鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

カテゴリ: 13 国際政治・経済/中東(マグレブ諸国を含む)

2012年

2012年1月

1月3日 人民議会(下院)選挙が終了。自由公正党が第 1党、イスラム教の原点回帰を目指すサラフィー主義を奉じるヌール党が第2党となる。旧政権側はほとんど議席を獲得できず。

票の7割は農村部にある。識字率はエジプト全体で60%であるが農村では35%にとどまる。農村
部では選挙の意味も十分に理解されておらず、すべてにおいて宗教的価値に重きが置かれている(鈴木恵美論文)

2012年2月

2月 諮問評議会(上院)選挙が施行される。下院と同様に自由公正党とヌール党が第 1 党、第2党を占めた。 同胞団は「大統領選には独自候補者を擁立しない」と宣言する。

2月 外貨準備高が157億ドルまで減少。適正基準の下限に迫る。

2012年3月

3月末 同胞団、公約を覆し大統領選挙での独自候補擁立を決定。シャーティル同胞団副団長と、自由公正党のムルシー党首が立候補を届け出る。(ムルシーは控え投手)

3月 軍の大統領候補はスレイマーン前副大統領(元情報機関トップ、陸軍少将)派とシャフィーク元首相(空軍中将)派に分裂。

2012年4月

4月 選挙管理委員会による事前審査で、スレイマーン、シャーティルを含む10人が失格となり、結果として軍はシャフィーク、同胞団はムルシーに一本化される。

2012年5月

5月23日 大統領選挙が実施される。同胞団のムルシー候補が 24%の得票で首位、旧政権高官であるシャフィーク元首相が僅差で2位となるが、いずれも過半数に届かず決選投票にもつれ込む。

5月31日 サダト元大統領の暗殺以来続いていた非常事態宣言が解除される。令状なしに逮捕を認めていた同宣言は旧政権による抑圧の象徴だった。

2012年6月

6月14日 最高憲法裁判所は人民議会選挙の結果を事実上無効とする判決。これを受けて人民議会は解散され、立法権は人民議会から軍最高評議会に移譲される。大統領選挙で敗れても軍の権益を保持する狙いとされる。

6月16日 決選投票が実施される。ムルシー候補がシャフィーク候補を僅差で破る。ムルシーは「国民全体の大統領になる」として、同胞団及び自由公正党から脱退。

6月30日 ムルシーは大統領に就任。軍最高評議会の暫定統治は終結し、民政移管が完了する。敗北したシャフィーク元首相はUAE に事実上の亡命。

6月 ムバラク前大統領に終身刑判決。

2012年7月

7月 ムルシー大統領、人民議会の再招集を命じる。しかし最高憲法裁判所は再招集を認めない判断を下す。

2012年8月

8月2日 新内閣が発足。暫定軍事政権のタンターウィー(軍最高評議会議長)は国防相に留任。

8月2日 カンディール首相率いる内閣が発足。省庁出身者や大学教授など多くの知識人・技術の専門家で構成されるテクノクラート集団。

8月5日 シナイ半島で、武装集団の襲撃によりエジプト軍兵士16人が死亡。

8月12日 ムルシー大統領、タンターウィー国防相とアーナーン参謀総長を突然解任する。襲撃事件の責任を口実に強行したものとされる。両名は大統領顧問に任命される。

8月 大統領は暫定憲法を発布。立法権を軍最高評議会から自身へ移管する。これにより、大統領は行政権と立法権の両方を掌握する。

8月 政府系新聞の人事権を行使し、編集長を交代させる。以後、政府系紙各紙は政権批判を自粛。一方、政権批判を行う新聞の編集長が中傷罪で一時逮捕される。

8月 ムルシー大統領、非同盟諸国首脳会議への参加のためイランを訪問。

2012年9月

2012年10月

2012年11月

11月12日 21の政党・グループが呼びかけたデモが全国各地で取り組まれる。カイロでは同胞団がデモ隊に殴り込み、100人以上の負傷者が出る。

11月16日 カンディール首相、ガザに入りハマス政権のハニヤ首相と会談。イスラエルによる占領継続を強く批判する。ハニヤ首相は「革命後の新しいエジプトを象徴する訪問だ」と称賛。

11月22日 モルシ大統領が「権力集中宣言」。新たな暫定憲法を発布し、「新憲法制定と次期人民議会選挙の実施まで、大統領の決定は司法を含む一切の干渉を受けない」と宣言する。

11月 政権が主導する憲法制定委員会、イスラム色を強めた新憲法を起草。国民投票へと動く。

2012年12月

12月4日 非政府系紙各紙が抗議の一斉休刊。ムルシーの強権姿勢に対して抗議デモが激化。

12月8日 ムルシー大統領、新たな暫定憲法を撤回。

12月 新憲法の是非を問う国民投票が実施される。世俗主義勢力は反対票の投票を呼びかけたが、賛成多数で新憲法は承認される。

12年末 治安状態が大幅に悪化。殺人は前年比約2・5倍の1885件、強盗は約3・4倍の2611件、誘拐も約2・5倍の258件に達する。

 

長沢栄治さんが朝日に以下のように書いている。中長期のトレンドを踏まえた卓見だろうと思う。二つの過程が同時進行しているのである。

 今回の「政変」は、革命なのか、クーデターなのか。このよく挙げられる疑問に答えるなら、革命でもあり、クーデターでもある、ということになる。軍部の実力行使は、クーデターそのものであるが、今回の「政変」は、革命プロセスの大きな節目となる一部でもあるからだ。

現在も続いているのは「革命」なのである。これまでの世界史上の革命がそうであったように、善悪の基準で測れるものではないし、またきれいごとでは済まな い。“民主化を求めたはずの人たちが血迷って、いったい何をしているのでしょう”、というような「西側」の「上から目線」で語ってしまうのでは、何も分からな い。 

 

2011年

2011年1月

1月25日、最初の大規模デモ。

2011年2月

2月11日 18日間に亘る騒乱とデモの末ムバラク政権が崩壊。大規模デモが発生した日付をとって「1月25日」革命と呼ばれる。「国事」の運営は軍最高評議会(SCAF))に託される。

2月12日 SCAF、第4号声明を発表。自由で民主的な国家を建設すると宣言。タンタウィ陸軍元帥(国防相)を議長に指名。

2月13日 SCAF、憲法と人民議会を停止する。行政トップには前政権のシャフィーク首相が残留。SCAFの主導で「真相究明委員会」や「憲法改正草案作成委員会」が結成される。

2月16日 デモに参加した8グループが中心となり、エジプト革命理事評議会が設立される。

2月19日 ムスリム同胞団のリベラル分派ワサト党が合法化される。

2月26日 憲法改正委員会が憲法改正案を提示。①大統領の任期を6年から4年に短縮し、かつ2期に制限する。②大統領選挙に立候補できる要件を見直し。③非常事態宣言の発布・維持・更新権限の制限などをふくむ。

2月 与党国民民主党は事実上の解体。「自由公正党」(ムスリム同胞団)など多くの新党が結成された。

2月 「革命青年連合」が結成される。宗教に関係する主張は極力控えながらイスラームとコプトの融和を掲げ、革命の継続を目標とする。

2011年3月

3月3日 シャフィークに代わり、反ムバラク派のイサーム・シャラフが首相に就任。シャフィーク退陣を求めるデモは回避される。

3月19日 憲法改正案の是非を問う国民投票が成立。投票率は41%、77%の賛成で承認される。

3月28日 政党法が改正される。5千人以上の発起人署名を添えて申請すれば認可されることとなる。

2011年4月

4月8日 革命青年連合のデモ隊に青年将校グループが合流。SCAFの解散をもとめる。軍はこのデモを弾圧。

4月13日 軍は革命青年連合の圧力を受けムバラクの腐敗に対する捜査を開始すると発表。

2011年5月

5月24日 ムバラクと家族に対する起訴が決定。

2011年6月

6月6日 ムスリム同胞団の自由公正党が政党としての認可を受ける。自由公正党は13の政党に呼びかけ「エジプトのための国民同盟」を結成し、きたるべき選挙に備える。

2011年7月

7月8日 革命青年連合を中心に73の組織がタハリール広場での座り込みを開始。

7月23日 タハリール広場の青年がSCAF本部に向けデモ行進。警官隊と衝突する(アアッバーシーヤ事件)

2011年8月

 

2011年9月

9月9日 革命青年連合のデモに紛れ込んだ挑発分子がイスラエル大使館を襲撃。これを機にタハリール広場の選挙の長期化に対する不満が拡大する。

9月30日 革命青年連合の呼びかけたタハリール広場の占拠行動に、ナセリスト党やタガンムウ党、「変化のための国民団体」が反発を強める。

2011年10月

10月1日 選挙法で与野党間に妥協が成立。2/3を比例区、1/3を小選挙区とすることで合意。

2011年11月

11月 軍の憲法基本原則が明らかにされる。軍事予算は議会の審議を通さない、草案作成員会の半数は軍人とするなど。

11月18日 自由公正党の呼びかけた「基本原則に反対する100万人デモ」がおこなわれる。3日間で死者20人以上、1100人以上の負傷者を出す。

11月21日 抗議行動の盛り上がりを受けシャラフ首相が辞任。カマル・ガンズーリが暫定内閣を組織。

11月28日 人民議会選挙が始まる。地域毎に3回に分けて実施された(3回目は翌年1月)

2011年12月

12月20日 ムスリム同胞団がSCAFに対するデモを展開。挑発分子が治安部隊と衝突し、十数名の死者を出す。

年度末の経済状況: 外国からの投資及び観光収入が激減したために、経常収支の大幅赤字へとつながった。
外貨準備高が大幅に減少し、安全基準とされる輸入の3カ月分にまで落ち込んだ。
失業率は革命以前より約3%増の12.6%を記録した。
GDP成長率はリーマンショック前の7.2%、革命前の5.1%から1.8%へと落ち込んでいる。(日本大使館ホームページ)

 

「防衛研究所ニュース」の 2013年5月号に

「アラブの春」その後―2012年以降のエジプト政治情勢の展開:ブリーフィング・メモ

と題する研究論文が掲載されている。

著者は「地域研究部アジア・アフリカ研究室」の西野正巳さんという方である。事実経過を知る上で大変参考になるので、例によって年表形式で紹介させていただく。


と言いつつやり始めたら止まらないのが性格。他の文献にも手を出してしまった。当然膨大な資料となる可能性がある。

参考文献

政変後のエジプト経済・政治状況(1.4MB) - JETRO 


赤旗の小泉記者の情報は独自取材にもとづく系統的なものであり、大変参考になる。

朝日の川上記者による中東マガジンも豊富な情報をふくむ。

これも年表中に加えることとする。(多分ものすごい量になると思う)

日本語版ウィキペディアは、かなり情勢に遅れていて、当面の役には立たない。

 


エジプトの経済指標を見ていて思ったのだが、ネガティブな表現が多すぎる。
可耕地は狭い、人が多すぎる上に増え過ぎる、サービス産業ばかりで生産的産業は何もない、慢性の貿易赤字で、放漫財政が首を絞めている、といった調子だ。
これではお先真っ暗だ。
しかし人材は中東全土から集まってくる。GDPは少なくともリーマンショック前まではかなりの伸びだ。

つまり、第一次産業も第二次産業もなくても、エジプトは別に困らないのだということになる。
これは都市国家の特徴だ。考えてみれば香港もシンガポールもそうやって発展している。

エジプト(というよりおそらくはカイロなのだろうが)が国境を超えて中東の商業センターの役割を果たしているとすれば、それで計算は成立するのではないだろうか。

エジプトは地理的優位性、労働力、水、電力などが安いことなど優位点を多く有している。EU、湾岸諸国等との経済協定によりゼロ関税で輸出できる。また、若年層が多い人口構成も魅力の一つである。
エジプト地場企業の多くはR&Dにかける予算がなく、自社で技術開発を行う限界がある。
一方、エジプト・アラブ特有の商習慣を知りつくしていることは最大の長所であるから、欧米など先進国は中東進出の拠点をカイロに置くほかない。
政変後のエジプト経済・政治状況)

ただ都市国家としてのカイロはセキュリティーを必要とするので、コストとしてエジプト全土の統治業務を負担せざるをえないという構造で捉えると、分かりやすいのかもしれない。ただコスト意識があまりにも徹底し過ぎているが…

ただこれは諸刃の刃ともなるので、都市が発展すればするほど国内リスクは高まる。とくに議会制民主主義が真の意味で実現してしまうと、都市対地方という矛盾が露呈し、たちまちのうちにカオスがもたらされる。

最もドラスティックな解決法としては、シンガポールが国家として分離独立したかつてのマラヤのように割れてしまえばよいのだろうが、エジプトははるかに均質な社会である。異端としてはせいぜいキリスト教・コプト教かユダヤ教
くらいだ。

都市対地方という矛盾の根本的な解決にはならないが、当面は、地方中都市(ミニ・カイロ)の育成によって、農村部の過剰人口を吸収し、地方の底上げを図るくらいしか道はないのではないだろうか。

エジプトが石油輸出国とは知らなかった。

日本大使館のホームページによると、

· 石油

o生産:約68万B/D(05年) o可採埋蔵量:約37億バレル(05年) o可採年数:約13年(05年)

となっている。

石油は、長らく4大外貨収入源(他は観光収入、海外労働者送金、スエズ運河渡航料)の一つとして、エジプトの国際収支改善に貢献してきたが、近年生産量の減少、国内消費の増大等により輸出余力を失いつつある。

そうだ。

Market Hack さんによると、

エジプト情勢が市況に与える影響を論じる際、真っ先に言われるのは「エジプトからは石油が出ないので、大丈夫」という事です。

でも正確に言えばエジプトからは石油は出ます。また天然ガスはもっと出るのです。

ということだ。

ただ変なことに輸入もしている。おなじみの「世界経済のネタ帳」によると

2012年度の原油輸出額は113億ドル。これに対して輸入額は118億ドルとなっている。差し引きすると輸入国ということになる。

むしろ期待されるのは天然ガスの方で、地中海岸沿いで盛んに試掘が行われえいるようだ。

エジプトを楽しむ総合サイト
http://www.luxor-co.com/category/the_general_condition/basic_information.shtm
からの抜粋

エジプトで最も人口密度の高い地域はナイル川渓谷地帯とデルタ地帯です。居住地域は国土の全面積の6.0%で、残りの国土の大半は、人がほとんど居住していない乾燥した砂漠地帯になっています。エジプトの平均人口密度は国土全体では約60人/平方キロメートル程度に なりますが、居住地域における実質的な人口密度は平均約1,000人/k㎡にまで膨れ上がります。

東京都23区内の人口密度は13,500/k㎡になりますから、それよりは随分と人が密集していない

と書いていますが、東京と比較してもあまりなぐさめにはならないでしょう。

おなじようにライン川の河口のデルタ地帯の国オランダは人口密度:約400人/k㎡ とされている。

もっと深刻なのは人口増加に歯止めがかかっていないことです。

人口ウォッチャーによると
http://www.jinko-watch.com/kuni/029.html

エジプトの09年の総人口は83.0百万人。1999年から2009年までの増減割合は20.5%、2009年から2030年までの将来増加割合は33.6%

10年で2割(北海道3つ分の人口)も増えるのでは、母なるナイル川としてはたまったものではありません。

今エジプトという国が悲鳴をあげているのでしょう。

赤旗もさすがに音を上げたようだ。

先日小泉記者が、エジプト民衆の現場の声を色濃く反映したレポートを出した。
「いろいろあるが、運動の現場ではモルシを退陣に追い込んだのは民衆の力であり、軍事クーデターによる政権転覆とはいえない」
というのが現場の声であろう。

ただ、多少引いた所で眺めると、「モルシを退陣に追い込んだのは民衆の力であるが、問題もいろいろあるんじゃない?」と考えるのも、もっともである。

さはさりながら、このままの形で運動が収斂してしまえば、残るのはまごうことなきクーデターと、軍の権力回復という事態であり、民衆の運動は簒奪されたことになる。
それでは軍の権力掌握を否定して、もう一度モルシ体制を復活させようということになるのかというと、それでは民衆の方で黙ってはいないだろう。

ということで、25日の紙面は「激動エジプト 識者に聞く」という見出しで、完全イーブンの二つの談話。

一人は千葉大学教授の栗田さん。この談話の見出しは「国民の巨大な運動が政権崩壊に追い込んだ」

最初の段落を書き出すと、

モルシ政権の崩壊は若者グループの運動や、「救国戦線」に結集した諸政党など、国民的運動の成果です。
結果的に群が大統領を解任し、政権移行過程を管理する行動に出たので、欧米等のマスコミは「軍事クーデター」として描いていますが、国民の巨大な運動が政権を崩壊に追い込んだと見るべきです。


栗田さんの談話の特徴は、民衆が自らの手で勝ち取った立憲・民主制を一時サスペンドする道を選択した、それほどまでに強いモルシ政権への怒りをまず理解した上で発言すべきだ、という政治のダイナミクスの重視です。

もう一人は東大教授の長沢さん。こちらの見出しは「軍の思惑をはらんだ“性急なクーデター”

モルシ大統領を退陣させた軍の行動は、多くの国民が歓迎したとはいえ、“性急なクーデター”だったのではないかと考えます。モルシ退陣を求める2300万人の署名をテコに事態の収拾を図ることは可能でした。

ということで、両論をすりあわせながら今後を見て行かなければならないのであろう。

ことの是非は別として2つのことが確認される。まず、軍の行動は民衆の考えとは違う戦略に基づいているということを確認し、覚悟しておくべきだということ。
もう一つは、モルシの全面復権はありえないということだ。したがってそこには立憲制の断絶が生ぜざるをえないということだ。政権移行の合憲性は、何らかの形で担保されなければならないということだ。

長沢さんはそれが「憲法改正をめぐる闘争」になるだろうと予想している。
そして、その憲法に民主主義、人権、文民統制、地方自治の精神を盛り込むことにより、非平和的政権移行の可能性を封じ込めることが、軍事独裁の再現を許さず、非宗教支配(secularism)をつらぬくための保障となるだろうと見ている。

実践的には、たしかにこのへんが落とし所になるのではないだろうか。

私はメキシコ革命を思い起こしている。1912年に始まった革命は、反革命や、裏切りや妥協を織り交ぜながら6年間続いた。ありとあらゆる人々がありとあらゆる党派に属し、相互に「武器による批判」を繰り返した。

そして皆が疲れ果てたとき、1917年憲法が発せられ、革命は落ち着くところに落ち着いた。
そこが革命が始まる前より、はるかに進んだ地平であったことは間違いない。なぜなら殆どの人々が前進を欲していたからだ。


エジプトによる権力交代をどう見るかは、形式的な面からだけでは判断できない。
形式論理から言えばクーデターそのものではあるが、その土台にあるものはモルシ独裁政権に対する民衆の激しい抗議であり、民意は一刻も早い政権交代にあった。
軍が介入しなかったとしてもモルシ政権は崩壊していただろう。

ここを基本として見るなら、この民衆の怒りを背景にした軍の介入といえるだろう。民衆が主役であり、軍は主役ではない。

小泉特派員は以下のように書いている。
①軍の超法規的措置が情勢を混乱させ、今後の国民的和解に向けて重大な否定的影響をもたらしていることは疑いない。
②しかし、少なくとも多くの国民は今回の事態を「クーデター」と呼ぶことを強く否定している。「国民の闘いが歴史を動かした」と感じている。

結局この②の評価が決め手になるのだろうし、権力の移行の形態をもってその本質の評価に変えてはならない。

その上で、軍が乗り出してきた目論見については、事実に即した分析がもとめられることになるだろう。

大統領選挙で見た範囲では、エジプトの力関係は三すくみ状態にある。軍、イスラム同胞団、そして民衆である。

革命を成功させたのは民衆であるが、統一勢力を未だ形成しえていない。軍は企業を巻き込み、旧ムバラク派も取り込みながら勢力拡大を狙っている。

アメリカはクーデターを激しく非難するかのようなポーズをとっているが、実は軍の最大のスポンサーである。

同胞団は、大統領選挙で民衆の代表であるかのようなマヌーバー作戦をとることにより、民衆の支持をとり込み勝利した。

今後、同胞団の出方により情勢はきわめて流動的なものとなるだろう。しかし彼らへの反感がこれほどまでに高まれば、シリアのような事態に発展する可能性は低いと考えて良いのではないだろうか。

ヒズボラの戦闘についての追補ということです。かなり途中が抜けていますが、機会があれば埋めて行きたいと思います。

1996年

96年 イスラエル国内で連続爆弾テロ。ヒズボラの犯行としたイスラエル軍はレバノン南部を空襲。怒りのブドウ作戦と名付けられる。レバノンで難民救援活動を行っていた国連レバノン暫定駐留軍フィジー軍部隊のキャンプが、イスラエルの集中砲撃を受ける。


2000年

5月 イスラエルのバラク政権、レバノンらのイスラエル軍の一方的撤退を発表。イスラエル軍は電撃的に南レバノンから撤退。南レバノン軍兵士の多くはヒズボラなどに投降。南レバノンのヒズボラの力は強化される。


2004年

9月 国連安保理、米仏の提案による「レバノンからの外国軍撤退」決議を採択。ラフィク・ハリリ首相は安保理決議の完全実施を主張し、ラフード大統領と対立、辞任する。

2005年

2月14日 ハリリ元首相が爆弾テロにより暗殺される。レバノン国内では各地で激しい反シリア・デモが起きる。米国はシリアの関与を疑い、完全撤退をもとめる。

4月 「杉の革命」、国連や欧米各国もシリア軍撤退を強く要求。シリア軍1万4千がレバノンから撤退する。


2006年

5月 ヒズボラ、イスラエル北部国境の町キリヤット・シュモネにロケット弾を撃ちこむ。また、射程100kmの新ミサイルを使用し、ハイファ近郊に着弾する。レバノン南部でヒズボラとイスラエル軍の緊張が高まる。

7月12日 ヒズボラがイスラエルの攻撃を開始。イスラエル軍兵士2名を捕虜にする。

午前9時にイスラエルに向け迫撃砲及びカチューシャ・ロケットを撃ち込む。この砲撃でイスラエル側に11名の犠牲者を出す。直後に突撃隊が国境を侵犯。偵察中の部隊に向かって対戦車ミサイルを撃ち込む。この攻撃でイスラエル軍兵士3名が死亡。さらに2名を捕虜にする。戦車で追撃したイスラエル軍は触雷し乗員4人が死亡。さらに脱出した1人が狙撃された

7月12日 イスラエル軍が南部の幹線道路・発電所などを報復空爆。さらに空爆はベイルート近郊のシーア派地域など全土に拡大される。

7月12日 ベイルートのラフィク・ハリリ国際空港、テレビ局、電話局など公共施設が破壊され、港湾は海上封鎖される。レバノンの国家機能は麻痺状態に陥る。

7月17日 イスラエル特殊部隊が越境攻撃を開始。

7月22日 メルカバ戦車を先頭に地上軍本隊が越境、2つの村を占領した。ヒズボラは地下トンネルのネットで対抗。対戦車ミサイルで大きな損害をあたえる。

7月27日 イスラエル軍、国連レバノン暫定軍の施設を砲撃。中国、フィンランド、オーストラリア、カナダの監視要員ら4人が死亡。中国政府は国連安保理に非難決議を提案するが、アメリカの反対で握りつぶされる。

7月29日 イスラエル地上軍、“任務を完了”し撤退。拉致された2人の行方は不明のまま。

7月30日 南部の町カナでイスラエル軍の「誤爆」により37人の子どもたちをふくむ56人が死亡、多数の負傷者が出る。

7月31日 イスラエル軍がレバノン南部での空爆を48時間“人道的”停止を発表(実際には継続)。

8月1日 イスラエル特殊部隊がベッカー高原のバールベックへの空爆。レバノン市民18人が死亡。

8月2日 イスラエル軍、国際世論を無視しレバノン全土に対する空爆を再開する。南部ではイスラエル軍とヒズボラの地上戦が再開。

8月3日 レバノンのシニオラ首相、イスラエル軍の攻撃でこれまでに900人以上が死亡、3000人が負傷し、人口の4分の1の約100万人が避難所生活を余儀なくされていると述べた。

