鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

カテゴリ: 13 国際政治・経済/中東(マグレブ諸国を含む)

アルメニア 首相交代劇の背景

最初にパシニャン新首相の紹介。
エレバン在住日本人の長谷川さんが詳しく紹介されている。
パシニャン(Pashinyan)は1975年生まれ。エレバン大学を中退しジャーナリストとなる。
彼はアルメニア国立大学ジャーナリズム学部でトップクラスの優等生でしたが、当時の学長の批判記事を書いて問題になり、その学長から、「記事の内容を否定しないと退学にするぞ!」と脅されても、「これは事実だから否定などしない!」と突っぱねて退学になりました。
06年には、ペトロシャン初代大統領を党首とする野党創設に加わる。
また、長谷川さんからの引用。
政治家になる前は、「アルメニアタイム」というリベラルな新聞紙の編集者を務めていました。在職中は共和党の腐敗政治を激しく批判し続け、10年前の大統領選挙の不正に対する違法な抗議活動を行ったとして、当局から指名手配されました。1年以上の逃亡生活の末、2009年に自ら出頭して逮捕。2年の服役を終えて出所後、野党「アルメニア国民議会」のリーダー的存在になり、2012年に当選して国会議員になりました。
これで4年間活動した後、今度は新党を立ち上げる。
2016年に、他の野党党首と共に、「エルク(アルメニア語で出口・糸口の意味)」という政党を結成。翌年の国会議員選挙で9議席を獲得し、第二野党となりました。
今年になって、反政府活動に本格的なギヤが入ったようだ。
2018年初めにセルジ・サルキシャン(Sarkisian)大統領が首相就任の意思を表明した。背景はよくわからないが、大統領を一人で何代も重ねると人聞きが悪いせいかもしれない。それで憲法を変えて議院内閣制にした。議院内閣制にすると国家のトップは間接選挙制になる。別に任期は必要なくなる、という理屈だ。
これに抗議するため、パシニャンは地方からエレバンに向かって歩きはじめた。歩く先々でサルキシャンに抗議する集会を開く、「マイステップ」運動を展開するためだ。
このあたり、なにかコスタ・ガブラスの「Z」を彷彿とさせる筋書きだ。背景には権力の腐敗と貧富の格差に対する底知れぬ怒りが渦巻いているようだ。
また、長谷川さんの引用。
アルメニアも、そんな厚顔無恥で強欲な人間たちがずっと国を支配してきました…。ただ、その腐敗のレベルがとにかく半端ない
最近、ある大物政治家が不法に大量の武器を所有していた容疑で逮捕されました。彼は、ナゴルノ・カラバフ紛争で大佐を務めた元軍人です。
警察が彼の豪邸を捜査したところ、隠し持っていた武器の他に、何十台もの高級車や水上バイク、虎やライオンなどが飼われたミニ動物園までありました。…驚いたのは、市民らが前線で戦う兵士たちのために送った食料や物資を横領して、何とその食料を自分が飼っている動物の餌にしていたことです。
(すみません、ちょっと文章削りました。長谷川さんの原文でしっかり味わってください)

2ヶ月をかけた政治行脚の中で、国民の怒りが形となって現れてきた。

4月9日 サルキシャン大統領の任期が満了となった。サルキシャンは与党の支持を受け首相にされた。その4日後、パシニャンのキャラバンが膨れ上がって首都エレバン入りした。連日に渡り大規模な集会が開催され、政治的緊張は一気に高まった。
サルキシャン・パシニャン会談が開かれたが、会談の直後、パシニャン議員は違法なデモを扇動したという理由で拘束された。この愚挙は火に油を注ぐ結果となった。最大規模の抗議集会が開かれ、デモ参加者は10万人を超えた。兵士や警察の一部までがデモに参加した。Youtubeに集会を記録した動画がアップされている。昼の映像を見ると10万はちょっと大げさだと思ったが、夜になると広場は群衆で膨れ上がってくる。
これを見たサルキシャンは観念したようだ。23日、サルキシャンは「パシニャンは正しく、私は正しくなかった。私は首相職を去る」との声明を発表し辞任した。
サルキシャンが辞任した後、暫定首相となったのは、サルキシャン政権のもとで首相を務めていたカラペチャン(Karapetyan)という人だ。パシニャンは国民的な人気こそあるが国会内では第二野党の党首に過ぎない。与党としては不人気のサルキシャンでなければ、誰が首相になっても騒ぎは収まるだろうと高をくくっていたのではないか。
ところが与党にさらに追い打ちをかけるような出来事が発生した。ロシア大統領のプーチンがカラペチャン首相代行との電話会談に応じた。そして、「投票は非常に重要だ」と強調したのである。
実はアルメニアは経済困難のもとにあり、ロシアの援助なしにはやっていけない状況になっている。政治混乱になればロシアが介入してくるのは明らかであり、そうなれば国家は持たなくなってしまう。与党は大混乱に陥った。
26日、議会は首相選出の投票を5月1日に行うと決定した。パシニャンは投票そのものは受け入れたが、自身が来週の投票で首相に選出されるべきだと主張した。与党は候補者を出さず、結果として唯一の候補者パシニャンへの信任投票ということになった。
ところが、与党は候補は出さないが、パシニャンを信任もしないという態度に出た。そうなれば政治は空転し議会選挙ということになる。議会選挙で与党がふたたび勝利すれば、「ミソギは済んだ」ということになる。
5月1日、議会で首相選挙が行われ、唯一の候補となったパシニャンへの信任投票は僅差で否決された。パシニャンはただちに市民にゼネストを呼びかけた。ゼネストは成功し首都はマヒ状態となった。
クーデターも考えられたが、ロシアの圧力はそれを許さなかった。プーチンにしてみればシリア、ウクライナに加えてさらなる国際紛争はとても許される状況にはない。
ついに与党共和党は「議員の3分の1以上の支持を得た候補者を首相に任命する」という声明を発表し、事実上パシニャン氏の首相就任を認めた。5月8日、議会はパシニャンを首相に選出。パシニャンは与党・共和党内からも支持を獲得した。直後の声明でパシニャンはロシアとの関係継続を表明し、プーチンはパシニャンを祝福した。
共和国広場で雨の中祝賀集会が行われた。パシニャンは「アルメニアに普通の生活をもたらす、汚職と政治的迫害を過去のものにする」と宣言した。

とまあ、一応まとめてみたんですが、誰か追加してください。
ナゴルノ・カラバフ紛争の頃、なんとなく胡散臭さを感じながら読んでいた記憶があるが、調べてみるとやはりこういう経過があったのだ。
ユーゴスラビア内戦も、世上セルビアばかりが悪者扱いされているが、個別の事象を見ていると、むしろクロアチア側に理不尽さを感じる場面も多々ある。まさか第二次大戦時のファシストの伝統が生き残っているというわけでもなかろうが…



赤旗の国際面に、ベルギーで開かれたある集会がレポートされていた。
新たにアルメニア首相に選ばれたニコル・パシニャンを歓迎する集会で、参加者はすべてアルメニア人。
おそらくは亡命しベルギー近辺に在住している人々であろう。
日頃、アルメニアに関連するニュースなど耳にすることがないから興味が湧いた。
以前からアルメニア、クルドの両民族は気になる存在であった。ともに過去においてジェノサイドの対象とされてきたからである。さらにユダヤ人も含め、中東の三大ディアスポラとなってる。
赤旗の記者は参加者の一人で元ミス・アルメニアだという女性の方に興味があって取材・報道したらしく、アルメニアにはとんと興味はなさそうだ。
そこで我が「物好き社」が代行して報道することにしようと思う。
まずはニュースを探してみる。

【5月8日 AFP】 
アルメニア議会は野党指導者のニコル・パシニャン(Nikol Pashinyan)を首相に選出した。パシニャンは与党・共和党内からも支持を獲得し、賛成59、反対42で選出された。
パシニャンは、「私の初仕事は、この国に普通の生活をもたらすことだ。アルメニアに汚職はなくなる。アルメニアは政治的迫害を過去のものとする」と述べた。

アルメニアを知るには、アルメニア人の迫害の歴史、ミニ国家としてのアルメニア国の歴史、そしてパシニャンを生み出した民主運動の歴史について知らなければならないだろう。

とりあえず、例のごとく年表で整理していく。

アルメニアは、ハイ族の王アルメナクから来ている。
アルメニア人は自らをハイ、国をハヤスタンと呼ぶ。

アルメニアは、先史時代からその存在が知られていた。

5500年前の革靴



























   アルメニアで発掘された5500年前の革靴
紀元前9世紀 ウラルトゥ王国が成立。紀元前8世紀にはアッシリアまで進出。
紀元前6世紀 ウラルトゥ王国が滅亡。アケメネス支配下のアルメニア人が植民し国際交易に従事。
紀元前331年 アレクサンドロス大王の率いるマケドニア王国の軍勢がペルシアへ侵入
紀元前188年 最初の独立国家「アルメニア王国」を築く。最盛期には黒海からカスピ海までを支配する。
アルメニア王国の最大版図
           アルメニア王国の最大版図
紀元前66年 アルメニア王国はローマに敗れ衰退。ペルシャの支配下に入る。
1世紀頃からキリスト教の布教活動が行われる。
紀元301年 アルメニア、世界で初めてキリスト教を国教とする。
400年頃 アルメニア、ササーン朝の支配下に入る。
その後ペルシャ人、東ローマ、アラブ人、蒙古人、トルコ人が相次いで支配者となった。
10世紀 アルメニアはムスリムと東ローマの境界地帯となり、多くのアルメニア人がキリキアに逃れる。
1198年 キリキアに定着したアルメニア人が、キリキア・アルメニア王国を建設。交易国家として発展。
キリキア・アルメニア王国
          キリキア・アルメニア王国
1375年 マムルーク朝の占領を受け、キリキア王国が滅びる。
1636年 オスマン帝国とサファヴィー朝ペルシアがアルメニアを分割し支配。
1826年 第二次ロシア・ペルシア戦争。ロシアがペルシア領アルメニアを奪取

1877年 露土戦争。アルメニア人はロシアの進出を歓迎。多くのアルメニア人がロシア領へ流入。
1894年 第一次虐殺。サスーンでアルメニア人が武装蜂起。その後の1年で数万人が犠牲となる。
エルズルム虐殺の犠牲者たち(1895年
    エルズルム虐殺の犠牲者たち(1895)
1914年 オスマン・トルコが第一次世界大戦に加わる。敵軍であるロシア軍には18万人のアルメニア人正規兵の他、アルメニア人義勇部隊8千人が加わる。
1915年4月24日 アルメニア人政治家・知識人など約600人が逮捕殺害される。その後の1年で60万人~100万人が殺害される。
1918年 ロシア革命が発生。この隙きをついて民族主義者によりアルメニア第一共和国が樹立される。
1920年 赤軍がアルメニアを制圧。アルメニア社会主義ソビエト共和国が成立。隣国とともにザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国を構成する。
1965年 虐殺50周年記念集会。これを機にアルメニア語やアルメニア文化が容認されるようになる。
1988年 ナゴルノ・カラバフ戦争が発生。
アゼルバイジャン共和国のナゴルノ・カラバフ自治州でアルメニア人が帰属替えを求める。これを機に民族紛争に発展。ソ連政府はアルメニアに対し冷淡な態度を取る。
1988年 大規模な地震が発生。電力需要の40%を生産するメツァモール原子力発電所が6年半に渡って閉鎖される。
1991年9月 ソ連の崩壊に伴い「アルメニア共和国」として独立。反共産党のレヴォン・テル=ペトロシャンが大統領となる。
1994年5月 アルメニア人勢力(ダシュナグ党)がナゴルノ・カラバフを制圧。アルメニア人側に約6000人、アゼルバイジャン人側に約3万人の死者。周辺国はアルメニアに制裁。
1995年7月 新議会選挙と新憲法の国民投票。
1998年 ペトロシャン大統領が辞任。ナゴルノ・カラバフ出身のロベルト・コチャリャンが後継大統領に選出される。
1999年10月 アルメニア議会銃撃事件。元ダシュナク党員のテロにより首相、国会議長など8名が死亡。
2008年 大統領選挙でセルジ・サルキシャンが選出される。対立候補であったペトロシャン元大統領は、不正を訴え大規模な抗議活動。非常事態宣言が発令される。
2009年10月10日 トルコとの国交成立。ダシュナク党はこれに抗議し政権から離脱。
2015年 憲法改正。大統領権限の大半を首相に移し、議院内閣制を導入する。
2018年
4月17日 サルキシャン大統領、退任に伴い首相に鞍替え。
5月1日 議会で首相を選ぶ選挙。最大野党のニコル・パシニャンが当選するが、与党は承認を拒否。

ということで、ほとんどアルメニアの歴史年表になってしまった。
そういう背景のもとで、今回の首相交代劇がどんな意味を持っているのか、別途稿を起こそうと思う。

1.ムハンマドの登場
まぁ、とりあえずそれ以上さかのぼる必要もあるまい。
2015年1月に、前国王アブドラ国王が亡くなり、皇太子サルマンが国王に即位した。このときすでに80歳。イブン・サウドのおそらく最後の息子となるであろう。このあとは孫の世代に移っていく。
このとき、息子のムハンマドが国防大臣兼副皇太子に就任している。弱冠29歳である。
このあとムハンマドが父国王の片腕として辣腕を振るい始める。それと同時にサウジがどんどん過激化していくことになるのである。
2.イエーメンへの軍事介入
2015年3月にとんでもない事態が発生する。国防相ムハンマドがイエメンへの軍事介入を決定するのである。イエメン情勢については別の記事に書いているので、そちらを参照していただきたい。ムハンマドの世界戦略は反イランのみでそれしか眼中にない。しかも彼の反イランは反シーア派であってシーア派であればアラブ人であろうとペルシア人であろうとすべて敵である。
いずれにしてもサウジが直接武力侵攻を開始するというのは、まことに青天の霹靂であった。
敵はクーデターにより大統領を追い出したシーア派アラブ人のフーシー派であり、これを湾岸諸国の連合軍が攻撃した。
この戦争は現在に至るも続いており、内戦の結果、イエメン国民がきわめて深刻な危機に陥っていることはよく知られている。
3.イランとの国交断絶
2016年1月、その戦争のさなか、サウジはアメリカとイランとの核合意を不満とし、イランとの国交断絶に打って出た。イエメン侵攻もそうだが、イランとの国交断絶もほとんど理屈がない。国交断絶しなければならないほどの具体的事実がない。とにかく無茶苦茶なのがムハンマドの特徴である。
4.トランプの大統領就任とクシュナーの着任
その後は、オバマ政権がサウジのクレームを受け付けず対イラン交渉を進めたこともあって、派手な動きはなかった。しかしトランプが大統領に就任するとムハンマドはこの好機を決して逃さなかった。
両者を結びつけたのはトランプの娘婿である。中東和平問題を担当するジャレッド・クシュナー大統領上級顧問(トランプ大統領の娘婿)が、秘密裏に何度もサウジに行き来し、トランプ訪問への動きを取り仕切った。
5.トランプのサウジ訪問と支持確認
2017年5月20日、トランプ大統領がサウジアラビアを訪問した。米国はサウジに1100億ドル(約12兆円)相当の武器を輸出することで合意した。
サウジはトランプ訪問に合わせ、スンニ派アラブ諸国を中心に55ヶ国の首脳を集めた「米アラブ・イスラム・サミット」を開催し、米国との友好、中東における盟主ぶりをアピールした。
この功績を引っさげて、ムハンマドが皇太子に昇格した。ムハンマドは国防大臣に加え皇太子となり、さらに「ビジョン2030」という行政・経済改革計画を発案し、最高責任者となる。
すこしさかのぼるが、3月、サルマーン国王が訪日し「日・サウジ・ビジョン2030」が策定されたのは記憶に新しい。このビジョンこそはまさにムハンマドの策定したものであった。
6.カタールを村八分に
これでますます図に乗ったムハンマドは、カタールの村八分工作に打って出る。
5月24日に国営カタール通信がハッカー攻撃を受け、偽ニュースが流された。その中で、カタールの国家元首タミム首長が「アラブ諸国にはイランを敵視する根拠がない」と発言した。
カタールにとってはまったく寝耳に水のニュースだ。その後の報道では隣国UAE(アラブ首長国連邦)の謀略機関がサイトをハッキングして、フェイクニュースを流したのではないかとされている。
カタールは秋田県の面積で、人口220万人の10%超がカタール人で、残りは外国人労働者。世界有数の天然ガス油田を持ち、日本も東北大震災のあとこの国の天然ガスなしには生きていけなかった。国民1人あたり所得は世界一だ。
日本人にとっては首都ドーハの名前が、93年の「ドーハの悲劇」の記憶とともに焼き付けられている。しかし国際的には通信社アルジャジーラのほうがはるかに有名で、NHKも衛星放送で配信している。サウジがいちゃもんを付けてきたのもおそらくアルジャジーラが目障りなのが最大の理由ではなかろうかと思われる。
このいちゃもんが周到に準備されていたことは間違いないようだ。
わずか1週間後にはサウジ、UAE、バーレーン、エジプトのアラブ4ヶ国がカタールとの国交断絶を宣言。国境封鎖と空域封鎖を実施した。これにアラブ域外のいくつかの国が同調した。
これもテロリスト組織との関係を禁じた「リャド合意」違反という理屈はついていたものの、その罰の重さに比べればいかにもとってつけたふうで、ほとんど問答無用のものだった。
リャド合意というのは14年に湾岸協力会議(GCC)諸国が合意したもので、反体制派やテロ組織を支援しないことを約束したものだ。ただしイランがテロリスト国家だという共通認識はない。
UAEは、同国に滞在するカタール国民に14日以内の退去を求める。さらに航空路の閉鎖、領空通過の禁止を打ち出した。
カタールは食糧をイランから緊急輸入する一方、UAEへの天然ガス供給を停止する報復措置の検討に入った。
カタールはアメリカにとって貴重な同盟国。軍事基地も置いているから、このような事態は好ましくない。外交官や軍関係者は相次いで懸念を表明したが、トランプ本人がサウジの立場を支持する発言を繰り返すから困ってしまった。
ウソか本当かは知らないが、「クシュナーがカタールの有力者に5億ドルの融資を依頼、カタール側がこれを拒んだことが一因」(英フィナンシャル・タイムズ紙)との報道もある。
かくするうちにテヘランでも同時多発テロが発生した。イラン政府は、5人の実行犯は、サウジアラビアとつながりがあるISのメンバーだったと主張。
とにかくやることが強引だ。
7.カタールは干渉を拒否
6月21日、調停に入ったティラーソン国務長官にもなぜこれほどまでに挑発をかけるのかが飲み込めない。各国がカタールに対する具体的な抗議内容を明らかにするようもとめた。これに対して出されたのがサウジらアラブ4ヶ国による13か条要求。アルジャジーラの閉鎖、トルコ軍基地の閉鎖、イランとの外交関係の縮小、テロ組織との関係断絶などが提示された。結局のところアルジャジーラの閉鎖だ。
しかしそれはとうてい飲めるものではない。これを飲まされるようならばアメリカも困った立場に立たされるだろう。
7月3日、カタールは仲介役のクウェートに回答書を提出。実質的に要求を拒否した。結局、湾岸諸国も次の制裁までは踏み込めないまま膠着状態に入ってしまった。
その後ティラーソンが湾岸諸国を歴訪し、カタール「封鎖」を解除するよう求めた。これに応じ9月9日にカタールのタミーム首長とサウジのムハンマド皇太子が会談を行うが非難の応酬に終わる。
イエメン問題に続いてカタール問題も未解決のまま、いまだに尾を引いている。にも関わらずムハンマドはクシュナーと組んで次々に揉め事を起こし続ける。
8.反イランのためにはイスラエルとも組む
9月にムハンマド皇太子がイスラエルを極秘訪問した。これはエルサレム・ポスト報道で非公式に明らかにされている。これと時を同じくしてクシュナーがサウジを訪問し、首脳クラスと4日間にわたる協議を続けている。
10月にはトランプがイラン新戦略を発表した。この中でイラン核合意に対しより強硬な姿勢で臨むことが打ち出された。この中でアメリカ、サウジ、イスラエルの三国がどういう取引をしたのか。非常に気になるが、おそらくエルサレムの首都宣言とレバノンのヒズボラの扱いで合意ができたのではないか。
11月にはムハンマドがパレスチナ自治政府のアッバス議長と会談。「極めてイスラエル寄りの和平案をのむよう迫った」(ニューヨークタイムス)とされる。
この結果、12月6日トランプ大統領がエルサレムをイスラエルの首都と宣言するに至ったのである。パレスチナ人民の英雄的な抵抗にもかかわらず、多くのアラブ諸国は沈黙を守った。サウジアラビアからは形式的な非難声明が出されるに留まる。
9.レバノン首相監禁事件
11月4日、ムハンマド皇太子の率いる『反腐敗最高委員会』、11人の王族を含む約50人を“汚職”で逮捕。その後、拘束者は200人以上とされる。逮捕者の一人はアブドラ前国王の息子で後継候補の1人だったミテブ国家警備隊長だった。
同じ日サウジ滞在中のレバノンのサード・ハリリ首相も巻き添えを食った。ハリリはサウジとの二重国籍を所有しており、おそらく逮捕された誰かにつながっていた人物であろう。これも理屈なんかどうでもよくてとにかく捕まえてしまえという話なのだろうと思う。
ハリリはサウジアラビアで無理やり辞任を表明させられる。この辞任会見でハリリは、「ヒズボラがレバノンを不安定化させている」と主張、「暗殺される可能性がある」と語ったが、結局のところ意味不明の釈明に終わった。
レバノンのアウン大統領は、サウジアラビアがハリリ氏を自身の意志に反して国内に留め置いていると非難。サウジ政府とハリリ氏は否定したが、それにしてもメチャクチャである。
サウジ政府はレバノンに滞在するサウジ市民に対し、国外に即時退去するよう命令。同時に「サウジへの攻撃を止めよ」と警告した。(一体どちらが攻撃しているのか?)
1週間が過ぎ、さすがにサウジへの批判も強まった。窮地に陥ったサウジにフランスが助け舟を出した。9日にマクロン仏大統領がサウジに入り交渉開始。21日にはハリリが解放され、ベイルートに帰還した。ハリリは辞意を正式に撤回しいまもレバノン首相の座にある。
これほどの重大事件にもかかわらず、メディアのほとんどが沈黙を守った。この「監禁」事件については高橋和夫さんが顛末を説明してくれている。
ハリリという首相はレバノン人ながら、サウジアラビアとの二重国籍である。彼がサウジアラビアの不興を買ったのは、イランの影響力の拡大を阻止できなかったからである。彼はシーア派組織ヒズボラをレベノンの政治過程から排除できなかったと非難された。しかしヒズボラの軍事力はレバノン国軍以上である。サウジアラビアの外交を牛耳っているムハンマド皇太子はレバノン情勢にあまりに無知であり、あまりにも荒々しい。
はっきりしたことは、サウジがレバノンに影響をあたえるための有力なカードが失われたということだ。
10.手詰まり感が深まるイエーメン情勢
イエーメンは最悪の状況を迎えつつある。
11月4日にイエメン領内からリヤドに向けて弾道ミサイルが打ち込まれた。これらのミサイルは撃墜されたと報道された。サウジはレバノンの武装勢力ヒズボラによる犯行と主張した。ハリリの監禁もこの事件と絡んでいることは間違いないだろう。
イランはこれを虚偽で危険な主張と非難した。
しかし真相はこのような報道のレベルをはるかに超えていた。実はサウジの迎撃システムはまったく機能せず、ミサイルはそのまま着弾したのである。
サウジは驚愕し、対イエーメン攻撃を強化した。11月6日にはイエメンに人道支援物資を運ぶ経路を封鎖した。国連担当者は封鎖が続けば「何百万人もの犠牲者」が出ると警告している。その4日後には「イエメンで世界最悪のコレラが大発生した」という報道が流された。20万人が感染しているという。
首都サヌアをふくめイエーメンを実効支配しているのはフーシ派(宗派としてはシーア派)で、サウジが支援する前大統領派はアデンの周囲を確保するにすぎない。フーシ派は元大統領でスンニ派のサレハを前面に押し出していた。「アラブの春」で放逐されたこのいわくつきの人物は12月になると動揺し始め、フーシ派との連携解消を発表。サウジアラビア主導の連合軍との関係改善をもとめた。しかし記者会見の2日後には 首都サヌアを移動中「フーシ派」に暗殺されてしまった。
11.粛清事件はムハンマドの弱さの反映か?
11月4日のミサイルはサウジの心臓部に打ち込まれたようだ。それから2日後には大粛清事件が発生している。司法長官は、「11兆円が不正流用された」と指摘し汚職問題として解決しようとしている。しかしサウジの王侯貴族からすれば額が問題ではないだろう。現にムハンマド自身がパリ近郊に3億ドルの「ルイ14世の城」を購入したというニュースが世界中を駆け巡っている。(12.16NYタイムス)
普通に考えれば、イエーメン問題を泥沼に追い込み、防衛大臣なのにリャドにミサイルが打ち込まれるままにされているのでは責任問題であろう。
はたしてイラン憎し、シーア派憎しで、そのためにはイスラエルともトランプとも手を結ぶというのでアラブの大義は果たせるのか、と私がサウジ国民なら当然思うでしょう。

