鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

カテゴリ: 13 国際政治・経済/中東(マグレブ諸国を含む)

アルメニア 首相交代劇の背景

最初にパシニャン新首相の紹介。
エレバン在住日本人の長谷川さんが詳しく紹介されている。
パシニャン(Pashinyan)は1975年生まれ。エレバン大学を中退しジャーナリストとなる。
彼はアルメニア国立大学ジャーナリズム学部でトップクラスの優等生でしたが、当時の学長の批判記事を書いて問題になり、その学長から、「記事の内容を否定しないと退学にするぞ!」と脅されても、「これは事実だから否定などしない!」と突っぱねて退学になりました。
06年には、ペトロシャン初代大統領を党首とする野党創設に加わる。
また、長谷川さんからの引用。
政治家になる前は、「アルメニアタイム」というリベラルな新聞紙の編集者を務めていました。在職中は共和党の腐敗政治を激しく批判し続け、10年前の大統領選挙の不正に対する違法な抗議活動を行ったとして、当局から指名手配されました。1年以上の逃亡生活の末、2009年に自ら出頭して逮捕。2年の服役を終えて出所後、野党「アルメニア国民議会」のリーダー的存在になり、2012年に当選して国会議員になりました。
これで4年間活動した後、今度は新党を立ち上げる。
2016年に、他の野党党首と共に、「エルク(アルメニア語で出口・糸口の意味)」という政党を結成。翌年の国会議員選挙で9議席を獲得し、第二野党となりました。
今年になって、反政府活動に本格的なギヤが入ったようだ。
2018年初めにセルジ・サルキシャン(Sarkisian)大統領が首相就任の意思を表明した。背景はよくわからないが、大統領を一人で何代も重ねると人聞きが悪いせいかもしれない。それで憲法を変えて議院内閣制にした。議院内閣制にすると国家のトップは間接選挙制になる。別に任期は必要なくなる、という理屈だ。
これに抗議するため、パシニャンは地方からエレバンに向かって歩きはじめた。歩く先々でサルキシャンに抗議する集会を開く、「マイステップ」運動を展開するためだ。
このあたり、なにかコスタ・ガブラスの「Z」を彷彿とさせる筋書きだ。背景には権力の腐敗と貧富の格差に対する底知れぬ怒りが渦巻いているようだ。
また、長谷川さんの引用。
アルメニアも、そんな厚顔無恥で強欲な人間たちがずっと国を支配してきました…。ただ、その腐敗のレベルがとにかく半端ない
最近、ある大物政治家が不法に大量の武器を所有していた容疑で逮捕されました。彼は、ナゴルノ・カラバフ紛争で大佐を務めた元軍人です。
警察が彼の豪邸を捜査したところ、隠し持っていた武器の他に、何十台もの高級車や水上バイク、虎やライオンなどが飼われたミニ動物園までありました。…驚いたのは、市民らが前線で戦う兵士たちのために送った食料や物資を横領して、何とその食料を自分が飼っている動物の餌にしていたことです。
(すみません、ちょっと文章削りました。長谷川さんの原文でしっかり味わってください)

2ヶ月をかけた政治行脚の中で、国民の怒りが形となって現れてきた。

4月9日 サルキシャン大統領の任期が満了となった。サルキシャンは与党の支持を受け首相にされた。その4日後、パシニャンのキャラバンが膨れ上がって首都エレバン入りした。連日に渡り大規模な集会が開催され、政治的緊張は一気に高まった。
サルキシャン・パシニャン会談が開かれたが、会談の直後、パシニャン議員は違法なデモを扇動したという理由で拘束された。この愚挙は火に油を注ぐ結果となった。最大規模の抗議集会が開かれ、デモ参加者は10万人を超えた。兵士や警察の一部までがデモに参加した。Youtubeに集会を記録した動画がアップされている。昼の映像を見ると10万はちょっと大げさだと思ったが、夜になると広場は群衆で膨れ上がってくる。
これを見たサルキシャンは観念したようだ。23日、サルキシャンは「パシニャンは正しく、私は正しくなかった。私は首相職を去る」との声明を発表し辞任した。
サルキシャンが辞任した後、暫定首相となったのは、サルキシャン政権のもとで首相を務めていたカラペチャン(Karapetyan)という人だ。パシニャンは国民的な人気こそあるが国会内では第二野党の党首に過ぎない。与党としては不人気のサルキシャンでなければ、誰が首相になっても騒ぎは収まるだろうと高をくくっていたのではないか。
ところが与党にさらに追い打ちをかけるような出来事が発生した。ロシア大統領のプーチンがカラペチャン首相代行との電話会談に応じた。そして、「投票は非常に重要だ」と強調したのである。
実はアルメニアは経済困難のもとにあり、ロシアの援助なしにはやっていけない状況になっている。政治混乱になればロシアが介入してくるのは明らかであり、そうなれば国家は持たなくなってしまう。与党は大混乱に陥った。
26日、議会は首相選出の投票を5月1日に行うと決定した。パシニャンは投票そのものは受け入れたが、自身が来週の投票で首相に選出されるべきだと主張した。与党は候補者を出さず、結果として唯一の候補者パシニャンへの信任投票ということになった。
ところが、与党は候補は出さないが、パシニャンを信任もしないという態度に出た。そうなれば政治は空転し議会選挙ということになる。議会選挙で与党がふたたび勝利すれば、「ミソギは済んだ」ということになる。
5月1日、議会で首相選挙が行われ、唯一の候補となったパシニャンへの信任投票は僅差で否決された。パシニャンはただちに市民にゼネストを呼びかけた。ゼネストは成功し首都はマヒ状態となった。
クーデターも考えられたが、ロシアの圧力はそれを許さなかった。プーチンにしてみればシリア、ウクライナに加えてさらなる国際紛争はとても許される状況にはない。
ついに与党共和党は「議員の3分の1以上の支持を得た候補者を首相に任命する」という声明を発表し、事実上パシニャン氏の首相就任を認めた。5月8日、議会はパシニャンを首相に選出。パシニャンは与党・共和党内からも支持を獲得した。直後の声明でパシニャンはロシアとの関係継続を表明し、プーチンはパシニャンを祝福した。
共和国広場で雨の中祝賀集会が行われた。パシニャンは「アルメニアに普通の生活をもたらす、汚職と政治的迫害を過去のものにする」と宣言した。

とまあ、一応まとめてみたんですが、誰か追加してください。
ナゴルノ・カラバフ紛争の頃、なんとなく胡散臭さを感じながら読んでいた記憶があるが、調べてみるとやはりこういう経過があったのだ。
ユーゴスラビア内戦も、世上セルビアばかりが悪者扱いされているが、個別の事象を見ていると、むしろクロアチア側に理不尽さを感じる場面も多々ある。まさか第二次大戦時のファシストの伝統が生き残っているというわけでもなかろうが…



赤旗の国際面に、ベルギーで開かれたある集会がレポートされていた。
新たにアルメニア首相に選ばれたニコル・パシニャンを歓迎する集会で、参加者はすべてアルメニア人。
おそらくは亡命しベルギー近辺に在住している人々であろう。
日頃、アルメニアに関連するニュースなど耳にすることがないから興味が湧いた。
以前からアルメニア、クルドの両民族は気になる存在であった。ともに過去においてジェノサイドの対象とされてきたからである。さらにユダヤ人も含め、中東の三大ディアスポラとなってる。
赤旗の記者は参加者の一人で元ミス・アルメニアだという女性の方に興味があって取材・報道したらしく、アルメニアにはとんと興味はなさそうだ。
そこで我が「物好き社」が代行して報道することにしようと思う。
まずはニュースを探してみる。

【5月8日 AFP】 
アルメニア議会は野党指導者のニコル・パシニャン(Nikol Pashinyan)を首相に選出した。パシニャンは与党・共和党内からも支持を獲得し、賛成59、反対42で選出された。
パシニャンは、「私の初仕事は、この国に普通の生活をもたらすことだ。アルメニアに汚職はなくなる。アルメニアは政治的迫害を過去のものとする」と述べた。

アルメニアを知るには、アルメニア人の迫害の歴史、ミニ国家としてのアルメニア国の歴史、そしてパシニャンを生み出した民主運動の歴史について知らなければならないだろう。

とりあえず、例のごとく年表で整理していく。

アルメニアは、ハイ族の王アルメナクから来ている。
アルメニア人は自らをハイ、国をハヤスタンと呼ぶ。

アルメニアは、先史時代からその存在が知られていた。

5500年前の革靴



























   アルメニアで発掘された5500年前の革靴
紀元前9世紀 ウラルトゥ王国が成立。紀元前8世紀にはアッシリアまで進出。
紀元前6世紀 ウラルトゥ王国が滅亡。アケメネス支配下のアルメニア人が植民し国際交易に従事。
紀元前331年 アレクサンドロス大王の率いるマケドニア王国の軍勢がペルシアへ侵入
紀元前188年 最初の独立国家「アルメニア王国」を築く。最盛期には黒海からカスピ海までを支配する。
アルメニア王国の最大版図
           アルメニア王国の最大版図
紀元前66年 アルメニア王国はローマに敗れ衰退。ペルシャの支配下に入る。
1世紀頃からキリスト教の布教活動が行われる。
紀元301年 アルメニア、世界で初めてキリスト教を国教とする。
400年頃 アルメニア、ササーン朝の支配下に入る。
その後ペルシャ人、東ローマ、アラブ人、蒙古人、トルコ人が相次いで支配者となった。
10世紀 アルメニアはムスリムと東ローマの境界地帯となり、多くのアルメニア人がキリキアに逃れる。
1198年 キリキアに定着したアルメニア人が、キリキア・アルメニア王国を建設。交易国家として発展。
キリキア・アルメニア王国
          キリキア・アルメニア王国
1375年 マムルーク朝の占領を受け、キリキア王国が滅びる。
1636年 オスマン帝国とサファヴィー朝ペルシアがアルメニアを分割し支配。
1826年 第二次ロシア・ペルシア戦争。ロシアがペルシア領アルメニアを奪取

