鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

13年4月、ぷらら・Broachより移行しました。 中身が雑多なので、カテゴリー(サイドバー)から入ることをおすめします。 過去記事の一覧表はhttp://www10.plala.or.jp/shosuzki/blogtable001.htm ホームページは http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」です。

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中国共産党の歴史は決して毛沢東の歴史ではありません。
むしろ毛沢東は傍流であり、一地方活動家に過ぎませんでした。
共産党の活動が弾圧の中で追い詰められ、瑞金の「解放区」に逃げ込まざるを得なくなったことで、党内の力関係が変わっていったのです。
といっても長征が成功しなければ、上海の党中央も毛沢東の農村ゲリラも共倒れに終わっていたに違いありません。
そういう意味では中国共産党が蒋介石軍の攻撃を受けながらも生きながらえることができた点で、毛沢東の功績(とくに軍事的な功績)は大きいものがあると言っていいでしょう。
これらの経過については「毛沢東のライヴァルたち」という題名で年表を作成しています。このブログで数回に分けて掲載していますが、最終的には一本化してホームページの方に収録しているのでご参照ください。
この年表は増補に増補を重ねてずいぶん膨大なものになっています。「毛沢東のライヴァルたち」と言いながら、実際には辛亥革命から国共合作までが盛り込まれています。ここまで分厚くなると、余分なものを独立させて、別年表を起こしたくなります。
毛沢東のライヴァルたちの活躍は上海を舞台としています。そして31年で事実上は終わっています。彼らの多くは瑞金に逃れ「中央ソヴィエト」に参加しています。しかしそのイニシアチブは程なく失われ、その後は毛沢東の子分となっていきます。
だから瑞金以後は別年表にしなければなりません。そのためには、どう党内の力関係が変わっていったのかを跡付けなければならないし、それは「瑞金・長征年表」みたいな形で総括しなければなりません。
今その作業の真っ最中なので、とりあえずはごたまぜで「毛沢東のライヴァルたち」年表に突っ込んでおきますので、興味ある方はご覧ください。

年表づくりという形でバングラデシュの状況を整理してみて、あらためて佐藤宏さんの見解に深く頷くものがある。

とにかく、たった40年前に数百万の人々が殺されたのである。この事実をまずもって私達は深く認識しなければならないだろう。

関係者がまだ生きているから、100万人を殺した血まみれのおぞましい虐殺者たちにも生きていく権利は認めざるを得ないのだから、とりあえず、そのことには蓋をして、バングラデシュは経済的自立への道を歩んでいるのである。

しかし往々にして虐殺者への憎しみは火を噴く。なぜなら、虐殺者たちはいまだ虐殺を反省せず、平然と公職につき、イスラムの名において自らの行動を合理化し続けているのである。

だから、彼らは攻撃されればされるほど原理主義的にならざるをえない。「俺のどこが悪い。イスラムの原理に従って行動しただけだ。やれるものならやってみろ、こちらも容赦しないからな」と開き直ることだ。

だから、バングラデシュの原理主義はイスラム原理主義一般よりさらにカルト的で、後ろ暗いものがある。はっきり言えば、身を隠すために「原理主義者」を装った薄汚いイスラム同胞虐殺者の末裔の集団だ。

しかし彼らをここまでのさばらせた最大の原因は、前与党のBNPにあるのだろう。

現与党のアワミ連盟とBNPの支持率は拮抗している。バングラデシュは小選挙区制だから、1,2%の得票率の差で圧倒的勝利か惨敗かということになる。

そこで、一定の底堅い支持率を持つJI の票は魅力的だ。そこでBNPは悪魔と取引し、JIを認めてしまった。これで死に体だったJIは一気に息を吹き返し、そのコマンド組織であるJMBも力を得たのだ。

もともと、BNPも独立戦争を戦った集団であり、JI に対する反感は強いはずなのだが、それ以上に目の前の票には魅力があったのだ。

こういうのを「野合」というのだろう。

バングラのかんたんな経過

バングラデシュ 年表

バングラデシュにおける「野合」 その結果としてのテロ

バングラのかんたんな経過

バングラデシュ 年表

バングラデシュにおける「野合」 その結果としてのテロ

一つのベンガルの時代

 8世紀 中葉にパーラ朝がなり、仏教王朝が繁栄した。

12世紀 ヒンドゥー教のセーナ朝にとってかわられた。

16世紀 イスラムが多数派となる。ムガル帝国の下で商工業の中心地へと発展する。

1651 イギリスの東インド会社、コルコタに商館を設け、ベンガル、ビハール内陸部との交易に乗り出す。

1757  プラッシーの戦い。東インド会社がベンガルのナワブ軍に大勝。ベンガルに対する植民地支配が開始される。

1765 イギリスがディワニーと呼ばれる徴税行政権を獲得。その後イギリスはベンガルからインド全域に支配を拡大した。ベンガルはその中心となり「黄金のベンガル」と称された。しかし織物をはじめとする伝統産業は英国の商品により壊滅。

ベンガル人の誇る文豪タゴールの詩「ショナール・バングラ」(黄金のベンガル)が下敷きとなっている。「おぁ黄金のベンガルよ。我は汝(なんじ)を愛す…」という詩は、バングラ・デシュの国歌となっている。

1905年 イギリスはインド人の分断を意図し、ベンガル分割令を発布。ヒンドゥー教徒中心の西ベンガルとイスラム教徒中心の東ベンガルとに分割する。(梅干しを二つに分けるとき、カルカッタという種が入っている方が西ベンガルで、入っていないほうが東ベンガル)

1929年 ムスリム上層農民を基盤とする「全ベンガル・プロジャ党」が結成される。ベンガル人意識が後退し、ムスリムとしての意識が高揚。

1943年 ベンガルで大飢饉。150万~300万人の死者を出す。

1946年8月 コルカタ(旧カルカッタ)暴動。ムスリムとヒンドゥーの衝突で4千人の死者を出す。

東パキスタンの時代

1947年8月 英領インドがインドとパキスタンに分かれ独立。東ベンガルはパキスタンへの参加を決定。パキスタンは「回教徒の清らかな国」を自称した。宗教はインド亜大陸の最高の掟となった。

1949 年 東西パキスタンはベンガル語とウルドゥー語という言語の違い、西パキスタンの政治的優位などから矛盾が拡大。アワミ連盟の前身である「東パキスタン・モスリム・アワミ連盟」が設立される。

1952年2月21日 パキスタン中央政府、ウルドゥ語を公用語に強制。これに抗議するダッカの学生デモに警官が発砲、軍隊が出動し多数の死傷者を出す。後に「犠牲者の日」と呼ばれ、最初の独立への運動とされる。

1955 年 アワミ連盟、政教分離の観点から党名中の「モスリム」を削除する。

1966年 アワミ連盟が6項目綱領を提案。国防・外交・通貨以外を州管轄事項とするよう求める。中央政府はムジブルを「インドと結託した反国家分子」として逮捕。

1970年12月 パキスタンで初めての総選挙。人口に勝る東パキスタンに基盤を有するアワミ連盟が第一党となる(アワミ連盟は東パキスタンで162議席中160議席を獲得)。中央政府は国会を開催せず、アワミ連盟を無視しさまざまな妨害工作。

バングラデシュ独立の闘い

1971年
3月1日 パキスタン中央政府、憲法制定会議の無期延期を発表。
3月2日 ムジブル・ラフマンがパキスタン政府への非協力を宣言。パキスタン中央政府は軍を空輸しアワミ連盟幹部を拘束。ムジブル・ラーマン総裁は西パキスタンに連行される。国家反逆罪に問われ、死刑を求刑される。

3月25日11PM パキスタン軍がダッカ市内の攻撃を開始。大学の構内などで大量殺戮がはじまる。新聞社や警察署なども攻撃され破壊され、数多くのスラムも焼き払われた。

3 月26 日 東パキスタンは独立を宣言。パキスタン軍を離れた東ベンガル部隊、国境警備隊が中心となり、ムクチ・バヒニ軍(バングラ・デシュ解放軍)が形成され、パキスタン軍に対抗する。

東の部隊は東ベンガル連隊6千人のみであった。そのため、当初、解放軍の実質は国境警備隊の1万5千人、武装警察隊の4万5千人が担った。ムクチ・バヒニは終盤では志願兵を含め10万人以上に達した。

4.09 イスラム協会やムスリム連盟などが「平和委員会」を結成。実際は独立解放派の肉体的抹殺を目的とする。イスラム協会は実力部隊として「ラザカル」を創設。その学生は「アル・バタル」を組織。ムスリム連盟は「アル・シャムス」を組織する。

パキスタン軍は各地で大量虐殺を行った。死亡者は9ヶ月で300万人に達する。
ジェノサイドにはバングラデシュに住む少数民族ビハリが手先になった。ビハリは東パキスタン独立時にインドのビハール州から移民したイスラム教徒。非ベンガル系で、何故か西パキスタンと同じウルドゥー語を話す。
パキスタン軍はビハリを武装し、「ラザカル」(民警)という名で呼ばれる現地傭兵とした。ベンガル人を殺したのはこのラザカルだった。ラザカルはベンガル人の捕虜を一人もつくらなかったといわれる。全部殺した、という意味だ。

12月3日 インド政府が東パキスタンの内戦に介入(第三次印パ戦争)。

12月16日 西パキスタンの派遣軍がインド軍に降伏し撤退。東パキスタンは「バングラデシュ」として独立を果たす。

西パキスタン軍は多くの置き土産を残した。狂信的な極右回教徒組織「アル ・バド」は、ダッカ陥落の直前に知識人、学者、ジャーナリストを惨殺した。
また、大量の武器をラザカルの手に残した。解放直後、クチ・バヒニは各地で ビハール人、「ラザカール」、ベンガルトの敵対協力者に「目には目を」式の報復を行なった。ラザカルの残党とビハリは、文字通り必死の戦闘を繰り返したという。 

ムジブルとアワミ連盟の時代

1972年1月 ムジブル、パキスタンから戻り首相に就任。「3年待って欲しい。3年たったら我々はこの国をショナール・バングラ(黄金のベンガル)にするだろう」と呼びかける。

3万7,471人がコラボレータ(パキスタン協力者)として逮捕される。起訴されたのは2千人程度で、実際に有罪となったのは752人だった。

1972年8月 独立戦争におけるゲリラ闘争の指導者として国内闘争を主導したタヘル大佐、「人民の軍隊」を主張し、ナジブル首相に解任される。この後タヘルは地下に潜入,武装活動を続ける。

12月 憲法が公布される。「社会主義」、「民族主義」、「政教分離主義」、「民主主義」を国家の基本原則とする。

1974年

9月 バングラデシュを大洪水が襲う。被災地では3万人が餓死。これまでの経済の疲弊、オイルショックによる不況に拍車がかかる。買占め,売おしみが横行,ダッカ市内の米価は2.6倍となる。

12月 ムジブル・ラーマン、汚職・密輸の蔓延、治安の悪化に対処するため非常事態宣言を公布。

二つのクーデター

1975 年

1 月 ムジブル・ラーマン首相、憲法を改正。議院内閣制から大統領が実権を有する大統領制に変更。大統領の権限を大幅強化、自ら大統領に就任。綱紀粛正の訴えとは逆に身内の重用、大統領親衛隊(ロッキ・バヒニ)の強化などに批判が強まる。

ロッキ・バヒニ(国家安全保障部隊)はアワミ連盟内の急進派約6,000人を殺害、ほぼ同数を逮捕、拷問したとされる。

1月 東ベンガル・プロ レタリア党(ナクサライト)の委員長シラジ・シクダルが逮捕される。タヘル大佐の人民革命軍と共同行動をとっていた。

8月 7人の少佐(いずれもムクチ・ビハニ出身)による反乱計画が実施される。ファルーク・ラーマン少佐(戦車連隊大隊長)は自分が首謀者だったと主張している。CIAが裏で策動したとも言われる。

15日未明 約300人の兵士と戦車・装甲車などが大統領親衛隊(ロッキ・バヒニ)司令部を攻撃。同時に別部隊がムジブル一族の邸宅を襲い、皆殺しにする。

午前5時30分 反乱軍のダリム少佐(前ダッカ守備隊長)がバングラデシュ放送を通じ演説。「ムジブル大統領は殺害され,新大統領に就任したアーメド前商相の指揮の下に,軍が権力を握った」と発表,同時に全土に戒厳令を発布。

午前10時30分 アーメド前商相が放送を行ない,大統領就任を告げる。前政権の腐敗を強調。

8月20日 アーメド大統領声明。腐敗政治家・官僚を一掃。単一政党BAKSALの解散、大統領親衛隊ロッキ・バヒ二の解散、価格統制の廃止、銃・弾薬の回収を行う。

9月9日 アーメード政権,「国防軍に関する政府の見解」を発表,その中で,「過去3年半の国防軍に対する無視・軽視を考え,政府は独立戦争を戦った人々を相応しい,名誉ある地位につけること」を明らかにする。

9月 青年将校らは大統領官邸内に陣取り,中央コントロールセンターを通して軍の支配を図る。ジアウルら陸軍首脳部は青年将校に原隊復帰を命じるが無視される。

11月3日 アワミ派のムシャラフ准将による対抗クーデター勃発。ムシャラフ・クーデターの背後には、既得権益の確保を狙うインドが存在していたとされる。

11月3日午前2時 カリド・ムシャラフ将軍に率いられたダッカ駐屯第46歩兵旅団3大隊が大統領官邸を包囲,放送局を占拠した。青年将校の身柄引渡し,ジアウル陸軍総参謀長の解任,権力の引渡しを要求する。

午後10時 政府と反乱部隊が合意。政府側は青年将校とその家族29人の国外退去,ジアウル陸軍総参謀長の解任とムシャラフ准将の少将昇格・陸軍総参謀長就任,アーメド大統領の辞任を受け入れる。

ジアウル将軍は兵営内に監禁される。青年将校らは行きがけの駄賃に前副大統領、前首相、前蔵相、前工業相を殺害。

11月4日 前政権幹部4人を失ったことから、ムシャラフ派の権力構築が難航。急拠計画を変更,軍革命評議会を結成して,軍政を敷くこととなる。カリルル・ラーマン軍統合総参謀長はムシャラフの就任要請を拒否。

カリルル・ラーマンはパキスタンから帰国した正規軍グループを代表する人物。軍内パキスタン派は一連の事態に対して一貫して中立を保った。

11月5日 人民革命軍がダッカに出現。兵営内で大量の反軍ビラをまくなど宣伝行動。

上級将校が「自己の利己的・野心的権力欲」のためにクーデターを繰りかえし,下級兵士を利用収奪しているとして,兵士 たちに対してムシャラフ派将校の指令に従わず,「人民の軍隊」のために彼等の上級将校と闘争するよう呼びかけた。

11月5日 人民革命軍に呼応した下級兵士たちは「12項目要求」を掲げ, 各地の軍隊内部で将校との闘争を開始する。

12項目要求: 給与の引上げを含む経済的諸要求,政治犯の釈放,汚職,腐敗分子の財産没収,将官と兵士の差別撤廃,将校当番制度の廃止など。さらに軍を支配階級のためのものから人民に奉仕する軍とする。そのために真の革命的兵士により中央革命軍事会議を設置、軍最高司令官もこれに従えというものであった。

11月7日 民族社会党(JSD)に属する左翼軍人グループが決起。「セポイの革命」と呼ばれる。

独立達成後、「ムクチ・バヒニ」の左翼は民族社会党(JSD)に結集し、その軍事組織であるPRA・RSOとして活動した。これらは「人民革命軍」と呼ばれ、アブ・タヘル大佐(退役)に指導されていた。
セポイの乱については、いずれ稿を改めて紹介する。

1時30分 「人民革命軍」が監禁されていたジアウルを救出。1時間余の交戦の末,ムシャラフ少将ら34人を殺害する。

4時30分 放送局を占拠した兵士は、「セポイの革命によりムシャラフ派が追放され,ジアウル・ラーマンが陸軍総参謀長に復帰,戒厳令総司令官に就任した」と放送。

5時 ジアウルが放送演説。「陸海空軍,BDR,警察その他多くの人々の要請により,わたしが暫定的に戒厳令総司令官についた」と発表する。

夜 アーメド前大統領がテレビ演説。「バングラデシュの独立と主権を守るための兵士たちの比類なき革命に心から感謝する」と述べる。

人民革命軍はジアウルを通して「軍の革命的改組」をはかろうとした。ジアウル革命軍事会議の設置に反対し、サエム大統領を戒厳令総司令官とし,三軍総参謀長・文民による諮問委員会の設置を提案。両者の押し合いが続く。

兵営内では将官と下級兵士のきびしい対立。ダッカだけで40人以上の将官が殺される。

7日夜 ムシャラフ派に擁立されたサエム大統領は,自ら戒厳令総司令官に就任すると共に,三軍総参謀長を戒厳令副司令官に任命した。

8日 サエム大統領、国会の解散 と閣僚の解任,総選挙の1977年2月までの実施を発表。

11月9日 JSDと人民革命軍がダッカで集会を開こうとするが、ジアウルは実力で阻止。このあと軍内統制を強化する。

11月11日夜 ジアウルが全国放送で演説。①現政権はいかなる政党にも関与しない中立暫定政権である,②軍は国民の間に不安と不満をつくり出す動きと対決する,③軍の最大課題は軍人の利益と福祉を守り,国軍を近代的で有能な軍隊にすることである,とのべる。

15日 戒厳令規則が改定。軍・BDR・警察の名を騙り,反国家的活動を教唆・煽動したものは厳罰に処すと発表。

11月25日 タヘルとJSD指導者たちは反国家的活動を行なったとの理由で再逮捕される。

11月26日 サエム大統領、民間から4人の諮問委員を任命,三軍参謀長と共に諮問委員会を創設。事実上の軍政に移行。

11月25日 軍統制派は、アブ・タヘル大佐らセポイの革命指導者を半国家活動の容疑で逮捕。タヘルが死刑、その他も重刑に処せられる。

12月28日 軍統合総参謀長のポストを廃止。カリルル・ラーマン統合参謀長の事実上の解任となる。

ジアウルの時代

1976年

1月 ジアウル、陸軍の再編・強化に着手。4個師団を9個師団編成とする。兵力はパキスタン帰還兵約1万人を含め,約3万5000人に達する。

4月30日 空軍総参謀長のタワブ少将が解任され、国外に追放される。タワブは回教徒指導者を使って各地で大規模な「祈りの集会」を開かせる一方、8月クーデターの首謀者ファルーク大佐を国内に導き入れた。

タワブはバングラデシュ回教共和国への改名、パキスタンとの連邦制を主張。ファルークはジアウルへの反乱を呼びかけた

11月 サエム大統領、総選挙の無期延期を発表。戒厳令総司令官の任務をジアウルに移譲する。これにより軍政が継続されることとなる。

11月29日 ジアウルが戒厳令司令官に就任し、実権を掌握。

12月 ジアウル・ラーマンが全国放送で演説。民族主義,自力更生,国民参加の3つの基本原理を掲げる。民主主義・社会主義については触れず。

1977 年4 月 サエムに代わり、ジアウル・ラーマンが大統領に就任。憲法を改正し「政教分離主義」が削除される。さらに憲法冒頭に「恵み深く慈悲に溢れた神の名にお いて」とのコーランの文言が追加される。さらに独立戦争中に大量虐殺を繰り返したJI の政治活動再開が認められる。

1978年4月 ジアウル大統領、民政移行に備えバングラデシュ民族主義党(BNP)を設立。資本主義化政策をとる。

1979年 議会選。BNPが、議席の3分の2を獲得する。戒厳令が解除される。

1981 年5 月 ジアウル、軍人グループにより暗殺される。夫人のカレダ・ジアがBNP党首に就任。

エルシャドの時代

1982 年3 月 エルシャド陸軍参謀長が無血クーデター。戒厳令司令官となる。

1983年12月 エルシャド、大統領に就任。エルシャドは2年後に議会制に戻すと誓約したが守られなかった。

1986 年1月 エルシャド大統領、権力の受け皿として国民党(JP)を設立。(現在は3派に分裂し弱体化)

1987年  パキスタン協力者たちの軍政下での復権を描いた『71年の殺人者と手先たちの消息』が刊行され、1 年間で1 万部売れる。

1988 年5月 憲法改正によりイスラム教は国家宗教とされた。

1990年12月 エルシャド政権、民主化運動の高揚の中で退陣を迫られる。軍事政権の時代が終わる。

バングラデシュ民族主義党 (BNP)の時代

1991年2月 総選挙。ジアウル派のバングラデシュ民族主義党 (BNP) が民間実業家、退役軍人などの支持を集めアワミ連盟 (AL) を破る。ジアウル未亡人のカレダ・ジアが初の女性首相に就任。

7月 憲法改正。大統領による独裁を防ぐため、再び議院内閣制に復帰する。

95年2月 総選挙の実施(野党はボイコット)。カレダ・ジア政権の再発足。

3月 憲法改正により、暫定選挙管理内閣制度を導入。BNP政権は直ちに退陣。

6月 やり直し総選挙でアワミ連盟が勝利。ムジブル・ラーマンの長女シェイフ・ハシナが首相に就任。

2001年10月 第3回総選挙。バングラデシュ民族主義党(BNP)はイスラム協会(JI)、国民党(ナジウル・フィロズ派)、イスラム統一連合(IOJ)と4党連立を組み政権を握る。

