鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

カテゴリ: 11 国際政治/東アジア(中国・朝鮮半島)

ヌルボさん、コメントありがとうございます。
ミスそのものは些細なもので、さっそく訂正させていただきました。
というよりもう20年も前に作った年表にいまでもこれだけ注目されているんだなぁということがわかって、なにか生きていてよかったなぁとしみじみしています。アルコールのせいもあるかもしれません。
前から朝鮮年表はそれなりに注目されていました。
もちろん例によってだらしない年表で、出典を明らかにしていないのでフェイクも拾っている可能性があります。
戦前の年表(いわゆるゼロ年表)はわれながら労作だと思いますが、その分、引用するにあたっては裏取りしていただかなければなりません。
1950年~53年の朝鮮戦争時代はもう少し刈り込んでいかないと、読むのは辛いと思います。米軍の戦記に児島襄とコンデといくつかの戦記物を合わせるとこんなになってしまいました。
やはり軍事行動については別の年表に追い込むべきだろうといまでも反省しています。
一時、私の年表がネトウヨの論拠になってしまったことがあり、これも反省しています。

私の一番言いたかったことは朝鮮共産党の闘いの伝統は埋もれさせてはならないということ、ただ戦後史の中ではその伝統は金日成とスターリンに盗まれてしまったこと、北の影響を受けて歪められながらも、社会主義思想が太い底流となって87年民主化へとつながっていったこと、その後の右翼潮流の巻き返しにもかかわらず、民主各派の分裂と混乱にもかかわらず、韓国左翼が輝きを失わずに来ているのは、日本帝国主義との闘いを貫いた民族左翼の伝統が息づいているためであろうと言うことです。


韓国および北朝鮮の戦後史年表 0 (戦後史といいながら戦前編です)   韓国および北朝鮮の戦後史年表 1    韓国および北朝鮮の戦後史年表 朝鮮戦争   

韓国の朝鮮戦争後史年表(53年以降)     北朝鮮の朝鮮戦争後史年表(53年以降) 

米朝合意の評価 非核化と非戦化を分けるべきだ
非核化と非戦化という考え方は、孫崎さんの言葉ではなく、孫崎さんの発言を読んでいるうちに私が思いついた言葉だ。

米朝合意の軍事的意味
議論を軍事的側面から整理しておこう。
北朝鮮は核兵器を開発し、大陸間弾道弾を完成させた。
まだ核弾頭として搭載できる保証はないし、誘導システムもないので、核脅威が本格化したわけではない。
これに対して国際世論は核兵器の放棄を強く求め、そのために経済制裁などの圧力を加えてきた。
アメリカ政府とトランプ政権は、これまでも核兵器の放棄を求めてきたが、昨年後半に北朝鮮が大陸間弾道弾の発射に成功してからは、にわかに戦争圧力を強めた。
これに対し危機感を強めたのは韓国政権とアメリカCIAのポンペイオ長官らであった。
当初のポンペイオの提起はミサイル開発停止と経済制裁の見直しであったと思われる。
これに力を得た韓国のムンジェイン政権が積極的な仲裁に乗り出した。
ムンジェインは当面する核・ミサイルと軍事脅迫・経済制裁のバーゲニングに加え、より長期的な、朝鮮戦争の終結と米朝国交回復の工程を結合させることを提起した。
そのなかで、米朝首脳会談による両国の外交関係樹立が生まれてきた。

非核化と非戦化のバーゲニング
以上のような大づかみな把握から導かれる結論は、一連の交渉過程が非核化と非戦化の取引(ディール)だということである。
アメリカも国際世論も北朝鮮の非核化を求めている。
北朝鮮は非核化を約束し、その代わりに自らの安全に関する保証を求めている。それは朝鮮半島の「非戦化」と呼ぶことができる
「自らの安全に関する保証」の内容は具体的には不確かだが、最低レベルでの米韓合同演習の見直しと経済制裁の緩和、長期レベルでは駐韓米軍の撤退であろう。
これが非戦化の内容である。

平行四辺形の取引き
ただし非核化と非戦化のバーゲニングというのは、入口と出口がちがう代替型取引である。
取引は、本質的には相互の非核化、相互の非戦化の二本筋で行われなければならないものである。
それでは相互の非核化とは何か。それはアメリカの核の傘をどうするのかということだ。
核の傘はおそらく米韓軍事同盟の骨格であるはずだ。“非核的”軍事同盟への移行は可能だろうか。
ついで相互の非戦化であるが、ここはそれほど難しくはないと思う。北朝鮮も米韓合同演習の縮小・中止以上に踏み込んで要求することはないとおもう。
米軍の撤退と米韓安保条約の廃止はもう少し先、南北朝鮮の統一議論と並行しながらの話になるのではないか。

中国のバランサーとしての役割
北朝鮮は非核化とミサイル放棄により軍事的プレゼンスを一気に弱めることになる。
短期的であるにせよ、これを補填する役割は中国に期待することになる。
中国はアメリカとの合意の上で、バランサーとしての役割を買ってでた可能性がある。
妄想に属することではあるが、アメリカが韓国に核の革を提供するように、中国が北朝鮮に核の傘を提供する可能性もある。

韓国の非核化・非戦化が今後の鍵
先日紹介したNHKの解説にも明らかなように、米朝合意の今後の動きは、韓国における米韓安保体制の動きに関わってくる。
すでに米韓合同軍事演習を巡って激しい鞘当が始まっており、韓国における平和闘争の役割が重要なものとなっている。
また東北アジアの平和の枠組みを構築していく上で、憲法九条を守る日本の戦いの役割も大きいものがある。
今後も注目していきたい。

6月30日付の赤旗3面で、「米朝関係 歴史どう動く」という特集を組んでいる。特集と言っても識者3人へのインタビューを並べたものだが、もう一つつかめない会談評価について補足学習しておきたい。
 
Ⅰ.安全の保証 突き詰めれば戦争状態終結
これが1つ目の見出し。語るのは孫崎亨さん。
端的にいうと、非核化と非戦化が車の両輪で、
この両輪が動くことによって事態が前に進むということだ。そして、その先に戦争状態の終結、さらに朝鮮半島の平和統一がある。
非戦化=米国の「体制保証」というオプションは、突き詰めると米軍撤退につながる。
これが朝鮮半島平和の3要素だ。(孫崎さんは安全保障と言っているが、体制保証という方が明確だろう)
米国にも日本にもこうした動きを歓迎しない流れがある。
彼らの目的は詰るところ非戦化の阻止だ。そのためには、非核化も戦争状態終結も犠牲にして構わないというところに本音がある。
日本の反対派は、非戦化が進行するとそれが沖縄に波及し、憲法改正の流れを断つのではないかと心配している。

非常にスッキリしているが、駐韓米軍のプレゼンスそのものの否定が、非戦化の決定的条件かどうかについては、もう少し吟味が必要であろう。

2.日本の関わり 冷戦思考から抜け出そう
2つ目のインタビューは山本昭宏さんという方、現代史研究者らしい。
お話は、「よくわかりました」という中身。ただ「冷戦思考から抜け出そう」という見出しは、それが赤旗に堂々と載ること自体に一種の感慨を覚えないでもない。

3.目標の達成へ 首脳会談承け良い動きが
3つ目のインタビューはピーター・カズニックさん。オリヴァー・ストーン監督のパートナーである。
半年前を思い出そう。ある研究者は「50%の確率で戦争になる」と指摘していたことを思い出そう。
板門店から50キロのソウル圏には、2千5百万人が暮らしている。戦争が始まれば初日だけで100万人が死ぬことになっている。核兵器抜きだ。そのことを想起しよう。
会談で工程表も決まらなかった、CVIDの合意はない、非核化の定義も曖昧だ。すべて認める。
しかしそれが何を成し遂げたのかを考えよう。そうすればそれが平和への正面入口だということはわかる。
この観点はとても重要だ。「我々は核と戦争の危機にあったのだ。それをとりあえず回避できたのだ」と喜ばなくてはいけないのだ。「それを喜ばない人って変だよね」と、いぶかしがらなくてはいけないのだ。

別に記事を起こして、孫崎さんの提起をもう少し考えてみたい。

先程、志位さんのインタビューを紹介した中で、「内外で米朝首脳会談について批判が多い」ということを前提にして、「決してそんなことはないのだ」という反論を展開していると書いたのだが、実はこの「批判」には二通りあって、一つは善意も含めて北朝鮮の信頼性への疑問が主調となる批判である。これは反トランプの立場からするリベラル勢力のシニシズムも含まれる。
これについては、反論する側にもそれほどの確信があるわけではないから、「まぁ歴史の判断に待ちましょう」というとこともある。
しかしNHKの「批判」にはそのような「率直な疑問」のレベルにとどまらない、好戦勢力の本音が隠されていると見なければならない。
このような勢力とははっきりと対峙して、米朝首脳会談の前進面をはっきりと擁護しなければならないのである。
以下の記事は会談が行われた翌日、6月13日のニュース報道が活字化されたものである。読みやすくするために多少文章をいじってあるので、正確に知りたい方は本文をあたっていただきたい。

2018年6月13日(水)  BSワールドウォッチング「米朝首脳会談 広がる波紋」 という番組の活字起こしだ。
朝のBSニュースは以前ひどいキャスターで、毎朝不快な気分で見ていたものだ。これは夜の番組だが、このキャスターも相当ひどい。NHKの国際政治担当には、静かな水面に石を投げ込んで波紋を広げる度し難い右翼分子が積み重なっているようだ。

① 最初の評価
共同声明では、朝鮮半島の完全な非核化への決意を確認したとする一方、焦点となっていた、非核化に向けた具体的な行動や検証方法、期限は盛り込まれませんでした。
ということで、クール派の代表となった。
② アメリカの反応の一面的紹介
またアメリカの反応は、“いろいろあるよ”という報道スタイルで、登場した人は3人。
「北朝鮮が約束を守らなければ、戦争になる」(共和党)
「これはアメリカにとって危機だ」(民主党)
「新しい内容は何も無かった」(国際政治学者)
これがNHKによる「各界の声」である。いろいろどころではない、攻撃一色だ。
③ 続いてワシントン駐在NHK記者の談話。
ワシントン・ポストは『具体性に欠け、楽観論に影を落としている』と報じた。
ニューヨーク・タイムズも『パフォーマンスとしては、最高得点だ』と皮肉。
特にトランプ大統領が、米韓合同軍事演習を中止する可能性に言及したことは『譲歩しすぎで危険だ』とみられています。
今後の交渉で非核化に向けた具体策を示せなければ、さらに批判が強まる…
という一段は引用元を示さず紹介。
その後、キャスターとの応答の中で批判はさらにヒートアップ。そしてついに米韓軍事演習をめぐって本音があらわにされる。
アメリカでは譲歩しすぎだという声、アメリカ軍の即応能力に影響が出るという懸念が指摘されています。
④ NHKは韓国を盾にしようとしている
その後、明らかに公共性・中立性を疑うとんでも発言までもが飛び出す。
(トランプは)在韓米軍の撤退の可能性まで言及しました。これは日本の安全保障上の大きな懸念となります。日本としては、在韓米軍の問題についてトランプ政権に働きかけを強めていく必要があります。
これは韓国への内政干渉に繋がりかねない重大な逸脱発言である。
北朝鮮が信頼できないというのは日本、韓国、アメリカに共通した不安感であるが、NHK国際部の不安はそこにあるのではない。彼らの不安は、“韓国に駐留する米軍が撤退してしまう危険”にあるのだ。
しかし在韓米軍をどうするかは、米韓が決めるべき事柄であり、日本がとやかく言う理由はないのだ。韓国民が自国の安全と引き換えに米軍駐留による損失や危険を甘受するのは、事の是非は別として有り得る話だ。しかし日本が韓国人に“米軍駐留を甘受し日本の盾となれ”と要求するなどありえない話だ。
さらに言うなら、心の底で密かにそれを期待しようとしまいと、公の場で口に出していい言葉ではないのだ。
こういう人たちが米朝首脳会談の批判者の中に紛れ込んでいるのだから、私達はこのような“ためにする批判”をきっぱりと拒否して、“彼らを政治的に追い詰める”必要がある。そういう点にも首脳会談の意義があるということを、もっともっと強調していかなければならないのだろうと思う。

米朝首脳会談の歴史的意義、今後の展望を語る 
志位委員長インタビュー 

A)新しい米朝関係の確立 
「戦争と敵対」から「平和と繁栄」へというのが、4項目の合意の論理構成だ
第1項 平和と繁栄に向けた新しい米朝関係
第2項 朝鮮半島に永続的で安定した平和体制
第3項 朝鮮半島の完全な非核化に向けて取り組む
つまり、米朝関係を根本から変えることが一番の要になっている。そのために朝鮮半島に平和体制を築くことが必要であり、そのために「完全な非核化」が必要になるという論建てになっている。

B)「具体性に乏しい」のは合意が根本に関わっているから
「具体性に乏しい」などの否定論や懐疑論が流布している。それらはこの合意が非常に根本的だという点を見逃している。
①今回の合意は歴史上初めてのものであり、不可逆的な重みがある。 これは始まりであり、行動して挑戦する人々の、大胆な旅程の始まりである。(文在寅・韓国大統領の発言)
②「過去にも同じような合意があった」というのは間違いである。これは首脳間の初めての合意である。94年の「米朝枠組み合意」も05年の「6カ国協議の共同声明」も実務者合意でしかない。
③核戦争の脅威から抜け出す可能性 文大統領: 戦争の脅威から抜け出したこと以上に重要な外交的成果はない。 いま大事なことは、平和のプロセスを前に進めるために、世界中が協力することだ。

C)米朝合意と日本共産党の立場 
この間、「対話による平和的解決」路線が進んできた。具体的に経過を追ってみたい。 
第一の節目 去年2月、トランプ新政権がオバマの「戦略的忍耐」を見直す。このときから「外交交渉によって北朝鮮に非核化を迫る」戦略を提示。
第二の節目 昨年8月、北朝鮮が核・ミサイル実験。軍事的どう喝の応酬。米朝両国に「無条件で直接対話を」呼びかける。
第三の節目 2月の平昌五輪がらみで平和的解決の歴史的チャンスが生まれる。
「朝鮮半島の非核化と北東アジア地域の平和体制の構築を一体的、段階的に進める」よう提案。

D) 平和のプロセスを成功させるために  
①非核化プロセスと「約束対約束、行動対行動」の原則
②関係各国、国際社会の協調した取り組み、諸国民の世論と運動がだいじ

E) 日本政府のなすべきこと
①「対話否定」「圧力一辺倒」という立場を捨てること。
対話による平和的解決の対応
②日朝平壌宣言(2002年)を基礎に据えること
拉致のみにこだわらず、交渉を続け、包括的解決の道筋を貫くこと
③日朝国交回復をふくむ東アジアの平和の枠組みについて合意を目指すこと。

F) 北東アジアの平和秩序と日本共産党の「北東アジア平和協力構想」
日本共産党は、2014年の第26回党大会で「北東アジア平和協力構想」を提唱している。 これはASEANが創設した、東南アジア友好協力条約(TAC)に学んだものである。
一番中核的な考えは、北東アジア的規模でのTAC(友好協力条約)を結ぼうというものである。対象国は6カ国協議を構成している6カ国である。 (内容は略)

G) 北東アジアTACと日米安保条約
「北東アジア平和協力構想」は、軍事同盟が存在するもとでも平和協力ができるという前提で作られている。 軍事同盟をなくすというのは次の課題になってくる。 しかし大きく展望が開けてくることは間違いないだろう。

H) 21世紀世界における「帝国主義」 
21世紀の世界では、戦争と平和の力関係が大きく変化している。 こういう世界では、もはや独占資本主義国イコール帝国主義とはいえなくなっている。
米国であっても、戦争と平和の力関係が変わるもとで、いつでもどこでも帝国主義的行動をとれなくなっている。
この観点から言うと、アメリカの制作を分析する場合、つねに複眼的に評価しなければならない。
ということで、最後に柳沢協二さんの発言を引用してインタビューを閉じる。
米朝合意は「戦争によらない問題解決という選択肢を世界に提示する世界史的分岐点をはらんでいる」
これだけエポックメイキングな出来事だることを強調しておきながら、なぜこれがエポックメイキングなのかを自分の言葉で語ろうとしない、まことに異例な論理展開である。目下のところは、少し勉強してからでないと、さすがにすんなりとはうなづけないところがある。


志位さんの提起は今回の米朝首脳会議を、“21世紀論の文脈”で読み込めという提起なのだろうと思う。
それはそれとして非常に正しいと思う。
ただ21世紀論として読み込む場合には、どういう21世紀論を念頭に置くかでだいぶイメージが異なってくる可能性がある。
帝国主義論と関連付けるのであれば、まずは帝国主義論のもう少し多角的な展開と検討が行われないと独断の誹りを受けることになるかもしれない。
それにしても各界の反応、鈍いな。一番困るのは言いっぱなしになることだから、一応コメントは上げておくことにする。


去年の暮、北朝鮮問題が深刻化したときに下記の文章をブログに掲載しました。
ここでは北朝鮮問題を3つの枠組みに分けて考える必要があると主張しました。
1.日朝両国関係の枠組み
2.非核・平和・安全保障の国際・地域的枠組み
3.東アジア地域の共存・共栄の枠組み
そして、これらの枠組み協議のいずれにおいてもアメリカは部外者なのに、現実には最大の当事者となっている。この矛盾こそが当面する問題なのだと主張しました。
もう一つ道筋問題では、安全→平和→統一を段階を追って前進すること、統一の課題では経済統合→文化統合→政治統合という三段階が重要と主張しました。

2018年04月25日 「米朝関係の新展開について 覚書」という文章、および 「トランプ就任後の米朝関係」という経過表を北海道AALA機関紙に投稿し、あわせてブログにも掲載しました。
また併せて1990年以降の米朝関係を年表化したものを三部に分けて掲載しました(我ながら相当膨大です)。
それが昨日、トランプによる会談中止声明という形で思わぬ展開を見せました。世はアメフト一色、不意を衝かれた感じです。
とりあえずこの1ヶ月の経過を大急ぎでまとめてみました。結論としては前回記事とそれほどの変わりはありません。
4月に敷かれた基本線には変化がないのですが、とくにアメリカ国内で受け止めを巡って様々な思惑が出てきたのが特徴だろうと思います。

以下、この1ヶ月の経過をフォローします。

4月 大統領補佐官に就任したボルトン、北朝鮮を非核化する上で「リビア方式」が有効と主張。

4.27 南北首脳会談

5.01 文正仁(ムン・ジョンイン)大統領統一外交安保特別補佐官、米外交誌に寄稿。平和協定が結ばれた場合、在韓米軍の駐留は不要となると提言。

5.03 ニューヨーク・タイムズ、トランプが在韓米軍の規模削減を検討するよう指示したと報道。

5.04 ボルトン、NYタイムズ記事を否定。

5.04 トランプ、「現時点では在韓米軍の規模削減は検討していない」と表明。また韓国に駐留費の全額負担をもとめる方針も示唆。

5.04 谷内正太郎国家安全保障局長がボルトン補佐官とホワイトハウスで会談。核兵器と弾道ミサイルの完全で恒久的な廃棄を実現する目標を確認。

5.04 ボルトン、韓国の鄭義溶(チョン・ウィヨン)国家安保室長と約2時間会談。朝鮮半島で米韓が確固たる同盟を維持していくことを確認する。

5.06 北朝鮮外務省の報道官、米国が「圧力と軍事的な威嚇」を続けていると非難。

5.09 ポンペオ国務長官が二度目の訪朝。北朝鮮政府は拘束していた米国人3人を解放する。

5.10 トランプ米大統領、首脳会談の日時・場所をツイッターで発表。「世界平和にとって非常に特別な時間になるよう、我々2人とも努力する!」と書く。

5.10 ボルトンがワシントンポストに寄稿。「トランプ政権内では、誰も一切、北への幻想を抱いていない」と述べ、核放棄要求で妥協することはないとする。

5.10 ペンス副大統領、共和党の集会で演説。北朝鮮の「完全かつ検証可能で不可逆的な非核化」を要求。

5.11 米政府、北朝鮮のエネルギー供給と経済再建支援を検討すると明らかにする。

5.11 米韓合同軍事演習。北朝鮮は激しく反発。南北閣僚級会談を中止する。

5.13 ポンペオ米国務長官、非核化を条件として米民間企業による北朝鮮投資を認める可能性を示唆。

5.15 サンダース報道官、ボルトン補佐官の「リビア方式」に言及。「我々の方式だとは認識していない」と述べた。

5.16 金桂寛(キム・ゲグァン)第1外務次官、「一方的核放棄」を迫るボルトン補佐官を「えせ憂国の志士」と罵倒。

5.17 トランプ、北朝鮮非核化は「リビア方式」をとらないと言明。

5.21 ペンス副大統領、FOXニュースとのインタビューで発言。「トランプを手玉に取るべきでない」と北朝鮮を非難。これに関連して「北朝鮮はリビアのように終わるかもしれない」など発言。

5.22 文在寅(ムンジェイン)大統領が訪米。トランプ大統領と会談。南北首脳会談の内容について説明。

5.22 トランプ、米朝関係と米リビア関係は違うと主張。「(米朝が)合意すれば、金正恩は、とてもとても幸せになるだろう」と語る。
「少し失望しているんだが、金正恩は中国の習主席と2度目の会談の後、態度が変わってしまったんだ。それが気に入らない」とも発言。

5.24 北朝鮮が豊渓里(プンゲリ)の地下核実験場を爆破。

5.24 崔善姫(チェ・ソンヒ)外務次官、ペンス米副大統領を非難。「あのような無知で愚かな発言が米副大統領の口から噴出したことに、驚きを抑えられない」と発言。

5.24 トランプによる金正恩あての書簡が発表される。これにより6月12日予定の米朝首脳会談が中止される。核実験場の爆破直後のことであった。

5.24 ホワイトハウス当局、「(交渉に向けた)裏口はまだ開いている。ただ最低限でもレトリックの変更は必要だ」と述べ、崔善姫発言の修正をもとめる。

5.25 金桂寛次官、(会談中止は)「極めて遺憾だ。われわれはいつでも、いかなる方法でも問題を解決する用意がある」との談話を発表。さらにトランプ氏の「勇断」を「ずっと内心で高く評価してきた」と語る。

5.25 マティス国防長官が記者会見。米朝首脳会談が「外交努力で再設定されるかもしれない。私は楽観的だ」と述べる。

以上、経過を見てもらえばわかるように、かなりせこいケンカです。これで首脳会議つぶしてしまったんではあまりにもったいない。
基本的には北朝鮮側の隠忍自重をもとめるべきでしょう。ボルトンがそもそもどのような意図で「リビア方式」を語っているのかも必ずしもはっきりしていません。
ただ用語としての「リビア方式」は北朝鮮がこれだけ嫌がっているのだから、使わないようにすべきでしょう。これは交渉をする上での最低限の礼儀です。

米朝関係の新展開について 覚書
(北海道AALA機関紙への投稿原稿)

あまりにも情報量が多く、とうていまとめきれないが、とりあえず押さえておくべき点を列挙しておきます。

1.米朝会談に至る経過とその評価
タイムテーブル(トランプ就任後の米朝関係)を見てもらえばわかるように、今回の展開はまさに一瀉千里でした。
3月05日に二人の韓国政府特使が北朝鮮を訪問。首脳会談を4月末に開催することで合意しました。
これだけでも大ニュースですが、金正恩は直接、特使と面談し、非核化の意欲を示しました。
二人の特使は帰国後、旅装も解かずにそのままワシントンに向かいました。特使の報告を受けたトランプは、間髪をいれず「5月までに米朝首脳会談を行う」意向を示したのです。
まさか、まさかの展開です。
当初はみな半信半疑でした。
安倍首相に至っては、「ほほ笑み外交に目を奪われ、ぶれてはならない」と、対話を拒否する姿勢を強調します。これはいかに安倍政権がつんぼ桟敷に置かれていたかを鮮やかに示しています。
とくに右翼系メディアを中心に、「こんなやり方は通用しないだろう」とか、「北朝鮮の時間稼ぎに過ぎない」とか否定的な評価が圧倒的でした。
しかし、金正恩が北京を訪れ超国賓級の扱いを受けたあたりから、「これはただごとではないぞ」との見方が広がり、4月に入ってポンペイオCIA長官の極秘訪問が明らかにされると、上を下への大騒ぎとなりました。
日本共産党の動きは電光石火でした。3月8日のトランプ発言の翌日には「米朝首脳会談への動きを歓迎する」との志位談話が発表され、間もなく「各国政府への要請」が発表されます。ここでの最大の主張は「南北首脳会談、米朝首脳会談が持つ世界史的意義について関係国が認識をともにする」ということでした。この政治感覚はすごいと思います(なにか独自の情報源があったのか?)

2.本気の交渉と考える理由
今回の交渉が本気だと考えられるのは、以下の理由があるからです。
①トップとトップの差しの会談であり、合意を破ることはありえない。双方にとって「交渉決裂」だけは絶対に許せない。
②金正恩が特使に直接会い、自らの口で提示したオプションである。「ほほ笑み外交」などというレベルではない。
③会談に至る経過は通常の外交チャンネルではない。駆け引きなしの一発勝負である。中国との対話開始時のキッシンジャー外交に比肩するものであろう。
これについては少し詳しく見ておきましょう。
平昌五輪に金永南が来た時、すでに時刻表はできていたでしょう。予定表を作成したのはポンペイオCIA長官です。
彼は北朝鮮の情勢が猶予ならないものだと認識していました。1月には「北が米国本土に到達する核ミサイルを完成させるまでにあと数ヵ月しかない。それが最大の脅威だ」と語っています。彼の差し迫った問題意識は核ではなくICBMなのです。
彼はこの問題でトランプの一任を取り付けました。国務省には一切関与させずにCIA-韓国国家情報院-北朝鮮の「偵察総局」のチャンネルで進行させました。二人の韓国特使の肩書は国家安保室長と国家情報院長でした。
トランプが米朝首脳会談を打ち出した5日後、ティラーソン国務長官が解任され後任にポンペオが就任します。
以上が、もはや後戻りのできない「本気の交渉」と考える根拠です。
会議の予定がずれ込むことはありうるでしょう。国務省が入らないのでは流石に話は進まないと思います。ただし根っこが座れば枝葉は後でも良いのです。ニクソンが中国に飛んで毛沢東と歴史的な会談を実現しましたが、実は米中の国交回復はそれから5年もあとのことだったのです。だいじなのは実務ではなく政治決着なのです。(今回の動きはキッシンジャーが指南したという噂もある)

3.北朝鮮の非核化へのロードマップ
志位さんの要請文には段階的としか書いてないのですが、まぁ文章の性格からすればそれで良いのですが、勉強するにはもう少し具体的な行程を理解しておく必要があるでしょう。
真面目に書けば長くなるので、ここは駆け足で書いていきます。
①まずICBMの破棄が確約されるだろう。
②非核化については「包括的に合意」されるだろう。
この2点については、押さえておくべきでしょう。つまりポンペイオの線で合意が成立しても、個別日本の危険はまったく軽減されないということです。
③そのために6カ国協議が再開されるだろう
6カ国協議は必須ではなく、できるところから始めることになります。しかしそれは最良の枠組みであり、“一番安定して進む仕掛け”でしょう。
④非核化に対して何らかの見返りオプションが用意されるだろう
⑤核放棄と見返りの「行動」は数年をかけて段階的に行う。
⑥IAEA(国際原子力機関)の査察はその後になるだろう。
94年の合意時には、IAEAが暴走してぶち壊した経過がありました。IAEAの性急な導入は避けるべきでしょう。
段階的なステップと確認
それまでは「6カ国会議」を再開して段階的なステップを踏み、確認しながら進めることになるでしょう。
北朝鮮が持続可能な国となること
究極の目標は北朝鮮が持続可能な体制を実現することで、東アジアに残された最後の不安定要因から外れることが必要です。
というような流れになるでしょう。
肝心なことは、北朝鮮が「傷だらけの野良犬」であることに思いを致すべきということです。そして、死んでもらっては困る我が隣人であるということです。

4.平和で安定した朝鮮半島を実現するための諸課題
上記に書いたのは非核化に限定したロードマップであり、これを安定したものとするためには実に多くの課題が解決を迫られています。
とりあえず、「平和の枠組み」課題を列挙しておきます。
①米朝関係の改善(制裁解除、外交・通商関係改善など)
②朝鮮戦争の休戦協定から平和協定(米朝および南北)へ
③北朝鮮の核の廃棄・ミサイルの廃棄と確証
④朝鮮半島非核化
実際には、北が核放棄すれば半ば自動的に朝鮮半島の非核化になります。ただしアメリカの核持ち込みはいつでも可能になっており、そこに北朝鮮の不安が集中しています。アメリカの「持ち込まず宣言」、韓国の「持ち込ませず宣言」がもとめられます。このことは南北非核宣言、6ヶ国協議で確認されています。
⑤在韓米軍・米韓相互防衛条約の見直し。
将来的には駐韓米軍の撤退ももとめられますが、北朝鮮は当面、撤退には固執していません。敵国でなければ原則不要ですが…
⑥南北和平の推進→平和的統一の道筋
⑦北朝鮮経済の立て直し
これについては5.で詳しく触れます。
⑧日朝国交回復と「賠償」
平和実現後の北朝鮮にとって「賠償」は最大の「援助」となります。

5.北朝鮮の経済建設
上記課題の⑦に相当しますが、きわめて困難な課題であり、特別な言及が必要なものです。
また、これをもって「東亜新秩序」が完成するという、戦後社会のゴール的性格をもつ課題でもあります。
大まかに言って3つのオプションが考えられます。
①韓国への吸収合併(ドイツ型)
②改革・開放路線(中国・ベトナム型)
③現体制を周辺国が下支えしながら、発展を促す(カンボジア型)
①はベルリンの壁崩壊のように国家の崩壊が前提です。また、西ドイツが東ドイツを支えたように韓国が北朝鮮を支えられる保障はありません
②はそもそもうまくいく見通しがありません。もしうまく行ったとしても金正恩体制の崩壊のリスクが避けて通れません。金正恩体制が崩れても良いが、それに伴う混乱は歓迎できません
③は「無害な緩衝国家」としての消極的対応になるが、最もリスクは低いと思います。将来の民主化を想定して周辺国が共通のロードマップを持つ必要があるでしょう。

6.日本の立場について
言っておきたいのですが、この問題は一番最後に考えることです。日朝問題を、核・ミサイルが焦点である北朝鮮問題に混同させるのが間違いのもとです。北朝鮮問題とも米朝関係とも直接の関わりはない世界史的には付随的な問題です。
「ほほ笑み外交に目を奪われ、ぶれてはならない。対話のための対話は意味がない」という安倍首相の当初の立場は間違いでした。
圧力と対話が基本だったにも拘らず、圧力一本槍になってしまったために対話のための戦略が不在となり、このために新状況に対応できなくなってしまいました。
ただしその後の立ち位置はかなり修正されています。日米首脳会談後の発言ではこう述べています。
核・ミサイル、拉致、過去の清算など、諸懸案を包括的に解決して、国交正常化を目指す。
平壌宣言から15年、ようやくスタート台に戻ったというべきでしょう。
日本が覚悟すべき点は、
①日本がつんぼ桟敷に置かれていたという事実を噛みしめるべきことです。
②米朝合意が成立しても、当面する個別日本の核・ミサイルの危険はまったく軽減されないということです。
③拉致問題はトランプにとってはただのリップサービスであり、日本が独自の努力で解決するしかないものです。
結果的に16年間拉致被害者・家族を放置してきた(利用はしたが)安倍晋三個人の責任も問われてくるでしょう。

2017年
1月 トランプが大統領に就任。新政権は朝鮮に対して「最大限の圧力」で厳しく対応する方針を打ち出す。

4月 シリアに対し巡航ミサイルトマホーク59発が発射される。トランプ政権は北朝鮮に対するメッセージでもあると言明。

5月8日 北朝鮮の崔善姫北米局長とアメリカ元政府高官らが非公式の接触。

5月 ポンペオCIA長官が極秘に韓国訪問。北朝鮮工作を協議する。

5月 北朝鮮、CIAと韓国の国家情報院が金正恩朝鮮労働党委員長の暗殺を試みたと主張。

6月2日 国連安保理、対北朝鮮制裁強化決議を全会一致で可決。

6月 日本海に原子力空母を2隻、原子力潜水艦も2隻展開する。戦略爆撃機のB-1が北朝鮮のミサイル発射台に擬した目標の爆撃訓練を繰り返す。

6月 北朝鮮に拘留中のオットー・ワームビアが昏睡状態となり、米国移送後死亡。トランプは北朝鮮を強く非難。

8月5日 国連安保理、石炭や鉄鉱石などを全面禁輸する制裁強化案を全会一致で採択。

8月 北朝鮮、グアム攻撃計画を策定すると発表。トランプは「グアムに何かすれば誰も見たことないことが北朝鮮に起きる」と反撃。

9月 アメリカの圧力を受けたメキシコとペルー、北朝鮮大使を国外追放する。

9月 北朝鮮が6回目の核実験。水爆実験と自称。国連安保理は原油や天然ガスの規制。北朝鮮労働者の就労を禁止する制裁強化決議を全会一致で可決。

9月 トランプと金正恩が罵倒の応酬。

9月 ティラーソン国務長官、米朝が直接接触する経路を持っていることを明らかにする。

11月 大陸間弾道ミサイルの実験。人工衛星「火星15号」を自称する。金正恩は「国家核戦力の完成」を宣言。 

11月 トランプが韓国を訪問。これに呼応し空母3隻を日本海に投入して演習。

11月 アメリカ、北朝鮮を9年ぶりにテロ支援国家に再指定。

11月 ティラーソン国務長官、海上封鎖を呼びかける。北朝鮮は「海上封鎖は戦争行為と看做す」と声明。日本が難色を示したため保留。

12月 アメリカ、北朝鮮をイランとならぶ「ならずもの国家」に指定。

12月 国連安保理、対北朝鮮制裁強化を決議。石油輸出の9割削減、北朝鮮労働者の本国送還を決定。

2018年
1月 金正恩、平昌五輪に向けた南北会談も可能だ」とする新年の辞。トランプは「米朝対話の窓は開かれている」と応じる。

1月 アメリカの呼びかけで、国連軍派遣国+日本・韓国の外相会合。平昌五輪に向けた南北対話が非核化対話に進展することを期待。

1月 ポンペオCIA長官がインタビュー。「北が米国本土に到達する核ミサイルを完成させるまでにあと数ヵ月しかない。それが最大の脅威だ」と語る。

2月 平昌オリンピック開会式。北朝鮮No.2の金永南、金正恩の妹の与正が参加。金委員長の親書を手渡して文大統領の訪朝を要請。要請は国家情報院からCIAに連絡され、ポンペオ長官からトランプ大統領にもたらされた。

2月25日 ホワイトハウス、北朝鮮が米朝対話の意志を表明したとし、「北朝鮮のメッセージが非核化に向けた第一歩なのか確認したい」と語る。

3月05日 南北首脳会談実現のため、二人の特使が北朝鮮を訪問。肩書は国家安保室長と国家情報院長であった。首脳会談を4月末に開催することで合意。金正恩は非核化の意欲を示す。

3月08日 韓国代表団がアメリカを訪問しトランプに経過を報告。トランプは「5月までに米朝首脳会談を行う」意向を示す。ここまで米国務省を通していない可能性。

3月9日 共産党の志位委員長、談話「米朝首脳会談への動きを歓迎する」を発表。

3月 安倍晋三首相、「ほほ笑み外交に目を奪われ、ぶれてはならない」と語り、対話を拒否する姿勢。

3月13日 トランプ、ティラーソン国務長官を解任し後任にポンペオCIA長官を充てると発表。ポンペイオは「核実験とミサイル発射実験の停止に加え、非核化が約束されなければ首脳会談は行わないと発言。

3月16日 ニューヨーク・タイムズ、会談準備はCIAー韓国国家情報院ー北朝鮮の「偵察総局」の間で行われていると報道。

3月22日 マクマスター国家安全保障担当補佐官が解任される。後任には元ネオコンのボルトン元国連大使が指名される。

3月25日 金正恩が北京 を訪問。朝鮮半島の非核化を支持する発言。また米朝対話にも意欲を示す。中国は最大級の歓迎。習近平の報告を受けたトランプは「金正恩が私との会談を楽しみにしていると語った」と伝える。

3月26日 ホワイトハウス、「金正恩の北京訪問は確認できないが、米朝関係が以前より改善しているということは言える」と論評。

3月末 ポンペオCIA長官が極秘訪朝し金正恩と会談。(4月17日、安倍首相訪米中に明らかにされる)

4月9日 トランプが記者会見。金正恩との会談が5月か6月上旬に開催されると表明。
驚くべき発言: 米朝関係は1世紀にわたる戦争や敵対の歴史だった。それとはかなり異なる関係となることを望む。非核化に関する合意を実現し、相互の敬意を示し、友好的な基盤を築くことができるだろう。
4月9日 朝鮮労働党の政治局会議、金正恩が米朝対話の展望を分析。詳細は不明。

4月21日 北朝鮮、核実験と大陸間弾道ミサイルの発射を中止し、核実験施設も廃棄すると発表。既存の核兵器やミサイルのあつかいは明示せず。

4月24日 トランプ、北朝鮮に対し核開発計画の放棄を呼び掛ける。金委員長について「非常にオープン」で「とても立派」だと表現。

これだけ見ても米国と北朝鮮が、したたかにダブル・トラックで関係を探っていることが分かる。
メディア報道の表面に浮かんでくるのはハードラインばかりだが、交渉への糸口も常に探られていた。だから平昌五輪→文大統領の特使派遣→金正恩の非核化発言とトランプン歓迎発言はしっかりした筋道づくりの上に成り立っているのだ。
中国もこの筋道を知らなかった。だから焦って北歓迎の大キャンペーンを張った。安倍首相は完全に周回遅れになってから、置き去りにされたことに気づいた。という経過らしい。

ところで「政策対政策、行動対行動」というのが、どうもイマイチ具体的でないとこぼし続けてきたが、富坂聰さんの記事がある程度ヒントを与えてくれる。
東アジア・クライシス 第8回 米・朝・韓に取り残された安倍外交の敗戦
というものだ。
中国とロシアは米朝が対話の道へと進むことの前提として、米韓が合同軍事演習を当面停止し、対する北朝鮮も核・ミサイル実験を一時的に凍結するダブルフリーズ(双暫停)で合意している
と書かれており、このダブル・フリーズというのが「行動対行動」の核となるものだろう。
これに対して、非核化は政策、あるいは約束に属するものでもう少し信頼を醸成しながらの長期のものになるのだろう。

「一体的・包括的かつ段階的」と聞いても分からないが…

この間の2面を費やした北朝鮮問題でも、いくつかすっきりしない問題があったが、本日の赤旗にテレビのインタビュー記事が掲載されたので、また勉強することにする。

BSフジ プライムニュース
「日米首脳会談・北朝鮮問題…志位委員長大いに語る」

1.日米首脳会談 トランプ発言に注目

非核化と戦争終結・平和体制をセットで考える

南北朝鮮の首脳が朝鮮戦争の終結を議題にしようとしている。自分はそれに賛成だ。大いに支持する。(日米首脳会談での冒頭発言)

この考えは米朝首脳会談でも取り上げられることになるだろう。

2.安倍政権 主体性と能動性の欠如

圧力と対話が基本だったにも拘らず、圧力一本槍になってしまったから、対話のための戦略が不在だ。

このために新状況に対応できない。

3.拉致問題 包括的解決の一環と位置づける

アメリカは真剣にやらないだろう、日本が取り組むしかない。そのためには日朝平壌宣言のところまで戻って仕切り直す以外にない。

核・ミサイル、拉致、過去の清算など諸懸案を包括的に解決して国交正常化を目指す(日米首脳会談後の安倍首相発言)

4.安倍首相の立場 対話による外交的解決が基本

「対話のための対話は意味がない」からの変化

5.非核化 まず北朝鮮の核放棄、ついで朝鮮半島の非核化

実際には、北が核放棄すれば半自動的に朝鮮半島の非核化になる。ただしアメリカの「持ち込まず宣言」がもとめられる。(南北非核宣言、6ヶ国協議で規定されている)

トランプの「朝鮮半島非核化」はアメリカの「持ち込まず宣言」を意味する。
6.6カ国協議 必須ではないが最良の枠組み
枠組みありきではない。できるところから始めることになる。
しかし“一番安定して進む仕掛け”であろう。
7.過去の検証 到達点からの再出発

最大の要因は北朝鮮の協定破り。しかし05年9月の米財務省による金融制裁(マカオ銀行の北朝鮮口座の閉鎖)が引き金になっている。
相互不信が非常に強い状況のもとでは、まず協定遵守、そして検証のステップを踏むことが大事だ。
8.交渉をつづけることが鍵 過去の交渉の教訓
12年にオバマ政権は6カ国協議をやめて、「戦略的忍耐」という交渉否定論に移った。それ以降に核ミサイル開発は一気に進んだ。
したがって事実としては、協議が時間稼ぎになったのではなく、協議の中止が引き金になったというべきだ。
交渉には、相互の内部事情により、進む時期と停滞する時期がある。続けることが大事だ。
9.「約束対約束、行動対行動」の原則
これは05年6カ国合意の中心原則である
「約束対約束、行動対行動で段階的に進む」(05年共同声明の第5項)
約束に約束、行動に行動が伴わなければ交渉は止まってしまう。

というわけで、相変わらず肝心のところの見通しは良くないが、この間に日米首脳会談が行われ、金正恩演説が行われたため、それを踏まえての議論になっており、少しかみ合わせは良くなってきた感がある。
要は05年6カ国合意に立ち帰り、相互確証にもとづいてじっくりやりましょう、ということと、「交渉は継続が大事ですよ」ということに尽きるか。
ただし今回の話で注目するのは、まずアメリカが「持ち込まず」原則を確認するかどうかが成否の決め手だとしていることだろう。これが「約束対約束」の核心になるという視点にはまったく同感する。





2001年

1.23 ベルギーと北朝鮮が国交樹立.ベルギー政府は,「金大中大統領からの依頼もあって,朝鮮半島の安定につながるよう国交樹立を決めた」と経緯を説明.

01年3月 ブッシュ・金大中会談

3.06 パウエル新国務長官,議会の聴聞会で証言.クリントン政権の対北朝鮮政策を見直すと声明.

3.07 ブッシュ・金大中首脳会談.ブッシュ大統領は"北朝鮮は信用できない"と発言."厳格な相互主義と徹底した検証"を要求.

3.15 北朝鮮政府,ブッシュ新政権の一連の言動に抗議し,米国との閣僚級会議を無期限に延期.朝鮮中央通信は,「南北対話をかき回そうとする米国のよこしまな政策には,三千倍の復讐が待っている.われわれは対話にも戦争にも十分な備えができている」と強い非難.

4.19 北朝鮮赤十字,大韓赤十字社に尿素肥料20万トンを支援するよう公式要請.韓国政府はこれに応じる構え.

01年5月

5.01 ブッシュ大統領,ミサイル防衛網(MD)計画の推進を宣言.

5.03 金正日,EU代表団と会見.2003年まで引き続きミサイル発射実験を停止すると述べる.一方,「ミサイル技術の輸出は貿易であり,買い手があれば販売する」ことを明らかにする.

5.05 オルブライト前国務長官,『ニューヨーク・タイムズ』へ寄稿.「ブッシュ政権がヨーロッパ同盟国のMD構想支持を願うのなら,まず北朝鮮と合理的な対話を開始する必要がある」と主張.

5.09 アーミテージ国務副長官が訪韓."核とミサイルの脅威には軍事的手段による対抗措置も辞さない"と表明.

5.26 国際原子力機関(IAEA),寧辺(ヨンビョン)の5メガワット原子炉,再処理廃棄物の保存所とされる偽装公園施設(いわゆる500号建物)などに対する査察を要求.

5.27 ケリー国務次官補,韓米日の対北政策調整会議で,"クリントン政権の対北ミサイル交渉は不充分である"と発言.00年10月の「朝米共同コミュニケ」の見直しを示唆.

01年6月 ブッシュの北朝鮮ドクトリン

6.04 『労働新聞』の論評,「ブッシュ政権が査察・検証・通常武器の削減など条件をつけるのは,対話を拒否する立場に他ならない」と批判.平壌放送は「強硬には超強硬で対応する」と絶叫.

6.06 ブッシュ米大統領,①ミサイル開発と輸出の禁止,②軍事境界線付近の通常戦力削減,③核査察受け入れ,④人道支援物資の公正な配布,を条件として,北朝鮮との対話を再開すると発表.「包括的なアプローチの枠組みから議論を進めていく.北朝鮮が前向きに対処すれば,米国は制裁を緩和し,北朝鮮住民を助ける努力を拡大する」と述べる.

6.11 韓国外交通商部長官,「朝鮮半島が統一されたとしても,米軍は地域内の安定を維持するため引き続き駐屯するべきである.アメリカは侵略への抑止力であり,北東アジアの平和と安定の守護神である」と講演.

6.13 ニューヨークでプリチャード朝鮮半島担当大使が北朝鮮国連大使と会談.米朝会議の再開へ向け調整開始.

6.18 北朝鮮外務省スポークスマン,アメリカを一方的・敵対的と非難するいっぽう,「軽水炉の提供遅延に伴う損失補償が緊急問題である」と提案.

6.21 ラムズフェルド国防長官と金東信韓国国防長官が会談.米軍が韓国に引き続き駐屯することで合意.

01年7月 国連人権委員会の勧告

7.06 アーミテージ国務次官,北朝鮮がロケット・エンジンの噴射実験を再開したと発表.

7.12 ケリー東アジア・太平洋問題担当国務次官補,下院で証言.IAEAの特別査察受け入れと,使用済み燃料の国外搬出の具体化が,「枠組み合意」再開の前提となると述べる.

7.19 国防総省,本土ミサイル防衛(NMD)と戦域ミサイル防衛(TMD)の区分を廃止し,一体化された弾道ミサイル防衛(BMD)構想として開発を進めると発表.

7.27 パウエル米国務長官が訪韓.対北交渉においては核・ミサイル査察が交渉の前提となると強調.

7.27 国連人権委員会,北朝鮮の人権が依然として劣悪であるという結論に達し,20項目にわたる具体的人権状況の改善を勧告.主要な内容としては,司法の独立と公正,公開処刑の禁止,刑務所に対する国内外からの査察,強制労働の廃止,旅行証明書発給制度の廃止など.

01年8月

8.04 金正日,ロシアを訪問しプーチンと会談.8項目のモスクワ共同宣言に合意.96年に失効した旧ソ連時代からの友好協力相互援助条約に代わる友好善隣協力条約に署名.

8.08 北朝鮮外務省スポークスマン,「ミサイル問題を前提とする米国の態度が変わらない限り,対話のテーブルにはつかない」と述べる.

01年9月

9.02 江沢民主席が北朝鮮を訪問.92年の中韓国交樹立によって途絶えた中朝間の首脳の相互訪問が、10年ぶりに回復する.中国側は南北の関係改善,日米などとの関係改善を「支持」する姿勢を打ち出す.

9.11 ニューヨークで同時多発テロ.米韓連合軍司令部は,スチュワート司令官名で米韓連合軍に非常警戒令を発動.金大中大統領は,翌日になって韓国軍及び警察に「非常警戒措置」を指示.

9.13 北朝鮮外相,9.11テロを「非常に痛ましい悲劇」と呼び,あらゆる形のテロに反対すると言明.

9.15 ソウルで第5回南北閣僚級会談が開催.南北離散家族の相互訪問,第2回経済協力推進委員会,次回閣僚級会談の開催などが合意される.

9.17 小泉首相が平壤を訪問し、金正日と会談。日朝共同声明を発表。金正日は拉致事件の存在を認め謝罪。4人の生存を認める。

9.17 IAEAのエルパラダイ事務局長,北朝鮮の査察がまったく進んでいない状況に関して警告.北朝鮮は「荒唐無稽で強引な主張であり,言いがかりだ」と反論.

01年10月 ブッシュ、金正日を罵倒

10.08 米のアフガン侵攻.韓国国防部と米韓合同参謀本部が北朝鮮軍の動向を協議.金大中大統領は国家安全保障会議で「非常警戒態勢」の強化を指示.

