鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

カテゴリ: 70 文学・芸術・スポーツ

真田十勇士というのはなんで覚えたのだろうか、どうも記憶がはっきりしない。
ふと三好青海入道というのが口の端に浮かんできた。まぁ猿飛佐助だが、あとはかろうじて霧隠才蔵、それに三好清海入道にはたしか弟がいたよな、というあたりで記憶はぷつっと切れる。
たぶん東映映画で憶えたんではないかと思うのだが、どうもそんな映画を見た記憶がない。これが里見八犬伝だと、なんか天守閣の屋根で錦之助と千代の介が見えを張っている場面が思い出される。ただしこちらの方は犬山とかいう名前がさっぱり思い出せぬ。どうも困ったものだ。
困ったときはウィキペディア。とりあえず真田十勇士をあたってみる。
十勇士の名前は猿飛佐助、霧隠才蔵、三好清海入道、三好伊左入道、穴山小助、由利鎌之助、筧十蔵、海野六郎、根津甚八、望月六郎の10人。ただし下の方は別バージョンがあるらしい。

真田十勇士はいずれも明治になってからの講談の創作のようだ。江戸後期に真田昌幸・幸村らが徳川家に抵抗する物語が『真田三代記』として語られるようになり、その中のサイドストーリーとして十勇士らの物語が挿入されたらしい。
面白いのは、最初の頃は霧隠才蔵が主役で、猿飛はあとから挿入されたまったくのフィクションらしいということである。

最初に猿飛佐助が出てくるのは1914年(大正3年)の立川文庫『真田三勇士忍術名人猿飛佐助』からであり、その後も主役の座は安定しなかった。
「真田三勇士」というのが当初の触れ込みで、顔ぶれは由利鎌之助と霧隠という具合。霧隠は今も猿飛を凌ぐほどの人気を博している。

映画で見た記憶だが、ウィキによると『真田十勇士 忍術猿飛佐助 忍術霧隠才蔵 忍術腕くらべ』(1954年 東映)というのが該当するようだ。私としてはまったく憶えがない。
いずれにしても猿飛というキャラにまったくリアリティーがないのは確かである

まぁ、どうでも良いが…

分かった!

映画のことなど憶えていないわけだ。

私の真田十勇士の記憶は少年画報に連載された杉浦茂の「真田十勇士」という漫画が源泉だ。「オール・ザット・十勇士」というサイトに詳しく触れられている。

猿飛佐助は信州鳥居峠の麓に生まれ、山中で猿と遊び暮らしていた。忍術の大名人戸沢白雲斎に教えられ、免許皆伝となる。巻物をくわえ、手で印を結べばたちまちドロンと姿が消えるという忍術の達人。これはどうも怪傑児雷也のパクリではないか。幸村のもとで諸国探索を言い渡され、三好清海入道と珍妙な道中を繰り広げる。
霧隠才蔵は浅井長政の侍大将霧隠弾正左衛門の遺児。伊賀流忍術の百々地三太夫に師事する。猿飛佐助と忍術比べで負け、弟分となり真田幸村に仕えることになる。
そうだ、そうなんだ。このときの刷り込みがもとで。甲賀は伊賀より強いという固定観念が出来上がったのだ。

俺の思想的ベースは杉浦茂だったのだ!
考えてみれば赤胴鈴之助も、途中からは武内つなよしだったけど、始まりは杉浦茂だったし、イガグリくんも杉浦茂だった(と思う)。


ウィキによると、上記のイガグリくんの記述は記憶違いでした。私は少年画報読者だったので、冒険王は従兄弟の家で読んでいたと思います。昭和28年の小学校入学なので、最初の1年は読んでなかったのかもしれません。

秋田書店の『少年少女冐險王』に1952年3月号から1954年8月号まで福井による執筆作が連載されていたが、福井が過労によって34歳の若さで急逝。有川旭一が正式に作品を引き継いで連載を続けた。

少し少年画報、冒険王、少年クラブについては記憶違いを修正しておきたいと思います。

それにしても、「手塚学」というのはすごいですね。「マンガ学」の一大分野を形成している。読んでいて嬉しいのは、私小説を書いていた小説家たちの無頼・露悪傾向に比べればはるかに健全だということです。
私の子供の頃の記憶をたどるなら、子供漫画界の座標軸を説得力をもって示していたのは馬場のぼるだろうと思います。彼らは絶えず子供を見つめて、子供の先に未来を見据えていました。同じ漫画家でも「漫画読本」で大人向けお色気漫画を書いていた連中とはまったく違います。

シャボン玉

この歌を作った野口雨情は、小樽の新聞社に勤めてたそうです。
明治41年(1908)の3月に長女が生まれたのですが、生後8日で風邪をこじらせて死んでしまったのだそうです。

歌詞が出来上がったのは、それから十数年経ってからのことだそうですが、シャボン玉というのはこの女の子のことなのだそうです。

最初に浮かんだ歌詞は一番ではなくて、二番の方だったかも知れませんね。

シャボン玉 消えた
飛ばずに消えた
生まれて すぐに
こはれて消えた

この歌詞を鎮魂のフレーズだとすると

風 風 吹くな
シャボン玉 飛ばそ

と上を向いて歌う、密かな潔さがしみじみ感じられます。


啄木ほどではないが雨情も、伝記を読むと本を投げ飛ばしたくなるほどに醜悪な生き方だ。とくに北海道時代の貧乏暮らし、自堕落な博労もどきの生活には辟易とする。有島の「カインの末裔」を地で行っている。
よくわからないが、これが自然主義文学なのだろうか。




図書館でなんのつもりか短歌の書棚に立ち止まってしまった。
「北二十二条西七丁目」(田村元)という歌集があって、何気なしに手にとってパラパラとめくって、いったん書棚に戻しそのまま行き過ぎたのが、なぜか後ろ髪ひかれる。
結局、借り出して読む羽目になった。
奥付を見ると、77年群馬の生まれ、北大で学生生活を送ったあと、東京で就職。そのままサラリーマン生活を送っているようだ。
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表紙の色さながらに薄雪模様のさらりとした歌風だが、その範囲内で、年齢とともにしみじみ感がにじみ出てきて、味わい深いものがある。

一度通読して、今度は後ろから読んでいくと、これが意外に趣が深い。

いくつかお気に入りをあげておく

しづもれる 空気がありて
昭和へと つながってゐる
乾物売り場

鎌倉で 飲もうよと
妻にメールして
「了解」とのみ 返信を受く

行ったことがないのに
とても懐かしい
友がふるさとと 呼んでゐる町

旧姓を
木の芽の中に置いて来て
きみは小さくうなづいてゐた

春の雨 われを包んで
われをややはみ出しそうなものを
ゆるして

たむらくん
根暗だよねといふことば
轍のように思ひ出します

こんなにも 冬の日差しが明るくて
寂しさの底に
ふるさとはあり

われのみが 「少し太った」
それ以外
変はらぬままの同期三人

この街のどこか
まばらに梅の咲く
登り詰めたき坂道がある

「あってはならない」こと
あまたある世の中に
酒があってもよくて良かった

帰り来て靴を脱ぐとき
ドアノブに立て掛けておく
ななめな気持ち

「上げない」ことにした案件が
消しゴムの角で
小さく丸まってをり

雨を見て 雨の向かうの東京は
見て見ぬふりをして
シャツを取り込む

彼が下宿したのが北22西7で、私はその30年前に北20西6に下宿していた。

そして彼は学問と彼女に未練を残しつつ、「平地に糧を得るもの」となった。
一時はかなり鬱々とした時を過ごしたらしいが、伴侶を得て穏やかさがめぐってきたようだ。

小松菜奈が見たくて、映画「糸」を見に行きました。かなり客は入っていましたが、それでも満員には程遠い状況でした。

そのためか、入場料が1700円に上がっていました。映画の前に行った床屋さんも200円上がっていました。映画はともかく、床屋さんの値上げは賭けみたいなものです。それまでの値段も相当割高だと思っていましたから、年金ぐらしの年寄客は一気に減ると思います。

それはともかく、

映画は、一言で言えば駄作です。小松菜奈ファンからすれば、ずいぶん金をかけていることは分かるのですが、それが小松菜奈を引き立てる方には役立っていない。
出てくる場面は多くても何やら印象がまったく定まりません。怪人二十面相ではないが「結局、どんな人だっけ?」という感じです。展開は安易で場当たり、伏線ゼロで個々のエピソードも紙芝居のように陳腐です。
それに引き換え主人公の男優の年上の妻は、まことに魅力たっぷりです。ネットで調べたところ榮倉奈々さんというらしい。
とはいえ、こちらはサイドストーリーなので、一体なぜ、彼女が主人公を好きになったのかは一切省略されています。

10回ものの連続テレビドラマの「総集編」というと分かってもらえるでしょうか。
ひたすら筋が混み合って、やたらと役者が多くて、泣かせどころはくどくどと引っ張って、要するに脚本がなっていないのです。だから結局のところ何を言いたいのかさっぱり見えてこない。

なにかむかしの東映の正月映画「赤穂浪士」を思い出してしまった。オールスターの顔見せだから、出演者に粗相の無いように、忖度、忖度。ただし赤穂浪士は、筋はみんな知っているからいい加減でもよいが、こういういかにもありがちな筋を雑然と連ねたんでは何も印象に残らない。

小松菜奈のイメージを大事にしまっておきたい人なら、見ないほうがいいのではないでしょうか。男役の俳優が好きな人なら、ぜひ見たら良いでしょう。榮倉さんファンならなおさらです。いま目をつぶったら榮倉さんの顔しか出てきません。

なお、斎藤工がなかなかかっこよかったことも付け加えておきます。死んだカミさんのお気に入りでした。こちらの話をもっと膨らませてもらったほうが、よほどリアリティのある脚本になったのではないでしょうか。


息子がアマゾンのビデオ・チャンネルを登録して行った。クレジット会社の通知を見たら毎月結構なカネが徴収されている。
しょうがないから見ることにした。
最初に見たのが「わたしを離さないで」という連続テレビドラマ。綾瀬はるかの主演だというので見はじめた。

* 恋愛ドラマというには結構きつい

4年くらい前のドラマだが、中身は恋愛ドラマというには結構きつい。よくこんな番組を民放で作ったものだ。
一種のSFで、iPSから作られた人間が生体移植用の材料として使われる、彼らには普通の人間と同じ人格が備わっているが、唯一自分の生死を自分で決められないという問題がある。というより、家畜と同じでいつ臓器を取られても良いし、その結果死ぬことは当然のこととされる。

つまり人格はあるが人権はないということになる

浮世離れした非常に危うい設定だから、話はどんどん観念的かつ悲観的になっていく。最後は、「これは俺たちのことではないだろうか」という気になってくる。そしてみな死んでしまうことになる(のだろう)…

ドラマでは綾瀬はるかの相手役の男優が非常にうまい。あまりうますぎて、時々「この人、気は確かなのだろうか」と思ってしまうくらいだ。眼に一種の狂気が宿る。
三浦一馬と言って、最近自殺してしまったらしい。

ただ陽光学院の先生方がまったく書き込まれていないので、背景がよくわからないまま筋が突っ走っていく、これだけ長丁場のドラマなら、もう少し脇の筋も描かれるとぐんと厚みが増してくるのだろうが、ただでさえ捻りまくった設定が、ますますねじれてわからなくなるかも知れない。 

* イシグロが書いたのだそうだ

うかつにも見逃したのだが、あとでネットで調べたらこのドラマの原作はイギリスの作家イシグロのものなのだそうだ。

イシグロは日系二世で、このドラマの前後にノーベル文学賞をとった。この作品はイギリスでベストセラーになったのだそうだ。

そう言われて、あらためて考え直すと、このドラマはロボット人間の葛藤劇というだけではなく、それを利用する側の人間もふくめた一種のディストピア社会なのだ。

その中で健気に生きる、一群のロボット人間たちによる、ひとつのビルドゥングスロマンなのだ。そう考えると、この設定は決して突拍子もないSFではない。

かつて戦前から戦中の若者は、天皇の名において社会から死を強要された。生まれた瞬間から死が運命づけられていた。その中で若者たちは喜び、悲しみ、成長していった。ある日突然召集令状が来るまでは。

ドラマとの違いは、その運命と、その死がもてはやされるかどうかの違いでしかない。ウソがてんこ盛りにされた社会からそれらを剥ぎ取れば、それはまさに無残な社会だ。

あるいはアフリカの途上国の人々だ。彼らの生や死は、常にスコップ一杯の生や死として扱われる。50万、百万の死をテレビで聞きながら、私たちはそれを露ほどにも受け止めず弁当をひろげ、お茶のペットボトルに口を当てる、

ただイシグロは、その冷厳な現実を突き出すだけでなく、その中にも生きている意味を掴み取ろうと必死にもがきつづける、人間の生の力強さをも描き出そうとする。そこに若者たちの共感を得ようと訴えている。

とにかく一度ご覧になるようおすすめする。アマゾンプレミアというところに申し込むと見ることができる。中身からすれば契約料は決して高くない。設定は面倒っぽいが、若い人ならやってくれるだろう。
相当ヒマな人でないと見れないだろうが…


の再読をお願いします。上演時のポスター写真が見つかりました。
ゼロの記録

「素顔  長渕剛」


youtube で何かを探していて、たまたまこの曲にあった。
すごくいい。とくに1番の歌詞が男のくせに良い。男だから良いのかもしれない。
2番の歌詞と合わせ鏡になっているのだけど、2番はなくてもいいような気がする。
そちらの方に膨らませてしまうと、何か違うのではないかという気がする。
長渕剛という作り手が気になって、You Tubeで聞ける曲を片っ端からあたってみたが、
ひたすら「何か違うのではないか」という感じが膨らんできて、
最後には、「ちょっと違う人になってしまったね」ということで、
とりあえずお仕舞。
これは井上陽水のときにも同じように感じたこと。
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おまけだが、この曲をアップしてくれた人がつけてくれた写真がとても良い。
ひょっとしてこの写真に欺されたかもしれない。

松たか子

本日、パラサイトを見てきた」というのが、2月20日の記事。
実はそのときに気になったのが、上映中の映画のポスター。
「ラスト・レター」というのだ。

松たか子と広瀬すずの共演というか競演。いまを盛り、いずれアヤメかカキツバタ、もうこれは見ないと辛抱たまらない…

とは思ったのだが、さすがにジジイが一人で行くのには気が引ける。
どうしようかと悩んでいたが…、緊急情報!

上映中 / 2月27日(木)上映終了予定

出船を知らせるドラの音が響き渡る。

上映時間は?
なんと1日1回、21時10分から23時20分まで!

しょうがないから行ったのさ、一人で
夜霧の立ちこめる湿原のブラックアイスバーンを突っ切って、江別まで

で、どうだったかって?
おい、夜中の1時にこの記事を書いているんだぜ、

とにかく広瀬すずがきれいだ。うっとりする。美人ではない、可愛いいというのでもない、とにかくきれいなのだ。わかる? この表現…

多分、監督の腕の冴えなのだろう。

これがないと映画じゃない。映画というのはまずこうでなくちゃいけない。

これはこれですごいんだけど、この映画で一番キラキラして魅力的なのは、妹役の女優さん。
七菜

森七菜っていうんだそうだ。
出し惜しみして、ほとんどまともに顔を拝めないまま映画が終わってしまう。これも監督の演出なのだろう。松たか子と広瀬すずさえ写っていればいいのだ、この監督には…

とにかくいい映画だった。筋はどうでもいいのだが、ちょっと「エフゲニー・オネーギン」っぽい。

客はわたしひとり、と思ったらタイトルロールが始まる頃飛び込んできた、中年のおっさん。

とにかく劇場の銀幕を独り占めだ。
極楽、極楽!


本日、パラサイトを見てきた。
それまで8番か9話でやっていたのが、アカデミーとったら大きい3番に昇格して上映回数も増えた。
それで見終わった感想といえば、「ウーム」ということになる。
いかにも韓国映画らしい、やや強引だが力でグイグイ押してくる映画だ。
どうしても是枝監督の「万引き家族」と比較してしまうのだが、一言で言えば「艶」がない。艶がないから余韻が残らない。なぜだろうと考えて、やはり4人家族の個性が描けてないことが弱点なのではないかと思う。
映画館を出たあと役者の顔が思い浮かんでこないのである。4人が4人とも薄っぺらい。特におっかさん役がまったく無個性なのが家族全体の印象を希薄にしている。樹々希林とは雲泥の差だ。おっかさん役のキャラで言えばむしろ安藤サクラが相当するのだが、難しい役を見事に実在感を持って演じていた。そこはかとなく色気さえ漂わせていた。
ネタバレになるが、おっかさんが元の女中を蹴っ飛ばして死なせてしまう、あの一瞬はこの映画の肝なはずだ。おっかさんが描けていないから、あのエピソードがまったく生きてこない。
最後はタランティーノばりの血しぶきとなるが、どうもあそこまで行くと引いてしまわざるを得ない。
総合的に見れば万引き家族のほうが数段上だ。
スラムを漫画チックに突き放しているのも違和感がある。私は25年前、北海学園の加藤先生に連れられてソウルの山の上のスラムを訪れた。たしか月見丘と言ったのではなかったか。彼らは朝鮮戦争の頃、北から逃れてきた人たちで、そこはいわば難民キャンプであった。彼らはただ貧しいだけではなくピンミンとして差別されていた。彼らはとても優しくて、ひっそりと、豊かではないが穏やかに暮らしていた。
だから、彼らを相対的貧困層というのではなく、パラサイトと呼ぶのにはなにか強い抵抗を感じてしまうのである。
率直に言って、韓国映画にはもっといいのがたくさんある。あえてこの映画を社会風刺だとか、反差別だとか、あれこれと深読みしなくてもいいのではないだろうか。


本日の赤旗に掲載された記事。
再来年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の紹介である。
三谷幸喜が発表記者会見で披露したのが「ひかわなにお ほほはあみあみ」という呪文。
詳細は記事を読んでいただきたい。
三谷は「試験に出ます!」と会場を笑いの渦に包んだらしいが、赤旗にはそのくだりはない。
主人公が悪漢というのが面白い。三谷のことだから、シェークスピアもどきのハチャメチャになっていくのだろう。
筋立て命の芝居になるのだろうから、あまり時代考証で画面をこ汚くしないでほしい。
いっそのこと「ひかわなにお ほほはあみあみ」を題名にしてしまったらどうか、とも思う。それまで長生きするとするか。
三谷
 画面をクリックすると原寸大になります。

の再解読

すみません、いくつかの事実が判明し、根本的な訂正が必要になりました。

* これは有名な写真の後の写真です。1枚目の写真を撮ったあとに三吾さんが帰ってきたんですね。三吾さんはよそ行きの格好をしているので、演奏会が終わって帰ってきたところではないでしょうか。
多喜二通夜3
その肩を掴んでいるのが江口渙です。鹿地亘は引っ込めばいいのに座ったままです。