2003年,JMBのアジトで爆発事件が発生し,大量の爆発物などが発見される。

2004 年4月 チッタゴンの国営肥料工場にて、AK47 ライフル銃690 丁、手榴弾25,020 個、銃弾180万発をなどトラック10 台分の武器が押収される。

8 月 アワミ連盟事務所前での集会に手榴弾。20名が死亡。この他アワミ連盟への襲撃が相次ぐ。

2005年8月 JMBが非合法化される。JMBはダッカを含む63県で爆弾テロを実行。

2006年 軍が政治介入。BNP・JI 政権を退陣させ、選挙管理内閣に移行。

2007年3月,JMBの指導者及びナンバー2を含む最高幹部6人が,2005年の爆弾テロで死刑を執行される。


アワミ連盟の時代

2008年12月 総選挙でアワミ連盟などからなる「大連合」が300議席中262議席を獲得し圧勝。ハシナがふたたび首相に選出される。BNPを中心とする4党連合は、汚職への批判などから大惨敗を喫し32議席に激減。

2010年5月 再建されたJMB指導部がふたたび摘発される。

2013年 ハシナ政権、JI の独立時の戦争犯罪への追及を開始。

1月21日、パキスタン兵による残虐行為に加担した罪で、JIのアブル・カラム・アザド、デルワール・ホサイン・サイディ、アブドルカデル・モラーに死刑判決。

2月 判決を支持する人々がダッカ中心部の広場で座り込み。まもなく中心人物が暗殺される。

4月6日 JIが組織した20万人のデモ。「政府も無神論者の仲間だ」と主張し、厳格なイスラム法に基づく憲法改正などを要求。JIと連立するBNPはJI支持の態度を表明。

7月 高裁、JI の選挙管理委員会への登録を違法とする。この間、イスラム主義者らと警察との衝突などにより約500人が死亡し、数千人が逮捕される。

12月 モラーが処刑される。

モッラは民兵を率い、学者や医師、作家やジャーナリストを殺害した。レイプや350人以上の非武装の民間人の集団虐殺も指揮した。その残虐行為の大半が行われた地名から「ミルプールの虐殺者」と呼ばれていた。

2016年

5月 JI幹部モティウル・ラーマン・ニザミが処刑される。

6月 ハシナ政権によるJI の取り締まり作戦。武装グループや野党関係者らを合わせ計1万1千人を一斉に逮捕。背景にイスラム過激派による相次ぐテロ事件(宗教的マイノリティ、無神論者、世俗主義者、与党幹部などへの襲撃)





引かなければよかった。とんでもないものを引いてしまった。

グーグルで “佐藤宏+バングラデシュ”で検索したら、こんなものが引っかかってしまった。

アジ研(今はJetroの部局)の研究双書のNo.393「バングラデシュ:低開発の政治構造」の編者が佐藤さんなのだ。しかも全編読めてしまう。

昔は市ヶ谷のアジ研の図書館に行って、ノートに書き写すしかなかったのだが、今はタバコを吸いながらグラスを片手に読めてしまうのだ。時代の進歩を恨めしく思う。

全部で400ページもあるから、そう簡単に読めるものではない。鍵がかかっていてコピペができない。老い先短い私としては当面あきらめるほかない。

その代わりに、コピペ可能な資料を使って年表づくりに入ることにする。まずその前にウィキで地理のお勉強。

バングラデシュはベンガル語で「ベンガル人の国」を意味する。インド西ベンガル州とともにベンガル語圏に属す。

人口1億5,250万人で世界第7位。、都市国家を除くと世界で最も人口密度が高い国である。

1971年にパキスタンから独立。かつて「黄金のベンガル」と称された豊かな地域であったが、インフラの未整備や行政の非能率から、現在はアジアの最貧国に属する。


7月8日 「かんたんな経過」のつもりが思いのほか長くなりました。とくに独立戦争から独立直後の数年間については知らないことばかりです。

バングラデシュ年表として別記事にしますので、そちらに移動してください。



ということで、とりあえずの印象としては

1.旧支配層の度を超えた暴力性

2.民衆の主権者意識の希薄性

3.宗教を超えられない民族意識の未成熟。

4.裏返せば、民族意識を閉じ込めるほどに強烈なイデオロギー的アイデンティティー。

があり、それらがいずれもこの国の成り立ちの特殊性に起因している、ということだ。

一言で言えば、自立した国家イメージと一貫した国家戦略が描けない「従属国家」で、インドとパキスタンとの絶縁後の展望が見いだせない「漂流国家」であったことが、支配層の姿勢を頑ななものとしているのだろうと感じる。

とは言うものの、パキスタンとしての建国後すでに70年、バングラデシュとしての独立後50年を経過しており、すでに「普通の国」への脱皮を終えつつあると見てよい。

それだけに追いつめられた旧支配層(BNP-JI-JMB)が、イデオロギー性と凶暴性をさらに増すことはありうるのかもしれない。

バングラのかんたんな経過

バングラデシュ 年表

バングラデシュにおける「野合」 その結果としてのテロ

バングラデシュのテロはその後の情報で、ISとかアルカイダというより、国内の従前型テロ組織の犯行であることが明らかになってきた。

この点について、本日の赤旗に『南アジア研究者』という怪しげな肩書の佐藤宏さんが解説してる。

肩書は怪しいが、内容は的確で、たしかに専門家である。72歳という年齢がベテランぶりを物語っている。佐藤さんの指摘は今回のテロが『国内産』だということに尽きる。

以下、概要を示しておく。

1.犯行はJMBによるもの

JMBの正式名称は「バングラデシュ聖戦戦士団」である。

JMBは「イスラム協会」の学生組織のメンバーが90年代末に創設したテロ組織である。08年にも同時爆破テロを行っている。

2.背景にはバングラデシュ独立以来の角逐がある

バングラデシュは西パキスタンとの独立戦争を闘った後、71年に独立を実現した。(独立というべきか、分離というべきか、定義には面倒なものがある)

独立戦争の期間、独立(分離)反対派のうち、「イスラム協会」(JI)は武装闘争に走り、同胞の虐殺も厭わなかった

3.軍部はJIを泳がせた

独立を達成した「アワミ連盟」はムジブル・ラーマン政権を樹立したが、4年後に軍事クーデターにより打倒される。

軍部は政権居座りを図り、「アワミ連盟」を弾圧した。一方で「バングラデシュ民族主義党」(BNP)を立ち上げ、JIを登用した。

4.なぜテロに訴えるのか

09年以来、アワミ連盟が政権に復帰した。宗教分離(セクラリズム)とインドとの善隣外交を進めている。

旧軍部(BNP)はインドとの緊張緩和に反対し、JIを利用して政権の転覆を企んでいる。その尖兵としてイスラム協会(JI)が用いられている。

テロはバングラの悪しき伝統となっている。

独立戦争中、JIのテロ組織は独立派、知識人、ヒンズー教徒の多くを虐殺した。今もなお各地に多くの遺体が埋められたままである。

最近、活動を強めたJMBもその伝統に従い、ヒンズー教徒、キリスト教徒、民主活動家へのテロを繰り返している。

今回のテロもその一環としてとらえるべきである。

バングラのかんたんな経過

バングラデシュ 年表

バングラデシュにおける「野合」 その結果としてのテロ


 上海年表を作ったが、それだけは面白く無い。やはり一度読み物の形にして置かなければならないだろう。

上海租界の成立

1842年にアヘン戦争が終わった。新帝国は屈辱的な敗北を被った。その結果華中・華南の5つの港を開き、欧米列強との交易を迫られた。

同時に5つの港に租借地を置くことを認めさせられた。

当時上海は県庁が置かれただけの田舎町であったが、長江の河口に位置することから列強によって特別な重要性が置かれた。

イギリス商人の居留のため黄浦江河畔(バンド地区)に租借地が認められる。当初の区画は幅500メートル長さ1キロの小規模な居留地であった。ただし、その後拡張を繰り返し約10倍に拡大している他にアメリカ、フランスも租借地をおいた。

上海は列強の中国本土への進出拠点であるだけでなく、中国の海外に向けられた貴重な門戸となった。

太平天国の乱と治外法権の確立

開港後10年目に、太平天国の乱が起き、上海に迫る中で上海租界はその性格を大きく変えていく。

太平天国も、その一派で上海を包囲した小刀会も、租借地首脳に安堵を保証した。しかし清国の庇護が受けられないもとでは、租借地を自ら守るべく武装自衛が必要となった。

英・米・仏は共同した統治機構を作り、武装部隊を組織した。それぞれの国の租借地は「共同の租界」として自立した。これにより租借地の自治権は大いに高まった。(フランスはイギリス人の支配を嫌い後に離脱し、独自の租界を形成)

また戦争を避けて難民が一挙に流入したため、当初は長崎の出島のような外国人居留地に過ぎなかった上海租界は、中国人の混住する一つの街のような存在となった。

国際都市「上海」の誕生である。

20年後の1862年、今度は太平天国の本隊が上海を攻めてきた。これは事実上の戦争であったが、上海の共同租界軍は半年に我々たる攻撃を持ちこたえただけでなく、逆に太平天国に甚大な損害を与えた。敗れた太平天国は2年後に崩壊する。

上海が東洋一の大都市に

滅亡した太平天国に代わり北京の清朝政府が戻ってきた。上海の責任者となったのが日清戦争の談判でも有名な李鴻章である。

李鴻章は上海を窓口として文明開化と富国強兵策(洋務運動)に乗り出した。上海租界は列強の窓口として温存されただけではなく、富国強兵のための技術導入の門戸として重視された。

中国最初の近代的軍事工場「江南機器製造総局」が虹口に建設されるなど、急速に上海は中国の最先端都市として発展を遂げる。

これに呼応して列強も本格的な資本注入を開始する。まず香港上海銀行(イギリス系)がバンドに上海支店を開設し、欧米の金融機関が追随した。

郵便、電報、定期便、鉄道などの交通・通信インフラが整備された。電気が通じ水道が給水を開始した。それらは常に日本の文明開化に一歩先んじていた。東洋初、東洋一などの形容詞は上海のためにあったといえる。

日本の維新政府も列強の東洋における最大拠点たる上海にさまざまなアクセスを試みている。

すでに太平天国との戦闘さなかの62年6月、江戸幕府の雇った千歳丸が上海に来航している。この船には薩摩藩の五代友厚や長州藩の高杉晋作ら各藩の俊秀が乗り込んでいた。

維新直後の明治6年には、岩倉使節団が米欧歴訪の後、上海の市内を見学している。定期船が運行されるようになり、三井・三菱が上海に支店を開設した。

ライバル日本は官民挙げての文明開化と富国強兵であった。千歳丸も、いま考えれば幕府も随分太っ腹だが、“オールジャパン”みたいな空気があったことの証だろう。

中国の場合はあくまでも封建的な北京の清帝国の枠内の改革に過ぎず、常に反発と揺り戻しがあり、決してスムーズなものではなかった。そこが上海が特殊な都市にとどまった最大の理由であろう。

サンクチュアリとしての上海

上海の統治を行っていたのは、いわば“居留民の自治会組織”である。ビジネスマンの自治組織としての性格を残したまま、それは軍隊・警察を持ち司法機構を持つようになった。

そして戦争のドサクサで混住が認められるようになってからは、中国人という“異民族”支配をも行うようになった。

それらを法文的に整理したのが69年の第三次土地章程である。それは①協議機関を居留外人の評議会とし、予算審議、執行部の選挙権を持たせる、②工部局の行政機能強化、③租界在住の中国人に対する代理裁判権を柱としている。

これにより工部局という、名前のとおりビジネスライクな、きわめて風通しの良い行政府が形成されたのである。

租界の行政府は去る者は追わず、来る者は拒まず、人間は氏素性を問われれず、他所で何をしたかではなく、ここで何をしたかで評価される。租界の存立基盤にかかわらないかぎり、ずべての人が「善良な市民」なのである。

日清戦争敗北の衝撃

清帝国はその後も負け続けた。アロー号戦争でイギリスに敗れ、清仏戦争ではフランスに敗れた。

それでも遅ればせながら軍の近代化に着手し、東洋の覇者としての意地を見せようとした。しかし94年の日清戦争は最後の誇りすら無残に打ち砕いた。

も体制内改革派の立場に立った皇帝が西太后のクーデターにより幽閉されると、はや頑迷固陋の北京政府に頼むものなしとの声が上がった。義和団の乱が起こり、北京に攻め込んだ。

義和団の乱が列強の介入により挫折すると、反北京の動きは華中、華南に拡大した。上海はその中心となった。

その運動はいまから見るとかなり奇妙なものだった。日本の幕末の運動は尊皇攘夷として始まりやがて倒幕・王政復古と富国強兵に収斂して行ったが、中国の革命運動はとにかくまずもって異人種である清王朝を打倒し漢民族の自立を勝ち取ることに主眼が置かれた。

攘夷はとりあえずは脇に置かれ、まずは自彊が目標となった。そこには反封建の思想も強く盛り込まれた。広い意味では反帝反封建であるが、かなり脇の甘いものであったといえる。

そしてそのモデルとされたのが、戦争の相手である日本であった。日露戦争に日本が勝利するにいたり、日本への幻想はますます広がった。知識人はこぞって日本へとわたり、日本を通して西欧思想に触れることになった。

30年後に始まる日中戦争のことを考えるとき、これは中国人民にとってある意味で不幸な出会いであったかもしれない。

秋瑾 反乱の狼煙

1907年、秋瑾は光復軍を組織し武装反乱を企てたが、捕らえられ斬首されている。

秋瑾は武田泰淳の筆により著しく異なるイメージで伝えられている。秋瑾は馬賊の頭目ではなく中国革命と女性解放のヘラルドとして正当に評価されるべきである。

彼女は清朝の名門の生まれであり、当時としては最高級の知識を身につけている。彼女は上海とその周辺の開放的雰囲気で育ち、北京で義和団の闘争を目撃し、婦人運動に目覚め、解放運動の戦士たらんと決意し、日本にわたり当時最高の女子教育の洗礼を受けた。

当時、東京は中国改革運動の震源地であった。そこで留学生運動の一方の旗頭として、武装蜂起もふくめ最も断固たる立場をとった。

たしかに当時の中国でとりうる唯一の戦略は武装蜂起以外になかった。それはその後の歴史が証明している。

果てしない議論を繰り返す留学生たちに突きつけた匕首の切っ先は、その象徴としての意味を持っていた。

学半ばにして上海に戻った秋瑾は旺盛な文筆活動を開始する。その一方で戦士の結集と教育に意を注ぎ、浙江省に武装組織「光復軍」を組織するに至る。

秋瑾は決してたんなる一揆主義者ではないし、孤立した陰謀主義者でもなかった。

時を同じくして東京の孫文は中国革命同盟会を組織して武装革命の準備にとりかかっている。そして秋瑾の死後5年後の1912年には、武漢の武装蜂起を引き金に辛亥革命が成立する。そういう怒涛の時代なのである。

残念ながら機が熟せぬままに陰謀が発覚し、刑場の露と消えていくのであるが、その思いはまさに中国の近代化を目指す流れの本流にある。

ここで押さえておきたいのは、秋瑾の運動にせよ辛亥革命にせよ、すべからく清朝末期の革命運動は上海を揺籃の地としていることである。それこそが上海が「魔都」となる所以であろう。

東洋一の大都会への成長

そのような中国の革命運動など知らぬげに、上海はますます殷賑を極め、東洋一の大都会へと成長していく。

共同租界中心部では建築ラッシュが始まった。中央区と西区(旧イギリス租界)では、バンド地区に各国の領事館や銀行、商館が並ぶ。絵葉書でお馴染みの光景である。バンドに直角に交わる南京路には路面電車が走り、ビック・フォーと呼ばれる百貨店が立ち並ぶ。

フランス租界の表通りは高級住宅街となる一方、裏通りには茶館、妓館、アヘン窟が集中する。まさに「魔窟」である。

 

辛亥革命と上海

秋瑾の死後4年にして清帝国に対する本格的反乱が始まった。11年の11月、武装蜂起が武漢で成功した。ほぼ同時に上海でも軍の反乱が発生した。陳其美将軍の率いる反乱軍はたちまちのうちに上海の華界を支配下に置いた。租界当局(工部局)はこれに呼応して租界内の司法権を全面掌握した。

12年の1月、東京の孫文が上海を経由して南京に入り、中華民国臨時政府の臨時大総統に就任した。しかし革命軍の勢いもここまでであった。上海軍は孫文の言うことに従わず、革命派を弾圧、要人を次々と粛清した。いっぽうで北京の軍部との間合いを図った。

2月には清朝皇帝が退位し袁世凱将軍が臨時大総統に就任した。皇帝は退位したものの、これまでの統治機構はそのまま温存された。

中国のもっとも重要な軍事拠点は上海華界の軍事工場軍「江南製造総局」であった。袁世凱はこの拠点を手放すつもりはなかった。

半年にわたるにらみ合いと小競り合いの後、陳其美は上海独立を宣言し、江南製造総局を攻撃した。攻撃は跳ね返され、陳其美は日本に亡命する。

こうして上海は引き続き北京政府の支配下に置かれる事になり、孫文もまた南京を去った。

1920年前後の上海

辛亥革命の流産後、革命派にとってはしばらく雌伏の時が続く。反清闘争のスローガンは「討袁」へと変わった。

孫文や陳其美はひそかに上海に入り、反乱を企てテロを繰り返したが、17年に陳其美が暗殺されるにおよび、こうした革命活動は困難となった。

もう一つが日本資本の急速な進出である。上海在留外国人の多くを日本人が占めるようになった。日本資本の繊維工場が相次いで建てられ、多くの中国人を使用した。

日本は第一次大戦に乗じて、「21ヶ条要求」を強要した。これにより中国人の反日感情が高まり、それは19年の北京での「五四運動」につながっていく。この闘争は北京政府の弾圧により弾圧されたが、遠く離れた上海では大規模な抗議行動に発展していった。

それは工場労働者、学生、商店の3つの勢力が合体したものであり、近代都市上海の階級的性格を反映したものとなった。そしてその闘争は共産主義運動と結びつく定めにあった。

共産党の設立経過などについては「毛沢東以前の共産党」に詳述してあるため、ここでは割愛する。

企業の上海進出に伴い、日本の文筆家も相次いで上海を訪れるようになる。その嚆矢となったのが21年に新聞社特派員として派遣された芥川龍之介である。

芥川自身はあまり作品を残さなかたようであるが、文士仲間には相当吹聴したらしい。まもなく村松梢風が上海に来訪。2ヶ月にわたり滞在した。帰国後発表したのが『魔都』である。ここから「魔都上海」の名が広がるようになった。

これについては「上海年表 補遺」をご参照いただきたい。また内山書店もこの頃から営業を開始し、文化の窓口として、また中国文化人の庇護役として貴重な役割を果たした。これについては「内山完造の動き」をご参照いただきたい。

魔都上海年表の補遺です

1923年、長崎港と上海の日本郵船匯山碼頭を結ぶ「日華連絡船」が就航した。

この年、村松梢風がはじめて上海へ渡る。2ヶ月にわたる滞在後、「不思議な都『上海』」を発表、のちに『魔都』と改題され出版される。

ただその中に立って私は歓喜に似た叫びを挙げているのである。華美に眼眩み婬蕩(いんとう)に爛れ(ただれ)、放縦に魂を失ってしまったあらゆる悪魔的生活の中に私は溺れきってしまった。

そうして、歓びとも、驚きとも、悲しみとも、なんとも名状しがたい一種の感激に撲(う)たれてしまったのである。

それは何故だろうか?只、私を牽き付けるものは、人間の自由な生活である。其処には伝統が無い代りに、一切の約束が取り除かれてゐる。人間は何をしようと勝手だ。気随気儘な感情だけが生き生きと露骨にうごめいてゐる。

そして、村松以後上海を訪れた者は、ここを魔の棲む場所「魔都」と呼 び、日本人の上海のキーワードとして「魔都」が定着することになる。(森田靖郎)

当時の上海租界はパスポート不要で入国できたし、厳密な戸籍管理も為されていなかった。

アジアにありながらヨーロッパのモダニズム文化に触れることもできる国際都市、高層ビル群と繁盛を極める茶館、裏通りを1本入ればナイトクラブやショービジネスの世界、そしてアヘン窟。賑やかさの裏側にのぞく危険な香り…

知識人たちがすっかり蠱惑したのも頷ける。

1927年、金子光晴が2年に及び滞在。「上海ゴロ」と呼ばれた底辺層を生きる日本人居留民の姿を浮き彫りにする。

今日でも上海は,漆喰と煉瓦と,赤甍の屋根とでできた,横ひろがりにひろがっただけの,なんの面白味もない街ではあるが,雑多な風俗の混淆や,世界の屑,ながれものの落ちてあつまるところとしてのやくざな魅力で衆目を寄せ,干いた赤いかさぶたのようにそれにつづいていた。

