鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

カテゴリ: 70 文学・芸術・スポーツ

「私はダニエル・ブレイク」を観てきた、という事実だけを書いておく。
ちょっと設定がウソっぽいのと、展開の必然性が書き込めていないような気がするのだ。
最後のシーンも、いかにもありきたりだ。
私はイギリス映画がちょっと苦手で、イギリス人のユーモア精神の塩っ辛さがどこか合わない。ふと20年位前に見たハービー・カイテルのブルックリンのタバコ屋の映画を思い出した。アングロ・サクソンの感性がピンとこないところが似ている。
ヘイリ・スキアーズという女優がキリッとして魅力的だ。見せ所もいくつかあって、なかなかうまい。娘役の子もいい感じだ。ドレッドヘアーだが、目鼻立ちは東洋風にも見える。
一番の主役は窓口の役人たちかもしれない。それにしては、描き方があまりにも類型的だ。個性をもう少し書き分けると、その上にいるものたちの影がもう少し見えてくるのだろうが。

ブルックリンのタバコ屋の映画というのが気になったが、「スモーク」という映画があって、そのあらすじを読んでもどうも心当たりがない。たしかちらっとマドンナが出てくるので、それを手がかりに探してみると、「スモーク」の続編みたいな映画で、「ブルー・イン・ザ・フェイス」というのがあったようだ。多分2本立てで、何かのついでに見たのだろうか、そちらについてはまるで覚えがない。

赤旗のラ・テ欄の片隅の記事。
意外な事実が記されていたので転載する。

永六輔
ファクトとしては
1.永六輔は60年の安保で毎日のようにデモに参加した。
2.安保後の挫折感の中で、反戦歌「上を向いて歩こう」が作られた。
3.しかし坂本九の“ふにゃふにゃ”歌唱は永六輔をがっかりさせた。
4.そのため、永六輔は葛藤の末に引退を宣言した。
初めて聞いた話ばかりだ。
生前は明らかにしにくかったのか?

私にとってはかなりの大ニュースだ。もう少し詳しく知りたいと探してみた。
WOOM-song.clubというサイトに
永六輔の生き方に学べ!『上を向いて歩こう』作詞秘話
という話が載っていた。著者は野口義修さんという方。
ここに経過がかなり詳しく説明されている。
読んでいただければよいのだが、かいつまんで紹介しておく。

1961年7月21日、第三回中村八大リサイタルにおいて「上を向いて歩こう」が発表されました。
このとき永六輔は28歳、中村八大が30歳、そして坂本九は19歳だった。
どうも坂本九というより中村八大の曲に対する不満が先にあったようだ。
自分の思いを込めた歌詞を、メロディーと歌い方で台無しになされた! こんな下手な歌と歌詞に対するメロディーの組み立ても許せない!  と烈火のごとく怒り心頭だったそうです。
なぜそこまで怒ったのかという背景が、60年安保闘争だ。
永さんは、実際に自分もデモに参加した1960年の安保闘争での敗北をテーマに歌詞を書きました。それが、「上を向いて歩こう」です。デモの帰り道、泣きながら夜空を見上げた思い出の歌詞だったのです。
…永さんは、安保デモに出るために、自分が台本を担当していた番組を降板しています。プロデューサーから、「君は、番組をとるかデモをとるか?」と詰問され……「デモをとります」と
これには後日談があって、

いろんな仲間や歌手から、あの歌はヒットするわ! と太鼓判を押されて、素直に「自分が分かっていなかった!」と認めたそうです。

とは言え、いい時代だったのだと思う。1960年代というのが、理由はどうであれ「上を向いて歩く時代」だった。大人はけじめと責任を自覚していた。

岡野さんの「最高の戦術は友情」というのが、心に引っかかるのは、憲法前文と9条の関係をどう捉えるかというのがずっと宿題になっているからである。

基本的には9条は前文を前提にして成り立っている条項だろうと思う。そして前文は過ぐる大戦への痛切な反省を前提にして成り立っているのだろうと思う。

過ぐる大戦は我が国にも深刻な傷跡を残した。とはいえ、それ以上の苦痛を近隣国に与えている。それは間違いなく侵略戦争であった。それは近隣国との友好を一方的に破壊し、その結果として無謀な大戦に突入し、みずからにも多くの犠牲を出した。

それは民主主義の破壊を伴って進行し、ものも言えなくなった国民は、盲いたまま戦争に協力した。

こういうことが二度とあってはならないのである。

だからこそ平和を誠実に希求し、その最大の保障となる「主権在民」の立憲国家を建設した。そして国際的には、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」のである。

そこに語られる「平和」は受け身のものではない。たんに守るものとしての「平和」ではなく、築き上げるべきものとしての平和である。「専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去」する実践の上の「平和」である。

だから、「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」するのであって、そのために「国際紛争を解決する手段として」は「武力による威嚇又は武力の行使」という手段を用いないと決めたのである。

いちばん大事なのはこの「精神」である。国家戦略オプションとしての「非武装」ではない。

現実には、自衛隊という実質的な軍隊が強力な装備を備えている。「交戦権の否認」はほとんど危機に瀕している。さらに日米安保条約というまごうことなき軍事同盟に、がんじがらめに絡め取られている。

しかし肝心なことは、「オプションとしての非武装」が揺らいでいることではない。平和国家としての精神が依然として国民の間に強固に存在し続けていることである。

そして我々が何よりもだいじにしなければならないことは、この平和国家としての精神である。

それが岡野さんの「最高の戦術は友情」というスタンスではないか。

赤旗のスポーツ面に、大住良之さん(サッカー・ジャーナリスト)という方の書いた岡野俊一郎さんへの追悼文が掲載された。
大変格調の高い文章で、印象深いので紹介しておく。
岡野さんは、第二次世界大戦後の日本のサッカーで最大の「知性」でした。
これが書き出し。これだけでも身を乗り出させる。
しばらく経歴紹介があった後、次のエピソードが語られる。
むかし、岡野さんが書いた2枚の色紙、
1枚には「考え、鍛え、そして燃えよう 」という言葉が書いてありました。
岡野さんのイメージそのものです。
もう1枚には「友情こそ最高の戦術 」という言葉が書いてありました。
当時あまりよく理解できませんでしたが、社会人になり、組織の中で働くようになってからです。
岡野さんは常にフェアプレーの大切さを口にしていました。そのベースは、試合相手をふくむ周囲の人々の「友情」にあったに違いありません。(文章は一部編集してあります)
たしかにこの2枚をもらったら、1枚めがわかりやすい分だけ2枚めがわかりにくくなるかもしれない。
2枚めはいわば戦略論だ。「友情」はそれ自体がスポーツの目的・目標であるだけでなく、個別の試合においても力となるものだということだ。勝負は時の運、しかし「良い試合」をメークするのには、「友情こそ最高の戦術」だということか。
しかし私はもう少し生臭く考えたい。試合というのを国際試合、さらに国際紛争というふうに広げて考えれば、ルールの尊重とフェアプレーの精神が必要だ。しかし時にはラフプレーが飛び出すこともある。
そういうときにはルールとかフェアプレー精神をいうだけでなく、その根っこにあるお互いの「友情」をだいじにしていくことが、何よりも重要なことだろうということだ。
いずれにしても、たいへん示唆に富む発言であることは間違いない。岡野さん、大変素晴らしいい遺言をありがとう。

