鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

カテゴリ: 41 臨床医学(一部医療問題を含む)

今朝の赤旗の潮流に印象的な記事が載った。
夏休みが終わり、2学期が始まるが、この時期は自殺の時期でもあるそうだ。
「自殺対策白書」によれば18歳以下の自殺は、9月1日前後が突出して多いのだそうだ。学校に行くのが辛くなって自殺するらしい。
これまではそういうときに保健室が逃げ場になっていたが、それに代わるもの、あるいは並ぶものとして図書館が名乗りを上げているというのだ。
東京の三鷹図書館は次のような呼びかけを掲げている。
つらい気持ちを抱えているきみへ
友達とうまくいかないきみへ

図書館で待っているよ
たしかに図書館にはそういう機能がある。保健室は緊急の駆け込み寺だが、それでは一刻だ。もう少し中長期、1ヶ月から数ヶ月の逃げ場所がほしい。
そしてもっとポジティブにそういう時期を乗り越えるオプションとなってほしい。
そういう点では、たしかに図書館はうってつけだ。
図書館に友達はいないが、一冊一冊の本には作者の思いがこもっている。
何万人もの知恵と努力の結晶がそこにはあるのだから、十分に学校ではないか。
思春期は人との付き合いがとても難しい時期である。成長痛を感じることなしに成長できない時期なのだ。
「いじめ」という物理的事象だけで裁断しないほうが良い。そっとしてほしいこともたくさんある年なのだ。
図書館は若者が独り立ちするための予備校になりうる。予備校というのは“できれば行かないほうが良い”という意味において予備校だ。
私は図書館が「出席票」を発行すれば良いと思う。0.5日分でもよいのではないか。その代わり図書館で友達と付き合ったら出入り禁止だ。孤独を噛みしめ、知と向き合う場所であるべきだ。

「医者のくせに」と言われると困るのだが、いまだに「自閉症」という病気がよくわからない。
一応基礎知識として調べておく。

ウィキペディアより「自閉症」
自閉症(Autism)はDSM-IVでは広汎性発達障害(PDD)の一種の自閉性障害(Autistic Disorder)として記載されていた。DSM-Vでは自閉症という障害名は廃止され、自閉スペクトラム症に一括されたが、WHOではまだ使っている。
自閉症の基本的特徴は、3歳位までに表れる。
1.対人反応の障害
2.意思伝達の障害 
3.興味範囲の限局
自閉症は1000人あたり約1〜2人に出現。男女比は5:1。
正常者との間に段階的移行があり自閉症スペクトラムと呼ばれる。
日本での発症率はきわめて高い。
分類は覚えないほうがいい。始終変わるし、非本質的である。疾患概念を広げる方向での分類法は、より恣意的傾向を強める可能性があると思う。

疫学的特徴
父親が40歳以上の場合、30歳未満の約6倍で〜39歳の1.5倍以上であった。母親の年齢は関係なし。(Arch Gen Psychiatry. 63 (9): 1026-1032)
妊娠中にデパケン、SSRIを使用するとリスクが増大する。
虐待や過保護、「テレビの見せすぎ」が原因との認識は明確に否定されている。水銀などの重金属の蓄積が原因だとする説も否定されている。MMRワクチンが自閉症の原因とする論文は捏造であると発覚した。
自閉症スペクトラム指数テストの10の質問で6項目該当すれば「疑い診断」となる。膨大な鑑別疾患があり、こちらのほうがはるかに難しい。「ゴミ箱病名」の典型である。

病気の本態
目下のところ私の独断ではあるが、「自閉症」という範疇にふくまれる諸疾患は、脳の器質的病変にもとづく発達障害であろう。その原因は出生時あるいは生下後の微細脳損傷にもとづくものではないだろうか。つまりそれは非遺伝性で、したがって遺伝的素因が強く関与する統合失調とは別の病気であると思う。我々内科医が遭遇する脳血管障害にもとづく高次脳機能障害と同じ機序が働いているように思える。自閉症にスペクトラムがあるのではなく、脳障害の表現型にスペクトラムがあるのだ。
私にはどうも脳疾患の気がしてならない。聴覚制失語の一亜型みたいだ。部位的には側頭葉の聴覚性言語と頭頂葉の時間感覚の統合野辺りの皮質下だろう。
微細脳損傷や脳発育過程の障害、あるいは遺伝子損傷など要するに器質的疾患の可能性が拭えない印象だが、どうなのだろうか。

なぜ自閉症と呼ばなくてはならないのか
この病名の不幸な生い立ちのことも考えると、また統合失調との密かな混同も考えると、アメリカ精神医学会が「この病名は捨てたほうがいい」と考えていることに同感する。
日本語で「自閉症」といえば、世間的には「引きこもり」のように聞こえる。しかしこれはまったく違う病気である。混同を我慢してまで、あえて使う用語とも思えない。
にもかかわらず、これだけ広範に国内外に流布しているのは、この病名をつけられた母親の必死の思いが反映しているからだ。そして需要のあるところ「科学」が生まれ、それで食っていく輩がいるからだ。私はソシュール言語学やフロイトの精神分析学で同じようなメカニズムを観察した経験がある。

そんな「自閉症」の生い立ちを、例によって年表方式で見ていくことにする。


1943年 アメリカの児童精神科医レオ・カナー(Leo Kanner)が早期幼児自閉症」として報告。統合失調が幼児期に発症したものと考えた。「自閉」という言葉は、もともと統合失調の一症状を表す用語である。

1943年 レオ・カナー、自閉症児の母親に温かさや愛情が欠けていると発言。

1949年 レオ・カナー、自閉症が「生来的な母親の愛情の欠如」に関係している可能性があると示唆。

1944年 オーストリアの小児科医ハンス・アスペルガー、現在の高機能自閉症に当たる症例を報告。
この論文は79年に発掘されるまでずっと埋もれていた。

1950年代 ブルーノ・ベッテルハイム、自閉症は母親の愛情不足によるものだと非難。「冷蔵庫マザー」理論と呼ばれる。
ベッテルハイムはユダヤ人収容所にいたあと、アメリカに亡命。小児心理学の専門家という経歴詐称でシカゴ大学の精神分析の教授に上り詰めた。後年セクハラをきっかけに経歴がばれ自殺。
1960年 レオ・カナー、『タイム』のインタビューで、自閉症児の親たちは「たまたま子供を産むのに十分な温かみがあっただけ」と中傷。

1962年 ローナ・ウィングら、英国自閉症協会を設立。娘が自閉症だった。

1964年 バーナード・リムランド(Rimland)が『小児自閉症-行動神経理論に対するその症候群と暗示』を発表。「冷蔵庫マザー」の仮説を批判。リムランドは自閉症の息子を持つ心理学者であった。

1965年 リムランド、アメリカ自閉症協会を設立。

1967年 ベッテルハイムは『うつろな砦-小児自閉症と自己の起源』を発表。自閉症児と強制収容所に入れられた囚人を比較し、「子供には過去に人格を十分に発達する機会がまったくなかった」という結論を引き出す。

1967年 リムランド、自閉症研究学会を創設し、会長に就任。
リムランドの家系調査はかなりの逆偏見に満ちている。①第一子が多い ②男児が多い ③ユダヤ人の子どもに出現率が高い ④両親は専門的管理的職業が多い ⑤家族には精神疾患の発生率が非常に低い ⑥傑出した親戚が多い ⑦外見が魅惑的である
1968年 イギリスの児童精神科医マイケル・ラターが事変症の主体を言語認知障害と主張。自閉症理論の主役となる。

1969年 「アメリカ自閉症協会」の最初の年次大会。来賓として出席したカナーは、「私は自閉症が『先天的なもの』だと言ってきたが、『全ては親のせいだ』と引用されてしまった」と弁解し、事実上「冷蔵庫マザー」を否定。

1979年 ローナ・ウィング、自閉症の人が持つ特徴として「ウィングの3つ組」を提唱。(社会性、交流、想像力)

1981年 アスペルガーの論文がローナ・ウィングの手で英訳・再発表される。高機能自閉症の存在が周知される。(アスペルガーは80年に死去)

1986 社会学者の上野千鶴子、「マザコン少年の末路 : 女と男の未来」を発表。母子密着の病理として自閉症を取り上げ、批判を浴びる。

1988年 映画「レインマン」が制作される。リムランド親子はアドバイザーとなる。(ただし彼が次々と振りまいた網様体病変説や水銀・重金属・ワクチン原因説は証明されていない)


とにかく「自閉症論」の世界は、非学問的な非平和的な党派的な戦士で満ちているのである。


すみません。このところあまり勉強していないものだから。認知症の新しい治療が出てきたなんてことは知らなかった。

それで、新しい治療というのが抗血小板薬とインスリンのスプレー。

抗血小板薬は、実際にはかなりの人が併用しているので、ある意味では統計処理の問題。

脳動脈硬化と脳虚血の進展は予防できるので、一般には認知症の進行予防には有効であると思われる。また認知症の患者には多くの脳血管性痴呆のケースが混入しており、そういうひとには効くと思われる。

これだけでも十分に有効なのだから、それにどの程度上乗せできるかという推計だから、えらくむずかしい判断だ。

現に私も、結果的に多くの認知症患者にアスピリン、パナルジン、プレタールを使ってきたが効いたという手応えはほとんどない。

もう一つはもし効くとして、それは抗血小板(抗プロスタグランジン)作用のためなのか、もともとの売り文句であるサイクリックAMP絡みか、シロスタゾールにほかに未知の作用があるのかということになる。

多分ないだろうと思うが…。ただ抗血小板薬に、アミロイド蓄積を妨げる働きがあるとされており、その抗アミロイド効果が抗血小板薬の種類によって強弱はあるかもしれない。

もう一つのインスリン噴霧の方はかなり怪しい話だ。大体、糖尿病やインシュリン感受性の低下が認知症に悪さをするというはっきりしたエビデンスがない。
インシュリンがニオイとして認識される?

むしろ面白いのは噴霧によって、神経線維を通して脳内に化学物質を送り込んでやるという発想である。インスリンは脈管を一切介さずに、ニオイ物質として認知され、その情報が神経線維を介して送られ、何らかの情報転換を介して生理活性を発揮することになる。


嗅覚の先にあるのは嗅脳であり、ここはほぼ海馬と同じ場所と考えられる。したがって海馬を標的として短期記憶の刺激を与えようとするときかなり有効なルートとなるかもしれない。

ということで、まず少し論文を読んでから考えることにしたい、

幼児性健忘というのがあるそうだ、というより、幼児性健忘というのだそうだ。

例えば自分の記憶を手繰っていくと、それ以上先には遡れないところがある。多分3歳前後らしいのだが、実際にはもっと後のようにも思える。

それより前の記憶は、一度は覚えたはずなのだが、忘れてしまったということになるので、これはまさに健忘症だ。

「覚えたはず」と何故言えるか、それは幼児の行動を観察すれば分かる。幼児は体験したことを体験した片っ端から忘れているわけではない。むしろ鮮明に覚えていると言ってもよい。それは心理実験でも確認されているので間違いない。

だから短期記憶は残されるが、長期記憶が残されないということになる。これは老人性痴呆で短期記憶がまるで駄目になってしまうが、長期記憶は意外と残っていたりするのと逆のパターンだ。

このことは2つの意味を持つ。

まず、短期記憶の装置と長期記憶の装置とは違うものだということだ。短期記憶はとりあえずの記憶装置で必要がなくなれば消えていく。長期記憶の装置はとりあえずの記憶には役に立たないが、一度覚えれば一生モノだ。

おそらく短期記憶は海馬=古皮質で、長期記憶は前頭葉の何処か=新皮質だ。

もう一つは、長期記憶装置が出来上がり、通常営業を開始するのは3歳以後のことだということだ。つまり、人間は大脳皮質が未だ建設途中のまま生まれてくるということだ。健忘症(Amnesia)というと何か病気のように思われるが、そもそも未だ装置が作動していないのだ。

我々は、幼児というと大人のコピーのように考えがちだが、それは間違っている。人間として生まれてきて、それが成長/発達していく過程として幼児期を捉えるのは、正確ではない。
これは発達心理学の第一段階ではなく、むしろ個体発生の過程の最終コーナーの話として理解すべきであろう。

厳密に言えば、幼児はDNA的には人類ではあっても、生物学的には未だ人間ではないのだ。他の霊長類以下かもしれない。

ここのところを勘違いすると「幼児性健忘」という発想が生まれ、言葉が生まれてくる。もちろん、この言葉を用いた人もその辺のことはよくわかっていて、冗談交じりの面白い表現として用いただけだと思うが、言葉が独り歩きすると結構怖い。

こういう仲間内の隠語みたいなものが一般向けの本で使われると、文章全体を読みにくいものにしてしまうので、注意してもらいたいものだ。

大人の発達障害というのが最近注目されているのだそうです。

「いつも空が見えるから」というブログに、「大人の発達障害を見分ける10のチェックポイント」というのが載せられています。

これは、「発達障害のいま」という杉山登志郎さんの著書(講談社新書)からの引用のようです。

すみませんが重複引用させてもらいます。

1.二つのことが一度にできない

例えば、別の用事を始めると前にやっていたことを忘れるという事象です。

ちょっとギクッとなりませんか。

2.予定の変更ができない

例えば、仕事の途中で邪魔されるとパニックになる

うーむ、という感じですね。

3.スケジュール管理ができない

例えば、予定を忘れる。メモを書いてもメモをなくす。予定がバッティングする。

何度、義理を欠いたことか。思い出すだけであぶら汗。

4.整理・整頓ができない

当然、ゴミ屋敷状態。ただ、それでも必要なものは見つけられる人もいる。

「片付けられない」病と、「捨てられない」病に分けられるそうだ。

5.興味の偏りが著しい

つまりオタク系ですね。ただ興味の対象以外にはまったく無関心というところが、病的な意味を持つようです。

6.思い込みに固執する

聞く耳を持たない、ということです。それだけでなく、思いを押し付けるようになると厄介です。

これはどうやらセーフだと思います。

7.人の気持ちが読めない

KYで、そのまんまです。

8.感覚の過敏性

他の人は気にならない音や臭いなどに不快感を感じる。たまにこういう嫌煙論者がいる。

これも大丈夫。しかしこれって別枠ではないの。

9.二次的な精神疾患

二次的な精神疾患によって、ベースにある発達障害に気づかれないことがある。

10.クレーマーになる

発達障害に愛着障害が重なると、最強のクレーマーになります。

無理やり10項目にしたために、後ろの方はかなり無理があるようですが、1,2,3,4、それに7くらいに整理すると、説得力があると思います。

杉山さんは、これらの障害を代償しようとして二次的に現れる障害を併記していますが、やや強引さも感じられます。

総じて、臨床で遭遇するケースを羅列した印象です。ADHDやASDなど苦労されているだけに、Pre Clinical 段階を含め、できるだけ幅広くすくい取ろうという気持ちなのだろうと思います。

いわゆる「幼児性」や、「未熟性」との概念的な区分け、あえて「発達障害」と呼ぶ必然性など、もう少し吟味が必要ではないでしょうか。



山田規畝子「壊れた脳 生存する知」を読む
と題したがどこまで続くか分からない。本を読むのは簡単だが、しかし忘れるのはもっと簡単だ。味わい尽くすというのはとても困難なことだ。

とにかく始めよう。

この女医さんはチャラチャラした人ではない。整形外科医として研修を積み、親の跡を継ぎ、民間病院の若手院長として経営にも携わった人だ。

この本は、そういう人が30歳そこそこで脳出血となり、悪戦苦闘しながら新たな道を探していくという、一種の冒険ファンタジーだ。

その中で、自分と自分の症状を見つめ正確に描き出していく病状レポート・症例報告でもある。

私としてはとくに、三度目の発作すなわち非利き腕側の頭頂葉出血が、ゲルストマン徴候との関連で非常に興味深かった。これに比べると4度目の発作はあまりにも被害甚大で、脳CT画像を見ると思わず息を呑んでしまう。

ここまでなると巣症状(欠落症状)も、高次脳機能障害もへったくれもないので、むしろ残存機能をどう鍛え上げていくか、生活にどうハビリテートしていくかが主要な問題となる。そして山田さんは見事にそれを達成していくのだ。ただしそれは別の興味(というより感動)の対象だ。

1. 時計(アナログ)が読めないということ

この本の書き出しは、アナログ時計の読み間違いから始まる。

症状は大変具体的だ。午前4時を午前8時と読み間違いしてしまうことだ。

左右失認だ。情景は全て見えている。時計の読み方もわかっている。右と左も基本的には分かっている。しかしパッと見たときの左右の判断がつかない状態である。

物事を理解するには最初は大脳をフル回転させて対象を認識し、記憶装置にしまい込む。最初の2,3度はそうやって理解するのだが、繰り返すうちに思考・記憶回路のかなりの部分がマクロ化され、Batch File として別の作業用記憶装置に記載される。この作業用記憶装置は、事の性格上、感覚処理中枢の近くにあるはずだ。

と、ここまでは以前のおさらい。ただしその時は視覚情報の最終処理はすべて利き腕側脳半球で行われると思っていた。現に彼女は何の支障もなく時計を眺め、時計として理解している。しかし左右性については「頭では分かっているのに」とっさに判断できないのである。

つまり視認機能の基本はすべて利き腕側でやるにしても、左右差の認識だけは本質的に非利き腕側の視認機能が必要なのだ。もちろん利き腕側がやられても同じ結果にはなるのだが、その時は視認機能そのものに重大な支障が出てくるので、それにマスクされてしまうのであろう。

この左右性というのは意外に重要なので、多少大げさに言えば物事の意味性にも関わることがある。アナログ時計は右左が「似ているけれど違うんだ」というところに意味がある。差異性が認識できなければただの壁飾りだ。
2.時計は文明の凶器

考えてみれば、時計というのはとても不親切な機械だ。

針は2本あるのに(秒針を入れれば3本、目覚ましの針を入れれば4本)、長針についての表示はない。ひどいものは数字すらなく、頂点に目盛りが一つあるだけというものすらある。ただそのほうが厚労省の論理だと「公平」ということになるかもしれない。もし「親切な時計」と言うものを作るとすれば、長針用の文字盤はもう一つ作って、1,2,3…のかわりに5,10,15…と書くべきだろう。子どもに時計を教えるにはそのほうが良いかもしれない。

子どもが時計を覚えるためには、まず時計のいくつかの約束事を憶えなければならない。しかもこれらの約束事は非論理的で、したがって暴力的である。したがって子どもに非合理的な屈従をもとめる。「なぜ?秒と分だけが60進法なのだ」、「なぜ?時計には12までしか数字がないのだ」、「なぜ?1日は60時間ではなくて24時間なのだ」

「なぜもへったくれもない。昔からそうなっているのだ」
4.左右視と立体視
話を戻す。
眼がどうして二つあるかというと、それは立体視のためだ。わずかな視覚野の差異を利用して立体視できるように頭のなかで計算しているのだ。
これはアナログ画像からはできない。情報量が多すぎるからだ。そこで網膜に映された信号を後頭葉第1野でデジタル化する。それを第2野で圧縮した上で第3野で立体化する。この立体化情報は以後利き腕側の脳で処理されるので、非利き腕側の第三野以降は遊んでいることになる。
画像そのものはそれで終わるが、画像の意味というものは画像とは別に残る。なぜなら視認に基づいて何かの行動を起こす場合にはそれがもう一度必要になるからだ。
この辺は曖昧な形でしかいえないが、事物の意味論的な認識には両眼が必要なのではないかと思う。
それを示したのが以下の段落だ。

倒れた直後はまったく時計が読めなかった。それが時計であることは分かっていたが、その針がどういう約束で動いているのかが分からなかった。

私には時針は短すぎた。あんなに離れたところから数字を示されてもよく分からない。

もう一つ、目は本来位置や方角には強いはずであるのに、立体視のために使うようになったことで逆に混乱を招いていることである。

…ずいぶん楽に読めるようになったいまでも、なぜか4時を8時、5時を7時と読み違えることはしょっちゅうある。

例えば片目だけで対象を見ればこのような間違いはないのではないか。視認の主座である利き腕側の頭頂葉に、意味付け情報を与えるための非利き腕視認中枢が、誤った情報を伝えたための混乱なのではないか。
もともと片目が失明している人の場合はどうなのだろうか。




前の記事に水をかけるような記事がある。

m3.comというサイトの

SGLT2i「理想的な利尿薬」の可能性

という記事。

サブ見出しは「心疾患治療薬として既存利尿薬にない優位性と”併用禁忌薬”」

日本高血圧学会総会での旭労災病院の木村玄次郎院長のレポートを要約したものらしい。

いかにも期待させる見出しだが、中身は逆。

* 謳い文句はいろいろあるが、それは一次的な作用であり、二次的には低用量のサイアザイド系利尿薬(フルイトラン1/2錠)と同等と考えられる。

* 利尿剤が効くのはループと遠位尿細管、集合管だけだ。近位尿細管に働いてもそれより川下でキャンセルされてしまう。

* 心不全患者のうちRA系薬、β遮断薬が投与されている群に追加するときのみ有効。利尿剤、抗アルドステロン薬使用群への追加は無効。

* 利尿剤との併用は禁忌。したがって中等・重症例には適用なし。利尿剤が心不全の第一選択となっている日本では使い道なし。ただし利尿剤をガンガン使うのが趣味でないという医師には居酒屋の突き出し程度にはなる。

ということで「体には優しいが非力」という結論になりそうだ。

なんとなく心不全の治療の情報が生煮えで、スッキリしていなかったところに、また新たな情報が入った。

糖尿病の治療薬でSGLT2阻害薬(EMPA)というのがあるらしいのだが、これを使った糖尿病患者で、心血管死が38%減少したというのだ。

血糖降下薬なので糖尿病のない人には使えない。しかしそれだけ効くのなら低血糖に注意しつつ使うという手もあるかもしれない。

以下は

 EMPA-REG OUTCOME試験がもたらす 糖尿病治療の新時代 ・・・・・・・・・・ 片山 茂裕  Online DITN 第456号 2016年(平成28年)3月5日

という記事の要約。

下の図は、これまでの血糖降下剤との比較だ。

enpa
右の列がEMPAだ。いろんなデータがあるが下から3行目の心不全の発症率というのが明らかに低い。他剤で3.0~3.5%程度なのがEMPAでは2.7%にとどまっている。ただし心不全の既往歴という行を見ると、このスタディーの対象患者の心機能は比較的良さそうだ。

