鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

13年4月、ぷらら・Broachより移行しました。 中身が雑多なので、カテゴリー(サイドバー)から入ることをおすめします。 過去記事の一覧表はhttp://www10.plala.or.jp/shosuzki/blogtable001.htm ホームページは http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」です。

カテゴリ: 06 文学・芸術・スポーツ

我が家のテレビのハードディスクは嫁さんの韓流ドラマで満杯だが、ときどき変な番組が録画されている。

金曜の夜、嫁さんが寝た後、それを消していくのが「儀礼」なのだが、今回は思わず見入ってしまった。

終わらない人 宮崎駿

という番組。

アルコールも効いてきて、ところどころ居眠りしては見るという有様だったが、後半に来て俄然眼が覚めた。

あらすじを語ることは到底できないので、「番組紹介」から引用することにする。

3年前、突然引退を宣言したアニメーション映画監督・宮崎駿さん。世捨て人のような隠居生活を送り、「もう終わった」と誰もが思っていました。でも実は終わっていなかったのです。手描きを貫いてきた宮崎さんが、75歳にしてCGで短編映画に初挑戦。それは長年夢見た幻の企画でした。新たなアニメーションとの格闘を繰り返すなかで、下した大きな人生の決断!「残された時間をどう生きるのか」。独占密着!知られざる700日

というのがあらすじだが、どうも私の感じたのは「老い」とか「残された人生」というのではない。

それはもっと激しいものだ。

CGという表現手段を相手に一種の「異種格闘技」をいどみ、その中でCGの「真の限界」を知り、さらにその根底にある「CGイズム」を峻拒しつつ、自ら歩んできた道の正しさを確認していく作業である。

そのうえで、宮崎さんは新しい長編づくりへの挑戦を宣言するのであるが、それはおそらく主要な問題ではないだろう。その決意に到達するまでの意識の高まりの過程こそがもっとも重要だ。

だからある意味ではこのドキュメンタリーそのものが、宮崎の作品でもあると思う。

1.CGは作品に命を吹き込めない

正確には、「これまでのCGでは」言ったほうが良いのだろう。多分、そのことは宮崎さん自身もそう感じていたから、手書きにこだわってきたのだろう。

ただ、CGはあくまでも技法であり、原理的にはCGだから命を吹き込めないことはない。あくまでも作者の側の問題であるはずだ。

宮崎さんは、この論理と実感の間隙を埋めたくてCGづくりに取りかかったのだろうと思う。「この宿題を解決して置かなければ死ねない」みたいな感じだろうか。

ドキュメンタリーの前半ではこの過程がかなり長々と描かれていく。結局、絵そのものへの介入はすべて失敗に終わる。

それはある意味ではこれまでの作家人生を通じての実感の再確認であったのかもしれない。

それがある日突然ブレイクスルーがやってくる。「そうだ、魚を描こう」

魚が泳ぎ回る世界がまずあって、そこに主人公が登場することで世界はまさに「水を得た魚」のようにいきいきと動き出す。これがひとつ。

もう一つは、その環境に対応する眼差しや体の動きが意味を持つようになる。自然になるというのは、演技でも仕草でもない。そうさせているものとの関係において自然なのだ。

CG(CGイズムというべきかもしれない)は自らの枠の中にすべてを押し込もうとする。自然さえもだ。

しかしその瞬間に生命というものは消えてしまうのではないか。

2.「生きとし生けるもの」としてのいのち

いのちを絵の形であろうと言葉の形であろうと、絡め取りたい、すくい上げたいというのは人間の欲望である。

私は紀貫之の言葉を想起する。「花に鳴く鶯、水にすむ蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌を詠まざりける」

古今和歌集の序文である。

この場合の「生きとし生けるもの」は作家としてのいのちである。それは主体であるとともに、花鳥風月に刺激を受ける受動態としてのワタシである。

そして花鳥風月を描くことによって、それらに生き生きとした能動性を与えるのもワタシだ。そこにはいのちの交流がある。

それと同じように、鶯や蛙も周囲の自然とのいのちの交流の中で輝いている。この二重の交流を画像の中に込めなければならない。

おそらく宮崎さんはCGという苦難の道に踏み込むことで、そのことを別な表現、「魚を描き込むことで主人公に命を吹き込む」というかたちで、難関を突破したのであろう。

3.CGイズムとの闘い

CGというのは表現技術の一つである。しかしほとんど無限の可能性を秘めた表現技術である。

あまりにも急速に革新されているために、技術の高度化がある程度自己目的化されるのもやむを得ない。技術にはそういうところがある。そういう時期なのだ。

だがCGの発展が集団の中で自己目的化されると、そこには独自の哲学が生まれてくる。「CGイズムとCGそのものは分けて考えなければならない」と言っても、実際にCGに携わっている人が共通してそういう言語体系をもってしまえば、一般社会との垣根はますます高くなっていく。

宮崎さんのCGへの取り組みは、CG屋さんの持つそういうイデオロギーとの闘いを抜きに実現し得ない。

CG屋さんは子供の頃宮崎さんのアニメを見て育ったはずだ。宮崎さんは尊敬の対象だ。にも関わらず彼らの言語体系は揺るがない。それとこれとは別なのだ。

これは一見動かしがたい矛盾のように見える。

しかし、宮崎さんはそこに風穴を開けたように一瞬思えた。

それが「いのちと交わり、いのちを紡ぎ出すこと」ということなのだろうと思う。

番組の終盤、彼がグロテスクで・クソリアルな動画を見て激怒したのは、作品そのものというより、つかみかけたCGの将来イメージに真っ向から泥を投げつけられたからに違いない。

その動画は、たしかに画面は動いているが、思考法としては止まっているのである。そこに吹き込まれているのがいのちではなく「死」だからである。いのちとの交わりではなく、いのちのあまりにも無造作なモノ化だからである。

CGはリアルになればなるほどシュール・リアリズムになる。もちろんそれ自体が悪いと言っているのではない。技法の追求は絶対必要だと思う。ただシュール・リアリズムは行き止まりであって、出発点にはならない。

そこからはいかなる物語も紡ぎ出せない。宮崎さんが欲しているのはいのちが紡ぎ出す物語であり、CG屋さんにも、かくあれと欲しているのである。

ところで、宮崎さんがふと鼻歌で歌った「民族独立行動隊の歌」が耳に残る。60年安保の世代なのであろう。

 


こちらのページには別の人が書いた番組紹介がある。

こちらを見たら宮崎さんはもっと憤激するかもしれない。

クールジャパンの基幹コンテンツと期待されながら、国際的にはピクサー、ディズニーらのCGアニメに圧倒されている日本のアニメーション。宮﨑が世に放つ短編は、日本アニメの未来を変える一手となるのか。

こちらはCGオタクではなく、脳ミソがソロバンになっているエコノミック・アニマルだ。

田口道昭さんが石川啄木の「地図の上朝鮮国にくろぐろと~」の歌をめぐってという文章を書いている。

関心は、どうして歌人の中で啄木のみがこのような思索に達し得たのかということだ。

この歌は明治43年(1910年)に「創作」という一連の作歌に収録され、「9月の夜の不平」という一連の中の一首とされている。

朝鮮併合が行われたのはその1ヶ月前のことだ。

日露戦争に「君死にたもうことなかれ」を書いた与謝野晶子は、朝鮮併合を次のようにたたえている。

韓国に 綱かけて引く神わざを 今の現に見るが尊さ

幸徳秋水の「帝国主義」やその非戦論も、帝国主義戦争への批判にとどまり、植民地獲得競争への視点、朝鮮固有の問題への認識へと発展していなかった。

それでは啄木は独力でこの境地を生み出したのか。

そこで田口さんは先行者としての木下尚江を押し出している。

朝鮮併合の6年前、明治37年6月に木下尚江は平民新聞に「敬愛なる朝鮮」という論文を発表している。記事そのものは無署名で、後の調査で木下の筆によるものであることが明らかになった。

政治家は曰く、「我らは朝鮮独立のために、かつて日清戦役を敢行し、また日露戦争を開始するに至れり」と。

かくて我らは「政治上より朝鮮救済を実行せん」と誇称しつつあり。

然れども、彼らがいうところの「政治的救済」なるものが、果たして朝鮮の独立を擁護する所以なるか否かは、吾人は容易に了解すること能わず。

まことにこれを朝鮮国民の立場より観察せよ。

これ、一に、日本・支那・ロシア諸国の権力的野心が、朝鮮半島という「空虚」を衝ける競争に過ぎざるにあらずや

明治37年6月(1904年)という日付けに注目していただきたい。日露戦争が始まったのがこの年の2月、まさに戦争の真っ最中なのである。

前月、鴨緑江会戦でロシア軍を撃破、ついで第2軍が大連を攻略し、遼陽に向け進軍を開始しようとするさなかである。

まさに命がけの記事であったことは間違いないと思う。

ただこの記事は「黒々と」の歌の6年も前のものだ。当時啄木は18歳。東京で気鋭の歌人としてデビューしたばかりの頃である。この記事を読んでいたかどうかさえ定かではない。