高見順の浅草モノみたいなものですかね。

上海歴史地図 その他より作成

1842年

6月 アヘン戦争が終結。南京条約が締結される。上海、広州、福州、厦門、寧波の5港の開港と香港の割譲を認める。上海は対外通商港として開港する。

44年 イギリスに続き、アメリカ・フランスが清と条約を締結。上海を対外通商港とする。

45年11月 第一次土地章程(Land Regulations)が締結される。

イギリス商人の居留のため黄浦江河畔(バンド地区)に租借地が認められる。当初の区画は幅500メートル長さ1キロの小規模なもので、長崎の出島のレベルであった。その後拡張を繰り返し約10倍に拡大。

49年 アメリカ租界、フランス租界が認められる。アメリカ租界はイギリス租界の北側、フランス租界は南側に設定される。

49年 上海—ロンドン間の定期航路の運行が開始される。

1851年1月11日  華南の新興宗教結社「拝上帝会」が武装蜂起。国号を「太平天国」とし、教祖の洪秀全はキリスト教に帰依し自身を天王と称した。

1853年

1月 太平天国軍、武昌を陥落させる。

3月 太平天国軍、江寧(南京)を陥落させ、ここを天京(てんけい)と改名し、太平天国の王朝を立てる。太平天国軍は20万以上の兵力にふくれあがる。纏足の禁止や売春の禁止、女性向けの科挙などを実施。

4.27 英国公使ボンハムが南京を訪問。太平天国にも清国にも中立であることを告げる。

5月 太平天国軍が上海に迫る。イギリス、フランス、アメリカは共同し上海地方義勇隊を組織。義勇隊はのちの万国商団(Shanghai Volunteer Corps)となる。

5月 福建省の秘密結社「小刀会」が蜂起。廈門に政権を樹立するに至る。税の免除と太平天国との連携を宣言。

9月 上海でも小刀会が蜂起した。上海知県の袁祖徳を殺害。1年半にわたり上海県城(フランス租界の南側)と周辺の嘉定・青浦を占領する。「反清復明」という目的、租界を攻撃せずの言明があり、アメリカ・イギリス・フランスは中立の姿勢をとる。

9月 小刀会の蜂起の結果、2万人を超える中国人難民が租界に流入し、上海は無国籍地帯と化す。

1854年

4月 清軍と上海地方義勇隊(米英人居住者による自警団)が衝突。泥城浜で激戦となる。小刀会が自警団側に加勢し、清側は300人の死者を出す敗北を喫する。

7月 イギリス領事オールコックは、米仏領事と協議し第二次土地章程を公布する。7名の選挙で選ばれた参事が、すべての自治権と行政権を握る。参事会のもとに「工部局」が創設され、行政一般の実務を担う。中国側には事後通告のみ。

内容としては①イギリス租界の拡張、②中国人の雑居の黙認、③三国領事の協議による運営・工部局(執行機関)と巡捕(警察)の設置である。工部局は後に租界の行政管理機構となる。

12月 清は上海の税関と租界の権益を条件にアメリカ・イギリス・フランスの支持をもとめる。

1855年

2月 清軍と清側の提案に応じたフランス軍とが県城を攻略。小刀会残党は太平天国領に逃れる。

2月 中国人の租界での居住が許可され、「華洋雑居」が始まる。

1856年

6月 一旦劣勢に陥った太平天国軍がふたたび攻勢に出て、江北・江南に基盤を確立。

10月 アロー号事件が発生。第二次阿片戦争が始まる。

10月 英国の治外法権が確立。領事法廷、監獄などが設置される。フランスもこれに続く。

1860年

8月 太平天国軍が第1次の上海攻撃。上海の官僚と商人は、西洋式の銃・大砲を整え租界にいた外国人を兵として雇用する。アメリカ人ウォードを指揮官とする「洋槍隊」が創設される。

10月 北京条約が締結される。欧米諸国は清朝につき、太平天国に敵対するようになる。

1861年

「洋槍隊」が「常勝軍」と改名。中国人を5千人ほど徴兵。

1862年

1月 太平天国軍の第二次上海攻撃。半年にわたる。

5月 英仏海軍が太平天国軍の拠点であった寧波を砲撃。山側から迫った清軍が市内に突入。この一連の戦闘で常勝軍隊長のウォードが戦死。イギリス人チャールズ・ゴードンが指揮官に就任する。

5月 イギリス主導を嫌うフランスは独自の執行機関「公董局」を設立。

6月2日 江戸幕府の御用船千歳丸が上海に到着。薩摩藩の五代友厚や長州藩の高杉晋作ら各藩の俊秀が、2ヶ月にわたり情報収集にあたる。

8月 太平天国軍の第三次上海攻撃。11月まで続く。

1863年

3月 江蘇巡撫の李鴻章、洋務運動を展開。外国語学校の上海同文館を創設。

9月 英米租界が工部局のもとで正式に合併し、名前も「共同租界」と変更する。この時点で租界部の外国人人口は6千6百人。

1864年

7月 天京(現南京)が陥落し太平天国の乱は終結。この時城内の20万人が虐殺されたという。

1865年 

4月 香港上海銀行(イギリス系)がバンドに上海支店を開設する。この後、欧米の金融機関が本格的に上海進出を果たす。

5月 中国最初の近代的軍事工場「江南機器製造総局」が虹口に建設される。

69年 『土地章程』を再改定し、『第三次土地章程』を発布する。①協議機関を居留外人の評議会とし、予算審議、執行部の選挙権を持たせる、②工部局の機能強化、③租界在住の中国人に対する代理裁判権を実現する。フランス租界もこの制度を追随。

70年

パシフィック・メール社、上海—長崎—横浜間の航路を開設。

71年 

大北電報公司が上海—香港間、上海—長崎—ウラジオストック間の海底ケーブルを敷設。香港経由でロンドンまで電信が開通する。

72年

1月 日本が領事館を開設。

73年 日本の岩倉使節団が上海の市内を見学。

74年

5月 日本から人力車(東洋車)300台が輸入され営業開始。

75年

2月 三菱汽船がフランス租界で開業。2年後には三井洋行(三井物産)が福州路に支店を開設。

76年

7月 上海—呉淞間に最初の鉄道が開業。住民の反対運動が起こり、清朝政府が買い上げて撤去。

81年

上海—天津間に電信線が開通。

82年

2月 大北電話公司が中国最初の電話交換所を設立。

7月 イギリス資本の電気会社、上海電光公司が発電を開始。大馬路、黄浦公園などに電灯が点灯。

83年

5月 イギリス資本の水道会社が公共租界と虹口地区に給水を開始。

84年

8月 清朝政府がフランスに宣戦布告(清仏戦争)。フランス租界の管轄をロシア領事が代行。

85年

日本郵船、三井洋行が支店を開設。

90年

6月 最初の日本語新聞、『上海新報』(週刊)が創刊。1年で停刊。

8月 江南製造局で労働時間延長に反対して約2000人の労働者が上海最初のストライキを行う。

* 共同租界中心部の建築ラッシュが始まる。フランス租界には茶館、妓館、アヘン窟が集中する。中央区と西区(旧イギリス租界)では、バンド地区に各国の領事館や銀行、商館が並び、これに直角に交わる南京路には、ビック・フォーと呼ばれる百貨店が立ち並ぶ。

93年

5月 貿易金融を専門とする「横浜正金銀行」が上海に支店を開設。

94年

3月 朝鮮開化党の指導者金玉均、市内で暗殺される。

8月 清朝が日本に宣戦布告。日清戦争が始まる。上海の領事団は中立を宣言。

96年

1月 康有為が主催する上海強学会が発足。維新派の政治団体として活動するが3週間で清朝政府により閉鎖。

97年

5月 中国最初の民間銀行、「中国通商銀行」が開業する。

98年

6月 北京の清朝政府、変法維新の詔勅を発布。「戊戌変法」と呼ばれる。3ヶ月後に西太后がクーデターを起こし、皇帝を幽閉。

7月 フランスの道路建設に反対する住民のデモにフランス軍水兵が発砲。17名の死者が出る。清朝政府はこれを罰せず。

8月 上海—呉淞間に鉄道が開通。

20世紀

00年

9月 華北で義和団の反乱が起こる。列強は8カ国連合軍を形成。

00年 上海の万国商団、海関隊を組織。日本人も加入。

01年 上海に初めて自動車が登場。香港からフォード車を2台搬入する。

02年

4月 上海で中国教育会が成立。蔡元培、章炳麟、蒋智由らが発起人、蔡元培が会長をつとめる。200名余りの学生を集め愛国学社を設立。

03年

4月 ロシア軍が東北三省へ侵入。これに抗議して愛国学社の師弟96名が「拒俄義勇軍」を組織。

6月 鄒容、章炳麟ら、革命を鼓吹する文章を発表し逮捕される。鄒容は1905年に獄死。

04年

2月 日露戦争が開始。上海道台は上海を中立区とすることを宣言。

11月 浙江省出身者を中心に光復会が結成される。会長は蔡元培、副会長は陶成章。蔡元培は秋瑾の入会を認めなかったという。

05年

8月 中国革命同盟会(孫文)が日本東京で成立し、蔡元培が上海分会会長となる。アメリカの中国人移民制限法に抗議してアメリカ製品ボイコット運動を展開。

11月 上海・横浜・米国間の海底ケーブルが開通。

12月 「会審公廨事件」発生。イギリス副領事兼陪審官のトィーマンの横暴への抗議運動に対し警官が発砲。死者11人を出す。

05年 北四川路方面の開発が進む。虹口公園が北四川路奥に完成。

06年 パレスホテルが落成。

上海1906
1906年の上海 

07年

1月 『中国女報』(月刊)が創刊。秋瑾が主筆を務める。秋瑾は「光復軍」の組織と武装蜂起の準備を進めたが、7月に紹興で逮捕、処刑された。遺句「秋風秋雨、人を愁殺す」

4月 『神州日報』が創刊。革命派の主張を展開。

6月 上海城内の阿片館が政府の禁令に従って一斉に営業停止。各国領事も公共租界内の阿片館を段階的に閉鎖することを決定。

08年

路面電車が公共租界、フランス租界で営業開始。最初の鉄筋コンクリート建築。電話の通話業務を開始。上海—南京間に鉄道が開通。9月 タクシー(出租汽車)の営業が始まる。上海最初の映画館(虹口影戯院)が落成。東本願寺が建立。

09年 

10月 革命派の文学団体「南社」が結成される。翌年には革命派の新聞『民立報』(日刊)が創刊。宋教仁らが筆を振るう。

1911年

1月 黄浦江に浦東とを結ぶ官営フェリーの運航が始まる。

1月 断髪会が挙行され、1,000人余りが弁髪を切る。

2月 フランス人ファロンの操縦する飛行機が初めて上海の空を飛ぶ。

7月 中国革命同盟会の中部総会が上海に成立。

8月 江亢が社会主義研究会を組織。

10月 武昌で武装蜂起に成功。11回目の蜂起となる。その後全国に蜂起が拡大。24省中15省が清からの独立を宣言。辛亥革命が勃発。

10月 日本の内外棉株式会社が最初の工場を開設。

11月03日 上海でも革命軍が武装蜂起。閘北を制圧後、城内に侵攻し警察を占拠。翌朝までに上海の華界を支配下に置く。

11月03日 革命軍、滬軍都督府を開く。陳基美が滬軍都督に就任。

11月12日 工部局(列強機関)が会審公廨を管理することを宣言。清朝政府は租界内の司法権を失う。

11月 中国革命同盟会の会員だった北一輝が上海に渡る。

12月25日 孫文が上海に到着。自宅に同盟会の幹部を召集し臨時政府方案を策定。

孫文は蜂起を扇動して、敗れると海外亡命。そのたびに華僑から資金を獲得し再起する。このため「孫のホラ吹き」(孫大砲)とあだ名される。 

1912年

1月1日 南京で中華民国臨時政府が成立。孫文が臨時大総統に就任。

1月14日 光復会の領袖、陶成章が暗殺される。陳其美が蒋介石に暗殺を指示したとされる。

2月12日 北京で清帝(宣統帝)が退位。清朝が滅亡。袁世凱が臨時大総統に就任。上海は引き続き北京政府の支配下に置かれる。

3月20日 上海の革命派指導者の宋教仁が暗殺される。宋教仁は同盟会の領袖の一人で、新政府の内閣総理の有力候補者だった。追悼会の参列者は3万人にのぼる。

5月29日 徐企文に率いられた中華民国工党の武装部隊がを襲うが失敗に終わる。

7月18日 陳其美が上海独立を宣言。討袁軍が南市、龍華一帯を制圧後、江南製造総局を攻撃するが失敗。陳其美は租界に逃げ込み、日本に亡命。

11月 梅蘭芳が初めて上海で公演。上海中の評判となる。

1914年

4月 劉師培、無政府共産主義同志会を結成。

8月 第一次世界大戦勃発。中国政府は中立を宣言。

1915年

3月 日本が「21ヶ条要求」を強要。袁世凱はこれを受諾。日本に抗議する国民大会が開かれ3万人が参加。上海の埠頭労働者は日本郵船の仕事を拒否。

9月15日 陳独秀ら、『新青年』(原名は『青年雑誌』)を創刊。「文学革命」を牽引する。

10.29 陳其美が密かに日本から帰国。フランス租界に中華革命党の組織総機関部を設ける。

11.10 上海鎮守の鄭汝成、中華革命党員に暗殺される。

12. 5 陳其美率いる中華革命党が武装蜂起するが、失敗に終わる。

12.12 袁世凱が北京で皇帝即位を宣布。孫文は「討袁宣言」を発表。

15年 栄宗敬、栄徳生兄弟が申新紡績公司を設立。最大の民族資本の紡績会社となる。

1916年

5. 孫文が日本から帰国し、上海(フランス租界)で「第二次討袁宣言」を発表。

5.18 陳其美が暗殺される。北京政府の弾圧のため上海での活動は困難となる。

6. 7 北京で袁世凱が死去。黎元洪が大総統に就任。

1917年

1. 『新青年』が胡適の「文学改良芻義」を発表。「文学革命」の嚆矢。『新青年』の編集部は陳独秀の北京大学文化学長就任にともない北京に移ったが、印刷発行は上海で行われた。

7. 3 孫文、章炳麟、唐紹儀らが協議。上海から広州へ南下し、護法運動を展開することを決定。

11月 ロシア革命が成立。

内山完造が四川路魏盛里に内山書店を開店

1918年

6.26 孫文が上海に戻る。

7.16 日本水兵の暴力沙汰に端を発し、日本人居留民が中国人警官と衝突、日本人2人が死亡、中国人警官4人が負傷。日本居留民団は日本総領事に日本人警官の配備強化をもとめる。

1919年

3.17 フランスへの勤工倹学留学生の第一陣89人が船で出発。毛沢東が胡南出身学生の見送りのために初めて上海に来る。

4.11 大韓民国臨時政府がフランス租界に成立。「三一独立運動」後に上海に亡命した29人が臨時議会と臨時政府の樹立を宣言。

5. 7 北京で「五四運動」が発生。学生の愛国運動を支援する集会に2万人が参加。商店が日本製品ボイコット運動を始め(罷市)、学生が授業を放棄して反日の宣伝活動を展開(罷課)。

6. 5 上海の労働者が北洋政府の学生弾圧に抗議してストライキに入る(罷工)。「罷市」「罷課」「罷工」の「三罷」闘争が展開される。

6.16 全国21地区の学生代表50数人が上海に集まり全国学生連合会が成立。

7. 1 ベルサイユ条約に中国政府代表が署名。市民約11万人が抗議大会を開く。

9.  『新青年』が「マルクス主義専号」を出す。

10.10 孫文、中華革命党を改組し中国国民党とする。

1920年

1.  公共租界の中国人商店の組織、上海各路商界連合会が参政権を要求して納税拒否。

4.  コミンテルンの派遣したヴォイチンスキー(維金斯基)が上海に入る。中俄通信社の看板を掲げ、北京から移転した陳独秀と会見するなど活動を開始。

5. 5 毛沢東が二度目の上海来訪。約二ヶ月滞在。

8.  上海共産主義小組が成立。本部を陳独秀の家に置く。『新青年』の編集部も兼ねる。

8.22 上海社会主義青年団が成立。

8.  『共産党宣言』中国語版が新青年出版社から出版。陳望道が日本語版から翻訳。

9.「新青年」、上海共産主義小組の機関誌となる。

11.21 上海機器工会が成立。上海共産主義小組の指導の下に組織された最初の労働組合。

* 日本人の大量進出が始まる。共同租界の北区(虹口地区)と東区(旧アメリカ租界)は、ほとんどが日本人に占められた。

1921年

1.  茅盾が『小説月報』の編集主任となり、「改革宣言」を発表。

3.30 芥川龍之介が大阪朝日新聞の特派員として上海に来訪し、5月17日まで市内各所を遊歴。

7.23 中国共産党第一回全国代表大会(~30日)。会場は李漢俊の家。

8.11 中国労働組合書記部が成立。中国共産党が組織した労働運動の指導機関。

12.13 『婦女声』(半月刊)を上海中華女界連合会が創刊。共産党の女性向け雑誌。

1922年

2.  平民女校が設立される。共産党の女性幹部養成のための学校。校長は李達。陳独秀、陳望道、茅盾などが教師をつとめる。年末には閉校。

7.16 中国共産党第二回全国代表大会(~23日)。会場は李達の家

8.13 上海最初のバスの運行が始まる。

8.23 李大創、孫文宅を訪れ会談。共産党員として初めて国民党に加入(二重党籍)。

10.23 上海大学が成立。共産党の運営による大学。于右仁が校長、履中夏が校務長、瞿秋白が教務長を務める。

1923年

1.23 上海で中国最初のラジオ放送。3ヶ月で停業。

1.26 孫文とソ連大使ヨッフェが孫文宅で会見。「孫文・ヨッフェ共同宣言」を発表。

10.20 『中国青年』(週刊)が創刊。中国社会主義青年団の機関誌。履中夏、@代英などが編集。

11. 1 上海書店が開業。中国共産党の出版機構。

*  日本郵船が上海—長崎間の定期運航を開始。

* 芥川龍之介、毎日新聞記者として上海に渡る。村松梢風が2ヶ月にわたり上海に滞在。翌年、『魔都』を発表。

1924年

1.  国民党が国共合作を決定。

6. 毛沢東が上海での生活を始める。

9.  江浙戦争勃発。斉燮元・孫伝芳軍が上海に進駐。

12.  旧ロシア領事館にソ連領事館が開設される。

1925年

1.11 中国共産党第4回全国代表大会(~22日)。

2. 9 日本の内外棉工場で争議が発生。現場監督の暴力に抗議して9千人の労働者がストライキに突入。他の日系の21工場に波及し、約4万人が参加。工場側が要求の一部を受け入れて終結(~31日)。

3.12 孫文が北京の停戦会議に出席中に急死。4.12の追悼大会に10万人が参加。

5.15 内外棉工場で警備員の発砲により労働者代表の顧正紅が死亡、10数人が負傷。

5.30 「五・三〇事件」発生。公共租界各所で反日の宣伝活動を行った学生100人余りが逮捕される。

5.30 学生逮捕に抗議して押しかけた学生、市民に警官が発砲、13人が死亡、多数が負傷。

5.31 抗議運動の中で上海総工会が成立。執行委員長李立三の指揮の下に全市20万人の労働者のストライキを行う。

6. 4 中国共産党が『熱血日報』を発行。瞿秋白が編集を担当。鄭振鐸、葉聖陶、胡愈之などは『公理日報』を発行し、反帝闘争を呼びかける。

6.12 五・三〇死難烈士追悼大会に20万人が参加。

6.22 奉天軍が上海に進駐。戒厳令を敷き、集会、デモを禁止し、総工会などを封鎖。

7.  広州に国民政府が成立。

10.16 奉天軍が撤退し、孫伝芳軍が上海に進駐。戒厳令が解かれる。

1926年

3月 北京で「三・一八事件」が発生。

3.  金子光晴が初めて上海に来る。

10.24 上海第一次武装蜂起が失敗に終わる。

11.  南国電影劇社がソ連映画『戦艦ポチョムキン』の試写会を開催。ソ連映画が初めて紹介される。

1927年

1. 1 公共租界の会審公廨の閉鎖が決定。上海公共租界臨時法院が成立

2.19 上海の労働者がゼネストに突入。ついで第二次武装蜂起を決行するが、失敗に終わる。

3.21 第三次武装蜂起。激闘の末に孫伝芳軍を駆逐、白崇禧率いる北伐軍を迎え入れ、上海臨時特別市政府を樹立。

4.12 蒋介石が「四・一二クーデター」を発動、各所の総工会、工人糾察隊の拠点を襲撃して労働者の武装を解除する。

社会主義的労働運動の台頭を懸念した浙江財閥が、蒋介石と提携し「上海クーデター」を決行したとされる。

4.13 工人糾察隊を中心とするデモ隊に蒋介石軍が発砲、多数の死傷者が出る。

4.18 蒋介石が南京に国民政府を樹立。以後、共産党とその支持者に対する弾圧(清党)を行う。

4月 茅盾が虹口に隠れ住み、中編小説『幻滅』を書く。その後葉聖陶、のちに周建人(魯迅)が虹口に移ってくる。

7.07 上海、中華民国(北京政府)の特別市となる。 上海の人口が360万人に達する。工部局職員は7千名、租界警察も5千人に達する。日本人数は2万6千人に達し、外国人中最多となる。虹口(ホンキュウ)が最大の拠点として日本人街化する。