もともと、これはEMPAの副作用によって心血管合併症を増加させる危険がないことを実証するためのプロトコールであり、非劣性試験と呼ばれるものである。

なお層別解析で、

65歳以上、アジア人、HbA1c<8.5%、BMI<30でエンパはより有効であった。

というくだりが嬉しい。つまりEMPAはDMの改善を通じてではなく、直接心機能に好影響を及ぼしているらしいのである。



それで「SGLT2阻害薬」と言うのは一体何だということになる。

糖尿病リソースガイド」というサイトから拾ってみる。

SGLTとは、sodium glucose cotransporter(sodium glucose transporter)の略で、「ナトリウム・グルコース共役輸送体」と呼ばれるタンパク質の一種のことです。

と言われても何やら分からない。

SGLTの種類はいろいろあるが、SGLT2は腎臓の近位尿細管に限定的に存在している。

ということで腎臓からの水の出し入れに関係するらしい。ラシックスの逆みたいな働きになるのか。

SGLT2は、グルコースを栄養分として細胞内に再吸収する働きがあります。

普通の人では、グルコースのほとんどは再吸収されます。血糖が異常に上昇すると、SGLT2の再吸収能を超えてしまい、これが尿糖として排泄されます。

糖尿病患者では血糖が上がるに従いSGLT2も増えてきます。これは高血糖を維持させ、糖尿病を悪化させる悪循環をもたらします。

そこで開発されたのがSGLT2の働きを阻害する薬剤です。この薬を使用すると、近位尿細管でのグルコース再吸収が抑えられ、尿糖の排泄が増えます。その結果、高血糖が改善されます。

ということで、結果だけ見れば「尿糖排泄促進剤」ということになる。

これは痛風の薬と同じで、尿酸の産生を抑えるザイロリックに対して、尿酸の排泄を促進するユリノームということになる。

もちろん効く薬にはそれなりの副作用もあるわけだが、作用部位が限局していて、作用機序がはっきりしているから、対処の仕方もはっきりしている。

発売されたのが2014年。最初がスーグラ(アステラス)、次がフォシーガ(ブリストル・マイヤーズ)、さらにルセフィ、アブルウェイ、デベルザ、カナグル、ジャディアンスと続く。薬価は200円から300円だが、最後のジャディアンス(ベーリンガー)だけは356円とお高い。これだけでも1万円を超える。

たいてい多剤併用だから薬代だけで月2万円は飛んで行く。老健では絶対に受け入れられない。まぁ来ないだろうが。

副作用の欄には

多尿による脱水。特に腎機能が低下している患者、高齢者には注意

と書いてある。

これが、心不全に効く理由であろう。副作用どころかまさに主作用である。


ここから先は感想になるが、病態生理的に見てとても面白い薬である。

1.ラシックスとの類推

結果的にはラシックスを投与したのと同等の効果をもたらすのであるが、ラシックスのようにヤミクモに近位尿細管をひっぱたくのではなく、水分を溜め込む物質を見つけ、その働きを調整することで適切な利尿を得るという点では、よりソフィスティケートされた手段である。

2.「ナトリウム・グルコース共役体」という概念

いままでのさまざまな臨床経験が、「なるほど、これだったのか」と何か解き明かされそうな感覚が湧いてくる。

いままでは、Na・水 という2者で考えていたが、そこにグルコースという物質を加えることでスッキリ説明できるような現象がありそうだ。

近位尿細管という部位は必ずしも本質的なものではないのかもしれない。ある意味では近位尿細管というのは「ナトリウム・グルコース共役体」の網の目からなるフィルターと考えたほうがいいのかもしれない。

3.「浸透圧利尿」の範疇も再吟味が必要だ

経験的に、開心術後の患者で10%糖液(フィジオゾール3号)が非常に有効なことは知っていた。

手術を終えてICUに入ってきた時点で、患者はいちじるしい脱水に陥っている。急速に体液を補充しなければならない。

その際には肺水腫に注意しつつかなりのスピードでフィジオ3号を入れていた。ある程度入ってくると利尿がつき始める。

利尿がついたら一安心と思うが、実はそれからがやばいので、とにかく追っかけなければならない。利尿が補液量を上回ると血圧がすっと下がって心臓がパタンと停まる。

さりとて入れ過ぎれば、ナースが「ラ音です」と叫ぶ。

さじ加減としてはフィジオ3号で5千くらい入ったら、少しづつハルトマンを加えていく。そうすると利尿も落ち着いてくる。これで7,8時間だ。

エコーで壁運動を見て、ガス分析でBEが安定すればあとはちょっと一息ということになる。

あの頃はそれらをすべて浸透圧で説明していたが、私には10%糖液が浸透圧以外の効き方をしているように思えたものだ。「ひょっとして脳(視床)を介しているんではないか」とか「糖そのものに利尿があるのではないか」である。

4.糖尿病性昏睡の機序

いまはずいぶん減ったと思うが、昔は年に1人位糖尿病性昏睡の患者が担ぎ込まれたものだ。

こっちの対応はDM医がやるから、私は脇から見ているだけだが、一応心臓の評価はしなくてはならないから、「それじゃお先に」というわけにも行かない。

それとDM屋さんはデータばかり見ていて、患者をあまり見ないので心配なところもある。

また余分なことを言ってしまった。

いま考えると、高血糖でおしっこがジョンジョン出ている状態っていうのは、そのSGLTっていうのはどうなっているんだろう。

きっとノックアウトされているのだろうね。

そうすると、ひょっとすると糖尿病性昏睡というのは病態生理学的にはSGLTがノックアウトされた状態を指しているのかな。

となれば、SGLTはどのような理由で、どのような機序でノックアウトされるのだろうか。多分それはクライシスを脱した後で息を吹き返すのだろうけど、どういう風にして立ち直るのだろうか。

5.ラシックスとの相乗効果はあるのだろうか

ここが一番知りたいところだ。

ラシックス・トラップみたいなものがあって、どっかでラシックスが効かなくなってくる。

ForresterⅢのどん詰まりだ。40→80と増やしていっても聞かない。低ナトリウムと全身浮腫だけが進行していく。

FFバイパスで除水するが、焼け石に水で、下手をすれば心停止を招きかねない。

「入れて出す」のが基本だが、これでは入れられない。

多くの心不全患者はこういう形で雪隠詰めになるか、どこかで突然死するかでお陀仏となる。

この段階で有効かどうか、ラシックスやANPとの相乗効果はあるのか。しょせん延命にすぎないかもしれないが…

6.川下は対応できるのだろうか

この薬を使用すると、近位尿細管でのグルコース再吸収が抑えられ、尿糖の排泄が増えます。その結果、高血糖が改善されます。

ということで、ダムの嵩上げをやめてグルコースを下流に放流すれば、川上の洪水は解消される。

しかし放流された川下の住民はどうなるのか。ちょっと心配だ。

まぁ、いままでの排泄促進剤や利尿剤でも大した副作用はなかったからそれほど心配する必要はないだろう。何かあったとしても命に比べれば大したものではない。



心不全の新治療基準」への補足

NT-proBNPについて

bnp

見てもらえば分かるように、NT-ProBNPはBNPの前駆体からBNPを抜き出した搾りかすの方だ。

したがってBNPを測れば、それに加えてNT-ProBNPを測る必要はない。では何故NT-ProBNPもはかるのか? これについての説明はない。

日本心不全学会のページに「留意点」が載っている。

とにかく失敬なほどに、何も書いてない「留意点」だ。

日経メディカルに「NT-proBNPは心不全検査として有用」という記事がある。2006年の記事で相当古い。

ポスターセッションで、デンマークFrederiksberg 大病院のJens Rosenberg が発表したもの、とされている。

これはNT-ProBNPと心エコーの左心機能との関連を見たもので、LVEF40% をカットオフ・レベルとして上か下かと分けるという、相当荒っぽい調査。

結果としては、感度100%でOKということになった。つまりNT-ProBNPが127ng/L以下ならEF40%以下の心不全はないということだ。

これをコストから考えると、心エコー検査が150ユーロ、NT-proBNP検査が22.50ユーロで、患者1人当たりの診断費用を21ユーロ減らせる。

ということで、別にBNPと比べて優れているとかいう報告ではない。

よくある検査のご質問 というページがあって、「ANPとBNPの使い分けを教えてください。また新しい検査NT-proBNPとの違いは?」という質問に対する答え。

端的に言えば

NT-ProBNPの長所は診断における特異性ではなく、血清で測れることや凍結保存が不要なことなどである。

まぁ、そういうことのようだ。

多分両方調べたら間違いなく査定されるだろう。NT-ProBNPなどという言葉、忘れたほうがいい。脳みそがもったいない。

トロポニンと高感度トロポニンについて

私の循環器専門医としての歴史は10年ほど前に終わっている。その頃の最先端がトロポニンTだった。MB・CPKより早いと言われた。

10年後の今もあまり変わっていないようだ。ただ心筋梗塞だけではなく心不全でもそのときに心筋が傷めば、トロポニンは出てくるだろう、ということは予想できる。実際にMB・CPKはケースによっては著増する。

CHFの予後を見る上でたしかに心筋がどれだけ壊れたかを見ておくことは大事だというのは分かる。多分そのへんはデータが蓄積しているのだろうと思う。

ただ、心不全ではそれ以外にも重要な予後規定因子はたくさんあるから、そのうちの一つということになる。とくに心不全の発症あるいは遷延に心筋の炎症(とくに自己免疫)が絡んでいるかどうかは大事な話だ。

その点で、高感度トロポニンは注目される指標となるかもしれない。であれば、高感度CRPも大事になるかもしれないし、場合によっては何か適当な抗心筋抗体も見つけられるかもしれない。

またACE、ARB、β遮断剤などの効果(あるいは不応例)を見る指標としても使える可能性がある。

心筋線維化指標について

これがどの程度役立つのかは、私には分からない。この10年の間に進歩しているのかも分からない。

ここで挙げられているのは可溶性ST2受容体、ガレクチン_3である。

まず「可溶性ST2受容体」だが、これが説明を読んでもさっぱりわからない。

まず言葉通りの「可溶性ST2受容体」という用語は検索に引っかかっては来ない。

あるのは「可溶性ST2」だ。これは可溶性タイプの「ST2」という意味で、「ST2」というのは「インターロイキンⅠ」に対する受容体のライブラリーの中の一つということらしい。

といってもなんだか分からない、という事情には変わりはない。免疫屋さんの世界だ。

「ガレクチン3」というのも似たようなものらしい。

新語シャワーをバイパスして、結論だけ読みたい人はここがいい。「大日本住友製薬」の「医療関係者さまサイト」に下記のアブストラクトがある。

長期心不全リスクの層別化を目的とした2つの心筋線維化バイオマーカーの直接比較…ST2 対 ガレクチン-3

面倒なことは一切飛ばして結論だけいうと、

ST2 は心不全の予後判定に関して独立した因子となりうる。一方、ガレクチンはまったく役立たない。

ST2は心筋線維化およびリモデリングの有望なバイオマーカーとなっているが、それが多変量解析で立証されたということであろう。

先ほど、「何か適当な抗心筋抗体も見つけられるかもしれない」と書いたのがこれにあたるようだ。

女子医大で研修していた頃、心筋炎のチームと多少関わっていたので、「すべての病気は炎症だ」という気風にいくらか染まっているかもしれない。

「胃炎も炎症だ」と、胃が痛い人にロキソニンを処方して、薬局のひんしゅくを買っている。自験では二日酔いの特効薬はロキソニンである。

ARNIについて

久しぶりの新薬である。薬屋さんはワクワクであろう。

アメリカでも承認されてまだ2年も経っていない。日本ではフェイズⅢの段階だ。

我が国ではARBが圧倒的だが、これは薬屋のキャンペーンのおかげで、老健ではすべて自動的にACE(エナラプリル)に切り替えていた。それでなんの痛痒も感じなかった。

多分、薬価差だけでスタッフ2人分くらいの差額は稼げたのではないかと思う。

今度の薬は「標準治療薬であるエナラプリルをついに超えた薬剤」と宣伝されている。

47カ国985施設が参加した国際共同臨床試験 で、「エナラプリル群に比べてLCZ696群で20%有意に低下」との成績を叩き出した。

しかし内容をよく見ると、率直に言って革命的な薬ではない。悪く言えば、副作用のために発売中止になった薬をARBと抱き合わせて売り出したに過ぎない。つまりは副作用の出ない範囲に減らしただけであって、長期に使えば副作用が出ないとは限らないのだ。

副作用で中止になった薬というのがネプリライシン阻害薬omapatrilatという薬だ。副作用というのはアダラートやα遮断薬に似ていて、血管浮腫や顔面紅潮、起立性低血圧などだ。

これは素人考えでいうと、ARBやβ、アルダクトンを満度に使ってもうまくいかない人にアムロジンをちょっと足してみたらというオプションではないかと思う。

普通アムロジンは1日5ミリまでだが、これを10ミリ、15ミリまで増やしたらなんとかなるかもしれないという選択である。あるいはカルデナリンを5ミリとか10ミリに増やして、とにかく後負荷(アフターロード)を下げてみましょうということだ。

私はこの先に未来はないと思う。

イバプラジンについて

心不全の薬となっているが、紛れもなく抗不整脈薬(Ⅰf ブロッカー)である。しかもフランス発の薬である。

フランスと言えばリスモダンである。これはⅠaだが、使いはじめて40年、いまも日常的に頻用されている。

余談だが女子医大心研の広沢元所長はキニジン大好き人間で、私もその薫陶を受けてかずいぶんキニジンを使った。キニジンとジギを併用して頻脈発作を止めるという、かなり恐ろしいこともやった。

慣れるとキニジンほど強力で安全な薬はない。VTにもばっちりである。難は在庫がないことである。そして薬剤師が怖がることである。

それはさておき、イバプラジンはいまや心不全の標準薬として世界に承認されつつある。

おそらく陰性変時作用に往々にしてつきまとう陰性変力作用がないのであろう。しかしそういう人間が平気でベータを使うのが不思議でならない。

こういうのを事大主義者という。何故ジギではだめなのかの説明はない。もちろんキニジンについても説明はない。

だから私はこの薬は使わないだろう。使うなとは言わないが…


心不全の治療・管理法が変わるようで、Medical Tribune にその概要が載っている。
簡略に過ぎて実態がよく分からないが、バイオマーカーの統一が図られているようだ。
バイオマーカーとしては従来のBNPの他にNT-proBNPの導入が推薦されている。(いろいろ調べると、NT-ProBNPはBNPの代替にすぎないようで、無視して構わないようだ)
また急性期にはこれに加えて心筋壊死の指標である心筋トロポニンの測定が勧められている。
さらに長期化した際には予後判定に心筋線維化を示すバイオマーカーの測定が推薦されているが、これについてはとくにマーカーの指定は行われていない。(候補として可溶性ST2受容体、ガレクチン_3、高感度トロポニンが挙げられている)
治療の方では以下の点が追加されている。
1.低拍出量型心不全の治療の標準としてβ遮断薬が推薦されている。一部の症例では、抗アルドステロン薬の併用も勧められている。またレニン・アンジオテンシン系が賦活された状況ではACE阻害薬あるいはARBの併用も勧められている。…これは今までと大きな違いはない。
2.ARNI が治療戦略へ追加された。中等症の慢性心不全でACEあるいはARBにトレラントとなったケースで、ANRIへの切り替えが推薦されている。
3.イバプラジンも新たに追加された。低拍出量(LVEF<35%)の心不全で洞頻拍を示すケースでは、積極的使用が勧められている。これはおそらく、「もうジギタリスは使うな」ということであろう。
4.心不全の患者の積極的高圧が勧められている。目標としては<130/80 に設定されている。降圧自体はこれまでも勧められているので、数値目標が目新しいといえば目新しいと言えなくもない。
新聞に載ったのはここまで

20170228 離乳と断乳

どうも最近の「母乳原理主義」を煽っている元凶が、WHOの「母乳育児を成功させるための10か条」というご託宣のようだ。さらにその根っこには「母乳栄養に関するWHO勧告」というものがある。これはWHOが2011年に“Exclusive breastfeeding”(母乳原理主義)として発表したものらしい。

「固形物を食べられる兆候が現れてくるまでの最初の6か月間は、母乳のみで育てる。母親と子供が望めば、少なくとも2歳までは推奨される」
というのが結論である。

*十分な量の母乳が生産できないことは稀であり、栄養状態の良くない発展途上国の母親も、先進国の母親とほぼ同質同量の母乳を生産していることが示されている。

*吸引がより頻繁であるほど、母乳の生産量は多くなる。時間帯を決めて授乳するよりは、赤ちゃんが飲みたい時に授乳する方が望ましい。

*母乳栄養は出産前の体重の復旧、出産後の子宮の復旧、乳癌のリスクの低下など母親にとっても有益である。

*母乳の生産量を増やすために、ドンペリドンやメトクロプラミドが処方される。ただしアメリカ小児科学会は、「メトクロプラミドの副作用は考慮されるべき」としている。

など「母乳原理主義」の驚くべき記述が続く。(ウィキペディアによる)

「栄養状態が悪い母親も先進国の母親とほぼ同質同量の母乳を生産する」という行りは、聞くだけでもおぞましい。どう考えても我が身を切り縮めているということにしかならないのだ。それを是とするのか? それは「医学」なのか?

中でも、常識はずれとして批判を浴びているのが「カンガルーケア」という項目らしい。カンガルーケアとは、育児の手法の一つである。生後30分以内にお母さんのおなかに赤ちゃんをのせて自然に乳首を吸わせる。それがカンガルーのやり方らしい。コロンビアの病院で保育器不足を補うために導入されたのが、「エコロジスト」によって拡散された。

カンガルー・ケアは母乳分泌を促し母子の絆を強化することを目的にしている。いわば完全母乳哺育の第一歩であり,完全母乳主義の一環をなす考えである 

これは出産直後の授乳開始を義務付けたもので、さらに母乳以外の栄養や水分を与えてはいけないという条件がつく。これが第6条というものだ。

一つ間違えば、殺人につながりかねないマニュアルであるが、現在我が国においては、これを「完全母乳栄養」と称し広げようとする動きが広がっているのだそうだ。


以下、「『母乳育児を成功させるための10か条』の解釈について」(2009年)という論文から紹介する。著者は仲井宏充さんと濱崎美津子さん。いづれも佐賀県内の保健所のスタッフのようだ。ネットで調べると、仲井さんは県内各地の保健所を歴任したあと、現在は唐津で開業され、「食と健康」をスローガンに掲げ奮闘されているようだ。

まず抄録から引用する。

現在我が国においてはカンガルーケアが当たり前となり,母乳以外の糖水・人工乳を与えない完全母乳栄養法が“赤ちゃんに優しい”と考えられるようになった.

これは1989年にWHOとUNICEFが共同で発表した「母乳育児を成功させるための十か条 Ten Steps to Successful Breastfeeding」という勧告に基づくものである。

その第四条および第六条を根拠とした「完全母乳栄養法」が国内に普及している。

これに対し筆者は,

1.第四条が言う「母親の授乳開始への援助」がカンガルーケアを指すものではないことを明確にすること,

2.第六条の「新生児には母乳以外の栄養や水分を与えない」は,第四条にある「分娩後30分以内に赤ちゃんに母乳をあげられる」が満たされることを条件とすべきだ。

と提唱する.

第四条 Help mothers initiate breastfeeding within half an hour of birth. お母さんを助けて,分娩後30分以内に赤ちゃんに母乳をあげられるようにしましょう
第六条 Give newborn infants no food or drink other than breastmilk, unless medically indicated. 医学的に必要でないかぎり,新生児には母乳以外の栄養や水分を与えないようにしましょう

この理由として,

1.十分な母乳分泌がないお母さんの赤ちゃんに低血糖が起こる結果,特に脳に重大な影響を及ぼすことを強く示唆する報告が多数あること,

2.カンガルーケアは完全母乳主義の一環をなす考えであるが、科学的根拠に基づく標準的な方法が確立されておらず,カンガルーケアによって危篤状態に陥る児が多数報告されていること

が挙げられる.

以上のことから我々は,

1.新生児の神経発達に影響を及ぼさない血糖レベルが定まっていない現状においては,母乳分泌が十分でない場合には補足的栄養補給を躊躇すべきでない.

2.カンガルーケアには危険が伴うことを認識し,新生児にとって快適な環境温度に調整されてない我国の分娩室においては,カンガルーケアを行うべきではない

ことを強調したい.


以下本論に入る。

Ⅱ 注目すべき報告

山形大学のチームが「症候性低血糖を来たした完全母乳栄養児の1例」を報告した。このケースは正規産新生児で、完全母乳栄養管理下に低血糖による痙攣及び脳障害を来たした。MRIでは後頭部に限局した病変を認めた。

これに対し、WHOは「母乳保育の満期の健康な赤ちゃんでの低血糖が有害であるというエビデンスはまったくない」とし、第6条の堅持を主張した。さらに新生児の低血糖スクリーニングも無意味だとして拒否した。

この意見の対立をめぐり、米国小児科学会は「有効な経験的研究の不足のために、臨床診療のための提言は出せない」と逃げた。

Ⅲ 日本でカンガルーケアを行うことの危険性

これについては確定的な論文による批判はないが、長野県立こども病院総合周産期母子センターの中村友彦医師による問題提起がある。

これは「正常産児生後早期の母子接触(通称:カンガルーケア)中に心肺蘇生を必要とした症例」を提示した上で、「カンガルーケアの留意点」として以下を挙げている。

1.日本のほとんどの産科施設において,正常産児のカンガルーケアが生後30分以内に行われている.ところがカンガルーケア中に,赤ちゃんが全身蒼白,筋緊張低下,徐脈,全身硬直性痙攣,という非常に危険な状態でNICUに緊急入院するケースがあり,他の施設でもこれと似た症例がある。

2.正常産児の生後早期のカンガルーケアに関する文献では,その安全性については議論されていない.また日本では正常分娩の分娩室での母子ケアについては,科学的根拠に基づく標準的な方法が無い.

3.したがって、生後早期のカンガルーケアについて様々な側面から検討する事が必要である.