ついで田口さんが挙げるのが、朝日新聞の連載「恐るべき朝鮮」である。

この記事は明治42年(1909年)に24回連続で掲載された。渋川という記者の現地紀行文である。

この記事は決して思想的なものではなかったが、挿話として日本の横暴の実態が散りばめられていたらしい。当時、朝日新聞で校正の仕事をしていた啄木は、このような朝鮮の状況をドイツをロシアに挟まれ、祖国を失ったポーランドへの同情と重ねていたのではないか、と田口さんは見ている。

そして最大の引き金となったのが、大逆事件である。以前の記事でも書いたが、啄木はこの事件に並々ならぬ関心を抱いていたし、場合によっては主体的に関わろうくらいの気持ちを持っていた。

彼の眼にはこれが一揆主義者の暴発と、それを奇貨とした政府の社会主義者弾圧のためのでっち上げであることは明らかだった。

そしてこの弾圧が目前に迫った朝鮮併合をつつがなく行うための予防措置であると啄木は予感した。


というのが田口さんのあらあらの主張である。

こういうことだろう。

啄木は朝日新聞の校正部に職を得て以降、急速に知識を広げ、社会的自覚を高め、一匹狼から組織的行動へと変身を遂げ、新聞記者ではないが人一倍ジャーナリストとしての身構えを身につけることになった。

感想になるが、

啄木像は、まず1909年3月、朝日新聞就職後の最後の3年を原像として把握すべきではないか。それでも24歳から26歳だ。この年にしちゃあ立派なもんだ。

それ以前の啄木は「プレ啄木」というか、成人啄木に至るまでの修行時代、ビルドゥングスロマンとしてみておくべきではないか。

「見よ、飛行機の高く飛べるを」は、その完成期における詩として、大人の詩としてみておくべきだろう。

2012年12月23日の記事 に現れた、天才少年歌人としてのやや酷薄な啄木像は、すでにそこにはない。

ふと見つけた講義録が大変面白かったので紹介する。

会計学の根底にあるもの」となっている

田中章義さんという東京経済大学の教授だった方が、2005年に行った最終講義のようだ。当時70歳、いまの私と同じだ。

講義は生い立ちから述べられている。札幌の山鼻の生まれ。結核で2年休学してからの北大入学だから、イールズ世代と安保世代の中間ということになる。

農村セツルメント「どんぐり会」で活動していたと言うが、私の入学する6年も前に卒業しているから面識はない。

ということで、話そのものが面白いのだが、今日取り上げるのはその中で石川啄木の「飛行機」という詩を引用されたところ。大変良い詩なので、そのまま重複引用させてもらう。ただし、多少の異同があるので、元の詩そのものを引用する。

講談社版『日本現代文学全集』39「石川啄木集」(昭和39年2月19日発行)

       飛  行 機     
         
 1911.6.27.TOKYO.

見よ、今日も、かの蒼空に
飛行機の高く飛べるを。

給仕づとめの少年が
たまに非番の日曜日、
肺病やみの母親とたつた二人の家にゐて、
ひとりせつせとリイダアの獨學をする眼の疲れ……

見よ、今日も、かの蒼空に
飛行機の高く飛べるを。

啄木25歳(死の前年)、明治44年(1911年)6月27日の作です。「はてしなき議論の後」などの詩と一連です(詩集『呼子と口笛』)。

岩城之徳の解説によると、

この詩には、少年が「飛行機」に仮託した夢と、少年の暗い現実が意味する作者の絶望感との両者が並行して提示されている。つまり一編の主題はどちらか一方のみをいうことにはなく、両者の関係をいうことにあったのだろう。すなわちこれは、脱出しようもない人生の暗さを自覚するがゆえに、いっそうそこからの跳躍を願い、また願わなければならないと思う作者の心情を表白した詩である。

引用しておいていうのもなんだが、「あんたの意見を聞きたいんじゃないんだよ」とおもう。こういうのを蛇足と言うんだろう。

それにしてもひでぇ文章だ。「つまり」と「すなわち」を並べ立てるなど愚の骨頂だが、それでも「要するに、結局のところ」ともう一文入れたくなるくらい、まとまっていない。これで原稿料とるとは相当のいい度胸だ。


何も説明の要らない詩だが、強調するとすれば、「はるけき夢と希望」(明治44年における飛行機と、今日の我々にとっての飛行機とはまったく意味合いが違う。なにせ蝋燭の炎の下で果てしない議論を繰り返していた時代だ)と、少年を見つめる作者の眼差しの優しさだ。

それが「されど誰ひとりとしてヴ・ナロードを…」の「はてしなき議論の後」と引き立て合っているかもしれない。なにせ大逆事件の直後だ。そして自らにも死が忍び寄っている。

そういう閉塞感の中の抜けるような蒼空の一瞬だ。悲しいわけではないが、何故か目頭が潤んでくるような光景ではないか。

本日の文化面の「潮流」というコラム。
見出しは「ノーマ・フィールドの指摘」というもの。
ノーマ・フィールドは小林多喜二の紹介者として有名な日本文学研究者。
私も一度講演を聞いたことがある。
記事は、ノーマ・フィールドが中心となって「プロレタリア文学研究」が発行されたことに関するものだ。
それについての説明は省くが、記者が紹介したノーマ・フィールドのリアルタイムの問題意識が面白い。
白人貧困層から後ずさりする白人リベラル
彼女はトランプ現象を前に、「白人リベラルが白人貧困層にかける言葉を持たない 」という問題が浮上したと考えた。記者はこの問題について、「ノーマ氏は鋭い目を向ける」と表現している。
それは「(白人リベラルが)白人貧困層を同じ人間として見なすことができなかったことではないのか
解答は実践にあり
その視点から、プロレタリア文学運動の魅力をあらためて見直してみると、そこには答えがあるという。
プロレタリア文学の何よりもの特徴が参加者の「実践」的姿勢にあったということだ。
ふつうは顧みられない、社会の底辺に暮らす人々をだいじに、立体的に、具体的に 」把握することが出発点である。
そして「軽視された人生に尊厳を吹き込む行為 」として結実させなければならない。
「かけるべき言葉」を失ったリベラル
その営みを通じて、「貧困層を同じ人間としてみなす」ことができるようになるのではないか。
翻ってみればリベラル層はその営みを軽視し、積み上げてこなかったのではないか。
我々の掲げるスローガンが草の根に届かないもどかしさは、日頃感じるところであるが、それは庶民語で話そうとしない我々の側の怠惰に起因しているのではないか。我々の言葉は意味を失って浮遊しているのではないか。
ノーマ・フィールドはそこまで掘り下げた上で、あえて「言葉を失ったリベラル」を叱咤し、「言葉を取り戻せ」と呼びかけているように思える。



突然映画づいてしまって、「エル・クラン」のあとは中井貴一の「グッドモーニングショー」、そして今週は宮沢りえの「湯をわかすほどの熱い愛」だ。
実は最初から「湯をわかすほどの熱い愛」がお目当てだったのだが、題材柄、なかなか男一人では入りにくい映画で、つい隣の映画館に入ってしまう、ということの繰り返しだった。
本日はついに意を決して家を出た。シアターキノという昔ながらの映画館で、ここに入るということはこの映画を見るという選択しかない。

結論は「正解」だったね。
とにかく泣ける。暗い悲しい映画ではなく、明るい前向きの映画なのだが、ひたすら泣けてしまう。特に後半に入ってからはほとんど泣きっぱなしの失禁状態だ。悲しいから、つらいから、くやしいから泣くんじゃない。気がついたらひとりでに涙が出てきてしまっているのだ。
これは絶対に一人で観に行く映画だ。誰かと行ったんじゃ、恥ずかしくてしようがない。女性はすっぴんで行かないとあとで困りますよ。
そして映画が終わったときの何たる清々しさか。
リアルな世界と紙一重のファンタジーだから、あまり生活臭が出すぎても困る、とスタッフは考えたのだろう。もっとリアルさを追求するなら別のキャスティングもあったろう。
そこで宮沢りえとオダギリジョーという二人を持ってきた。そのことでメソメソしない映画ができたのだろうと思う。
ネタバレになるかもしれないが、涙が噴水のように飛び出した場面が2つある。一つは若者を突然抱きしめる場面、もう一つは瞼の母の家を訪ねて、その家の窓に礫を投げつける場面だ。これは宮沢りえ以外の誰にも演じらない。最後に近く、ガンの苦痛に身悶えするシーンもまぶたに焼き付いて離れない。

本当にいい映画だった。もう一回行きたいくらいだ。ありがとう。

これも本日の赤旗、文化面

坪内稔典という俳人が「文学のある日々」というエッセーを連載している。いつもちょっとツボにはまらないもどかしさがあるのだが、今回の「子供と言葉」というエッセーには素晴らしい俳句が載せられている。

俳句と言っていいのか分からないが、俳人が自ら俳句だと言っているのだから、俳句で良いのだろう。

※ ※ 

私はときどき、小学生たちと俳句を作る。その際、自己紹介代わりに自作を音読してもらう。

三月の 甘納豆の うふふふふ

たんぽぽの ぽぽのあたりが 火事ですよ

春の風 ルンルンけんけん あんぽんたん

これら私の句をいっしょに音読すると、子どもたちの緊張感がたちまちほぐれ…

とまぁ、そんな文章なのだが、

一人でもぐもぐと口のなかで音読しても、たしかに うふふふふ だ。

三句とも語頭にアクセントがあって、「の」の字が多くて、「の」つながりの言葉の電車だ。

意味は基本的に否定されているが、春の野焼きのような浮き浮きした気分が満載だ。

“あんぽんたん” も甘納豆も、かすかに古めかしい。

とにかく、とってもチャーミングだ。

甘納豆の うふふふふ」はおそらく一生耳の奥に残るだろう。


電力村の横暴がこの国を貶めている 石炭火発 推進の背景

香港 雨傘運動の経過

ワレンバーグ スエーデン外交官 ハンガリー ユダヤ人救出 ソ連による逮捕と殺害

医療・介護 改悪 工程表

「風に吹かれて」ってそんなにいい詩なのかね?

