鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

AALA関連記事は「aala_newsの編集日記」http://blog.livedoor.jp/aala_news/ に移りました(6Nov.2023) 中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 「ラテンアメリカの政治」(http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ )がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

カテゴリ: 70 文学・芸術・スポーツ

ということで、いよいよ啄木の「時代閉塞の現状」に入ることにする。
(ということというのは前の記事 のことです)

すでに我々には日本型自然主義の輪郭がおぼろげながら出来上がっている。

一方には急成長しつつある強欲な日本主義の姿と、そのあからさまな擁護者としての高山樗牛がいる。一方で戦闘的民主主義(平民主義)者の田岡嶺雲がいる。さらにその先に微かに行方を照らす幸徳秋水ら社会主義者のグループがある。

その中で間隙を縫うように登場するのが意気地のない個人主義としての「自然主義」 だ。

あらためて読みなおしてみると、魚住折蘆「自己主張の思想としての自然主義」は、その“とりとめなさ”をかなり正確にすくい取っているようだ。論旨が不透明なのは、元々の日本型自然主義が逃げ腰で自家撞着しているからである。

それにもかかわらず、魚住氏が「とにかくまぁ、頑張んなさいよ」というかたちで文章を締めくくっているのは、大逆事件というでっち上げが明治43年という時点で同時進行しているからであり、どのような形でも抵抗を続けるしかないという重苦しい雰囲気があたりを支配していたからかも知れない。

それらの事情がわかってくると、これまで通り一遍で読み過ごしてきたこの評論の重みがズシンと伝わってくる。これは心して読むべき文章である。

 


時代閉塞の現状

(強権、純粋自然主義の最後および明日の考察)

石川啄木

青空文庫より

 

第一節

1.魚住論文について

今日における我々日本の青年の思索的生活の半面――閑却されている半面を比較的明瞭に指摘した点において、注意に値するものであった。

まずは一応評価する。なぜなら「半面」を指摘したものであり、論旨が「比較的に明瞭」だからだ。したがって、称賛に値する論文ではないが「注意に値する」ものである。

2.自然主義の論理的破産とその意味

けだし我々がいちがいに自然主義という名の下に呼んできたところの思潮には、最初からしていくたの矛盾が雑然として混在している。

それにもかかわらず、今日までまだ何らの厳密なる検かくがそれに対して加えられずにいる。

この「主義」はすでに五年の間間断なき論争を続けられてきたにかかわらず、今日なおその最も一般的なる定義をさえ与えられずにいる。

事実においてすでに純粋自然主義はその理論上の最後を告げている。にもかかわらず、熱心を失ったままいつまでも虚しい議論が継続されている。

次が啄木の論点だ。

これらの混乱の渦中にあって、今や我々の多くはその心内において自己分裂のいたましき悲劇に際会し、思想の中心を失っている。

つまり啄木はこの混迷を社会の混迷、青年の混迷としてとらえようとしているのだ。

3.魚住氏における自己主張と自己否定の奇妙な結合

自然主義においては、自己主張的傾向がそれと矛盾する科学的、運命論的、自己否定的傾向(純粋自然主義)と結合していた。

そこでは自己主張は自然主義の一つの属性のごとく取扱われてきた。

しかし純粋自然主義が実人生を観照的立場で見ると決めてからは、この問題は解決した。自然主義は自己主張的傾向を放棄したのである。

これで問題は解決したのに、魚住氏はまたぞろ「自己主張の思想としての自然主義」を持ちだす。

しかもその根拠として、「両者共通の怨敵たるオオソリテイ――国家というものに対抗するため」の共棲だという。これはまったくの捏造だ。

(残念ながら)日本の青年はいまだかつて権力と確執をも醸したことがない。したがって国家が敵となるべき機会もなかった。

第二節

1.青年を取り巻く社会問題

徴兵、教育、税金などさまざまな問題があり、権力との関係を問わざるをえない環境がある。

にもかかわらず実際においては、幸か不幸か我々の理解はまだそこまで進んでいない。

2.「富国強兵」の論理と青年による歪曲

父兄の論理は「富国強兵」である。その論理は我々の父兄の手にある間はその国家を保護し、発達さする最重要の武器だ。

しかし青年はそれを歪めて解釈する。

「国家は強大でなければならぬという。それを阻害する理由はないが、お手伝いするのはごめんだ!」

「国家が強大になっていくのはけっこうだが、我々も一生懸命儲けなければならぬ。正義だの人道だの国のためだの考える暇はない」

哲学的虚無主義のごときも同類である。それは強権への不服従のようであるけれども、そうではない。むしろ当然敵とすべき者に服従した結果なのである。

彼らはさまざまな人間の活動を白眼視するごとく、強権の存在に対してもまたまったく没交渉なのである。

敵が敵たる性質をもっていないということでない。我々がそれを敵にしていないということである。事態はそれだけ絶望的なのだ。

3.自然主義者は「不徹底」か

魚住氏は、自然主義者の一部が国家主義との間に妥協を試みたのを見て、「不徹底」だと咎めた。

私は論者の心持だけは充分了解することができる。しかし、たとい論者のいわゆる自己主張の思想からいっては不徹底であるにしても、自然主義としての不徹底ではかならずしもない。

そもそも不徹底だから自然主義なのであり。不徹底であることは自然主義を徹底して実行していることだ。

魚住氏はいっさいの近代的傾向を自然主義という名によって呼ぼうとする。それは笑うべき「ローマ帝国」的妄想だ。それは今日自然主義という名を口にするほとんどすべての人の無定見なのである。

第三節

この節は目一杯自然主義の悪口を並べ立てているが、あまり興味ない部分のため省略。

ただし次の一句は秀抜。

近き過去において自然主義者から攻撃を享けた享楽主義と観照論(当時の自然主義)との間に、一方がやや贅沢で他方がややつつましやかだという以外に、どれだけの間隔があるだろうか。

新浪漫主義を唱える人と主観の苦悶を説く自然主義者との心境にどれだけの扞格があるだろうか。

淫売屋から出てくる自然主義者の顔と女郎屋から出てくる芸術至上主義者の顔とその表れている醜悪の表情に何らかの高下があるだろうか。

第四節

1.時代閉塞と青年

我々には自己主張の強烈な欲求が残っている。理想を失い、方向を失い、出口を失った状態において、自身の力を独りで持て余している。

今日の我々青年がもっている内訌的、自滅的傾向は、じつに「時代閉塞」の結果なのである。

青年を囲繞する空気は、今やもうすこしも流動しなくなった。強権の勢力は普く国内に行わたっている。現代社会組織はその隅々まで発達している。

2.「敵」の存在を意識せよ

かくて今や我々青年は、この自滅の状態から脱出するために、ついにその「敵」の存在を意識しなければならぬ時期に到達している。

我々はいっせいに起って、まずこの時代閉塞現状に宣戦しなければならぬ。自然主義を捨て、盲目的反抗を罷めるべきだ。

そして全精神を明日、すなわち我々自身の時代に対する組織的考察に傾注しなければならない。

このくだりはかなり唐突であり、抽象的で言葉が空回りしている。これも大逆事件直後という時代背景から汲み取らなければならないのかもしれない。

問題は「明日の考察」ということだが、骨組みだけなので、見通しは良い。

①このままでは青年は自滅だ、このような状況から脱出しなければならない

②脱出するためには(自己実現をさまたげる)「敵」の存在に気づき、その姿を認識すべきだ、

③「敵」との闘いを宣言するということは、自然主義を捨て、盲目的反抗を罷め、闘いの真の構えを形成することだ、

④明日を我々の時代にするため、計画を立て、闘いの組織に着手すべきだ、

という段取りになるのだろう。おそらく理論作業としては③の自然主義の残渣克服を念頭に置いているのだろうと思う。

第五節

1.自己主張の系譜

「明日の考察」のためには過去における自己主張の系譜をたどるのが良いだろう。

青年が過去においていかにその「自己」を主張し、いかにそれを失敗してきたかを考えれば、今後の方向が予測されるのではないか。

以下の啄木による歴史のスケッチは私にはちんぷんかんぷんである。

2.日清戦争の意義

明治新社会の成立: 明治の青年は新社会の完成のために有用な人物となるべく教育されてきた。同時に青年自体の権利を認識し、自発的に自己を主張し始めた。

日清戦争: 大国清への勝利という結果によって国民全体がその国民的自覚の勃興を示した。

3.高山樗牛の個人主義とその破滅

明治の青年の最初の自己主張は高山樗牛の「個人主義」であった。しかし樗牛の個人主義は既成強権に対して第二者(対抗者)たる意識を持ちえなかった。

彼の「個人主義」は、「既成」と青年との間の関係に対する理解がはるかに局限的だった。ニイチェや日蓮はその局限性を糊塗するものでしかなかった。

樗牛の失敗は、いっさいの「既成」をそのままにしておいて、その中に我々の天地を建設するのは不可能だという教訓を示している。

青年の心は、彼の永眠を待つまでもなく、早くすでに彼を離れ始めた。

4.宗教的欲求の時代

ついで第二の時代、宗教的欲求の時代に移った。

宗教的欲求の時代は前者の反動として現れたとされる。しかしそうではない。自力によって既成の中に自己を主張せんとしたのが、他力によって既成のほかに同じことをなさんとしたまでである。

だから第二の経験もみごとに失敗した。

5.純粋自然主義の最大の教訓

かくして時代は第三の時代に移る。それが純粋自然主義との結合時代である。

宗教的欲求の時代には敵であった科学はかえって我々の味方となった。

自然主義運動の前半、彼らによる「真実」の発見と承認は、「批評」として刺戟をもっていた。

純粋自然主義の与えた最大の教訓は、「いっさいの美しき理想は皆虚偽である!」ということだ。我々の理想はもはや「善」や「美」に対する空想であるわけはない。

6.「必要」という真実が残された

いっさいの空想を峻拒して、そこに残るただ一つの真実――「必要」! これじつに我々が未来に向って求むべきいっさいである。

我々は今最も厳密に、大胆に、自由に「今日」を研究して、そこに我々自身にとっての「明日」の必要を発見しなければならぬ。必要は最も確実なる理想である。

ここで啄木が言う「必要」とは、今風に言えば「欲求」ということではないか。日用目的の品々でもなく、自然主義者の本能的欲求でもなく、明日に繋がる青年の欲求(Demand)ということを指すのだろうと思われる。


正直言えば、啄木の時代認識は「世代論」に傾き、やや皮相の感を免れ得ない。

しかし第5節の個人主義の系譜を回顧する場面は、当事者意識満載で面白い。大抵の近代文学史には載ってこない切り口である。

また閉塞の時代突破のカギを、ある意味で自然主義者(初期)を受け継ぐ形で自然科学的「真実」を問い、それに「必要」と応えるところもさっそうとしている。

いろいろ読んできてどうやら感じがつかめてきた。
自然主義派というのは軟派なのだ。左派でも右派でもなく軟派なのだ。左翼運動が高揚すればそれに潜り込んできて、過激だが訳のわからないことを言って、情勢が厳しくなればさっと消えていく連中だ。
運動の最初から居る人間にはそんなことはお見通しだが、後からくる人にはよくわからないから、目立ちたがりのそっちの方が左翼の主流であるかのように勘違いしてしまう。口だけは達者だから中には中枢にまで上り詰める人も出てくる。
それが大逆事件に至る日露戦争後の反動のなかで左翼扱いされて弾圧の的になると、「ごめんなさい。悪気はないのですから」とひたすらかしこまってしまう。
しかし真の左翼はとうの間に弾圧され消え去っているから、不満を持つ若者はそれにしがみつくしかない。しからばそれらの若者を含めた自然主義派を、それなりにカヴァーしていくのも大事なことなのかもしれない。
それが魚住さんの立場で、啄木はそれに異議を唱えたわけだ。
啄木の議論はかなり生硬だが、自然主義をどう評価するかなんて議論はもうやめて、「青年の未来をどう切り開くか」という本筋の議論をしようと呼びかけている。その限りではまっとうだ。
おそらくその点では魚住さんも異議のないところであろう。
ただ残念なことに啄木も魚住さんもみんな30前後で早死してしまっている。いたずらに馬齢を重ねて古希にならんとしている私には、半ば慚愧の思いである。

田岡嶺雲について調べてみた。

朱琳(ZHU Lin)「田岡嶺雲とその時代 ―ある明治の青春―」という格好の読み物があった。

そこから抜書きしておく(一部仮名遣い改編)。興味のある方は直接原文にあたって欲しい。

1.田岡の階級意識

十九世紀の所謂文明開化なるものは、富者に厚きの文明なり。自由の名の下に貴賎の階級を打破せりといえども、貧富の隔絶はこれによりて益々甚だしくなった。

唯物文明の進歩に伴ふ器械の精巧は、ますます労働者より職を奪った。文華の発達に伴ふ奢侈の風は、ますます窮乏者を塗炭の苦みに追い込んでいる。

今の文明は中流以上の徒を悪徳の風に陥めると共に、下流社会のものを悲惨の谷に突き落している。

下流民の大半は、優勝劣敗の社会の大勢に敗れて至りたるものである。彼等が罪悪を犯すに至ったとしても、寧ろ当然ともいうべきところがある。

あぁ文明といふなかれ、開化といふなかれ!

2.文化人のとるべき立場

詩人・文士同情を欠く可からず。

わたしは、天下の文士がおおいに社会の罪悪を暴露するべきだと考える。それだけでなく、同情の涙をもって人の道のために泣き、道義のために憤り、みずから警世の暁鐘、懲悪の震雷となることを望む。

ああ、この世で最も悲惨な運命、最も憫むべき生涯は、下流社会の徒のそれではなかろうか。そしてこの憫むべき民の生涯を描くことこそが、詩人文士のなすべきことではないだろうか。

世は既に才子佳人相思の繊細巧みな小説に飽けり、侠客烈婦の講談めきたる物語に倦めり。今日、作家たるものは満腔の同情を下流民に注ぎ、渾身の熱血を筆にそそぎて、「不告の民」のために奮って天下に訴えるべきではないか。

ちなみに同じ頃、嶺雲の対極にいた高山樗牛は以下のごとく主張している。“障害児18人虐殺犯”も真っ青の暴論である。

いわゆる社会主義の如きは天理人道に背馳せるものなり。国家事業として社会の劣者・弱者を保護すべき何等の理由も見い出せない。それどころか、社会進化の必然なる結果として、国家的活動の担い手となり得ない不能者 に余分な利益を与えるのは、「国家全体の幸福」において断然有害無益 なりと考えるものなり。

3.明治維新に続く「第二革命」の提起

嶺雲は明治維新に次ぐ「第二革命」の必要を提起した。

朱琳はそれを次のように紹介している。

維新の革命によって、「貴賎の門閥的階級」が打破されたが、現状ではさらに「第二の革命」を起こして「貧富の生計的階級」を打破しなければならない。ここで嶺雲は「富閥」の打倒を「第二の革命」の任務の一つとして提起し内容を具体的に示している。

以下が嶺雲からの引用

今日我が国において、富豪が勢力を増長し来らんとするはおおいに憂ふべきことだ。貧富の懸絶が大ならんとするはおおいに憂ふべきことだ。門閥が自由の敵ならば、富閥もまた自由の敵だ。門閥が平民の権利の敵ならば、富閥もまた平民の敵だ。

維新の革命をなしたる我が国民は、さらに第二の革命を富閥の上に加へるべきではないか。かの同盟罷工の如きは、もとより挙動不穏ではあるが、それも富者の専横に打撃を加ふるの一法だ。私は罷工者に同情する。日本鉄道機関方の同盟罷工においては、たしかに会社の非は言をまたざるものがある。

4.嶺雲と社会主義

嶺雲自らも言う通り、彼は社会主義者ではない。

朱琳は次のように述べている。

1893年に、彼はスペインからの解放を求めた第二次キューバ独立戦争にも参加しようと準備した。嶺雲は社会主義の先駆者というよりも、激動の明治時代の生んだ、反体制的な、東洋豪傑流の、志士タイプの文人であろう。

彼の思想には、大陸雄飛的アジア主義と人道主義を基礎として社会主義的思想へと繋がる流れがある。あるいは萌芽的な国家社会主義と呼ぶべきかもしれない。

そして嶺雲の言葉を引用する。

私の主義は科学から入つた者では無い、小説から注入せられた芸術的社会主義とでも謂ふべき者である。私は開戦論者で、この点に於て既に私は社会主義者たる資格を缺いてゐた。

これに対し幸徳秋水らは正統的な社会主義であつた、故に彼等はその主義として非戦論を唱へた。

奇しくも嶺雲は、大逆事件で幸徳秋水が捕らえられたとき、病気療養のため同じ旅館に寄寓していた。そして幸徳秋水の追悼者に名を連ねている。

年表を作ってみて分かったのだが、日本文学史における「自然主義」というのは実に微々たるもので、線香花火のように短命だったということだ。
明治39年という1年にすべてが集中しており、その前数年間にゾラの手法を真似た小説がいくらか書かれ、39年に洋行帰りの島村抱月が大々的に打ち出し、島崎藤村の「破戒」が発表されて、次の年には田山花袋が「布団」を書いて一気に時代を風靡した。そしてその数年後には文学の表舞台からおずおずと引き下がり、書き手の連中は「私小説」作家として生き延びていく。それが第二次大戦後は「純文学」作家としてえばり散らすという経過だ。
「日本型」自然主義の特徴は手法としての「赤裸々主義」でしかなく、四畳半的広がりしか持たない。
日本文学の革新性は田岡嶺雲の志向のもとにあった。彼は尾崎紅葉の戯作趣味を排撃し、階級性を打ち出した。これに対し高山樗牛があからさまな資本家の利害を持ちだした。
こういう真っ向勝負の中で、自然主義派は芸術の独自性を打ち出すことで抜け道を探った。その際こしゃくにも「社会的」傾向を持ち込むことによって科学派・進歩派のような装いを凝らした。
日露戦争後の社会的反動は、そのようなヌエ的な一派にも進歩の思想を紛れ込ませざるをえないような状況を現出した。
これら諸々の事情が、魚住折蘆の「自己主張の思想としての自然主義」に反映されている。だから、今の我々がこの論文を読んでもさっぱり分からなくさせているのである。「自然主義」は明治40年代、大逆事件直前の日本の文学状況のメタファである。「自然主義」が論理的ににっちもさっちもゆかなくなっている現状を、啄木は「時代閉塞の現状」と見ぬいた。
「自然主義」は意気地のない個人主義に過ぎない。日露戦争後の排外主義、軍国主義の跋扈という状況に対するへ迎合と後ずさりしながらの個人主義であり、それも大逆事件で後を絶たれる。
このような時代閉塞の状況を打破したのは、文化人ではなく、大正7年に富山から始まった「米騒動」という民衆の決起であった。

それを見ぬいた啄木の直感は「慧眼」と呼ぶにふさわしいと思う。

結局、前項で紹介した文章は、「自然主義論争」という議論を踏まえないとわからないようだ。

まずは、例によって年表化してみる。題して「自然主義論争史 年表」ということになるか。

1880年 ゾラの『実験小説論』が発表される。生理学者ベルナールの『実験医学序説』をそのまま文学の理論に適用した。

1885年(明治18年) 坪内逍遥が小説神髄を発表。「芸術であるためには、小説は写実的でなければならない。人間とその心理を写実的に描くべき」と主張。

1886年 二葉亭四迷が『小説総論』を発表。翌年には「浮雲」を発表。

1889年(明治22年) 森鴎外、「小説論」にてゾラの自然主義を紹介。その意気込みは評価するも作品そのものは評価せず。その上で坪内逍遙をゾラのそれとは別物の、「ありのまま主義」だと批判。没却理想など意味ありげな概念語を無限定に駆使する逍遥をクソミソにする。

