鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

カテゴリ: 41 臨床医学(一部医療問題を含む)

山田規畝子「壊れた脳 生存する知」を読む
と題したがどこまで続くか分からない。本を読むのは簡単だが、しかし忘れるのはもっと簡単だ。味わい尽くすというのはとても困難なことだ。

とにかく始めよう。

この女医さんはチャラチャラした人ではない。整形外科医として研修を積み、親の跡を継ぎ、民間病院の若手院長として経営にも携わった人だ。

この本は、そういう人が30歳そこそこで脳出血となり、悪戦苦闘しながら新たな道を探していくという、一種の冒険ファンタジーだ。

その中で、自分と自分の症状を見つめ正確に描き出していく病状レポート・症例報告でもある。

私としてはとくに、三度目の発作すなわち非利き腕側の頭頂葉出血が、ゲルストマン徴候との関連で非常に興味深かった。これに比べると4度目の発作はあまりにも被害甚大で、脳CT画像を見ると思わず息を呑んでしまう。

ここまでなると巣症状(欠落症状)も、高次脳機能障害もへったくれもないので、むしろ残存機能をどう鍛え上げていくか、生活にどうハビリテートしていくかが主要な問題となる。そして山田さんは見事にそれを達成していくのだ。ただしそれは別の興味(というより感動)の対象だ。

1. 時計(アナログ)が読めないということ

この本の書き出しは、アナログ時計の読み間違いから始まる。

症状は大変具体的だ。午前4時を午前8時と読み間違いしてしまうことだ。

左右失認だ。情景は全て見えている。時計の読み方もわかっている。右と左も基本的には分かっている。しかしパッと見たときの左右の判断がつかない状態である。

物事を理解するには最初は大脳をフル回転させて対象を認識し、記憶装置にしまい込む。最初の2,3度はそうやって理解するのだが、繰り返すうちに思考・記憶回路のかなりの部分がマクロ化され、Batch File として別の作業用記憶装置に記載される。この作業用記憶装置は、事の性格上、感覚処理中枢の近くにあるはずだ。

と、ここまでは以前のおさらい。ただしその時は視覚情報の最終処理はすべて利き腕側脳半球で行われると思っていた。現に彼女は何の支障もなく時計を眺め、時計として理解している。しかし左右性については「頭では分かっているのに」とっさに判断できないのである。

つまり視認機能の基本はすべて利き腕側でやるにしても、左右差の認識だけは本質的に非利き腕側の視認機能が必要なのだ。もちろん利き腕側がやられても同じ結果にはなるのだが、その時は視認機能そのものに重大な支障が出てくるので、それにマスクされてしまうのであろう。

この左右性というのは意外に重要なので、多少大げさに言えば物事の意味性にも関わることがある。アナログ時計は右左が「似ているけれど違うんだ」というところに意味がある。差異性が認識できなければただの壁飾りだ。
2.時計は文明の凶器

考えてみれば、時計というのはとても不親切な機械だ。

針は2本あるのに(秒針を入れれば3本、目覚ましの針を入れれば4本)、長針についての表示はない。ひどいものは数字すらなく、頂点に目盛りが一つあるだけというものすらある。ただそのほうが厚労省の論理だと「公平」ということになるかもしれない。もし「親切な時計」と言うものを作るとすれば、長針用の文字盤はもう一つ作って、1,2,3…のかわりに5,10,15…と書くべきだろう。子どもに時計を教えるにはそのほうが良いかもしれない。

子どもが時計を覚えるためには、まず時計のいくつかの約束事を憶えなければならない。しかもこれらの約束事は非論理的で、したがって暴力的である。したがって子どもに非合理的な屈従をもとめる。「なぜ?秒と分だけが60進法なのだ」、「なぜ?時計には12までしか数字がないのだ」、「なぜ?1日は60時間ではなくて24時間なのだ」

「なぜもへったくれもない。昔からそうなっているのだ」
4.左右視と立体視
話を戻す。
眼がどうして二つあるかというと、それは立体視のためだ。わずかな視覚野の差異を利用して立体視できるように頭のなかで計算しているのだ。
これはアナログ画像からはできない。情報量が多すぎるからだ。そこで網膜に映された信号を後頭葉第1野でデジタル化する。それを第2野で圧縮した上で第3野で立体化する。この立体化情報は以後利き腕側の脳で処理されるので、非利き腕側の第三野以降は遊んでいることになる。
画像そのものはそれで終わるが、画像の意味というものは画像とは別に残る。なぜなら視認に基づいて何かの行動を起こす場合にはそれがもう一度必要になるからだ。
この辺は曖昧な形でしかいえないが、事物の意味論的な認識には両眼が必要なのではないかと思う。
それを示したのが以下の段落だ。

倒れた直後はまったく時計が読めなかった。それが時計であることは分かっていたが、その針がどういう約束で動いているのかが分からなかった。

私には時針は短すぎた。あんなに離れたところから数字を示されてもよく分からない。

もう一つ、目は本来位置や方角には強いはずであるのに、立体視のために使うようになったことで逆に混乱を招いていることである。

…ずいぶん楽に読めるようになったいまでも、なぜか4時を8時、5時を7時と読み違えることはしょっちゅうある。

例えば片目だけで対象を見ればこのような間違いはないのではないか。視認の主座である利き腕側の頭頂葉に、意味付け情報を与えるための非利き腕視認中枢が、誤った情報を伝えたための混乱なのではないか。
もともと片目が失明している人の場合はどうなのだろうか。




20170228 離乳と断乳

どうも最近の「母乳原理主義」を煽っている元凶が、WHOの「母乳育児を成功させるための10か条」というご託宣のようだ。さらにその根っこには「母乳栄養に関するWHO勧告」というものがある。これはWHOが2011年に“Exclusive breastfeeding”(母乳原理主義)として発表したものらしい。

「固形物を食べられる兆候が現れてくるまでの最初の6か月間は、母乳のみで育てる。母親と子供が望めば、少なくとも2歳までは推奨される」
というのが結論である。

*十分な量の母乳が生産できないことは稀であり、栄養状態の良くない発展途上国の母親も、先進国の母親とほぼ同質同量の母乳を生産していることが示されている。

*吸引がより頻繁であるほど、母乳の生産量は多くなる。時間帯を決めて授乳するよりは、赤ちゃんが飲みたい時に授乳する方が望ましい。

*母乳栄養は出産前の体重の復旧、出産後の子宮の復旧、乳癌のリスクの低下など母親にとっても有益である。

*母乳の生産量を増やすために、ドンペリドンやメトクロプラミドが処方される。ただしアメリカ小児科学会は、「メトクロプラミドの副作用は考慮されるべき」としている。

など「母乳原理主義」の驚くべき記述が続く。(ウィキペディアによる)

「栄養状態が悪い母親も先進国の母親とほぼ同質同量の母乳を生産する」という行りは、聞くだけでもおぞましい。どう考えても我が身を切り縮めているということにしかならないのだ。それを是とするのか? それは「医学」なのか?

中でも、常識はずれとして批判を浴びているのが「カンガルーケア」という項目らしい。カンガルーケアとは、育児の手法の一つである。生後30分以内にお母さんのおなかに赤ちゃんをのせて自然に乳首を吸わせる。それがカンガルーのやり方らしい。コロンビアの病院で保育器不足を補うために導入されたのが、「エコロジスト」によって拡散された。

カンガルー・ケアは母乳分泌を促し母子の絆を強化することを目的にしている。いわば完全母乳哺育の第一歩であり,完全母乳主義の一環をなす考えである 

これは出産直後の授乳開始を義務付けたもので、さらに母乳以外の栄養や水分を与えてはいけないという条件がつく。これが第6条というものだ。

一つ間違えば、殺人につながりかねないマニュアルであるが、現在我が国においては、これを「完全母乳栄養」と称し広げようとする動きが広がっているのだそうだ。


以下、「『母乳育児を成功させるための10か条』の解釈について」(2009年)という論文から紹介する。著者は仲井宏充さんと濱崎美津子さん。いづれも佐賀県内の保健所のスタッフのようだ。ネットで調べると、仲井さんは県内各地の保健所を歴任したあと、現在は唐津で開業され、「食と健康」をスローガンに掲げ奮闘されているようだ。

まず抄録から引用する。

現在我が国においてはカンガルーケアが当たり前となり,母乳以外の糖水・人工乳を与えない完全母乳栄養法が“赤ちゃんに優しい”と考えられるようになった.

これは1989年にWHOとUNICEFが共同で発表した「母乳育児を成功させるための十か条 Ten Steps to Successful Breastfeeding」という勧告に基づくものである。

その第四条および第六条を根拠とした「完全母乳栄養法」が国内に普及している。

これに対し筆者は,

1.第四条が言う「母親の授乳開始への援助」がカンガルーケアを指すものではないことを明確にすること,

2.第六条の「新生児には母乳以外の栄養や水分を与えない」は,第四条にある「分娩後30分以内に赤ちゃんに母乳をあげられる」が満たされることを条件とすべきだ。

と提唱する.

