鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

AALA関連記事は「aala_newsの編集日記」http://blog.livedoor.jp/aala_news/ に移りました(6Nov.2023) 中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 「ラテンアメリカの政治」(http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ )がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

カテゴリ: 33 気候・エネルギー・環境(原発)

石炭火発 やはり技術的に無理がある。

火力発電の進歩はボイラー・タービンと除染装置の両面から進化してきた。

しかしある程度の進歩に達すると、そこで停滞せざるを得なくなる。

その時ブレイク・スルーの鍵となったのは燃焼素材の転換である。最初は石炭、その後石油、そして天然ガスと素材革命が行われた。

いまさらながら、それらの進歩を振り返ってみれば、化学的には当然の過程とも言えよう。

燃焼というのは気体にまで分離した炭素分子が酸化することである。もちろん固体も液体も酸化はする。しかし鉄が錆びるのは厄介な出来事でしかない。液体が酸化するのもお酢を作る作業を除けばあまりいいことはない。開封して1週間もしたお酒は、飲めないことはないが、味は情けないほどに落ちる。

それは到底燃焼とはいえない。石炭が燃えるのも、その塊がバラバラの炭素になって、それが酸素と結合するからである。

つまりものが燃焼するのは液相・気相という前過程を踏んで初めて実現するのである。

現在の石炭火発は炭塊を微細粉粒化し、あらかじめかなり熱してから燃焼過程に突っ込む仕掛けになっているようだが、いくら微細と言っても固相状態であることに変わりはない。ムラとムダは必然的に生じる。

また除染についても、炭塊にしみこんだ有害物質を燃焼前に除染するのはきわめて困難である。


コストの問題として考えるなら、地球的に見て環境コストを上回るだけの経済コストを生み出すのは困難と言わざるをえない。

ただそこにはタイムラグがある。後の世代につけを回すのであれば、あるいは一時しのぎの便法として用いるのであれば、別の計算が成り立つだろう。しかしそれは正義とはいえない。

つまりコストとして石炭火発を考えるのは邪道だということである。

したがって、長期のベースロード電源として石炭火発を考えるのは正しいとはいえない。

資源の問題として考えるなら、とりあえずは「内部留保」とし、あまり使わないのが最良であろう。石炭中の炭素を液化、気化する技術が開発されれば、ふたたび脚光を浴びる日も来るかもしれない。

発電の歴史(火力発電を中心に)

1832年  フランスでピクシーが発電機(直流)を発明

1840 イギリスでアームストロングが水力発電機を発明

1878(明治11年) 日本初の電灯が点灯(3月25日=電気記念日)。これは今日の電球ではなくアーク灯。

1879 アメリカでエジソンが電球を発明

1881 アメリカでエジソンが石炭火力発電所を完成

1887年(明治20年) 日本橋茅場町に25kWの火力発電所が設置される。その他浅草火力発電所200kWや千住火力発電所77.5MWなど。

1892(明治25年) 京都に日本初の水力発電所完成。(東北の三居沢発電所が最初との説あり)

1893年 「日光第二発電所」(東京)が運転開始。

1898年 蒸気タービン発電機が実用化され、ピストン型蒸気機関に取って代わる。高圧高温の蒸気を発生して、蒸気タービンを回転させて電力を発生することから汽力発電と言う。

1912年 水力発電が233MWに達し、火力発電を上回る。

1912 横川~軽井沢で日本初の電気機関車が走行開始。

1918年 GEがガスタービンの本格製造を開始。燃焼排ガスを用いて直接タービン発電機を回転させる。発電効率は蒸気タービンより落ちる。

1939 電力会社が国策会社「日本発送電」に統合される。

1943 配電統制令により全国に9配電会社設立

1950年 電気事業が再編成される。民営の電力会社の「9電力体制」が出来上がる。(後に沖縄を入れて10電力と呼ばれる)

1954  世界初の原子力発電所完成

1955年 三重火力発電所が操業開始。大規模火発のハシリとなる。

1963年 「火主水従」の始まり。火力発電が9750MWに達し、水力発電を上回る。

1966年 原子力発電の最初の商用発電所として、東海発電所125MW(日本原子力発電)が運転を開始する。

1967年 初の超臨界圧の発電機が導入される。

1969年 燃料としてLNGが導入された。

1970年 最初の大規模原発として敦賀発電所が運転開始となる。

1974年 単機容量が1,000MWを超える発電機の導入。ボイラー性能は蒸気温度550℃、圧力24.1MPaに到達。(蒸気温度374.1℃以上、蒸気圧力22.1MPa以上を超臨界圧、593℃以上、24.1MPa以上を超々臨界圧と呼ぶ)

1974年 サンシャイン計画がスタート。オイルショックを機に、石油に代わるエネルギーの研究・開発がすすむ。

1980年代 LNGの安定供給が進んだことから、コンバインドサイクル発電が主流となる。高温の燃焼ガスをガスタービンで用い、ガスタービンから排気される低温ガスを蒸気タービンで利用する。

タービン翼の冷却技術の向上で燃焼ガス温度が1500℃まで可能となる。送電端の発電効率が50%を超える。

1986年 チェルノブイリ原子力発電所で事故発生

1989年 31MPaの超々臨界圧の蒸気圧力をもつプラントが導入される。タービンは1,600℃級が導入され、コンバインド・サイクルでは熱効率60%以上が可能となる。

1995年 電力自由化が始まる。新規参入者(PPS)には高額な送電線使用料やインバランス料金が壁となる。

2000年  大気汚染防止法が制定される。

①電気集塵機、②原油の「水素化脱硫」、排煙脱硫の導入により、環境特性が改善。③脱硝については燃料寄与NOxについて低NOx燃焼器、空気寄与NOxについて選択触媒還元脱硝装置(乾式アンモニア接触還元法)が導入されている。(石炭については入り口脱硫は行われていない?)