1895年(明治28年) 田岡嶺雲が「下流細民と文士」や「小説と社会の隠微」で硯友社文学を批判。「富む者は彌々富み、貧き者は彌々貧す」社会の中で貧しい人間の苦しみを代弁することによって醜悪な現実を是正することを文学の目的と規定した。

高山樗牛はこれに抗して国民文学論を唱える。「社会生活は多数劣者の幸福を犠牲にするに非ざれば、其進歩の過程を継続する能はざる」という露骨な開き直り。

1900年(明治33年) 鴎外、『審美新説』の中でゾラ以降の自然主義の動向を紹介。運動を二期に分け、前期は客観に偏して枯淡に傾き、後期は逆に主観に傾き、深秘・象徴の趣を呈したとする。(鴎外にしてみれば、抱月など一知半解、笑止千万であったろう)

1901年(明治34年) 田山花袋が「作者の主観」を発表。写実の奥に「大自然の主観」がなければならぬと主張。正宗白鳥との間に「主観・客観論争」が交わされる。

1902年(明治35年) 長谷川天渓、「論理的遊戯を排す」を発表。抱月とともに自然主義擁護の論陣を張る。

木下杢太郎、「太陽記者長谷川天渓氏に問ふ」で、「理想は動力である。故に理想は決して夢幻ではない」と主張。

永井荷風がゾラの『実験小説論』を紹介。森鴎外の客観的紹介とは異なり、人間の動物性の一面にふれて、「暗黒なる幾多の欲情、腕力、暴行等の事実を憚りなく活写せんと欲す」と述べる。

1902年(明治35年) 小杉天外、田山花袋、永井荷風らがゾラの手法をまねた作品を相次いで発表。強い自我意識が独自の芸風を作り上げる。

1904年(明治37年) 田山花袋、「露骨なる描写」を発表。「何事をも隠さない大胆な露骨な描写」を主張。

1906年(明治39年) 洋行から戻った島村抱月、『囚はれたる文芸』を発表。自然主義の理論的指導者となるゾラの文学を智に偏した「囚はれた文芸」と名づける。「フランスの自然主義は知に囚われた文芸」であり、我々の目指すは「正しく日本的文芸の発揮といふことならんか。時は国興り、国民的自覚生ずるの秋なり」という雑然ぶり。

田中王堂が抱月を批判。主体の問題抜きに客観は語れないと批判。「自然主義を弁護し且つ鼓吹するが、自然主義を囚はれたる文芸と見るのか、放たれたる文芸と見るのか」を問う。

1906年(明治39年) 天渓が「幻滅時代の芸術」を発表。現実への判断を排し、ただ傍観的態度で無理想・無解決に客観」すること。これにより「あらゆる幻想・虚飾がはぎとられ、現実が暴露されたとき、真実其の物に基礎を定めた無飾芸術が生まれる」とする。

1906年(明治39年) 島崎藤村の『破戒』が発表される。抱月は「破壊」を自然主義文学の範とし、この作によって日本の自然主義運動を前期と後期とに分かつ。

1907年 田山花袋の『布団』が発表される。『布団』は私小説の出発点ともされる。

1908年(明治41年) 自然主義は社会の秩序を破壊する危険思想として排撃される。抱月は自然主義に観照の立場を持ち込み、傍観的態度に徹するよう提唱。このあと運動としての自然主義は衰退。

私小説を中核とする「純文学」の世界が成立。自然主義派の作者の多くが移動する。


1908年(明治41年)

4月 啄木、北海道での流浪を終え東京に出る。金田一京助に頼り糊口をしのぐ。一方芸者遊びで借金を重ねる。

6月 22日 赤旗事件が発生。大杉栄ら無政府主義の青年グループが革命歌を歌いデモ行進。警官隊との乱闘の末,幹部16人が一網打尽となる。

7月 西園寺内閣、赤旗事件の責任を問われ総辞職。代わった桂内閣は社会主義取り締まりを強化。検挙者のうち10人に重禁錮の実刑が下る。

9月 第三次平民社の開設。獄中の幹部に代わり、高知から再上京した秋水が中心となる。

1909年

5月 幸徳秋水、管野スガらの創刊した『自由思想』が発売禁止処分となる。

1910年(明治43年)

3月 第三次平民社が解散。秋水は湯河原にこもる。

5月25日 「明科事件」で宮下、新村らが逮捕される。

5月31日 検事総長、明科事件が大逆罪に該当すると判断。社会主義者・無政府主義者の逮捕・検挙が始まる。

6月1日 秋水、管野らが湯河原で逮捕される。

6月 啄木、評論「所謂今度の事」を執筆(未発表) この頃から堅気になった啄木は、仕事柄事件を比較的知りうる立場にいた。

8月9日 魚住折蘆、朝日新聞に「自己主張の思想としての自然主義」を寄稿。

8月下旬 啄木、「時代閉塞の現状」を執筆。朝日新聞に掲載予定であったが、未発表に終わる。

8月 朝鮮併合。「地図の上朝鮮国にくろぐろと墨を塗りつつ秋風を聴く」を書く(未収録)

9月 朝日新聞に「朝日歌壇」が作られ、その選者となる。

11月 米英仏で大逆事件裁判に抗議する運動が起こる。

12月10日 大審院第1回公判(非公開)

12月 啄木、歌集「一握の砂」を発表。

堺利彦、売文社を設立。「冬の時代」の中で社会主義者たちの生活を守り、運動を持続するために経営する代筆屋兼出版社。

1911年(明治44年)

1月18日 大逆事件の判決。死刑24名、有期刑2名。

1月24日 幸徳秋水ら11名が処刑。

1月 啄木、友人で大逆事件の弁護士だった平出修から詳細な経緯を聞く。

2月 秋水救援活動を続けた徳富蘆花、一高内で「謀叛論」を講演。

幸徳君等は時の政府に謀叛人と見做されて殺された。が、謀叛を恐れてはならぬ。謀叛人を恐れてはならぬ。自ら謀叛人となるを恐れてはならぬ。新しいものは常に謀叛である。
 我等は生きねばならぬ。生きる為に謀叛しなければならぬ。

3月 木下杢太郎、森鴎外や永井荷風も作品で風刺する。

1912年(明治45年)

4月13日 石川啄木が病死。

「時代閉塞の現状」を理解するためには、この文章で批評の対象となっている「自己主張の思想としての自然主義」という文章を読まないとならないということがわかった。

このふたつを対にして理解して、なおかつ当時の時代背景を知ることが必要のようだ。

幸いなことに、こちらの文章も忍者ツールズというサイトで読むことができるので、まずはこちらから始めることとする。

魚住折蘆「自己主張の思想としての自然主義」(明治43年8月9日 朝日新聞)

見出しがないので私が勝手につける。

1.「自然主義」は自己主張ではないか

「自然主義」はある種の決定論的傾向を持つ。本来、自己主張とは対極にある。

しかし最近いわれる「自然主義」はむしろ一種の自己主張ともとれなくはない。

2.近代思潮は反抗精神を持っている

すべからく近代思潮は反抗精神を持っている。それは自己拡充の精神の消極的表現と捉えられる。

3.近代思潮における自然主義

自然主義はそもそもは科学的決定論であるが、それが近代思潮の中に位置づけられた時には、2つの方向で表現される。

ある時は自暴的な意気地のない泣き言や愚痴になる。ある時はそういうだらしない自己を居丈高に主張することもある。

(どうもこの辺の論理構築はよく分からない。証明すべきことを前提に議論を組み立てている傾向がある)

4.現実的精神と反抗の精神

超現実的な中世に対して立ち向かったのは「現実的な精神」であった。

現実的な精神は、ふつうは“立ち向かう”などというバカな真似はしないのだが、そのときに限って「反抗的精神」と共同した。

ルネッサンスの精神と宗教改革の勢力は、共同の敵たる教会という権威に挑戦した。相容れざる2つの運動が一時的に連合したのである。

(着想は面白いが、やや雑駁の感を免れ得ない)

5.近代社会における現実的精神と反抗精神

現実的な世界が実現して、予想を超えて進歩してきた。2つの精神も発展し、それにしたがって互いに相容れざる矛盾を生ずるようになっている。

にも関わらず、今日においても、両者は離れることを好まないのである。

6.奇妙な結合体としての自然主義

自然主義は現実的で科学的である。その故に「平凡」を旨とし、運命論的な思想である。

が、それは、意志の力をもつて自己を拡充せんとする自意識の盛んな思想と結合して居る。此の奇なる結合が自然主義と名付けられている。

7.現実的精神と反抗精神が連合する今日的理由

両者が今もなお連合するのは、教会に代わる新たな権威(レヴァイアサン)に対抗するためである。

自己拡充の念に燃えて居る青年に取つて最大なる重荷は、これらの権威である。

(どうもこの人の本意がさっぱり読めない。検閲を前提に自己韜晦しているのかもしれない。石川啄木がこれに対する反論を書いているということは、当時の知識人はこれを読んで論旨がストンと落ちたということであろう)

8.日本における「権威」のありよう

日本人にはも一つ「家族」と云ふ権威がある。それは国家の歴史の権威と結合しており、個人の独立と発展とを妨害して居る。

キリスト教は本来個人主義だが、抑圧に抗するために唯物論たる社会主義と結合したりするのもこのためだ。

9.芸術と個人主義

芸術は其内生活の忌憚なき発現であるから、国家の元気がどうの、東洋の運命がどうのと云つて今更始まらない。

自然主義の自然といふ事は有りふれた平凡なと云ふ意味で、っそれはヒロイズムの対極にある。

淫靡な歌や、絶望的な疲労を描いた小説を生み出した社会は結構な社会でないに違ひない。 

 けれども此の小説によって自己拡充の結果を発表し、或は反撥的にオーソリティに戦ひを挑んで居る青年の血気は自分の深く頼母しとする処である。


要するに何を言いたいかさっぱりわからぬ雑文である。最後のところだけ読むと、「自然主義、大いに結構。若いんだからせいぜいおやんなさい」ということのようだ。

中国新聞の原爆年表を眺めているうちに、注目される記事が見つかった。
1968/5/29
劇団民芸が原爆医療に打ち込む一開業医を主役にした「ゼロの記録」を公演。大橋喜一氏作、早川昭二氏演出
というものだ。
どんな劇なのか分からず、ただ開業医の視点というのが面白そうで、詳しい内容を知りたいと思い、ネットで探してみた。
ゼロの記録

 古本よみた屋」さんのページより 

それで探したのが、以下の記事。

神戸演劇鑑賞会のホームページに、平田康氏(京都橘大学名誉教授・英文学者)の戯曲にみる核の恐ろしさ ~広島・長崎からチェルノブイリまでと題する講演記録が掲載されている。
記事によると以下のとおり、
平田康氏が「非核の政府を求める会・兵庫」の第20回総会(2006年2月26日)で行った記念講演を採録したものです。

この中から「ゼロの記録」に関する部分を紹介しておく。

『ゼロの記録』は、大橋喜一の綿密に調べた資料に基づく実にリアルな戯曲と、早川昭二の妥協のない演出と民芸俳優人の迫真の演技による舞台が、とても鋭く 心に突き刺さったものでした。
広島の廃墟の街を背景にした第一部は、被爆直後の8月10日から翌年春までの半年間。後にヤブピカと呼ばれる開業医小津や病理学者の平岡、それに博愛病院の医師たちが、全く未知だった原爆症による被災者たち、それには自分自身も含むわけですが、その想像に絶する症状との格闘が描かれます。
彼らはその謎の正体が放射線であるのに気づく。ところが進駐してきたアメリカ占領軍は原爆に関する報道を禁止し、解剖資料を含む被爆についての あらゆる資料を没収し始める。
白血球が減少して死を前にした医師が叫ぶ、「この街の死亡者のデータは、医学的にも役立つが、同時に軍事的な秘密も含んでいる…自分たちの死を軍事的資料にするな。」 
翌年春になると新聞には、「原爆症いまはなし」の記事が出るが、血液疾患として原爆後遺症が姿を見せ始めま す。

 バラックの街を背景にした第二部
「平和平和と山車が街をねる」2年後(1947年)の8月から1953年まで。ドラマは2つの流れに分かれる。
原爆の 悲惨さを詠んだ短歌の歌集を出版するのには、占領政策との厳しい対決を覚悟しなければならないと知った詩人は、労働者と連帯して反戦抵抗運動へ傾斜していく。
朝鮮戦争が勃発し、原爆をトルーマン大統領に使わせないと訴える「ストックホルム・アピール」の署名が妨害にもめげずに拡がり、1950年8月6日に は、弾圧の下で非合法平和集会が開かれる。
一方で、広島に設置されたABCCは、被災者の血液を採るが診療は行なわず、一部の医師たちの期待は裏切られ、 原爆症の研究は占領軍の監視の目をくぐってひっそりと行なわなければならなかった。「ABCCの本質は医療機関である前に、軍事機関の下請けではないのか?」 
講和が発効するが、日本に真の独立と自由がもたらされたのか? 
医師たちは原爆対策協議会を組織するが、治療資金はゼロに等しく、それを確保するために妥協止むなしと考える医師と、医学的真実のためにはABCCや厚生省と対立しても仕方がないと考える医師が対立します。
若い病理学者がつぶやく、 「あらゆる科学が…医学研究までが、核戦略に組みこまれる時代…。」 
心ならずも遺体をABCCに売り、その金で遺族が生活しなければならない被爆者の現 実。「患者に…安静にせい、ということは、一家で飢え死にせい、ということになる。」 
普通のドラマのような完結はありません。現代の矛盾への問いかけが 残るだけです。

 これは「発見と認識」のドラマと言われ、観客を大きな力で「ヒロシマ」体験へと引きずり込むものだったと言えます。あの悲惨な出来事を、単に一つの地域にいた人びとの体験に留めずに、日本人全体の民族的体験に拡げ深める強い推進力となったものでした。

皆さん,観たいとは思いませんか。

ぜひ再演を期待したいものです。


伊藤ふじ子 私の二大発見

二大発見というとマルクスの史的唯物論と剰余価値ということになるが、私のはそんなに大げさなものではない。

一つは、「空白の一時間」というもので、密かに自慢している。

これは窪川稲子のレポートが細部にわたってかなり正確であるにもかかわらず、時間の記載が誤っていることだ。これは以前書いたとおり、人間の記憶というのは静止画像として保存されているからである。その場面が目の前にあるかのようにまざまざと想起されるのに、それがいつの事だったかと言われるととんと分からない。そういうものなのだ。古事記の世界もそういうふうに理解すべきだ。時間感覚があやふやだからと言って、それが嘘だとはいえないのである。

窪川は中条百合子の家で晩飯をゴチになっていた。そこに多喜二虐殺のニュースが飛び込んできた。多分壺井栄からの連絡ではないか。それから前田病院に電話したら「もう出た」という。とるものもとりあえず馬橋の多喜二宅に向かう。

おそらく、その時点では遺体を載せた車はまだ出発していないはずだ。下落合の中条宅から西武新宿線、中央線と乗り継いで阿佐ヶ谷の駅まで行き、そこから馬橋の多喜二宅まで歩いた。どう見ても2時間はかかる。

そして10時半ころに多喜二の遺体が到着した直後に、多喜二宅に入る。中条、壺井らとともに死体の検案を介助した。

検案を担当した安田徳太郎と中条らとともに多喜二宅を辞したのは夜の11時半過ぎであったろうと思われる。

当時、終電が何時ころかは知らないが、省線電車に間に合わせようと家を出たのかも知れない。

肝心なのがここからで、稲子らは「踏切の向こう」で、多喜二宅に向かう原泉、貴志山治らと行き逢っているのである。

この「踏切の向こう」というのがずっと分からずに居たが、馬橋の地図を知ったことから、話が見えてきた。

当時の馬橋は新興住宅地であり、道は昔の野道がそのままであった。多喜二宅に行くには阿佐ヶ谷の駅の北口に一旦出て、そこから東南に進む道を通って、線路を横切って行くことになる。

だから稲子のグループは踏切を越えたところで、貴志らのグループと行き会うことになるのである。

稲子らがいなくなって、貴志・原らが到着するまでの間、短ければ30分、最大で60分位の「空白」があった。

もちろん完全な空白ではない。母セキら家族はずっといたし、小坂多喜子の夫婦も居たはずだ。

あるとすれば、突然の闖入者であるふじ子に圧倒されて座を外したのであろうということになる。そして見も知らぬふじ子と遺体だけにしておくわけにも行かず、江口が立ち会っていたのであろうと想像される。

これが第一の発見である。

第二の発見は、ふじ子の句集の中の2首である。

句集の中に、やや場違いに、「恋の猫」の句が二つほど投げ込まれている。飛び飛びで、悟られぬよう密かに紛れ込ませたようにみえる。

恋猫の 一途 人影 眼に入れず
ボロボロの 身を投げ出しぬ 恋の猫

技巧もへったくれもない。まさにあの日あの時の情景だ。
分かるのは、ふじ子が多喜二の傍らでは「恋する猫」であったこと、多喜二がむごい死を迎えたその日、ふじ子もボロボロだったこと。ボロボロだったから、原泉に「私は多喜二の妻です」と叫び、人目もなく多喜二(の遺骸)に向かって身を投げ出したこと。

以上二点については、私のいささかの自慢である。

これまでの文章もご参照いただければ幸甚です。

ふじ子の句集「寒椿」と「恋の猫」

伊藤論文への感想

伊藤純さんの考察

ついに見つけた、空白の1時間

多喜二の通夜で、新たに発見された写真の解読

大月源二「走る男」とふじ子

2月20日、土曜日、多喜二祭の集会に参加するために小樽まで行ってきました。
1.小樽 最近の様子
汽車に乗って銭函の駅を過ぎると、線路はやおら波を浴びそうなほど海岸ぎりぎりに出ます。この波を見たとたん「あぁ小樽に帰ってきた」という気分になります。
まるで省線の四ツ谷駅みたいな切通の底の南小樽駅を過ぎて、突然高架になって右手に港の風景が広がるとやがて終着駅小樽です。この駅は跨線橋をまたぐのではなく、地下に下りる階段を下って、そこを右に曲がると改札口になるのです。とにかく原野に碁盤目の札幌では味わえない、そういうハイカラさが小樽独特のものでした。
ここまでは小樽診療所の所長だった20年前の小樽、余市診療所長だった40年前の小樽と変わりない風景です。
降りてからが全然違う。20年前、すでにうら寂しげな街でしたが、いまやもはや死にゆく街です。駅前通りこそかろうじて街の雰囲気ですが、その1本西側は廃屋通りです。木造3階建、奥行きの深い、さぞや往時はブイブイ言わせたであろう町屋が、いまや無住の家となり残骸をさらしています。
その中の一軒が、今夜の楽しみにしていた「竹八」でした。小樽診療所の所長時代は三日と明けず通い続けた小料理屋です。ここでは締めサバと本マグロの山かけで始めて、季節のものが出てきて、最後は串カツというのが定番でした。とんかつソースを両面漬け、辛子もたっぷりつけて泣きながら食べるのが定番です。亭主があきれてみていました。最後は串カツを10本くらいお土産にして診療所に帰ったものです。
あるいは気分が乗れば、そのまま花園通りまで足を延ばして、ディープな浮世通りに場違いなスナック「新世界」で、サンバ・カンシオン(ときどきセザリア・エボラ)を聞きながら、ご自慢のチーズパイでスコッチを傾けるのが日課でした。
2.当日講演の紹介
講演は小樽商大の多喜二研究者で、非常に水準の高いものでした。多喜二が大の映画フアンで、おそらく小樽時代に見た映画からずいぶん影響を受けているのではないか、ということで当時の映画を映像で紹介しながらプレゼンテーションしてもらいました。
改めて納得したのですが、多喜二の見た映画はサイレントでした。我々はつい考え違いしてしまうのですが、明治生まれの人はまず画像から映像に入り、ついで音声に至るという文化受容の経過をたどったのです。
文字(原語)に始まり翻訳→画像→動画像→音声という経過は、明治・大正の新文化を考えるうえで念頭に置いておいておいたほうが良いようです。
3.夜の小樽
結局飲み仲間との再会はかなわず、一人で街へと繰り出しました。といっても8時の汽車に乗らないと介護に差し支えるので、ちょいといっぱいのつもりで小樽駅周辺で探すことになりました。
「竹八」はもうありません。とりあえず「島崎」に行きましたが満員お断りでした。そもそも選択するほどの店はもはや駅近辺にはありません。仕方ないので、アーケード街からちょっと脇に入った昔からの「炉端焼き」に入りました。相変わらず頭が高い。ネットで宣伝しているのか観光客が入り始めていて、ますます構えが「老舗」風になっています。
結局、注文の品が来ないまま店を出たのですが、おかげで快速の最終に乗り遅れてしまい、自宅についたのが9時半でした。
いささか画龍点睛を欠く20年ぶりの夜の小樽でしたが、今どきの小樽としてはこんなものでしょうか。


これって、ちょっと品はよくないけど、立派な詩だよね。前に戦争法反対の女性の演説載せたけど、詩人っているんだね。そんじょそこらに。

しかもたいてい女性だ。紫式部、清少納言以来の日本的な伝統なのだろうかね。与謝野晶子、茨木のり子、みんな女性ばかりだ。

「保育園落ちた 日本死ね」

何なんだよ、日本!

