「2020年9月27日、アルメニア軍は、アゼルバイジャン共和国との軍事境界線に沿って、大口径の武器、迫撃砲、さまざまな口径の銃砲を発射しました。これはアゼルバイジャンに対するもう一つの新たな攻撃行為です。
2.一連の事態におけるアルメニア政府の関与
3.アルメニア軍の非人道行為について
4.アルメニアの狙いはなにか
中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。
民族対立を煽る形でアルメニア好戦派は政権を握ってきた。国内においては野党を力で抑圧してきた。パシニャン現首相は、そういう好戦派政権の民衆抑圧をはねのけて首相に当選した人である。
そのパシニャンの政権下で今回の事態が起きたことに、ことの複雑さを感じてしまう次第である。
ユダヤ人と同じようにアルメニア人も、祖国の住民の何倍もの人々が“ディアスポラ”として欧米諸国で暮らしている。イスラエルには、国民の意志よりも在米ユダヤ人マフィアの思惑とキリスト教右翼の圧力により政策決定がなされていく現実がある。それと同様の機序がアルメニアにも働いている可能性がある。
国家間の原則に立ち帰ろう
色々経過はあるが、ナゴルノ・カラバフはアゼルバイジャンの自治州であり、アルメニア人の比率がいかに高かろうと、国家の主権はアゼルバイジャンが握っている。したがってここで軍事組織を結成し国家主権を無視するような行動があってはならない。
これが法の形式である。周辺国も政治的立場や宗教的立場を越えて共通の立場に立っていた。
ただしナゴルノ・カラバフのアルメニア人がより高度の自治を欲し、場合によってはアゼルバイジャンからの独立を目指すのなら、それはそれで運動としては保障されなければならない。
ロシアの干渉を排除しよう
こういう形で、過去には妥協と合意がなされてきて、それはかつての「母国」であるロシアによっても担保されてきた。
ただロシアはその事によって産油国アゼルバイジャンを牽制し引き止めたいという隠された願いもあるから、この紛争に対して厳正中立という立場では決してなかった。むしろマッチ・ポンプのように対立を利用してきたこともある。
細川ひなこさん によれば
ロシアはミンスク・グループの共同議長国家の一国として仲介に一役買っている一方で、アゼルバイジャンとアルメニアの両国に武器供給も行っており、アゼルバイジャンに至っては、輸入武器の8割がロシアからの物であるという。
一方で、現在、アルメニアとは協定を結び軍隊を常駐させており、有事にはアルメニアの防衛を行うことにもなっている。このような行動の裏には南コーカサス地方における影響力を保持するという目的がある。
朝日新聞(論座)は今回のアゼルバイジャンの行動についてトルコとエルドアン大統領の思惑を非常に重視しているが、これは紛争のパワー・ゲーム化(どっちもどっち)の視点であり、大変気になる。
トルコにはアルメニア人大虐殺の暗い過去があり、アルメニア側はこの黒い歴史を、情報操作に最大限活用しようとする意図が感じられる。
事態の根本原因は他国の領土に侵入するアルメニア側の拡張主義にあり、これに対して国際的に制約を加えていくことがもっとも重要な視点であろう。
アゼルバイジャンはこのところ非同盟運動とイランへの接近を強めてきた。しかし、もともとはイランはアルメニアを支持していた経過がある。このあたり、まことに天変極まりない。
あまりうがったモノの見方をせずに、国際法の原則を維持しつつ、粘り強く事態の平和的解決をはかっていくことが大事であろう。
参考までに、アルメニア側から見た第一次ナゴルノ・カラバフ戦争の推移
ICCへの攻撃は法の支配を妨げる許されない試みだ。ICCは残虐犯罪の犠牲者にとって正義への最後の望みとなっている。ゆえにICCへの攻撃は犠牲者に対する攻撃でもある。
ICCは国際社会に正義をもたらし、最も深刻な国際犯罪に対処するうえで重要な役割を果たしている。すべての国から尊重され、支援を受けるべきだ。
イランは無人ドローンを撃墜した。こちらは3つの別々の地点に報復しようとした。僕が何人死ぬんだと質問した。150人ですと将軍が答えた。そこで攻撃10分前に僕がやめさせた。無人ドローンの撃墜に対して相応じゃないからだ。ニューヨーク・タイムズに対して匿名の政府高官は、「軍用機は離陸し、軍艦はそれぞれの位置についていた。中止命令が届いたとき、ミサイルはまだ発射されていなかった」と語った。
ホデイダでは、約5カ月にわたって続く空爆で推定30万人が難民となった。イエメン事務所代表は「こうして亡くなる子どもは、内臓の機能が落ちてついに停止してしまうまで、大変苦しい思いをする。泣く力さえ残っていない子もいる。親たちは何もできないまま死ぬのを見ているしかない」
フーシは反対派を片っ端から拘束しては拷問する。幹部は豪華な邸宅に暮らし、高級車のポルシェなどを乗り回す。反対派を拘束、手足を縛り付けてローストチキンのように火あぶりにする。
ホデイダは物流拠点で国連の支援物資が集まる港湾都市。サウジはホデイダ制圧のため1万4000人のスーダン人雇い兵を投入。
サウジがイエメン戦争につぎ込んでいる戦闘機や爆弾はほとんどが米国製だ。現地ではボーイングなどの技術者数百人が働く。トランプは1200億ドル強の武器売却に成功した。
分離独立派は南部暫定評議会(STC)を名乗り、アラブ首長国連邦(UAE)の支援を受けている。地上勢力を掌握してきたUAE軍は、サウジと結ぶ暫定政府に反感を募らせる。
データで見る:紛争下のイエメン、人道危機の規模 1億1,300万人 - 人道支援が必要な子どもたちの数 2億4,100万人 - 人道支援がなくては生きられない人の数 200万人 - 急性栄養不良で治療が必要な5歳未満の子どもの数 1億9,700万人 - 基本的な保健ケアへのアクセスが必要な人の数 1億7,800万人 - 安全な水、適切なトイレなどへのアクセスが必要な人の数 出典:ユニセフ・イエメン人道状況報告書(2018年12月)/ユニセフ・イエメン人道ニーズ概況報告(2019年) ただしイエメンの総人口は約2,892万人(2018年/国連)であり、ユニセフの数字にはベネズエラ並みの誇張(翻訳ミス?)があるようだ。 |
私たちは一つの夢を持っています。それは人々の命を救い、ここから抜け出すことです。もう一つの夢は「私たちは武器などなしに何でも成し遂げることができるのだ」というメッセージを送ることです。
あなたの良心はこれからもずっと癒やされることでしょう。なぜなら神様はいつもあなたの願いをわかってくださっているからです。お休み、ぐっすりと。元気でね。
彼はアルメニア国立大学ジャーナリズム学部でトップクラスの優等生でしたが、当時の学長の批判記事を書いて問題になり、その学長から、「記事の内容を否定しないと退学にするぞ!」と脅されても、「これは事実だから否定などしない!」と突っぱねて退学になりました。
政治家になる前は、「アルメニアタイム」というリベラルな新聞紙の編集者を務めていました。在職中は共和党の腐敗政治を激しく批判し続け、10年前の大統領選挙の不正に対する違法な抗議活動を行ったとして、当局から指名手配されました。1年以上の逃亡生活の末、2009年に自ら出頭して逮捕。2年の服役を終えて出所後、野党「アルメニア国民議会」のリーダー的存在になり、2012年に当選して国会議員になりました。
2016年に、他の野党党首と共に、「エルク(アルメニア語で出口・糸口の意味)」という政党を結成。翌年の国会議員選挙で9議席を獲得し、第二野党となりました。
アルメニアも、そんな厚顔無恥で強欲な人間たちがずっと国を支配してきました…。ただ、その腐敗のレベルがとにかく半端ない最近、ある大物政治家が不法に大量の武器を所有していた容疑で逮捕されました。彼は、ナゴルノ・カラバフ紛争で大佐を務めた元軍人です。警察が彼の豪邸を捜査したところ、隠し持っていた武器の他に、何十台もの高級車や水上バイク、虎やライオンなどが飼われたミニ動物園までありました。…驚いたのは、市民らが前線で戦う兵士たちのために送った食料や物資を横領して、何とその食料を自分が飼っている動物の餌にしていたことです。
サウジの「覇権化」と湾岸諸国の動向
その1. カタール封鎖をめぐる各国の動き
アラブの春からシリア内戦、そしてISと激動が続く中東であるが、報道されない主役としてサウジの覇権主義的行動について注目する必要がある。
といっても私にも「気になる」という以上の情報は目下ないのだが、一番奇異なのはむしろこのメディアの沈黙ぶりなのだ。(ベネズエラでの大はしゃぎとは天地の差がある)
とりあえず気になることとして、
イランへの政治的挑発、カタールへの攻撃(これについては、攻撃そのものもさることながら湾岸諸国連合の私物化が気になる)、イエーメンへの侵略、そしてレバノン首相の軟禁事件(これほどの事件が全くフォロろーされない理由が分からない)
などがある。
湾岸諸国もこれらの動きに無関心ではいられないはずだが、カタール(ということはアルジャジーラ)を除けば、その反応はほとんど報道されない。
おそらく日本語資料はほとんどないだろうが、少しあさってみようかと思う。
2.サウジの本音はシーア派弾圧
サウジの中東覇権戦略は二つの柱があって、その関係が微妙に揺れ動く。
一つはイラン人に対抗するアラブ人世界の団結であり、もう一つはシーア派に対するスンニ派盟主としての対抗である。
アラブ世界の盟主となることはサウジにとっては最も大きな意義があると思われる。またほかのアラブ国家からの支持も期待できる。
イラン人というのはペルシャ人であり、人種、民族が異なる。ただしこれは、トルコ人に対しても言えることであり、その差をあまり強調するのは、イスラムの教えに反することになる可能性がある。
さらにイスラエル、サウジ、イランの間で微妙に成り立っている中東の力関係を改変することには危険もつきまとう。
だから、こちらの戦略を本気で自力で展開する意志はないだろうと思う。(エジプトに担わせて背後で操る手法の継続)
これに対してシーア派への弾圧はもろにみずからの権力基盤に係る課題となる。
中東の多くの国でシーア派教徒数はスンニ派を凌ぐ状況になっている。しかし彼らはそれぞれの国家で下層階級を形成し、不満を蓄積している。
「アラブの春」が各国で展開されたとき、シーア派の不満が表面化した。それは条件さえあればいつでも燃え上がるだけの力を備えている。
これをどう抑えるかという戦略は宗派戦略ではなく階級支配の戦略なのだ。
ここを踏まえて、各国の状況を見ていく必要がある。
3.サウジ対カタールの対立図式
湾岸諸国の政治的立場はサウジ対カタールの対立図式で表される。
カタールは首長国である。UAEが首長国連邦であるのに対し単独で国家を形成している。
前首長のハマドは基本的にサウジとの意見の違いはなかった。しかし現首長のタミームは、「アラブの春」において反政府側の主張を基本的に支持した。さらにエジプトのイスラム同胞団と交流し、ガザのハマスを支援してきた。
これに対しサウジを支持するのはUAEとバーレーンである。クエートとオマーンは、基本的にはサウジに近い立場ではあるが、対立の回避を優先する立場から調停に動いている。
アラブ域外国であるイランとトルコはカタールを支援するというよりは、サウジのアラブ分裂行動に批判を強めている。
とりあえず第1報。
The
Israeli Military First Took His Legs, Then His Life
「7月3日体制」下のエジプト
シリーズ「混迷する中東・北アフリカ諸国」の5回目。今回は長沢栄治さんの執筆である。2015年初頭の頃の文章で、新しいといえば新しいが、すでにそれから2年余りが流れており、すでに現状とのあいだに若干の違いは出てきているかもしれない。
