鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

カテゴリ: 70 文学・芸術・スポーツ

奥さんの訪問入浴が来るので、「どこか行かなきゃならない」と思って映画館の案内を見たら、おあつらえ向きの映画があった。
「羊の木」という題でまだ封切ったばかり。原作の山上たつひこというのが気に入った。不朽の名作「がきデカ」の作者である。その後まったく消息を聞かなかったのだが、生きていたのだ。彼の作ったものなら間違いないだろうと即断した。
「羊」というのがいかにも「羊たちの沈黙」を連想させる。2時間を超える映画でいささか胃にもたれるが、要所要所での迫力は満点だ。床屋のカミソリの場面と、トラックでひき殺すところ、そしてじわじわと忍び寄る恐怖は、この映画の醍醐味だといえなくもない。
ただし、ストーリー展開には強引なところがあって、6人の元受刑囚のキャラクターもごちゃごちゃとして書ききれていない。ヒロインは美人だが、ヒロインにふさわしい魅力がない。変なお化けめいた作り物は目障りだ。そんなこんなで素直に映画の世界に入りきれないのは残念だ。
私なら元受刑者を3人か4人に絞って、話を刈り込んで90分物にする。ヒロインは原作にはなく映画作成時に加えたらしいが、それがこの映画の災厄の根源になっているようだ。元ロッカーで故郷が嫌で東京におん出て、なぜか挫折して帰ってくる。それがまたなんの屈託もなくヘビメタを再開するというのがいかにも支離滅裂だ。ヘビメタは高校のブラスバンドではない。
この作品でヒロインは主人公ではないのだ。だからもっとキャラを単純化すべきだ。そもそも必然性のない存在だから消去してしまうのも方法だろう。
それにしても怪優北村一輝の存在感はすごいですね。松田龍平、市川実日子…聞いたことのない名前ばかりだが、みな存在感のある名役者だ。主役と言うか狂言回しの役者もみごとに善人に徹している。
これだけの役者を集めて、これだけの原作を受けて、これだけの“愚作”(駄作ではないが)が作れるというのも一種の才能なんでしょうかね。
羊の木1


1.「家族はつらいよ1」と熟年離婚
「家族はつらいよ2」 というのがあるのだ。
シリーズの1作目は正直、ちょっとつらかった。
きざったらしい言い方になるが、世相を切り取っていることはいるのだが、すくい取ってはいない。
団塊の世代のハシリとして抱えている問題、すなわち「熟年離婚」はそのまま提示されているのだが、山田監督の言いたいのは「そのまま直視せよ」ということなのだろうか。
そのままの姿としての「熟年離婚」は、現代日本における男性のエゴがいかにひどいかという問題でしかない。しかし私たちはそれを女性史的にも見ておく必要がある。
団塊の世代を通じて女性の権利にかかわる問題はずいぶん前進した。しかしまだ問題はたくさん残っている。それを「熟年離婚」の問題として突き出すのはいい。
しかし映画であるなら、もう少し問題解決型のスタイルで提示すべきではないだろうか。「麦秋」の原節子は、あのころの問題をあのころにふさわしい解決法で提示している。
2.「救いようのないジジイ」からの脱出
ということで、「家族はつらいよ1」はちょっと辛かった。橋爪功というじいさんの頑固ぶり、夜郎自大ぶりが、同世代としてあまりにも救いようがないからである。
率直に言えば、今の日本、若い人より我々のほうがはるかに進歩的で主体的で民主的だ。ただの頑固爺として描かれるような筋合いはない。
ただ、具体的な生活の現場で若い人たちが作り出す細やかな人情の世界を我々が見知って感動してきたかという点では、もっと反省すべきなのかもしれない。「知りもしないで戦後民主主義という型紙で若者を裁断しないでもらいたい」というメッセージであれば、もっと謙虚に我々は聞くべきではないのか。
それが第2作目になってようやく、キャラクターの住み分けが見えてきた。橋爪功のキャラはまだ練り上げられたとはいえないが、わが身の一部として共感できるようにはなりつつある。
これが共有できるようになると、もう一つの寅さんが出来上がっていくのかもしれない。
3.山田洋次の「団塊の世代」観
話がややこしくなってきた。結局「家族は辛いよ」という映画、シリーズは山田洋次監督の仕掛けた「団塊の世代」論なのだ。もちろん山田洋次は団塊世代ではない。戦後第一世代だ。そして寅さんは第2世代で、ここまでが山田洋次監督が共感できる世代だ。
そして戦後第三世代たる団塊世代に対しては、おそらく山田監督はずっと「いやな感じ」をいだきながら生きてきたのだろうと思う。
それが1作目から2作目に至る過程で結構浄化されている。寅さんに共通性を感じたように、このどうしようもない団塊の世代「若き老人たち」にもヒューマンとしての共通性を紡ぎ出そうとしている。
この柔らかさこそ私達が山田洋次監督から汲み取るものなのであろう。
この話は、一度真面目にやるべきものだろう。

日曜美術館という教育テレビの番組を見ていて、五嶋龍というバイオリニストに感心した。
アンドリュー・ワイエスの「クリスティーナの世界」という1枚の絵だけで番組一つ作ってしまうという、かなりのオタク番組である。
それはそれで良いのだが、そこにゲストとして参加した五嶋さんのコメントがなかなかよろしいのだ。
夜の再放送を酒を飲みながらの鑑賞だから、かなりうろ覚えだが、五嶋さんの感想の出発点が良い。
ネットにこの番組の紹介記事があったのでそこからコピーさせてもらう。
(ニューヨークの美術館でワイエスの絵を見て)地味だなと最初は思いました。しかし、数秒後にものすごい力強い絵だと思ったんです。印象がガラッと数秒の間に変わったんですが、…
というのが最初の言葉。
つまりこの絵は、ある意味で罠が仕掛けられているのだ。トリック絵画と言ってもいい。この頃のアメリカの「スーパーリアリズム絵画」にはみな、「絵本の挿絵」といったら良いのか、そういうところがある。
「クリスティーナ」における罠は言うまでもなく異様な手だ。異形と言ってもよい。
これに気づいたとき、鑑賞者は一気に絵の中に引き込まれ、クリスティーナの背中に吸い込まれるわけだ。
そのとき鑑賞者は大波に巻き込まれたみたいに、既視のものとの連関を失い、前後左右・天地がわからなくなる。
これを五嶋さんはこう表現する。
彼の芸術の素晴らしさというのは、見る人によって多分違うメッセージが出てくると思うのです。希望や力強さも感じますが、すごい絶望も感じます。こういう悪夢ってあるじゃないですか、目指すところにたどり着けない。でも、這っていくわけです。
後藤さんの素晴らしさは、最初無難な言葉を探しながら、「こういう悪夢ってあるじゃないですか」という表現に絵の本質を手繰り寄せたところにある。
そして五嶋さんの思いはさらに進んでいく。
アメリカって言うと…がんばれば成功したり裕福な生活を遅れるみたいなイメージがありますが、アメリカでの生活の現実というものをバラ色にせず、そのまま冷たく見せてるなと僕は思ったのです
結局、五嶋さんはこの絵をポジティブな絵だとは見ていない。おそらくこのままでは家までたどり着けないであろうクリスティーナの不安とあせり、それを見つめえぐり出していくワイエスの目の冷たさ…
ただしそうまで言われてしまうと話は身もフタもなくなるから、話題はもうひとりのコメンテーターによる背景説明に移っていく。

ただ、ワイエスの被写体を見るときの冷たさが、彼の心の冷たさなのかと言われるとそうとも言えない。

多くの左翼系・民衆系の作家はまず現実の告発から始まっている。そこには秘められた怒りがある。それがリアリズムという共通土台に乗らなければ共通語とはならないし、叙景の技にはアルチザンとしてのセンスも求められるわけだ。

五嶋さんはこのあたりの作業を次のようにすくい取る。
見えないものを描くにはいろいろなテクニックがあります。…表現したいものを控えめに表現することによって、聞いている側の人がもっと求める。
…音楽というものもそのまま伝えるのではなくて、聞いていただいてそこからまた世界が広がるようにすることが目的です…
ということで、アート的にはワイエスを高く評価するのである。
このあと五嶋さんは文明論、現代論もつまみ食いしていくが、この辺は正直のところピンとこない。
おそらくは長いコメントの中を切り取った言葉なのだろうが、最後の切れ端は余韻を残している。
彼のパワーは一瞬戸惑わせるところがあります。それって今の世代の持つハイペースな感覚の中では必要なのではないかと思います。

