが、国家の富の再配分機構が良いものであれば、それはインフラにも回るし、内需の足腰を鍛えるのにも役立つ。

しかしそれは同時にバランス良く遂行されなければならないのである。そしてそれまでの間、行政システムの近代化、政治の可視化、なにがしかの資本規制は必ず必要なのである。

バンドン声明60年 東アジアへの歴史的視座

キーワードは「独立ほど尊いものはない」というホーチミンの言葉である。それは、人民はまず独立(自決)を勝ち取らなければならない、そして同時に平和を追求しなければならないということである。

つまり、諸民族の自決への尊重を基礎にして、平和・友好・連帯があり、その上に発展が築かれるという関係である。

Ⅰ 70年前(1945年) 日本帝国主義の崩壊と旧植民地主義者の復活

A) 反植民地主義闘争の初期を担ったのは左翼・急進勢力だった。彼らは独立を実現するために武装闘争をも辞さず闘った。中国、ベトナム、インドネシアでは勝利したが、多くは敗北した。

B) これに代わり、さまざまな色合いの中道勢力が、旧植民地勢力と妥協しながら独立を達成した。いくつかの国では、帝国主義に忠実な傀儡勢力が実権を握り続けた。

Ⅱ 60年前(1955年) 独立と平和での一致

A) 左翼・急進勢力と中道勢力は、内政での立場は異なるものの、民族自決の尊重と平和的な共存という点で一致した。これはこの年に結成された日本AALAの基本理念でもある。

B) しかしこの共同は、主要にはアメリカ帝国主義の干渉、副次的には東西冷戦という国際的枠組みの中で引き裂かれる。

Ⅲ 50年前(1965年) ニセの対立構図

A) 前年8月のトンキン湾事件により、ベトナムとアメリカ帝国主義の直接対決が始まった。この時、ベトナム連帯を掲げて北海道AALAが誕生した。

65年9月には中道派の旗頭インドネシアでクーデターが発生し、「親米か反米か」という無意味な対立構図が支配する下で、東アジアは敵と味方に分かれて闘うことになった。

B) 左翼勢力にも深刻な分裂がもたらされた。毛沢東は65年に文化大革命を開始し、法治主義を破壊し、国内外の左翼勢力を切り裂き、最後にニクソンと握手した。

C) おなじ1965年に日本は日韓条約を結び、これを機に、東アジアへの進出を開始した。特筆すべきは、アメリカ支援という重大な問題を抱えていたにせよ、それが憲法9条を遵守する平和的進出だったことである。

Ⅳ 40年前(1975年) 独立と平和に向けた再アプローチ

A) 75年の4月、ベトナムは最終的に勝利を実現した。それによって「ニセの対立構図」が解けたわけではないが、「ニセの対立」への深刻な反省は生まれた。

B) 平和が何よりも尊重された。軍事同盟であるSEATOは崩壊し、ASEANは平和を目指す非軍事的な機構として再発足した。

C) その後も10年にわたり、カンボジアなどで大規模な余震が続いた。東南アジアは明確な展望を示し得ないままに経過した。

Ⅴ 30年前(1985年) 平和と経済発展の道

A) ここには目立ったマイルストーンはない。軍事的に見ればカンボジアのポルポト政権への最終的決別である。それは対決オプションの最終的放棄である。89年のベトナム軍の撤退がピリオドと思われる。

B) 政治的に見れば、民主化の進行とアメリカ傀儡政権の後退である。フィリピンと韓国で独裁政権が打倒された。東南アジアのすべての国から米軍基地がなくなった。

C) 経済的には日本の企業進出による輸出立国型の経済体制の確立である。日本は第二次オイルショック後の不況をアメリカへの集中豪雨型輸出で切り抜けようとし、それは激しい経済摩擦を産んだ。

日本は東南アジアに工場を立て、アメリカへのいわゆる「迂回輸出」を促進した。それが「東南アジアの奇跡」と呼ばれるようになる。

D) それは政治的自由と平和的発展の道を後押しした。同時にそれはグローバル・スタンダードを不可避なものとし、国内の貧富の差の拡大をもたらした。

Ⅵ 20年前(1995年) 左翼と中道の再合流

A) 95年にベトナムがASEANに加盟した。

それは「独立と平和」を貫くための左翼と中道の共同というバンドン声明の再現とも言える。しかし一般的な友好ではなく、協力と協同に踏み込む前向きな関係である。この紐帯は97年の東アジア通貨危機を通じて強固なものとなった。

B) アメリカはこの歴史的な流れを妨害しようとし、さまざまな策謀を仕掛けている。たとえばAPECであり、たとえばTTPである。中国も南沙諸島で強権を行使する一方、アジアインフラ投資銀行(AIIB)で揺さぶりをかけている。

C) こうした中で、独立と平和に加え、連帯と発展が東南アジア諸国の合言葉となっている。さらにそれは平和の枠組みとして北東アジアにも影響を及ぼそうとしている。バンドン声明は、さらに進化した形でよみがえり、いまやアジアの進むべき「総路線」として生命力を発揮している。


これが第二次大戦後70年の東南アジアのたどった道筋である。

ということで、AIIBの評価に関わっていかなければならないのだが、その際に東アジア金融危機とアジア金融基金構想についておさらいをして置かなければならない。

東アジア金融危機は、一言で言えば、新自由主義という剥き出しの資本主義が、金融システムの未成熟な諸国で矛盾を噴出させた事象と言える。

なぜ金融危機という形で矛盾が表出したのか。それは米財務省・IMF・世銀というトロイカが金融自由化を煽り、途上国における金融の脆弱性に配慮しなかったためだ。

債務・株式スワップが導入され、債権そのものが取引の対象となり、投機の対象となった。これによりマクロ経済の小さな動きでも瞬時に増幅され、破壊的に作用するようになった。

途上国政府がさまざまな政策ツール(金利、通貨発行量、税制)を用いて介入しようとしたが、それらは市場原理に反する行為とされ、市場から排除されるようになった。

だから、資本収支(とくに短期資本)の悪化で未成熟な金融市場が撹乱されたとき、それはただちに無防備の中銀を直撃し、通貨危機をもたらした。政府も中銀もほとんど対応できないまま傷口を広げていった。

実はこれらの事態は、日本の大蔵省にとってはある程度予測されていた。7月にタイのバーツ危機が起き、そのわずか1か月後には省内でアジア通貨基金構想がまとめられている。

ギリギリまで発表されなかったのは、米国の干渉を避けるためだったとも考えられる。それほど衝撃的な内容だった。

1.参加予定国から米国が排除されている(日、中、韓、豪、香港,ASEAN5カ国)

2.「基本的にはIMFと協調するが,場合によっては独立して行動できる」との規定

米国はこれを日本によるクーデターと受け取った。連日のように強い圧力が加えられた。9月のアジア10カ国蔵相代理会議(香港)にはサマーズ副長官,フィッシャーIMF副専務理事が乗り込んで「オブザーバー」としてにらみを利かせた。

結果としてアジア通貨基金構想は流産した。しかしさらに日本は「新宮沢構想」を打ち出し、これがチェンマイ・イニシアチブへと結びついていく。

この演説で宮沢蔵相が述べたのが以下のセリフ。

<国際金融システムのあり方>
IMF・世銀のあり方を基本に立ち返って問いなおし,国際金融システムを再生させる時を迎えた。
短期的あるいは投機的な資本移動」が現在のシステムでは統制できない。ヘッジファンドなどの国際的な大規模な機関投資家に対する規制が必要になっている

<アジア危機とIMFの責任>
アジア危機は資本収支の急速な悪化から生じた。それは実体経済とは乖離したものだ。
市場経済のあり方にも,各国の歴史や文化,あるいは発展段階を反映して多様なものがありうる。対応については、タイミングや,社会的な影響等への配慮にもっと意を用いるべきだ。
にもかかわらず、IMFプログラムに、不必要かつ不適切な構造面でのコンディショナリティーを含め、途上国に性急に求めたこと(が,金融危機の原因である)。
それは「構造改革」計画(金融自由化)そのものの信頼性を損ねた。

堂々たる大演説である。

そして打ち出したのが、300億ドルの拠出。これで「短期及び中長期の資金支援」に当てようというものだ。


率直にいってここまでは良かった。

これから先は当初の位置づけからすれば、とてもうまく行っているとは思えない。

とくに先頭を切るべき日本がぐじゃぐじゃになって、理念を喪失しまったことが大きい。

理念とは何か、それは宮沢蔵相が言う如く、

1.新自由主義(金融自由化)の原理的否定

2.政府イニシアチブの尊重と擁護

3.投機資本の妄動に対する共同対処

4.実体経済の発展のための金融

といったあたりが柱になるのだろう。

しかしチェンマイ・イニシアチブはそれを入れるための受け皿とはならなかった。

IMFの指導の絶対、二国間に絞られたスワップでは目隠しされて猿轡を噛まされたようなものだ。

日本の没落、中国の台頭という地域内の力関係の変化もあった。しかし各国金融の安定的発展、これに基づく経済開発の促進という要望は依然として強烈なものがある。そしてそれこそが域内平和の礎である

やはり拠出型、多国間型の、ドルに縛られない相互支援機能を持つアジア通貨基金がどうしても必要だと思う。





先日の、AALAのシンポジウムで大西先生がアジア開発投資銀行(AIIB)構想を天まで持ち上げた時、私は少なからぬ違和感を抱いた。

97年の東アジア通貨危機がアメリカ主導のもとに収束された時、アジアには決定的にかけているものがあると感じた。それは通貨基金(ファンド)である。

投資資金を主体とするアジア開発銀行だけでは足りない。諸国が金を突っ込んで資金をプールし、それをスワップの形で回せるようにしなければ、アジア開銀だけでは息切れする。

投資(インヴェストメント)を金融(ファイナンス)がバックアップしない限り、投機資本に対抗はできない。

これが何よりも痛切な教訓であろう。

もちろん金融システムの強靭化は避けて通れない課題であり、それ抜きにファンドを語っても仕方ない。しかしいかに優良かつ堅実な投資を行おうと、投機資本に本気になってかかって来られたら勝てない。

関税、投資だけではなく金融(通貨)面での団結が必要なのだ。

中国はこの問題に手を付けるつもりはない。AIIBはアジア開銀の補完物にすぎない。酷評すれば、AIIBは通貨という勘どころを外した政治的イニシアチブに過ぎない。

実際日本はこの構想に着手しようとした。円を事実上の基軸とするアジア通貨基金計画である。しかしそれはIMFと米財務省の激しい攻撃を受けて流産した。国内的にも山一や拓銀の破産など弱点をさらけ出した。(しかし本気でやれば、まだあの時期なら勝てたのではないかと思っている)

「アジア通貨基金」構想は、多角的なスワップを基軸とするチェンマイ・イニシアチブに形を変え、地道に成果を重ねてきた。しかしこの構想を推進した日本は、その後日米同盟強化、ドル集中路線に舵を切り替えた。

この理由はいろいろ考えられるが、日本の支配的な経済団体における国家資本主義的な発想(シェアー重視)の後退が大きいと思っている。

彼らは日本国民と一体となって日本経済の発展(シェアの拡大)を目指すよりは、アメリカの支配層と肩を組み利益の極大化を目指すようになった。

もう一つは、円を支えるべき日本の商業銀行システムの弱体化である。巨大銀行がさらに再編され3つのメガバンクに統合されたが、その支配力に昔日の面影はない。円高は円の強さではなく弱さの反映となった。