英国の「セーブ・ザ・チルドレン」は、レバノン攻撃による死者数は615人で、子どもが33%を占めているという。ユニセフは、100万人近くのレバノン人が避難民となっており、その45%が子供だと発表。

8月4日 ベッカー高原のカアに空爆。農夫33人が死亡した。

8月6日 ヒズボラがイスラエル北部の都市キリヤトシモナにロケット弾攻撃を加え、12人のイスラエル軍兵士が死亡、6人が負傷。

8月7日 レバノン政府、イスラエル軍の攻撃による死者が1000人に達したと発表。イスラエルを批判する国際世論が沸騰。

8月11日 アメリカを含む国連安保理が停戦決議を採択。

8月13日 イスラエルが、国連安保理決議の受け入れを表明。小規模な空爆や戦闘は継続した。この間、イスラエル軍は1800発に及ぶクラスター爆弾を投下。

8月14日 停戦が発効する。イスラエル軍は国境沿いの数ヶ所を除き、レバノン領内から撤退。イスラエル軍は累計100人以上の戦死者を出しながら、ヒズボラの拠点建物や地下施設を完全に破壊することは出来ず、拉致兵士2名の解放も実現できなかった。

9月 イタリア軍を主体とする国連レバノン暫定軍が進駐。

10月1日 イスラエル軍、レバノン領内から撤退。

大変だ。
アップするときに、年表の真ん中が抜けてしまった。
アップする頃は大分出来上がっていたから、やっちまったのだが、まだ原稿残っているだろうか。
これだけのポカは久しぶりだ。

ありました!
残っていました。

昨日、その2 と書いたのが、その3 になります。
これが その2 で、年表のアンコの部分です。
1980年から90年までの11年分です。

その3 はこれを入れた後、あらためて入れ直しますので、この記事の上の上になります。

もう少し足した上で、そのうちホームページの方にまとめて入れます。



1980年

80年 LF、東ベイルートとベッカー高原を結ぶ軍事道路を建設・整備。これを支援するイスラエル軍とシリア軍が戦闘。イスラエル空軍の戦闘機がシリア空軍のヘリコプターを撃墜。シリアは、"レッドライン協定"を無視し、地対空ミサイルをベッカー高原に配備する。

9月22日 イラン・イラク戦争が始まる。シリアはイランを支持する姿勢を明確に示す。(敵の敵は味方という論理)

1981年

2月 シリア政府、国内のスンニ派勢力に厳しい弾圧。シリア・ムスリム同胞団の活動家を虐殺する。「ハマーの虐殺」と呼ばれる。

81年 レバノン・フォースとシリア軍とのあいだに戦闘が発生。イスラエル国防軍は、すぐさまレバノンとの国境を越え、シリア軍と交戦。ベイルートのPLO本部オフィスを含む拠点を爆撃する。

81年 イスラエル・シリア間の緊張は、米国の仲介によりいったん沈静化する。シリアは武装闘争派への統制を強化。

81年 PLOはレバノン国内からイスラエルへ向け、ロケット攻撃を激化させる。

81年末 イランでの非ホメイニ派粛清を機に、アマル運動とイランとの関係が断絶。アマル運動はイラン革命防衛隊の派遣を拒否。

1982年

3月 イランとシリア、通商協定および軍事協定を締結。シリア、イランと連携しイラクに対する側面攻撃を開始。

6月03日 ロンドン駐在のイスラエル大使シェロモ・アルゴブが、元PLO(アブ・ニダル)のテロリストに襲われる。PLOはすぐさま事件との関わりを否定。シャロン国防大臣は開戦を煽る。

6月06日 イスラエルがPLO殲滅を主目的とする「ガリラヤの平和」作戦を開始。レバノンのSLAとレバノン・フォース、さらに南部アマルの一部も加わる。

6月11日 イランの第27 旅団先遣隊と国軍第58 レンジャー部隊が空路ダマスカスへと到着した。シリアはレバノン入国を許可せず、そのままイランに戻った(とされる)。

6月12日 イスラエル軍がベイルート近郊に到達しシリア軍と戦車戦。国産戦車メルカバがソ連の最新鋭戦車T-72を多数撃破。

6月13日 イスラエル国防軍はPLOの本部がある西ベイルートへ突入。PLOに国外退去を迫り、砲撃で威圧する。その後、包囲は2ヶ月におよぶ。

レバノン国民抵抗戦線: PLOとともにベイルート市街戦を戦った武装組織として、「レバノン国民抵抗戦線」がある。これには進歩社会党、レバノン共産主義行動組織、アマル運動の左派(レバノン・ムスリム・ウラマー連合)が加わった。

6月20日 アマル運動の指導部、PLO の対イスラエル闘争を無謀な冒険主義であると批判。IDF に対する抵抗を続けていた一部のアマル運動のメンバーに対して,武器を置き,戦闘を停止するように命令。

6月 アマルの副書記長フセイン・ムサウィの率いるベイルート周辺のアマル部隊が、イスラエル軍と衝突。

6月 サルキス大統領、「救国委員会」を組織。米政権の仲介のもと,外交を通してイスラエルとの停戦交渉によって事態の解決を目指す。アマルも委員会への参加を決定。

7月 フセイン・ムサウィー、「イスラエルとの停戦は反イスラーム的行為である」と執行部を批判して追放される。手兵を率いイスラミック・アマルを設立する。

7月 ベカア高原のバアルベックで3つの親ホメイニ・グループが結集し「9名委員会」が創設される。のちに単一組織「ヒズボラ」に発展。

3つのグループとは,①「イ スラーム・アマル運動」(代表フサイン・ムーサウィー),②「レバノン・イスラーム・ダアワ党」および「ムスリム学生のためのレバノン連合」(代表スブ ヒー・トゥファイリー),③「レバノン・ムスリム・ウラマー連合」(代表アッバース・ムーサウィー)であった。

8月21日 最後まで抵抗を続けたPLOが停戦に応じる。アラファト議長はアメリカの仲介でベイルートを放棄を決定。アメリカはパレスチナ人難民の安全保障を目的とする平和維持軍の派遣に同意する。

8月30日 アラファト議長らPLO指導部および主力部隊1万2千人がチュニジアへ向かう。残留パレスチナ難民保護のため、アメリカ、イギリス、フランス、イタリアなどが多国籍軍の派遣を決定。

8月 大統領選挙。LFの若手指導者バシール・ジェマイエルが当選。イスラム教左派は選挙をボイコットする。

8月 フサイン・ムーサウィーら、ダマスカスで駐シリア・イラン大使と会見し、支援を取り付ける。イラン革命政府は革命防衛隊,少なくとも800 名をレバノンへ派遣。ムスリム・ウラマー連合への軍事訓練を開始する。

9月14日 バシール・ジェマイエル、LF本部に仕掛けられた爆弾で暗殺される。 シリア情報部の工作員の犯行といわれる。これに代わり兄のアミーン・ジェマイエルが大統領に就任。

9月 エリー・ホベイカ率いるLF部隊、ジェマイエル暗殺に対する報復のためパレスチナ難民キャンプを襲撃。サブラーおよびシャティーラのパレスチナ難民キャンプに侵入し大量虐殺を行う。シャロン国防相はこれを黙認。イスラエル国防軍は虐殺を止められなかった責任でシャロン国防大臣を解任。

82年秋 LFと再建された政府軍がレバノン中部のシューフ山地を攻撃。「山岳戦争」と呼ばれる。

山岳戦争: シューフ山地はもともとドルーズ派の本拠地であった。イスラムはドルーズ派にアマル派の一部も加わり激しく抵抗した。
政府軍は多国籍軍に空爆や艦砲射撃による援護を要請。ベイルートに駐留する多国籍軍は政府軍に軍事援助を行い、戦艦ニュージャージーからの150発にも上る艦砲射撃や、空母艦載機による空爆などを行った。
民間人もふくめた大量殺戮が横行、「捕虜の存在しない戦争」といわれた。

11月11日 9人委員会の軍事部門「イスラーム抵抗」が「殉教作戦」の開始。南部の都市スールのイスラエル軍兵営に突入し自爆。90名以上の死者を出した。うちイスラエル軍兵士は74名。

 

1983年

4月 第2回目の殉教作戦がIDF の車列に対して行われ,9 名が死亡。

4月18日 ベイルートのアメリカ大使館に自動車爆弾特攻攻撃。63人が死亡(米国人17名、うち8人がCIA職員)、120人が重軽傷を負う。「イスラム聖戦」名の犯行声明が出される。

10月23日午前6時30分 アメリカ海兵隊の兵舎に自動車が突入し自爆。死者241名、負傷者60名以上を出す。ついでフランス空挺師団の兵舎も攻撃され死者58名、負傷者15名を出す。

特攻隊員はメルセデスのバンで検問を突破し、空港に侵入。駐車場を二度ほど回り、ターゲットに狙いをつけたあと司令部のあるビルに突入した。

11月4日 スールのイスラエル軍兵営に自爆テロ。死者60名以上、負傷者30名以上 死者のうちIDF兵士は29名、ほかは捕虜となったレバノン・パレスチナ人。

12月3日 シリア軍がアメリカ軍機に発砲。 アメリカ軍は空母ジョン・F・ケネディ と空母インディペンデンスの艦載機F-14トムキャットでシリア軍に攻撃を加えるが、対空砲で2機の戦闘機が撃墜される。

1984年

2月26日 アメリカ海兵隊の撤退。つづいてフランス軍とイタリア軍も撤退。

アマルやドゥルーズ派はシューフ山地の奪還に成功。西ベイルートからも国軍を放逐する。シリアの経済的・軍事的支援を受けたアマル運動が国内の勢力を拡大。国軍のイスラム教徒はアマルに合流する。

3月 シリア、アマルを中心に民兵組織指導者の「国民和解会議」を開催する。レバノン政府の存在は完全に無視される。

5月 9人委員会の発行物のなかで、初めて「ヒズボラ」の名が用いられる。

6月6日 スール近郊でイスラエル軍の車列が地雷攻撃を受け、負傷者9名を出す。

6月18日 ヒズボラ、機関誌の準備号を発刊し無料配布。特集「レバノンにおけるイスラーム革命の声」が組まれ、「イスラエルの存在を根絶することは,我々すべて1 人1人の義務である」と宣言。

9月20日 「イスラム聖戦」がふたたび米大使館(別館)に自爆テロ。死者14名(米国人は2名)を出す。

 

1985年

2月16日 ヒズボラが公開書簡の発表を通して存在を明らかにする。イスラエルを敵としアマルとも敵対、パレスチナ人を支持すると発表。

1986年

86年 シリア軍とアマルによるパレスチナキャンプへの攻撃(キャンプ戦争)。

86年 イラクの支援を受けた国軍のミシェル・アウン将軍(マロン派)、シリア・PLOの排除と民兵組織解体による政府・軍の樹立を掲げ影響力を拡大。イラクはイラン・イラク戦争の終結で余剰となった武器弾薬や車両を提供する。

1987年

87年 アマルがヒズボラと交戦。シリアはアマル支援のためレバノンに再侵攻。イランと交渉し、ヒズボラの存続と引き換えにシリア軍の進駐を認めさせる。

1988年

1988年 アミン・ジェマイエル大統領の任期が終了。アミンはレバノン軍参謀総長のアウン将軍(キリス ト教)を首相に任命した後、亡命同然にアメリカへ移住。アウンは全国民に、レバノンの主権回復のためシリアに対し武装抵抗せよと呼びかける。

88年 シリアはベッカー高原のラヤク空軍基地に国会議員を召集しルネ・ムアワドを大統領に就任させる。この結果、反シリアのアウン軍事政権とシリア派のムアワド政権が併存する事態となる。

1989年

10月  レバノン内戦終結をめざし、サウジアラビアが乗り出す。サウジアラビアの仲介で、レバノンの国会議員団が、内戦を終結し国家再建を目指す和平案を提示。サウジのターイフで会議が開かれたことから、「ターイフ合意」と呼ばれる。

11月24日 アミン・ジェマイエル前大統領が暗殺される。これに代わる新大統領に親シリアのハラウィ海軍将校ハラウィが就任。ハラウィはアウン首相を解職。アウン将軍はこれを無視。

89年 シリアと多くの武装組織が「ターイフ合意」を承諾。ヒズボラも消極的賛成にまわる。アウン将軍派は受け入れを拒否、南レバノン軍は合意そのものを黙殺する。

1990年

90年 イラクのクウェート侵攻。第一次湾岸戦争が発生。シリアは多国籍軍側にたち、米国にレバノン駐留を認めさせる。

90年 アウン派とシリア軍が対決。シリア軍とレバノン・フォースが共同し、アウン将軍の部隊に総攻撃。戦車や長距離砲、ロケッ ト砲を用いた大規模な戦闘となるが、アメリカの黙認を受けたシリアの攻撃によりアウン派政府軍は崩壊。アウン将軍はフランス大使館に逃げ込み、亡命を要求。

90年 民兵組織指導者が閣僚に就任した挙国一致内閣を樹立。シリア軍3万人が東ベイルート、ジュニエなどのマロン派の本拠地に進駐。民兵組織を武装解除して内戦を終結させる。

90年 内戦が終結。15 年間に,13 万から25 万人もの死者と,100 万を超える負傷者を生んだ。パレスチナ難民は市民権をレバノン政府によって剥奪され、PLO系の軍事組織は武装除され、社会的な保障も無くなり、パレスチナ難民キャンプはスラム化する。

 

レバノン内戦年表

 

パレスチナ年表に一緒に入れていましたが、あまり事項が多すぎて、本来の流れが分からなくなるため、別表としました。基本としては1975年から90年までですが、若干前後に伸びています。
ちょっとヒズボラに比重が行き過ぎていてヒズボラ年表みたいですが、ご容赦の程を。
ヒズボラの輝ける伝統からすれば、アサドに肩入れしてシリアの民衆弾圧の側に回っているのはきわめて残念なことです。最近は国会議員先生になって、SUVなんか乗り回して堕落してしまったとの噂もチラホラと聞こえてきます。

 

1972年

11月 レバノン内でのPLOの存在と活動を保障するカイロ協定が結ばれる。PLOがレバノンの主権を尊重することを条件に、レバノンがPLOに難民キャンプ内でのPLOの行政権と,武装部隊の配置,また南レバノンへの移送ルートの確保を認めた。

1972年

72年 レバノン、国内南部にPLO訓練基地を与える。

1974年

10月 アラブ首脳会議(ラバト会議)においてPLOは,パレスチナ人の唯一の合法的代表として認知される。

11月 パレスチナ、国連におけるオブザーバーの資格を獲得する。

1975年

1975年4月

4月13日 アイン・ルンマーネ事件が発生。銃撃戦により27名が死亡。レバノン内戦の始まりとされている。

ベイルート郊外南部のアイン・ルンマーネ地区のキリスト教会で集会が行われていた。この時PLO支持者達のバスが教会前を通りかかり、興奮していたPLO支持者が教会に発砲した。居合わせたファランヘ党のメンバーがこれに応戦し銃撃戦に発展した。

4.14 衝突はトリポリ、サイーダにも拡大。100名以上が死亡する。不毛の内戦の始まりとなる。

4.16 レバノン両派の衝突は、アラブ連盟事務総長とシリア外相の調停工作で一旦停戦。

1975年5月

5.13 ファランヘの党員4名が何者かに射殺される。ファランヘはPLO事務所を襲撃。

5.19深夜 ベイルート東部デクタワー地区(マロン派支配区)で、パレスチナ・ゲリラとファランヘ党 武装グループとの戦闘。

5.23 内閣が衝突の責任を取って辞任。右派の軍人政権が成立する。これに対し、イスラム教徒・左派政党などが全土で激烈な反対運動を展開。ドゥルーズ派の指導者カマール・ジュンブラートは、親ソ親PLOの立場を取り、宗派の違いを越えた汎アラブ主義を唱える。

5.26 軍人政権も3日間で総辞職。左右双方の民兵組織が抗争を繰り広げる。各組織がベイルート市内のホテルを占拠・要塞化したためホテル戦争と呼ばれる。

ホテル戦争: 毎週末になると、イスラム教・キリスト教の民兵組織による激しい戦闘が繰り返され、月曜の朝には死体が散乱していた。このことから"ブラック・マンデー"と呼ぶ。ベイルートの街は、イスラム教徒やパレスチナ難民の多い西ベイルート地区と、キリスト教・マロン派が多く居住する東ベイルートに分裂。両者の境界は"グリーン・ライン"と呼ばれる。

7月 「剥奪された者たちの運動」が憲章を採択、「パレスチナは,運動の中心であり,その解放は我々の基本的義務である.またシオニズムは,レバノンの未来に対する脅威である」と宣言。シーア派の武装組織「レバノン抵抗大隊」(略称アマル)を創設。のちに運動そのものが「アマル運動」と呼ばれるようになる。

イマム・ムーサー・サドル: 60年、イランからシーア派の宗教指導者としてレバノンに入る。「剥奪された者たちの運動」を組織。シーア派は人口比では最大のセクトだが、政治的にはこれまで疎外されてきた。

 

1976年

2月 この頃、両派の抗争は左派有意に傾き、ファランヘ党などのマロン派民兵組織は東ベイルートやジュニエなどに閉じ込められる。

2月 レバノンのPLO化を恐れるシリア政府、「ダマスカス合意」と呼ばれる政治改革案を提示する。内戦以前のレバノンの力関係の維持・固定をめざすもので、ドゥルーズ派やPLOなど左派の反感を買う。

3月11日 国軍のアハダブ准将(イスラーム)がクーデターを起こす。

5月 シリアは、“レバノン政府の要請を受け”軍事介入を決定。米国の仲介で"レッドライン協定"を結んだ上、ベイルートに進駐。無政府状態の中で大統領選挙を進め、 シリアの傀儡政権を樹立させる。

レッドライン協定: シリアとイスラエル双方の直接対決を回避するため、シリア軍部隊の駐留場所や兵器の種類・数量などを詳細に取り決めたもの。ベイルート以南に旅団規模を上回るシリア軍主力部隊を駐留させず、レバノンにおいてイスラエルを射程圏内に 収める長距離砲・ミサイル・ロケット弾を配備せず、また、一切の戦闘機・爆撃機をレバノン国内に駐留させないという不文律の協定。またキリスト教徒側への攻撃を行わないとの合意もふくまれる。

5月 シリア、周辺諸国の反発を抑えるため、中東各国にレバノンへの軍の派遣を要請してアラブ平和維持軍を設置、自らのレバノン介入を正当化する。

5月08日 シリア軍の統制下に臨時内閣が組織される。閣議決定によってエリアル・サルキスが暫定大統領に選ばれる。アラブ平和維持軍(実体はシリア軍)が治安回復に乗り出す。ジュンブラートはシリアを裏切り者と非難。

8月30日 。レバノン正規軍東部軍管区司令官のサード・ハダット少佐の呼びかけで、マロン派民兵組織が組織統一。レバノンフォース(LF)が創設される。イスラム・左派に対抗するためイスラエルの支援と介入を求める。

レバノン・フォース: ファランヘ党を中心に・自由党・タンジーム党・レバノン防衛隊の武装部門が合併。反シリア・反パレスチナを標榜する。ファランへ若手のバシール・ジェマイエルが司令官となる。

9月26日 パレスチナゲリラ、シリアの首都ダマスカスのホテルを襲撃。シリア軍は24時間にわたるPLOへの攻撃を開始。PLOはダマスカス西方の山岳地帯からの撤収を余儀なくされる.

10.25 第8回アラブ首脳会議がカイロで開催。シリアのレバノン進駐を了承。PLOに「レバノン主権の尊重」を認めさせる。

1977年

3月 イスラム勢力の中心的役割をはたしてきた国民進歩戦線の指導者カマール・ジュンブラットが暗殺される。ジュンブラットは少数派のドルーズ派出身でありながら、社会進歩党党首としてPLOや左派勢力とも良好な関係を築いてきた。

1978年

2月 LF部隊がシリア軍に武力挑発。シリア軍は"レッドライン協定"を無視し東ベイルート市街まで追撃。イスラエルはこれをレッドライン協定の違反と判断。レバノン南部侵攻作戦を発動する。

3月15日 イスラエル、特殊部隊と空軍機を出動させ南部侵攻を開始。PLOをロケット砲の射程圏外まで追い出す。

リタニ作戦(Operation Litani): リタニはレバノン南部を流れる川の名前。7日間の戦闘でイスラエル軍死者は37 人。一方,パレスチナ人とレバノン人は1100 人以上が死亡し,その大半が一般市民であった。

3月 イスラエルは南レバノンを「安全保障地帯」と名づけ、そのまま居座りを図る。

安全保障地帯(Security Zone): リタニ川以南のレバノン領がふくまれる。レバノンの総面積約11% におよぶ。住民の大半を占めたシーア派は移住を余儀なくされた。

78年 イスラエル軍、国連の介入により撤退。国連は戦闘停止と住民保護のためUNIFIL(国連南レバノン暫定軍)が派遣されるが、実効支配はできず。

78年 イスラエル、「自由レバノン軍」をでっち上げ、リタニ川以南の間接支配を続行する。

自由レバノン軍: 反PLO・反シリア・親イスラエルを唱える結成された。レバノン正規軍東部軍管区司令官のサード・ハダット少佐が司令官に就任。のちに「南レバノン軍」に改称。

8月 アマルの指導者サドル、リビアを訪問中に失踪。弁護士のナビー・ベリリが後継者となり、シーア派の利益を追求する世俗的政策を推進。

10月 イランでシャー体制が崩壊し,イスラム革命が勝利する。アマル運動は戦闘員500名を革命前夜のイランへ派遣。非ホメイニ派と行動を共にする。

78年 アラブ平和維持軍は撤退したが、シリア軍だけはそのままレバノンに駐留

1979年

2月 イラン革命政府、レバノンのシーア派を支援するため、パスダラン(イラン革命防衛隊)を送り込む。アマルはパスダランの援助を断り、シリアに接近。

12月 ソビエトのアフガニスタン侵攻が開始。アラブ世界では民族主義に代わってイスラム主義が勢力を伸ばす。

79年 シリアとイラクとの統一協議が失敗に終わる。アサドはイランに軸足を移す。 

シリアの戦況を長引かせている最大の原因が見えて来ました。

イランです。

ヒズボラをシリアに動員したのはイランですが、今度はイラクのシーア派も動かそうとしています。これはきわめて危険な動きです。民族の大義よりも宗派の利害を上位に置き、中東の民衆を真っ二つに分断することを厭わない、最悪のセクト主義です。

イラク政府閣僚の一人が、ロイター通信に語ったもの。

シリア国内でアルカイダや自由シリア軍がシーア派教徒を襲撃した場合、イラク国内の数千人のシーア派教徒が武器をとる。
アサド政権とともに、アルカイダと闘うために出陣することになるだろう。

しかし、これは変だ。アサド自身はシーア派教徒ではない。彼の政党は非宗教的な世俗政党だ。民主化をもとめる人々は、シーア派をやっつけるために戦っているのではない。

もちろんスンニ派信者がたくさんいるだろうし、アルカイダもふくめ多くのテロリスト分子も紛れ込んでいるだろう。それはリビアの時も同じだ。

これを宗教戦争のように描き出すのは、不当な評価である。

この間の講演でパレスチナ人のお医者さんが言っていた。
私の息子も検問にかかり逮捕され、拷問を受けた。
ようするに逮捕・拷問は日常茶飯事のようだ。相手が誰であろうと構わない、気晴らしでやっている可能性もある。