1877年 露土戦争。アルメニア人はロシアの進出を歓迎。多くのアルメニア人がロシア領へ流入。
1894年 第一次虐殺。サスーンでアルメニア人が武装蜂起。その後の1年で数万人が犠牲となる。
エルズルム虐殺の犠牲者たち(1895年
    エルズルム虐殺の犠牲者たち(1895)
1914年 オスマン・トルコが第一次世界大戦に加わる。敵軍であるロシア軍には18万人のアルメニア人正規兵の他、アルメニア人義勇部隊8千人が加わる。
1915年4月24日 アルメニア人政治家・知識人など約600人が逮捕殺害される。その後の1年で60万人~100万人が殺害される。
1918年 ロシア革命が発生。この隙きをついて民族主義者によりアルメニア第一共和国が樹立される。
1920年 赤軍がアルメニアを制圧。アルメニア社会主義ソビエト共和国が成立。隣国とともにザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国を構成する。
1965年 虐殺50周年記念集会。これを機にアルメニア語やアルメニア文化が容認されるようになる。
1988年 ナゴルノ・カラバフ戦争が発生。
アゼルバイジャン共和国のナゴルノ・カラバフ自治州でアルメニア人が帰属替えを求める。これを機に民族紛争に発展。ソ連政府はアルメニアに対し冷淡な態度を取る。
1988年 大規模な地震が発生。電力需要の40%を生産するメツァモール原子力発電所が6年半に渡って閉鎖される。
1991年9月 ソ連の崩壊に伴い「アルメニア共和国」として独立。反共産党のレヴォン・テル=ペトロシャンが大統領となる。
1994年5月 アルメニア人勢力(ダシュナグ党)がナゴルノ・カラバフを制圧。アルメニア人側に約6000人、アゼルバイジャン人側に約3万人の死者。周辺国はアルメニアに制裁。
1995年7月 新議会選挙と新憲法の国民投票。
1998年 ペトロシャン大統領が辞任。ナゴルノ・カラバフ出身のロベルト・コチャリャンが後継大統領に選出される。
1999年10月 アルメニア議会銃撃事件。元ダシュナク党員のテロにより首相、国会議長など8名が死亡。
2008年 大統領選挙でセルジ・サルキシャンが選出される。対立候補であったペトロシャン元大統領は、不正を訴え大規模な抗議活動。非常事態宣言が発令される。
2009年10月10日 トルコとの国交成立。ダシュナク党はこれに抗議し政権から離脱。
2015年 憲法改正。大統領権限の大半を首相に移し、議院内閣制を導入する。
2018年
4月17日 サルキシャン大統領、退任に伴い首相に鞍替え。
5月1日 議会で首相を選ぶ選挙。最大野党のニコル・パシニャンが当選するが、与党は承認を拒否。

ということで、ほとんどアルメニアの歴史年表になってしまった。
そういう背景のもとで、今回の首相交代劇がどんな意味を持っているのか、別途稿を起こそうと思う。

1.ムハンマドの登場
まぁ、とりあえずそれ以上さかのぼる必要もあるまい。
2015年1月に、前国王アブドラ国王が亡くなり、皇太子サルマンが国王に即位した。このときすでに80歳。イブン・サウドのおそらく最後の息子となるであろう。このあとは孫の世代に移っていく。
このとき、息子のムハンマドが国防大臣兼副皇太子に就任している。弱冠29歳である。
このあとムハンマドが父国王の片腕として辣腕を振るい始める。それと同時にサウジがどんどん過激化していくことになるのである。
2.イエーメンへの軍事介入
2015年3月にとんでもない事態が発生する。国防相ムハンマドがイエメンへの軍事介入を決定するのである。イエメン情勢については別の記事に書いているので、そちらを参照していただきたい。ムハンマドの世界戦略は反イランのみでそれしか眼中にない。しかも彼の反イランは反シーア派であってシーア派であればアラブ人であろうとペルシア人であろうとすべて敵である。
いずれにしてもサウジが直接武力侵攻を開始するというのは、まことに青天の霹靂であった。
敵はクーデターにより大統領を追い出したシーア派アラブ人のフーシー派であり、これを湾岸諸国の連合軍が攻撃した。
この戦争は現在に至るも続いており、内戦の結果、イエメン国民がきわめて深刻な危機に陥っていることはよく知られている。
3.イランとの国交断絶
2016年1月、その戦争のさなか、サウジはアメリカとイランとの核合意を不満とし、イランとの国交断絶に打って出た。イエメン侵攻もそうだが、イランとの国交断絶もほとんど理屈がない。国交断絶しなければならないほどの具体的事実がない。とにかく無茶苦茶なのがムハンマドの特徴である。
4.トランプの大統領就任とクシュナーの着任
その後は、オバマ政権がサウジのクレームを受け付けず対イラン交渉を進めたこともあって、派手な動きはなかった。しかしトランプが大統領に就任するとムハンマドはこの好機を決して逃さなかった。
両者を結びつけたのはトランプの娘婿である。中東和平問題を担当するジャレッド・クシュナー大統領上級顧問(トランプ大統領の娘婿)が、秘密裏に何度もサウジに行き来し、トランプ訪問への動きを取り仕切った。
5.トランプのサウジ訪問と支持確認
2017年5月20日、トランプ大統領がサウジアラビアを訪問した。米国はサウジに1100億ドル(約12兆円)相当の武器を輸出することで合意した。
サウジはトランプ訪問に合わせ、スンニ派アラブ諸国を中心に55ヶ国の首脳を集めた「米アラブ・イスラム・サミット」を開催し、米国との友好、中東における盟主ぶりをアピールした。
この功績を引っさげて、ムハンマドが皇太子に昇格した。ムハンマドは国防大臣に加え皇太子となり、さらに「ビジョン2030」という行政・経済改革計画を発案し、最高責任者となる。
すこしさかのぼるが、3月、サルマーン国王が訪日し「日・サウジ・ビジョン2030」が策定されたのは記憶に新しい。このビジョンこそはまさにムハンマドの策定したものであった。
6.カタールを村八分に
これでますます図に乗ったムハンマドは、カタールの村八分工作に打って出る。
5月24日に国営カタール通信がハッカー攻撃を受け、偽ニュースが流された。その中で、カタールの国家元首タミム首長が「アラブ諸国にはイランを敵視する根拠がない」と発言した。
カタールにとってはまったく寝耳に水のニュースだ。その後の報道では隣国UAE(アラブ首長国連邦)の謀略機関がサイトをハッキングして、フェイクニュースを流したのではないかとされている。
カタールは秋田県の面積で、人口220万人の10%超がカタール人で、残りは外国人労働者。世界有数の天然ガス油田を持ち、日本も東北大震災のあとこの国の天然ガスなしには生きていけなかった。国民1人あたり所得は世界一だ。
日本人にとっては首都ドーハの名前が、93年の「ドーハの悲劇」の記憶とともに焼き付けられている。しかし国際的には通信社アルジャジーラのほうがはるかに有名で、NHKも衛星放送で配信している。サウジがいちゃもんを付けてきたのもおそらくアルジャジーラが目障りなのが最大の理由ではなかろうかと思われる。
このいちゃもんが周到に準備されていたことは間違いないようだ。
わずか1週間後にはサウジ、UAE、バーレーン、エジプトのアラブ4ヶ国がカタールとの国交断絶を宣言。国境封鎖と空域封鎖を実施した。これにアラブ域外のいくつかの国が同調した。
これもテロリスト組織との関係を禁じた「リャド合意」違反という理屈はついていたものの、その罰の重さに比べればいかにもとってつけたふうで、ほとんど問答無用のものだった。
リャド合意というのは14年に湾岸協力会議(GCC)諸国が合意したもので、反体制派やテロ組織を支援しないことを約束したものだ。ただしイランがテロリスト国家だという共通認識はない。
UAEは、同国に滞在するカタール国民に14日以内の退去を求める。さらに航空路の閉鎖、領空通過の禁止を打ち出した。
カタールは食糧をイランから緊急輸入する一方、UAEへの天然ガス供給を停止する報復措置の検討に入った。
カタールはアメリカにとって貴重な同盟国。軍事基地も置いているから、このような事態は好ましくない。外交官や軍関係者は相次いで懸念を表明したが、トランプ本人がサウジの立場を支持する発言を繰り返すから困ってしまった。
ウソか本当かは知らないが、「クシュナーがカタールの有力者に5億ドルの融資を依頼、カタール側がこれを拒んだことが一因」(英フィナンシャル・タイムズ紙)との報道もある。
かくするうちにテヘランでも同時多発テロが発生した。イラン政府は、5人の実行犯は、サウジアラビアとつながりがあるISのメンバーだったと主張。
とにかくやることが強引だ。
7.カタールは干渉を拒否
6月21日、調停に入ったティラーソン国務長官にもなぜこれほどまでに挑発をかけるのかが飲み込めない。各国がカタールに対する具体的な抗議内容を明らかにするようもとめた。これに対して出されたのがサウジらアラブ4ヶ国による13か条要求。アルジャジーラの閉鎖、トルコ軍基地の閉鎖、イランとの外交関係の縮小、テロ組織との関係断絶などが提示された。結局のところアルジャジーラの閉鎖だ。
しかしそれはとうてい飲めるものではない。これを飲まされるようならばアメリカも困った立場に立たされるだろう。
7月3日、カタールは仲介役のクウェートに回答書を提出。実質的に要求を拒否した。結局、湾岸諸国も次の制裁までは踏み込めないまま膠着状態に入ってしまった。
その後ティラーソンが湾岸諸国を歴訪し、カタール「封鎖」を解除するよう求めた。これに応じ9月9日にカタールのタミーム首長とサウジのムハンマド皇太子が会談を行うが非難の応酬に終わる。
イエメン問題に続いてカタール問題も未解決のまま、いまだに尾を引いている。にも関わらずムハンマドはクシュナーと組んで次々に揉め事を起こし続ける。
8.反イランのためにはイスラエルとも組む
9月にムハンマド皇太子がイスラエルを極秘訪問した。これはエルサレム・ポスト報道で非公式に明らかにされている。これと時を同じくしてクシュナーがサウジを訪問し、首脳クラスと4日間にわたる協議を続けている。
10月にはトランプがイラン新戦略を発表した。この中でイラン核合意に対しより強硬な姿勢で臨むことが打ち出された。この中でアメリカ、サウジ、イスラエルの三国がどういう取引をしたのか。非常に気になるが、おそらくエルサレムの首都宣言とレバノンのヒズボラの扱いで合意ができたのではないか。
11月にはムハンマドがパレスチナ自治政府のアッバス議長と会談。「極めてイスラエル寄りの和平案をのむよう迫った」(ニューヨークタイムス)とされる。
この結果、12月6日トランプ大統領がエルサレムをイスラエルの首都と宣言するに至ったのである。パレスチナ人民の英雄的な抵抗にもかかわらず、多くのアラブ諸国は沈黙を守った。サウジアラビアからは形式的な非難声明が出されるに留まる。
9.レバノン首相監禁事件
11月4日、ムハンマド皇太子の率いる『反腐敗最高委員会』、11人の王族を含む約50人を“汚職”で逮捕。その後、拘束者は200人以上とされる。逮捕者の一人はアブドラ前国王の息子で後継候補の1人だったミテブ国家警備隊長だった。
同じ日サウジ滞在中のレバノンのサード・ハリリ首相も巻き添えを食った。ハリリはサウジとの二重国籍を所有しており、おそらく逮捕された誰かにつながっていた人物であろう。これも理屈なんかどうでもよくてとにかく捕まえてしまえという話なのだろうと思う。
ハリリはサウジアラビアで無理やり辞任を表明させられる。この辞任会見でハリリは、「ヒズボラがレバノンを不安定化させている」と主張、「暗殺される可能性がある」と語ったが、結局のところ意味不明の釈明に終わった。
レバノンのアウン大統領は、サウジアラビアがハリリ氏を自身の意志に反して国内に留め置いていると非難。サウジ政府とハリリ氏は否定したが、それにしてもメチャクチャである。
サウジ政府はレバノンに滞在するサウジ市民に対し、国外に即時退去するよう命令。同時に「サウジへの攻撃を止めよ」と警告した。(一体どちらが攻撃しているのか?)
1週間が過ぎ、さすがにサウジへの批判も強まった。窮地に陥ったサウジにフランスが助け舟を出した。9日にマクロン仏大統領がサウジに入り交渉開始。21日にはハリリが解放され、ベイルートに帰還した。ハリリは辞意を正式に撤回しいまもレバノン首相の座にある。
これほどの重大事件にもかかわらず、メディアのほとんどが沈黙を守った。この「監禁」事件については高橋和夫さんが顛末を説明してくれている。
ハリリという首相はレバノン人ながら、サウジアラビアとの二重国籍である。彼がサウジアラビアの不興を買ったのは、イランの影響力の拡大を阻止できなかったからである。彼はシーア派組織ヒズボラをレベノンの政治過程から排除できなかったと非難された。しかしヒズボラの軍事力はレバノン国軍以上である。サウジアラビアの外交を牛耳っているムハンマド皇太子はレバノン情勢にあまりに無知であり、あまりにも荒々しい。
はっきりしたことは、サウジがレバノンに影響をあたえるための有力なカードが失われたということだ。
10.手詰まり感が深まるイエーメン情勢
イエーメンは最悪の状況を迎えつつある。
11月4日にイエメン領内からリヤドに向けて弾道ミサイルが打ち込まれた。これらのミサイルは撃墜されたと報道された。サウジはレバノンの武装勢力ヒズボラによる犯行と主張した。ハリリの監禁もこの事件と絡んでいることは間違いないだろう。
イランはこれを虚偽で危険な主張と非難した。
しかし真相はこのような報道のレベルをはるかに超えていた。実はサウジの迎撃システムはまったく機能せず、ミサイルはそのまま着弾したのである。
サウジは驚愕し、対イエーメン攻撃を強化した。11月6日にはイエメンに人道支援物資を運ぶ経路を封鎖した。国連担当者は封鎖が続けば「何百万人もの犠牲者」が出ると警告している。その4日後には「イエメンで世界最悪のコレラが大発生した」という報道が流された。20万人が感染しているという。
首都サヌアをふくめイエーメンを実効支配しているのはフーシ派(宗派としてはシーア派)で、サウジが支援する前大統領派はアデンの周囲を確保するにすぎない。フーシ派は元大統領でスンニ派のサレハを前面に押し出していた。「アラブの春」で放逐されたこのいわくつきの人物は12月になると動揺し始め、フーシ派との連携解消を発表。サウジアラビア主導の連合軍との関係改善をもとめた。しかし記者会見の2日後には 首都サヌアを移動中「フーシ派」に暗殺されてしまった。
11.粛清事件はムハンマドの弱さの反映か?
11月4日のミサイルはサウジの心臓部に打ち込まれたようだ。それから2日後には大粛清事件が発生している。司法長官は、「11兆円が不正流用された」と指摘し汚職問題として解決しようとしている。しかしサウジの王侯貴族からすれば額が問題ではないだろう。現にムハンマド自身がパリ近郊に3億ドルの「ルイ14世の城」を購入したというニュースが世界中を駆け巡っている。(12.16NYタイムス)
普通に考えれば、イエーメン問題を泥沼に追い込み、防衛大臣なのにリャドにミサイルが打ち込まれるままにされているのでは責任問題であろう。
はたしてイラン憎し、シーア派憎しで、そのためにはイスラエルともトランプとも手を結ぶというのでアラブの大義は果たせるのか、と私がサウジ国民なら当然思うでしょう。