サウジの「覇権化」と湾岸諸国の動向
その1. カタール封鎖をめぐる各国の動き

アラブの春からシリア内戦、そしてISと激動が続く中東であるが、報道されない主役としてサウジの覇権主義的行動について注目する必要がある。

といっても私にも「気になる」という以上の情報は目下ないのだが、一番奇異なのはむしろこのメディアの沈黙ぶりなのだ。(ベネズエラでの大はしゃぎとは天地の差がある)

とりあえず気になることとして、

イランへの政治的挑発、カタールへの攻撃(これについては、攻撃そのものもさることながら湾岸諸国連合の私物化が気になる)、イエーメンへの侵略、そしてレバノン首相の軟禁事件(これほどの事件が全くフォロろーされない理由が分からない)

などがある。

湾岸諸国もこれらの動きに無関心ではいられないはずだが、カタール(ということはアルジャジーラ)を除けば、その反応はほとんど報道されない。

おそらく日本語資料はほとんどないだろうが、少しあさってみようかと思う。
2.サウジの本音はシーア派弾圧

サウジの中東覇権戦略は二つの柱があって、その関係が微妙に揺れ動く。

一つはイラン人に対抗するアラブ人世界の団結であり、もう一つはシーア派に対するスンニ派盟主としての対抗である。

アラブ世界の盟主となることはサウジにとっては最も大きな意義があると思われる。またほかのアラブ国家からの支持も期待できる。

イラン人というのはペルシャ人であり、人種、民族が異なる。ただしこれは、トルコ人に対しても言えることであり、その差をあまり強調するのは、イスラムの教えに反することになる可能性がある。

さらにイスラエル、サウジ、イランの間で微妙に成り立っている中東の力関係を改変することには危険もつきまとう。

だから、こちらの戦略を本気で自力で展開する意志はないだろうと思う。(エジプトに担わせて背後で操る手法の継続)

これに対してシーア派への弾圧はもろにみずからの権力基盤に係る課題となる。

中東の多くの国でシーア派教徒数はスンニ派を凌ぐ状況になっている。しかし彼らはそれぞれの国家で下層階級を形成し、不満を蓄積している。

「アラブの春」が各国で展開されたとき、シーア派の不満が表面化した。それは条件さえあればいつでも燃え上がるだけの力を備えている。

これをどう抑えるかという戦略は宗派戦略ではなく階級支配の戦略なのだ。

ここを踏まえて、各国の状況を見ていく必要がある。
3.サウジ対カタールの対立図式

湾岸諸国の政治的立場はサウジ対カタールの対立図式で表される。

カタールは首長国である。UAEが首長国連邦であるのに対し単独で国家を形成している。

前首長のハマドは基本的にサウジとの意見の違いはなかった。しかし現首長のタミームは、「アラブの春」において反政府側の主張を基本的に支持した。さらにエジプトのイスラム同胞団と交流し、ガザのハマスを支援してきた。

これに対しサウジを支持するのはUAEとバーレーンである。クエートとオマーンは、基本的にはサウジに近い立場ではあるが、対立の回避を優先する立場から調停に動いている。

アラブ域外国であるイランとトルコはカタールを支援するというよりは、サウジのアラブ分裂行動に批判を強めている。

とりあえず第1報。


赤旗でイブラヒム・アブ・スラヤ氏の葬儀を伝えている。短いがかなり中身の濃い記事(カイロ駐在の小玉記者発)なので、そのままコピーして転載する。
スラヤ記事
この事件については、インターネットでも多くの記事と写真が掲載されている。
下の写真は赤旗記事のおそらく元写真であろうと思う。
ibraheem-abu-thuraya
緊迫した様子が伝わってくる。
次の写真は、残酷ではあるが、スラヤ氏の思いを考えると掲載すべきかと考えた。
RIP-Ibrahim-Abu-Thuraya2
「主な扇動者を選んで発砲」したことが適切だったかどうか、よく考えてほしいと思う。

The Israeli Military First Took His Legs, Then His Life

Ibrahim Abu Thuraya: Disabled Palestinian activist shot dead by Israeli ...


Ibrahim Abu Thuraya: A symbol of Gaza's resilience

 

「7月3日体制」下のエジプト

シリーズ「混迷する中東・北アフリカ諸国」の5回目。今回は長沢栄治さんの執筆である。2015年初頭の頃の文章で、新しいといえば新しいが、すでにそれから2年余りが流れており、すでに現状とのあいだに若干の違いは出てきているかもしれない。

 

はじめに

(この「はじめに」がえらく長い)

2011 年 1 月 25 日にタハリール広場での大集会が行われ、2月11日にはムバラク大統領を宮殿から退去させた。

それから約1年半後の2013年6月に民衆は再び蜂起し、ムルシー大統領とムスリム同胞団の政権を打倒した。

それで、蜂起に立ち上がった人々が望んだ「革命」は進展しているのか。革命などといっても一時の興奮に過ぎず、混乱をもたらしただけで何の結果も残さなかったのか。

長沢さんはいくつかの判断材料を提出する。

①ムバラクの逆転無罪判決

2012年6月、ムバラクはデモ隊への発砲による殺害の罪での無期懲役判決を受けていた。

2013年1月に再審理が決定され、2014年11月にムバーラク元大統領に無罪判決が出された。抗議の声は押しつぶされた。

②軍部による統治の「正常化」

2014年6月、「6月30日革命」を唱えるシーシーが大統領に就任した。

表面的に見る限り、シーシー大統領は国民の政府に対する信頼を回復し、安定した「統治」に成功している。

スンナ派を指導するアズハル機構と、人口の10%以上を占めるコプト派の政権支持には強固なものがある。

③ムスリム同胞団への怒り

一方、ムスリム同胞団は国民の指弾の的となっている。ムルフィ政権下のコプト派教徒襲撃や、シーア派住民殺害などの非道行為、経済危機を強権で乗り切ろうとしたことへの恨みは深く刻み込まれている。

長沢さんはこの3つの流れを基礎に、情勢を分析しようとしているようだ。

1. 軍が提示した2度目の行程表

2013年6月30日の民衆蜂起、 「6月30日革命」を受けて、軍は翌日7月1日に声明を発表し、全ての政治勢力が48時間以内に和解するように求めた。ムルシーはこれを拒否した。

7月3日、軍トップのシーシー国防相は、軍の用意した工程表を発表した。それは①憲法改正→②議会選挙→③大統領選挙よりなる。これは後に①→③→②となった。

このあと長々と「1月革命」の経過が語られていく。長沢さんの文章はきわめて入り組んでいて、文章そのものの要旨ではない注釈部分に重要な事実が書き込まれており、実に読みにくい文章となっている。

「1月革命」の経過は、論旨からいうと枝葉なのだが、読み手からすれば、革命の総括が書かれたもっとも重要な箇所だ。とりあえず従いて行くしかない。

一度目の工程表: 2011年革命の総括

2011年革命において、軍が決めた行程表は、「②議会選挙→③大統領選挙→①憲法改正」であった。

左派勢力は、まず革命の理念を体現した新憲法の制定を最初に行うべきだと主張した。しかし、軍はこれに従わなかった。内心では現体制の大幅な変更を望んではいなかったからである。

同胞団は選挙を先に行うことで、理念よりも組織力による主導権確保を狙った。これに軍は乗り、3月の「暫定的な憲法改正」を国民投票で押し切った。つまり憲法改正は先延ばしにされたのである。

ついで行われた議会選挙で、同胞団は総議席の3分の2を超える地滑り的勝利を収めた。革命の勝利の果実は同胞団により掠め取られてしまった。

大統領選挙と同胞団の心変わり

革命後に2勝を収めた同胞団は、3勝目も狙うようになる。

当初は、同胞団候補は出さず、世俗派に大統領職を委ねる意向であった。これが何故心変わりしたかについて、真相は未だ不明である。

長沢さんはいくつかの可能性を上げている。次なる最終戦、新憲法制定で勝利を収めるために、どうすべきかという議論があっただろうという。

新憲法における勝利とはどういうことか、それは「同胞団が掲げてきた理想であるイスラーム国家体制の建設」を保障する憲法である。

大統領選挙は同胞団と軍の支持するシャフィークとの決選投票となった。軍は同胞団と断絶し、真っ向から対立するようになった。そして同胞団が勝利した。

議会選挙の結果から見ても、同胞団の勝利は当然だった。だから大統領選挙に勝利したということより、大統領職も自らの手に収めるという判断をしたことが重要である。その結果、軍を敵に回すことも覚悟の判断である。

そして軍との対決は8月にやってきた。ムルシー政権は大統領と議会の3分の2の議席という力を背景に、軍最高幹部の更迭という「荒業」に踏み切ったのである。

これはいったん成功したかに見えた。同胞団にとって左翼・リベラルを抑え込み、軍の統制を確保することは、自らの独裁権力の確立であるかのように思えたのであろう。

そこから同胞団政権はイスラム原理主義にもとづく憲法制定とイスラム国家づくりに突進していくことになる。

彼らは勝利に過信し、軍の実力と意思を見誤っていた。

米国の同胞団へのスタンス

米国は従来からポスト・ムバーラク期を見越して同胞団と接触していた。米国は同胞団を穏健派イスラーム主義勢力と見ていた。そして同胞団政権の未来を「トルコ・モデル」の図式の上にとらえていた。

7月政変が起きると、米国はエジプトの民主化改革に遅延をもたらすものと批判。米議会は対エジプト援助の供与中止を決議した。

このような米国の見通しの甘さも、同胞団の強硬姿勢をもたらしたといえる。

新工程表の意味

今回の工程表では、まず新憲法の制定が先行した。

新憲法の意味は若者・リベラル勢力が2011年当時に求めたように1月25日革命の理念を実現するためではない。

新憲法の制定が目指したのは、2012年憲法に見られる「同胞団色」の一掃であり、軍をはじめとする既存の諸勢力(司法エリート、アズハルやコプト派教徒など)の権益や地位の再確認であった。

また、大統領選挙を議会選挙に先行させたのは、議会政治の軽視、あるいは不信である。そこには議会政治の重視が同胞団の進出をもたらし、政治混乱を生み出したという思いがある。

つまり、軍が目指すのはある意味で「ムバラクなきムバラク体制」といえるかもしれない。

6月30日革命、すなわち反同胞団政権運動の主体であったリベラル勢力や若者運動への態度はたんなるリップサービスに終わっている。

2.新憲法の内容

3.大統領選挙とその結果

4.議会選挙制度改革

5.同胞団の弾圧とテロの激化、そして若者運動の抑圧

権力を握った軍政権は同胞団に過酷な弾圧を加えた。

2013年8月14日、軍はムルシー復職をもとめる同胞団デモに対し強制排除を行った。ラーバア・アダウィーヤ広場での衝突では約千名が殺された。

12月に同胞団による警察襲撃事件が起こると、政府は同胞団をテロ組織に指定した。同胞団の資産は凍結され、幹部の資産は没収された。

2014年に入ると、弾圧はさらに苛烈さを増した。3月に同胞団員529名に死刑判決が下され、4月にはさらに683名に死刑判決が下された。

テロ事件の頻発と政府の弾圧強化の中で、「4月6日運動」などの若者活動家も多くが逮捕・勾留されている。青年運動は事実上不可能な状況に追い込まれている。

6.外交政策

2月革命以降、多彩な動きを見せていた外交活動は、ムバラク時代の姿勢にほぼ戻った。

とくにガザのハマスに対しては同胞団がらみで態度を硬化させている。シーシー政権は、ガザ地区につながる物資搬入のトンネルの破壊を徹底して実施してきた。

これはシナイ地区の反政府ゲリラが同時にガザへの密貿易グループでもあることから、資金源を絶つ目的もあるようだ。

石油・天然ガス資源情報」というサイトに地味に面白い記事が載っている。

マスコミの国際情報というのは、普通は必要な情報は載らず、むしろ本質を覆い隠すような情報のみが載せられることになっている。

このページは半ば情報誌とも呼べるものだが、意外に本当の情報が載っている。

中でも面白かったのが「アラブの春から4年…混迷する中東・北アフリカ諸国」という連載だ。全6回から構成され、執筆者がそれぞれ異なる。

ネットでは2~6回が読める。順次紹介しておく。


第2回 アラブの政変とイスラエル 中島 勇

はじめに

「中東については予想をしてはいけない」という格言がある。現状は、この格言のとおりである。

そこには多様な要素が複合的に絡んでおり、分析や評価の視点も当然ながら多数ある。

その中で、イスラエルの「アラブの春」評価は特異だがリアルでもあり、注目に値する。

①アラブの政変をイスラエルは全く予測していなかった。

②イスラエルとの和平を維持してきた独裁者が追放されたことに驚き、未知の政治勢力が出現することを警戒している。

③イスラエルは、戦略的資産と見なすエジプト・ヨルダンとの和平を順守することを最大の目標にしている。

1.エジプト政変の意味

政変が起きた国の民衆は、独裁政権に怒りの声を上げたが、イスラエル非難の声はほとんどなかった。イスラエルという国やその社会には関心がないのかもしれない。

エジプト政変で、イスラエルの過去30年の努力は無に帰した。エジプトとの和平は、イスラエルの安全保障戦略上の最も重要な基盤であった。

イスラエルが昔も今もそして今後も、最も警戒する相手はエジプトである。エジプトはイスラエルと25年間の間に4回も戦った。

第4次中東戦争(ヨム・キプール戦争)では、シナイ半島で本格的な近代戦に突入し、激しい消耗戦を行った。劣勢に立ったイスラエルは機甲部隊によるスエズ運河の逆渡河作戦を強行、エジプト軍の補給路を絶つことでようやく挽回した。

1979年の和平条約で、イスラエルはシナイ半島をエジプトに返還した。反対する入植者らをイスラエル軍は力ずくで排除した。こうして獲得したのがエジプトとの和平である。

第4次中東戦争の後、現在まで約40年間戦争はない。両国間には1件の和平協定違反もない。スエズ運河が戦争のために閉鎖されることはなくなった。

米国はエジプトとイスラエルの和平を維持するために、外国援助総額の半分近くの支援を両国に対して行った。「米国は和平を金で買った」と言われた。

ムバーラク体制が崩壊した時、イスラエルはその冷たい和平が破綻するかもしれないと恐れた。

2013年7月の第二革命でムルスィー大統領が、エジプト軍によって解任された。2014年1月に新憲法が国民投票で承認された。そして国防相・参謀総長のシーシーが大統領に選出された。

シーシー政権はガザのハマースを国内のムスリム同胞団と同じと見なし、厳しい対応を開始した。エジプトとガザの間にある密輸用の地下トンネルのほとんどが封鎖された。

シナイ半島では、エジプト治安部隊と武装勢力(密輸貿易の担い手)との衝突が増加した。イスラエルは、エジプト軍が治安作戦で戦車や装甲車を使用することを認可した。

この結果、ガザへの物資の約95%が停止している。ガザ経済は、今や過去最大の危機に瀕している。

2.イスラエル国内体制の変化

テルアビブでも若者の占拠運動が行われた。そのデモは11年9月には約40万人規模に拡大した。

デモ隊は、少数の財閥が国民経済の30%を支配している状況に抗議し、より平等な富の分配や社会的正義の実現などを要求した。

デモ参加者らは貧困層ではなく、学生や若者、教師や技術職など専門職の中間層が主体だった。左派も右派も抗議行動に合流した。

イスラエルは建国以来、「社会主義」的な経済形態を取っていた。しかし1980年代末から民営化を進めた。

軍需企業が蓄積した知識と経験が、民営化によって市場に出た。その結果、イスラエルはハイテク国家に変貌した。

毎年約5%の経済成長を維持した。国民1人あたりの収入は、1990年の約1万5,000ドルから2009年には2万8,100ドルとなり、ほぼ倍増した。

しかし、国内の貧富の格差も同じテンポで拡大した。それに対する不満が表面化したのである。

3.イスラエルとパレスチナ問題

1993年、イスラエルはパレスチナと政治交渉を決断した。パレスチナの反占領運動は戦車に石で立ち向かった。パレスチナの若者に対してイスラエル軍は銃撃を加えた。その映像は世界中で報道された。

イスラエルは国際的な非難にさらされた。米国のユダヤ人社会でさえ厳しく批判した。イスラエルは、パレスチナ人の反占領運動を力で鎮圧できないことを明確に知った。

1994年に成立したパレスチナ自治政府はすでに実体を整えた。イスラエルは、パレスチナ国家が新たな脅威となることを警戒している。その一方、PAを解体して、パレスチナ人を再び統治する意図もない。

イスラエル人の多くが政治に無関心になった。その結果、組織票を持つ宗教政党の得票の相対的な比率が上昇した。それにつれイスラエル社会の宗教化・右翼化・内向き志向が増大した。

「民主国家イスラエル」が、非西欧的な宗教国家に変質する危険性が高まっている。イスラエルを批判するイスラエル人やユダヤ人は「自虐的イスラエル人、ユダヤ人」として非難されるようになった。

4.国政に変化の兆し

民衆の不満は2013年の国会選挙で鮮明となった。中道派政党の新党イェーシュ・アティド(未来がある党)が、初めての選挙で19議席を獲得して第2党になった。

これは世俗派の中産階級の有権者の投票が増加したためとされる。

これは安全保障コストへの無言の問いかけとなっている。東エルサレムやヨルダン川西岸を維持するために、国民生活の安定を犠牲にして、国家の予算を使うべきかという問いである。

ネタニヤフ首相は、決定を先延ばししている。

それはSAMのおかげである。

当時崩壊寸前のシリア政府軍にとって、制空権が最後の頼みの綱であった。それによって反政府軍の根拠を叩くことで、かろうじて軍事力バランスが維持されていた。

しかしその時、反政府軍は地対空ミサイルを手に入れたのである。これでシリア軍機がバタバタと落ち始めた。私はこれで決まったと思った。

しかしSAMの供給は突然途絶えたのである。

それ以後、反政府軍はやられ放題だ。そして大量の難民が発生しそれが西洋諸国に押し寄せ、今日のごとく各国の右翼の台頭を招いているのだ。

なぜSAMの供給が途絶えたのか。

それはSAMの供給国であるトルコの政治状況が変わったからだ。

トルコの国内政治状況については以下の記事に書いた。




ワシントン中東政策研究所のサイトの PolicyWatch 2356

Explaining the Turkish Military's Opposition to Combating ISIS

Ed Stafford January 15, 2015

という文章の要約

日本語にすると「トルコ軍がISISとの闘いを嫌う理由」ということか。

 

リード部分

アンカラの政府はISISとの闘いに踏み切った。しかしそれは政治的な決定であり、軍はAKP、PKKとアラブへの伝統的な嫌悪感を抱き続けている。それはトルコのアラブ介入に対する強力な障害となる可能性がある。

イントロ部分

「トルコはなぜISISと戦う連合に積極的にかかわろうとしないのか?」 

これに関する議論は、殆どが政府の政策形成過程における軍の役割を黙殺している。

一つには、これは与党である正義進歩党の軍部抑制策を反映している。正義進歩党は2002年以来、政策形成過程における軍の役割を弱めてきた。そして国家情報機構(MIT)の影響力を強化した。これが対シリア方針に影響している。

しかし軍隊がISISとの戦いを渋るのには他にもいくつか理由がある。

それは何十年も前から存在し、深く根を下ろした理由である。すなわち軍の政治的指導力が低下していることへの恨みである。

このような視点は、AKP支配層以外の政治的にアクティブな人の間に共通したものとなっている。

エルゲネコンの凋落

Ergenekon is the name given to an alleged clandestine, secularist ultra-nationalist organization in Turkey with possible ties to members of the country's military and security forces.

