鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

13年4月、ぷらら・Broachより移行しました。 中身が雑多なので、カテゴリー(サイドバー)から入ることをおすめします。 過去記事の一覧表はhttp://www10.plala.or.jp/shosuzki/blogtable001.htm ホームページは http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」です。

カテゴリ: 10 医療

「下げりゃいいじゃん」という糖尿病治療

もう十年も前になるか、循環器学会で「糖尿病と冠疾患」みたいなシンポがあった。そのとき、糖尿病の専門の先生がこう言ってくれた。

「下げりゃいいんですよ」

これを聞いて、溜飲が下がった。

自分の病院では糖尿病の先生が何十種類ものクスリやインシュリン製剤を使って治療していて、素人には手が出せない雰囲気だった。

もちろん血糖は90~110くらいHbA1cは6以下にしなければならない。そのために患者はがんじがらめに縛られて、ひっきりなしに勉強させられていた。

困るのはナースがやたらとダメ出しをすることである。「先生、それはダメですよ」とか、「そんな指示じゃ受けられません」とくる。

研修医の時代ならともかく、こちらも専門領域の仕事で忙しいから、DM患者が受け持ちになるとそれだけで気が重くなったものだ。

いまも相変わらず糖尿病の世界はそういうたぐいの連中が幅を利かせているようだが、私は老人保健施設に移ってからはこれで決めている。

1.経口薬はアマリール一筋

2.ばらつくようなら、他剤追加も検討(とは言うものの、現実には使えるものは使っちゃうのだが)

3.アマリール6ミリでもコントロールできなければインスリン(ランタス)追加

ということでいる。

昔はインスリンと経口薬を併用すると叱られたものだが、最近はBOTとか言ってむしろ勧められているようだ。

のだが、最近1日40単位もインスリンを使わなければならない人がいて困っている。急に悪くなったのなら送ってしまえばいいのだが、1日20単位のレベルで病院から送られてきた人だから、もう少し頑張るしかない。

聞くところによると、最近「ビクトーザ」の注射という手があるらしい。これが4.になるのか?

理屈はよう分からん。ただ臨床データは良さそうだから、「溺れるものの藁」位のつもりで検討してみようかと思っている。


ちなみに糖尿病の経口薬一覧表

スルホニル尿素薬 第1世代

ジメリン錠 デアメリンS錠

 スルホニル尿素薬 第2世代

オイグルコン(ダオニール) グリミクロン

 スルホニル尿素薬 第3世代

アマリール

速効型インスリン分泌促進薬

スターシス グルファスト

α-グルコシダーゼ阻害薬

グルコバイ ベイスン セイブル

ビグアナイド薬

メトグルコ ジベトス

チアゾリジン薬

アクトス

SGLT2阻害薬

いろいろ

DPP-4阻害薬

グラクティブ ジャヌビアなどいろいろ

GLP-1受容体作動薬

ビクトーザ(注射用のDPP-4)

DPP-4阻害薬とSGLT2阻害薬が流行りのようで、薬屋さんが入れ替わり来ては効能を語っていくが、馬の耳に念仏

「ガイドライン」は山ほどあるが、結局何かの宣伝だ。しかもこういうエライさんはこういうところで言うことと、現場でやっていることが結構違う。もっとゴリゴリだ。平気でカンカンノウを踊らせる。俺は知ってるぞ。


クレナフィンは何故滲み込みやすいのか

水虫の薬はどのようにして効くのか
爪白癬の付け薬 ほんとうに効くのか

ニキビをやったので、次は水虫、とくに爪白癬。

老健や特養では白くカサカサと盛り上がった爪白癬をよく見かける。

実際上何もしていない。もう20年も前から爪白癬の飲み薬はある。たしかに効く。しかし何か起きた場合のことを考えるときわめて使いづらいのだ。

これが高血圧、糖尿病、高脂血症などであると、多少のリスクはあってもベネフィットと秤にかければ使える。しかしたかが水虫である。それで死ぬことはない。

ずらずらとならぶ副作用のリスト、併用禁忌薬のオンパレードを見ると、それだけで萎えてしまう。我々のような施設では重篤な副作用が出れば、患者ではなく施設の方がやられてしまう。職員数百人が路頭に迷うことになる。

そこにツケグスリが出てきたという朗報。こちらも食指が動く。しかし高い。1本、およそ1ヶ月分で6千円というから老健では手が出せない。

しかし特養でなら保険が効くから使えないでもない。そこで少し調べてみることにした。

まずは白癬症治療の最近の動向。

素人向けのページから入ることにする。(私も素人みたいなもんですから)

グーグルで最初に引っかるのが 皮膚科Q&A というページ。日本皮膚科学会のサイトらしい。

最初の辺は飛ばして、

Q6 患者数。

日本では1千万人以上の爪白癬患者がいる。60歳以上の高齢者の4割がかかっている(米国の調査)

足白癬はその2倍もいるというから憲法改正はらくらくクリアーする。

Q20 塗り薬の使い方

塗り薬を毎日つければ、約2週間程度で良くなります。再発を防ぐには自覚症状があるところだけでなく、指の間から足裏全体に最低1カ月毎日塗り続けることが大切です。

治っても、またうつされることがあるので、家族全員が治す必要があります。

Q24 爪白癬の治療

爪が厚くなり、黄~白色に濁る爪白癬は飲み薬でないと治りません。

この後に()して次のように書かれている。

但し2014年には、あまりひどくない爪白癬に有効な塗り薬が発売される予定です。

ウムこれだな。

飲み薬にはイトラコナゾールとラミシールがあり、前者は他の薬剤との飲み合わせの問題が多く、後者は肝機能障害などの重篤な副作用をおこす事があります。

ジェネリック薬は臨床試験で有効性と安全性が確かめられていないので、効きが悪いものがあるかもしれません。

まぁ、素人は手を出すなということだな。

Q29 予防法

浴場では、足ふきマットにはほぼ100%白癬菌がいます。家にかえってからすぐに足を洗いましょう。

あとは他人の家にむやみに上がらないことも大切で、他人の家に上った場合は、家に帰ったらすぐに、足を洗うか水虫の薬をつけること。

と、いうことで「他人の家にむやみに上がらない」は笑えてしまう。

水虫の話はとりあえずおしまい。

皮膚科学会の説明書に、「2014年には、あまりひどくない爪白癬に有効な塗り薬が発売される予定」というのがこのクスリ。「クレナフィン」という。

実際に使ってみてどうかという話に進む。

クレナフィンの用法・用量と薬価について

用法・用量は1日1回罹患爪全体に塗布となっている。端がハケのようになっており塗りやすくなっている。足の爪の生え変わりは約1年かかります。そのため48週の使用が基本となる。

tumehakusenn

1本(1ヶ月分)で、なんと5900.7円です。

あとは、軽症の爪白癬に限定されていることも念頭に置いて置かなければならない。爪ごと剥がしてしまいたくなるような立派な爪白癬には効かないということになっている。

その後、同じような謳い文句でルリコナゾールという外用剤も発売された(2016年1月22日承認)


ニキビの薬はベピオゲル

なんだコレ。。薬局がめっちゃアピってる謎の化粧水

というページがあった。「オードムーゲ」という付け薬で、なんでも薬局の前にのぼりが立つほどに売れているそうだ。

オードムーゲ

しかし、「いまさらなんだろう」とも思う。

すでに医療保険でニキビの薬もらえるのに、そんなものにこだわる必要ないのにな。

ただ顔につける薬だからやはり怖いのだろう。

我々にはロドデノールというイヤな思い出がある。

絶対に!ニキビを治す,そんなブログです というブログで、微に入り細にわたり、懇切丁寧に説明してくれているので、ご参照ください。

私の感想だが、「効く薬」というのは結果的に病気の本質を明らかにしてくれる。

ニキビについては、これまであまり効く薬がなかったから、いろいろ能書きがたれ放題で、半ば「業病」のような趣さえ漂わせていた。

この薬の登場で明らかになったのは本質が皮脂の過剰に伴うアクネ菌の繁殖であることだ。したがってアクネ菌の繁殖を抑えればニキビの悪化は阻止できるということだ。

ペピオゲルのいいところは抗生剤ではなく酸化剤であるために、アクネ菌(嫌気性菌)の活発なところにだけ効くターゲット効果を持つことだ。薬剤耐性もできない。

ニキビのもう一つの面は炎症後の反応性の角質増殖だ。これは自然寛解するので何もしなくて良いのだが、ひどい場合にはピーリング(薬剤による角質剥離)を補助的に使用すれば良いということだ。