第四条 Help mothers initiate breastfeeding within half an hour of birth. お母さんを助けて,分娩後30分以内に赤ちゃんに母乳をあげられるようにしましょう
第六条 Give newborn infants no food or drink other than breastmilk, unless medically indicated. 医学的に必要でないかぎり,新生児には母乳以外の栄養や水分を与えないようにしましょう

この理由として,

1.十分な母乳分泌がないお母さんの赤ちゃんに低血糖が起こる結果,特に脳に重大な影響を及ぼすことを強く示唆する報告が多数あること,

2.カンガルーケアは完全母乳主義の一環をなす考えであるが、科学的根拠に基づく標準的な方法が確立されておらず,カンガルーケアによって危篤状態に陥る児が多数報告されていること

が挙げられる.

以上のことから我々は,

1.新生児の神経発達に影響を及ぼさない血糖レベルが定まっていない現状においては,母乳分泌が十分でない場合には補足的栄養補給を躊躇すべきでない.

2.カンガルーケアには危険が伴うことを認識し,新生児にとって快適な環境温度に調整されてない我国の分娩室においては,カンガルーケアを行うべきではない

ことを強調したい.


以下本論に入る。

Ⅱ 注目すべき報告

山形大学のチームが「症候性低血糖を来たした完全母乳栄養児の1例」を報告した。このケースは正規産新生児で、完全母乳栄養管理下に低血糖による痙攣及び脳障害を来たした。MRIでは後頭部に限局した病変を認めた。

これに対し、WHOは「母乳保育の満期の健康な赤ちゃんでの低血糖が有害であるというエビデンスはまったくない」とし、第6条の堅持を主張した。さらに新生児の低血糖スクリーニングも無意味だとして拒否した。

この意見の対立をめぐり、米国小児科学会は「有効な経験的研究の不足のために、臨床診療のための提言は出せない」と逃げた。

Ⅲ 日本でカンガルーケアを行うことの危険性

これについては確定的な論文による批判はないが、長野県立こども病院総合周産期母子センターの中村友彦医師による問題提起がある。

これは「正常産児生後早期の母子接触(通称:カンガルーケア)中に心肺蘇生を必要とした症例」を提示した上で、「カンガルーケアの留意点」として以下を挙げている。

1.日本のほとんどの産科施設において,正常産児のカンガルーケアが生後30分以内に行われている.ところがカンガルーケア中に,赤ちゃんが全身蒼白,筋緊張低下,徐脈,全身硬直性痙攣,という非常に危険な状態でNICUに緊急入院するケースがあり,他の施設でもこれと似た症例がある。

2.正常産児の生後早期のカンガルーケアに関する文献では,その安全性については議論されていない.また日本では正常分娩の分娩室での母子ケアについては,科学的根拠に基づく標準的な方法が無い.

3.したがって、生後早期のカンガルーケアについて様々な側面から検討する事が必要である.

以上のごとく引用した上で、著者らは次のようにコメントする。

日本では,分娩室の室温は大人に快適な温度、赤ちゃんには低めの温度に調節されている.

このような環境でカンガルーケアを実行すると赤ちゃんは低体温に陥る。その補正のために熱産生を行い,その結果血糖を消費し低血糖に陥る。その結果脳障害の危険が高まる。すなわちカンガルーケアは児に不利益である可能性がある.

Ⅵ 我が国における排他的母乳主義の歴史

学術論文らしからぬ、主観の入り混じった考察ではあるが、それとして見事な文章なので、著作権侵害を恐れず全文を転載する。

我が国における完全母乳主義は国立岡山病院の院長であった故山内先生が推進された運動である.

その当時の日本では,美容的理由や就労の都合,新生児黄疸の予防,さらには乳業メーカーの力などで粉乳哺育が主流となっていた.

山内先生は感染が少ないなど母乳の優位を示すEvidenceにもとづいて母乳推進運動を推進されていたが,森永砒素ミルク事件がきっかけとなり助産師を巻き込んだ社会運動へと発展していった.

「出ない乳房はない,母乳が出ないのは乳房管理が悪いからだ,粉乳を与えるので児は母乳を求めなくなるのである」というロジックで、この運動は昭和50年代から今に至るまで全国を席巻している.

そしていつの間にか,足りないときに適切な糖水や人工乳を足すことをあたかも犯罪であるような言い方をする,偏った母乳主義が台頭することとなった.

今日では,完全母乳主義が乳汁分泌不全の褥婦を精神的に追い詰める結果となっている.

…元来,母乳以外のものを足さないのは,「足せない」低開発国向けのことで,母乳バンク,もらい乳が出来ない日本ではとうてい無理な話ではないかと思う.

むしろ今後は,…乳汁分泌不全の患者さんを完全母乳主義の強迫観念から解放して,「母乳哺育をしたくても出来ない人にどう対処するか」という視点を持つことが是非とも必要だと考える 

率直に言えば、「あぁ言っちゃった。スッキリした」という斬り捨て御免的なきらいはあるが、それはお互いさまだ。こっちは所詮蟷螂の斧だから、このくらい言わないと相手に伝わらない。

そういえば、うちの嫁さんも「桶谷式」とか言って一生懸命揉んでいたが、「痛くなかった」という話も「湯水のごとく母乳が出た」という話も聞いたことはない。そしてしっかりと乳がんになった。

「がん保険」の給付金は、東洋医学とかDHCとかブロポリスなどという怪しげな民間療法で泡と消えた。その金がなんとかテレビの反共デマに使われている。哀れなエコロジー原理主義者の末路であるが、それで納得しているところが怖いところである。

離乳というのがよく分からない。

子供の問題にも関わるし、母体の問題にも関わる。

この問題は育児・子供の成長の問題として語られることが多い。しかし私としては、離乳をふくむ育児という実践は、基本的には母親側の問題だと思う。

女性は、あたり前のことだが、母性である前に女性である。子供を産むことによって初めて母性となる。

子供が成長するように、女性も母親として成長しなければならない。スキンシップを主体とする母性から、見守りを主体とする母性へと育っていかなければならない。

離乳はその重要な過程の一つとして考えるべきだ。

ここまでは多分議論の余地のないところと思うが、問題は母乳を母性の絶対的内容として主張する昨今の風潮だ。どうもこれが問題を複雑にしている気がしてならない。

母乳がベターであることは言うまでも無いし、あえてベストと言ってもよい。しかしオンリーではないはずだ。私はたぶんほぼ母乳なしに育っている。70を過ぎて人並みに暮らしている。タバコさえ吸わなければもっと元気だろうが、これは私の死神との取引だ。

母親が母乳が出なかったことに対し文句を言う気はサラサラないし、むしろ母乳なしでここまで育ててくれたことに感謝している。

そういうのが根っこにあるせいか、1歳半を過ぎてまだ授乳をしている母親に対して、イラッと来てしまう。

「いまはもう、あなたの体のほうがだいじですよ。母性の示し方が違うでしょう。けじめを付けなさい」


この文章を思いついたのは、赤旗の文化面に載った「文化時評」の、あるところが気になったからである。

山崎ナオコーラ「父乳の夢」の紹介の所を引用する。

現在乳児を育てている著者の「母ではなく親になる」という決意が込められ、ユーモアに満ちていて小気味よい。

一般論や雰囲気を「信じるな」が口癖の今日子と、手ずから子育てをしたい哲夫。生後間もない薫への授乳をめぐって、時に行き違う。

母乳絶対の風潮に流されがちな哲夫に対して、無理してまで母乳に固執したくないと考える今日子は、「そんなに母乳が好きなら、哲夫が母乳を出したら良い」と言い放つ。

社会の成熟に伴って体も進化したらしい哲夫からは、溢れんばかりの母乳、もとい、父乳が出てきて…。

あらゆる先入観と決めつけを排し、多様性の尊重をテーマにしてきた著者が、性別役割分業と母乳神話を暴いた快作である。

と、これだけでも名文である。

なお、ついでだが、その記事の隣、「歌壇」にも女性が自分を「僕」と呼び、歌を詠む最近の動向が触れられていて、その例としてあげた歌がなかなかいい。筆者は沖ななもさんという歌人。

目があって
君を見てたと気づく僕
君のうしろに 輝く青空
(中学生 伊藤麻衣)


噴水が
上へ上へと登っていく
夢へと進む 僕らのように
(中学生 石川玲奈)


満月の
明かりたよりにすぶりする
次こそきっと ヒットを打つぞ
(小学生 斎藤歩和)