結果としてチェンマイ・イニシアチブは停滞した。通貨スワップのネットワークは依然未完成である。

にもかかわらず、私はいまでもチェンマイ・イニシアチブがアジアの開発と経済発展の鍵を握っていると思っている。その再活性化こそがアジア開発の王道なのだ。

アジア開発投資銀行(AIIB)構想は、チェンマイ・イニシアチブが進展しないことへのいらだちの表明であり、裏返せば期待の表現でもあると感じている。

8千円も払って授業を聞いたのに、そのまま放って置くのももったいない。基本的にはケチだからなんとか多少でも元はとっておきたい。

ということで、シンポジウムの発言のまとめ。

1.地域協力のアイデアとメカニズム

最初は南京大学の歴史学者の発言。正直、国連の連中がよくやる制度設計コンペティションみたいなものだ。

まずは国家関係を4つの類型に分ける。

① エゴの衝突 自己が最高で他は最低という自己中心の発想

② 多様性の尊重と共存 多極化論ないし構造主義的見解に属するものか

③ ユニバーサリズムの下での共存 いつまでも多様性にこだわったままでは進歩しないので、それを乗り越える普遍性をもとめる動き

具体的にはデジタル・コミュニケーションや環境問題

④ 地球連邦としての国家の連合 将来的にはこういうものが登場するのではないか

これを①から④へと進めていく上で必要な物を3つ挙げている。

一つはラウンドテーブル方式だ。これはおそらく多国間主義(マルチラテラリズム)のことを言っているのだろうと思う

2つ目はウェーバー風になるが、政治に対する行政の優越、皮肉をまじえると「官僚主義」(ビューロクラシー)ということになる。(私見だが、これは完全な間違いだ。行政の洗練化は必須であるが、それは行政に対する政治の優越があってこそ実現される。それが真の法治主義だ)

3つ目が積極的非暴力主義(ガンジー風)である。安部首相の「積極平和主義」とは全く違うので注意。

というのが話のあらすじ。おそらく中国の現状を踏まえての話しだろう。


これだけでは面白くもなんともないので、自分に引きつけてこの4類型を考えてみたい。

国際政治の実際では、この類型よりもそれらのあいだの中間型が問題になる。

①の典型としてはイスラム原理主義が考えられるが、これは剥奪され極度の抑圧のもとにある人々の「余儀なくされた野獣性」であり、歴史の発展段階に位置づけられるものではない。

実際の①は、むしろウェストファリア体制として位置づけられるのであろう。ウェストファリアは弱肉強食体制の下での「どう食うか」というルール化に過ぎず、多極化論の萌芽としてとらえるべきではないと思う。

②は過ぐる二つの大戦、60年を挟んだ戦後数十年の民族解放の運動の中で端緒を踏み出したといえるだろう。しかしその動きは、アメリカの一極支配への野望、スターリン主義による民主運動の歪曲、新たに独立した国の新たな覇権主義などにより度々危機に瀕してきた。

現在も②の段階は完全に実現したとはいえない。大国主義の放棄はおそらく核兵器の全面禁止がそのメルクマールとなるであろう。

さりとて③、④の世界を構想することが無意味だというのではない。それらは並行するのであって、それらの運動なしには②の世界は実現しない。

小学校を卒業して中学を卒業して高校…という段階を踏むのではない。それらは並走するのである。国際機関プロパーの人たちには、どうもそういう下々の事情がわからないようだ。

「年表 毛沢東以前の中国共産党」全8回分がなかなかまとめて探しにくくなっています。

下記一覧にリンクを張っておきます。

ASEANの成立事情について詳しく書かれた論文を見つけたので、これに基づいて年表を増補します。

アジア冷戦とASEANの対応 ZOPFANをてがかりに」 黒柳米司
反共・親米のタイ、フィリピンと、反共・非同盟のインドネシアの間を取り持ちながら、マレーシアがまとめ役になって進んできたというのが経過のようです。
当初、フィリピン、タイはASEANに対して冷ややかでしたが、ベトナムのカンボジア侵入、中越戦争を挟んでASEANの重みを評価するようになったようです。
その後、フィリピンのマルコス政権打倒、インドシナ三国のASEAN加盟などを通じて影響力を広げてきました。
ASEANは経済共同体としての顔と、安全保障共同体としての顔を持っています。どちらもシステムとしては未成熟なものですが、ネゴシエーションの蓄積とノウハウについては学ぶべきものがあるでしょう。それがASEANを実態以上に大きく見せている秘密なのでしょう。

本日AALAの学習会でASEANについての講義があった。日本AALAの出したテキストを使っていろいろ説明がなされたが、かえって混迷を深めたようだ。
肝心なところは、ASEANの提唱したTACなどの平和枠組み構想にあるのであって、ASEANそのものにあるのではない。そこのところをわかってもらうとみんなスッキリしたようだ。
ASEANはあくまでも共同市場の枠組み構想なのだ。「コンセンサス方式で、一国でも反対があれば強制しない」というと、みんな「それは素晴らしい」というが、それは事柄が経済的な問題だからで、ビジネスの論理は基本的にそうなのだというと、目から鱗が落ちたように納得する。
こんな状況、前にも見たことがある。そうだコスタリカだ。
一時期、早乙女勝元さんというその筋では有名な物書きの影響で、コスタリカが民主主義の「天国」でもあるかのようにもてはやされたことがある。長年ラテンアメリカに携わってきた人間にとっては、かなり不愉快な経験だった。
正直のところコスタリカはどうでも良い。殆どの人はそんな国があることさえ知らないのだから、おとぎの世界だ。
しかしコスタリカを持ち上げる論理には危険がある。だから我々は警鐘を鳴らしたのだ。
ASEANについてはそうは行かない。変な幻想を持たれると実害が発生する。ましてそれを理想化して、日中韓三国がASEANのようになればいいなどと考えられると、正直困る。
とにかくレベルが違う。ASEANは全部足して1になるかどうかのレベルだ。日中韓は独立した大国関係なのだ。
我々はASEANやTACを大いに参考にすべきだと思う。しかしそんな生やさしい話ではないことも覚悟しておく必要がある。

をご参照ください

またもや中国で超大物の失脚が発生した。

今度は党中央統一戦線工作部長の令計画だ。令は胡錦濤が総書記を務めていた時代に党中央弁公庁主任として仕えていた人物。現存幹部の中では共青団グループのトップにおり、次期書記長を狙う地位にいた。

習近平の権力は、胡錦濤と連合することによって支えられいるとみられるため、今回の摘発は胡錦濤との関係を冷たくする可能性がある。

ただ、令計劃の場合はあまりにも派手なスキャンダルであるために、守り通すのは難しかった。周永康、徐才厚を切った返り血としてみておくべきかもしれない。

令の息子が北京市内でフェラーリを乗り回した末に事故死したのが2012年3月、それからすでに2年半が経過している。この間、令にお咎めがなかったほうが不思議だ。

事件発生直後、令はもみ消し工作を行ったらしい。これを知った胡錦濤は、弁公庁主任をおろし、統一戦線部長に転出させたという。しかしずいぶんと甘い処分だ。

やったのは息子だが、フェラーリを買う金はどこから出たのか、それが問題にならないわけはないのだ。一説では令計劃の預金総額は7100億円に達しているという。

ということで、令計劃の摘発は本線とは離れたケースと見ておくべきかもしれない。

なお事件に関して遠藤誉さんがコメントしていて、

1.令計画の背後には山西閥、あるいは電力閥が控えており、そこを狙った攻勢の可能性もある。

2.これらの閥の総帥は李鵬元首相である。

3.江沢民と石油閥への攻勢を終え、次は李鵬と電力閥がターゲットとなるかもしれない。

4.しかしこれは権力争いではなく、国有企業の大規模な構造改革への第一歩であると見るべきである。

と述べており、卓見であろう。

1997年度 北海道AALA定期総会議案から再掲します。

香港返還と台湾

香港の中国返還にともなって,台湾問題がさらに尖鋭化するのか,それとも安定していくのかは,にわかに論じることが出来ません.おそらくそのカギは,香港において民主主義が具体的にどのように尊重されていくのかにかかってくるでしょう.
新 執行部が定めた「香港基本法」は,これまでの条例中人権保護にかかわる部分にクレームを付けました.香港の民主派の組織「前線」や弁護士会などは,これに 対し一斉に反発しています.もし香港で「天安門事件」が再発するようなら,中国は世界中の反発を受け国家の存立そのものが危うくなります.
中国が台湾周辺で行った挑発的な軍事演習,南沙諸島への進出は,東アジア各国の警戒心を呼び起こしています.それは台湾が米国からF16戦闘機150機を購入するための絶好の口実ともなりました.ロッキード社はさぞかし大喜びしていることでしょう.
さっ らに中国はフリゲート艦3隻を南沙諸島に派遣.島に建造物を構築します.4月末にはさらにルソン島沖200キロのスカボロ島にも中国船が進出.フィリピン はこれに厳重抗議するとともにフリゲート艦2隻を急派,厳戒態勢を敷きます.一連の事態に,中国は「わが国の主権に対する挑戦であり,厳重な関心を表明す る」と非難します.
しかし中国の改革はもはや後戻りできないところまで来てしまっています.その生殺与奪の権利は事実上米国資本に握られつつあり ます.返還後の香港には,いま中国全土から巨額の資金が流入しつつあります.中国の金融市場とその構造にはまもなく激変が起こると予想されます.この激変 に耐えて中国政府が「一国二制度」の公約を守るならば,台湾問題は解消し,平和的統一が展望されることになるでしょう.
台湾問題の基本的視点は,中国という国の平和的,民主的統一にあります.中国は本来一つだし,一つであるべきです.台湾であろうと中国本土であろうと,民族統一は中国人すべての願いです.少なくともこの観点から議論を出発させないと,奇妙なことになります.

