鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

13年4月、ぷらら・Broachより移行しました。 中身が雑多なので、カテゴリー(サイドバー)から入ることをおすめします。 過去記事の一覧表はhttp://www10.plala.or.jp/shosuzki/blogtable001.htm ホームページは http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」です。

カテゴリ:04 国内政治 > A 反核/反基地

早くもネットの世界ではオスプレイの「不時着」に関して話題が花盛りだ。

NHKの最初のニュースは

米軍オスプレイが沖縄県名護市沖に不時着 12月13日 23時38分

というもの。

13日午後9時半ごろ、沖縄県名護市の東およそ1キロの海上で、アメリカ軍の輸送機オスプレイ1機が不時着した。…アメリカ軍のHH60ヘリコプター2機が5人全員を14日午前0時までに救助した

これは防衛省の発表をそのまま伝えたもの。いわば大本営発表だ。この時点では肝心の米軍側の発表がない。

防衛省はアメリカ軍に連絡をとって当時の詳しい状況などを確認しています。

と書いてある。つまり詳しい情報がない中で、防衛省が「不時着」と判断したようだ。

このニュースでは、沖縄県の謝花知事公室長の談話も報道されている。

14日午前0時前、NHKの取材に対して、「沖縄防衛局を通じて一報が入り…」となっている。

つまり、この時点では肝心のアメリカ軍、とくに当事者である沖縄の海兵隊からの発表が皆無だということだ。

これが最大の問題だ。

ではアメリカ軍はいつ、どのように情報を発信しているのか。


発表されたばかりの朝日新聞報道(2016年12月14日11時22分)によれば

13日午後9時50分ごろ、米軍の垂直離着陸機オスプレイが不時着水した、と米軍嘉手納(かでな)基地から第11管区海上保安本部(那覇市)に連絡があった。

その後の連絡については不明である。もちろんプレス・リリースはない。自衛隊にいつ連絡が入ったのかも明らかではない。まさか海上保安庁からの連絡ということはないだろうが。

14日に入ってようやく海兵隊が発表に動く。

琉球新報が海兵隊のリリースを報道している。

在沖米海兵隊報道部は14日午前1時ごろ、リリースを発表。キャンプ・シュワブ沿岸部の浅瀬に「着水」(元の英語は?)した。


在日米軍を統括する司令部からの発表はない。

14日未明、稲田朋美防衛相は「コントロールを失った状況ではなく、パイロットの意思で着水したと聞いている」と話した。

この報道はおそらく下記の行動の後に発せられたものである。

2016年 12月 14日 10:30 ロイター 稲田朋美防衛相は14日午前2時過ぎ、在日米軍のマルティネス司令官に電話で遺憾の意を伝達。その後、記者団に対し、「安全性が確認されるまで、飛行停止を要請した」と語った。

朝日の記者は何を聞いていたのだろう?

琉球新報のカメラマンは2時半ころに現場に到着し、写真を撮影している。

オスプレイ残骸2

名護市安部のリーフに墜落した米軍の垂直離着陸輸送機MV22オスプレイ=14日午前2時43分

その後、国防総省からの発表があった。AFPの報道で、2016年12月14日 04:14 発信地:ワシントンD.C./米国 となっている。

在日米海兵隊の垂直離着陸輸送機オスプレイ1機が「事故」を起こして浅瀬に着陸し、乗員5人が負傷した。…報道官は、事故についての詳細や、同機が墜落したのか否かについては明らかにしなかった。

読売新聞の「着水」は米軍側発表から来てるんですね。たしかに「不時着」に比べれば筋は通っている。「本人がそう言っているんだから、しょうがないでしょう」ということだ。

その立場から見ると、防衛省の「不時着」呼称も不正確だ。報道担当者が流石に「着水」と呼ぶのはためらったということかもしれない。

問題は、実情に合わせて呼称を変更することだ。実情を見れば、米軍(とくに現地の海兵隊)がどう呼んでいるかは関係なくなる。

琉球新報も当初は防衛省にあわせ「不時着」と表現している。

2016年12月13日 23:50 オスプレイ、沖縄近海に不時着

それが現場を見て、写真を取って「墜落」に変更したのである。


結論はこういうことだ。

オスプレイは間違いなく墜落したのだ。

ただ、当初は防衛省の発表に合わせて「不時着」と呼んだ。

午前1時の沖縄海兵隊のリリースは「着水」と呼んだ。(ひでぇ話だが)

琉球新報は当初「不時着」と報道したが、記者が現地に行って「墜落」であることを確認し、呼称を変更した。

そこには思想性とか政治的立場とかは関係ない。

しかし、琉球新報が「墜落」として写真付きで報道した後は、その限りではない。

いまだに「不時着」や「着水」の表現にこだわるのなら、それは意図的報道と言わざるをえない。

外国の報道もクラッシュで統一されている。一番むかつくのは、日本のメディアが英語版ではクラッシュ・ダウンと表記していることである。海兵隊自らもそう言っている。クラッシュ・ダウンというのはどう考えても墜落であり、不時着とか、ましてや着水などという意味はない。

Marine Osprey crashes near Okinawa, crew members rescued https://www.marinecorpstimes.com

Osprey crash in Okinawa bound to affect Japan's U.S. military policy ... mainichi.jp/english/

U.S. to ground Osprey after crash injures two in Okinawa:The Asahi ... www.asahi.com/

2ちゃんにこんな投稿があった

日本語だけじゃなく英語まで不自由だったか
壊れればなんでもクラッシュだよ

もしこの「英語の達人」が、入社試験で “Marine Osprey crashes” を「オスプレイが壊れた」と訳せば、ペケではなくても採用はされないと思う。グーグル翻訳を使っていたほうがはるかに良い。


オスプレイ どこが不時着だ。
朝のバタバタ時に時計代わりにテレビを見たら、オスプレイが不時着したそうだ。
全員無事でふたりが怪我で収容された、たらしい。
「ついにやったか」と思って画面を見ていると、「不時着」の現場の映像が流れた。
どこかの海岸近くの海の上だ。
機体は二つに割れて、海中に散乱している。
「墜落じゃん!」
よく全員無事(といってもけが人は出ているが)で助かったと思う。
アナウンサーのセリフが白々しい。
いかにも「ちょっとした手違い」風の言い方だ。
だいたい、ヘリコプターに「不時着」なんて概念が存在するのか。
飛行機ならエンジンが片方止まって片肺着陸とか、足が出なくて胴体着陸とかあるが、ヘリコプターは「アカンとなったら、てんでアカン」でしょう。
これが、NHK会長の言った「政府がシロというものをクロという訳にはいかない」というセリフの中身だろう。
政府がシロといえば、それが間違いでも白と言いはる、それが象徴的に現れた。
これは、NHKが「二度とやりません」と誓った大本営発表の受け売りとおなじだ。
「我が方の損害軽微」と、どこが違うのか。
ただそれがシロでもクロでもなく、「真っ赤なウソ」だと分かるほど鮮明な映像を同時に流したことは、NHKの抵抗と見ることができるのかもしれない。
これを見た国民には、不時着ではなく墜落だということ、それを米軍・政府が不時着だと強弁したこと、それをNHKに押し付けたことが疑問の余地なく明らかとなった。
「米軍・政府はうそをつく」ということが誰の目にも焼き付けられた。
そういう意味では良い報道だった。

我々は非核戦略を練り直さなければならないかもしれない

今回の日中両党の衝突の最大の問題は、反核運動をめぐる対立の表面化である。

かつての日中両党の対立も、暴力革命の是非とか文化大革命の評価の問題もあったにせよ、もっとも重大な問題はベトナム人民戦争支援のための国際統一戦線をめぐる対立であった。

今回も同じように、国際反核運動の進め方をめぐる対立が基本となっている。我々はまずそこをしっかりと抑えておく必要がある。


中国の核軍事戦略の変化は南シナ海や尖閣紛争に覆い隠されてきたが、いよいよその本態が明らかにされた。

これまで中国は、真意はともあれ反核運動に対立することはなかった。核の先制不使用を宣言し、核廃絶を目指す運動を支持してきた。

東南アジアの非核地帯宣言を支持し、東南アジアで核を用いないことを明らかにしてきた。

今回の中国の態度は、これまでの核をめぐる姿勢に根本的変化が現れていることを象徴している。

これまでもそのような兆しはいくつか見られていた。原水禁世界大会への不参加、広島・長崎の被爆者への冒涜的態度など気がかりな点はあった。

しかしことは「侵略者日本」への反感を口実にした日本の反核運動への敵視だけではなくなった。

今回の出来事は、東アジア諸国の反核への願いを公然と無視する態度に転換したと言わざるをえない。

もはや中国は核廃絶への志向を完全に失った。そして核を通常戦略の中に組み込み、アジア最大の核軍事大国となる道を歩み始めた。

中国が本気で核を使用するとすれば、あるいは核脅迫政策を実行するとすれば、米中同盟のもと、それは明らかにアジア諸国に向けられたものとなる。

プーチンがウクライナで核の使用を考えたのと同じように、中国が南沙諸島に核を持込み、いつでも使用可能な状態に持っていくことがないとはいえない。

あるいは台湾の独立派勢力を懲らしめるために、大陸側に核ミサイルの砲列を並べることがないとはいえない。

それは世界の人民にとってもっとも差し迫った危機となるであろう。

私は2004年9月に北京で開かれた反核医師の会の総会にも参加した。その時、まさかこのような世界が展開されることになろうとは到底予想できなかった。

「クアラルンプール宣言」と日本共産党のとった立場

今朝の赤旗を見て仰天。おっ、善隣会館事件の再現かと見まごう。

日本共産党と中国共産党の事実上の決裂だ。

他のメディアではまったく触れられていないから、とりあえずは赤旗報道を読み込むしかない。

私のような年表オタクには、時刻表的経過があいまいで、率直に言えばきわめて分かりづらい文章だ。「柳条湖」事件ではないがどちらが先に発砲したのかはもう少し続報が出てこないと確定できない。

記事を読みながらジグゾーパズルのように事実を当てはめて行く事になる。総会は2,3,4の三日間行われたので、1日目、2日目、3日目というのと1日づつずれるので注意が必要だ。ここでは1日目、2日目、3日目と記載することにする。


まずは事実経過から

9月2日からクアラルンプールで「アジア政党国際会議」(以下ICAPP)が開かれた。

日本共産党(以下JCP)は以前からこの会議にたいへん力を入れていて、今回も志位委員長が自ら出席し、総会演説を行っている。

そこで会議が総会宣言を発表することになった。


1.総会開始までの経過

総会前から宣言起草委員会が開かれ検討が開始されている。JCPはこの委員会のメンバーではない。委員としては参加していない。ただしこの会議の常連としてこれまで活躍してきた実績がある。

JCP代表団は総会の開始前に、核兵器廃絶、平和の枠組みなど三点について事務局に文書提案していた。この提案は起草委員会に一定の重みを持って受け止められたようだ。

JCP代表団は開会前日(9月1日)の未明、開催地マレーシアの首都クアラルンプールに到着した。たまたまそこしか取れなかったのかもしれないが、異例の到着時刻である。物見遊山ではない。多分ホテルか会場のいずれかに詰めて仕事していたのだろう。

この日の夜、総会参加者を歓迎するレセプションが開かれた。志位委員長らJCP代表団は、ICAPPのホセ・デベネシア、チョ ン・ウィヨン両共同議長らをはじめ、参加者にあいさつし、交流した。

おそらくその席上で、事務局長は「積極的なこの提案に感謝する」と述べた。ここが一つの伏線となる。

想像するに、総会開始の前日までに、起草委員会は第一次草案を完成させた。そこにはJCPの主張する「核兵器禁止条約の国際交渉の開始」(called for a prompt start of negotiations on a nuclear weapons covention) という内容が明記されていた。


2.総会の1日目(9月2日)

ICAPP総会が始まった。会の模様については、「ベトナム・フォトジャーナル」が短く伝えている。

冒頭で、マレーシアのナジブ首相が歓迎のあいさつを行った。

クアン委員長が基調演説を行った。

アジアは安全保障と発展などの面で多くの試練に直面している。各国は、平和、安定、繁栄、領有権紛争の平和的解決、衝突防止、持続的かつ平等な発展のための互恵協力、各国間の発展格差の是正、環境保全、気候変動への対応、各国国民間の友好関係の強化などに対する責任を負う必要がある。

