鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

カテゴリ: 70 文学・芸術・スポーツ

久しぶりに映画が見たくなってイオンの映画館へ行った。行ってから時間などと睨みあわせて、「ビブリア古書堂の事件手帖」に決めた。月曜の午後2時というのに7,8人も観客がいた。全員女性だった。
女性監督の作品で、なかなかお金もかけているらしい。
見た感想だが、何かよくわからない映画だった。なぜわかりにくいかというと、サイドストーリーに力を入れすぎたためだ。
なぜそんなになってしまったかというと、おそらく夏帆という女優があまりに魅力的だったからではないか。
監督や脚本家がみんな引っ張られてしまった。編集屋も切れなかった。

原作者は映画を見た感想の中でこう言っている。
また原作で深く描かなかった過去パートがしっかり描かれているので、映像として観るのは私にとっても新鮮でした。
聞きようによってはちょっと嫌味っぽくも聞こえる。
夏帆
こちらの方は、基本的に暇つぶしなので、筋はまぁどうでもいいみたいなものだから、とにかく夏帆さんの美貌にうっとりしていた。
典型的な美人というわけではない。映画向きの顔で、造作としては大口なのがある種アンバランスな魅力だ。多分芝居がとてもうまい人なのだと思う。表情の中にさり気なく自分の魅力を引き出す力がある。
三文小説家が何気なく入った大衆食堂で、何ということない店のお内儀さんに何気なく接触し、どんどん彼女の魅力に引き込まれていく。その心のゆらぎが、こちらまで引き込んでしまう。
写真を見てほしい。普通に、女性にこんな顔をされたら、男性たるもの理性を失います。
ただし女性の方が流れに添うように燃え上がってゆく心境の変化は、正直のところ良くわからない。わからないが納得させられてしまう。多分女性監督の独特の感性なのだろう。
鎌倉の切通しでのラブシーンは、日本映画ではめったに見られない硬質な情感だ。

プラハでミューシャの絵の入ったチョコを土産に買った。訪問団の人にはあまり知識はなかったようだが、帰ってきたら、とても喜ばれた。竹久夢二みたいなもので、好きな人にはたまらないようだ。
アルフォンス・ミュシャ
Alphonse Mucha
Alfons Mucha LOC 3c05828u.jpg
アルフォンス・ミュシャ


アルフォンス・マリア・ミュシャ(Alfons Maria Mucha)

日本ではけっこう昔から有名な人で、藤島武二が摸して描いた挿絵が与謝野晶子の歌集「乱れ髪」の表紙になっている(他説あり)。
チェコ人だが活躍したのはパリで、アール・ヌーヴォを牽引した人である。
1910年にチェコに戻り、そこで民族主義の画家となり、1939年、78歳で侵略してきたナチに捕らえられ、拷問を受けて亡くなった。
戦後の社会主義政権にも好かれず、「プラハの春」の中で再発見されたようである。
下記のサイトで主要作品が一覧できる。
アルフォンス・ミュシャ

そろそろやめようかと思ったが、次のような文献を見つけてしまった。
教材発掘 ・ 歌人 山崎方代 (国語科教諭 鈴木 芳明)
というネット文献としては膨大なもの。この文献がどういう由来のものかはさっぱりわからない。多分高校生の国語の授業用に作られた教師向け参考書なのだろうと思う。
本来なら前回記事と統合すべきだろうが、それはかなりしんどい作業となりそうだ。
一応要点だけ、抜き出す形で勘弁させてもらう。

1.方代の生いたち
父龍吉が65歳、母けさが44歳の時の子で、8人兄弟の末っ子だが、長女は里子に出され、5女が家に残りほかはすべてなくなっていた。
大正三年霜月の 霜降るあした生まれて 父の死を早めたり
はウソで、父は90すぎまで生きた。
間引きそこねてうまれ来しかば 人も呼ぶ 死んでも生きても方代である
も、ウソである。ただの強がりだ。
方代はウソつきで、書いてあることをそのまま信じてはいけない。ただ本当なのは彼の生活が半端でなく貧しい辛く悲しいものだったことだ。子供が一生懸命お話を作って、現実とフィクションを交錯させるように方代はウソをついて自分を慰めている。
水呑百姓の子に生まれ、両親が失明する。5女もやがて亡くなる。自分は小学校で学業を終え両親の世話をしながら百姓仕事を続ける。
常の如く めしひの父母を隣家の人にたのみて 野良にいできつ
わからなくなれば 夜霧に垂れさがる黒きのれんを 分けて出でゆく
父と母 しかといだきて 永久に土をたがやす 吾が運命なり
そういうウソをやめて自分に素直になれば、恐ろしいほどの現実が襲ってくる。これは普通の人が感じる現実とおばけの関係と逆になっている。
親子心中の 小さな記事を切りぬいて 今日の日記を埋めておきたり
卓袱台の上の土瓶に 心中をうちあけてより 楽になりたり
庭土をわずかにそめて ひっそりと雪がやんでおる 死ぬるは易し
長じて戦争に行く。その時の歌は、実はあまりない。
息絶えし 胸の上にて 水筒の水が ごぼりと音あげにけり
狂いたる本間一等兵が タラップの闇に 女房の名をよんでいる
たしかに、こんな歌、いくつも書けないだろう。
戦後間もなく傷痍軍人となって復員した。片眼失明で、おそらく交感性眼炎で残る目も弱視となった。おまけにその目でものを見るから、目つきが悪くなる。当然まっとうな職にはつけず、靴修理や沖仲仕など底辺の仕事で食いつないだ。
盗み来し茄子 大根もけずり入れて 一人厳かに夕餉を終る
かくのごと 生きていることを恥じながら もげしボタンをくくり付けたり
今日は今日の 悔を残して眠るべし 眠れば明日があり闘いがある
昭和40年(1965)51歳の時に、それまでずっと方代を庇護してくれていた姉が亡くなった。彼は天涯孤独となって姉の家を出た。
d29a39a7f8aec2a8a17ad171811ebfe4
昭和43年(1968)に戸塚の農家の手つだいとなり、納屋をあてがわれた。納屋には電気がきていた。コンセントに電気コンロや中古電気釜をつないだ。水は近くの市立千秀小学校の運動場にある水道蛇口にバケツをさげて貰いに行っていた。
盲いてゆく 瞼をとじて 遠きひと姉の名を呼ぶ 弟なれば
しかしこの頃から少しづつ方代の歌は評価されるようになった。とくに吉野秀雄の知己を得てからは、全国誌にも歌が掲載されるようになり、とくに郷里山梨での評価が高まった。


ということで、みなさんも気になるだろう。あの歌が出てこないのだ。
安久津英 著 「方代を読む」 の中野和子さんによる書評にある 
ほいほいと ほめそやされて 
生命さえほめ殺されし人が
ありたり

という歌だ。
ある文章では 
中道町では、平成12年(2000)より、教育委員会が方代のホームページを開設していて
方代の四つの歌集である、『方代』、『右左口』、『こおろぎ』、『迦葉』所収のすべての歌を見ることができます。
とあるのでさがしてみたが、それらしきサイトは見当たらない。

多分これがその残骸だろうと思われる。
[PDF]山崎方代全歌集というページだ。
ページはちゃんと開くのだが、中身が空っぽになっている。

グーグルの検索ページでは、見出しの下に
ばわたりてぞゆく. 吸いすてし煙草の. けむりののぼる. のもわれにくわ. えるものと思う. この. われが山崎方代. であると云うこの. 感情をまずはあ ...... 柿の木に礼をつく. して柿の実を梢. に三粒. 挘. ぎ残し. たり. 柿の. 木の梢に止りほい. ほいと口から種. を吹き出しておる. 黄金色の落葉 ...... 一日に異存はない. よ鍋底を顔の照. るまで磨きあげ. たり. ほいほい. とほめそやされ. て生命さえほめ. 殺されし人があり. たり. なるようになっ.
と、一部が書き出されている。ここに歌が載っているので、こういう歌が間違いなく存在するようだ。
“安久津英 著 「方代を読む」 の中野和子さん”の方からも検索をかけてみたが、一向に引っかからない。中野さんは多分弁護士の中野和子さんだろうと思うが確信はない。
まぁいずれ誰かが書いてくれるだろう。こちらにも、正直いまのところそれほどのガッツはない。とりあえず終了。

以前、
という記事で
一首だけ紹介した山崎方代という歌人。思い出して調べてみた。

絵に描いたような日本の貧困
一応経歴をなぞってみる。山梨県右左口村の農家の生まれ。大正3年だから私の父と同じ年だ。
方代(ほうだい)は本名。8人兄弟中5人が夭死したことから、末っ子の方代には「生き放題、死に放題」させようと名付けたらしい。これだけたくさん生んでたくさん死なせたというのは水呑百姓の証だろうが、それを子供の名前にしてしまった父親もひょうひょうとしたものだ。
尋小卒後家業を手伝いながら“田舎の文学青年”としての日々を送る。24歳のとき横浜に転居。姉の嫁ぎ先に身を寄せ、職を転々と変える。
3年後に招集され、ジャワ島、ティモール島を転戦。負傷し右眼失明、左眼視力0.01となる。視力が落ちただけではなく目つきも悪くなった。金子秀雄はこう書いている。
ジ ャワ島の東方のチモール島、その近くのマルメロ島とやらでアメリカの艦砲射撃で物恐ろしい目つ きになってしまった。
復員後は傷痍軍人の職業訓練で習った靴の修理をしつつ各地を放浪する。
51年(昭和26年)に横浜の姉の下へ落ち着く。金子によれば
かれには二十も年の違う姉さんがいて、それが横浜で大きな歯科医院を経営し、彼はそこで技工をやっている。
ただ、弱視の彼にどれほどの仕事ができたかは疑問の残るところで、恩給ぐらしの居候というのがありていのところではなかったろうか。
彼は68年に姉宅を出て、戸塚の農家で住み込みばたらきとなる。
72年から鎌倉で間借り生活をはじめる。気のいい大家と奥さんでやっと住み処を見つけたようだ。この頃左眼の視力がいよいよ低下し手術している。
75年 山梨日日新聞に「山崎方代の冬」が掲載され評価が高まる。
85年に肺ガンのため死亡。享年71歳。
まるで絵に描いたような辛苦・薄幸の人生だ。

山崎方代の人となり
ウィキペディアには「特定の結社に属さず、身近な題材を口語短歌で詠んだ」とあるが、そんな思想信条みたいな話ではないだろう。
自らを「無用の人」と言い、世間から離れて暮らしていた方代は、生涯独身であり、孤独で寂しい生活の中、ありのままの素直な表現でいくつもの歌を生み出しました。(甲府市ホームページより)
というのも贔屓の引き倒しだと思う。
むしろ女兄弟のバッチだから人懐こさが身上だと思う。教育はなく弱視で極貧だとなれば、そうそう人並みに扱ってもらえるわけじゃないのが世間というものだ。それだけの話じゃないのかな。
そういう自分を側から見て楽しんでしまおうというのが趣向だ。

ただ晩年には一定の固定フアンがいたらしい。
死んで花実が咲くものかと言うが、2003年には選歌集『こんなもんじゃ』画:東海林さだお
という本が出版され、田澤拓也 『無用の達人 歌人山崎方代伝』2003年という紹介本も出され、2010年には『山崎方代展 右左口はわが帰る村』(山梨県立文学館)という回顧展まで開かれている。

作品の紹介
主な作品(甲府市のホームページの「歌碑一覧」というのがいかにも方代らしい趣向だ)
1  ひる前に ランプのほやを磨きあげ いつものように豆を煮つめる
2  寂しくてひとり笑えば 卓袱台の上の茶碗が 笑い出したり
5  丘の上を 白いちょうちょうが 何かしら手渡すために越えてゆきたり
6  うつし世の闇にむかって おおけなく 山崎方代と呼んでみにけり
11 夜おそく出でたる月が ひっそりと しまい忘れし物を照らしおる

13 遠方より友来たりけり 目隠しをして 鶏小屋の鶏を選べり

14 ふるさとの右左口邨は 骨壷の底にゆられて わがかえる村
18 雲雀子よ早く孵せよ この麦も 少し早いが刈らねばならぬ
19 こんなにも湯呑茶碗はあたたかく しどろもどろに 吾はおるなり
22 私が死んでしまえば わたくしの心の父は どうなるのだろう









半分に絞ってしまった。ただし、ここには都会生活や戦争の記憶や放浪生活を歌ったものはない。故郷にはアルコール消毒された清らかな作品だけが残されているようだ。これじゃ生き仏だ。
生命(いのち)さえほめ殺されき…もない。
先程も書いたとおり、“自分を側から見て楽しんでしまおう”というのが方代の趣向だ。「ありのままで素直な表現」というのはそのための方便だ。もし素直というのなら“ネジ曲がっているけど素直”なのだ。一茶にも似たところがある。日本的なユーモアだろう。

歌碑にはなりにくそうな歌をいくつか並べてみる。

手の平に 豆腐をのせていそいそと いつもの角を曲りて帰る
夕日の中を へんな男が歩いていった 俗名山崎方代である
外灯の下を通って 全身を照らし出されてしもうたようじゃ
生れは甲州鶯宿峠に立っている なんじゃもんじゃの股からですよ
一度だけ本当の恋がありまして南天の実が知っております

約束があって 生れて来たような気持になって 火を吹き起こす

一生に一度のチャンスを ずうっとこう背中まるめて 見送っている
戦争が終わったときに 馬よりも劣っておると 思い知りたり
かたわらの土瓶も すでに眠りおる 淋しいことにけじめはないよ
かぎりなき 雨の中なる一本の雨すら 土を輝きて打つ














を大幅増補した。
啄木の晩年の思想的展開に焦点を合わせた年表に絞った。
題名を変えたのは以下の理由である。

大逆事件はきわめて重要なファクターではあるが、事件そのものを正面から扱った年表ではない。あくまでも啄木の最後の数年間、きわめてまともに前向きに送った人生を跡づけるのが目的である。

1908年 明治41年 満22歳

4月 啄木、北海道での流浪を終え東京に出る。金田一京助に頼り糊口をしのぐ。一方芸者遊びで借金を重ねる。

6月 22日 赤旗事件が発生。大杉栄ら無政府主義の青年グループが革命歌を歌いデモ行進。警官隊との乱闘の末,幹部16人が一網打尽となる。

7月 西園寺内閣、赤旗事件の責任を問われ総辞職。代わった桂内閣は社会主義取り締まりを強化。検挙者のうち10人に重禁錮の実刑が下る。

9月 第三次平民社の開設。獄中の幹部に代わり、高知から再上京した秋水が中心となる。


1909年 明治42年 満23歳

1月1日 『スバル』創刊号発行。啄木は発行名義人となる。

2月 盛岡出身の朝日新聞社編集長佐藤真一(北江)に『スバル』と履歴書を送り、就職の依頼をする。佐藤北江の厚意により、校正係としての採用決定。(月給25円)

5月 幸徳秋水、管野スガらの創刊した『自由思想』が発売禁止処分となる。

6月16日 家族を上野駅に迎える。この日をもって放蕩の「ローマ字日記」時代は終わる。

10月 妻節子、盛岡の実家に帰る。金田一京助の尽力で帰宅。年末には父一禎も上京し一家5人となる。

1910年 明治43年 満24歳

3月 第三次平民社が解散。秋水は湯河原にこもる。

4月 処女歌集『仕事の後』(歌数255首)を書き上げる。春陽堂を訪ね、出版依頼するも断られる。
5月31日 検事総長、宮下、新村らが企てた明科事件が大逆罪に該当すると判断。幸徳秋水ら社会主義者・無政府主義者の逮捕・検挙が始まる。

6月5日 新聞各社、幸徳秋水等の「陰謀事件」を報道。啄木は事件に衝撃を受け、「予の思想に一大変革」をもたらす。啄木は校正係として事件の詳細を知りうる立場にいた。

6月 最後の小説「我等の一団と彼」を執筆。生前は未発表に終わる。小説家の夢は叶わず。

7月末 啄木、「林中の鳥」の匿名で評論「所謂今度の事」を執筆(未発表)。東京朝日新聞の編集主任に掲載を依頼するも叶わず。

8月9日 魚住折蘆、東京朝日新聞文芸欄に「自己主張の思想としての自然主義」を寄稿。

8月下旬 啄木、折蘆を批判する評論「時代閉塞の現状」を執筆。朝日新聞に掲載予定であったが、未発表に終わる。

8月 朝鮮併合。「地図の上朝鮮国にくろぐろと墨を塗りつつ秋風を聴く」を書く(未収録)

9月15日 『東京朝日新聞』の「朝日歌壇」の選者となる。(翌年2月28日まで)

10月4日 長男真一、東京帝国大学医科大学附属病院にて誕生(3週後に死亡)。

11月 米英仏で大逆事件裁判に抗議する運動が起こる。

12月1日 『一握の砂』(東雲堂)刊行。一首三行書きの「生活を歌う」その独特の歌風は歌壇内外から注目される。

12月10日 幸徳秋水等被告26名に関する事件の大審院第1回公判(非公開)が開かれる。

12月 啄木、過労から身体の不調を覚え、三日に一度の夜勤は年内でやめる決意をする。

堺利彦、売文社を設立。「冬の時代」の中で社会主義者たちの生活を守り、運動を持続するために経営する代筆屋兼出版社。

1911年 明治44年 満25歳

1月3日 啄木、友人で大逆事件の弁護士だった平出修弁護士を訪問、詳細な経緯を聞く。幸徳秋水が獄中から送った陳述書を借用し書写。

1月10日 アメリカで秘密出版されたクロポトキン『青年に訴ふ』を入手する。

1月18日 幸徳秋水等の特別裁判の判決。被告26名中、24名死刑という判決に、啄木は衝撃を受ける。

1月24日 幸徳秋水等11名の死刑執行。

1月 啄木、陳述書をもとに「無政府主義者陰謀事件経過および附帯現象」をまとめる。「幸徳は決して犯人ではない」との確信を得る

2月 秋水救援活動を続けた徳富蘆花、一高内で「謀叛論」を講演。 

幸徳君等は時の政府に謀叛人と見做されて殺された。が、謀叛を恐れてはならぬ。謀叛人を恐れてはならぬ。自ら謀叛人となるを恐れてはならぬ。新しいものは常に謀叛である。我等は生きねばならぬ。生きる為に謀叛しなければならぬ。  

2月 結核性腹膜炎で東大病院に入院し手術。入院中にクロポトキン自伝『一革命家の思い出』第二巻を読む。

3月 啄木、術後経過不調のまま退院となる。

3月 大逆事件について木下杢太郎、森鴎外や永井荷風も作品で風刺する。

5月 「ヴ・ナロード: 獄中からの手紙」を執筆。大逆事件の真相を世に伝えんとする。

6月 「はてしなき議論の後」の9編を執筆。「家」(6月25日)、「飛行機」(6月27日)の2編を創作。


1912年 明治45年 満26歳

1月1日 日記に曰く、「暮の三十日から三十八度の上にのぼる熱は、今日も同様だつた」

4月9日 土岐哀果の尽力で、東雲堂書店と第二歌集の出版契約。死後、歌集『悲しき玩具』(歌集の命名は土岐哀果)として出版される。

4月13日 啄木、死去。

石川啄木 年譜に多くを負ったことを付記し謝す

いつもはあまりまじめに読まない赤旗日曜版で、ふと目にしたコラム。日刊の「朝の風」みたいなもののようだ。
二階堂
歌手・僧侶とあるが、本質は詩人であろう。

なんというか磨かれていない原石だ。ありふれた、少しすり減った言葉の中に、キラリと光るものが潜んでいる。
夕方、木洩れ陽のなかにころんと転がった亡骸…

7日の生命を燃やすため、光の中へ出ていった蝉どもと、
あの日、空襲警報の解除とともに、光の中へ出ていった多くのいのちの対比…

自分ではなく、自分の中のいのちに目をやる。
自分中心で固まっている頭と心をほぐし、揺さぶりをかける。
そのことで未来への希望をとりもどす。
ほかのやり方が、私には見当たらない。
解脱とか輪廻とかいわない所がよろしい。