正直のところワイエスが20世紀アメリカを代表する画家かどうかについての議論はあると思う(例えばベン・シャーン)。さらに「クリスティーナ」でワイエスを代表すべきか否かについても議論は分かれるのではないだろうか。

しかし、随分勉強させてもらったことは感謝しなければならない。

正月を挟んで、グダグダとした日が続いている。

生活が落ち着かないせいもあって何かをまとめてやろうという気が起きない。

テレビの映画ばかり見ている。

A.「君の名は」

恥ずかしくて見に行けなかった「君の名は」が正月ということでテレビ初登場だ。

良い映画だった。しかしあまり記憶に残らないのはなぜだろう。作者の感じるリアリティと私の感じるリアリティのあいだに、かなりのギャップが出来上がってしまっている。

だからヒロインの苦しさとか悲しさとかがバーチャルなものとしてしてしか感じられない。これは世代問題なのだろうか? どうもそれだけではないように思えるが。

B.湯を沸かすほどの熱い愛

お風呂屋の映画の話は、このあいだしたよね。あの女優さんは良かったね。ビデオで取っておいて、ティッシュを用意して、夜中に一人で観た。

1.かなりカットしている。テレビ初登場というからには「ノーカット」でやってほしかった。2時間足らずの経過を伏線、伏線で積み上げていって、それで見せるのが映画だから、映画館で見た身には思い出がえぐられる思いだ。

2.うちの三菱のテレビは、内蔵ハードに絵を落として見るようになっているのだが、素で見るのとでは随分画質が変わってしまう。あっ、思い出した、宮沢りえちゃんだった! こんなにどぎつい絵でなく、普通に映してほしい。40歳の女性の肌が変にリアルだ。全然可愛くない。

ということで、「見なきゃよかった」篇。

それにもかかわらず、「君の名は」よりは1ランク上の映画だと、改めて思う。

C.「麦秋」

次はなんと言って良いのかわからない作品。晩春も東京物語もすでに見ているか、縁のない映画であった。

この映画は、それよりは遥かに食いつきが良い。外周りがしっかりと書き込まれているから、その分良く分かる。とくに「北鎌倉」という場所が昭和26年にどういう場所だったのかがしみじみと分かる。

もう一つは原節子がとてもきれいにチャーミングに描かれているから、小津映画がどうのこうのは関係なしにポカーンと原節子の顔だけ見ていて時間が過ぎていく。

とにかく登場人物がやたらに多いから、誰が誰とどういう関係なのかがわからないままに映画が終わってしまう。

あとで考えてみると、この映画には二人の謎の人物が登場する。

一人は淡島千景で、原節子の「お友達」として登場するのだが、全く無意味な登場人物なのである。

筋書きとしても全く無意味だのだが、それ以上に映画のキャラとして原節子とタイを張ること自体が無意味なのだ。

淡島千景という人は、銀幕界の歴史を飾るようなとてもきれいな人で、夫婦善哉などの演技は絶品である。

しかし原節子と並ばせたら可哀想だ。とくにこの映画の原節子は驚異的に美しい。これでは淡島千景はサラしものだ。

二人が裸足で鎌倉海岸の波打ち際を走るシーンは、当時としては“劣情を刺激した”に違いない。しかしこの映画の必然性から言えば原節子が一人で走れば良いのであって、淡島千景を一緒に走らせる必要はサラサラない。残酷だ。

ちょっと余談。

昭和26年という世相を知らない人が、彼女たちの暮らしをさも同情できるかのように書いているが、冗談ではない。それは雲の上の、サブ貴族層の、GHQに近い人々の生活であって、想像もできないような暮らしであって、したがって同情などしようもないのである。

私の母親は多分東京大好き人間だった。大正8年生まれだから原節子よりちょっと若いのかな。静岡にも文化はあったが、東京には東京にしかない文化があった。たとえ戦争で荒れ果てたとしても、そうなのだ。

よくリテラシーという言葉を使う。東京にある文化リテラシーは眩しいものだけれども、静岡のような田舎で暮らしていて、東京にはもう一つ上の文化があるというのを知っているだけでも、一つのリテラシーなのだ。ほとんどの人はそんなことなど知らずに一生を終えていた。

母親は私をダシにして東京に出かけた。静岡から鈍行列車で6,7時間だったろうか。私は駅の名前が全部言えた。私は胎内の時から染まった東京グルイだった。

大船の駅で、私の目はきらめいた。そこには湘南電車とは違うクリーム色と青のツートーンカラーの電車が並んでいた。それほど鮮やかではなかったが、そこにはお金とステータスの臭がした。

話が長くなった。

わたしたち田舎者、すなわち99%の日本人にとって小津映画は決して庶民感情を細やかに描き出したものではなかった。「雲上人でも我々と同じような悩みを持っていたりするんだなぁ」とダマしこむためのメディア・ツールでしかなかった。

そう思って小津映画を見たら良い。多少の楽しさも湧こうというものだ。

D.DESTINY 鎌倉ものがたり

本日映画館で見てきた。できたての映画らしい。マップ絵なのかCGなのか知らないが、黄泉の世界の描写は立派なもの。

ただ、「千と千尋」の向こうを張ったもののようだが、レベルが一段違う。映画の筋そのものも「3丁目の夕日」レベルで、インスピレーションには乏しい。

そこそこ楽しめる映画であって、家族揃っての映画見物にはきわめて良いと思う。


宮沢りえの『湯を沸かすほどの熱い愛』がテレビで放映されるようです。 20日水曜日の昼にテレビ東京系でやるそうですから、ぜひ録画をしてはいかがでしょうか。大してたくさん見ているわけじゃありませんが、ワタシ的には今年最高の映画です。 注意! 一人で見ること、首にタオルを巻いておくとよい。 宮沢りえというのは本当に映画俳優ですね。普通の人ではないんです。原節子みたいですね。 多分テレビで見てもそれほど感激しないと思います。暗闇の中で銀幕に浮かび上がると最高のキャパを発揮する人です。 「必見」と言いながら変な話になってしまいましたが、映画というのは「盗み撮り防止」の動画とセットで見るものだということです。

「幸せの黄色いハンカチ」の展示を見ていて、ふと説明文に吸い込まれた。

「この映画は典型的なロード・ムービーである」

「あぁそうか」と一応は納得したが、何か喉に引っかかる。単純にそうは言えないのではないか? とも思う。回想シーンが頻繁に挿入されるし、武田鉄矢と桃井かおりの二人の成り行きは、むしろ狂言役による幕間劇ともとれる。

よく考えてみれば、なかなかに複雑な構成なのだ。

ロードムービーってなんだろうと考えているうちに、「母をたずねて三千里」を思い出した。

これぞ、ロードムービーではないか。

もちろん私はアニメ世代ではないから、アニメ版「母をたずねて三千里」の中味は知らない。

多分、子供の頃に絵本でまず接して、大きくなってから「クオレ」を読んで、「あれっ、これって『母をたずねて三千里』そのままじゃん」と気づいたときである。

クオレは子供のときに買ってもらった(と言うか押し付けられた)「世界少年少女文学全集」の一冊である。

当然そんなものは読まない。書棚に並んでいるのを見ただけでゲップが出る。

それがどういう拍子か高校時代にたまたま手にしてしまった。ボロボロ涙を流しながら読んだ覚えがある。

『母をたずねて三千里』もかわいそうな少年の話ではなく、「男はどう生きるべきか」みたいな感じで受け止めた。

だいたいクオレというのは、サルジニア王国を中心にイタリアを統一した直後の話で、「愛国主義美談」の濃厚な本だ。

政治意識が芽生え始めた高校生にとっては、もろに琴線に触れるわけで、自分の思想的と言うか心情的なバックボーンの一部になっているような気がする。


青空文庫でその「母をたずねて三千里」が読める。やはりクオレの一挿話を抄出して一編の童話にしたもののようだ。

ウィキでは、もっぱらアニメについての講釈が展開されるが、長い連載モノにするために相当脚色が加えられているようだ。

多分そのほうがよいだろう。ちょっと原作だけではゴツゴツと『事実』が並べ立てられていて、人物像の膨らませ方が足りないと思う。(それがある意味ではドキュメンタリーっぽさを引き出しているとも言えるが)