10.09 「ブルッキングス研究所」のジョエル・ウィット研究員,「北朝鮮の体制を完全に変化させようとする政策は好ましい結果をもたらさない。北朝鮮がノーマルな国家として国際社会に参与できるよう手助けする姿勢が望ましい」と述べる.

10.11 F15E戦闘機を主体とする飛行大隊が,米本土から在韓米軍基地に派遣.

10.12 北朝鮮,「南が非常警戒態勢を強化している状況では,離散家族の相互訪問は不可能」として延期を通告.南は北の一方的な延期通告に抗議し,「非常警戒措置は対テロ戦争の一環として発令されたもので,北を対象としたものではない」ことを強調.

10.16 APEC首脳会議に出席したブッシュ大統領,記者会見で「金正日にメッセージがある.自分の側の約束を実行せよ.会おうといった以上会え.なぜ彼は話し合おうとしないのか.合意の実行すら拒否するこの男はいったい何なのか」と叫ぶ.

10.18 閣僚級会談北側団長名義の韓国政府あて書簡が発表される.「アメリカ本土から空軍戦力を新たに引き入れたのは,明らかに我が方を刺激する敵対行為」と非難.

10.18 アジア太平洋司令部を指揮するブレア提督,『東亜日報』の質問に答え,「アメリカにとっての3大地域はヨーロッパ,西南アジア,東アジアの順だったが,今は東アジアがもっとも優先され,西南アジア(中東と中央アジア),ヨーロッパの順に変わった」と発言.

10.19 上海のAPEC総会で,金大中とブッシュが二度目の首脳会談.金大統領は,「太陽政策は北朝鮮を改革と開放に導くための政策であるから,アメリカ政府も積極的に協力してほしい」と要請.北朝鮮政府は,「金大中発言は南北の体制を相互に尊重することを前提にした6・15共同宣言の精神を著しく損なうもの」と非難.

10.23 「労働新聞」の論評.「…自主権の尊重はテロを防止する最善の道である。地球上で発生するすべての軍事的衝突と戦争はその性格と形態がいかなるものであれ,結局は他の国や民族の自主権と利益を侵害し蹂躙したことが根源となっている。すべての国と民族の自主権を尊重する原則が徹底して遵守されてこそ健全な国家関係と国際秩序が樹立され,すべてのテロと軍事衝突もなくすことができる」

01年11月 ブッシュ、イラクと北朝鮮を名指し非難

11.06 プリチャード朝鮮半島特使,上院外交委員会で証言.「クリントン政権による対北交渉の結果は,すべて無効になったわけではない」と述べる.

11.08 米議会調査局の朝鮮問題専門家,「ブッシュ政権は互恵的な措置をとる用意があることを北朝鮮に示唆すべきである。…通常武器の削減を要求しながら,それに見合うどのような措置を取るかについて明らかにしてこなかったのは失策である」と述べる.

11.14 金剛山で第6回南北閣僚級会談.離散家族再会問題をめぐり完全に決裂.次回日程を決めないまま決裂.南北の政府間折衝がすべて中断.ハンナラ党は「国民の自尊心と国家の利益を度外視した亡国的な対北朝鮮政策を原点から見直すべきだ」と批判.

11.19 生物兵器禁止条約に関する第5回評価会議(ジュネーヴ)が開かれる.ボルトン米国務次官は「イラクと北朝鮮は,生物兵器禁止条約に違反しており,軍事的目的に使用できる十分な量の生物・細菌武器を生産できる」と発言.国際調査を要求したアメリカの提案は採択されず.なお,事務局提案の「生物兵器の開発・生産・保有の実態を確認するための検証議定書」は,アメリカの抵抗によって流産となる.

11.26 ブッシュ大統領が記者会見.イラクと北朝鮮が大量破壊兵器(weapons of mass destruction)に関する査察を受け入れるよう要求.「もし他国をテロの恐怖に陥れるため大量破壊兵器を開発するなら,応分の責任をとらせる」と述べる.

11.28 韓・米・日の対北政策調整グループ(TCOG)会議,北朝鮮に対して「大量破壊兵器の開発を中断し,テロに反対する追加的な措置を取るよう」に要求.

11月 朝銀に2898億円の公的資金が投入される.

01年12月

12.13 ブッシュ政権,ABM条約からの離脱をロシアに通告.

12.22 日本の海上保安庁艦艇,北朝鮮の「不審船」を東シナ海で追跡.不審船は交戦のあと自沈する.

12月 韓国,射程300キロのミサイル110発をロッキード・マーチン社から購入.これを機にミサイル関連技術輸出規制(MTCR)に加盟.

12月 北朝鮮赤十字会,「日本人行方不明者」の調査を中止すると発表.

12月 中朝貿易は7億3900万ドルに急増。99年実績の2倍となる。

 

2002年

02年1月 悪の枢軸

1.08 国防総省,連邦議会へ8年ぶりの「核戦略体制見直し報告」(NPR)を送付.核戦略の目的を,冷戦時の“抑止力”から,テロリストや「ごろつき国家」との戦争で“実際に使用する攻撃力”へと転換することをうたう.

添付機密文書
報告には機密文書が添付されており,ロサンゼルス・タイムス,ニューヨーク・タイムスなどによって暴露される.北朝鮮・イラク,イラン,リビア,シリアのほかロシア,中国まで含め,少なくとも7か国を対象とした核攻撃のシナリオを策定,限定的な核攻撃を想定した小型戦術用核兵器の開発を軍に指示.

1.29 ブッシュ大統領,一般教書演説(State of the Union address)で北朝鮮,イラン,イラクを「悪の枢軸」(axis of evil)だと名指し.

各界の批判
クリントン前大統領 「北朝鮮はイランやイラクとは異なるアプローチが可能な国だ。2000年12月には米朝関係が急進展した.そして北朝鮮との間でミサイル開発計画の放棄に関する合意が取り交わされようとしていた。…私自身は北朝鮮問題に関する限り,後任者に大きな外交的勝利を残したと自負している」
アナン国連事務総長 「世界を善の国と悪の国に分ける二分法的な観点は非現実的である。国連安全保障理事会は,アフガニスタン以外の国を対象とした軍事行動に関して,いかなる決定も下していない」
ドイツのフィッシャー外相 「アメリカが無分別に軍備を拡張すれば,世界はますます不確実で危険なものになる。アメリカの軍事的冒険主義は,同盟国の支持を得られないだろう。我々は同盟国であって,衛星国ではない」
ニューヨーク・タイムズ 「ブッシュ大統領はイラン・イラク・北朝鮮を‘悪の枢軸’と規定した.しかしヨーロッパの人たちは,逆に,ラムスフェルド国防長官・チェイニー副大統領・ライス大統領安保補佐官を悪の枢軸と見なしている」 

1.31 ハバード駐韓大使,「われわれはストレートに話す.北朝鮮の顔を立てる形で交渉に入るのはアメリカのやり方ではない」と述べる.

1月 金正日、二回目の中国訪問。上海を訪れ中国の経済発展を賞賛。

02年2月 We are ready!

2.05 パウエル,上院外交委員会で証言.北朝鮮との対話窓口は無条件で開かれていると述べる.また「平壤は依然ミサイル開発を凍結しており,枠組み合意も守っている」ことを明らかにする.

2.09 ロサンゼルス・タイムスの報道によれば、ブッシュ政権はイラク、北朝鮮など7ヵ国を対象に、非常時の核兵器使用計画策定とピンポイント用の小型核兵器開発を命じた。

2.19 ブッシュ,日本・韓国・中国を歴訪.金大中大統領との会談後,「金正日に対する見方を変えるつもりはない」としつつ,「北朝鮮に対する軍事攻撃の意思はなく,対話による解決を望む」と発言.金大統領は「ブッシュが対北包容政策への積極的な支持と,無条件での対北対話の意志を表明した」と評価.

2.20 北朝鮮,「われわれの最高首脳部を露骨に中傷したブッシュのようなやからは相手にしない」と声明.

2.20 ブッシュ,非武装地帯から100メートルの最前線を視察.「We are ready!」(かかってこい)と演説.

2.21 ブッシュ,烏山の米空軍基地で演説.「朝鮮半島の平和は,確固たる軍事力によって築かれている。我々は朝鮮半島に引き続き米軍を駐屯させるだろう」

2.27 北朝鮮の金剛山で「2002年迎春南北共同のつどい」,韓国政府が「統一連帯」代表の参加を承認しなかったことから流会となる.

02年3月 合同軍事訓練の再開

3.10 米国防総省,「核戦力体制見直し報告」(NPR)を議会に提出.北朝鮮,中国,ロシア,イラン,イラク,リビア,シリアの7カ国を潜在的な核攻撃対象に指定.非核攻撃で破壊しきれない目標物,核・生物・化学兵器攻撃に対する報復,不測の軍事事態では核兵器を使用できるとしている.

3.10 新千年民主党と野党ハンナラ党のスポークスマン,「朝鮮半島だけでなく,いずれの国に対する核兵器使用にも反対する」などと批判する声明.

3.13 ブッシュ米大統領,「イラクのような国家が大量破壊兵器を開発し,我々の将来を脅かす事態を断じて許さない。あらゆる選択肢が用意されている」と言明.非核保有国に対しても核攻撃を排除せずとの立場を明らかにする.さらに核兵器の小型化,高性能化を進め,いつでも使用できるようにすると言明.

3.14 朝鮮中央通信,米国が北朝鮮に対する核使用の可能性について言及したのを受け,「94年のジュネーブ合意など北朝鮮-米国間合意を全面的に見直しせざるを得ない」と声明.同時に,国連本部で北朝鮮特使が米国のプリチャード代表と,対話の再開に向けて二回の会談.

3.19 ブッシュ政権,北朝鮮に対する「米朝枠組み合意」遵守の認証を拒否(北朝鮮が合意を遵守していないとの認識).ただし「アメリカ側の枠組み合意に対する誠意を示すため,特例規定により重油供給は続ける」とする.重油供給の予算執行が不可能となる.

3.21 94年以降縮小され中断されていた米韓連合訓練が再開される.50万人の大規模演習となる.兵力・装備を前方まで展開させる戦時増員訓練,北朝鮮軍の特殊部隊の大規模浸透に備える「イーグル演習」が並行して進められる.

3月 八尾恵(よど号犯人の妻),北朝鮮政府の指示の下に有本恵子さんを拉致したと証言.北朝鮮赤十字会は日本人行方不明者の調査再開を表明.

02年4月

4.03 金大中大統領の特使として林東源(イム・ドンゥオン)大統領府外交安保統一特別補佐官がピョンヤンを訪問.

4.03 北朝鮮外相,プリチャードとの会談を確認.KEDO再開について米国の主張を受け入れる用意があると表明.

4.05 林補佐官,金正日と会見し金大中大統領の親書を伝逹.①6.15共同宣言を再確認し緊張事態の発生防止に努力する.②経済協力推進委員会や離散家族の相互訪問など,南北間の対話と協力事業を積極的に推進,③南北軍事当局間の会談を再開することで合意.

4.18 崔成泓外相,「北朝鮮を対話の場に引き出すには大きなムチが有効であり,ブッシュ政権の断固たる処置が北の態度を変化させた」と述べる.北はこの発言を受け態度を硬化.

4.28 “金剛山ダムの崩壊説”がテレビでいっせいに報道される.米の軍事衛星の写真をもとに「北の金剛山ダムは不実工事のために崩壊する恐れがあり,その影響で南に大規模な水害が発生する」というもの.

4月 日朝赤十字会談と外務省局長級協議が開催され,小泉首相訪朝が決定.

5.08 瀋陽の日本大使館に北朝鮮人5人が駆け込み。

5.21 国務省、北朝鮮をテロ支援国家に指定。

02年6月 黄海上の軍事衝突

6.01 ブッシュ大統領,ウエストポイント陸軍士官学校の卒業式で演説.「テロとの戦争は,守勢に回っては勝てない.われわれは敵の陣内で戦闘を行い,計画を打ち砕き,最悪の脅威が現実化する前に勝負に出なければならない」と先制攻撃論を主張.

6.11 米下院本会議,「中国政府に北朝鮮難民の強制送還中止を求め,国連高等難民弁務官の活動を認めるよう要望する決議」を全会一致で採択.19日には上院も全会一致で採択.

6.25 ブッシュ政権,「米側の懸案事項を提示し,対北政策を説明するため」北朝鮮に特使を派遣するとの案を提示.特使候補にはケリー東アジア・太平洋問題担当国務次官補を指名.

6.29 99年に続く黄海上の軍事衝突事件.北方限界線を越えて南進した北朝鮮警備艇二隻が,韓国軍警備艇に無警告で発砲.韓国軍は死者5人,負傷者19人を出す.北朝鮮側も警備艇一隻が炎上.

6.30 北朝鮮海軍司令部,NLLは「米軍が勝手に引いた幽霊線で,我々は一度も認定していない」と反駁.

6月 CIAの秘密報告.「97年から北朝鮮とパキスタンの往来が頻繁になった。ミサイルの代金を支払えないパキスタンは,見返りとして核開発技術の提供を北朝鮮にもちかけた」とする.

02年7月 白南淳・パウエル非公式会談

7.01 北朝鮮外務省スポークスマン,銃撃戦は韓国の挑発行為であり,北方限界線は恣意的なものであり無効と声明.

7.01 北朝鮮、経済改善措置を実施。公定価格の設定、対ドルレートを70分の1に切り下げ、企業独立採算性などが行われ、市場経済化への移行を目指す。

7.25 北朝鮮政府,韓国政府あてに「黄海上で偶発的に発生した武力衝突事件を遺憾とする」との書簡を送る.さらに金剛山会談の再開を提案.「第7次南北閣僚級会談では,鉄道連結問題,離散家族の再会問題など」を議題とするよう促す.

7.26 ブルネイのASEAN地域フォーラムでは白南淳外相がパウエル国務長官と非公式会談,「ケリー特使の訪朝を歓迎する」と表明.

7月 北朝鮮外務省スポークスマン談話,アメリカの特使を受け入れる用意があるとの意向を表明.

7月 北朝鮮がウラン濃縮施設の建設を始める.

7月 日朝外相会談,拉致問題や過去の清算などを包括的に協議することで合意.

7月 北朝鮮で経済改革が実行される。食料の自由販売が認められ、コメ1キロが900ウォンに高騰する(一般事務職の給与は約2000 ウォン)。

02年8月

8.07 北朝鮮のKEDO合意に基づく軽水炉の起工式.プリチャード国務省特別代表が列席する.プリチャードはIAEA査察の即時・無条件受け入れを促すが,北朝鮮は少なくとも3年間の猶予を求める.

8.16 米国,イエーメンにミサイルを輸出したとして,北朝鮮に新たな制裁.フライシャー報道官は,この制裁により交渉の窓口を閉ざすわけではないと述べる.

8.31 ジョン・ボルトン軍縮・国際安全保障担当国務次官補,平壤のミサイル・核・生物兵器問題を非難しつつも対話の可能性を示唆.北朝鮮は,「ボールは米国側のコートにある」とする声明.

02年9月 日朝首脳会談

9.16 ラムズフェルド米国防長官「北朝鮮は核兵器を保有している」と述べる.

9.17 小泉首相と金正日が会談.平壤宣言を発表.北朝鮮は無期限のミサイル発射実験凍結を発表.また核開発に関し「すべての国際合意を順守する」とし、朝鮮半島における核問題の包括的解決と,国際合意の完全な尊重をうたう.席上,金正日は拉致事件を認め謝罪.

金正日「謝罪」の全文: 70年代,80年代初めまで特殊機関の一部に妄動主義者がいて,英雄主義に走って,こういうことを行って来たと考える。二つの理由があると思う。一つは特殊機関で日本語の学習が出来るようにするため,一つは日本人の身分を利用して南(韓国)に入るためだ。
私が承知するに至り,責任ある人々は処罰された。これからは絶対ない。この場で,遺憾であったことを素直にお詫びしたい。二度と許すことはない.

9.18 韓国と北朝鮮を結ぶ鉄道と道路を連結させる工事が同時に着工式。

9.19 非武装地帯内の地雷除去作業が開始される。

9.20 米政府高官,「当面、北朝鮮を先制攻撃の対象.国としては想定していない」との見解を明らかにする.

9.28 拉致被害者調査で,政府が調査団を派遣.

02年10月 ケリー訪朝と核保持宣言

10.02 日本政府調査団が拉致被害者の調査結果を公表.生存5人は本人と断定.死者8人は特定できず.

10.03 ケリー東アジア・太平洋問題担当国務次官補を団長とする8人の代表団が北朝鮮を訪問.「大量破壊兵器,ミサイル開発プログラム,ミサイル輸出,脅迫的な通常戦力配置,人権抑圧,悲惨な人道的状況」などに言及.これらの問題を包括的に解決するよう要求.「ウラン高度濃縮装置の開発を進めている」証拠を提示する。

10.04 姜錫柱(カン・ソクチュ)第一外務次官、ケリーの提示した証拠を前に,ウラン濃縮計画の存在を認める.さらに「生物兵器も保有している」と表明.北朝鮮側はこれまでウラン濃縮計画を一貫して否定.「米国はないものをあると強弁している」と非難した。

10.07 北朝鮮外務省スポークスマン声明。「ケリーの言動は一方的な要求を押し付けようとする高圧的で傲慢な態度である.…我々は主権を守るために高濃縮ウラン(HEU)計画を推進する権利がありる。さらに核兵器だけではなく,より強力な他の兵器も所有する資格がある」と反論.(枠組み協定はウラン濃縮を禁止してはいない)

10.11 世界食料機構,支援用穀物の不足のため,東海岸諸道への食糧配給を段階的に停止すると発表.5月から援助が停止されている中学生25万のほかに,小学生100万人への1日200グラム,高齢者・障害者など14万人への1日500グラムの穀物配給が停止.11月からは小学生未満の児童100万と,妊婦への食糧援助も打ち切りの予定.

10.15 拉致事件被害者5人が一時帰国.

10.16 ケリー米国務次官補,姜錫柱発言を元に「北朝鮮が核兵器開発のためウラン濃縮計画を推進している」と発表.事実上「枠組み協定」の死文化を宣言.訪朝が不調に終わったのを受けてのもの.

10.17 米国務省はこれを根拠に、世界に向け「北朝鮮がHEU計画を認めた」と宣言した。北朝鮮はそのような事実はないと反論するが、国連代表部筋は、「米国務省の声明は大筋で事実だと認識している」と述べる。

10.16 IAEAのエルバラダイ事務局長,「北朝鮮はIAEAを脱退しているが,NPTには加盟しており,核施設についてIAEAへの報告義務がある」と述べる.

10.18 朝鮮日報,北朝鮮が核開発のためパキスタンから濃縮ウラン製造用の遠心分離器など関連装置を購入し,秘密施設で数年間にわたり濃縮実験を行ったと報道.

10.19 ケリー米国務次官補,北朝鮮が核開発放棄の条件として,①米朝平和条約の締結 ②北朝鮮を先制攻撃の対象としない ③北朝鮮の経済システムの是認,の三つをあげたことを明らかにする.

10.19 韓国と北朝鮮が第8回南北閣僚級会談を開催。「核問題を対話で解決」することで合意。

10.20 パウエル米国務長官,94年の米朝枠組み合意は事実上無効化したと言明.いっぽう,「合意に盛り込まれている経済援助を停止するかどうかは検討中」と述べる.ニューヨークタイムズは「ブッシュ政権が米朝枠組み合意を破棄することを決定した」と報道.

10.23 南北閣僚級会談,北朝鮮の核開発問題は「対話を通じて問題を解決する」ことで合意.韓国側が求めた核開発の断念は盛り込まれず.

10.24 政府,一時帰国した5人を返さず,さらに家族の帰国を求める方針を発表.

10.25 北朝鮮外務省スポークスマン声明,「われわれは米側からの核脅迫に対し,自主権と生存権を守るために,核兵器はもちろん,それ以上のものも持つことになっていると明確にした」と発表.さらに朝鮮半島非核化に関する南北共同宣言は,アメリカが核先制攻撃戦略を採用したことにより死文化したと宣言.

10.26 メキシコのロスカボスで開かれたAPEC首脳会議に出席した日米韓の三首脳,「核問題を含む安全保障上の問題と拉致事件の解決なくして交渉はありえない」と声明.核兵器の検証可能な撤廃をもとめる。

10.28 朝鮮通信が声明を発表。米国特使は「なんの根拠資料もなしに、われわれが核兵器製造を目的に濃縮ウラン計画を推進し、朝米基本合意文を違反していると言いがかりをつけている」との非難声明。

10.29 クアラルンプールで日朝国交正常化交渉.拉致問題がネックとなり進展なし。

02年11月

11.05 北朝鮮,日朝正常化交渉が進展しなければミサイル発射実験の凍結を解除すると発言.

11.09 KEDO日米韓調整グループ,12月以降の北朝鮮への重油提供を停止すると決定.

11.14 KEDO,北朝鮮が高濃縮ウラン計画を廃棄するまで,重油供給を停止すると発表.

11.17 平壤放送、「米朝枠組み合意に違反したのは米国の側である。米帝国主義が核脅威を増大させるなら、それに対抗しわれわれの自主権、生存権を守るためには、核兵器をふくむ強力な軍事的対抗手段を保持しなければならない」と述べる。

11.24 日朝両政府,大連で非公式折衝.北朝鮮側は「平壤宣言はしっかり守っていきたい」と言明.

11.21 CIA、北朝鮮が「プルトニウム爆弾を1、2個保有し、原爆数個分のプルトニウムを保有している」との推定を明らかにする。

11.26 パウエル国務長官、パキスタンのムシヤラフ大統領と会談。北朝鮮との接触は重大な結果を招くと警告。

11.29 IAEA理事会,「北朝鮮はウラン濃縮計画の問題を明らかにしなければならない」と決議.寧辺(Yongbyon)の核施設の特別査察をもとめる。北朝鮮はIAEAは米国の回し者として,決議の受け入れを拒否.

11月 米議会の調査機関,「北朝鮮の原子炉は毎年少なくとも一個分の核兵器を作るだけのプルトニウムを生産できる」と報告.

02年12月 イエーメンにミサイル輸出

12.02 中ロ首脳会談。朝鮮半島非核化と大量破壊兵器不拡散、米朝枠組み合意に基づく米朝関係の正常化支持、南北対話などをうながす共同宣言を発表。北朝鮮を突き放す。

12.04 北朝鮮の白南淳外相、IAEA事務局長に「理事会決議は受け入れられない」との書簡を送る。

12.09 アメリカとスペインの艦船,イエーメンに北朝鮮のセメントを運ぶ北朝鮮船「ソ・サン号」に対し停船命令.威嚇射撃の上特殊部隊員による臨検.セメント袋の下からスカッド・ミサイルとロケット燃料が発見される.フライシャー報道官は,この船がミサイル部品を積んでおり,その最終目的地はイラクだと主張.

12.10 イエメンのサーレハ大統領,ミサイル購入の事実を認めた上,ソサン号の引渡しを要求.アメリカ側の説得に応じず.アメリカはミサイルごとソサン号を解放.

12.11 ブッシュ政権、「大量破壊兵器に対する国家戦略」を発表する。

12.12 北朝鮮政府,核凍結解除を宣言する。枠組み合意で凍結された寧辺の核施設を再稼働させると表明.IAEAあての書簡で「年間50万トンの重油供給を前提にして講じた核凍結を解除し,電力生産に必要な核施設の稼動と建設を即時再開する」と通告.IAEAが設置した封印と監視設備を撤去するよう求める.

12.18 朝鮮日報、北朝鮮が核兵器開発に必要な高性能爆薬を使った起爆実験を続けていると報道。実験の回数は1993年までに70回、94年の枠組み合意以降も、70回以上実施しているとされる。

12.19 太陽政策の継続を掲げる盧武鉉が韓国大統領に当選.

12.21 北朝鮮,核凍結の解除措置を開始。寧辺の原子炉施設に設置されたIAEAの監視カメラを無力化.使用済み核燃料棒,約8000本の収められた核燃料棒製造工場・再処理施設の封印を取り去る.

12.24 北朝鮮,寧辺の施設に新たな燃料棒を運び込む.使用済み燃料棒の貯蔵庫を開けることは保留.

12.26 IAEA,寧辺の原子炉施設(5000キロワット)に約400本の燃料棒が搬入されたことを確認.エルパラダイ事務局長,「北朝鮮が各施設を再稼動させ,プルトニウムを生産する方向で動き出すのは,核の瀬戸際政策に他ならない」と警告.

12.27 IAEA,寧辺の原子炉施設にさらに1000本の燃料棒が搬入され,合計で約2000本の搬入が完了したことを確認.

12.29 北朝鮮政府,IAEAはワシントンの手先にすぎないと非難し,再び査察官を国外追放.

12.30 ニューヨーク・タイムス、北朝鮮の核開発で米が武力行使の可能性を当面排除しているのは北朝鮮の報復から韓国と日本を防衛する有効な手段がないからと報道。

12.31 ブッシュ米大統領、北朝鮮核問題を外交的方法で平和的に解決すると明言。

 

2003年

03年1月  NPTからの脱退

1.07 日米韓が政策調整会(局長級)協議.北アメリカが不可侵の確約を文書化する案を拒否したことで暗礁に乗り上げる。朝鮮が核開発を放棄すれば対話に応じる用意があると声明.

1.10 北朝鮮,核拡散防止条約とIAEAの保障措置(査察)協定からの離脱を発表.パウエル国務長官は,北朝鮮の核問題を安保理に提示する意向を表明.

1.11 北京駐在の崔鎮洙北朝鮮大使,NPT離脱に関して記者会見を開催。長距離ミサイル実験の凍結解除と核兵器の開発を示唆する.

1.11 IAEA担当北朝鮮大使、米国が指摘したウラン濃縮開発計画について「そのような計画はない」と述べる。

1.13 ブッシュ政権,核兵器開発計画の解体を前提として,北朝鮮との「話し合い」に応ずる用意があると声明.書簡の形で北朝鮮へ不可侵を確約すると提案。

1.18 崔鎮洙駐北京大使,アメリカが北朝鮮の自決権を認め、不可侵を確約すれば、核問題は対話で解決するだろうと語る。

1.19 アーミーテージ米国務副長官、北朝鮮への包括提案を検討中と話す。プルトニウム、化学兵器などの大量破壊兵器を放棄する見返りに、不可侵を文書化し、経済支援をおこなうというもの。

1.19 アナン国連事務総長の特使として北朝鮮を訪問したストロング特別顧問,「(米朝)双方の意思の疎通がない.現在の認識がエスカレートすると深刻な状況になる」と懸念を示す.また「北朝鮮は,国の安全のためなら戦争に突入する決意をしている」と強調.

1.20 パウエル国務長官,北朝鮮危機を国際的協力の下で解決する用意があると発言.

1.21 第9回南北閣僚級会談が開催される。北朝鮮代表は「核兵器製造の意思はない」と表明。

1.25 北朝鮮政府,「核問題は朝米の2国間問題であり,いかなる形態の多国間協議にも参加しない」と表明.

1.27 韓国政府の林東源特別補佐官が核問題解決で訪朝、朝鮮最高人民会議の金朴南常任委員長と会談。

1.28 ブッシュ,一般教書演説.北朝鮮問題の「平和的解決を図る」ことを明らかにする.同時に「北朝鮮は核計画によって人々をおののかせ,譲歩を勝ち得ようとしている.しかしアメリカと世界は恐喝には屈しない」と述べる.

1.31 ニューヨーク・タイムズ紙,貯蔵庫からの燃料棒の搬出と見られる動きをアメリカ政府がつかんだと報道.

03年2月 米国、核施設先制攻撃を示唆

2.03 盧武鉉の顧問団が訪米.米政府関係者は,「アメリカが北朝鮮の核施設爆撃を行った時はどうするか?」と質問.顧問団は「両国同盟の終わりを意味する行為だ」と強く反発したという.

2.05 平壤放送、「電力生産のため核施設の稼働を再開した」と報じる。

2.07 ブッシュ米大統領、北朝鮮に対し「あらゆる選択肢がある」と発言。軍事手段もあり得ると警告。

2.07 北朝鮮平和統一委員会「侵略軍隊を増強する米国の動きにストップをかけなければ、朝鮮半島は灰になり、朝鮮人たちは恐ろしい核の災厄をまぬがれないだろう」

2.12 IAEA特別理事会,北朝鮮の核査察拒否問題を国連安保理に付託する決議を採択.中国は決議賛成に回る.ロシアとキューバが棄権.反対はゼロ.

2.13 ラムズフェルド米国防長官、在韓米軍の削減方針を提示する。

2.16 在日米軍にF15戦闘機、U2偵察機などが増派される。北朝鮮有事に備えてのものとされる。

2.18 石破防衛庁長官、北朝鮮が核兵器を保有しても日本は非核三原則を順守し、核兵器を保有しないと言明。

2.19 北朝鮮のジェット戦闘機が、黄海海上で境界線を7マイル越えて侵入。韓国軍は6機の戦闘機を送り、地対空ミサイルを警戒態勢に置く。

2.25 盧武鉉が大統領に就任.「北東アジアの時代が到来している」と強調.「太陽政策」を継承する「平和と繁栄政策」を掲げる.韓国の経済発展は朝鮮半島の「平和定着」にかかっているとし,「四原則」を提示.①対話による解決,②信頼と互恵,③当事者である南北重視の国際協力,④国民の参与と与野党の協力.

2.25 盧武鉉の就任式にあわせ、北朝鮮は短距離対艦ミサイルを海上に向け試射。5年ぶりのミサイル発射となる。

2.26 盧武鉉大統領の就任式に出席したパウエル国務長官は,「全てのシナリオは検討に値する」との立場を表明.

2.27 寧辺の実験用5メガワット原子炉が再稼働を開始.計算上は1年で、核爆弾のための十分な材料を生産することが可能となる。しかしプルトニウムを生産するための再処理施設は稼動せず。

03年3月 イラク戦争開始

3.01 アメリカと韓国,合同で対北軍事演習チームスピリットを実施.

3.02 北朝鮮のジェット戦闘機4機が日本海海上で米偵察機の飛行を妨害。

3.07 朝鮮中央放送,核施設再稼働を認める報道.「切迫した電力の問題を解決するため」とする。

3.10 韓国で「スパイ団事件」が発生。386世代の元学生運動家チャン・ミンホ容疑者(44)は、17年間にわたりスパイ活動を続けたことを明らかにする。

3.12 ケリー米国務次官補,米上院外交委員会の公聴会で証言.「北朝鮮が化学兵器を保有していることを確信する.また濃縮ウラン問題は数年後ではなく,多分数ヶ月後の問題」と言明.具体的な根拠には触れず.

3.20 米・英連合軍のイラク侵攻が始まる.盧大統領は,「大量破壊兵器を速やかに除去するための処置」であると,アメリカへの支持を表明.

3.21 「枠組み合意」の米側首席代表ロバート・ガルーチが東京で講演. 「双方の首都に連絡事務所を開設する約束は実現せず,軽水炉建設も遅れた.北朝鮮側は枠組み合意によって外交的・政治的な利益を得ることができなかった.濃縮ウランによる核開発計画は,米国が北朝鮮の生存を保証しないという事態に備えて,北朝鮮が掛けた保険」であると示唆.

3.29 「週刊ハンギョレ21」が「アメリカの北朝鮮核施設に対する先制攻撃」の是非を問う世論調査.「反対する」が77%に達する.さらに,「もし対北先制攻撃が決定され場合,それを阻止するために‘人間の盾’として参加する意志があるか」との質問に,40%が肯定的な反応を示す.

03年4月 We have nukes!

4.02 韓国議会,イラク派兵決議案可決.大統領は,「韓米関係を強固にすることが,北朝鮮の核問題を平和裏に解決する道である。…国民の安全を守り戦争を防止する責任者として,派兵を決心した」と演説.

4.09 朝鮮中央通信,日本の閣僚や政治家の「北朝鮮脅威論」が相次ぐことを批判.「日本はわれわれの攻撃圏内にあることを認知すべきだ」と”警告”

4.11 「USAツデー」とCNNが朝鮮問題について米国民世論調査.「アメリカは北朝鮮との戦争に突入すべきか」との質問に,反対67%,賛成28%.

4.12 北朝鮮外務省,「アメリカ政府が核問題解決において対朝鮮政策を大胆に転換する用意があるのなら,対話の形式にはこだわらない」と見解を表明.米朝直接協議以外の選択肢も提示.

4.13 ブッシュ大統領,記者会見で「北朝鮮問題に進展が見られる」との肯定的な評価を与える.

4.17 ラムズフェルド国防長官,「北朝鮮に核放棄の代償を提供すべきではない」と三ヵ国協議を批判.「アメリカよりも,北朝鮮と経済的な関係の深い韓国・日本・中国などが交渉のカギを握っている。日韓両国が今後の協議に参加することは,北朝鮮を動かすためにも肝要である」と述べる.

4.18 北朝鮮外務省,ラムズフェルド発言に不快感を表明.「使用済み燃料棒の再処理」を示唆する発言.

4.23 北京で,中国を仲介役とする米朝中の3カ国協議が開催される.冒頭,北朝鮮は「We have nukes」と発言.核兵器保有を認める.使用済み核燃料棒の再処理に入ったことも明らかに.さらに米側の対応次第では核実験に踏み切る可能性を示唆.

4.24 北朝鮮発言を受けた米政府内の強硬派は,国際的な制裁措置の必要性や北朝鮮の武器輸出阻止を提案.

4.25 北朝鮮外務省,米朝中協議後に談話を発表.「朝米双方の憂慮を同時に解消できる新しい寛大な解決方途を打ち出した」と表明.弾道ミサイル発射実験の凍結とミサイル輸出の中止にも応じる方針を示す.

提案の骨子
米政府筋によれば,北朝鮮側は以下の三点を条件提示.  ①米国が敵視政策をやめる,米朝と日朝の国交正常化の即時実現,②核開発計画は放棄・廃棄するが,製造済みの核爆弾は引き続き保有.③核関連施設がある寧辺に限定して核査察官を受け入れる.

4.29 バウチャー国務省報道官,北朝鮮が核兵器保有と核再処理開始の事実を認めたうえで,「条件が満たされれば核計画放棄とミサイル輸出の中止に応じる」と表明したことを明らかにする.条件としては,食糧・エネルギー分野における本格的な経済支援.米国だけでなく,日本からの大規模な資金と援助物資の提供を想定.

4.30 韓国と北朝鮮の第10回南北閣僚級会談が平壌で開催される.北朝鮮の核問題を「対話を通じて平和的に解決するために引き続き協力していく」などとした6項目の合意.

03年5月

5.23 日米首脳会談.日米韓の三国が多国間協議を継続し,連携を強めることで合意.

5.31 日中首脳会談.核問題の平和的解決を目指し,米中朝協議を継続させることで合意.

6.07 盧大統領と小泉首相が共同声明.「北朝鮮の核問題は北東アジアの深刻な脅威であり,平和的・外交的に解決されなければならない」とし,日韓両国が参加する多国間対話への期待を表明する.

6.17 川口外相,ASEAN地域フォーラム(ARF)閣僚会議の非公式夕食会で北朝鮮の許鍾大使と接触.

7.31 北朝鮮政府,6ヶ国協議受け入れを韓国政府に通知.対北朝鮮敵視政策の撤回の公約と,核凍結に伴う米国自身の保障措置を求める.

03年8月 第1回6カ国協議

8.01 韓国、核開発計画をめぐる6か国協議の開催に北朝鮮が合意したと発表。

8.27 北京の釣魚台迎賓館で第一回6カ国協議が開催される.米国は「完全かつ検証可能で不可逆的な廃棄」(CVID:Complete, Verifiable, and Irreversible Dismantlement)を主張.「核放棄まで北朝鮮と取引しない」立場をつらぬく.北朝鮮外務省報道官は「このような百害あって一利なしの会談にこれ以上いかなる興味や期待も持てなくなった」とし,核抑止力を引き続き強化すると威嚇.

8.29 3日間に及ぶ第一回協議は米朝の見解の相違を浮き彫りにしただけで終わる。協議の有用性は確認された。

9月 金正日、国防委員長に再選。

10.02 北朝鮮、約8000本の使用済み核燃料棒の「再処理を終了した」と発表。

11.21 KEDO、対北朝鮮軽水炉事業を12月1日から1年間中断すると決定。

12.09 北朝鮮、米国が敵視政策を放棄すれば核開発計画を「凍結する」と発言。核廃棄の第一段階について同時一括妥結案を提起。同時に、米国がこれに合意しない場合は次回の6か国協議をボイコットすると表明。

 

2004年

04年1月

1.06 米国の核問題専門家5人が訪朝。北朝鮮は寧辺で「プルトニウム」を提示する。

04年2月

2.25 北京で第2回6ヶ国協議.北朝鮮は「会談が続けられても,問題が解決されるという期待を持つのは難しい.我々は必要な措置(核開発)を引き続きいっそう速やかに講じていく」と声明.

4.07 韓米日3カ国協議、北朝鮮における「完全かつ検証可能で、不可逆的な核の廃絶(CVID)」をもとめることを再確認する。

4.19 金正日が中国を三日間にわたり訪問.温家宝との会談で、「中国企業は北朝鮮と多様な形式で協力し、中国政府はそうした企業投資を積極奨励する」ことで合意。

5.12 6カ国協議の作業部会.北朝鮮はカーン告白を引き合いとする米国の核兵器情報に対し,虚偽の情報と断定.

5.22 小泉首相が平壤訪問.金正日と二度目の首脳会談.日朝平壌宣言を再確認する。拉致被害者の家族5人が帰国。

04年6月 第三回6ヶ国協議

6.09 中国の周外務次官,「米国は北朝鮮のウラン濃縮計画について納得いく証拠を提示していない.確たる証拠がないのなら,米国は主張を取り下げるべきだ」と語る.

6.14 バウチャー報道官,「カーン博士の告白などからも,北朝鮮がウラン高濃縮計画を進めているのは明らか」と述べる.しかし北朝鮮に,核兵器を製造できるだけの大量の遠心分離機が存在する証拠を提示できず.

6.23 北京で第三回6ヶ国協議が開かれる.米国は「核放棄まで北朝鮮と取引しない」立場を変え,CVID原則を持ち出さず,初めて北朝鮮核問題の解決に向けた提案.「北朝鮮が非核化措置を取れば、米国をはじめ6カ国協議当事国らが見返り措置を提供する」という「一括妥結」案をめぐり、駆け引き。

6.28 北朝鮮,第三回6ヶ国協議に関する外務省報道官の談話を発表.「米提案は我々を武装解除するための要求事項を段階的に列挙したもの」でしかないとしつつ,「このような提案を示したこと自体は留意すべきことである」と評価.会談が「さまざまな提案と方途を示し…,進展をもたらすことができる一部の共通した要素も見出すことができた」と評価.

6月 ソウルで安全保障フォーラム開催.中国国際問題研究所の郭震遠は,「北朝鮮の核問題は東北アジアの安保問題の核心となっている.この問題が平和的に解決されるなら,北東アジアの安保情勢を根本的に変えることができる」と発言.

04年7月

7.15 ケリー東アジア・太平洋担当国務次官補,上院外交委員会で証言.北朝鮮は寧辺の原子炉を含む国内の施設のほとんどが軍事目的であることを認め,平和利用の核計画の維持を希望したと述べる.また,各国とも6カ国協議の結末には重大な関心を抱いている.現在は核問題に焦点をあてているが,将来はそれが拡大される可能性があると発言.

7.24 北朝鮮、米国が提案したリビア方式の「先核放棄」案は「論議の価値なし」と拒否。

7月 ジャカルタのARF総会会場で,米国と北朝鮮が二年ぶりの外相会談.パウエル国務長官は北朝鮮の「同時行動原則」に理解を示し,「核放棄先決」論を変えたことを確認する.白南淳外相は「対話による平和解決を目指す立場を,米国と共有した」と述べる.

8.18 ブッシュ、金正日を「暴君」と呼ぶ。北朝鮮はブッシュを「ヒトラーをしのぐ暴君で政治的未熟児」と反撃。

9.28 北朝鮮、使用済み核燃料棒8000本の再処理を完了したと発表。

10.04 米上下両院、北朝鮮人権法案を可決する。

12月 北朝鮮貿易に占める中国シェアは44%を越える。

 

2005年

05年1月

1.01 北朝鮮3紙が共同社説、「主攻戦線は農業戦線である」とし、「すべてのことを農業に服従させ、農業部門に必要な労働力と設備、物資を最優先的かつ無条件で供給すべきだ」と訴える。同時に、「国防工業に必要なすべてのものを優先的に供給すべきである」と強調する。

1.18 ライス次期国務長官、北朝鮮はイランやキューバと並ぶ「圧制国家」だと批判。

1.20 ブッシュ、二期目の大統領就任演説。北朝鮮における圧制に終止符を打つのが最終目標と発言。

1月 公共配給所での穀物供給量が1日300グラムから250グラムに減少。

05年2月

2.10 北朝鮮外務省、すでに「自衛のための核兵器」を保有していると公式に宣言。米国が敵視政策を放棄しない場合は6ヶ国協議を無期限にボイコットすると声明。

2.19 中国共産党対外連絡部の王家瑞部長が平壤訪問。金正日は「条件が整えば、6カ国協議に出席の用意がある」と発言。

3.02 北朝鮮外務省、アメリカに対し、敵対政策を平和共存政策に転換するよう要求。

3月 中朝政府が「中朝投資保証協定」を締結した。中国企業の投資環境が強化される。

5.11 北朝鮮、核兵器開発計画の一環として、寧辺の5千キロ原子炉から使用済み燃料棒8000本を抜き取る作業を完了したと発表。

5.31 ブッシュ大統領、演説の中で金正日に「ミスター」の敬称をつける。

05年6月

6.06 ニューヨークで米朝高官の実務接触が行われる。

6.17 金正日、韓国の統一相と会談。米国が北朝鮮を尊重すれば、7月中にも協議の再開に応じることができると述べる。

6.22 米国、北朝鮮向け食糧支援を再開。

6.23 南北閣僚級会談。北朝鮮側は、雰囲気が整えば、6カ国協議に向けた実質的の措置をとると述べる。

05年7月

7.01 ニューヨークで6カ国の非公式会合。

7.09 米朝が、6カ国協議を再開することで合意。

7.12 韓国、核を完全放棄すれば北朝鮮に直接電力を提供すると発表。

7.26 6カ国協議が13ヶ月ぶりに再開。第4回協議が北京で始まる。

8.07 6カ国協議が無期限休会。協議の枠組みそのものが崩壊の危機に陥る。

9.13 第4回6カ国協議の第二次会合が続開される。ロードマップの細部の詰めが行われる。

9.15 米国財務省、マカオの「バンコ・デルタ・アジア」(BDA)を北朝鮮の資金洗浄金融機関に指定。処分の動きを示す。

9.19 6カ国協議、「北朝鮮のすべての核兵器と現存する核開発計画の放棄」など、今後の非核化へ向かう旅程を盛り込んだ6項目の共同声明を採択。北朝鮮は「軽水炉提供」後に核計画を放棄すると言明する。

共同声明: 朝鮮半島の検証可能な非核化を平和的な方法で達成することで合意。これに向け、北朝鮮はすべての核兵器と現存する核開発計画を放棄し、早期に核拡散防止条約(NPT)と国際原子力機関(IAEA)の安全措置に復帰することを公約。米国は核兵器または在来兵器で北朝鮮を攻撃・侵攻する意思がないことを確認。対北朝鮮エネルギー支援の用意を表明する。
これは「行動対行動」原則と呼ばれ、北朝鮮の進める非核化の水準に合わせ、その見返りを提供するという基本概念が確立された。

9.28 マカオ当局、バンコ・デルタ・アジアに北朝鮮が保有する資金を凍結。6カ国協議は凍結される。

9月 北朝鮮、国連人道支援の年内打ち切りをもとめる。背景に国連・NGO職員の「情報収集活動」への警戒。

10.21 国連世界食糧計画(WFP)が北朝鮮の食糧事情に関して報告。配給されている1人1日穀物量は、250グラムから倍増され最大500グラムに達したとする。

10月 胡錦涛主席が平壤を訪問。20億ドルの長期投資プランを発表する。9億ドルの茂山鉄鉱投資が中心となる。

11.09 第5回6カ国協議、「公約対公約」と「行動対行動」の原則にもとづいて共同声明を履行するようもとめる議長声明を採択。

11.09 米国際開発庁(USAID)、北朝鮮に対する食糧支援を停止すると発表。

11.22 ニューヨークでKEDO理事会。軽水炉建設事業を廃止することで合意する。北朝鮮、「ブッシュ政権はわが国に対する軽水炉提供を放棄した」と米国を非難。

12.09 バーシバウ駐韓米国大使、北朝鮮の偽ドル札の製造、資金洗浄問題をとりあげ、北朝鮮を「犯罪政権」と批判する。

12.17 米国務省、北朝鮮のドル洗浄の窓口であるバンコ・デルタ・アジア(マカオ)の対北朝鮮口座を凍結させる。バンコ・デルタ・アジアは取り付け騒ぎを起こし、倒産に至る。

12.20 北朝鮮、「わが国は5万キロワットと20万キロワットの黒鉛減速炉と関連施設により、独自の原子力工業を積極的に発展させる」とし、年間に核兵器50発分のPuを生産できる大型黒鉛炉の建設再開によって、自衛力強化を図る意向を表明。

12.23 米国、世界の金融機関に北朝鮮と取引をしないよう呼びかける。

12月 中朝貿易総額は15億8123万ドルを記録し、前年比14.2%の伸び。北朝鮮の対中依存度がさらに増大。北朝鮮の対世界貿易の63%は中韓両国との貿易が占める。

12月 北朝鮮の穀物生産量が454万トンに達し、89年以来の豊作となる。

 

2006年

06年1月

1.18 米・中・北朝鮮の核問題担当者が北京で会談。6か国協議の再開について一致するが、日程については合意に至らず。

2月5日 北京で日朝協議。拉致問題など懸案事項に関する協議、国交正常化交渉、核問題・ミサイル問題等の安全保障に関する協議の3協議が並行して行われた。

6.01 北朝鮮外務省が米国首席代表の訪朝を招請、米国はこの提案を拒否。

7.05 北朝鮮、長距離ミサイル「テポドン2号」など7発のミサイルを発射。

7.16 国連安保理、北朝鮮を非難する決議1695号を満場一致で採択。北朝鮮側は決議の受け入れを拒否。

9.09 中国をふくむ24カ国の金融機関が北朝鮮との取引を中断する。

06年10月

10.03 北朝鮮、米国が「国家転覆を図っている」と非難。米国が制裁に踏み切れば「核実験を行うことになる」と声明。

10.06 安保理、北朝鮮の核実験声明を非難する議長声明を全会一致で採択する。中・韓は北朝鮮に対し6か国協議への復帰を要請。

10.07 北朝鮮軍兵士5人が軍事境界線を越えて約30メートル南側に侵入。韓国軍は60発の警告射撃を実施する。

10.09 北朝鮮、「4キロトンの放射能漏洩のない核実験」を強行する。各国の計測によれば核爆発の規模は0.8キロトンだった。

10.15 国連安全保障理事会は、国連安保理憲章第7条に基き北朝鮮を制裁する決議第1718号を採択。

10.19 唐家セン中国特使が平壤を訪問。金正日総書記と会談し、胡錦濤国家主席のメッセージを伝達する。

10月 米国は北朝鮮武力制裁決議を安保理に提出。中国・ロシアの反対で可決されず。国防総省は巡航ミサイルで寧辺の再処理施設を破壊する案をブッシュに提出。

12.18 中断されていた第5回6カ国協議の第二次会合が、北京で再開される。

12.20 米国が北朝鮮に核廃棄と相応措置の修正案を提示、北朝鮮はBDA先決原則を固守。

12.22 第5回6カ国協議第2次会合、次回日程未定のまま終了。

 

2007年

07年1月

1.16 金桂寛外務次官とヒル次官補、ベルリンで米朝首席代表会談。米朝は6カ国協議発足後初めて事実上の2者会談を行う。BDA解決策と第1次非核化措置の輪郭が形作られた。

1月 ペリー元国防長官が下院外交委員会で証言。「不測の事態も覚悟したうえで、大型原子炉を空爆破壊することも検討すべき」と述べる。国防総省は在韓米空軍基地と嘉手納にステルス爆撃機を配備する。

2.08 第5回6カ国協議の第3次会合が北京で開催される。2者会談での合意を受け、ロードマップの調整。

2.13 第5回6カ国協議、「共同声明の実施のための初期段階の措置」について合意。北朝鮮は非核化第2段階に該当する寧辺核施設の無能力化を実施する。これに対しアメリカ側は、エネルギー支援(重油に換算し100万トン)と、テロ支援国指定の解除など安保措置を提供する。

2月 北朝鮮、第6回6カ国協議の首席代表会議に不参加の意向を表明。BDA資金凍結を問題視したもの。

3.13 IAEAのエルバラダイ事務総長が平壤を訪問。

3.19 第6回6カ国協議第一次会合が開かれる。ヒル国務次官補と金桂冠外務次官、黒鉛炉の段階的無力化と95万トンの重油供与の交換で合意。金融制裁を解除の方向に向ける。

6.21 アメリカ、BDA資金2500万ドル全額の凍結解除を決断。BDA問題は解決。ヒル次官補が訪朝し説明。(一説では3月19日の会談ですでに合意していたとされる)

6.25 北朝鮮外務省、BDA凍結資金の北朝鮮口座送金を確認。

6.26 IAEA実務団が訪朝、2月の合意に基づく北朝鮮核施設の閉鎖と検証問題など協議。これを受け、北朝鮮は核施設閉鎖に着手する。

7.15 北朝鮮外務省、重油5万トンの到着を確認し、寧辺核施設稼動中断を発表する。

9.01 米朝関係正常化に向けた作業部会の第2回会議がジュネーブで開催。ヒル次官補と金外務次官が会談し、核施設の年内無能力化と核計画全面申告に合意。

9.11 米中ロの北朝鮮核無能力化技術チームが訪朝。

9.18 北朝鮮外務省、シリアとの核協力疑惑を否定。

9.27 第6回6カ国協議第二次会合が開かれる。「共同声明の実施のための第二段階の措置」について合意。

10月 平壌で韓国の盧i武鉱(ノ・ムヒョン)大統領と第2回南北首脳会談。南北平和繁栄宣言を発表。

11.05 寧辺で「無能力化」作業が開始される。

12月 年内に核の無能力化と核計画の申告を行うとした北朝鮮の約束は果たされず。

10.03 第6回6カ国協議の第2次会合。非核化第2段階の施工図面の履行措置に合意。共同声明を発表する。

11.01 米国の北朝鮮核無能力化チームが訪朝、無能力化措置に着手。

11.19 米朝金融実務者会議をニューヨークで開催。

11.27 6カ国協議当局者らの北朝鮮核無能力化実査団が寧辺を訪問。

12.03 ヒル次官補が訪朝。

12.13 電気出力5000キロワットの実験炉で、燃料棒の抜き取りが開始される。

 

2008年

08年1月

1.04 北朝鮮外務省、米国の輸入アルミニウム管利用した軍事施設の視察を認め、核開発計画の申告書を昨年11月に提供したと発表。

2.19 ヒル次官補と金桂寛外務次官が北京で会談、核開発計画の申告を論議。

3.13 ヒル次官補と金桂寛外務次官がジュネーブで会談。ヒル次官補は「同時全面申告」を要求する。同時に、申告形式には柔軟対処の方針を示す。

4.08 ヒル次官補と金桂寛外務次官がシンガポールで会談。米国は第二段階履行に関する技術的困難を認め、ウラン濃縮および核開発とプルトニウム問題を分離することで妥協。

5.08 北朝鮮、訪朝した米国務省のソン・キム朝鮮部長に寧辺原子炉の1万8000ページにおよぶ稼動日誌を伝達。

6.26 北朝鮮は、過去のプルトニウム生産量など記した核開発計画申告書を中国に提出。これまで延べ38.5キロのプルトニウムを生産し、31キロを抽出。このうち2キロを核実験に、26キロを核兵器に使用と説明する。申告書の内容を確認する検証問題が今後の課題となる。

6.27 北朝鮮、寧辺原子炉冷却塔を爆破。米国は対北朝鮮テロ支援国指定解除の手順に着手。

7.10 北京で第6回6カ国首席代表会談。核の無能力化とエネルギー支援を10月末までに完了することで合意。北朝鮮が約束した無能力化措置は全11項目のうち8項目が完了し、廃燃料棒の抜き取り、未使用燃料棒の処理、原子炉制御棒駆動装置の除去の3項目が残るのみとなる。

7.23 6カ国外相の非公式会談がシンガポールで開催される。

9月 金正日、建国60周年記念の労農赤衛隊閲兵式を欠席、重病説広がる

10.11 米国、非核化の検証措置について北朝鮮と合意に達したと発表。北朝鮮に対するテロ支援国家の指定を解除する。

12.08 第6回六ヶ国協議首席代表者会談、非核化の検証方法について合意できず、次回会合日程未定のまま閉会。

 

 2009年

4月 北朝鮮が弾道ミサイル発射

5月 北朝鮮が2度目の核実験

8月 訪朝したクリントン元米大統領と会談

11月 北朝鮮、デノミを実施するも失敗

2010年

3月 黄海で韓国哨戒艦沈没事件

5月 金正日が訪中し、胡錦清国家主席、温蒙宝首相と会談

8月 金正日、再び訪中し、胡主席と会談

9月 労働党代表者会。三男正恩氏が後継者に決定

11月 米専門家にウラン濃縮施設を公開。

11月 北朝鮮、韓国の延坪島を砲撃

2011年

5月 金正日が訪中。湖錦湯主席、温家宝首相と会談

11月 金正日が訪ロ。イルクーツクでメドページェフ大統領と会談。

2012年

  

1997年

97年1月

1.01 『労働新聞』(党機関紙),『朝鮮人民軍』(軍機関紙),『青年前衛』(青年組織機関紙)の3紙共同社説.「苦難の行軍」をしている旨を認める.