ただそれには、ヒルドイドとか昔からの軟膏で対処したほうが安心かもしれない。くれぐれもやり過ぎないようにすることだ。

輸入薬についての私の経験から言うと、日本人の適量というのはもっと少ないのかも知れない可能性がある。当面はおっかなびっくりペピオゲルを使っていたほうが無難かもしれない。

最初に使うときはアクティブな病巣に限局して“チョン付けして使ってみてはどうだろうか

pepi2

ペピオゲルの薬価は15グラム入りで1800円。保険を使えばその3割で540円ちょっとになる。まあ他に診察料もかかるから最初はもうちょっと高い。

オードムーゲは価格.comで調べると500mlで2500円位だ。まぁ値段ではなく効くか効かないかだが…

我々が「自らの死」を哲学として考える場合、老化による自然死と、老化とともに発生するさまざまの病気による死亡とを分けて考えなければなりません。

いくら年を取ったとしても、病気で死にたくはありません。やはり死というのはろうそくの蝋が最後まで燃え尽きて、ふっと火が消えるような死でありたいものです。

これまで認知症は老化による死と混同されてきました。しかしだんだんと、それが病気であることが認識されるようになってきました。

だから認知症は克服されなければならないし、人類はすでにその一歩を踏み出しつつあります。

もう一つの混同があります。

それは患者本人をどう対応していくかという問題ではなく、家族がそれにどう対応していくかという問題意識が先行していることです。

私はこれも一種の病気、社会病理現象だろうと思います。率直に言えば、みんなグループホームか老人ホームに入ってしまえば、この問題は解決してしまうのです。

ここのところは、かなり慎重な物言いをしなければならないところですから、できるだけ思慮深く話したいとは思いますが…

まず皆さんに心から納得してもらいたいのは、認知症は脳の病気だということです、そして脳の器質的な病理的変化の結果、精神異常をきたす病気だということです。

だから基本的な戦略は病理的変化を防ぎ、できれば治すことです。そして器質的病変の結果もたらされる精神異常をコントロールし、それなりに社会適応させることです。

そのためには専門的知識と技量が必要です。肺炎や心不全になったら入院が必要なのと同じように、認知症が進行しそのために精神異常が出現したら、自宅で管理するのはやめて専門施設にゆだねるべきなのです。

ここから先はやや乱暴な議論かもしれませんが、徘徊する認知症は施設に入れるべきだろうと思います。それは幻覚・幻聴が出現した統合失調の患者を措置入院させるのと同じです。

なぜならそれは病気であり、専門治療が必要であると同時に、それが病気でありきちっとした治療管理の下でコントロール可能となるからです。

端的に言って、今の日本では「在宅介護こそベスト」というイデオロギーが押し付けられています。よしんばそれが正しいとして、徘徊老人の管理まで「在宅」の範疇に突っ込むのは、医学的に見れば間違いです。

統合失調の患者がうわごとを叫びながら刃物を振りかざすのを、「在宅ベスト」なんだから在宅で見ろというのと同じです。

哲学的判断より、まずは医学的判断です。早期対応が必要です。

なぜそれをためらうのか、それこそ政府やメディアの「自己責任・自助努力」キャンペーンのためです。「善良な市民」はそれをまともに受け止めて真剣に考え込んでしまうのです。

戦時中、若者はほかの選択なしに死を選ばされました。それを運命として受け入れるとき、どう生きるのかということで、三木清がより合理的な、その故に、より屈折した「哲学」を展開しました。

私は今度の線路内侵入・轢死事件も本当の責任者は、「在宅ベスト」論の主唱者だろうと思います。

家族が責任を問われるとしたら、それは「どうしてもっと早く専門施設に入れなかったのか」ということであり、「頑張りが足りなかった」ことでも、「ちょっと居眠りをしてしまった」ことでもありません。そして誰よりも責任を問われるべきは、患者を強制的にでも収容させなかった行政の責任だろうと思います。

ただ2007年の時点でそこまで言えたかという医学の側の問題は残るので、決めつけはできませんが。

結論

認知症問題を哲学的に考えるのはやめよう。すくなくともその前にやるべきことがいくつかある。

前の記事で引用した柳谷さんの文章は、下記の論文からの孫引きである。
この論文は介護者の援護について、樋口恵子らジェンダー派の人たちとの論争の書であり、したがってやや難解である。
ここでは、介護は近世からの引き継ぎ課題であることを明らかにした部分を要約紹介しておく。

三富 紀敬 「介護者, 介護者支援と社会政策研究」 「静岡大学経済研究」2009年12月


A)社会の高齢化は理由にはならない

社会の高齢化にともなって介護問題が顕在化したというのは、必ずしも事実ではない。

平均寿命の延長は乳幼児死亡率の減少によるものであり、乳幼児期を生き延びた人々の平均寿命は必ずしも低くはなかった。

高齢者比率の増加は間違いないが、それは乳幼児死亡の低下及び出生率の低下によるものであり、高齢者の数が増えているとはいえない。むしろ健康で自立した高齢者の増加により、就労者負担は減っている可能性もある。

この説明の当否は(要介護高齢者+要養育年少者)÷(介護者+養育者)の比率を時代で追っていくことで説明しなければならないだろう。

B) 介護が話題になる前の介護

新村拓によれば、1815年(文化11年)の『関口日記』には以下の記載。

老病を介護する『介抱人』は疲労を含む厳しい生活を送っている。息子や娘は介抱のため奉公を止めて家に帰り、あるいは、奉公先に頼んで介護休暇を取ったり、家に居てできる仕事に変わったりしている。

前の記事でも紹介した柳谷慶子の論文、『近世の女性相続と介護』では以下のように記されている。

江戸時代中期には、親の扶養問題を中心に据えながら、家族が果たすべき扶助役割のなかに看護や介護を位置づけるようになった。

なかでも一家の主人たる男性の責任は重大であった。主人を中心に家族全員が協力して親を養い介抱する家族像が、期待された。

この背景には、直系親族を中心とした小家族の一般的な成立があり、家族役割の自覚化が強く促されたからである。

幕府と藩は、家族による扶養と看病・介護を規範化して、家族の自助努力を涵養した。これにより扶養と介護の主体としての家族の位置づけがさらに一層強調されるようになる。

ところで当時の高齢者の比率だが、同じ柳谷さんの論文「日本近世の高齢者介護と家族」では以下のごとく書かれている。

18世紀半ばから19世紀前半にかけて、65歳以上の高齢者の割合は10パーセントから15パーセントに上っている。

これは現代と比べて決して少ない数字ではない。

この数字と「家」のイデオロギーが女性を介護に縛り付けたのである。

近世における高齢者比率の予想外の高さは、日本に限ったことではなかった。

イギリスの福祉史研究者パット・セインは、下記のごとく述べている。

産業革命以前のイングランドとウェールズにおいて、60歳以上の人口比率はけっして低くなかった。それは18世紀初頭には10%を越えていた。…両親の介護は娘の逃れるわけにいかない務めの一つであった。

C)介護者の負担への注目

最初に介護問題が取り上げられたのは、1920年代から1940年代のことである。アメリカの労働統計局、スエーデンのミュルダール、ノルウエーのダニエルセンなどがあいついで調査を発表し、介護者対策の必要を訴えた。

61年にはイギリスのティザードらによる『精神障がい者とその家族−社会調査−』が発表された。

調査は住宅事情をはじめ家計の収入と支出、貧困基準との関係、介護に当る母親と父親の健康状態、休日の外出などを含む家族生活への影響などの項目についておこなわれた。以下が結論。

家族の生活水準ははっきりと低く、介護に伴う追加の出費や母親の無業者化などが影響を及ぼしていた。友人や隣人との接触も短く、社会的な孤立さえ生んでいた。一言で言って豊かな社会生活とは程遠い状態にある。

日本では介護保険の導入時に杉澤秀博らによる本格的な学術調査が行われた。その結果、介護者の情緒的な消耗度は、介護保険制度導入後に有意に強くなっていることが示された。

(これはおそらく介護保険導入のためというより、それが患者の病院からの追い出しと在宅押し付けとして実施された結果であろう。従来からの在宅介護者のみを対象にすれば、逆の結論が出るかもしれない)


