鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

カテゴリ: 70 文学・芸術・スポーツ

を大幅増補した。
啄木の晩年の思想的展開に焦点を合わせた年表に絞った。
題名を変えたのは以下の理由である。

大逆事件はきわめて重要なファクターではあるが、事件そのものを正面から扱った年表ではない。あくまでも啄木の最後の数年間、きわめてまともに前向きに送った人生を跡づけるのが目的である。

1908年 明治41年 満22歳

4月 啄木、北海道での流浪を終え東京に出る。金田一京助に頼り糊口をしのぐ。一方芸者遊びで借金を重ねる。

6月 22日 赤旗事件が発生。大杉栄ら無政府主義の青年グループが革命歌を歌いデモ行進。警官隊との乱闘の末,幹部16人が一網打尽となる。

7月 西園寺内閣、赤旗事件の責任を問われ総辞職。代わった桂内閣は社会主義取り締まりを強化。検挙者のうち10人に重禁錮の実刑が下る。

9月 第三次平民社の開設。獄中の幹部に代わり、高知から再上京した秋水が中心となる。


1909年 明治42年 満23歳

1月1日 『スバル』創刊号発行。啄木は発行名義人となる。

2月 盛岡出身の朝日新聞社編集長佐藤真一(北江)に『スバル』と履歴書を送り、就職の依頼をする。佐藤北江の厚意により、校正係としての採用決定。(月給25円)

5月 幸徳秋水、管野スガらの創刊した『自由思想』が発売禁止処分となる。

6月16日 家族を上野駅に迎える。この日をもって放蕩の「ローマ字日記」時代は終わる。

10月 妻節子、盛岡の実家に帰る。金田一京助の尽力で帰宅。年末には父一禎も上京し一家5人となる。

1910年 明治43年 満24歳

3月 第三次平民社が解散。秋水は湯河原にこもる。

4月 処女歌集『仕事の後』(歌数255首)を書き上げる。春陽堂を訪ね、出版依頼するも断られる。
5月31日 検事総長、宮下、新村らが企てた明科事件が大逆罪に該当すると判断。幸徳秋水ら社会主義者・無政府主義者の逮捕・検挙が始まる。

6月5日 新聞各社、幸徳秋水等の「陰謀事件」を報道。啄木は事件に衝撃を受け、「予の思想に一大変革」をもたらす。啄木は校正係として事件の詳細を知りうる立場にいた。

6月 最後の小説「我等の一団と彼」を執筆。生前は未発表に終わる。小説家の夢は叶わず。

7月末 啄木、「林中の鳥」の匿名で評論「所謂今度の事」を執筆(未発表)。東京朝日新聞の編集主任に掲載を依頼するも叶わず。

8月9日 魚住折蘆、東京朝日新聞文芸欄に「自己主張の思想としての自然主義」を寄稿。

8月下旬 啄木、折蘆を批判する評論「時代閉塞の現状」を執筆。朝日新聞に掲載予定であったが、未発表に終わる。

8月 朝鮮併合。「地図の上朝鮮国にくろぐろと墨を塗りつつ秋風を聴く」を書く(未収録)

9月15日 『東京朝日新聞』の「朝日歌壇」の選者となる。(翌年2月28日まで)

10月4日 長男真一、東京帝国大学医科大学附属病院にて誕生(3週後に死亡)。

11月 米英仏で大逆事件裁判に抗議する運動が起こる。

12月1日 『一握の砂』(東雲堂)刊行。一首三行書きの「生活を歌う」その独特の歌風は歌壇内外から注目される。

12月10日 幸徳秋水等被告26名に関する事件の大審院第1回公判(非公開)が開かれる。

12月 啄木、過労から身体の不調を覚え、三日に一度の夜勤は年内でやめる決意をする。

堺利彦、売文社を設立。「冬の時代」の中で社会主義者たちの生活を守り、運動を持続するために経営する代筆屋兼出版社。

1911年 明治44年 満25歳

1月3日 啄木、友人で大逆事件の弁護士だった平出修弁護士を訪問、詳細な経緯を聞く。幸徳秋水が獄中から送った陳述書を借用し書写。

1月10日 アメリカで秘密出版されたクロポトキン『青年に訴ふ』を入手する。

1月18日 幸徳秋水等の特別裁判の判決。被告26名中、24名死刑という判決に、啄木は衝撃を受ける。

1月24日 幸徳秋水等11名の死刑執行。

1月 啄木、陳述書をもとに「無政府主義者陰謀事件経過および附帯現象」をまとめる。「幸徳は決して犯人ではない」との確信を得る

2月 秋水救援活動を続けた徳富蘆花、一高内で「謀叛論」を講演。 

幸徳君等は時の政府に謀叛人と見做されて殺された。が、謀叛を恐れてはならぬ。謀叛人を恐れてはならぬ。自ら謀叛人となるを恐れてはならぬ。新しいものは常に謀叛である。我等は生きねばならぬ。生きる為に謀叛しなければならぬ。  

2月 結核性腹膜炎で東大病院に入院し手術。入院中にクロポトキン自伝『一革命家の思い出』第二巻を読む。

3月 啄木、術後経過不調のまま退院となる。

3月 大逆事件について木下杢太郎、森鴎外や永井荷風も作品で風刺する。

5月 「ヴ・ナロード: 獄中からの手紙」を執筆。大逆事件の真相を世に伝えんとする。

6月 「はてしなき議論の後」の9編を執筆。「家」(6月25日)、「飛行機」(6月27日)の2編を創作。


1912年 明治45年 満26歳

1月1日 日記に曰く、「暮の三十日から三十八度の上にのぼる熱は、今日も同様だつた」

4月9日 土岐哀果の尽力で、東雲堂書店と第二歌集の出版契約。死後、歌集『悲しき玩具』(歌集の命名は土岐哀果)として出版される。

4月13日 啄木、死去。

石川啄木 年譜に多くを負ったことを付記し謝す

いつもはあまりまじめに読まない赤旗日曜版で、ふと目にしたコラム。日刊の「朝の風」みたいなもののようだ。
二階堂
歌手・僧侶とあるが、本質は詩人であろう。

なんというか磨かれていない原石だ。ありふれた、少しすり減った言葉の中に、キラリと光るものが潜んでいる。
夕方、木洩れ陽のなかにころんと転がった亡骸…

7日の生命を燃やすため、光の中へ出ていった蝉どもと、
あの日、空襲警報の解除とともに、光の中へ出ていった多くのいのちの対比…

自分ではなく、自分の中のいのちに目をやる。
自分中心で固まっている頭と心をほぐし、揺さぶりをかける。
そのことで未来への希望をとりもどす。
ほかのやり方が、私には見当たらない。
解脱とか輪廻とかいわない所がよろしい。

すみません。ネットで調べたらずいぶん有名な方のようです。上から目線のたいそう失礼な物言いで、まことに申し訳ございません。ジジイの酔談だと思ってご容赦ください。

とても面白いミュージアムを見つけた。
九段下のしょうけい館というところだ。
九段下の駅の6番出口を出たところだと、ホームページには書いてあるが、地図はない。
入ってよいのかと一瞬ためらうほどのオフィス風な外観だ。
しょうけい館は、戦傷病者の労苦を「承継」するということから名付けられたのだそうだ。別名が戦傷病者史料館。平ったくいうと傷痍軍人の会館だ。
こじんまりとしているが立派な国立施設で、委託運営となっているが天降りであろう。創設時は今上天皇も閲覧しているようだ。
現在は「水木しげるの人生」という企画展をやっている。
mizukisigeru
滝平二郎の沖縄戦の逃避行とイメージがダブルが、こちらの戦後は傷痍軍人であり失業者であったからさらにきつい。
漫画のイメージと実際の水木のイメージが付かず離れずに進行していく。戦後の生存のための“あがきも含め、まさに生きた戦争、戦争の血肉化だ。
ただしテレビドラマのゲゲゲの女房とはだいぶイメージのずれがあるようで、そこから入る人には多少戸惑いがあるかもしれない。

日曜だからなのか。館内はガラガラ。おかげで冷房に当たりながらゆったりとしたひとときを過ごすことができた。

それから神保町へ出て一軒だけ開いていた古本屋で、「稲作の起源を探る」という岩波新書と「恐竜は生きている」という翻訳の入門書を買った。前者が98年。後者は87年の出版だから、この手の本としてはアウトオブデートかもしれない。