はじめに
(この「はじめに」がえらく長い)
2011 年 1 月 25 日にタハリール広場での大集会が行われ、2月11日にはムバラク大統領を宮殿から退去させた。
それから約1年半後の2013年6月に民衆は再び蜂起し、ムルシー大統領とムスリム同胞団の政権を打倒した。
それで、蜂起に立ち上がった人々が望んだ「革命」は進展しているのか。革命などといっても一時の興奮に過ぎず、混乱をもたらしただけで何の結果も残さなかったのか。
長沢さんはいくつかの判断材料を提出する。
①ムバラクの逆転無罪判決
2012年6月、ムバラクはデモ隊への発砲による殺害の罪での無期懲役判決を受けていた。
2013年1月に再審理が決定され、2014年11月にムバーラク元大統領に無罪判決が出された。抗議の声は押しつぶされた。
②軍部による統治の「正常化」
2014年6月、「6月30日革命」を唱えるシーシーが大統領に就任した。
表面的に見る限り、シーシー大統領は国民の政府に対する信頼を回復し、安定した「統治」に成功している。
スンナ派を指導するアズハル機構と、人口の10%以上を占めるコプト派の政権支持には強固なものがある。
③ムスリム同胞団への怒り
一方、ムスリム同胞団は国民の指弾の的となっている。ムルフィ政権下のコプト派教徒襲撃や、シーア派住民殺害などの非道行為、経済危機を強権で乗り切ろうとしたことへの恨みは深く刻み込まれている。
長沢さんはこの3つの流れを基礎に、情勢を分析しようとしているようだ。
1. 軍が提示した2度目の行程表
2013年6月30日の民衆蜂起、 「6月30日革命」を受けて、軍は翌日7月1日に声明を発表し、全ての政治勢力が48時間以内に和解するように求めた。ムルシーはこれを拒否した。
7月3日、軍トップのシーシー国防相は、軍の用意した工程表を発表した。それは①憲法改正→②議会選挙→③大統領選挙よりなる。これは後に①→③→②となった。
このあと長々と「1月革命」の経過が語られていく。長沢さんの文章はきわめて入り組んでいて、文章そのものの要旨ではない注釈部分に重要な事実が書き込まれており、実に読みにくい文章となっている。
「1月革命」の経過は、論旨からいうと枝葉なのだが、読み手からすれば、革命の総括が書かれたもっとも重要な箇所だ。とりあえず従いて行くしかない。
一度目の工程表: 2011年革命の総括
2011年革命において、軍が決めた行程表は、「②議会選挙→③大統領選挙→①憲法改正」であった。
左派勢力は、まず革命の理念を体現した新憲法の制定を最初に行うべきだと主張した。しかし、軍はこれに従わなかった。内心では現体制の大幅な変更を望んではいなかったからである。
同胞団は選挙を先に行うことで、理念よりも組織力による主導権確保を狙った。これに軍は乗り、3月の「暫定的な憲法改正」を国民投票で押し切った。つまり憲法改正は先延ばしにされたのである。
ついで行われた議会選挙で、同胞団は総議席の3分の2を超える地滑り的勝利を収めた。革命の勝利の果実は同胞団により掠め取られてしまった。
大統領選挙と同胞団の心変わり
革命後に2勝を収めた同胞団は、3勝目も狙うようになる。
当初は、同胞団候補は出さず、世俗派に大統領職を委ねる意向であった。これが何故心変わりしたかについて、真相は未だ不明である。
長沢さんはいくつかの可能性を上げている。次なる最終戦、新憲法制定で勝利を収めるために、どうすべきかという議論があっただろうという。
新憲法における勝利とはどういうことか、それは「同胞団が掲げてきた理想であるイスラーム国家体制の建設」を保障する憲法である。
大統領選挙は同胞団と軍の支持するシャフィークとの決選投票となった。軍は同胞団と断絶し、真っ向から対立するようになった。そして同胞団が勝利した。
議会選挙の結果から見ても、同胞団の勝利は当然だった。だから大統領選挙に勝利したということより、大統領職も自らの手に収めるという判断をしたことが重要である。その結果、軍を敵に回すことも覚悟の判断である。
そして軍との対決は8月にやってきた。ムルシー政権は大統領と議会の3分の2の議席という力を背景に、軍最高幹部の更迭という「荒業」に踏み切ったのである。
これはいったん成功したかに見えた。同胞団にとって左翼・リベラルを抑え込み、軍の統制を確保することは、自らの独裁権力の確立であるかのように思えたのであろう。
そこから同胞団政権はイスラム原理主義にもとづく憲法制定とイスラム国家づくりに突進していくことになる。
彼らは勝利に過信し、軍の実力と意思を見誤っていた。
米国の同胞団へのスタンス
米国は従来からポスト・ムバーラク期を見越して同胞団と接触していた。米国は同胞団を穏健派イスラーム主義勢力と見ていた。そして同胞団政権の未来を「トルコ・モデル」の図式の上にとらえていた。
7月政変が起きると、米国はエジプトの民主化改革に遅延をもたらすものと批判。米議会は対エジプト援助の供与中止を決議した。
このような米国の見通しの甘さも、同胞団の強硬姿勢をもたらしたといえる。
新工程表の意味
今回の工程表では、まず新憲法の制定が先行した。
新憲法の意味は若者・リベラル勢力が2011年当時に求めたように1月25日革命の理念を実現するためではない。
新憲法の制定が目指したのは、2012年憲法に見られる「同胞団色」の一掃であり、軍をはじめとする既存の諸勢力(司法エリート、アズハルやコプト派教徒など)の権益や地位の再確認であった。
また、大統領選挙を議会選挙に先行させたのは、議会政治の軽視、あるいは不信である。そこには議会政治の重視が同胞団の進出をもたらし、政治混乱を生み出したという思いがある。
つまり、軍が目指すのはある意味で「ムバラクなきムバラク体制」といえるかもしれない。
6月30日革命、すなわち反同胞団政権運動の主体であったリベラル勢力や若者運動への態度はたんなるリップサービスに終わっている。
2.新憲法の内容
略
3.大統領選挙とその結果
略
4.議会選挙制度改革
略
5.同胞団の弾圧とテロの激化、そして若者運動の抑圧
権力を握った軍政権は同胞団に過酷な弾圧を加えた。
2013年8月14日、軍はムルシー復職をもとめる同胞団デモに対し強制排除を行った。ラーバア・アダウィーヤ広場での衝突では約千名が殺された。
12月に同胞団による警察襲撃事件が起こると、政府は同胞団をテロ組織に指定した。同胞団の資産は凍結され、幹部の資産は没収された。
2014年に入ると、弾圧はさらに苛烈さを増した。3月に同胞団員529名に死刑判決が下され、4月にはさらに683名に死刑判決が下された。
テロ事件の頻発と政府の弾圧強化の中で、「4月6日運動」などの若者活動家も多くが逮捕・勾留されている。青年運動は事実上不可能な状況に追い込まれている。
6.外交政策
2月革命以降、多彩な動きを見せていた外交活動は、ムバラク時代の姿勢にほぼ戻った。
とくにガザのハマスに対しては同胞団がらみで態度を硬化させている。シーシー政権は、ガザ地区につながる物資搬入のトンネルの破壊を徹底して実施してきた。
これはシナイ地区の反政府ゲリラが同時にガザへの密貿易グループでもあることから、資金源を絶つ目的もあるようだ。
「石油・天然ガス資源情報」というサイトに地味に面白い記事が載っている。
マスコミの国際情報というのは、普通は必要な情報は載らず、むしろ本質を覆い隠すような情報のみが載せられることになっている。
このページは半ば情報誌とも呼べるものだが、意外に本当の情報が載っている。
中でも面白かったのが「アラブの春から4年…混迷する中東・北アフリカ諸国」という連載だ。全6回から構成され、執筆者がそれぞれ異なる。
ネットでは2~6回が読める。順次紹介しておく。
はじめに
「中東については予想をしてはいけない」という格言がある。現状は、この格言のとおりである。
そこには多様な要素が複合的に絡んでおり、分析や評価の視点も当然ながら多数ある。
その中で、イスラエルの「アラブの春」評価は特異だがリアルでもあり、注目に値する。
①アラブの政変をイスラエルは全く予測していなかった。
②イスラエルとの和平を維持してきた独裁者が追放されたことに驚き、未知の政治勢力が出現することを警戒している。
③イスラエルは、戦略的資産と見なすエジプト・ヨルダンとの和平を順守することを最大の目標にしている。
1.エジプト政変の意味
政変が起きた国の民衆は、独裁政権に怒りの声を上げたが、イスラエル非難の声はほとんどなかった。イスラエルという国やその社会には関心がないのかもしれない。
エジプト政変で、イスラエルの過去30年の努力は無に帰した。エジプトとの和平は、イスラエルの安全保障戦略上の最も重要な基盤であった。
イスラエルが昔も今もそして今後も、最も警戒する相手はエジプトである。エジプトはイスラエルと25年間の間に4回も戦った。
第4次中東戦争(ヨム・キプール戦争)では、シナイ半島で本格的な近代戦に突入し、激しい消耗戦を行った。劣勢に立ったイスラエルは機甲部隊によるスエズ運河の逆渡河作戦を強行、エジプト軍の補給路を絶つことでようやく挽回した。
1979年の和平条約で、イスラエルはシナイ半島をエジプトに返還した。反対する入植者らをイスラエル軍は力ずくで排除した。こうして獲得したのがエジプトとの和平である。
第4次中東戦争の後、現在まで約40年間戦争はない。両国間には1件の和平協定違反もない。スエズ運河が戦争のために閉鎖されることはなくなった。
米国はエジプトとイスラエルの和平を維持するために、外国援助総額の半分近くの支援を両国に対して行った。「米国は和平を金で買った」と言われた。
ムバーラク体制が崩壊した時、イスラエルはその冷たい和平が破綻するかもしれないと恐れた。
2013年7月の第二革命でムルスィー大統領が、エジプト軍によって解任された。2014年1月に新憲法が国民投票で承認された。そして国防相・参謀総長のシーシーが大統領に選出された。
シーシー政権はガザのハマースを国内のムスリム同胞団と同じと見なし、厳しい対応を開始した。エジプトとガザの間にある密輸用の地下トンネルのほとんどが封鎖された。
シナイ半島では、エジプト治安部隊と武装勢力(密輸貿易の担い手)との衝突が増加した。イスラエルは、エジプト軍が治安作戦で戦車や装甲車を使用することを認可した。
この結果、ガザへの物資の約95%が停止している。ガザ経済は、今や過去最大の危機に瀕している。
2.イスラエル国内体制の変化
テルアビブでも若者の占拠運動が行われた。そのデモは11年9月には約40万人規模に拡大した。
デモ隊は、少数の財閥が国民経済の30%を支配している状況に抗議し、より平等な富の分配や社会的正義の実現などを要求した。
デモ参加者らは貧困層ではなく、学生や若者、教師や技術職など専門職の中間層が主体だった。左派も右派も抗議行動に合流した。
イスラエルは建国以来、「社会主義」的な経済形態を取っていた。しかし1980年代末から民営化を進めた。
軍需企業が蓄積した知識と経験が、民営化によって市場に出た。その結果、イスラエルはハイテク国家に変貌した。
毎年約5%の経済成長を維持した。国民1人あたりの収入は、1990年の約1万5,000ドルから2009年には2万8,100ドルとなり、ほぼ倍増した。
しかし、国内の貧富の格差も同じテンポで拡大した。それに対する不満が表面化したのである。
3.イスラエルとパレスチナ問題
1993年、イスラエルはパレスチナと政治交渉を決断した。パレスチナの反占領運動は戦車に石で立ち向かった。パレスチナの若者に対してイスラエル軍は銃撃を加えた。その映像は世界中で報道された。
イスラエルは国際的な非難にさらされた。米国のユダヤ人社会でさえ厳しく批判した。イスラエルは、パレスチナ人の反占領運動を力で鎮圧できないことを明確に知った。
