鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

AALA関連記事は「aala_newsの編集日記」http://blog.livedoor.jp/aala_news/ に移りました(6Nov.2023) 中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 「ラテンアメリカの政治」(http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ )がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

カテゴリ: 70 文学・芸術・スポーツ

The "Appeal to womanhood throughout the world"
 (later known as "Mothers' Day Proclamation") 


世界中の女性へのアピール 1870

by Julia Ward Howe 1870

(“母の日宣言”として知られる。Anna Jarvisがその考えを広げ、白いカーネーションを捧げる「母の日」として世界中に普及した)

英語版Wikiより

これは、世界の平和のために女性が団結することを訴えたものです。
この「女性へのアピール」は、1870年にジュリア・ウォード・ハウにより執筆されました。
それは当時のアメリカ南北戦争と普仏戦争での相次ぐ大量殺戮に対する、一人の平和主義者の反応でした。

hau

この訴えは同時に、「女性には政治水準まで及んで社会を形造る責務がある」というハウのフェミニストとしての確信と結びついたものです。

以下本文

起て、この日、女性たちよ!
起て、志あるすべての女性たちよ!
水であろうと、
涙によるものであろうと、
洗礼を受けた女性たちよ

きっぱりと言いなさい:
関係のない役人たちが何を決めようとも、わたしたちには知ったことではありません。

私たちの夫は、殺戮の臭いを放ちながら、愛撫と喝采をもとめて、私たちのもとに帰ってくることはありません。

私たちの息子には、たくさんのことを教えてきた。親切、寛容、我慢。
それらすべてを忘れて去っていくことはありません。

私たち、この国の女性は、他国の女性にとても優しく、
私たちの息子が他国の息子たちを傷つけることは許せず、
私たちの息子がそのような訓練を受けることも許せません。

荒廃した大地の奥深くから、ひとつの叫び声が上がってくる。その叫びは私たち自身の叫びです。
それはこう言っている: 武装解除、武装解除!

剣は人を殺すため、それは正義の天秤ではありません。
血は不名誉を拭い去るものではなく、暴力は奪うことを認めるものではありません。
男たちは戦争が呼びかけられると、鍬や金床を投げ捨ててしまいます。
ならば、女性たちもすべてを捨てよう。いっそ家も投げ捨ててしまいましょう。
盛大で厳粛な「評議会」を開くために。
(for a great and earnest day of council “評議会”は教会の信者会議からの連想と思われる。参政権のなかった女性の発言の場を想定したものであろう)

まずは、女性として集まりましょう。そして死者を悼み、祈念しましょう。
その後、互いに厳粛に協議を行います。
何の協議か。それは偉大なる人類家族がこの地上で平和に暮らすための方法についてです。 
参加者のそれぞれは、神の神聖なみ印を、カエサルではなく、自分の出自に倣って顕わしましょう。

女性と人道の名において、私は次のことを切に求めます。

まず、国籍にとらわれない「女性総会」を開きましょう。最も便利と思われる場所を選び、指名します。総会の目的に沿って、できるだけ早い時期に開催されることを切に願います。 
その目的とは、多国籍間の同盟の推進、国際問題の友好的解決、平和の持つ壮大かつ総合的な可能性を実現するためです。

~ Julia Ward Howe

どことなし、アリストファネスの「女の平和」を連想してしまいます。アメリカというのはアメリカ帝国主義の故郷でもあるけど、こういう草の根民主主義の故郷でもあるんですね。以前、日本の戦後史を勉強していて、突然 ララ物資とかバイニング夫人だとか、信じられない人たちに出くわすことがありました。親切で信念があって、肝っ玉が太くて、言い出したらテコでも動かない人たち、そういう人の一人に今日も出会うことが出来ました。
もう母の日を1週間も過ぎてしまったけど、載せておきます。(訳文は怪しいのですがご容赦ください)



まったく縁のなかった方だが、先日亡くなられたと赤旗で知った。
享年80歳、長きにわたり歌人だった。最後は間質性肺炎とのこと、身に染みる病名である。
旭川でずっと英語の先生をしていたとのことである。いろいろネットであたって、歌を集めてみた。ネットアンソロジーである。

1.あさひかわ新聞より
 
〈バイアグラをくれると言いしPTA会長も逝き野を遠ざかる〉

〈給料泥棒みたいな教師が何人かいたなと思うあの職場には〉
〈乱暴な電話を寄越す歌人あり歌はこの人を養わぬらし〉
〈半分も席の埋まらぬ葬儀終え同期のNはこの世を去りぬ〉

2.東郷雄二のウェブサイト「橄欖追放

 さびしいこと誰もいわないこの村にこの日素枯れてゆく花があり
 森うごく予兆すらなく冬空へ少女が弾けるショパン〈革命〉

 ライラック揺れる坂道朝ごとに病むたましいの六月来る
 わが裡にはためく旗よいつの日か憎しみ充ちてちぎれ飛ぶまで
 総身は冷えて佇ちたる かすみつつ渚の涯につづくわが明日
 野葡萄の熟れてゆく昼 状況をまっしぐら指す矢印の朱(あけ)
 展(ひら)かるる明日(あした)あるべき日曜日 午後るいるいと花の凋落
 凛烈の朝の路上に卑屈なる笑みして あれも〈かつての闘士〉

歌集『コクトーの声』ではただ独り雨の降りしきる海と向かい合う。
 潮迅き海を見ている 街々をただ過ぎしのみうつむきながら
 わが日々のどこも流刑地 ゆうぐれて海だけ騒ぐ町を往きたり
 渚は雨 その薄き陽にてらされて壮年の道みゆるおりおり
 その海にかつてかかりし虹のこと喪の六月を過ぎて思える
 岸辺打つ波散ってゆく闇ながらわが言葉あれしずかに苦く
 わが死後の海辺の墓地に光降る秋を想えり少し疲れて

3.現代短歌文庫 西勝洋一歌集

著者等紹介

西勝洋一[ニシカツヨウイチ]
1942年、北海道函館市に生まれる。北海道学芸(現・教育)大学卒。1964年、「かぎろひ」に入会。1968年、「北海道青年歌人会」(後に「現代短歌・北の会」に発展)に参加。翌69年、木村隆、石山宗晏らと「現代短歌集団・野馬の会」を結成し、同人誌「野馬」の編集を担当した。現在「短歌人」、「かぎろひ」編集委員

4.トナカイ語研究日誌 歌人山田航のブログです。
現代歌人ファイルその126・西勝洋一

第1歌集「未完の葡萄」は1970年の発行。前衛短歌の影響が色濃い、硬質で色気のある陰影に満ちた青春歌集である。

自らをつねに〈未完〉とおもうべし澄みし水辺のわがナルキソス

屋上に木馬のめぐる季節きてかかる日も恋う少女のひとり

一言を言いそびれつつ過ぎゆけばわが肩に重く降りくる 昨日

樹もわれも揺れて九月の杜のなかしょうしょうとして婚姻以前

つつじ咲く垣根すぎつつふいに湧くさびしさや 友に娶りちかづく

廃園に少女ともない夏逝くと見ている誰も知らない街を

あの丘を昨日は越えつわが日々を描き消してゆくスケッチ・ブック

じ北海道の歌人だが126番目に取り上げられ、選歌もぱっとしない。山田航にとっては苦手な歌人ではなかったか。70年活動家の私にも、旭川ラーメン風味でちょっと重い。晩年になって軽みが出てからのほうが共感できるようだ。

5.こぎいでな

歌集『無縁坂春愁』

われらいつしか壮年の坂 陽あたりて咲く紅梅の下に逢いたり
くぐもれる我らの時を分けながら今日新宿に酔いて訣れし
君が見ているただそれだけで跳び越えし春の小川のきらきらの日々…
早春賦あれはあの春君に逢い告げたる一語一語思える
燃ゆる火のさびしき音よ われら今この距離感のとほうもあらず

身を飾り言葉飾りて貧しさのいよよあらわな友をかなしむ
蕗の根へひっそりと蟻下りゆく学校林のさびしき昼ぞ

夏草のおどろを行きて中国の泥に果てたるわが若き父
遺児として九段を登る 閣僚たちの黒い車のいらいらを抜き

6.アマゾンのカスタマーレビューより

カスタマーによると初期の短歌らしい

リラの花咲きにおう村 どの朝もまっさきにおまえのこと気にかかる(『未完の葡萄』)
  
自らをつねに<未完>とおもうべし澄みし水辺のわがナルキソス
  
オリオンの低き星座を見つつ往くもう不確かな愛などあるな

おそらく民青ではなく革マル系で活動して、旭川に教師として着任して、一方では彼女に夢中になって、他方では安保後の世間との落差に戸惑いつつ、「青春の彷徨」をやっていたんだろう。

結論的感想: 同世代として物理的・心理的に共鳴はするが、このようなあからさまなイドの表出は私の趣味ではない。




昨日の赤旗の写真だが、あまりに良いのでコピーをとってしまった。
写真の出処について何の説明もないから、赤旗の記者が現場で撮ったものだろうか。
ネットで北口さんの画像をずいぶん探したが、これほどのものはない。
第三コーナーの思い切り低い位置から、対角線上の被写体を千ミリの望遠で連写したようだ。
どうだろう、この斜めの一直線。しかもこの一直線は、まさにこの瞬間の体の中心線だ。
目線は数十メートル先の上空、おそらくそこでやりの放物線と交叉するのだろう。
陸上競技の写真撮るなら、お色気じゃなく、こういう美しい一枚を撮って欲しいものだ。

北口


ジャック=アンリ・ラルティーグ(Jacques-Henri Lartigueについて


ペロシ訪台の報道を調べているうちに、ある写真にハマってしまった。子供の頃の大掃除と同じで、つい畳の下に敷かれた古い新聞に見入ってしまう。
写真というのがこれ
Lartigue1
左クリックで拡大

この写真には題名がついている。「女優のアルレット、犬の名はシシとゴゴ」である。
記事の引用、「ブーローニュの森の大通りを愛犬とともに歩いてくるのを待っていた」
エレガントに歩く女優と愛犬、そして走り抜ける車を1枚に収めるのに成功した。

ラルティーグ(1894-1986)が1911年に撮影したもの、第一次大戦の直前、ベルエポックのパリを切り取ったものである。
ラルティーグの作品としてはこちらが有名です。

Lartigue2
原始的なカメラで、どうやって後輪タイヤの歪み、光景の見物人の斜めになりながらの後方へのブレを描き出せたか、いま以って不思議である。

先日2泊3日で東京をぶらり旅してきました。
「都心なのに閑静」という宣伝につられて、じゃらんで目白のホテルを予約。閑静なのはいいが、いっぱいやろうと思っても店がありません。駅からやや離れたとことに赤提灯を発見、老夫婦がやっているところで「酒場放浪記」に出たというのが自慢。とてもいい雰囲気の店でした。
朝は駅まで行ったら女子学生の花盛り。学習院を通り過ぎてさらに人並みが続きます。御茶ノ水の学生たちだそうです。良い目の保養になりました。
最初は、町田の版画美術館。この間のブログに写真を載せたあの版画です。小田急の快速に乗って小一時間は走ったのではないかしら。最初に駅を降りたときはごく普通の私鉄の駅かと思いました。駅の上にデパートが乗っかって、駅の周りにゴタゴタとひとかたまりの商店街と、飲み屋街…
まさにそのとおりではあったのですが、その規模には度肝を抜かれます。なにせ人口43万人、我がふるさと静岡に匹敵します。中野や高円寺とは違い街として自立していて公共施設も充実しています。大きな本屋とか純喫茶と呼びたくなる喫茶店、タバコ屋があると、一瞬昭和に戻ったような気分にもなります。
この写真は、将棋会館の正面に立っているアート。IMG_20220616_101203

どういういわれかは知りませんが、お顔が変にリアルで、どこぞのオバサマかと思わせる迫力です。

美術館は、地図で見るとすぐそこなのに、歩いてみるとなんのなんの、相当の歩きごたえでした。展示内容は省略して、いくつか気に入ったものだけ紹介します。

景川弘道
東北かそれとも北海道か、教員住宅かなんかの趣きです。団塊の世代にはウルっとくる光景です。
景川さんは戦後版画運動を代表する作家の一人で、赤旗でもおなじみです。ところで、これって版画でしょうか? と思ったら、脇に説明が書かれていました。
猫と婦

なるほど場所は北見で、モデルは「婦」なのですね。
次は、いかにもプロレタリア版画です。名前は控えませんでした。

赤い工場

これは小野忠重の「工場」という版画です。1950年の制作ということで、いろいろ真っ盛りの時期です。
小野忠重
だそうです。

次は村上暁人の「網の浜」という1968年作品。すでに戦後という時代は過ぎており、作品も芸術的に消化されています。あまり肩肘張らずに楽しめます。
しかし、作品につけられたキャプションには思わず身が引き締まります。
網繕い

murakami

インパールの飢餓街道をさまよったのでしょうか。やはり戦後版画展なのですね。

そしてこれがお目当て、小林喜巳子の「私たちの先生を返してー実践女子学園の斗い」1964年の作品です。「斗い」という当て字が今となっては懐かしい。
先生を返して

これがキャプションです。
kobayasi

画面の上で左クリックすると拡大図が見られます。一人ひとりに同性でなければ描けないリアリティが込められています。一人ひとりの顔を見ているだけで梅干しを舌の上で潰したような甘くはないジュース感が広がります。かすかにワキガの香りも漂います。一人について100字くらいはたちどころに書けそうです。

この作家のもう一枚の版画が展示されていました。
「灯籠流し」で1988年の作品です。
灯籠流し
左クリックで拡大できます。すみません。気をつけて撮ったつもりでしたが、会場が映り込んでしまいました。

灯籠が流されるものではなく、旅立つ意志として描かれています。それを見送るちょうちんの、無限にも見える列が過去を示しているようで、とても印象的です。

ついでにもう一枚。小学生の集団制作の版画で、横2m位のかなり大きなものです。何もキャプション拾ってこなかったのでどんなものやら分かりません。指導した先生の技量が反映されているようで、変わった構図を様にする技術と、細部まで手を抜かないとてもきれいな仕上がりです。

yamanobokujou

翌日は、昼過ぎに羽田発なので、上野くらいしか行く場所はありません。今回は西洋美術館のエッチング展に行きました。これは常設展の一部をコーナー化したもので、年寄りはただです。
そのかわり、さほど見栄えのするものではなく、逆にちょっと時間を潰すにはちょうどよいくらいの内容でした。
ここで仰天したのがレンブラントの3点。小雨模様で、平日の9時。最初の1時間はほぼ独占状態でした。そのうち修学旅行が入ってきてゴタゴタし始めました。私はレンブラントの作品の前のポーチに腰掛けて、空いたらじっくり眺めて、混んだらまた座るということを繰り返しました。

レンブラント1

こちらが貴族の肖像です。エッチングとはとても思えないタッチですが、よくよく近づいて目を凝らすと、霞がかかったようなマチエールが、実は無数の細かい線(ひっかき傷)によって作り上げられているのです。かっこよく言うと線で光と空気を描き出しているのです。

レンブラント2

まことにひどい写真です。向かいの壁にかけられた版画、カメラを撮影する私の指まで写っています。
20枚くらい撮りましたが、作品そのものが小さすぎて、この空間ではこれが限界です。
闇夜に窓の向こう、室内で、蝋燭の明かりを頼りに書物を読む書生の像ということらしいのですが。ここまで漆黒の背景を写し込みながら、おぼろげに浮き出した書生の表情、肘掛けに置かれた右手のニュアンスがこれだけの質感を持って描き出すというのは、奇跡の作品としか言いようがありません。
エッチング展のポスターにもこの絵が使われていますが、この幻のように立ち昇る雰囲気はけし飛んでしまっています。
まだもう少しやっているようなので、皆さん是非実物を見てください。(繰り返しますが、年寄はタダです)

この度は良い目の保養をさせていただきました。

昼飯はいつもどおり、アメ横の線路向こうの飲み屋街。ビールとマグロ山かけにカキフライ。帰りに雑貨店でUSブランドのお土産購入。
IMG_20220617_132720