アカデミー賞というのにつられて「セールスマン」という映画を見た。途中から抜け出したくなる感覚を抑えながらの2時間であった。
映画の拠って立つ日常生活の過程への漠然とした違和感とともに、ザラッとした後味が残る。
劇の展開よりも、主人公たる男性の心が犯人への怒りと、前の住人(おそらく売春婦)への八つ当たり、妻へのそこはかとない疑惑を抱えながら、「私刑」へと人格を崩壊させていく過程を描いているのだが、それを描くことにどんな意味があるのか、どういう意味をもたせようとしているのかが分からない。
「復讐」という病的心理過程のダイナミクスは、それはそれとして正面から取り上げるべきでろうと思う。下手なサスペンスじかけにしたら、かえって人を混乱させるだけではないか。
アカデミー賞はこの監督の過去の業績に対して送られたのかもしれない。
映画というのはかなり訴求力の強い媒体なだけに、作品そのものに筋が通っていないと、観衆を混乱におとしいれるだけのものになってしまう。
「性犯罪と復讐」というのはイスラムでなくてもどこにでもある事件である。インドならいまでも日常茶飯事だ。作者には、ガルシア・マルケスのように、それを時代の流れに位置づける俯瞰の立場をもとめたい。そうすれば「セールスマンの死」とも重なるのではないか。


滝平二郎の展覧会をまだ語っていない。

実は、この日まで、滝平二郎はどう読むのか知らなかった。滝さんなのか滝平さんなのかもわからなかった。

皆さんわかりますか。この人は滝さんでもタキヒラさんでもなく、タキダイラさんなんです。


もちろん目玉は朝日新聞に連り絵」の連作であるが、「滝平の真骨頂はその前にあった」、ということがわかった。この人は「漫画家」だ。絵描きにしては語るべきストーリーが有りすぎる。版画家にしては色彩への欲がありすぎる。だから芸術家の範疇にとどまれない、だから漫画家になるのだ。

「切り絵」の方は「あぁ、きれいだね」というくらいのもので、それでも十分目の保養にはなるのだが、例えば宮﨑駿などの原画展と比べてとくに出色というわけではない。

ということで、とにかく圧倒されるのは初期の「戦争敗走記」という連作。

どれもすごいのだが、とくにこれは食いつかれる感じがする。皆さん、展覧会に行ったら逆回りした方がいいです。とにかく最初から疲れちゃう。
猿

「猿」と題されている。

おそらく自画像(24歳の)であろう。

異形である。人間とは思えない凄まじい形相であるが、眼は完璧なまでに虚ろである。「失感情」よりもっと高度の「失外套」に近い状況だ。この状態で突かれたり切られたり撃たれたりしても、あるいは食われても、苦しみの表情さえ浮かべることなく死んでいくだろうと思われる。しかしその前に、およばずとも噛み付くくらいはするかもしれない。

大岡昇平の「俘虜記」にも「猿」の話が出てくる。人肉を「猿」と称して食う話である。本当に猿と思ったのかもしれない。


滝平は1921年生まれ、新進の版画家として活動を始めた42年(昭和17年)に召集された。最後の任地が沖縄だった。

滝平の手記「山中彷徨」から引用する。

硫黄島玉砕、東京大空襲―あれよあれよという間に、米軍機動部隊が私たちの沖縄本島をとり囲んだ。

およそ1週間の間断ない砲爆撃の後、こともあろうに私の誕生日の4月1日に米軍が上陸した。

6月の終わりに沖縄守備軍玉砕。そのことも知らずに私は、なおも山中を逃げ回った。疲労の果てに仲間からはぐれてしまってからも、一人ぼっちで彷徨い続けた。

奥深い山中の、小さな泉のほとりには、たいてい誰かが仰向けに寝て落命していた。

…いきなり鳥の大群が不気味に鳴いて飛び立ったあとに、兵隊服の白骨が散乱している光景にも、しばしば出会った。

…それは、一匹の虫けらのように自分が縮んでいく瞬間でもあった。

…昼間は何よりもひと目を恐れた。たえず誰かに見つかりはしまいかと落ちつかなかった。

なるべく深い繁みをえらんで、その下に身を横たえて時たま通過する米軍機の音をぼんやりきいていたとき、とつぜん頭上の木の枝を、薄緑色の尻尾の長い動物が、梢の方へつつっと走って、ゆっくり首をまわして私を見おろした。大きな目が「見つけたぞ!」というように私を直視していた。

私はバネ仕掛けのように飛び起きて逃げ出した。あの小動物がなんであったか、今もってはっきりしない。

雨上がりの赤土の小道を握りこぶしほどの亀の子がゆっくり歩いていた。はっとたじろいだ私の目の前で、みるみるうちにひと抱えもある怪物のように大きくなった。太いしわしわの首を伸ばして、じろっと私を見た。私は奇声をあげて土くれと言わず石くれといわず怪物めがけて投げ続けた。

…こうなると、一人芝居も凄愴味を帯びて私は完全なノイローゼになっていた。

8月3日の夜半、生け捕られて俘虜となった時は、もうすっかり癒えていた。


「もうすっかり癒えていた」と言うが、この絵を見ると明らかに「癒える」どころかさらにひどい状態に陥っている。

その表情は、前頭葉への回路を完全に遮断した状況を示している。考えることを止め、感じることもやめ、無理やり脳を冬眠状態に陥れることによって、かろうじて心のバランスを取り戻したのだ、そうやって大脳機能を守ったのだ、と察する。

「反省だけなら猿でもできる」と言うが、この状態ではそれも出来なかったろう。つまり「猿以下」だ。

それにしては、釈放後1年でこれだけの絵をかけるのだから、この人はとんでもなく丈夫な神経をしている。

向き合ううち、この絵から怒りが噴き出していることに気づく。滝平さんは怒りの感情が溢れてくるから、この絵がかけたのだと思う。
許せないから、尋常の生理的反応に逆らって記憶の回路をこじ開け、凄惨な体験を呼び起こし、この凄まじい作品を残さずにはいられなかったのだろう。

手記の最後はこう締めくくられている。

戦争体験は、それを語る人の思想によって、さまざまに形を変え、命を吹き込まれて伝えられる。

私には、悲惨さ以外に伝えるものは何もない。

絵もすごいが、文章も隙きがない名文だ。表現は控えめだが、間然としたところはない。なんとかこれを「紙芝居」に出来ないだろうか。



以前、昭和8年2月21日の動きを時刻表にしたことがあり、探したが、どこやらわからぬ。いろいろ探して、ここにあるのを発見した。

2月20日

正午 多喜二、赤坂で街頭連絡中に捕らえられ、築地署に連行きれる。

午後5時 多喜二、“取調中に急変”。署の近くの前田病院の往診を仰ぐ。(江口によれば午後4時ころ死亡)

午後7時 前田病院に収容したが既に死亡していることが確認される。“心蔵マヒで絶命”とされる。

2月21日

正午ころ 東京検事局が前田病院に出張検視し、死亡を確認。

午後3時 警視庁と検事局、「多喜二が心臓マヒにより死亡した」と発表。ラジオの臨時ニュースと各紙夕刊で報じられた。ラジオ放送の直後に動いた人々は…

築地署: 大宅壮一、貴司山治、笹本が築地署にいち早く駆けつけ、当局との交渉にあたる。

前田病院: 築地小劇場で事件を知った原泉が前田病院にかけつけた。「遺体に会わせろ」ともとめた。警察は面会を拒否し、原とはげしくもみ合う。警察が拘束の動きを見せたため、大宅壮一と貴司山治が仲裁に入る。救出された原泉と大宅らは築地小劇場を基地とし、各関係者と連絡を取る。

馬橋: 多喜二の母セキは杉並区馬橋の自宅にいた。ラジオを聞いた隣家の主婦から知らされた。セキは預かっていた二歳の孫(多喜二の姉の子)をネンネコでおぶると、築地署へかけつけた。

夕方 セキが築地署に到着。この時遺体は署の近くの前田病院に安置されていた。当初、警察はセキを二階の特高室に閉じ込め、なかなか会わそうとしなかった。

夕方 

都内各所に夕刊が配達される。配達の直後に動いた人々は…

築地署: 青柳盛雄弁護士らが築地署に赴き、遺体の引渡しを要求。さらに連絡を受けた安田徳太郎医師がやってきて警察と交渉。

馬橋: 江口は吉祥寺の自宅にいて、配達された夕刊で多喜二の死を知った。大宅壮一からの電話があり、「馬橋のセキさんを伴れて築地署へ来い」と言われた。ただちに馬橋に向かうが留守のため、阿佐ヶ谷から省線でそのまま築地署に向かう。

