鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

カテゴリ: 70 文学・芸術・スポーツ

我が家のテレビのハードディスクは嫁さんの韓流ドラマで満杯だが、ときどき変な番組が録画されている。

金曜の夜、嫁さんが寝た後、それを消していくのが「儀礼」なのだが、今回は思わず見入ってしまった。

終わらない人 宮崎駿

という番組。

アルコールも効いてきて、ところどころ居眠りしては見るという有様だったが、後半に来て俄然眼が覚めた。

あらすじを語ることは到底できないので、「番組紹介」から引用することにする。

3年前、突然引退を宣言したアニメーション映画監督・宮崎駿さん。世捨て人のような隠居生活を送り、「もう終わった」と誰もが思っていました。でも実は終わっていなかったのです。手描きを貫いてきた宮崎さんが、75歳にしてCGで短編映画に初挑戦。それは長年夢見た幻の企画でした。新たなアニメーションとの格闘を繰り返すなかで、下した大きな人生の決断!「残された時間をどう生きるのか」。独占密着!知られざる700日

というのがあらすじだが、どうも私の感じたのは「老い」とか「残された人生」というのではない。

それはもっと激しいものだ。

CGという表現手段を相手に一種の「異種格闘技」をいどみ、その中でCGの「真の限界」を知り、さらにその根底にある「CGイズム」を峻拒しつつ、自ら歩んできた道の正しさを確認していく作業である。

そのうえで、宮崎さんは新しい長編づくりへの挑戦を宣言するのであるが、それはおそらく主要な問題ではないだろう。その決意に到達するまでの意識の高まりの過程こそがもっとも重要だ。

だからある意味ではこのドキュメンタリーそのものが、宮崎の作品でもあると思う。

1.CGは作品に命を吹き込めない

正確には、「これまでのCGでは」言ったほうが良いのだろう。多分、そのことは宮崎さん自身もそう感じていたから、手書きにこだわってきたのだろう。

ただ、CGはあくまでも技法であり、原理的にはCGだから命を吹き込めないことはない。あくまでも作者の側の問題であるはずだ。

宮崎さんは、この論理と実感の間隙を埋めたくてCGづくりに取りかかったのだろうと思う。「この宿題を解決して置かなければ死ねない」みたいな感じだろうか。

ドキュメンタリーの前半ではこの過程がかなり長々と描かれていく。結局、絵そのものへの介入はすべて失敗に終わる。

それはある意味ではこれまでの作家人生を通じての実感の再確認であったのかもしれない。

それがある日突然ブレイクスルーがやってくる。「そうだ、魚を描こう」

魚が泳ぎ回る世界がまずあって、そこに主人公が登場することで世界はまさに「水を得た魚」のようにいきいきと動き出す。これがひとつ。

もう一つは、その環境に対応する眼差しや体の動きが意味を持つようになる。自然になるというのは、演技でも仕草でもない。そうさせているものとの関係において自然なのだ。

CG(CGイズムというべきかもしれない)は自らの枠の中にすべてを押し込もうとする。自然さえもだ。

しかしその瞬間に生命というものは消えてしまうのではないか。

2.「生きとし生けるもの」としてのいのち

いのちを絵の形であろうと言葉の形であろうと、絡め取りたい、すくい上げたいというのは人間の欲望である。

私は紀貫之の言葉を想起する。「花に鳴く鶯、水にすむ蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌を詠まざりける」

古今和歌集の序文である。

この場合の「生きとし生けるもの」は作家としてのいのちである。それは主体であるとともに、花鳥風月に刺激を受ける受動態としてのワタシである。

そして花鳥風月を描くことによって、それらに生き生きとした能動性を与えるのもワタシだ。そこにはいのちの交流がある。

それと同じように、鶯や蛙も周囲の自然とのいのちの交流の中で輝いている。この二重の交流を画像の中に込めなければならない。

おそらく宮崎さんはCGという苦難の道に踏み込むことで、そのことを別な表現、「魚を描き込むことで主人公に命を吹き込む」というかたちで、難関を突破したのであろう。

3.CGイズムとの闘い

CGというのは表現技術の一つである。しかしほとんど無限の可能性を秘めた表現技術である。

あまりにも急速に革新されているために、技術の高度化がある程度自己目的化されるのもやむを得ない。技術にはそういうところがある。そういう時期なのだ。

だがCGの発展が集団の中で自己目的化されると、そこには独自の哲学が生まれてくる。「CGイズムとCGそのものは分けて考えなければならない」と言っても、実際にCGに携わっている人が共通してそういう言語体系をもってしまえば、一般社会との垣根はますます高くなっていく。

宮崎さんのCGへの取り組みは、CG屋さんの持つそういうイデオロギーとの闘いを抜きに実現し得ない。

CG屋さんは子供の頃宮崎さんのアニメを見て育ったはずだ。宮崎さんは尊敬の対象だ。にも関わらず彼らの言語体系は揺るがない。それとこれとは別なのだ。

これは一見動かしがたい矛盾のように見える。

しかし、宮崎さんはそこに風穴を開けたように一瞬思えた。

それが「いのちと交わり、いのちを紡ぎ出すこと」ということなのだろうと思う。

番組の終盤、彼がグロテスクで・クソリアルな動画を見て激怒したのは、作品そのものというより、つかみかけたCGの将来イメージに真っ向から泥を投げつけられたからに違いない。

その動画は、たしかに画面は動いているが、思考法としては止まっているのである。そこに吹き込まれているのがいのちではなく「死」だからである。いのちとの交わりではなく、いのちのあまりにも無造作なモノ化だからである。

CGはリアルになればなるほどシュール・リアリズムになる。もちろんそれ自体が悪いと言っているのではない。技法の追求は絶対必要だと思う。ただシュール・リアリズムは行き止まりであって、出発点にはならない。

そこからはいかなる物語も紡ぎ出せない。宮崎さんが欲しているのはいのちが紡ぎ出す物語であり、CG屋さんにも、かくあれと欲しているのである。

ところで、宮崎さんがふと鼻歌で歌った「民族独立行動隊の歌」が耳に残る。60年安保の世代なのであろう。

 


こちらのページには別の人が書いた番組紹介がある。

こちらを見たら宮崎さんはもっと憤激するかもしれない。

クールジャパンの基幹コンテンツと期待されながら、国際的にはピクサー、ディズニーらのCGアニメに圧倒されている日本のアニメーション。宮﨑が世に放つ短編は、日本アニメの未来を変える一手となるのか。

こちらはCGオタクではなく、脳ミソがソロバンになっているエコノミック・アニマルだ。

田口道昭さんが石川啄木の「地図の上朝鮮国にくろぐろと~」の歌をめぐってという文章を書いている。

関心は、どうして歌人の中で啄木のみがこのような思索に達し得たのかということだ。

この歌は明治43年(1910年)に「創作」という一連の作歌に収録され、「9月の夜の不平」という一連の中の一首とされている。

朝鮮併合が行われたのはその1ヶ月前のことだ。

日露戦争に「君死にたもうことなかれ」を書いた与謝野晶子は、朝鮮併合を次のようにたたえている。

韓国に 綱かけて引く神わざを 今の現に見るが尊さ

幸徳秋水の「帝国主義」やその非戦論も、帝国主義戦争への批判にとどまり、植民地獲得競争への視点、朝鮮固有の問題への認識へと発展していなかった。

それでは啄木は独力でこの境地を生み出したのか。

そこで田口さんは先行者としての木下尚江を押し出している。

朝鮮併合の6年前、明治37年6月に木下尚江は平民新聞に「敬愛なる朝鮮」という論文を発表している。記事そのものは無署名で、後の調査で木下の筆によるものであることが明らかになった。

政治家は曰く、「我らは朝鮮独立のために、かつて日清戦役を敢行し、また日露戦争を開始するに至れり」と。

かくて我らは「政治上より朝鮮救済を実行せん」と誇称しつつあり。

然れども、彼らがいうところの「政治的救済」なるものが、果たして朝鮮の独立を擁護する所以なるか否かは、吾人は容易に了解すること能わず。

まことにこれを朝鮮国民の立場より観察せよ。

これ、一に、日本・支那・ロシア諸国の権力的野心が、朝鮮半島という「空虚」を衝ける競争に過ぎざるにあらずや

明治37年6月(1904年)という日付けに注目していただきたい。日露戦争が始まったのがこの年の2月、まさに戦争の真っ最中なのである。

前月、鴨緑江会戦でロシア軍を撃破、ついで第2軍が大連を攻略し、遼陽に向け進軍を開始しようとするさなかである。

まさに命がけの記事であったことは間違いないと思う。

ただこの記事は「黒々と」の歌の6年も前のものだ。当時啄木は18歳。東京で気鋭の歌人としてデビューしたばかりの頃である。この記事を読んでいたかどうかさえ定かではない。

ついで田口さんが挙げるのが、朝日新聞の連載「恐るべき朝鮮」である。

この記事は明治42年(1909年)に24回連続で掲載された。渋川という記者の現地紀行文である。

この記事は決して思想的なものではなかったが、挿話として日本の横暴の実態が散りばめられていたらしい。当時、朝日新聞で校正の仕事をしていた啄木は、このような朝鮮の状況をドイツをロシアに挟まれ、祖国を失ったポーランドへの同情と重ねていたのではないか、と田口さんは見ている。

そして最大の引き金となったのが、大逆事件である。以前の記事でも書いたが、啄木はこの事件に並々ならぬ関心を抱いていたし、場合によっては主体的に関わろうくらいの気持ちを持っていた。

彼の眼にはこれが一揆主義者の暴発と、それを奇貨とした政府の社会主義者弾圧のためのでっち上げであることは明らかだった。

そしてこの弾圧が目前に迫った朝鮮併合をつつがなく行うための予防措置であると啄木は予感した。


というのが田口さんのあらあらの主張である。

こういうことだろう。

啄木は朝日新聞の校正部に職を得て以降、急速に知識を広げ、社会的自覚を高め、一匹狼から組織的行動へと変身を遂げ、新聞記者ではないが人一倍ジャーナリストとしての身構えを身につけることになった。

感想になるが、

啄木像は、まず1909年3月、朝日新聞就職後の最後の3年を原像として把握すべきではないか。それでも24歳から26歳だ。この年にしちゃあ立派なもんだ。

それ以前の啄木は「プレ啄木」というか、成人啄木に至るまでの修行時代、ビルドゥングスロマンとしてみておくべきではないか。

「見よ、飛行機の高く飛べるを」は、その完成期における詩として、大人の詩としてみておくべきだろう。

2012年12月23日の記事 に現れた、天才少年歌人としてのやや酷薄な啄木像は、すでにそこにはない。

ふと見つけた講義録が大変面白かったので紹介する。

会計学の根底にあるもの」となっている

田中章義さんという東京経済大学の教授だった方が、2005年に行った最終講義のようだ。当時70歳、いまの私と同じだ。

講義は生い立ちから述べられている。札幌の山鼻の生まれ。結核で2年休学してからの北大入学だから、イールズ世代と安保世代の中間ということになる。

農村セツルメント「どんぐり会」で活動していたと言うが、私の入学する6年も前に卒業しているから面識はない。

ということで、話そのものが面白いのだが、今日取り上げるのはその中で石川啄木の「飛行機」という詩を引用されたところ。大変良い詩なので、そのまま重複引用させてもらう。ただし、多少の異同があるので、元の詩そのものを引用する。

講談社版『日本現代文学全集』39「石川啄木集」(昭和39年2月19日発行)

       飛  行 機     
         
 1911.6.27.TOKYO.

見よ、今日も、かの蒼空に
飛行機の高く飛べるを。

給仕づとめの少年が
たまに非番の日曜日、
肺病やみの母親とたつた二人の家にゐて、
ひとりせつせとリイダアの獨學をする眼の疲れ……

見よ、今日も、かの蒼空に
飛行機の高く飛べるを。

啄木25歳(死の前年)、明治44年(1911年)6月27日の作です。「はてしなき議論の後」などの詩と一連です(詩集『呼子と口笛』)。

岩城之徳の解説によると、

この詩には、少年が「飛行機」に仮託した夢と、少年の暗い現実が意味する作者の絶望感との両者が並行して提示されている。つまり一編の主題はどちらか一方のみをいうことにはなく、両者の関係をいうことにあったのだろう。すなわちこれは、脱出しようもない人生の暗さを自覚するがゆえに、いっそうそこからの跳躍を願い、また願わなければならないと思う作者の心情を表白した詩である。

引用しておいていうのもなんだが、「あんたの意見を聞きたいんじゃないんだよ」とおもう。こういうのを蛇足と言うんだろう。

それにしてもひでぇ文章だ。「つまり」と「すなわち」を並べ立てるなど愚の骨頂だが、それでも「要するに、結局のところ」ともう一文入れたくなるくらい、まとまっていない。これで原稿料とるとは相当のいい度胸だ。


何も説明の要らない詩だが、強調するとすれば、「はるけき夢と希望」(明治44年における飛行機と、今日の我々にとっての飛行機とはまったく意味合いが違う。なにせ蝋燭の炎の下で果てしない議論を繰り返していた時代だ)と、少年を見つめる作者の眼差しの優しさだ。

それが「されど誰ひとりとしてヴ・ナロードを…」の「はてしなき議論の後」と引き立て合っているかもしれない。なにせ大逆事件の直後だ。そして自らにも死が忍び寄っている。

そういう閉塞感の中の抜けるような蒼空の一瞬だ。悲しいわけではないが、何故か目頭が潤んでくるような光景ではないか。

本日の文化面の「潮流」というコラム。
見出しは「ノーマ・フィールドの指摘」というもの。
ノーマ・フィールドは小林多喜二の紹介者として有名な日本文学研究者。
私も一度講演を聞いたことがある。
記事は、ノーマ・フィールドが中心となって「プロレタリア文学研究」が発行されたことに関するものだ。
それについての説明は省くが、記者が紹介したノーマ・フィールドのリアルタイムの問題意識が面白い。
白人貧困層から後ずさりする白人リベラル
彼女はトランプ現象を前に、「白人リベラルが白人貧困層にかける言葉を持たない 」という問題が浮上したと考えた。記者はこの問題について、「ノーマ氏は鋭い目を向ける」と表現している。
それは「(白人リベラルが)白人貧困層を同じ人間として見なすことができなかったことではないのか
解答は実践にあり
その視点から、プロレタリア文学運動の魅力をあらためて見直してみると、そこには答えがあるという。
プロレタリア文学の何よりもの特徴が参加者の「実践」的姿勢にあったということだ。
ふつうは顧みられない、社会の底辺に暮らす人々をだいじに、立体的に、具体的に 」把握することが出発点である。
そして「軽視された人生に尊厳を吹き込む行為 」として結実させなければならない。
「かけるべき言葉」を失ったリベラル
その営みを通じて、「貧困層を同じ人間としてみなす」ことができるようになるのではないか。
翻ってみればリベラル層はその営みを軽視し、積み上げてこなかったのではないか。
我々の掲げるスローガンが草の根に届かないもどかしさは、日頃感じるところであるが、それは庶民語で話そうとしない我々の側の怠惰に起因しているのではないか。我々の言葉は意味を失って浮遊しているのではないか。
ノーマ・フィールドはそこまで掘り下げた上で、あえて「言葉を失ったリベラル」を叱咤し、「言葉を取り戻せ」と呼びかけているように思える。



突然映画づいてしまって、「エル・クラン」のあとは中井貴一の「グッドモーニングショー」、そして今週は宮沢りえの「湯をわかすほどの熱い愛」だ。
実は最初から「湯をわかすほどの熱い愛」がお目当てだったのだが、題材柄、なかなか男一人では入りにくい映画で、つい隣の映画館に入ってしまう、ということの繰り返しだった。
本日はついに意を決して家を出た。シアターキノという昔ながらの映画館で、ここに入るということはこの映画を見るという選択しかない。

結論は「正解」だったね。
とにかく泣ける。暗い悲しい映画ではなく、明るい前向きの映画なのだが、ひたすら泣けてしまう。特に後半に入ってからはほとんど泣きっぱなしの失禁状態だ。悲しいから、つらいから、くやしいから泣くんじゃない。気がついたらひとりでに涙が出てきてしまっているのだ。
これは絶対に一人で観に行く映画だ。誰かと行ったんじゃ、恥ずかしくてしようがない。女性はすっぴんで行かないとあとで困りますよ。
そして映画が終わったときの何たる清々しさか。
リアルな世界と紙一重のファンタジーだから、あまり生活臭が出すぎても困る、とスタッフは考えたのだろう。もっとリアルさを追求するなら別のキャスティングもあったろう。
そこで宮沢りえとオダギリジョーという二人を持ってきた。そのことでメソメソしない映画ができたのだろうと思う。
ネタバレになるかもしれないが、涙が噴水のように飛び出した場面が2つある。一つは若者を突然抱きしめる場面、もう一つは瞼の母の家を訪ねて、その家の窓に礫を投げつける場面だ。これは宮沢りえ以外の誰にも演じらない。最後に近く、ガンの苦痛に身悶えするシーンもまぶたに焼き付いて離れない。

本当にいい映画だった。もう一回行きたいくらいだ。ありがとう。

これも本日の赤旗、文化面

坪内稔典という俳人が「文学のある日々」というエッセーを連載している。いつもちょっとツボにはまらないもどかしさがあるのだが、今回の「子供と言葉」というエッセーには素晴らしい俳句が載せられている。

俳句と言っていいのか分からないが、俳人が自ら俳句だと言っているのだから、俳句で良いのだろう。

※ ※ 

私はときどき、小学生たちと俳句を作る。その際、自己紹介代わりに自作を音読してもらう。

三月の 甘納豆の うふふふふ

たんぽぽの ぽぽのあたりが 火事ですよ

春の風 ルンルンけんけん あんぽんたん

これら私の句をいっしょに音読すると、子どもたちの緊張感がたちまちほぐれ…

とまぁ、そんな文章なのだが、

一人でもぐもぐと口のなかで音読しても、たしかに うふふふふ だ。

三句とも語頭にアクセントがあって、「の」の字が多くて、「の」つながりの言葉の電車だ。

意味は基本的に否定されているが、春の野焼きのような浮き浮きした気分が満載だ。

“あんぽんたん” も甘納豆も、かすかに古めかしい。

とにかく、とってもチャーミングだ。

甘納豆の うふふふふ」はおそらく一生耳の奥に残るだろう。


電力村の横暴がこの国を貶めている 石炭火発 推進の背景

香港 雨傘運動の経過

ワレンバーグ スエーデン外交官 ハンガリー ユダヤ人救出 ソ連による逮捕と殺害

医療・介護 改悪 工程表

「風に吹かれて」ってそんなにいい詩なのかね?

うんと意訳しながら辿ってみると、

あいつはどのくらい苦労したらいいんだい

君があいつを「男だ」って言う前に、

大砲の弾は何発飛んだら禁止されるんだい

ねえ君、そんなことなんかわかりっこないよ

風の向くままさ

これが一番だ。

二番はもっと嘲りのニュアンスが強い

山があるだろう

それが全部雨で流されて消えるのに何年かかる?