以上のごとく引用した上で、著者らは次のようにコメントする。

日本では,分娩室の室温は大人に快適な温度、赤ちゃんには低めの温度に調節されている.

このような環境でカンガルーケアを実行すると赤ちゃんは低体温に陥る。その補正のために熱産生を行い,その結果血糖を消費し低血糖に陥る。その結果脳障害の危険が高まる。すなわちカンガルーケアは児に不利益である可能性がある.

Ⅵ 我が国における排他的母乳主義の歴史

学術論文らしからぬ、主観の入り混じった考察ではあるが、それとして見事な文章なので、著作権侵害を恐れず全文を転載する。

我が国における完全母乳主義は国立岡山病院の院長であった故山内先生が推進された運動である.

その当時の日本では,美容的理由や就労の都合,新生児黄疸の予防,さらには乳業メーカーの力などで粉乳哺育が主流となっていた.

山内先生は感染が少ないなど母乳の優位を示すEvidenceにもとづいて母乳推進運動を推進されていたが,森永砒素ミルク事件がきっかけとなり助産師を巻き込んだ社会運動へと発展していった.

「出ない乳房はない,母乳が出ないのは乳房管理が悪いからだ,粉乳を与えるので児は母乳を求めなくなるのである」というロジックで、この運動は昭和50年代から今に至るまで全国を席巻している.

そしていつの間にか,足りないときに適切な糖水や人工乳を足すことをあたかも犯罪であるような言い方をする,偏った母乳主義が台頭することとなった.

今日では,完全母乳主義が乳汁分泌不全の褥婦を精神的に追い詰める結果となっている.

…元来,母乳以外のものを足さないのは,「足せない」低開発国向けのことで,母乳バンク,もらい乳が出来ない日本ではとうてい無理な話ではないかと思う.

むしろ今後は,…乳汁分泌不全の患者さんを完全母乳主義の強迫観念から解放して,「母乳哺育をしたくても出来ない人にどう対処するか」という視点を持つことが是非とも必要だと考える 

率直に言えば、「あぁ言っちゃった。スッキリした」という斬り捨て御免的なきらいはあるが、それはお互いさまだ。こっちは所詮蟷螂の斧だから、このくらい言わないと相手に伝わらない。

そういえば、うちの嫁さんも「桶谷式」とか言って一生懸命揉んでいたが、「痛くなかった」という話も「湯水のごとく母乳が出た」という話も聞いたことはない。そしてしっかりと乳がんになった。

「がん保険」の給付金は、東洋医学とかDHCとかブロポリスなどという怪しげな民間療法で泡と消えた。その金がなんとかテレビの反共デマに使われている。哀れなエコロジー原理主義者の末路であるが、それで納得しているところが怖いところである。

離乳というのがよく分からない。

子供の問題にも関わるし、母体の問題にも関わる。

この問題は育児・子供の成長の問題として語られることが多い。しかし私としては、離乳をふくむ育児という実践は、基本的には母親側の問題だと思う。

女性は、あたり前のことだが、母性である前に女性である。子供を産むことによって初めて母性となる。

子供が成長するように、女性も母親として成長しなければならない。スキンシップを主体とする母性から、見守りを主体とする母性へと育っていかなければならない。

離乳はその重要な過程の一つとして考えるべきだ。

ここまでは多分議論の余地のないところと思うが、問題は母乳を母性の絶対的内容として主張する昨今の風潮だ。どうもこれが問題を複雑にしている気がしてならない。

母乳がベターであることは言うまでも無いし、あえてベストと言ってもよい。しかしオンリーではないはずだ。私はたぶんほぼ母乳なしに育っている。70を過ぎて人並みに暮らしている。タバコさえ吸わなければもっと元気だろうが、これは私の死神との取引だ。

母親が母乳が出なかったことに対し文句を言う気はサラサラないし、むしろ母乳なしでここまで育ててくれたことに感謝している。

そういうのが根っこにあるせいか、1歳半を過ぎてまだ授乳をしている母親に対して、イラッと来てしまう。

「いまはもう、あなたの体のほうがだいじですよ。母性の示し方が違うでしょう。けじめを付けなさい」


この文章を思いついたのは、赤旗の文化面に載った「文化時評」の、あるところが気になったからである。

山崎ナオコーラ「父乳の夢」の紹介の所を引用する。

現在乳児を育てている著者の「母ではなく親になる」という決意が込められ、ユーモアに満ちていて小気味よい。

一般論や雰囲気を「信じるな」が口癖の今日子と、手ずから子育てをしたい哲夫。生後間もない薫への授乳をめぐって、時に行き違う。

母乳絶対の風潮に流されがちな哲夫に対して、無理してまで母乳に固執したくないと考える今日子は、「そんなに母乳が好きなら、哲夫が母乳を出したら良い」と言い放つ。

社会の成熟に伴って体も進化したらしい哲夫からは、溢れんばかりの母乳、もとい、父乳が出てきて…。

あらゆる先入観と決めつけを排し、多様性の尊重をテーマにしてきた著者が、性別役割分業と母乳神話を暴いた快作である。

と、これだけでも名文である。

なお、ついでだが、その記事の隣、「歌壇」にも女性が自分を「僕」と呼び、歌を詠む最近の動向が触れられていて、その例としてあげた歌がなかなかいい。筆者は沖ななもさんという歌人。

目があって
君を見てたと気づく僕
君のうしろに 輝く青空
(中学生 伊藤麻衣)


噴水が
上へ上へと登っていく
夢へと進む 僕らのように
(中学生 石川玲奈)


満月の
明かりたよりにすぶりする
次こそきっと ヒットを打つぞ
(小学生 斎藤歩和)

これらは千葉県山武市主催の「左千夫短歌大会」に応募したものだそうだ。山武市というのは知らなかったが、「野菊の墓」の舞台なのだろうか。

女性と母性の問題はこれからも学んでいく必要がありそうだ。


以前、「特養を出たい」という相談を受けたことがある。
特別養護老人ホーム(通称特養)はある意味で人生の終着駅(の一つ)だ。病気で具合が悪くなって入院して、ある程度落ち着くと、慢性期の施設に移る。
例えば脳卒中の後遺症みたいなものが残ると回復期病棟というところに行く、ただしここには期限があってそれを過ぎたら出なければならない。
それが後遺症どころでなく重い障害を残すと、療養型病棟というところに移る。例えば中心静脈栄養(IVH)とか胃ろう栄養(PEG)とか人工呼吸器とかである。だいたいこのような人は長くは持たないで、療養病棟で命を終えることになる。
それで話が戻るが、回復期病棟の期限がすぎると、あるいはリハの必要がない人の場合なら、老人保健施設(老健)という施設に入る。老健で経過を見ながら自宅復帰の準備を進めて、「大丈夫」ということになったら家に帰ることになる。
ところが、家に帰れないほどの後遺症が残ってしまう人も少なくない。私の経験ではほとんどの入所者が帰れる展望はない。そうなると、終の棲家を探さなければならなくなる。それが特養である。
だから特養は「療養放浪記」の最終章なのだ。
ここから出るのには二つある。一つは病気が悪くなって病院に送られる道である。それでどうなるかというと、ざっと見て半分はそのまま病院で帰らぬ人となり、残りの半分は戻ってくる。しかしそういう人は必ずと言っていいほどまた悪くなる。そしてまた病院に送られる。それで帰ってくる人は殆どいない。
もう一つの道は、病気というより老衰であって、生命機能が落ちてきて、生きようという意欲がなくなる。もちろんその殆どは認知症を伴っている。この場合、家族ともお話した上で、静かに看取らせていただくということになる。
早い話が救急車で出ていくか霊柩車で出ていくかという選択になる。
どちらにしても特養をそれ以外の方法で出ていくことはありえない。そう思っていた。
ところが突然「特養を出たい」といわれたから驚いた。
担当者から話を聞くと、聞くも涙の物語だ。
個人情報になるので詳しくは話せないが、つまりは特養に入所していくだけのお金がなというのだ。
特養にも自己負担があって、もちろん以前からあるのだが、去年の改定で一部負担料がドーンと上がったというのだ。
旦那が入居していて、その旦那の年金で夫婦二人が生活していた。いままでもカツカツの生活で、それでもなんとか頑張っていたのだが、毎年年金は下がるは一部負担は上がるはで、「もうとても切り詰められません」という話になった。
それで「療養型ならもっと安いのでそちらに移りたい」のだという。おそらくどこかで小耳に挟んだか、誰かに吹き込まれたのだろう。
「紹介するのはやぶさかでありません。しかし受けてくれるような病院があるかなぁ」とその場は受け流して、なんとか制度活用や、資産処分とかでもう少ししのげないか、最後は福祉の方でということで、ケースワーカーの方に話を持っていった。その後話しは沙汰止みになったようなので、それなりに落ち着いたとは思うが、なんとなく後味の悪い話であった。

と、ここまでが話しの前段。
本日の赤旗に、「全国施設長アンケート」の結果が紹介されている。
まずアンケート調査の主体だが、老人福祉施設の運営者らで作る「21世紀・老人福祉の向上を目指す施設連絡会」という組織。略称を「21・老福連」という。民間の有志組織のようだ。
この「21・老福連」が、全国の特養の施設長にアンケートを取った。この内回答があったのが1,589施設。特養そのものは全国に7,708施設あり、その20.6%であるから、かなりバイアスがかかっている可能性はあるが、事例を見ていく上では説得力のある調査だと思う。
調査そのものの主眼は、15年の介護保険制度改定の影響を、施行後1年の時点で調べることにあった。しかし、いわば副次的に、入所者への影響が浮かび上がってきている。そこに赤旗が注目して記事にしたというのが話の筋道だ。

記事の見出しは「支払い困難 理由に退所――100超す特養で」 脇見出しが「自公強行 介護改悪ずしり――低所得者の入居 厳しく」

記事ではいくつかの結果が列挙されている。
1.約半数が介護保険制度改定が「入居者に何らかの影響があった」と回答した。
2.101の施設で「支払いの困難を理由に退所したものがあった」と回答した。(人数は調査していない)
3.311の施設で「配偶者の生活苦が強まった」と回答した。
4.その他の影響として、「個室から多床室への移動」が222回答、「利用料支払いの滞納」が206回答あった。
アンケート調査ではこれらの影響が何故生まれたかを問うている。施設側の評価を尋ねたものである。
5.408施設では「低所得者への部屋代の補助、食事代の補助を定めた『補足給付』の要件が変更されたため」と回答している。また367施設では「利用者負担が1割から2割に増えたため」と回答している。

ここまでが調査結果の紹介。以下は『補足給付』についての説明。
元々は14年6月の「医療・介護総合法」によって方向付けられたもので、それを具体化した15年の介護保険制度改定で給付の要件が厳しくなった。
1.預貯金などの資産が一定額を超える場合は補助の対象外となった。
2.一定以上の所得があれば利用料負担は1割から2割に引き上げ。
でこれがダブルで来るとボーダーライン層には、相当きつくなるだろうと予測されたが、今回それが事実として明らかになったということだ。

特養というのは、いわば老人にとって最後のセーフティ・ネットのようなものだ。だから困窮者には補足給付などの方法で「排除されない仕組み」を作ってきたのだが、これでは崖っぷちの下流老人を後押しすることになりかねない。
特養に対するそもそもの考えを、原点に立ち返って今一度検討すべきではないだろうか。

最近、特養で数人ほど、何か分からないCRP陽性と貧血の方がいる。症状もない(認知はある)がそのままというわけにも行かず、なんとなくプレドニンを使ってしまった。

1日5ミリだから、べつに副作用もないが、当然のことながらCRPは改善し、遅れて貧血も改善してきた。

結果的にリウマチ性多発筋痛(PMR)でよかったのかなと思っている。ただRFも陽性に出たので困ってしまった。

むかし研修医だった頃は「リウマチにステロイドは使うな」と堅く戒められていた。骨がぼろぼろになった患者の写真を見せられたりして、刷り込まれている。

「もしリウマチならそっちの治療しなければいけないのかな」と思って、雑誌をめくってみると、「とにかくリウマチなら高齢者であろうとなかろうと、リウマトレックス」と書かれている。

しかし副作用のところには恐ろしげなことが書かれている。とても特養で認知+超高齢の、しかも無症状の人に使えるような代物ではない。

だいたいメソトレキセートといえば、私らの世代には抗がん剤だ。使うんなら家族にムンテラして承諾書もらう必要がある。

ところがPMRならプレドニンを使っていれば済む。それも少量で済む。

じつは、私の研修医時代はリウマチ性多発筋痛そのものがあまり知られていなかった時代で、地方会で「PMRの2例」と題して報告した記憶がある。

そのとき文献集めをしたのだが、国内文献で5,6題。洋文献も1ダース程度だった。北大の図書館で巻紙のコピー用紙を一巻き使った記憶はあるが、不思議なことに読んだ記憶がない。

外国ではむしろ側頭動脈炎が注目されていて、スカンジナビアの何処かから「巨細胞がどうの」とかいうレビューがあった。

治療はアスピリンの大量療法で、日本人の胃袋には到底耐えられないような量だった。どこかで「少量のプレドニンが奏功する」という報告があった。その後はプレドニンが標準治療のようになっている。

昔話はさておき、「それではリウマチでないという証拠はあるのか」、と言われるとない。鑑別法を探したが、結論は「鑑別はできない」ということだった。後からリウマチの所見が出てくれば「やっぱりリウマチだったんだね」ということになる。

問題はプレドニンをダラダラと使うか、リウマチの治療に切り替えるかである。リウマチの治療にはやぶさかではないが、リウマトレックス以外の方法はないのか、これが目下一番悩ましいところだ。

むかし小耳に挟んだリマチルとかリドーラとかサラゾピリンはどうなんだろう。しかしこれらはぱっとしないような話しか書いていない。

どうも結論としては、「そうだ、これはPMRなんだ。だからプレドニンで良いのだ」と割り切るのが一番かんたんなようだ。悪性腫瘍が隠れていようと、歌の文句じゃないが「#そんなことなど知りたくないの」だ。そうなればどのみち助かりようはない。

だいたいプレドニンほど有効域が広い安全なクスリはないのだ。副作用は熟知されている。それに5ミリとか2.5ミリなんていうのは鼻くそみたいなもんだ。チラージンやインシュリンと同じで補充療法だと思えばいい。

ということで、CRPと血糖値見ながらダラダラと使うことにした。ひょっとすると低ナトリウムにも効くかもしれんなぁ。


ということで、友田さんの研究を私なりに敷衍すると、

1.虐待ストレスの形態には視覚ストレス、聴覚ストレス、痛み(肉体的苦痛)ストレスがあって、それぞれに対して適応が生じる。

2.しかしそれはあくまで受身的適応にとどまり、脳の全面的発達を犠牲にする形でしか実現できない。

3.それはおそらく神経線維の髄鞘化(ミエリン化)を部分的に中止し、発達プログラム通り実行しないことで実現される。

ということになる。

神経核(灰白質)でなく神経線維(白質)に着目したことは優れたアイデアだろうと思う。

複合的ストレス(例えばネグレクト、飢餓)については三大ストレスの組み合わせで理解されることになるだろう。

友田さんのいう「脳の萎縮」は、これらの効果をネットとして捉えたものであろう。「萎縮」を言葉通りに捉えるなら脱髄過程ということになるが、脱髄はそれ自体が疾患であり、病的適応過程(病的環境に対する生理的反応)ではなく病的過程そのものである。

髄鞘化の概念

脳の神経細胞は生後間もなく出揃う。しかしこれらが十二分に力を発揮するためには通信速度の向上が必須であり、それには十数年にわたる髄鞘化の過程を待たなければならない。

髄鞘化の過程は生体内にロードマップとしてプログラミングされているものであるが、高次脳機能に関してはかなりエピジェネティックな要素が強いのかもしれない。DNA本体ではなくペプチド鎖の末端がアセチル化される過程は、ソリッドではなく強いストレス下では可変ないし可塑的となる可能性がある。

髄鞘化抑制因子

髄鞘化が抑制される原因のひとつとして高度ストレスが存在すると考えられる。

友田さんは、これらの過程の現場プロモーターとしてストレス・ホルモン、具体的にはステロイドを想定している。

これは例えば冬眠誘導物質などを想定すると分かりやすい。

しかし、発達の障害というかなり長期にわたる変化を見るときには、神経内分泌学的ネットワーク全体の中で考えなければならないだろう。カテコールアミン→ステロイドをイニシエータとして、各種ペプチドホルモンの複合作動系の中に、髄鞘化促進因子の発現を抑える何らかの要因が出現するとみるべきであろう。

間脳の作動機序の解明が中核的課題

これらの過程の中枢にあるのは生命活動の核心としての間脳(視床・視床下部複合体)だ。ここでの神経内分泌学的なダイナミックスを解き明かすのが、研究の究極目的となるのではないか。
それは赤旗のインタビューでの、ウツに関するコメントにも共通するターゲットだとおもう。

友田さんの和歌山での公開講演会(2011年)の記録である。この中の「発達過程の子どもの脳の脆弱性」という部分を紹介する。

A イントロ

1.ストレスの衝撃によって脳に癒されない傷がつく

最近(1980年代末以降)ではその「脳の傷」を可視化することができる。

2.大量のストレス・ホルモンが脳の発育を遅らせる

虐待ストレスによって扁桃体の興奮が高まり、ストレス・ホルモンの放出閾値が下がる。

B 虐待の既往のある健常ボランティアを対象とした調査

問診、心理テスト、脳MRを施行した。

性的虐待例(女性)では後頭葉の視覚野の容積減少が見られた。容積減少率は虐待期間の長さと相関していた。

暴言虐待では、聴覚野を構成している領域に異常が見られた。MRIトラクトグラフィにより大脳白質の神経線維の走向を調べたところ、ブローカとウェルニッケ中枢を結ぶ弓状束の軸索数減少が確認された。

体罰では、前頭前野の内側前頭皮質に異常が見られた。ここは行為障害、感情障害と関係する領域とされる。
「テンソル画像解析」による調査の結果、
視床から大脳皮質へと走る疼痛の神経伝導路の描出が著明に低下していた。

傷つく脳
友田さんの「子ども虐待と脳の発達」というページから、「児童虐待により傷つく脳」という図を転載させて頂く。

C 調査の副次結果

以上が主要な調査結果であろうと思う。

かなり大規模な調査なので、副次的にいくつかの結果(傾向)も出てくる。この内、被害時年齢との関連について他研究のレビューもふくめながら言及されている。

1.虐待を受けた年齢と脳障害の関係

海馬では3歳か4歳頃の体験が海馬の低容積化に最も強く影響する。

脳梁では9歳から10歳、前頭前野では14歳から16歳の虐待体験が低容積化に最も強く影響する。


非常に貴重なデータです。熱意がもたらしたアツい研究でもあります。もちろん、解釈は慎重を要するでしょうし、まだまだ技術的・手法的な洗練が求められてくるとは思いますが、なによりもその先駆性と独創性に心打たれます。

赤旗の社会面に地味にシリーズ物が組まれている。「部活って何」という題名で本日で3回目。

普段は眺めるだけで通り過ぎるのだが、本日はカラーの脳画像、その左肩に白衣でバッチリメークの女性の写真が、いや目でも人目を引く。

リードは下記のごとし。

長時間の過酷な練習や暴言・体罰など、部活動をめぐる問題が子どもたちにどんな影響をおよぼすのか。
脳科学から見た問題点を福井大学「子供の心の発達研究センター」の友田明美教授に聞きました。

ということで、友田さんの発言は以下の3つに大別される。

1.ウツ状態の脳画像の特徴

a 脳の血流が全体として低下 b とくに前頭前野の血流が低下

2.うつ状態の生理反応

a 意欲の低下→喪失 b 慢性化すると自律神経失調を併発。この場合、体調不良が長期化することが多い

3.ストレスによる脳萎縮

a 長期の強いストレスに暴露されると、前頭葉で最大19%、前帯状回で17%、前頭前野背外側部が15%ほど“小さくなります” (発育が止まるという意味か?)

b この結果、感情や意欲が低下し、集中力が低下し、学習や記憶力も低下し、本能的な欲求・衝動を抑える力も損なわれる。

c 脳萎縮の原因は大量に分泌されたストレスホルモンが、脳の発達を一時的に止めてしまうためである。

ということで、「うつの脳科学的検討」というテーマは面白いにしても、思い込みの強さが気になって、すなおにはうなづけないところがいくつかある。

なおカラー表示された脳CT画像はたしかに興味ある所見を示している。しかし別の人物のCTを2スライス並べて何かを言おうというのは、あまりにも拙速である。

とにかく、もう少し友田さんのまとまった意見を聞かなければならないだろうと思う。


平成26年の調査で、介護事業各分野の収支比率が出ている文献があったので転載させていただく。

1.介護各分野の利益率

介護事業の収支差率: 全サービス加重平均では8%

サービスの種類別にみると下表の通り

各サービス

通称で呼ばないとわからないでしょう。

特養は介護老人福祉施設で8.7%

老健は介護老人保健施設で哀れにも5.6%

療養型病院が介護療養型医療施設で8.2%

グループホームが認知症対応型共同生活介護で11.2%

デイサービスが通所介護で10.6%

デイケアが通所リハビリテーションで7.6%

ショートステイが短期入所生活介護で7.3%

ということになる。

2.国と厚労省のやり放題

ただし、これらの数字は厚労省の胸先三寸、さじ加減でどうにでも変わる。下のグラフを見れば一目瞭然である。

事業形態別

引用元文献によれば、

国の施策の方向性と連動して、拡大したい分野の報酬を上げて、減らしたい分野の報酬を下げる。「施設から在宅へ」という流れがあるため、現在の方向は一層強化されるだろう。

また、介護経営実態調査等によって、「財政的に余力がある」と判断された分野は、もぐらたたきに会う。なぜか老健は自殺したくなるほどのいじめにあっている。

3.2015年の大改定

実はこの後、大規模な介護報酬の改定があった

特別養護老人ホームで6%弱、小規模のデイサービス(通所介護)では9%以上も減額された。グループホームの基本料も6%弱の切り下げとなっている。

特別養護老人ホームは、巨額な内部留保(1施設3億円、全体で2兆円)のため、収益性の高さから注目された小規模デイサービスは、急増したことがあだとなって介護報酬上の抑制措置が取られた。

上のグラフを見ればわかるように「出る釘は打たれる」結果となった。政府のやることは要するにモグラ叩き、カンナで削るだけの減点方式だ。

こんな調子で毎年いじられたのでは、介護事業は到底長期の方針など立てられない。かくしてますますブラック産業化していくのである。

ケアマネ・タイムス」というサイトに

介護業界「勝ち組」の法則と課題

というレポートが掲載されている。2012年の記事なので少々古いが、紹介する。

1.大手企業の特殊性

介護事業における厳しい経営状況や従事者の低待遇が問題になっている。

しかし有名大手企業の売上高は軒並み「右肩上がり」となっている。

営業利益率については2006年度に一時的な停滞があったが、10年度には総じてプラスに転化した。

2.利益を上げる2つのポイント

第一に、利用者を囲い込み、介護保険外サービスを提供することで利益を上げる。介護保険サービスはあくまで顧客確保をにらんだ「販売促進」的な位置づけとなる。

第二に、パートタイマーもふくめ臨時雇用者等の比率が高いことだ。

3.大手企業が業界を制圧したらどうなるか

第一に、介護保険サービスのみに頼らざるを得ない低所得者層の利用者は行き場を失う。

第二に、低所得者層も視野に入れつつ、地域のセーフティネットを担おうという事業所は淘汰される。

第三に、「介護を一生の仕事としたい」という労働ニーズは拒絶され、介護という労働分野全体がブラック化する。

4.著者(福祉ジャーナリスト 田中 元さん)のまとめ

介護報酬の大幅な伸びが期待できないまま、上記のような事業所が淘汰され、介護士が駆逐されていった場合、それは「国民の安心」を担う介護事業のあり方として正しい姿なのでしょうか。

ところで、第一のポイントというのが気になる。

介護保険サービスはあくまで顧客確保をにらんだ「販売促進」的な位置づけとし、介護保険外サービスを提供することで利益を上げる。

というのはまったく問題ないのだが、引っかかるのは最初の「利用者を囲い込み」という表現だ。

老人は「お世話をしてもらう」のだから、なかなか対等の立場には立てない。それに、そもそも元気なときは自分でやっていたこと、やらなければならないことをやってもらうという負い目がある。

自分で金を払って雇ったお手伝いさんとか家政婦さんなら、こちらは使用者で主人なのだから、それでも遠慮しながらだが、言うべきことはいう。

自分のお金ではなく(一部負担はあるが)、お上の厄介になって世話してもらっているのだから強いことも言えず、大抵のことは我慢する。

こういう状況のもとで「囲い込まれる」というのはかなり危険なことではある。知らない間に色々オプションを付けられて、いらないものまで買わされてみたいなことがないか心配だ。


2013年07月17日もご参照ください。まったく事情は同じです。

あるサイトの見出し

来る2025年、高齢者向けの市場規模は100兆円超え!介護産業は15兆円規模に!果たして介護ビジネスに“儲かる”土壌はあるのか!?