一言感想

ジェンダー論者は介護問題を女性を家庭の桎梏から解放する課題として捉えている。それはそれで間違いではないのだが、「家」という封建的な桎梏とともに、財政的な問題(安上がりな高齢者対策としての在宅促進)、「貧困の罠」が潜んでいることを忘れてはならないだろう。

そこには「在宅こそが理想、だから親の面倒を見るのは当然」というイデオロギー面でのすり替え攻撃も並行して行われているが、この手口も江戸時代のイデオロギー攻撃と変わっていない。


 「逆扶養」の歴史的把握が必要だ

家族の監督義務の問題は、そもそも子供に親を見る義務があるのかという根本的な問題に突き当たる。

今回のケースでも長男夫婦が面倒を見ていたから発生した問題で、他の兄弟には責任がないのかという問題をはらむ。

親が子供を見るのは自然の感情としてある。しかし、動物の世界では子が親を見るのはあまり聞いたことはない。子供は成長すれば親離れして、ふたたび会うことはない。

結局、子供が親を見るのは親の扶養義務の類推として、「逆扶養」という発想から生まれた概念ではないのだろうか。

「逆扶養」の範疇

ところで、子供が年取った親の面倒を見る行為を総体として表現する言葉がみあたらない。

どうも困ったことに、老人を1.その生活を経済的に保障し、2.その生活を介助し、3.その生活環境を整え、4.その資産や健康を保全し、5.老人の立場を対外的に代行・代弁し、5.その行動について社会的責任を取る…というような一くるみの行動を一言で言い表す適当な言葉が見つからない。

「お世話」や「面倒見」でも良いのだが、あまりに多義的である。「逆扶養」 (Reversed Maintenance) だと論理的には収まりは良いのだが、いかにも硬い。しかししょうがないのでとりあえず「逆扶養」としておく。

「逆扶養」概念のあいまいさ

たしかに民法上は扶養義務は規定されている。しかし親が子供の扶養を怠れば、「育児放棄」とかいって刑法上の犯罪になるが、親を扶養する義務はそれほどのものではなさそうだ。

また長子相続制の名残かもしれないが、一般的には家を離れた次男、三男坊には義務は強制されていない。

それに親に人格が存在する限り、法的主体は親自身だ。したがって親が何をしようと勝手だから、その結果親が野垂れ死にしようと子供に責任はない。

以上のように子供の扶養義務は子供の扶養義務を拡大解釈した「みなし義務」としての性格があり、厳密な適用にはそもそも無理があると言わざるをえない。

「逆扶養」概念の由来

「逆扶養」という関係はおそらくは社会の中で生まれてきた関係ではないだろうか。とくに「家」という制度によって、二次的にもたらされているのではないだろうか。

知りもしないのに偉そうなことは言えないが、古代的な共同体が大家族制とともに衰退し、これに替わるように小家族制が社会の基本単位となっていく。その時に長子相続制や男系家族制が出来上がっていく。

それと並行して儒教的な倫理が広がっていく。だから「逆扶養」概念は自然発生的なものではなく、イデオロギー的な産物かもしれない。

私の予想を裏付ける文章が見つかった。柳谷慶子『近世の女性相続と介護』では以下のように記されている。(3月11日追加)

江戸時代中期には、親の扶養問題を中心に据えながら、家族が果たすべき扶助役割のなかに看護や介護を位置づけるようになった。

なかでも一家の主人たる男性の責任は重大であった。主人を中心に家族全員が協力して親を養い介抱する家族像が、期待された。

この背景には、直系親族を中心とした小家族の一般的な成立があり、家族役割の自覚化が強く促されたからである。

幕府と藩は、家族による扶養と看病・介護を規範化して、家族の自助努力を涵養した。これにより扶養と介護の主体としての家族の位置づけがさらに一層強調されるようになる。

この場合、子供だから扶養義務を持つのではなく、「戸主」であるがゆえに、家族の構成員の一人としての親(ご隠居)の面倒を見なければならないのである。

まさに今、その「家」という制度が実質的に解体する中で、その制度に基づくような倫理規範というものは存在意義を失いつつあるのではないだろうか。

そしてそういう倫理規範を根本とする民法の体系を本格的に再検討する必要があるのではないか。



認知症患者の「権利」をめぐる議論には混乱がある。

1.人権尊重は「虐待防止」ではない

認知症という病気をめぐる問題と並んで、議論を混乱させる元になっているのが、患者の権利の捉え方である。

これは私の「オハコ」である。「療養権の考察」という本で徹底的に追究している。

今老健や療養病床では患者の人権が大いに問題にされているが、率直に言って虚しい議論である。

入所者を窓から突き落とすとか、縛ったり叩いたりという「人権侵害」が横行していて、それに対してどう防衛するかという観点から人権が議論されている。

それなりに深刻な問題ではあるが、人権尊重というよりは虐待防止の話であって、もっと根っこのところでの議論が必要だろう。

2.人権の根っこは「生きる権利」

少なくとも切羽詰まった人間にとって、人間の権利は生きる権利であり、生き続ける権利であり、この世で人並みの生活を送る権利である。

此処を人権論の核心におかなければならない。自由の問題も、契約上の権利も同様に重要であるが、それらはここから派生するものだ。

生きるためにはその手段が必要であるから、「生きる権利」は生活手段をもとめ、それを利用する権利となる。それは病人にとっては医療をもとめる権利となる。

ここまでは大方の合意は得られるであろう。しかし医療への要求は時とともに多彩かつ高度なものとなる。財政的限界もある中でどこまで受け入れるかはなかなかむずかしい。

患者の「生きる権利」は通り一遍の言葉では終わらないものを含んでいる。それが何を意味するのかを、その時々に具体的に、真剣に考えて行かなければならない。それが権利を尊重するということである。

(例えば、老人保健施設では入所者にアリセプトとメマリーを併用すれば確実に足が出る。介護職員の異常な低賃金を以ってもそれは贖えない)

3.病人の「生きる権利」を保障するのは社会である

病人の「生きる権利」とは病気を治す権利、ふたたび元気になる権利である。それは公的な権利であって、助け合いの精神にもとづく社会的合意を前提としている。

社会はこの責務の一部を家族に振り分けている。それは世のしきたりである。病人は家族に対して生きる権利を主張できない。(家族の問題は別途考察)

社会の規範たる法律も、基本的にはそうなっているはずだ。しかし現実にはそうなっていない。法の精神と法の運用実態が乖離しているのである。

今回の問題も、補償問題に閉じ込めた議論をすれば、いろいろな見方ができる。しかし患者の権利を尊重し、患者を死に至らしむることがないように対策を考えるのが、本来の責任の取り方である。

そのような再発防止義務は社会以外にはとりようがないのである。そしてそれは可能なのである。

多少持って回った言い方になるが、あの時特養に入っていれば、特養が長い待機を経ずに入所できれば、このような事件は起きなかったかもしれない。だから事故の補償義務は社会(はっきり言えば政府)にあるとも言えるのである。

2,3日目に認知症老人の列車衝突事件について「6つの疑問」という文章を上げた所、いくつかのコメントをいただいた。

とりあえず感想的に述べただけであったので、またその後最高裁判決に至る経過をまとめてみたので、少しまじめにまとめてみたい。

1.認知症をどう受け止めるか

まずは認知症そのものの考え方から。

A) 認知症は治療可能な病気である

1.いまの議論はむかしと同じ

率直に言って、世間の認知症を見る目には誤解と偏見がある。認知症は治療可能な病気である。不治の病ではない。このことをまず踏まえないと、話は煮詰まってしまう。

もちろん、いますぐに治療して治癒可能という訳にはいかない。まだもう少し時間はかかる。

中世のペストに始まり結核、脳卒中、ガン、最近ではAIDSなどがそういう道をたどってきた。

しかしいまこれらのうちかなりの病気は過去の病気になったし、なりつつある。病気そのものは直せなくても、適切な治療でコントロール可能となっている病気も多い。

今度の裁判に対するいろいろなコメントや感想を見ると、認知症は不治の病で仕方ないというペシミズムが支配していることが分かる。

乱暴な人は、認知症なんかまとめてどこかに突っ込んでおけとか、安楽死させろという「意見」を書き込んでいる。

こういう議論はAIDSの時にも出てきたが、いまAIDSについてそういうことを言う人は殆どいないだろう。なぜか、医学が進歩したからである。

2.認知症は今でもかなりの程度までコントロール可能である

認知症は今でもかなりの程度までコントロール可能である。

事故が起きた2007年からまだ10年も経っていないが、認知症の治療は驚くほどの進歩を遂げている。

まず病気の本態がかなり明らかになってきた。

認知症をもたらすアルツハイマー病という病気は脳神経細胞の中に異常な代謝産物が産生され、それを排出できないことから起こる病気である。

おそらくは異常な代謝産物を産生させるような遺伝子異常が引き金になっている。しかし遺伝子が引き金だからといって遺伝性疾患というわけではない。

これで引き起こされる主症状は記憶力の障害である。

だから治療としては此処の遺伝子スイッチを切ってやればよいのである。しかしこれはそう簡単には行かない。

そうすると次に考えるのは、この代謝産物の異常蓄積により働きの落ちた神経細胞を賦活させてやれば良いということになる。つまり脳内活性アミンの補充である。パーキンソン病にDOPAが効くのと同じ理屈だ。