うんと意訳しながら辿ってみると、

あいつはどのくらい苦労したらいいんだい

君があいつを「男だ」って言う前に、

大砲の弾は何発飛んだら禁止されるんだい

ねえ君、そんなことなんかわかりっこないよ

風の向くままさ

これが一番だ。

二番はもっと嘲りのニュアンスが強い

山があるだろう

それが全部雨で流されて消えるのに何年かかる?

人々が自由になるのに何年かかるだろう

それまで生きていられるかな

それまで見て見ぬふりをするために、

何回首を傾げるかな

ねえ君、そんなことなんかわかりっこないよ

風の向くままさ

三番はそれまでより少しまともである

話によると、最初は三番が二番で、二番は後から突っ込んだものらしい。

人は何度見上げたら空が見えるようになるのだろう

人はいくつの耳を持たなければならないのだろう

人々の悲鳴を聞けるようになるのに

一体何人が殺されたら、彼は

あまりにも多くの人が死んでしまったと悟るのか

ねえ君、そんなことなんかわかりっこないよ

風の向くままさ

ボブ・ディランは仲間と議論していて、急にこの歌詞を思いついたそうである。

結局彼の言いたいことは、「そんなことなんかわかりっこないよ」ということだ。彼が議論からそろそろと後ずさりしているさまが目に浮かぶ。

何かしら、嫌な苦味の残る歌詞である。

同じボブでも、ボブ・マーレーはいいぞ。

すみません。私は柴田トヨさんという人をぜんぜん知りません。なので「詩人柴田トヨ」と呼び捨てにするのはちょっと抵抗があります。

90歳を過ぎて詩作を始めた。

第一詩集は160万部のベストセラーになった。

詩壇は柴田のことを無視し続けた。

柴田を詩人ともてはやすマスコミに苦言を呈する“現代詩人”がいた。

といわれると、「ほお、そうか」というしかありません。

ちょっとグーグル検索してみました。

ウィキによると

1911年(明治44年)生まれ 2013年の死亡とあり、3年前に101才で亡くなった人だと分かります。

いろいろ辛い人生を送った後、92歳から詩作を始め、産経新聞の投稿詩人となった。テレビやラジオでたびたび取り上げられ、詩集『くじけないで』が160万部を記録した。

プロフィール

ということで、けっこうな人気だったようです。産経系だったので私の目には触れなかったのかもしれません。

それで実際の作品はどんなものだったのか。著作権侵害を恐れずに拾ってみる。

以下は柴田トヨさんさんの詩の頁から転載

くじけないで

ねえ 不幸だなんて
溜息をつかないで

陽射しやそよ風は
えこひいきしない

夢は
平等に見られるのよ

私 辛いことが
あったけれど
生きていてよかった

あなたもくじけずに

神様

お国のために と
死にいそいだ
若者たちがいた

いじめを苦にして
自殺していく
子供たちがいる

神様

生きる勇気を
どうして
あたえてあげなかったの

戦争の仕掛け人
いじめる人たちを
貴方の力で
跪かせて

化粧

倅が小学生の時
お前の母ちゃん
綺麗だなって
友達に言われたと
うれしそうに
言ったことがあった

それから丹念に
九十七の今も
おつくりをしている

誰かに ほめられたくて

先生に

私を
おばあちゃん と
呼ばないで

「今日は何曜日?」
「9+9は幾つ?」
そんな バカな質問も
しないでほしい

「柴田さん
西条八十の詩は
好きですか?
小泉内閣を
どう思います?」

こんな質問なら
うれしいわ

と、まぁ、技法的には小学生の作文である。

ただテクニックというのはその気になれば急速に向上するものであるから、本当は最初の詩から順に並べながら、その流れを評価しなければならないだろうが、そこまでの気持ちは起きない。

正直言えば陳腐である。「100歳でよくおできになりましたね」と言う言葉が咽喉まで出掛かる。

以前に柳原白蓮の歌を観賞したときの凛とした感動はそこにはない。むかし山形の小学生の綴り方を詠んだ時の泣けるような感動もない。

「ある現代詩人」の感想は、それはそれとしてうなづけるのである。ノーベル賞のアカデミーが「それをいっちゃあおしまいだよ」なのと同じように、「現代詩人たるもの、それは禁句だぞ」といわれると、「現代詩人ってそんなご大層なものかい」と絡みたくなる気がしないでもない。

どうも木島章さんの腹の底が見えず、なんとなし、いやな感じである。

どうも昨日の赤旗の記事が気になってしかたがない。

文化面の「詩壇」というコラムで、題名は「社会と乖離する危機」、著者は木島章さんという人で、肩書きは詩人。

短い記事だがいくつかの内容が含まれる。

最初がボブ・ディランのノーベル賞受賞の話。

ノーベル賞の主催団体がボブ・ディランに連絡をとろうとしたが、当初、ボブ・ディランが態度表明をしなかった問題。これはいまだに真相が分からないので評価のしようがない。

ついで、ノーベル賞のアカデミーがボブ・ディランを「無礼で傲慢だ」と発言したという話。これも真偽のほどはたしかでない。しかしそれが世界中に波紋を呼び、ノーベル賞団体こそ傲慢だと批判を浴びてしまった話。これも、「どうでもいいじゃん」という感じだ。

ただノーベル賞側が不愉快に感じても不思議ではないと思う。たしかにボブ・ディラン側の対応は失礼だ。同時にそれを表に出すのも大人気ないかなとは思う。そんなことを表に出せば、どうせ「傲慢だ」と切り返されるのは当たり前だ。

そこで木島さんの見解は次のようなものだ

ノーベル賞の権威にひれ伏さないディランをののしったアカデミーは傲慢である。(正確な引用は後出)

これは、やはり一方的な断罪といわざるを得ない。とにかく一連の経過を評価する上で、「なぜ」という事実が一つも明らかにされていないからだ。

この段階で木島さんの言うことに「そうだ、そうだ」と同感することは出来ない。ただ、木島さんがボブ・ディランをきわめて高く評価していることは実感できる。

ただボブ・ディランの話はここでの主題ではないのでこれ以上の議論はしないで置く。

次が、詩人柴田トヨをめぐる議論。

ボブ・ディランのときと同じように、いくつかの事実が並べられる。

90歳を過ぎて詩作を始めた。

第一詩集は160万部のベストセラーになった。

詩壇は柴田のことを無視し続けた。

柴田を詩人ともてはやすマスコミに苦言を呈する“現代詩人”がいた。

これらの事実から木島さんはつぎの結論を引き出す。

現代詩を高みに置き、彼女を見下すように排除する詩人たちに、ノーベル賞の権威にひれ伏さないディランをののしったアカデミーと同様、傲慢さしか感じられないのは私だけだろうか。

「私だけ」かどうかは別にしても、ボブ・ディランと柴田を同列に扱い、一方でノーベル賞のアカデミーと、現代詩のしがない「詩壇」とを同列に置く視点というか論理はかなり特殊なものと見てよいだろう。

そしてこの文章の最終的結論はこうなる。

柴田の人気の陰で、現代詩がますます社会と乖離していく危機感を抱かずにはいられない。

こうなると、あたかも現代詩が柴田を評価しないことと、現代詩が社会から乖離していることが、因果関係にあるかのように思えてしまう。そう読めてしまうのは私だけであろうか。


「故郷を離るる歌」について という記事に崎山言世さんという方からコメントが有りました。

読み返してみると、あまり真面目な文章ではなかったようで反省しています。

一応、撃剣術問題と、軍国主義者問題について意見を申し述べます。

1.撃剣術問題

崎山さんもご覧になったかと思いますが、撃剣術の引用は琴月と冷光の時代というサイトからのものです。

ここにはネット文献としては型破りなほどに詳しく吉丸の経歴が書かれており、ほとんどごちそうさまの世界です。

そこに次のように書かれています。

一昌は文武両道をめざした。学業は大学予科の文科志望、部活動は撃剣部に入った。撃剣は剣道に近いものだが当時は撃剣と言った。10月10日の紀念会で竹刀で試合をしたことが記録されている。撃剣部の部長は、教授の秋月悌次郎(1824―1900)だった。秋月は元会津藩士でこのとき既に70歳、翌年秋に退職するまで倫理・国語・漢文を教えていた。