本日の赤旗文芸欄は萩原朔太郎の評論である。

なんでこんな男を赤旗で取り上げなけりゃならないのか、不思議である。

基本的には金持ちの道楽息子で、生活能力がからっきしないから詩人にしかなれなくて、それがたまたまうまく行ってしまった、だけの話ではないか。

だから中身はなんにもない。表現の鮮やかさが人目を引くだけだ。優しさとか、逆に憤りとか、生身の人間が社会との関わりの中で持つ感情がすっぽり欠落している。

彼はまず何よりも評論家であり、それも中身に対する評論でなくそのファッションに関する評論家である。

評論をやっているうちに、そこそこに技法を学び、自分でも書いてみたら存外に評判をとってしまった。

というのが私の萩原朔太郎観であるが、やはりこのようなレッテル貼り、外在的批判は大方のひんしゅくを買うだろうから、すこし青空文庫で「月に吠える」を読むことにしよう。


かなしい遠景
かなしい薄暮になれば、
労働者にて東京市中が満員なり、
それらの憔悴した帽子のかげが、
市街(まち)中いちめんにひろがり、
…なやましい薄暮のかげで、
しなびきつた心臓がシャベルを光らしてゐる。

悲しい月夜

ぬすつと犬めが、
くさつた波止場の月に吠えてゐる。
たましひが耳をすますと、
陰気くさい声をして、
黄いろい娘たちが合唱してゐる、
合唱してゐる。
波止場のくらい石垣で。
…犬よ、
青白いふしあはせの犬よ。

田舎を恐る
わたしは田舎をおそれる、
…くらい家屋の中に住むまづしい人間のむれをおそれる。
…土壌のくさつたにほひが私の皮膚をくろずませる、
…田舎の空気は陰鬱で重くるしい、
田舎の手触りはざらざらして気もちがわるい、
わたしはときどき田舎を思ふと、
きめのあらい動物の皮膚のにほひに悩まされる。
わたしは田舎をおそれる、

かろうじてこれだけ拾い上げた。一言で言えば、「冬の時代」に咲いた東京モダンのあだ花だ。J-ポップのプロモーションビデオを見ている気分。情景は背景にすぎない。

酒精中毒者の死」、「蛙の死」は愚劣で不愉快な詩だ。
何かデジャブーを感じた。
これである。
番組の終盤、彼がグロテスクで・クソリアルな動画を見て激怒したのは、作品そのものというより、つかみかけたCGの将来イメージに真っ向から泥を投げつけられたからに違いない。

その動画は、たしかに画面は動いているが、思考法としては止まっているのである。そこに吹き込まれているのがいのちではなく「死」だからである。いのちとの交わりではなく、いのちのあまりにも無造作なモノ化だからである。

宮崎さんが欲しているのはいのちが紡ぎ出す物語であり、CG屋さんにも、かくあれと欲しているのである。

 

 

我が家のテレビのハードディスクは嫁さんの韓流ドラマで満杯だが、ときどき変な番組が録画されている。

金曜の夜、嫁さんが寝た後、それを消していくのが「儀礼」なのだが、今回は思わず見入ってしまった。

終わらない人 宮崎駿

という番組。

アルコールも効いてきて、ところどころ居眠りしては見るという有様だったが、後半に来て俄然眼が覚めた。

あらすじを語ることは到底できないので、「番組紹介」から引用することにする。

3年前、突然引退を宣言したアニメーション映画監督・宮崎駿さん。世捨て人のような隠居生活を送り、「もう終わった」と誰もが思っていました。でも実は終わっていなかったのです。手描きを貫いてきた宮崎さんが、75歳にしてCGで短編映画に初挑戦。それは長年夢見た幻の企画でした。新たなアニメーションとの格闘を繰り返すなかで、下した大きな人生の決断!「残された時間をどう生きるのか」。独占密着!知られざる700日

というのがあらすじだが、どうも私の感じたのは「老い」とか「残された人生」というのではない。

それはもっと激しいものだ。

CGという表現手段を相手に一種の「異種格闘技」をいどみ、その中でCGの「真の限界」を知り、さらにその根底にある「CGイズム」を峻拒しつつ、自ら歩んできた道の正しさを確認していく作業である。

そのうえで、宮崎さんは新しい長編づくりへの挑戦を宣言するのであるが、それはおそらく主要な問題ではないだろう。その決意に到達するまでの意識の高まりの過程こそがもっとも重要だ。

だからある意味ではこのドキュメンタリーそのものが、宮崎の作品でもあると思う。

1.CGは作品に命を吹き込めない

正確には、「これまでのCGでは」言ったほうが良いのだろう。多分、そのことは宮崎さん自身もそう感じていたから、手書きにこだわってきたのだろう。

ただ、CGはあくまでも技法であり、原理的にはCGだから命を吹き込めないことはない。あくまでも作者の側の問題であるはずだ。

宮崎さんは、この論理と実感の間隙を埋めたくてCGづくりに取りかかったのだろうと思う。「この宿題を解決して置かなければ死ねない」みたいな感じだろうか。

ドキュメンタリーの前半ではこの過程がかなり長々と描かれていく。結局、絵そのものへの介入はすべて失敗に終わる。

それはある意味ではこれまでの作家人生を通じての実感の再確認であったのかもしれない。

それがある日突然ブレイクスルーがやってくる。「そうだ、魚を描こう」

魚が泳ぎ回る世界がまずあって、そこに主人公が登場することで世界はまさに「水を得た魚」のようにいきいきと動き出す。これがひとつ。

もう一つは、その環境に対応する眼差しや体の動きが意味を持つようになる。自然になるというのは、演技でも仕草でもない。そうさせているものとの関係において自然なのだ。

CG(CGイズムというべきかもしれない)は自らの枠の中にすべてを押し込もうとする。自然さえもだ。

しかしその瞬間に生命というものは消えてしまうのではないか。

2.「生きとし生けるもの」としてのいのち

いのちを絵の形であろうと言葉の形であろうと、絡め取りたい、すくい上げたいというのは人間の欲望である。

私は紀貫之の言葉を想起する。「花に鳴く鶯、水にすむ蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌を詠まざりける」

古今和歌集の序文である。

この場合の「生きとし生けるもの」は作家としてのいのちである。それは主体であるとともに、花鳥風月に刺激を受ける受動態としてのワタシである。

そして花鳥風月を描くことによって、それらに生き生きとした能動性を与えるのもワタシだ。そこにはいのちの交流がある。

それと同じように、鶯や蛙も周囲の自然とのいのちの交流の中で輝いている。この二重の交流を画像の中に込めなければならない。

おそらく宮崎さんはCGという苦難の道に踏み込むことで、そのことを別な表現、「魚を描き込むことで主人公に命を吹き込む」というかたちで、難関を突破したのであろう。

3.CGイズムとの闘い

CGというのは表現技術の一つである。しかしほとんど無限の可能性を秘めた表現技術である。

あまりにも急速に革新されているために、技術の高度化がある程度自己目的化されるのもやむを得ない。技術にはそういうところがある。そういう時期なのだ。

だがCGの発展が集団の中で自己目的化されると、そこには独自の哲学が生まれてくる。「CGイズムとCGそのものは分けて考えなければならない」と言っても、実際にCGに携わっている人が共通してそういう言語体系をもってしまえば、一般社会との垣根はますます高くなっていく。