国連子供の権利委員会の報告(本日の赤旗)では、以下のとおり。

この10年間でパレスチナ人の子供約7千人が逮捕・尋問・拘束された。
子どもたちの年齢は12歳から17歳、中には9歳の子供もいた。

パレスチナ人の子供の逮捕理由は投石用の石を持っていたというものである。これは禁錮20年の罪に相当する。

多くは足かせ、鎖をつけて軍事法廷に引き出された。
彼らは、長いものでは数ヶ月間、独房に拘束された


国連が報告しているのだから、間違いはないとは思うが、
イスラエルの刑法はよく知らないが、デモで投石したら禁錮20年というのがあるのだろうか。
そもそも罪刑法定主義という法理が存在しているのだろうか。
ちょっと常識では信じられないが…

レバノン内戦とシリア

パレスチナの記事が間に合わなかったもう一つ理由は、レバノン内戦に思わず時間をとられてしまったからです。

その背景には、今日的な状況、すなわちヒズボラのシリア内戦への加担という問題もあります。

レバノン内戦関連の事項は非常に多く、本題のPLOに関する流れが隠れてしまうほどです。

そこで、レバノン内戦関係を別途に年表化しました。まだ出来上がっていないので近日中にアップします。

レバノン内戦の一方の当事者は、レバノン政府ではなくシリア政府でした。

したがって、本来ならレバノン関連に限定せずに、シリアの内政にも関わってシリア年表として書くべきでしょうが、さすがにそこまでは食指が動きません。

とりあえず感想的に、書き留めておきたいと思います。

シリアは、中東地域の独立にあたって首都が置かれたところです。トルコ王朝に代わるダマスカス王朝がそこには成立するはずでした。

しかし、第一次大戦後の密約により、この王国は不成立に終わりました。中東を手に入れたイギリスは、この地域を三つにわけます。一つはパレスチナ、一つはイラク、そしてもうひとつのシリアはフランスに分け与えました。フランスはこの地域をさらにシリアとレバノンの二つに分割し統治します。

分けたのは宗教の違いによる互いの反目をうまく利用し、民衆が団結するのを防ぐ狙いでした。こうしてシリアにはスンニ派、レバノンにはキリスト教マロン派、イスラムのスンニ派とシーア派が1/3づつを占めるような構成にしたのです。

これとは別にイギリスはパレスチナにユダヤ人の入植を認め、混住地域のパレスチナとアラブ人のトランスヨルダンに分割しました。こうして単一のダマスカス王国たるべきであった中東地域は、イラクを含めると5つ、さらにイスラエルをふくめれば6つの国に細分化されることになったのです。しかもこの地域に住むクルド人やアルメニア人には国土は与えられませんでした。すべてはイギリスの勝手によるものでした。

これらの経過を見ると、シリアがこの地域の盟主を気取りたくなる雰囲気も分からないではありません。

話はずっと降って、1970年代。アラブは第三次、第4次の中東戦争を戦い、いずれも敗れます。エジプトはアラブの大義に背を向け、アメリカに擦り寄っていきます。勢いに乗ったイスラエルはさらに版図の拡大を狙います。PLOははじめヨルダンに拠って闘いますが、「黒い9月」事件によってヨルダンから追放されます。この時シリアはPLOを支援してヨルダンと闘うのですが、いざレバノンにPLOが移ってくると、風向きが変わってきます。

パレスチナは支援したいが、イスラエルとはとても太刀打ち出来ないし、エジプトがいなくなった下でPLOが事を荒立てて、その結果戦争に巻き込まれたのではかなわないということでしょう。

一方で、シリアはエジプトが去った後のソ連の中東拠点としての役割を担い、それなりにいい顔をしなければなりません。父アサド大統領の役者としての腕の見せ所です。彼は三つの筋書きを考えました。一つはPLOを統制下に置き、武装行動をコントロールすることです。二つ目はレバノンを統制下に置き、キリスト教徒がヘゲモニーを握る現在の体制を維持することです。三つ目はアメリカとひそかに結び、中東の現状維持という思いを共にすることで、間接的にイスラエルの行動を抑えこもうとすることです。

アメリカの側もとくにこれといった対案があるわけではなく、シリアの提案に乗りました。

しかしこれらの計画はことごとく失敗しました。PLOはもはやシリアの統制に服さず、ソ連・東欧諸国と直接つながる独自の補給ルートを開発していました。レバノンではイスラム・左派勢力が力をつけキリスト教勢力を圧倒していました。キリスト教勢力はイスラエルと結び、シリアに挑戦するようになりました。

こうしてイスラエル軍の82年侵攻が始まり、シリア軍はレバノンから叩きだされてしまったのです。おまけにベカア高原はイスラエルに奪い取られてしまいます。アサドの面目は丸つぶれです。

このとき、東のイラクが新たなアラブの盟主として名乗りを上げました。サダム・フセインです。フセインの手法はアサドと生き写しでした。ソ連からの援助を受けながら、ひそかにアメリカとも手を結び、中東地域をみずからのヘゲモニーのもとに掌握しようと目論んでいました。違うのは、フセインには大量のオイルマネーがあるということです。

イラクの圧力を受けたシリアはイランと手を結びました。思想的にはアラブ民族主義とイスラム原理主義で水と油の違いですが、敵の敵は味方というわけです。80年にイラン革命を成就したイスラム原理派は革命の輸出を望んでおり、シーア派が人口の最大部分を占めるレバノンは格好の浸透先でした。

そういうことで、基本的にはシリアと利害が一致したのですが、イランはその先も目指していました。当時のイランはアメリカと直接対決しており、イスラエルだけでなくその背後のアメリカにも標的を合わせていたのです。

ヒズボラ(の前身)がベイルートのアメリカ大使館や海兵隊宿舎に自動車爆弾で自爆攻撃をかけたとき、さぞかしシリア政府は冷や汗をかいたことでしょう。まかり間違えば、イスラエルの戦車隊がシリアに攻めこむ可能性もありました。しかしイスラエルの残虐行為にうんざりしていた国際世論はゲリラの側に回りました。多国籍軍も、イスラエル軍もとりあえずベイルートからの撤退を余儀なくされたのです。

シリアにはもうひとつの幸運が待ち構えていました。イランとイラクが戦争を始め、レバノンのことになど構っていられなくなったのです。レバノンは無政府状態に陥っていました。最大の軍事勢力であったPLOが力を失い、イスラエルもレバノン南部にまで下がりました。こういう中で唯一残ったシリアが漁夫の利を得ることになったわけです。


シリアは現在混乱に陥っていますが、その混乱を実は一番心配しているのがイスラエルだろうと思います。もし反政府派が勝利すれば、スンニ派のムスリム同胞団(ガザのハマスもムスリム同胞団の一派)が台頭してくるのは必然的です。エジプトに続いてシリアでも反イスラエルの過激派が政権を政権を握れば、ふたたびイスラエルは孤立する危険があります。



パレスチナのお医者さんが来て講演するというので、あわててパレスチナの歴史をまとめてみましたが、結局当日までは間に合いませんでした。

最大の理由は、ラマラ包囲戦とアラファトの死亡の後、どうやって書いたら良いのかわからなくなってしまったためです。

基本は、パレスチナ民族の最大の拠り所であるPLOを基軸に書いていくほかないのですが、これがなかなかきつい。表立った派手なパーフォーマンスがないのと、ひたすら隠忍自重の日々を記載するのが息苦しくなります。

パレスチナのお医者さんの話を聞いていてわかったのですが、「入植」という名の土地の簒奪はいよいよ激しさを増しています。このままではいずれ世界地図の上から消滅してしまうかもしれません。そういう切迫感があります。パレスチナの人々はまるで囚人のように扱われています。ガザや西岸地帯は、それ自体が一大ゲットーと化しつつあります。

しかし、現実にはパレスチナ人が消滅することはありえません。お医者さんの話を聞いてそのことも分かりました。理由はパレスチナ人には最低必要なお金はあるからです。知識もあります。おそらく国外からの仕送りが基礎となっているのでしょうが、イスラエルに頼らずとも生きているだけの地力は持っています。同じ難民でもサブサハラの難民とはレベルが違います。対外関係を取り仕切る自前の政府もあり、とかくの噂はあるものの、民衆の支持を集めています。

だからその生活に無理・無法は無いのです。いくら抑圧されていても、それなりの生活は成り立っており、これ以上悪くなることはないのです(たしかに今でも最悪ですが)。

無理・無法を重ねているのはイスラエルの側であり、それは無数のフィクションの上にかろうじて成り立っており、いったん事があればたちまち瓦解してしまうような脆さを内包しているのです。それが端的に示されたのが2006年のレバノン南部の闘いでした。

ヒズボラはレバノン南部に無数のトンネルを掘り、そこから射程距離の長いロケット砲を打ち込みました。遠いものではイスラエルの主要都市ハイファまで到達しました。恐慌をきたしたイスラエルは大規模で無差別の空爆を実行した後、戦車部隊をレバノンに送り込みますが、塹壕から飛び出したヒズボラ兵士のバズーカ砲の餌食となりました。地下に潜ったヒズボラ部隊に対し、大規模空爆は無効で、逆に無関係の民衆に多大な被害を及ぼしたことから、国際的に指弾されます。

こうして、イスラエルは何の成果も上げることなく撤退せざるを得なくなりました。「建国」以来の大敗北といえるでしょう。

イスラエルの力は制空権と強力な戦車部隊によるものです。この二つが無効化された瞬間、イスラエルの力は無となってしまうのです。これが力に頼るものの怖さです。

必ずしもヒズボラを支持するわけではありませんが、それはレバンなりの戦い方であり、PLOには別の戦い方があります。

ソ連崩壊後の中東の変化

1991年にソ連が崩壊しました。これは中東情勢に複雑な影響をもたらしました。アメリカは冷戦構造にもとづくこれまでの中東戦略に一定の修正を加えます。

ブッシュ政権はイラクのフセイン政権を第一次湾岸戦争で叩きましたが、その際イスラエルの軍事施設がフル活用されました。中東における不沈空母としてのイスラエルの重要性が強く認識される脳になります。

しかし軍事拠点としてのイスラエルには、周辺諸国とのあいだの政治的不安定という弱点があります。とりわけパレスチナ問題が情勢を不安定化させているとの認識に立ち、ブッシュは両者の和解をもとめるようになります。

一方ソ連の崩壊に伴い、大量のユダヤ人がイスラエル移住をもとめるようになりました。そのすべてを受け入れるには国土が圧倒的に不足しています。そこで彼らはヨルダンが統治を放棄した西岸地帯に目をつけるようになりました。当時住宅相だったシャロンは,「湾岸戦争終結後にヨルダン川西岸およびガザ占領地に1万戸以上を建設.ゴラン高原のユダヤ人を倍増させる」入植計画を打ち出しました.

「そこが元々パレスチナの国土だから、その後継者であるイスラエルの領土であるはずだ」という恐ろしく勝手な理屈です。

ゲリラ集団の中でもソ連の崩壊の影響は甚大でした。PFLPやDFLPは存亡の危機に立たされ、政治的発言権を失います。シリア派のゲリラもシリアの後ろ盾となっていたソ連がなくなり弱体化しました。これに代わって進出してきたのがイランです。シリアはイランとつながることで命脈を保つようになりました。

こういう状況のもとでイスラエルとパレスチナの交渉が始まったのです。

 

パレスチナ自治政府の発足

1991年、マドリードで中東和平国際会議が開催されました.続いてその年の暮れにはワシントンでイスラエルとパレスチナの二国間交渉が始まりました.交渉のあいだもイスラエルは西岸地帯への入植をやめようとはしませんでしたが、PLOはじっと我慢しました。交渉を流産させようとするイスラエルの極右派がさまざまな策動を行いましたが、それにも耐え続けました。

93年9月、難産のすえにオスロ合意が成立しました。イスラエル軍は93年末日を期限として,ヨルダン川西岸およびガザ両地区から撤退することを承認しました.パレスチナの独立は暫定自治というきわめて制限されたものでしたが、それでもついに自前の政府を持つことに成功したのです。

アラブ諸国はこの合意を歓迎しました。ヨルダンはイスラエルと平和条約を締結し、モロッコとチェニジアはテルアビブに利益代表部を設置しました.パレスチナの自治実現はたんにパレスチナにとってだけではなく、イスラエルとアラブ世界の関係にとっても好影響をもたらすと思われました。

アラブの側にも反対者はたくさんいました。イランは暫定自治合意を批判.イスラム原理主義組織を支援していくと言明しました.これを受け、ハマスやイスラミック・ジハードはPLOに対する武力攻撃を開始します.しかし民衆はこの脅しをはねのけました。

ガザにPLO本部が設置されました.チュニジアからガザに「帰国」したアラファト議長は,熱狂的な歓迎で迎えられました.95年にはジェリコ以外の西岸6地区にも自治区が拡大され、ベツレヘム,ラマラーなど6都市が自治区へ「昇格」しました。自治政府の総選挙が行われ,アラファト議長が大統領に当選しました.

しかしイスラエルの極右派は、この僅かな妥協さえ許さなかったのです。1995年11月、イスラエルのラビン首相は記念式典の席上、凶弾に倒れたのです。首相の死を受けて行われた総選挙ではいまも首相を務める最強硬派のネタニヤフが当選。オスロ合意の反故化へと乗り出します。

 

アラファト監禁事件

その後、いったんは交渉推進派のバラクが首相に就きますが、2001年には極右派のシャロンに敗れ、ふたたび対決の時代がやってきます。ただ政権交代の直前にパレスチナ自治政府とのあいだで合意された「タバ協議」の内容は、今後ふたたび議論が再開されるにあたっての出発点となるでしょう。

 

 

この協議において、イスラエルは,ヨルダン川西岸地域の94%を返還し,残りの6%についても代替地の提供を提案しました.さらに「難民キャンプの窮状の迅速な解決に向けた道義的な責務を有する」ことを認めています.PLOはこれと引き換えにパレスチナ難民370万人の故郷への帰還という要求を放棄することを認めます。

しかしシャロンはパレスチナのギリギリの選択すら認めようとしませんでした。彼はパレスチナ側にさまざまな挑発を仕掛け、パレスチナ側が報復に出ると、これを奇貨として西岸地帯に大規模な部隊を派遣します。

シャロンのパレスチナ攻撃は言語道断、あまりにも非道なものでした。

2002年4月、イスラエル軍はアラファトの執務するラマラの自治政府議長府を戦車50台で包囲.攻撃を加えました.1ヶ月の包囲の後アメリカが乗り出し、包囲を解かせます。CIA長官テネットが直接乗り出し,ラマラでアラファトと会談しました.エネットは自治政府のテロ抑制方針をもとめ、アラファトは治安組織の改革を約束します.

しかしテネットが帰ったあと、イスラエルはふたたび包囲作戦を開始しました。

これに抗議するパレスチナ人の決死隊200人が,ベツレヘムの聖誕教会に立てこもりました.イスラエル軍は教会を包囲し,立てこもった人々に対し兵糧攻めを行います.

その最中に行われたブッシュ・シャロン会談で、ブッシュ大統領は「イスラエルには自衛の権利がある」と述べ,自爆テロへの報復を支持しました.そして中東和平国際会議の提案を否定しシャロンの思いのままにする特許状を渡したのです.

さらにブッシュは6月24日に「中東和平構想」を発表しましたが。それは平和破壊構想としか言いようのないものでした。ブッシュは、パレスチナ指導部はテロを奨励しているとし、「パレスチナ指導部がテロと戦わないうちは国家の創設を支持しない.そしてテロに妥協しない新しい指導者の選出を求める」とのべました。これは事実上オスロ合意を水に流す方針です。

同じ日、イスラエル軍はジェニン、ナブルス、トゥルカルム、カルキリヤ、 ベツレヘム、ラマラの西岸主要6都市を「軍事閉鎖区域」に指定し、報道陣の立ち入りを禁じました.とても報道できないような残虐行為を働くためです。「外出禁止令」を発し約2000人のパレスチナ人を拘束、うち約1000人を留置しました.ジェニンの難民キャンプでは押し入った戦車隊により数百人が虐殺されました.あろうことかイスラエル軍は抗議する群衆に向け砲弾を放ったのです。

アラファト議長はこのとき臍を固めました。「自治政府や和平を破壊しようというイスラエルの真の意図が暴かれた.どんなに犠牲者が出ようと、パレスチナ人は屈しない」と述べ、対決姿勢を鮮明にします.


ここまでが、とりあえずの歴史です。この後はまだ書けていません。
なぜかというと、アラファトをクソミソにやっつける記事ばかり多くて、パレスチナ民衆の戦いの本流が描かれていないものばかりだからです。
私としてはアラファト個人を支持するわけではないが、ここまでの彼の取ってきた路線は支持せざるを得ません。
彼の行動は多少のブレはあるにせよ、パレスチナの民衆の声の反映だろうと思います。
外国勢力の支援を受け、ときに干渉も受けながら、根本的にはパレスチナ人民の願いを受け止める方向で運動は進んできました。
その最高の到達点が2001年の協定であり、そこに戻って歩みを再開することが一番もとめられているのだと思います。

門外漢の私がつたない文章を書き綴ったのも、その思いからです。

この続きは少し準備した上で、いずれ再開したいと思います。

レバノン内戦とパレスチナ人大虐殺

しかし、レバノンに逃れたパレスチナ人にとってはこの時期に空前の苦難が襲い掛かります。レバノン内戦です。

レバノン内戦というとパレスチナ人とは関係のない権力争いのように聞こえますが、実はイスラエルの支援を受けた民兵によるパレスチナ難民への攻撃が主たる戦闘だったのです。闘いを仕掛けたのはデール・ヤシンの虐殺者ベギンでした。首相に就任したベギンは「67年の国境線には戻らない,PLOは認めない,パレスチナ国家は許さない」という「三つのノー」を主張しました。パレスチナとの対応は暴力一本やりとなります.

レバノンにはマロン派キリスト教徒とイスラム教徒が共存しています。人口比からいうとイスラムのほうが圧倒的に多いのですが、キリスト教徒は首都ベイルートを中心に商工業を抑え強い影響力を持っていました。ある意味でイスラエル建国前のパレスチナと似たところがあります。

このマロン派が色々と難癖をつけてパレスチナ人への攻撃をはじめました。パレスチナ人を載せたバスを襲撃し女性や子供を含む乗客27人全員を虐殺しました.イスラエル軍は内戦に乗じレバノン南部を占領、パレスチナ難民キャンプを反復攻撃します.1976年10月にはタルザータルという難民キャンプが襲撃されました。詳細は未だに不明ですが、一説には500名が生き埋めにされ,400人が殺されたといわれます.

 

史上もっとも醜悪なノーベル賞

アメリカは中東におけるソ連との対抗関係の要石としてイスラエルを位置づけました。そしてエジプトを取り込むことによって、その支配を安定させようと図りました。パレスチナの人々とか、正義とか人道などというのは眼中にありません。

それが米国流の「平和」なのでしょう。エジプトのサダト大統領を取り込んだ米国はキャンプデービッド合意を実現します.これで中東に平和が訪れるというのです。ベギンと背信者サダトはノーベル平和賞を獲得しました.

ノーベル“平和”賞は、殺人鬼ベギンに勅許を与えたようなものです。ベギンは三つのノーをあらためて確認し、エルサレム全市の占領を宣言しました。イスラエル国会はエルサレムを恒久の首都と宣言し、占領地への入植を強化しました.そして1979年9月には南アとの共同で核爆弾を共同開発するに至ります.

そして1982年6月には、機甲部隊がレバノン国境を越え侵攻を開始しました。エジプトが動かないと見ての行動です。シリア軍が抵抗しますがミサイル基地19箇所を破壊され、空軍機82機を撃墜されあえなく降伏します.

イスラエル軍はそのままベイルートに進撃し,大統領府を占拠します.700台の戦車が40万人のレバノン人が住むベイルート市内に砲弾を撃ち込みました。クラスター爆弾,黄燐爆弾,バンカー・バスターなどの残虐兵器が使用され,この日一日だけで1500人が死亡したといわれます.フランス国営放送,UPI,AP通信社などの建物も破壊されました.国連などの援助物資は市内搬入を拒まれました.

イスラエル軍の目標はベイルート市内のPLO代表部の撤退にありました。PLOも随分頑張ったのですが、2ヶ月に渡る籠城の後、ついに撤退を余儀なくされます。ここまでの死者は2万人,負傷者は3万人を数えます.

PLOが撤退した後もイスラエルは追撃の手をゆるめませんでした。レバノン各地のパレスチナ人難民キャンプを襲撃しては虐殺行為を続けました。中でももっとも悪名高いのがサブラとシャティーラのパレスチナ難民キャンプ虐殺事件です。作戦は延べ48時間にわたり、パレスチナ難民3千人が虐殺されました。

これはイスラエルの手下となったレバノン人部隊をそそのかせてやらせた事件ですが、難民キャンプはイスラエル軍が包囲しており,キリスト教民兵を侵入させたのも,逃げ出そうとする民衆を押し返したのもイスラエル軍でした。

陣頭指揮に立ったシャロン国防相は作戦を督励したことが明らかになり、解任されています。

この作戦ほど大義名分のない戦争はないのではないでしょうか。国連安保理は停戦案を提示しますがイスラエルは拒否。イスラエル非難決議に対してはアメリカが拒否権を行使という具合です.

 

PLOの停滞とイスラム原理派の伸長

それからの約10年、パレスチナ人民とその代表であるPLOにとっては苦難の時代が続きます。平和・国際外交路線を打ち出したものの、イスラエルはそれを無視して大量虐殺を繰り返し、パレスチナ人をイスラエルのみならずヨルダンからもレバノンからも追い出したのです。

路線的にも模索の時期となりました。武力闘争への復帰を目指す動きも何度か現れました。とくに徹底的に弾圧されたPLOに代わり、イスラム原理派の動きが活発となりました。レバノンの難民の一部はシリアやイランの支持を受け非スンニ派の武装組織「ヒズボラ」を結成しました。

彼らの行動は、ソ連を最終的な敵とし、PLOに焦点を合わせていたイスラエルやアメリカにとって予想外のものでした。1983年4月、ベイルートのアメリカ大使館に自動車が突っ込み、自爆しました。この特攻攻撃で63人が死亡,120人が重軽傷を負いました。この後、連続的に自爆攻撃が繰り返されます。

イスラエル国内でもレバノン侵攻に対する不満が強まり、ベギン首相は辞任を余儀なくされます。

これを見たヒズボラはさらに攻撃を強化しました。最大の作戦が10月に行われた米海兵隊への攻撃です。23日朝、ベイルート空港に隣接する米海兵隊司令部ビルに車爆弾が突入.続いてアメリカ海兵隊の兵舎にも自動車が飛び込み自爆しました。この作戦で米海兵隊は史上空前の237人の犠牲者を出したのです。さらにフランス空挺師団の兵舎にも車爆弾が突入し72人が死亡.11月にはイスラエルの兵舎にも車爆弾が突っ込み60人以上が死亡しました.

こうした状況が1年半にわたり続いた後、85年1月、ついにイスラエルはベイルート撤退を余儀なくされます。イスラエル軍に対するテロは占領の終了までに800回近く行なわれ、その死者は400人を超えました.イスラエル国民の10分の1が反戦デモに参加するなど,占領はベトナム化の様相を呈してきました.

(レバノン内戦はあまりに複雑なので、詳細は略します)

 

市民の抵抗運動「インティファーダ」

 

情勢の停滞を突破する引き金となったのが、1987年に始まった「インティファーダ」です。きっかけはガザ地区で起きた一件の交通事故です。パレスチナ人労働者の乗った車にイスラエル軍のタンクローリーが衝突しました.この事故でパレスチナ人4人が死亡、7人が重傷を負いました.この事故に対する若者の抗議が自然発生的に起こりました。若者たちは徒手空拳、弾圧に抗しては戦車に石を投げるのが精一杯でした。

抗議行動にたいしイスラエル軍は銃火で答えました。抗議行動に参加した少女が撃ち殺されました。これをきっかけに,イスラエルへの抵抗運動がガザおよびヨルダン川西岸両地区に拡大します.