2008年 発電量に対する比率は、LNG 34%、石炭 18%、石油10%(オイルショック時75%)となる。

2011年3月11日 福島原発事故。

2016年4月 電気事業法改正。一般家庭等でもIPPから購入可能になる。ただし自由化で先行する英国やドイツでは電気料金が急激に上昇している。

Don’t go back to the 石炭〜石炭火力発電に反対 |石炭発電|石炭火力発電|反原発

というサイトを見つけた。ブログ形式で膨大な資料をアップしている。

その中から「なぜ石炭が問題なの?」というファイルを紹介させてもらう。ちょっと思い入れがある文章だが、事実問題を抜書きしておく。

石炭火発の流れ: 戦後復興期に石炭から石油への移行が進んだが、オイルショックで石炭が見直され、東日本大震災のあとはジワリと増えた。現在は発電の30%を石炭火発が担っている。

石炭火発の長所: ①化石燃料の中では安い。②石炭は埋蔵量が多く、価格も供給も安定。③主要輸入先であるオーストラリアやインドネシアの政治的安定。

ただし価格の面では楽観を許さない。世界各国で石炭火発の増設が相次ぎ、供給面のフアンは予想を超えて広がっているとされる。(具体的な数字は挙げられていない)

また採炭に伴う環境破壊について、現地での反対運動も活発化しつつあるという。

石炭火発の現状: 10電力の運営する石炭火発が45基、その他の事業者による石炭火発が49基、合わせて94基の事業用の大規模石炭火発が運用中。

さらに自家発電設備として石炭火力の自家発電設備を持つ事業者も相当数あるようだ。このサイトでも正確な数はつかめていないようだ。

政府の石炭火発政策: 日本のエネルギー政策は、「3E」原則を基本としている。3Eとは、安定供給(Energy Security)、経済性(Economic Efficiency)、環境適合性(Environment)である。

しかしこれは原発全盛時代の「原則」で、原発は実は環境不適合であることが明らかになった。その後は環境適合性は後回しにされたままである。

石炭火発の技術革新: たしかに最新の「超々臨界圧火力発電」(蒸気温度593℃以上、蒸気圧力24.1MPa以上)は以前の石炭火発に比べ、大気汚染物質(NOx、SOxなど)の約9割を除去できるようになっている。CO2排出もへっている。業界ではこれをもって「クリーン・コール」と呼んでいる。

しかし最新鋭の石炭火発でも、CO2排出量は天然ガスの2倍以上のレベルに留まっている。(LNG1500度の341g-CO2/kWhに対し、810)

石炭ガス化複合発電などの新技術

目下、エネルギー効率向上の切り札とされるのが「石炭ガス化複合発電」(IGCC)である。IGCCでは石炭をそのまま燃焼させるのではなく、いったんガス化させることになる。

ガス化の技術がキモであり、あとは天然ガスによる発電と同じだ。ただしこれはコスト面の課題が大きいと思う。

安定供給を至上命題とするなら(例えば石油封鎖を受けた戦時中のように)、石炭からガソリンを作るというプロジェクトも成立しうるが、いま石炭火発を成立させているのはローコストというだけだ。そんな手間をかけるなら天然ガスの確保に向かうほうがはるかに安上がりになる。


以上3つの記事を上げておく。一つにまとめれば良いのだが、今のところそこまでの気は起きない。ご容赦の程を。
もう一つ、感想にしか過ぎないが、石炭が存在する限り石炭火発の技術は生き延びるだろうと思う。原子力発電と同じ論法で「百害あって一利なし」とは断言できない。もちろん再生可能エネルギーの使用が優先するのではあるが。
仮定の話として、石油並み(9割位)の燃料効率とCO2排出量、環境汚染度が実現できれば、コストと供給の安定性の視点からはゴーサインが出る可能性もある。その分はむしろ電気の乱費をなくすことのほうが能率的かもしれない。
また、途上国が経済的な理由から石炭火発に固執せざるを得ないとするなら、せめて石炭火発の性能をよくしてやれば、それ自体は環境改善につながる。この辺は環境スワップでなんとかならないだろうか。
前門の虎(CO2)、後門の狼(コスト)という状況が続くだろうが、地球の歴史が残してくれた貴重な資源だ。なんとか活用の方法を考えたいものだと思う。

前の記事のポイントは2つだ。

一つは、いかなる新技術をもってしても石炭火発のクリーン度は低い、ということだ。

もう一つは、石炭火発の導入はひたすら電力業界の利益のためであり、日本の利益のためではないということだ。

ただいずれも、前回記事だけでは証明は不充分である。

とくに、ホンネは電力業界のためであるにせよ、それでは国際的に通用するものではない。公にはどういう理屈で石炭火発を合理化しているのかがはっきりしない。

フクシマを経験した国が「原発も推進します、石炭火発も推進します」というのでは、物笑いの種にしかならない。

もう少し他の記事を探すことにする。

JB Press というサイトの「 国際的批判を受ける日本の石炭火力 」という記事。副題は「石炭火力に強まる逆風、しわ寄せを受けるバイオマス発電」となっている。

著者は宇佐美典也さんという人。「パリ協定」成立直前の2015年11月の記事である。

1.石炭火発の新技術

たしかにエネルギー源として利用可能な石炭は、一つの魅力ではある。技術開発で無公害ないし低公害の利用法ができれば、産炭地である北海道の再生の可能性も出てくる。

石炭火発の新技術には大きく言って2つの方式がある。一つは「超々臨界圧方式」と、何やらすごい新技術のようだ。

もう一つが複合発電方式であ。石炭をガス化して、それを石炭燃焼によるエネルギーと混ぜて使うという、何やらインチキ臭い方式だ。

ところが、残念ながらこれらの技術は名前の割にはとんと大したことがないようだ。

 