人々が自由になるのに何年かかるだろう

それまで生きていられるかな

それまで見て見ぬふりをするために、

何回首を傾げるかな

ねえ君、そんなことなんかわかりっこないよ

風の向くままさ

三番はそれまでより少しまともである

話によると、最初は三番が二番で、二番は後から突っ込んだものらしい。

人は何度見上げたら空が見えるようになるのだろう

人はいくつの耳を持たなければならないのだろう

人々の悲鳴を聞けるようになるのに

一体何人が殺されたら、彼は

あまりにも多くの人が死んでしまったと悟るのか

ねえ君、そんなことなんかわかりっこないよ

風の向くままさ

ボブ・ディランは仲間と議論していて、急にこの歌詞を思いついたそうである。

結局彼の言いたいことは、「そんなことなんかわかりっこないよ」ということだ。彼が議論からそろそろと後ずさりしているさまが目に浮かぶ。

何かしら、嫌な苦味の残る歌詞である。

同じボブでも、ボブ・マーレーはいいぞ。

すみません。私は柴田トヨさんという人をぜんぜん知りません。なので「詩人柴田トヨ」と呼び捨てにするのはちょっと抵抗があります。

90歳を過ぎて詩作を始めた。

第一詩集は160万部のベストセラーになった。

詩壇は柴田のことを無視し続けた。

柴田を詩人ともてはやすマスコミに苦言を呈する“現代詩人”がいた。

といわれると、「ほお、そうか」というしかありません。

ちょっとグーグル検索してみました。

ウィキによると

1911年(明治44年)生まれ 2013年の死亡とあり、3年前に101才で亡くなった人だと分かります。

いろいろ辛い人生を送った後、92歳から詩作を始め、産経新聞の投稿詩人となった。テレビやラジオでたびたび取り上げられ、詩集『くじけないで』が160万部を記録した。

プロフィール

ということで、けっこうな人気だったようです。産経系だったので私の目には触れなかったのかもしれません。

それで実際の作品はどんなものだったのか。著作権侵害を恐れずに拾ってみる。

以下は柴田トヨさんさんの詩の頁から転載

くじけないで

ねえ 不幸だなんて
溜息をつかないで

陽射しやそよ風は
えこひいきしない

夢は
平等に見られるのよ

私 辛いことが
あったけれど
生きていてよかった

あなたもくじけずに

神様

お国のために と
死にいそいだ
若者たちがいた

いじめを苦にして
自殺していく
子供たちがいる

神様

生きる勇気を
どうして
あたえてあげなかったの

戦争の仕掛け人
いじめる人たちを
貴方の力で
跪かせて

化粧

倅が小学生の時
お前の母ちゃん
綺麗だなって
友達に言われたと
うれしそうに
言ったことがあった

それから丹念に
九十七の今も
おつくりをしている

誰かに ほめられたくて

先生に

私を
おばあちゃん と
呼ばないで

「今日は何曜日?」
「9+9は幾つ?」
そんな バカな質問も
しないでほしい

「柴田さん
西条八十の詩は
好きですか?
小泉内閣を
どう思います?」

こんな質問なら
うれしいわ

と、まぁ、技法的には小学生の作文である。

ただテクニックというのはその気になれば急速に向上するものであるから、本当は最初の詩から順に並べながら、その流れを評価しなければならないだろうが、そこまでの気持ちは起きない。

正直言えば陳腐である。「100歳でよくおできになりましたね」と言う言葉が咽喉まで出掛かる。

以前に柳原白蓮の歌を観賞したときの凛とした感動はそこにはない。むかし山形の小学生の綴り方を詠んだ時の泣けるような感動もない。

「ある現代詩人」の感想は、それはそれとしてうなづけるのである。ノーベル賞のアカデミーが「それをいっちゃあおしまいだよ」なのと同じように、「現代詩人たるもの、それは禁句だぞ」といわれると、「現代詩人ってそんなご大層なものかい」と絡みたくなる気がしないでもない。

どうも木島章さんの腹の底が見えず、なんとなし、いやな感じである。

どうも昨日の赤旗の記事が気になってしかたがない。

文化面の「詩壇」というコラムで、題名は「社会と乖離する危機」、著者は木島章さんという人で、肩書きは詩人。

短い記事だがいくつかの内容が含まれる。

最初がボブ・ディランのノーベル賞受賞の話。

ノーベル賞の主催団体がボブ・ディランに連絡をとろうとしたが、当初、ボブ・ディランが態度表明をしなかった問題。これはいまだに真相が分からないので評価のしようがない。

ついで、ノーベル賞のアカデミーがボブ・ディランを「無礼で傲慢だ」と発言したという話。これも真偽のほどはたしかでない。しかしそれが世界中に波紋を呼び、ノーベル賞団体こそ傲慢だと批判を浴びてしまった話。これも、「どうでもいいじゃん」という感じだ。

ただノーベル賞側が不愉快に感じても不思議ではないと思う。たしかにボブ・ディラン側の対応は失礼だ。同時にそれを表に出すのも大人気ないかなとは思う。そんなことを表に出せば、どうせ「傲慢だ」と切り返されるのは当たり前だ。

そこで木島さんの見解は次のようなものだ

ノーベル賞の権威にひれ伏さないディランをののしったアカデミーは傲慢である。(正確な引用は後出)

これは、やはり一方的な断罪といわざるを得ない。とにかく一連の経過を評価する上で、「なぜ」という事実が一つも明らかにされていないからだ。

この段階で木島さんの言うことに「そうだ、そうだ」と同感することは出来ない。ただ、木島さんがボブ・ディランをきわめて高く評価していることは実感できる。

ただボブ・ディランの話はここでの主題ではないのでこれ以上の議論はしないで置く。

次が、詩人柴田トヨをめぐる議論。

ボブ・ディランのときと同じように、いくつかの事実が並べられる。

90歳を過ぎて詩作を始めた。

第一詩集は160万部のベストセラーになった。

詩壇は柴田のことを無視し続けた。

柴田を詩人ともてはやすマスコミに苦言を呈する“現代詩人”がいた。

これらの事実から木島さんはつぎの結論を引き出す。

現代詩を高みに置き、彼女を見下すように排除する詩人たちに、ノーベル賞の権威にひれ伏さないディランをののしったアカデミーと同様、傲慢さしか感じられないのは私だけだろうか。

「私だけ」かどうかは別にしても、ボブ・ディランと柴田を同列に扱い、一方でノーベル賞のアカデミーと、現代詩のしがない「詩壇」とを同列に置く視点というか論理はかなり特殊なものと見てよいだろう。

そしてこの文章の最終的結論はこうなる。

柴田の人気の陰で、現代詩がますます社会と乖離していく危機感を抱かずにはいられない。

こうなると、あたかも現代詩が柴田を評価しないことと、現代詩が社会から乖離していることが、因果関係にあるかのように思えてしまう。そう読めてしまうのは私だけであろうか。


『武道論集』という文章があった。

2008年に国際武道大学附属武道・スポーツ科学研究所が発行したもので、ありがたいことにPDFファイルで読める。

目次を見ると、実に総括的な力作で、ただで読むのがもったいないくらいだ。

とりあえず、第二章の章末の剣道歴史年表から始めようか。すべてを転載するのも煩わしいので、項目を絞ることにする。そのかわりウィキなどから解説を拾い、読み物になるようにした。

《剣道歴史年表》

10 世紀後半 反りと鎬(しのぎ)をもつ日本刀が出現。刀の柄が長くなり、「片手持ち」から「両手持ち」へと変わる。

本来、諸刃のものが剣で片刃が刀であるが、日本では諸刃の使用は定着しなかったため、混同が見られる。平安時代後期から武家の勢力が増大し、これに伴い太刀が発達する。通常これ以降の物を日本刀とする。(ウィキ)

刀

         日本刀の種類や構造・描き方 より転載

平治 1 (1159) 源義経、鞍馬山で鬼一法眼に剣を学んだといわれる。

鬼一法眼は京・鞍馬の陰陽師で、京八流(鞍馬寺の八人の僧に教えた剣法)の祖とされる。剣術の担い手は武士ではなく僧であったといわれる。

鬼一法眼

弘和4 (1384) 中条兵庫助長秀、将軍足利義満に召され剣道師範となる。(この記載については

応永15(1408) 念阿弥慈音、摩利支天のお告げにより念流を創立。信州波合に長福寺を建立。(この記載については

15世紀後半 剣術・槍術・柔術などの流派が誕生し始める。

文正 1 (1466) 伊勢の剣客、愛洲移香斎久忠(あいすいこうさい)、各地を流浪の末、日向で陰流を開く。(ウィキによれば移香斎は法名で本名は太郎)

変わった名前だが、これは伊勢の豪族(水軍)愛洲氏の流れをくむ。愛洲氏は遣明貿易にも携わっていた。移香斎も明を始め各地を旅していたという。

1467年 応仁の乱。戦国時代の始まり。弱肉強食と下克上が支配的思想となる。

それまで剣術は武術のひとつに過ぎなかった。
武芸十八般: 弓術・馬術・剣術・短刀術・居合術・槍術・薙刀術・棒術・杖術・柔術・捕縄術・三つ道具・手裏剣術・十手術・鎖鎌術・忍術・水泳術・砲術

大永 2 (1522) 香取神道流の流れをくむ塚原ト伝、新当流を開く。

享禄 2 (1529) 上州の上泉伊勢守秀綱、陰流や神道流、念流などに学び「新陰流」を編みだす。愛洲移香より陰流奥義を授かったとの説あり。

天文3年(1543) 鉄砲の伝来。急速に戦闘の主役となる。

鉄砲による先制攻撃と、軽装備の武者による白兵戦が普及。合戦の場における剣術の意味が重視されるようになる。

永禄 8 (1565) 柳生但馬守宗厳(むねよし)、諸国巡遊中の上泉伊勢守を招聘。一国一人印可を授かり、柳生新陰流を創始。宗厳は大和の国柳生の豪族。後に入道して石舟斎を名乗る。
永禄11(1568年) 上泉秀綱、天覧試合で演武を披露。

天正 4 (1576) 念流の流れをくむ伊藤一刀斎景久、小野派一刀流を創始。

慶長元(1596)柳生石舟斎と宗矩、徳川家康の前で「無刀取り」を披露し召し抱えられる。のちに徳川幕府は小野派一刀流と柳生新陰流を公式流派とする。

寛永 9 (1632) 柳生但馬守宗矩、「兵法家伝書」を著す。

正保 2 (1645) 二刀流の宮本武蔵、「五輪書」を著す。

天和 2 (1682) 伊庭是水軒、心形刀流を開く。

正徳年間(1710 年代) 直心影流の長沼四郎左衛門国郷、防具を工夫改良、面・小手を用いた稽古を始め、これが大いに流行。

宝暦年間(1750 年代)

一刀流の中西忠蔵、防具をさらに改良し、ほぼ現代剣道の防具の原型が完成。竹刀防具を用いた試合剣術を始める。これが「撃剣」と呼ばれるものである。

寛政 4 (1792) 幕府は武芸奨励の令を発布。

文政 5 (1822) 北辰一刀流、千葉周作が神田お玉ヶ池に「玄武館」を開設。他に神道無念流(斎藤弥九郎)の「練兵館」、鏡新明智流(桃井春蔵)の「士学館」が、江戸の三大道場と呼ばれる。

他にも鏡新明智流、神道無念流、心形刀流、天然理心流など、各地で新興の試合稽古重視の流派が隆盛。幕末期の剣術流派の総数は、200以上あった

1848年 黒船来航後、尊王攘夷論や倒幕運動が盛んになる。各地で斬り合いや暗殺が発生し、剣術が最大の隆盛を迎える。

安政 3 (1856) 築地に幕臣とその子弟を対象とする講武所が創設。剣術師範として男谷精一郎(直心影流)が就任。

明治 4 (1871) 廃藩置県、散髪脱刀勝手の令発布。

明治 6 (1873) 江戸幕府の講武所剣術教授方だった榊原鍵吉、剣術を興行として、その木戸銭で収入を得させることを考案。

撃剣興行は浅草左衛門河岸(現浅草橋)で行われ、大成功した。その数は東京府内で37か所に上り、名古屋、久留米、大阪など全国各地に広まった。

明治 7 (1874) 警視庁設置。佐賀の乱。

明治 9 (1876) 廃刀令の公布。剣術は不要なものであるとされ衰退した。

明治 9 (1876) 神風連の乱(熊本)、秋月の乱(福岡)、萩の乱(山口)など不平士族の反乱が相次ぐ。

明治10(1877) 西南の役。警視庁抜刀隊の活躍でこれを鎮圧。剣術が再認識される。

明治12(1879) 警視庁大警視川路利良、「撃剣再興論」を発表。巡査の撃剣稽古が奨励されるようになる。榊原鍵吉ら撃剣興行の剣客たちは警察に登用される。これに伴い撃剣興行は衰退。

明治13(1880) 京都府知事槇村正直、「撃剣無用」の諭達。剣術を稽古する者は国事犯とみなして監禁した。

明治16(1883) 文部省、体操伝習所に対して、「撃剣・柔術の教育上における利害適否」の調査を諮問。

明治17(1884) 体操伝習所は、撃剣・柔術の学校採用は時期尚早との答申を出す。

明治28(1895) 日清戦争による尚武の気風の高まりを受け、大日本武徳会が創立され、武術の復興と普及が図られる。

明治29(1896) 文部省、学校衛生顧問会に「剣術及び柔術の衛生上における利害適否」の調査を諮問。同会議は、15 歳以上の強壮者に対する課外運動としてのみ可と認める。小沢一郎・柴田克己など、第10 帝国議会に「撃剣を各学校の正課に加ふるの件」請願。その後、度々国会への請願は繰り返される。

明治35(1902) 大日本武徳会、「武術家優遇例」を定め、範士・教士の制を設ける。

明治38(1905) 大日本武徳会、武術教員養成所を開設。その後、武徳学校・武術専門学校・武道専門学校と改称。

明治39(1906) 大日本武徳会剣術形を制定。

明治44(1911)「中学校令施行規則」一部改正により、撃剣及び柔術が正課として体操科の中に加えられる。

大正 1 (1912) 大日本帝国剣道形が制定される。

大正 2 (1913) 京都帝国大学主催、第1 回全国高等専門学校剣道大会が開催される。このころより、大学主催の剣道大会が盛んに行なわれる。

大正 7 (1918) 武術家優遇例を武道家表彰例と改称。

大正13(1924) 第1 回明治神宮競技大会において、剣道大会も開催。

大正14(1925) 第50 議会において、武道が中学校の必修独立科目として可決される。この後撃剣は「剣道」と呼ばれることになる。

かなり不十分で、視点が絞りきれていない年表ですが、とりあえず載せます。いずれその気になったら増補したいと思います。

下の図は全日本戸山流居合道連盟のページから拝借したものである。見事に人の首が飛んでいる。

21shopkp01.jpg

こうしてみると、いまの剣道というのは、剣術の出がらしみたいなものではないかと思えてくる。

たまにテレビで全日本選手権の中継をやっているが、あれを見ているとどちらが勝ったのか素人目には分からない。

もし両者が真剣で立ち会っていれば、両方とも間違いなく死ぬであろう。決闘としては無意味だ。あれならチャンバラごっこのほうがはるかにリアルだ。

それはそれとして、この首切り写真、どう見ても野球のバッティングと同じである。

スポーツ紙によく載るホームランの瞬間とまったく同じで、左足に重心を残しつつ、手首を固めて、刀に載せるように、腰の回転でボールを切っている。

 「さらば故郷」から吉丸の話に移り、それが撃剣術の話になって、どうも話がとりとめなくなっているが、それが酒飲みばなしの面白さというもので、こうなれば行くところまで行こうという勢いになっている。

基本的には剣術・撃剣術・剣道は同じもので、時代によって呼び名が違っているというに過ぎない。

こう言うとその道の人には怒られそうだが、しかしそれらの人たちも実際はこれらを一くるみで語っているから、まんざら間違いとはいえないだろう。


「撃剣術」という言葉はウィキには登場しない。ぽかぽか春庭「撃剣術」

というブログに、詳しい説明があるので紹介する。

「刀で切る技」である剣術に対して、刀剣・木刀・竹刀(しない)で相手をうち、自分を守る武術を撃剣(げきけん)といいます。武術の十四事においては、剣術と撃剣は別々の武術として並べられています。

そしてブログ主は

江戸時代の剣道道場などでも、ふたつはともに刀剣木刀の術として扱われ、剣術家と撃剣家がまったく別種の人とは認識されていなかった

と想像しています。

明治になって、武士の身分がなくなると、各地の道場で稽古を続けてきた武芸者にとって、剣の技は無用のものとなってしまいました。

ということで、榊原鍵吉の撃剣興行の話につながっていく。


剣術と言い剣道と言い、つまりは文化的位置づけの違いである。時代の流れである。

それでは、その流れの中で撃剣術はどう位置づけられるであろうか。

一夜漬けの勉強の結果辿り着いた結論は、撃剣術は元の意を無視して狭義に言えば、見世物としての剣術であり、ご一新と廃刀令で侍が落ち目になっていく時代に始まり、権力に剣術が見直され、やがて教練の対象となり、剣道と名付けられるまでの短期間に用いられた名称であろうということだ。

つまり武士(戦士)の生活の思想的基本としての剣術=人を殺すための技術が無用なものとなり、それが、富国強兵モードの中で、「剣道=哲学を持つ体育」の一つとして復興していくまでの過渡期に、剣術に対して与えられた文化的枠組みと考えられるべきだということだ。

それはまさに明治維新と、軍国主義の興隆という2つの時代の間に生まれた概念だ。そこでは天地が2回ひっくり返っている。

一度目の転倒は言うまでもなく戊辰戦争と、廃刀令、廃藩置県、身分制度の廃止だ。ここで剣術は徹底して否定された。

これに対して二度目の転倒ははっきりしない。幾つかのエポックがある。

一つは西南戦争と抜刀隊の活躍だ。これにより刀剣による闘いの部分的な有用性が再認識された。警視庁が剣術を重視し在野の剣士を召し抱え、剣術の保護・育成に力を注いだ。

もう一つは日清・日露の戦争で勝利したことで、軍国主義が一世を風靡し、その中で「武士道」精神が称揚されるようになった。この中で剣の道が美化され、「大和魂」の中核となった。

これに対し、剣術の中から「美学」を中核として取り出したのが撃剣術となっていくのではないか。それが凝縮したのが「型」であろう。居合術もその一つであろう。戸山流居合術というのは陸軍の戸山学校で教えた「軍刀の使い方」教室みたいなところから発展したらしい。

「型」とはいえ、「こうやれば人を殺せる」という方法を示している点では、むしろ剣道よりも実戦的だ。


ただそれは柔術が講道館柔道となったのとは若干様相を異にし、在野の辺縁的存在にとどまり、剣道はあくまでも警察剣術を中心に発展していく。

こういう流れの中で、撃剣術を考えていくのが妥当ではなかろうかと思う。

陰流と中条流の関係がどうも怪しい。剣術の世界は相互批判の気風があまりないようだ。

むかし、「わさび漬」というのが静岡の名物で、同じような商品を売っているのだが、かたや本家、片や元祖という具合でなんともいい加減なものだった。剣術の世界でも似たようなものなのか。

探していたら下記の文献に巡り合った。

山嵜正美「平法中條流の傅系について」と言うもので、武道学研究という雑誌に掲載されたもの。発表は2006年となっている。武道の長い歴史から見れば最新と言ってもいいかもしれない。

書き出しは

平法中條流の傅系について誤認論述がまり通っている。より厳しい研究が望まれている

と言うものである。具体的には「本朝武芸正傳」という書物の批判のようである。

伝書の記載は数のごとくである。

中条家系

しかし中条長秀は足利幕府の評定衆であり、いくつかの文書に名が残されている。

初見は貞和2年(1346年)足利尊氏の歌会の参加者として名を残す。ただしこのときは藤原長秀を名乗っている。

長秀はたしかに1384年になくなっているが、法名は長興寺殿秋峯元威である。ある著書に「法名は実田源秀」となっているが、これは長秀の裔孫、中条左馬助信之である。

実田源秀こと中条左馬助は、応永33年(1426)に弟子に単傅を授けたことが確認されている。

伝書の人名が混乱したのは、口伝による簡略化のためであろう。

平法中條流に念流の刀術が取り入れられたのは、左馬助の父である中條判官満平であろう。

念流慈恩の京都における弟子の中に中條判官の名が記載されているが、当時都に居住した中条一族のうち判官職にあったのは満平のみである。

ということで、中条長秀はずっと前の人で、当然武家社会の幹部であるからそれなりの兵法は身につけていたであろうが、どちらかと言えば文官として名を残した人物と考えられる。その子孫に当たる中条判官満平が、京都に出向いた慈恩に念流を学び、それを家伝の中条流に取り入れた、ということになる。

この論文は、さらに、冨田と中条流の関係にも触れ、冨田は中条流を引き継いだものの、冨田流を起こしたわけではないということも明らかにしているが、詳細は略す。

最後の結論は大変厳しい。

冨田流は存在しない。後世の御伝となる元凶は「本朝武芸正傳」の富田流との誤認記述である。

ということで、年表についての疑問が氷解した。

慈恩と念流

剣道年表に疑問があり調べてみた。疑問を生じた項目は以下の通り。

弘和 4 (1384) 中条兵庫助長秀、将軍足利義満に召され剣道師範となる。

応永15(1408) 念阿弥慈音、摩利支天のお告げにより念流を創立。信州波合に長福寺を建立。

第一の疑問は念流の流れを引くと言われる中条兵庫助が足利義満の剣道師範になったのが、念流創始より20年も前になっていること。「剣道師範」という表現も怪しい。

第二の疑問は、信州の長福寺となっているが、鎌倉だとする別記事があること。

どうでもいいことだが、行きがかり上こだわってしまった。そこでウィキで慈恩と中条を調べることにする。

まずは念阿弥慈恩について

慈恩は1350年の生まれ。南北朝時代の人である。これで行くと念流を創始したのは58歳のことになる。ありえないわけではないが、不自然な感はある。

奥州相馬の生まれ。俗名は相馬四郎。新田義貞に仕えていた父が殺された。総門に入った慈恩は敵討ちを目指して剣の修業を積んだと言う。とんだ坊主だ。

各地を武者修行した後、念流を編み出した。これには多くの異名があるが省略。

慈恩はいったん還俗して相馬に戻り、奥州で父の仇を取った。それからふたたび出家して念阿弥慈恩を名乗った。

諸国をめぐり剣法を指南した後、1408年に信州波合村に長福寺を建立、念大和尚と称した。没年は不明である。

ということで、鎌倉や京都で弟子を取って念流を伝授したらしい。1408年は慈恩の隠退した年で、信州は隠居地なのである。波合村というのは相当の僻地で、隠遁のような生活だったのではないか。そこでの最後の弟子が樋口某と称する地元の豪族で、樋口は後上州に移り馬庭念流と称したようである。