多分、中国は虎の尾を踏んだことになると思う。初動の決定的な遅れは明らかだ。
香港は天安門ではない。
しかし最近の指導部には、そのことが分からなくなっている。
南沙諸島、尖閣と流れを見ていくと、かつての日本軍部と同じように、アメリカの出方を見ながら、1つづつ各個撃破しようとしているようにみえる。
これを見ていると非常に危うい。各個撃破を連結してひとつの論理が形成されると、こんどはその論理に引きずられて根っこが見えなくなってしまう。
香港は依然として中国金融のもう一つの中心であるとともに、華僑資本の本拠地でありハブ都市だ。ここを根城にして、華僑のネットワークはシンガポール、マレーシア、インドネシア、タイなどに展開している。
彼らは国内政治への関与を慎重に避けている。経済利害が一致する限りはどのような政治勢力とでも組む。香港でもできる範囲内での妥協を行ってきた。企業活動の自由が根本的に損なわれる危険があれば、そうばかりも言っていられなくなる。それは国際商業・金融資本のコンセンサスともなる可能性がある。
なかでももっとも危険な事態は、香港への天安門型対応の可能性だ。
これだけ国際経済のしがらみの中に入り込んでいる中国にとって、華僑資本と国際商業・金融資本が同盟した場合の破壊的影響は計り知れないものがあるだろう。
97年のアジア通貨危機のとき、ヘッジファンドの最終ターゲットは香港だった。華僑資本がいっせいに逃避して投機資本が仕手戦を挑んだとき、中国ははたして耐えられるだろうか。香港マーケットは維持できるだろうか。

どうということはないベタ記事だが、中国ネタ。
複数の中国政府高官の腐敗をインターネットで実名で告発した広東省の新聞「新快報」記者が、釈放されたというもの。
面白いなと思ったのは、釈放の理由が検察当局の指示によるものだということだ。
この記者は「誹謗」罪の容疑で北京市の公安局により拘束されていた。
たいていはそれでおしまいなのだろうが、今回は検察当局が公安局の起訴要求を退け、釈放を命じた。
どういうことなのかは想像するしかないが、周永康が仕切っていた公安当局の威勢が墜ちてきた兆候かもしれない。
検察官というのは元来が司法の畑だから、多少は違うのかもしれない。違うとしても五十歩百歩だろうが。
もっと深読みすると、問題の性格上、この決定が党最高幹部の判断なしに行われたとは思えない。したがって公安への強い牽制のサインと読むべきかもしれない。これを李克強の「人治から法治への長い道のり」の一歩と見るのは穿ち過ぎだろうか。


大躍進運動 年表

1957年

7月 毛沢東、「8ないし10回の5力年計画を経てアメリカに追いつき,追い越す」目標を提示する。

10月 共産党の第8期3中全会、「農業発展綱要」を採択。毛沢東の主張を反映した12年計画で、農業生産力を飛躍的に発展させることを目指す。

10月 大躍進運動が始まる。河南省からはじまった大規模な水利建設運動が全国に拡大。

11月 毛沢東が訪ソし、フルシチョフと会談。フルシチョフは15年で米国を追い越す構想を述べる。これを受けた毛沢東は15年で英国を追い越す構想を打ち出す。

1958年

1月 共産党政治局の「南寧会議」、地方工業生産額が10年内に農業総生産額を上回るようもとめる。

2月 四害駆除作戦が開始される。四害とは伝染病を媒介する蝿、蚊、ネズミと、農作物を食い荒らす雀のこと。北京だけでも300万人が動員され、3日間で40万羽のスズメを駆除した。スズメの駆除は、かえって害虫の大量発生を招いた。

3月 共産党政治局の「成都会議」が開催。第二次五ヵ年計画が発表される。鉄鋼生産量を年間2億7千万トン(前年比26倍)、穀物生産5億トン(前年比2倍)とするもの。このため農業合作社の大型化を提起。

5月 共産党の8全大会。鉄鋼生産目標値が大躍進政策のシンボルに据えられる。

6月 陳伯達、「合作社を、農業合作もあれば工業合作もある基層組織単位,農業と工業とを結合した人民公社とする」ことを提起。なお公社とはコミューンの中国語訳である。

レジェンドとしては、毛沢東が農村を視察した際に大農業集団組織に注目し、「人民公社は素晴らしい」と語ったのがきっかけとされる。

7月 フルシチョフが中国を訪問。人民公社化の行き過ぎを警告。フルシチョフが提案した防衛構想を中国は内政干渉としてはねつける。

8月 党中央政治局拡大会議、「人民公社決議」を採択。農産物の水増し報告を元に、重工業への力の集中を決定。

8月 中国、金門島への砲撃を開始。

9月 決議採択から1ヶ月で、全国のすべての農村に人民公社が設立される。私有資産の集団化や自留地の撤廃,公共食堂に象徴される現物供給制の実施,無償労働などが導入される。

10月 鉄鋼の大増産を目指す運動が開始される。原始的な溶鉱炉(土法炉)を用いた製鉄が全国で展開されるが、技術的未熟さから失敗に終わる。

11月 第8期6中全会(武昌会議)、「人民公社のいくつかの問題にかんする決議」を採択.社員の家屋や衣服,家具など生活用品の個人所有を確認。家畜や家禽の所有,小副業の可能性を認める。

1959年

4月 第8期7中全会(上海会議)、毛沢東の発案になる「人民公社にかんする18の問題」が承認される。自留地を復活させ,家畜の個人飼養を促進するなどの指示。

6月 ソ連が「国防新技術協定」の破棄を通告。国防新技術とは核兵器のこと。

7月 江西省の廬山で政治局拡大会議が開かれる。彭徳懐は「プチブル的熱狂主義」と呼んで、大躍進政策の問題点を指摘する。

彭徳懐の批判: 
(1) 大躍進の成果を強調しすぎて、共産党幹部が大衆から遊離している
(2) 経済発展の法則を無視するべきではない
(3) 左派の誤りを是正しにくくなっている
(4) 人民公社の建設は性急過ぎた
(5) 毛沢東の個人決定が多く、集団指導体制がない

7月23日 毛沢東が廬山会議で彭徳懐を批判する演説。「大躍進およぴ人民公社政策には誤りもあったが(1本の指),全体としては正しく(9本の指),否定的な側面ぱかりを見て肯定的な側面を見ないのは間違い」と主張。

8月 共産党八中全回が開かれる。毛沢東は「野心家、陰謀家、右翼日和見主義」として彭徳懐を失脚に追い込む。その後、一連の調整措置は全面否定され、さらに急進的な路線が展開される。

8月 ダライ・ラマの亡命を巡り、中印国境での武力衝突が発生。ソ連は中立の立場をとる。

9月 フルシチョフが中国訪問。交渉は決裂し、毛沢東は彭徳懐の背後にはソ連日和見主義があると非難。

9月 飢饉が本格化。

1960年

1月 政治局拡大会議(上海)、再ぴ高い粗鋼生産目標が定められる。

6月 上海会議。毛沢東は「大躍進」運動の誤りを総括し,「実事求是」の原則 を忘れていたと指摘。

7月 ソ連は中国に派遣していた1390人の技術者の引き上げと機械部品および原油供与の中止を発表。

7月 都市においても人民公社が作られ、都市人口総数の77%が参加。

11月 党中央が、「農村人民公社の当面の政策問題にかんする緊急指示の手紙」を発表。12項目の改善策を提起。

大躍進運動が失敗。毛沢東は責任を取り国家主席を辞任する。これに代わり劉少奇、鄧小平が経済再建にあたる。

1962年

1月 中国共産党拡大工作会議(7千人大会)、毛沢東は大躍進の失敗に対する自己批判。同時に安徽省における「責任田」方式も「中央を封鎖し,民主を圧制する」作風だと批判。

6月 郵小平が「黒猫白猫論」を展開し,農民生活が困難な地域では各種の方法をとることができると主張。

9月 第8期3中全会(少なくとも9中全会のはずだが?)が開催される。社会主義=過渡期」論が確立し,社会主義の全ての期間において階級闘争が継続するという,継続革命論が公式に採択される。

バニスターの推計した死亡率にもとづけぱ,犠牲者の数は1959-61年の3年間で2,608万人とされる。

 

以下、大躍進運動とその悲劇(甲南大学 青木浩治 藤川清史)より引用

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食糧生産量と米生産量は1958年から大きく落ち込む。回復には20年を要している。食糧250キロが飢餓線、300キロ以下が栄養不足とされる。

大躍進期から1965年くらいまでは、中国国民は飢餓水準にあった。都市部の工業地域で餓死者を出すわけにはいかないので、農村部ではさらに食糧事情が逼迫していた。

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片対数グラフであることに注意。力を入れたはずの鉱工業さえも深刻な落ち込みを経験し、回復には10年以上を要している。

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アメリカにおける大恐慌後のGNPの推移、日本における太平洋戦争によるGNPの推移、中国における実質物的総生産(かつての社会主義国のGNPに相当します)の推移を示す。

「大躍進」の失敗は、日本の敗戦の影響と大差ないほどの経済的インパクトを与えた。


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上図は、別の文献からの引用

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左が安徽省、中が四川省、右が上海の出生率・死亡率推移。

農村部に被害が集中し、上海はほとんど被害を受けていない。出生率の低下は構造的な傾向と思われる。

 安徽省ではそれまでの死亡率が約10%なのに対し、60年には70%近くに達している。単純に計算すると死者7人のうち6人は餓死ないし栄養失調死ということになる。

四川省の場合は、この状況が58年から61年まで4年間にわたって続いたことになる。つまり同じ農村地帯でも奥地に行けば行くほど、状況は深刻だったと考えられる。

チベット問題は情報のバイアスがあるので、そのままには受け取れないが、四川省以上に深刻であったろうことは容易に予想される。


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この図は中兼和津次さんの論文からの引用

1.人民公社制度のもつ平均主義的分配や労働力,資材の無償調達などの否定的影響。

2.無理な工業化による労働力の移動,農業への低い投資配分,過剰な食糧調達

3.それらが生産意欲の停滞をもたらし,生産は一層低落する,というメカニズム

と説明されている。

ただ、政策というのは誤りはつきものなので、問題はそれを是正するフィードバック機構が働くかどうかである。

当時は毛沢東の独裁体制であり、その上で毛沢東が過ちを犯したのだから、フィードバックは効きようがないし、救い道がない。

廬山会議での毛沢東の発狂が全てである。


朝日新聞の中国総局が編集した中国共産党の実録物「紅の党」が文庫本で手に入る。
遅読の私としては珍しく一気に読んだ。「なるほど、そういうことだったのか」という知識が満載である。とくに12大会直前の習近平の雲隠れについては、胡錦濤派と江沢民派の争いに巻き込まれないための自衛処置だったと言われると、つい説得されてしまう。
ただ読み終えた後の感想としては、意外に印象に残らない。
結局「政治部」の感覚で、政局とその裏側を追っているにすぎないのではないか、という思いがしてならない。

もっと「路線」の問題として考えるべきだろうと思う。
私は江沢民と胡錦濤の闘いではないと思う。たしかに人事をめぐってはそういう印象はある。しかし基本的には胡錦濤の脱政治路線・プラグマティズム路線が否定されたのが12回大会ではないかと思う。
とくに、テクノクラート重視と裏腹の関係で軍の「近代化」が推し進められ、胡錦濤がその力を背景に党支配を強化しようとしたことに警戒感が高まったのではないかと思う。
単純化すると、
1.国家が社会主義国家でなくなってしまう。
2.共産党が人民の党でなくなってしまう。
3.テクノクラートと軍の支配する国になってしまう。
ことへの危機感が、胡錦濤を引きずり下ろしたのではないだろうか。
もちろん汚職の問題は深刻だ。これは徹底してやらなければならない。しかしそれ以上に深刻なのは「路線」のブレではないだろうか。

もちろん毛沢東路線との決別は、いずれの派にとっても自明の問題だ。いまさら毛沢東路線の復活などを考えるものはいない。問題は毛沢東路線と決別しどこに向かうかだ。
文革終結後の疲弊した状況にあって、鄧小平のプラグマチズムは有効だった。あれがあったからこそ天安門事件も乗り切れたのだろう。しかしそれは本来は、非常時における緊急避難的なものであった。それは党の高い倫理性と闘う姿勢を犠牲にしたものであった。それが平時にもそのまま持ち越されるなら、党の指導力は、その根元を掘り崩される危険性がある。
羅針盤なき改革・解放はもはや弊害をもたらすのみだ。それはおそらく共産党を指導的地位から脱落させることになるだろう。