10. 5 魯迅が初めて内山書店を訪れる。

10.24 共産党機関誌として「ボルシェビキ」が創刊される。編集委員会主任は瞿秋白。32年まで存続する。

12.01 蒋介石と宋美麗が結婚。マジェスティックホテル(大華飯店)で披露宴。当時下野していた蒋介石を支援するために、上海で秘密結社「中央倶楽部」(Central Club)が結成される。陳果夫、陳立夫兄弟が指導。のちにCC団と呼ばれるようになる。

1928年

4.  横光利一が上海を訪問。帰国後、長編小説『上海』を執筆。

5. 3 「済南事件」が発生。日本軍が山東省済南を占領。これに抗議して学生、市民、労働者が反日運動を展開。

5.22 約200人の日本軍兵士が在留日本人の保護を理由に虹口を武装行進。

5.30 「五・三〇運動」三周年を記念して南京路で約1万人の反日デモが行われる。

8.  中国共産党中央政治局、商店を装って開設。周恩来が執務する。1931まで存続。

11.  尾崎秀実が大阪朝日新聞上海支局に着任。この年エドガー・スノーも上海に入る。

* 中国人納税者会の運動の結果、参事会に中国人枠(定員9名中3名)が認められる。租界税収の55パーセントは中国人によるものであった。また共同租界内とフランス租界内の公園が中国人にも開放される。

1929年

4.28 国民党政府、上海総商会を閉鎖。新たに上海市特別総商会を作る。のちに上海市商会と改称。

5.  アグネス・スメドレーが上海に来る。同じ年、エドガー・スノーも上海で新聞記者の活動を開始。

7. 8 上海—南京の航空路線が運行開始。中国最初の航空路線。

8.24 彭湃が上海市内で逮捕される。30日に処刑。

1930年

1.  ゾルゲが上海に来る。

2.16 魯迅、馮雪峰、田漢、夏衍、鄭伯奇、蒋光慈など12人が左翼作家連盟の準備委員会を立ち上げ。

3. 2 中国左翼作家連盟(略称:左連)が中華芸術大学で成立大会を開く。

5. 6 @代英が上海市内で逮捕される。翌年に処刑。

7. 1 上海特別市が直轄市となり上海市に改称。

上海1930
            上海 1930年

10. 4 魯迅と内山完造、世界版画展覧会を開催。

10. 9 国産品ファッションショーがマジェスティックホテルで開かれる。

10.  中国左翼文化界総同盟(略称:文総)が成立。総書記は潘漢年。

11. 8 「日支闘争同盟」が市内の建物に反戦スローガンを書く。「日支闘争同盟」は日本人記者、学生、中国人同志からなる反戦組織。

* 青幇(チンバン)、杜月笙の下で最盛期を迎える。杜月笙は「夜の帝王」と呼ばれる。

1931年

1.17 左連のメンバー36人が逮捕される。その内の24人が処刑される。

1.  鹿地亘が剣劇団にまぎれこんで上海に渡る。

6.  瞿秋白が上海市内に潜入。

6月15日 ヌーラン(牛蘭)事件が発生。プロフィンテルンの上海支部のイレール・ヌーランが共同租界警察により逮捕される。

8.17 @寅達が上海市内で逮捕され、処刑される。@寅達は中国国民党臨時行動委員会(別称:第三党)の領袖であった。

9.18 満州事変が勃発。

9.20 湖風書局が開業。左連の雑誌を刊行。

9.22 5千人参加の反日市民大会、「上海抗日救国連合会」の結成を宣言。日本軍の駆逐と占領地の回復、救国義勇軍の組織、対日経済断絶を決議する。

9.24 3万人の港湾労働者が反日ストライキに突入。約10万人の学生が授業をボイコットして反日運動を展開。上海全市で反日・抗日運動が展開される。

9.26 800の団体の20万人が抗日救国大会を開く。郵便、水道、電気、紡績、皮革など約100の労働組合がストライキに入る。

10.13 上海抗日救国連合会、日本および日本人との関係断絶を決議。日貨検査隊が組織され、日貨を扱った中国商人は容赦なく処罰される。

10月 『支那小説集阿Q正伝』が日本で出版される。

10.27 南京、広州両国民政府が上海で「南北和平統一会議」を開催。

12. 6 北上して抗日軍に加わる280人余りの青年が出発。1万人が見送る。

* ニム・ウェールズ(寧謨・韋爾斯 Nym Wales)が上海に来る。ニム・ウェールズの本名はヘレン・フォスター・スノーでエドガー・スノーの妻。上海でジャーナリストとして活動中、招請を受け37年に延安入りした。

1932年

1. 1 蒋介石と汪精衛の合議により新国民政府が成立。1月5日に広州政府を解消。

第一次上海事変

1.18 日蓮宗(妙法寺)の托鉢寒行の僧侶が楊樹浦で中国人に襲撃され、1人が死亡、2人が重傷を負う。この事件をきっかけに日中両軍が臨戦態勢に入る。

上海公使館附陸軍武官補田中隆吉の証言: 板垣大佐に列国の注意を逸らすため上海で事件を起こすよう依頼された。これに従って自分が中国人を買収し僧侶を襲わせた。

1.22 日本は巡洋艦2隻、空母1隻、駆逐艦12隻、925名の陸戦隊員を上海に派遣。駐留部隊1千に加え増援部隊1700名を上陸させる。

1.28 第一次上海事変が勃発。日本海軍陸戦隊、虹口から北四川路に進出し、閘北一帯で19路軍と戦火を交える。市民の支援を受けた第78師が、国民政府の戦闘回避の指令を無視して抗戦。市街戦が始まる。

1.31 日本軍は、巡洋艦4隻、駆逐艦4隻、航空母艦2隻、陸戦隊約7000人を追加派遣。

2.02 予想外の苦戦に驚いた日本政府は、陸軍第9師団と混成第24旅団の派遣を決定。国民政府も第5軍(第87師、第88師など)を作戦に加える。

2.22 総攻撃が開始される。作戦は多大な犠牲者を出し難航。このため新たに上海派遣軍(第11師団、第14師団その他)が編成される。

3.01 満州国建国宣言。

3.02 日本軍増派を受けて、第十九路軍は後方に総退却、事実上の終戦。 日本人在留民自警団による暴行・虐殺が非難を浴びる。中国人難民が租界へ流入。路上には病死・凍死者が屍を晒す。

3.06 国民政府、停戦声明を発表。

3.24 上海市内のイギリス領事館で日中停戦談判が始まる。

3.  藍衣社が成立。正式名は中華民族復興社。ファシストの黒シャツに真似た青シャツを制服としたことから藍衣社と呼ばれる。

戴笠(たいりゅう)が中心となり、黄埔軍官学校出身者を組織化。蒋介石の親衛隊と位置づけられた。政治結社であるCC団とは異なり準軍事組織としての性格が強い。
在中ドイツ軍事顧問団団長のハンス・フォン・ゼークトの指導を受け、日本軍占領地の破壊ゲリラ活動、親日政府要人暗殺などの抗日テロ活動を行う。
南京に本部を置く。上海支部は南市、閘北、フランス租界、公共租界の四つの情報班と一つの行動班で構成された。

3.  丁玲、田漢ら、瞿秋白の立ち会いのもとに共産党に入党。

4.29 朝鮮「愛国団」の尹奉吉、虹口公園で挙行された天長節式典に爆弾を投擲。出席していた白川義則上海派遣軍司令官が死亡、第九師団長植田謙吉、日本公使重光葵などが重傷を負う。

5.05 英米仏の勧告のもと、上海停戦協定が調印される。日本軍の撤退および中国軍の駐兵制限(非武装地帯の設置)で合意。

7.17 共産党が反帝抗日大会を開く。参加者95人が逮捕される。

8.19 抗日映画『共赴国難』が公開される。

10.15 陳独秀が逮捕され、5年間にわたり勾留される。

12.17 中国民権保障同盟が発足。宋慶齢、蔡元培、楊杏仏などが発起人となる。

* 蒋介石は共産党への弾圧を強化。陳兄弟の率いる「特工総部」(特務工作総部)が先頭に立つ。

* パラマウント(百楽門舞庁)が開業。当時最も豪華なダンスホール。

1933年

2. 9 中国電影文化協会が成立。夏衍、田漢、洪深、鄭正秋、蔡楚生、孫瑜などが執行委員となる。

3. 6 魯迅と瞿秋白は共同作業を開始する。

3. 故宮の文物総計19557箱25万件が上海に運ばれ、フランス租界の某所に厳重に保管される。日本軍の手に渡るのを恐れて移送したもの。

5.14 左翼作家の丁玲が自宅から国民党特務機関に拉致される。南京に護送され、約3年間軟禁される。

5.  上海華商証券交易所が上海証券交易所を合併吸収し、極東最大の証券取引所となる。

6.18 中国民権保障同盟副会長の楊杏仏が国民党特務によって中央研究院前で暗殺される。

7.  何凝(瞿秋白の偽名)編の『魯迅雑感選集』が出版される。

8.  日本の上海海軍特別陸戦隊本部の建物が完成

33年 福建革命が起きる。第十九路軍の便衣隊は、中国共産党とともに上海で反蒋介石暴動を企画するが発覚。

1934年

1.15 張学良(当時上海在住)が談話を発表し、和平統一を主張。

2.19 国民党上海市党部が149種の新文芸と社会科学の書籍、76種の刊行物の出版・発行を禁止。

3.  電通影片公司が開設。左翼映画運動の拠点となる。

4. 1 上海に二階建てバスが初めて走る。

9.27 梅蘭芳、馬連良出演の歴史愛国劇『抗金兵』が初演。

11.13 申報館総支配人の史量才が国民党特務に暗殺される。史量才は「一・二八事変」では第十九路軍を積極的に支援し、その後も民権保証同盟の活動を支援していた。

11.30 魯迅が内山書店で初めて蕭軍、蕭紅(北東部出身の小説家夫婦)と会い、以後の生活を援助。蕭軍の中編小説『八月的郷村』と蕭紅の中編小説『生死場』の出版を実現する。

12. 1 パークホテルが落成。当時、上海で最も高い建物となる。ブロードウェイマンションが落成。外国人用のアパート兼ホテル。

12.05 ベーブ・ルース一行が来訪。中国チームと対戦し、22対1で大勝。

12.14 日本海軍陸戦隊2,500名が虹口の蘇州河両岸で実戦演習を強行。1ヶ月後には虹口、楊樹浦一帯で市街戦の演習を行う。

* 日本が全国的な凶作となる。

1935年

2.19 共産党上海中央局書記黄文傑をはじめ、田漢、陽翰笙など36人の共産党員が逮捕される。

5. 1 ラジオ放送が全国一斉に国語(北京語)になる。上海の各放送局も国語による放送を開始。

5.24 『風雲児女』(電通影片公司、監督:許広之)が公開。その主題歌『義勇軍行進曲』(作詞:田漢、作曲:聶耳)は広く歌われるようになり、新中国成立時に中華人民共和国国歌に制定された。

6.24 雑誌『新生』(週刊)が日本の天皇を侮辱する文章を載せたとして停刊処分を受け、総編集者兼発行人の杜重遠が懲役1年2ヶ月の判決を受ける。

8.  上海体育場が完成。その規模と施設は東アジアで一番といわれた。

11月9日 上海共同租界で、日本海軍陸戦隊の中山秀雄一等水兵が中国人により殺害される。第十九路軍の便衣隊による犯行とされる。事件後には、日本人が経営する商店が襲撃される。この後日本人居留者の暗殺事件が相次ぐ。

11.16 『大衆生活』(週刊)が創刊される。抗日統一戦線の主張を展開して読者を獲得し、毎期20万部発行という記録を作る。

12. 9 北京で抗日を要求する学生が弾圧される。上海でも各界に救国運動が広がる。

12.12 上海文化界の283人 が連名で「上海文化界救国運動宣言」を発表。

12.14 上海各大学学生救国連合会が成立。

21日 上海婦女救国会が成立。

12.23 復旦大学の学生約1,000名の請願団、首都南京に向かおうとする。上海北駅に押しかけ、列車が全線ストップ。さらに他の大学の約2,000名も加わる。

12.25 学生たちが列車に分乗して南京に向かうが、途中で阻止される。

12.27 上海文化界の約300人が集会を開き、上海文化界救国会が成立。

1936年

2.14 中国航空公司が上海—ハノイ間の航空路線を開設。中国最初の海外航空路線。広州経由でハノイに飛び、ハノイからフランス航空公司の欧州路線に接続。

2.17 国民党政府が「緊急治安法令」を公布。

3. 8 上海婦女救国会、上海女青年会など七つの団体が国際婦人デー拡大記念大会を開き、抗日救国を主張。

4. 22 張学良が西安から上海に来て潘漢年と会談。

4.  馮雪峰が解放区から上海に着き、地下の共産党組織との連絡を回復。

5. 5 映画スターの唐納と藍萍(江青)が結婚。他のスターたちと、合同結婚披露宴を行う。

5.31 全国各界救国連合会が結成される。華北、華中、華南と長江流域60数地区から救亡会の代表70数人が結集し、「抗日救国初歩政策」を策定。内戦を停止し一致団結して抗日にあたるよう主張。

5.  上海の文学界で「国防文学論争」が展開される

7.15 救国会の沈鈞儒、陶行知、章乃器、鄒韜奮の四人が抗日救国を要求する公開書簡を発表。

9.20 魯迅、茅盾、郭沫若、林語堂、包天笑、周痩鵑など21人が連名で「文芸界の団結と言論の自由のための宣言」を発表。抗日救国に向けて文芸界の統一戦線の成立を促す。

10.19 魯迅が自宅で死去。数万人が告別に訪れる。「民族魂」と書かれた錦の旗で覆われた棺が沿道を埋めた市民に見送られる。

11. 8 日本系の紡績工場で労働者が賃上げ、労働条件の改善などを要求して大規模なストライキを行う。日本海軍陸戦隊、工部局警察などが出動し、双方に負傷者 が出る。

11.28 紡績工場のストライキ、上海地方協会と総工会の調停により、工場側が労働者の要求をほぼ認めて妥結。

11.22 全国各界救国連合会の指導者、沈鈞儒、鄒韜奮、章乃器、李公樸、王造時、史良、沙千里が逮捕・投獄される(「七君子事件」)。翌年7月に釈放。

12.12 「西安事変」発生。

* エドガー・スノーの「中国の赤い星」が出版される。F.D.ルーズベルトは『赤い星』の愛読者だったが、当時のスターリニストからは批判の対象となった。

1937年

1. 1 上海—南京間に特急列車「首都特快」が運行。座席数378、時速80キロ。

6. 3 日独合作映画『新しき土地』が公開。日本軍の中国侵略を正当化している場面があると上海文化界が抗議し、上映中止となる。

7.07 盧溝橋事件が勃発。華北で全面戦争が始まる。上海各界抗敵後援会、中国婦女抗敵後援会、上海文化界救亡協会など各種の抗敵救亡団体が結成され、激しい抗日運動が展開される。

7.18 魯迅記念委員会が創設。宋慶齢、蔡元培、茅盾、許広平、スメドレー、内山完三、秋田雨雀など70数人が参加。

7月 虹口地区でふたたび緊張が高まり、数十万の市民が租界地区に逃れる。

8. 7 上海劇作家協会が完成した大型演劇『盧溝橋を守れ』が上演され、連日満員となる。

第二次上海事変

8.09 日本海軍陸戦隊の大山勇夫中尉らが虹橋飛行場でピストルを乱射。中国兵が反撃して射殺。この事件をきっかけに日中両軍間の緊張が高まり、双方が臨戦態勢に入る。

8.13 日本軍が閘北に侵攻し、中国軍が応戦。第二次上海事変が勃発。緒戦は数で勝る中国軍が優勢だったが、松井石根大将を司令官とする上海派遣軍が呉淞口などに上陸してから、戦況は日本側に傾く。

8.14 中国空軍機が誤って落とした爆弾が、共同租界中心部の繁華街で爆発。約二千人の死傷者がでる。

8月15日 蒋介石が陸海空の総司令官に就任。中国全国に総動員令が発せられる。

8.23 日本軍機の爆撃で市民173人が死亡、549人が負傷。

8.29 日本軍機が上海南駅を爆撃、市民約250人が死亡、500人余りが負傷。

8.24 『救亡日報』が創刊。郭沫若が社長。統一戦線的な編集委員会によって編集・発行され、11月22日まで上海での発行を続ける。

9. 7 宝山の中国軍守備隊が全滅。日本軍の上海包囲網が狭まる。

9. 9 蔡元培、宋慶齢、胡適など中国文化界の著名人が連名で世界各国の文化界に中国の抗戦に対する援助を呼びかける。

9.22 緑川英子が抗戦活動に参加し、日本のエスペランチストに反戦を訴える公開書簡を送る。

10.31 謝晋元率いる第85師団524連隊の「八百壮士」、倉庫に立てこもり、四昼夜にわたって日本軍の猛攻を撃退。その後撤退して租界に入る。

11.11 相次ぐ増派の末、日本軍が浦東を制圧。租界内に撤退した中国軍は工部局により武装解除される。南市守備軍が撤退。上海の華界が全て陥落し、租界が「孤島」となる。

11.21 租界内で中国人が行使していた行政権を代行することを日本が宣布。

11月 参謀本部第2部(情報部)に第8課(宣伝謀略課)を設置。影佐が初代課長に就任。民間人里見甫を指導し中国の地下組織・青幇(チンパン)や、紅幇(ホンパン)と連携し、アヘン売買を行う里見機関を設立。阿片権益による資金は関東軍へ流れたという。

12. 3 日本軍約6,000人が租界を示威行進。沿道から手榴弾が投げ込まれ、日本兵3人ほか市民数人が負傷。犯人は巡査に撃たれて死亡。

12. 5 日本が上海大道市政府設立。

12.13 2週間の攻防戦の末、国民政府の首都南京が陥落。蒋介石は南京を脱出し武漢に政府を樹立。

12.14 日本軍報道部が租界内の中国語新聞に対して検閲を実施することを宣布。これに抗議して『申報』『大公報』『時事新報』『国聞周報』などが自ら停刊。

12.  南京大虐殺事件が発生。日本軍が兵士、市民を殺戮する。

12月末 王克敏を首班とする南京臨時政府が樹立される。

1938年

1.25 『文匯報』(日刊)が創刊。抗日の姿勢を堅持し、39年5月10日まで発行を続ける。

1月 近衛内閣、「爾後国民政府を対手にせず」と声明。トラウトマン和平工作は流産。国民党、共産党系のテロ組織が上海市内での抗日テロ、漢奸狩りを一斉に開始。

CC団 陳其美の指導のもとに甥の陳果夫、陳立夫の兄弟が設立。国民党中央執行委員会付属の調査統計局の傘下に入ったことから「中統」の略称でも知られる。
藍衣社 ムソリーニの親衛隊に真似て藍色の中国服を制服としたことから俗称された。正式名称は中華民族復興社。後に軍事委員会調査統計局に属したこ とから「軍統」の名でも知られる。軍統の戴笠副局長が直接指導し、CC団とは異なり、独自のビジョンを持たないテロ組織である。
杜月笙ら青幇(ちんぱん)を引き入れて「蘇浙行動委員会」を組織、その下部に「忠義旧国軍」を置く。組織員数は1万人にのぼったとされる。知日、親日派の軍人・政治家をターゲットとするテロに集中。残虐な手口で恐れられた。

2.26 日系テロ集団黄道会、『社会晩報』社長の蔡鈞徒、滬江大学校長劉湛恩らを暗殺し、首を電柱に吊るす。

3. 1 エドガー・スノーの『Red Star Over China(中国の赤い星)』の中国語訳が書名を『西行漫記』として復社から出版。

3月 南京臨時政府に代わり、梁鴻志を首班とする維新政府が成立。国民の支持は皆無。

4.  日本軍による放送監督所の設置に反発して23の民間ラジオ局が登録を拒否し放送を停止する。

6.15 魯迅記念委員会編纂の『魯迅全集』全20巻が復社から出版。

7.07 盧溝橋事件1周年。上海各区の憲兵隊詰め所に手榴弾のプレゼント。

7月 満州国建国で暗躍した土肥原機関が上海の重光堂に居を構え、傀儡政権樹立に備え政治工作を開始。

9.30 藍衣社が唐紹儀を暗殺。唐紹儀は国民党の要人で、日本軍が傀儡政権に担ぎ出そうとしていた。

10.10 八路軍駐滬弁事処が『文献』(月刊)を創刊。主編は銭杏邨(阿英)。

10.19 ユダヤ難民援助委員会が成立。ナチスの迫害を逃れて上海に着いたユダヤ難民を受け入れる。

10 参謀本部ロシア課の小野寺信中佐が上海に「小野寺機関」を設立。独自に蒋介石との直接和平の可能性を探る。この時点で和平工作は土肥原機関の傀儡政権づくり、影佐らの汪兆銘擁立、小野寺機関という3つのオプションが並行していた。