慈恩の門人たち

慈恩には板東8名、京6名、計14名の優れた門弟があったとし、「十四哲」と称される。

その中に念首座流、中条流、富田流、陰流などの開祖がふくまれる。

ついで中条兵庫助長秀について

この人は慈恩とは逆に生年不明で没年、1384年のみ明らかである。

ウィキによれば、たしかに

念流開祖の念阿弥慈恩の門に入り、慈恩の高弟である「念流十四哲」の一人となる。

となっている。

中条が死んだ年、慈恩はまだ34歳だから、本当に中条を教えたのだろうかと疑問が湧く。ひょっとすると年上の弟子だった可能性もある。

三川の挙母(現トヨタ市)の城主であり、かなりのインテリである。

どちらかと言えば太刀筋がどうのこうのというより、剣術に哲学を導入したことが功績なのかもしれない。

彼の武術の体系は兵法ではなく「平法」と称される。

平らかに一生事なきを以って第一とする也。戦を好むは道にあらず。止事(やむこと)を得ず時の太刀の手たるべき也。

ということで、平たく言えば護身術なのだが、これを「夢想剣」と名付けるセンスは只者ではない。

「足利義満の剣術指南役を務めた剣豪」ということになっているが、彼は同時に室町幕府の評定衆でもあり、また歌人としても名を馳せたということだ。

何か大河ドラマの主人公にでもなりそうな人だ。

ウィキ以外のファイル

しかし以上のウィキの記載では、二人の接点が生まれてこないし、陰流と中条流の関係も見えてこない。

こだわりついでに、もう少し他の文献も当たってみる。

葛飾杖道会のページには、下記の記載がある。

中条兵庫助長秀は代々剣術の家に生れ、鎌倉の評定衆であり、足利義満に召されてその師範となった。鎌倉寿福寺の僧慈音という者について剣道を修めた

というかなり異なる記載がある。「鎌倉の評定衆」は明らかに間違いで、鎌倉幕府はとうに崩壊している。それにしても困ったものだ。

マイペディアの記載はひどい

応仁のころ中条兵庫之助長秀が鎌倉地福寺の僧慈恩に刀槍の術を学び,中条流を創始した。

100年ずれている。

答えは次の記事中条長秀は慈恩と無関係で。

「故郷を離るる歌」について という記事に崎山言世さんという方からコメントが有りました。

読み返してみると、あまり真面目な文章ではなかったようで反省しています。

一応、撃剣術問題と、軍国主義者問題について意見を申し述べます。

1.撃剣術問題

崎山さんもご覧になったかと思いますが、撃剣術の引用は琴月と冷光の時代というサイトからのものです。

ここにはネット文献としては型破りなほどに詳しく吉丸の経歴が書かれており、ほとんどごちそうさまの世界です。

そこに次のように書かれています。

一昌は文武両道をめざした。学業は大学予科の文科志望、部活動は撃剣部に入った。撃剣は剣道に近いものだが当時は撃剣と言った。10月10日の紀念会で竹刀で試合をしたことが記録されている。撃剣部の部長は、教授の秋月悌次郎(1824―1900)だった。秋月は元会津藩士でこのとき既に70歳、翌年秋に退職するまで倫理・国語・漢文を教えていた。

なお撃剣術というのは、剣道とは違いはるかに実戦的な武術ですが、明治に入ってからは廃れる一方だったようです。

吉丸の名誉のために言い添えておくなら、下記のごとくヒューマンな面も持ち合わせていたようです。

一昌は東京帝国大学を卒業した直後の明治34年秋、修養塾という私塾を開き、苦学生とともに質素な生活をしていたとされる。ほぼ同じころ法学士だった土屋禎二と川添信敬が小学校の校舎を借りて私立の下谷中等夜学校を開設し、一昌は校長となり、経営にあたった。修養塾は夜学に学ぶ苦学生の寄宿舎となった。

2.軍国主義者問題

軍国主義者問題は、不正確だったかもしれません。我が静岡高校の校歌は現在一番しか歌われておりません。それは二番、三番があまりに軍国主義的であるとのことで、戦後に校歌から排除されたのです。

そのことのみをもって吉丸が軍国主義者であったとは断言できませんが、少なくともそのような精神を内包していたことも間違いのないところでしょう。五十歩百歩ですが、より正確には「皇国主義者」と呼ぶべきかもしれません。

他にもたくさん例示できますが、省略します。

3.小学唱歌の位置づけ

ついでに彼の作成した小学唱歌の歴史的運命について、この文章にはこう書き記されています。

一昌が成しえた最も大きな仕事はまちがいなく『尋常小学唱歌』である。…『尋常小学唱歌』は約20年間の長きにわたって教育現場で使用された。昭和7年に『新訂尋常小学唱歌』が編纂されるが、118曲のうち87.3%にあたる103曲、つまりほとんどそのまま引き継がれた。さらに主要な歌は戦時下においても音楽教科書に掲載された。

ただし、いわゆる童謡運動が起き、学校唱歌への批判が高まったあたりから、吉丸は東京音楽学校内でも忘れられるような存在になっていったようである。

…時代を下るにしたがって見過ごされるようになったのは、一昌が厳しい生徒監として一部に反感を買ったことや、「楽壇時評」の厳しい評論活動が敵をつくったことが影響したからであろう。

つまらない話で申し訳ありません。

一人で歩いて行った往診の帰り道、

「園のさゆうり、なぁでしこお垣根のちーぐーさー」と口をついて出た。

これは認知症による独語ではなく、小さい時からの癖である。内側膝状体・海馬性の発語であろう。

外国の歌に日本語の歌詞をつけるとき、昔はかなり強引にやった。

小百合を“さゆうり”と発音する違和感はかなりのものだ。せめて“さあゆり”とはならなかったものだろうかと考えた。

しかしそうやると、“あ”がなんとも気が抜ける。

そもそも小百合でなくて4文字の花はなかったのか。第一、「園の小百合」なんて、宝塚の芸名みたいで、あまりにも月並みだ。

それにしても、この歌のいいのは最後の「さらば故郷、さらば故郷、故郷さらば」だよな、これは絶対コーラスだろう。

ということで、部屋に戻って早速グーグルしてみた。


まず元歌。

これはドイツ民謡で『最後の夜』(Der letzte Abend)というのだそうだ。

世界の民謡・童謡 というサイトで、全曲歌詞をふくめて詳しく紹介されている。

ドイツ中部フランケン地方の民謡といわれる。作詞・作曲者や作曲された年代などは一切不明で、現在のドイツ国内ではほとんど知られていない。

歌詞を見ると、家庭の事情で好きな女性と結婚できず、彼女と別れた最後の夜を嘆き悲しむ悲恋の歌となっている。特に最後の4番・5番のくだりは死を暗示させる。

というから、「冬の旅」の冒頭の歌「おやすみ」を思わせる。

そこで紹介者は

「民謡」というよりは「歌曲」に近い完成度の楽曲であり、おそらくはシューベルト歌曲のように、しっかりとした作り手による作品だったのだろう。

と想像している。(ウ~ム、そこまで言うか…)

「やはりそうか」と思ったのは、「さらば故郷、さらば故郷、故郷さらば」のところだけコーラスで歌うようになっていることだ。

[Chor]
Nun ade, ade, ade, nun ade, ade, ade,
Feinsliebchen lebe wohl !

となっている。

ドイツ語はリエゾンしないから、“ヌンアデアデー、ヌンアデアデー、ファインリーヘン、レーベーヴォール”となる。いかにもだ。ヌンは今で、アデはフランス語のアデューだろう。


唱歌としての「故郷を離るる歌」は1913年7月に出版された「新作唱歌 第五集」に掲載された。大正2年というから、親父が生まれる前の年だ。

吉丸一昌という作詞家による「訳詞」ということになっているが、ほとんど作詞だ。

言葉は陳腐なところがあるが、構成はしっかりしている。

最初は縁側に座って間近な庭から垣根へと視線を上げていく。そして

今日は汝(なれ)をながむる 最終(おわり)の日なり

と叙情へ持っていく。

2番は家を出て峠へと向かう道すがらだ。1番に比べると言葉はお座なりだが、

別るる我を 憐れと見よ さらば故郷

はちょっと“刺さる”文句だ。それは“こころざしを果たさん”ための旅立ちではない。“哀れな旅立ち”なのだ。「そこに女がいる」と、「そして何かがあった。それは終わった」と、微かに思わせる。

とすれば叙景がお座なりなのは、意識的にそうしたものかもしれない。

三番の歌詞はついに峠まで来て、振り返り、最後の別れを告げる情景だ。とても良い。ありきたりの叙景ではなく、未練を噛みしめる切ない叙情だ。

此処(ここ)に立ちて さらばと 別れを告げん
山の蔭の故郷 静かに眠れ
夕日は落ちて たそがれたり さらば故郷

ところが、この三番、どうやっても思いだせない。歌った記憶がないのだ。

はたしてこの歌(唱歌)に3番はあったのだろうか。


Youtubeでいくつかの演奏が聞ける。当然合唱がいい。NHK児童合唱団のものが出色だと思う。

ソプラノ独唱がいくつかあるが、うまいとか下手という以前の理解だ。

この歌は斎太郎節と同じでコールアンドリスポンスだ。“さらば故郷…”が聞かせどころで、前の文句はそれとの掛け合いみたいなものだ。“エンヤトット”のリズムを崩してはならない。アクセントをはっきりさせなければならない。

弱起なのだから、“その”に心持ちテヌートをかけて、次の“の”を強調しなければならない。さらば故郷のところは、“ば”にアクセントを置いて、最後のフレーズだけ“ふる”を強くすることになる。

いっそ16拍にしてしまう手もあるが、さすがにせわしい。


崎山輝一郎さんという方の琴月と冷光の時代 というページに、吉丸と唱歌の関係について詳しい経過が載せられている。

まず吉丸の経歴がきわめて要領よくまとめられているので紹介する。

吉丸一昌は大分県北海部郡海添村(現在の臼杵市海添)の出身である。明治6年9月15日に旧臼杵藩士の家に生まれた。

苦学の末に明治34年7月に東京帝大を卒業した。体育会系の人物で成績はすこぶる芳しくなかったようである。この時既に28歳で妻帯していた。

卒業後は東京府立第三中学校(現在の両国高校)に赴任し、同校で6年間、国語と漢文の教諭をつとめた。

そのかたわら、私立の下谷中等夜学校を開設し、苦学生と生活をともにした。

明治40年3月21日の小学校令改正で唱歌が必須科目となった。東京音楽学校は、国定に準じる唱歌教科書をつくる任務を与えられた。

吉丸は東京音楽学校(現在の東京藝術大学)の教授に抜擢され、尋常小学唱歌や新作唱歌の編纂を委ねられた。明治41年、34歳のことである。

以下、就任前後の経過が続くが、ここでは省略する。(ただし面白いので、ぜひ本文をご参照ください。ウィキペディアもご参照ください)

なお吉丸は我が母校静岡高校の校歌の作詞者でもある。撃剣術の達人らしく、ゴリゴリの軍国主義である。




以前の記事

自然主義文学 年表的理解

にくっつけようと思いましたが、ちょっとあまりにも無関係なので、別建てとしました。一応後編として読んでいただければと思います。
この年表を作ったときの感想が次の記事です。


1908年(明治41年)

4月 啄木、北海道での流浪を終え東京に出る。金田一京助に頼り糊口をしのぐ。一方芸者遊びで借金を重ねる。

6月 22日 赤旗事件が発生。大杉栄ら無政府主義の青年グループが革命歌を歌いデモ行進。警官隊との乱闘の末,幹部16人が一網打尽となる。

7月 西園寺内閣、赤旗事件の責任を問われ総辞職。代わった桂内閣は社会主義取り締まりを強化。検挙者のうち10人に重禁錮の実刑が下る。

9月 第三次平民社の開設。獄中の幹部に代わり、高知から再上京した秋水が中心となる。

1909年

5月 幸徳秋水、管野スガらの創刊した『自由思想』が発売禁止処分となる。

1910年(明治43年)

3月 第三次平民社が解散。秋水は湯河原にこもる。

5月25日 「明科事件」で宮下、新村らが逮捕される。

5月31日 検事総長、明科事件が大逆罪に該当すると判断。社会主義者・無政府主義者の逮捕・検挙が始まる。

6月1日 秋水、管野らが湯河原で逮捕される。

6月 啄木、評論「所謂今度の事」を執筆(未発表) この頃から堅気になった啄木は、仕事柄事件を比較的知りうる立場にいた。

8月9日 魚住折蘆、朝日新聞に「自己主張の思想としての自然主義」を寄稿。

8月下旬 啄木、「時代閉塞の現状」を執筆。朝日新聞に掲載予定であったが、未発表に終わる。

8月 朝鮮併合。「地図の上朝鮮国にくろぐろと墨を塗りつつ秋風を聴く」を書く(未収録)

9月 朝日新聞に「朝日歌壇」が作られ、その選者となる。

11月 米英仏で大逆事件裁判に抗議する運動が起こる。

12月10日 大審院第1回公判(非公開)

12月 啄木、歌集「一握の砂」を発表。

堺利彦、売文社を設立。「冬の時代」の中で社会主義者たちの生活を守り、運動を持続するために経営する代筆屋兼出版社。

1911年(明治44年)

1月18日 大逆事件の判決。死刑24名、有期刑2名。

1月24日 幸徳秋水ら11名が処刑。

1月 啄木、友人で大逆事件の弁護士だった平出修から詳細な経緯を聞く。

2月 秋水救援活動を続けた徳富蘆花、一高内で「謀叛論」を講演。

幸徳君等は時の政府に謀叛人と見做されて殺された。が、謀叛を恐れてはならぬ。謀叛人を恐れてはならぬ。自ら謀叛人となるを恐れてはならぬ。新しいものは常に謀叛である。
 我等は生きねばならぬ。生きる為に謀叛しなければならぬ。

3月 木下杢太郎、森鴎外や永井荷風も作品で風刺する。

1912年(明治45年)

4月13日 石川啄木が病死。


ということで、いよいよ啄木の「時代閉塞の現状」に入ることにする。
(ということというのは前の記事 のことです)

すでに我々には日本型自然主義の輪郭がおぼろげながら出来上がっている。

一方には急成長しつつある強欲な日本主義の姿と、そのあからさまな擁護者としての高山樗牛がいる。一方で戦闘的民主主義(平民主義)者の田岡嶺雲がいる。さらにその先に微かに行方を照らす幸徳秋水ら社会主義者のグループがある。

その中で間隙を縫うように登場するのが意気地のない個人主義としての「自然主義」 だ。

あらためて読みなおしてみると、魚住折蘆「自己主張の思想としての自然主義」は、その“とりとめなさ”をかなり正確にすくい取っているようだ。論旨が不透明なのは、元々の日本型自然主義が逃げ腰で自家撞着しているからである。

それにもかかわらず、魚住氏が「とにかくまぁ、頑張んなさいよ」というかたちで文章を締めくくっているのは、大逆事件というでっち上げが明治43年という時点で同時進行しているからであり、どのような形でも抵抗を続けるしかないという重苦しい雰囲気があたりを支配していたからかも知れない。

それらの事情がわかってくると、これまで通り一遍で読み過ごしてきたこの評論の重みがズシンと伝わってくる。これは心して読むべき文章である。

 


時代閉塞の現状

(強権、純粋自然主義の最後および明日の考察)

石川啄木

青空文庫より

 

第一節

1.魚住論文について

今日における我々日本の青年の思索的生活の半面――閑却されている半面を比較的明瞭に指摘した点において、注意に値するものであった。

まずは一応評価する。なぜなら「半面」を指摘したものであり、論旨が「比較的に明瞭」だからだ。したがって、称賛に値する論文ではないが「注意に値する」ものである。

2.自然主義の論理的破産とその意味

けだし我々がいちがいに自然主義という名の下に呼んできたところの思潮には、最初からしていくたの矛盾が雑然として混在している。

それにもかかわらず、今日までまだ何らの厳密なる検かくがそれに対して加えられずにいる。

この「主義」はすでに五年の間間断なき論争を続けられてきたにかかわらず、今日なおその最も一般的なる定義をさえ与えられずにいる。

事実においてすでに純粋自然主義はその理論上の最後を告げている。にもかかわらず、熱心を失ったままいつまでも虚しい議論が継続されている。

次が啄木の論点だ。

これらの混乱の渦中にあって、今や我々の多くはその心内において自己分裂のいたましき悲劇に際会し、思想の中心を失っている。

つまり啄木はこの混迷を社会の混迷、青年の混迷としてとらえようとしているのだ。

3.魚住氏における自己主張と自己否定の奇妙な結合

自然主義においては、自己主張的傾向がそれと矛盾する科学的、運命論的、自己否定的傾向(純粋自然主義)と結合していた。

そこでは自己主張は自然主義の一つの属性のごとく取扱われてきた。

しかし純粋自然主義が実人生を観照的立場で見ると決めてからは、この問題は解決した。自然主義は自己主張的傾向を放棄したのである。

これで問題は解決したのに、魚住氏はまたぞろ「自己主張の思想としての自然主義」を持ちだす。

しかもその根拠として、「両者共通の怨敵たるオオソリテイ――国家というものに対抗するため」の共棲だという。これはまったくの捏造だ。

(残念ながら)日本の青年はいまだかつて権力と確執をも醸したことがない。したがって国家が敵となるべき機会もなかった。

第二節

1.青年を取り巻く社会問題

徴兵、教育、税金などさまざまな問題があり、権力との関係を問わざるをえない環境がある。

にもかかわらず実際においては、幸か不幸か我々の理解はまだそこまで進んでいない。

2.「富国強兵」の論理と青年による歪曲

父兄の論理は「富国強兵」である。その論理は我々の父兄の手にある間はその国家を保護し、発達さする最重要の武器だ。

しかし青年はそれを歪めて解釈する。

「国家は強大でなければならぬという。それを阻害する理由はないが、お手伝いするのはごめんだ!」

「国家が強大になっていくのはけっこうだが、我々も一生懸命儲けなければならぬ。正義だの人道だの国のためだの考える暇はない」

哲学的虚無主義のごときも同類である。それは強権への不服従のようであるけれども、そうではない。むしろ当然敵とすべき者に服従した結果なのである。

彼らはさまざまな人間の活動を白眼視するごとく、強権の存在に対してもまたまったく没交渉なのである。

敵が敵たる性質をもっていないということでない。我々がそれを敵にしていないということである。事態はそれだけ絶望的なのだ。

3.自然主義者は「不徹底」か

魚住氏は、自然主義者の一部が国家主義との間に妥協を試みたのを見て、「不徹底」だと咎めた。

私は論者の心持だけは充分了解することができる。しかし、たとい論者のいわゆる自己主張の思想からいっては不徹底であるにしても、自然主義としての不徹底ではかならずしもない。

そもそも不徹底だから自然主義なのであり。不徹底であることは自然主義を徹底して実行していることだ。

魚住氏はいっさいの近代的傾向を自然主義という名によって呼ぼうとする。それは笑うべき「ローマ帝国」的妄想だ。それは今日自然主義という名を口にするほとんどすべての人の無定見なのである。

第三節

この節は目一杯自然主義の悪口を並べ立てているが、あまり興味ない部分のため省略。

ただし次の一句は秀抜。

近き過去において自然主義者から攻撃を享けた享楽主義と観照論(当時の自然主義)との間に、一方がやや贅沢で他方がややつつましやかだという以外に、どれだけの間隔があるだろうか。