1月 北朝鮮政府,台湾の原子力発電所の核廃棄物の貯蔵を引きうけることとなったと発表.

97年2月 黄長燁の亡命

2.03 政府の水害対策委員会,「96年度の穀物生産量は250万トンにすぎず,年間穀物必要量784万トンを大幅に下回った」ことを明らかにする.

北朝鮮における1人1日あたり配給量の変化
 1995年水害以前   1995年末(水害後)   1996年半ば   1997年はじめ
        600g            458g    250~300g   100~150g(350~525kcal)

2.05 北朝鮮,ニューヨークでの四者会談に関する説明会への出席に応ずる見かえりとして,食糧支援の追加を要求.

2.12 北朝鮮の最高幹部の一人で,「主体思想」の提唱者といわれる黄長燁労働党国際担当書記が,北京の韓国大使館に亡命.「主体思想は自分が立案したものとは大きくかけ離れてしまった」と述べる.中国政府は北朝鮮政府の同意を得て,黄をフィリッピンに移送.

2.19 中国の鄧小平が死亡.

2.21 北朝鮮、韓国の「チュンアン」日報に対し何らかの「報復」をほのめかす。「チュンアン」日報は、「金日成は金正日との激しい口論の末発作を起こし死亡した」と報道する。

2月 ソウルで李ハンヨンが二人の殺し屋により射殺される。黄長燁亡命に対する報復と見られる。李は金正日の元妻ソン・ヒェリンの甥で、92年に韓国に亡命していた。

2月 羅津・先鋒で香港のエンペラー・グループが投資するカジノ付きホテル「エンペラー・ホテル」の建設着工。

3月 亡命工作員のアン・ミョンチン、横田めぐみさん(当時13歳)が新潟市で誘拐され、北朝鮮の学校でスパイ・トレーニングのために働いていると証言。

97年4月 軍部の抵抗

4.15 故金日成の誕生日を国民祝日「太陽節」に決定.この年をチュチェ元年とする.

4月 ハンギョレ新聞,北朝鮮の飢饉に対する人道支援のキャンペーンを開始.

4月末 北朝鮮の咸鏡北道穏城郡で大規模な森林火災が発生し豆満江周辺は火の海となる。また火の粉が中国側にも燃え移り大規模な火災が発生した。

4月末 北からの脱北者が増加。翌年まで続く。

5.15 北朝鮮の韓成烈国連大使,「軍部は四者会談を武装解除のための罠ではないかと考えている.軍部に了解させるためには,無条件の食糧支援が必要だ」と語る.

5月 日本政府,行方不明事件のうち「7件10人」を,北朝鮮に拉致されたものと認定.共産党を排除した「北朝鮮拉致日本人救援議員連盟」が結成される.

97年6月

6.11 ニューヨークで二回目の米朝会談.アメリカ側はノドンの発射実験の中止とスカッド・ミサイルの販売停止を求めるが,ものわかれに終わる.

6.21 金正日,論文「革命と建設において主体性および民族性を固守することについて」を発表.現在の困難について「決して帝国主義者の対処法などを期待してはならない.彼らの援助は,一つを与えては10や100を盗っていくための略奪および隷属の罠である」と指摘.

6.24 韓国の「朝鮮日報」紙、「新しい改革を指向する[北朝鮮の]グループに賛成して権力を放棄するよう」、金正日にもとめる。金正日はこの社説を「我々に対する最も刺激的な宣戦布告」と非難。「朝鮮日報が消滅するその日まで、報復する権利を留保する」と脅迫。

6月 「労働新聞」、「民主勢力の独立、民主主義、再統一のための愛国的反ファシズム闘争にとって、金泳三政権を打倒することが緊急の任務となっている」と述べる。

6月 西海岸で北朝鮮の巡視艇三隻が境界線を越えて侵入。韓国巡視艇と銃撃戦を展開。

97年7月 「喪明け」

7.08 金日成逝去三周忌大会.金正日は「喪明け」を表明.金日成誕生の1912年を元年とする「主体年号」を制定.さらに金日成の誕生日(4月15日)を「太陽説」と命名し国家記念日とする.

7.21 朝鮮中央放送,金正日の文明子(親北派の在米韓国人ジャーナリスト)に送った書簡を発表.この中で食糧危機と経済的苦境を認める.

7月 北朝鮮で米軍兵士の遺骨発掘のための共同調査が始まる.4か月にわたり3回の調査が行われ,アメリカは7体を受領.

7月 北朝鮮兵士14人が軍事境界線を越えて約70メートル侵入。23分にわたり韓国軍との間に銃撃戦。

97年8月 原発の建設開始

8.04 金正日書記論文が発表される.「米国を百年の宿敵とは見ていない」と述べる.また対日関係については,「過去を心から反省し,敵視政策を捨て,朝鮮の統一を妨害しなければ,日本と友好的に対処し朝・日関係を改善できる」と指摘.

8.05 ニューヨークで米中・南北朝鮮が第一次予備会談.

8.06 アメリカ,ミサイル増産活動に抗議し,さらに制裁を強化.

8.19 東海岸咸鏡北道の新浦(咸鏡南道の琴湖?)で,韓国電力公社が軽水炉型原発の建設を開始.KEDOのステファン・ボスワース事務局長,「軽水炉の着工は,関係改善の新たなスタート」と声明.ボスワースはその後駐韓米大使となる.

夏 恵山で大規模な列車事故が発生。止めてあった客車のブレーキが外れひとりでに走り出した。徐々に加速度がつき10の駅を通りすぎ100キロ以上も走り抜け、恵山駅には2両が突入、大きな爆発音とともに駅は廃墟と化した。客車内にいた老人や子供、女性は全員死亡。(5年後に「朝鮮日報」が報道するまで明らかにされなかったということがもっと恐ろしい)

97年9月

9.30 軽水炉建設現場で,金正日の写真入「労働新聞」が破り捨てられていたのが発見.北朝鮮はこれに抗議し労動者30人を引き揚げる.KEDO側の謝罪で1週間後に工事再開.

9月 日朝赤十字連絡協議会,日本人配偶者の里帰りで合意.

9月 労働党農業部門の最高責任者である徐寛熙書記が,黄長燁との関係を問われ,平壌市内で公開処刑される.金日成社会主義青年同盟幹部3人も,ともに処刑される.アムネスティーは「北朝鮮は70年以降,少なくとも23人を公開処刑している」と告発.

10.08 金正日,党中央委員会および党中央軍事委員会の推戴により労働党総書記に就任.

97年11月

11.21 クリントン大統領,対北朝鮮政策を「関与政策」に転換すると発表.

11.23 韓国当局、6人からなる「北朝鮮スパイ団」を摘発したと発表。その筆頭としてソウル大学名誉教授コ・ヨンポクが逮捕される。コ・ヨンポクは73年以来北のスパイとして活動。国内では「社会学の創設者」として認められ、「保守的な」立場から韓国政府の顧問を務めてきた。

11月 北朝鮮、韓国国営放送KBSテレビが放映したシリーズ「北朝鮮社会における抑圧と腐敗」に対して激怒。KBSを「ファシズム独裁者の口金」と非難、「破壊」の可能性を示唆。

11月 自社さ3党訪朝団(森喜朗団長)が平壌訪問.北朝鮮側は拉致事件を「行方不明者として調査」することを約束.

97年12月 「崩壊の危機」を自認

12.09 米中と南北朝鮮との「四者会談」第1回会談が開始される.

12.12 ドイツのテレビ放送,「閉ざされた未知の国,北朝鮮」を放映.インタビューを受けた金永南常任委員長が「北朝鮮は崩壊の危機に置かれている」と認める.

12.19 韓国大統領選挙で,金大中が当選.

12.30 労動新聞,「内外的な試練にもかかわらず社会主義を守り通した」と,97年を締めくくる評価.

12月 赤十字協議会.日本側が安否調査リスト(7件10人+有本さん)を手交.

 

1998年

1.28 金大中が韓国大統領に就任.対北「太陽政策」を推進.

2.25 金大中大統領,①北の武力挑発には断固対処,②北を攻撃せず,吸収計画を持たない,③可能な分野から南北和解・協力推進の「対北三原則」(いわゆる太陽政策)を掲げる.

2月 国連人道局,救援食糧が転用されているとして抗議.北朝鮮側は文書で謝罪.

3.03 金大中政権,初代統一部長官にタカ派の康仁徳極東問題研究所長を任命.康仁徳は朴政権時代に中央情報部の北韓局長を勤めた人物.

3.16 ジュネーヴで第二次4カ国会談本会議が開かれる.北朝鮮から供与されたミサイルのコピーとされる。

4.06 パキスタンが射程1500キロの中距離弾道ミサイル「ガウリ」発射実験に成功。北朝鮮は、「イラン・エジプト・シリア・リビアなどに、合計一千発以上のミサイルを輸出した」とされる。

4.17 アメリカ,北朝鮮がパキスタンにミサイル技術を移転したとして,経済制裁を強化.

この年,北朝鮮とパキスタンは,ミサイル製品とウラン濃縮技術の交換に関する秘密合意を締結.北朝鮮は1000台の遠心分離器を入手.原爆を毎年1個から2個のペースで製造できる能力を獲得したとされる.

98年5月 300万人が餓死? 住民は家で静かに死を待っている?

5.10 北への支援を続ける「韓民族相互助け合い仏教運動本部」の法輪執行委員長,飢饉で300万人が死んだという推計結果を発表.

5月 大阪朝銀が経営破たん.大阪朝銀の受け皿となった朝銀近畿に3100億円の公的資金が投入される.

98年6月 ミサイル輸出を認める

6.16 朝鮮中央通信,金融封鎖が解除されない限り,ミサイル技術の輸出を止めることはできないと報道.ミサイル輸出の事実を初めて認める.

6.16 鄭周永現代名誉会長,牛500頭を乗せたトラック50台を引き連れ,板門店から北朝鮮入り.

6.23 91年以来中断されていた在韓国連軍と北朝鮮軍の将官級会談が再開される.

6.22 北朝鮮の小さい潜水艦が、ソクチョ沖合いで魚網に引っかかる。3日後に引き揚げられたとき、9人の集団自殺した遺体が発見される。

6.24 北朝鮮、米国の軍事的脅威に対する抵抗の表示として、ミサイルをテストし配備し続けると通告。

6.27 北朝鮮、潜水艦事件で沈黙を破り南側を非難。潜水艦と遺体の即時返還を要求。金大中大統領は、潜水艦の侵入が休戦協定および92年の和解・交流・協力協定を侵害していると非難。北朝鮮に「責任を認め合理的措置をとる」よう要求。

6月 北朝鮮赤十字,「日本人行方不明者は存在しない」と通告.

98年7月

7.03 潜水艇侵入事件の北朝鮮兵士の遺体9柱が板門店を通じて送還される.

7.15 超党派のラムズフェルド調査団,長距離ミサイルが開発されない限り,北朝鮮やイランのごとき「ならず者国家」は直接の脅威とはならないと報告.ただし本格的に開発に着手すれば5年以内にミサイルを完成させる能力をもつ国もあると警告.

7.22 イラン、北朝鮮の技術供与を受け、中距離ミサイル「シェハブ3」の発射実験に成功。

7.26 8年ぶりに,第10期最高人民会議の選挙が実施される.

98年8月 テポドン打ち上げ

8.17 ニューヨーク・タイムス,「北朝鮮,核兵器の製造工場建設」と題し,金倉里(クムチャンニ)の地下施設について報道.原子炉および再処理施設の疑いがあるとする.「第二の核疑惑」が発生.ロバート・ガルーチ国務次官補は,「もし秘密核施設であれば,枠組み合意は崩壊する」と述べる.

8.31 北朝鮮,テポドン・ロケットを打ち上げ.日本を越え太平洋にまで到達.北朝鮮は多段式運搬ロケット「白頭山1号」による人工衛星「光明星1号」の打ち上げに成功したと発表.「ロシアと米国は実験成功を確認」したそうです。

テポドンは三段式のロケットで,射程1,500-2,000キロ.三段目に固体燃料を使用した技術が,アメリカ情報筋の脅威となる.(その後の正式発表では,射程1300キロのノドンを一段目,スカッドを二段目に利用した,二段式液体燃料方式の弾道ミサイルとされる)

8月 米情報筋、「北朝鮮に巨大に地下複合施設が発見された。これは凍結された核兵器開発計画を復活させる中核となるもの」と報告。北朝鮮は「民間人の経済施設である」と反論。

8月 中国の延辺科学技術大学総長金鎮慶,スパイの疑いで拘留され,国外追放となる.金鎮慶は羅津に科学技術大学を設立するため北朝鮮を訪問中であった。北朝鮮側の発表によれば、金鎮慶は粛清された金正宇対外経済協力推進委員長と関係があったとされる.延辺は旧満州(北朝鮮と国境を接する)地方で,元は間島と呼ばれ,朝鮮系住民が多く住む.金鎮慶も朝鮮系中国人.

8月 国境なき医師団は中朝国境地帯における難民聞き取り調査の結果をまとめ出版。北朝鮮の悲惨な飢餓の様子が書かれていた。

98年9月 趙明禄がナンバーツーに

9.01 オルブライト国務長官,「北朝鮮のミサイル発射はまことに深刻な事態」と声明.日本政府はミサイル発射に抗議し,枠組み合意に対する財政負担への署名を3ヶ月間凍結.国交正常化交渉を凍結し,食糧の人道支援も中断.

9.04 北朝鮮外交部,打ち上げたミサイルは「人工衛星」だとし,「我々が人工衛星保有国になるのは,当然なる自主権の行使だ」と声明.

9.04 額賀防衛庁長官,「北朝鮮のミサイル基地を予防攻撃することも法理的には可能」と突出発言.

9.05 北朝鮮で4年ぶりに最高人民会議(国会)第10期第一次会議開催.72年の社会主義憲法を改正,「金日成憲法」と改称.憲法前文は,金日成を「社会主義朝鮮の始祖・北朝鮮の永遠なる主席」とする.国家主席制度・中央人民委員会を廃止し,国防委員会委員長を国家最高のポストに格上げ.

9.05 新設の最高人民会議常任委員会委員長(形式的な国家元首)には金永南.新首相には洪成南が就任.金永南は,「国防委員長が一切の武力を指揮統率し,政治・経済全般を指導する国家最高の職位である」ことを明らかにしたうえで,金正日総書記を国防委員長に推挙.金正日の子守役を務めた趙明禄人民軍総政治局長が国防委員会第一副委員長に就任,事実上のナンバーツーの地位を占める.

9.07 労動新聞,「人工衛星“光明星1号”は社会主義の強盛大国を建設するための里程標として,北朝鮮の科学・技術者が金正日同志に捧げたものである」

9.09 韓国国防部,「北朝鮮が打ち上げたと主張している人工衛星は,宇宙軌道からは見つけられなかった」と発表.安企部は,「人工衛星をあげたようだが,宇宙軌道への進入には失敗したようだ」と述べる.

9.14 米国務省,「我々は,北朝鮮が非常に小さい衛星の打ち上げにチャレンジしたが,失敗したものと考えている」ことを明らかにする.2日後に韓国政府も同様の公式評価を確認.

9.30 国連開発計画(UNDP)の支援で羅津・先鋒企業学校が開設される.外国進出企業の業務を担当する幹部の育成が目的.金正日,「企業の管理は社会主義原則で,貿易は資本主義国を相手に」と発言.

98年10月

10.01 ニューヨークで第三回の米朝ミサイル協議.アメリカは経済制裁の解除と引き換えにミサイル開発計画の放棄を迫る.北朝鮮は,制裁解除は「枠組み合意」の内容であり,ミサイルと関係なく実施されるべきと主張.

10.03 平壌放送,太陽政策は「我々に統一政策やブルジョア多党制,市場経済などを受け入れさせ,資本主義に引き込もうとする妄想」と非難.

10.16 日本,アメリカからの強い圧力でKEDO関連予算の凍結を解除.

10.19 米議会,北朝鮮への重油供給予算を承認.この条件として,新たに第三者的アドバザーによる対北朝鮮政策見直しと核・ミサイル疑惑の早期解消を,政府に義務付ける.

10月 金正日,平壌を訪れた鄭周永現代グループ名誉会長と会談.南北経済協力に賛意を示す.鄭周永の金剛山観光プロジェクトについても賛同.

10月 北朝鮮労働党の対外連絡部工作員の「元鎮宇」,韓国に潜入.河永沃,沈載春などを抱き込み,民族民主革命党を再建.

98年11月 ハンギョレ新聞の北朝鮮批判

11.09 北朝鮮外務省,金倉里を口実とする米議会の重油供給遅退を非難.「金倉里が核施設でないと判明したときは補償せよ」と要求.

11.16 平壤で,金倉里問題に関する米朝高官協議.カートマン朝鮮半島平和担当特使,「金倉里の核疑惑には証拠がある」と表明.

11.12 クリントン大統領,ペリー前国防長官を北朝鮮政策調整官(Policy Cordinator)に任命.ペリーはただちに各省の北朝鮮政策見直しに着手.日本・韓国との政策すり合わせも進める.

11.18 現代グループによる韓国人の金剛山観光開始.鄭名誉会長も同行.

11月 ハンギョレ新聞,北朝鮮特集を連載.「人民の食糧問題も解決できず,体制を保つために自らの孤立をもたらした自主路線に固執しようとする北朝鮮政権の非道徳性に対し,怒りを覚える」と結ぶ.

11月 北朝鮮の青年、学生が平壤で集会。「ワシントンを火の海にし、ソウルと東京を破壊する」ことを誓う。

98年12月

12.04 ニューヨークで,金倉里の地下核施設疑惑をめぐり第二次米朝協議.北朝鮮は米国の査察要求を原則的に受け入れるが,「適当な補償」の内容で難航.

12.18 全南道の麗水海岸で北朝鮮の潜水艇が発見,撃沈される.捜査の結果,潜入したスパイ「元鎮宇」を帰国させる途中だったことが判明.

12月末 北朝鮮政府,02年までの経済再建計画を公表.既存の基幹産業とインフラを整備し,ついで消費部門の生産を活性化させ,食糧問題を解決するというもの.羅津・先鋒の自由経済貿易区域も再確認される.

 

1999年

99年1月

1.01 労動新聞の「年頭の辞」,この1年で「全党・全軍・全民が強盛大国建設の大きな飛躍を成し遂げた」と評価.「金正日同志はすなわちわが党であり,わが国,わが人民である」とし,すべての分野で金正日の思想を実現するよう呼びかける.

1.08 韓国政府,KEDO軽水炉建設費の調達に電気料金の3%賦課金を充当すると発表.

1.18 ジュネーヴで4者会談第五次本会議が開催される.会議の前後に,金倉里問題に関する第三次米朝高官協議.

1月 寧辺の核施設で、使用済み燃料棒の封印完了。

99年2月 まず事実報道を

2.02 テネットCIA長官,上院軍事委員会で証言.一定の改良が加えられればテポドン1号はアラスカとハワイまで射程に入れることが可能であり,伝えられるテポドン2号はアメリカ全土を射程に入れることになるだろうと述べる.ただし精度はまったく期待できないとする.

2.03 イギリスのタイムス紙,「北朝鮮の飢餓の状況はエチオピアやカンボジアとほぼ同じであり,住民は家で静かに死を待っている」と報道.これは自然災害ではなく「スターリン主義」による人災だと非難.

2.10 韓国の林東源外交安保首席秘書官,北朝鮮体制は失敗したが,早期崩壊はない.さまざまな変化が見られるが,南に対する革命戦略に固執している.これに対しては封鎖政策も不介入政策も適当ではなく,北朝鮮の漸進的・段階的変化を促す「包容政策」を選択する以外にない.

2.16 世銀のウォルフェンソン総裁,「北朝鮮高官を対象にした市場経済に関する教育を行っている」と明らかにする.

2.27 金倉里問題に関する第4次米朝協議.半月にわたるマラソン協議となる.北朝鮮は査察受け入れの見返りとして100万トンの穀物供与を要求.

2.27 アメリカきっての朝鮮通とされるキノネスが,太陽政策を「北朝鮮を変えるための最も合理的かつ現実的な政策であり,韓国の国際的地位と信用を高めた」と評価.同時に金泳三の政策を「北朝鮮の崩壊を前提としており,結局のところ中国軍部の北朝鮮支援を強化し,平壌の軍部をより強硬にしただけ」と批判.

2月 オルブライト国務長官,韓国を訪問.4カ国会談については否定的な見解を示す.

2月 雑誌「マル」,ハンギョレ新聞の北朝鮮批判に対し,「論評よりまず事実報道を優先すべきだ」と批判.

99年3月 ミサイル輸出停止の「見返り要求」

3月 欧米諸国の抗議を受け,外国人登録法改正,指紋押捺制度が全面的に廃止される.

3.16 第4次米朝会談が合意に達する.北朝鮮は金倉里への米専門家視察団の受け入れで同意,アメリカは「世界食糧計画」を通じて食糧50万トンを,さらにNGOを通じて食糧10万トンを援助.政治・経済関係は改善へ.

3.20 林凍源首席補佐官,「米朝合意により核疑惑が完全解消されたわけではない」と述べ,「北朝鮮が核開発をやらなくても自立してゆけるような環境作り」の必要性を強調する.

3.29 平壤で第4回ミサイル協議.北朝鮮はミサイル輸出停止の見返りとして年間10億ドルの補償金を要求.対話は“serious and intensive”なものとなるが,辛うじて議論を続行することのみで合意.

3月 韓国情報局、北朝鮮に拘留されている454人の韓国人の名前を明らかにする。また朝鮮戦争中の捕虜407人が、現在もなお獄中にあると発表。

3月 洪水被害対策委員会,「人口300万人減少は韓国情報機関のデッチアゲ」と反論.

3月 現代グループ,金剛山観光と北朝鮮事業を統括する企業として,「現代牙山」を設立.金潤奎を社長に任命.

3月 北朝鮮スパイ船が能登半島沖で発見される。スパイ船は日本のトロール船に偽装し、領海に侵入。海上保安部や空自の追跡を振り切り清津港に逃げ込む。

99年4月 在韓米軍を容認

4.01 林凍源外交・安保首席秘書官,「アメリカは統一以降も駐屯し,朝鮮半島の安定を担う必要がある.北朝鮮も在韓米軍の撤退を望んでいない」と述べる.

4.06 金大中大統領,「北朝鮮は,在韓米軍が平和軍であれば駐屯してもよいという立場を明らかにした」と述べる.

4.16 康仁徳統一部長官,「支援食料が軍用米に転化される危険を冒しても,なお支援するのが正しい.韓国の同胞が食料を支援していることは民衆の間でも知られている.北朝鮮の民衆が南に対する憎しみを減らせば,北朝鮮の戦闘力はそれだけ落ちる」と語る.

4.23 平壌放送,金正日の弾道ミサイル発射に関する発言を報道.「人工衛星の打ち上げには数億ドルを費やした.人民たちがろくに食べることも出来なくても,国や民族の尊厳を守り,強盛大国に備えるためのやむをえない選択だった」と述べる.韓国当局によれば,打ち上げ費用は北朝鮮全国民の食料費1年分に相当するという.

4.25 米日韓三国,対北朝鮮政策の調整で合意.三国強調・監視グループの結成で合意.

4月 最高人民会議第10期第二次会議が開かれる.「経済の分野におけるいかなる分権化も自由化も認めず,国の中央執権の指導原則を一貫して固守する」とする「人民経済計画法」を制定.

4月 韓国情報筋の報道によれば,95年以来の自然災害で,総人口2392万人(1995)のうち1割を越す250~300万人が餓死や病死,国外流出などにより減少.各国際団体もほぼ同様の推計.

99年5月 南北海軍艦艇の銃撃戦

5.20 アメリカの査察団,北朝鮮に入り金倉里(クムチャンリ)の地下核施設を視察.国務省によれば,枠組み合意に違反するような核開発の証拠は発見されず.ルービン国務省報道官,「金倉里は大規模なトンネルだ」と結論.

5.25 ペリー特使が平壤を訪問.クリントンの金正日あて書簡を手交.経済制裁の解除,国交正常化,何らかの安全保障手段を提示.核とミサイル問題での前進を促す.

6.15 西海五島北側の軍事境界線上で,南北海軍艦艇が銃撃戦.朝鮮戦争以来もっとも大規模な海上衝突となる。北は韓国艦船の近代装備の前に完敗。水雷艇一隻が沈没し、他の5隻も激しく損壊する。

6月 北朝鮮は西海五島の南側に海上境界線を設定し,その北側を海上軍事統制水域にすると宣言.韓国がわが領海内に侵入するならば、さらなる流血は必至である、と述べる。

7.26 ジョンズ・ホプキンズ大学公共衛生学部の調査報告の内容が報道される。北朝鮮から延辺に逃げ込んだ越境者440人から聞き取った内容をまとめたもので、咸鏡北道で1997年までの3年間に人口の10%以上に当たる二十五万人が死亡したとの報告。

7.30 「ハンギョレ21」,国軍情報司令部の関係者の話として,「朝鮮戦争以後に北朝鮮当局に捕まったり行方不明・死亡した北派工作員は,確認されただけで7726名」だと明らかにする.

7月 EU理事会,朝鮮半島に関する決議を採択.北朝鮮との関係正常化に向けた方針で合意.

99年9月 長距離ミサイルの実験を停止

9.12 ベルリンで米朝協議.北朝鮮は協議中は長距離ミサイルの実験を停止すると表明.米国は見返りとして制裁の一部解除に応じる.

9.15 ペリー北朝鮮政策調整官,下院に「見直し報告」を提出.北朝鮮が崩壊する可能性はなく,自殺戦争に踏み出す可能性もないと判断.核・ミサイル問題と制裁解除・国交樹立問題を並行して進める「新たな包括的・統合的アプローチ」を提唱.具体的には「北朝鮮のミサイル全基の買い取り」を提起したといわれる.共和党は「ならず者国家」をつけ上がらせるものと批判.

9.21 アメリカ,「94年枠組み合意」にもとづき,北朝鮮に対する経済制裁を一部解除する.

9.25 白南淳外相が国連総会で演説.「米国を永遠の敵とは見なさない」と述べ,ミサイル発射を当面凍結する方針を示す.

9月 北朝鮮,軽水炉の建設現場で働く北朝鮮労働者の5倍にのぼる賃上げを要求.韓国側がこれを拒否したことから工事は遅延.

99年10月

10.12 ペリー報告書が公表される.

11.19 ベルリン協議,国交樹立に向け北朝鮮高官級の訪米につき調整を図る.

99年12月 村山訪朝団

12.01 超党派国会議員団(村山富市団長)が訪朝.正常化交渉再開で合意.

12.15 KEDO,枠組み合意成立から5年目で,Kumhoの軽水炉型原発建設に関して朝鮮電力会社と契約.

12.28 労動新聞,太陽政策は「北朝鮮を改革・開放へ誘導してどうにかしようとする狡猾な手法」だと非難.

 

2000年

00年1月 イタリアと国交樹立

1.04 北朝鮮とイタリアが国交を樹立.G7国家では初めての国交正常化となる.

1.11 ベルリンで,三週間にわたりアメリカと北朝鮮との高位級会談.

2.09 北朝鮮とロシアが友好善隣協力条約に調印.

00年3月 北京の南北会談

3.04 ニューヨークで米朝会談.

3.09 金大中大統領,ベルリン自由大学で講演.「われわれには北韓を抱きかかえる能力はない.北韓住民は自由に関するいかなる経験もなく,外部の世界をまったく知らない.最も現実的で合理的な政策は,ただちに統一を追求するのではなく,相互脅威を解消し,共存・共栄を追及することである」

3.17 北京で南北が特使級の非公開接触.南北頂上会談で合意.「7.4南北共同声明」の祖国統一3大原則(自主・平和・民族大団結)を出発点とすることを確認.

00年4月

4.06 米国,北朝鮮のChanggwangSinyong社に対し「MTCRの第一カテゴリーに相当するミサイルをイランに販売した」として制裁.第一カテゴリーとは,射程300キロ以上,弾頭500キロ以上のミサイルを指す.

4月 日朝会談が再開される.

4月 金正日総書記の訪中。南北首脳会談の説明を目的とする。江沢民は南北首脳会談を高く評価する。

00年5月 アセアン地域安全保障フォーラムへの加盟

5.08 北朝鮮と豪の外交関係再開.

5.25 アメリカ,金倉里の核施設に対し第二回目の核査察.一年前の第一回査察時に比し変化がないと報告.

5.27 北朝鮮,アセアン地域安全保障フォーラム(ARF)に加入(23番目加盟国)

5.29 金正日,南北会談を前に中国を訪問.江沢民主席は「南北朝鮮の自主的平和統一を支持する」と表明.

00年6月 南北共同宣言

6.13 平壤で初の南北首脳会談.南北共同宣言を発表.核・ミサイル・非武装地帯問題については言及なし.

6.19 米国はローマ会談での合意に基づいて,北朝鮮に対する経済制裁を緩和する措置を発動.

6.20 北朝鮮と米国とのベルリン会談.北朝鮮は「ミサイル打ち上げ実験の凍結」を再確認することで応える.

6.27 平壤で第1次南北赤十字会談.離散家族100名ずつがソウルとピョンヤンを交換訪問すること,韓国に捕らえられている非転向将兵の送還について合議.

6.28 現代グループの鄭名誉会長が訪北.金正日国防委員長と面談.

00年7月 米朝外相会議

7.12 クアラルンプールで第五回米朝協議.ミサイル問題について意見を交換.北朝鮮はミサイル販売停止の見返りに年間10億ドルの補償を求める.アメリカはこの提案を拒否するとともに,「経済関係の正常化」を提案する.

7.12 マニラで,北朝鮮とフィリピンとの外交関係設定に関する共同コミュニケ発表.

7.14 南北連絡事務所が業務を再開.

7.19 プーチンが平壤訪問.金正日はミサイル販売計画の廃棄と引き換えに,「本来の目標である」人工衛星打ち上げへの援助を求める.

7.27 コックス共和党下院議員ら,「北朝鮮へのクリントン・ゴア援助が金正日の百万軍隊を支えている」とする報告書を発表.

7.28 バンコクでアセアン総会.オルブライト国務長官と白外相が“substantively modest”な会談を持つ.

7.31 南北閣僚級会談で共同報道文発表

7月 平壤放送、「朝鮮戦争が北朝鮮の侵攻によって始まった」とする朝鮮日報の報道に抗議。「わが国に対する侮辱を続けるなら本社を爆発させる」と脅迫。

00年8月

8.05 韓国の報道機関の社長46人が北朝鮮を訪問.

8.10 南北会談,板門店の南北連絡事務所を再開することで合意.

8.13 金正日,平壤で韓国メディア代表団と会見.「人工衛星打ち上げに対する援助要請は冗談」と述べる.

8.15 南北の離散家族,平壌とソウルで再会

8.18 朝鮮国立交響楽団,直航路利用してソウル訪問.

8.22 平安北道一帯で米軍将兵の遺骸発掘作業がはじまる.

8.27 在日韓国人の洪昌守(徳山昌守),プロボクシングWBC世界スーパーフライ級王者となる.

8.30 金大中,ワシントンポストとの会見で,「金正日が在韓米軍の継続駐留に同意した」と発言.

00年9月 非転向長期囚の送還

9.02 韓国政府,朝鮮戦争以来50年にわたり拘留されてきた非転向将校,スパイ罪などに問われ,政治的転向を拒んできた「非転向長期囚」など63人を北朝鮮に送還.

9.08 米国務省,金正日の人工衛星提案を「きわめてまじめに考慮している」と述べる.

9.11 特使資格をもつ,労働党中央委員会秘書の一行が訪韓.

9.12 北朝鮮在住の日本人配偶者の一時帰国第3陣が成田空港到着.

9.15 シドニー・オリンピック開会式で南北の合同入場行進 

9.18 韓国で鉄道・京義線の連結,復旧に向けた工事の起工式

9.18 IAEA総会,北朝鮮に対する特別査察をただちに開始するよう求める報告.北朝鮮は「共和国の主権に対する重大な挑戦であり,枠組み合意を破壊しようとするもの」と非難.決議を無視する姿勢.

9.22 韓国の白頭山観光団が訪北.

9.22 朝鮮総連,初の韓国への「故郷訪問団」を組織.

9.25 済州島で初の南北国防相会談,ソウルで南北経済実務者協議が開始される.国防相会談では,北側が韓米合同軍事演習や“北朝鮮主敵”規定を批判.「軍事的な信頼構築の措置として,一日も早く休戦協定を平和協定に」と主張.

9.27 ニューヨークで米朝会談.テロリズムに反対する共同声明を発表.国務省は北朝鮮をテロリスト国家のリストからはずす方向で検討開始.

00年10月 趙明禄の訪米とオルブライトの訪朝

10.10 北朝鮮ナンバー2とされる趙明禄国防委員会第1副委員長が,特別代表としてアメリカを訪問.クリントン米大統領,国務長官,国防長官と相次いで懇談.北朝鮮をテロ支援国家のリストから除外するための具体的措置について討議.

趙明禄: 最高人民会議常任委員会委員長である金永南が政治上のナンバー2であるのに対し、趙明禄は軍事上のナンバー2とされる。金日成の抗日パルチザン部隊に少年兵として参加した革命第一世代で、金正日の生母である金正淑に近かったこともあって金正日に信頼され、後見人として大いに発言権を増した。軍事パレードの時には、いつも金正日総書記の右隣にいるそうだ。

10.12 趙明禄とオルブライト,米朝間の敵対関係を終わらせるとする共同コミュニケを発表.敵対・敵視政策を清算して,「相互尊重の原則の下に,両国の関係を根本的に改善させ発展させる」ことに合意.

合意の具体的内容
北朝鮮は,500km以上のミサイル開発の中断,ミサイル合意に関する検証手段の保障など,ミサイル問題を前進的に解決する決意を表明.
米国は,ミサイル政策変更の見返りとして,食糧・エネルギーの安定供給,オルブライトが平壤を訪れることを約束する.オルブライトは,近い将来にクリントンの訪朝と米朝関係の正常化なども視野に入れていることを明らかにする.

10.24 オルブライト国務長官,北朝鮮を訪問.金正日は「射程500km以上のミサイル(テポドン1号)の発射実験を停止.さらにミサイル合意に関する検証手段も保障する」と提案.見返りとして食糧とエネルギーの安定的な供給をもとめる.クリントン訪朝,国交正常化の道筋についても話合い.

00年11月

11.01 クアラルンプールで第7回米朝協議.ミサイル問題の最終敵な詰めが行われるが,合意に達せず.クリントンの任期内の訪朝は不可能となる.

11.30 南北離散家族の第2回相互訪問が実施される. 

00年12月 金大中がノーベル賞

12.04 韓国『2000年国防白書』が発表される.国防相会議での議論にもかかわらず,“主敵規定”がそのまま存続.

12.10 金大中大統領,ノーベル平和賞受賞.

12.12 北朝鮮とイギリスが国交を樹立.

12.12 第4次南北経済実務者会談が,平壤で開かれる.経済協力関連4分野で,合意書を締結.

 


1991年

1月 日朝交渉が始まる.日本側はIAEAの核査察受け入れを迫る.さらに拉致問題の解明も条件に追加。北朝鮮側がこれを拒否したため会談は事実上決裂.

9月 国際原子力機関(IAEA),北朝鮮の核査察協定調印と「特別査察」を求める。北朝鮮は韓国に配備されている核兵器の撤去が先とし,協定調印を拒否.

9.17 南北朝鮮が,国連に同時加盟.

9.27 ブッシュ大統領,海外に配置された海上および地上戦術核兵器の一方的全面撤退を発表.この時点で韓国内には約100基の核兵器が配備されていた.

91年11月

11.08 盧泰愚大統領,ブッシュ宣言を受け朝鮮半島非核化構想を発表.核兵器の生産・所有・貯蔵・配備・使用の禁止を宣言.さらに再処理施設を持つことも禁止する.

11.25 北朝鮮外務部,「アメリカが核兵器を撤去すれば,IAEAの査察に応じる」と声明.

91年12月 朝鮮半島非核化宣言

12.06 統一教会の文鮮明が北朝鮮を電撃訪問し、金日成と会談。35億ドルの支援を約束する。

12.11 ソウルで南北首相会談が開かれる.「南北基本合意書」に署名.さらに韓国は,南北同時核査察を含む「韓(朝鮮)半島の非核化に関する共同宣言」を提案.

12.18 盧泰愚,いまや韓国内には一発の核兵器も存在しないとの声明を発表.

12.31 「朝鮮半島非核化に関する南北共同宣言」が仮調印される.「核エネルギーを平和的にのみ利用し,核再処理施設とウラン濃縮施設を保有しない」ことで合意.

91年 ソ連は国際価格での取引やハードカレンシーの決済を要求。ソ連貿易は北朝鮮貿易の53%を占めていた。これに代わり中朝貿易が34%まで伸びる。

 

1992年

92年1月 南北基本合意とチーム・スピリットの中止

1.20 南北両首相,「南北基本合意書」に署名.

1.22 ニューヨークで,米朝初の「次官級会談」が開催される.北朝鮮は,在韓米軍が統一後も朝鮮半島へ駐留することを「とりあえず容認する」と発言.

1.30 北朝鮮,IAEAとの保障措置(核査察)協定に調印.通常査察受け入れに合意し核査察対象リストを提出.これには寧辺の二つの核関連施設は含まれず.

1月末 米政府,「チーム・スピリット92」の中止を発表.

92年2月 朝鮮半島非核化共同宣言

2.18 朝鮮半島の非核化に関する共同宣言が発効.

3.06 アメリカ,ミサイル生産関連施設として北朝鮮三企業に制裁.

4月 金正日,人民軍創建60周年のパレードに出席。元帥の称号を受けたことが明らかになる.

4月 楊尚昆国家主席が訪朝。中国が韓国との国交樹立を考慮していることを金日成に伝える。金日成は再考するよう要請。

92年5月

5.04  北朝鮮,核物質に関する最初の報告書をIAEAに提出.7ヶ所の核施設と90グラムのプルトニウムを保持していることを明らかにする.

5.13 北朝鮮,朝鮮戦争時の米兵遺骨15柱を返還.

5.25 ブリクス事務局長を団長とするIAEA調査団,北朝鮮に対する第1回査察を実施.再処理施設「放射化学研究所」を中心に立ち入り調査.以後9ヶ月間に6回の特定査察を実施.

5月 江原道チョルヲンで、韓国軍の軍服を着た北朝鮮工作員が射殺される。

92年6月

6月 金日成,スエーデン労働党幹部との会見で,「東欧社会主義諸国の崩壊の原因は,事大主義と官僚主義にあった.決して社会主義制度そのものに問題があったのではない」と述べる.

7月 アメリカ,韓国を含め海外に配置された戦術核兵器2400基の撤収を完了したと宣言.

8.24 韓国と中国のあいだに国交が樹立される.北朝鮮は一時中国人観光客、朝鮮族の親戚訪問規制を行い抗議の意を表明。

92年9月

9月 IAEA,北朝鮮の初回報告について検討.再処理プルトニウム量などに疑問を呈する.

9月 韓国国家安全企画部,北から潜入した李善美労働党政治局員候補が,地下組織を作ったとし,一斉摘発に乗り出す.62人が逮捕され,300人が指名手配される.李善美はすでに逃走.

92年10月

10.08 米韓両政府,「核相互査察問題で意味ある進展が見られない」とし,チームスピリット再開を検討開始.

10.20 北朝鮮政府,「外国人投資法」「合作法」「外国企業法」を発表する

10月 韓国の国家安全企画部、400人からなる北朝鮮スパイ網が摘発されたと発表。この組織は労働党のリ・ソンシルが指導していたとされる。

11.05 第八次日朝会談.最終的に会談は決裂.北朝鮮は日本政府側に対し,「自らの尊厳と原則を捨ててまで日本と関係改善をしない」と言明.

12 最高人民会議常設会議開催.「外国投資企業および外国人税金法」「外貨管理法」「自由経済貿易地帯法」を採択する。政務院総理,延亨黙から姜成山に再び代わる.国家予算報告では第3次7ヶ年計画について何の報告もなし.

 

1993年

1.26 韓国,政権交代を前に米軍とのチームスピリット再開を発表.北朝鮮はチームスピリット再開決定を非難.

93年2月 北朝鮮「核疑惑」の浮上

2.09 IAEA,6回目の特定査察.平安北道寧辺の二つの核廃棄物の貯蔵施設について疑問が残るとし,北朝鮮政府に対し特別査察を要求.10日以内の回答を求める.北朝鮮は要請を拒否.

2.25 アメリカの軍事衛星が,寧辺の核施設(放射能化学研究所)を察知.35カ国からなるIAEA理事会は,7ヶ所の核施設について,3月25日を回答期限として現地「特別査察」を求める決議を採択.中国は決議を棄権.

2月 クルーゼ・ロシア外務次官は旧ソ連時代からの北朝鮮のロシアに対する累積債務は33億ルーブルに達すると明らかにする。

93年3月 米韓のチームスピリット再開

3.01 米韓合同軍事演習「チームスピリット」が二年ぶりに再開される.

3.08 金正日最高司令官は全国・全民・全軍に準戦時状態を命じる.準戦時体制の発動は83年以来10年ぶり.

3.09 金日成,IAEAがアメリカ情報当局の指揮下にあるとし,特別査察を拒否.

3.12 北朝鮮,NPTからの脱退を宣言する.

3.24 南アのデクラーク政権,過去に原爆6発を所有していたことを認めるとともに,これらがすでに解体されたと発表.

3月 北朝鮮政府、羅津・先鋒自由経済貿易区開発計画を発表。(先鋒の旧称は雄基)

93年4月

4.01 IAEA理事会,北朝鮮が協定を遵守せず,核物質が非平和的目的に使用される可能性を否定できないと言明.

4.06 IAEA,北朝鮮核疑惑問題を国連安保理に委ねる.安保理議長はこの問題の解決に責任を持つとの議長声明.

4.07 金正日、書記・国軍最高司令官に加え,軍統帥権を持つ国防委員会委員長に選出される.10名からなる国防委員会が北朝鮮政府の最高首脳部となる.金正日は人民武力部機構体系改編を断行.呉克烈派として左遷されていた金英春を総参謀長にすえる.