というもので、全体としてはバラ色というより一定の情勢の厳しさをにじませたものであった。

おそらく第一日目の会議開始に前後して、「宣言起草委員会に参加しているある代表団」が、JCP代表団に草案を見せてくれた。

どこの国かは分からないが、それは大したことではない。別に深刻な話ではないから軽い気持ちで見せてくれたのだろう。

ただもちろん非公開の文書を非公然に見せてくれたのだから、証拠はない。あっても証拠能力はない。

ところが、その日、総会参加者に配布された「宣言草案」はそれとはまったく異なるものであった。

表現上の問題としては

1.核問題で、核兵器禁止条約も国連事務総長の提案にもまったく触れていない。

2.領土問題では、領土に関する紛争問題を国際法にしたがって解決するという点がふくまれていない。

という点で不十分なものであった。

さらに聞き捨てならない「非公式情報」として

3.「中国共産党代表団が、日本共産党の提案を採用することに否定的な態度をとっている 」という情報。

4.紛争問題を国際法を基礎として解決することを宣言に書き込むことに、中国共産党代表団が強く反対しているという情報。

が飛び込んできた。

この4点はJCPとして容認出来ないポイントであった。

ただし第3点については、その真意もふくめて、よほどの裏付けが必要な間接情報である。この点については後ほど最大の問題となる。

第4点は、これまでもASEANの会議などで同じような事態があり、コンセンサス会議では一定の妥協も求められるかもしれない。

とりあえずやらなければならないことは明白である。まず文章表現の問題では、1.2.の点について「一次草案」の復活を求めることだ。

これがJCP修正案の提示だ。(内容は重複するので省略)

この修正案はICAPP常任委員会、宣言起草委員会のメンバーになっている各党に手交された。

3.CCPとの2度の会談

最大の問題は言うまでもない。3.の不確かな、しかし深刻な疑念についてCCP側の真意をたしかめることだ。この点においてJCPは果敢に行動したと思う。緒方さんには心から敬意を評したい。

まず緒方さんが修正案を携えてCCP代表団長のところに押しかけた。第一日目の午後の事のようだ。

団長は李軍という人で肩書は中連部の「部長助理」となっている。楊潔篪とサシで話せる人物であることは間違いないだろう。

実は緒方さんは李軍とは面識がある。彼は06年の6月に東京を訪れ緒方さんと「夕食をともにしながら懇談」している。この時の肩書は中連部第二局局長だ。

この頃のCCPはまだとてもよかった。中堅クラスが入れ代わり立ち代わり現れては懇談を積み上げていた。李軍もその一人だったはずだ。

だからか、李軍は完全に逃げ腰た。「過去のことは知らない」、「この問題については議論したくない」と言ったと、緒方さんは書いている。

ここで緒方さんは一旦戻って志位委員長と協議した。そして「問題の重大性を考え、中国共産党に再度の話し合いを提起」した。

李軍はあげくの果ては「あなたは覇権主義だ。自分たちの意見を押し付けている」とまで言い出した。ここまで来ると完全に「泣き」が入っている。

4.1日目夜(9月2日)の宣言起草委員会

事務局長が日本共産党の修正案を議題とした。中国共産党を含めて異論は出ず、全員一致で修正案が受け入れられた。

5.2日目(9月3日)の経過

志位さんの総会演説は2日目の午前に行われた。(私は、今日、本当はその内容を紹介するつもりだったのが、とんでもないことになってしまった)

演説を終えた後、志位委員長は、午後に国営ベルナマ通信の取材を受けた。赤旗報道を読む限り、当り障りのない返答。ベルナマ通信の記者が「包括的な提案で感銘を受けた」と語るのとは対照的だ。

午後に総会参加者に2回目の宣言案(当初案を入れれば3回目)が配布された。この宣言案はJCPの修正案が受け入れられたもので、つまり当初案と同じものであった。

6.3日目(9月4日)の経過

閉会式の前に、3回めの宣言案が新たに配られた。

1.「核兵器禁止条約についての速やかな交渉開始を呼びかけた」の部分が削除。

2.「潘基文国連事務総長が提案しているような、核兵器のない世界」という表現上の換骨奪胎。

閉会式の開始直前、事務局長は「ある国の代表団が強硬に要求してきた。本国の指示だと思う。宣言を採択するためには受け入れるしかなかった」と釈明した。
JCP代表団は以下のように判断した。

1.「核兵器禁止条約のすみやかな交渉開始」は2014年のコロンボ、10年のプノンペンの総会宣言にもふくまれており、「重大な後退」と考えられる。

2.しかも草案からの削除は総会の民主的運営という点から見ても重大な問題をはらむ。(記事では「総会の民主的運営を乱暴に踏みにじるやり方」と最大級の非難を浴びせている)

そこでJCP代表団は、宣言案への「部分的保留」を表明し、その旨の文書を議長団に提出した。同時に「一代表団」=中国共産党代表団への強い抗議を表明した。

7.「保留通告」の意味

JCP代表団は「総会の民主的運営を乱暴に踏みにじ」った事務局への非難は避けている。

その理由は、おそらく事務局のやりかたがコンセンサス方式だからだろう。つまり一党でも反対する党があれば、それは宣言には盛り込まれないということになる。コンセンサスを前提とする限り、事務局は「総会の民主的運営を乱暴に踏みにじ」ったとは言えない。(「宣言」を出さないという選択もあったが)

その代わり、JCP代表団はこの重大な変更が中国共産党(以下CCP)の干渉によるものであることを暴露し、攻撃する。

つまりこの大々的報道の主要な目的は、CCPトップの干渉への非難ということになる。

8.JCP代表団の帰国後の動き

日本共産党の志位和夫委員長ら党代表団は4日午後、成田空港に到着、帰国した。

午後と言っても1時から11時まで幅があるがよく間に合ったものだ。

4日の昼までには会議が終わったらしい。空港までの移動や出国審査などを考えると、それでないと間に合わない。

それから常任幹部会が行われた(はずだ)

それにしても、思いもかけぬ3日間の強行軍、ご苦労さまでした。

9月5日には、記者会見が行われた。志位さんをふくむ代表団員は参加せず、小池書記局長が対応した。

「非常に不当な対応だ。1998年に日中両党間の関係を正常化して以来初めてだ」と強い言葉で中国側を非難した。(ただしこれは時事通信の配信で、赤旗には野党共闘についてのみ言及)

同じ日に志位さんはツィッターに下記のコメントを載せている。

核兵器禁止条約の国際交渉」を盛り込んだ宣言案に対して、総会の民主的運営に反する横暴きわまる方法で削除を強要した中国共産党代表団のふるまいは、まったく道理がなく厳しく批判されねばなりません。

8.日本共産党がケンカする腹を固めた理由

JCP代表団がケンカする腹を固めた理由はCCP代表団が突然態度を変え、強引に草案を書きなおさせるに至った一連の経過であろう。

相手は中国政府や中国軍関係者ではない。CCPそのものである。中連部の意向を代表して参加しているはずのCCP代表団の見解を、一夜にして一変させる権限を持つのは誰か。それは習近平をふくむ党の最高指導部以外にない。

彼らは杭州で20カ国首脳会議を主催しながら、クアラルンプールのかなりマイナーな会議にまで目を光らせ、状況を一気にひっくり返させた。サミット開催中だからこそ、抑えこんだのかもしれない。

なぜこのような会議にまで党のトップがかかわるのか。それはよく分からない。非公式な情報が言うように「JCPの提案を採用」させないことにあるとすれば、かなり容易ならざる事態であることは言うまでもない。

いずれにしても国際連帯に当たる人々にとって、論争のさなかに行われた志位演説の内容を今一度しっかりと把握することが必要だろう。


中国新聞の原爆年表を眺めているうちに、注目される記事が見つかった。
1968/5/29
劇団民芸が原爆医療に打ち込む一開業医を主役にした「ゼロの記録」を公演。大橋喜一氏作、早川昭二氏演出
というものだ。
どんな劇なのか分からず、ただ開業医の視点というのが面白そうで、詳しい内容を知りたいと思い、ネットで探してみた。
それで探したのが、以下の記事。
神戸演劇鑑賞会のホームページに、平田康氏(京都橘大学名誉教授・英文学者)の戯曲にみる核の恐ろしさ ~広島・長崎からチェルノブイリまでと題する講演記録が掲載されている。
記事によると以下のとおり、
平田康氏が「非核の政府を求める会・兵庫」の第20回総会(2006年2月26日)での記念講演を採録したものです。

この中から「ゼロの記録」に関する部分を紹介しておく。

『ゼロの記録』は、大橋喜一の綿密に調べた資料に基づく実にリアルな戯曲と、早川昭二の妥協のない演出と民芸俳優人の迫真の演技による舞台が、とても鋭く 心に突き刺さったものでした。
広島の廃墟の街を背景にした第一部は、被爆直後の8月10日から翌年春までの半年間。後にヤブピカと呼ばれる開業医小津や病理学者の平岡、それに博愛病院の医師たちが、全く未知だった原爆症による被災者たち、それには自分自身も含むわけですが、その想像に絶する症状との格闘が描かれます。
彼らはその謎の正体が放射線であるのに気づく。ところが進駐してきたアメリカ占領軍は原爆に関する報道を禁止し、解剖資料を含む被爆についての あらゆる資料を没収し始める。
白血球が減少して死を前にした医師が叫ぶ、「この街の死亡者のデータは、医学的にも役立つが、同時に軍事的な秘密も含んでいる…自分たちの死を軍事的資料にするな。」 
翌年春になると新聞には、「原爆症いまはなし」の記事が出るが、血液疾患として原爆後遺症が姿を見せ始めま す。

 バラックの街を背景にした第二部
「平和平和と山車が街をねる」2年後(1947年)の8月から1953年まで。ドラマは2つの流れに分かれる。
原爆の 悲惨さを詠んだ短歌の歌集を出版するのには、占領政策との厳しい対決を覚悟しなければならないと知った詩人は、労働者と連帯して反戦抵抗運動へ傾斜していく。
朝鮮戦争が勃発し、原爆をトルーマン大統領に使わせないと訴える「ストックホルム・アピール」の署名が妨害にもめげずに拡がり、1950年8月6日に は、弾圧の下で非合法平和集会が開かれる。
一方で、広島に設置されたABCCは、被災者の血液を採るが診療は行なわず、一部の医師たちの期待は裏切られ、 原爆症の研究は占領軍の監視の目をくぐってひっそりと行なわなければならなかった。「ABCCの本質は医療機関である前に、軍事機関の下請けではないのか?」 
講和が発効するが、日本に真の独立と自由がもたらされたのか? 
医師たちは原爆対策協議会を組織するが、治療資金はゼロに等しく、それを確保するために妥協止むなしと考える医師と、医学的真実のためにはABCCや厚生省と対立しても仕方がないと考える医師が対立します。
若い病理学者がつぶやく、 「あらゆる科学が…医学研究までが、核戦略に組みこまれる時代…。」 
心ならずも遺体をABCCに売り、その金で遺族が生活しなければならない被爆者の現 実。「患者に…安静にせい、ということは、一家で飢え死にせい、ということになる。」 
普通のドラマのような完結はありません。現代の矛盾への問いかけが 残るだけです。

 これは「発見と認識」のドラマと言われ、観客を大きな力で「ヒロシマ」体験へと引きずり込むものだったと言えます。あの悲惨な出来事を、単に一つの地域にいた人びとの体験に留めずに、日本人全体の民族的体験に拡げ深める強い推進力となったものでした。

皆さん,観たいとは思いませんか。

ぜひ再演を期待したいものです。


まことにありがたいクロニクルがある。中国新聞のヒロシマの記録というページで、1966年11月以降の出来事が細大漏らさず記載されている。
もともとは1970年から始まった第二次碑文論争の足跡を辿ろうと思って探していてヒットしたのだが、内容はそれにとどまらない。読み進めていくうちに実時代を生きているような気分にさせられる。
どちらかと言えば、それまでは例の「碑文」はバカにされていた。
何をピンぼけなことを言っているんだ、アメリカはベトナムで今にも核を使いそうな雰囲気だったし、中国は原爆と水爆の実験を相次いで成功させるし、下田駐米大使は「核武装」論をぶち上げるし、原爆を積んだ飛行機は墜落するし、とにかく「祈って」いる暇などなかった。
そういうなかで右翼が慰霊碑に的を絞って攻撃をかけてきた。虚を衝かれた反核陣営は、ともかくも体制を建て直して慰霊碑の防衛に回った。最初はほとんど「心ならずも」の世界だった。
そして闘いのさなかに原水爆禁止運動の「原点」を慰霊碑の碑文の中に見出していくことになった。碑文そのものが原点というより、「普通の広島市民」の思いが核廃絶運動の原点にあることが確認されていくのである。
とりあえず、中間報告ということで目下の思いを表現させてもらった。
膨大な資料ゆえ、まだ読み切れはいない。本格的なコメントはそれが終わってからの事になりそうだ。