1994年に成立したパレスチナ自治政府はすでに実体を整えた。イスラエルは、パレスチナ国家が新たな脅威となることを警戒している。その一方、PAを解体して、パレスチナ人を再び統治する意図もない。
イスラエル人の多くが政治に無関心になった。その結果、組織票を持つ宗教政党の得票の相対的な比率が上昇した。それにつれイスラエル社会の宗教化・右翼化・内向き志向が増大した。
「民主国家イスラエル」が、非西欧的な宗教国家に変質する危険性が高まっている。イスラエルを批判するイスラエル人やユダヤ人は「自虐的イスラエル人、ユダヤ人」として非難されるようになった。
4.国政に変化の兆し
民衆の不満は2013年の国会選挙で鮮明となった。中道派政党の新党イェーシュ・アティド(未来がある党)が、初めての選挙で19議席を獲得して第2党になった。
これは世俗派の中産階級の有権者の投票が増加したためとされる。
これは安全保障コストへの無言の問いかけとなっている。東エルサレムやヨルダン川西岸を維持するために、国民生活の安定を犠牲にして、国家の予算を使うべきかという問いである。
ネタニヤフ首相は、決定を先延ばししている。
ただ、このような一般論を語っていたとしても、シリア問題の解決の糸口は見えてこない。
私は2012年12月06日にはシリア: 戦況は反政府側優位にと書いた。
その2年後の2014年11月14日には、 シリア内戦の解決策 で、「もう反政府勢力は勝てないし、やればやるほど状況は悪くなるから、いったん矛を収めては」、と書いた。
それから2年経ってますます状況は悪化している。もう反政府勢力は軍事勢力としての実態を失っており、残るのはISとアルカイダとクルド人勢力だけだ。
こうなれば、アサド政権を再度確立させた上で、民主化への努力を約束させる他ない。
純軍事的に見れば、こうなった理由ははっきりしている。アメリカが当初は戦闘を焚き付け、途中で手を引いたのが、ここまでわかりにくくなった理由だ。
手を出さないなら最初から手を出さずに反政府活動が後退し敗れるのを見つめていればよかったのだ。反政府活動はどこの国にもあるし、よほどのことがなければ敗北に終わるのである。
それが世の定めというものだ。
しかし手を出したのなら、最後までやりきるべきだったのかもしれない。
シリア: 戦況は反政府側優位にでも書いたように、2012年末の時点で反政府勢力はほぼ勝利を手中にしていたのだ。
それはSAMのおかげである。
当時崩壊寸前のシリア政府軍にとって、制空権が最後の頼みの綱であった。それによって反政府軍の根拠を叩くことで、かろうじて軍事力バランスが維持されていた。
しかしその時、反政府軍は地対空ミサイルを手に入れたのである。これでシリア軍機がバタバタと落ち始めた。私はこれで決まったと思った。
しかしSAMの供給は突然途絶えたのである。
それ以後、反政府軍はやられ放題だ。そして大量の難民が発生しそれが西洋諸国に押し寄せ、今日のごとく各国の右翼の台頭を招いているのだ。
なぜSAMの供給が途絶えたのか。
それはSAMの供給国であるトルコの政治状況が変わったからだ。
トルコの国内政治状況については以下の記事に書いた。
2011年にアラブの春が始まった。それはチュニジアに始まりエジプトへと波及した。そしてさらにリビア、シリア、イエメンへと拡大した。
5年後の今、それはチュニジアを除いて窒息させられている。エジプトでは事実上軍事独裁が復活し、リビアは依然として二重権力状態だ。チュニジアのみがかろうじて民主的な政体を維持しているが、先行きは明るいものとはいえない。
イエメンとシリアでは内戦真っ盛りで、まったく平静化の兆しも見えていない。
さらにその間隙を縫ってISという超過激組織が中東を揺るがしている。
「良かれ」と思って始めた運動が逆の結果をもたらしているようにみえるのはなぜだろう。
私が考えるには、その理由は国家ごとに違うが共通する部分もあると思う。
チュニジアとエジプトは曲がりなりにも、外国の干渉なしに自力で政治変革を行った。リビア、シリア、イエメンは外国の武力干渉を受けてめちゃめちゃにされた。
これが第一の分水嶺である。
第二の分水嶺はイスラム原理主義である。しかし内政干渉を受けなかったエジプトとチュニジアでは、基本的に原理主義は克服された。
したがってイズラム原理主義は決定的な分水嶺にはならないと考えられる。
第三の分水嶺は宗派・民族の対立である。第二のそれと表面上は似ているが、まったく異なる。宗派の対立を煽ったのは中東諸国内のミニ覇権主義である。
イエメンがその典型であり、明らかにサウジを盟主とするスンニ派保守主義が内戦をもたらしたのだ。したがってそれは第二の対立の発展形ではなく、第一の対立の亜型である。
ワシントン中東政策研究所のサイトの PolicyWatch 2356
Explaining the Turkish Military's Opposition to Combating ISIS
Ed Stafford January 15, 2015
という文章の要約
日本語にすると「トルコ軍がISISとの闘いを嫌う理由」ということか。
リード部分
アンカラの政府はISISとの闘いに踏み切った。しかしそれは政治的な決定であり、軍はAKP、PKKとアラブへの伝統的な嫌悪感を抱き続けている。それはトルコのアラブ介入に対する強力な障害となる可能性がある。
イントロ部分
「トルコはなぜISISと戦う連合に積極的にかかわろうとしないのか?」
これに関する議論は、殆どが政府の政策形成過程における軍の役割を黙殺している。
一つには、これは与党である正義進歩党の軍部抑制策を反映している。正義進歩党は2002年以来、政策形成過程における軍の役割を弱めてきた。そして国家情報機構(MIT)の影響力を強化した。これが対シリア方針に影響している。
しかし軍隊がISISとの戦いを渋るのには他にもいくつか理由がある。
それは何十年も前から存在し、深く根を下ろした理由である。すなわち軍の政治的指導力が低下していることへの恨みである。
このような視点は、AKP支配層以外の政治的にアクティブな人の間に共通したものとなっている。
エルゲネコンの凋落
(Ergenekon is the name given to an alleged clandestine, secularist ultra-nationalist organization in Turkey with possible ties to members of the country's military and security forces. )
2007年、AKPは軍指導部に対して一連の裁判を開始した。軍はトルコでの非宗教的な政治勢力のチャンピオンを自認していた。
2003年に発生したクーデター計画を機に、政府は検察権力と警察を動員し軍の押さえ込みを図った。
軍と非宗教主義者の連合が文民支配を覆そうとして邪悪な計画を企んだとされた。
「Ergenekon」裁判で、検察側はクーデター計画についての完全で納得のいく論拠を示せなかったが、それにもかかわらず政府は多数の非宗教的な野党の指導者と何百人もの軍幹部を投獄した。
全将軍のうち4分の1が獄に繋がれた。2011年8月に、軍隊の高級将校は大挙して辞任した。それはAKPの権威への服従するという暗黙のシグナルだった。
これを受けた政府も、軍隊をなだめる努力をおこなった。Ergenekon容疑者ほぼ全員が釈放された。
しかし軍の指導者たちは敵対心を捨てていない。政権担当者への感情は、ほとんど“受動的攻撃性”と言っていいものがある。彼らは多くの軍事的案件について助言を与えることを事実上拒否している。それは軍事的情報を収集しシナリオを作成するだけでも監獄に送られるという将軍たちの確信によってもたらされている。
クーデターの容疑が真実だったのかどうかは別にして、多くの高級将校はいまも確信している。「同僚たちは罪を捏造された。彼らはただたんに国内外の敵から国を守る計画を作成しただけだ」と。
クルド民族主義者への蓄積された憎悪
軍指導部はまた、クルディスタン労働者党(PKK)との平和を確保するという政府の方針に敵意を抱いている。クルド人ゲリラは過去30年にわたり何千人もの軍将兵を殺害している。
2011年、エルドアン(当時は首相)はクルド人グループとの和平会談を開始した。それはいまも続いている。
エルドアンはPKKとの対話の成功はイラクのクルド人地方政権との関係を改善し、クルド人を地域における重要な盟友とするという成果をもたらしたと信じている。
継続的な会談は国内の安定性の強化ももたらした。そして、6月の国会選挙でもう一つのAKP選挙勝利への道を開こうとしている。(これが目論見外れに終わり、今日の混乱をもたらしていることはご承知の通り:訳者)
軍の側から見れば、クルド人戦士への警戒心はますます高まりつつある。なぜなら彼らはクルド人社会が拡張するほど勢力を拡大し、PKKはそこから物的、精神的支持を受けて成長するからである。
40年前、PKKが武器を取り国家に対抗し始めたころ、トルコは軍事政権の時代だった。政府はクルド族を従属的な少数民族と見なしていた。そしてクルド族を独立したコミュニティと認めず、クルド語の使用を制限し、彼らの固有の歴史を否定する教育を行った。それらはすべて軍の非宗教的な民族主義思想の必要不可欠な一部であった。
この10年の間に、クルド人の人権状況は随分改善した。今では公的資金を供給されたクルド語テレビ・ネットワークが24時間放送を続けている。にも関わらず、多くのトルコ人はまだクルド族の民族主義を疑っている。特に軍の中枢と軍部よりの民間勢力内では、この立場は一般的である。
現在シリア北部ではISISと戦うクルド人がPKKと結び付きを強めており、これをしようという動きがトルコ国内にも強まっている。しかしこのような感情に対し軍はきわめて冷淡である。
アラブ人支援へのためらい
古い世代のアラブ人への憎しみは依然として残っている。
エルドアン大統領とダヴトグル首相は、中東における全てのスンニ派の自然な調和について語る。しかしオスマントルコ人帝国の500年にわたる支配は、トルコとアラブのスンニ派教徒の間に深い疑念を残している。
多くのトルコ人、とくに軍関係者は、過去の1世紀を西欧に支援されたアラブ人による一連の裏切りの時代として振り返る。例えば第一次世界大戦の時、アラブ人の指導者たちはイギリスと組んでイスタンブールに反旗を翻した。
2012年、シリア国境の町アクサカレでシリア軍の誤爆により5人のトルコ市民が犠牲となった。その直後に著者は一人の知識人(非宗教主義)と話す機会があった。彼はこう言い切った。「彼らはトルコ人ではない。アラブ人だ。我々にとって、それがなんだ?」
たしかにトルコ軍は軍事的にその攻撃に応じた。しかし報復は抑制されたものだった。いま同じように、軍将校の一部は多国籍の反ISIS作戦に加わることにも抵抗している。そこには根深い反アラブ感情が根ざしているように思える。
軍のかかえる懸念
トルコ軍の海外派兵はその属する政府の指令によるものであり、しばしば誤って語られるように米国やNATOの指示によるものではない。
トルコ軍は本質的に保守的な組織である。かれらは朝鮮戦争でのトルコの犠牲者数の多さについての国内で攻撃されたことを覚えている。トルコ軍はアフガニスタンでは戦闘任務を拒否した。
将軍たちの懸念は他にもある。それはISISやシリア軍と戦う場合に軍事技術上の弱点、あるいは作戦上の弱点が暴かれることについての懸念である。それは大衆の軍部離反を促す可能性がある。そしてエルドアンに対する政治闘争を継続する上での利点を失うことになる。
例えば2012年6月にトルコのジェット戦闘機がシリア軍により撃墜された事件は、そのような懸念があからさまになった手痛い事件であった。