一億総活躍社会じゃねーのかよ

きのう、みごとに保育園落ちたわ

どうすんだよ

私、活躍できねーじゃねーか

子供を産んで、子育てして、社会に出て働いて、税金納めてやるって言っているのに

日本は何が不満なんだ?

何が少子化だよ、クソ!

子供産んだはいいけど、希望通りに保育園に預けるのは、ほぼ無理だから

…って言ってて子供産むやつなんかいねーよ

不倫してもいいし、ワイロ受け取るのもどうでもいいから

保育園、増やせよ!

オリンピックで何百億円ムダに使ってんだよ

エンブレムとかどうでもいいから、保育所作れよ

有名なデザイナーに払う金あるなら、保育所作れよ

どうすんだよ

会社辞めなくちゃならねーだろ

ふざけんな、日本!

保育園増やせないなら、児童手当20万にしろよ

保育園も増やせないし、児童手当も数千円しか払えないけど

少子化何とかしたいんだよねーって、

そんなムシのいい話あるかよ、ボケ!


いろんなところに載ったと思うけど、未読の方のために再掲しておく。

赤旗文化面のコラム「朝の風」に、すなおにうなづけない二つの歌が掲載されていた。
福島泰樹という人の歌集「焼跡ノ歌」からのものらしい。

あおい炎を ふきだしている 弟のそばに 立っている 電信柱
泥の川に朝日を浴びてよこたわる白い便器のような妹

非常に過激な歌で、その過激さを突き出すことで、戦争の悲惨さを訴えようとする思いは分かるが、どことなく納得出来ない。
その過激さが浮遊しているような気がしてならない。

東北大震災を目の当たりにして、3歳で体験した東京大空襲の場面が蘇ったという。いわばフラッシュバックしたイメージだ。

二つ考えられる。ひとつは70年を経て、諸々の情景に絡まっていた恐怖や悲しみや不安などの心的情景がそこにはさっぱり消えてしまった可能性だ。
もう一つは、その時まさに失感情状態に陥っていたという心的情景が、「昆虫の目をしていた私」の記憶が、写真的情景とセットになって畳み込まれていた可能性だ。

焼跡の情景はダリの絵のシュールリアリズムと似ているかもしれない。しかし本当はシュールどころではないはずだ。もしそれがシュールであれば、それはそこまで追い込まれた人間のシュールな感覚、無感覚の感覚というべき心的状況なのではないか。

これだけ外的情景と心的情景が乖離しているのなら、これらの歌は対となる心的情景の叙景が、いわば返歌として歌われなければならない。でなければ、沈黙を守るほうが良かったかもしれない。

ここを書き込まないと、歌作りは疎外を取り戻す営為とはならないはずだ。そこを書き込まないと、歌人は心をいまだ取り戻せていないことになる。

上野先生に頂いた森熊たけし著「漫画100年、見て聞いて」を、明後日の多喜二忌を前に、遅まきながら読んだ。
A4版で120ページというからかなりの大部ではあるが、絵や写真が満載なので読むのにさほど時間はかからない。
ふじ子の俳句をまとめた「寒椿」という句集がそのまま掲載されている。加藤楸邨に師事したということで、かなり技巧的にも洗練されたものだ。
表紙がいいので、そのまま転載する。多喜二が舞い上がった理由も、セキが好まなかった理由も、森熊がすべてを恕し続けた理由も、すべてこの写真で説明できる。
寒椿

句集の題名は彼女がつけたものではなく、夫、森熊猛によるものだ。由来は彼女が投稿していた句誌「寒椿」によるものだから、それほど深い意味はない。
ただし森熊によると、東京都知事選に美濃部さんが当選したとき、作った句に寒椿が出てくるので、それもあって「寒椿」としたのだそうだ。それがこの句である
枯芝に 紅こぼしけり 寒椿
紅は紅の旗を指すのであろう。さすれば寒椿は風雪に耐える民衆の力の象徴ということになる。
次の句は多喜二に関するもので、有名なものだ。
アンダンテ カンタビレ聞く 多喜二忌

多喜二忌や 麻布二の橋 三の橋
これは句誌に投稿したものではなく、ノートに書き残されていたものを森熊が見つけ出したものだ。
蛇足で申し訳ないが、アンダンテ・カンタービレはチャイコフスキーの弦楽四重奏曲第一番の第二楽章。甘美な曲だ。バイオリン独奏用の編曲もある。
多喜二はバイオリンが大好きだったから、二人だけの隠れ家でレコードをかけて、音が漏れないように覆って、ふじ子を傍らに聞き入ったのであろう。ふじ子は体中を耳にして、多喜二の息遣いまで一緒に、その情景を心の奥底に綴じ込んだ。そのアンダンテ・カンタビレを、多喜二の何回目かの命日に、一人で密かに聞いているのだ。
“麻布二の橋、三の橋”は、二人が特高の目を逃れるために麻布界隈の間借りを転々としていたことを指す。それが走馬灯となって甦る。畢生の名文句だ。そこにあるのは、覚悟した、まことに濃密な愛の空間である。
これを読んだ時の森熊の胸中も、察するにあまりあるものがある。

つぎに「遺稿」の中から「自己紹介」という文章が紹介される。
わたしは悪女です。それも余り頭の良くない悪女です。人が信じようが、信じまいが、本人が言っているのですから間違いありません。
来世は史上最後の美女に生れます。世界の人類を魅了して夭折します。 以上
「以上」というのが、あっけらかんと潔い。彼女なりに、こっそりと懸命に「悪女」を生き抜いたのかもしれない。
たしかに「美女」とは言えないかもしれないが、それだけで十分に魅力的だよ。

さて句集だが、ひねりを利かせた叙景の中にかすかに叙情を込める技巧はさすがのものだ…と言いつつ眺めているうちに、大変なものを見つけてしまった。
句集の中に、やや場違いに、「恋の猫」の句が二つほど投げ込まれている。飛び飛びで、悟られぬよう密かに紛れ込ませたようにみえる。
恋猫の 一途 人影 眼に入れず

ボロボロの 身を投げ出しぬ 恋の猫
技巧もへったくれもない。まさにあの日あの時の情景だ。
分かるのは、ふじ子が多喜二の傍らでは「恋する猫」であったこと、多喜二がむごい死を迎えたその日、ふじ子もボロボロだったこと。ボロボロだったから、原泉に「私は多喜二の妻です」と叫び、人目もなく多喜二(の遺骸)に向かって身を投げ出したこと。
思えば2月のあの日、馬橋から阿佐谷の駅への道すがら、寒椿も紅色に咲いていたことであろう。


基本的には、前掲記事をひっくり返すようなものはない。(実は、その前に3回ひっくり返されて、そのたびに記事をボツにしている)

主要ではないが、矛盾する点をいくつか上げておかなければならない。

1.「新日本文学」1950年2月号の座談会記録

不勉強のため、こういう記録があった事自体が初耳で、伊藤さんはこれを目下のスタンダードとしている。

ただ私の参照した倉田稔さんの論文もこの記録を参照しているので、大きな齟齬はない。それに窪川稲子、原泉、江口、小阪らの証言はその後発表されたものが多いので、「座談会」と矛盾しても、その都度個別に判断するしかない。

貴司山治の動きは、個別に取り上げなかったが、新聞社と連絡をとって笹本を動かしているのが貴司だということが初めて分かった。また築地小劇場に行って各所に連絡したのは、原泉というより貴司の差金だったのかもしれない。

要するに築地班チーフが貴司、馬橋班チーフが江口という二人の非党員で現場を仕切ったことになる。これに対し、初動で活躍した大宅、青柳の名はその後出てこない。

2.写真の人物について

① 図像2がまず撮られ、ついで人を入れ替えて図像1が撮られた。

② 図像2は写真を撮るからといって、遺体と母親セキさんを中心に自然に人々が蝟集してきた生々しい雰囲気が生きている。

③ そのあと人々の配置を入れ替え、怒りと抗議の意志を示すポーズをとった関係者が図像1である。

と、伊藤さんは読みこむ。③はちょっと言いすぎかもしれない、両方を比べると、親族筋と江口さんが消えてその隙間に後ろの連中がせり出したというふうに見えるからだ。とすると鹿地亘がKYだが。

問題は人物の比定である。

まずは窪川稲子だ。窪川稲子に居られると困るのである。

fig1

fig1_2

これが、伊藤さんによる比定である。(多分先人が行なったものだろう)

fig2

fig2_2

私はこれは稲子ではないと思う。稲子は写真を見てこれは自分と思い込んだ。だから帰ったのは午前2時だったと時間合わせをしているのではないか。

帰りも一緒だったのなら、なぜそこに中條や壺井がいないのか。踏切の向こうで貴司らと行き合ったのなら、どうして一緒に写真に映れるのか。

と、一応疑問を投げかけておく。

ついでにタキさんの件だが、私は田口タキと比定されている女性は多喜二の姉ではないかと思う。そして後ろのちょび髭がその旦那ではないか。

小林家の養女にはなったものの、家出してしまった人間が、通夜の席でこの位置に座るか? という当然の疑問がある。セキさんが座らせたのだとすれば、それはそれであるが…

「女3人が来て激しく泣いた」というのは江口の述懐であるが、江口はふじ子が来るなり泣き叫んだところは見ていない可能性がある。

これについて記載したのは小坂である。しかし小坂は当然の事ながら接吻シーンは見ていない。

つまり江口は隣室にいて、ふじ子の泣き叫ぶシーンを三人の女が泣いたと勘違いしていたかもしれない。これ以上の当て推量は意味ないが…

それにしても鹿地亘が目障りだ。

「昭和前期の図像学」の紹介

もうやめようと思ったら、また文献が出てきてしまった。 

【資料紹介】 昭和前期の図像学 ガラス乾板から浮かび上がる群像

という論文。

2015年5月20日

占領開拓期文化研究会機関誌「フェンスレス オンライン版」 第 3 号  に掲載されている。

著者は伊藤純さん。あの写真の発見者である。

題名が題名だけに、グーグルではなかなか引っかかってこない。しかし論議の焦点にもろにかぶっているので、触れない訳にはいかない。

以下、関連する部分を抜き出していく。

Ⅰ 1933年2月21日深夜の〝小林多喜二〟

A ガラス乾板の発見

数十枚のガラス乾板(大名刺判〔6.5cm × 9cm〕その他)が、貴司山治の遺品の中から発見された。デジタル化してポジ像に変換してみると、いくつか、注目すべき画像が検出された。

小林多喜二虐殺直後の写真はいつ誰によって、どのような状況下で撮影されたものか記載されていない。

今回見出されたガラス乾板の中に、この写真のネガが発見された。さらにもう一枚、手ぶれと露出ムラの激しいガラス乾板も見出された。

この事実は、「新日本文学」1950年2月号の座談会記録と整合する。

(そこでは)記憶の錯誤や食い違いがいくつか現れてきているが、総体として虐殺直後の事態の推移がかなりよく復元されている。

B 座談会による事実経過

時事新報の記者だった笹本寅(つよし)が、新聞カメラマン(前川)を連れて関係者をフォローし事態の把握に重要な役割を果たす。

多喜二の遺体が引き取られ馬橋の自宅に安置されたのが二十一日午後十時頃とされている。

安置直後、医師安田徳太郎が詳細な検屍を行う。その時、屍体の外況が写真撮影されており、この写真も広く流布しているが、撮影の背景はやはりほとんど説明されていない。

立野信之は「笹本から屍体の写真をもらった」と発言している。笹本(の指示を受けた前田カメラマン)は二十一日深夜、まだ官憲の張り込みが甘かった時点で、安田医師の検屍に居合わせて遺体を撮影したことになる。

同じ座談会で、江口渙は、田口タキ、小林幸と、もう一人の女性が、遺体の「右手の枕許にずらりと一列に坐つて…一斉にワーッと声を挙げて泣いた」と陳述した。

これに対し貴司は「……その晩僕がとった写真があるが、女の人はおらんよ。」と発言している。

これについて伊藤さんは下記のごとく推測している。

江口が物語った三人の女性のエピソードはおそらく、貴司や千田がデスマスク作成の手配のために遅れて馬橋に帰ってきた、それより以前の時間に起こったことであろう。

C 貴司のうごき

伊藤さんは同じ座談会の記事から騎士の動きを抜き出している。

貴司は二十一日夕刻、夕刊報道で事態を知った。

まず時事新報に笹本寅を訪ねてフォローを依頼した。笹本は新聞記者で警察の警戒下でも比較的行動しやすいと考えたと思われる。

その後、貴司は築地警察署、前田医院、築地小劇場などを経巡って、集まった人々と事態の対応にあたった。

貴司は築地小劇場で原泉とともにふじ子に対応した。

原泉や貴司など居合わせた人々が、「多喜二の妻」などと名乗っていると警察にどんな危害を加えられるかわからないので、何とかなだめて馬橋の小林宅にとりあえず赴かせた。

おそらく直接対応したのが原泉で、相談を受けて貴司が新聞社(時事新報)に手配したのだろう。

その後貴司は千田是也などとデスマスク採取の準備のために別行動をとり、深夜に至って馬橋にたどりついた。

D 画像について

大名刺判のカメラはジャバラのついた大きなカメラで、三脚を使うのが普通である。当時の感度の低い乾板では相当の長時間露出が必要となる。

この二枚の写真に関しては、著しいライティングの偏りや、人物に強い影が出ていることなどから閃光電球(フラッシュバルブ)が用いられていると想像される。

図像2がまず撮られ、ついで人を入れ替えて図像1が撮られた。

図像2は写真を撮るからといって、遺体と母親セキさんを中心に自然に人々が蝟集してきた生々しい雰囲気が生きている。

そのあと人々の配置を入れ替え、怒りと抗議の意志を示すポーズをとった関係者が図像1である。

後は、通夜の場面と直接関係ないので省略。

注(5)

伊藤ふじ子: 「妻だ」と名乗って築地小劇場と馬橋の小林宅に現れ、壮絶な別離を演じていずこかへ消えた。

前記「座談会」での貴司、原、壺井栄の発言、ことに原の言葉はそれが誰であったか分かっていたと思われる文言も含まれている。(座談会の時点で伊藤ふじ子が再婚し平穏な生活を送っていることがわかっていたので、あいまいな言及になったと思われる)

占領開拓期文化研究会 senryokaitakuki.com

ふじ子はいつ来ていつ去ったのか

ついに見つけた、空白の1時間

これまでどうにもこうにも嵌めようのなかったジグゾーパズルのピースが、原泉と窪川稲子の証言でかなり見え始めた。

1.原泉の斡旋

原泉は次のように語っている。

築地小劇場で気をもんでいる原泉のところへ、一人の若い女性が近付いてきた。 「わたしは小林の女房です」 とその女性は言った。
原泉には見覚えがあった。左翼劇場に研究生と して在籍していた伊藤ふじ子であった。
原は 「シーツ」 と指で唇をおさえ、「あんたが女房だなどと言ったらどういう ことになると思うの」 と精いっぱいの思いで話した。
伊藤は「あの人に どう しても一目会いたい」 と言った。ちょ う ど取材のためどこかの新聞記者が車で来た。
「むこう'へ行って、なにもいわないでお別れしてらっしゃい」 と、原はふじ子に言い、新聞記者には、「すまないけどこの人を連れて行ってほしい」 と馬橋の小林家を教えた。

これは想像だが、ふじ子は多喜二死亡のニュースを聞いて、矢も盾もたまらず築地署に向かったのだろう。と言っても見物人の一人でしかなかったが。

そして目前で原泉が警察と激しく殺り合うさまを目撃した。やがて弁護士や医者も来て交渉の主役が移ると、原泉はその場を離れ、築地小劇場に戻っていった。

「何たる幸運!」

ふじ子は原と面識があった。彼女自身が新劇の俳優として舞台に立ったこともあり、それは原の知るところでもあった。

ふじ子はおそらく築地小劇場に戻る原泉の後を追いかけていったのだろう。そして必死に声をかけた。中身はきわめて直截である。

原は勘の良い人らしく、一瞬で事情を飲み込んだ。そしてとるべき態度を指示したうえで、ツテを使って小林宅へと送り込んだのである。そしてなおいくつかの連絡を続けた後、みずからも小林宅に向かうことになる。

こうしてふじ子は第1.5陣として小林家に到着した。

第一陣というのは寝台車に乗った母セキ、自宅で待機していた三吾と多喜二の姉、タクシーで寝台車を追った江口と安田医師ら、彼らに同行したかもしれない中条、佐多稲子、壺井栄ら。独自のルートでほぼ同時に小林宅に入った小坂夫婦である。

第二陣は、築地署から向かった貴司山治ら、石膏を買うのに手間取った築地小劇場・美術家のグループ、そして連絡を終えた原泉である。彼らが到着したのは12時過ぎと思われる。

その間に、同盟関係者以外の報道陣が独自に車で到着していた。その中にふじ子もいたという前後関係になる。

ふじ子が着くなり遺体に抱きついたというのは先着の第1陣が見た状況だ。小坂は度肝を抜かれ、セキは鼻白んだ。佐多、中条、壷井が見ているかどうかは定かではない。

2.なぜ江口とふじ子の二人きりになったのか

遺体は到着後ただちに検案され、その後清拭措置を終えて書斎に安置されたから、ふじ子が着くなり飛びついたのは11時前後のことであろう。第二陣のグループは見ていないはずである。

そこで江口の接吻証言だが、証言にもある通りこのシーンを目撃したのは江口ただ一人である。だから澤地久枝の言うように、これは江口の創作の可能性もある。しかし私は信じたい。