ある意味で「駄馬に鞭打ち」、神経細胞の寿命を縮める結果になるが、幸か不幸かこの病気の患者は老い先短い。4,5年持ってくれればいいのである。


それが最近の抗認知症薬だ。もちろんこれでバッチリというわけには行かず、副作用もある。しかし間違いなく中核症状は改善する。

以上述べた如く、「認知症は治る、あるいはコントロール可能である」という立場に立つか立たないかで、事情は大きく変わってくる。何よりも必要なのは、前向きの姿勢である。

3.認知症は精神疾患としての側面を持っている

もう一つ、市民の意識改革を促したいのだが、認知症は中核症状と周辺症状の複合体だということだ。

周辺症状は、基本的には記憶障害に対する心理的葛藤の過程である。これは拒否、反抗、反応性の鬱、誤った合理化、誤った信念形成などから構築されている。

これらが認知症の心理・行動異常をもたらす。ひっくるめて言えば錯乱・譫妄である。したがって認知症は“錯乱性認知症”と“安定型認知症”に分けて考えなければならない。これは統合失調(分裂病)や双極性障害(躁うつ病)と同じである。

周辺症状は向精神薬でコントロールできる。非定型向精神薬というのが主流でかなり不安感情は抑えられる。

かくして周辺症状が安定すれば十分に在宅治療は可能となる。そういう時代が遠からずくる。そういう立場から病気を見なおすことが求められている。

B) 認知症への誤解が議論を歪めている

認知症を不治の病と見る見方が一種の誤解に基づく偏見であると書いたが、誤解は他にもある。理由はおそらく通俗的な解説が、いかにも誤解しそうな情報をまき散らしているからである。

列挙しておくと、

1.年取ったらみんな認知症になるという誤解

認知症はアルツハイマー病という病気である。老化や他の疾患による記憶力・記銘力の低下とは異なる。それは貧乏くじのようなもので、みんながみんな、なるわけではない。

ここを誤解すると、高齢者の家族はすべからく災難をしょい込むということになり、「お互いさま」という論理に乗っかってしまう。「楢山節考」の世界である。

2.脳力の低下は誰にでも来る

脳力の低下はこれとは違い、基本的には脳のスタミナの低下→意欲の低下→反応の低下として現れる。私はそれを前冬眠状態と考えている。文学的には「涅槃の世界」ということもできる

3.認知症はみんな徘徊するという誤解

安定した認知症への移行は可能である。また落ち着いた認知症は、落ち着いた統合失調と同様に人畜無害である。

多くの人は認知症を彩る周辺症状を認知症そのものと勘違いしている。しかしこれらの多くは抗認知症薬と向精神薬の組み合わせによりコントロール可能である。

問題は服薬の管理である。統合失調の引き起こす事件の多くは無治療、ないし治療中断の下で起こっている。

 

「徘徊高齢者の列車事故」

事件発生から最高裁判決までの足どり

 

2000年 愛知県大府市で不動産業を営む男性(発症当時84歳)に認知症の症状が現れる。当事者男性は妻(当時78歳)と二人暮らし。長男家族は横浜に住み、長く別居状態にあった。

家族関係
                朝日新聞より

2002年

3月 男性の認知症が一段と進行。家族会議を開き、長男の妻が、男性の介護のために単身で近所に転居。

2007年

2月 要介護4の認定を受ける。妻も「左右下肢の麻ひ拘縮」により要介護1の認定を受ける。施設入居も検討したが在宅介護を選択。

12月 愛知県大府市のJR東海道線共和駅で事故が発生。

当事者男性(死亡時91歳)は現場近くで妻(当時85歳)と二人暮らし。長男の妻が近所に住み介護に入っていた。妻と長男の妻が目を離したわずかな隙に男性は家を離れた。大府駅から列車に乗り共和駅に移動。
そして共和駅ホームの端で無施錠のフェンス扉を開け線路に侵入、列車にはねられた。

2010年

2月 JR東海が監督義務者である遺族に、振り替え輸送などの費用約720万円の支払いを求めて、名古屋地裁に提訴。

民法713条では、「精神上の障害により自己の行為の責任を弁識する能力を欠く状態にある間に他人に損害を加えた者」を責任無能力者と規定している。
民法714条では、これに対応して、本人を監督する義務がある者は,損害賠償責任を代わりに負うことになる(ただし監督義務を怠っていないことが明らかであれば、免責される)

2013年

8月 名古屋地裁判決(上田哲裁判長)。民法714条の規定に基づき、長男と男性の妻に監督義務者としての賠償責任があると認めた。そのうえで、2人に請求通りの約720万円の支払いを命じた。

1.介護ヘルパーを依頼するなどの措置を取らず、徘徊を防止する適切な措置を講じていなかった。
2.男性の介護体制は、介護者が常に目を離さないことが前提となっており、過失の責任は免れない。

8月 地裁判決に対し、専門家からは「認知症患者を閉じ込めざるを得なくなる」との批判。ほかに、在宅介護という方向への逆流。介護の拒否、監禁容認と独居認知症増加への懸念が示される。

「認知症の人と家族の会」の田部井さんは、判決を「時代遅れ」と批判、被害の社会的な救済制度が必要と訴える。

2014年

2月 長男が会社を退職。横浜市から愛知県大府市の実家近くに移住。母親、妻と同居し家業(不動産屋)を引き継ぐ。

4月23日 NHK、「認知症の人 鉄道事故で64人死亡」と報道。認知症患者の鉄道事故が最近の8年間で76件あり、64人が死亡していたことを明らかにする。

NHKが鉄道会社が国に届け出た鉄道事故の報告書を情報公開請求して分析したもの。

4月24日  名古屋高裁(長門栄吉裁判長)判決。1.長男に監督義務はないとし賠償責任を否定。理由は「20年以上別居しており、監督義務者とはいえない」というもの(経済的な扶養義務はある)。2.妻には監督義務を承認。理由は「夫婦には助け合う義務がある」と定めた民法の別の規定。しかし妻自身が要介護1であるにもかかわらず、その監督能力は問われなかった。

外出を把握できる出入り口のセンサーの電源を切っていたことから、「徘徊の可能性がある男性への監督が十分でなかった」と判断。
ただし「充実した在宅介護をしようと、見守りなどの努力をしていた」として半額に減額する。(それでも360万円!)
判決はさらに長男の妻が横浜市から転居し、共に在宅介護していた点を評価。JRが駅で十分に監視していれば事故を防止できる可能性があったとも指摘する。(これが精いっぱいなのだろうか?)