話がどんどんややこしくなっている。読者の皆様にはまことに相済まない状況になっている。

一応これまでの思考経路をおさらいしてみる。

1.「謝罪」議論の胡散臭さ

オバマの広島での演説は素晴らしいものだった。少し文学的にすぎる箇所もあるが、素直に感動した。

ところがマスコミの報道は、やたらとオバマが謝罪するかどうかに話を持って行こうとするので、何か意図的なものがあるのではないかと抵抗を覚えた。

謝ればなお良いが、今回の訪問の評価をそこに持っていくのは間違いで、とにかく来ただけでも良しと考えなければならないと思う。しかも演説の前、ホワイトハウスの報道官が簡単なステートメントに留めると強く釘を差していたから、ほとんど期待していなかったというのが正直なところだった。

しかし、演説はかなりの長時間にわたり、まごころのこもったものであった。「謝罪」こそないが、核廃絶への確固たる姿勢は十分うかがえた。深澤さんの言葉を借りるならば、それは慰霊碑の碑文の精神と響き合ってたように思える。

2.オバマ演説と慰霊碑の碑文

言うまでもなく、慰霊碑の碑文は我が核廃絶を目指す運動をすすめる上での精神的拠り所の一つとなるものである。それは、我が核廃絶の運動(闘いというべきか)をすすめることが何よりもの慰霊となるということである。それは人類史的な意味での我々の「過ち」に対する償いである。

今なお核に固執する勢力がある。その敵をいかに包囲し追い詰めていくかが、今我々に問われている。しかるがゆえに、運動の側には、過去において核兵器を使用した「過ち」をもって未来永劫の敵とはしないという柔軟性が要請されている。そこには「あなた方の犯した罪を、(同じ人類の一員として)私たちも担いましょう」という統一戦線的な発想がある。大事なのは今であり、未来なのだ。

3.鍛えられ強くなった碑文の精神

その後調べていくうちにわかったのだが、この「過ちは二度と繰り返しませぬから」という誓いが当初からそのような高みにあったのかはかなり疑問である。むしろ70年代の右翼による攻撃から碑文を守る運動の中で、それが非核勢力の中核的精神として昇華され、大方の合意となっていったというのが正しいのだろうと思うようになった。

「小異を捨てて大同につく」という言葉がある。原爆の使用責任は決して「小異」ではなく、ゆるがせにできる問題でもない。しかし核兵器の廃絶という人類史的課題に比べれば「小異」といえないことはない。だからこのスローガンは「論理的に正しいか否か」ではなく、「実践的に正しいか否か」という問いに対する答えなのである。

そしてその正しさは、オバマの演説により、部分的には証明されたと見て良いのではないだろうか。

グーグルさんありがとう。「原爆慰霊碑の碑文とオバマ演説 その1」をグーグルで検索して、リンクをクリックすると「その2」が出てくる。ところがリンクの表題の右側についているキャッシュという逆三角を開くと、「その1」が出てきた。
読み返してみると、その後の勉強の結果、手直ししなければならないところがいくつか出てきた。そこで再編集したうえでアップロードすることにする。


Diamond On Line 5月30日付の記事 オバマ広島演説に込められた原爆慰霊碑文の精神

は、慰霊碑の碑文と照らし合わせならオバマ演説を読み解くという、格調の高いものとなっている。筆者は編集長の深澤献さん。

いくつかの演説の断片を引用した後、深澤さんは次のように問題を設定する。

来日前に焦点となっていたことのひとつは、原爆を落とした当事国として謝罪があるかという点だった。演説の中には謝罪を示す言葉はなかったため、いまなおそれを問題視する声もある。

そして、深澤さんは慰霊碑の碑文、「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」を持ち出す。

そして、この碑文が被爆者に対する最大の謝罪(の誓い)であり、その精神はオバマ演説に引き継がれている、と主張する。

そのうえで、「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」の誓いが最大の謝罪(の誓い)であることを、歴史的に論証していく。

おそらく、もっとも的確にオバマ演説の本質を引き出した文章のひとつであろうと思う。

本文を読んでもらえばいいだけの話だが、文章が入れ子構造になっていて、慰霊碑の碑文を巡る論争が分からないと、オバマ演説の意義がわからないという仕掛けになっている。

そこで「慰霊碑の碑文」論争について、文章の順に従って説明しておく。


1.慰霊碑の碑文

「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」は、英語にするとこうなるそうだ。

Let all the souls here rest in peace; For we shall not repeat the evil.

大変格調の高い、難しい英語で、アメリカ人にはたして分かるのか、とさえ思う。作者は雑賀忠義さんという方。当時の広島大学教授で英文学者。さもありなんと思う。雑賀さんも被爆者だった。

この慰霊碑は1952年(昭和27年)に建てられた。その時に碑文論争が起きている。

1.端的に言えば「なんや、このけったいな文句は」という感想である。筆者の深澤さんも少年時代にそう思ったそうだ。

たしかに自分が「過った」ようにも読めてしまう。「俺はいったい被害者なのか、加害者なのか?」と、碑を前に首を傾げる市民がいたとしても不思議ではない。

2.首を傾げるだけではなく、怒っちゃった市民もいるらしい。

地元紙「中国新聞」には、「原爆投下の米国の責任を明確にせよ」とか、「過ちは繰返させません からとすべきだ」との投書が掲載されたそうだ。

3.浜井市長はこう言っておさめようとした。

誰のせいか詮索するのではなく、こんなひどいことは人間の世界に再びあってはならないのだから、「人類全体」が過ちを繰り返さないということなのだ。

しかしこれはかえって火に油を注いだ。浜井発言は1年前まで日本を占領していた米国に慮ったものとも言われるが、これでは東久邇内閣の「一億総ザンゲ」論へとまっしぐらにつながってしまう。

4.雑賀さんの発言(論争への参加)

この発言はこの記事で初めて知った。そのまま引用する。

広島市民であると共に世界市民であるわれわれが、過ちを繰返さないと誓う。これは全人類の過去、現在、未来に通ずる広島市民の感情であり良心の叫びである。
『原爆投下は広島市民の過ちではない』とは世界市民に通じない言葉だ。
そんなせせこましい 立場に立つ時は過ちを繰返さぬことは不可能になり、霊前でものをいう資格はない

いささか感情的とも取れる発言であるが、これには経過がある。

東京裁判でいまや右翼の御用達となったパール判事が広島に来たのだそうだ。そのとき、慰霊碑の前で碑文の内容を聞くや、「原爆を落としたのは日本人でない。落とした者の手はまだ清められていない」と語った。

これが雑賀さんの逆鱗に触れたのだ。「誰のせいだ。俺のせいではない」と議論すること自体がせせこましいと憤ったのだ。

5.論争をまとめてみると

雑賀さんは「恩讐を超えて、核廃絶を目指せ」ということで、それが最大の慰霊(謝罪)なのだと主張している。

ただ、「恩讐を超える」ところだけ強調してしまった嫌いがないとはいえない。「広島市民であると共に世界市民であるわれわれ」を強調するあまりに、「世界市民であるけども、広島市民であるわれわれ」の特殊性を尽くしていないように思う。

原爆の苦しみは8月6日で終わったのではなく、そこから始まったのであり、1952年にはそのただ中にあったのであり、その苦しみ(実相)をもっと突き出さなくてはならなかったのではないか。

6.現在の「碑文」の解釈

現在、広島市は碑文の意味について次のように説明している。なお、著者深澤さんは「広島市の見解は一貫して、慰霊碑建立当時と同じだ」と書いているが、浜井市長の発言よりは明確に前進していると思う。

原爆の犠牲者は、単に一国・一民族の犠牲者ではなく、人類全体の平和のいしずえとなって祀られています。
碑文の中の『過ち』とは一個人や一国の行為を指すものではなく、人類全体が犯した戦争や核兵器使用などを指しています
原爆の犠牲者に対して反核の平和を誓う のは、全世界の人々でなくてはなりません。

これを論争を踏まえて私なりに読み解いてみると、

①原爆の犠牲者の位置づけ

原爆の犠牲者は、いまやヒロシマの犠牲者ではなく日本の犠牲者でもなく、人類最初の原爆による人類最初の犠牲者だ。

原爆の犠牲者は、いまや、そのような高度に抽象的なものとして位置づけられ、祀られるべきだ。

キリストがユダヤ人であるかどうかは問題ではない。キリストの死には「ユダヤ人がローマ人によって殺された」という事実はある。しかしそれが辺縁的事実にすぎないのと同じだ。

②原爆の犠牲者は「過ち」を責めている

「過ち」問題は、ここをしっかり把握すれば、自ずから明らかになる。

むごたらしい死と、同じようにむごい生の末の死は、アメリカではなく人類全体、生き延びてきた私たちを責めている。それは「過ち」だったと。そしてずっとこれからも「過ち」であると。

そして「過ちを繰り返さぬ保障」としての核兵器廃絶を求めている。そのことによって犠牲者は平和(をもとめる人々)のいしずえとなっている。

しかし犠牲者はまだ人類史のいしずえにはなっていない。核兵器が廃絶された世界が実現しないかぎり、彼らは「過ち」を責め続けるだろう。

③謝罪とは核兵器を廃絶すること

謝罪と核兵器の廃絶はイコールではない。しかし核兵器の廃絶に向け決意することは、犠牲者の責めを受け止め謝罪することの重要な一部をなす。

この場合、犠牲者の責めを受け止め続けることが何よりも重要であろう。「辛かったでしょう。分かっていますよ」という声掛けが、「安らかに眠って」もらうための条件だ。

これが慰霊碑の碑文の精神である。

1949年

5月 広島平和記念都市建設法が成立。7月には憲法第95条による初の住民投票を経て公布される。

1951年

2月 平和記念公園に戦災死亡者の碑の建立決定。原爆死亡者の名簿をおさめることなど計画。公式には「広島平和都市記念碑」だが、通称の「原爆死没者慰霊碑」がよく知られる。

慰霊碑のデザインは、イサム・ノグチの案に一旦は内定した。しかし岸田日出刀らが、日系アメリカ人というのを理由に強硬に反対したため、ノグチ案を生かして丹下が再デザインした(ウィキペディア)

1952年

広島市長浜井信三が慰霊碑を発起する。

この碑の前にぬかずく1人1人が過失の責任の一端をにない、犠牲者にわび、再び過ちを繰返さぬように深く心に誓うことのみが、ただ1つの平和への道であり、犠牲者へのこよなき手向けとなることを目的とする。

7月22日 慰霊碑の碑文が決定。広島大学教授の雑賀忠義が浜井信三広島市長の依頼を受けて提案、揮毫した。雑賀さんは「言葉も書体も市民感情を表すように努めた」と語る。

中国新聞: 雑賀さんは旧制広高の英語の名物教授で、はげ頭に骨張った顔の、ひょうひょうたる人物。「仙人」とも呼ばれた。教え子で市長室主事だった藤本千万太さんが、碑文に悩む浜井市長に紹介した。
山田風太郎「同日同刻」: 真珠湾攻撃の報道を受けたとき、…朝の授業中の雑賀教授は廊下に飛び出して、頓狂な声で『万歳』を叫んだ。

1952年8月2日、広島市議会で碑文に対する質問。『過ち』は誰が犯したものであるか」について議論となる

浜井市長の答弁: 原爆慰霊碑文の『過ち』とは、戦争という人類の破滅と文明の破壊を意味している。


1952年8月6日 原爆死没者慰霊碑の除幕式。当初はコンクリート製であった。本来設計では慰霊碑をすかしてドームまで見通せるはずが、被爆者のバラックが透かして見通せた。バラック隠しの幕を張って式を挙行した。57902名の名簿が奉納された。
 
浜井市長の挨拶: この碑の前にぬかずく1人1人が過失の責任の一端をにない、犠牲者にわび、再び過ちを繰返さぬように深く心に誓うことのみが、ただ1つの平和への道であり、犠牲者へのこよなき手向けとなる。

8月10日 『朝日新聞』の「声」欄に投書。最初の異議となる。(ウィキペディアでは中国新聞への投書となっている)その後、中国新聞に碑文に関する数篇の投書が掲載される。