ちょび髭は姉夫婦と書きましたが間違いです。これは小林本家の方です。その前の女性はその奥さんでしょう。姉は近所でも評判の美人だったようで、後の写真のうりざね顔とはまったく異なるようです。

姉夫婦は小樽にいましたから、飛行機でもなければ到底間に合いません。それに背負っていた赤ん坊は姉夫婦の子供ではなく、妹(幸田)の子でした。

妹の子が居た理由があまりにも突飛だったので、そこが思い浮かびませんでした。

ということで、文章を再アップします。

既発の有名な写真(以下写真A)と同じアングルでほぼ同時に撮られたものと考えられる。前列右端の原泉と後列左の小坂多喜子が、2枚の写真の両方に同じ位置で写っているからだ。その差は数分程度と思われる。
これまで写真Aの撮影者は「貴司山治あるいは『時事新報』のカメラマン前川」とされていたが、これで貴司山治の撮影であることが確定された。

ここはまったく正しい。

おそらくその時に小林家に到着したのが鹿地亘、千田是也らであったろうと思う。彼らは上野壮夫(小坂の夫)とともに遺体の枕元に座り、腕組みして遺体を見下ろした。そこで貴司が二度目のシャッターを押した。

これはむしろ逆の可能性がある。

貴司は鹿地亘、千田是也らと同時に小林卓に到着した。彼らが遺体を囲んでいる間に貴司はカメラを三脚にセットした。

そしてとりあえずとったのが写真Aだった。

その時三吾が帰ってきて、セキと並んで枕元に座ったのが写真Bだろう。デスマスク取りや写生はその後始まった。

それでその前の話だが、最初に来たのは寝台車である。セキと孫(多喜二の妹の子)に小林本家の旦那(おそらくその妻と)が登場していた。
その後ろをついてきたタクシーに乗っていたのは江口渙と安田医師であった。安田医師とセキの二人で死体検案を開始した。

そこに百合子・稲子らのグループが合流した。多分壺井栄、若杉鳥子も居たと思う。

検屍が終わり安田医師と百合子・稲子らのグループが退席した。

これと入れ替わりに時事新報社の車がやってきた。下帯姿の多喜二の遺体を撮影したのは時事新報のカメラマンであったろう。

ここにはふじ子が居て遺体に抱きついたり号泣したりと騒いでいる。これを見ていたのは小坂多喜子夫婦である。百合子・稲子らのグループは見ていない。

時事新報社のカメラマンは写真を撮るなり帰った。上野によればふじ子は「いつの間にか帰った」ことになっているが、時事新報社の車に同乗した可能性が高い。

そして百合子グループもふじ子と時事新報も居なくなったあと、貴司、原、鹿地、千田らがどやどやとやってきて写真を撮った、という経過である。

それで前列左端の女性であるが、タキさんの可能性は低い。セキが連絡を取らない限りタキさんは来れないが、セキにそのような暇はなかったと思われる。

そこで私の文章だが、

下記の経過表から見て(多喜二の)姉ではないかと思う。姉は絶対来ているはずだ。セキさんが背中におぶったまま築地まで行った、その孫は絶対に引き取らなければならないからだ。そのとなり性別不明の人物は姉の旦那と考えたい。

と書いた。
これがまったくの見当違いであることが、今回分かった。

それが最初に書いた文章である。

私は姉夫婦は東京に住んでいたのではないかと考えた。セキの背負っていた「孫」が誰かを説明するにはそれしかなかったからである。

しかしそれは思い込みだった。セキさんがとんでもないウルトラCをかましていたのである。

いろいろあるのだが、結局、小樽の家は住む人が居なくなって、妹が嫁に行った幸田家が引き取ることになったのである。

姉は結婚して佐藤になって家を出て、朝里に住んでいた。

幸田家は商いをやっていて、子沢山でなかなか面倒が見きれない、ということになった。そこでなんとセキさんがその一人を引き取って東京で面倒を見ることになったのである。

つまり、たまたま娘が忙しいから子守をする、というレベルではなく、里子を育てている状況だったのだ。どうもこのおっかさんやることがスケールを外れている。

ということで、私の当て推量はとんだ間違いだった。

それではこのちょび髭は誰かと言うと、秋田の小林本家の旦那なのである。

これがこの「母の語る 小林多喜二」のだいじなポイントだ。

セキさんというのは火事場で知恵が働く人で、多喜二の遺体を身請けするには、戸主の了承が必要だと分かっていた。そこでたまたま東京に居た本家の旦那に無理を言ったのである。

田舎の人は律儀な人で、もう秋田からすっかり足を洗ってしまった多喜二の面倒を最後まで見てくれたのだ。

この2枚の写真は、戯曲の台本の1ページのように、それらの事実を鮮やかに描きつくしている。




以下は

2017年05月16日  多喜二の通夜 時刻表  の追補版である。
追補分は、小林セキ(述)「母の語る 小林多喜二」(新日本出版社 2011)からの採録である。

きわめて貴重な資料である。読み始めでは編者の独特の表現がやや気になるが、終戦直後(1946年2~4月)にセキさんの「懇願」により行われた聞き取りの文章化であり、やっと真実が語れるというセキさんの思いがひたひたと伝わってくる。

私にとって最大の驚きは、セキさんがふじ子と面識があったということである。

私はその婦人の方の名も知りませんが、いつか阿佐ヶ谷の家へ原稿料なぞ届けてくださって、こっそり多喜二の消息なぞ伝えていただいた方がそれではないかと思います。

短い期間ながら、しかも日陰の生活をしながらも、多喜二を愛してやっていただいたかと思えば、その方に心から御礼を申し上げたいのでございます。

これは第一次原稿には入っていない。最初は黙っているつもりだったのだろう。しかしその後、平野謙がゲスの勘ぐりをやったために、2年後の再聞き取りと第二次原稿作成の際に付け加えたのであろう。
“日陰の生活”とか“愛してやっていただいた” なんてセリフは編者の思い入れだろう。だがセキさんが彼女の真意をしっかり理解し配慮していたことは間違いない。
だから、狂乱するふじ子を見ても驚かなかったし、そのことは明かさずに終えたのであろう。
しかし、二人の間に「大恋愛」があったことも知らなかったし、「原稿料」が本当に原稿料なのかどうかも知らないままだった。


2017年5月16日

以前、昭和8年2月21日の動きを時刻表にしたことがあり、探したが、どこやらわからぬ。いろいろ探して、ここにあるのを発見した。


2月20日

正午 多喜二、赤坂で街頭連絡中に捕らえられ、築地署に連行きれる。

午後5時 多喜二、“取調中に急変”。署の近くの前田病院の往診を仰ぐ。(江口によれば午後4時ころ死亡)

午後7時 前田病院に収容したが既に死亡していることが確認される。“心蔵マヒで絶命”とされる。

2月21日

正午ころ 東京検事局が前田病院に出張検視し、死亡を確認。

午後3時 警視庁と検事局、「多喜二が心臓マヒにより死亡した」と発表。ラジオの臨時ニュースと各紙夕刊で報じられた。ラジオ放送の直後に動いた人々は…

築地署: 大宅壮一、貴司山治、笹本が築地署にいち早く駆けつけ、当局との交渉にあたる。

前田病院: 築地小劇場で事件を知った原泉が前田病院にかけつけた。「遺体に会わせろ」ともとめた。警察は面会を拒否し、原とはげしくもみ合う。
警察が拘束の動きを見せたため、大宅壮一と貴司山治が仲裁に入る。救出された原泉と大宅らは築地小劇場を基地とし、各関係者と連絡を取る。

馬橋: 多喜二の母セキは杉並区馬橋の自宅にいた。ラジオを聞いた隣家の河面さんという主婦から知らされた。(夕刊という情報もある)

多喜二の家は馬橋3丁目375番地。部屋は8畳、6畳、3畳の3間に、台所のある一軒家。周囲には菜園、竹藪もあった。31年にここを購入し、母セキ、弟三吾の三人で暮らしていた。

隣家は河面さんという夫婦。夫が大学の教師だった。

セキは河面さんに小林本家(当時東京に在住)に連絡を取るよう依頼した。三吾は外出中で連絡つかず。
セキは預かっていた二歳の孫をネンネコでおぶると、ハイヤーを雇い築地書に向かう。

セキが負うていた孫は多喜二の妹、幸田つぎ子の長子である。当時、幸田一家は小樽の小林実家に住んでいたが、家事多忙のためセキが預かっていた。

江口は吉祥寺の自宅にいて、配達された夕刊で多喜二の死を知った。築地署前の大宅壮一からの電話があり、「馬橋のセキさんを伴れて築地署へ来い」と言われた。ただちに馬橋に向かうが、すでにセキは出発後であった。阿佐ヶ谷から省線でそのまま築地署に向かう。

夕方 

都内各所に夕刊が配達される。配達の直後に動いた人々は…

築地署: 無産者弁護団の青柳盛雄弁護士らが、遺体との面会を要求するが拒否される。

江口渙、佐々木孝丸、大宅壮一らプロット関係者20名余りが前田医院前に集結。さらに連絡を受けた安田徳太郎医師もやってきた。

午後6時半 セキが築地署に到着。「多喜二の母です」と申告し特高室に案内される。特高室で「なぜ知らせなかった」と抗議。

この時遺体は署の近くの前田病院に安置されていた。当初、警察はセキを二階の特高室に閉じ込め、なかなか会わそうとしなかった。

午後7時30分 親戚の小林さんが築地署に駆けつけ、身元引受人となる。遺体の引き取りが決まる。

遺体の引き取りには身元引受人が必要であり、それには戸主(男性)であることがもとめられていた。三吾の行方はまだつかめなかった。

小林さんは秋田の小林一族の本家にあたる人。当時は東京に在住しており、セキは日頃から連絡をとっていたと思われる。

百合子グループ: 上落合の中条百合子宅で窪川稲子も同席して夕食の最中、夕刊で事件を知った。推測では、東中野在住の壺井栄と連絡を取り、中央線中野駅で集結し阿佐ヶ谷に向かったものと思われる。

当初の記載で、中条家を下落合としていたが、上落合の間違い。土地勘がなくて誤解していたが、上落合というのは西武線の下落合とはだいぶ離れていて、どちらかと言えば中央線の東中野に近い。したがって歩いて東中野に出るのがもっとも早い。


午後9時30分

セキが前田病院で遺体と対面。この時セキと同行したのは、作家同盟の佐々木孝丸、江口渙、大宅壮一。青柳盛雄ら3人の弁護士。医師の安田徳太郎。
 

午後9時40分  大宅らの雇った寝台車が。遺体とセキ+孫、親戚の小林さんを載せ前田病院を出発。

午後9時40分 江口、佐々木がタクシーで寝台車の後を追った。同乗者は藤川美代子、安田医師、染谷ら4人。

午後10時

百合子グループ: 阿佐ヶ谷に着いた3人は、若杉鳥子の家に落ち着いて情報収集にあたった。前田病院から、すでに寝台車が出発したとの情報を受け、多喜二宅に向かう。

稲子は「すでに多喜二宅前には10人ほどが集まっていた」と書いてあるから、そちらにも視察に行ったのであろう。ただし稲子の回想には矛盾が多い。鳥子家を利用するという「良案」を誰が考え出したのかは不明。

前田病院に電話したのは稲子で、彼女は西武線の沿線(鷺ノ宮駅?)まで行って街頭から電話したというが、片道30分もかかるのでありえない。

10時ころ 遺体が小林家に到着した。ほぼ同時に江口、安田らのタクシーも到着。小林家では近親や友人達が遺体を待ち受けていた。

出発及び到着時刻は川西の記載によるものであるが、築地から阿佐ヶ谷までわずか20分で着くとは到底思えない。築地の時間が正確だとすれば、到着は早くとも10時30分ころと思われる。

小坂多喜子の回想: 小坂多喜子と夫の上野壮夫は車に僅かに遅れて到着した。

どこからか連絡があって、いま小林多喜二の死体が戻ってくるという。

息せききって…走っている時、幌をかけ た不気味な大きな自動車が私たちを追い越していった。…あの車に多喜二がいる、そのことを直感的に知った。

私たちはその車のあとを必死に追いかけていく。 車は両側の檜葉の垣根のある、行き止まりの露地の手前で止まっていた。奥に面した一間に小林多喜二がもはや布団のなかに寝かされていた(小坂は最初から最後まで、比較的冷静に事態を観察していた人物であり、その証言は座標軸として貴重だ)

小坂と上野
       小坂と上野
セキの「ああ、いたましい…」のシーンがあった後、セキが服を脱がせ安田が検視を開始する。
その間に、江口、佐々木らが本家の小林さんと今後の措置につき打ち合わせ。


午後11時

午後11時 百合子グループが多喜二宅に到着。以下、稲子の文章を長めに引用する。

我々六人(内訳不明) は阿佐ヶ谷馬橋の小林の家に急ぐ。家近くなると、私は思わず駆け出した。

玄関を上がると左手の八畳の部屋の床の間の前に、蒲団の上に多喜二は横たえられていた。江口渙が唐紙を開けてうなづいた。

我々はそばへよった。安田博士が丁度小林の衣類を脱がせているところであった。

お母さんがうなるように声を上げ、涙を流したまま小林のシャツを脱がせていた。中条はそれを手伝いながらお母さんに声をかけた。

午後11時 安田医師の死体検案開始。検視の介助には窪川稲子と中条百合子があたる。検視の後、壺井栄らが遺体を清拭した。

死体検案は当事者には長く感じるが、見るポイントは決まっていて意外に短時間で終わる。すでに死後24時間を経過していれば、筋の緊張は緩み仏顔になってくる。死後硬直は取れ扱いは容易だが、出血と脱糞の匂いは相当強烈で、清拭が骨折りであろう。それでも前後15分もあれば片付く。

闇の中の1時間

このあと約1時間のあいだの経過は、混乱・錯綜している。

11時30分 百合子グループと安田医師が多喜二宅を出る。江口によれば、この間に多くの人が駆け込んできた。(このあたり江口の記憶はごちゃごちゃになっている)

おそらく安田医師が帰ると言ったのに、「それじゃ私たちも」と同行することになったのではないか。何れにせよ稲子の「午前2時」は間違いなく誤解だ。

11時30分 百合子グルームが多喜二宅を離れて間もなく、時事新報の記者とカメラマンが到着する。新聞社の車に同乗したふじ子が駆け込んでくる。この後、小坂多喜子の文章にある「愁嘆場」が出現する。

ふじ子は築地小劇場を訪れて、原泉に「多喜二の妻です」と打ち明け多喜二の遺体にひと目会いたいと懇願した。これは多喜二の遺体を送り出した9時40分以後のこと、おそらく午後10時頃のことである。

原泉はこの「女優」に見覚えがあった。そして「女の勘」が働いて、瞬時に事情を察した。時事新報の記者を見つけ同行させた。

11時30分 自宅で江口が新聞のインタビューに答える。

顔面の打撲・裂傷、首の縄のあと、腰より下の出血等がひどい。たんなる心臓麻痺とは思えない。明日、当家から死因に関する声明書を発表する。


12時頃 江口の文章の「接吻の場面」が登場。まもなくふじ子は多喜二宅を退去する。(小坂多喜子は「いつの間にかいなくなった」と表現している)

ふじ子の句、二首

恋猫の 一途 人影 眼に入れず

ボロボロの 身を投げ出しぬ 恋の猫

12時頃 稲子の文章によれば、「…踏み切りの向うで自動車が止まり、降りた貴司や、原泉子や、千田是也などと行き合った」

築地小劇場組は、怪しまれないように踏切の北側で降りて歩くことにしたのだろう。原泉とふじ子は、論理的にはどこかで交錯しているはずである。ふじ子が避けたか、原泉が沈黙を守ったかのいずれであろう。



2月22日


午前0時 千田是也, 岡本唐貴、原泉らが多喜二宅に到着。 「時事新報」 社のカメラマンが多喜二の丸裸の写真をとり、佐土(国木田)が多喜二のデス ・ マスクをとった。岡本唐貴が8号でスケッチを描いた。

デスマスクについては、築地小劇場組の一小隊が別行動で動いたらしい。佐土という人はデスマスクの専門家だが、活動家ではない。彼に依頼して材料の石膏を仕入れるのにずいぶん時間を食ったという情報もある。時事新報の写真撮影はもっと前、検視時だと思う


午前1時 小林家の6畳の書斎で人々は遺体を囲んだ。この時貴司山治により2枚の写真が撮られた。この後の記録はないので、写真撮影の後まもなく解散したのだろうと思う。

江口によれば以下の如し。

多喜二宅で葬式の手順が話し合われた。告別式は翌日午後一時から三時まで。全体的な責任者江口渙、財政責任者淀野隆三、プロット代表世話役佐々木孝丸となる。

22日夜 無宗教の通夜。会葬しよう と した32名が拘束される。若杉鳥子も捕らえられる。この結果、セキ、三吾、姉佐藤夫妻、江口と佐々木孝丸だけで葬儀を執り行う。

2月23日

午後1時 告別式。
午後3時 堀の内の火葬場で火葬を行う。

古書「伊藤書房」
何もこれと行った協力はできないが、せめてこのブログで一言宣伝させていただくことにする。
場所はわかりやすいとは言えない。
羊ヶ丘通を北広島方向に向かうと、札幌ドームを越えて下がり始めたあたり、右手反対車線に面して2階建ての建物が見えて、伊藤書房の看板が立っている。
ちょっとけばけばしい看板がかえって周辺の場末的雰囲気に溶け込んで、「なぜこんな看板を見逃すの」というくらい見事に見逃す。
私は三回店の前を通り過ぎた。

店の裏側に結構広い駐車場がある。私のような年寄でも余裕で停まれる。その駐車場に接してこれぞ昭和という喫茶店がある。名前は忘れたが、多分趣味でやっている店だろう。小さなアップライトピアノもある。地域の同好の士のたまり場になっているようだ。

実は、この古本屋さん、アマゾンで見つけた。
桑原千代子の「わがマンロー伝」を探していたら、この店が出てきたのだ。アマゾンで買うのは癪だから直接店頭で買いたい、そう思って足を運んだという次第だ。

入ってみて、古本屋好きにはピッピとくる。店舗を持つだけでも偉いのだ。
とにかく「最後のご奉公だ」という雰囲気に満ち満ちているのだ。

本の扱いがきわめてしっかりしている。売っていると言うより飾っている感じだ。
神田に行けばそんな本屋はたくさんあるが、値付けが全然違う。これだけの手間かけてこんな値段で売っていたんじゃとても成り立たない。

だから結局ただで配っているようなものだ。このまま行けばごみになって消えていく資産を、ただでもいいから誰か読んで欲しい、というのが「営業」のポリシーなのだろう。そう思う。