百合子グループ: 上落合の中条百合子宅で窪川稲子も同席して夕食の最中、夕刊で事件を知った。推測では、東中野在住の壺井栄と連絡を取り、中央線中野駅で集結し阿佐ヶ谷に向かったものと思われる。

当初の記載で、中条家を下落合としていたが、上落合の間違い。土地勘がなくて誤解していたが、上落合というのは西武線の下落合とはだいぶ離れていて、どちらかと言えば中央線の東中野に近い。したがって歩いて東中野に出るのがもっとも早い。

午後9時

築地: 在京中の秋田の親戚の小林さんが築地署に駆けつける。彼が身元引受人となり、遺体の引き取りが決まる。

推測だが、三吾はこの時点で行方がつかめなかったのではないか。遺体の引き取りには身元引受人が必要であり、それには戸主(男性)であることがもとめられていたのかもしれない。そこで弁護士がセキから根掘り葉掘り聞いて、秋田の親類を見つけ出したと考えられる。

午後9時30分 孫をおぶったセキが特高室を出され、前田病院で遺体と対面。この時セキと同行したのは、作家同盟の佐々木孝丸、江口渙、大宅壮一。青柳盛雄ら3人の弁護士。医師の安田徳太郎。

午後9時40分  大宅らの雇った寝台車が。遺体とセキ+孫、親戚の小林さんを載せ前田病院を出発。

午後9時40分 江口らがタクシーで寝台車の後を追った。同乗者は藤川美代子、安田博士、染谷ら4人。

午後10時

百合子グループ: 阿佐ヶ谷に着いた3人は、若杉鳥子(窪川は「同盟員」と書いている)の家に落ち着いて情報収集にあたった。前田病院から、すでに寝台車が出発したとの情報を受け、多喜二宅に向かう。

稲子は「すでに多喜二宅前には10人ほどが集まっていた」と書いてあるから、そちらにも視察に行ったのであろう。鳥子家を利用するという「良案」を誰が考え出したのかは不明。
前田病院に電話したのは稲子で、彼女はわざわざ西武線の沿線(鷺ノ宮駅?)まで行って街頭から電話したという。警察の張り込みを避けての行動かもしれない。
「すでに出た」というからには、その電話は早くとも9時40分過ぎのことであろう。もしそれが10時と仮定すれば、それから歩いて鳥子家まで戻るのに30分は見なくてはならないから、それから多喜二宅に向かうとすれば、到着は10時40分ころということになる。

10時ころ 遺体が小林家に到着した。ほぼ同時に江口、安田らのタクシーも到着。小林家では近親や友人達が遺体を待ち受けていた。

出発及び到着時刻は川西の記載によるものであるが、築地から阿佐ヶ谷までわずか20分で着くとは到底思えない。築地の時間が正確だとすれば、到着は早くとも10時30分ころと思われる。

小坂多喜子: 小坂多喜子と夫の上野壮夫は車に僅かに遅れて到着した。(小坂多喜子の回想)

どこからか連絡があって、いま小林多喜二の死体が戻ってくるという。
息せききって…走っている時、幌をかけ た不気味な大きな自動車が私たちを追い越していった。…あの車に多喜二がいる、そのことを直感的に知った。
私たちはその車のあとを必死に追いかけていく。 車は両側の檜葉の垣根のある、行き止まりの露地の手前で止まっていた。奥に面した一間に小林多喜二がもはや布団のなかに寝かされていた

小坂と上野
        小坂と上野

セキの「ああ、いたましい…」のシーンがあった後、セキが服を脱がせ安田が検視を開始する。

午後11時

午後11時 百合子グループが多喜二宅に到着。以下、稲子の文章を長めに引用する。

我々六人(内訳不明) は阿佐ヶ谷馬橋の小林の家に急ぐ。家近くなると、私は思わず駆け出した。
玄関を上がると左手の八畳の部屋の床の間の前に、蒲団の上に多喜二は横たえられていた。江口渙が唐紙を開けてうなづいた。
我々はそばへよった。安田博士が丁度小林の衣類を脱がせているところであった。
お母さんがうなるように声を上げ、涙を流したまま小林のシャツを脱がせていた。中条はそれを手伝いながらお母さんに声をかけた。

午後11時 安田医師の死体検案開始。検視の介助には窪川稲子と中条百合子があたる。検視の後、壺井栄らが遺体を清拭した。

死体検案は当事者には長く感じるが、見るポイントは決まっていて意外に短時間で終わる。すでに死後24時間を経過していれば、筋の緊張は緩み仏顔になってくる。死後硬直は取れ扱いは容易だが、出血と脱糞の匂いは相当強烈で、清拭が骨折りであろう。それでも前後15分もあれば片付く。

闇の中の1時間

このあと約1時間のあいだの経過は、まったく私の推論だ。

11時30分 百合子グループと安田医師が多喜二宅を出る。江口によれば、この間に多くの人が駆け込んできた。(このあたり江口の記憶はごちゃごちゃになっている)

おそらく安田医師が帰ると言ったのに、「それじゃ私たちも」と同行することになったのではないか。医師は明日の仕事があるのと、基本的には診察先に長くいたくはないという真理が働く。女性たちにも子供のことやら家のことやら明日のことやら、いろいろ事情があるものだ。何れにせよ稲子の「午前2時」は間違いなく誤解だ。

11時30分 百合子グルームが多喜二宅を離れて間もなく、ふじ子が駆け込んでくる。この後、多喜子の文章の「愁嘆場」が出現する。

ふじ子は築地小劇場を訪れて、原泉に「多喜二の妻です」と打ち明け多喜二の遺体にひと目会いたいと懇願した。これは多喜二の遺体を送り出した9時40分以後のこと、おそらく午後10時頃のことである。
その時まで4時間のあいだ、ふじ子には、行くべきかどうか逡巡する時間もあったろうし、築地署前の群衆に紛れて右往左往していた時間もあったろう。
原泉はこの「女優」に見覚えがあって、「女の勘」が働いて、瞬時に事情を察した。そしてこれから多喜二宅に向かうという新聞記者を見つけ同行させた。クルマに乗ること1時間ちょっと、登場時間としては妥当である。

12時頃 江口の文章の「接吻の場面」が登場。まもなくふじ子は多喜二宅を退去する。(小坂多喜子は「いつの間にかいなくなった」と表現している)

恋猫の 一途 人影 眼に入れず
ボロボロの 身を投げ出しぬ 恋の猫

12時頃 稲子の文章によれば、「…踏み切りの向うで自動車が止まり、降りた貴司や、原泉子や、千田是也などと行き合った」

当時の阿佐ヶ谷駅は正面が北口で、多喜二宅からはいったん踏切を渡って線路の北側に出なければならなかったのだろうと思う。
一方築地小劇場組は、怪しまれないように踏切の北側で降りて歩くことにしたのだろう。原泉とふじ子は、論理的にはどこかで交錯しているはずである。ふじ子が避けたか、原泉が沈黙を守ったかのいずれであろう。

2月22日

午前0時 千田是也, 岡本唐貴、原泉らが多喜二宅に到着。 「時事新報」 社のカメラマンが多喜二の丸裸の写真をとり、佐土(国木田)が多喜二のデス ・ マスクをとった。岡本唐貴が8号でスケッチを描いた。(時事新報の写真撮影はもっと前、検視時だと思う)

デスマスクについては、築地小劇場組の一小隊が別行動で動いたらしい。佐土という人はデスマスクの専門家だが、活動家ではない。彼に依頼して材料の石膏を仕入れるのにずいぶん時間を食ったという情報もある。

午前1時 小林家の6畳の書斎で人々は遺体を囲んだ。この時貴司山治により2枚の写真が撮られた。この後の記録はないので、写真撮影の後まもなく解散したのだろうと思う。

ひょっとすると1マイメノ写真を撮った直後に三吾が現れたのかもしれない。2枚の写真はそういうストーリーを感じさせる。

江口によれば以下の如し。
多喜二宅で葬式の手順が話し合われた。告別式は翌日午後一時から三時まで。全体的な責任者江口渙、財政責任者淀野隆三、プロット代表世話役佐々木孝丸となる。
「通夜の第一夜は何時か寒む寒むと明け放れていた」