発電効率(%)

CO2排出量(g/kWh)

現在の石炭火発

40

820

超々臨界圧方式

46

710

複合発電方式

50

650

現在のLNG火発

52

340

というのがあらあらの数字で、いずれにしても現在のところは使いようがない。

2.東日本大震災と発電コスト

発電コストにはランニングコストと環境コストがある。

東日本大震災のあと原発が停止し火力発電がフル稼働した。それは緊急避難的な色合いを持ち、その中に石炭火発もふくまれていた。

火発が全面稼働した結果、CO2排出量は大きく増加しランニングコストも大幅に上昇した。東日本大震災以降、20%以上も電気料金が上昇した。

その中で、発電コストを抑えるために、火発の中でも経済効率の良い石炭火力の新設・稼働という考えが浮上した。人の道から言えば邪道だが、経済学的には一つのオプションである。

ただしそれはあくまでも緊急避難であり、その先にどう石炭火発を削減していくかという展望が必ず語られなければならないであろう。

「CO2地下貯留技術と石炭火力発電を組み合わせる」という手段が語られているようであるが、これは本末転倒というほかない。第一それ自体がコストとなる。まずは削減ありきなのである。

3.小規模石炭火力発電という裏事情

この記事で初めて知ったのだが、電力10社の石炭火発への傾斜には、後発電力会社による小規模石炭火発の増設計画があるようだ。

電力自由化に伴い、電力10社は後発電力との競争を強いられることになった。後発会社が市場に参入しようとすれば、価格面での魅力が必要である。

そこでこれらの会社はコストの安い小規模石炭火発に目をつけた。そこには法の抜け穴があったのである。

これまで石炭火力発電に関しては「エネルギー使用の合理化に関する法律(省エネ法)」による規制・指導が行われてきた。これは大手電気事業者の持つ大型の石炭火力発電のみを対象とするもので年間600万kWh 以下の発電設備についての規制はなかった。

そもそも法律そのものが「省エネ法」であって「CO2 排出規制法」ではないから、基本的にはザルだ。

そこを狙って小規模石炭火力発電の新増設計画が相次いだ。

環境省にせっつかれた経産省は規制の内容を厳格化しようとしている。まさに泥縄だ。

4.「超々臨界圧方式」の意味

経産省は一方で電力10社からも突き上げられる。そこで考えたのが規制の網を小規模石炭火発にも広げること、一つは規制基準を底上げすることである。

とくに後者が問題となる。経産省の目論見は電力10社の保護にあるのであり、石炭火発の削減にあるのではない。

そこで持ち込まれたのが「超々臨界圧方式」である。前の表をもう一度ご覧いただきたい。従来型石炭火発の発電効率が40%、「超々臨界圧方式」が46%だ。

そこで経産省は規制値を41%に設定したわけだ。これで後発電力会社の進出は抑えられる。それと同時に電力8社の石炭火発への道が開かれ、「低コスト・高排出量」型発電へのゴーサインが出ることになる。まさに「超々グッドアイデア」である。

「超々臨界圧方式」はCO2 排出量をたかだか100グラム削減するための技術ではなく、後発電力追い落としのための技術なのだ。

5.「バイオマス混焼」という裏技

だが、これでは新規参入組は枕を並べて討ち死にだ。流石にそれでは「電力自由化」の顔が立たない。

そこでさらに悪知恵の働く者がいて、「バイオマス混焼」という方式を考えだした。これは木材ペレットと石炭を一緒に炊くというものらしい。

木材は成長過程で光合成によりCO2を吸収している。だからCO2排出量は差し引きゼロだという理屈である。これを「カーボンオフセット」というのだそうだ。

例えば木材と石炭を同じ発熱量になるように混ぜれば、その火発のCO2排出量は半分になるという計算だ。

ただこの珍妙な方式は、さらに問題を複雑化するおそれがある。

そもそもがバイオマスをいちじくの葉っぱとする発想が歪んでいる。もし電力10社にもバイオマス混焼が許されるのなら、それは後発会社のメリットにはならない。結局、「超々臨界圧方式」など導入せずにバイオマス混焼で行くほうが安上がりだ。

第二に、バイオマスは質量ともに不安定な資源で、安定した供給が難しい。場合によっては資源価格が暴騰する恐れもある。そうなれば後発会社の死期を早めるだけの結果に終わるかもしれない。

第三に、主としてエコの観点からバイオマス専焼設備を運用する再エネ業者は息の根を止められるだろう。これでは本末転倒である。

というのが主な内容で、かなり話題が広範に扱われ、石炭火発問題の実態が見えてきたような気がする。

さらにもう少し学習を積み重ねたい。

「石炭火発推進」論への素朴な疑問。

石炭火発を増設しようという動きが強まっているようだが、目下のところあまり強い反対は起きていない。もちろん賛成か反対かといえば反対なのだが、原発をどうするかに比べれば二の次にされている。