これらは千葉県山武市主催の「左千夫短歌大会」に応募したものだそうだ。山武市というのは知らなかったが、「野菊の墓」の舞台なのだろうか。

女性と母性の問題はこれからも学んでいく必要がありそうだ。


以前、「特養を出たい」という相談を受けたことがある。
特別養護老人ホーム(通称特養)はある意味で人生の終着駅(の一つ)だ。病気で具合が悪くなって入院して、ある程度落ち着くと、慢性期の施設に移る。
例えば脳卒中の後遺症みたいなものが残ると回復期病棟というところに行く、ただしここには期限があってそれを過ぎたら出なければならない。
それが後遺症どころでなく重い障害を残すと、療養型病棟というところに移る。例えば中心静脈栄養(IVH)とか胃ろう栄養(PEG)とか人工呼吸器とかである。だいたいこのような人は長くは持たないで、療養病棟で命を終えることになる。
それで話が戻るが、回復期病棟の期限がすぎると、あるいはリハの必要がない人の場合なら、老人保健施設(老健)という施設に入る。老健で経過を見ながら自宅復帰の準備を進めて、「大丈夫」ということになったら家に帰ることになる。
ところが、家に帰れないほどの後遺症が残ってしまう人も少なくない。私の経験ではほとんどの入所者が帰れる展望はない。そうなると、終の棲家を探さなければならなくなる。それが特養である。
だから特養は「療養放浪記」の最終章なのだ。
ここから出るのには二つある。一つは病気が悪くなって病院に送られる道である。それでどうなるかというと、ざっと見て半分はそのまま病院で帰らぬ人となり、残りの半分は戻ってくる。しかしそういう人は必ずと言っていいほどまた悪くなる。そしてまた病院に送られる。それで帰ってくる人は殆どいない。
もう一つの道は、病気というより老衰であって、生命機能が落ちてきて、生きようという意欲がなくなる。もちろんその殆どは認知症を伴っている。この場合、家族ともお話した上で、静かに看取らせていただくということになる。
早い話が救急車で出ていくか霊柩車で出ていくかという選択になる。
どちらにしても特養をそれ以外の方法で出ていくことはありえない。そう思っていた。
ところが突然「特養を出たい」といわれたから驚いた。
担当者から話を聞くと、聞くも涙の物語だ。
個人情報になるので詳しくは話せないが、つまりは特養に入所していくだけのお金がなというのだ。
特養にも自己負担があって、もちろん以前からあるのだが、去年の改定で一部負担料がドーンと上がったというのだ。
旦那が入居していて、その旦那の年金で夫婦二人が生活していた。いままでもカツカツの生活で、それでもなんとか頑張っていたのだが、毎年年金は下がるは一部負担は上がるはで、「もうとても切り詰められません」という話になった。
それで「療養型ならもっと安いのでそちらに移りたい」のだという。おそらくどこかで小耳に挟んだか、誰かに吹き込まれたのだろう。
「紹介するのはやぶさかでありません。しかし受けてくれるような病院があるかなぁ」とその場は受け流して、なんとか制度活用や、資産処分とかでもう少ししのげないか、最後は福祉の方でということで、ケースワーカーの方に話を持っていった。その後話しは沙汰止みになったようなので、それなりに落ち着いたとは思うが、なんとなく後味の悪い話であった。

と、ここまでが話しの前段。
本日の赤旗に、「全国施設長アンケート」の結果が紹介されている。
まずアンケート調査の主体だが、老人福祉施設の運営者らで作る「21世紀・老人福祉の向上を目指す施設連絡会」という組織。略称を「21・老福連」という。民間の有志組織のようだ。
この「21・老福連」が、全国の特養の施設長にアンケートを取った。この内回答があったのが1,589施設。特養そのものは全国に7,708施設あり、その20.6%であるから、かなりバイアスがかかっている可能性はあるが、事例を見ていく上では説得力のある調査だと思う。
調査そのものの主眼は、15年の介護保険制度改定の影響を、施行後1年の時点で調べることにあった。しかし、いわば副次的に、入所者への影響が浮かび上がってきている。そこに赤旗が注目して記事にしたというのが話の筋道だ。

記事の見出しは「支払い困難 理由に退所――100超す特養で」 脇見出しが「自公強行 介護改悪ずしり――低所得者の入居 厳しく」

記事ではいくつかの結果が列挙されている。
1.約半数が介護保険制度改定が「入居者に何らかの影響があった」と回答した。
2.101の施設で「支払いの困難を理由に退所したものがあった」と回答した。(人数は調査していない)
3.311の施設で「配偶者の生活苦が強まった」と回答した。
4.その他の影響として、「個室から多床室への移動」が222回答、「利用料支払いの滞納」が206回答あった。
アンケート調査ではこれらの影響が何故生まれたかを問うている。施設側の評価を尋ねたものである。
5.408施設では「低所得者への部屋代の補助、食事代の補助を定めた『補足給付』の要件が変更されたため」と回答している。また367施設では「利用者負担が1割から2割に増えたため」と回答している。

ここまでが調査結果の紹介。以下は『補足給付』についての説明。
元々は14年6月の「医療・介護総合法」によって方向付けられたもので、それを具体化した15年の介護保険制度改定で給付の要件が厳しくなった。
1.預貯金などの資産が一定額を超える場合は補助の対象外となった。
2.一定以上の所得があれば利用料負担は1割から2割に引き上げ。
でこれがダブルで来るとボーダーライン層には、相当きつくなるだろうと予測されたが、今回それが事実として明らかになったということだ。

特養というのは、いわば老人にとって最後のセーフティ・ネットのようなものだ。だから困窮者には補足給付などの方法で「排除されない仕組み」を作ってきたのだが、これでは崖っぷちの下流老人を後押しすることになりかねない。
特養に対するそもそもの考えを、原点に立ち返って今一度検討すべきではないだろうか。

最近、特養で数人ほど、何か分からないCRP陽性と貧血の方がいる。症状もない(認知はある)がそのままというわけにも行かず、なんとなくプレドニンを使ってしまった。

1日5ミリだから、べつに副作用もないが、当然のことながらCRPは改善し、遅れて貧血も改善してきた。

結果的にリウマチ性多発筋痛(PMR)でよかったのかなと思っている。ただRFも陽性に出たので困ってしまった。

むかし研修医だった頃は「リウマチにステロイドは使うな」と堅く戒められていた。骨がぼろぼろになった患者の写真を見せられたりして、刷り込まれている。

「もしリウマチならそっちの治療しなければいけないのかな」と思って、雑誌をめくってみると、「とにかくリウマチなら高齢者であろうとなかろうと、リウマトレックス」と書かれている。

しかし副作用のところには恐ろしげなことが書かれている。とても特養で認知+超高齢の、しかも無症状の人に使えるような代物ではない。

だいたいメソトレキセートといえば、私らの世代には抗がん剤だ。使うんなら家族にムンテラして承諾書もらう必要がある。

ところがPMRならプレドニンを使っていれば済む。それも少量で済む。

じつは、私の研修医時代はリウマチ性多発筋痛そのものがあまり知られていなかった時代で、地方会で「PMRの2例」と題して報告した記憶がある。

そのとき文献集めをしたのだが、国内文献で5,6題。洋文献も1ダース程度だった。北大の図書館で巻紙のコピー用紙を一巻き使った記憶はあるが、不思議なことに読んだ記憶がない。

外国ではむしろ側頭動脈炎が注目されていて、スカンジナビアの何処かから「巨細胞がどうの」とかいうレビューがあった。

治療はアスピリンの大量療法で、日本人の胃袋には到底耐えられないような量だった。どこかで「少量のプレドニンが奏功する」という報告があった。その後はプレドニンが標準治療のようになっている。

昔話はさておき、「それではリウマチでないという証拠はあるのか」、と言われるとない。鑑別法を探したが、結論は「鑑別はできない」ということだった。後からリウマチの所見が出てくれば「やっぱりリウマチだったんだね」ということになる。

問題はプレドニンをダラダラと使うか、リウマチの治療に切り替えるかである。リウマチの治療にはやぶさかではないが、リウマトレックス以外の方法はないのか、これが目下一番悩ましいところだ。

むかし小耳に挟んだリマチルとかリドーラとかサラゾピリンはどうなんだろう。しかしこれらはぱっとしないような話しか書いていない。

どうも結論としては、「そうだ、これはPMRなんだ。だからプレドニンで良いのだ」と割り切るのが一番かんたんなようだ。悪性腫瘍が隠れていようと、歌の文句じゃないが「#そんなことなど知りたくないの」だ。そうなればどのみち助かりようはない。

だいたいプレドニンほど有効域が広い安全なクスリはないのだ。副作用は熟知されている。それに5ミリとか2.5ミリなんていうのは鼻くそみたいなもんだ。チラージンやインシュリンと同じで補充療法だと思えばいい。

ということで、CRPと血糖値見ながらダラダラと使うことにした。ひょっとすると低ナトリウムにも効くかもしれんなぁ。


ということで、友田さんの研究を私なりに敷衍すると、

1.虐待ストレスの形態には視覚ストレス、聴覚ストレス、痛み(肉体的苦痛)ストレスがあって、それぞれに対して適応が生じる。

2.しかしそれはあくまで受身的適応にとどまり、脳の全面的発達を犠牲にする形でしか実現できない。

3.それはおそらく神経線維の髄鞘化(ミエリン化)を部分的に中止し、発達プログラム通り実行しないことで実現される。

ということになる。

神経核(灰白質)でなく神経線維(白質)に着目したことは優れたアイデアだろうと思う。

複合的ストレス(例えばネグレクト、飢餓)については三大ストレスの組み合わせで理解されることになるだろう。

友田さんのいう「脳の萎縮」は、これらの効果をネットとして捉えたものであろう。「萎縮」を言葉通りに捉えるなら脱髄過程ということになるが、脱髄はそれ自体が疾患であり、病的適応過程(病的環境に対する生理的反応)ではなく病的過程そのものである。