4.14 北朝鮮からの要請を受けた米国務省,米朝会談の開催に応じると発表.

4.19 ロシア連邦大統領,85年協定の前提が崩れたとして,北朝鮮の原子力発電に関する一切の協力を停止.

93年5月

5.11 国連安保理,「北朝鮮に対しNPT脱退を再考し査察協定を履行するよう求める決議案」を採択.すべての国連加盟国に対して問題解決のための努力を求める.反対は0,中国とパキスタンが棄権.

5.29 北朝鮮,日本海へ向け射程1000キロのノドン・ミサイルの発射実験.“多段式ミサイル三発の試射に成功。一発は能登半島沖、二発は3000キロ離れたハワイ沖とグアム沖に着弾”、と発表。

93年6月 米朝高官協議が開始

6.02 ニューヨークの米国連代表部で,米朝高官協議が開始される.国連安保理決議を受けてのもの.米国側はガルーチ国務次官補,北朝鮮側は姜錫柱(カンソクチュ)第一外務次官を首席代表とする.

6.11 ニューヨーク会談がいったん終了.「核兵器の使用・威嚇を行わず,朝鮮半島の非核化・平和と安全を保障し,朝鮮の平和統一を支持する」ことで合意.米国は北朝鮮の内政に干渉せずと言明.北朝鮮はNPTからの脱退を保留.交渉継続に合意.

6.29 武藤外相がソウル訪問.北朝鮮に対し,核不拡散条約(NPT)脱退の「完全な」撤回と,国際原子力機関(IAEA)による査察受け入れなどを強く求めていく立場で一致.

6月下旬 クリントン,韓国を訪問.非武装地帯視察後,「もし北が核兵器を使えば,それは北朝鮮の終焉を意味する」と声明.

93年7月

7.19 米=北朝鮮第二回会談.IAEAの査察全面受け入れ,軽水炉原発への移行を柱とする共同声明を発表.軽水炉二基をアメリカが供与する方向で交渉継続を確認.

8.13 IAEA査察団,北朝鮮の協力体制が依然として不十分と発表.

9.24 北朝鮮、羅津・先鋒自由経済貿易区開発計画にもとづき、羅津市と先鋒市を合併させ中央政府の直轄市である羅津・先鋒市を置く。また恩特郡の元汀里(圏河税関の対岸にあたる)など三つの里がこれに編入される。総面積は746平方キロメートル。

93年10月

10.01 IAEA年次総会,ブリクスは北朝鮮の核施設が平和利用以外の方向に転用される懸念が強まっていると報告.

10.14 アムネスティ・インタナショナル,北朝鮮が過去30年間にわたって政治犯ら数千人を虐待・処刑し,元在日朝鮮人を含む数万人を環境劣悪な収容所に拘束したとする報告書を発表.

10.29 北朝鮮,「核査察問題はアメリカとの直接対話によってのみ解決できる」とし,IAEAの査察を認めないと通告.

93年11月 核査察を求める国連決議

11.01 国連総会,北朝鮮に核査察の完全履行を求める決議を採択.賛成140,反対は北朝鮮一国のみ.

11.02 米国のアスピン国防長官,北朝鮮の核開発疑惑について強い懸念を表明.「米朝協議が最も重要な交渉窓口であり,当面は話し合い解決を追求する」との基本姿勢を示す.CIAとDIAは北朝鮮がすでに約12キロのプルトニウムを保有していると報告.これは数発の核兵器を作るのに十分な量とされる.

11.05 ワシントンポストのコラム,「北朝鮮への語りかけをやめ,経済封鎖に乗り出せ」と主張.

93年11月 金日成の復活

12.08 朝鮮労働党中央委員会第6期21回総会.金日成が,病身を押してふたたび陣頭指揮に立つ.金正日に排斥されていた金英柱(金日成の実弟),金炳植が副主席として復活,いっぽうで金正日側近の金容淳,金達玄らが左遷される.

12.29 北朝鮮,申告ずみ核施設への通常査察再開を認める.

12月 朝鮮労働党中央委員会に引き続き,最高人民会議が開催される.姜成山総理は「第3次7ヶ年計画遂行総括と当面の経済建設方向について」報告.計画の未達成を認める.失敗理由として,社会主義圏崩壊による輸出市場の消滅と,国防費負担増をあげる.会議は「農業第1主義,軽工業第1主義,貿易第1主義」を唱え,第3次7ヶ年計画遂行後の3年間を緩衝期とする決議.これは計画の3年延長を意味する.

12月 北朝鮮のチョウ・カン参謀総長、「軍は90年代に必ず祖国を武力統一するという、重大かつ名誉ある任務を担っている」と演説する。

 

1994年

1月 米政府は,北朝鮮が核開発を中止しなければ核施設を爆撃すると発言.軍事筋は,北朝鮮への先制攻撃計画「作戦計画50-27」など相次いで侵攻計画をマスコミにリーク.
 


作戦計画50-27
在韓米軍と韓国軍の共同作戦計画.偵察衛星などありとあらゆる情報網を駆使し,圧倒的空軍力を背景に短期間で制空権を確保.北朝鮮が動く前に機先を制して平壌を先制的に大規模空爆.その後米韓両軍が突入.平壌制圧と政権転覆を目標とする.

2.15 北朝鮮,7ヶ所の核施設についてIAEAの査察に合意.IAEAは国連安保理への再提訴を保留.

2.18 ニューヨークの実務協議,①チーム・スピリットの実施見合わせ,②北朝鮮・IAEAの2.15合意遵守で合意.

94年3月 「ソウルは火の海になる」

3.01 IAEA査察官が北朝鮮査察に入る.

3.03 北朝鮮当局,寧辺(ニヨンピョン)のプルトニウム再処理施設への立ち入りとサンプル採取を拒否.IAEA理事会は,「合意に基づきただちに全面査察を受け入れるよう」北朝鮮に要求.

3.15 IAEA,北朝鮮からの査察官引き上げを決定.「北による核物質軍事転用の有無を検証できなかった」と声明.

3.16 板門店での南北定期協議,北朝鮮の朴英朱首席代表は,「ソウルはここから遠くない。もし戦争になればソウルは火の海になる.あなた方は生き残れないだろう」と宣言.そのまま席を立つ.韓国政府はチームスピリット94の中止決定を撤回すると発表.

3.21 IAEA特別理事会の付託を受け,国連安保理が北朝鮮非難決議.中国は拒否権を行使せず,棄権に回る.

3.21 クリントン,パトリオット迎撃ミサイルの韓国配備とチームスピリット演習の年内実施を発表.

94年4月 アメリカの戦闘準備開始

4.04 アメリカは米朝高官協議を中止.ペリー国防長官,「われわれは朝鮮半島において,この問題に関しても他のいかなる問題に関しても,戦争を望まないし,戦争を引き起こすこともしない.しかし国連による制裁が,北朝鮮を開戦に向わせるなら,われわれはリスクをとるだろう」と発言.

4.16 金日成,平壤市内で記者会見.「将来にわたって,われわれが核兵器を持つことは決してない.われわれは朝鮮の同族に対し核兵器は使えない」と述べる.

4.18 金日成,NHKの質問に答え「アメリカがトップ級会談に応じれば,問題は解決できる」と述べる.

4月中旬 米韓合同軍事演習「チーム・スピリット」を再開.パトリオット・ミサイルが釜山に揚陸される.アパッチ攻撃ヘリ,重戦車・高性能レーダー装置などが投入され,兵員は枠ぎりぎりの3万7千人にまで増員される.さらに米第七艦隊が海上に待機する.

4月 米政府と米軍,1900項目にのぼる支援要請のリストを作成.日本政府に対し後方支援を要求する.

4月 足利銀行,北朝鮮向けドル建て送金の取り次ぎを停止.円建て送金は引き続き可能.足利銀行は北朝鮮とコルレス契約のある邦銀約20行の内,事実上唯一利用されてきた銀行.

4月 北朝鮮の民主化を求める大阪の市民集会,朝鮮総連活動家に襲撃される.警察は総連大阪府本部の21人を,威力業務妨害の疑いで書類送検.

94年5月 燃料棒抜き取り

5.01 北朝鮮,燃料棒8千本の抜き取り作業を実施すると通告.IAEAは作業への査察官の立会いと,サンプルの引渡しを要求.北朝鮮がサンプル引渡しを拒否したため,査察官の派遣を取りやめる.

5.02 ガルーチ北朝鮮担当無任所大使,「IAEAの立会いなしに燃料棒抜き取りを行えば,一切の交渉努力は不可能になるだろう」と警告.

5.04 在韓米軍総司令官ゲーリー・ラック大将,北朝鮮軍兵力を分析.「北朝鮮は国境地帯に8400の大砲と2400の多連装ロケット発射台をすえており,ソウルに向けて最初の12時間に5千発の砲弾を浴びせる能力がある.もし再び戦争となれば,半年がかりとなり,米軍に10万人の犠牲者が出るだろう」とのべる.

5.08 北朝鮮,警告を無視して燃料棒抜き取り作業を開始.

5.18 ペリー国防長官とシャリカシュビリ統合参謀本部議長,ゲイリー・ラック在韓米軍総司令官が「第二次朝鮮戦争」発生時の被害予想を検討.最初の三ヶ月で,米軍兵士8万ないし10万人と韓国軍50万人が死傷するとの結論.全面戦争が発生すれば死者は100万人,損害総額は1兆ドル,戦費は610億ドル以上,最大に見積もって1兆ドルに達するとされる.

5.19 IAEA,北朝鮮が5メガワットの核実験炉から,国際監視なしで使用済み燃料棒8000本の抜き取りを開始したことを確認.これに含まれるプルトニウムは,5個か6個の原爆を製造できる量に相当する.CIA長官,「核爆弾1発を開発した可能性がある」と発表.

5.25 サム・ナン上院軍事委員長とルーガー上院外交委員長を特使とする使節団,直前になって北朝鮮側に入国を拒否される.

5月 姜成山前首相の娘婿にあたる康明道が韓国亡命.

94年6月 カーター・金日成の瀬戸際合意

6.02 IAEAのブリクス委員長,国連安保理に対し報告.「もはや北朝鮮による核物質軍事転用の有無を検証する手立てがなくなった」と述べる.

6.03 ワシントン・ポストのクラウトハマー,「われわれは戦争を始めるつもりはない.だが金日成はやるかもしれない.われわれはその行為の帰結を明らかにしておかなければならない.すなわち北の壊滅である.停戦はない,38度線もない,板門店に戻ることもない」と戦争をあおる.

6.03 クリントン,北朝鮮との協議を打ち切り,国連安保理における制裁決議実現に全力をあげると宣言.北朝鮮は「制裁は戦争を意味する.戦争に情け容赦はない」と声明.

6.05 米下院,北朝鮮への経済制裁を求める決議を415対1で採択.

6.09 北朝鮮,「日本が経済制裁に合流するなら,宣戦布告とみなす」と声明.

6.09 カーター前大統領,個人の資格で平壤を訪問すると発表.金大中の強い要請を受けたといわれる.

6.10 国際原子力機関(IAEA),北朝鮮が条約義務の不履行を拡大し続けているとし,年間25万ドルの原子力関連の技術協力を停止するとの制裁決議を採択.反対はリビアのみ,中国は棄権,キューバは欠席.

6.11 北朝鮮,IAEA本部からの代表を引き上げ.IAEAの査察には協力しないと発表.NPT脱退については保留.

6.13 北朝鮮,「国連による制裁はただちに宣戦布告を意味するというわれわれの立場を強く再確認する」と声明.

6.15 共和党政権時代の北朝鮮問題担当者,スコウクロフトとカンター,ワシントン・ポストに投稿.「その場しのぎが許される時期は終わった.北朝鮮がIAEAの査察を受け入れないのなら,われわれが北の再処理能力を除去しなければならない」と述べる.

6.15 オルブライト米国連大使,安保理での制裁決議採択に向け動き出す.

6.15 タイム・CNNが米国民の世論調査.47%が北朝鮮の核施設に対する国連の軍事行動に賛成.

6.15 カーター前大統領が平壤に入る.クリステンソン国務省朝鮮課長代理が同行.クリントンからは親書は与えられず.

6.16 クリストファー国防長官,ラック報告に基づきホワイトハウスでブリーフィング.米兵1万人を追加投入する計画を説明.

6.16 ラック在韓米軍司令官とレイニー駐韓大使が秘密会談.本国からの指令を待たず,「在韓米国人8万人の避難計画」を進めることで合意.

『サンデー毎日』2002.2.10号
 金泳三大統領は,韓国政府の了解なしに在韓米国人全員の国外避難をさせようとしたことに「激怒」,「誤った決定で,もし韓半島で戦争が勃発したら,私は国軍の最高司令官として韓国軍人を誰一人として参戦させない」と「捨て台詞」を残してクリントン大統領との電話会談を打ち切る.(本人談話)

6.17 金日成がカーター斡旋を受け入れ.寧辺における再処理の全面凍結と査察官常駐,対米交渉の再開に応じる.カーターは独断でCNNの生中継をセットし米朝合意を確認.

6.17 米政府,カーター・金日成合意を受け入れ.制裁決議推進活動を停止し,米朝高官協議を再開すると発表.

94年7月

7.06 金日成,経済部門責任者会議で演説.第三次七カ年計画の挫折を受け,緩衝期戦略を提起.農業・軽工業・貿易の振興を訴える.

7.08 金日成主席,心臓発作で死去.7月25日に予定された金泳三との首脳会談は流産に終わる.(ウィキペディアによれば、会議で興奮し、止めていたタバコをすった後心臓発作を起こしたとされる。いかにもありそうな噂話の典型ではあるが…)

7.30 国際アムネスティ,ソウル市内で記者会見.平壌から約七十キロのスンホ政治犯収容所に,韓国出身者11人,在日朝鮮人26人,日本人女性ら約六百人が収容されていると報告.

94年8月

8.01 金泳三大統領,アムネスティの報告を受け,政治犯収容所に拘禁されている韓国人の釈放と送還を求める交渉を行うと声明.

8.05 ジュネーヴで米朝高官協議が再開される.北朝鮮は2千メガワットの軽水炉提供を要求.鉱物資源による返済を求める.特別査察については合意に至らず.

8.12 ジュネーヴの米朝協議,「枠組み」で合意.

9.12 ベルリンで専門家会議が開かれる.韓国型軽水炉の導入で合意.ただし韓国型の名称を用いることは北が拒否.

94年10月 枠組み合意

10.22 ジュネーヴの米朝高官協議,「米朝間で合意された枠組み」文書に調印.

「枠組み合意」(Agreed Framework
三段階で北朝鮮の核開発計画を破棄するもの.①北朝鮮が黒鉛減速炉を凍結する.②この見返りに,軽水炉型原発の開発援助を約束.2003年までに「国際コンソーシアム」が韓国型軽水炉2基を建設し,200万キロワットの電力を供給すること.③軽水炉完成までは,アメリカが毎年50万トンの重油を供給し,経済制裁を解除するというもの.
IAEAは寧辺の原子炉に封印を施し,燃料棒をコンクリート製の保管施設に格納.北朝鮮国内で監視活動を続けることとなる.米国・北朝鮮の経済・外交関係の正常化も合意される.アメリカは北朝鮮に対し核兵器による威嚇を行わないことを保障.

11.28 IAEA,Nyongbyonと Taochonの核施設建設が凍結されたことを確認.

94年12月

12.10 韓国統一院,「北韓の第3次7ヶ年計画総合評価書」を発表.計画年度における経済成長率実績は平均-1.7%と推測.

12.17 北朝鮮領空内に侵入した米軍ヘリが北の対空砲火により撃墜される。“独自開発した携帯地対空ミサイル「火昇(ファスン)」が一発で撃墜”したと発表される.乗員一人が死亡,もう一人の乗員ボビー・ホールは暴行を受け拘束される.

12.18 アメリカはハバード国務次官補代理を平壤に送り,二週後にホールは解放される.

12月 韓国軍の統帥権,韓国側に返還される.有事の統帥権は引き続き駐韓米軍司令官が掌握.

 

1995年

1.20 米議会,北朝鮮に対する経済制裁の緩和を承認.共和党の抵抗により緩和幅はわずかなものとなる.

1月 議会の抵抗を恐れるクリントンは,第一回目の重油供給に行政府臨時費を充当.

1月 韓国の三星グループの調査団が羅津・先鋒を訪問。電子製品工場を建設することで北朝鮮と合意。

95年3月 KEDO設立

3.08 米上院,枠組み合意関連の経費を議会の承認を得ずに支出する法案を可決.北朝鮮への重油供給が困難となる.

3.15 枠組み合意に基づき,「朝鮮半島エネルギー開発機構」(KEDO)が設立される.日米韓のほか,ニュージーランド,オーストラリア,カナダが原加盟国となる.事業資金の7割を韓国が支出,日本が25%,米国を含む残りの国が5%を拠出することとなる.

3.30 自社さの連立三与党代表団(団長:渡辺美智雄)が北朝鮮を訪問.朝鮮労働党との間で会談再開の合意書に調印.「対話再開と国交正常化のための会談には,いかなる前提条件をもつけない」ことで合意.

5.25 北朝鮮は日本に対して米援助を要請。有償15万トン、無償15万トンで合意。

5月 北朝鮮の巡視艇が韓国漁船を銃撃し捕獲。乗組員3人を射殺する。

6.13 米朝「枠組み合意」が進行.マレーシアでの米朝準高官級会談で,韓国型軽水炉の導入が実質的合意に達する.

6.21 北京で南北コメ支援協議が合意。韓国が15万トンを無償援助することとなる。

6月 韓国から人道支援物資を積んだ船が北朝鮮に入る。北朝鮮兵は、支援船に対し北朝鮮国旗を掲揚することを強要したという。

7.09 北朝鮮の国家安全保衛部は延吉で韓国人の安承運牧師(純福音教会)を拉致する。中国は北朝鮮によって拉致されたと断定。この事件で北朝鮮人3人と朝鮮族3名を逮捕。2年の懲役刑の上、北朝鮮に追放。

7月 朝鮮中央通信は「安承運牧師は自発的に北朝鮮に亡命した」と報道。のち安牧師は北朝鮮のプロパガンダに利用される。 (この頃から、延辺地区への韓国人の浸透が活発化する)

95年8月 北朝鮮の水害と飢餓

8月 西部工業地帯(平安北・南道)中心に100年来の大洪水.国土の75%が被害を受ける.被災者520万人,被害額は150億ドルに達する.

8.23 朝鮮中央通信、「黄海南道・北道で、ヒョウのため耕地17万ヘクタールが被害.120万トンの食糧が損失した」と報道.さらに「7月31日から8月18日の豪雨で多大な被害を被った」との洪水被害対策委員会の報告を詳細に報道。初めて食糧危機を公表し世界に救援を訴える.

8月 北朝鮮当局、入港中の韓国の人道支援船を拿捕し乗員を逮捕。乗員が船上から写真を撮ったことが理由とされる。

95年9月

9.12 国連人道援助局,各国に対北朝鮮緊急食糧援助を要請.呼びかけに応じ,日本,韓国,中国,タイなどから100万トン(7億7千万ドル相当)の食糧が渡される.

北朝鮮の経済成長率 
 1990年   1991年   1992年   1993年   1994年   1995年   1996年
 +3.7%    -5.2%    -7.6%    -4.3%    -1.7%     -4.5%    -3.7%

10月 アメリカのスタントン・グループが、羅津・先鋒自由経済貿易地帯を訪問・視察する。

10月 北朝鮮の武装工作員が臨津江を渡ろうとして発見される。1人は射殺され,もう一人は逃亡。同じ月、工作員二人が扶余で発見される。1人は射殺されもうひとりは捕らえられる。

11.20 ジョセフ・ナイ国防次官補,「北東アジア10万(うち日本に5万)の米兵力は,北朝鮮の軍事的脅威に対応するため」との見解を明らかにする.また「北朝鮮の現状は悪化しており,冒険主義に走る可能性もある」と強い懸念を表明.極東米軍プレゼンスの根拠を北朝鮮に求める.

95年12月

12.15 軽水炉建設事業の大枠を定めたKEDO=北朝鮮間の協定が締結される.韓国が資金の7割・30億ドルあまりを負担,日本が10億ドルを負担.アメリカは資金提出せず,建設中の重油供給を受け持つ.

12月 韓国国防省,95年度国防白書を発表.朝鮮人民軍を初めて“主敵”と規定.

 

1996年

96年1月 「苦難の行軍」

1.01 「労働新聞」,「朝鮮人民軍」,「労働青年」の三紙が共同社説.「苦難の行軍精神」を強調.

1月 北朝鮮,アメリカの要求するミサイル輸出問題での二国間会議に原則合意.交換条件として経済制裁の緩和を要求.

1月 クリントン政権,国連の緊急アピールに応え,北朝鮮に対し200万ドルの資金を提供すると発表.

2.22 外交部スポークスマン,「新たな平和保障体系樹立」を提案.

96年3月 人民軍のクーデタ事件?

3.19 ロード東アジア・太平洋問題担当国務次官補,下院国際問題小委員会で証言.ミサイル輸出問題で進展があれば,経済制裁の緩和を検討と述べる.

3.29 人民軍第6軍団でクーデタ事件が発生.北朝鮮政府は「休戦条約の無効化」を宣言し,国内引き締めに当たる.人民武力部の金光鎮第一部長,「朝鮮半島の休戦状態は限界点に達している.今や問題は,朝鮮半島で戦争が起きるか否かではなく,その時点がいつかということにある」と危機感をあおる.

3月 貿易当局者が台北を訪問.コメ10万トンの支援を要請.台湾当局は2万トンの援助方針を決定.

96年4月

4.10 北朝鮮政府が国連に覚書を送付.94年危機の際,「もし国連が朝鮮民主主義人民共和国に対して一方的に『制裁』を加え,歴史を繰り返すという道を選んでいたら,第二次朝鮮戦争が勃発していた」と明言.

4.11 米国防総省,北朝鮮の化学兵器や長距離ミサイルの開発が,米国と地域の同盟国の安全に「深刻な脅威となっている」と警告.

4.16 クリントンと金泳三が済州島で首脳会談.南北朝鮮に米国・中国を加えた四者会談の開催を提案.北朝鮮外交部スポークスマンは「4者会談について検討する」とこたえる.中国関係者は「休戦協定に代わる新しい枠組みが必要であり,米,韓国,北朝鮮の三者で十分話し合うことを期待する」とエールを送る.

4.17 日米安保「共同宣言」発表.

4.21 北朝鮮と米国のベルリン会談.米国は北朝鮮にミサイル技術規制計画(MTCR)への加入を促す.

96年5月 「一坪の土地でも穀物を!」

5.21 北朝鮮「労働新聞」,「一坪の土地でもさらに探し出して穀物を植えよう」との論説を掲載.「田と畑の必要のない畔をなくし,山地にやぎを飼い,草を肉に変えよう」と呼びかける.

北朝鮮の農業崩壊の理由
①地力の低下(←コメの密植,トウモロコシの連作,肥料・農薬など投入物の不足),②電力不足や農機具の燃料不足,③水害の発生の頻繁化(←段々畑からの土砂の流失),④農民の労働意欲の減退(←共同農場方式),⑤農業労働力不足と高齢化及び女性化.

5.24 アメリカ,北朝鮮からイランへのミサイル技術移転に抗議し,経済制裁を強化.

5月 洪成南副首相が訪中。中国は,北朝鮮との関係を修復し,金正日体制を全面支援する意向を表明.毎年穀物50万トン,石油120万トン,石炭150万トンを提供することで合意.

5月 西海岸で北朝鮮巡視艇5隻が境界線を越えて侵入。4時間にわたり韓国側とにらみ合いを続けた末、撤退する。6月にも同様のエピソード。

96年6月 「飢饉と経済状態は深刻」

6.25 李成禄対外経済委員会副委員長,台北を訪問.事前の報告を受けた中国政府は,「北朝鮮は“1つの中国”の立場を守るだろうと信ずる」と述べる.

6月 中国赤十字,「北朝鮮の飢饉と経済状態は深刻で,病院は栄養失調の子どもと老人であふれている.工場の9割は操業を中止し,ほとんどの商店は閉鎖している」と言及.

6月 世銀の要請を受けたイギリスの情報分析会社,「金泳三政権の北朝鮮政策は一貫性に欠けており,その対北強硬姿勢はアメリカを困惑させている」と報告.

6月 日本政府,対北1.5万トンの米の無償支援を決定.

7月 「モハメッド・カンス」事件が発生。北朝鮮スパイのチャン・スイル(62歳)はフィリピン人モハメッド・カンスを名乗り、12年間大学教授として務めていた。チャンは「おそらく数百の北朝鮮スパイが南側で活動しているだろう」と自供。

96年8月

8.16 韓国の金泳三大統領,4者会談を提示.あわせて南北経済協力計画も提案.

8月 穀倉地帯(黄海北・南道,江原道)を中心に大洪水.鴨緑江の堤防が8ヶ所にわたり決壊。死者116人を含め被災者327万人,被害総額は17億3280万ドルにおよぶ.

8月 モスクワの現代国際問題研究センター,「北朝鮮経済は現体制のもとでは再び回復できないほど疲弊している.もはや国家経済機能までが完全に麻痺した」と報告.

96年9月 武装スパイ潜入事件

9.18 北朝鮮「武装スパイ潜入事件」おこる.韓国東海岸の江陵で北朝鮮の潜水艇が座礁.武装工作員24名が上陸し,数日間にわたり銃撃戦を展開.韓国側は15人が死亡.遺棄された潜水艇からは,アメリカの民間団体が送った支援食料の缶詰が発見される.(一説では上陸したもの26名、うち11名は内部で処理され、13人が抵抗を続けたあと射殺される。一人が捕らえられ、もう一人は逃亡に成功)

10.16 アメリカ,中距離ミサイルのノドン発射実験に対抗し,偵察船と偵察機を日本に派遣.

10.20 ウラジオストック駐在の韓国外交官チョ・ドクケンが暗殺される。事件の前に「潜水艇事件の報復」をにおわせる脅迫状が届いたという。

11.08 国務省,ノドン発射実験が延期されたと発表.

96年9月

12.29 外交部スポークスマン,平壌放送と朝鮮中央通信を通じ,潜水艦座礁事件に「深い遺憾の意を表し,事件の再発防止のために努力する」とする論評を流す.これを機に,韓国は軽水炉建設事業の再開に動く.

12.30 北朝鮮,4者会談への参加の意思を表明.

 


共産党の北朝鮮政策

共産党の北朝鮮政策が発表された。情勢が緊迫かつ昏迷している状況のもとで、我々がいかなる立場を取るべきか、示唆に富む提言がなされている。

最初に、この文書の性格を明らかにしていきたい。

1.メモランダムとしての性格

「政策」と言ってもあまり正式のものではなく、「関係6カ国への要請」という名前で発せられたアピールであり、要点を押さえたメモランダムにちかい。

2.6カ国協議の枠組みを前提とした行動提起

正式名称は「非核化と平和体制構築を一体的、段階的に」というもので、「呼びかけ」としてはやや不鮮明だ。

一体的に関してはまったく異議はない。核・ミサイル問題だけを切り離しては永続的な解決にならないだろう。長い紛争の経過が何よりもそのことを証明している。

ただし「平和体制構築」という言葉がうすぼんやりとしている。何をもって平和体制構築の指標とするのか、明確で絞り込まれた目標設定が必要だろう。

「段階的に」という言葉自体にはあまり意味がないのだが、なにか特別な意味を与えているのだろうか。


4月6日に「要請文」が発表された際の紹介記事には以下のごとく要約されている。


まず、この要請が緊急に提出されたものであることが強調される。

これは「4月27日の南北首脳会談、5月末までの米朝首脳会談という新たな動き」がある以上、当然のことで時宜を得たものと言える。

逆に言えば、とりあえずこの2つの会談への期待というところに的を絞っているので、共産党の政策全体をこれで評価されても困るだろう。

要請の内容は一体的進行と段階的進行である。

一体的というのは非核化と平和体制構築という二つの課題を一体的に取り組むことである。

段階的というのは、非核化と平和体制構築の課題のいずれも現時点で達成するのは困難だから、あまり焦らずに「相互不信を解消し、信頼醸成を図りましょう」ということだ。

ただこれではあまりにもあいまいだから、過去における到達段階である「6カ国協議の05年共同声明」を出発点としてはどうかと提起している。

最後に共産党は、「4月27日の南北首脳会談、5月末までの米朝首脳会談」が持つ世界史的意義について関係国が認識をともにするように訴える。それは次のように述べられる。

戦争は絶対に回避しなければならない。

敵対から和解への転換が図られれば、それは世界の平和にとって巨大な利益になる。


以上のことから、「要請」のキモは次の点に集約される。

1.「6カ国協議の05年共同声明」の意義

2.「6カ国協議の05年共同声明」が保護にされた経過

3.それにもかかわらず、未だに出発点となりうる理由

残念ながら上記に関しての読み込みは、要請文そのものからはかなり困難である。
05年の共同声明は、その具体化の過程で困難に直面し実を結んでいませんが、その原因は「行動対行動」の原則が守られなかったことにあります。
という段落をどう読み込むかが読解の焦点となる。


(1) 対話による平和的解決の展望

北朝鮮の核・ミサイル問題で平和解決の動きがでている。これを歓迎する。

この際、関係国に2点を要望する。

(2) 非核化と北東アジアの平和構築

ということで早速、「一体的・包括的構築」の中身が語られる。

非核化と同時に語られるべき「北東アジアの平和」の柱となるのは、南北、米朝、日朝の緊張緩和・関係改善・正常化である。

そのゴールとなるのは、朝鮮戦争以来の敵対状況の終結、関係国が抱える懸念の解決である。

これが縦糸と横糸となることが「一体的・包括的構築」ということである。

(3)段階的措置による信頼醸成

もう一つの形容詞である「段階的」というのは、05年の6カ国協議共同声明、92年の朝鮮半島非核化に関する共同宣言、02年の日朝平壌宣言、00年と07年の南北共同宣言、00年の米朝共同コミュニケを基礎に、合意の積み上げを図ることである。

この「段階論」は、「当面、経済制裁を継続」という提起であり、非常に重要なポイントである。

この「呼びかけ」では、とりわけ05年の6カ国協議共同声明を重視し、「約束対約束、行動対行動の原則」の視点から経済制裁を合理化している。

05年の共同声明は、その具体化の過程で困難に直面し実を結んでいませんが、その原因は「行動対行動」の原則が守られなかったことにあります。

(4)敵対と不信からの転換をはかる

ここはとくに指摘しておくべき内容はない。

要するに、呼びかけのポイントは二つ。

6カ国協議の枠組みで議論を再開すべきだということ、もう一つは経済制裁は継続せよということだ。

なぜなら、それが6ヶ国合意に示された「行動対行動の原則」に合致するものだからだ。

ということになる。

関係国にも飲み込みやすい、きわめて現実的な解決策ということになろうか。



米中の覇権交代: トランプ登場の意味

大西広さんの講演要旨の紹介です。

レーニン「帝国主義論」から見た今日の世界

世界は不均等発展し、アメリカの没落が始まっている。トランプの登場はその象徴である。

BRICSが成長しているのは不均等発展のためである。これらの国は「後発帝国主義国」である。

アメリカは軍事と金融で生き残りを図っている。

しかし「金融覇権」の維持のための手段は、中長期ではアメリカの衰退を加速する。

具体的には金融覇権がドル高状況を必要とし、ドル高政策が製造業の衰退をもたらした。それが国民の反乱をもたらし政治基盤の弱体化をもたらした。

グローバリズム: 経済統合、自由貿易、資本の自由、移動の自由

共通の前提として経済的合理性の原則のもとにコントロールすること。

EUの最大の失敗は、ロシアの影響圏を縮小するという政治的目的で、拡大を急ぎすぎたことにある。

聞いているうちは面白いのだが、論証が不十分なため資料としては使いにくい。刺激にはなります。なお大西さんは「私はマルクス経済学者である」と何度も強調されているが、うんと割引しても「異色の」マルクス経済学者であろう。


A.北朝鮮問題 3つの側面
北朝鮮問題とは、なによりもまず核+ミサイル問題です。これについては疑問の余地はありません。
北朝鮮が核+ミサイルに固執する限り、国際的な制裁は必要です。これについても疑問の余地はないでしょう。
ただし疑問の余地が無いのはここまでです。その先には大きな問題が横たわっています。
端的に言えば、それは次の三つです。
1.私たちは北朝鮮にどういう国家(隣国)になって欲しいのでしょう。
2.北朝鮮が核+ミサイルを放棄した場合、私達はなにをしてあげられるのでしょう。
3.北朝鮮だけでなく中国・ロシア・韓国もふくめて東アジアはどういう地域になるべきでしょうか。
B.問題解決のためには「枠組み」の考え方が必要
この3つは次のように言い換えることもできます。
1.日朝両国関係の枠組み
2.非核・平和・安全保障の枠組み
3.東アジア地域の共存・共栄の枠組み
つまり、落とし所とかギブアンドテークとかいう考えが必要なのです。また、大枠と個別論、短期見通しと長期展望のすり合わせなどが必要です。さらに相互信頼の醸成が不可欠です。
これらを念頭に置きながら、解決の方向を見出していかなければ、北朝鮮問題に出口はありません。
もし「こんな国なんか目障りだから潰してしまえ」というのなら、北朝鮮が核+ミサイル開発に固執するのを責めることはできません。
C.6カ国協議
南北朝鮮に米中、さらに日本とロシアを加えた6カ国協議は、事態をコンセンサス方式で進めていく確実な方向としてゆっこうな枠組みでした。これはBの2に相当する枠組みであり、潜在的にはBの3の問題までふくむものでした。

6カ国協議の前段階として、米朝両国と中国という3者による対話の試みがありました。これは北朝鮮の「核疑惑」が発生したときに、中国を仲介者として米国と北朝鮮が接触する枠組みのものでした。

中国が日本、韓国、ロシアに仲介の役割をともに担うよう要請し、すべての関係国が参加する枠組みに拡大したのです。 
したがってあくまでも会議の主役はアメリカと北朝鮮であり、議題も北朝鮮の核問題に限定されていました。
ところが始めて見ると非常に優位性を発揮したのです。まずその公平さです。対立を客観的に眺めることができる仲介国が多く入ることで、多国間の枠組みが大いに力を発揮しました。これによって会談の公明さと公正性が維持され、同時に共通認識も形成されました。
その後、6カ国協議は形骸化しふたたび核開発へと動いていったのですが、いまでもその有用性は保たれていると思います。

多くの関係者は、「この枠組みは、今後、北東アジア地域の多国間協力の土台になり、安全保障協力機構の母体として発展する可能性がある」と期待しています。
D.アメリカ 部外者なのに当事者

6カ国協議の枠組みでおかしなことがあります。一貫して交渉の中心になっているのは北朝鮮とアメリカですから、アメリカは6カ国交渉の当事者そのものです。
しかしアメリカは東アジアの住人ではありません。そういう点では東アジアの平和と安全、相互関係を築くのには関係のない部外者なのです。これは北朝鮮問題を考えるのにあたってはとても大事なポイントです。

94年の朝鮮危機のとき、ラック在韓米軍司令官とレイニー駐韓大使は「米国人の避難計画」を進めました.ラック司令官は「北朝鮮はソウルに向けて最初の12時間に5千発の砲弾を浴びせる能力がある.もし再び戦争となれば死者は100万人に達する.米軍にも10万人の犠牲者が出るだろう」と本国に報告しています.
つまり、アメリカは福島原発の事故の時に東京から逃げ出したように、朝鮮有事の際はソウルから逃げ出し、ソウルを見殺しにするのです。
アメリカの第一戦略目標は長距離ミサイルにあり、ここを一撃できればあとはさほど心配なことはありません。あとは中・短距離ミサイルの射程距離からできるだけ離れましょうということになります。
だからアメリカの抑止力を当てにするとしても、アメリカを守護神と見誤ってはいけません。むしろ暴発の危険は“部外者”であるアメリカの側にあるということを見通して置くべきでしょう。

E.安全→平和→統一の戦略

韓国の盧武鉉元大統領は、現職時代に南北関係の進展の展望についてこう語っています。
1.現在の南北関係から統一に至るまでの戦略的価値の優先順位は、「安全・平和・統一」の順である。まずは南北間の平和定着が優先する。統一論はその後である。
2.「統一」については、「経済統合、文化統合、政治統合」という三段階論を経なければならない。
3.「統一を得るために平和を放棄し戦争を選んだという歴史も存在するが、韓国はそうするわけにはいかない」と表現しました。
朝鮮半島有事となればアメリカの第一撃が北朝鮮の主要施設を壊滅に追い込むでしょう。これに対し北朝鮮の短距離ミサイルや砲撃がソウルや韓国の主要都市に降り注ぐでしょう。
どちらにしても南北朝鮮の人々に最大の犠牲が押し付けられることになります。
このような形での決着は絶対に避けるべきだと思います。
F.北東アジア平和協力構想

日本AALAでは「北東アジア平和協力構想」への賛同署名を行い、大きな成果を上げた。

この「平和構想」は対話の中で諸問題(北朝鮮、尖閣・南沙諸島など)を解決していこうという姿勢である






1.北朝鮮問題は外交問題である

国内でいかに独裁政権がひどいことをやっていたとしても、それは国内問題だ。

例えばタイで軍が合法政権を倒して、法にもとる独裁政治を強行しても(それは非難に値するが)外交的対抗手段はおのずから異なってくる。

数千万の人が暮らす国としての国家主権は、それはそれとして尊重されなければならない。
ホーチミンの言葉「独立ほど尊いものはない」は外交の原理を究極的に示している。

2.北朝鮮問題は国際問題である

北朝鮮が要求しているのは米朝関係の改善であり、自国の安全保障である。

したがって、それはまずもって米朝両国の話し合うべき問題である。

しかし核兵器の開発は明らかに国際的な問題であり、これを阻止することは国際社会の問題である。

現に国際社会はその方向で動いているのだから、これと協調して行動しなければならない。

ミサイル問題は核問題と同列に語ることはできない。もちろんそれが核と結びついている状況のもとでは等閑視はできない。しかし核を除けばミサイルの開発について国際法上で禁止されているわけではない。日本だってロケットはバンバン上げている。形態から言えば、人工衛星を載せるか核弾頭を載せるかの違いだけだ。

むしろ事前通告や無害性の立証が絶対に必要であろう。

3.解決の糸口が示されなければならない

日米安保条約は二面性を持っている。一つは日米軍事同盟であり、米国が軍事行動に出れば自動的に参戦させられることになる。

もう一つは日本の安全を保障するメカニズムも内包していることである。憲法上は(あくまで憲法上であるが)非武装である。独立を承認されたサンフランシスコ条約で、日本の安全は世界の諸国(連合国)の共同に委ねられている。

その具体的内容として安保条約が置かれている形となっている。

したがって、矛盾するようだが、日本の安全を真に保障するためには、安保条約を発動させないために努力することこそがだいじだ。

これは安保条約に賛成でも反対でもコンセンサスとなるだろう。

緊張緩和のために緊急になすべきことは明確である。米朝対話の開始である。そのためには核問題で北朝鮮の何らかの言質が必要である。

仲介者はいくらでもいるだろう。日本がそこまですべきとは思わないが、少なくともその邪魔をしないことはできる。

戦争ヒステリーはあっという間に広がる。70年前我々の父母はそれを痛感した。

まずは冷静に事態を見つめるべきだろう。「平和が一番、戦争だけは絶対にダメ、とにかくまず話し合いを」という一点で世論をつくりあげなければならない。

4.東アジア4カ国の平和共存が最終目標

北朝鮮問題への対処は、いっときの問題ではない。東アジア問題全体がそうだ。

まだ終戦処理が完了していない。それはとくに我々の内心の問題である。

日本では、朝鮮を植民地とし、中国に侵略を行ったことへの反省がいまだ十分とはいえない。

在日を蔑視し、北朝鮮への度を越えた敵視がむしろ増強する傾向すらある。これは大国意識がもたらしているものだろう。

まず4カ国が対等のパートナーシップを結ぶこと、相互の国家主権を尊重すること。他国の人々が間違っていれば批判することは大いにけっこうだが、相手の批判にも耳を傾ける謙虚さが必要だ。

そのうえで朝鮮半島の平和的統一も展望し、ロシアにも協調を求める。そして領土的野心を放棄することを相互に宣言する。

他にも言いたいことはあるが、とりあえずこの4点を訴えたい。


 韓国の民主・進歩運動の中には、80年代学生運動の潮流が今もなお受け継がれている。

それらの運動の中でNLとPDという2大潮流があった。これからは主要な対立ではなくなっていくのだろうが、それでも折にふれて顔を覗かせるので、知識としては憶えておかなくてはならない。
(ただし、この問題については個々人の古傷に触れることにもなりかねないので、人前でひけらかすような真似はしないほうが良い)

1.「民族解放・人民民主主義革命」論への流れ

1980年代、光州事件以降、学生運動の中に「民族解放派」が広がる。“National Liberation People's Democracy Revolution”の頭文字をとってNLと呼ばれる。

85年末、「科学的学生運動」を唱導した高麗大・ソウル大グループが、「民族解放・人民民主主義革命」を標榜し、急速に全国に勢力を拡大した。

「民族解放・人民民主主義革命」は基本的視点としては日本共産党の60年綱領(旧綱領)の骨子と似通ったところがある。

韓国社会はアメリカ帝国主義の半植民地であり、同時に半資本主義でもあると評価し、当面する革命の性格を民族解放の性格を持つ闘いと規定する。

そこでは植民地半封建社会論と植民地半資本社論が対となった植民地半資本主義論」が土台となっている。しかしこの課題は十分には展開されない。とくに60年後半からの高度成長で、離陸を遂げた韓国経済への評価が蓄積されていない。

アメリカの半植民地とする評価はこれまでの闘いの中から学生たちの共通認識となってきた。それはすでに60年代学生運動にも表されていたが、70年代の反朴政権、民生学連の闘いの中で次第に明らかになった。

そして光州民主化運動への武力弾圧をアメリカが黙認したことから、反米なくして解放なしの声が一気に広がった。これが「民族解放・人民民主主義革命」論に結びついていく。

この新しい潮流は韓国民主運動にとって画期的な意味を持っていた。それはいままでの反軍事独裁、民主化という即自的受け身な対応から、運動全体を革命運動と捉えていく能動的姿勢への転換である。

しかし、この路線は二つの問題を内包していた。

一つは科学的社会主義の軽視である。軽視というより無知であると言わなければならないかも知れない。科学的社会主義に関する文献は制限され入手困難であった。したがって目の前の社会矛盾を解明し、その因って来るところを分析する視角が不足していた。だからすべてを反米の路線に流し込むきらいがあった。

民族解放派は、半植民地・半資本主義という韓国の特殊な状況においては、民族矛盾が階級矛盾に優先するとみなし、学生運動と変革運動の焦点を反米主義と南北問題に集中させた。

レーニンの「帝国主義論」を除けば、科学的社会主義の理論とはかなり縁が遠い思考であった。(韓国版ウィキより)

もう一つは革命の「戦略」に関わる問題である。これにはおそらく75年のサイゴン解放、南北ベトナムの統一という世界史的事件が関係したであろう。これにより民族の悲願である「南北統一」の課題が、革命戦略の中に無媒介的に組み込まれてしまう。

その悲劇的表現が「主体思想」である。

2.NL・PD論争

NLは「自主・民主・統一」(ジャミントン)という大衆組織を立ち上げる。共産党が民青を、革共同が社学同を立ち上げたようなものだ。学生自治会の組織が続き、全大協と韓総連が結成された。さらに社会各方面までふくむ汎民連も結成される。

これに対し、「人民民主派」(PD)が対抗馬として登場した。PDは資本家と労働者の階級矛盾を強調し、マルクス主義の伝統に忠実にしようと考えるグループである。NLが自主派、PDが平等派と呼ばれることもある。

NLは単一の指導理念に基づいて、統一された中央集権的な組織を形成しているが、PDは本来単一政派はなく、いくつかの政派が独立して形成されたものである。組織的にも分立されている。

彼らは韓国社会を「独占資本主義段階にある新植民地主義国家」と規定した。また光州民主化運動についてはまずもって民衆の蜂起と見て、韓国労働者階級の闘いの幕開けと評価した。(韓国版ウィキ)

ようするに評価の視角がまったく異なっているから、議論はすれ違う可能性がある。PDは階級的視点からNLを批判し続けたが、所詮は批判者であって、それが両者の力関係を覆すには至らなかった。

この論争は韓国が抱える問題を、萌芽的には網羅していただけに、いまだに組み尽くすことの出来ない教訓をふくんでいる。ただ時代的制約もあり、両者の問題意識はやや図式的である。

権威主義的工業化の過程で発生した強力な反共権威主義国家にどう立ち向かうかという視点が不十分である。これらの新たな問題を民族と労働者階級の両方の視点で再度検討しなければならないであろう。(崔章集

3.主体思想派

これについては話し始めるとキリがないのだが、要点だけ触れておこう。

主体思想は北朝鮮の国家理念であり、朝鮮労働党の指導理念でもある。

主体思想がNL派の中に最初に持ち込まれたのは、民主化の始まる直前、1986年のことである。金永煥(ヨンファン)が「鋼鉄通信」という文書シリーズを次々と発表し、「首領論」、「品性論」などの主体思想を大学街や労働界に広げた。

NL派の多くはこれに影響を受け「主体思想派」に変わっていく。韓国版ウィキは簡潔に経過を書き記している。

主体思想派は自生的な親北主義者で、北朝鮮の短波放送を密かに聞くことによって、その情勢分析と理論を受容した。

金永煥は自ら民主革命党(ミンヒョクダン)を組織し、北朝鮮の指導を受け、韓国の進歩運動に介入した。

1995年頃からは、学生運動の全体的な衰退と北朝鮮の実状認識、主体思想の創設者である黄長の亡命などで徐々に力を失った。

しかしいまも、もっとも厳しい時期を経験した不屈の闘士たちは健在である。民主革命党の流れをくむ集団は東部連合、蔚山連合の活動家集団などに影響を与えていると言われる。

なおNLの全部が主体思想派に移動したわけではなく、一部は「民族民主革命論」(ND)を主張し、別グループを形成した。彼らは「民族解放左派」を自称したらしいが、その後の経過は不明である。

3.NLのフロント組織

NLイコール主体思想派と断定するには躊躇を覚える。また87年民主化以降は非公然中核組織とフロント組織という分類も意味がなくなりつつあるが、存在そのものが違法とされる主体思想派にとっては、まだこういう色分けも必要であろう。

フロント組織は次々と登場しては消えていく。憶える必要もないが、一応名前はあげておこう。

まず89年1月に全国民族民主運動連合(全民連)が結成された。これは当局の厳しい弾圧により間もなく消滅した。

ついで91年末には、全民連を再建する形で民主主義民族統一全国連合 (全国連合)が発足した。NLが指導する在野運動勢力14団体のアンブレラ組織である。

97年、民革党事件を機に「全国連合」は公然活動を停止し、事実上の解散に追い込まれた。

2007年、NLは全国連合を解消し、あらたに「韓国進歩連帯」を結成した。韓米FTA阻止、非正規職撤廃、平和協定の締結と駐韓米軍撤収、国家保安法撤廃など4大課題を掲げているが、南北統一の課題は避けられている。

いっぽう、NL活動家の多くは、民主労総が中心となって結成された合法政党「民主労働党」に集団入党した。彼らは組織的力量にものを言わせ民主労働党の多数派となった。

民主労働党の流れは統合進歩党へと続いたが、現在では統合進歩党そのものが消滅している。

これに対し、PDは単一組織としてのまとまりは強力ではないが、今日その主力は労働党に結集しているとみられる。

民主労働党が結成されたとき、PDの多くはこれに結集しPD派を形成した。2008年には民労党から分かれ「進歩新党」を結成した。12年には総選挙での得票率が規定に届かず解散、翌年「労働党」として再発足した。