なお撃剣術というのは、剣道とは違いはるかに実戦的な武術ですが、明治に入ってからは廃れる一方だったようです。

吉丸の名誉のために言い添えておくなら、下記のごとくヒューマンな面も持ち合わせていたようです。

一昌は東京帝国大学を卒業した直後の明治34年秋、修養塾という私塾を開き、苦学生とともに質素な生活をしていたとされる。ほぼ同じころ法学士だった土屋禎二と川添信敬が小学校の校舎を借りて私立の下谷中等夜学校を開設し、一昌は校長となり、経営にあたった。修養塾は夜学に学ぶ苦学生の寄宿舎となった。

2.軍国主義者問題

軍国主義者問題は、不正確だったかもしれません。我が静岡高校の校歌は現在一番しか歌われておりません。それは二番、三番があまりに軍国主義的であるとのことで、戦後に校歌から排除されたのです。

そのことのみをもって吉丸が軍国主義者であったとは断言できませんが、少なくともそのような精神を内包していたことも間違いのないところでしょう。五十歩百歩ですが、より正確には「皇国主義者」と呼ぶべきかもしれません。

他にもたくさん例示できますが、省略します。

3.小学唱歌の位置づけ

ついでに彼の作成した小学唱歌の歴史的運命について、この文章にはこう書き記されています。

一昌が成しえた最も大きな仕事はまちがいなく『尋常小学唱歌』である。…『尋常小学唱歌』は約20年間の長きにわたって教育現場で使用された。昭和7年に『新訂尋常小学唱歌』が編纂されるが、118曲のうち87.3%にあたる103曲、つまりほとんどそのまま引き継がれた。さらに主要な歌は戦時下においても音楽教科書に掲載された。

ただし、いわゆる童謡運動が起き、学校唱歌への批判が高まったあたりから、吉丸は東京音楽学校内でも忘れられるような存在になっていったようである。

…時代を下るにしたがって見過ごされるようになったのは、一昌が厳しい生徒監として一部に反感を買ったことや、「楽壇時評」の厳しい評論活動が敵をつくったことが影響したからであろう。

つまらない話で申し訳ありません。

一人で歩いて行った往診の帰り道、

「園のさゆうり、なぁでしこお垣根のちーぐーさー」と口をついて出た。

これは認知症による独語ではなく、小さい時からの癖である。内側膝状体・海馬性の発語であろう。

外国の歌に日本語の歌詞をつけるとき、昔はかなり強引にやった。

小百合を“さゆうり”と発音する違和感はかなりのものだ。せめて“さあゆり”とはならなかったものだろうかと考えた。

しかしそうやると、“あ”がなんとも気が抜ける。

そもそも小百合でなくて4文字の花はなかったのか。第一、「園の小百合」なんて、宝塚の芸名みたいで、あまりにも月並みだ。

それにしても、この歌のいいのは最後の「さらば故郷、さらば故郷、故郷さらば」だよな、これは絶対コーラスだろう。

ということで、部屋に戻って早速グーグルしてみた。


まず元歌。

これはドイツ民謡で『最後の夜』(Der letzte Abend)というのだそうだ。

世界の民謡・童謡 というサイトで、全曲歌詞をふくめて詳しく紹介されている。

ドイツ中部フランケン地方の民謡といわれる。作詞・作曲者や作曲された年代などは一切不明で、現在のドイツ国内ではほとんど知られていない。

歌詞を見ると、家庭の事情で好きな女性と結婚できず、彼女と別れた最後の夜を嘆き悲しむ悲恋の歌となっている。特に最後の4番・5番のくだりは死を暗示させる。

というから、「冬の旅」の冒頭の歌「おやすみ」を思わせる。

そこで紹介者は

「民謡」というよりは「歌曲」に近い完成度の楽曲であり、おそらくはシューベルト歌曲のように、しっかりとした作り手による作品だったのだろう。

と想像している。(ウ~ム、そこまで言うか…)

「やはりそうか」と思ったのは、「さらば故郷、さらば故郷、故郷さらば」のところだけコーラスで歌うようになっていることだ。

[Chor]
Nun ade, ade, ade, nun ade, ade, ade,
Feinsliebchen lebe wohl !

となっている。

ドイツ語はリエゾンしないから、“ヌンアデアデー、ヌンアデアデー、ファインリーヘン、レーベーヴォール”となる。いかにもだ。ヌンは今で、アデはフランス語のアデューだろう。


唱歌としての「故郷を離るる歌」は1913年7月に出版された「新作唱歌 第五集」に掲載された。大正2年というから、親父が生まれる前の年だ。

吉丸一昌という作詞家による「訳詞」ということになっているが、ほとんど作詞だ。

言葉は陳腐なところがあるが、構成はしっかりしている。

最初は縁側に座って間近な庭から垣根へと視線を上げていく。そして

今日は汝(なれ)をながむる 最終(おわり)の日なり

と叙情へ持っていく。

2番は家を出て峠へと向かう道すがらだ。1番に比べると言葉はお座なりだが、

別るる我を 憐れと見よ さらば故郷

はちょっと“刺さる”文句だ。それは“こころざしを果たさん”ための旅立ちではない。“哀れな旅立ち”なのだ。「そこに女がいる」と、「そして何かがあった。それは終わった」と、微かに思わせる。

とすれば叙景がお座なりなのは、意識的にそうしたものかもしれない。

三番の歌詞はついに峠まで来て、振り返り、最後の別れを告げる情景だ。とても良い。ありきたりの叙景ではなく、未練を噛みしめる切ない叙情だ。

此処(ここ)に立ちて さらばと 別れを告げん
山の蔭の故郷 静かに眠れ
夕日は落ちて たそがれたり さらば故郷

ところが、この三番、どうやっても思いだせない。歌った記憶がないのだ。

はたしてこの歌(唱歌)に3番はあったのだろうか。


Youtubeでいくつかの演奏が聞ける。当然合唱がいい。NHK児童合唱団のものが出色だと思う。

ソプラノ独唱がいくつかあるが、うまいとか下手という以前の理解だ。

この歌は斎太郎節と同じでコールアンドリスポンスだ。“さらば故郷…”が聞かせどころで、前の文句はそれとの掛け合いみたいなものだ。“エンヤトット”のリズムを崩してはならない。アクセントをはっきりさせなければならない。

弱起なのだから、“その”に心持ちテヌートをかけて、次の“の”を強調しなければならない。さらば故郷のところは、“ば”にアクセントを置いて、最後のフレーズだけ“ふる”を強くすることになる。

いっそ16拍にしてしまう手もあるが、さすがにせわしい。


崎山輝一郎さんという方の琴月と冷光の時代 というページに、吉丸と唱歌の関係について詳しい経過が載せられている。

まず吉丸の経歴がきわめて要領よくまとめられているので紹介する。

吉丸一昌は大分県北海部郡海添村(現在の臼杵市海添)の出身である。明治6年9月15日に旧臼杵藩士の家に生まれた。

苦学の末に明治34年7月に東京帝大を卒業した。体育会系の人物で成績はすこぶる芳しくなかったようである。この時既に28歳で妻帯していた。

卒業後は東京府立第三中学校(現在の両国高校)に赴任し、同校で6年間、国語と漢文の教諭をつとめた。

そのかたわら、私立の下谷中等夜学校を開設し、苦学生と生活をともにした。

明治40年3月21日の小学校令改正で唱歌が必須科目となった。東京音楽学校は、国定に準じる唱歌教科書をつくる任務を与えられた。

吉丸は東京音楽学校(現在の東京藝術大学)の教授に抜擢され、尋常小学唱歌や新作唱歌の編纂を委ねられた。明治41年、34歳のことである。

以下、就任前後の経過が続くが、ここでは省略する。(ただし面白いので、ぜひ本文をご参照ください。ウィキペディアもご参照ください)

なお吉丸は我が母校静岡高校の校歌の作詞者でもある。撃剣術の達人らしく、ゴリゴリの軍国主義である。




伊藤ふじ子 私の二大発見

二大発見というとマルクスの史的唯物論と剰余価値ということになるが、私のはそんなに大げさなものではない。

一つは、「空白の一時間」というもので、密かに自慢している。

これは窪川稲子のレポートが細部にわたってかなり正確であるにもかかわらず、時間の記載が誤っていることだ。これは以前書いたとおり、人間の記憶というのは静止画像として保存されているからである。その場面が目の前にあるかのようにまざまざと想起されるのに、それがいつの事だったかと言われるととんと分からない。そういうものなのだ。古事記の世界もそういうふうに理解すべきだ。時間感覚があやふやだからと言って、それが嘘だとはいえないのである。

窪川は中条百合子の家で晩飯をゴチになっていた。そこに多喜二虐殺のニュースが飛び込んできた。多分壺井栄からの連絡ではないか。それから前田病院に電話したら「もう出た」という。とるものもとりあえず馬橋の多喜二宅に向かう。