すみません。ネットで調べたらずいぶん有名な方のようです。上から目線のたいそう失礼な物言いで、まことに申し訳ございません。ジジイの酔談だと思ってご容赦ください。

とても面白いミュージアムを見つけた。
九段下のしょうけい館というところだ。
九段下の駅の6番出口を出たところだと、ホームページには書いてあるが、地図はない。
入ってよいのかと一瞬ためらうほどのオフィス風な外観だ。
しょうけい館は、戦傷病者の労苦を「承継」するということから名付けられたのだそうだ。別名が戦傷病者史料館。平ったくいうと傷痍軍人の会館だ。
こじんまりとしているが立派な国立施設で、委託運営となっているが天降りであろう。創設時は今上天皇も閲覧しているようだ。
現在は「水木しげるの人生」という企画展をやっている。
mizukisigeru
滝平二郎の沖縄戦の逃避行とイメージがダブルが、こちらの戦後は傷痍軍人であり失業者であったからさらにきつい。
漫画のイメージと実際の水木のイメージが付かず離れずに進行していく。戦後の生存のための“あがきも含め、まさに生きた戦争、戦争の血肉化だ。
ただしテレビドラマのゲゲゲの女房とはだいぶイメージのずれがあるようで、そこから入る人には多少戸惑いがあるかもしれない。

日曜だからなのか。館内はガラガラ。おかげで冷房に当たりながらゆったりとしたひとときを過ごすことができた。

それから神保町へ出て一軒だけ開いていた古本屋で、「稲作の起源を探る」という岩波新書と「恐竜は生きている」という翻訳の入門書を買った。前者が98年。後者は87年の出版だから、この手の本としてはアウトオブデートかもしれない。

先日、夕張鹿鳴館という施設を見てきたが、いろいろと評価が難しい施設だと思う。
夕張ではいくつかの鉱山会社が操業していたが、圧倒的に大きかったのは三井財閥系の北海道炭鉱汽船という会社だった。略して北炭という。
この会社の接待用施設として建てられたのがこの建物で、鹿ノ谷倶楽部といわれていた。鹿鳴館というのは客集めのためのネーミングのようだ。
老朽・閉鎖されてからの動きは、ウィキで見るとあまり幸せではなかったようで、「生きてなきゃよかった」的なところもある。
1913年に建設されてすでに100年余り、昭和天皇が1954年、今上天皇が58年に宿泊したころが絶頂で、石炭が斜陽化して50年、82年に会社が手放して夕張市に押し付けて35年、夕張が財政再建団体となりたてものを閉鎖して10年となる。
見学コースでほぼすべての施設が見学可能だが、第一別館は未開放である。
かつての栄華を偲ぶには相当の想像力が必要で、むしろ一重のガラス窓とか、建付けの緩みは「大金持ちでもこんな暮らしだったんだ」と、同情を感じてしまう。
天皇の宿泊室は「えっ、こんなところに泊めたの」と言いたくなる。
おそらくその頃ははるかに豪勢だったのが、落ちぶれて老いさらばえて、醜態をさらす羽目になっているのだろう。
建物保存の三原則というものがる。
きれいだ、使える、価値があるというものだ。
夕張鹿鳴館の場合、この三原則のどれをとっても疑問符がつく。調度品も正直のところウソっぽい。
関係者には申し訳ないが、いっそ取り壊して公園にするか、あるいはただの更地にしてしまったほうが後腐れなくて良さそうだ。もし保存するのなら、ここだけ一点主義で守る決意を固めなければならない。
率直に言って廃墟観光の客は金など落としませんよ。

建物保存の三原則 “きれいだ、使える、価値がある
これをウェブで探してもヒットしません。オリジナルは下記の一文です。
ラテンアメリカの政治という私のホームページのなかの「更新記録」という不定期日記の中の一文です。これが私のブログの前身になります。
2007.11.15
 教育テレビのN響アワーを見ていたら、芸大の奏楽堂保存運動の話をしていました。運動を率いた教授が「保存運動の三原則」という理論を展開していました。①使えること、②清潔なこと、③価値があること、というのです。運動から導き出された教訓だけに、とてもリアルで面白く、ためになる話です。話のミソは、老朽化した建造物が一般的・抽象的に価値がある、というその前に、クリアしなければならない条件が二つあるということです。「使えること」というのはきわめて即物的で分かりやすいのですが、「清潔なこと」という言葉には多くのニュアンスが含まれています。

「さとうきび畑の唄」という映画を見た。
明石家さんま が主役ということであまり期待しなかったが、想像以上に素晴らしい映画であった。黒木瞳が(幾分ミスキャスト気味だが)きれいで、仲間由紀恵がしゃっきりしていて白蓮的で、女学校の生徒がとても感じが良かった。学徒兵が素敵でだれかと思ったら、なんとオダギリジョーだった。
見終わったらなんと午前1時、とんでもない夜更かしだ。ふだんなら10時過ぎには眼が開かなくなる嫁さんが目を見開いて見続けた。それどころか泣き続けて、それがよだれになってティッシューで拭きどおしだった。次男が「本当は写真館継ぎたかった」というのは、伏線効果もあって涙腺爆発です。
ウィキによると、これは2003年にTBSが制作した全3時間のテレビドラマだそうだ。女学生役は上戸彩という人らしい。同配役で映画も作られていて、こちらは100分ちょっとという短いもの。どう編集したのか、You Tubeで見られるのはテレビドラマ版のみ。
何気なく見終わったが、あとで気づいたのが、長男の嫁(仲間由紀恵)が長男の大学の後輩という話で、一般的にはありえない。旧制の大学が沖縄にあったかどうかも不詳。大学出の女性が小学校の教師というのもおかしい。このへんはあとで調べてみよう。
良家の子女で駆落ちというのも、ちょっと腑に落ちない。見合い写真撮るのに一人で来るだろうか、駆落ちは良いとして、籍は最後はどうにかしないとならないはずだ。長男が大学に入るには何らかの援助があったはずだと思う。沖縄県出身者が内地の大学に入るのは一定のウラが必要だろうと思う。


 
で“さあを”が気になって調べた。
けっこういっとき流行った言葉らしい。

“さあを”だが、万葉集以来いいくつかの用例があるようだ。
ネットで調べたところでは次のように記載されている。

デジタル大辞泉
さお〔さを〕【さ▽青】
[名・形動]《「さあお(さ青)」の音変化。「さ」は接頭語》青。まっさお。
「人魂 (ひとだま) の―なる君がただひとり逢へりし雨夜 (あまよ) のはひさし思ほゆ」
〈万葉集・三八八九〉

大辞林 第三版
さお【さ青】
〔「さあを」の略。「さ」は接頭語〕
あお。 「色は雪はづかしく白うて、-に額つき」(源氏 末摘花)

さ青の使われ方」 という用例集があって、大正から昭和の初期にいろんな作家が使ったみたいだ。
だいたいこの手の言葉は、しばらく使われると手垢がついてきて賞味期限が切れることが多い。

梶井基次郎「桜の樹の下には」より 
。 この溪間ではなにも俺をよろこばすものはない。鶯《うぐいす》や四十雀《しじゅうから》も、白い日光をさ青に煙らせている木の若芽も、ただそれだけでは、もうろうとした心象に過ぎない。俺には惨劇が必要なんだ。....
薄田泣菫「泣菫詩抄」より 
》きゆららに、 今宵し六日のかたわれ月、 (さはあえかなる病女《びやうによ》の 夕眺めするなよびや、)さ青のまなじり伏目がちに。 吾世すがれの悲み、―― 吐息もするやと惑はしむる。 あなせつなさの今宵や、....
梶井基次郎「桜の樹の下には」より 
た。 この渓間ではなにも俺をよろこばすものはない。鶯《うぐひす》や四十雀《しじふから》も、白い日光をさ青に煙らせてゐる木の若芽も、ただそれだけでは、もうろうとした心象に過ぎない。俺には惨劇が必要なんだ。....
太宰治「雀こ」より 
になればし、雪こ溶け、ふろいふろい雪の原のあちこちゆ、ふろ野の黄はだの色の芝生こさ青い新芽の萌えいで来るはで、おらの国のわらわ、黄はだの色の古し芝生こさ火をつけ....
原口統三「初期詩篇」より
眠る あふれる香髪《においがみ》のみだれ巻いて溺れるあたり とおく水平線の波間にさ青の太陽は溶けこむ。 そうして はるばると潮の流れる耳もとちかく かれは一つの....

と、いかにも風の作家が並ぶ。ただこれらの用例は機械検索で捉まったものらしく、大宰の「さ青」は少々怪しい。

上野武二先生から「大月源二の獄中での絵画制作」という論文を送っていただいた。「美術運動史」という雑誌のNo.166 号で、発行日は4月20日となっている。
先生がますます、多喜二と大月源二の世界に入り込んでいくさまが手をとるようで、畏敬に耐えない。
多分“ナマの事実”の側も、それを書き留める側も、切迫した時間との戦いになっているのであろう。

ところで、この論文の最後に、大月源二の歌三首が紹介されている。めったにお目にかかれるものではないだろうから、この際転載させていただく、
「刑務所内からプロレタリア美術運動の盟友・松山文雄に送った」ものだそうである。大月は1932年6月に治安維持法違反で逮捕されている。多喜二虐殺の33年2月には拘置所にいたことになる。10月にいったん保釈されたあと、34年2月に刑が確定し、甲府刑務所に入所した。そして36年の4月まで服役していた。
ふじ子との出会いは転向・保釈されてまもなくのことである。源二は突如出現したふじ子を、多喜二の“復活”のように受け止めたのではないだろうか。

だから入所時すでに、そこには転向に伴う動揺(クオ・ヴァディス)は越えられていた。そのように思われる。

泣くが如 風空に鳴り 光みち 甲斐の荒野に春きたるらし

鉄窓の 金あみごしにさあをなる 空をななめにおつる鳥かな

山の色 げにあざやかに見ゆるかな 今朝ひょうひょうと 風の音して

いずれも獄舎の小窓を通して、わずかな感覚を手がかりに外界との連帯を歌ったもので、とりわけ第1首は心躍る感慨をみごとに具象化した秀歌である。

“さあを”というのは切り取られたささやかな空の青という意味だろうか。別に空を鳥が落ちるのではなく、小窓で区切られた空間をななめに横切ったに過ぎないのだろうが、この遠近法はシンプルな色彩感覚と相まって絵画に化身されている。「走る男」と同じモチーフなのもしれない。

これに比べると、“山の色”とか“げにあざやか”というのは陳腐だが、“今朝ひょうひょうと”がすべてをすくいあげている。甲府盆地の晩秋というのは、ことに早朝からの寒風は、“秋霜烈日”たるに相応しい。だから山の色の鮮やかさが一層引き立つのである。

大月の獄中生活は三つの要素で成り立っている。早春から晩秋への季節の移り変わり、それを小窓を通じて凝縮された形での受け取り、そしてそれらをポジティブに受け止め、捉え返す静かな確信。

絵については詳しくないのだが、このような心象が入所中の画作にも通底しているのだろうか。

我が家には50インチの堂々たるテレビがある。三菱製で絵は多少落ちるが音がすごい。もともと嫁さんがテレビ人間で、それでこんなすごいのがあるのだが、今は寝たきりで事実上私のものとなっている。
日曜の昼間にカーテンを閉めて、絨毯に座って少し見上げる風に見るとなかなかシアター風である。
連休中に借りたビデオで、「阪急電車」というのが良かった。基本的に女性映画で、男役は刺身のツマ的にしか出てこない。
2011年3月の公開というから東北大震災に完全にかぶっている。これは大方の日本人にはまったく知られない映画ではなかったろうか。めぐり合わせが悪かった映画である。
この映画の舞台となったのは、シックな阪急の中でも宝塚と関西学院、西宮をつなぐ郊外路線で、関西では屈指の洒落たところらしい。20年くらい前、何故か池田で心臓ペーシングのセミナーがあった。帰りに宝塚に寄った記憶がある。私は手塚治虫の記念館を見てきた、連れは宝塚歌劇場を見てきたらしい。
と言うくらいで、あまり馴染みのない場所である。
映画の方だが、宮本信子と南果歩が圧倒的によい。実は最初、ふたりとも誰かわからなかった。口元と喋りと仕草がすごくて、「誰やろう? なにか見た気がしてしょうがないんだけど…」と言ったら嫁さんが指盤で教えてくれた。「目は口ほどにものを言い」と言うが、口元の美しさがえらく目立つ映画であった。
主役の俳優は中谷美紀という人らしいが私はよく知らなかった。ちょっとゴツめの顔立ちであるが、映画ならではのドぎつめなキャラなので、それをリアルに作り上げた実力はそれなりのものなのであろう。衣装と宝飾は間違いなくA級だった。
あと、うまいなと思ったのは田舎出の女子大生を演じた女優さん。谷村美月というらしい。横にいたらちょっと引いてしまいそうな、ちょっと濃すぎる映画向きの美人だ。
その他、これだけ多くの役者がみなうまく化けていて、登場人物をつなげる脚本が良く綾んでいて、エキストラまでふくんで画面の目が詰んでいて、この上なく贅沢な映画だった。ごちそうさま。

前から気になっていたが、さすがに一人では入りにくかった。
そこへ釧路から孫(ピカピカの1年生)がやってきて、これ幸いと連れ出して行ってきた。
感想は表題のとおりである。第一に子供が感動する。「僕、泣いちゃった」そうだ。第二に「絵」が実物以上にリアルで感動する。第三にメキシコと人々への素直な愛情が胸を打つ。
正直のところ、あのディズニーがメキシコ人にこれだけ共感と敬意(おめなへ)をもって映画づくりをしようとは思わなかった。メキシコと言えば唐辛子とテンガロンハットとカルテルしか知らない日本人に是非見てもらいたい映画だ。
音楽もよい。馴染みのせいもあって、主題歌の「リメンバー・ミー」よりもところどころに挿入される「サンドゥンガ」(ひょっとして「ジョローナ」?。多分ハリスコあたりの民謡)がとても有効だったと思う。
なお劇中に頻出するフリーダ・カーロは実在した女性画家。
カーロ
女装しているのがもったいないような男装の麗人。「自画像」よりはずっと良い。
父親はハンガリ生まれのユダヤ人でメキシコで写真家として成功した。当然といえば当然、フリーダも生まれつきのアカで、メキシコが最も輝いた1920~1930年代を駆け抜けた。スペイン人民戦争を支援し、トロツキーをかくまった。今日では国民的芸術家として女性運動の先駆者として尊敬されている。

相撲協会は謝罪声明一本で済まそうとしているようなのでますます怒る。人殺しは「不適切な行為」では済まないぞ。これで済ますつもりならこれは謝罪ではない。少なくとも伝統を重んじる人間がなすべき「謝罪」ではない。
春日野巡業部長は「トイレに行っていた」と言い訳をしているようだ。土俵下に座っていたら、行司の繰り返すアナウンスを看過はできないはず、だね。それにしても巡業先の地元市長が土俵で挨拶しているのにトイレに行くとは「伝統」にそぐわない行為だ。もしトイレが嘘だとすれば主犯は春日野親方ということになる。端的に言って一介の行司が単独でそこまで判断できたのだろうかとも思う。
一言で言って、相撲協会は無責任で事態の深刻さを認識していない。これでは残念ながら再発必至だ。救命医療関係団体は相撲協会に対して、きちっとした抗議文なり警告文を発するべきだ。そして一連の事態が「見殺しの強制」であり、犯罪行為そのものであることを明らかにすべきだ。
メディアはその後ずいぶん報道しているが、全てツボを外している。「気持ちはわからないではないが」などと口が裂けても言うべきではない。これは「見殺しの強制」なのだ。もし救急隊がこなければ、「行司」は場内放送では済まさずに女性の実力排除に出た可能性もある。
これは女性が怒るべき問題ではないし、伝統と人権の関係でもない。救急・救命に携わり命に関わる人間が真っ先に怒るべき問題なのだ。
伝統が問題ではない。良識あっての伝統の尊重であって、良識なき伝統は狂気にすぎない。
問題は人命救助の妨害行為なのだ。救助人を後ろから撃っている。しかも協会の権威を傘にきた威力行使を伴っている。しかも妨害は意図的であり、宗教的確信に基づいている。
今回の事態は法的にはどのような犯罪に該当するだろうか
さきに結論から言うと、これは虐待にもっとも近いあつかいとなるだろう。親が宗教的信念にもとづいて子供を虐待する。ネグレクトや放置はその一形態だ。蘇生措置を中断させるよう強制する行いは究極・最悪のネグレクトだ。
工場で火事が起きた。消防車が駆けつけた。それを工場の正門で「伝統だ」といって立ち入り拒否しているようなものなのだ。子供の手術を拒否するエホバの証人とおなじなのだ。

刑事罰に相当しないか、少し調べてみた。
1.救急車の業務妨害
緊急走行中の救急車に道を譲らなかったり、走行を妨害したりしたときについて
シェアしたくなる法律相談所というページから引用
行為そのものに対する罰
道交法40条、120条1項2号により、5万円以下の罰金が科されます。
これが刑事罰
違反点数1点、反則金6,000円
これが行政罰
つぎに実害が生じた場合
因果関係や故意・過失が立証されれば、民事上ないし刑事上の責任を負う。これまでは立証は困難だったが、ドライブレコーダーの普及により事情が変わる可能性あり。
今回の舞鶴のケースは証拠はバッチリ残っているな。これでは隠蔽も改ざんも不可能だ。
2.市民による救急促進と保護
次に公務執行妨害というのがある。今回のケースは公務員の業務ではないから、外形的には「公務」ではない。しかしきわめて公共性の高い「業務」だ。これに関連した判例はないだろうか。
とりあえず見つけたのが以下の文章
自治省消防庁救急救助課「交通事故現場における市民による応急手当促進方策委員会報告書」
イ 救命手当の実施義務
交通事故により被災者が心停止等の状況にある現場に遭遇した時、居合わせた一般市民が、何ら救助の手立てをとることなく、傍観者の立場にあることは、状況によって非難されるべきであるかもしれない。その意味では、少なくとも、道義的には一般市民にとっても、救命手当の義務があるといえる。しかし、現行法にあっては、一般市民に救命手当の法的な義務があるとは言えない。
ということで、市民(とりわけ有資格者)による救急は保護・奨励されている。これは法令ではないが裁判等においては十分勘案すべき事情である。
3.救急活動のネグレクトは指弾される
4月3日の大紀元ニュースでこれは中国の事件。
中国四川省徳陽市中江県で自動車衝突事故が発生した。2台のうちの白い車がその後炎上した。
住民らは通りかかったバスの運転手に消火器を借りようとしたが、拒否された。
その後、白い車は火が燃え広がり、地元の消防隊が駆け付けて来たが、車内にいた2人は死亡した。
その後の経過は不明だが、世論の袋叩きにはあっている。今回は不参加ではなく「やるな!」という呼びかけだから、ただの世論による非難だけでは済まないと思う。
4.最悪の作業妨害
これは少し前の記事。『平和新聞ながさき版』(06年11月05日)による。
米海軍前畑弾薬庫(佐世保弾薬補給所)敷地内で火災が発生し、弾薬の運搬や貯蔵に使う木製の台を保管する木工作業所が全焼しました。
市消防局は協定に基づいて再三再四、計7回にわたる応援出動を申し入たが、基地側が拒否したそうです。
この事件は、その後ウヤムヤになってしまった。このケースは「伝統」の代わりに「軍事」と入れればまったくおなじ論理だ。

5.「エホバの証人」の手術について
過去においてはいろいろな対応があったが、今日では主体的判断ができる成人の場合は本人の意志が尊重されることになっている。しかし私なら受けない。どうせ他に行くのだから解決にはならないが。
問題は患者が子供で、輸血を拒否していない場合だ。
基本的には親は子供の輸血を拒否することは許されず、もし固執するなら親権を剥奪することになっている。