11.20 汪精衛の密使と日本側代表今井武夫らが「重光堂会談」。カイライ政権の樹立をめぐり協議。2年以内の日本軍の撤兵を引き換えに様々な要求が突きつけられる。

11月 御前会議では「重光堂会談」とはまったく異なる方針「日支新関係調整方針」が定められる。①日本軍の駐屯、②中国人による中央政府の否認、③撤兵時期は明示しない

12.18 汪兆銘が国民政府から離反。重慶を脱出し空路ハノイに向かう。CC団幹部の周仏海、梅思平らが汪兆銘に従う。

12月 上海各界救亡協会が民衆慰労団を組織。その第一陣が皖南(安徽省南部)の新四軍の駐屯地に向けて出発。

* 蒋介石は軍事委員会調査統計局を改組し、CC団系の中央調査統計局(中統)と藍衣社系の軍事委員会弁公庁調査統計局(軍統)に分割する。

* ナチスに追われたユダヤ人難民が上海に大量流入。2万人に達する。

1939年

1. 4 『申報』が皖南の新四軍を紹介する記事を連載(~15日)。『大美晩報』特派員ジャック・ベルデンが提供したもの。

2月 国民政府の軍統幹部、丁黙邨(ていもくそん)と李士群が土肥原機関の晴気慶胤少佐に接触。和平救国のために重慶テロへの対策を進言。支援をもとめる。李士群は元共産党員。

2月10日 参謀本部の影佐軍務課長はただちに丁黙邨らの計画を承認。同時に汪兆銘擁立と土肥原機関の解体を指示。

3月 参謀本部の承認を受け特別工作がスタート。共同租界のイタリア警備区域に接する越界路区であるジェスフィールド路76号(極司非爾路76號)に本部を確保する。工部局の警官を引きぬき、チンピラをかき集め300名の部隊を確保。


   ジェスフィールド七六号跡 

4.15 ニム・ウェールズの「赤い中国の内側」が、『続西行漫記』として復社から出版される。

5.06 重慶を脱出してハノイに逃れていた汪精衛が日本船北光丸で上海に着く。

5.08 汪精衛と丁黙邨・李士群が会見。76号を汪政権の特務工作総司令部(特工総部)とすることで合意。丁黙邨が上海の国民党の懐柔、李士群がテロ組織の弾圧に当たる。

丁黙邨は中央執行委員・常務委員に任命される。「76号」は正式な政府機関となり、国民党中央委員会特務委員会特工総部と称する。

6.06 閣議で汪兆銘擁立工作が正式に承認される。これを機に小野寺機関は解体される。

8.22 影佐禎昭、支那派遣軍総司令部付となる。汪精衛政権の擁立に向け工作機関を組織する。本部を梅花堂に設けたので「梅機関」と呼ばれる。

8.28 汪兆銘が招集した国民党第6次全国国民代表大会が開催される。76号が会場に当てられた。

9. 5 汪精衛が国民党第6期1中全会を召集、国民党カイライ派の中央が成立。

10.19 抗日軍支援の活動を行った中国仏教会会長円瑛法師が、日本憲兵隊本部に連行される。

12.12 中国職業婦女倶楽部主席の茅麗瑛、「76号」の特務に暗殺される。

12.15 日本軍が租界への米の搬入を禁止。米の価格が高騰し、市内各所で米騒動が起きる。

12.23 丁黙邨、鄭蘋茹に誘われ、市内の毛皮店に入る。暗殺者に気づき防弾車で逃亡。これを機に丁黙邨は失脚。

12.30 汪精衛と「梅機関」との間で「日汪密約」が調印される。

1940年

2月 鄭蘋如、銃殺刑に処せられる。「顔は撃たないで」と懇願し、後頭部に銃弾を受けたという。

3.29 汪精衛政府と横浜正金銀行が4000万元の「政治借款契約書」を交わす。

3.30 汪兆銘新政権が南京で成立。重慶からの「遷都」を称する。

3月 「梅機関」が解散。影佐は汪政府の軍事最高顧問に就任する。

6.14 7人の外国人記者が汪精衛政府から国外退去を命ぜられる。

7.25 女性実業家方液仙が「76号」の特務に暗殺される。汪精衛政権成立時に実業部長への就任要請を拒絶したためとされる。

8. 2 上海白ロシア僑民委員会主席メツラー、日本軍特務機関により暗殺される。

8.14 日本軍と関係を深めていた張嘯林が暗殺される。

8.19 上海駐留イギリス陸軍の撤退が宣布される。

10.11 上海市長傅筱安が虹口施高塔路の自宅で暗殺される。

1941年

3.21 中国銀行職員宿舎が「76号」の特務に襲われ、約200人が連行される。重慶側特務のテロ活動の停止を釈放の条件とし、4月8日までに全員が釈放。

4.24 「八百壮士」の残軍の指揮官謝晋元が刺殺される。弔問者は約13万人にのぼる。

5.10 日本海軍陸戦隊、蘇州河の小型運搬船約250艘を沈める。抗日分子の捜索を理由とする。

6.17 工部局警察特別警視副総監赤木親之が重慶側の特務に狙撃され死亡

8.28 日本軍が租界の外周に鉄条網をめぐらし、中国人の夜間の虹口、楊樹浦への通行を禁止する。

11.28 アメリカ海兵隊が上海から撤退。

12. 8 太平洋戦争が勃発。日本軍は公共租界を占領し、市内各所に歩哨所を設ける。

12.15 許広平(魯迅夫人)が日本憲兵隊本部に連行される。何度も拷問を受けるが内山完造の尽力により3月1日に釈放。

1942年

1.  日本軍が公共租界のイギリス、アメリカの7つの公共事業関係の企業を接収。3月までに82の外資系企業と15の外資系銀行を接収・管理。永安、先施、新新、大新の四大デパートも日本の軍事管理下に置かれる。

6.  上海のすべての地区のラジオ所有者が登録を義務づけられる。

8.12 日本陸海軍防空司令部が灯火管制を敷き、広告や装飾用のネオンが消える。

9. 3 警務処に音楽検査科が開設され、ダンスホール、ナイトクラブなどで演奏される曲の検査を始める。アメリカ、イギリスの曲や「何日君再来」などが禁止される。

10.16 日本軍が「敵性国」居留民の娯楽施設への立ち入りを禁止する条例を発布。このため映画館、ダンスホール、ナイトクラブなどが次々と営業停止に追い込まれる。

11.  日本陸海軍司令部が「敵性国」居留民の短波ラジオ、カメラ、望遠鏡を没収。

1943年

1. 9 汪精衛政府がイギリス、アメリカ両国に宣戦布告し、日本と「日華共同宣言」を発表。

1.  汪精衛政府がイギリス、アメリカの映画の上映を禁止。

7.30 汪精衛政府が仏租界を接収。続いて 8月 1日に公共租界を接収。この時点で上海在留日本人は10万人に達する。

9.9 特工総部の権力を独占した李士群、反対派の手にかかり毒殺される。腐敗堕落した特工総部への怒りのためとされる。

1944年

2月 英中友好条約が締結。イギリスは中国に租界を「返還」する。

3. 3 日本陸海軍防空司令部が市内に戦時灯火管制を敷く。

6.12 米軍機が初めて上海上空に飛来。

6.  武田泰淳が上海に来て中日文化協会に着任。

11.10 汪精衛、銃創の悪化により日本の名古屋で病没。12日、陳公博が代理政府主席兼行政院院長に就任。

1945年

1.15 周仏海が上海市長兼警察局長に就任。

5.  李香蘭(山口淑子)のリサイタルが開かれる。

7.17 米軍機約60機が滬東を空襲。23,24日には約100機が市内を空襲。

8. 1 ソ連映画『スターリングラードの戦い』が公開される。

8.11 日本が降伏するとのニュースが伝わり、パークホテル【3-C3】の屋上に青天白日旗が翻る。

8.15 日本が無条件降伏。上海全市が歓喜に沸き返る。

8.18 米軍が上海に上陸。20日、米軍陸軍使節団が上海に到着。

9.初 湯恩伯率いる国民党政府軍第三方面軍が上海に入る。

9.12 日本の降伏調印式が行われる。14日から日本軍の武装解除が始まり、約15万の将兵が江湾と浦東の集中営に収容される。

* 工業消費電力はピーク時(36年)の4割に低下。中国人経営の工場の生産は事実上停止。

1946年

4.  中国共産党中央上海局が成立。劉暁が書記、劉長勝が副書記。

8.20 ミス上海のコンテストが開催される。

10. 2 ブロードウェイ・マンションが国防部に接収され、右翼団体励志社の上海本部となる。

1947年

1.  輸入品販売店が急増し、アメリカ商品が市場を独占。

2. 9 「国産品愛用・アメリカ商品規制運動」の大会に国民党特務が乱入し死者1名、負傷者数十名。

5.19 上海の14の大学の学生約7000人が「反内戦、反飢餓」の集会を開き、デモ行進を行う。

5.末 国民党が軍隊、警察を大量動員して市内の各大学を捜査し、多数の学生を逮捕。これに対して学生、教師が授業をボイコットし、市民の支援も得て抗議運動を展開。

7月 丁黙邨、死刑となる。

10月 川島芳子、国民党政府により処刑される。

1948年

1.末 申新棉紡績廠で7千人の労働者がストライキに入り、警官隊と衝突し、200人余りが逮捕される

8.  蒋経国が経済管制委員会の督導員として着任し経済管制を敷く。物価の凍結、隠匿物資の摘発、汚職官吏の処罰などの「打虎運動」を実行するが、11月に南京に召還。

12. 7 中央銀行に金銀への兌換を求める群衆が押しかけ大混乱となる。蒋介石は中央銀行の現金を台湾に移させる。

1949年

2.25 国民党の最新型巡洋艦重慶号が艦長以下574名の将兵ともに解放区へ亡命。

2月 各大学に「応変委員会」が作られ、糾察隊、儲糧隊、救護隊、宣伝隊が組織される。

4.14 上海市長呉国禎が台湾に逃亡。

4.22 人民解放軍が南京に入城。国民政府の機関と要員が上海に移る。淞滬警備司令部が上海が戦時状態に入ったことを宣布し、全面軍事管制を敷く。

5.12 陳毅率いる人民解放軍第三野戦軍が上海攻略作戦を開始。

5.27 人民解放軍が上海全市を「解放」し、上海市軍事管制委員会が成立。

5.28 上海市人民政府が成立。陳毅が市長に就任。

7. 6 百万人を超える兵士、市民が上海の「解放」を祝って市内を行進。

10.10 中華人民共和国が成立。外国資本は香港に撤収する。数10万人の資本家や秘密結社の構成員、文化人、技術者、熟練工が香港にうつる。「魔都上海」の終焉。

 
 

 

 

 

 

 

 

 

最初にお断りですが、たいへん読みにくい記事になってしまいました。
ウィキペディアの抜粋から初めて、最後はウィキペディアのほぼ全否定になってしまいました。
ただ、結果的には、世上流布された秋瑾像を見直すのには役立つだろうと思います。


上海の歴史を勉強していて、とんでもない人物に出くわした。

多分知らない私が世間知らずなのであろうが、勉強したことを書き出してみる。

彼女の名は秋瑾(チウ・チン)。今風に言えば武闘派女子である。山崎厚子は著書の表題を「秋瑾 火焔の女」としている。

懐に短剣、背にモーゼル銃、鹿毛の馬に跨(またが)って駆ける男装の麗人。秋瑾(しゅうきん)は、今もって、中国女性の胸に燦然(さんぜん)と輝く革命家である。

さすがにひどい。これではまるで満州の女馬賊だ。

まず有名な写真

秋瑾

写真館で撮らせたものだろうが、なかなかの美人で、お金ならいくらでもありそうな身なりだ。

当時の秋瑾は清服を嫌って和服を着用し、好んで短刀を身につけていた。(日本大百科全書)

それにしてもドスをこれみよがしにかざすとは相当に物騒な女性である。間違っても褥を共にしたくはない。

しかし、どうもこのオドロオドロしい写真だけでは、エキセントリックな面が誇張されてしまいそうだ。

もう1枚の写真がある。おそらく、平凡な若奥様の時代であろう。

秋瑾2
   互動百科からの転載

これを見ると多少おてんばではあるが、品行方正な若奥様が、北京での政治状況に心を動かし、革命に目覚め、変身を遂げていくというストーリーのほうがすっきりする。

毎度おなじみの年表形式で、資料を整理していくことにする。ウィキから始めて周辺資料でふくらませていくやり方もいつものとおり。

まずは人名録的なところから。

姓が秋で、名が瑾。元の名は秋閨瑾(けいきん)、競雄あるいは鑑湖女侠と号した。

瑾は玉(硬玉)の意味。余分なことだが「瑕瑾」(玉に瑕)ということばが日本で知られている。あの「瑾」である。(ただしこれは和製漢語)

 

1875年11月8日 福建省の厦門で生まれた。日本で言えば明治8年である。(77,78,79年の諸説)

本籍は浙江省の紹興府である。厦門は祖父の赴任先であり、これに一家が帯同したためである。

祖父・秋嘉禾は廈門府の長官であった。当時厦門はイギリスの実質的支配下にあり、横暴なイギリス人に苦汁をなめさせられたようである。

すでに幼少の頃より男勝りの気性は発揮されていたようで、乗馬や撃剣・走り幅跳び・走り高跳びなどで体を鍛えた。男装して町を闊歩したとの話もある。

ただこれらの逸話も、異端性を強調する結果になっている。むしろ強調すべきは、女性には不要とされていた学問や詩作を、それこそ「男勝り」の高度なレベルで習得していたことであろう。

1899年、24歳のときに父の勧めに従い結婚。北京に住み二人の子が生まれる。しかし結婚生活には満足できなかった。

このウィキの記載は、少し省略がある。

1894年、秋瑾の父は税務署長として湖南省に赴任した。赴任先の豪商の息子が秋瑾に一目惚れ、手練手管で両親を籠絡し、秋瑾はいやいや嫁ぐこととなった。これが99年のことになる。

互動百科には姑がいびったと書いてあるが、これは眉唾。上海から見れば湖南はど田舎、気性激しき秋瑾の事ゆえ、いやいや嫁入りした先の姑やしきたりなど心中見下していたに違いない。

この夫は買官に成功し、家族ともども北京に移住することになった。この時までに秋瑾は二人の娘を生んでいる。

世界大百科事典によれば

そのときの北京は義和団の運動が敗北し,ヨーロッパ列強に対してなすすべを失い、狼狽ただならぬ清朝政府の中央でしかなかった。

武田によれば、「居常(いつも)、即ち酒に逃る。しかして沈酣(酔っぱらって)もって往き、覚えず悲歌撃節、剣を払って起ちて舞い、気また壮んなること甚だし」という状態になってしまう。

これは明らかに病的な躁状態である。この結果、結婚状態は破綻した。直接には義和団の運動に感化されたと言われるが、家庭環境も悪化していただろう。

1904年、秋瑾は家族を置き、単身日本に留学することになる。日本では明治37年、日露戦争後の軍国主義高揚期である。それが彼女の躁状態に火に油を注ぐ結果となったことは想像に難くない。

どうも、このあたりウィキ(ということはおそらく武田泰淳)は書き過ぎのようである。

秋瑾が運動へ傾斜していくのは、フェミニズム運動を通じてのようである。

秋瑾は、女性を「三寸金蓮」の纏足から解放しようと「天足会」の運動に加わった。自らは背広・洋靴・帽子という姿の男装をしてみせた。

秋瑾3
      1904年始,秋瑾开始着男装

運動の中で京師大学堂の日本人教師と知り合い、その縁で日本留学を決意した。教師は実践女学校の校長である下田歌子に秋瑾を推薦した。

夫は二人の子供もあるので引き留めようとしたが、秋瑾は「子供を連れて留学する」と言いはった。夫は仕方なくそれを認め、息子を自分が引き取り娘を秋瑾に押し付けた。

6月28日、秋瑾はまだ三歳になっていない娘を抱いて、日本の客船に乗り、7月24日に東京に着いた。

先ず中国留学生会館の日本語講座に入り、翌05年8月、実践女学校の特別科に入学した。

ここで教育・工芸・看護学などを学んだが、何よりも下田歌子の「男女の学問の平等」という精神に最も強く感銘を受けたという。

なおウィキによると、

来日後は日本語を勉強するかたわら、麹町神楽坂の武術会にも通った。射撃を練習したほか、爆薬の製法まで学んでいる。

深夜まで読書と執筆にふけり、感極まると胸を打って痛哭するという日常を送った。

と、記載されている。「別の一面があったのか」とも思われるが、どうも他の資料も読み進めるうちに、いささか疑念の湧くところである。

したがって、最初に書いた次の一節はいずれ書き改めなければならないかとも思っている。

ここまでだけでも結構なエクセントリックぶりだが、その後はこれに民族主義の方向性が与えられていく。

浙江同郷会の週1回の会合には必ず出席した。横浜の洪門天地会(三合会)には来日直後に入会し「白扇」(軍師)になっている。

そして同郷志向に飽きたらない秋瑾は革命運動にまで首を突っ込んでいくようになる。

ここで、当時の中国の革命組織の流れを見ておく。これには2つの流れがあり、一つは05年8月に孫文らが東京で結成した「中国同盟会」、もう一つが上海の「光復会」であった。

「光復会」は浙江省の出身者を中心に組織され、秋瑾の郷里紹興府もこれに統合されていた。のちに「中国同盟会」に加わることになるが、当時は別組織である。

秋瑾はまず「光復会」の東京の責任者・陶成章に会い入会をもとめた。ウィキによれば、彼女の依頼は「執拗」だったらしい。

陶成章は根負けしたのであろう。紹介状を書くという形で、上海の蔡元培会長と紹興の指導者・徐錫麟へ下駄を預けた。

1905年2月、一時帰国した秋瑾は「光復会」との接触を図る。蔡元培は入会を認めなかったが、紹興の徐錫麟(しゃくりん)は入会を認めるに至る。

東京に戻った秋瑾は勇躍活動家の組織に乗り出した。

浙江の人間はそれまで団結心がないといわれていた。それを「光復会」に結集させたのは、強い説得力と彼女が培ってきた人的関係のなせるわざであろう。

また女子留学生を「共愛会」に組織し、自ら会長に収まった。留学生の組織で実績を上げた秋瑾は、孫文が率いる革命団体「中国同盟会」への加入を認められる。そして浙江省の責任者となった。1905年(明治38年)9月のことである。

そして11月2日、秋瑾の最初の見せ場がやってくる。

清国の要請を受けた日本政府が、清国留学生に対する取締規定を発した。これに反発した学生が授業のボイコット運動(同盟休校)をおこす。

強硬派学生(秋瑾を含む)はさらに同盟休校にとどまらず一斉退学と全員帰国を主張した。

中国留学生会館で浙江同郷会の集会が開かれた。一斉退学に反対する学生達との議論が白熱した。秋瑾は興奮し、いつも身に付けていた短刀を演台に突き刺し、彼らに「死刑」を宣告した。

その中には同じ紹興の出身、魯迅も含まれていた。

魯迅の弟である周作人は、その様子を著書『魯迅の故家』で次の様に書いている。(ウィキペディアより)

秋瑾が先頭になって全員帰国を主張した。年輩の留学生は、取締りという言葉は決してそう悪い意味でないことを知っていたから、賛成しない人が多かったが、この人たちは留学生会館で秋瑾に死刑を宣告された。魯迅や許寿裳もその中に入っていた。魯迅は彼女が一ふりの短刀をテーブルの上になげつけて、威嚇したことも目撃している

大見得を切った秋瑾は12月に故郷紹興に戻る。その時、「私は帰国後、革命に尽力し、皆様と中原で会うことを臨んでいる」と同級生に語ったという。

ウィキでは1906年の生活についての記載はない。

他資料での検索の結果は以下のごとくである。

1906年はじめ、紹興の「光復会」は彼女を受け容れた。彼女は徐锡麟の紹介により光復会に加入した。互動百科

崔淑芬によれば、

紹興に戻った秋瑾は明道女学校、浙江省の潯渓女学校の教員を歴任した。あわせて紹興で『中国時報』を発刊、女権、女子革命を主張した。

女性の自立手段として、習ったばかりの日本の看護学の教科書を中国語に翻訳した。(永田圭介

06年の夏になって、秋瑾は上海に出て『中国女報』を創刊した。

秋瑾らは上海に革命機関を设立し、「中国女報」を発行した。最初に提案したのが「婦人協会」創建の主張だった。彼女は近代女性の解放のために第一声のラッパを吹き鳴らした。-互動百科

したがってウィキで1907年とされている『中国女報』の記載はあやまちである。

崔淑芬は「中国女報」における秋瑾の主張を、秋瑾の活動の真髄として重視し、丁寧に紹介している。

まず発刊の辞から。

本報の発刊の目的は、女学を振興し、女性を解放するためであり、団体化するためである。

とし、「将来は中国の婦人協会もつくろう」と提起している。

次に「警告妹妹們」という文章。

多くの女同胞はまだ真っ暗地獄にいるようだ。一人の人間として志を持たなければならない。志を持っているなら、自立することができる。‥‥女子は教育を受けるべきだ。そうすれば家業が興隆、男子に敬重される。