おそらく、その時点では遺体を載せた車はまだ出発していないはずだ。下落合の中条宅から西武新宿線、中央線と乗り継いで阿佐ヶ谷の駅まで行き、そこから馬橋の多喜二宅まで歩いた。どう見ても2時間はかかる。

そして10時半ころに多喜二の遺体が到着した直後に、多喜二宅に入る。中条、壺井らとともに死体の検案を介助した。

検案を担当した安田徳太郎と中条らとともに多喜二宅を辞したのは夜の11時半過ぎであったろうと思われる。

当時、終電が何時ころかは知らないが、省線電車に間に合わせようと家を出たのかも知れない。

肝心なのがここからで、稲子らは「踏切の向こう」で、多喜二宅に向かう原泉、貴志山治らと行き逢っているのである。

この「踏切の向こう」というのがずっと分からずに居たが、馬橋の地図を知ったことから、話が見えてきた。

当時の馬橋は新興住宅地であり、道は昔の野道がそのままであった。多喜二宅に行くには阿佐ヶ谷の駅の北口に一旦出て、そこから東南に進む道を通って、線路を横切って行くことになる。

だから稲子のグループは踏切を越えたところで、貴志らのグループと行き会うことになるのである。

稲子らがいなくなって、貴志・原らが到着するまでの間、短ければ30分、最大で60分位の「空白」があった。

もちろん完全な空白ではない。母セキら家族はずっといたし、小坂多喜子の夫婦も居たはずだ。

あるとすれば、突然の闖入者であるふじ子に圧倒されて座を外したのであろうということになる。そして見も知らぬふじ子と遺体だけにしておくわけにも行かず、江口が立ち会っていたのであろうと想像される。

これが第一の発見である。

第二の発見は、ふじ子の句集の中の2首である。

句集の中に、やや場違いに、「恋の猫」の句が二つほど投げ込まれている。飛び飛びで、悟られぬよう密かに紛れ込ませたようにみえる。

恋猫の 一途 人影 眼に入れず
ボロボロの 身を投げ出しぬ 恋の猫

技巧もへったくれもない。まさにあの日あの時の情景だ。
分かるのは、ふじ子が多喜二の傍らでは「恋する猫」であったこと、多喜二がむごい死を迎えたその日、ふじ子もボロボロだったこと。ボロボロだったから、原泉に「私は多喜二の妻です」と叫び、人目もなく多喜二(の遺骸)に向かって身を投げ出したこと。

以上二点については、私のいささかの自慢である。

これまでの文章もご参照いただければ幸甚です。

ふじ子の句集「寒椿」と「恋の猫」

伊藤論文への感想

伊藤純さんの考察

ついに見つけた、空白の1時間

多喜二の通夜で、新たに発見された写真の解読

大月源二「走る男」とふじ子

2月20日、土曜日、多喜二祭の集会に参加するために小樽まで行ってきました。
1.小樽 最近の様子
汽車に乗って銭函の駅を過ぎると、線路はやおら波を浴びそうなほど海岸ぎりぎりに出ます。この波を見たとたん「あぁ小樽に帰ってきた」という気分になります。
まるで省線の四ツ谷駅みたいな切通の底の南小樽駅を過ぎて、突然高架になって右手に港の風景が広がるとやがて終着駅小樽です。この駅は跨線橋をまたぐのではなく、地下に下りる階段を下って、そこを右に曲がると改札口になるのです。とにかく原野に碁盤目の札幌では味わえない、そういうハイカラさが小樽独特のものでした。
ここまでは小樽診療所の所長だった20年前の小樽、余市診療所長だった40年前の小樽と変わりない風景です。
降りてからが全然違う。20年前、すでにうら寂しげな街でしたが、いまやもはや死にゆく街です。駅前通りこそかろうじて街の雰囲気ですが、その1本西側は廃屋通りです。木造3階建、奥行きの深い、さぞや往時はブイブイ言わせたであろう町屋が、いまや無住の家となり残骸をさらしています。
その中の一軒が、今夜の楽しみにしていた「竹八」でした。小樽診療所の所長時代は三日と明けず通い続けた小料理屋です。ここでは締めサバと本マグロの山かけで始めて、季節のものが出てきて、最後は串カツというのが定番でした。とんかつソースを両面漬け、辛子もたっぷりつけて泣きながら食べるのが定番です。亭主があきれてみていました。最後は串カツを10本くらいお土産にして診療所に帰ったものです。
あるいは気分が乗れば、そのまま花園通りまで足を延ばして、ディープな浮世通りに場違いなスナック「新世界」で、サンバ・カンシオン(ときどきセザリア・エボラ)を聞きながら、ご自慢のチーズパイでスコッチを傾けるのが日課でした。
2.当日講演の紹介
講演は小樽商大の多喜二研究者で、非常に水準の高いものでした。多喜二が大の映画フアンで、おそらく小樽時代に見た映画からずいぶん影響を受けているのではないか、ということで当時の映画を映像で紹介しながらプレゼンテーションしてもらいました。
改めて納得したのですが、多喜二の見た映画はサイレントでした。我々はつい考え違いしてしまうのですが、明治生まれの人はまず画像から映像に入り、ついで音声に至るという文化受容の経過をたどったのです。
文字(原語)に始まり翻訳→画像→動画像→音声という経過は、明治・大正の新文化を考えるうえで念頭に置いておいておいたほうが良いようです。
3.夜の小樽
結局飲み仲間との再会はかなわず、一人で街へと繰り出しました。といっても8時の汽車に乗らないと介護に差し支えるので、ちょいといっぱいのつもりで小樽駅周辺で探すことになりました。
「竹八」はもうありません。とりあえず「島崎」に行きましたが満員お断りでした。そもそも選択するほどの店はもはや駅近辺にはありません。仕方ないので、アーケード街からちょっと脇に入った昔からの「炉端焼き」に入りました。相変わらず頭が高い。ネットで宣伝しているのか観光客が入り始めていて、ますます構えが「老舗」風になっています。
結局、注文の品が来ないまま店を出たのですが、おかげで快速の最終に乗り遅れてしまい、自宅についたのが9時半でした。
いささか画龍点睛を欠く20年ぶりの夜の小樽でしたが、今どきの小樽としてはこんなものでしょうか。


これって、ちょっと品はよくないけど、立派な詩だよね。前に戦争法反対の女性の演説載せたけど、詩人っているんだね。そんじょそこらに。

しかもたいてい女性だ。紫式部、清少納言以来の日本的な伝統なのだろうかね。与謝野晶子、茨木のり子、みんな女性ばかりだ。

「保育園落ちた 日本死ね」

何なんだよ、日本!

一億総活躍社会じゃねーのかよ

きのう、みごとに保育園落ちたわ

どうすんだよ

私、活躍できねーじゃねーか

子供を産んで、子育てして、社会に出て働いて、税金納めてやるって言っているのに

日本は何が不満なんだ?

何が少子化だよ、クソ!

子供産んだはいいけど、希望通りに保育園に預けるのは、ほぼ無理だから

…って言ってて子供産むやつなんかいねーよ

不倫してもいいし、ワイロ受け取るのもどうでもいいから

保育園、増やせよ!

オリンピックで何百億円ムダに使ってんだよ

エンブレムとかどうでもいいから、保育所作れよ

有名なデザイナーに払う金あるなら、保育所作れよ

どうすんだよ

会社辞めなくちゃならねーだろ

ふざけんな、日本!

保育園増やせないなら、児童手当20万にしろよ

保育園も増やせないし、児童手当も数千円しか払えないけど

少子化何とかしたいんだよねーって、

そんなムシのいい話あるかよ、ボケ!


いろんなところに載ったと思うけど、未読の方のために再掲しておく。

赤旗文化面のコラム「朝の風」に、すなおにうなづけない二つの歌が掲載されていた。
福島泰樹という人の歌集「焼跡ノ歌」からのものらしい。

あおい炎を ふきだしている 弟のそばに 立っている 電信柱
泥の川に朝日を浴びてよこたわる白い便器のような妹

非常に過激な歌で、その過激さを突き出すことで、戦争の悲惨さを訴えようとする思いは分かるが、どことなく納得出来ない。
その過激さが浮遊しているような気がしてならない。

東北大震災を目の当たりにして、3歳で体験した東京大空襲の場面が蘇ったという。いわばフラッシュバックしたイメージだ。

二つ考えられる。ひとつは70年を経て、諸々の情景に絡まっていた恐怖や悲しみや不安などの心的情景がそこにはさっぱり消えてしまった可能性だ。
もう一つは、その時まさに失感情状態に陥っていたという心的情景が、「昆虫の目をしていた私」の記憶が、写真的情景とセットになって畳み込まれていた可能性だ。

焼跡の情景はダリの絵のシュールリアリズムと似ているかもしれない。しかし本当はシュールどころではないはずだ。もしそれがシュールであれば、それはそこまで追い込まれた人間のシュールな感覚、無感覚の感覚というべき心的状況なのではないか。

これだけ外的情景と心的情景が乖離しているのなら、これらの歌は対となる心的情景の叙景が、いわば返歌として歌われなければならない。でなければ、沈黙を守るほうが良かったかもしれない。