という文字が踊る。

この見出しには少し説明が必要だ。

①2025年というのは団塊の世代がすっぽり70歳超えの老人となる年を指す

②高齢者向け市場とは、医療・医薬品産業、介護産業、生活産業の三分野を指す。そのトータルが100兆円ということだ。現在は65兆円程度らしい。もちろん生活産業の比率が最も高く5~6割を占める。

③その3分野の中の介護産業が15兆円となる見通しということになる。15年では10兆円だそうだから10年で1.5倍化する予想だ。

これはみずほコーポレート銀行の調査によるものだそうだ。

高齢者市場というのは当然あって、富裕とまでは行かなくてもいささかの預金もあり、豊かに老後を送りたいという要求があるなら、商売は成り立つ。

しかし介護産業は他の2つの分野とは明らかに異なる。そもそも儲かるわけがない事業だからである。(医療も医薬品を除けば同断だ)

いくら市場規模が大きくても、それは「擬似市場」であり、本来的に儲けが出るような性質のものではない。高齢者介護というのは半ば公的な事業であり、全資源を注ぎ込むべき非営利事業だからだ。

しからば、介護事業を営利対象として見る人々はどこに注目しているのか。少し勉強してみよう。

1.利益率は8.4%

総務省の平成24年度経済センサス「産業分野別の売上高営業利益率」(いわゆる粗利益率)によると、社会福祉・介護事業は8.4%。これは専門技術サービス、不動産、飲食サービス、医療、複合サービスについて高い。建設、製造業が4%台だから倍以上になる。(逆に言えば、この種の統計は実情をまったく反映していないともいえる)

以下は別資料からの引用

全産業平均のH25年度の年収は414万円となっている(国税庁「平成25年民間給与実態統計調査」)

これに対し福祉施設介護員の年収は「22万円x12プラスボーナス」で306万円程度と推定される(厚生労働省「賃金構造基本統計調査」)

2.周辺産業の発展

最初にも述べたように介護事業は決して営利でやれるものではない。しかしその周辺には利益を生み出す構造はある。

高齢者向けのメニューである宅配、見守りサービス、家事代行などのサービスなどがこれに相当する。

3.ハード面はさらに厳しくなる

下の図は厚労省の「施設・事業所調査の概況」からのグラフである。

事業所数1

事業所数2

事業所数3

このグラフを見れば、全体的傾向ははっきりする。

全体を特徴づけているのは、高齢者の増加による全体的増加傾向ではない。介護療養型医療施設、いわゆる老人病院の激減である。

これは決して自然的傾向ではない。政府・厚生省による狙い撃ちの結果であることは明らかだ。

そこで行き場を失った老人が老健施設・介護福祉施設に押し出されている、というのがこの間の経過だ。

しかも後者は前者を吸収しきれていない。それが在宅にあふれ始めているのが実態だ。

なぜそうなったのか、それは高齢化社会だからではなく、国の責任放棄の結果なのだ。

実は「高齢化社会」はまだ始まっていない。高齢化は始まっているが。まだ「お達者高齢社会」なのだ。

政府は「高齢化社会」を口実に国民から消費税をふんだくり、自己負担を重くし、介護の中身を劣悪化し、それを大企業と大金持ちのために注ぎ込んでいる。それがこの間の実態だろう。

これから「病弱高齢化社会」が進行していけば、この矛盾は耐えられないほどに激化するだろう。

メディアによる国民だましと小選挙区制のからくりがいつまで通用するだろうか。

4.通所介護事業は絶対に持たない

介護報酬改定で小規模の通所事業がほとんど致命的な打撃を受けたことは、前に記事に書いた。

これに代わりチェーン型の通所が増える可能性がある。

しかしこれら通所サービスは、根本的に利用者のニーズに適合していない。

第一に通所サービスは一定の家庭介護の能力を前提にしているが、それが崩れ去りつつあるからだ。

団塊の世代は親に子供を預け共稼ぎをして生活を向上させてきた。親が倒れると、老人病院に入れてでも仕事を続けた。

そういう生き方を見て育った子供が、親たる団塊の世代を世話するとは思えない。そのつもりがあっても、彼らにはそのような余裕はないのである。

だからこれからの利用者ニーズは、半端な通所系よりも入所系サービスに集中するしかないのである。

第二に利用者の貧困化がある。

利用者の自己負担なり一部負担に依拠して経営しようと思っても、そのような金銭的余裕のある利用者などそうざらにはいない。

だから否応なしに介護報酬に頼らざるをえない。まさに政府・厚労省の思惑によって翻弄されざるをえないのだ。

倒産

帝国データバンク「医療機関・老人福祉事業者の倒産動向調査」からの引用である。

やや古い資料だが、肝心なことは介護報酬の改定がもろに倒産へとつながっていることだ。

結論を言おう。老人福祉事業は決して“儲かる”経営ではない。しかも生殺与奪の権利を握る政府・厚労省は何時でも潰す気でいる。投資しようと思っている方には思い直すよう忠告する。もちろん社会貢献であれば大歓迎だが。

 もご参照ください.

  

「下げりゃいいじゃん」という糖尿病治療

もう十年も前になるか、循環器学会で「糖尿病と冠疾患」みたいなシンポがあった。そのとき、糖尿病の専門の先生がこう言ってくれた。

「下げりゃいいんですよ」

これを聞いて、溜飲が下がった。

自分の病院では糖尿病の先生が何十種類ものクスリやインシュリン製剤を使って治療していて、素人には手が出せない雰囲気だった。

もちろん血糖は90~110くらいHbA1cは6以下にしなければならない。そのために患者はがんじがらめに縛られて、ひっきりなしに勉強させられていた。

困るのはナースがやたらとダメ出しをすることである。「先生、それはダメですよ」とか、「そんな指示じゃ受けられません」とくる。

研修医の時代ならともかく、こちらも専門領域の仕事で忙しいから、DM患者が受け持ちになるとそれだけで気が重くなったものだ。

いまも相変わらず糖尿病の世界はそういうたぐいの連中が幅を利かせているようだが、私は老人保健施設に移ってからはこれで決めている。

1.経口薬はアマリール一筋

2.ばらつくようなら、他剤追加も検討(とは言うものの、現実には使えるものは使っちゃうのだが)

3.アマリール6ミリでもコントロールできなければインスリン(ランタス)追加

ということでいる。

昔はインスリンと経口薬を併用すると叱られたものだが、最近はBOTとか言ってむしろ勧められているようだ。

のだが、最近1日40単位もインスリンを使わなければならない人がいて困っている。急に悪くなったのなら送ってしまえばいいのだが、1日20単位のレベルで病院から送られてきた人だから、もう少し頑張るしかない。

聞くところによると、最近「ビクトーザ」の注射という手があるらしい。これが4.になるのか?

理屈はよう分からん。ただ臨床データは良さそうだから、「溺れるものの藁」位のつもりで検討してみようかと思っている。


ちなみに糖尿病の経口薬一覧表

スルホニル尿素薬 第1世代

ジメリン錠 デアメリンS錠

 スルホニル尿素薬 第2世代

オイグルコン(ダオニール) グリミクロン

 スルホニル尿素薬 第3世代

アマリール

速効型インスリン分泌促進薬

スターシス グルファスト

α-グルコシダーゼ阻害薬

グルコバイ ベイスン セイブル

ビグアナイド薬

メトグルコ ジベトス

チアゾリジン薬

アクトス

SGLT2阻害薬

いろいろ

DPP-4阻害薬

グラクティブ ジャヌビアなどいろいろ

GLP-1受容体作動薬

ビクトーザ(注射用のDPP-4)

DPP-4阻害薬とSGLT2阻害薬が流行りのようで、薬屋さんが入れ替わり来ては効能を語っていくが、馬の耳に念仏

「ガイドライン」は山ほどあるが、結局何かの宣伝だ。しかもこういうエライさんはこういうところで言うことと、現場でやっていることが結構違う。もっとゴリゴリだ。平気でカンカンノウを踊らせる。俺は知ってるぞ。


エフィナコナゾールは何故滲み込みやすいのか

日薬理誌の145号(2015)に巽さん(科研製薬株式会社 新薬創生センター 薬理部)という人の書いた総説がある。その下の本文PDF [944K] というところにリンクすると文章が読める。

その説明に従ってチェックしていこう。

要約: これまでのトリアゾール系薬剤より強いらしい。しかしそんなことはどうでもよい。

「爪の主成分であるケラチンに対する親和性が既存治療薬よりも低いため、一つ目を良好に透過し、ケラチン存在下でも高い抗真菌活性を保持した」

ここが一番の環だ。

これは以下の形で確認されている。

①インビトロで、有効濃度の薬剤が爪下層および爪床に到達することが示された。

②第Ⅰ相臨床試験で、高い爪中濃度と爪貯留性が確認された。

③第Ⅲ相臨床試験で、17.8%の完全治癒率が得られた。日本人患者では28.8%に達した。これは対照薬と有意差があった。

1.はじめに

これまで欧米ではシクロプロクスやアモロルフィンのネイル・ラッカーが10年以上にわたり用いられてきたが、臨床効果は低く、日本では承認されてこなかった。

外用薬が効かない理由は次のように考えられている。

①白癬菌は爪甲下の爪床に存在するが、薬剤は厚い爪甲を透過できない。

②薬剤は爪の主成分であるケラチンに強く吸着する性質を持っている。このため薬剤は爪表層に滞留してしまう。

そこで科研製薬では、ケラチン親和性が低い抗白癬薬の検索を行った。その結果、エフィナコナゾールを発見した。

この薬は既存の薬と同じトリアゾール系であるが、構造的にはメチレンピペリジン基を持っていることが特徴である。

2.薬理学的特性

In vitro での高真菌活性は高く、スペクトラムも広かったと書かれているが、“そこそこ”と判断しておく。

ケラチン親和性に関する実験

一般に抗真菌薬の多くはケラチンに吸着することで活性が低下する。薬物が効果を発揮するためには遊離型の形で存在する必要がある。

①In vitro の実験でケラチンからの遊離率を測定し、他剤と比較した。既存薬が0.5~1.9% であったのに対し、エフィナコナゾールは14.3%が遊離したままであった。

kyuutyaku

②また5回の洗浄操作による累積遊離率は、他剤が1.7~6.9%であったのに対し46%で有意差を認めた。ケラチンでなくヒト爪を用いた実験でも同様の結果を得た。

yuuri

③ケラチン添加によるMICの変化を調べたところ、他剤は低下したが、エフィナコナゾールはほとんど影響を受けなかった。

ついで欧米で使用されているラッカー剤との比較検討を行っている。

①ヒト爪を用いて累積透過量と透過速度を測定した。エフィナコナゾールはシクロピロクスと同程度で、アモロルフィンより優れていた。爪透過が定常状態に達するまでの時間はエフィナコナゾールがもっとも優れていた。

rakka-

②透過した薬剤の爪甲下(現地)での発育阻止作用を測定した。ラッカー剤では発育阻止作用は認められず、エフィナコナゾールのみが発育阻止作用を示した。

③モルモット実験でも1日1回4週間の爪塗布で生菌数を減少させた。これはラッカー剤に比べ有意であった。

このあと臨床試験の成績も提示されているが、透過性が一番の問題なので、詳細は省略する。

結論として、イトラコナゾール経口剤とほぼ同等の臨床効果を示すとされる。もしそうであれば、経口剤の出番はほぼなくなるものと予想されるが…


見出しを見てここに来た人には申し訳ないが、

結局、何故滲み込みやすいのか、なぜケラチンとの親和性が低いのか、という問題は分からなかった。

「いろいろ掘っていたら、タマタマ当たった」というだけみたいだ。

「滲みるんだからしょうがないじゃん」ということである。多分、これからその機序を巡りいろいろ検討が行われ、同じ発想で新薬が開発されていくだろう。

おそらく メチレンピペリジン基 というのが鍵を握っているのだろうが、これに関しては特許権はないだろう科研製薬はメチレンピペリジン基を発見しただけで、構造に組み込む技術を発明したわけではない。だからエフィナコナゾールの優位はつかの間に終わるかもしれない。

クレナフィンは何故滲み込みやすいのか

水虫の薬はどのようにして効くのか
爪白癬の付け薬 ほんとうに効くのか

旭川皮フ形成外科クリニック の水野寿子先生の記事はもっとわかりやすいです。ご参照ください。

ここまでの話では、爪白癬に効くツケ薬だということ、かなりお高い薬だということがわかった。

しかしなぜ効くのかの説明はない。

なぜ効くのかを説明するためには、

1.一般的な抗白癬薬の作用機序。

2.従来型の抗白癬薬ではなぜ経皮的使用が無効なのか、その理由。

3.クレナフィンの従来型抗白癬薬との構造的違い(特異性)

4.クレナフィンの経皮使用が有効な理由(作用機序)

を説明してもらわないとならない。

今ひとつ納得がいかないのは、いままでの抗菌剤が効かないのが、ケラチンとくっつくと失活してしまうということなのか、それとも別の理由によるものなのか、そのあたりが説明されていないことだ。


まず順を追って勉強していこう。

1.白癬菌はどのように繁殖するのか

皮膚の角質はケラチンという硬い物質で保護されている。ケラチンの本態は蛋白である。普通は固くて消化できないのだが、白癬菌はケラチナーゼという酵素を持っているために、ケラチンを消化できる。そして、それを栄養として繁殖するのである。

したがって栄養源を立って兵糧攻めにすることはできない。殺すしかないのである。

抗白癬薬と言われるものはすべて殺菌作用を持つ。それ以外の民間療法は効かないと考えるべきである。

2.一般的な抗白癬薬の作用機序

これまで、有効とされてきた抗白癬薬はすべて、白癬菌の細胞膜を壊すことで白癬菌を殺す働きを持っている。

此処から先はケラチンもケラチナーゼも関係ないので、せっかく覚えたばかりで恐縮だが、一旦忘れてほしい。

3.細胞膜はこうして作られる

細胞膜の成分は、大ざっぱに言うとリン脂質で出来ている。リン脂質というのは、大ざっぱに言うとコレステロールにコリン、リン酸、炭水化物が結合したものである。

リン脂質の種類は動物により異なっている。その違いは、リン脂質のボディーを形成するコレステロールの種類の違いによるものである。

それ以上の話は、それだけで何冊もの本になるので省略する。

白癬菌の細胞膜を構成するリン脂質は、下図のような流れで作られていく。

水虫酵素

  http://for-guests.com/neticonazole-8034/ より転載


この経路の最初はコレステロールの生成過程と共通であり、経路の途中までは人間の細胞膜を構成するコレステロールと共通である。

ラノステロールという物質から白癬菌特有のコレステロールとなり、最終的にはエルゴステロールという物資に至る。

これにコリン、リン酸、炭水化物が結合することによってリン脂質になり、白癬菌の細胞膜を構成する。

4.抗白癬薬は細胞膜合成を阻害する

この経路を何処かで切断すればエルゴステロールができなくなり、エルゴステロールがなくなれば、細胞膜ができなくなり、白癬菌は死んでしまう、という仕掛けである。

このようなまどろっこしい兵糧攻めでなく、直接細胞膜のエルゴステロールに取り付いて細胞膜を壊すというプーチン型抗菌剤もある。これは命を脅かすような真菌の殺し方で、たかが水虫にそこまでやることはない。

経路を切断するには、その経路を推進している一連の酵素のどれかを不活化させてやればよい。

安全のことを考えればできるだけ下流で切ったほうが良い。

目下狙われているターゲットは、ラノステロールを“むにゃむにゃトリエンオール”に変換する酵素で、「ラノステロールC-14脱メチル化酵素」と呼ばれる。

5.抗白癬薬はどうやって効くのか

やっと2番めの話題に移ることになった。薬がどうやって効くかはわかった。しかしアセチルCoAからエルゴステロールまでの経路が進行するのは白癬菌の細胞の中だから(小胞体)、細胞膜に接するまで薬が行かなくてはならない。

そこまで行ったら、今度は細胞膜を通過して細胞内に入らなければならない。つまり2つのバリアーがあることになる。

ところが、はっきりしないが、印象としては後者のバリアは意外とかんたんに通過できるようだ。そして菌の細胞内に入ってしまえば、菌を殺すことも意外にかんたんなようだ。だから普通の皮膚白癬は薬を塗っておけば結構良くなってしまう。

結局、爪そのものというバリアを薬剤が滲み通して菌のところまで行けるかどうかが最大の問題になる。

テロリストが入国するためには、入国審査よりその国にたどり着く飛行機や船の手配のほうが大変だということだろう。

だから「抗白癬薬はどうやって効くのか」という問題は、どうやって白癬菌のところまでたどり着けるかという問題に帰すことになる。

クレナフィンは何故滲み込みやすいのか

水虫の薬はどのようにして効くのか
爪白癬の付け薬 ほんとうに効くのか


クレナフィンは何故滲み込みやすいのか

水虫の薬はどのようにして効くのか
爪白癬の付け薬 ほんとうに効くのか

ニキビをやったので、次は水虫、とくに爪白癬。

老健や特養では白くカサカサと盛り上がった爪白癬をよく見かける。

実際上何もしていない。もう20年も前から爪白癬の飲み薬はある。たしかに効く。しかし何か起きた場合のことを考えるときわめて使いづらいのだ。

これが高血圧、糖尿病、高脂血症などであると、多少のリスクはあってもベネフィットと秤にかければ使える。しかしたかが水虫である。それで死ぬことはない。

ずらずらとならぶ副作用のリスト、併用禁忌薬のオンパレードを見ると、それだけで萎えてしまう。我々のような施設では重篤な副作用が出れば、患者ではなく施設の方がやられてしまう。職員数百人が路頭に迷うことになる。

そこにツケグスリが出てきたという朗報。こちらも食指が動く。しかし高い。1本、およそ1ヶ月分で6千円というから老健では手が出せない。

しかし特養でなら保険が効くから使えないでもない。そこで少し調べてみることにした。

まずは白癬症治療の最近の動向。

素人向けのページから入ることにする。(私も素人みたいなもんですから)

グーグルで最初に引っかるのが 皮膚科Q&A というページ。日本皮膚科学会のサイトらしい。

最初の辺は飛ばして、

Q6 患者数。

日本では1千万人以上の爪白癬患者がいる。60歳以上の高齢者の4割がかかっている(米国の調査)

足白癬はその2倍もいるというから憲法改正はらくらくクリアーする。

Q20 塗り薬の使い方

塗り薬を毎日つければ、約2週間程度で良くなります。再発を防ぐには自覚症状があるところだけでなく、指の間から足裏全体に最低1カ月毎日塗り続けることが大切です。

治っても、またうつされることがあるので、家族全員が治す必要があります。

Q24 爪白癬の治療

爪が厚くなり、黄~白色に濁る爪白癬は飲み薬でないと治りません。

この後に()して次のように書かれている。

但し2014年には、あまりひどくない爪白癬に有効な塗り薬が発売される予定です。

ウムこれだな。

飲み薬にはイトラコナゾールとラミシールがあり、前者は他の薬剤との飲み合わせの問題が多く、後者は肝機能障害などの重篤な副作用をおこす事があります。

ジェネリック薬は臨床試験で有効性と安全性が確かめられていないので、効きが悪いものがあるかもしれません。

まぁ、素人は手を出すなということだな。

Q29 予防法

浴場では、足ふきマットにはほぼ100%白癬菌がいます。家にかえってからすぐに足を洗いましょう。

あとは他人の家にむやみに上がらないことも大切で、他人の家に上った場合は、家に帰ったらすぐに、足を洗うか水虫の薬をつけること。

と、いうことで「他人の家にむやみに上がらない」は笑えてしまう。

水虫の話はとりあえずおしまい。

皮膚科学会の説明書に、「2014年には、あまりひどくない爪白癬に有効な塗り薬が発売される予定」というのがこのクスリ。「クレナフィン」という。

実際に使ってみてどうかという話に進む。

クレナフィンの用法・用量と薬価について

用法・用量は1日1回罹患爪全体に塗布となっている。端がハケのようになっており塗りやすくなっている。足の爪の生え変わりは約1年かかります。そのため48週の使用が基本となる。

tumehakusenn

1本(1ヶ月分)で、なんと5900.7円です。

あとは、軽症の爪白癬に限定されていることも念頭に置いて置かなければならない。爪ごと剥がしてしまいたくなるような立派な爪白癬には効かないということになっている。

その後、同じような謳い文句でルリコナゾールという外用剤も発売された(2016年1月22日承認)