その間、多くの活動家がリベラル派の正義党に鞍替えしている。



97年9月、初めて韓国を訪れたとき、まだ韓総連は元気だった。街頭で機動隊と「激突」していた。

その2年後に梅香里を訪れたとき、団結小屋には機動隊から奪ったヘルメットや盾などの「戦利品」がうず高く積まれていたが、すでにそれは過去のものだった。

「民革党事件」以来、NLはおとなしくなった。しかしその残党は民労党内に潜り込んで多数派を形成していたのである。

それやこれやも、ここ10年位ですっかりおとなしくなった。パククネを大統領の座から追い落としたとしても、国家保安院の牙城はいささかも揺らいではいない。

かえすがえすも、「主体思想」がいかに韓国の民主運動に暗い影を落としたか、その戦闘性を知るだけに悔やまれてならない。


もう一度1985年の時点に立って、問題点をおさらいすることも必要かと思う。そんな思いもふくめながら、この文章を書いてみた。
下記もご参照ください

「北」の影響:カンチョル・グループの場合
(付)韓総連の自己紹介
韓国の労働運動(1998年)


最近、韓国の政治動向をフォローしていなかったので、今回の大統領選挙の結果を聞いて、「韓国左翼が変わったな」と実感した。
1.社会労働党の躍進と没落
とにかく韓国の世論は右へ、左へと激しく揺れるので、底流を見据えながら個々の動きを評価するのは大変だ。
国民的与望を担って登場したノムヒョン政権だったはずなのが、大した失政を繰り返したのでもなくどんどん支持率を落として、最後には議会に弾劾されるまでに至る。
ところがノムヒョンの応援団がウリ党を起て、総選挙をやったら圧勝する。それなのに半年もしたら、支持率が30%を切る。それが美容整形で二重まぶたにした途端に50%にまで回復する。
そんな中で、民主労働党は一時期は議会第三党にまで上り詰めたが、一心会(親北派)をめぐるスキャンダルであっという間に崩壊していく。
2.主体思想の清算
「親北派」キャンペーンは権力による一大攻撃ではあるが、金日成カルトともいうべき集団が存在したことも間違いない。韓国民主運動はさまざまな困難を抱えているが、「主体思想」との関係を清算し、南北統一へのロードマップを再構築することは中でも最大かつ緊急の課題であった。
思えば2006年以後、今日まで10年間の道のりはそのために費やされたと言っても過言ではない。
そのなかで、もっとも原則的かつ果敢に「自主派」とのたたかいを進めてきたのが、進歩新党であった。私はそう思っている。
3.進歩新党のもつ意味
進歩新党の闘いには二つの側面がある。
第一には親北派との呵責なき戦いである。親北派と対立してきた「平等派」の古参活動家は動揺を繰り返した。一つは自分をより高く売り込むための取引であり、一つは民主労働党のパトロンである民主労総の動向である。もちろん、底流には、民主化運動以来ともに闘ってきた「主体派」の仲間への絶ち難い信頼と友情の関係もあっただろう。
しかし、いまは直近の動向ではなく、真の未来を目指さなければならないのだ。そこには揺らぐことのない一貫性が必要だ。
第二には、資本からの真の独立である。進歩勢力と言ってもさまざまなスペクトラムがあるが、資本からの真の独立と科学的社会主義の視点の確立がなければ、原則と現実的妥協との境目が見えなくなってしまう。
政党である以上、選挙での勝利はもっとも重要なイシューであることは間違いない。とくに韓国では選挙で一定の数を獲得しないと政党要件が消失してしまうという厳しい状況を抱えている。しかし階級政党の意義と任務はそれに尽きるものではない。綱領的立場が選挙戦術に矮小化されてはならないのである。
3.統合進歩党から正義党へ
この二つの立場をもっとも原則に守ったのが進歩新党だった。
そしてその立場を貫けずに民主労働党とのなし崩しの再統一、「統合進歩党」の結成に向かっていったのがシム・サンジョン(沈相奵)らだった。(シムが尊敬すべき人物であることは疑いないが、彼女の方向が金大中2世であることは冷静に見ておくべきだと思う。求められているのは「揺るぎない党」である)
統合進歩党は民主労総の強力なイニシアチブのもとで創設された。さまざまな政治潮流が「統合」されないままにくっついた。「多様性こそが新党の特徴」と公然と述べる国民参与党まで入ってきた。
こういう雑然さこそ民主労働党主流派(親北派)の意図するところであった。党の骨格人事は彼らがガッチリと握っていたからである。
それから半年もしないうちに、統合進歩党の実体は暴露された。親北派は表立っては一言も喋ることなく、実力で議席やポストを抑えてしまったのだ。
激怒したシム・サンジョンらはふたたび党を飛び出して、「正義党」を結成することになる。このドタバタ劇の最大の成果は、民主労働党に代えて自らを民主労総のお抱え政党とすることに成功したことである。
逆に民主労総の後ろ盾を失った民主労働党→統合進歩党は坂道を転げ落ちるように転落していく。機を見るに敏な連中は次々と正義党に鞍替えした。残された親北派は体制の立て直しを図るが、2013年8月に2回めの情報院の攻撃を受け瓦解していく。こうして民主運動の全戦線において親北派は市民権を失うに至った。
4.進歩新党の苦闘
進歩新党も、何度も滅亡の危機に陥った。
最初は社会党との合併で自力強化を図った。しかしこの「社会党」は言っている言葉の割にはへなちょこで、どこか強い力との連合で自分を売り込もうというオポチュニスト集団だったようだ。つぎは環境主義者との連合を図ったが、こんなもの最初からうまくいくわけがない。正義党が結成されると、かつて同じ思いを共有した政党であるがゆえに、かなりのメンバーがそちらに移っていく。
そのなかで進歩新党は未組織労働者の中にかなりの拠点を形成したようだ。彼らはいま労働党と名を変え活動を継続している。弱小とはいえ、活動を継続していけるだけの確かな力を蓄えたようだ。
5.金世均の予言
最後に2008年1月にソウル大の金世均教授が書いた文章を引用しておく。私は韓国政治の基本をついた文章としていまだに正確だと思う。

民主労働党は究極的な政治的目標を持たないまま、議会主義と合法主義、代理主義と官僚主義の道に堕ちた。民主労働党は、民族主義と社民主義の不幸な結婚が誕生させた政党であり、社会的関係の根本的な変革を望む多くのヒラ党員の社会主義的あるいは社会主義指向的な熱望を、民族主義的、社民主義的、議会主義的展望の中に閉じ込める政党だった。
党に未来がないだけではなく、既成の派閥のいずれにも未来はない。NL派は、民族問題を、階級問題や反帝・反戦問題などすべての問題に優先する左派民族主義勢力である。これに対しPD派は、当初は社会主義的な指向を持つ単一の勢力だったが、その後、体制内的改革を追求する社民主義勢力との寄り合い状態となり拡散した。
新しい進歩政党は民主労働党の内部革新や第二の創党運動の中にはない。「資本主義の克服を公に明言し、その克服のために闘う社会主義的労働者階級政党」が展望されなければならない。民主労働党内のすべての階級的左派勢力が、組織的な所属と路線の違いを越え、進歩政党運動の全面的な再構成のために、共に力を合わせていくべきだ。

それから10年の後、いま金世均さんがどう言っているのかを知りたいところである。

毎日、毎日、テレビでは北朝鮮ばかりだ。
そろそろ分かってもらえてもいいと思うのだが、この異常な北朝鮮攻撃には未来がない。
まず第一に強調しておきたいのは、北朝鮮は我々の隣人であるということだ。これは日本の歴史が続く限りずっとそうなのだ。だから、我々は隣人としてこの問題を考えなくてはならないということだ。
まず、我々は隣人としての北朝鮮に“どうあって欲しいかのか”のイメージを持つことだ。
第二には、北朝鮮の将来像に「ベルリンの壁崩壊」の姿を想像してはならないことだ。それは論理的にはありうるオプションではある。しかしそれはもっとも避けたい事態だ。ミサイルの飛来を予想して電車を止めるなと愚の骨頂だ。そんなことがないように交渉することこそ政府の責任ではないか。「原発が止まると電気が止まる」キャンペーンと同じで、いたずらに危機を煽る政府の無責任さは目に余る。
では、もっと平和的なオプションはないのか。これについても我々のイメージを持つことが必要だ。
この二つがとりあえず強調しておきたい議論のポイントである。あとは、本質的ではないが、反北キャンペーン・反慰安婦キャンペーンが森友隠しの一環であることも指摘しておかなくてはなるまい。
とくに「反慰安婦」をもって「反日」であるとする韓国大統領選挙への干渉は独断・独善であり、必ず将来に禍根を残すであろうと思う。
アメリカにはいつくばりながら、その力をカサに来た日本政府の居丈高な態度は、東アジア人にはつばを吐きたくなるほどに不快であり、「醜い日本」への反発は日を追って強まるであろう。
私もニュースで安倍晋三の顔を見た瞬間にチャンネルを変える「安倍過敏症」の一人である。

釧路まで医師支援に行ってきた。
夜は当然、飲みに出たが、3日目の夜は流石に飲み疲れて宿で本を読んでいた。今はまともな本屋といえば新本でなく古本屋だ。釧路にも立派な古本屋があって、そこに行くのは出張中のマストのコースとなっている。
古本屋の悪いところは売れない本がいつまでも場所ふさぎをしていることで、3年たっても同じ本が並んでいる。したがって少しづつ探索スポットを変えながら本を漁ることになる。今回は、文庫本のコーナーを眺めてきた。
上海モノがたまたま2冊並んでいて、その並び具合が良くて、高くもないから2冊とも買った。ひとつはちくま文庫の「上海コレクション」、もう一つが福武文庫の「上海読本」、いづれもアンソロジーものである。
読んでいるうちに次第に胸が悪くなってきた。
「魔都上海」というのは、当時の日本人にとっては猥雑な街という意味でしかない。軽いのである。
意外だったのは、芥川龍之介までもがその一員に加わっているということだ。まともな文章は武田泰淳のみである。もっともこれは昭和19年、敗戦間近の上海という特殊事情があるからで、日本人もすっかりおとなしくなってバッサリ首を切られるのを覚悟した状況の上海である。

上海はイギリスを頂点とする列強支配時代の上海(1927年まで)、蒋介石時代の上海(第二次支那事変まで)、日帝が支配を確立するまでの時代(およそ1940年まで)の3つの時代からなる。その後も共産党が48年に上海を解放するまでの時代があるが、この時すでに上海は「魔都」ではなくなっている。
これを1期、2期、3期、と呼ぼう。
1期においては、上海は「魔都」と呼ぶよりは中国革命の希望の星であった。2期においても徐々に力は衰えつつあったとはいえ、そこには中国を変革するための地下水が流れ込んでいた。3期に至って変革勢力は根こそぎにされたが、かろうじて残された列強の影響力を背景に、日帝支配に対する地下の反発は残存していた。テロが頻発し、列強がたがいの出方を探る陰謀が渦巻いていた。これが文字通りの「魔都」の時代である。
だが、日本の文士たちはそんな時代にはお構いなしに、ひたすらつかの間の快楽にのめり込んでいた。彼らにとって「魔都」の意味するものは「色魔のパラダイス」である。それは戦前における浅草六区であり、終戦後の新宿であり、要するにいくばくかの「危険」を伴った猥雑なエロ・グロ・ナンセンスの世界であった。それと背中合わせに想像を絶するような貧困があることを薄々と知りつつも、それには目をつぶるか、ちょっとした調味料くらいに見ていた。
だから彼らは上海の時代背景が1期であろうと、2期であろうと、3期だろうと一向に頓着しなかったのである。肝心なのは時代の流れで没落し、苦海に身を落とした絶世の美女が目の前に現れてくれることだけだった。そんな彼らの心情を最もうまくすくい取ったのが金子光晴だ。金子は村松のように軽佻浮薄ではない。地べたに近い目線から状況を見据えている。だからといって金子に同感するものではないが。
唯一内山書店の店主(金子は内山を先生と呼んでいる)だけが時代を真正面から捉えていたと言っていいだろう。

すみません。あとから読んだ鹿地亘の「上海戦役の中より」が出色でした。この人は戦後民主主義文学の中では少しも評価されていないけど、不思議です。いずれ追跡してみたい人です。



4.サンフランシスコ条約と韓国

A) 終戦と「解放」

日韓関係の食い違いは、サンフランシスコ条約で決定的なものとなった。

この辺はたしかに曖昧にしてきたところだ。と言うより、「えっ、韓国とサンフランシスコ条約なんて関係あるの?」くらいの気持ちだった。しかし南さんは朝鮮における日本の責任を曖昧にしたものとして、あらためて見直す。

南さんはこう書いている。

日本と朝鮮は脱植民地課題について一対一で直面する機会が与えられなかった。したがって脱植民地の課題は連合国のアジア政策の中に解消されてしまった。日本帝国主義に起源を置く課題が温存され、隠蔽されてしまった。

ただ私の感想としては、温存・隠蔽というよりは主要な問題ではなくなってしまったということではないかと思う。それと、この時点で韓国が当面していたのは、日韓関係よりももっと根本的な朝鮮という国家の形成のあり方の問題ではないだろうか。

たしかにサンフランシスコ講和は問題を整理すべき大事なチャンスではあったのだが、実際問題としては、朝鮮戦争真っ只中の韓国にとってはそれどころではなかった。

私はまず、終戦処理の問題でアメリカがあいまいなままに終始したことをまず問題にすべきだろうと思う。

まず、朝鮮は日本帝国から解放された国家ではあったが、戦勝国としても連合国の一員としてもカウントされていない。その「解放」は勝ち取られたものではなかった。

第二に、朝鮮は日韓併合により政府や国家機構を失っており、終戦の時点では「無政府国家」であった。

もちろん独立国家の樹立を目指す勢力がいなかったわけではない。それどころか国民の圧倒的支持を受けた独立勢力が臨時政府を樹立し、終戦直後の混乱を抑え統制を実現していた。

しかしアメリカもソ連もこの独立勢力を無視して、独自の体制づくりを目指した。

その中で南北の傀儡勢力が対立を深め、朝鮮戦争へと突入していく。

これが第二次大戦の終了から朝鮮戦争へと至る国家形成の主要な経過だ。そこには日本のにの字もない。たしかに親日派との闘いは部分的に展開されたが、それは「旧親日派」であって、その時点で日本とつながっていたわけではない。

その結果として、日本の責任が曖昧にされたということだ。

B) サンフランシスコ条約で韓国が得たもの、得られなかったもの

日本の残留資産は韓国に移譲された(第4条B項)。これは特殊な条項で、日本は他の非侵略国に対しては賠償責任が課されたが(第14条)、韓国にはこの条項は適応されなかった。これは韓国が第2次大戦によって占領・併合された国ではないからではないからであるが、直接には日本側の強い主張によるものであった。(委細は原文をお読みいただきたい)

得られなかったものは他のすべてである。

連合国は韓国を連合国と認めなかった。サ条約に署名国として参加することもできなかった。

これらの挫折が過剰な戦場国家意識を生み、これが独裁体制の正当化につながるという連鎖が生まれる。これは非常に大きな問題で、日韓関係の根底のところにこの問題があります。

3.韓国のナショナリズム 近代化と自由化

A) ナショナリズムの定義

前の章までがいわば総論と言うか枠組み設定だったのに対し、ここからは韓国政治の各論となる。

まずナショナリズムを定義するために次の文を提示する。

ナショナリズムとは、国内において近代化を確立する、そして対外関係においては自主、平等を確保する、こういう二つの目標を同時に追求する運動です。

一般的なナショナリズムは近代化を追求する努力と自主化を追求する努力が相乗の関係にある。

次いで旧植民地諸国におけるナショナリズムの定義に移る。

旧植民地においては、近代化と自主化は相殺関係になる

というのが、南さんの考えだ。これもあまりにも単純で素直には首肯できない。

とにかく話をすすめる。

さらに旧植民地の中でも韓国には歴史的特殊性がある。朝鮮王国時代は清国への臣従状態があり、その後は日本の植民地となる。戦後は国土が分断され、永続的な戦争状態に置かれ、アメリカの軍事的・政治的・経済的隷属を余儀なくされる。

このあと、独特の言い回しがしばらく続くが、うんと図式的に言うと

①李承晩時代 自主性↑、近代化↓

②朴正熙時代 自主性↓、近代化↑

③金泳三時代 自主性↑、近代化↓

④金大中時代 自主性↑、近代化↑

ということで、金大中の時代に初めて自主化と近代化が結合して捉えられるようになった、ということらしい。

南さんはこういう。

日本との不平等条約によって自主の国となり、植民地の下での日本による近代化を経験したことによって、韓国のナショナリズムは両車輪が逆回りになってしまい、前進出来ずグルグル回ることになってしまった。

韓国のナショナリズムはどうしても日本との関係で語られます。戦後においては米に対するナショナリズムも大きな意味を持つようになりましたが、基本的に韓国のナショナリズムは日本絡みのものです。

ただこれをもって日韓関係の基軸概念とするのには抵抗を覚える。

日本の植民地支配はわずか30年足らずであった(その前10年間の属国時代を入れれば40年)。それが如何に理不尽なものであったとしても、それは70年以上も前に終わった。朝鮮は爆撃の被害もほとんどなく、日本人資産は無傷で残され無償で接収された。

終戦以来の20年間、日韓関係はほとんど断絶していた。朝鮮戦争への出動も日米同盟の枠内の行動であり、韓国という国家そのものとは縁がなかった。

朝鮮戦争後も李承晩政権とは没交渉の時代が長く続いた。私の朝鮮現代史年表でも李承晩時代に日本絡みの項目はほぼ皆無である。

私の子供の頃の韓国といえば、李承晩ラインを設定して日本の漁船を拿捕する報道しか知らない。民間レベルではむしろ北との関係のほうが重視されるくらいだった。

アメリカからの強力な後押しがなかったら日韓条約にも積極的に応じたとは思えない。

つまり、ここまで説明された範囲では対日ナショナリズムの強力さ(執拗さ?)は理解できないのである。

2.戦場国家と基地国家

A) 韓国は戦場国家

南さんの議論は「戦場国家」論へと及んでいく。それは朝鮮戦争後の朝鮮半島が冷戦体制に入ったのではなく、いまだに「休戦状態」のままだという把握である。そのために韓国のナショナリズムは、しばしば国のあり方や日韓関係のあり方をひっくり返すほどの熱狂性を帯びている、という理解につながっていく。

どこが違うか、それを南さんは展開していく。

戦場国家は戦時であることを理由に民主主義を許さない。同時に対外的には戦場であることを理由に特別な配慮を要求する。

以下は私の感想的意見であるが

戦場国家は一種のレトリックではあるが、国民はそれを許容し、国家を支持した。現に68年の青瓦台襲撃事件、87年の大韓航空機撃墜事件、97年の潜水艦潜入事件、08年の国境の島砲撃事件と、ほぼ10年おきに北朝鮮による大規模な攻撃があった。日本の拉致問題もその流れの中に捉えることができるだろう。

「戦場国家」としての認識を韓国国民は繰り返し叩き込まれているのである。

ただしこの「戦場国家」には二面性があって、一面ではたしかに戦時体制国家ではあるが、もう一面ではレトリックによって成立している「幻想共同体」でもある。

B) 日本は基地国家

次いで南さんは、「韓国が戦場国家だとしたら日本は何なのだろう」という方向に議論の矛先を向ける。

日本は「基地国家」だ、というのが南さんの結論である。

日本は植民地として搾取されているというよりも、日本も基地国家としてそこから利益を得ている。

…日本は軍隊を持たずに同盟国の要塞として基地を提供することで自国の安全を図ろうとした。

私の考えるに、これは一種の「安保タダ乗り論」であろう。その当否はさておいて、韓国人の日本観にはこの感情が抜き難く染み込んでいることは理解しておいて良いだろう。

C) 休戦体制からの脱却

ここまでやや飲み込みにくい議論であったが、そこからの実践的結論はわかりやすい。

いずれにせよ休戦体制という不安定な関係が続いていることが、日韓関係にも影を落としているのだから、この休戦体制から脱却してより安定的な南北関係に移行しなければならない。

1.日韓関係を見る視点

日韓関係には二国間関係一般に解消されない特殊性がある

A) 旧帝国と旧植民地の関係

B) 分断された一方(戦争当事国)との関係

C) 「6カ国の枠組み」の中の関係


日本ではともすればA) の関係が強調されがちであるが、むしろその特殊性はB) によって規定されている。

それはさらに日米同盟、米韓同盟の盟主である米国のアジア政策(外在要因)に大きく左右される。

朝鮮半島を中心とする東アジアは、依然として朝鮮戦争以来の「冷戦構造」の枠組みにとらえられており、朝鮮戦争に参加した南北朝鮮、米、中、日、ロシアの角逐という状況は変わっていない。

この中で、日韓の関係も時に尖鋭化されざるをえないのである。

日韓関係はこういう構造の中で考察されなければならない。


と、ここまではある程度は分かったつもりでいた。しかし、B) の意味がこれまで深く吟味されてこなかった。そのことが南さんの指摘するところである。

南さんはこう語る。

こうした理解はだいたい合っているんですけど、そこには少し欠落したものがあるんじゃないか。


読んでいるときにはスラスラと読み進んだが、いざノートを取ってみると、やはり以下の一節は飲み込み難い。

韓国は戦場国家という状況にあります。それは冷戦でなく、戦争でもなく、だからといってもちろん平和でもない曖昧な状況、すなわち休戦という状況です。

これは、いつでも戦争になれるような、しかし戦争はしていない状況です。そしてその状況のもとで日本では基地国家という形の国家が出来上がっており、これがいまだに続いている、というのが私の基本的認識です。

果たしてそうだろうか。

たしかに深層にはこれらの地政学的事実は貫かれている。だからこれらの冷厳な事実を直視せよという論理もわかる。

しかし政治のリアリズムというのは果たしてそのようなジャングルの掟にのみ規定されているのであろうか。

むしろ人類が持つ野獣性を否定する過程の上に近代国家が乗っかっているのであって、近代社会というのはたとえ薄皮一枚であってもジャングルの掟を否定するところに存在するのである、

たしかにこの議論は、韓国の日本に対する異常なまでの民族主義的気分を説明するのに有効な根拠になる。しかし我々は基地国家としてみずからを位置づけるつもりなどサラサラない。



このところ日本AALAが良い本を連発している。

ひとつはこの間も紹介した「日本AALAの60年」という本で、秋庭さんという長年日本AALAに関わった人の回想記だが、AALAの集めた貴重な資料が整理されて膨大な資料集ともなっている。編集者の努力を大とするものである。

ただしこれは「正史」ではない。37回総会前後に関する記述は、流行り言葉で言えば“オルタナティブ・ファクツ”である。あの頃、「ポスト・ミヤケン」の数年間はひどい時代だった。身の証を立てるための努力はいずれしようと思っている。

もう一つが日本AALAの理論情報誌第5号として発刊された南基正さんの講演録である。

こちらの方は「目からウロコ」の新発見と「なるほど納得」の連続で、これさえ読んでおけば「慰安婦問題」もばっちりだ。

私も過去20年間、膨大な年表を作成するなど歴史問題にはそれなりに関わってきたつもりだが、振り返ってみると“中抜け”の感を免れ得ない。

これは日本語資料の作成者のほとんどが在日朝鮮人であったことがかなり影響していると思う。1987年の激動を出発点とし、その後韓国社会の変化を身をもって体験しながら、イデオロギーに凝り固まらないリアルな視点を貫く学者の論文は初体験かもしれない。

パンフレットは薄いのだが、中身は重い。はじめる前からいささかたじろぐのだが、少し詳しく読書ノートを作っていきたい。


目次

1.日韓関係を見る視点

2.戦場国家と基地国家

3.韓国のナショナリズム

4.サンフランシスコ条約と韓国

5.朝鮮戦争と日本の役割

6.60年の学生革命: 近代化路線と日韓提携の模索

7.日韓条約と請求権協定

8.日韓関係のゆらぎと新冷戦時代

9.87年民主化、金泳三政権、金大中政権

10.二つの談話とパートナーシップ宣言

11.慰安婦問題

12.東アジアの平和の基礎


なお、私の韓国・朝鮮研究については下記を参照されたい。とくに南講演の歴史的背景を知るためには「戦後史年表」を参照していただくようお勧めする。

1.韓国の民主運動紹介

  朝鮮半島の戦後史評価に関して

朝鮮戦争終結50周年(03年の道AALA総会での講演のレジメです。朝鮮半島戦後史への視点を端的に要約しています)

韓国および北朝鮮の戦後史年表 0 (戦後史といいながら戦前編です)   

韓国および北朝鮮の戦後史年表 1    

韓国および北朝鮮の戦後史年表 朝鮮戦争   
韓国の朝鮮戦争後史年表(53年以降) 

北朝鮮の朝鮮戦争後史年表(53年以降)  

日本の植民地支配と朝鮮人民の闘争

  平和と真の独立,そして民族統一を目指す闘い.国家保安法に反対し,政治的自由と民主主義を勝ち取る闘い

紹介:韓国の民主運動(韓国政治問題の全般的紹介です。以下の論文については、この文章から進んでいただくようお勧めします)   韓米行政協定(SOFA)  梅香里射爆場の闘い 老斤里の住民虐殺事件  国家保安法の改正をめぐる闘い  女子中学生轢殺事件  「北」の影響:カンチョル・グループの場合  平沢の反基地闘争

(付)韓総連の自己紹介

  独占資本の横暴を許さず,国民生活を守る闘い.医療民主化を目指す闘い

韓国の労働運動(1998年)  民主労総のゼネスト(1998年執筆)  大宇自動車労組の闘い  民衆医療連合の「医療保険パンフレット」  保険・福祉連帯の決議文  弘津健康センターの紹介(1998年)  医薬分業と医師のスト

  民主勢力の結集に向けて.民主労働党の紹介

民主労働党の結成  民主労働党綱領  民主労働党党憲  民主労働党結党宣言  韓国における民主政党の歴史


日本AALA連帯委員会から秋庭稔男さんの『私と日本AALAの60年』という本が出た。

かなり中身の詰まった本であるが、その注がすごい1ポイント小さい字で書かれていて、年寄りには辛い本である。

その中でとんでもない資料が載せられている。

1955年(昭和30年)10月31日に日本アジア連帯委員会の設立総会が開かれた。そのときに記念講演が行われ、その記録が残されていたらしい。それが全文掲載されている。

演者は一橋大学教授(当時)の上原専禄さん、演題は『アジアは一つか、世界史における現代のアジア

秋庭さんはこの講演を次のように紹介している。

この講演は『設立の言葉』に凝縮された日本アジア連帯委員会の設立の背景と意義を深く掘り下げた内容で、私はこの講演録を読んで深く感動し、その後も折に触れて学習をしたものです。

ということだが読み始めると半端でなく難しい。読んでいると周期的に睡魔が襲ってくる。しかし考えさせる中身をたくさんふくんでいる(だから余計に読書が進まない)

まずは段落を切って見出しをつけるところから始めよう。


はじめに 1955年という年

世界とアジアと日本にとって重大な会議が開かれた。それがアジア諸国会議(ニューデリー)とアジア・アフリカ会議(いわゆるバンドン会議)である。そしてこれらを受けて設立されたこのアジア連帯委員会・日本委員会である。

以下に『世界史における現代アジア』を考える上での手がかりを提示したい。

1.アジアというものがあるのか

ある学者(白人)が「アジアというものがあるのか」と問題提起をしている。それは「一つのアジアというものがあるのか。それは一つのものとみなす意味があるのか」ということをふくんでいる。

たしかにアジアはヨーロッパのような単一性を持たない。しかし一体性を持とうとしている、一つのアジアになろうとしている。いわば「アジア・ナショナリズム」のような形で一体感が形成されつつあるのではないか。

つまり現在の態様の問題としての一体性ではなく、その置かれた状況、したがって課せられた課題、それを実現していくという意識の問題として共通性をもっていると考えるべきであろう。

2.現代アジアの歴史的共通性

アジア(およびアフリカ)は共通の「思い出」を持っている。それは世界でもっとも古い文化と宗教を作り出したという「思い出」である。

文化も宗教もかつては共通性としては自覚されてこなかったが、ヨーロッパの進出と植民地化に伴い、「思い出」として共通されるようになった。

それは非ヨーロッパ性において共通性を認識することである。非ヨーロッパ的な文化の中に、それだけにとどまらない共通性を発見することである。

そして、失われた過去を取り戻すだけでなく、さらに自主的な発展を目指す営みにおける共通性を見出すことである。

3.ヨーロッパの支配は何をもたらしたか

ヨーロッパ人はまずアジアを政治的・経済的に支配し、搾取した。これに続発して、文化的な隷属と伝統の破壊がもたらされた。

さらに、アジア地域の間に存在していた経済・文化の交流が断ち切られた。

したがって民族解放を成し遂げた人々は自国の文化を興隆させるだけではなく諸国民との交流を通じて絆を回復し、さらに「一つのアジア」の実現に向けて努力しなければならない。

4.「一つのアジア」を実現するための2つの課題

アジア・アフリカ会議に出席した人の多くはこれらの問題意識を共有している。しかしそのためには2つの課題がある。

一つはそういう心構えが、どうすればアジア・アフリカ14億の人々(当時の人口)の本当の意識になるだろうかという課題。もう一つは他の世界の人々がそれを妨害する動きに出ないかということ、さらに言えば他の世界が「一つのアジア」を積極的に是認してくれるかということ、是認してもらうためにはどうしたら良いのかということだ。

この2つの課題は、アジア諸国が一つにならなければ実現不可能な課題である。アジアが一つだというのはまさにこの大事な問題意識においてである。

5.アジア諸国の協力 4つの柱

第一の柱が経済協力である。まず二つの前提がある。一つはアジアが経済的に大変遅れているという事実である。もう一つはアジアには資本も技術も不足しており、ヨーロッパなどからの協力が不可欠だということである。

しかしそれがアジアの主体性、自主性を壊すようなものであっては元も子もない。そのような国際協力を引き出すためには、まずアジア自身の相互協力が実現しなければならない。

それはわかるのだが、ではどう協力すればよいのか、その具体的な処方箋が見えてこない。そのような処方箋があるのかどうかさえわからない。いろいろな調査・研究が必要である。

第二の柱が文化交流である。ただし文化交流については以下の点を踏まえておく必要がある。

「古い時代にアジアには共通の文化があった」ということはない。少なくとも中国、インド、中東の文明は別なものであった。少なくともヨーロッパ文明のような一体性はなかった。このことは押さえておいたほうが良い。

第三の柱が独立の支持・支援である。ただし時代の性格上は独立の課題が全面に出るが、これは本質的には人権と自由の確立の課題である。

第四の柱は世界平和への貢献である。当時は第二次大戦が終わってからまだ十年、朝鮮戦争と第一次インドシナ戦争が終結した直後であり、2つの戦争の舞台となったアジアにとって平和の課題は有無を言わせぬ課題であった。そのことに留意しておく必要があるだろう。

こういうような問題の共通性によって、アジア・アフリカは一つに結び付けられている、というのが「一つのアジア」の具体的中身なのだろうと思う。

6.現代アジアの動きの世界史における位置づけ

このような現代アジアの動きは世界史の歩みの中でどういう位置を持っているのだろうか。それにはいままでのアジアの動きを見ていかなければならない。

中国共産党の歴史は決して毛沢東の歴史ではありません。
むしろ毛沢東は傍流であり、一地方活動家に過ぎませんでした。
共産党の活動が弾圧の中で追い詰められ、瑞金の「解放区」に逃げ込まざるを得なくなったことで、党内の力関係が変わっていったのです。
といっても長征が成功しなければ、上海の党中央も毛沢東の農村ゲリラも共倒れに終わっていたに違いありません。
そういう意味では中国共産党が蒋介石軍の攻撃を受けながらも生きながらえることができた点で、毛沢東の功績(とくに軍事的な功績)は大きいものがあると言っていいでしょう。
これらの経過については「毛沢東のライヴァルたち」という題名で年表を作成しています。このブログで数回に分けて掲載していますが、最終的には一本化してホームページの方に収録しているのでご参照ください。
この年表は増補に増補を重ねてずいぶん膨大なものになっています。「毛沢東のライヴァルたち」と言いながら、実際には辛亥革命から国共合作までが盛り込まれています。ここまで分厚くなると、余分なものを独立させて、別年表を起こしたくなります。
毛沢東のライヴァルたちの活躍は上海を舞台としています。そして31年で事実上は終わっています。彼らの多くは瑞金に逃れ「中央ソヴィエト」に参加しています。しかしそのイニシアチブは程なく失われ、その後は毛沢東の子分となっていきます。
だから瑞金以後は別年表にしなければなりません。そのためには、どう党内の力関係が変わっていったのかを跡付けなければならないし、それは「瑞金・長征年表」みたいな形で総括しなければなりません。
今その作業の真っ最中なので、とりあえずはごたまぜで「毛沢東のライヴァルたち」年表に突っ込んでおきますので、興味ある方はご覧ください。

ネットを検索していて面白い文章にあたった。

中国領海法制定過程についての再検証 

副題が-「尖閣諸島」明記をめぐる内部対立-

という論文で、著者は西倉一喜さんという人。当時、共同通信の北京特派員として現地で取材し報道した人である。

「龍法 '15」となっているので、おそらく2015年に龍谷大学の学術誌に発表したものであろう。

長い文章なので出だし部分だけ紹介する。小見出しは私のつけたもの。

はじめに

この論文は1992年2月に中国で成立した「中華人民共和国領海および接続水域法」の成立過程を再検証したものである。

事実関係の骨格

中国の外務省と軍部の間で尖閤諸島(釣魚島)の明記をめぐって対立があった。

国務院(日本の内閣に相当)の外務省の草案には尖閤諸島は明記されていなかった。これに対し軍部は島名の明記を要求した。

最終的に軍部の主張が通り、外務省作成の草案が修正された。

また領海法は、領海を侵犯する者に対し、実力行使に訴えても排除する権限を軍当局に与えた。

以上の経過を把握した筆者は記事として発表したが、これが現在も唯一の情報となっている。

取材の経緯

1992年はどういう年だったか

1992年2月25日、全人代常務委員会は領海法を全会一致で採択した。1992年はどういう年だったか。

①天安門事件を契機とする対中制裁包囲網の突破の試み、

②鄧小平の南巡講話による改革・開放路線の再加速への撒、

③冷戦崩壊にともなう共産主義イデオロギーの効果消失とナショナリズムの台頭、

④中ソ(ロ)和解による中国の軍事政策の内陸から海洋への重点移動、

(と、筆者は書いているが、一般的には、これらは未だ兆しに過ぎなかったと考えるべきであろう。時代には文革と天安門後の挫折感、沈滞感が色濃く漂っていた。この中で、上の4つの方向を目指して模索し呻吟していた年だったと私は考える)

黄順興・全人代常務委員の情報

西倉さんは領海法の背景を知るために全人代常務委員の黄順興と接触した。黄は台湾で統一派として活躍した後大陸に移り、台湾を代表する全人代常務委員に選ばれた人物である。

西倉さんは黄から内部文書を提供された。

これは「領海法(草案)に関する中央関係部門と地方の意見」と題されたもので、全人代常務委員会弁公室秘書局が作成したとされる。

作成の日付は92年2月18日となっており、機密扱いに指定されている。

西倉記事の見出し

この文書と黄の説明を元に、西倉さんは記事を作成し、2月27日付で発信した。見出しは下記の通り。

主見出し

尖閣諸島は中国固有の領土、中国政府が領海法に明記、

脇見出し

侵犯には武力行使も辞さず、日本との紛争発生の恐れも

サイド記事見出し

対日政策の運営困難、尖閣で軍と外務省が対立

解説記事見出し

保守、改革派の対立表面化

開放路線への反発か、中国領海法

というものであった。ほとんど見出しだけで言い尽くしている感もある。
これだけ見ても、いかに西島さんと共同通信本社がこの記事を重要視したかが分かる。

内部議論の動向

以下内部文書の細部の検討に入る。

草案2条(台湾の付属諸島)をめぐる議論

草案第2条は台湾の付属諸島を列記した箇所。草案では釣魚島が抜けていた。東沙群島、西沙群島、南沙群島は草案段階でしっかり入っている。

この草案に軍事委員会法制局が噛み付いた。これに総参謀部弁公庁、海軍司令部が同調した。各地方の一部代表も加わった。

法制局は「この問題で少しでも暖昧なところがあってはならない。立法化を通じて問題を明らかにすれば、今後の日本側との談判の中で、われわれは主導権を握ることができる」と主張した。

外務省は、「釣魚島は台湾の付属諸島とみなされる」としつつ、領海法には明記せず、「その他の方法」で釣魚島に対する主権を主張すべきだとした。

その理由として、「われわれは一面で領土主権を防衛するとともに、もう一面で外交上の摩擦をできるだけ減らさなければならない」と主張。

とりあえず日本との矛盾衝突を避け、有利な国際環境の確保に努めるよう提起した。

孤立した外務省

こういう論争で、外務省が勝てるわけがない。外務省はこう言うべきだったのだろう。「尖閣=釣魚島の帰属については日本とのあいだで係争中であり、互いに言い分がある。中国固有の領土と明文化するのは、両国関係から見ても好ましくない」

外務省は孤立し、軍部の要求に全面的に屈した。

以下略


この文章から分かること

1.政務院・外務省と軍は対立の構図にある

2.軍の志向は開放路線にタガを嵌めることにある

3.軍は排外主義のラインで動いている

4.本気でケンカすれば軍の方が強い

ということだ。

ただ、むしろ重要なのはこの「対立」が生まれたのが、91年から92年の初めにかけてだったということであろう。

中国は国のあり方をめぐって重大な分岐点にあった。それは天安門事件により先鋭化し指導部の中にすら亀裂が走った。

それが鄧小平のプラグマティックな路線でいわば糊塗されるのだが、深部の亀裂はそのままに残された。

軍は治安出動により「国を守った」という自負があるのだろうが、それで「中国革命は守られたのか、社会主義は守られたのか?」という深い問いがある。

天安門事件後の経過の中で、軍はますます強権への信仰と排外主義への傾斜を深め、それを社会主義と強弁することにより自らの存在価値を主張してきた。

つまり領土・領海の議論は、軍の“歪んだナショナリズム”の露頭なのである。軍にとってそれは天安門の評価に遡って、原理的に譲れない一線となっている。

党指導部は、軍の規律強化という形で整頓を図っているようだが、それは“歪んだナショナリズム”を一層強化する方向で働く可能性もある。

向こうが「原則」で来るなら、こちらも原則で対抗しなくてはならない。大事なことは、中国共産党が「万国の労働者・被抑圧民族は団結せよ」というプロレタリア国際主義の旗を一層高く掲げ、目指すべき社会主義の実を示すことではないだろうか。(もちろん天安門の評価そのものはいずれ避けて通れないだろうが)


中国の南沙問題、尖閣問題は軍隊まで繰り出しての衝突のためにメディアにも大々的に扱われているが、基本的にはローカルな問題である。

しかし鉄鋼のダンピング輸出は、世界経済を撹乱しかねない由々しい問題となっており、世界各国が批判を繰り返すなど国際問題に発展している。

あまりニュースに取り上げられないので、紹介しておくことにする。

勝又壽良の経済時評 が手頃で読みやすい。

1.米国国際貿易委員会(ITC)は、米国最大の鉄鋼メーカー「USスチール」の提訴を受け入れ、中国製の鉄鋼製品に対する全面的な禁輸措置を執ることができる法的根拠について正式に検討を始めた。

2.米国のルー財務長官は、中国の産業政策について批判。中国の過剰生産能力が、世界の市場を歪め悪影響をもたらしていると指摘した。そして供給過剰の目立っている鉄鋼やアルミニウムなどの生産を削減するよう強く求めた。

3.WTOは中国を「非市場経済国」に指定している。中国が過剰生産を規制しなければ、「非市場経済国」のまま据え置かれる可能性がある。

4.G7志摩サミットは中国の鉄鋼問題で、「市場を歪曲する」政府や支援機関への懸念を表明した。さらに対抗措置の可能性まで示唆した。

5.これを受けたOECDは、、対中包囲網の強化を打ち出そうとしている。

というのが現下の状況で、勝又さんは以下のコメントを添えている。

中国による鉄鋼の過剰生産は、各国にとって死活的な問題になっている。各国は、中国の野放図な経済成長の尻ぬぐいをさせられている

さらに、高い経済成長率を背景にした軍事費拡大で、中国が周辺国を威嚇している構図になっている。

しかし「なぜか?」という疑問には必ずしも答えになっていない。


 上海年表を作ったが、それだけは面白く無い。やはり一度読み物の形にして置かなければならないだろう。

上海租界の成立

1842年にアヘン戦争が終わった。新帝国は屈辱的な敗北を被った。その結果華中・華南の5つの港を開き、欧米列強との交易を迫られた。

同時に5つの港に租借地を置くことを認めさせられた。

当時上海は県庁が置かれただけの田舎町であったが、長江の河口に位置することから列強によって特別な重要性が置かれた。

イギリス商人の居留のため黄浦江河畔(バンド地区)に租借地が認められる。当初の区画は幅500メートル長さ1キロの小規模な居留地であった。ただし、その後拡張を繰り返し約10倍に拡大している他にアメリカ、フランスも租借地をおいた。

上海は列強の中国本土への進出拠点であるだけでなく、中国の海外に向けられた貴重な門戸となった。

太平天国の乱と治外法権の確立

開港後10年目に、太平天国の乱が起き、上海に迫る中で上海租界はその性格を大きく変えていく。

太平天国も、その一派で上海を包囲した小刀会も、租借地首脳に安堵を保証した。しかし清国の庇護が受けられないもとでは、租借地を自ら守るべく武装自衛が必要となった。

英・米・仏は共同した統治機構を作り、武装部隊を組織した。それぞれの国の租借地は「共同の租界」として自立した。これにより租借地の自治権は大いに高まった。(フランスはイギリス人の支配を嫌い後に離脱し、独自の租界を形成)

また戦争を避けて難民が一挙に流入したため、当初は長崎の出島のような外国人居留地に過ぎなかった上海租界は、中国人の混住する一つの街のような存在となった。

国際都市「上海」の誕生である。

20年後の1862年、今度は太平天国の本隊が上海を攻めてきた。これは事実上の戦争であったが、上海の共同租界軍は半年に我々たる攻撃を持ちこたえただけでなく、逆に太平天国に甚大な損害を与えた。敗れた太平天国は2年後に崩壊する。

上海が東洋一の大都市に

滅亡した太平天国に代わり北京の清朝政府が戻ってきた。上海の責任者となったのが日清戦争の談判でも有名な李鴻章である。

李鴻章は上海を窓口として文明開化と富国強兵策(洋務運動)に乗り出した。上海租界は列強の窓口として温存されただけではなく、富国強兵のための技術導入の門戸として重視された。

中国最初の近代的軍事工場「江南機器製造総局」が虹口に建設されるなど、急速に上海は中国の最先端都市として発展を遂げる。

これに呼応して列強も本格的な資本注入を開始する。まず香港上海銀行(イギリス系)がバンドに上海支店を開設し、欧米の金融機関が追随した。

郵便、電報、定期便、鉄道などの交通・通信インフラが整備された。電気が通じ水道が給水を開始した。それらは常に日本の文明開化に一歩先んじていた。東洋初、東洋一などの形容詞は上海のためにあったといえる。

日本の維新政府も列強の東洋における最大拠点たる上海にさまざまなアクセスを試みている。

すでに太平天国との戦闘さなかの62年6月、江戸幕府の雇った千歳丸が上海に来航している。この船には薩摩藩の五代友厚や長州藩の高杉晋作ら各藩の俊秀が乗り込んでいた。

維新直後の明治6年には、岩倉使節団が米欧歴訪の後、上海の市内を見学している。定期船が運行されるようになり、三井・三菱が上海に支店を開設した。

ライバル日本は官民挙げての文明開化と富国強兵であった。千歳丸も、いま考えれば幕府も随分太っ腹だが、“オールジャパン”みたいな空気があったことの証だろう。

中国の場合はあくまでも封建的な北京の清帝国の枠内の改革に過ぎず、常に反発と揺り戻しがあり、決してスムーズなものではなかった。そこが上海が特殊な都市にとどまった最大の理由であろう。

サンクチュアリとしての上海

上海の統治を行っていたのは、いわば“居留民の自治会組織”である。ビジネスマンの自治組織としての性格を残したまま、それは軍隊・警察を持ち司法機構を持つようになった。

そして戦争のドサクサで混住が認められるようになってからは、中国人という“異民族”支配をも行うようになった。

それらを法文的に整理したのが69年の第三次土地章程である。それは①協議機関を居留外人の評議会とし、予算審議、執行部の選挙権を持たせる、②工部局の行政機能強化、③租界在住の中国人に対する代理裁判権を柱としている。

これにより工部局という、名前のとおりビジネスライクな、きわめて風通しの良い行政府が形成されたのである。

租界の行政府は去る者は追わず、来る者は拒まず、人間は氏素性を問われれず、他所で何をしたかではなく、ここで何をしたかで評価される。租界の存立基盤にかかわらないかぎり、ずべての人が「善良な市民」なのである。

日清戦争敗北の衝撃

清帝国はその後も負け続けた。アロー号戦争でイギリスに敗れ、清仏戦争ではフランスに敗れた。

それでも遅ればせながら軍の近代化に着手し、東洋の覇者としての意地を見せようとした。しかし94年の日清戦争は最後の誇りすら無残に打ち砕いた。

も体制内改革派の立場に立った皇帝が西太后のクーデターにより幽閉されると、はや頑迷固陋の北京政府に頼むものなしとの声が上がった。義和団の乱が起こり、北京に攻め込んだ。

義和団の乱が列強の介入により挫折すると、反北京の動きは華中、華南に拡大した。上海はその中心となった。

その運動はいまから見るとかなり奇妙なものだった。日本の幕末の運動は尊皇攘夷として始まりやがて倒幕・王政復古と富国強兵に収斂して行ったが、中国の革命運動はとにかくまずもって異人種である清王朝を打倒し漢民族の自立を勝ち取ることに主眼が置かれた。

攘夷はとりあえずは脇に置かれ、まずは自彊が目標となった。そこには反封建の思想も強く盛り込まれた。広い意味では反帝反封建であるが、かなり脇の甘いものであったといえる。

そしてそのモデルとされたのが、戦争の相手である日本であった。日露戦争に日本が勝利するにいたり、日本への幻想はますます広がった。知識人はこぞって日本へとわたり、日本を通して西欧思想に触れることになった。

30年後に始まる日中戦争のことを考えるとき、これは中国人民にとってある意味で不幸な出会いであったかもしれない。

秋瑾 反乱の狼煙

1907年、秋瑾は光復軍を組織し武装反乱を企てたが、捕らえられ斬首されている。

秋瑾は武田泰淳の筆により著しく異なるイメージで伝えられている。秋瑾は馬賊の頭目ではなく中国革命と女性解放のヘラルドとして正当に評価されるべきである。

彼女は清朝の名門の生まれであり、当時としては最高級の知識を身につけている。彼女は上海とその周辺の開放的雰囲気で育ち、北京で義和団の闘争を目撃し、婦人運動に目覚め、解放運動の戦士たらんと決意し、日本にわたり当時最高の女子教育の洗礼を受けた。

当時、東京は中国改革運動の震源地であった。そこで留学生運動の一方の旗頭として、武装蜂起もふくめ最も断固たる立場をとった。

たしかに当時の中国でとりうる唯一の戦略は武装蜂起以外になかった。それはその後の歴史が証明している。

果てしない議論を繰り返す留学生たちに突きつけた匕首の切っ先は、その象徴としての意味を持っていた。

学半ばにして上海に戻った秋瑾は旺盛な文筆活動を開始する。その一方で戦士の結集と教育に意を注ぎ、浙江省に武装組織「光復軍」を組織するに至る。

秋瑾は決してたんなる一揆主義者ではないし、孤立した陰謀主義者でもなかった。

時を同じくして東京の孫文は中国革命同盟会を組織して武装革命の準備にとりかかっている。そして秋瑾の死後5年後の1912年には、武漢の武装蜂起を引き金に辛亥革命が成立する。そういう怒涛の時代なのである。