新浪漫主義を唱える人と主観の苦悶を説く自然主義者との心境にどれだけの扞格があるだろうか。

淫売屋から出てくる自然主義者の顔と女郎屋から出てくる芸術至上主義者の顔とその表れている醜悪の表情に何らかの高下があるだろうか。

第四節

1.時代閉塞と青年

我々には自己主張の強烈な欲求が残っている。理想を失い、方向を失い、出口を失った状態において、自身の力を独りで持て余している。

今日の我々青年がもっている内訌的、自滅的傾向は、じつに「時代閉塞」の結果なのである。

青年を囲繞する空気は、今やもうすこしも流動しなくなった。強権の勢力は普く国内に行わたっている。現代社会組織はその隅々まで発達している。

2.「敵」の存在を意識せよ

かくて今や我々青年は、この自滅の状態から脱出するために、ついにその「敵」の存在を意識しなければならぬ時期に到達している。

我々はいっせいに起って、まずこの時代閉塞現状に宣戦しなければならぬ。自然主義を捨て、盲目的反抗を罷めるべきだ。

そして全精神を明日、すなわち我々自身の時代に対する組織的考察に傾注しなければならない。

このくだりはかなり唐突であり、抽象的で言葉が空回りしている。これも大逆事件直後という時代背景から汲み取らなければならないのかもしれない。

問題は「明日の考察」ということだが、骨組みだけなので、見通しは良い。

①このままでは青年は自滅だ、このような状況から脱出しなければならない

②脱出するためには(自己実現をさまたげる)「敵」の存在に気づき、その姿を認識すべきだ、

③「敵」との闘いを宣言するということは、自然主義を捨て、盲目的反抗を罷め、闘いの真の構えを形成することだ、

④明日を我々の時代にするため、計画を立て、闘いの組織に着手すべきだ、

という段取りになるのだろう。おそらく理論作業としては③の自然主義の残渣克服を念頭に置いているのだろうと思う。

第五節

1.自己主張の系譜

「明日の考察」のためには過去における自己主張の系譜をたどるのが良いだろう。

青年が過去においていかにその「自己」を主張し、いかにそれを失敗してきたかを考えれば、今後の方向が予測されるのではないか。

以下の啄木による歴史のスケッチは私にはちんぷんかんぷんである。

2.日清戦争の意義

明治新社会の成立: 明治の青年は新社会の完成のために有用な人物となるべく教育されてきた。同時に青年自体の権利を認識し、自発的に自己を主張し始めた。

日清戦争: 大国清への勝利という結果によって国民全体がその国民的自覚の勃興を示した。

3.高山樗牛の個人主義とその破滅

明治の青年の最初の自己主張は高山樗牛の「個人主義」であった。しかし樗牛の個人主義は既成強権に対して第二者(対抗者)たる意識を持ちえなかった。

彼の「個人主義」は、「既成」と青年との間の関係に対する理解がはるかに局限的だった。ニイチェや日蓮はその局限性を糊塗するものでしかなかった。

樗牛の失敗は、いっさいの「既成」をそのままにしておいて、その中に我々の天地を建設するのは不可能だという教訓を示している。

青年の心は、彼の永眠を待つまでもなく、早くすでに彼を離れ始めた。

4.宗教的欲求の時代

ついで第二の時代、宗教的欲求の時代に移った。

宗教的欲求の時代は前者の反動として現れたとされる。しかしそうではない。自力によって既成の中に自己を主張せんとしたのが、他力によって既成のほかに同じことをなさんとしたまでである。

だから第二の経験もみごとに失敗した。

5.純粋自然主義の最大の教訓

かくして時代は第三の時代に移る。それが純粋自然主義との結合時代である。

宗教的欲求の時代には敵であった科学はかえって我々の味方となった。

自然主義運動の前半、彼らによる「真実」の発見と承認は、「批評」として刺戟をもっていた。

純粋自然主義の与えた最大の教訓は、「いっさいの美しき理想は皆虚偽である!」ということだ。我々の理想はもはや「善」や「美」に対する空想であるわけはない。

6.「必要」という真実が残された

いっさいの空想を峻拒して、そこに残るただ一つの真実――「必要」! これじつに我々が未来に向って求むべきいっさいである。

我々は今最も厳密に、大胆に、自由に「今日」を研究して、そこに我々自身にとっての「明日」の必要を発見しなければならぬ。必要は最も確実なる理想である。

ここで啄木が言う「必要」とは、今風に言えば「欲求」ということではないか。日用目的の品々でもなく、自然主義者の本能的欲求でもなく、明日に繋がる青年の欲求(Demand)ということを指すのだろうと思われる。


正直言えば、啄木の時代認識は「世代論」に傾き、やや皮相の感を免れ得ない。

しかし第5節の個人主義の系譜を回顧する場面は、当事者意識満載で面白い。大抵の近代文学史には載ってこない切り口である。

また閉塞の時代突破のカギを、ある意味で自然主義者(初期)を受け継ぐ形で自然科学的「真実」を問い、それに「必要」と応えるところもさっそうとしている。

いろいろ読んできてどうやら感じがつかめてきた。
自然主義派というのは軟派なのだ。左派でも右派でもなく軟派なのだ。左翼運動が高揚すればそれに潜り込んできて、過激だが訳のわからないことを言って、情勢が厳しくなればさっと消えていく連中だ。
運動の最初から居る人間にはそんなことはお見通しだが、後からくる人にはよくわからないから、目立ちたがりのそっちの方が左翼の主流であるかのように勘違いしてしまう。口だけは達者だから中には中枢にまで上り詰める人も出てくる。
それが大逆事件に至る日露戦争後の反動のなかで左翼扱いされて弾圧の的になると、「ごめんなさい。悪気はないのですから」とひたすらかしこまってしまう。
しかし真の左翼はとうの間に弾圧され消え去っているから、不満を持つ若者はそれにしがみつくしかない。しからばそれらの若者を含めた自然主義派を、それなりにカヴァーしていくのも大事なことなのかもしれない。
それが魚住さんの立場で、啄木はそれに異議を唱えたわけだ。
啄木の議論はかなり生硬だが、自然主義をどう評価するかなんて議論はもうやめて、「青年の未来をどう切り開くか」という本筋の議論をしようと呼びかけている。その限りではまっとうだ。
おそらくその点では魚住さんも異議のないところであろう。
ただ残念なことに啄木も魚住さんもみんな30前後で早死してしまっている。いたずらに馬齢を重ねて古希にならんとしている私には、半ば慚愧の思いである。

田岡嶺雲について調べてみた。

朱琳(ZHU Lin)「田岡嶺雲とその時代 ―ある明治の青春―」という格好の読み物があった。

そこから抜書きしておく(一部仮名遣い改編)。興味のある方は直接原文にあたって欲しい。

1.田岡の階級意識

十九世紀の所謂文明開化なるものは、富者に厚きの文明なり。自由の名の下に貴賎の階級を打破せりといえども、貧富の隔絶はこれによりて益々甚だしくなった。

唯物文明の進歩に伴ふ器械の精巧は、ますます労働者より職を奪った。文華の発達に伴ふ奢侈の風は、ますます窮乏者を塗炭の苦みに追い込んでいる。

今の文明は中流以上の徒を悪徳の風に陥めると共に、下流社会のものを悲惨の谷に突き落している。

下流民の大半は、優勝劣敗の社会の大勢に敗れて至りたるものである。彼等が罪悪を犯すに至ったとしても、寧ろ当然ともいうべきところがある。

あぁ文明といふなかれ、開化といふなかれ!

2.文化人のとるべき立場

詩人・文士同情を欠く可からず。

わたしは、天下の文士がおおいに社会の罪悪を暴露するべきだと考える。それだけでなく、同情の涙をもって人の道のために泣き、道義のために憤り、みずから警世の暁鐘、懲悪の震雷となることを望む。

ああ、この世で最も悲惨な運命、最も憫むべき生涯は、下流社会の徒のそれではなかろうか。そしてこの憫むべき民の生涯を描くことこそが、詩人文士のなすべきことではないだろうか。

世は既に才子佳人相思の繊細巧みな小説に飽けり、侠客烈婦の講談めきたる物語に倦めり。今日、作家たるものは満腔の同情を下流民に注ぎ、渾身の熱血を筆にそそぎて、「不告の民」のために奮って天下に訴えるべきではないか。

ちなみに同じ頃、嶺雲の対極にいた高山樗牛は以下のごとく主張している。“障害児18人虐殺犯”も真っ青の暴論である。

いわゆる社会主義の如きは天理人道に背馳せるものなり。国家事業として社会の劣者・弱者を保護すべき何等の理由も見い出せない。それどころか、社会進化の必然なる結果として、国家的活動の担い手となり得ない不能者 に余分な利益を与えるのは、「国家全体の幸福」において断然有害無益 なりと考えるものなり。

3.明治維新に続く「第二革命」の提起

嶺雲は明治維新に次ぐ「第二革命」の必要を提起した。

朱琳はそれを次のように紹介している。

維新の革命によって、「貴賎の門閥的階級」が打破されたが、現状ではさらに「第二の革命」を起こして「貧富の生計的階級」を打破しなければならない。ここで嶺雲は「富閥」の打倒を「第二の革命」の任務の一つとして提起し内容を具体的に示している。

以下が嶺雲からの引用

今日我が国において、富豪が勢力を増長し来らんとするはおおいに憂ふべきことだ。貧富の懸絶が大ならんとするはおおいに憂ふべきことだ。門閥が自由の敵ならば、富閥もまた自由の敵だ。門閥が平民の権利の敵ならば、富閥もまた平民の敵だ。

維新の革命をなしたる我が国民は、さらに第二の革命を富閥の上に加へるべきではないか。かの同盟罷工の如きは、もとより挙動不穏ではあるが、それも富者の専横に打撃を加ふるの一法だ。私は罷工者に同情する。日本鉄道機関方の同盟罷工においては、たしかに会社の非は言をまたざるものがある。

4.嶺雲と社会主義

嶺雲自らも言う通り、彼は社会主義者ではない。

朱琳は次のように述べている。

1893年に、彼はスペインからの解放を求めた第二次キューバ独立戦争にも参加しようと準備した。嶺雲は社会主義の先駆者というよりも、激動の明治時代の生んだ、反体制的な、東洋豪傑流の、志士タイプの文人であろう。

彼の思想には、大陸雄飛的アジア主義と人道主義を基礎として社会主義的思想へと繋がる流れがある。あるいは萌芽的な国家社会主義と呼ぶべきかもしれない。

そして嶺雲の言葉を引用する。

私の主義は科学から入つた者では無い、小説から注入せられた芸術的社会主義とでも謂ふべき者である。私は開戦論者で、この点に於て既に私は社会主義者たる資格を缺いてゐた。

これに対し幸徳秋水らは正統的な社会主義であつた、故に彼等はその主義として非戦論を唱へた。

奇しくも嶺雲は、大逆事件で幸徳秋水が捕らえられたとき、病気療養のため同じ旅館に寄寓していた。そして幸徳秋水の追悼者に名を連ねている。

年表を作ってみて分かったのだが、日本文学史における「自然主義」というのは実に微々たるもので、線香花火のように短命だったということだ。
明治39年という1年にすべてが集中しており、その前数年間にゾラの手法を真似た小説がいくらか書かれ、39年に洋行帰りの島村抱月が大々的に打ち出し、島崎藤村の「破戒」が発表されて、次の年には田山花袋が「布団」を書いて一気に時代を風靡した。そしてその数年後には文学の表舞台からおずおずと引き下がり、書き手の連中は「私小説」作家として生き延びていく。それが第二次大戦後は「純文学」作家としてえばり散らすという経過だ。
「日本型」自然主義の特徴は手法としての「赤裸々主義」でしかなく、四畳半的広がりしか持たない。
日本文学の革新性は田岡嶺雲の志向のもとにあった。彼は尾崎紅葉の戯作趣味を排撃し、階級性を打ち出した。これに対し高山樗牛があからさまな資本家の利害を持ちだした。
こういう真っ向勝負の中で、自然主義派は芸術の独自性を打ち出すことで抜け道を探った。その際こしゃくにも「社会的」傾向を持ち込むことによって科学派・進歩派のような装いを凝らした。
日露戦争後の社会的反動は、そのようなヌエ的な一派にも進歩の思想を紛れ込ませざるをえないような状況を現出した。
これら諸々の事情が、魚住折蘆の「自己主張の思想としての自然主義」に反映されている。だから、今の我々がこの論文を読んでもさっぱり分からなくさせているのである。「自然主義」は明治40年代、大逆事件直前の日本の文学状況のメタファである。「自然主義」が論理的ににっちもさっちもゆかなくなっている現状を、啄木は「時代閉塞の現状」と見ぬいた。
「自然主義」は意気地のない個人主義に過ぎない。日露戦争後の排外主義、軍国主義の跋扈という状況に対するへ迎合と後ずさりしながらの個人主義であり、それも大逆事件で後を絶たれる。
このような時代閉塞の状況を打破したのは、文化人ではなく、大正7年に富山から始まった「米騒動」という民衆の決起であった。

それを見ぬいた啄木の直感は「慧眼」と呼ぶにふさわしいと思う。

結局、前項で紹介した文章は、「自然主義論争」という議論を踏まえないとわからないようだ。

まずは、例によって年表化してみる。題して「自然主義論争史 年表」ということになるか。

1880年 ゾラの『実験小説論』が発表される。生理学者ベルナールの『実験医学序説』をそのまま文学の理論に適用した。

1885年(明治18年) 坪内逍遥が小説神髄を発表。「芸術であるためには、小説は写実的でなければならない。人間とその心理を写実的に描くべき」と主張。

1886年 二葉亭四迷が『小説総論』を発表。翌年には「浮雲」を発表。

1889年(明治22年) 森鴎外、「小説論」にてゾラの自然主義を紹介。その意気込みは評価するも作品そのものは評価せず。その上で坪内逍遙をゾラのそれとは別物の、「ありのまま主義」だと批判。没却理想など意味ありげな概念語を無限定に駆使する逍遥をクソミソにする。

1895年(明治28年) 田岡嶺雲が「下流細民と文士」や「小説と社会の隠微」で硯友社文学を批判。「富む者は彌々富み、貧き者は彌々貧す」社会の中で貧しい人間の苦しみを代弁することによって醜悪な現実を是正することを文学の目的と規定した。

高山樗牛はこれに抗して国民文学論を唱える。「社会生活は多数劣者の幸福を犠牲にするに非ざれば、其進歩の過程を継続する能はざる」という露骨な開き直り。

1900年(明治33年) 鴎外、『審美新説』の中でゾラ以降の自然主義の動向を紹介。運動を二期に分け、前期は客観に偏して枯淡に傾き、後期は逆に主観に傾き、深秘・象徴の趣を呈したとする。(鴎外にしてみれば、抱月など一知半解、笑止千万であったろう)

1901年(明治34年) 田山花袋が「作者の主観」を発表。写実の奥に「大自然の主観」がなければならぬと主張。正宗白鳥との間に「主観・客観論争」が交わされる。

1902年(明治35年) 長谷川天渓、「論理的遊戯を排す」を発表。抱月とともに自然主義擁護の論陣を張る。

木下杢太郎、「太陽記者長谷川天渓氏に問ふ」で、「理想は動力である。故に理想は決して夢幻ではない」と主張。

永井荷風がゾラの『実験小説論』を紹介。森鴎外の客観的紹介とは異なり、人間の動物性の一面にふれて、「暗黒なる幾多の欲情、腕力、暴行等の事実を憚りなく活写せんと欲す」と述べる。

1902年(明治35年) 小杉天外、田山花袋、永井荷風らがゾラの手法をまねた作品を相次いで発表。強い自我意識が独自の芸風を作り上げる。

1904年(明治37年) 田山花袋、「露骨なる描写」を発表。「何事をも隠さない大胆な露骨な描写」を主張。

1906年(明治39年) 洋行から戻った島村抱月、『囚はれたる文芸』を発表。自然主義の理論的指導者となるゾラの文学を智に偏した「囚はれた文芸」と名づける。「フランスの自然主義は知に囚われた文芸」であり、我々の目指すは「正しく日本的文芸の発揮といふことならんか。時は国興り、国民的自覚生ずるの秋なり」という雑然ぶり。

田中王堂が抱月を批判。主体の問題抜きに客観は語れないと批判。「自然主義を弁護し且つ鼓吹するが、自然主義を囚はれたる文芸と見るのか、放たれたる文芸と見るのか」を問う。

1906年(明治39年) 天渓が「幻滅時代の芸術」を発表。現実への判断を排し、ただ傍観的態度で無理想・無解決に客観」すること。これにより「あらゆる幻想・虚飾がはぎとられ、現実が暴露されたとき、真実其の物に基礎を定めた無飾芸術が生まれる」とする。

1906年(明治39年) 島崎藤村の『破戒』が発表される。抱月は「破壊」を自然主義文学の範とし、この作によって日本の自然主義運動を前期と後期とに分かつ。

1907年 田山花袋の『布団』が発表される。『布団』は私小説の出発点ともされる。

1908年(明治41年) 自然主義は社会の秩序を破壊する危険思想として排撃される。抱月は自然主義に観照の立場を持ち込み、傍観的態度に徹するよう提唱。このあと運動としての自然主義は衰退。

私小説を中核とする「純文学」の世界が成立。自然主義派の作者の多くが移動する。


1908年(明治41年)

4月 啄木、北海道での流浪を終え東京に出る。金田一京助に頼り糊口をしのぐ。一方芸者遊びで借金を重ねる。

6月 22日 赤旗事件が発生。大杉栄ら無政府主義の青年グループが革命歌を歌いデモ行進。警官隊との乱闘の末,幹部16人が一網打尽となる。

7月 西園寺内閣、赤旗事件の責任を問われ総辞職。代わった桂内閣は社会主義取り締まりを強化。検挙者のうち10人に重禁錮の実刑が下る。

9月 第三次平民社の開設。獄中の幹部に代わり、高知から再上京した秋水が中心となる。

1909年

5月 幸徳秋水、管野スガらの創刊した『自由思想』が発売禁止処分となる。

1910年(明治43年)

3月 第三次平民社が解散。秋水は湯河原にこもる。

5月25日 「明科事件」で宮下、新村らが逮捕される。

5月31日 検事総長、明科事件が大逆罪に該当すると判断。社会主義者・無政府主義者の逮捕・検挙が始まる。

6月1日 秋水、管野らが湯河原で逮捕される。

6月 啄木、評論「所謂今度の事」を執筆(未発表) この頃から堅気になった啄木は、仕事柄事件を比較的知りうる立場にいた。

8月9日 魚住折蘆、朝日新聞に「自己主張の思想としての自然主義」を寄稿。

8月下旬 啄木、「時代閉塞の現状」を執筆。朝日新聞に掲載予定であったが、未発表に終わる。

8月 朝鮮併合。「地図の上朝鮮国にくろぐろと墨を塗りつつ秋風を聴く」を書く(未収録)

9月 朝日新聞に「朝日歌壇」が作られ、その選者となる。

11月 米英仏で大逆事件裁判に抗議する運動が起こる。

12月10日 大審院第1回公判(非公開)

12月 啄木、歌集「一握の砂」を発表。

堺利彦、売文社を設立。「冬の時代」の中で社会主義者たちの生活を守り、運動を持続するために経営する代筆屋兼出版社。

1911年(明治44年)

1月18日 大逆事件の判決。死刑24名、有期刑2名。

1月24日 幸徳秋水ら11名が処刑。

1月 啄木、友人で大逆事件の弁護士だった平出修から詳細な経緯を聞く。

2月 秋水救援活動を続けた徳富蘆花、一高内で「謀叛論」を講演。

幸徳君等は時の政府に謀叛人と見做されて殺された。が、謀叛を恐れてはならぬ。謀叛人を恐れてはならぬ。自ら謀叛人となるを恐れてはならぬ。新しいものは常に謀叛である。
 我等は生きねばならぬ。生きる為に謀叛しなければならぬ。

3月 木下杢太郎、森鴎外や永井荷風も作品で風刺する。

1912年(明治45年)

4月13日 石川啄木が病死。

「時代閉塞の現状」を理解するためには、この文章で批評の対象となっている「自己主張の思想としての自然主義」という文章を読まないとならないということがわかった。

このふたつを対にして理解して、なおかつ当時の時代背景を知ることが必要のようだ。

幸いなことに、こちらの文章も忍者ツールズというサイトで読むことができるので、まずはこちらから始めることとする。

魚住折蘆「自己主張の思想としての自然主義」(明治43年8月9日 朝日新聞)

見出しがないので私が勝手につける。

1.「自然主義」は自己主張ではないか

「自然主義」はある種の決定論的傾向を持つ。本来、自己主張とは対極にある。

しかし最近いわれる「自然主義」はむしろ一種の自己主張ともとれなくはない。

2.近代思潮は反抗精神を持っている

すべからく近代思潮は反抗精神を持っている。それは自己拡充の精神の消極的表現と捉えられる。

3.近代思潮における自然主義

自然主義はそもそもは科学的決定論であるが、それが近代思潮の中に位置づけられた時には、2つの方向で表現される。

ある時は自暴的な意気地のない泣き言や愚痴になる。ある時はそういうだらしない自己を居丈高に主張することもある。

(どうもこの辺の論理構築はよく分からない。証明すべきことを前提に議論を組み立てている傾向がある)

4.現実的精神と反抗の精神

超現実的な中世に対して立ち向かったのは「現実的な精神」であった。

現実的な精神は、ふつうは“立ち向かう”などというバカな真似はしないのだが、そのときに限って「反抗的精神」と共同した。

ルネッサンスの精神と宗教改革の勢力は、共同の敵たる教会という権威に挑戦した。相容れざる2つの運動が一時的に連合したのである。

(着想は面白いが、やや雑駁の感を免れ得ない)

5.近代社会における現実的精神と反抗精神

現実的な世界が実現して、予想を超えて進歩してきた。2つの精神も発展し、それにしたがって互いに相容れざる矛盾を生ずるようになっている。

にも関わらず、今日においても、両者は離れることを好まないのである。

6.奇妙な結合体としての自然主義

自然主義は現実的で科学的である。その故に「平凡」を旨とし、運命論的な思想である。

が、それは、意志の力をもつて自己を拡充せんとする自意識の盛んな思想と結合して居る。此の奇なる結合が自然主義と名付けられている。

7.現実的精神と反抗精神が連合する今日的理由

両者が今もなお連合するのは、教会に代わる新たな権威(レヴァイアサン)に対抗するためである。

自己拡充の念に燃えて居る青年に取つて最大なる重荷は、これらの権威である。

(どうもこの人の本意がさっぱり読めない。検閲を前提に自己韜晦しているのかもしれない。石川啄木がこれに対する反論を書いているということは、当時の知識人はこれを読んで論旨がストンと落ちたということであろう)