下記はその一部
15歳未満または判断能力がない場合
(2) 親権者が拒否するが,当事者が15歳未満,または医療に関する判断能力がない場合
① 親権者の双方が拒否する場合――医療側は,親権者の理解を得られるように努力し,なるべく無輸血治療を行うが,最終的に輸血が必要になれば,輸血を行う。親権者の同意が全く得られず,むしろ治療行為が阻害されるような状況においては,児童相談所に虐待通告し,児童相談所で一時保護の上,児童相談所から親権喪失を申し立て,あわせて親権者の職務停止の[保全]処分を受け,親権代行者の同意により輸血を行う。
② 親権者の一方が輸血に同意し,他方が拒否する場合――親権者の双方の同意を得るよう努力するが,緊急を要する場合などには,輸血を希望する親権者の同意に基づいて輸血を行う。
問題はこの親権剥奪措置に親が逆らう場合だ。しかしそれについての言及はない。

6.会場を貸した側の責任
もし、市長の身に万一のことがあった場合、相撲協会に会場を提供した側の責任が生じるかもしれない。
最初にも言ったように相撲協会は真剣に反省していない。誤ちの因って来る原因(風土)を剔決しようとの姿勢も感じられない。内部処罰を検討している様子もない。新兵一人に罪を押し付けて済まそうとしている。昔の軍隊と同じだ。だから彼らは累犯の可能性が高い。
相撲協会がこういう組織だということを知っていて貸すのなら、民事上の責任が問われるかもしれない。少なくとも、貸館契約の際は救急救命の際には女性の出動を拒まないという一札を取り付けておかないと、次は共犯の疑いを受けることになるだろう。

常に遠くへ というブログに面白い写真がありました。
説明は
そんな神聖な土俵に…女性はダメでも フェラーリはいいんですか❔
DaFiovRV4AcPkRA


「女性は土俵から下りてください」の真相
2018年04月11日 「見殺しの強制」は犯罪行為そのもの もご参照ください
とにかくまずは事実収集だ。
昨日4日、京都府舞鶴市で大相撲の巡業が行われた。挨拶に立った多々見良三・舞鶴市長が土俵上で倒れた。

その場に居合わせた有志の人々が土俵上に駆け上って救命措置を行った。その中には女性も含まれていた。これに対しアナウンスを担当する行司が「女性は土俵から下りてください」と退去するよう何回も求めた。さらに市長が運び出された直後、土俵には大量の塩が撒かれた。
BuzzFeed News、では時系列にまとめられている。

  1. 多々見市長が土俵に上がり、挨拶を始めたが呂律が回っていない。
  2. 途中でふらつき、突然倒れる。関係者らしき男性たちが多々見市長に駆け寄る。
  3. 1人の女性が土俵に上がり、男性を押しのけ心臓マッサージを始める。別の女性も直ちに尾き、ペアーで蘇生を始める。続いて別の女性2人も土俵に上がり、多々見市長の駆け寄る。
  4. 「女性の方は土俵から降りてください」とのアナウンスが、繰り返し流れる。
  5. 救急隊員の男性たちが土俵に到着。蘇生作業を引き継ぐ。女性たちは土俵から降りる。
  6. 多々見市長が担架で運ばれる。この後土俵に大量の塩が撒かれる。
ANNニュース(You Tube)にこれらすべてが映像として記録されている。
ということで、こうやって記事を書いているだけでもアドレナリンが吹き出してくる。
これは女性に対する蔑視ではない。「生命の尊厳」に対する蔑視であり、人間の生命に対する蔑視なのだ。
女性差別というのではない。「伝統」の名による恣意的な差別なのだ。たまたま差別の対象が女性であったに過ぎない。同じ論理が例えば部落民だったら、黒人だったら、朝鮮人だったら、共産党だったらどうだったんだろうか。すべて「伝統」の名において許されるのだろうか。
その「伝統」というのは差別の伝統でもあり、「いのちは鴻毛より軽し」の人命使い捨ての伝統でもある。
立川病院の三田村秀雄院長のセリフが良い。
伝統と言っている場面ではない。伝統が命を救うことはありえない。命を救うためにできることは100%やらないといけない。それを邪魔するようなことは決してあってはいけない。
三田村さんの発言は正確で的を得ている。しかし私はそれでは物足りない。これは命の尊厳に対するあからさまな蔑視であり、女性よりもむしろ医療従事者にとって腹立たしい事件だ。
これはイラクやシリアで救急車に発砲するイスラム原理派と同じ行いだ。この行司はどう考えても救命活動を妨害している。不作為の刑事罰に相当する。「伝統」に対する意見の違いではない。強く言えば殺人幇助罪だ。そのまま手錠をはめられて警察に直行だ。

メディアの対応はあまりにも遅くあまりにも生ぬるい。少なくとも、メディアは「行司」の名を公表すべきだ。その瞬間においてこの「行司」に人権はない。最低でも角界に残る資格はない。スポーツの世界からは永久追放だ。相撲がスポーツ以下のクソ社会であるなら話は別だが。

ただしこれだけではあまりにも情報不足だ。相撲協会は当事者として情報を提示すべきだ。もしそれをしないのなら、行事の責任はすべて相撲協会の責任となる。

協会理事長は即刻辞任しなければならないだろうが、それ以前にNHKなどメディアも大相撲関連の報道を即刻中止しなければならない。

客の中から「女性を土俵に乗せるな」とのクレームが付いたために行司が対応したと言うが、この「強いものへのへつらい」も相撲の美しき伝統なのだろうか。それは相撲を国技にしてはならないことの証ではないか。

さらに言えばクレームをつけた「客」も名乗りを上げるべきではある。もし市長が死んでいれば、みずからの主張した「道義」について、「道義」的責任を真っ先に担うべきであるからだ。「相撲道の伝統のために死ね」と煽った以上、あなたは知らんぷりをしてはいけない。
眼の前に死にかけた人がいるのに、みずからは助けようともせずに、行司に「女を土俵に上げるな」と叫ぶ心情のおぞましさ、まさに人間のクズだ。人間の顔をした獣だ。私はそう思う。

「伝統のために死ね」と叫ぶ心は、「お国のために死ね」という心と通じているのではないだろうか。
私たちは「舞鶴」とか「興安丸」という言葉を聞いただけでも、引揚者の名が読み上げられるラジオが耳に響き、なにか胸がキュンとなる。それは、やつらに騙され、無数のいのちが失われ、救われ、平和といのちの大切さを教えてくれた言葉だ。
これを機にもう一度、「舞鶴」が生命の原点となってほしいものだと思う。

奥さんの訪問入浴が来るので、「どこか行かなきゃならない」と思って映画館の案内を見たら、おあつらえ向きの映画があった。
「羊の木」という題でまだ封切ったばかり。原作の山上たつひこというのが気に入った。不朽の名作「がきデカ」の作者である。その後まったく消息を聞かなかったのだが、生きていたのだ。彼の作ったものなら間違いないだろうと即断した。
「羊」というのがいかにも「羊たちの沈黙」を連想させる。2時間を超える映画でいささか胃にもたれるが、要所要所での迫力は満点だ。床屋のカミソリの場面と、トラックでひき殺すところ、そしてじわじわと忍び寄る恐怖は、この映画の醍醐味だといえなくもない。
ただし、ストーリー展開には強引なところがあって、6人の元受刑囚のキャラクターもごちゃごちゃとして書ききれていない。ヒロインは美人だが、ヒロインにふさわしい魅力がない。変なお化けめいた作り物は目障りだ。そんなこんなで素直に映画の世界に入りきれないのは残念だ。
私なら元受刑者を3人か4人に絞って、話を刈り込んで90分物にする。ヒロインは原作にはなく映画作成時に加えたらしいが、それがこの映画の災厄の根源になっているようだ。元ロッカーで故郷が嫌で東京におん出て、なぜか挫折して帰ってくる。それがまたなんの屈託もなくヘビメタを再開するというのがいかにも支離滅裂だ。ヘビメタは高校のブラスバンドではない。
この作品でヒロインは主人公ではないのだ。だからもっとキャラを単純化すべきだ。そもそも必然性のない存在だから消去してしまうのも方法だろう。
それにしても怪優北村一輝の存在感はすごいですね。松田龍平、市川実日子…聞いたことのない名前ばかりだが、みな存在感のある名役者だ。主役と言うか狂言回しの役者もみごとに善人に徹している。
これだけの役者を集めて、これだけの原作を受けて、これだけの“愚作”(駄作ではないが)が作れるというのも一種の才能なんでしょうかね。
羊の木1


1.「家族はつらいよ1」と熟年離婚
「家族はつらいよ2」 というのがあるのだ。
シリーズの1作目は正直、ちょっとつらかった。
きざったらしい言い方になるが、世相を切り取っていることはいるのだが、すくい取ってはいない。
団塊の世代のハシリとして抱えている問題、すなわち「熟年離婚」はそのまま提示されているのだが、山田監督の言いたいのは「そのまま直視せよ」ということなのだろうか。
そのままの姿としての「熟年離婚」は、現代日本における男性のエゴがいかにひどいかという問題でしかない。しかし私たちはそれを女性史的にも見ておく必要がある。
団塊の世代を通じて女性の権利にかかわる問題はずいぶん前進した。しかしまだ問題はたくさん残っている。それを「熟年離婚」の問題として突き出すのはいい。
しかし映画であるなら、もう少し問題解決型のスタイルで提示すべきではないだろうか。「麦秋」の原節子は、あのころの問題をあのころにふさわしい解決法で提示している。
2.「救いようのないジジイ」からの脱出
ということで、「家族はつらいよ1」はちょっと辛かった。橋爪功というじいさんの頑固ぶり、夜郎自大ぶりが、同世代としてあまりにも救いようがないからである。
率直に言えば、今の日本、若い人より我々のほうがはるかに進歩的で主体的で民主的だ。ただの頑固爺として描かれるような筋合いはない。
ただ、具体的な生活の現場で若い人たちが作り出す細やかな人情の世界を我々が見知って感動してきたかという点では、もっと反省すべきなのかもしれない。「知りもしないで戦後民主主義という型紙で若者を裁断しないでもらいたい」というメッセージであれば、もっと謙虚に我々は聞くべきではないのか。
それが第2作目になってようやく、キャラクターの住み分けが見えてきた。橋爪功のキャラはまだ練り上げられたとはいえないが、わが身の一部として共感できるようにはなりつつある。
これが共有できるようになると、もう一つの寅さんが出来上がっていくのかもしれない。
3.山田洋次の「団塊の世代」観
話がややこしくなってきた。結局「家族は辛いよ」という映画、シリーズは山田洋次監督の仕掛けた「団塊の世代」論なのだ。もちろん山田洋次は団塊世代ではない。戦後第一世代だ。そして寅さんは第2世代で、ここまでが山田洋次監督が共感できる世代だ。
そして戦後第三世代たる団塊世代に対しては、おそらく山田監督はずっと「いやな感じ」をいだきながら生きてきたのだろうと思う。
それが1作目から2作目に至る過程で結構浄化されている。寅さんに共通性を感じたように、このどうしようもない団塊の世代「若き老人たち」にもヒューマンとしての共通性を紡ぎ出そうとしている。
この柔らかさこそ私達が山田洋次監督から汲み取るものなのであろう。
この話は、一度真面目にやるべきものだろう。

日曜美術館という教育テレビの番組を見ていて、五嶋龍というバイオリニストに感心した。
アンドリュー・ワイエスの「クリスティーナの世界」という1枚の絵だけで番組一つ作ってしまうという、かなりのオタク番組である。
それはそれで良いのだが、そこにゲストとして参加した五嶋さんのコメントがなかなかよろしいのだ。
夜の再放送を酒を飲みながらの鑑賞だから、かなりうろ覚えだが、五嶋さんの感想の出発点が良い。
ネットにこの番組の紹介記事があったのでそこからコピーさせてもらう。
(ニューヨークの美術館でワイエスの絵を見て)地味だなと最初は思いました。しかし、数秒後にものすごい力強い絵だと思ったんです。印象がガラッと数秒の間に変わったんですが、…
というのが最初の言葉。
つまりこの絵は、ある意味で罠が仕掛けられているのだ。トリック絵画と言ってもいい。この頃のアメリカの「スーパーリアリズム絵画」にはみな、「絵本の挿絵」といったら良いのか、そういうところがある。
「クリスティーナ」における罠は言うまでもなく異様な手だ。異形と言ってもよい。
これに気づいたとき、鑑賞者は一気に絵の中に引き込まれ、クリスティーナの背中に吸い込まれるわけだ。
そのとき鑑賞者は大波に巻き込まれたみたいに、既視のものとの連関を失い、前後左右・天地がわからなくなる。
これを五嶋さんはこう表現する。
彼の芸術の素晴らしさというのは、見る人によって多分違うメッセージが出てくると思うのです。希望や力強さも感じますが、すごい絶望も感じます。こういう悪夢ってあるじゃないですか、目指すところにたどり着けない。でも、這っていくわけです。
後藤さんの素晴らしさは、最初無難な言葉を探しながら、「こういう悪夢ってあるじゃないですか」という表現に絵の本質を手繰り寄せたところにある。
そして五嶋さんの思いはさらに進んでいく。
アメリカって言うと…がんばれば成功したり裕福な生活を遅れるみたいなイメージがありますが、アメリカでの生活の現実というものをバラ色にせず、そのまま冷たく見せてるなと僕は思ったのです
結局、五嶋さんはこの絵をポジティブな絵だとは見ていない。おそらくこのままでは家までたどり着けないであろうクリスティーナの不安とあせり、それを見つめえぐり出していくワイエスの目の冷たさ…
ただしそうまで言われてしまうと話は身もフタもなくなるから、話題はもうひとりのコメンテーターによる背景説明に移っていく。

ただ、ワイエスの被写体を見るときの冷たさが、彼の心の冷たさなのかと言われるとそうとも言えない。

多くの左翼系・民衆系の作家はまず現実の告発から始まっている。そこには秘められた怒りがある。それがリアリズムという共通土台に乗らなければ共通語とはならないし、叙景の技にはアルチザンとしてのセンスも求められるわけだ。

五嶋さんはこのあたりの作業を次のようにすくい取る。
見えないものを描くにはいろいろなテクニックがあります。…表現したいものを控えめに表現することによって、聞いている側の人がもっと求める。
…音楽というものもそのまま伝えるのではなくて、聞いていただいてそこからまた世界が広がるようにすることが目的です…
ということで、アート的にはワイエスを高く評価するのである。
このあと五嶋さんは文明論、現代論もつまみ食いしていくが、この辺は正直のところピンとこない。
おそらくは長いコメントの中を切り取った言葉なのだろうが、最後の切れ端は余韻を残している。
彼のパワーは一瞬戸惑わせるところがあります。それって今の世代の持つハイペースな感覚の中では必要なのではないかと思います。

正直のところワイエスが20世紀アメリカを代表する画家かどうかについての議論はあると思う(例えばベン・シャーン)。さらに「クリスティーナ」でワイエスを代表すべきか否かについても議論は分かれるのではないだろうか。

しかし、随分勉強させてもらったことは感謝しなければならない。

正月を挟んで、グダグダとした日が続いている。

生活が落ち着かないせいもあって何かをまとめてやろうという気が起きない。

テレビの映画ばかり見ている。

A.「君の名は」

恥ずかしくて見に行けなかった「君の名は」が正月ということでテレビ初登場だ。

良い映画だった。しかしあまり記憶に残らないのはなぜだろう。作者の感じるリアリティと私の感じるリアリティのあいだに、かなりのギャップが出来上がってしまっている。

だからヒロインの苦しさとか悲しさとかがバーチャルなものとしてしてしか感じられない。これは世代問題なのだろうか? どうもそれだけではないように思えるが。

B.湯を沸かすほどの熱い愛

お風呂屋の映画の話は、このあいだしたよね。あの女優さんは良かったね。ビデオで取っておいて、ティッシュを用意して、夜中に一人で観た。

1.かなりカットしている。テレビ初登場というからには「ノーカット」でやってほしかった。2時間足らずの経過を伏線、伏線で積み上げていって、それで見せるのが映画だから、映画館で見た身には思い出がえぐられる思いだ。

2.うちの三菱のテレビは、内蔵ハードに絵を落として見るようになっているのだが、素で見るのとでは随分画質が変わってしまう。あっ、思い出した、宮沢りえちゃんだった! こんなにどぎつい絵でなく、普通に映してほしい。40歳の女性の肌が変にリアルだ。全然可愛くない。

ということで、「見なきゃよかった」篇。

それにもかかわらず、「君の名は」よりは1ランク上の映画だと、改めて思う。

C.「麦秋」

次はなんと言って良いのかわからない作品。晩春も東京物語もすでに見ているか、縁のない映画であった。

この映画は、それよりは遥かに食いつきが良い。外周りがしっかりと書き込まれているから、その分良く分かる。とくに「北鎌倉」という場所が昭和26年にどういう場所だったのかがしみじみと分かる。

もう一つは原節子がとてもきれいにチャーミングに描かれているから、小津映画がどうのこうのは関係なしにポカーンと原節子の顔だけ見ていて時間が過ぎていく。

とにかく登場人物がやたらに多いから、誰が誰とどういう関係なのかがわからないままに映画が終わってしまう。

あとで考えてみると、この映画には二人の謎の人物が登場する。

一人は淡島千景で、原節子の「お友達」として登場するのだが、全く無意味な登場人物なのである。

筋書きとしても全く無意味だのだが、それ以上に映画のキャラとして原節子とタイを張ること自体が無意味なのだ。

淡島千景という人は、銀幕界の歴史を飾るようなとてもきれいな人で、夫婦善哉などの演技は絶品である。

しかし原節子と並ばせたら可哀想だ。とくにこの映画の原節子は驚異的に美しい。これでは淡島千景はサラしものだ。

二人が裸足で鎌倉海岸の波打ち際を走るシーンは、当時としては“劣情を刺激した”に違いない。しかしこの映画の必然性から言えば原節子が一人で走れば良いのであって、淡島千景を一緒に走らせる必要はサラサラない。残酷だ。

ちょっと余談。

昭和26年という世相を知らない人が、彼女たちの暮らしをさも同情できるかのように書いているが、冗談ではない。それは雲の上の、サブ貴族層の、GHQに近い人々の生活であって、想像もできないような暮らしであって、したがって同情などしようもないのである。

私の母親は多分東京大好き人間だった。大正8年生まれだから原節子よりちょっと若いのかな。静岡にも文化はあったが、東京には東京にしかない文化があった。たとえ戦争で荒れ果てたとしても、そうなのだ。

よくリテラシーという言葉を使う。東京にある文化リテラシーは眩しいものだけれども、静岡のような田舎で暮らしていて、東京にはもう一つ上の文化があるというのを知っているだけでも、一つのリテラシーなのだ。ほとんどの人はそんなことなど知らずに一生を終えていた。

母親は私をダシにして東京に出かけた。静岡から鈍行列車で6,7時間だったろうか。私は駅の名前が全部言えた。私は胎内の時から染まった東京グルイだった。

大船の駅で、私の目はきらめいた。そこには湘南電車とは違うクリーム色と青のツートーンカラーの電車が並んでいた。それほど鮮やかではなかったが、そこにはお金とステータスの臭がした。

話が長くなった。

わたしたち田舎者、すなわち99%の日本人にとって小津映画は決して庶民感情を細やかに描き出したものではなかった。「雲上人でも我々と同じような悩みを持っていたりするんだなぁ」とダマしこむためのメディア・ツールでしかなかった。