結論
トルコがISISと戦うかどうかを決めるのは政治的な選択である。しかし、それはコバネでクルド人と肩を並べて戦えということであり、シリアに安全地帯を設置しアラブ人を保護せよということだ。軍の指導部にその選択を納得させるのは至難の業であり、そう簡単にことが進むとは思えない。
今年初めの記事なので少し古いです。しかも米国務省のシンクタンクのレポートなので、軍の立場に対してきわめて同情的ですが、事実関係については参考になると思います。6月の国会選挙の前がどうであったのかを知る上では、かえって有用かもしれません。
6月の選挙の結果は、エルドアンにとってだけではなく軍部にとっても予想外のものだっただろうと思います。それはリベラル派の進出を計算に入れていなかったためのものです。
2003年のクーデター計画の発覚後は、軍事独裁の再現を防ぐためにリベラル派もふくめ圧倒的な国民がエルドアンを支持しました。その結果、エルドアンは果敢な行動により軍の抑圧に成功し、EUの支持も取り付けて強固な基盤を確立することができました。
さらに権力基盤を強化するためにクルド人にもウイングを広げ、クルド人もこれに応じたことから、エルドアンの人気は不動のものとなりました。しかしその底では、リベラル派の急速な勢力拡大が進行していたのです。またイスラム原理主義への反感からエルドアン離れも進みました。
6月の選挙で明らかになったのはもう一方の主役としてのリベラル派の登場でしょう。選挙前にはエルドアン、軍部、クルドという3極構造であったのがエルドアン、軍部、クルド+リベラルの三極となりました。
これに応じて軍は立ち位置を代えオプションを変更する必要に迫られました。これは未だに進行中と思われますが、反クルド・反リベラルの路線を取るならば、従来以上にエルドアンとの距離を縮めなければならないし、反宗教・非アラブの路線を取るならクルドやリベラルに対する抑圧的態度を修正しなければなりません。
そこで両者の「不人気投票」が行われ、結果的には前者の路線を採択したのだろうと思われます。
なお「リベラル派」と便宜上一括しましたが、そのような呼び方はなく、果たしてそのような潮流が確固として存在しているのかどうかもわかりません。前後の状況からしてそういう親EU的な勢力があるだろう(とくに出稼ぎ労働者)と言う作業仮説に過ぎません。もう少し調査が必要のようです。
主として澤江史子(上智大学総合グローバル学部) 「トルコ民主化の経緯」を柱に各種資料の情報を付加した。
1923年10月 トルコ共和国の樹立が宣言される。共和人民党の一党制が敷かれる。
1924年3月 大統領を国家元首とし、国民主権や世俗主義を柱とする国家建設が宣言される。(脱亜入欧)
1937年 世俗主義条項が憲法に挿入された。トルコ民族文化が国家の存立基盤だと考え、非トルコ系民族文化や、共産主義運動を主要脅威とみなし、抑圧した。
1950年 選挙による政権交代が実現し、民主党政権が誕生。第1位政党が当該選挙区議席を独占する選挙制度のため、民主党は国会で圧倒的多数を維持する。
1960年
4月 民主党政権批判が高まる。民主党メンデレス政権は軍隊を動員して共和人民党の選挙活動を妨害し、メディアへの検閲体制を強める。さらに共和人民党を「無神論者」や「共産主義者」などと呼び、政治活動禁止、同党に関する調査委員会の設立を強行採決。全大学が閉鎖され,多数が秘密裏に拘束される。
5月27日 1回目のクーデター。護憲クーデターとしての側面を持つ。当時の陸軍総司令官であったギュルセル大将を担いだ青年将校グループが打倒。
5月 軍は民主党幹部を逮捕し、党の解散、国会の停止を宣言する。旧民主党幹部は懲役刑に、党首等3人は絞首刑に処せられた。
1961年 民政移管のための総選挙。「民主主義体制擁護の貢献者」として軍部の政治介入が正当化される。大統領は軍出身者が占め、軍幹部が終身議員に着任。4軍司令官よりなる国家安全保障会議に内閣への「助言権」が与えられる。
1970年 イスラーム復興運動が勃興。国民秩序党が創設される。新選挙制度のもと国会は小党分立状態となり、政権交代が繰り返される。
1971年 政治介入を示唆する軍首脳の書簡が大統領に送付され、内閣が総辞職に追い込まれる。「書簡クーデター」と呼ばれる。軍のアタチュルク思想からの離反。
1972年 ビュレント・エジェビトが共和人民党の新党首になる。党及び政治の民主化を主張し,軍の政治介入に反対する。
1980年 国民生活は年率100%を超えるハイパー・インフレで疲弊し、テロが激化。
政治混乱の直接の原因はイスラム勢力の増大によるものだった。イスラム派は建国の父アタチュルクを批判、世俗主義を否定した。これに対抗する左翼も勢力を伸ばす。両者の対立は武力衝突へと発展する。 |
1980年 2回目のクーデター(9月12日クーデター)。政治混乱と経済政策の停滞を理由とする。約3年の間、軍部による独裁政治が繰り返される。旧政党は全て非合法化されて幹部は懲役刑に処せられる。しかし軍の真の敵は共和人民党と左翼勢力だった。
1982年 軍政下に憲法が制定される。議会選挙は比例代表制で10%の足切り条項。「国家安全保障会議の決定事項を、内閣は最優先に考慮する」ことが明文化される。
1983年 総選挙が実施。軍事政権のチェックを通った政党と政治家のみが参加。
1987年 トルコがEU正式加盟を申請。これを契機にEUの民主化基準が外圧となり、これに沿った民主化が求められるようになる。
1987年 選挙プロセスが大幅に民主化され、野党の政権獲得も可能になる。
1990年 クルド語での出版や音楽活動が解禁される。
1995年 大学の学生や教員が政党の党員になる権利や、上級公務員が労組を結成する権利が認められた。
1995年 総選挙。親イスラームの福祉党が第一党となる。軍幹部の圧力で第二党の中道右派政党が政権を握る。
1996年7月 政権党の腐敗が発覚。福祉党を首班とする連立に移行。
1997年2月 福祉党のイスラーム復興の動きに軍が反応。国家安全保障会議は福祉党が国是である世俗主義原則に反すると批判。「体制の危機」を宣言。福祉党非合法化を始めとする復興勢力弾圧が実行される。福祉党幹部でイスタンブル市長のエルドアンも投獄される。
2002年 総選挙。中道右派とイスラム勢力の結集した公正発展党が勝利。
2004年 国家保安裁判所を廃止する憲法改正。メディア・教育への軍の関与も制限される。
2005年10月 民主化プロセスが認められ、EU加盟の最終段階である正式加盟交渉が開始される。
2006年 EUによる民主化の進捗報告書。軍幹部が政治的影響力を行使しようとして公式・非公式に政治的発言を行うことが続いていると指摘。テロ対策法が広範に解釈され、自由を抑圧する法的根拠となっていると警告。
2007年 総選挙。公正発展党は圧倒的な勝利を収め、単独過半数を獲得。
2009年1月 国営放送にクルド語専門チャンネルが開設される。
2010年 憲法改正。①80年クーデターの実行者を起訴することが可能になった。これにより軍政期の拷問やパージ等の責任を司法で争うことが可能となった。②軍の人事についても思想・信条などを理由とする人事は司法に提訴することが可能となった。③司法人事も変更され、下級判事の意見が反映されるようになる。④高等教育やマスメディアの統制委員会における軍代表常任委員ポストが廃止される。⑤国家治安裁判所が廃止される。しかし言論の自由などの面でさらに実質的な改革が進むのかは不明確。
2012年 アンカラ第12高等裁判所が1980年のクーデターの首謀者の裁判を始める。被告はKenan Evren参謀総長とTahsin Şahinkaya空軍司令官(いずれも当時)の二人。
2013年5月 イスタンブールで民衆の抗議デモが盛り上がる。
エルドアンはイスラムの位置づけ、ケマル・パシャへの評価を明確にしないまま、スカーフ着用の緩和や酒類販売の制限などを進め、これに抵抗が起きると強権的に対処しようとした。 |
トルコ情勢を検討する際は、トルコ軍の野蛮さを念頭に置かなければならない。ここに触れていない解説記事は、基本的にはクソである。
たとえば、10月22日、アンカラでのエルドアンの発言はひどいものだ。
アンカラ駅前自爆テロ事件に関し、エルドアン大統領は、「アンカラ駅前で発生した事件は、テロをいかにして共同で引き起こすことができるかを示すものだっ た。そこにはDEAH(ISIL)も、クルド労働者党(PKK)も、アサド政権の諜報機関(ムハバラート)も、シリア北部のクルド民主統一党(PYD)も いて、皆で一緒になってこのテロを計画した」と語った。
誰が考えてもナンセンスの極みで、トルコ政府には情報収集能力が欠如していると言われても仕方ない。
しかし、あえて深読みすれば、このナンセンスさは、それが軍部による犯行だった可能性を暗に示唆しているのではないか(正しいかどうかは別)。
エルドアン個人の様々な思惑を推量しても始まらない。背後にいるトルコ軍部がどういうものなのかを、我々は理解しておく必要があるだろう。
1997年9月12日付けの新聞「ラディカル」はクーデター記念特集で,80 年9月から三年間の出来事として,次のような数字をあげている。
*拘留者総数 65万人(うち23万人が裁判へ)
*死刑求刑 7千人(うち517 人に死刑判決,49人が処刑される)
*非合法組織メンバーとして裁判を受けた者 9万8千404人
*要注意人物として記録された者 168万3千人(うち38万8千人にパスポート取得禁止措置)
*外国への亡命者 3万人(うち1万4千人がトルコ国籍を失う)
*不審死 300人(うち171人が拷問死,いまだに行方不明の者800人)
*刑務所のハンストによる死者 14人
*閉鎖された団体 2万3千667組織
*解雇者数 教師3千854人,大学研究者120人,裁判官47人
*左遷された公務員 7千233人
*解雇された公務員 9千400人
*発禁映画 937本
「ラディカル」紙が掲載したパージの数字は,国家の唯一の「守護者」となった軍が,その目的を遂行するための権力を行使するとどうなるかを示すものである。
70
年代の混乱の中で,国民の間には,軍に政治介入を求める期待感もあった。そして,クーデターによって,日常的に起きていたテロ騒ぎはなくなり,平穏な市民生活が戻ってきた。だが,その後の大規模な政治弾圧は,時代を暗い雰囲気にさせた。
軍部独裁の経過については、次の記事に掲載しておく。
これらの蛮行を繰り返した軍幹部は未だにのうのうと暮らしている。彼らがもっとも恐れているのは左翼の伸長ではないか。アルゼンチンやチリのように軍の残虐行為が暴露され、その責任が問われることではないか。
80年代、トルコは中南米と並び人権侵害が甚だしく強い国だった。
しかし左翼のネットワークがつながらなかったために、真相はほとんど分からずじまいだった。アムネスティかほそぼそと断片的な情報が流れてきたが、全体像をつかむにはあまりにも情報が不足していた。
驚くべきことに、それは現在もなおそうである。
1.巨大な数をどう評価するか
各種情報を総合しても、なぜこれほど多くの人が弾圧されたのかは分からない。それどころか軍事独裁を賞賛する声すらある。
2.目的と数との不整合
左右両派が激突して政局が不安定だった、経済が停滞していた、国民が政争に飽き飽きしていた…
と理由はあげられている。それならクーデターで店じまいすれば終わりだ。おそらくそれから大量弾圧が始まったのだろう。
目的からすればこのような数は不必要だ。ピノチェトもアルゼンチンの独裁もたんに混乱を収集するためのクーデターではない。だからあれだけの数が必要だったのだ。トルコもおそらくそうだろう。
これについての説明がない。
3.「目的」と出口の不整合