ついでに紀尾井ホールのエヴェーヌ弦楽四重奏団のことも書いておきましょう。チケット・ぴあで4千円の券が入手できたので、それで行ってきたのですが、音響的にはまったく問題なかったのですが、なにか学生用チケットみたいな感じで、周りはバイオリンケースを抱えた学生ばかり。学生さんの貴重な席を横取りしてしまったみたいで、少々居心地の悪さを感じました。
ユウチューブで見ていたメンバーとは代わっていて、大また開きのビオラ奏者はいなくなっていました。でもその後釜の女性も盛大に股を開いていました。
ヤナーチェクのクロイツェル・ソナタはすごい迫力でしたが、シューマンの2番はそれなりにという感じでした。そういう楽団なのでしょう。


本日の赤旗、美術面の写真に釘付けになった。
小林喜巳子という版画家の群衆像だ。「私たちの先生を返して―実践女子学園の斗い」(1964年)と題されている。
この記事は下記の展覧会を紹介したもので、戦後の木彫運動を広く紹介するものだ。

町田市立国際版画美術館

このサイトに写真がある。それをコピーしたものだ。左クリックすると拡大が見られる。ただし画質は荒い。
小林喜巳子.jp

生きていれば私と同じ年格好の女子高校生が写っている。一人ひとりの人物に、緊張したリアリティーが凝縮されている。

私にとってはこの絵だけで良い。版画運動については5年前の滝平二郎展でおよそ知った(沖縄戦を描いた絵は衝撃だった)。

ただこの小林さんという方は、世代的には版画運動の人々と同一視できない、なにか別な視点からのくくりが必要な気がする。なにか茨木のり子的な「戦後世代の残置兵」のイメージもある。

開催期間:2022年4月23日(土)〜2022年7月3日(日)

なので、コロナを恐れず町田詣でをしてみたいと思う。

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小林喜巳子さんのプロフィルを探してみる。

この展覧会を企画した町田市立国際版画美術館学芸員の町村さんが経過を詳しく触れられている。
2019年に、今回の先駆けとなるミニ展示を開催した。
このとき当館収蔵品から上野誠、滝平二郎、鈴木賢二、新居広治らを紹介したが、追加企画として「日本美術会や美術家平和会議で活躍した女性作家・小林喜巳子」を取りあげた。
その小林が実践女子学園の学園民主化闘争を描いた「私たちの先生を返して─実践女子学園の斗い」という作品がとりわけ反響を呼んだようだ。

以下少し長めに引用させてもらう。

小林喜巳子《私たちの先生を返して─実践女子学園の斗い》の反響

実践女子学園中学高等学校で1962年に起こった学園民主化闘争を描いた本作は、第18回日本アンデパンダン展(1965年)で発表され、経緯をまとめた書籍の表紙にも使われた。描かれた場面は、1962年9月1日の始業式の日と推定される。同校で教鞭を執った美術評論家・林文雄(小林喜巳子のパートナーでもある)を含め3教師が組合活動を問題視されて一学期に解雇。二学期の始まりに生徒が解雇教員を校内に入れるため、大勢で守りながら校門を突破し、始業式をボイコットして集会を開いている場面が選ばれている。

なるほど、林文雄のパートナーだったのだ。

その後には、もらい泣きするようなエピソードが記載されている。

会期中には小林氏本人に展示を見て頂く機会にも恵まれ、当館で収蔵していた《一日本人の生命》(第五福竜丸事件・久保山愛吉の死を描く)や木版画の師である上野誠の作品を前にして、感涙されたのが印象深かった。

以下は著書の奥付的な略歴紹介

小林喜巳子[コバヤシキミコ]
1929年東京に生まれる。1942~46年大久保作次郎氏に師事。1951年東京美術学校(現・東京芸大)油絵科卒業。日本美術会会員、美術家平和会議会員

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続編はこちら

バチェラー八重子「若きウタリに」を読む

正直のところ、書き出しの、闘いの雄叫びにも似た高揚感は受け止めきれない。
わかりやすいところから始める。

ふみにじられ ふみひしがれし ウタリの名
誰しかこれを 取り返すべき

野の雄鹿 牝鹿小鹿の はてまでも
おのが野原を 追われしぞ憂き

国も名も 家畑まで うしなうも
失わざらむ 心ばかりは

心高く もちてあらばや むらがりし
雲は過ぎ去り 胸明(あか)くならむ

ウタリ思い 泣き明かしたる この朝の
やつれし面(おも)は はずかしきかな

たつ瀬なく もだえ亡ぶる 道の外に
ウタリ起さむ 正道(まさみち)なきか

灰色の 空を見つむる 瞳より
とどめがたなき 涙あふるる

夏ながら 心はさむく ふるうなり
ウタリが事を 思い居たれば
……………………………………………………

この後、調子は変わり、当初の義憤から深い苦悩、絶望の淵へと進んでいく

くるしさに 壁に頭(かしら)をうちつけて
果てなんかなど 幾度(いくたび)思いし

よろずの事 運命(さだめ)なりとは 思えども
あきらめ得ずに もだゆる我は

たつせ無く 悩み悩みて 死する外に
われらウタリの 道はなきかや

しんしんと 更け行く夜半に 我一人
ウタリを思い 泣きておりけり

……………………………………………………

「養父母」、「逝きし父にささぐ」と題された数連の歌は、宮本百合子の「風に乗って来るコロボックル」にインスピレーションを与えたと思われる。

この後、歌集は諦念とキリスト教への投入、些事に入り込む。インスピレーションは失われる。

この後イギリス旅行の感想を歌ったいくつかの歌、アイヌの英雄を歌った歌が続くが、それらを闘いへと導く精神の高揚は失われる。残酷な帰結である。

違星北斗 死の床にて

2021年01月31日 違星北斗に思う
違星北斗に思う その2

 の続編です。日記からの抜粋です。


昭和3年(1928年)

4月25日 北斗、千歳方面を行商中に喀血し余市にて闘病生活に入る。

喀血の その鮮紅色を見つめては 気を取り直す「死んじゃならない」
これだけの 米あるうちに 此の病気 癒やさなければ食うに困るが

5月8日 兄が熊の肉とフイベを差し入れ。

熊の肉 俺の血になれ 肉になれ 赤いフイベに 塩つけて食う
熊の肉は 本当にうまいよ 内地人 土産話に 食わせたいなあ
あばら家に 風吹き入りて ごみほこり 立つ 其の中に 病みて寝るなり
希望もて 微笑みし去年も 夢に似て 若さの誇り 我を去り行く

5月17日

酒飲みが 酒飲む様に 楽しくに こんな薬を飲めないものか
薬など 必要でない 健康な 身体になろう 利け 此の薬

6月9日 

東京を退いたのは 何の為 薬飲みつつ 理想をみかえる

7月18日

続けては 咳する事の苦しさに 坐って居れば 蝿の寄り来る
血を吐いた 後の眩暈に 今度こそ 死ぬじゃないかと 胸の轟き

9月3日

何となく淋しい。やはり生に執着がある。ある、大いにある。全く此の儘に死んだらと思うと、全身の血が沸き立つ様だ。夕方やっと落ち着く。
今日はトモヨの一七日だ。死んではやっぱりつまらないなあ。

10月3日

アイヌとして 使命のままに 立つ事を 胸に描いて病気を忘れる

12月10日

健康な身体となって もう一度 燃える希望で 打って出でたや

12月28日

此の頃左の肋が痛む。咳も出る。疲れて動かれなくなった。
東京の希望社後藤先生より、お見舞の電報為替。

此の病気で 若しか死ぬんじゃなかろうか ひそかに俺は遺書を書く
何か知ら 嬉しいたより来るようだ 我が家めざして配達が来る

昭和4年

1月6日 絶筆

いかにして「我世に勝てリ」と叫びたる キリストの如 安きに居らむ
世の中は 何が何やら知らねども 死ぬ事だけはたしかなりけり

挽歌 逝きし違星北斗氏

墓に来て 友になにをか 語りなむ 言の葉もなき 秋の夕ぐれ
バチェラー八重子

日経新聞19日の日曜版から。
いままではあくまでキャパがメインの紹介で、タローの方は協力者という扱いだったように思う。
しかし今度の特集は全く違っていて、題名こそ「ゲルダとキャパ、戦場カメラマンの青春」となっているが、テーマはゲルダだ。吉田俊宏さんという方が紹介している。
中でもはじめてみたこの1枚にすっかり参ってしまった。

なんとヒールを履いた戦士だ。それが懸命な表情でピストルを構え、あちらを睨んでいる。
彼女は見事にジグゾー・パズルの駒になりきっている。その2つの要素が人民戦争の本質をえぐり出している。

Vogueに掲載されてもおかしくない様式美と、置かれた状況の過酷さが1枚の写真に共鳴りしている。
吉田さんはキャパとタローをともに「戦場写真家」と呼んでいるが、たしかにそうではあろうが、タローはむしろ、「戦場に踏み込んだ芸術写真家」と呼ぶべきではないだろうか。そうでなければブローニー判のカメラなど使わなかったはずだ。

Taro


裏面の印刷を消そうと思ったが、それだと断髪の乱れと、横顔の稚な気さが飛んでしまう。なんとかならないかと、ネットで写真を探したが、もっと小さな写真しかない。

多分このブランケット二面にわたる特集に載せられた3枚の写真がタローの代表作なのだろう。
そしてもう一枚がこの写真。本人のとった写真ではなく、被写体となった写真だが、天国のような幸せ感と美しさにあふれている。
しかし、一見したらパリジャン然としているが、二人共にユダヤ人であり、母国の権力から追われる亡命者であるという意味で二重のエトランジェだ。
それは、この時代特有の「あってはいけない残酷さ」を秘めた、ほんの束の間の幸せ感と美しさと思える。

Taro en Paris



ゲルダ・タローの生きた道

吉田さんの記事から、ゲルダの略歴を拾う。
本名はゲルタ・ポホリレ。1910年ドイツでユダヤ人の子として生まれた。反ナチ運動に参加して逮捕、勾留された。
34年釈放後、9月にはフランスに脱出。モンパルナスに居を構える。その月、近くの公園でキャパと知り合い意気投合する。彼女は写真家キャパの売出しに回り大いに力を発揮した。
36年夏にスペインで内戦が始まると、二人は直ちにスペインに入った。女性兵士の写真はバルセロナ入りしてまもなく、海岸で射撃訓練をしていたところを撮影したもの。フランスの写真誌にはキャパの作品として紹介された。当時の「キャパ」は、後のキャパ(フリードマン)との共同のペンネームであったからだ、とされる。
明くる1937年7月、ゲルダは従軍取材中に事故に巻き込まれなくなった。

800px-Gerda_Taro-Anonymous
この写真の撮られたのは1937年7月とあるから、死の直前である。最前線での取材なのに、どうしてこんなにおしゃれなんだろう。この格好でそのまま死んだのでは、と思わせる遺影である。「新品」だったそのカメラは、やはりパトローネ式の6x6判だ。

そして一瞬の時代の子、ゲルダの名は歴史に埋もれていった。そして、2007年に大量のネガが発見されてから注目されるようになったと言う。

青空文庫を読む

「短歌習作」 宮本百合子
https://www.aozora.gr.jp/cards/000311/files/16010_30019.html


うすらさむき秋の暮方なげやりに
  氷をかめば悲の湧く
角砂糖のくずるゝ音をそときけば
  若き心はうす笑する

首人形遠き京なるおもちや屋の
  店より我にとつぎ出しかな
はにかみてうす笑する我よめは
  孔雀の羽かげ髷のみを出す

雨晴れし後の雨だれきゝてあれば
  かしらおのづとうなだるゝかな
夜々ごとに来し豆売りは来ずなりぬ
  妻めとりぬと人の云ひたり

ひな勇と我れ

あるまゝにうつす鏡のにくらしき
  片頬ふくれしかほをのぞけば
   ひな勇を思ひ出して
姉妹の様やと云はれ喜びし
  京の舞子のひな勇と我れ
紫陽花のあせそむる頃別れ来て
  迎へし秋のかなしかりしよ
たゞ一人はかなく逝きしひな勇は
  いまはのきはに我名呼びきと
我名をば呼びきと低うくり返せば
  まぶたのうらは熱くなり行く
思ひ出でゝひな勇はんと低うよべば
  白粉の香のにほふ心地す


習作 1913(大正2)年頃の執筆と推定される

百合子は1899年(明治32年)の生まれ。この歌集の執筆時は14歳となる。ということは彼女の12,13歳の心の流れだ。
最初の二種は、百合子の生活が庶民には想像もつかぬほど贅沢だったということ。
“助六の紅の襦袢” は観劇後の感想であろうか? 私には知識がなく受け止めきれない。

京人形が我がもとに “とつぐ” という発想は面白い。
しかもこれが、ひな勇への淡い恋心への伏線となっていて、ひな勇のイメージを隈取っている。 
ひな勇が鏡の中の自分の顔の向こうに登場する技巧は映画的だ。
ただし前後の螺鈿箱の歌は、あまりに映画的だ。なくもがなと思う。

たっぷりと伏線を張って、一気にひな勇のラメントへと引き込む技巧は、すでに大人のものだ。
それが、少女の稚さを残しながら乙女へと変わりゆく、心のゆらぎを捉えた。
そしてそれが、歌集という額縁の中に、見事に落とし込まれている。

菊五郎

5代目尾上菊五郎の肖像写真だ。
有名な6代目の実父。
1844年(天保15年)- 1903年(明治36年) 襲名は1867年(明治元年)
九代目市川団十郎、初代市川左団次とともに「団菊座」と囃されたのはこの人。
びっくりしたのは、顔立ちが浮世絵の役者絵とそっくりだということだ。
この人が派手な化粧をすると、多分東洲斎写楽の絵と同じ顔になるだろう。
写楽というのは相当、役者の顔をデフォルメしていたのだろうと思っていたが、 
これなら「そのままそっくりじゃん」と思う。
と、まぁ、それだけの話し。
頭はちょんまげではなくただのハゲ、6代目からからかわれていたようだ。





日経新聞の読書欄に本荘幽蘭についての書評が載っていて、それを見て度肝を抜かれた。
ネットで調べられることは多くない。いくつかの書籍があって、そこからの孫引きに限定される。
そもそもウィキペディアに本荘の項目はない。言ってみれば、その真実性すらやや疑わしいのだ。

「善知鳥吉左の八女夜話」から

から少し引用する。

1879年(明治12) 大坂中の島で生まれた。本名は本荘久代。父の一行はもと久留米藩の重役で儒者でもあった。

女性教育の先駆的学校の明治女学校に進み、ずば抜けた天才として知られた。

学校でのアルバイトにより生活を維持し、独立独歩の生活だった。

卒業後は「日本最初の女性記者」幽蘭と名乗った。均整の取れた美人型で、断髪だったため余計人目を引いた。(引用ここまで)

この後の奇行遍歴については相当眉唾であり、尾ひれはひれがついている。

ただ、最近の論調は当節の傾向を反映して、「早く生まれ過ぎた女性」という評価に傾いている。

出久根達郎は『謎の女 幽蘭 古本屋「芳雅堂」の探索帳より』でこう書いている。

「何をした女性か。何もしない。強いて言えば、たくさんの職業に就いて、そのつど新聞の三面記事を賑わした女性である。事件を起こしたわけではない。人を傷つけたとか、金を奪ったとか、そんな犯罪に手を染めたわけでなく、巻き込まれたのでもない。いささか常識にはずれた言動で、世間に波風を立てた。それを新聞が面白おかしく書き、人々が愉快がった。一種の有名人になった」
(目黒考二の「何もない日々」より引用)

ちょっと古いが、クレペリンの言う「パラノア」に相当すると考えているようだ。まぁ、そんなところか。

…………………………………………………………………………………………………………

私の気になるのは、彼女の生まれ育った時代がNGマンローの二番目の夫人となった高畠トクとほぼ重なっていることである。

トクは明治10年生で当時23歳。旧柳川藩江戸詰家老高畠由憲・ゆうの次女。「実家は明治維新で零落し、横浜で女中奉公をしながら学識や英語力を身につけた」(桑原)とされる。