今回買ったのは次の3冊

1.桑原千代子の「わがマンロー伝」
多分2300円くらい

2.小林廣 「母の語る小林多喜二」
なんと500円

3.内山完造 「花甲録」
多分2000円くらい
ほんの写真

とくに3.は信じられない書物だ。これを半年ぐらいしゃぶりながら、上海年表に落としていこうかと思っている。

全国の皆さん、札幌にお立ち寄りの節はぜひ足をはこんでください。

Tel 011-883-0663
札幌市清田区清田3条3丁目6-1

30歳代、非正規、短歌      萩原慎一郎さんの歌

この間アイミョンの歌から、以前感心した山田航さんの短歌の話になって、なんとなくその話題が心にわだかまっていたが、これにツイッターという表現形式が絡んでいるのかなと、ふと思いついた。
ツイッターという表現形式は字数的にはおそらく短歌の2、3作分くらいのブレスを持った文学だろうと思う。
そのつぶやきから枝葉をとっていって、息継ぎを入れていくとちょうど短歌になる。
感覚としてはまさにつぶやきであり、問わず語りの、自分に向けての話しかけであり、人知れぬ、人へのひそやかな問いかけでもある。
山田航さんの歌と萩原慎一郎さんの歌はかなり顕著な違いがある。山田さんには冷徹に自らを突き放した仮名性の目がある。萩原さんは敢えて自分から離れず、自分を隠さず、即自の視点を保持しようとしている。

だから優しさがあって読者が癒やされるのだろうと思う。それも一つの技巧なのだろうが、本人には非常に疲れる技巧だろうと思う。

“非正規”がらみに絞っていくつか紹介しておく。


朝が来た

朝が来た こんなぼくにもやってきた 太陽を眼に焼きつけながら

夜明けとは ぼくにとっては残酷だ 朝になったら下っ端だから

寒夜を走るランナーとすれ違いたる ぼくは自転車漕いでいるのだ

非正規の友よ、負けるな ぼくはただ 書類の整理ばかりしている 

非正規という  受け入れがたき現状を  受け入れながら生きているのだ

階段をのぼりくだりて 一日の あれこれ あっと言う間に終わる

牛丼屋

ぼくも非正規 きみも非正規 秋がきて 牛丼屋にて牛丼食べる

牛丼屋 頑張っているきみがいて きみの頑張り 時給以上だ

「研修中」だったあなたが「店員」になって 真剣な眼差しがいい

頭を下げて 頭を下げて牛丼を 食べて頭を下げて暮れゆく

あした

消しゴムが 丸くなるごと苦労して きっと優しくなってゆくのだ

コピー用紙 補充しながら このままで 終わるわけにはいかぬ人生

もう少し待ってみようか 曇天が 過ぎ去ってゆく時を信じて

あなた

遠くから みてもあなたとわかるのは あなたがあなたしか いないから

作業室にてふたりなり 仕事とは 関係のない話がしたい

かっこよくなりたい きみに愛されるようになりたい だから歌詠む

生きているというより 生き抜いている こころに雨の記憶を抱いて

最後の歌は、自殺の理由を説明しているような気がする。“雨の記憶” がどういう記憶なのか…
なにか “雨の音の記憶” のような気がして、「美しき水車小屋の娘」みたいな情景もふと浮かぶのだが…
知らないままのほうが良さそうだが…

ボクシングというのは極めてストイックなスポーツで、大きなグラブをつけたコブシしか使わせない。戦闘訓練には向いていないスポーツである。

剣道にも似たところがある。ルールで厳しく絞られているから、何でもありの武術の中では実際の戦闘にはあまり役立たない業かも知れない。

ただボクシングと比べると剣道の場合は兇器を持っての対決だから、一撃の致傷力は高い。勝負は一瞬でつく。だからかなり運が左右する。拳闘は倒れるまで殴り合うから、実力だけが物を言う世界だ。

すこしボクシングの技術について勉強しておきたい。もちろん格闘技だから、防御やフットワークやスタミナ配分もあろうが、やはりまずパンチから勉強してみたいと思う。

基本のパンチ

ジャブ 相手との距離感を測るため、細かく軽打するパンチ。リードブロートも呼ばれる。一発の威力はないが、守備や組み合わせ攻撃など技術としての重要度は高い。開発当初は「卑怯者の戦法」と呼ばれた。

コツ 威力を犠牲にしてでもスピードとパンチ頻度を極限まで高めることがもとめられる。

ストレート 

基本の構えから後ろ(利き腕側)の拳を相手に向かって鋭く打つパンチ。ジャブと同じ構えから打つ左ストレートもある。

コツ 体や肩の回転を利用し、肩から腕が真っ直ぐになるように打つ。

フック 

腕を横から回し顎やコメカミを打ち抜くパンチ。どちらの腕でも打つ。真っ直ぐに打つように見せかけて打つことが多い。

コツ 打つ瞬間に肩を後ろに引き、打ち込むのではなく当てるように打つ。反動で腰が入るので、その力を有効に使う。

アッパー 

肘を曲げたまま、拳を下から上に突き上げるパンチ。どちらの腕でも打つ。どこを打つかは関係ないが、顎を狙うことが多い。アッパー・カットともいうが、特に使い分けはない

コツ 腕の振りだけでは威力が足りない。打つ直前に上体を軽く屈めて、その反動を利用する。

注意 非常にリスクが高いパンチ。膝を屈めたときに、しっかり顔面をディフェンスする。空振りに終わったときは覚悟すること。


ボディブロー 

相手の腹部を打つパンチ。フックでもアッパーでも構わない。相手の体力を奪うことを目的とする。

コツ 打つ側の足を相手の側面に踏み出し、懐に入ってパンチを叩き込む。


応用のパンチ

ワンツー

ジャブの後にもう片方の腕でストレートを続けるパンチ。ジャブを打ち終わると同時に、ストレートを相手に打ち込む。

コツ まずステップで思い切って踏み込む。ワンツーのステップはステップの基本となる。


カウンター

相手の攻撃のときに生まれる、瞬時の隙を狙うパンチ。相手の癖や、ちょっとした変化を読み取ることでチャンスが生まれる。

コツ 後出しではなく先制に近い同時攻撃。


おまけ

クロスカウンターは 相手の左パンチに対して右腕でカウンタ-を打つ方法。両者の腕どうしがクロスするのでそう言う。
が鮮やかだ。こちらは相手のフックに対してストレートのカウンターを放っている。「あしたのジョー」とは逆だ。「あしたのジョー」は、どう見てもやられた方だ。

スターター制については、いろいろあった。いろいろ言われた。
ガンちゃんなどは露骨な監督批判を繰り返していた。
しかし今のプレーを見てみんな納得したと思う。私は納得した。
加藤本人も監督も解説者もみんな納得したのではないか。
人情的には勝利投手の権利問題がある。しかしこれはお互い納得していくしかない。
セットアッパーだってそうやって認められていくことになったのだ。
可哀想とか言っても仕方がない。4回戦ボーイとして生きていくしかないのだ。
しかしそれで立派な成績を上げるなら、必ず彼はみんなの記憶に残る大投手となるだろう。

スターター制がもし定着するなら、そのあとにはセットアッパーではなく、二番手投手という役割が要求するようになる。これも大変な話だが、今までロング・リリーバーと呼ばれていた人がそれを担当することになるのだろう。金子はそれをやりたいふうには見えない。

しかし必要は発明の母である。必要なところに必要な人は必ず出現するだろう。

本日の赤旗お悔やみ欄に、花田克己さんの訃報があった。
山口県党南部地区委員長、詩人会議役員とある。
50年ほど前、「詩人会議」誌の購読者だったことがある。なにか聞いた名前だとネットを検索した。
bookface’s diary
というサイトで、

坑夫の署名 花田克己詩集

が紹介されている。そこには本の表紙写真も掲載されている。転載しておく。

1969年12月、飯塚書店から刊行された花田克己(1931~)の第3詩集。

 この詩集は、私の三冊目の詩集である。しかし第一詩集『おれは坑夫』、第二詩集『うまい酒』の主な作品とそれ以後二年半の主な作品を一冊にまとめたものである。私の四〇年近い生涯と、ほぼ二〇年の詩作活動のひとつの決算とも言えるものである。
 既刊の二冊の詩集はいずれも私が所属していた「宇部詩人集団」が発行してくれたものであり、地方での出版であった。しかしさまざまな援助によりかなりひろい反響を得たことは私にとって大きな励ましとなった。だが地方での出版という枠から免れることのできない面もあった。それだけにこの詩集は私の第一詩集という側面もあり、全国的な批判を是非するどく寄せて下さるよう読者のみなさんに切望するものである。
 しかも出版される現在が、歴史的な一九七〇年闘争のさなかという光栄をになっていることに重大な責任を痛感磨るのである。いまはただこの詩集が七〇年闘争にほんの少しでも寄与できるものであってほしいと願うのみである。(「あとがき」より)

 むかし宇部には筑豊炭田につながる鉱脈の上に炭鉱があったから、そこに関係していたのだろう。
別のサイトにはこんなうたがある。

宇部興産炭鉱労働者のうた


【作詞】花田克巳
【作曲】荒木栄

1.瀬戸内海の海底深く
  九州むけて掘り進み行く
  宇部と小野田の四つの炭鉱を
  流れる汗で一つに結ぶ

2.仲間の流した血のしみこんだ
  多くの友のいのちを呑んだ
  ボタの埋め立てかなしみこえて
  今日も夕日が彩っている

3.米騒動の闘いのなか
  倒れていった先輩たちの
  いのちはわれらの血潮にとけて
  あすを明るく染め上げている

4.スクラム組んだおれたちの顔
  ひとつひとつに朝陽が映える
  長い歴史と明日への希望
  こめてひらめく組合旗

  われら闘う宇部興産炭鉱労働者

長い間ご苦労さまでした。


ついでで申し訳ないが、お悔やみ欄の隣の人物、佐合義広さんは義弘さんの間違いではないか?
多分、イールズ世代の人ではないかと思う。

ただのコピペです。
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下記のキャプションがついています。
 

Football · 18 Jul 18

Please note the delicacy and elegance of the hardly touched fingers, the synchronicity and the harmony of the ankles in the air, the graceful unison movement while the common theme (the round balloon) lies at their feet. A real "pas de deux".

同性2人による踊りは「デュエット」だが…

二人がともに優美な指型を作っているのは、ただの偶然ではないでしょう。
おそらく脊髄性の姿勢反射だろうと思いますが、あるんですかねぇ、教科書には…

オットー・ディクス(Otto Dix) 略歴

1891年12月2日 ゲーラ近郊のウンテルムハウスに生まれる。生家は貧しい労働者の家庭。

1910年 ドレスデン工芸学校に入る。

1914年 第一次世界大戦に機関銃兵として従軍。3年間にわたり西部→東部→西部戦線を転戦、戦争の悲惨さを体感する。

1918年 負傷し軍務を離れる。

1920年 グロスとともにダダ→表現主義を掲げる。

1922年 新即物主義運動が勃興。ディクスとグロスが代表となる。第一次大戦後のドイツの貧困と堕落を赤裸々に描く。

1923年 油彩「塹壕」(Grabenkrieg)を発表。残酷な表現が賛否を呼ぶ。ケルン市長のアデナウアーはディクスを支持する美術館長を罷免。

1924年 「芸術家の両親」と銅版画シリーズ「戦争」(50枚)を相次いで発表。

1925年 マンハイムでディクスを中心とする「新即物主義」展が開かれる。

1927年 ドレスデン美術アカデミー教授となる。

1933年 ナチスが政権を掌握。その後、ディクスはアカデミーを解雇される。その後コンスタンス湖畔へ移り、素朴な風景画に切り替える。

1937年 ナチスがミュンヘンを皮切りに各地で頽廃芸術展(Entartete Kunst)を開催。ディクスの作品が多数展示される。展示理由は「反戦的な気分と兵役拒否を助長する」ため。

1938年 ディクスの作品260点が公的コレクションから押収される。

1939年 ディクス、反ヒトラー陰謀に加担したとして逮捕。

1939年 第二次世界大戦がはじまる。ディクスは国民突撃隊に招集され従軍する。

1942年 フランスのジュ・ド・ポーム国立美術館の庭で、退廃芸術作品600点が焼却される(ピカソ、ダリ、エルンスト、クレー、レジェ、ミロなど)

1945年 ディクス、フランス軍に逮捕され、捕虜となる。

1946年2月 ディクス、フランス軍から解放される。ソ連占領下のドレスデンを中心に活動を再開する。

1949年 シュトゥットガルト州立芸術アカデミーの教員となり移住。西ドイツに活動の場を移す。(英語版では66年までドレスデン在住とされている)

1969年7月25日 ディクス、脳卒中に死去(77歳)

画像は下記より転載

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  伊丹美術館のディクス展ポスター

壕の中で死んでいる歩哨
          壕の中で死んでいる歩哨
負傷兵
                負傷兵
突撃
             突撃
毒ガスの犠牲者たち
             毒ガスの犠牲者たち
マッチ売り
傷痍軍人
               傷痍軍人
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                 銃殺
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               売春婦 1
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       売春婦 2
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        売春婦 3
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        売春婦 4

「バジュランギおじさんと、小さな迷子」という映画を見てきた。
インド映画で、お定まりのインド風美男美女が出てきて、歌も踊りもあってという映画だ。
ただ普通のインド映画と違うのは、絵がきれいで美しく、音楽がきれいで、主演の女の子が可愛くてと、要するに極上の通俗インド映画だということだ。インド・パキスタンの果てしない対立も背景に取り入られて、単純な娯楽映画にとどまらないメッセージ性を与えている。

幕開けからいきなり、空撮によるカシミールの山並に圧倒される。インドの夜汽車の三等車がこんなにも優しく美しく撮れるなんて…
そして息つくまもなく、子役マルホートラの笑顔と、ド派手なダンスシーンが交互に、「これでもか!」とテンポを変えて五感を攻め立てる。
音楽もこれまでのシタールと太鼓のほんわかムードとは違い、アップデートでビートが効いた、踊りだしたくなるような曲だ。これならサントラ盤も売れるだろう。

欠点はちょっと長いことで、館内がうすら寒かったこともあって、二度もトイレに行く羽目になった。我々からするともう少し刈り取りが必要かなと思うが、インドの観衆にとっては必要な長さなのかもしれない。
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スポーツ新聞の埋め草記事だが、とてもいいので紹介する。
DNAの筒香選手が故郷の堺市の少年野球チームを訪問。
イベント終了の後、報道陣に20分間にわたって「熱く語った」のだそうだ。
まず、彼の問題意識
野球人口の減少は深刻だ。
いっぽうで、人口の現象と並行して、不祥事とパワハラが続発している。
スポーツ界全体が変わらないと危機は打開できない。
「僕は野球界から変えていきたい」
ということで3つの提言を行っている。
1.指導者のあり方を変える
すべての暴力の排除が絶対に必要だ。
そのためには一般論や精神論を語るのではなく、個別の暴力・パワハラ問題を掘り下げて検討し、総括するべきだ。
その総括のなかで、指導者のあるべき姿を考える。
2.勝利至上主義の排除
個別の問題を総括するということは、「なぜ?」という問題を考えることだ。
指導者のあり方で、より本質に関わる問題が勝利至上主義だ。
指導者の役割は2つある。一つは選手をより強く、よりうまくすることである。
結果としてチームを勝利に導くことだ。
もう一つは、選手を鍛え、教育し、将来に向けて育て上げることだ。
指導者には2つの世界がある。一つは彼に期待し、指導者に指名し、勝利を待ち望む大人の世界だ。もう一つは彼の指導を受けながら成長を目指す選手との世界だ。
これらの事情が絡み合って勝利至上主義が生まれる。
だから勝利至上主義にならないようにするには集団的な意思統一が必要だ。
さらにそれを揺るぎない原則に鍛え上げることが必要だ。
3.子どもたちへの目線
子供は指導者にとって、直接的には「仕事の対象」である。しかし大きな目で言えば、子どもたちは彼に指導を委ねた家族たちの期待と希望の対象なのである。
さらにいうならば、子どもたちは多様に発達する権利を持つ主体である。枠をはめる権利は誰にもない。
筒香選手はこう言う。
指導者が、勝ちたいために子どもたちに細かいことを求めすぎている。そして罵声や暴言を浴びせている。でも、子供はできないのが当たり前なんです。
筒香選手は、2つの具体的な改善案を語っている。
一つは、球数制限のルール化である。これについては比較的よく知られているので省略する。
もうひとつはトーナメント制の廃止である。これは新しい発想だ。
青少年が参加する多くの大会はトーナメント方式を採用しています。
この方式では勝ち進むほど過密日程になります。
その結果、子どもたちが犠牲になっていると思います。
ということで、たしかに卓見だ。

彼の抱負はまだ形としては定まっていないが、意欲は満々のようだ。
勝利至上主義こそが問題の根っこにある。勝負である以上、勝利にこだわるのは当然だ。それだけになかなか難しいところもある。
いきなり大きく変えることは難しいけど、同じ思いの大人たちが協力しあえたらいいと思う。
僕は野球界から変えていきたい。野球界が変わることがスポーツ界の変革につながると思う。


追記 1月25日

さすがは赤旗、本日配達された日曜版の裏表紙に一面使って筒香選手の記事を載せている。筒香選手も赤旗の取材に真正面から応じている。
彼の言葉を引用しておく。
「野球が大人の自己満足になっていないだろうか。勝つことが全てになってしまい、子どもたちを追い込んでいる。大人が変わらないと、このままでは子供がつぶれてしまう」
「指導者が謙虚に学ぶこと、子供が主人公だという考えを徹底することが必要だ。そして、たたかう相手への敬意を抱く立場を貫かなければならない」
「指導者が子どもたちをリスペクトできれば、野球界は変えられる」
輝かしい言葉です。

久しぶりに映画が見たくなってイオンの映画館へ行った。行ってから時間などと睨みあわせて、「ビブリア古書堂の事件手帖」に決めた。月曜の午後2時というのに7,8人も観客がいた。全員女性だった。
女性監督の作品で、なかなかお金もかけているらしい。
見た感想だが、何かよくわからない映画だった。なぜわかりにくいかというと、サイドストーリーに力を入れすぎたためだ。
なぜそんなになってしまったかというと、おそらく夏帆という女優があまりに魅力的だったからではないか。
監督や脚本家がみんな引っ張られてしまった。編集屋も切れなかった。

原作者は映画を見た感想の中でこう言っている。
また原作で深く描かなかった過去パートがしっかり描かれているので、映像として観るのは私にとっても新鮮でした。
聞きようによってはちょっと嫌味っぽくも聞こえる。
夏帆
こちらの方は、基本的に暇つぶしなので、筋はまぁどうでもいいみたいなものだから、とにかく夏帆さんの美貌にうっとりしていた。
典型的な美人というわけではない。映画向きの顔で、造作としては大口なのがある種アンバランスな魅力だ。多分芝居がとてもうまい人なのだと思う。表情の中にさり気なく自分の魅力を引き出す力がある。
三文小説家が何気なく入った大衆食堂で、何ということない店のお内儀さんに何気なく接触し、どんどん彼女の魅力に引き込まれていく。その心のゆらぎが、こちらまで引き込んでしまう。
写真を見てほしい。普通に、女性にこんな顔をされたら、男性たるもの理性を失います。
ただし女性の方が流れに添うように燃え上がってゆく心境の変化は、正直のところ良くわからない。わからないが納得させられてしまう。多分女性監督の独特の感性なのだろう。
鎌倉の切通しでのラブシーンは、日本映画ではめったに見られない硬質な情感だ。