そう思って小津映画を見たら良い。多少の楽しさも湧こうというものだ。

D.DESTINY 鎌倉ものがたり

本日映画館で見てきた。できたての映画らしい。マップ絵なのかCGなのか知らないが、黄泉の世界の描写は立派なもの。

ただ、「千と千尋」の向こうを張ったもののようだが、レベルが一段違う。映画の筋そのものも「3丁目の夕日」レベルで、インスピレーションには乏しい。

そこそこ楽しめる映画であって、家族揃っての映画見物にはきわめて良いと思う。


宮沢りえの『湯を沸かすほどの熱い愛』がテレビで放映されるようです。 20日水曜日の昼にテレビ東京系でやるそうですから、ぜひ録画をしてはいかがでしょうか。大してたくさん見ているわけじゃありませんが、ワタシ的には今年最高の映画です。 注意! 一人で見ること、首にタオルを巻いておくとよい。 宮沢りえというのは本当に映画俳優ですね。普通の人ではないんです。原節子みたいですね。 多分テレビで見てもそれほど感激しないと思います。暗闇の中で銀幕に浮かび上がると最高のキャパを発揮する人です。 「必見」と言いながら変な話になってしまいましたが、映画というのは「盗み撮り防止」の動画とセットで見るものだということです。

「幸せの黄色いハンカチ」の展示を見ていて、ふと説明文に吸い込まれた。

「この映画は典型的なロード・ムービーである」

「あぁそうか」と一応は納得したが、何か喉に引っかかる。単純にそうは言えないのではないか? とも思う。回想シーンが頻繁に挿入されるし、武田鉄矢と桃井かおりの二人の成り行きは、むしろ狂言役による幕間劇ともとれる。

よく考えてみれば、なかなかに複雑な構成なのだ。

ロードムービーってなんだろうと考えているうちに、「母をたずねて三千里」を思い出した。

これぞ、ロードムービーではないか。

もちろん私はアニメ世代ではないから、アニメ版「母をたずねて三千里」の中味は知らない。

多分、子供の頃に絵本でまず接して、大きくなってから「クオレ」を読んで、「あれっ、これって『母をたずねて三千里』そのままじゃん」と気づいたときである。

クオレは子供のときに買ってもらった(と言うか押し付けられた)「世界少年少女文学全集」の一冊である。

当然そんなものは読まない。書棚に並んでいるのを見ただけでゲップが出る。

それがどういう拍子か高校時代にたまたま手にしてしまった。ボロボロ涙を流しながら読んだ覚えがある。

『母をたずねて三千里』もかわいそうな少年の話ではなく、「男はどう生きるべきか」みたいな感じで受け止めた。

だいたいクオレというのは、サルジニア王国を中心にイタリアを統一した直後の話で、「愛国主義美談」の濃厚な本だ。

政治意識が芽生え始めた高校生にとっては、もろに琴線に触れるわけで、自分の思想的と言うか心情的なバックボーンの一部になっているような気がする。


青空文庫でその「母をたずねて三千里」が読める。やはりクオレの一挿話を抄出して一編の童話にしたもののようだ。

ウィキでは、もっぱらアニメについての講釈が展開されるが、長い連載モノにするために相当脚色が加えられているようだ。

多分そのほうがよいだろう。ちょっと原作だけではゴツゴツと『事実』が並べ立てられていて、人物像の膨らませ方が足りないと思う。(それがある意味ではドキュメンタリーっぽさを引き出しているとも言えるが)


アカデミー賞というのにつられて「セールスマン」という映画を見た。途中から抜け出したくなる感覚を抑えながらの2時間であった。
映画の拠って立つ日常生活の過程への漠然とした違和感とともに、ザラッとした後味が残る。
劇の展開よりも、主人公たる男性の心が犯人への怒りと、前の住人(おそらく売春婦)への八つ当たり、妻へのそこはかとない疑惑を抱えながら、「私刑」へと人格を崩壊させていく過程を描いているのだが、それを描くことにどんな意味があるのか、どういう意味をもたせようとしているのかが分からない。
「復讐」という病的心理過程のダイナミクスは、それはそれとして正面から取り上げるべきでろうと思う。下手なサスペンスじかけにしたら、かえって人を混乱させるだけではないか。
アカデミー賞はこの監督の過去の業績に対して送られたのかもしれない。
映画というのはかなり訴求力の強い媒体なだけに、作品そのものに筋が通っていないと、観衆を混乱におとしいれるだけのものになってしまう。
「性犯罪と復讐」というのはイスラムでなくてもどこにでもある事件である。インドならいまでも日常茶飯事だ。作者には、ガルシア・マルケスのように、それを時代の流れに位置づける俯瞰の立場をもとめたい。そうすれば「セールスマンの死」とも重なるのではないか。


滝平二郎の展覧会をまだ語っていない。

実は、この日まで、滝平二郎はどう読むのか知らなかった。滝さんなのか滝平さんなのかもわからなかった。

皆さんわかりますか。この人は滝さんでもタキヒラさんでもなく、タキダイラさんなんです。


もちろん目玉は朝日新聞に連り絵」の連作であるが、「滝平の真骨頂はその前にあった」、ということがわかった。この人は「漫画家」だ。絵描きにしては語るべきストーリーが有りすぎる。版画家にしては色彩への欲がありすぎる。だから芸術家の範疇にとどまれない、だから漫画家になるのだ。

「切り絵」の方は「あぁ、きれいだね」というくらいのもので、それでも十分目の保養にはなるのだが、例えば宮﨑駿などの原画展と比べてとくに出色というわけではない。

ということで、とにかく圧倒されるのは初期の「戦争敗走記」という連作。

どれもすごいのだが、とくにこれは食いつかれる感じがする。皆さん、展覧会に行ったら逆回りした方がいいです。とにかく最初から疲れちゃう。
猿

「猿」と題されている。

おそらく自画像(24歳の)であろう。

異形である。人間とは思えない凄まじい形相であるが、眼は完璧なまでに虚ろである。「失感情」よりもっと高度の「失外套」に近い状況だ。この状態で突かれたり切られたり撃たれたりしても、あるいは食われても、苦しみの表情さえ浮かべることなく死んでいくだろうと思われる。しかしその前に、およばずとも噛み付くくらいはするかもしれない。

大岡昇平の「俘虜記」にも「猿」の話が出てくる。人肉を「猿」と称して食う話である。本当に猿と思ったのかもしれない。


滝平は1921年生まれ、新進の版画家として活動を始めた42年(昭和17年)に召集された。最後の任地が沖縄だった。

滝平の手記「山中彷徨」から引用する。

硫黄島玉砕、東京大空襲―あれよあれよという間に、米軍機動部隊が私たちの沖縄本島をとり囲んだ。

およそ1週間の間断ない砲爆撃の後、こともあろうに私の誕生日の4月1日に米軍が上陸した。

6月の終わりに沖縄守備軍玉砕。そのことも知らずに私は、なおも山中を逃げ回った。疲労の果てに仲間からはぐれてしまってからも、一人ぼっちで彷徨い続けた。

奥深い山中の、小さな泉のほとりには、たいてい誰かが仰向けに寝て落命していた。

…いきなり鳥の大群が不気味に鳴いて飛び立ったあとに、兵隊服の白骨が散乱している光景にも、しばしば出会った。

…それは、一匹の虫けらのように自分が縮んでいく瞬間でもあった。

…昼間は何よりもひと目を恐れた。たえず誰かに見つかりはしまいかと落ちつかなかった。

なるべく深い繁みをえらんで、その下に身を横たえて時たま通過する米軍機の音をぼんやりきいていたとき、とつぜん頭上の木の枝を、薄緑色の尻尾の長い動物が、梢の方へつつっと走って、ゆっくり首をまわして私を見おろした。大きな目が「見つけたぞ!」というように私を直視していた。

私はバネ仕掛けのように飛び起きて逃げ出した。あの小動物がなんであったか、今もってはっきりしない。

雨上がりの赤土の小道を握りこぶしほどの亀の子がゆっくり歩いていた。はっとたじろいだ私の目の前で、みるみるうちにひと抱えもある怪物のように大きくなった。太いしわしわの首を伸ばして、じろっと私を見た。私は奇声をあげて土くれと言わず石くれといわず怪物めがけて投げ続けた。

…こうなると、一人芝居も凄愴味を帯びて私は完全なノイローゼになっていた。

8月3日の夜半、生け捕られて俘虜となった時は、もうすっかり癒えていた。


「もうすっかり癒えていた」と言うが、この絵を見ると明らかに「癒える」どころかさらにひどい状態に陥っている。

その表情は、前頭葉への回路を完全に遮断した状況を示している。考えることを止め、感じることもやめ、無理やり脳を冬眠状態に陥れることによって、かろうじて心のバランスを取り戻したのだ、そうやって大脳機能を守ったのだ、と察する。

「反省だけなら猿でもできる」と言うが、この状態ではそれも出来なかったろう。つまり「猿以下」だ。

それにしては、釈放後1年でこれだけの絵をかけるのだから、この人はとんでもなく丈夫な神経をしている。

向き合ううち、この絵から怒りが噴き出していることに気づく。滝平さんは怒りの感情が溢れてくるから、この絵がかけたのだと思う。
許せないから、尋常の生理的反応に逆らって記憶の回路をこじ開け、凄惨な体験を呼び起こし、この凄まじい作品を残さずにはいられなかったのだろう。

手記の最後はこう締めくくられている。

戦争体験は、それを語る人の思想によって、さまざまに形を変え、命を吹き込まれて伝えられる。

私には、悲惨さ以外に伝えるものは何もない。

絵もすごいが、文章も隙きがない名文だ。表現は控えめだが、間然としたところはない。なんとかこれを「紙芝居」に出来ないだろうか。



以前、昭和8年2月21日の動きを時刻表にしたことがあり、探したが、どこやらわからぬ。いろいろ探して、ここにあるのを発見した。

2月20日

正午 多喜二、赤坂で街頭連絡中に捕らえられ、築地署に連行きれる。

午後5時 多喜二、“取調中に急変”。署の近くの前田病院の往診を仰ぐ。(江口によれば午後4時ころ死亡)

午後7時 前田病院に収容したが既に死亡していることが確認される。“心蔵マヒで絶命”とされる。

2月21日

正午ころ 東京検事局が前田病院に出張検視し、死亡を確認。

午後3時 警視庁と検事局、「多喜二が心臓マヒにより死亡した」と発表。ラジオの臨時ニュースと各紙夕刊で報じられた。ラジオ放送の直後に動いた人々は…

築地署: 大宅壮一、貴司山治、笹本が築地署にいち早く駆けつけ、当局との交渉にあたる。

前田病院: 築地小劇場で事件を知った原泉が前田病院にかけつけた。「遺体に会わせろ」ともとめた。警察は面会を拒否し、原とはげしくもみ合う。警察が拘束の動きを見せたため、大宅壮一と貴司山治が仲裁に入る。救出された原泉と大宅らは築地小劇場を基地とし、各関係者と連絡を取る。

馬橋: 多喜二の母セキは杉並区馬橋の自宅にいた。ラジオを聞いた隣家の主婦から知らされた。セキは預かっていた二歳の孫(多喜二の姉の子)をネンネコでおぶると、築地署へかけつけた。

夕方 セキが築地署に到着。この時遺体は署の近くの前田病院に安置されていた。当初、警察はセキを二階の特高室に閉じ込め、なかなか会わそうとしなかった。

夕方 

都内各所に夕刊が配達される。配達の直後に動いた人々は…

築地署: 青柳盛雄弁護士らが築地署に赴き、遺体の引渡しを要求。さらに連絡を受けた安田徳太郎医師がやってきて警察と交渉。

馬橋: 江口は吉祥寺の自宅にいて、配達された夕刊で多喜二の死を知った。大宅壮一からの電話があり、「馬橋のセキさんを伴れて築地署へ来い」と言われた。ただちに馬橋に向かうが留守のため、阿佐ヶ谷から省線でそのまま築地署に向かう。

百合子グループ: 上落合の中条百合子宅で窪川稲子も同席して夕食の最中、夕刊で事件を知った。推測では、東中野在住の壺井栄と連絡を取り、中央線中野駅で集結し阿佐ヶ谷に向かったものと思われる。

当初の記載で、中条家を下落合としていたが、上落合の間違い。土地勘がなくて誤解していたが、上落合というのは西武線の下落合とはだいぶ離れていて、どちらかと言えば中央線の東中野に近い。したがって歩いて東中野に出るのがもっとも早い。

午後9時

築地: 在京中の秋田の親戚の小林さんが築地署に駆けつける。彼が身元引受人となり、遺体の引き取りが決まる。

推測だが、三吾はこの時点で行方がつかめなかったのではないか。遺体の引き取りには身元引受人が必要であり、それには戸主(男性)であることがもとめられていたのかもしれない。そこで弁護士がセキから根掘り葉掘り聞いて、秋田の親類を見つけ出したと考えられる。

午後9時30分 孫をおぶったセキが特高室を出され、前田病院で遺体と対面。この時セキと同行したのは、作家同盟の佐々木孝丸、江口渙、大宅壮一。青柳盛雄ら3人の弁護士。医師の安田徳太郎。

午後9時40分  大宅らの雇った寝台車が。遺体とセキ+孫、親戚の小林さんを載せ前田病院を出発。

午後9時40分 江口らがタクシーで寝台車の後を追った。同乗者は藤川美代子、安田博士、染谷ら4人。

午後10時

百合子グループ: 阿佐ヶ谷に着いた3人は、若杉鳥子(窪川は「同盟員」と書いている)の家に落ち着いて情報収集にあたった。前田病院から、すでに寝台車が出発したとの情報を受け、多喜二宅に向かう。

稲子は「すでに多喜二宅前には10人ほどが集まっていた」と書いてあるから、そちらにも視察に行ったのであろう。鳥子家を利用するという「良案」を誰が考え出したのかは不明。
前田病院に電話したのは稲子で、彼女はわざわざ西武線の沿線(鷺ノ宮駅?)まで行って街頭から電話したという。警察の張り込みを避けての行動かもしれない。
「すでに出た」というからには、その電話は早くとも9時40分過ぎのことであろう。もしそれが10時と仮定すれば、それから歩いて鳥子家まで戻るのに30分は見なくてはならないから、それから多喜二宅に向かうとすれば、到着は10時40分ころということになる。

10時ころ 遺体が小林家に到着した。ほぼ同時に江口、安田らのタクシーも到着。小林家では近親や友人達が遺体を待ち受けていた。

出発及び到着時刻は川西の記載によるものであるが、築地から阿佐ヶ谷までわずか20分で着くとは到底思えない。築地の時間が正確だとすれば、到着は早くとも10時30分ころと思われる。

小坂多喜子: 小坂多喜子と夫の上野壮夫は車に僅かに遅れて到着した。(小坂多喜子の回想)

どこからか連絡があって、いま小林多喜二の死体が戻ってくるという。
息せききって…走っている時、幌をかけ た不気味な大きな自動車が私たちを追い越していった。…あの車に多喜二がいる、そのことを直感的に知った。
私たちはその車のあとを必死に追いかけていく。 車は両側の檜葉の垣根のある、行き止まりの露地の手前で止まっていた。奥に面した一間に小林多喜二がもはや布団のなかに寝かされていた

小坂と上野
        小坂と上野

セキの「ああ、いたましい…」のシーンがあった後、セキが服を脱がせ安田が検視を開始する。

午後11時

午後11時 百合子グループが多喜二宅に到着。以下、稲子の文章を長めに引用する。

我々六人(内訳不明) は阿佐ヶ谷馬橋の小林の家に急ぐ。家近くなると、私は思わず駆け出した。
玄関を上がると左手の八畳の部屋の床の間の前に、蒲団の上に多喜二は横たえられていた。江口渙が唐紙を開けてうなづいた。
我々はそばへよった。安田博士が丁度小林の衣類を脱がせているところであった。
お母さんがうなるように声を上げ、涙を流したまま小林のシャツを脱がせていた。中条はそれを手伝いながらお母さんに声をかけた。

午後11時 安田医師の死体検案開始。検視の介助には窪川稲子と中条百合子があたる。検視の後、壺井栄らが遺体を清拭した。

死体検案は当事者には長く感じるが、見るポイントは決まっていて意外に短時間で終わる。すでに死後24時間を経過していれば、筋の緊張は緩み仏顔になってくる。死後硬直は取れ扱いは容易だが、出血と脱糞の匂いは相当強烈で、清拭が骨折りであろう。それでも前後15分もあれば片付く。

闇の中の1時間

このあと約1時間のあいだの経過は、まったく私の推論だ。

11時30分 百合子グループと安田医師が多喜二宅を出る。江口によれば、この間に多くの人が駆け込んできた。(このあたり江口の記憶はごちゃごちゃになっている)

おそらく安田医師が帰ると言ったのに、「それじゃ私たちも」と同行することになったのではないか。医師は明日の仕事があるのと、基本的には診察先に長くいたくはないという真理が働く。女性たちにも子供のことやら家のことやら明日のことやら、いろいろ事情があるものだ。何れにせよ稲子の「午前2時」は間違いなく誤解だ。

11時30分 百合子グルームが多喜二宅を離れて間もなく、ふじ子が駆け込んでくる。この後、多喜子の文章の「愁嘆場」が出現する。

ふじ子は築地小劇場を訪れて、原泉に「多喜二の妻です」と打ち明け多喜二の遺体にひと目会いたいと懇願した。これは多喜二の遺体を送り出した9時40分以後のこと、おそらく午後10時頃のことである。
その時まで4時間のあいだ、ふじ子には、行くべきかどうか逡巡する時間もあったろうし、築地署前の群衆に紛れて右往左往していた時間もあったろう。
原泉はこの「女優」に見覚えがあって、「女の勘」が働いて、瞬時に事情を察した。そしてこれから多喜二宅に向かうという新聞記者を見つけ同行させた。クルマに乗ること1時間ちょっと、登場時間としては妥当である。

12時頃 江口の文章の「接吻の場面」が登場。まもなくふじ子は多喜二宅を退去する。(小坂多喜子は「いつの間にかいなくなった」と表現している)

恋猫の 一途 人影 眼に入れず
ボロボロの 身を投げ出しぬ 恋の猫

12時頃 稲子の文章によれば、「…踏み切りの向うで自動車が止まり、降りた貴司や、原泉子や、千田是也などと行き合った」

当時の阿佐ヶ谷駅は正面が北口で、多喜二宅からはいったん踏切を渡って線路の北側に出なければならなかったのだろうと思う。
一方築地小劇場組は、怪しまれないように踏切の北側で降りて歩くことにしたのだろう。原泉とふじ子は、論理的にはどこかで交錯しているはずである。ふじ子が避けたか、原泉が沈黙を守ったかのいずれであろう。

2月22日

午前0時 千田是也, 岡本唐貴、原泉らが多喜二宅に到着。 「時事新報」 社のカメラマンが多喜二の丸裸の写真をとり、佐土(国木田)が多喜二のデス ・ マスクをとった。岡本唐貴が8号でスケッチを描いた。(時事新報の写真撮影はもっと前、検視時だと思う)

デスマスクについては、築地小劇場組の一小隊が別行動で動いたらしい。佐土という人はデスマスクの専門家だが、活動家ではない。彼に依頼して材料の石膏を仕入れるのにずいぶん時間を食ったという情報もある。

午前1時 小林家の6畳の書斎で人々は遺体を囲んだ。この時貴司山治により2枚の写真が撮られた。この後の記録はないので、写真撮影の後まもなく解散したのだろうと思う。

ひょっとすると1マイメノ写真を撮った直後に三吾が現れたのかもしれない。2枚の写真はそういうストーリーを感じさせる。

江口によれば以下の如し。
多喜二宅で葬式の手順が話し合われた。告別式は翌日午後一時から三時まで。全体的な責任者江口渙、財政責任者淀野隆三、プロット代表世話役佐々木孝丸となる。
「通夜の第一夜は何時か寒む寒むと明け放れていた」