4月24日 遺族は「十分に介護に努めていたと考えるので、判決には納得できない」とし、最高裁に上訴。

遺族側の弁護士は報道陣の取材に対し、「今の社会では、認知症の患者の保護について、家族だけに責任を負わせるのではなく、地域で見守る体制を築くことが必要だと思われるが、判決はその流れに逆行するものだ」と語る。

4月25日 産経新聞、『徘徊事故 多くが和解「訴訟は珍しい」』と題する記事を掲載。遺族の弁償を当然視する報道。

要旨: JRなど鉄道各社は、線路や駅ホームへの立ち入りによる死亡事故について、損害額の賠償を遺族らに請求するのが通例となっている。その際、認知症などの病気に起因しているかどうかは問わない。
 賠償額には振り替え輸送の費用や人件費だけでなく、列車の運休による機会損失費、設備の修理費などが含まれる。

各社の請求
2015年

11月 最高裁、当事者弁論の開催を通告。「責任能力がない人が起こした不法行為に、親族の監督義務がどこまで及ぶのか」をめぐり、高裁判決の見直しに動く。

2016年

最高裁第三小法廷(判事は5人、裁判長は岡部喜代子判事)での審理が始まる。妻側は85歳だった妻に監督能力は問えないとし、免責を主張。JR東海側は「介護に責任を持っていた長男が、実質的な監督義務者だ」とし、改めて長男の責任を問う。

2月 最高裁で上告審弁論が行われる。弁論は結論を変更する際に開かれるため、高裁判決の見直しが確定。

3月 最高裁、5判事の全員一致で「家族には責任なし」とする判決。「家族だからと一律に監督義務を負うわけではなく、生活状況や介護の実態を総合的に考慮すべきだ」と判断。

監督義務に関する判断: 妻は同居する配偶者であり介護者ではあるが、民法714条の「監督義務者」には該当しないとする。長男については判事3人が「非該当」、2人が「該当するが、但し書きにより免責」とする。
扶助の義務と監督義務: 民法752条の夫婦の同居・協力・扶助の義務は民法714条の監督義務者と認める根拠とはならない。(扶助義務と監督義務は異なる)。成年後見人の身上配慮義務は、介護や監督義務まで求めていない。


なお2チャン情報では(おそらくその筋のリークであろうが)家族への誹謗情報が繰り返し、繰り返し流されている。当然ながらソースは示されていない。


1.この男性は資産家で、多額の不動産やら5千万以上の預金があり、妻と長男が相続している。
2.長男がJR東海に対し賠償を求め、JR側が対抗措置として逆提訴した。

もう一つの繰り返される論理が、鉄道会社を一私人とし、その被った被害は埋め合わされるべきであるという、一私人の限りでは当然の主張を強調したうえで、「だから遺族は弁償すべきだ」持っていく論理のすり替えである。

これは生活保護の受給問題でも繰り返し用いられた「八つ当たりの論理」である。これは朝日裁判以来おなじみの手口で、義理・人情と絡めて情緒的に攻めてくるだけに反論するのは厄介である。

ただ最高裁も認識しているように、これからの少子・超高齢化社会では「家」の論理(民法が依拠する)は、その根拠となる「家」が崩壊する中で、もはや通用しなくなっているし、これからますます通用しなくなるはずだ。

したがって監督責任や介護責任は社会的に考えなければならなくなっている。むしろ名古屋郊外で不動産屋さんとして一家をなしている今回のケースのような場合のほうが例外となるだろう。

「徘徊老人の列車事故」の訴訟について

当然の判決であるが、逆に言えば、これまで下級審で常識に逆らうような判決が出続けたのかという点に興味がある。

関係者はA)本人、B)鉄道会社、C)家族という三者関係になっているが、そもそも家族には関係のないことである。

民法的には、もらい事故はリスクであり、鉄道という営業形態に不可避的に伴うものである。その任務に公的なものがあるとはいえ、営業形態が私的なものである以上、鉄道会社も一私人にすぎない。

むしろ踏切事故を防げなかった点では、安全管理責任が発生する可能性もある。学校や病院などの事故では、こういう観点のほうが当たり前になっている。

だから医療関係者や学校関係者なら、JR東海の官鉄気分丸出しの高圧的な態度を訝しみこそすれ、同調する気には到底なれない。

とくに、新幹線の吹田操車場をめぐるJR東海の傲慢極まりない対応を知っている私たちには、なおさらのことである。

しかし民法はそうなってはいなかったようだ。民法を条文通りに適用すれば地裁・高裁の判決が自ずから導き出されるようである。

率直に言って、地裁・高裁は臆病であった。人類史上例を見ないような少子・高齢化社会を迎え、これまでの規定では到底対応できないような事例であるにもかかわらず、旧来の判断基準をそのまま踏襲した。そうすれば必ず世の中の現状と激突するのを知りながらである。そして最高裁に判断をゆだねたようである。若手判事のいかにも少子・高齢化にふさわしい逃げっぷりだ。

そして、最高裁はあえて条文を新たに解釈して、下級審とは異なる判決に至ったのではないか。

従って、今度の判決はいろいろな形で影響を広げていくことになるだろうし、私たちもその意味を深く掘り下げておかなければならないだろうと思う。

抗認知症薬 開発の歴史

私の十八番で、まず分からないことは歴史的に理解しようということです。


* アルツハイマーで脳内のアセチルコリンの減少が確認される。アセチルコリン・エステラーゼの抑制により、アセチルコリン減少を抑制しひいては認知症の進行を抑制する可能性が示される。

1989年 エーザイ、「ドネペジル塩酸塩」を記憶改善薬として治験開始。

1993年 タクリン(商品名コグニックス)が米国で承認される。肝障害のため使用は広がらなかった。

1997年 スイスのサンド社が「イクセロン」(リバスチグミン)を発売。世界で最も頻用される抗認知症薬となる。ドネペジルと同じく抗コリンエステラーゼ薬であるが、アセチルコリンのみならず、ブチルコリンの分解も抑制する。

当初はドネペジルに比べ副作用が強いといわれたが、「パッチ化」により副作用の軽減に成功したといわれる。

1999年 エーザイ、「ドネペジル塩酸塩」を国内発売。商品名はアリセプト。当初の適応はアルツハイマーのみ。

2000年 彼岸花にふくまれる植物アルカロイドとして古来知られたガランタミン(抗コリンエステラーゼ薬)が、西欧で抗認知症薬として認可され使用開始。商品名は「レミニール」

2000年 この頃からアリセプトの長期投与の成績が報告され始める。

迷惑行動が減少し、意欲低下、無関心、抑うつなどが改善。病理学的にも海馬の萎縮が抑えられたと報告される。
一方、1.アセチルコリン過剰症状: 興奮、イライラ感、精神不安定。2.徐脈性不整脈。3.パーキンソンの像悪、などが報告される。

2002年 メマンチン塩酸塩がヨーロッパで商品生産を開始。商品名は「メマリー」

作用機序は不明だが、広義のカルシウム拮抗剤と説明されている。メマンチンは脳内グルタミン酸活性を抑えることにより膜を安定化させ、カルシウムの細胞内流入を防ぐとされる。独特の鎮静作用があり、コリンエステラーゼ阻害薬とは作用機序が異なるため、併用効果が期待される。

2011年 アリセプトの特許切れ。その後相次いでジェネリック薬品が登場するが、価格はせいぜい半減程度で、薬効(生物学的効果)についても賛否相半ばする。

2011年 リバスチグミン(イクセロン)、ガランタミン(レミニール)、メマンチン(メマリー)が国内販売を開始。抗認知症薬4種類が国内で出揃う。

2014年 アリセプトのレビー小体型認知症への適応が拡大される。

2014年 薬価改定。アリセプト(エーザイ)の薬価が1日あたり(常用量10ミリ)600円を割る。エーザイは剤形の多様化により抗薬価維持を図る。


ということで基本はアリセプト+メマリーの併用、これで多少の過活動化があっても我慢して使えということだ。これにリスパダールとグラマリール(場合によっては三環系抗うつ剤)を組み合わせ、経過によりハルシオンを乗せるというストラテジーになる。

ただしこれらの処方はわれわれ内科医が勝手に積み上げるようなものではなく、精神科あるいは神経内科の先生の力を借りながらやっていくことにになるだろう。

とくに内科医が注意しなければならないのは、抗ヒスタミン剤と抗アレルギー薬の安易な使用であろう。また糖尿病の急速な悪化は何度となく痛い目にあっている。また蓄積作用は1か月を過ぎて因果関係があいまいになった頃から急速に出現することがあり要注意だ。

認知症の薬がたくさん出されている。

これまでは老健施設の担当だったので、まったく勉強する必要がなかった。申し訳ないが抗認知症薬は入所の時点でばっさり切っていたからである。

実際のところ切っても大きな変化はなかった。精神症状があればそれは周辺症状と割り切って向精神薬で対応していた。

しかし老健の担当を外れ、特養やグループ・ホームなどの利用者をケアするようになると、抗認知症薬がそれなりに効いていることがわかり、自らの不明を恥じているところである。

効いているというのはちょっと語弊があって、要するに中核症状か周辺症状かは分からないが、抗アセチルコリン・エステラーゼ薬がかなり老人の認知障害を臨床的に修飾する可能性があるということであろう。