プラハでミューシャの絵の入ったチョコを土産に買った。訪問団の人にはあまり知識はなかったようだが、帰ってきたら、とても喜ばれた。竹久夢二みたいなもので、好きな人にはたまらないようだ。
アルフォンス・ミュシャ
Alphonse Mucha
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アルフォンス・ミュシャ


アルフォンス・マリア・ミュシャ(Alfons Maria Mucha)

日本ではけっこう昔から有名な人で、藤島武二が摸して描いた挿絵が与謝野晶子の歌集「乱れ髪」の表紙になっている(他説あり)。
チェコ人だが活躍したのはパリで、アール・ヌーヴォを牽引した人である。
1910年にチェコに戻り、そこで民族主義の画家となり、1939年、78歳で侵略してきたナチに捕らえられ、拷問を受けて亡くなった。
戦後の社会主義政権にも好かれず、「プラハの春」の中で再発見されたようである。
下記のサイトで主要作品が一覧できる。
アルフォンス・ミュシャ

そろそろやめようかと思ったが、次のような文献を見つけてしまった。
教材発掘 ・ 歌人 山崎方代 (国語科教諭 鈴木 芳明)
というネット文献としては膨大なもの。この文献がどういう由来のものかはさっぱりわからない。多分高校生の国語の授業用に作られた教師向け参考書なのだろうと思う。
本来なら前回記事と統合すべきだろうが、それはかなりしんどい作業となりそうだ。
一応要点だけ、抜き出す形で勘弁させてもらう。

1.方代の生いたち
父龍吉が65歳、母けさが44歳の時の子で、8人兄弟の末っ子だが、長女は里子に出され、5女が家に残りほかはすべてなくなっていた。
大正三年霜月の 霜降るあした生まれて 父の死を早めたり
はウソで、父は90すぎまで生きた。
間引きそこねてうまれ来しかば 人も呼ぶ 死んでも生きても方代である
も、ウソである。ただの強がりだ。
方代はウソつきで、書いてあることをそのまま信じてはいけない。ただ本当なのは彼の生活が半端でなく貧しい辛く悲しいものだったことだ。子供が一生懸命お話を作って、現実とフィクションを交錯させるように方代はウソをついて自分を慰めている。
水呑百姓の子に生まれ、両親が失明する。5女もやがて亡くなる。自分は小学校で学業を終え両親の世話をしながら百姓仕事を続ける。
常の如く めしひの父母を隣家の人にたのみて 野良にいできつ
わからなくなれば 夜霧に垂れさがる黒きのれんを 分けて出でゆく
父と母 しかといだきて 永久に土をたがやす 吾が運命なり
そういうウソをやめて自分に素直になれば、恐ろしいほどの現実が襲ってくる。これは普通の人が感じる現実とおばけの関係と逆になっている。
親子心中の 小さな記事を切りぬいて 今日の日記を埋めておきたり
卓袱台の上の土瓶に 心中をうちあけてより 楽になりたり
庭土をわずかにそめて ひっそりと雪がやんでおる 死ぬるは易し
長じて戦争に行く。その時の歌は、実はあまりない。
息絶えし 胸の上にて 水筒の水が ごぼりと音あげにけり
狂いたる本間一等兵が タラップの闇に 女房の名をよんでいる
たしかに、こんな歌、いくつも書けないだろう。
戦後間もなく傷痍軍人となって復員した。片眼失明で、おそらく交感性眼炎で残る目も弱視となった。おまけにその目でものを見るから、目つきが悪くなる。当然まっとうな職にはつけず、靴修理や沖仲仕など底辺の仕事で食いつないだ。
盗み来し茄子 大根もけずり入れて 一人厳かに夕餉を終る
かくのごと 生きていることを恥じながら もげしボタンをくくり付けたり
今日は今日の 悔を残して眠るべし 眠れば明日があり闘いがある
昭和40年(1965)51歳の時に、それまでずっと方代を庇護してくれていた姉が亡くなった。彼は天涯孤独となって姉の家を出た。
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昭和43年(1968)に戸塚の農家の手つだいとなり、納屋をあてがわれた。納屋には電気がきていた。コンセントに電気コンロや中古電気釜をつないだ。水は近くの市立千秀小学校の運動場にある水道蛇口にバケツをさげて貰いに行っていた。
盲いてゆく 瞼をとじて 遠きひと姉の名を呼ぶ 弟なれば
しかしこの頃から少しづつ方代の歌は評価されるようになった。とくに吉野秀雄の知己を得てからは、全国誌にも歌が掲載されるようになり、とくに郷里山梨での評価が高まった。


ということで、みなさんも気になるだろう。あの歌が出てこないのだ。
安久津英 著 「方代を読む」 の中野和子さんによる書評にある 
ほいほいと ほめそやされて 
生命さえほめ殺されし人が
ありたり

という歌だ。
ある文章では 
中道町では、平成12年(2000)より、教育委員会が方代のホームページを開設していて
方代の四つの歌集である、『方代』、『右左口』、『こおろぎ』、『迦葉』所収のすべての歌を見ることができます。
とあるのでさがしてみたが、それらしきサイトは見当たらない。

多分これがその残骸だろうと思われる。
[PDF]山崎方代全歌集というページだ。
ページはちゃんと開くのだが、中身が空っぽになっている。

グーグルの検索ページでは、見出しの下に
ばわたりてぞゆく. 吸いすてし煙草の. けむりののぼる. のもわれにくわ. えるものと思う. この. われが山崎方代. であると云うこの. 感情をまずはあ ...... 柿の木に礼をつく. して柿の実を梢. に三粒. 挘. ぎ残し. たり. 柿の. 木の梢に止りほい. ほいと口から種. を吹き出しておる. 黄金色の落葉 ...... 一日に異存はない. よ鍋底を顔の照. るまで磨きあげ. たり. ほいほい. とほめそやされ. て生命さえほめ. 殺されし人があり. たり. なるようになっ.
と、一部が書き出されている。ここに歌が載っているので、こういう歌が間違いなく存在するようだ。
“安久津英 著 「方代を読む」 の中野和子さん”の方からも検索をかけてみたが、一向に引っかからない。中野さんは多分弁護士の中野和子さんだろうと思うが確信はない。
まぁいずれ誰かが書いてくれるだろう。こちらにも、正直いまのところそれほどのガッツはない。とりあえず終了。

以前、
という記事で
一首だけ紹介した山崎方代という歌人。思い出して調べてみた。

絵に描いたような日本の貧困
一応経歴をなぞってみる。山梨県右左口村の農家の生まれ。大正3年だから私の父と同じ年だ。
方代(ほうだい)は本名。8人兄弟中5人が夭死したことから、末っ子の方代には「生き放題、死に放題」させようと名付けたらしい。これだけたくさん生んでたくさん死なせたというのは水呑百姓の証だろうが、それを子供の名前にしてしまった父親もひょうひょうとしたものだ。
尋小卒後家業を手伝いながら“田舎の文学青年”としての日々を送る。24歳のとき横浜に転居。姉の嫁ぎ先に身を寄せ、職を転々と変える。
3年後に招集され、ジャワ島、ティモール島を転戦。負傷し右眼失明、左眼視力0.01となる。視力が落ちただけではなく目つきも悪くなった。金子秀雄はこう書いている。
ジ ャワ島の東方のチモール島、その近くのマルメロ島とやらでアメリカの艦砲射撃で物恐ろしい目つ きになってしまった。
復員後は傷痍軍人の職業訓練で習った靴の修理をしつつ各地を放浪する。
51年(昭和26年)に横浜の姉の下へ落ち着く。金子によれば
かれには二十も年の違う姉さんがいて、それが横浜で大きな歯科医院を経営し、彼はそこで技工をやっている。
ただ、弱視の彼にどれほどの仕事ができたかは疑問の残るところで、恩給ぐらしの居候というのがありていのところではなかったろうか。
彼は68年に姉宅を出て、戸塚の農家で住み込みばたらきとなる。
72年から鎌倉で間借り生活をはじめる。気のいい大家と奥さんでやっと住み処を見つけたようだ。この頃左眼の視力がいよいよ低下し手術している。
75年 山梨日日新聞に「山崎方代の冬」が掲載され評価が高まる。
85年に肺ガンのため死亡。享年71歳。
まるで絵に描いたような辛苦・薄幸の人生だ。

山崎方代の人となり
ウィキペディアには「特定の結社に属さず、身近な題材を口語短歌で詠んだ」とあるが、そんな思想信条みたいな話ではないだろう。
自らを「無用の人」と言い、世間から離れて暮らしていた方代は、生涯独身であり、孤独で寂しい生活の中、ありのままの素直な表現でいくつもの歌を生み出しました。(甲府市ホームページより)
というのも贔屓の引き倒しだと思う。
むしろ女兄弟のバッチだから人懐こさが身上だと思う。教育はなく弱視で極貧だとなれば、そうそう人並みに扱ってもらえるわけじゃないのが世間というものだ。それだけの話じゃないのかな。
そういう自分を側から見て楽しんでしまおうというのが趣向だ。

ただ晩年には一定の固定フアンがいたらしい。
死んで花実が咲くものかと言うが、2003年には選歌集『こんなもんじゃ』画:東海林さだお
という本が出版され、田澤拓也 『無用の達人 歌人山崎方代伝』2003年という紹介本も出され、2010年には『山崎方代展 右左口はわが帰る村』(山梨県立文学館)という回顧展まで開かれている。

作品の紹介
主な作品(甲府市のホームページの「歌碑一覧」というのがいかにも方代らしい趣向だ)
1  ひる前に ランプのほやを磨きあげ いつものように豆を煮つめる
2  寂しくてひとり笑えば 卓袱台の上の茶碗が 笑い出したり
5  丘の上を 白いちょうちょうが 何かしら手渡すために越えてゆきたり
6  うつし世の闇にむかって おおけなく 山崎方代と呼んでみにけり
11 夜おそく出でたる月が ひっそりと しまい忘れし物を照らしおる

13 遠方より友来たりけり 目隠しをして 鶏小屋の鶏を選べり

14 ふるさとの右左口邨は 骨壷の底にゆられて わがかえる村
18 雲雀子よ早く孵せよ この麦も 少し早いが刈らねばならぬ
19 こんなにも湯呑茶碗はあたたかく しどろもどろに 吾はおるなり
22 私が死んでしまえば わたくしの心の父は どうなるのだろう









半分に絞ってしまった。ただし、ここには都会生活や戦争の記憶や放浪生活を歌ったものはない。故郷にはアルコール消毒された清らかな作品だけが残されているようだ。これじゃ生き仏だ。
生命(いのち)さえほめ殺されき…もない。
先程も書いたとおり、“自分を側から見て楽しんでしまおう”というのが方代の趣向だ。「ありのままで素直な表現」というのはそのための方便だ。もし素直というのなら“ネジ曲がっているけど素直”なのだ。一茶にも似たところがある。日本的なユーモアだろう。

歌碑にはなりにくそうな歌をいくつか並べてみる。

手の平に 豆腐をのせていそいそと いつもの角を曲りて帰る
夕日の中を へんな男が歩いていった 俗名山崎方代である
外灯の下を通って 全身を照らし出されてしもうたようじゃ
生れは甲州鶯宿峠に立っている なんじゃもんじゃの股からですよ
一度だけ本当の恋がありまして南天の実が知っております

約束があって 生れて来たような気持になって 火を吹き起こす

一生に一度のチャンスを ずうっとこう背中まるめて 見送っている
戦争が終わったときに 馬よりも劣っておると 思い知りたり
かたわらの土瓶も すでに眠りおる 淋しいことにけじめはないよ
かぎりなき 雨の中なる一本の雨すら 土を輝きて打つ














を大幅増補した。
啄木の晩年の思想的展開に焦点を合わせた年表に絞った。
題名を変えたのは以下の理由である。

大逆事件はきわめて重要なファクターではあるが、事件そのものを正面から扱った年表ではない。あくまでも啄木の最後の数年間、きわめてまともに前向きに送った人生を跡づけるのが目的である。

1908年 明治41年 満22歳

4月 啄木、北海道での流浪を終え東京に出る。金田一京助に頼り糊口をしのぐ。一方芸者遊びで借金を重ねる。

6月 22日 赤旗事件が発生。大杉栄ら無政府主義の青年グループが革命歌を歌いデモ行進。警官隊との乱闘の末,幹部16人が一網打尽となる。

7月 西園寺内閣、赤旗事件の責任を問われ総辞職。代わった桂内閣は社会主義取り締まりを強化。検挙者のうち10人に重禁錮の実刑が下る。

9月 第三次平民社の開設。獄中の幹部に代わり、高知から再上京した秋水が中心となる。


1909年 明治42年 満23歳

1月1日 『スバル』創刊号発行。啄木は発行名義人となる。

2月 盛岡出身の朝日新聞社編集長佐藤真一(北江)に『スバル』と履歴書を送り、就職の依頼をする。佐藤北江の厚意により、校正係としての採用決定。(月給25円)

5月 幸徳秋水、管野スガらの創刊した『自由思想』が発売禁止処分となる。

6月16日 家族を上野駅に迎える。この日をもって放蕩の「ローマ字日記」時代は終わる。

10月 妻節子、盛岡の実家に帰る。金田一京助の尽力で帰宅。年末には父一禎も上京し一家5人となる。

1910年 明治43年 満24歳

3月 第三次平民社が解散。秋水は湯河原にこもる。

4月 処女歌集『仕事の後』(歌数255首)を書き上げる。春陽堂を訪ね、出版依頼するも断られる。
5月31日 検事総長、宮下、新村らが企てた明科事件が大逆罪に該当すると判断。幸徳秋水ら社会主義者・無政府主義者の逮捕・検挙が始まる。

6月5日 新聞各社、幸徳秋水等の「陰謀事件」を報道。啄木は事件に衝撃を受け、「予の思想に一大変革」をもたらす。啄木は校正係として事件の詳細を知りうる立場にいた。

6月 最後の小説「我等の一団と彼」を執筆。生前は未発表に終わる。小説家の夢は叶わず。

7月末 啄木、「林中の鳥」の匿名で評論「所謂今度の事」を執筆(未発表)。東京朝日新聞の編集主任に掲載を依頼するも叶わず。

8月9日 魚住折蘆、東京朝日新聞文芸欄に「自己主張の思想としての自然主義」を寄稿。

8月下旬 啄木、折蘆を批判する評論「時代閉塞の現状」を執筆。朝日新聞に掲載予定であったが、未発表に終わる。

8月 朝鮮併合。「地図の上朝鮮国にくろぐろと墨を塗りつつ秋風を聴く」を書く(未収録)

9月15日 『東京朝日新聞』の「朝日歌壇」の選者となる。(翌年2月28日まで)

10月4日 長男真一、東京帝国大学医科大学附属病院にて誕生(3週後に死亡)。

11月 米英仏で大逆事件裁判に抗議する運動が起こる。

12月1日 『一握の砂』(東雲堂)刊行。一首三行書きの「生活を歌う」その独特の歌風は歌壇内外から注目される。

12月10日 幸徳秋水等被告26名に関する事件の大審院第1回公判(非公開)が開かれる。

12月 啄木、過労から身体の不調を覚え、三日に一度の夜勤は年内でやめる決意をする。

堺利彦、売文社を設立。「冬の時代」の中で社会主義者たちの生活を守り、運動を持続するために経営する代筆屋兼出版社。

1911年 明治44年 満25歳

1月3日 啄木、友人で大逆事件の弁護士だった平出修弁護士を訪問、詳細な経緯を聞く。幸徳秋水が獄中から送った陳述書を借用し書写。

1月10日 アメリカで秘密出版されたクロポトキン『青年に訴ふ』を入手する。

1月18日 幸徳秋水等の特別裁判の判決。被告26名中、24名死刑という判決に、啄木は衝撃を受ける。

1月24日 幸徳秋水等11名の死刑執行。

1月 啄木、陳述書をもとに「無政府主義者陰謀事件経過および附帯現象」をまとめる。「幸徳は決して犯人ではない」との確信を得る

2月 秋水救援活動を続けた徳富蘆花、一高内で「謀叛論」を講演。 

幸徳君等は時の政府に謀叛人と見做されて殺された。が、謀叛を恐れてはならぬ。謀叛人を恐れてはならぬ。自ら謀叛人となるを恐れてはならぬ。新しいものは常に謀叛である。我等は生きねばならぬ。生きる為に謀叛しなければならぬ。  

2月 結核性腹膜炎で東大病院に入院し手術。入院中にクロポトキン自伝『一革命家の思い出』第二巻を読む。

3月 啄木、術後経過不調のまま退院となる。

3月 大逆事件について木下杢太郎、森鴎外や永井荷風も作品で風刺する。

5月 「ヴ・ナロード: 獄中からの手紙」を執筆。大逆事件の真相を世に伝えんとする。

6月 「はてしなき議論の後」の9編を執筆。「家」(6月25日)、「飛行機」(6月27日)の2編を創作。


1912年 明治45年 満26歳

1月1日 日記に曰く、「暮の三十日から三十八度の上にのぼる熱は、今日も同様だつた」

4月9日 土岐哀果の尽力で、東雲堂書店と第二歌集の出版契約。死後、歌集『悲しき玩具』(歌集の命名は土岐哀果)として出版される。

4月13日 啄木、死去。

石川啄木 年譜に多くを負ったことを付記し謝す

いつもはあまりまじめに読まない赤旗日曜版で、ふと目にしたコラム。日刊の「朝の風」みたいなもののようだ。
二階堂
歌手・僧侶とあるが、本質は詩人であろう。

なんというか磨かれていない原石だ。ありふれた、少しすり減った言葉の中に、キラリと光るものが潜んでいる。
夕方、木洩れ陽のなかにころんと転がった亡骸…

7日の生命を燃やすため、光の中へ出ていった蝉どもと、
あの日、空襲警報の解除とともに、光の中へ出ていった多くのいのちの対比…

自分ではなく、自分の中のいのちに目をやる。
自分中心で固まっている頭と心をほぐし、揺さぶりをかける。
そのことで未来への希望をとりもどす。
ほかのやり方が、私には見当たらない。
解脱とか輪廻とかいわない所がよろしい。

すみません。ネットで調べたらずいぶん有名な方のようです。上から目線のたいそう失礼な物言いで、まことに申し訳ございません。ジジイの酔談だと思ってご容赦ください。

とても面白いミュージアムを見つけた。
九段下のしょうけい館というところだ。
九段下の駅の6番出口を出たところだと、ホームページには書いてあるが、地図はない。
入ってよいのかと一瞬ためらうほどのオフィス風な外観だ。
しょうけい館は、戦傷病者の労苦を「承継」するということから名付けられたのだそうだ。別名が戦傷病者史料館。平ったくいうと傷痍軍人の会館だ。
こじんまりとしているが立派な国立施設で、委託運営となっているが天降りであろう。創設時は今上天皇も閲覧しているようだ。
現在は「水木しげるの人生」という企画展をやっている。
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滝平二郎の沖縄戦の逃避行とイメージがダブルが、こちらの戦後は傷痍軍人であり失業者であったからさらにきつい。
漫画のイメージと実際の水木のイメージが付かず離れずに進行していく。戦後の生存のための“あがきも含め、まさに生きた戦争、戦争の血肉化だ。
ただしテレビドラマのゲゲゲの女房とはだいぶイメージのずれがあるようで、そこから入る人には多少戸惑いがあるかもしれない。