十一時近くになると、多喜二のまくらもとに残ったのは彼女と私だけになる。すると彼女は突然多喜二の顔を両手ではさん で、飛びつくように接吻(せっぷん)した。私はびっくりした。「そんな事しちゃダメだ、そんな事しちゃダメだ」。思わずどなるようにいって、彼女を多喜二 の顔から引き離した。
「死毒のおそろしさを言って聞かすと、彼女もおどろいたらしく、いそいで台所へいってさんざんうがいをしてきた。一たん接吻すると気 持ちもよほど落ちついたものか、もう前のようにはあまり泣かなくなった。

当初、「皆がいなくなってから」という表現から、通夜が終わってからの話かと思ったが、どうもそうではなさそうだ。夜11時前というとまだ第2陣が到着する前だ。その時にふじ子と江口以外に誰もいなくなった瞬間があった。

3.窪川稲子の「午前2時」は11時の誤り

そこで窪川稲子の「午前2時」証言が登場する。

稲子、百合子、壷井栄、安田医師らは遺体の検案・清拭を終えて、多喜二宅をあとにしたのだ。そして帰る。江口が「皆が帰る」というのはこのことを指す。

その道すがらに「踏み切りの向うで貴司や、原泉子や、千田是也などと行き合」っている。そして貴司らが多喜二宅についたのが12時だ。

杉並ピースウォーク(10) 馬橋の多喜二の家の跡

によれば杉並町馬橋 3-375(杉並区阿佐ヶ谷南 2-22)とある。

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二重丸のあたりと思われる。道路はいまの道路と随分違っていて、「中大プール」と書いているあたりが踏切のようだ。踏切を渡ってしばらく行ってから左折して駅の北口に出たのかもしれない。
 

イメージ 1

「(不吉な黒っぽい幌をかけた)車は両側に桧葉の垣根のある、行き止りの路地の手前で止まっていた」という小坂多喜子の文章が当てはまる光景だ。

話を戻す。

ということは、稲子らは午前2時ではなく、その3時間も前に家を出たことになる。彼女たちは明日の仕事のために帰ったのだから、省線の終電に間に合わすつもりだったはずだ。(駅で円タクを拾う手もあるが)

逆算すると、稲子らが家を出て「踏切の向こう」に達する時間、そこで行き合った原泉らが家に到着するまでの時間、これを合わせた時間が「誰もいない」時間だ。

この1時間足らずの間だ。

慌てた江口が「死毒」など口から出任せを言って、とにかく帰らせようとする。意外にもふじ子は素直に言うことを聞いて帰る。台所で口をすすいでいるうちに我に返ったのかもしれない。なにしろ周りはスパイだらけなのだ。

とにかくも、この多喜二の通夜にふじ子接吻のエピソードを押し込めるとするなら、そこしかないのである。

そして名残りおしそうに立ち去っていったのは、もう一時近かった。

写真を撮ったのが午前1時とすれば、ふじ子はその直前までいたことになる。

ふじ子が帰った後、第二陣がどやどやとやってきて、写生したりデスマスクを撮ったり写真を撮ったりと大忙しである。

今回の写真、三吾の肩に手をかけた江口の何食わぬ顔はなぜか笑ってしまう。もっとも江口の頭のなかはそれどころではなかったろうが。(江口は百合子と稲子が通夜に来ていたのを記憶していない)

 

 多喜二の通夜で、新たに発見された写真の解読

多喜二通夜3

困った写真が発見されたものだ。

ふじ子とタキさんを時系列の中にどうはめ込んで良いのか、あらたな混乱を招くことになる。

これで三連休が潰れることになる。

1.撮影状況を読む

まずこの写真(以下写真B)の評価から。

「赤旗」(2月22日号)の説明では貴司山治の遺族、伊藤純さんが父の遺品を整理中に発見したものだとされている。

既発の有名な写真(以下写真A)と同じアングルでほぼ同時に撮られたものと考えられる。前列右端の原泉と後列左の小坂多喜子が、2枚の写真の両方に同じ位置で写っているからだ。その差は数分程度と思われる。

これまで写真Aの撮影者は「貴司山治あるいは『時事新報』のカメラマン前川」とされていたが、これで貴司山治の撮影であることが確定された。

写真Bはフラッシュを使わず天井からの電灯の光のみを光源としている。このため画像はレンブラント効果を生んでいるが、長時間露光のため、かなりぶれている。

コピーによる劣化を考えてもかなりフォーカスは甘いが、奥の顔の鮮明度から考えれば、絞りは開放ではなくf8くらいはかけているのではないか。それで手ブレがないのだから手持ちではなく三脚を立てていると思う。

伊藤さんは「写真のぶれが衝撃の大きさを物語っている」と書いているが、写真Bがぶれたのは手ブレではない。画面左側から来客があったからで、一斉にそちらを向いている。とくに後ろの人がそっぽを向いている。三吾さんの顔が二重になっているのは露光1秒として0.8秒くらいの時点で来客がガラガラと入ってきたのだろうと想像する。

あつまった面々は、いつ警察が検束に来るかもしれないというのでソワソワしていた。(矢島光子)

おそらくその時に小林家に到着したのが鹿地亘、千田是也らであったろうと思う。彼らは上野壮夫(小坂の夫)とともに遺体の枕元に座り、腕組みして遺体を見下ろした。そこで貴司が二度目のシャッターを押した。

それが写真Aであったと思う。デスマスク取りや写生はその後始まったのではなかろうか。

なお、上野先生は前列左端がタキサンではないかと推理している。

可能性はないではないが、下記の経過表から見て姉ではないかと思う。姉は絶対来ているはずだ。セキさんが背中におぶったまま築地まで行った、その孫は絶対に引き取らなければならないからだ。そのとなり性別不明の人物は姉の旦那と考えたい。

(付記: 伊藤さんは写真Aと比較して鹿地亘だと判断している。そのほうが正しいようだ。とすると後ろのちょび髭が旦那か)

タキさんは翌日の葬儀に来ている(とされている)。妹やその友達を連れて来ているので、おそらく葬式の手伝いのつもりで来ているのではないか。

2.写真撮影までの動向

「小林多喜二の死の政治的意味」倉田稔という論文を骨にして、当日の経過を追ってみたい。

なお、下記のアドレスは本日(1月11日)はつながらない。以下はGoogleのキャッシュで拾ったものである。

barrel.ih.otaru-uc.ac.jp/bitstream/10252/464/1/ER_53(2-3)_21-45.pdf

20日

正午 多喜二、赤坂で街頭連絡中に捕らえられ、築地署に連行きれる。

午後5時 多喜二、“取調中に急変”。署の近くの前田病院の往診を仰ぐ。(江口によれば午後4時ころ死亡)

午後7時 前田病院に収容したが既に死亡していることが確認される。“心蔵マヒで絶命”とされる。

21日

正午ころ 東京検事局が出張検視し、死亡を確認。 

午後3時 警視庁と検事局、多喜二が心臓マヒによ り死亡したと発表。ラジオの臨時ニュースと各紙夕刊で報じられた。

大宅壮一、貴司山治などが築地署にいち早く駆けつけ、当局との交渉にあたる。

築地小劇場で死亡を知った原泉が前田病院にかけつけ、「遺体に会わせろ」ともとめ、 特高とはげしくもみ合う。大宅壮一と貴司山治に救出された原泉は築地小劇場に戻り、各関係者と連絡を取る。

多喜二の母セキは 杉並区馬橋の自宅にいて、ラジオを聞いた隣家の主婦から,知らされた。セキは預かっていた二歳の孫(多喜二の姉の子)をネンネコでおぶると、築地署へかけつけた。

夕方 セキが築地署に到着。この時遺体は署の近くの前田病院に安置されていた。当初、警察はセキを二階の特高室に閉じ込め、なかなか会わそうとしなかった。

夕方 江口は吉祥寺の自宅にいて、配達された夕刊で多喜二の死を知った。大宅壮一からの電話があり、馬橋のセキさんを伴れて築地署へ来いと言われた。ただちに馬橋に向かうが留守のため、阿佐ヶ谷から省線でそのまま築地署に向かう。

夕方 青柳盛雄弁護士らが築地署に赴き、遺体の引渡しを要求。さらに連絡を受けた安田徳太郎医師がやってきて警察と交渉。

午後9時 孫をおぶったセキが特高室を出され前田病院に入る。

午後9時40分 遺体とセキら親戚を載せた寝台車が前田病院を出発。江口らがタクシーで後を追った。同乗者は藤川美代子、安田博士、染谷ら4人。

10時半ころ 遺体は「幌をかけた不気味な大きな自動車」(小坂多喜子)に乗せられて小林家に到着した。

この時小林家では近親や友人達が遺体を待ち受けていた。小坂多喜子は車に僅かに遅れて到着した。

どこからか連絡があって、いま小林多喜二の死体が戻ってくるという。私と上野壮夫は息せききって…走っている時、幌をかけ た不気味な大きな自動車が私たちを追い越していった。…あの車に多喜二がいる、そのことを直感的に知った。
私たちはその車のあとを必死に追いかけていく。 車は両側の檜葉の垣根のある、行き止まりの露地の手前で止まっていた。奥に面した一間に小林多喜二がもはや布団のなかに寝かされていた(小坂多喜子の回想)

小坂と上野
        小坂と上野

ほぼ同時に江口、安田らのタクシーも到着。

セキの「ああ、いたましい…」のシーンがあった後、安田が検視を行う。

検視の介助には窪川稲子と中条百合子があたっている。検視の後、壺井栄らが遺体を清拭した。

午後11時 窪川稲子の回想: 事件を知った時点で、窪川は中条の家(下落合)で夕食をともにしていた。時刻には他の証言と相当ズレており、その原因は稲子の思い違いにある。到着時刻は10時半前であろう。

そして多喜二死亡のニュースを聞き前田病院へ電話をかけ、死体は自宅へ帰ったと知る。

午後十一時、我々六人 は阿佐ヶ谷馬橋の小林の家に急ぐ。家近くなると、私は思わず駆け出した。

玄関を上がると左手の八畳の部屋の床の間の前に、蒲団の上に多喜二は横たえられていた。江口渙が唐紙を開けてうなづいた。

我々はそばへよった。安田博士が丁度小林の衣類を脱がせているところであった。

お母さんがうなるように声を上げ、涙を流したまま小林のシャツを脱がせていた。中条はそれを手伝いながらお母さんに声をかけた。

江口によれば、この間に多くの人が駆け込んできた。(このあたり江口の記憶はごちゃごちゃになっている)

午前2時 窪川稲子の回想: 壺井や、乳のみ児をおいてきた私や中條などが安田博士と一緒に外へ出た。…踏み切りの向うで自動車が止まり、降りた貴司や、原泉子や、千田是也などと行き合った。(これは午後11時半のことであろう。窪川らが小林宅にいたのは1時間余ということになる)

22日 

午前0時 千田是也, 岡本唐貴、原泉らがタクシーで到着。 「時事新報」 社のカメラマンが多喜二の丸裸の写真をとり、佐土(国木田)が多喜二のデス ・ マスクをとった。岡本唐貴が8号でスケッチを描いた。(時事新報の写真撮影はもっと前、検視時だと思う)

午前1時 小林家の6畳の書斎に遺体が安置され、人々は遺体を囲んだ。この時貴司山治により2枚の写真が撮られた。この後の記録はないので、写真撮影の後まもなく解散したのだろうと思う。

江口によれば以下の如し。
告別式は翌日午後一時から三時まで。全体的な責任者江口渙、財政責任者淀野隆三、プロット代表世話役佐々木孝丸となる。
通夜の第一夜は何時か寒む寒むと明け放れていた。

午後1時 告別式。会葬しよう と した32名が拘束される。母セキ、弟三吾、姉佐藤夫妻、江口と佐々木孝丸だけが参列。


以上が、参加者の証言をつなぎあわせた経過の概要である。


死せる多喜二を巡ぐる群像

多喜二問題は一応の決着をつけたつもりだったが、上野武治先生からいろいろ聞かされて、とてもそういうレベルではないことが分かった。

改めて勉強させていただく。

まずは上野先生の論文の紹介から。

論文の題名はけっこう長いが、メインは下記の通り

大月源二の絵「走る男」が現代に問いかけるもの

北星学園大学社会福祉学部北星論集 2014-03

論文の冒頭には大月源二の絵「走る男」が掲げられる一風変わった論文である。

img1

この絵は治安維持法違反で服役した大月が出獄翌年の1936年に描いたものである。小林多喜二の鎮魂を目的に制作されたものである。

仔細は上野先生の論文をご参照いただきたいが、とにかく上野先生はこの絵から大月と多喜二にのめりこんだ。

大月は小樽中学時代から多喜二と付き合いがあり、1928年以降の他記事の小説の挿絵や装丁を手がけた。

大月は1932年に逮捕されていて、多喜二の虐殺時は獄中にあった。上野先生が注目したのは33年10月に仮釈放になったあと、「伊藤ふじ子の訪問を受けた」ことである。

これは「多喜二と私」という回想録の下書きに書いてあって、本文には書かれていないもののようである。

ここから先は上野先生の推論。

(ふじ子は大月が)保釈されたことを聞いて,多喜二との地下生活や遺体の様子,夫を殺された無念さを伝えに訪れたものと推測される。

ただ,ふじ子にとりこの訪問は危険を伴うものであった。大月は厳重な監視下にあり,転向した大月がふじ子と多喜二の秘密を守る保障もなかったからである。

しかし,ふじ子は大月を信頼した上で意を決して訪れ,多喜二の葬儀にも参加できず,怒りや悲しみを分かち合う相手もいない苦しみを伝え,多喜二を弔う気持ちを共有できたのではないだろうか。

そして、翌34年3月に森熊猛と再婚したきっかけもこの会見にあると推測している。(以上については小樽美術館の金蔵さんの調査を受けての記述と思われる)


以上が本文であるが、実はこの論文、注釈のほうが面白い。注釈を書くために本文を書いた趣がある。

謝辞 …貴重なご助言をいただきました大月耕平様(故大月源二様ご子息),篠崎木綿子様(故森熊ふじ子様ご息女)…に深く御礼申し上げます。

注釈3.「多喜二と私」の「下書き」の最後は、手塚英孝の文章の下書きで終わっている。大月が手塚の評価を受け入れていたことを示す。

注釈9.澤地は「接吻した」との江口の記載に懐疑的である。

しかし筆者は江口の方が厳しい地下生活を共に闘ったふじ子の様子をリアルに書いていると考える。

ふじ子がこうした激しく強靭な内面と行動力を持っていたからこそ,あえて大月を訪ね,かつ,自身や多喜二の遺骨・遺品を含む秘密,そして森熊家の幸せと平和を守りぬくことができたのである。

確かに上野先生に一理がある。それほどでなければ、あの状況で、ふじ子に遺骨が渡るわけがない。

注釈10.森熊猛(1907-2004年)は夕張出身で北海中学卒。21歳の時,北海タイムス募集の漫画が入選,喫茶店「ネヴォ」の佐藤八郎の紹介でヤップ北海道支部の結成に参加,1932年12月に上京しヤップの活動に参加。ただし大月との直接の接触はなし。

注釈13.「ネヴォ」は1928 ~ 1936年,北2条西3丁目に開店,クラシック音楽を流しており,文化人や学生,社会運動家が出入りし,東京でも知られていた。佐藤は小樽育ちで多喜二とも交流あり,ヤップ道支部長を勤めていた。
1930年12月の一斉検挙で逮捕され,1ヶ月半ほど札幌中央署に留置され拷問を受けた。

注釈21.多喜二の告別式で葬儀委員長として務めた江口は,告別式への参加者が片っぱしから検束され,「杉並署は検束者でいっぱいになり,道場まで臨時の留置場に使ったほどの大検束だった」と回想。ふじ子がどうしたなど、どうでもいい状況だった。

注釈24.子息の耕平氏に「走る男」を見ていただき、「目元が多喜二とそっくりです」とのご指摘を頂いた。


書評欄に尾崎左永子さんの歌集「薔薇断章」が紹介されている。
5首が紹介されているが、その中から3首引用する。

いつの日も やがては海に吸われゆく 街川の水 冬日に光る

茅原(かやはら)は光乱して吹かれゐき 蜻蛉(あきつ)は宙に とどまりながら

禱(いの)るべきこと おほよそは無きままに 永く 掌を合はす時あり 今は

三枝さんという方が評しているが、必ずしも同感できない。
一首目と二首目は光の詩で、しかも秋であり冬である。透明な、乾いた、明るいのに温かみの感じられないLEDみたいな光だ。
1首目は、「街川」と「冬日」がダブルで造語・濃縮されている。この凝縮された叙景に、どう上の句をつけるかだ。そこで「吸われゆく」という言葉が作られた。そして「いつの日」と「冬日」があやうく説明にならず、リズムになる。かなり人工(つくりもの)的な歌といえる。「吸われゆく」が感じ取れるかどうかが分かれ目だ。私などは下賤だから、吸われゆくというと便器の水が、最後にゴボゴボと音を立てて吸われるさまが思い浮かんでしまう。
2首目も「ウーム」と唸る歌だ。アシやヨシでなくカヤというのは、私の子供の頃の情景にはない。山家(やまが)の風情だ。逆光で見ているから光が乱れるので、そろそろ日暮れ時の情景だろう。カヤが揺れるさまは「そよそよ」という感じではあるまい。
「吹かれゐき」が分からないが、「ゐき」は「逝き」を念頭に置いているのだろう。普通は草が動かず、蜻蛉が動くのだが、この情景では逆になっている。カヤが「吹かれゐく」のに、アキツが留まるのである。
これも頭のなかでこしらえた情景に思える。
失礼ながら、この婆さん、まだ悪達者なところがある。「おほよそは無い」と自分では思っていても、どうして、まだ芯はナマだ。枯れるにはヨクもアクも残っている。そのうち「最後の歌集、その第三弾」が出るかもしれない。


06 文学・芸術・スポーツ (96)

2015_3-30

ルネサンスとティツィアーノ

2015_3-30

ヴェネツィア派のラファエロへの挑戦

2015_3-26

三つ目の犬の糞

2015_3-16

午前3時の羽田空港で

2015_3-16

“異”を唱えるということ

2015_1-16

おお石になれ、 拳

2015_1_09

ラブレター 多喜二からふじ子へ

2014-12_5

これがアルゼンチンサッカー

2014_9-26

ピート・シーガーの「わたしが一番きれいだったとき」

2014_9-25

いくさは遠く根の国へゆけ 白蓮(柳原曄子)の戦後

2014_9-14

アーサー・ピナードの「雨ニモマケズ」の理解

2014_9_8

金子兜太の“怒り”