同時にかなり副作用もあって、認知症患者の現状が抗認知症薬によってもたらされている可能性もあることが分かった。

また先発薬であるアリセプトと後発のレミニールにはかなり使い勝手の違いがあることも分かった。

お恥ずかしいことだが、とりあえず抗認知症薬の使い分けについてまとめておくことにする。


アルツハイマー病の勉強をしたときにも触れたことだが、現在使われている抗認知症薬は病気の原因に迫るような薬剤ではない。

端的に言えば使ってみたら効いたというレベルの薬である。

長期的に見て良いかどうかも分からない。ただ認知症の患者さんに「長期」もへったくれもないのであって、1年でも2年でもそれなりに効いてくれればよいのだ。後は野となれ山となれだ。

一番困るのは変に効くことであって、効かなければ効かないで副作用がなければそれで良い。困るのはどういう変化が効果で、どう変化が副作用なのかの判定が難しいことだ。

この辺は現場に判断してもらうしかない。ところが困るのは「現場の声」が必ずしも一致しないことである。ある患者が抗認知症薬を飲み始めた、数週間してから明らかにある種の変化が起こり始めた。それをポジティブにとらえるかネガティブにとらえるのかは担当者によってまちまちである。

とくにベテランと呼ばれる人たちは変化を嫌う。それに対して若手のケアワーカーはそれを積極的にとらえる。それはナースにおいても同じだ。

結果的にいろいろ不都合が出てくると、ベテランは「それ見たことか」とカサにかかってくる。

しかし、パーキンソンの患者にL・ドーパを使ってジスキネジーが出たといって、「それ見たことか」ということにはならない。ジスキネジーが出るくらい使ってみないと効果は分からないということもある。

何もしなければ何も失敗しないのであり、それは無作為につながる。だから医師は現場の声を慎重に聞きつつも無作為につながるような安易な妥協は慎まなければならないのである。なかなか難しいところだ。


と、ここまでが前置き。件のごとく前置きが長い。

とは言いつつも、大井さんの文章をそのまま読み飛ばすのは惜しい。

いくつか拾っておく。

まず大井さんは、認知症の機転の基本として、記憶障害を取り出す。これにより社会との疎通が失われ、その代償機転としてヴァーチュアルな世界が形成される。

この「擬似世界」は虚構であるためにさ、まざまな不都合をきたす。これが認知症だ、ということになる。

しかしこれだけでは何も言っていないに等しい。①記憶障害、②交流障害、③仮想世界の形成のいづれが本質なのかが語られていないからである。

つぎに他者から見た認知症について、3つの特徴を上げる。これは尊厳死協会のアンケートによるものだ。

①惨めな状態、②認知症は病気である、③認知症は恐怖である。

まあアンケートだから適当なものだ。

認知症は病気なのか?

ただ気になるのが「認知症は病気である」という項目。これは大井さんが必ずしもそう思っていないから、わざわざ取り上げたのだろう。

おそらく大井さんは、アミロイド沈着というアルツハイマーの本態はさておいて、症候論もふくめての「痴呆症候群」として捉えるべきだとの思いがあるのだろう。

「痴呆症」は病気なのか?

誰がつけたかしらないが、「認知症」というのはあいまいで不正確な名称だ。要するに「痴呆症」が差別だから言い換えたに過ぎない。盲目者が視力障害者になり、ろうあ者が聴力障害者になるのと同じで、言葉の言い換えが範疇の曖昧化に繋がる。

あえて「老年痴呆」と言葉を戻して、議論してみよう。これは高齢化に伴い知力の高度の衰えがもたらされた状態だ。明らかに病的状態(病気と言ってもいい)ではあるが、これは「症候群」であって、疾患(単一の病理変化にもとづく病気)ではない。

正常の人でも加齢により知力は衰えるのだから、要は程度問題である。周辺症状により対人関係に支障をきたすこともあるが、これも程度問題である。しかもこちらの方はある程度薬物によるコントロールが可能である。

現に私が見ている痴呆老人の多くは穏やかで、介護者との接触も保たれている。徘徊は好奇心のなせる業のごとく見える。

もちろん進行すれば周囲との接触は徐々に失われ、沈思黙考あるいは独語の世界に入る。しかしその時も強い呼びかけには普通に応える。あえて言えば、「人とともに生きる」のがだんだん面倒くさくなってきたのである。

別に惨めでも、恐怖でもない。人に突然襲いかかって苦痛と不安と恐怖をもたらすものが「病気」だとすれば、「病気」のうちにふくめて良いのかさえ考えてしまう状態だ。

アルツハイマー病は間違いなく病気だが

最初にも述べた通り、間違いなくアルツハイマーは病気(アミロイド蓄積症)だ。原因から病態生理までふくめてかなり明らかになっている。

これが世間にも理解されるようになってきたことはご同慶の至りだ。ただしあまりにも広義に捉えられすぎている。

痴呆症のすべてがアルツハイマーではない。まして老人につきもののさまざまな生活障害(極端な場合は寝たきり、垂れ流し)までもがアルツハイマーのせいにされては、アルツハイマーが可哀想だ。

アルツハイマー病を哲学的に考察する必要はない

多くのアルツハイマー型認知症を見ての感想だが、この病気やこの病気の罹患者を哲学的に解釈する必要はないと思う。

この病気は社会学的サイドから膨らませられすぎている。治療法こそ未確立だが、福祉的な対応は十分に可能であり、むしろ患者の生活を「悲惨」なものに貶めている社会政策的な対応の不備が主要な問題だと思う。

その意味では、痴呆症に限定せず、老人の抱えるさまざまな肉体的・精神的ハンディキャップをどう救い上げていくか、もっと広い視点からの対応が必要だ。

哲学的にあつかうなら、老いをどう見つめていくかが問われることになろう。その中で、もっと各論を旺盛に展開しながら、精神機能(大脳)、神経機能(脳幹)、神経内分泌機能(間脳)を総合的にすくい取る分野が展開されていくことになるのではないか。

大井玄「痴呆老人は何を見ているか」(新潮新書 2007年)

という本を読んだ。というより最後の方は飛ばし読みだ。

書き出しは至極快調で、「ふむふむ」と頷いたり、赤線を引きながら読み始めたのだが、途中から何か変になってくる。

臨床症例の観察は臨床心理学に収斂し、さらには哲学へと向かって行ってしまう。

私は、正直言って痴呆症の臨床心理学などはあまり意味がないと思っている。あまりに個人差が大きいために、らっきょの皮むきになりかねない。

アルツハイマー的な病理機序は、ある意味で老化の本質のひとつであり、もし心理学的追究をすゝのなら老化(心身機能の低下)に伴い、そのひとつとして出現する心理的諸特徴を概括していくほうが生産的ではないかと思う。

前にも言ったことがあるが、認知症の臨床研究は諸症状を中核症状と周辺症状とに分けることで飛躍的に進歩したと思う。

この点については大井さんも異論はなさそうだ。その上で、次は中核症状の進行に対する適応機転、あるいは不適応機転が生じてくる。これを周辺症状と分離することはかなり困難だ。

一応、最近の認知症研究では、これを早期周辺症状と晩期周辺症状に分けて考えようとしている。大井さんが「別世界の形成」とか「自己の異形成」みたいな感じで論じているのは、この晩期の周辺症状にあたるのかもしれない。

さらにうつ病に近いような心身の不活発状態、統合失調に近いような「離人」状態もかなり高率に出現し、これも広義の周辺症状にふくめてもいいのかもしれない。

Ⅰ 道東勤医協退職から老健施設勤務まで
Ⅱ 老健と病院の違い
   逃げられる嬉しさと、逃げられないヤバさ
Ⅲ 医者はお客さん
   厳しい経営、それ以上に厳しい職員の生活
   割り切りと、“見て見ぬふり”
Ⅳ 老健の“医療”
   厳密に言えば医療ではなく“保健”だが…やっていることは医療
Ⅴ 介護報酬改訂と財政審答申
   報酬なき労働強化の押し付け 訪問診療の規制、通所リハ会議の強制
   「潰れればいいんでしょう」路線 小規模デイケアつぶし 貧困ビジネス化の強制
Ⅵ 突然のアクシデント
   詳細は当日

小規模デイサービスの閉鎖が凄まじい勢いで広がっている。
赤旗が詳しく報道している。
まずこれが衝撃のチラシ
dayservice
ちょっとひとひねりしたチラシだから、分かりにくいかもしれない。
これが、札幌市や千葉市の小規模デイの事業所にFAXで送られてきているのだ。
「売れるときに売ってしまおう」というのは、要するに損を覚悟の投げ売りだ。そういう事業主がたくさんいるから成り立つビジネスだ。みんな一刻も早く、沈みつつある泥船から逃げ出そうと必死だ。
「現在、介護事業所を買いたいというニーズが高くなっています」というのは、ほとんどウソに近い。正しく書けば「現在、介護事業所を売りたいというニーズが高くなっています」だ。買うとすれば、更地か居抜きでなんぼかというハイエナ業者だろう。