先日、夕張鹿鳴館という施設を見てきたが、いろいろと評価が難しい施設だと思う。
夕張ではいくつかの鉱山会社が操業していたが、圧倒的に大きかったのは三井財閥系の北海道炭鉱汽船という会社だった。略して北炭という。
この会社の接待用施設として建てられたのがこの建物で、鹿ノ谷倶楽部といわれていた。鹿鳴館というのは客集めのためのネーミングのようだ。
老朽・閉鎖されてからの動きは、ウィキで見るとあまり幸せではなかったようで、「生きてなきゃよかった」的なところもある。
1913年に建設されてすでに100年余り、昭和天皇が1954年、今上天皇が58年に宿泊したころが絶頂で、石炭が斜陽化して50年、82年に会社が手放して夕張市に押し付けて35年、夕張が財政再建団体となりたてものを閉鎖して10年となる。
見学コースでほぼすべての施設が見学可能だが、第一別館は未開放である。
かつての栄華を偲ぶには相当の想像力が必要で、むしろ一重のガラス窓とか、建付けの緩みは「大金持ちでもこんな暮らしだったんだ」と、同情を感じてしまう。
天皇の宿泊室は「えっ、こんなところに泊めたの」と言いたくなる。
おそらくその頃ははるかに豪勢だったのが、落ちぶれて老いさらばえて、醜態をさらす羽目になっているのだろう。
建物保存の三原則というものがる。
きれいだ、使える、価値があるというものだ。
夕張鹿鳴館の場合、この三原則のどれをとっても疑問符がつく。調度品も正直のところウソっぽい。
関係者には申し訳ないが、いっそ取り壊して公園にするか、あるいはただの更地にしてしまったほうが後腐れなくて良さそうだ。もし保存するのなら、ここだけ一点主義で守る決意を固めなければならない。
率直に言って廃墟観光の客は金など落としませんよ。

建物保存の三原則 “きれいだ、使える、価値がある
これをウェブで探してもヒットしません。オリジナルは下記の一文です。
ラテンアメリカの政治という私のホームページのなかの「更新記録」という不定期日記の中の一文です。これが私のブログの前身になります。
2007.11.15
 教育テレビのN響アワーを見ていたら、芸大の奏楽堂保存運動の話をしていました。運動を率いた教授が「保存運動の三原則」という理論を展開していました。①使えること、②清潔なこと、③価値があること、というのです。運動から導き出された教訓だけに、とてもリアルで面白く、ためになる話です。話のミソは、老朽化した建造物が一般的・抽象的に価値がある、というその前に、クリアしなければならない条件が二つあるということです。「使えること」というのはきわめて即物的で分かりやすいのですが、「清潔なこと」という言葉には多くのニュアンスが含まれています。

「さとうきび畑の唄」という映画を見た。
明石家さんま が主役ということであまり期待しなかったが、想像以上に素晴らしい映画であった。黒木瞳が(幾分ミスキャスト気味だが)きれいで、仲間由紀恵がしゃっきりしていて白蓮的で、女学校の生徒がとても感じが良かった。学徒兵が素敵でだれかと思ったら、なんとオダギリジョーだった。
見終わったらなんと午前1時、とんでもない夜更かしだ。ふだんなら10時過ぎには眼が開かなくなる嫁さんが目を見開いて見続けた。それどころか泣き続けて、それがよだれになってティッシューで拭きどおしだった。次男が「本当は写真館継ぎたかった」というのは、伏線効果もあって涙腺爆発です。
ウィキによると、これは2003年にTBSが制作した全3時間のテレビドラマだそうだ。女学生役は上戸彩という人らしい。同配役で映画も作られていて、こちらは100分ちょっとという短いもの。どう編集したのか、You Tubeで見られるのはテレビドラマ版のみ。
何気なく見終わったが、あとで気づいたのが、長男の嫁(仲間由紀恵)が長男の大学の後輩という話で、一般的にはありえない。旧制の大学が沖縄にあったかどうかも不詳。大学出の女性が小学校の教師というのもおかしい。このへんはあとで調べてみよう。
良家の子女で駆落ちというのも、ちょっと腑に落ちない。見合い写真撮るのに一人で来るだろうか、駆落ちは良いとして、籍は最後はどうにかしないとならないはずだ。長男が大学に入るには何らかの援助があったはずだと思う。沖縄県出身者が内地の大学に入るのは一定のウラが必要だろうと思う。


 
で“さあを”が気になって調べた。
けっこういっとき流行った言葉らしい。

“さあを”だが、万葉集以来いいくつかの用例があるようだ。
ネットで調べたところでは次のように記載されている。

デジタル大辞泉
さお〔さを〕【さ▽青】
[名・形動]《「さあお(さ青)」の音変化。「さ」は接頭語》青。まっさお。
「人魂 (ひとだま) の―なる君がただひとり逢へりし雨夜 (あまよ) のはひさし思ほゆ」
〈万葉集・三八八九〉

大辞林 第三版
さお【さ青】
〔「さあを」の略。「さ」は接頭語〕
あお。 「色は雪はづかしく白うて、-に額つき」(源氏 末摘花)

さ青の使われ方」 という用例集があって、大正から昭和の初期にいろんな作家が使ったみたいだ。
だいたいこの手の言葉は、しばらく使われると手垢がついてきて賞味期限が切れることが多い。

梶井基次郎「桜の樹の下には」より 
。 この溪間ではなにも俺をよろこばすものはない。鶯《うぐいす》や四十雀《しじゅうから》も、白い日光をさ青に煙らせている木の若芽も、ただそれだけでは、もうろうとした心象に過ぎない。俺には惨劇が必要なんだ。....
薄田泣菫「泣菫詩抄」より 
》きゆららに、 今宵し六日のかたわれ月、 (さはあえかなる病女《びやうによ》の 夕眺めするなよびや、)さ青のまなじり伏目がちに。 吾世すがれの悲み、―― 吐息もするやと惑はしむる。 あなせつなさの今宵や、....
梶井基次郎「桜の樹の下には」より 
た。 この渓間ではなにも俺をよろこばすものはない。鶯《うぐひす》や四十雀《しじふから》も、白い日光をさ青に煙らせてゐる木の若芽も、ただそれだけでは、もうろうとした心象に過ぎない。俺には惨劇が必要なんだ。....
太宰治「雀こ」より 
になればし、雪こ溶け、ふろいふろい雪の原のあちこちゆ、ふろ野の黄はだの色の芝生こさ青い新芽の萌えいで来るはで、おらの国のわらわ、黄はだの色の古し芝生こさ火をつけ....
原口統三「初期詩篇」より
眠る あふれる香髪《においがみ》のみだれ巻いて溺れるあたり とおく水平線の波間にさ青の太陽は溶けこむ。 そうして はるばると潮の流れる耳もとちかく かれは一つの....

と、いかにも風の作家が並ぶ。ただこれらの用例は機械検索で捉まったものらしく、大宰の「さ青」は少々怪しい。

上野武二先生から「大月源二の獄中での絵画制作」という論文を送っていただいた。「美術運動史」という雑誌のNo.166 号で、発行日は4月20日となっている。
先生がますます、多喜二と大月源二の世界に入り込んでいくさまが手をとるようで、畏敬に耐えない。
多分“ナマの事実”の側も、それを書き留める側も、切迫した時間との戦いになっているのであろう。

ところで、この論文の最後に、大月源二の歌三首が紹介されている。めったにお目にかかれるものではないだろうから、この際転載させていただく、
「刑務所内からプロレタリア美術運動の盟友・松山文雄に送った」ものだそうである。大月は1932年6月に治安維持法違反で逮捕されている。多喜二虐殺の33年2月には拘置所にいたことになる。10月にいったん保釈されたあと、34年2月に刑が確定し、甲府刑務所に入所した。そして36年の4月まで服役していた。
ふじ子との出会いは転向・保釈されてまもなくのことである。源二は突如出現したふじ子を、多喜二の“復活”のように受け止めたのではないだろうか。

だから入所時すでに、そこには転向に伴う動揺(クオ・ヴァディス)は越えられていた。そのように思われる。

泣くが如 風空に鳴り 光みち 甲斐の荒野に春きたるらし

鉄窓の 金あみごしにさあをなる 空をななめにおつる鳥かな

山の色 げにあざやかに見ゆるかな 今朝ひょうひょうと 風の音して

いずれも獄舎の小窓を通して、わずかな感覚を手がかりに外界との連帯を歌ったもので、とりわけ第1首は心躍る感慨をみごとに具象化した秀歌である。

“さあを”というのは切り取られたささやかな空の青という意味だろうか。別に空を鳥が落ちるのではなく、小窓で区切られた空間をななめに横切ったに過ぎないのだろうが、この遠近法はシンプルな色彩感覚と相まって絵画に化身されている。「走る男」と同じモチーフなのもしれない。