日曜だからなのか。館内はガラガラ。おかげで冷房に当たりながらゆったりとしたひとときを過ごすことができた。

それから神保町へ出て一軒だけ開いていた古本屋で、「稲作の起源を探る」という岩波新書と「恐竜は生きている」という翻訳の入門書を買った。前者が98年。後者は87年の出版だから、この手の本としてはアウトオブデートかもしれない。

先日、夕張鹿鳴館という施設を見てきたが、いろいろと評価が難しい施設だと思う。
夕張ではいくつかの鉱山会社が操業していたが、圧倒的に大きかったのは三井財閥系の北海道炭鉱汽船という会社だった。略して北炭という。
この会社の接待用施設として建てられたのがこの建物で、鹿ノ谷倶楽部といわれていた。鹿鳴館というのは客集めのためのネーミングのようだ。
老朽・閉鎖されてからの動きは、ウィキで見るとあまり幸せではなかったようで、「生きてなきゃよかった」的なところもある。
1913年に建設されてすでに100年余り、昭和天皇が1954年、今上天皇が58年に宿泊したころが絶頂で、石炭が斜陽化して50年、82年に会社が手放して夕張市に押し付けて35年、夕張が財政再建団体となりたてものを閉鎖して10年となる。
見学コースでほぼすべての施設が見学可能だが、第一別館は未開放である。
かつての栄華を偲ぶには相当の想像力が必要で、むしろ一重のガラス窓とか、建付けの緩みは「大金持ちでもこんな暮らしだったんだ」と、同情を感じてしまう。
天皇の宿泊室は「えっ、こんなところに泊めたの」と言いたくなる。
おそらくその頃ははるかに豪勢だったのが、落ちぶれて老いさらばえて、醜態をさらす羽目になっているのだろう。
建物保存の三原則というものがる。
きれいだ、使える、価値があるというものだ。
夕張鹿鳴館の場合、この三原則のどれをとっても疑問符がつく。調度品も正直のところウソっぽい。
関係者には申し訳ないが、いっそ取り壊して公園にするか、あるいはただの更地にしてしまったほうが後腐れなくて良さそうだ。もし保存するのなら、ここだけ一点主義で守る決意を固めなければならない。
率直に言って廃墟観光の客は金など落としませんよ。

建物保存の三原則 “きれいだ、使える、価値がある
これをウェブで探してもヒットしません。オリジナルは下記の一文です。
ラテンアメリカの政治という私のホームページのなかの「更新記録」という不定期日記の中の一文です。これが私のブログの前身になります。
2007.11.15
 教育テレビのN響アワーを見ていたら、芸大の奏楽堂保存運動の話をしていました。運動を率いた教授が「保存運動の三原則」という理論を展開していました。①使えること、②清潔なこと、③価値があること、というのです。運動から導き出された教訓だけに、とてもリアルで面白く、ためになる話です。話のミソは、老朽化した建造物が一般的・抽象的に価値がある、というその前に、クリアしなければならない条件が二つあるということです。「使えること」というのはきわめて即物的で分かりやすいのですが、「清潔なこと」という言葉には多くのニュアンスが含まれています。

「さとうきび畑の唄」という映画を見た。
明石家さんま が主役ということであまり期待しなかったが、想像以上に素晴らしい映画であった。黒木瞳が(幾分ミスキャスト気味だが)きれいで、仲間由紀恵がしゃっきりしていて白蓮的で、女学校の生徒がとても感じが良かった。学徒兵が素敵でだれかと思ったら、なんとオダギリジョーだった。
見終わったらなんと午前1時、とんでもない夜更かしだ。ふだんなら10時過ぎには眼が開かなくなる嫁さんが目を見開いて見続けた。それどころか泣き続けて、それがよだれになってティッシューで拭きどおしだった。次男が「本当は写真館継ぎたかった」というのは、伏線効果もあって涙腺爆発です。
ウィキによると、これは2003年にTBSが制作した全3時間のテレビドラマだそうだ。女学生役は上戸彩という人らしい。同配役で映画も作られていて、こちらは100分ちょっとという短いもの。どう編集したのか、You Tubeで見られるのはテレビドラマ版のみ。
何気なく見終わったが、あとで気づいたのが、長男の嫁(仲間由紀恵)が長男の大学の後輩という話で、一般的にはありえない。旧制の大学が沖縄にあったかどうかも不詳。大学出の女性が小学校の教師というのもおかしい。このへんはあとで調べてみよう。
良家の子女で駆落ちというのも、ちょっと腑に落ちない。見合い写真撮るのに一人で来るだろうか、駆落ちは良いとして、籍は最後はどうにかしないとならないはずだ。長男が大学に入るには何らかの援助があったはずだと思う。沖縄県出身者が内地の大学に入るのは一定のウラが必要だろうと思う。


 
で“さあを”が気になって調べた。
けっこういっとき流行った言葉らしい。

“さあを”だが、万葉集以来いいくつかの用例があるようだ。
ネットで調べたところでは次のように記載されている。

デジタル大辞泉
さお〔さを〕【さ▽青】
[名・形動]《「さあお(さ青)」の音変化。「さ」は接頭語》青。まっさお。
「人魂 (ひとだま) の―なる君がただひとり逢へりし雨夜 (あまよ) のはひさし思ほゆ」
〈万葉集・三八八九〉

大辞林 第三版
さお【さ青】
〔「さあを」の略。「さ」は接頭語〕
あお。 「色は雪はづかしく白うて、-に額つき」(源氏 末摘花)

さ青の使われ方」 という用例集があって、大正から昭和の初期にいろんな作家が使ったみたいだ。
だいたいこの手の言葉は、しばらく使われると手垢がついてきて賞味期限が切れることが多い。

梶井基次郎「桜の樹の下には」より 
。 この溪間ではなにも俺をよろこばすものはない。鶯《うぐいす》や四十雀《しじゅうから》も、白い日光をさ青に煙らせている木の若芽も、ただそれだけでは、もうろうとした心象に過ぎない。俺には惨劇が必要なんだ。....
薄田泣菫「泣菫詩抄」より 
》きゆららに、 今宵し六日のかたわれ月、 (さはあえかなる病女《びやうによ》の 夕眺めするなよびや、)さ青のまなじり伏目がちに。 吾世すがれの悲み、―― 吐息もするやと惑はしむる。 あなせつなさの今宵や、....
梶井基次郎「桜の樹の下には」より 
た。 この渓間ではなにも俺をよろこばすものはない。鶯《うぐひす》や四十雀《しじふから》も、白い日光をさ青に煙らせてゐる木の若芽も、ただそれだけでは、もうろうとした心象に過ぎない。俺には惨劇が必要なんだ。....
太宰治「雀こ」より 
になればし、雪こ溶け、ふろいふろい雪の原のあちこちゆ、ふろ野の黄はだの色の芝生こさ青い新芽の萌えいで来るはで、おらの国のわらわ、黄はだの色の古し芝生こさ火をつけ....
原口統三「初期詩篇」より
眠る あふれる香髪《においがみ》のみだれ巻いて溺れるあたり とおく水平線の波間にさ青の太陽は溶けこむ。 そうして はるばると潮の流れる耳もとちかく かれは一つの....

と、いかにも風の作家が並ぶ。ただこれらの用例は機械検索で捉まったものらしく、大宰の「さ青」は少々怪しい。

上野武二先生から「大月源二の獄中での絵画制作」という論文を送っていただいた。「美術運動史」という雑誌のNo.166 号で、発行日は4月20日となっている。
先生がますます、多喜二と大月源二の世界に入り込んでいくさまが手をとるようで、畏敬に耐えない。
多分“ナマの事実”の側も、それを書き留める側も、切迫した時間との戦いになっているのであろう。

ところで、この論文の最後に、大月源二の歌三首が紹介されている。めったにお目にかかれるものではないだろうから、この際転載させていただく、
「刑務所内からプロレタリア美術運動の盟友・松山文雄に送った」ものだそうである。大月は1932年6月に治安維持法違反で逮捕されている。多喜二虐殺の33年2月には拘置所にいたことになる。10月にいったん保釈されたあと、34年2月に刑が確定し、甲府刑務所に入所した。そして36年の4月まで服役していた。
ふじ子との出会いは転向・保釈されてまもなくのことである。源二は突如出現したふじ子を、多喜二の“復活”のように受け止めたのではないだろうか。

だから入所時すでに、そこには転向に伴う動揺(クオ・ヴァディス)は越えられていた。そのように思われる。

泣くが如 風空に鳴り 光みち 甲斐の荒野に春きたるらし

鉄窓の 金あみごしにさあをなる 空をななめにおつる鳥かな

山の色 げにあざやかに見ゆるかな 今朝ひょうひょうと 風の音して

いずれも獄舎の小窓を通して、わずかな感覚を手がかりに外界との連帯を歌ったもので、とりわけ第1首は心躍る感慨をみごとに具象化した秀歌である。

“さあを”というのは切り取られたささやかな空の青という意味だろうか。別に空を鳥が落ちるのではなく、小窓で区切られた空間をななめに横切ったに過ぎないのだろうが、この遠近法はシンプルな色彩感覚と相まって絵画に化身されている。「走る男」と同じモチーフなのもしれない。

これに比べると、“山の色”とか“げにあざやか”というのは陳腐だが、“今朝ひょうひょうと”がすべてをすくいあげている。甲府盆地の晩秋というのは、ことに早朝からの寒風は、“秋霜烈日”たるに相応しい。だから山の色の鮮やかさが一層引き立つのである。

大月の獄中生活は三つの要素で成り立っている。早春から晩秋への季節の移り変わり、それを小窓を通じて凝縮された形での受け取り、そしてそれらをポジティブに受け止め、捉え返す静かな確信。

絵については詳しくないのだが、このような心象が入所中の画作にも通底しているのだろうか。

我が家には50インチの堂々たるテレビがある。三菱製で絵は多少落ちるが音がすごい。もともと嫁さんがテレビ人間で、それでこんなすごいのがあるのだが、今は寝たきりで事実上私のものとなっている。
日曜の昼間にカーテンを閉めて、絨毯に座って少し見上げる風に見るとなかなかシアター風である。
連休中に借りたビデオで、「阪急電車」というのが良かった。基本的に女性映画で、男役は刺身のツマ的にしか出てこない。
2011年3月の公開というから東北大震災に完全にかぶっている。これは大方の日本人にはまったく知られない映画ではなかったろうか。めぐり合わせが悪かった映画である。
この映画の舞台となったのは、シックな阪急の中でも宝塚と関西学院、西宮をつなぐ郊外路線で、関西では屈指の洒落たところらしい。20年くらい前、何故か池田で心臓ペーシングのセミナーがあった。帰りに宝塚に寄った記憶がある。私は手塚治虫の記念館を見てきた、連れは宝塚歌劇場を見てきたらしい。
と言うくらいで、あまり馴染みのない場所である。
映画の方だが、宮本信子と南果歩が圧倒的によい。実は最初、ふたりとも誰かわからなかった。口元と喋りと仕草がすごくて、「誰やろう? なにか見た気がしてしょうがないんだけど…」と言ったら嫁さんが指盤で教えてくれた。「目は口ほどにものを言い」と言うが、口元の美しさがえらく目立つ映画であった。
主役の俳優は中谷美紀という人らしいが私はよく知らなかった。ちょっとゴツめの顔立ちであるが、映画ならではのドぎつめなキャラなので、それをリアルに作り上げた実力はそれなりのものなのであろう。衣装と宝飾は間違いなくA級だった。
あと、うまいなと思ったのは田舎出の女子大生を演じた女優さん。谷村美月というらしい。横にいたらちょっと引いてしまいそうな、ちょっと濃すぎる映画向きの美人だ。
その他、これだけ多くの役者がみなうまく化けていて、登場人物をつなげる脚本が良く綾んでいて、エキストラまでふくんで画面の目が詰んでいて、この上なく贅沢な映画だった。ごちそうさま。

前から気になっていたが、さすがに一人では入りにくかった。
そこへ釧路から孫(ピカピカの1年生)がやってきて、これ幸いと連れ出して行ってきた。
感想は表題のとおりである。第一に子供が感動する。「僕、泣いちゃった」そうだ。第二に「絵」が実物以上にリアルで感動する。第三にメキシコと人々への素直な愛情が胸を打つ。
正直のところ、あのディズニーがメキシコ人にこれだけ共感と敬意(おめなへ)をもって映画づくりをしようとは思わなかった。メキシコと言えば唐辛子とテンガロンハットとカルテルしか知らない日本人に是非見てもらいたい映画だ。
音楽もよい。馴染みのせいもあって、主題歌の「リメンバー・ミー」よりもところどころに挿入される「サンドゥンガ」(ひょっとして「ジョローナ」?。多分ハリスコあたりの民謡)がとても有効だったと思う。
なお劇中に頻出するフリーダ・カーロは実在した女性画家。
カーロ
女装しているのがもったいないような男装の麗人。「自画像」よりはずっと良い。
父親はハンガリ生まれのユダヤ人でメキシコで写真家として成功した。当然といえば当然、フリーダも生まれつきのアカで、メキシコが最も輝いた1920~1930年代を駆け抜けた。スペイン人民戦争を支援し、トロツキーをかくまった。今日では国民的芸術家として女性運動の先駆者として尊敬されている。

相撲協会は謝罪声明一本で済まそうとしているようなのでますます怒る。人殺しは「不適切な行為」では済まないぞ。これで済ますつもりならこれは謝罪ではない。少なくとも伝統を重んじる人間がなすべき「謝罪」ではない。
春日野巡業部長は「トイレに行っていた」と言い訳をしているようだ。土俵下に座っていたら、行司の繰り返すアナウンスを看過はできないはず、だね。それにしても巡業先の地元市長が土俵で挨拶しているのにトイレに行くとは「伝統」にそぐわない行為だ。もしトイレが嘘だとすれば主犯は春日野親方ということになる。端的に言って一介の行司が単独でそこまで判断できたのだろうかとも思う。
一言で言って、相撲協会は無責任で事態の深刻さを認識していない。これでは残念ながら再発必至だ。救命医療関係団体は相撲協会に対して、きちっとした抗議文なり警告文を発するべきだ。そして一連の事態が「見殺しの強制」であり、犯罪行為そのものであることを明らかにすべきだ。
メディアはその後ずいぶん報道しているが、全てツボを外している。「気持ちはわからないではないが」などと口が裂けても言うべきではない。これは「見殺しの強制」なのだ。もし救急隊がこなければ、「行司」は場内放送では済まさずに女性の実力排除に出た可能性もある。
これは女性が怒るべき問題ではないし、伝統と人権の関係でもない。救急・救命に携わり命に関わる人間が真っ先に怒るべき問題なのだ。
伝統が問題ではない。良識あっての伝統の尊重であって、良識なき伝統は狂気にすぎない。
問題は人命救助の妨害行為なのだ。救助人を後ろから撃っている。しかも協会の権威を傘にきた威力行使を伴っている。しかも妨害は意図的であり、宗教的確信に基づいている。
今回の事態は法的にはどのような犯罪に該当するだろうか
さきに結論から言うと、これは虐待にもっとも近いあつかいとなるだろう。親が宗教的信念にもとづいて子供を虐待する。ネグレクトや放置はその一形態だ。蘇生措置を中断させるよう強制する行いは究極・最悪のネグレクトだ。
工場で火事が起きた。消防車が駆けつけた。それを工場の正門で「伝統だ」といって立ち入り拒否しているようなものなのだ。子供の手術を拒否するエホバの証人とおなじなのだ。

刑事罰に相当しないか、少し調べてみた。
1.救急車の業務妨害
緊急走行中の救急車に道を譲らなかったり、走行を妨害したりしたときについて
シェアしたくなる法律相談所というページから引用
行為そのものに対する罰
道交法40条、120条1項2号により、5万円以下の罰金が科されます。
これが刑事罰
違反点数1点、反則金6,000円
これが行政罰
つぎに実害が生じた場合
因果関係や故意・過失が立証されれば、民事上ないし刑事上の責任を負う。これまでは立証は困難だったが、ドライブレコーダーの普及により事情が変わる可能性あり。
今回の舞鶴のケースは証拠はバッチリ残っているな。これでは隠蔽も改ざんも不可能だ。
2.市民による救急促進と保護
次に公務執行妨害というのがある。今回のケースは公務員の業務ではないから、外形的には「公務」ではない。しかしきわめて公共性の高い「業務」だ。これに関連した判例はないだろうか。
とりあえず見つけたのが以下の文章
自治省消防庁救急救助課「交通事故現場における市民による応急手当促進方策委員会報告書」
イ 救命手当の実施義務
交通事故により被災者が心停止等の状況にある現場に遭遇した時、居合わせた一般市民が、何ら救助の手立てをとることなく、傍観者の立場にあることは、状況によって非難されるべきであるかもしれない。その意味では、少なくとも、道義的には一般市民にとっても、救命手当の義務があるといえる。しかし、現行法にあっては、一般市民に救命手当の法的な義務があるとは言えない。
ということで、市民(とりわけ有資格者)による救急は保護・奨励されている。これは法令ではないが裁判等においては十分勘案すべき事情である。
3.救急活動のネグレクトは指弾される
4月3日の大紀元ニュースでこれは中国の事件。
中国四川省徳陽市中江県で自動車衝突事故が発生した。2台のうちの白い車がその後炎上した。
住民らは通りかかったバスの運転手に消火器を借りようとしたが、拒否された。
その後、白い車は火が燃え広がり、地元の消防隊が駆け付けて来たが、車内にいた2人は死亡した。
その後の経過は不明だが、世論の袋叩きにはあっている。今回は不参加ではなく「やるな!」という呼びかけだから、ただの世論による非難だけでは済まないと思う。
4.最悪の作業妨害
これは少し前の記事。『平和新聞ながさき版』(06年11月05日)による。
米海軍前畑弾薬庫(佐世保弾薬補給所)敷地内で火災が発生し、弾薬の運搬や貯蔵に使う木製の台を保管する木工作業所が全焼しました。
市消防局は協定に基づいて再三再四、計7回にわたる応援出動を申し入たが、基地側が拒否したそうです。
この事件は、その後ウヤムヤになってしまった。このケースは「伝統」の代わりに「軍事」と入れればまったくおなじ論理だ。

5.「エホバの証人」の手術について
過去においてはいろいろな対応があったが、今日では主体的判断ができる成人の場合は本人の意志が尊重されることになっている。しかし私なら受けない。どうせ他に行くのだから解決にはならないが。
問題は患者が子供で、輸血を拒否していない場合だ。
基本的には親は子供の輸血を拒否することは許されず、もし固執するなら親権を剥奪することになっている。