時の国防相ラビンは「石を投げる者の手足を折れ!」と命令しました.この人にもノーベル平和賞が与えられています。

インティファーダの闘いは三年にわたり続きました。死者は900人、銃撃による負傷4万9000人、打撲傷2万4000人、手足の骨折1万6000人、催涙ガスの負傷者3300人で、投獄されたパレスチナ人は総数2万5000人にのぼりました.

この闘争は二つの意味で画期的なものでした。ひとつは武装集団に願いを託すのではなく、民衆みずからが闘うことなしに情勢は切り開けないということが確認されたことです。もうひとつは、民衆の立場に立てば、10年前にPLOが提起した二国家路線以外に現実的解決の道はないということを明らかにしたことです。

88年11月にアルジェで第19回PNC総会が開催されました。会議はヨルダン川西岸地帯でのヨルダンの統治権放棄を受け,「パレスチナの地を領土とし、エルサレムを首都とする」独立国家を宣言しました.同時にイスラエルの生存権を承認します.

これを受けたアラファト議長は、12月に国連総会で演説.テロ作戦を放棄しイスラエルの生存権を承認すると宣言します.他のゲリラ組織はイスラエルへの屈服として猛反対しますが、これがパレスチナの民衆の世論であることは明らかでした.

1948年 第一次中東戦争

5月、ユダヤ人はテルアビブで独立国家「イスラエル」の建国を宣言しました.アラブ諸国はこれに猛反発しイスラエルとの戦争を宣言します。イスラエルはイギリス軍内のユダヤ人部隊を中核に部隊を組織します。さらに民兵隊がパレスチナ人の集落を襲撃してパレスチナ人の追い出し行動を開始します。

中でも有名なのが建国宣言の直前にベギンの部隊の行った「デール・ヤシンの虐殺」です。彼らはデール・ヤシンという村を襲い、住民250人全員を虐殺しました.さらに生き残った村民をエルサレムまで行進させ,さらしものにしました。

アラブ諸国はパレスチナに一斉に侵入しました。5月の末にはエルサレムが陥落、イスラエルの命運は風前の灯となりました。このとき国連が謎の介入を行います。そして両者に1ヶ月の休戦を命じます。

どう考えてもやらせとしか思えません。その1ヶ月の間にイスラエルは兵器を購入し、世界各国から義勇兵を募集し、戦いに備えました。そして休戦期間が終わると同時に総攻撃をかけたのです。その間わずか10日間です。イスラエル軍は一気に国境線を超えて進撃しました.そして武器・弾薬が切れるころ、ふたたび国連は休戦を命じたのです。

こんな喧嘩では勝てっこありません。翌年2月、アラブの盟主エジプトがイスラエルとの停戦に応じました。その後も戦闘を続けたシリアも7月には停戦に至ります。この戦争でイスラエルは旧パレスチナ地域のほとんどを確保するに至りました。

と、ここまでは歴史の教科書にも載っているのですが、実はここからがひどいのです。この戦争の過程でパレスチナ人の7割にあたる90万人以上が家と故郷を失い、国外に追放されました。戦争後、国連はこれら難民の帰還を促す決議を採択するのですが、イスラエルはこれを拒否するのです。戦争はアラブ諸国が起こしたのだから、パレスチナ難民はアラブ諸国が受け入れるべきだというのです。驚くべきへ理屈です。

さらにひどいのが「不在者財産没収法」です。「戦争中に一度でも自分の居住地を離れたものの家屋や財産は没収される」というものです.どこを押せばこのようなセリフが吐けるのでしょう。この法律により戦場となった370カ村のうち300カ村,3500平方キロが没収されました。つまり第一次中東戦争はイスラエルの独立を目指す戦争ではなく、パレスチナ住民を追い出すための戦争であったことが分かります。

このようなイスラエルを国連は正式加盟国として受け入れました。米英仏三国は共同宣言を発表し、中東の“現状維持”で合意しました。ようするに出来レースだったわけです。

 

1959年 アル・ファタハの結成

難民と化したパレスチナ人はヨルダンやレバノンの難民キャンプで暮らすようになります。難民キャンプの青年たちは職もなく、未来もない状態でした。その中から最初の武装抵抗組織が生まれます。それがアル・ファタハ(パレスチナ民族解放運動)です。

指導者のヤセル・アラファト(別名アブ・アンマール)は,エルサレムの名門フセイン家の出身でした.カイロ大学を卒業してエジプト軍の予備将校となっていました。他のメンバーも,多くが50年代末にエジプトに留学していたパレスチナ人学生の出身です.

こういう構成からも分かるように、アル・ファタハはエジプトのナセル政権の強い後押しを受けて生まれた組織です。ナセル政権そのものがイスラエルとの戦争によって生まれた政権と言えます。第一次中東戦争での敗北はエジプトの青年に強い危機感を呼び起こしました。彼らは腐敗した王政のもとではイスラエルに打ち勝つような強大なアラブ人国家を形成することはできないと考えるようになりました。

そこで1953年にクーデターを起こして王政を打倒し、封建制度を改革し、軍の強い統制下に富国強兵策をとることになりました。そして再度イスラエルに闘いを挑むのですが、これもあえなく敗れます。逆にエジプト本土に攻めこまれそうになったエジプトは、スエズ運河を占拠し国有化を宣言しました。そして国際世論の後押しにより、かろうじて本土防衛に成功します。

パレスチナ解放の目標が困難となったとき、エジプトはゲリラ戦争を仕掛けることで内部の混乱を目論んだのだろうと思います。

ここで、アル・ファタハとPLOの関係について説明しておきます。1964年にナセルとアラブ諸国の後押しで第一回パレスチナ国民会議(PNC)が開催されました.会議のメンバーは地方有力者の代表と武装組織の代表から構成されていました。会議は執行機関としてパレスチナ民族解放機構(PLO)を結成することで合意しました.執行部の主要メンバーは親エジプト派の人物が占めます。アラファトらアル・ファタハはこの時はPNCメンバーの一つでしかありませんが、相次ぐ作戦の成功により民衆の支持を獲得していきます。

この会議では同時に「パレスチナ民族憲章」が採択されました。前にも書いたように、40年前にパレスチナ人が掲げた5項目要求を踏襲し、多民族共存の国家づくりを目指しています。ただ異なるのは、5項目要求のあとに出来た「イスラエル」国家を認めず、その解体を求めていることです。

 

ゲリラ闘争の高揚

パレスチナ・ゲリラの闘争が高揚したのは、皮肉にもアラブの三度目の敗北のためでした。しかも三度目の敗北はわずか6日間でエジプトとアラブの連合軍が壊滅するという屈辱的なものでした。

67年6月はじめ、イスラエル軍は突如先制攻撃を仕掛けます。エジプトの空軍基地を狙いすまして攻撃。1日で戦闘機300機を破壊してしまいました。制空権を奪った後、今度は戦車が一斉に侵攻を開始します。瞬く間にシナイ半島のエジプト軍は壊滅し、イスラエル軍はスエズ運河の東岸にまで達しました。こうなると運河の封鎖はエジプトの切り札にはなりません。

エジプトは3日目で早くも降伏してしまいます。シリアはその後も何日か抵抗を続けますが、やがて降伏を強いられます。

絶望的な状況の中で、わずかにパレスチナ・ゲリラだけが「戦果」を上げ、民衆のウサを晴らすことになります。もっとも伝統的なアル・ファタハがPLOの主体を掌握するようになった他、シリアの支援を受けた「サイ カ」,イラクと結びついたアラブ解放戦線(ALF),社会主義諸国と結びついたパレスチナ解放人民戦線(PFLP),パレスチナ解放民主戦線 (PDFLP)などがあいついで名乗りを上げました.

ゲリラ闘争の中で「伝説」となっているのが1968年3月の「カラメの戦い」です。イスラエル国内で子供を乗せたバスが,アルファタハの仕掛けた地雷に触れ大破しました.イスラエル軍は報復のためヨルダン領内に侵入し、ヨルダン川東岸の町カラメのアルファタハ基地を襲撃しました.アルファタハのコマンド部隊は,ヨルダン正規軍と協力しイスラエル軍の攻撃を撃退したといいます.

ゲリラ側の発表によれば、イスラエル側は死者29人,負傷者90人を出し、戦車・装甲車両など8台が破壊されました.いっぽうパレスチナ・ゲリラは97名が死亡,ヨルダン軍も207名の死者を出したといいます.しかしこれらの数字は、「英雄」に飢えていたアラブ側で多分に誇張されている可能性があります.

ついでPFLPがハイジャック作戦を開始しました.最初はローマからテルアビブに向かうボーイング707型エルアル機がハイジャックされるという事件でした。PFLPはその後の半年間に外国航空機を13機乗っ取ることに成功しますが、徐々に警戒態勢が強化されるに連れ作戦の実行は困難となっていきます.

こうして打つ手のなくなったPFLPは、イスラエルのロッド(現ベングリオン)空港で,日本赤軍兵士三人を使った無差別銃撃事件を起こしました.このとき市民26人が殺害され、ゲリラに対する世界の目は俄然厳しくなりました.

これらの闘争は耳目衝動的な効果はあるものの、実際の戦果はほとんどありません。それどころかイスラエル側の報復攻撃によりその数倍もの被害を受けることが多かったのです。今日考えれば、ゲリラ闘争は6日戦争の結果にうちひしがれたパレスチナ民衆に闘いを呼びかけたという意味においてのみ評価されるべきものでしょう。

 

ディアスポラの日々の始まり

ウィキペディアによれば、

ディアスポラとはギリシャ語に由来する言葉で、元の居住地を離れて暮らす民族の集団を指す。難民とディアスポラの違いは、前者が元の居住地に帰還する可能性を含んでいるのに対し、後者は離散先での永住と定着を示唆している点にある。

まさにこの時期、パレスチナ人は難民からディアスポラへと立ち位置を変えています。パレスチナの故地を追われた人々は東に逃げヨルダンに住み着きました。北へ逃げた人はレバノンにキャンプを設営しました。西に逃げた人の多くはエジプトまでたどり着きましたが、一部はやがて帰る日を夢見てガザの町にとどまりました。

そしてイスラエルの理不尽な追撃を受ける羽目になったのです。

ここがパレスチナ問題の一番の鍵となる部分ですから、少し詳しく述べたいと思います。

最初のきっかけとなったのは70年のヨルダン内戦です。まずPFLPがスイス航空,TWA,BOACの旅客機三機を乗っ取り,ヨルダンの空港に強制着陸させました.PFLPは逃げる間際に旅客機を爆破させました.国際社会は激高します。ヨルダンは批判の矢面に立つことになります。

フセイン国王はこれを機にパレスチナ・ゲリラの追放を決断しました.自国の安全を第一と考えるなら当然の判断です。アラブの盟主と目されたエジプトはテンで頼りにならず、他の国も口こそ出すが手は出さないという状況のなかで、パレスチナ・ゲリラに手を貸すことは自殺行為に近いからです。

ヨルダン正規軍がPLOへの攻撃を開始し、首都アンマンで市街戦が展開されました.ゲリラはこの背後からの攻撃に対し無力でした。11日間の戦闘で5千の死者を出し、アンマン周囲からの撤退をよぎなくされます。アラファトはかろうじてアンマンを脱出し、レバノンへと移動します。これが70年9月のヨルダン内戦であり、パレスチナ人のあいだでは「黒い9月」と呼ばれています。

つまり、70年9月までは故郷に帰る希望をもった難民だったのが、それからは避難先からも疎まれるディアスポラとなって彷徨うことになったのです。

このあと、PLOの中核アルファタハもテロ活動に手を染めることになります。これが72年9月のミュンヘン・オリンピック事件です。作戦はファタハとPFLPの合同チーム「黒い9月」により実行され、最後はミュンヘン空港の滑走路で西ドイツ特殊部隊と銃撃戦となり,ゲリラ5人,人質9人が犠牲となりました.

イスラエルは報復作戦として軍兵士3000人をレバノン南部に送り込み、パレスチナ難民キャンプを襲撃し数百人を殺害しました.国際世論がイスラエルに同情的なのを良いことにした大虐殺です。報復のための市民大量虐殺はまさにナチスの手口であり、戦争犯罪として断罪すべきものです。

この後、イスラエルは国境など無きが如く、傍若無人な越境攻撃を繰り返すようになります。パレスチナ人は祖国を追われただけでなく避難先でもイスラエルの攻撃に怯える日々を送るようになりました。

 

第4次中東戦争とアメリカの立場

第4次中東戦争(ラマダン戦争)はこれまでの闘いの中でも、もっとも凄惨を極めたものでした。エジプトのサダト政権とシリアのアサド(父)政権はひそかにソ連と手を結び、戦争の準備を着々と備えていました。そして1973年10月、突然戦闘の火ぶたを切ったのです。

両国は50万の兵力、4500台の戦車、重火器3400台、戦闘機1080機が動員されました。南部戦線では1000台の戦車と10万の兵力がスエズ運河を渡り、対岸に橋頭堡を形成しました。北部戦線では1400台の装甲車と600台の戦車、三個師団がゴラン高原に進出します。

しかしこれだけの規模での攻撃にもかかわらず、アラブ軍はわずか10日で惨めな敗北を遂げます。理由はいろいろありますが、最大の理由はアメリカのテコ入れでした。この戦争の本質をソ連の中東進出だと見たアメリカは、それまでの控えめなイスラエル寄りの態度を改め、全面支持の立場に切り替えました。

当時すでにソ連に圧倒的な技術力の差をつけていたアメリカは、最先鋭の兵器を惜しみなくつぎ込んだのです。エジプトのミグ19はファントム戦闘機の敵ではありませんでした。砂漠の闘いで制空権を失えば、どうなるかは目に見えています。スエズ運河を渡ったエジプト軍の戦車隊は退路を断たれました。

アラブ軍は戦車2000台を失い、1万人の死者を出しました。いっぽうイスラエル側も戦車550台が破壊され兵士2800名が死亡しています。エジプト軍部隊の地対空ミサイルはイスラエル機50機を撃墜しています.

しかし、これだけの犠牲を払ったイスラエルは並ぶものなき中東の覇者となりました。これ以降エジプトはアメリカよりの姿勢を強め、イスラエルと事を構えるのを回避するようになります。

 

苦渋の妥協と平和攻勢

残されたパレスチナ人にとっては、根本的な戦略の変更がもとめられました。一つは全土の奪還という方針の断念です。それは同時にイスラエルという国家の承認につながります。もう一つは武力での闘争という形態の放棄です。ゲリラ戦やハイジャックをこれ以上続けても益するものはなく、犠牲はあまりに大きいものがあります。さらにそれは国際的な支援の枠を大幅に狭めてしまいます。

この方針転換を決定する歴史的な会議となったのが、1974年6月に行われた第12回パレスチナ国民評議会(PNC)です。この会議では、ガザとヨルダン川西岸に「民族的権威を設立すること」をふくむ10項目の方針を採択しました.過激な戦術に固執するPFLPはこの方針に反対。一部は「アブ・ニダル派」を結成してPLO幹部を付け狙うようになります。

同年秋、ラバトでアラブ首脳会議が開かれ、PNCの方針を支持することで合意しました。そしてパレスチナ国家建設の権利を承認しPLOを唯一の代表としました.PLOは急速に影響力を拡大し,世界各地に100カ所を超す代表部や事務所を開設するに至ります.

これには、ラマダン戦争時産油国が一斉に石油戦略に出たことも大きな影響を与えています。いわゆる第一次石油ショックです。日本では狂乱物価となり、トイレットペーパー騒動まで持ち上がりました。

元々がイスラエルの横紙破りが原因でこうなったわけですから、パレスチナに同情的な国際世論はこの方針転換を大歓迎しました。国連総会は,シオニズムを人種差別主義と非難する決議を採択.そのいっぽうでパレスチナ人の民族自決権とパレスチナ国家の樹立の権利を認め、PLOをオブザーバーとして招請しました.アラファト議長がオリーブの枝をかざしながら行った総会演説は、いまでも語りぐさです.

アラファト演説のさわり
革命家とテロリストの違いは,何のために戦っているかという点にあります.正しい目的を持って,自分自身の土地を侵入者・入植者・植民地主義者から解放し,自由になろうとしているものを,決してテロリストと呼ぶことはできません.でなければ,イギリス植民地主義者からの解放のために戦ったアメリカ人は,テロ リストになります.ヨーロッパでのナチスに対するレジスタンスはテロリズムになります.そしてこの会議場におられる数多くの人々もテロリストということになるでしょう.

パレスチナ人、とりわけゲリラ闘争などと関係のない一般民衆にとっては、一条の明るい光が差し込んできたようでした。ガラリア地方では、土地取り上げに反対する「土地の日」統一行動が取り組まれ、「民族はひとつ,戦いはひとつ」のスローガンの下,パレスチナ人数十万人が行動に立ち上がりました.

76年にはヨルダン川西岸地区で総選挙が行われ、PLO支持派と共産党が大勝利を勝ち取りました.ナザレ市では初めてパレスチナ人の共産党員市長が誕生しました.

パレスチナ 苦難の歴史

2013年6月

 

1900年 シオニストの入植

20世紀のはじめ、パレスチナはオスマントルコ帝国の一部でした。当時の人口は63万人と言われます。

同じイスラムでも、オスマントルコはトルコ人、パレスチナはアラブ人ですから、異民族支配という状況には変わりありませんでした。しかしトルコ人は圧倒的少数で、パレスチナ人が土地を追い出されたりすることはありませんでした。

1901年はネガティブな意味で記念すべき年です。この年ユダヤ国民基金が創設されたのです。ヨーロッパに散在するユダヤ人は、パレスチナこそ我らの祖国だと主張し、金を出しあってパレスチナの土地を買い,入植を奨励したのです。

やがてユダヤ人はテルアビブを中心として「祖国」を建設し始めました。と言ってもまだこの頃は一種の宗教的色彩を帯びたボランタリーなものでした。

 

第一次世界大戦 パレスチナの「独立」とユダヤ人「準国家」の成立

第一次世界大戦でパレスチナの領土を占領したのはイギリスでした。とはいえ、アラブ人の力もなみなみならぬものがあり、イギリスはこの地域を大アラブ王国として独立させることにしました。首都はシリアのダマスカスに置かれ、パレスチナ地方もこれに含まれることになりました。

独立と言ってもイギリスの信託統治下における自治領なので不完全なものですが、正直、アラブ人にも統治・行政能力はなかったので、やむをえざるものがありました。

しかしこの時イギリスはせこい手を使ったのです。イギリスはユダヤ人の銀行家から多額の戦費を借りていたので、ユダヤ人の要求に応える必要がありました。そこでイギリス政府はパレスチナにユダヤの「民族的郷土」を建国することを承認したのです。

民族的郷土(National Home)とは,主権を持った国家ではないものの,その道程にある政治的存在なんだそうで、訳が分かりませんが、まぁ後は当事者同士でうまくやってくれというようなものでしょう。

まあそれでも良いか、とパレスチナ人をふくむアラブ人はたかをくくっていました。パレスチナの国土は地中海海岸とヨルダン川河谷に挟まれた高原地帯で、放牧民の暮らす半砂漠の荒れ野が広がっていましたから、そこにユダヤ人が入植して「ユダヤ共和国」を作っても大したことはあるまい、そのうち辛抱できずに退散するだろうと思っていたのでしょう。

シリアのアラブ国王はシオニストの代表ワイツマンと会見し、「パレスチナへのユダヤ人の大量移民を奨励する」ことで合意しています.少なくとも最初は、アラブは宥和的だったことが分かります。

ところが、第一次大戦が終わった後、イギリスはこれらの約束は裏切られます。イギリスはシリアとレバノンをフランスに与え、それ以外のイラク,パレスチナを国連委任統治という名目で自国の植民地としてしまいます。当初は現在のヨルダンもふくめてパレスチナでした。

いっぽうでユダヤ人との約束はそのまま守られました。こうしてパレスチナ人はイギリスの支配下にユダヤ人と強制的に併存させられるようになったのです。

 

準国家から国家への動き

パレスチナのアラブ人は、この状況に大いに不満でした。そこでイギリスに対し、5項目要求というものを提出します。その要求はきわめて穏和で、いま考えても説得力のあるものでした。

つまりイギリスは出て行ってください。残った者たちはユダヤもアラブも相和してパレスチナの国造りを目指しましょうというものです。それで国の形が決まるまでは、とりあえずユダヤ人の入植は止めましょうということですから、きわめて常識的な対応です。「善きサマリア人」そのものです。その大枠は今日のPLOにも継承されています。

高まるアラブ人の不満に対応を迫られたイギリスは、さらに次の手を考えだしました。それはパレスチナをヨルダン川を境に二つに分けるというものです。こうしてヨルダン川の東岸に「トランスヨルダン首長国」がつくられ、パレスチナ西部は「英領パレスチナ」として直接統治下に置かれることになりました。

うるさい連中を切り離して、ユダヤ人を直接の庇護のもとに置こうということですから、事実上イギリスがイスラエル建国の足がかりを作ったようなものです。当時の国際連盟もだらしなくて、この措置を承認するどころか、「この地に対するユダヤ人移民と開拓」の助成をイギリスに促したのです。

これが1922年のことですが、当時すでに6万人のユダヤ人が入植していました。これに対し先住のパレスチナ人は67万人とされています。人口でいうと1対10ですがユダヤ人には金があります。工場を立て、店を開き、機械化農業を展開しました。そうするとかなりのパレスチナ人が直接・間接を問わず雇われることになるので、影響力はすでにイーブンの状態にまで達していました。

そうすると、両民族の関係は階級的色彩を帯びるようになります。これらの労働運動を指導したのはパレスチナ共産党でした。

もう一つ、ユダヤ人は元からいるパレスチナ人から土地を買ったり借りたりして農業や工業を始めるのですが、とかくこの手の契約に揉め事はつきものです。とくにパレスチナの地には耕作可能な農地は限られていますからたちまち紛争が勃発します。

 

ユダヤ人武装組織の登場

最初の大規模な衝突が、1928年の「嘆きの壁」事件です。エルサレムにある「嘆きの壁」というのはユダヤ人にとってもアラブ人にとっても聖地でした。ここでの集会をめぐり双方の過激派が衝突。ユダヤ人100人以上が殺されます。イギリスはエジプト駐留部隊を派遣し鎮圧しますが、その過程で今度はアラブ人100人以上が殺されます。

これを契機にユダヤ人は武装組織の形成を急ぎました。「イルグン・ツヴァイ・レウミ」という部隊は後の首相ベギンが指揮していました。ユダヤ人社会はパレスチナ人を暴力的に排除しながら拡大し、名実ともに国家の様相を示すようになりました。

この傾向を一気に進めたのが33年のナチス政権の成立でした。欧州各国からの流入で,一気にユダヤ人人口が40万人に増加しました.パレスチナの土地の5.7%がユダヤ人の手に渡りました.

この怒涛のようなユダヤ人の流入に、アラブ人の反発が強まります。36年にはユダヤ人の移民停止を要求して「アラブ大反乱」と呼ばれる暴動が起きます。一部はイギリスの地区弁務官を暗殺するなどのテロ活動を展開するに至ります。

アラブ人の抗議はますますユダヤ人の危機感を強めます。ヨーロッパ各地でユダヤ人が漂泊の民となっている。これを一人でも多く救出しパレスチナの地に連れ出したいという気持ちの現れでしょう。しかし地元からは猛反発を喰らい、肝腎のイギリスもこれ以上のユダヤ人を送り込むことには及び腰です。

それを押しこむには力しかない、ということでしょうが、先住者の事情はお構いなしです。シオニストの指導者ジョセフ・ワイツは,「アラブ人のすべてを,この土地から隣接諸国に移住させる以外に方法はない.アラブ人の一村落,一部族たちとも残してはならない」と主張しました.