先日の記事と一部ダブるが、今年4月の介護報酬改定を紹介しておく。
小規模デイサービスは要介護者で平均9.2%の大幅減。要支援の人は実に21%の引き下げとなる(要支援はいずれさらに引き下げ予定)。
職員体制に応じた加算があるが、小規模事業所はとても算定できない。
大阪での影響調査では、85%の小規模施設で平均12%の減。回答者の3割が「今後事業の縮小・撤退を考えている」と答えている。
つまり、この「業界」はすでに死に体なのだ。

赤旗はこのFAXの発信者に取材している。大手医療介護人材紹介業社の買取担当者だ(「M&A事業」というから笑わせる。人の弱みに付け込んで買い叩き、底値買いするアコギな商売だ)。
譲渡の申し込みは昨年の2~3倍に増えています。…理由は圧倒的に経営難で、全体の7~8割を占めています。
確かにこのところ雨後の筍のようにあちこちに、小規模デイサービスが増えた。「コンビニ潰れてデイとなる」という感じだ。これだけ一度にできると、中には「ウーム」というところもあるだろうと思う。
それはそれできちっとした監督が必要だ。悪質なものはそのうち淘汰されていくだろう、くらいに考えていた。何よりもニーズが有るのだから対応するのは当然である。

しかし厚労省の方向を見ると、小規模デイつぶしは大規模化を促す措置の一環と考えられる。はたしてそれが正しいのか、資金効率から言えば、それは逆だろう。
これはいまや世界の常識だが、日本の医療と社会保障を支えてきたのは開業医制だ。小規模でちまちまとやってきたからこそ、きわめて資金効率の高い医療システムが出来たのだ。

医療や介護の場面では経営的な意味でのスケールメリットはない。むしろ人件費の固定化が強力なデメリットになる。それは厚労省もよく知っているはずだ。ただし大規模化すれば、さまざまな監査の網をかけることができ、天下りのポストが増えることは間違いなかろう。
いまでも介護施設の書類の量たるや膨大なものだ。ケアの仕事より多いくらいの業務量になる。こういう書類を作らせて監査する人間のための仕事だ。こういう連中がいなくなれば、社会保険料は随分下がると思うが…

1.「植物人間」という言葉
「植物人間」という言葉がある。これには二つのニュアンスがある。ひとつは生存機能が著しく障害され、さまざまなアシストを必要としている状態である。もう一つは、こちらの呼びかけに応答せず、コミニュケーション不能の状態で生きていることを指している。いずれの状況においても、それがかなり長期にわたることが条件となっている。
それを「尊厳」というもっともらしい言葉で切って捨てる時、そこには“植物人間はもはや人間ではない”という暗黙の論理が横たわっている。
その論理には3つの前提条件が含まれている。
1.尊厳を失った人間は人間ではない
2.他者に依存する生命は生物の名に値しない
3.意識的に動く生命が、人間的生命の本質である
しかし、これらは生物学的にはウソである。簡単なことだ。同じ論理を使えば、赤ん坊は人間ではなく植物人間だということになるからだ。
まあ、そう言っちまっては身もふたもない。こちらも常識はわきまえている。年寄りがふっと息を引き取るのを無理に引き止めるつもりはない。
ただそれを大上段に振りかざされると、俄然反抗心が頭をもたげる。
卵を産まなくなった鶏と一緒にされては困る。鶏には悪いが、鶏は卵を生むから「ニワトリ」(という商品)なのであって、卵を生まない鶏は電線の切れた電球と同じなのだ。我々社会の一員ではない。

2.進化論から見た動物と植物
しかし今回言いたいのは、そういう社会的定義ではない。
言いたいのは、人を「植物人間」と斬りつけ、動物と植物とを截然と分け、動物に優位性を与え、動物の中に優劣の階梯を形成するのは間違っているということである。それは、進化の立場からしても容認出来ない極論(形而上学)である。
まず、当たり前だが、生物は“動くもの”ではない。
生物とは生命を持ったものである。
生命とは何かというと、これはこれで難しい問題だが、おそらく代謝(同化と異化)装置と生殖(増殖)装置が生命の基本装置だろうと思う。
動かない生命はたくさんある。植物は、もちろん相対的なものだが、ちょこまかと動くものではない。しかし生命はある。成長もするし生殖も行う。そこには寿命があり、いつかは命を終える。動物が動かなくなったら植物になるというのでは植物に失礼だ。
動物というのは生命・生物の中ではかなり特殊な形態である。それは自己栄養装置を持たない生命形態である。そしてその代わりに移動装置と捕食装置を身に着けた生物である。
その昔、生命は少数の細胞の集合体であった時期に葉緑体を獲得し、植物として大発展する。大発展した植物を前提として、それに依存する形で動物が誕生する。さらに動物の間に食物連鎖が成立する。
だから、まさしく動物は他者に依存する生命なのである。食べ物を口から入れようがPEGからであろうとIVHからであろうと、それは形態の問題にすぎない。

3.動物の動物たる所以
ところで動物が動物であろうとする限り、捕食装置は必然的である。しかし動物が飛躍的に発展したのは移動能力が発展したからであって、捕食能力が向上したからではない。これは視覚の獲得が先行し、これに伴って脳神経系が発達したからである。(さらに言えばそれにふさわしい筋骨格系の発達も含まれる)
脳神経系の発達は、動物が“動く生物”から、体を動かし“移動する生物”に転化したことを意味する。そして“どうやって体を動かすか”と“どこへ動かすのか”という「動く」内容の二重化である。
哲学的に言えば、動かす自己と動く自己への分裂、すなわち意識の発生である。
ついでに言えば“なぜ動くのか”という問題がある。これは情動が絡む話で、「動け」という命令は神経系と内分泌系が接合する視床下部からくるのだが、ここでは省略する。

4.動物(脊椎動物)は生きる意志を持っている
動物が生きる意志と目的を持つのはこの頃まで遡る。(ただし昆虫類はまったく別個の発展を遂げているので、直接には云々できない)
魚の時代まで遡る、このような意識がそう簡単に消失するとは考えにくい。自発性の低下は結果であり、それは失われたのではなく障害されているか、抑制されていると見るべきである(脳幹障害では自発性の低下がプライマリーとなりうる)。
一番多いのはクスリ(とくに抗GABA作用)、もう一つは低栄養と低張性脱水、要するに疑似冬眠だ。

5.人の命は結構しぶとい
長々と述べたが、要するに尊厳とか人間性とか生命倫理などの言葉で語る論理は、およそ非科学的で独りよがりなものだということだ。坊主にバトンタッチするのはいつでも出来る。やり残しはないか最後のおさらいはしておくべきだろう。
人の命は人類以前から積み重ねられてきた営みの重層性の中にある。そこをしっかりと踏まえたうえで、我々は議論すべきだろうと思う。

長生きしている人には二通りある。元気で矍鑠として長生きしている人と、病気がちで頭がもうろうとして生きている人だ。

これは対立しているわけではなく、前者が徐々に後者に移行して、最後にあの世へと旅立っていくわけだ。後者のケースは前者に比べて少ない。高齢者が増えればその数も増えるが、比率としては変わらない。平均寿命が20歳も伸びたが、それによって増えたのは元気で矍鑠として長生きしている人だ。

後者のケースはさらに2つに分けられる。お金に余裕のある人とない人だ。残念ながら後者の比率が圧倒的に高い。そうなると貧しくて病気がちで頭がもうろうとしている人たちは、世間から持て余されることになる。なぜなら貧しい老人を支えている家族は大抵が同じように貧しいからだ。

老々介護が問題になっているが、問題はそうではない。大きな困難は貧々介護にあるのだ。

お願いしたいのは、こういう老人にできれば月20万円、せめて15万円は払って欲しいということだ(医療費は別で)。当節、元気な若者でもそのくらいはかかる。それに介護の人件費は上乗せして欲しい。こちらも「それでなんとかやってくれ」といわれれば、なんとかしてみようと思う。“安楽死”だとか、治療はしないで欲しいとか、そんな話はそれだけでなくなる。