離婚後は女子大学で英語教師となった。孫には高畠通敏がいる。

離婚後も陰日向となってマンローの生活を支え、二風谷で彼の死をみとっている。

この頃の中部九州が、女性の先覚者を輩出していることである。久留米での後輩に平塚雷鳥がおり、熊本には高群逸枝がいる。

当時の筑後から肥後にかけて女性の自立を促すような社会的風土があったのだろうか? 
熊本バンドなどキリスト教の影響もあったのだろうか。

今見ていて、とても面白い番組だったので、書き留めておく。
NHK総合で10時からやってた「水木しげるを偲ぶ」番組だ。

ほとんどが出演者による座談で、みな水木になかなか惚れ込んでいるようだ。「ノホホン」ぶりの裏に右腕をもがれ、飢え、病に冒され、生死の淵をさまよった苛烈な戦争体験がある。明日食う米にも事欠く戦後の極貧体験がある。

だから「ノホホン」はただのノホホンではなくて、突き抜けた、筋金入りのノホホンなのだ。それが知れば知るほどビンビンと伝わってくる。そこがたまらないところらしい。

なかで唯一人、司会をしている芸人だけがちょいと浮いていて、ありきたりな言葉を積み上げていく。終わり頃になると、司会者以外のすべての人が鼻白んでくるのがわかる。

最後にみなが一言づつ「水木ワールド」ってなんだろう、と語る。

そうすると、中で一番若い、必要以上にチャラチャラした、かわい子ちゃんタレントがこう言った。

わかりそうでわからない。やさしそうだけど難しい。でも、わからないけどわかりそうな気がする。わからなくても良い気がする。

この人、最後のセリフを結構考えてきたのではないかしら。相当深みのある言葉で、「むむっ、お主、できるな!」と、感じ入った。

ちょっと後知恵になるが、これは司会の芸人に対するちょっとした当てこすりにもなっているな、と気づいた。
もちろん本人にそんな気などなかったに相違ないが。

……………………………………………………………………………………………………………

女性タレントの名を知りたくて番組表を見たが、そんな番組などない。瀬戸内晴美の追悼番組ばかりだ。そこでグーグルで検索したら、あった。北海道限定の特別番組だった。

mizukisigeru

これの後編を見たのだ。
「水木しげる 魂の漫画展」(主催:NHK帯広放送局ほか)をより深くご理解いただけるよう2010年1月に放送した 「マンガノゲンバ 水木しげるスペシャル(前編・後編)」 を北海道ブロック向けに2週にわたってアンコール放送します。
というクレジットがある。水木の展覧会は以前神田神保町の高速下の傷痍軍人会館で見た覚えがある。いつも滝平二郎の沖縄従軍記と混同する。ともに悲惨さをくぐり抜けた先の、ポッカリと空いた浮遊感がなんとも言えない。

この感覚を「わかりそうでわからない。わからないがわかりそうな気がする」と表現する女性タレントのセンスはかなり鋭敏だと思う。

ところで、この女性タレントは大島麻衣という名前で、AKB48の初代メンバー。「マンガノゲンバ」の頃が絶頂で、番組のレギュラー司会者だった。今もそれなりの人気らしいので、やはり才能とか中身がキラリと光るのだろう。


先程のアンモニアの話のページをめくっていたら、投稿短歌欄があって、短歌とはとても言えない都々逸もどきが載っていた。
選者(三枝昂之さん:「昂」の字は本当はちょと違う)も困ったのか、当選歌の一番最後に、なんの批評もなく置いていった。

見てごらん
壁に耳あり 障子に目あり
インターネットに全てあり


東京 志摩

“見てごらん”は、なくてもいいようなもので、
「これをつけたから短歌になりました」と、志摩さんは投稿したに違いない。
(すみません。都々逸には最初に五がつくものもあるのだそうで、それで言うと完璧に都々逸でした)
選者も仕方なしに受け取って、なんとなく当選させちゃったみたいな感じでしょう。
その辺の気合がなんとなくおかしくて、それも一つの短歌の世界でしょう。
“全て”はちょっと古風だが、「ここは漢字じゃなくちゃ」とうなずく。
省略せずに “インターネット” なのも昭和っぽくて、変に律儀だ。
平成世代なら “スマートフォン” だろうが、それでは面白くもなんともない。

蛇足ながら、You Tubeで、都々逸もどきだが秀逸なものがある。

「都々逸」 美空ひばり / 古賀政男(三味線)

ひばりの唖然とする旨さと、決して手を抜かない芸人魂に敬服。
あまりうまい三味線ではないが、その辺はご愛嬌ということで…

昨日、「君は永遠にそいつらより若い」という映画を見てきた。

多少気にはなっていたが、昨日が最終日、しかも1日1回の上映、しかも16時20分からの上映だ。あと1時間、これは『啓示』だと思った。
啓示というほどの大げさなものではないが、古本屋である本と出会うときの感じで、「一期一会」の思いが財布の紐を緩ませる。
勝率は3割くらいだろうが、悪くはないと思っている。勝率を上げるためには打席数を減らさなくてはならない。それでは本末転倒だ。これはくじを引くのとは全然別なんだ。ハズれも思い出となる。
というわけで黄昏の映画館に飛び込んだ。
結論としては、基本的にはハズれ。
「これが平成なのか」という思いだ。あまりにもうすくちだ。
しかし何かが引っかかる。そこで本屋に行って原作を買い求めた。

津村記久子「君は永遠にそいつらより若い」ちくま文庫

一言で言って、原著の通り、この映画は関西弁でなければならなかったのだと思う。

この小説は関西文化の中で生まれた。それを消毒してしまっては何もならないのだ。

例えば冒頭部分での授業ノートの貸し借り、東京では見知らぬ人にノートを貸してくれなどと頼むことはありえない。

断る方も、「私あなたなんか知らんし」などという角の立つ断り方はしないし、そういう断り方をしながら貸してしまうという経過も理解不能だ。

だからこの一連のやり取りが関西弁で行われていたら、あるべきシチュエーションとして受け止められるが、標準語でやるときはヒロインを相当の変人として描き出さなければならない。

そうすると、話が後半に入っていくとヒロインの人格が分裂してしまうのだ。

だからこの映画作りは設定変更の時点で、即レッドカードなのだ。

sakumayu

この映画で致命的な失敗を救っているのが佐久間由衣という女優。このオットリ感というか御嬢様感が分裂的な映画を救っている。

彼女とコンビを組む奈緒という役者も頑張っていい味を出している。しかしこのキャラは、本来は関西そのものだろう。

もしこの2人がいなかったら、この映画は相当悲劇的なものになっていただろう。

上映が終わってしまうというので、見に行った。
全然当たらなかったらしい。すでに1週前から1日1回夜6時半からの上映のみ。それでも客は10名いるかいないかという不入りぶりだ。

しかし中身はすごい。ハリウッドばりの金をかけて、息をも継がせぬシーンが連続する。
基本的にはアクション映画で、いいやつと悪いやつも最初っから分かっていて、事実、ほぼそのとおりに進んでいくのだが、合間に挿入される「気の利いたセリフ」が半端なく切れ味鋭い。
私が宣伝文句を考えるとしたら「考えさせるアクション」だ。まぁこれでは客足はかえって遠のくだろうが…

とくに権力者側のセリフが非常に論理的で説得的だ。それは良し悪しと言うよりは先進国の論理と言えるだろう。正しいが優しくない。スマートだが残忍だ。主人公はその論理を突き抜けられないまま状況に引っ張り回される。
ただ本気に考えさせるには、テンポが早すぎるから、頭が回らない。もし20代でこの映画を見たら、その印象は相当違ってくるだろう。
あるいはもう一度見るという手もあるか、少々疲れるが…
あるいは、姑息だが吹き替えで見るという手もある。
ソボク
コン・ユ

(追記)映画が終わって、帰ってきてから一杯やり始めで、なにか考えがまとまらなくてそのまま寝てしまって、次の日になったら、もうそもそもどんな映画だったか忘れてしまってしばらく経った。

普通、「なぜ生きているのか」という問いは、生きる目的を、あるいは生きる目的の有無を問うている。しかしこの映画が発する「なぜ生きているのか」という問いは、もっと実存的だ。その人が生きているのは生き続けているからであり、死なないからだ。

人間はいつかは死ぬのだが、それまでは生きている。だが不死身の人間は死なないから、「なぜ生きているのか」という問いに答えることはできない。

ここまでは禅問答もどきの論理ゲームだ。このアクションがすごいのは、このパラドックスに実践的な “解” を与えているところだ。主人公は実験動物としての若者に“人間”を見出し、その生に「人間的な生」の意味を与える。かくして死ねないはずだた若者が、意味のある死を迎えることになる。

このイマジネーションの力はすごい。「神々の黄昏」を見るようだ。

ところで、この主人公の役者(コン・ユ)がめっぽううまい。権力者の論理になすすべもないのだが、「やはりそれはおかしいぜ」と、体験的真理が示す道に従うことを選択する、そういう心のヒダが無理なく浮かび上がる。しかもタフガイ的な演技もしっかり演じきっている。

日本でこういう映画を作れる人は、黒沢明のあと、もういないだろう。もう映画の王道のところでは韓国には勝てない。

実はその1週間前に、BSで「殺人の記憶」という映画を見た。だいぶ前の、韓国映画が立て続けにヒット作を飛ばした頃の映画だ。

正直言って、よくわからない映画だ、こういう推理小説みたいな映画は、そうでなくても疲れる。登場人物が覚えきれないうちにどんどん筋が進行していくから、見終わった後、「この映画ってなんだったんだろう」ということになる。

それから絵柄が露悪的なところがあって、見ていてなんとなく「腐ったキムチ」のような不快感を催す。この印象は映画で見た「半地下の人」のときにも感じた。日本人ならこんなにこ汚い絵は作らないだろうと思う。車と携帯がある生活と、終戦直後の「飢餓海峡」みたいな生活が共存していて、時代感覚が分からない。

これも吹き替えで見たほうが良い映画だろう。と言っても、もう一度見るほどの気は起きないが…

日経新聞の土曜版にの「この父ありて」(梯久美子)という連載で茨木のり子編をやっていて、この間は5回めだった。このおかげで月曜に医局に行くのが苦でなくなっている。


1953年(昭和28年)、茨木は川崎洋と出会い、詩誌「櫂」を発行した。「櫂」にはまもなく谷川俊太郎、吉野弘、大岡信、岸田衿子、中江俊夫が参加する。

記事の一節を引用する。
創刊号が出た後、茨木と川崎は新宿で待ち合わせた。中村屋でライスカレーを食べて反響の葉書を読み、紀伊国屋書店の喫茶部で珈琲で乾杯した。それが精一杯の贅沢で、帰りの電車賃ぎりぎりしかお金が残らなかった。
水尾比呂志はその話を聞き、中村屋でライスカレー、紀伊国屋で珈琲というのは「一流のコース」だと言ってくれた。…
当時、私の生まれ育った静岡では、電車賃ではなく汽車賃と言っていた。電化はされていたが、まだ電車は走っていなかった。たしかにライスカレーが主流で、カレーをかけて食べるのがカレーライスだったかもしれない。サジがコップに突っ込んであるのがライスカレーで、紙ナプキンに包んでいるのがカレーライス。きっと中村屋の作法が全国に広がり、変形されていったのだろう。

当時、母は父とのあいだに、なにか鬱屈があったのだろう。2,3回ほど私を連れて東京まで行った。有楽町から日劇前、数寄屋橋、ドブ川越しの朝日新聞ビルと歩いた(歩かされた)記憶がある。茨木ではないが「帰りの電車賃ぎりぎりしかお金が残らなかった」かも知れない。

あのときの東京の記憶は、かな錆びの酸っぱい匂い、国電の燻んだぶどう色と、小学2年生の抱く「メトロポリス」への狂おしいほどの憧れだった。

いまは太宰も高見も川端もみんなごっちゃだが(当時もそうだった)、でも私の憧れたのは、彼らの屯する猥雑な巷の身辺雑事ではなく、もっと知性で輝いている颯爽とした潔い文化だった。それはひょっとしたら母の憧れであったのかもしれない。

その「東京文化」の一端をになった人たちが、そのときそうやって、電車賃と交換してでも、一日の暮らしと交換してでも守るべき、文化を創造する清々しい歩みを始めていたのだ。

私はそちらに与する。
 

再掲ついでにもうひとつ

与謝野晶子の「君死にたもうことなかれ: 旅順口包囲軍の中に在る弟を歎きて」、日本を代表する詩である。
刃(やいば)を呑んだ詩で、100年後の今も恐ろしい詩でもある。
“そこまで言っていいんかい”、が3ヶ所ある。
旅順の城はほろぶとも
ほろびずとても何事ぞ
すめらみことは戦ひに
おほみずから出でまさね
かたみに人の血を流し
獣の道で死ねよとは
死ぬるを人のほまれとは
これを家の倫理で辛うじてオブラートに包んで、
ぬっと突き出した。
しかしオブラートだから半ば透けて見える。
家の倫理というのは、実は仏の教え、浄土真宗の論理ではないか、と思う。
廃仏毀釈の折から、店先には神棚が飾られているが、奥の座敷にはしっかり仏壇がましましている、という具合である。

晶子は天皇制の押し付ける倫理に家族の“情”を対置したのではなく、もう一つの倫理を以って対抗しているのだと思う。“獣の道”にたいする“仏の道”である。叙情に流されない、凛とした鋼の強靭さはそこから生まれているのだと思う。

「青空文庫」の「たけくらべ」を読んだのですが、旧仮名遣いと戯作調の文体がかなり読みづらい。目がしょぼしょぼしてきます。とりあえず第一節を、文章には手を入れることなく、ピリオドとすべきをピリオドにし、改行・改段をしました。古い漢字使いをひらがなに直し、また会話部分を鉤括弧に入れてメリハリを付けました。
注なしでは意味が通じないところは、(注)を付けました。引用元は(
木村荘八 「吉原ハネ橋考」)です。
多分ギリギリで著作権には触れないと思いますが、「冒涜」の可能性はあります。クレームがあれば取り下げます。その気になったら第二節以降もやってみたいと思います。



 廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お齒ぐろ溝に燈火ともしびうつる三階の騷ぎも手に取る如し。明けくれなしの車の行來ゆきゝにはかり知られぬ全盛をうらなひて、大音寺前と名は佛臭けれど、さりとは陽氣の町と住みたる人の申しき。
三嶋神社(みしまさま)の角をまがりてより、是れぞと見ゆる大厦(いへ)もなく、かたぶく軒端の十軒長屋、二十軒長屋が続く。商ひはかつふつ利かぬ場所とて、半ば閉したる雨戸の外に、あやしき形なりに紙を切りぬいて、胡粉ぬりくり彩色のある田樂(でんがく)みるやう。裏にはりたる串のさまもをかし。

 一軒ならず二軒ならず、朝日に干して夕日に仕舞ふ手當も異々し。一家内これにかゝりて「夫れは何ぞ」と問ふに、「知らずや、霜月酉の日例の神社に欲深樣のかつぎ給ふ、是れぞ熊手の下ごしらへ」といふ。
正月門松とりすつるよりかゝりて、一年うち通しのそれはまことの商賣人。片手わざにも夏より手足を色どりて、新年着、晴れ着の支度もこれをば當てぞかし。「南無や大鳥大明神、買ふ人にさへ大福をあたへ給へば、製造もとの我等も萬倍の利益を」と人ごとに言ふめり。されど、さりとは思ひのほかなるもの。此あたりに大長者のうわさも聞かざりき。

 住む人の多くは廓者(くるわもの)にて、良人は小格子の何とやら。下足札そろへて「がらんがらん」の音もいそがしや、夕暮より羽織引かけて立出れば、うしろに切火打かくる女房の顏もこれが見納めか。
十人ぎりの側杖、無理情死(しんぢう)のしそこね、恨みはかゝる身のはて危ふく、「すは」と言はゞ命がけの勤め。遊山(ゆさん)らしく見ゆるもをかし。「娘は大籬(おほまがき)の下新造(したしんぞ)」とやら、「七軒の何屋が客廻し」とやら。提燈(かんばん)さげてちよこちよこ走りの修業、卒業して何にかなる。

吉原の刎橋
        吉原の刎橋
 とかくは檜舞臺と見立つるもをかしからずや、垢ぬけのせし三十あまりの年増、小ざつぱりとせし唐棧ぞろひに紺足袋はきて、雪駄ちゃらちゃらと忙がしげに横抱きの小包は問はでもしるし。茶屋が大棧橋(吉原通いの)舟と沙汰して、廻り遠や此處からあげまする。
誂へ物の仕事やさんと此あたりには言ふぞかし、一帯の風俗は他所と変りて、女子(おなご)の後帶きちんとせし人少なく、柄を好みて巾廣の卷帶。「年増はまだよし、十五六の小癪なる娘がほゝづきふくんで、此姿なりは」と目をふさぐ人もあるべし。所がら是非もなや。
昨日河岸店に何紫の源氏名耳に殘れど、けふは「地廻りの吉」と手馴れぬ燒鳥の夜店を出して、身代つぶし、骨になれば再び古巣への内儀(かみさま)姿、どこやら素人よりは見よげに覺えて、これに染まらぬ子供もなし。