下記はその一部
15歳未満または判断能力がない場合
(2) 親権者が拒否するが,当事者が15歳未満,または医療に関する判断能力がない場合
① 親権者の双方が拒否する場合――医療側は,親権者の理解を得られるように努力し,なるべく無輸血治療を行うが,最終的に輸血が必要になれば,輸血を行う。親権者の同意が全く得られず,むしろ治療行為が阻害されるような状況においては,児童相談所に虐待通告し,児童相談所で一時保護の上,児童相談所から親権喪失を申し立て,あわせて親権者の職務停止の[保全]処分を受け,親権代行者の同意により輸血を行う。
② 親権者の一方が輸血に同意し,他方が拒否する場合――親権者の双方の同意を得るよう努力するが,緊急を要する場合などには,輸血を希望する親権者の同意に基づいて輸血を行う。
問題はこの親権剥奪措置に親が逆らう場合だ。しかしそれについての言及はない。

6.会場を貸した側の責任
もし、市長の身に万一のことがあった場合、相撲協会に会場を提供した側の責任が生じるかもしれない。
最初にも言ったように相撲協会は真剣に反省していない。誤ちの因って来る原因(風土)を剔決しようとの姿勢も感じられない。内部処罰を検討している様子もない。新兵一人に罪を押し付けて済まそうとしている。昔の軍隊と同じだ。だから彼らは累犯の可能性が高い。
相撲協会がこういう組織だということを知っていて貸すのなら、民事上の責任が問われるかもしれない。少なくとも、貸館契約の際は救急救命の際には女性の出動を拒まないという一札を取り付けておかないと、次は共犯の疑いを受けることになるだろう。

常に遠くへ というブログに面白い写真がありました。
説明は
そんな神聖な土俵に…女性はダメでも フェラーリはいいんですか❔
DaFiovRV4AcPkRA


「女性は土俵から下りてください」の真相
2018年04月11日 「見殺しの強制」は犯罪行為そのもの もご参照ください
とにかくまずは事実収集だ。
昨日4日、京都府舞鶴市で大相撲の巡業が行われた。挨拶に立った多々見良三・舞鶴市長が土俵上で倒れた。

その場に居合わせた有志の人々が土俵上に駆け上って救命措置を行った。その中には女性も含まれていた。これに対しアナウンスを担当する行司が「女性は土俵から下りてください」と退去するよう何回も求めた。さらに市長が運び出された直後、土俵には大量の塩が撒かれた。
BuzzFeed News、では時系列にまとめられている。

  1. 多々見市長が土俵に上がり、挨拶を始めたが呂律が回っていない。
  2. 途中でふらつき、突然倒れる。関係者らしき男性たちが多々見市長に駆け寄る。
  3. 1人の女性が土俵に上がり、男性を押しのけ心臓マッサージを始める。別の女性も直ちに尾き、ペアーで蘇生を始める。続いて別の女性2人も土俵に上がり、多々見市長の駆け寄る。
  4. 「女性の方は土俵から降りてください」とのアナウンスが、繰り返し流れる。
  5. 救急隊員の男性たちが土俵に到着。蘇生作業を引き継ぐ。女性たちは土俵から降りる。
  6. 多々見市長が担架で運ばれる。この後土俵に大量の塩が撒かれる。
ANNニュース(You Tube)にこれらすべてが映像として記録されている。
ということで、こうやって記事を書いているだけでもアドレナリンが吹き出してくる。
これは女性に対する蔑視ではない。「生命の尊厳」に対する蔑視であり、人間の生命に対する蔑視なのだ。
女性差別というのではない。「伝統」の名による恣意的な差別なのだ。たまたま差別の対象が女性であったに過ぎない。同じ論理が例えば部落民だったら、黒人だったら、朝鮮人だったら、共産党だったらどうだったんだろうか。すべて「伝統」の名において許されるのだろうか。
その「伝統」というのは差別の伝統でもあり、「いのちは鴻毛より軽し」の人命使い捨ての伝統でもある。
立川病院の三田村秀雄院長のセリフが良い。
伝統と言っている場面ではない。伝統が命を救うことはありえない。命を救うためにできることは100%やらないといけない。それを邪魔するようなことは決してあってはいけない。
三田村さんの発言は正確で的を得ている。しかし私はそれでは物足りない。これは命の尊厳に対するあからさまな蔑視であり、女性よりもむしろ医療従事者にとって腹立たしい事件だ。
これはイラクやシリアで救急車に発砲するイスラム原理派と同じ行いだ。この行司はどう考えても救命活動を妨害している。不作為の刑事罰に相当する。「伝統」に対する意見の違いではない。強く言えば殺人幇助罪だ。そのまま手錠をはめられて警察に直行だ。

メディアの対応はあまりにも遅くあまりにも生ぬるい。少なくとも、メディアは「行司」の名を公表すべきだ。その瞬間においてこの「行司」に人権はない。最低でも角界に残る資格はない。スポーツの世界からは永久追放だ。相撲がスポーツ以下のクソ社会であるなら話は別だが。

ただしこれだけではあまりにも情報不足だ。相撲協会は当事者として情報を提示すべきだ。もしそれをしないのなら、行事の責任はすべて相撲協会の責任となる。

協会理事長は即刻辞任しなければならないだろうが、それ以前にNHKなどメディアも大相撲関連の報道を即刻中止しなければならない。

客の中から「女性を土俵に乗せるな」とのクレームが付いたために行司が対応したと言うが、この「強いものへのへつらい」も相撲の美しき伝統なのだろうか。それは相撲を国技にしてはならないことの証ではないか。

さらに言えばクレームをつけた「客」も名乗りを上げるべきではある。もし市長が死んでいれば、みずからの主張した「道義」について、「道義」的責任を真っ先に担うべきであるからだ。「相撲道の伝統のために死ね」と煽った以上、あなたは知らんぷりをしてはいけない。
眼の前に死にかけた人がいるのに、みずからは助けようともせずに、行司に「女を土俵に上げるな」と叫ぶ心情のおぞましさ、まさに人間のクズだ。人間の顔をした獣だ。私はそう思う。

「伝統のために死ね」と叫ぶ心は、「お国のために死ね」という心と通じているのではないだろうか。
私たちは「舞鶴」とか「興安丸」という言葉を聞いただけでも、引揚者の名が読み上げられるラジオが耳に響き、なにか胸がキュンとなる。それは、やつらに騙され、無数のいのちが失われ、救われ、平和といのちの大切さを教えてくれた言葉だ。
これを機にもう一度、「舞鶴」が生命の原点となってほしいものだと思う。

奥さんの訪問入浴が来るので、「どこか行かなきゃならない」と思って映画館の案内を見たら、おあつらえ向きの映画があった。
「羊の木」という題でまだ封切ったばかり。原作の山上たつひこというのが気に入った。不朽の名作「がきデカ」の作者である。その後まったく消息を聞かなかったのだが、生きていたのだ。彼の作ったものなら間違いないだろうと即断した。
「羊」というのがいかにも「羊たちの沈黙」を連想させる。2時間を超える映画でいささか胃にもたれるが、要所要所での迫力は満点だ。床屋のカミソリの場面と、トラックでひき殺すところ、そしてじわじわと忍び寄る恐怖は、この映画の醍醐味だといえなくもない。
ただし、ストーリー展開には強引なところがあって、6人の元受刑囚のキャラクターもごちゃごちゃとして書ききれていない。ヒロインは美人だが、ヒロインにふさわしい魅力がない。変なお化けめいた作り物は目障りだ。そんなこんなで素直に映画の世界に入りきれないのは残念だ。
私なら元受刑者を3人か4人に絞って、話を刈り込んで90分物にする。ヒロインは原作にはなく映画作成時に加えたらしいが、それがこの映画の災厄の根源になっているようだ。元ロッカーで故郷が嫌で東京におん出て、なぜか挫折して帰ってくる。それがまたなんの屈託もなくヘビメタを再開するというのがいかにも支離滅裂だ。ヘビメタは高校のブラスバンドではない。
この作品でヒロインは主人公ではないのだ。だからもっとキャラを単純化すべきだ。そもそも必然性のない存在だから消去してしまうのも方法だろう。
それにしても怪優北村一輝の存在感はすごいですね。松田龍平、市川実日子…聞いたことのない名前ばかりだが、みな存在感のある名役者だ。主役と言うか狂言回しの役者もみごとに善人に徹している。
これだけの役者を集めて、これだけの原作を受けて、これだけの“愚作”(駄作ではないが)が作れるというのも一種の才能なんでしょうかね。
羊の木1


1.「家族はつらいよ1」と熟年離婚
「家族はつらいよ2」 というのがあるのだ。
シリーズの1作目は正直、ちょっとつらかった。
きざったらしい言い方になるが、世相を切り取っていることはいるのだが、すくい取ってはいない。
団塊の世代のハシリとして抱えている問題、すなわち「熟年離婚」はそのまま提示されているのだが、山田監督の言いたいのは「そのまま直視せよ」ということなのだろうか。
そのままの姿としての「熟年離婚」は、現代日本における男性のエゴがいかにひどいかという問題でしかない。しかし私たちはそれを女性史的にも見ておく必要がある。
団塊の世代を通じて女性の権利にかかわる問題はずいぶん前進した。しかしまだ問題はたくさん残っている。それを「熟年離婚」の問題として突き出すのはいい。
しかし映画であるなら、もう少し問題解決型のスタイルで提示すべきではないだろうか。「麦秋」の原節子は、あのころの問題をあのころにふさわしい解決法で提示している。
2.「救いようのないジジイ」からの脱出
ということで、「家族はつらいよ1」はちょっと辛かった。橋爪功というじいさんの頑固ぶり、夜郎自大ぶりが、同世代としてあまりにも救いようがないからである。
率直に言えば、今の日本、若い人より我々のほうがはるかに進歩的で主体的で民主的だ。ただの頑固爺として描かれるような筋合いはない。
ただ、具体的な生活の現場で若い人たちが作り出す細やかな人情の世界を我々が見知って感動してきたかという点では、もっと反省すべきなのかもしれない。「知りもしないで戦後民主主義という型紙で若者を裁断しないでもらいたい」というメッセージであれば、もっと謙虚に我々は聞くべきではないのか。
それが第2作目になってようやく、キャラクターの住み分けが見えてきた。橋爪功のキャラはまだ練り上げられたとはいえないが、わが身の一部として共感できるようにはなりつつある。
これが共有できるようになると、もう一つの寅さんが出来上がっていくのかもしれない。
3.山田洋次の「団塊の世代」観
話がややこしくなってきた。結局「家族は辛いよ」という映画、シリーズは山田洋次監督の仕掛けた「団塊の世代」論なのだ。もちろん山田洋次は団塊世代ではない。戦後第一世代だ。そして寅さんは第2世代で、ここまでが山田洋次監督が共感できる世代だ。
そして戦後第三世代たる団塊世代に対しては、おそらく山田監督はずっと「いやな感じ」をいだきながら生きてきたのだろうと思う。
それが1作目から2作目に至る過程で結構浄化されている。寅さんに共通性を感じたように、このどうしようもない団塊の世代「若き老人たち」にもヒューマンとしての共通性を紡ぎ出そうとしている。
この柔らかさこそ私達が山田洋次監督から汲み取るものなのであろう。
この話は、一度真面目にやるべきものだろう。

日曜美術館という教育テレビの番組を見ていて、五嶋龍というバイオリニストに感心した。
アンドリュー・ワイエスの「クリスティーナの世界」という1枚の絵だけで番組一つ作ってしまうという、かなりのオタク番組である。
それはそれで良いのだが、そこにゲストとして参加した五嶋さんのコメントがなかなかよろしいのだ。
夜の再放送を酒を飲みながらの鑑賞だから、かなりうろ覚えだが、五嶋さんの感想の出発点が良い。
ネットにこの番組の紹介記事があったのでそこからコピーさせてもらう。
(ニューヨークの美術館でワイエスの絵を見て)地味だなと最初は思いました。しかし、数秒後にものすごい力強い絵だと思ったんです。印象がガラッと数秒の間に変わったんですが、…
というのが最初の言葉。
つまりこの絵は、ある意味で罠が仕掛けられているのだ。トリック絵画と言ってもいい。この頃のアメリカの「スーパーリアリズム絵画」にはみな、「絵本の挿絵」といったら良いのか、そういうところがある。
「クリスティーナ」における罠は言うまでもなく異様な手だ。異形と言ってもよい。
これに気づいたとき、鑑賞者は一気に絵の中に引き込まれ、クリスティーナの背中に吸い込まれるわけだ。
そのとき鑑賞者は大波に巻き込まれたみたいに、既視のものとの連関を失い、前後左右・天地がわからなくなる。
これを五嶋さんはこう表現する。
彼の芸術の素晴らしさというのは、見る人によって多分違うメッセージが出てくると思うのです。希望や力強さも感じますが、すごい絶望も感じます。こういう悪夢ってあるじゃないですか、目指すところにたどり着けない。でも、這っていくわけです。
後藤さんの素晴らしさは、最初無難な言葉を探しながら、「こういう悪夢ってあるじゃないですか」という表現に絵の本質を手繰り寄せたところにある。
そして五嶋さんの思いはさらに進んでいく。
アメリカって言うと…がんばれば成功したり裕福な生活を遅れるみたいなイメージがありますが、アメリカでの生活の現実というものをバラ色にせず、そのまま冷たく見せてるなと僕は思ったのです
結局、五嶋さんはこの絵をポジティブな絵だとは見ていない。おそらくこのままでは家までたどり着けないであろうクリスティーナの不安とあせり、それを見つめえぐり出していくワイエスの目の冷たさ…
ただしそうまで言われてしまうと話は身もフタもなくなるから、話題はもうひとりのコメンテーターによる背景説明に移っていく。

ただ、ワイエスの被写体を見るときの冷たさが、彼の心の冷たさなのかと言われるとそうとも言えない。

多くの左翼系・民衆系の作家はまず現実の告発から始まっている。そこには秘められた怒りがある。それがリアリズムという共通土台に乗らなければ共通語とはならないし、叙景の技にはアルチザンとしてのセンスも求められるわけだ。

五嶋さんはこのあたりの作業を次のようにすくい取る。
見えないものを描くにはいろいろなテクニックがあります。…表現したいものを控えめに表現することによって、聞いている側の人がもっと求める。
…音楽というものもそのまま伝えるのではなくて、聞いていただいてそこからまた世界が広がるようにすることが目的です…
ということで、アート的にはワイエスを高く評価するのである。
このあと五嶋さんは文明論、現代論もつまみ食いしていくが、この辺は正直のところピンとこない。
おそらくは長いコメントの中を切り取った言葉なのだろうが、最後の切れ端は余韻を残している。
彼のパワーは一瞬戸惑わせるところがあります。それって今の世代の持つハイペースな感覚の中では必要なのではないかと思います。

正直のところワイエスが20世紀アメリカを代表する画家かどうかについての議論はあると思う(例えばベン・シャーン)。さらに「クリスティーナ」でワイエスを代表すべきか否かについても議論は分かれるのではないだろうか。

しかし、随分勉強させてもらったことは感謝しなければならない。

正月を挟んで、グダグダとした日が続いている。

生活が落ち着かないせいもあって何かをまとめてやろうという気が起きない。

テレビの映画ばかり見ている。

A.「君の名は」

恥ずかしくて見に行けなかった「君の名は」が正月ということでテレビ初登場だ。

良い映画だった。しかしあまり記憶に残らないのはなぜだろう。作者の感じるリアリティと私の感じるリアリティのあいだに、かなりのギャップが出来上がってしまっている。

だからヒロインの苦しさとか悲しさとかがバーチャルなものとしてしてしか感じられない。これは世代問題なのだろうか? どうもそれだけではないように思えるが。

B.湯を沸かすほどの熱い愛

お風呂屋の映画の話は、このあいだしたよね。あの女優さんは良かったね。ビデオで取っておいて、ティッシュを用意して、夜中に一人で観た。

1.かなりカットしている。テレビ初登場というからには「ノーカット」でやってほしかった。2時間足らずの経過を伏線、伏線で積み上げていって、それで見せるのが映画だから、映画館で見た身には思い出がえぐられる思いだ。

2.うちの三菱のテレビは、内蔵ハードに絵を落として見るようになっているのだが、素で見るのとでは随分画質が変わってしまう。あっ、思い出した、宮沢りえちゃんだった! こんなにどぎつい絵でなく、普通に映してほしい。40歳の女性の肌が変にリアルだ。全然可愛くない。

ということで、「見なきゃよかった」篇。

それにもかかわらず、「君の名は」よりは1ランク上の映画だと、改めて思う。

C.「麦秋」

次はなんと言って良いのかわからない作品。晩春も東京物語もすでに見ているか、縁のない映画であった。

この映画は、それよりは遥かに食いつきが良い。外周りがしっかりと書き込まれているから、その分良く分かる。とくに「北鎌倉」という場所が昭和26年にどういう場所だったのかがしみじみと分かる。

もう一つは原節子がとてもきれいにチャーミングに描かれているから、小津映画がどうのこうのは関係なしにポカーンと原節子の顔だけ見ていて時間が過ぎていく。

とにかく登場人物がやたらに多いから、誰が誰とどういう関係なのかがわからないままに映画が終わってしまう。

あとで考えてみると、この映画には二人の謎の人物が登場する。

一人は淡島千景で、原節子の「お友達」として登場するのだが、全く無意味な登場人物なのである。

筋書きとしても全く無意味だのだが、それ以上に映画のキャラとして原節子とタイを張ること自体が無意味なのだ。

淡島千景という人は、銀幕界の歴史を飾るようなとてもきれいな人で、夫婦善哉などの演技は絶品である。

しかし原節子と並ばせたら可哀想だ。とくにこの映画の原節子は驚異的に美しい。これでは淡島千景はサラしものだ。

二人が裸足で鎌倉海岸の波打ち際を走るシーンは、当時としては“劣情を刺激した”に違いない。しかしこの映画の必然性から言えば原節子が一人で走れば良いのであって、淡島千景を一緒に走らせる必要はサラサラない。残酷だ。

ちょっと余談。

昭和26年という世相を知らない人が、彼女たちの暮らしをさも同情できるかのように書いているが、冗談ではない。それは雲の上の、サブ貴族層の、GHQに近い人々の生活であって、想像もできないような暮らしであって、したがって同情などしようもないのである。

私の母親は多分東京大好き人間だった。大正8年生まれだから原節子よりちょっと若いのかな。静岡にも文化はあったが、東京には東京にしかない文化があった。たとえ戦争で荒れ果てたとしても、そうなのだ。

よくリテラシーという言葉を使う。東京にある文化リテラシーは眩しいものだけれども、静岡のような田舎で暮らしていて、東京にはもう一つ上の文化があるというのを知っているだけでも、一つのリテラシーなのだ。ほとんどの人はそんなことなど知らずに一生を終えていた。