2014_8-23

童謡における非合理主義の美化

2014_8-23

手塚英孝「小林多喜二 文学とその生涯」

2014_8-22

私がふじ子を知った頃

2014_8-20

小林多喜二の東京時代

2014_8-20

手塚英孝と江口渙は矛盾していない

2014_8-20

伊藤ふじ子の接吻

2014_8-15

山口孤剣のすげえ歌

2014_8_07

茨木のり子が、まぶしいほどにきれいだったとき

2014_8_07

戦争と「丸出だめ夫」

2014_8_5

ジャポニズムとブラックモン

2014_7-29

柳原白蓮の平和行脚と到達

2014_7-19

「種まく人」のうんちく

2014_7-16

中西洋子著「柳原白蓮における歌の変容と到達」の紹介

2014_7-16

いくさは遠く根の国へゆけ

2014_7_8

「我慢する」という自発

2014_7_8

杉山平一 「わからない」

2014_6-10

古田足日と小川未明と原始心性

2014_5-28

ロッサナ・ポデスタとトロイのヘレン

2014_2_5

木島櫻谷という画家

2014_1-27

伊藤ふじ子に惚れ直す

2014_1-24

与謝野晶子の怖い詩

2014_1-24

吉野弘さんがなくなったそうだ

2013-12-13

それは日本人のいいところ

2013-12_7

自分の感受性くらい/自分で守れ/ばかものよ

2013-11_9

三木清「幸福について」

2013-11_4

三木清「死について」

2013-11_4

三木清という人

2013-10-25

宮本百合子の「三つの権利」

2013-10-24

ハンナ・アーレントと松岡二十世

2013_9_6

有島武郎と農場の“解放” その3

2013_9_6

有島武郎と農場の“解放” その2

2013_9_6

有島武郎と農場の“解放” その1

2013_9_3

小熊秀雄 断章

2013_9_2

原爆忌 見えぬものには影がない

2013_8_4

日本ハムの建て直しのために

2013_7-29

民のために汝(きさま)死ね

2013_7-13

穴隈鉱蔵の弁

2013_6-14

あえて「加藤コミッショナー頑張れ」と言いたい

2013_6-10

札幌のおばあちゃん、水泳“90歳”リレーで世界記録

2013_6_5

女書(ニュウ・シュウ)に思う

2013_5-16

誰がミズノをそうさせたか

2013_5-15

飛ぶボールはやめるべきだ

2013_3-26

点滴三分の一 のこりてとまる

2013_3-25

村上龍が頑張っているんだ

2013_3-13

伊藤左千夫の米倉批判

2013_2_8

「告発文書」の内容をうかがう

2013_2_8

女子柔道、スパルタカスの反乱

2013_2_4

艾青(がいせい)について

2012-12-28

子供は夜を踏みぬく

2012-12-24

宮本百合子の川端康成批判

2012-12-23

誰が破りし恋ぞ、 詠み人にあらで

2012-12-23

「有がたうさん」という不思議な映画

2012-12-23

生命(いのち)さえほめ殺されき

2012-12-22

福原真志さんの「裸婦」です

2012-12-22

高見順を知っていますか

2012-12-21

高見順がチャプリンを罵倒

2012-12-21

笹野一刀彫について

2012-11-13

森鴎外の饅頭茶漬け

2012-11_8

さよなら バグ・チルドレン

2012-10-14

佐藤さんの「業」に戻る

2012-10-14

「業」(ごう)の基礎的理解

2012-10-11

馬淵晴子の良い話

2012-10_1

ヒトラーに抗した女たち

2012_8-21

福原真志さんが亡くなった

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桜井昌司さんの重い言葉

2012_6-17

「美」は厄介だ

2012_6-13

中江有里の児玉清論

2012_5-10

美貌の作家 若杉鳥子

2012_4_4

小熊秀雄こそ真の詩人だ

2012_2-17

今野大力詩集より

2012_2_9

旅順の城はほろぶとも ほろびずとても何事ぞ

2012_1-24

さんさ時雨か萱野の雨か

2011-11-30

藤島武二と「乱れ髪」

2011-11-30

藤島武二の「朝顔」

2011-10-15

落語そのものが邪道なのだ

2011-10_2

昭和31年の人気俳優番付

2011_9-19

「大地の侍」と大友柳太朗

2011_8-13

こころよく 我にはたらく仕事あれ それを仕遂げて死なむと思ふ

2011_8-10

プロ野球創設期の球団経営

2011_7-26

宮間選手のフェアプレーシップ

2011_5-16

「雨の降る品川駅」について

2011_5-16

さようなら 女の李





ということで、概略を観察した後、最初の疑問に戻る。

「ラファエロに対するヴェネツィア派からの挑戦」というのが何を意味するかだ。

結局のところ良くわからない。

ルネサンスというのは美術だけで見れば、幅広くとっても1480年から1530年までの50年間だ。

このあいだにダビンチ、ミケランジェロ、ラファエロという三羽烏が踵を接して登場する。ボッティチェルリというのはそれよりちょっと前の人だが、生前はそれほどの人気はなかったらしい。

なぜミラノ、フィレンツェ、ローマといった町が文化の華を開かせたのかは良くわからない。全体としては一方で東ローマが滅びでオスマントルコがヒタヒタと押し寄せていた時代だ。さほどのんきな時代ではない。

一方ではスペインがレコンキスタを完成し、キリスト教原理主義ともいうべき立場を強めた。これはオスマントルコへの危機感と重なっているだろう。

スペインは新大陸を発見し、莫大な富を背景に神聖ローマ帝国を動かし、カトリックの復権を目指した。

こういう大状況のもとで、先ほどの三都市にヴェネツィア、ジェノバを加えた諸都市が、つばぜり合いを繰り返しながらも、自治を維持していく機転がわからない。そういえばマキャベリもこの頃の人だ。

維持するどころか、空前の富をかき集め、画工を手元に置き巨大な壁画を描かせるなど贅を尽くしている。これはどうも腑に落ちない。

それで三本柱だが、もっとも若いラファエロがいろんな画家のイイトコどりをして、ルネサンス絵画を集大成したようだ。

彼は大勢の画工を雇って大量の絵をばらまいたようだ。いわば「ルネサンス絵画工場」が出来上がり、スタイルが確立されたといえる。

それで、ヴェネツィア派の話だが、その中心人物であるティツィアーノは、このフィレンツェ、ローマの栄華が終わりを迎えた頃に活動を開始している。 いわばラファエロが集大成し確立したフィレンツェ・ローマのスタイルに抵抗することなしに、自らの立場を押し出すことはできなかった。

これが「ラファエロに対するヴェネツィア派からの挑戦」ということらしい。

ティツィアーノというページ にはこう書いてある。

16世紀、ヴェネツィア派、最大の画家。イタリアのフィレンツェ・ローマとヴェネツィアの対立はそのまま、「ミケランジェロ、ラファエロの素描」と「ティツィアーノの色彩」という対立であった。

ティツィアーノは相当長生きをした人らしく、それから50年位活動している。

私の好きなカラバッジョが出てくるのは、さらに先のことになる

フェルメールの「天文学者」の写真も掲載されている。初めてお目にかかる絵だ。

ちょっと気になったのか以下の記載。ティツィアーノの絵を紹介したあと、

構図の調和、髪や肌、衣服の描写は、ルネサンス芸術の雄、ラファエロに対するヴェネツィア派からの挑戦であるかのような完成度だ。

考えてみると、私はルネサンスの歴史をあまり知らないことに気づいた。

さらに子供の頃からルネッサンスと言ってきたが、最近は跳ねないでルネサンスということが分かった。

待てよ、ルネサンスはフランス語なのだそうだ。たしかにいやらしい綴りだ。でもなぜフランス語で呼ぶのだろう。本家イタリアではどう呼んでいるのだろう、と疑問が膨らむと、やはり一度勉強しておこう

ということになる。


まずウィキペディア

ルネサンス(Renaissance)は「再生」「復活」を意味するフランス語である。古典古代(ギリシア、ローマ)の文化を復興しようとする文化運動で、14世紀にイタリアで始まり、西欧各国に広まった。

通俗的に「復興」「再生」を指す言葉として用いられている場合、ルネッサンスと表記されることが多い。

ということで、第一の疑問は解決。次がなぜフランス語かということだが、

19世紀のフランスの歴史家ミシュレが『フランス史』第7巻(1855年)に‘Renaissance’という標題を付け、初めて学問的に使用した。

続くスイスのヤーコプ・ブルクハルトによる『イタリア・ルネサンスの文化』Die Kultur der Renaissance in Italien(1860年)によって、決定的に認知されるようになった。

とされている。比較的最近のことだ。

それでイタリア人がどう呼んでいるかだが、リナシメントということになっている。ひょっとするとフランス語からの輸入かもしれない。

歴史についてはウィキペディアは詳しくない。


再生運動の提唱者 ペトラルカ

再生運動の提唱者はペトラルカ(1304年生)のようだ。

ペトラルカは古典古代が理想の時代で、中世は暗黒時代だと考えた。そして修道院の古代文献を収集し、詩作・著述を行った

1350年頃から20年間にわたり、ヨーロッパでペストが猖獗を極める。ボッカッチョが『デカメロン』を完成させる。

1400年頃 中部・北部イタリアの諸都市の中からフィレンツェ、ヴェネツィア、ミラノ、ジェノヴァが頭角を現す。逆に教皇ははローマ、アヴィニョン、ピサに分裂し弱体化。

東ローマ帝国からの亡命者

1453年に東ローマ帝国が滅亡すると、多数の知識人がイタリアへ亡命してきた。その書物や知識は古代文化の研究を活発化させた。

1455年頃、ヨハネス・グーテンベルクによる活版印刷の聖書刊行。

1470年頃 オスマントルコがギリシャ半島東岸に進出。ヴェネツィアはギリシャから撤退。

1470年頃 フェラーラのエステ家が興隆。フランドルからハインリヒ・イザーク、ジョスカン・デ・プレなど。多数の音楽家を招聘。

1480年 オスマントルコがイタリア南部に上陸するが、まもなく内紛のために撤退。

1482年、ミラノ公国がレオナルド・ダ・ヴィンチを招聘。ダヴィンチは99年までミラノに滞在。

フィレンツェ、ミラノの最盛期

1485年頃 ボッティチェリの「春」、「ヴィーナスの誕生」が描かれる。その後400年にわたり忘れられていたが、19世紀末にふたたび注目される。

1492年 ロレンツォ・デ・メディチが死去。フィレンツェの全盛期が終わる。

1494年 コロンブスの新大陸発見。

1498年 ヴァスコ・ダ・ガマ艦隊、インドのカリカットに到着。東方貿易を独占していたイタリア諸都市は緩やかに没落し始める。

ローマ、ベネツィアへの主役交代

1500年ころ ミケランジェロ、「ピエタ」、「ダヴィデ像」などを制作。その後ヴァチカンに移りシスティーナ礼拝堂天井画を描く。

1510年頃 ラファエロがフィレンツェからローマに移る。グループを形成して制作にあたる。

1513年、マキャベリが「君主論」を著す。

1517年 マルティン・ルターによる宗教改革が始まる。

1517年 ベネツィアのティツィアーノが「聖母被昇天」を制作。

1519年 ダ・ヴィンチが死去。

1520年 ラファエロが死去。ラファエロの死とともにヴェネツィアを除くイタリア美術は盛期ルネサンス様式からマニエリスム様式に漸次移行。

ローマ、フィレンツェの没落

1527年 神聖ローマ帝国軍の攻撃でローマが壊滅。この知らせを受けフィレンツェでも反メディチ派が蜂起し、メディチ家を追放。ルネサンスの終わり。

 

すみません。引用というには少々長すぎるのですが、面白い文章があったので転載させていただきます。

研究ノート

洪世和著 米津篤八訳 『コレアン・ドライバーは、パリで眠らない』

猪股 正贋

という文章の中の一節です。

『私はパリのタクシー運転 手』 ã

をクリックすると出てきます。


ある時、祖父がわたしに話した。

書堂の先生が三兄弟を教えていた。ある日先生は三兄弟に将来の希望を順に言わせた。

長兄が大きくなったら大臣になりたいと言うと、先生は満足した表情で、それはよいと賛成した。

次兄は大きくなったら将軍になりたいと言った。先生はやはり満足した表情で、それはよい、男は大志を持たねばならんと言った。

末っ子に聞くと、ちょっと考えてから、将来の希望はさておき、大の糞が三つあったらよいのにと答えた。

表情を曇らせた先生が、なぜかと尋ねると、末っ子が言うには、自分より本を読むのが嫌いな長兄が大臣になりたいなどと大口をたたくので、大の糞を1つ食わせてやりたい、

また自分より臆病な次兄が将軍になるといって大口をたたくので、犬の糞を1つ食わせてやりたい…

そこまで言った末っ子が口ごもると、先生が顔を歪ませながら、声を張りあげた。では、最後の一つは、と。

ここまで話した祖父は、わたしに、その末っ子が何と言ったと思うかと尋ねる。

「そりゃ、先生に食べろと言ったんでしょ」

「なぜだ」

「そりゃ一番上の兄さんと二番目の兄さんのでたらめな話しを聞いて喜んだからでしょ」

「そうだ。お前の言うとおりだ。お話はそこで終わりだ。どころで、お前がその末っ子だったとすれば、書堂の先生にそのように言えるかな」

幼い私はそのとき、言える、と大声で言った。するとハラボジは、こう言った。「世和や。お前がこれから、いま言ったとおりにできなくなったら、三つ目の大の糞はお前が食わなければならないということを、忘れてはならんぞ」

私は成長していくうちに、三つ目の大の糞を私が食わなければならないということを、しばしば認めなければならなかった。

洪世和


洪世和に関しては

2014年03月17日  

2012年01月09日

をご参照ください。

あんまりいい記事なので、そのまま貼り付けちゃいます。著作権等で問題あったらすぐ取り下げますので勘弁して下さい。
doramanotane

多分、虚実ないまぜの話だろうが、「いいアリバイだ!」のセリフは決まっている。鶴橋さん、どの役者をイメージしているのかな。

「アート鑑賞、超入門! 7つの視点」(集英社)を書いた藤田令伊さんという人のインタビューだ。

題名だけ見ると、ちょっと退いてしまう。新聞の書評というのはだいじだなと思う。

囲み記事だから、中身というよりも雰囲気。

創作するより、見る人のほうが圧倒的に多い。自分の考えで作品と向き合うこともアートだと思うんです。

ウム、なかなか冴えている。

変だと感じたら「異論」を発すること、それを認められる社会にすることが大切だと思います。
鑑賞で培った批判精神は社会の健全さを保つ力にもなるのではないでしょうか。

ここね、「異論」好きである私には結構落ちるところがある。

あまり藤田さんはここを追究しないで、社会問題に流し込んでしまうのだが、作品と向き合えば、良い作品は語りかけてくるはずで、それが世間的に見て「異論」だとすればもって瞑すべしである。

異を立てることに目的があるのではなく、結果として“異”であったとしてもそれに素直に従うべしということなので、へそ曲がりではなく、素直なのである。

変だと感じないのに異を唱える奴がいるが、これは非本質的なただのイチャモンにすぎないから、相手にする必要はない。

そこいらへんをもう少し突っ込んだ上で、「それを認められる社会にすることが大切」と踏み込んでいくと、議論はもう少し深みのあるものになったろうと思う。


いつもPIPPOさんには勉強させてもらっている。今回は山村暮鳥の詩だ。

冒頭の「おうい雲よ」というのはむかし教科書で見た覚えがあるが、山村暮鳥については何も知らなかった。

苦学して牧師になった人のようだ。

幾つかの詩が紹介されているが、圧巻は「自分は光をにぎっている」というもの。

短いのでそのまま転載する。

自分は光をにぎってゐる  山村暮鳥

 自分は光をにぎってゐる

 いまも いまとて にぎってゐる

 而(しか)も をりをりは 考える

 此の掌(てのひら)を あけてみたら

 からっぽでは あるまいか

 からっぽで あったら どうしよう

 けれど 自分は にぎってゐる

 いよいよ しっかり 握るのだ

 あんな 烈(はげ)しい 暴雨(あらし)の中で

 掴(つか)んだ ひかりだ

 はなすものか

 どんなことが あっても

 おお石になれ、 拳

 此の生きの くるしみ

 くるしければ くるしいほど

 自分は ひかりを にぎりしめる

詩集「梢の巣にて」 1921年より

ネットで調べると、ずいぶんと愛好者は多いようで、いくつかの文章が上がってくる。

PIPPO さんは「はなすものか  どんなことがあっても」というところが気に入ったようで、見出しにもしているが、歌の文句なら「おゝ石になれ、拳」というのがサビになるだろう。

面白い頁があって、中国人らしきブログ主が中国語に訳している。

「自分は光をにぎっている」は「我手握光明」で、ちょっとそっけない。

握るのではなく、握っているでなくてはいけない。最後の締めでは、同じ「自分は光をにぎっている」は「我愈是将光明紧握在手中」と変えられている。かなりの意訳になり、表現が過剰になっている。

ということで、あまりいただきかねる訳だが、中国人にも感動を与えたということは分かる。

倉田稔さんの「小林多喜二の東京時代」(小樽商大「商学研究」(2001), 52(2/3): 3-37)を読み終えた。
必要なことはすべて書き込まれている。
ハウスキーパー問題についても、歴史的限界も踏まえた客観的な評価が下されている。
この論文が描き上げられたのが、2000年頃と思われる。私が小樽にいたのが96~97年だから、同時代に書かれたことになる。小樽で繁華街の店じまいに拍車がかかり始めた頃の話だ。
伊藤ふじ子についても、また違った側面から描き上げられており、彼女の魅力を一層に引き立てている。

多喜二のラブレターの話は傑作だ。
古本屋の活動家とその仲間が多喜二から手紙を託された。盗み読みした上に写真まで撮るのも、ふてぇ連中だが、死も拷問もおそれない闘士であろう二人が、人の恋文を舌なめずりしながら読んでいるさまが眼前に浮かんでくるようで、思わず笑ってしまう。

笑いついでにラブレターを紹介しておく。澤地久枝 『続昭和史の女』 文芸春秋1986年版からの転載のようだ。
「しばらく君と御無沙汰しているのはわけがあるんだ」。多喜二が警察に捕まって、7カ月勾留されていたことが書かれていた。
「その時いっしょに捕まったかわいそうな老人がいたので、それを抱いて寝てやった。そのためにカイセンをうつされた。それを治療するためにこの温泉に来ている」
「このことは親しい人にも誰にも言っていない。君が誰かに話すとは思わないが、ぼくはそれをちょいと試してみたくなった。それでこの手紙を書く」とあり、最後に「帰ったら、また逢いたいものだ」とあって、便箋に二枚だった。
これを受け取ったふじ子は、「あら、そう」みたいな感じでさっと受け取って、何事もなかったように去っていく。このイメージと、通夜の席で人目も憚らずに遺体を掻き抱き接吻した狂乱の場面はイメージがあわない。あわないところが、いかにもいとおしくリアルだ。
きっと、間違いなく、ふじ子は角を曲がってから後ろを振り向いて、小走りになって、人が見ていないところまで走って、それから道端にしゃがみこんで、ラブレターを何度も読み返したに相違ない。


アルゼンチンの3部リーグで、試合中に乱闘事件が発生した。
それだけならよくある話だが、その試合が終わったあと、一人の選手が対戦相手のフアンに取り囲まれ、暴行を受けた。
それも半端な暴行ではない。そのまま意識不明の重体となり、5日後に死亡した。
それもそれだけなら、「ああそうか」とすませてしまうが、記事によると、話はもっと深刻だ。
地元NGOによれば、サッカーをめぐる死者は、今年に入って15人目、昨年の同時期と比べて犠牲者は三倍に上るといいます。
ワールドカップなどでもアルゼンチンのサッカーはえげつないことで知られているが、こういう背景があるのだ。
アルゼンチンに行ったらうかつにサッカー見物など行かないほうが良さそうだ。

茨木のり子の「わたしが一番きれいだったとき」にピート・シーガーがメロディーをつけている。その曲がyoutubeにアップされている。ピートのお弟子さんが歌っている。解説によると、ピートが67年に来日した時、ある雑誌でこの詩を識り、曲とコードを書いてコロンビア・レコードに録音したのだそうだ。

<茨木さんは84年にピートのコンサートに出演し、日本語でこの詩を朗読したそうだ。

茨木さんが2006年は亡くなった。それから4年後のある日、ピートはバンジョーの授業をやめて、こう言った。「こんな曲を聞いたことがあるかい?」

そして私に歌って聞かせた…

ただし大変失礼ながら、この人はうまくもないし、分かってもいない。演奏を聴くならこちらのほうが良い。


歌詞の一部を紹介すると

When I was most beautiful
Nobody gave me kind gifts.
Men knew only to salute
And went away.
When I was most beautiful
My country lost the war
I paraded the main street
With my blouse sleeves rolled high