また日本を例に上げ、

女子教育の発展と国家の発展との関係は切っても切れない関係にあり、その重要性を認識すべきだ

と強調した。

その年の冬、秋瑾は紹興に戻って大通学堂を指導することになる。

大通学堂はもともと徐锡麟、陶成章らが始めたもので、光復会の幹部、大衆を組織する革命の拠点となるものだった。

おそらく以下のウィキの記載は1906年の初頭のことであろう。

正月、紹興に光復会幹部の養成を目指す大通学堂が開かれた。

光復会の幹部は「会党」と呼ばれる秘密結社に二重加盟した。それは明確に革命を目指す政治結社だった。紹興においては竜華会(りゆうげかい)と呼ばれた。

そして以下の記載は06年後半の出来事だろうと思う。

秋瑾が大通学堂の代表となった。しかし秋瑾の目標は幹部の育成にとどまらなかった。

秋瑾はここを拠点として「体育会」を組織し、会党のメンバーや革命青年を集めて軍事訓練を行った。

また、浙江省各地の会党と連携して「光復軍」を結成し、武装蜂起に向けた準備を進めて行ったのである。

そして1907年、秋瑾の最後の半年が始まる。

ウィキによれば

5月 武装蜂起の計画が確定した。徐錫麟が安徽省安慶で武装蜂起。秋瑾がこれに呼応して浙江で蜂起するという筋書きだった。

7月6日、安慶で徐錫麟が行動を起こした。清朝政府の安徽巡撫を刺殺したものの、たちまち鎮圧・処刑されてしまう。

当局は秋瑾の浙江での蜂起計画も察知。紹興に押し寄せた。

7月13日、大通学堂の秋瑾は、短刀を抜くことも一発のピストルを撃つこともなく逮捕された。

そして2日後の15日、紹興市内で斬首された。享年31歳。辞世の辞は「秋風秋雨、人を愁殺す」

なお「6月5日」とあるのは旧暦表記である。

正直に言えば、秋瑾が武装蜂起をセッティングしたというウィキの記載は疑わしい。武装蜂起の覚悟はあったにせよ、具体的な決行の意図があったかどうかは疑問もある。

処刑の様子については永田圭介さんのエッセイがある。

7月14日、秋瑾は最初に知県(県知事)の尋問を受けた。このとき、「秋風秋雨人を愁殺す」の絶唱を書き遺した。

その後取り調べを拒否し、火煉瓦、火鎖などの虐殺的拷問を受けたが、「革命党員は死を恐れない。 殺したければ殺せ」と叫んだのみで、目を閉じ、歯を食いしばって遂に一言も吐かなかった。

官側は、衰弱死を恐れて拷問を打ちきり、贋造した供述書に力ずくで拇印を押させ、死刑宣告の体裁を作った。

7月15日、午前3時に監獄から曳き出された彼女は、県衙門で即刻死刑の宣告を受けた。知県は袒衣(斬首前に衣服を剥ぐこと)と梟首(さらし首)をせぬことを約束した。

秋瑾は足に鎖枷をつけられ、腕は背後に縛り上げられて刑場に向かった。極度の疲労でよろめく秋瑾を支えようとした護送兵に、彼女は一喝した。「自分で歩く!手出し無用」

処刑は公開で執行された。場所は市内繁華街の軒亭口である。

午前3時に山陰県監獄から曳き出された彼女は、県衙門で即刻死刑の宣告を受けたとき、動じる色もなく知県(県 知事)の李宗嶽に訣別の遺書を書かせよ、袒衣(斬首前に衣服を剥ぐこと)をするな、梟首(さらし首)をするな、と三つの要求をした。

知県は時間がかかる遺書を除き、袒衣と梟首をせぬことを約束した。


ウィキペディアの記事は、武田泰淳『秋風秋雨人を愁殺す・秋瑾女士伝』(1968年)を下敷きにしたものらしく、名文である。しかしその分彼女の異端性を強調する方向での脚色があるようだ。

調べていくうちに、どうも武田泰淳によって作られたイメージは実態とは相当かけ離れているのではないかと思うようになった。山崎厚子さんはその傾向をさらに強めている。

崔淑芬 秋瑾と日本 を読んでその疑念は確信に変わりつつある。

秋瑾は女盗賊のような野蛮な人間ではない。その戦闘性は高い知性と貶められた女性への深い共感に裏付けられている。

私はマヤコフスキーの詩の一節「議論はもうたくさんだ。同志モーゼルよ!」を想起する。

19世紀末から20世紀初頭における理性のあり方の一つの典型として、もう一度本当の秋瑾像を構築しなければならないのではないかと思う。(誰かさん、お願いします)


ソロスが「中国が危ない」としゃべって、それをみんなではやしているようだ。どうもみな軽佻浮薄でいけない。つい1,2年前まで「これからは中国が世界の王者だ」とか「中国脅威論」を騒いでいたのは誰か。

少し頭を冷やして考えてみよう。

中国が急成長を開始したのは1990年代の後半からだ。その理由は日本がガンガン資本を突っ込んだからだ。

だから中国は発展すればするほど「日本型」経済機構(日本にではない)に組み込まれる。それは対米輸出を中軸とする輸出志向型経済だ。したがってますますアメリカの政策に依存するようになる。

いわば「普通の国」になってしまっているわけで、世界の経済の動きから隔絶した「社会主義経済の優位性」などもはや存在していないのである。人並みに「なべ底不況」も味わなければならないのだ。

また、これから減少するであろう日本からの資本輸出の影響も深刻となる。コストアップや少子化の影響も急速に現れるだろう。

したがって2000年代のふた桁成長は今後は望めない。

という中長期的状況から見て、そろそろ成長率を下方修正しなければならない時期だった。その時にアクセルを踏んだのではクラッシュは必然である。

ふたつ目にはリーマン・ショック時の異常な公共投資だ。

深刻なリセッションを公共投資・内需の拡大で凌ぐというのは正しいやり方だ。日本のように全て国民に押し付けたのでは、景気後退は長期化せざるを得ない。

ただし、その目標はGDP成長率をゼロ、あるいはゼロに近いマイナスに調整することであったはずである。しかしまだ中国国民の爆買い需要は旺盛であるから、厳格なゼロではなくプラス数%乗せても持つかもしれない。

それでも今までの差額分はどこかで払わなければならない。要するにこの際の財政出動はハードランディングを避けるためのものであり、ランディングはしなければならないのである。

外貨が潤沢だから韓国のような事にはならないだろうと言われるが、外貨のほとんどは米国国債という形で、すなわち売り掛け金の形であるにすぎない。アメリカが返すと思いますか? 絶対に返しません。

欲しいのはそういう塩水ではなく真水(投資資金)だ。今までなら日本資本が頼みの綱だったが、日本はもう以前のようには貸せないし貸さないだろう。

だから、中国はインフラなどへの公共投資による景気の維持という方針から、ある程度のハードランディングは覚悟して、社会政策によって貧困者を救済し、公共事業は失業対策的な投資に的を絞るべきであろう。

それと感情的には煮えくりかえる思いであるにしても、日本に頭を下げる道を探らなくてはならないだろう。ずいぶんか細くなったといえども、頼りにできるカネの出所はそこしかない。

日本のバブル崩壊の時とはだいぶ状況が違う。まだ発展の伸びしろはある。4,5年のうちには経済は回復するだろう。金融界には相当の後遺症は残るであろうが。

一番心配なのは、それによって生じる社会不安だが、多分大したことはないだろう。たかだか10年ちょっと、世間がまだ「いい夢を見た」と笑って過ごせるくらいの日にちしか経っていないからだ。

最近の不破さんの話はまことにスリリングで、どう受け止めたらいいのか、戸惑いを感じてしまうほどである。

要するに、とにかく「伝統」と呼ばれるものからスターリン的要素を剔抉して、徹底的に浄化しようということに執念を燃やしている。その迫力はこれまでの「反スタもの」に比べて格段の違いがある。

本日の「本と私」という党外の人に向けた講演でも、その思いは一貫している。

その中で、「うーむ」とうなった箇所を上げておく。

1949年の11月、新中国の誕生直後に北京で開かれたアジア太平洋州労働組合会議で、劉少奇が武装闘争の大号令をかけたんです。
翌年には、いわゆる「50年問題」で、日本共産党への武装闘争方針の押し付けが始まりました。
私たちは、そこに劉少奇演説の流れを見ていたのですが、この本 の第1冊に劉少奇のスターリン宛の手紙(49年8月)があり、“労働組合会議で武装闘争を呼びかけるのは反対だ”と訴えていました。それをスターリンは押し切ったのです。

ここでこの本 と言っているのは、2007年に不破さんが北京に行ったとき、たまたま本屋で見つけたという「建国以来 劉少奇文稿」である。

毛沢東以前の中国共産党について勉強したが、“お殿様の言うことは何でも飲み込む”姿勢は、中国共産党の習い性となっている。清朝時代の“美風”をそのままに引きずっている。近代市民文化の未成熟がその背景にあるのだろう。

それがスターリン主義を増長させた。酷な言い方だが、結局のところその“美風”は、客観的に見れば“下からのスターリン主義”と批判されても仕方ない。

ただその組織が国を支配するようになってくると、そこから抜け出す自由はもはやない。“美風”は“悪風”となる。そして劉少奇自らがその犠牲となった。

“悪風”は、最後は自分たちで克服していくほかないのである。


どうも書いていて、我ながら隔靴掻痒の感がある。

中国の伝統として白髪三千丈的な表現がある。言葉が踊るのだ。

だから言葉と実際の感情の間には乖離が生じることがある。それがスターリン的な荒っぽい表現を加えたために、一層それが激しくなる。それを外部の人間が見ると、とくに日本人だと非常に激しく受け取ってしまう。

事実としては、陳独秀も瞿秋白も李立三も、悪しざまに罵られ、指導部のポストを追われた。しかし党には残り、何時の日か再起している。あの王明ですら、革命後は政府の要職を務めている。

だから、政権交代劇はひょっとするとコミンテルンの顔を立てるために行われたにすぎないのかもしれない。

ということは、コミンテルンの指令は一応は受け取られるが、意に沿わないものであればいずれは破棄するつもりだったかもしれない。ただやるのであれば本気でやらなければならない。「それが民主集中制というものだ」ということか。

劉少奇にもその傾向がうかがわれる。勤工検留学生上がりに特有の気質かもしれない。

そこへ行くと王明は結構本気だった。彼の讒言で多くの活動家幹部が粛清されたり、敵に売り渡されたりしている。康生はもっと本気(むしろ狂気というべきか)だった。浅間山荘の連合赤軍連中のように、言葉と行いの間に隙間がなかった。

結局、1週間ほどをかけて「毛沢東のライバルたち」の年表に没頭しました。
どうやら完成です。
以前ブログに連載した「毛沢東以前の中国共産党」は拡充されて、この年表に一本化されています。
中国共産党の人脈は次のように分類されると思います。
1.マルクス主義の紹介者たち
この人たちの多くは日本留学組で、日本語訳された文献を通じてマルクス主義を知り、それを中国に紹介しました。1915年から20年ころにかけての時代です。この人たちの中から中国共産党が結成されることになります。
2.五四運動の世代
北京で軍閥政府の対外追従に抗議する大運動がありました。この時、共産党に飛び込んだ北京大学の学生を中心とするエリート世代があります。中国共産党の最古参に属する人たちです。
3.湖南湖北の農民運動
湖南湖北は中国の中でも遅れた農村地帯で、その分農村運動は激しいものがありました。これを代表したのが毛沢東たちです。
この地域は同時に勤工検留学生を多く輩出しました。したがって出身地域、年代ともに両者は重なっています。
4.勤工検留学生のグループ
同じ国外留学でも日本に留学したエリート層ではなく、フランスで働きながら学ぶという経験を積んだ人たちです。学ぶと言っても条件は劣悪で、ストライキを起こして強制送還させられた人もいます。戦前の共産党の主軸をになった人の多くがこのグループです。
5.コミンテルン・グループ
1930年までは1~4のグループが運動を担っていましたが、一斉蜂起戦術の失敗の後、コミンテルンの指示によって指導部メンバーは一新されます。
新たなメンバーはすべてモスクワ帰りの、ほとんど闘争経験を持たない新人でした。古手の活動家は粛清されるか、山岳ゲリラのもとに送り込まれるかしました。
ところが、彼らにとっては不幸なことに、その後1年も経たないうち、弾圧で上海での活動が不可能になってしまいました。こうして彼ら自身が解放区に入らざるを得なくなり、厳しい戦いの中で古参幹部の方針に従わざるを得なくなります。
6.その他のグループ
北京大学を中心に知識人のグループがありましたが、張作霖によって集団処刑されてしまいます。
上海、武漢、広州にはそれぞれ強大な労働者グループが形成され、労働者党員の幹部も生まれますが、その後の弾圧の中で消滅の運命をたどります。
国民党軍に潜入した共産党員も一連の武装蜂起に参加していますが、共産党の組織活動とは性格が異なるようです。
中国共産党にとっては、6大会というのが非常に大事な会議で、その後、はじめて諸活動の全面展開と党独自の組織づくりが始まります。その再建過程で左翼文化戦線も活発になります。党の活動が厳しくなったあとも合法面での活動がギリギリ維持されていました。彼らとスメドレーらは連携しながら党のパイプ役を勤めますが、ユージン・デブス事件で一網打尽にされてしまいます。
様々な理由から多くの党幹部がモスクワに在留していましたが、その殆どはスターリンの大粛清の犠牲となってしまいました。

ということで、それぞれのグループからこれはと思う名前を上げてみると、
1.陳独秀(徳田球一みたいな人)
2.李大釗(野坂参三みたいな人)
3.
張国燾(志賀義雄みたいな人)
4.
蔡和森 27年7月に陳独秀とともに指導部を降りている。その後モスクワでの療養生活に入る。
5.
瞿秋白(不破哲三みたいな人)
6.李立三 28年の6会大会(モスクワで開かれた再建大会)のあと党を再建
7.周恩来 中国のミコヤン。絶対にトップには立たない。
というわけで、並べてみると李立三が最強の指導者ということになります。ただ6大会では、本来は李立三ではなく蔡和森が就任するはずだったかもしれません。
ソ連=コミンテルンは一方で国民党との無原則的妥協を強いつつ、他方で極左冒険主義を煽るという犯罪的役割で一貫しています。李立三に無謀な蜂起を強いたのも当時のコミンテルンの極左方針そのものです。
そして最後には党指導部を事実上解体して、粛清屋の若者を送り込むという形で、中国共産党に引導を渡す結果となりました。
こういう経過を身をもって体験した毛沢東が、後年になって日本国民の闘争に野蛮な干渉をしたのは一体どうしてでしょうか。


とにかくまことに内容充実、脂っこい本である。AALAの全国総会の後、大塚駅前のブックオフで410円で買ったが、その10倍の値打ちはある。
まずこの本の骨組みを紹介しておこう。
この本の奥付は以下のようである。

岩波新書(新赤版)1251
シリーズ 中国近現代史 ③ 「革命とナショナリズム 1925-1945」
第1刷発行 2010年
著者は 石川禎浩(よしひろ)さん

1963年(昭和38年)生まれというから、私より二回り近く下の52歳だ。
京都大学の文学部卒業で、現在は人文研の准教授という肩書(准教授って知らないが、助教授より下か? もうポツダム教授で終わるかも知れない)

その博識ぶりと、見識の確かさには舌を巻く。私もいささか勉強したつもりだったが、共産党側と国民党側の見解の激しい相違の中で、情報の取捨選択に右往左往させられてきたので、このことには感服する。「実事求是」に対するひとつの拠り所を得た思いである。

蒋介石を回転軸としつつ、その右回りスピンよりは少し左側に中国民衆運動の重心を据えることで、20年代から30年代への確かな前進を確信していく作業が必要なのだろうと思う。
それによって共産党の運動を、毛沢東への流しこみでもなく、コミンテルンとスターリン主義の犠牲者としてペシミスティックに見るのでもない、積極的な視点が培われるのではないか。

私が毛沢東でない中国共産党の姿に興味を持ったきっかけは、映画監督の佐藤純彌さんの短いエッセイだった。上海のバンスに拠点を構え、巨大な生産都市にして歓楽都市の中で圧倒的な文化的影響力を発揮し続けた中国共産党のまばゆい姿が心に焼き付いている。その象徴が向警予だった。

結局、興味の持ち方がスケベェなんですね。

以下は岩波新書「シリーズ中国近現代史② 革命とナショナリズム」から編年風に抜書きしたものである。
いずれ「毛沢東以前の中国共産党」年表と合体するつもりだが、とりあえず掲載しておく。


1919年

10月 孫文らの中華革命党を中心として中国国民党(以下国民党)が結成される。

1921年

中国共産党が上海で第1回党大会を開催。この時の党員数は全国で50名余。

1922年

第一次奉直戦争。直隷派の勝利に終わる。

1923年

1月 孫文・ヨッフェ連合宣言が発表される。これによりソ連との連携方針が明らかになる。孫文は、「ソヴェート制度は中国には適さない」と留保。

この後、コミンテルン・ソ連から派遣されたマーリン、ボロジンらの助言を受け、党組織の改革「改進」が推進される。これまでの孫文専権党から、党大会を頂点とする近代政党に切り替わる。

3月 中国国民党、西南地方の軍閥を結集。広東で地方政権「大元帥府」を立ち上げる。

10月 北京の直隷派、「賄選」と呼ばれる議員買収で曹錕(金偏に昆)を大総統に選出する。直隷派は全国統一を目指し反対派(奉天派、安徽派)に圧力。

秋 国民党、党員の再登録を実施。広東省内の党員は3万から3千に減少する。

23年 孫文、ソ連に代表団を派遣。蒋介石も加わる。

蒋介石は日本に留学し陸軍で実習を積む。11年に帰国後は孫文の革命運動に加わり、軍事面で支え続けた。当初は必ずしも反共ではなく、孫文の連ソ容共方針にも積極的に賛同していた(石川)

1924年

1月 国民党、第1回全国代表大会を開催。国共合作を容認。ただし共産党員は国民党への二重加盟を求められた(党内合作)。共産党員の多数がこれに反対するが、コミンテルンに押し切られる。この時点で共産党員は全国で約500人。

6.16 広州の東郊外に黄埔軍官学校が開設される。総理に孫文、校長(軍の最高指導者)に蒋介石、党代表に廖仲愷が就任。ソ連軍事顧問団の指導を受ける。

9月 第二次奉直戦争が始まる。広東政府も反直隷同盟に加わる。両軍合わせ30万の兵力が動員される。南下した張作霖の奉天軍と直隷軍が北京東方の山海関付近で激突。

9月 国民党が広州の武力統一に乗り出す。翌年までに広東省の統一を実現。

10月 直隷軍の馮(ふう)玉祥が奉天軍に寝返る。北京を制圧し曹?を監禁する(北京政変)。背後を衝かれた直隷軍は総崩れとなる。

馮玉祥、自軍を「国民軍」と改称。皇帝退位後も紫禁城に住んでいた溥儀を放逐する。さらに張作霖の同意をえて、段祺瑞を北京政府の「臨時執政」に担ぎあげる。

12月 孫文、「北上宣言」を発し北京に入る。機能不全に陥った国会に代わり、全国の社会団体代表による「国民会議」を開催し、中央政治を一新せよと訴える。

国民党の党規約が制定される。ソ連共産党にならい、「民主主義的集権制度」を党の原則とする。

 

中国共産党の財政(石川:岩波新書中国近現代史③ より。以下石川と略す)
1924年度のデータで、総収入32千元。うち党費などによる収入は2千元足らずだった。すなわちソ連からの援助が3万元ということになる。党への直接援助の他に、労働組合やソ連政府援助の流用をあわせると10万元以上が中国共産党に流れたと考えられる。27年には援助総額は100万元に達した。石川の試算では当時の1元は現在の750円に相当するという。

レーニンが死亡。民族統一戦線を重視するソ連共産党・コミンテルンの対中方針はそのまま継続。

1925年

2月 上海の日系紡績工場「内外綿」で労働争議が始まる。

3.12 孫文、北京で軍閥政府と交渉中に死去。享年58歳。死因は肝臓がん。「革命なお未だ成功せず。同志なお須らく努力せよ」の遺言を残す。なお「連ソ容共」路線の継続を訴えるソ連あての遺言は、後の中華民国政府により無視された。

5月 広州で第2回全国労働大会が開かれる。「軍閥と国際帝国主義を打倒する革命」を決議。中華全国総工会の結成を宣言。166の組合、54万人の労働者を結集。

5.16 内外綿争議で、日本人職員が中国人労働者を射殺。共産党は糾弾闘争に立ち上がる。

5.30 「530事件」が発生。上海租界で、共産党の指導する判定示威運動。共同租界当局は群衆に対して発砲。13人の犠牲者を出す。

6月 上海総工会の呼びかけたゼネストに20万人が参加。総工会は中小企業家や学生団体とともに工商学連合会を結成し対外ボイコット運動を展開。都市機能は1ヶ月間麻痺状態に陥る。

6.23 広州の英仏租界の沙面を10万人が取り囲むデモが発生。恐慌をきたした守備隊の発砲により52人が死亡する。香港で働く13万人の労働者が広州に引き上げ。国民党政権の支援を受けた労働者糾察隊2千人が香港・広州間の交通を遮断し、香港と沙面を封鎖。