午後1時 告別式。会葬しよう と した32名が拘束される。若杉鳥子も捕らえられる。この結果、セキ、三吾、姉佐藤夫妻、江口と佐々木孝丸だけで葬儀を執り行う。

ということで、

貴志山治の2枚の写真をもう一度見返す。

伊藤さんの読み込みについては、まず後列の女性が窪川稲子ではありえないことが指摘される。

もう一つは2枚の写真の前後関係である。二つの写真は明らかなライティングの違いがある。

成功作は天井からのライティングであたかも電球が照らすように映し出されている。

これに対し失敗作ではライトは横向きに当てられ、光源が近すぎるために多喜二の顔はハレーションを起こしてしまっている。

率直に言えば、「決め写真」ではなく、ついでに撮った写真ということになるだろう。

なぜついでに撮ったかといえば、三吾とセキが入ってきたからだ。

画面右側の人物群はほとんど動いていない。真ん中に三吾とセキが割り込んだ。

しかし入りこんだのはそれだけではない。サンゴを割り込ませた江口の後ろに男女一人ずつ、そして左端には小父さんと小母さんが入っている。右端にも男性二人が入った。

カメラの位置は5,6センチ低くなり近接している。山田清三郎と千田是也は視界から外れてしまった。

この新たに入った4人に関して、情報を発見した。

川西政明さんの「新・日本文壇史」という本の第4巻に、1933年2月20日の動きについてかなり詳しく触れられている。

この中で遺骸の引き取りの経緯が初めてわかった。

6時にはすでにセキは築地署につき小谷特高主任から経過説明を受けている。なのに遺体に会わそうともしないし、引き取りも認めない。

おそらく理由はセキが戸主ではないからであろう。そして戸主たる三吾はなかなか連絡が取れない。

なんだかんだと時間が過ぎていくうちに、セキは秋田の小林の親戚が上京中であることに気づいた。

この小林さんが9時近くに築地署に着き、ようやく引き取りが決まったのである。

セキは前田病院に入り遺体と対面。その後、寝台車で馬橋の自宅に向かうことになる。寝台車に乗ったのはセキ(と背中の孫)、親戚の小林さん。随走するタクシーに江口と安田医師らである。

おそらくこのちょび髭は秋田の親戚の「小林さん」であろう。この人と江口はすでに式服に着替えている。

とすれば、田口たきと比定された女性はその妻の可能性が高い。そして江口の後ろに割り込んだ男女が姉夫婦ということになるのではないか。

そして、三吾さんが到着したのを機に、今にいた親戚が揃って遺体とあらためてご対面したところなのだろうと思う。

三吾さんがなぜこんなに遅くなったのか(おそらく12時を回った時刻)は不明である。

なお、おなじ川西政明さんの本にはその夜の参加者が列記されている。

このうち写真で特定できているのが

岡本唐貴、池田寿夫、岩松淳、立野信之、田辺耕一郎、原泉、鹿地亘、山田清三郎、千田是也、それに直接自宅から来た上野杜夫と小坂多喜子。それに撮影者の貴志山治である。

この他に本庄陸男、川口、千田、淀野、大宅壮一、笹本、佐々木孝丸の名が挙げられている。

ただし大宅、笹本は築地署には現れているが、馬橋まで行ったかどうかは不明。

稲子らはいつ帰ったか。

午前2時は論外だが、ではいつ帰ったのかということで、一つの仮説として省線の終電時刻を考えてみた。

稲子は子供を置きっぱなしにしている。翌日は収監中の夫、鶴次郎と面接がある。もちろん面接のとき、監視の目をかいくぐってなんとか他記事虐殺の報を伝えたいから、行かない訳にはいかない。

一行は安田徳太郎を入れて4人だから、阿佐ヶ谷から円タクで相乗りして帰るという方法もないではない。しかし終電で帰れるなら帰りたいのが人情ではないだろうか。

そこでネットで当時の終電の時間を調べてみた。

格好の解説があった。

2015年12月22日付の東洋経済オンラインの記事

JR中央線の「終電時刻」は、どうして遅いのか
昔はもっと遅かった「深夜の足」の意外な歴史

というもの。著者は小佐野記者。

東京ネタだから、札幌の人間にはどうでも良いことだが、現地の人間には面白いだろう。

中央線の終電時刻はなぜ遅いのか。

「特に遅くできる理由があるわけではなく、ご利用されるお客様が多いため」だそうだ。

中央線が遅くまで走るようになったのはいつからなのだろうか。

1934(昭和9)年12月の時刻表を見てみると、最終電車の新宿発は午後11時50分となっている。

ただし、これは浅川(現高尾)行の話で、立川行きは午前0時52分、三鷹行きは午前1時8分、中野行きはなんと午前1時27分まであった。

近距離でいえば、戦前のほうが今よりも遅かったことになる。

理由は、当時は鉄道以外の交通手段、要するに車が少なかったからではないかと記者は推測している。


稲子らの電車は逆方向になるので、本数は少ないにしても同じ時刻くらいまでは走っていたと思われる。。

三鷹発の電車が午前1時頃に阿佐ヶ谷に停まる。これに乗れば東中野、さらに上落合に帰ることは可能なのだ。

実際には終電よりももっと前、11時半ころには家を出たと思われる。

女性陣の介助のもとに安田医師の検屍が行われ、写真が撮影された。その後湯かんして服を着替え、書斎に安置した。そこには稲子の描写した如く10人ほどがすでに集まっていた。

どうしようかと思案してたところに、安田医師が帰るというので、「それでは私たちも」ということになったのではないか。だからもっと早いのかもしれない。

ただ、江口渙の「十一時近くになると、多喜二のまくらもとに残ったのは彼女と私だけになる」という時刻はやや早すぎる印象がある。

それにしても、彼女たちの帰った時刻とふじ子の来訪は、本当に一足違いだったようだ。

そして、阿佐ヶ谷駅近くの踏切で彼女たちと入れ違った「同盟」の一団が多喜二宅に到着したとき、すでに彼女の姿はなかった。

本当に、“恋の猫、ふじ子の接吻”は江口渙のみが居合わせた、奇跡的な時空間だったのだ。(江口の創作でなければの話だが…)

連休前に、図書館に行って現物にあたった。それで書いたのが下の記事だ。

本日は、佐多稲子の「2月20日のあと」だ。全集の第1巻にふくまれている。ただし執筆当時は窪川を名乗っていた。
これが、前から一番気になっていた文献だ。
気になるのは2点、
1.稲子らが多喜二宅を辞したのが午前2時ということ。そんなに遅くまでいたはずがない。
2.ふじ子についての記載がまったくないこと。これは書きたくないから伏せたのか、知らなかったのか、ということが判断できない。
この2点とも、原文を読んでもわからないだろうと思っていたが、やはり全文を読んでみないと雰囲気はわからない。
それに加え、紹介した文章に書き漏らした事実の中に何か隠されているものはないだろうか、というのも気になる。
ということで、読み始めた。

稲子はいつ多喜二の死を知ったのか
これは時刻として正確には記載されていないが、おそらく午後6時ちょっと前のことではないだろうかと推察される。
当時、稲子は中央線東中野駅の近くに住んでいたらしい。しかしその時は自宅にはおらず、上落合の中条百合子家にいた。(土地勘がなくて誤解していたが、上落合というのは西武線の下落合とはだいぶ離れていて、どちらかと言えば中央線の東中野に近い)
稲子は中条家で晩飯をゴチになるつもりでいた。
その時、中条家の誰かが着いたばかりの夕刊を読んで、「多喜二死す」の報を知った。
すでにラジオでは4時のニュースで事件が報道されていたが、稲子も百合子もそのことは知らずにいた。仲間からの連絡もなかったようだ。
この状況については、細部の記載までふくめて正確だろうと思われる。裏返すと、それからあとの記載については、秘匿されたか記憶が曖昧なのか分からないが、断片的になってくる。大脳生理というのはそういうものかもしれない。
多喜二宅に入るに至る経過
文章は、ここから先は相当曖昧だ。このあと推理を相当膨らませなければならなくなる。
稲子は百合子とともに家を出て馬橋の多喜二宅に向かう。
経路は不明だが、おそらく歩いて東中野まで出て、中央線に乗ったのだろうと思う。
途中で一人の女性と合流して三人になる。名前が伏せられているが、これはおそらく壺井栄であろう。栄も東中野近辺に住んでいたようだ。
三人は阿佐ヶ谷の「同盟員」の家に入った。
これは若杉鳥子のことであろう。
鳥子については下記の記事を参照されたい。(2012年05月10日
若杉邸での情報収集
多喜二宅はがら空き状態だったから、百合子、稲子、栄は鳥子の家を拠点として情報収集にあたったのであろう。
鳥子の夫は庶子とはいえ備中松山藩主板倉子爵の血を引いている。それなりのお屋敷であったはずである。
しかし防衛上の理由であろうか、稲子は西武線沿線の街頭電話から築地署や前田病院に電話して情報を収集した(と書かれている)。

阿佐ヶ谷から鷺ノ宮辺りまでカラコロと歩いたことになるが、集まったメンバーから見れば、稲子がこういう「パシリ」的役回りになるのは当然のことであろう。

この辺から、稲子の記憶は曖昧になってくる。「すでに10人近く集まっていた。まだ遺体到着せず」という記載があるが、これは多喜二宅の状況であろう。鳥子邸に10人も人が集まるわけがない。

多喜二宅に向かう

稲子の文章によれば、いろいろ電話した挙句、前田病院の看護婦から、多喜二の遺体がすでに病院を出て自宅に向かったことを知る。他の情報から推しはかると、これは午後9時頃のことであろうと思われる。それから急いで鳥子邸に向かうが、女の夜道だ。到着するのにどう見ても30分はかかる。

ここから先は、文章はさらりとしてほとんど時間の糊しろがないようになっているが、実際には相当の時間が経過しているはずだ。

それから4人で協議して、鳥子は残る、他の3人は多喜二宅に向かうと決めて家を出る。若杉邸から多喜二宅まではさほど遠くはない。間近と言ってもよい。

稲子によれば、

それからみんなで自宅へ向かう。そこにはすでに江口がいた。そのとき母が多喜二の服を脱がせていた。

ということになる。

これで午後10時位で、みんなの時計が合うことになる。

稲子の文章には時計がない

ということで、稲子の文章には時計がない。他の証言と照らし合わせることによって初めて稲子の行動がわかるという仕掛けになっている。

稲子は、行動するにあたって脳内時計とか絶対時間を持たない“時刻音痴”人間なのだ。良く言えば、徹底した現場型、実践優位型人間なのだ。

なのに多喜二宅を退去した「夜中の2時」という時刻だけが、突如、確定的に出現する。これは後着組の話に影響されて、あとから刷り込まれたものではないだろうか。

方向音痴の人に道を聞くことが無駄であるのと同様、時刻音痴の人に時刻を聞くのも無駄である。このことは念頭に置くべきだろう。


図書館というのはすごいところで、澤地久枝の「昭和史のおんな」を頼んだら5分で出てきました。

実物を拝むのは初めてです。

さまざまな題材がずいぶん広く深く扱われていて、さすがプロはすごいなと思いました。

この本では16人の「昭和史のおんな」がとりあげられ、ふじ子はその中のひとりに過ぎません。

それでも、ざっと読むのに1時間かかりました。中身がそれだけぎっしりと詰まっているのです。

これだけでも十分な情報量があるので、結局これからの作業はこの本の落穂ひろいみたいなことになるのではないでしょうか。

とりあえず、メモしたところを文章に起こしておきます。

題名と内容の乖離

表題は「小林多喜二への愛

副題というかリードとして、以下のように書かれている。

戦後、歴史論争を呼んだ「党生活者」の笠原のモデル・伊藤ふじ子の歩んだ70年の歳月

ただし、この“センセーショナル”な題名にもかかわらず、その後の文章の中で、澤地は伊藤ふじ子は「ハウスキーパー笠原」ではなかったことを証明している。

伊藤ふじ子の死

伊藤ふじ子は昭和56年4月26日、自宅で突然死した。激しい頭痛を訴えた後意識がなくなり、そのまま帰らぬ人となった。享年70歳、今日から考えれば比較的若い死であった。

澤地はふじ子の死を伝える2つの訃報を紹介している。

赤旗の訃報

戦前、治安維持法下の特高警察の過酷な弾圧の下、貧困と闘いながら、作家・小林多喜二の創作活動を献身的に支えました…

北海道新聞の訃報

旧姓は伊藤ふじ子。昭和8年、小林多喜二が中央公論に発表した、地下生活を描いたとされる「党生活者」にハウスキーパーとして登場。これをめぐり「伊藤は小林多喜二の妻であった」とする日本共産党と、「ハウスキーパーだった」とする平野謙氏ら評論家グループが歴史論争したことがある…

平野の党攻撃とふじ子の躊躇

そこで出て来る「平野謙氏ら評論家グループ」という人たちの言い分が紹介されている。

「新潮」という雑誌の昭和21年10月号に掲載されたものらしい。

目的のために手段を選ばぬ人間蔑視が、「伊藤」という女性との見よがし的な対比のもとに、運動の名において平然と肯定されている。そこには作者のひとかけらの苦悶さえ浮かんでこない。

これは「党生活者」という小説中で、地下活動家の偽装妻となった「笠原」という表象への「文学」的批判などであるが、これが伊藤ふじ子と重ね合わされて北海道新聞の「訃報」へとつながっていくわけだ。

戦後、伊藤ふじ子の内心は、こういう「下衆の勘ぐり」によって苦しめられたであろう。

ふじ子の死の少し前、澤地は夫の森熊氏を通じて直接取材を申し込んでいる。

森熊氏は結局これを拒否した。

老女に50年前のショックを思い出させることは、いささか残酷なような気もするわけです。

というのが理由である。「50年前のショック」ということばに万感の思いが込められているようだ。

浮かび上がる等身大のふじ子像

澤地は森熊氏をふくむ周辺の人々から聞き取りを行うことによって、ふじ子という人物をあぶり出していく。それはふじ子の等身大の全体を知るには、むしろ好ましい方法であったかもしれない。

取材によって、「笠原」とは別の存在である「伊藤ふじ子」が少しづつ姿を見せ始めた。

それは澤地にとって意外とも言える人物像であった。そのあたりの気持ちを澤地は正直に吐露している。

仮説などという言葉は適当ではないかもしれないが、伊藤ふじ子は「笠原」のモデルであるよりも、むしろ「伊藤」のモデルだったのではないか。

おっしゃるとおり、適当ではないが、実感としてはよく分かる。

いくつかの証言は本人を彷彿とさせる貴重なものであり、その一部はこれまでも紹介してきた。

それ以外のところから2つほど。

高野といえば、多喜二からのラブレターを盗み読みして、あまつさえコピーしたふてぇ古本屋だが、戦後高野と会ったふじ子がこう語っている。

高野ちゃん、苦しくって死のうと思っていたのを彼(猪熊)に救われたのよ

(良いですね、こういうちょっととっぽい山の手弁。こういうセリフを聞いただけで道産子は夢中になる)

もう一つはちょっと若い時期、芝居にハマっていた頃の監督、金子洋文の証言

うまくもない女優だったけど、可愛い娘だったよ。美人じゃないけどね…

ふと思い出して、前から気になっていた「多喜二の妻」の記事を探してきた。
朝日新聞 昭和42年6月9日(金曜日) の夕刊 文化面のコラム記事である。
多喜二の妻
縮刷版のコピーをスキャナーで落としているので大変見にくい。
要旨を書き出しておく。
基本的には、この文章は手塚英孝著 「小林多喜二」の紹介と読後感である。と言っても、文章全体ではなく伊藤ふじ子を扱った部分に焦点を絞ったものである。
(眠)子は、この本を最近読んで多喜二が結婚していたのを初めて知ったと書き出している。
そして事の要点を以下のごとく書き出している。
* 多喜二は地下生活に入って間もなく、このふじ子と結婚して同棲した。
* ふじ子は銀座の図案社に勤め、そのわずかな給料で多喜二の地下生活を支えていた。
* だが間もなくふじ子が検挙され、、そのアジトが警察に襲われ、多喜二は辛くも逃げ延びた。
* ふじ子は2週間後に保釈されたが、勤め先はクビになった。その退職金を人づてに多喜二に送っている。
* 二人はその後一切近づかなかった。これは当時の状況ではやむを得ないことであった。
* 1ヶ月後に多喜二が虐殺された。同士や田口たきは連絡を受け、集まっているのに、ふじ子は通夜にも葬式にも見えていない。
ここからは(眠)子の感想になる。
* 自分の退職金まで送るというしおらしい女性だったけれど、党活動に参加していなかったから、多喜二の友人や崇拝者によって無視されてしまったのだろうか。
* 私はこの忘れられた多喜二の妻、伊藤ふじ子に最も関心を持つ。あわれではないか?

一言言っておくと、手塚も、通夜にも葬式にも参加していない。著者手塚は伊藤ふじ子を知るほとんど唯一の人だった。会場に闖入した半狂乱の女性が妻伊藤ふじ子であることを知るものは誰一人いなかった。
もちろん手塚は後で聞いて、それがふじ子であったと知ったはずだ。ふじ子が終生抱いていた多喜二の遺骨は、もしそれが本物であったとすれば、手塚以外に渡せる人物はいないはずだ。
しかし(眠)子が読んだ 「小林多喜二」の中で、そのことは触れられていなかったようだ。

「私はダニエル・ブレイク」を観てきた、という事実だけを書いておく。
ちょっと設定がウソっぽいのと、展開の必然性が書き込めていないような気がするのだ。
最後のシーンも、いかにもありきたりだ。
私はイギリス映画がちょっと苦手で、イギリス人のユーモア精神の塩っ辛さがどこか合わない。ふと20年位前に見たハービー・カイテルのブルックリンのタバコ屋の映画を思い出した。アングロ・サクソンの感性がピンとこないところが似ている。
ヘイリ・スキアーズという女優がキリッとして魅力的だ。見せ所もいくつかあって、なかなかうまい。娘役の子もいい感じだ。ドレッドヘアーだが、目鼻立ちは東洋風にも見える。
一番の主役は窓口の役人たちかもしれない。それにしては、描き方があまりにも類型的だ。個性をもう少し書き分けると、その上にいるものたちの影がもう少し見えてくるのだろうが。

ブルックリンのタバコ屋の映画というのが気になったが、「スモーク」という映画があって、そのあらすじを読んでもどうも心当たりがない。たしかちらっとマドンナが出てくるので、それを手がかりに探してみると、「スモーク」の続編みたいな映画で、「ブルー・イン・ザ・フェイス」というのがあったようだ。多分2本立てで、何かのついでに見たのだろうか、そちらについてはまるで覚えがない。

赤旗のラ・テ欄の片隅の記事。
意外な事実が記されていたので転載する。

永六輔
ファクトとしては
1.永六輔は60年の安保で毎日のようにデモに参加した。
2.安保後の挫折感の中で、反戦歌「上を向いて歩こう」が作られた。
3.しかし坂本九の“ふにゃふにゃ”歌唱は永六輔をがっかりさせた。
4.そのため、永六輔は葛藤の末に引退を宣言した。
初めて聞いた話ばかりだ。
生前は明らかにしにくかったのか?