これに比べると、“山の色”とか“げにあざやか”というのは陳腐だが、“今朝ひょうひょうと”がすべてをすくいあげている。甲府盆地の晩秋というのは、ことに早朝からの寒風は、“秋霜烈日”たるに相応しい。だから山の色の鮮やかさが一層引き立つのである。

大月の獄中生活は三つの要素で成り立っている。早春から晩秋への季節の移り変わり、それを小窓を通じて凝縮された形での受け取り、そしてそれらをポジティブに受け止め、捉え返す静かな確信。

絵については詳しくないのだが、このような心象が入所中の画作にも通底しているのだろうか。

我が家には50インチの堂々たるテレビがある。三菱製で絵は多少落ちるが音がすごい。もともと嫁さんがテレビ人間で、それでこんなすごいのがあるのだが、今は寝たきりで事実上私のものとなっている。
日曜の昼間にカーテンを閉めて、絨毯に座って少し見上げる風に見るとなかなかシアター風である。
連休中に借りたビデオで、「阪急電車」というのが良かった。基本的に女性映画で、男役は刺身のツマ的にしか出てこない。
2011年3月の公開というから東北大震災に完全にかぶっている。これは大方の日本人にはまったく知られない映画ではなかったろうか。めぐり合わせが悪かった映画である。
この映画の舞台となったのは、シックな阪急の中でも宝塚と関西学院、西宮をつなぐ郊外路線で、関西では屈指の洒落たところらしい。20年くらい前、何故か池田で心臓ペーシングのセミナーがあった。帰りに宝塚に寄った記憶がある。私は手塚治虫の記念館を見てきた、連れは宝塚歌劇場を見てきたらしい。
と言うくらいで、あまり馴染みのない場所である。
映画の方だが、宮本信子と南果歩が圧倒的によい。実は最初、ふたりとも誰かわからなかった。口元と喋りと仕草がすごくて、「誰やろう? なにか見た気がしてしょうがないんだけど…」と言ったら嫁さんが指盤で教えてくれた。「目は口ほどにものを言い」と言うが、口元の美しさがえらく目立つ映画であった。
主役の俳優は中谷美紀という人らしいが私はよく知らなかった。ちょっとゴツめの顔立ちであるが、映画ならではのドぎつめなキャラなので、それをリアルに作り上げた実力はそれなりのものなのであろう。衣装と宝飾は間違いなくA級だった。
あと、うまいなと思ったのは田舎出の女子大生を演じた女優さん。谷村美月というらしい。横にいたらちょっと引いてしまいそうな、ちょっと濃すぎる映画向きの美人だ。
その他、これだけ多くの役者がみなうまく化けていて、登場人物をつなげる脚本が良く綾んでいて、エキストラまでふくんで画面の目が詰んでいて、この上なく贅沢な映画だった。ごちそうさま。

前から気になっていたが、さすがに一人では入りにくかった。
そこへ釧路から孫(ピカピカの1年生)がやってきて、これ幸いと連れ出して行ってきた。
感想は表題のとおりである。第一に子供が感動する。「僕、泣いちゃった」そうだ。第二に「絵」が実物以上にリアルで感動する。第三にメキシコと人々への素直な愛情が胸を打つ。
正直のところ、あのディズニーがメキシコ人にこれだけ共感と敬意(おめなへ)をもって映画づくりをしようとは思わなかった。メキシコと言えば唐辛子とテンガロンハットとカルテルしか知らない日本人に是非見てもらいたい映画だ。
音楽もよい。馴染みのせいもあって、主題歌の「リメンバー・ミー」よりもところどころに挿入される「サンドゥンガ」(ひょっとして「ジョローナ」?。多分ハリスコあたりの民謡)がとても有効だったと思う。
なお劇中に頻出するフリーダ・カーロは実在した女性画家。
カーロ
女装しているのがもったいないような男装の麗人。「自画像」よりはずっと良い。
父親はハンガリ生まれのユダヤ人でメキシコで写真家として成功した。当然といえば当然、フリーダも生まれつきのアカで、メキシコが最も輝いた1920~1930年代を駆け抜けた。スペイン人民戦争を支援し、トロツキーをかくまった。今日では国民的芸術家として女性運動の先駆者として尊敬されている。

相撲協会は謝罪声明一本で済まそうとしているようなのでますます怒る。人殺しは「不適切な行為」では済まないぞ。これで済ますつもりならこれは謝罪ではない。少なくとも伝統を重んじる人間がなすべき「謝罪」ではない。
春日野巡業部長は「トイレに行っていた」と言い訳をしているようだ。土俵下に座っていたら、行司の繰り返すアナウンスを看過はできないはず、だね。それにしても巡業先の地元市長が土俵で挨拶しているのにトイレに行くとは「伝統」にそぐわない行為だ。もしトイレが嘘だとすれば主犯は春日野親方ということになる。端的に言って一介の行司が単独でそこまで判断できたのだろうかとも思う。
一言で言って、相撲協会は無責任で事態の深刻さを認識していない。これでは残念ながら再発必至だ。救命医療関係団体は相撲協会に対して、きちっとした抗議文なり警告文を発するべきだ。そして一連の事態が「見殺しの強制」であり、犯罪行為そのものであることを明らかにすべきだ。
メディアはその後ずいぶん報道しているが、全てツボを外している。「気持ちはわからないではないが」などと口が裂けても言うべきではない。これは「見殺しの強制」なのだ。もし救急隊がこなければ、「行司」は場内放送では済まさずに女性の実力排除に出た可能性もある。
これは女性が怒るべき問題ではないし、伝統と人権の関係でもない。救急・救命に携わり命に関わる人間が真っ先に怒るべき問題なのだ。
伝統が問題ではない。良識あっての伝統の尊重であって、良識なき伝統は狂気にすぎない。
問題は人命救助の妨害行為なのだ。救助人を後ろから撃っている。しかも協会の権威を傘にきた威力行使を伴っている。しかも妨害は意図的であり、宗教的確信に基づいている。
今回の事態は法的にはどのような犯罪に該当するだろうか
さきに結論から言うと、これは虐待にもっとも近いあつかいとなるだろう。親が宗教的信念にもとづいて子供を虐待する。ネグレクトや放置はその一形態だ。蘇生措置を中断させるよう強制する行いは究極・最悪のネグレクトだ。
工場で火事が起きた。消防車が駆けつけた。それを工場の正門で「伝統だ」といって立ち入り拒否しているようなものなのだ。子供の手術を拒否するエホバの証人とおなじなのだ。

刑事罰に相当しないか、少し調べてみた。
1.救急車の業務妨害
緊急走行中の救急車に道を譲らなかったり、走行を妨害したりしたときについて
シェアしたくなる法律相談所というページから引用
行為そのものに対する罰
道交法40条、120条1項2号により、5万円以下の罰金が科されます。
これが刑事罰
違反点数1点、反則金6,000円
これが行政罰
つぎに実害が生じた場合
因果関係や故意・過失が立証されれば、民事上ないし刑事上の責任を負う。これまでは立証は困難だったが、ドライブレコーダーの普及により事情が変わる可能性あり。
今回の舞鶴のケースは証拠はバッチリ残っているな。これでは隠蔽も改ざんも不可能だ。
2.市民による救急促進と保護
次に公務執行妨害というのがある。今回のケースは公務員の業務ではないから、外形的には「公務」ではない。しかしきわめて公共性の高い「業務」だ。これに関連した判例はないだろうか。
とりあえず見つけたのが以下の文章
自治省消防庁救急救助課「交通事故現場における市民による応急手当促進方策委員会報告書」
イ 救命手当の実施義務
交通事故により被災者が心停止等の状況にある現場に遭遇した時、居合わせた一般市民が、何ら救助の手立てをとることなく、傍観者の立場にあることは、状況によって非難されるべきであるかもしれない。その意味では、少なくとも、道義的には一般市民にとっても、救命手当の義務があるといえる。しかし、現行法にあっては、一般市民に救命手当の法的な義務があるとは言えない。
ということで、市民(とりわけ有資格者)による救急は保護・奨励されている。これは法令ではないが裁判等においては十分勘案すべき事情である。
3.救急活動のネグレクトは指弾される
4月3日の大紀元ニュースでこれは中国の事件。
中国四川省徳陽市中江県で自動車衝突事故が発生した。2台のうちの白い車がその後炎上した。
住民らは通りかかったバスの運転手に消火器を借りようとしたが、拒否された。
その後、白い車は火が燃え広がり、地元の消防隊が駆け付けて来たが、車内にいた2人は死亡した。
その後の経過は不明だが、世論の袋叩きにはあっている。今回は不参加ではなく「やるな!」という呼びかけだから、ただの世論による非難だけでは済まないと思う。
4.最悪の作業妨害
これは少し前の記事。『平和新聞ながさき版』(06年11月05日)による。
米海軍前畑弾薬庫(佐世保弾薬補給所)敷地内で火災が発生し、弾薬の運搬や貯蔵に使う木製の台を保管する木工作業所が全焼しました。
市消防局は協定に基づいて再三再四、計7回にわたる応援出動を申し入たが、基地側が拒否したそうです。
この事件は、その後ウヤムヤになってしまった。このケースは「伝統」の代わりに「軍事」と入れればまったくおなじ論理だ。