宮崎さんのCGへの取り組みは、CG屋さんの持つそういうイデオロギーとの闘いを抜きに実現し得ない。

CG屋さんは子供の頃宮崎さんのアニメを見て育ったはずだ。宮崎さんは尊敬の対象だ。にも関わらず彼らの言語体系は揺るがない。それとこれとは別なのだ。

これは一見動かしがたい矛盾のように見える。

しかし、宮崎さんはそこに風穴を開けたように一瞬思えた。

それが「いのちと交わり、いのちを紡ぎ出すこと」ということなのだろうと思う。

番組の終盤、彼がグロテスクで・クソリアルな動画を見て激怒したのは、作品そのものというより、つかみかけたCGの将来イメージに真っ向から泥を投げつけられたからに違いない。

その動画は、たしかに画面は動いているが、思考法としては止まっているのである。そこに吹き込まれているのがいのちではなく「死」だからである。いのちとの交わりではなく、いのちのあまりにも無造作なモノ化だからである。

CGはリアルになればなるほどシュール・リアリズムになる。もちろんそれ自体が悪いと言っているのではない。技法の追求は絶対必要だと思う。ただシュール・リアリズムは行き止まりであって、出発点にはならない。

そこからはいかなる物語も紡ぎ出せない。宮崎さんが欲しているのはいのちが紡ぎ出す物語であり、CG屋さんにも、かくあれと欲しているのである。

ところで、宮崎さんがふと鼻歌で歌った「民族独立行動隊の歌」が耳に残る。60年安保の世代なのであろう。

 


こちらのページには別の人が書いた番組紹介がある。

こちらを見たら宮崎さんはもっと憤激するかもしれない。

クールジャパンの基幹コンテンツと期待されながら、国際的にはピクサー、ディズニーらのCGアニメに圧倒されている日本のアニメーション。宮﨑が世に放つ短編は、日本アニメの未来を変える一手となるのか。

こちらはCGオタクではなく、脳ミソがソロバンになっているエコノミック・アニマルだ。

田口道昭さんが石川啄木の「地図の上朝鮮国にくろぐろと~」の歌をめぐってという文章を書いている。

関心は、どうして歌人の中で啄木のみがこのような思索に達し得たのかということだ。

この歌は明治43年(1910年)に「創作」という一連の作歌に収録され、「9月の夜の不平」という一連の中の一首とされている。

朝鮮併合が行われたのはその1ヶ月前のことだ。

日露戦争に「君死にたもうことなかれ」を書いた与謝野晶子は、朝鮮併合を次のようにたたえている。

韓国に 綱かけて引く神わざを 今の現に見るが尊さ

幸徳秋水の「帝国主義」やその非戦論も、帝国主義戦争への批判にとどまり、植民地獲得競争への視点、朝鮮固有の問題への認識へと発展していなかった。

それでは啄木は独力でこの境地を生み出したのか。

そこで田口さんは先行者としての木下尚江を押し出している。

朝鮮併合の6年前、明治37年6月に木下尚江は平民新聞に「敬愛なる朝鮮」という論文を発表している。記事そのものは無署名で、後の調査で木下の筆によるものであることが明らかになった。

政治家は曰く、「我らは朝鮮独立のために、かつて日清戦役を敢行し、また日露戦争を開始するに至れり」と。

かくて我らは「政治上より朝鮮救済を実行せん」と誇称しつつあり。

然れども、彼らがいうところの「政治的救済」なるものが、果たして朝鮮の独立を擁護する所以なるか否かは、吾人は容易に了解すること能わず。

まことにこれを朝鮮国民の立場より観察せよ。

これ、一に、日本・支那・ロシア諸国の権力的野心が、朝鮮半島という「空虚」を衝ける競争に過ぎざるにあらずや

明治37年6月(1904年)という日付けに注目していただきたい。日露戦争が始まったのがこの年の2月、まさに戦争の真っ最中なのである。

前月、鴨緑江会戦でロシア軍を撃破、ついで第2軍が大連を攻略し、遼陽に向け進軍を開始しようとするさなかである。

まさに命がけの記事であったことは間違いないと思う。

ただこの記事は「黒々と」の歌の6年も前のものだ。当時啄木は18歳。東京で気鋭の歌人としてデビューしたばかりの頃である。この記事を読んでいたかどうかさえ定かではない。

ついで田口さんが挙げるのが、朝日新聞の連載「恐るべき朝鮮」である。

この記事は明治42年(1909年)に24回連続で掲載された。渋川という記者の現地紀行文である。

この記事は決して思想的なものではなかったが、挿話として日本の横暴の実態が散りばめられていたらしい。当時、朝日新聞で校正の仕事をしていた啄木は、このような朝鮮の状況をドイツをロシアに挟まれ、祖国を失ったポーランドへの同情と重ねていたのではないか、と田口さんは見ている。

そして最大の引き金となったのが、大逆事件である。以前の記事でも書いたが、啄木はこの事件に並々ならぬ関心を抱いていたし、場合によっては主体的に関わろうくらいの気持ちを持っていた。

彼の眼にはこれが一揆主義者の暴発と、それを奇貨とした政府の社会主義者弾圧のためのでっち上げであることは明らかだった。

そしてこの弾圧が目前に迫った朝鮮併合をつつがなく行うための予防措置であると啄木は予感した。


というのが田口さんのあらあらの主張である。

こういうことだろう。

啄木は朝日新聞の校正部に職を得て以降、急速に知識を広げ、社会的自覚を高め、一匹狼から組織的行動へと変身を遂げ、新聞記者ではないが人一倍ジャーナリストとしての身構えを身につけることになった。

感想になるが、

啄木像は、まず1909年3月、朝日新聞就職後の最後の3年を原像として把握すべきではないか。それでも24歳から26歳だ。この年にしちゃあ立派なもんだ。

それ以前の啄木は「プレ啄木」というか、成人啄木に至るまでの修行時代、ビルドゥングスロマンとしてみておくべきではないか。

「見よ、飛行機の高く飛べるを」は、その完成期における詩として、大人の詩としてみておくべきだろう。

2012年12月23日の記事 に現れた、天才少年歌人としてのやや酷薄な啄木像は、すでにそこにはない。

ふと見つけた講義録が大変面白かったので紹介する。

会計学の根底にあるもの」となっている

田中章義さんという東京経済大学の教授だった方が、2005年に行った最終講義のようだ。当時70歳、いまの私と同じだ。

講義は生い立ちから述べられている。札幌の山鼻の生まれ。結核で2年休学してからの北大入学だから、イールズ世代と安保世代の中間ということになる。

農村セツルメント「どんぐり会」で活動していたと言うが、私の入学する6年も前に卒業しているから面識はない。

ということで、話そのものが面白いのだが、今日取り上げるのはその中で石川啄木の「飛行機」という詩を引用されたところ。大変良い詩なので、そのまま重複引用させてもらう。ただし、多少の異同があるので、元の詩そのものを引用する。

講談社版『日本現代文学全集』39「石川啄木集」(昭和39年2月19日発行)

       飛  行 機     
         
 1911.6.27.TOKYO.