髄鞘化の概念

脳の神経細胞は生後間もなく出揃う。しかしこれらが十二分に力を発揮するためには通信速度の向上が必須であり、それには十数年にわたる髄鞘化の過程を待たなければならない。

髄鞘化の過程は生体内にロードマップとしてプログラミングされているものであるが、高次脳機能に関してはかなりエピジェネティックな要素が強いのかもしれない。DNA本体ではなくペプチド鎖の末端がアセチル化される過程は、ソリッドではなく強いストレス下では可変ないし可塑的となる可能性がある。

髄鞘化抑制因子

髄鞘化が抑制される原因のひとつとして高度ストレスが存在すると考えられる。

友田さんは、これらの過程の現場プロモーターとしてストレス・ホルモン、具体的にはステロイドを想定している。

これは例えば冬眠誘導物質などを想定すると分かりやすい。

しかし、発達の障害というかなり長期にわたる変化を見るときには、神経内分泌学的ネットワーク全体の中で考えなければならないだろう。カテコールアミン→ステロイドをイニシエータとして、各種ペプチドホルモンの複合作動系の中に、髄鞘化促進因子の発現を抑える何らかの要因が出現するとみるべきであろう。

間脳の作動機序の解明が中核的課題

これらの過程の中枢にあるのは生命活動の核心としての間脳(視床・視床下部複合体)だ。ここでの神経内分泌学的なダイナミックスを解き明かすのが、研究の究極目的となるのではないか。
それは赤旗のインタビューでの、ウツに関するコメントにも共通するターゲットだとおもう。

友田さんの和歌山での公開講演会(2011年)の記録である。この中の「発達過程の子どもの脳の脆弱性」という部分を紹介する。

A イントロ

1.ストレスの衝撃によって脳に癒されない傷がつく

最近(1980年代末以降)ではその「脳の傷」を可視化することができる。

2.大量のストレス・ホルモンが脳の発育を遅らせる

虐待ストレスによって扁桃体の興奮が高まり、ストレス・ホルモンの放出閾値が下がる。

B 虐待の既往のある健常ボランティアを対象とした調査

問診、心理テスト、脳MRを施行した。

性的虐待例(女性)では後頭葉の視覚野の容積減少が見られた。容積減少率は虐待期間の長さと相関していた。

暴言虐待では、聴覚野を構成している領域に異常が見られた。MRIトラクトグラフィにより大脳白質の神経線維の走向を調べたところ、ブローカとウェルニッケ中枢を結ぶ弓状束の軸索数減少が確認された。

体罰では、前頭前野の内側前頭皮質に異常が見られた。ここは行為障害、感情障害と関係する領域とされる。
「テンソル画像解析」による調査の結果、
視床から大脳皮質へと走る疼痛の神経伝導路の描出が著明に低下していた。

傷つく脳
友田さんの「子ども虐待と脳の発達」というページから、「児童虐待により傷つく脳」という図を転載させて頂く。

C 調査の副次結果

以上が主要な調査結果であろうと思う。

かなり大規模な調査なので、副次的にいくつかの結果(傾向)も出てくる。この内、被害時年齢との関連について他研究のレビューもふくめながら言及されている。

1.虐待を受けた年齢と脳障害の関係

海馬では3歳か4歳頃の体験が海馬の低容積化に最も強く影響する。

脳梁では9歳から10歳、前頭前野では14歳から16歳の虐待体験が低容積化に最も強く影響する。


非常に貴重なデータです。熱意がもたらしたアツい研究でもあります。もちろん、解釈は慎重を要するでしょうし、まだまだ技術的・手法的な洗練が求められてくるとは思いますが、なによりもその先駆性と独創性に心打たれます。

赤旗の社会面に地味にシリーズ物が組まれている。「部活って何」という題名で本日で3回目。

普段は眺めるだけで通り過ぎるのだが、本日はカラーの脳画像、その左肩に白衣でバッチリメークの女性の写真が、いや目でも人目を引く。

リードは下記のごとし。

長時間の過酷な練習や暴言・体罰など、部活動をめぐる問題が子どもたちにどんな影響をおよぼすのか。
脳科学から見た問題点を福井大学「子供の心の発達研究センター」の友田明美教授に聞きました。

ということで、友田さんの発言は以下の3つに大別される。

1.ウツ状態の脳画像の特徴

a 脳の血流が全体として低下 b とくに前頭前野の血流が低下

2.うつ状態の生理反応

a 意欲の低下→喪失 b 慢性化すると自律神経失調を併発。この場合、体調不良が長期化することが多い

3.ストレスによる脳萎縮

a 長期の強いストレスに暴露されると、前頭葉で最大19%、前帯状回で17%、前頭前野背外側部が15%ほど“小さくなります” (発育が止まるという意味か?)

b この結果、感情や意欲が低下し、集中力が低下し、学習や記憶力も低下し、本能的な欲求・衝動を抑える力も損なわれる。

c 脳萎縮の原因は大量に分泌されたストレスホルモンが、脳の発達を一時的に止めてしまうためである。

ということで、「うつの脳科学的検討」というテーマは面白いにしても、思い込みの強さが気になって、すなおにはうなづけないところがいくつかある。

なおカラー表示された脳CT画像はたしかに興味ある所見を示している。しかし別の人物のCTを2スライス並べて何かを言おうというのは、あまりにも拙速である。

とにかく、もう少し友田さんのまとまった意見を聞かなければならないだろうと思う。


平成26年の調査で、介護事業各分野の収支比率が出ている文献があったので転載させていただく。

1.介護各分野の利益率

介護事業の収支差率: 全サービス加重平均では8%

サービスの種類別にみると下表の通り

各サービス

通称で呼ばないとわからないでしょう。

特養は介護老人福祉施設で8.7%

老健は介護老人保健施設で哀れにも5.6%

療養型病院が介護療養型医療施設で8.2%

グループホームが認知症対応型共同生活介護で11.2%

デイサービスが通所介護で10.6%

デイケアが通所リハビリテーションで7.6%

ショートステイが短期入所生活介護で7.3%

ということになる。

2.国と厚労省のやり放題

ただし、これらの数字は厚労省の胸先三寸、さじ加減でどうにでも変わる。下のグラフを見れば一目瞭然である。

事業形態別

引用元文献によれば、

国の施策の方向性と連動して、拡大したい分野の報酬を上げて、減らしたい分野の報酬を下げる。「施設から在宅へ」という流れがあるため、現在の方向は一層強化されるだろう。

また、介護経営実態調査等によって、「財政的に余力がある」と判断された分野は、もぐらたたきに会う。なぜか老健は自殺したくなるほどのいじめにあっている。

3.2015年の大改定

実はこの後、大規模な介護報酬の改定があった

特別養護老人ホームで6%弱、小規模のデイサービス(通所介護)では9%以上も減額された。グループホームの基本料も6%弱の切り下げとなっている。

特別養護老人ホームは、巨額な内部留保(1施設3億円、全体で2兆円)のため、収益性の高さから注目された小規模デイサービスは、急増したことがあだとなって介護報酬上の抑制措置が取られた。

上のグラフを見ればわかるように「出る釘は打たれる」結果となった。政府のやることは要するにモグラ叩き、カンナで削るだけの減点方式だ。

こんな調子で毎年いじられたのでは、介護事業は到底長期の方針など立てられない。かくしてますますブラック産業化していくのである。

ケアマネ・タイムス」というサイトに

介護業界「勝ち組」の法則と課題

というレポートが掲載されている。2012年の記事なので少々古いが、紹介する。

1.大手企業の特殊性

介護事業における厳しい経営状況や従事者の低待遇が問題になっている。

しかし有名大手企業の売上高は軒並み「右肩上がり」となっている。

営業利益率については2006年度に一時的な停滞があったが、10年度には総じてプラスに転化した。

2.利益を上げる2つのポイント

第一に、利用者を囲い込み、介護保険外サービスを提供することで利益を上げる。介護保険サービスはあくまで顧客確保をにらんだ「販売促進」的な位置づけとなる。

第二に、パートタイマーもふくめ臨時雇用者等の比率が高いことだ。

3.大手企業が業界を制圧したらどうなるか

第一に、介護保険サービスのみに頼らざるを得ない低所得者層の利用者は行き場を失う。

第二に、低所得者層も視野に入れつつ、地域のセーフティネットを担おうという事業所は淘汰される。

第三に、「介護を一生の仕事としたい」という労働ニーズは拒絶され、介護という労働分野全体がブラック化する。

4.著者(福祉ジャーナリスト 田中 元さん)のまとめ

介護報酬の大幅な伸びが期待できないまま、上記のような事業所が淘汰され、介護士が駆逐されていった場合、それは「国民の安心」を担う介護事業のあり方として正しい姿なのでしょうか。