李克強首相が注目すべき発言をしている。

メルケル首相が訪中し、李克強と会談。その後の共同記者会見で、李克強が人権問題について発言した。

赤旗などによると、

1.我々の包括的な改革には政治、経済、環境などに加えて人権分野の改革も含まれる

2.我々は経済改革と同時に法治建設も強化する。

3.法治建設の責任は重大だが、前途は遠い。

4.相互尊重を前提に人権対話を行いたい。

これは【北京時事】の配信したもので、時事通信は独国際公共放送「ドイッチェ・ウェレ」(中国語版)から情報を得たようだ。

メルケルに対する多少のリップサービスもあるのだろうが、「前途は遠い」という言葉に真剣味を感じる。現在の人権政策のいちじるしい遅れを、率直に認めていると見て良いだろう。

この認識は非常に大事だろうと思う。


ただし中華網ではこの発言について触れていない。日本のメディアも盧溝橋事件へのコメントに言及するだけで、「相互尊重を前提とする人権対話」という提起には全く触れていない。

白善燁の本が全然進まない。
まだ序文だ。
ちょっといいところを抜粋。
世界で分断国家は、ここ韓半島だけとなった。この異常な事態はどうすれば打開できるのであろうか。それには将来を見通す視点を持たなければならない。
…ではどうすればその視点が得られるのであろうか。それにはやはり1894年(明治27年)に勃発した日清戦争から100年、この1世紀は韓半島にとっていかなる時代だったのかを、歴史的に評価する必要があるだろう。

未来志向で歴史を学ぶ、この視点が必要だということだろう。
ただよそ者の私にとっては、どうしても南北統一の悲願というあたりが理解しきれない。
(白は平壌出身だから特別強い思いがあるかもしれないが)
むしろ朝鮮半島の平和と繁栄、そして朝鮮半島を取り囲んで日本と中国とを含めた東アジア共同体の構築、あえて言えば「大東亜」共同体を形成していくことを目標とせざるを得ない。その上で核心となるのが、朝鮮半島の安定であることは論をまたないが。

韓国および北朝鮮の戦後史年表 0 (戦後史といいながら戦前編です)   韓国および北朝鮮の戦後史年表 1    韓国および北朝鮮の戦後史年表 朝鮮戦争   

韓国の朝鮮戦争後史年表(53年以降)     北朝鮮の朝鮮戦争後史年表(53年以降)  日本の植民地支配と朝鮮人民の闘争

中国共産党にまたもや激動が走った。

軍制服組のトップ(前職ではあるが)が収賄行為に関わったと認定し、党籍剥奪処分としたのだ。

その名は徐才厚。2012年に引退するまで中央政治局員、軍事委員会副主席として郭伯雄と肩を並べていた。薄煕来よりは上級である。

赤旗によれば江沢民の送り込んだ軍幹部とされているが、郭伯雄が江沢民政権のもとで2階級特進して軍事委副主席になっているのに対し、徐は胡錦濤の軍事委首席就任と同時に副主席になっており、そのへんの関係は良くわからない。

この発表が30日、同じ30日に周永康の側近2人も党籍剥奪処分が発表された。誰もが、周永康と徐才厚、そして薄煕来を一体のものと考えるに違いない。習近平政権もまちがいなくそれを意識していると思う。

とにかくただごとではない。

赤旗もふくめ報道は江沢民派の排除だという見方で一致しているようだが、はたしてそうであろうか。

習近平政権発足時の常務委員の顔ぶれのところでも書いたのだが、習政権はある意味で挙党一致政権ではないのか。そして軍・警察・石油独占を握る特権支配層の打倒にあったのではないか。

だとすれば、トップ7人は共通の強い危機感を持ち、その団結は堅いと見るべきではないか。

私はそこに注目している。

赤旗で、松本記者がシンガポールのアジア安全保障会議を取材した報告を載せている。
前者は安部首相やヘーゲル国防相も出席する大きな会議で、マレーシアの方は学者と政府高官のワークショップみたいなものだったようだ。
当然前者は意見の言い合いになるのだが、松本記者は米中以外の発言に注目している。
ほとんどの発言が中国の「挑発的行為」を問題視。マレーシア国防相も「2国間と地域的な関与を通じて中国に対処する」ことを強調し、「法の支配の実現」を呼びかけました。
というのを引用している。
もう一つは米日両国とASEANの論議で、「リバランス」をめぐるものだった。リバランス戦略は、結局軍事同盟の強化というところにつながっていくことが、議論を通じて見えてきた。
「リバランス」政策は国務省というより国防総省のラインから出てきたもので、そういう意味では90年代クリントン政権の「ナイ構想」につながっているところがある。
ただASEANがNATO型軍事同盟への懸念を表明したのに対し、ヘーゲル国防長官は次のように対応している。
「各国は自国の安全保障に責任をもつべきだ。しかし、もし集団安全保障や同盟に参加したいなら参加すべきだ」
ということで、今ひとつ真意がわからない。「本気度」が伺えないのだ。
これは結局、中国の第二列島線(伊豆・小笠原諸島からマリアナ諸島を経てニューギニアに至るライン)構想に対して明確な態度をとれていないことに起因するのだと思う。第2列島線というのは、かつて日本で叫ばれた「マラッカ海峡生命線」と同じような発想で、防衛という名の膨張路線である。絶対に認めることのできない思想だ。
「太平洋は広い」と言って勢力圏を分割する中国の提案に、アメリカは曖昧な態度を取り続けている。
はっきりしているのは、中国の南シナ海進出や尖閣での挑発(第一列島線)は、第二列島線の形成のための必須条件だということだ。海上の防衛線は原潜とイージス艦を抜きにしてありえない。それには南シナ海とバシー海峡が必須だ。
アメリカはこの中国の戦略に対して基本的なところで腰が座っていないから、南シナ海についても正確な態度が取れないのだ。そして結局は自国のエゴを追求するということになる。そうなると「リバランス」戦略に筋が通らなくなる。
これが今の状況ではないだろうか。


タイのこの10年間を見ていると痛感することが2つある。
ひとつは、腐敗した民主主義は「清潔な」独裁よりはるかにマシだということだ。「清潔な」民主主義は腐敗した民主主義の中から生じてくるが、清潔な独裁からは生まれてこない。
もうひとつは、民主主義が成熟して清潔な民主主義に向かうには時間がかかるということだ。腐敗した民主主義を糾弾することは清潔な独裁を支持することではない。なぜなら清潔な独裁は腐敗した民主主義からは生まれてこないからだ。清潔な独裁は腐敗した民主主義を利用して民主主義を否定するからだ。
まずは腐敗した民主主義を支持しなければならない。腐敗した民主主義は清潔な独裁が否定されたところから生まれてくる。清潔な独裁主義者が独裁を続けられなくなった時、彼らの一部は腐敗した民主主義者に生まれ変わる。
支配者が腐敗した民主主義者と清潔な独裁主義者に分裂した時は、清潔な民主主義者にとってチャンスなのだ。その裂け目をどれだけ深く、修復不可能なところまで持っていくかが大事なのだ。
時間がかかるのだ。一喜一憂していても始まらない。とりわけ労働者階級をどれだけ力強く組織できるかが決定的だ。農民・小作農・農村労働者を支配層からどれだけ切り離せるかが勝負だ。合法活動と非合法活動を組み合わせて、不抜の組織を構築していかなければならない。
度重なるクーデターがもはや時代遅れであるのと同様に、都市での赤色テロも農山村でのゲリラ活動も時代遅れだ。自警団や準軍事組織との闘いは厳しいものとなるに違いないが、生産点を握って離さない活動が必要だ。今はぎりぎりそれが可能な時代に入っている。
誤解を恐れずに言うなら、「民主化は韓国に学べ!」だ。
書くのが面倒くさくなったので、
韓国の朝鮮戦争後史年表(53年以降)紹介:韓国の民主運動を参照されたい。

中国軍事戦略の趨勢と海軍

石油公社問題はいよいよ本丸、周永康に迫ってきた感があるが、これだけの騒動の渦中に南シナ海での石油掘削を強行したことは、南シナ海問題がどうも石油公社だけの話では無いようだと感じさせる。

そこでもう一方の旗頭である海軍の事情についても知って置かなければならないと考えた。しかし軍事問題は非常に専門用語が多くなかなか理解できない。

ここでは阿部純一さんという人の書いた上記のレポート(2011年)を抄読する。

1.毛沢東の軍事戦略

2.鄧小平の軍事戦略と海軍

3.江沢民の軍事戦略とハイテク化

4.胡錦濤の軍事戦略と情報化

アメリカの中東での戦闘では、衛星やインターネット、無人偵察機等、情報通信分野における技術革新が戦争の遂行形態を革命的に進化させた。中国にとってはそのキャッチアップが課題となった。

「国防整備と経済建設の調和のとれた発展」よりも踏み込み、まさに「富国強兵」に舵を切った。

5.海軍近代化の意図するもの

大陸国家である中国は、伝統的に沿海防御中心の考え方を採ってきた。

宿願である台湾との統一をめざし、「独立」を阻止するため、台湾海峡を中心とした海域における制海権、制空権の確保も人民解放軍に課せられた。

第一列島線は、(中国が主張する)排他的経済水域をカバーするものであり、絶対的な制海権を確保する対象である。

第二列島線は、中国の対米「接近阻止」戦略である。

6.南シナ海の「聖域」化がもたらす摩擦

中国が南シナ海を「核心的利益」とすることは、戦略的には異なった見方ができる。中国は南シナ海をミサイル原潜のための「聖域」にしたいのである。

これまで地上発射の戦略核ミサイルにのみ依存してきた核抑止力に、新たな核抑止力としてミサイル原潜を展開しようとしている。

しかし、この海域は日本や韓国にとっても重要な海上輸送ルートに当たり、中国がこの海域で海軍力を強めようとすれば、国際的な摩擦を生じることは避けられない。


ということで、中国海軍の狙いがおぼろげながら浮かび上がって来る。

中国は当然アメリカを仮想敵国として戦略を組み立てている。そこで一方では「太平洋を分割しましょう。そこまでは自由にやってください。そこからはこちらも反応しますから」という線を提案することになる。これが第二列島線だ。

とは言うものの、具体的な抑止力がなければ相手はそんな提案には目もくれない。そこでミサイル原潜による抑止網が必須のアイテムとなる。

ところが中国の沖合には広大な大陸棚が横たわっていて、原潜の活動にはきわめて不向きだ。おまけに東シナ海には沖縄列島があって、米軍の強大な基地もある。

となれば、南シナ海を舞台とし、バシー海峡を太平洋への出口として確保するしかない。これによって初めて第二列島線が実効性を持つことになるわけだ。

むしろ南シナ海の石油資源を巡る争いは、中国海軍にとって奇貨であり、利用しない手はない。

というのが海軍の本音だとすれば、ことはそう容易に形のつく問題ではなさそうだ。

フィリピンへの米軍基地再建も、むしろ海軍増強のチャンスなのかもしれない。ただしこの賭けは凶と出る可能性も十分ある。

根本的には第二列島線(対米防衛線)の考えを破棄することが一番なのだろうが、それはかなり長期的なものになりそうだ。

とすれば、これを自国の権益線と混同しないことがもっとも求められるのではないだろうか。

とりあえず、これまでの南沙関連ファイルを列挙します。



中国内部の指導権を巡っては











アジアの平和協力については、下記を参照のこと






下記はホームページの南シナ海・南沙諸島関連ファイル

中国における「中核的利益」突出の時系列
南シナ海と南沙諸島をめぐる紛争年表  を、ホームページに転載しました。
ブログに分割掲載していたものを増補・一本化しました。