残念ながら機が熟せぬままに陰謀が発覚し、刑場の露と消えていくのであるが、その思いはまさに中国の近代化を目指す流れの本流にある。

ここで押さえておきたいのは、秋瑾の運動にせよ辛亥革命にせよ、すべからく清朝末期の革命運動は上海を揺籃の地としていることである。それこそが上海が「魔都」となる所以であろう。

東洋一の大都会への成長

そのような中国の革命運動など知らぬげに、上海はますます殷賑を極め、東洋一の大都会へと成長していく。

共同租界中心部では建築ラッシュが始まった。中央区と西区(旧イギリス租界)では、バンド地区に各国の領事館や銀行、商館が並ぶ。絵葉書でお馴染みの光景である。バンドに直角に交わる南京路には路面電車が走り、ビック・フォーと呼ばれる百貨店が立ち並ぶ。

フランス租界の表通りは高級住宅街となる一方、裏通りには茶館、妓館、アヘン窟が集中する。まさに「魔窟」である。

 

辛亥革命と上海

秋瑾の死後4年にして清帝国に対する本格的反乱が始まった。11年の11月、武装蜂起が武漢で成功した。ほぼ同時に上海でも軍の反乱が発生した。陳其美将軍の率いる反乱軍はたちまちのうちに上海の華界を支配下に置いた。租界当局(工部局)はこれに呼応して租界内の司法権を全面掌握した。

12年の1月、東京の孫文が上海を経由して南京に入り、中華民国臨時政府の臨時大総統に就任した。しかし革命軍の勢いもここまでであった。上海軍は孫文の言うことに従わず、革命派を弾圧、要人を次々と粛清した。いっぽうで北京の軍部との間合いを図った。

2月には清朝皇帝が退位し袁世凱将軍が臨時大総統に就任した。皇帝は退位したものの、これまでの統治機構はそのまま温存された。

中国のもっとも重要な軍事拠点は上海華界の軍事工場軍「江南製造総局」であった。袁世凱はこの拠点を手放すつもりはなかった。

半年にわたるにらみ合いと小競り合いの後、陳其美は上海独立を宣言し、江南製造総局を攻撃した。攻撃は跳ね返され、陳其美は日本に亡命する。

こうして上海は引き続き北京政府の支配下に置かれる事になり、孫文もまた南京を去った。

1920年前後の上海

辛亥革命の流産後、革命派にとってはしばらく雌伏の時が続く。反清闘争のスローガンは「討袁」へと変わった。

孫文や陳其美はひそかに上海に入り、反乱を企てテロを繰り返したが、17年に陳其美が暗殺されるにおよび、こうした革命活動は困難となった。

もう一つが日本資本の急速な進出である。上海在留外国人の多くを日本人が占めるようになった。日本資本の繊維工場が相次いで建てられ、多くの中国人を使用した。

日本は第一次大戦に乗じて、「21ヶ条要求」を強要した。これにより中国人の反日感情が高まり、それは19年の北京での「五四運動」につながっていく。この闘争は北京政府の弾圧により弾圧されたが、遠く離れた上海では大規模な抗議行動に発展していった。

それは工場労働者、学生、商店の3つの勢力が合体したものであり、近代都市上海の階級的性格を反映したものとなった。そしてその闘争は共産主義運動と結びつく定めにあった。

共産党の設立経過などについては「毛沢東以前の共産党」に詳述してあるため、ここでは割愛する。

企業の上海進出に伴い、日本の文筆家も相次いで上海を訪れるようになる。その嚆矢となったのが21年に新聞社特派員として派遣された芥川龍之介である。

芥川自身はあまり作品を残さなかたようであるが、文士仲間には相当吹聴したらしい。まもなく村松梢風が上海に来訪。2ヶ月にわたり滞在した。帰国後発表したのが『魔都』である。ここから「魔都上海」の名が広がるようになった。

これについては「上海年表 補遺」をご参照いただきたい。また内山書店もこの頃から営業を開始し、文化の窓口として、また中国文化人の庇護役として貴重な役割を果たした。これについては「内山完造の動き」をご参照いただきたい。

魔都上海年表の補遺です

1923年、長崎港と上海の日本郵船匯山碼頭を結ぶ「日華連絡船」が就航した。

この年、村松梢風がはじめて上海へ渡る。2ヶ月にわたる滞在後、「不思議な都『上海』」を発表、のちに『魔都』と改題され出版される。

ただその中に立って私は歓喜に似た叫びを挙げているのである。華美に眼眩み婬蕩(いんとう)に爛れ(ただれ)、放縦に魂を失ってしまったあらゆる悪魔的生活の中に私は溺れきってしまった。

そうして、歓びとも、驚きとも、悲しみとも、なんとも名状しがたい一種の感激に撲(う)たれてしまったのである。

それは何故だろうか?只、私を牽き付けるものは、人間の自由な生活である。其処には伝統が無い代りに、一切の約束が取り除かれてゐる。人間は何をしようと勝手だ。気随気儘な感情だけが生き生きと露骨にうごめいてゐる。

そして、村松以後上海を訪れた者は、ここを魔の棲む場所「魔都」と呼 び、日本人の上海のキーワードとして「魔都」が定着することになる。(森田靖郎)

当時の上海租界はパスポート不要で入国できたし、厳密な戸籍管理も為されていなかった。

アジアにありながらヨーロッパのモダニズム文化に触れることもできる国際都市、高層ビル群と繁盛を極める茶館、裏通りを1本入ればナイトクラブやショービジネスの世界、そしてアヘン窟。賑やかさの裏側にのぞく危険な香り…

知識人たちがすっかり蠱惑したのも頷ける。

1927年、金子光晴が2年に及び滞在。「上海ゴロ」と呼ばれた底辺層を生きる日本人居留民の姿を浮き彫りにする。

今日でも上海は,漆喰と煉瓦と,赤甍の屋根とでできた,横ひろがりにひろがっただけの,なんの面白味もない街ではあるが,雑多な風俗の混淆や,世界の屑,ながれものの落ちてあつまるところとしてのやくざな魅力で衆目を寄せ,干いた赤いかさぶたのようにそれにつづいていた。

高見順の浅草モノみたいなものですかね。

上海歴史地図 その他より作成

1842年

6月 アヘン戦争が終結。南京条約が締結される。上海、広州、福州、厦門、寧波の5港の開港と香港の割譲を認める。上海は対外通商港として開港する。

44年 イギリスに続き、アメリカ・フランスが清と条約を締結。上海を対外通商港とする。

45年11月 第一次土地章程(Land Regulations)が締結される。

イギリス商人の居留のため黄浦江河畔(バンド地区)に租借地が認められる。当初の区画は幅500メートル長さ1キロの小規模なもので、長崎の出島のレベルであった。その後拡張を繰り返し約10倍に拡大。

49年 アメリカ租界、フランス租界が認められる。アメリカ租界はイギリス租界の北側、フランス租界は南側に設定される。

49年 上海—ロンドン間の定期航路の運行が開始される。

1851年1月11日  華南の新興宗教結社「拝上帝会」が武装蜂起。国号を「太平天国」とし、教祖の洪秀全はキリスト教に帰依し自身を天王と称した。

1853年

1月 太平天国軍、武昌を陥落させる。

3月 太平天国軍、江寧(南京)を陥落させ、ここを天京(てんけい)と改名し、太平天国の王朝を立てる。太平天国軍は20万以上の兵力にふくれあがる。纏足の禁止や売春の禁止、女性向けの科挙などを実施。

4.27 英国公使ボンハムが南京を訪問。太平天国にも清国にも中立であることを告げる。

5月 太平天国軍が上海に迫る。イギリス、フランス、アメリカは共同し上海地方義勇隊を組織。義勇隊はのちの万国商団(Shanghai Volunteer Corps)となる。

5月 福建省の秘密結社「小刀会」が蜂起。廈門に政権を樹立するに至る。税の免除と太平天国との連携を宣言。

9月 上海でも小刀会が蜂起した。上海知県の袁祖徳を殺害。1年半にわたり上海県城(フランス租界の南側)と周辺の嘉定・青浦を占領する。「反清復明」という目的、租界を攻撃せずの言明があり、アメリカ・イギリス・フランスは中立の姿勢をとる。

9月 小刀会の蜂起の結果、2万人を超える中国人難民が租界に流入し、上海は無国籍地帯と化す。

1854年

4月 清軍と上海地方義勇隊(米英人居住者による自警団)が衝突。泥城浜で激戦となる。小刀会が自警団側に加勢し、清側は300人の死者を出す敗北を喫する。

7月 イギリス領事オールコックは、米仏領事と協議し第二次土地章程を公布する。7名の選挙で選ばれた参事が、すべての自治権と行政権を握る。参事会のもとに「工部局」が創設され、行政一般の実務を担う。中国側には事後通告のみ。

内容としては①イギリス租界の拡張、②中国人の雑居の黙認、③三国領事の協議による運営・工部局(執行機関)と巡捕(警察)の設置である。工部局は後に租界の行政管理機構となる。

12月 清は上海の税関と租界の権益を条件にアメリカ・イギリス・フランスの支持をもとめる。

1855年

2月 清軍と清側の提案に応じたフランス軍とが県城を攻略。小刀会残党は太平天国領に逃れる。

2月 中国人の租界での居住が許可され、「華洋雑居」が始まる。

1856年

6月 一旦劣勢に陥った太平天国軍がふたたび攻勢に出て、江北・江南に基盤を確立。

10月 アロー号事件が発生。第二次阿片戦争が始まる。

10月 英国の治外法権が確立。領事法廷、監獄などが設置される。フランスもこれに続く。

1860年

8月 太平天国軍が第1次の上海攻撃。上海の官僚と商人は、西洋式の銃・大砲を整え租界にいた外国人を兵として雇用する。アメリカ人ウォードを指揮官とする「洋槍隊」が創設される。

10月 北京条約が締結される。欧米諸国は清朝につき、太平天国に敵対するようになる。

1861年

「洋槍隊」が「常勝軍」と改名。中国人を5千人ほど徴兵。

1862年

1月 太平天国軍の第二次上海攻撃。半年にわたる。

5月 英仏海軍が太平天国軍の拠点であった寧波を砲撃。山側から迫った清軍が市内に突入。この一連の戦闘で常勝軍隊長のウォードが戦死。イギリス人チャールズ・ゴードンが指揮官に就任する。

5月 イギリス主導を嫌うフランスは独自の執行機関「公董局」を設立。

6月2日 江戸幕府の御用船千歳丸が上海に到着。薩摩藩の五代友厚や長州藩の高杉晋作ら各藩の俊秀が、2ヶ月にわたり情報収集にあたる。

8月 太平天国軍の第三次上海攻撃。11月まで続く。

1863年

3月 江蘇巡撫の李鴻章、洋務運動を展開。外国語学校の上海同文館を創設。

9月 英米租界が工部局のもとで正式に合併し、名前も「共同租界」と変更する。この時点で租界部の外国人人口は6千6百人。

1864年

7月 天京(現南京)が陥落し太平天国の乱は終結。この時城内の20万人が虐殺されたという。

1865年 

4月 香港上海銀行(イギリス系)がバンドに上海支店を開設する。この後、欧米の金融機関が本格的に上海進出を果たす。

5月 中国最初の近代的軍事工場「江南機器製造総局」が虹口に建設される。

69年 『土地章程』を再改定し、『第三次土地章程』を発布する。①協議機関を居留外人の評議会とし、予算審議、執行部の選挙権を持たせる、②工部局の機能強化、③租界在住の中国人に対する代理裁判権を実現する。フランス租界もこの制度を追随。

70年

パシフィック・メール社、上海—長崎—横浜間の航路を開設。

71年 

大北電報公司が上海—香港間、上海—長崎—ウラジオストック間の海底ケーブルを敷設。香港経由でロンドンまで電信が開通する。

72年

1月 日本が領事館を開設。

73年 日本の岩倉使節団が上海の市内を見学。

74年

5月 日本から人力車(東洋車)300台が輸入され営業開始。

75年

2月 三菱汽船がフランス租界で開業。2年後には三井洋行(三井物産)が福州路に支店を開設。

76年

7月 上海—呉淞間に最初の鉄道が開業。住民の反対運動が起こり、清朝政府が買い上げて撤去。

81年

上海—天津間に電信線が開通。

82年

2月 大北電話公司が中国最初の電話交換所を設立。

7月 イギリス資本の電気会社、上海電光公司が発電を開始。大馬路、黄浦公園などに電灯が点灯。

83年

5月 イギリス資本の水道会社が公共租界と虹口地区に給水を開始。

84年

8月 清朝政府がフランスに宣戦布告(清仏戦争)。フランス租界の管轄をロシア領事が代行。

85年

日本郵船、三井洋行が支店を開設。

90年

6月 最初の日本語新聞、『上海新報』(週刊)が創刊。1年で停刊。

8月 江南製造局で労働時間延長に反対して約2000人の労働者が上海最初のストライキを行う。

* 共同租界中心部の建築ラッシュが始まる。フランス租界には茶館、妓館、アヘン窟が集中する。中央区と西区(旧イギリス租界)では、バンド地区に各国の領事館や銀行、商館が並び、これに直角に交わる南京路には、ビック・フォーと呼ばれる百貨店が立ち並ぶ。

93年

5月 貿易金融を専門とする「横浜正金銀行」が上海に支店を開設。

94年

3月 朝鮮開化党の指導者金玉均、市内で暗殺される。

8月 清朝が日本に宣戦布告。日清戦争が始まる。上海の領事団は中立を宣言。

96年

1月 康有為が主催する上海強学会が発足。維新派の政治団体として活動するが3週間で清朝政府により閉鎖。

97年

5月 中国最初の民間銀行、「中国通商銀行」が開業する。

98年

6月 北京の清朝政府、変法維新の詔勅を発布。「戊戌変法」と呼ばれる。3ヶ月後に西太后がクーデターを起こし、皇帝を幽閉。

7月 フランスの道路建設に反対する住民のデモにフランス軍水兵が発砲。17名の死者が出る。清朝政府はこれを罰せず。

8月 上海—呉淞間に鉄道が開通。

20世紀

00年

9月 華北で義和団の反乱が起こる。列強は8カ国連合軍を形成。

00年 上海の万国商団、海関隊を組織。日本人も加入。

01年 上海に初めて自動車が登場。香港からフォード車を2台搬入する。

02年

4月 上海で中国教育会が成立。蔡元培、章炳麟、蒋智由らが発起人、蔡元培が会長をつとめる。200名余りの学生を集め愛国学社を設立。

03年

4月 ロシア軍が東北三省へ侵入。これに抗議して愛国学社の師弟96名が「拒俄義勇軍」を組織。

6月 鄒容、章炳麟ら、革命を鼓吹する文章を発表し逮捕される。鄒容は1905年に獄死。

04年

2月 日露戦争が開始。上海道台は上海を中立区とすることを宣言。

11月 浙江省出身者を中心に光復会が結成される。会長は蔡元培、副会長は陶成章。蔡元培は秋瑾の入会を認めなかったという。

05年

8月 中国革命同盟会(孫文)が日本東京で成立し、蔡元培が上海分会会長となる。アメリカの中国人移民制限法に抗議してアメリカ製品ボイコット運動を展開。

11月 上海・横浜・米国間の海底ケーブルが開通。

12月 「会審公廨事件」発生。イギリス副領事兼陪審官のトィーマンの横暴への抗議運動に対し警官が発砲。死者11人を出す。

05年 北四川路方面の開発が進む。虹口公園が北四川路奥に完成。

06年 パレスホテルが落成。

上海1906
1906年の上海 

07年

1月 『中国女報』(月刊)が創刊。秋瑾が主筆を務める。秋瑾は「光復軍」の組織と武装蜂起の準備を進めたが、7月に紹興で逮捕、処刑された。遺句「秋風秋雨、人を愁殺す」

4月 『神州日報』が創刊。革命派の主張を展開。

6月 上海城内の阿片館が政府の禁令に従って一斉に営業停止。各国領事も公共租界内の阿片館を段階的に閉鎖することを決定。

08年

路面電車が公共租界、フランス租界で営業開始。最初の鉄筋コンクリート建築。電話の通話業務を開始。上海—南京間に鉄道が開通。9月 タクシー(出租汽車)の営業が始まる。上海最初の映画館(虹口影戯院)が落成。東本願寺が建立。

09年 

10月 革命派の文学団体「南社」が結成される。翌年には革命派の新聞『民立報』(日刊)が創刊。宋教仁らが筆を振るう。

1911年

1月 黄浦江に浦東とを結ぶ官営フェリーの運航が始まる。

1月 断髪会が挙行され、1,000人余りが弁髪を切る。

2月 フランス人ファロンの操縦する飛行機が初めて上海の空を飛ぶ。

7月 中国革命同盟会の中部総会が上海に成立。

8月 江亢が社会主義研究会を組織。

10月 武昌で武装蜂起に成功。11回目の蜂起となる。その後全国に蜂起が拡大。24省中15省が清からの独立を宣言。辛亥革命が勃発。

10月 日本の内外棉株式会社が最初の工場を開設。

11月03日 上海でも革命軍が武装蜂起。閘北を制圧後、城内に侵攻し警察を占拠。翌朝までに上海の華界を支配下に置く。

11月03日 革命軍、滬軍都督府を開く。陳基美が滬軍都督に就任。

11月12日 工部局(列強機関)が会審公廨を管理することを宣言。清朝政府は租界内の司法権を失う。

11月 中国革命同盟会の会員だった北一輝が上海に渡る。

12月25日 孫文が上海に到着。自宅に同盟会の幹部を召集し臨時政府方案を策定。

孫文は蜂起を扇動して、敗れると海外亡命。そのたびに華僑から資金を獲得し再起する。このため「孫のホラ吹き」(孫大砲)とあだ名される。 

1912年

1月1日 南京で中華民国臨時政府が成立。孫文が臨時大総統に就任。

1月14日 光復会の領袖、陶成章が暗殺される。陳其美が蒋介石に暗殺を指示したとされる。

2月12日 北京で清帝(宣統帝)が退位。清朝が滅亡。袁世凱が臨時大総統に就任。上海は引き続き北京政府の支配下に置かれる。

3月20日 上海の革命派指導者の宋教仁が暗殺される。宋教仁は同盟会の領袖の一人で、新政府の内閣総理の有力候補者だった。追悼会の参列者は3万人にのぼる。

5月29日 徐企文に率いられた中華民国工党の武装部隊がを襲うが失敗に終わる。

7月18日 陳其美が上海独立を宣言。討袁軍が南市、龍華一帯を制圧後、江南製造総局を攻撃するが失敗。陳其美は租界に逃げ込み、日本に亡命。

11月 梅蘭芳が初めて上海で公演。上海中の評判となる。

1914年

4月 劉師培、無政府共産主義同志会を結成。

8月 第一次世界大戦勃発。中国政府は中立を宣言。

1915年

3月 日本が「21ヶ条要求」を強要。袁世凱はこれを受諾。日本に抗議する国民大会が開かれ3万人が参加。上海の埠頭労働者は日本郵船の仕事を拒否。

9月15日 陳独秀ら、『新青年』(原名は『青年雑誌』)を創刊。「文学革命」を牽引する。

10.29 陳其美が密かに日本から帰国。フランス租界に中華革命党の組織総機関部を設ける。

11.10 上海鎮守の鄭汝成、中華革命党員に暗殺される。

12. 5 陳其美率いる中華革命党が武装蜂起するが、失敗に終わる。

12.12 袁世凱が北京で皇帝即位を宣布。孫文は「討袁宣言」を発表。

15年 栄宗敬、栄徳生兄弟が申新紡績公司を設立。最大の民族資本の紡績会社となる。

1916年

5. 孫文が日本から帰国し、上海(フランス租界)で「第二次討袁宣言」を発表。

5.18 陳其美が暗殺される。北京政府の弾圧のため上海での活動は困難となる。

6. 7 北京で袁世凱が死去。黎元洪が大総統に就任。

1917年

1. 『新青年』が胡適の「文学改良芻義」を発表。「文学革命」の嚆矢。『新青年』の編集部は陳独秀の北京大学文化学長就任にともない北京に移ったが、印刷発行は上海で行われた。

7. 3 孫文、章炳麟、唐紹儀らが協議。上海から広州へ南下し、護法運動を展開することを決定。

11月 ロシア革命が成立。

内山完造が四川路魏盛里に内山書店を開店

1918年

6.26 孫文が上海に戻る。

7.16 日本水兵の暴力沙汰に端を発し、日本人居留民が中国人警官と衝突、日本人2人が死亡、中国人警官4人が負傷。日本居留民団は日本総領事に日本人警官の配備強化をもとめる。

1919年

3.17 フランスへの勤工倹学留学生の第一陣89人が船で出発。毛沢東が胡南出身学生の見送りのために初めて上海に来る。

4.11 大韓民国臨時政府がフランス租界に成立。「三一独立運動」後に上海に亡命した29人が臨時議会と臨時政府の樹立を宣言。

5. 7 北京で「五四運動」が発生。学生の愛国運動を支援する集会に2万人が参加。商店が日本製品ボイコット運動を始め(罷市)、学生が授業を放棄して反日の宣伝活動を展開(罷課)。

6. 5 上海の労働者が北洋政府の学生弾圧に抗議してストライキに入る(罷工)。「罷市」「罷課」「罷工」の「三罷」闘争が展開される。

6.16 全国21地区の学生代表50数人が上海に集まり全国学生連合会が成立。

7. 1 ベルサイユ条約に中国政府代表が署名。市民約11万人が抗議大会を開く。

9.  『新青年』が「マルクス主義専号」を出す。

10.10 孫文、中華革命党を改組し中国国民党とする。

1920年

1.  公共租界の中国人商店の組織、上海各路商界連合会が参政権を要求して納税拒否。

4.  コミンテルンの派遣したヴォイチンスキー(維金斯基)が上海に入る。中俄通信社の看板を掲げ、北京から移転した陳独秀と会見するなど活動を開始。

5. 5 毛沢東が二度目の上海来訪。約二ヶ月滞在。

8.  上海共産主義小組が成立。本部を陳独秀の家に置く。『新青年』の編集部も兼ねる。

8.22 上海社会主義青年団が成立。

8.  『共産党宣言』中国語版が新青年出版社から出版。陳望道が日本語版から翻訳。

9.「新青年」、上海共産主義小組の機関誌となる。

11.21 上海機器工会が成立。上海共産主義小組の指導の下に組織された最初の労働組合。

* 日本人の大量進出が始まる。共同租界の北区(虹口地区)と東区(旧アメリカ租界)は、ほとんどが日本人に占められた。

1921年

1.  茅盾が『小説月報』の編集主任となり、「改革宣言」を発表。

3.30 芥川龍之介が大阪朝日新聞の特派員として上海に来訪し、5月17日まで市内各所を遊歴。

7.23 中国共産党第一回全国代表大会(~30日)。会場は李漢俊の家。

8.11 中国労働組合書記部が成立。中国共産党が組織した労働運動の指導機関。

12.13 『婦女声』(半月刊)を上海中華女界連合会が創刊。共産党の女性向け雑誌。

1922年

2.  平民女校が設立される。共産党の女性幹部養成のための学校。校長は李達。陳独秀、陳望道、茅盾などが教師をつとめる。年末には閉校。

7.16 中国共産党第二回全国代表大会(~23日)。会場は李達の家

8.13 上海最初のバスの運行が始まる。

8.23 李大創、孫文宅を訪れ会談。共産党員として初めて国民党に加入(二重党籍)。

10.23 上海大学が成立。共産党の運営による大学。于右仁が校長、履中夏が校務長、瞿秋白が教務長を務める。

1923年

1.23 上海で中国最初のラジオ放送。3ヶ月で停業。

1.26 孫文とソ連大使ヨッフェが孫文宅で会見。「孫文・ヨッフェ共同宣言」を発表。

10.20 『中国青年』(週刊)が創刊。中国社会主義青年団の機関誌。履中夏、@代英などが編集。

11. 1 上海書店が開業。中国共産党の出版機構。

*  日本郵船が上海—長崎間の定期運航を開始。

* 芥川龍之介、毎日新聞記者として上海に渡る。村松梢風が2ヶ月にわたり上海に滞在。翌年、『魔都』を発表。

1924年

1.  国民党が国共合作を決定。

6. 毛沢東が上海での生活を始める。

9.  江浙戦争勃発。斉燮元・孫伝芳軍が上海に進駐。

12.  旧ロシア領事館にソ連領事館が開設される。

1925年

1.11 中国共産党第4回全国代表大会(~22日)。

2. 9 日本の内外棉工場で争議が発生。現場監督の暴力に抗議して9千人の労働者がストライキに突入。他の日系の21工場に波及し、約4万人が参加。工場側が要求の一部を受け入れて終結(~31日)。

3.12 孫文が北京の停戦会議に出席中に急死。4.12の追悼大会に10万人が参加。

5.15 内外棉工場で警備員の発砲により労働者代表の顧正紅が死亡、10数人が負傷。

5.30 「五・三〇事件」発生。公共租界各所で反日の宣伝活動を行った学生100人余りが逮捕される。

5.30 学生逮捕に抗議して押しかけた学生、市民に警官が発砲、13人が死亡、多数が負傷。

5.31 抗議運動の中で上海総工会が成立。執行委員長李立三の指揮の下に全市20万人の労働者のストライキを行う。

6. 4 中国共産党が『熱血日報』を発行。瞿秋白が編集を担当。鄭振鐸、葉聖陶、胡愈之などは『公理日報』を発行し、反帝闘争を呼びかける。

6.12 五・三〇死難烈士追悼大会に20万人が参加。

6.22 奉天軍が上海に進駐。戒厳令を敷き、集会、デモを禁止し、総工会などを封鎖。

7.  広州に国民政府が成立。

10.16 奉天軍が撤退し、孫伝芳軍が上海に進駐。戒厳令が解かれる。

1926年

3月 北京で「三・一八事件」が発生。

3.  金子光晴が初めて上海に来る。

10.24 上海第一次武装蜂起が失敗に終わる。

11.  南国電影劇社がソ連映画『戦艦ポチョムキン』の試写会を開催。ソ連映画が初めて紹介される。

1927年

1. 1 公共租界の会審公廨の閉鎖が決定。上海公共租界臨時法院が成立

2.19 上海の労働者がゼネストに突入。ついで第二次武装蜂起を決行するが、失敗に終わる。

3.21 第三次武装蜂起。激闘の末に孫伝芳軍を駆逐、白崇禧率いる北伐軍を迎え入れ、上海臨時特別市政府を樹立。

4.12 蒋介石が「四・一二クーデター」を発動、各所の総工会、工人糾察隊の拠点を襲撃して労働者の武装を解除する。

社会主義的労働運動の台頭を懸念した浙江財閥が、蒋介石と提携し「上海クーデター」を決行したとされる。

4.13 工人糾察隊を中心とするデモ隊に蒋介石軍が発砲、多数の死傷者が出る。

4.18 蒋介石が南京に国民政府を樹立。以後、共産党とその支持者に対する弾圧(清党)を行う。

4月 茅盾が虹口に隠れ住み、中編小説『幻滅』を書く。その後葉聖陶、のちに周建人(魯迅)が虹口に移ってくる。

7.07 上海、中華民国(北京政府)の特別市となる。 上海の人口が360万人に達する。工部局職員は7千名、租界警察も5千人に達する。日本人数は2万6千人に達し、外国人中最多となる。虹口(ホンキュウ)が最大の拠点として日本人街化する。

10. 5 魯迅が初めて内山書店を訪れる。

10.24 共産党機関誌として「ボルシェビキ」が創刊される。編集委員会主任は瞿秋白。32年まで存続する。

12.01 蒋介石と宋美麗が結婚。マジェスティックホテル(大華飯店)で披露宴。当時下野していた蒋介石を支援するために、上海で秘密結社「中央倶楽部」(Central Club)が結成される。陳果夫、陳立夫兄弟が指導。のちにCC団と呼ばれるようになる。

1928年

4.  横光利一が上海を訪問。帰国後、長編小説『上海』を執筆。

5. 3 「済南事件」が発生。日本軍が山東省済南を占領。これに抗議して学生、市民、労働者が反日運動を展開。

5.22 約200人の日本軍兵士が在留日本人の保護を理由に虹口を武装行進。

5.30 「五・三〇運動」三周年を記念して南京路で約1万人の反日デモが行われる。

8.  中国共産党中央政治局、商店を装って開設。周恩来が執務する。1931まで存続。

11.  尾崎秀実が大阪朝日新聞上海支局に着任。この年エドガー・スノーも上海に入る。

* 中国人納税者会の運動の結果、参事会に中国人枠(定員9名中3名)が認められる。租界税収の55パーセントは中国人によるものであった。また共同租界内とフランス租界内の公園が中国人にも開放される。

1929年

4.28 国民党政府、上海総商会を閉鎖。新たに上海市特別総商会を作る。のちに上海市商会と改称。

5.  アグネス・スメドレーが上海に来る。同じ年、エドガー・スノーも上海で新聞記者の活動を開始。

7. 8 上海—南京の航空路線が運行開始。中国最初の航空路線。

8.24 彭湃が上海市内で逮捕される。30日に処刑。

1930年

1.  ゾルゲが上海に来る。

2.16 魯迅、馮雪峰、田漢、夏衍、鄭伯奇、蒋光慈など12人が左翼作家連盟の準備委員会を立ち上げ。

3. 2 中国左翼作家連盟(略称:左連)が中華芸術大学で成立大会を開く。

5. 6 @代英が上海市内で逮捕される。翌年に処刑。

7. 1 上海特別市が直轄市となり上海市に改称。

上海1930
            上海 1930年

10. 4 魯迅と内山完造、世界版画展覧会を開催。

10. 9 国産品ファッションショーがマジェスティックホテルで開かれる。

10.  中国左翼文化界総同盟(略称:文総)が成立。総書記は潘漢年。

11. 8 「日支闘争同盟」が市内の建物に反戦スローガンを書く。「日支闘争同盟」は日本人記者、学生、中国人同志からなる反戦組織。

* 青幇(チンバン)、杜月笙の下で最盛期を迎える。杜月笙は「夜の帝王」と呼ばれる。

1931年

1.17 左連のメンバー36人が逮捕される。その内の24人が処刑される。

1.  鹿地亘が剣劇団にまぎれこんで上海に渡る。

6.  瞿秋白が上海市内に潜入。

6月15日 ヌーラン(牛蘭)事件が発生。プロフィンテルンの上海支部のイレール・ヌーランが共同租界警察により逮捕される。

8.17 @寅達が上海市内で逮捕され、処刑される。@寅達は中国国民党臨時行動委員会(別称:第三党)の領袖であった。

9.18 満州事変が勃発。

9.20 湖風書局が開業。左連の雑誌を刊行。

9.22 5千人参加の反日市民大会、「上海抗日救国連合会」の結成を宣言。日本軍の駆逐と占領地の回復、救国義勇軍の組織、対日経済断絶を決議する。

9.24 3万人の港湾労働者が反日ストライキに突入。約10万人の学生が授業をボイコットして反日運動を展開。上海全市で反日・抗日運動が展開される。

9.26 800の団体の20万人が抗日救国大会を開く。郵便、水道、電気、紡績、皮革など約100の労働組合がストライキに入る。

10.13 上海抗日救国連合会、日本および日本人との関係断絶を決議。日貨検査隊が組織され、日貨を扱った中国商人は容赦なく処罰される。

10月 『支那小説集阿Q正伝』が日本で出版される。

10.27 南京、広州両国民政府が上海で「南北和平統一会議」を開催。

12. 6 北上して抗日軍に加わる280人余りの青年が出発。1万人が見送る。

* ニム・ウェールズ(寧謨・韋爾斯 Nym Wales)が上海に来る。ニム・ウェールズの本名はヘレン・フォスター・スノーでエドガー・スノーの妻。上海でジャーナリストとして活動中、招請を受け37年に延安入りした。

1932年

1. 1 蒋介石と汪精衛の合議により新国民政府が成立。1月5日に広州政府を解消。

第一次上海事変

1.18 日蓮宗(妙法寺)の托鉢寒行の僧侶が楊樹浦で中国人に襲撃され、1人が死亡、2人が重傷を負う。この事件をきっかけに日中両軍が臨戦態勢に入る。

上海公使館附陸軍武官補田中隆吉の証言: 板垣大佐に列国の注意を逸らすため上海で事件を起こすよう依頼された。これに従って自分が中国人を買収し僧侶を襲わせた。

1.22 日本は巡洋艦2隻、空母1隻、駆逐艦12隻、925名の陸戦隊員を上海に派遣。駐留部隊1千に加え増援部隊1700名を上陸させる。

1.28 第一次上海事変が勃発。日本海軍陸戦隊、虹口から北四川路に進出し、閘北一帯で19路軍と戦火を交える。市民の支援を受けた第78師が、国民政府の戦闘回避の指令を無視して抗戦。市街戦が始まる。

1.31 日本軍は、巡洋艦4隻、駆逐艦4隻、航空母艦2隻、陸戦隊約7000人を追加派遣。

2.02 予想外の苦戦に驚いた日本政府は、陸軍第9師団と混成第24旅団の派遣を決定。国民政府も第5軍(第87師、第88師など)を作戦に加える。

2.22 総攻撃が開始される。作戦は多大な犠牲者を出し難航。このため新たに上海派遣軍(第11師団、第14師団その他)が編成される。

3.01 満州国建国宣言。

3.02 日本軍増派を受けて、第十九路軍は後方に総退却、事実上の終戦。 日本人在留民自警団による暴行・虐殺が非難を浴びる。中国人難民が租界へ流入。路上には病死・凍死者が屍を晒す。

3.06 国民政府、停戦声明を発表。

3.24 上海市内のイギリス領事館で日中停戦談判が始まる。

3.  藍衣社が成立。正式名は中華民族復興社。ファシストの黒シャツに真似た青シャツを制服としたことから藍衣社と呼ばれる。

戴笠(たいりゅう)が中心となり、黄埔軍官学校出身者を組織化。蒋介石の親衛隊と位置づけられた。政治結社であるCC団とは異なり準軍事組織としての性格が強い。
在中ドイツ軍事顧問団団長のハンス・フォン・ゼークトの指導を受け、日本軍占領地の破壊ゲリラ活動、親日政府要人暗殺などの抗日テロ活動を行う。
南京に本部を置く。上海支部は南市、閘北、フランス租界、公共租界の四つの情報班と一つの行動班で構成された。

3.  丁玲、田漢ら、瞿秋白の立ち会いのもとに共産党に入党。

4.29 朝鮮「愛国団」の尹奉吉、虹口公園で挙行された天長節式典に爆弾を投擲。出席していた白川義則上海派遣軍司令官が死亡、第九師団長植田謙吉、日本公使重光葵などが重傷を負う。

5.05 英米仏の勧告のもと、上海停戦協定が調印される。日本軍の撤退および中国軍の駐兵制限(非武装地帯の設置)で合意。

7.17 共産党が反帝抗日大会を開く。参加者95人が逮捕される。

8.19 抗日映画『共赴国難』が公開される。

10.15 陳独秀が逮捕され、5年間にわたり勾留される。

12.17 中国民権保障同盟が発足。宋慶齢、蔡元培、楊杏仏などが発起人となる。

* 蒋介石は共産党への弾圧を強化。陳兄弟の率いる「特工総部」(特務工作総部)が先頭に立つ。

* パラマウント(百楽門舞庁)が開業。当時最も豪華なダンスホール。

1933年

2. 9 中国電影文化協会が成立。夏衍、田漢、洪深、鄭正秋、蔡楚生、孫瑜などが執行委員となる。

3. 6 魯迅と瞿秋白は共同作業を開始する。

3. 故宮の文物総計19557箱25万件が上海に運ばれ、フランス租界の某所に厳重に保管される。日本軍の手に渡るのを恐れて移送したもの。

5.14 左翼作家の丁玲が自宅から国民党特務機関に拉致される。南京に護送され、約3年間軟禁される。

5.  上海華商証券交易所が上海証券交易所を合併吸収し、極東最大の証券取引所となる。

6.18 中国民権保障同盟副会長の楊杏仏が国民党特務によって中央研究院前で暗殺される。

7.  何凝(瞿秋白の偽名)編の『魯迅雑感選集』が出版される。

8.  日本の上海海軍特別陸戦隊本部の建物が完成

33年 福建革命が起きる。第十九路軍の便衣隊は、中国共産党とともに上海で反蒋介石暴動を企画するが発覚。

1934年

1.15 張学良(当時上海在住)が談話を発表し、和平統一を主張。

2.19 国民党上海市党部が149種の新文芸と社会科学の書籍、76種の刊行物の出版・発行を禁止。

3.  電通影片公司が開設。左翼映画運動の拠点となる。

4. 1 上海に二階建てバスが初めて走る。

9.27 梅蘭芳、馬連良出演の歴史愛国劇『抗金兵』が初演。

11.13 申報館総支配人の史量才が国民党特務に暗殺される。史量才は「一・二八事変」では第十九路軍を積極的に支援し、その後も民権保証同盟の活動を支援していた。

11.30 魯迅が内山書店で初めて蕭軍、蕭紅(北東部出身の小説家夫婦)と会い、以後の生活を援助。蕭軍の中編小説『八月的郷村』と蕭紅の中編小説『生死場』の出版を実現する。

12. 1 パークホテルが落成。当時、上海で最も高い建物となる。ブロードウェイマンションが落成。外国人用のアパート兼ホテル。

12.05 ベーブ・ルース一行が来訪。中国チームと対戦し、22対1で大勝。

12.14 日本海軍陸戦隊2,500名が虹口の蘇州河両岸で実戦演習を強行。1ヶ月後には虹口、楊樹浦一帯で市街戦の演習を行う。

* 日本が全国的な凶作となる。

1935年

2.19 共産党上海中央局書記黄文傑をはじめ、田漢、陽翰笙など36人の共産党員が逮捕される。

5. 1 ラジオ放送が全国一斉に国語(北京語)になる。上海の各放送局も国語による放送を開始。

5.24 『風雲児女』(電通影片公司、監督:許広之)が公開。その主題歌『義勇軍行進曲』(作詞:田漢、作曲:聶耳)は広く歌われるようになり、新中国成立時に中華人民共和国国歌に制定された。

6.24 雑誌『新生』(週刊)が日本の天皇を侮辱する文章を載せたとして停刊処分を受け、総編集者兼発行人の杜重遠が懲役1年2ヶ月の判決を受ける。

8.  上海体育場が完成。その規模と施設は東アジアで一番といわれた。

11月9日 上海共同租界で、日本海軍陸戦隊の中山秀雄一等水兵が中国人により殺害される。第十九路軍の便衣隊による犯行とされる。事件後には、日本人が経営する商店が襲撃される。この後日本人居留者の暗殺事件が相次ぐ。

11.16 『大衆生活』(週刊)が創刊される。抗日統一戦線の主張を展開して読者を獲得し、毎期20万部発行という記録を作る。

12. 9 北京で抗日を要求する学生が弾圧される。上海でも各界に救国運動が広がる。

12.12 上海文化界の283人 が連名で「上海文化界救国運動宣言」を発表。

12.14 上海各大学学生救国連合会が成立。

21日 上海婦女救国会が成立。

12.23 復旦大学の学生約1,000名の請願団、首都南京に向かおうとする。上海北駅に押しかけ、列車が全線ストップ。さらに他の大学の約2,000名も加わる。

12.25 学生たちが列車に分乗して南京に向かうが、途中で阻止される。

12.27 上海文化界の約300人が集会を開き、上海文化界救国会が成立。

1936年

2.14 中国航空公司が上海—ハノイ間の航空路線を開設。中国最初の海外航空路線。広州経由でハノイに飛び、ハノイからフランス航空公司の欧州路線に接続。

2.17 国民党政府が「緊急治安法令」を公布。

3. 8 上海婦女救国会、上海女青年会など七つの団体が国際婦人デー拡大記念大会を開き、抗日救国を主張。

4. 22 張学良が西安から上海に来て潘漢年と会談。

4.  馮雪峰が解放区から上海に着き、地下の共産党組織との連絡を回復。

5. 5 映画スターの唐納と藍萍(江青)が結婚。他のスターたちと、合同結婚披露宴を行う。

5.31 全国各界救国連合会が結成される。華北、華中、華南と長江流域60数地区から救亡会の代表70数人が結集し、「抗日救国初歩政策」を策定。内戦を停止し一致団結して抗日にあたるよう主張。

5.  上海の文学界で「国防文学論争」が展開される

7.15 救国会の沈鈞儒、陶行知、章乃器、鄒韜奮の四人が抗日救国を要求する公開書簡を発表。

9.20 魯迅、茅盾、郭沫若、林語堂、包天笑、周痩鵑など21人が連名で「文芸界の団結と言論の自由のための宣言」を発表。抗日救国に向けて文芸界の統一戦線の成立を促す。

10.19 魯迅が自宅で死去。数万人が告別に訪れる。「民族魂」と書かれた錦の旗で覆われた棺が沿道を埋めた市民に見送られる。

11. 8 日本系の紡績工場で労働者が賃上げ、労働条件の改善などを要求して大規模なストライキを行う。日本海軍陸戦隊、工部局警察などが出動し、双方に負傷者 が出る。

11.28 紡績工場のストライキ、上海地方協会と総工会の調停により、工場側が労働者の要求をほぼ認めて妥結。

11.22 全国各界救国連合会の指導者、沈鈞儒、鄒韜奮、章乃器、李公樸、王造時、史良、沙千里が逮捕・投獄される(「七君子事件」)。翌年7月に釈放。

12.12 「西安事変」発生。

* エドガー・スノーの「中国の赤い星」が出版される。F.D.ルーズベルトは『赤い星』の愛読者だったが、当時のスターリニストからは批判の対象となった。

1937年

1. 1 上海—南京間に特急列車「首都特快」が運行。座席数378、時速80キロ。

6. 3 日独合作映画『新しき土地』が公開。日本軍の中国侵略を正当化している場面があると上海文化界が抗議し、上映中止となる。

7.07 盧溝橋事件が勃発。華北で全面戦争が始まる。上海各界抗敵後援会、中国婦女抗敵後援会、上海文化界救亡協会など各種の抗敵救亡団体が結成され、激しい抗日運動が展開される。

7.18 魯迅記念委員会が創設。宋慶齢、蔡元培、茅盾、許広平、スメドレー、内山完三、秋田雨雀など70数人が参加。

7月 虹口地区でふたたび緊張が高まり、数十万の市民が租界地区に逃れる。

8. 7 上海劇作家協会が完成した大型演劇『盧溝橋を守れ』が上演され、連日満員となる。

第二次上海事変

8.09 日本海軍陸戦隊の大山勇夫中尉らが虹橋飛行場でピストルを乱射。中国兵が反撃して射殺。この事件をきっかけに日中両軍間の緊張が高まり、双方が臨戦態勢に入る。

8.13 日本軍が閘北に侵攻し、中国軍が応戦。第二次上海事変が勃発。緒戦は数で勝る中国軍が優勢だったが、松井石根大将を司令官とする上海派遣軍が呉淞口などに上陸してから、戦況は日本側に傾く。

8.14 中国空軍機が誤って落とした爆弾が、共同租界中心部の繁華街で爆発。約二千人の死傷者がでる。

8月15日 蒋介石が陸海空の総司令官に就任。中国全国に総動員令が発せられる。

8.23 日本軍機の爆撃で市民173人が死亡、549人が負傷。

8.29 日本軍機が上海南駅を爆撃、市民約250人が死亡、500人余りが負傷。

8.24 『救亡日報』が創刊。郭沫若が社長。統一戦線的な編集委員会によって編集・発行され、11月22日まで上海での発行を続ける。

9. 7 宝山の中国軍守備隊が全滅。日本軍の上海包囲網が狭まる。

9. 9 蔡元培、宋慶齢、胡適など中国文化界の著名人が連名で世界各国の文化界に中国の抗戦に対する援助を呼びかける。

9.22 緑川英子が抗戦活動に参加し、日本のエスペランチストに反戦を訴える公開書簡を送る。

10.31 謝晋元率いる第85師団524連隊の「八百壮士」、倉庫に立てこもり、四昼夜にわたって日本軍の猛攻を撃退。その後撤退して租界に入る。

11.11 相次ぐ増派の末、日本軍が浦東を制圧。租界内に撤退した中国軍は工部局により武装解除される。南市守備軍が撤退。上海の華界が全て陥落し、租界が「孤島」となる。

11.21 租界内で中国人が行使していた行政権を代行することを日本が宣布。

11月 参謀本部第2部(情報部)に第8課(宣伝謀略課)を設置。影佐が初代課長に就任。民間人里見甫を指導し中国の地下組織・青幇(チンパン)や、紅幇(ホンパン)と連携し、アヘン売買を行う里見機関を設立。阿片権益による資金は関東軍へ流れたという。

12. 3 日本軍約6,000人が租界を示威行進。沿道から手榴弾が投げ込まれ、日本兵3人ほか市民数人が負傷。犯人は巡査に撃たれて死亡。

12. 5 日本が上海大道市政府設立。

12.13 2週間の攻防戦の末、国民政府の首都南京が陥落。蒋介石は南京を脱出し武漢に政府を樹立。

12.14 日本軍報道部が租界内の中国語新聞に対して検閲を実施することを宣布。これに抗議して『申報』『大公報』『時事新報』『国聞周報』などが自ら停刊。

12.  南京大虐殺事件が発生。日本軍が兵士、市民を殺戮する。

12月末 王克敏を首班とする南京臨時政府が樹立される。

1938年

1.25 『文匯報』(日刊)が創刊。抗日の姿勢を堅持し、39年5月10日まで発行を続ける。

1月 近衛内閣、「爾後国民政府を対手にせず」と声明。トラウトマン和平工作は流産。国民党、共産党系のテロ組織が上海市内での抗日テロ、漢奸狩りを一斉に開始。

CC団 陳其美の指導のもとに甥の陳果夫、陳立夫の兄弟が設立。国民党中央執行委員会付属の調査統計局の傘下に入ったことから「中統」の略称でも知られる。
藍衣社 ムソリーニの親衛隊に真似て藍色の中国服を制服としたことから俗称された。正式名称は中華民族復興社。後に軍事委員会調査統計局に属したこ とから「軍統」の名でも知られる。軍統の戴笠副局長が直接指導し、CC団とは異なり、独自のビジョンを持たないテロ組織である。
杜月笙ら青幇(ちんぱん)を引き入れて「蘇浙行動委員会」を組織、その下部に「忠義旧国軍」を置く。組織員数は1万人にのぼったとされる。知日、親日派の軍人・政治家をターゲットとするテロに集中。残虐な手口で恐れられた。

2.26 日系テロ集団黄道会、『社会晩報』社長の蔡鈞徒、滬江大学校長劉湛恩らを暗殺し、首を電柱に吊るす。

3. 1 エドガー・スノーの『Red Star Over China(中国の赤い星)』の中国語訳が書名を『西行漫記』として復社から出版。

3月 南京臨時政府に代わり、梁鴻志を首班とする維新政府が成立。国民の支持は皆無。

4.  日本軍による放送監督所の設置に反発して23の民間ラジオ局が登録を拒否し放送を停止する。

6.15 魯迅記念委員会編纂の『魯迅全集』全20巻が復社から出版。

7.07 盧溝橋事件1周年。上海各区の憲兵隊詰め所に手榴弾のプレゼント。

7月 満州国建国で暗躍した土肥原機関が上海の重光堂に居を構え、傀儡政権樹立に備え政治工作を開始。

9.30 藍衣社が唐紹儀を暗殺。唐紹儀は国民党の要人で、日本軍が傀儡政権に担ぎ出そうとしていた。

10.10 八路軍駐滬弁事処が『文献』(月刊)を創刊。主編は銭杏邨(阿英)。

10.19 ユダヤ難民援助委員会が成立。ナチスの迫害を逃れて上海に着いたユダヤ難民を受け入れる。

10 参謀本部ロシア課の小野寺信中佐が上海に「小野寺機関」を設立。独自に蒋介石との直接和平の可能性を探る。この時点で和平工作は土肥原機関の傀儡政権づくり、影佐らの汪兆銘擁立、小野寺機関という3つのオプションが並行していた。