たしかに原発をなくすことが最大の課題であるから、それに比べれば許容はされるかもしれない。それはそれで判断なのだが、どうも原発もあきらめず火発も推進するというのでは、理屈が立たないのではないかという気がしてならない。

かつて原発の最大の謳い文句だったのが「クリーン・エネルギー」である。だから今も変わらず原発を推進しようとする人が同じ口から「火発推進」を唱えるのは、天にツバをするようなものではないだろうか。

もうクリーンエネルギーなんて言うことをやめるのなら、原発もやめるべきだろう。いまや他に取り柄などないのだから。

と言っているうちに、計画はどんどん進行している。もう少し詳しく勉強しなければならないようだ。

ハーバー・ビジネス・オンラインというサイトの「日本だけ石炭火力発電所を増設」の謎(2016年2月) という記事を読んでみる。

1.石炭火発推進論の時代背景

まずは時代背景から

* 15年末にCOP21(気候変動枠組条約)、通称パリ条約が締結された。温室効果ガス(二酸化炭素)の削減について国際的合意が初めて成立した。

* 二酸化炭素産出の最大の元凶は石炭火発だ。すでに会議の前から火発の閉鎖は相次いでいる。日本においてもそれは同様だった。

* このなかで政府は先進国の中で唯一石炭火力を増設しようとしている。

これが建設計画の概要だ。

火発建設計画

             作成 気候ネットワーク 

2.なぜ政府は石炭火発を推進するのか

言うまでもなく、既存の9電力会社+電力村の強い後押しによるものだ。

では電力村はなぜ石炭火発なのか。ここの説明がこの記事ではちょっと不足している。

電力の小売自由化が進むと、発電事業だけでは利益が薄くても、安い石炭火力の電気を小売事業につなげることで競争に有利になる。

のだそうだ。もう少し他の記事で当たって見る必要がある。

3.「新型」石炭火発はクリーンか

推進側は「新型の発電所は汚染物質の排出が少ない」としている。しかし決して「クリーン」な電源とは言えない。

汚染物質の排出量は旧型に比べれば少ない、しかい天然ガスなど他の燃料に比べれば2倍である。

4.「新型」石炭火発は低コストか

日本では石炭火力によって犠牲になる環境コストが省かれているので、一見安く見えてしまう。これは原発のときと同じ論法である。

朝日新聞に面白いくだりがあった。

経産省にとっては、柏崎刈羽の再稼働こそ東電再建の「前提」と考えていただけに衝撃は大きい。

経済産業省の幹部は16日夜、「新潟県民にここまで原発再稼働アレルギーがあるとは」と嘆いた。

我々も嘆こうではないか

経産省や経団連にここまで原発再稼働アレルギーがないとは!

あたかも、そんなことなどなかったかのように


そもそもアレルギーというのは免疫反応です。2つの特徴があって、一つは即時型反応だということです。全身の粘膜や皮膚が総毛立って、粘膜が浮腫を起こします。

もう一つは病的な過剰反応だということです。もともと人間には防衛反応と学習反応があります。痛い思いをすると次からはそれがトラウマになって過敏に反応するのです。

大変困った反応なのですが、考えようによっては無いよりましなのです。バクチに負けて、あるいはサラ金に手を出してひどい目にあったら二度と手を出さないでしょう。顔を見ただけでもゾッとするはずです。

ところがまったく免疫ができない人もいるのです。アネルギーといいます。こちらのほうがはるかに怖い。

そういう人は懲りることなく同じ過ちを繰り返して、ついには破綻に追い込まれるのです。そういう欠陥人間が自分の連れ合いだったらどうします?


それにしても、今だから言うけど、この米山という人、顔で判断しちゃいけないけど、「我が方」にはいない顔だね。別世界の人ということでは大谷と同じだけど、大谷は良い星から来た異星人だけど、この人はどうなんだろう。とにかく「いい人」で有り続けることを願うのみだな。

熊本群発地震のあいだも川内原発がなんの対応もしないことに不満の声が高まっている。
この間のやり取りで、規制委員会の田中委員長の無責任さがかなり浮き彫りになった。以下は共産党井上議員の国会質問への感想。
田中委員長の見解は、一言で言えば「何もしない。不安はない」というものだ。これは個人ではなく、委員長としての発言としてはおかしい。
安全性をあらためて確認する責任は、立場上あるはずだ。
丸川原子力担当相の答弁もまことにおかしい。「これまでのところ川内現発で観測されたのは最大12.6ガルだ。想定基準地振動は620ガルだから、停止する必要はない」というものだ。
しかし益城町ではつい先日1580ガルを記録している。専門家の記者会見では、今後南西方向に地震が波及する可能性もあると、はっきり指摘している。
原発のきわめて深刻な危険性を鑑みれば、群発地震が収束に向かうまでは一時停止するというのが、論理的帰結だろう。未来永劫止めろと言っているわけではない(とりあえず今は…)
一番危険なのは、原発を管理する人物と、規制する人物、指導する人物にまったくそういう発想がないことだ。もし何かあれば「想定外だった」と言い抜ければそれで済むと思っている。
JRだって道路公団だって、その危険性を織り込んで、徐行したり運行中止している。「1580ガルが来たら止めます」などという人はいないはずだ。普通はそういうものではないでしょうか、皆さん。

川内原発を止めてください に協力を



原子力規制庁によりますと、午前0時3分ごろの地震で震度4を観測した鹿児島県薩摩川内市にあり、全国の原発で唯一稼働している九州電力川内原子力発電所1号機と2号機は、今のところ異常はなく、運転を続けているということです(NHK)