私にとってはかなりの大ニュースだ。もう少し詳しく知りたいと探してみた。
WOOM-song.clubというサイトに
永六輔の生き方に学べ!『上を向いて歩こう』作詞秘話
という話が載っていた。著者は野口義修さんという方。
ここに経過がかなり詳しく説明されている。
読んでいただければよいのだが、かいつまんで紹介しておく。

1961年7月21日、第三回中村八大リサイタルにおいて「上を向いて歩こう」が発表されました。
このとき永六輔は28歳、中村八大が30歳、そして坂本九は19歳だった。
どうも坂本九というより中村八大の曲に対する不満が先にあったようだ。
自分の思いを込めた歌詞を、メロディーと歌い方で台無しになされた! こんな下手な歌と歌詞に対するメロディーの組み立ても許せない!  と烈火のごとく怒り心頭だったそうです。
なぜそこまで怒ったのかという背景が、60年安保闘争だ。
永さんは、実際に自分もデモに参加した1960年の安保闘争での敗北をテーマに歌詞を書きました。それが、「上を向いて歩こう」です。デモの帰り道、泣きながら夜空を見上げた思い出の歌詞だったのです。
…永さんは、安保デモに出るために、自分が台本を担当していた番組を降板しています。プロデューサーから、「君は、番組をとるかデモをとるか?」と詰問され……「デモをとります」と
これには後日談があって、

いろんな仲間や歌手から、あの歌はヒットするわ! と太鼓判を押されて、素直に「自分が分かっていなかった!」と認めたそうです。

とは言え、いい時代だったのだと思う。1960年代というのが、理由はどうであれ「上を向いて歩く時代」だった。大人はけじめと責任を自覚していた。

岡野さんの「最高の戦術は友情」というのが、心に引っかかるのは、憲法前文と9条の関係をどう捉えるかというのがずっと宿題になっているからである。

基本的には9条は前文を前提にして成り立っている条項だろうと思う。そして前文は過ぐる大戦への痛切な反省を前提にして成り立っているのだろうと思う。

過ぐる大戦は我が国にも深刻な傷跡を残した。とはいえ、それ以上の苦痛を近隣国に与えている。それは間違いなく侵略戦争であった。それは近隣国との友好を一方的に破壊し、その結果として無謀な大戦に突入し、みずからにも多くの犠牲を出した。

それは民主主義の破壊を伴って進行し、ものも言えなくなった国民は、盲いたまま戦争に協力した。

こういうことが二度とあってはならないのである。

だからこそ平和を誠実に希求し、その最大の保障となる「主権在民」の立憲国家を建設した。そして国際的には、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」のである。

そこに語られる「平和」は受け身のものではない。たんに守るものとしての「平和」ではなく、築き上げるべきものとしての平和である。「専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去」する実践の上の「平和」である。

だから、「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」するのであって、そのために「国際紛争を解決する手段として」は「武力による威嚇又は武力の行使」という手段を用いないと決めたのである。

いちばん大事なのはこの「精神」である。国家戦略オプションとしての「非武装」ではない。

現実には、自衛隊という実質的な軍隊が強力な装備を備えている。「交戦権の否認」はほとんど危機に瀕している。さらに日米安保条約というまごうことなき軍事同盟に、がんじがらめに絡め取られている。

しかし肝心なことは、「オプションとしての非武装」が揺らいでいることではない。平和国家としての精神が依然として国民の間に強固に存在し続けていることである。

そして我々が何よりもだいじにしなければならないことは、この平和国家としての精神である。

それが岡野さんの「最高の戦術は友情」というスタンスではないか。

赤旗のスポーツ面に、大住良之さん(サッカー・ジャーナリスト)という方の書いた岡野俊一郎さんへの追悼文が掲載された。
大変格調の高い文章で、印象深いので紹介しておく。
岡野さんは、第二次世界大戦後の日本のサッカーで最大の「知性」でした。
これが書き出し。これだけでも身を乗り出させる。
しばらく経歴紹介があった後、次のエピソードが語られる。
むかし、岡野さんが書いた2枚の色紙、
1枚には「考え、鍛え、そして燃えよう 」という言葉が書いてありました。
岡野さんのイメージそのものです。
もう1枚には「友情こそ最高の戦術 」という言葉が書いてありました。
当時あまりよく理解できませんでしたが、社会人になり、組織の中で働くようになってからです。
岡野さんは常にフェアプレーの大切さを口にしていました。そのベースは、試合相手をふくむ周囲の人々の「友情」にあったに違いありません。(文章は一部編集してあります)
たしかにこの2枚をもらったら、1枚めがわかりやすい分だけ2枚めがわかりにくくなるかもしれない。
2枚めはいわば戦略論だ。「友情」はそれ自体がスポーツの目的・目標であるだけでなく、個別の試合においても力となるものだということだ。勝負は時の運、しかし「良い試合」をメークするのには、「友情こそ最高の戦術」だということか。
しかし私はもう少し生臭く考えたい。試合というのを国際試合、さらに国際紛争というふうに広げて考えれば、ルールの尊重とフェアプレーの精神が必要だ。しかし時にはラフプレーが飛び出すこともある。
そういうときにはルールとかフェアプレー精神をいうだけでなく、その根っこにあるお互いの「友情」をだいじにしていくことが、何よりも重要なことだろうということだ。
いずれにしても、たいへん示唆に富む発言であることは間違いない。岡野さん、大変素晴らしいい遺言をありがとう。

本日の赤旗文芸欄は萩原朔太郎の評論である。

なんでこんな男を赤旗で取り上げなけりゃならないのか、不思議である。

基本的には金持ちの道楽息子で、生活能力がからっきしないから詩人にしかなれなくて、それがたまたまうまく行ってしまった、だけの話ではないか。

だから中身はなんにもない。表現の鮮やかさが人目を引くだけだ。優しさとか、逆に憤りとか、生身の人間が社会との関わりの中で持つ感情がすっぽり欠落している。

彼はまず何よりも評論家であり、それも中身に対する評論でなくそのファッションに関する評論家である。

評論をやっているうちに、そこそこに技法を学び、自分でも書いてみたら存外に評判をとってしまった。

というのが私の萩原朔太郎観であるが、やはりこのようなレッテル貼り、外在的批判は大方のひんしゅくを買うだろうから、すこし青空文庫で「月に吠える」を読むことにしよう。


かなしい遠景
かなしい薄暮になれば、
労働者にて東京市中が満員なり、
それらの憔悴した帽子のかげが、
市街(まち)中いちめんにひろがり、
…なやましい薄暮のかげで、
しなびきつた心臓がシャベルを光らしてゐる。

悲しい月夜

ぬすつと犬めが、
くさつた波止場の月に吠えてゐる。
たましひが耳をすますと、
陰気くさい声をして、
黄いろい娘たちが合唱してゐる、
合唱してゐる。
波止場のくらい石垣で。
…犬よ、
青白いふしあはせの犬よ。

田舎を恐る
わたしは田舎をおそれる、
…くらい家屋の中に住むまづしい人間のむれをおそれる。
…土壌のくさつたにほひが私の皮膚をくろずませる、
…田舎の空気は陰鬱で重くるしい、
田舎の手触りはざらざらして気もちがわるい、
わたしはときどき田舎を思ふと、
きめのあらい動物の皮膚のにほひに悩まされる。
わたしは田舎をおそれる、

かろうじてこれだけ拾い上げた。一言で言えば、「冬の時代」に咲いた東京モダンのあだ花だ。J-ポップのプロモーションビデオを見ている気分。情景は背景にすぎない。

酒精中毒者の死」、「蛙の死」は愚劣で不愉快な詩だ。
何かデジャブーを感じた。
これである。
番組の終盤、彼がグロテスクで・クソリアルな動画を見て激怒したのは、作品そのものというより、つかみかけたCGの将来イメージに真っ向から泥を投げつけられたからに違いない。

その動画は、たしかに画面は動いているが、思考法としては止まっているのである。そこに吹き込まれているのがいのちではなく「死」だからである。いのちとの交わりではなく、いのちのあまりにも無造作なモノ化だからである。

宮崎さんが欲しているのはいのちが紡ぎ出す物語であり、CG屋さんにも、かくあれと欲しているのである。

 

 

我が家のテレビのハードディスクは嫁さんの韓流ドラマで満杯だが、ときどき変な番組が録画されている。

金曜の夜、嫁さんが寝た後、それを消していくのが「儀礼」なのだが、今回は思わず見入ってしまった。

終わらない人 宮崎駿

という番組。

アルコールも効いてきて、ところどころ居眠りしては見るという有様だったが、後半に来て俄然眼が覚めた。

あらすじを語ることは到底できないので、「番組紹介」から引用することにする。

3年前、突然引退を宣言したアニメーション映画監督・宮崎駿さん。世捨て人のような隠居生活を送り、「もう終わった」と誰もが思っていました。でも実は終わっていなかったのです。手描きを貫いてきた宮崎さんが、75歳にしてCGで短編映画に初挑戦。それは長年夢見た幻の企画でした。新たなアニメーションとの格闘を繰り返すなかで、下した大きな人生の決断!「残された時間をどう生きるのか」。独占密着!知られざる700日

というのがあらすじだが、どうも私の感じたのは「老い」とか「残された人生」というのではない。

それはもっと激しいものだ。

CGという表現手段を相手に一種の「異種格闘技」をいどみ、その中でCGの「真の限界」を知り、さらにその根底にある「CGイズム」を峻拒しつつ、自ら歩んできた道の正しさを確認していく作業である。

そのうえで、宮崎さんは新しい長編づくりへの挑戦を宣言するのであるが、それはおそらく主要な問題ではないだろう。その決意に到達するまでの意識の高まりの過程こそがもっとも重要だ。

だからある意味ではこのドキュメンタリーそのものが、宮崎の作品でもあると思う。

1.CGは作品に命を吹き込めない

正確には、「これまでのCGでは」言ったほうが良いのだろう。多分、そのことは宮崎さん自身もそう感じていたから、手書きにこだわってきたのだろう。

ただ、CGはあくまでも技法であり、原理的にはCGだから命を吹き込めないことはない。あくまでも作者の側の問題であるはずだ。

宮崎さんは、この論理と実感の間隙を埋めたくてCGづくりに取りかかったのだろうと思う。「この宿題を解決して置かなければ死ねない」みたいな感じだろうか。

ドキュメンタリーの前半ではこの過程がかなり長々と描かれていく。結局、絵そのものへの介入はすべて失敗に終わる。

それはある意味ではこれまでの作家人生を通じての実感の再確認であったのかもしれない。

それがある日突然ブレイクスルーがやってくる。「そうだ、魚を描こう」

魚が泳ぎ回る世界がまずあって、そこに主人公が登場することで世界はまさに「水を得た魚」のようにいきいきと動き出す。これがひとつ。

もう一つは、その環境に対応する眼差しや体の動きが意味を持つようになる。自然になるというのは、演技でも仕草でもない。そうさせているものとの関係において自然なのだ。

CG(CGイズムというべきかもしれない)は自らの枠の中にすべてを押し込もうとする。自然さえもだ。

しかしその瞬間に生命というものは消えてしまうのではないか。

2.「生きとし生けるもの」としてのいのち

いのちを絵の形であろうと言葉の形であろうと、絡め取りたい、すくい上げたいというのは人間の欲望である。

私は紀貫之の言葉を想起する。「花に鳴く鶯、水にすむ蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌を詠まざりける」

古今和歌集の序文である。

この場合の「生きとし生けるもの」は作家としてのいのちである。それは主体であるとともに、花鳥風月に刺激を受ける受動態としてのワタシである。

そして花鳥風月を描くことによって、それらに生き生きとした能動性を与えるのもワタシだ。そこにはいのちの交流がある。

それと同じように、鶯や蛙も周囲の自然とのいのちの交流の中で輝いている。この二重の交流を画像の中に込めなければならない。

おそらく宮崎さんはCGという苦難の道に踏み込むことで、そのことを別な表現、「魚を描き込むことで主人公に命を吹き込む」というかたちで、難関を突破したのであろう。

3.CGイズムとの闘い

CGというのは表現技術の一つである。しかしほとんど無限の可能性を秘めた表現技術である。

あまりにも急速に革新されているために、技術の高度化がある程度自己目的化されるのもやむを得ない。技術にはそういうところがある。そういう時期なのだ。

だがCGの発展が集団の中で自己目的化されると、そこには独自の哲学が生まれてくる。「CGイズムとCGそのものは分けて考えなければならない」と言っても、実際にCGに携わっている人が共通してそういう言語体系をもってしまえば、一般社会との垣根はますます高くなっていく。

宮崎さんのCGへの取り組みは、CG屋さんの持つそういうイデオロギーとの闘いを抜きに実現し得ない。

CG屋さんは子供の頃宮崎さんのアニメを見て育ったはずだ。宮崎さんは尊敬の対象だ。にも関わらず彼らの言語体系は揺るがない。それとこれとは別なのだ。

これは一見動かしがたい矛盾のように見える。

しかし、宮崎さんはそこに風穴を開けたように一瞬思えた。

それが「いのちと交わり、いのちを紡ぎ出すこと」ということなのだろうと思う。

番組の終盤、彼がグロテスクで・クソリアルな動画を見て激怒したのは、作品そのものというより、つかみかけたCGの将来イメージに真っ向から泥を投げつけられたからに違いない。

その動画は、たしかに画面は動いているが、思考法としては止まっているのである。そこに吹き込まれているのがいのちではなく「死」だからである。いのちとの交わりではなく、いのちのあまりにも無造作なモノ化だからである。

CGはリアルになればなるほどシュール・リアリズムになる。もちろんそれ自体が悪いと言っているのではない。技法の追求は絶対必要だと思う。ただシュール・リアリズムは行き止まりであって、出発点にはならない。

そこからはいかなる物語も紡ぎ出せない。宮崎さんが欲しているのはいのちが紡ぎ出す物語であり、CG屋さんにも、かくあれと欲しているのである。

ところで、宮崎さんがふと鼻歌で歌った「民族独立行動隊の歌」が耳に残る。60年安保の世代なのであろう。

 


こちらのページには別の人が書いた番組紹介がある。

こちらを見たら宮崎さんはもっと憤激するかもしれない。

クールジャパンの基幹コンテンツと期待されながら、国際的にはピクサー、ディズニーらのCGアニメに圧倒されている日本のアニメーション。宮﨑が世に放つ短編は、日本アニメの未来を変える一手となるのか。

こちらはCGオタクではなく、脳ミソがソロバンになっているエコノミック・アニマルだ。

田口道昭さんが石川啄木の「地図の上朝鮮国にくろぐろと~」の歌をめぐってという文章を書いている。

関心は、どうして歌人の中で啄木のみがこのような思索に達し得たのかということだ。

この歌は明治43年(1910年)に「創作」という一連の作歌に収録され、「9月の夜の不平」という一連の中の一首とされている。

朝鮮併合が行われたのはその1ヶ月前のことだ。

日露戦争に「君死にたもうことなかれ」を書いた与謝野晶子は、朝鮮併合を次のようにたたえている。

韓国に 綱かけて引く神わざを 今の現に見るが尊さ

幸徳秋水の「帝国主義」やその非戦論も、帝国主義戦争への批判にとどまり、植民地獲得競争への視点、朝鮮固有の問題への認識へと発展していなかった。

それでは啄木は独力でこの境地を生み出したのか。

そこで田口さんは先行者としての木下尚江を押し出している。

朝鮮併合の6年前、明治37年6月に木下尚江は平民新聞に「敬愛なる朝鮮」という論文を発表している。記事そのものは無署名で、後の調査で木下の筆によるものであることが明らかになった。

政治家は曰く、「我らは朝鮮独立のために、かつて日清戦役を敢行し、また日露戦争を開始するに至れり」と。

かくて我らは「政治上より朝鮮救済を実行せん」と誇称しつつあり。

然れども、彼らがいうところの「政治的救済」なるものが、果たして朝鮮の独立を擁護する所以なるか否かは、吾人は容易に了解すること能わず。

まことにこれを朝鮮国民の立場より観察せよ。

これ、一に、日本・支那・ロシア諸国の権力的野心が、朝鮮半島という「空虚」を衝ける競争に過ぎざるにあらずや

明治37年6月(1904年)という日付けに注目していただきたい。日露戦争が始まったのがこの年の2月、まさに戦争の真っ最中なのである。

前月、鴨緑江会戦でロシア軍を撃破、ついで第2軍が大連を攻略し、遼陽に向け進軍を開始しようとするさなかである。

まさに命がけの記事であったことは間違いないと思う。

ただこの記事は「黒々と」の歌の6年も前のものだ。当時啄木は18歳。東京で気鋭の歌人としてデビューしたばかりの頃である。この記事を読んでいたかどうかさえ定かではない。

ついで田口さんが挙げるのが、朝日新聞の連載「恐るべき朝鮮」である。

この記事は明治42年(1909年)に24回連続で掲載された。渋川という記者の現地紀行文である。

この記事は決して思想的なものではなかったが、挿話として日本の横暴の実態が散りばめられていたらしい。当時、朝日新聞で校正の仕事をしていた啄木は、このような朝鮮の状況をドイツをロシアに挟まれ、祖国を失ったポーランドへの同情と重ねていたのではないか、と田口さんは見ている。

そして最大の引き金となったのが、大逆事件である。以前の記事でも書いたが、啄木はこの事件に並々ならぬ関心を抱いていたし、場合によっては主体的に関わろうくらいの気持ちを持っていた。

彼の眼にはこれが一揆主義者の暴発と、それを奇貨とした政府の社会主義者弾圧のためのでっち上げであることは明らかだった。

そしてこの弾圧が目前に迫った朝鮮併合をつつがなく行うための予防措置であると啄木は予感した。


というのが田口さんのあらあらの主張である。

こういうことだろう。

啄木は朝日新聞の校正部に職を得て以降、急速に知識を広げ、社会的自覚を高め、一匹狼から組織的行動へと変身を遂げ、新聞記者ではないが人一倍ジャーナリストとしての身構えを身につけることになった。

感想になるが、

啄木像は、まず1909年3月、朝日新聞就職後の最後の3年を原像として把握すべきではないか。それでも24歳から26歳だ。この年にしちゃあ立派なもんだ。

それ以前の啄木は「プレ啄木」というか、成人啄木に至るまでの修行時代、ビルドゥングスロマンとしてみておくべきではないか。

「見よ、飛行機の高く飛べるを」は、その完成期における詩として、大人の詩としてみておくべきだろう。

2012年12月23日の記事 に現れた、天才少年歌人としてのやや酷薄な啄木像は、すでにそこにはない。

ふと見つけた講義録が大変面白かったので紹介する。

会計学の根底にあるもの」となっている

田中章義さんという東京経済大学の教授だった方が、2005年に行った最終講義のようだ。当時70歳、いまの私と同じだ。

講義は生い立ちから述べられている。札幌の山鼻の生まれ。結核で2年休学してからの北大入学だから、イールズ世代と安保世代の中間ということになる。

農村セツルメント「どんぐり会」で活動していたと言うが、私の入学する6年も前に卒業しているから面識はない。

ということで、話そのものが面白いのだが、今日取り上げるのはその中で石川啄木の「飛行機」という詩を引用されたところ。大変良い詩なので、そのまま重複引用させてもらう。ただし、多少の異同があるので、元の詩そのものを引用する。

講談社版『日本現代文学全集』39「石川啄木集」(昭和39年2月19日発行)

       飛  行 機     
         
 1911.6.27.TOKYO.