 秋は九月「にわか」(吉原俄)の頃の大路を見給へ。
さりとはよくも學びし露八(ろはち)が物眞似、榮喜(えいき)が所作。孟子の母やおどろかん上達の速やかさ。うまいと褒められて今宵も一廻り。生意氣は七つ八つよりつのりて、やがては肩に置手ぬぐひ、鼻歌の「そゝり節」(遊郭のひやかしのわい歌)。十五の少年がませかた恐ろし。學校の唱歌にも「ぎつちよんちよん」と拍子を取りて、運動會に「木やり音頭」もなしかねまじき風情。
刎橋 番屋
刎橋と番屋


さらでも教育はむづかしきに教師の苦心さこそと思はるゝ入谷近くに育英舍とて、私立なれども生徒の數は千人近く、狹き校舍に目白押しの窮屈さ。しかるに教師が人望いよいよあらはれて、ただ「學校」とひと口にて、此のあたりには呑込みのつくほど成るがある。

通ふ子供の數々に、或いは火消、鳶人足、「おとつさんは刎橋(吉原口)の番屋に居るよ」と習はずして知る其道のかしこさ。梯子のりのまねびに「アレ忍びがへしを折りました」と訴へのつべこべ。三百といふ代言の子もあるべし、「お前の父さんは馬(付け馬)だねへ」と言はれて、名のりや愁(つら)き子心にも顏あからめるしほらしさ。
出入りの貸座敷(いへ)の祕藏息子、寮住居に華族さまを氣取りて、ふさ付き帽子面持ち、ゆたかに洋服かるがると華々しきを「坊ちやん坊ちやん」とて此子の追從するもをかし。
多くの中に龍華寺の信如(しんによ)とて、千筋となづる黒髮も今いく歳にか、やがては墨染にかへぬべき袖の色。發心(ほつしん)は腹からか、坊は親ゆづりの勉強ものあり。生来温和しきを友達いぶせく思ひて、さまざまの惡戲をしかけつ。猫の死骸を繩にくゝりて、「お役目なれば引導をたのみます」と投げつけし事も有りし。
が、それは昔。今は校内一の人とて假にも侮(あなど)りての處業はなかりき。歳は十五、並背(なみぜい)にて、いが栗の頭髮も思ひなしか俗とは變りて、藤本信如(ふぢもとのぶゆき)と訓よみにてすませど、何処やら釋(しやく)といひたげの素振なり。

違星北斗に思う その2

の続編である。

2022年5月6日 北海道文学全集 第11巻「アイヌ民族の魂」閲覧。日記より年表に補充する。


年譜 (違星北斗年譜より編集)

1901年(明治34年) 違星瀧次郎、余市町大川1丁目にて出生。家業はニシン漁であった。
祖父・万次郎は東京の開拓使仮学校付属の「土人教育所」に留学し、その後は開拓使の吏員となった。

違星の姓は、明治六年に名字を許されるに際し、「家紋」の “※” (違い星)を当てたが、役所でこれに「違星」(いぼし)の漢字を当てられた。北斗はこの姓を気に入っていた。

1908年(明治41年) 和人の通う6年の大川尋常小学校に入学。差別を受ける。

1914年(大正3年) 尋常小学校を卒業。いじめのため高等小学校への進学を断念し家業につく。

1917年(大正6年) 初めて家を出て、夕張で木材人夫になる。

1918年 足寄で鉄道工事の人足となる。このとき重病を患う(結核の発症?)
その後は余市付近での賃仕事に従事。

1923年(大正12年) 陸軍旭川第7師団に入営するが、1か月あまりで除隊。
直前に重症の急性肺炎を起こし入院しており、結核の増悪だった可能性がある。

1924年(大正13年) この頃、余市のアイヌ青年サークルに加わり文芸活動を行う。

1925年(大正14年)2月 東京府市場協会の事務員の職を得て、上京を果たす。(23歳)

金田一京助の元を訪ね、アイヌ文学者や研究者の知己を得る。

1926年(大正15年)8月 北斗、東京での生活を捨て、北海道での地位向上運動の展開を目指す。ここから日記が始まる

幌別のバチェラー八重子のもとに寄寓。その後平取に入り、バチラーの幼稚園を手伝う。

1927年(昭和2年)

1月 日雇い労働をしながら、日高のコタンを廻る。

2月 故郷の余市に戻る。ニシン漁に勤しむ。

4月末 病を得て、余市で療養する。

5月下旬 病が快方に向かう。自宅付近の大川遺跡を発掘、銅鏡や土偶を採集する。

7月 平取に戻る。バチェラー八重子の運営する教会・幼稚園にボランティアとして住み込む。
このときの歌が二首。
五十年 伝導されしこのコタン 見るべきものの 無きを悲しむ
平取に 浴場一つ欲しいもの 金があったら 建てたいものを

8月 ふたたび病勢が進む。日記で「自分の弱さが痛切に寂しい」と告白。札幌に出たあと、小樽から余市に戻る。

10月 短歌が『小樽新聞』など当地の文壇に受け容れられる。町内フゴッペ遺跡の評価をめぐり論争を挑む。

12月 再び余市を出て薬の行商人となる。ガッチャキ(痔)の薬を売る一方、各地で若者と対話。

1928年(昭和3年)

4月25日 北斗、千歳方面を行商中に喀血し余市にて闘病生活に入る。

1929年(昭和4年)1月26日 北斗、死す。享年27歳。

1930年(昭和5年) 『違星北斗遺稿 コタン』が希望社から発行される。


「違星北斗歌集 アイヌと云ふ新しくよい概念を」角川ソフィア文庫
という題名の本が最近出版された。電子書籍版もある。
角川 違星

【永久保存版!!】大谷翔平の高校時代、打って投げて守って半端ない!

というYou Tubeのページがある。
2年生のとき、春の甲子園で帝京に負けた試合、夏に大阪桐蔭に負けた試合が収録されている。
やはりすごい選手だ。しかしコーチの指導なのか変化球は横回転のスライダー、むかしの言い方で言えば「しょんべんカーブ」だ。これが相手チームの餌食になっている。
これが狙い撃ちされると直球勝負にならざるを得ない。直球勝負で肩に力が入ると球筋が荒れる。
そうなれば帝京も桐蔭も名門チームだから狙い球を絞ってくる。スライダーを呼び込んで強振するか、直球を右方向に跳ね返すかだ。
前者をやったのが桐蔭の森で、後者が日ハムで同僚となった帝京の松本剛だ。
このビデオからわかるのは、その日の状態に合わせてどちらかに的を絞った攻めを行うことしかない。
ぎゃくに言えば大谷の側で成績をあげようとすれば、安定してストライクが取れる切れ味するどい変化球、とくに縦系の変化球があれば無敵のピッチャーになるということだ。
逆に言えば、球のキレ(回転数)を上げない限り、スピードだけでは通用しないということになる。
それにしても、松本よ、一体どうしたんだ。これで終わってしまうのか。日本ハムの4番を打つのはあんたしかいないだろう。

寺井奈緒美の白秋歌論: 「共感覚」の動員

今週の「TANKAロード」

アカハタに隔週連載の歌人寺井直美さんの記事である。寺井奈緒美さんの連載が面白くて、ついひとこと合いの手を入れたくなる。

前回はブックオフの話だった。

今週は白秋の短歌論という思い切った切り口、これだけで本が一冊書けるほどのテーマだ。

しかし相手が短歌なのだから感想も短感でいいというのがおしゃれだ。
そうでなくても白秋論はとかくうっとうしい。

それで、それはともかく、出典が良い。寺井さんは白秋の「桐の花とカステラ」を読み込んで、金魚すくいの名手のようにさっと勘どころを掬いだす。

もともとの「桐の花とカステラ」というエッセーはちょっとかったるいのだ。それは、歌集「桐の花」の冒頭に置かれた、短いが一種の「詩論」である。

私はこのいつもの詩のやうになつた エッセイを、植物園の長い薄あかりのなかでいまやつと書き了へたところだ。

「白秋さん、ちょっと変だぜ」というくらい脳が暴走している。多分、躁状態だろう。

五月が過ぎ、六月が来て私らの皮膚に柔軟(やはらか)なネルのにほひがやや熱く感じられるころとなれば、西洋料理店(レストラント)の白いテエブルクロスの上にも紫の釣鐘草と苦い珈琲の時季が来る。

ここを切り取った寺井さんの感性はさすがだ。


条件反射と共感覚

寺井さんは、ここからさらに考えを進めて、「共感覚」という言葉を探しあてる。

本を読むというのは印刷された文字を見て、読んで、目と耳で味わう体験だ。その場合、「共感覚」とは、視覚と聴覚に、普段あまり使わない感覚、たとえば嗅覚とか味覚とか触覚とかを共鳴させることだ。あるいはその逆(déjà-vu)だ。

梅干しを見てヨダレが出るのは条件反射だが、そのまえに、梅干しを見て酸っぱいという感覚ー味錯覚が誘導されるから、唾液腺の収縮という反射行動が出るので、これが共感覚だ。

白秋はこの短文の中で、いかに視覚と聴覚に、触覚や嗅覚という「ナマの感覚」を連動させるかを力説している。変なところに力こぶが出てしまうから、文章としてはゴツゴツしてしまっている。多少の言い過ぎもある。

それを店じまいするための最後の一節が、「五月が過ぎ、六月が来て…」ということになる。

ということで、「白秋の短歌」の話は最後まで出てこない。

このままでは申し訳ないと持ったのか、最後に引用したのが次の短歌。

よき椅子に黒き猫さへ来てなげく初夏晩春の濃きココアかな

多分、寺井は歌集「桐の花」の全体をいじるつもりはなかったのだろう。

この膨大な歌集を金魚すくいのようにすくい取ることは、さすがにできない。やはり数十首は絡めて取り込まなければなるまい。

しかしそのときには、うなじに執拗に吹きかかる、白秋の生臭い吐息をも吸い込む覚悟が必要であろう。これが白秋に関する共感覚というものだ。



ジョン・ハートフィールドについて

こんな人は知らなかった。一応勉強はしておこう。

日本語版ウィキペディアにも一通りは記載されている。まずはそこから。

91年のベルリン生まれというから、2つの大戦にもろに引っかかった人だ。

父親は社会主義の著作家、両親ともに精神疾患を持っており養育不能のため、里子に出された。

ミュンヘン美術工芸学校に学ぶ。大衆美術を志しコマーシャル・アートを専攻する。

14年、第一次大戦で徴兵されたが、精神病を装い回避した。

16年ベルリンで出版社を立ち上げ写真を張り合わせるコラージュを生み出した。
heartfield nwspaper
     資本主義の新聞は読者の目や耳をふさいでしまう

その後ダダ運動に取り組む一方、コラージュによる社会風刺、批判を旺盛に展開した。

第一次大戦終了後の18年にはドイツ共産党に入党している。

第一次大戦後にフォトモンタージュの作家としてデビューした。当初は「組立工ダダ」と名乗ってダダイズムで名を馳せたが、ナチ台頭後はナチスへの批判に集中した。

heartfield Adolf


33年にナチスが政権を握るとゲシュタポに追われるようになり、イギリス亡命。

戦後ベルリンに戻るが、東ドイツ政府に嫌われ、10年以上活動を禁じられた。スターリン死後に活動を再開。68年死亡。

というところで終わり。いささか物足りない気分で、グーグル検索を続けてみた。
そこでぶつかったのが、次のサイト。

2015年03月10日 3分でわかるジョン・ハートフィールド 
「アートでナチスに闘いを挑んだ男、ハートフィールドの生涯と作品」という副題がついている。
そこの情報も上の年譜に突っ込んである。
とくに幼少時のエピソード、また自宅を襲ったナチの白色テロを逃れ、そのままイギリスに逃げのびたくだりは出色だ。
また画像資料がすごい。ここを読んだらリンク先に移動するようおすすめする。

また、たった1枚の画像が載っているだけのブログだが、この絵がすごく良い。
私が見ても、なにかウルッとしてしまうくらいだから、小林多喜二あたりが見たら涙ボロボロではないか。
russ

「新生ロシア」(社会主義の祖国)の宣伝用ブックレットのようだ。コピーしたが、発色が悪く鮮度も濁っている。元のページの絵でじっくり味わってもらいたい。
50年前、外来にそっくりの顔をした看護婦さんがいたような気がする。あるいは学生時代、セツルメントで一緒だった学生だったか。
反帝反ファッショ闘争を闘う者にとっては、「こういう国のためなら死んでも良い」という気分になったかも知れない。実はその頃すでに、つまらない独裁国家に成り果てていたのだが…






岩岡千景「鳥居 セーラー服の歌」
(拾った新聞で字を覚えたホームレス少女の物語)

こんな本を図書館で見つけて、つい読んでしまった。すごい迫力で、活字だから読めるけど、声に出して聞かされたら逃げ出したくなるでしょう。

ただ、それだけではだめで、作品としてもすごいのだ。それが一番なのだ。

それで申し訳ないが、岩岡さんの文章を一回置かせてもらった上で、埋め込まれた作品を取り出して、ばらして、半分位に絞って、ジャンル的にまとめ直した。
これだと彼女の歌の力が直接わかってもらえるのではないだろうか。
鳥居


自殺した友

消えた子の 語らざる声
とつとつと
指紋少なき 教科書にあり

あおぞらが 妙に乾いて
紫陽花が あざやか
なんで死んだの

真夜中の
樹々は切り絵に なりすまし
もう友のない 我にやさしい


養護ホームの生活

先生に 蹴り飛ばされて 
伏す床に
トイレスリッパ 散らばっていく

理由なく 殴られている
理由なく トイレの床は
硬く冷たい

まっさきに
夜明けの風の 宿る場所
屋上階に 旗はそよぎて

灰色の空 見上げれば
ゆらゆらと
死んだ眼に似た 十二月の雪

虐げる人が 居る家なら
いっそ 草原へ行こう
キリンの背に乗り


自殺した母

いつの日も
空には空が ありました
母と棺が 燃える 
真昼間

お月さま 
すこし食べた という母と
三日月の夜の 坂みちのぼる

対岸に 灯は点りけり
ゆわゆわと 泣きじゃくる我と
川を隔てて

全員が 花火の方を 向いている
赤・緑・青
それぞれの顔


授業

慰めに
「勉強など」と 人は言う
その勉強が したかったのです

音もなく 涙を流す 
我がいて
授業は進む
次は25ページ


心を病んで

キッチンの 蛇口の上で
首絞めて
逆さに 吊るし上げられた花

あいつらと 同じ血が
流れているなんて
ぞっとするだろう

夜の海に
君の重みを 手放せば
陶器のように 沈みゆく 首

セパゾンを
コートに 多く 隠し持ち
「不安時」の 文字
見られぬように

心とは
どこにあるかも 知らぬまま
名前をもらう 「心的外傷」


自殺を考える

これからも
生きる予定の ある人が
三か月後の 定期券買う

つらいこと ばっかりで
なぜ生きないと いけないのか?