2007年、AKPは軍指導部に対して一連の裁判を開始した。軍はトルコでの非宗教的な政治勢力のチャンピオンを自認していた。

2003年に発生したクーデター計画を機に、政府は検察権力と警察を動員し軍の押さえ込みを図った。

軍と非宗教主義者の連合が文民支配を覆そうとして邪悪な計画を企んだとされた。

「Ergenekon」裁判で、検察側はクーデター計画についての完全で納得のいく論拠を示せなかったが、それにもかかわらず政府は多数の非宗教的な野党の指導者と何百人もの軍幹部を投獄した。

全将軍のうち4分の1が獄に繋がれた。2011年8月に、軍隊の高級将校は大挙して辞任した。それはAKPの権威への服従するという暗黙のシグナルだった。

これを受けた政府も、軍隊をなだめる努力をおこなった。Ergenekon容疑者ほぼ全員が釈放された。

しかし軍の指導者たちは敵対心を捨てていない。政権担当者への感情は、ほとんど“受動的攻撃性”と言っていいものがある。彼らは多くの軍事的案件について助言を与えることを事実上拒否している。それは軍事的情報を収集しシナリオを作成するだけでも監獄に送られるという将軍たちの確信によってもたらされている。

クーデターの容疑が真実だったのかどうかは別にして、多くの高級将校はいまも確信している。「同僚たちは罪を捏造された。彼らはただたんに国内外の敵から国を守る計画を作成しただけだ」と。

クルド民族主義者への蓄積された憎悪

軍指導部はまた、クルディスタン労働者党(PKK)との平和を確保するという政府の方針に敵意を抱いている。クルド人ゲリラは過去30年にわたり何千人もの軍将兵を殺害している。

2011年、エルドアン(当時は首相)はクルド人グループとの和平会談を開始した。それはいまも続いている。

エルドアンはPKKとの対話の成功はイラクのクルド人地方政権との関係を改善し、クルド人を地域における重要な盟友とするという成果をもたらしたと信じている。

継続的な会談は国内の安定性の強化ももたらした。そして、6月の国会選挙でもう一つのAKP選挙勝利への道を開こうとしている。(これが目論見外れに終わり、今日の混乱をもたらしていることはご承知の通り:訳者)

軍の側から見れば、クルド人戦士への警戒心はますます高まりつつある。なぜなら彼らはクルド人社会が拡張するほど勢力を拡大し、PKKはそこから物的、精神的支持を受けて成長するからである。

40年前、PKKが武器を取り国家に対抗し始めたころ、トルコは軍事政権の時代だった。政府はクルド族を従属的な少数民族と見なしていた。そしてクルド族を独立したコミュニティと認めず、クルド語の使用を制限し、彼らの固有の歴史を否定する教育を行った。それらはすべて軍の非宗教的な民族主義思想の必要不可欠な一部であった。

この10年の間に、クルド人の人権状況は随分改善した。今では公的資金を供給されたクルド語テレビ・ネットワークが24時間放送を続けている。にも関わらず、多くのトルコ人はまだクルド族の民族主義を疑っている。特に軍の中枢と軍部よりの民間勢力内では、この立場は一般的である。

現在シリア北部ではISISと戦うクルド人がPKKと結び付きを強めており、これをしようという動きがトルコ国内にも強まっている。しかしこのような感情に対し軍はきわめて冷淡である。

アラブ人支援へのためらい

古い世代のアラブ人への憎しみは依然として残っている。

エルドアン大統領とダヴトグル首相は、中東における全てのスンニ派の自然な調和について語る。しかしオスマントルコ人帝国の500年にわたる支配は、トルコとアラブのスンニ派教徒の間に深い疑念を残している。

多くのトルコ人、とくに軍関係者は、過去の1世紀を西欧に支援されたアラブ人による一連の裏切りの時代として振り返る。例えば第一次世界大戦の時、アラブ人の指導者たちはイギリスと組んでイスタンブールに反旗を翻した。

2012年、シリア国境の町アクサカレでシリア軍の誤爆により5人のトルコ市民が犠牲となった。その直後に著者は一人の知識人(非宗教主義)と話す機会があった。彼はこう言い切った。「彼らはトルコ人ではない。アラブ人だ。我々にとって、それがなんだ?」

たしかにトルコ軍は軍事的にその攻撃に応じた。しかし報復は抑制されたものだった。いま同じように、軍将校の一部は多国籍の反ISIS作戦に加わることにも抵抗している。そこには根深い反アラブ感情が根ざしているように思える。

軍のかかえる懸念

トルコ軍の海外派兵はその属する政府の指令によるものであり、しばしば誤って語られるように米国やNATOの指示によるものではない。

トルコ軍は本質的に保守的な組織である。かれらは朝鮮戦争でのトルコの犠牲者数の多さについての国内で攻撃されたことを覚えている。トルコ軍はアフガニスタンでは戦闘任務を拒否した。

将軍たちの懸念は他にもある。それはISISやシリア軍と戦う場合に軍事技術上の弱点、あるいは作戦上の弱点が暴かれることについての懸念である。それは大衆の軍部離反を促す可能性がある。そしてエルドアンに対する政治闘争を継続する上での利点を失うことになる。

例えば2012年6月にトルコのジェット戦闘機がシリア軍により撃墜された事件は、そのような懸念があからさまになった手痛い事件であった。

結論

トルコがISISと戦うかどうかを決めるのは政治的な選択である。しかし、それはコバネでクルド人と肩を並べて戦えということであり、シリアに安全地帯を設置しアラブ人を保護せよということだ。軍の指導部にその選択を納得させるのは至難の業であり、そう簡単にことが進むとは思えない。


今年初めの記事なので少し古いです。しかも米国務省のシンクタンクのレポートなので、軍の立場に対してきわめて同情的ですが、事実関係については参考になると思います。6月の国会選挙の前がどうであったのかを知る上では、かえって有用かもしれません。

6月の選挙の結果は、エルドアンにとってだけではなく軍部にとっても予想外のものだっただろうと思います。それはリベラル派の進出を計算に入れていなかったためのものです。

2003年のクーデター計画の発覚後は、軍事独裁の再現を防ぐためにリベラル派もふくめ圧倒的な国民がエルドアンを支持しました。その結果、エルドアンは果敢な行動により軍の抑圧に成功し、EUの支持も取り付けて強固な基盤を確立することができました。

さらに権力基盤を強化するためにクルド人にもウイングを広げ、クルド人もこれに応じたことから、エルドアンの人気は不動のものとなりました。しかしその底では、リベラル派の急速な勢力拡大が進行していたのです。またイスラム原理主義への反感からエルドアン離れも進みました。

6月の選挙で明らかになったのはもう一方の主役としてのリベラル派の登場でしょう。選挙前にはエルドアン、軍部、クルドという3極構造であったのがエルドアン、軍部、クルド+リベラルの三極となりました。

これに応じて軍は立ち位置を代えオプションを変更する必要に迫られました。これは未だに進行中と思われますが、反クルド・反リベラルの路線を取るならば、従来以上にエルドアンとの距離を縮めなければならないし、反宗教・非アラブの路線を取るならクルドやリベラルに対する抑圧的態度を修正しなければなりません。

そこで両者の「不人気投票」が行われ、結果的には前者の路線を採択したのだろうと思われます。

なお「リベラル派」と便宜上一括しましたが、そのような呼び方はなく、果たしてそのような潮流が確固として存在しているのかどうかもわかりません。前後の状況からしてそういう親EU的な勢力があるだろう(とくに出稼ぎ労働者)と言う作業仮説に過ぎません。もう少し調査が必要のようです。

主として澤江史子(上智大学総合グローバル学部) 「トルコ民主化の経緯」を柱に各種資料の情報を付加した。

1923年10月 トルコ共和国の樹立が宣言される。共和人民党の一党制が敷かれる。

1924年3月 大統領を国家元首とし、国民主権や世俗主義を柱とする国家建設が宣言される。(脱亜入欧)

1937年 世俗主義条項が憲法に挿入された。トルコ民族文化が国家の存立基盤だと考え、非トルコ系民族文化や、共産主義運動を主要脅威とみなし、抑圧した。

1950年 選挙による政権交代が実現し、民主党政権が誕生。第1位政党が当該選挙区議席を独占する選挙制度のため、民主党は国会で圧倒的多数を維持する。

1960年 

4月 民主党政権批判が高まる。民主党メンデレス政権は軍隊を動員して共和人民党の選挙活動を妨害し、メディアへの検閲体制を強める。さらに共和人民党を「無神論者」や「共産主義者」などと呼び、政治活動禁止、同党に関する調査委員会の設立を強行採決。全大学が閉鎖され,多数が秘密裏に拘束される。

5月27日 1回目のクーデター。護憲クーデターとしての側面を持つ。当時の陸軍総司令官であったギュルセル大将を担いだ青年将校グループが打倒。

5月 軍は民主党幹部を逮捕し、党の解散、国会の停止を宣言する。旧民主党幹部は懲役刑に、党首等3人は絞首刑に処せられた。

1961年 民政移管のための総選挙。「民主主義体制擁護の貢献者」として軍部の政治介入が正当化される。大統領は軍出身者が占め、軍幹部が終身議員に着任。4軍司令官よりなる国家安全保障会議に内閣への「助言権」が与えられる。

1970年 イスラーム復興運動が勃興。国民秩序党が創設される。新選挙制度のもと国会は小党分立状態となり、政権交代が繰り返される。

1971年 政治介入を示唆する軍首脳の書簡が大統領に送付され、内閣が総辞職に追い込まれる。「書簡クーデター」と呼ばれる。軍のアタチュルク思想からの離反。

1972年 ビュレント・エジェビトが共和人民党の新党首になる。党及び政治の民主化を主張し,軍の政治介入に反対する。

1980年 国民生活は年率100%を超えるハイパー・インフレで疲弊し、テロが激化。

政治混乱の直接の原因はイスラム勢力の増大によるものだった。イスラム派は建国の父アタチュルクを批判、世俗主義を否定した。これに対抗する左翼も勢力を伸ばす。両者の対立は武力衝突へと発展する。

1980年 2回目のクーデター(9月12日クーデター)。政治混乱と経済政策の停滞を理由とする。約3年の間、軍部による独裁政治が繰り返される。旧政党は全て非合法化されて幹部は懲役刑に処せられる。しかし軍の真の敵は共和人民党と左翼勢力だった。

1982年 軍政下に憲法が制定される。議会選挙は比例代表制で10%の足切り条項。「国家安全保障会議の決定事項を、内閣は最優先に考慮する」ことが明文化される。

1983年 総選挙が実施。軍事政権のチェックを通った政党と政治家のみが参加。

1987年 トルコがEU正式加盟を申請。これを契機にEUの民主化基準が外圧となり、これに沿った民主化が求められるようになる。

1987年 選挙プロセスが大幅に民主化され、野党の政権獲得も可能になる。

1990年 クルド語での出版や音楽活動が解禁される。

1995年 大学の学生や教員が政党の党員になる権利や、上級公務員が労組を結成する権利が認められた。

1995年 総選挙。親イスラームの福祉党が第一党となる。軍幹部の圧力で第二党の中道右派政党が政権を握る。

1996年7月 政権党の腐敗が発覚。福祉党を首班とする連立に移行。

1997年2月 福祉党のイスラーム復興の動きに軍が反応。国家安全保障会議は福祉党が国是である世俗主義原則に反すると批判。「体制の危機」を宣言。福祉党非合法化を始めとする復興勢力弾圧が実行される。福祉党幹部でイスタンブル市長のエルドアンも投獄される。

2002年 総選挙。中道右派とイスラム勢力の結集した公正発展党が勝利。

2004年 国家保安裁判所を廃止する憲法改正。メディア・教育への軍の関与も制限される。

2005年10月 民主化プロセスが認められ、EU加盟の最終段階である正式加盟交渉が開始される。

2006年 EUによる民主化の進捗報告書。軍幹部が政治的影響力を行使しようとして公式・非公式に政治的発言を行うことが続いていると指摘。テロ対策法が広範に解釈され、自由を抑圧する法的根拠となっていると警告。

2007年 総選挙。公正発展党は圧倒的な勝利を収め、単独過半数を獲得。

2008年6月 憲法裁判所、大学構内でのスカーフ着用容認の憲法改正を違憲とする判決。

2009年1月 国営放送にクルド語専門チャンネルが開設される。

2010年 憲法改正。①80年クーデターの実行者を起訴することが可能になった。これにより軍政期の拷問やパージ等の責任を司法で争うことが可能となった。②軍の人事についても思想・信条などを理由とする人事は司法に提訴することが可能となった。③司法人事も変更され、下級判事の意見が反映されるようになる。④高等教育やマスメディアの統制委員会における軍代表常任委員ポストが廃止される。⑤国家治安裁判所が廃止される。しかし言論の自由などの面でさらに実質的な改革が進むのかは不明確。

2012年 アンカラ第12高等裁判所が1980年のクーデターの首謀者の裁判を始める。被告はKenan Evren参謀総長とTahsin Şahinkaya空軍司令官(いずれも当時)の二人。

2013年5月 イスタンブールで民衆の抗議デモが盛り上がる。

エルドアンはイスラムの位置づけ、ケマル・パシャへの評価を明確にしないまま、スカーフ着用の緩和や酒類販売の制限などを進め、これに抵抗が起きると強権的に対処しようとした。

  

トルコ情勢を検討する際は、トルコ軍の野蛮さを念頭に置かなければならない。ここに触れていない解説記事は、基本的にはクソである。


たとえば、10月22日、アンカラでのエルドアンの発言はひどいものだ。

アンカラ駅前自爆テロ事件に関し、エルドアン大統領は、「アンカラ駅前で発生した事件は、テロをいかにして共同で引き起こすことができるかを示すものだっ た。そこにはDEAH(ISIL)も、クルド労働者党(PKK)も、アサド政権の諜報機関(ムハバラート)も、シリア北部のクルド民主統一党(PYD)も いて、皆で一緒になってこのテロを計画した」と語った。

誰が考えてもナンセンスの極みで、トルコ政府には情報収集能力が欠如していると言われても仕方ない。

しかし、あえて深読みすれば、このナンセンスさは、それが軍部による犯行だった可能性を暗に示唆しているのではないか(正しいかどうかは別)。

エルドアン個人の様々な思惑を推量しても始まらない。背後にいるトルコ軍部がどういうものなのかを、我々は理解しておく必要があるだろう。


1997年9月12日付けの新聞「ラディカル」はクーデター記念特集で,80 年9月から三年間の出来事として,次のような数字をあげている。

*拘留者総数 65万人(うち23万人が裁判へ)

*死刑求刑 7千人(うち517 人に死刑判決,49人が処刑される)

*非合法組織メンバーとして裁判を受けた者 9万8千404人

*要注意人物として記録された者 168万3千人(うち38万8千人にパスポート取得禁止措置)

*外国への亡命者 3万人(うち1万4千人がトルコ国籍を失う)

*不審死 300人(うち171人が拷問死,いまだに行方不明の者800人)

*刑務所のハンストによる死者 14人

*閉鎖された団体 2万3千667組織

*解雇者数 教師3千854人,大学研究者120人,裁判官47人

*左遷された公務員 7千233人

*解雇された公務員 9千400人

*発禁映画 937本

「ラディカル」紙が掲載したパージの数字は,国家の唯一の「守護者」となった軍が,その目的を遂行するための権力を行使するとどうなるかを示すものである。
70 年代の混乱の中で,国民の間には,軍に政治介入を求める期待感もあった。そして,クーデターによって,日常的に起きていたテロ騒ぎはなくなり,平穏な市民生活が戻ってきた。だが,その後の大規模な政治弾圧は,時代を暗い雰囲気にさせた。

アタチュルク,そして軍…現代トルコ〈非民主性〉の系譜より

 軍部独裁の経過については、次の記事に掲載しておく。

これらの蛮行を繰り返した軍幹部は未だにのうのうと暮らしている。彼らがもっとも恐れているのは左翼の伸長ではないか。アルゼンチンやチリのように軍の残虐行為が暴露され、その責任が問われることではないか。

80年代、トルコは中南米と並び人権侵害が甚だしく強い国だった。

しかし左翼のネットワークがつながらなかったために、真相はほとんど分からずじまいだった。アムネスティかほそぼそと断片的な情報が流れてきたが、全体像をつかむにはあまりにも情報が不足していた。

驚くべきことに、それは現在もなおそうである。

1.巨大な数をどう評価するか

各種情報を総合しても、なぜこれほど多くの人が弾圧されたのかは分からない。それどころか軍事独裁を賞賛する声すらある。

2.目的と数との不整合

左右両派が激突して政局が不安定だった、経済が停滞していた、国民が政争に飽き飽きしていた…

と理由はあげられている。それならクーデターで店じまいすれば終わりだ。おそらくそれから大量弾圧が始まったのだろう。

目的からすればこのような数は不必要だ。ピノチェトもアルゼンチンの独裁もたんに混乱を収集するためのクーデターではない。だからあれだけの数が必要だったのだ。トルコもおそらくそうだろう。

これについての説明がない。

3.「目的」と出口の不整合

左右両派の激突を避けるためというのが目標だったはずだが、弾圧の犠牲者は圧倒的に左翼だ。

ケマルの宗旨から言えば、最大の敵はイスラムのはずだが、実際にはイスラムは温存された。根こそぎにされたのはケマル左派だ。ここに80年クーデターの最大の特徴がある。

統計から見ればあまりにはっきりしているこの事実に、ほとんどの文献(少なくとも日本語文献)は目をつぶっている。

あまり乗り気ではないが、洋文献に当たるしかなさそうだ。


トルコが何故かシッチャカメッチャカになっている。
理由ははっきりしているので、エルドアンが迷走を重ねているからだ。
何故エルドアンがヘンチクリンになったのか。
それはトルコ軍部が強烈な圧力をかけているからだ。
トルコの軍部はもともと人民弾圧にかけては凄腕だ。
10万20万殺すのはへとも思っていない。
今でも、いつでも表舞台に立つ準備はできている。
エルドアンはこういう連中とうまく折り合いながら、少しづつ実績を積み重ねてきた。
こいつらをやっつけるだけの力は未だに身につけてはいない。
それはトルコの薄皮一枚の民主主義の現状だろう。タイやエジプトと同じだ。
それでトルコの軍部がどういう論理で動いているかというと、アメリカの軍産複合体の言うがままの戦略だ。
これが随分変わってきている。
もともとはロシアの南下を防ぐ防壁である。すなわちどういう形であれ、共産主義(基本的にはスターリン主義)を防ぐことに存在意義があった。
そういう存在意義が薄れ、彼らの土台も揺らいでいた。
ところが今度は中東からの原理主義の拡大を防ぐ防壁としての役割がにわかにクロースアップされてきた。
軍としてはなんであれ紛争の火種があればよい。
そうやってエルドアンのおしりに火をつけた。
しかし今度は軍部も相当やばい。下手をすれば自分のところにも火の粉が降りかかる。
なぜならアメリカの中東戦略はイスラエルの中東戦略の後追いだからである。
イスラエルが決めて、それにトルコが追随することになる。
そうするとどうなるか。
1.トルコがスンニ派攻撃の主役となる
2.その結果生じた難民の受け皿となる
3.スンニ派テロの標的となる
4.イスラエルと同列にみなされることになる
ある意味で、「ザマァ見ろ」の世界だが、それで軍部の無責任ぶりが明らかになれば、トルコ情勢は大きく変わるだろう。
そのリトマス試験紙はエルドアン対EU、エルドアン対クルドの関係として現れてくるだろうと思う。
さしものトルコ軍部にも、ようやく落日が訪れようとしている。そこに注目してトルコを見ていこう。

少し調べていくうちに以下の様なことが分かってきた。

1.フーシ派というのは一言で言えば山賊集団である

北部の山岳地帯の部族で、あまり政府の言うことを聞かない集団だった。それで10年ほど前に政府軍の攻撃を受けたが、それを跳ね返してしまった。

そのときに中心になったのがフーシという人物で、彼を中心にシーア派の教えを掲げて武装集団を結成した。

それが「アラブの春」で政権が弱体化すると、機に乗じて中央進出を計った。

去年の9月に首都サヌア入りし、街の治安を勝手に取り仕切るようになった。

2.軍隊は元大統領派と現大統領派に分かれて無力化していた

「アラブの春」で失脚したサレハ独裁政権だが、軍のサレハへの忠誠心は高かった。

なぜなら軍幹部は徹底した地縁・血縁で結ばれていたからである。彼らの利害関係はサレハのそれと一致しており、ハディ政権によって人事が刷新されることを何よりも恐れていた。

だから旧来の敵であるフーシ派がサヌアで勝手なことをしても、見て見ぬふりをしていた。さらに、その一部はフーシ派と結びついてハディ政権の転覆を計った。

3.なぜハディ政権は倒されたのか

ここの情報は殆どない。

したがって想像する他ないが、フーシ派にさほどの理由があったとは思えない。田舎出の失業青年たちに政権担当能力があるとは思えない。むしろ弱体な現政権のもとで自由を満喫していたほうが良いはずだ。

だから、政権とフーシ派が衝突するような原因は、政権側にある可能性が高いと思う。

多分、サウジの意をくんだハディ大統領が自派勢力の増強に乗り出したのではないか。

もともとキタとミナミは犬猿の仲である。フーシ派も国軍のサレハ派も北部の出身だ。これに対しハディの出身地は南部、アルカイダと重なり合っている。

そこにサウジなどから潤沢な資金が入り込んだらどうだろう。フーシ派は相当の脅威を感じるのではないか。

そこでフーシ派はハディ追い出しにかかった。かなり稚拙な戦術だと思う。シーア派がこの国で権力を取っていいことなど一つもない。そのくらいだれでも分かる。

4.サウジの思惑

これから先は絵に描いたような筋書きだ。

サウジは湾岸諸国と組んでイエメン攻撃を発表した。そしてこれがスンニ対シーア派の争いであるとし、その背後にイランがいると決めつけた。イランにしてみれば「ふーん、そんなところにシーア派が居たの」くらいの話ではないか。

20日のサヌアでの同時多発テロは誰がやったかわかったものではない。これがアルカイダならさもありなんと思うが、ISISにそれ程の力があるだろうか。

サウジの国王は元国防相で、その頃からGCCの軍事同盟化への思惑があった可能性がある。原油安不況への対応としても考えられた可能性がある。

それ以上に、米国の弱体化を見て危機感を抱いた可能性がある。フーシ派の愚挙を奇貨として、自ら同盟軍の盟主となり、その力で中東の安定を図ろうと考えたのではないか。

ただ、この種の戦争は始めるのは簡単だが、終わらせるのは容易ではない。どのように収拾していくかが腕の見せどころだろう。

作戦のその行方を固唾を呑んで見守っているのがイスラエルだろう。


イエメンに関しては下記のページもご参照ください

赤旗にまとまったイエメン情勢の報道(小泉特派員)が載った。

これまでイエメンといえば、旧南イエメンと北イエメンとの摩擦であり、アルカイダの拠点であり、挫折したアラブの春であり、無人機攻撃の対象であり、と断片的ながらそれなりに国際面を賑わせてきた。

今度はちょっとレベルが違う。政府が打倒され、大統領が逃げ出し、それが追い詰められているという事態だ。

しかもその主役は市民でもアルカイダでもなく、シーア派だというからびっくりだ。

一言で言えば、イエメン情勢は急展開し悪化し、「国際戦争」化しているといえる。

もともとイエメンは、「統治不能な国家」だとみなされてきた。オスマン帝国や大英帝国も悪戦苦闘した。ナセル元エジプト大統領は、1960年代のイエメン内戦で面目を失った。その後国は南北に別れ対立を続けてきた。

例によって時系列で整理する。


1986年 南イエメンで内戦となる(アデン内戦)。アリー・ナーセル前大統領派(民族派)がYSP政権(社会主義派)に対し反乱を起こすが敗退。マンスール・ハディらが北イエメンに亡命。

1990年 南北イメエンは統合を発表し、イエメン共和国が成立。北のアリー・アブドッラー・サーレハが大統領、南のアリー・サーレム・ベイド(YSP書記長)が副大統領となる。統合当時の人口は北が約900万人、南が約250万人程度。

1993年 第1回総選挙。サーレハ大統領与党が勝利。YSPは56議席で第三党に転落し、北部の部族勢力と南部のウラマー層を基盤とする改革党(イスラーハ)が第2党となる。

1993年8月 イスラーハによるYSPへの攻撃が強まる。アルベイド副大統領は職務放棄してアデンに引きこもる。

1994年5月 イエメン内戦。アデンのアルベイドが「南イエメン国」の独立を宣言するが、まもなく陥落。サーレハは南部出身で親北派のハーディーを後任副大統領に指名した。

イエメン

2004年9月 イエメン北部のシーア派武装勢力「アンサルラ」(Ansarullah)が政府軍と戦闘。以後6年間に6度闘い政府軍を跳ね返す。政府軍は指導者フシが死亡したと発表。

シーア派の中ではザイド派を呼ばれ、イランの「12イマーム派」とは異なる。元々は信仰復興運動だったが、アブドルマレク・フーシが率いるなかで、最も実力のある武装勢力の1つに変身した。

2009年11月 フシ派がサウジ領内に侵入。サウジ軍がフシを捕らえたとの報道。12月では空爆で死亡と発表。

2011年

1月 アラブの春でサレハ退陣をもとめる運動が高まりを見せる。

11月 サレハ、GCCイニシアチブを受け入れる。(ハディーへの権限移譲、挙国一致内閣、サーレハへの訴追免除など)

2011年 「アラブの春」による混乱に乗じ、フーシ派武装勢力が北部サーダ周辺の山岳地帯の支配を固める。

2012年2月 大統領選挙でハディ政権が誕生。サレハ独裁体制が終わる。ハディは「国民対話」を開始。

ハディはサレハ政権の副大統領で、さしたる国内基盤を持たず、サウジの後援のみが頼みの綱。
南部のスンニ分離独立派と北部のシーア派系「フーシ」は投票をボイコットした。