ニキビの薬はベピオゲル

なんだコレ。。薬局がめっちゃアピってる謎の化粧水

というページがあった。「オードムーゲ」という付け薬で、なんでも薬局の前にのぼりが立つほどに売れているそうだ。

オードムーゲ

しかし、「いまさらなんだろう」とも思う。

すでに医療保険でニキビの薬もらえるのに、そんなものにこだわる必要ないのにな。

ただ顔につける薬だからやはり怖いのだろう。

我々にはロドデノールというイヤな思い出がある。

絶対に!ニキビを治す,そんなブログです というブログで、微に入り細にわたり、懇切丁寧に説明してくれているので、ご参照ください。

私の感想だが、「効く薬」というのは結果的に病気の本質を明らかにしてくれる。

ニキビについては、これまであまり効く薬がなかったから、いろいろ能書きがたれ放題で、半ば「業病」のような趣さえ漂わせていた。

この薬の登場で明らかになったのは本質が皮脂の過剰に伴うアクネ菌の繁殖であることだ。したがってアクネ菌の繁殖を抑えればニキビの悪化は阻止できるということだ。

ペピオゲルのいいところは抗生剤ではなく酸化剤であるために、アクネ菌(嫌気性菌)の活発なところにだけ効くターゲット効果を持つことだ。薬剤耐性もできない。

ニキビのもう一つの面は炎症後の反応性の角質増殖だ。これは自然寛解するので何もしなくて良いのだが、ひどい場合にはピーリング(薬剤による角質剥離)を補助的に使用すれば良いということだ。

ただそれには、ヒルドイドとか昔からの軟膏で対処したほうが安心かもしれない。くれぐれもやり過ぎないようにすることだ。

輸入薬についての私の経験から言うと、日本人の適量というのはもっと少ないのかも知れない可能性がある。当面はおっかなびっくりペピオゲルを使っていたほうが無難かもしれない。

最初に使うときはアクティブな病巣に限局して“チョン付けして使ってみてはどうだろうか

pepi2

ペピオゲルの薬価は15グラム入りで1800円。保険を使えばその3割で540円ちょっとになる。まあ他に診察料もかかるから最初はもうちょっと高い。

オードムーゲは価格.comで調べると500mlで2500円位だ。まぁ値段ではなく効くか効かないかだが…

我々が「自らの死」を哲学として考える場合、老化による自然死と、老化とともに発生するさまざまの病気による死亡とを分けて考えなければなりません。

いくら年を取ったとしても、病気で死にたくはありません。やはり死というのはろうそくの蝋が最後まで燃え尽きて、ふっと火が消えるような死でありたいものです。

これまで認知症は老化による死と混同されてきました。しかしだんだんと、それが病気であることが認識されるようになってきました。

だから認知症は克服されなければならないし、人類はすでにその一歩を踏み出しつつあります。

もう一つの混同があります。

それは患者本人をどう対応していくかという問題ではなく、家族がそれにどう対応していくかという問題意識が先行していることです。

私はこれも一種の病気、社会病理現象だろうと思います。率直に言えば、みんなグループホームか老人ホームに入ってしまえば、この問題は解決してしまうのです。

ここのところは、かなり慎重な物言いをしなければならないところですから、できるだけ思慮深く話したいとは思いますが…

まず皆さんに心から納得してもらいたいのは、認知症は脳の病気だということです、そして脳の器質的な病理的変化の結果、精神異常をきたす病気だということです。

だから基本的な戦略は病理的変化を防ぎ、できれば治すことです。そして器質的病変の結果もたらされる精神異常をコントロールし、それなりに社会適応させることです。

そのためには専門的知識と技量が必要です。肺炎や心不全になったら入院が必要なのと同じように、認知症が進行しそのために精神異常が出現したら、自宅で管理するのはやめて専門施設にゆだねるべきなのです。

ここから先はやや乱暴な議論かもしれませんが、徘徊する認知症は施設に入れるべきだろうと思います。それは幻覚・幻聴が出現した統合失調の患者を措置入院させるのと同じです。

なぜならそれは病気であり、専門治療が必要であると同時に、それが病気でありきちっとした治療管理の下でコントロール可能となるからです。

端的に言って、今の日本では「在宅介護こそベスト」というイデオロギーが押し付けられています。よしんばそれが正しいとして、徘徊老人の管理まで「在宅」の範疇に突っ込むのは、医学的に見れば間違いです。

統合失調の患者がうわごとを叫びながら刃物を振りかざすのを、「在宅ベスト」なんだから在宅で見ろというのと同じです。

哲学的判断より、まずは医学的判断です。早期対応が必要です。

なぜそれをためらうのか、それこそ政府やメディアの「自己責任・自助努力」キャンペーンのためです。「善良な市民」はそれをまともに受け止めて真剣に考え込んでしまうのです。

戦時中、若者はほかの選択なしに死を選ばされました。それを運命として受け入れるとき、どう生きるのかということで、三木清がより合理的な、その故に、より屈折した「哲学」を展開しました。

私は今度の線路内侵入・轢死事件も本当の責任者は、「在宅ベスト」論の主唱者だろうと思います。

家族が責任を問われるとしたら、それは「どうしてもっと早く専門施設に入れなかったのか」ということであり、「頑張りが足りなかった」ことでも、「ちょっと居眠りをしてしまった」ことでもありません。そして誰よりも責任を問われるべきは、患者を強制的にでも収容させなかった行政の責任だろうと思います。

ただ2007年の時点でそこまで言えたかという医学の側の問題は残るので、決めつけはできませんが。

結論

認知症問題を哲学的に考えるのはやめよう。すくなくともその前にやるべきことがいくつかある。

前の記事で引用した柳谷さんの文章は、下記の論文からの孫引きである。
この論文は介護者の援護について、樋口恵子らジェンダー派の人たちとの論争の書であり、したがってやや難解である。
ここでは、介護は近世からの引き継ぎ課題であることを明らかにした部分を要約紹介しておく。

三富 紀敬 「介護者, 介護者支援と社会政策研究」 「静岡大学経済研究」2009年12月


A)社会の高齢化は理由にはならない

社会の高齢化にともなって介護問題が顕在化したというのは、必ずしも事実ではない。

平均寿命の延長は乳幼児死亡率の減少によるものであり、乳幼児期を生き延びた人々の平均寿命は必ずしも低くはなかった。

高齢者比率の増加は間違いないが、それは乳幼児死亡の低下及び出生率の低下によるものであり、高齢者の数が増えているとはいえない。むしろ健康で自立した高齢者の増加により、就労者負担は減っている可能性もある。

この説明の当否は(要介護高齢者+要養育年少者)÷(介護者+養育者)の比率を時代で追っていくことで説明しなければならないだろう。

B) 介護が話題になる前の介護

新村拓によれば、1815年(文化11年)の『関口日記』には以下の記載。

老病を介護する『介抱人』は疲労を含む厳しい生活を送っている。息子や娘は介抱のため奉公を止めて家に帰り、あるいは、奉公先に頼んで介護休暇を取ったり、家に居てできる仕事に変わったりしている。

前の記事でも紹介した柳谷慶子の論文、『近世の女性相続と介護』では以下のように記されている。

江戸時代中期には、親の扶養問題を中心に据えながら、家族が果たすべき扶助役割のなかに看護や介護を位置づけるようになった。

なかでも一家の主人たる男性の責任は重大であった。主人を中心に家族全員が協力して親を養い介抱する家族像が、期待された。

この背景には、直系親族を中心とした小家族の一般的な成立があり、家族役割の自覚化が強く促されたからである。

幕府と藩は、家族による扶養と看病・介護を規範化して、家族の自助努力を涵養した。これにより扶養と介護の主体としての家族の位置づけがさらに一層強調されるようになる。

ところで当時の高齢者の比率だが、同じ柳谷さんの論文「日本近世の高齢者介護と家族」では以下のごとく書かれている。

18世紀半ばから19世紀前半にかけて、65歳以上の高齢者の割合は10パーセントから15パーセントに上っている。

これは現代と比べて決して少ない数字ではない。

この数字と「家」のイデオロギーが女性を介護に縛り付けたのである。

近世における高齢者比率の予想外の高さは、日本に限ったことではなかった。

イギリスの福祉史研究者パット・セインは、下記のごとく述べている。

産業革命以前のイングランドとウェールズにおいて、60歳以上の人口比率はけっして低くなかった。それは18世紀初頭には10%を越えていた。…両親の介護は娘の逃れるわけにいかない務めの一つであった。

C)介護者の負担への注目

最初に介護問題が取り上げられたのは、1920年代から1940年代のことである。アメリカの労働統計局、スエーデンのミュルダール、ノルウエーのダニエルセンなどがあいついで調査を発表し、介護者対策の必要を訴えた。

61年にはイギリスのティザードらによる『精神障がい者とその家族−社会調査−』が発表された。

調査は住宅事情をはじめ家計の収入と支出、貧困基準との関係、介護に当る母親と父親の健康状態、休日の外出などを含む家族生活への影響などの項目についておこなわれた。以下が結論。

家族の生活水準ははっきりと低く、介護に伴う追加の出費や母親の無業者化などが影響を及ぼしていた。友人や隣人との接触も短く、社会的な孤立さえ生んでいた。一言で言って豊かな社会生活とは程遠い状態にある。

日本では介護保険の導入時に杉澤秀博らによる本格的な学術調査が行われた。その結果、介護者の情緒的な消耗度は、介護保険制度導入後に有意に強くなっていることが示された。

(これはおそらく介護保険導入のためというより、それが患者の病院からの追い出しと在宅押し付けとして実施された結果であろう。従来からの在宅介護者のみを対象にすれば、逆の結論が出るかもしれない)


一言感想

ジェンダー論者は介護問題を女性を家庭の桎梏から解放する課題として捉えている。それはそれで間違いではないのだが、「家」という封建的な桎梏とともに、財政的な問題(安上がりな高齢者対策としての在宅促進)、「貧困の罠」が潜んでいることを忘れてはならないだろう。

そこには「在宅こそが理想、だから親の面倒を見るのは当然」というイデオロギー面でのすり替え攻撃も並行して行われているが、この手口も江戸時代のイデオロギー攻撃と変わっていない。


 「逆扶養」の歴史的把握が必要だ

家族の監督義務の問題は、そもそも子供に親を見る義務があるのかという根本的な問題に突き当たる。

今回のケースでも長男夫婦が面倒を見ていたから発生した問題で、他の兄弟には責任がないのかという問題をはらむ。

親が子供を見るのは自然の感情としてある。しかし、動物の世界では子が親を見るのはあまり聞いたことはない。子供は成長すれば親離れして、ふたたび会うことはない。

結局、子供が親を見るのは親の扶養義務の類推として、「逆扶養」という発想から生まれた概念ではないのだろうか。

「逆扶養」の範疇

ところで、子供が年取った親の面倒を見る行為を総体として表現する言葉がみあたらない。

どうも困ったことに、老人を1.その生活を経済的に保障し、2.その生活を介助し、3.その生活環境を整え、4.その資産や健康を保全し、5.老人の立場を対外的に代行・代弁し、5.その行動について社会的責任を取る…というような一くるみの行動を一言で言い表す適当な言葉が見つからない。

「お世話」や「面倒見」でも良いのだが、あまりに多義的である。「逆扶養」 (Reversed Maintenance) だと論理的には収まりは良いのだが、いかにも硬い。しかししょうがないのでとりあえず「逆扶養」としておく。

「逆扶養」概念のあいまいさ

たしかに民法上は扶養義務は規定されている。しかし親が子供の扶養を怠れば、「育児放棄」とかいって刑法上の犯罪になるが、親を扶養する義務はそれほどのものではなさそうだ。

また長子相続制の名残かもしれないが、一般的には家を離れた次男、三男坊には義務は強制されていない。

それに親に人格が存在する限り、法的主体は親自身だ。したがって親が何をしようと勝手だから、その結果親が野垂れ死にしようと子供に責任はない。

以上のように子供の扶養義務は子供の扶養義務を拡大解釈した「みなし義務」としての性格があり、厳密な適用にはそもそも無理があると言わざるをえない。

「逆扶養」概念の由来

「逆扶養」という関係はおそらくは社会の中で生まれてきた関係ではないだろうか。とくに「家」という制度によって、二次的にもたらされているのではないだろうか。

知りもしないのに偉そうなことは言えないが、古代的な共同体が大家族制とともに衰退し、これに替わるように小家族制が社会の基本単位となっていく。その時に長子相続制や男系家族制が出来上がっていく。

それと並行して儒教的な倫理が広がっていく。だから「逆扶養」概念は自然発生的なものではなく、イデオロギー的な産物かもしれない。

私の予想を裏付ける文章が見つかった。柳谷慶子『近世の女性相続と介護』では以下のように記されている。(3月11日追加)

江戸時代中期には、親の扶養問題を中心に据えながら、家族が果たすべき扶助役割のなかに看護や介護を位置づけるようになった。

なかでも一家の主人たる男性の責任は重大であった。主人を中心に家族全員が協力して親を養い介抱する家族像が、期待された。

この背景には、直系親族を中心とした小家族の一般的な成立があり、家族役割の自覚化が強く促されたからである。

幕府と藩は、家族による扶養と看病・介護を規範化して、家族の自助努力を涵養した。これにより扶養と介護の主体としての家族の位置づけがさらに一層強調されるようになる。

この場合、子供だから扶養義務を持つのではなく、「戸主」であるがゆえに、家族の構成員の一人としての親(ご隠居)の面倒を見なければならないのである。

まさに今、その「家」という制度が実質的に解体する中で、その制度に基づくような倫理規範というものは存在意義を失いつつあるのではないだろうか。

そしてそういう倫理規範を根本とする民法の体系を本格的に再検討する必要があるのではないか。



認知症患者の「権利」をめぐる議論には混乱がある。

1.人権尊重は「虐待防止」ではない

認知症という病気をめぐる問題と並んで、議論を混乱させる元になっているのが、患者の権利の捉え方である。

これは私の「オハコ」である。「療養権の考察」という本で徹底的に追究している。

今老健や療養病床では患者の人権が大いに問題にされているが、率直に言って虚しい議論である。

入所者を窓から突き落とすとか、縛ったり叩いたりという「人権侵害」が横行していて、それに対してどう防衛するかという観点から人権が議論されている。

それなりに深刻な問題ではあるが、人権尊重というよりは虐待防止の話であって、もっと根っこのところでの議論が必要だろう。

2.人権の根っこは「生きる権利」

少なくとも切羽詰まった人間にとって、人間の権利は生きる権利であり、生き続ける権利であり、この世で人並みの生活を送る権利である。

此処を人権論の核心におかなければならない。自由の問題も、契約上の権利も同様に重要であるが、それらはここから派生するものだ。

生きるためにはその手段が必要であるから、「生きる権利」は生活手段をもとめ、それを利用する権利となる。それは病人にとっては医療をもとめる権利となる。

ここまでは大方の合意は得られるであろう。しかし医療への要求は時とともに多彩かつ高度なものとなる。財政的限界もある中でどこまで受け入れるかはなかなかむずかしい。

患者の「生きる権利」は通り一遍の言葉では終わらないものを含んでいる。それが何を意味するのかを、その時々に具体的に、真剣に考えて行かなければならない。それが権利を尊重するということである。

(例えば、老人保健施設では入所者にアリセプトとメマリーを併用すれば確実に足が出る。介護職員の異常な低賃金を以ってもそれは贖えない)

3.病人の「生きる権利」を保障するのは社会である

病人の「生きる権利」とは病気を治す権利、ふたたび元気になる権利である。それは公的な権利であって、助け合いの精神にもとづく社会的合意を前提としている。

社会はこの責務の一部を家族に振り分けている。それは世のしきたりである。病人は家族に対して生きる権利を主張できない。(家族の問題は別途考察)

社会の規範たる法律も、基本的にはそうなっているはずだ。しかし現実にはそうなっていない。法の精神と法の運用実態が乖離しているのである。

今回の問題も、補償問題に閉じ込めた議論をすれば、いろいろな見方ができる。しかし患者の権利を尊重し、患者を死に至らしむることがないように対策を考えるのが、本来の責任の取り方である。

そのような再発防止義務は社会以外にはとりようがないのである。そしてそれは可能なのである。

多少持って回った言い方になるが、あの時特養に入っていれば、特養が長い待機を経ずに入所できれば、このような事件は起きなかったかもしれない。だから事故の補償義務は社会(はっきり言えば政府)にあるとも言えるのである。

2,3日目に認知症老人の列車衝突事件について「6つの疑問」という文章を上げた所、いくつかのコメントをいただいた。

とりあえず感想的に述べただけであったので、またその後最高裁判決に至る経過をまとめてみたので、少しまじめにまとめてみたい。

1.認知症をどう受け止めるか

まずは認知症そのものの考え方から。

A) 認知症は治療可能な病気である

1.いまの議論はむかしと同じ

率直に言って、世間の認知症を見る目には誤解と偏見がある。認知症は治療可能な病気である。不治の病ではない。このことをまず踏まえないと、話は煮詰まってしまう。

もちろん、いますぐに治療して治癒可能という訳にはいかない。まだもう少し時間はかかる。

中世のペストに始まり結核、脳卒中、ガン、最近ではAIDSなどがそういう道をたどってきた。

しかしいまこれらのうちかなりの病気は過去の病気になったし、なりつつある。病気そのものは直せなくても、適切な治療でコントロール可能となっている病気も多い。

今度の裁判に対するいろいろなコメントや感想を見ると、認知症は不治の病で仕方ないというペシミズムが支配していることが分かる。

乱暴な人は、認知症なんかまとめてどこかに突っ込んでおけとか、安楽死させろという「意見」を書き込んでいる。

こういう議論はAIDSの時にも出てきたが、いまAIDSについてそういうことを言う人は殆どいないだろう。なぜか、医学が進歩したからである。

2.認知症は今でもかなりの程度までコントロール可能である

認知症は今でもかなりの程度までコントロール可能である。

事故が起きた2007年からまだ10年も経っていないが、認知症の治療は驚くほどの進歩を遂げている。

まず病気の本態がかなり明らかになってきた。

認知症をもたらすアルツハイマー病という病気は脳神経細胞の中に異常な代謝産物が産生され、それを排出できないことから起こる病気である。

おそらくは異常な代謝産物を産生させるような遺伝子異常が引き金になっている。しかし遺伝子が引き金だからといって遺伝性疾患というわけではない。

これで引き起こされる主症状は記憶力の障害である。

だから治療としては此処の遺伝子スイッチを切ってやればよいのである。しかしこれはそう簡単には行かない。

そうすると次に考えるのは、この代謝産物の異常蓄積により働きの落ちた神経細胞を賦活させてやれば良いということになる。つまり脳内活性アミンの補充である。パーキンソン病にDOPAが効くのと同じ理屈だ。

ある意味で「駄馬に鞭打ち」、神経細胞の寿命を縮める結果になるが、幸か不幸かこの病気の患者は老い先短い。4,5年持ってくれればいいのである。


それが最近の抗認知症薬だ。もちろんこれでバッチリというわけには行かず、副作用もある。しかし間違いなく中核症状は改善する。

以上述べた如く、「認知症は治る、あるいはコントロール可能である」という立場に立つか立たないかで、事情は大きく変わってくる。何よりも必要なのは、前向きの姿勢である。

3.認知症は精神疾患としての側面を持っている

もう一つ、市民の意識改革を促したいのだが、認知症は中核症状と周辺症状の複合体だということだ。

周辺症状は、基本的には記憶障害に対する心理的葛藤の過程である。これは拒否、反抗、反応性の鬱、誤った合理化、誤った信念形成などから構築されている。

これらが認知症の心理・行動異常をもたらす。ひっくるめて言えば錯乱・譫妄である。したがって認知症は“錯乱性認知症”と“安定型認知症”に分けて考えなければならない。これは統合失調(分裂病)や双極性障害(躁うつ病)と同じである。

周辺症状は向精神薬でコントロールできる。非定型向精神薬というのが主流でかなり不安感情は抑えられる。

かくして周辺症状が安定すれば十分に在宅治療は可能となる。そういう時代が遠からずくる。そういう立場から病気を見なおすことが求められている。

B) 認知症への誤解が議論を歪めている

認知症を不治の病と見る見方が一種の誤解に基づく偏見であると書いたが、誤解は他にもある。理由はおそらく通俗的な解説が、いかにも誤解しそうな情報をまき散らしているからである。

列挙しておくと、

1.年取ったらみんな認知症になるという誤解

認知症はアルツハイマー病という病気である。老化や他の疾患による記憶力・記銘力の低下とは異なる。それは貧乏くじのようなもので、みんながみんな、なるわけではない。

ここを誤解すると、高齢者の家族はすべからく災難をしょい込むということになり、「お互いさま」という論理に乗っかってしまう。「楢山節考」の世界である。

2.脳力の低下は誰にでも来る

脳力の低下はこれとは違い、基本的には脳のスタミナの低下→意欲の低下→反応の低下として現れる。私はそれを前冬眠状態と考えている。文学的には「涅槃の世界」ということもできる

3.認知症はみんな徘徊するという誤解

安定した認知症への移行は可能である。また落ち着いた認知症は、落ち着いた統合失調と同様に人畜無害である。

多くの人は認知症を彩る周辺症状を認知症そのものと勘違いしている。しかしこれらの多くは抗認知症薬と向精神薬の組み合わせによりコントロール可能である。

問題は服薬の管理である。統合失調の引き起こす事件の多くは無治療、ないし治療中断の下で起こっている。

 