となっていて、ちょっとぴんとこない。

「美しい」はbeautifulではなくbrilliant、kindはsincereのような気もするのだが

何よりも「卑屈な」がない。「美しさ」は「卑屈さ」に対比されている。のり子は手のひら返しの卑屈さに怒っている。だからあえて、卑屈でない自分を「美しい」と表現するのだ。ナルシズムではない。

確かにメロディーにはキラっと光るものがあるのだが…

なんとかこれを日本語の原詩で歌えないものだろうか。

AALAの機関紙に載せるために柳原白蓮の文章を一本化しました。

いくさは遠く根の国へゆけ 白蓮(柳原曄子)の戦後

1.下二句の力強さ

白蓮、やんごとない点では別枠だ。なにせ大正天皇の従兄弟という雲上人。

この犠牲が 世界平和の道しるべ わがをとめ等よ泣くのでないぞ

人の世にあるべきものか 原爆の いくさは遠く根の国へゆけ


いい歌だ。
ある意味スローガン的な上三句を、正面から受け止め、我がものとし、その思いを下2句で激しく表出している。それが浮いてこないのはなみなみならぬ技法であろうが、それ以上に、言葉をがっしりと受け止めるだけの内実が感じられる。
まさに気高さを感じさせる歌である。

日本の文壇では、ともすれば敬遠される資質であろう。

いくさは遠く根の国へゆけ

は、まことに素晴らしい。

戦後に出した歌集は昭和31年の「地平線」が唯一のものであるが、ここにその歌と実践が集約されている。  「地平線」は「万象」「悲母」「至上我」「人の世」「旅」「去来」などの小題をもつ317首からなる。

その内の「悲母」60首が戦死した吾が子、香織を偲ぶ歌群である。

その前に一首だけ

静かなり 遠き昔の思出を泣くによろしき 五月雨の音

これは昭和3年の歌。宮崎龍介との同棲生活が始まって、どうやら落ち着いて、まもなくのころの歌である。

この歌は“五月雨の音”が決め手だ。最初は“音”は硬いと思った。例えば“五月雨の軒”とか“五月雨の楠”とか情景を掬う方がいい。しかしその途端、歌は叙景になってしまう。ちょっと硬くても“音”でなくてはいけないのだ。音もなく降る五月雨、その音が聴覚を通じて心象と表象をつなげている。

白蓮の歌からは常に音が聞こえてくる。だからぜひ音読して欲しい。

「悲母」より

焼跡に芽吹く木のあり かくのごと吾子の命のかへらぬものか

蒼空に一片の雲動くなり 母よといひて吾をよぶごとし 

秋の日の窓のあかりに 亡き吾子がもの読む影す 淋しき日かな

夜をこめて板戸たたくは風ばかり おどろかしてよ吾子のかへると

英霊の生きてかへるがありといふ 子の骨壺よ 振れば音する

かへり来ば 吾子に食はする白き米 手握る指ゆこぼしては見つ

もしやまだ かえる吾子かと 脱ぎすてのほころびなほす 心うつろに

かたみなれば 男仕立をそのままに母は着るぞも 今は泣かねど

しみじみと泣く日来たらば 泣くことを楽しみとして生きむか吾は

戦ひはかくなりはてて なほ吾子は死なねばなりし命なりしか

身にかへて いとしきものを 泣きもせで  何しに吾子を立たせやりつる

白蓮研究者の中西洋子さんはこう書いている。

その悲しみははかりしれない。しかし一方、悲歎に暮れながらもそれに溺れることなく堪え忍び、じっと向きあっている目がある。

しかも表現は具体性をもって悲しみの情とひびきあい、また修辞的な技巧の入る余地なく、いずれも単純化された詠いぶりである。

2.平和運動の担い手への歩み

46年、NHKラジオを通じて訴えると、「悲母」への反響はものすごいものだった。彼女の主導で「万国悲母の会」が結成される。

個の悲しみを共有し、反戦に繋げようとする婦人たちの運動である。

宮本百合子との対話

49年4月の「婦人民主新聞」は白蓮と宮本百合子の紙上対談を掲載している。この中身は稿を改めて紹介する。

「誰故にこの嘆きを」 白蓮から百合子へ

あの日、日の丸の旗を肩にして「大君のへにこそ死なめといつて出て征つたあの子の姿は、胸に焼きつけられて今もなお痛む。

あのおとなしい子が人一倍子ぼんのうの両親の家を、不平一つ言わず勇ましく門出をした、あれは一体、誰故に誰に頼まれてああしたことになつたのか─と。

…思いかえせばあの戦争中の協力一致の精神…が世界平和のために湧き上らぬものかしら、この故にこそ天界…息子と地上において…同じ目的に協力したいと念じている。これが我子を犬死させない唯一の道だと思っているから。

百合子から白蓮(燁子)へ

…燁子さんににちりよつて、その手をとらせたい心にさせる。そうなのよ、燁子さん。

…あなたの愛がそんなに大きく、そんなに母として深い傷になほ疼いてゐるのに、もう一遍、その傷のいたみからかぐはしの香織 を生んで見よう、と思ふことはおできにならないかしら。

今度は戦争の兇□と非人間性に向かつて抗議し、行動する、けふといふ歴史の時代における香織を。

世界連邦平和運動の婦人部長

この宮本百合子の言葉がどう響いたかは分からないが、「悲母の会」は後に「国際悲母の会」となり、「世界連邦平和運動」に発展した。

白蓮は湯川秀樹夫人スミらとともに運動を担い、全国を行脚した。北海道だけでも後志、札幌、月寒、石狩、旭川、十勝平野、根室、狩勝、北見と連なっていく。

3.自分の運命の流れというものがある

白蓮はこんな文章も書いている。

悲母の会解消問題の起きた時、「だから先生は、歌の事さへすれば他の事は何もしなさるな」と、意見された。併し自分の運命の流れというものがある。

さらっと書いたが、泥もかぶる、まことに重い決意だ。

そして70歳を過ぎた体に鞭打って全国の講演旅行に駆け巡る。この時の歌は、芭蕉の「奥の細道」を思わせる。自然と我とが一体になった至高の歌どもとなっている。

『地平線』の作品に詠み込まれ、また注記された地名は全国津々浦々の40ヶ所におよぶ。

いくつかを紹介しておく

巡礼の心してゆく旅なれば 北のはてにも わがゆくものか

どこの国の誰が ぬれ居る雨ならむ とほくに見ゆる雨雲低し

ききほれて しづかに涙たるるなり 山河草木みな声放つ

遠つ祖の なみだに見たる秋の空 佐渡はけぶりて小雨となりぬ

4.われの命をわがうちに見つ 白蓮の最晩年

このような過酷とも見える無理の多い講演旅行は、やがて燁子の目を苛み緑内障(そこひ)に侵される結果となった。

1961年、76歳で白蓮は両眼を失明する。しかし作歌は永眠の前年まで続けられた。最後の歌は神々しいほどに響く。

眼を病めば 思い出をよぶ声のして 今を昔の中にのみ居り

なべて皆 物音たえし真夜中は 声ならぬ声のなにか聞こゆる

そこひなき 闇にかがやく星のごと われの命をわがうちに見つ

“そこひなき”は「底、比なき」であろう。彼女は視力を失ったのではなく、暗闇に落ち込んだのである。暗闇は限りなく虚空に近いが、その底に輝く星があった。そしてその星は、自らの命であった。

人間、このように一生を終わりたいものです。

(文章の作成にあたりを参考にしました)

アーサー・ピナードさんという人が、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」を英訳したそうだ。

下記のページで、その出だしの部分が読める。

780万人の絵本ためしよみサイト | 絵本ナビ

雨ニモマケズ Rain Won’t

Rain won’t stop me.
Wind won’t stop me.
雨ニモマケズ 風ニモマケズ

Neither will driving snow.
雪ニモ

Sweltering summer heat will only
raise my determination.
夏ノ暑サニモマケヌ

With a body built for endurance,
a heart free of greed,
丈夫ナカラダヲモチ 慾ハナク

I’ll never lose my temper,
trying always to keep
a quiet smile on my face.
決シテ瞋ラズ イツモシヅカ二ワラッテヰル

この英語を直訳すると

雨は私を止めない、風は私を止めない。

吹きすさぶ雪もだ。

うだるような夏の暑さも、ただ私の確信を強めるだけだ。

辛抱できる体と欲張らない心を持って、

私は冷静さを失わない。いつも静かな笑みを顔に浮かべ続けようとする。

という感じで、宮沢賢治の原文に比べると、主体的、能動的、かなりごつい感じだ。むかし「うたごえ」で憶えた「雪や風、星も飛べば、我が心は彼方を目指す」という歌と重なる。

“determination”は「確信」よりもっと強く響く。“try to keep a quiet smile on my face” は、「真昼の決闘」のゲーリー・クーパーになったような気分だ。

宮沢の詩はもう少し“なよやか”で、一抹の道教的諦観を秘めたものではないだろうか。多分、宮沢が過去に会ったひとびとの中に、“頑丈な体をして物静かで、いつも笑っているような表情を浮かべている農民”がいて、“そういう人に私はなりたい”というイメージなんだろう。そこには仄かにトルストイ的エリート意識が香る。


なお、「瞋ラズ」については、Yahoo 知恵袋でこう書かれている

『イカらず』と読みます。
大修館書店刊の『大漢語林』などによると、「イカる」と読む字で、
「恚る」は「うらみいかる」、
「怒る」は「腹をたてる。外にあらわしていかる」、
「嗔る」は「目をむきだしていかる。はげしくいかる」、
「憤る」は「いきりたつ、いきどおる」
等々といった区別があるようです。
仏典に親しんでいた賢治はこれらの区別をかなり正確にわきまえていたと考えられます。

ということで、眦を決した修羅の怒りですかねぇ。あるいは「怒らず」に居ることで、「わたしは左翼じゃないよ」という立場にも取れる。

かなりビックリ、赤旗一面に御年95歳の俳人・金子兜太が登場した。
俳句を詠み続けて75年になります。なぜ、続いているのか。
無謀な戦争の体験者として、無残に死んでいった人たちに代わって伝えたい。
戦後恥ずかしくないよう発言しなければならないという思い、それが私の俳句精神です。
さすがに、冒頭から引き締まった文章だ。「記者の文章に手入れしたに違いない」と感じる。
引用を続ける。
人間が死ぬことの怖さ、その詩を力づくでもたらす戦争は「悪」だと身を持って知りました。
戦後、飢餓のトラック島から引き揚げるときに、駆逐艦の最後尾で、去りゆく島影を見つめて読んだ句
水脈(みお)の果て 炎天の墓碑を 置きて去る
このあとは、ちょっとべらんめえ調になる。
安倍さんにはあきれたね。南方の離れ島で、砲弾で殺され、食料がなくなり餓死していった兵士や民間人の「死の現場」を知らない、知ろうともしない。
そんな連中が、戦争に首を突っ込みたがるんだ。

古田足日を脇においてこう言うのもなんだが…

小川未明の“暗さ”というのは、いわゆる「浪漫主義」に通底しているものではないのか。非合理を容認し、逆に美化さえしてしまう発想が、戦後第二世代として登場した古田には内心忸怩たるものがあったのではないか。

小川未明の児童文学における功績を否定したり、児童文学の枠から除外してみたり、というのではなく、それを事実として受け入れた上で、「内なる伝統」に潜む非合理主義を批判しているのではないだろうか。


実はこんなことを思ったのは、「十五夜お月さん」という童謡を聞いたからである。を書いた時、「花かげ」の隣に「十五夜お月さん」という曲があった。

こちらのほうが有名かもしれない。

歌詞を見ると、状況は芳しくない。それも崩壊的危機だ。

うp主のコメント: 母親は病死。父は倒産。そしてお手伝いの婆やはお暇をとりました。
妹は田舎にもらわれて行き、とうとう私は一人ぼっちになってしまいました。
十五夜お月さん!!!もう一度母さんに会いたいな・・・・もう一度母さんに会いたいな­・・・・
悲惨なこの姉妹の行く末を考えると可愛そうでなりません。

ということで、たんに悲しいのではなく、悲惨=悲しく、惨めなのだ。社会のルールからは合理的でも、当事者には非合理そのものだ。

それが非合理そのままに美化されていく。それも積極的にではなく、ただなんとなく受け止められ、砂糖をまぶされる。「母さん」を「あなた」に入れ替えれば、演歌そのままの世界だ。

これがまさに古田の言う「いびつな児童文学」であり、いびつな心を持った人の「児童心性」のなせる技だということだ。ということなのかな?


この曲は「金の船」という雑誌の創刊号に掲載された曲だそうだ。「金の星」ホームページにはこう書かれている。

大正8年11月に設立された、業界で最も長い歴史を持つ子どもの本の専門出版社です。
童謡童話雑誌『金の船』(のちに改題『金の星』)は創業と同時に刊行され、初代編集長の野口雨情をはじめ、島崎藤村・有島生馬・若山牧水・中山晋平・本居 長世・沖野岩三郎・岡本歸一・寺内萬治郎といった児童文化のそうそうたる先人達と共に、日本の近代的児童文化の成立をリードしました。

初代編集長の野口雨情がみずからものした曲だから、相当力が入っていると思う。

金の船表紙

ただ、この金の船、「赤い鳥」(北原白秋、山田耕筰、西条八十)の山の手風のメンバーに比べると、よりコマーシャルな感がある。「赤い鳥」の成功に刺激され、在来メジャー系が乗り出してきたという感じだ。

結局は両方とも軍国主義に収斂されてしまうのだから、その違いをとやかく言っても仕方ないのかもしれないのだが。


手塚英孝「小林多喜二 文学とその生涯」という本が出てきた。
本棚の一番上に平積みにしてあった。ホコリまみれでタバコのヤニで変色している。
これは伝記ではなく写真集だった。1977年の発行で定価3千円というからかなりのものだ。青木文庫の「全集」はどこに潜ったか、おそらく発掘不能だろう。
伊藤ふじ子の名は年譜に一度だけ登場する。
1932年4月中旬、伊藤ふじ子と結婚。
これだけだ。
最近明らかになった各種情報から見て、手塚はもっと多くを知っていた。本人や旦那とも接触があった可能性がある。
印象としては、かなりの確度で、手塚はふじ子とふじ子に関わる事実を隠そうとしていたと見て良いと思う。
1981年にふじ子は死んでいる。だからこの本が出たときふじ子は生きていた。だから江口の意見はもっともだと思う。
しかしふじ子が亡くなり旦那も亡くなって、不名誉な噂だけが残されるのはやはり困るのである。やはり、どこかもうう少し早い時点で積極的に事実を明らかにすべきではなかったか。
さらに言えば、事実を明らかにしなかった事実とその理由を述べるべきではなかったか、そういう思いはどうしても残ってしまうのである。

まだブログを始める前、私のホームページに「更新記録」というコーナーを設けて、そこで今のブログに相当する記事を書いていました。その頃に伊藤ふじ子のことを初めて本格的に知りました。

それより10年以上も前に小樽に住んでいて、多喜二の権威とも接する機会がありましたが、ついぞそのような話は聞いたことはありませんでした。もっぱらお母さんの話題とか三吾さんの話ばかりでした。タキさんが横浜からこっそりと現れたことがあって、墓参りやらにお付き合いしたなどという話も聞きました。

だから、ふじ子の存在がにわかにクローズアップされたのはこの数年のことと言えます。それまでは「隠されていた」と言っても間違いではないと思います。

今ではもう「更新記録」を訪れる人もいないと思いますので、ここに再掲しておきます。


2009.07.07

 テレビの話ばかりで、いかに怠惰な生活を送っているかということでしょうが、北海道放送の製作した「小林多喜二」という番組を見ました。
  10年ちょっと前に小樽で二年間暮らしました。そのときは周りに多喜二を知っている人もいましたし、お母さんや三吾さんのほうはみんな知っているという環境でした。タキさんが横浜から多喜二忌に来たという話も聞いています。「療養権の考察」のあとがきに「多喜二のイメージは私の中で不思議に伸び縮みする」 と書いたのはそういう事情があったからです。
 ただ東京で同棲したという女性については、「党生活者」に出てくるいわゆるハウスキーパーの関連が あって、あまり触れたくないエピソードとして見ていました。たしか平野謙はこのことを取り上げて多喜二を切り捨てていたと憶えています。その背景には党分 裂の時期に武闘派が多喜二を天まで持ち上げたことに対する「新日本文学」派の反発があったと思いますが、6全協から8大会を経ても、なんとなくよそよそし い雰囲気は残っていました。宮本百合子の立派な全集は出ても、多喜二は相変わらず青木文庫のみという感じです。
 番組は製作者の独特な思い入れが 強く、いささか胃もたれのする内容でしたが、「妻」の伊藤ふじ子が写真とともに紹介されたのは驚きました。なかなかの美人だったのにも驚きました。ふじ子 の書いた未完の覚え書きというのがあって、何でも都内での伝単貼り行動で知り合ったということで、そのあと多喜二が新宿角筈のすき焼き屋に連れて行って 「食べれ、食べれ」とせかしたそうです。字も書けないような女性ばかり見てきた多喜二にとって、さぞかし目のくらむ思いだったことでしょう。
 こ のふじ子の覚え書きの文章がとても知的で快活で魅力的なのに驚きました。情景の掬い方がとてもうまいのです。この2、3行だけで、多喜二がふじ子に一目ぼ れして、金もないのに気前良くおごった上に、方言丸出しで押しまくっていった情景が目に浮かびます。ふじ子が「あら、この人、気があるのかしら」と腹の中 でクスクス笑いしている思いも、そこはかとなく伝わってきます。美彌子から見た三四郎でしょうか。とにかくこちらのほうがよほど小説らしい。澤地久恵がこ の女性のことを詳しく書いているとのこと、読んでみたいものです。

倉田 稔「小林多喜二の東京時代」という研究論文がある。
小樽商大の雑誌に掲載されたもので、かなり浩瀚である。
手塚英孝と多喜二とふじ子の関係についてもよく分かる。
一読をおすすめする。
いささか疲れたので、紹介するのはやめておく。

昨日のれんだいこさんの記事は、

「蟹工船」日本丸から、21世紀の小林多喜二への手紙

というサイトの

多喜二最期の像―多喜二の妻 というページからの部分転載である。元のページはまともで、引用が誤っているようだ。

手塚英孝の記述となっているのは、手塚の本を引用しながら書いた新聞記事からの引用である。昭和42年6月9日の『朝日新聞』夕刊「標的」欄に(眠)の署名記事「多喜二の妻」がそれである。

(眠)氏は手塚の『小林多喜二』という伝記本を参照しながら記事を書いているようであるが、どこまでが手塚の引用で、どこから(眠)氏の文章なのかはわからない。

しかしこの文章全体を手塚の話とするのは明らかに無理である。伝記の著者でありその死に至るまで忠実な党員であった手塚が絶対に口にしないようなセリフが混じっている。これは明らかに(眠)氏の感想である。

党活動に参加していなかったから、多喜二の友人や崇拝者によって無視されてしまったのだろうか。


江口渙の発言は、(眠)氏の記事に答えてのもののようである。「夫の遺体に悲痛な声/いまは幸福な生活送る」と題された新聞記事のようである。前後の経過からすると、これもまた朝日新聞に載せられたもののように推察されるが、委細不明だ。