サウジの「覇権化」と湾岸諸国の動向
その1. カタール封鎖をめぐる各国の動き

アラブの春からシリア内戦、そしてISと激動が続く中東であるが、報道されない主役としてサウジの覇権主義的行動について注目する必要がある。

といっても私にも「気になる」という以上の情報は目下ないのだが、一番奇異なのはむしろこのメディアの沈黙ぶりなのだ。(ベネズエラでの大はしゃぎとは天地の差がある)

とりあえず気になることとして、

イランへの政治的挑発、カタールへの攻撃(これについては、攻撃そのものもさることながら湾岸諸国連合の私物化が気になる)、イエーメンへの侵略、そしてレバノン首相の軟禁事件(これほどの事件が全くフォロろーされない理由が分からない)

などがある。

湾岸諸国もこれらの動きに無関心ではいられないはずだが、カタール(ということはアルジャジーラ)を除けば、その反応はほとんど報道されない。

おそらく日本語資料はほとんどないだろうが、少しあさってみようかと思う。
2.サウジの本音はシーア派弾圧

サウジの中東覇権戦略は二つの柱があって、その関係が微妙に揺れ動く。

一つはイラン人に対抗するアラブ人世界の団結であり、もう一つはシーア派に対するスンニ派盟主としての対抗である。

アラブ世界の盟主となることはサウジにとっては最も大きな意義があると思われる。またほかのアラブ国家からの支持も期待できる。

イラン人というのはペルシャ人であり、人種、民族が異なる。ただしこれは、トルコ人に対しても言えることであり、その差をあまり強調するのは、イスラムの教えに反することになる可能性がある。

さらにイスラエル、サウジ、イランの間で微妙に成り立っている中東の力関係を改変することには危険もつきまとう。

だから、こちらの戦略を本気で自力で展開する意志はないだろうと思う。(エジプトに担わせて背後で操る手法の継続)

これに対してシーア派への弾圧はもろにみずからの権力基盤に係る課題となる。

中東の多くの国でシーア派教徒数はスンニ派を凌ぐ状況になっている。しかし彼らはそれぞれの国家で下層階級を形成し、不満を蓄積している。

「アラブの春」が各国で展開されたとき、シーア派の不満が表面化した。それは条件さえあればいつでも燃え上がるだけの力を備えている。

これをどう抑えるかという戦略は宗派戦略ではなく階級支配の戦略なのだ。

ここを踏まえて、各国の状況を見ていく必要がある。
3.サウジ対カタールの対立図式

湾岸諸国の政治的立場はサウジ対カタールの対立図式で表される。

カタールは首長国である。UAEが首長国連邦であるのに対し単独で国家を形成している。

前首長のハマドは基本的にサウジとの意見の違いはなかった。しかし現首長のタミームは、「アラブの春」において反政府側の主張を基本的に支持した。さらにエジプトのイスラム同胞団と交流し、ガザのハマスを支援してきた。

これに対しサウジを支持するのはUAEとバーレーンである。クエートとオマーンは、基本的にはサウジに近い立場ではあるが、対立の回避を優先する立場から調停に動いている。

アラブ域外国であるイランとトルコはカタールを支援するというよりは、サウジのアラブ分裂行動に批判を強めている。

とりあえず第1報。


赤旗でイブラヒム・アブ・スラヤ氏の葬儀を伝えている。短いがかなり中身の濃い記事(カイロ駐在の小玉記者発)なので、そのままコピーして転載する。
スラヤ記事
この事件については、インターネットでも多くの記事と写真が掲載されている。
下の写真は赤旗記事のおそらく元写真であろうと思う。
ibraheem-abu-thuraya
緊迫した様子が伝わってくる。
次の写真は、残酷ではあるが、スラヤ氏の思いを考えると掲載すべきかと考えた。
RIP-Ibrahim-Abu-Thuraya2
「主な扇動者を選んで発砲」したことが適切だったかどうか、よく考えてほしいと思う。

The Israeli Military First Took His Legs, Then His Life

Ibrahim Abu Thuraya: Disabled Palestinian activist shot dead by Israeli ...


Ibrahim Abu Thuraya: A symbol of Gaza's resilience

 

「7月3日体制」下のエジプト

シリーズ「混迷する中東・北アフリカ諸国」の5回目。今回は長沢栄治さんの執筆である。2015年初頭の頃の文章で、新しいといえば新しいが、すでにそれから2年余りが流れており、すでに現状とのあいだに若干の違いは出てきているかもしれない。

 

はじめに

(この「はじめに」がえらく長い)

2011 年 1 月 25 日にタハリール広場での大集会が行われ、2月11日にはムバラク大統領を宮殿から退去させた。

それから約1年半後の2013年6月に民衆は再び蜂起し、ムルシー大統領とムスリム同胞団の政権を打倒した。

それで、蜂起に立ち上がった人々が望んだ「革命」は進展しているのか。革命などといっても一時の興奮に過ぎず、混乱をもたらしただけで何の結果も残さなかったのか。

長沢さんはいくつかの判断材料を提出する。

①ムバラクの逆転無罪判決

2012年6月、ムバラクはデモ隊への発砲による殺害の罪での無期懲役判決を受けていた。

2013年1月に再審理が決定され、2014年11月にムバーラク元大統領に無罪判決が出された。抗議の声は押しつぶされた。

②軍部による統治の「正常化」

2014年6月、「6月30日革命」を唱えるシーシーが大統領に就任した。

表面的に見る限り、シーシー大統領は国民の政府に対する信頼を回復し、安定した「統治」に成功している。

スンナ派を指導するアズハル機構と、人口の10%以上を占めるコプト派の政権支持には強固なものがある。

③ムスリム同胞団への怒り

一方、ムスリム同胞団は国民の指弾の的となっている。ムルフィ政権下のコプト派教徒襲撃や、シーア派住民殺害などの非道行為、経済危機を強権で乗り切ろうとしたことへの恨みは深く刻み込まれている。

長沢さんはこの3つの流れを基礎に、情勢を分析しようとしているようだ。

1. 軍が提示した2度目の行程表

2013年6月30日の民衆蜂起、 「6月30日革命」を受けて、軍は翌日7月1日に声明を発表し、全ての政治勢力が48時間以内に和解するように求めた。ムルシーはこれを拒否した。

7月3日、軍トップのシーシー国防相は、軍の用意した工程表を発表した。それは①憲法改正→②議会選挙→③大統領選挙よりなる。これは後に①→③→②となった。

このあと長々と「1月革命」の経過が語られていく。長沢さんの文章はきわめて入り組んでいて、文章そのものの要旨ではない注釈部分に重要な事実が書き込まれており、実に読みにくい文章となっている。

「1月革命」の経過は、論旨からいうと枝葉なのだが、読み手からすれば、革命の総括が書かれたもっとも重要な箇所だ。とりあえず従いて行くしかない。

一度目の工程表: 2011年革命の総括

2011年革命において、軍が決めた行程表は、「②議会選挙→③大統領選挙→①憲法改正」であった。

左派勢力は、まず革命の理念を体現した新憲法の制定を最初に行うべきだと主張した。しかし、軍はこれに従わなかった。内心では現体制の大幅な変更を望んではいなかったからである。

同胞団は選挙を先に行うことで、理念よりも組織力による主導権確保を狙った。これに軍は乗り、3月の「暫定的な憲法改正」を国民投票で押し切った。つまり憲法改正は先延ばしにされたのである。