香港スト: 香港でのストは26年10月まで16ヶ月にわたり続けられた。この長期ストにより香港は「臭港」「死港」と化した(石川)。

6月 ロシア共産党政治局、中国(主に広東政府)への150万元の軍事援助を決定。これは4月から9月までの半年分とされる。

7月 広東の国民党政権、大元帥府から「国民政府」に改称。主席に汪精衛が就任。

8月 従来の諸軍を再編し国民革命軍が編成される。黄埔軍官学校の卒業生が中核を担う。

8月20日 孫文後継者と目された廖仲愷、広州市内で国民党右派により暗殺される。

夏 孫文側近の戴季陶、「孫文主義の哲学的基礎」、「国民革命と中国国民党」を相次いで発表。共産党の寄生政策を批判して、「純正民主主義」の徹底を訴える。

ただし戴季陶は蒋介石宛の私信で、「今日もっともよく奮闘せる青年は大多数が共産党であり、国民党の旧同志の腐敗・退廃は覆うべくもない」と告白している(石川)

秋 共産党員数が3千近くに達する。多くが国民党政府のメンバーとして活動。

11月 張作霖配下の郭松齢、馮玉祥と結び反乱を起こす。日本軍の支援を受けた張作霖は郭松齢の軍を殲滅。これを受けた馮玉祥の国民軍は北京を退去。西北方面で再起を狙う。

広州で「被抑圧民族連合会」、「ベトナム青年革命会」、「台湾革命青年団」などが結成される。

1926年

初頭 馮玉祥、国民党に加入し反乱を起こす。ソ連は国民軍を広東と並ぶ革命勢力とみなし、軍事顧問団の派遣や武器の援助を行う。蒋介石はソ連の二股膏薬に不信感を抱いたとされる。

1月 国民党第2回大会。左派が躍進したことから「左派による勝利の大会」と呼ばれる。汪精衛が最高得票を獲得。左派の支援も受けた蒋介石は、第2位で中央執行委員に選出される。

3.18 馮玉祥の国民軍と戦う張作霖に対し日本など列強が公然と支援。これに抗議する学生デモが北京で展開される。政府軍の発砲により47人が死亡。事件の責任を取り段祺瑞が引退。以後、奉天派支配のもとで直隷派との連合政府が成立するが、いずれも短命に終わる。(この年だけで5回の政権交代)

3月 中山(ちゅうざん)艦事件。国民革命軍の砲艦「中山」が蒋介石の承認なしに独自で航行。蒋介石は広州に戒厳令を布告し、ソ連軍事顧問団の公邸を包囲、労働者糾察隊の武器を押収。

蒋介石と広州訪問中のソ連使節団(団長ブブノフ)が事態の収拾をめぐり交渉。施設団はソ連軍事顧問団の越権行為を認め、顧問を更迭。さらに北伐の早期開始を容認し、そのために省港ストの収束方針を承認。

汪精衛はソ連の蒋介石への妥協に反発。国民政府軍軍事委員会主席の職を辞ししフランスへ去る。

4月 蒋介石が国民政府軍軍事委員会主席に就任。

5月 国民党、共産党員の国民党内での活動を制限する「整理党務案」を押し付ける。

5月 北伐を目指す国民革命軍が編成される。蒋介石が総司令に就任。

5月 北伐の前哨戦。国民革命軍北伐先遣隊が湖南省に入る。

呉佩孚が湖南省支配を狙うが、これに反発した省長代理の唐生智が戦を構える。国民革命軍はこれに介入し唐生智も国民革命軍に加わる(第8軍)。

6月 蒋介石、国民党主席(中央執行委員会常務委員会主席)のポストも獲得。

7月 国民党政府、「北伐宣言」を発表。国民革命軍動員令を発する。

北伐軍は全8軍、25師団編成。総兵力は10万を数えた。第1軍のみが黄埔学校卒業生を主体とする近代的軍隊で、残りは軍閥の部隊を再編したものであった。これに対抗したのは湖南の呉佩孚軍25万、江西の孫伝芳軍20万、彼らの背後には張作霖軍35万が控えていた。

7.09 北伐軍本隊が広州を出発。

7.11 呉佩孚軍、湖南の省都長沙を撤退。北伐先遣隊と唐生智の第8軍が制圧。

8月中旬 北伐軍、湖南省の主要部を制圧。

8月末 北伐軍、汀泗橋・賀勝橋で呉佩孚軍主力を撃破。

9.23 スターリン、モロトフ宛に「漢口はやがて中国のモスクワになるだろう」と書き送る。

9月 馮玉祥の軍、綏遠省で挙兵。陝西省方面へ攻勢をかける。

9月 イギリス砲艦、長江上流の万県に砲撃を加える。

秋 蒋介石、腹心の邵力子をモスクワに派遣。「ソ連共産党とコミンテルンの指導のもとに、その歴史的役割を完遂する」ことを明らかにする。

10.10 北伐軍が武漢を制圧。呉佩孚軍はまもなく壊滅。

10月 共産党が主導して上海で第1回目の蜂起。失敗に終わる。

11.08 蒋介石の率いる直属部隊と第7軍(軍長・李宗仁)が省都南昌を制圧。孫伝芳軍の前に苦戦し、1万を超える戦死傷者を出す。

11月 馮玉祥の軍、西安に進出。陝西省の大部分を制圧する。

11月 広州の国民党中央、党と政府の武漢への移転を決定する。

12.09 福建省の省都福州が北伐軍により制圧される。

12月 湖南・湖北の農民協会、半年で40万から160万に拡大。各地で武装し北伐軍を側面支援。

12月 国民党中央の先遣隊が武漢に到着。党中央と政府の臨時連席会議を組織する。

主要メンバーは徐謙(司法部長)、孫科(孫文の長男)、陳友仁(外交部長)及び政府顧問のボロディン。

1927年

4月 国共合作下の武漢で、第5回共産党大会。党員数6万人。労働者が6割、農民2割、知識人2割の構成。女性党員も8%を占める。

5月 コミンテルン第8回執行委員会総会。トロツキーは武漢国民党の反動化を警告するが、スターリンは国民党を通じた土地革命を想定し、中国共秋収産党に武漢政府への協力を求める。

陳独秀、武漢分共の責任を問われ、「右傾日和見主義」の批判のもとに解任される。

7月 スターリンのモロトフあて書簡。「中国共産党の中央委員会には簡単なやさしい要求がある。それはコミンテルン執行委員会の指令を達成することだ」と盲従を求める。

8.01 南昌蜂起。国民革命軍内の共産党派だった葉挺、賀龍、朱徳らの部隊が江西省の省都を中心に反乱。「中国国民党革命委員会」の名義で「革命の政党」を受け継ぐことを宣言。広東での政権樹立を狙い、南下を開始。

8.07 共産党、漢口で緊急会議を開催。陳独秀の路線を批判するとともに、南昌蜂起に呼応して「秋収蜂起」(湖北・湖南で秋の収穫期に蜂起する方針)を決定。湖南の農村活動家・毛沢東が指揮に当たることとなる。

9月 南昌蜂起部隊、広東までの間に国民党の攻撃を受け壊滅し四散。秋収蜂起もことごとく鎮圧される。

10月 毛沢東、秋収蜂起の残党1千名を率い井崗山にこもる。井岡山は湖南・江西の省境をなす山岳地帯。緑林・土匪を取り込み「工農革命軍第1軍第1師第1団」を組織。

11月 共産党、左派国民党を僭称することをやめ、共産党のもとにソヴェートを建設する方針を決定。広東省陸豊・海豊にたどり着いた南昌蜂起軍の残党がソヴェートを名乗るがまもなく殲滅される。

12月 広州蜂起。広州ソヴェートが樹立されるがまもなく鎮圧される。この時武装勢力に初めて紅軍の名が付けられる。

1927年

1.01 「武漢国民政府」が正式にスタートする。

1.03 武漢政府の臨時連席会議、3月に国民党中央総会(二期三中全会)を開催すると決定。軍(蒋介石)からの権限回復を図る。

南昌(江西省)に北伐軍総司令部を構える蒋介石は、臨時連席会議の正統性を認めず。南昌で独自の中央政治会議を開催。二期三中全会の南昌開催を決議。しかし南昌在留の党中央委員の多くが武漢に移ったことから、蒋介石の正統性は薄れる。

1月初め 漢口の英租界で反英闘争が激化。武漢政府は英租界臨時管理委員会を設置し、租界を接収する。その後、江西省の九江でも英租界が接収される。租界接収の動きを見た列強は、最大の租界を抱える上海に軍を結集。

武漢の労働運動指導者だった劉少奇は「労働者は企業を倒産させるという要求を掲げ、賃金を驚くべき水準に引き上げ、一方的に労働時間を1日4時感以下に短縮した」と述懐する。また農民運動は土地没収や地主の迫害を常態化させ、食料米の流通を阻害した。(石川)

2月 共産党、第2回目の上海蜂起。失敗に終わる。

3月 武漢で国民党中央総会(二期三中全会)が開催される。党常務委員会主席ポストの廃止、軍総司令の権限制限などを決定。労工部長、農政部長には共産党員が就任。

3.21 共産党、第3回目の上海ゼネスト・蜂起。2日間にわたる市街戦の末、奉天軍を放逐することに成功。当初、租界への攻撃はなく、外国軍との衝突はなし。

3.22 北伐軍の先鋒が上海に入る。ゼネスト勢力は「上海特別市臨時政府」を樹立。

3.24 国民革命軍の第2,6軍が孫伝芳軍を駆逐し南京に入る。一部が外国領事館や教会を襲撃し外国人数人を殺傷する。英米の砲艦が南京城内を報復攻撃。死者多数を出す。

蒋介石は日本政府に急使を送り、南京事件の誠意ある処理を約した。日本政府は報復に同調せず、蒋介石と国民政府内の過激分子粛清について密約した(石川)。

3.26 蒋介石が上海に入る。

3月末 コミンテルン、上海の共産党組織に対し、武力による租界突入を禁止する通達。また労働者糾察隊の銃刀器の携行を禁じる。

3月末 武漢の国民党中央、南京駐留中の第6軍(左派系)に対し蒋介石の逮捕を密命する。蒋介石は第6軍を南京から移動させ、直系の第1軍を配備。

4.01 汪精衛がソ連経由で上海に戻る。ただちに蒋介石や共産党の陳独秀らと会談に入る。

4.04 蒋介石、「共産党分子はデマを流し、団結を損なっている。これ以上の撹乱行為は反革命だと言わざるを得ない」と発言。

4.05 スターリン、「蒋介石など右派も帝国主義者と闘っており、今決裂する必要はない」と演説する。

4.05 汪精衛、陳独秀と共同宣言を発表。両党の友好関係を確認。また蒋介石への信頼を表明。その後武漢に向かう。

4.08 スターリン、蒋介石あてにみずからの肖像写真を送り、「中国国民革命軍総司令官蒋介石氏の勝利」を祝う。

4.08 国民党中央、産業の中心地である南京への遷都を決定。

4.09 蒋介石、駐留先の南京で左派系の集会を弾圧、さらに江蘇省党部を襲撃する。

4.11 広州でも蒋介石派の軍による左派弾圧が行われる。

4.12早朝 蒋介石隷下の第26軍、上海市内各所で労働者糾察隊の武装解除に乗り出す。この衝突で糾察隊員300人が死亡。小銃3千、機関銃20などの武器が押収される。

4.13 上海総工会が26軍にデモ。軍の発砲でさらに多数の死傷者。軍は総工会本部を占拠し左派・共産党系組織の解散を命令。その後広州でも同様の弾圧。

この後、上海は驚異的な発展を遂げる。人口は300万人(東京・大阪は200万人)、消費電力も東京を上回る。バンドには高層建築が林立。女性は摩登(モダン)な旗袍(チャイナドレス)で着飾る。活字、映画文化などが花開き、繁華街は電飾で不夜城と化した。(石川)

4月 北京を支配する張作霖、ソ連大使館を強制捜査。潜伏中の李大ら共産党幹部を逮捕・処刑。

6月 張作霖、「安国軍政府」大元帥に就任。みずから政権を握る。

4.17 武漢の国民党中央、蒋介石をすべての職務から解任。党からも除名する。

4.17 蒋介石、南京在留の党役員を集め国民党中央政治会議と中央軍事委員会を組織する。

4.18 南京に胡漢民(孫文とともに働いた古参幹部)を主席とする独自の国民政府が樹立される。蔡元培(元北京大学学長)らが蒋介石政府の支持に回る。

5.30 コミンテルンの中国に関する決議。これに基づきスターリンの「5月指示」が送られる。(中国への到着は6月初め)。中国共産党に極左的方針を持ち込む一方、国民党左派との連携を説く。

主な内容は①土地革命の断固実行、②武漢政府と国民党の再改組、③共産党員2万人の武装、④労働者・農民5万人の国民革命軍への加入、⑤反動的な武漢の将領の処罰など(石川)

6月初め コミンテルンの現地代表ロイ、「5月指示」を汪精衛にリーク。汪精衛はソ連の支援増強を条件に5月指示を受け入れる。

6月末 武漢政府は1500万ルーブルの援助を求めたが、200万ルーブルしか得られず。このため中央政府における汪精衛の地位は一気に弱体化する。

6.10 馮玉祥が武漢政府、南京政府と相次いで会談。蒋介石の側に立ち、武漢側に蒋介石との協力と労農運動の抑制を求める。

6月 日本政府、英・米の同調を得て第一次山東出兵。2ヶ月後に撤兵する。

7.15 武漢の国民党中央が会議を開催。汪精衛は5月指示の存在を明らかにする。会議は党・政府・軍における共産党員の職務停止を決議する(武漢分共)。第一次国共合作は終わりを告げる。

8月 孫伝芳軍の追撃に移った蒋介石軍、徐州の闘いで惨敗。蒋介石は下野を宣言する。

9月 国民党の最高機関として中央特別委員会が招集される。みずからの正統性を批判された汪精衛はこれを不満として引退を言明。

9月 無役となった蒋介石が私人の資格で日本を訪問。田中義一首相らと会談を重ねる。

蒋介石は、日本が「かつてのソ連のごとく」北伐を支援してくれるようもとめたが、北支の権益拡大を狙う日本側は確たる言質を与えなかった(石川)

27年末 蒋介石と汪精衛が不在の中央特別委員会は、何も決まらないまま解散。

1928年

1月 蒋介石が国民革命軍総司令官に復帰。2月には党の軍事委員会主席、3月には中央政治会議主席も兼任する。

国民革命軍の再編: 共産党・左派の占めていた軍は吸収併合され、4つの集団軍に統合される。第1集団軍・蒋介石、第2集団軍・馮玉祥(河南)、第3集団軍・閻錫山(山西)、第4集団軍・李宗仁(広東)が守備範囲となる。総勢は60万に達し、北方部隊合わせて20万を圧倒する。

第二次北伐を開始。

4月 日本、第二次山東出兵。第6師団5千人が省都済南に派遣される。

5.03 済南事変発生。済南に進出した北伐軍と日本軍が衝突。日本側の砲撃により中国側軍民3千人以上が死傷する。北伐軍が撤退迂回したため、済南は1年にわたり日本の占領下に置かれる。

済南事件はその後の対中侵略の雛形となった。①出先機関が事件を拡大・激化、②軍中央・政府が後追い、③世論が「暴支膺懲」論で後押しというパターン。いっぽう①中国国民の主要敵は英国から日本に移り、②蒋介石の親日方針は解消され、③英米両国が日本を批判的に見るようになった。(石川)

6.03 張作霖、特別列車で北京を脱出。奉天に向かう。

6.04早朝 張作霖を載せた特別列車、奉天直前で爆破される。後に関東軍の謀略であることが明らかになる。

6.08 国民革命軍(北伐軍)、北京に無血入城。天安門に孫文の肖像が掲げられる。この時点で軍勢は200万人にまで膨れ上がる。

6.15 国民政府、北伐と全国統一の完成を宣言。南京を首都とし、北京は北平と改称する。

7月 張作霖の息子張学良が東3省保安総司令となる。国民党と手を結ぶ道を選択。

10月 国民党、「訓政綱領」を発表。6年間の党独裁期(訓政期)を経たあと憲政に移行するというもの。

11月29日 張学良が易幟を断行。東3省にも青天白日旗が翻ることになる。国民政府は張学良を東北辺防軍司令長官に任命し内政の自治を承認する。

1928年

4月 朱徳の率いる南昌蜂起軍の残党2千人が井岡山に合流。中国工農紅軍第4軍を編成。軍長に朱徳、党代表に毛沢東が就任。

6月 共産党の第6会大会。国内での開催が困難となりモスクワで行われる。党員は最大時の6万人から1万数千に激減。

1929年

29年初め 毛沢東の第4軍、井岡山を離脱。江西省南部の瑞金に移動。

1929年

5月 張学良、ハルビンのソ連領事館を強制捜索。その後中東鉄道(シベリア鉄道の満州通過部分)の接収に踏み切る。

8月 ソ連が東北部に侵入。張学良軍を撃破する。

11月 ハバロフスク休戦協定。中東鉄道は引き続きソ連の支配下に置かれることとなる。

ソ連は共産党に「労働者階級の祖国ソ連を守れ」のキャンペーンを強制。これに異議を唱えた陳独秀は党を除名される。

1930年

3月 共産党の影響のもとに魯迅を押し立てた左翼作家連盟が結成される。

汪精衛ら「改組派」、青年党員を結集し反将運動を起こす。閻錫山、馮玉祥、李宗仁が改組派に合流。河北での大規模な内戦(中原大戦)に発展する。双方合わせ100万の軍を動員、死傷者は30万人に上る。

9月 北平に「国民政府」が樹立される。主席に閻錫山、政府委員に汪精衛、馮玉祥、李宗仁が就任。

9月 張学良が蒋介石を支持し北平・天津に進出。これにより中原大戦は収束に向かう。

1930年

3月 この時点で、「革命根拠地」(ソヴェート)は15ヶ所、軍勢は合計で6万、銃器3万丁を確保する。ただしその多くが「遊民」(はみ出し者)によって占められていたという。

7月末 紅軍ゲリラが湖南省都・長沙および江西省都・南昌を同時攻撃。長沙を攻撃した第3軍団(彭徳懐)は1周間にわたり長沙を占拠。湖南省ソヴェート政府の樹立を宣言。朱徳・毛沢東の第4軍は南昌を攻撃するが甚大な被害を出し撤退。

9月 共産党の6期3中全会、上海で開催。

11月 蒋介石軍、第1回めの囲巣作戦。3ヶ月にわたる。

30年 上海の租界に中国側の特区法院(裁判所)が設置される。租界警察から中国側に政治犯の受け渡しが行われるようになり、向警予、鄧中夏、趙世炎、彭湃、揮代英らが相次いで逮捕・処刑される。

1931年

1月 共産党の6期3中全会、上海で開催。王明、博古(秦邦憲)、洛甫(張聞天)ら「28人のボリシェビキ」(ソ連で教育を受けた若い党員)が中枢を握る。ボスの王明はモスクワに戻り、博古、洛甫が周恩来とともに党を取り仕切る。

4月 2ヶ月にわたる第二次囲巣作戦。

7月 3ヶ月にわたる第三次囲巣作戦。

9月 満州事変の勃発により囲巣作戦が中止される。

9月 寧都蜂起が発生。囲巣作戦に動員された国民党軍1万7千が共産党に寝返る。

11.07 瑞金を首都とする「中華ソヴェート共和国」の建国が宣言される。臨時政府の主席に毛沢東、副主席に項英と張国壽(張国壽は湖北の根拠地鄂豫皖をしきっていた)、軍事委員会主席に朱徳が就任。ただし共産党の序列では王明、秦邦憲らが指導的地位にあり、政府の軍事委員会は党の軍事委員会(書記は周恩来)の管轄のもとにあった。

31年 中国共産党幹部の顧順章、向忠発が検挙され転向。上海の共産党組織は事実上の機能停止に追い込まれる。

1931年

2月 党の元老格で立法院長の胡漢民、蒋介石の方針に反発。蒋介石は胡漢民を逮捕、立法院長の職を剥奪する。

5月 胡漢民派の牙城である広州で反乱発生。これに汪精衛、孫科(孫文の長子)、李宗仁らが合流。「国民政府」の樹立を宣言する。

9.18 柳条湖事件が発生。その日のうちに関東軍が奉天、営口、長春など18都市を占領。朝鮮軍(朝鮮在駐の日本軍)が独断で国境を越え奉天に向かう。

9月 日本製品ボイコット運動により、日本商品の輸入は5分の1に落ち込む(12月実績)。「安内攘外」路線に固執する蒋介石への不満が高まる。

1932年

1.28 第一次上海事変。日本側の謀略により市街戦が展開される。

1月 満州事変を機に広州派が妥協。蒋介石の下野を条件に南京政府に合流。孫科が首班(行政院長)となる。

3.01 「満州国」が建国を宣言。

3月 孫科が退陣。汪精衛が行政院長、蒋介石が軍事委員長の「蒋汪合作体制」が発足する。

12月 宋慶齢、魯迅、蔡元培らが中国民権保障同盟(以下民権同盟)を結成。政治犯の釈放や言論の自由を求める。

1932年

7月 第4回目の囲巣作戦が開始される。国民党中央軍60万人が動員され、9ヶ月に及ぶ長期作戦となる。鄂豫皖の根拠地が壊滅するが、周恩来の指導により本拠地の囲巣作戦の撃退に成功。