見よ、今日も、かの蒼空に
飛行機の高く飛べるを。

給仕づとめの少年が
たまに非番の日曜日、
肺病やみの母親とたつた二人の家にゐて、
ひとりせつせとリイダアの獨學をする眼の疲れ……

見よ、今日も、かの蒼空に
飛行機の高く飛べるを。

啄木25歳(死の前年)、明治44年(1911年)6月27日の作です。「はてしなき議論の後」などの詩と一連です(詩集『呼子と口笛』)。

岩城之徳の解説によると、

この詩には、少年が「飛行機」に仮託した夢と、少年の暗い現実が意味する作者の絶望感との両者が並行して提示されている。つまり一編の主題はどちらか一方のみをいうことにはなく、両者の関係をいうことにあったのだろう。すなわちこれは、脱出しようもない人生の暗さを自覚するがゆえに、いっそうそこからの跳躍を願い、また願わなければならないと思う作者の心情を表白した詩である。

引用しておいていうのもなんだが、「あんたの意見を聞きたいんじゃないんだよ」とおもう。こういうのを蛇足と言うんだろう。

それにしてもひでぇ文章だ。「つまり」と「すなわち」を並べ立てるなど愚の骨頂だが、それでも「要するに、結局のところ」ともう一文入れたくなるくらい、まとまっていない。これで原稿料とるとは相当のいい度胸だ。


何も説明の要らない詩だが、強調するとすれば、「はるけき夢と希望」(明治44年における飛行機と、今日の我々にとっての飛行機とはまったく意味合いが違う。なにせ蝋燭の炎の下で果てしない議論を繰り返していた時代だ)と、少年を見つめる作者の眼差しの優しさだ。

それが「されど誰ひとりとしてヴ・ナロードを…」の「はてしなき議論の後」と引き立て合っているかもしれない。なにせ大逆事件の直後だ。そして自らにも死が忍び寄っている。

そういう閉塞感の中の抜けるような蒼空の一瞬だ。悲しいわけではないが、何故か目頭が潤んでくるような光景ではないか。

本日の文化面の「潮流」というコラム。
見出しは「ノーマ・フィールドの指摘」というもの。
ノーマ・フィールドは小林多喜二の紹介者として有名な日本文学研究者。
私も一度講演を聞いたことがある。
記事は、ノーマ・フィールドが中心となって「プロレタリア文学研究」が発行されたことに関するものだ。
それについての説明は省くが、記者が紹介したノーマ・フィールドのリアルタイムの問題意識が面白い。
白人貧困層から後ずさりする白人リベラル
彼女はトランプ現象を前に、「白人リベラルが白人貧困層にかける言葉を持たない 」という問題が浮上したと考えた。記者はこの問題について、「ノーマ氏は鋭い目を向ける」と表現している。
それは「(白人リベラルが)白人貧困層を同じ人間として見なすことができなかったことではないのか
解答は実践にあり
その視点から、プロレタリア文学運動の魅力をあらためて見直してみると、そこには答えがあるという。
プロレタリア文学の何よりもの特徴が参加者の「実践」的姿勢にあったということだ。
ふつうは顧みられない、社会の底辺に暮らす人々をだいじに、立体的に、具体的に 」把握することが出発点である。
そして「軽視された人生に尊厳を吹き込む行為 」として結実させなければならない。
「かけるべき言葉」を失ったリベラル
その営みを通じて、「貧困層を同じ人間としてみなす」ことができるようになるのではないか。
翻ってみればリベラル層はその営みを軽視し、積み上げてこなかったのではないか。
我々の掲げるスローガンが草の根に届かないもどかしさは、日頃感じるところであるが、それは庶民語で話そうとしない我々の側の怠惰に起因しているのではないか。我々の言葉は意味を失って浮遊しているのではないか。
ノーマ・フィールドはそこまで掘り下げた上で、あえて「言葉を失ったリベラル」を叱咤し、「言葉を取り戻せ」と呼びかけているように思える。



突然映画づいてしまって、「エル・クラン」のあとは中井貴一の「グッドモーニングショー」、そして今週は宮沢りえの「湯をわかすほどの熱い愛」だ。
実は最初から「湯をわかすほどの熱い愛」がお目当てだったのだが、題材柄、なかなか男一人では入りにくい映画で、つい隣の映画館に入ってしまう、ということの繰り返しだった。
本日はついに意を決して家を出た。シアターキノという昔ながらの映画館で、ここに入るということはこの映画を見るという選択しかない。

結論は「正解」だったね。
とにかく泣ける。暗い悲しい映画ではなく、明るい前向きの映画なのだが、ひたすら泣けてしまう。特に後半に入ってからはほとんど泣きっぱなしの失禁状態だ。悲しいから、つらいから、くやしいから泣くんじゃない。気がついたらひとりでに涙が出てきてしまっているのだ。
これは絶対に一人で観に行く映画だ。誰かと行ったんじゃ、恥ずかしくてしようがない。女性はすっぴんで行かないとあとで困りますよ。
そして映画が終わったときの何たる清々しさか。
リアルな世界と紙一重のファンタジーだから、あまり生活臭が出すぎても困る、とスタッフは考えたのだろう。もっとリアルさを追求するなら別のキャスティングもあったろう。
そこで宮沢りえとオダギリジョーという二人を持ってきた。そのことでメソメソしない映画ができたのだろうと思う。
ネタバレになるかもしれないが、涙が噴水のように飛び出した場面が2つある。一つは若者を突然抱きしめる場面、もう一つは瞼の母の家を訪ねて、その家の窓に礫を投げつける場面だ。これは宮沢りえ以外の誰にも演じらない。最後に近く、ガンの苦痛に身悶えするシーンもまぶたに焼き付いて離れない。

本当にいい映画だった。もう一回行きたいくらいだ。ありがとう。

これも本日の赤旗、文化面

坪内稔典という俳人が「文学のある日々」というエッセーを連載している。いつもちょっとツボにはまらないもどかしさがあるのだが、今回の「子供と言葉」というエッセーには素晴らしい俳句が載せられている。

俳句と言っていいのか分からないが、俳人が自ら俳句だと言っているのだから、俳句で良いのだろう。

※ ※ 

私はときどき、小学生たちと俳句を作る。その際、自己紹介代わりに自作を音読してもらう。

三月の 甘納豆の うふふふふ

たんぽぽの ぽぽのあたりが 火事ですよ

春の風 ルンルンけんけん あんぽんたん

これら私の句をいっしょに音読すると、子どもたちの緊張感がたちまちほぐれ…

とまぁ、そんな文章なのだが、

一人でもぐもぐと口のなかで音読しても、たしかに うふふふふ だ。

三句とも語頭にアクセントがあって、「の」の字が多くて、「の」つながりの言葉の電車だ。

意味は基本的に否定されているが、春の野焼きのような浮き浮きした気分が満載だ。

“あんぽんたん” も甘納豆も、かすかに古めかしい。

とにかく、とってもチャーミングだ。

甘納豆の うふふふふ」はおそらく一生耳の奥に残るだろう。


電力村の横暴がこの国を貶めている 石炭火発 推進の背景

香港 雨傘運動の経過

ワレンバーグ スエーデン外交官 ハンガリー ユダヤ人救出 ソ連による逮捕と殺害

医療・介護 改悪 工程表

「風に吹かれて」ってそんなにいい詩なのかね?