 

イスラエル建国へ

1942年、ユダヤ人幹部のベングリオンらは、イギリスに対しイスラエル国家の創設を要求する「ビルトモア綱領」を発表しました.この宣言はパレスチナのみならず全世界のユダヤ人の熱狂的支持を受けました。シオニスト武装組織は移民制限に抗議してイギリスへのゲリラ攻撃を開始します.ベギンの首には二千ポンドの賞金がかけられました.

1945年、終戦とともにアラブ諸国では独立の動きが相次ぎます。シリアがフランスから、ヨルダン、イラクがイギリスからそれぞれ独立を果たします。そのなかでパレスチナの動きが注目されるようになりました。

アラブの支援受けながらアフリカ戦線を戦ったイギリスは股裂き状態になり、パレスチナの統治を放棄します。イギリスに後始末を押し付けられた国際連合は、パレスチナ分割を決めます。分割は、アラブにとってはまことに理不尽ではありますがやむを得ない措置であったと思われます。なぜならパレスチナ人との共存をあくまで拒むユダヤ人が60万人に達していたからです。共存を主張していたパレスチナ共産党はこの時までに内部分裂し、事実上崩壊していました。

しかし分割の比率はきわめて不当なものでした。人口で3分の1,所有地で6%を持つに過ぎなかったユダヤ人が,パレスチナの56.5%の土地を獲得することになったのです.これはどういうことを意味するか。考えなくても分かります。パレスチナ人の土地からの追い出しを国際的に承認したということです。

ここからパレスチナ人の苦難の歴史が始まります。

シリアのサリン使用がほぼ確実となった。

13日に米政府が明らかにしたもので、概要は次の通り。
1.アサド政権が昨年、反体制派に対して複数回、神経ガス・サリンをふくむ化学兵器を使用した。
2.規模は小規模なものであったが、それによる死者は100~150人と推定される。

オバマ大統領はこれまで、化学兵器の使用がデッドラインだと繰り返しており、今回、その見解に基づいて、反体制派への支援提供を拡大することを明らかにした。しかし「拡大」の具体的な中身については明らかにしていない。

今のところ共和党の有力議員も軍事援助の方向で一致している。

しかし、この方針はイスラエルの戦略とバッティングする可能性がある。先日のシリア軍・ヒズボラのクサイル制圧作戦は、イスラエルの黙認のもとに行われている可能性がある。少なくともイスラエル軍はヒズボラを牽制していない。

かつてイスラエルは、シリアをイラクと並ぶならず者国家と見て、打倒を狙っていた。しかしアサド政権が倒れて、それよりたちの悪い反イスラエル政権が誕生するのはもっと困る。

イラク、アフガンと続く戦争でアメリカは疲弊しているといわれるが、リビアでは反カダフィを支援したし、SAMミサイルを供与するくらいはどれほどのコストもかからない。

それなのに何故ちゅうちょするか。それはイスラエル筋の圧力ではないのだろうか。

ちゅうちょする口実として、「化学兵器を使ったら介入するぞ」と言っていたが、本当に使ってしまった。
だから、これまでの発言の手前、介入せざるをえないのだが、果たして軍が動くのだろうか。

軍をあいだに挟んでイスラエル・ロビーとオバマ・国務省・CIAの綱引きが始まったというところかもしれない。

「三つの理由」などと偉そうに言うつもりはないのだが、各種報道を見ていると、浮かび上がってくるポイントが三つある。

一つは、核開発政策に対する批判。
とくに2010年の20%濃縮ウラン製造宣言だ。こんなウランは核兵器以外に使い道がない。これをめぐって保守派の中が強硬派と穏健派に割れた。
ということは、核兵器の開発計画の是非が大統領選挙の最大の争点になってしまったということだ。

第二は、経済制裁の影響。
国際社会はイランへの包囲網を強化した。政治の主導権を握る保守強硬派はこの包囲網に対する打開策を打ち出せなかった。
その結果、貧困人口が05年の22%から40%まで急増した。さらにインフレと失業が襲いかかった。
イランはもはやこれまでの政治を続けることができなくなっていた。

第三に、選挙の最終盤、反ハメネイの共同戦線が形成されたこと。
穏健派トップのラフサンジャニやハタミ元大統領、改革派のアレフがいずれもロウハニ支持で一致した。
強硬派の頑なな姿勢が穏健派と改革派の共同をもたらしたのは皮肉な結果であった。

これからの動向を見る上で、不利な点はたくさん残っている。というよりほとんど手つかずで残っている。

にも関わらず今回の選挙が注目されるのは、ロウハニ50%に対し、保守強硬派11%という、あまりの大差である。

世論という点から見れば圧倒的な反ホメイニという状況の中で、暴力装置を握る強硬派が逆上することも十分考えられる。
はっきりしているのは、イランが深刻な政治状況にふたたび突入したということである。

最近のシリアを回る数字は凄まじいものがある。

6月7日のUNHCRの発表によると、

国内難民が680万人、国外難民が345万人に達するとの見通し。合計で1千万人で、これはシリアの人口の約半分。

ただしこれは今年末時点の予測の数字なので、大分膨らませている可能性がある。

私は北部トルコ国境地帯で反政府派が対空ミサイルを使って政府軍基を撃墜したというニュースを聞いたとき、これで勝負あったなと思った。

それからすでに1年近くを経過しているのに、一向に戦局は打開されない。なぜか?

誰かが反政府軍の進撃を抑えているのであろう。それは誰か?

答えはイスラエルと決まっている。

アレッポから北は反政府軍にくれてやる。しかしレバノン国境への侵入は許さない、というのがイスラエルの答えだろう。

今回のヒズボラのクサイル奪還は、イスラエルのヤラセとしか考えられない。イスラエルにとっては、シリア政府はもはや敵ではない。イラクのフセイン打倒のどさくさのあいだにならず者国家に指名して徹底的に絞り上げた。

かつてのPLO、PFLPに比べれば、ヒズボラなど鼻くそみたいなものだ。

とにかくシリアがスンニ派ゲリラの仕切る国家になるのが最悪のパターンだ。

オバマは「化学兵器の使用が確認されれば介入」といったが、いつの間にか沈黙の姿勢に戻った。

反政府ゲリラの支援国トルコでは、エルドアンに対して民主主義を求めるデモが激しさを増し、オリンピック招致にも暗い影を落としている。

それ自体は積極的に評価すべき闘いではあるが、そこにアメリカの影が存在していなにのかも気になる。「エルドアンさん、そんなに頑張っていていいんですか?」という勧告とも見て取れないこともない。

無論、アメリカとて、このまま流血の事態が続くのは望む所ではないだろうが、スンニ派・反イスラエル派がシリアの政治を掌握するのは、それ以上に、「あってはならない事態」なのではないか。

イラクの宗派対立による死者が5月の1ヶ月だけで1045人に達した。
暗澹たる気持ちにさせられる。
結局、アメリカの虚偽にもとづく勝手な行動が招いた事態なのだが、03年のイラク侵攻というより、第一次湾岸戦争以来のアメリカの中東戦略の迷走ぶりがもたらしたものとして、もう少し長期的に見ていく必要があるだろう。
01年の9.11事件と、これに次ぐアフガン侵攻までは、善悪は別として了解可能であったが、ならず者国家論を持ちだしてイラクを叩く理由は、まったく了解不能だった。
アルカーイダにつながるようなイスラム原理主義をとっているわけでもなく、反米主義を煽っているわけでもない国がなぜ攻撃の対象となったのか。反テロリズムという大義名分に従うなら、むしろ対象はイランではなかったのか。

それは、イスラエルとそれにつながるネオコン族の情報操作によるものと考えると辻褄が合う。

米軍産複合体内部での主導権争いは未だに続いていると思われる。かつてのネオコン族の華々しい活躍は姿を消したが、イスラエルに鼻面引き回される場面は相変わらず続いている。

とすれば、シリアの内戦も、イラクの宗派対立もイスラエルの中東戦略と結びつけて考えなければならない。

60年代 エジプト、シリアが主敵。イラク、イランは混乱期
70年代 エジプトの凋落、ナセルの死、キャンプ・デービッド合意。パレスチナ・ゲリラの活発化。イラクのフセインがアラブ民族主義の盟主となる。イランはパーレビ親米王朝
80年代 レバノン“内戦”でパレスチナゲリラは壊滅。イラクのフセインが覇権を狙いイランのホメイニと争い。エジプトはサダト亡き後もムバラク親米政権となる
90年代 第一次湾岸戦争。イラクのフセインが凋落。アメリカとイスラエルの攻守同盟が強力に。その条件としてPLO自治の承認。
00年代 PLOを徹底的に叩く。エルサレム、西岸地帯への進出。イランをバックにしたハマスとヒズボラの勢力伸長。イランとシリアの連携。原油高を背景にしたフセインの復活。
10年代 エジプトにおけるイスラム政権の成立。シリアとイラクの混迷状態。イランの膨張主義と核開発。

こうなれば、イスラエルがエジプト、シリアとイラクの混迷状況の持続を求めるのは当然である。イランはアラブではないので真の脅威とはならない。

敵の敵が味方だとすれば、アル・カーイダこそイスラエルの最強の味方である。そういえばアルカーイダは奇妙なことに、あまりイスラエルを攻めないな。


小泉記者のカイロ電だ。外電頼りの一般紙と違い、赤旗の国際面はこれだけでもとる価値がある。

①27日、反政府武装勢力が北部で政府軍ヘリをミサイルで撃墜。
②28日、北西部のトルコ国境付近で、政府軍のミグ23戦闘機が、地対空ミサイルによって撃墜された。パイロット2人のうち1人が拘束された。

「シリア人権監視団」の発表とのことだが、これがどんな組織かは不明。ただミグをミサイルで落としたというのはきわめて重大だ。ヘリは比較的スピードが遅く、高度も低いので落とせる可能性はある。しかしミグを落とすのはそう簡単ではない。
乾燥地帯のゲリラにとって一番怖いのは飛行機だ。逆に言えば政府軍にとって頼みの綱は航空機しかない。だからSAMのあるなしでゲリラの戦闘力はまったく違ってくる。

エルサルバドルの戦いはまさにその象徴だった。それまで押せ押せムードだったゲリラにとって、84年に大量に導入されたアメリカ製の高性能ヘリは脅威だった。戦線は一気に収縮し、分断され孤立したたたかいを迫られた。
それが88年に入ってゲリラがSAMを入手したことから、がらりと状況は変わる。ヘリや戦闘機がハエでも叩くようにばたばたと落とされ始めた。
そして89年には首都サンサルへの総攻撃にまでいたる。じつはこのSAMはニカラグアが横流ししたものであった。察するに、進まぬ和平に業を煮やしたニカラグアのサンディニスタ政権が、揺さぶりをかけたものと思われる。 これに恐れをなしたアメリカとエルサルバドル政府は停戦に応じるようになった。(拙著「エルサルバドル革命史」を参照されたい)

政府軍の陸上部隊は、航空機の援護がない限り絶対に動こうとはしない。無理強いすれば逃亡するか寝返るだろう。だからもう二、三機墜ちれば勝負は終わると思う。

問題は、トルコがどういう立場から、どういう形で軍事的プレゼンスを示していくかだが、イスラエルは相当ぴりぴりしているだろうと思う。

この文章は、イラク戦争の謎を解く重要な手がかりを与えてくれた。すなわちイラク戦争はイスラエルのための戦争であったということである。

きわものではない。事実の積み重ねの上での説得力ある理論である。

しかし、その結論は恐ろしい。我々よりもむしろアメリカ人にとって恐ろしい結論であろう。イスラエルのいうままに政策が決まっていく過程も恐ろしいが、それ以上に、アメリカの議会制民主主義が、金銭や圧力の前にまったく無力化しているという事態が恐ろしい。

論述を逆にたどってみよう。論者の根本的な出発点は、「イラク戦争は“アメリカにとって”何だったのだろう」という疑問である。

そしてその結論は、政治学者らしく、「無益だった」ということである。さらに「有害」だった可能性もある。「意味」や「意義」については問わない。

それでは無益だった理由はなんだろうか。論者は「そもそも直接の利害関係がなかったからだ」という。少なくともアメリカという国にとって、兵士の生命と莫大な戦費、国際的な関係悪化と道徳的権威の失墜をかけてまで戦うほどの利害関係はなかった。一部にイラクの石油資源を持ち出す論議があったが、何よりもその後の事実が否定している。

これが第一命題。

それにもかかわらず、アメリカは無益な戦争を仕掛けた。次の疑問は、「アメリカはなぜ無益な戦争を行ったのか」という疑問である。

そして、これに対しても政治学者らしい結論をひきだす。「この戦争が有益だった勢力が存在したから」である。彼らはイラク戦争にたいして死活的な利害関係を持ち、アメリカ政府の政策に対して決定的な影響力を持ち、しかも本質的に非アメリカ的であり、アメリカの国益に対して価値中立である。

これが第二命題。

以下は犯人探しをめぐる多少実証的な検討になる。

一つはイラクをめぐる地政学的状況の分析。ここから21世紀の劈頭において中東で、イラクを叩くことに死活的な有益性を持つのはイスラエル以外にないことが明らかにされる。

ついで時系列的な分析。アメリカに先立ってテロリスト国家論や先制攻撃論などを主導し、実践していたのはイスラエル以外にない。イラクに対する攻撃は、イスラエル政府の主張をほぼ忠実になぞる形で実施されている。さらにシリアに対する攻撃や、イランに対する攻撃を煽っているのもイスラエル以外にない。

ここから、少なくとも「戦争が有益だった勢力」の重要な要素のひとつに、イスラエル政府があるということは確実である。

論者の主張はきわめて鮮明である。

イスラエルとイスラエル系圧力団体からの圧力は、イラク攻撃を決定した唯一の要因ではないが、決定的に重要であった。この戦争は石油のための戦争と 信じている米国人もいるが、その主張を支持する直接的な証拠はほとんどない。そうではなく、この戦争はおおかたのところ、イスラエルをより安全にしたいと いう欲望が動機であった。

そしてこれからが、いわば本題。

我々はこれまでアメリカの戦争政策を牽引したのはブッシュであり、チェイニーであり、ネオコンと呼ばれるグループだと判断してきた。その心理的背景には9.11でアメリカ国民が陥った一種の集団ヒステリー状態があると見てきた。

ネオコンと呼ばれる高級官僚の多くがユダヤ人であることは知っていたが、それがと結びつき、その強い影響を受けながら活動していたことは知らなかった。ユダヤ系社会がアメリカのなかで強い影響力を持っていることは聞いていたが、これほどまでの政治力を有しているという認識はなかった。

そこでもう一つの疑問、「イスラエルはアメリカの政策を決める力を持っているのか」ということだ。答えは「然り」だが、いくつかの条件がつく。

まず正確には、アメリカの政策を決める力を持っているのは、イスラエル政府そのものではない。全体としてのアメリカのユダヤ系社会でもない。それはイスラエル系圧力団体の力である。

もう一つは、国家の政策のすべてに決定力を持っているかといえば、もちろんそうではない。中東問題、それもイスラエルの利益が絡む問題についてのみである。

だから正確に言うと、「イスラエル系圧力団体は、イスラエルの利害が絡む問題について、アメリカの政策を決める力を持っている」ということになる。

多くのアメリカ人にとっては、イスラエルもパレスチナも、「直接の利害はない」、いわばどうでも良い問題である。だから平均的アメリカ人を代表する議員は、一生懸命圧力もかけ、金も出してくる団体に対しては寛容になる。札束を口に押し込まれて余儀なくされる沈黙は、心地よいものである。

ただ今回は、たまたま中東全体の問題に拡大しまい、若者が戦地に送られ、国家財政が破綻に追い込まれてしまっただけなのだ。

巷で言われるような、「ユダヤ人は金持ちだ」とか「ユダヤ人の投票率が高い」とか言うようなことは、アメリカのユダヤ系社会の影響力を説明するものであったとしても、イスラエル系圧力団体の力を説明するものではない。イラク戦争が始まったときユダヤ系のイラク戦争への支持は52%だった。これは国民全体の支持率62%より低いのである。

むしろ創価学会とか部落解放同盟のようなイメージを抱いた方がわかりやすい。農協のような利益代表的な圧力団体ではなく、思想性の強い圧力団体と考えるべきであろう。

 

イラク戦争後の動き

シリアを付け狙う

①イラク政府が崩壊すると、イスラエルは米国政府に対してシリアを標的にするよう催促し始めた。ウォルフウィッツは「シリアでの政権転換は必ず行われねばならない」と宣言した。

②米議会はこれに熱心に反応した。反シリア法案は圧倒的多数(下院では398対4、上院では89対4)で可決された。もしイスラエル系圧力団体が存在しなかったならば、シリア実施責任法は存在しなかったろう。

③CIAや国務省はこの考えに反対であった。ブッシュ大統領はその執行は慎重に行うと強調した。

④シリア政府はアメリカに協力した。アル・カイーダに関する重要な情報を提供し続け、国連決議第1441号に賛成さえした。シリア自体は米国にとって何ら脅威ではなかった。

 

イランに照準を合わせる

①イスラエル人はあらゆる脅威を最も硬直した言葉で表現するが、イランは彼らにとって最も危険な敵であると広く認識されている。それは、核兵器を持つ可能性が最も高いためである。彼らは「もしイランが核の道を進み続けるならば先制攻撃を行う可能性がある」と警告している。

②イランの核武装は米国への直接的脅威にはならない。米国が核武装したソ連や核武装した中国、更には核武装した北朝鮮とすら共存できたのであれば、米国は核武装したイランとも共存できる。

③イスラエル系圧力団体が存在しないならば、予防的戦争は重要な選択枝にはならないであろう。

 

まとめ

これらのイスラエル系圧力団体の努力が成功するならば、イスラエルの敵は弱体化するかあるいは転覆させられる。そして米国は戦闘と戦死者と再建と支出の大部分を引き受けることになる。

もし米国がますます先鋭化するアラブとイスラム世界との争いに巻き込まれたとしても、イスラエルは結局保護されることになる。それは、米国政府がイスラエルと距離を置く政策よりも好ましい事は明らかである。

 

結論 イスラエル系圧力団体の勢力を抑制することはできるのか?

「イ スラエルには、多くが主張するような米国にとっての戦略的価値はない。冷戦時代にはあったかもしれないが、冷戦後においては負債としての側面が大きくなり つつある」「イスラエルの厳しいパレスチナ政策を無条件に支持してきたことによって、世界中で反米主義が高まり、テロの懸念も増した。欧州、中東、アジア の重要な同盟国との関係にも亀裂をもたらした」 

イスラエル系圧力団体から距離を置き、より広汎な米国の国益により合致した中東政策を採用する。米国の力を用いてイスラエルとパレスチナの間に公平な平和を達成することは、この地域の民主主義の運動を増進させる助けになる。

その様なことは近い内には起きないだろう。AIPACとキリスト教シオニストは圧力団体の世界で重大な敵を持たない。米国の政治家は引き続き政治的圧力に非常に敏感であり、イスラエル系圧力団体を受け入れ続けるだろう。主要な報道機関はイスラエルに同情的であり続けるだろう。

 

それは何をもたらすだろうか

①イスラエル系圧力団体は、イスラエルとパレスチナの紛争を終結させることを不可能にしており、急進的イスラム主義に貢献しており、結果としてテロリストの危険性を増加させている。

②イスラエル系圧力団体がイランとシリアの政権転覆を求めれば、それは米国をもうひとつの戦争に導く可能性がある。それは悲惨な結果になりかねない。

③倫理的に見るならば、米国はイスラエルの占領地域への拡張政策の事実上の成功要因となっている。その結果、パレスチナ人に対して犯される犯罪の共謀者になっている。アメリカが人権を尊重するように要求するとき、それは偽善であり、米国が核兵器の拡散を制限しようとする努力も偽善とみなされる。

④イスラエル系圧力団体がイスラエルに関する論争を抑制することは民主主義にとって不健全である。彼らは、ブラックリストと不買運動で懐疑論者を沈黙させ、批判者は反セム主義であると糾弾することで議論を抑圧している。民主主義が頼みとする米国議会がその犠牲となっている。

⑤最後に、イスラエル系圧力団体の活動は、イスラエル自身の健全な民主主義や解決能力の発展を阻害している。イスラエルはオスロ合意を即座に完全に履行する機会を失ってしまった。イスラエルはパレスチナ人の正当な政治的権利を否定することで、より不安定になった。

 

しかし希望の光は存在する。イスラエル系圧力団体が強すぎることの弊害はますます隠せなくなっている。真実を永遠に無視することは出来ない。必要なことは、開かれた率直な議論である。

 

<終>

ブッシュ政権とイスラエル

悪霊として描かれるパレスチナ人

①9.11以前のブッシュ政権は、アラブ世界の反米感情を減少させるほうに比重を置いていた。占領地域での拡張主義者政策を停止させ、パレスチナ国家の創設を提唱した。

②しかし、米国政府は結局イスラエルを支援することになった。方向転換の主な理由は、イスラエル系圧力団体のロビー活動と、キリスト教福音主義者たちの同調だ。議会がブッシュを攻撃した。こうしてイスラエル軍は防衛障壁作戦に着手し、ブッシュはシャロンを「平和の人物」であると持ち上げた。イスラエルとの交渉に当たったパウエルはハシゴを外された。

③孤立したアッバス議長の力は弱体化し、これに代わりハマスが勢力を伸ばした。ハマスが権力の座に就くことで、イスラエルは交渉しないためのもう一つの言い訳ができた。シャロンはブッシュを「自分の小さな手のひらで包み込んだ」(スコウクロフト)

 

イスラエルとイラク戦争

イスラエルとイスラエル系圧力団体からの圧力は、イラク攻撃を決定した唯一の要因ではないが、決定的に重要であった。この戦争は石油のための戦争と信じている米国人もいるが、その主張を支持する直接的な証拠はほとんどない。そうではなく、この戦争はおおかたのところ、イスラエルをより安全にしたいという欲望が動機であった。

①フィリップ=ゼリコフ(政府高官)は、「イラクからの“真の脅威”は米国にとっては脅威ではなかった。この“公表されない脅威”は“イスラエルに対する脅威”であった」と語っている。

②米国のユダヤ系共同体全体はイラク侵略を望んでいなかった。全国規模の世論調査によれば、ユダヤ系のイラク戦争への支持は52%だった。これは国民全体の支持率62%に比べ、むしろ低い数字である。イラクでの戦争の責任を「ユダヤ人の影響」のせいにするのは明らかに間違いだ。

③いっぽう、新保守主義者たちはブッシュが大統領になる以前からサダムを打倒することを決意していた。9.11の直後、ウォルフウィッツはアフガニスタンの前にイラクを攻撃することを提唱した。ブッシュは彼の忠告を拒否した。しかしこの陰謀にチェイニーが乗ったことで戦争は不可避になった。

 


イスラエル系圧力団体とは何か?