私はときどき、お年寄りが“死んだふり”しているのではないかと思うことがある。誰しも、だんだんと笑わなくなって、怒らなくなって、喋らなくなって、そして食べなくなってという経過を取るのだが、本当にそれが自然経過なのだろうか。それは強いられた経過なのではないか。

以前、熊の冬眠の話を書いたことがある。地球温暖化で彼らの生息場所も徐々に暖かくなってきた。そうすると冬眠せずに冬を過ごしてしまう熊が増えてきたという。生物の本には「彼らが自然に適応して冬眠という手段を身につけることでみごとに自然の脅威を克服した」みたいなことが書いてあるが、彼らは決して好き好んでそうしているわけではない。冬眠したあと目が覚めてくれるか、そのまま死んでしまうかは運任せだ。生き残る可能性がかなり高いからこそ「冬眠」なのであって、そうでなければ自殺行為だ。

お年寄りの「喋らなくなって、そして食べなくなって」という経過も、同じように強いられた経過である可能性がある。だから我々はぎりぎりその変化を見極めなければならない。本当に我々はするべきことをしたのか? し残したことはないのか。もっと早めに手は打てなかったのか。

京都大学の木下専助教授らが分かりやすい図を作ってくれている。「パーキンソン病の病態に迫る」というプレスリリースで、素人向けの簡単な解説だ。

パーキンソン病というのは、平ったく言うと、中脳にある黒質という神経細胞集団が衰えてしまうために、運動能力が落ちてしまう病気だ。

中脳の黒質は「運動せえ」という命令を出す。この命令は神経線維を伝わって大脳基底核の線条体というところに達する。そこで大脳の処理も加えて全身に命令を送り出す。

この際命令を伝えるメッセンジャーとなるのはドパミンという物質で、これが枯渇してくると(1割位と言われる)、命令が伝わらなくなってしまう。これがパーキンソン病だ。

昔、私が学生の頃はこの黒質→線条体経路は錐体外路系と言って、なにかアクセサリーみたいな扱いを受けていたが、そんなものは嘘っぱちだということが分かってきた。三位一体を説くマクリーンの呪いのひとつだったのだ。

私の「3脳セオリー」にもとづけば、中脳こそが運動に関わる生物進化の王道であり、他の経路はバイパスにすぎない。ただ5感の中で視覚だけが飛び抜けて発達するようになると、どうしても視覚による補正を受けなくてはならなくなるので、行動の当否を評価するシステムの介在が必要になったのだと思われる。

話を戻す。

この黒質の神経細胞の中にシヌクレインが溜まってくる。そして他のタンパクを巻き込んでレビー小体という封入体が出来上がる。このレビー小体が直接悪さをしているのかどうかは分からないが、とにかくそれが増えるに従ってドパミンの分泌が落ちてくる。

それを図示したのが下の図だ。

病態モデル

シヌクレインというのはAβ(アミロイドβタンパク)と違って本来は悪者ではなく、脳に必要な蛋白らしい。それが何かの都合で変性してしまうと細胞死に繋がる。中には編成したシヌクレインを取り込んだまま生き延びている神経細胞もあって、それがレビー小体として表現されている、というのがこの図のあらましである。

木下先生たちは、シヌクレインが編成するのにはSept4というもう一つのタンパクが関係するようだということを主張しているのだが、それはとりあえず置いておこう。

なおこの文章の下には簡単な用語解説がついていて便利だ。これも転載しておく。

(注2)α-シヌクレイン:
 神経終末に大量に存在する機能未知の蛋白質で、レビー小体の主成分として知られている。遺伝性パーキンソン病の原因遺伝子産物の1つである。

(注3)レビー小体:
 パーキンソン病などにおいて神経細胞内に形成される封入体で、なかでも黒質ドパミン神経細胞内に形成されるものは円形で均一、同心円状の芯を持つ。変性したα-シヌクレインを主成分とし、副成分として複数の蛋白質を含む。

(注4)シヌクレイン病に分類される疾患群:
 パーキンソン病の大部分、レビー小体型認知症、多系統萎縮症の一部

(注5)ドパミン神経細胞 (ドパミンニューロン):
 ドパミンを神経伝達物質とする神経細胞。細胞体は中脳腹側部(黒質)に存在し、線条体や大脳皮質などに投射した神経終末からドパミンを放出する。パーキンソン病においては、ドパミン神経細胞の選択的な機能障害や細胞死が起こる。

(注6)セプチン:
 細胞骨格系を構成する一群の蛋白質。アクチンやチューブリンなどの細胞骨格蛋白質と協調して、細胞分裂や細胞形態形成に関与する。ヒトのセプチン遺伝子Sept1-Sept13に由来するセプチンのほとんどは脳に多く含まれる。

最近では多系統萎縮症はGCI蓄積病として総括されるようだ。これが大別するとP型(パーキンソンなど)とC型(脊髄小脳変性症など)になる。

つまり、多系統萎縮症はパーキンソン病と脊髄小脳変性症の中間に位置する、ということになる。

長年、神経学の果てしなく続く病名に悩まされてきた私としては、まことに同慶の至りである。

これに代わり、遺伝子屋さんがまたジャングルを形成しつつあるが、根っこさえしっかりしておけば、あとはそれぞれの持場でしっかりやってくれればよい。

ただ遺伝子学そのものは、未だ星雲状態で、そこには現象的認識の果てしない空間が広がっている。

脊髄小脳変性症という病気は、気の遠くなるほどの亜種を含んでいる。

1969年、Graham らは脊髄小脳変性症のうちオリーブ橋小脳萎縮症、線条体黒質変性症、Shy-Drager症候群を包括して「多系統萎縮症」と称するよう提唱した。その理由は省略する(正直のところ良くわからない)。

ところが、1989年 Papp ら、多系統萎縮症では例外なく オリゴデンドログリアに嗜銀性封入体が出現すると報告した。これは異常フィラメントが集簇した構造物である。なぜ今ごろになって見つかったのかというと、通常のHE染色では染まりにくかったからである。これに銀の入った特殊な染色液をかけると、「透明人間」が見えるようになった。

GCI

       IGAKUKEN [Neuropathology Database]より

その後、この染色法で調べていくとグリア細胞の核内にもGNIと呼ばれる封入体が発見された。さらに本体の神経細胞を調べていくと、細胞質内にNCI封入体、細胞核内にNNI封入体、神経突起内にneuropil threads という封入体が発見された。実は多系統萎縮症の脳は封入体だらけだったのだ。

研究者たちは色めき立った。アルツハイマーにおけるアミロイドやタウのように、これら5種類の封入体がが神経細胞脱落をもたらすかも知れないと考えられるからである。

「多系統萎縮症」と無理やりまとめたが、もともと3つの疾患を強引にまとめた病名で、どこかの政党並みに出身派閥がある。ところが病理学所見が一致すると、これらは実の兄弟だと分かったことになる。それだけなら、めでたしめでたしだが、どうもこの封入体が病気の原因になっているのではないかということになって、話はそれではすまなくなった。彼らが実の兄弟なら父親は誰かということになる。

その後の研究で、GCI封入体の本態がα-シヌクレインであることが分かった。アルツハイマーでアミロイド小体からAβ(アミロイドβタンパク)が同定されたのと同様である。これは衝撃の事実だ。パーキンソン病で蓄積されるレビー小体もα-シヌクレインである。MSA、パーキンソン病、レビー小体病は“αシヌクレイン症”という新たな疾患概念を形成することになる。

ただし、パーキンソン病ではグリア内蓄積はあるが核内蓄積は認められない。逆にMSAではレビー小体は形成されないなどかなりの違いはある。また他に封入体探しも進んでいて、ALSのブニナ小体、前頭側頭葉変性症のユビキチン陽性封入体、ピック病のピック小体などが報告されている。“αシヌクレイン”という苗字が同じでも血がつながっているとは限らないのである。

というわけで、いまや封入体の本態であるαシヌクレインをどの遺伝子がどういうふうに作っているのかに関心が集中しているようだ。アミロイドβタンパクに対するカスケード戦略がここでも再現されていると見てよい。

しかし、一足飛びに遺伝子に行くにはちょっと早すぎるような気もする。まず、αシヌクレインが本当に犯人なのか、どういうふうに犯行を行なっているのかがまだはっきりしない。遺伝子を検索するなら、多系統萎縮プローンの動物(あるとすれば)で、αシヌクレイン産生遺伝子をノックダウンして、多系統萎縮症が抑制できるかどうかも示して欲しい。

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