午後1時 告別式。会葬しよう と した32名が拘束される。若杉鳥子も捕らえられる。この結果、セキ、三吾、姉佐藤夫妻、江口と佐々木孝丸だけで葬儀を執り行う。

ということで、

貴志山治の2枚の写真をもう一度見返す。

伊藤さんの読み込みについては、まず後列の女性が窪川稲子ではありえないことが指摘される。

もう一つは2枚の写真の前後関係である。二つの写真は明らかなライティングの違いがある。

成功作は天井からのライティングであたかも電球が照らすように映し出されている。

これに対し失敗作ではライトは横向きに当てられ、光源が近すぎるために多喜二の顔はハレーションを起こしてしまっている。

率直に言えば、「決め写真」ではなく、ついでに撮った写真ということになるだろう。

なぜついでに撮ったかといえば、三吾とセキが入ってきたからだ。

画面右側の人物群はほとんど動いていない。真ん中に三吾とセキが割り込んだ。

しかし入りこんだのはそれだけではない。サンゴを割り込ませた江口の後ろに男女一人ずつ、そして左端には小父さんと小母さんが入っている。右端にも男性二人が入った。

カメラの位置は5,6センチ低くなり近接している。山田清三郎と千田是也は視界から外れてしまった。

この新たに入った4人に関して、情報を発見した。

川西政明さんの「新・日本文壇史」という本の第4巻に、1933年2月20日の動きについてかなり詳しく触れられている。

この中で遺骸の引き取りの経緯が初めてわかった。

6時にはすでにセキは築地署につき小谷特高主任から経過説明を受けている。なのに遺体に会わそうともしないし、引き取りも認めない。

おそらく理由はセキが戸主ではないからであろう。そして戸主たる三吾はなかなか連絡が取れない。

なんだかんだと時間が過ぎていくうちに、セキは秋田の小林の親戚が上京中であることに気づいた。

この小林さんが9時近くに築地署に着き、ようやく引き取りが決まったのである。

セキは前田病院に入り遺体と対面。その後、寝台車で馬橋の自宅に向かうことになる。寝台車に乗ったのはセキ(と背中の孫)、親戚の小林さん。随走するタクシーに江口と安田医師らである。

おそらくこのちょび髭は秋田の親戚の「小林さん」であろう。この人と江口はすでに式服に着替えている。

とすれば、田口たきと比定された女性はその妻の可能性が高い。そして江口の後ろに割り込んだ男女が姉夫婦ということになるのではないか。

そして、三吾さんが到着したのを機に、今にいた親戚が揃って遺体とあらためてご対面したところなのだろうと思う。

三吾さんがなぜこんなに遅くなったのか(おそらく12時を回った時刻)は不明である。

なお、おなじ川西政明さんの本にはその夜の参加者が列記されている。

このうち写真で特定できているのが

岡本唐貴、池田寿夫、岩松淳、立野信之、田辺耕一郎、原泉、鹿地亘、山田清三郎、千田是也、それに直接自宅から来た上野杜夫と小坂多喜子。それに撮影者の貴志山治である。

この他に本庄陸男、川口、千田、淀野、大宅壮一、笹本、佐々木孝丸の名が挙げられている。

ただし大宅、笹本は築地署には現れているが、馬橋まで行ったかどうかは不明。

稲子らはいつ帰ったか。

午前2時は論外だが、ではいつ帰ったのかということで、一つの仮説として省線の終電時刻を考えてみた。

稲子は子供を置きっぱなしにしている。翌日は収監中の夫、鶴次郎と面接がある。もちろん面接のとき、監視の目をかいくぐってなんとか他記事虐殺の報を伝えたいから、行かない訳にはいかない。

一行は安田徳太郎を入れて4人だから、阿佐ヶ谷から円タクで相乗りして帰るという方法もないではない。しかし終電で帰れるなら帰りたいのが人情ではないだろうか。

そこでネットで当時の終電の時間を調べてみた。

格好の解説があった。

2015年12月22日付の東洋経済オンラインの記事

JR中央線の「終電時刻」は、どうして遅いのか
昔はもっと遅かった「深夜の足」の意外な歴史

というもの。著者は小佐野記者。

東京ネタだから、札幌の人間にはどうでも良いことだが、現地の人間には面白いだろう。

中央線の終電時刻はなぜ遅いのか。

「特に遅くできる理由があるわけではなく、ご利用されるお客様が多いため」だそうだ。

中央線が遅くまで走るようになったのはいつからなのだろうか。

1934(昭和9)年12月の時刻表を見てみると、最終電車の新宿発は午後11時50分となっている。

ただし、これは浅川(現高尾)行の話で、立川行きは午前0時52分、三鷹行きは午前1時8分、中野行きはなんと午前1時27分まであった。

近距離でいえば、戦前のほうが今よりも遅かったことになる。

理由は、当時は鉄道以外の交通手段、要するに車が少なかったからではないかと記者は推測している。


稲子らの電車は逆方向になるので、本数は少ないにしても同じ時刻くらいまでは走っていたと思われる。。

三鷹発の電車が午前1時頃に阿佐ヶ谷に停まる。これに乗れば東中野、さらに上落合に帰ることは可能なのだ。

実際には終電よりももっと前、11時半ころには家を出たと思われる。

女性陣の介助のもとに安田医師の検屍が行われ、写真が撮影された。その後湯かんして服を着替え、書斎に安置した。そこには稲子の描写した如く10人ほどがすでに集まっていた。

どうしようかと思案してたところに、安田医師が帰るというので、「それでは私たちも」ということになったのではないか。だからもっと早いのかもしれない。

ただ、江口渙の「十一時近くになると、多喜二のまくらもとに残ったのは彼女と私だけになる」という時刻はやや早すぎる印象がある。

それにしても、彼女たちの帰った時刻とふじ子の来訪は、本当に一足違いだったようだ。

そして、阿佐ヶ谷駅近くの踏切で彼女たちと入れ違った「同盟」の一団が多喜二宅に到着したとき、すでに彼女の姿はなかった。

本当に、“恋の猫、ふじ子の接吻”は江口渙のみが居合わせた、奇跡的な時空間だったのだ。(江口の創作でなければの話だが…)

連休前に、図書館に行って現物にあたった。それで書いたのが下の記事だ。

本日は、佐多稲子の「2月20日のあと」だ。全集の第1巻にふくまれている。ただし執筆当時は窪川を名乗っていた。
これが、前から一番気になっていた文献だ。
気になるのは2点、
1.稲子らが多喜二宅を辞したのが午前2時ということ。そんなに遅くまでいたはずがない。
2.ふじ子についての記載がまったくないこと。これは書きたくないから伏せたのか、知らなかったのか、ということが判断できない。
この2点とも、原文を読んでもわからないだろうと思っていたが、やはり全文を読んでみないと雰囲気はわからない。
それに加え、紹介した文章に書き漏らした事実の中に何か隠されているものはないだろうか、というのも気になる。
ということで、読み始めた。

稲子はいつ多喜二の死を知ったのか
これは時刻として正確には記載されていないが、おそらく午後6時ちょっと前のことではないだろうかと推察される。
当時、稲子は中央線東中野駅の近くに住んでいたらしい。しかしその時は自宅にはおらず、上落合の中条百合子家にいた。(土地勘がなくて誤解していたが、上落合というのは西武線の下落合とはだいぶ離れていて、どちらかと言えば中央線の東中野に近い)
稲子は中条家で晩飯をゴチになるつもりでいた。
その時、中条家の誰かが着いたばかりの夕刊を読んで、「多喜二死す」の報を知った。
すでにラジオでは4時のニュースで事件が報道されていたが、稲子も百合子もそのことは知らずにいた。仲間からの連絡もなかったようだ。
この状況については、細部の記載までふくめて正確だろうと思われる。裏返すと、それからあとの記載については、秘匿されたか記憶が曖昧なのか分からないが、断片的になってくる。大脳生理というのはそういうものかもしれない。
多喜二宅に入るに至る経過
文章は、ここから先は相当曖昧だ。このあと推理を相当膨らませなければならなくなる。
稲子は百合子とともに家を出て馬橋の多喜二宅に向かう。
経路は不明だが、おそらく歩いて東中野まで出て、中央線に乗ったのだろうと思う。
途中で一人の女性と合流して三人になる。名前が伏せられているが、これはおそらく壺井栄であろう。栄も東中野近辺に住んでいたようだ。
三人は阿佐ヶ谷の「同盟員」の家に入った。
これは若杉鳥子のことであろう。
鳥子については下記の記事を参照されたい。(2012年05月10日
若杉邸での情報収集
多喜二宅はがら空き状態だったから、百合子、稲子、栄は鳥子の家を拠点として情報収集にあたったのであろう。
鳥子の夫は庶子とはいえ備中松山藩主板倉子爵の血を引いている。それなりのお屋敷であったはずである。
しかし防衛上の理由であろうか、稲子は西武線沿線の街頭電話から築地署や前田病院に電話して情報を収集した(と書かれている)。