ここを書き込まないと、歌作りは疎外を取り戻す営為とはならないはずだ。そこを書き込まないと、歌人は心をいまだ取り戻せていないことになる。

上野先生に頂いた森熊たけし著「漫画100年、見て聞いて」を、明後日の多喜二忌を前に、遅まきながら読んだ。
A4版で120ページというからかなりの大部ではあるが、絵や写真が満載なので読むのにさほど時間はかからない。
ふじ子の俳句をまとめた「寒椿」という句集がそのまま掲載されている。加藤楸邨に師事したということで、かなり技巧的にも洗練されたものだ。
表紙がいいので、そのまま転載する。多喜二が舞い上がった理由も、セキが好まなかった理由も、森熊がすべてを恕し続けた理由も、すべてこの写真で説明できる。
寒椿

句集の題名は彼女がつけたものではなく、夫、森熊猛によるものだ。由来は彼女が投稿していた句誌「寒椿」によるものだから、それほど深い意味はない。
ただし森熊によると、東京都知事選に美濃部さんが当選したとき、作った句に寒椿が出てくるので、それもあって「寒椿」としたのだそうだ。それがこの句である
枯芝に 紅こぼしけり 寒椿
紅は紅の旗を指すのであろう。さすれば寒椿は風雪に耐える民衆の力の象徴ということになる。
次の句は多喜二に関するもので、有名なものだ。
アンダンテ カンタビレ聞く 多喜二忌

多喜二忌や 麻布二の橋 三の橋
これは句誌に投稿したものではなく、ノートに書き残されていたものを森熊が見つけ出したものだ。
蛇足で申し訳ないが、アンダンテ・カンタービレはチャイコフスキーの弦楽四重奏曲第一番の第二楽章。甘美な曲だ。バイオリン独奏用の編曲もある。
多喜二はバイオリンが大好きだったから、二人だけの隠れ家でレコードをかけて、音が漏れないように覆って、ふじ子を傍らに聞き入ったのであろう。ふじ子は体中を耳にして、多喜二の息遣いまで一緒に、その情景を心の奥底に綴じ込んだ。そのアンダンテ・カンタビレを、多喜二の何回目かの命日に、一人で密かに聞いているのだ。
“麻布二の橋、三の橋”は、二人が特高の目を逃れるために麻布界隈の間借りを転々としていたことを指す。それが走馬灯となって甦る。畢生の名文句だ。そこにあるのは、覚悟した、まことに濃密な愛の空間である。
これを読んだ時の森熊の胸中も、察するにあまりあるものがある。

つぎに「遺稿」の中から「自己紹介」という文章が紹介される。
わたしは悪女です。それも余り頭の良くない悪女です。人が信じようが、信じまいが、本人が言っているのですから間違いありません。
来世は史上最後の美女に生れます。世界の人類を魅了して夭折します。 以上
「以上」というのが、あっけらかんと潔い。彼女なりに、こっそりと懸命に「悪女」を生き抜いたのかもしれない。
たしかに「美女」とは言えないかもしれないが、それだけで十分に魅力的だよ。

さて句集だが、ひねりを利かせた叙景の中にかすかに叙情を込める技巧はさすがのものだ…と言いつつ眺めているうちに、大変なものを見つけてしまった。
句集の中に、やや場違いに、「恋の猫」の句が二つほど投げ込まれている。飛び飛びで、悟られぬよう密かに紛れ込ませたようにみえる。
恋猫の 一途 人影 眼に入れず

ボロボロの 身を投げ出しぬ 恋の猫
技巧もへったくれもない。まさにあの日あの時の情景だ。
分かるのは、ふじ子が多喜二の傍らでは「恋する猫」であったこと、多喜二がむごい死を迎えたその日、ふじ子もボロボロだったこと。ボロボロだったから、原泉に「私は多喜二の妻です」と叫び、人目もなく多喜二(の遺骸)に向かって身を投げ出したこと。
思えば2月のあの日、馬橋から阿佐谷の駅への道すがら、寒椿も紅色に咲いていたことであろう。


基本的には、前掲記事をひっくり返すようなものはない。(実は、その前に3回ひっくり返されて、そのたびに記事をボツにしている)

主要ではないが、矛盾する点をいくつか上げておかなければならない。

1.「新日本文学」1950年2月号の座談会記録

不勉強のため、こういう記録があった事自体が初耳で、伊藤さんはこれを目下のスタンダードとしている。

ただ私の参照した倉田稔さんの論文もこの記録を参照しているので、大きな齟齬はない。それに窪川稲子、原泉、江口、小阪らの証言はその後発表されたものが多いので、「座談会」と矛盾しても、その都度個別に判断するしかない。

貴司山治の動きは、個別に取り上げなかったが、新聞社と連絡をとって笹本を動かしているのが貴司だということが初めて分かった。また築地小劇場に行って各所に連絡したのは、原泉というより貴司の差金だったのかもしれない。

要するに築地班チーフが貴司、馬橋班チーフが江口という二人の非党員で現場を仕切ったことになる。これに対し、初動で活躍した大宅、青柳の名はその後出てこない。

2.写真の人物について

① 図像2がまず撮られ、ついで人を入れ替えて図像1が撮られた。

② 図像2は写真を撮るからといって、遺体と母親セキさんを中心に自然に人々が蝟集してきた生々しい雰囲気が生きている。

③ そのあと人々の配置を入れ替え、怒りと抗議の意志を示すポーズをとった関係者が図像1である。

と、伊藤さんは読みこむ。③はちょっと言いすぎかもしれない、両方を比べると、親族筋と江口さんが消えてその隙間に後ろの連中がせり出したというふうに見えるからだ。とすると鹿地亘がKYだが。

問題は人物の比定である。

まずは窪川稲子だ。窪川稲子に居られると困るのである。

fig1

fig1_2

これが、伊藤さんによる比定である。(多分先人が行なったものだろう)

fig2

fig2_2

私はこれは稲子ではないと思う。稲子は写真を見てこれは自分と思い込んだ。だから帰ったのは午前2時だったと時間合わせをしているのではないか。

帰りも一緒だったのなら、なぜそこに中條や壺井がいないのか。踏切の向こうで貴司らと行き合ったのなら、どうして一緒に写真に映れるのか。

と、一応疑問を投げかけておく。

ついでにタキさんの件だが、私は田口タキと比定されている女性は多喜二の姉ではないかと思う。そして後ろのちょび髭がその旦那ではないか。

小林家の養女にはなったものの、家出してしまった人間が、通夜の席でこの位置に座るか? という当然の疑問がある。セキさんが座らせたのだとすれば、それはそれであるが…

「女3人が来て激しく泣いた」というのは江口の述懐であるが、江口はふじ子が来るなり泣き叫んだところは見ていない可能性がある。

これについて記載したのは小坂である。しかし小坂は当然の事ながら接吻シーンは見ていない。

つまり江口は隣室にいて、ふじ子の泣き叫ぶシーンを三人の女が泣いたと勘違いしていたかもしれない。これ以上の当て推量は意味ないが…

それにしても鹿地亘が目障りだ。

「昭和前期の図像学」の紹介

もうやめようと思ったら、また文献が出てきてしまった。 

【資料紹介】 昭和前期の図像学 ガラス乾板から浮かび上がる群像

という論文。

2015年5月20日

占領開拓期文化研究会機関誌「フェンスレス オンライン版」 第 3 号  に掲載されている。

著者は伊藤純さん。あの写真の発見者である。

題名が題名だけに、グーグルではなかなか引っかかってこない。しかし論議の焦点にもろにかぶっているので、触れない訳にはいかない。

以下、関連する部分を抜き出していく。

Ⅰ 1933年2月21日深夜の〝小林多喜二〟

A ガラス乾板の発見

数十枚のガラス乾板(大名刺判〔6.5cm × 9cm〕その他)が、貴司山治の遺品の中から発見された。デジタル化してポジ像に変換してみると、いくつか、注目すべき画像が検出された。

小林多喜二虐殺直後の写真はいつ誰によって、どのような状況下で撮影されたものか記載されていない。

今回見出されたガラス乾板の中に、この写真のネガが発見された。さらにもう一枚、手ぶれと露出ムラの激しいガラス乾板も見出された。

この事実は、「新日本文学」1950年2月号の座談会記録と整合する。

(そこでは)記憶の錯誤や食い違いがいくつか現れてきているが、総体として虐殺直後の事態の推移がかなりよく復元されている。

B 座談会による事実経過

時事新報の記者だった笹本寅(つよし)が、新聞カメラマン(前川)を連れて関係者をフォローし事態の把握に重要な役割を果たす。

多喜二の遺体が引き取られ馬橋の自宅に安置されたのが二十一日午後十時頃とされている。

安置直後、医師安田徳太郎が詳細な検屍を行う。その時、屍体の外況が写真撮影されており、この写真も広く流布しているが、撮影の背景はやはりほとんど説明されていない。

立野信之は「笹本から屍体の写真をもらった」と発言している。笹本(の指示を受けた前田カメラマン)は二十一日深夜、まだ官憲の張り込みが甘かった時点で、安田医師の検屍に居合わせて遺体を撮影したことになる。