書きさしの遺書 伏せて眠れば
死をこえて 会いにおいでと
紫陽花が咲く

すてきな夏服を もらったから
夏まで 生きてみよう
(太宰「晩年」より)



この文章を書いたあと、すこしネットで関連文献を探してみた。

それで見つけたのがこの文章。
式守 操 さんのHP(2020-09-26)から

あらためて感じたのは、私の読んだ本は、あくまで岩岡千景さんの著作、「鳥居 セーラー服の歌」であるということ。

式守さんの読んだのは鳥居の著作だ。これはどうしようもない。式守色をできるだけ取り除きたくて細工したが、やはりそれでは外形的にしかわからない。

例えば友達の死の瞬間を見つめた以下の三首。
カンカンと 警報知らす音は 鳴り続けて 友は硬く丸まる(紺の制服)

硬い線路を 脈打たせつつ 配管をめぐらす 鉄の車体近づく(同)

ぐんぐんと 近づいてくる 急行の灯りは 鉄の暴力となり(同)
これを除外した岩岡さんの意図はわからぬでもない。目を背けたいほど、脳みそが崩れてしまうほど生理的につらい。多分、人格が裂け、心が体と別れ、自分でないものが心を支配する、憑依的な精神現象が起きているのであろう。

同じことが、服薬死を遂げた母を、死の現場で見つめ続ける三首にも言える。
花柄の籐籠 いっぱい詰められた カラフルな薬 飲みほした母(キリンの子)

冷房をいちばん強くかけ 母の体は すでに死体へ移る(曲がり角)

いつまでも時間は止まる 母の死は 巡る私を 置き去りにして(同)
とりあえず、これ以上の引用は文意が崩れる。直接式守さんの文章を読んでほしい。
あと、ちょっと…、多くの歌を読み込んでいると、文体の揺れが気にならなくもない。


青空文庫より

違星北斗の「北斗帖」の最初の三首である。
はしたないアイヌだけれど日の本に
生れ合せた幸福を知る

滅び行くアイヌの為に起つアイヌ
違星北斗の瞳輝く

我はたゞアイヌであると自覚して
正しき道を踏めばよいのだ

この異常な前向きさが、曼珠沙華のようにいっぱいの毒を含んで美しい。

三首とは良く言ったもので、三つの生首が並んで晒されているような風情だ。しかも子細に眺めるとなにか笑みを浮かべているではないか。

このカラ元気のあと、数首をおいて真情が吐露される。
深々と更け行く夜半は我はしも
ウタリー思いて泣いてありけり
この「真情」はたんなる詠嘆ではない。薬売りの行商をしながら北海道中のアイヌ・コタンを歩き巡り、人々を組織しようとした、日々の終わりに吐いたため息なのだ。

それは自分のために流した涙ではなく、ウタリの暮らしを日々つないでいく、地の塩としての密かな決意なのだ。

その後数十首の短歌が並び、そのたびに強烈な素手のパンチとなって炸裂する。

旅は辛い。山頭火のレベルではない。
ガッチャキの薬屋さんのホヤホヤだ
吠えて呉れるな黒はよい犬

「ガッチャキの薬如何」と門に立てば
せゝら笑って断られたり

*慣れてくると自分を客観視できるようになる。
よく云えば世渡り上手になって来た
悪くは云えぬ俺の悲しさ

空腹を抱えて雪の峠越す
違星北斗を哀れと思う
(北海道で雪の峠を歩いて越すなど狂気の沙汰だ)
「今頃は北斗は何処に居るだろう」
噂して居る人もあろうに

それにしても貧乏は辛い。このひとの貧乏は混じりっけなし、いのちを脅かす。
めっきりと寒くなってもシャツはない
薄着の俺は又も風邪ひく

炭もなく石油さえなく米もなく
なって了ったが仕事とてない

それでもこの人はやせ我慢する。
感情と理性といつも喧嘩して
可笑しい様な俺の心だ

支那蕎麦の立食をした東京の
去年の今頃楽しかったね

無くなったインクの瓶に水入れて
使って居るよ少し淡いが

アイヌを見世物にする人への怒りと見世物になるアイヌへの、革命家としての悲しみ
白老のアイヌはまたも見せ物に
博覧会へ行った 咄! 咄!!

見せ物に出る様なアイヌ 彼等こそ
亡びるものの名によりて死ね

子供等にからかわれては泣いて居る
アイヌ乞食に顔をそむける

病よし悲しみ苦しみそれもよし
いっそ死んだがよしとも思う

ということどもすべてを含んで、なおも前向きに歌う違星よ!

1週間前の赤旗。寺井奈緒美という歌人の連載がある。「くねくね TANKA ロード」という、ちょっと冴えない題名で、山頭火をあつかっている。山頭火はクロウト筋の評価は高いようだが、正直あまり好きな歌人ではない。

文章の最後に、何気なしに正月を歌った自詠が置かれている。
正月の集まり 嫌で抜け出した君と
会う気がする ブックオフ
字余りなのか字足らずなのか、そこは山頭火風に崩れている

おトソが回って、ほろ酔いと言うにはいささか酩酊…
言葉の節目がおぼろげで、
雰囲気だけが足より前に、ゆらーり、ゆらーり

だから、「君」は彼なのか、彼女なのかもあいまいだ。

この歌には句点がないから、
私は「君と」のあとで区切った。
だから君は彼だ。
私はブックオフで彼を待っている彼女だ。
正確に言うとブックオフに一人いて、
ふと、彼がふらりと入ってきそうな気がしている彼女だ。

この歌をすなおに五七五七七で読めば、「抜け出した」で切れる。
屈託を抱いたまま、酔い醒ましにフラフラと歩いていて、
ふと街角のブックオフに入った。
立ち読みしているうち、突然君が現れたような気がした…
ということになる。

しかしそれでは身もフタもない。
やはり主語がフラフラと定まらぬところに余韻が残る
その場合、駅前の紀伊国屋も大学前の古書店もだめなので、
まさに中途半端、まさに「ザ・ブックオフ」なのだ。

ところで、詠みびとが女性だから何となくそう書いたけど
ブックオフで、一人立ち読みしているのは
ひょっとして彼かも知れない。
そのほうがお互いに
すこし正月らしく、秘めやかにハメを外した気分だ。

とにかくなんとなしに、
うなぎのようにヌラヌラとした歌だが
それも、お正月の気分かもしれない

なにか、これを毛筆風のポスターにして
ブックオフのカウンターの脇に張り出してみたいな。


1月3日の「赤旗」に載ったちばてつやの随想。
とても良いので、多分著作権絡むと思うけど、全文転載する。

ちばてつや
画面の上を左クリックすると拡大されます。

翻訳者は裏切り者

「翻訳者は裏切り者」(traduttore-tradittore)という一種の箴言みたいなものがあって、翻訳業界ではよく口にされるようだ。

英語では “translator is a traitor” ということになるが、これではあまり面白くないので、わざわざイタリア語で表現する。それも翻訳家っぽい。

ネットで見ても様々な専門家の先生が御高説を披露されているが、「それで、あんたはどっちだい」という疑問に答えている人をとんと見ない。

例えば聖パウロなんかはヘブライ語をローマ語に訳した翻訳者でもあり、イエスの教えを伝えた伝導者でもあったし、予言者キリストの言葉を通じて人の道・信仰の道を教えた伝道師でもある。弾圧下のローマから逃げ出そうとした、文字通りの「裏切り者」となりかけてもいる。

それのどこに重点を置くかで翻訳事情はいろいろ変わってくる。それを「裏切り」と讒言されても、ちょっと…

私なんかはシロウトだから、思いっきり裏切っている。わかり易けりゃいいんだといって、難解なところは平気で飛ばす。なぜなら「本人が一番訴えたいことは誰でも分かるように話すはずだ」という信念を持っているからだ。ときには「本人がそこまでは言ってないだろう」という書き加えまでしている。

むかし医学書院から看護の教科書(ナースのための循環器患者教育マニュアル)を翻訳出版した。「よく練った訳文ですね」と褒められたが、聞こえなかったふりをした。おかげで結構売れた。

たしかに私は裏切り者の最たるものだが、「裏切る」とも「裏切らない」とも言わずに「ハイデッガーがどうした」などと講釈を垂れているような人々は、もっと愚劣だなと思う。

翻訳家というのは自分の気配を消して影に徹するのだと言われれば、それまでだが。

真田十勇士というのはなんで覚えたのだろうか、どうも記憶がはっきりしない。
ふと三好青海入道というのが口の端に浮かんできた。まぁ猿飛佐助だが、あとはかろうじて霧隠才蔵、それに三好清海入道にはたしか弟がいたよな、というあたりで記憶はぷつっと切れる。
たぶん東映映画で憶えたんではないかと思うのだが、どうもそんな映画を見た記憶がない。これが里見八犬伝だと、なんか天守閣の屋根で錦之助と千代の介が見えを張っている場面が思い出される。ただしこちらの方は犬山とかいう名前がさっぱり思い出せぬ。どうも困ったものだ。
困ったときはウィキペディア。とりあえず真田十勇士をあたってみる。
十勇士の名前は猿飛佐助、霧隠才蔵、三好清海入道、三好伊左入道、穴山小助、由利鎌之助、筧十蔵、海野六郎、根津甚八、望月六郎の10人。ただし下の方は別バージョンがあるらしい。

真田十勇士はいずれも明治になってからの講談の創作のようだ。江戸後期に真田昌幸・幸村らが徳川家に抵抗する物語が『真田三代記』として語られるようになり、その中のサイドストーリーとして十勇士らの物語が挿入されたらしい。
面白いのは、最初の頃は霧隠才蔵が主役で、猿飛はあとから挿入されたまったくのフィクションらしいということである。

最初に猿飛佐助が出てくるのは1914年(大正3年)の立川文庫『真田三勇士忍術名人猿飛佐助』からであり、その後も主役の座は安定しなかった。
「真田三勇士」というのが当初の触れ込みで、顔ぶれは由利鎌之助と霧隠という具合。霧隠は今も猿飛を凌ぐほどの人気を博している。

映画で見た記憶だが、ウィキによると『真田十勇士 忍術猿飛佐助 忍術霧隠才蔵 忍術腕くらべ』(1954年 東映)というのが該当するようだ。私としてはまったく憶えがない。
いずれにしても猿飛というキャラにまったくリアリティーがないのは確かである

まぁ、どうでも良いが…

分かった!

映画のことなど憶えていないわけだ。

私の真田十勇士の記憶は少年画報に連載された杉浦茂の「真田十勇士」という漫画が源泉だ。「オール・ザット・十勇士」というサイトに詳しく触れられている。

猿飛佐助は信州鳥居峠の麓に生まれ、山中で猿と遊び暮らしていた。忍術の大名人戸沢白雲斎に教えられ、免許皆伝となる。巻物をくわえ、手で印を結べばたちまちドロンと姿が消えるという忍術の達人。これはどうも怪傑児雷也のパクリではないか。幸村のもとで諸国探索を言い渡され、三好清海入道と珍妙な道中を繰り広げる。
霧隠才蔵は浅井長政の侍大将霧隠弾正左衛門の遺児。伊賀流忍術の百々地三太夫に師事する。猿飛佐助と忍術比べで負け、弟分となり真田幸村に仕えることになる。
そうだ、そうなんだ。このときの刷り込みがもとで。甲賀は伊賀より強いという固定観念が出来上がったのだ。

俺の思想的ベースは杉浦茂だったのだ!
考えてみれば赤胴鈴之助も、途中からは武内つなよしだったけど、始まりは杉浦茂だったし、イガグリくんも杉浦茂だった(と思う)。


ウィキによると、上記のイガグリくんの記述は記憶違いでした。私は少年画報読者だったので、冒険王は従兄弟の家で読んでいたと思います。昭和28年の小学校入学なので、最初の1年は読んでなかったのかもしれません。

秋田書店の『少年少女冐險王』に1952年3月号から1954年8月号まで福井による執筆作が連載されていたが、福井が過労によって34歳の若さで急逝。有川旭一が正式に作品を引き継いで連載を続けた。

少し少年画報、冒険王、少年クラブについては記憶違いを修正しておきたいと思います。

それにしても、「手塚学」というのはすごいですね。「マンガ学」の一大分野を形成している。読んでいて嬉しいのは、私小説を書いていた小説家たちの無頼・露悪傾向に比べればはるかに健全だということです。
私の子供の頃の記憶をたどるなら、子供漫画界の座標軸を説得力をもって示していたのは馬場のぼるだろうと思います。彼らは絶えず子供を見つめて、子供の先に未来を見据えていました。同じ漫画家でも「漫画読本」で大人向けお色気漫画を書いていた連中とはまったく違います。

シャボン玉

この歌を作った野口雨情は、小樽の新聞社に勤めてたそうです。
明治41年(1908)の3月に長女が生まれたのですが、生後8日で風邪をこじらせて死んでしまったのだそうです。

歌詞が出来上がったのは、それから十数年経ってからのことだそうですが、シャボン玉というのはこの女の子のことなのだそうです。

最初に浮かんだ歌詞は一番ではなくて、二番の方だったかも知れませんね。

シャボン玉 消えた
飛ばずに消えた
生まれて すぐに
こはれて消えた

この歌詞を鎮魂のフレーズだとすると

風 風 吹くな
シャボン玉 飛ばそ

と上を向いて歌う、密かな潔さがしみじみ感じられます。


啄木ほどではないが雨情も、伝記を読むと本を投げ飛ばしたくなるほどに醜悪な生き方だ。とくに北海道時代の貧乏暮らし、自堕落な博労もどきの生活には辟易とする。有島の「カインの末裔」を地で行っている。
よくわからないが、これが自然主義文学なのだろうか。




図書館でなんのつもりか短歌の書棚に立ち止まってしまった。
「北二十二条西七丁目」(田村元)という歌集があって、何気なしに手にとってパラパラとめくって、いったん書棚に戻しそのまま行き過ぎたのが、なぜか後ろ髪ひかれる。
結局、借り出して読む羽目になった。
奥付を見ると、77年群馬の生まれ、北大で学生生活を送ったあと、東京で就職。そのままサラリーマン生活を送っているようだ。
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表紙の色さながらに薄雪模様のさらりとした歌風だが、その範囲内で、年齢とともにしみじみ感がにじみ出てきて、味わい深いものがある。

一度通読して、今度は後ろから読んでいくと、これが意外に趣が深い。

いくつかお気に入りをあげておく

しづもれる 空気がありて
昭和へと つながってゐる
乾物売り場

鎌倉で 飲もうよと
妻にメールして
「了解」とのみ 返信を受く

行ったことがないのに
とても懐かしい
友がふるさとと 呼んでゐる町

旧姓を
木の芽の中に置いて来て
きみは小さくうなづいてゐた

春の雨 われを包んで
われをややはみ出しそうなものを
ゆるして

たむらくん
根暗だよねといふことば
轍のように思ひ出します

こんなにも 冬の日差しが明るくて
寂しさの底に
ふるさとはあり

われのみが 「少し太った」
それ以外
変はらぬままの同期三人

この街のどこか
まばらに梅の咲く
登り詰めたき坂道がある

「あってはならない」こと
あまたある世の中に
酒があってもよくて良かった

帰り来て靴を脱ぐとき
ドアノブに立て掛けておく
ななめな気持ち

「上げない」ことにした案件が
消しゴムの角で
小さく丸まってをり

雨を見て 雨の向かうの東京は
見て見ぬふりをして
シャツを取り込む

彼が下宿したのが北22西7で、私はその30年前に北20西6に下宿していた。

そして彼は学問と彼女に未練を残しつつ、「平地に糧を得るもの」となった。
一時はかなり鬱々とした時を過ごしたらしいが、伴侶を得て穏やかさがめぐってきたようだ。

小松菜奈が見たくて、映画「糸」を見に行きました。かなり客は入っていましたが、それでも満員には程遠い状況でした。

そのためか、入場料が1700円に上がっていました。映画の前に行った床屋さんも200円上がっていました。映画はともかく、床屋さんの値上げは賭けみたいなものです。それまでの値段も相当割高だと思っていましたから、年金ぐらしの年寄客は一気に減ると思います。

それはともかく、

映画は、一言で言えば駄作です。小松菜奈ファンからすれば、ずいぶん金をかけていることは分かるのですが、それが小松菜奈を引き立てる方には役立っていない。
出てくる場面は多くても何やら印象がまったく定まりません。怪人二十面相ではないが「結局、どんな人だっけ?」という感じです。展開は安易で場当たり、伏線ゼロで個々のエピソードも紙芝居のように陳腐です。
それに引き換え主人公の男優の年上の妻は、まことに魅力たっぷりです。ネットで調べたところ榮倉奈々さんというらしい。
とはいえ、こちらはサイドストーリーなので、一体なぜ、彼女が主人公を好きになったのかは一切省略されています。

10回ものの連続テレビドラマの「総集編」というと分かってもらえるでしょうか。
ひたすら筋が混み合って、やたらと役者が多くて、泣かせどころはくどくどと引っ張って、要するに脚本がなっていないのです。だから結局のところ何を言いたいのかさっぱり見えてこない。