いつかは来るとは思っていたが、それにしてもすごいスピードだ。
世界観を根本的に変えなければならない時が来ている。
安倍首相の時代遅れを批判するが、そういう我々さえ遅れているのかもしれない。
思えば鳩山首相がずっこけた時点で、周回遅れになって、今はトラックを逆に走っている状況だ。

14日のWTOの発表で、2013年に中国が米国を抜いて貿易世界一になったことが分かりました。
輸出入を合わせた貿易総額は中国が4兆2千億ドル、米国は3兆9千億ドルだった。
実は単純比較ではすでに12年時点で首位だったが、WTOの計算方式ではわずかに及ばなかったもの。

 

 国共合作期の動きをもっとも詳しく適確に展開した論文が下記のものである。

柴田誠一 「モスクワと中国革命の指導

北大スラブ研の「スラヴ研究」(Slavic Studies)に掲載されたもので、なんと1961年の発表だ。

その後、戦前の中国の革命運動については京都大学から共著で浩瀚な論文集が発表されているが、それと比べても出色だ。

ソ連が初めて極東に進出するのはロシア革命から1年余立った1920年の初め頃で、イルクーツクに拠点を構えた。

イルクーツクにはコミンテルンの極東支局が設けられ、日本・朝鮮・中国の解放闘争を指導するようになる。

このなかでは朝鮮への影響が圧倒的に強く、このあたりの経過は「朝鮮戦後史年表-0」に記載している。

中国への影響は限定的で、比較的早期からモスクワが直接乗り出して指導している。

しかし最初に中国に乗り込んだ共産党員ヴォイチンスキーはイルクーツクから上海に派遣された活動家である。

このコミンテルン極東支局というのは、ソ連政府、とくに外務部(外務省)の影響が強く、コミンテルンの名はむしろ隠れ蓑的な意味が強い。

当時はシベリアに侵入した日本軍を始め、ありとあらゆる帝国主義の敵意に囲まれていたから、世界革命の推進というよりはソ連の防衛に役立つか否かが評価の基準となっていた。

その後、孫文と会見したミーチンはモスクワから直接送り込まれた外務部の人物である。そして国共合作で連ソ・容共路線が打ち出されたとき、国民党政府の軍事顧問として送り込まれたボロディンも外務部のラインを通じて動いている。

厄介なのは、彼らがソ連政府外務部の方針に基づいて活動していたにもかかわらず、中国共産党にはコミンテルンの代表のごとくに接して、あれこれと指導したことである。

たしかに初期のコミンテルンには、各国の運動を指導する能力はなかったし、革命の初期においてはそれほど厳密な区別をする必要はなかったのかもしれない。しかし中国で北伐作戦が始まり、それに呼応して各地で農民や労働者の闘争が盛んになると、この矛盾は次第に深刻なものとなっていった。

ソ連政府にとっては、ソ連の隣に国民党が支配する友好的な国家ができればそれで十分であり、高望みする必要はなかった。いずれ熟したりんごが落ちるようにこちらに近づいてくると踏んだのだろうと思う。

しかし中国の人民、中国共産党、それに各国の階級闘争を指導するコミンテルンにすれば、それでは話は済まないのである。この矛盾が27年の蒋介石の反共クーデターを引き金として爆発した。だから中国人民の解放闘争は蒋介石にやられたというより、自らの抱える矛盾によって自爆したのである。

こういう経過が大変良くわかり、その後の路線のジグザグの背景を見るうえでも大変役に立った。

それにしても、これだけの論文が61年に書かれていたということには驚いた。なにせ50年以上も前の執筆なので、その後の研究で相当変更もあると思うが、随時フォローしていきたいと思う。

王柯さんが行方不明になったという。

かなり心配なはなしである。王柯さんは神戸大学教授で中国人。

『東トルキスタン共和国研究 : 中国のイスラムと民族問題』という本を出していて、いかにも危なそうなところに片足突っ込んでいたからだ。

東トルキスタン共和国は1944年11月に誕生した国家で、新疆北部のイスラム国家である。

当時の中華民国の圧制への抵抗がソ連の支援を受けてイスラム共和国建設に至った。

しかし第二次世界大戦の終結とともに、中国との関係改善を図ったソ連が共和国への支援を中止した。この後、共和国政府は中華民国との交渉に入ったが、内部闘争を繰り返しながら、ついに消滅を余儀なくされた。(小松久男氏の紹介文より)

王柯さんはまさにこの東トルキスタン共和国の研究家で、ウィグル人居住地域を「中核的権益」とする中国政府にとっては、もっとも危険な人物の一人だったかもしれない。

ネットで探すと、以下の文章がゲットできた。

報告「中国における多様な民族主義を考える……中華民族の言説とジェディッディズムの成立過程を通じて」(小島祐輔氏報告に対するコメント)

「中華民族」はあくまで一種の言説であり、国民統合を実現させる万能薬にならない。

中国が「中華民族による国家であると強調すればするほど、虚構の「民族国家」であることが感じられ、近代国家としての正統性が問われることになる。

ジェディッディズムと呼ばれる運動の実態については未だに究明されていない部分がある。

しかし運動の主体は間違いなくウイグル人で、その舞台となったのはウイグル社会であった。そして、この運動において「東トルキスタン民族」と呼ばれる抽象的な民族共同体はなかった。

近代社会を研究対象とする際に、ナショナリズムまで分析の視野を広めるとしても、ナショナリズムを絶対視することはやはり避けるべきだろう。

と、やや論旨不明瞭ながらも、ウイグル問題を民族問題に局在化させないための、双方の努力を強調している。


東トルキスタン共和国については下記の論文が詳しい。

『理論研究誌 季刊中国』2001年春号
「イスラム教の動向と中国の民族問題」(下)
「東トルキスタン共和国の成立と崩壊」
野口 信彦

ウィキペディアの記載は、やや主観的な偏りを感じる。


おそらく中国指導部は、漢民族と少数民族の統合された国民国家として「中華民族」を使っているのだろうが、「中華」という枠に括られることを少数民族が任用するだろうか、という問題がある。

それと同時に、言葉としてでなく実体として多民族を統合した「中国国民」の枠づくりの営為そのものは、多民族の統合の手法として不可避であることも認めなければならない、という主張なのかと思う。

いずれにせよ、いまは王柯氏の無事を祈るばかりである。

江田憲司さんの李立三路線の検証が非常に面白い。
李立三というのは1930年ころの中国共産党の指導者で、極左路線をとったとして批判されている人だ。
1930年といえば、世界大恐慌のまっただ中で蒋介石政権も大揺れに揺れていた。満州を日本に取られ、国内での人気も地に落ちていた。
そういうときに、政府の転覆を狙って総蜂起をかけるというのはありえない話ではない。
(もちろん内戦が20年も続いていた当時の中国で、ろくな武器も持たずにデモをやっても犠牲ばかりで勝つ見込みはないのだが)
ただ戦い方としては都市ゲリラ的なやり方もあるだろうし、ストライキやサボタージュで不安定化させることを主眼としてもよいのだから、形態はいろいろありうる。
問題は、それが極左かどうかということではなく、闘いの主舞台を都市と農村と、そのいずれに設定するかということなのではないか。

実はそれと似た状況が1959年5月のキューバにもあった。

韓国の進歩新党に期待したが、最近の情報を知るにつけ、がっくり来ている。

結局、洪世和(ホン・セファ)は逃げてしまった。「労働現場に戻る」といっているが、逃げたことに変わりはない。進歩新党から当選する可能性がないと見るや、気の利いた連中は一目散にいなくなった。

いまは
李鎕吉という人が出てきて、労働党と名を変えた。綱領を見るとまったく闘う党としてのイメージはない。ただの人畜無害な「緑の党」である。

結局「親北」の民主労働党への反感のみが、この集団の存在理由であって、それは反共意識と一体のものだったようだ。

多分、この記事は間違っていると思う。
どこかに革新統一への底流が渦巻いていると思う。
戦前の朝鮮共産党の時代から、朝鮮人は民主は得意だが集中は苦手だった。しかしそれはそれでいい。
日本風ではない、韓国風の革新運動が育つことを願っている。


国家情報院に関するその後の情報は、どうもあまりはかばかしいものではない。

10日に朴槿恵大統領の声明発表があり、同じ日にウル中央地検真相調査チームが国家情報院を家宅捜査するということで、歴史的な事件と見たが、政府としてはこれをもって手打ちにしたい様子だ。

まず家宅捜査がきわめて形式的なものであったということである。今回の事件の最終実務責任者だと言える対共捜査局長室には立ち入っていない。捜査終了後、対共捜査局長は「提出してほしいという書類だけ提出した」と話している。なめた話だ。

実は国情院の家宅捜査はこれが二度目で、一度目は2年前の大統領選挙での干渉事件のとき。そのときは捜査官25人を投入したが、今回は10名余りにすぎない。

そもそも検察の立場が矛盾したものだ。ある意味では共同被告である。外交関係もこれあり、しかたなしに行ったような様子を見せている。

正直のところ、野党の攻めも迫力を欠いているようだ。前回のような選挙干渉は最大の権力犯罪として国情院が指弾の対象となったが、今度はスパイ事件での「失策」であるため、怒りは分散する。

脱北者の中にスパイが紛れ込んでいる可能性は十分考えられるし、それに対する取り締まりが必要だということも世論としてある。そしてスパイというのは国家規模での作戦であるがゆえに、泥棒を捕まえるような訳にはいかないことも認識している。

となれば、問題は対中国関係だけとなるかもしれない。

ちょっとはしゃぎすぎたかな。

韓国がすごいことになっている。

韓国国家情報院といえばかつての国家保安院、KCIAとして悪名高い存在だ。

その国家情報院に対して、韓国検察庁の本格捜査に乗り出したのだ。

まず7日に国情院職員数人について出国禁止措置をとった。

10日にはついに国情院本丸の家宅捜索を断行した。一部情報ではすでに事情聴取も始まっているようだ。

この作戦は朴大統領が全面的にバックアップしている。

10日の演説で、「検察は一点の疑いも残さないよう徹底的に捜査し、国情院は積極的に協力しなければならない」と述べている。無論政治家の言うことだから、発言の背景をしっかり把握しないと正確な評価にはならないが。

国情院はこれまで、存在意義を問われると間髪をいれずに北朝鮮スパイ事件を演出し、もって延命を図ってきた。

今回もその伝でやろうとしたに違いないが、証拠として提出した中国側文書が偽造であることが発覚、その後も偽造関与を疑わせる情報がつい次と明らかになっている。

つまり放火犯が自分の服に火をつけてしまった格好である。

ほとんど前世紀の独裁時代の遺物なのだが、権力の壁に守られて今まで生き延びてきた。両金、盧大統領も手を付けられずに終わっている。

今度は、あの朴正熙の娘が、保守派の大統領として、KCIAに手を付けようとしている。この動きは本物だろうと思う。

しばらく目が離せない状況が続きそうだ。

1931年

1月 中国共産党、上海で六届四中全会。瞿秋白は中央指導者の職務を解かれる。同時に李立三路線も厳しく批判され、王明(陳紹禹)と博古(秦邦憲)らによる武力対決路線が開始される。