①イスラエル系圧力団体とは、個人や組織の緩やかな連合であり、支配的な指導力を有する統一された運動ではない。

②ユダヤ系アメリカ人の大多数を結集しているわけでもない。2004年の調査では、36%のユダヤ系アメリカ人は「全く」又は「ほとんど」イスラエルに心理的に帰属していないと答えている。

③アメリカ・イスラエル公共問題委員会(AIPAC)など重要な組織の多くは、リクード党の拡張政策を支持する。しかし「ユダヤの平和の声」の様な幾つかの集団はリクードを支持しない。しかし穏健派も強硬派も、共にイスラエルの忠実な支持者である。

④ユダヤ人の主流派にとって、イスラエル政府=リクードの安全保障に関連する政策に批判的な議論を行う余地は絶対に存在しない。彼らは事実上、外国政府の代理人となっている。

イスラエル系圧力団体の影響力

①1997年のフォーチュン誌: 議員対象の最も強力な圧力団体アンケートでAIPACは米国退役軍人協会に次いで二番目だった。AFL-CIOや米国ライフル協会より上位。2005年3月のナショナルジャーナル: ワシントンでの「影響力番付」で全米退職者協会と同点の二位であった。

②AIPACのメンバーはユダヤ系ばかりではない。著明なキリスト教福音主義者も含まれる。彼らは全員、イスラエルの復活が聖書の預言の成就であると信じており、イスラエルの拡張主義政策を支持する。

③AIPACは資金、選挙、報道などから米国議会議員を締め付けており、議会がAIPACから指示される以外の政策を持つことはできなくなっている。

④ユダヤ人は選挙資金を通じて大統領と政府に影響力を行使する。ワシントンポスト紙は、民主党の大統領候補がユダヤ系の支援者から選挙資金の60%を得ていると推計している。すでにクリントン政権時代、米国の中東政策は主有力な親イスラエル組織とその代表としての幹部スタッフによって形成された。

マスメディア・世論の操作

①ウォールストリートジャーナル紙は明確な親イスラエル、ニューヨークタイムズは時折イスラエルを批判するがイスラエルよりのスタンスは変わらない。CNNがイスラエルを批判すると6000通の電子メールが送りつけられる。

②ボストンのナショナルパブリックラジオ局であるWBURはイスラエルを批判して100万ドル以上の寄付金を失った。米国議会にいるイスラエルの友人からは報道に関する監視に加えて内部監査を要求される。親イスラエル団体はラジオ局の周りで示威運動を組織的に行った。

③イスラエル系圧力団体は、世論形成役のシンクタンクを影響下に置く。国策研究会(AEI)、ブルッキングズ研究所、安全保障政策センター、外交政策研究所、ヘリテージ財団などを実質的に支配している。

学問の世界への攻撃

イスラエル系圧力団体が最も苦手としたのが大学だった。

①彼らは「大学観察」というウェブサイトを立ち上げた。批判的な研究者の人物調査書が投稿され、密告が奨励された。とくにエドワード=サイードが在籍していたコロンビア大学が標的となった。サイードを糾弾し、制裁又は解雇することを要求する何百もの電子メール、手紙が送りつけられた。

②2004年の年末に、コロンビア大学の中東研究の教授陣はユダヤ系の学生を脅迫しているとのフィルムが制作された。実際にあったのは、ある教授がある学生の質問に「怒りを持って返答した」ことであった。その教授は、イスラエル系圧力団体による脅迫作戦運動の対象であった。

③イスラエル系圧力団体は米国議会に教授の発言を監視する機構を設立するよう圧力をかけた。彼らの努力は失敗に終わったが、もし議案が成立していれば、反イスラエル的と判定された大学は、連邦政府の資金援助を拒否されていただろう。

「反セム主義だ!」という攻撃

イスラエルの行動を批判する者は反セム的と名付けられる十分な機会を持つ。「イスラエル系圧力団体が存在する」と言えば、反セム的であると告発される。反セム主義は誰も批判されたくない事柄だ。(解放同盟の“差別だぁ!”に似ていますね)


舌鋒は鋭さを増す

ユダヤ人の倫理的価値への疑問

ユダヤ人はイスラエルへの支援を倫理の問題として提示する。しかし客観的に見て、イスラエルの過去及び現在の行動からはパレスチナ人よりも優遇されるべき道徳的根拠は何ら認められない。イスラエルの存在を支持する強い倫理的主張は存在するが、それは危機的状態にあるわけではない。

A イスラエルはアラブに囲まれ孤立したか弱い国なのか

①イスラエルは米国の大規模な援助が始まる前にも三度の戦い(独立戦争、スエズ紛争、6日戦争)に圧勝している。

戦略的 な均衡は決定的にイスラエルに有利であり、その軍事能力と抑止力における近隣諸国との量的格差は拡大し続けている。

負け犬を支援することが動機なら、米国はイスラエルの敵を支援すべきだ。

B イスラエルは守られるべき民主主義国家なのか

イスラエルは民主主義国の仲間であり敵対的な独裁国家に囲まれているという。

世界には多数の民主主義国家があるが、イスラエルのような破格の援助を受ける国は存在しない。民主主義であることだけでは現在の援助水準を説明できない。

②米国は自国の国益を向上させると考えたときは独裁者を支持してきた。そのために民主的政府を転覆させてもきた。

イ スラエルの民主主義には米国の中核的な価値観に対立するところがある。人種・民族・宗教に関わらず平等の権利を享受できるわけではない。130万人のアラブ人は二流市民でしかない。

C 人類はユダヤ人に責めを負っているのか

ユダヤ人は何世紀にも渡って迫害されてきた。イスラエルは米国から特別な扱いを受けるべきだ、という。しかし、それは第三者であるパレスチナ人に対するユダヤ人の犯罪行為を許容することなのか。

ユダヤ人の悲劇的な歴史があるからといってイスラエルへの無条件支持を米国が強制されることはないのだ。

D 高潔なイスラエルと邪悪なアラブ

イスラエルの行動は残忍であることが多く、高い道徳性へのあらゆる要求を裏切ってきた。

①独立後の10年間、イスラエル軍は5000人のアラブ人を殺し、た。イスラエルは26万人をヨルダン川西岸から追放した。そして、ゴラン高原から8万人のシリア人を追いやった。

②パレスチナ青少年のインティファーダの最初の日、イスラエル軍は百万発の銃弾を発射した。一人の殺されたイスラエル人のために3.4人のパレスチナ人を殺した。

そして、もし戦略論も道徳論も米国のイスラエルに対する支援を説明できないとすれば、我々はどうやってそれを説明するのか

ミアシャマイヤーとウォルトの論文の抜書きです。国際情勢の分析と予測というブログで「要約版」を訳してアップロードしてくれたので、それを抜書きしたものです。

2006年3月の出版といいますから、まだ第二期ブッシュ時代。ちょっと古いのですが、貴重な文献です。あの時期にこれだけ書く勇気は尊敬に値します。


アメリカのイスラエル援助は突出している

米国政府は、1970年代から、総額1400億ドルを越える援助をイスラエルに供与してきた。これは対外援助予算のほぼ五分の一をしめる。

イスラエルは毎年約30億ドルの直接援助を受ける。これは国民一人あたり約500ドルに相当する。

対イスラエル援助はさまざまな点で破格である。

①軍事援助の資金はその全額を米国で支出することになっているが、イスラエルは約25% を自国の軍需産業に使うことを許されている。

②イスラエルは援助資金の支出内容を説明する必要のない唯一の国である。ヨルダン川西岸での住宅建設などに使用することも可能である。

③イスラエルは通常の援助のほかに、武器システムの改善費として、30億ドル近くの金を与えられている。これによりF-16戦闘機などの最新兵器を入手している。

④イスラエルは、NATOの同盟国にも与えないような機密情報を供与されている。

⑤米国はイスラエルが核兵器を保有することに目をつぶっている。

米国政府はイスラエルに外交的支持を与え続けててきた。

1982年以降、米国はイスラエルを批判する32の安保理決議に拒否権を行使した。

②米国はアラブ諸国がイス ラエルの核兵器をIAEAの議題にすることを妨害してきた。

ブッシュ政権の中東介入は、部分的には、イスラエルの戦略に沿っている。

イスラエルの「戦略的価値」への疑問

イスラエルを支援するために支払った対価

①「10月戦争」(73年)の時のアメリカの緊急軍事援助は、OPECの石油禁輸の引き金を引いた。

第 一次湾岸戦争では米国はイスラエルの軍事基地を使用するために、反イラク同盟を破壊することを余儀なくされた。その後はアラブ諸国の反対を考慮してイスラエルに援助を求めなかった。

9/11以降に顕著になった傾向として、米国のイスラエル支持は、テロリスト集団と「ならず者国家」に両国が脅威を受けているという主張によって正当化された。この主張は、イスラエル政府がパレスチナ人「テロリスト」を自由裁量で取り扱うのを認めさせた。さらにイランやシリアの様な国を、「イスラエルの敵は米国の敵」という理由で敵視させることになった。

以上のごとく、イスラエルとの同盟は、テロとのたたかいと、ならず者国家に対処する為の広汎な努力にとって重荷になっている。(割と勝手な理屈ですね)

イスラエルとの同盟による対テロリスト戦略の誤り

イスラエルに脅威を与えるテロリスト組織は米国には脅威を与えない。米国が彼らに干渉する場合は別である。

パレスチナ人のテロリズムは手当たり次第の暴力ではない。それは、おおむねイスラエルの「入植」作戦への反応である。

米国のテロ問題の多くは(唯一の原因ではないが)、米国がイスラエルと非常に親密な同盟国であることによる。「イスラエルと米国が共通するテロリストの脅威により結びつけられている」というのは因果関係の逆転だ。

ならず者国家論の誤り

彼らはイスラエルにとっての脅威であるという点を除いては米国の重要な利益にとって差し迫った脅威ではない。

②彼らが核兵器を保有したとしても、米国もイスラエルも脅迫されることはない。脅迫者は圧倒的な報復を受けることなしには脅威を実行することができないからだ。

イスラエルの核兵器は、近隣国が核兵器を欲する理由の一つである。彼らを脅すことはその欲望を増大させることになる。

イスラエルこそならず者国家(とまでは言ってないが…)

イスラエルは忠実な同盟国としては行動していない。

イスラエルの当局者は米国の要求を頻繁に無視し約束を破る。住宅建設を強行し、パレスチナ人の指導者の暗殺をやめない。

②イスラエルは、国務省の査察官が「公的に承認されない供与」と呼ぶ、軍事技術の供与を中国などに供与してきた。

③イス ラエルは「米国の全ての同盟国の中で米国に対し最も活発なスパイ活動を行って」いる。

小泉記者の記事の一文が気になっています。

チュニジアのアブデッサラーム外相は停戦合意直前にガザ入りし、「イスラエルは状況が変わったことを理解しなければならない。イスラエルはもはや自由に行動することなど出来ない」と語りました。

「状況の変化」とはなんでしょうか。

私には中東の変化ということだけではないように思えます。とくにヒラリーの動きに示されたアメリカの変化がかなり本格的なものなのか、イラク侵攻のときにパウエル国務長官を退陣に追い込んだ国防省対国務省の対立が、第2ラウンドを迎えているのか、気になるところです。

基本的には国務省と国防省は一体であり、矛盾は一時的、相対的なものです。たとえばネオコン・グループとして名をはせたウォルフォビッツもエデルマンも本籍は国務省で、転籍先の国防省で頭角を現した組です。しかし大統領が民主党から共和党に変わった時など、折にふれ人脈間の対立が表に出ることもあります。

今回の動きがその露頭なのかも知れません。

まずは、一世を風靡したネオコングループはどこへ行ったのか、その影響力は依然残っているのか? というあたりから探ってみたいと思います。

中岡治さんのブログから

国防省は2人のネオコンにリードされてきました。ウォルフォウィッツ副長官とフェイス次官です。ともにユダヤ系です.

彼らの力はチェイニー副大統領と結びついていました。父ブッシュの時代、当時、国防長官だったチェイニーの下で、「Defense Policy Guidance」が策定されました。これがネオコンの防衛政策の基本となって行きます。その作業の指揮をとったのがウォルフォウィッツです。

チェイニーはアホブッシュを抱き込んで、政権の全面掌握に乗り出しますが、その尖兵となったのがネオコン・ボーイズたちでした。ラムズフェルドは元々は中道右派でしたが、チェイニーのおかげで見事に悪の花を咲かせました。国家安全保障会議もネオコンのエーブラムスが掌握します。こうして副大統領首席補佐官のリビーとのあいだに鉄のトライアングルが形成されました。

このなかで、イスラエル・コネクションの役割を担ったのはフェイス次官とエーブラムスでした。フェイスはユダヤ関連の組織「Jewish Insititute for National Security Affairs」や「Center for Security Policy」と緊密な関係にありました。彼は国防省の機密情報をイスラエルに漏洩していたことがばれ、職を追われることになります。

チェイニーはパウエルが握る国務省内にも手を伸ばしました。国務省出身で中東専門のエリック・エデルマンを国防省に引き抜き、フェイスの後任国防次官にすえています。さらには国連大使にネオコンのジョン・ボルトンを送り込みました。

中岡さんは次のように総括しています。

第一期ブッシュ政権は、国防省と副大統領オフィスのネオコンとパウエル国務長官が率いる国務省の間で外交政策を巡るヘゲモニーがあったのです。結果的には、ネオコン派が勝利し、パウエルは放逐されます。

ただ、このあたりがネオコンの花だったようです。ブッシュ政権の終わる前に、すでに彼らは凋落の道を辿り始めていました。イラク統治の失敗からラムズフェルドは退陣に追い込まれ、ウォルフォビッツは世銀総裁の座を射止めますが、愛人問題で辞任に追い込まれます。共和党は伝統的右翼がふたたび仕切るようになり、キリスト教原理派やティーパーーティの党になって行きました。

それでは、国務省や国防省における彼らの影響力は消失したのでしょうか。もし消失したとすれば、どうしてイスラエル・パレスチナ問題での政策は、オバマの積極的姿勢にもかかわらず変化しないのでしょうか。



ガザ問題を知るために、宮田律さんがすばらしいレジメを用意してくれています。
それほど長いものでもないので、直接ご覧になるようお勧めしますが、「なるほど」を納得したポイントをいくつか箇条書きにしておきます。

①ガザは街ではなくゲットーである。縦が50キロ、横幅が最大10キロの地区内に150万人が押し込められている。8つの難民キャンプがあり、そこに100万人が暮らしている。
②難民といっても「避難」したのではない。1948年の第一次中東戦争のときに土地を奪われ、押し込められ、65年間押し込め続けられてきた人々である。
③ガザの周囲は、壁によって完全に囲まれている。海は、イスラエル軍によって封鎖されている。パレスチナ人がガザを出入りする自由はない。壁のなかに生まれ、壁のなかに死んで行く。
④ガザの失業率は70%以上。貧困ライン以下の家庭が85%。多くの子どもたちに栄養失調の徴候が見られる。

ついでガザをめぐる交渉経過ですが、
①オバマの二つの発言
オバマは就任早々、パレスチナ問題の解決に積極的な姿勢を示しました。一つが2009年6月のカイロでの演説で、60年間以上もわたって続いている占領に対する遺憾の念が表明されました。もう一つは2010年5月のネタニヤフ首相との会談です。そこでオバマは「将来のイスラエルとパレスチナの境界は1967年の第三次中東戦争以前の境界を基本に考えるべき」と発言しました。
②イスラエルのさらなる強硬化
イスラエルはオバマ発言に対し、真っ向から挑戦する姿勢をとり続けました。入植地を拡大し、トルコの人道支援船を攻撃し、ガザの全面封鎖を継続しています。宮田さんは、これに対しオバマがまったく無反応であったと非難しています。



今回の事件はハマスの最高軍事指導者と報道されていますが、これはイスラエル側の発表を鵜呑みにしたもので、実はイスラエルとの和平交渉の担当者だったようです。和平交渉はアメリカとエジプトも支援していたはずですから、両国が怒るのも無理ありません。

和平交渉を自らつぶすというのは、テロに対する報復とは訳が違います。アメリカ国務省に対する挑戦です。退任予定のクリントン国務長官にとっては顔に泥を塗られたことになります。

このような作戦がネタニヤフ首相の一存で実行されたとは思えません。米軍の高いレベルでの判断があったと思います。端的に言えば、米軍トップ(ネオコン・グループ)はオバマ=クリントンをなめていたのではないでしょうか。その背景には大統領選挙における軍産複合体の共和党シフトがあり、オバマ憎しの気分が昂揚していたのかもしれません。

しかしクリントンを怒らせたのはちょっとまずかったと思います。彼女は停戦を仕切ったにもかかわらず、この停戦がエジプトの主導の下に実現したと強調しています。これはネタニヤフに対する強烈な当てこすりでしょう。

国務省にも国防総省にも、それなりの縄張りがあります。当選早々のオバマに、先制パンチを食らわしたつもりだったのでしょうが、民主党の主流派や外交官僚に恥をかかせ、敵対心を抱かせることになりかねません。だからあせって、ネタニヤフに全面屈服を強いたというところでしょうか。


世の中のこと、歴史上のすべての出来事をロスチャイルドとロックフェラーの仕業とみなす「ユダヤ本」に付き合うつもりはないが、今度の停戦合意に関しては、やはりアメリカのユダヤ人社会の動向を見ておかなければならないだろう。

ちょっと調べてみての感想なので、これから変更するかもしれないが…

まず、ユダヤ人社会といってもけっして一枚岩ではないということである。一般論としては、当然だが、パレスチナ問題についても同様だということだ。もう一つ、ユダヤ人は基本的には社会の中下層を形成しているのである。ユダヤ人=ロスチャイルドのような考えは、在日がみんなパチンコ王だと思うくらいばかげたことである。

ユダヤ人のマジョリティーは、都市に住み、WASPと近縁の生活を送り近縁の考えを持つ。しかしその生活が実現したのは高々50年前のことである。彼らは一般的にリベラルであり、シオニズムに関しても批判的である。しかし必要悪と見ている側面もある。

前回大統領選では、白人系ユダヤ人の83%がオバマを支持した。彼のミドルネームがムスリムのそれであってもである。

去年、オバマが67年の境界を国境確定交渉の基礎とすると提唱したとき、米国最大のユダヤ人団体である名誉毀損防止同盟 (ADL)は、これに対して肯定的な評価を行った。とにかく二国間交渉による境界確定というゴールにむけて、その土台を構築すること、そのための譲歩は認めなければならないという考えである。アメリカ・ユダヤ人委員会(AJC)もほぼこのラインと思われる。

選挙戦終盤に行われたユダヤ人への世論調査では、ロムニー候補が57%で、オバマ大統領の22%を大きく上回った。もっともこれはテルアビブ大学が行った調査なので、相当バイアスがかかっている可能性はある。

シオニズムを声高に主張するのは、遅れてきたユダヤ人であり、人種的には中東系であったりアフリカ系であったりする。彼らはリベラルでもなくインテレクチュアルでもない。イスラエル政府を背景とするアメリカ・シオニスト組織(ZOA)は、オバマを「かつてなくユダヤ人に敵対的な大統領」と非難する。彼らが多く住むフロリダでは、共和党への鞍替えの動きも出ている。


ユダヤ人内の富裕層は、アメリカの権力の中枢を成す軍産複合体に、何らかの形でかかわっている。一般的な政治信条はユダヤ人マジョリティーと共通するものを持っているが、軍産複合体の利害が絡む問題に関しては徹底的に党派性を発揮する。故国なき民にとっては、彼が何をしているかが、彼が誰であるかを規定するのである。

したがって、これまでのアメリカのパレスチナ政策に影響を与えてきたのがユダヤ系ロビーだとするのは正確でない可能性がある。むしろ軍産複合体や石油メジャーを通じての圧力が規定的なのではないかと思う。

テレビでガザの停戦合意が実現したと聞いたときは、「あれっ」と思った。
過去の経験から言えば、イスラエルは必ずやると思っていたからだ。

①とくに「イラン攻撃をやる、やる」といいながらやれないでいることで、国内の強硬派には相当フラストレーションがたまっている。次の選挙を控え、ガス抜きという観点から見ても、ネタニヤフはやらざるを得ないだろうと思っていた。
②もうひとつは、シリアの内戦状態がイスラエルにも不安をもたらしていることから、近隣諸国へのイスラエルの軍事的プレゼンスを改めて確認させるためにも、「ガザを叩いて置いて損はない」という発想になるのが自然だろう。
③ハマスも、かつてない規模のロケット弾を打ち込むほどに戦闘力が強化されており、これを放置することは重大な禍根を残すことにつながりかねない。

軍事的には、やらない理由は一つもない。それが出来なかった。その意味するところはかなり重大である。

少しづつ情報が流れてきている。まず赤旗の小泉大介特派員の報告から。(それにしても大ちゃんいつまで居るつもりなんだろう)

まず注目するのは今回の調停役がエジプト一国だといういうこと。しかもその態度は、たんなる中立的介入ではないということである。

モルシ政権は、空爆開始2日後の16日にカンディール首相をガザに派遣し、「イスラエルの侵攻を停止させるために全力を尽くす」と表明しました。


しかもその介入を、ほかならぬアメリカ政府が支援したということである。

エジプト政府はハマス最高幹部とイスラエル高官との個別の停戦協議を主催。国連の潘基文事務総長が後押ししたことに加え、イスラエルの最大の後ろ盾である米国のクリントン国務長官も協力する状況が生まれました。


アメリカはたんにモルシにまる投げしたというわけではない。21日にはオバマがモルシに電話し、ガザの状況改善に向け協力することで合意している。アメリカはモルシ調停に積極的にかかわっていたのである。

オバマはモルシに謝意を表明するとともに、両首脳が悪化するガザの状況の改善に向け協力することの重要性を指摘しました。

さらに、決定的な要素ではないが、もう一つのムスリムの強国トルコも、明確にハマス支持の立場をとったことである。

かつてイスラエルと「戦略的関係」にあったトルコのダウトオール外相も、アラブ代表団とともにガザ入りし、犠牲者遺族を見舞いました。

このような地政学的なバランスの変化がどうして生まれたのか。

小泉特派員は中東地域の諸国の変化こそが最大のポイントだとしています。そしてその象徴的なメッセージを紹介しています。

チュニジアのアブデッサラーム外相は停戦合意直前にガザ入りし、「イスラエルは状況が変わったことを理解しなければならない。イスラエルはもはや自由に行動することなど出来ない」と語りました。

その意味するものの内容は不明ですが、発言にはそれなりの裏づけがあってのものであり、それが停戦合意で明らかになったということでしょう。

停戦合意の骨子は次の通り(時事)
①すべての敵対行動の停止
②移動制限の緩和(封鎖の全面解除ではなく、実施も即時ではない)
③問題がある場合は、自体を調整するために、合意を発案したエジプトに通知。

ということで、最後の一文が非常に利いている。これではイスラエルにとっては全面敗北に近い。ガザの民衆が大喜びするわけである。

今回の出来事ではっきりしたのは、イスラエルという国は「虎の威を借る狐」であり、アメリカの支援がなければまったく無能力だということである。

しかしこれでイスラエルが治まるとは到底思えない。問題はこれからである。オバマがユダヤ系圧力団体の攻勢をどう受け止めるかが見ものである。


梅津和郎さんの「中近東現代史」から抜書き。これにネットからのネタをいくつか追加しました。
2019年9月すこし書き込みました。


1839年 イギリスがアデンを占領。さらに隣接する地方の首長国を保護領とした。北イエメンはオスマン・トルコ領として残される。

1918年 トルコからザイド派が分離。イエメン王国として独立。これは北イエメンに相当。アデンを中心とする南部は英領のまま。
 
1958年3月8日 イエメン王国、アラブ連合共和国(エジプト、 シリア)とアラブ連合を結成
。アハマド王はイギリスから南イエメンを取り戻すことをナセルに支援してもらおうと、アラブ連合に加わった。しかしエジプトの影響で北イエメン国内でも民主改革の要求が高まると、61年にアラブ連合を脱退した。

1962年9月26日 軍事クーデターにより王制が打倒され、イエメン・ アラブ共和国が成立する。王政派はサウジアラビアに亡命し内戦を継続する。


1963年5月 ナセル主義を掲げる「アラブ民族主義者運動」(ANM)の南イエーメン支部、ほかの8団体と連合し「占領下南イエーメン民族解放戦線」(NLF)を結成。NLF書記長にはカタン・アル・シャビが就任。エジプトとのパイプ役を務める。
人民社会党(アル・アスナージェ書記長)など社会主義者はこの運動に加わらず。平和的手段による独立の道を追求する。