阿佐ヶ谷から鷺ノ宮辺りまでカラコロと歩いたことになるが、集まったメンバーから見れば、稲子がこういう「パシリ」的役回りになるのは当然のことであろう。

この辺から、稲子の記憶は曖昧になってくる。「すでに10人近く集まっていた。まだ遺体到着せず」という記載があるが、これは多喜二宅の状況であろう。鳥子邸に10人も人が集まるわけがない。

多喜二宅に向かう

稲子の文章によれば、いろいろ電話した挙句、前田病院の看護婦から、多喜二の遺体がすでに病院を出て自宅に向かったことを知る。他の情報から推しはかると、これは午後9時頃のことであろうと思われる。それから急いで鳥子邸に向かうが、女の夜道だ。到着するのにどう見ても30分はかかる。

ここから先は、文章はさらりとしてほとんど時間の糊しろがないようになっているが、実際には相当の時間が経過しているはずだ。

それから4人で協議して、鳥子は残る、他の3人は多喜二宅に向かうと決めて家を出る。若杉邸から多喜二宅まではさほど遠くはない。間近と言ってもよい。

稲子によれば、

それからみんなで自宅へ向かう。そこにはすでに江口がいた。そのとき母が多喜二の服を脱がせていた。

ということになる。

これで午後10時位で、みんなの時計が合うことになる。

稲子の文章には時計がない

ということで、稲子の文章には時計がない。他の証言と照らし合わせることによって初めて稲子の行動がわかるという仕掛けになっている。

稲子は、行動するにあたって脳内時計とか絶対時間を持たない“時刻音痴”人間なのだ。良く言えば、徹底した現場型、実践優位型人間なのだ。

なのに多喜二宅を退去した「夜中の2時」という時刻だけが、突如、確定的に出現する。これは後着組の話に影響されて、あとから刷り込まれたものではないだろうか。

方向音痴の人に道を聞くことが無駄であるのと同様、時刻音痴の人に時刻を聞くのも無駄である。このことは念頭に置くべきだろう。


図書館というのはすごいところで、澤地久枝の「昭和史のおんな」を頼んだら5分で出てきました。

実物を拝むのは初めてです。

さまざまな題材がずいぶん広く深く扱われていて、さすがプロはすごいなと思いました。

この本では16人の「昭和史のおんな」がとりあげられ、ふじ子はその中のひとりに過ぎません。

それでも、ざっと読むのに1時間かかりました。中身がそれだけぎっしりと詰まっているのです。

これだけでも十分な情報量があるので、結局これからの作業はこの本の落穂ひろいみたいなことになるのではないでしょうか。

とりあえず、メモしたところを文章に起こしておきます。

題名と内容の乖離

表題は「小林多喜二への愛

副題というかリードとして、以下のように書かれている。

戦後、歴史論争を呼んだ「党生活者」の笠原のモデル・伊藤ふじ子の歩んだ70年の歳月

ただし、この“センセーショナル”な題名にもかかわらず、その後の文章の中で、澤地は伊藤ふじ子は「ハウスキーパー笠原」ではなかったことを証明している。

伊藤ふじ子の死

伊藤ふじ子は昭和56年4月26日、自宅で突然死した。激しい頭痛を訴えた後意識がなくなり、そのまま帰らぬ人となった。享年70歳、今日から考えれば比較的若い死であった。

澤地はふじ子の死を伝える2つの訃報を紹介している。

赤旗の訃報

戦前、治安維持法下の特高警察の過酷な弾圧の下、貧困と闘いながら、作家・小林多喜二の創作活動を献身的に支えました…

北海道新聞の訃報

旧姓は伊藤ふじ子。昭和8年、小林多喜二が中央公論に発表した、地下生活を描いたとされる「党生活者」にハウスキーパーとして登場。これをめぐり「伊藤は小林多喜二の妻であった」とする日本共産党と、「ハウスキーパーだった」とする平野謙氏ら評論家グループが歴史論争したことがある…

平野の党攻撃とふじ子の躊躇

そこで出て来る「平野謙氏ら評論家グループ」という人たちの言い分が紹介されている。

「新潮」という雑誌の昭和21年10月号に掲載されたものらしい。

目的のために手段を選ばぬ人間蔑視が、「伊藤」という女性との見よがし的な対比のもとに、運動の名において平然と肯定されている。そこには作者のひとかけらの苦悶さえ浮かんでこない。

これは「党生活者」という小説中で、地下活動家の偽装妻となった「笠原」という表象への「文学」的批判などであるが、これが伊藤ふじ子と重ね合わされて北海道新聞の「訃報」へとつながっていくわけだ。

戦後、伊藤ふじ子の内心は、こういう「下衆の勘ぐり」によって苦しめられたであろう。

ふじ子の死の少し前、澤地は夫の森熊氏を通じて直接取材を申し込んでいる。

森熊氏は結局これを拒否した。

老女に50年前のショックを思い出させることは、いささか残酷なような気もするわけです。

というのが理由である。「50年前のショック」ということばに万感の思いが込められているようだ。

浮かび上がる等身大のふじ子像

澤地は森熊氏をふくむ周辺の人々から聞き取りを行うことによって、ふじ子という人物をあぶり出していく。それはふじ子の等身大の全体を知るには、むしろ好ましい方法であったかもしれない。

取材によって、「笠原」とは別の存在である「伊藤ふじ子」が少しづつ姿を見せ始めた。

それは澤地にとって意外とも言える人物像であった。そのあたりの気持ちを澤地は正直に吐露している。

仮説などという言葉は適当ではないかもしれないが、伊藤ふじ子は「笠原」のモデルであるよりも、むしろ「伊藤」のモデルだったのではないか。

おっしゃるとおり、適当ではないが、実感としてはよく分かる。

いくつかの証言は本人を彷彿とさせる貴重なものであり、その一部はこれまでも紹介してきた。

それ以外のところから2つほど。

高野といえば、多喜二からのラブレターを盗み読みして、あまつさえコピーしたふてぇ古本屋だが、戦後高野と会ったふじ子がこう語っている。

高野ちゃん、苦しくって死のうと思っていたのを彼(猪熊)に救われたのよ

(良いですね、こういうちょっととっぽい山の手弁。こういうセリフを聞いただけで道産子は夢中になる)

もう一つはちょっと若い時期、芝居にハマっていた頃の監督、金子洋文の証言

うまくもない女優だったけど、可愛い娘だったよ。美人じゃないけどね…

ふと思い出して、前から気になっていた「多喜二の妻」の記事を探してきた。
朝日新聞 昭和42年6月9日(金曜日) の夕刊 文化面のコラム記事である。
多喜二の妻
縮刷版のコピーをスキャナーで落としているので大変見にくい。
要旨を書き出しておく。
基本的には、この文章は手塚英孝著 「小林多喜二」の紹介と読後感である。と言っても、文章全体ではなく伊藤ふじ子を扱った部分に焦点を絞ったものである。
(眠)子は、この本を最近読んで多喜二が結婚していたのを初めて知ったと書き出している。
そして事の要点を以下のごとく書き出している。
* 多喜二は地下生活に入って間もなく、このふじ子と結婚して同棲した。
* ふじ子は銀座の図案社に勤め、そのわずかな給料で多喜二の地下生活を支えていた。
* だが間もなくふじ子が検挙され、、そのアジトが警察に襲われ、多喜二は辛くも逃げ延びた。
* ふじ子は2週間後に保釈されたが、勤め先はクビになった。その退職金を人づてに多喜二に送っている。
* 二人はその後一切近づかなかった。これは当時の状況ではやむを得ないことであった。
* 1ヶ月後に多喜二が虐殺された。同士や田口たきは連絡を受け、集まっているのに、ふじ子は通夜にも葬式にも見えていない。
ここからは(眠)子の感想になる。
* 自分の退職金まで送るというしおらしい女性だったけれど、党活動に参加していなかったから、多喜二の友人や崇拝者によって無視されてしまったのだろうか。
* 私はこの忘れられた多喜二の妻、伊藤ふじ子に最も関心を持つ。あわれではないか?