「徘徊高齢者の列車事故」

事件発生から最高裁判決までの足どり

 

2000年 愛知県大府市で不動産業を営む男性(発症当時84歳)に認知症の症状が現れる。当事者男性は妻(当時78歳)と二人暮らし。長男家族は横浜に住み、長く別居状態にあった。

家族関係
                朝日新聞より

2002年

3月 男性の認知症が一段と進行。家族会議を開き、長男の妻が、男性の介護のために単身で近所に転居。

2007年

2月 要介護4の認定を受ける。妻も「左右下肢の麻ひ拘縮」により要介護1の認定を受ける。施設入居も検討したが在宅介護を選択。

12月 愛知県大府市のJR東海道線共和駅で事故が発生。

当事者男性(死亡時91歳)は現場近くで妻(当時85歳)と二人暮らし。長男の妻が近所に住み介護に入っていた。妻と長男の妻が目を離したわずかな隙に男性は家を離れた。大府駅から列車に乗り共和駅に移動。
そして共和駅ホームの端で無施錠のフェンス扉を開け線路に侵入、列車にはねられた。

2010年

2月 JR東海が監督義務者である遺族に、振り替え輸送などの費用約720万円の支払いを求めて、名古屋地裁に提訴。

民法713条では、「精神上の障害により自己の行為の責任を弁識する能力を欠く状態にある間に他人に損害を加えた者」を責任無能力者と規定している。
民法714条では、これに対応して、本人を監督する義務がある者は,損害賠償責任を代わりに負うことになる(ただし監督義務を怠っていないことが明らかであれば、免責される)

2013年

8月 名古屋地裁判決(上田哲裁判長)。民法714条の規定に基づき、長男と男性の妻に監督義務者としての賠償責任があると認めた。そのうえで、2人に請求通りの約720万円の支払いを命じた。

1.介護ヘルパーを依頼するなどの措置を取らず、徘徊を防止する適切な措置を講じていなかった。
2.男性の介護体制は、介護者が常に目を離さないことが前提となっており、過失の責任は免れない。

8月 地裁判決に対し、専門家からは「認知症患者を閉じ込めざるを得なくなる」との批判。ほかに、在宅介護という方向への逆流。介護の拒否、監禁容認と独居認知症増加への懸念が示される。

「認知症の人と家族の会」の田部井さんは、判決を「時代遅れ」と批判、被害の社会的な救済制度が必要と訴える。

2014年

2月 長男が会社を退職。横浜市から愛知県大府市の実家近くに移住。母親、妻と同居し家業(不動産屋)を引き継ぐ。

4月23日 NHK、「認知症の人 鉄道事故で64人死亡」と報道。認知症患者の鉄道事故が最近の8年間で76件あり、64人が死亡していたことを明らかにする。

NHKが鉄道会社が国に届け出た鉄道事故の報告書を情報公開請求して分析したもの。

4月24日  名古屋高裁(長門栄吉裁判長)判決。1.長男に監督義務はないとし賠償責任を否定。理由は「20年以上別居しており、監督義務者とはいえない」というもの(経済的な扶養義務はある)。2.妻には監督義務を承認。理由は「夫婦には助け合う義務がある」と定めた民法の別の規定。しかし妻自身が要介護1であるにもかかわらず、その監督能力は問われなかった。

外出を把握できる出入り口のセンサーの電源を切っていたことから、「徘徊の可能性がある男性への監督が十分でなかった」と判断。
ただし「充実した在宅介護をしようと、見守りなどの努力をしていた」として半額に減額する。(それでも360万円!)
判決はさらに長男の妻が横浜市から転居し、共に在宅介護していた点を評価。JRが駅で十分に監視していれば事故を防止できる可能性があったとも指摘する。(これが精いっぱいなのだろうか?)

4月24日 遺族は「十分に介護に努めていたと考えるので、判決には納得できない」とし、最高裁に上訴。

遺族側の弁護士は報道陣の取材に対し、「今の社会では、認知症の患者の保護について、家族だけに責任を負わせるのではなく、地域で見守る体制を築くことが必要だと思われるが、判決はその流れに逆行するものだ」と語る。

4月25日 産経新聞、『徘徊事故 多くが和解「訴訟は珍しい」』と題する記事を掲載。遺族の弁償を当然視する報道。

要旨: JRなど鉄道各社は、線路や駅ホームへの立ち入りによる死亡事故について、損害額の賠償を遺族らに請求するのが通例となっている。その際、認知症などの病気に起因しているかどうかは問わない。
 賠償額には振り替え輸送の費用や人件費だけでなく、列車の運休による機会損失費、設備の修理費などが含まれる。

各社の請求
2015年

11月 最高裁、当事者弁論の開催を通告。「責任能力がない人が起こした不法行為に、親族の監督義務がどこまで及ぶのか」をめぐり、高裁判決の見直しに動く。

2016年

最高裁第三小法廷(判事は5人、裁判長は岡部喜代子判事)での審理が始まる。妻側は85歳だった妻に監督能力は問えないとし、免責を主張。JR東海側は「介護に責任を持っていた長男が、実質的な監督義務者だ」とし、改めて長男の責任を問う。

2月 最高裁で上告審弁論が行われる。弁論は結論を変更する際に開かれるため、高裁判決の見直しが確定。

3月 最高裁、5判事の全員一致で「家族には責任なし」とする判決。「家族だからと一律に監督義務を負うわけではなく、生活状況や介護の実態を総合的に考慮すべきだ」と判断。

監督義務に関する判断: 妻は同居する配偶者であり介護者ではあるが、民法714条の「監督義務者」には該当しないとする。長男については判事3人が「非該当」、2人が「該当するが、但し書きにより免責」とする。
扶助の義務と監督義務: 民法752条の夫婦の同居・協力・扶助の義務は民法714条の監督義務者と認める根拠とはならない。(扶助義務と監督義務は異なる)。成年後見人の身上配慮義務は、介護や監督義務まで求めていない。


なお2チャン情報では(おそらくその筋のリークであろうが)家族への誹謗情報が繰り返し、繰り返し流されている。当然ながらソースは示されていない。


1.この男性は資産家で、多額の不動産やら5千万以上の預金があり、妻と長男が相続している。
2.長男がJR東海に対し賠償を求め、JR側が対抗措置として逆提訴した。

もう一つの繰り返される論理が、鉄道会社を一私人とし、その被った被害は埋め合わされるべきであるという、一私人の限りでは当然の主張を強調したうえで、「だから遺族は弁償すべきだ」持っていく論理のすり替えである。

これは生活保護の受給問題でも繰り返し用いられた「八つ当たりの論理」である。これは朝日裁判以来おなじみの手口で、義理・人情と絡めて情緒的に攻めてくるだけに反論するのは厄介である。

ただ最高裁も認識しているように、これからの少子・超高齢化社会では「家」の論理(民法が依拠する)は、その根拠となる「家」が崩壊する中で、もはや通用しなくなっているし、これからますます通用しなくなるはずだ。

したがって監督責任や介護責任は社会的に考えなければならなくなっている。むしろ名古屋郊外で不動産屋さんとして一家をなしている今回のケースのような場合のほうが例外となるだろう。

「徘徊老人の列車事故」の訴訟について

当然の判決であるが、逆に言えば、これまで下級審で常識に逆らうような判決が出続けたのかという点に興味がある。

関係者はA)本人、B)鉄道会社、C)家族という三者関係になっているが、そもそも家族には関係のないことである。

民法的には、もらい事故はリスクであり、鉄道という営業形態に不可避的に伴うものである。その任務に公的なものがあるとはいえ、営業形態が私的なものである以上、鉄道会社も一私人にすぎない。

むしろ踏切事故を防げなかった点では、安全管理責任が発生する可能性もある。学校や病院などの事故では、こういう観点のほうが当たり前になっている。

だから医療関係者や学校関係者なら、JR東海の官鉄気分丸出しの高圧的な態度を訝しみこそすれ、同調する気には到底なれない。

とくに、新幹線の吹田操車場をめぐるJR東海の傲慢極まりない対応を知っている私たちには、なおさらのことである。

しかし民法はそうなってはいなかったようだ。民法を条文通りに適用すれば地裁・高裁の判決が自ずから導き出されるようである。

率直に言って、地裁・高裁は臆病であった。人類史上例を見ないような少子・高齢化社会を迎え、これまでの規定では到底対応できないような事例であるにもかかわらず、旧来の判断基準をそのまま踏襲した。そうすれば必ず世の中の現状と激突するのを知りながらである。そして最高裁に判断をゆだねたようである。若手判事のいかにも少子・高齢化にふさわしい逃げっぷりだ。

そして、最高裁はあえて条文を新たに解釈して、下級審とは異なる判決に至ったのではないか。

従って、今度の判決はいろいろな形で影響を広げていくことになるだろうし、私たちもその意味を深く掘り下げておかなければならないだろうと思う。

抗認知症薬 開発の歴史

私の十八番で、まず分からないことは歴史的に理解しようということです。


* アルツハイマーで脳内のアセチルコリンの減少が確認される。アセチルコリン・エステラーゼの抑制により、アセチルコリン減少を抑制しひいては認知症の進行を抑制する可能性が示される。

1989年 エーザイ、「ドネペジル塩酸塩」を記憶改善薬として治験開始。

1993年 タクリン(商品名コグニックス)が米国で承認される。肝障害のため使用は広がらなかった。

1997年 スイスのサンド社が「イクセロン」(リバスチグミン)を発売。世界で最も頻用される抗認知症薬となる。ドネペジルと同じく抗コリンエステラーゼ薬であるが、アセチルコリンのみならず、ブチルコリンの分解も抑制する。

当初はドネペジルに比べ副作用が強いといわれたが、「パッチ化」により副作用の軽減に成功したといわれる。

1999年 エーザイ、「ドネペジル塩酸塩」を国内発売。商品名はアリセプト。当初の適応はアルツハイマーのみ。

2000年 彼岸花にふくまれる植物アルカロイドとして古来知られたガランタミン(抗コリンエステラーゼ薬)が、西欧で抗認知症薬として認可され使用開始。商品名は「レミニール」

2000年 この頃からアリセプトの長期投与の成績が報告され始める。

迷惑行動が減少し、意欲低下、無関心、抑うつなどが改善。病理学的にも海馬の萎縮が抑えられたと報告される。
一方、1.アセチルコリン過剰症状: 興奮、イライラ感、精神不安定。2.徐脈性不整脈。3.パーキンソンの像悪、などが報告される。

2002年 メマンチン塩酸塩がヨーロッパで商品生産を開始。商品名は「メマリー」

作用機序は不明だが、広義のカルシウム拮抗剤と説明されている。メマンチンは脳内グルタミン酸活性を抑えることにより膜を安定化させ、カルシウムの細胞内流入を防ぐとされる。独特の鎮静作用があり、コリンエステラーゼ阻害薬とは作用機序が異なるため、併用効果が期待される。

2011年 アリセプトの特許切れ。その後相次いでジェネリック薬品が登場するが、価格はせいぜい半減程度で、薬効(生物学的効果)についても賛否相半ばする。

2011年 リバスチグミン(イクセロン)、ガランタミン(レミニール)、メマンチン(メマリー)が国内販売を開始。抗認知症薬4種類が国内で出揃う。

2014年 アリセプトのレビー小体型認知症への適応が拡大される。

2014年 薬価改定。アリセプト(エーザイ)の薬価が1日あたり(常用量10ミリ)600円を割る。エーザイは剤形の多様化により抗薬価維持を図る。


ということで基本はアリセプト+メマリーの併用、これで多少の過活動化があっても我慢して使えということだ。これにリスパダールとグラマリール(場合によっては三環系抗うつ剤)を組み合わせ、経過によりハルシオンを乗せるというストラテジーになる。

ただしこれらの処方はわれわれ内科医が勝手に積み上げるようなものではなく、精神科あるいは神経内科の先生の力を借りながらやっていくことにになるだろう。

とくに内科医が注意しなければならないのは、抗ヒスタミン剤と抗アレルギー薬の安易な使用であろう。また糖尿病の急速な悪化は何度となく痛い目にあっている。また蓄積作用は1か月を過ぎて因果関係があいまいになった頃から急速に出現することがあり要注意だ。

認知症の薬がたくさん出されている。

これまでは老健施設の担当だったので、まったく勉強する必要がなかった。申し訳ないが抗認知症薬は入所の時点でばっさり切っていたからである。

実際のところ切っても大きな変化はなかった。精神症状があればそれは周辺症状と割り切って向精神薬で対応していた。

しかし老健の担当を外れ、特養やグループ・ホームなどの利用者をケアするようになると、抗認知症薬がそれなりに効いていることがわかり、自らの不明を恥じているところである。

効いているというのはちょっと語弊があって、要するに中核症状か周辺症状かは分からないが、抗アセチルコリン・エステラーゼ薬がかなり老人の認知障害を臨床的に修飾する可能性があるということであろう。

同時にかなり副作用もあって、認知症患者の現状が抗認知症薬によってもたらされている可能性もあることが分かった。

また先発薬であるアリセプトと後発のレミニールにはかなり使い勝手の違いがあることも分かった。

お恥ずかしいことだが、とりあえず抗認知症薬の使い分けについてまとめておくことにする。


アルツハイマー病の勉強をしたときにも触れたことだが、現在使われている抗認知症薬は病気の原因に迫るような薬剤ではない。

端的に言えば使ってみたら効いたというレベルの薬である。

長期的に見て良いかどうかも分からない。ただ認知症の患者さんに「長期」もへったくれもないのであって、1年でも2年でもそれなりに効いてくれればよいのだ。後は野となれ山となれだ。

一番困るのは変に効くことであって、効かなければ効かないで副作用がなければそれで良い。困るのはどういう変化が効果で、どう変化が副作用なのかの判定が難しいことだ。

この辺は現場に判断してもらうしかない。ところが困るのは「現場の声」が必ずしも一致しないことである。ある患者が抗認知症薬を飲み始めた、数週間してから明らかにある種の変化が起こり始めた。それをポジティブにとらえるかネガティブにとらえるのかは担当者によってまちまちである。

とくにベテランと呼ばれる人たちは変化を嫌う。それに対して若手のケアワーカーはそれを積極的にとらえる。それはナースにおいても同じだ。

結果的にいろいろ不都合が出てくると、ベテランは「それ見たことか」とカサにかかってくる。

しかし、パーキンソンの患者にL・ドーパを使ってジスキネジーが出たといって、「それ見たことか」ということにはならない。ジスキネジーが出るくらい使ってみないと効果は分からないということもある。

何もしなければ何も失敗しないのであり、それは無作為につながる。だから医師は現場の声を慎重に聞きつつも無作為につながるような安易な妥協は慎まなければならないのである。なかなか難しいところだ。


と、ここまでが前置き。件のごとく前置きが長い。

とは言いつつも、大井さんの文章をそのまま読み飛ばすのは惜しい。

いくつか拾っておく。

まず大井さんは、認知症の機転の基本として、記憶障害を取り出す。これにより社会との疎通が失われ、その代償機転としてヴァーチュアルな世界が形成される。

この「擬似世界」は虚構であるためにさ、まざまな不都合をきたす。これが認知症だ、ということになる。

しかしこれだけでは何も言っていないに等しい。①記憶障害、②交流障害、③仮想世界の形成のいづれが本質なのかが語られていないからである。

つぎに他者から見た認知症について、3つの特徴を上げる。これは尊厳死協会のアンケートによるものだ。

①惨めな状態、②認知症は病気である、③認知症は恐怖である。

まあアンケートだから適当なものだ。

認知症は病気なのか?

ただ気になるのが「認知症は病気である」という項目。これは大井さんが必ずしもそう思っていないから、わざわざ取り上げたのだろう。

おそらく大井さんは、アミロイド沈着というアルツハイマーの本態はさておいて、症候論もふくめての「痴呆症候群」として捉えるべきだとの思いがあるのだろう。

「痴呆症」は病気なのか?

誰がつけたかしらないが、「認知症」というのはあいまいで不正確な名称だ。要するに「痴呆症」が差別だから言い換えたに過ぎない。盲目者が視力障害者になり、ろうあ者が聴力障害者になるのと同じで、言葉の言い換えが範疇の曖昧化に繋がる。

あえて「老年痴呆」と言葉を戻して、議論してみよう。これは高齢化に伴い知力の高度の衰えがもたらされた状態だ。明らかに病的状態(病気と言ってもいい)ではあるが、これは「症候群」であって、疾患(単一の病理変化にもとづく病気)ではない。

正常の人でも加齢により知力は衰えるのだから、要は程度問題である。周辺症状により対人関係に支障をきたすこともあるが、これも程度問題である。しかもこちらの方はある程度薬物によるコントロールが可能である。

現に私が見ている痴呆老人の多くは穏やかで、介護者との接触も保たれている。徘徊は好奇心のなせる業のごとく見える。

もちろん進行すれば周囲との接触は徐々に失われ、沈思黙考あるいは独語の世界に入る。しかしその時も強い呼びかけには普通に応える。あえて言えば、「人とともに生きる」のがだんだん面倒くさくなってきたのである。

別に惨めでも、恐怖でもない。人に突然襲いかかって苦痛と不安と恐怖をもたらすものが「病気」だとすれば、「病気」のうちにふくめて良いのかさえ考えてしまう状態だ。

アルツハイマー病は間違いなく病気だが

最初にも述べた通り、間違いなくアルツハイマーは病気(アミロイド蓄積症)だ。原因から病態生理までふくめてかなり明らかになっている。

これが世間にも理解されるようになってきたことはご同慶の至りだ。ただしあまりにも広義に捉えられすぎている。

痴呆症のすべてがアルツハイマーではない。まして老人につきもののさまざまな生活障害(極端な場合は寝たきり、垂れ流し)までもがアルツハイマーのせいにされては、アルツハイマーが可哀想だ。

アルツハイマー病を哲学的に考察する必要はない

多くのアルツハイマー型認知症を見ての感想だが、この病気やこの病気の罹患者を哲学的に解釈する必要はないと思う。

この病気は社会学的サイドから膨らませられすぎている。治療法こそ未確立だが、福祉的な対応は十分に可能であり、むしろ患者の生活を「悲惨」なものに貶めている社会政策的な対応の不備が主要な問題だと思う。

その意味では、痴呆症に限定せず、老人の抱えるさまざまな肉体的・精神的ハンディキャップをどう救い上げていくか、もっと広い視点からの対応が必要だ。

哲学的にあつかうなら、老いをどう見つめていくかが問われることになろう。その中で、もっと各論を旺盛に展開しながら、精神機能(大脳)、神経機能(脳幹)、神経内分泌機能(間脳)を総合的にすくい取る分野が展開されていくことになるのではないか。

大井玄「痴呆老人は何を見ているか」(新潮新書 2007年)

という本を読んだ。というより最後の方は飛ばし読みだ。

書き出しは至極快調で、「ふむふむ」と頷いたり、赤線を引きながら読み始めたのだが、途中から何か変になってくる。

臨床症例の観察は臨床心理学に収斂し、さらには哲学へと向かって行ってしまう。

私は、正直言って痴呆症の臨床心理学などはあまり意味がないと思っている。あまりに個人差が大きいために、らっきょの皮むきになりかねない。

アルツハイマー的な病理機序は、ある意味で老化の本質のひとつであり、もし心理学的追究をすゝのなら老化(心身機能の低下)に伴い、そのひとつとして出現する心理的諸特徴を概括していくほうが生産的ではないかと思う。

前にも言ったことがあるが、認知症の臨床研究は諸症状を中核症状と周辺症状とに分けることで飛躍的に進歩したと思う。

この点については大井さんも異論はなさそうだ。その上で、次は中核症状の進行に対する適応機転、あるいは不適応機転が生じてくる。これを周辺症状と分離することはかなり困難だ。

一応、最近の認知症研究では、これを早期周辺症状と晩期周辺症状に分けて考えようとしている。大井さんが「別世界の形成」とか「自己の異形成」みたいな感じで論じているのは、この晩期の周辺症状にあたるのかもしれない。

さらにうつ病に近いような心身の不活発状態、統合失調に近いような「離人」状態もかなり高率に出現し、これも広義の周辺症状にふくめてもいいのかもしれない。

Ⅰ 道東勤医協退職から老健施設勤務まで
Ⅱ 老健と病院の違い
   逃げられる嬉しさと、逃げられないヤバさ
Ⅲ 医者はお客さん
   厳しい経営、それ以上に厳しい職員の生活
   割り切りと、“見て見ぬふり”
Ⅳ 老健の“医療”
   厳密に言えば医療ではなく“保健”だが…やっていることは医療
Ⅴ 介護報酬改訂と財政審答申
   報酬なき労働強化の押し付け 訪問診療の規制、通所リハ会議の強制
   「潰れればいいんでしょう」路線 小規模デイケアつぶし 貧困ビジネス化の強制
Ⅵ 突然のアクシデント
   詳細は当日

小規模デイサービスの閉鎖が凄まじい勢いで広がっている。
赤旗が詳しく報道している。
まずこれが衝撃のチラシ
dayservice
ちょっとひとひねりしたチラシだから、分かりにくいかもしれない。
これが、札幌市や千葉市の小規模デイの事業所にFAXで送られてきているのだ。
「売れるときに売ってしまおう」というのは、要するに損を覚悟の投げ売りだ。そういう事業主がたくさんいるから成り立つビジネスだ。みんな一刻も早く、沈みつつある泥船から逃げ出そうと必死だ。
「現在、介護事業所を買いたいというニーズが高くなっています」というのは、ほとんどウソに近い。正しく書けば「現在、介護事業所を売りたいというニーズが高くなっています」だ。買うとすれば、更地か居抜きでなんぼかというハイエナ業者だろう。

先日の記事と一部ダブるが、今年4月の介護報酬改定を紹介しておく。
小規模デイサービスは要介護者で平均9.2%の大幅減。要支援の人は実に21%の引き下げとなる(要支援はいずれさらに引き下げ予定)。
職員体制に応じた加算があるが、小規模事業所はとても算定できない。
大阪での影響調査では、85%の小規模施設で平均12%の減。回答者の3割が「今後事業の縮小・撤退を考えている」と答えている。
つまり、この「業界」はすでに死に体なのだ。