5.「エホバの証人」の手術について
過去においてはいろいろな対応があったが、今日では主体的判断ができる成人の場合は本人の意志が尊重されることになっている。しかし私なら受けない。どうせ他に行くのだから解決にはならないが。
問題は患者が子供で、輸血を拒否していない場合だ。
基本的には親は子供の輸血を拒否することは許されず、もし固執するなら親権を剥奪することになっている。

下記はその一部
15歳未満または判断能力がない場合
(2) 親権者が拒否するが,当事者が15歳未満,または医療に関する判断能力がない場合
① 親権者の双方が拒否する場合――医療側は,親権者の理解を得られるように努力し,なるべく無輸血治療を行うが,最終的に輸血が必要になれば,輸血を行う。親権者の同意が全く得られず,むしろ治療行為が阻害されるような状況においては,児童相談所に虐待通告し,児童相談所で一時保護の上,児童相談所から親権喪失を申し立て,あわせて親権者の職務停止の[保全]処分を受け,親権代行者の同意により輸血を行う。
② 親権者の一方が輸血に同意し,他方が拒否する場合――親権者の双方の同意を得るよう努力するが,緊急を要する場合などには,輸血を希望する親権者の同意に基づいて輸血を行う。
問題はこの親権剥奪措置に親が逆らう場合だ。しかしそれについての言及はない。

6.会場を貸した側の責任
もし、市長の身に万一のことがあった場合、相撲協会に会場を提供した側の責任が生じるかもしれない。
最初にも言ったように相撲協会は真剣に反省していない。誤ちの因って来る原因(風土)を剔決しようとの姿勢も感じられない。内部処罰を検討している様子もない。新兵一人に罪を押し付けて済まそうとしている。昔の軍隊と同じだ。だから彼らは累犯の可能性が高い。
相撲協会がこういう組織だということを知っていて貸すのなら、民事上の責任が問われるかもしれない。少なくとも、貸館契約の際は救急救命の際には女性の出動を拒まないという一札を取り付けておかないと、次は共犯の疑いを受けることになるだろう。

常に遠くへ というブログに面白い写真がありました。
説明は
そんな神聖な土俵に…女性はダメでも フェラーリはいいんですか❔
DaFiovRV4AcPkRA


「女性は土俵から下りてください」の真相
2018年04月11日 「見殺しの強制」は犯罪行為そのもの もご参照ください
とにかくまずは事実収集だ。
昨日4日、京都府舞鶴市で大相撲の巡業が行われた。挨拶に立った多々見良三・舞鶴市長が土俵上で倒れた。

その場に居合わせた有志の人々が土俵上に駆け上って救命措置を行った。その中には女性も含まれていた。これに対しアナウンスを担当する行司が「女性は土俵から下りてください」と退去するよう何回も求めた。さらに市長が運び出された直後、土俵には大量の塩が撒かれた。
BuzzFeed News、では時系列にまとめられている。

  1. 多々見市長が土俵に上がり、挨拶を始めたが呂律が回っていない。
  2. 途中でふらつき、突然倒れる。関係者らしき男性たちが多々見市長に駆け寄る。
  3. 1人の女性が土俵に上がり、男性を押しのけ心臓マッサージを始める。別の女性も直ちに尾き、ペアーで蘇生を始める。続いて別の女性2人も土俵に上がり、多々見市長の駆け寄る。
  4. 「女性の方は土俵から降りてください」とのアナウンスが、繰り返し流れる。
  5. 救急隊員の男性たちが土俵に到着。蘇生作業を引き継ぐ。女性たちは土俵から降りる。
  6. 多々見市長が担架で運ばれる。この後土俵に大量の塩が撒かれる。
ANNニュース(You Tube)にこれらすべてが映像として記録されている。
ということで、こうやって記事を書いているだけでもアドレナリンが吹き出してくる。
これは女性に対する蔑視ではない。「生命の尊厳」に対する蔑視であり、人間の生命に対する蔑視なのだ。
女性差別というのではない。「伝統」の名による恣意的な差別なのだ。たまたま差別の対象が女性であったに過ぎない。同じ論理が例えば部落民だったら、黒人だったら、朝鮮人だったら、共産党だったらどうだったんだろうか。すべて「伝統」の名において許されるのだろうか。
その「伝統」というのは差別の伝統でもあり、「いのちは鴻毛より軽し」の人命使い捨ての伝統でもある。
立川病院の三田村秀雄院長のセリフが良い。
伝統と言っている場面ではない。伝統が命を救うことはありえない。命を救うためにできることは100%やらないといけない。それを邪魔するようなことは決してあってはいけない。
三田村さんの発言は正確で的を得ている。しかし私はそれでは物足りない。これは命の尊厳に対するあからさまな蔑視であり、女性よりもむしろ医療従事者にとって腹立たしい事件だ。
これはイラクやシリアで救急車に発砲するイスラム原理派と同じ行いだ。この行司はどう考えても救命活動を妨害している。不作為の刑事罰に相当する。「伝統」に対する意見の違いではない。強く言えば殺人幇助罪だ。そのまま手錠をはめられて警察に直行だ。

メディアの対応はあまりにも遅くあまりにも生ぬるい。少なくとも、メディアは「行司」の名を公表すべきだ。その瞬間においてこの「行司」に人権はない。最低でも角界に残る資格はない。スポーツの世界からは永久追放だ。相撲がスポーツ以下のクソ社会であるなら話は別だが。

ただしこれだけではあまりにも情報不足だ。相撲協会は当事者として情報を提示すべきだ。もしそれをしないのなら、行事の責任はすべて相撲協会の責任となる。

協会理事長は即刻辞任しなければならないだろうが、それ以前にNHKなどメディアも大相撲関連の報道を即刻中止しなければならない。

客の中から「女性を土俵に乗せるな」とのクレームが付いたために行司が対応したと言うが、この「強いものへのへつらい」も相撲の美しき伝統なのだろうか。それは相撲を国技にしてはならないことの証ではないか。

さらに言えばクレームをつけた「客」も名乗りを上げるべきではある。もし市長が死んでいれば、みずからの主張した「道義」について、「道義」的責任を真っ先に担うべきであるからだ。「相撲道の伝統のために死ね」と煽った以上、あなたは知らんぷりをしてはいけない。
眼の前に死にかけた人がいるのに、みずからは助けようともせずに、行司に「女を土俵に上げるな」と叫ぶ心情のおぞましさ、まさに人間のクズだ。人間の顔をした獣だ。私はそう思う。

「伝統のために死ね」と叫ぶ心は、「お国のために死ね」という心と通じているのではないだろうか。
私たちは「舞鶴」とか「興安丸」という言葉を聞いただけでも、引揚者の名が読み上げられるラジオが耳に響き、なにか胸がキュンとなる。それは、やつらに騙され、無数のいのちが失われ、救われ、平和といのちの大切さを教えてくれた言葉だ。
これを機にもう一度、「舞鶴」が生命の原点となってほしいものだと思う。