10月 共産党の寧都会議。毛沢東は「右傾」を理由に党活動の第一線から排斥される。

1933年

初め 上海を逃れた共産党中央が瑞金に入る。王明は毛沢東の遊撃戦路線を否定。軍事指導権を取り上げる。

3月 蒋介石、日本軍による熱河侵攻を受け、いったん囲巣作戦を中止。

10月 第5次囲巣作戦が開始される。中央根拠地に対し正面だけで40万、後備もふくめ100万の大軍で押し寄せる。

11月 第一次上海事変で日本軍と戦った国民党軍19路軍の一部が福州で蜂起。反将抗日を掲げる福建人民政府を樹立。まもなく蒋介石の攻撃を受け崩壊。

1933年

6月 民権同盟幹部の楊杏仏、蒋介石の私兵集団「力行社」により暗殺される。同盟は活動停止に追い込まれる。

1934年 

4月 瑞金の北100キロの広昌で最大の決戦となる。紅軍は多大な犠牲者を出し敗退。中央根拠地の崩壊は時間の問題となる。

10月 共産党、中央根拠地からの撤退を決定。党中央が瑞金を撤収する。紅軍の基幹部隊である第一方面軍8万人が西方への移動を開始する。(長征そのものの過程については省略)

1935年

1.15 貴州省北部の遵義で中央政治局拡大会議が開かれる。伝説が多すぎるが、結果としては、①毛沢東ら現場の突き上げで秦邦憲(博古)とブラウン(軍事顧問)が指導権を放棄、②周恩来が指導権を掌握、これに張聞天、王稼祥がつく、③周恩来は毛沢東を政治局常務委員に引き上げる。なおこの時点で、秦邦憲は総書記の地位にとどまるが、2月には職を辞し、王稼祥がこれに代わる。

以下は

鄭 敬娥 「アジア地域主義における「アジア的性格」の考察 ―アジア開発銀行(ADB)の創設過程を中心に―」 『広島平和科学』27 (2005)

の抜き書きと感想です。

独立は達成したが経済は崩壊した

多くのアジア諸国は第二次世界大戦後に独立を果たした。それらは新たな国家目標として、植民地的経済構造からの脱却と、国民経済の構築を設定した。

このために政府が積極的に経済活動に介入するとともに、外国資本の導入を極力制限した。

しかし、資金も技術も経営ノウハウも持たないこれら諸国において、このような初期の政策は無残な結果に終わった。

国内経済は深刻な停滞やインフレに陥った。外貨を獲得するにはモノカルチャー的な生産を強化しなければならないというディレンマが生じた。

このジレンマの説明はきわめて簡単である。植民地経済というのはただたんにむしりとる経済ではない。植民地に対し膨大な資金を投下し、その製品に対して豊かな市場を提供するのである。
植民地への投資はリスクは高いがきわめて魅力的だ。設備投資が少なく、人的経費の率が高いために剰余価値率も高いのだ。植民地側にしてみれば、高い利益率を確保しつつ、製品の販売市場が保障されているという魅力がある。需要予測も容易である。
別に現地労働者を奴隷のようにこき使わなくても、統治で普通の労働慣行を尊重したとしても、十分に元は取れるのだ。
植民地が独立するということは、この資金と市場を同時に失うことになるのだ。
にもかかわらず、「独立ほど尊いものはない」のだ。

旧宗主国から国際トラストへ

50年代半ばには、経済開発計画の多くは国際機関の援助(たとえばコロンボ・プラン)の受け皿として作成されるようになる。

しかしその際も、最終的なゴールは脱植民地化であり、外部資本の受入れはそのための多様な経済政策の一つとして理解されていた。

ナショナリズムと先進国資本の受入れとの間の矛盾は、そのような形でいちおう妥協の道を見出した。

アジア的性格と日本を先頭とする先進国との矛盾は、実はアジア諸国の内包する矛盾の反映であったということになる。であればこの対立は、突き放すようだが、アジア諸国が経済成長を遂げることによって自ら解決するしかない課題なのであろう。

輿望を担って発足したADB

すでに1959年には「米州開発銀行(IDB)」が創設されていたが、64年には「アフリカ開発銀行(AfDB)」が誕生した。

アジア諸国は、自分たちだけが取り残されるという危機感を強めていった。

ベトナム戦争が深刻化し、西側先進諸国の対外援助が減り続けるなか、日本の経済的浮上が地域協力に対するアジア諸国の期待を高めた。

1966年12月、アジア開発銀行(ADB)はアジア域内のほぼすべてを網羅し華々しく登場した。

ボタンの掛け違え

日本はADBを地域協力機構の一環として捉え、域内諸国の開発計画の調整を促すとともに、銀行としての健全運営を図った。

そのために、運営面においても域外先進諸国を積極的に参加させた。

しかし、アジア諸国はADBを途上国に対する経済協力機構として捉えた。そして資金面の協力は受け入れるが、運営における発言権は極力制限しようとした。

それがアジア人によるアジア人の銀行、いわゆるADBの「アジア的性格」の主張となった。

このようにして、ADBの創設は日本が加わったことにより、より複雑な道程を歩むことになった。

イントロを読んだだけでは、「アジア的性格」の主張はかなり分かりにくい。ADBが基本的に貸し手の機関なのか、借り手の機関なのかといえば、貸し手の機関に決まっている。
ただ「途上国のニーズに応え、その発展を援助する」という設立の趣旨から言えば、「主人公は途上国だ」という論理も分からなくもない。
これと似たような議論を昔やったことがある。「医療の主人公は患者だ」という主張である。病院というのはそもそも患者のニーズに応じて作られたものだから、患者の要求に応じて運営しなければならない。
しかし医療従事者から見れば、「それは違うでしょう」ということになる。病気を治そうとすれば、まずは医療の論理に従って動かなくてはならない。
だから次元を揃えた上で、どこかで議論を噛みあわせなくてはならないのである。その主たる責任は誰が負うか。「真面目な先進国」である。銀行の担当者ではない。

AIIBはADB以上の問題を内包している

今アセアンは域内貿易と資金調達により独自の道を歩こうとしている。しかし資金需要はあまりにも旺盛であり、自己調達レベルをはるかに超えている。

そんな時に新たな気前のいい融資先が名乗りを上げたのだから、基本的には大歓迎である。

かつて日本がアジア開銀を通じて強力な融資元として登場した時、日本は厳しいマクロ政策と財政規律を求めた。それは必ずしも悪いことではなかったと思う。

「厳しい兄貴だったが、おかげでグレずに済んだ」という側面もある。IMFの横暴には、それなりに体を張って抵抗してくれた。(それがどの程度のものだったかは別として)

中国が同じように「厳しいがいい兄貴」かどうかは保障の限りではない。とくに南シナ海では軍事的野心、領土的野心をむき出しにしているだけに、警戒心は持たざるをえない。

トラストの胴元としてのガバナンスや安定性にも問題がある。中国から金を借りたつもりが、いつの間にか華僑マネーに変身しないとも限らないのである。

日銀調査月報 1965年(昭和40年)8月号

アジア開発銀行設立の意義と問題点[PDF 843KB]


アジア開銀の設立は、本年末には最終結論をうる見通しである。

内容としては

1.資本金は10億ドル、うち域内6億ドル、域外4億ドルとし、広く欧米先進国などからの資金導入を図る。

2.本銀行の役割は域外から追加資金を導入し、世銀・第二世銀など既存金融機関の活動を補完しつつ、各種プロジェクトへの信用供与を行うことである。また各国の開発計画の調整、計画策定に関する技術協力も行う。

3.総裁はアジア人の中から選出する。

というのが柱。

この銀行はアジア人による銀行というアジア的性格と、先進国の発言権を確保するという国際的性格を併せ持つ。

このため、アジアの一員であると同時に域内唯一の先進工業国である我が国の役割発揮がもとめられる。

とここまでが「はしがき」

ついで背景説明に入る。

アジアにおける経済停滞の背景としては、多くの国が人口圧力と貧困という差し迫った問題に直面しながら、政情不安、軍事的緊張の激化から、乏しい資源のあまりにも多くを軍事目的に費消し、その結果、各国の資本不足がさらに拍車されていることによる。

1.エカフェ事務局の試算でアジア諸国では年間6~10億ドルの資金が不足している。政治・経済情勢の不安定が民間投資を抑制している。援助供与国が支援を政治的に利用することから不安定となっている。

2.先進国では戦後20年にいたり、生産過剰傾向が顕現化しつつある。今後の経済成長のためには、低開発国を含めた世界貿易の拡大が不可欠だ。

3.米国はベトナムを中心とするアジア情勢の緊迫化のなかで、民政安定と経済開発に積極的となっている。

ということで、いま考えれば相当あけすけにアジア開銀の目的を語っている。

次に、アジア開銀の目論見として、

1.開発銀行は長期安定外資を導入するチャンネルであり、域内各国における海外逃避資金を動員する呼び水となる。

2.アジアは世銀に好かれていないので、独自に資金調達するチャンネルを作る。(米州開銀が最初、ついでアフリカ開銀だった。アジアはもっとも政治的に不安定な地域だった)

3.開銀を作れば域内のいがみ合いも減るのではないか。

4.アジアの開発に必要なのは、資金もさることながら開発のノウハウではないか。

次に業務(とくに銀行業務)の内容について述べられる。

銀行業務は通常業務と特別業務に分けられる。両者は峻別される。

通常業務は健全経営主義の原則に基づき、元利支払い能力ありと認められるプロジェクトに限り融資される。

特別業務は特別基金と信託基金などに基づいて行われ、銀行の独自調査と判断に基づき、低利かつ長期の条件を出す。

ついでながら、

日銀のこのレポートを読むと、日本はさほど乗り気ではなかったことが感じられる。

韓国との国交回復は成ったものの、依然東南アジアなどの警戒心は強く、日本も米国との関係強化に専心しており、対アジア関係の煩わしさに巻き込まれたくないとの思いが見て取れる。

インドネシアのスカルノもアメリカ主導のアジア開銀への警戒心は強く、設立への動きをリードしていたのはむしろタイ、フィリピンなどだった。

このような動きを背景にして発足したアジア開銀は、冷戦終結とアジアの経済発展という一大変化を経て今でも有効性を発揮しているのだろうか。その辺に一定の疑問が抱かれるのは当然であろう。

その辺りに論及したのが下記の論文

アジア地域主義における「アジア的性格」の考察
―アジア開発銀行(ADB)の創設過程を中心に―

アジアインフラ投資銀行(以下AIIB)の評価は、相当じっくり考えなくてはいけない。AIIBの設立自体は決して悪いものではないし、IMF・世銀、アジア開発銀行の大国支配に風穴を開けるという政治的観点からも積極的に評価すべきだと思う。

ただその意義と限界についても冷静に見ておかなくてはならないと思う。

というわけで、AIIBの検討に入る前に、まずは総論のおさらい。

1.積極的な資金導入と安定的な通貨管理は表裏一体

97年の通貨危機を見ても、積極的な資金導入と安定的な通貨管理は表裏一体の関係にある。

実はもうひとつ、雇用の安定の問題があるのだが、これについては指摘するに留める。

2.導入する側と投資する側の論理

導入する側から見れば、国際投資は開発と発展のためにあるのだが、投資する側から見れば、その目的は利益の極大化にある。より率直に言えば、利潤一般ではなく超過利潤に目的がある。

これが国家間、あるいは国際機関との関係であれば、それなりの秩序は望める。しかし資本の完全な自由化のもとで投機資本までふくむ民間資本が自由に出入りすれば、資本の論理がむき出しになることは明らかだ。

3.カントリーリスクと担保

これを金融面で見た場合、投資する側は担保をもとめる。産業資本家であれば、投資のリスクは自らが全面的に負うことになるが、機関投資家は担保なしに貸し出すことはありえない。

担保となるのは国家財政の安定であり、通貨(金利)政策の着実さである。この他にも政治・労働環境の安定がもとめられるだろうが、ここでは省略する。それらの総合指標が通貨への格付けとして示される。

4.担保にこだわれば取引は成立しない

こうして貸す方も借りる方も担保能力に従ってやりとりすれば何の問題もない。ただあまりにも担保能力が低ければ、実際の投資はストップしてしまう。

そこで国際金融機関が信用を供与することによって、下駄を履かせることになる。これは政府間のODAとか借款に比べれば現ナマとしての有難味は薄いが、有効活用できる借金である。

5.資本自由化時代の国際投資

ところが、資本の自由化という局面に入ると話はガラッと変わってくる。

政府と民間に話は分断され、民間レベルでは無制限に資金が流入してくる可能性がある。そして実際に流入した。

どうなるか、まずは政府による流通資金量の調整ができなくなる。その結果バブル経済となる。資金にはレバレッジがかけられ、通貨発行量の数倍もの信用が生み出される。

6.経済発展と貿易赤字

第二に貿易赤字の拡大である。経済が発展するあいだ中、設備投資は増え続け、そのほとんどは輸入によって賄われるからである。これを資本収支の黒字が支える。

政府は歳入を増し、それをせっせとインフラ整備にあてる。外貨準備の積み増しをおこなう余裕はない。かくして身の丈の大きさと担保能力の間に格差が広がり、通貨は不安定なものとなる。

7.通貨危機と信用収縮

この2つが、限界に達したとき通貨危機が現れる。

外貨は羽が生えたように逃避する。膨らんだ信用には一気にデレバレッジがかかる。

あとに残るものは政府・民間の莫大な債務、失業者の群れ、通貨の暴落とハイパーインフレということになる。

もちろん景気循環の局面としてもこのような時期は出現するのであるが、問題は政府に対処すべき手段がまったく残っていないことである。

8.近代化、可視化、資本規制の3点セット

以上の点から、途上国に必要な援助の内容は明らかである。国家間の経済協力を柱とし、開銀がよりその枠割を高めて集中投資を可能にし、国家機能を損なうことなく経済発展が可能なようにすることが肝心なのである。

もちろん民間投資は重視しなければならない。それは本来足早なものではあるが、国家の富の再配分機構が良いものであれば、それはインフラにも回るし、内需の足腰を鍛えるのにも役立つ。

しかしそれは同時にバランス良く遂行されなければならないのである。そしてそれまでの間、行政システムの近代化、政治の可視化、なにがしかの資本規制は必ず必要なのである。

バンドン声明60年 東アジアへの歴史的視座

キーワードは「独立ほど尊いものはない」というホーチミンの言葉である。それは、人民はまず独立(自決)を勝ち取らなければならない、そして同時に平和を追求しなければならないということである。

つまり、諸民族の自決への尊重を基礎にして、平和・友好・連帯があり、その上に発展が築かれるという関係である。

Ⅰ 70年前(1945年) 日本帝国主義の崩壊と旧植民地主義者の復活

A) 反植民地主義闘争の初期を担ったのは左翼・急進勢力だった。彼らは独立を実現するために武装闘争をも辞さず闘った。中国、ベトナム、インドネシアでは勝利したが、多くは敗北した。

B) これに代わり、さまざまな色合いの中道勢力が、旧植民地勢力と妥協しながら独立を達成した。いくつかの国では、帝国主義に忠実な傀儡勢力が実権を握り続けた。

Ⅱ 60年前(1955年) 独立と平和での一致

A) 左翼・急進勢力と中道勢力は、内政での立場は異なるものの、民族自決の尊重と平和的な共存という点で一致した。これはこの年に結成された日本AALAの基本理念でもある。

B) しかしこの共同は、主要にはアメリカ帝国主義の干渉、副次的には東西冷戦という国際的枠組みの中で引き裂かれる。

Ⅲ 50年前(1965年) ニセの対立構図

A) 前年8月のトンキン湾事件により、ベトナムとアメリカ帝国主義の直接対決が始まった。この時、ベトナム連帯を掲げて北海道AALAが誕生した。

65年9月には中道派の旗頭インドネシアでクーデターが発生し、「親米か反米か」という無意味な対立構図が支配する下で、東アジアは敵と味方に分かれて闘うことになった。

B) 左翼勢力にも深刻な分裂がもたらされた。毛沢東は65年に文化大革命を開始し、法治主義を破壊し、国内外の左翼勢力を切り裂き、最後にニクソンと握手した。

C) おなじ1965年に日本は日韓条約を結び、これを機に、東アジアへの進出を開始した。特筆すべきは、アメリカ支援という重大な問題を抱えていたにせよ、それが憲法9条を遵守する平和的進出だったことである。

Ⅳ 40年前(1975年) 独立と平和に向けた再アプローチ

A) 75年の4月、ベトナムは最終的に勝利を実現した。それによって「ニセの対立構図」が解けたわけではないが、「ニセの対立」への深刻な反省は生まれた。

B) 平和が何よりも尊重された。軍事同盟であるSEATOは崩壊し、ASEANは平和を目指す非軍事的な機構として再発足した。

C) その後も10年にわたり、カンボジアなどで大規模な余震が続いた。東南アジアは明確な展望を示し得ないままに経過した。

Ⅴ 30年前(1985年) 平和と経済発展の道

A) ここには目立ったマイルストーンはない。軍事的に見ればカンボジアのポルポト政権への最終的決別である。それは対決オプションの最終的放棄である。89年のベトナム軍の撤退がピリオドと思われる。

B) 政治的に見れば、民主化の進行とアメリカ傀儡政権の後退である。フィリピンと韓国で独裁政権が打倒された。東南アジアのすべての国から米軍基地がなくなった。

C) 経済的には日本の企業進出による輸出立国型の経済体制の確立である。日本は第二次オイルショック後の不況をアメリカへの集中豪雨型輸出で切り抜けようとし、それは激しい経済摩擦を産んだ。

日本は東南アジアに工場を立て、アメリカへのいわゆる「迂回輸出」を促進した。それが「東南アジアの奇跡」と呼ばれるようになる。

D) それは政治的自由と平和的発展の道を後押しした。同時にそれはグローバル・スタンダードを不可避なものとし、国内の貧富の差の拡大をもたらした。

Ⅵ 20年前(1995年) 左翼と中道の再合流

A) 95年にベトナムがASEANに加盟した。

それは「独立と平和」を貫くための左翼と中道の共同というバンドン声明の再現とも言える。しかし一般的な友好ではなく、協力と協同に踏み込む前向きな関係である。この紐帯は97年の東アジア通貨危機を通じて強固なものとなった。

B) アメリカはこの歴史的な流れを妨害しようとし、さまざまな策謀を仕掛けている。たとえばAPECであり、たとえばTTPである。中国も南沙諸島で強権を行使する一方、アジアインフラ投資銀行(AIIB)で揺さぶりをかけている。

C) こうした中で、独立と平和に加え、連帯と発展が東南アジア諸国の合言葉となっている。さらにそれは平和の枠組みとして北東アジアにも影響を及ぼそうとしている。バンドン声明は、さらに進化した形でよみがえり、いまやアジアの進むべき「総路線」として生命力を発揮している。


これが第二次大戦後70年の東南アジアのたどった道筋である。

今日、シンポジウムに参加した北海道の4人で感想会をやったのだが、議論している最中に、「どうもインドネシアのアルムタキさんの発言(とくに前半部分)は、インドネシアにおける“ASEAN神話”なのではないかという話になった。

一見きわめて理路整然としていて、もっともらしい「反省」も付け加えられていて、真実味を増しているが、どうも時系列的に見るとそのようには進んでこなかったのではないかと思えてくる。

具体的に言えば、ASEANがインドシナ諸国を迎え入れて、大きくその存在感を発揮し始めた時期と、インドネシアが東チモールを武力制圧していた時期は完全に一致するのである。

アルムタキさんの発言には、マレーシアとの歴史的紛争は出てくるが、そこにはスカルノの名前も、スハルトの名前も出てこない。なぜかオブラートに包まれているのである。

当然のことながら、9.30のクーデターも、共産党員100万人の大虐殺も出てこない。だからASEANをバンドン宣言と結びつけるのは難しいのである。

アルムタキさんはお見受けしたところ若い研究者である。おそらく9.30の時は生まれていないだろう。知っていて隠し立てしているのではなく、知らないのではないかと思う。

だからアルムタキさんのASEAN認識には、スカルノ時代のリアルな把握はふくまれていない、その代わりにスハルト時代に編み出された「神話」が刷り込まれているのではないかと想像する。

バンドン宣言も、スカルノも、その神話の中のフィギュアとして織り込まれているにすぎないのではないか。

そして100万のインドネシア共産党とアイジット議長の名は封印され、歴史の闇の中に閉じ込められているのではないだろうか。

ベトナムのグエン・バン・フィンさんは、控えめな態度に徹しつつも、そこのところの継承性を強調することで、間接的ながらアルムタキさんのASEAN神話を否定している。

つまり「スハルトというのは極悪非道の男だが、インドネシア解放闘争を闘ったものの一人として、曲がりなりにもバンドン精神だけは持ち続けた」という評価になるのではないだろうか。


残念ながら、「9.30事件」についてはまとめて語るべきほどのものを持ち合わせていない。

とりあえず、ウィキペディアを参照のこと。

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