うんと意訳しながら辿ってみると、

あいつはどのくらい苦労したらいいんだい

君があいつを「男だ」って言う前に、

大砲の弾は何発飛んだら禁止されるんだい

ねえ君、そんなことなんかわかりっこないよ

風の向くままさ

これが一番だ。

二番はもっと嘲りのニュアンスが強い

山があるだろう

それが全部雨で流されて消えるのに何年かかる?

人々が自由になるのに何年かかるだろう

それまで生きていられるかな

それまで見て見ぬふりをするために、

何回首を傾げるかな

ねえ君、そんなことなんかわかりっこないよ

風の向くままさ

三番はそれまでより少しまともである

話によると、最初は三番が二番で、二番は後から突っ込んだものらしい。

人は何度見上げたら空が見えるようになるのだろう

人はいくつの耳を持たなければならないのだろう

人々の悲鳴を聞けるようになるのに

一体何人が殺されたら、彼は

あまりにも多くの人が死んでしまったと悟るのか

ねえ君、そんなことなんかわかりっこないよ

風の向くままさ

ボブ・ディランは仲間と議論していて、急にこの歌詞を思いついたそうである。

結局彼の言いたいことは、「そんなことなんかわかりっこないよ」ということだ。彼が議論からそろそろと後ずさりしているさまが目に浮かぶ。

何かしら、嫌な苦味の残る歌詞である。

同じボブでも、ボブ・マーレーはいいぞ。

すみません。私は柴田トヨさんという人をぜんぜん知りません。なので「詩人柴田トヨ」と呼び捨てにするのはちょっと抵抗があります。

90歳を過ぎて詩作を始めた。

第一詩集は160万部のベストセラーになった。

詩壇は柴田のことを無視し続けた。

柴田を詩人ともてはやすマスコミに苦言を呈する“現代詩人”がいた。

といわれると、「ほお、そうか」というしかありません。

ちょっとグーグル検索してみました。

ウィキによると

1911年(明治44年)生まれ 2013年の死亡とあり、3年前に101才で亡くなった人だと分かります。

いろいろ辛い人生を送った後、92歳から詩作を始め、産経新聞の投稿詩人となった。テレビやラジオでたびたび取り上げられ、詩集『くじけないで』が160万部を記録した。

プロフィール

ということで、けっこうな人気だったようです。産経系だったので私の目には触れなかったのかもしれません。

それで実際の作品はどんなものだったのか。著作権侵害を恐れずに拾ってみる。

以下は柴田トヨさんさんの詩の頁から転載

くじけないで

ねえ 不幸だなんて
溜息をつかないで

陽射しやそよ風は
えこひいきしない

夢は
平等に見られるのよ

私 辛いことが
あったけれど
生きていてよかった

あなたもくじけずに

神様

お国のために と
死にいそいだ
若者たちがいた

いじめを苦にして
自殺していく
子供たちがいる

神様

生きる勇気を
どうして
あたえてあげなかったの

戦争の仕掛け人
いじめる人たちを
貴方の力で
跪かせて

化粧

倅が小学生の時
お前の母ちゃん
綺麗だなって
友達に言われたと
うれしそうに
言ったことがあった

それから丹念に
九十七の今も
おつくりをしている

誰かに ほめられたくて

先生に

私を
おばあちゃん と
呼ばないで

「今日は何曜日?」
「9+9は幾つ?」
そんな バカな質問も
しないでほしい

「柴田さん
西条八十の詩は
好きですか?
小泉内閣を
どう思います?」

こんな質問なら
うれしいわ

と、まぁ、技法的には小学生の作文である。

ただテクニックというのはその気になれば急速に向上するものであるから、本当は最初の詩から順に並べながら、その流れを評価しなければならないだろうが、そこまでの気持ちは起きない。

正直言えば陳腐である。「100歳でよくおできになりましたね」と言う言葉が咽喉まで出掛かる。

以前に柳原白蓮の歌を観賞したときの凛とした感動はそこにはない。むかし山形の小学生の綴り方を詠んだ時の泣けるような感動もない。

「ある現代詩人」の感想は、それはそれとしてうなづけるのである。ノーベル賞のアカデミーが「それをいっちゃあおしまいだよ」なのと同じように、「現代詩人たるもの、それは禁句だぞ」といわれると、「現代詩人ってそんなご大層なものかい」と絡みたくなる気がしないでもない。

どうも木島章さんの腹の底が見えず、なんとなし、いやな感じである。

どうも昨日の赤旗の記事が気になってしかたがない。

文化面の「詩壇」というコラムで、題名は「社会と乖離する危機」、著者は木島章さんという人で、肩書きは詩人。

短い記事だがいくつかの内容が含まれる。

最初がボブ・ディランのノーベル賞受賞の話。

ノーベル賞の主催団体がボブ・ディランに連絡をとろうとしたが、当初、ボブ・ディランが態度表明をしなかった問題。これはいまだに真相が分からないので評価のしようがない。

ついで、ノーベル賞のアカデミーがボブ・ディランを「無礼で傲慢だ」と発言したという話。これも真偽のほどはたしかでない。しかしそれが世界中に波紋を呼び、ノーベル賞団体こそ傲慢だと批判を浴びてしまった話。これも、「どうでもいいじゃん」という感じだ。

ただノーベル賞側が不愉快に感じても不思議ではないと思う。たしかにボブ・ディラン側の対応は失礼だ。同時にそれを表に出すのも大人気ないかなとは思う。そんなことを表に出せば、どうせ「傲慢だ」と切り返されるのは当たり前だ。

そこで木島さんの見解は次のようなものだ

ノーベル賞の権威にひれ伏さないディランをののしったアカデミーは傲慢である。(正確な引用は後出)

これは、やはり一方的な断罪といわざるを得ない。とにかく一連の経過を評価する上で、「なぜ」という事実が一つも明らかにされていないからだ。

この段階で木島さんの言うことに「そうだ、そうだ」と同感することは出来ない。ただ、木島さんがボブ・ディランをきわめて高く評価していることは実感できる。

ただボブ・ディランの話はここでの主題ではないのでこれ以上の議論はしないで置く。

次が、詩人柴田トヨをめぐる議論。

ボブ・ディランのときと同じように、いくつかの事実が並べられる。

90歳を過ぎて詩作を始めた。

第一詩集は160万部のベストセラーになった。

詩壇は柴田のことを無視し続けた。

柴田を詩人ともてはやすマスコミに苦言を呈する“現代詩人”がいた。

これらの事実から木島さんはつぎの結論を引き出す。

現代詩を高みに置き、彼女を見下すように排除する詩人たちに、ノーベル賞の権威にひれ伏さないディランをののしったアカデミーと同様、傲慢さしか感じられないのは私だけだろうか。

「私だけ」かどうかは別にしても、ボブ・ディランと柴田を同列に扱い、一方でノーベル賞のアカデミーと、現代詩のしがない「詩壇」とを同列に置く視点というか論理はかなり特殊なものと見てよいだろう。