奥さんの訪問入浴が来るので、「どこか行かなきゃならない」と思って映画館の案内を見たら、おあつらえ向きの映画があった。
「羊の木」という題でまだ封切ったばかり。原作の山上たつひこというのが気に入った。不朽の名作「がきデカ」の作者である。その後まったく消息を聞かなかったのだが、生きていたのだ。彼の作ったものなら間違いないだろうと即断した。
「羊」というのがいかにも「羊たちの沈黙」を連想させる。2時間を超える映画でいささか胃にもたれるが、要所要所での迫力は満点だ。床屋のカミソリの場面と、トラックでひき殺すところ、そしてじわじわと忍び寄る恐怖は、この映画の醍醐味だといえなくもない。
ただし、ストーリー展開には強引なところがあって、6人の元受刑囚のキャラクターもごちゃごちゃとして書ききれていない。ヒロインは美人だが、ヒロインにふさわしい魅力がない。変なお化けめいた作り物は目障りだ。そんなこんなで素直に映画の世界に入りきれないのは残念だ。
私なら元受刑者を3人か4人に絞って、話を刈り込んで90分物にする。ヒロインは原作にはなく映画作成時に加えたらしいが、それがこの映画の災厄の根源になっているようだ。元ロッカーで故郷が嫌で東京におん出て、なぜか挫折して帰ってくる。それがまたなんの屈託もなくヘビメタを再開するというのがいかにも支離滅裂だ。ヘビメタは高校のブラスバンドではない。
この作品でヒロインは主人公ではないのだ。だからもっとキャラを単純化すべきだ。そもそも必然性のない存在だから消去してしまうのも方法だろう。
それにしても怪優北村一輝の存在感はすごいですね。松田龍平、市川実日子…聞いたことのない名前ばかりだが、みな存在感のある名役者だ。主役と言うか狂言回しの役者もみごとに善人に徹している。
これだけの役者を集めて、これだけの原作を受けて、これだけの“愚作”(駄作ではないが)が作れるというのも一種の才能なんでしょうかね。
羊の木1


1.「家族はつらいよ1」と熟年離婚
「家族はつらいよ2」 というのがあるのだ。
シリーズの1作目は正直、ちょっとつらかった。
きざったらしい言い方になるが、世相を切り取っていることはいるのだが、すくい取ってはいない。
団塊の世代のハシリとして抱えている問題、すなわち「熟年離婚」はそのまま提示されているのだが、山田監督の言いたいのは「そのまま直視せよ」ということなのだろうか。
そのままの姿としての「熟年離婚」は、現代日本における男性のエゴがいかにひどいかという問題でしかない。しかし私たちはそれを女性史的にも見ておく必要がある。
団塊の世代を通じて女性の権利にかかわる問題はずいぶん前進した。しかしまだ問題はたくさん残っている。それを「熟年離婚」の問題として突き出すのはいい。
しかし映画であるなら、もう少し問題解決型のスタイルで提示すべきではないだろうか。「麦秋」の原節子は、あのころの問題をあのころにふさわしい解決法で提示している。
2.「救いようのないジジイ」からの脱出
ということで、「家族はつらいよ1」はちょっと辛かった。橋爪功というじいさんの頑固ぶり、夜郎自大ぶりが、同世代としてあまりにも救いようがないからである。
率直に言えば、今の日本、若い人より我々のほうがはるかに進歩的で主体的で民主的だ。ただの頑固爺として描かれるような筋合いはない。
ただ、具体的な生活の現場で若い人たちが作り出す細やかな人情の世界を我々が見知って感動してきたかという点では、もっと反省すべきなのかもしれない。「知りもしないで戦後民主主義という型紙で若者を裁断しないでもらいたい」というメッセージであれば、もっと謙虚に我々は聞くべきではないのか。
それが第2作目になってようやく、キャラクターの住み分けが見えてきた。橋爪功のキャラはまだ練り上げられたとはいえないが、わが身の一部として共感できるようにはなりつつある。
これが共有できるようになると、もう一つの寅さんが出来上がっていくのかもしれない。
3.山田洋次の「団塊の世代」観
話がややこしくなってきた。結局「家族は辛いよ」という映画、シリーズは山田洋次監督の仕掛けた「団塊の世代」論なのだ。もちろん山田洋次は団塊世代ではない。戦後第一世代だ。そして寅さんは第2世代で、ここまでが山田洋次監督が共感できる世代だ。
そして戦後第三世代たる団塊世代に対しては、おそらく山田監督はずっと「いやな感じ」をいだきながら生きてきたのだろうと思う。
それが1作目から2作目に至る過程で結構浄化されている。寅さんに共通性を感じたように、このどうしようもない団塊の世代「若き老人たち」にもヒューマンとしての共通性を紡ぎ出そうとしている。
この柔らかさこそ私達が山田洋次監督から汲み取るものなのであろう。
この話は、一度真面目にやるべきものだろう。

日曜美術館という教育テレビの番組を見ていて、五嶋龍というバイオリニストに感心した。
アンドリュー・ワイエスの「クリスティーナの世界」という1枚の絵だけで番組一つ作ってしまうという、かなりのオタク番組である。
それはそれで良いのだが、そこにゲストとして参加した五嶋さんのコメントがなかなかよろしいのだ。
夜の再放送を酒を飲みながらの鑑賞だから、かなりうろ覚えだが、五嶋さんの感想の出発点が良い。
ネットにこの番組の紹介記事があったのでそこからコピーさせてもらう。
(ニューヨークの美術館でワイエスの絵を見て)地味だなと最初は思いました。しかし、数秒後にものすごい力強い絵だと思ったんです。印象がガラッと数秒の間に変わったんですが、…
というのが最初の言葉。
つまりこの絵は、ある意味で罠が仕掛けられているのだ。トリック絵画と言ってもいい。この頃のアメリカの「スーパーリアリズム絵画」にはみな、「絵本の挿絵」といったら良いのか、そういうところがある。
「クリスティーナ」における罠は言うまでもなく異様な手だ。異形と言ってもよい。
これに気づいたとき、鑑賞者は一気に絵の中に引き込まれ、クリスティーナの背中に吸い込まれるわけだ。
そのとき鑑賞者は大波に巻き込まれたみたいに、既視のものとの連関を失い、前後左右・天地がわからなくなる。
これを五嶋さんはこう表現する。
彼の芸術の素晴らしさというのは、見る人によって多分違うメッセージが出てくると思うのです。希望や力強さも感じますが、すごい絶望も感じます。こういう悪夢ってあるじゃないですか、目指すところにたどり着けない。でも、這っていくわけです。
後藤さんの素晴らしさは、最初無難な言葉を探しながら、「こういう悪夢ってあるじゃないですか」という表現に絵の本質を手繰り寄せたところにある。
そして五嶋さんの思いはさらに進んでいく。
アメリカって言うと…がんばれば成功したり裕福な生活を遅れるみたいなイメージがありますが、アメリカでの生活の現実というものをバラ色にせず、そのまま冷たく見せてるなと僕は思ったのです
結局、五嶋さんはこの絵をポジティブな絵だとは見ていない。おそらくこのままでは家までたどり着けないであろうクリスティーナの不安とあせり、それを見つめえぐり出していくワイエスの目の冷たさ…
ただしそうまで言われてしまうと話は身もフタもなくなるから、話題はもうひとりのコメンテーターによる背景説明に移っていく。

ただ、ワイエスの被写体を見るときの冷たさが、彼の心の冷たさなのかと言われるとそうとも言えない。

多くの左翼系・民衆系の作家はまず現実の告発から始まっている。そこには秘められた怒りがある。それがリアリズムという共通土台に乗らなければ共通語とはならないし、叙景の技にはアルチザンとしてのセンスも求められるわけだ。

五嶋さんはこのあたりの作業を次のようにすくい取る。
見えないものを描くにはいろいろなテクニックがあります。…表現したいものを控えめに表現することによって、聞いている側の人がもっと求める。
…音楽というものもそのまま伝えるのではなくて、聞いていただいてそこからまた世界が広がるようにすることが目的です…
ということで、アート的にはワイエスを高く評価するのである。
このあと五嶋さんは文明論、現代論もつまみ食いしていくが、この辺は正直のところピンとこない。
おそらくは長いコメントの中を切り取った言葉なのだろうが、最後の切れ端は余韻を残している。
彼のパワーは一瞬戸惑わせるところがあります。それって今の世代の持つハイペースな感覚の中では必要なのではないかと思います。