11.20 汪精衛の密使と日本側代表今井武夫らが「重光堂会談」。カイライ政権の樹立をめぐり協議。2年以内の日本軍の撤兵を引き換えに様々な要求が突きつけられる。

11月 御前会議では「重光堂会談」とはまったく異なる方針「日支新関係調整方針」が定められる。①日本軍の駐屯、②中国人による中央政府の否認、③撤兵時期は明示しない

12.18 汪兆銘が国民政府から離反。重慶を脱出し空路ハノイに向かう。CC団幹部の周仏海、梅思平らが汪兆銘に従う。

12月 上海各界救亡協会が民衆慰労団を組織。その第一陣が皖南(安徽省南部)の新四軍の駐屯地に向けて出発。

* 蒋介石は軍事委員会調査統計局を改組し、CC団系の中央調査統計局(中統)と藍衣社系の軍事委員会弁公庁調査統計局(軍統)に分割する。

* ナチスに追われたユダヤ人難民が上海に大量流入。2万人に達する。

1939年

1. 4 『申報』が皖南の新四軍を紹介する記事を連載(~15日)。『大美晩報』特派員ジャック・ベルデンが提供したもの。

2月 国民政府の軍統幹部、丁黙邨(ていもくそん)と李士群が土肥原機関の晴気慶胤少佐に接触。和平救国のために重慶テロへの対策を進言。支援をもとめる。李士群は元共産党員。

2月10日 参謀本部の影佐軍務課長はただちに丁黙邨らの計画を承認。同時に汪兆銘擁立と土肥原機関の解体を指示。

3月 参謀本部の承認を受け特別工作がスタート。共同租界のイタリア警備区域に接する越界路区であるジェスフィールド路76号(極司非爾路76號)に本部を確保する。工部局の警官を引きぬき、チンピラをかき集め300名の部隊を確保。


   ジェスフィールド七六号跡 

4.15 ニム・ウェールズの「赤い中国の内側」が、『続西行漫記』として復社から出版される。

5.06 重慶を脱出してハノイに逃れていた汪精衛が日本船北光丸で上海に着く。

5.08 汪精衛と丁黙邨・李士群が会見。76号を汪政権の特務工作総司令部(特工総部)とすることで合意。丁黙邨が上海の国民党の懐柔、李士群がテロ組織の弾圧に当たる。

丁黙邨は中央執行委員・常務委員に任命される。「76号」は正式な政府機関となり、国民党中央委員会特務委員会特工総部と称する。

6.06 閣議で汪兆銘擁立工作が正式に承認される。これを機に小野寺機関は解体される。

8.22 影佐禎昭、支那派遣軍総司令部付となる。汪精衛政権の擁立に向け工作機関を組織する。本部を梅花堂に設けたので「梅機関」と呼ばれる。

8.28 汪兆銘が招集した国民党第6次全国国民代表大会が開催される。76号が会場に当てられた。

9. 5 汪精衛が国民党第6期1中全会を召集、国民党カイライ派の中央が成立。

10.19 抗日軍支援の活動を行った中国仏教会会長円瑛法師が、日本憲兵隊本部に連行される。

12.12 中国職業婦女倶楽部主席の茅麗瑛、「76号」の特務に暗殺される。

12.15 日本軍が租界への米の搬入を禁止。米の価格が高騰し、市内各所で米騒動が起きる。

12.23 丁黙邨、鄭蘋茹に誘われ、市内の毛皮店に入る。暗殺者に気づき防弾車で逃亡。これを機に丁黙邨は失脚。

12.30 汪精衛と「梅機関」との間で「日汪密約」が調印される。

1940年

2月 鄭蘋如、銃殺刑に処せられる。「顔は撃たないで」と懇願し、後頭部に銃弾を受けたという。

3.29 汪精衛政府と横浜正金銀行が4000万元の「政治借款契約書」を交わす。

3.30 汪兆銘新政権が南京で成立。重慶からの「遷都」を称する。

3月 「梅機関」が解散。影佐は汪政府の軍事最高顧問に就任する。

6.14 7人の外国人記者が汪精衛政府から国外退去を命ぜられる。

7.25 女性実業家方液仙が「76号」の特務に暗殺される。汪精衛政権成立時に実業部長への就任要請を拒絶したためとされる。

8. 2 上海白ロシア僑民委員会主席メツラー、日本軍特務機関により暗殺される。

8.14 日本軍と関係を深めていた張嘯林が暗殺される。

8.19 上海駐留イギリス陸軍の撤退が宣布される。

10.11 上海市長傅筱安が虹口施高塔路の自宅で暗殺される。

1941年

3.21 中国銀行職員宿舎が「76号」の特務に襲われ、約200人が連行される。重慶側特務のテロ活動の停止を釈放の条件とし、4月8日までに全員が釈放。

4.24 「八百壮士」の残軍の指揮官謝晋元が刺殺される。弔問者は約13万人にのぼる。

5.10 日本海軍陸戦隊、蘇州河の小型運搬船約250艘を沈める。抗日分子の捜索を理由とする。

6.17 工部局警察特別警視副総監赤木親之が重慶側の特務に狙撃され死亡

8.28 日本軍が租界の外周に鉄条網をめぐらし、中国人の夜間の虹口、楊樹浦への通行を禁止する。

11.28 アメリカ海兵隊が上海から撤退。

12. 8 太平洋戦争が勃発。日本軍は公共租界を占領し、市内各所に歩哨所を設ける。

12.15 許広平(魯迅夫人)が日本憲兵隊本部に連行される。何度も拷問を受けるが内山完造の尽力により3月1日に釈放。

1942年

1.  日本軍が公共租界のイギリス、アメリカの7つの公共事業関係の企業を接収。3月までに82の外資系企業と15の外資系銀行を接収・管理。永安、先施、新新、大新の四大デパートも日本の軍事管理下に置かれる。

6.  上海のすべての地区のラジオ所有者が登録を義務づけられる。

8.12 日本陸海軍防空司令部が灯火管制を敷き、広告や装飾用のネオンが消える。

9. 3 警務処に音楽検査科が開設され、ダンスホール、ナイトクラブなどで演奏される曲の検査を始める。アメリカ、イギリスの曲や「何日君再来」などが禁止される。

10.16 日本軍が「敵性国」居留民の娯楽施設への立ち入りを禁止する条例を発布。このため映画館、ダンスホール、ナイトクラブなどが次々と営業停止に追い込まれる。

11.  日本陸海軍司令部が「敵性国」居留民の短波ラジオ、カメラ、望遠鏡を没収。

1943年

1. 9 汪精衛政府がイギリス、アメリカ両国に宣戦布告し、日本と「日華共同宣言」を発表。

1.  汪精衛政府がイギリス、アメリカの映画の上映を禁止。

7.30 汪精衛政府が仏租界を接収。続いて 8月 1日に公共租界を接収。この時点で上海在留日本人は10万人に達する。

9.9 特工総部の権力を独占した李士群、反対派の手にかかり毒殺される。腐敗堕落した特工総部への怒りのためとされる。

1944年

2月 英中友好条約が締結。イギリスは中国に租界を「返還」する。

3. 3 日本陸海軍防空司令部が市内に戦時灯火管制を敷く。

6.12 米軍機が初めて上海上空に飛来。

6.  武田泰淳が上海に来て中日文化協会に着任。

11.10 汪精衛、銃創の悪化により日本の名古屋で病没。12日、陳公博が代理政府主席兼行政院院長に就任。

1945年

1.15 周仏海が上海市長兼警察局長に就任。

5.  李香蘭(山口淑子)のリサイタルが開かれる。

7.17 米軍機約60機が滬東を空襲。23,24日には約100機が市内を空襲。

8. 1 ソ連映画『スターリングラードの戦い』が公開される。

8.11 日本が降伏するとのニュースが伝わり、パークホテル【3-C3】の屋上に青天白日旗が翻る。

8.15 日本が無条件降伏。上海全市が歓喜に沸き返る。

8.18 米軍が上海に上陸。20日、米軍陸軍使節団が上海に到着。

9.初 湯恩伯率いる国民党政府軍第三方面軍が上海に入る。

9.12 日本の降伏調印式が行われる。14日から日本軍の武装解除が始まり、約15万の将兵が江湾と浦東の集中営に収容される。

* 工業消費電力はピーク時(36年)の4割に低下。中国人経営の工場の生産は事実上停止。

1946年

4.  中国共産党中央上海局が成立。劉暁が書記、劉長勝が副書記。

8.20 ミス上海のコンテストが開催される。

10. 2 ブロードウェイ・マンションが国防部に接収され、右翼団体励志社の上海本部となる。

1947年

1.  輸入品販売店が急増し、アメリカ商品が市場を独占。

2. 9 「国産品愛用・アメリカ商品規制運動」の大会に国民党特務が乱入し死者1名、負傷者数十名。

5.19 上海の14の大学の学生約7000人が「反内戦、反飢餓」の集会を開き、デモ行進を行う。

5.末 国民党が軍隊、警察を大量動員して市内の各大学を捜査し、多数の学生を逮捕。これに対して学生、教師が授業をボイコットし、市民の支援も得て抗議運動を展開。

7月 丁黙邨、死刑となる。

10月 川島芳子、国民党政府により処刑される。

1948年

1.末 申新棉紡績廠で7千人の労働者がストライキに入り、警官隊と衝突し、200人余りが逮捕される

8.  蒋経国が経済管制委員会の督導員として着任し経済管制を敷く。物価の凍結、隠匿物資の摘発、汚職官吏の処罰などの「打虎運動」を実行するが、11月に南京に召還。

12. 7 中央銀行に金銀への兌換を求める群衆が押しかけ大混乱となる。蒋介石は中央銀行の現金を台湾に移させる。

1949年

2.25 国民党の最新型巡洋艦重慶号が艦長以下574名の将兵ともに解放区へ亡命。

2月 各大学に「応変委員会」が作られ、糾察隊、儲糧隊、救護隊、宣伝隊が組織される。

4.14 上海市長呉国禎が台湾に逃亡。

4.22 人民解放軍が南京に入城。国民政府の機関と要員が上海に移る。淞滬警備司令部が上海が戦時状態に入ったことを宣布し、全面軍事管制を敷く。

5.12 陳毅率いる人民解放軍第三野戦軍が上海攻略作戦を開始。

5.27 人民解放軍が上海全市を「解放」し、上海市軍事管制委員会が成立。

5.28 上海市人民政府が成立。陳毅が市長に就任。

7. 6 百万人を超える兵士、市民が上海の「解放」を祝って市内を行進。

10.10 中華人民共和国が成立。外国資本は香港に撤収する。数10万人の資本家や秘密結社の構成員、文化人、技術者、熟練工が香港にうつる。「魔都上海」の終焉。

 
 

 

 

 

 

 

 

 

最初にお断りですが、たいへん読みにくい記事になってしまいました。
ウィキペディアの抜粋から初めて、最後はウィキペディアのほぼ全否定になってしまいました。
ただ、結果的には、世上流布された秋瑾像を見直すのには役立つだろうと思います。


上海の歴史を勉強していて、とんでもない人物に出くわした。

多分知らない私が世間知らずなのであろうが、勉強したことを書き出してみる。

彼女の名は秋瑾(チウ・チン)。今風に言えば武闘派女子である。山崎厚子は著書の表題を「秋瑾 火焔の女」としている。

懐に短剣、背にモーゼル銃、鹿毛の馬に跨(またが)って駆ける男装の麗人。秋瑾(しゅうきん)は、今もって、中国女性の胸に燦然(さんぜん)と輝く革命家である。

さすがにひどい。これではまるで満州の女馬賊だ。

まず有名な写真

秋瑾

写真館で撮らせたものだろうが、なかなかの美人で、お金ならいくらでもありそうな身なりだ。

当時の秋瑾は清服を嫌って和服を着用し、好んで短刀を身につけていた。(日本大百科全書)

それにしてもドスをこれみよがしにかざすとは相当に物騒な女性である。間違っても褥を共にしたくはない。

しかし、どうもこのオドロオドロしい写真だけでは、エキセントリックな面が誇張されてしまいそうだ。

もう1枚の写真がある。おそらく、平凡な若奥様の時代であろう。

秋瑾2
   互動百科からの転載

これを見ると多少おてんばではあるが、品行方正な若奥様が、北京での政治状況に心を動かし、革命に目覚め、変身を遂げていくというストーリーのほうがすっきりする。

毎度おなじみの年表形式で、資料を整理していくことにする。ウィキから始めて周辺資料でふくらませていくやり方もいつものとおり。

まずは人名録的なところから。

姓が秋で、名が瑾。元の名は秋閨瑾(けいきん)、競雄あるいは鑑湖女侠と号した。

瑾は玉(硬玉)の意味。余分なことだが「瑕瑾」(玉に瑕)ということばが日本で知られている。あの「瑾」である。(ただしこれは和製漢語)

 

1875年11月8日 福建省の厦門で生まれた。日本で言えば明治8年である。(77,78,79年の諸説)

本籍は浙江省の紹興府である。厦門は祖父の赴任先であり、これに一家が帯同したためである。

祖父・秋嘉禾は廈門府の長官であった。当時厦門はイギリスの実質的支配下にあり、横暴なイギリス人に苦汁をなめさせられたようである。

すでに幼少の頃より男勝りの気性は発揮されていたようで、乗馬や撃剣・走り幅跳び・走り高跳びなどで体を鍛えた。男装して町を闊歩したとの話もある。

ただこれらの逸話も、異端性を強調する結果になっている。むしろ強調すべきは、女性には不要とされていた学問や詩作を、それこそ「男勝り」の高度なレベルで習得していたことであろう。

1899年、24歳のときに父の勧めに従い結婚。北京に住み二人の子が生まれる。しかし結婚生活には満足できなかった。

このウィキの記載は、少し省略がある。

1894年、秋瑾の父は税務署長として湖南省に赴任した。赴任先の豪商の息子が秋瑾に一目惚れ、手練手管で両親を籠絡し、秋瑾はいやいや嫁ぐこととなった。これが99年のことになる。

互動百科には姑がいびったと書いてあるが、これは眉唾。上海から見れば湖南はど田舎、気性激しき秋瑾の事ゆえ、いやいや嫁入りした先の姑やしきたりなど心中見下していたに違いない。

この夫は買官に成功し、家族ともども北京に移住することになった。この時までに秋瑾は二人の娘を生んでいる。

世界大百科事典によれば

そのときの北京は義和団の運動が敗北し,ヨーロッパ列強に対してなすすべを失い、狼狽ただならぬ清朝政府の中央でしかなかった。

武田によれば、「居常(いつも)、即ち酒に逃る。しかして沈酣(酔っぱらって)もって往き、覚えず悲歌撃節、剣を払って起ちて舞い、気また壮んなること甚だし」という状態になってしまう。

これは明らかに病的な躁状態である。この結果、結婚状態は破綻した。直接には義和団の運動に感化されたと言われるが、家庭環境も悪化していただろう。

1904年、秋瑾は家族を置き、単身日本に留学することになる。日本では明治37年、日露戦争後の軍国主義高揚期である。それが彼女の躁状態に火に油を注ぐ結果となったことは想像に難くない。

どうも、このあたりウィキ(ということはおそらく武田泰淳)は書き過ぎのようである。

秋瑾が運動へ傾斜していくのは、フェミニズム運動を通じてのようである。

秋瑾は、女性を「三寸金蓮」の纏足から解放しようと「天足会」の運動に加わった。自らは背広・洋靴・帽子という姿の男装をしてみせた。

秋瑾3
      1904年始,秋瑾开始着男装

運動の中で京師大学堂の日本人教師と知り合い、その縁で日本留学を決意した。教師は実践女学校の校長である下田歌子に秋瑾を推薦した。

夫は二人の子供もあるので引き留めようとしたが、秋瑾は「子供を連れて留学する」と言いはった。夫は仕方なくそれを認め、息子を自分が引き取り娘を秋瑾に押し付けた。

6月28日、秋瑾はまだ三歳になっていない娘を抱いて、日本の客船に乗り、7月24日に東京に着いた。

先ず中国留学生会館の日本語講座に入り、翌05年8月、実践女学校の特別科に入学した。

ここで教育・工芸・看護学などを学んだが、何よりも下田歌子の「男女の学問の平等」という精神に最も強く感銘を受けたという。

なおウィキによると、

来日後は日本語を勉強するかたわら、麹町神楽坂の武術会にも通った。射撃を練習したほか、爆薬の製法まで学んでいる。

深夜まで読書と執筆にふけり、感極まると胸を打って痛哭するという日常を送った。

と、記載されている。「別の一面があったのか」とも思われるが、どうも他の資料も読み進めるうちに、いささか疑念の湧くところである。

したがって、最初に書いた次の一節はいずれ書き改めなければならないかとも思っている。

ここまでだけでも結構なエクセントリックぶりだが、その後はこれに民族主義の方向性が与えられていく。

浙江同郷会の週1回の会合には必ず出席した。横浜の洪門天地会(三合会)には来日直後に入会し「白扇」(軍師)になっている。

そして同郷志向に飽きたらない秋瑾は革命運動にまで首を突っ込んでいくようになる。

ここで、当時の中国の革命組織の流れを見ておく。これには2つの流れがあり、一つは05年8月に孫文らが東京で結成した「中国同盟会」、もう一つが上海の「光復会」であった。

「光復会」は浙江省の出身者を中心に組織され、秋瑾の郷里紹興府もこれに統合されていた。のちに「中国同盟会」に加わることになるが、当時は別組織である。

秋瑾はまず「光復会」の東京の責任者・陶成章に会い入会をもとめた。ウィキによれば、彼女の依頼は「執拗」だったらしい。

陶成章は根負けしたのであろう。紹介状を書くという形で、上海の蔡元培会長と紹興の指導者・徐錫麟へ下駄を預けた。

1905年2月、一時帰国した秋瑾は「光復会」との接触を図る。蔡元培は入会を認めなかったが、紹興の徐錫麟(しゃくりん)は入会を認めるに至る。

東京に戻った秋瑾は勇躍活動家の組織に乗り出した。

浙江の人間はそれまで団結心がないといわれていた。それを「光復会」に結集させたのは、強い説得力と彼女が培ってきた人的関係のなせるわざであろう。

また女子留学生を「共愛会」に組織し、自ら会長に収まった。留学生の組織で実績を上げた秋瑾は、孫文が率いる革命団体「中国同盟会」への加入を認められる。そして浙江省の責任者となった。1905年(明治38年)9月のことである。

そして11月2日、秋瑾の最初の見せ場がやってくる。

清国の要請を受けた日本政府が、清国留学生に対する取締規定を発した。これに反発した学生が授業のボイコット運動(同盟休校)をおこす。

強硬派学生(秋瑾を含む)はさらに同盟休校にとどまらず一斉退学と全員帰国を主張した。

中国留学生会館で浙江同郷会の集会が開かれた。一斉退学に反対する学生達との議論が白熱した。秋瑾は興奮し、いつも身に付けていた短刀を演台に突き刺し、彼らに「死刑」を宣告した。

その中には同じ紹興の出身、魯迅も含まれていた。

魯迅の弟である周作人は、その様子を著書『魯迅の故家』で次の様に書いている。(ウィキペディアより)

秋瑾が先頭になって全員帰国を主張した。年輩の留学生は、取締りという言葉は決してそう悪い意味でないことを知っていたから、賛成しない人が多かったが、この人たちは留学生会館で秋瑾に死刑を宣告された。魯迅や許寿裳もその中に入っていた。魯迅は彼女が一ふりの短刀をテーブルの上になげつけて、威嚇したことも目撃している

大見得を切った秋瑾は12月に故郷紹興に戻る。その時、「私は帰国後、革命に尽力し、皆様と中原で会うことを臨んでいる」と同級生に語ったという。

ウィキでは1906年の生活についての記載はない。

他資料での検索の結果は以下のごとくである。

1906年はじめ、紹興の「光復会」は彼女を受け容れた。彼女は徐锡麟の紹介により光復会に加入した。互動百科

崔淑芬によれば、

紹興に戻った秋瑾は明道女学校、浙江省の潯渓女学校の教員を歴任した。あわせて紹興で『中国時報』を発刊、女権、女子革命を主張した。

女性の自立手段として、習ったばかりの日本の看護学の教科書を中国語に翻訳した。(永田圭介

06年の夏になって、秋瑾は上海に出て『中国女報』を創刊した。

秋瑾らは上海に革命機関を设立し、「中国女報」を発行した。最初に提案したのが「婦人協会」創建の主張だった。彼女は近代女性の解放のために第一声のラッパを吹き鳴らした。-互動百科

したがってウィキで1907年とされている『中国女報』の記載はあやまちである。

崔淑芬は「中国女報」における秋瑾の主張を、秋瑾の活動の真髄として重視し、丁寧に紹介している。

まず発刊の辞から。

本報の発刊の目的は、女学を振興し、女性を解放するためであり、団体化するためである。

とし、「将来は中国の婦人協会もつくろう」と提起している。

次に「警告妹妹們」という文章。

多くの女同胞はまだ真っ暗地獄にいるようだ。一人の人間として志を持たなければならない。志を持っているなら、自立することができる。‥‥女子は教育を受けるべきだ。そうすれば家業が興隆、男子に敬重される。

また日本を例に上げ、

女子教育の発展と国家の発展との関係は切っても切れない関係にあり、その重要性を認識すべきだ

と強調した。

その年の冬、秋瑾は紹興に戻って大通学堂を指導することになる。

大通学堂はもともと徐锡麟、陶成章らが始めたもので、光復会の幹部、大衆を組織する革命の拠点となるものだった。

おそらく以下のウィキの記載は1906年の初頭のことであろう。

正月、紹興に光復会幹部の養成を目指す大通学堂が開かれた。

光復会の幹部は「会党」と呼ばれる秘密結社に二重加盟した。それは明確に革命を目指す政治結社だった。紹興においては竜華会(りゆうげかい)と呼ばれた。

そして以下の記載は06年後半の出来事だろうと思う。

秋瑾が大通学堂の代表となった。しかし秋瑾の目標は幹部の育成にとどまらなかった。

秋瑾はここを拠点として「体育会」を組織し、会党のメンバーや革命青年を集めて軍事訓練を行った。

また、浙江省各地の会党と連携して「光復軍」を結成し、武装蜂起に向けた準備を進めて行ったのである。

そして1907年、秋瑾の最後の半年が始まる。

ウィキによれば

5月 武装蜂起の計画が確定した。徐錫麟が安徽省安慶で武装蜂起。秋瑾がこれに呼応して浙江で蜂起するという筋書きだった。

7月6日、安慶で徐錫麟が行動を起こした。清朝政府の安徽巡撫を刺殺したものの、たちまち鎮圧・処刑されてしまう。

当局は秋瑾の浙江での蜂起計画も察知。紹興に押し寄せた。

7月13日、大通学堂の秋瑾は、短刀を抜くことも一発のピストルを撃つこともなく逮捕された。

そして2日後の15日、紹興市内で斬首された。享年31歳。辞世の辞は「秋風秋雨、人を愁殺す」

なお「6月5日」とあるのは旧暦表記である。

正直に言えば、秋瑾が武装蜂起をセッティングしたというウィキの記載は疑わしい。武装蜂起の覚悟はあったにせよ、具体的な決行の意図があったかどうかは疑問もある。

処刑の様子については永田圭介さんのエッセイがある。

7月14日、秋瑾は最初に知県(県知事)の尋問を受けた。このとき、「秋風秋雨人を愁殺す」の絶唱を書き遺した。

その後取り調べを拒否し、火煉瓦、火鎖などの虐殺的拷問を受けたが、「革命党員は死を恐れない。 殺したければ殺せ」と叫んだのみで、目を閉じ、歯を食いしばって遂に一言も吐かなかった。

官側は、衰弱死を恐れて拷問を打ちきり、贋造した供述書に力ずくで拇印を押させ、死刑宣告の体裁を作った。

7月15日、午前3時に監獄から曳き出された彼女は、県衙門で即刻死刑の宣告を受けた。知県は袒衣(斬首前に衣服を剥ぐこと)と梟首(さらし首)をせぬことを約束した。

秋瑾は足に鎖枷をつけられ、腕は背後に縛り上げられて刑場に向かった。極度の疲労でよろめく秋瑾を支えようとした護送兵に、彼女は一喝した。「自分で歩く!手出し無用」

処刑は公開で執行された。場所は市内繁華街の軒亭口である。

午前3時に山陰県監獄から曳き出された彼女は、県衙門で即刻死刑の宣告を受けたとき、動じる色もなく知県(県 知事)の李宗嶽に訣別の遺書を書かせよ、袒衣(斬首前に衣服を剥ぐこと)をするな、梟首(さらし首)をするな、と三つの要求をした。

知県は時間がかかる遺書を除き、袒衣と梟首をせぬことを約束した。


ウィキペディアの記事は、武田泰淳『秋風秋雨人を愁殺す・秋瑾女士伝』(1968年)を下敷きにしたものらしく、名文である。しかしその分彼女の異端性を強調する方向での脚色があるようだ。

調べていくうちに、どうも武田泰淳によって作られたイメージは実態とは相当かけ離れているのではないかと思うようになった。山崎厚子さんはその傾向をさらに強めている。

崔淑芬 秋瑾と日本 を読んでその疑念は確信に変わりつつある。

秋瑾は女盗賊のような野蛮な人間ではない。その戦闘性は高い知性と貶められた女性への深い共感に裏付けられている。

私はマヤコフスキーの詩の一節「議論はもうたくさんだ。同志モーゼルよ!」を想起する。

19世紀末から20世紀初頭における理性のあり方の一つの典型として、もう一度本当の秋瑾像を構築しなければならないのではないかと思う。(誰かさん、お願いします)


ソロスが「中国が危ない」としゃべって、それをみんなではやしているようだ。どうもみな軽佻浮薄でいけない。つい1,2年前まで「これからは中国が世界の王者だ」とか「中国脅威論」を騒いでいたのは誰か。

少し頭を冷やして考えてみよう。

中国が急成長を開始したのは1990年代の後半からだ。その理由は日本がガンガン資本を突っ込んだからだ。

だから中国は発展すればするほど「日本型」経済機構(日本にではない)に組み込まれる。それは対米輸出を中軸とする輸出志向型経済だ。したがってますますアメリカの政策に依存するようになる。

いわば「普通の国」になってしまっているわけで、世界の経済の動きから隔絶した「社会主義経済の優位性」などもはや存在していないのである。人並みに「なべ底不況」も味わなければならないのだ。

また、これから減少するであろう日本からの資本輸出の影響も深刻となる。コストアップや少子化の影響も急速に現れるだろう。

したがって2000年代のふた桁成長は今後は望めない。

という中長期的状況から見て、そろそろ成長率を下方修正しなければならない時期だった。その時にアクセルを踏んだのではクラッシュは必然である。

ふたつ目にはリーマン・ショック時の異常な公共投資だ。

深刻なリセッションを公共投資・内需の拡大で凌ぐというのは正しいやり方だ。日本のように全て国民に押し付けたのでは、景気後退は長期化せざるを得ない。

ただし、その目標はGDP成長率をゼロ、あるいはゼロに近いマイナスに調整することであったはずである。しかしまだ中国国民の爆買い需要は旺盛であるから、厳格なゼロではなくプラス数%乗せても持つかもしれない。

それでも今までの差額分はどこかで払わなければならない。要するにこの際の財政出動はハードランディングを避けるためのものであり、ランディングはしなければならないのである。

外貨が潤沢だから韓国のような事にはならないだろうと言われるが、外貨のほとんどは米国国債という形で、すなわち売り掛け金の形であるにすぎない。アメリカが返すと思いますか? 絶対に返しません。

欲しいのはそういう塩水ではなく真水(投資資金)だ。今までなら日本資本が頼みの綱だったが、日本はもう以前のようには貸せないし貸さないだろう。

だから、中国はインフラなどへの公共投資による景気の維持という方針から、ある程度のハードランディングは覚悟して、社会政策によって貧困者を救済し、公共事業は失業対策的な投資に的を絞るべきであろう。

それと感情的には煮えくりかえる思いであるにしても、日本に頭を下げる道を探らなくてはならないだろう。ずいぶんか細くなったといえども、頼りにできるカネの出所はそこしかない。

日本のバブル崩壊の時とはだいぶ状況が違う。まだ発展の伸びしろはある。4,5年のうちには経済は回復するだろう。金融界には相当の後遺症は残るであろうが。

一番心配なのは、それによって生じる社会不安だが、多分大したことはないだろう。たかだか10年ちょっと、世間がまだ「いい夢を見た」と笑って過ごせるくらいの日にちしか経っていないからだ。

最近の不破さんの話はまことにスリリングで、どう受け止めたらいいのか、戸惑いを感じてしまうほどである。

要するに、とにかく「伝統」と呼ばれるものからスターリン的要素を剔抉して、徹底的に浄化しようということに執念を燃やしている。その迫力はこれまでの「反スタもの」に比べて格段の違いがある。

本日の「本と私」という党外の人に向けた講演でも、その思いは一貫している。

その中で、「うーむ」とうなった箇所を上げておく。

1949年の11月、新中国の誕生直後に北京で開かれたアジア太平洋州労働組合会議で、劉少奇が武装闘争の大号令をかけたんです。
翌年には、いわゆる「50年問題」で、日本共産党への武装闘争方針の押し付けが始まりました。
私たちは、そこに劉少奇演説の流れを見ていたのですが、この本 の第1冊に劉少奇のスターリン宛の手紙(49年8月)があり、“労働組合会議で武装闘争を呼びかけるのは反対だ”と訴えていました。それをスターリンは押し切ったのです。

ここでこの本 と言っているのは、2007年に不破さんが北京に行ったとき、たまたま本屋で見つけたという「建国以来 劉少奇文稿」である。

毛沢東以前の中国共産党について勉強したが、“お殿様の言うことは何でも飲み込む”姿勢は、中国共産党の習い性となっている。清朝時代の“美風”をそのままに引きずっている。近代市民文化の未成熟がその背景にあるのだろう。

それがスターリン主義を増長させた。酷な言い方だが、結局のところその“美風”は、客観的に見れば“下からのスターリン主義”と批判されても仕方ない。

ただその組織が国を支配するようになってくると、そこから抜け出す自由はもはやない。“美風”は“悪風”となる。そして劉少奇自らがその犠牲となった。

“悪風”は、最後は自分たちで克服していくほかないのである。


どうも書いていて、我ながら隔靴掻痒の感がある。

中国の伝統として白髪三千丈的な表現がある。言葉が踊るのだ。

だから言葉と実際の感情の間には乖離が生じることがある。それがスターリン的な荒っぽい表現を加えたために、一層それが激しくなる。それを外部の人間が見ると、とくに日本人だと非常に激しく受け取ってしまう。

事実としては、陳独秀も瞿秋白も李立三も、悪しざまに罵られ、指導部のポストを追われた。しかし党には残り、何時の日か再起している。あの王明ですら、革命後は政府の要職を務めている。

だから、政権交代劇はひょっとするとコミンテルンの顔を立てるために行われたにすぎないのかもしれない。

ということは、コミンテルンの指令は一応は受け取られるが、意に沿わないものであればいずれは破棄するつもりだったかもしれない。ただやるのであれば本気でやらなければならない。「それが民主集中制というものだ」ということか。

劉少奇にもその傾向がうかがわれる。勤工検留学生上がりに特有の気質かもしれない。

そこへ行くと王明は結構本気だった。彼の讒言で多くの活動家幹部が粛清されたり、敵に売り渡されたりしている。康生はもっと本気(むしろ狂気というべきか)だった。浅間山荘の連合赤軍連中のように、言葉と行いの間に隙間がなかった。

結局、1週間ほどをかけて「毛沢東のライバルたち」の年表に没頭しました。
どうやら完成です。
以前ブログに連載した「毛沢東以前の中国共産党」は拡充されて、この年表に一本化されています。
中国共産党の人脈は次のように分類されると思います。
1.マルクス主義の紹介者たち
この人たちの多くは日本留学組で、日本語訳された文献を通じてマルクス主義を知り、それを中国に紹介しました。1915年から20年ころにかけての時代です。この人たちの中から中国共産党が結成されることになります。
2.五四運動の世代
北京で軍閥政府の対外追従に抗議する大運動がありました。この時、共産党に飛び込んだ北京大学の学生を中心とするエリート世代があります。中国共産党の最古参に属する人たちです。
3.湖南湖北の農民運動
湖南湖北は中国の中でも遅れた農村地帯で、その分農村運動は激しいものがありました。これを代表したのが毛沢東たちです。
この地域は同時に勤工検留学生を多く輩出しました。したがって出身地域、年代ともに両者は重なっています。
4.勤工検留学生のグループ
同じ国外留学でも日本に留学したエリート層ではなく、フランスで働きながら学ぶという経験を積んだ人たちです。学ぶと言っても条件は劣悪で、ストライキを起こして強制送還させられた人もいます。戦前の共産党の主軸をになった人の多くがこのグループです。
5.コミンテルン・グループ
1930年までは1~4のグループが運動を担っていましたが、一斉蜂起戦術の失敗の後、コミンテルンの指示によって指導部メンバーは一新されます。
新たなメンバーはすべてモスクワ帰りの、ほとんど闘争経験を持たない新人でした。古手の活動家は粛清されるか、山岳ゲリラのもとに送り込まれるかしました。
ところが、彼らにとっては不幸なことに、その後1年も経たないうち、弾圧で上海での活動が不可能になってしまいました。こうして彼ら自身が解放区に入らざるを得なくなり、厳しい戦いの中で古参幹部の方針に従わざるを得なくなります。
6.その他のグループ
北京大学を中心に知識人のグループがありましたが、張作霖によって集団処刑されてしまいます。
上海、武漢、広州にはそれぞれ強大な労働者グループが形成され、労働者党員の幹部も生まれますが、その後の弾圧の中で消滅の運命をたどります。
国民党軍に潜入した共産党員も一連の武装蜂起に参加していますが、共産党の組織活動とは性格が異なるようです。
中国共産党にとっては、6大会というのが非常に大事な会議で、その後、はじめて諸活動の全面展開と党独自の組織づくりが始まります。その再建過程で左翼文化戦線も活発になります。党の活動が厳しくなったあとも合法面での活動がギリギリ維持されていました。彼らとスメドレーらは連携しながら党のパイプ役を勤めますが、ユージン・デブス事件で一網打尽にされてしまいます。
様々な理由から多くの党幹部がモスクワに在留していましたが、その殆どはスターリンの大粛清の犠牲となってしまいました。

ということで、それぞれのグループからこれはと思う名前を上げてみると、
1.陳独秀(徳田球一みたいな人)
2.李大釗(野坂参三みたいな人)
3.
張国燾(志賀義雄みたいな人)
4.
蔡和森 27年7月に陳独秀とともに指導部を降りている。その後モスクワでの療養生活に入る。
5.
瞿秋白(不破哲三みたいな人)
6.李立三 28年の6会大会(モスクワで開かれた再建大会)のあと党を再建
7.周恩来 中国のミコヤン。絶対にトップには立たない。
というわけで、並べてみると李立三が最強の指導者ということになります。ただ6大会では、本来は李立三ではなく蔡和森が就任するはずだったかもしれません。
ソ連=コミンテルンは一方で国民党との無原則的妥協を強いつつ、他方で極左冒険主義を煽るという犯罪的役割で一貫しています。李立三に無謀な蜂起を強いたのも当時のコミンテルンの極左方針そのものです。
そして最後には党指導部を事実上解体して、粛清屋の若者を送り込むという形で、中国共産党に引導を渡す結果となりました。
こういう経過を身をもって体験した毛沢東が、後年になって日本国民の闘争に野蛮な干渉をしたのは一体どうしてでしょうか。


とにかくまことに内容充実、脂っこい本である。AALAの全国総会の後、大塚駅前のブックオフで410円で買ったが、その10倍の値打ちはある。
まずこの本の骨組みを紹介しておこう。
この本の奥付は以下のようである。

岩波新書(新赤版)1251
シリーズ 中国近現代史 ③ 「革命とナショナリズム 1925-1945」
第1刷発行 2010年
著者は 石川禎浩(よしひろ)さん

1963年(昭和38年)生まれというから、私より二回り近く下の52歳だ。
京都大学の文学部卒業で、現在は人文研の准教授という肩書(准教授って知らないが、助教授より下か? もうポツダム教授で終わるかも知れない)

その博識ぶりと、見識の確かさには舌を巻く。私もいささか勉強したつもりだったが、共産党側と国民党側の見解の激しい相違の中で、情報の取捨選択に右往左往させられてきたので、このことには感服する。「実事求是」に対するひとつの拠り所を得た思いである。

蒋介石を回転軸としつつ、その右回りスピンよりは少し左側に中国民衆運動の重心を据えることで、20年代から30年代への確かな前進を確信していく作業が必要なのだろうと思う。
それによって共産党の運動を、毛沢東への流しこみでもなく、コミンテルンとスターリン主義の犠牲者としてペシミスティックに見るのでもない、積極的な視点が培われるのではないか。

私が毛沢東でない中国共産党の姿に興味を持ったきっかけは、映画監督の佐藤純彌さんの短いエッセイだった。上海のバンスに拠点を構え、巨大な生産都市にして歓楽都市の中で圧倒的な文化的影響力を発揮し続けた中国共産党のまばゆい姿が心に焼き付いている。その象徴が向警予だった。

結局、興味の持ち方がスケベェなんですね。

以下は岩波新書「シリーズ中国近現代史② 革命とナショナリズム」から編年風に抜書きしたものである。
いずれ「毛沢東以前の中国共産党」年表と合体するつもりだが、とりあえず掲載しておく。


1919年

10月 孫文らの中華革命党を中心として中国国民党(以下国民党)が結成される。

1921年

中国共産党が上海で第1回党大会を開催。この時の党員数は全国で50名余。

1922年

第一次奉直戦争。直隷派の勝利に終わる。

1923年

1月 孫文・ヨッフェ連合宣言が発表される。これによりソ連との連携方針が明らかになる。孫文は、「ソヴェート制度は中国には適さない」と留保。

この後、コミンテルン・ソ連から派遣されたマーリン、ボロジンらの助言を受け、党組織の改革「改進」が推進される。これまでの孫文専権党から、党大会を頂点とする近代政党に切り替わる。

3月 中国国民党、西南地方の軍閥を結集。広東で地方政権「大元帥府」を立ち上げる。

10月 北京の直隷派、「賄選」と呼ばれる議員買収で曹錕(金偏に昆)を大総統に選出する。直隷派は全国統一を目指し反対派(奉天派、安徽派)に圧力。

秋 国民党、党員の再登録を実施。広東省内の党員は3万から3千に減少する。

23年 孫文、ソ連に代表団を派遣。蒋介石も加わる。

蒋介石は日本に留学し陸軍で実習を積む。11年に帰国後は孫文の革命運動に加わり、軍事面で支え続けた。当初は必ずしも反共ではなく、孫文の連ソ容共方針にも積極的に賛同していた(石川)

1924年

1月 国民党、第1回全国代表大会を開催。国共合作を容認。ただし共産党員は国民党への二重加盟を求められた(党内合作)。共産党員の多数がこれに反対するが、コミンテルンに押し切られる。この時点で共産党員は全国で約500人。

6.16 広州の東郊外に黄埔軍官学校が開設される。総理に孫文、校長(軍の最高指導者)に蒋介石、党代表に廖仲愷が就任。ソ連軍事顧問団の指導を受ける。

9月 第二次奉直戦争が始まる。広東政府も反直隷同盟に加わる。両軍合わせ30万の兵力が動員される。南下した張作霖の奉天軍と直隷軍が北京東方の山海関付近で激突。

9月 国民党が広州の武力統一に乗り出す。翌年までに広東省の統一を実現。

10月 直隷軍の馮(ふう)玉祥が奉天軍に寝返る。北京を制圧し曹?を監禁する(北京政変)。背後を衝かれた直隷軍は総崩れとなる。

馮玉祥、自軍を「国民軍」と改称。皇帝退位後も紫禁城に住んでいた溥儀を放逐する。さらに張作霖の同意をえて、段祺瑞を北京政府の「臨時執政」に担ぎあげる。

12月 孫文、「北上宣言」を発し北京に入る。機能不全に陥った国会に代わり、全国の社会団体代表による「国民会議」を開催し、中央政治を一新せよと訴える。

国民党の党規約が制定される。ソ連共産党にならい、「民主主義的集権制度」を党の原則とする。

 

中国共産党の財政(石川:岩波新書中国近現代史③ より。以下石川と略す)
1924年度のデータで、総収入32千元。うち党費などによる収入は2千元足らずだった。すなわちソ連からの援助が3万元ということになる。党への直接援助の他に、労働組合やソ連政府援助の流用をあわせると10万元以上が中国共産党に流れたと考えられる。27年には援助総額は100万元に達した。石川の試算では当時の1元は現在の750円に相当するという。

レーニンが死亡。民族統一戦線を重視するソ連共産党・コミンテルンの対中方針はそのまま継続。

1925年

2月 上海の日系紡績工場「内外綿」で労働争議が始まる。

3.12 孫文、北京で軍閥政府と交渉中に死去。享年58歳。死因は肝臓がん。「革命なお未だ成功せず。同志なお須らく努力せよ」の遺言を残す。なお「連ソ容共」路線の継続を訴えるソ連あての遺言は、後の中華民国政府により無視された。

5月 広州で第2回全国労働大会が開かれる。「軍閥と国際帝国主義を打倒する革命」を決議。中華全国総工会の結成を宣言。166の組合、54万人の労働者を結集。

5.16 内外綿争議で、日本人職員が中国人労働者を射殺。共産党は糾弾闘争に立ち上がる。

5.30 「530事件」が発生。上海租界で、共産党の指導する判定示威運動。共同租界当局は群衆に対して発砲。13人の犠牲者を出す。

6月 上海総工会の呼びかけたゼネストに20万人が参加。総工会は中小企業家や学生団体とともに工商学連合会を結成し対外ボイコット運動を展開。都市機能は1ヶ月間麻痺状態に陥る。

6.23 広州の英仏租界の沙面を10万人が取り囲むデモが発生。恐慌をきたした守備隊の発砲により52人が死亡する。香港で働く13万人の労働者が広州に引き上げ。国民党政権の支援を受けた労働者糾察隊2千人が香港・広州間の交通を遮断し、香港と沙面を封鎖。

香港スト: 香港でのストは26年10月まで16ヶ月にわたり続けられた。この長期ストにより香港は「臭港」「死港」と化した(石川)。

6月 ロシア共産党政治局、中国(主に広東政府)への150万元の軍事援助を決定。これは4月から9月までの半年分とされる。

7月 広東の国民党政権、大元帥府から「国民政府」に改称。主席に汪精衛が就任。

8月 従来の諸軍を再編し国民革命軍が編成される。黄埔軍官学校の卒業生が中核を担う。

8月20日 孫文後継者と目された廖仲愷、広州市内で国民党右派により暗殺される。

夏 孫文側近の戴季陶、「孫文主義の哲学的基礎」、「国民革命と中国国民党」を相次いで発表。共産党の寄生政策を批判して、「純正民主主義」の徹底を訴える。

ただし戴季陶は蒋介石宛の私信で、「今日もっともよく奮闘せる青年は大多数が共産党であり、国民党の旧同志の腐敗・退廃は覆うべくもない」と告白している(石川)

秋 共産党員数が3千近くに達する。多くが国民党政府のメンバーとして活動。

11月 張作霖配下の郭松齢、馮玉祥と結び反乱を起こす。日本軍の支援を受けた張作霖は郭松齢の軍を殲滅。これを受けた馮玉祥の国民軍は北京を退去。西北方面で再起を狙う。

広州で「被抑圧民族連合会」、「ベトナム青年革命会」、「台湾革命青年団」などが結成される。

1926年

初頭 馮玉祥、国民党に加入し反乱を起こす。ソ連は国民軍を広東と並ぶ革命勢力とみなし、軍事顧問団の派遣や武器の援助を行う。蒋介石はソ連の二股膏薬に不信感を抱いたとされる。

1月 国民党第2回大会。左派が躍進したことから「左派による勝利の大会」と呼ばれる。汪精衛が最高得票を獲得。左派の支援も受けた蒋介石は、第2位で中央執行委員に選出される。

3.18 馮玉祥の国民軍と戦う張作霖に対し日本など列強が公然と支援。これに抗議する学生デモが北京で展開される。政府軍の発砲により47人が死亡。事件の責任を取り段祺瑞が引退。以後、奉天派支配のもとで直隷派との連合政府が成立するが、いずれも短命に終わる。(この年だけで5回の政権交代)

3月 中山(ちゅうざん)艦事件。国民革命軍の砲艦「中山」が蒋介石の承認なしに独自で航行。蒋介石は広州に戒厳令を布告し、ソ連軍事顧問団の公邸を包囲、労働者糾察隊の武器を押収。

蒋介石と広州訪問中のソ連使節団(団長ブブノフ)が事態の収拾をめぐり交渉。施設団はソ連軍事顧問団の越権行為を認め、顧問を更迭。さらに北伐の早期開始を容認し、そのために省港ストの収束方針を承認。

汪精衛はソ連の蒋介石への妥協に反発。国民政府軍軍事委員会主席の職を辞ししフランスへ去る。

4月 蒋介石が国民政府軍軍事委員会主席に就任。

5月 国民党、共産党員の国民党内での活動を制限する「整理党務案」を押し付ける。

5月 北伐を目指す国民革命軍が編成される。蒋介石が総司令に就任。

5月 北伐の前哨戦。国民革命軍北伐先遣隊が湖南省に入る。

呉佩孚が湖南省支配を狙うが、これに反発した省長代理の唐生智が戦を構える。国民革命軍はこれに介入し唐生智も国民革命軍に加わる(第8軍)。

6月 蒋介石、国民党主席(中央執行委員会常務委員会主席)のポストも獲得。

7月 国民党政府、「北伐宣言」を発表。国民革命軍動員令を発する。

北伐軍は全8軍、25師団編成。総兵力は10万を数えた。第1軍のみが黄埔学校卒業生を主体とする近代的軍隊で、残りは軍閥の部隊を再編したものであった。これに対抗したのは湖南の呉佩孚軍25万、江西の孫伝芳軍20万、彼らの背後には張作霖軍35万が控えていた。

7.09 北伐軍本隊が広州を出発。

7.11 呉佩孚軍、湖南の省都長沙を撤退。北伐先遣隊と唐生智の第8軍が制圧。

8月中旬 北伐軍、湖南省の主要部を制圧。

8月末 北伐軍、汀泗橋・賀勝橋で呉佩孚軍主力を撃破。

9.23 スターリン、モロトフ宛に「漢口はやがて中国のモスクワになるだろう」と書き送る。

9月 馮玉祥の軍、綏遠省で挙兵。陝西省方面へ攻勢をかける。

9月 イギリス砲艦、長江上流の万県に砲撃を加える。

秋 蒋介石、腹心の邵力子をモスクワに派遣。「ソ連共産党とコミンテルンの指導のもとに、その歴史的役割を完遂する」ことを明らかにする。

10.10 北伐軍が武漢を制圧。呉佩孚軍はまもなく壊滅。

10月 共産党が主導して上海で第1回目の蜂起。失敗に終わる。

11.08 蒋介石の率いる直属部隊と第7軍(軍長・李宗仁)が省都南昌を制圧。孫伝芳軍の前に苦戦し、1万を超える戦死傷者を出す。

11月 馮玉祥の軍、西安に進出。陝西省の大部分を制圧する。

11月 広州の国民党中央、党と政府の武漢への移転を決定する。

12.09 福建省の省都福州が北伐軍により制圧される。

12月 湖南・湖北の農民協会、半年で40万から160万に拡大。各地で武装し北伐軍を側面支援。

12月 国民党中央の先遣隊が武漢に到着。党中央と政府の臨時連席会議を組織する。

主要メンバーは徐謙(司法部長)、孫科(孫文の長男)、陳友仁(外交部長)及び政府顧問のボロディン。

1927年

4月 国共合作下の武漢で、第5回共産党大会。党員数6万人。労働者が6割、農民2割、知識人2割の構成。女性党員も8%を占める。

5月 コミンテルン第8回執行委員会総会。トロツキーは武漢国民党の反動化を警告するが、スターリンは国民党を通じた土地革命を想定し、中国共秋収産党に武漢政府への協力を求める。