31年3月

3月 第二次囲剿。動員兵力20万人。蒋介石の右腕といわれる何応欽軍政部長が総司令となる。

3月 汪精衛が広東に国民政府を樹立。蒋介石に反発する軍閥勢力が連合。

5月 関東軍の石原莞爾参謀、武力による「満蒙問題」の解決を主張。満州国建設の計画を主導する。

7月 第三次囲剿。動員兵力30万人。蒋介石みずからが総司令となる。この囲剿戦は満州事変の勃発により中断。

共産党軍は毛沢東の「深く敵を誘い込む」作戦により、政府軍に打撃を与える。「根拠地」は拡大し湖南省境から江西南部、福建西部が解放された。紅軍の勢力は4万人から30万人に拡大した。

 

31年9月

9月 柳条湖事件が発生。関東軍は「暴戻なる支那軍」を打ち破るため軍事行動を開始。

9月 満州事変勃発。満州軍閥の張学良は全軍に撤退・不抵抗を指示。蒋介石軍は第三次囲剿で軍を割く余裕はなく日本軍の行動を傍観。

9月 中国人民の抗日運動が発生。上海では学生10万人、港湾労働者4万人がストに入る。20万人の抗日救国大会が開催され、対日経済断交を決議する。北平(北京)では20万人の抗日救国大会が持たれ、市民による抗日義勇軍が結成された。

9月 満州を除く中国全土の日本商品輸入は前年対比1/3、12月には1/5にまで低下、 上海では対日輸入がほとんど途絶、日本商船を利用する中国人の積荷は皆無となった。

31年10月

10月 日本軍、張学良の本拠とする錦州を爆撃。

11月7日 江西省南部の瑞金で「中華ソビエト共和国臨時中央政府」が樹立。毛沢東が自ら主席となる。最盛期人口1000万人程度の小さな政府であったが、はじめて「人民権力」の創出を実現した点で歴史的である。

12月 蒋介石と汪精衛広東国民政府とのあいだに妥協成立。蒋介石は一時下野する。南京新政権の主席には林森。

 

1932年

1月 「上海事変」が勃発。上海の日本人僧侶への襲撃事件を口実にして、日本軍陸戦隊が上海付近を軍事占領する。関東軍高級参謀大佐板垣征四郎が上海日本公使館付き武官少佐田中隆吉に依頼して起こした謀略事件とされる。

2月 蒋介石が復帰し、最高軍事指導者となる。

2月 関東軍、ハルピン占領。満州全域を軍事占領下に置く。

3.01 「満州国」が建国される。清朝廃帝溥儀が執政に就任。

4月 瑞金の中華ソビエト共和国臨時政府(主席・毛沢東)対日戦争宣言。

5月 上海事変に関して上海停戦協定調印。

6月 蒋介石、第4次共産分子囲剿戦開始。動員兵力は過去最高の50万人に達する。

10月 共産軍は劣勢に立たされ、毛沢東は軍の指揮権を剥奪される。

32年 宋慶齢、魯迅、蔡元培らが中国民権保障同盟を設立。国民党の特務統治に反対し、愛国民主抗日活動を積極的に展開、国共合作を支持する姿勢を明らかにする。

 

1933年

1月 共産党、国内停戦と対日共同抵抗を呼びかける。

1月 中国共産党、本部を上海から瑞金に移す。王明らのコミンテルン派(ソ連留学生グループ)は瑞金政府の指導権を掌握。毛沢東、鄧小平らの毛沢東派を厳しく批判。

コミンテルン派は「都市労働者中心のソ連型革命」を主張、これに対し毛沢東派は、農村に根拠地を作って都市を包囲する路線を主張。統一戦線論においては、コミンテルン派がプロレタリアート独裁路線、毛沢東派はブルジュアジーを含む広汎な民族統一戦線を主張。

2月 日本軍熱河侵攻。蒋介石は第4次囲剿戦の中止を余儀なくされる。

5月 塘沽協定締結。関東軍と国民党政府との間に結ばれる。国民政府は満州国の国境を承認。

10月 蒋介石、兵力100万人、空軍200機を動員し第5次共産分子囲剿戦開始。コミテルンから派遣された軍事顧問リトロフ (オットー・ブラウン)は正規軍による正面対決路線をとった。紅軍の拠点は次々と陥落、ほとんど壊滅状態となる。

10月 19路軍を中心に、反蒋抗日を掲げて福建人民政府成立。王明主導の共産党中央は「第三勢力」として連帯せず。

 

1934年

1月 上海で魯迅らとともに文芸戦線運動を続けていた瞿秋白、当局の手を逃れ瑞金に入る。要職にはつかず。

5月 宋慶令ら2000人の著名人が「中国人民対日作戦基本綱領」発表。すべての中国人民が武装蜂起して、日本帝国主義と闘うことを訴える。

10.18 壊滅寸前の紅軍主力(第一方面軍)が包囲網を突破して瑞金を脱出。その後1年間にわたる1万2000キロの「長征」が開始される。8万6000人が長征に加わり、残り約3万人は陳毅・項英の指導の下山岳地帯のゲリラ戦に入る。

 

1935年

1月 長征の途上貴州省遵義で、共産党中央政治局拡大会議が開かれる。王明らのコミンテルン路線が批判され、独自派の指導部が確立する。総書記にはソ連留学生派の張聞天が就く。毛沢東は政治局常務委員(軍事担当)となる。

1月 張国壽らが「敗北主義と解党主義」を唱え、長征軍から離脱。

2.24 瞿秋白、病気のため長征に同行せず、香港ルートでの脱出を図ったが、政府軍に捕らえられる。6月18日に処刑される。(秋白は、自分のような半人前の文人が政治に関わり、あまつさえ党の指導者となったことは、完全なる「歴史的誤解」であったと述べている)

8.01 中国共産党と中国ソビエト政府が、「抗日救国のために全同胞に告げる書」(8・1宣言)を発表。「すべてのものが内戦を停止 し、全ての国力を集中して抗日救国の神聖なる事業に奮闘すべきである」とし、全中国を統一した国防政府と抗日連軍を組織するよう訴える。

8.19 長征軍内で指導権が移動。毛沢東が周恩来に代わり軍事上の最高指導者となる。

10月 長征軍(第一方面軍)、呉起鎮(陝西省)に到着。8万6000人で出発した長征軍は8000人に減少するが、第二方面軍、第四方面軍と合流し4万人に達する。

12月9日 北平(北京)の学生5000人が「日本帝国主義打倒」「華北自治反対」を叫んでデモ行進。宋哲元の軍隊がこれを弾圧する。

12月16日 さらに1万人がデモ行進。軍隊・警察と衝突。

1936年

36年 モスクワの王明、中国左翼作家連盟の解散と中国文芸家協会の結成を指示。これに対し上海の魯迅、胡風、茅盾らは「中国文芸工作者宣言」を発し、「民族革命戦争の大衆文学」のスローガンを提起。上海文化界は激しい論戦に巻き込まれる。

36年10.19 魯迅が死去。上海の文芸界は「団結と自由の宣言」を出し、統一を実現。

 

1928年

2月 コミンテル執行委員会、一連の武装蜂起作戦を総括。「ソビエト化された農民地域を形成し、土地革命を実践し紅軍を建設する」ことを革命の主要任務とすると決定。

28年4月

4月 蒋介石が第二次北伐を開始。「軍閥、帝国主義打倒」の目標は破棄される。北伐軍は4軍構成で、第1軍は蒋介石、第2軍は馮玉章(もと直隷派軍閥)、第3軍は閻錫山(山西軍閥)、第4軍は李宗仁(広西軍閥)となり、軍閥混成軍の様相を呈す。

4月 日本軍、居留民保護を名目に第二次山東出兵。

28年4月

5月 斉南事変。斉南に侵入した北伐軍と済南守備の日本軍が武力衝突。国民党軍2000、日本軍230の死者を出す。日本人居留民にも16人の死者。

5月 井崗山の毛沢東部隊に朱徳の軍隊と湖南南部の農民軍が合流。兵力1万の紅軍が誕生する。「労農紅軍第4軍」を称する。軍長に朱徳、党代表に毛沢東、政治部主任に陳毅が就く。

28年6月

6.04 張作霖、蒋介石の北伐軍に敗れ満州に退去。奉天駅付近で関東軍の謀略により爆殺される。

6月 北伐軍、北京無血入城。国民党は南京を首都としていたため、北京を北平と改称。

28年7月

7月 モスクワで共産党第6回党大会が開催される。コミンテルン決定に基づきブルジョア民主主義革命の達成を目指す。瞿秋白は「左傾妄動主義」と批判され、蜂起失敗の責任を問われ委員長の職を解かれる。国内での闘争指導には李立三と向忠発があたる。毛沢東は中央委員に選出される。(なお瞿秋白はモスクワにとどまり、中国代表団団長を務める)

10月 南京国民政府発足。蒋介石主席に就任。実際は新軍閥連合。軍閥の長は各省主席に就任。

12月 井岡山で土地法が公布される。すべての土地を地主から没収して、家族数に応じて再分配する。農地管理のため土地革命委員会が組織される。革命根拠地が湖南の他、江西、福建省にも広がる。

12月末 張作霖の後をついだ張学良、国民政府に帰服を宣言する。これにより北伐が完成し全国統一が達成される。

28年 モスクワの第6回党大会に参加した蔡和森、帰国後に香港で捕らえられ処刑される。

 

1929年

3月 桂蒋戦争。蒋介石が軍事指揮権を中央に集中しようとしたことから各軍閥が反発。広西派軍閥との間に戦争。

5月 西北軍の馮玉章が叛旗を掲げ、10月には同じく宋哲元が叛旗。12月唐生智が叛旗。

5月 紅軍、福建省に進出。

6月 日本政府、米英に追随する形で南京政府を承認。

10月 世界大恐慌始まる。

11月 陳独秀、トロツキズムに転向。党を除名される。上海でトロツキスト組織「無産者社」を結成。

 

1930年

4月 「中原大戦」が始まる。国民党同士の内戦となり、蒋介石軍と反蒋で結束した各軍閥が戦った。最終的には張学良(奉天軍)が南京政府側についたため、蒋介石軍(南京政府)が勝利。北方政府は瓦解し、蒋介石に軍事指揮権が集中する。

蒋介石の権力は強大な軍事力と浙江財閥を基盤とする。浙江とは江蘇・浙江省のことだが、実際には上海の両省出身者のグループ。一方で外国の買弁資本、他方で地主・高利貸資本とも一体化する。しかし孫文以来の中国国民党の政治的正統性を受け継いだ側面もあり、薩長による明治維新と類似した性格を持つ。

7月 瞿秋白、モスクワ代表を罷免され中国に戻る。

9月 共産党の第6期中央委員会第3回総会(六届三中全会)が開かれる。中央指導者の瞿秋白が李立三の「左翼的偏向」を批判。毛沢東派もこれに同調したといわれる。

12月 江西省南部の赤色根拠地に対し、第一次囲剿(いそう)が開始される。動員兵力10万人。江西省主席の魯滌平が総司令となる。

30年 魯迅、「中国左翼作家連盟」(左聯)に加盟。国民党政府の弾圧やその御用文人に非妥協的な論争を挑む。

 