正直のところワイエスが20世紀アメリカを代表する画家かどうかについての議論はあると思う(例えばベン・シャーン)。さらに「クリスティーナ」でワイエスを代表すべきか否かについても議論は分かれるのではないだろうか。

しかし、随分勉強させてもらったことは感謝しなければならない。

正月を挟んで、グダグダとした日が続いている。

生活が落ち着かないせいもあって何かをまとめてやろうという気が起きない。

テレビの映画ばかり見ている。

A.「君の名は」

恥ずかしくて見に行けなかった「君の名は」が正月ということでテレビ初登場だ。

良い映画だった。しかしあまり記憶に残らないのはなぜだろう。作者の感じるリアリティと私の感じるリアリティのあいだに、かなりのギャップが出来上がってしまっている。

だからヒロインの苦しさとか悲しさとかがバーチャルなものとしてしてしか感じられない。これは世代問題なのだろうか? どうもそれだけではないように思えるが。

B.湯を沸かすほどの熱い愛

お風呂屋の映画の話は、このあいだしたよね。あの女優さんは良かったね。ビデオで取っておいて、ティッシュを用意して、夜中に一人で観た。

1.かなりカットしている。テレビ初登場というからには「ノーカット」でやってほしかった。2時間足らずの経過を伏線、伏線で積み上げていって、それで見せるのが映画だから、映画館で見た身には思い出がえぐられる思いだ。

2.うちの三菱のテレビは、内蔵ハードに絵を落として見るようになっているのだが、素で見るのとでは随分画質が変わってしまう。あっ、思い出した、宮沢りえちゃんだった! こんなにどぎつい絵でなく、普通に映してほしい。40歳の女性の肌が変にリアルだ。全然可愛くない。

ということで、「見なきゃよかった」篇。

それにもかかわらず、「君の名は」よりは1ランク上の映画だと、改めて思う。

C.「麦秋」

次はなんと言って良いのかわからない作品。晩春も東京物語もすでに見ているか、縁のない映画であった。

この映画は、それよりは遥かに食いつきが良い。外周りがしっかりと書き込まれているから、その分良く分かる。とくに「北鎌倉」という場所が昭和26年にどういう場所だったのかがしみじみと分かる。

もう一つは原節子がとてもきれいにチャーミングに描かれているから、小津映画がどうのこうのは関係なしにポカーンと原節子の顔だけ見ていて時間が過ぎていく。

とにかく登場人物がやたらに多いから、誰が誰とどういう関係なのかがわからないままに映画が終わってしまう。

あとで考えてみると、この映画には二人の謎の人物が登場する。

一人は淡島千景で、原節子の「お友達」として登場するのだが、全く無意味な登場人物なのである。

筋書きとしても全く無意味だのだが、それ以上に映画のキャラとして原節子とタイを張ること自体が無意味なのだ。

淡島千景という人は、銀幕界の歴史を飾るようなとてもきれいな人で、夫婦善哉などの演技は絶品である。

しかし原節子と並ばせたら可哀想だ。とくにこの映画の原節子は驚異的に美しい。これでは淡島千景はサラしものだ。

二人が裸足で鎌倉海岸の波打ち際を走るシーンは、当時としては“劣情を刺激した”に違いない。しかしこの映画の必然性から言えば原節子が一人で走れば良いのであって、淡島千景を一緒に走らせる必要はサラサラない。残酷だ。

ちょっと余談。

昭和26年という世相を知らない人が、彼女たちの暮らしをさも同情できるかのように書いているが、冗談ではない。それは雲の上の、サブ貴族層の、GHQに近い人々の生活であって、想像もできないような暮らしであって、したがって同情などしようもないのである。

私の母親は多分東京大好き人間だった。大正8年生まれだから原節子よりちょっと若いのかな。静岡にも文化はあったが、東京には東京にしかない文化があった。たとえ戦争で荒れ果てたとしても、そうなのだ。

よくリテラシーという言葉を使う。東京にある文化リテラシーは眩しいものだけれども、静岡のような田舎で暮らしていて、東京にはもう一つ上の文化があるというのを知っているだけでも、一つのリテラシーなのだ。ほとんどの人はそんなことなど知らずに一生を終えていた。

母親は私をダシにして東京に出かけた。静岡から鈍行列車で6,7時間だったろうか。私は駅の名前が全部言えた。私は胎内の時から染まった東京グルイだった。

大船の駅で、私の目はきらめいた。そこには湘南電車とは違うクリーム色と青のツートーンカラーの電車が並んでいた。それほど鮮やかではなかったが、そこにはお金とステータスの臭がした。

話が長くなった。

わたしたち田舎者、すなわち99%の日本人にとって小津映画は決して庶民感情を細やかに描き出したものではなかった。「雲上人でも我々と同じような悩みを持っていたりするんだなぁ」とダマしこむためのメディア・ツールでしかなかった。

そう思って小津映画を見たら良い。多少の楽しさも湧こうというものだ。

D.DESTINY 鎌倉ものがたり

本日映画館で見てきた。できたての映画らしい。マップ絵なのかCGなのか知らないが、黄泉の世界の描写は立派なもの。

ただ、「千と千尋」の向こうを張ったもののようだが、レベルが一段違う。映画の筋そのものも「3丁目の夕日」レベルで、インスピレーションには乏しい。

そこそこ楽しめる映画であって、家族揃っての映画見物にはきわめて良いと思う。


宮沢りえの『湯を沸かすほどの熱い愛』がテレビで放映されるようです。 20日水曜日の昼にテレビ東京系でやるそうですから、ぜひ録画をしてはいかがでしょうか。大してたくさん見ているわけじゃありませんが、ワタシ的には今年最高の映画です。 注意! 一人で見ること、首にタオルを巻いておくとよい。 宮沢りえというのは本当に映画俳優ですね。普通の人ではないんです。原節子みたいですね。 多分テレビで見てもそれほど感激しないと思います。暗闇の中で銀幕に浮かび上がると最高のキャパを発揮する人です。 「必見」と言いながら変な話になってしまいましたが、映画というのは「盗み撮り防止」の動画とセットで見るものだということです。

「幸せの黄色いハンカチ」の展示を見ていて、ふと説明文に吸い込まれた。

「この映画は典型的なロード・ムービーである」

「あぁそうか」と一応は納得したが、何か喉に引っかかる。単純にそうは言えないのではないか? とも思う。回想シーンが頻繁に挿入されるし、武田鉄矢と桃井かおりの二人の成り行きは、むしろ狂言役による幕間劇ともとれる。

よく考えてみれば、なかなかに複雑な構成なのだ。

ロードムービーってなんだろうと考えているうちに、「母をたずねて三千里」を思い出した。

これぞ、ロードムービーではないか。

もちろん私はアニメ世代ではないから、アニメ版「母をたずねて三千里」の中味は知らない。

多分、子供の頃に絵本でまず接して、大きくなってから「クオレ」を読んで、「あれっ、これって『母をたずねて三千里』そのままじゃん」と気づいたときである。

クオレは子供のときに買ってもらった(と言うか押し付けられた)「世界少年少女文学全集」の一冊である。

当然そんなものは読まない。書棚に並んでいるのを見ただけでゲップが出る。

それがどういう拍子か高校時代にたまたま手にしてしまった。ボロボロ涙を流しながら読んだ覚えがある。

『母をたずねて三千里』もかわいそうな少年の話ではなく、「男はどう生きるべきか」みたいな感じで受け止めた。

だいたいクオレというのは、サルジニア王国を中心にイタリアを統一した直後の話で、「愛国主義美談」の濃厚な本だ。

政治意識が芽生え始めた高校生にとっては、もろに琴線に触れるわけで、自分の思想的と言うか心情的なバックボーンの一部になっているような気がする。


青空文庫でその「母をたずねて三千里」が読める。やはりクオレの一挿話を抄出して一編の童話にしたもののようだ。

ウィキでは、もっぱらアニメについての講釈が展開されるが、長い連載モノにするために相当脚色が加えられているようだ。

多分そのほうがよいだろう。ちょっと原作だけではゴツゴツと『事実』が並べ立てられていて、人物像の膨らませ方が足りないと思う。(それがある意味ではドキュメンタリーっぽさを引き出しているとも言えるが)