後文については、私は大いに異議がある。『あやまちは繰り返しません』では『過誤は我にあり』ということになろう。これで犠牲者が、安らかに眠れようか。
…戦争の責任をとやかく論議しようとは思わぬが、日本の、広島の当局者がいまなおわけもなく卑屈にみえることを、実に遺憾に思う

8月 浜井市長が反論への見解を表明。「誰のせいでこうなったかの詮索ではなく、こんなひどいことは人間の世界にふたたびあってはならない」と、主張する。(これを「過ちを繰り返さない」主体が人類全体であるとする主張であり、現在の広島市の見解に通じる、とする見解がある)

8月 識者の意見が中国新聞に掲載される。

 <作家・堀田善衛氏>「『過ちは繰返しませぬから』。だれがいったい過ちを犯したのか。答はいろいろあるかも知れない。しかしそれにしても、もしこれが いつもいつも被害者にされっ放しの民衆の立場に立った誓いであるならば『過ちは繰返させませんから』でなければならないのではなかろうか」

 <原子物理学者・武谷三男氏>「私は広島の人に、どういう風にして過ちを繰返さず、原爆で死んだ人をやすらかにねむらすことができるかをききたい。私はむしろ『ねむらずに墓の底から叫んで下さい。過ちがくり返されそうです』と書きかえるべきだと思う」(矢内原伊作の意見は略)

11月3日 ラダビノード・パール(Radhabinod Pal 極東国際軍事裁判の判事)が講演のため広島を訪問。

4日の講演: 広島、長崎に原爆が投ぜられたとき、どのようないいわけがされたか、何のために投ぜられなければならなかったか。
 アメリカ軍人を犠牲にしないためなら、罪のないところの老人や、子供や、婦人を、あるいは一般の平和的生活 をいとなむ市民を、幾万人、幾十万人、殺してもいいというのだろうか。われわれはこうした手合と人道や平和について語り合いたくはない。

11月5日 パールが広島平和記念公園を訪問。原爆死没者慰霊碑の碑文を通訳を通して読む。パールは碑文を「一億総懺悔」と読み批判する。原爆への恨みを公言できなかった被爆者らは、バールの言葉に共感を持つ。

この碑文に『過ちは再び繰返しませんから』とあるのは、日本人をさしている。それがどんな過ちであるのか私は疑う、ここにまつってあるのは原爆犠牲者の霊であり、原爆を落としたものの手はまだ清められていない。
過ちを繰り返さぬということが将来武器をとらぬことを意味するなら、それは非常に立派な決意だ。日本がもし再軍備を願うなら、これは犠牲者の霊をボウトクするものである。これを書いた当事者はもっと明瞭な表現を用いた方がよかったと私は思う。

(パールの発言には以下の部分もあり、これについては首肯できない)

この過ちが、もし太平洋戦争を意味しているというなら、これまた日本の責任ではない。その戦争の種は、西欧諸国が東洋侵略のために蒔いたものであることも明瞭だ。
・・国民がその良心に重い罪の悩みをもっていれば、いかなる国民も進歩、発展はないということをよく記憶せねばならぬ。

11月04日 『中国新聞』に濱井信三広島市長の談話が掲載される。(4日となっているが、5日のパール発言を受けてのものであろう。焦っているから、「地下の英霊」などという言葉が飛び出す)

過去の戦争は明らかに人類の過ちであった。
私は碑の前に建つ人々がだれであろうと『自分に関する限りはあやまちは繰り返さない』という誓いと決意を固めることが将来の平和を築く基礎であると思う。
また現在生きている人たちがそれを実践したとき、はじめて地下の英霊は安らかにに眠ることができるものである。
碑の前に対して「だれの罪である」と個人をつかまえて詮索する必要はないと思う。

11月10日 雑賀教授、パールに抗議文を送る。

『原爆投下は広島市民の過ちではない』とは世界市民に通じない言葉だ。そんなせせこましい立場に立つ時は過ちを繰返さぬことは不可能になり、霊前でものをいう資格はない。

11月11日 雑賀教授が中国新聞に寄稿。(おそらく「抗議文」と同内容)

パル博士の考えは狭量で、そのような立場からは原爆の惨禍は防げない、過ちを繰り返さないと霊前に誓うのは世界市民としての広島市民の気持ちであり、全人類の過去、現在、未来に通じる良心の叫びである。

11月 雑賀教授、広島大学教養部での講義で碑文の内容を説明。

碑文の英訳は「Let all the souls here rest in peace ; For we shall not repeat the evil」である。
主語の“We”は「広島市民」であると同時に「全ての人々」であり、「世界市民である人類全体」を意味する。

雑賀、市広報紙に碑文解説を書く。「20世紀文明が犯した最大の過ちは広島の原爆であった」とする。(日付け不明だが、少し頭が冷えてからのものであろう)

57年 雑賀教授は碑文論争から5年後の定年退官の際、「広大新聞」でこう語っている。「全世界よ、全人類よ、日本の方を向いて『右へ倣え』。碑文は全人類への号令である。こんなはっきりしたことが読み取れないのですか。頭が悪いですね」

あらためてオバマ演説を読むと、美辞麗句にとどまらない、含蓄のある言葉が散りばめられていることに驚く。

これは聞く文章ではなく読む文章だ。

1.71年前、人類は人類滅亡の道具をついに手にしてしまった

これは冒頭の文章だ。「原爆=人類滅亡の道具」という定義を、その押しボタンの所有者から聞くことに感慨を覚える。

人類滅亡の道具については、後段でも言及がある。

人類は自滅の道具を手にした特異な種だが、反面、これもまた人類を人類たらしめる特異な資質なのである。

オバマは弁証法を身につけている、と感じる。

2.死者の魂はわれわれに問う。「おまえはいったい何者なのだ、どこへ向かうのだ」

この唐突な表現は、聖書を下敷きにしたものである。

ローマ皇帝のキリスト教徒弾圧に直面し、ローマで布教にあたっていたペテロは街を脱出した。その時ペテロはイエス・キリストとすれ違う。この時ペテロがイエスに問いかけた言葉が「クォ・ヴァディス」(Quo vadis)である(外伝の方)。

キリストはこう答えた。

なんじ(汝)、我が民を見捨てなば、我、ローマに行きて、いま一度十字架にかからん

3.われわれは、だからここに来た

どんなに辛くてもこの街の中心に立って、あの爆弾が落ちてきた瞬間のことを全身全霊を傾けて想像してみなければならない。

おそらく、ここが碑文と響き合うところだ。

現実から目を背けず歴史を直視し、同じ苦しみを繰り返さないため何ができるのかを自らに問う共通の責任がわれわれにはある。

これが雑賀さんの言いたかったことであろう。オバマは雑賀さんの気持ちを体得している。

1945年8月6日の朝の記憶は永久に風化させてはならない。その記憶はわれわれに現状を打破する力を与え、モラルの想像力の殻を破る力、変わる力を与えてくれる。

4.ヒロシマは核戦争時代の夜明けではない

広島と長崎が「核戦争時代の夜明け」として歴史に刻まれる未来なんか要らない。「モラルの目覚めの朝」として歴史に刻まれる未来をともに選んでいきたい

以上のようにオバマ演説を読み解くとき、とりわけ3.の部分は凛として慰霊碑の碑文と響き合っているように思われるがいかがであろうか。


大変だ。「原爆慰霊碑の碑文とオバマ演説 その1」を消してしまった。その2を上書きしてしまったらしい。


オバマの演説は良いのだけど、横にいる男には虫酸が走る。

だからテレビのチャンネルを変えたが、どこも同じ絵だ。

なんでこんな男が傍らに居なくてはならないんだ。

今一度、この男の発言をさらっておこう。

2002年6月2日号の「サンデー毎日」の記事より

安倍氏が小泉内閣の官房副長官だった頃、早稲田大学で「核兵器使用は違憲とは思わない」と発言した。サンデー毎日側は録音テープと写真を元に記事を掲載した。

(大陸間弾道弾を作ってもいいのかと問われて)「大陸間弾道弾はですね、憲法上は問題ではない」、「憲法上は原子爆弾だって問題ではないですからね、憲法上は。小型であればですね」

(それは個人的見解かと念を押されて)「日本に撃ってくるミサイルを撃つということは、これはできます。その時に、戦術核を使うということは昭和35年(1960年)の岸総理答弁で『違憲ではない』という答弁がされています。

この発言はウォール・ストリート・ジャーナルを通じて世界に拡散されている。

知らないのは国営NHK放送しか見ない善良な日本国民のみだ。

おぞましいことこの上なき存在であるにもかかわらず、原爆というのは過去と未来とをつなぐ重要な結節点である。

いま世界ではキリストの生誕日を歴史の結節点としているが、人類の平和的共存という流れで見るのなら、1945年こそが結節点となるべきかも知れない。

平和は血だらけの姿で、「ヒバクシャ」という衣をまとって登場した。

そこから、平和を至上の価値としてとらえる「人類のひとつの時代」が始まった。だから我々はあらゆる逆流に抗して、平和の歩みを進めなければならないのである。

さまざまな議論はあるにしても、まずはそのことを踏まえた上で展開されなければならないと思う。

だからこれまでの人道とか、正義というレベルの議論は物足りなさを感じるのである。

次の評論

オバマ大統領「広島演説」は一大叙事詩だった

という東洋経済(05月30日)の記事。執筆者は岡本 純子という方で、肩書は「コミュニケーションストラテジスト」ということで、コミュニケーションを啓発する仕事らしい。

この記事もオバマ演説をコミュニケーション・テクニック的な見方で切り取っているので、微妙にテーマはずれているが、オバマ演説の本質的な部分をかなりしっかりと捕まえていると思う。

演説の紹介を以下のごとく結ぶ。

広島を「核戦争の夜明けではなく、私たちの道義的な目覚めの地としなければならない」とスピーチを結んだ。

ただし原文はもう少しニュアンスに富んだものだ。

広島と長崎が「核戦争時代の夜明け」として歴史に刻まれる未来なんか要らない。「モラルの目覚めの朝」として歴史に刻まれる未来をともに選んでいきたいと、そう切に願う。(satomi さんの名訳

記事はその後、この演説のライターと目される38歳のベン・ローズ大統領副補佐官(国家安全保障問題担当)の紹介に移っていくが、省略する。


 オバマ演説に対する論評がそろそろ出揃ってきた。
グーグルで検索して、ヒット順にレビューしておきたい。
1.ケート・ハドソンの主張
最初はケート・ハドソンというイギリス人。核軍縮キャンペーン(CND)事務局長と
いう肩書だ。(ハフィントン・ポスト 31日)
見出しは「それでも、謝罪は必要だ」という論争的なもの
まず、オバマ演説を積極的に評価するが、これは前振り。
第一に、原爆は、ただ空から落ちてきたのではなく、アメリカによって民間人の頭
上に落とされた。
第二に、原爆は戦争終結に不可欠ではなかった。
という二つの認識を押し出す。そして、この二つは謝罪の是非を超えた本質的な
事実だとする。ここから議論が組み立てられ始める。
彼女の議論展開は、第二点を中心とする。
そして、「アメリカは日本を舞台に、原爆で地政学上の駆け引きを演じた」との結
論を引き出す。
その故に、「アメリカは謝罪しなければならない」と主張する。
かなり飲み込みにくい議論だ。議論の拠り所に論争的な「事実けーと・はどそn」
がおかれているためである。一番気になるのは、戦争終結に不可欠であったらそ
れは許されることになるのかということである。
「これがリベラルなイギリス人の見方なのかな?」、と思ってしまうところがある。

2.被団協事務局長の「我慢」

朝日新聞デジタル5月26日づけ、貞国さんという記者の署名入りだが、被団協の考えを紹介したもの。

「朝日風」の書き方が鼻につくが、ここは我慢。

A. 被団協は謝罪を求めない。求めたいが我慢する。

B. その理由は、被団協は何よりも核廃絶の前進を求めるからである。

C. 全国から集まった約20人の代表理事の全員が、この判断を認めた。

日本被団協の田中熙巳事務局長は、こう語る。

第一に、親世代は謝罪を強く求めていた。しかし被爆者の平均年齢は80歳を超えた。被爆者が生きていられる年月にも限りがある。焦りがある。

第二に、謝罪を求めれば、米国の世論が反発し、オバマ大統領は訪問できなくなるかもしれない。そういう判断が共有された。

第三に、「責めてばかりでもいけない」という声もある。

第四に、オバマ大統領が被爆地で被爆者の話を聞けば、何をすべきかわかってくれるという確信もある。

そのうえで、「オバマ大統領が核廃絶の道をつくることが、被爆者にとっての謝罪になる」という共通理解に達した。

3.原稿は変更されたのか?