2014年

1月 包括的国民対話会議は合意文書を発表し、憲法制定と議会選挙、大統領選挙を1年以内に実施することとした。

2月 武装組織「 フシ 」が首都サヌアの北西約50キロのアムランに進出。政府軍との戦闘が始まる。

9月15日 フシがサヌア北部に進出。激しい戦闘が続く。

9.20 国連が仲介し、「全政治勢力による集中協議の末」に挙国一致内閣の樹立で合意。

9.21 フシ派部隊、首都サヌアの政府庁舎を占拠し、首相退任を迫る。政府はこれに屈服。サヌアの治安は、フーシ主導の連合部隊に置き換えられる。サレハ元大統領に忠実な軍部隊もフーシ派に協力。

2015年

1月 「アラビア半島のアルカイダ」(AQAP)を名乗るグループがパリの新聞社を襲撃する。AQAPはイエメン中部および南東部を拠点とする、南部分離派の分派とみられる。

1.22 フーシ、新憲法の内容を巡り政府と対立。大統領官邸や国営放送局を占拠する。ハディは辞意を表明。

2.06 フーシ派武装勢力が政権掌握を宣言し、議会を強制的に解散。フシを首班とする革命委員会が、暫定統治の開始を宣言。国軍はハディ派とサレハ派に分裂し動けず。

イエメン軍は、62年以来、一貫してアムラン、サナア、ダンマール出身(要するに北部のザイイディ派)の将校により支配されてきた。
サレハの私兵の如く動いてきた彼らは、ハディ政権のもとで既得権を奪われるのを恐れた。

2.21 ハーディーは辞意を撤回。クーデターを承認しないよう国際社会に求める。

3.10 サウジなどGCC5カ国が、イエメンへの空爆作戦を決定。ヨルダン、モロッコ、スーダンが戦闘機を派遣、エジプトとパキスタンが戦艦の配備を表明。イランはこれに強く反発。

3.20 サヌアでのフーシ派の集会にISISが自爆テロ。137人が死亡。

3.22 フーシ派、イエメン第3の都市タイズを制圧。ラハジ州の米軍基地の要員が撤退。

3.22 フーシ派スポークスマン、ハディ大統領がAQAPに武器を渡しており、イエメン南部がAQAPの支配下に入る恐れがあると語る。

3.25 フーシ派、アデン北方60キロのアナド空軍基地を制圧。アデンの大統領宮殿を空爆。

3.25 フーシ派がアデンを攻略。ハディ大統領はリャドに逃れる。無人機攻撃を指揮する米軍特殊部隊も退去。

3.26 GCC軍が[決意の嵐]作戦を実行。首都サヌア空港や一連の軍事施設を空爆。サウジ100機、湾岸4カ国70機、ヨルダンなどから15機が参加する大規模なもの。子供6人を含む民間人25人が死亡する。

3.26 ハディ大統領派の部隊が、南部のアナド空軍基地やアデン国際空港を奪還。サウジは地上部隊による攻撃も排除しないと述べる。

3.26 GCC5カ国が空爆の正当性を訴える共同声明。

3.26 アラブ連盟が外相会議を開催。「フーシ派への空爆はハディ大統領の要請に基づくものであり、主権に対する攻撃ではない」とし、空爆支持を表明。イラクは異論を唱え、平和的解決を主張。

3.26 イランのザリフ外相、「イエメンに対する外部からの軍事攻撃は領土保全への侵害であり、国民のさらなる流血と死をもたらす。外部からの干渉なしの緊急対話が必要だ」と語る。

3.28 アデンで終日激しい市街戦。フーシ派はアビヤン、シャブワなど南部諸州への攻撃を強める。

3.28 サウジ国防省、3日間で作戦の第1段階は目標を達成したと発表。航空機は総て破壊され、通信網も破断されたとする。

3.28 アラブ連盟首脳会議が開かれる。イエメンのハディ大統領も出席し、イランを激しく非難。空爆継続をもとめる。エジプトのシシ大統領は「アラブ合同軍」の創設を提案する。

3.30 GCC軍、北部の難民キャンプを空襲。45人が死亡(国際移住機関による)。サウジは空襲の事実を認める。


イエメンに関しては下記のページもご参照ください

2012年09月08日 

この年表は1986年までのものですが、現在のイエメンと比べる時、あまりの落差に愕然とします。まるでSFの世界です。あの英雄的プロレタリアートたちはどこに行ってしまったのでしょう。

The Economist explains
Jan 4th 2015
Where Islamic State gets its money

という記事があった。下記がその全文である。


残忍な聖戦主義者、イスラム国家(IS)を打ち負かすのは容易ではない。アメリカに率いられた連合軍がそうしようとしているが。

ISは、世界のbest-financedされたテロリスト組織の1つである。国家に後援されたものを除いては。

この秘密グループの正味の財産については信用できる見積りがない。しかし、2014年10月に、アメリカの当局者は「かなり大きい札束」で富をためていると見ている。

イスラム国は月400ドルくらい戦士に給料を支払う。そして、それはシリアの反乱グループやイラク政府の給料より多い。彼らはトラブルなく武器類を購入している。買い入れ先は闇市場に顔を出す堕落した当局者、あるいは民兵である。

彼らは支配地域の政務をこなしている(常に成功しているとは限らないが)。学校教師に給料を払い、貧者や寡婦を養っている。

そこでだ。彼らはどこでそのカネを手に入れるのだ?

この富なしで、ISはそんなに速く広がることができなかった。

彼らは2013年3月に現在の形態での存在を宣言したばかりだ。それは彼らがイラクからシリアに進出した時だ。その後彼らはアルカイーダとたもとを分かった。

それから彼らは二つの国にまたがる帯状の地域を闘い取った。2013年6月までに、シリアの都市Raqqaを占領した。そして、2014年6月に、それはイラク第二の都市モスルを占拠した。そして600~800万人の住む地域を制圧した。そして6月の末に「カリフ国」を宣言した。

戦士は、グループに加わるために群がった。

2014年9月までに、3万人の男性、婦人警官隊の中の一部の女性がいた。そして、そこには1万5千人の外国人戦士を含んだ。

al-Qaedaを含む他のテロリストのグループと違って、ISは金持ちの支持者によってではなく、主に自らの力で資金を確保する。(アメリカ、イランまたはイスラエルがグループに資金を出しているとの情報も飛び交うが)

ISは湾岸諸国の支援者から寄付を受けているけれども、それらは財源の比較的微々たる要素である。

ISの資金の中心は、外部からの支援ではなく、西イラクと東部シリアの支配区から算出する石油の収益である。

アメリカの当局は、空襲の開始前、石油からの収入は1日あたり200万ドルと見積もっている。現地の情報ではそれ以上だと言われている。当局者は空爆により石油収益はかなり落ちたとしている。

(これは変な話で、石油施設くらい破壊しやすいものはない。その気になれば1日で壊滅させることができるはずだ)

それだけの土地を支配することは、ISが徴発と徴税によって資金を獲得することを可能にする。

それは、他のjihadistグループのように、誘拐が有益だということを学んだ。

ISは、去年1年で少なくとも2千万ドルの身代金を獲得した。フランスとスペインのジャーナリスト数人を含む人質であげた収入である。

このグループは、その資金源を切り離すことなしに破ることはできない。

だから連合国は、グループの軍備強化の抑制と同時に、収入源への攻撃を目標にしているという。アメリカとその同盟国は、シリアでISに支配された精油所に対する空襲を実行した。

アメリカと英国は身代金を人質の代金として払うことに対して厳しい政策を持つ。ヨーロッパの国に、身代金の支払いをやめるように圧力をかけている。

いくつかの国は、ISリーダーに対する制裁とおなじように、募金に応じる人々への制裁も適用している。

しかし、当局は長い戦いであると強調する。

今のところ、ISはまだ、必要とするもののすべての代金を払うことができるようである。


この記事を読んでも資金源は明らかでない。石油の売り上げ、“徴税”、身代金というのが収入の三本柱で、これに国外からの援助がくわわる、ということらしい。このうち石油の売り上げを除けば、他のテロリストもやっていることだ。

身代金の収入が年間2千万ドルというが、そんなもの石油の10日分にしかならない。だいいち誘拐にはそれなりのリスクが伴う。成功例の10倍は失敗例(カネが取れないというのもふくめ)があると考えたほうが良い。

資金源が石油だということはわかっている。問題はどのようにして石油が資金源になるのかということだ。石油と引き換えに金を渡している奴は誰なのか、トルコの仲買人だとしたら、その仲買人にカネを渡している奴は誰か、その石油を買って消費しているのは誰か。ここが明らかにされないと、記事の題名は誇大宣伝ということになる。

いずれにしても石油を何とかしなくてはならないのだ。しかも、そのやり方はきわめて簡単なのだ。生産を止めるには生産設備を破壊すればよい。1時間もあれば済んでしまう。販売を止めるには購入を禁止すればよい。石油には“色”がついているから、調べればどこでとれた石油かはすぐに分かる。

こんなことがどうしてできないのか、それが不思議だが、そのことについて答えた文章がない。これも不思議な話だ。

シリア内戦は泥沼化している。と言うより反政府軍の一方的な負け戦になっている。
ことここに至っては、どのような屈辱的な内容であろうと和解を図るべきだ。
アメリカはそもそも、内戦など始めさせるべきではなかった。
アメリカというより、オバマの失敗だ。
米軍本体は完全にイスラエルの線で動いている。イスラエルにとって、シリアの反政府派は絶対に勝利させてはならない相手だ。それなのにオバマは反政府派を煽った。
煽った以上勝たせなければならないのに、途中から手を退いた。
イスラエルはヒズボラまで投入してシリアの反政府を叩いた。

私は、かつて「これで反政府派の勝利は決まり」と書いたことがある。
それはトルコ国境地帯でシリア政府軍の戦闘機が対空ミサイルでバンバン撃ち落とされた時のことだ。おそらくミサイルはトルコから回されたのだろうと思うが、それは米国の黙認のもとであったと思われる。
そのうち突然、ミサイルのミの字も消えてしまった。それと同時にトルコが俄然おとなしくなってしまった。
これらはすべてイスラエルの差金であろう。
当時トルコの鼻息は荒かった。オリンピック開催もほぼ確実にし、経済成長著しく、中東の問題にも積極的に首を突っ込んでいた。
それが、イスタンブールの公園の拡張をしようとしたら、突然学生の抗議行動が燃え上がり、あれよあれよという間に政府の首が飛びかねないような事態に至った。
トルコ・リラは売り浴びせられ、ギリシャの次はトルコかとささやかれるほどになった。
これらの一連の事態は、一つ一つ分析すればそれなりの事情はあるだろうが、全体としてみれば経済のパフォーマンスと著しく均衡を欠いたものと映る。
いずれにしてもトルコにとって強烈なダメージであったことは言うまでもない。

トルコの話が長くなってしまったが、ようするにシリアの事態はオバマの思惑とはまったく逆の方向に進んでいった。これに対してオバマには打つ手がなくなってしまった。
反政府軍は政府軍機の前にやられっぱなしになり、犠牲はどんどん拡大していった。
だから、オバマはミサイル供与が不可能となった時点で、直ちに強引にでも停戦に持っていくべきだったのだ。

というのが、今の私の感想。
をご参照ください。



赤旗で日本エネルギー経済研究所の保坂さんという理事の方にインタビューしている。
ある意味で、小泉大介記者を差し置いての記事だけに、相当の覚悟で載せたものと思われる。
この記事で一番注目されるのは以下の段落。
(これまでアルカイダが国際テロ作戦を展開してきたのに対し、「イスラム国」はイラクやシリアの非シーア派政権をジハードの対象としてきた。しかし8月初旬に有志連合が空爆を開始して以降、「イスラム国」自らが国際テロを加え二本柱の戦略をとるようになった)
空爆で「イスラム国」を根絶させることは不可能ですが、彼らの勢力範囲が今後も拡大していくことは考えづらく、戦線が膠着する可能性が高いと思われます。
要するに長期戦の覚悟をせよということだ。
その際に問題となるのは、「人、モノ、金」だろう。この三方から兵糧攻めする戦略が明確化されなければならない。モノ=兵器は、ひとつは旧フセイン政権の置き土産であり、もうひとつはシリア内戦においてスンニ派諸国からシリア反政府派に渡った武器であろう。これはいずれは尽きると思われる。
ヒトは基本的にはそれほど主要な問題ではないが、イラク(サマラ・ファルージャあたり)のスンニ派から相当数がリクルートされている可能性があるだろう。
カネは、湾岸諸国からそれほど回ったとは思えない。モスルの油田からの上がりが大きなウエイトを占めていると言われるが、どうも実証性に欠ける。
以上から考えられるのは、「イスラム国」にさしたる実体はないということだ。イラク国内に積もった“恨み”を解消し、政治戦線を整理することがもっとも重要だということだ。
イラク国内のスンニ派がシーア派主導の現イラク政権に対して反感を持つのは当然だし、ある意味で正当でもある。ここで挙国一致政権がどれだけ実績を挙げ、スンニ派国民の支持をかちとるか、最低でも中立化させられるかどうかが勝負の分かれ目だと思う。
イラクのスンニ派の人々は元々決して原理主義ではない。むしろイスラム国やアルカイダに対しては反感を持っていると考えられる。彼らを「イスラム国」の側に追いやったのはアメリカとシーア派だ。
クルド人も両派の対立を利用して抜け駆けを計ったから、反感を持たれても仕方ない。クルド民族の高度な自治の要求はそれとして、「イラクは一つ」の線でまとまるべきだ。
ただしそれだけではシリアの問題は解決しない。それはそれで別の面から作戦を立てるべきだ。
それにしてもブッシュのアメリカがいかにイラクを蹂躙したか、いかに国民同士の反目をもたらしたかが、いまさらながらに実感される。「ファルージャの恨み」はどこかで晴らされなければならないのである。

なんともやりきれないニュースだ。
シリア政府軍が反体制派に対する攻撃を強化、過去36時間で200回以上の空爆を行った。
これは「シリア人権監視団」が21日に発表したもの。
監視団によれば、政府軍の空爆はダマスカス近郊や第二の都市である北部アレッポを始め全土におよんでいる。ドラム缶など円筒形の容器に火薬や石油などを詰めた通称「たる爆弾」も盛大に用いられているようだ。
シリア政府軍はこれまで「自由シリア軍」など反体制派武装組織と「イスラム国」など過激派組織の双方に攻撃を行ってきた。しかし米軍がシリアの「イスラム軍」への爆撃を行うようになってからは、反体制派への対応に「専念」できる状況となった。
2011年3月以来のシリア内戦では、これまで19万人が死亡し、全人口の半分に当たる970万人が難民となっている。
アサド政権退陣を求め反体制派を支援してきた米政府は、深刻な矛盾に直面している。
というものだ。
私は、結局米国の中東戦略がイスラエルの国益に沿った形でしか展開されていないところに、究極の問題があると思う。
シリアがずたずたになりイラクの紛争が泥沼化することで、もっとも政治的な利益を得るのはイスラエルにほかならない。


ガザのビサン動物園がひどい状況だそうだ。

イスラエルとの戦闘で大きな被害が出たパレスチナ自治区ガザでは、動物園の動物たちも悲惨な状況に置かれていた。
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園内の建物や檻は壊れ、地面には爆弾による直径十メートルほどの穴も残る。飼育舎の間の焼け焦げた草の上には至る所にサルなどの死骸が散乱する。別の檻では飢えた2頭のライオンの前にクジャクの死骸が横たわる。

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獣医のアルヒシさんは、オスのマントヒヒを指さして言った。「傍らにあるのはメスと子どもの亡きがら。時々触りながら泣くような声を上げるのです」

メスと子は金属片が当たり死んだ。以来人間を寄せ付けず、遺骸を取り除こうとすると激高する

「ひどい状況だ。動物たちを檻から出して清掃することもできない。多くは汚れて弱っているが、ほかに移す場所もない」
gazazoo

この動物園は2008年、サッカー競技場や遊園地と共に建設された。ライオンやワニなど約80頭がいた。エジプトとの境界に作られた密輸トンネルを通じて持ち込まれた。子供たちに人気となり、連日数百人が訪れていた。

しかしそうした施設のほとんどは、イスラエルの空爆で破壊された。

これまで2100人以上が死亡し、多数の住宅などが破壊される中で起きている事態なのだということを忘れてはならない。死者の大半が民間人で、中でも400人以上の子どもが含まれている。

人間は、サルやクジャク同様にガザという檻に閉じ込められ、なぶり殺しにされたのだ。

(毎日新聞、CNNニュースより)

「イスラム国」を調べる。

かなりの大仕事になりそうなのを覚悟で、「イスラム国」について調べてみる。

グーグル検索の上から順に行く。

最初はハフィントン・ポストの8月22日付記事 「イスラム国」が警戒すべきイスラム過激派だとわかる「驚愕のデータ」

「イスラム国」(IS)は、アルカイーダの分派で、以前はISISと称していた。3万から5万の戦闘員を擁していると推定される。その多くが元イラク陸軍兵だが、海外から来た者も多い。ある報道では1500人はイギリス国籍だという。

彼らはシリア陸軍を奇襲し、大量の物資や武器弾薬を奪った。ついでモスルを占領して、複数の銀行から数億ドルの現金を強奪した。またイラク陸軍からも数億ドル相当の軍事物資を手に入れた。

「イスラム国」は複数の油田やガス田を支配下に置き、闇市場で石油とガス資源を売り、1日あたり300万ドルの収入を得ている。

次もハフィントン・ポストで8月30日付の記事 イスラム国の恐怖支配が終わりそうにないことがわかる「仰天データ」

8月19日、「イスラム国」はアメリカ人ジャーナリストを処刑し、その動画を公開した。首を切り落とした男はロンドン出身者とされる。

難民の数は相当ばらつきがあり、国連(人権理事会)が120万、UNHCR が50万人と推計している。

次が8月29日付の記事 「イスラム国」とはどんな過激派組織か? 宮田律氏「日本も無関係ではない」

「イラクの聖戦アルカイダ組織」(懐かしのザルカーウィ)出身者らで構成される。最高指導者はアブ・バクル・バグダディ。

かつては「イラク・イスラム国」を名乗ったが、11年以降、シリア内戦に介入して「イラク・シリアのイスラム国」に改名。

2014年2月、シリアからの撤退命令を拒絶しアルカイダとの関係を断絶。シリア東部を制圧した後、同年6月、イラク西部や北部へ一気に侵攻した。

イラク第2の都市モスルを制圧後、イスラム国家の樹立を宣言して、名称を「イスラム国」とした。

8月に入って、クルド人自治区の主要都市アルビルに迫った。これに対しアメリカ軍が介入し、空爆を開始した。

これでハフィントンポストを終わり、次はウィキペディア

歴史がかなり詳しい。

2000年にザルカーウィがヨルダンで結成したのが「タウヒードとジハード集団」で、2003年にイラク戦争が始まるとイラクに潜入し、「イラクの聖戦アルカイダ組織」を名乗った。

2006年にイラク人民兵の主流派と対立し、他組織と統合。「イラク・スラム国」を名乗る。これは組織の主体が外国人義勇兵であったためとされる。

以降、イラク各地で爆弾テロを繰り返してきた。

2013年にシリアのアル・ヌスラ戦線と合併し「イラクとシャームのイスラーム国」に改称、シリア内戦への関与(とくに自由シリア軍への攻撃)を強める。

アルカイダのザワヒリは、シリア干渉を認めず解散を命令したが、「イスラム国」はこれを無視して活動を続けている。

2014年2月、アルカイダは「イスラム国」とは無関係であるとの声明を発表している。シリア反体制活動家は、「アサド大統領よりも酷い悪事を働いている」と語っている。


とりあえず、このくらい分かればよいか。

いま、イラクのアメルリ(Amerli)での戦闘が焦点となっている。

*この事件が起きるまで、この街はまったく無名の街だった。今でも、Amerli なのかAmirli なのか分からない。ただ、こういう時はアルジャジーラかBBCにしたがうものと相場が決まっている。両方ともAmerliなのでそちらに統一する。

アメルリは6月以来「イスラム国」軍の包囲下にあり、住民虐殺が憂慮されていた。昨日8月31日にイラク政府軍が包囲網を突破し、市内に突入した。これに前後してアメリカ軍が空から援護を行った。

ところが、アミルリのニュースはゴマンとあるのにアメルリについて解説した記事はひとつもない。

英語版Wikipediaですら、ニュースの後追いだけだ(WikipediaはAmirli派)。

一応拾っておくと下記の通り。

人口1万5千人 シーア派少数民族トゥルクメン人(Shia Turkmen)の街, 6月以来 イスラム国家」軍に包囲されている.