そしてこの文章の最終的結論はこうなる。

柴田の人気の陰で、現代詩がますます社会と乖離していく危機感を抱かずにはいられない。

こうなると、あたかも現代詩が柴田を評価しないことと、現代詩が社会から乖離していることが、因果関係にあるかのように思えてしまう。そう読めてしまうのは私だけであろうか。


『武道論集』という文章があった。

2008年に国際武道大学附属武道・スポーツ科学研究所が発行したもので、ありがたいことにPDFファイルで読める。

目次を見ると、実に総括的な力作で、ただで読むのがもったいないくらいだ。

とりあえず、第二章の章末の剣道歴史年表から始めようか。すべてを転載するのも煩わしいので、項目を絞ることにする。そのかわりウィキなどから解説を拾い、読み物になるようにした。

《剣道歴史年表》

10 世紀後半 反りと鎬(しのぎ)をもつ日本刀が出現。刀の柄が長くなり、「片手持ち」から「両手持ち」へと変わる。

本来、諸刃のものが剣で片刃が刀であるが、日本では諸刃の使用は定着しなかったため、混同が見られる。

平安時代後期から武家の勢力が増大し、これに伴い太刀が発達する。通常これ以降の物を日本刀とする。(ウィキ)

平治 1 (1159) 源義経、鞍馬山で鬼一法眼に剣を学んだといわれる。

鬼一法眼は京・鞍馬の陰陽師で、京八流(鞍馬寺の八人の僧に教えた剣法)の祖とされる。剣術の担い手は武士ではなく僧であったといわれる。

弘和 4 (1384) 中条兵庫助長秀、将軍足利義満に召され剣道師範となる。(この記載については

応永15(1408) 念阿弥慈音、摩利支天のお告げにより念流を創立。信州波合に長福寺を建立。(この記載については

15世紀後半 剣術・槍術・柔術などの流派が誕生し始める。

文正 1 (1466) 伊勢の剣客、愛洲移香斎久忠(あいすいこうさい)、各地を流浪の末、日向で陰流を開く。(ウィキによれば移香斎は法名で本名は太郎)

代わった名前だが、これは伊勢の豪族(水軍)愛洲氏の流れをくむ。愛洲氏は遣明貿易にも携わっていた。移香斎も明を始め各地を旅していたという。

1467年 応仁の乱。戦国時代の始まり。弱肉強食と下克上が支配的思想となる。

それまで剣術は武術のひとつに過ぎなかった。
武芸十八般: 弓術・馬術・剣術・短刀術・居合術・槍術・薙刀術・棒術・杖術・柔術・捕縄術・三つ道具・手裏剣術・十手術・鎖鎌術・忍術・水泳術・砲術

大永 2 (1522) 香取神道流の流れをくむ塚原ト伝、新当流を開く。

享禄 2 (1529) 上泉伊勢守、愛洲移香より陰流を授かる。新影流を開く。

天文3年(1543) 鉄砲の伝来。急速に戦闘の主役となる。

鉄砲による先制攻撃と、軽装備の武者による白兵戦が普及。合戦の場における剣術の意味が重視されるようになる。

永禄 8 (1565) 柳生但馬守宗厳、上泉より一国一人印可を授かり、柳生新陰流を創始。

天正 4 (1576) 念流の流れをくむ伊藤一刀斎景久、小野派一刀流を創始。

文禄 3 (1594) 徳川家康、柳生石舟斎・宗矩父子に起請文を差し出す。徳川幕府は小野派一刀流と柳生新陰流を公式流派とする。

寛永 9 (1632) 柳生但馬守宗矩、「兵法家伝書」を著す。

正保 2 (1645) 二刀流の宮本武蔵、「五輪書」を著す。

天和 2 (1682) 伊庭是水軒、心形刀流を開く。

正徳年間(1710 年代) 直心影流の長沼四郎左衛門国郷、防具を工夫改良、面・小手を用いた稽古を始め、これが大いに流行。

宝暦年間(1750 年代)

一刀流の中西忠蔵、防具をさらに改良し、ほぼ現代剣道の防具の原型が完成。竹刀防具を用いた試合剣術を始める。これが「撃剣」と呼ばれるものである。

寛政 4 (1792) 幕府は武芸奨励の令を発布。

文政 5 (1822) 北辰一刀流、千葉周作が神田お玉ヶ池に「玄武館」を開設。他に神道無念流(斎藤弥九郎)の「練兵館」、鏡新明智流(桃井春蔵)の「士学館」が、江戸の三大道場と呼ばれる。

他にも鏡新明智流、神道無念流、心形刀流、天然理心流など、各地で新興の試合稽古重視の流派が隆盛。幕末期の剣術流派の総数は、200以上あった

1848年 黒船来航後、尊王攘夷論や倒幕運動が盛んになる。各地で斬り合いや暗殺が発生し、剣術が最大の隆盛を迎える。

安政 3 (1856) 築地に幕臣とその子弟を対象とする講武所が創設。剣術師範として男谷精一郎(直心影流)が就任。

明治 4 (1871) 廃藩置県、散髪脱刀勝手の令発布。

明治 6 (1873) 江戸幕府の講武所剣術教授方だった榊原鍵吉、剣術を興行として、その木戸銭で収入を得させることを考案。

撃剣興行は浅草左衛門河岸(現浅草橋)で行われ、大成功した。その数は東京府内で37か所に上り、名古屋、久留米、大阪など全国各地に広まった。

明治 7 (1874) 警視庁設置。佐賀の乱。

明治 9 (1876) 廃刀令の公布。剣術は不要なものであるとされ衰退した。

明治 9 (1876) 神風連の乱(熊本)、秋月の乱(福岡)、萩の乱(山口)など不平士族の反乱が相次ぐ。

明治10(1877) 西南の役。警視庁抜刀隊の活躍でこれを鎮圧。剣術が再認識される。

明治12(1879) 警視庁大警視川路利良、「撃剣再興論」を発表。巡査の撃剣稽古が奨励されるようになる。榊原鍵吉ら撃剣興行の剣客たちは警察に登用される。これに伴い撃剣興行は衰退。

明治13(1880) 京都府知事槇村正直、「撃剣無用」の諭達。剣術を稽古する者は国事犯とみなして監禁した。

明治16(1883) 文部省、体操伝習所に対して、「撃剣・柔術の教育上における利害適否」の調査を諮問。

明治17(1884) 体操伝習所は、撃剣・柔術の学校採用は時期尚早との答申を出す。

明治28(1895) 日清戦争による尚武の気風の高まりを受け、大日本武徳会が創立され、武術の復興と普及が図られる。

明治29(1896) 文部省、学校衛生顧問会に「剣術及び柔術の衛生上における利害適否」の調査を諮問。同会議は、15 歳以上の強壮者に対する課外運動としてのみ可と認める。小沢一郎・柴田克己など、第10 帝国議会に「撃剣を各学校の正課に加ふるの件」請願。その後、度々国会への請願は繰り返される。