母親は私をダシにして東京に出かけた。静岡から鈍行列車で6,7時間だったろうか。私は駅の名前が全部言えた。私は胎内の時から染まった東京グルイだった。

大船の駅で、私の目はきらめいた。そこには湘南電車とは違うクリーム色と青のツートーンカラーの電車が並んでいた。それほど鮮やかではなかったが、そこにはお金とステータスの臭がした。

話が長くなった。

わたしたち田舎者、すなわち99%の日本人にとって小津映画は決して庶民感情を細やかに描き出したものではなかった。「雲上人でも我々と同じような悩みを持っていたりするんだなぁ」とダマしこむためのメディア・ツールでしかなかった。

そう思って小津映画を見たら良い。多少の楽しさも湧こうというものだ。

D.DESTINY 鎌倉ものがたり

本日映画館で見てきた。できたての映画らしい。マップ絵なのかCGなのか知らないが、黄泉の世界の描写は立派なもの。

ただ、「千と千尋」の向こうを張ったもののようだが、レベルが一段違う。映画の筋そのものも「3丁目の夕日」レベルで、インスピレーションには乏しい。

そこそこ楽しめる映画であって、家族揃っての映画見物にはきわめて良いと思う。


宮沢りえの『湯を沸かすほどの熱い愛』がテレビで放映されるようです。 20日水曜日の昼にテレビ東京系でやるそうですから、ぜひ録画をしてはいかがでしょうか。大してたくさん見ているわけじゃありませんが、ワタシ的には今年最高の映画です。 注意! 一人で見ること、首にタオルを巻いておくとよい。 宮沢りえというのは本当に映画俳優ですね。普通の人ではないんです。原節子みたいですね。 多分テレビで見てもそれほど感激しないと思います。暗闇の中で銀幕に浮かび上がると最高のキャパを発揮する人です。 「必見」と言いながら変な話になってしまいましたが、映画というのは「盗み撮り防止」の動画とセットで見るものだということです。

「幸せの黄色いハンカチ」の展示を見ていて、ふと説明文に吸い込まれた。

「この映画は典型的なロード・ムービーである」

「あぁそうか」と一応は納得したが、何か喉に引っかかる。単純にそうは言えないのではないか? とも思う。回想シーンが頻繁に挿入されるし、武田鉄矢と桃井かおりの二人の成り行きは、むしろ狂言役による幕間劇ともとれる。

よく考えてみれば、なかなかに複雑な構成なのだ。

ロードムービーってなんだろうと考えているうちに、「母をたずねて三千里」を思い出した。

これぞ、ロードムービーではないか。

もちろん私はアニメ世代ではないから、アニメ版「母をたずねて三千里」の中味は知らない。

多分、子供の頃に絵本でまず接して、大きくなってから「クオレ」を読んで、「あれっ、これって『母をたずねて三千里』そのままじゃん」と気づいたときである。

クオレは子供のときに買ってもらった(と言うか押し付けられた)「世界少年少女文学全集」の一冊である。

当然そんなものは読まない。書棚に並んでいるのを見ただけでゲップが出る。

それがどういう拍子か高校時代にたまたま手にしてしまった。ボロボロ涙を流しながら読んだ覚えがある。

『母をたずねて三千里』もかわいそうな少年の話ではなく、「男はどう生きるべきか」みたいな感じで受け止めた。

だいたいクオレというのは、サルジニア王国を中心にイタリアを統一した直後の話で、「愛国主義美談」の濃厚な本だ。

政治意識が芽生え始めた高校生にとっては、もろに琴線に触れるわけで、自分の思想的と言うか心情的なバックボーンの一部になっているような気がする。


青空文庫でその「母をたずねて三千里」が読める。やはりクオレの一挿話を抄出して一編の童話にしたもののようだ。

ウィキでは、もっぱらアニメについての講釈が展開されるが、長い連載モノにするために相当脚色が加えられているようだ。

多分そのほうがよいだろう。ちょっと原作だけではゴツゴツと『事実』が並べ立てられていて、人物像の膨らませ方が足りないと思う。(それがある意味ではドキュメンタリーっぽさを引き出しているとも言えるが)


アカデミー賞というのにつられて「セールスマン」という映画を見た。途中から抜け出したくなる感覚を抑えながらの2時間であった。
映画の拠って立つ日常生活の過程への漠然とした違和感とともに、ザラッとした後味が残る。
劇の展開よりも、主人公たる男性の心が犯人への怒りと、前の住人(おそらく売春婦)への八つ当たり、妻へのそこはかとない疑惑を抱えながら、「私刑」へと人格を崩壊させていく過程を描いているのだが、それを描くことにどんな意味があるのか、どういう意味をもたせようとしているのかが分からない。
「復讐」という病的心理過程のダイナミクスは、それはそれとして正面から取り上げるべきでろうと思う。下手なサスペンスじかけにしたら、かえって人を混乱させるだけではないか。
アカデミー賞はこの監督の過去の業績に対して送られたのかもしれない。
映画というのはかなり訴求力の強い媒体なだけに、作品そのものに筋が通っていないと、観衆を混乱におとしいれるだけのものになってしまう。
「性犯罪と復讐」というのはイスラムでなくてもどこにでもある事件である。インドならいまでも日常茶飯事だ。作者には、ガルシア・マルケスのように、それを時代の流れに位置づける俯瞰の立場をもとめたい。そうすれば「セールスマンの死」とも重なるのではないか。


滝平二郎の展覧会をまだ語っていない。

実は、この日まで、滝平二郎はどう読むのか知らなかった。滝さんなのか滝平さんなのかもわからなかった。

皆さんわかりますか。この人は滝さんでもタキヒラさんでもなく、タキダイラさんなんです。


もちろん目玉は朝日新聞に連り絵」の連作であるが、「滝平の真骨頂はその前にあった」、ということがわかった。この人は「漫画家」だ。絵描きにしては語るべきストーリーが有りすぎる。版画家にしては色彩への欲がありすぎる。だから芸術家の範疇にとどまれない、だから漫画家になるのだ。

「切り絵」の方は「あぁ、きれいだね」というくらいのもので、それでも十分目の保養にはなるのだが、例えば宮﨑駿などの原画展と比べてとくに出色というわけではない。

ということで、とにかく圧倒されるのは初期の「戦争敗走記」という連作。

どれもすごいのだが、とくにこれは食いつかれる感じがする。皆さん、展覧会に行ったら逆回りした方がいいです。とにかく最初から疲れちゃう。
猿

「猿」と題されている。

おそらく自画像(24歳の)であろう。

異形である。人間とは思えない凄まじい形相であるが、眼は完璧なまでに虚ろである。「失感情」よりもっと高度の「失外套」に近い状況だ。この状態で突かれたり切られたり撃たれたりしても、あるいは食われても、苦しみの表情さえ浮かべることなく死んでいくだろうと思われる。しかしその前に、およばずとも噛み付くくらいはするかもしれない。

大岡昇平の「俘虜記」にも「猿」の話が出てくる。人肉を「猿」と称して食う話である。本当に猿と思ったのかもしれない。


滝平は1921年生まれ、新進の版画家として活動を始めた42年(昭和17年)に召集された。最後の任地が沖縄だった。

滝平の手記「山中彷徨」から引用する。

硫黄島玉砕、東京大空襲―あれよあれよという間に、米軍機動部隊が私たちの沖縄本島をとり囲んだ。

およそ1週間の間断ない砲爆撃の後、こともあろうに私の誕生日の4月1日に米軍が上陸した。

6月の終わりに沖縄守備軍玉砕。そのことも知らずに私は、なおも山中を逃げ回った。疲労の果てに仲間からはぐれてしまってからも、一人ぼっちで彷徨い続けた。

奥深い山中の、小さな泉のほとりには、たいてい誰かが仰向けに寝て落命していた。

…いきなり鳥の大群が不気味に鳴いて飛び立ったあとに、兵隊服の白骨が散乱している光景にも、しばしば出会った。

…それは、一匹の虫けらのように自分が縮んでいく瞬間でもあった。

…昼間は何よりもひと目を恐れた。たえず誰かに見つかりはしまいかと落ちつかなかった。

なるべく深い繁みをえらんで、その下に身を横たえて時たま通過する米軍機の音をぼんやりきいていたとき、とつぜん頭上の木の枝を、薄緑色の尻尾の長い動物が、梢の方へつつっと走って、ゆっくり首をまわして私を見おろした。大きな目が「見つけたぞ!」というように私を直視していた。

私はバネ仕掛けのように飛び起きて逃げ出した。あの小動物がなんであったか、今もってはっきりしない。

雨上がりの赤土の小道を握りこぶしほどの亀の子がゆっくり歩いていた。はっとたじろいだ私の目の前で、みるみるうちにひと抱えもある怪物のように大きくなった。太いしわしわの首を伸ばして、じろっと私を見た。私は奇声をあげて土くれと言わず石くれといわず怪物めがけて投げ続けた。

…こうなると、一人芝居も凄愴味を帯びて私は完全なノイローゼになっていた。

8月3日の夜半、生け捕られて俘虜となった時は、もうすっかり癒えていた。


「もうすっかり癒えていた」と言うが、この絵を見ると明らかに「癒える」どころかさらにひどい状態に陥っている。

その表情は、前頭葉への回路を完全に遮断した状況を示している。考えることを止め、感じることもやめ、無理やり脳を冬眠状態に陥れることによって、かろうじて心のバランスを取り戻したのだ、そうやって大脳機能を守ったのだ、と察する。

「反省だけなら猿でもできる」と言うが、この状態ではそれも出来なかったろう。つまり「猿以下」だ。

それにしては、釈放後1年でこれだけの絵をかけるのだから、この人はとんでもなく丈夫な神経をしている。

向き合ううち、この絵から怒りが噴き出していることに気づく。滝平さんは怒りの感情が溢れてくるから、この絵がかけたのだと思う。
許せないから、尋常の生理的反応に逆らって記憶の回路をこじ開け、凄惨な体験を呼び起こし、この凄まじい作品を残さずにはいられなかったのだろう。

手記の最後はこう締めくくられている。

戦争体験は、それを語る人の思想によって、さまざまに形を変え、命を吹き込まれて伝えられる。

私には、悲惨さ以外に伝えるものは何もない。

絵もすごいが、文章も隙きがない名文だ。表現は控えめだが、間然としたところはない。なんとかこれを「紙芝居」に出来ないだろうか。



以前、昭和8年2月21日の動きを時刻表にしたことがあり、探したが、どこやらわからぬ。いろいろ探して、ここにあるのを発見した。

2月20日

正午 多喜二、赤坂で街頭連絡中に捕らえられ、築地署に連行きれる。

午後5時 多喜二、“取調中に急変”。署の近くの前田病院の往診を仰ぐ。(江口によれば午後4時ころ死亡)

午後7時 前田病院に収容したが既に死亡していることが確認される。“心蔵マヒで絶命”とされる。

2月21日

正午ころ 東京検事局が前田病院に出張検視し、死亡を確認。

午後3時 警視庁と検事局、「多喜二が心臓マヒにより死亡した」と発表。ラジオの臨時ニュースと各紙夕刊で報じられた。ラジオ放送の直後に動いた人々は…

築地署: 大宅壮一、貴司山治、笹本が築地署にいち早く駆けつけ、当局との交渉にあたる。

前田病院: 築地小劇場で事件を知った原泉が前田病院にかけつけた。「遺体に会わせろ」ともとめた。警察は面会を拒否し、原とはげしくもみ合う。警察が拘束の動きを見せたため、大宅壮一と貴司山治が仲裁に入る。救出された原泉と大宅らは築地小劇場を基地とし、各関係者と連絡を取る。

馬橋: 多喜二の母セキは杉並区馬橋の自宅にいた。ラジオを聞いた隣家の主婦から知らされた。セキは預かっていた二歳の孫(多喜二の姉の子)をネンネコでおぶると、築地署へかけつけた。

夕方 セキが築地署に到着。この時遺体は署の近くの前田病院に安置されていた。当初、警察はセキを二階の特高室に閉じ込め、なかなか会わそうとしなかった。

夕方 

都内各所に夕刊が配達される。配達の直後に動いた人々は…

築地署: 青柳盛雄弁護士らが築地署に赴き、遺体の引渡しを要求。さらに連絡を受けた安田徳太郎医師がやってきて警察と交渉。

馬橋: 江口は吉祥寺の自宅にいて、配達された夕刊で多喜二の死を知った。大宅壮一からの電話があり、「馬橋のセキさんを伴れて築地署へ来い」と言われた。ただちに馬橋に向かうが留守のため、阿佐ヶ谷から省線でそのまま築地署に向かう。

百合子グループ: 上落合の中条百合子宅で窪川稲子も同席して夕食の最中、夕刊で事件を知った。推測では、東中野在住の壺井栄と連絡を取り、中央線中野駅で集結し阿佐ヶ谷に向かったものと思われる。

当初の記載で、中条家を下落合としていたが、上落合の間違い。土地勘がなくて誤解していたが、上落合というのは西武線の下落合とはだいぶ離れていて、どちらかと言えば中央線の東中野に近い。したがって歩いて東中野に出るのがもっとも早い。

午後9時

築地: 在京中の秋田の親戚の小林さんが築地署に駆けつける。彼が身元引受人となり、遺体の引き取りが決まる。

推測だが、三吾はこの時点で行方がつかめなかったのではないか。遺体の引き取りには身元引受人が必要であり、それには戸主(男性)であることがもとめられていたのかもしれない。そこで弁護士がセキから根掘り葉掘り聞いて、秋田の親類を見つけ出したと考えられる。

午後9時30分 孫をおぶったセキが特高室を出され、前田病院で遺体と対面。この時セキと同行したのは、作家同盟の佐々木孝丸、江口渙、大宅壮一。青柳盛雄ら3人の弁護士。医師の安田徳太郎。

午後9時40分  大宅らの雇った寝台車が。遺体とセキ+孫、親戚の小林さんを載せ前田病院を出発。

午後9時40分 江口らがタクシーで寝台車の後を追った。同乗者は藤川美代子、安田博士、染谷ら4人。

午後10時

百合子グループ: 阿佐ヶ谷に着いた3人は、若杉鳥子(窪川は「同盟員」と書いている)の家に落ち着いて情報収集にあたった。前田病院から、すでに寝台車が出発したとの情報を受け、多喜二宅に向かう。

稲子は「すでに多喜二宅前には10人ほどが集まっていた」と書いてあるから、そちらにも視察に行ったのであろう。鳥子家を利用するという「良案」を誰が考え出したのかは不明。
前田病院に電話したのは稲子で、彼女はわざわざ西武線の沿線(鷺ノ宮駅?)まで行って街頭から電話したという。警察の張り込みを避けての行動かもしれない。
「すでに出た」というからには、その電話は早くとも9時40分過ぎのことであろう。もしそれが10時と仮定すれば、それから歩いて鳥子家まで戻るのに30分は見なくてはならないから、それから多喜二宅に向かうとすれば、到着は10時40分ころということになる。

10時ころ 遺体が小林家に到着した。ほぼ同時に江口、安田らのタクシーも到着。小林家では近親や友人達が遺体を待ち受けていた。

出発及び到着時刻は川西の記載によるものであるが、築地から阿佐ヶ谷までわずか20分で着くとは到底思えない。築地の時間が正確だとすれば、到着は早くとも10時30分ころと思われる。

小坂多喜子: 小坂多喜子と夫の上野壮夫は車に僅かに遅れて到着した。(小坂多喜子の回想)

どこからか連絡があって、いま小林多喜二の死体が戻ってくるという。
息せききって…走っている時、幌をかけ た不気味な大きな自動車が私たちを追い越していった。…あの車に多喜二がいる、そのことを直感的に知った。
私たちはその車のあとを必死に追いかけていく。 車は両側の檜葉の垣根のある、行き止まりの露地の手前で止まっていた。奥に面した一間に小林多喜二がもはや布団のなかに寝かされていた

小坂と上野
        小坂と上野

セキの「ああ、いたましい…」のシーンがあった後、セキが服を脱がせ安田が検視を開始する。

午後11時

午後11時 百合子グループが多喜二宅に到着。以下、稲子の文章を長めに引用する。

我々六人(内訳不明) は阿佐ヶ谷馬橋の小林の家に急ぐ。家近くなると、私は思わず駆け出した。
玄関を上がると左手の八畳の部屋の床の間の前に、蒲団の上に多喜二は横たえられていた。江口渙が唐紙を開けてうなづいた。
我々はそばへよった。安田博士が丁度小林の衣類を脱がせているところであった。
お母さんがうなるように声を上げ、涙を流したまま小林のシャツを脱がせていた。中条はそれを手伝いながらお母さんに声をかけた。

午後11時 安田医師の死体検案開始。検視の介助には窪川稲子と中条百合子があたる。検視の後、壺井栄らが遺体を清拭した。

死体検案は当事者には長く感じるが、見るポイントは決まっていて意外に短時間で終わる。すでに死後24時間を経過していれば、筋の緊張は緩み仏顔になってくる。死後硬直は取れ扱いは容易だが、出血と脱糞の匂いは相当強烈で、清拭が骨折りであろう。それでも前後15分もあれば片付く。

闇の中の1時間

このあと約1時間のあいだの経過は、まったく私の推論だ。

11時30分 百合子グループと安田医師が多喜二宅を出る。江口によれば、この間に多くの人が駆け込んできた。(このあたり江口の記憶はごちゃごちゃになっている)

おそらく安田医師が帰ると言ったのに、「それじゃ私たちも」と同行することになったのではないか。医師は明日の仕事があるのと、基本的には診察先に長くいたくはないという真理が働く。女性たちにも子供のことやら家のことやら明日のことやら、いろいろ事情があるものだ。何れにせよ稲子の「午前2時」は間違いなく誤解だ。

11時30分 百合子グルームが多喜二宅を離れて間もなく、ふじ子が駆け込んでくる。この後、多喜子の文章の「愁嘆場」が出現する。

ふじ子は築地小劇場を訪れて、原泉に「多喜二の妻です」と打ち明け多喜二の遺体にひと目会いたいと懇願した。これは多喜二の遺体を送り出した9時40分以後のこと、おそらく午後10時頃のことである。
その時まで4時間のあいだ、ふじ子には、行くべきかどうか逡巡する時間もあったろうし、築地署前の群衆に紛れて右往左往していた時間もあったろう。
原泉はこの「女優」に見覚えがあって、「女の勘」が働いて、瞬時に事情を察した。そしてこれから多喜二宅に向かうという新聞記者を見つけ同行させた。クルマに乗ること1時間ちょっと、登場時間としては妥当である。

12時頃 江口の文章の「接吻の場面」が登場。まもなくふじ子は多喜二宅を退去する。(小坂多喜子は「いつの間にかいなくなった」と表現している)