8.日本における「権威」のありよう

日本人にはも一つ「家族」と云ふ権威がある。それは国家の歴史の権威と結合しており、個人の独立と発展とを妨害して居る。

キリスト教は本来個人主義だが、抑圧に抗するために唯物論たる社会主義と結合したりするのもこのためだ。

9.芸術と個人主義

芸術は其内生活の忌憚なき発現であるから、国家の元気がどうの、東洋の運命がどうのと云つて今更始まらない。

自然主義の自然といふ事は有りふれた平凡なと云ふ意味で、っそれはヒロイズムの対極にある。

淫靡な歌や、絶望的な疲労を描いた小説を生み出した社会は結構な社会でないに違ひない。 

 けれども此の小説によって自己拡充の結果を発表し、或は反撥的にオーソリティに戦ひを挑んで居る青年の血気は自分の深く頼母しとする処である。


要するに何を言いたいかさっぱりわからぬ雑文である。最後のところだけ読むと、「自然主義、大いに結構。若いんだからせいぜいおやんなさい」ということのようだ。

中国新聞の原爆年表を眺めているうちに、注目される記事が見つかった。
1968/5/29
劇団民芸が原爆医療に打ち込む一開業医を主役にした「ゼロの記録」を公演。大橋喜一氏作、早川昭二氏演出
というものだ。
どんな劇なのか分からず、ただ開業医の視点というのが面白そうで、詳しい内容を知りたいと思い、ネットで探してみた。
ゼロの記録

 古本よみた屋」さんのページより 

それで探したのが、以下の記事。

神戸演劇鑑賞会のホームページに、平田康氏(京都橘大学名誉教授・英文学者)の戯曲にみる核の恐ろしさ ~広島・長崎からチェルノブイリまでと題する講演記録が掲載されている。
記事によると以下のとおり、
平田康氏が「非核の政府を求める会・兵庫」の第20回総会(2006年2月26日)で行った記念講演を採録したものです。

この中から「ゼロの記録」に関する部分を紹介しておく。

『ゼロの記録』は、大橋喜一の綿密に調べた資料に基づく実にリアルな戯曲と、早川昭二の妥協のない演出と民芸俳優人の迫真の演技による舞台が、とても鋭く 心に突き刺さったものでした。
広島の廃墟の街を背景にした第一部は、被爆直後の8月10日から翌年春までの半年間。後にヤブピカと呼ばれる開業医小津や病理学者の平岡、それに博愛病院の医師たちが、全く未知だった原爆症による被災者たち、それには自分自身も含むわけですが、その想像に絶する症状との格闘が描かれます。
彼らはその謎の正体が放射線であるのに気づく。ところが進駐してきたアメリカ占領軍は原爆に関する報道を禁止し、解剖資料を含む被爆についての あらゆる資料を没収し始める。
白血球が減少して死を前にした医師が叫ぶ、「この街の死亡者のデータは、医学的にも役立つが、同時に軍事的な秘密も含んでいる…自分たちの死を軍事的資料にするな。」 
翌年春になると新聞には、「原爆症いまはなし」の記事が出るが、血液疾患として原爆後遺症が姿を見せ始めま す。

 バラックの街を背景にした第二部
「平和平和と山車が街をねる」2年後(1947年)の8月から1953年まで。ドラマは2つの流れに分かれる。
原爆の 悲惨さを詠んだ短歌の歌集を出版するのには、占領政策との厳しい対決を覚悟しなければならないと知った詩人は、労働者と連帯して反戦抵抗運動へ傾斜していく。
朝鮮戦争が勃発し、原爆をトルーマン大統領に使わせないと訴える「ストックホルム・アピール」の署名が妨害にもめげずに拡がり、1950年8月6日に は、弾圧の下で非合法平和集会が開かれる。
一方で、広島に設置されたABCCは、被災者の血液を採るが診療は行なわず、一部の医師たちの期待は裏切られ、 原爆症の研究は占領軍の監視の目をくぐってひっそりと行なわなければならなかった。「ABCCの本質は医療機関である前に、軍事機関の下請けではないのか?」 
講和が発効するが、日本に真の独立と自由がもたらされたのか? 
医師たちは原爆対策協議会を組織するが、治療資金はゼロに等しく、それを確保するために妥協止むなしと考える医師と、医学的真実のためにはABCCや厚生省と対立しても仕方がないと考える医師が対立します。
若い病理学者がつぶやく、 「あらゆる科学が…医学研究までが、核戦略に組みこまれる時代…。」 
心ならずも遺体をABCCに売り、その金で遺族が生活しなければならない被爆者の現 実。「患者に…安静にせい、ということは、一家で飢え死にせい、ということになる。」 
普通のドラマのような完結はありません。現代の矛盾への問いかけが 残るだけです。

 これは「発見と認識」のドラマと言われ、観客を大きな力で「ヒロシマ」体験へと引きずり込むものだったと言えます。あの悲惨な出来事を、単に一つの地域にいた人びとの体験に留めずに、日本人全体の民族的体験に拡げ深める強い推進力となったものでした。

皆さん,観たいとは思いませんか。

ぜひ再演を期待したいものです。


伊藤ふじ子 私の二大発見

二大発見というとマルクスの史的唯物論と剰余価値ということになるが、私のはそんなに大げさなものではない。

一つは、「空白の一時間」というもので、密かに自慢している。

これは窪川稲子のレポートが細部にわたってかなり正確であるにもかかわらず、時間の記載が誤っていることだ。これは以前書いたとおり、人間の記憶というのは静止画像として保存されているからである。その場面が目の前にあるかのようにまざまざと想起されるのに、それがいつの事だったかと言われるととんと分からない。そういうものなのだ。古事記の世界もそういうふうに理解すべきだ。時間感覚があやふやだからと言って、それが嘘だとはいえないのである。

窪川は中条百合子の家で晩飯をゴチになっていた。そこに多喜二虐殺のニュースが飛び込んできた。多分壺井栄からの連絡ではないか。それから前田病院に電話したら「もう出た」という。とるものもとりあえず馬橋の多喜二宅に向かう。

おそらく、その時点では遺体を載せた車はまだ出発していないはずだ。下落合の中条宅から西武新宿線、中央線と乗り継いで阿佐ヶ谷の駅まで行き、そこから馬橋の多喜二宅まで歩いた。どう見ても2時間はかかる。

そして10時半ころに多喜二の遺体が到着した直後に、多喜二宅に入る。中条、壺井らとともに死体の検案を介助した。

検案を担当した安田徳太郎と中条らとともに多喜二宅を辞したのは夜の11時半過ぎであったろうと思われる。

当時、終電が何時ころかは知らないが、省線電車に間に合わせようと家を出たのかも知れない。

肝心なのがここからで、稲子らは「踏切の向こう」で、多喜二宅に向かう原泉、貴志山治らと行き逢っているのである。

この「踏切の向こう」というのがずっと分からずに居たが、馬橋の地図を知ったことから、話が見えてきた。

当時の馬橋は新興住宅地であり、道は昔の野道がそのままであった。多喜二宅に行くには阿佐ヶ谷の駅の北口に一旦出て、そこから東南に進む道を通って、線路を横切って行くことになる。

だから稲子のグループは踏切を越えたところで、貴志らのグループと行き会うことになるのである。

稲子らがいなくなって、貴志・原らが到着するまでの間、短ければ30分、最大で60分位の「空白」があった。

もちろん完全な空白ではない。母セキら家族はずっといたし、小坂多喜子の夫婦も居たはずだ。

あるとすれば、突然の闖入者であるふじ子に圧倒されて座を外したのであろうということになる。そして見も知らぬふじ子と遺体だけにしておくわけにも行かず、江口が立ち会っていたのであろうと想像される。

これが第一の発見である。

第二の発見は、ふじ子の句集の中の2首である。

句集の中に、やや場違いに、「恋の猫」の句が二つほど投げ込まれている。飛び飛びで、悟られぬよう密かに紛れ込ませたようにみえる。

恋猫の 一途 人影 眼に入れず
ボロボロの 身を投げ出しぬ 恋の猫

技巧もへったくれもない。まさにあの日あの時の情景だ。
分かるのは、ふじ子が多喜二の傍らでは「恋する猫」であったこと、多喜二がむごい死を迎えたその日、ふじ子もボロボロだったこと。ボロボロだったから、原泉に「私は多喜二の妻です」と叫び、人目もなく多喜二(の遺骸)に向かって身を投げ出したこと。

以上二点については、私のいささかの自慢である。

これまでの文章もご参照いただければ幸甚です。

ふじ子の句集「寒椿」と「恋の猫」

伊藤論文への感想

伊藤純さんの考察

ついに見つけた、空白の1時間

多喜二の通夜で、新たに発見された写真の解読

大月源二「走る男」とふじ子

2月20日、土曜日、多喜二祭の集会に参加するために小樽まで行ってきました。
1.小樽 最近の様子
汽車に乗って銭函の駅を過ぎると、線路はやおら波を浴びそうなほど海岸ぎりぎりに出ます。この波を見たとたん「あぁ小樽に帰ってきた」という気分になります。
まるで省線の四ツ谷駅みたいな切通の底の南小樽駅を過ぎて、突然高架になって右手に港の風景が広がるとやがて終着駅小樽です。この駅は跨線橋をまたぐのではなく、地下に下りる階段を下って、そこを右に曲がると改札口になるのです。とにかく原野に碁盤目の札幌では味わえない、そういうハイカラさが小樽独特のものでした。
ここまでは小樽診療所の所長だった20年前の小樽、余市診療所長だった40年前の小樽と変わりない風景です。
降りてからが全然違う。20年前、すでにうら寂しげな街でしたが、いまやもはや死にゆく街です。駅前通りこそかろうじて街の雰囲気ですが、その1本西側は廃屋通りです。木造3階建、奥行きの深い、さぞや往時はブイブイ言わせたであろう町屋が、いまや無住の家となり残骸をさらしています。
その中の一軒が、今夜の楽しみにしていた「竹八」でした。小樽診療所の所長時代は三日と明けず通い続けた小料理屋です。ここでは締めサバと本マグロの山かけで始めて、季節のものが出てきて、最後は串カツというのが定番でした。とんかつソースを両面漬け、辛子もたっぷりつけて泣きながら食べるのが定番です。亭主があきれてみていました。最後は串カツを10本くらいお土産にして診療所に帰ったものです。
あるいは気分が乗れば、そのまま花園通りまで足を延ばして、ディープな浮世通りに場違いなスナック「新世界」で、サンバ・カンシオン(ときどきセザリア・エボラ)を聞きながら、ご自慢のチーズパイでスコッチを傾けるのが日課でした。
2.当日講演の紹介
講演は小樽商大の多喜二研究者で、非常に水準の高いものでした。多喜二が大の映画フアンで、おそらく小樽時代に見た映画からずいぶん影響を受けているのではないか、ということで当時の映画を映像で紹介しながらプレゼンテーションしてもらいました。
改めて納得したのですが、多喜二の見た映画はサイレントでした。我々はつい考え違いしてしまうのですが、明治生まれの人はまず画像から映像に入り、ついで音声に至るという文化受容の経過をたどったのです。
文字(原語)に始まり翻訳→画像→動画像→音声という経過は、明治・大正の新文化を考えるうえで念頭に置いておいておいたほうが良いようです。
3.夜の小樽
結局飲み仲間との再会はかなわず、一人で街へと繰り出しました。といっても8時の汽車に乗らないと介護に差し支えるので、ちょいといっぱいのつもりで小樽駅周辺で探すことになりました。
「竹八」はもうありません。とりあえず「島崎」に行きましたが満員お断りでした。そもそも選択するほどの店はもはや駅近辺にはありません。仕方ないので、アーケード街からちょっと脇に入った昔からの「炉端焼き」に入りました。相変わらず頭が高い。ネットで宣伝しているのか観光客が入り始めていて、ますます構えが「老舗」風になっています。
結局、注文の品が来ないまま店を出たのですが、おかげで快速の最終に乗り遅れてしまい、自宅についたのが9時半でした。
いささか画龍点睛を欠く20年ぶりの夜の小樽でしたが、今どきの小樽としてはこんなものでしょうか。


これって、ちょっと品はよくないけど、立派な詩だよね。前に戦争法反対の女性の演説載せたけど、詩人っているんだね。そんじょそこらに。

しかもたいてい女性だ。紫式部、清少納言以来の日本的な伝統なのだろうかね。与謝野晶子、茨木のり子、みんな女性ばかりだ。

「保育園落ちた 日本死ね」

何なんだよ、日本!

一億総活躍社会じゃねーのかよ

きのう、みごとに保育園落ちたわ

どうすんだよ

私、活躍できねーじゃねーか

子供を産んで、子育てして、社会に出て働いて、税金納めてやるって言っているのに

日本は何が不満なんだ?

何が少子化だよ、クソ!

子供産んだはいいけど、希望通りに保育園に預けるのは、ほぼ無理だから

…って言ってて子供産むやつなんかいねーよ

不倫してもいいし、ワイロ受け取るのもどうでもいいから

保育園、増やせよ!

オリンピックで何百億円ムダに使ってんだよ

エンブレムとかどうでもいいから、保育所作れよ

有名なデザイナーに払う金あるなら、保育所作れよ

どうすんだよ

会社辞めなくちゃならねーだろ

ふざけんな、日本!

保育園増やせないなら、児童手当20万にしろよ

保育園も増やせないし、児童手当も数千円しか払えないけど

少子化何とかしたいんだよねーって、

そんなムシのいい話あるかよ、ボケ!


いろんなところに載ったと思うけど、未読の方のために再掲しておく。

赤旗文化面のコラム「朝の風」に、すなおにうなづけない二つの歌が掲載されていた。
福島泰樹という人の歌集「焼跡ノ歌」からのものらしい。

あおい炎を ふきだしている 弟のそばに 立っている 電信柱
泥の川に朝日を浴びてよこたわる白い便器のような妹

非常に過激な歌で、その過激さを突き出すことで、戦争の悲惨さを訴えようとする思いは分かるが、どことなく納得出来ない。
その過激さが浮遊しているような気がしてならない。

東北大震災を目の当たりにして、3歳で体験した東京大空襲の場面が蘇ったという。いわばフラッシュバックしたイメージだ。

二つ考えられる。ひとつは70年を経て、諸々の情景に絡まっていた恐怖や悲しみや不安などの心的情景がそこにはさっぱり消えてしまった可能性だ。
もう一つは、その時まさに失感情状態に陥っていたという心的情景が、「昆虫の目をしていた私」の記憶が、写真的情景とセットになって畳み込まれていた可能性だ。

焼跡の情景はダリの絵のシュールリアリズムと似ているかもしれない。しかし本当はシュールどころではないはずだ。もしそれがシュールであれば、それはそこまで追い込まれた人間のシュールな感覚、無感覚の感覚というべき心的状況なのではないか。

これだけ外的情景と心的情景が乖離しているのなら、これらの歌は対となる心的情景の叙景が、いわば返歌として歌われなければならない。でなければ、沈黙を守るほうが良かったかもしれない。

ここを書き込まないと、歌作りは疎外を取り戻す営為とはならないはずだ。そこを書き込まないと、歌人は心をいまだ取り戻せていないことになる。

上野先生に頂いた森熊たけし著「漫画100年、見て聞いて」を、明後日の多喜二忌を前に、遅まきながら読んだ。
A4版で120ページというからかなりの大部ではあるが、絵や写真が満載なので読むのにさほど時間はかからない。
ふじ子の俳句をまとめた「寒椿」という句集がそのまま掲載されている。加藤楸邨に師事したということで、かなり技巧的にも洗練されたものだ。
表紙がいいので、そのまま転載する。多喜二が舞い上がった理由も、セキが好まなかった理由も、森熊がすべてを恕し続けた理由も、すべてこの写真で説明できる。
寒椿

句集の題名は彼女がつけたものではなく、夫、森熊猛によるものだ。由来は彼女が投稿していた句誌「寒椿」によるものだから、それほど深い意味はない。
ただし森熊によると、東京都知事選に美濃部さんが当選したとき、作った句に寒椿が出てくるので、それもあって「寒椿」としたのだそうだ。それがこの句である
枯芝に 紅こぼしけり 寒椿
紅は紅の旗を指すのであろう。さすれば寒椿は風雪に耐える民衆の力の象徴ということになる。
次の句は多喜二に関するもので、有名なものだ。
アンダンテ カンタビレ聞く 多喜二忌

多喜二忌や 麻布二の橋 三の橋
これは句誌に投稿したものではなく、ノートに書き残されていたものを森熊が見つけ出したものだ。
蛇足で申し訳ないが、アンダンテ・カンタービレはチャイコフスキーの弦楽四重奏曲第一番の第二楽章。甘美な曲だ。バイオリン独奏用の編曲もある。
多喜二はバイオリンが大好きだったから、二人だけの隠れ家でレコードをかけて、音が漏れないように覆って、ふじ子を傍らに聞き入ったのであろう。ふじ子は体中を耳にして、多喜二の息遣いまで一緒に、その情景を心の奥底に綴じ込んだ。そのアンダンテ・カンタビレを、多喜二の何回目かの命日に、一人で密かに聞いているのだ。
“麻布二の橋、三の橋”は、二人が特高の目を逃れるために麻布界隈の間借りを転々としていたことを指す。それが走馬灯となって甦る。畢生の名文句だ。そこにあるのは、覚悟した、まことに濃密な愛の空間である。
これを読んだ時の森熊の胸中も、察するにあまりあるものがある。

つぎに「遺稿」の中から「自己紹介」という文章が紹介される。
わたしは悪女です。それも余り頭の良くない悪女です。人が信じようが、信じまいが、本人が言っているのですから間違いありません。
来世は史上最後の美女に生れます。世界の人類を魅了して夭折します。 以上
「以上」というのが、あっけらかんと潔い。彼女なりに、こっそりと懸命に「悪女」を生き抜いたのかもしれない。
たしかに「美女」とは言えないかもしれないが、それだけで十分に魅力的だよ。

さて句集だが、ひねりを利かせた叙景の中にかすかに叙情を込める技巧はさすがのものだ…と言いつつ眺めているうちに、大変なものを見つけてしまった。
句集の中に、やや場違いに、「恋の猫」の句が二つほど投げ込まれている。飛び飛びで、悟られぬよう密かに紛れ込ませたようにみえる。
恋猫の 一途 人影 眼に入れず

ボロボロの 身を投げ出しぬ 恋の猫
技巧もへったくれもない。まさにあの日あの時の情景だ。
分かるのは、ふじ子が多喜二の傍らでは「恋する猫」であったこと、多喜二がむごい死を迎えたその日、ふじ子もボロボロだったこと。ボロボロだったから、原泉に「私は多喜二の妻です」と叫び、人目もなく多喜二(の遺骸)に向かって身を投げ出したこと。
思えば2月のあの日、馬橋から阿佐谷の駅への道すがら、寒椿も紅色に咲いていたことであろう。


基本的には、前掲記事をひっくり返すようなものはない。(実は、その前に3回ひっくり返されて、そのたびに記事をボツにしている)

主要ではないが、矛盾する点をいくつか上げておかなければならない。

1.「新日本文学」1950年2月号の座談会記録

不勉強のため、こういう記録があった事自体が初耳で、伊藤さんはこれを目下のスタンダードとしている。

ただ私の参照した倉田稔さんの論文もこの記録を参照しているので、大きな齟齬はない。それに窪川稲子、原泉、江口、小阪らの証言はその後発表されたものが多いので、「座談会」と矛盾しても、その都度個別に判断するしかない。

貴司山治の動きは、個別に取り上げなかったが、新聞社と連絡をとって笹本を動かしているのが貴司だということが初めて分かった。また築地小劇場に行って各所に連絡したのは、原泉というより貴司の差金だったのかもしれない。

要するに築地班チーフが貴司、馬橋班チーフが江口という二人の非党員で現場を仕切ったことになる。これに対し、初動で活躍した大宅、青柳の名はその後出てこない。

2.写真の人物について

① 図像2がまず撮られ、ついで人を入れ替えて図像1が撮られた。

② 図像2は写真を撮るからといって、遺体と母親セキさんを中心に自然に人々が蝟集してきた生々しい雰囲気が生きている。

③ そのあと人々の配置を入れ替え、怒りと抗議の意志を示すポーズをとった関係者が図像1である。

と、伊藤さんは読みこむ。③はちょっと言いすぎかもしれない、両方を比べると、親族筋と江口さんが消えてその隙間に後ろの連中がせり出したというふうに見えるからだ。とすると鹿地亘がKYだが。