ついで行われた議会選挙で、同胞団は総議席の3分の2を超える地滑り的勝利を収めた。革命の勝利の果実は同胞団により掠め取られてしまった。

大統領選挙と同胞団の心変わり

革命後に2勝を収めた同胞団は、3勝目も狙うようになる。

当初は、同胞団候補は出さず、世俗派に大統領職を委ねる意向であった。これが何故心変わりしたかについて、真相は未だ不明である。

長沢さんはいくつかの可能性を上げている。次なる最終戦、新憲法制定で勝利を収めるために、どうすべきかという議論があっただろうという。

新憲法における勝利とはどういうことか、それは「同胞団が掲げてきた理想であるイスラーム国家体制の建設」を保障する憲法である。

大統領選挙は同胞団と軍の支持するシャフィークとの決選投票となった。軍は同胞団と断絶し、真っ向から対立するようになった。そして同胞団が勝利した。

議会選挙の結果から見ても、同胞団の勝利は当然だった。だから大統領選挙に勝利したということより、大統領職も自らの手に収めるという判断をしたことが重要である。その結果、軍を敵に回すことも覚悟の判断である。

そして軍との対決は8月にやってきた。ムルシー政権は大統領と議会の3分の2の議席という力を背景に、軍最高幹部の更迭という「荒業」に踏み切ったのである。

これはいったん成功したかに見えた。同胞団にとって左翼・リベラルを抑え込み、軍の統制を確保することは、自らの独裁権力の確立であるかのように思えたのであろう。

そこから同胞団政権はイスラム原理主義にもとづく憲法制定とイスラム国家づくりに突進していくことになる。

彼らは勝利に過信し、軍の実力と意思を見誤っていた。

米国の同胞団へのスタンス

米国は従来からポスト・ムバーラク期を見越して同胞団と接触していた。米国は同胞団を穏健派イスラーム主義勢力と見ていた。そして同胞団政権の未来を「トルコ・モデル」の図式の上にとらえていた。

7月政変が起きると、米国はエジプトの民主化改革に遅延をもたらすものと批判。米議会は対エジプト援助の供与中止を決議した。

このような米国の見通しの甘さも、同胞団の強硬姿勢をもたらしたといえる。

新工程表の意味

今回の工程表では、まず新憲法の制定が先行した。

新憲法の意味は若者・リベラル勢力が2011年当時に求めたように1月25日革命の理念を実現するためではない。

新憲法の制定が目指したのは、2012年憲法に見られる「同胞団色」の一掃であり、軍をはじめとする既存の諸勢力(司法エリート、アズハルやコプト派教徒など)の権益や地位の再確認であった。

また、大統領選挙を議会選挙に先行させたのは、議会政治の軽視、あるいは不信である。そこには議会政治の重視が同胞団の進出をもたらし、政治混乱を生み出したという思いがある。

つまり、軍が目指すのはある意味で「ムバラクなきムバラク体制」といえるかもしれない。

6月30日革命、すなわち反同胞団政権運動の主体であったリベラル勢力や若者運動への態度はたんなるリップサービスに終わっている。

2.新憲法の内容

3.大統領選挙とその結果

4.議会選挙制度改革

5.同胞団の弾圧とテロの激化、そして若者運動の抑圧

権力を握った軍政権は同胞団に過酷な弾圧を加えた。

2013年8月14日、軍はムルシー復職をもとめる同胞団デモに対し強制排除を行った。ラーバア・アダウィーヤ広場での衝突では約千名が殺された。

12月に同胞団による警察襲撃事件が起こると、政府は同胞団をテロ組織に指定した。同胞団の資産は凍結され、幹部の資産は没収された。

2014年に入ると、弾圧はさらに苛烈さを増した。3月に同胞団員529名に死刑判決が下され、4月にはさらに683名に死刑判決が下された。

テロ事件の頻発と政府の弾圧強化の中で、「4月6日運動」などの若者活動家も多くが逮捕・勾留されている。青年運動は事実上不可能な状況に追い込まれている。

6.外交政策

2月革命以降、多彩な動きを見せていた外交活動は、ムバラク時代の姿勢にほぼ戻った。

とくにガザのハマスに対しては同胞団がらみで態度を硬化させている。シーシー政権は、ガザ地区につながる物資搬入のトンネルの破壊を徹底して実施してきた。

これはシナイ地区の反政府ゲリラが同時にガザへの密貿易グループでもあることから、資金源を絶つ目的もあるようだ。

石油・天然ガス資源情報」というサイトに地味に面白い記事が載っている。

マスコミの国際情報というのは、普通は必要な情報は載らず、むしろ本質を覆い隠すような情報のみが載せられることになっている。

このページは半ば情報誌とも呼べるものだが、意外に本当の情報が載っている。

中でも面白かったのが「アラブの春から4年…混迷する中東・北アフリカ諸国」という連載だ。全6回から構成され、執筆者がそれぞれ異なる。

ネットでは2~6回が読める。順次紹介しておく。


第2回 アラブの政変とイスラエル 中島 勇

はじめに

「中東については予想をしてはいけない」という格言がある。現状は、この格言のとおりである。

そこには多様な要素が複合的に絡んでおり、分析や評価の視点も当然ながら多数ある。

その中で、イスラエルの「アラブの春」評価は特異だがリアルでもあり、注目に値する。

①アラブの政変をイスラエルは全く予測していなかった。

②イスラエルとの和平を維持してきた独裁者が追放されたことに驚き、未知の政治勢力が出現することを警戒している。

③イスラエルは、戦略的資産と見なすエジプト・ヨルダンとの和平を順守することを最大の目標にしている。

1.エジプト政変の意味

政変が起きた国の民衆は、独裁政権に怒りの声を上げたが、イスラエル非難の声はほとんどなかった。イスラエルという国やその社会には関心がないのかもしれない。

エジプト政変で、イスラエルの過去30年の努力は無に帰した。エジプトとの和平は、イスラエルの安全保障戦略上の最も重要な基盤であった。

イスラエルが昔も今もそして今後も、最も警戒する相手はエジプトである。エジプトはイスラエルと25年間の間に4回も戦った。

第4次中東戦争(ヨム・キプール戦争)では、シナイ半島で本格的な近代戦に突入し、激しい消耗戦を行った。劣勢に立ったイスラエルは機甲部隊によるスエズ運河の逆渡河作戦を強行、エジプト軍の補給路を絶つことでようやく挽回した。

1979年の和平条約で、イスラエルはシナイ半島をエジプトに返還した。反対する入植者らをイスラエル軍は力ずくで排除した。こうして獲得したのがエジプトとの和平である。

第4次中東戦争の後、現在まで約40年間戦争はない。両国間には1件の和平協定違反もない。スエズ運河が戦争のために閉鎖されることはなくなった。

米国はエジプトとイスラエルの和平を維持するために、外国援助総額の半分近くの支援を両国に対して行った。「米国は和平を金で買った」と言われた。

ムバーラク体制が崩壊した時、イスラエルはその冷たい和平が破綻するかもしれないと恐れた。

2013年7月の第二革命でムルスィー大統領が、エジプト軍によって解任された。2014年1月に新憲法が国民投票で承認された。そして国防相・参謀総長のシーシーが大統領に選出された。

シーシー政権はガザのハマースを国内のムスリム同胞団と同じと見なし、厳しい対応を開始した。エジプトとガザの間にある密輸用の地下トンネルのほとんどが封鎖された。

シナイ半島では、エジプト治安部隊と武装勢力(密輸貿易の担い手)との衝突が増加した。イスラエルは、エジプト軍が治安作戦で戦車や装甲車を使用することを認可した。

この結果、ガザへの物資の約95%が停止している。ガザ経済は、今や過去最大の危機に瀕している。

2.イスラエル国内体制の変化

テルアビブでも若者の占拠運動が行われた。そのデモは11年9月には約40万人規模に拡大した。

デモ隊は、少数の財閥が国民経済の30%を支配している状況に抗議し、より平等な富の分配や社会的正義の実現などを要求した。

デモ参加者らは貧困層ではなく、学生や若者、教師や技術職など専門職の中間層が主体だった。左派も右派も抗議行動に合流した。

イスラエルは建国以来、「社会主義」的な経済形態を取っていた。しかし1980年代末から民営化を進めた。

軍需企業が蓄積した知識と経験が、民営化によって市場に出た。その結果、イスラエルはハイテク国家に変貌した。

毎年約5%の経済成長を維持した。国民1人あたりの収入は、1990年の約1万5,000ドルから2009年には2万8,100ドルとなり、ほぼ倍増した。

しかし、国内の貧富の格差も同じテンポで拡大した。それに対する不満が表面化したのである。

3.イスラエルとパレスチナ問題

1993年、イスラエルはパレスチナと政治交渉を決断した。パレスチナの反占領運動は戦車に石で立ち向かった。パレスチナの若者に対してイスラエル軍は銃撃を加えた。その映像は世界中で報道された。

イスラエルは国際的な非難にさらされた。米国のユダヤ人社会でさえ厳しく批判した。イスラエルは、パレスチナ人の反占領運動を力で鎮圧できないことを明確に知った。

1994年に成立したパレスチナ自治政府はすでに実体を整えた。イスラエルは、パレスチナ国家が新たな脅威となることを警戒している。その一方、PAを解体して、パレスチナ人を再び統治する意図もない。

イスラエル人の多くが政治に無関心になった。その結果、組織票を持つ宗教政党の得票の相対的な比率が上昇した。それにつれイスラエル社会の宗教化・右翼化・内向き志向が増大した。

「民主国家イスラエル」が、非西欧的な宗教国家に変質する危険性が高まっている。イスラエルを批判するイスラエル人やユダヤ人は「自虐的イスラエル人、ユダヤ人」として非難されるようになった。

4.国政に変化の兆し

民衆の不満は2013年の国会選挙で鮮明となった。中道派政党の新党イェーシュ・アティド(未来がある党)が、初めての選挙で19議席を獲得して第2党になった。

これは世俗派の中産階級の有権者の投票が増加したためとされる。

これは安全保障コストへの無言の問いかけとなっている。東エルサレムやヨルダン川西岸を維持するために、国民生活の安定を犠牲にして、国家の予算を使うべきかという問いである。

ネタニヤフ首相は、決定を先延ばししている。

それはSAMのおかげである。

当時崩壊寸前のシリア政府軍にとって、制空権が最後の頼みの綱であった。それによって反政府軍の根拠を叩くことで、かろうじて軍事力バランスが維持されていた。

しかしその時、反政府軍は地対空ミサイルを手に入れたのである。これでシリア軍機がバタバタと落ち始めた。私はこれで決まったと思った。

しかしSAMの供給は突然途絶えたのである。

それ以後、反政府軍はやられ放題だ。そして大量の難民が発生しそれが西洋諸国に押し寄せ、今日のごとく各国の右翼の台頭を招いているのだ。

なぜSAMの供給が途絶えたのか。

それはSAMの供給国であるトルコの政治状況が変わったからだ。

トルコの国内政治状況については以下の記事に書いた。




ワシントン中東政策研究所のサイトの PolicyWatch 2356

Explaining the Turkish Military's Opposition to Combating ISIS

Ed Stafford January 15, 2015

という文章の要約

日本語にすると「トルコ軍がISISとの闘いを嫌う理由」ということか。

 

リード部分

アンカラの政府はISISとの闘いに踏み切った。しかしそれは政治的な決定であり、軍はAKP、PKKとアラブへの伝統的な嫌悪感を抱き続けている。それはトルコのアラブ介入に対する強力な障害となる可能性がある。

イントロ部分

「トルコはなぜISISと戦う連合に積極的にかかわろうとしないのか?」 

これに関する議論は、殆どが政府の政策形成過程における軍の役割を黙殺している。

一つには、これは与党である正義進歩党の軍部抑制策を反映している。正義進歩党は2002年以来、政策形成過程における軍の役割を弱めてきた。そして国家情報機構(MIT)の影響力を強化した。これが対シリア方針に影響している。

しかし軍隊がISISとの戦いを渋るのには他にもいくつか理由がある。

それは何十年も前から存在し、深く根を下ろした理由である。すなわち軍の政治的指導力が低下していることへの恨みである。

このような視点は、AKP支配層以外の政治的にアクティブな人の間に共通したものとなっている。

エルゲネコンの凋落

Ergenekon is the name given to an alleged clandestine, secularist ultra-nationalist organization in Turkey with possible ties to members of the country's military and security forces.