5月10日、ワシントンの記者会見でアーネスト大統領報道官はこう語った。

A. 広島訪問を謝罪と受け止めるのは「間違った解釈だ」と強調した。

B. 平和記念公園でのオバマ演説は、敵国同士が強固な同盟関係を築いた戦後の日米の歩みについて、短い談話を出すのにとどめる。

C. トルーマンは死傷者を考慮に入れつつ、安全保障のために原爆を投下した。オバマ大統領はそう認識している。

D. オバマ大統領が広島を訪問するのは、米国が「核廃絶に向けて世界を主導する特別な責任があると理解している」ためである。

E. これを機会に「核兵器なき世界」の実現や、日米同盟のさらなる深化を目指したい。

これを聞いた世界の人々は、まさかオバマがこのような演説をするとは思わなかったのではないか。

それはオバマにしてみればギリギリの踏み込みだったといえるだろう。

4.英語版2チャンの反応

面白いサイトがあって、アメリカ版2チャンの対話を翻訳してくれている。

その中の5月28日の記事

訳者の見出しは「【広島・米大統領スピーチ】海外「謝罪しやがった・・・」【海外反応】 となっている。


* 民間人が住む二つの都市に投下なんて事自体がオカシイでしょ?
あなた方は常に、「善悪の二択」でしか物事を考えてない
で、常に出される結論は、「合衆国は正しかった」だ・・

* オバマはこう謝るべきだった
「あと二個くらい落とせばよかったのにゴメンね」
Tokyoにも落すべきだったんだよ
中国や韓国、そしてフィリピンに対してやった残虐行為・・・
充分それに値する

これは流石にひどいが、米国が中国や韓国、そしベトナムに対して原爆を使うつもりだったことを、同じ論理で説明できるかな。もう一つ、マッカーサーの親父がフィリピン独立派数万人を虐殺した歴史を知るべきだろう。

* (パールハーバーに関して) あのね、日本が攻撃したのは軍事拠点だよ
一方で合衆国が攻撃したのは、民間人が住む普通の都市・・・
合衆国の上層部は事前に知っていた。しかもその事を教えていなかった・・・(これはイギリス人がアメリカ人を皮肉ったもの)

* そう
謝るべきは日本政府の方
日本国民に対して謝罪するべき (これはある意味正論)

* 原子爆弾の被害は、当時被爆した人の子や孫の世代にまで影響してるんだよ・・・
そんな爆弾を正当化するとか・・・
凄いね、みんな(これはイギリス人)

* 現実として、原子爆弾は一般の民間人の頭上に落されたんだぞ?
お前らはどいつもこいつも、その現実を無視して「良かった」だの「思いやりが有った」だの・・・
なんなんだよ一体#(これもイギリス人)

* 一つだけ確かな事
それはアメリカが無実の市民を大虐殺したという事実
そう、合衆国がやった事は間違いだった(オーストラリア人)

* 一般市民を攻撃した事実
誰もがこの事を忘れちゃってるのスルーしてるのか・・・
殺された人の大部分は女性や幼い子供達だよ
戦争犯罪とは一切関係の無い人々(イギリス人)

* 素敵なスピーチだと思った
彼の言ってる事は正しいよ
我々は、決してこの過ちを繰り返してはいけないんだ
悲惨な思いをしたのは、関係の無い一般国民だけだった(イギリス人)

 

どこの国にもいるネトウヨの発言の中に、まともな反論が紛れこんでいる。

面白いのはアメリカ人がパールハーバーと騒ぐのに、イギリス人がたしなめているということ、しかし共通して言えるのは原爆が未来破壊兵器であること、それを使用したことが「人類に対する罪」であることへの言及が見受けられないことである。

核保有国の論理が市民レベルに浸透していることが窺われる。

 

ハフィントン・ポストのサイトに多くの写真が掲載されているが、その中の1枚は私がこれまで見たことがないものだった。

以下に無断転載する

ヒロシマ俯瞰

キャプションはこうなっている

この写真は1945年7月16日撮影されたものである。最初の原爆実験後の空撮で、ニューメキシコ州トリニティーの実験場が写っている。

付近の住民はオバマのヒロシマ訪問を賞賛した。それと同時に、彼らはオバマに、こちらにも来て欲しいと願っている。なぜなら、ここでも何世代にもわたって子孫がガンや健康障害に悩んでいるからだ。

縮尺がわからないのだが、この写真とヒロシマの写真とを重ねるとどうなるか。中心のへそは何を意味するのか、その外側の黒い円と黒い棘は何を意味するのか、その外側の白身は何を意味するのか、それを知りたい。


オバマ演説は「謝罪論争」への総括的結論

まずオバマの広島訪問について、私の正直な感想をいくつか上げておこう。

1.それは素晴らしいことであった。現職大統領として訪問したこと自体が大きな意義を持っていると思う。

2.演説は少々長ったらしく、少々抽象的なものだった。しかし後からいろいろ考えると、その必然性が見えてきた。

3.横でニヤニヤとする安倍首相の姿はたいへん目障りであった。いつもなら、彼の姿を見ただけでチャンネルを切り替えるのだが、今回はそうも行かず、こみ上げる不快感をこらえるのが辛かった。

4.メディアはアホな韓国人しか映さないから、そして私はまともな韓国人を知っているから、それはメディアのアホさ加減の投影にすぎない。

5.中国には困ったものだ。日本と同じようにアホが政治を仕切っている。王毅外相はこんな人ではないはずだが。

と、ここまでなら酒飲み話で、なんの苦労もなくスラスラと思い浮かぶことだ。

しかし一連の経過の中で、何故か「謝罪問題」が大きく浮かび上がってきた。

そしてメディアは広島に来たオバマが「謝罪」するかどうかに関心を集中させた。日頃これだけ核問題に無関心だった連中が、突然「謝罪」を求めるのはいかにも不自然だ。

なぜか? 誰がそうさせたのか?


「謝罪」問題では数年前にこういう事件があった。

オバマは大統領就任後の2009年に初来日した。当初、オバマは広島を訪問し原爆投下に対して謝罪するつもりで、その可能性を打診してきた。

ルース駐日大使を通じて打診を受けた藪中外務事務次官は、これを断った。断った理由が「時期尚早」というのだから分からない。

察するに、日本政府が原爆にとんと無関心で知らんぷりをしていたから、オバマにそんなことされると立場がなくなる、ということではなかっただろうか。

そういえば、日本政府が原爆投下をもたらしてしまったことについて「謝罪」したとは聞いてないなぁ。

これがウィキリークスで暴露されてしまったのだ。

the idea of President Obama visiting Hiroshima to apologize for the atomic bombing during World War II is a "non-starter." it is premature to include such program

これが藪中発言の骨子だ。

この時の首相は安倍ではなく麻生だ。しかし安倍晋三がオバマの広島訪問を快く思っていないことは明らかだろう。それでいてちゃっかりパフォーマンスとしては利用する、その心根は見上げたものだ。

おぉ嫌だ。こうやって書いているだけでも身震いがする。


となれば、「謝罪要求」が日本政府側から出たとは考えにくい。

では、それは広島市民の要求だったのか?

オバマ訪問の直前に共同通信が実施した被爆者へのアンケートで、謝罪することをもとめたのは16%だった。78%は謝罪は不要と答えている。

もちろん被爆後70年を超えて、今も8人に1人が謝罪を求めているという事実は重い。残りの7人にもその気持は投影されていると見るべきだろう。

しかし肝心なのはそこではない。「三度許すまじ」の気持ちを理解し共有してもらうことだ。だから「謝罪」云々で袂を分かつような事にはなってほしくないのだ。だから涙を呑み、恨みを含んでいるのだ。

原爆碑の銘文はこうなっている。「安らかに眠ってください。過ちは繰返しませぬから」

これについては当時からいろいろな議論があった。「あやまちを犯したのは自分たちなのか?」

絶対にそうではない!

しかしあやまちを繰り返さぬ責任、繰り返させない責任はある。死者に対して生残ったものにはその責任がある。そう読むべきだということで決着は付いている。

そのことで広島市民は死者に対して「謝罪」しているのである。

そして、その「凛とした思い」を日本政府、アメリカ政府、全世界の人々に共有して欲しいのである。

そこにオバマ演説は応えている。それが演説が長くなり抽象的になった理由なのだ、そう思う。

暁(あかつき)部隊のネット情報

私はかつて暁部隊の被爆者について調査し、発表したことがある。その時、集められるだけの史料は集め、関係者の聞き取りもしたつもりだった。

しかし現在ではネットでかなりの資料が閲覧可能であり、知らなかったこと、誤解していたこともあることが分かってきた。

以下、とりあえずネット上調査の結果をまとめておきたい。

まずネット上の資料を挙げておく。グーグルで登場順に並べたものである。

まずは軍内の位置づけ

1.陸軍直属の組織として船舶司令部(宇品)があり、、戦時における軍隊・物資等の船舶輸送を指揮統率した。所轄の兵は船舶兵と呼ばれた。最大18万人が在籍したという。

2.司令部のもとに二つの司令部(教育船舶兵団司令部、船舶砲兵団司令部)と野戦船舶本廠、船舶砲兵団、船舶練習部、船舶衛生隊、船舶防疫部などがおかれる。

3.管轄下の各部隊は「暁部隊」と通称された。これは各隊が秘密保持のため「暁○○部隊」という兵団文字符(秘匿名)をつけられていたことからくる。

 

次に船舶司令部と部隊の沿革

1889年(明治22年) 日清戦争に備え、宇品港が軍港として整備される。宇品島は本土と陸続きの宇品町となる。ここには、のちに改めて水道が設けられ、暁橋がかかる

1894年(明治27年) 宇品港に運輸通信支部が開設される。

1904年(明治37年) 陸軍運輸部条例発布。宇品の「台湾陸軍補給廠」を改編し「陸軍運輸部」を設置。対岸の金輪島に造船所を建設(現在の新来島宇品どっく)

1937年(昭和12年) 第二次上海事件発生に伴い、陸軍運輸部長(中将職)のもとに第1船舶輸送司令部を編成。司令部を宇品に置く。

1940年(昭和15年) 第1船舶輸送司令部をベースに、船舶輸送司令部が臨時編成。司令部は引き続き宇品。

支部を大泊・小樽・東京・新潟・敦賀・大阪・神戸・門司・釜山・羅津・大連・高雄の12箇所に設置。

1942年(昭和17年) 戦争激化に伴い、船舶輸送司令部を船舶司令部に改編。宇品の司令部のもとに、3つの船舶輸送司令部(門司、上海、昭南)が設置される。

船舶司令部は他に船舶兵団も管理することになる。その後第4(ラバウル),第5(ダバオ)船舶輸送司令部が増設される。

1943年

2月 宇品に陸軍船舶練習部(少将職)が設置される。

8月 宇品に野戦船舶本廠(少将職)が設置される。

1944年10月 セブ島の船舶兵団司令部が宇品に移設され、教育船舶兵団司令部と改称される。

1945年(昭和20年)

1月 第7船舶輸送司令部が編成される。

5月 大本営海運総監部が新設され、全船舶を国家船舶として一括管理することになる。実務的には船舶司令官が国家指定船の統一運用をおこなう。

 

爆発時の状況

1.爆心地の状況

軍の機能は広島城周辺の中国軍管区司令部は壊滅し、司令官が被爆死する。広島駅北側の東練兵場に駐屯していた第二総軍もほぼ機能停止となる。

中国地方総監府・広島県庁・広島市役所も大きな被害を受け機能停止。消防機能も壊滅していた。

宇品の船舶司令部はほぼ無傷の状態。とは言っても、朝の体操をしていた兵士はほとんどが大やけどを負っている。

爆心と宇品
   ヒロシマ新聞より転載

2.被爆後の救援・整理活動

下の絵はきのこ雲の形成過程。

被爆証言を残そう!ヒロシマ青空の会 1集原子爆弾爆発時の状況より

下の写真は

宇品から見た中心部
ヒロシマ新聞より転載。午前9時ころ、宇品の船舶練習部から中心部方面をとった写真である。おそらく2,3キロ位のところまで煙(二次火災)に包まれており、それから先は見えない。