ところで、第一のポイントというのが気になる。

介護保険サービスはあくまで顧客確保をにらんだ「販売促進」的な位置づけとし、介護保険外サービスを提供することで利益を上げる。

というのはまったく問題ないのだが、引っかかるのは最初の「利用者を囲い込み」という表現だ。

老人は「お世話をしてもらう」のだから、なかなか対等の立場には立てない。それに、そもそも元気なときは自分でやっていたこと、やらなければならないことをやってもらうという負い目がある。

自分で金を払って雇ったお手伝いさんとか家政婦さんなら、こちらは使用者で主人なのだから、それでも遠慮しながらだが、言うべきことはいう。

自分のお金ではなく(一部負担はあるが)、お上の厄介になって世話してもらっているのだから強いことも言えず、大抵のことは我慢する。

こういう状況のもとで「囲い込まれる」というのはかなり危険なことではある。知らない間に色々オプションを付けられて、いらないものまで買わされてみたいなことがないか心配だ。


2013年07月17日もご参照ください。まったく事情は同じです。

あるサイトの見出し

来る2025年、高齢者向けの市場規模は100兆円超え!介護産業は15兆円規模に!果たして介護ビジネスに“儲かる”土壌はあるのか!?

という文字が踊る。

この見出しには少し説明が必要だ。

①2025年というのは団塊の世代がすっぽり70歳超えの老人となる年を指す

②高齢者向け市場とは、医療・医薬品産業、介護産業、生活産業の三分野を指す。そのトータルが100兆円ということだ。現在は65兆円程度らしい。もちろん生活産業の比率が最も高く5~6割を占める。

③その3分野の中の介護産業が15兆円となる見通しということになる。15年では10兆円だそうだから10年で1.5倍化する予想だ。

これはみずほコーポレート銀行の調査によるものだそうだ。

高齢者市場というのは当然あって、富裕とまでは行かなくてもいささかの預金もあり、豊かに老後を送りたいという要求があるなら、商売は成り立つ。

しかし介護産業は他の2つの分野とは明らかに異なる。そもそも儲かるわけがない事業だからである。(医療も医薬品を除けば同断だ)

いくら市場規模が大きくても、それは「擬似市場」であり、本来的に儲けが出るような性質のものではない。高齢者介護というのは半ば公的な事業であり、全資源を注ぎ込むべき非営利事業だからだ。

しからば、介護事業を営利対象として見る人々はどこに注目しているのか。少し勉強してみよう。

1.利益率は8.4%

総務省の平成24年度経済センサス「産業分野別の売上高営業利益率」(いわゆる粗利益率)によると、社会福祉・介護事業は8.4%。これは専門技術サービス、不動産、飲食サービス、医療、複合サービスについて高い。建設、製造業が4%台だから倍以上になる。(逆に言えば、この種の統計は実情をまったく反映していないともいえる)

以下は別資料からの引用

全産業平均のH25年度の年収は414万円となっている(国税庁「平成25年民間給与実態統計調査」)

これに対し福祉施設介護員の年収は「22万円x12プラスボーナス」で306万円程度と推定される(厚生労働省「賃金構造基本統計調査」)

2.周辺産業の発展

最初にも述べたように介護事業は決して営利でやれるものではない。しかしその周辺には利益を生み出す構造はある。

高齢者向けのメニューである宅配、見守りサービス、家事代行などのサービスなどがこれに相当する。

3.ハード面はさらに厳しくなる

下の図は厚労省の「施設・事業所調査の概況」からのグラフである。

事業所数1

事業所数2

事業所数3

このグラフを見れば、全体的傾向ははっきりする。

全体を特徴づけているのは、高齢者の増加による全体的増加傾向ではない。介護療養型医療施設、いわゆる老人病院の激減である。

これは決して自然的傾向ではない。政府・厚生省による狙い撃ちの結果であることは明らかだ。

そこで行き場を失った老人が老健施設・介護福祉施設に押し出されている、というのがこの間の経過だ。

しかも後者は前者を吸収しきれていない。それが在宅にあふれ始めているのが実態だ。

なぜそうなったのか、それは高齢化社会だからではなく、国の責任放棄の結果なのだ。

実は「高齢化社会」はまだ始まっていない。高齢化は始まっているが。まだ「お達者高齢社会」なのだ。

政府は「高齢化社会」を口実に国民から消費税をふんだくり、自己負担を重くし、介護の中身を劣悪化し、それを大企業と大金持ちのために注ぎ込んでいる。それがこの間の実態だろう。

これから「病弱高齢化社会」が進行していけば、この矛盾は耐えられないほどに激化するだろう。

メディアによる国民だましと小選挙区制のからくりがいつまで通用するだろうか。

4.通所介護事業は絶対に持たない

介護報酬改定で小規模の通所事業がほとんど致命的な打撃を受けたことは、前に記事に書いた。

これに代わりチェーン型の通所が増える可能性がある。

しかしこれら通所サービスは、根本的に利用者のニーズに適合していない。

第一に通所サービスは一定の家庭介護の能力を前提にしているが、それが崩れ去りつつあるからだ。

団塊の世代は親に子供を預け共稼ぎをして生活を向上させてきた。親が倒れると、老人病院に入れてでも仕事を続けた。

そういう生き方を見て育った子供が、親たる団塊の世代を世話するとは思えない。そのつもりがあっても、彼らにはそのような余裕はないのである。

だからこれからの利用者ニーズは、半端な通所系よりも入所系サービスに集中するしかないのである。

第二に利用者の貧困化がある。

利用者の自己負担なり一部負担に依拠して経営しようと思っても、そのような金銭的余裕のある利用者などそうざらにはいない。

だから否応なしに介護報酬に頼らざるをえない。まさに政府・厚労省の思惑によって翻弄されざるをえないのだ。

倒産

帝国データバンク「医療機関・老人福祉事業者の倒産動向調査」からの引用である。

やや古い資料だが、肝心なことは介護報酬の改定がもろに倒産へとつながっていることだ。

結論を言おう。老人福祉事業は決して“儲かる”経営ではない。しかも生殺与奪の権利を握る政府・厚労省は何時でも潰す気でいる。投資しようと思っている方には思い直すよう忠告する。もちろん社会貢献であれば大歓迎だが。

 もご参照ください.

  

「下げりゃいいじゃん」という糖尿病治療

もう十年も前になるか、循環器学会で「糖尿病と冠疾患」みたいなシンポがあった。そのとき、糖尿病の専門の先生がこう言ってくれた。

「下げりゃいいんですよ」

これを聞いて、溜飲が下がった。

自分の病院では糖尿病の先生が何十種類ものクスリやインシュリン製剤を使って治療していて、素人には手が出せない雰囲気だった。

もちろん血糖は90~110くらいHbA1cは6以下にしなければならない。そのために患者はがんじがらめに縛られて、ひっきりなしに勉強させられていた。

困るのはナースがやたらとダメ出しをすることである。「先生、それはダメですよ」とか、「そんな指示じゃ受けられません」とくる。

研修医の時代ならともかく、こちらも専門領域の仕事で忙しいから、DM患者が受け持ちになるとそれだけで気が重くなったものだ。

いまも相変わらず糖尿病の世界はそういうたぐいの連中が幅を利かせているようだが、私は老人保健施設に移ってからはこれで決めている。

1.経口薬はアマリール一筋

2.ばらつくようなら、他剤追加も検討(とは言うものの、現実には使えるものは使っちゃうのだが)

3.アマリール6ミリでもコントロールできなければインスリン(ランタス)追加

ということでいる。

昔はインスリンと経口薬を併用すると叱られたものだが、最近はBOTとか言ってむしろ勧められているようだ。

のだが、最近1日40単位もインスリンを使わなければならない人がいて困っている。急に悪くなったのなら送ってしまえばいいのだが、1日20単位のレベルで病院から送られてきた人だから、もう少し頑張るしかない。

聞くところによると、最近「ビクトーザ」の注射という手があるらしい。これが4.になるのか?