1927年

27年1月

1.03 蒋介石、武昌に向かう譚延ガイ主席代理を引き止め、南昌で政治会議臨時会議を開催。中央党部と国民政府は暫時南昌に留めおくと決議する。(ガイは門構えに豈)

1月 漢口と九江のイギリス租界で、英兵と民衆との間で流血事件。民衆は実力で両租界を回収する。

1月 毛沢東、「湖南農民運動視察報告」を発表。初めて農村からの武装革命路線を主張する。

1月 魯迅、北京を去り広東の中山大学教授に就任するが、4月クーデターに抗議して辞任。その後は上海に定住。プロレタリア派と「革命文学論戦」を展開する。

27年2月

2.11 共産党、上海地区代表大会を開催。二回目の武装蜂起について議論。「ストだけではなく、暴動を準備」し、上海を奪取することを決議。

2.18 国民革命軍、杭州を占領。

2.21 上海総工会代表大会の呼びかけによりストライキを開始。参加者は35万人に上る。ブルジョアジーは罷市で呼応せず、国民党の幹部も協力を拒む。

2.22 共産党、第2次上海蜂起を指示。臨時革命委員会を立ち上げる。蜂起は失敗し、戦死者四十数名、逮捕者三百数十名を出す。

2.24 上海総工会は労働者に復職を指示。「復業して大衆的な暴動を準備せよ」と呼びかける。

2月 この後共産党は第三次蜂起を目指し、労働者糾察隊の編成強化と民衆政権の母体としての市民代表会議の結成を目指す。

2月 国民政府とイギリスが外交交渉。イギリスは漢口と九江の租界を中国に返還することで合意。

27年3月

3.07 譚延ガイ、南昌をでて武漢に到着。国民党二期三中全会を開催。蒋介石は中央執行委員会常務委員会主席と政治会議主席からの辞任を通告する。

3月 蒋介石、国民党右派と手を結び、各地で農民運動・労働運動を弾圧。

蒋介石は、軍事力で安徽省や浙江省をおさえ、南京や上海などの大都市を確保し、豊富な資金源を後盾に武漢に対抗しようとはかる。

3.12 上海で第一回臨時市民代表会議が開催される。労働者100,商人50,その他50の配分。

3.17 国民党二期三中全会、中山艦事件後の暫定的機構を廃止し、中央執行委員会を設置。汪精衛、蒋介石をふくむ九名の常務委員が選出される。国民革命軍総司令に与えられていた独裁的権限は否定され、軍事委員会が主権を掌握する。国共合作は、国共両党間の対等の同盟へ変更される。

3月 国民革命軍、浙江軍閥の孫伝芳が支配する南京を占領。攻防戦の中で、外国領事館・住宅・教会が襲われ英・仏・米人6名が殺害される。(南京事件)

3月 英・米両国軍による南京報復作戦。軍艦が南京を砲撃し、軍民2000名が死亡。(南京砲撃事件)

英・米・日・仏・伊は国民革命軍に武力干渉を突きつけた。若槻内閣の幣原外相は、1.武力干渉は事態を紛糾させるだけ、2.蒋介石のような人物を押し立てて時局を収拾させるべき、と主張。 幣原は蒋介石の派遣した戴季陶と接触し、すでにその意志を確認していた。

3.20 北伐東路軍が松江を占領、先頭部隊の第一師団が上海近郊の龍華に到着する。

3.21 上海市民代表会議常務委員会は蜂起とゼネストをよびかける緊急命令を発出、同時に上海総工会もゼネスト命令を出す。

0PM 正午を期して全市八〇万にものぼる労働者がストライキにたちあがる。

1PM 労働者の蜂起がはじまる。労働者部隊は警察署や電話局、兵器工場や鉄道駅の接収に成功。奉魯連軍の司令部がある閘北では、激戦となる。

3.22 9AM 第2回市民代表会議が開会され、上海市臨時政府の委員19名が選出される。

6PM 奉魯連軍の最後の拠点である上海北駅が陥落する。

3.23 第1軍の本隊が上海に入る。

3.26 第1軍に続き、蒋介石が上海に到着する。共産党が頼みとする薛岳の第一師団を郊外に分散移転させ、上海を事実上の軍政下におく。

3.29 蒋介石が市政府の職務開始を阻む。国民党やブルジョアジーの政府委員も着任を拒否。

3.31 コミンテルンが緊急指令を打電。「公然たる闘争は(諸勢力の相互関係がすでにきわめて不利になっていることにかんがみ)当面採用してはならない。武器は引き渡してはならない」とする。

江田によれば、スターリンやブハーリンは北伐の続行を優先し、そのため蒋介石を、国共合作と統一戦線の枠内にとどめようとした。これをうけたヴォイチンスキーはクーデターの直前まで蒋介石との妥協を主張していたとされる。

3月 北伐軍は長江一帯を制圧、広東、広西に加え、湖南、湖北、江西、福建、浙江、安徽、江蘇の9省を支配下に収める。

3月 北伐作戦の中で共産党員は5万8千人に達する。労働組合員は28万人、農民組合には1千万人が組織される。

27年4月

4.05 汪精衛が上海に帰着。陳独秀との共同声明で、国共合作継続を声明。さらに蒋介石攻撃を非とする電報を武漢に打電する。

4.06 共産党上海地区委員会が活動分子会議。「もし蒋介石が糾察隊の武装を解除しようとすれば、すべての労働者がストにたちあがり、蒋介石軍の武装を解除する」とし、武器隠匿を拒否。

4月 英日両軍が上海を砲撃。

4.06 7カ国外交団がソ連大使館への監督強化を要請。張作霖の軍隊が北京のソビエト大使館を強制捜査し。李大釗ら共産党員を逮捕。重要書類を押収する。

4.12 蒋介石が「上海クーデタ」を起こす。上海の軍と暴力組織(青幇・紅幇)が総工会委員長の汪寿華を暗殺。共産党組織、労働者組織を襲撃。デモに立ち上がった労働者を軍が銃撃。

4月 国民党武漢政府は、蒋介石の党籍を剥奪、逮捕令を出した。

4.18 蒋介石はこれに対抗して、南京に独自政府を樹立、共産分子の粛清を宣言。国民党は武漢と南京に分裂。

4.26 北京のソ連大使館から連れ去られた中国人20人中19人が処刑される。

4.27 漢口で第5回共産党大会が開催される。武漢政府との共闘を確認。

4.29 党大会で、瞿秋白(政治局員)が指導部の路線を公然と糾弾するパンフレットを配布。

パンフレットは『中国革命における争論問題―第三インターか第〇インターか 中国革命のメンシェヴィズム』と題され、上海クーデターを許した陳独秀指導部の責任を問うもの。

27年5月

5月 呉佩孚、政権を放棄し、四川省へ逃走する。

5.30 コミンテルン第八回執行委員会総会、共産党の武漢政府への集中的参加と左翼化を打ち出す。

5月 唐生智麾下の第8軍、長沙で省総工会、農民協会、共産党諸機関を襲撃。1週間にわたって処刑を繰り返す。(馬日事変)

5月 上海政変に乗じ、日本が第一次山東出兵を行う。

27年6月

6.17 武漢政府はコミンテルン指令を警戒し、共産党の排除に動く。ボロジンの顧問職を解き、二名の共産党員部長にたいしても辞職を迫る。

6.29 漢口駐屯の三五軍が反共宣言。労働組合を占拠し、総工会労働者糾察隊を解散に追い込む。

27年7月

7.03 共産党が中央拡大会議を開催。「国共両党関係決議」を採択。「中国国民党は国民革命を指導する立場にある。労働者・農民などの民衆団体は、すべて国民党党部の指導と監督をうける」など全面屈服の方針を提起。

7.12 陳独秀は国共合作に失敗した責任を問われ、総書記の職務を停止させられる。張国燾が代理として共産党中央の責任者となる。瞿秋白も責任を問われ臨時中央常務委員会から排除される。

7月 共産党、武漢政府と決別し退去。国共合作は最終的に解体。国民党は容共政策を破棄、第一次国共合作は崩壊した。

27年8月

8月1日 共産党の武装勢力(賀竜、葉挺、朱徳の部隊)、南昌で蜂起。中国人民解放軍の建軍記念日とされる。

8.07 漢口の日本租界で共産党中央緊急会議を開催(八七会議)。陳独秀を右翼日和見主義と批判し解任。瞿秋白が臨時中央政治局常務委員兼中央指導者に任命される。

会議は新たに配置されたコミンテルン代表ルミナス(Besso Lominadze)とHeinz Neumannの指導。湖北・湖南・江西・広東で収穫時期に合わせて武装蜂起することを決定。

27年9月

9月 共産党の武装蜂起が劣勢になる。主力は根拠地を国民党軍に制圧され広東に南下する。毛沢東は湖南省長沙で武装蜂起するが失敗し、井崗山に立てこもる。

9月 共産党内では李立三と王明の都市蜂起論が主流になる。

9.09 南京と武漢の国民党は、蒋介石のもとに統一。

27年10月

10月 井崗山の毛沢東は、「三湾改編」(軍と党の一体化、財政公開、軍隊内民主主義)を実施。

11月 瞿秋白、「間断なき革命」論を提起。さらに武装暴動路線を推進する。

11月 毛沢東、長沙蜂起の責任を問われ、政治局候補委員から解任される。

12月 共産党の都市武装蜂起がことごとく失敗に終わる。

12月 葉剣英の指揮する部隊は広州で蜂起、広州コミューンを樹立。その後国民党軍の包囲を受け数千の犠牲を出して全滅。残る拠点は毛沢東の井岡山だけとなった。コミンテルンは瞿秋白を公然と批判する。

 

1926年

1.04 広州で中国国民党第二次全国代表大会が開かれる。蒋介石は北伐の実行を力説。ソ連軍事顧問団のキサンガは北伐が時期尚早であると反対。

代表278名のうち左派と共産党員が168名をしめていた。しかしヴォイチンスキーの判断で右派にたいする譲歩・妥協が行われ、中央執行委員会には7名の共産党員にとどまる。
しかし9名の常執中では左派が3名、共産党が3名で優位を握る。また党内各部人事では、譚平山が組織部長、林祖涵が農民部長、毛沢東が宣伝部長代行となる。
軍における影響力も強く、第1~6軍の殆どで党代表・政治部主任を共産党員が占めた。

1月 親共派の汪精衛(汪兆銘)が全権を握る。国民政府主席、国民党政治委員会主席、国民政府軍事委員会主席、各軍総党代表を兼任し、政治と軍事の最高責任者となる。

1月 北京政府で政変。馮玉祥が失脚。

2月 北京で共産党が中央特別会議を開催。陳独秀は病気のため欠席し、李大釗、瞿秋白らが主導。北伐作戦への支持を明らかにする。

現在のもっとも主要な任務は、広州国民革命勢力の進攻を準備すること、農民工作を強化することである。
とりわけ北伐の過程ににおいて労農の革命的同盟の基礎をきづき、国民革命の全国規模での勝利を達成することである。