2007年、AKPは軍指導部に対して一連の裁判を開始した。軍はトルコでの非宗教的な政治勢力のチャンピオンを自認していた。

2003年に発生したクーデター計画を機に、政府は検察権力と警察を動員し軍の押さえ込みを図った。

軍と非宗教主義者の連合が文民支配を覆そうとして邪悪な計画を企んだとされた。

「Ergenekon」裁判で、検察側はクーデター計画についての完全で納得のいく論拠を示せなかったが、それにもかかわらず政府は多数の非宗教的な野党の指導者と何百人もの軍幹部を投獄した。

全将軍のうち4分の1が獄に繋がれた。2011年8月に、軍隊の高級将校は大挙して辞任した。それはAKPの権威への服従するという暗黙のシグナルだった。

これを受けた政府も、軍隊をなだめる努力をおこなった。Ergenekon容疑者ほぼ全員が釈放された。

しかし軍の指導者たちは敵対心を捨てていない。政権担当者への感情は、ほとんど“受動的攻撃性”と言っていいものがある。彼らは多くの軍事的案件について助言を与えることを事実上拒否している。それは軍事的情報を収集しシナリオを作成するだけでも監獄に送られるという将軍たちの確信によってもたらされている。

クーデターの容疑が真実だったのかどうかは別にして、多くの高級将校はいまも確信している。「同僚たちは罪を捏造された。彼らはただたんに国内外の敵から国を守る計画を作成しただけだ」と。

クルド民族主義者への蓄積された憎悪

軍指導部はまた、クルディスタン労働者党(PKK)との平和を確保するという政府の方針に敵意を抱いている。クルド人ゲリラは過去30年にわたり何千人もの軍将兵を殺害している。

2011年、エルドアン(当時は首相)はクルド人グループとの和平会談を開始した。それはいまも続いている。

エルドアンはPKKとの対話の成功はイラクのクルド人地方政権との関係を改善し、クルド人を地域における重要な盟友とするという成果をもたらしたと信じている。

継続的な会談は国内の安定性の強化ももたらした。そして、6月の国会選挙でもう一つのAKP選挙勝利への道を開こうとしている。(これが目論見外れに終わり、今日の混乱をもたらしていることはご承知の通り:訳者)

軍の側から見れば、クルド人戦士への警戒心はますます高まりつつある。なぜなら彼らはクルド人社会が拡張するほど勢力を拡大し、PKKはそこから物的、精神的支持を受けて成長するからである。

40年前、PKKが武器を取り国家に対抗し始めたころ、トルコは軍事政権の時代だった。政府はクルド族を従属的な少数民族と見なしていた。そしてクルド族を独立したコミュニティと認めず、クルド語の使用を制限し、彼らの固有の歴史を否定する教育を行った。それらはすべて軍の非宗教的な民族主義思想の必要不可欠な一部であった。

この10年の間に、クルド人の人権状況は随分改善した。今では公的資金を供給されたクルド語テレビ・ネットワークが24時間放送を続けている。にも関わらず、多くのトルコ人はまだクルド族の民族主義を疑っている。特に軍の中枢と軍部よりの民間勢力内では、この立場は一般的である。

現在シリア北部ではISISと戦うクルド人がPKKと結び付きを強めており、これをしようという動きがトルコ国内にも強まっている。しかしこのような感情に対し軍はきわめて冷淡である。

アラブ人支援へのためらい

古い世代のアラブ人への憎しみは依然として残っている。

エルドアン大統領とダヴトグル首相は、中東における全てのスンニ派の自然な調和について語る。しかしオスマントルコ人帝国の500年にわたる支配は、トルコとアラブのスンニ派教徒の間に深い疑念を残している。

多くのトルコ人、とくに軍関係者は、過去の1世紀を西欧に支援されたアラブ人による一連の裏切りの時代として振り返る。例えば第一次世界大戦の時、アラブ人の指導者たちはイギリスと組んでイスタンブールに反旗を翻した。

2012年、シリア国境の町アクサカレでシリア軍の誤爆により5人のトルコ市民が犠牲となった。その直後に著者は一人の知識人(非宗教主義)と話す機会があった。彼はこう言い切った。「彼らはトルコ人ではない。アラブ人だ。我々にとって、それがなんだ?」

たしかにトルコ軍は軍事的にその攻撃に応じた。しかし報復は抑制されたものだった。いま同じように、軍将校の一部は多国籍の反ISIS作戦に加わることにも抵抗している。そこには根深い反アラブ感情が根ざしているように思える。

軍のかかえる懸念

トルコ軍の海外派兵はその属する政府の指令によるものであり、しばしば誤って語られるように米国やNATOの指示によるものではない。

トルコ軍は本質的に保守的な組織である。かれらは朝鮮戦争でのトルコの犠牲者数の多さについての国内で攻撃されたことを覚えている。トルコ軍はアフガニスタンでは戦闘任務を拒否した。

将軍たちの懸念は他にもある。それはISISやシリア軍と戦う場合に軍事技術上の弱点、あるいは作戦上の弱点が暴かれることについての懸念である。それは大衆の軍部離反を促す可能性がある。そしてエルドアンに対する政治闘争を継続する上での利点を失うことになる。

例えば2012年6月にトルコのジェット戦闘機がシリア軍により撃墜された事件は、そのような懸念があからさまになった手痛い事件であった。

結論

トルコがISISと戦うかどうかを決めるのは政治的な選択である。しかし、それはコバネでクルド人と肩を並べて戦えということであり、シリアに安全地帯を設置しアラブ人を保護せよということだ。軍の指導部にその選択を納得させるのは至難の業であり、そう簡単にことが進むとは思えない。


今年初めの記事なので少し古いです。しかも米国務省のシンクタンクのレポートなので、軍の立場に対してきわめて同情的ですが、事実関係については参考になると思います。6月の国会選挙の前がどうであったのかを知る上では、かえって有用かもしれません。

6月の選挙の結果は、エルドアンにとってだけではなく軍部にとっても予想外のものだっただろうと思います。それはリベラル派の進出を計算に入れていなかったためのものです。

2003年のクーデター計画の発覚後は、軍事独裁の再現を防ぐためにリベラル派もふくめ圧倒的な国民がエルドアンを支持しました。その結果、エルドアンは果敢な行動により軍の抑圧に成功し、EUの支持も取り付けて強固な基盤を確立することができました。

さらに権力基盤を強化するためにクルド人にもウイングを広げ、クルド人もこれに応じたことから、エルドアンの人気は不動のものとなりました。しかしその底では、リベラル派の急速な勢力拡大が進行していたのです。またイスラム原理主義への反感からエルドアン離れも進みました。

6月の選挙で明らかになったのはもう一方の主役としてのリベラル派の登場でしょう。選挙前にはエルドアン、軍部、クルドという3極構造であったのがエルドアン、軍部、クルド+リベラルの三極となりました。

これに応じて軍は立ち位置を代えオプションを変更する必要に迫られました。これは未だに進行中と思われますが、反クルド・反リベラルの路線を取るならば、従来以上にエルドアンとの距離を縮めなければならないし、反宗教・非アラブの路線を取るならクルドやリベラルに対する抑圧的態度を修正しなければなりません。

そこで両者の「不人気投票」が行われ、結果的には前者の路線を採択したのだろうと思われます。

なお「リベラル派」と便宜上一括しましたが、そのような呼び方はなく、果たしてそのような潮流が確固として存在しているのかどうかもわかりません。前後の状況からしてそういう親EU的な勢力があるだろう(とくに出稼ぎ労働者)と言う作業仮説に過ぎません。もう少し調査が必要のようです。

主として澤江史子(上智大学総合グローバル学部) 「トルコ民主化の経緯」を柱に各種資料の情報を付加した。

1923年10月 トルコ共和国の樹立が宣言される。共和人民党の一党制が敷かれる。

1924年3月 大統領を国家元首とし、国民主権や世俗主義を柱とする国家建設が宣言される。(脱亜入欧)

1937年 世俗主義条項が憲法に挿入された。トルコ民族文化が国家の存立基盤だと考え、非トルコ系民族文化や、共産主義運動を主要脅威とみなし、抑圧した。

1950年 選挙による政権交代が実現し、民主党政権が誕生。第1位政党が当該選挙区議席を独占する選挙制度のため、民主党は国会で圧倒的多数を維持する。

1960年 

4月 民主党政権批判が高まる。民主党メンデレス政権は軍隊を動員して共和人民党の選挙活動を妨害し、メディアへの検閲体制を強める。さらに共和人民党を「無神論者」や「共産主義者」などと呼び、政治活動禁止、同党に関する調査委員会の設立を強行採決。全大学が閉鎖され,多数が秘密裏に拘束される。

5月27日 1回目のクーデター。護憲クーデターとしての側面を持つ。当時の陸軍総司令官であったギュルセル大将を担いだ青年将校グループが打倒。

5月 軍は民主党幹部を逮捕し、党の解散、国会の停止を宣言する。旧民主党幹部は懲役刑に、党首等3人は絞首刑に処せられた。

1961年 民政移管のための総選挙。「民主主義体制擁護の貢献者」として軍部の政治介入が正当化される。大統領は軍出身者が占め、軍幹部が終身議員に着任。4軍司令官よりなる国家安全保障会議に内閣への「助言権」が与えられる。

1970年 イスラーム復興運動が勃興。国民秩序党が創設される。新選挙制度のもと国会は小党分立状態となり、政権交代が繰り返される。

1971年 政治介入を示唆する軍首脳の書簡が大統領に送付され、内閣が総辞職に追い込まれる。「書簡クーデター」と呼ばれる。軍のアタチュルク思想からの離反。

1972年 ビュレント・エジェビトが共和人民党の新党首になる。党及び政治の民主化を主張し,軍の政治介入に反対する。

1980年 国民生活は年率100%を超えるハイパー・インフレで疲弊し、テロが激化。

政治混乱の直接の原因はイスラム勢力の増大によるものだった。イスラム派は建国の父アタチュルクを批判、世俗主義を否定した。これに対抗する左翼も勢力を伸ばす。両者の対立は武力衝突へと発展する。