左右両派の激突を避けるためというのが目標だったはずだが、弾圧の犠牲者は圧倒的に左翼だ。
ケマルの宗旨から言えば、最大の敵はイスラムのはずだが、実際にはイスラムは温存された。根こそぎにされたのはケマル左派だ。ここに80年クーデターの最大の特徴がある。
統計から見ればあまりにはっきりしているこの事実に、ほとんどの文献(少なくとも日本語文献)は目をつぶっている。
あまり乗り気ではないが、洋文献に当たるしかなさそうだ。
少し調べていくうちに以下の様なことが分かってきた。
1.フーシ派というのは一言で言えば山賊集団である
北部の山岳地帯の部族で、あまり政府の言うことを聞かない集団だった。それで10年ほど前に政府軍の攻撃を受けたが、それを跳ね返してしまった。
そのときに中心になったのがフーシという人物で、彼を中心にシーア派の教えを掲げて武装集団を結成した。
それが「アラブの春」で政権が弱体化すると、機に乗じて中央進出を計った。
去年の9月に首都サヌア入りし、街の治安を勝手に取り仕切るようになった。
2.軍隊は元大統領派と現大統領派に分かれて無力化していた
「アラブの春」で失脚したサレハ独裁政権だが、軍のサレハへの忠誠心は高かった。
なぜなら軍幹部は徹底した地縁・血縁で結ばれていたからである。彼らの利害関係はサレハのそれと一致しており、ハディ政権によって人事が刷新されることを何よりも恐れていた。
だから旧来の敵であるフーシ派がサヌアで勝手なことをしても、見て見ぬふりをしていた。さらに、その一部はフーシ派と結びついてハディ政権の転覆を計った。
3.なぜハディ政権は倒されたのか
ここの情報は殆どない。
したがって想像する他ないが、フーシ派にさほどの理由があったとは思えない。田舎出の失業青年たちに政権担当能力があるとは思えない。むしろ弱体な現政権のもとで自由を満喫していたほうが良いはずだ。
だから、政権とフーシ派が衝突するような原因は、政権側にある可能性が高いと思う。
多分、サウジの意をくんだハディ大統領が自派勢力の増強に乗り出したのではないか。
もともとキタとミナミは犬猿の仲である。フーシ派も国軍のサレハ派も北部の出身だ。これに対しハディの出身地は南部、アルカイダと重なり合っている。
そこにサウジなどから潤沢な資金が入り込んだらどうだろう。フーシ派は相当の脅威を感じるのではないか。
そこでフーシ派はハディ追い出しにかかった。かなり稚拙な戦術だと思う。シーア派がこの国で権力を取っていいことなど一つもない。そのくらいだれでも分かる。
4.サウジの思惑
これから先は絵に描いたような筋書きだ。
サウジは湾岸諸国と組んでイエメン攻撃を発表した。そしてこれがスンニ対シーア派の争いであるとし、その背後にイランがいると決めつけた。イランにしてみれば「ふーん、そんなところにシーア派が居たの」くらいの話ではないか。
20日のサヌアでの同時多発テロは誰がやったかわかったものではない。これがアルカイダならさもありなんと思うが、ISISにそれ程の力があるだろうか。
サウジの国王は元国防相で、その頃からGCCの軍事同盟化への思惑があった可能性がある。原油安不況への対応としても考えられた可能性がある。
それ以上に、米国の弱体化を見て危機感を抱いた可能性がある。フーシ派の愚挙を奇貨として、自ら同盟軍の盟主となり、その力で中東の安定を図ろうと考えたのではないか。
ただ、この種の戦争は始めるのは簡単だが、終わらせるのは容易ではない。どのように収拾していくかが腕の見せどころだろう。
作戦のその行方を固唾を呑んで見守っているのがイスラエルだろう。
イエメンに関しては下記のページもご参照ください
赤旗にまとまったイエメン情勢の報道(小泉特派員)が載った。
これまでイエメンといえば、旧南イエメンと北イエメンとの摩擦であり、アルカイダの拠点であり、挫折したアラブの春であり、無人機攻撃の対象であり、と断片的ながらそれなりに国際面を賑わせてきた。
今度はちょっとレベルが違う。政府が打倒され、大統領が逃げ出し、それが追い詰められているという事態だ。
しかもその主役は市民でもアルカイダでもなく、シーア派だというからびっくりだ。
一言で言えば、イエメン情勢は急展開し悪化し、「国際戦争」化しているといえる。
もともとイエメンは、「統治不能な国家」だとみなされてきた。オスマン帝国や大英帝国も悪戦苦闘した。ナセル元エジプト大統領は、1960年代のイエメン内戦で面目を失った。その後国は南北に別れ対立を続けてきた。 |
例によって時系列で整理する。
1986年 南イエメンで内戦となる(アデン内戦)。アリー・ナーセル前大統領派(民族派)がYSP政権(社会主義派)に対し反乱を起こすが敗退。マンスール・ハディらが北イエメンに亡命。
1990年 南北イメエンは統合を発表し、イエメン共和国が成立。北のアリー・アブドッラー・サーレハが大統領、南のアリー・サーレム・ベイド(YSP書記長)が副大統領となる。統合当時の人口は北が約900万人、南が約250万人程度。1993年 第1回総選挙。サーレハ大統領与党が勝利。YSPは56議席で第三党に転落し、北部の部族勢力と南部のウラマー層を基盤とする改革党(イスラーハ)が第2党となる。
1993年8月 イスラーハによるYSPへの攻撃が強まる。アルベイド副大統領は職務放棄してアデンに引きこもる。1994年5月 イエメン内戦。アデンのアルベイドが「南イエメン国」の独立を宣言するが、まもなく陥落。サーレハは南部出身で親北派のハーディーを後任副大統領に指名した。
2004年9月 イエメン北部のシーア派武装勢力「アンサルラ」(Ansarullah)が政府軍と戦闘。以後6年間に6度闘い政府軍を跳ね返す。政府軍は指導者フシが死亡したと発表。
シーア派の中ではザイド派を呼ばれ、イランの「12イマーム派」とは異なる。元々は信仰復興運動だったが、アブドルマレク・フーシが率いるなかで、最も実力のある武装勢力の1つに変身した。 |
2009年11月 フシ派がサウジ領内に侵入。サウジ軍がフシを捕らえたとの報道。12月では空爆で死亡と発表。
2011年
1月 アラブの春でサレハ退陣をもとめる運動が高まりを見せる。
11月 サレハ、GCCイニシアチブを受け入れる。(ハディーへの権限移譲、挙国一致内閣、サーレハへの訴追免除など)
2011年 「アラブの春」による混乱に乗じ、フーシ派武装勢力が北部サーダ周辺の山岳地帯の支配を固める。
2012年2月 大統領選挙でハディ政権が誕生。サレハ独裁体制が終わる。ハディは「国民対話」を開始。
ハディはサレハ政権の副大統領で、さしたる国内基盤を持たず、サウジの後援のみが頼みの綱。 |
2014年
1月 包括的国民対話会議は合意文書を発表し、憲法制定と議会選挙、大統領選挙を1年以内に実施することとした。
2月 武装組織「 フシ 」が首都サヌアの北西約50キロのアムランに進出。政府軍との戦闘が始まる。
9月15日 フシがサヌア北部に進出。激しい戦闘が続く。
9.20 国連が仲介し、「全政治勢力による集中協議の末」に挙国一致内閣の樹立で合意。
9.21 フシ派部隊、首都サヌアの政府庁舎を占拠し、首相退任を迫る。政府はこれに屈服。サヌアの治安は、フーシ主導の連合部隊に置き換えられる。サレハ元大統領に忠実な軍部隊もフーシ派に協力。
2015年
1月 「アラビア半島のアルカイダ」(AQAP)を名乗るグループがパリの新聞社を襲撃する。AQAPはイエメン中部および南東部を拠点とする、南部分離派の分派とみられる。
1.22 フーシ、新憲法の内容を巡り政府と対立。大統領官邸や国営放送局を占拠する。ハディは辞意を表明。
2.06 フーシ派武装勢力が政権掌握を宣言し、議会を強制的に解散。フシを首班とする革命委員会が、暫定統治の開始を宣言。国軍はハディ派とサレハ派に分裂し動けず。
イエメン軍は、62年以来、一貫してアムラン、サナア、ダンマール出身(要するに北部のザイイディ派)の将校により支配されてきた。 サレハの私兵の如く動いてきた彼らは、ハディ政権のもとで既得権を奪われるのを恐れた。 |
2.21 ハーディーは辞意を撤回。クーデターを承認しないよう国際社会に求める。
3.10 サウジなどGCC5カ国が、イエメンへの空爆作戦を決定。ヨルダン、モロッコ、スーダンが戦闘機を派遣、エジプトとパキスタンが戦艦の配備を表明。イランはこれに強く反発。
3.20 サヌアでのフーシ派の集会にISISが自爆テロ。137人が死亡。
3.22 フーシ派、イエメン第3の都市タイズを制圧。ラハジ州の米軍基地の要員が撤退。
3.22 フーシ派スポークスマン、ハディ大統領がAQAPに武器を渡しており、イエメン南部がAQAPの支配下に入る恐れがあると語る。
3.25 フーシ派、アデン北方60キロのアナド空軍基地を制圧。アデンの大統領宮殿を空爆。
3.25 フーシ派がアデンを攻略。ハディ大統領はリャドに逃れる。無人機攻撃を指揮する米軍特殊部隊も退去。
3.26 GCC軍が[決意の嵐]作戦を実行。首都サヌア空港や一連の軍事施設を空爆。サウジ100機、湾岸4カ国70機、ヨルダンなどから15機が参加する大規模なもの。子供6人を含む民間人25人が死亡する。
3.26 ハディ大統領派の部隊が、南部のアナド空軍基地やアデン国際空港を奪還。サウジは地上部隊による攻撃も排除しないと述べる。
3.26 GCC5カ国が空爆の正当性を訴える共同声明。
3.26 アラブ連盟が外相会議を開催。「フーシ派への空爆はハディ大統領の要請に基づくものであり、主権に対する攻撃ではない」とし、空爆支持を表明。イラクは異論を唱え、平和的解決を主張。
3.26 イランのザリフ外相、「イエメンに対する外部からの軍事攻撃は領土保全への侵害であり、国民のさらなる流血と死をもたらす。外部からの干渉なしの緊急対話が必要だ」と語る。
3.28 アデンで終日激しい市街戦。フーシ派はアビヤン、シャブワなど南部諸州への攻撃を強める。
3.28 サウジ国防省、3日間で作戦の第1段階は目標を達成したと発表。航空機は総て破壊され、通信網も破断されたとする。
3.28 アラブ連盟首脳会議が開かれる。イエメンのハディ大統領も出席し、イランを激しく非難。空爆継続をもとめる。エジプトのシシ大統領は「アラブ合同軍」の創設を提案する。
3.30 GCC軍、北部の難民キャンプを空襲。45人が死亡(国際移住機関による)。サウジは空襲の事実を認める。
イエメンに関しては下記のページもご参照ください
2012年09月08日 南イエメンの解放闘争
この年表は1986年までのものですが、現在のイエメンと比べる時、あまりの落差に愕然とします。まるでSFの世界です。あの英雄的プロレタリアートたちはどこに行ってしまったのでしょう。
The Economist explains
Jan 4th 2015
Where Islamic State gets its money
という記事があった。下記がその全文である。
残忍な聖戦主義者、イスラム国家(IS)を打ち負かすのは容易ではない。アメリカに率いられた連合軍がそうしようとしているが。
ISは、世界のbest-financedされたテロリスト組織の1つである。国家に後援されたものを除いては。
この秘密グループの正味の財産については信用できる見積りがない。しかし、2014年10月に、アメリカの当局者は「かなり大きい札束」で富をためていると見ている。
イスラム国は月400ドルくらい戦士に給料を支払う。そして、それはシリアの反乱グループやイラク政府の給料より多い。彼らはトラブルなく武器類を購入している。買い入れ先は闇市場に顔を出す堕落した当局者、あるいは民兵である。
彼らは支配地域の政務をこなしている(常に成功しているとは限らないが)。学校教師に給料を払い、貧者や寡婦を養っている。
そこでだ。彼らはどこでそのカネを手に入れるのだ?