国連代表者は、「状況は絶望的だ。市民の虐殺を防ぐため緊急行動が必要だ」と述べている。

8月31日に、イラク軍が市内に入り市民の歓迎を受けた。

amrirumap

グーグルマップに加えましたが、アメルリを間違えました。もっともメディアに比べれば可愛い。


アミルリ全景

アメルリの街の全景です。山際のオアシスの町だということが分かる。


アミリル

6月、「イスラム国」軍の包囲


アミリル防衛

A small town Amirli has a Turkmen majority, 400 locals men & women are defending themselves

この町が有名になったのは、住民が自衛団を組織し、2ヶ月にわたり籠城戦を戦い抜いたことだ。政府軍やアメリカ軍の援助は市民たちの闘いの後に始まった。なにか「7人の侍」を思い起こす。

それにしてもおばさんたちにカラシニコフは似合わない。


一応、不十分ながら包囲戦の経過を記しておく。

2月 アルカイダ内の超過激派が、ISISを結成。

6月 ISISがモスルを占領。イスラム国家の樹立を宣言。

アメルリはバグダッドから北に150キロ、サラハディン州の町。人口は約1万7400人。うち約1万人が女性と子ども。シーア派が多いがスンニ派も混住する。(5千人との記事があるが、5千世帯の間違い)

6月 ISがアメルリを攻撃。包囲戦に入る。イスラム国はトルクメン人を異教徒とみなし、シーア派を背教者とみなす。

電気や水道が遮断され、医薬品が底をつき、食料も不足(24日CNN)

国連のニコライ・ムラデノフ特別代表、「アメルリの住民は絶望的状況に追い込まれている。虐殺が起きないよう直ちに行動すべきだ」とする声明を発表

8月26日 イラク政府、軍のアメルリ派遣を決定。

8月27日 米政府当局者が、空爆と人道支援物質の投下を検討していると語る。アルビル、センジャール、モスル・ダムに続き4地域目。

8月30日 米政府、イラク政府の要請を受け人道支援物資を投下したと発表。活動を援護するため過激派組織への空爆を実施。

8月31日未明、米軍がイラク北部アメルリでイスラム教スンニ派の過激派組織「イスラム国」に包囲されている住民に人道支援物資を投下するとともに、アメルリ周辺のイスラム国の戦闘部隊に対して、3波にわたる空爆を実施。物資投下には、英仏豪3か国も参加。

31日、イラク軍がアメルリに進撃。シーア派民兵も加わる。クルド人の民兵組織も

09月01日 イラク軍は地上作戦を展開し、アメルリをイスラム国から奪還。周辺の町村も解放し、軍の制圧下に置く。


感想としては、アメリカの決断は容認しうるものだということ。ただ、イラク政府の要請に基づくものであること、ISの蛮行を阻止する目的であること、救援を主目標とする限定されたものであること、イラクに混乱をもたらした過去の行動について深く配慮したものであることが要求される。



酒井啓子さんの岩波ジュニア新書「中東から世界が見える イラク戦争から“アラブの春”へ」を買ってきて読んだ。
おっしゃることはいちいちごもっともで、大変参考になる本だ。
しかし、やはりすかっと胸に落ちるわけではない。それは酒井さんの責任というより、世の中がそうなっているからだろう。
政治状況の分析だけではダメで、やはり経済構造の分析に踏み込まないとダメなのかなぁという感じもする。それも一般的な分析ではなく、国内ブルジョアジーの経済的支配を構造的視点から見ていかないと、見た目の近似に振り回されてしまう。
同じように都会の学生やインテリに毛嫌いされたベネズエラのチャベスと、タイのタクシンと、トルコのエルドアンと、エジプトのムバラクは同一視出来ないだろうし、そもそも権力基盤が全く異なる。

イスラミズムについては、それを支持する社会階層の具体的な分析に基づいて評価しなければならないことは言うまでもない。場面場面で共同して闘う必要もあろうかと思う。
とは言いつつも、「世界観」というか、もっともエッセンシャルなレベルでは、やはりそれは否定されるべきものだと思う。西欧的な民主主義の概念を器械的に対置すれば良いという問題ではないが、それが前世紀の遺物であることも間違いない。
イスラミズムは社会の犯した罪に対する罰として提示されているにすぎない。せいぜいが「真正社会主義」にしか過ぎない。少なくともイスラミズムそのものに世界と歴史を前進させる力はない。

左翼勢力が民衆に寄り添うことを忘れてしまったために凋落したという指摘は、ある程度あたっていると言わざるをえない。ただ、民族派政権や軍との癒着の問題はそれとはちょっと異なると思う。むしろそれはソ連への盲従の結果であった。

然るがゆえに、彼らは都合の良い時は重用されたが、要所要所ではしっかり弾圧されている。なぜなら彼らは民衆に寄り添うことを忘れはしなかったし、放棄もしなかったからだ。

彼らが外国勢力に対し自主的な態度をとり続けているならば、いまからでも決して遅くはない。望み無きにあらずと思う。

カイロには我が赤旗の小泉記者の他に、東京新聞も特派員を配置している。

こちらの見出しは「イラン、アバディ氏支持 イラク首相候補 マリキ氏見限りか」となっている。

イラン国営のアラビア語衛星テレビ・アルアラム(電子版)によると、イランのザリフ外相は、イラクのマスーム大統領が新首相候補に指名したアバディ氏に、「挙国一致政権」を早期に樹立するよう求めることで一致した。

イランが事実上、アバディ 新首相の誕生を支持した形。マリキ首相からの政権交代が進む可能性が高まった。

…AFP通信によると、米国やフランス、トルコなど各国も相次いでアバディ氏の新政権樹立を歓迎する姿勢を表明。マリキ氏は三選を目指す構えを崩していないが、国際社会の退陣圧力が強まる中、権力の維持は難しい

…シーア派を偏重してきたマリキ氏に対するスンニ派勢力の反発は強い。さらに、シーア派からはスンニ派の過激派組織「イスラム国」の進攻を招いた責任を問う声も上がり、新政権が樹立できない状態が続いていた。

バグダッド在住の政治評論家ハダド氏は…「イランは、隣国のイラクを不安定化させるマリキ氏よりは、アバディ氏を支持する方が得策だと判断したのだろう」と話している。

ただ、赤旗の小泉特派員は、そのことよりも、政権移行がスムーズには行かないだろうとの見方を強調している。

首都バグダッドには首相指揮下の軍精鋭部隊が展開するなど、不穏な動きも出ています。

さらに現在米軍が「イスラム国」に対する空爆を実施していることから、スンニ派も取り込んだ新政府づくりが順調に進むかどうかは不透明です。

東京新聞の記事はアル・アラムの記事とAFP電をつなぎあわせたもの。ひょっとすると小泉記者の方が、より現場に近い雰囲気を報じているのかもしれない。


WSJ はこれら二つよりはるかに詳しい。

1.イランが、イラク大統領がアバディ連邦議会副議長を新首相候補に指名したことに支持を表明した。

2.これはイラン最高安全保障委員会のシャムハニ事務局長の言明である。

3.最も強力なシーア派武装勢力「アサイブ・アフル・ハック」を含む各政治グループは国民に冷静さを求め、その多くがアバディ氏の指名を歓迎した。

4.11日に治安部隊がバグダッドに展開した。各派は、マリキ氏が武力に訴えるのではないかとの懸念を高めた。

5.12日になって、マリキ首相は、政治的対立に関与しないよう治安部隊に命じた。

6.最近マリキにより解任されたゼバリ外相(クルド人)は、「彼が何を隠し持っているか分からない」と警戒する。

ということで、イランのアバディ支持は重要な分岐点ではあるが、決定的なポイントではないということのようだ。

イラク情勢が急速に動き出した。
結局、マリキ退陣と和解政府の樹立で収まることになりそうだ。
急変の最大の理由は、イランの方針転換。
シリアのアサド支援に始まった介入政策は、イランにとって一つもいいことはなかった。
結局、小手先の外交ではダメだということがようやく分かってきたのだろう。
イラン革命以来、イランの外交は大本では間違っていなかった。
反米・自主の基本は揺らぐことなく続けられている。イスラム原理主義を掲げつつも、(最低限ではあるが)節度は保たれていた。
ただ近隣外交では宗派問題に引きずられ、「敵の敵は味方」的な近視眼に陥りがちであった。
それが米軍撤退後の戦略を完全に読み間違えた。そしてシリア問題で決定的な齟齬をきたした。
シリアは泥沼化し、そのなかでアルカーイダが勢力を伸張し、イラクの抗争にも干渉するようになった。
決定的なのは、アメリカが空爆に乗り出したことだ。
マリキを支援し続ければイラクもまたシリア化する。そうなった場合イランは二正面を戦えるのか。とくにイラクの場合、アメリカは間違いなく制空権を掌握するだろう。
であれば今しかない。マリキを切り、スンニ派と妥協を図り、アルカーイダを孤立させる以外の道はない。そうしなければシリアも共倒れとなる。イランは中東の孤児となる。

問題はアバディが首相に就任した後だ。イラクをどうするかとか、シリアをどうするかというのでなく、中東地域でイランがどのような立ち位置をとり、どのような構えを示すのか、また核問題でどこまで立場を鮮明にするのか、そういう国家としてのグランド・デザインが問われることになるだろう。


これで一段落ということになるのだろう。シシが新大統領に当選した。
いままでは書きにくいから書かなかったが、一応の総括の時期に入ったようだ。
選挙については3つほど特徴を上げることができる。
1.投票そのものは、ほぼ平穏に行われたこと。市民はこれ以上の混乱を望んでいないことの現れだろう。左派も自覚的に非暴力を貫いた。
2.しかし投票率は50%に満たなかった。シシと軍部への不満と警戒は深部に渦巻いていることを示す。
3.左派の対立候補は惨敗した。これは主として左派系の人々が投票という行動よりも棄権(平和的ボイコット)という形で意思表示したことを示す。

それで、2011年1月以来の流れのなかで現在の状況を見てみると、
1.決して振り出しに戻ったわけではない。ムバラク体制が否定され、イスラム原理主義も拒否された。その上での新体制だということは見て置かなければならない。
2.新体制がムバラクなきムバラク体制だとは言い切れない。もともとサダト・ムバラク体制はナセリスト政権の変質・堕落したものだった。軍にはナセルの伝統が生きている可能性がある。(左派の対立候補も元はナセリスト左派であった。もっともナセルも革新的・進歩的ではあったが、決して民主的ではなかった)
3.軍は無傷で残ったが、タハリール広場を埋めた青年の運動も(無傷ではないが)しっかりと残っている。そして「アラブの春」を是と捉えるコンセンサスは厳存している。

などをしっかり踏まえる必要がある。
そのうえで、いくつかの残された問題をあげておく。

1.民主的選挙で選んだ大統領を短期間のうちに非民主的手段で打倒したというスティグマ。
2.原理派の政治活動に対する徹底的弾圧という、それ自体が非民主性をはらんだ政治姿勢。(シナイ半島のアルカイダ系ゲリラへの対応をふくめ)
3.ムバラクの新自由主義的改革路線を継承するのか、それと対決するのか。

以上、本日の赤旗での鈴木恵美さん(早大イスラム研)のインタビューを読んでの感想である。

 本日の赤旗の一面トップがこの記事だ

「中央アジアに核使用禁止  核保有5カ国が議定書調印」

内容は大略以下のとおり

1.核兵器保有5カ国が、2009年3月に発効した中央アジア非核地帯条約に調印した。

2.この条約は核兵器の研究・開発・所有などを禁止するとともに、核兵器保有国が中央アジア諸国に対して核兵器の使用や核脅迫を行うことを禁じている。

3.国連本部で記念式典が開かれ、パン事務総長は核保有国の遅滞ない批准を呼びかけた。

これだけだ。一面トップにしてはえらく中身が薄い。

今回の「核保有国の議定書調印」の意義を探るためには、少し勉強しておく必要がある。

1.中央アジア非核地帯条約とはどんな条約か

2.非核条約にかかわる核保有国の議定書とはなにか

3.なぜ核保有国は調印を遅らせたのか、なぜ今回調印することになったのか

このへんがわからないと、意味が見えてこない。


1.中央アジア非核地帯条約とはどんな条約か

まず中央アジアという地域を知ることにする

中央アジアを構成するのはカザフ、キルギス、タジク、ウズベク、トルクメンの5カ国。キルギスのほかはすべてスタンがつく。スタンというのは「~人の国」という意味で、「State of ~」ということになる。

一口に中央アジアと言っても、内部には相当の力の差がある。
西側3カ国が石油資源を有するのに対し、タジクとキルギスは山の中の小国にすぎない。

カザフは中央アジアといっても半ばシベリアで、3割がロシア人だ。これはウクライナの倍になる。これに対し、南はアフガンやウイグルとの関係が濃厚だ。

5カ国の中ではカザフスタンが圧倒的な影響力を持っている。面積はほかの4カ国を合わせたより広い。GDPも桁違いだ。一人あたりGDPはロシアをさえ上回るほどだ。

だから中央アジア5カ国としてまとまるためには、カザフスタンのイニシアチブとフェアプレー精神の発揮が不可欠となる。

かつてカザフはソ連の一部であったがゆえに、その崩壊時に核保有国となった歴史を持つ。また、カザフはセミパラチンスクの核爆弾実験場(現在は廃止)をもち、多くの人が核汚染の後遺症に悩む被爆国の一つだ。

だから非核地帯構想は核の放棄の構想でもある。それはたんに核の問題にとどまらず、セミパラチンスクの記憶を頼りとして、この地域の独立と平和、連帯を祈念する象徴となっているように思える。

中央アジア非核地帯条約は2006年9月に締結され、09年3月に発効している。セミパラチンスクで調印されたことから、セミパラチンスク条約とも呼ばれた(現在ではセメイと地名が変更された)

内容は
1.核兵器若しくは核爆発装置の研究、開発、製造、貯蔵、取得、所有、管理の禁止
2.他国の放射性廃棄物の廃棄許可等を禁止
3.核兵器国の核兵器による威嚇を禁止
ということで、放射性廃棄物一般にまで踏み込んだかなり包括的なものだ。
ただ3番目の事項は、核保有国の合意がない限り意味を持たないものであるから、今回の5大保有国の調印で初めて本格的に発効したことになる。

条約の詳報は下記を参照されたい
中央アジア非核兵器地帯条約(抜粋訳)

2.非核条約にかかわる核保有国の議定書とはなにか

ということなのだが、今回大々的に取り上げられた肝心のポイントが見えない。

記事を読んだものはだれでも不思議に思うだろう。条約は2006年に調印され、09年に発効している。それを5大国が承認したことにどのようなニュース性があるのかと。

他のメディアもあたってみたが、どこもぱっとしたものはない。なかではNHKがちょっとコメントしているのが目につく。

世界の非核地帯条約のうち、5つの核兵器保有国がそろって核兵器を使った攻撃や威嚇を行わないと定めた議定書を批准したのは、南アメリカとカリブ海の非核地帯条約だけで、今回の5大国の署名が核軍縮を巡る動きにどのような影響をもたらすのか注目されます。
「なぜそうなったのか」をNHKは語らない。さすがにNHKだ。

そこを説明すると、
06年に調印された時、核保有国の一部に反対があってこの条約を尊重するという議定書に5大国が署名しなかったからであり、それがこのたび合意に達したということである。
それでは誰がどこに不合意だったのか、なぜそれが今頃になって合意に至ったのか、そのあたりの事情が明らかにされないと、ニュースの形を為さないのである。

3.なぜ核保有国は調印を遅らせたのか、なぜ今回調印することになったのか

ここでちょっと難しい話になるが、

核保有国が非核条約を尊重し、核を用いないことを約束することを「消極的安全保障」(negative security assurance)と呼ぶ。それは核拡散防止条約の精神から派生したものである。

(私見だが、negative security assurance はひどい用語だと思う。せめて Moderate とかAccordant とかすべきである。それに対して「積極的に関与する」政策はけっしてPositive ではなく、むしろAggressive というべきだろう)

核拡散防止の本来の目的は、その国が核兵器を保有しないようにすることであり、それが実現するのなら、見返りに核兵器の使用をしない約束を与えることにある。
したがって、非核地帯が実現するためには核保有国の心証が決定的な要素となる。
かなり核保有国にとって虫のいい論理だが、とりあえずそれは受忍しよう。それではどういうファクターが核保有国の心証を形成するのだろうか。

探していたら「原水禁」のページで以下の様な記述を見つけた。

2006年9月の非核条約締結時、条約の尊重を定めた議定書にロシア、中国は賛同したが、米・英・仏は条約に問題点を指摘し、署名しなかった。

その問題点とは、
1.既存の国際条約との整合性
2.核兵器の一時通過権の保留

の二つである。

1.はロシアをふくむ「タシケント集団安全保障条約」(92年設立)との優先度であり、集団安保が優先するならアメリカは核を含む交戦権を維持しなければならないという理屈だ。

たしかにソ連をふくむ地域集団安保など破棄するに越したことはないが、集団安保のほうが優先されてしまっては、そもそもこの条約に意味がなくなる。
それに、アメリカの方もまぁ言いがかりみたいなものだろう。アメリカを盟主とする集団安保体制下にあるラテンアメリカでは、トラテロルコ条約がすべての核保有国によって批准されているから、二重基準になってしまう。

2.は米英仏の本音であろう。トランジットの権利を維持しておけば、核を積んだ飛行機が離着陸できることになる。それに「一時が万時」という。これを認めれば、永遠で なければ一時になる。
その頃イラクやアフガンでの戦闘が続き、イランとも一触即発の危機にあったアメリカにしてみれば、譲れない線であったかもしれない。(ただし この2.項が本当に存在したかどうかは、この文章以外では確認していない)

09年6月の衆議院外務委員会では、東南アジア非核条約について次のような議論が行われている。

(条約は)核保有国に対して、核使用・核脅迫を行わないと定めた議定書第二条への参加を求めている。
これに対し米国は、①一方的に核使用を禁じていること、②経済専管水域まで含まれていることから議定書への署名を拒否した。中国も難色を示している。このため核保有国による署名の見通しは立っていない。
いっぽう、ラロトンガ条約(南太平洋非核地帯)は英仏は批准済み(その後中露も批准)、アメリカは署名(未批准)している。

中央アジア非核条約より10年以上も前に締結された東南アジア非核条約が、未だにこのような状態だ。
中央アジア非核条約では、そこらあたりが、どう調整されたのだろうか。今のところ不明だが、一面トップに据えた赤旗の続報に期待しよう。

ただ原則として強調しておきたいのは、非核地帯条約は核保有国の同意を必要とはするが、お願いしてお許しを頂くという性格のものではない。むしろ正義の名において核保有国に押し付け、認めさせるべき性質のものだ、ということだ。

 

WSJの報道で、注目すべきものがあった(本日付赤旗が紹介)。

サウジアラビアがシリアの反体制派に対し、航空機を撃墜できる携帯型の地対空うミサイルをふくむ高性能兵器を供給することで、サウジや米国、反体制派側が合意した。

米国はSAMがイスラム過激派の手に落ち、米航空機へのテロに使われるのを警戒し、供与に反対してきました。

ジュネーヴ協議が不調なのを受け、容認したもの。


私は以前、北部戦線で反政府勢力がSAMで政府軍機を次々に撃墜し始めたとき、「これで勝負あったな」と思った。

2012.12.6 シリア: 戦況は反政府側優位に

地上軍だけなら政府軍は怖くない。歩兵がビビっていたら、戦車単独では勝てない。長距離砲だって歩兵に守ってもらえなければゲリラの夜襲の餌食だ。

緒戦の圧倒的優位にもかかわらず、反政府軍がその後劣勢に向かったのは、ひたすら航空機に対する防衛ができなかったからだ。

あの時のSAMはきっとトルコ軍やエジプト軍の横流しだったのだろうと思うが、その金を払ったのはサウジやカタールの金持ちだったのだろう。

それがある時期を境にぷっつりと止まってしまった。おそらく米国の圧力だったのだろう。

アメリカは反アサド派の武力闘争を支持していたはずだが、テロリストに武器が渡らない保障がとれなかった。

今回アルカイダが勢いを増してきて、このままでは反政府派が消えてしまう事態となったとき、ようやく重い腰を上げた。

反政府派に因果を含めて、アサド退陣要求を降ろさせた。そして一定の和らぎを背景に反政府派の勢力回復を狙った。

しかしアサド側はこれを反政府派の敗北宣言と見て、さらに高飛車な態度に出てきた。

アメリカにしてみれば、結局イスラエル情報部の情報操作に踊らされただけのことになる。

いまこそ、アメリカはみずからのスタンスを持たなくてはいけない。反政府側に必要な武器を供与し、軍事バランスを変えなくてはならない。
アルカイダやテロリストの心配はその後の話だ。そもそも反政府勢力とアルカイダとの関係については、すでに誰の目にも明白になっているではないか。

ただ、今回の事態で良かったのは、ネオコン=ユダヤ・ロビーのなすがままの中東政策が完全に破産したということである。米国が今後、独自の主体性を持って、もう少しマシな中東政策を展開することに期待したい。

シリアの和平会談が始まった。
最大の意義は「自由シリア」など反体制勢力が交渉のテーブルについたことであろう。
軍事的には反体制派は追い詰められている。2年前には考えにくかった構図だ。理由ははっきりしているので、補給線が絶たれたのだ。しかしその理由がはっきりしない。
反体制派が北部のアレッポを確保して、ミサイルで政府軍機を落とし始めたとき、私はこれで勝負あったな、と思った。しかしその後ミサイルの話しはとんと消えた。
誰かがミサイルを供与し、途中で供給を止めたのだ。

誰か? 直接には分からないが、イスラエルが関与していることは十分考えられる。

近代兵器を供給できるのはアメリカ・イスラエル・トルコの三国だ。
以前にも述べたが、アメリカの中東軍事政策は、ユダヤロビーを通じてイスラエルの意向を受けている。トルコは、政府がどうだろうとトルコ軍はアメリカの指揮の下にある.

イスラエルは最初は反対派を炊きつけて、アサド政権を解体することは利益になると思った。レバノン国境で一番の脅威はヒズボラであり、一度ならず痛い目にあっている。
イラン・シリア・ヒズボラとつながる線を何処かで断ち切りたいのはよく分かる。

しかし自由シリア軍にカタールあたりが肩入れするようになり、スンニ派の影響力が増してくると、これはこれで、また困ったことになる。

というふうに読んだのだが、どうだろう。

いずれにせよ、反体制派に勝ち目はない。しかもこのまま戦闘が続けば、反体制派が壊滅する代わりにアルカイダが北部・東部にミニ国家を形成することになる。

アサド政権が残り、イラン・シリア・ヒズボラ回廊が無傷のままで、さらにイラクを聖域とするアルカイダのミニ国家が登場するのでは最悪だ。

これが、アメリカ(イスラエル)が和平会談を強引に実現した背景ではないだろうか。

それでは落とし所はどうなるのか。

おそらく「自由シリア」と反体制派の聖域確保と自衛能力の維持ということになるだろう。その上で、アルカイダのシリアからの駆逐を図ることになるのではないだろうか。

今朝のNHK衛星放送に放送大学の高橋教授という人が出てきて、「和平の実現には時間がかかるだろう」と言っていたが、必ずしもそうとはいえない。

基本的には障壁は「自由シリア」にアサド政権の存続を認めさせるだけのことだ。これは所詮亡命政権だから、赤子の手を捻るようなものだ。
国内で闘っている連中には、アルカイダとの闘いに必要な武器に限定して供給すると約束すれば良い(もちろん裏約束だが)

まったく素人の観測に過ぎないが、ニュースや解説でこういう評価にはお目にかかったことがないから、一応旗はあげておくことにする。

18日にイランのロウハニ大統領がCNNとのインタビューで注目すべき発言を行った。
1.イランはいかなる場合でも、決して核兵器開発を行わない
2.核疑惑問題では、ハメネイから交渉の全権を委任されている。
3.「核開発が疑問の余地なく平和目的であることが実証できれば、問題解決の用意がある」とのオバマ発言を評価する。
4.シリアに関しては、「シリア国民が選択する指導者」を支持する(アサドには固執しない)。

中東諸国の最終的な戦略目標は、イスラエルの押さえ込みにある。そのためのアジェンダで、今一度、内部矛盾を克服して質の高い統一を成し遂げることにある。
とくに核問題で、イスラエルをふくむ中東非核地帯を実現することがカギを握っていると思う。

イランの核疑惑も、そのために避けて通れない課題の一つだ。


ド・ゴール派の論客ドビルパン(シラク政権時の外相)がフィガロ紙で武力介入を批判している。

少し長いが、独特の雰囲気を伝えるために、そのまま引用する。

罰する?

それは軍ではなく、国際法廷が果たすべきことだ。

我々の良心を安堵させる?

市民の状況がさらに悪化する危険があるのに、そのような危険を顧みずに介入するのは破廉恥であろう。

体制の変革か?