鹿児島県庁のホームページ

sendai sindo

このくらいなら連中はまったく気にしないだろう。なにせ1997年には川内市直下でマグニチュード6.5,震度6弱の地震が起きても平然と運行を続けた連中だ。

普通は徐行運転に切り替えるとか、運行を一旦停止して経過を見るとかするのが常識であるが、この連中にはそんな気はさらさらない。

良く言えば九州男児のきっぷの良さなのだろうが、「備えなくても憂いなし」

我々には工藤会も真っ青、ほとんど「キ印集団」と見受けられる。

原発は安全性の秤に乗せるには大きすぎる

1.安全性の議論はフェイル・セーフ機能の範囲内で行われるべきだ

原発の安全性はもう少し理屈の問題として詰めておく必要があるのではないか。

安全性という目盛りはたしかにある。論理的にも危険性の逆数として存在しうる。工学的にも多変量の連立方程式として算出しうる。社会的にも利便性と危険性認容の掛け算として想定しうる。

ただその扱える範囲には限界があるのではないか。歴史的にはその範囲は変化してきたし、拡大しつつある。それはフェイル・セーフの技術が発達してきたためである。

逆に言えばフェイル・セーフの機能が完全でなけれれば、あるいはフェイル・セーフ機能をはるかに越えるものには、そもそも安全性の概念は適用できないということになる。

2.社会的安全度という問題

一つの技術なりシステムというものの安全性は危険性の逆数だが、これが社会で汎用されるときには、利便性と秤にかけられる。

しかし実はこれだけではない。社会の多数の人が関われば関わるほど安全性は高度なものが要求されるようになる。

実験的な使用であればかなりのリスクは受忍されるが、多数の人がルーチンに使用するものなら、安全性ははるかに高度のものが要求される。

なぜなら事故が起きた時の影響ははるかに深刻だからである。

つまり利便性と危険性の秤は、その置かれた土台の広範性を念頭に置かなければならないのである。

3.量的・質的な安全性の限界

もう一つは、安全性が破たんした際の影響の深刻度がある。

これは薬の副作用を例にとるとわかりやすいのだが、薬局でもらう薬の説明書には副作用が書いてあるだろう。例えば吐き気などは極めてポピュラーな副作用だが、これはたいていは軽微であるために許容されている。

しかし数は少なくとも死に至るような副作用があれば、薬の使用に関しては厳しい注意が必要となる。

さらに常用量の問題があって、その範囲では安全性が確認されていても、10倍量飲まれたら安全性は保障できない。

つまり質的・量的な危険性は、安全性の秤を吹き飛ばしてしまうのである。

4.結論

原発は危険性と利便性の秤に乗せるには大きすぎる。

大きすぎるということは、物理的な危険性が現代技術の統制力の力を超えていることであり、その社会的影響力が社会システムの枠を大きくはみ出しているということである。

このことから考えれば、原発の安全性をうんぬんすること自体が論理矛盾であり、それは「安全性」の戯画に過ぎない。

肝心なことは、それを今まで認識できなかったことであり、今やっと認識できたということである。

原発に対する60年の認識の歴史は、結局、この認識に達するための歴史であった。

5.これからの原発

私個人としては、人間の力である程度統御が可能なレベルであれば、原子炉を用いた研究は続けるべきであると考える。

もちろん大型であろうと小型であろうと、原子炉の危険性は本質的には変わるものではない。

ただジェット機は墜落すれば数百人の命が失われる危険性を内包しつつ飛び続けているし、船は沈没すれば千人単位の命が危険にさらされる。

現代人は、今のところ、それを必要なリスクとして甘受している。

しかし原発はそのような安全性リスクの目盛りからははるかにスケールアウトしている。なぜ原発のようなビッグなシステムが、なぜろくな安全装置もなしに開発されたか、それはまさに原爆を製造するという目的のためであり、その副産物だからである。

戦争のための武器だから、どうせ人を殺すんだからということで、安全性にはさしたる考慮が払われないままに野放図に大規模化し、それがある日ぬっと娑婆の社会に乗り込んできたのだ。それが原発だ。

思えば不幸な生い立ちの子だ。

しかしこの子には、大きな将来性がある。一度サイズダウンしたうえで、正しく育てることは大事な仕事だろうと思う。


いろいろと、異論もおありでしょう。

私自身、意見変更の可能性もあります。とりあえずの感想としてお聞きください。

伊方原発が廃炉決定。まずは良しとしなければならない。

地図を見ただけでもその非人道性は明らかだ。事故が起きれば佐田岬半島の住民は皆殺しだ。

関連記事を見ていて、見逃せないポイントがあることに気付かされた。

それはヒトの問題だ。

建築後40年たつと、建てた時の人間はいなくなる。何かあったときに技術が継承されていないと、建築当事者には当たり前だったことが、まったく忘れ去られてしまう。

じつは、私の病院でも同じことがあった。同じ部屋にまったく違う電源があって、片方の電源がどこから来ているのかわからなかった。建設時の設計図や施行図を持って来いというが、これがなかなか見つからない。

結局最後は壁を壊しながら電線の先を探っていくことになった。最終的にはとんでもないところからきていることが分かり、しかも普通の差込口からの危うい電源であった。

「誰がこんなことをしたんだ」と怒鳴ったが、もちろんそんなことが分かるわけはない。強いて言えば「40年の年月がそうさせたのだ」と納得するほかない。

放射能による劣化が勿論最大の問題ではあるが。人間の脳みその劣化も頭に入れなければならない。安全性の技術を考える際にはヒューマン・ファクターを念頭に置かなければならない。