1980年 2回目のクーデター(9月12日クーデター)。政治混乱と経済政策の停滞を理由とする。約3年の間、軍部による独裁政治が繰り返される。旧政党は全て非合法化されて幹部は懲役刑に処せられる。しかし軍の真の敵は共和人民党と左翼勢力だった。

1982年 軍政下に憲法が制定される。議会選挙は比例代表制で10%の足切り条項。「国家安全保障会議の決定事項を、内閣は最優先に考慮する」ことが明文化される。

1983年 総選挙が実施。軍事政権のチェックを通った政党と政治家のみが参加。

1987年 トルコがEU正式加盟を申請。これを契機にEUの民主化基準が外圧となり、これに沿った民主化が求められるようになる。

1987年 選挙プロセスが大幅に民主化され、野党の政権獲得も可能になる。

1990年 クルド語での出版や音楽活動が解禁される。

1995年 大学の学生や教員が政党の党員になる権利や、上級公務員が労組を結成する権利が認められた。

1995年 総選挙。親イスラームの福祉党が第一党となる。軍幹部の圧力で第二党の中道右派政党が政権を握る。

1996年7月 政権党の腐敗が発覚。福祉党を首班とする連立に移行。

1997年2月 福祉党のイスラーム復興の動きに軍が反応。国家安全保障会議は福祉党が国是である世俗主義原則に反すると批判。「体制の危機」を宣言。福祉党非合法化を始めとする復興勢力弾圧が実行される。福祉党幹部でイスタンブル市長のエルドアンも投獄される。

2002年 総選挙。中道右派とイスラム勢力の結集した公正発展党が勝利。

2004年 国家保安裁判所を廃止する憲法改正。メディア・教育への軍の関与も制限される。

2005年10月 民主化プロセスが認められ、EU加盟の最終段階である正式加盟交渉が開始される。

2006年 EUによる民主化の進捗報告書。軍幹部が政治的影響力を行使しようとして公式・非公式に政治的発言を行うことが続いていると指摘。テロ対策法が広範に解釈され、自由を抑圧する法的根拠となっていると警告。

2007年 総選挙。公正発展党は圧倒的な勝利を収め、単独過半数を獲得。

2008年6月 憲法裁判所、大学構内でのスカーフ着用容認の憲法改正を違憲とする判決。

2009年1月 国営放送にクルド語専門チャンネルが開設される。

2010年 憲法改正。①80年クーデターの実行者を起訴することが可能になった。これにより軍政期の拷問やパージ等の責任を司法で争うことが可能となった。②軍の人事についても思想・信条などを理由とする人事は司法に提訴することが可能となった。③司法人事も変更され、下級判事の意見が反映されるようになる。④高等教育やマスメディアの統制委員会における軍代表常任委員ポストが廃止される。⑤国家治安裁判所が廃止される。しかし言論の自由などの面でさらに実質的な改革が進むのかは不明確。

2012年 アンカラ第12高等裁判所が1980年のクーデターの首謀者の裁判を始める。被告はKenan Evren参謀総長とTahsin Şahinkaya空軍司令官(いずれも当時)の二人。

2013年5月 イスタンブールで民衆の抗議デモが盛り上がる。

エルドアンはイスラムの位置づけ、ケマル・パシャへの評価を明確にしないまま、スカーフ着用の緩和や酒類販売の制限などを進め、これに抵抗が起きると強権的に対処しようとした。

  

トルコ情勢を検討する際は、トルコ軍の野蛮さを念頭に置かなければならない。ここに触れていない解説記事は、基本的にはクソである。


たとえば、10月22日、アンカラでのエルドアンの発言はひどいものだ。

アンカラ駅前自爆テロ事件に関し、エルドアン大統領は、「アンカラ駅前で発生した事件は、テロをいかにして共同で引き起こすことができるかを示すものだっ た。そこにはDEAH(ISIL)も、クルド労働者党(PKK)も、アサド政権の諜報機関(ムハバラート)も、シリア北部のクルド民主統一党(PYD)も いて、皆で一緒になってこのテロを計画した」と語った。

誰が考えてもナンセンスの極みで、トルコ政府には情報収集能力が欠如していると言われても仕方ない。

しかし、あえて深読みすれば、このナンセンスさは、それが軍部による犯行だった可能性を暗に示唆しているのではないか(正しいかどうかは別)。

エルドアン個人の様々な思惑を推量しても始まらない。背後にいるトルコ軍部がどういうものなのかを、我々は理解しておく必要があるだろう。


1997年9月12日付けの新聞「ラディカル」はクーデター記念特集で,80 年9月から三年間の出来事として,次のような数字をあげている。

*拘留者総数 65万人(うち23万人が裁判へ)

*死刑求刑 7千人(うち517 人に死刑判決,49人が処刑される)

*非合法組織メンバーとして裁判を受けた者 9万8千404人

*要注意人物として記録された者 168万3千人(うち38万8千人にパスポート取得禁止措置)

*外国への亡命者 3万人(うち1万4千人がトルコ国籍を失う)

*不審死 300人(うち171人が拷問死,いまだに行方不明の者800人)

*刑務所のハンストによる死者 14人

*閉鎖された団体 2万3千667組織

*解雇者数 教師3千854人,大学研究者120人,裁判官47人

*左遷された公務員 7千233人

*解雇された公務員 9千400人

*発禁映画 937本

「ラディカル」紙が掲載したパージの数字は,国家の唯一の「守護者」となった軍が,その目的を遂行するための権力を行使するとどうなるかを示すものである。
70 年代の混乱の中で,国民の間には,軍に政治介入を求める期待感もあった。そして,クーデターによって,日常的に起きていたテロ騒ぎはなくなり,平穏な市民生活が戻ってきた。だが,その後の大規模な政治弾圧は,時代を暗い雰囲気にさせた。

アタチュルク,そして軍…現代トルコ〈非民主性〉の系譜より

 軍部独裁の経過については、次の記事に掲載しておく。

これらの蛮行を繰り返した軍幹部は未だにのうのうと暮らしている。彼らがもっとも恐れているのは左翼の伸長ではないか。アルゼンチンやチリのように軍の残虐行為が暴露され、その責任が問われることではないか。

80年代、トルコは中南米と並び人権侵害が甚だしく強い国だった。

しかし左翼のネットワークがつながらなかったために、真相はほとんど分からずじまいだった。アムネスティかほそぼそと断片的な情報が流れてきたが、全体像をつかむにはあまりにも情報が不足していた。

驚くべきことに、それは現在もなおそうである。

1.巨大な数をどう評価するか

各種情報を総合しても、なぜこれほど多くの人が弾圧されたのかは分からない。それどころか軍事独裁を賞賛する声すらある。

2.目的と数との不整合

左右両派が激突して政局が不安定だった、経済が停滞していた、国民が政争に飽き飽きしていた…

と理由はあげられている。それならクーデターで店じまいすれば終わりだ。おそらくそれから大量弾圧が始まったのだろう。

目的からすればこのような数は不必要だ。ピノチェトもアルゼンチンの独裁もたんに混乱を収集するためのクーデターではない。だからあれだけの数が必要だったのだ。トルコもおそらくそうだろう。

これについての説明がない。

3.「目的」と出口の不整合

左右両派の激突を避けるためというのが目標だったはずだが、弾圧の犠牲者は圧倒的に左翼だ。

ケマルの宗旨から言えば、最大の敵はイスラムのはずだが、実際にはイスラムは温存された。根こそぎにされたのはケマル左派だ。ここに80年クーデターの最大の特徴がある。

統計から見ればあまりにはっきりしているこの事実に、ほとんどの文献(少なくとも日本語文献)は目をつぶっている。

あまり乗り気ではないが、洋文献に当たるしかなさそうだ。


トルコが何故かシッチャカメッチャカになっている。
理由ははっきりしているので、エルドアンが迷走を重ねているからだ。
何故エルドアンがヘンチクリンになったのか。
それはトルコ軍部が強烈な圧力をかけているからだ。
トルコの軍部はもともと人民弾圧にかけては凄腕だ。
10万20万殺すのはへとも思っていない。
今でも、いつでも表舞台に立つ準備はできている。
エルドアンはこういう連中とうまく折り合いながら、少しづつ実績を積み重ねてきた。
こいつらをやっつけるだけの力は未だに身につけてはいない。
それはトルコの薄皮一枚の民主主義の現状だろう。タイやエジプトと同じだ。
それでトルコの軍部がどういう論理で動いているかというと、アメリカの軍産複合体の言うがままの戦略だ。
これが随分変わってきている。
もともとはロシアの南下を防ぐ防壁である。すなわちどういう形であれ、共産主義(基本的にはスターリン主義)を防ぐことに存在意義があった。
そういう存在意義が薄れ、彼らの土台も揺らいでいた。
ところが今度は中東からの原理主義の拡大を防ぐ防壁としての役割がにわかにクロースアップされてきた。
軍としてはなんであれ紛争の火種があればよい。
そうやってエルドアンのおしりに火をつけた。
しかし今度は軍部も相当やばい。下手をすれば自分のところにも火の粉が降りかかる。
なぜならアメリカの中東戦略はイスラエルの中東戦略の後追いだからである。
イスラエルが決めて、それにトルコが追随することになる。
そうするとどうなるか。
1.トルコがスンニ派攻撃の主役となる
2.その結果生じた難民の受け皿となる
3.スンニ派テロの標的となる
4.イスラエルと同列にみなされることになる
ある意味で、「ザマァ見ろ」の世界だが、それで軍部の無責任ぶりが明らかになれば、トルコ情勢は大きく変わるだろう。
そのリトマス試験紙はエルドアン対EU、エルドアン対クルドの関係として現れてくるだろうと思う。
さしものトルコ軍部にも、ようやく落日が訪れようとしている。そこに注目してトルコを見ていこう。

少し調べていくうちに以下の様なことが分かってきた。

1.フーシ派というのは一言で言えば山賊集団である

北部の山岳地帯の部族で、あまり政府の言うことを聞かない集団だった。それで10年ほど前に政府軍の攻撃を受けたが、それを跳ね返してしまった。

そのときに中心になったのがフーシという人物で、彼を中心にシーア派の教えを掲げて武装集団を結成した。

それが「アラブの春」で政権が弱体化すると、機に乗じて中央進出を計った。

去年の9月に首都サヌア入りし、街の治安を勝手に取り仕切るようになった。

2.軍隊は元大統領派と現大統領派に分かれて無力化していた

「アラブの春」で失脚したサレハ独裁政権だが、軍のサレハへの忠誠心は高かった。

なぜなら軍幹部は徹底した地縁・血縁で結ばれていたからである。彼らの利害関係はサレハのそれと一致しており、ハディ政権によって人事が刷新されることを何よりも恐れていた。