記事のはじめに、れんだいこさんが省略した部分がある。

私も小林多喜二が地下活動中に結婚したことは全然知らなかった。合法的に動いていた私たちと非合法の彼とのあいだには何の連絡がなかったのは、当時の社会状況としては当然のことである。それをはじめて知ったのは、昭和八年二月二十一日の夜、拷問でざん死した多喜二の遺体を築地署から受け取り、阿佐ヶ谷の彼 の家に持ち込んだ時である

記事の終わりにもれんだいこさんの省略した部分がある。

その後、彼女は私たちの視界から全然姿を消してしまった。うわさによるといまはある男性と幸福で平和な生活を送っているという。私たちが彼女のその後についてふれないのは、そういう現在に彼女の生活にめいわくをかけたくないからである

ということで、手塚英孝と江口渙が矛盾したことを考えているとはいえないようだ。


特に戦後、平野謙というゴロツキが「ふじ子はハウスキーパー」などとデマを飛ばしたこともあって、ふじ子のプライバシーを守りたいという思いは二人に共通していたと思われる。(タキさんについても同じ)


このページには、小坂多喜子の「通夜の場所で…」という談話も引用されている。映画『小林多喜二』のパンフレットに掲載されたものとされる。

小坂はちょいと多喜二と紛らわしい名前だが、戦旗社出版部に勤め、『太陽のない街』や『蟹工船』の出版に関わった人。高橋輝次さんのブログに詳しい。

ちょいと引用というには長いが、ご容赦を。

「その多喜二の死の場所へ、全く突如として一人の和服を着た若い女性が現れたのだ。灰色っぽい長い袖の節織りの防寒コートを着たその面長な、かたい表情の女 性はコートもとらず、いきなり多喜二の枕元に座りこむと、その手を自分の膝にもっていき、人目もはばからず愛撫しはじめた。髪や頬、拷問のあとなど、せわ しなくなでさすり、頬を押しつける。私はその異様とさえ見える愛撫のさまをただあっけにとられて見ていた。その場をおしつつんでいた悲愴な空気を、その若い女性が一人でさらっていった感じだった。人目をはばからずこれほどの愛の表現をするからには、多喜二にとってそれはただのひとではないことだけはわかっ たが、それが、だれであるかはわからなかった。その場にいあわせただれもがわからなかったのではないかと思う。いかに愛人に死なれても、あれほどの愛の表現は私にはできないと思った。多喜二の死は涙をさそうという死ではない。はげしい憎悪か、はげしい嫌悪かーそういう種類のものである。それがその場に行き 合わせた私の実感である。その即物的とも思われる彼女の行動が、かえってこの女性の受けた衝撃の深さを物語っているように思われた。その女性はそうして自分だけの愛撫を終えると、いつのまにか姿を消していた。私はそのすばやさにまた驚いた」

「私はその彼女と、そのような事件のあと偶然知り合い、私の洋服 を二、三枚縫ってもらった。(中略)その時、私たちの間いだには小林多喜二の話は一言も出なかった。私たちの交際はなんとなくそれだけで切れてしまっ た」。

「最近、多喜二の死の場所にあらわれた彼女が、思いもかけず私の身近にいることを知った。私の親しい知人を介してならいつでも彼女の消息がわかる。 彼女が幸福な家庭の主婦で、あいかわらず行動的に動き回っていることを知り、私は安心した気分にひたっている」

細部では江口の文章とやや異なるところがある。とくに“すばやく帰った”というあたりは食い違う。それだけに余計リアリティーがある。小坂多喜子という当時の最先端みたいなモダンガールをして驚愕させたのだから相当のものであったのは間違いない。


以上で明らかになったことが二つある。

ひとつは、どう考えても二人は熱愛関係にあり、ハウスキーパーごときものではないということである。

もうひとつは、直接には組織防衛のためではあるが、後には彼女のプライバシーを守ろうという関係者の暗黙の了解があったことである。

人違いの言いがかりで手塚と江口を対立させたり、手塚の事実隠しを宮本顕治の陰謀だと持っていくのは、下衆の勘繰りとまでは言わないが、あまり趣味の良くない推論だろう。変な記事に出会ってしまって、とんだ一手間になってしまった。

手塚の「小林多喜二」はむかし買って読んだ記憶がある。たしかにふじ子のことはあまり触れてなかったように思う。とりあえず本棚をかき回してみるとするか。


伊藤ふじ子がいわゆる「ハウスキーパー」だったというのは、最近ではほぼ否定されていると見て良い。
彼女の書いた「思い出」が何よりも雄弁に相思相愛の関係を証明しているからだ。
あるサイトによると、この見解に対してもっとも抵抗しているのが、じつは手塚英孝ではないかというのだ。
手塚は通夜の席にふじ子が来たことすら否定している。
多喜二が逮捕の危険をおもんぱかって、ふじ子に近づかなかったのは、当時の状況の下ではやむをえないことだった。ところ が一か月後、多喜二が虐殺されたとき、同志はもちろん田口たきにも通知して、みんな集まっているのに、ふじ子は通夜にも葬式にも見えていない。あるいは、 だれも通知しなかったのではないかと疑われる。そして田口たきについては、その後の消息も明らかにされているのに、多喜二の妻である伊藤ふじ子は伝記にお いてもその他においても消えさって二度と名前もあらわれない。党活動に参加していなかったから、多喜二の友人や崇拝者によって無視されてしまったのだ ろうか。
というのが手塚の見解らしい。
これに対して江口渙が反論している。
昭和八年二月二十一日の夜、拷問でざん死した多喜二の遺体を築地署から受け取り、阿佐ヶ谷の彼の家に持ち込んだ時である」、「彼の遺体をねかせてある書斎 にひとりの女性があわただしく飛び込んできた。なにか名前をいったらしいが声が小さくて聞きとれない。女は寝かせてある多喜二の右の肩に近く、ふとんのす みにひざ頭をのり上げてすわり、多喜二の死顔をひと目見ると、顔を上向きにして両手でおさえ、「くやしい。くやしい。くやしい」と声を立てて泣き出した。 さらに「ちきしょう」「ちきしょう」と悲痛な声で叫ぶと、髪をかきむしらんばかりにしてまた泣きつづける。よほど興奮しているらしく、そうとう取り乱して いるふうである。私たちは慰めてやるすべもなくただボウ然として見つめていた。やがて少しは落ちついたらしく、多喜二の首のまわりに深く残るなわの跡や、 コメカミの打撲傷の大きな皮下出血を見つめていたが、乱れた多喜二の髪を指でかき上げてやったり、むざんに肉の落ちた頬を優しくなでたりした。そして多喜二の顔に自分の顔をくっつけるようにしてまた泣いた。
…十一時近くになると、多喜二のまくらもとに残ったのは彼女と私だけになる。すると彼女は突然多喜二の顔を両手ではさんで、飛びつくように接吻(せっぷん) した。私はびっくりした。「そんな事しちゃダメだ、そんな事しちゃダメだ」。思わずどなるようにいって、彼女を多喜二の顔から引き離した。「死毒のおそろ しさを言って聞かすと、彼女もおどろいたらしく、いそいで台所へいってさんざんうがいをしてきた。一たん接吻すると気持ちもよほど落ちついたものか、もう 前のようにはあまり泣かなくなった。そこで私は彼女と多喜二の特別なかんけいを、絶対に口に出してはならないこと、二度とこの家には近づかないことを、こ んこんといってきかせた。それは警察が彼女と多喜二の間柄を勘づいたら、多喜二が死をもって守りぬいた党の秘密を彼女の口から引き出そうと検挙しどんな拷 問をも加えないともかぎらないからである。彼女は私の言葉をよく聞き入れてくれた。そして名残りおしそうに立ち去っていったのは、もう一時近かった。そんなわけで彼女がつぎの晩のお通夜に姿をみせなかったのは私の責任である。
以上はれんだいこのブログからの引用である。目下のところ真偽は保証できない。

後記
調べたところ、
「この見解に対してもっとも抵抗しているのが、じつは手塚英孝ではないかというのだ。手塚は通夜の席にふじ子が来たことすら否定している」
というのは、れんだいこさんの完全な思い違いだということがわかった。
この記事は、多喜二最期の像―多喜二の妻 というページの引用である。れんだいこさんが手塚の発言としているのは『朝日新聞』夕刊「標的」欄に(眠)の署名記事「多喜二の妻」の引用であって、手塚の発言ではない。
遺体を警察署から引き取って、皆で悼んだ夜は「通夜」ではない。それは江口の文章を読めば分かる。
その辺りをふくめて、次の記事に記載した。
なお、宮本顕治を入党させたのは生江健次である。(林淑美「中野重治 連続する転向」

終戦の日なので、戦争に関する文学に目を通している。

「日本ペンクラブ 電子文藝館」というサイトには反戦・反核というページがあって、いくつも読める。

気に入ったフレーズを引用してみる。

これは山口瞳の「卑怯者の弁」の最後。大岡昇平の「俘虜記」を下敷きにしている。


私は小心者であり憶病者であり卑怯者である。戦場で、何の関係もない何の恨みもない一人の男と対峙したとき、いきなりこれを鉄砲で撃ち殺すというようなことは、とうてい出来ない。

…卑怯者としては、むしろ、撃たれる側に命をかけたいと念じているのである。


次は山口孤剣の明治37年の作品で、平民新聞に掲載されたもの。孤剣、この時21歳。大逆事件の直前、日露戦争後の好戦思想が席巻するさなかだ。

天(あめ)も知れ、地(つち)も記すべし、此民(このたみ)は、人を屠(ほふ)りて人の道と云ふ。

血の酒杯(さかづき)、舌つゞみ打つ醜人(しこびと)を、滅亡(ほろび)にさそふ天の火もがな。

戦(たゝか)ひの毒酒に酔へる人の子に、神の怒の鞭よ下(お)り来(こ)ね。

孤立無援、すげえ歌だ。(日本ペンクラブ・電子文藝館より)


伊丹万作 「戦争責任者の問題」

この論調には相当不満がある。一種の「自己責任論」であり、「一億総懺悔」論であり、結果的に戦争責任者が免罪されかねないからだ。

無政府主義というかリヴァタリアニズムというか、徹底した個人主義の立場からする戦争批判だ。

しかし自らをふくむ日本国民を、これでもかこれでもかと執拗に叱咤する文章には迫力がある。

前後の事情からすると、多分左翼団体に名前を無断使用されたことで頭にきて、一気に書いたものだろうと思う。伊丹は同じ時期に「手をつなぐ子ら」の脚本も手がけている。この人には「愚かな民衆」に対する優しい眼差しもあるはずだが…

私は更に進んで「騙されるということ自体が既に一つの悪である」ことを主張したいのである。

騙されると言うことは勿論知識の不足からも来るが、半分は信念即ち意志の薄弱からも来るのである。

…幾ら騙す者がいても誰一人騙されるものがなかったとしたら今度のような戦争は成り立たなかったに違いないのである。

…騙されたものの罪は、只単に騙されたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも雑作なく騙される程批判力を失い、思考力を失い、信念を失 い、家畜的な盲従に自己の一切を委ねるように成ってしまっていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任等が悪の本体なのである。

…それは少くとも個人の尊厳の冒涜、即ち自我の放棄であり人間性への裏切りである。又、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。惹いては国民大衆、即ち被支配階級全体に対する不忠である。

…今迄、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼等の跳梁を許した自分達の罪を真剣に反省しなかったならば、日本の国民というものは永久に救われる時はないであろう。

…「騙されていた」と言って平気でいられる国民なら、恐らく今後も何度でも騙されるだろう。いや、現在でも既に別の嘘によって騙され始めているに違いないのである。

…現在の日本に必要なことは、先ず国民全体が騙されたということの意味を本当に理解し、騙されるような脆弱な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。

「わたしが一番きれいだったとき」という詩がある。

茨木 のり子の詩で国語の教科書にも載っているそうだ。

短い詩で、tossインターネットランドで全文が読める。

とりあえず、気に入ったフレーズだけ紹介する。


わたしが一番きれいだったとき

…わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった

わたしが一番きれいだったとき
だれもやさしい贈り物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差しだけを残し皆発っていった

わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり
卑屈な町をのし歩いた


当時の日本には、柳原白蓮の嘆きとは違う感性があり、もぎたてのアスパラガスのような、あざやかな怒りがあったのだ。

多分それは「わたしが一番、まぶしいほどにきれいだったとき」だったろう。


茨木のり子については下記もご参照ください


漫画家の森田拳次さんが赤旗に登場している。ご存知「丸出だめ夫」の作家だ。「8月15日会」を主催し、戦争体験を描く展覧会を続けてきて、日本漫画家協会文化大臣賞を受賞したという。

私と同じ奉天にいた赤塚不二夫とちばてつやが、小学校も同じだったと分かったりして驚きました。

と言っても、漫画家になる前の生活はでんでバラバラだった。しかしいのちの危険にさらされ、苦労したのは同じだった。

最終的には戦争反対だけど、プラカードみたいな漫画ではつまらないから笑えるのをね。
アウシュビッツのようなところにいても、死ぬ前に「タバコはどうだ」と勧められ、「いや禁煙中なんで」なんて漫画を描けたらすごいと思うね。描いた本人も死ぬかもしれないけど。
harukanaru-akai-yuuhi.jpg
そういえば、赤旗日曜版に連載されたちばてつやの漫画は名作だったなぁ。あれは単行本になっているんだろうか。

「ボストン美術館 華麗なるジャポニズム展」の紹介記事。

1856年ころ、フランスの版画家、ブラックモンは日本から来た陶器の包み紙を見て驚嘆する。安い紙に刷られた北斎漫画だった。

森下泰輔さんの劇的な文体での書き出しだ。

ジャポニズムの始まりに関してはいろいろな説があるようだが、最初が漫画というのが150年後の現代における漫画受容を思い起こさせ、興味深い。



下記のページに、このへんの経緯が詳しく書いてある。

ジャポニスムの底流 ―ブラックモンから高島北海まで―」北川 正

1856年当時,サン=ミッシェル大通りにあった刷り師ドラートルの工房は,メリヨンやジャックマールのような版画師や画家,装丁を依頼に来る文士などの溜まり場になっていた。

フェリックス・ブラックモン(1833-1914)もここの常連だった。フランス美術史のなかで,ブラックモンに派手な役回りはないが,多芸多才な人であったらしい。

…どちらかというと,ブラックモンは商業ベースで仕事をする腕のいい職人であり,確実に挿絵・表紙絵・扉絵をこなしてくれる仕事仲間として信頼されていたようだ。

さて,このブラックモンが,1856年に刷り師ドラートルの工房で,あるものを発見する。有田かなにかの日本製の焼き物だった。ドラートルが1855年のパリ万国博の流失品をどこかで手に入れたのだ。

しかし,ブラックモンを釘付けにしたのは焼き物そのものではなかった。割れないように焼き物と焼き物のパッキングに使われていたあるものが気にかかったのだ。何と,それは『北斎漫画十三編』だった。譲ってもらえまいか,とブラックモンはドラートルに掛け合うが,ブラックモンの執着ぶりをみてドラートルは渋った。しかし,その後ブラックモンは同じものをどこかの骨董店で手に入れる。

ブラックモンが感激したのは技法もさることながら、その題材だったという。

…古典主義的縛りに抗してクールベの市民やマネの浮浪者が現れてきたわけだが,そもそも浮世絵の主題は浮世風呂・浮世床であり庶民生活そのものだった。

ブラックモンが,「自分が北斎の第一発見者であるとふれ回り」,クリーシー大通りにあった「カフェ・ゲルボア」でマネやドガなど気鋭の画家たちの注目を集めたのも,フランス近代芸術の内的必然性なのである。

その後,ブラックモンが北斎や広重をモチーフにして版刻した食器セットは,1867年のパリ万国博覧会で金賞を受賞することになる。これが<スティル・ジャポネ(日本様式)>の第1号である。


ということで、えらく長い引用になってしまった。

しかし、爆発的に話題となったのは、1862年5月1日からロンドンで開かれた万国博覧会であった。

幕末モノの時代劇でお馴染みのオルコック大使が、無類のコレクターで、彼が持ち帰った美術工芸品約1000点が一挙に展示されたのである。その作品は展覧会後にクリスティーズで競売にかけられたというから、オルコックが邪神なき愛好家だったかどうかには疑問が残る。

その5年後に明治維新となり、窮迫した名家がお宝を叩き売りした。廃仏毀釈で打撃を受けたお寺さんからも宝物が流出した。その結果、日本からの美術工芸品の輸入は一挙に拡大し、デパートなども日本の美術工芸品を扱うようになり、ロンドンでは日本美術・工芸ブームが起こった。

だからジャポニズムは日本の政治・社会体制の混乱の副産物という側面も持っているのである。


当時は写真がどんどん普及し、それまでの写実を事とする絵画は展望を失いつつあった。

言葉としては逆で、写真が写実であり、絵画は事実ではなく真実を写しとる術であるべきだろう。

では真とは何か。多くの者はそれを心象上の真実と解した。印象派がそれであろう。

それに対し日本の絵画なり、北斎漫画は思い切ったデフォルメと平面化で、真実を切り取っていた。少なくとも西欧の人々にはそう思えた。

興味深いのは、同じ時代に日本では司馬江漢が遠近法を取り入れ、「まるで写真のような」西洋風の写実が日本人を驚かせていたことだ。

激変期においては、個別認識の諸過程が前後に錯綜し、時に思わぬ顛末をたどることになる。武谷三男の記事で書いたとおりである。

森下さんに異を唱えるようで、申し訳ないのだが、あまりブラックモンには拘泥しないほうが良さそうだ。


これは の続きです。

宮本百合子との対話

49年4月の「婦人民主新聞」は白蓮と宮本百合子の紙上対談を掲載している。

「誰故にこの嘆きを」 白蓮から百合子へ

あの日、日の丸の旗を肩にして「大君のへにこそ死なめといつて出て征つたあの子の姿は、胸に焼きつけられて今もなお痛む。

あのおとなしい子が人一倍子ぼんのうの両親の家を、不平一つ言わず勇ましく門出をした、あれは一体、誰故に誰に頼まれてああしたことになつたのか─と。

…思いかえせばあの戦争中の協力一致の精神…が世界平和のために湧き上らぬものかしら、この故にこそ天界…息子と地上において…同じ目的に協力したいと念じている。これが我子を犬死させない唯一の道だと思っているから。

百合子から白蓮(燁子)へ

…燁子さんににちりよつて、その手をとらせたい心にさせる。そうなのよ、燁子さん。

…あなたの愛がそんなに大きく、そんなに母として深い傷になほ疼いてゐるのに、もう一遍、その傷のいたみからかぐはしの香織 を生んで見よう、と思ふことはおできにならないかしら。

今度は戦争の兇□と非人間性に向かつて抗議し、行動する、けふといふ歴史の時代における香織を。

世界連邦平和運動の婦人部長

この宮本百合子の言葉がどう響いたかは分からないが、「悲母の会」は後に「国際悲母の会」となり、「世界連邦平和運動」に発展した。

白蓮は湯川秀樹夫人スミらとともに運動を担い、全国を行脚した。北海道だけでも後志、札幌、月寒、石狩、旭川、十勝平野、根室、狩勝、北見と連なっていく。

運動家としてのど根性

白蓮はこんな文章も書いている。

悲母の会解消問題の起きた時、だから先生は、歌の事さへすれば他の事は何もしなさるなと、意見された。併し自分の運命の流れというものがある。

そして70を過ぎた体に鞭打って全国の講演旅行に駆け巡る。この時の歌は、芭蕉の「奥の細道」を思わせる。自然と我とが一体になった至高の歌どもとなっている。

『地平線』の作品に詠み込まれ、また注記された地名は全国津々浦々の40ヶ所におよぶ。

いくつかを紹介しておく

巡礼の心してゆく旅なれば 北のはてにも わがゆくものか

どこの国の誰が ぬれ居る雨ならむ とほくに見ゆる雨雲低し

ききほれて しづかに涙たるるなり 山河草木みな声放つ

遠つ祖の なみだに見たる秋の空 佐渡はけぶりて小雨となりぬ

白蓮の最晩年

このような過酷とも見える無理の多い講演旅行は、やがて燁子の目を苛み緑内障に侵される結果となった。

1961年、76歳で白蓮は両眼を失明する。しかし作歌は永眠の前年まで続けられた。最後の歌は神々しいほどに響く。

眼を病めば 思い出をよぶ声のして 今を昔の中にのみ居り

なべて皆 物音たえし真夜中は 声ならぬ声のなにか聞こゆる

そこひなき 闇にかがやく星のごと われの命をわがうちに見つ


この抜粋は中西洋子さんの労作のほんの一部しか伝えていません。ぜひ原文をご覧ください。

 