同じ座談会で、江口渙は、田口タキ、小林幸と、もう一人の女性が、遺体の「右手の枕許にずらりと一列に坐つて…一斉にワーッと声を挙げて泣いた」と陳述した。

これに対し貴司は「……その晩僕がとった写真があるが、女の人はおらんよ。」と発言している。

これについて伊藤さんは下記のごとく推測している。

江口が物語った三人の女性のエピソードはおそらく、貴司や千田がデスマスク作成の手配のために遅れて馬橋に帰ってきた、それより以前の時間に起こったことであろう。

C 貴司のうごき

伊藤さんは同じ座談会の記事から騎士の動きを抜き出している。

貴司は二十一日夕刻、夕刊報道で事態を知った。

まず時事新報に笹本寅を訪ねてフォローを依頼した。笹本は新聞記者で警察の警戒下でも比較的行動しやすいと考えたと思われる。

その後、貴司は築地警察署、前田医院、築地小劇場などを経巡って、集まった人々と事態の対応にあたった。

貴司は築地小劇場で原泉とともにふじ子に対応した。

原泉や貴司など居合わせた人々が、「多喜二の妻」などと名乗っていると警察にどんな危害を加えられるかわからないので、何とかなだめて馬橋の小林宅にとりあえず赴かせた。

おそらく直接対応したのが原泉で、相談を受けて貴司が新聞社(時事新報)に手配したのだろう。

その後貴司は千田是也などとデスマスク採取の準備のために別行動をとり、深夜に至って馬橋にたどりついた。

D 画像について

大名刺判のカメラはジャバラのついた大きなカメラで、三脚を使うのが普通である。当時の感度の低い乾板では相当の長時間露出が必要となる。

この二枚の写真に関しては、著しいライティングの偏りや、人物に強い影が出ていることなどから閃光電球(フラッシュバルブ)が用いられていると想像される。

図像2がまず撮られ、ついで人を入れ替えて図像1が撮られた。

図像2は写真を撮るからといって、遺体と母親セキさんを中心に自然に人々が蝟集してきた生々しい雰囲気が生きている。

そのあと人々の配置を入れ替え、怒りと抗議の意志を示すポーズをとった関係者が図像1である。

後は、通夜の場面と直接関係ないので省略。

注(5)

伊藤ふじ子: 「妻だ」と名乗って築地小劇場と馬橋の小林宅に現れ、壮絶な別離を演じていずこかへ消えた。

前記「座談会」での貴司、原、壺井栄の発言、ことに原の言葉はそれが誰であったか分かっていたと思われる文言も含まれている。(座談会の時点で伊藤ふじ子が再婚し平穏な生活を送っていることがわかっていたので、あいまいな言及になったと思われる)

占領開拓期文化研究会 senryokaitakuki.com

ふじ子はいつ来ていつ去ったのか

ついに見つけた、空白の1時間

これまでどうにもこうにも嵌めようのなかったジグゾーパズルのピースが、原泉と窪川稲子の証言でかなり見え始めた。

1.原泉の斡旋

原泉は次のように語っている。

築地小劇場で気をもんでいる原泉のところへ、一人の若い女性が近付いてきた。 「わたしは小林の女房です」 とその女性は言った。
原泉には見覚えがあった。左翼劇場に研究生と して在籍していた伊藤ふじ子であった。
原は 「シーツ」 と指で唇をおさえ、「あんたが女房だなどと言ったらどういう ことになると思うの」 と精いっぱいの思いで話した。
伊藤は「あの人に どう しても一目会いたい」 と言った。ちょ う ど取材のためどこかの新聞記者が車で来た。
「むこう'へ行って、なにもいわないでお別れしてらっしゃい」 と、原はふじ子に言い、新聞記者には、「すまないけどこの人を連れて行ってほしい」 と馬橋の小林家を教えた。

これは想像だが、ふじ子は多喜二死亡のニュースを聞いて、矢も盾もたまらず築地署に向かったのだろう。と言っても見物人の一人でしかなかったが。

そして目前で原泉が警察と激しく殺り合うさまを目撃した。やがて弁護士や医者も来て交渉の主役が移ると、原泉はその場を離れ、築地小劇場に戻っていった。

「何たる幸運!」

ふじ子は原と面識があった。彼女自身が新劇の俳優として舞台に立ったこともあり、それは原の知るところでもあった。

ふじ子はおそらく築地小劇場に戻る原泉の後を追いかけていったのだろう。そして必死に声をかけた。中身はきわめて直截である。

原は勘の良い人らしく、一瞬で事情を飲み込んだ。そしてとるべき態度を指示したうえで、ツテを使って小林宅へと送り込んだのである。そしてなおいくつかの連絡を続けた後、みずからも小林宅に向かうことになる。

こうしてふじ子は第1.5陣として小林家に到着した。

第一陣というのは寝台車に乗った母セキ、自宅で待機していた三吾と多喜二の姉、タクシーで寝台車を追った江口と安田医師ら、彼らに同行したかもしれない中条、佐多稲子、壺井栄ら。独自のルートでほぼ同時に小林宅に入った小坂夫婦である。

第二陣は、築地署から向かった貴司山治ら、石膏を買うのに手間取った築地小劇場・美術家のグループ、そして連絡を終えた原泉である。彼らが到着したのは12時過ぎと思われる。

その間に、同盟関係者以外の報道陣が独自に車で到着していた。その中にふじ子もいたという前後関係になる。

ふじ子が着くなり遺体に抱きついたというのは先着の第1陣が見た状況だ。小坂は度肝を抜かれ、セキは鼻白んだ。佐多、中条、壷井が見ているかどうかは定かではない。

2.なぜ江口とふじ子の二人きりになったのか

遺体は到着後ただちに検案され、その後清拭措置を終えて書斎に安置されたから、ふじ子が着くなり飛びついたのは11時前後のことであろう。第二陣のグループは見ていないはずである。

そこで江口の接吻証言だが、証言にもある通りこのシーンを目撃したのは江口ただ一人である。だから澤地久枝の言うように、これは江口の創作の可能性もある。しかし私は信じたい。

十一時近くになると、多喜二のまくらもとに残ったのは彼女と私だけになる。すると彼女は突然多喜二の顔を両手ではさん で、飛びつくように接吻(せっぷん)した。私はびっくりした。「そんな事しちゃダメだ、そんな事しちゃダメだ」。思わずどなるようにいって、彼女を多喜二 の顔から引き離した。
「死毒のおそろしさを言って聞かすと、彼女もおどろいたらしく、いそいで台所へいってさんざんうがいをしてきた。一たん接吻すると気 持ちもよほど落ちついたものか、もう前のようにはあまり泣かなくなった。

当初、「皆がいなくなってから」という表現から、通夜が終わってからの話かと思ったが、どうもそうではなさそうだ。夜11時前というとまだ第2陣が到着する前だ。その時にふじ子と江口以外に誰もいなくなった瞬間があった。

3.窪川稲子の「午前2時」は11時の誤り

そこで窪川稲子の「午前2時」証言が登場する。

稲子、百合子、壷井栄、安田医師らは遺体の検案・清拭を終えて、多喜二宅をあとにしたのだ。そして帰る。江口が「皆が帰る」というのはこのことを指す。

その道すがらに「踏み切りの向うで貴司や、原泉子や、千田是也などと行き合」っている。そして貴司らが多喜二宅についたのが12時だ。

杉並ピースウォーク(10) 馬橋の多喜二の家の跡

によれば杉並町馬橋 3-375(杉並区阿佐ヶ谷南 2-22)とある。

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二重丸のあたりと思われる。道路はいまの道路と随分違っていて、「中大プール」と書いているあたりが踏切のようだ。踏切を渡ってしばらく行ってから左折して駅の北口に出たのかもしれない。
 

イメージ 1

「(不吉な黒っぽい幌をかけた)車は両側に桧葉の垣根のある、行き止りの路地の手前で止まっていた」という小坂多喜子の文章が当てはまる光景だ。

話を戻す。

ということは、稲子らは午前2時ではなく、その3時間も前に家を出たことになる。彼女たちは明日の仕事のために帰ったのだから、省線の終電に間に合わすつもりだったはずだ。(駅で円タクを拾う手もあるが)

逆算すると、稲子らが家を出て「踏切の向こう」に達する時間、そこで行き合った原泉らが家に到着するまでの時間、これを合わせた時間が「誰もいない」時間だ。

この1時間足らずの間だ。

慌てた江口が「死毒」など口から出任せを言って、とにかく帰らせようとする。意外にもふじ子は素直に言うことを聞いて帰る。台所で口をすすいでいるうちに我に返ったのかもしれない。なにしろ周りはスパイだらけなのだ。