だから旧来の敵であるフーシ派がサヌアで勝手なことをしても、見て見ぬふりをしていた。さらに、その一部はフーシ派と結びついてハディ政権の転覆を計った。

3.なぜハディ政権は倒されたのか

ここの情報は殆どない。

したがって想像する他ないが、フーシ派にさほどの理由があったとは思えない。田舎出の失業青年たちに政権担当能力があるとは思えない。むしろ弱体な現政権のもとで自由を満喫していたほうが良いはずだ。

だから、政権とフーシ派が衝突するような原因は、政権側にある可能性が高いと思う。

多分、サウジの意をくんだハディ大統領が自派勢力の増強に乗り出したのではないか。

もともとキタとミナミは犬猿の仲である。フーシ派も国軍のサレハ派も北部の出身だ。これに対しハディの出身地は南部、アルカイダと重なり合っている。

そこにサウジなどから潤沢な資金が入り込んだらどうだろう。フーシ派は相当の脅威を感じるのではないか。

そこでフーシ派はハディ追い出しにかかった。かなり稚拙な戦術だと思う。シーア派がこの国で権力を取っていいことなど一つもない。そのくらいだれでも分かる。

4.サウジの思惑

これから先は絵に描いたような筋書きだ。

サウジは湾岸諸国と組んでイエメン攻撃を発表した。そしてこれがスンニ対シーア派の争いであるとし、その背後にイランがいると決めつけた。イランにしてみれば「ふーん、そんなところにシーア派が居たの」くらいの話ではないか。

20日のサヌアでの同時多発テロは誰がやったかわかったものではない。これがアルカイダならさもありなんと思うが、ISISにそれ程の力があるだろうか。

サウジの国王は元国防相で、その頃からGCCの軍事同盟化への思惑があった可能性がある。原油安不況への対応としても考えられた可能性がある。

それ以上に、米国の弱体化を見て危機感を抱いた可能性がある。フーシ派の愚挙を奇貨として、自ら同盟軍の盟主となり、その力で中東の安定を図ろうと考えたのではないか。

ただ、この種の戦争は始めるのは簡単だが、終わらせるのは容易ではない。どのように収拾していくかが腕の見せどころだろう。

作戦のその行方を固唾を呑んで見守っているのがイスラエルだろう。


イエメンに関しては下記のページもご参照ください

赤旗にまとまったイエメン情勢の報道(小泉特派員)が載った。

これまでイエメンといえば、旧南イエメンと北イエメンとの摩擦であり、アルカイダの拠点であり、挫折したアラブの春であり、無人機攻撃の対象であり、と断片的ながらそれなりに国際面を賑わせてきた。

今度はちょっとレベルが違う。政府が打倒され、大統領が逃げ出し、それが追い詰められているという事態だ。

しかもその主役は市民でもアルカイダでもなく、シーア派だというからびっくりだ。

一言で言えば、イエメン情勢は急展開し悪化し、「国際戦争」化しているといえる。

もともとイエメンは、「統治不能な国家」だとみなされてきた。オスマン帝国や大英帝国も悪戦苦闘した。ナセル元エジプト大統領は、1960年代のイエメン内戦で面目を失った。その後国は南北に別れ対立を続けてきた。

例によって時系列で整理する。


1986年 南イエメンで内戦となる(アデン内戦)。アリー・ナーセル前大統領派(民族派)がYSP政権(社会主義派)に対し反乱を起こすが敗退。マンスール・ハディらが北イエメンに亡命。

1990年 南北イメエンは統合を発表し、イエメン共和国が成立。北のアリー・アブドッラー・サーレハが大統領、南のアリー・サーレム・ベイド(YSP書記長)が副大統領となる。統合当時の人口は北が約900万人、南が約250万人程度。

1993年 第1回総選挙。サーレハ大統領与党が勝利。YSPは56議席で第三党に転落し、北部の部族勢力と南部のウラマー層を基盤とする改革党(イスラーハ)が第2党となる。

1993年8月 イスラーハによるYSPへの攻撃が強まる。アルベイド副大統領は職務放棄してアデンに引きこもる。

1994年5月 イエメン内戦。アデンのアルベイドが「南イエメン国」の独立を宣言するが、まもなく陥落。サーレハは南部出身で親北派のハーディーを後任副大統領に指名した。

イエメン

2004年9月 イエメン北部のシーア派武装勢力「アンサルラ」(Ansarullah)が政府軍と戦闘。以後6年間に6度闘い政府軍を跳ね返す。政府軍は指導者フシが死亡したと発表。

シーア派の中ではザイド派を呼ばれ、イランの「12イマーム派」とは異なる。元々は信仰復興運動だったが、アブドルマレク・フーシが率いるなかで、最も実力のある武装勢力の1つに変身した。

2009年11月 フシ派がサウジ領内に侵入。サウジ軍がフシを捕らえたとの報道。12月では空爆で死亡と発表。

2011年

1月 アラブの春でサレハ退陣をもとめる運動が高まりを見せる。

11月 サレハ、GCCイニシアチブを受け入れる。(ハディーへの権限移譲、挙国一致内閣、サーレハへの訴追免除など)

2011年 「アラブの春」による混乱に乗じ、フーシ派武装勢力が北部サーダ周辺の山岳地帯の支配を固める。

2012年2月 大統領選挙でハディ政権が誕生。サレハ独裁体制が終わる。ハディは「国民対話」を開始。

ハディはサレハ政権の副大統領で、さしたる国内基盤を持たず、サウジの後援のみが頼みの綱。
南部のスンニ分離独立派と北部のシーア派系「フーシ」は投票をボイコットした。

2014年

1月 包括的国民対話会議は合意文書を発表し、憲法制定と議会選挙、大統領選挙を1年以内に実施することとした。

2月 武装組織「 フシ 」が首都サヌアの北西約50キロのアムランに進出。政府軍との戦闘が始まる。

9月15日 フシがサヌア北部に進出。激しい戦闘が続く。

9.20 国連が仲介し、「全政治勢力による集中協議の末」に挙国一致内閣の樹立で合意。

9.21 フシ派部隊、首都サヌアの政府庁舎を占拠し、首相退任を迫る。政府はこれに屈服。サヌアの治安は、フーシ主導の連合部隊に置き換えられる。サレハ元大統領に忠実な軍部隊もフーシ派に協力。

2015年

1月 「アラビア半島のアルカイダ」(AQAP)を名乗るグループがパリの新聞社を襲撃する。AQAPはイエメン中部および南東部を拠点とする、南部分離派の分派とみられる。

1.22 フーシ、新憲法の内容を巡り政府と対立。大統領官邸や国営放送局を占拠する。ハディは辞意を表明。

2.06 フーシ派武装勢力が政権掌握を宣言し、議会を強制的に解散。フシを首班とする革命委員会が、暫定統治の開始を宣言。国軍はハディ派とサレハ派に分裂し動けず。

イエメン軍は、62年以来、一貫してアムラン、サナア、ダンマール出身(要するに北部のザイイディ派)の将校により支配されてきた。
サレハの私兵の如く動いてきた彼らは、ハディ政権のもとで既得権を奪われるのを恐れた。

2.21 ハーディーは辞意を撤回。クーデターを承認しないよう国際社会に求める。

3.10 サウジなどGCC5カ国が、イエメンへの空爆作戦を決定。ヨルダン、モロッコ、スーダンが戦闘機を派遣、エジプトとパキスタンが戦艦の配備を表明。イランはこれに強く反発。

3.20 サヌアでのフーシ派の集会にISISが自爆テロ。137人が死亡。

3.22 フーシ派、イエメン第3の都市タイズを制圧。ラハジ州の米軍基地の要員が撤退。

3.22 フーシ派スポークスマン、ハディ大統領がAQAPに武器を渡しており、イエメン南部がAQAPの支配下に入る恐れがあると語る。

3.25 フーシ派、アデン北方60キロのアナド空軍基地を制圧。アデンの大統領宮殿を空爆。

3.25 フーシ派がアデンを攻略。ハディ大統領はリャドに逃れる。無人機攻撃を指揮する米軍特殊部隊も退去。

3.26 GCC軍が[決意の嵐]作戦を実行。首都サヌア空港や一連の軍事施設を空爆。サウジ100機、湾岸4カ国70機、ヨルダンなどから15機が参加する大規模なもの。子供6人を含む民間人25人が死亡する。

3.26 ハディ大統領派の部隊が、南部のアナド空軍基地やアデン国際空港を奪還。サウジは地上部隊による攻撃も排除しないと述べる。

3.26 GCC5カ国が空爆の正当性を訴える共同声明。

3.26 アラブ連盟が外相会議を開催。「フーシ派への空爆はハディ大統領の要請に基づくものであり、主権に対する攻撃ではない」とし、空爆支持を表明。イラクは異論を唱え、平和的解決を主張。

3.26 イランのザリフ外相、「イエメンに対する外部からの軍事攻撃は領土保全への侵害であり、国民のさらなる流血と死をもたらす。外部からの干渉なしの緊急対話が必要だ」と語る。

3.28 アデンで終日激しい市街戦。フーシ派はアビヤン、シャブワなど南部諸州への攻撃を強める。

3.28 サウジ国防省、3日間で作戦の第1段階は目標を達成したと発表。航空機は総て破壊され、通信網も破断されたとする。

3.28 アラブ連盟首脳会議が開かれる。イエメンのハディ大統領も出席し、イランを激しく非難。空爆継続をもとめる。エジプトのシシ大統領は「アラブ合同軍」の創設を提案する。

3.30 GCC軍、北部の難民キャンプを空襲。45人が死亡(国際移住機関による)。サウジは空襲の事実を認める。


イエメンに関しては下記のページもご参照ください

2012年09月08日 

この年表は1986年までのものですが、現在のイエメンと比べる時、あまりの落差に愕然とします。まるでSFの世界です。あの英雄的プロレタリアートたちはどこに行ってしまったのでしょう。

The Economist explains
Jan 4th 2015
Where Islamic State gets its money

という記事があった。下記がその全文である。


残忍な聖戦主義者、イスラム国家(IS)を打ち負かすのは容易ではない。アメリカに率いられた連合軍がそうしようとしているが。

ISは、世界のbest-financedされたテロリスト組織の1つである。国家に後援されたものを除いては。

この秘密グループの正味の財産については信用できる見積りがない。しかし、2014年10月に、アメリカの当局者は「かなり大きい札束」で富をためていると見ている。

イスラム国は月400ドルくらい戦士に給料を支払う。そして、それはシリアの反乱グループやイラク政府の給料より多い。彼らはトラブルなく武器類を購入している。買い入れ先は闇市場に顔を出す堕落した当局者、あるいは民兵である。

彼らは支配地域の政務をこなしている(常に成功しているとは限らないが)。学校教師に給料を払い、貧者や寡婦を養っている。

そこでだ。彼らはどこでそのカネを手に入れるのだ?