明治35(1902) 大日本武徳会、「武術家優遇例」を定め、範士・教士の制を設ける。

明治38(1905) 大日本武徳会、武術教員養成所を開設。その後、武徳学校・武術専門学校・武道専門学校と改称。

明治39(1906) 大日本武徳会剣術形を制定。

明治44(1911)「中学校令施行規則」一部改正により、撃剣及び柔術が正課として体操科の中に加えられる。

大正 1 (1912) 大日本帝国剣道形が制定される。

大正 2 (1913) 京都帝国大学主催、第1 回全国高等専門学校剣道大会が開催される。このころより、大学主催の剣道大会が盛んに行なわれる。

大正 7 (1918) 武術家優遇例を武道家表彰例と改称。

大正13(1924) 第1 回明治神宮競技大会において、剣道大会も開催。

大正14(1925) 第50 議会において、武道が中学校の必修独立科目として可決される。この後撃剣は「剣道」と呼ばれることになる。

かなり不十分で、視点が絞りきれていない年表ですが、とりあえず載せます。いずれその気になったら増補したいと思います。

下の図は全日本戸山流居合道連盟のページから拝借したものである。見事に人の首が飛んでいる。

21shopkp01.jpg

こうしてみると、いまの剣道というのは、剣術の出がらしみたいなものではないかと思えてくる。

たまにテレビで全日本選手権の中継をやっているが、あれを見ているとどちらが勝ったのか素人目には分からない。

もし両者が真剣で立ち会っていれば、両方とも間違いなく死ぬであろう。決闘としては無意味だ。あれならチャンバラごっこのほうがはるかにリアルだ。

それはそれとして、この首切り写真、どう見ても野球のバッティングと同じである。

スポーツ紙によく載るホームランの瞬間とまったく同じで、左足に重心を残しつつ、手首を固めて、刀に載せるように、腰の回転でボールを切っている。

 「さらば故郷」から吉丸の話に移り、それが撃剣術の話になって、どうも話がとりとめなくなっているが、それが酒飲みばなしの面白さというもので、こうなれば行くところまで行こうという勢いになっている。

基本的には剣術・撃剣術・剣道は同じもので、時代によって呼び名が違っているというに過ぎない。

こう言うとその道の人には怒られそうだが、しかしそれらの人たちも実際はこれらを一くるみで語っているから、まんざら間違いとはいえないだろう。


「撃剣術」という言葉はウィキには登場しない。ぽかぽか春庭「撃剣術」

というブログに、詳しい説明があるので紹介する。

「刀で切る技」である剣術に対して、刀剣・木刀・竹刀(しない)で相手をうち、自分を守る武術を撃剣(げきけん)といいます。武術の十四事においては、剣術と撃剣は別々の武術として並べられています。

そしてブログ主は

江戸時代の剣道道場などでも、ふたつはともに刀剣木刀の術として扱われ、剣術家と撃剣家がまったく別種の人とは認識されていなかった

と想像しています。

明治になって、武士の身分がなくなると、各地の道場で稽古を続けてきた武芸者にとって、剣の技は無用のものとなってしまいました。

ということで、榊原鍵吉の撃剣興行の話につながっていく。


剣術と言い剣道と言い、つまりは文化的位置づけの違いである。時代の流れである。

それでは、その流れの中で撃剣術はどう位置づけられるであろうか。

一夜漬けの勉強の結果辿り着いた結論は、撃剣術は元の意を無視して狭義に言えば、見世物としての剣術であり、ご一新と廃刀令で侍が落ち目になっていく時代に始まり、権力に剣術が見直され、やがて教練の対象となり、剣道と名付けられるまでの短期間に用いられた名称であろうということだ。

つまり武士(戦士)の生活の思想的基本としての剣術=人を殺すための技術が無用なものとなり、それが、富国強兵モードの中で、「剣道=哲学を持つ体育」の一つとして復興していくまでの過渡期に、剣術に対して与えられた文化的枠組みと考えられるべきだということだ。

それはまさに明治維新と、軍国主義の興隆という2つの時代の間に生まれた概念だ。そこでは天地が2回ひっくり返っている。

一度目の転倒は言うまでもなく戊辰戦争と、廃刀令、廃藩置県、身分制度の廃止だ。ここで剣術は徹底して否定された。

これに対して二度目の転倒ははっきりしない。幾つかのエポックがある。

一つは西南戦争と抜刀隊の活躍だ。これにより刀剣による闘いの部分的な有用性が再認識された。警視庁が剣術を重視し在野の剣士を召し抱え、剣術の保護・育成に力を注いだ。

もう一つは日清・日露の戦争で勝利したことで、軍国主義が一世を風靡し、その中で「武士道」精神が称揚されるようになった。この中で剣の道が美化され、「大和魂」の中核となった。

これに対し、剣術の中から「美学」を中核として取り出したのが撃剣術となっていくのではないか。それが凝縮したのが「型」であろう。居合術もその一つであろう。戸山流居合術というのは陸軍の戸山学校で教えた「軍刀の使い方」教室みたいなところから発展したらしい。

「型」とはいえ、「こうやれば人を殺せる」という方法を示している点では、むしろ剣道よりも実戦的だ。


ただそれは柔術が講道館柔道となったのとは若干様相を異にし、在野の辺縁的存在にとどまり、剣道はあくまでも警察剣術を中心に発展していく。

こういう流れの中で、撃剣術を考えていくのが妥当ではなかろうかと思う。

陰流と中条流の関係がどうも怪しい。剣術の世界は相互批判の気風があまりないようだ。

むかし、「わさび漬」というのが静岡の名物で、同じような商品を売っているのだが、かたや本家、片や元祖という具合でなんともいい加減なものだった。剣術の世界でも似たようなものなのか。

探していたら下記の文献に巡り合った。

山嵜正美「平法中條流の傅系について」と言うもので、武道学研究という雑誌に掲載されたもの。発表は2006年となっている。武道の長い歴史から見れば最新と言ってもいいかもしれない。

書き出しは

平法中條流の傅系について誤認論述がまり通っている。より厳しい研究が望まれている

と言うものである。具体的には「本朝武芸正傳」という書物の批判のようである。

伝書の記載は数のごとくである。

中条家系

しかし中条長秀は足利幕府の評定衆であり、いくつかの文書に名が残されている。

初見は貞和2年(1346年)足利尊氏の歌会の参加者として名を残す。ただしこのときは藤原長秀を名乗っている。

長秀はたしかに1384年になくなっているが、法名は長興寺殿秋峯元威である。ある著書に「法名は実田源秀」となっているが、これは長秀の裔孫、中条左馬助信之である。

実田源秀こと中条左馬助は、応永33年(1426)に弟子に単傅を授けたことが確認されている。

伝書の人名が混乱したのは、口伝による簡略化のためであろう。

平法中條流に念流の刀術が取り入れられたのは、左馬助の父である中條判官満平であろう。

念流慈恩の京都における弟子の中に中條判官の名が記載されているが、当時都に居住した中条一族のうち判官職にあったのは満平のみである。

ということで、中条長秀はずっと前の人で、当然武家社会の幹部であるからそれなりの兵法は身につけていたであろうが、どちらかと言えば文官として名を残した人物と考えられる。その子孫に当たる中条判官満平が、京都に出向いた慈恩に念流を学び、それを家伝の中条流に取り入れた、ということになる。