これは鉄則である。

川内に続いて高浜が再稼働(しかもプルサーマル!)、さらに伊方とどんどん進んでいく。

これらの動きで注目されるのは、再稼働がまったく無言のうちに進んで行っていることだ。

以前なら電力会社側が声高に電力の危機を騒いだものだったが、最近はまったく音無し。ある意味不気味な話だ。

福島の後、大企業側はNHKを動員して、電力が危ないと繰り返した。また電力料金が跳ね上がると脅した。

それが最近ではとんと聞かれないから、庶民の側では原発を再稼働する理由がさっぱりわからない。電力会社の都合としか受け取れないのだ。

福島以前、原発の宣伝は基本的には3本柱だった。安定供給、安全、安価という3つの「アン」である。

原発事故そのものが安全神話の崩壊を意味した。東大教授たちは大方の非難を浴び公の舞台から姿を消した。

さらに残る二つがひっくり返されていったのが福島以降の経過だ。とくに電力不足のキャンペーンは異常なものだった。

しかしこれはすでにクリアされた。もう「電気が足りなくなる」の嘘は通用しなくなった。それと同時に原発再開を前提に火発の再稼働を怠ってきた各電力会社も、火発へのシフトを開始した。

残る問題がコスト問題であった。

コスト問題というのは3つのフィクションの上に成り立っている。

ひとつは人命コスト、国土汚染コストなどのリスク対応コストが排除されたうえでコスト計算を行うというフィクションである。

ふたつ目は「核のゴミ」の廃棄・処理コストがゼロとして計算されるというフィクションである。

三つ目は電源開発などの名目による国税投下がコストから排除されるというフィクションである。これらは本来、電力会社がコストとして負担すべきものであった。

ただ、あえてそれらのフィクションを受け入れたうえで、攻撃的なコスト論争が行われ、液化ガスとの比較優位はほぼ否定された。

残された唯一の問題が、原油・天然ガス輸入増に伴う貿易赤字であったが、円安を上回る原油価格の低下により、この問題も自然解決してしまった。

つまり、電力会社には拠るべき再稼働の理由がなくなってしまったのである。


ネットを探してみると、経団連御用達の「ウェッジ」誌が再稼働推進論を打ち出している。

2015年08月18日(Tue)  川内原発の再稼働が必要な4つの理由  再稼働がもたらすリスクとベネフィット 

これを読みながら反論しようかと思ったが、読んでいるうちにアホらしくなったので止める。

一応リンクはかけておくので、目を通しておくほうが良いでしょう。


あまりにむごい 伊方原発

伊方原発が再稼働に向けて動き始めている。すでに外堀は埋められたようだ。

地図を見てみると、2つの点に気付かされる。

ひとつは、伊方原発が見事に中央構造線の直上に建てられているということだ。中央構造線は南アルプスに始まり、四国を横断して阿蘇山に至る大断層だ。とりわけ紀の川、吉野川、新居浜から佐田岬半島へと繋がるあたりは実にくっきりとしていて、ある種の美しさを感じてしまう。テレビの天気予報で毎日日本地図を見るたびに、まるで吉永小百合を見ているかのような錯覚にとらわれる。

これだけラインがくっきりしているといのは、その断層がまだできて間もない新鮮なものであることを示している。地形というのは絶えず侵食を受け、どんどん崩れていくものである。人間も年を取れば角が取れ、皮膚は渋皮のようになり、どんな美人でもただのババアになってしまう。

つまり伊方はとびっきり生きのいい断層のどまんなかにあるということが分かる。

もう一つは伊方原発が佐田岬半島の付け根に位置するということだ。半島を腕とすると、伊方原発は脇の下になる。動脈、静脈、知覚神経、運動神経、リンパ管のすべてが原発の直ぐ側を通過している。ここに何かあれば、たちまち腕そのものがダメになってしまう場所だ。

ダメになった腕はどうなるか、その住民はどうなるか。

瀬戸内海は島が非常に多い。しかしどういうわけかこの辺り一帯に限って島はない。周りは伊予灘と豊後水道だ。だから住民は放射能をたっぷり浴びて死ぬしかない。

それを分かっていて、やるのだから、随分むごいことをするものだ。

電気は足りているのだから、再稼働に国益はひとつもない。目的はただひたすら金のためである。

安全神話がまかり通っていた時代、騙されたと言い訳もできるだろうが、福島原発の後、その言い訳はもう通用しない。

賛成派の人というのは金のために、自分の利益のために目が見えなくなって、ご先祖様も子孫も半島の先に住んでいる人たちも、勝手に売り飛ばして恥じない人らしい。伊方原発というのは、存在そのものがそういうどす黒い悪意の塊りなのだ。地図を見ていて、つくづく思う。

つけたし

伊方町は佐田岬半島の全体をふくむ町である。

付け根から順に旧伊方町、旧瀬戸町、旧三崎町の3つの町からなる。人口はちょっと古いが平成大合併ころのもので、伊方町が1万人、瀬戸町が3千人、三崎町が4千人の人口を抱えていた。

いまはすべて合わせても1万人しかいない。過疎化のレベルを超えて限界集落化が進んでいる。

集落の名は全て「…浦」となっており、海岸沿いの僅かな平地にそって集落が点在しているさまが予想される。(グーグルの航空写真を見てもまさにそうなっている)