なにかむかしの東映の正月映画「赤穂浪士」を思い出してしまった。オールスターの顔見せだから、出演者に粗相の無いように、忖度、忖度。ただし赤穂浪士は、筋はみんな知っているからいい加減でもよいが、こういういかにもありがちな筋を雑然と連ねたんでは何も印象に残らない。

小松菜奈のイメージを大事にしまっておきたい人なら、見ないほうがいいのではないでしょうか。男役の俳優が好きな人なら、ぜひ見たら良いでしょう。榮倉さんファンならなおさらです。いま目をつぶったら榮倉さんの顔しか出てきません。

なお、斎藤工がなかなかかっこよかったことも付け加えておきます。死んだカミさんのお気に入りでした。こちらの話をもっと膨らませてもらったほうが、よほどリアリティのある脚本になったのではないでしょうか。


息子がアマゾンのビデオ・チャンネルを登録して行った。クレジット会社の通知を見たら毎月結構なカネが徴収されている。
しょうがないから見ることにした。
最初に見たのが「わたしを離さないで」という連続テレビドラマ。綾瀬はるかの主演だというので見はじめた。

* 恋愛ドラマというには結構きつい

4年くらい前のドラマだが、中身は恋愛ドラマというには結構きつい。よくこんな番組を民放で作ったものだ。
一種のSFで、iPSから作られた人間が生体移植用の材料として使われる、彼らには普通の人間と同じ人格が備わっているが、唯一自分の生死を自分で決められないという問題がある。というより、家畜と同じでいつ臓器を取られても良いし、その結果死ぬことは当然のこととされる。

つまり人格はあるが人権はないということになる

浮世離れした非常に危うい設定だから、話はどんどん観念的かつ悲観的になっていく。最後は、「これは俺たちのことではないだろうか」という気になってくる。そしてみな死んでしまうことになる(のだろう)…

ドラマでは綾瀬はるかの相手役の男優が非常にうまい。あまりうますぎて、時々「この人、気は確かなのだろうか」と思ってしまうくらいだ。眼に一種の狂気が宿る。
三浦一馬と言って、最近自殺してしまったらしい。

ただ陽光学院の先生方がまったく書き込まれていないので、背景がよくわからないまま筋が突っ走っていく、これだけ長丁場のドラマなら、もう少し脇の筋も描かれるとぐんと厚みが増してくるのだろうが、ただでさえ捻りまくった設定が、ますますねじれてわからなくなるかも知れない。 

* イシグロが書いたのだそうだ

うかつにも見逃したのだが、あとでネットで調べたらこのドラマの原作はイギリスの作家イシグロのものなのだそうだ。

イシグロは日系二世で、このドラマの前後にノーベル文学賞をとった。この作品はイギリスでベストセラーになったのだそうだ。

そう言われて、あらためて考え直すと、このドラマはロボット人間の葛藤劇というだけではなく、それを利用する側の人間もふくめた一種のディストピア社会なのだ。

その中で健気に生きる、一群のロボット人間たちによる、ひとつのビルドゥングスロマンなのだ。そう考えると、この設定は決して突拍子もないSFではない。

かつて戦前から戦中の若者は、天皇の名において社会から死を強要された。生まれた瞬間から死が運命づけられていた。その中で若者たちは喜び、悲しみ、成長していった。ある日突然召集令状が来るまでは。

ドラマとの違いは、その運命と、その死がもてはやされるかどうかの違いでしかない。ウソがてんこ盛りにされた社会からそれらを剥ぎ取れば、それはまさに無残な社会だ。

あるいはアフリカの途上国の人々だ。彼らの生や死は、常にスコップ一杯の生や死として扱われる。50万、百万の死をテレビで聞きながら、私たちはそれを露ほどにも受け止めず弁当をひろげ、お茶のペットボトルに口を当てる、

ただイシグロは、その冷厳な現実を突き出すだけでなく、その中にも生きている意味を掴み取ろうと必死にもがきつづける、人間の生の力強さをも描き出そうとする。そこに若者たちの共感を得ようと訴えている。

とにかく一度ご覧になるようおすすめする。アマゾンプレミアというところに申し込むと見ることができる。中身からすれば契約料は決して高くない。設定は面倒っぽいが、若い人ならやってくれるだろう。
相当ヒマな人でないと見れないだろうが…


の再読をお願いします。上演時のポスター写真が見つかりました。
ゼロの記録

「素顔  長渕剛」


youtube で何かを探していて、たまたまこの曲にあった。
すごくいい。とくに1番の歌詞が男のくせに良い。男だから良いのかもしれない。
2番の歌詞と合わせ鏡になっているのだけど、2番はなくてもいいような気がする。
そちらの方に膨らませてしまうと、何か違うのではないかという気がする。
長渕剛という作り手が気になって、You Tubeで聞ける曲を片っ端からあたってみたが、
ひたすら「何か違うのではないか」という感じが膨らんできて、
最後には、「ちょっと違う人になってしまったね」ということで、
とりあえずお仕舞。
これは井上陽水のときにも同じように感じたこと。
クリップボード一時ファイル01素顔

おまけだが、この曲をアップしてくれた人がつけてくれた写真がとても良い。
ひょっとしてこの写真に欺されたかもしれない。

松たか子

本日、パラサイトを見てきた」というのが、2月20日の記事。
実はそのときに気になったのが、上映中の映画のポスター。
「ラスト・レター」というのだ。

松たか子と広瀬すずの共演というか競演。いまを盛り、いずれアヤメかカキツバタ、もうこれは見ないと辛抱たまらない…

とは思ったのだが、さすがにジジイが一人で行くのには気が引ける。
どうしようかと悩んでいたが…、緊急情報!

上映中 / 2月27日(木)上映終了予定

出船を知らせるドラの音が響き渡る。

上映時間は?
なんと1日1回、21時10分から23時20分まで!

しょうがないから行ったのさ、一人で
夜霧の立ちこめる湿原のブラックアイスバーンを突っ切って、江別まで

で、どうだったかって?
おい、夜中の1時にこの記事を書いているんだぜ、

とにかく広瀬すずがきれいだ。うっとりする。美人ではない、可愛いいというのでもない、とにかくきれいなのだ。わかる? この表現…

多分、監督の腕の冴えなのだろう。

これがないと映画じゃない。映画というのはまずこうでなくちゃいけない。

これはこれですごいんだけど、この映画で一番キラキラして魅力的なのは、妹役の女優さん。
七菜

森七菜っていうんだそうだ。
出し惜しみして、ほとんどまともに顔を拝めないまま映画が終わってしまう。これも監督の演出なのだろう。松たか子と広瀬すずさえ写っていればいいのだ、この監督には…

とにかくいい映画だった。筋はどうでもいいのだが、ちょっと「エフゲニー・オネーギン」っぽい。

客はわたしひとり、と思ったらタイトルロールが始まる頃飛び込んできた、中年のおっさん。

とにかく劇場の銀幕を独り占めだ。
極楽、極楽!


本日、パラサイトを見てきた。
それまで8番か9話でやっていたのが、アカデミーとったら大きい3番に昇格して上映回数も増えた。
それで見終わった感想といえば、「ウーム」ということになる。
いかにも韓国映画らしい、やや強引だが力でグイグイ押してくる映画だ。
どうしても是枝監督の「万引き家族」と比較してしまうのだが、一言で言えば「艶」がない。艶がないから余韻が残らない。なぜだろうと考えて、やはり4人家族の個性が描けてないことが弱点なのではないかと思う。
映画館を出たあと役者の顔が思い浮かんでこないのである。4人が4人とも薄っぺらい。特におっかさん役がまったく無個性なのが家族全体の印象を希薄にしている。樹々希林とは雲泥の差だ。おっかさん役のキャラで言えばむしろ安藤サクラが相当するのだが、難しい役を見事に実在感を持って演じていた。そこはかとなく色気さえ漂わせていた。
ネタバレになるが、おっかさんが元の女中を蹴っ飛ばして死なせてしまう、あの一瞬はこの映画の肝なはずだ。おっかさんが描けていないから、あのエピソードがまったく生きてこない。
最後はタランティーノばりの血しぶきとなるが、どうもあそこまで行くと引いてしまわざるを得ない。
総合的に見れば万引き家族のほうが数段上だ。
スラムを漫画チックに突き放しているのも違和感がある。私は25年前、北海学園の加藤先生に連れられてソウルの山の上のスラムを訪れた。たしか月見丘と言ったのではなかったか。彼らは朝鮮戦争の頃、北から逃れてきた人たちで、そこはいわば難民キャンプであった。彼らはただ貧しいだけではなくピンミンとして差別されていた。彼らはとても優しくて、ひっそりと、豊かではないが穏やかに暮らしていた。
だから、彼らを相対的貧困層というのではなく、パラサイトと呼ぶのにはなにか強い抵抗を感じてしまうのである。
率直に言って、韓国映画にはもっといいのがたくさんある。あえてこの映画を社会風刺だとか、反差別だとか、あれこれと深読みしなくてもいいのではないだろうか。


本日の赤旗に掲載された記事。
再来年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の紹介である。
三谷幸喜が発表記者会見で披露したのが「ひかわなにお ほほはあみあみ」という呪文。
詳細は記事を読んでいただきたい。
三谷は「試験に出ます!」と会場を笑いの渦に包んだらしいが、赤旗にはそのくだりはない。
主人公が悪漢というのが面白い。三谷のことだから、シェークスピアもどきのハチャメチャになっていくのだろう。
筋立て命の芝居になるのだろうから、あまり時代考証で画面をこ汚くしないでほしい。
いっそのこと「ひかわなにお ほほはあみあみ」を題名にしてしまったらどうか、とも思う。それまで長生きするとするか。
三谷
 画面をクリックすると原寸大になります。

の再解読

すみません、いくつかの事実が判明し、根本的な訂正が必要になりました。

* これは有名な写真の後の写真です。1枚目の写真を撮ったあとに三吾さんが帰ってきたんですね。三吾さんはよそ行きの格好をしているので、演奏会が終わって帰ってきたところではないでしょうか。
多喜二通夜3
その肩を掴んでいるのが江口渙です。鹿地亘は引っ込めばいいのに座ったままです。

ちょび髭は姉夫婦と書きましたが間違いです。これは小林本家の方です。その前の女性はその奥さんでしょう。姉は近所でも評判の美人だったようで、後の写真のうりざね顔とはまったく異なるようです。

姉夫婦は小樽にいましたから、飛行機でもなければ到底間に合いません。それに背負っていた赤ん坊は姉夫婦の子供ではなく、妹(幸田)の子でした。

妹の子が居た理由があまりにも突飛だったので、そこが思い浮かびませんでした。

ということで、文章を再アップします。

既発の有名な写真(以下写真A)と同じアングルでほぼ同時に撮られたものと考えられる。前列右端の原泉と後列左の小坂多喜子が、2枚の写真の両方に同じ位置で写っているからだ。その差は数分程度と思われる。
これまで写真Aの撮影者は「貴司山治あるいは『時事新報』のカメラマン前川」とされていたが、これで貴司山治の撮影であることが確定された。

ここはまったく正しい。

おそらくその時に小林家に到着したのが鹿地亘、千田是也らであったろうと思う。彼らは上野壮夫(小坂の夫)とともに遺体の枕元に座り、腕組みして遺体を見下ろした。そこで貴司が二度目のシャッターを押した。

これはむしろ逆の可能性がある。

貴司は鹿地亘、千田是也らと同時に小林卓に到着した。彼らが遺体を囲んでいる間に貴司はカメラを三脚にセットした。

そしてとりあえずとったのが写真Aだった。

その時三吾が帰ってきて、セキと並んで枕元に座ったのが写真Bだろう。デスマスク取りや写生はその後始まった。

それでその前の話だが、最初に来たのは寝台車である。セキと孫(多喜二の妹の子)に小林本家の旦那(おそらくその妻と)が登場していた。
その後ろをついてきたタクシーに乗っていたのは江口渙と安田医師であった。安田医師とセキの二人で死体検案を開始した。

そこに百合子・稲子らのグループが合流した。多分壺井栄、若杉鳥子も居たと思う。

検屍が終わり安田医師と百合子・稲子らのグループが退席した。

これと入れ替わりに時事新報社の車がやってきた。下帯姿の多喜二の遺体を撮影したのは時事新報のカメラマンであったろう。

ここにはふじ子が居て遺体に抱きついたり号泣したりと騒いでいる。これを見ていたのは小坂多喜子夫婦である。百合子・稲子らのグループは見ていない。

時事新報社のカメラマンは写真を撮るなり帰った。上野によればふじ子は「いつの間にか帰った」ことになっているが、時事新報社の車に同乗した可能性が高い。

そして百合子グループもふじ子と時事新報も居なくなったあと、貴司、原、鹿地、千田らがどやどやとやってきて写真を撮った、という経過である。

それで前列左端の女性であるが、タキさんの可能性は低い。セキが連絡を取らない限りタキさんは来れないが、セキにそのような暇はなかったと思われる。

そこで私の文章だが、

下記の経過表から見て(多喜二の)姉ではないかと思う。姉は絶対来ているはずだ。セキさんが背中におぶったまま築地まで行った、その孫は絶対に引き取らなければならないからだ。そのとなり性別不明の人物は姉の旦那と考えたい。

と書いた。
これがまったくの見当違いであることが、今回分かった。

それが最初に書いた文章である。

私は姉夫婦は東京に住んでいたのではないかと考えた。セキの背負っていた「孫」が誰かを説明するにはそれしかなかったからである。

しかしそれは思い込みだった。セキさんがとんでもないウルトラCをかましていたのである。

いろいろあるのだが、結局、小樽の家は住む人が居なくなって、妹が嫁に行った幸田家が引き取ることになったのである。

姉は結婚して佐藤になって家を出て、朝里に住んでいた。

幸田家は商いをやっていて、子沢山でなかなか面倒が見きれない、ということになった。そこでなんとセキさんがその一人を引き取って東京で面倒を見ることになったのである。

つまり、たまたま娘が忙しいから子守をする、というレベルではなく、里子を育てている状況だったのだ。どうもこのおっかさんやることがスケールを外れている。

ということで、私の当て推量はとんだ間違いだった。

それではこのちょび髭は誰かと言うと、秋田の小林本家の旦那なのである。

これがこの「母の語る 小林多喜二」のだいじなポイントだ。

セキさんというのは火事場で知恵が働く人で、多喜二の遺体を身請けするには、戸主の了承が必要だと分かっていた。そこでたまたま東京に居た本家の旦那に無理を言ったのである。

田舎の人は律儀な人で、もう秋田からすっかり足を洗ってしまった多喜二の面倒を最後まで見てくれたのだ。

この2枚の写真は、戯曲の台本の1ページのように、それらの事実を鮮やかに描きつくしている。




以下は

2017年05月16日  多喜二の通夜 時刻表  の追補版である。
追補分は、小林セキ(述)「母の語る 小林多喜二」(新日本出版社 2011)からの採録である。

きわめて貴重な資料である。読み始めでは編者の独特の表現がやや気になるが、終戦直後(1946年2~4月)にセキさんの「懇願」により行われた聞き取りの文章化であり、やっと真実が語れるというセキさんの思いがひたひたと伝わってくる。

私にとって最大の驚きは、セキさんがふじ子と面識があったということである。

私はその婦人の方の名も知りませんが、いつか阿佐ヶ谷の家へ原稿料なぞ届けてくださって、こっそり多喜二の消息なぞ伝えていただいた方がそれではないかと思います。

短い期間ながら、しかも日陰の生活をしながらも、多喜二を愛してやっていただいたかと思えば、その方に心から御礼を申し上げたいのでございます。

これは第一次原稿には入っていない。最初は黙っているつもりだったのだろう。しかしその後、平野謙がゲスの勘ぐりをやったために、2年後の再聞き取りと第二次原稿作成の際に付け加えたのであろう。
“日陰の生活”とか“愛してやっていただいた” なんてセリフは編者の思い入れだろう。だがセキさんが彼女の真意をしっかり理解し配慮していたことは間違いない。
だから、狂乱するふじ子を見ても驚かなかったし、そのことは明かさずに終えたのであろう。
しかし、二人の間に「大恋愛」があったことも知らなかったし、「原稿料」が本当に原稿料なのかどうかも知らないままだった。