この論文は、さらに、冨田と中条流の関係にも触れ、冨田は中条流を引き継いだものの、冨田流を起こしたわけではないということも明らかにしているが、詳細は略す。

最後の結論は大変厳しい。

冨田流は存在しない。後世の御伝となる元凶は「本朝武芸正傳」の富田流との誤認記述である。

ということで、年表についての疑問が氷解した。

慈恩と念流

剣道年表に疑問があり調べてみた。疑問を生じた項目は以下の通り。

弘和 4 (1384) 中条兵庫助長秀、将軍足利義満に召され剣道師範となる。

応永15(1408) 念阿弥慈音、摩利支天のお告げにより念流を創立。信州波合に長福寺を建立。

第一の疑問は念流の流れを引くと言われる中条兵庫助が足利義満の剣道師範になったのが、念流創始より20年も前になっていること。「剣道師範」という表現も怪しい。

第二の疑問は、信州の長福寺となっているが、鎌倉だとする別記事があること。

どうでもいいことだが、行きがかり上こだわってしまった。そこでウィキで慈恩と中条を調べることにする。

まずは念阿弥慈恩について

慈恩は1350年の生まれ。南北朝時代の人である。これで行くと念流を創始したのは58歳のことになる。ありえないわけではないが、不自然な感はある。

奥州相馬の生まれ。俗名は相馬四郎。新田義貞に仕えていた父が殺された。総門に入った慈恩は敵討ちを目指して剣の修業を積んだと言う。とんだ坊主だ。

各地を武者修行した後、念流を編み出した。これには多くの異名があるが省略。

慈恩はいったん還俗して相馬に戻り、奥州で父の仇を取った。それからふたたび出家して念阿弥慈恩を名乗った。

諸国をめぐり剣法を指南した後、1408年に信州波合村に長福寺を建立、念大和尚と称した。没年は不明である。

ということで、鎌倉や京都で弟子を取って念流を伝授したらしい。1408年は慈恩の隠退した年で、信州は隠居地なのである。波合村というのは相当の僻地で、隠遁のような生活だったのではないか。そこでの最後の弟子が樋口某と称する地元の豪族で、樋口は後上州に移り馬庭念流と称したようである。

慈恩の門人たち

慈恩には板東8名、京6名、計14名の優れた門弟があったとし、「十四哲」と称される。

その中に念首座流、中条流、富田流、陰流などの開祖がふくまれる。

ついで中条兵庫助長秀について

この人は慈恩とは逆に生年不明で没年、1384年のみ明らかである。

ウィキによれば、たしかに

念流開祖の念阿弥慈恩の門に入り、慈恩の高弟である「念流十四哲」の一人となる。

となっている。

中条が死んだ年、慈恩はまだ34歳だから、本当に中条を教えたのだろうかと疑問が湧く。ひょっとすると年上の弟子だった可能性もある。

三川の挙母(現トヨタ市)の城主であり、かなりのインテリである。

どちらかと言えば太刀筋がどうのこうのというより、剣術に哲学を導入したことが功績なのかもしれない。

彼の武術の体系は兵法ではなく「平法」と称される。

平らかに一生事なきを以って第一とする也。戦を好むは道にあらず。止事(やむこと)を得ず時の太刀の手たるべき也。

ということで、平たく言えば護身術なのだが、これを「夢想剣」と名付けるセンスは只者ではない。

「足利義満の剣術指南役を務めた剣豪」ということになっているが、彼は同時に室町幕府の評定衆でもあり、また歌人としても名を馳せたということだ。

何か大河ドラマの主人公にでもなりそうな人だ。

ウィキ以外のファイル

しかし以上のウィキの記載では、二人の接点が生まれてこないし、陰流と中条流の関係も見えてこない。

こだわりついでに、もう少し他の文献も当たってみる。

葛飾杖道会のページには、下記の記載がある。

中条兵庫助長秀は代々剣術の家に生れ、鎌倉の評定衆であり、足利義満に召されてその師範となった。鎌倉寿福寺の僧慈音という者について剣道を修めた

というかなり異なる記載がある。「鎌倉の評定衆」は明らかに間違いで、鎌倉幕府はとうに崩壊している。それにしても困ったものだ。

マイペディアの記載はひどい

応仁のころ中条兵庫之助長秀が鎌倉地福寺の僧慈恩に刀槍の術を学び,中条流を創始した。

100年ずれている。

答えは次の記事中条長秀は慈恩と無関係で。

「故郷を離るる歌」について という記事に崎山言世さんという方からコメントが有りました。

読み返してみると、あまり真面目な文章ではなかったようで反省しています。

一応、撃剣術問題と、軍国主義者問題について意見を申し述べます。

1.撃剣術問題

崎山さんもご覧になったかと思いますが、撃剣術の引用は琴月と冷光の時代というサイトからのものです。

ここにはネット文献としては型破りなほどに詳しく吉丸の経歴が書かれており、ほとんどごちそうさまの世界です。

そこに次のように書かれています。

一昌は文武両道をめざした。学業は大学予科の文科志望、部活動は撃剣部に入った。撃剣は剣道に近いものだが当時は撃剣と言った。10月10日の紀念会で竹刀で試合をしたことが記録されている。撃剣部の部長は、教授の秋月悌次郎(1824―1900)だった。秋月は元会津藩士でこのとき既に70歳、翌年秋に退職するまで倫理・国語・漢文を教えていた。

なお撃剣術というのは、剣道とは違いはるかに実戦的な武術ですが、明治に入ってからは廃れる一方だったようです。

吉丸の名誉のために言い添えておくなら、下記のごとくヒューマンな面も持ち合わせていたようです。

一昌は東京帝国大学を卒業した直後の明治34年秋、修養塾という私塾を開き、苦学生とともに質素な生活をしていたとされる。ほぼ同じころ法学士だった土屋禎二と川添信敬が小学校の校舎を借りて私立の下谷中等夜学校を開設し、一昌は校長となり、経営にあたった。修養塾は夜学に学ぶ苦学生の寄宿舎となった。

2.軍国主義者問題

軍国主義者問題は、不正確だったかもしれません。我が静岡高校の校歌は現在一番しか歌われておりません。それは二番、三番があまりに軍国主義的であるとのことで、戦後に校歌から排除されたのです。

そのことのみをもって吉丸が軍国主義者であったとは断言できませんが、少なくともそのような精神を内包していたことも間違いのないところでしょう。五十歩百歩ですが、より正確には「皇国主義者」と呼ぶべきかもしれません。

他にもたくさん例示できますが、省略します。

3.小学唱歌の位置づけ

ついでに彼の作成した小学唱歌の歴史的運命について、この文章にはこう書き記されています。

一昌が成しえた最も大きな仕事はまちがいなく『尋常小学唱歌』である。…『尋常小学唱歌』は約20年間の長きにわたって教育現場で使用された。昭和7年に『新訂尋常小学唱歌』が編纂されるが、118曲のうち87.3%にあたる103曲、つまりほとんどそのまま引き継がれた。さらに主要な歌は戦時下においても音楽教科書に掲載された。

ただし、いわゆる童謡運動が起き、学校唱歌への批判が高まったあたりから、吉丸は東京音楽学校内でも忘れられるような存在になっていったようである。

…時代を下るにしたがって見過ごされるようになったのは、一昌が厳しい生徒監として一部に反感を買ったことや、「楽壇時評」の厳しい評論活動が敵をつくったことが影響したからであろう。

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