赤旗はこのFAXの発信者に取材している。大手医療介護人材紹介業社の買取担当者だ(「M&A事業」というから笑わせる。人の弱みに付け込んで買い叩き、底値買いするアコギな商売だ)。
譲渡の申し込みは昨年の2~3倍に増えています。…理由は圧倒的に経営難で、全体の7~8割を占めています。
確かにこのところ雨後の筍のようにあちこちに、小規模デイサービスが増えた。「コンビニ潰れてデイとなる」という感じだ。これだけ一度にできると、中には「ウーム」というところもあるだろうと思う。
それはそれできちっとした監督が必要だ。悪質なものはそのうち淘汰されていくだろう、くらいに考えていた。何よりもニーズが有るのだから対応するのは当然である。

しかし厚労省の方向を見ると、小規模デイつぶしは大規模化を促す措置の一環と考えられる。はたしてそれが正しいのか、資金効率から言えば、それは逆だろう。
これはいまや世界の常識だが、日本の医療と社会保障を支えてきたのは開業医制だ。小規模でちまちまとやってきたからこそ、きわめて資金効率の高い医療システムが出来たのだ。

医療や介護の場面では経営的な意味でのスケールメリットはない。むしろ人件費の固定化が強力なデメリットになる。それは厚労省もよく知っているはずだ。ただし大規模化すれば、さまざまな監査の網をかけることができ、天下りのポストが増えることは間違いなかろう。
いまでも介護施設の書類の量たるや膨大なものだ。ケアの仕事より多いくらいの業務量になる。こういう書類を作らせて監査する人間のための仕事だ。こういう連中がいなくなれば、社会保険料は随分下がると思うが…

長生きしている人には二通りある。元気で矍鑠として長生きしている人と、病気がちで頭がもうろうとして生きている人だ。

これは対立しているわけではなく、前者が徐々に後者に移行して、最後にあの世へと旅立っていくわけだ。後者のケースは前者に比べて少ない。高齢者が増えればその数も増えるが、比率としては変わらない。平均寿命が20歳も伸びたが、それによって増えたのは元気で矍鑠として長生きしている人だ。

後者のケースはさらに2つに分けられる。お金に余裕のある人とない人だ。残念ながら後者の比率が圧倒的に高い。そうなると貧しくて病気がちで頭がもうろうとしている人たちは、世間から持て余されることになる。なぜなら貧しい老人を支えている家族は大抵が同じように貧しいからだ。

老々介護が問題になっているが、問題はそうではない。大きな困難は貧々介護にあるのだ。

お願いしたいのは、こういう老人にできれば月20万円、せめて15万円は払って欲しいということだ(医療費は別で)。当節、元気な若者でもそのくらいはかかる。それに介護の人件費は上乗せして欲しい。こちらも「それでなんとかやってくれ」といわれれば、なんとかしてみようと思う。“安楽死”だとか、治療はしないで欲しいとか、そんな話はそれだけでなくなる。

私はときどき、お年寄りが“死んだふり”しているのではないかと思うことがある。誰しも、だんだんと笑わなくなって、怒らなくなって、喋らなくなって、そして食べなくなってという経過を取るのだが、本当にそれが自然経過なのだろうか。それは強いられた経過なのではないか。

以前、熊の冬眠の話を書いたことがある。地球温暖化で彼らの生息場所も徐々に暖かくなってきた。そうすると冬眠せずに冬を過ごしてしまう熊が増えてきたという。生物の本には「彼らが自然に適応して冬眠という手段を身につけることでみごとに自然の脅威を克服した」みたいなことが書いてあるが、彼らは決して好き好んでそうしているわけではない。冬眠したあと目が覚めてくれるか、そのまま死んでしまうかは運任せだ。生き残る可能性がかなり高いからこそ「冬眠」なのであって、そうでなければ自殺行為だ。

お年寄りの「喋らなくなって、そして食べなくなって」という経過も、同じように強いられた経過である可能性がある。だから我々はぎりぎりその変化を見極めなければならない。本当に我々はするべきことをしたのか? し残したことはないのか。もっと早めに手は打てなかったのか。

京都大学の木下専助教授らが分かりやすい図を作ってくれている。「パーキンソン病の病態に迫る」というプレスリリースで、素人向けの簡単な解説だ。

パーキンソン病というのは、平ったく言うと、中脳にある黒質という神経細胞集団が衰えてしまうために、運動能力が落ちてしまう病気だ。

中脳の黒質は「運動せえ」という命令を出す。この命令は神経線維を伝わって大脳基底核の線条体というところに達する。そこで大脳の処理も加えて全身に命令を送り出す。

この際命令を伝えるメッセンジャーとなるのはドパミンという物質で、これが枯渇してくると(1割位と言われる)、命令が伝わらなくなってしまう。これがパーキンソン病だ。

昔、私が学生の頃はこの黒質→線条体経路は錐体外路系と言って、なにかアクセサリーみたいな扱いを受けていたが、そんなものは嘘っぱちだということが分かってきた。三位一体を説くマクリーンの呪いのひとつだったのだ。

私の「3脳セオリー」にもとづけば、中脳こそが運動に関わる生物進化の王道であり、他の経路はバイパスにすぎない。ただ5感の中で視覚だけが飛び抜けて発達するようになると、どうしても視覚による補正を受けなくてはならなくなるので、行動の当否を評価するシステムの介在が必要になったのだと思われる。

話を戻す。

この黒質の神経細胞の中にシヌクレインが溜まってくる。そして他のタンパクを巻き込んでレビー小体という封入体が出来上がる。このレビー小体が直接悪さをしているのかどうかは分からないが、とにかくそれが増えるに従ってドパミンの分泌が落ちてくる。

それを図示したのが下の図だ。

病態モデル

シヌクレインというのはAβ(アミロイドβタンパク)と違って本来は悪者ではなく、脳に必要な蛋白らしい。それが何かの都合で変性してしまうと細胞死に繋がる。中には編成したシヌクレインを取り込んだまま生き延びている神経細胞もあって、それがレビー小体として表現されている、というのがこの図のあらましである。

木下先生たちは、シヌクレインが編成するのにはSept4というもう一つのタンパクが関係するようだということを主張しているのだが、それはとりあえず置いておこう。

なおこの文章の下には簡単な用語解説がついていて便利だ。これも転載しておく。

(注2)α-シヌクレイン:
 神経終末に大量に存在する機能未知の蛋白質で、レビー小体の主成分として知られている。遺伝性パーキンソン病の原因遺伝子産物の1つである。

(注3)レビー小体:
 パーキンソン病などにおいて神経細胞内に形成される封入体で、なかでも黒質ドパミン神経細胞内に形成されるものは円形で均一、同心円状の芯を持つ。変性したα-シヌクレインを主成分とし、副成分として複数の蛋白質を含む。

(注4)シヌクレイン病に分類される疾患群:
 パーキンソン病の大部分、レビー小体型認知症、多系統萎縮症の一部

(注5)ドパミン神経細胞 (ドパミンニューロン):
 ドパミンを神経伝達物質とする神経細胞。細胞体は中脳腹側部(黒質)に存在し、線条体や大脳皮質などに投射した神経終末からドパミンを放出する。パーキンソン病においては、ドパミン神経細胞の選択的な機能障害や細胞死が起こる。

(注6)セプチン:
 細胞骨格系を構成する一群の蛋白質。アクチンやチューブリンなどの細胞骨格蛋白質と協調して、細胞分裂や細胞形態形成に関与する。ヒトのセプチン遺伝子Sept1-Sept13に由来するセプチンのほとんどは脳に多く含まれる。

最近では多系統萎縮症はGCI蓄積病として総括されるようだ。これが大別するとP型(パーキンソンなど)とC型(脊髄小脳変性症など)になる。

つまり、多系統萎縮症はパーキンソン病と脊髄小脳変性症の中間に位置する、ということになる。

長年、神経学の果てしなく続く病名に悩まされてきた私としては、まことに同慶の至りである。

これに代わり、遺伝子屋さんがまたジャングルを形成しつつあるが、根っこさえしっかりしておけば、あとはそれぞれの持場でしっかりやってくれればよい。

ただ遺伝子学そのものは、未だ星雲状態で、そこには現象的認識の果てしない空間が広がっている。

脊髄小脳変性症という病気は、気の遠くなるほどの亜種を含んでいる。

1969年、Graham らは脊髄小脳変性症のうちオリーブ橋小脳萎縮症、線条体黒質変性症、Shy-Drager症候群を包括して「多系統萎縮症」と称するよう提唱した。その理由は省略する(正直のところ良くわからない)。

ところが、1989年 Papp ら、多系統萎縮症では例外なく オリゴデンドログリアに嗜銀性封入体が出現すると報告した。これは異常フィラメントが集簇した構造物である。なぜ今ごろになって見つかったのかというと、通常のHE染色では染まりにくかったからである。これに銀の入った特殊な染色液をかけると、「透明人間」が見えるようになった。

GCI

       IGAKUKEN [Neuropathology Database]より

その後、この染色法で調べていくとグリア細胞の核内にもGNIと呼ばれる封入体が発見された。さらに本体の神経細胞を調べていくと、細胞質内にNCI封入体、細胞核内にNNI封入体、神経突起内にneuropil threads という封入体が発見された。実は多系統萎縮症の脳は封入体だらけだったのだ。

研究者たちは色めき立った。アルツハイマーにおけるアミロイドやタウのように、これら5種類の封入体がが神経細胞脱落をもたらすかも知れないと考えられるからである。

「多系統萎縮症」と無理やりまとめたが、もともと3つの疾患を強引にまとめた病名で、どこかの政党並みに出身派閥がある。ところが病理学所見が一致すると、これらは実の兄弟だと分かったことになる。それだけなら、めでたしめでたしだが、どうもこの封入体が病気の原因になっているのではないかということになって、話はそれではすまなくなった。彼らが実の兄弟なら父親は誰かということになる。

その後の研究で、GCI封入体の本態がα-シヌクレインであることが分かった。アルツハイマーでアミロイド小体からAβ(アミロイドβタンパク)が同定されたのと同様である。これは衝撃の事実だ。パーキンソン病で蓄積されるレビー小体もα-シヌクレインである。MSA、パーキンソン病、レビー小体病は“αシヌクレイン症”という新たな疾患概念を形成することになる。

ただし、パーキンソン病ではグリア内蓄積はあるが核内蓄積は認められない。逆にMSAではレビー小体は形成されないなどかなりの違いはある。また他に封入体探しも進んでいて、ALSのブニナ小体、前頭側頭葉変性症のユビキチン陽性封入体、ピック病のピック小体などが報告されている。“αシヌクレイン”という苗字が同じでも血がつながっているとは限らないのである。

というわけで、いまや封入体の本態であるαシヌクレインをどの遺伝子がどういうふうに作っているのかに関心が集中しているようだ。アミロイドβタンパクに対するカスケード戦略がここでも再現されていると見てよい。

しかし、一足飛びに遺伝子に行くにはちょっと早すぎるような気もする。まず、αシヌクレインが本当に犯人なのか、どういうふうに犯行を行なっているのかがまだはっきりしない。遺伝子を検索するなら、多系統萎縮プローンの動物(あるとすれば)で、αシヌクレイン産生遺伝子をノックダウンして、多系統萎縮症が抑制できるかどうかも示して欲しい。

「小規模デイサービスは、もういらない」というのが政府・財務相・厚労相の考えだ。


週刊朝日 14年11月

国は潰したい?小規模デイサービス

1.主導は財務省

介護報酬の「現行からの6%程度引き下げ」を主張。6%削ったとしても、「運営に必要な資金は確保できる」とする。

2.株式会社・フランチャイズで乱立

企業は全国800カ所以上でFC展開している。「月に100万円の収入は確実」と宣伝。

FC加盟料300万円、毎月、ロイヤルティーなどの名目で20万円をとる。設置者がリスクを背負う。

競争激化で採算が悪化。人手不足が拍車。

3.行政からの締め付け

人員体制や介護内容などの届け出が義務化された。サービスの質を維持するためのガイドラインも策定した。(これは当たり前だ)

機能訓練指導員として、看護師などの有資格者配置が義務付け(15年度より)

介護報酬値下げで高齢者施設がさらなる悪循環へ

14年6月、「地域医療・介護推進法」が成立した。“負担増・給付縮小”が基本方向だ。

同じ6月に、「介護・障害福祉従事者の処遇改善に関する法律」が全会一致で成立した。これは矛盾している。

介護分野の昨年の求人倍率は2倍、介護福祉士養成校の入学者も減って、定員80人に対しわずか20人だ。

赤旗 15年3月

介護報酬を4月から大幅に削減

上乗せの「加算」を除けばマイナス4・48%と過去最大規模の削減となる。廃業する事業者が続出、介護基盤崩壊の危機となっている。

全国老人福祉施設協議会は今改定で「5割近くの施設が赤字に転落する」と試算。
北海道で89事業所を対象としたアンケート: 77%が報酬改定で「経営は後退せざるを得ない」と回答。対応は「賃金・労働条件の引き下げ」31%、「人員配置数の引き下げ」42%。「事業所廃止」19%。

小規模デイサービスを狙い撃ち

小規模型デイサービスでは要介護者は約9~10%の報酬削減、要支援者は市町村の事業となり、さらに報酬が下げられる(推計25%)。

現場の試算では年間200~300万円ほどの減益となる。これでやっていけるところは殆どないだろう。


けあZine 15年3月

これで終わらない小規模デイサービス

小規模デイサービスへの風当たりの強さはまだまだ続く。小規模デイサービスは1年の経過措置を経て、地域密着型デイサービスに移行する。

定員10名の小規模デイサービスは、もういらないということだ。


問題は二つある。

まず一つは、小規模デイサービスはいらないのかということだ。

答えは、はっきりしている。必要だ。

ただ、量と質の問題はある。とくにフランチャイズ制で儲けを至上目的とするようなデイは有害かもしれない。

ただそれは、運営基準を厳しくしていけば良いので、それがクリアできるような施設なら大いに奨励されるべきだ。

逆に、そのへんのおじさん、おばさんが預かるようなサービスの形態は、共助の観点からも、介護難民を生じさせないためにも、限界集落の崩壊を防ぐためにも、柔軟に取り組むべきだと思う。

もう一つの問題は、財務省主導で、目先のそろばんだけで動いて良いのかどうかということだ。

結局そこで浮かせた金は、法人税減税とか公共事業とかに回ることになる。それから見れば、どんな欠陥があろうとも、はるかに生きた金の使い方だ。

少なくとも、その金は老人福祉の分野で使うべき金であって、富裕層のための金ではない。

この度、老健入所者の管理から足を洗うことになった。
思えば2010年の7月以来であるから、5年余りを入所者の管理に費やしたことになる。
やった仕事は入所者の転帰についての調査だけだから、ほとんど何もしていない事になる。
RSVの仕事については、まとめたかったが果たせなかった。
「諸般の事情」で、できないことがあまりにも多い。今となっては思いつくままに書き残すのみである。
A 病院へ送るタイミング 
1. 基本方針
この問題が常に最大の判断を要する問題だった。
基本的には中間施設という枠は下りの中間としてしか考えていなかったから、できるだけ元気で長く生活してもらうことが目標だった。
同時に「看取りはやらない」というのも自分なりの原則にしていた。もちろん原理的には「看取り」も一つの選択肢なのかもしれない。しかしそれをやり始めると、老健の「堕落」になるのではないか、とも思う。
ほとんどの場合、病院に送った人のベッドは確保して置かなければならないから、経営的には負担になる。
ただ、そのことで医療・看護はやるべき範疇がはっきりしてくるので、「老健らしさ」を維持するための必要なコストと考えざるをえない。
いま少しづつ医療保険枠が拡大しつつあるので、とくに感染症などでは、だんだん療養型との垣根が変化してくるかもしれないと思っている。
2.疾患別に見た場合
脳血管系、冠疾患系では何も逡巡する余地はない。そのまま救急車を呼んで、診療情報提供書は後日送るかたちで乗せちまうほかない。
吐下血、イレウスなど消化器系も考える余地はない。むしろ判断の遅れがあとで問題になることが多いので、「多少早いかな」と思う段階で決断している。
転倒・骨折疑いは意外と悩む。明らかな骨折でなければ一応レントゲンをとって判断する。しかしこちらの読影力もあるので、ナースの判断が一番頼りになる。したがってどのナースの判断かも重要な情報になる。
肺炎は最初の頃はすべて送っていた。しかし病院の入院患者に比べると意外に抗生剤がよく効く(AB/PCでも効く!)ので、最近ではコストもふくめて判断している。
3.最終盤医療
もう食べなくなった、低アルブミン、低ナトリウムと揃ってくると、療養型への移動を考えなければならなくなってくる。
こういう時は、ご家族の意向が大きく左右する。同時にこちらの死生観が問われてくる。明らかにどうしようもない場合を除けば、私は原則としてPEGをおすすめしている。
PEGであとどのくらい生きるのか、その人生にどれほどの意義があるのかは、問うてはいけない質問だと思う。ただPEGを勧めてもほとんどの家族は頷かない。
それをどれほど強く勧めるかについて、私も最近はだいぶ弱気になっている。しかし基本は変わってはいない。
「生きる権利」は、場合によっては患者みずからの意志を超えてまで存在すると思う。生者のうちには「生きていたい」とつぶやく生命力があるはずだ。そうでなければ、それは形を変えた自殺容認論になってしまう。
「もう生きていてもしょうがないですから」という家族には、「そんならあんたも死ぬか?」と叫びたくなることもある。
B 老健のクスリ
1.基本となるクスリ
ほんとに必要なクスリは意外に少ない。申し訳ないが、認知の薬はゾロもふくめすべて止めさせてもらっている。経営的に成り立たないからだ。認知のクスリを出している老健もたくさんある。しかし病院との連携のない孤立した老健では、それはしわ寄せを呼ぶ。
50人の認知症にクスリを出せば1ヶ月に50万だ。ケアワーカーが二人雇える。そのほうが絶対に患者にも良い。
アスピリンなどの抗血小板剤もダラダラとは使わない(PCI後の人には仕方ないから使うが)。私の調査では、の梗塞や心筋梗塞の再発率はかなり低い。転倒・出血・血腫のリスクのほうがはるかに高い。
ただし血圧はしっかり抑えている。リスクカバーとしてははるかに有意義だろうと思う。降圧剤の選択としてはATⅡ阻害剤はすべてACE阻害剤に切り替えている。咳は出たほうが良いくらいだが、幸か不幸か咳の副作用はほとんどない。
女性の場合はフルイトラン1/2錠が第一選択である。申し訳ないほど安い。
意外に多いのが症候性てんかんで、抗けいれん薬はポピュラーな処方である。ODっぽい人にも予防投薬している。
意外に多いといえば、下肢の浮腫の中に深部静脈血栓がかなりいるのではないかという印象を持っている。ワーファリンを使う場合、ほとんどが心房細動を念頭に置いていると思うが、DVTの場合もワーファリンが有効かもしれないと思っている。
緩下剤(カマもふくめ)はほとんどの人に投与している。排便は老健におけるきわめて重要な儀式で、浣腸・摘便・失禁・弄便・便汚染の処理をふくめてケアワーカーの主要な業務の一つである。
一度便臭軽減のため、入所者にココア粉末の投与を提案したが却下された。彼らは「臭いは仕事のうちだ」と主張した。頭が下がります。
2.投与量はもっと少なく
血圧の薬はほとんど常人と同量である。糖尿の薬や抗生剤もあまり変わらないと思う。違うのは向精神薬である。
精神科の先生が週1回回診してくれている。その処方がきわめて微妙なさじ加減なのにびっくりした。とにかく基本は半量である。
普通のクスリでも例えばPL顆粒は常用量使えばとんでもないことになる。意識はどろどろになるし、おしっこは出なくなる。後から「この人緑内障でした」ということになる。だからナースはPLを使いたがらない。ひどい時はこちらで出した処方を無視して、葛根湯ですましている。
つづきはあした

昨日の続き
ただし葛根湯が効くのは初期の軽症のみだ。本格的な風邪になればロキソニンしかない。なのにナースは抵抗する。「この人血圧低いんです」、「この人便秘があるので困るんです」とくる。「だからどうした!」という言葉を飲み込みつつ、「頼むから使ってください」とお願いすることになる。
それで血圧下がればそれは補液の対象だ。それに汗かいて熱が下がれば水も飲むようになる。
それを何度も繰り返して、やっと解熱剤使ってもらえるようになった。
ロキソニンで血圧が下がるのには理由がある。基本的には1回1錠では多すぎるのだ。半錠で十分効果がある。それと血圧が下がる人は「隠れ脱水」を伴っているからだ。大体が低張性脱水だから臨床的には目立たない。低ナトリウムならそれだけで脱水と思って良いと思う。
ということで、目下の風邪の第一選択はロキソニン1錠の2xだ。これでダメなら補液する。ついでだが、ブルフェンは年寄りにはまったく効かない。
3.抗生物質
老健入所者の最近は割と素直だ。サワシリンでも効くことがある。むしろ流行りのクラビットが意外と効かない。流石に尿路感染はしつこいが、セフェム系でなんとかしのげている。
抗生物質の点滴も割と早めに開始する。抗生物質はたいていナトリウムを含んでいて、それを生食100に溶かすから、案外ナトリウムが効いているのかもしれない。
慢性気管支炎にはクラリスロマイシンの予防投与を積極的に行っている。ただ使うとすれば1日2錠必要な気がする。どうも1錠では抑えきれないような印象がある。
肺炎球菌ワクチンはできれば全例やりたいくらいだが、金額の問題もあってルーチン化していない。こちらの構えが甘いのだろう。
4.糖尿病
これが実はけっこう苦労する。PEG導入で一気にDMセミコーマまで行ってしまったケースも有る。精神科の薬で悪化してインシュリン導入をやむなくさせてしまったケースも有る。
DM専門医から見れば眉をひそめられるかもしれないが、私はアマリールか、しからずんばインシュリンという主義で、とにかく下げりゃいいんだろうとやっている。
一番の理由は、訳の分からないクスリほど高いということにある。
薬代が院所持ち出しのところで、ケアワーカーになんぼの給料出せているかを考えれば、製薬会社に奉仕するのはきわめて癪である。
5.利尿剤
とても重要だと思っている。とにかく利尿剤をいじってろくなことはない。多少多いかなと思っても我慢してそのまま使うようにしている。
HANPとかADH阻害薬(サムスカ)のようなものはなくても、ラシックス単味でかなりのところまでやれると思う。問題はケチらないことである。
先ほどの“かくれ脱水”と矛盾するようだが、“隠れ心不全”もけっこう多い。とくに老人は心臓が固くなっているので心不全になっても心拡大は来ない。
咳が長引いたらとにかくCTをとることだ。胸水の診断はCTでしかできないと言って過言ではない。
6.有象無象のクスリ
とにかく年寄りだからいろいろ悪いからいろいろかかっている。したがってクスリもいろいろだ。
基本的には全部切りたいのだが、たくさんクスリを飲んでいる人ほど、訴えもたくさんなので、切るのは容易ではない。
世の中には漢方好きの医者がたくさんいて、平気で数種類重ねて出す。これはバッサリ切る。こんなにたくさん飲んだら低カリどころではなく肺線維症まで心配になる。どうせツムラの下敷き見て出しているんだろう。私もそうだから。
整形もこわい。90の婆さんに平気でロキソニン1日3錠出す。そしていちじくの葉っぱのように胃薬をつけてくる。さらに筋弛緩剤とヴィタミンDとカルシウム、さらにメチコバールだ。そしてどっさりと外用薬。
泌尿器科も、眼科も耳鼻科も3,4種類の薬を出す。かくしてトータルは20種類以上となる。「地獄への道は善意と若干のそろばんで敷き詰められている」のだ。