それはシリア自身が決めることであって、我々が決めることではない。信頼できる代替勢力が存在していないならなおさらのことだ。

我が西側の中東戦略は、武力の有効性という幻想に基づいているが、それはいまや袋小路にはまっている。

この発言の二番目のポイントが多分一番重要なことだろう。「破廉恥」という表現には、たぶん強烈な反論もあるだろうが、やはりここを落としてはならないと痛感する。

我々には苛立ちがある。民主化をもとめて立ち上がった人々が大量に殺され、シリアが内戦状態に入り、100万人もの人が難民となってさまよい続けている。

それに対して国際社会は拱手傍観してきた。そしてその挙句に化学兵器だ、ということになると、何かをしなければならないという気になる。

ドビルパンはその「良心 」の甘さを鋭く衝いているのだ。

赤旗のパリ特派員、浅田記者がシリアへの武力介入問題について詳しく報告している。

まずは「パリジャン」紙が8月31日に発表した世論調査。

フランスのシリア介入に対し、反対64% 賛成34%となっている。浅田さんは「圧倒的多数の国民が軍事介入に反対」と評価しているが、私にはむしろ34%が賛成していることのほうが衝撃だ。

「軍事介入」なのか「介入」一般なのか、質問の内容が不明だが、介入についてかなり広範の支持があるということだ。こ

れはイラクのときとは大分雰囲気が違う。

介入反対の理由(複数回答)も、最多は「シリアをイスラム過激派の政権に変える危険」で、これが37%だ。次いで、「中東地域を混乱させる危険」が35%だ。

つまり介入そのものへの原理的な反対ではない。条件付き反対だ。

「あれこれの国ではなく、国際社会全体で決定すべき」という反対理由は29%にとどまっている。

浅田記者は、この世論調査が「英国政府が軍事介入を断念」の報道後に行われており、少し熱が冷めた状況での調査であったとしている。その前の世論調査では、「介入反対」は59%にとどまっていた。


背景としては二つ考えられる。一つはリビア介入の「成功」、そしてマリへの介入の「成功」という二つのサクセスが、世論を後押ししている可能性だ。

もう一つはシリアが旧植民地であったという理由。フランスの宗主国意識というのはかなり強烈なものがある。ベトナムでもアルジェリアでも保守と革新とを問わず、植民地の維持については一致して支持してきた。

皮肉なことにこういう宗主国意識から最も自由なのがド・ゴール派だ。第二次大戦後、シリアをふたたび占領下においたのはドゴールである。しかしアルジェリア紛争においては、ド・ゴールは植民地支配に幕を下ろす役割を演じた。

彼らは「どちらが得か」という発想から出発するから、その政策に倫理性はない。しかし「得にならない」と判断すれば手を引くという発想の自由は保持している。





29日の赤旗で、小泉記者の報告が久しぶりに掲載された。

情勢は、軍と同胞団の武力衝突が一段落し、次の段階に移行しつつあることを示している。8月14日前の状態に戻し、同胞団との和解を進めること、軍の過剰な治安活動を抑制すること、さらに軍の権力復活の策動を抑えこむことだ。

その上で、権力の横暴も権力の転覆も許さない憲法づくりの作業にとりかかることだ。

これらの方向は、エジプト民衆にどのくらい支持されているのか。それを見る上で、世論調査の動向が気になる。

小泉記者が書いているのは、独立系の民間世論調査機関「バシーラ・センター」の世論調査で、22日に公表されたもの。

1.同胞団の座り込み行動は平和的だったか
平和的だった 17%
そうではなかった 67%
2.軍の強制排除を支持するか
支持する 67%
反対する 24%

これは衝突直後のものだから、メディアの影響が非常に大きいと思われる。
今後真実が明らかになるに連れて、この割合は変化していく可能性がある。

そのことを前提としても、現在の国内の雰囲気が欧米諸国の反応とはかなり違っていることは伺える。

なお14日以来の衝突に関する数字が出ているので、ここにメモしておく。
死者約900人、うち治安部隊が100人。
負傷者は4千人以上。
52年ナセル就任以来、最悪の流血事件である。

カタールとアル・ジャジーラについては不勉強だが、とりあえず「はぐれ雲さん」のブログから紹介しておく。

エジプト混乱…戸惑うアルジャジーラ・カタール…  

1.NHKの中東関連ニュース(映像)の大半はアルジャジーラを使用してしている。日本における影響力は大きい。

2.アルジャジーラのスポンサーはカタール王家で、王家の意向を色濃く反映している。

3.カタール王家は当初より「民主選挙で選ばれた」モルシとムスリム同胞団を支持し、巨額な支援を行って来た。

4.「クーデター」後、カタール以外のアラビア半島の王国は、こぞって軍=暫定政権支持を表明している。

5.カタールは近隣王国から孤立しており路線修正に迫られるだろう。その際アルジャジーラの報道姿勢も変わる可能性がある。

6.それらの過程を通じて、アメリカの中東における影響力はますます弱まるだろう。

ブログ主さんは、エジプトの「クーデター」を軍部による反革命と見ており、シリアのアサドと「同じ穴の狢」と見ているが、客観的な事実内容は了承しうる。

東京外国語大学のサイトに「日本語で読む中東メディア」というページがあって、フレッシュなニュースを紹介してくれている。

そのなかでもこの記事はとびきりフレッシュだ。なにせ今日付けだ。まだ湯気が出ている。翻訳者の八木久美子さんに感謝したい。

エジプトの同胞団にはどんな未来があるのか

2013年08月24日付 al-Hayat紙

【カイロ:アフマド・ザーイド】

以下要点を抜書きする。

ムスリム同胞団の未来を占うためには、まずその歴史を見ることが必要だ。

同胞団の歴史はその根底において危機の歴史で ある。1948年の王政時代の最初の危機、1954年の革命政権との危機、ムバーラク政権との長い闘争などすべてそうだ。

しかし現在の同胞団の危機は、その中でも最も厳しく困難なものだ。

なぜならまず、現在の危機は他者によって加えられたものではなく、同胞団自身が招いた危機だからだ。

モルシの当選後、同胞団は司法・公安・治安など国家の強大な諸機関において力を拡大した。そして「国家の同胞団化」により社会を支配しようとした。

彼らは社会の分裂を歓迎した。柔軟性の片鱗も見せることなく、合意やコンセンサスの実現を蔑視した。

これが最近1年間の「精神的指導者の統治」と呼ばれた期間の特徴であった。

現在の危機は、すでに同胞団と政府のあいだの衝突ではなくなっている。それは一方における同胞団とジハード集団の同盟、もう一方における一般社会および国家という対立になっている。

この対立構造は、すでに同胞団が権力の座にあった時からそうだったのだが、彼らが権力から転落した後、ますますその姿を明らかにした。

権力を失った後に彼らが見せた行動は、この闘いを何倍も激しいものにしている。その象徴がコプト教徒への迫害である。同胞団はコプト教徒を暴力行為の標的にした。

同胞団は、国民革命の行方に心穏やかでなかった米国と欧州連合を巻き込んだ。そして米国に忠実に追随するトルコとカタール(アル・ジャジーラを指すのであろう)をも巻き込んでいる。

8月14日に座り込みの排除が行なわれた。すでに同胞団は一般社会及び国家と真っ向から対決する決意を固め、そのために暴力という手段に訴えることを決意していた。

彼らはいかなる譲歩をする能力もない。彼らのスローガンは血に染まっている。「一人殺せ、いや百人殺せ」と人殺しを呼びかけている。

こうして危機はさらに厳しい状況になっている。

かつて人々がこの国の指導を任せた集団と、国民とのあいだに、予期せぬ、劇的な展開が次々と起こってきた。

“同胞団の指導は失敗であった”、と人々のあいだで意見が一致した。そして国民と軍が指導者の権利をはく奪した。これが6月末から7月初めにかけての一連の出来事の本質である。

それに対して、彼らはすぐさま反応した。そしてこの国と人々を焼き尽くし始めたのである。


なかなか難しい文章であるが、おおむね私の感想と一致している。

注目すべきは“国民革命の行方に心穏やかでなかった米国と欧州連合”という記述である。トルコもイスラム政党が政権を握る国というのではなく、米国に忠実な国として描かれている。

分かりやすいのは、イスラエルとその同盟者であるアメリカのマスコミだ。彼らは中東諸国で紛争が起きれば“愚かな方”を選ぶ。①愚かな方が御しやすい、②愚かな方が頑張れば紛争が長引く、しかし彼らが勝つことはない、③中東全体を愚かに見せることができる、からだ。

昔のトロツキスト(正確に言えば旧ブント)に対する“泳がせ政策”と同じだ。だから彼らは実は原理派が大好きだ。

雑駁な印象だが、それがクーデターであったことは間違いないし、モルシ政権の打倒がクーデターという形式をとったことは正しいとはいえない。

クーデターという手段に訴えなくても、政権の崩壊は時間の問題であったし、そのようにすべきだったのである。

ただそれがより平和的な移行をもたらしたか否かは分からない。いずれにせよモルシはやめる気はなかったし、政権維持のために暴力を用いる可能性はあったからである。

その上で、二つの問題を提起しておきたい。

まず我々はエジプトの民衆が抱いた同胞団に対する強い危機感を共有しなくてはいけない。問題の根源はムルシの失政ではなく、同胞団の邪悪さである。そこにすべての出発点がある。

無論、同胞団とそれを支持した広範な民衆とは分けて考えなければならない。しかしそのことによって同胞団の邪悪さは免罪できないのである。それは合法的に政権を獲得したからといってナチスを免罪できないのと同じだ。

もうひとつ、8月14日を境として、状況は明らかに変わったということである。彼らは明らかに強制排除を待ち構え、それを機に社会全体を標的とする攻撃に打って出た。

そこに至る経緯がいかなるものであるにせよ、いま彼らの正統性を擁護することは明らかに間違っていると思う。

エル・バラダイは、“国際人”らしい盛大な最後っ屁を放って、ウィーンへと逃げ去った。しかしエジプトの民はそこから逃れることはできない。災難には立ち向かうしかないのである。

7月3日

7月3日深夜 モルシ大統領、「軍が行程表を発表したことはクーデターそのものであり、完全に拒否する」と表明。今後も自らが大統領だと主張し、国民に対し「クーデター」に対抗するよう訴える。

7月3日 モルシ大統領、軍の超法規的措置により事実上解任される。

7月3日夜、テレビでシシ軍最高評議会議長が今後の「政治行程表」に関する声明を発表。現行憲法を一時停止したうえで、早期に大統領選挙を実施することとなる。

7月3日夜 タハリール広場には数十万人が集まり、大統領解任を喜び合う。

7月3日 同胞団と反大統領デモ隊が各地で衝突。少なくとも14人が死亡、約100人が負傷する。

7月4日

7月4日 最高憲法裁判所のアドリー・マンスール長官が暫定大統領に就任。

7月4日 同胞団はモルシ氏がひきつづき大統領職にあると主張。軍の行動はクーデターだと非難。モルシ支持の大規模デモを呼びかける。

7月4日 マンスールが就任宣誓。「エジプトの革命派の人々が国のいたる所で声を上げた。世界に対し力強さを示した彼らに敬意を表する」と述べる。また「同胞団も国民の一部であり参加を歓迎する」と国民的和解を訴える。

7月4日 トルコのダウトオール外相、「選挙で選ばれた政権が軍事クーデターで打倒されるのは認められない」と批判。

7月4日 アムル外相(モルシ解任直前に辞任)、ケリー米国務長官など複数国の外相とカイロ駐在の各国大使に連絡。「軍の行動は国民の反政府デモに導かれたものであり、政治的な役割はない。これはクーデターとは正反対のものだ」と強調する。

7月5日

7月5日 タハリール広場付近で同胞団と反モルシ派が衝突。2人が死亡。衝突はエジプト各地で発生し、アレクサンドリアで14人が死亡するなど死者は少なくとも30人に達する。

7月5日 同胞団指導者バディア、デモで演説し「モルシ復権までデモを続ける」と発言。

7月5日 米国務省のサキ報道官、エジプト各地の衝突を「非難する」と表明。全ての指導者に対して、暴力を阻止するよう求める。

7月8日 マンスール暫定大統領、33条からなる暫定憲法を発表する。

7月8日 共和国防衛隊本部前で同胞団デモ隊と治安部隊が銃撃戦。治安部隊4人を含む57人が死亡。

7月9日 マンスール暫定大統領(最高憲法裁判所長官)、ビブラウイを首相に任命。

7月10日 マンスール暫定大統領、「憲法宣言」を公布。

7月10日 検察当局、治安部隊との衝突を扇動した容疑で同胞団最高指導者バディアらの逮捕を命じる

7月10日 同胞団、「われわれはクーデターを行ったものたちとは取引しない」とし、暫定政権による入閣要請を拒否。

7月16日 ベブラウィ首相率いる暫定内閣が発足。各分野の専門家が中心の「実務型」となる。シシ国防相(軍最高評議会議長)とイブラヒム内相が前政権から残留。

7月16日 同胞団は「内閣は軍の戦車によってもたらされたもの」とし、入閣を拒否。抗議行動を展開する。治安部隊との衝突で7人が死亡、260人が負傷する。

7月24日 マンスール暫定大統領、「国民和解協議」を始める。同胞団は参加を拒否。

7月26日 カイロのタハリール広場などで「反テロ・反暴力」の大規模デモ。シーシ国防相・副首相が国民に呼びかけたもので、軍によるデモの動員は初めて。

7月26日 タマルド(反乱)、「反テロのデモへの参加は国民の義務である」と支持し、「全同胞団指導者の拘束を求める」と訴える。

7月26日 イブラヒム内相、同胞団の座り込みは「近いうちに法律に従って一掃されるだろう」と発言。治安部隊が強制排除に乗り出す可能性を示唆。

7月26日 検察当局、「スパイ容疑」でモルシ前大統領に15日間の拘束命令。ハマスがエジプトで破壊活動を行うのを助けたとされる。米国やEUはムルシの釈放を求める。

7月27日 カイロ郊外ナセルシティーで治安部隊と同胞団との衝突。72人が死亡する。

2013年8月

8月1日 内務省、速やかに座り込みを終了するよう求める声明。同胞団は強制排除の意思表示だとし、反発を強める。

8月2日 エルバラダイ副大統領、「現在の最優先課題は暴力の停止である」とし、同胞団との対話の必要性を強調。

8月3日 ベブラウィ首相、治安の回復を訴えると同時に、「和解の必要性ははっきりしている。いかなる国民も新たな政治生活から排除されてはならない」と強調。

8月3日 ファハミ外相がエジプト訪問中のバーンズ米国務副長官と会談。暴力を否定する限りいかなる政治勢力も排除しないとの方針を表明。

8月7日 米国など外交代表団、同胞団に対する説得活動を断念。同胞団はモスクやカイロ大学前で数千人規模の座り込みを続ける。

8月11日 同胞団はアズハル・モスク指導者のアフマド・タイイブによる調停案を拒否。当面の政治的解決の道が絶たれる。同胞団は「アズハル・モスクが犯罪の隠れ蓑となっている」と非難。

8月11日 同胞団はナスル・シティのラービア・アダウィーヤ広場とギーザのナフダ広場の要塞化に着手。

8月14日

8月14日 非常事態令が発動される。治安当局がムスリム同胞団のカイロでの座り込みを強制排除する。死者数は421人にのぼる。

8月14日 ベブラウィ首相、「混乱と病院や警察署などへの襲撃が蔓延しており、事態は容認の限度を超えていた」と述べる。

8月14日 エルバラダイ外務担当副大統領がデモ隊の弾圧に抗議して辞表を提出。

8月15日

8月15日 同胞団、政府庁舎や警察署、キリスト教会に対する襲撃を続ける。

座り込み排除に続く16時間のうちに104件の暴力行為が実行された。財務省本庁舎やギザの県庁舎が焼き討ちされた他、警察署と駐在所など31か所、治安部隊の建物も破壊され、車や戦車など燃やされる。18のキリスト教会、修道院、キリスト教徒の学校3件、住居25件が襲撃された。(中東マガジン

8月15日 内務省は、政府庁舎に対する攻撃には実弾で対処すると声明。

8月15日 青年組織「反抗」、同胞団の破壊活動から政府庁舎や教会を守るため、「監視グループ」を結成するよう呼びかける。

8月15日 軍がタハリール広場を封鎖。

8月15日 米主要紙は15日、社説で一斉にエジプト軍事援助の中止を求める。イスラエル、サウジアラビア、UAEなどは、地域の不安定化をもたらすとの声。

8月15日 オバマ米大統領、強制排除を激しく非難。エジプト軍との合同軍事演習を中止すると発表。

8月15日 国連安全保障理事会、「全当事者に対し暴力を停止し、最大限に自制するよう」もとめる。パンギムン事務総長は、治安当局によるモルシ派の強制排除を「最も強い言葉で非難する」と声明。

8月16日

8月16日 エジプト政府、オバマ発言は「事実」に基づいておらず、暴力的な集団を勢いづかせるものと批判。

8月16日 同胞団は、強制排除で数百人が死亡したとし、全国的な「怒りの百万人デモ」を呼びかける。

8月16日 同胞団は「クーデター体制を拒否することは宗教的、国民的、道徳的義務となっており、放棄することはありえない」と声明。今後1週間にわたり全土で連日デモに取り組むと宣言。

8月16日 ムスリム同胞団、「怒りの金曜日」デモを展開。この日だけで少なくとも80人が死亡。全土で15の警察署が襲撃され、少なくとも警察官24人が殺害される。

8月16日 国内の34の人権団体が同胞団を非難する共同声明。「同胞団は国民に対し過剰な暴力を加え、国家を混沌に陥れようとしている」とする。

8月16日 コプト教会、「武装テロリスト集団と対峙している軍や警察、組織を強く支持する」と表明。

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同胞団のデモにより焼き尽くされた跡

8月17日

8月17日 マンスール暫定大統領の政治顧問が記者会見。「われわれは宗教に名を借りたテロや暴力から国民を守らなければならない」「エジプト国民は過去のどの時期よりも、共通の敵を前にして団結している」と表明。

8月17日 ビブラウィ首相、多数の警察署や政府系庁舎を襲撃している同胞団グループと「和解することはできない」と言明。

8月17日 カイロ中心部のラムセス広場近くのモスクで立てこもっていた数百人の同胞団が、治安部隊との銃撃戦の末排除される。

8月18日 軍トップのシシ国防相(第1副首相兼任)、同胞団を含む全国民が今後の政治プロセスに加わるよう訴える。同時に暴力に訴える同胞団員は徹底して鎮圧する姿勢を示す。

赤旗によると、この日の閣議では激論が闘わされた。ベブラウィ首相が同胞団に対する解散命令の実施を提案。エルディン副首相が、非常事態令を早期に解除し、全国民の政治参加を保証するようもとめる。ファハミ外相は6月30日以降の衝突に関する調査委員会を設置するようもとめる。

8月18日 ムスリム同胞団が大規模な抗議デモ。カイロでは規模を縮小するなどの動き。

8月18日 刑務所に向け移送中の同胞団員36人が脱走。治安部隊により射殺される。

8月18日 バラダーイ、強制排除に抗議し副大統領を辞任。ウィーンに向かう。

8月19日 同胞団、カイロ郊外や北部アレクサンドリアなどで夜間外出禁止令を破り決行。

8月20日 エジプト治安当局、同胞団の最高指導者バディア団長を逮捕。ほかにもシャーテル副団長や自由公正党のカタトニ党首らを暴力扇動の容疑で逮捕。同胞団は強硬派のエザットを暫定団長に任命。

8月20日 青年組織「反抗」、「バディア氏逮捕は、革命の道を前進し、テロとのたたかいをすすめるうえで重要な一歩となった」と評価する。

2013年

2013年1月

1月6日 カンディール内閣の大幅改造。不安定化する政治・経済情勢に対応。

1月11日 ムバラク前大統領のやり直し裁判が開始される。

1月25日 革命2年を契機に大規模なデモが発生。モルシ大統領はポートサイドなど北部3県に非常事態を宣言。

2013年2月

2月 イランのアフマディネジャード大統領がイスラム協力機構首脳会議への出席のためエジプト訪問。ムルシー大統領は空港でアフマディネジャード大統領を出迎えたが、公式な首脳会談は行わず。

2013年3月

3月末 エジプト、イラン人観光客の受け入れを開始。エジプト・イラン間の定期便の運行も開始される。エジプトのサラフィー主義者が抗議行動を激化させる。

2013年4月

4月下旬 民間調査機関「バシーラ」の世論調査。モルシ大統領の支持率は、就任当初の72%から30%まで低下する。強権的な手法に対する非難も高まる。

4月末現在 失業者数は約343万人、失業率は12%を超える。失業者は革命前より100万人以上の増加。基礎食料を中心に物価も上昇。

2013年5月

5月1日 13人の青年が立ち上げた新組織“反抗”、大統領不信任と早期選挙実施を求める署名活動を開始。

5月7日 内閣の大幅改造。9人を入れ替え、同胞団のメンバーをさらに増やす。

5.13 「4月6日運動」、モルシ支持を撤回し辞任要求運動に加わる。活動家やジャーナリストが名誉毀損などの容疑で次々に逮捕される。

5.29 「反乱」が記者会見。署名数は3週間で「700万人分」に達したと発表。フェイスブックや口コミを通じて一気に広がる。

2013年6月

6月16日 モルシ大統領、南部の観光地ルクソール県の知事に「イスラム集団」幹部を任命。観光業者の反発を受け辞退。(イスラム集団は観光客ら62人が死亡した無差別テロ事件の犯人)

6月20日 大統領不信署名が目標の1500万筆を突破。

6月25日 モルシ大統領がテレビ演説。早期大統領選挙の実施を求める野党勢力との対決姿勢をとる。

6月26日

6月26日 “反抗”グループ、新たな政治組織「6月30日戦線」を立ち上げたと発表。

6月26日 「国民戦線」の代表サバヒは「6月30日には、ムスリム同胞団の強権支配を終わらせ、革命を再び前進させる新たな波をつくろう」と呼びかける。

6月26日 夜に入り、約1万人がタハリール広場に集結。

6月26日 モルシ大統領がテレビ演説。政策について一定の反省を示しつつも、「選挙で示された民意を無視しようとする勢力がいる」と反対派との対峙を打ち出す。

6月27日 野党勢力「国民救済連合」、大統領は過ちの深刻さを認識していない」と批判。30日のデモへの参加の意を表明。

6月28日 アレクサンドリアで両勢力の衝突。巻き込まれた米国人男性ら2人が死亡する。

6月28日 同胞団はイッティハーディーヤ大統領宮殿近くのラバ・アダウィーヤ・モスク前で座り込みを開始。

6月29日 “反抗”の署名運動、目標の1500万人を大きく超える2200万人の賛同を獲得。

6月30日

6月30日 「反乱」(タマルド)の主催する大集会。タハリール広場に多くの民衆が集まりモルシー退陣を求める。集会は、2日までに退陣の意思表明がなければ大統領宮殿にデモ隊が向かうと宣言。

6月30日 全土で大統領退陣と早期選挙実施を求めるデモ。「革命」時を上回る数百万人が参加する。

6月30日 モルシ大統領、英紙ガーディアンとのインタビュー。自らが民主的な選挙で選ばれたことを強調し、辞任する考えがないと述べる。

6月30日夜 大統領報道官、「デモの要求は尊重するが、対話が必要だ」と述べる。

6月30日 同胞団本部前で抗議活動をしていた反大統領派に対する銃撃で8人が死亡。同胞団ナンバー2のシャーテルが銃撃を指示したとされる。暴徒化したデモ隊の一部がカイロ郊外の同胞団本部を襲撃し火を放つ。

6月 非政府組織「ナディム人権センター」、1月から5月の間に282件の拷問が行われ、161人が死亡したと発表。

2013年7月

7月1日

7月1日 主要野党勢力「国民救済戦線」や「4月6日運動」がデモ継続を呼びかける。

7月1日 アムル外相はじめ5閣僚が辞表を提出する。

7月1日 軍最高評議会のシシ議長(国防相)が、48時間内に「国民の要求」に応えるよう大統領に“最後通告”を発する。

軍最高評議会声明: 反大統領派の運動は国内はもとより国際的にも称賛された。時間を浪費すればそれだけ国民の分裂や衝突が激しくなる。大統領は48時間以内に各政治勢力との間で事態収拾のための合意を達成すべきだ。これに失敗した場合、軍は今後の政治プロセスに関する「工程表」を発表する。われわれが(一昨年のように)政治や政権運営に携わることはない。

7月1日 警察を管轄する内務省、軍の表明を「完全に支持する」と表明。

7月1日夕 エジプト国旗を下げた軍のヘリコプター編隊が、タハリール広場の上空を旋回飛行。デモ隊への連帯の意思を示す。

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7月1日 軍はエジプト中部ファイユーム県の庁舎を占拠。同胞団の知事の権限を剥奪する。