問題は人物の比定である。

まずは窪川稲子だ。窪川稲子に居られると困るのである。

fig1

fig1_2

これが、伊藤さんによる比定である。(多分先人が行なったものだろう)

fig2

fig2_2

私はこれは稲子ではないと思う。稲子は写真を見てこれは自分と思い込んだ。だから帰ったのは午前2時だったと時間合わせをしているのではないか。

帰りも一緒だったのなら、なぜそこに中條や壺井がいないのか。踏切の向こうで貴司らと行き合ったのなら、どうして一緒に写真に映れるのか。

と、一応疑問を投げかけておく。

ついでにタキさんの件だが、私は田口タキと比定されている女性は多喜二の姉ではないかと思う。そして後ろのちょび髭がその旦那ではないか。

小林家の養女にはなったものの、家出してしまった人間が、通夜の席でこの位置に座るか? という当然の疑問がある。セキさんが座らせたのだとすれば、それはそれであるが…

「女3人が来て激しく泣いた」というのは江口の述懐であるが、江口はふじ子が来るなり泣き叫んだところは見ていない可能性がある。

これについて記載したのは小坂である。しかし小坂は当然の事ながら接吻シーンは見ていない。

つまり江口は隣室にいて、ふじ子の泣き叫ぶシーンを三人の女が泣いたと勘違いしていたかもしれない。これ以上の当て推量は意味ないが…

それにしても鹿地亘が目障りだ。

「昭和前期の図像学」の紹介

もうやめようと思ったら、また文献が出てきてしまった。 

【資料紹介】 昭和前期の図像学 ガラス乾板から浮かび上がる群像

という論文。

2015年5月20日

占領開拓期文化研究会機関誌「フェンスレス オンライン版」 第 3 号  に掲載されている。

著者は伊藤純さん。あの写真の発見者である。

題名が題名だけに、グーグルではなかなか引っかかってこない。しかし論議の焦点にもろにかぶっているので、触れない訳にはいかない。

以下、関連する部分を抜き出していく。

Ⅰ 1933年2月21日深夜の〝小林多喜二〟

A ガラス乾板の発見

数十枚のガラス乾板(大名刺判〔6.5cm × 9cm〕その他)が、貴司山治の遺品の中から発見された。デジタル化してポジ像に変換してみると、いくつか、注目すべき画像が検出された。

小林多喜二虐殺直後の写真はいつ誰によって、どのような状況下で撮影されたものか記載されていない。

今回見出されたガラス乾板の中に、この写真のネガが発見された。さらにもう一枚、手ぶれと露出ムラの激しいガラス乾板も見出された。

この事実は、「新日本文学」1950年2月号の座談会記録と整合する。

(そこでは)記憶の錯誤や食い違いがいくつか現れてきているが、総体として虐殺直後の事態の推移がかなりよく復元されている。

B 座談会による事実経過

時事新報の記者だった笹本寅(つよし)が、新聞カメラマン(前川)を連れて関係者をフォローし事態の把握に重要な役割を果たす。

多喜二の遺体が引き取られ馬橋の自宅に安置されたのが二十一日午後十時頃とされている。

安置直後、医師安田徳太郎が詳細な検屍を行う。その時、屍体の外況が写真撮影されており、この写真も広く流布しているが、撮影の背景はやはりほとんど説明されていない。

立野信之は「笹本から屍体の写真をもらった」と発言している。笹本(の指示を受けた前田カメラマン)は二十一日深夜、まだ官憲の張り込みが甘かった時点で、安田医師の検屍に居合わせて遺体を撮影したことになる。

同じ座談会で、江口渙は、田口タキ、小林幸と、もう一人の女性が、遺体の「右手の枕許にずらりと一列に坐つて…一斉にワーッと声を挙げて泣いた」と陳述した。

これに対し貴司は「……その晩僕がとった写真があるが、女の人はおらんよ。」と発言している。

これについて伊藤さんは下記のごとく推測している。

江口が物語った三人の女性のエピソードはおそらく、貴司や千田がデスマスク作成の手配のために遅れて馬橋に帰ってきた、それより以前の時間に起こったことであろう。

C 貴司のうごき

伊藤さんは同じ座談会の記事から騎士の動きを抜き出している。

貴司は二十一日夕刻、夕刊報道で事態を知った。

まず時事新報に笹本寅を訪ねてフォローを依頼した。笹本は新聞記者で警察の警戒下でも比較的行動しやすいと考えたと思われる。

その後、貴司は築地警察署、前田医院、築地小劇場などを経巡って、集まった人々と事態の対応にあたった。

貴司は築地小劇場で原泉とともにふじ子に対応した。

原泉や貴司など居合わせた人々が、「多喜二の妻」などと名乗っていると警察にどんな危害を加えられるかわからないので、何とかなだめて馬橋の小林宅にとりあえず赴かせた。

おそらく直接対応したのが原泉で、相談を受けて貴司が新聞社(時事新報)に手配したのだろう。

その後貴司は千田是也などとデスマスク採取の準備のために別行動をとり、深夜に至って馬橋にたどりついた。

D 画像について

大名刺判のカメラはジャバラのついた大きなカメラで、三脚を使うのが普通である。当時の感度の低い乾板では相当の長時間露出が必要となる。

この二枚の写真に関しては、著しいライティングの偏りや、人物に強い影が出ていることなどから閃光電球(フラッシュバルブ)が用いられていると想像される。

図像2がまず撮られ、ついで人を入れ替えて図像1が撮られた。

図像2は写真を撮るからといって、遺体と母親セキさんを中心に自然に人々が蝟集してきた生々しい雰囲気が生きている。

そのあと人々の配置を入れ替え、怒りと抗議の意志を示すポーズをとった関係者が図像1である。

後は、通夜の場面と直接関係ないので省略。

注(5)

伊藤ふじ子: 「妻だ」と名乗って築地小劇場と馬橋の小林宅に現れ、壮絶な別離を演じていずこかへ消えた。

前記「座談会」での貴司、原、壺井栄の発言、ことに原の言葉はそれが誰であったか分かっていたと思われる文言も含まれている。(座談会の時点で伊藤ふじ子が再婚し平穏な生活を送っていることがわかっていたので、あいまいな言及になったと思われる)

占領開拓期文化研究会 senryokaitakuki.com

ふじ子はいつ来ていつ去ったのか

ついに見つけた、空白の1時間

これまでどうにもこうにも嵌めようのなかったジグゾーパズルのピースが、原泉と窪川稲子の証言でかなり見え始めた。

1.原泉の斡旋

原泉は次のように語っている。

築地小劇場で気をもんでいる原泉のところへ、一人の若い女性が近付いてきた。 「わたしは小林の女房です」 とその女性は言った。
原泉には見覚えがあった。左翼劇場に研究生と して在籍していた伊藤ふじ子であった。
原は 「シーツ」 と指で唇をおさえ、「あんたが女房だなどと言ったらどういう ことになると思うの」 と精いっぱいの思いで話した。
伊藤は「あの人に どう しても一目会いたい」 と言った。ちょ う ど取材のためどこかの新聞記者が車で来た。
「むこう'へ行って、なにもいわないでお別れしてらっしゃい」 と、原はふじ子に言い、新聞記者には、「すまないけどこの人を連れて行ってほしい」 と馬橋の小林家を教えた。

これは想像だが、ふじ子は多喜二死亡のニュースを聞いて、矢も盾もたまらず築地署に向かったのだろう。と言っても見物人の一人でしかなかったが。

そして目前で原泉が警察と激しく殺り合うさまを目撃した。やがて弁護士や医者も来て交渉の主役が移ると、原泉はその場を離れ、築地小劇場に戻っていった。

「何たる幸運!」

ふじ子は原と面識があった。彼女自身が新劇の俳優として舞台に立ったこともあり、それは原の知るところでもあった。

ふじ子はおそらく築地小劇場に戻る原泉の後を追いかけていったのだろう。そして必死に声をかけた。中身はきわめて直截である。

原は勘の良い人らしく、一瞬で事情を飲み込んだ。そしてとるべき態度を指示したうえで、ツテを使って小林宅へと送り込んだのである。そしてなおいくつかの連絡を続けた後、みずからも小林宅に向かうことになる。

こうしてふじ子は第1.5陣として小林家に到着した。

第一陣というのは寝台車に乗った母セキ、自宅で待機していた三吾と多喜二の姉、タクシーで寝台車を追った江口と安田医師ら、彼らに同行したかもしれない中条、佐多稲子、壺井栄ら。独自のルートでほぼ同時に小林宅に入った小坂夫婦である。

第二陣は、築地署から向かった貴司山治ら、石膏を買うのに手間取った築地小劇場・美術家のグループ、そして連絡を終えた原泉である。彼らが到着したのは12時過ぎと思われる。

その間に、同盟関係者以外の報道陣が独自に車で到着していた。その中にふじ子もいたという前後関係になる。

ふじ子が着くなり遺体に抱きついたというのは先着の第1陣が見た状況だ。小坂は度肝を抜かれ、セキは鼻白んだ。佐多、中条、壷井が見ているかどうかは定かではない。

2.なぜ江口とふじ子の二人きりになったのか

遺体は到着後ただちに検案され、その後清拭措置を終えて書斎に安置されたから、ふじ子が着くなり飛びついたのは11時前後のことであろう。第二陣のグループは見ていないはずである。

そこで江口の接吻証言だが、証言にもある通りこのシーンを目撃したのは江口ただ一人である。だから澤地久枝の言うように、これは江口の創作の可能性もある。しかし私は信じたい。

十一時近くになると、多喜二のまくらもとに残ったのは彼女と私だけになる。すると彼女は突然多喜二の顔を両手ではさん で、飛びつくように接吻(せっぷん)した。私はびっくりした。「そんな事しちゃダメだ、そんな事しちゃダメだ」。思わずどなるようにいって、彼女を多喜二 の顔から引き離した。
「死毒のおそろしさを言って聞かすと、彼女もおどろいたらしく、いそいで台所へいってさんざんうがいをしてきた。一たん接吻すると気 持ちもよほど落ちついたものか、もう前のようにはあまり泣かなくなった。

当初、「皆がいなくなってから」という表現から、通夜が終わってからの話かと思ったが、どうもそうではなさそうだ。夜11時前というとまだ第2陣が到着する前だ。その時にふじ子と江口以外に誰もいなくなった瞬間があった。

3.窪川稲子の「午前2時」は11時の誤り

そこで窪川稲子の「午前2時」証言が登場する。

稲子、百合子、壷井栄、安田医師らは遺体の検案・清拭を終えて、多喜二宅をあとにしたのだ。そして帰る。江口が「皆が帰る」というのはこのことを指す。

その道すがらに「踏み切りの向うで貴司や、原泉子や、千田是也などと行き合」っている。そして貴司らが多喜二宅についたのが12時だ。

杉並ピースウォーク(10) 馬橋の多喜二の家の跡

によれば杉並町馬橋 3-375(杉並区阿佐ヶ谷南 2-22)とある。

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二重丸のあたりと思われる。道路はいまの道路と随分違っていて、「中大プール」と書いているあたりが踏切のようだ。踏切を渡ってしばらく行ってから左折して駅の北口に出たのかもしれない。
 

イメージ 1

「(不吉な黒っぽい幌をかけた)車は両側に桧葉の垣根のある、行き止りの路地の手前で止まっていた」という小坂多喜子の文章が当てはまる光景だ。

話を戻す。

ということは、稲子らは午前2時ではなく、その3時間も前に家を出たことになる。彼女たちは明日の仕事のために帰ったのだから、省線の終電に間に合わすつもりだったはずだ。(駅で円タクを拾う手もあるが)

逆算すると、稲子らが家を出て「踏切の向こう」に達する時間、そこで行き合った原泉らが家に到着するまでの時間、これを合わせた時間が「誰もいない」時間だ。

この1時間足らずの間だ。

慌てた江口が「死毒」など口から出任せを言って、とにかく帰らせようとする。意外にもふじ子は素直に言うことを聞いて帰る。台所で口をすすいでいるうちに我に返ったのかもしれない。なにしろ周りはスパイだらけなのだ。

とにかくも、この多喜二の通夜にふじ子接吻のエピソードを押し込めるとするなら、そこしかないのである。

そして名残りおしそうに立ち去っていったのは、もう一時近かった。

写真を撮ったのが午前1時とすれば、ふじ子はその直前までいたことになる。

ふじ子が帰った後、第二陣がどやどやとやってきて、写生したりデスマスクを撮ったり写真を撮ったりと大忙しである。

今回の写真、三吾の肩に手をかけた江口の何食わぬ顔はなぜか笑ってしまう。もっとも江口の頭のなかはそれどころではなかったろうが。(江口は百合子と稲子が通夜に来ていたのを記憶していない)

 

 多喜二の通夜で、新たに発見された写真の解読

多喜二通夜3

困った写真が発見されたものだ。

ふじ子とタキさんを時系列の中にどうはめ込んで良いのか、あらたな混乱を招くことになる。

これで三連休が潰れることになる。

1.撮影状況を読む

まずこの写真(以下写真B)の評価から。

「赤旗」(2月22日号)の説明では貴司山治の遺族、伊藤純さんが父の遺品を整理中に発見したものだとされている。

既発の有名な写真(以下写真A)と同じアングルでほぼ同時に撮られたものと考えられる。前列右端の原泉と後列左の小坂多喜子が、2枚の写真の両方に同じ位置で写っているからだ。その差は数分程度と思われる。

これまで写真Aの撮影者は「貴司山治あるいは『時事新報』のカメラマン前川」とされていたが、これで貴司山治の撮影であることが確定された。

写真Bはフラッシュを使わず天井からの電灯の光のみを光源としている。このため画像はレンブラント効果を生んでいるが、長時間露光のため、かなりぶれている。

コピーによる劣化を考えてもかなりフォーカスは甘いが、奥の顔の鮮明度から考えれば、絞りは開放ではなくf8くらいはかけているのではないか。それで手ブレがないのだから手持ちではなく三脚を立てていると思う。

伊藤さんは「写真のぶれが衝撃の大きさを物語っている」と書いているが、写真Bがぶれたのは手ブレではない。画面左側から来客があったからで、一斉にそちらを向いている。とくに後ろの人がそっぽを向いている。三吾さんの顔が二重になっているのは露光1秒として0.8秒くらいの時点で来客がガラガラと入ってきたのだろうと想像する。

あつまった面々は、いつ警察が検束に来るかもしれないというのでソワソワしていた。(矢島光子)

おそらくその時に小林家に到着したのが鹿地亘、千田是也らであったろうと思う。彼らは上野壮夫(小坂の夫)とともに遺体の枕元に座り、腕組みして遺体を見下ろした。そこで貴司が二度目のシャッターを押した。

それが写真Aであったと思う。デスマスク取りや写生はその後始まったのではなかろうか。

なお、上野先生は前列左端がタキサンではないかと推理している。

可能性はないではないが、下記の経過表から見て姉ではないかと思う。姉は絶対来ているはずだ。セキさんが背中におぶったまま築地まで行った、その孫は絶対に引き取らなければならないからだ。そのとなり性別不明の人物は姉の旦那と考えたい。

(付記: 伊藤さんは写真Aと比較して鹿地亘だと判断している。そのほうが正しいようだ。とすると後ろのちょび髭が旦那か)

タキさんは翌日の葬儀に来ている(とされている)。妹やその友達を連れて来ているので、おそらく葬式の手伝いのつもりで来ているのではないか。

2.写真撮影までの動向

「小林多喜二の死の政治的意味」倉田稔という論文を骨にして、当日の経過を追ってみたい。

なお、下記のアドレスは本日(1月11日)はつながらない。以下はGoogleのキャッシュで拾ったものである。

barrel.ih.otaru-uc.ac.jp/bitstream/10252/464/1/ER_53(2-3)_21-45.pdf

20日

正午 多喜二、赤坂で街頭連絡中に捕らえられ、築地署に連行きれる。

午後5時 多喜二、“取調中に急変”。署の近くの前田病院の往診を仰ぐ。(江口によれば午後4時ころ死亡)

午後7時 前田病院に収容したが既に死亡していることが確認される。“心蔵マヒで絶命”とされる。

21日

正午ころ 東京検事局が出張検視し、死亡を確認。 

午後3時 警視庁と検事局、多喜二が心臓マヒによ り死亡したと発表。ラジオの臨時ニュースと各紙夕刊で報じられた。

大宅壮一、貴司山治などが築地署にいち早く駆けつけ、当局との交渉にあたる。

築地小劇場で死亡を知った原泉が前田病院にかけつけ、「遺体に会わせろ」ともとめ、 特高とはげしくもみ合う。大宅壮一と貴司山治に救出された原泉は築地小劇場に戻り、各関係者と連絡を取る。

多喜二の母セキは 杉並区馬橋の自宅にいて、ラジオを聞いた隣家の主婦から,知らされた。セキは預かっていた二歳の孫(多喜二の姉の子)をネンネコでおぶると、築地署へかけつけた。

夕方 セキが築地署に到着。この時遺体は署の近くの前田病院に安置されていた。当初、警察はセキを二階の特高室に閉じ込め、なかなか会わそうとしなかった。

夕方 江口は吉祥寺の自宅にいて、配達された夕刊で多喜二の死を知った。大宅壮一からの電話があり、馬橋のセキさんを伴れて築地署へ来いと言われた。ただちに馬橋に向かうが留守のため、阿佐ヶ谷から省線でそのまま築地署に向かう。

夕方 青柳盛雄弁護士らが築地署に赴き、遺体の引渡しを要求。さらに連絡を受けた安田徳太郎医師がやってきて警察と交渉。

午後9時 孫をおぶったセキが特高室を出され前田病院に入る。

午後9時40分 遺体とセキら親戚を載せた寝台車が前田病院を出発。江口らがタクシーで後を追った。同乗者は藤川美代子、安田博士、染谷ら4人。

10時半ころ 遺体は「幌をかけた不気味な大きな自動車」(小坂多喜子)に乗せられて小林家に到着した。

この時小林家では近親や友人達が遺体を待ち受けていた。小坂多喜子は車に僅かに遅れて到着した。

どこからか連絡があって、いま小林多喜二の死体が戻ってくるという。私と上野壮夫は息せききって…走っている時、幌をかけ た不気味な大きな自動車が私たちを追い越していった。…あの車に多喜二がいる、そのことを直感的に知った。
私たちはその車のあとを必死に追いかけていく。 車は両側の檜葉の垣根のある、行き止まりの露地の手前で止まっていた。奥に面した一間に小林多喜二がもはや布団のなかに寝かされていた(小坂多喜子の回想)

小坂と上野
        小坂と上野

ほぼ同時に江口、安田らのタクシーも到着。

セキの「ああ、いたましい…」のシーンがあった後、安田が検視を行う。

検視の介助には窪川稲子と中条百合子があたっている。検視の後、壺井栄らが遺体を清拭した。

午後11時 窪川稲子の回想: 事件を知った時点で、窪川は中条の家(下落合)で夕食をともにしていた。時刻には他の証言と相当ズレており、その原因は稲子の思い違いにある。到着時刻は10時半前であろう。

そして多喜二死亡のニュースを聞き前田病院へ電話をかけ、死体は自宅へ帰ったと知る。

午後十一時、我々六人 は阿佐ヶ谷馬橋の小林の家に急ぐ。家近くなると、私は思わず駆け出した。

玄関を上がると左手の八畳の部屋の床の間の前に、蒲団の上に多喜二は横たえられていた。江口渙が唐紙を開けてうなづいた。

我々はそばへよった。安田博士が丁度小林の衣類を脱がせているところであった。

お母さんがうなるように声を上げ、涙を流したまま小林のシャツを脱がせていた。中条はそれを手伝いながらお母さんに声をかけた。

江口によれば、この間に多くの人が駆け込んできた。(このあたり江口の記憶はごちゃごちゃになっている)

午前2時 窪川稲子の回想: 壺井や、乳のみ児をおいてきた私や中條などが安田博士と一緒に外へ出た。…踏み切りの向うで自動車が止まり、降りた貴司や、原泉子や、千田是也などと行き合った。(これは午後11時半のことであろう。窪川らが小林宅にいたのは1時間余ということになる)

22日 

午前0時 千田是也, 岡本唐貴、原泉らがタクシーで到着。 「時事新報」 社のカメラマンが多喜二の丸裸の写真をとり、佐土(国木田)が多喜二のデス ・ マスクをとった。岡本唐貴が8号でスケッチを描いた。(時事新報の写真撮影はもっと前、検視時だと思う)

午前1時 小林家の6畳の書斎に遺体が安置され、人々は遺体を囲んだ。この時貴司山治により2枚の写真が撮られた。この後の記録はないので、写真撮影の後まもなく解散したのだろうと思う。

江口によれば以下の如し。
告別式は翌日午後一時から三時まで。全体的な責任者江口渙、財政責任者淀野隆三、プロット代表世話役佐々木孝丸となる。
通夜の第一夜は何時か寒む寒むと明け放れていた。