10月 民族解放戦線、「革命宣言」を発表し武装闘争に入る。エジプトがこれを支援。奥地の首長勢力はイギリスと同盟し、傭兵部隊をもって解放戦線と対決する。

63年 首都アデンでは、共産主義者の都市ゲリラ「人民民主同盟」(PDU)が反英闘争を展開。NLFとは一線を画す。

1965年6月 民族解放戦線、北イエーメンのタイズで第1回全国大会を開催。エジプトをアラブ民族主義の指導者として賞賛する。また土着ブルジョアジーの進歩的役割を否定し、民族革命を社会主義革命に転換する戦略を打ち出す。「民族憲章」では、職業的軍隊に代え、人民革命軍の創設をうたう。

1966年1月 NLFの一部指導者と人民社会党が連合。「占領下南イエーメン解放戦線」(FLLOSY)を結成する。

10月 エジプト政府、カイロ駐在のNLF書記長カタン・アル・シャビを拘留。現地のNLFはこれに代わる執行部を選出。エジプトおよびANMとの絶縁を宣言する。

1967年11月 NLF、首長勢力との闘争に勝利。イギリス軍は南イエーメンから撤退。NLFは「南イエメン人民共和国」の成立を宣言。カタン・アル・シャビが大統領に就任。

1970年 憲法で「マルクス・レーニン主義に基づく社会主義国家」と規定して、国名をイエメ ン人民民主共和国と改称。南イエメンはソ連の衛星国となり、、アデン港はソ連海軍の拠点と なった。

1970年 北イエメン内戦が終結。スンニ派主導の軍事政権が成立する。

1978年 NLFが他の政党を吸収してイエメン社会党を結成。イスマイルが書記長に就任し一党独裁体制を強化する。

1986年 イスマイル書記長、病気療養のため辞任し、ソ連に渡る。これに代わったナシル書記長は、北イエメンやサウジアラビアとの関係改善を図る。これを不満とするイスマイル書記長が帰国し、内戦となる。1万人の死者と6万人の難民を出す激戦の後、ナシルは北イエメンへ逃亡。イスマイルも「失踪」して、新たに書記長となったベイドが権力を握った。

1990年 南北イエメンは統一し、北のサレハ大統領が統一イエメンの大統領になり、南のイエメン社会党のビード書記長が副大統領になった。

1994年5月 ビード副大統領が南イエメンの再独立を宣言し、南北イエメン内戦となる。まもなく南は敗北し追い込まれる。

なお、ネットでは The Struggle for South Yemen という本が Google Books で抜粋で読めます。

ただし、あまりの大部で手が出ません。興味のある方はどうぞ。



 読書ノート「エジプト資本主義論争の構図と背景」

パレスチナ共産党の研究と同じく、アジア経済研究所の「東アラブ社会変容の構図」からの抜書き年表である。

長沢栄治教授が執筆している。

20年 エジプト共産党が創立される。初期の指導部メンバーの多くをユダヤ人が占めた。

共産党員2千人のうち、8~9割は外国人、ユダヤ教徒、マロン派、アルメニア人、ギリシャ人だった。

22年2月 エジプト王国が成立。実体としてはイギリスの植民地統制が続く。

40年 ストライキ全面禁止令が発せられる。弾圧の中でエジプト共産党は解体。

42年 エジプト国内の共産主義グループが、「エジプト民族解放運動」(EMLN)と「イスクラ」に再編される。

EMLNの指導者はクリエル、イスクラはシュワルツ、いずれもエジプト人ユダヤ教徒だった。EMLNは党のエジプト化と大衆化を主張。イスクラ系はこれをショーヴィニズムだと批判したという。

43年 エジプトとソ連が国交を樹立。

46年 「労働者・学生民族主義委員会」が結成される。背景に小ブル・知識人層の急進化があったとされる。カイロ大学出身で、英国留学の経験もあるシャーフィイーが指導。

47年5月 EMLNとイスクラが合併。「民主民族解放運動」(ハディトゥー)を結成。

47年 もう一つの共産主義グループ「新しい夜明」が、エジプト人を中核に結成される。極端な秘密主義をとり、名称を次々に変更。繊維労働者を中心に労働運動に影響力を広げる。

48年5月 第一次中東戦争が始まる。戒厳令が施行され、左翼運動は徹底して弾圧される。これまでのユダヤ教徒指導者クリエルとシュワルツは国外に追放され、ハディトゥーは分裂に追い込まれる。

クリエルはソ連に追随してイスラエル承認に賛成する。これに対しシャーフィイーの率いる「革命ブロック」は、反シオニズムの立場を貫く。

49年 フランス留学生サブリ・アブドラ、ファード・モルシを中心にエジプト共産党(旗派)が結成される。国内指導部の壊滅を受け“国際共産主義運動の指示により”結成したとされる。

50年5月 戒厳令が解除される。ハディトゥ-各派、労働者前衛(新しい夜明の後身)が活動を展開。

50年 ハディトゥーは軍内の自由将校団との接触を図る。軍内共産党員はイスクラ派に属し、イスラエル承認路線を批判。

52年1月 カイロで焼き討ち暴動事件が起こる。全国で反英闘争が激化。

52年7月 自由将校団による軍事クーデター。ナギーブ将軍を大統領に担ぐ。

8月13日 カフル・ダッワール事件が発生。綿工業都市で労働組合のデモ隊と警官が衝突し、死者を出す。軍事政権はナギーブを冠する上からの労働運動を組織。既存の労働運動を弾圧。指導者2人を処刑する。

8月 ハディトゥ-は政権支持を堅持するが、共産党旗派はファシスト、労働者前衛は軍事独裁と規定し、自由将校団政権を公然と非難する。

52年末 軍事政権は米国との接近を図る。ハディトゥーも政権批判を開始。

53年1月 軍事政権、ムスリム同胞団を除いた旧政党を解体、指導部を一斉逮捕。軍内のハディトゥー支部も解散させられる。

11月 ハディトゥーの呼びかけにムスリム同胞団とワフド党左派が応え、民族民主戦線を結成。軍事政権との対決を試みるが失敗に終わる。

11月 分裂していたハディトゥー5組織が統一し統一共産党を結成。クーデター支持を自己批判し、クーデターの背部にアメリカ帝国主義が存在すると非難。

53年 農村部で共産党への弾圧が強化される。各地でナセルの土地改革に抵抗して流血の衝突。

54年2月 ナセル、ナギーブ打倒の動きを見せる。ムスリム同胞団がナギーブ支持の大デモを展開したため挫折。

2月 ナギーブ政権の主導権を握ったムスリム同胞団とナセルとの矛盾が拡大。ナセルは獄中のハディトゥー指導部との交渉を開始する。ハディトゥー幹部は交渉に応じる姿勢を見せる。

4月 ナセルが、同胞団の抵抗を推し切り首相に就任。

10月 ムスリム同胞団によるナセル暗殺未遂事件発生。

11.14 ナセルはナギーヴ大統領を解任。みずから革命指導評議会議長に就任、ムスリム同胞団に大弾圧を加える。

55年4月 ナセル、バンドン会議に出席。この後積極外交を展開。ハディトゥー獄中指導部はこれを全面支持。

5月 地下の統一共産党、獄中指導部を批判。「人民の支持を得ない孤立した軍事独裁政権は、帝国主義の圧力に屈した」と非難する。

8月 イスラエルがガザ駐在のエジプト軍を撃破。英米両国はナセルの軍事援助要請を拒否。

9月 ナセルは社会主義国チェコとの武器取引に踏み切る。ただし国内での共産主義者への弾圧は継続。

56年1月 新憲法が公布される。ナセルが大統領に就任。これに伴い共産主義者の釈放が始まる。

3月 統一共産党、ナセル政権との和解の方向を打ち出す。

4月 統一共産党幹部ムラード、「52年革命は人民民主革命であり、封建的搾取を廃絶した。現段階においては反帝国主義の課題が提起されており、ナセル政権を頂点とする民主民族戦線を形成しなければならない」とする。

7月 アメリカ、アスワン・ハイダム建設への融資を撤回。ナセルは報復措置としてスエズ運河国有化を宣言。

9月 スエズ戦争が始まる。共産党員はパルチザン闘争に積極的に参加。

57年5月 統一共産党、ナセル政権の5年間を総括。「52年7月から53年1月までは人民の運動と米帝国主義の抗争の時代であり、いったん反動が勝利し、ナセルは人民から離反した。しかしその後の情勢変化の中で、ナセルは民族自立の特徴を持つ新たな段階に進んだ」として、ナセルおよび自らを合理化。

7月 統一共産党にエジプト共産党旗派が合流。

57年 労働者前衛、「労働者・農民エジプト共産党」の名称で公然活動を開始。

58年1月 統一共産党に労農共産党も合流。合同会議ではユダヤ教徒が幹部会から排除され、クリエルを中心とするフランス亡命組織も廃止される。のちにクリエルは除名処分を受ける。

58年2月 アラブ統一をめざすアラブ連合か結成される。シリアとエジプトが合同。

アラブ民族主義と共産党: 共産党は当初、「西欧諸国のような資本主義的発展の基盤が欠如していること、そのイデオロギーが“狂信的な宗教的性格”を帯びていること」から警戒していた。のちにナセルべったりになってからは無条件に礼賛。

7月 イラクでカシムを中心とする民族急進派が政権を握る。イラクとシリアの共産党はこれを支持し、ナセルらのアラブ民族主義と対決。

7月 統一共産党から親イラク派が分裂。「党集団」派を結成。「ナセル革命は独占資本の一手段に過ぎない」とし対決姿勢を明らかにする。

12月 ナセル、ポートサイドでイラクと共産主義を激しく非難する演説。

59年1月 ナセル政権、共産党など左翼勢力に大弾圧を加える。多くの活動家が獄中で拷問死を遂げる。

59年3月 モスル事件。

59年9月 獄中の共産党幹部シャーフィイー、ナセルに対し「アラブ民族主義戦線の統一」を訴える書簡を送る。シャーフィイーは翌年6月に拷問により殺害される。

60年 ナセル、社会主義化を推進。銀行国有化。さらに翌年には主要企業が国有化される。

国有化企業の多くは民族的・宗教的マイノリティーの所有するものだったという。社会主義というより民族的、宗教的な過程であった。

61年 第二次農地改革が実施される。党主流派はふたたびナセルへのすりより姿勢。党集団派は国有化は社会主義を意味するものではないと批判。

61年 「国民憲章」にもとづく新たな単一政治組織「民族連合」が発足。

63年 党主流派、アラブ社会主義連合の政治機関である「社会主義者前衛」への参加を決定。ソ連の指示を受けた旧CPE、労農党系のメンバーも加わる。

64年4月 ナセル政権、フルシチョフの訪問をまえに共産党員600名を釈放。

65年3月 エジプト共産党、自主的解党宣言を発表し、ナセル政権与党に合流する。

4月 党集団派も解党声明。解党に反対する残党が、共産主義前衛の名の下に地下活動を継続。

66年6月 ナセル、「封建制の残滓」に対する攻撃を開始すると演説。農村の有力家族支配の復活阻止を訴える。

67年6月 第三次中東戦争。エジプトは惨敗し、軍内にナセルの社会主義路線への批判が強まる。

70年 ナセルが死亡。サダトが後継者となる。

71年5月 サダトによる「修正」革命。「社会主義者前衛」は反サダト派の牙城と目され解体される。このとき元共産党員500~800名が逮捕される。

73年 アラブ社会主義連合への捜索。左派メンバー90名が追放される。

76年11月 「アラブ社会主義連合」による単一政党体制が廃止され、「エジプト型複数主義」が導入される。革命前からの保守勢力「新ワフド党」、社会主義労働党、ムスリム同胞団の活動が容認される。「アラブ社会主義連合」は解体される。連合内主流派は「統一進歩国民連合」の結成に動く。

78年5月 クリエル、パリで暗殺される。

79年 キャンプ・デービッド合意に基づき、イスラエルとの国交が回復される。

81年10月 サダト大統領が暗殺される。ムバラクが後継者となる。非常事態を発令、この非常事態はムバラク追放まで続く。

85年 サミル・アミンが「アラブ社会の危機」を発表。ムバラク体制に取り込まれた国内左派を厳しく批判。内部的社会変革の優先を説く。

87年 総選挙。合法左派政党「統一進歩国民連合」は得票2.2%に激減し議席を失う。これに対しムスリム同胞団は35議席を獲得。政治的影響力を強める。

 

アジア経済研究所の研究叢書392号で「東アラブ社会変容の構図」という本がある。1990年の発行だからかなり古い。まだ消費税3%の時代である。まだアジ研の住所が市谷になっている。
おかげで、というのもなんだが、4400円の本がただで読める。

長沢栄治先生の編集で、何人かの共著者が執筆したものである。大変浩瀚なもので、読むのに一苦労だが、そのなかでとりわけ興味深いのが、

第一部 委任統治期パレスチナにおける民族問題の展開(臼杵陽)
および
第二部 エジプト資本主義論争の構図と背景(長沢栄治)
である。

第一部は副題が パレスチナ共産党に見る「民族」の位相
であり、パレスチナ共産党を1920年の党創立から43年の最終的分裂に至るまで時系列で追いながら、きわめて特異な状況下でのきわめて特異な路線と、その背景を明らかにしている。
読んでいると、彼らが担わされた課題のあまりの重さに、つい同情してしまう。
逆に言えば、さまざまな弱点はあるにせよ、よくぞここまで国際主義(昔風に言えばレーニン主義)を貫き通せたものだと感動する。

事実のあまりの重さに、いまはコメントすべき言葉が見当たらない。すこしほかの資料も追加した上で、何らかの紹介をして見たい。

とりあえずは、パレスチナ(イスラエル)年表に突っ込んだので、そちらを参照していただきたい。

東大の長沢教授が赤旗に登場し、インタビューを行っている。テーマは「エジプト社会での軍の役割」というもの。
話の中身は大きく言って三つ、ひとつはエジプト軍の過去の栄光と堕落という流れの評価。二つ目はムバラク政権からの離反の事情、三つ目は、国民抑圧という本質は変わっていないということである。

エジプト軍のプレステッジ
王制を打倒し、英国から独立し、スエズ運河を国有化し、農地改革を行ったナセルとアラブ民族主義の軍である(あったというべきか)ということ。
第二次中東戦争で市民とともに英仏イスラエルの侵略と戦ったこと。
エジプト軍のスティグマ
権力基盤の確立のために政敵(最初は共産党、次いでイスラム指導者)を弾圧し、軍・警察の独裁国家を作ったこと
そのなかで軍が政治・官僚機構の要職を独占し、重要産業部門(家電から食品、電子機器まで)も自らの手に納め、経済も支配するにいたったこと。

2月革命の鍵となったムバラクとの離反
ムバラク一族は新自由主義経済路線を盾に、民営化路線を推進した。これは軍の既得権益の侵害をもたらした。
(私見としては、軍のもうひとつの権益の源はアメリカからの年間13億ドルの援助である。したがってアメリカが民主化支持といえば、それに従わざるを得ない)

軍の現在の路線
基本は既得権益の維持確保を目的とする。革命にはそのために有利と思える範囲では同調し、革命が既得権益を脅かすようになれば、それも押さえつけるというのが戦略である。
(私見としては、軍のもうひとつの目標はイスラエルと事を構えないことにある。ムスリム同胞団との取引は、そういうアメリカの圧力を受けたものだろう)

軍の二面性は、ナセル主義の二面性と並んでエジプト革命を読み解く鍵であることが分かる。
同時に、長沢教授がアメリカのアの字も触れていないことは、奇異の念を抱かせる。

知っている人には「いまさら」の常識なのだろうが、イランのアサド政権への武器輸出が赤旗で報道された。

これは国連安保理の専門家パネルが年次報告(28日発表)の中で明らかにしたもの。

①トルコ当局は昨年3月、イランからシリアに向かう貨物機からカラシニコフ60丁、機関銃14丁、砲弾箱19個を押収した。
②トルコ当局は昨年2月、シリア国境でイランから来たトラックを検問。中から火薬890キロと、高性能爆薬1700キロなどを発見した。

専門家パネルはイランの違法な武器転移を非難している。

というもの。政治・外交との文脈で読めば、いかにもありそうな話だ。

ちょっと腑に落ちないのは、1年半も前の話だということ。シリア軍が市民の大量虐殺に踏み切る以前の話である。しかもその量たるや、軍事援助というにはあまりにも微々たるものだ。

ここ数ヶ月を見れば、トルコ国境から続々と武器が運び入れられており、その指揮を執るのがCIAであることは半ば公然の秘密となっている。うがった見方をすれば、これを相殺するための情報操作ともとれる。

トルコ機撃墜事件もそうだ。忘れてならないのは、トルコはイスラムの一角という振りをしているが、本質的にはNATOの一員であり、アメリカの同盟国であるということだ。

①半世紀にわたるロシアの地中海進出の拠点
②イランのイスラエルへの軍事圧力の拠点
としてのシリアは、かつてのブッシュ政権にとってはイラクの次の攻撃目標だった。「民主」の大義の下にこれをつぶす事ができれば、アメリカにとって望外の得点だろう。

逆に、アサドに対して生殺与奪の力を握りながら、情報収集能力の絶望的な欠如から、なんら成すことなく、ことここに至ったロシア外交の権威は、完膚なきまでに地に墜ちた。

元はと言えばアサドの側に非があるにせよ、反アサド軍万歳ともならない。
もはや行き着くべきところに行くしかないという気もする。

Al Jazeera May 25, 2012

Hamdeen Sabahi

サバヒはムバラク時代に二期にわたり国会議員を勤めた。そしてその間に17回投獄されている。

彼はナイル・デルタ地帯のKafr el-Sheikh 出身のカリスマ的な民衆政治家である。

大統領選挙の候補者の中で、彼は多くのアナリストから度外視されてきた。これまでのエジプト政治の常識から見れば、彼は泡沫候補だった。彼はイスラム主義者でもなく有力な政党組織も持ち合わせていなかった。かといって世俗主義者にアピールできるような革命的経歴を持ち合わせているわけでもなかった。

著名な評論家や研究者はこう語った。「サバヒは大都市以外に組織を持っていない。確信を持って言えるのは、サバヒは決選投票に進むことはないということだけだ」

サバヒへのうねり

しかしサバヒへのうねりはこの数週間というもの、カイロやアレキサンドリアの街でひしひしと感じられた。アルジャジーラのレポーターは、あちこちで彼の名が語られるのを耳にした。

もし第一選択でないにせよ、どちらかといえば好感を持って語られていた。市民は体制派の復活も、厳格で保守的なムスリム同胞団の政治も望んでいなかった。

50歳のキリスト教徒の商店主は記者にこう語った。「仲間はみんなシャフィクに投票する。元空軍将校だから社会の治安をもたらしてくれるだろうと思う。サバヒもいいけど力はあるのかな?」

議会選挙でサラフィとムスリム同胞団が勝ったあと、エジプトは、ひどく保守的で宗教的な特徴を示すようになった。

サバヒのうねりは、ナセリストの訴えが未だ人々の中に、政治の底流に根付いていることを示している。

メディアの報道によれば、彼は重要な選挙区で一位あるいは仁位を占めている。エジプト第二の街アレキサンドリアではトップだ。スエズ市では第二位。そして同胞団とムーサの強力な地盤と考えられていたデルタ地帯のいくつかの町でも第2位を確保している。たとえばDamietta, Gharbiya and Dakhileya だ。

サバヒの政治的経歴

サバヒの政治的経歴は1970年代に始まる。彼はカイロ大学でマスコミ論を学び、学生連合に加わった。彼は、1977年、サダト大統領がカイロ大学を訪れた際に、経済「改革」を批判して対決した行動だった。それはテレビでも報道された。

1990年代、サバヒは扇動家であり政治的組織者だった。彼は95年、初めて国会議員に立候補したが敗れた。彼の支持者によれば、それは当時お定まりの権力による弾圧のためだった。

政府は、サバヒの訴えがあまりにも強く成長したと判断したとき、投票所を閉鎖した。そして暴力団を送り挑発した。サバヒ支持者の語るところによると、ある投票所では、すでに中にいた有権者を閉じ込めたまま閉鎖した。警察の放った催涙弾は二人の女性を死に至らしめた。

彼のもっとも有名な体制との対決は1997年にやってきた。ムバラクと国家民主党は一つの法案を成立させた。それは貸付期限の切れた農民を地主が排除することを容易にする法律だった。

市民的抵抗の呼びかけ

サバヒは法案反対の先頭に立ち、人々に市民的抵抗を呼びかけた。そして逮捕された。

しかしそのときすでに彼は著名人になっていた。彼は2000年と2005年の選挙で国会議員に選出されている。彼はジャーナリズム・センター「The Rising」を創立した。そして彼のような独立した人物でも大統領選挙に出馬できるよう選挙法を改正しようと呼びかけた。

彼はまたKifayaなどと結びつきを強めた。Kifayaは2003年米国のイラク侵攻に抗議して起きた運動で、カイロ始まって以来の大規模なデモンストレーションを展開した。その抗議はアメリカを支持するムバラク政権にも向けられていた。

2011年1月

2011年1月、革命が始まった。サバヒはストリートに出現した。ムバラクが打倒されたあと、彼は大統領選に出馬すると宣言した。

サバヒの選挙キャンペーンは彼の人好きな性格を反映している。彼は、笑顔のポスターを作った唯一の候補だ。そしてそのスローガンは「我々のうちの一人」だ。これは民衆の気分に向けたものだ。

参考までにほかの候補のスローガン: 同胞団は「人民の意志はルネッサンス」、ムーサは「エジプトはすべてのエジプト人の努力を求める」、シャフィクは「行ないだ、言葉ではない」

サバヒはエジプトのジャーナリズム、メディア社会から広範な支持を取り付けた。彼の選挙本部は人気監督 Khaled Youssef のオフィスの中にある。

選挙本部は、無計画に活動した。それはわずかの資金で動いた。広告板と新聞広告スペースを買ってくれる資金提供者がそれを支えた。

サバヒは選挙遊説の最後にカイロの Matareyya 地区に入った。集会参加者は300人ほどだった。

テントの中に椅子が並べられた。テントの生地はラマダン色の模様だった。吊り下げられた白熱灯は、大統領選挙の集会というよりは、村のちょっとした宴会という趣だった。

サバヒのメディアとの関係が最終盤の猛烈な追い上げに貢献したかどうかは、今後の議論であろう。

しかし国営メディアによる報道はサバヒに傾いていたとはいえない。それはどんなに同情的に見ても、どんなに予断なく見ても、シャフィクとムーサをプロモートしていたとしか思えない。

いずれにせよ、投票日までのあいだに彼は急速に国民的議論の対象者の地位にまで駆け上った。

タクシードライバー、年金生活者から教養があるコンサルタントまで、正義と貧しい者への彼の言及は、共感を呼んだ。


これは投票直後に書かれた記事で、この時点では最終結果は判明していない、という超速報記事である。

赤旗の報道ではカイロでも首位を確保、ぶっちぎりの勝利だったという。

この記事で、民間メディアが相当がんばったことが分かる。インターネットだけでなくもっと大規模に左派の進出が進んでおり、それがエジプトの世論を突き動かすような影響力を発揮しつつある、という印象だ。

実は英語版ウィキペディアにははるかに浩瀚な概説が載っているのだが、とてもそこまでは手が出せなかった。誰かやってください。


「アラブの春」を持ち上げようと思っても、なかなかそういう材料が見当たらない。

5月のエジプト大統領選挙の第1回投票で1位となったのは、ムスリム同胞団の候補。第仁位はムバラク政権の元首相。この二人が今月16日の決選投票で対決する。
とここまでは知っている。それはきわめて味気ない情報だ。革命の主役となった民衆と若者はどこへ行ったのだ、と思っていた。