以下はヒロシマ新聞より引用。

直後 船舶司令部は、佐伯文郎司令官の指示で第二総軍、県庁、市役所などに電話連絡を試みる。いずれも不通のため、兵士を各方面に偵察に出す。

午前8時50分 消火艇、救護艇を川から市中心部へ派遣。あわせ救護、消火活動に各部隊を振り分ける。(宇品には全国から徴用された民間船が集結していた)

午前9時 被災者が船舶司令部に集まり始める。当初は被害を受けてない軍医二人、衛生兵三人、看護婦五人が治療に当たる。

殆んどが全身火傷で、すすだらけで黒ずんだ顔。髪の毛や衣服はぼろぼろに焼けちぎれ、肌は焼けただれたり火ぶくれになっていた。皮膚はたれ下がり、又、皮膚や肉片が衣服にくっついていた。担架に乗せようとすると皮膚がずるりと剥けて、手のほどこしようがなかった。
…火傷臭と死臭の漂う収容所内で何度も遺体の搬出をおこなった。船で似島(検疫所)へ移された。

午前11時 佐伯司令官、中国地方の各基地に対し、「敵の新型爆弾が広島市に投下さる。各基地は全力を挙げて復旧救援に従事せよ」との指令を発出。

午前12時 江田島・幸の浦基地の部隊(船舶練習部第十教育隊)が宇品に到着。そのまま市内に進出し救援作業に当たる(この部隊は特攻隊で、ボートで敵船に突っ込む訓練をしていた。マルレ艇を見よ)

午前12時 千田町の広島電鉄本社に指揮所を設置。負傷者の救護にあたる。宇品では対応できないと判断した司令部は、対岸の似島検疫所へ船による輸送を始める。(金輪島へも多くの負傷者が運ばれている)

午後1時 宇品地区の水道が減水。幸の浦基地より衛生濾水器を輸送し、水を確保。罹災者に乾パン、作業着、蜜柑缶詰などを配給する。

午後2時 この時点までに収容した負傷者は1300人。その後も後を絶たず。

夕方 船舶教育隊(石塚隊)が紙屋町、八丁堀のあいだの屍体発掘作業。

7日、船舶司令部の佐伯司令官が「広島警備本部」として市内の救援活動や警備活動の指揮をとることとなり県庁・県防空本部を指揮下に入れる。


以下は、1989年に広島で行われた「原爆後障害研究会」で研究発表した時の発表原稿です。

後に共著「原子力と人類」でその要旨を発表していますが、表のいくつかを割愛していたため、今回そのまま掲載します。

はじめに

当協会(北海道勤労者医療協会)での被爆者健診の経過を説明します。

北海道にも全道で500人を超える被爆者(被爆手帳公布者)がいます。北海道では従来、広島原爆病院より石田定先生が出張され、被爆者健診に当たられていました。(石田先生についてはこのページをご参照ください)

しかし被爆者の中では、「地元に安心してかかれる病院がほしい」という希望が強まってきました。

1972年(昭和47年)に被団協(北海道被爆者団体協議会)から当協会に、「被爆者健診に協力してほしい」との要請がありました。そして被団協、当協会に原水協(原水爆禁止北海道協議会)も加わって「被爆者健診をすすめる会」が結成され、独自の健診を開始しました。

当時、当協会は北海道の指定した健診機関ではなかったので、実施には苦労しました。その後、被団協を中心に北海道庁に対する働きかけを強め、1975年(昭和50年)に正式に健診機関に指定されました。

当協会では、現在、札幌病院が被爆者健診の指定医療機関となっています。(その後拡大し、すべての病院が指定されている)

被爆者健診 略年表

1964年(昭和39年)

北海道において、広島原爆病院の石田定医師による出張健診が開始される

1972年(昭和47年)

北海道被団協から、北海道勤医協へ健診への協力の申し入れ

1973年(昭和48年)

被団協、勤医協、原水協の三者により、「被爆者健診をすすめる会」結成。独自の健診活動を開始する。

1975年(昭和50年)

被団協をはじめ、「すすめる会」の働きかけの結果、道庁より「健康診断指定医療機関」の認可を受ける。

1984年(昭和59年)

健康管理手当の基準が「厳格化」され、当協会への転院者が増加。

1985年(昭和60年)

札幌医師会医学大会に「被爆者健診 10年間のまとめ」を発表。

1986年(昭和61年)

北海道被団協の生活相談会で、被爆者の病気の特徴について講演。

1987年(昭和62年)

北海道被団協の生活実態調査に協力。

1988年(昭和63年)

北海道民医連学術集談会に、「軍人被爆者の特徴について」を発表。

1989年(昭和64年)

広島の「後障害研究会」にパネリストとして参加し、研究結果を発表。

被爆者健診の概要

1988年(昭和63年)度の被爆者健診の受診者は160名でした。同年度の北海道全体の検診受診者は、道庁集計で約500名となっています。

下の図は、演者が被爆者健診を担当するようになってからの検診受診者の経年変化を示しています。

受信者数の変遷

この図から次のことが読み取れます。

まず第一に、被爆者健診の受診者が年ごとに増えていることです。これは全道レベルでもほぼ同様の傾向ですが、増加分の殆どが当協会受診の増加によるものであることがわかります。

このために受診者に占める当協会の割合は、1981年の21%から88年の32%に増加しています。

また、この8年間の総受診者は244名に達しております。

このような大きい比重を占めるに至ったのは、被団協の積極的な働きかけの影響が大きいです。とくに軍隊関係の人達が戦友関係を通じて掘り起こしに貢献しているのが特徴です。

また当協会としても、被爆者健診を特別に位置づけ、健診機関中スタッフを増強し、日曜特別診療体制を組むなど各種の対応を行ってきました。

副次的には、健康管理手当受給資格が「厳格化」されたために、他所の病院で書類作成を断られて、当協会に受診するケースが増えたこともあります。

(管理手当の「厳格化」は被爆者援護法の趣旨に明らかに反しています。後に被爆者の粘り強い抗議を受けて、かなり緩和されています)

検診受診者の内訳

受診者のうちデータが調査可能な対象となったのは160人です。

法区分別の内訳を示したのが下の図です。

法区分

広島の被爆者が134人、長崎が26人です。

1号は直接被爆者です。これは爆発の瞬間に指定された地域内にいて被爆した人です。2号は爆発の瞬間には指定地域内におらず、その後2週間以内に入市した人です。

2号の場合、市内というのは爆心から2キロ以内とされ、1号被爆よりかなり狭く設定されています。このため3号被爆というのが別に設定されており、「身体に原子爆弾の放射能の影響を受けるような事情の下にあった」人が該当します。

しかしその条件もきわめて特殊な環境に限定されたものなので、最近はさらに3号の(3)項、すなわち「(1)、(2)には該当しないが、それらに相当する被爆事実が認められる方」も対象とされるようになりました。(89年時点では該当せず)

他に被爆者の区分として4号、胎児被曝がありますが、今回の調査対象にはふくまれていません。

次が受診者の性別・年齢別分布です。

受診者の分布

男性が109名、女性が61名であり、男性の数が圧倒的に多い。年齢別に見ると60歳代が突出している。しかもそれは男性に限られている。すなわち60歳代の男性が大集団を形成していることになります。これが軍人被爆者です。受診記録上は、総数は100名近くに達しています。

この年令は1987年の時点での年齢です。つまり被爆時点では彼らの多くは20歳代です。

この数字を見て、私たちはこの特異な集団、軍隊被爆者について分析を加えなければならないと思うようになりました。

ここまでが、当協会における被爆者健診の紹介を兼ねた長い前振りになります。

軍人被爆者と市民の違い (1)被爆の経過

そこで、被爆者を軍人被爆者(以下軍人)とそれ以外の市民被爆者(以下市民)に分け、軍人被爆者の臨床的特徴を探ってみました。

まず被爆のバックグラウンドですが、直接被爆者の割合、爆心からの距離については両群に有意差は認めませんでした。これは軍人被爆者の多くが直接被爆者でもあったことを示しています。

ついで、推定被曝量ですが、これは二つの問診で爆発時の放射能、フォールアウト(死の灰による被爆)を推定しました。

一つ目が「被爆時、あるいは直後1週間の間に熱傷・外傷あるいは胃腸炎・発熱・脱毛などの急性症状を起こしたか」という質問で、これにより熱線・ガンマ線の直接影響が強かったか弱かったかを推定しました。

被爆時の傷病

両群間に有意差はありませんでした。問診者によるバラつきやバイアスはありません。すべて演者による問診です。(演者自身のバイアスはある)

もう一つの質問が「いわゆる黒い雨に当たりましたか」というものです。

黒い雨については、当初市の西部の一部地域に限局されていたとされていましたが、その後、市内の各所で降ったことが証言から明らかになっています(松尾雅嗣「黒い雨はどのように記憶されたか」)。

黒い雨 地図

20%の人が雨にあたったと回答しています。これも両群間に差はありません。

つまり、急性・亜急性のガンマ線被爆については両群の間に差はないと推定されます。

それでは健診結果はどうだったでしょうか。

軍人被爆者と市民の違い (2)健診の結果

検診結果では軍人被爆者に明らかに異常が目立ちました。もともと健康だから兵隊になったので、60歳代とはいえ、見た目は人一倍元気に見えたのですが、検診結果は逆の傾向を示したのです。

最初が「データ異常数」です。下の表です。「疾病数」と書いたのはちょっと大げさかもしれません。

疾病数

健康診断ですから、病気とはいえなくても軽微な異常があればチェックします。60代ともなれば、血圧・診察・血液・尿・レントゲン・心電図のいずれかで、「叩けばホコリが出る」可能性はあります。

しかし、これを統計処理してみると明らかに両群間には差があります。軍人のほうがより多くのデータ異常を示しているのです。(すみません。面倒なので有意差検定は行っていません)

次にデータ異常の中でも、とりわけ差が目立った肝機能を取り出して、同じく両群を比べてみました。

これは肝機能の項目が少しでも正常域を超えれば、異常としたものです。アルコール、肥満、ウィルス、免疫等の異常については一切考慮していません。

肝臓障害の有無

たいへん雑駁な表で申し訳ないのですが、肝機能異常者の割合は市民が17.6%であるのに対し、軍人は28.0%と明らかな差を認めます。

ただこれは、軍人が男性オンリーであるのに対し、市民は女性が多く混じっているので、アルコールをふくむ生活の影響が否定できません。

実は、同時期に札幌病院で行われた成人病健診のデータの集計から同年代男性を抽出して、肝機能異常の出現率を出した所、軍人被爆者の肝機能異常者の割合が有意に高いという結果を得たのですが、データが散逸してしまいました。

しかし今調べても、市民、軍人ともに肝機能異常の出現率は一般市民に比べて明らかに高いだろうと思います。

三つ目が腫瘍の頻度の比較です。

この項目については明らかに時代の限界があります。当時はまだ「ガンの告知」などとんでもないという時代でした。

したがって演者の問診と推理で「腫瘍だろう」というものを拾いだしたものです。さらに、検診時にオプションで検査したCEAとCA19-9の異常者を加えたものです。

腫瘍の発生件数

これに関しては市民の方に発生頻度が高い傾向を認めたものの、例数が少ないため有意の差は出ないだろうと思います。

ただ特徴だと思ったのは、軍人のガンが胃(当時もっともポピュラーなガン)に集中しているのに対し、市民の方は乳がん、肺がん、咽頭部腫瘍など多彩であることです。

放射能への暴露の様式が両群間で異なり、これがガンの原発部位の違いに影響を与えていることも考えられます。

肝疾患に注目した二次解析

肝機能という有無を言わせぬ客観的データで、軍人被爆者の特異性が浮き彫りになったことから、肝機能に注目して二次解析を行いました。ただし例数が少なくなるので有意差の判定には慎重さが求められるでしょう。

距離別肝疾患

市民、軍人ともに3キロ以遠の被爆では肝疾患の頻度が減り、距離の影響があります。しかし3キロ以内では、両群ともにはっきりした傾向は認めません。

爆発時の放射能と肝機能異常との直接の因果関係、すなわち同心円的パターンは認められないといえます。

しかし被曝量に関係すると思われる「被爆時、あるいは直後1週間の間に熱傷・外傷あるいは胃腸炎・発熱・脱毛などの急性症状を起こしたか」という質問と肝機能異常を関係づけてみると、下記の表のようにかなりはっきりした特色が出てきました。