午後1時 告別式。会葬しよう と した32名が拘束される。母セキ、弟三吾、姉佐藤夫妻、江口と佐々木孝丸だけが参列。


以上が、参加者の証言をつなぎあわせた経過の概要である。


死せる多喜二を巡ぐる群像

多喜二問題は一応の決着をつけたつもりだったが、上野武治先生からいろいろ聞かされて、とてもそういうレベルではないことが分かった。

改めて勉強させていただく。

まずは上野先生の論文の紹介から。

論文の題名はけっこう長いが、メインは下記の通り

大月源二の絵「走る男」が現代に問いかけるもの

北星学園大学社会福祉学部北星論集 2014-03

論文の冒頭には大月源二の絵「走る男」が掲げられる一風変わった論文である。

img1

この絵は治安維持法違反で服役した大月が出獄翌年の1936年に描いたものである。小林多喜二の鎮魂を目的に制作されたものである。

仔細は上野先生の論文をご参照いただきたいが、とにかく上野先生はこの絵から大月と多喜二にのめりこんだ。

大月は小樽中学時代から多喜二と付き合いがあり、1928年以降の他記事の小説の挿絵や装丁を手がけた。

大月は1932年に逮捕されていて、多喜二の虐殺時は獄中にあった。上野先生が注目したのは33年10月に仮釈放になったあと、「伊藤ふじ子の訪問を受けた」ことである。

これは「多喜二と私」という回想録の下書きに書いてあって、本文には書かれていないもののようである。

ここから先は上野先生の推論。

(ふじ子は大月が)保釈されたことを聞いて,多喜二との地下生活や遺体の様子,夫を殺された無念さを伝えに訪れたものと推測される。

ただ,ふじ子にとりこの訪問は危険を伴うものであった。大月は厳重な監視下にあり,転向した大月がふじ子と多喜二の秘密を守る保障もなかったからである。

しかし,ふじ子は大月を信頼した上で意を決して訪れ,多喜二の葬儀にも参加できず,怒りや悲しみを分かち合う相手もいない苦しみを伝え,多喜二を弔う気持ちを共有できたのではないだろうか。

そして、翌34年3月に森熊猛と再婚したきっかけもこの会見にあると推測している。(以上については小樽美術館の金蔵さんの調査を受けての記述と思われる)


以上が本文であるが、実はこの論文、注釈のほうが面白い。注釈を書くために本文を書いた趣がある。

謝辞 …貴重なご助言をいただきました大月耕平様(故大月源二様ご子息),篠崎木綿子様(故森熊ふじ子様ご息女)…に深く御礼申し上げます。

注釈3.「多喜二と私」の「下書き」の最後は、手塚英孝の文章の下書きで終わっている。大月が手塚の評価を受け入れていたことを示す。

注釈9.澤地は「接吻した」との江口の記載に懐疑的である。

しかし筆者は江口の方が厳しい地下生活を共に闘ったふじ子の様子をリアルに書いていると考える。

ふじ子がこうした激しく強靭な内面と行動力を持っていたからこそ,あえて大月を訪ね,かつ,自身や多喜二の遺骨・遺品を含む秘密,そして森熊家の幸せと平和を守りぬくことができたのである。

確かに上野先生に一理がある。それほどでなければ、あの状況で、ふじ子に遺骨が渡るわけがない。

注釈10.森熊猛(1907-2004年)は夕張出身で北海中学卒。21歳の時,北海タイムス募集の漫画が入選,喫茶店「ネヴォ」の佐藤八郎の紹介でヤップ北海道支部の結成に参加,1932年12月に上京しヤップの活動に参加。ただし大月との直接の接触はなし。

注釈13.「ネヴォ」は1928 ~ 1936年,北2条西3丁目に開店,クラシック音楽を流しており,文化人や学生,社会運動家が出入りし,東京でも知られていた。佐藤は小樽育ちで多喜二とも交流あり,ヤップ道支部長を勤めていた。
1930年12月の一斉検挙で逮捕され,1ヶ月半ほど札幌中央署に留置され拷問を受けた。

注釈21.多喜二の告別式で葬儀委員長として務めた江口は,告別式への参加者が片っぱしから検束され,「杉並署は検束者でいっぱいになり,道場まで臨時の留置場に使ったほどの大検束だった」と回想。ふじ子がどうしたなど、どうでもいい状況だった。

注釈24.子息の耕平氏に「走る男」を見ていただき、「目元が多喜二とそっくりです」とのご指摘を頂いた。


書評欄に尾崎左永子さんの歌集「薔薇断章」が紹介されている。
5首が紹介されているが、その中から3首引用する。

いつの日も やがては海に吸われゆく 街川の水 冬日に光る

茅原(かやはら)は光乱して吹かれゐき 蜻蛉(あきつ)は宙に とどまりながら

禱(いの)るべきこと おほよそは無きままに 永く 掌を合はす時あり 今は

三枝さんという方が評しているが、必ずしも同感できない。
一首目と二首目は光の詩で、しかも秋であり冬である。透明な、乾いた、明るいのに温かみの感じられないLEDみたいな光だ。
1首目は、「街川」と「冬日」がダブルで造語・濃縮されている。この凝縮された叙景に、どう上の句をつけるかだ。そこで「吸われゆく」という言葉が作られた。そして「いつの日」と「冬日」があやうく説明にならず、リズムになる。かなり人工(つくりもの)的な歌といえる。「吸われゆく」が感じ取れるかどうかが分かれ目だ。私などは下賤だから、吸われゆくというと便器の水が、最後にゴボゴボと音を立てて吸われるさまが思い浮かんでしまう。
2首目も「ウーム」と唸る歌だ。アシやヨシでなくカヤというのは、私の子供の頃の情景にはない。山家(やまが)の風情だ。逆光で見ているから光が乱れるので、そろそろ日暮れ時の情景だろう。カヤが揺れるさまは「そよそよ」という感じではあるまい。
「吹かれゐき」が分からないが、「ゐき」は「逝き」を念頭に置いているのだろう。普通は草が動かず、蜻蛉が動くのだが、この情景では逆になっている。カヤが「吹かれゐく」のに、アキツが留まるのである。
これも頭のなかでこしらえた情景に思える。
失礼ながら、この婆さん、まだ悪達者なところがある。「おほよそは無い」と自分では思っていても、どうして、まだ芯はナマだ。枯れるにはヨクもアクも残っている。そのうち「最後の歌集、その第三弾」が出るかもしれない。


06 文学・芸術・スポーツ (96)

2015_3-30

ルネサンスとティツィアーノ

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ヴェネツィア派のラファエロへの挑戦

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三つ目の犬の糞

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午前3時の羽田空港で

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“異”を唱えるということ

2015_1-16

おお石になれ、 拳

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ラブレター 多喜二からふじ子へ

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これがアルゼンチンサッカー

2014_9-26

ピート・シーガーの「わたしが一番きれいだったとき」

2014_9-25

いくさは遠く根の国へゆけ 白蓮(柳原曄子)の戦後

2014_9-14

アーサー・ピナードの「雨ニモマケズ」の理解

2014_9_8

金子兜太の“怒り”

2014_8-23

童謡における非合理主義の美化

2014_8-23

手塚英孝「小林多喜二 文学とその生涯」

2014_8-22

私がふじ子を知った頃

2014_8-20

小林多喜二の東京時代

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手塚英孝と江口渙は矛盾していない

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伊藤ふじ子の接吻

2014_8-15

山口孤剣のすげえ歌

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茨木のり子が、まぶしいほどにきれいだったとき

2014_8_07

戦争と「丸出だめ夫」

2014_8_5

ジャポニズムとブラックモン

2014_7-29

柳原白蓮の平和行脚と到達

2014_7-19

「種まく人」のうんちく

2014_7-16

中西洋子著「柳原白蓮における歌の変容と到達」の紹介

2014_7-16

いくさは遠く根の国へゆけ

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「我慢する」という自発

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杉山平一 「わからない」

2014_6-10

古田足日と小川未明と原始心性

2014_5-28

ロッサナ・ポデスタとトロイのヘレン

2014_2_5

木島櫻谷という画家

2014_1-27

伊藤ふじ子に惚れ直す

2014_1-24

与謝野晶子の怖い詩

2014_1-24

吉野弘さんがなくなったそうだ

2013-12-13

それは日本人のいいところ

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自分の感受性くらい/自分で守れ/ばかものよ

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三木清「幸福について」

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三木清「死について」

2013-11_4

三木清という人

2013-10-25

宮本百合子の「三つの権利」

2013-10-24

ハンナ・アーレントと松岡二十世

2013_9_6

有島武郎と農場の“解放” その3

2013_9_6

有島武郎と農場の“解放” その2

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有島武郎と農場の“解放” その1

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小熊秀雄 断章

2013_9_2

原爆忌 見えぬものには影がない

2013_8_4

日本ハムの建て直しのために

2013_7-29

民のために汝(きさま)死ね

2013_7-13

穴隈鉱蔵の弁

2013_6-14

あえて「加藤コミッショナー頑張れ」と言いたい

2013_6-10

札幌のおばあちゃん、水泳“90歳”リレーで世界記録

2013_6_5

女書(ニュウ・シュウ)に思う

2013_5-16

誰がミズノをそうさせたか

2013_5-15

飛ぶボールはやめるべきだ

2013_3-26

点滴三分の一 のこりてとまる

2013_3-25

村上龍が頑張っているんだ

2013_3-13

伊藤左千夫の米倉批判

2013_2_8

「告発文書」の内容をうかがう

2013_2_8

女子柔道、スパルタカスの反乱

2013_2_4

艾青(がいせい)について

2012-12-28

子供は夜を踏みぬく

2012-12-24

宮本百合子の川端康成批判

2012-12-23

誰が破りし恋ぞ、 詠み人にあらで

2012-12-23

「有がたうさん」という不思議な映画

2012-12-23

生命(いのち)さえほめ殺されき

2012-12-22

福原真志さんの「裸婦」です

2012-12-22

高見順を知っていますか

2012-12-21

高見順がチャプリンを罵倒

2012-12-21

笹野一刀彫について

2012-11-13

森鴎外の饅頭茶漬け

2012-11_8

さよなら バグ・チルドレン

2012-10-14

佐藤さんの「業」に戻る

2012-10-14

「業」(ごう)の基礎的理解

2012-10-11

馬淵晴子の良い話

2012-10_1

ヒトラーに抗した女たち

2012_8-21

福原真志さんが亡くなった

2012_7_3

桜井昌司さんの重い言葉

2012_6-17

「美」は厄介だ

2012_6-13

中江有里の児玉清論

2012_5-10

美貌の作家 若杉鳥子

2012_4_4

小熊秀雄こそ真の詩人だ

2012_2-17

今野大力詩集より

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旅順の城はほろぶとも ほろびずとても何事ぞ

2012_1-24

さんさ時雨か萱野の雨か

2011-11-30

藤島武二と「乱れ髪」

2011-11-30

藤島武二の「朝顔」

2011-10-15

落語そのものが邪道なのだ

2011-10_2

昭和31年の人気俳優番付

2011_9-19

「大地の侍」と大友柳太朗

2011_8-13

こころよく 我にはたらく仕事あれ それを仕遂げて死なむと思ふ

2011_8-10

プロ野球創設期の球団経営

2011_7-26

宮間選手のフェアプレーシップ

2011_5-16

「雨の降る品川駅」について

2011_5-16

さようなら 女の李





ということで、概略を観察した後、最初の疑問に戻る。

「ラファエロに対するヴェネツィア派からの挑戦」というのが何を意味するかだ。

結局のところ良くわからない。

ルネサンスというのは美術だけで見れば、幅広くとっても1480年から1530年までの50年間だ。

このあいだにダビンチ、ミケランジェロ、ラファエロという三羽烏が踵を接して登場する。ボッティチェルリというのはそれよりちょっと前の人だが、生前はそれほどの人気はなかったらしい。

なぜミラノ、フィレンツェ、ローマといった町が文化の華を開かせたのかは良くわからない。全体としては一方で東ローマが滅びでオスマントルコがヒタヒタと押し寄せていた時代だ。さほどのんきな時代ではない。

一方ではスペインがレコンキスタを完成し、キリスト教原理主義ともいうべき立場を強めた。これはオスマントルコへの危機感と重なっているだろう。

スペインは新大陸を発見し、莫大な富を背景に神聖ローマ帝国を動かし、カトリックの復権を目指した。

こういう大状況のもとで、先ほどの三都市にヴェネツィア、ジェノバを加えた諸都市が、つばぜり合いを繰り返しながらも、自治を維持していく機転がわからない。そういえばマキャベリもこの頃の人だ。

維持するどころか、空前の富をかき集め、画工を手元に置き巨大な壁画を描かせるなど贅を尽くしている。これはどうも腑に落ちない。

それで三本柱だが、もっとも若いラファエロがいろんな画家のイイトコどりをして、ルネサンス絵画を集大成したようだ。

彼は大勢の画工を雇って大量の絵をばらまいたようだ。いわば「ルネサンス絵画工場」が出来上がり、スタイルが確立されたといえる。

それで、ヴェネツィア派の話だが、その中心人物であるティツィアーノは、このフィレンツェ、ローマの栄華が終わりを迎えた頃に活動を開始している。 いわばラファエロが集大成し確立したフィレンツェ・ローマのスタイルに抵抗することなしに、自らの立場を押し出すことはできなかった。

これが「ラファエロに対するヴェネツィア派からの挑戦」ということらしい。

ティツィアーノというページ にはこう書いてある。

16世紀、ヴェネツィア派、最大の画家。イタリアのフィレンツェ・ローマとヴェネツィアの対立はそのまま、「ミケランジェロ、ラファエロの素描」と「ティツィアーノの色彩」という対立であった。

ティツィアーノは相当長生きをした人らしく、それから50年位活動している。

私の好きなカラバッジョが出てくるのは、さらに先のことになる

フェルメールの「天文学者」の写真も掲載されている。初めてお目にかかる絵だ。

ちょっと気になったのか以下の記載。ティツィアーノの絵を紹介したあと、

構図の調和、髪や肌、衣服の描写は、ルネサンス芸術の雄、ラファエロに対するヴェネツィア派からの挑戦であるかのような完成度だ。

考えてみると、私はルネサンスの歴史をあまり知らないことに気づいた。

さらに子供の頃からルネッサンスと言ってきたが、最近は跳ねないでルネサンスということが分かった。

待てよ、ルネサンスはフランス語なのだそうだ。たしかにいやらしい綴りだ。でもなぜフランス語で呼ぶのだろう。本家イタリアではどう呼んでいるのだろう、と疑問が膨らむと、やはり一度勉強しておこう

ということになる。


まずウィキペディア

ルネサンス(Renaissance)は「再生」「復活」を意味するフランス語である。古典古代(ギリシア、ローマ)の文化を復興しようとする文化運動で、14世紀にイタリアで始まり、西欧各国に広まった。

通俗的に「復興」「再生」を指す言葉として用いられている場合、ルネッサンスと表記されることが多い。

ということで、第一の疑問は解決。次がなぜフランス語かということだが、

19世紀のフランスの歴史家ミシュレが『フランス史』第7巻(1855年)に‘Renaissance’という標題を付け、初めて学問的に使用した。

続くスイスのヤーコプ・ブルクハルトによる『イタリア・ルネサンスの文化』Die Kultur der Renaissance in Italien(1860年)によって、決定的に認知されるようになった。

とされている。比較的最近のことだ。

それでイタリア人がどう呼んでいるかだが、リナシメントということになっている。ひょっとするとフランス語からの輸入かもしれない。

歴史についてはウィキペディアは詳しくない。


再生運動の提唱者 ペトラルカ

再生運動の提唱者はペトラルカ(1304年生)のようだ。

ペトラルカは古典古代が理想の時代で、中世は暗黒時代だと考えた。そして修道院の古代文献を収集し、詩作・著述を行った

1350年頃から20年間にわたり、ヨーロッパでペストが猖獗を極める。ボッカッチョが『デカメロン』を完成させる。

1400年頃 中部・北部イタリアの諸都市の中からフィレンツェ、ヴェネツィア、ミラノ、ジェノヴァが頭角を現す。逆に教皇ははローマ、アヴィニョン、ピサに分裂し弱体化。

東ローマ帝国からの亡命者

1453年に東ローマ帝国が滅亡すると、多数の知識人がイタリアへ亡命してきた。その書物や知識は古代文化の研究を活発化させた。

1455年頃、ヨハネス・グーテンベルクによる活版印刷の聖書刊行。

1470年頃 オスマントルコがギリシャ半島東岸に進出。ヴェネツィアはギリシャから撤退。

1470年頃 フェラーラのエステ家が興隆。フランドルからハインリヒ・イザーク、ジョスカン・デ・プレなど。多数の音楽家を招聘。

1480年 オスマントルコがイタリア南部に上陸するが、まもなく内紛のために撤退。

1482年、ミラノ公国がレオナルド・ダ・ヴィンチを招聘。ダヴィンチは99年までミラノに滞在。

フィレンツェ、ミラノの最盛期

1485年頃 ボッティチェリの「春」、「ヴィーナスの誕生」が描かれる。その後400年にわたり忘れられていたが、19世紀末にふたたび注目される。

1492年 ロレンツォ・デ・メディチが死去。フィレンツェの全盛期が終わる。

1494年 コロンブスの新大陸発見。

1498年 ヴァスコ・ダ・ガマ艦隊、インドのカリカットに到着。東方貿易を独占していたイタリア諸都市は緩やかに没落し始める。

ローマ、ベネツィアへの主役交代

1500年ころ ミケランジェロ、「ピエタ」、「ダヴィデ像」などを制作。その後ヴァチカンに移りシスティーナ礼拝堂天井画を描く。

1510年頃 ラファエロがフィレンツェからローマに移る。グループを形成して制作にあたる。

1513年、マキャベリが「君主論」を著す。

1517年 マルティン・ルターによる宗教改革が始まる。

1517年 ベネツィアのティツィアーノが「聖母被昇天」を制作。

1519年 ダ・ヴィンチが死去。

1520年 ラファエロが死去。ラファエロの死とともにヴェネツィアを除くイタリア美術は盛期ルネサンス様式からマニエリスム様式に漸次移行。

ローマ、フィレンツェの没落

1527年 神聖ローマ帝国軍の攻撃でローマが壊滅。この知らせを受けフィレンツェでも反メディチ派が蜂起し、メディチ家を追放。ルネサンスの終わり。

 

すみません。引用というには少々長すぎるのですが、面白い文章があったので転載させていただきます。

研究ノート

洪世和著 米津篤八訳 『コレアン・ドライバーは、パリで眠らない』

猪股 正贋

という文章の中の一節です。

『私はパリのタクシー運転 手』 ã

をクリックすると出てきます。


ある時、祖父がわたしに話した。

書堂の先生が三兄弟を教えていた。ある日先生は三兄弟に将来の希望を順に言わせた。

長兄が大きくなったら大臣になりたいと言うと、先生は満足した表情で、それはよいと賛成した。

次兄は大きくなったら将軍になりたいと言った。先生はやはり満足した表情で、それはよい、男は大志を持たねばならんと言った。

末っ子に聞くと、ちょっと考えてから、将来の希望はさておき、大の糞が三つあったらよいのにと答えた。

表情を曇らせた先生が、なぜかと尋ねると、末っ子が言うには、自分より本を読むのが嫌いな長兄が大臣になりたいなどと大口をたたくので、大の糞を1つ食わせてやりたい、

また自分より臆病な次兄が将軍になるといって大口をたたくので、犬の糞を1つ食わせてやりたい…

そこまで言った末っ子が口ごもると、先生が顔を歪ませながら、声を張りあげた。では、最後の一つは、と。

ここまで話した祖父は、わたしに、その末っ子が何と言ったと思うかと尋ねる。

「そりゃ、先生に食べろと言ったんでしょ」

「なぜだ」

「そりゃ一番上の兄さんと二番目の兄さんのでたらめな話しを聞いて喜んだからでしょ」

「そうだ。お前の言うとおりだ。お話はそこで終わりだ。どころで、お前がその末っ子だったとすれば、書堂の先生にそのように言えるかな」

幼い私はそのとき、言える、と大声で言った。するとハラボジは、こう言った。「世和や。お前がこれから、いま言ったとおりにできなくなったら、三つ目の大の糞はお前が食わなければならないということを、忘れてはならんぞ」

私は成長していくうちに、三つ目の大の糞を私が食わなければならないということを、しばしば認めなければならなかった。

洪世和


洪世和に関しては

2014年03月17日  

2012年01月09日

をご参照ください。

あんまりいい記事なので、そのまま貼り付けちゃいます。著作権等で問題あったらすぐ取り下げますので勘弁して下さい。
doramanotane

多分、虚実ないまぜの話だろうが、「いいアリバイだ!」のセリフは決まっている。鶴橋さん、どの役者をイメージしているのかな。

「アート鑑賞、超入門! 7つの視点」(集英社)を書いた藤田令伊さんという人のインタビューだ。

題名だけ見ると、ちょっと退いてしまう。新聞の書評というのはだいじだなと思う。

囲み記事だから、中身というよりも雰囲気。

創作するより、見る人のほうが圧倒的に多い。自分の考えで作品と向き合うこともアートだと思うんです。

ウム、なかなか冴えている。

変だと感じたら「異論」を発すること、それを認められる社会にすることが大切だと思います。
鑑賞で培った批判精神は社会の健全さを保つ力にもなるのではないでしょうか。

ここね、「異論」好きである私には結構落ちるところがある。

あまり藤田さんはここを追究しないで、社会問題に流し込んでしまうのだが、作品と向き合えば、良い作品は語りかけてくるはずで、それが世間的に見て「異論」だとすればもって瞑すべしである。