見よ、今日も、かの蒼空に
飛行機の高く飛べるを。

給仕づとめの少年が
たまに非番の日曜日、
肺病やみの母親とたつた二人の家にゐて、
ひとりせつせとリイダアの獨學をする眼の疲れ……

見よ、今日も、かの蒼空に
飛行機の高く飛べるを。

啄木25歳(死の前年)、明治44年(1911年)6月27日の作です。「はてしなき議論の後」などの詩と一連です(詩集『呼子と口笛』)。

岩城之徳の解説によると、

この詩には、少年が「飛行機」に仮託した夢と、少年の暗い現実が意味する作者の絶望感との両者が並行して提示されている。つまり一編の主題はどちらか一方のみをいうことにはなく、両者の関係をいうことにあったのだろう。すなわちこれは、脱出しようもない人生の暗さを自覚するがゆえに、いっそうそこからの跳躍を願い、また願わなければならないと思う作者の心情を表白した詩である。

引用しておいていうのもなんだが、「あんたの意見を聞きたいんじゃないんだよ」とおもう。こういうのを蛇足と言うんだろう。

それにしてもひでぇ文章だ。「つまり」と「すなわち」を並べ立てるなど愚の骨頂だが、それでも「要するに、結局のところ」ともう一文入れたくなるくらい、まとまっていない。これで原稿料とるとは相当のいい度胸だ。


何も説明の要らない詩だが、強調するとすれば、「はるけき夢と希望」(明治44年における飛行機と、今日の我々にとっての飛行機とはまったく意味合いが違う。なにせ蝋燭の炎の下で果てしない議論を繰り返していた時代だ)と、少年を見つめる作者の眼差しの優しさだ。

それが「されど誰ひとりとしてヴ・ナロードを…」の「はてしなき議論の後」と引き立て合っているかもしれない。なにせ大逆事件の直後だ。そして自らにも死が忍び寄っている。

そういう閉塞感の中の抜けるような蒼空の一瞬だ。悲しいわけではないが、何故か目頭が潤んでくるような光景ではないか。

本日の文化面の「潮流」というコラム。
見出しは「ノーマ・フィールドの指摘」というもの。
ノーマ・フィールドは小林多喜二の紹介者として有名な日本文学研究者。
私も一度講演を聞いたことがある。
記事は、ノーマ・フィールドが中心となって「プロレタリア文学研究」が発行されたことに関するものだ。
それについての説明は省くが、記者が紹介したノーマ・フィールドのリアルタイムの問題意識が面白い。
白人貧困層から後ずさりする白人リベラル
彼女はトランプ現象を前に、「白人リベラルが白人貧困層にかける言葉を持たない 」という問題が浮上したと考えた。記者はこの問題について、「ノーマ氏は鋭い目を向ける」と表現している。
それは「(白人リベラルが)白人貧困層を同じ人間として見なすことができなかったことではないのか
解答は実践にあり
その視点から、プロレタリア文学運動の魅力をあらためて見直してみると、そこには答えがあるという。
プロレタリア文学の何よりもの特徴が参加者の「実践」的姿勢にあったということだ。
ふつうは顧みられない、社会の底辺に暮らす人々をだいじに、立体的に、具体的に 」把握することが出発点である。
そして「軽視された人生に尊厳を吹き込む行為 」として結実させなければならない。
「かけるべき言葉」を失ったリベラル
その営みを通じて、「貧困層を同じ人間としてみなす」ことができるようになるのではないか。
翻ってみればリベラル層はその営みを軽視し、積み上げてこなかったのではないか。
我々の掲げるスローガンが草の根に届かないもどかしさは、日頃感じるところであるが、それは庶民語で話そうとしない我々の側の怠惰に起因しているのではないか。我々の言葉は意味を失って浮遊しているのではないか。
ノーマ・フィールドはそこまで掘り下げた上で、あえて「言葉を失ったリベラル」を叱咤し、「言葉を取り戻せ」と呼びかけているように思える。



突然映画づいてしまって、「エル・クラン」のあとは中井貴一の「グッドモーニングショー」、そして今週は宮沢りえの「湯をわかすほどの熱い愛」だ。
実は最初から「湯をわかすほどの熱い愛」がお目当てだったのだが、題材柄、なかなか男一人では入りにくい映画で、つい隣の映画館に入ってしまう、ということの繰り返しだった。
本日はついに意を決して家を出た。シアターキノという昔ながらの映画館で、ここに入るということはこの映画を見るという選択しかない。

結論は「正解」だったね。
とにかく泣ける。暗い悲しい映画ではなく、明るい前向きの映画なのだが、ひたすら泣けてしまう。特に後半に入ってからはほとんど泣きっぱなしの失禁状態だ。悲しいから、つらいから、くやしいから泣くんじゃない。気がついたらひとりでに涙が出てきてしまっているのだ。
これは絶対に一人で観に行く映画だ。誰かと行ったんじゃ、恥ずかしくてしようがない。女性はすっぴんで行かないとあとで困りますよ。
そして映画が終わったときの何たる清々しさか。
リアルな世界と紙一重のファンタジーだから、あまり生活臭が出すぎても困る、とスタッフは考えたのだろう。もっとリアルさを追求するなら別のキャスティングもあったろう。
そこで宮沢りえとオダギリジョーという二人を持ってきた。そのことでメソメソしない映画ができたのだろうと思う。
ネタバレになるかもしれないが、涙が噴水のように飛び出した場面が2つある。一つは若者を突然抱きしめる場面、もう一つは瞼の母の家を訪ねて、その家の窓に礫を投げつける場面だ。これは宮沢りえ以外の誰にも演じらない。最後に近く、ガンの苦痛に身悶えするシーンもまぶたに焼き付いて離れない。

本当にいい映画だった。もう一回行きたいくらいだ。ありがとう。

これも本日の赤旗、文化面

坪内稔典という俳人が「文学のある日々」というエッセーを連載している。いつもちょっとツボにはまらないもどかしさがあるのだが、今回の「子供と言葉」というエッセーには素晴らしい俳句が載せられている。

俳句と言っていいのか分からないが、俳人が自ら俳句だと言っているのだから、俳句で良いのだろう。

※ ※ 

私はときどき、小学生たちと俳句を作る。その際、自己紹介代わりに自作を音読してもらう。

三月の 甘納豆の うふふふふ

たんぽぽの ぽぽのあたりが 火事ですよ

春の風 ルンルンけんけん あんぽんたん

これら私の句をいっしょに音読すると、子どもたちの緊張感がたちまちほぐれ…

とまぁ、そんな文章なのだが、

一人でもぐもぐと口のなかで音読しても、たしかに うふふふふ だ。

三句とも語頭にアクセントがあって、「の」の字が多くて、「の」つながりの言葉の電車だ。

意味は基本的に否定されているが、春の野焼きのような浮き浮きした気分が満載だ。

“あんぽんたん” も甘納豆も、かすかに古めかしい。

とにかく、とってもチャーミングだ。

甘納豆の うふふふふ」はおそらく一生耳の奥に残るだろう。


電力村の横暴がこの国を貶めている 石炭火発 推進の背景

香港 雨傘運動の経過

ワレンバーグ スエーデン外交官 ハンガリー ユダヤ人救出 ソ連による逮捕と殺害

医療・介護 改悪 工程表

「風に吹かれて」ってそんなにいい詩なのかね?

うんと意訳しながら辿ってみると、

あいつはどのくらい苦労したらいいんだい

君があいつを「男だ」って言う前に、

大砲の弾は何発飛んだら禁止されるんだい

ねえ君、そんなことなんかわかりっこないよ

風の向くままさ

これが一番だ。

二番はもっと嘲りのニュアンスが強い

山があるだろう

それが全部雨で流されて消えるのに何年かかる?

人々が自由になるのに何年かかるだろう

それまで生きていられるかな

それまで見て見ぬふりをするために、

何回首を傾げるかな

ねえ君、そんなことなんかわかりっこないよ

風の向くままさ

三番はそれまでより少しまともである

話によると、最初は三番が二番で、二番は後から突っ込んだものらしい。

人は何度見上げたら空が見えるようになるのだろう

人はいくつの耳を持たなければならないのだろう

人々の悲鳴を聞けるようになるのに

一体何人が殺されたら、彼は

あまりにも多くの人が死んでしまったと悟るのか

ねえ君、そんなことなんかわかりっこないよ

風の向くままさ

ボブ・ディランは仲間と議論していて、急にこの歌詞を思いついたそうである。

結局彼の言いたいことは、「そんなことなんかわかりっこないよ」ということだ。彼が議論からそろそろと後ずさりしているさまが目に浮かぶ。

何かしら、嫌な苦味の残る歌詞である。

同じボブでも、ボブ・マーレーはいいぞ。

すみません。私は柴田トヨさんという人をぜんぜん知りません。なので「詩人柴田トヨ」と呼び捨てにするのはちょっと抵抗があります。

90歳を過ぎて詩作を始めた。

第一詩集は160万部のベストセラーになった。

詩壇は柴田のことを無視し続けた。

柴田を詩人ともてはやすマスコミに苦言を呈する“現代詩人”がいた。

といわれると、「ほお、そうか」というしかありません。

ちょっとグーグル検索してみました。

ウィキによると

1911年(明治44年)生まれ 2013年の死亡とあり、3年前に101才で亡くなった人だと分かります。

いろいろ辛い人生を送った後、92歳から詩作を始め、産経新聞の投稿詩人となった。テレビやラジオでたびたび取り上げられ、詩集『くじけないで』が160万部を記録した。

プロフィール

ということで、けっこうな人気だったようです。産経系だったので私の目には触れなかったのかもしれません。

それで実際の作品はどんなものだったのか。著作権侵害を恐れずに拾ってみる。

以下は柴田トヨさんさんの詩の頁から転載

くじけないで

ねえ 不幸だなんて
溜息をつかないで

陽射しやそよ風は
えこひいきしない

夢は
平等に見られるのよ

私 辛いことが
あったけれど
生きていてよかった

あなたもくじけずに

神様

お国のために と
死にいそいだ
若者たちがいた

いじめを苦にして
自殺していく
子供たちがいる

神様

生きる勇気を
どうして
あたえてあげなかったの

戦争の仕掛け人
いじめる人たちを
貴方の力で
跪かせて

化粧

倅が小学生の時
お前の母ちゃん
綺麗だなって
友達に言われたと
うれしそうに
言ったことがあった

それから丹念に
九十七の今も
おつくりをしている

誰かに ほめられたくて

先生に

私を
おばあちゃん と
呼ばないで

「今日は何曜日?」
「9+9は幾つ?」
そんな バカな質問も
しないでほしい

「柴田さん
西条八十の詩は
好きですか?
小泉内閣を
どう思います?」

こんな質問なら
うれしいわ

と、まぁ、技法的には小学生の作文である。

ただテクニックというのはその気になれば急速に向上するものであるから、本当は最初の詩から順に並べながら、その流れを評価しなければならないだろうが、そこまでの気持ちは起きない。

正直言えば陳腐である。「100歳でよくおできになりましたね」と言う言葉が咽喉まで出掛かる。

以前に柳原白蓮の歌を観賞したときの凛とした感動はそこにはない。むかし山形の小学生の綴り方を詠んだ時の泣けるような感動もない。

「ある現代詩人」の感想は、それはそれとしてうなづけるのである。ノーベル賞のアカデミーが「それをいっちゃあおしまいだよ」なのと同じように、「現代詩人たるもの、それは禁句だぞ」といわれると、「現代詩人ってそんなご大層なものかい」と絡みたくなる気がしないでもない。

どうも木島章さんの腹の底が見えず、なんとなし、いやな感じである。

どうも昨日の赤旗の記事が気になってしかたがない。

文化面の「詩壇」というコラムで、題名は「社会と乖離する危機」、著者は木島章さんという人で、肩書きは詩人。

短い記事だがいくつかの内容が含まれる。

最初がボブ・ディランのノーベル賞受賞の話。

ノーベル賞の主催団体がボブ・ディランに連絡をとろうとしたが、当初、ボブ・ディランが態度表明をしなかった問題。これはいまだに真相が分からないので評価のしようがない。

ついで、ノーベル賞のアカデミーがボブ・ディランを「無礼で傲慢だ」と発言したという話。これも真偽のほどはたしかでない。しかしそれが世界中に波紋を呼び、ノーベル賞団体こそ傲慢だと批判を浴びてしまった話。これも、「どうでもいいじゃん」という感じだ。

ただノーベル賞側が不愉快に感じても不思議ではないと思う。たしかにボブ・ディラン側の対応は失礼だ。同時にそれを表に出すのも大人気ないかなとは思う。そんなことを表に出せば、どうせ「傲慢だ」と切り返されるのは当たり前だ。

そこで木島さんの見解は次のようなものだ

ノーベル賞の権威にひれ伏さないディランをののしったアカデミーは傲慢である。(正確な引用は後出)

これは、やはり一方的な断罪といわざるを得ない。とにかく一連の経過を評価する上で、「なぜ」という事実が一つも明らかにされていないからだ。

この段階で木島さんの言うことに「そうだ、そうだ」と同感することは出来ない。ただ、木島さんがボブ・ディランをきわめて高く評価していることは実感できる。

ただボブ・ディランの話はここでの主題ではないのでこれ以上の議論はしないで置く。

次が、詩人柴田トヨをめぐる議論。

ボブ・ディランのときと同じように、いくつかの事実が並べられる。

90歳を過ぎて詩作を始めた。

第一詩集は160万部のベストセラーになった。

詩壇は柴田のことを無視し続けた。

柴田を詩人ともてはやすマスコミに苦言を呈する“現代詩人”がいた。

これらの事実から木島さんはつぎの結論を引き出す。

現代詩を高みに置き、彼女を見下すように排除する詩人たちに、ノーベル賞の権威にひれ伏さないディランをののしったアカデミーと同様、傲慢さしか感じられないのは私だけだろうか。

「私だけ」かどうかは別にしても、ボブ・ディランと柴田を同列に扱い、一方でノーベル賞のアカデミーと、現代詩のしがない「詩壇」とを同列に置く視点というか論理はかなり特殊なものと見てよいだろう。

そしてこの文章の最終的結論はこうなる。

柴田の人気の陰で、現代詩がますます社会と乖離していく危機感を抱かずにはいられない。

こうなると、あたかも現代詩が柴田を評価しないことと、現代詩が社会から乖離していることが、因果関係にあるかのように思えてしまう。そう読めてしまうのは私だけであろうか。


『武道論集』という文章があった。

2008年に国際武道大学附属武道・スポーツ科学研究所が発行したもので、ありがたいことにPDFファイルで読める。

目次を見ると、実に総括的な力作で、ただで読むのがもったいないくらいだ。

とりあえず、第二章の章末の剣道歴史年表から始めようか。すべてを転載するのも煩わしいので、項目を絞ることにする。そのかわりウィキなどから解説を拾い、読み物になるようにした。

《剣道歴史年表》

10 世紀後半 反りと鎬(しのぎ)をもつ日本刀が出現。刀の柄が長くなり、「片手持ち」から「両手持ち」へと変わる。

本来、諸刃のものが剣で片刃が刀であるが、日本では諸刃の使用は定着しなかったため、混同が見られる。

平安時代後期から武家の勢力が増大し、これに伴い太刀が発達する。通常これ以降の物を日本刀とする。(ウィキ)

平治 1 (1159) 源義経、鞍馬山で鬼一法眼に剣を学んだといわれる。

鬼一法眼は京・鞍馬の陰陽師で、京八流(鞍馬寺の八人の僧に教えた剣法)の祖とされる。剣術の担い手は武士ではなく僧であったといわれる。

弘和 4 (1384) 中条兵庫助長秀、将軍足利義満に召され剣道師範となる。(この記載については

応永15(1408) 念阿弥慈音、摩利支天のお告げにより念流を創立。信州波合に長福寺を建立。(この記載については

15世紀後半 剣術・槍術・柔術などの流派が誕生し始める。

文正 1 (1466) 伊勢の剣客、愛洲移香斎久忠(あいすいこうさい)、各地を流浪の末、日向で陰流を開く。(ウィキによれば移香斎は法名で本名は太郎)

代わった名前だが、これは伊勢の豪族(水軍)愛洲氏の流れをくむ。愛洲氏は遣明貿易にも携わっていた。移香斎も明を始め各地を旅していたという。

1467年 応仁の乱。戦国時代の始まり。弱肉強食と下克上が支配的思想となる。

それまで剣術は武術のひとつに過ぎなかった。
武芸十八般: 弓術・馬術・剣術・短刀術・居合術・槍術・薙刀術・棒術・杖術・柔術・捕縄術・三つ道具・手裏剣術・十手術・鎖鎌術・忍術・水泳術・砲術

大永 2 (1522) 香取神道流の流れをくむ塚原ト伝、新当流を開く。

享禄 2 (1529) 上泉伊勢守、愛洲移香より陰流を授かる。新影流を開く。

天文3年(1543) 鉄砲の伝来。急速に戦闘の主役となる。

鉄砲による先制攻撃と、軽装備の武者による白兵戦が普及。合戦の場における剣術の意味が重視されるようになる。

永禄 8 (1565) 柳生但馬守宗厳、上泉より一国一人印可を授かり、柳生新陰流を創始。

天正 4 (1576) 念流の流れをくむ伊藤一刀斎景久、小野派一刀流を創始。

文禄 3 (1594) 徳川家康、柳生石舟斎・宗矩父子に起請文を差し出す。徳川幕府は小野派一刀流と柳生新陰流を公式流派とする。

寛永 9 (1632) 柳生但馬守宗矩、「兵法家伝書」を著す。

正保 2 (1645) 二刀流の宮本武蔵、「五輪書」を著す。

天和 2 (1682) 伊庭是水軒、心形刀流を開く。

正徳年間(1710 年代) 直心影流の長沼四郎左衛門国郷、防具を工夫改良、面・小手を用いた稽古を始め、これが大いに流行。

宝暦年間(1750 年代)

一刀流の中西忠蔵、防具をさらに改良し、ほぼ現代剣道の防具の原型が完成。竹刀防具を用いた試合剣術を始める。これが「撃剣」と呼ばれるものである。

寛政 4 (1792) 幕府は武芸奨励の令を発布。

文政 5 (1822) 北辰一刀流、千葉周作が神田お玉ヶ池に「玄武館」を開設。他に神道無念流(斎藤弥九郎)の「練兵館」、鏡新明智流(桃井春蔵)の「士学館」が、江戸の三大道場と呼ばれる。

他にも鏡新明智流、神道無念流、心形刀流、天然理心流など、各地で新興の試合稽古重視の流派が隆盛。幕末期の剣術流派の総数は、200以上あった

1848年 黒船来航後、尊王攘夷論や倒幕運動が盛んになる。各地で斬り合いや暗殺が発生し、剣術が最大の隆盛を迎える。

安政 3 (1856) 築地に幕臣とその子弟を対象とする講武所が創設。剣術師範として男谷精一郎(直心影流)が就任。

明治 4 (1871) 廃藩置県、散髪脱刀勝手の令発布。

明治 6 (1873) 江戸幕府の講武所剣術教授方だった榊原鍵吉、剣術を興行として、その木戸銭で収入を得させることを考案。

撃剣興行は浅草左衛門河岸(現浅草橋)で行われ、大成功した。その数は東京府内で37か所に上り、名古屋、久留米、大阪など全国各地に広まった。

明治 7 (1874) 警視庁設置。佐賀の乱。

明治 9 (1876) 廃刀令の公布。剣術は不要なものであるとされ衰退した。

明治 9 (1876) 神風連の乱(熊本)、秋月の乱(福岡)、萩の乱(山口)など不平士族の反乱が相次ぐ。

明治10(1877) 西南の役。警視庁抜刀隊の活躍でこれを鎮圧。剣術が再認識される。

明治12(1879) 警視庁大警視川路利良、「撃剣再興論」を発表。巡査の撃剣稽古が奨励されるようになる。榊原鍵吉ら撃剣興行の剣客たちは警察に登用される。これに伴い撃剣興行は衰退。

明治13(1880) 京都府知事槇村正直、「撃剣無用」の諭達。剣術を稽古する者は国事犯とみなして監禁した。

明治16(1883) 文部省、体操伝習所に対して、「撃剣・柔術の教育上における利害適否」の調査を諮問。

明治17(1884) 体操伝習所は、撃剣・柔術の学校採用は時期尚早との答申を出す。

明治28(1895) 日清戦争による尚武の気風の高まりを受け、大日本武徳会が創立され、武術の復興と普及が図られる。

明治29(1896) 文部省、学校衛生顧問会に「剣術及び柔術の衛生上における利害適否」の調査を諮問。同会議は、15 歳以上の強壮者に対する課外運動としてのみ可と認める。小沢一郎・柴田克己など、第10 帝国議会に「撃剣を各学校の正課に加ふるの件」請願。その後、度々国会への請願は繰り返される。