この富なしで、ISはそんなに速く広がることができなかった。
彼らは2013年3月に現在の形態での存在を宣言したばかりだ。それは彼らがイラクからシリアに進出した時だ。その後彼らはアルカイーダとたもとを分かった。
それから彼らは二つの国にまたがる帯状の地域を闘い取った。2013年6月までに、シリアの都市Raqqaを占領した。そして、2014年6月に、それはイラク第二の都市モスルを占拠した。そして600~800万人の住む地域を制圧した。そして6月の末に「カリフ国」を宣言した。
戦士は、グループに加わるために群がった。
2014年9月までに、3万人の男性、婦人警官隊の中の一部の女性がいた。そして、そこには1万5千人の外国人戦士を含んだ。
al-Qaedaを含む他のテロリストのグループと違って、ISは金持ちの支持者によってではなく、主に自らの力で資金を確保する。(アメリカ、イランまたはイスラエルがグループに資金を出しているとの情報も飛び交うが)
ISは湾岸諸国の支援者から寄付を受けているけれども、それらは財源の比較的微々たる要素である。
ISの資金の中心は、外部からの支援ではなく、西イラクと東部シリアの支配区から算出する石油の収益である。
アメリカの当局は、空襲の開始前、石油からの収入は1日あたり200万ドルと見積もっている。現地の情報ではそれ以上だと言われている。当局者は空爆により石油収益はかなり落ちたとしている。
(これは変な話で、石油施設くらい破壊しやすいものはない。その気になれば1日で壊滅させることができるはずだ)
それだけの土地を支配することは、ISが徴発と徴税によって資金を獲得することを可能にする。
それは、他のjihadistグループのように、誘拐が有益だということを学んだ。
ISは、去年1年で少なくとも2千万ドルの身代金を獲得した。フランスとスペインのジャーナリスト数人を含む人質であげた収入である。
このグループは、その資金源を切り離すことなしに破ることはできない。
だから連合国は、グループの軍備強化の抑制と同時に、収入源への攻撃を目標にしているという。アメリカとその同盟国は、シリアでISに支配された精油所に対する空襲を実行した。
アメリカと英国は身代金を人質の代金として払うことに対して厳しい政策を持つ。ヨーロッパの国に、身代金の支払いをやめるように圧力をかけている。
いくつかの国は、ISリーダーに対する制裁とおなじように、募金に応じる人々への制裁も適用している。
しかし、当局は長い戦いであると強調する。
今のところ、ISはまだ、必要とするもののすべての代金を払うことができるようである。
この記事を読んでも資金源は明らかでない。石油の売り上げ、“徴税”、身代金というのが収入の三本柱で、これに国外からの援助がくわわる、ということらしい。このうち石油の売り上げを除けば、他のテロリストもやっていることだ。
身代金の収入が年間2千万ドルというが、そんなもの石油の10日分にしかならない。だいいち誘拐にはそれなりのリスクが伴う。成功例の10倍は失敗例(カネが取れないというのもふくめ)があると考えたほうが良い。
資金源が石油だということはわかっている。問題はどのようにして石油が資金源になるのかということだ。石油と引き換えに金を渡している奴は誰なのか、トルコの仲買人だとしたら、その仲買人にカネを渡している奴は誰か、その石油を買って消費しているのは誰か。ここが明らかにされないと、記事の題名は誇大宣伝ということになる。
いずれにしても石油を何とかしなくてはならないのだ。しかも、そのやり方はきわめて簡単なのだ。生産を止めるには生産設備を破壊すればよい。1時間もあれば済んでしまう。販売を止めるには購入を禁止すればよい。石油には“色”がついているから、調べればどこでとれた石油かはすぐに分かる。
こんなことがどうしてできないのか、それが不思議だが、そのことについて答えた文章がない。これも不思議な話だ。
空爆で「イスラム国」を根絶させることは不可能ですが、彼らの勢力範囲が今後も拡大していくことは考えづらく、戦線が膠着する可能性が高いと思われます。要するに長期戦の覚悟をせよということだ。
シリア政府軍が反体制派に対する攻撃を強化、過去36時間で200回以上の空爆を行った。私は、結局米国の中東戦略がイスラエルの国益に沿った形でしか展開されていないところに、究極の問題があると思う。
これは「シリア人権監視団」が21日に発表したもの。
監視団によれば、政府軍の空爆はダマスカス近郊や第二の都市である北部アレッポを始め全土におよんでいる。ドラム缶など円筒形の容器に火薬や石油などを詰めた通称「たる爆弾」も盛大に用いられているようだ。
シリア政府軍はこれまで「自由シリア軍」など反体制派武装組織と「イスラム国」など過激派組織の双方に攻撃を行ってきた。しかし米軍がシリアの「イスラム軍」への爆撃を行うようになってからは、反体制派への対応に「専念」できる状況となった。
2011年3月以来のシリア内戦では、これまで19万人が死亡し、全人口の半分に当たる970万人が難民となっている。
アサド政権退陣を求め反体制派を支援してきた米政府は、深刻な矛盾に直面している。
というものだ。
ガザのビサン動物園がひどい状況だそうだ。
イスラエルとの戦闘で大きな被害が出たパレスチナ自治区ガザでは、動物園の動物たちも悲惨な状況に置かれていた。園内の建物や檻は壊れ、地面には爆弾による直径十メートルほどの穴も残る。飼育舎の間の焼け焦げた草の上には至る所にサルなどの死骸が散乱する。別の檻では飢えた2頭のライオンの前にクジャクの死骸が横たわる。
獣医のアルヒシさんは、オスのマントヒヒを指さして言った。「傍らにあるのはメスと子どもの亡きがら。時々触りながら泣くような声を上げるのです」メスと子は金属片が当たり死んだ。以来人間を寄せ付けず、遺骸を取り除こうとすると激高する
「ひどい状況だ。動物たちを檻から出して清掃することもできない。多くは汚れて弱っているが、ほかに移す場所もない」この動物園は2008年、サッカー競技場や遊園地と共に建設された。ライオンやワニなど約80頭がいた。エジプトとの境界に作られた密輸トンネルを通じて持ち込まれた。子供たちに人気となり、連日数百人が訪れていた。
しかしそうした施設のほとんどは、イスラエルの空爆で破壊された。
これまで2100人以上が死亡し、多数の住宅などが破壊される中で起きている事態なのだということを忘れてはならない。死者の大半が民間人で、中でも400人以上の子どもが含まれている。人間は、サルやクジャク同様にガザという檻に閉じ込められ、なぶり殺しにされたのだ。
(毎日新聞、CNNニュースより)
「イスラム国」を調べる。
かなりの大仕事になりそうなのを覚悟で、「イスラム国」について調べてみる。
グーグル検索の上から順に行く。
最初はハフィントン・ポストの8月22日付記事 「イスラム国」が警戒すべきイスラム過激派だとわかる「驚愕のデータ」
「イスラム国」(IS)は、アルカイーダの分派で、以前はISISと称していた。3万から5万の戦闘員を擁していると推定される。その多くが元イラク陸軍兵だが、海外から来た者も多い。ある報道では1500人はイギリス国籍だという。彼らはシリア陸軍を奇襲し、大量の物資や武器弾薬を奪った。ついでモスルを占領して、複数の銀行から数億ドルの現金を強奪した。またイラク陸軍からも数億ドル相当の軍事物資を手に入れた。
「イスラム国」は複数の油田やガス田を支配下に置き、闇市場で石油とガス資源を売り、1日あたり300万ドルの収入を得ている。次もハフィントン・ポストで8月30日付の記事 イスラム国の恐怖支配が終わりそうにないことがわかる「仰天データ」
8月19日、「イスラム国」はアメリカ人ジャーナリストを処刑し、その動画を公開した。首を切り落とした男はロンドン出身者とされる。難民の数は相当ばらつきがあり、国連(人権理事会)が120万、UNHCR が50万人と推計している。
次が8月29日付の記事 「イスラム国」とはどんな過激派組織か? 宮田律氏「日本も無関係ではない」
「イラクの聖戦アルカイダ組織」(懐かしのザルカーウィ)出身者らで構成される。最高指導者はアブ・バクル・バグダディ。かつては「イラク・イスラム国」を名乗ったが、11年以降、シリア内戦に介入して「イラク・シリアのイスラム国」に改名。
2014年2月、シリアからの撤退命令を拒絶しアルカイダとの関係を断絶。シリア東部を制圧した後、同年6月、イラク西部や北部へ一気に侵攻した。イラク第2の都市モスルを制圧後、イスラム国家の樹立を宣言して、名称を「イスラム国」とした。
8月に入って、クルド人自治区の主要都市アルビルに迫った。これに対しアメリカ軍が介入し、空爆を開始した。これでハフィントンポストを終わり、次はウィキペディア
歴史がかなり詳しい。
2000年にザルカーウィがヨルダンで結成したのが「タウヒードとジハード集団」で、2003年にイラク戦争が始まるとイラクに潜入し、「イラクの聖戦アルカイダ組織」を名乗った。
2006年にイラク人民兵の主流派と対立し、他組織と統合。「イラク・スラム国」を名乗る。これは組織の主体が外国人義勇兵であったためとされる。
以降、イラク各地で爆弾テロを繰り返してきた。
2013年にシリアのアル・ヌスラ戦線と合併し「イラクとシャームのイスラーム国」に改称、シリア内戦への関与(とくに自由シリア軍への攻撃)を強める。
アルカイダのザワヒリは、シリア干渉を認めず解散を命令したが、「イスラム国」はこれを無視して活動を続けている。
2014年2月、アルカイダは「イスラム国」とは無関係であるとの声明を発表している。シリア反体制活動家は、「アサド大統領よりも酷い悪事を働いている」と語っている。
とりあえず、このくらい分かればよいか。
いま、イラクのアメルリ(Amerli)での戦闘が焦点となっている。
*この事件が起きるまで、この街はまったく無名の街だった。今でも、Amerli なのかAmirli なのか分からない。ただ、こういう時はアルジャジーラかBBCにしたがうものと相場が決まっている。両方ともAmerliなのでそちらに統一する。
アメルリは6月以来「イスラム国」軍の包囲下にあり、住民虐殺が憂慮されていた。昨日8月31日にイラク政府軍が包囲網を突破し、市内に突入した。これに前後してアメリカ軍が空から援護を行った。
ところが、アミルリのニュースはゴマンとあるのにアメルリについて解説した記事はひとつもない。
英語版Wikipediaですら、ニュースの後追いだけだ(WikipediaはAmirli派)。
一応拾っておくと下記の通り。
人口1万5千人 シーア派少数民族トゥルクメン人(Shia Turkmen)の街, 6月以来 イスラム国家」軍に包囲されている.