瀬戸町の中心三机には宇和島藩のお番所がおかれ、明治の頃にはなんと三机銀行まであった。ここが南北700メートルしかない地峡だったため、パナマのような地位にあったのである。徳川時代初期には実際に運河づくりが着工されたが挫折。おかげで宇和島藩は改易となっている。

佐田岬

旧伊方町は原発に身売りする代わりにたんまり金をもらったが、瀬戸町、三崎町はあずかり知らない。しかし事故が起きれば、伊方の人は逃げられても瀬戸町、三崎町の人は逃げ場所がない。

これはあまりに不条理ではないか。

佐々木則夫の名言 格言

というページがある(未だに)。

東京出身。早稲田大学理工学部機械工学科卒業後、東京芝浦電気(のちの東芝)に入社。主に原子力発電事業に従事し、原子力事業を東芝の主力事業に押し上げた人物。

というプロフィールの後、「名言」が載せられている。

*打ち合わせや会議は1日20件前後です。1件にかかる時間は長くても30分で、5分で終わる場合も少なくありません。

*どうして即断即決ができるのかという と、自分の中に公式のようなものができているからでしょう。マネジメントというのは工学に通じるものがあり、答えがだいたい決まっています。

*副社長のころまでは自分で資料を作成することも多かったのですが、トップは決断して指示を出すことが仕事の中心ですから携帯電話で十分です。

*電話は感情を伝えるのに効果的な手段ですが、ファクト(事実)を誤解なく伝えるという点ではメールに軍配が上がります。また、メールなら指示内容や回答がすべて残ります。

*私は1年間に1000通以上のメールを書くほどのメール魔です。メールで日常の注意点から具体的な仕事の内容にも言及すると、自分の思ったことに対する情報も集まり、自分の思いも直接伝わります。メールは単なる情報伝達以上の活用が可能なのです。

佐々木氏の秘密は下記にあるようだ

マネジメントというのは…答えがだいたい決まっています。

メール魔で…具体的な仕事の内容にも言及する

すなわち傲慢さと専制的手法だ。ゲームに参加するために不可欠な、ネガティブ・フィードバックのメカが取り外されている。

ちなみに私のメール観は以下の記事

この人はいずれ刑事被告人になる人だから、氏など付けたくないが、一応の礼儀として。
この人は三悪人の中でもとびきりの悪だ。
原発部門出身で原子力事業部長を務めた佐々木氏は、2006年ウェスチングハウスの買収の先頭に立ち、莫大な資金を投資した。そこで福島原発事故が起こり、結局稼働原発ゼロの事態に追い込まれた。
これは日本全体から見れば別に犯罪でもなんでもなく、たんなる一企業の経営上の失敗にすぎない。しかしもちろん経営者・佐々木則夫にしてみれば十分、致命傷だ。
このままいけば東芝もろとも海の藻屑と化す。
そこで粉飾決算をしまくりつつ、経団連に潜り込み、ひたすら原発再稼働に向けて策動を繰り返すことになる。
赤旗には以下のごとく記載されている。
安倍政権のもとで再開された経済財政諮問会議。この会議の民間議員に佐々木氏(当時社長)が任命されました。
会議のなかで佐々木氏は、原発の「利便性」について繰り返し発言していました。
例えば「いま、いろいろな意味で原子力に対する期待があり、…再稼働は非常に重要である」といった具合です。
記事は次のように結ばれている。
不正に手を染めることも厭わず、世論に挑戦し、再稼働を迫り続けた東芝のトップ。
原発利権の蜜の味は、人としての正常な感覚を狂わせるほどのものだったのでしょうか。

柳美里さんという作家の文章が、赤旗に連載されている。「南相馬 柳美里が出会う」と題されている。

今日の一節、ひょっこり訪れた唐突感が実にうまく描かれている。
柳さんは今年4月から南相馬に住み始めたのだが、そこに…

その2日後のことです。息子を高校に送り出した後、お弁当の残りをおかずにして朝ごはんを食べていると、庭にヘルメットとマスクで顔がほとんど見えない作業員たちが踏み込んできました。わが家の庭には柵がないので、外から自由に出入りできるのです。
そして彼らはいきなり雨樋の写真を撮りはじめました。パジャマ姿の私は、箸を持ったまま彼らを見上げました。…我が家の4匹の猫たちが伸ばした首を固くして、侵入者である彼らを警戒していました。
「雨樋の写真なんか撮るより、猫の写真撮りたいなぁ」と、作業員の一人が笑いました。
「どうぞ」と反射的に言った自分の声がひどく場違いに響きました。
…「除染作業中」「道路除染作業をしています」の看板や、「農地除染」ののぼり旗のある風景は見慣れたものだったのです。
しかしそれを自分の家の中から見るとなると――、体中の体液が凍りつくような緊張を覚えました。(以下略)

さすがに作家だけあって、文章にまったくむだがない。
夏の夜の怪談ではないが、後から背中にぞ~っとくるものがある。ハンカチ落としでタッチされて、「えっ、オレかい?」という感じかな。

ムダのない文章に無駄なものをつけて、まことに相済まないが、これが「アカの除染」だとすると、にわかに差し迫った問題になる。
ある朝、どこかの担当者がやってきて、家の中外を調べていく。「かわいい猫ちゃんですね」とお愛想の一つも言って帰って行くが、家の玄関には「要除染世帯」のレッテルがべったり貼られている。
そして何事もなしに、その日が暮れていく…