明治35(1902) 大日本武徳会、「武術家優遇例」を定め、範士・教士の制を設ける。

明治38(1905) 大日本武徳会、武術教員養成所を開設。その後、武徳学校・武術専門学校・武道専門学校と改称。

明治39(1906) 大日本武徳会剣術形を制定。

明治44(1911)「中学校令施行規則」一部改正により、撃剣及び柔術が正課として体操科の中に加えられる。

大正 1 (1912) 大日本帝国剣道形が制定される。

大正 2 (1913) 京都帝国大学主催、第1 回全国高等専門学校剣道大会が開催される。このころより、大学主催の剣道大会が盛んに行なわれる。

大正 7 (1918) 武術家優遇例を武道家表彰例と改称。

大正13(1924) 第1 回明治神宮競技大会において、剣道大会も開催。

大正14(1925) 第50 議会において、武道が中学校の必修独立科目として可決される。この後撃剣は「剣道」と呼ばれることになる。

かなり不十分で、視点が絞りきれていない年表ですが、とりあえず載せます。いずれその気になったら増補したいと思います。

下の図は全日本戸山流居合道連盟のページから拝借したものである。見事に人の首が飛んでいる。

21shopkp01.jpg

こうしてみると、いまの剣道というのは、剣術の出がらしみたいなものではないかと思えてくる。

たまにテレビで全日本選手権の中継をやっているが、あれを見ているとどちらが勝ったのか素人目には分からない。

もし両者が真剣で立ち会っていれば、両方とも間違いなく死ぬであろう。決闘としては無意味だ。あれならチャンバラごっこのほうがはるかにリアルだ。

それはそれとして、この首切り写真、どう見ても野球のバッティングと同じである。

スポーツ紙によく載るホームランの瞬間とまったく同じで、左足に重心を残しつつ、手首を固めて、刀に載せるように、腰の回転でボールを切っている。

 「さらば故郷」から吉丸の話に移り、それが撃剣術の話になって、どうも話がとりとめなくなっているが、それが酒飲みばなしの面白さというもので、こうなれば行くところまで行こうという勢いになっている。

基本的には剣術・撃剣術・剣道は同じもので、時代によって呼び名が違っているというに過ぎない。

こう言うとその道の人には怒られそうだが、しかしそれらの人たちも実際はこれらを一くるみで語っているから、まんざら間違いとはいえないだろう。


「撃剣術」という言葉はウィキには登場しない。ぽかぽか春庭「撃剣術」

というブログに、詳しい説明があるので紹介する。

「刀で切る技」である剣術に対して、刀剣・木刀・竹刀(しない)で相手をうち、自分を守る武術を撃剣(げきけん)といいます。武術の十四事においては、剣術と撃剣は別々の武術として並べられています。

そしてブログ主は

江戸時代の剣道道場などでも、ふたつはともに刀剣木刀の術として扱われ、剣術家と撃剣家がまったく別種の人とは認識されていなかった

と想像しています。

明治になって、武士の身分がなくなると、各地の道場で稽古を続けてきた武芸者にとって、剣の技は無用のものとなってしまいました。

ということで、榊原鍵吉の撃剣興行の話につながっていく。


剣術と言い剣道と言い、つまりは文化的位置づけの違いである。時代の流れである。

それでは、その流れの中で撃剣術はどう位置づけられるであろうか。

一夜漬けの勉強の結果辿り着いた結論は、撃剣術は元の意を無視して狭義に言えば、見世物としての剣術であり、ご一新と廃刀令で侍が落ち目になっていく時代に始まり、権力に剣術が見直され、やがて教練の対象となり、剣道と名付けられるまでの短期間に用いられた名称であろうということだ。

つまり武士(戦士)の生活の思想的基本としての剣術=人を殺すための技術が無用なものとなり、それが、富国強兵モードの中で、「剣道=哲学を持つ体育」の一つとして復興していくまでの過渡期に、剣術に対して与えられた文化的枠組みと考えられるべきだということだ。

それはまさに明治維新と、軍国主義の興隆という2つの時代の間に生まれた概念だ。そこでは天地が2回ひっくり返っている。

一度目の転倒は言うまでもなく戊辰戦争と、廃刀令、廃藩置県、身分制度の廃止だ。ここで剣術は徹底して否定された。

これに対して二度目の転倒ははっきりしない。幾つかのエポックがある。

一つは西南戦争と抜刀隊の活躍だ。これにより刀剣による闘いの部分的な有用性が再認識された。警視庁が剣術を重視し在野の剣士を召し抱え、剣術の保護・育成に力を注いだ。

もう一つは日清・日露の戦争で勝利したことで、軍国主義が一世を風靡し、その中で「武士道」精神が称揚されるようになった。この中で剣の道が美化され、「大和魂」の中核となった。

これに対し、剣術の中から「美学」を中核として取り出したのが撃剣術となっていくのではないか。それが凝縮したのが「型」であろう。居合術もその一つであろう。戸山流居合術というのは陸軍の戸山学校で教えた「軍刀の使い方」教室みたいなところから発展したらしい。

「型」とはいえ、「こうやれば人を殺せる」という方法を示している点では、むしろ剣道よりも実戦的だ。


ただそれは柔術が講道館柔道となったのとは若干様相を異にし、在野の辺縁的存在にとどまり、剣道はあくまでも警察剣術を中心に発展していく。

こういう流れの中で、撃剣術を考えていくのが妥当ではなかろうかと思う。

陰流と中条流の関係がどうも怪しい。剣術の世界は相互批判の気風があまりないようだ。

むかし、「わさび漬」というのが静岡の名物で、同じような商品を売っているのだが、かたや本家、片や元祖という具合でなんともいい加減なものだった。剣術の世界でも似たようなものなのか。

探していたら下記の文献に巡り合った。

山嵜正美「平法中條流の傅系について」と言うもので、武道学研究という雑誌に掲載されたもの。発表は2006年となっている。武道の長い歴史から見れば最新と言ってもいいかもしれない。

書き出しは

平法中條流の傅系について誤認論述がまり通っている。より厳しい研究が望まれている

と言うものである。具体的には「本朝武芸正傳」という書物の批判のようである。

伝書の記載は数のごとくである。

中条家系

しかし中条長秀は足利幕府の評定衆であり、いくつかの文書に名が残されている。

初見は貞和2年(1346年)足利尊氏の歌会の参加者として名を残す。ただしこのときは藤原長秀を名乗っている。

長秀はたしかに1384年になくなっているが、法名は長興寺殿秋峯元威である。ある著書に「法名は実田源秀」となっているが、これは長秀の裔孫、中条左馬助信之である。

実田源秀こと中条左馬助は、応永33年(1426)に弟子に単傅を授けたことが確認されている。

伝書の人名が混乱したのは、口伝による簡略化のためであろう。

平法中條流に念流の刀術が取り入れられたのは、左馬助の父である中條判官満平であろう。

念流慈恩の京都における弟子の中に中條判官の名が記載されているが、当時都に居住した中条一族のうち判官職にあったのは満平のみである。

ということで、中条長秀はずっと前の人で、当然武家社会の幹部であるからそれなりの兵法は身につけていたであろうが、どちらかと言えば文官として名を残した人物と考えられる。その子孫に当たる中条判官満平が、京都に出向いた慈恩に念流を学び、それを家伝の中条流に取り入れた、ということになる。

この論文は、さらに、冨田と中条流の関係にも触れ、冨田は中条流を引き継いだものの、冨田流を起こしたわけではないということも明らかにしているが、詳細は略す。

最後の結論は大変厳しい。

冨田流は存在しない。後世の御伝となる元凶は「本朝武芸正傳」の富田流との誤認記述である。

ということで、年表についての疑問が氷解した。

慈恩と念流

剣道年表に疑問があり調べてみた。疑問を生じた項目は以下の通り。

弘和 4 (1384) 中条兵庫助長秀、将軍足利義満に召され剣道師範となる。

応永15(1408) 念阿弥慈音、摩利支天のお告げにより念流を創立。信州波合に長福寺を建立。

第一の疑問は念流の流れを引くと言われる中条兵庫助が足利義満の剣道師範になったのが、念流創始より20年も前になっていること。「剣道師範」という表現も怪しい。

第二の疑問は、信州の長福寺となっているが、鎌倉だとする別記事があること。

どうでもいいことだが、行きがかり上こだわってしまった。そこでウィキで慈恩と中条を調べることにする。

まずは念阿弥慈恩について

慈恩は1350年の生まれ。南北朝時代の人である。これで行くと念流を創始したのは58歳のことになる。ありえないわけではないが、不自然な感はある。

奥州相馬の生まれ。俗名は相馬四郎。新田義貞に仕えていた父が殺された。総門に入った慈恩は敵討ちを目指して剣の修業を積んだと言う。とんだ坊主だ。

各地を武者修行した後、念流を編み出した。これには多くの異名があるが省略。

慈恩はいったん還俗して相馬に戻り、奥州で父の仇を取った。それからふたたび出家して念阿弥慈恩を名乗った。

諸国をめぐり剣法を指南した後、1408年に信州波合村に長福寺を建立、念大和尚と称した。没年は不明である。

ということで、鎌倉や京都で弟子を取って念流を伝授したらしい。1408年は慈恩の隠退した年で、信州は隠居地なのである。波合村というのは相当の僻地で、隠遁のような生活だったのではないか。そこでの最後の弟子が樋口某と称する地元の豪族で、樋口は後上州に移り馬庭念流と称したようである。

慈恩の門人たち

慈恩には板東8名、京6名、計14名の優れた門弟があったとし、「十四哲」と称される。

その中に念首座流、中条流、富田流、陰流などの開祖がふくまれる。

ついで中条兵庫助長秀について

この人は慈恩とは逆に生年不明で没年、1384年のみ明らかである。

ウィキによれば、たしかに

念流開祖の念阿弥慈恩の門に入り、慈恩の高弟である「念流十四哲」の一人となる。

となっている。

中条が死んだ年、慈恩はまだ34歳だから、本当に中条を教えたのだろうかと疑問が湧く。ひょっとすると年上の弟子だった可能性もある。

三川の挙母(現トヨタ市)の城主であり、かなりのインテリである。

どちらかと言えば太刀筋がどうのこうのというより、剣術に哲学を導入したことが功績なのかもしれない。

彼の武術の体系は兵法ではなく「平法」と称される。

平らかに一生事なきを以って第一とする也。戦を好むは道にあらず。止事(やむこと)を得ず時の太刀の手たるべき也。

ということで、平たく言えば護身術なのだが、これを「夢想剣」と名付けるセンスは只者ではない。

「足利義満の剣術指南役を務めた剣豪」ということになっているが、彼は同時に室町幕府の評定衆でもあり、また歌人としても名を馳せたということだ。

何か大河ドラマの主人公にでもなりそうな人だ。

ウィキ以外のファイル

しかし以上のウィキの記載では、二人の接点が生まれてこないし、陰流と中条流の関係も見えてこない。

こだわりついでに、もう少し他の文献も当たってみる。

葛飾杖道会のページには、下記の記載がある。

中条兵庫助長秀は代々剣術の家に生れ、鎌倉の評定衆であり、足利義満に召されてその師範となった。鎌倉寿福寺の僧慈音という者について剣道を修めた

というかなり異なる記載がある。「鎌倉の評定衆」は明らかに間違いで、鎌倉幕府はとうに崩壊している。それにしても困ったものだ。

マイペディアの記載はひどい

応仁のころ中条兵庫之助長秀が鎌倉地福寺の僧慈恩に刀槍の術を学び,中条流を創始した。

100年ずれている。

答えは次の記事中条長秀は慈恩と無関係で。

「故郷を離るる歌」について という記事に崎山言世さんという方からコメントが有りました。

読み返してみると、あまり真面目な文章ではなかったようで反省しています。

一応、撃剣術問題と、軍国主義者問題について意見を申し述べます。

1.撃剣術問題

崎山さんもご覧になったかと思いますが、撃剣術の引用は琴月と冷光の時代というサイトからのものです。

ここにはネット文献としては型破りなほどに詳しく吉丸の経歴が書かれており、ほとんどごちそうさまの世界です。

そこに次のように書かれています。

一昌は文武両道をめざした。学業は大学予科の文科志望、部活動は撃剣部に入った。撃剣は剣道に近いものだが当時は撃剣と言った。10月10日の紀念会で竹刀で試合をしたことが記録されている。撃剣部の部長は、教授の秋月悌次郎(1824―1900)だった。秋月は元会津藩士でこのとき既に70歳、翌年秋に退職するまで倫理・国語・漢文を教えていた。

なお撃剣術というのは、剣道とは違いはるかに実戦的な武術ですが、明治に入ってからは廃れる一方だったようです。

吉丸の名誉のために言い添えておくなら、下記のごとくヒューマンな面も持ち合わせていたようです。

一昌は東京帝国大学を卒業した直後の明治34年秋、修養塾という私塾を開き、苦学生とともに質素な生活をしていたとされる。ほぼ同じころ法学士だった土屋禎二と川添信敬が小学校の校舎を借りて私立の下谷中等夜学校を開設し、一昌は校長となり、経営にあたった。修養塾は夜学に学ぶ苦学生の寄宿舎となった。

2.軍国主義者問題

軍国主義者問題は、不正確だったかもしれません。我が静岡高校の校歌は現在一番しか歌われておりません。それは二番、三番があまりに軍国主義的であるとのことで、戦後に校歌から排除されたのです。

そのことのみをもって吉丸が軍国主義者であったとは断言できませんが、少なくともそのような精神を内包していたことも間違いのないところでしょう。五十歩百歩ですが、より正確には「皇国主義者」と呼ぶべきかもしれません。

他にもたくさん例示できますが、省略します。

3.小学唱歌の位置づけ

ついでに彼の作成した小学唱歌の歴史的運命について、この文章にはこう書き記されています。

一昌が成しえた最も大きな仕事はまちがいなく『尋常小学唱歌』である。…『尋常小学唱歌』は約20年間の長きにわたって教育現場で使用された。昭和7年に『新訂尋常小学唱歌』が編纂されるが、118曲のうち87.3%にあたる103曲、つまりほとんどそのまま引き継がれた。さらに主要な歌は戦時下においても音楽教科書に掲載された。

ただし、いわゆる童謡運動が起き、学校唱歌への批判が高まったあたりから、吉丸は東京音楽学校内でも忘れられるような存在になっていったようである。

…時代を下るにしたがって見過ごされるようになったのは、一昌が厳しい生徒監として一部に反感を買ったことや、「楽壇時評」の厳しい評論活動が敵をつくったことが影響したからであろう。

つまらない話で申し訳ありません。

一人で歩いて行った往診の帰り道、

「園のさゆうり、なぁでしこお垣根のちーぐーさー」と口をついて出た。

これは認知症による独語ではなく、小さい時からの癖である。内側膝状体・海馬性の発語であろう。

外国の歌に日本語の歌詞をつけるとき、昔はかなり強引にやった。

小百合を“さゆうり”と発音する違和感はかなりのものだ。せめて“さあゆり”とはならなかったものだろうかと考えた。

しかしそうやると、“あ”がなんとも気が抜ける。

そもそも小百合でなくて4文字の花はなかったのか。第一、「園の小百合」なんて、宝塚の芸名みたいで、あまりにも月並みだ。

それにしても、この歌のいいのは最後の「さらば故郷、さらば故郷、故郷さらば」だよな、これは絶対コーラスだろう。

ということで、部屋に戻って早速グーグルしてみた。


まず元歌。

これはドイツ民謡で『最後の夜』(Der letzte Abend)というのだそうだ。

世界の民謡・童謡 というサイトで、全曲歌詞をふくめて詳しく紹介されている。

ドイツ中部フランケン地方の民謡といわれる。作詞・作曲者や作曲された年代などは一切不明で、現在のドイツ国内ではほとんど知られていない。

歌詞を見ると、家庭の事情で好きな女性と結婚できず、彼女と別れた最後の夜を嘆き悲しむ悲恋の歌となっている。特に最後の4番・5番のくだりは死を暗示させる。

というから、「冬の旅」の冒頭の歌「おやすみ」を思わせる。

そこで紹介者は

「民謡」というよりは「歌曲」に近い完成度の楽曲であり、おそらくはシューベルト歌曲のように、しっかりとした作り手による作品だったのだろう。

と想像している。(ウ~ム、そこまで言うか…)

「やはりそうか」と思ったのは、「さらば故郷、さらば故郷、故郷さらば」のところだけコーラスで歌うようになっていることだ。

[Chor]
Nun ade, ade, ade, nun ade, ade, ade,
Feinsliebchen lebe wohl !

となっている。

ドイツ語はリエゾンしないから、“ヌンアデアデー、ヌンアデアデー、ファインリーヘン、レーベーヴォール”となる。いかにもだ。ヌンは今で、アデはフランス語のアデューだろう。


唱歌としての「故郷を離るる歌」は1913年7月に出版された「新作唱歌 第五集」に掲載された。大正2年というから、親父が生まれる前の年だ。

吉丸一昌という作詞家による「訳詞」ということになっているが、ほとんど作詞だ。

言葉は陳腐なところがあるが、構成はしっかりしている。

最初は縁側に座って間近な庭から垣根へと視線を上げていく。そして

今日は汝(なれ)をながむる 最終(おわり)の日なり

と叙情へ持っていく。

2番は家を出て峠へと向かう道すがらだ。1番に比べると言葉はお座なりだが、

別るる我を 憐れと見よ さらば故郷

はちょっと“刺さる”文句だ。それは“こころざしを果たさん”ための旅立ちではない。“哀れな旅立ち”なのだ。「そこに女がいる」と、「そして何かがあった。それは終わった」と、微かに思わせる。

とすれば叙景がお座なりなのは、意識的にそうしたものかもしれない。

三番の歌詞はついに峠まで来て、振り返り、最後の別れを告げる情景だ。とても良い。ありきたりの叙景ではなく、未練を噛みしめる切ない叙情だ。

此処(ここ)に立ちて さらばと 別れを告げん
山の蔭の故郷 静かに眠れ
夕日は落ちて たそがれたり さらば故郷

ところが、この三番、どうやっても思いだせない。歌った記憶がないのだ。

はたしてこの歌(唱歌)に3番はあったのだろうか。


Youtubeでいくつかの演奏が聞ける。当然合唱がいい。NHK児童合唱団のものが出色だと思う。

ソプラノ独唱がいくつかあるが、うまいとか下手という以前の理解だ。

この歌は斎太郎節と同じでコールアンドリスポンスだ。“さらば故郷…”が聞かせどころで、前の文句はそれとの掛け合いみたいなものだ。“エンヤトット”のリズムを崩してはならない。アクセントをはっきりさせなければならない。

弱起なのだから、“その”に心持ちテヌートをかけて、次の“の”を強調しなければならない。さらば故郷のところは、“ば”にアクセントを置いて、最後のフレーズだけ“ふる”を強くすることになる。

いっそ16拍にしてしまう手もあるが、さすがにせわしい。


崎山輝一郎さんという方の琴月と冷光の時代 というページに、吉丸と唱歌の関係について詳しい経過が載せられている。

まず吉丸の経歴がきわめて要領よくまとめられているので紹介する。

吉丸一昌は大分県北海部郡海添村(現在の臼杵市海添)の出身である。明治6年9月15日に旧臼杵藩士の家に生まれた。

苦学の末に明治34年7月に東京帝大を卒業した。体育会系の人物で成績はすこぶる芳しくなかったようである。この時既に28歳で妻帯していた。

卒業後は東京府立第三中学校(現在の両国高校)に赴任し、同校で6年間、国語と漢文の教諭をつとめた。

そのかたわら、私立の下谷中等夜学校を開設し、苦学生と生活をともにした。

明治40年3月21日の小学校令改正で唱歌が必須科目となった。東京音楽学校は、国定に準じる唱歌教科書をつくる任務を与えられた。

吉丸は東京音楽学校(現在の東京藝術大学)の教授に抜擢され、尋常小学唱歌や新作唱歌の編纂を委ねられた。明治41年、34歳のことである。

以下、就任前後の経過が続くが、ここでは省略する。(ただし面白いので、ぜひ本文をご参照ください。ウィキペディアもご参照ください)

なお吉丸は我が母校静岡高校の校歌の作詞者でもある。撃剣術の達人らしく、ゴリゴリの軍国主義である。




↑このページのトップヘ