国連代表者は、「状況は絶望的だ。市民の虐殺を防ぐため緊急行動が必要だ」と述べている。
8月31日に、イラク軍が市内に入り市民の歓迎を受けた。
グーグルマップに加えましたが、アメルリを間違えました。もっともメディアに比べれば可愛い。
アメルリの街の全景です。山際のオアシスの町だということが分かる。
6月、「イスラム国」軍の包囲
この町が有名になったのは、住民が自衛団を組織し、2ヶ月にわたり籠城戦を戦い抜いたことだ。政府軍やアメリカ軍の援助は市民たちの闘いの後に始まった。なにか「7人の侍」を思い起こす。
それにしてもおばさんたちにカラシニコフは似合わない。
一応、不十分ながら包囲戦の経過を記しておく。
2月 アルカイダ内の超過激派が、ISISを結成。6月 ISISがモスルを占領。イスラム国家の樹立を宣言。
アメルリはバグダッドから北に150キロ、サラハディン州の町。人口は約1万7400人。うち約1万人が女性と子ども。シーア派が多いがスンニ派も混住する。(5千人との記事があるが、5千世帯の間違い)
6月 ISがアメルリを攻撃。包囲戦に入る。イスラム国はトルクメン人を異教徒とみなし、シーア派を背教者とみなす。
電気や水道が遮断され、医薬品が底をつき、食料も不足(24日CNN)国連のニコライ・ムラデノフ特別代表、「アメルリの住民は絶望的状況に追い込まれている。虐殺が起きないよう直ちに行動すべきだ」とする声明を発表
8月26日 イラク政府、軍のアメルリ派遣を決定。
8月27日 米政府当局者が、空爆と人道支援物質の投下を検討していると語る。アルビル、センジャール、モスル・ダムに続き4地域目。
8月30日 米政府、イラク政府の要請を受け人道支援物資を投下したと発表。活動を援護するため過激派組織への空爆を実施。
8月31日未明、米軍がイラク北部アメルリでイスラム教スンニ派の過激派組織「イスラム国」に包囲されている住民に人道支援物資を投下するとともに、アメルリ周辺のイスラム国の戦闘部隊に対して、3波にわたる空爆を実施。物資投下には、英仏豪3か国も参加。
31日、イラク軍がアメルリに進撃。シーア派民兵も加わる。クルド人の民兵組織も09月01日 イラク軍は地上作戦を展開し、アメルリをイスラム国から奪還。周辺の町村も解放し、軍の制圧下に置く。
感想としては、アメリカの決断は容認しうるものだということ。ただ、イラク政府の要請に基づくものであること、ISの蛮行を阻止する目的であること、救援を主目標とする限定されたものであること、イラクに混乱をもたらした過去の行動について深く配慮したものであることが要求される。
カイロには我が赤旗の小泉記者の他に、東京新聞も特派員を配置している。
こちらの見出しは「イラン、アバディ氏支持 イラク首相候補 マリキ氏見限りか」となっている。
イラン国営のアラビア語衛星テレビ・アルアラム(電子版)によると、イランのザリフ外相は、イラクのマスーム大統領が新首相候補に指名したアバディ氏に、「挙国一致政権」を早期に樹立するよう求めることで一致した。イランが事実上、アバディ 新首相の誕生を支持した形。マリキ首相からの政権交代が進む可能性が高まった。
…AFP通信によると、米国やフランス、トルコなど各国も相次いでアバディ氏の新政権樹立を歓迎する姿勢を表明。マリキ氏は三選を目指す構えを崩していないが、国際社会の退陣圧力が強まる中、権力の維持は難しい
…シーア派を偏重してきたマリキ氏に対するスンニ派勢力の反発は強い。さらに、シーア派からはスンニ派の過激派組織「イスラム国」の進攻を招いた責任を問う声も上がり、新政権が樹立できない状態が続いていた。バグダッド在住の政治評論家ハダド氏は…「イランは、隣国のイラクを不安定化させるマリキ氏よりは、アバディ氏を支持する方が得策だと判断したのだろう」と話している。
ただ、赤旗の小泉特派員は、そのことよりも、政権移行がスムーズには行かないだろうとの見方を強調している。
首都バグダッドには首相指揮下の軍精鋭部隊が展開するなど、不穏な動きも出ています。
さらに現在米軍が「イスラム国」に対する空爆を実施していることから、スンニ派も取り込んだ新政府づくりが順調に進むかどうかは不透明です。
東京新聞の記事はアル・アラムの記事とAFP電をつなぎあわせたもの。ひょっとすると小泉記者の方が、より現場に近い雰囲気を報じているのかもしれない。
WSJ はこれら二つよりはるかに詳しい。
1.イランが、イラク大統領がアバディ連邦議会副議長を新首相候補に指名したことに支持を表明した。
2.これはイラン最高安全保障委員会のシャムハニ事務局長の言明である。
3.最も強力なシーア派武装勢力「アサイブ・アフル・ハック」を含む各政治グループは国民に冷静さを求め、その多くがアバディ氏の指名を歓迎した。
4.11日に治安部隊がバグダッドに展開した。各派は、マリキ氏が武力に訴えるのではないかとの懸念を高めた。
5.12日になって、マリキ首相は、政治的対立に関与しないよう治安部隊に命じた。
6.最近マリキにより解任されたゼバリ外相(クルド人)は、「彼が何を隠し持っているか分からない」と警戒する。
ということで、イランのアバディ支持は重要な分岐点ではあるが、決定的なポイントではないということのようだ。
本日の赤旗の一面トップがこの記事だ
「中央アジアに核使用禁止 核保有5カ国が議定書調印」
内容は大略以下のとおり
1.核兵器保有5カ国が、2009年3月に発効した中央アジア非核地帯条約に調印した。
2.この条約は核兵器の研究・開発・所有などを禁止するとともに、核兵器保有国が中央アジア諸国に対して核兵器の使用や核脅迫を行うことを禁じている。
3.国連本部で記念式典が開かれ、パン事務総長は核保有国の遅滞ない批准を呼びかけた。
これだけだ。一面トップにしてはえらく中身が薄い。
今回の「核保有国の議定書調印」の意義を探るためには、少し勉強しておく必要がある。
1.中央アジア非核地帯条約とはどんな条約か
2.非核条約にかかわる核保有国の議定書とはなにか
3.なぜ核保有国は調印を遅らせたのか、なぜ今回調印することになったのか
このへんがわからないと、意味が見えてこない。
1.中央アジア非核地帯条約とはどんな条約か
まず中央アジアという地域を知ることにする
中央アジアを構成するのはカザフ、キルギス、タジク、ウズベク、トルクメンの5カ国。キルギスのほかはすべてスタンがつく。スタンというのは「~人の国」という意味で、「State of ~」ということになる。
一口に中央アジアと言っても、内部には相当の力の差がある。
西側3カ国が石油資源を有するのに対し、タジクとキルギスは山の中の小国にすぎない。
カザフは中央アジアといっても半ばシベリアで、3割がロシア人だ。これはウクライナの倍になる。これに対し、南はアフガンやウイグルとの関係が濃厚だ。
5カ国の中ではカザフスタンが圧倒的な影響力を持っている。面積はほかの4カ国を合わせたより広い。GDPも桁違いだ。一人あたりGDPはロシアをさえ上回るほどだ。
だから中央アジア5カ国としてまとまるためには、カザフスタンのイニシアチブとフェアプレー精神の発揮が不可欠となる。
かつてカザフはソ連の一部であったがゆえに、その崩壊時に核保有国となった歴史を持つ。また、カザフはセミパラチンスクの核爆弾実験場(現在は廃止)をもち、多くの人が核汚染の後遺症に悩む被爆国の一つだ。
だから非核地帯構想は核の放棄の構想でもある。それはたんに核の問題にとどまらず、セミパラチンスクの記憶を頼りとして、この地域の独立と平和、連帯を祈念する象徴となっているように思える。
中央アジア非核地帯条約は2006年9月に締結され、09年3月に発効している。セミパラチンスクで調印されたことから、セミパラチンスク条約とも呼ばれた(現在ではセメイと地名が変更された)
内容は
1.核兵器若しくは核爆発装置の研究、開発、製造、貯蔵、取得、所有、管理の禁止
2.他国の放射性廃棄物の廃棄許可等を禁止
3.核兵器国の核兵器による威嚇を禁止
ということで、放射性廃棄物一般にまで踏み込んだかなり包括的なものだ。
ただ3番目の事項は、核保有国の合意がない限り意味を持たないものであるから、今回の5大保有国の調印で初めて本格的に発効したことになる。
条約の詳報は下記を参照されたい
中央アジア非核兵器地帯条約(抜粋訳)
2.非核条約にかかわる核保有国の議定書とはなにか
ということなのだが、今回大々的に取り上げられた肝心のポイントが見えない。
記事を読んだものはだれでも不思議に思うだろう。条約は2006年に調印され、09年に発効している。それを5大国が承認したことにどのようなニュース性があるのかと。
他のメディアもあたってみたが、どこもぱっとしたものはない。なかではNHKがちょっとコメントしているのが目につく。
そこを説明すると、
06年に調印された時、核保有国の一部に反対があってこの条約を尊重するという議定書に5大国が署名しなかったからであり、それがこのたび合意に達したということである。
それでは誰がどこに不合意だったのか、なぜそれが今頃になって合意に至ったのか、そのあたりの事情が明らかにされないと、ニュースの形を為さないのである。
3.なぜ核保有国は調印を遅らせたのか、なぜ今回調印することになったのか
ここでちょっと難しい話になるが、
核保有国が非核条約を尊重し、核を用いないことを約束することを「消極的安全保障」(negative security assurance)と呼ぶ。それは核拡散防止条約の精神から派生したものである。
(私見だが、negative security assurance はひどい用語だと思う。せめて Moderate とかAccordant とかすべきである。それに対して「積極的に関与する」政策はけっしてPositive ではなく、むしろAggressive というべきだろう)
核拡散防止の本来の目的は、その国が核兵器を保有しないようにすることであり、それが実現するのなら、見返りに核兵器の使用をしない約束を与えることにある。
したがって、非核地帯が実現するためには核保有国の心証が決定的な要素となる。
かなり核保有国にとって虫のいい論理だが、とりあえずそれは受忍しよう。それではどういうファクターが核保有国の心証を形成するのだろうか。
探していたら「原水禁」のページで以下の様な記述を見つけた。
2006年9月の非核条約締結時、条約の尊重を定めた議定書にロシア、中国は賛同したが、米・英・仏は条約に問題点を指摘し、署名しなかった。
その問題点とは、
1.既存の国際条約との整合性
2.核兵器の一時通過権の保留
の二つである。
1.はロシアをふくむ「タシケント集団安全保障条約」(92年設立)との優先度であり、集団安保が優先するならアメリカは核を含む交戦権を維持しなければならないという理屈だ。
たしかにソ連をふくむ地域集団安保など破棄するに越したことはないが、集団安保のほうが優先されてしまっては、そもそもこの条約に意味がなくなる。
それに、アメリカの方もまぁ言いがかりみたいなものだろう。アメリカを盟主とする集団安保体制下にあるラテンアメリカでは、トラテロルコ条約がすべての核保有国によって批准されているから、二重基準になってしまう。
2.は米英仏の本音であろう。トランジットの権利を維持しておけば、核を積んだ飛行機が離着陸できることになる。それに「一時が万時」という。これを認めれば、永遠で
なければ一時になる。
その頃イラクやアフガンでの戦闘が続き、イランとも一触即発の危機にあったアメリカにしてみれば、譲れない線であったかもしれない。(ただし
この2.項が本当に存在したかどうかは、この文章以外では確認していない)
09年6月の衆議院外務委員会では、東南アジア非核条約について次のような議論が行われている。
(条約は)核保有国に対して、核使用・核脅迫を行わないと定めた議定書第二条への参加を求めている。
これに対し米国は、①一方的に核使用を禁じていること、②経済専管水域まで含まれていることから議定書への署名を拒否した。中国も難色を示している。このため核保有国による署名の見通しは立っていない。
いっぽう、ラロトンガ条約(南太平洋非核地帯)は英仏は批准済み(その後中露も批准)、アメリカは署名(未批准)している。
中央アジア非核条約より10年以上も前に締結された東南アジア非核条約が、未だにこのような状態だ。
中央アジア非核条約では、そこらあたりが、どう調整されたのだろうか。今のところ不明だが、一面トップに据えた赤旗の続報に期待しよう。
ただ原則として強調しておきたいのは、非核地帯条約は核保有国の同意を必要とはするが、お願いしてお許しを頂くという性格のものではない。むしろ正義の名において核保有国に押し付け、認めさせるべき性質のものだ、ということだ。
ド・ゴール派の論客ドビルパン(シラク政権時の外相)がフィガロ紙で武力介入を批判している。
少し長いが、独特の雰囲気を伝えるために、そのまま引用する。
罰する?