この富なしで、ISはそんなに速く広がることができなかった。

彼らは2013年3月に現在の形態での存在を宣言したばかりだ。それは彼らがイラクからシリアに進出した時だ。その後彼らはアルカイーダとたもとを分かった。

それから彼らは二つの国にまたがる帯状の地域を闘い取った。2013年6月までに、シリアの都市Raqqaを占領した。そして、2014年6月に、それはイラク第二の都市モスルを占拠した。そして600~800万人の住む地域を制圧した。そして6月の末に「カリフ国」を宣言した。

戦士は、グループに加わるために群がった。

2014年9月までに、3万人の男性、婦人警官隊の中の一部の女性がいた。そして、そこには1万5千人の外国人戦士を含んだ。

al-Qaedaを含む他のテロリストのグループと違って、ISは金持ちの支持者によってではなく、主に自らの力で資金を確保する。(アメリカ、イランまたはイスラエルがグループに資金を出しているとの情報も飛び交うが)

ISは湾岸諸国の支援者から寄付を受けているけれども、それらは財源の比較的微々たる要素である。

ISの資金の中心は、外部からの支援ではなく、西イラクと東部シリアの支配区から算出する石油の収益である。

アメリカの当局は、空襲の開始前、石油からの収入は1日あたり200万ドルと見積もっている。現地の情報ではそれ以上だと言われている。当局者は空爆により石油収益はかなり落ちたとしている。

(これは変な話で、石油施設くらい破壊しやすいものはない。その気になれば1日で壊滅させることができるはずだ)

それだけの土地を支配することは、ISが徴発と徴税によって資金を獲得することを可能にする。

それは、他のjihadistグループのように、誘拐が有益だということを学んだ。

ISは、去年1年で少なくとも2千万ドルの身代金を獲得した。フランスとスペインのジャーナリスト数人を含む人質であげた収入である。

このグループは、その資金源を切り離すことなしに破ることはできない。

だから連合国は、グループの軍備強化の抑制と同時に、収入源への攻撃を目標にしているという。アメリカとその同盟国は、シリアでISに支配された精油所に対する空襲を実行した。

アメリカと英国は身代金を人質の代金として払うことに対して厳しい政策を持つ。ヨーロッパの国に、身代金の支払いをやめるように圧力をかけている。

いくつかの国は、ISリーダーに対する制裁とおなじように、募金に応じる人々への制裁も適用している。

しかし、当局は長い戦いであると強調する。

今のところ、ISはまだ、必要とするもののすべての代金を払うことができるようである。


この記事を読んでも資金源は明らかでない。石油の売り上げ、“徴税”、身代金というのが収入の三本柱で、これに国外からの援助がくわわる、ということらしい。このうち石油の売り上げを除けば、他のテロリストもやっていることだ。

身代金の収入が年間2千万ドルというが、そんなもの石油の10日分にしかならない。だいいち誘拐にはそれなりのリスクが伴う。成功例の10倍は失敗例(カネが取れないというのもふくめ)があると考えたほうが良い。

資金源が石油だということはわかっている。問題はどのようにして石油が資金源になるのかということだ。石油と引き換えに金を渡している奴は誰なのか、トルコの仲買人だとしたら、その仲買人にカネを渡している奴は誰か、その石油を買って消費しているのは誰か。ここが明らかにされないと、記事の題名は誇大宣伝ということになる。

いずれにしても石油を何とかしなくてはならないのだ。しかも、そのやり方はきわめて簡単なのだ。生産を止めるには生産設備を破壊すればよい。1時間もあれば済んでしまう。販売を止めるには購入を禁止すればよい。石油には“色”がついているから、調べればどこでとれた石油かはすぐに分かる。

こんなことがどうしてできないのか、それが不思議だが、そのことについて答えた文章がない。これも不思議な話だ。

シリア内戦は泥沼化している。と言うより反政府軍の一方的な負け戦になっている。
ことここに至っては、どのような屈辱的な内容であろうと和解を図るべきだ。
アメリカはそもそも、内戦など始めさせるべきではなかった。
アメリカというより、オバマの失敗だ。
米軍本体は完全にイスラエルの線で動いている。イスラエルにとって、シリアの反政府派は絶対に勝利させてはならない相手だ。それなのにオバマは反政府派を煽った。
煽った以上勝たせなければならないのに、途中から手を退いた。
イスラエルはヒズボラまで投入してシリアの反政府を叩いた。

私は、かつて「これで反政府派の勝利は決まり」と書いたことがある。
それはトルコ国境地帯でシリア政府軍の戦闘機が対空ミサイルでバンバン撃ち落とされた時のことだ。おそらくミサイルはトルコから回されたのだろうと思うが、それは米国の黙認のもとであったと思われる。
そのうち突然、ミサイルのミの字も消えてしまった。それと同時にトルコが俄然おとなしくなってしまった。
これらはすべてイスラエルの差金であろう。
当時トルコの鼻息は荒かった。オリンピック開催もほぼ確実にし、経済成長著しく、中東の問題にも積極的に首を突っ込んでいた。
それが、イスタンブールの公園の拡張をしようとしたら、突然学生の抗議行動が燃え上がり、あれよあれよという間に政府の首が飛びかねないような事態に至った。
トルコ・リラは売り浴びせられ、ギリシャの次はトルコかとささやかれるほどになった。
これらの一連の事態は、一つ一つ分析すればそれなりの事情はあるだろうが、全体としてみれば経済のパフォーマンスと著しく均衡を欠いたものと映る。
いずれにしてもトルコにとって強烈なダメージであったことは言うまでもない。

トルコの話が長くなってしまったが、ようするにシリアの事態はオバマの思惑とはまったく逆の方向に進んでいった。これに対してオバマには打つ手がなくなってしまった。
反政府軍は政府軍機の前にやられっぱなしになり、犠牲はどんどん拡大していった。
だから、オバマはミサイル供与が不可能となった時点で、直ちに強引にでも停戦に持っていくべきだったのだ。

というのが、今の私の感想。
をご参照ください。



赤旗で日本エネルギー経済研究所の保坂さんという理事の方にインタビューしている。
ある意味で、小泉大介記者を差し置いての記事だけに、相当の覚悟で載せたものと思われる。
この記事で一番注目されるのは以下の段落。
(これまでアルカイダが国際テロ作戦を展開してきたのに対し、「イスラム国」はイラクやシリアの非シーア派政権をジハードの対象としてきた。しかし8月初旬に有志連合が空爆を開始して以降、「イスラム国」自らが国際テロを加え二本柱の戦略をとるようになった)
空爆で「イスラム国」を根絶させることは不可能ですが、彼らの勢力範囲が今後も拡大していくことは考えづらく、戦線が膠着する可能性が高いと思われます。
要するに長期戦の覚悟をせよということだ。
その際に問題となるのは、「人、モノ、金」だろう。この三方から兵糧攻めする戦略が明確化されなければならない。モノ=兵器は、ひとつは旧フセイン政権の置き土産であり、もうひとつはシリア内戦においてスンニ派諸国からシリア反政府派に渡った武器であろう。これはいずれは尽きると思われる。
ヒトは基本的にはそれほど主要な問題ではないが、イラク(サマラ・ファルージャあたり)のスンニ派から相当数がリクルートされている可能性があるだろう。
カネは、湾岸諸国からそれほど回ったとは思えない。モスルの油田からの上がりが大きなウエイトを占めていると言われるが、どうも実証性に欠ける。
以上から考えられるのは、「イスラム国」にさしたる実体はないということだ。イラク国内に積もった“恨み”を解消し、政治戦線を整理することがもっとも重要だということだ。
イラク国内のスンニ派がシーア派主導の現イラク政権に対して反感を持つのは当然だし、ある意味で正当でもある。ここで挙国一致政権がどれだけ実績を挙げ、スンニ派国民の支持をかちとるか、最低でも中立化させられるかどうかが勝負の分かれ目だと思う。
イラクのスンニ派の人々は元々決して原理主義ではない。むしろイスラム国やアルカイダに対しては反感を持っていると考えられる。彼らを「イスラム国」の側に追いやったのはアメリカとシーア派だ。
クルド人も両派の対立を利用して抜け駆けを計ったから、反感を持たれても仕方ない。クルド民族の高度な自治の要求はそれとして、「イラクは一つ」の線でまとまるべきだ。
ただしそれだけではシリアの問題は解決しない。それはそれで別の面から作戦を立てるべきだ。
それにしてもブッシュのアメリカがいかにイラクを蹂躙したか、いかに国民同士の反目をもたらしたかが、いまさらながらに実感される。「ファルージャの恨み」はどこかで晴らされなければならないのである。

なんともやりきれないニュースだ。
シリア政府軍が反体制派に対する攻撃を強化、過去36時間で200回以上の空爆を行った。
これは「シリア人権監視団」が21日に発表したもの。
監視団によれば、政府軍の空爆はダマスカス近郊や第二の都市である北部アレッポを始め全土におよんでいる。ドラム缶など円筒形の容器に火薬や石油などを詰めた通称「たる爆弾」も盛大に用いられているようだ。
シリア政府軍はこれまで「自由シリア軍」など反体制派武装組織と「イスラム国」など過激派組織の双方に攻撃を行ってきた。しかし米軍がシリアの「イスラム軍」への爆撃を行うようになってからは、反体制派への対応に「専念」できる状況となった。
2011年3月以来のシリア内戦では、これまで19万人が死亡し、全人口の半分に当たる970万人が難民となっている。
アサド政権退陣を求め反体制派を支援してきた米政府は、深刻な矛盾に直面している。
というものだ。
私は、結局米国の中東戦略がイスラエルの国益に沿った形でしか展開されていないところに、究極の問題があると思う。
シリアがずたずたになりイラクの紛争が泥沼化することで、もっとも政治的な利益を得るのはイスラエルにほかならない。


ガザのビサン動物園がひどい状況だそうだ。

イスラエルとの戦闘で大きな被害が出たパレスチナ自治区ガザでは、動物園の動物たちも悲惨な状況に置かれていた。
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園内の建物や檻は壊れ、地面には爆弾による直径十メートルほどの穴も残る。飼育舎の間の焼け焦げた草の上には至る所にサルなどの死骸が散乱する。別の檻では飢えた2頭のライオンの前にクジャクの死骸が横たわる。

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獣医のアルヒシさんは、オスのマントヒヒを指さして言った。「傍らにあるのはメスと子どもの亡きがら。時々触りながら泣くような声を上げるのです」

メスと子は金属片が当たり死んだ。以来人間を寄せ付けず、遺骸を取り除こうとすると激高する

「ひどい状況だ。動物たちを檻から出して清掃することもできない。多くは汚れて弱っているが、ほかに移す場所もない」
gazazoo

この動物園は2008年、サッカー競技場や遊園地と共に建設された。ライオンやワニなど約80頭がいた。エジプトとの境界に作られた密輸トンネルを通じて持ち込まれた。子供たちに人気となり、連日数百人が訪れていた。

しかしそうした施設のほとんどは、イスラエルの空爆で破壊された。

これまで2100人以上が死亡し、多数の住宅などが破壊される中で起きている事態なのだということを忘れてはならない。死者の大半が民間人で、中でも400人以上の子どもが含まれている。

人間は、サルやクジャク同様にガザという檻に閉じ込められ、なぶり殺しにされたのだ。

(毎日新聞、CNNニュースより)

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