傷病体験と肝疾患

軍人の場合で見ると、傷病体験のある被爆者30人のうち14人に肝機能異常を出現しています。すなわち異常率48%という高率です。これに対し傷病体験のない軍人は28人中6人にとどまります。すなわち21%です。

いっぽう、市民被爆者は傷病体験と肝機能異常との間にまったく関係はありません。肝機能異常の出現率は33%です。

つまり、軍人の間の肝機能異常の高い出現率の原因は、このハイリスク・グループの寄与によるものだといえます。

また市民の傷病体験と軍人の傷病体験の間には「質的な違い」があると予想されます。それには軍人被爆者の爆発後の行動パターンについて検討して見る必要があるでしょう。

 

 

 

 

ビキニ被爆による健康被害の状況をまとめてみた。

最初は年表に書き込んでいたが、あまりにも量が膨大で、年表が読みにくくなってしまった。そこで別文章の形にする。

データのほとんどは山下正寿さんらにより収集されたものであり、詳細については原著を参照していただければ幸甚である。なおデータの多くは80年代半ばのものであり、その後の追跡が期待される。(原水協通信 「ビキニ事件」の内部被ばくと「福島原発被災」のこれから)

1.第五福竜丸

焼津港所属のマグロ漁船。

3月1日午前4時頃 ビキニ東方160キロにおいて操業中に爆発に遭遇。ここはアメリカが設定した危険水域の外であったが、爆発の威力が予想以上に強かったために影響を受ける形となった。

久保山さんの談話: それから3時間すると粉のような灰が船体一面に降りかかった。その晩から調子が悪くなりメシも喰えない状態で、無理に酒を呑んでもまったく酔えなかった。
 2日目あたりから幾分頭の痛い人も出てきた。3日目には灰のかかった皮膚が日焼けしたように黒ずみ、10日くらい経ってから水ぶくれの症状になった。

3月14日に帰港。乗組員全員が「急性放射症」と診断され、都内に搬送されて入院となる。増田三二郎さん(28)と山本忠司さん(28)が東京大学で診察を受けた結果、原子病と確認される。

9月23日に久保山愛吉さんが死亡。日本人医師団は死因を「放射能症」と発表。米政府は「放射線が直接の原因ではない」とし、謝罪せず(現在まで)。

直接死因は急性肝機能障害であった。同様の肝障害は他の乗組員17名にも発生した。その多くは注射や輸血などで医原性にウィルス感染したと考えられる。
乗組員23人の追跡調査では、半数以上が50歳前後で若年死、その多くはガンであった。(正確な数字は確認中)

2004年に放医研の明石らが第五福竜丸被爆者の追跡調査の結果を発表。

12名が死亡。肝癌6名、肝硬変2名、肝線維症1名、大腸癌1名、心不全1名、交通事故1名。肝疾患が多くを占めるのが特徴。生存者の多くも肝機能障害があり、肝炎ウィルス検査では、A, B, C型とも陽性率が異常に高かった。(多くが医原性であることを示唆)

2.第二幸成丸

高知県室戸港船籍のマグロ船で192トン。2月24日に神奈川県浦賀を出航。ビキニ東方1000キロの海域で17日間の操業。この間に3回の核実験があった。

3月27日に第2回目の核実験で被爆。“雪”(死の灰)を浴びる。

4月15日に操業を終え築地に入る。検査で、船体から4000カウント、船員からも数百~千数百カウントが計測された。これは当時の基準上限の2,3倍に当たる。魚はそのまま処分された。

乗組員20人(保険登録者のみ)を追跡すると生存者7人、病死12人(ガン4人、心臓発作4人など)、不明者1人であった。病死者は70代前半2人、後の9人は40~60代であった。

3.第13光栄丸

4月5日、操業を終え、神奈川県三崎港に入る。船員中に白血球減少症患者が3人発生。約50トンのマグロは洋上放棄される。

4.新生丸

19人の乗組員が保険登録されており、死亡者は14人、生存者2人、不明者3人。

宿毛市の漁村から同じ船に乗り継いだ7人をグループとして追跡した。このグループは1957年に第8達美丸に乗船し、クリスマス島の核実験にもう一度遭遇している。7人中、生存者は1人であり、病死6人(ガン4人、心臓発作2人)、50代が3人であった。生存者の1人も心臓近くの血管と胃の手術をしている。

5.第5海福丸

4月7日帰港時に汚染マグロ340本が海洋放棄された。乗組員の判明者18人中9人が病死(ガン5人)し、生存者もリンパ腺ガン、結核、胃潰瘍などで手術をしている。

6.沖縄のマグロ船(2隻、船名不明)

乗組員68人を追跡。うち、17人が40―50代で死亡していた。死因が分かったのは12人。11人がガンだった。(沖縄の高校教師による自主調査)

7.高知県の被爆船員の追跡

1987年時点での数字。

消息が判明した本県の漁船員187人のうち40人が病死。その約2割が40―60代の「若い死」だった。被ばく者がなりやすい癌、心臓まひ、白血病で亡くなった人は24人もいた。(高知新聞)

放医研の明石らの調査でもわかるように、第五福竜丸の船員の死亡には、輸血の影響がかなりあることがわかる。

このバックグラウンドを除くと被爆の影響はかなり抑えられることになる。早死・ガン死の傾向は、おそらくは大半が無治療・無観察であった他の漁船のほうが正確に表れているであろう。

その点では、最後に高知新聞の紹介で載せた数字(約40年後のフォロー)が大まかな傾向となろう。消耗率は40÷180×100=22%である。

87年時点での30歳男性の平均余命(50%死亡)が47歳であるから、この数字は必ずしも高いものではない。その2割が70歳未満の死というのも必ずしも驚くほどのものではない。もう少しハイリスク・グループに絞って検討すべきかもしれない。

ビキニ核実験 被爆年表 増補版

昨年の今頃、ビキニ年表を作成したが、今回新しい情報もあり、増補しようと試みた。ところが増補すべき情報が意外に多く(ということは前回の年表がかなり不十分だったということ)、新たに増補版として、もう一度アップすることにする。

ビキニ被爆者の調査で分かったことは

1.高い死亡率(年間消耗率)

2.比較的若年での死亡率の高さ

3.ガン死亡の比率が高いこと

これは、私が以前調べた「暁(あかつき)部隊被爆者の健康調査」の結果とも一致している。

なお、ロンゲラップなどマーシャル諸島の島民被爆については、いずれ別の機会に掘り下げてみたい。

古い方の年表に行く人もいるかも知れないので、そちらにはリンクを貼っておく。



1946年

7.01 アメリカ軍が太平洋の島での核実験を開始。58年7月までにビキニ環礁やエニウェトク環礁で計67回の核実験を行う。

8.05 ルイ・レアール(フランスのデザイナー)、「周囲に破壊的威力を与える水着」を「ビキニ」と名づけ発表。(こちらのリンクのほうがはるかに興味深い)

1950年 朝鮮戦争が始まる。マッカーサー総司令官は本国政府に対し原爆の使用許可を求める。

1952年 アメリカ、マーシャル諸島の西端エニウェトク環礁において初の水爆実験。アイビー作戦と呼ばれる。

マーシャル諸島は太平洋中西部に位置し、29の環礁と五つの珊瑚島からなる。人口は約5万人のミニ国家。

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               核兵器と核実験③ より転載

1953年 ソ連、水爆実験に成功。

1954年

54年3月1日

午前3時42分 アメリカ軍、ビキニ環礁で水爆実験をおこなう(キャッスル作戦)。最初の水爆は「ブラボー」(15メガトン)。この日を皮切りに、5月まで計6回、計48メガトンの核実験が行われた。

アメリカ軍は水素爆弾の威力を4~8メガトンと見積もっていたが、実際の威力は15メガトンに達した。実験を行なった島は消え去り、深さ120m、直径1.8kmのクレーターが出来た。


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             Castle Bravo

動画は下記で
Castle Bravo Nuclear Test 

午前4時頃 ビキニ東方160キロにおいて、焼津港所属のマグロ漁船「第五福竜丸」は、操業中に爆発に遭遇。アメリカが設定した危険水域の外であった。

久保山さん(無線長 当時40歳)の談話: 水平線上にかかった雲の向こう側から太陽が昇る時のような明るい現象が3分ぐらい続いた。約10分後、爆弾が破裂したような鈍い音も聞いた。

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75年、夢の島で廃船を待つ第五福竜丸。意外に大きく、長さ34メートル、140トン。船体だけで5メートル。マストの先端までだと15メートルある(高知新聞)。
 

午前7時 「第五福竜丸」の乗組員23名全員が放射性降下物に被曝。延縄の収容に時間がかかり、数時間に渡って放射性降下物の降灰を受ける。

3.01 室戸船籍の第七大丸もビキニ近くで操業中、真っ赤な閃光ときのこ雲に遭遇。「死の灰」も浴びた。

3.01 第五福竜丸以外にも危険区域内で多くの漁船が操業していた。放射性降下物を浴びた漁船は数百隻、被爆者は2万人を越えるとされる。

水産庁によれば被曝船は延べ855隻とされる。うち1/3が高知県の船籍だった(高知新聞)


3.01 漁船の乗組員の他に、ロンゲラップ島民86名、ウトリック島民157名が被爆。ロンゲリック島で実験を観測していたアメリカ兵28名も被曝した。

ビキニから180km離れたロンゲラップ島民は避難させられずに、激しい衝撃波と爆風、そして放射能を含んだサンゴの粉が島中に降り積もった。やがて激しい嘔吐、皮膚の炎症、脱毛などの急性放射能障害が島民を襲った。マーシャル諸島(ビキニ水爆実験)

54年3月

3.14 第五福竜丸が操業を終え、母港焼津に帰港。乗組員全員が「急性放射症」と診断され、都内に搬送されて入院。

3.16 『読売新聞』朝刊一面で第五福竜丸の被爆が報道される。

「邦人漁夫、ビキニ原爆実験に遭遇」、「23名が原爆病」、「太平洋ビキニ環礁付近で、焼津の第五福竜丸が原子爆弾らしいものに遭遇した」、「水爆か」などと伝えられた。(竹峰誠一郎「ビキニ水爆被災から50周年 核実験場とされたマーシャル諸島の今」より転載)

3月16日 船員で中重傷の増田三二郎さん(28)と山本忠司さん(28)が東京大学で診察を受けた結果、原子病と確認される。

3月17日 「原爆マグロ」の報道により、仲買相場が半値にまで下がる。(高知新聞によれば6月には魚価は5分の1以下まで下がったという)

3月27日 シリーズ2回目の核実験。ロメオが爆発。

3月27日 核実験海域よりはるか東方で操業中の室戸船籍の第二幸成丸、“雪”(死の灰)を浴びる。このフォールアウトは2回目の実験により発生したものとされる。

第2幸成丸は高知県室戸港所属のマグロ船で192トン。故崎山秀雄船長の漁業日誌により詳細な航路が明らかになっている。幸成丸は2月24日に神奈川県浦賀を出航。ビキニ東方1000キロの海域で17日間の操業。この間に、3回の核実験があった。

3.18 水産庁は塩釜、築地、三崎、焼津、清水の5港を「遠洋漁業陸揚げ港」に指定。水揚げされたマグロすべてに放射能検査を義務づける。

3.31 水産庁が検査結果を発表。アメリカ水産庁の予測した危険水域の外でも、第13光栄丸・明神丸など漁船の多くに、相当量の死の灰が降り注いだ事を明らかにする。

3.26 「第五福竜丸事件 善後措置に関する打ち合わせ会」が第1回目の会合。この「打ち合わせ会」は安藤国務大臣を筆頭とし、外務、大蔵、農林、厚生など各省次官で構成された。記録には極秘の印が押されるなど、最高機密レベルの会であった。

3月 各地で水揚げされた魚に放射能が発見される。検査は船体とマグロについて行われ、人体の検査記録は除外されていた。

3月の核実験直後は、放射能に汚染されたマグロの部位は内臓やエラであったが、8月以降になると肉や骨からも放射能が検知されるようになり、特に半減期が30年と長いストロンチウム90などに汚染。「ビキニ事件の内部被ばくと福島原発被災のこれから」(山下生寿)より

54年4月

4.05 三崎に入港した第13光栄丸が高度の放射能汚染。船員中に白血球減少症患者が3人発生。約50トンのマグロは洋上放棄される。

4.06 三回目で、シリーズ中最大規模の「クイン」(110メガトン)の爆発実験が、予定通り行われる。

4月15日 第二幸成丸、操業を終え築地に入る。検査で、船体から4000カウント、船員からも数百~千数百カウントが計測された。これは当時の基準上限の2,3倍に当たる。魚はそのまま処分された。