それは軍ではなく、国際法廷が果たすべきことだ。
我々の良心を安堵させる?
市民の状況がさらに悪化する危険があるのに、そのような危険を顧みずに介入するのは破廉恥であろう。
体制の変革か?
それはシリア自身が決めることであって、我々が決めることではない。信頼できる代替勢力が存在していないならなおさらのことだ。
我が西側の中東戦略は、武力の有効性という幻想に基づいているが、それはいまや袋小路にはまっている。
この発言の二番目のポイントが多分一番重要なことだろう。「破廉恥」という表現には、たぶん強烈な反論もあるだろうが、やはりここを落としてはならないと痛感する。
我々には苛立ちがある。民主化をもとめて立ち上がった人々が大量に殺され、シリアが内戦状態に入り、100万人もの人が難民となってさまよい続けている。
それに対して国際社会は拱手傍観してきた。そしてその挙句に化学兵器だ、ということになると、何かをしなければならないという気になる。
ドビルパンはその「良心 」の甘さを鋭く衝いているのだ。
赤旗のパリ特派員、浅田記者がシリアへの武力介入問題について詳しく報告している。
まずは「パリジャン」紙が8月31日に発表した世論調査。
フランスのシリア介入に対し、反対64% 賛成34%となっている。浅田さんは「圧倒的多数の国民が軍事介入に反対」と評価しているが、私にはむしろ34%が賛成していることのほうが衝撃だ。
「軍事介入」なのか「介入」一般なのか、質問の内容が不明だが、介入についてかなり広範の支持があるということだ。こ
れはイラクのときとは大分雰囲気が違う。
介入反対の理由(複数回答)も、最多は「シリアをイスラム過激派の政権に変える危険」で、これが37%だ。次いで、「中東地域を混乱させる危険」が35%だ。
つまり介入そのものへの原理的な反対ではない。条件付き反対だ。
「あれこれの国ではなく、国際社会全体で決定すべき」という反対理由は29%にとどまっている。
浅田記者は、この世論調査が「英国政府が軍事介入を断念」の報道後に行われており、少し熱が冷めた状況での調査であったとしている。その前の世論調査では、「介入反対」は59%にとどまっていた。
背景としては二つ考えられる。一つはリビア介入の「成功」、そしてマリへの介入の「成功」という二つのサクセスが、世論を後押ししている可能性だ。
もう一つはシリアが旧植民地であったという理由。フランスの宗主国意識というのはかなり強烈なものがある。ベトナムでもアルジェリアでも保守と革新とを問わず、植民地の維持については一致して支持してきた。
皮肉なことにこういう宗主国意識から最も自由なのがド・ゴール派だ。第二次大戦後、シリアをふたたび占領下においたのはドゴールである。しかしアルジェリア紛争においては、ド・ゴールは植民地支配に幕を下ろす役割を演じた。
彼らは「どちらが得か」という発想から出発するから、その政策に倫理性はない。しかし「得にならない」と判断すれば手を引くという発想の自由は保持している。
カタールとアル・ジャジーラについては不勉強だが、とりあえず「はぐれ雲さん」のブログから紹介しておく。
1.NHKの中東関連ニュース(映像)の大半はアルジャジーラを使用してしている。日本における影響力は大きい。
2.アルジャジーラのスポンサーはカタール王家で、王家の意向を色濃く反映している。
3.カタール王家は当初より「民主選挙で選ばれた」モルシとムスリム同胞団を支持し、巨額な支援を行って来た。
4.「クーデター」後、カタール以外のアラビア半島の王国は、こぞって軍=暫定政権支持を表明している。
5.カタールは近隣王国から孤立しており路線修正に迫られるだろう。その際アルジャジーラの報道姿勢も変わる可能性がある。
6.それらの過程を通じて、アメリカの中東における影響力はますます弱まるだろう。
ブログ主さんは、エジプトの「クーデター」を軍部による反革命と見ており、シリアのアサドと「同じ穴の狢」と見ているが、客観的な事実内容は了承しうる。
そのなかでもこの記事はとびきりフレッシュだ。なにせ今日付けだ。まだ湯気が出ている。翻訳者の八木久美子さんに感謝したい。
2013年08月24日付 al-Hayat紙
【カイロ:アフマド・ザーイド】
以下要点を抜書きする。
ムスリム同胞団の未来を占うためには、まずその歴史を見ることが必要だ。
同胞団の歴史はその根底において危機の歴史で ある。1948年の王政時代の最初の危機、1954年の革命政権との危機、ムバーラク政権との長い闘争などすべてそうだ。
しかし現在の同胞団の危機は、その中でも最も厳しく困難なものだ。
なぜならまず、現在の危機は他者によって加えられたものではなく、同胞団自身が招いた危機だからだ。
モルシの当選後、同胞団は司法・公安・治安など国家の強大な諸機関において力を拡大した。そして「国家の同胞団化」により社会を支配しようとした。
彼らは社会の分裂を歓迎した。柔軟性の片鱗も見せることなく、合意やコンセンサスの実現を蔑視した。
これが最近1年間の「精神的指導者の統治」と呼ばれた期間の特徴であった。
現在の危機は、すでに同胞団と政府のあいだの衝突ではなくなっている。それは一方における同胞団とジハード集団の同盟、もう一方における一般社会および国家という対立になっている。
この対立構造は、すでに同胞団が権力の座にあった時からそうだったのだが、彼らが権力から転落した後、ますますその姿を明らかにした。
権力を失った後に彼らが見せた行動は、この闘いを何倍も激しいものにしている。その象徴がコプト教徒への迫害である。同胞団はコプト教徒を暴力行為の標的にした。
同胞団は、国民革命の行方に心穏やかでなかった米国と欧州連合を巻き込んだ。そして米国に忠実に追随するトルコとカタール(アル・ジャジーラを指すのであろう)をも巻き込んでいる。
8月14日に座り込みの排除が行なわれた。すでに同胞団は一般社会及び国家と真っ向から対決する決意を固め、そのために暴力という手段に訴えることを決意していた。
彼らはいかなる譲歩をする能力もない。彼らのスローガンは血に染まっている。「一人殺せ、いや百人殺せ」と人殺しを呼びかけている。
こうして危機はさらに厳しい状況になっている。
かつて人々がこの国の指導を任せた集団と、国民とのあいだに、予期せぬ、劇的な展開が次々と起こってきた。
“同胞団の指導は失敗であった”、と人々のあいだで意見が一致した。そして国民と軍が指導者の権利をはく奪した。これが6月末から7月初めにかけての一連の出来事の本質である。
それに対して、彼らはすぐさま反応した。そしてこの国と人々を焼き尽くし始めたのである。
なかなか難しい文章であるが、おおむね私の感想と一致している。
注目すべきは“国民革命の行方に心穏やかでなかった米国と欧州連合”という記述である。トルコもイスラム政党が政権を握る国というのではなく、米国に忠実な国として描かれている。
分かりやすいのは、イスラエルとその同盟者であるアメリカのマスコミだ。彼らは中東諸国で紛争が起きれば“愚かな方”を選ぶ。①愚かな方が御しやすい、②愚かな方が頑張れば紛争が長引く、しかし彼らが勝つことはない、③中東全体を愚かに見せることができる、からだ。
昔のトロツキスト(正確に言えば旧ブント)に対する“泳がせ政策”と同じだ。だから彼らは実は原理派が大好きだ。
雑駁な印象だが、それがクーデターであったことは間違いないし、モルシ政権の打倒がクーデターという形式をとったことは正しいとはいえない。
クーデターという手段に訴えなくても、政権の崩壊は時間の問題であったし、そのようにすべきだったのである。
ただそれがより平和的な移行をもたらしたか否かは分からない。いずれにせよモルシはやめる気はなかったし、政権維持のために暴力を用いる可能性はあったからである。
その上で、二つの問題を提起しておきたい。
まず我々はエジプトの民衆が抱いた同胞団に対する強い危機感を共有しなくてはいけない。問題の根源はムルシの失政ではなく、同胞団の邪悪さである。そこにすべての出発点がある。
無論、同胞団とそれを支持した広範な民衆とは分けて考えなければならない。しかしそのことによって同胞団の邪悪さは免罪できないのである。それは合法的に政権を獲得したからといってナチスを免罪できないのと同じだ。
もうひとつ、8月14日を境として、状況は明らかに変わったということである。彼らは明らかに強制排除を待ち構え、それを機に社会全体を標的とする攻撃に打って出た。
そこに至る経緯がいかなるものであるにせよ、いま彼らの正統性を擁護することは明らかに間違っていると思う。
エル・バラダイは、“国際人”らしい盛大な最後っ屁を放って、ウィーンへと逃げ去った。しかしエジプトの民はそこから逃れることはできない。災難には立ち向かうしかないのである。