アカデミー賞というのにつられて「セールスマン」という映画を見た。途中から抜け出したくなる感覚を抑えながらの2時間であった。
映画の拠って立つ日常生活の過程への漠然とした違和感とともに、ザラッとした後味が残る。
劇の展開よりも、主人公たる男性の心が犯人への怒りと、前の住人(おそらく売春婦)への八つ当たり、妻へのそこはかとない疑惑を抱えながら、「私刑」へと人格を崩壊させていく過程を描いているのだが、それを描くことにどんな意味があるのか、どういう意味をもたせようとしているのかが分からない。
「復讐」という病的心理過程のダイナミクスは、それはそれとして正面から取り上げるべきでろうと思う。下手なサスペンスじかけにしたら、かえって人を混乱させるだけではないか。
アカデミー賞はこの監督の過去の業績に対して送られたのかもしれない。
映画というのはかなり訴求力の強い媒体なだけに、作品そのものに筋が通っていないと、観衆を混乱におとしいれるだけのものになってしまう。
「性犯罪と復讐」というのはイスラムでなくてもどこにでもある事件である。インドならいまでも日常茶飯事だ。作者には、ガルシア・マルケスのように、それを時代の流れに位置づける俯瞰の立場をもとめたい。そうすれば「セールスマンの死」とも重なるのではないか。


滝平二郎の展覧会をまだ語っていない。

実は、この日まで、滝平二郎はどう読むのか知らなかった。滝さんなのか滝平さんなのかもわからなかった。

皆さんわかりますか。この人は滝さんでもタキヒラさんでもなく、タキダイラさんなんです。


もちろん目玉は朝日新聞に連り絵」の連作であるが、「滝平の真骨頂はその前にあった」、ということがわかった。この人は「漫画家」だ。絵描きにしては語るべきストーリーが有りすぎる。版画家にしては色彩への欲がありすぎる。だから芸術家の範疇にとどまれない、だから漫画家になるのだ。

「切り絵」の方は「あぁ、きれいだね」というくらいのもので、それでも十分目の保養にはなるのだが、例えば宮﨑駿などの原画展と比べてとくに出色というわけではない。

ということで、とにかく圧倒されるのは初期の「戦争敗走記」という連作。

どれもすごいのだが、とくにこれは食いつかれる感じがする。皆さん、展覧会に行ったら逆回りした方がいいです。とにかく最初から疲れちゃう。
猿

「猿」と題されている。

おそらく自画像(24歳の)であろう。

異形である。人間とは思えない凄まじい形相であるが、眼は完璧なまでに虚ろである。「失感情」よりもっと高度の「失外套」に近い状況だ。この状態で突かれたり切られたり撃たれたりしても、あるいは食われても、苦しみの表情さえ浮かべることなく死んでいくだろうと思われる。しかしその前に、およばずとも噛み付くくらいはするかもしれない。

大岡昇平の「俘虜記」にも「猿」の話が出てくる。人肉を「猿」と称して食う話である。本当に猿と思ったのかもしれない。


滝平は1921年生まれ、新進の版画家として活動を始めた42年(昭和17年)に召集された。最後の任地が沖縄だった。

滝平の手記「山中彷徨」から引用する。

硫黄島玉砕、東京大空襲―あれよあれよという間に、米軍機動部隊が私たちの沖縄本島をとり囲んだ。

およそ1週間の間断ない砲爆撃の後、こともあろうに私の誕生日の4月1日に米軍が上陸した。

6月の終わりに沖縄守備軍玉砕。そのことも知らずに私は、なおも山中を逃げ回った。疲労の果てに仲間からはぐれてしまってからも、一人ぼっちで彷徨い続けた。

奥深い山中の、小さな泉のほとりには、たいてい誰かが仰向けに寝て落命していた。

…いきなり鳥の大群が不気味に鳴いて飛び立ったあとに、兵隊服の白骨が散乱している光景にも、しばしば出会った。

…それは、一匹の虫けらのように自分が縮んでいく瞬間でもあった。

…昼間は何よりもひと目を恐れた。たえず誰かに見つかりはしまいかと落ちつかなかった。

なるべく深い繁みをえらんで、その下に身を横たえて時たま通過する米軍機の音をぼんやりきいていたとき、とつぜん頭上の木の枝を、薄緑色の尻尾の長い動物が、梢の方へつつっと走って、ゆっくり首をまわして私を見おろした。大きな目が「見つけたぞ!」というように私を直視していた。

私はバネ仕掛けのように飛び起きて逃げ出した。あの小動物がなんであったか、今もってはっきりしない。

雨上がりの赤土の小道を握りこぶしほどの亀の子がゆっくり歩いていた。はっとたじろいだ私の目の前で、みるみるうちにひと抱えもある怪物のように大きくなった。太いしわしわの首を伸ばして、じろっと私を見た。私は奇声をあげて土くれと言わず石くれといわず怪物めがけて投げ続けた。

…こうなると、一人芝居も凄愴味を帯びて私は完全なノイローゼになっていた。

8月3日の夜半、生け捕られて俘虜となった時は、もうすっかり癒えていた。


「もうすっかり癒えていた」と言うが、この絵を見ると明らかに「癒える」どころかさらにひどい状態に陥っている。

その表情は、前頭葉への回路を完全に遮断した状況を示している。考えることを止め、感じることもやめ、無理やり脳を冬眠状態に陥れることによって、かろうじて心のバランスを取り戻したのだ、そうやって大脳機能を守ったのだ、と察する。

「反省だけなら猿でもできる」と言うが、この状態ではそれも出来なかったろう。つまり「猿以下」だ。

それにしては、釈放後1年でこれだけの絵をかけるのだから、この人はとんでもなく丈夫な神経をしている。

向き合ううち、この絵から怒りが噴き出していることに気づく。滝平さんは怒りの感情が溢れてくるから、この絵がかけたのだと思う。
許せないから、尋常の生理的反応に逆らって記憶の回路をこじ開け、凄惨な体験を呼び起こし、この凄まじい作品を残さずにはいられなかったのだろう。

手記の最後はこう締めくくられている。

戦争体験は、それを語る人の思想によって、さまざまに形を変え、命を吹き込まれて伝えられる。

私には、悲惨さ以外に伝えるものは何もない。

絵もすごいが、文章も隙きがない名文だ。表現は控えめだが、間然としたところはない。なんとかこれを「紙芝居」に出来ないだろうか。



以前、昭和8年2月21日の動きを時刻表にしたことがあり、探したが、どこやらわからぬ。いろいろ探して、ここにあるのを発見した。

2月20日

正午 多喜二、赤坂で街頭連絡中に捕らえられ、築地署に連行きれる。

午後5時 多喜二、“取調中に急変”。署の近くの前田病院の往診を仰ぐ。(江口によれば午後4時ころ死亡)

午後7時 前田病院に収容したが既に死亡していることが確認される。“心蔵マヒで絶命”とされる。

2月21日

正午ころ 東京検事局が前田病院に出張検視し、死亡を確認。

午後3時 警視庁と検事局、「多喜二が心臓マヒにより死亡した」と発表。ラジオの臨時ニュースと各紙夕刊で報じられた。ラジオ放送の直後に動いた人々は…

築地署: 大宅壮一、貴司山治、笹本が築地署にいち早く駆けつけ、当局との交渉にあたる。

前田病院: 築地小劇場で事件を知った原泉が前田病院にかけつけた。「遺体に会わせろ」ともとめた。警察は面会を拒否し、原とはげしくもみ合う。警察が拘束の動きを見せたため、大宅壮一と貴司山治が仲裁に入る。救出された原泉と大宅らは築地小劇場を基地とし、各関係者と連絡を取る。

馬橋: 多喜二の母セキは杉並区馬橋の自宅にいた。ラジオを聞いた隣家の主婦から知らされた。セキは預かっていた二歳の孫(多喜二の姉の子)をネンネコでおぶると、築地署へかけつけた。

夕方 セキが築地署に到着。この時遺体は署の近くの前田病院に安置されていた。当初、警察はセキを二階の特高室に閉じ込め、なかなか会わそうとしなかった。

夕方 

都内各所に夕刊が配達される。配達の直後に動いた人々は…

築地署: 青柳盛雄弁護士らが築地署に赴き、遺体の引渡しを要求。さらに連絡を受けた安田徳太郎医師がやってきて警察と交渉。

馬橋: 江口は吉祥寺の自宅にいて、配達された夕刊で多喜二の死を知った。大宅壮一からの電話があり、「馬橋のセキさんを伴れて築地署へ来い」と言われた。ただちに馬橋に向かうが留守のため、阿佐ヶ谷から省線でそのまま築地署に向かう。