とにかくも、この多喜二の通夜にふじ子接吻のエピソードを押し込めるとするなら、そこしかないのである。

そして名残りおしそうに立ち去っていったのは、もう一時近かった。

写真を撮ったのが午前1時とすれば、ふじ子はその直前までいたことになる。

ふじ子が帰った後、第二陣がどやどやとやってきて、写生したりデスマスクを撮ったり写真を撮ったりと大忙しである。

今回の写真、三吾の肩に手をかけた江口の何食わぬ顔はなぜか笑ってしまう。もっとも江口の頭のなかはそれどころではなかったろうが。(江口は百合子と稲子が通夜に来ていたのを記憶していない)

 

 多喜二の通夜で、新たに発見された写真の解読

多喜二通夜3

困った写真が発見されたものだ。

ふじ子とタキさんを時系列の中にどうはめ込んで良いのか、あらたな混乱を招くことになる。

これで三連休が潰れることになる。

1.撮影状況を読む

まずこの写真(以下写真B)の評価から。

「赤旗」(2月22日号)の説明では貴司山治の遺族、伊藤純さんが父の遺品を整理中に発見したものだとされている。

既発の有名な写真(以下写真A)と同じアングルでほぼ同時に撮られたものと考えられる。前列右端の原泉と後列左の小坂多喜子が、2枚の写真の両方に同じ位置で写っているからだ。その差は数分程度と思われる。

これまで写真Aの撮影者は「貴司山治あるいは『時事新報』のカメラマン前川」とされていたが、これで貴司山治の撮影であることが確定された。

写真Bはフラッシュを使わず天井からの電灯の光のみを光源としている。このため画像はレンブラント効果を生んでいるが、長時間露光のため、かなりぶれている。

コピーによる劣化を考えてもかなりフォーカスは甘いが、奥の顔の鮮明度から考えれば、絞りは開放ではなくf8くらいはかけているのではないか。それで手ブレがないのだから手持ちではなく三脚を立てていると思う。

伊藤さんは「写真のぶれが衝撃の大きさを物語っている」と書いているが、写真Bがぶれたのは手ブレではない。画面左側から来客があったからで、一斉にそちらを向いている。とくに後ろの人がそっぽを向いている。三吾さんの顔が二重になっているのは露光1秒として0.8秒くらいの時点で来客がガラガラと入ってきたのだろうと想像する。

あつまった面々は、いつ警察が検束に来るかもしれないというのでソワソワしていた。(矢島光子)

おそらくその時に小林家に到着したのが鹿地亘、千田是也らであったろうと思う。彼らは上野壮夫(小坂の夫)とともに遺体の枕元に座り、腕組みして遺体を見下ろした。そこで貴司が二度目のシャッターを押した。

それが写真Aであったと思う。デスマスク取りや写生はその後始まったのではなかろうか。

なお、上野先生は前列左端がタキサンではないかと推理している。

可能性はないではないが、下記の経過表から見て姉ではないかと思う。姉は絶対来ているはずだ。セキさんが背中におぶったまま築地まで行った、その孫は絶対に引き取らなければならないからだ。そのとなり性別不明の人物は姉の旦那と考えたい。

(付記: 伊藤さんは写真Aと比較して鹿地亘だと判断している。そのほうが正しいようだ。とすると後ろのちょび髭が旦那か)

タキさんは翌日の葬儀に来ている(とされている)。妹やその友達を連れて来ているので、おそらく葬式の手伝いのつもりで来ているのではないか。

2.写真撮影までの動向

「小林多喜二の死の政治的意味」倉田稔という論文を骨にして、当日の経過を追ってみたい。

なお、下記のアドレスは本日(1月11日)はつながらない。以下はGoogleのキャッシュで拾ったものである。

barrel.ih.otaru-uc.ac.jp/bitstream/10252/464/1/ER_53(2-3)_21-45.pdf

20日

正午 多喜二、赤坂で街頭連絡中に捕らえられ、築地署に連行きれる。

午後5時 多喜二、“取調中に急変”。署の近くの前田病院の往診を仰ぐ。(江口によれば午後4時ころ死亡)

午後7時 前田病院に収容したが既に死亡していることが確認される。“心蔵マヒで絶命”とされる。

21日

正午ころ 東京検事局が出張検視し、死亡を確認。 

午後3時 警視庁と検事局、多喜二が心臓マヒによ り死亡したと発表。ラジオの臨時ニュースと各紙夕刊で報じられた。

大宅壮一、貴司山治などが築地署にいち早く駆けつけ、当局との交渉にあたる。

築地小劇場で死亡を知った原泉が前田病院にかけつけ、「遺体に会わせろ」ともとめ、 特高とはげしくもみ合う。大宅壮一と貴司山治に救出された原泉は築地小劇場に戻り、各関係者と連絡を取る。

多喜二の母セキは 杉並区馬橋の自宅にいて、ラジオを聞いた隣家の主婦から,知らされた。セキは預かっていた二歳の孫(多喜二の姉の子)をネンネコでおぶると、築地署へかけつけた。

夕方 セキが築地署に到着。この時遺体は署の近くの前田病院に安置されていた。当初、警察はセキを二階の特高室に閉じ込め、なかなか会わそうとしなかった。

夕方 江口は吉祥寺の自宅にいて、配達された夕刊で多喜二の死を知った。大宅壮一からの電話があり、馬橋のセキさんを伴れて築地署へ来いと言われた。ただちに馬橋に向かうが留守のため、阿佐ヶ谷から省線でそのまま築地署に向かう。

夕方 青柳盛雄弁護士らが築地署に赴き、遺体の引渡しを要求。さらに連絡を受けた安田徳太郎医師がやってきて警察と交渉。

午後9時 孫をおぶったセキが特高室を出され前田病院に入る。

午後9時40分 遺体とセキら親戚を載せた寝台車が前田病院を出発。江口らがタクシーで後を追った。同乗者は藤川美代子、安田博士、染谷ら4人。

10時半ころ 遺体は「幌をかけた不気味な大きな自動車」(小坂多喜子)に乗せられて小林家に到着した。

この時小林家では近親や友人達が遺体を待ち受けていた。小坂多喜子は車に僅かに遅れて到着した。

どこからか連絡があって、いま小林多喜二の死体が戻ってくるという。私と上野壮夫は息せききって…走っている時、幌をかけ た不気味な大きな自動車が私たちを追い越していった。…あの車に多喜二がいる、そのことを直感的に知った。
私たちはその車のあとを必死に追いかけていく。 車は両側の檜葉の垣根のある、行き止まりの露地の手前で止まっていた。奥に面した一間に小林多喜二がもはや布団のなかに寝かされていた(小坂多喜子の回想)

小坂と上野
        小坂と上野

ほぼ同時に江口、安田らのタクシーも到着。

セキの「ああ、いたましい…」のシーンがあった後、安田が検視を行う。

検視の介助には窪川稲子と中条百合子があたっている。検視の後、壺井栄らが遺体を清拭した。

午後11時 窪川稲子の回想: 事件を知った時点で、窪川は中条の家(下落合)で夕食をともにしていた。時刻には他の証言と相当ズレており、その原因は稲子の思い違いにある。到着時刻は10時半前であろう。

そして多喜二死亡のニュースを聞き前田病院へ電話をかけ、死体は自宅へ帰ったと知る。

午後十一時、我々六人 は阿佐ヶ谷馬橋の小林の家に急ぐ。家近くなると、私は思わず駆け出した。

玄関を上がると左手の八畳の部屋の床の間の前に、蒲団の上に多喜二は横たえられていた。江口渙が唐紙を開けてうなづいた。

我々はそばへよった。安田博士が丁度小林の衣類を脱がせているところであった。

お母さんがうなるように声を上げ、涙を流したまま小林のシャツを脱がせていた。中条はそれを手伝いながらお母さんに声をかけた。

江口によれば、この間に多くの人が駆け込んできた。(このあたり江口の記憶はごちゃごちゃになっている)

午前2時 窪川稲子の回想: 壺井や、乳のみ児をおいてきた私や中條などが安田博士と一緒に外へ出た。…踏み切りの向うで自動車が止まり、降りた貴司や、原泉子や、千田是也などと行き合った。(これは午後11時半のことであろう。窪川らが小林宅にいたのは1時間余ということになる)

22日 

午前0時 千田是也, 岡本唐貴、原泉らがタクシーで到着。 「時事新報」 社のカメラマンが多喜二の丸裸の写真をとり、佐土(国木田)が多喜二のデス ・ マスクをとった。岡本唐貴が8号でスケッチを描いた。(時事新報の写真撮影はもっと前、検視時だと思う)

午前1時 小林家の6畳の書斎に遺体が安置され、人々は遺体を囲んだ。この時貴司山治により2枚の写真が撮られた。この後の記録はないので、写真撮影の後まもなく解散したのだろうと思う。

江口によれば以下の如し。
告別式は翌日午後一時から三時まで。全体的な責任者江口渙、財政責任者淀野隆三、プロット代表世話役佐々木孝丸となる。
通夜の第一夜は何時か寒む寒むと明け放れていた。

午後1時 告別式。会葬しよう と した32名が拘束される。母セキ、弟三吾、姉佐藤夫妻、江口と佐々木孝丸だけが参列。


以上が、参加者の証言をつなぎあわせた経過の概要である。


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