一言言っておくと、手塚も、通夜にも葬式にも参加していない。著者手塚は伊藤ふじ子を知るほとんど唯一の人だった。会場に闖入した半狂乱の女性が妻伊藤ふじ子であることを知るものは誰一人いなかった。
もちろん手塚は後で聞いて、それがふじ子であったと知ったはずだ。ふじ子が終生抱いていた多喜二の遺骨は、もしそれが本物であったとすれば、手塚以外に渡せる人物はいないはずだ。
しかし(眠)子が読んだ 「小林多喜二」の中で、そのことは触れられていなかったようだ。

「私はダニエル・ブレイク」を観てきた、という事実だけを書いておく。
ちょっと設定がウソっぽいのと、展開の必然性が書き込めていないような気がするのだ。
最後のシーンも、いかにもありきたりだ。
私はイギリス映画がちょっと苦手で、イギリス人のユーモア精神の塩っ辛さがどこか合わない。ふと20年位前に見たハービー・カイテルのブルックリンのタバコ屋の映画を思い出した。アングロ・サクソンの感性がピンとこないところが似ている。
ヘイリ・スキアーズという女優がキリッとして魅力的だ。見せ所もいくつかあって、なかなかうまい。娘役の子もいい感じだ。ドレッドヘアーだが、目鼻立ちは東洋風にも見える。
一番の主役は窓口の役人たちかもしれない。それにしては、描き方があまりにも類型的だ。個性をもう少し書き分けると、その上にいるものたちの影がもう少し見えてくるのだろうが。

ブルックリンのタバコ屋の映画というのが気になったが、「スモーク」という映画があって、そのあらすじを読んでもどうも心当たりがない。たしかちらっとマドンナが出てくるので、それを手がかりに探してみると、「スモーク」の続編みたいな映画で、「ブルー・イン・ザ・フェイス」というのがあったようだ。多分2本立てで、何かのついでに見たのだろうか、そちらについてはまるで覚えがない。

赤旗のラ・テ欄の片隅の記事。
意外な事実が記されていたので転載する。

永六輔
ファクトとしては
1.永六輔は60年の安保で毎日のようにデモに参加した。
2.安保後の挫折感の中で、反戦歌「上を向いて歩こう」が作られた。
3.しかし坂本九の“ふにゃふにゃ”歌唱は永六輔をがっかりさせた。
4.そのため、永六輔は葛藤の末に引退を宣言した。
初めて聞いた話ばかりだ。
生前は明らかにしにくかったのか?

私にとってはかなりの大ニュースだ。もう少し詳しく知りたいと探してみた。
WOOM-song.clubというサイトに
永六輔の生き方に学べ!『上を向いて歩こう』作詞秘話
という話が載っていた。著者は野口義修さんという方。
ここに経過がかなり詳しく説明されている。
読んでいただければよいのだが、かいつまんで紹介しておく。

1961年7月21日、第三回中村八大リサイタルにおいて「上を向いて歩こう」が発表されました。
このとき永六輔は28歳、中村八大が30歳、そして坂本九は19歳だった。
どうも坂本九というより中村八大の曲に対する不満が先にあったようだ。
自分の思いを込めた歌詞を、メロディーと歌い方で台無しになされた! こんな下手な歌と歌詞に対するメロディーの組み立ても許せない!  と烈火のごとく怒り心頭だったそうです。
なぜそこまで怒ったのかという背景が、60年安保闘争だ。
永さんは、実際に自分もデモに参加した1960年の安保闘争での敗北をテーマに歌詞を書きました。それが、「上を向いて歩こう」です。デモの帰り道、泣きながら夜空を見上げた思い出の歌詞だったのです。
…永さんは、安保デモに出るために、自分が台本を担当していた番組を降板しています。プロデューサーから、「君は、番組をとるかデモをとるか?」と詰問され……「デモをとります」と
これには後日談があって、

いろんな仲間や歌手から、あの歌はヒットするわ! と太鼓判を押されて、素直に「自分が分かっていなかった!」と認めたそうです。

とは言え、いい時代だったのだと思う。1960年代というのが、理由はどうであれ「上を向いて歩く時代」だった。大人はけじめと責任を自覚していた。

岡野さんの「最高の戦術は友情」というのが、心に引っかかるのは、憲法前文と9条の関係をどう捉えるかというのがずっと宿題になっているからである。

基本的には9条は前文を前提にして成り立っている条項だろうと思う。そして前文は過ぐる大戦への痛切な反省を前提にして成り立っているのだろうと思う。

過ぐる大戦は我が国にも深刻な傷跡を残した。とはいえ、それ以上の苦痛を近隣国に与えている。それは間違いなく侵略戦争であった。それは近隣国との友好を一方的に破壊し、その結果として無謀な大戦に突入し、みずからにも多くの犠牲を出した。

それは民主主義の破壊を伴って進行し、ものも言えなくなった国民は、盲いたまま戦争に協力した。

こういうことが二度とあってはならないのである。

だからこそ平和を誠実に希求し、その最大の保障となる「主権在民」の立憲国家を建設した。そして国際的には、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」のである。

そこに語られる「平和」は受け身のものではない。たんに守るものとしての「平和」ではなく、築き上げるべきものとしての平和である。「専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去」する実践の上の「平和」である。

だから、「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」するのであって、そのために「国際紛争を解決する手段として」は「武力による威嚇又は武力の行使」という手段を用いないと決めたのである。

いちばん大事なのはこの「精神」である。国家戦略オプションとしての「非武装」ではない。

現実には、自衛隊という実質的な軍隊が強力な装備を備えている。「交戦権の否認」はほとんど危機に瀕している。さらに日米安保条約というまごうことなき軍事同盟に、がんじがらめに絡め取られている。

しかし肝心なことは、「オプションとしての非武装」が揺らいでいることではない。平和国家としての精神が依然として国民の間に強固に存在し続けていることである。

そして我々が何よりもだいじにしなければならないことは、この平和国家としての精神である。

それが岡野さんの「最高の戦術は友情」というスタンスではないか。

赤旗のスポーツ面に、大住良之さん(サッカー・ジャーナリスト)という方の書いた岡野俊一郎さんへの追悼文が掲載された。
大変格調の高い文章で、印象深いので紹介しておく。
岡野さんは、第二次世界大戦後の日本のサッカーで最大の「知性」でした。
これが書き出し。これだけでも身を乗り出させる。
しばらく経歴紹介があった後、次のエピソードが語られる。
むかし、岡野さんが書いた2枚の色紙、
1枚には「考え、鍛え、そして燃えよう 」という言葉が書いてありました。
岡野さんのイメージそのものです。
もう1枚には「友情こそ最高の戦術 」という言葉が書いてありました。
当時あまりよく理解できませんでしたが、社会人になり、組織の中で働くようになってからです。
岡野さんは常にフェアプレーの大切さを口にしていました。そのベースは、試合相手をふくむ周囲の人々の「友情」にあったに違いありません。(文章は一部編集してあります)
たしかにこの2枚をもらったら、1枚めがわかりやすい分だけ2枚めがわかりにくくなるかもしれない。
2枚めはいわば戦略論だ。「友情」はそれ自体がスポーツの目的・目標であるだけでなく、個別の試合においても力となるものだということだ。勝負は時の運、しかし「良い試合」をメークするのには、「友情こそ最高の戦術」だということか。
しかし私はもう少し生臭く考えたい。試合というのを国際試合、さらに国際紛争というふうに広げて考えれば、ルールの尊重とフェアプレーの精神が必要だ。しかし時にはラフプレーが飛び出すこともある。
そういうときにはルールとかフェアプレー精神をいうだけでなく、その根っこにあるお互いの「友情」をだいじにしていくことが、何よりも重要なことだろうということだ。
いずれにしても、たいへん示唆に富む発言であることは間違いない。岡野さん、大変素晴らしいい遺言をありがとう。

本日の赤旗文芸欄は萩原朔太郎の評論である。

なんでこんな男を赤旗で取り上げなけりゃならないのか、不思議である。

基本的には金持ちの道楽息子で、生活能力がからっきしないから詩人にしかなれなくて、それがたまたまうまく行ってしまった、だけの話ではないか。

だから中身はなんにもない。表現の鮮やかさが人目を引くだけだ。優しさとか、逆に憤りとか、生身の人間が社会との関わりの中で持つ感情がすっぽり欠落している。

彼はまず何よりも評論家であり、それも中身に対する評論でなくそのファッションに関する評論家である。

評論をやっているうちに、そこそこに技法を学び、自分でも書いてみたら存外に評判をとってしまった。

というのが私の萩原朔太郎観であるが、やはりこのようなレッテル貼り、外在的批判は大方のひんしゅくを買うだろうから、すこし青空文庫で「月に吠える」を読むことにしよう。