7月1日 同胞団指導部、最後通告は軍による「クーデター」だとし、「これを阻止するために殉教者となれ」と、団員に流血の覚悟を求める。

7月1日 軍の態度表明に対し、反モルシ勢力のなかで意見が分かれる。“反抗”は、「軍の歴史的役割は国民の側に立つことにある」と表明。「4月6日運動」は、「工程表はすでにできている。軍は国防の任務に専念すべきだ」とする。

7月2日

7月2日 大統領府報道官2人が辞任。辞表を提出した閣僚は6人に達する。

7月2日 モルシー大統領とシーシー国防相(国軍トップ)が2度にわたり会談。

7月2日 カイロで、大統領辞任をもとめる100万人の集会とデモ。

7月2日 大統領府は2日、軍の提案を拒否する声明を発表。最後通告を撤回するよう求める。

7月2日夜 モルシー大統領、国民向けにテレビ演説。「国民に選挙で選ばれた責任を果たす。正統性を守るためなら命も惜しくない」と語る。

7月2日夜 カイロ大学前で同胞団と治安部隊との間で激しい衝突。

7月2日夜 48時間を過ぎ、軍が工程表を発表。

2012年

2012年1月

1月3日 人民議会(下院)選挙が終了。自由公正党が第 1党、イスラム教の原点回帰を目指すサラフィー主義を奉じるヌール党が第2党となる。旧政権側はほとんど議席を獲得できず。

票の7割は農村部にある。識字率はエジプト全体で60%であるが農村では35%にとどまる。農村
部では選挙の意味も十分に理解されておらず、すべてにおいて宗教的価値に重きが置かれている(鈴木恵美論文)

2012年2月

2月 諮問評議会(上院)選挙が施行される。下院と同様に自由公正党とヌール党が第 1 党、第2党を占めた。 同胞団は「大統領選には独自候補者を擁立しない」と宣言する。

2月 外貨準備高が157億ドルまで減少。適正基準の下限に迫る。

2012年3月

3月末 同胞団、公約を覆し大統領選挙での独自候補擁立を決定。シャーティル同胞団副団長と、自由公正党のムルシー党首が立候補を届け出る。(ムルシーは控え投手)

3月 軍の大統領候補はスレイマーン前副大統領(元情報機関トップ、陸軍少将)派とシャフィーク元首相(空軍中将)派に分裂。

2012年4月

4月 選挙管理委員会による事前審査で、スレイマーン、シャーティルを含む10人が失格となり、結果として軍はシャフィーク、同胞団はムルシーに一本化される。

2012年5月

5月23日 大統領選挙が実施される。同胞団のムルシー候補が 24%の得票で首位、旧政権高官であるシャフィーク元首相が僅差で2位となるが、いずれも過半数に届かず決選投票にもつれ込む。

5月31日 サダト元大統領の暗殺以来続いていた非常事態宣言が解除される。令状なしに逮捕を認めていた同宣言は旧政権による抑圧の象徴だった。

2012年6月

6月14日 最高憲法裁判所は人民議会選挙の結果を事実上無効とする判決。これを受けて人民議会は解散され、立法権は人民議会から軍最高評議会に移譲される。大統領選挙で敗れても軍の権益を保持する狙いとされる。

6月16日 決選投票が実施される。ムルシー候補がシャフィーク候補を僅差で破る。ムルシーは「国民全体の大統領になる」として、同胞団及び自由公正党から脱退。

6月30日 ムルシーは大統領に就任。軍最高評議会の暫定統治は終結し、民政移管が完了する。敗北したシャフィーク元首相はUAE に事実上の亡命。

6月 ムバラク前大統領に終身刑判決。

2012年7月

7月 ムルシー大統領、人民議会の再招集を命じる。しかし最高憲法裁判所は再招集を認めない判断を下す。

2012年8月

8月2日 新内閣が発足。暫定軍事政権のタンターウィー(軍最高評議会議長)は国防相に留任。

8月2日 カンディール首相率いる内閣が発足。省庁出身者や大学教授など多くの知識人・技術の専門家で構成されるテクノクラート集団。

8月5日 シナイ半島で、武装集団の襲撃によりエジプト軍兵士16人が死亡。

8月12日 ムルシー大統領、タンターウィー国防相とアーナーン参謀総長を突然解任する。襲撃事件の責任を口実に強行したものとされる。両名は大統領顧問に任命される。

8月 大統領は暫定憲法を発布。立法権を軍最高評議会から自身へ移管する。これにより、大統領は行政権と立法権の両方を掌握する。

8月 政府系新聞の人事権を行使し、編集長を交代させる。以後、政府系紙各紙は政権批判を自粛。一方、政権批判を行う新聞の編集長が中傷罪で一時逮捕される。

8月 ムルシー大統領、非同盟諸国首脳会議への参加のためイランを訪問。

2012年9月

2012年10月

2012年11月

11月12日 21の政党・グループが呼びかけたデモが全国各地で取り組まれる。カイロでは同胞団がデモ隊に殴り込み、100人以上の負傷者が出る。

11月16日 カンディール首相、ガザに入りハマス政権のハニヤ首相と会談。イスラエルによる占領継続を強く批判する。ハニヤ首相は「革命後の新しいエジプトを象徴する訪問だ」と称賛。

11月22日 モルシ大統領が「権力集中宣言」。新たな暫定憲法を発布し、「新憲法制定と次期人民議会選挙の実施まで、大統領の決定は司法を含む一切の干渉を受けない」と宣言する。

11月 政権が主導する憲法制定委員会、イスラム色を強めた新憲法を起草。国民投票へと動く。

2012年12月

12月4日 非政府系紙各紙が抗議の一斉休刊。ムルシーの強権姿勢に対して抗議デモが激化。

12月8日 ムルシー大統領、新たな暫定憲法を撤回。

12月 新憲法の是非を問う国民投票が実施される。世俗主義勢力は反対票の投票を呼びかけたが、賛成多数で新憲法は承認される。

12年末 治安状態が大幅に悪化。殺人は前年比約2・5倍の1885件、強盗は約3・4倍の2611件、誘拐も約2・5倍の258件に達する。

 

長沢栄治さんが朝日に以下のように書いている。中長期のトレンドを踏まえた卓見だろうと思う。二つの過程が同時進行しているのである。

 今回の「政変」は、革命なのか、クーデターなのか。このよく挙げられる疑問に答えるなら、革命でもあり、クーデターでもある、ということになる。軍部の実力行使は、クーデターそのものであるが、今回の「政変」は、革命プロセスの大きな節目となる一部でもあるからだ。

現在も続いているのは「革命」なのである。これまでの世界史上の革命がそうであったように、善悪の基準で測れるものではないし、またきれいごとでは済まな い。“民主化を求めたはずの人たちが血迷って、いったい何をしているのでしょう”、というような「西側」の「上から目線」で語ってしまうのでは、何も分からな い。 

 

2011年

2011年1月

1月25日、最初の大規模デモ。

2011年2月

2月11日 18日間に亘る騒乱とデモの末ムバラク政権が崩壊。大規模デモが発生した日付をとって「1月25日」革命と呼ばれる。「国事」の運営は軍最高評議会(SCAF))に託される。

2月12日 SCAF、第4号声明を発表。自由で民主的な国家を建設すると宣言。タンタウィ陸軍元帥(国防相)を議長に指名。

2月13日 SCAF、憲法と人民議会を停止する。行政トップには前政権のシャフィーク首相が残留。SCAFの主導で「真相究明委員会」や「憲法改正草案作成委員会」が結成される。

2月16日 デモに参加した8グループが中心となり、エジプト革命理事評議会が設立される。

2月19日 ムスリム同胞団のリベラル分派ワサト党が合法化される。

2月26日 憲法改正委員会が憲法改正案を提示。①大統領の任期を6年から4年に短縮し、かつ2期に制限する。②大統領選挙に立候補できる要件を見直し。③非常事態宣言の発布・維持・更新権限の制限などをふくむ。

2月 与党国民民主党は事実上の解体。「自由公正党」(ムスリム同胞団)など多くの新党が結成された。

2月 「革命青年連合」が結成される。宗教に関係する主張は極力控えながらイスラームとコプトの融和を掲げ、革命の継続を目標とする。

2011年3月

3月3日 シャフィークに代わり、反ムバラク派のイサーム・シャラフが首相に就任。シャフィーク退陣を求めるデモは回避される。

3月19日 憲法改正案の是非を問う国民投票が成立。投票率は41%、77%の賛成で承認される。

3月28日 政党法が改正される。5千人以上の発起人署名を添えて申請すれば認可されることとなる。

2011年4月

4月8日 革命青年連合のデモ隊に青年将校グループが合流。SCAFの解散をもとめる。軍はこのデモを弾圧。

4月13日 軍は革命青年連合の圧力を受けムバラクの腐敗に対する捜査を開始すると発表。

2011年5月

5月24日 ムバラクと家族に対する起訴が決定。

2011年6月

6月6日 ムスリム同胞団の自由公正党が政党としての認可を受ける。自由公正党は13の政党に呼びかけ「エジプトのための国民同盟」を結成し、きたるべき選挙に備える。

2011年7月

7月8日 革命青年連合を中心に73の組織がタハリール広場での座り込みを開始。

7月23日 タハリール広場の青年がSCAF本部に向けデモ行進。警官隊と衝突する(アアッバーシーヤ事件)

2011年8月

 

2011年9月

9月9日 革命青年連合のデモに紛れ込んだ挑発分子がイスラエル大使館を襲撃。これを機にタハリール広場の選挙の長期化に対する不満が拡大する。

9月30日 革命青年連合の呼びかけたタハリール広場の占拠行動に、ナセリスト党やタガンムウ党、「変化のための国民団体」が反発を強める。

2011年10月

10月1日 選挙法で与野党間に妥協が成立。2/3を比例区、1/3を小選挙区とすることで合意。

2011年11月

11月 軍の憲法基本原則が明らかにされる。軍事予算は議会の審議を通さない、草案作成員会の半数は軍人とするなど。

11月18日 自由公正党の呼びかけた「基本原則に反対する100万人デモ」がおこなわれる。3日間で死者20人以上、1100人以上の負傷者を出す。

11月21日 抗議行動の盛り上がりを受けシャラフ首相が辞任。カマル・ガンズーリが暫定内閣を組織。

11月28日 人民議会選挙が始まる。地域毎に3回に分けて実施された(3回目は翌年1月)

2011年12月

12月20日 ムスリム同胞団がSCAFに対するデモを展開。挑発分子が治安部隊と衝突し、十数名の死者を出す。

年度末の経済状況: 外国からの投資及び観光収入が激減したために、経常収支の大幅赤字へとつながった。
外貨準備高が大幅に減少し、安全基準とされる輸入の3カ月分にまで落ち込んだ。
失業率は革命以前より約3%増の12.6%を記録した。
GDP成長率はリーマンショック前の7.2%、革命前の5.1%から1.8%へと落ち込んでいる。(日本大使館ホームページ)

 

「防衛研究所ニュース」の 2013年5月号に

「アラブの春」その後―2012年以降のエジプト政治情勢の展開:ブリーフィング・メモ

と題する研究論文が掲載されている。

著者は「地域研究部アジア・アフリカ研究室」の西野正巳さんという方である。事実経過を知る上で大変参考になるので、例によって年表形式で紹介させていただく。


と言いつつやり始めたら止まらないのが性格。他の文献にも手を出してしまった。当然膨大な資料となる可能性がある。

参考文献

政変後のエジプト経済・政治状況(1.4MB) - JETRO 


赤旗の小泉記者の情報は独自取材にもとづく系統的なものであり、大変参考になる。

朝日の川上記者による中東マガジンも豊富な情報をふくむ。

これも年表中に加えることとする。(多分ものすごい量になると思う)

日本語版ウィキペディアは、かなり情勢に遅れていて、当面の役には立たない。

 


エジプトの経済指標を見ていて思ったのだが、ネガティブな表現が多すぎる。
可耕地は狭い、人が多すぎる上に増え過ぎる、サービス産業ばかりで生産的産業は何もない、慢性の貿易赤字で、放漫財政が首を絞めている、といった調子だ。
これではお先真っ暗だ。
しかし人材は中東全土から集まってくる。GDPは少なくともリーマンショック前まではかなりの伸びだ。

つまり、第一次産業も第二次産業もなくても、エジプトは別に困らないのだということになる。
これは都市国家の特徴だ。考えてみれば香港もシンガポールもそうやって発展している。

エジプト(というよりおそらくはカイロなのだろうが)が国境を超えて中東の商業センターの役割を果たしているとすれば、それで計算は成立するのではないだろうか。

エジプトは地理的優位性、労働力、水、電力などが安いことなど優位点を多く有している。EU、湾岸諸国等との経済協定によりゼロ関税で輸出できる。また、若年層が多い人口構成も魅力の一つである。
エジプト地場企業の多くはR&Dにかける予算がなく、自社で技術開発を行う限界がある。
一方、エジプト・アラブ特有の商習慣を知りつくしていることは最大の長所であるから、欧米など先進国は中東進出の拠点をカイロに置くほかない。
政変後のエジプト経済・政治状況)

ただ都市国家としてのカイロはセキュリティーを必要とするので、コストとしてエジプト全土の統治業務を負担せざるをえないという構造で捉えると、分かりやすいのかもしれない。ただコスト意識があまりにも徹底し過ぎているが…

ただこれは諸刃の刃ともなるので、都市が発展すればするほど国内リスクは高まる。とくに議会制民主主義が真の意味で実現してしまうと、都市対地方という矛盾が露呈し、たちまちのうちにカオスがもたらされる。

最もドラスティックな解決法としては、シンガポールが国家として分離独立したかつてのマラヤのように割れてしまえばよいのだろうが、エジプトははるかに均質な社会である。異端としてはせいぜいキリスト教・コプト教かユダヤ教
くらいだ。

都市対地方という矛盾の根本的な解決にはならないが、当面は、地方中都市(ミニ・カイロ)の育成によって、農村部の過剰人口を吸収し、地方の底上げを図るくらいしか道はないのではないだろうか。

エジプトが石油輸出国とは知らなかった。

日本大使館のホームページによると、

· 石油

o生産:約68万B/D(05年) o可採埋蔵量:約37億バレル(05年) o可採年数:約13年(05年)

となっている。

石油は、長らく4大外貨収入源(他は観光収入、海外労働者送金、スエズ運河渡航料)の一つとして、エジプトの国際収支改善に貢献してきたが、近年生産量の減少、国内消費の増大等により輸出余力を失いつつある。

そうだ。

Market Hack さんによると、

エジプト情勢が市況に与える影響を論じる際、真っ先に言われるのは「エジプトからは石油が出ないので、大丈夫」という事です。

でも正確に言えばエジプトからは石油は出ます。また天然ガスはもっと出るのです。

ということだ。

ただ変なことに輸入もしている。おなじみの「世界経済のネタ帳」によると

2012年度の原油輸出額は113億ドル。これに対して輸入額は118億ドルとなっている。差し引きすると輸入国ということになる。

むしろ期待されるのは天然ガスの方で、地中海岸沿いで盛んに試掘が行われえいるようだ。

エジプトを楽しむ総合サイト
http://www.luxor-co.com/category/the_general_condition/basic_information.shtm
からの抜粋

エジプトで最も人口密度の高い地域はナイル川渓谷地帯とデルタ地帯です。居住地域は国土の全面積の6.0%で、残りの国土の大半は、人がほとんど居住していない乾燥した砂漠地帯になっています。エジプトの平均人口密度は国土全体では約60人/平方キロメートル程度に なりますが、居住地域における実質的な人口密度は平均約1,000人/k㎡にまで膨れ上がります。

東京都23区内の人口密度は13,500/k㎡になりますから、それよりは随分と人が密集していない

と書いていますが、東京と比較してもあまりなぐさめにはならないでしょう。

おなじようにライン川の河口のデルタ地帯の国オランダは人口密度:約400人/k㎡ とされている。

もっと深刻なのは人口増加に歯止めがかかっていないことです。

人口ウォッチャーによると
http://www.jinko-watch.com/kuni/029.html

エジプトの09年の総人口は83.0百万人。1999年から2009年までの増減割合は20.5%、2009年から2030年までの将来増加割合は33.6%

10年で2割(北海道3つ分の人口)も増えるのでは、母なるナイル川としてはたまったものではありません。

今エジプトという国が悲鳴をあげているのでしょう。

赤旗もさすがに音を上げたようだ。

先日小泉記者が、エジプト民衆の現場の声を色濃く反映したレポートを出した。
「いろいろあるが、運動の現場ではモルシを退陣に追い込んだのは民衆の力であり、軍事クーデターによる政権転覆とはいえない」
というのが現場の声であろう。

ただ、多少引いた所で眺めると、「モルシを退陣に追い込んだのは民衆の力であるが、問題もいろいろあるんじゃない?」と考えるのも、もっともである。

さはさりながら、このままの形で運動が収斂してしまえば、残るのはまごうことなきクーデターと、軍の権力回復という事態であり、民衆の運動は簒奪されたことになる。
それでは軍の権力掌握を否定して、もう一度モルシ体制を復活させようということになるのかというと、それでは民衆の方で黙ってはいないだろう。

ということで、25日の紙面は「激動エジプト 識者に聞く」という見出しで、完全イーブンの二つの談話。

一人は千葉大学教授の栗田さん。この談話の見出しは「国民の巨大な運動が政権崩壊に追い込んだ」

最初の段落を書き出すと、

モルシ政権の崩壊は若者グループの運動や、「救国戦線」に結集した諸政党など、国民的運動の成果です。
結果的に群が大統領を解任し、政権移行過程を管理する行動に出たので、欧米等のマスコミは「軍事クーデター」として描いていますが、国民の巨大な運動が政権を崩壊に追い込んだと見るべきです。


栗田さんの談話の特徴は、民衆が自らの手で勝ち取った立憲・民主制を一時サスペンドする道を選択した、それほどまでに強いモルシ政権への怒りをまず理解した上で発言すべきだ、という政治のダイナミクスの重視です。

もう一人は東大教授の長沢さん。こちらの見出しは「軍の思惑をはらんだ“性急なクーデター”

モルシ大統領を退陣させた軍の行動は、多くの国民が歓迎したとはいえ、“性急なクーデター”だったのではないかと考えます。モルシ退陣を求める2300万人の署名をテコに事態の収拾を図ることは可能でした。

ということで、両論をすりあわせながら今後を見て行かなければならないのであろう。

ことの是非は別として2つのことが確認される。まず、軍の行動は民衆の考えとは違う戦略に基づいているということを確認し、覚悟しておくべきだということ。
もう一つは、モルシの全面復権はありえないということだ。したがってそこには立憲制の断絶が生ぜざるをえないということだ。政権移行の合憲性は、何らかの形で担保されなければならないということだ。

長沢さんはそれが「憲法改正をめぐる闘争」になるだろうと予想している。
そして、その憲法に民主主義、人権、文民統制、地方自治の精神を盛り込むことにより、非平和的政権移行の可能性を封じ込めることが、軍事独裁の再現を許さず、非宗教支配(secularism)をつらぬくための保障となるだろうと見ている。

実践的には、たしかにこのへんが落とし所になるのではないだろうか。

私はメキシコ革命を思い起こしている。1912年に始まった革命は、反革命や、裏切りや妥協を織り交ぜながら6年間続いた。ありとあらゆる人々がありとあらゆる党派に属し、相互に「武器による批判」を繰り返した。

そして皆が疲れ果てたとき、1917年憲法が発せられ、革命は落ち着くところに落ち着いた。
そこが革命が始まる前より、はるかに進んだ地平であったことは間違いない。なぜなら殆どの人々が前進を欲していたからだ。


エジプトによる権力交代をどう見るかは、形式的な面からだけでは判断できない。
形式論理から言えばクーデターそのものではあるが、その土台にあるものはモルシ独裁政権に対する民衆の激しい抗議であり、民意は一刻も早い政権交代にあった。
軍が介入しなかったとしてもモルシ政権は崩壊していただろう。

ここを基本として見るなら、この民衆の怒りを背景にした軍の介入といえるだろう。民衆が主役であり、軍は主役ではない。

小泉特派員は以下のように書いている。
①軍の超法規的措置が情勢を混乱させ、今後の国民的和解に向けて重大な否定的影響をもたらしていることは疑いない。
②しかし、少なくとも多くの国民は今回の事態を「クーデター」と呼ぶことを強く否定している。「国民の闘いが歴史を動かした」と感じている。

結局この②の評価が決め手になるのだろうし、権力の移行の形態をもってその本質の評価に変えてはならない。

その上で、軍が乗り出してきた目論見については、事実に即した分析がもとめられることになるだろう。

大統領選挙で見た範囲では、エジプトの力関係は三すくみ状態にある。軍、イスラム同胞団、そして民衆である。

革命を成功させたのは民衆であるが、統一勢力を未だ形成しえていない。軍は企業を巻き込み、旧ムバラク派も取り込みながら勢力拡大を狙っている。

アメリカはクーデターを激しく非難するかのようなポーズをとっているが、実は軍の最大のスポンサーである。

同胞団は、大統領選挙で民衆の代表であるかのようなマヌーバー作戦をとることにより、民衆の支持をとり込み勝利した。

今後、同胞団の出方により情勢はきわめて流動的なものとなるだろう。しかし彼らへの反感がこれほどまでに高まれば、シリアのような事態に発展する可能性は低いと考えて良いのではないだろうか。

ヒズボラの戦闘についての追補ということです。かなり途中が抜けていますが、機会があれば埋めて行きたいと思います。

1996年

96年 イスラエル国内で連続爆弾テロ。ヒズボラの犯行としたイスラエル軍はレバノン南部を空襲。怒りのブドウ作戦と名付けられる。レバノンで難民救援活動を行っていた国連レバノン暫定駐留軍フィジー軍部隊のキャンプが、イスラエルの集中砲撃を受ける。


2000年

5月 イスラエルのバラク政権、レバノンらのイスラエル軍の一方的撤退を発表。イスラエル軍は電撃的に南レバノンから撤退。南レバノン軍兵士の多くはヒズボラなどに投降。南レバノンのヒズボラの力は強化される。


2004年

9月 国連安保理、米仏の提案による「レバノンからの外国軍撤退」決議を採択。ラフィク・ハリリ首相は安保理決議の完全実施を主張し、ラフード大統領と対立、辞任する。

2005年

2月14日 ハリリ元首相が爆弾テロにより暗殺される。レバノン国内では各地で激しい反シリア・デモが起きる。米国はシリアの関与を疑い、完全撤退をもとめる。

4月 「杉の革命」、国連や欧米各国もシリア軍撤退を強く要求。シリア軍1万4千がレバノンから撤退する。


2006年

5月 ヒズボラ、イスラエル北部国境の町キリヤット・シュモネにロケット弾を撃ちこむ。また、射程100kmの新ミサイルを使用し、ハイファ近郊に着弾する。レバノン南部でヒズボラとイスラエル軍の緊張が高まる。

7月12日 ヒズボラがイスラエルの攻撃を開始。イスラエル軍兵士2名を捕虜にする。

午前9時にイスラエルに向け迫撃砲及びカチューシャ・ロケットを撃ち込む。この砲撃でイスラエル側に11名の犠牲者を出す。直後に突撃隊が国境を侵犯。偵察中の部隊に向かって対戦車ミサイルを撃ち込む。この攻撃でイスラエル軍兵士3名が死亡。さらに2名を捕虜にする。戦車で追撃したイスラエル軍は触雷し乗員4人が死亡。さらに脱出した1人が狙撃された