2017年5月16日

以前、昭和8年2月21日の動きを時刻表にしたことがあり、探したが、どこやらわからぬ。いろいろ探して、ここにあるのを発見した。


2月20日

正午 多喜二、赤坂で街頭連絡中に捕らえられ、築地署に連行きれる。

午後5時 多喜二、“取調中に急変”。署の近くの前田病院の往診を仰ぐ。(江口によれば午後4時ころ死亡)

午後7時 前田病院に収容したが既に死亡していることが確認される。“心蔵マヒで絶命”とされる。

2月21日

正午ころ 東京検事局が前田病院に出張検視し、死亡を確認。

午後3時 警視庁と検事局、「多喜二が心臓マヒにより死亡した」と発表。ラジオの臨時ニュースと各紙夕刊で報じられた。ラジオ放送の直後に動いた人々は…

築地署: 大宅壮一、貴司山治、笹本が築地署にいち早く駆けつけ、当局との交渉にあたる。

前田病院: 築地小劇場で事件を知った原泉が前田病院にかけつけた。「遺体に会わせろ」ともとめた。警察は面会を拒否し、原とはげしくもみ合う。警察が原を拘束する動きを見せたため、大宅壮一と貴司山治が仲裁に入る。救出された原泉と大宅らは築地小劇場を基地とし、各関係者と連絡を取る。
原泉(1905年生。プロレタリア演劇研究所に入所し女優として活躍。夫は文学者中野重治
警察が原を拘束する動きを見せたため、大宅壮一と貴司山治が仲裁に入る。救出された原泉と大宅らは築地小劇場を基地とし、各関係者と連絡を取る。

馬橋: 多喜二の母セキは杉並区馬橋の自宅にいた。ラジオを聞いた隣家の河面さんという主婦から知らされた。(夕刊という情報もある)

多喜二の家は馬橋3丁目375番地。部屋は8畳、6畳、3畳の3間に、台所のある一軒家。周囲には菜園、竹藪もあった。31年にここを購入し、母セキ、弟三吾の三人で暮らしていた。

隣家は河面さんという夫婦。夫が大学の教師だった。

セキは河面さんに小林本家(本籍は秋田だが、当時東京に在住)に連絡を取るよう依頼した。三吾は外出中で連絡つかず。セキは預かっていた二歳の孫をネンネコでおぶると、ハイヤーを雇い築地書に向かう。

セキが負うていた孫は多喜二の妹、幸田つぎ子の長子である。当時、幸田一家は小樽の小林実家に住んでいたが、家事多忙のため在京のセキが預かっていた。

江口は吉祥寺の自宅にいて、配達された夕刊で多喜二の死を知った。築地署前の大宅壮一からの電話があり、「馬橋のセキさんを伴れて築地署へ来い」と言われた。ただちに馬橋に向かうが、すでにセキは出発後であった。阿佐ヶ谷から省線でそのまま築地署に向かう。

夕方 


都内各所に夕刊が配達される。配達の直後に動いた人々は…

築地署: 無産者弁護団の青柳盛雄弁護士らが、遺体との面会を要求するが拒否される。

江口渙、佐々木孝丸、大宅壮一らプロット関係者20名余りが前田医院前に集結。さらに連絡を受けた安田徳太郎医師もやってきた。

午後6時半 セキが築地署に到着。「多喜二の母です」と申告し特高室に案内される。特高室で「なぜ知らせなかった」と抗議。

この時遺体は署の近くの前田病院に安置されていた。当初、警察はセキを二階の特高室に閉じ込め、なかなか会わそうとしなかった。

午後7時30分 親戚の小林さんが築地署に駆けつけ、身元引受人となる。遺体の引き取りが決まる。

遺体の引き取りには身元引受人が必要であり、それには戸主(男性)であることがもとめられていた。三吾の行方はまだつかめなかった。

小林さんは秋田の小林一族の本家にあたる人。当時は東京に在住しており、セキは日頃から連絡をとっていたと思われる。

百合子グループ: 上落合の中条百合子宅で窪川稲子も同席して夕食の最中、夕刊で事件を知った。(夕刊配達は6時ころであろう)
推測では、東中野在住の壺井栄と連絡を取り、中央線中野駅で集結し阿佐ヶ谷に向かったものと思われる。

当初の記載で、中条家を下落合としていたが、上落合の間違い。土地勘がなくて誤解していたが、上落合というのは西武線の下落合とはだいぶ離れていて、どちらかと言えば中央線の東中野に近い。したがって歩いて東中野に出るのがもっとも早い。


午後9時30分

セキが前田病院で遺体と対面。この時セキと同行したのは、作家同盟の佐々木孝丸、江口渙、大宅壮一。青柳盛雄ら3人の弁護士。医師の安田徳太郎。(9時半は遅すぎる。すでに警察の手は離れており、前田病院としては一項も早くお引取り願いたい人たちだから、8時ころには動き始めても不思議はない)

午後9時40分  大宅らの雇った寝台車が。遺体とセキ+孫、親戚の小林さんを載せ前田病院を出発。

午後9時40分 江口、佐々木がタクシーで寝台車の後を追った。同乗者は藤川美代子、安田医師、染谷ら4人。

午後10時

百合子グループ: 阿佐ヶ谷に着いた3人(おそらく8時ころ)は、若杉鳥子の家に落ち着いて情報収集にあたった。前田病院から、すでに寝台車が出発したとの情報を受け、多喜二宅に向かう。

稲子は「すでに多喜二宅前には10人ほどが集まっていた」と書いてあるから、そちらにも視察に行ったのであろう。ただし稲子の回想には矛盾が多い。鳥子家を利用するという「良案」を誰が考え出したのかは不明。

前田病院に電話したのは稲子で、彼女は阿佐ヶ谷から西武線の沿線(鷺ノ宮駅?)まで歩いて街頭から電話したというが、片道30分もかかるのでありえない。

10時ころ 遺体が小林家に到着した。ほぼ同時に江口、安田らのタクシーも到着。小林家では近親や友人達が遺体を待ち受けていた。

出発及び到着時刻は川西の記載によるものであるが、築地から阿佐ヶ谷までわずか20分で着くとは到底思えない。築地の時間が正確だとすれば、到着は早くとも10時30分ころと思われる。築地出発がもっと早い可能性もある。

小坂多喜子の回想: 小坂多喜子と夫の上野壮夫は車に僅かに遅れて到着した。

どこからか連絡があって、いま小林多喜二の死体が戻ってくるという。

息せききって…走っている時、幌をかけ た不気味な大きな自動車が私たちを追い越していった。…あの車に多喜二がいる、そのことを直感的に知った。

私たちはその車のあとを必死に追いかけていく。 車は両側の檜葉の垣根のある、行き止まりの露地の手前で止まっていた。奥に面した一間に小林多喜二がもはや布団のなかに寝かされていた(小坂は最初から最後まで、比較的冷静に事態を観察していた人物であり、その証言は座標軸として貴重だ)

小坂と上野
       小坂と上野
セキの「ああ、いたましい…」のシーンがあった後、セキが服を脱がせ安田が検視を開始する。
その間に、江口、佐々木らが本家の小林さんと今後の措置につき打ち合わせ。


午後11時

午後11時 百合子グループが多喜二宅に到着。以下、稲子の文章を長めに引用する。

我々六人(内訳不明) は阿佐ヶ谷馬橋の小林の家に急ぐ。家近くなると、私は思わず駆け出した。

玄関を上がると左手の八畳の部屋の床の間の前に、蒲団の上に多喜二は横たえられていた。江口渙が唐紙を開けてうなづいた。

我々はそばへよった。安田博士が丁度小林の衣類を脱がせているところであった。

お母さんがうなるように声を上げ、涙を流したまま小林のシャツを脱がせていた。中条はそれを手伝いながらお母さんに声をかけた。

午後11時 安田医師の死体検案開始。検視の介助には窪川稲子と中条百合子があたる。検視の後、壺井栄らが遺体を清拭した。

死体検案は当事者には長く感じるが、見るポイントは決まっていて意外に短時間で終わる。すでに死後24時間を経過していれば、筋の緊張は緩み仏顔になってくる。死後硬直は取れ扱いは容易だが、出血と脱糞の匂いは相当強烈で、清拭が骨折りであろう。それでも前後15分もあれば片付く。

闇の中の1時間

このあと約1時間のあいだの経過は、混乱・錯綜している。

11時30分 百合子グループと安田医師が多喜二宅を出る。江口によれば、この間に多くの人が駆け込んできた。(このあたり江口の記憶はごちゃごちゃになっている)

おそらく安田医師が帰ると言ったのに、「それじゃ私たちも」と同行することになったのではないか。何れにせよ稲子の「午前2時」は間違いなく誤解だ。

11時30分 百合子グルームが多喜二宅を離れて間もなく、時事新報の記者とカメラマンが到着する。新聞社の車に同乗したふじ子が駆け込んでくる。この後、小坂多喜子の文章にある「愁嘆場」が出現する。

ふじ子は築地小劇場を訪れて、原泉に「多喜二の妻です」と打ち明け多喜二の遺体にひと目会いたいと懇願した。これは多喜二の遺体を送り出した9時40分以後のこと、おそらく午後10時頃のことである。

原泉はこの「女優」に見覚えがあった。そして「女の勘」が働いて、瞬時に事情を察した。時事新報の記者を見つけ同行させた。

11時30分 自宅で江口が新聞のインタビューに答える。

顔面の打撲・裂傷、首の縄のあと、腰より下の出血等がひどい。たんなる心臓麻痺とは思えない。明日、当家から死因に関する声明書を発表する。


12時頃 江口の文章の「接吻の場面」が登場。まもなくふじ子は多喜二宅を退去する。(小坂多喜子は「いつの間にかいなくなった」と表現している)

ふじ子の句、二首

恋猫の 一途 人影 眼に入れず

ボロボロの 身を投げ出しぬ 恋の猫

12時頃 稲子の文章によれば、「…踏み切りの向うで自動車が止まり、降りた貴司や、原泉子や、千田是也などと行き合った」

築地小劇場組は、怪しまれないように踏切の北側で降りて歩くことにしたのだろう。原泉とふじ子は、論理的にはどこかで交錯しているはずである。ふじ子が避けたか、原泉が沈黙を守ったかのいずれであろう。



2月22日


午前0時 千田是也, 岡本唐貴、原泉らが多喜二宅に到着。 「時事新報」 社のカメラマンが多喜二の丸裸の写真をとり、佐土(国木田)が多喜二のデス ・ マスクをとった。岡本唐貴が8号でスケッチを描いた。

デスマスクについては、築地小劇場組の一小隊が別行動で動いたらしい。佐土という人はデスマスクの専門家だが、活動家ではない。彼に依頼して材料の石膏を仕入れるのにずいぶん時間を食ったという情報もある。時事新報の写真撮影はもっと前、検視時だと思う


午前1時 小林家の6畳の書斎で人々は遺体を囲んだ。この時貴司山治により2枚の写真が撮られた。この後の記録はないので、写真撮影の後まもなく解散したのだろうと思う。

江口によれば以下の如し。

多喜二宅で葬式の手順が話し合われた。告別式は翌日午後一時から三時まで。全体的な責任者江口渙、財政責任者淀野隆三、プロット代表世話役佐々木孝丸となる。

22日夜 無宗教の通夜。会葬しよう と した32名が拘束される。若杉鳥子も捕らえられる。この結果、セキ、三吾、姉佐藤夫妻、江口と佐々木孝丸だけで葬儀を執り行う。

2月23日

午後1時 告別式。
午後3時 堀の内の火葬場で火葬を行う。

古書「伊藤書房」
何もこれと行った協力はできないが、せめてこのブログで一言宣伝させていただくことにする。
場所はわかりやすいとは言えない。
羊ヶ丘通を北広島方向に向かうと、札幌ドームを越えて下がり始めたあたり、右手反対車線に面して2階建ての建物が見えて、伊藤書房の看板が立っている。
ちょっとけばけばしい看板がかえって周辺の場末的雰囲気に溶け込んで、「なぜこんな看板を見逃すの」というくらい見事に見逃す。
私は三回店の前を通り過ぎた。

店の裏側に結構広い駐車場がある。私のような年寄でも余裕で停まれる。その駐車場に接してこれぞ昭和という喫茶店がある。名前は忘れたが、多分趣味でやっている店だろう。小さなアップライトピアノもある。地域の同好の士のたまり場になっているようだ。

実は、この古本屋さん、アマゾンで見つけた。
桑原千代子の「わがマンロー伝」を探していたら、この店が出てきたのだ。アマゾンで買うのは癪だから直接店頭で買いたい、そう思って足を運んだという次第だ。

入ってみて、古本屋好きにはピッピとくる。店舗を持つだけでも偉いのだ。
とにかく「最後のご奉公だ」という雰囲気に満ち満ちているのだ。

本の扱いがきわめてしっかりしている。売っていると言うより飾っている感じだ。
神田に行けばそんな本屋はたくさんあるが、値付けが全然違う。これだけの手間かけてこんな値段で売っていたんじゃとても成り立たない。

だから結局ただで配っているようなものだ。このまま行けばごみになって消えていく資産を、ただでもいいから誰か読んで欲しい、というのが「営業」のポリシーなのだろう。そう思う。

今回買ったのは次の3冊

1.桑原千代子の「わがマンロー伝」
多分2300円くらい

2.小林廣 「母の語る小林多喜二」
なんと500円

3.内山完造 「花甲録」
多分2000円くらい
ほんの写真

とくに3.は信じられない書物だ。これを半年ぐらいしゃぶりながら、上海年表に落としていこうかと思っている。

全国の皆さん、札幌にお立ち寄りの節はぜひ足をはこんでください。

Tel 011-883-0663
札幌市清田区清田3条3丁目6-1

30歳代、非正規、短歌      萩原慎一郎さんの歌

この間アイミョンの歌から、以前感心した山田航さんの短歌の話になって、なんとなくその話題が心にわだかまっていたが、これにツイッターという表現形式が絡んでいるのかなと、ふと思いついた。
ツイッターという表現形式は字数的にはおそらく短歌の2、3作分くらいのブレスを持った文学だろうと思う。
そのつぶやきから枝葉をとっていって、息継ぎを入れていくとちょうど短歌になる。
感覚としてはまさにつぶやきであり、問わず語りの、自分に向けての話しかけであり、人知れぬ、人へのひそやかな問いかけでもある。
山田航さんの歌と萩原慎一郎さんの歌はかなり顕著な違いがある。山田さんには冷徹に自らを突き放した仮名性の目がある。萩原さんは敢えて自分から離れず、自分を隠さず、即自の視点を保持しようとしている。

だから優しさがあって読者が癒やされるのだろうと思う。それも一つの技巧なのだろうが、本人には非常に疲れる技巧だろうと思う。

“非正規”がらみに絞っていくつか紹介しておく。


朝が来た

朝が来た こんなぼくにもやってきた 太陽を眼に焼きつけながら

夜明けとは ぼくにとっては残酷だ 朝になったら下っ端だから

寒夜を走るランナーとすれ違いたる ぼくは自転車漕いでいるのだ

非正規の友よ、負けるな ぼくはただ 書類の整理ばかりしている 

非正規という  受け入れがたき現状を  受け入れながら生きているのだ

階段をのぼりくだりて 一日の あれこれ あっと言う間に終わる

牛丼屋

ぼくも非正規 きみも非正規 秋がきて 牛丼屋にて牛丼食べる

牛丼屋 頑張っているきみがいて きみの頑張り 時給以上だ

「研修中」だったあなたが「店員」になって 真剣な眼差しがいい

頭を下げて 頭を下げて牛丼を 食べて頭を下げて暮れゆく

あした

消しゴムが 丸くなるごと苦労して きっと優しくなってゆくのだ

コピー用紙 補充しながら このままで 終わるわけにはいかぬ人生

もう少し待ってみようか 曇天が 過ぎ去ってゆく時を信じて

あなた

遠くから みてもあなたとわかるのは あなたがあなたしか いないから

作業室にてふたりなり 仕事とは 関係のない話がしたい

かっこよくなりたい きみに愛されるようになりたい だから歌詠む

生きているというより 生き抜いている こころに雨の記憶を抱いて

最後の歌は、自殺の理由を説明しているような気がする。“雨の記憶” がどういう記憶なのか…
なにか “雨の音の記憶” のような気がして、「美しき水車小屋の娘」みたいな情景もふと浮かぶのだが…
知らないままのほうが良さそうだが…