理屈はよう分からん。ただ臨床データは良さそうだから、「溺れるものの藁」位のつもりで検討してみようかと思っている。


ちなみに糖尿病の経口薬一覧表

スルホニル尿素薬 第1世代

ジメリン錠 デアメリンS錠

 スルホニル尿素薬 第2世代

オイグルコン(ダオニール) グリミクロン

 スルホニル尿素薬 第3世代

アマリール

速効型インスリン分泌促進薬

スターシス グルファスト

α-グルコシダーゼ阻害薬

グルコバイ ベイスン セイブル

ビグアナイド薬

メトグルコ ジベトス

チアゾリジン薬

アクトス

SGLT2阻害薬

いろいろ

DPP-4阻害薬

グラクティブ ジャヌビアなどいろいろ

GLP-1受容体作動薬

ビクトーザ(注射用のDPP-4)

DPP-4阻害薬とSGLT2阻害薬が流行りのようで、薬屋さんが入れ替わり来ては効能を語っていくが、馬の耳に念仏

「ガイドライン」は山ほどあるが、結局何かの宣伝だ。しかもこういうエライさんはこういうところで言うことと、現場でやっていることが結構違う。もっとゴリゴリだ。平気でカンカンノウを踊らせる。俺は知ってるぞ。


エフィナコナゾールは何故滲み込みやすいのか

日薬理誌の145号(2015)に巽さん(科研製薬株式会社 新薬創生センター 薬理部)という人の書いた総説がある。その下の本文PDF [944K] というところにリンクすると文章が読める。

その説明に従ってチェックしていこう。

要約: これまでのトリアゾール系薬剤より強いらしい。しかしそんなことはどうでもよい。

「爪の主成分であるケラチンに対する親和性が既存治療薬よりも低いため、一つ目を良好に透過し、ケラチン存在下でも高い抗真菌活性を保持した」

ここが一番の環だ。

これは以下の形で確認されている。

①インビトロで、有効濃度の薬剤が爪下層および爪床に到達することが示された。

②第Ⅰ相臨床試験で、高い爪中濃度と爪貯留性が確認された。

③第Ⅲ相臨床試験で、17.8%の完全治癒率が得られた。日本人患者では28.8%に達した。これは対照薬と有意差があった。

1.はじめに

これまで欧米ではシクロプロクスやアモロルフィンのネイル・ラッカーが10年以上にわたり用いられてきたが、臨床効果は低く、日本では承認されてこなかった。

外用薬が効かない理由は次のように考えられている。

①白癬菌は爪甲下の爪床に存在するが、薬剤は厚い爪甲を透過できない。

②薬剤は爪の主成分であるケラチンに強く吸着する性質を持っている。このため薬剤は爪表層に滞留してしまう。

そこで科研製薬では、ケラチン親和性が低い抗白癬薬の検索を行った。その結果、エフィナコナゾールを発見した。

この薬は既存の薬と同じトリアゾール系であるが、構造的にはメチレンピペリジン基を持っていることが特徴である。

2.薬理学的特性

In vitro での高真菌活性は高く、スペクトラムも広かったと書かれているが、“そこそこ”と判断しておく。

ケラチン親和性に関する実験

一般に抗真菌薬の多くはケラチンに吸着することで活性が低下する。薬物が効果を発揮するためには遊離型の形で存在する必要がある。

①In vitro の実験でケラチンからの遊離率を測定し、他剤と比較した。既存薬が0.5~1.9% であったのに対し、エフィナコナゾールは14.3%が遊離したままであった。

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②また5回の洗浄操作による累積遊離率は、他剤が1.7~6.9%であったのに対し46%で有意差を認めた。ケラチンでなくヒト爪を用いた実験でも同様の結果を得た。

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③ケラチン添加によるMICの変化を調べたところ、他剤は低下したが、エフィナコナゾールはほとんど影響を受けなかった。

ついで欧米で使用されているラッカー剤との比較検討を行っている。

①ヒト爪を用いて累積透過量と透過速度を測定した。エフィナコナゾールはシクロピロクスと同程度で、アモロルフィンより優れていた。爪透過が定常状態に達するまでの時間はエフィナコナゾールがもっとも優れていた。

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②透過した薬剤の爪甲下(現地)での発育阻止作用を測定した。ラッカー剤では発育阻止作用は認められず、エフィナコナゾールのみが発育阻止作用を示した。

③モルモット実験でも1日1回4週間の爪塗布で生菌数を減少させた。これはラッカー剤に比べ有意であった。

このあと臨床試験の成績も提示されているが、透過性が一番の問題なので、詳細は省略する。

結論として、イトラコナゾール経口剤とほぼ同等の臨床効果を示すとされる。もしそうであれば、経口剤の出番はほぼなくなるものと予想されるが…


見出しを見てここに来た人には申し訳ないが、

結局、何故滲み込みやすいのか、なぜケラチンとの親和性が低いのか、という問題は分からなかった。

「いろいろ掘っていたら、タマタマ当たった」というだけみたいだ。

「滲みるんだからしょうがないじゃん」ということである。多分、これからその機序を巡りいろいろ検討が行われ、同じ発想で新薬が開発されていくだろう。

おそらく メチレンピペリジン基 というのが鍵を握っているのだろうが、これに関しては特許権はないだろう科研製薬はメチレンピペリジン基を発見しただけで、構造に組み込む技術を発明したわけではない。だからエフィナコナゾールの優位はつかの間に終わるかもしれない。

クレナフィンは何故滲み込みやすいのか

水虫の薬はどのようにして効くのか
爪白癬の付け薬 ほんとうに効くのか

旭川皮フ形成外科クリニック の水野寿子先生の記事はもっとわかりやすいです。ご参照ください。

ここまでの話では、爪白癬に効くツケ薬だということ、かなりお高い薬だということがわかった。

しかしなぜ効くのかの説明はない。

なぜ効くのかを説明するためには、

1.一般的な抗白癬薬の作用機序。

2.従来型の抗白癬薬ではなぜ経皮的使用が無効なのか、その理由。

3.クレナフィンの従来型抗白癬薬との構造的違い(特異性)

4.クレナフィンの経皮使用が有効な理由(作用機序)

を説明してもらわないとならない。

今ひとつ納得がいかないのは、いままでの抗菌剤が効かないのが、ケラチンとくっつくと失活してしまうということなのか、それとも別の理由によるものなのか、そのあたりが説明されていないことだ。


まず順を追って勉強していこう。

1.白癬菌はどのように繁殖するのか

皮膚の角質はケラチンという硬い物質で保護されている。ケラチンの本態は蛋白である。普通は固くて消化できないのだが、白癬菌はケラチナーゼという酵素を持っているために、ケラチンを消化できる。そして、それを栄養として繁殖するのである。

したがって栄養源を立って兵糧攻めにすることはできない。殺すしかないのである。

抗白癬薬と言われるものはすべて殺菌作用を持つ。それ以外の民間療法は効かないと考えるべきである。

2.一般的な抗白癬薬の作用機序

これまで、有効とされてきた抗白癬薬はすべて、白癬菌の細胞膜を壊すことで白癬菌を殺す働きを持っている。

此処から先はケラチンもケラチナーゼも関係ないので、せっかく覚えたばかりで恐縮だが、一旦忘れてほしい。

3.細胞膜はこうして作られる

細胞膜の成分は、大ざっぱに言うとリン脂質で出来ている。リン脂質というのは、大ざっぱに言うとコレステロールにコリン、リン酸、炭水化物が結合したものである。

リン脂質の種類は動物により異なっている。その違いは、リン脂質のボディーを形成するコレステロールの種類の違いによるものである。

それ以上の話は、それだけで何冊もの本になるので省略する。

白癬菌の細胞膜を構成するリン脂質は、下図のような流れで作られていく。

水虫酵素

  http://for-guests.com/neticonazole-8034/ より転載


この経路の最初はコレステロールの生成過程と共通であり、経路の途中までは人間の細胞膜を構成するコレステロールと共通である。

ラノステロールという物質から白癬菌特有のコレステロールとなり、最終的にはエルゴステロールという物資に至る。

これにコリン、リン酸、炭水化物が結合することによってリン脂質になり、白癬菌の細胞膜を構成する。

4.抗白癬薬は細胞膜合成を阻害する

この経路を何処かで切断すればエルゴステロールができなくなり、エルゴステロールがなくなれば、細胞膜ができなくなり、白癬菌は死んでしまう、という仕掛けである。

このようなまどろっこしい兵糧攻めでなく、直接細胞膜のエルゴステロールに取り付いて細胞膜を壊すというプーチン型抗菌剤もある。これは命を脅かすような真菌の殺し方で、たかが水虫にそこまでやることはない。

経路を切断するには、その経路を推進している一連の酵素のどれかを不活化させてやればよい。

安全のことを考えればできるだけ下流で切ったほうが良い。

目下狙われているターゲットは、ラノステロールを“むにゃむにゃトリエンオール”に変換する酵素で、「ラノステロールC-14脱メチル化酵素」と呼ばれる。

5.抗白癬薬はどうやって効くのか

やっと2番めの話題に移ることになった。薬がどうやって効くかはわかった。しかしアセチルCoAからエルゴステロールまでの経路が進行するのは白癬菌の細胞の中だから(小胞体)、細胞膜に接するまで薬が行かなくてはならない。

そこまで行ったら、今度は細胞膜を通過して細胞内に入らなければならない。つまり2つのバリアーがあることになる。

ところが、はっきりしないが、印象としては後者のバリアは意外とかんたんに通過できるようだ。そして菌の細胞内に入ってしまえば、菌を殺すことも意外にかんたんなようだ。だから普通の皮膚白癬は薬を塗っておけば結構良くなってしまう。