7月12日 イスラエル軍が南部の幹線道路・発電所などを報復空爆。さらに空爆はベイルート近郊のシーア派地域など全土に拡大される。

7月12日 ベイルートのラフィク・ハリリ国際空港、テレビ局、電話局など公共施設が破壊され、港湾は海上封鎖される。レバノンの国家機能は麻痺状態に陥る。

7月17日 イスラエル特殊部隊が越境攻撃を開始。

7月22日 メルカバ戦車を先頭に地上軍本隊が越境、2つの村を占領した。ヒズボラは地下トンネルのネットで対抗。対戦車ミサイルで大きな損害をあたえる。

7月27日 イスラエル軍、国連レバノン暫定軍の施設を砲撃。中国、フィンランド、オーストラリア、カナダの監視要員ら4人が死亡。中国政府は国連安保理に非難決議を提案するが、アメリカの反対で握りつぶされる。

7月29日 イスラエル地上軍、“任務を完了”し撤退。拉致された2人の行方は不明のまま。

7月30日 南部の町カナでイスラエル軍の「誤爆」により37人の子どもたちをふくむ56人が死亡、多数の負傷者が出る。

7月31日 イスラエル軍がレバノン南部での空爆を48時間“人道的”停止を発表(実際には継続)。

8月1日 イスラエル特殊部隊がベッカー高原のバールベックへの空爆。レバノン市民18人が死亡。

8月2日 イスラエル軍、国際世論を無視しレバノン全土に対する空爆を再開する。南部ではイスラエル軍とヒズボラの地上戦が再開。

8月3日 レバノンのシニオラ首相、イスラエル軍の攻撃でこれまでに900人以上が死亡、3000人が負傷し、人口の4分の1の約100万人が避難所生活を余儀なくされていると述べた。

英国の「セーブ・ザ・チルドレン」は、レバノン攻撃による死者数は615人で、子どもが33%を占めているという。ユニセフは、100万人近くのレバノン人が避難民となっており、その45%が子供だと発表。

8月4日 ベッカー高原のカアに空爆。農夫33人が死亡した。

8月6日 ヒズボラがイスラエル北部の都市キリヤトシモナにロケット弾攻撃を加え、12人のイスラエル軍兵士が死亡、6人が負傷。

8月7日 レバノン政府、イスラエル軍の攻撃による死者が1000人に達したと発表。イスラエルを批判する国際世論が沸騰。

8月11日 アメリカを含む国連安保理が停戦決議を採択。

8月13日 イスラエルが、国連安保理決議の受け入れを表明。小規模な空爆や戦闘は継続した。この間、イスラエル軍は1800発に及ぶクラスター爆弾を投下。

8月14日 停戦が発効する。イスラエル軍は国境沿いの数ヶ所を除き、レバノン領内から撤退。イスラエル軍は累計100人以上の戦死者を出しながら、ヒズボラの拠点建物や地下施設を完全に破壊することは出来ず、拉致兵士2名の解放も実現できなかった。

9月 イタリア軍を主体とする国連レバノン暫定軍が進駐。

10月1日 イスラエル軍、レバノン領内から撤退。

ありました!
残っていました。

昨日、その2 と書いたのが、その3 になります。
これが その2 で、年表のアンコの部分です。
1980年から90年までの11年分です。

その3 はこれを入れた後、あらためて入れ直しますので、この記事の上の上になります。

もう少し足した上で、そのうちホームページの方にまとめて入れます。



1980年

80年 LF、東ベイルートとベッカー高原を結ぶ軍事道路を建設・整備。これを支援するイスラエル軍とシリア軍が戦闘。イスラエル空軍の戦闘機がシリア空軍のヘリコプターを撃墜。シリアは、"レッドライン協定"を無視し、地対空ミサイルをベッカー高原に配備する。

9月22日 イラン・イラク戦争が始まる。シリアはイランを支持する姿勢を明確に示す。(敵の敵は味方という論理)

1981年

2月 シリア政府、国内のスンニ派勢力に厳しい弾圧。シリア・ムスリム同胞団の活動家を虐殺する。「ハマーの虐殺」と呼ばれる。

81年 レバノン・フォースとシリア軍とのあいだに戦闘が発生。イスラエル国防軍は、すぐさまレバノンとの国境を越え、シリア軍と交戦。ベイルートのPLO本部オフィスを含む拠点を爆撃する。

81年 イスラエル・シリア間の緊張は、米国の仲介によりいったん沈静化する。シリアは武装闘争派への統制を強化。

81年 PLOはレバノン国内からイスラエルへ向け、ロケット攻撃を激化させる。

81年末 イランでの非ホメイニ派粛清を機に、アマル運動とイランとの関係が断絶。アマル運動はイラン革命防衛隊の派遣を拒否。

1982年

3月 イランとシリア、通商協定および軍事協定を締結。シリア、イランと連携しイラクに対する側面攻撃を開始。

6月03日 ロンドン駐在のイスラエル大使シェロモ・アルゴブが、元PLO(アブ・ニダル)のテロリストに襲われる。PLOはすぐさま事件との関わりを否定。シャロン国防大臣は開戦を煽る。

6月06日 イスラエルがPLO殲滅を主目的とする「ガリラヤの平和」作戦を開始。レバノンのSLAとレバノン・フォース、さらに南部アマルの一部も加わる。

6月11日 イランの第27 旅団先遣隊と国軍第58 レンジャー部隊が空路ダマスカスへと到着した。シリアはレバノン入国を許可せず、そのままイランに戻った(とされる)。

6月12日 イスラエル軍がベイルート近郊に到達しシリア軍と戦車戦。国産戦車メルカバがソ連の最新鋭戦車T-72を多数撃破。

6月13日 イスラエル国防軍はPLOの本部がある西ベイルートへ突入。PLOに国外退去を迫り、砲撃で威圧する。その後、包囲は2ヶ月におよぶ。

レバノン国民抵抗戦線: PLOとともにベイルート市街戦を戦った武装組織として、「レバノン国民抵抗戦線」がある。これには進歩社会党、レバノン共産主義行動組織、アマル運動の左派(レバノン・ムスリム・ウラマー連合)が加わった。

6月20日 アマル運動の指導部、PLO の対イスラエル闘争を無謀な冒険主義であると批判。IDF に対する抵抗を続けていた一部のアマル運動のメンバーに対して,武器を置き,戦闘を停止するように命令。

6月 アマルの副書記長フセイン・ムサウィの率いるベイルート周辺のアマル部隊が、イスラエル軍と衝突。

6月 サルキス大統領、「救国委員会」を組織。米政権の仲介のもと,外交を通してイスラエルとの停戦交渉によって事態の解決を目指す。アマルも委員会への参加を決定。

7月 フセイン・ムサウィー、「イスラエルとの停戦は反イスラーム的行為である」と執行部を批判して追放される。手兵を率いイスラミック・アマルを設立する。

7月 ベカア高原のバアルベックで3つの親ホメイニ・グループが結集し「9名委員会」が創設される。のちに単一組織「ヒズボラ」に発展。

3つのグループとは,①「イ スラーム・アマル運動」(代表フサイン・ムーサウィー),②「レバノン・イスラーム・ダアワ党」および「ムスリム学生のためのレバノン連合」(代表スブ ヒー・トゥファイリー),③「レバノン・ムスリム・ウラマー連合」(代表アッバース・ムーサウィー)であった。

8月21日 最後まで抵抗を続けたPLOが停戦に応じる。アラファト議長はアメリカの仲介でベイルートを放棄を決定。アメリカはパレスチナ人難民の安全保障を目的とする平和維持軍の派遣に同意する。

8月30日 アラファト議長らPLO指導部および主力部隊1万2千人がチュニジアへ向かう。残留パレスチナ難民保護のため、アメリカ、イギリス、フランス、イタリアなどが多国籍軍の派遣を決定。

8月 大統領選挙。LFの若手指導者バシール・ジェマイエルが当選。イスラム教左派は選挙をボイコットする。

8月 フサイン・ムーサウィーら、ダマスカスで駐シリア・イラン大使と会見し、支援を取り付ける。イラン革命政府は革命防衛隊,少なくとも800 名をレバノンへ派遣。ムスリム・ウラマー連合への軍事訓練を開始する。

9月14日 バシール・ジェマイエル、LF本部に仕掛けられた爆弾で暗殺される。 シリア情報部の工作員の犯行といわれる。これに代わり兄のアミーン・ジェマイエルが大統領に就任。

9月 エリー・ホベイカ率いるLF部隊、ジェマイエル暗殺に対する報復のためパレスチナ難民キャンプを襲撃。サブラーおよびシャティーラのパレスチナ難民キャンプに侵入し大量虐殺を行う。シャロン国防相はこれを黙認。イスラエル国防軍は虐殺を止められなかった責任でシャロン国防大臣を解任。

82年秋 LFと再建された政府軍がレバノン中部のシューフ山地を攻撃。「山岳戦争」と呼ばれる。

山岳戦争: シューフ山地はもともとドルーズ派の本拠地であった。イスラムはドルーズ派にアマル派の一部も加わり激しく抵抗した。
政府軍は多国籍軍に空爆や艦砲射撃による援護を要請。ベイルートに駐留する多国籍軍は政府軍に軍事援助を行い、戦艦ニュージャージーからの150発にも上る艦砲射撃や、空母艦載機による空爆などを行った。
民間人もふくめた大量殺戮が横行、「捕虜の存在しない戦争」といわれた。

11月11日 9人委員会の軍事部門「イスラーム抵抗」が「殉教作戦」の開始。南部の都市スールのイスラエル軍兵営に突入し自爆。90名以上の死者を出した。うちイスラエル軍兵士は74名。

 

1983年

4月 第2回目の殉教作戦がIDF の車列に対して行われ,9 名が死亡。

4月18日 ベイルートのアメリカ大使館に自動車爆弾特攻攻撃。63人が死亡(米国人17名、うち8人がCIA職員)、120人が重軽傷を負う。「イスラム聖戦」名の犯行声明が出される。

10月23日午前6時30分 アメリカ海兵隊の兵舎に自動車が突入し自爆。死者241名、負傷者60名以上を出す。ついでフランス空挺師団の兵舎も攻撃され死者58名、負傷者15名を出す。

特攻隊員はメルセデスのバンで検問を突破し、空港に侵入。駐車場を二度ほど回り、ターゲットに狙いをつけたあと司令部のあるビルに突入した。

11月4日 スールのイスラエル軍兵営に自爆テロ。死者60名以上、負傷者30名以上 死者のうちIDF兵士は29名、ほかは捕虜となったレバノン・パレスチナ人。

12月3日 シリア軍がアメリカ軍機に発砲。 アメリカ軍は空母ジョン・F・ケネディ と空母インディペンデンスの艦載機F-14トムキャットでシリア軍に攻撃を加えるが、対空砲で2機の戦闘機が撃墜される。

1984年

2月26日 アメリカ海兵隊の撤退。つづいてフランス軍とイタリア軍も撤退。

アマルやドゥルーズ派はシューフ山地の奪還に成功。西ベイルートからも国軍を放逐する。シリアの経済的・軍事的支援を受けたアマル運動が国内の勢力を拡大。国軍のイスラム教徒はアマルに合流する。

3月 シリア、アマルを中心に民兵組織指導者の「国民和解会議」を開催する。レバノン政府の存在は完全に無視される。

5月 9人委員会の発行物のなかで、初めて「ヒズボラ」の名が用いられる。

6月6日 スール近郊でイスラエル軍の車列が地雷攻撃を受け、負傷者9名を出す。

6月18日 ヒズボラ、機関誌の準備号を発刊し無料配布。特集「レバノンにおけるイスラーム革命の声」が組まれ、「イスラエルの存在を根絶することは,我々すべて1 人1人の義務である」と宣言。

9月20日 「イスラム聖戦」がふたたび米大使館(別館)に自爆テロ。死者14名(米国人は2名)を出す。

 

1985年

2月16日 ヒズボラが公開書簡の発表を通して存在を明らかにする。イスラエルを敵としアマルとも敵対、パレスチナ人を支持すると発表。

1986年

86年 シリア軍とアマルによるパレスチナキャンプへの攻撃(キャンプ戦争)。

86年 イラクの支援を受けた国軍のミシェル・アウン将軍(マロン派)、シリア・PLOの排除と民兵組織解体による政府・軍の樹立を掲げ影響力を拡大。イラクはイラン・イラク戦争の終結で余剰となった武器弾薬や車両を提供する。

1987年

87年 アマルがヒズボラと交戦。シリアはアマル支援のためレバノンに再侵攻。イランと交渉し、ヒズボラの存続と引き換えにシリア軍の進駐を認めさせる。

1988年

1988年 アミン・ジェマイエル大統領の任期が終了。アミンはレバノン軍参謀総長のアウン将軍(キリス ト教)を首相に任命した後、亡命同然にアメリカへ移住。アウンは全国民に、レバノンの主権回復のためシリアに対し武装抵抗せよと呼びかける。

88年 シリアはベッカー高原のラヤク空軍基地に国会議員を召集しルネ・ムアワドを大統領に就任させる。この結果、反シリアのアウン軍事政権とシリア派のムアワド政権が併存する事態となる。

1989年

10月  レバノン内戦終結をめざし、サウジアラビアが乗り出す。サウジアラビアの仲介で、レバノンの国会議員団が、内戦を終結し国家再建を目指す和平案を提示。サウジのターイフで会議が開かれたことから、「ターイフ合意」と呼ばれる。

11月24日 アミン・ジェマイエル前大統領が暗殺される。これに代わる新大統領に親シリアのハラウィ海軍将校ハラウィが就任。ハラウィはアウン首相を解職。アウン将軍はこれを無視。

89年 シリアと多くの武装組織が「ターイフ合意」を承諾。ヒズボラも消極的賛成にまわる。アウン将軍派は受け入れを拒否、南レバノン軍は合意そのものを黙殺する。

1990年

90年 イラクのクウェート侵攻。第一次湾岸戦争が発生。シリアは多国籍軍側にたち、米国にレバノン駐留を認めさせる。

90年 アウン派とシリア軍が対決。シリア軍とレバノン・フォースが共同し、アウン将軍の部隊に総攻撃。戦車や長距離砲、ロケッ ト砲を用いた大規模な戦闘となるが、アメリカの黙認を受けたシリアの攻撃によりアウン派政府軍は崩壊。アウン将軍はフランス大使館に逃げ込み、亡命を要求。

90年 民兵組織指導者が閣僚に就任した挙国一致内閣を樹立。シリア軍3万人が東ベイルート、ジュニエなどのマロン派の本拠地に進駐。民兵組織を武装解除して内戦を終結させる。

90年 内戦が終結。15 年間に,13 万から25 万人もの死者と,100 万を超える負傷者を生んだ。パレスチナ難民は市民権をレバノン政府によって剥奪され、PLO系の軍事組織は武装除され、社会的な保障も無くなり、パレスチナ難民キャンプはスラム化する。

 

レバノン内戦年表

 

パレスチナ年表に一緒に入れていましたが、あまり事項が多すぎて、本来の流れが分からなくなるため、別表としました。基本としては1975年から90年までですが、若干前後に伸びています。
ちょっとヒズボラに比重が行き過ぎていてヒズボラ年表みたいですが、ご容赦の程を。
ヒズボラの輝ける伝統からすれば、アサドに肩入れしてシリアの民衆弾圧の側に回っているのはきわめて残念なことです。最近は国会議員先生になって、SUVなんか乗り回して堕落してしまったとの噂もチラホラと聞こえてきます。

 

1972年

11月 レバノン内でのPLOの存在と活動を保障するカイロ協定が結ばれる。PLOがレバノンの主権を尊重することを条件に、レバノンがPLOに難民キャンプ内でのPLOの行政権と,武装部隊の配置,また南レバノンへの移送ルートの確保を認めた。

1972年

72年 レバノン、国内南部にPLO訓練基地を与える。

1974年

10月 アラブ首脳会議(ラバト会議)においてPLOは,パレスチナ人の唯一の合法的代表として認知される。

11月 パレスチナ、国連におけるオブザーバーの資格を獲得する。

1975年

1975年4月

4月13日 アイン・ルンマーネ事件が発生。銃撃戦により27名が死亡。レバノン内戦の始まりとされている。

ベイルート郊外南部のアイン・ルンマーネ地区のキリスト教会で集会が行われていた。この時PLO支持者達のバスが教会前を通りかかり、興奮していたPLO支持者が教会に発砲した。居合わせたファランヘ党のメンバーがこれに応戦し銃撃戦に発展した。

4.14 衝突はトリポリ、サイーダにも拡大。100名以上が死亡する。不毛の内戦の始まりとなる。

4.16 レバノン両派の衝突は、アラブ連盟事務総長とシリア外相の調停工作で一旦停戦。

1975年5月

5.13 ファランヘの党員4名が何者かに射殺される。ファランヘはPLO事務所を襲撃。

5.19深夜 ベイルート東部デクタワー地区(マロン派支配区)で、パレスチナ・ゲリラとファランヘ党 武装グループとの戦闘。

5.23 内閣が衝突の責任を取って辞任。右派の軍人政権が成立する。これに対し、イスラム教徒・左派政党などが全土で激烈な反対運動を展開。ドゥルーズ派の指導者カマール・ジュンブラートは、親ソ親PLOの立場を取り、宗派の違いを越えた汎アラブ主義を唱える。

5.26 軍人政権も3日間で総辞職。左右双方の民兵組織が抗争を繰り広げる。各組織がベイルート市内のホテルを占拠・要塞化したためホテル戦争と呼ばれる。

ホテル戦争: 毎週末になると、イスラム教・キリスト教の民兵組織による激しい戦闘が繰り返され、月曜の朝には死体が散乱していた。このことから"ブラック・マンデー"と呼ぶ。ベイルートの街は、イスラム教徒やパレスチナ難民の多い西ベイルート地区と、キリスト教・マロン派が多く居住する東ベイルートに分裂。両者の境界は"グリーン・ライン"と呼ばれる。

7月 「剥奪された者たちの運動」が憲章を採択、「パレスチナは,運動の中心であり,その解放は我々の基本的義務である.またシオニズムは,レバノンの未来に対する脅威である」と宣言。シーア派の武装組織「レバノン抵抗大隊」(略称アマル)を創設。のちに運動そのものが「アマル運動」と呼ばれるようになる。

イマム・ムーサー・サドル: 60年、イランからシーア派の宗教指導者としてレバノンに入る。「剥奪された者たちの運動」を組織。シーア派は人口比では最大のセクトだが、政治的にはこれまで疎外されてきた。

 

1976年

2月 この頃、両派の抗争は左派有意に傾き、ファランヘ党などのマロン派民兵組織は東ベイルートやジュニエなどに閉じ込められる。

2月 レバノンのPLO化を恐れるシリア政府、「ダマスカス合意」と呼ばれる政治改革案を提示する。内戦以前のレバノンの力関係の維持・固定をめざすもので、ドゥルーズ派やPLOなど左派の反感を買う。

3月11日 国軍のアハダブ准将(イスラーム)がクーデターを起こす。

5月 シリアは、“レバノン政府の要請を受け”軍事介入を決定。米国の仲介で"レッドライン協定"を結んだ上、ベイルートに進駐。無政府状態の中で大統領選挙を進め、 シリアの傀儡政権を樹立させる。

レッドライン協定: シリアとイスラエル双方の直接対決を回避するため、シリア軍部隊の駐留場所や兵器の種類・数量などを詳細に取り決めたもの。ベイルート以南に旅団規模を上回るシリア軍主力部隊を駐留させず、レバノンにおいてイスラエルを射程圏内に 収める長距離砲・ミサイル・ロケット弾を配備せず、また、一切の戦闘機・爆撃機をレバノン国内に駐留させないという不文律の協定。またキリスト教徒側への攻撃を行わないとの合意もふくまれる。

5月 シリア、周辺諸国の反発を抑えるため、中東各国にレバノンへの軍の派遣を要請してアラブ平和維持軍を設置、自らのレバノン介入を正当化する。

5月08日 シリア軍の統制下に臨時内閣が組織される。閣議決定によってエリアル・サルキスが暫定大統領に選ばれる。アラブ平和維持軍(実体はシリア軍)が治安回復に乗り出す。ジュンブラートはシリアを裏切り者と非難。

8月30日 。レバノン正規軍東部軍管区司令官のサード・ハダット少佐の呼びかけで、マロン派民兵組織が組織統一。レバノンフォース(LF)が創設される。イスラム・左派に対抗するためイスラエルの支援と介入を求める。

レバノン・フォース: ファランヘ党を中心に・自由党・タンジーム党・レバノン防衛隊の武装部門が合併。反シリア・反パレスチナを標榜する。ファランへ若手のバシール・ジェマイエルが司令官となる。

9月26日 パレスチナゲリラ、シリアの首都ダマスカスのホテルを襲撃。シリア軍は24時間にわたるPLOへの攻撃を開始。PLOはダマスカス西方の山岳地帯からの撤収を余儀なくされる.

10.25 第8回アラブ首脳会議がカイロで開催。シリアのレバノン進駐を了承。PLOに「レバノン主権の尊重」を認めさせる。

1977年

3月 イスラム勢力の中心的役割をはたしてきた国民進歩戦線の指導者カマール・ジュンブラットが暗殺される。ジュンブラットは少数派のドルーズ派出身でありながら、社会進歩党党首としてPLOや左派勢力とも良好な関係を築いてきた。

1978年

2月 LF部隊がシリア軍に武力挑発。シリア軍は"レッドライン協定"を無視し東ベイルート市街まで追撃。イスラエルはこれをレッドライン協定の違反と判断。レバノン南部侵攻作戦を発動する。

3月15日 イスラエル、特殊部隊と空軍機を出動させ南部侵攻を開始。PLOをロケット砲の射程圏外まで追い出す。

リタニ作戦(Operation Litani): リタニはレバノン南部を流れる川の名前。7日間の戦闘でイスラエル軍死者は37 人。一方,パレスチナ人とレバノン人は1100 人以上が死亡し,その大半が一般市民であった。

3月 イスラエルは南レバノンを「安全保障地帯」と名づけ、そのまま居座りを図る。

安全保障地帯(Security Zone): リタニ川以南のレバノン領がふくまれる。レバノンの総面積約11% におよぶ。住民の大半を占めたシーア派は移住を余儀なくされた。

78年 イスラエル軍、国連の介入により撤退。国連は戦闘停止と住民保護のためUNIFIL(国連南レバノン暫定軍)が派遣されるが、実効支配はできず。

78年 イスラエル、「自由レバノン軍」をでっち上げ、リタニ川以南の間接支配を続行する。

自由レバノン軍: 反PLO・反シリア・親イスラエルを唱える結成された。レバノン正規軍東部軍管区司令官のサード・ハダット少佐が司令官に就任。のちに「南レバノン軍」に改称。

8月 アマルの指導者サドル、リビアを訪問中に失踪。弁護士のナビー・ベリリが後継者となり、シーア派の利益を追求する世俗的政策を推進。

10月 イランでシャー体制が崩壊し,イスラム革命が勝利する。アマル運動は戦闘員500名を革命前夜のイランへ派遣。非ホメイニ派と行動を共にする。

78年 アラブ平和維持軍は撤退したが、シリア軍だけはそのままレバノンに駐留

1979年

2月 イラン革命政府、レバノンのシーア派を支援するため、パスダラン(イラン革命防衛隊)を送り込む。アマルはパスダランの援助を断り、シリアに接近。

12月 ソビエトのアフガニスタン侵攻が開始。アラブ世界では民族主義に代わってイスラム主義が勢力を伸ばす。

79年 シリアとイラクとの統一協議が失敗に終わる。アサドはイランに軸足を移す。 

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