恋猫の 一途 人影 眼に入れず
ボロボロの 身を投げ出しぬ 恋の猫

12時頃 稲子の文章によれば、「…踏み切りの向うで自動車が止まり、降りた貴司や、原泉子や、千田是也などと行き合った」

当時の阿佐ヶ谷駅は正面が北口で、多喜二宅からはいったん踏切を渡って線路の北側に出なければならなかったのだろうと思う。
一方築地小劇場組は、怪しまれないように踏切の北側で降りて歩くことにしたのだろう。原泉とふじ子は、論理的にはどこかで交錯しているはずである。ふじ子が避けたか、原泉が沈黙を守ったかのいずれであろう。

2月22日

午前0時 千田是也, 岡本唐貴、原泉らが多喜二宅に到着。 「時事新報」 社のカメラマンが多喜二の丸裸の写真をとり、佐土(国木田)が多喜二のデス ・ マスクをとった。岡本唐貴が8号でスケッチを描いた。(時事新報の写真撮影はもっと前、検視時だと思う)

デスマスクについては、築地小劇場組の一小隊が別行動で動いたらしい。佐土という人はデスマスクの専門家だが、活動家ではない。彼に依頼して材料の石膏を仕入れるのにずいぶん時間を食ったという情報もある。

午前1時 小林家の6畳の書斎で人々は遺体を囲んだ。この時貴司山治により2枚の写真が撮られた。この後の記録はないので、写真撮影の後まもなく解散したのだろうと思う。

ひょっとすると1マイメノ写真を撮った直後に三吾が現れたのかもしれない。2枚の写真はそういうストーリーを感じさせる。

江口によれば以下の如し。
多喜二宅で葬式の手順が話し合われた。告別式は翌日午後一時から三時まで。全体的な責任者江口渙、財政責任者淀野隆三、プロット代表世話役佐々木孝丸となる。
「通夜の第一夜は何時か寒む寒むと明け放れていた」

午後1時 告別式。会葬しよう と した32名が拘束される。若杉鳥子も捕らえられる。この結果、セキ、三吾、姉佐藤夫妻、江口と佐々木孝丸だけで葬儀を執り行う。

ということで、

貴志山治の2枚の写真をもう一度見返す。

伊藤さんの読み込みについては、まず後列の女性が窪川稲子ではありえないことが指摘される。

もう一つは2枚の写真の前後関係である。二つの写真は明らかなライティングの違いがある。

成功作は天井からのライティングであたかも電球が照らすように映し出されている。

これに対し失敗作ではライトは横向きに当てられ、光源が近すぎるために多喜二の顔はハレーションを起こしてしまっている。

率直に言えば、「決め写真」ではなく、ついでに撮った写真ということになるだろう。

なぜついでに撮ったかといえば、三吾とセキが入ってきたからだ。

画面右側の人物群はほとんど動いていない。真ん中に三吾とセキが割り込んだ。

しかし入りこんだのはそれだけではない。サンゴを割り込ませた江口の後ろに男女一人ずつ、そして左端には小父さんと小母さんが入っている。右端にも男性二人が入った。

カメラの位置は5,6センチ低くなり近接している。山田清三郎と千田是也は視界から外れてしまった。

この新たに入った4人に関して、情報を発見した。

川西政明さんの「新・日本文壇史」という本の第4巻に、1933年2月20日の動きについてかなり詳しく触れられている。

この中で遺骸の引き取りの経緯が初めてわかった。

6時にはすでにセキは築地署につき小谷特高主任から経過説明を受けている。なのに遺体に会わそうともしないし、引き取りも認めない。

おそらく理由はセキが戸主ではないからであろう。そして戸主たる三吾はなかなか連絡が取れない。

なんだかんだと時間が過ぎていくうちに、セキは秋田の小林の親戚が上京中であることに気づいた。

この小林さんが9時近くに築地署に着き、ようやく引き取りが決まったのである。

セキは前田病院に入り遺体と対面。その後、寝台車で馬橋の自宅に向かうことになる。寝台車に乗ったのはセキ(と背中の孫)、親戚の小林さん。随走するタクシーに江口と安田医師らである。

おそらくこのちょび髭は秋田の親戚の「小林さん」であろう。この人と江口はすでに式服に着替えている。

とすれば、田口たきと比定された女性はその妻の可能性が高い。そして江口の後ろに割り込んだ男女が姉夫婦ということになるのではないか。

そして、三吾さんが到着したのを機に、今にいた親戚が揃って遺体とあらためてご対面したところなのだろうと思う。

三吾さんがなぜこんなに遅くなったのか(おそらく12時を回った時刻)は不明である。

なお、おなじ川西政明さんの本にはその夜の参加者が列記されている。

このうち写真で特定できているのが

岡本唐貴、池田寿夫、岩松淳、立野信之、田辺耕一郎、原泉、鹿地亘、山田清三郎、千田是也、それに直接自宅から来た上野杜夫と小坂多喜子。それに撮影者の貴志山治である。

この他に本庄陸男、川口、千田、淀野、大宅壮一、笹本、佐々木孝丸の名が挙げられている。

ただし大宅、笹本は築地署には現れているが、馬橋まで行ったかどうかは不明。

稲子らはいつ帰ったか。

午前2時は論外だが、ではいつ帰ったのかということで、一つの仮説として省線の終電時刻を考えてみた。

稲子は子供を置きっぱなしにしている。翌日は収監中の夫、鶴次郎と面接がある。もちろん面接のとき、監視の目をかいくぐってなんとか他記事虐殺の報を伝えたいから、行かない訳にはいかない。

一行は安田徳太郎を入れて4人だから、阿佐ヶ谷から円タクで相乗りして帰るという方法もないではない。しかし終電で帰れるなら帰りたいのが人情ではないだろうか。

そこでネットで当時の終電の時間を調べてみた。

格好の解説があった。

2015年12月22日付の東洋経済オンラインの記事

JR中央線の「終電時刻」は、どうして遅いのか
昔はもっと遅かった「深夜の足」の意外な歴史

というもの。著者は小佐野記者。

東京ネタだから、札幌の人間にはどうでも良いことだが、現地の人間には面白いだろう。

中央線の終電時刻はなぜ遅いのか。

「特に遅くできる理由があるわけではなく、ご利用されるお客様が多いため」だそうだ。

中央線が遅くまで走るようになったのはいつからなのだろうか。

1934(昭和9)年12月の時刻表を見てみると、最終電車の新宿発は午後11時50分となっている。

ただし、これは浅川(現高尾)行の話で、立川行きは午前0時52分、三鷹行きは午前1時8分、中野行きはなんと午前1時27分まであった。

近距離でいえば、戦前のほうが今よりも遅かったことになる。

理由は、当時は鉄道以外の交通手段、要するに車が少なかったからではないかと記者は推測している。


稲子らの電車は逆方向になるので、本数は少ないにしても同じ時刻くらいまでは走っていたと思われる。。

三鷹発の電車が午前1時頃に阿佐ヶ谷に停まる。これに乗れば東中野、さらに上落合に帰ることは可能なのだ。

実際には終電よりももっと前、11時半ころには家を出たと思われる。

女性陣の介助のもとに安田医師の検屍が行われ、写真が撮影された。その後湯かんして服を着替え、書斎に安置した。そこには稲子の描写した如く10人ほどがすでに集まっていた。

どうしようかと思案してたところに、安田医師が帰るというので、「それでは私たちも」ということになったのではないか。だからもっと早いのかもしれない。

ただ、江口渙の「十一時近くになると、多喜二のまくらもとに残ったのは彼女と私だけになる」という時刻はやや早すぎる印象がある。

それにしても、彼女たちの帰った時刻とふじ子の来訪は、本当に一足違いだったようだ。

そして、阿佐ヶ谷駅近くの踏切で彼女たちと入れ違った「同盟」の一団が多喜二宅に到着したとき、すでに彼女の姿はなかった。

本当に、“恋の猫、ふじ子の接吻”は江口渙のみが居合わせた、奇跡的な時空間だったのだ。(江口の創作でなければの話だが…)

連休前に、図書館に行って現物にあたった。それで書いたのが下の記事だ。

本日は、佐多稲子の「2月20日のあと」だ。全集の第1巻にふくまれている。ただし執筆当時は窪川を名乗っていた。
これが、前から一番気になっていた文献だ。
気になるのは2点、
1.稲子らが多喜二宅を辞したのが午前2時ということ。そんなに遅くまでいたはずがない。
2.ふじ子についての記載がまったくないこと。これは書きたくないから伏せたのか、知らなかったのか、ということが判断できない。
この2点とも、原文を読んでもわからないだろうと思っていたが、やはり全文を読んでみないと雰囲気はわからない。
それに加え、紹介した文章に書き漏らした事実の中に何か隠されているものはないだろうか、というのも気になる。
ということで、読み始めた。

稲子はいつ多喜二の死を知ったのか
これは時刻として正確には記載されていないが、おそらく午後6時ちょっと前のことではないだろうかと推察される。
当時、稲子は中央線東中野駅の近くに住んでいたらしい。しかしその時は自宅にはおらず、上落合の中条百合子家にいた。(土地勘がなくて誤解していたが、上落合というのは西武線の下落合とはだいぶ離れていて、どちらかと言えば中央線の東中野に近い)
稲子は中条家で晩飯をゴチになるつもりでいた。
その時、中条家の誰かが着いたばかりの夕刊を読んで、「多喜二死す」の報を知った。
すでにラジオでは4時のニュースで事件が報道されていたが、稲子も百合子もそのことは知らずにいた。仲間からの連絡もなかったようだ。
この状況については、細部の記載までふくめて正確だろうと思われる。裏返すと、それからあとの記載については、秘匿されたか記憶が曖昧なのか分からないが、断片的になってくる。大脳生理というのはそういうものかもしれない。
多喜二宅に入るに至る経過
文章は、ここから先は相当曖昧だ。このあと推理を相当膨らませなければならなくなる。
稲子は百合子とともに家を出て馬橋の多喜二宅に向かう。
経路は不明だが、おそらく歩いて東中野まで出て、中央線に乗ったのだろうと思う。
途中で一人の女性と合流して三人になる。名前が伏せられているが、これはおそらく壺井栄であろう。栄も東中野近辺に住んでいたようだ。
三人は阿佐ヶ谷の「同盟員」の家に入った。
これは若杉鳥子のことであろう。
鳥子については下記の記事を参照されたい。(2012年05月10日
若杉邸での情報収集
多喜二宅はがら空き状態だったから、百合子、稲子、栄は鳥子の家を拠点として情報収集にあたったのであろう。
鳥子の夫は庶子とはいえ備中松山藩主板倉子爵の血を引いている。それなりのお屋敷であったはずである。
しかし防衛上の理由であろうか、稲子は西武線沿線の街頭電話から築地署や前田病院に電話して情報を収集した(と書かれている)。

阿佐ヶ谷から鷺ノ宮辺りまでカラコロと歩いたことになるが、集まったメンバーから見れば、稲子がこういう「パシリ」的役回りになるのは当然のことであろう。

この辺から、稲子の記憶は曖昧になってくる。「すでに10人近く集まっていた。まだ遺体到着せず」という記載があるが、これは多喜二宅の状況であろう。鳥子邸に10人も人が集まるわけがない。

多喜二宅に向かう

稲子の文章によれば、いろいろ電話した挙句、前田病院の看護婦から、多喜二の遺体がすでに病院を出て自宅に向かったことを知る。他の情報から推しはかると、これは午後9時頃のことであろうと思われる。それから急いで鳥子邸に向かうが、女の夜道だ。到着するのにどう見ても30分はかかる。

ここから先は、文章はさらりとしてほとんど時間の糊しろがないようになっているが、実際には相当の時間が経過しているはずだ。

それから4人で協議して、鳥子は残る、他の3人は多喜二宅に向かうと決めて家を出る。若杉邸から多喜二宅まではさほど遠くはない。間近と言ってもよい。

稲子によれば、

それからみんなで自宅へ向かう。そこにはすでに江口がいた。そのとき母が多喜二の服を脱がせていた。

ということになる。

これで午後10時位で、みんなの時計が合うことになる。

稲子の文章には時計がない

ということで、稲子の文章には時計がない。他の証言と照らし合わせることによって初めて稲子の行動がわかるという仕掛けになっている。

稲子は、行動するにあたって脳内時計とか絶対時間を持たない“時刻音痴”人間なのだ。良く言えば、徹底した現場型、実践優位型人間なのだ。

なのに多喜二宅を退去した「夜中の2時」という時刻だけが、突如、確定的に出現する。これは後着組の話に影響されて、あとから刷り込まれたものではないだろうか。

方向音痴の人に道を聞くことが無駄であるのと同様、時刻音痴の人に時刻を聞くのも無駄である。このことは念頭に置くべきだろう。


図書館というのはすごいところで、澤地久枝の「昭和史のおんな」を頼んだら5分で出てきました。

実物を拝むのは初めてです。

さまざまな題材がずいぶん広く深く扱われていて、さすがプロはすごいなと思いました。

この本では16人の「昭和史のおんな」がとりあげられ、ふじ子はその中のひとりに過ぎません。

それでも、ざっと読むのに1時間かかりました。中身がそれだけぎっしりと詰まっているのです。

これだけでも十分な情報量があるので、結局これからの作業はこの本の落穂ひろいみたいなことになるのではないでしょうか。

とりあえず、メモしたところを文章に起こしておきます。

題名と内容の乖離

表題は「小林多喜二への愛

副題というかリードとして、以下のように書かれている。

戦後、歴史論争を呼んだ「党生活者」の笠原のモデル・伊藤ふじ子の歩んだ70年の歳月

ただし、この“センセーショナル”な題名にもかかわらず、その後の文章の中で、澤地は伊藤ふじ子は「ハウスキーパー笠原」ではなかったことを証明している。

伊藤ふじ子の死

伊藤ふじ子は昭和56年4月26日、自宅で突然死した。激しい頭痛を訴えた後意識がなくなり、そのまま帰らぬ人となった。享年70歳、今日から考えれば比較的若い死であった。

澤地はふじ子の死を伝える2つの訃報を紹介している。

赤旗の訃報

戦前、治安維持法下の特高警察の過酷な弾圧の下、貧困と闘いながら、作家・小林多喜二の創作活動を献身的に支えました…

北海道新聞の訃報

旧姓は伊藤ふじ子。昭和8年、小林多喜二が中央公論に発表した、地下生活を描いたとされる「党生活者」にハウスキーパーとして登場。これをめぐり「伊藤は小林多喜二の妻であった」とする日本共産党と、「ハウスキーパーだった」とする平野謙氏ら評論家グループが歴史論争したことがある…

平野の党攻撃とふじ子の躊躇

そこで出て来る「平野謙氏ら評論家グループ」という人たちの言い分が紹介されている。

「新潮」という雑誌の昭和21年10月号に掲載されたものらしい。

目的のために手段を選ばぬ人間蔑視が、「伊藤」という女性との見よがし的な対比のもとに、運動の名において平然と肯定されている。そこには作者のひとかけらの苦悶さえ浮かんでこない。

これは「党生活者」という小説中で、地下活動家の偽装妻となった「笠原」という表象への「文学」的批判などであるが、これが伊藤ふじ子と重ね合わされて北海道新聞の「訃報」へとつながっていくわけだ。

戦後、伊藤ふじ子の内心は、こういう「下衆の勘ぐり」によって苦しめられたであろう。

ふじ子の死の少し前、澤地は夫の森熊氏を通じて直接取材を申し込んでいる。

森熊氏は結局これを拒否した。

老女に50年前のショックを思い出させることは、いささか残酷なような気もするわけです。

というのが理由である。「50年前のショック」ということばに万感の思いが込められているようだ。

浮かび上がる等身大のふじ子像

澤地は森熊氏をふくむ周辺の人々から聞き取りを行うことによって、ふじ子という人物をあぶり出していく。それはふじ子の等身大の全体を知るには、むしろ好ましい方法であったかもしれない。

取材によって、「笠原」とは別の存在である「伊藤ふじ子」が少しづつ姿を見せ始めた。

それは澤地にとって意外とも言える人物像であった。そのあたりの気持ちを澤地は正直に吐露している。

仮説などという言葉は適当ではないかもしれないが、伊藤ふじ子は「笠原」のモデルであるよりも、むしろ「伊藤」のモデルだったのではないか。

おっしゃるとおり、適当ではないが、実感としてはよく分かる。

いくつかの証言は本人を彷彿とさせる貴重なものであり、その一部はこれまでも紹介してきた。

それ以外のところから2つほど。

高野といえば、多喜二からのラブレターを盗み読みして、あまつさえコピーしたふてぇ古本屋だが、戦後高野と会ったふじ子がこう語っている。

高野ちゃん、苦しくって死のうと思っていたのを彼(猪熊)に救われたのよ

(良いですね、こういうちょっととっぽい山の手弁。こういうセリフを聞いただけで道産子は夢中になる)

もう一つはちょっと若い時期、芝居にハマっていた頃の監督、金子洋文の証言

うまくもない女優だったけど、可愛い娘だったよ。美人じゃないけどね…

ふと思い出して、前から気になっていた「多喜二の妻」の記事を探してきた。
朝日新聞 昭和42年6月9日(金曜日) の夕刊 文化面のコラム記事である。
多喜二の妻
縮刷版のコピーをスキャナーで落としているので大変見にくい。
要旨を書き出しておく。
基本的には、この文章は手塚英孝著 「小林多喜二」の紹介と読後感である。と言っても、文章全体ではなく伊藤ふじ子を扱った部分に焦点を絞ったものである。
(眠)子は、この本を最近読んで多喜二が結婚していたのを初めて知ったと書き出している。
そして事の要点を以下のごとく書き出している。
* 多喜二は地下生活に入って間もなく、このふじ子と結婚して同棲した。
* ふじ子は銀座の図案社に勤め、そのわずかな給料で多喜二の地下生活を支えていた。
* だが間もなくふじ子が検挙され、、そのアジトが警察に襲われ、多喜二は辛くも逃げ延びた。
* ふじ子は2週間後に保釈されたが、勤め先はクビになった。その退職金を人づてに多喜二に送っている。
* 二人はその後一切近づかなかった。これは当時の状況ではやむを得ないことであった。
* 1ヶ月後に多喜二が虐殺された。同士や田口たきは連絡を受け、集まっているのに、ふじ子は通夜にも葬式にも見えていない。
ここからは(眠)子の感想になる。
* 自分の退職金まで送るというしおらしい女性だったけれど、党活動に参加していなかったから、多喜二の友人や崇拝者によって無視されてしまったのだろうか。
* 私はこの忘れられた多喜二の妻、伊藤ふじ子に最も関心を持つ。あわれではないか?

一言言っておくと、手塚も、通夜にも葬式にも参加していない。著者手塚は伊藤ふじ子を知るほとんど唯一の人だった。会場に闖入した半狂乱の女性が妻伊藤ふじ子であることを知るものは誰一人いなかった。
もちろん手塚は後で聞いて、それがふじ子であったと知ったはずだ。ふじ子が終生抱いていた多喜二の遺骨は、もしそれが本物であったとすれば、手塚以外に渡せる人物はいないはずだ。
しかし(眠)子が読んだ 「小林多喜二」の中で、そのことは触れられていなかったようだ。

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