C 老健とは何か
絶対的な基準というのはかなり難しいが、療養型・特養・有料老人ホームと並べてみると、相対的な位置づけはある程度見えてくる。
1.医療の観点から見た老健
医療という観点から見れば、まさに中間施設である。しかも在宅に向けての中間ではなく療養型に向かう中間施設だろうと思う。中間というのはある意味では中途半端ということでもあるが、それなりの守備範囲ではツボにはまった効用を発揮するし、瞬間的には病院と同じ機能を発揮することも出来る。融通はきくがスタミナはないヘタレ組織で、私にはもっともふさわしいところかもしれない。
2.リハ・介護の観点から見た老健
本来の機能から見れば、回復期リハを終了した患者が自宅復帰への足がかりとして生活に見合ったリハをする施設ということになろうが、実際にはそのようなケースはほとんどない。
そういう幸運なケースはほとんどが老健を通過せずに自宅復帰しているのではないか。老健に途中下車する人はたいてい病気以外の何らかの生活困難を抱えている。大抵の場合、その困難は解決不能である。いわば下り線に乗り換えてこの施設にやってくるのである。
したがって、リハのゴールは最善の場合も現状維持にとどまる。
私はそういうリハもあっていいのではないかと考えている。そういう減点法的な評価体系があってしかるべきだろうと思う。1年経って、10点満点のところ9.5で抑えられた、よくやったという評価である。
そしてその0.5の不足分のところをケアワーカーが補う、という形で老健が成り立っているのではないかと思う。
3.リハと介護が車の両輪
私は利用者が入所する時、必ず家族にこう説明している。
「ここには医者もナースもいて、いまこうやって私が説明しているが、実はわたしたちは後見役なのです。この施設の主役はリハビリ技師とケアワーカーなので、医療の側はそれを後ろから支えているにすぎないのです」
「この施設は入所者の皆さんが一日でも長く生活レベルを維持し、健康レベルを維持し、一日でも長生きできるようにお手伝いすることが目的です」
自分ではこの立場を守っているつもりだが、どうもナースは手を出したがる。実際手出しせざるを得ない状況が日々起こっているわけだが、この「原則」はいつも念頭に置いて置かなければならないと思っている。
4.「療養病棟化」せざるを得ない現状
「実際手出しせざるを得ない状況が日々起こっている」と書いたが、遺憾ながらそういうことになっている。急性期病院からは、ICUから一般病棟に戻すような気分で患者が送り返されてくる。
「こちらから頼んだのだからしかたない」と泣き泣き受け入れるのだが、朝まで酸素吸入していた患者を午後には送ってくる。「酸素オフでSpO90あるので大丈夫だと思います」、「あと3日間、ADH拮抗薬使ってください」、どこが大丈夫なんだ!
5.割安入所施設としての期待
このあいだこういうケースがあった。これを聞いた時は愕然としたものだ。
ある日、特別養護老人ホームに入所中の方の奥さんが相談に見えられた。今度の一部負担の2倍化で、一部負担が耐えられなくなったというのだ。そこで療養型への移動を検討したいということだ。
これでは順序が逆ではないか。
特養はお年寄りの終の棲家のはずだ。そこにすら居れなくて、しかもその行く先が療養型とは何たる矛盾だろうか。
おそらく厚労省は、次は「それは療養型が安すぎるからだ」と言って療養型の一部負担を引き上げることだろう。「あっ、今度はここが出っ張っている」と言って人の命にかんなをかけているようなものだ。
そんな中で、老健も一種の割安(有料老人ホームやグループホームに比べて)な入所施設としての期待がかけられている。
ギリギリの医療と書いたが、まさにここのところでギリギリの頑張りがもとめられているような気がしている。

一応、最低限、追いつけたかなという感じだ。

アルツハイマーの研究はやっと足がかりがつかめたというレベルのようだ。

第21染色体にAPPの産生を司る遺伝子があって、それが傷つくと変なAPPができる。それがγセクレターゼという酵素で壊されてAβというカスが形成される。この中の一つが毒性を持っていて神経細胞を壊していく。あるいはグリア細胞が加担しているかもしれない。

さらに進んでいくと、神経線維の中のタウという蛋白も変性して、状況は一気に悪くなる。

その機序をカンタンに言えばこういうことだ。

遺伝子の問題は確かにあるが、誰でもかかる病気だから、きわめて特殊な遺伝子病とは言いがたい。

同じように、遺伝子が攻撃されるスローウィルスみたいな病気も考えにくい。

そうすると、APPの異常増殖よりは、出来たAPPの分解・排泄能力の低下のほうがメインと考えたほうが良さそうだ。

とくにα、β、γの三つのセクレターゼの働きの不具合が一つの鍵と思われる。α、βの方で頑張ってくれれば出来の悪いγなど出番はないはずだ。ましてグリアが出てくれば、インターロイキンだらけになる。益より害のほうがひどい。

私なら、なんとなくクラリス1錠とロキソニン半錠くらい続けてみたい気がするが、抑肝散をダラダラ使うより良心の呵責は少なくて済む。


それにしても、ネットの世界は根拠のない「認知症は治せる」だらけだ。「治せません」から出発するのがまっとうなはずだが。学会まで「抑肝散は有効」とエビデンスつきで認定している。エライさんの小遣い稼ぎの論文を内輪ぼめするような学会は信用してはならない。

この10年以上にわたって新たな発見はないのだろうか。ネット上にめぼしい文献はほとんどない。一番知りたいのがAPPは腫瘍なのか、それは腫瘍性(自律的)に増殖しているのかどうかということだ。そうでなければカスケード・セオリーは重大な欠陥を抱えることになる。しかし神経細胞の膜受容体蛋白が二次的に変性してAPPになっている可能性は否定されていない。


アルツハイマー病 研究の歴史

1906年 Alois Alzheimerが、アルツハイマー病(AD)の最初の症例(女性、死亡時55歳)を報告

フィrstかせ

世界で最初にアルツハイマー病と確認された患者(ウィキペディアより)

1910年 クレペリン(アルツハイマーの師)、アルツハイマー病と命名。老人性痴呆とは異なる疾患とする。

1911年 アルツハイマー、鍍銀染色による検討結果を発表。

1.大脳の萎縮,皮質の神経細胞の減少,2.老人斑(シミのような異常構造)の多発,3.神経原線維変化(神経細胞中の繊維状の塊)を指摘する。

~1960年まで 高齢者(65歳以上)の認知障害もアルツハイマー病だという主張が有力となる。

1960年 この頃から電子顕微鏡の導入により病理所見が確定される。A)アミロイドの蓄積、B)神経原線維変化

1974年 神経原線維の変化がPHF(paired helical filament)蛋白の出現を伴うことが発見される。

神経原線維変化は、神経細胞の成分であるタウが過剰リン酸化により変性したもの。アミロイドと直接の関係はない。

1984年 アミロイドからAβ(Amyloid β protein)が抽出される。分子量4200ほどの蛋白で、正常脳には認められない。

Aβは脳で常に産生されているが,正常では分解あるいは除去される.何らかの異常でAβが老人斑として蓄積するのがアルツハイマー病である.東京都精神医学総合研究所 秋山治彦

1987年 Kang Jらの報告がブレイクスルーとなる。少し詳しく説明する。

1.Aβのアミノ酸配列をヒト胎児脳のライブラリーと対照した。
2.その結果、Aβは分子量約8千のAPP(amyloid precursor protein)の一部であることが判明した。APPは膜受容体を構成する蛋白の一つ。
3.APPをコードする遺伝子が第21染色体長腕上に存在することが分かった。
4.この遺伝子の量は、ダウンで5割増だったが、アルツハイマーでは増えていなかった。アルツハイマー病原因遺伝子APP 玉岡晃ら

諸文献でAPPについての記載が紛らわしい。APPそのものはタンパク質で、遺伝子ではない。APPの削りカスがAβになる。
第21染色体上に発見されたのはAPPの産生を誘導する遺伝子でAPPではないが、APPと言いならわされている。

1988年 アミロイド蓄積が神経原線維変化に先行することが確認される。

1992年 ハーディら、「アミロイドカスケード」仮説(Aβ仮説)が提唱。APP遺伝子の変異がアミロイド蓄積と神経原線維変化、神経細胞の脱落、認知機能の低下を引き起こすされる。(下図はアルツハイマー病研究の歴史とこれからの展望より転載)

amiroidokasuke-do

95年 早発性痴呆と関連する二つの遺伝子(プレセニリン1,プレセニリン2)が同定される。これらの遺伝子を組み込んだトランスジェニックマウスの作成が成功。

1999年 国内初のAD治療薬アリセプト(ドネペジル塩酸塩)が発売される。アルツハイマー病は脳内のアセチルコリンの著減を特徴としており、アセチルコリン分解酵素を阻害することで、アセチルコリン濃度の維持を図る。

bakanokusuri

脳科学辞典 アルツハイマー病より

AchE Inhibitor は薬剤開発の本流ではない。Aβを標的とする薬剤として、主なものとして、
1.γセクレターゼ阻害薬(副作用により開発中止)
2.Aβワクチン(Aβの抗体を作り、グリアの排除機能を促進)
3.NSAIDs(長期服薬のRA患者に痴呆が少ないことが注目された。最近では効かない、むしろ有害とされている)

2002年 日本神経学会が「痴呆疾患治療ガイドライン」を発表。画像解析と脳脊髄液による分析を取り込む。(例えばPETではアミロイド蓄積の状況を確認できる。脳脊髄液ではアミロイドβ42の低下がアミロイド蓄積を反映する)

PET

 

 

 

 

老人保健施設に居ながら、実はアルツハイマーという病気がよくわからない。恥ずかしながらよく分からずに施設長として医療にあたっている。

世間と老健施設の入所者の痴呆の度合いもよくわからない。(すみません。差別と言われても、この際事態の本質を表わすのには“痴呆”のほうがすっきりしているので、遠慮せずに使わせてもらいます)

老健で仕事していると、痴呆は当たり前で、きわめて生理的な変化のように思えてしまう。もちろん、痴呆にならずに歳を重ねていく人もいる。しかしそのほうがむしろ例外のようにさえ思える。

話は変わるが、痴呆を中核症状と周辺症状に分ける考えは、この疾病の管理における一大進歩だと思う。周辺症状はかなりコントロールできる。それだけでもありがたい話だ。肝心なことは、このことによって認知症が厄介な病気だという世間の誤解が随分解けたことだ。その後に残るのは生活障害だけなので、これはマンパワーによるアシストでなんとかなる。ただ向精神薬というのは諸刃の刃で、下手をすれば痴呆そのものを進展させる。この辺の見極めはなかなか難しい。

たんなるオーバー・ドーシスの可能性もある。逆に薬剤の投与量が不十分だったりすることもある。また向精神薬がベースとなっている内科疾患に影響を与えるということもある。医者は往々にしてやり過ぎの傾向があるが、現場のスタッフは逆に薬剤に対して抵抗する傾向がある。こちらにはそれを説得するほどの経験も知識もない。だからやることが中途半端になっている可能性がある。

なぜ、このような矛盾した状況が出現するのか。それはとくに家族の影響である。「なんとかしてくれ」と泣きついてくるが、「なんとかなる」と、「それ以上はしないでくれ」ということになる。

家族へのムンテラの際よく使うセリフだが、どんな人でも加齢の重みが全てに優るようになる。経験的にはその境目が90歳だろうと思う。

人間の半分は85歳まで生きている。85歳の人は昭和5年の生まれだ。死ぬ理由は随分あった。冷害もあったし、結核もあったし、戦争もあったし、戦後の食糧難や伝染病もあった。その人達まで入れての平均寿命だから、それを生き延びた人の平均寿命は90歳近いのだろう。

ところが、今日珍しくないとはいえ、100歳まで生きるのは相当厳しい。つまり昭和5年におぎゃあと生まれた人の半分は今まで生きている。しかしその半分の人達はこれから15年の間に死に絶えるのだ。それは紛れもない運命であり、すさまじい消耗率なのだ。

このすさまじい現実を前にして、痴呆かどうかなどはたいした問題ではない。それで死ぬわけではない。認知症専門のフロアーまである施設の長として、まことに不謹慎ではあるが、老人問題の主要なテーマは痴呆ではないと思う。私が考えるには老人問題の根っこは低栄養(特に低アルブミン)だ。その根っこは貧困とメディアの誤った宣伝にある。

社会が高齢化すると医療・介護費が上がっていくように宣伝されている。たしかに絶対値としては上がるだろう。しかし高齢化は元気で働ける世代の増加でもある。かつて社会の世話になって生活していた世代が、今や社会に貢献する世代となっているのだ。そういう人たちを増やしていくことが世の中の進歩である。

昭和40年代、医者になりたての頃、癌は即死亡宣告だった。脳卒中は半身不随、寝たきりの垂れ流しを意味していた。医学が進歩すれは疾病像は変わる。アルツハイマーも生活スタイルが変われば、いずれ減っていくはずだと思う。最大の課題は老人に見合った代謝・栄養学の改革にあると思う。

以上があまりまじめにアルツハイマー病の勉強をしてこなかった言い訳である。とはいえ、そろそろ、それなりに勉強しなくてはならないな。

通所リハ(デイケア)利用者のカンファレンスの経験


お上が無理難題を持ち出してきて、お陰で死ぬほど忙しい目にあった。


方法と実績

当施設の通所リハ利用者(要介護)は約200名。これを1ヶ月で全部見ろと言ってきた。そんなことはハナから無理だ。

とにかく頑張った。休日も返上で目一杯組んだ。それでも50人ちょっとというところだ。

お上の要求する項目をクリアするのにはどうしても20分かかる。利用者の殆どは障害者だから、部屋に入ってくる・出て行くという行動だけで5分かかる。

医者の他にリハ担当者、ケアマネージャー、ヘルパー担当者、用具業者などが着席・退席するのも、それ相当の時間がかかる。これにご家族様、訪問看護ステーションということになれば、さらに時間が浪費されていく。

だから一人20分といっても正味はその半分あればいいほうだ。

その間に一人ひとりがプレゼンされてはたまらないから、医者のほうで経過、リハの内容を紹介して、利用者さんに現在の状況について問答を行う。この順は逆のこともある。

いずれにしても、これで5ないし6分が費やされる。これに各担当者が情報を追加する形で議論が進む。

この後、医者がいったん情報を整理して全体の枠組みを提示する。これに基づいて、今後のプランの基本線が打ち出される。

具体的な話が出てくれば、それは担当者での引き継ぎ議論としてノートしておく。

最後は「私達がチームとして、今後とも対応させてもらいます」と利用者にご挨拶して、全体を締めくくる。

だいたいこんな流れになるだろう。

皆さん、会議の流れに協力してくれるので、また課題も急を要するようなものはないので、なんとか時間内に入れることが出来る。

中心課題は医療情報の整理

やってみてわかったことは、医療情報の整理が大変なことだということだ。しかし関係者の多くはおそらくそれを期待して来ている。

「古文書」を読み解きながら医療の流れを整理するのは医者の仕事だ。これが相当大変な作業だ。そもそも医療情報が少ない上に、けっこう肝心な部分が欠如している。

やってみて分かったのだが、一番情報を持っているのは利用者自身だというこだ。患者さんとの問答が実質的なアナムとりになることもしばしばだ。まさに利用者中心のカンファレンスだ。

ただ、認知があったり失語症、構音障害、難聴があったりするとこの作業は難渋を極める。

かくして、足らざるところを補いつつ、時には大胆な推理も加えつつ、病気の全体像が見えてくる。現在抱える障害のよって来たるところが大方の理解となる。

これだけで、少なくとも第1回目のカンファレンスとしては十分であろう。

喜ぶ関係者・苦しむ医者

これまで司、司でやってきて、頑張っては来ても、全体像が見えずにいた関係者にとっては、まことにためになるカンファレンスだろうと思う。

医者にとってもそれは同様だ。しかし、それはそのまま、医者にとっては重苦でもある。脳みそフル回転で10分を過ごすとぐったりと疲れが来る。

発症以来の経過を追いつつ、その中から現在の障害に結びつくものを整理して抽出していく作業、さらに各担当者からの情報をパズルのようにはめ込んで全体像を構築してく作業、これらを10分間のあいだに形にし、みんなが納得できるような作業計画へと転化させていかなければならない。

10分後にカンファレンスが終了するときには、「それじゃぁ、こんな戦略柱でやっていきましょう」とまとめる、そうしないと終わらないのである。

2回め以降をどうするか

正直言って、これを毎月やる意味は無いと思う。

だいいち無理だ。そんなことをすれば、老健の医者のほとんどは「やめさせていただきます」ということになる。

いまは療養病床いじめのアオリを受けて老健が「半療養病床化」している。急性期病院からは、ICUから一般病床に移すような気分で患者が送られてくる。入所だけで十分に忙しいのだ。

ただ、やればやったなりに、こういうトレーシング+総合評価+集団的作業計画の立案は面白い作業ではある。

とりあえず、1ヶ月を経過した時点での感想。

本日は近くの老健のスタッフが我が老健を見学に来た。
近くと言ってもライバルというほどの近くではないから、こちらでサジェストできるところは大いにアシストしようと思った。
ある意味で、自分の老健の4年近くの生活を振り返るチャンスにもなると思う。「情けは人のためならず」だ。
1.老健の主体はケアワーカー
老健の性格はいろいろに規定できると思うけど、施設長(運営者)の立場から言えば、ケアワーカーの仕事を中心にした施設だ。
なぜならスタッフの圧倒的多数はケアワーカーだからだ。そして利用者(前線)ともっとも身近に接触しているのはケアワーカーだからだ。
だから、他のスタッフはケアワーカーが主体的に考え、行動するための支援をすることがだいじだ。
2.ケアワーカーとリハ技師は車の両輪
老健の戦略目標は生活支援にある。入所老人の生活とはどういうものか、介護を受けながらも自立した生活をおくることにある。要するにケアワーカーの基本的任務は、入所老人の生活能力に下駄を履かせることにある。
入所老人は下駄を履けば「自立」できるのである。ただし「自立」といっても程度問題だし、長期的には落ちていくしかないのだが、基本はそういうことだ。前を向きながら遅滞後退するのだ。
ただし、その際はさまざまな方法で「自立」を促さなければならない。それがリハ技師の仕事である。
地味で目立たない仕事だが、これなしには老健の仕事は目標なしのグダグダになる。
3.医療スタッフはケアワーカーとともに行動する
医療スタッフはケアワーカーより半歩後ろにいるが、ケアワーカーとともに行動する。
入居者の多くは病人でもあるからだ。我が老健の統計でも、入所者の半分が1年以内に入院を余儀なくされる。だから場合によって医療スタッフが前面に出るのはやむをえないことなのだ。
非常時というにはあまりにも高頻度だが、やはり基本的には非常時だのだ。在宅介護を考えれば分かる。まずはケアなのだ。

医師も看護師もたいてい病院で修行を積んでくる。だから病院の習慣を持ち込んでくる。医療スタッフが我を通せばケアワーカーはやる気を失う。これでは困るのだ。
医療スタッフは用心棒。平手造酒みたいにごろろろしていればよいのだ。医局でも内科の医者があくせく働いているあいだ、外科の連中はソファーに寝そべって鼻毛を抜いていた。そんなものなのだ。

昭和大学横浜北部病院の「救急搬送された偶発性低体温症の6症例」は、かなり参考になる。

要約

2010年度の1年間で6例を経験した。年齢は50歳から95歳であり、高齢者の疾患と言ってよい。

全例が屋内発症とのことで、事故とか遭難という非日常的なものではないということも念頭に置くべきだろう。

一次性は1例のみで他はすべて二次性であった。ということはハイリスク・グループが存在するということだ。

基礎疾患は肝硬変(アルコール症)、DM(昏睡)、COPD、重症肺炎など。

死亡者は3名で死亡率は高いが、直接死因は基礎疾患によるものであった。低体温は崖っぷちでの突き落とし効果であろう。

死亡例はすべて痩せ型(BMI平均12)で、生存例(同22)は痩せていなかった。アルブミン値には差はなかった。

腋窩温と直腸温の逆転

症例4というのが、老健入所中の92歳女性で身近だ。この人は認知があり、布団をはがして寝ていたらしい。意識障害となり搬送されたが、腋窩温は35.3度だった。冷感が強いため直腸温を計ったら33.1度しかなかった。

加温輸液などで改善し、3病日で退院となった。この症例のミソは腋窩温と直腸温の逆転である(正確度の疑問はあるが)。

なお症例1は、初期補液量が明らかに過少であるが、それも含めて情報提供したことは論文の信頼度を高めている

J波とBrugada症候群

低体温でJ波が出現し、Brugadaの機序で心室細動を招くということで、こちらの検討も行われている。結論としては、J波はかなりの高頻度で出現し、重症度の判定基準となるようだということである。

↑このページのトップヘ