 

このところ多忙で、赤旗も貯まり加減だ。
記事への食いつきも悪くなっている。
これも軽めの記事で、ミレーの種まく人についてだ。
井出洋一郎さんが書いた「種をまく人 ミレー生誕200年」という記事。
この絵は5点あるそうだ。
1.1846年の小品 これは海が背景に描かれているらしい。府中市美術館にあるそうだ。
2.1847年の作品 これは畝を耕す牛も描き込まれているらしい。ウェールズ国立美術館蔵。
3.1850年の作品 これがもっとも有名なものだそうだ。ボストン美術館蔵。
4.1850年の作品 ボストンのものと瓜二つだそうだ。なぜ二つ作ったのかはわからない。山梨県立美術館蔵。
5.1850年代の作品 未完のままだが、もっともサイズが大きいものだ。カーネギー美術館蔵。
ということで、5つのうち二つも日本にあるということは、日本人がよほどこの絵を好きな証拠だろう。

この絵についての井出さんのコメントを紹介しておく。
ミレーの「農民画」で最初に画壇で問題視されたのが、「種をまく人」であった。パリの官展であるサロン展に1850年に出品されたこの絵は、、2年前に王党派を一掃し、農民と市民階級が勝利した二月革命の余波という背景を持っている。
しかし時はすでにルイ・ボナパルトのクーデターと帝政が準備され、民主共和制が崩壊する寸前であり、左右両陣営の対立が極まった時代であった。
若い農夫の孤独な農作業を描いた「種をまく人」は右からの厳しい批判と、左からの熱心な賞賛の嵐に見舞われる。


5,6年前に釧路の美術館でもミレー展(バルビゾン展だったかな?)をやったから、私は実物を見ているかもしれない。釧路の美術館はとても水準の高い展覧会をやってくれる。何よりも空いているのがありがたい。それだけでも釧路に住む意味があるくらいだ。

下記は岩波書店のホームページから
「種まく人」のマークについて

創業者岩波茂雄はミレーの種まきの絵をかりて岩波書店のマークとしました.茂雄は長野県諏訪の篤農家の出身で,「労働は神聖である」との考えを強く持ち, 晴耕雨読の田園生活を好み,詩人ワーズワースの「低く暮し,高く思う」を社の精神としたいとの理念から選びました.マークは高村光太郎(詩人・彫刻家)に よるメダル(左写真)をもとにしたエッチング.

ということで、ミレーの絵とは直接関係はないようだ。そういえばゴッホにも同じ絵柄の作品がある。どちらもミレーの絵にインスピレーションを受けている。
岩波書店の説明では、ワズワースと高村光太郎が挙げられているが、どういうわけか小牧近江と雑誌「種まく人」への言及はない。これは意識的に無視しているのか、なにか裏事情があるのか。

ミレーの作品は5枚あると書いたが、実はもうひとつある。それが1851年のエッチングだ。

ジャン=フランソワ・ミレーの「種まく人」 | ムッシューPの美の探究 より


ゴッホが題材としてのはこのエッチングだったようだ。また高村光太郎もこのエッチングからメタルを作成したらしい。ただし別のページでは「ミレーの原画に基づいてPaul-Edmé LeRat が制作したエッチングである」ときさいされている。

アルフレド・サンシエが1881年に著した『ミレーの生涯と作品』には、以下のように記されている。この記載をゴッホは熟読したそうだ。

白い種袋を托され、種まきを引き受けた時には、種を一杯に入れた袋のはしを左腕に巻きつけ、新しい年の期待を胸にふくらませ、いわば一種の聖職にたずさわるのである。
彼はもはや一言も発せず、しつかりと前を見て畝と畝の距離を測りながら、儀典歌のリズムに合わせるように規則的な動作で種をまく。大地に落ち た種は、すぐに耙で土をかけられ、おおわれる。
種をまく男の身ぶりと、抑揚のついたその歩みは、本当に堂々たるものがある。その動作は、真実、大きな意味を持っており、種をまく人はその責任の重さを実感している。


のページより引用。(ちなみに邦訳者は井出さん)

の続き

柳原白蓮の歌をネットで探すのはかなり難しい。とくに後期のものはほぼ皆無である。

柳原白蓮における歌の変容と到達

中西洋子さんという方の論文が参照できる。戦後に出した歌集は昭和31年の「地平線」が唯一のものであるが、ここにその歌がかなり掲載されている。 

その前に一首だけ

静かなり 遠き昔の思出を泣くによろしき 五月雨の音(『流転』昭和3年)

宮崎龍介との同棲生活が始まって、どうやら落ち着いて、まもなくのころの歌である。

この人の歌は、例外なく、下二句が抜群である。短歌はとんと素人だが、下二句がまず浮かんで、それに5・7・5がツケられているような趣を感じる。


「地平線」は「万象」「悲母」「至上我」「人の世」「旅」「去来」などの小題をもつ317首からなる。

その内の「悲母」60首が戦死した吾が子、香織を偲ぶ歌群である。


焼跡に芽吹く木のあり かくのごと吾子の命のかへらぬものか

蒼空に一片の雲動くなり 母よといひて吾をよぶごとし 

秋の日の窓のあかりに 亡き吾子がもの読む影す 淋しき日かな

夜をこめて板戸たたくは風ばかり おどろかしてよ吾子のかへると

英霊の生きてかへるがありといふ 子の骨壺よ 振れば音する

かへり来ば 吾子に食はする白き米 手握る指ゆこぼしては見つ

もしやまだ かえる吾子かと 脱ぎすてのほころびなほす 心うつろに

かたみなれば 男仕立をそのままに母は着るぞも 今は泣かねど

しみじみと泣く日来たらば 泣くことを楽しみとして生きむか吾は

戦ひはかくなりはてて なほ吾子は死なねばなりし命なりしか

身にかへて いとしきものを 泣きもせで  何しに吾子を立たせやりつる

最後の

身にかへていとしきものを泣きもせで 何しに吾子を立たせやりつる

という歌は、下記の記事と対照すると、いっそう痛切である

先日、柳原白蓮が寄せ書きした日章旗が発見されたという報道があった(西日本新聞)。

白蓮と宮崎龍介が住んでいた目白の居宅の離れには、東大の学生寮があった。そこに寄宿していた加藤という学生が出征することになった。

その日章旗は、海軍入営前に2人から贈られたものだそうだ。1942年のことだ

白蓮が 「きみ征きて 祖国安泰なり 君が征く 東亜の空に 栄光うまるる」 と筆で書き、宮崎も「武運長久 祝入営」などと書いていたという.

千葉県の戦争遺跡より


この後は中西洋子さんの文章から、抜粋紹介させていただく。

「悲母」60首の優れているところ

その悲しみははかりしれない。しかし一方、悲歎に暮れながらもそれに溺れることなく堪え忍び、じっと向きあっている目がある。

しかも表現は具体性をもって悲しみの情とひびきあい、また修辞的な技巧の入る余地なく、いずれも単純化された詠いぶりである。

平和運動の担い手への歩み

46年、NHKラジオを通じて訴えると、「悲母」への反響はものすごいものだった。彼女の主導で「万国悲母の会」が結成される。

個の悲しみを共有し、反戦に繋げようとする婦人たちの運動である。

宮本百合子との対話

49年4月の「婦人民主新聞」は白蓮と宮本百合子の紙上対談を掲載している。この中身は稿を改めて紹介する。


いつ載るか、いつ載るかと思っていたら、本日の赤旗文化面に載った。
柳原白蓮。
美女シリーズの何番目になるかな。
やんごとない点では別枠だ。なにせ大正天皇の従兄弟という雲上人。
この人の戦後まもなく作った歌が数種載せられている。

夜をこめて
板戸たたくは風ばかり
おどろかしてよ吾子のかへると

英霊の生きてかへるがありといふ
子の骨壷よ振れば音する

この犠牲が世界平和の道しるべ
わがをとめ等よ泣くのでないぞ

人の世にあるべきものか原爆の
いくさは遠く根の国へゆけ


いい歌だ。
スローガン的な言葉を、正面から受け止め、我がものとし、激しく表出している。それが浮いてこないのはなみなみならぬ技法であろうが、それ以上に、言葉をがっしりと受け止めるだけの内実が感じられる。
まさに気高さを感じさせる歌である。

日本の文壇では、ともすれば敬遠される資質であろう。
いくさは遠く根の国へゆけ
は、まことに素晴らしい。

詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

というブログでも杉山平一を紹介している。

は、東日本大震災を契機に書かれた「希望」という詩、谷内さんはその詩の後半の「我慢」という言葉に注目している。


我慢していればよいのだ
一点
小さな銀貨のような光が
みるみるぐんぐん
拡がって迎えにくる筈だ

負けるな

ここを谷内さんはこう読む。

何もできないときは、何もできないまま、できることをしていればいいのだ。それは「我慢する」というような消極的なことになってしまうかもしれないが、それでもそこには「する」という「自発」がある。
「自発」があるかぎり、それに答える何かがある。
 それが「希望」である。

たしかにそのほうが適当だ。
ぴっぽ さんの
その連鎖を、勇敢に断ち切るのです。
というのは、やはりちょっと言いすぎだなと思う。

多分杉山さんというのは業で読ませるタイプの詩人だと思う。乗っけられると、ドドドッと行く。
志しはいうほど濃くはないんじゃないかな。

ぴっぽ さんという方が、「心に太陽を、くちびるに詩を」という連載を書いている。本日は16回目で、杉山平一「わからない」という詩が紹介されていて、なかなかいい。

ぴっぽ さんはブログを持っていて、そこで全篇が読める。といっても短いものだ。


わからない

お父さんは
お母さんに怒鳴りました
こんなことわからんのか

お母さんは兄さんを叱りました
どうしてわからないの

お兄さんは妹につっかかりました
お前はバカだな

妹は犬の頭をなでて
よしよしといいました

犬の名はジョンといいます


   ―『希望』2011年11月刊 より

ついでに作者の紹介も転載する。

  杉山平一 (大正3―平成24 1914―2012)
福島県会津若松生まれ。詩人・映画評論家。
東京帝大在学時に、詩誌「四季」に投稿開始。
三好達治に見出され、同誌に作品掲載。
1943年、第一詩集『夜学生』刊行。
30代から40代にかけ、生活上では、辛酸を舐める。
1966年(52歳)帝塚山大学専任教授となる。
2003年『戦後関西詩壇回想』で小野十三郎賞特別賞受賞。
2012年、最後の刊行詩集『希望』にて、第30回現代詩人賞受賞。
2012年、5月肺炎にて死去。享年97。

詩集に『夜学生』(1943)、散文詩集『ミラボー橋』(1952)、
『声を限りに』(1967)、『ぜぴゅろす』(1977)、『木の間がくれ』(1987)
『杉山平一全詩集(上下)』(1997)、『青をめざして』(2004)
詩文集『巡航船』、『希望』(2011)等。他、映画評論・詩論集等多数。
ぴっぽ さんは、次のような感想を書いています。

「わからない(わかってくれない)者」に対する、苛立ち。
これは、ある意味、負の連鎖。攻撃の連鎖。

けれど。妹は。
その連鎖を、勇敢に断ち切るのです。
妹は、犬を「いじめない」ことを選びます。
「よしよし」とむしろ、ほめたりします。

悲しみ、苦しみや、憎しみが
この世界に、あることは、百も承知だけれど。
そして。
きみが傷ついていることも、しっているけれど。

ぼくは、きみは、せめて。
それを、連鎖させないで、おこうよ。

こんな記事があった。

 韓国は何かにつけて日本に対し自国の優越さを主張する。では実際の数字はどうのか。スポーツの分野で比較してみる。

【項目:日本/韓国】
●夏季オリンピックメダル獲得数:金130銀126銅142/金81銀82銅80
●冬季オリンピックメダル獲得数:金9銀13銅15/金23銀14銅8
●サッカー代表戦績(日韓戦):14勝21分38敗/38勝21分14敗
●サッカーFIFAランキング:47位/54位
●サッカー欧州組選手数:28人/14人
●サッカー移籍金最高額:33億円(中田英寿 ローマ→パルマ)/14億円(ソン・フンミン ハンブルガーSV→レバークーゼン)
●WBC歴代戦績(優勝回数):4勝4敗(2回)/4勝4敗(0回)
●野球五輪代表戦績:10勝5敗/5勝10敗
●歴代メジャーリーガー数:56人/14人
●テニス世界ランキング最高順位:男子11位(錦織圭)、女子4位(伊達公子)/男子36位(イ・ヒョンテク)、女子34位(イ・ドッキ)

※週刊ポスト2014年1月17日号

ということで、これは日本のほうが本当は強いぞというデータを並べるつもりで作ったのに、はからずも韓国の強さを裏書する結果になっている。


1.まずは並列に並べる前に、条件の違いを指摘しなければならない。人口は圧倒的に日本のほうが多いのである。

2.オリンピックだが、戦前の戦績を加えるのは明らかに間違いだ。第一、孫基禎をどちらにカウントしているのか。

3.カネのかけ方が違う。日本は種のところから大事に育てている。向こうはみんな雑草育ちだ。自力で這い上がってきている。

4.ガチンコ勝負ではほとんどすべて韓国が上回っている。WBCをいうなら日韓対決の結果を示すべきだ。

5.商業スポーツの御三家は野球、サッカー、ゴルフだ。スポーツ新聞を見ればわかる。どうしてゴルフを無視するのか。

6.韓国のプロの目標はカネだ。金にならないことはやらない。バレーボールも卓球もボクシングも金にならないからやめた。最大の市場は日本だから日本に押し寄せる。外国人枠がなければ、野球もゴルフもすべて韓国人になる。


子供の頃、朝鮮人は何をやっても強かった。もともと血の気が多い上に、体を張っていた。怖かったね、朝鮮人は。兄弟には必ずヤクザがいたし、みんなトッぽかった。いま考えるとその兄弟の中にはアカもいただろうね。

そういう人たちが現場で体を張って、日本の平和と民主主義が守られたのかもしれない。

最後はなんだか分からなくなってきた。これ以上はやばくなるのでひとまずおしまい。



古田足日さんが亡くなったそうだ。大江と同世代の愛媛の田舎の出身(厳密に言うと古田は半分戦中派で大江は純粋戦後派)。大江と違って、文学少年で落ちこぼれ生徒で、戦後のドサクサの間に児童文学にハマり、嫁さんに食わせてもらいながら、評論と実作で名を挙げていった人のようだ。

『児童文学の思想』(古田足日 牧書店 1969)

内にある伝統とのたたかいを
ーーいわゆる未明否定についてーー


という文章がネットで読めるひこさんの「児童文学書評」というサイト)。抜粋して紹介する(えらく抜粋しづらい文章なのだが)

予備知識として: 古田らは54年に「少年文学宣言」を発し、“古い児童文学だ” と小川未明を否定した。これはその言い訳も兼ねた文章。


人がものを書こうとするとき、おとなでありながら子どもにむかってものを言いたい、または小説ではなくいままで童話といわれてきたものをえらぶということは、それ相応の理由がなければなりません。

大ざっぱにいえば、その理由の大部分はその人が自分の内に多分に未明的心性、広くいえば児童心性・原始心性を持っていたからです。


ぼくは単純に未明(小川未明)を否定しているのではありません。(単純な否定とは無視あるいは児童文学からの除外ということ 私注)

未明のしめる位置を小さくすると、このいびつな児童文学がどのようにして形成されてきたのかという、かんじんかなめのところがぬけおちます。

 事実の無視ということは、菅忠道がしばしば未明否定論者にむかって説くところのものですが…

…事実を無視させたものは、歴史の固定化であり、西欧児童文学史の法則をあてはめようとする図式化であり、もっとも根本的なものは、未明と対決する姿勢がなかったことです。


…資質の大小は問題ではありません。この「誠実さ」が足りず、したがって文学性が低くなっていく傾向が、いまの児童文学に見られることが、問題です。「子どもの文学はおもしろく、はっきりわかりやすく」という『子どもと文学』の主張は、日本の児童文学のさまざまな欠点と同時に、文学性もタライの水ごとすててしまいそうな方向を持っています。

「時代のためにこうなった」という、その「こうなった」の内容こそがぼくの問題です。つまり、未明童話にはなぜおとな的なものが多くのこったのか。なぜ暗さのほうが強く、あかるさのほうが弱いのかなどという問題、これを時代のためと言ってしまうのは、あまりにも簡単にすぎます。


 おばけを書くことのできる作家は数えるほどになってしまったばかりではなく、そのおばけも小さくなってしまいました。ゆうれいは絶滅してしまったように見えますが、まだ南海の底深くには、いやぼくたちの身辺にも、ぼくたち自身のなかにも、死んでも死にきれないゆうれいが存在しているということのほうが、はるかに現実的なのです。

脳が老朽化してくると、色んな所でショートするのか、突然ロッサナ・ポデスタという名が浮かんできた。

なんだっけと、ウィキペディアで探してみる。

往年のイタリアの美人女優だ。代表作はトロイのヘレンと黄金の7人。どちらで憶えたか、黄金の7人はもう学生時代だから、あまり俳優の名前を覚えることには興味なかったはずだし、やはりトロイのヘレンか。

あの頃のイタリア映画といえば、ソフィア・ローレンとジーナ・ロロブリジータが双璧。それにシルヴァーノ・マンガーノがいて、ロッサナ・ポデスタとはあまり言わなかったような気もするが。

トロイのヘレンはイタリア映画には珍しく、上品で良い映画だった。ロッサナ・ポデスタは気高く、眩しいばかりに美しかったように覚えている。しかしそれがロッサナ・ポデスタという名前とは結びついていなかった。

だからふっと記憶の奥底から湧いてきたのかもしれない。

ちょっと写真を集めてみる。

HELEN OF TROY (1956)

という予告編の映像がyoutubeにアップされていた。4分近い長い予告編だ。イタリア映画ではなくハリウッド(ワーナー)だ。

Helen of troy 1956

こちらでは本編の出だしの部分6分あまりが見れる。

Helen of Troy (1956) - Suite - Max Steiner

全11分で「組曲」が聞ける。1993 re-recording ということで音質は良好。

London "Helen Of Troy" Premiere (1956)

これは試写会のニュース。Princess Margaret ご臨席という物々しいものだ。

Helen of Troy

ついでだが、この動画はひどい。ユニバーサルの製作のベツものだが、なんの恥ずかしげもなく全編がアップされている。なんと2時間47分の大作だ。

この他にブラピの主演した「トロイ」という映画もあるようだ。こちらはワーナー。パラマウントの作った映画もあるようだが、こちらは削除されている。

他にもイロイロあるが、まぁ見るほどのものはない。

Addio a Rossana Podestà

という追悼番組が見られる。スペイン語で1分しかない。

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