26年3月

3.13 コミンテルン第六回拡大執行委員会、「中国問題についての決議」を採択。「四民ブロック論」を提起する。

国民党を「労働者・農民・インテリゲンチャ・都市民主層の革命的ブロック」とし、国民革命軍を馮玉祥の国民軍とともに「革命的民主主義的な民族的軍隊」の基盤と位置づける。
それを前提に、共産党に民族ブルジョアジーとの統一戦線維持を命じる。

3.18 中山艦事件が発生国民党海軍局所轄の軍艦「中山」が、黄埔軍官学校の沖合に航される。蒋介石は「自らを拉致しようとする国民党左派・共産党のしわざ」と判断したという。

3.20 蒋介石、広州市内に戒厳令を敷き、中山艦艦長の李之竜(共産党員)をはじめ共産党・ソ連軍事顧問団関係者を逮捕。ソ連人顧問団の居住区と省港罷工委員会を閉鎖、労働者糾察隊の武器を没収する。

3.21 蒋介石、李之竜以外の共産党員を釈放し、ソ連軍事顧問団の住居とストライキ委員会の建物に対する包囲を解く。

3.22 ソ連領事館と蒋介石が接触。蒋介石は「今回の事件はソ連に反対するものではなく、個人的な問題から起こった」と弁明する。

江田によれば以下のとおり
 おりしも広州で事件に遭遇したソ連共産党派遣のブブノフ使節団は、蒋介石との折衝のすえ、北伐に反対していた軍事顧問団長キサンカの召喚などの蒋の要求を受け入れ、統一戦線の維持をはかった。
使節団から説明をうけた上海の党中央は、「中国革命勢力の統一」の名のもとに譲歩を表明せざるをえなかった。

3.23 汪精衛はすべての党職を離れる。5月には妻を伴いフランスへ逃れる。

3月 蒋介石が国民党内の実権を握る。「整理党務案」を発し国民党の要職から共産党員を排除、共産党員の服従を強いる。

3月 スターリンの意向を受けたソ連軍事顧問団は、国共合作を維持する立場から蒋介石の行動を是認。ソ連軍事顧問団の首席顧問キサンカ(Kisanka)とロガチョフ(Rogachev)を召還する。

3月 唐生智、長沙で軍閥の長としての覇権を確立。国民政府、呉佩孚の双方に覇権の承認を求める。

唐生智は当時37歳。保定陸軍軍官学校を卒業し、湖南省南部を地盤に覇権争いに加わった。長沙の省長の追放に成功し、軍閥として独り立ちした。

3月 毛沢東が「中国社会各階級の分析」を発表。陳独秀を批判する。

4.16 蒋介石の主導で国民党二期二中全会。「党務整理案」を決議。蒋介石は国民政府軍事委員会主席に就任。

5.08 呉佩孚、北京を制圧。その後奉天軍と和平を結び、国民党の北伐軍の進攻阻止に力を集中する。

5月 広州に帰着したボロジン、共産党の頭越しに蒋介石と協議をおこない、「党務整理案」を共産党に受け入れさせる。

5月 唐生智、呉佩孚軍に攻めこまれ湖南省南部に退く。反撃のため国民党軍への加入を決断。第八軍として国民革命軍に編入される。

26年6月

6.04 共産党、「中国共産党の中国国民党に致す書」を発表。「党内合作か党外合作かの合作方式は固定される必要はない」とのべて、国民党からの脱退を公然と主張する。

6.04 蒋介石の主導のもとに、国民党の中央執行委員会臨時全体会議が開かれる。「迅行出師北伐案」および「任蒋介石国民革命軍総司令案」を可決。「帝国主義と売国軍閥を打倒して人民の統一政府を建設する」ため、北伐作戦を決定。約10万の国民革命軍が組織される。

26年7月

7.01 蒋介石が全軍に動員令を発する。

7.07 国民政府が「国民革命軍総司令部組織大綱」を公布。蒋介石の独裁権力が明文化される。

7.12 共産党、ヴォイチンスキー参加のもと、上海で第四期二中全会をひらく。「軍事運動決議案」を採択。「武装闘争の工作に参加し、進歩的な軍事勢力を援助し、反動的な軍閥勢力を壊滅させ、しだいに労農大衆の武装勢力を発展させるべき」とする。

7.12 第四期二中全会では、蒋介石突出後の国民党の再評価も討議された。「国民党左派(汪精衛ら)と連合し反動派(孫科ら)を攻撃し、中間派の発展を防ぎ、彼らが右を離れて左に就くように迫る」との方針を採択。中間派には「新右派」(戴季陶や蒋介石)がふくまれている。

蒋介石を「反動」ではなく「中間派」としたのはヴォイチンスキーの指示とされる。彼は「社会の勢力の中で、現在はまだブルジョアジーを敵視できない。ときにはまだ中間派を援助しなければならない」と主張した。
決議には「ブルジョアジーが将来の敵であり、あるいは一年か三年後の敵であることはわかっているが、現在は友軍、しかも有力な友軍と見なさないわけにはいかない」との苦渋の表現。

7月 広東の国共合同「国民革命軍」が北伐戦争を開始する。 

北伐の基本戦略: 湖南・湖北の呉佩孚軍を基本打撃対象とし、江蘇の孫伝芳を第二次対象とする。西路軍(唐生智)が先鋒となり長沙から武昌を狙う。中央軍(蒋介石)は西路軍の右翼を守るとともに本拠地の広州を防衛する。東路軍(何応欽)は中央軍の右翼を防衛するとともに、福建方面で積極防衛を図る。
作戦の策定には新任のソ連軍事顧問ブリュッヘルがあたる。

7月 国民革命軍、長沙を占領。

26年8月

8.25 湖北省咸寧近郊の汀泗橋で3日間にわたる激戦。国民革命軍の第4軍が呉佩孚軍と対決。第七、第八軍が戰場左翼で吳軍を壓制する。

8月 陳独秀、党機関紙『嚮導』に、「北伐論」を発表。民衆を無視しかねないものとして批判的に取り扱う。

陳独秀は「国民革命軍の北伐を論ず」を発表。
1.北伐は一種の軍事行動であって、中国民族革命の全的な意義を代表するものではない。
2.投機的な軍人・政客の権勢欲のためのものとなりかねない
3.北伐の意義を「防禦戦争」に限定し、戦費を民衆から調達してはならない。

8月 上海のヴォイチンスキーと瞿秋白が広州に入る。現地のボロディンらと会談し蒋介石との妥協を説く。現地は左派の指導権を回復することを主張。

8.07 瞿秋白、「北伐の革命戦争としての意義」を書く。革命戦争たる北伐の過程でプロレタリアートがヘゲモニーをかちとる必要性を強調。「嚮導」はこの論文を掲載せず。

26年9月

9月 広州の共産党と国民党左派、汪精衛復帰のキャンペーン(迎汪運動)を開始する。

9.09 唐生智の率いる西路軍(国民革命第八軍)が漢口と漢陽を占領。長江を挟んで武昌の呉佩孚軍と対決。

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古い世界地図」より転載

9.09 蒋介石は張静江に打電。国民政府の常務委員が広州から武漢に移動し、政治権力を掌握するよう要請。

蒋介石は西路軍の総指揮をとる唐生智を警戒し、広州政府が武漢に移転することにより、唐生智が自らのライバルとなることを阻止しようと図った。

9.12 蒋介石、上海の陳独秀に対し汪精衛の帰国に賛成しないように要請する。これを受けた上海の共産党中央は、コミンテルン極東局と合同の会議を開催。「迎汪は倒蒋を目的とせず汪蒋合作を目的とする」と決定。

9.16 蒋介石と唐生智が直接協議。臨時政務会議を設置して湖北省の支配を委ねることで合意。

10.03 蒋介石、共産党の中立方針を受けた上で、汪精衛の復帰をもとめる態度を明らかにする。

10.15 広州で、中国国民党の中央委員・各省・各特別区市・海外総支部の聯席会議が開かれる。汪精衛に対する復帰要請が、党員全体の意志として決議される。

10月 唐生智の率いる西路軍が武昌を占領。湖南・湖北から、呉佩孚軍(直隷派)を駆逐する。

西路軍軍事顧問テルニーによれば、
1.唐生智は蒋介石にとってかわろうとしてしていた。 2.そのためにソ連や共産党に接近しようとしていた。 3.上海の孫伝芳と交渉し蒋介石の敗北を画策した。
以上の事実を踏まえ 4.テルニーは蒋介石を支持し唐生智の権力拡大に反対である。

10.22 蒋介石、国民政府を広州に残し国民党中央を武漢へ移転するよう主張。

10.23 共産党による上海蜂起。直前に中止となり、失敗に終わる。

10.28 連席会議が終了。国民党各派及び共産党は、奉天派への配慮から慎重な態度をとり、武漢への移転は見送られる。

唐生智に対する共産党は上海と広州とで分かれる。広東では唐生智を投機的で危険な人物と評価。上海の共産党中央は 1.唐生智は民衆運動を圧迫した事実が全く無い。 2.汪精衛復帰に賛成している ことを重視し、
 唐生智を左傾させ、蒋介石を牽制し、汪精衛復帰への道をひらく方針を出す。

26年11月

11.07 蒋介石の度重なる要請を受けた国民政府および国民党、武漢移転の方向を打ち出す。

11.08 蒋介石の率いる中央軍部隊が江西省の南昌(省都)、九江を占領。

11.16 国民政府の四人の部長(大臣に相当)、および宋慶齢ら国民党の要人が武昌に向かう。ボロディンもこれに随行する。国民党要人不在となった広州では共産党の李済深が省権力の実態を掌握。

11.22 モスクワでコミンテルン第七回中央執行委員会全体会議が開かれる。蒋介石は代表(邵力子)を送り、スターリンの支持取り付けを図る。

11.28 共産党代表の譚平山がコミンテルンで報告。「一定の条件下で民族ブルジョアジーとも連合する必要がある。国民党中間派が左へ歩みより、左派との提携の可能性が生まれている」と評価する。

11.30 スターリンが中国委員会で演説。きたるべき権力は、反帝・非資本主義の過渡的な権力だと規定。またブハーリンは、後進国革命は労働者階級の決定的な影響のもとにおかれ、ソ連と密接な連係をもつ小ブル国家が成立することになると演説。

11月 北伐軍が占領した湖南・湖北省で労働者・農民の運動が急拡大。湖南の農民協会員は140万人、湖北省総工会は30万人の労働者を結集する。

26年12月

12.07 江西省南昌近郊の廬山で「廬山会議」が開かれる。蒋介石と国民政府・国民党の代表が参加する。

廬山会議は蒋介石と共産党との関係にとり、一つの転換点となった。このあと蒋介石は態度を変化させ、武漢移転に公然と反対するようになる。

12.13 徐謙主席が招集した中国国民党中央執行委員会及国民政府委員の臨時聯席会議が武昌で開催される。国民政府と中央党部の武昌への移転が完了するまでは、臨時聯席会議が国民党の最高職権を行使すると決議。

12.16 コミンテルン中央執行委員会総会、「中国情勢の問題にかんする決議」を採択。中国共産党の任務として、「革命の一層の発展と帝国主義との妥協の間を動揺している中間派を、徹底的に批判すること」を掲げる。

これにより、共産党四期二中全会で決定された蒋介石との妥協路線は、公式に破棄される。ただしこのあとも水面下では、ヴォイチンスキーによる妥協の動きが存続する。

12月 国民革命軍、福州を占領。

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