結局、爪そのものというバリアを薬剤が滲み通して菌のところまで行けるかどうかが最大の問題になる。

テロリストが入国するためには、入国審査よりその国にたどり着く飛行機や船の手配のほうが大変だということだろう。

だから「抗白癬薬はどうやって効くのか」という問題は、どうやって白癬菌のところまでたどり着けるかという問題に帰すことになる。

クレナフィンは何故滲み込みやすいのか

水虫の薬はどのようにして効くのか
爪白癬の付け薬 ほんとうに効くのか


クレナフィンは何故滲み込みやすいのか

水虫の薬はどのようにして効くのか
爪白癬の付け薬 ほんとうに効くのか

ニキビをやったので、次は水虫、とくに爪白癬。

老健や特養では白くカサカサと盛り上がった爪白癬をよく見かける。

実際上何もしていない。もう20年も前から爪白癬の飲み薬はある。たしかに効く。しかし何か起きた場合のことを考えるときわめて使いづらいのだ。

これが高血圧、糖尿病、高脂血症などであると、多少のリスクはあってもベネフィットと秤にかければ使える。しかしたかが水虫である。それで死ぬことはない。

ずらずらとならぶ副作用のリスト、併用禁忌薬のオンパレードを見ると、それだけで萎えてしまう。我々のような施設では重篤な副作用が出れば、患者ではなく施設の方がやられてしまう。職員数百人が路頭に迷うことになる。

そこにツケグスリが出てきたという朗報。こちらも食指が動く。しかし高い。1本、およそ1ヶ月分で6千円というから老健では手が出せない。

しかし特養でなら保険が効くから使えないでもない。そこで少し調べてみることにした。

まずは白癬症治療の最近の動向。

素人向けのページから入ることにする。(私も素人みたいなもんですから)

グーグルで最初に引っかるのが 皮膚科Q&A というページ。日本皮膚科学会のサイトらしい。

最初の辺は飛ばして、

Q6 患者数。

日本では1千万人以上の爪白癬患者がいる。60歳以上の高齢者の4割がかかっている(米国の調査)

足白癬はその2倍もいるというから憲法改正はらくらくクリアーする。

Q20 塗り薬の使い方

塗り薬を毎日つければ、約2週間程度で良くなります。再発を防ぐには自覚症状があるところだけでなく、指の間から足裏全体に最低1カ月毎日塗り続けることが大切です。

治っても、またうつされることがあるので、家族全員が治す必要があります。

Q24 爪白癬の治療

爪が厚くなり、黄~白色に濁る爪白癬は飲み薬でないと治りません。

この後に()して次のように書かれている。

但し2014年には、あまりひどくない爪白癬に有効な塗り薬が発売される予定です。

ウムこれだな。

飲み薬にはイトラコナゾールとラミシールがあり、前者は他の薬剤との飲み合わせの問題が多く、後者は肝機能障害などの重篤な副作用をおこす事があります。

ジェネリック薬は臨床試験で有効性と安全性が確かめられていないので、効きが悪いものがあるかもしれません。

まぁ、素人は手を出すなということだな。

Q29 予防法

浴場では、足ふきマットにはほぼ100%白癬菌がいます。家にかえってからすぐに足を洗いましょう。

あとは他人の家にむやみに上がらないことも大切で、他人の家に上った場合は、家に帰ったらすぐに、足を洗うか水虫の薬をつけること。

と、いうことで「他人の家にむやみに上がらない」は笑えてしまう。

水虫の話はとりあえずおしまい。

皮膚科学会の説明書に、「2014年には、あまりひどくない爪白癬に有効な塗り薬が発売される予定」というのがこのクスリ。「クレナフィン」という。

実際に使ってみてどうかという話に進む。

クレナフィンの用法・用量と薬価について

用法・用量は1日1回罹患爪全体に塗布となっている。端がハケのようになっており塗りやすくなっている。足の爪の生え変わりは約1年かかります。そのため48週の使用が基本となる。

tumehakusenn

1本(1ヶ月分)で、なんと5900.7円です。

あとは、軽症の爪白癬に限定されていることも念頭に置いて置かなければならない。爪ごと剥がしてしまいたくなるような立派な爪白癬には効かないということになっている。

その後、同じような謳い文句でルリコナゾールという外用剤も発売された(2016年1月22日承認)


ニキビの薬はベピオゲル

なんだコレ。。薬局がめっちゃアピってる謎の化粧水

というページがあった。「オードムーゲ」という付け薬で、なんでも薬局の前にのぼりが立つほどに売れているそうだ。

オードムーゲ

しかし、「いまさらなんだろう」とも思う。

すでに医療保険でニキビの薬もらえるのに、そんなものにこだわる必要ないのにな。

ただ顔につける薬だからやはり怖いのだろう。

我々にはロドデノールというイヤな思い出がある。

絶対に!ニキビを治す,そんなブログです というブログで、微に入り細にわたり、懇切丁寧に説明してくれているので、ご参照ください。

私の感想だが、「効く薬」というのは結果的に病気の本質を明らかにしてくれる。

ニキビについては、これまであまり効く薬がなかったから、いろいろ能書きがたれ放題で、半ば「業病」のような趣さえ漂わせていた。

この薬の登場で明らかになったのは本質が皮脂の過剰に伴うアクネ菌の繁殖であることだ。したがってアクネ菌の繁殖を抑えればニキビの悪化は阻止できるということだ。

ペピオゲルのいいところは抗生剤ではなく酸化剤であるために、アクネ菌(嫌気性菌)の活発なところにだけ効くターゲット効果を持つことだ。薬剤耐性もできない。

ニキビのもう一つの面は炎症後の反応性の角質増殖だ。これは自然寛解するので何もしなくて良いのだが、ひどい場合にはピーリング(薬剤による角質剥離)を補助的に使用すれば良いということだ。

ただそれには、ヒルドイドとか昔からの軟膏で対処したほうが安心かもしれない。くれぐれもやり過ぎないようにすることだ。

輸入薬についての私の経験から言うと、日本人の適量というのはもっと少ないのかも知れない可能性がある。当面はおっかなびっくりペピオゲルを使っていたほうが無難かもしれない。

最初に使うときはアクティブな病巣に限局して“チョン付けして使ってみてはどうだろうか

pepi2

ペピオゲルの薬価は15グラム入りで1800円。保険を使えばその3割で540円ちょっとになる。まあ他に診察料もかかるから最初はもうちょっと高い。

オードムーゲは価格.comで調べると500mlで2500円位だ。まぁ値段ではなく効くか効かないかだが…

我々が「自らの死」を哲学として考える場合、老化による自然死と、老化とともに発生するさまざまの病気による死亡とを分けて考えなければなりません。

いくら年を取ったとしても、病気で死にたくはありません。やはり死というのはろうそくの蝋が最後まで燃え尽きて、ふっと火が消えるような死でありたいものです。

これまで認知症は老化による死と混同されてきました。しかしだんだんと、それが病気であることが認識されるようになってきました。

だから認知症は克服されなければならないし、人類はすでにその一歩を踏み出しつつあります。

もう一つの混同があります。

それは患者本人をどう対応していくかという問題ではなく、家族がそれにどう対応していくかという問題意識が先行していることです。

私はこれも一種の病気、社会病理現象だろうと思います。率直に言えば、みんなグループホームか老人ホームに入ってしまえば、この問題は解決してしまうのです。

ここのところは、かなり慎重な物言いをしなければならないところですから、できるだけ思慮深く話したいとは思いますが…

まず皆さんに心から納得してもらいたいのは、認知症は脳の病気だということです、そして脳の器質的な病理的変化の結果、精神異常をきたす病気だということです。

だから基本的な戦略は病理的変化を防ぎ、できれば治すことです。そして器質的病変の結果もたらされる精神異常をコントロールし、それなりに社会適応させることです。

そのためには専門的知識と技量が必要です。肺炎や心不全になったら入院が必要なのと同じように、認知症が進行しそのために精神異常が出現したら、自宅で管理するのはやめて専門施設にゆだねるべきなのです。

ここから先はやや乱暴な議論かもしれませんが、徘徊する認知症は施設に入れるべきだろうと思います。それは幻覚・幻聴が出現した統合失調の患者を措置入院させるのと同じです。

なぜならそれは病気であり、専門治療が必要であると同時に、それが病気でありきちっとした治療管理の下でコントロール可能となるからです。

端的に言って、今の日本では「在宅介護こそベスト」というイデオロギーが押し付けられています。よしんばそれが正しいとして、徘徊老人の管理まで「在宅」の範疇に突っ込むのは、医学的に見れば間違いです。

統合失調の患者がうわごとを叫びながら刃物を振りかざすのを、「在宅ベスト」なんだから在宅で見ろというのと同じです。

哲学的判断より、まずは医学的判断です。早期対応が必要です。

なぜそれをためらうのか、それこそ政府やメディアの「自己責任・自助努力」キャンペーンのためです。「善良な市民」はそれをまともに受け止めて真剣に考え込んでしまうのです。

戦時中、若者はほかの選択なしに死を選ばされました。それを運命として受け入れるとき、どう生きるのかということで、三木清がより合理的な、その故に、より屈折した「哲学」を展開しました。