かなしい遠景
かなしい薄暮になれば、
労働者にて東京市中が満員なり、
それらの憔悴した帽子のかげが、
市街(まち)中いちめんにひろがり、
…なやましい薄暮のかげで、
しなびきつた心臓がシャベルを光らしてゐる。

悲しい月夜

ぬすつと犬めが、
くさつた波止場の月に吠えてゐる。
たましひが耳をすますと、
陰気くさい声をして、
黄いろい娘たちが合唱してゐる、
合唱してゐる。
波止場のくらい石垣で。
…犬よ、
青白いふしあはせの犬よ。

田舎を恐る
わたしは田舎をおそれる、
…くらい家屋の中に住むまづしい人間のむれをおそれる。
…土壌のくさつたにほひが私の皮膚をくろずませる、
…田舎の空気は陰鬱で重くるしい、
田舎の手触りはざらざらして気もちがわるい、
わたしはときどき田舎を思ふと、
きめのあらい動物の皮膚のにほひに悩まされる。
わたしは田舎をおそれる、

かろうじてこれだけ拾い上げた。一言で言えば、「冬の時代」に咲いた東京モダンのあだ花だ。J-ポップのプロモーションビデオを見ている気分。情景は背景にすぎない。

酒精中毒者の死」、「蛙の死」は愚劣で不愉快な詩だ。
何かデジャブーを感じた。
これである。
番組の終盤、彼がグロテスクで・クソリアルな動画を見て激怒したのは、作品そのものというより、つかみかけたCGの将来イメージに真っ向から泥を投げつけられたからに違いない。

その動画は、たしかに画面は動いているが、思考法としては止まっているのである。そこに吹き込まれているのがいのちではなく「死」だからである。いのちとの交わりではなく、いのちのあまりにも無造作なモノ化だからである。

宮崎さんが欲しているのはいのちが紡ぎ出す物語であり、CG屋さんにも、かくあれと欲しているのである。

 

 

我が家のテレビのハードディスクは嫁さんの韓流ドラマで満杯だが、ときどき変な番組が録画されている。

金曜の夜、嫁さんが寝た後、それを消していくのが「儀礼」なのだが、今回は思わず見入ってしまった。

終わらない人 宮崎駿

という番組。

アルコールも効いてきて、ところどころ居眠りしては見るという有様だったが、後半に来て俄然眼が覚めた。

あらすじを語ることは到底できないので、「番組紹介」から引用することにする。

3年前、突然引退を宣言したアニメーション映画監督・宮崎駿さん。世捨て人のような隠居生活を送り、「もう終わった」と誰もが思っていました。でも実は終わっていなかったのです。手描きを貫いてきた宮崎さんが、75歳にしてCGで短編映画に初挑戦。それは長年夢見た幻の企画でした。新たなアニメーションとの格闘を繰り返すなかで、下した大きな人生の決断!「残された時間をどう生きるのか」。独占密着!知られざる700日

というのがあらすじだが、どうも私の感じたのは「老い」とか「残された人生」というのではない。

それはもっと激しいものだ。

CGという表現手段を相手に一種の「異種格闘技」をいどみ、その中でCGの「真の限界」を知り、さらにその根底にある「CGイズム」を峻拒しつつ、自ら歩んできた道の正しさを確認していく作業である。

そのうえで、宮崎さんは新しい長編づくりへの挑戦を宣言するのであるが、それはおそらく主要な問題ではないだろう。その決意に到達するまでの意識の高まりの過程こそがもっとも重要だ。

だからある意味ではこのドキュメンタリーそのものが、宮崎の作品でもあると思う。

1.CGは作品に命を吹き込めない

正確には、「これまでのCGでは」言ったほうが良いのだろう。多分、そのことは宮崎さん自身もそう感じていたから、手書きにこだわってきたのだろう。

ただ、CGはあくまでも技法であり、原理的にはCGだから命を吹き込めないことはない。あくまでも作者の側の問題であるはずだ。

宮崎さんは、この論理と実感の間隙を埋めたくてCGづくりに取りかかったのだろうと思う。「この宿題を解決して置かなければ死ねない」みたいな感じだろうか。

ドキュメンタリーの前半ではこの過程がかなり長々と描かれていく。結局、絵そのものへの介入はすべて失敗に終わる。

それはある意味ではこれまでの作家人生を通じての実感の再確認であったのかもしれない。

それがある日突然ブレイクスルーがやってくる。「そうだ、魚を描こう」

魚が泳ぎ回る世界がまずあって、そこに主人公が登場することで世界はまさに「水を得た魚」のようにいきいきと動き出す。これがひとつ。

もう一つは、その環境に対応する眼差しや体の動きが意味を持つようになる。自然になるというのは、演技でも仕草でもない。そうさせているものとの関係において自然なのだ。

CG(CGイズムというべきかもしれない)は自らの枠の中にすべてを押し込もうとする。自然さえもだ。

しかしその瞬間に生命というものは消えてしまうのではないか。

2.「生きとし生けるもの」としてのいのち

いのちを絵の形であろうと言葉の形であろうと、絡め取りたい、すくい上げたいというのは人間の欲望である。

私は紀貫之の言葉を想起する。「花に鳴く鶯、水にすむ蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌を詠まざりける」

古今和歌集の序文である。

この場合の「生きとし生けるもの」は作家としてのいのちである。それは主体であるとともに、花鳥風月に刺激を受ける受動態としてのワタシである。

そして花鳥風月を描くことによって、それらに生き生きとした能動性を与えるのもワタシだ。そこにはいのちの交流がある。

それと同じように、鶯や蛙も周囲の自然とのいのちの交流の中で輝いている。この二重の交流を画像の中に込めなければならない。

おそらく宮崎さんはCGという苦難の道に踏み込むことで、そのことを別な表現、「魚を描き込むことで主人公に命を吹き込む」というかたちで、難関を突破したのであろう。

3.CGイズムとの闘い

CGというのは表現技術の一つである。しかしほとんど無限の可能性を秘めた表現技術である。

あまりにも急速に革新されているために、技術の高度化がある程度自己目的化されるのもやむを得ない。技術にはそういうところがある。そういう時期なのだ。

だがCGの発展が集団の中で自己目的化されると、そこには独自の哲学が生まれてくる。「CGイズムとCGそのものは分けて考えなければならない」と言っても、実際にCGに携わっている人が共通してそういう言語体系をもってしまえば、一般社会との垣根はますます高くなっていく。

宮崎さんのCGへの取り組みは、CG屋さんの持つそういうイデオロギーとの闘いを抜きに実現し得ない。

CG屋さんは子供の頃宮崎さんのアニメを見て育ったはずだ。宮崎さんは尊敬の対象だ。にも関わらず彼らの言語体系は揺るがない。それとこれとは別なのだ。

これは一見動かしがたい矛盾のように見える。

しかし、宮崎さんはそこに風穴を開けたように一瞬思えた。

それが「いのちと交わり、いのちを紡ぎ出すこと」ということなのだろうと思う。

番組の終盤、彼がグロテスクで・クソリアルな動画を見て激怒したのは、作品そのものというより、つかみかけたCGの将来イメージに真っ向から泥を投げつけられたからに違いない。

その動画は、たしかに画面は動いているが、思考法としては止まっているのである。そこに吹き込まれているのがいのちではなく「死」だからである。いのちとの交わりではなく、いのちのあまりにも無造作なモノ化だからである。

CGはリアルになればなるほどシュール・リアリズムになる。もちろんそれ自体が悪いと言っているのではない。技法の追求は絶対必要だと思う。ただシュール・リアリズムは行き止まりであって、出発点にはならない。

そこからはいかなる物語も紡ぎ出せない。宮崎さんが欲しているのはいのちが紡ぎ出す物語であり、CG屋さんにも、かくあれと欲しているのである。

ところで、宮崎さんがふと鼻歌で歌った「民族独立行動隊の歌」が耳に残る。60年安保の世代なのであろう。

 


こちらのページには別の人が書いた番組紹介がある。

こちらを見たら宮崎さんはもっと憤激するかもしれない。

クールジャパンの基幹コンテンツと期待されながら、国際的にはピクサー、ディズニーらのCGアニメに圧倒されている日本のアニメーション。宮﨑が世に放つ短編は、日本アニメの未来を変える一手となるのか。

こちらはCGオタクではなく、脳ミソがソロバンになっているエコノミック・アニマルだ。

↑このページのトップヘ