陳独秀、武漢分共の責任を問われ、「右傾日和見主義」の批判のもとに解任される。

7月 スターリンのモロトフあて書簡。「中国共産党の中央委員会には簡単なやさしい要求がある。それはコミンテルン執行委員会の指令を達成することだ」と盲従を求める。

8.01 南昌蜂起。国民革命軍内の共産党派だった葉挺、賀龍、朱徳らの部隊が江西省の省都を中心に反乱。「中国国民党革命委員会」の名義で「革命の政党」を受け継ぐことを宣言。広東での政権樹立を狙い、南下を開始。

8.07 共産党、漢口で緊急会議を開催。陳独秀の路線を批判するとともに、南昌蜂起に呼応して「秋収蜂起」(湖北・湖南で秋の収穫期に蜂起する方針)を決定。湖南の農村活動家・毛沢東が指揮に当たることとなる。

9月 南昌蜂起部隊、広東までの間に国民党の攻撃を受け壊滅し四散。秋収蜂起もことごとく鎮圧される。

10月 毛沢東、秋収蜂起の残党1千名を率い井崗山にこもる。井岡山は湖南・江西の省境をなす山岳地帯。緑林・土匪を取り込み「工農革命軍第1軍第1師第1団」を組織。

11月 共産党、左派国民党を僭称することをやめ、共産党のもとにソヴェートを建設する方針を決定。広東省陸豊・海豊にたどり着いた南昌蜂起軍の残党がソヴェートを名乗るがまもなく殲滅される。

12月 広州蜂起。広州ソヴェートが樹立されるがまもなく鎮圧される。この時武装勢力に初めて紅軍の名が付けられる。

1927年

1.01 「武漢国民政府」が正式にスタートする。

1.03 武漢政府の臨時連席会議、3月に国民党中央総会(二期三中全会)を開催すると決定。軍(蒋介石)からの権限回復を図る。

南昌(江西省)に北伐軍総司令部を構える蒋介石は、臨時連席会議の正統性を認めず。南昌で独自の中央政治会議を開催。二期三中全会の南昌開催を決議。しかし南昌在留の党中央委員の多くが武漢に移ったことから、蒋介石の正統性は薄れる。

1月初め 漢口の英租界で反英闘争が激化。武漢政府は英租界臨時管理委員会を設置し、租界を接収する。その後、江西省の九江でも英租界が接収される。租界接収の動きを見た列強は、最大の租界を抱える上海に軍を結集。

武漢の労働運動指導者だった劉少奇は「労働者は企業を倒産させるという要求を掲げ、賃金を驚くべき水準に引き上げ、一方的に労働時間を1日4時感以下に短縮した」と述懐する。また農民運動は土地没収や地主の迫害を常態化させ、食料米の流通を阻害した。(石川)

2月 共産党、第2回目の上海蜂起。失敗に終わる。

3月 武漢で国民党中央総会(二期三中全会)が開催される。党常務委員会主席ポストの廃止、軍総司令の権限制限などを決定。労工部長、農政部長には共産党員が就任。

3.21 共産党、第3回目の上海ゼネスト・蜂起。2日間にわたる市街戦の末、奉天軍を放逐することに成功。当初、租界への攻撃はなく、外国軍との衝突はなし。

3.22 北伐軍の先鋒が上海に入る。ゼネスト勢力は「上海特別市臨時政府」を樹立。

3.24 国民革命軍の第2,6軍が孫伝芳軍を駆逐し南京に入る。一部が外国領事館や教会を襲撃し外国人数人を殺傷する。英米の砲艦が南京城内を報復攻撃。死者多数を出す。

蒋介石は日本政府に急使を送り、南京事件の誠意ある処理を約した。日本政府は報復に同調せず、蒋介石と国民政府内の過激分子粛清について密約した(石川)。

3.26 蒋介石が上海に入る。

3月末 コミンテルン、上海の共産党組織に対し、武力による租界突入を禁止する通達。また労働者糾察隊の銃刀器の携行を禁じる。

3月末 武漢の国民党中央、南京駐留中の第6軍(左派系)に対し蒋介石の逮捕を密命する。蒋介石は第6軍を南京から移動させ、直系の第1軍を配備。

4.01 汪精衛がソ連経由で上海に戻る。ただちに蒋介石や共産党の陳独秀らと会談に入る。

4.04 蒋介石、「共産党分子はデマを流し、団結を損なっている。これ以上の撹乱行為は反革命だと言わざるを得ない」と発言。

4.05 スターリン、「蒋介石など右派も帝国主義者と闘っており、今決裂する必要はない」と演説する。

4.05 汪精衛、陳独秀と共同宣言を発表。両党の友好関係を確認。また蒋介石への信頼を表明。その後武漢に向かう。

4.08 スターリン、蒋介石あてにみずからの肖像写真を送り、「中国国民革命軍総司令官蒋介石氏の勝利」を祝う。

4.08 国民党中央、産業の中心地である南京への遷都を決定。

4.09 蒋介石、駐留先の南京で左派系の集会を弾圧、さらに江蘇省党部を襲撃する。

4.11 広州でも蒋介石派の軍による左派弾圧が行われる。

4.12早朝 蒋介石隷下の第26軍、上海市内各所で労働者糾察隊の武装解除に乗り出す。この衝突で糾察隊員300人が死亡。小銃3千、機関銃20などの武器が押収される。

4.13 上海総工会が26軍にデモ。軍の発砲でさらに多数の死傷者。軍は総工会本部を占拠し左派・共産党系組織の解散を命令。その後広州でも同様の弾圧。

この後、上海は驚異的な発展を遂げる。人口は300万人(東京・大阪は200万人)、消費電力も東京を上回る。バンドには高層建築が林立。女性は摩登(モダン)な旗袍(チャイナドレス)で着飾る。活字、映画文化などが花開き、繁華街は電飾で不夜城と化した。(石川)

4月 北京を支配する張作霖、ソ連大使館を強制捜査。潜伏中の李大ら共産党幹部を逮捕・処刑。

6月 張作霖、「安国軍政府」大元帥に就任。みずから政権を握る。

4.17 武漢の国民党中央、蒋介石をすべての職務から解任。党からも除名する。

4.17 蒋介石、南京在留の党役員を集め国民党中央政治会議と中央軍事委員会を組織する。

4.18 南京に胡漢民(孫文とともに働いた古参幹部)を主席とする独自の国民政府が樹立される。蔡元培(元北京大学学長)らが蒋介石政府の支持に回る。

5.30 コミンテルンの中国に関する決議。これに基づきスターリンの「5月指示」が送られる。(中国への到着は6月初め)。中国共産党に極左的方針を持ち込む一方、国民党左派との連携を説く。

主な内容は①土地革命の断固実行、②武漢政府と国民党の再改組、③共産党員2万人の武装、④労働者・農民5万人の国民革命軍への加入、⑤反動的な武漢の将領の処罰など(石川)

6月初め コミンテルンの現地代表ロイ、「5月指示」を汪精衛にリーク。汪精衛はソ連の支援増強を条件に5月指示を受け入れる。

6月末 武漢政府は1500万ルーブルの援助を求めたが、200万ルーブルしか得られず。このため中央政府における汪精衛の地位は一気に弱体化する。

6.10 馮玉祥が武漢政府、南京政府と相次いで会談。蒋介石の側に立ち、武漢側に蒋介石との協力と労農運動の抑制を求める。

6月 日本政府、英・米の同調を得て第一次山東出兵。2ヶ月後に撤兵する。

7.15 武漢の国民党中央が会議を開催。汪精衛は5月指示の存在を明らかにする。会議は党・政府・軍における共産党員の職務停止を決議する(武漢分共)。第一次国共合作は終わりを告げる。

8月 孫伝芳軍の追撃に移った蒋介石軍、徐州の闘いで惨敗。蒋介石は下野を宣言する。

9月 国民党の最高機関として中央特別委員会が招集される。みずからの正統性を批判された汪精衛はこれを不満として引退を言明。

9月 無役となった蒋介石が私人の資格で日本を訪問。田中義一首相らと会談を重ねる。

蒋介石は、日本が「かつてのソ連のごとく」北伐を支援してくれるようもとめたが、北支の権益拡大を狙う日本側は確たる言質を与えなかった(石川)

27年末 蒋介石と汪精衛が不在の中央特別委員会は、何も決まらないまま解散。

1928年

1月 蒋介石が国民革命軍総司令官に復帰。2月には党の軍事委員会主席、3月には中央政治会議主席も兼任する。

国民革命軍の再編: 共産党・左派の占めていた軍は吸収併合され、4つの集団軍に統合される。第1集団軍・蒋介石、第2集団軍・馮玉祥(河南)、第3集団軍・閻錫山(山西)、第4集団軍・李宗仁(広東)が守備範囲となる。総勢は60万に達し、北方部隊合わせて20万を圧倒する。

第二次北伐を開始。

4月 日本、第二次山東出兵。第6師団5千人が省都済南に派遣される。

5.03 済南事変発生。済南に進出した北伐軍と日本軍が衝突。日本側の砲撃により中国側軍民3千人以上が死傷する。北伐軍が撤退迂回したため、済南は1年にわたり日本の占領下に置かれる。

済南事件はその後の対中侵略の雛形となった。①出先機関が事件を拡大・激化、②軍中央・政府が後追い、③世論が「暴支膺懲」論で後押しというパターン。いっぽう①中国国民の主要敵は英国から日本に移り、②蒋介石の親日方針は解消され、③英米両国が日本を批判的に見るようになった。(石川)

6.03 張作霖、特別列車で北京を脱出。奉天に向かう。

6.04早朝 張作霖を載せた特別列車、奉天直前で爆破される。後に関東軍の謀略であることが明らかになる。

6.08 国民革命軍(北伐軍)、北京に無血入城。天安門に孫文の肖像が掲げられる。この時点で軍勢は200万人にまで膨れ上がる。

6.15 国民政府、北伐と全国統一の完成を宣言。南京を首都とし、北京は北平と改称する。

7月 張作霖の息子張学良が東3省保安総司令となる。国民党と手を結ぶ道を選択。

10月 国民党、「訓政綱領」を発表。6年間の党独裁期(訓政期)を経たあと憲政に移行するというもの。

11月29日 張学良が易幟を断行。東3省にも青天白日旗が翻ることになる。国民政府は張学良を東北辺防軍司令長官に任命し内政の自治を承認する。

1928年

4月 朱徳の率いる南昌蜂起軍の残党2千人が井岡山に合流。中国工農紅軍第4軍を編成。軍長に朱徳、党代表に毛沢東が就任。

6月 共産党の第6会大会。国内での開催が困難となりモスクワで行われる。党員は最大時の6万人から1万数千に激減。

1929年

29年初め 毛沢東の第4軍、井岡山を離脱。江西省南部の瑞金に移動。

1929年

5月 張学良、ハルビンのソ連領事館を強制捜索。その後中東鉄道(シベリア鉄道の満州通過部分)の接収に踏み切る。

8月 ソ連が東北部に侵入。張学良軍を撃破する。

11月 ハバロフスク休戦協定。中東鉄道は引き続きソ連の支配下に置かれることとなる。

ソ連は共産党に「労働者階級の祖国ソ連を守れ」のキャンペーンを強制。これに異議を唱えた陳独秀は党を除名される。

1930年

3月 共産党の影響のもとに魯迅を押し立てた左翼作家連盟が結成される。

汪精衛ら「改組派」、青年党員を結集し反将運動を起こす。閻錫山、馮玉祥、李宗仁が改組派に合流。河北での大規模な内戦(中原大戦)に発展する。双方合わせ100万の軍を動員、死傷者は30万人に上る。

9月 北平に「国民政府」が樹立される。主席に閻錫山、政府委員に汪精衛、馮玉祥、李宗仁が就任。

9月 張学良が蒋介石を支持し北平・天津に進出。これにより中原大戦は収束に向かう。

1930年

3月 この時点で、「革命根拠地」(ソヴェート)は15ヶ所、軍勢は合計で6万、銃器3万丁を確保する。ただしその多くが「遊民」(はみ出し者)によって占められていたという。

7月末 紅軍ゲリラが湖南省都・長沙および江西省都・南昌を同時攻撃。長沙を攻撃した第3軍団(彭徳懐)は1周間にわたり長沙を占拠。湖南省ソヴェート政府の樹立を宣言。朱徳・毛沢東の第4軍は南昌を攻撃するが甚大な被害を出し撤退。

9月 共産党の6期3中全会、上海で開催。

11月 蒋介石軍、第1回めの囲巣作戦。3ヶ月にわたる。

30年 上海の租界に中国側の特区法院(裁判所)が設置される。租界警察から中国側に政治犯の受け渡しが行われるようになり、向警予、鄧中夏、趙世炎、彭湃、揮代英らが相次いで逮捕・処刑される。

1931年

1月 共産党の6期3中全会、上海で開催。王明、博古(秦邦憲)、洛甫(張聞天)ら「28人のボリシェビキ」(ソ連で教育を受けた若い党員)が中枢を握る。ボスの王明はモスクワに戻り、博古、洛甫が周恩来とともに党を取り仕切る。

4月 2ヶ月にわたる第二次囲巣作戦。

7月 3ヶ月にわたる第三次囲巣作戦。

9月 満州事変の勃発により囲巣作戦が中止される。

9月 寧都蜂起が発生。囲巣作戦に動員された国民党軍1万7千が共産党に寝返る。

11.07 瑞金を首都とする「中華ソヴェート共和国」の建国が宣言される。臨時政府の主席に毛沢東、副主席に項英と張国壽(張国壽は湖北の根拠地鄂豫皖をしきっていた)、軍事委員会主席に朱徳が就任。ただし共産党の序列では王明、秦邦憲らが指導的地位にあり、政府の軍事委員会は党の軍事委員会(書記は周恩来)の管轄のもとにあった。

31年 中国共産党幹部の顧順章、向忠発が検挙され転向。上海の共産党組織は事実上の機能停止に追い込まれる。

1931年

2月 党の元老格で立法院長の胡漢民、蒋介石の方針に反発。蒋介石は胡漢民を逮捕、立法院長の職を剥奪する。

5月 胡漢民派の牙城である広州で反乱発生。これに汪精衛、孫科(孫文の長子)、李宗仁らが合流。「国民政府」の樹立を宣言する。

9.18 柳条湖事件が発生。その日のうちに関東軍が奉天、営口、長春など18都市を占領。朝鮮軍(朝鮮在駐の日本軍)が独断で国境を越え奉天に向かう。

9月 日本製品ボイコット運動により、日本商品の輸入は5分の1に落ち込む(12月実績)。「安内攘外」路線に固執する蒋介石への不満が高まる。

1932年

1.28 第一次上海事変。日本側の謀略により市街戦が展開される。

1月 満州事変を機に広州派が妥協。蒋介石の下野を条件に南京政府に合流。孫科が首班(行政院長)となる。

3.01 「満州国」が建国を宣言。

3月 孫科が退陣。汪精衛が行政院長、蒋介石が軍事委員長の「蒋汪合作体制」が発足する。

12月 宋慶齢、魯迅、蔡元培らが中国民権保障同盟(以下民権同盟)を結成。政治犯の釈放や言論の自由を求める。

1932年

7月 第4回目の囲巣作戦が開始される。国民党中央軍60万人が動員され、9ヶ月に及ぶ長期作戦となる。鄂豫皖の根拠地が壊滅するが、周恩来の指導により本拠地の囲巣作戦の撃退に成功。

10月 共産党の寧都会議。毛沢東は「右傾」を理由に党活動の第一線から排斥される。

1933年

初め 上海を逃れた共産党中央が瑞金に入る。王明は毛沢東の遊撃戦路線を否定。軍事指導権を取り上げる。

3月 蒋介石、日本軍による熱河侵攻を受け、いったん囲巣作戦を中止。

10月 第5次囲巣作戦が開始される。中央根拠地に対し正面だけで40万、後備もふくめ100万の大軍で押し寄せる。

11月 第一次上海事変で日本軍と戦った国民党軍19路軍の一部が福州で蜂起。反将抗日を掲げる福建人民政府を樹立。まもなく蒋介石の攻撃を受け崩壊。

1933年

6月 民権同盟幹部の楊杏仏、蒋介石の私兵集団「力行社」により暗殺される。同盟は活動停止に追い込まれる。

1934年 

4月 瑞金の北100キロの広昌で最大の決戦となる。紅軍は多大な犠牲者を出し敗退。中央根拠地の崩壊は時間の問題となる。

10月 共産党、中央根拠地からの撤退を決定。党中央が瑞金を撤収する。紅軍の基幹部隊である第一方面軍8万人が西方への移動を開始する。(長征そのものの過程については省略)

1935年

1.15 貴州省北部の遵義で中央政治局拡大会議が開かれる。伝説が多すぎるが、結果としては、①毛沢東ら現場の突き上げで秦邦憲(博古)とブラウン(軍事顧問)が指導権を放棄、②周恩来が指導権を掌握、これに張聞天、王稼祥がつく、③周恩来は毛沢東を政治局常務委員に引き上げる。なおこの時点で、秦邦憲は総書記の地位にとどまるが、2月には職を辞し、王稼祥がこれに代わる。

以下は

鄭 敬娥 「アジア地域主義における「アジア的性格」の考察 ―アジア開発銀行(ADB)の創設過程を中心に―」 『広島平和科学』27 (2005)

の抜き書きと感想です。

独立は達成したが経済は崩壊した

多くのアジア諸国は第二次世界大戦後に独立を果たした。それらは新たな国家目標として、植民地的経済構造からの脱却と、国民経済の構築を設定した。

このために政府が積極的に経済活動に介入するとともに、外国資本の導入を極力制限した。

しかし、資金も技術も経営ノウハウも持たないこれら諸国において、このような初期の政策は無残な結果に終わった。

国内経済は深刻な停滞やインフレに陥った。外貨を獲得するにはモノカルチャー的な生産を強化しなければならないというディレンマが生じた。

このジレンマの説明はきわめて簡単である。植民地経済というのはただたんにむしりとる経済ではない。植民地に対し膨大な資金を投下し、その製品に対して豊かな市場を提供するのである。
植民地への投資はリスクは高いがきわめて魅力的だ。設備投資が少なく、人的経費の率が高いために剰余価値率も高いのだ。植民地側にしてみれば、高い利益率を確保しつつ、製品の販売市場が保障されているという魅力がある。需要予測も容易である。
別に現地労働者を奴隷のようにこき使わなくても、統治で普通の労働慣行を尊重したとしても、十分に元は取れるのだ。
植民地が独立するということは、この資金と市場を同時に失うことになるのだ。
にもかかわらず、「独立ほど尊いものはない」のだ。

旧宗主国から国際トラストへ

50年代半ばには、経済開発計画の多くは国際機関の援助(たとえばコロンボ・プラン)の受け皿として作成されるようになる。

しかしその際も、最終的なゴールは脱植民地化であり、外部資本の受入れはそのための多様な経済政策の一つとして理解されていた。

ナショナリズムと先進国資本の受入れとの間の矛盾は、そのような形でいちおう妥協の道を見出した。

アジア的性格と日本を先頭とする先進国との矛盾は、実はアジア諸国の内包する矛盾の反映であったということになる。であればこの対立は、突き放すようだが、アジア諸国が経済成長を遂げることによって自ら解決するしかない課題なのであろう。

輿望を担って発足したADB

すでに1959年には「米州開発銀行(IDB)」が創設されていたが、64年には「アフリカ開発銀行(AfDB)」が誕生した。

アジア諸国は、自分たちだけが取り残されるという危機感を強めていった。

ベトナム戦争が深刻化し、西側先進諸国の対外援助が減り続けるなか、日本の経済的浮上が地域協力に対するアジア諸国の期待を高めた。

1966年12月、アジア開発銀行(ADB)はアジア域内のほぼすべてを網羅し華々しく登場した。

ボタンの掛け違え

日本はADBを地域協力機構の一環として捉え、域内諸国の開発計画の調整を促すとともに、銀行としての健全運営を図った。

そのために、運営面においても域外先進諸国を積極的に参加させた。

しかし、アジア諸国はADBを途上国に対する経済協力機構として捉えた。そして資金面の協力は受け入れるが、運営における発言権は極力制限しようとした。

それがアジア人によるアジア人の銀行、いわゆるADBの「アジア的性格」の主張となった。

このようにして、ADBの創設は日本が加わったことにより、より複雑な道程を歩むことになった。

イントロを読んだだけでは、「アジア的性格」の主張はかなり分かりにくい。ADBが基本的に貸し手の機関なのか、借り手の機関なのかといえば、貸し手の機関に決まっている。
ただ「途上国のニーズに応え、その発展を援助する」という設立の趣旨から言えば、「主人公は途上国だ」という論理も分からなくもない。
これと似たような議論を昔やったことがある。「医療の主人公は患者だ」という主張である。病院というのはそもそも患者のニーズに応じて作られたものだから、患者の要求に応じて運営しなければならない。
しかし医療従事者から見れば、「それは違うでしょう」ということになる。病気を治そうとすれば、まずは医療の論理に従って動かなくてはならない。
だから次元を揃えた上で、どこかで議論を噛みあわせなくてはならないのである。その主たる責任は誰が負うか。「真面目な先進国」である。銀行の担当者ではない。

AIIBはADB以上の問題を内包している

今アセアンは域内貿易と資金調達により独自の道を歩こうとしている。しかし資金需要はあまりにも旺盛であり、自己調達レベルをはるかに超えている。

そんな時に新たな気前のいい融資先が名乗りを上げたのだから、基本的には大歓迎である。

かつて日本がアジア開銀を通じて強力な融資元として登場した時、日本は厳しいマクロ政策と財政規律を求めた。それは必ずしも悪いことではなかったと思う。

「厳しい兄貴だったが、おかげでグレずに済んだ」という側面もある。IMFの横暴には、それなりに体を張って抵抗してくれた。(それがどの程度のものだったかは別として)

中国が同じように「厳しいがいい兄貴」かどうかは保障の限りではない。とくに南シナ海では軍事的野心、領土的野心をむき出しにしているだけに、警戒心は持たざるをえない。

トラストの胴元としてのガバナンスや安定性にも問題がある。中国から金を借りたつもりが、いつの間にか華僑マネーに変身しないとも限らないのである。

日銀調査月報 1965年(昭和40年)8月号

アジア開発銀行設立の意義と問題点[PDF 843KB]


アジア開銀の設立は、本年末には最終結論をうる見通しである。

内容としては

1.資本金は10億ドル、うち域内6億ドル、域外4億ドルとし、広く欧米先進国などからの資金導入を図る。

2.本銀行の役割は域外から追加資金を導入し、世銀・第二世銀など既存金融機関の活動を補完しつつ、各種プロジェクトへの信用供与を行うことである。また各国の開発計画の調整、計画策定に関する技術協力も行う。

3.総裁はアジア人の中から選出する。

というのが柱。

この銀行はアジア人による銀行というアジア的性格と、先進国の発言権を確保するという国際的性格を併せ持つ。

このため、アジアの一員であると同時に域内唯一の先進工業国である我が国の役割発揮がもとめられる。

とここまでが「はしがき」

ついで背景説明に入る。

アジアにおける経済停滞の背景としては、多くの国が人口圧力と貧困という差し迫った問題に直面しながら、政情不安、軍事的緊張の激化から、乏しい資源のあまりにも多くを軍事目的に費消し、その結果、各国の資本不足がさらに拍車されていることによる。

1.エカフェ事務局の試算でアジア諸国では年間6~10億ドルの資金が不足している。政治・経済情勢の不安定が民間投資を抑制している。援助供与国が支援を政治的に利用することから不安定となっている。

2.先進国では戦後20年にいたり、生産過剰傾向が顕現化しつつある。今後の経済成長のためには、低開発国を含めた世界貿易の拡大が不可欠だ。

3.米国はベトナムを中心とするアジア情勢の緊迫化のなかで、民政安定と経済開発に積極的となっている。

ということで、いま考えれば相当あけすけにアジア開銀の目的を語っている。

次に、アジア開銀の目論見として、

1.開発銀行は長期安定外資を導入するチャンネルであり、域内各国における海外逃避資金を動員する呼び水となる。

2.アジアは世銀に好かれていないので、独自に資金調達するチャンネルを作る。(米州開銀が最初、ついでアフリカ開銀だった。アジアはもっとも政治的に不安定な地域だった)

3.開銀を作れば域内のいがみ合いも減るのではないか。

4.アジアの開発に必要なのは、資金もさることながら開発のノウハウではないか。

次に業務(とくに銀行業務)の内容について述べられる。

銀行業務は通常業務と特別業務に分けられる。両者は峻別される。

通常業務は健全経営主義の原則に基づき、元利支払い能力ありと認められるプロジェクトに限り融資される。

特別業務は特別基金と信託基金などに基づいて行われ、銀行の独自調査と判断に基づき、低利かつ長期の条件を出す。

ついでながら、

日銀のこのレポートを読むと、日本はさほど乗り気ではなかったことが感じられる。

韓国との国交回復は成ったものの、依然東南アジアなどの警戒心は強く、日本も米国との関係強化に専心しており、対アジア関係の煩わしさに巻き込まれたくないとの思いが見て取れる。

インドネシアのスカルノもアメリカ主導のアジア開銀への警戒心は強く、設立への動きをリードしていたのはむしろタイ、フィリピンなどだった。

このような動きを背景にして発足したアジア開銀は、冷戦終結とアジアの経済発展という一大変化を経て今でも有効性を発揮しているのだろうか。その辺に一定の疑問が抱かれるのは当然であろう。

その辺りに論及したのが下記の論文

アジア地域主義における「アジア的性格」の考察
―アジア開発銀行(ADB)の創設過程を中心に―

アジアインフラ投資銀行(以下AIIB)の評価は、相当じっくり考えなくてはいけない。AIIBの設立自体は決して悪いものではないし、IMF・世銀、アジア開発銀行の大国支配に風穴を開けるという政治的観点からも積極的に評価すべきだと思う。

ただその意義と限界についても冷静に見ておかなくてはならないと思う。

というわけで、AIIBの検討に入る前に、まずは総論のおさらい。

1.積極的な資金導入と安定的な通貨管理は表裏一体

97年の通貨危機を見ても、積極的な資金導入と安定的な通貨管理は表裏一体の関係にある。

実はもうひとつ、雇用の安定の問題があるのだが、これについては指摘するに留める。

2.導入する側と投資する側の論理

導入する側から見れば、国際投資は開発と発展のためにあるのだが、投資する側から見れば、その目的は利益の極大化にある。より率直に言えば、利潤一般ではなく超過利潤に目的がある。

これが国家間、あるいは国際機関との関係であれば、それなりの秩序は望める。しかし資本の完全な自由化のもとで投機資本までふくむ民間資本が自由に出入りすれば、資本の論理がむき出しになることは明らかだ。

3.カントリーリスクと担保

これを金融面で見た場合、投資する側は担保をもとめる。産業資本家であれば、投資のリスクは自らが全面的に負うことになるが、機関投資家は担保なしに貸し出すことはありえない。

担保となるのは国家財政の安定であり、通貨(金利)政策の着実さである。この他にも政治・労働環境の安定がもとめられるだろうが、ここでは省略する。それらの総合指標が通貨への格付けとして示される。

4.担保にこだわれば取引は成立しない

こうして貸す方も借りる方も担保能力に従ってやりとりすれば何の問題もない。ただあまりにも担保能力が低ければ、実際の投資はストップしてしまう。

そこで国際金融機関が信用を供与することによって、下駄を履かせることになる。これは政府間のODAとか借款に比べれば現ナマとしての有難味は薄いが、有効活用できる借金である。

5.資本自由化時代の国際投資

ところが、資本の自由化という局面に入ると話はガラッと変わってくる。

政府と民間に話は分断され、民間レベルでは無制限に資金が流入してくる可能性がある。そして実際に流入した。

どうなるか、まずは政府による流通資金量の調整ができなくなる。その結果バブル経済となる。資金にはレバレッジがかけられ、通貨発行量の数倍もの信用が生み出される。

6.経済発展と貿易赤字

第二に貿易赤字の拡大である。経済が発展するあいだ中、設備投資は増え続け、そのほとんどは輸入によって賄われるからである。これを資本収支の黒字が支える。

政府は歳入を増し、それをせっせとインフラ整備にあてる。外貨準備の積み増しをおこなう余裕はない。かくして身の丈の大きさと担保能力の間に格差が広がり、通貨は不安定なものとなる。

7.通貨危機と信用収縮

この2つが、限界に達したとき通貨危機が現れる。

外貨は羽が生えたように逃避する。膨らんだ信用には一気にデレバレッジがかかる。

あとに残るものは政府・民間の莫大な債務、失業者の群れ、通貨の暴落とハイパーインフレということになる。

もちろん景気循環の局面としてもこのような時期は出現するのであるが、問題は政府に対処すべき手段がまったく残っていないことである。

8.近代化、可視化、資本規制の3点セット

以上の点から、途上国に必要な援助の内容は明らかである。国家間の経済協力を柱とし、開銀がよりその枠割を高めて集中投資を可能にし、国家機能を損なうことなく経済発展が可能なようにすることが肝心なのである。

もちろん民間投資は重視しなければならない。それは本来足早なものではあるが、国家の富の再配分機構が良いものであれば、それはインフラにも回るし、内需の足腰を鍛えるのにも役立つ。

しかしそれは同時にバランス良く遂行されなければならないのである。そしてそれまでの間、行政システムの近代化、政治の可視化、なにがしかの資本規制は必ず必要なのである。

バンドン声明60年 東アジアへの歴史的視座

キーワードは「独立ほど尊いものはない」というホーチミンの言葉である。それは、人民はまず独立(自決)を勝ち取らなければならない、そして同時に平和を追求しなければならないということである。

つまり、諸民族の自決への尊重を基礎にして、平和・友好・連帯があり、その上に発展が築かれるという関係である。

Ⅰ 70年前(1945年) 日本帝国主義の崩壊と旧植民地主義者の復活

A) 反植民地主義闘争の初期を担ったのは左翼・急進勢力だった。彼らは独立を実現するために武装闘争をも辞さず闘った。中国、ベトナム、インドネシアでは勝利したが、多くは敗北した。

B) これに代わり、さまざまな色合いの中道勢力が、旧植民地勢力と妥協しながら独立を達成した。いくつかの国では、帝国主義に忠実な傀儡勢力が実権を握り続けた。

Ⅱ 60年前(1955年) 独立と平和での一致

A) 左翼・急進勢力と中道勢力は、内政での立場は異なるものの、民族自決の尊重と平和的な共存という点で一致した。これはこの年に結成された日本AALAの基本理念でもある。

B) しかしこの共同は、主要にはアメリカ帝国主義の干渉、副次的には東西冷戦という国際的枠組みの中で引き裂かれる。

Ⅲ 50年前(1965年) ニセの対立構図

A) 前年8月のトンキン湾事件により、ベトナムとアメリカ帝国主義の直接対決が始まった。この時、ベトナム連帯を掲げて北海道AALAが誕生した。

65年9月には中道派の旗頭インドネシアでクーデターが発生し、「親米か反米か」という無意味な対立構図が支配する下で、東アジアは敵と味方に分かれて闘うことになった。

B) 左翼勢力にも深刻な分裂がもたらされた。毛沢東は65年に文化大革命を開始し、法治主義を破壊し、国内外の左翼勢力を切り裂き、最後にニクソンと握手した。

C) おなじ1965年に日本は日韓条約を結び、これを機に、東アジアへの進出を開始した。特筆すべきは、アメリカ支援という重大な問題を抱えていたにせよ、それが憲法9条を遵守する平和的進出だったことである。

Ⅳ 40年前(1975年) 独立と平和に向けた再アプローチ

A) 75年の4月、ベトナムは最終的に勝利を実現した。それによって「ニセの対立構図」が解けたわけではないが、「ニセの対立」への深刻な反省は生まれた。

B) 平和が何よりも尊重された。軍事同盟であるSEATOは崩壊し、ASEANは平和を目指す非軍事的な機構として再発足した。

C) その後も10年にわたり、カンボジアなどで大規模な余震が続いた。東南アジアは明確な展望を示し得ないままに経過した。

Ⅴ 30年前(1985年) 平和と経済発展の道

A) ここには目立ったマイルストーンはない。軍事的に見ればカンボジアのポルポト政権への最終的決別である。それは対決オプションの最終的放棄である。89年のベトナム軍の撤退がピリオドと思われる。

B) 政治的に見れば、民主化の進行とアメリカ傀儡政権の後退である。フィリピンと韓国で独裁政権が打倒された。東南アジアのすべての国から米軍基地がなくなった。

C) 経済的には日本の企業進出による輸出立国型の経済体制の確立である。日本は第二次オイルショック後の不況をアメリカへの集中豪雨型輸出で切り抜けようとし、それは激しい経済摩擦を産んだ。

日本は東南アジアに工場を立て、アメリカへのいわゆる「迂回輸出」を促進した。それが「東南アジアの奇跡」と呼ばれるようになる。

D) それは政治的自由と平和的発展の道を後押しした。同時にそれはグローバル・スタンダードを不可避なものとし、国内の貧富の差の拡大をもたらした。

Ⅵ 20年前(1995年) 左翼と中道の再合流

A) 95年にベトナムがASEANに加盟した。

それは「独立と平和」を貫くための左翼と中道の共同というバンドン声明の再現とも言える。しかし一般的な友好ではなく、協力と協同に踏み込む前向きな関係である。この紐帯は97年の東アジア通貨危機を通じて強固なものとなった。

B) アメリカはこの歴史的な流れを妨害しようとし、さまざまな策謀を仕掛けている。たとえばAPECであり、たとえばTTPである。中国も南沙諸島で強権を行使する一方、アジアインフラ投資銀行(AIIB)で揺さぶりをかけている。

C) こうした中で、独立と平和に加え、連帯と発展が東南アジア諸国の合言葉となっている。さらにそれは平和の枠組みとして北東アジアにも影響を及ぼそうとしている。バンドン声明は、さらに進化した形でよみがえり、いまやアジアの進むべき「総路線」として生命力を発揮している。


これが第二次大戦後70年の東南アジアのたどった道筋である。

ということで、AIIBの評価に関わっていかなければならないのだが、その際に東アジア金融危機とアジア金融基金構想についておさらいをして置かなければならない。

東アジア金融危機は、一言で言えば、新自由主義という剥き出しの資本主義が、金融システムの未成熟な諸国で矛盾を噴出させた事象と言える。

なぜ金融危機という形で矛盾が表出したのか。それは米財務省・IMF・世銀というトロイカが金融自由化を煽り、途上国における金融の脆弱性に配慮しなかったためだ。

債務・株式スワップが導入され、債権そのものが取引の対象となり、投機の対象となった。これによりマクロ経済の小さな動きでも瞬時に増幅され、破壊的に作用するようになった。

途上国政府がさまざまな政策ツール(金利、通貨発行量、税制)を用いて介入しようとしたが、それらは市場原理に反する行為とされ、市場から排除されるようになった。

だから、資本収支(とくに短期資本)の悪化で未成熟な金融市場が撹乱されたとき、それはただちに無防備の中銀を直撃し、通貨危機をもたらした。政府も中銀もほとんど対応できないまま傷口を広げていった。

実はこれらの事態は、日本の大蔵省にとってはある程度予測されていた。7月にタイのバーツ危機が起き、そのわずか1か月後には省内でアジア通貨基金構想がまとめられている。

ギリギリまで発表されなかったのは、米国の干渉を避けるためだったとも考えられる。それほど衝撃的な内容だった。

1.参加予定国から米国が排除されている(日、中、韓、豪、香港,ASEAN5カ国)

2.「基本的にはIMFと協調するが,場合によっては独立して行動できる」との規定

米国はこれを日本によるクーデターと受け取った。連日のように強い圧力が加えられた。9月のアジア10カ国蔵相代理会議(香港)にはサマーズ副長官,フィッシャーIMF副専務理事が乗り込んで「オブザーバー」としてにらみを利かせた。

結果としてアジア通貨基金構想は流産した。しかしさらに日本は「新宮沢構想」を打ち出し、これがチェンマイ・イニシアチブへと結びついていく。

この演説で宮沢蔵相が述べたのが以下のセリフ。

<国際金融システムのあり方>
IMF・世銀のあり方を基本に立ち返って問いなおし,国際金融システムを再生させる時を迎えた。
短期的あるいは投機的な資本移動」が現在のシステムでは統制できない。ヘッジファンドなどの国際的な大規模な機関投資家に対する規制が必要になっている

<アジア危機とIMFの責任>
アジア危機は資本収支の急速な悪化から生じた。それは実体経済とは乖離したものだ。
市場経済のあり方にも,各国の歴史や文化,あるいは発展段階を反映して多様なものがありうる。対応については、タイミングや,社会的な影響等への配慮にもっと意を用いるべきだ。
にもかかわらず、IMFプログラムに、不必要かつ不適切な構造面でのコンディショナリティーを含め、途上国に性急に求めたこと(が,金融危機の原因である)。
それは「構造改革」計画(金融自由化)そのものの信頼性を損ねた。

堂々たる大演説である。

そして打ち出したのが、300億ドルの拠出。これで「短期及び中長期の資金支援」に当てようというものだ。


率直にいってここまでは良かった。

これから先は当初の位置づけからすれば、とてもうまく行っているとは思えない。

とくに先頭を切るべき日本がぐじゃぐじゃになって、理念を喪失しまったことが大きい。

理念とは何か、それは宮沢蔵相が言う如く、

1.新自由主義(金融自由化)の原理的否定

2.政府イニシアチブの尊重と擁護

3.投機資本の妄動に対する共同対処

4.実体経済の発展のための金融

といったあたりが柱になるのだろう。

しかしチェンマイ・イニシアチブはそれを入れるための受け皿とはならなかった。

IMFの指導の絶対、二国間に絞られたスワップでは目隠しされて猿轡を噛まされたようなものだ。

日本の没落、中国の台頭という地域内の力関係の変化もあった。しかし各国金融の安定的発展、これに基づく経済開発の促進という要望は依然として強烈なものがある。そしてそれこそが域内平和の礎である

やはり拠出型、多国間型の、ドルに縛られない相互支援機能を持つアジア通貨基金がどうしても必要だと思う。





先日の、AALAのシンポジウムで大西先生がアジア開発投資銀行(AIIB)構想を天まで持ち上げた時、私は少なからぬ違和感を抱いた。

97年の東アジア通貨危機がアメリカ主導のもとに収束された時、アジアには決定的にかけているものがあると感じた。それは通貨基金(ファンド)である。

投資資金を主体とするアジア開発銀行だけでは足りない。諸国が金を突っ込んで資金をプールし、それをスワップの形で回せるようにしなければ、アジア開銀だけでは息切れする。

投資(インヴェストメント)を金融(ファイナンス)がバックアップしない限り、投機資本に対抗はできない。

これが何よりも痛切な教訓であろう。

もちろん金融システムの強靭化は避けて通れない課題であり、それ抜きにファンドを語っても仕方ない。しかしいかに優良かつ堅実な投資を行おうと、投機資本に本気になってかかって来られたら勝てない。

関税、投資だけではなく金融(通貨)面での団結が必要なのだ。

中国はこの問題に手を付けるつもりはない。AIIBはアジア開銀の補完物にすぎない。酷評すれば、AIIBは通貨という勘どころを外した政治的イニシアチブに過ぎない。

実際日本はこの構想に着手しようとした。円を事実上の基軸とするアジア通貨基金計画である。しかしそれはIMFと米財務省の激しい攻撃を受けて流産した。国内的にも山一や拓銀の破産など弱点をさらけ出した。(しかし本気でやれば、まだあの時期なら勝てたのではないかと思っている)

「アジア通貨基金」構想は、多角的なスワップを基軸とするチェンマイ・イニシアチブに形を変え、地道に成果を重ねてきた。しかしこの構想を推進した日本は、その後日米同盟強化、ドル集中路線に舵を切り替えた。

この理由はいろいろ考えられるが、日本の支配的な経済団体における国家資本主義的な発想(シェアー重視)の後退が大きいと思っている。

彼らは日本国民と一体となって日本経済の発展(シェアの拡大)を目指すよりは、アメリカの支配層と肩を組み利益の極大化を目指すようになった。

もう一つは、円を支えるべき日本の商業銀行システムの弱体化である。巨大銀行がさらに再編され3つのメガバンクに統合されたが、その支配力に昔日の面影はない。円高は円の強さではなく弱さの反映となった。

結果としてチェンマイ・イニシアチブは停滞した。通貨スワップのネットワークは依然未完成である。

にもかかわらず、私はいまでもチェンマイ・イニシアチブがアジアの開発と経済発展の鍵を握っていると思っている。その再活性化こそがアジア開発の王道なのだ。

アジア開発投資銀行(AIIB)構想は、チェンマイ・イニシアチブが進展しないことへのいらだちの表明であり、裏返せば期待の表現でもあると感じている。

8千円も払って授業を聞いたのに、そのまま放って置くのももったいない。基本的にはケチだからなんとか多少でも元はとっておきたい。

ということで、シンポジウムの発言のまとめ。

1.地域協力のアイデアとメカニズム

最初は南京大学の歴史学者の発言。正直、国連の連中がよくやる制度設計コンペティションみたいなものだ。

まずは国家関係を4つの類型に分ける。

① エゴの衝突 自己が最高で他は最低という自己中心の発想

② 多様性の尊重と共存 多極化論ないし構造主義的見解に属するものか

③ ユニバーサリズムの下での共存 いつまでも多様性にこだわったままでは進歩しないので、それを乗り越える普遍性をもとめる動き

具体的にはデジタル・コミュニケーションや環境問題

④ 地球連邦としての国家の連合 将来的にはこういうものが登場するのではないか

これを①から④へと進めていく上で必要な物を3つ挙げている。

一つはラウンドテーブル方式だ。これはおそらく多国間主義(マルチラテラリズム)のことを言っているのだろうと思う

2つ目はウェーバー風になるが、政治に対する行政の優越、皮肉をまじえると「官僚主義」(ビューロクラシー)ということになる。(私見だが、これは完全な間違いだ。行政の洗練化は必須であるが、それは行政に対する政治の優越があってこそ実現される。それが真の法治主義だ)

3つ目が積極的非暴力主義(ガンジー風)である。安部首相の「積極平和主義」とは全く違うので注意。

というのが話のあらすじ。おそらく中国の現状を踏まえての話しだろう。


これだけでは面白くもなんともないので、自分に引きつけてこの4類型を考えてみたい。

国際政治の実際では、この類型よりもそれらのあいだの中間型が問題になる。

①の典型としてはイスラム原理主義が考えられるが、これは剥奪され極度の抑圧のもとにある人々の「余儀なくされた野獣性」であり、歴史の発展段階に位置づけられるものではない。

実際の①は、むしろウェストファリア体制として位置づけられるのであろう。ウェストファリアは弱肉強食体制の下での「どう食うか」というルール化に過ぎず、多極化論の萌芽としてとらえるべきではないと思う。

②は過ぐる二つの大戦、60年を挟んだ戦後数十年の民族解放の運動の中で端緒を踏み出したといえるだろう。しかしその動きは、アメリカの一極支配への野望、スターリン主義による民主運動の歪曲、新たに独立した国の新たな覇権主義などにより度々危機に瀕してきた。

現在も②の段階は完全に実現したとはいえない。大国主義の放棄はおそらく核兵器の全面禁止がそのメルクマールとなるであろう。

さりとて③、④の世界を構想することが無意味だというのではない。それらは並行するのであって、それらの運動なしには②の世界は実現しない。

小学校を卒業して中学を卒業して高校…という段階を踏むのではない。それらは並走するのである。国際機関プロパーの人たちには、どうもそういう下々の事情がわからないようだ。

「年表 毛沢東以前の中国共産党」全8回分がなかなかまとめて探しにくくなっています。

下記一覧にリンクを張っておきます。

ASEANの成立事情について詳しく書かれた論文を見つけたので、これに基づいて年表を増補します。

アジア冷戦とASEANの対応 ZOPFANをてがかりに」 黒柳米司
反共・親米のタイ、フィリピンと、反共・非同盟のインドネシアの間を取り持ちながら、マレーシアがまとめ役になって進んできたというのが経過のようです。
当初、フィリピン、タイはASEANに対して冷ややかでしたが、ベトナムのカンボジア侵入、中越戦争を挟んでASEANの重みを評価するようになったようです。
その後、フィリピンのマルコス政権打倒、インドシナ三国のASEAN加盟などを通じて影響力を広げてきました。
ASEANは経済共同体としての顔と、安全保障共同体としての顔を持っています。どちらもシステムとしては未成熟なものですが、ネゴシエーションの蓄積とノウハウについては学ぶべきものがあるでしょう。それがASEANを実態以上に大きく見せている秘密なのでしょう。

本日AALAの学習会でASEANについての講義があった。日本AALAの出したテキストを使っていろいろ説明がなされたが、かえって混迷を深めたようだ。
肝心なところは、ASEANの提唱したTACなどの平和枠組み構想にあるのであって、ASEANそのものにあるのではない。そこのところをわかってもらうとみんなスッキリしたようだ。
ASEANはあくまでも共同市場の枠組み構想なのだ。「コンセンサス方式で、一国でも反対があれば強制しない」というと、みんな「それは素晴らしい」というが、それは事柄が経済的な問題だからで、ビジネスの論理は基本的にそうなのだというと、目から鱗が落ちたように納得する。
こんな状況、前にも見たことがある。そうだコスタリカだ。
一時期、早乙女勝元さんというその筋では有名な物書きの影響で、コスタリカが民主主義の「天国」でもあるかのようにもてはやされたことがある。長年ラテンアメリカに携わってきた人間にとっては、かなり不愉快な経験だった。
正直のところコスタリカはどうでも良い。殆どの人はそんな国があることさえ知らないのだから、おとぎの世界だ。
しかしコスタリカを持ち上げる論理には危険がある。だから我々は警鐘を鳴らしたのだ。
ASEANについてはそうは行かない。変な幻想を持たれると実害が発生する。ましてそれを理想化して、日中韓三国がASEANのようになればいいなどと考えられると、正直困る。
とにかくレベルが違う。ASEANは全部足して1になるかどうかのレベルだ。日中韓は独立した大国関係なのだ。
我々はASEANやTACを大いに参考にすべきだと思う。しかしそんな生やさしい話ではないことも覚悟しておく必要がある。

をご参照ください

またもや中国で超大物の失脚が発生した。

今度は党中央統一戦線工作部長の令計画だ。令は胡錦濤が総書記を務めていた時代に党中央弁公庁主任として仕えていた人物。現存幹部の中では共青団グループのトップにおり、次期書記長を狙う地位にいた。

習近平の権力は、胡錦濤と連合することによって支えられいるとみられるため、今回の摘発は胡錦濤との関係を冷たくする可能性がある。

ただ、令計劃の場合はあまりにも派手なスキャンダルであるために、守り通すのは難しかった。周永康、徐才厚を切った返り血としてみておくべきかもしれない。

令の息子が北京市内でフェラーリを乗り回した末に事故死したのが2012年3月、それからすでに2年半が経過している。この間、令にお咎めがなかったほうが不思議だ。

事件発生直後、令はもみ消し工作を行ったらしい。これを知った胡錦濤は、弁公庁主任をおろし、統一戦線部長に転出させたという。しかしずいぶんと甘い処分だ。

やったのは息子だが、フェラーリを買う金はどこから出たのか、それが問題にならないわけはないのだ。一説では令計劃の預金総額は7100億円に達しているという。

ということで、令計劃の摘発は本線とは離れたケースと見ておくべきかもしれない。

なお事件に関して遠藤誉さんがコメントしていて、

1.令計画の背後には山西閥、あるいは電力閥が控えており、そこを狙った攻勢の可能性もある。

2.これらの閥の総帥は李鵬元首相である。

3.江沢民と石油閥への攻勢を終え、次は李鵬と電力閥がターゲットとなるかもしれない。

4.しかしこれは権力争いではなく、国有企業の大規模な構造改革への第一歩であると見るべきである。

と述べており、卓見であろう。

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