結局それは、イスラム原理主義への回帰というかたちで収斂していくのか、部族間対立の混迷に陥っていくのか、あの民主化をもとめ命懸けで戦った若者たちは、歴史のエピソードとして消えていくのか、という思いが断ち切れない。
パーレビ王政を打倒し、アメリカ帝国主義を駆逐したイラン、ソ連の覇権主義を撃破したアフガンのムジャヒディーンたち、それが時代遅れの原理主義に支配され、アルカイーダを生み出し、小覇権主義に明け暮れるという経過はもう見たくはない。ましてそれを「異なる文明の共存」などと澄ましこむような態度もとりたくない。

そう思っていたところに、カイロ駐在の小泉特派員が耳寄りな情報を提供してくれた。以下はその要旨。

第一回投票の特徴は有力候補の得票の意外な伸び悩みだった。とくにムスリム同胞団の落ち込みが顕著であった。昨年末の人民議会選挙でイスラム同胞団は議席の47%を獲得したが、今回の得票率は25%にとどまった。

ムスリム同胞団は人民議会での圧勝後、「大統領権力はもとめない」との約束を反故にしました。また新憲法制定委員会を、シャリアによる統治を目指す勢力で独占しようとするなど「権力欲」をあらわにしました。このことが支持急落を招きました。

もう一つの、より重大な特徴は、第三位サバヒ候補の善戦だった。たしか投票前は、「よりまし」候補として穏健イスラム主義者やアラブ連盟のムーサ前事務局長の名が上げられていたはずだが、サバヒはそれらを蹴飛ばして第三の極の代表にのし上がったことになる。

特にサバヒ候補の場合、「革命」の主要舞台となった首都カイロと第二の都市アレクサンドリアでは、2位に10ポイント前後の差をつける圧勝の一位でした。

小泉記者はサバヒを「革命の前進の必要性を正面から訴えた左派・ナセル主義者」と性格づけている。

小泉記者がインタビューした現地の研究者は「今回の選挙における多数派は革命は勢力でした。もし革命派が候補を統一していれば選挙結果は違ったものとなっていたでしょう」と悔しがっている。たしかに穏健イスラム主義者候補とムーサの票を足すと49%になり圧勝だ。


しかしそうではないだろう。統一しなくて良かったのだろうと思う。統一していればサバヒの躍進はなかっただろうし、革新票の掘り起こしも出来なかっただろう。

明日に向けての第一回投票の意義は、誰が三位になるかにあったのだといえる。旧勢力代表やさらに古めかしい宗教政党に明日はない。明日を誰を担うか、それを選んだのが今回の選挙ではないか。

小泉記者は仕事柄、次の決選投票がどうなるかに興味が行っているようだが、私にはむしろ第一回投票の意義を噛み締めることのほうが面白い。

とくに「左派・ナセリスト」という肩書きにきわめて興味深さを感じる。というのも以前から、アラブの発展のためには、アラブ民族主義の再構築こそが最も基本となる路線ではないかと感じていたからである。

いまアラブの春で攻撃対象となっているのは、いずれもかつてアラブ民族主義をうたった政権のなれの果てである。だから民衆のあいだには「反アラブ民族主義」の雰囲気も強いと思っていただけに、「左派・ナセリスト」の躍進は意外だ。

堕落したナセル主義は、野田政権がマニフェストをなげうって財界にすりより、反マニフェスト路線を突き進んでいるのと似たところがある。(もちろん民主党マニフェストを全面是とするものではないが)

だからといって、国民の圧倒的多数が賛成したマニフェスト路線を野田政権とともにどぶに投げ込まなくてはならないのか。それとも野田首相らを排除し、より国民の立場に立つ、いわば“新マニフェスト路線”の方向に進んでいくのか、そういう提起がいまエジプトでも投げかけられているのではないか。

ちょっと言い過ぎだとは思うが、少し情報をあたってみたい。


Trail Dog 0-1 sniffing around 

http://www.site-shara.net/traildog/

という、恐ろしくマニアックなサイトがあってアフガン問題をつぶさにフォローしている。とても読みきれないが、キアニを中心にパキスタンの大体の流れを追ってみる。


07年ムシャラフが大統領に選出された。このときムシャラフはキアニを後任の参謀長に指名している。

これはアメリカとの関連が強いキアニをすえることで、アメリカからの圧力を避けるという思惑もあったようだ。

キアニは就任前から国内のアルカイダ掃討作戦を仕切っていたが、就任後はアメリカの意を受け、作戦を強化した。

以下は07年10月、キアニがムシャラフ政権の下で軍参謀長(それまでムシャラフが兼任)に就任したときの記事。http://okigunnji.com/002/post_127.html

キヤニ大将は、タリバーン、アルカーイダとパキスタンの戦いの最前線に立ち、政治面でムシャラフ大統領を補佐してきた方です。八十年代と九十年代のブット政権では、二度にわたり大統領の副軍事補佐官を務めています。
今回の大統領選挙に当たっても、ブット女史といろいろ協議したようです。
「今回の選挙でムシャラフ氏が当選した最大の要因はキアニ中将の存在にある」という人もいます。

北西辺境州におけるタリバーン・アルカーイダ掃討作戦を通じて米国とパキスタンの接点となってきた方でもあり、米とパキスタンの良好な関係を作ってきたキーマンでもあります。


しかし当初は作戦が成功したように見えたものの、やがて戦闘はこう着状態に入り、出費は重くのしかかってきた。

一方では、パキスタン軍が多国籍軍の代理戦争を押し付けられた形になり、一方ではその戦争を支援するというかたちで多国籍軍の攻撃参加が押し付けられた。


08年9月、米国のマイケル・マレン統合参謀本部議長は、パキスタン領内の武装勢力の潜伏地域を攻撃する新戦略を明らかにした。

これはパキスタンの主権に対するあからさまな侵犯だ。キアニは多国籍軍の越境攻撃を非難し、「主権は死守されなければならない」と宣言した。

そもそも何のための戦争かといえば、アルカイダを駆逐するためだ。タリバンはアルカイダをかくまったというだけの話。気に入らないといっても抹殺する理由はない。

そこで、キアニはタリバンとアフガン政府の和平を実現することで、アルカイダの孤立を図ろうとした。

10年の6月、キアニはアフガンのカルザイ大統領と会談した。そして、タリバンの有力な一派で、“長い間パキスタンの盟友だった”ハッカーニの組織を政府内に取り込むように説得している。ハッカーニはアルカイダとの関係を断つ準備ができているとも語った。

キアニは同時にアメリカにもタリバンとの和解を持ちかけた。これはブッシュからオバマへの交代が和平の活発化に結びつくことを期待してのものだった。

しかし当初、提案を歓迎するかのようなポーズを示したオバマ政権に対し、米軍制服組が強烈に逆ねじを食わせた。

たしかにタリバン穏健派などという天使のような集団が存在する筈はない。強引に「天使」に仕立て上げようというだけの話だ。


11年9月、「天使」たちがしびれを切らして行動を起こした。ハッカニ・グループがカブールの米国大使館などをロケット弾で攻撃したのだ。

米国は激怒した。ムンター駐パキスタン大使は、「ハッカニグループとパキスタン政府との関係についての証拠がある」と吼えた。

マレン統合参謀本部議長は議会で、「パキスタン軍の情報機関ISIがハッカニを支援している」と証言した。米議会では、対パキスタン援助の全面停止論も持ち出された。

キアニは、「パキスタンがハッカニ・グループと関係があるとの発言は、事実に基づいておらず、とても残念」としらを切った。


アメリカの怖いのは、ただちに行動に移すことだ。

同じ9月には、ザルダリ政権がパキスタン軍によるクーデター阻止などを米軍首脳に要請したとされるメモ疑惑が発覚した。

クーデター阻止の要請というのは、米軍の侵攻を要請するということだ。

現に、5月に米コマンド部隊がパキスタン領内に侵入し、潜伏中のオサマ・ビン・ラディンを殺害したのは、侵略行為そのものだ。

降下先がキアニの家であったとしても何の不思議もない話である。


キアニはこのメモ疑惑で完全にプッツンした。

状況は破滅的だ。アフガン国境地帯で領土侵犯は日常茶飯事に行われている。それは下記の記事を見ても明らかだ。

パキスタン軍の報道官は、この3年間でNATO軍の攻撃により、パキスタンの兵士72名が死亡し、他250名が負傷したとしています。当局は、「これらの攻撃が故意によるものではなかった、とする言い訳は、一切認めない」と語りました。


今年1月、最高裁のチョードリー長官は、ザルダリ政権の要であるギラニ首相に出廷するよう命じた。最高裁といったってそんな権力があるわけではない。ザルダリ政権を縛りつけるためのキアニの差し金である。

「合法的」な装いをとってはいるものの、事実上のクーデターに近い効果を持っていると見てよい。

その上で、キアニは活発に動き始めた。温家宝首相と北京で会談、温家宝は「パキスタン政府と軍、人民が団結して努力し、困難に打ち勝つことができると信じている」と述べた。

そういう流れの上で、今回の対インド姿勢の転換がある。中国・インドとの関係を強化することで国の主権を守ろうとする路線が見えてきた。

問題は、この路線を国民が支持するか否かだが、過去の選挙で見る限り、軍政への嫌悪感が充満していることも間違いない。

この状況は、一見、パナマのノリエガ政権の末期にも似ている。しかしキアニはもっとまじめな男だと思う。

サイはすでに投げられた。行方を見守ろう。

前回、パキスタンの記事を書いていて気になったのだが、日本で帝国陸軍の参謀総長というのは、偉いといえば偉いのだが、軍のヒエラルキーのトップというわけではない。鈴木壮六とか金谷範三などといわれても分かりません。

それが最高権力者のようにあつかわれているのはなぜか、気になってインターネットをあたってみた。

まずはこの記事

パキスタンに「軍政」への足音高まる 米国も認める「キアニ陸軍参謀長」

これは「選択」という雑誌のネット版。かなり長い記事だが、要約を紹介する。

①タリバンのテロ攻勢は、パキスタン領土内でも激しさを増してきた。

②ザルダリ大統領=ギラーニ首相の文民政権は、発足二年目に入って、早くも危機管理能力が問われはじめた。

③タリバンの勢力拡大に対する現政権の対応が限界に達した場合、軍事政権が登場するシナリオは十分ある。

軍には、国民から強い信頼を集める人物が存在している。アシュファク・キアニ陸軍参謀長だ。

⑤父はパンジャブ州の中級公務員。ムシャラフ前大統領と同様にジョージア州フォートベニングの陸軍歩兵学校に留学、米軍幹部との友好関係を持つ。

⑥軍情報機関(ISI)のトップにいた経験から、タリバンの内情に詳しく、米政府に対する影響力も強い。

キアニ参謀長 がいま注目されているのは、タリバンとの「一時停戦」という判断だ。

①ペシャワールの北八十キロにある北西辺境州(NWFP)の観光地、スワット渓谷では、タリバンの進出が目覚ましい。アルカーイダのテロリストもタリバンに変装して潜入しているとの情報もある。

②軍は監視ポストを設け、戦闘態勢に入ったが、戦況は一向に好転しない。タリバンは政府軍寄りの住民 を拘束し、見せしめのために殺害している。新婚旅行の名所とも言われた観光地は、殺戮の戦場と化してい る。

③地元州政府は昨年二月からタリバンと停戦交渉に入った。軍はこの地域での戦闘を一時見合わせ、州政府の停戦交渉を見守ることとした。

④アフガニスタンでNATO軍部隊が掃討作戦を展開する中、パキスタン側がタリバンとの交渉を始めたのは異例である。交渉の背後にキアニ参謀長がいることは疑いない。

⑤タリバン側は、「シャリア法を認めるなら停戦に応じる」という条件を出し、昨年4月、州政府はこれを受け入れた。ザルダリ大統領もこの協定に署名した。(タリバンの言う“シャリア法”は、 女子の労働や勉学の禁止など、女性の人権を侵害する前近代的なもの)

⑤キアニ参謀長のねらいは、タリバンの穏健派と武闘派を分断し、タリバンの陰に隠れるアルカーイダを「炙り出す」ことにある。オバマ政権もこの作戦を受け入れ、クリントン国務長官が「穏健派タリバン との交渉もありえる」と発言している。


Kiani で引いていたら下記のページがでてきた。

Tuk Tuk - Hadiqa Kiani

ボリウッド映画風の踊りが入って、軽い乗りで、ええです。

この動画のコメントが面白い。

Oh my god.Hadiqa went the bollywood route too. The indianization of Pakistani society is so sad and deplorable

察するに、パキスタン国内では相当の人気歌手のようです。いまだに片意地張っているが、インドの成功を妬んでいる国粋主義者から襲われなければよいが…

率直に言って、南アジアと中東の平和にとってパキスタン軍部の“膨張主義”は重大な障害となってきた。
たしかにイスラム教徒は旧インドにおける被抑圧階層であり、その被害者意識も理解できないではない。
しかしそれが裏返しの“ミニ大国主義”として表現されるのを合理化することは出来ない。結局のところそれが大国の介入を招き、パキスタンの経済発展の遅れをもたらしたのも明らかである。

そのパキスタン軍部に、このところ転換への兆しが見え始めた。まだはっきりとした路線として打ち出されたわけではないが、ふたつの報道にそれが垣間見える。

ひとつはカシミールの山岳地帯での雪崩で駐屯部隊が生き埋めになった事件である。現場を視察に訪れたキアニ参謀総長は、「印パ両軍がこの地域から部隊を撤退させるべきだ。領有権問題は両国のリーダーシップにかかっている」と語った。
これは最近進んでいる首脳間対話を後押しするものだが、軍トップがこれほどはっきりと意思表明したことの意義は大きい。
数年前のムンバイでの決死隊による武装作戦は、印パ政府の宥和を嫌ったパキスタン軍部の差し金であったことが明らかになっている。
この記者会見ではキアニ参謀総長はさらに踏み込んだ発言を行っている。
「人々の福祉に努力を集中させるためには、両国の平和的共存が重要だ。国防支出は減らすほうがいい」


しかしこのことが分かるまでに、軍部はどれだけ国民に負担を強いたことだろうか。かたやインドがBRICSの一員として経済発展を遂げ、国際社会に重みを増しているのに引き換え、パキスタンはいまや最貧国の仲間入り寸前の有様だ。

インドと対抗するために中国に近寄り、その次はアメリカに摺りより、アフガンを影響下に入れようとし、いまは米軍とタリバンの板ばさみにあって身動きが取れなくなっている。



もう一つの報道は、インドの新型長距離ミサイル実験に関する政府発言。

19日、パキスタン外務省報道官は、「インドは実験前に連絡をしてきた」と評価し、特段問題視しない考えを示しました。
インドと過去に三度戦火を交えたパキスタンとしては異例の抑制した反応となりました。

これは軍の了解があってのことだろうが、それにしても信じられないほどの“抑制”振りである。

もちろん、タリバンとの関係というもう一つの大問題を抱えているパキスタン軍部だが、そのうちさらに大きな変更が登場してくるかもしれない。
期待を持って見守って行きたい。

かねてより中東地域への介入に慎重な姿勢を示していたロシア、それなりに一理あるのかとも思っていたが、軍用ジェット機をシリアに売却するに至って、馬脚を現した。

ヤク130というジェット練習機だが、武器を装備すればそのまま戦闘機になる。全36機で総額5億5千万ドルだという。

これが介入でなくてなんなのだろう。その武器がどう使われるかは火を見るより明らかだ。それがビジネスというのなら、死の商人と呼ばれても止むを得まい。

一番の問題は、今後国際問題に関するロシアの発言が、他国から信用されなくなることだろう。これは国家外交にとって致命的なことだ。

ロシアの外務次官が「一方的な石油禁輸はイラン国民や経済に悪影響を与える。こうした動きで国際社会によるイランの核問題解決への努力は水泡に帰する」と述べたそうだ。
同時にイランが地下施設でウラン濃縮を始めたことに対しては「懸念を抱かせる」と不快感を示した。

結局、核兵器が開発される危険と、戦争が起こる危険性を秤にかけて、戦争の危険性のほうを重く見た判断であろう。もちろんそれで核開発を容認するわけではないが、ぎりぎりのところでは、核開発を容認しかねない議論である。

中南米など非同盟諸国のあいだにも、こうした意見は根強い。ことの良し悪しは別として、それは民族の主権にかかわる選択だということになる。

たとえば基本的人権の問題や言論の自由などという課題は、民族・国家の垣根を乗り越えるものではない。これを曖昧にすれば、ユーゴ内乱の二の舞だ。リビアでは明らかにこの基準を超えてしまった。

しかし、こと核の問題については話は別ではないか。もちろん核拡散防止条約は根本的な矛盾を抱えた条約ではあるが、それでもこれ以上核保有国をふやしてはならないという世界の人々の強い決意に支えられて、一つの有効なアイテムとなっている。

核は政治の中で相対化されてはならない。武力をもってこれを粉砕するというのは論外であるにしても、核開発を試みる国と政府に対して国際的なボイコットを訴えることは理にかなっていると思うが。

赤旗のカイロ特派員の記事

①12月28日、イラン海軍のサヤリ司令官は、国営テレビのインタビューで「我
軍にとってホルムズ海峡封鎖はコップ一杯の水を飲むよりも簡単だ」と述べた。
②その前日には、ラヒミ第一副大統領が「制裁を課せば、石油は一滴たりとも海峡を通過できないだろう」と表明している。
③イラン海軍は24日以降、ホルムズ海峡周辺海域で軍事演習を行った。

というのがニュースの柱。

解説では、ホルムズ海峡の重要性について指摘。

世界の海上輸送原油の約4割が通過。日本は同海峡経由の原油に消費量の8割を依存している。


イランの核開発阻止と、原油供給危機のどちらに重きをおくかで書き方は異なってくるだろうが、どちらに転んでも深刻な事態だ。

イランには米国に侵攻作戦を実行する力がないと踏んで、高飛車な態度に出て来ているのだろうが、問題は経済制裁と海峡封鎖のトレード・オフではない。核兵器開発の野望を捨て、そのことを明確な形で世界に示すべきなのだ。

イギリス大使館の襲撃といい、イランには節度が失われつつある。これがイスラム革命のなれの果てということになると、中東の民主化運動にも暗い影を投げかけることになる。

今はそのことを世界が明確にして、もっと声を上げてイランに迫るべきだろう。


カザフスタンといえばナザルバエフ大統領の独裁の国。これまでも反独裁闘争が報じられてきたようだが、今度はかなり深刻なようだ。
状況はかつてのベネズエラに似ている。カザフスタンは面積から言えば中央アジアの大部分を占める大国で、首都アスタナのある北東部、中国国境に近いアルマトイ地方、そしてカスピ海沿岸の砂漠地帯と分かれているが、カスピ海地方にマンダギスタウ州という油田地帯があり、ここが国家の富のほとんどを生み出している。いわばマラカイボだ。
今回はマンダギスタウ州のジャナオゼン油田でストライキが発生した。スト参加者1千人が解雇され、激しい抗議運動が起こった。16日、労働者のデモに警察が介入し14人が死亡、100人を越えるけが人が出る事件となった。
他にも外国との合弁企業で大量解雇と抗議運動の連鎖が起きているという。
問題は政治トップに道徳観念が極めて希薄なことで、これだけの貧富の差と、人民抑圧と支配層の腐敗の三点セットが重なれば、政権が維持されていることそのものが奇跡だ。
おそらく来年中には、何らかの政変が起きるのではないだろうか。それがどのような形態になるのかを推し量るのはもう少し情報が必要だが、問題は軍上層部の腐敗の程度、命知らずの雇い兵の存在、ロシアなどの石油マフィアの干渉だろう。

再結集の動き

1994年に「第1回アラブ・ナショナリスト-イスラム主義者会議」が開催された。それはアラブ民族主義者知識人の国家からの決定的な離脱がもたらしたものと考えられる。

それはまた、アラブ・イスラム主義者が1970年代後期と1980年代に味わった楽天主義が、結局は流産に終わったという認識の結果でもあった。

たしかに、1979年のイランでのイスラム革命の勝利をきっかけとして、アラブ世界の至る所で、イスラム政治勢力は著しい増強を遂げた。それはアラブの政治的・知的集団にも新たな方向性を示唆していた。

しかし、結局分かったことは、1979年の勝利を繰り返すのは難しいということである。

もうひとつ重要なことは、イスラム主義者は民衆のあいだで多数派となったが、アラブのエリートの中での影響力を欠如しているということである。イス ラム主義は、イラン以外の大部分のアラブ諸国では、支配層内部に共感を呼び起こすことに失敗している。このことが、政治的な行き詰まりを打破し、民主主義 への転換過程を成功させることができなかった主な理由である。

アラブ民族主義者とイスラム主義者との再結集は、イスラム主義プロジェクトの合法性を強めた。イスラム主義者は表現のベースを広げることができた。

会議の成功が明らかにしたことは、両者がまた、アラブ社会の直面する深刻な課題について明確に意識しているということである。

両者はともに、中東和平交渉を通じて、アラブ市場の世界経済への統合を通じて、アラブ・西洋関係の緊張強化を通じて、アラブ社会が世界の恐るべき挑戦を受けていると自覚している。

しかしもちろん、アラブ民族主義者とイスラム主義者の緊張の歴史がこれで終わったわけではない。

会議では、積年の対立のにがい遺産はほとんど全て避けられたけれども、アラブの政治的・知的生活の地平の底深くに、自覚されない疑念は依然尾を引いている可能性がある。

新たな章

アラブ民族主義者-イスラム主義者の関係再構築が始まった。しかし、本気の取組となっているわけではない。まだ手探り状態にあることは明らかである。

い ま激しく政治戦が続いている諸国家においても事情は同じだ。理論上の共通フレームワークを考案することも、本気でとり組まれているとは思えない。民主主義 のあり方の問題、信仰の場を社会と政治の中でどう位置づけるかの問題などで、改革の道筋をどう示していくのかが問われている。

しかし、アラブ民族主義者とアラブ・イスラム主義者の会議は、現代のアラブ歴史において新しい章を開けたことも間違いない。多くの点で、イスラム主義とアラブ民族主義は、アラブの政治的・文化的な流れのなかで最も強力な運動であったし、ありつづけている。

いずれの陣営も、現実にはアラブ国家の権力を握っているわけではない。たしかにその通りではあるが、しかし、社会での、市民組織での彼らの影響は疑いなく強大である。

ここ数十年の間に、アラブの文化的システムにおいては多様化が進行している。そのために、民族主義とイスラム主義は、もはやアラブ人の思想世界における独占的権威とは言えなくなって来ている。

しかしながら、そのことは彼らの存在の重要性を減弱するものではない。アラブ世界の政治と文化の将来を見る上で、彼らの再結集の意味は問われ続けなければならない。

半世紀以上にわたって、アラブ人には堅固な、耐久性のあるコンセンサスが不足していた。政治的なプロセスが通常に進行し、政治的な安定性が定着することを目指してコンセンサスを形成しなければならない。

まだあまり明白でないけれども、イスラム主義者-民族主義者の再結集はそのようなコンセンサスを開発するために大きい意義を持つだろう。


元の字数の2,3倍に膨らんでしまいました。アル・ジャジーラの読者にとっては常識的な事実でも、われわれにとっては解説が必要な場合がけっこうあります。

また1994年の会議の意味をいまなぜ強調するのかが良く分からないところがあります。

そうかなるほどと納得したのは、イラン革命後の運動に反省を加えていること、イスラム主義者も現下の厳しい国際環境を踏まえて政治にアプローチしていることです。

原理派の妄動とは別に、イスラム主義の主流派は確固とした姿勢を確立しつつあること、それは民族主義とも接点を持つ可能性があること、ただ過去の行きがかりなどもあることから、少し長期的に見て行く視点が必要なことがわかりました。

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