4.17 カウント100以上の放射能が確認されたマグロは不合格に認定されることになる。7万トンのマグロが放棄される。(一説では約486トン)

4.22 米国家安全保障会議の「作戦調整委員会」 (OCB)、「水爆への日本人の好ましくない態度を相殺するための米政府の行動リスト」を起草。事件のもみ消しを図る。

1.日本人患者の発病の原因は、放射能よりもむしろサンゴの塵の化学的影響とする。
2.放射線の影響を受けた日本の漁師が死んだ場合、病理解剖や死因の発表については日米共同で行う。
3.(そのような事態への)準備も含め、非常事態対策案を練る

4月26日 第4回目の核実験(ユニオン)が実行される。

4月 降雨中より放射能が検出されたとの報道

54年5月

5月5日 第5回目の核実験(ヤンキー)が実施される。

5.06 「打ち合わせ会」が第10回目の会合。第五福竜丸の他、第13光栄丸など17隻の被害船が実名であげられる。損害について米側に補償を求めることで合意。

5月09日 原水爆禁止署名運動の杉並協議会が発足し、署名運動が全国に拡大する。

5月14日 第6回目の核実験(ネクター)。一連の核実験は予定通り完了。

5月16日 全国でビキニ水爆実験の影響による放射能雨が計測される。

5月末 6回にわたる水爆実験が終了。

5月26日 調査船・俊鶻丸(しゅんこつ)が、水産庁顧問団から派遣された三宅泰雄ら科学者22人を乗せ、現場海域で第1次調査。ビキニ環礁150キロのところに最大汚染水域を発見。

海水の放射線量は7千カウントをこえ、水しぶきを浴びるだけでも危険という状態だった。プランクトンは1万カウント、魚はかつおの肝臓で4万8千 カウントと汚染されていた。汚染海水は、深さ100メートル、幅約10キロから100キロのベルト状になってゆっくり西方に流れていた。
ビキニ事件の内部被ばくと福島原発被災のこれから」(山下生寿)より

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俊鶻丸の研究者たち NHK静岡「海の放射能に立ち向かった日本人~ビキニ事件と俊鶻丸」より

54年6月

6.08 「打ち合わせ会」の第13回会合。水産庁が「水揚げマグロの検査で41隻の漁船が魚の廃棄処分を受けた」ことを報告する。またリン鉱石運搬船の「神通川丸」で放射能症が疑われるケースが発生し、大阪船員病院に入院したことも明らかにされる。

8.06 「打ち合わせ会」の第16回会合。被害船の数が100隻を超えたことが明らかにされる。「先に内払いを行った33隻以降、116隻の漁獲物を廃棄した漁船の損害…」と記されているが、「内払い」の方法、金額については不明。

9月23日 久保山愛吉さん(無線長)が「原水爆による犠牲者は、私で最後にして欲しい」と言い遺して死亡。日本人医師団は死因を「放射能症」と発表。米政府は「放射線が直接の原因ではない」とし、謝罪せず(現在まで)。

直接死因は急性肝機能障害であった。同様の肝障害は他の乗組員17名にも発生した。その多くは注射や輸血などで医原性にウィルス感染したと考えられる。
乗組員23人の追跡調査では、半数以上が50死前後で若年死、その多くはガンであった。(正確な数字は確認中)

12月26日 鳩山内閣が成立。年内いっぱいでマグロの放射能検査を打ち切る。アメリカ原子力委員会の主張を受け入れたものとされる。

54年 この年映画「ゴジラ」が公開される。ゴジラは水爆実験が産んだ放射線を吐く怪物として設定される。

エード・メモアール: 水産庁や海上保安庁は放射能被害にあった船の被災状況を仔細に調査した。内容は船名、乗組員の数、 トン数、出港から帰港までの日付ごとの移動経路、人体・船体などの放射能測定値、漁獲物の放射能値など。これは外務省から「エード・メモアール」というレ ポートとして逐一アメリカ大使に渡されていた。

1955年

1月 「日本政府はアメリカ政府の責任を追及しない」確約を与え、慰謝料として、200万ドル(当時約7億2000万円)が支払われた。第五福竜丸被災者への「好意による見舞金」の他、廃棄したマグロ、魚価下落分の補償などに充てらたという。

見舞金は第五福竜丸だけに支払われ、一人当たり200万円に達した。他の漁船からのやっかみがあり、乗組員は仕事を離れざるを得なくなった。

8月 広島で第1回原水禁世界大会が開かれる。原水爆実験反対署名は3200万筆に及ぶ。

55年末 原水爆実験反対署名、全世界で6億7千万人に達する。ノーベル賞受賞らが連名で、ラッセル・アインシュタイン宣言を発表。

人類と核兵器の危機的な関係を直視し、東西の立場を超えて人類の生存の問題として共に核兵器廃絶に踏み出すことを訴える。

1956年

 旧厚生省、延べ556隻の漁船の被ばく状況調査を元に、「(第五)福竜丸以外には、特に放射能症を認められる事実のないことが明らかとなった」と通知。

5月 俊こつ丸による第2次調査。海水汚染は北赤道海域の面まで拡散。魚体内には1954年の水爆実験時の放射能が残留していた。

1957年 ロンゲラップ島に安全宣言が出される。住民の多くが食物摂取により重大な内部被曝を浴びる。

1958年

7月8日 アメリカ、マーシャル諸島で核実験。ビキニ南東1440キロで1リットル当たり毎分400カウント(マグロの廃棄基準は100カウント以上)の放射線を観測。

7月14日 海上保安庁測量船「拓洋」がビキニ西方でスコールに遭遇。雨水中には1リットル当たり毎分10万カウントの放射線を含んでいた。帰国後の血液検査で、乗組員の白血球数低下が見られた。

7月 この頃、室戸船籍の第八達美丸が被爆。

岡本清美さん(乗組員・故人): 皆ではえ縄を揚げていたら突然、大明かりになった。空を見ると赤い火というか、太陽のような丸い玉があった。1、2時間後にスコールが降った。(日時・場所は特定できず。岡本さんは54年にも被爆している)

1960年

8月 高知県幡多郡宿毛の藤井節弥さん(当時27歳)が「原爆症」を苦にして自殺。藤井さんは長崎の被爆者で漁船の乗組員としてビキニでも被爆。

藤井さんが遺した詩: じつと目を閉じ/我が遠きふるさとの磯辺/父母の面影を思い起こさむ/ただいたづらにそれのみ/いたづらにそれのみ/さざなみの泡立つ海へ歩みゆく/さながら自殺する如くにぞ

1962年

アメリカ、イギリスはビキニなど太平洋中西部で92回もの核実験を行った。その威力は、広島に落とされた原爆の六千数百発分に相当する。

1963年 大気圏内核実験が停止される。地下核実験などはその後も続く。またフランスは条約を無視し、66年にムルロア環礁で大気圏内核実験を実施。

1968年 ビキニ環礁、放射能除去作業の結果帰島可能となったと判断。旧島民140人の帰島が許される。10年後に放射線障害が多発したため再離島。住民は食糧難のもと、アメリカ政府からの生活保障費で生活を続けている。

1971年 「被爆26周年原水禁世界大会」(原水禁系)に2人のミクロネシア代表が参加。マーシャル諸島の島民被爆が明らかになる。

1976年

東京都江東区の「夢の島」で廃船を待つ第五福竜丸が発見される。関係者の尽力により、第五福竜丸展示館に永久展示されることになる。

1977年

2月 第二幸成丸の乗組員だった寺尾良一さんが吐血した後急死。40歳前後と推定される。(食道)静脈瘤の破裂の診断。(* 食道静脈瘤破裂は肝硬変末期の合併症)

1985年

4月 幡多地域の教師たち(幡多高校教師の山下正寿さんら)が戦後40年の節目として、県内在住の広島、長崎被爆者の調査。この過程で。水爆実験の被爆者の存在に突き当たる。

発掘のきっかけは、藤井節弥さんの母からの聞き取りだった。母は幡多郡大方町に住んでいた。(高知新聞)

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藤井節弥さんの母の証言に耳を傾ける高校教師ら(1985年、宿毛市内)

7月 「幡多高校生ゼミナール」ビキニで被ばくした乗組員300人を聞き取り調査。

当時の室戸小型船主組合長だった崎山秀雄さんの証言が口火になり、次々に証言が集まった。(高知新聞)
崎山さんは第二幸成丸の船長としてビキニで核実験に遭遇した人。

9月 「幡多高校生ゼミナール」の報告を受けて、高知県ビキニ被災調査団が結成される。森清一郎さんを団長に、医師や大学研究者など約50人が参加する。

30年を経過して多くの人が死亡。第2幸成丸は20人中生存者7名、新生丸は19人の乗組員が保険登録されており、死亡者は14人、生存者2人、不明者3人。第5海福丸は18人中9人が病死(ガン5人)。

1985年 いったん島に戻ったロンゲラップ島民に放射能障害が多発。島民は200km離れたクワジェレン環礁のメジャット島に脱出する。

1986年 高知県ビキニ被災調査団が、自主的な健康診断を実施。

1986年 「マーシャル諸島共和国政府」が独立。米国との間に自由連合協定を締結。第三者組織による放射能の影響調査を開始する。95年に報告書が提出されるが、米国政府はこれを承認せず。

1987年

2月 調査団は高知市で「ビキニ水爆実験被災シンポジウム・高知」を開催。約1年半かけて追跡した船員の健康実態を報告。

消息が判明した本県の漁船員187人のうち40人が病死。その約2割が40―60代の「若い死」だった。被ばく者がなりやすい癌、心臓まひ、白血病で亡くなった人は24人もいた。(高知新聞)

高知の調査を知った沖縄の高校教師らが、独自の調査活動を開始。

沖縄の2隻のマグロ船の乗組員68人を追跡。うち、17人が40―50代で死亡していた。死因が分かったのは12人。11人がガンだった。

1998年 国際原子力機関(IAEA)、マーシャル諸島共和国政府の依頼を受け放射能調査。本環礁に定住しそこで得られる食料を摂ると年間15mSvに達すると推定され「早くとも2052年まで永住には適さない」と結論。

2004年 放医研の明石らが第五福竜丸被爆者の追跡調査の結果を発表。

同年までに12名が死亡。肝癌6名、肝硬変2名、肝線維症1名、大腸癌1名、心不全1名、交通事故1名。肝疾患が多くを占めるのが特徴。
生存者の多くも肝機能障害があり、肝炎ウィルス検査では、A, B, C型とも陽性率が異常に高かった。

2010年 ビキニ環礁が「負の世界遺産」に指定される。ミクロネシア連邦は憲法前文に「世界はひとつの島なのだ」を掲げる。

2013年

3月 外務省が資料の一部を開示。国内向けには「ない」としながら、米国に渡していたことが明らかになる。

2014年

9月 厚生労働省からビキニで被爆した他の船体や船員にかんする文書が見つかる。市民団体の情報公開請求に対し、厚生労働省が開示。

第五福竜丸以外に473隻が検査を受けた。毎分100カウント以上(最高988カウント)の放射線が乗組員から検出された船は10隻あった。

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厚労省開示文書

2015年

2月 水産庁、被爆漁船に関する文書を発見し提出。水産庁はこれまで日本漁船の被爆記録の存在を否定し続けてきた。

2016年

2月 1954年のビキニなどの核実験で被爆した元船員らが、「労災」として船員保険の適用を求め、全国健康保険協会高知支部に集団申請する。

すでに第五福竜丸の船員23名には船員保険が適用されている。

 

ビキニデーを前に、赤旗が意欲的な連載を組んでいる。

去年の今頃は、紙智子議員が「被害を受けた漁船の総数は実に1423隻に及んだ」ことを明らかにさせた。

その時に、私も年表を始めとしていくつかの記事を上げた。

感想ではいくつかのポイントを上げておいた。

1.ビキニの水爆による被爆は「被曝」と書くべきではない。まさにそれは被爆そのものであった。

2.少なくとも結果論としては、米軍は水素爆弾により久保山さんを殺したことになる。

3.第五福竜丸を偶発的な事故のように見せかけつつ、その後さらに5発の水爆を爆発させた。この行為は悪意(殺意)としか言いようがない。

今回はまず、去年の年表に増補し、改訂版として掲載しょうと思う。その後どうなるかは成り行き次第。

 

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