百合子グループ: 上落合の中条百合子宅で窪川稲子も同席して夕食の最中、夕刊で事件を知った。推測では、東中野在住の壺井栄と連絡を取り、中央線中野駅で集結し阿佐ヶ谷に向かったものと思われる。

当初の記載で、中条家を下落合としていたが、上落合の間違い。土地勘がなくて誤解していたが、上落合というのは西武線の下落合とはだいぶ離れていて、どちらかと言えば中央線の東中野に近い。したがって歩いて東中野に出るのがもっとも早い。

午後9時

築地: 在京中の秋田の親戚の小林さんが築地署に駆けつける。彼が身元引受人となり、遺体の引き取りが決まる。

推測だが、三吾はこの時点で行方がつかめなかったのではないか。遺体の引き取りには身元引受人が必要であり、それには戸主(男性)であることがもとめられていたのかもしれない。そこで弁護士がセキから根掘り葉掘り聞いて、秋田の親類を見つけ出したと考えられる。

午後9時30分 孫をおぶったセキが特高室を出され、前田病院で遺体と対面。この時セキと同行したのは、作家同盟の佐々木孝丸、江口渙、大宅壮一。青柳盛雄ら3人の弁護士。医師の安田徳太郎。

午後9時40分  大宅らの雇った寝台車が。遺体とセキ+孫、親戚の小林さんを載せ前田病院を出発。

午後9時40分 江口らがタクシーで寝台車の後を追った。同乗者は藤川美代子、安田博士、染谷ら4人。

午後10時

百合子グループ: 阿佐ヶ谷に着いた3人は、若杉鳥子(窪川は「同盟員」と書いている)の家に落ち着いて情報収集にあたった。前田病院から、すでに寝台車が出発したとの情報を受け、多喜二宅に向かう。

稲子は「すでに多喜二宅前には10人ほどが集まっていた」と書いてあるから、そちらにも視察に行ったのであろう。鳥子家を利用するという「良案」を誰が考え出したのかは不明。
前田病院に電話したのは稲子で、彼女はわざわざ西武線の沿線(鷺ノ宮駅?)まで行って街頭から電話したという。警察の張り込みを避けての行動かもしれない。
「すでに出た」というからには、その電話は早くとも9時40分過ぎのことであろう。もしそれが10時と仮定すれば、それから歩いて鳥子家まで戻るのに30分は見なくてはならないから、それから多喜二宅に向かうとすれば、到着は10時40分ころということになる。

10時ころ 遺体が小林家に到着した。ほぼ同時に江口、安田らのタクシーも到着。小林家では近親や友人達が遺体を待ち受けていた。

出発及び到着時刻は川西の記載によるものであるが、築地から阿佐ヶ谷までわずか20分で着くとは到底思えない。築地の時間が正確だとすれば、到着は早くとも10時30分ころと思われる。

小坂多喜子: 小坂多喜子と夫の上野壮夫は車に僅かに遅れて到着した。(小坂多喜子の回想)

どこからか連絡があって、いま小林多喜二の死体が戻ってくるという。
息せききって…走っている時、幌をかけ た不気味な大きな自動車が私たちを追い越していった。…あの車に多喜二がいる、そのことを直感的に知った。
私たちはその車のあとを必死に追いかけていく。 車は両側の檜葉の垣根のある、行き止まりの露地の手前で止まっていた。奥に面した一間に小林多喜二がもはや布団のなかに寝かされていた

小坂と上野
        小坂と上野

セキの「ああ、いたましい…」のシーンがあった後、セキが服を脱がせ安田が検視を開始する。

午後11時

午後11時 百合子グループが多喜二宅に到着。以下、稲子の文章を長めに引用する。

我々六人(内訳不明) は阿佐ヶ谷馬橋の小林の家に急ぐ。家近くなると、私は思わず駆け出した。
玄関を上がると左手の八畳の部屋の床の間の前に、蒲団の上に多喜二は横たえられていた。江口渙が唐紙を開けてうなづいた。
我々はそばへよった。安田博士が丁度小林の衣類を脱がせているところであった。
お母さんがうなるように声を上げ、涙を流したまま小林のシャツを脱がせていた。中条はそれを手伝いながらお母さんに声をかけた。

午後11時 安田医師の死体検案開始。検視の介助には窪川稲子と中条百合子があたる。検視の後、壺井栄らが遺体を清拭した。

死体検案は当事者には長く感じるが、見るポイントは決まっていて意外に短時間で終わる。すでに死後24時間を経過していれば、筋の緊張は緩み仏顔になってくる。死後硬直は取れ扱いは容易だが、出血と脱糞の匂いは相当強烈で、清拭が骨折りであろう。それでも前後15分もあれば片付く。

闇の中の1時間

このあと約1時間のあいだの経過は、まったく私の推論だ。

11時30分 百合子グループと安田医師が多喜二宅を出る。江口によれば、この間に多くの人が駆け込んできた。(このあたり江口の記憶はごちゃごちゃになっている)

おそらく安田医師が帰ると言ったのに、「それじゃ私たちも」と同行することになったのではないか。医師は明日の仕事があるのと、基本的には診察先に長くいたくはないという真理が働く。女性たちにも子供のことやら家のことやら明日のことやら、いろいろ事情があるものだ。何れにせよ稲子の「午前2時」は間違いなく誤解だ。

11時30分 百合子グルームが多喜二宅を離れて間もなく、ふじ子が駆け込んでくる。この後、多喜子の文章の「愁嘆場」が出現する。

ふじ子は築地小劇場を訪れて、原泉に「多喜二の妻です」と打ち明け多喜二の遺体にひと目会いたいと懇願した。これは多喜二の遺体を送り出した9時40分以後のこと、おそらく午後10時頃のことである。
その時まで4時間のあいだ、ふじ子には、行くべきかどうか逡巡する時間もあったろうし、築地署前の群衆に紛れて右往左往していた時間もあったろう。
原泉はこの「女優」に見覚えがあって、「女の勘」が働いて、瞬時に事情を察した。そしてこれから多喜二宅に向かうという新聞記者を見つけ同行させた。クルマに乗ること1時間ちょっと、登場時間としては妥当である。

12時頃 江口の文章の「接吻の場面」が登場。まもなくふじ子は多喜二宅を退去する。(小坂多喜子は「いつの間にかいなくなった」と表現している)

恋猫の 一途 人影 眼に入れず
ボロボロの 身を投げ出しぬ 恋の猫

12時頃 稲子の文章によれば、「…踏み切りの向うで自動車が止まり、降りた貴司や、原泉子や、千田是也などと行き合った」

当時の阿佐ヶ谷駅は正面が北口で、多喜二宅からはいったん踏切を渡って線路の北側に出なければならなかったのだろうと思う。
一方築地小劇場組は、怪しまれないように踏切の北側で降りて歩くことにしたのだろう。原泉とふじ子は、論理的にはどこかで交錯しているはずである。ふじ子が避けたか、原泉が沈黙を守ったかのいずれであろう。

2月22日

午前0時 千田是也, 岡本唐貴、原泉らが多喜二宅に到着。 「時事新報」 社のカメラマンが多喜二の丸裸の写真をとり、佐土(国木田)が多喜二のデス ・ マスクをとった。岡本唐貴が8号でスケッチを描いた。(時事新報の写真撮影はもっと前、検視時だと思う)

デスマスクについては、築地小劇場組の一小隊が別行動で動いたらしい。佐土という人はデスマスクの専門家だが、活動家ではない。彼に依頼して材料の石膏を仕入れるのにずいぶん時間を食ったという情報もある。

午前1時 小林家の6畳の書斎で人々は遺体を囲んだ。この時貴司山治により2枚の写真が撮られた。この後の記録はないので、写真撮影の後まもなく解散したのだろうと思う。

ひょっとすると1マイメノ写真を撮った直後に三吾が現れたのかもしれない。2枚の写真はそういうストーリーを感じさせる。

江口によれば以下の如し。
多喜二宅で葬式の手順が話し合われた。告別式は翌日午後一時から三時まで。全体的な責任者江口渙、財政責任者淀野隆三、プロット代表世話役佐々木孝丸となる。
「通夜の第一夜は何時か寒む寒むと明け放れていた」

午後1時 告別式。会葬しよう と した32名が拘束される。若杉鳥子も捕らえられる。この結果、セキ、三吾、姉佐藤夫妻、江口と佐々木孝丸だけで葬儀を執り行う。

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