私は今度の線路内侵入・轢死事件も本当の責任者は、「在宅ベスト」論の主唱者だろうと思います。

家族が責任を問われるとしたら、それは「どうしてもっと早く専門施設に入れなかったのか」ということであり、「頑張りが足りなかった」ことでも、「ちょっと居眠りをしてしまった」ことでもありません。そして誰よりも責任を問われるべきは、患者を強制的にでも収容させなかった行政の責任だろうと思います。

ただ2007年の時点でそこまで言えたかという医学の側の問題は残るので、決めつけはできませんが。

結論

認知症問題を哲学的に考えるのはやめよう。すくなくともその前にやるべきことがいくつかある。

前の記事で引用した柳谷さんの文章は、下記の論文からの孫引きである。
この論文は介護者の援護について、樋口恵子らジェンダー派の人たちとの論争の書であり、したがってやや難解である。
ここでは、介護は近世からの引き継ぎ課題であることを明らかにした部分を要約紹介しておく。

三富 紀敬 「介護者, 介護者支援と社会政策研究」 「静岡大学経済研究」2009年12月


A)社会の高齢化は理由にはならない

社会の高齢化にともなって介護問題が顕在化したというのは、必ずしも事実ではない。

平均寿命の延長は乳幼児死亡率の減少によるものであり、乳幼児期を生き延びた人々の平均寿命は必ずしも低くはなかった。

高齢者比率の増加は間違いないが、それは乳幼児死亡の低下及び出生率の低下によるものであり、高齢者の数が増えているとはいえない。むしろ健康で自立した高齢者の増加により、就労者負担は減っている可能性もある。

この説明の当否は(要介護高齢者+要養育年少者)÷(介護者+養育者)の比率を時代で追っていくことで説明しなければならないだろう。

B) 介護が話題になる前の介護

新村拓によれば、1815年(文化11年)の『関口日記』には以下の記載。

老病を介護する『介抱人』は疲労を含む厳しい生活を送っている。息子や娘は介抱のため奉公を止めて家に帰り、あるいは、奉公先に頼んで介護休暇を取ったり、家に居てできる仕事に変わったりしている。

前の記事でも紹介した柳谷慶子の論文、『近世の女性相続と介護』では以下のように記されている。

江戸時代中期には、親の扶養問題を中心に据えながら、家族が果たすべき扶助役割のなかに看護や介護を位置づけるようになった。

なかでも一家の主人たる男性の責任は重大であった。主人を中心に家族全員が協力して親を養い介抱する家族像が、期待された。

この背景には、直系親族を中心とした小家族の一般的な成立があり、家族役割の自覚化が強く促されたからである。

幕府と藩は、家族による扶養と看病・介護を規範化して、家族の自助努力を涵養した。これにより扶養と介護の主体としての家族の位置づけがさらに一層強調されるようになる。

ところで当時の高齢者の比率だが、同じ柳谷さんの論文「日本近世の高齢者介護と家族」では以下のごとく書かれている。

18世紀半ばから19世紀前半にかけて、65歳以上の高齢者の割合は10パーセントから15パーセントに上っている。

これは現代と比べて決して少ない数字ではない。

この数字と「家」のイデオロギーが女性を介護に縛り付けたのである。

近世における高齢者比率の予想外の高さは、日本に限ったことではなかった。

イギリスの福祉史研究者パット・セインは、下記のごとく述べている。

産業革命以前のイングランドとウェールズにおいて、60歳以上の人口比率はけっして低くなかった。それは18世紀初頭には10%を越えていた。…両親の介護は娘の逃れるわけにいかない務めの一つであった。

C)介護者の負担への注目

最初に介護問題が取り上げられたのは、1920年代から1940年代のことである。アメリカの労働統計局、スエーデンのミュルダール、ノルウエーのダニエルセンなどがあいついで調査を発表し、介護者対策の必要を訴えた。

61年にはイギリスのティザードらによる『精神障がい者とその家族−社会調査−』が発表された。

調査は住宅事情をはじめ家計の収入と支出、貧困基準との関係、介護に当る母親と父親の健康状態、休日の外出などを含む家族生活への影響などの項目についておこなわれた。以下が結論。

家族の生活水準ははっきりと低く、介護に伴う追加の出費や母親の無業者化などが影響を及ぼしていた。友人や隣人との接触も短く、社会的な孤立さえ生んでいた。一言で言って豊かな社会生活とは程遠い状態にある。

日本では介護保険の導入時に杉澤秀博らによる本格的な学術調査が行われた。その結果、介護者の情緒的な消耗度は、介護保険制度導入後に有意に強くなっていることが示された。

(これはおそらく介護保険導入のためというより、それが患者の病院からの追い出しと在宅押し付けとして実施された結果であろう。従来からの在宅介護者のみを対象にすれば、逆の結論が出るかもしれない)


一言感想

ジェンダー論者は介護問題を女性を家庭の桎梏から解放する課題として捉えている。それはそれで間違いではないのだが、「家」という封建的な桎梏とともに、財政的な問題(安上がりな高齢者対策としての在宅促進)、「貧困の罠」が潜んでいることを忘れてはならないだろう。

そこには「在宅こそが理想、だから親の面倒を見るのは当然」というイデオロギー面でのすり替え攻撃も並行して行われているが、この手口も江戸時代のイデオロギー攻撃と変わっていない。


 「逆扶養」の歴史的把握が必要だ

家族の監督義務の問題は、そもそも子供に親を見る義務があるのかという根本的な問題に突き当たる。

今回のケースでも長男夫婦が面倒を見ていたから発生した問題で、他の兄弟には責任がないのかという問題をはらむ。

親が子供を見るのは自然の感情としてある。しかし、動物の世界では子が親を見るのはあまり聞いたことはない。子供は成長すれば親離れして、ふたたび会うことはない。

結局、子供が親を見るのは親の扶養義務の類推として、「逆扶養」という発想から生まれた概念ではないのだろうか。

「逆扶養」の範疇

ところで、子供が年取った親の面倒を見る行為を総体として表現する言葉がみあたらない。

どうも困ったことに、老人を1.その生活を経済的に保障し、2.その生活を介助し、3.その生活環境を整え、4.その資産や健康を保全し、5.老人の立場を対外的に代行・代弁し、5.その行動について社会的責任を取る…というような一くるみの行動を一言で言い表す適当な言葉が見つからない。

「お世話」や「面倒見」でも良いのだが、あまりに多義的である。「逆扶養」 (Reversed Maintenance) だと論理的には収まりは良いのだが、いかにも硬い。しかししょうがないのでとりあえず「逆扶養」としておく。

「逆扶養」概念のあいまいさ

たしかに民法上は扶養義務は規定されている。しかし親が子供の扶養を怠れば、「育児放棄」とかいって刑法上の犯罪になるが、親を扶養する義務はそれほどのものではなさそうだ。

また長子相続制の名残かもしれないが、一般的には家を離れた次男、三男坊には義務は強制されていない。

それに親に人格が存在する限り、法的主体は親自身だ。したがって親が何をしようと勝手だから、その結果親が野垂れ死にしようと子供に責任はない。

以上のように子供の扶養義務は子供の扶養義務を拡大解釈した「みなし義務」としての性格があり、厳密な適用にはそもそも無理があると言わざるをえない。

「逆扶養」概念の由来

「逆扶養」という関係はおそらくは社会の中で生まれてきた関係ではないだろうか。とくに「家」という制度によって、二次的にもたらされているのではないだろうか。

知りもしないのに偉そうなことは言えないが、古代的な共同体が大家族制とともに衰退し、これに替わるように小家族制が社会の基本単位となっていく。その時に長子相続制や男系家族制が出来上がっていく。

それと並行して儒教的な倫理が広がっていく。だから「逆扶養」概念は自然発生的なものではなく、イデオロギー的な産物かもしれない。

私の予想を裏付ける文章が見つかった。柳谷慶子『近世の女性相続と介護』では以下のように記されている。(3月11日追加)

江戸時代中期には、親の扶養問題を中心に据えながら、家族が果たすべき扶助役割のなかに看護や介護を位置づけるようになった。

なかでも一家の主人たる男性の責任は重大であった。主人を中心に家族全員が協力して親を養い介抱する家族像が、期待された。

この背景には、直系親族を中心とした小家族の一般的な成立があり、家族役割の自覚化が強く促されたからである。

幕府と藩は、家族による扶養と看病・介護を規範化して、家族の自助努力を涵養した。これにより扶養と介護の主体としての家族の位置づけがさらに一層強調されるようになる。

この場合、子供だから扶養義務を持つのではなく、「戸主」であるがゆえに、家族の構成員の一人としての親(ご隠居)の面倒を見なければならないのである。

まさに今、その「家」という制度が実質的に解体する中で、その制度に基づくような倫理規範というものは存在意義を失いつつあるのではないだろうか。

そしてそういう倫理規範を根本とする民法の体系を本格的に再検討する必要があるのではないか。



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