ボクシングというのは極めてストイックなスポーツで、大きなグラブをつけたコブシしか使わせない。戦闘訓練には向いていないスポーツである。

剣道にも似たところがある。ルールで厳しく絞られているから、何でもありの武術の中では実際の戦闘にはあまり役立たない業かも知れない。

ただボクシングと比べると剣道の場合は兇器を持っての対決だから、一撃の致傷力は高い。勝負は一瞬でつく。だからかなり運が左右する。拳闘は倒れるまで殴り合うから、実力だけが物を言う世界だ。

すこしボクシングの技術について勉強しておきたい。もちろん格闘技だから、防御やフットワークやスタミナ配分もあろうが、やはりまずパンチから勉強してみたいと思う。

基本のパンチ

ジャブ 相手との距離感を測るため、細かく軽打するパンチ。リードブロートも呼ばれる。一発の威力はないが、守備や組み合わせ攻撃など技術としての重要度は高い。開発当初は「卑怯者の戦法」と呼ばれた。

コツ 威力を犠牲にしてでもスピードとパンチ頻度を極限まで高めることがもとめられる。

ストレート 

基本の構えから後ろ(利き腕側)の拳を相手に向かって鋭く打つパンチ。ジャブと同じ構えから打つ左ストレートもある。

コツ 体や肩の回転を利用し、肩から腕が真っ直ぐになるように打つ。

フック 

腕を横から回し顎やコメカミを打ち抜くパンチ。どちらの腕でも打つ。真っ直ぐに打つように見せかけて打つことが多い。

コツ 打つ瞬間に肩を後ろに引き、打ち込むのではなく当てるように打つ。反動で腰が入るので、その力を有効に使う。

アッパー 

肘を曲げたまま、拳を下から上に突き上げるパンチ。どちらの腕でも打つ。どこを打つかは関係ないが、顎を狙うことが多い。アッパー・カットともいうが、特に使い分けはない

コツ 腕の振りだけでは威力が足りない。打つ直前に上体を軽く屈めて、その反動を利用する。

注意 非常にリスクが高いパンチ。膝を屈めたときに、しっかり顔面をディフェンスする。空振りに終わったときは覚悟すること。


ボディブロー 

相手の腹部を打つパンチ。フックでもアッパーでも構わない。相手の体力を奪うことを目的とする。

コツ 打つ側の足を相手の側面に踏み出し、懐に入ってパンチを叩き込む。


応用のパンチ

ワンツー

ジャブの後にもう片方の腕でストレートを続けるパンチ。ジャブを打ち終わると同時に、ストレートを相手に打ち込む。

コツ まずステップで思い切って踏み込む。ワンツーのステップはステップの基本となる。


カウンター

相手の攻撃のときに生まれる、瞬時の隙を狙うパンチ。相手の癖や、ちょっとした変化を読み取ることでチャンスが生まれる。

コツ 後出しではなく先制に近い同時攻撃。


おまけ

クロスカウンターは 相手の左パンチに対して右腕でカウンタ-を打つ方法。両者の腕どうしがクロスするのでそう言う。
が鮮やかだ。こちらは相手のフックに対してストレートのカウンターを放っている。「あしたのジョー」とは逆だ。「あしたのジョー」は、どう見てもやられた方だ。

スターター制については、いろいろあった。いろいろ言われた。
ガンちゃんなどは露骨な監督批判を繰り返していた。
しかし今のプレーを見てみんな納得したと思う。私は納得した。
加藤本人も監督も解説者もみんな納得したのではないか。
人情的には勝利投手の権利問題がある。しかしこれはお互い納得していくしかない。
セットアッパーだってそうやって認められていくことになったのだ。
可哀想とか言っても仕方がない。4回戦ボーイとして生きていくしかないのだ。
しかしそれで立派な成績を上げるなら、必ず彼はみんなの記憶に残る大投手となるだろう。

スターター制がもし定着するなら、そのあとにはセットアッパーではなく、二番手投手という役割が要求するようになる。これも大変な話だが、今までロング・リリーバーと呼ばれていた人がそれを担当することになるのだろう。金子はそれをやりたいふうには見えない。

しかし必要は発明の母である。必要なところに必要な人は必ず出現するだろう。

本日の赤旗お悔やみ欄に、花田克己さんの訃報があった。
山口県党南部地区委員長、詩人会議役員とある。
50年ほど前、「詩人会議」誌の購読者だったことがある。なにか聞いた名前だとネットを検索した。
bookface’s diary
というサイトで、

坑夫の署名 花田克己詩集

が紹介されている。そこには本の表紙写真も掲載されている。転載しておく。

1969年12月、飯塚書店から刊行された花田克己(1931~)の第3詩集。

 この詩集は、私の三冊目の詩集である。しかし第一詩集『おれは坑夫』、第二詩集『うまい酒』の主な作品とそれ以後二年半の主な作品を一冊にまとめたものである。私の四〇年近い生涯と、ほぼ二〇年の詩作活動のひとつの決算とも言えるものである。
 既刊の二冊の詩集はいずれも私が所属していた「宇部詩人集団」が発行してくれたものであり、地方での出版であった。しかしさまざまな援助によりかなりひろい反響を得たことは私にとって大きな励ましとなった。だが地方での出版という枠から免れることのできない面もあった。それだけにこの詩集は私の第一詩集という側面もあり、全国的な批判を是非するどく寄せて下さるよう読者のみなさんに切望するものである。
 しかも出版される現在が、歴史的な一九七〇年闘争のさなかという光栄をになっていることに重大な責任を痛感磨るのである。いまはただこの詩集が七〇年闘争にほんの少しでも寄与できるものであってほしいと願うのみである。(「あとがき」より)

 むかし宇部には筑豊炭田につながる鉱脈の上に炭鉱があったから、そこに関係していたのだろう。
別のサイトにはこんなうたがある。

宇部興産炭鉱労働者のうた


【作詞】花田克巳
【作曲】荒木栄

1.瀬戸内海の海底深く
  九州むけて掘り進み行く
  宇部と小野田の四つの炭鉱を
  流れる汗で一つに結ぶ

2.仲間の流した血のしみこんだ
  多くの友のいのちを呑んだ
  ボタの埋め立てかなしみこえて
  今日も夕日が彩っている

3.米騒動の闘いのなか
  倒れていった先輩たちの
  いのちはわれらの血潮にとけて
  あすを明るく染め上げている

4.スクラム組んだおれたちの顔
  ひとつひとつに朝陽が映える
  長い歴史と明日への希望
  こめてひらめく組合旗

  われら闘う宇部興産炭鉱労働者

長い間ご苦労さまでした。


ついでで申し訳ないが、お悔やみ欄の隣の人物、佐合義広さんは義弘さんの間違いではないか?
多分、イールズ世代の人ではないかと思う。

ただのコピペです。
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下記のキャプションがついています。
 

Football · 18 Jul 18

Please note the delicacy and elegance of the hardly touched fingers, the synchronicity and the harmony of the ankles in the air, the graceful unison movement while the common theme (the round balloon) lies at their feet. A real "pas de deux".

同性2人による踊りは「デュエット」だが…

二人がともに優美な指型を作っているのは、ただの偶然ではないでしょう。
おそらく脊髄性の姿勢反射だろうと思いますが、あるんですかねぇ、教科書には…

オットー・ディクス(Otto Dix) 略歴

1891年12月2日 ゲーラ近郊のウンテルムハウスに生まれる。生家は貧しい労働者の家庭。

1910年 ドレスデン工芸学校に入る。

1914年 第一次世界大戦に機関銃兵として従軍。3年間にわたり西部→東部→西部戦線を転戦、戦争の悲惨さを体感する。

1918年 負傷し軍務を離れる。

1920年 グロスとともにダダ→表現主義を掲げる。

1922年 新即物主義運動が勃興。ディクスとグロスが代表となる。第一次大戦後のドイツの貧困と堕落を赤裸々に描く。

1923年 油彩「塹壕」(Grabenkrieg)を発表。残酷な表現が賛否を呼ぶ。ケルン市長のアデナウアーはディクスを支持する美術館長を罷免。

1924年 「芸術家の両親」と銅版画シリーズ「戦争」(50枚)を相次いで発表。

1925年 マンハイムでディクスを中心とする「新即物主義」展が開かれる。

1927年 ドレスデン美術アカデミー教授となる。

1933年 ナチスが政権を掌握。その後、ディクスはアカデミーを解雇される。その後コンスタンス湖畔へ移り、素朴な風景画に切り替える。

1937年 ナチスがミュンヘンを皮切りに各地で頽廃芸術展(Entartete Kunst)を開催。ディクスの作品が多数展示される。展示理由は「反戦的な気分と兵役拒否を助長する」ため。

1938年 ディクスの作品260点が公的コレクションから押収される。

1939年 ディクス、反ヒトラー陰謀に加担したとして逮捕。

1939年 第二次世界大戦がはじまる。ディクスは国民突撃隊に招集され従軍する。

1942年 フランスのジュ・ド・ポーム国立美術館の庭で、退廃芸術作品600点が焼却される(ピカソ、ダリ、エルンスト、クレー、レジェ、ミロなど)

1945年 ディクス、フランス軍に逮捕され、捕虜となる。

1946年2月 ディクス、フランス軍から解放される。ソ連占領下のドレスデンを中心に活動を再開する。

1949年 シュトゥットガルト州立芸術アカデミーの教員となり移住。西ドイツに活動の場を移す。(英語版では66年までドレスデン在住とされている)

1969年7月25日 ディクス、脳卒中に死去(77歳)

画像は下記より転載

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  伊丹美術館のディクス展ポスター

壕の中で死んでいる歩哨
          壕の中で死んでいる歩哨
負傷兵
                負傷兵
突撃
             突撃
毒ガスの犠牲者たち
             毒ガスの犠牲者たち
マッチ売り
傷痍軍人
               傷痍軍人
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                 銃殺
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               売春婦 1
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       売春婦 2
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        売春婦 3
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        売春婦 4

「バジュランギおじさんと、小さな迷子」という映画を見てきた。
インド映画で、お定まりのインド風美男美女が出てきて、歌も踊りもあってという映画だ。
ただ普通のインド映画と違うのは、絵がきれいで美しく、音楽がきれいで、主演の女の子が可愛くてと、要するに極上の通俗インド映画だということだ。インド・パキスタンの果てしない対立も背景に取り入られて、単純な娯楽映画にとどまらないメッセージ性を与えている。

幕開けからいきなり、空撮によるカシミールの山並に圧倒される。インドの夜汽車の三等車がこんなにも優しく美しく撮れるなんて…
そして息つくまもなく、子役マルホートラの笑顔と、ド派手なダンスシーンが交互に、「これでもか!」とテンポを変えて五感を攻め立てる。
音楽もこれまでのシタールと太鼓のほんわかムードとは違い、アップデートでビートが効いた、踊りだしたくなるような曲だ。これならサントラ盤も売れるだろう。

欠点はちょっと長いことで、館内がうすら寒かったこともあって、二度もトイレに行く羽目になった。我々からするともう少し刈り取りが必要かなと思うが、インドの観衆にとっては必要な長さなのかもしれない。
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スポーツ新聞の埋め草記事だが、とてもいいので紹介する。
DNAの筒香選手が故郷の堺市の少年野球チームを訪問。
イベント終了の後、報道陣に20分間にわたって「熱く語った」のだそうだ。
まず、彼の問題意識
野球人口の減少は深刻だ。
いっぽうで、人口の現象と並行して、不祥事とパワハラが続発している。
スポーツ界全体が変わらないと危機は打開できない。
「僕は野球界から変えていきたい」
ということで3つの提言を行っている。
1.指導者のあり方を変える
すべての暴力の排除が絶対に必要だ。
そのためには一般論や精神論を語るのではなく、個別の暴力・パワハラ問題を掘り下げて検討し、総括するべきだ。
その総括のなかで、指導者のあるべき姿を考える。
2.勝利至上主義の排除
個別の問題を総括するということは、「なぜ?」という問題を考えることだ。
指導者のあり方で、より本質に関わる問題が勝利至上主義だ。
指導者の役割は2つある。一つは選手をより強く、よりうまくすることである。
結果としてチームを勝利に導くことだ。
もう一つは、選手を鍛え、教育し、将来に向けて育て上げることだ。
指導者には2つの世界がある。一つは彼に期待し、指導者に指名し、勝利を待ち望む大人の世界だ。もう一つは彼の指導を受けながら成長を目指す選手との世界だ。
これらの事情が絡み合って勝利至上主義が生まれる。
だから勝利至上主義にならないようにするには集団的な意思統一が必要だ。
さらにそれを揺るぎない原則に鍛え上げることが必要だ。
3.子どもたちへの目線
子供は指導者にとって、直接的には「仕事の対象」である。しかし大きな目で言えば、子どもたちは彼に指導を委ねた家族たちの期待と希望の対象なのである。
さらにいうならば、子どもたちは多様に発達する権利を持つ主体である。枠をはめる権利は誰にもない。
筒香選手はこう言う。
指導者が、勝ちたいために子どもたちに細かいことを求めすぎている。そして罵声や暴言を浴びせている。でも、子供はできないのが当たり前なんです。
筒香選手は、2つの具体的な改善案を語っている。
一つは、球数制限のルール化である。これについては比較的よく知られているので省略する。
もうひとつはトーナメント制の廃止である。これは新しい発想だ。
青少年が参加する多くの大会はトーナメント方式を採用しています。
この方式では勝ち進むほど過密日程になります。
その結果、子どもたちが犠牲になっていると思います。
ということで、たしかに卓見だ。

彼の抱負はまだ形としては定まっていないが、意欲は満々のようだ。
勝利至上主義こそが問題の根っこにある。勝負である以上、勝利にこだわるのは当然だ。それだけになかなか難しいところもある。
いきなり大きく変えることは難しいけど、同じ思いの大人たちが協力しあえたらいいと思う。
僕は野球界から変えていきたい。野球界が変わることがスポーツ界の変革につながると思う。


追記 1月25日

さすがは赤旗、本日配達された日曜版の裏表紙に一面使って筒香選手の記事を載せている。筒香選手も赤旗の取材に真正面から応じている。
彼の言葉を引用しておく。
「野球が大人の自己満足になっていないだろうか。勝つことが全てになってしまい、子どもたちを追い込んでいる。大人が変わらないと、このままでは子供がつぶれてしまう」
「指導者が謙虚に学ぶこと、子供が主人公だという考えを徹底することが必要だ。そして、たたかう相手への敬意を抱く立場を貫かなければならない」
「指導者が子どもたちをリスペクトできれば、野球界は変えられる」
輝かしい言葉です。

久しぶりに映画が見たくなってイオンの映画館へ行った。行ってから時間などと睨みあわせて、「ビブリア古書堂の事件手帖」に決めた。月曜の午後2時というのに7,8人も観客がいた。全員女性だった。
女性監督の作品で、なかなかお金もかけているらしい。
見た感想だが、何かよくわからない映画だった。なぜわかりにくいかというと、サイドストーリーに力を入れすぎたためだ。
なぜそんなになってしまったかというと、おそらく夏帆という女優があまりに魅力的だったからではないか。
監督や脚本家がみんな引っ張られてしまった。編集屋も切れなかった。

原作者は映画を見た感想の中でこう言っている。
また原作で深く描かなかった過去パートがしっかり描かれているので、映像として観るのは私にとっても新鮮でした。
聞きようによってはちょっと嫌味っぽくも聞こえる。
夏帆
こちらの方は、基本的に暇つぶしなので、筋はまぁどうでもいいみたいなものだから、とにかく夏帆さんの美貌にうっとりしていた。
典型的な美人というわけではない。映画向きの顔で、造作としては大口なのがある種アンバランスな魅力だ。多分芝居がとてもうまい人なのだと思う。表情の中にさり気なく自分の魅力を引き出す力がある。
三文小説家が何気なく入った大衆食堂で、何ということない店のお内儀さんに何気なく接触し、どんどん彼女の魅力に引き込まれていく。その心のゆらぎが、こちらまで引き込んでしまう。
写真を見てほしい。普通に、女性にこんな顔をされたら、男性たるもの理性を失います。
ただし女性の方が流れに添うように燃え上がってゆく心境の変化は、正直のところ良くわからない。わからないが納得させられてしまう。多分女性監督の独特の感性なのだろう。
鎌倉の切通しでのラブシーンは、日本映画ではめったに見られない硬質な情感だ。

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