異を立てることに目的があるのではなく、結果として“異”であったとしてもそれに素直に従うべしということなので、へそ曲がりではなく、素直なのである。

変だと感じないのに異を唱える奴がいるが、これは非本質的なただのイチャモンにすぎないから、相手にする必要はない。

そこいらへんをもう少し突っ込んだ上で、「それを認められる社会にすることが大切」と踏み込んでいくと、議論はもう少し深みのあるものになったろうと思う。


いつもPIPPOさんには勉強させてもらっている。今回は山村暮鳥の詩だ。

冒頭の「おうい雲よ」というのはむかし教科書で見た覚えがあるが、山村暮鳥については何も知らなかった。

苦学して牧師になった人のようだ。

幾つかの詩が紹介されているが、圧巻は「自分は光をにぎっている」というもの。

短いのでそのまま転載する。

自分は光をにぎってゐる  山村暮鳥

 自分は光をにぎってゐる

 いまも いまとて にぎってゐる

 而(しか)も をりをりは 考える

 此の掌(てのひら)を あけてみたら

 からっぽでは あるまいか

 からっぽで あったら どうしよう

 けれど 自分は にぎってゐる

 いよいよ しっかり 握るのだ

 あんな 烈(はげ)しい 暴雨(あらし)の中で

 掴(つか)んだ ひかりだ

 はなすものか

 どんなことが あっても

 おお石になれ、 拳

 此の生きの くるしみ

 くるしければ くるしいほど

 自分は ひかりを にぎりしめる

詩集「梢の巣にて」 1921年より

ネットで調べると、ずいぶんと愛好者は多いようで、いくつかの文章が上がってくる。

PIPPO さんは「はなすものか  どんなことがあっても」というところが気に入ったようで、見出しにもしているが、歌の文句なら「おゝ石になれ、拳」というのがサビになるだろう。

面白い頁があって、中国人らしきブログ主が中国語に訳している。

「自分は光をにぎっている」は「我手握光明」で、ちょっとそっけない。

握るのではなく、握っているでなくてはいけない。最後の締めでは、同じ「自分は光をにぎっている」は「我愈是将光明紧握在手中」と変えられている。かなりの意訳になり、表現が過剰になっている。

ということで、あまりいただきかねる訳だが、中国人にも感動を与えたということは分かる。

倉田稔さんの「小林多喜二の東京時代」(小樽商大「商学研究」(2001), 52(2/3): 3-37)を読み終えた。
必要なことはすべて書き込まれている。
ハウスキーパー問題についても、歴史的限界も踏まえた客観的な評価が下されている。
この論文が描き上げられたのが、2000年頃と思われる。私が小樽にいたのが96~97年だから、同時代に書かれたことになる。小樽で繁華街の店じまいに拍車がかかり始めた頃の話だ。
伊藤ふじ子についても、また違った側面から描き上げられており、彼女の魅力を一層に引き立てている。

多喜二のラブレターの話は傑作だ。
古本屋の活動家とその仲間が多喜二から手紙を託された。盗み読みした上に写真まで撮るのも、ふてぇ連中だが、死も拷問もおそれない闘士であろう二人が、人の恋文を舌なめずりしながら読んでいるさまが眼前に浮かんでくるようで、思わず笑ってしまう。

笑いついでにラブレターを紹介しておく。澤地久枝 『続昭和史の女』 文芸春秋1986年版からの転載のようだ。
「しばらく君と御無沙汰しているのはわけがあるんだ」。多喜二が警察に捕まって、7カ月勾留されていたことが書かれていた。
「その時いっしょに捕まったかわいそうな老人がいたので、それを抱いて寝てやった。そのためにカイセンをうつされた。それを治療するためにこの温泉に来ている」
「このことは親しい人にも誰にも言っていない。君が誰かに話すとは思わないが、ぼくはそれをちょいと試してみたくなった。それでこの手紙を書く」とあり、最後に「帰ったら、また逢いたいものだ」とあって、便箋に二枚だった。
これを受け取ったふじ子は、「あら、そう」みたいな感じでさっと受け取って、何事もなかったように去っていく。このイメージと、通夜の席で人目も憚らずに遺体を掻き抱き接吻した狂乱の場面はイメージがあわない。あわないところが、いかにもいとおしくリアルだ。
きっと、間違いなく、ふじ子は角を曲がってから後ろを振り向いて、小走りになって、人が見ていないところまで走って、それから道端にしゃがみこんで、ラブレターを何度も読み返したに相違ない。


アルゼンチンの3部リーグで、試合中に乱闘事件が発生した。
それだけならよくある話だが、その試合が終わったあと、一人の選手が対戦相手のフアンに取り囲まれ、暴行を受けた。
それも半端な暴行ではない。そのまま意識不明の重体となり、5日後に死亡した。
それもそれだけなら、「ああそうか」とすませてしまうが、記事によると、話はもっと深刻だ。
地元NGOによれば、サッカーをめぐる死者は、今年に入って15人目、昨年の同時期と比べて犠牲者は三倍に上るといいます。
ワールドカップなどでもアルゼンチンのサッカーはえげつないことで知られているが、こういう背景があるのだ。
アルゼンチンに行ったらうかつにサッカー見物など行かないほうが良さそうだ。

茨木のり子の「わたしが一番きれいだったとき」にピート・シーガーがメロディーをつけている。その曲がyoutubeにアップされている。ピートのお弟子さんが歌っている。解説によると、ピートが67年に来日した時、ある雑誌でこの詩を識り、曲とコードを書いてコロンビア・レコードに録音したのだそうだ。

<茨木さんは84年にピートのコンサートに出演し、日本語でこの詩を朗読したそうだ。

茨木さんが2006年は亡くなった。それから4年後のある日、ピートはバンジョーの授業をやめて、こう言った。「こんな曲を聞いたことがあるかい?」

そして私に歌って聞かせた…

ただし大変失礼ながら、この人はうまくもないし、分かってもいない。演奏を聴くならこちらのほうが良い。


歌詞の一部を紹介すると

When I was most beautiful
Nobody gave me kind gifts.
Men knew only to salute
And went away.
When I was most beautiful
My country lost the war
I paraded the main street
With my blouse sleeves rolled high

となっていて、ちょっとぴんとこない。

「美しい」はbeautifulではなくbrilliant、kindはsincereのような気もするのだが

何よりも「卑屈な」がない。「美しさ」は「卑屈さ」に対比されている。のり子は手のひら返しの卑屈さに怒っている。だからあえて、卑屈でない自分を「美しい」と表現するのだ。ナルシズムではない。

確かにメロディーにはキラっと光るものがあるのだが…

なんとかこれを日本語の原詩で歌えないものだろうか。

AALAの機関紙に載せるために柳原白蓮の文章を一本化しました。

いくさは遠く根の国へゆけ 白蓮(柳原曄子)の戦後

1.下二句の力強さ

白蓮、やんごとない点では別枠だ。なにせ大正天皇の従兄弟という雲上人。

この犠牲が 世界平和の道しるべ わがをとめ等よ泣くのでないぞ

人の世にあるべきものか 原爆の いくさは遠く根の国へゆけ


いい歌だ。
ある意味スローガン的な上三句を、正面から受け止め、我がものとし、その思いを下2句で激しく表出している。それが浮いてこないのはなみなみならぬ技法であろうが、それ以上に、言葉をがっしりと受け止めるだけの内実が感じられる。
まさに気高さを感じさせる歌である。

日本の文壇では、ともすれば敬遠される資質であろう。

いくさは遠く根の国へゆけ

は、まことに素晴らしい。

戦後に出した歌集は昭和31年の「地平線」が唯一のものであるが、ここにその歌と実践が集約されている。  「地平線」は「万象」「悲母」「至上我」「人の世」「旅」「去来」などの小題をもつ317首からなる。

その内の「悲母」60首が戦死した吾が子、香織を偲ぶ歌群である。

その前に一首だけ

静かなり 遠き昔の思出を泣くによろしき 五月雨の音

これは昭和3年の歌。宮崎龍介との同棲生活が始まって、どうやら落ち着いて、まもなくのころの歌である。

この歌は“五月雨の音”が決め手だ。最初は“音”は硬いと思った。例えば“五月雨の軒”とか“五月雨の楠”とか情景を掬う方がいい。しかしその途端、歌は叙景になってしまう。ちょっと硬くても“音”でなくてはいけないのだ。音もなく降る五月雨、その音が聴覚を通じて心象と表象をつなげている。

白蓮の歌からは常に音が聞こえてくる。だからぜひ音読して欲しい。

「悲母」より

焼跡に芽吹く木のあり かくのごと吾子の命のかへらぬものか

蒼空に一片の雲動くなり 母よといひて吾をよぶごとし 

秋の日の窓のあかりに 亡き吾子がもの読む影す 淋しき日かな

夜をこめて板戸たたくは風ばかり おどろかしてよ吾子のかへると

英霊の生きてかへるがありといふ 子の骨壺よ 振れば音する

かへり来ば 吾子に食はする白き米 手握る指ゆこぼしては見つ

もしやまだ かえる吾子かと 脱ぎすてのほころびなほす 心うつろに

かたみなれば 男仕立をそのままに母は着るぞも 今は泣かねど

しみじみと泣く日来たらば 泣くことを楽しみとして生きむか吾は

戦ひはかくなりはてて なほ吾子は死なねばなりし命なりしか

身にかへて いとしきものを 泣きもせで  何しに吾子を立たせやりつる

白蓮研究者の中西洋子さんはこう書いている。

その悲しみははかりしれない。しかし一方、悲歎に暮れながらもそれに溺れることなく堪え忍び、じっと向きあっている目がある。

しかも表現は具体性をもって悲しみの情とひびきあい、また修辞的な技巧の入る余地なく、いずれも単純化された詠いぶりである。

2.平和運動の担い手への歩み

46年、NHKラジオを通じて訴えると、「悲母」への反響はものすごいものだった。彼女の主導で「万国悲母の会」が結成される。

個の悲しみを共有し、反戦に繋げようとする婦人たちの運動である。

宮本百合子との対話

49年4月の「婦人民主新聞」は白蓮と宮本百合子の紙上対談を掲載している。この中身は稿を改めて紹介する。

「誰故にこの嘆きを」 白蓮から百合子へ

あの日、日の丸の旗を肩にして「大君のへにこそ死なめといつて出て征つたあの子の姿は、胸に焼きつけられて今もなお痛む。

あのおとなしい子が人一倍子ぼんのうの両親の家を、不平一つ言わず勇ましく門出をした、あれは一体、誰故に誰に頼まれてああしたことになつたのか─と。

…思いかえせばあの戦争中の協力一致の精神…が世界平和のために湧き上らぬものかしら、この故にこそ天界…息子と地上において…同じ目的に協力したいと念じている。これが我子を犬死させない唯一の道だと思っているから。

百合子から白蓮(燁子)へ

…燁子さんににちりよつて、その手をとらせたい心にさせる。そうなのよ、燁子さん。

…あなたの愛がそんなに大きく、そんなに母として深い傷になほ疼いてゐるのに、もう一遍、その傷のいたみからかぐはしの香織 を生んで見よう、と思ふことはおできにならないかしら。

今度は戦争の兇□と非人間性に向かつて抗議し、行動する、けふといふ歴史の時代における香織を。

世界連邦平和運動の婦人部長

この宮本百合子の言葉がどう響いたかは分からないが、「悲母の会」は後に「国際悲母の会」となり、「世界連邦平和運動」に発展した。

白蓮は湯川秀樹夫人スミらとともに運動を担い、全国を行脚した。北海道だけでも後志、札幌、月寒、石狩、旭川、十勝平野、根室、狩勝、北見と連なっていく。

3.自分の運命の流れというものがある

白蓮はこんな文章も書いている。

悲母の会解消問題の起きた時、「だから先生は、歌の事さへすれば他の事は何もしなさるな」と、意見された。併し自分の運命の流れというものがある。

さらっと書いたが、泥もかぶる、まことに重い決意だ。

そして70歳を過ぎた体に鞭打って全国の講演旅行に駆け巡る。この時の歌は、芭蕉の「奥の細道」を思わせる。自然と我とが一体になった至高の歌どもとなっている。

『地平線』の作品に詠み込まれ、また注記された地名は全国津々浦々の40ヶ所におよぶ。

いくつかを紹介しておく

巡礼の心してゆく旅なれば 北のはてにも わがゆくものか

どこの国の誰が ぬれ居る雨ならむ とほくに見ゆる雨雲低し

ききほれて しづかに涙たるるなり 山河草木みな声放つ

遠つ祖の なみだに見たる秋の空 佐渡はけぶりて小雨となりぬ

4.われの命をわがうちに見つ 白蓮の最晩年

このような過酷とも見える無理の多い講演旅行は、やがて燁子の目を苛み緑内障(そこひ)に侵される結果となった。

1961年、76歳で白蓮は両眼を失明する。しかし作歌は永眠の前年まで続けられた。最後の歌は神々しいほどに響く。

眼を病めば 思い出をよぶ声のして 今を昔の中にのみ居り

なべて皆 物音たえし真夜中は 声ならぬ声のなにか聞こゆる

そこひなき 闇にかがやく星のごと われの命をわがうちに見つ

“そこひなき”は「底、比なき」であろう。彼女は視力を失ったのではなく、暗闇に落ち込んだのである。暗闇は限りなく虚空に近いが、その底に輝く星があった。そしてその星は、自らの命であった。

人間、このように一生を終わりたいものです。

(文章の作成にあたりを参考にしました)

アーサー・ピナードさんという人が、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」を英訳したそうだ。

下記のページで、その出だしの部分が読める。

780万人の絵本ためしよみサイト | 絵本ナビ

雨ニモマケズ Rain Won’t

Rain won’t stop me.
Wind won’t stop me.
雨ニモマケズ 風ニモマケズ

Neither will driving snow.
雪ニモ

Sweltering summer heat will only
raise my determination.
夏ノ暑サニモマケヌ

With a body built for endurance,
a heart free of greed,
丈夫ナカラダヲモチ 慾ハナク

I’ll never lose my temper,
trying always to keep
a quiet smile on my face.
決シテ瞋ラズ イツモシヅカ二ワラッテヰル

この英語を直訳すると

雨は私を止めない、風は私を止めない。

吹きすさぶ雪もだ。

うだるような夏の暑さも、ただ私の確信を強めるだけだ。

辛抱できる体と欲張らない心を持って、

私は冷静さを失わない。いつも静かな笑みを顔に浮かべ続けようとする。

という感じで、宮沢賢治の原文に比べると、主体的、能動的、かなりごつい感じだ。むかし「うたごえ」で憶えた「雪や風、星も飛べば、我が心は彼方を目指す」という歌と重なる。

“determination”は「確信」よりもっと強く響く。“try to keep a quiet smile on my face” は、「真昼の決闘」のゲーリー・クーパーになったような気分だ。

宮沢の詩はもう少し“なよやか”で、一抹の道教的諦観を秘めたものではないだろうか。多分、宮沢が過去に会ったひとびとの中に、“頑丈な体をして物静かで、いつも笑っているような表情を浮かべている農民”がいて、“そういう人に私はなりたい”というイメージなんだろう。そこには仄かにトルストイ的エリート意識が香る。


なお、「瞋ラズ」については、Yahoo 知恵袋でこう書かれている

『イカらず』と読みます。
大修館書店刊の『大漢語林』などによると、「イカる」と読む字で、
「恚る」は「うらみいかる」、
「怒る」は「腹をたてる。外にあらわしていかる」、
「嗔る」は「目をむきだしていかる。はげしくいかる」、
「憤る」は「いきりたつ、いきどおる」
等々といった区別があるようです。
仏典に親しんでいた賢治はこれらの区別をかなり正確にわきまえていたと考えられます。

ということで、眦を決した修羅の怒りですかねぇ。あるいは「怒らず」に居ることで、「わたしは左翼じゃないよ」という立場にも取れる。

かなりビックリ、赤旗一面に御年95歳の俳人・金子兜太が登場した。
俳句を詠み続けて75年になります。なぜ、続いているのか。
無謀な戦争の体験者として、無残に死んでいった人たちに代わって伝えたい。
戦後恥ずかしくないよう発言しなければならないという思い、それが私の俳句精神です。
さすがに、冒頭から引き締まった文章だ。「記者の文章に手入れしたに違いない」と感じる。
引用を続ける。
人間が死ぬことの怖さ、その詩を力づくでもたらす戦争は「悪」だと身を持って知りました。
戦後、飢餓のトラック島から引き揚げるときに、駆逐艦の最後尾で、去りゆく島影を見つめて読んだ句
水脈(みお)の果て 炎天の墓碑を 置きて去る
このあとは、ちょっとべらんめえ調になる。
安倍さんにはあきれたね。南方の離れ島で、砲弾で殺され、食料がなくなり餓死していった兵士や民間人の「死の現場」を知らない、知ろうともしない。
そんな連中が、戦争に首を突っ込みたがるんだ。

古田足日を脇においてこう言うのもなんだが…

小川未明の“暗さ”というのは、いわゆる「浪漫主義」に通底しているものではないのか。非合理を容認し、逆に美化さえしてしまう発想が、戦後第二世代として登場した古田には内心忸怩たるものがあったのではないか。

小川未明の児童文学における功績を否定したり、児童文学の枠から除外してみたり、というのではなく、それを事実として受け入れた上で、「内なる伝統」に潜む非合理主義を批判しているのではないだろうか。


実はこんなことを思ったのは、「十五夜お月さん」という童謡を聞いたからである。を書いた時、「花かげ」の隣に「十五夜お月さん」という曲があった。

こちらのほうが有名かもしれない。

歌詞を見ると、状況は芳しくない。それも崩壊的危機だ。

うp主のコメント: 母親は病死。父は倒産。そしてお手伝いの婆やはお暇をとりました。
妹は田舎にもらわれて行き、とうとう私は一人ぼっちになってしまいました。
十五夜お月さん!!!もう一度母さんに会いたいな・・・・もう一度母さんに会いたいな­・・・・
悲惨なこの姉妹の行く末を考えると可愛そうでなりません。

ということで、たんに悲しいのではなく、悲惨=悲しく、惨めなのだ。社会のルールからは合理的でも、当事者には非合理そのものだ。

それが非合理そのままに美化されていく。それも積極的にではなく、ただなんとなく受け止められ、砂糖をまぶされる。「母さん」を「あなた」に入れ替えれば、演歌そのままの世界だ。

これがまさに古田の言う「いびつな児童文学」であり、いびつな心を持った人の「児童心性」のなせる技だということだ。ということなのかな?


この曲は「金の船」という雑誌の創刊号に掲載された曲だそうだ。「金の星」ホームページにはこう書かれている。

大正8年11月に設立された、業界で最も長い歴史を持つ子どもの本の専門出版社です。
童謡童話雑誌『金の船』(のちに改題『金の星』)は創業と同時に刊行され、初代編集長の野口雨情をはじめ、島崎藤村・有島生馬・若山牧水・中山晋平・本居 長世・沖野岩三郎・岡本歸一・寺内萬治郎といった児童文化のそうそうたる先人達と共に、日本の近代的児童文化の成立をリードしました。

初代編集長の野口雨情がみずからものした曲だから、相当力が入っていると思う。

金の船表紙

ただ、この金の船、「赤い鳥」(北原白秋、山田耕筰、西条八十)の山の手風のメンバーに比べると、よりコマーシャルな感がある。「赤い鳥」の成功に刺激され、在来メジャー系が乗り出してきたという感じだ。

結局は両方とも軍国主義に収斂されてしまうのだから、その違いをとやかく言っても仕方ないのかもしれないのだが。


手塚英孝「小林多喜二 文学とその生涯」という本が出てきた。
本棚の一番上に平積みにしてあった。ホコリまみれでタバコのヤニで変色している。
これは伝記ではなく写真集だった。1977年の発行で定価3千円というからかなりのものだ。青木文庫の「全集」はどこに潜ったか、おそらく発掘不能だろう。
伊藤ふじ子の名は年譜に一度だけ登場する。
1932年4月中旬、伊藤ふじ子と結婚。
これだけだ。
最近明らかになった各種情報から見て、手塚はもっと多くを知っていた。本人や旦那とも接触があった可能性がある。
印象としては、かなりの確度で、手塚はふじ子とふじ子に関わる事実を隠そうとしていたと見て良いと思う。
1981年にふじ子は死んでいる。だからこの本が出たときふじ子は生きていた。だから江口の意見はもっともだと思う。
しかしふじ子が亡くなり旦那も亡くなって、不名誉な噂だけが残されるのはやはり困るのである。やはり、どこかもうう少し早い時点で積極的に事実を明らかにすべきではなかったか。
さらに言えば、事実を明らかにしなかった事実とその理由を述べるべきではなかったか、そういう思いはどうしても残ってしまうのである。

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