なお柳美里さんはやなぎ・みさとではなく、ゆう・みりと読む。おそらく在日の人だろう。




ひどいとは聞いていたが、まさか経産省が平気でこんな数字を出すとは。
赤旗には立命館の大島さんのコメントが載っているが、それより前にまずグラフそのものを見てもらいたい。
cost
さすがに原発のコストを下げるのは気が引けたのか1.2%挙げている。しかしこのくらいで済むとは思えない。補強工事分だけでコストは跳ね上がる。保険料も(保険が効いたとしてだが)数倍になっているはずだ。稼働停止中の維持コストも半端ではないはずだ。
まずこれだけでもこのグラフは信じられない。
さらに、この1.2%のコスト引き上げに連動するかのように、他の電源コストも引き上げられているのだ。
LNGが2.5%、太陽光が2.6%、風力はなんと5.1%も引き上げられている。
お聞きしたい。太陽の値段が上がったのか、風の値段が上がったのか?

大島さんのコメントによると、再生可能エネルギーのコスト引き上げは固定価格買い入れによる差額分を上乗せしたものだそうだ。
それならそれで良いが、ではなぜ原発に関わる税投入分を上乗せしないのか。

経産官僚は国家のエリートだ。国家にとってもっとも良い道を選ぶべきだ。電力会社のために、ウソまでついて国家の道を誤らせるのは、利敵行為と見られても仕方ない。

きょうの赤旗に下記の記事が載っていて、勉強になった。というより勉強させられた。
「2030年の電源構成比率 どう考える」という題で、中身は関西大学の安田陽さんという人のインタビューだ。
紹介と言っても難しすぎて(多分佐久間記者の端折りすぎ)、要約のしようがないのだが、感想的にいくつかあげておきたい。

1.ベースロード電源とは

定義を聞いても良く分からないが、図を見ると需要の波の最小量と同じことらしい。必要最小限供給量ということになる。であれば、そういう値はあって当然と思う。

2.なぜベースロード電源(という枠組み)が必要か
電源構成は安定して低コストほど良いわけだが(安全であることが前提だが)、そういうものは得てして小回りがきかない。電気は貯められないから、安定していて低コストでしかも小回りの効かないものをベースロードに当てて、それ以外を適宜ミックスしながら電力を構成しようということになる。
そのベースロードにあたるものが原発、火発、水力、地熱なのだそうだ。(ただしダムは放流を止め、石油・LPG火発は元栓を止めれば良いので小回りが効かないとは言えない)

ということで、最初から話が二重三重になっていて、つまづいてしまうのだが、
①「ベースロード電源(ベース電源)」と書かれているが、本当にベースロード電源とベース電源は同じ意味なのか、
②なぜベースロード電源の比率が原発比率の根拠になるのか、
③4割とか6割とかいうが、何の何に対しての割合なのか、
これらが省略されて、一気に本論に突っ込んでいる。
これについては、あとで別途調べてみなくてはならないだろう。とりあえず前に進む。

3.ベースロード電源は何割くらいが必要か
1,2,を前提とすると、次に問題になるのは最大供給能力に対して何割くらいが必要なのか、あるいは適当なのかという話になる。
安田さんの話だと、この計算がめちゃくちゃなようなのだ。経産省が提出した数字ではカナダ、米国、フランス、オランダではベース電源の比率が80~100%になっているという。その上で、日本は4割しかないからこれを上げる必要があり、そのために原発が必要という論建てになっている。

ちょっと待ってよ。一体これはどういう数字なの。そんなに恣意的に、政治上の算術で出す数字じゃないでしょ。電力需要の振幅と最小需要量から自動的に出てくる数字じゃないんですか。ごく単純に言えばススキノのネオンが消える頃の消費電力量でしょう。
まぁ、とにかくここも保留にしておいて前に進もう。

4.ベース電源という考えそのものが時代遅れ

安田さんによると、ベース電源という考えそのものが、すでに時代遅れなのだそうだ。
答えは簡単で、「安定していて、低コストでしかも小回りの効かない」発電様式が衰退し、「安定していて、低コストでしかも小回りの効く」ものが主流になりつつあるからだ。
水力も夜間の揚水で電力供給にもメリハリが付き、火発も石油やLPGであれば出力の調整は容易だ。
「安定していて、低コストでしかも小回りの効かない」発電というのは原発と石炭火発のみだ。だからこの2つが時代遅れなら、ベース電源という考えも時代遅れということになる。

5.今の時代は「優先給電」
考えてみると、「安定していて、低コスト」をベースロードとして優先すれば、「不安定で高コスト」の再生可能エネルギーは立つ瀬がなくなる。
再生可能エネルギーが不安定なのは分かっている。空が晴れなければ、風が吹かなければ、電力は発生しない。雪が積もればアウトだし、強風で壊れた風車は枚挙に暇ない。
しかし高コストというのは必ずしも当たっていない。立ち上げコストを組み込んでしまうから高コストになる。理屈の上では原料コストはゼロなのだ。不安定さは風力・太陽光の組み合わせでかなり克服できる。
そこで打ち出されたのが「優先給電」の考え方だ。
これは、経産省とは真逆の発想で、再生可能エネルギーをいわばベースロード電源にしてしまう考えだ。
その上で、再生可能エネルギーの不安定さを「安定していて、低コストでしかも小回りの効く」LPG火発や揚水発電で補完しようということだ。

6.どっちにしても原発はお呼びでない
経産省のベースロード論の上にたっても、原発はお呼びではない。
「安定しているが小回りは効かない」という元からの弱点に加え、コスト比較でもLPGより優れているとはいえなくなった。しかもそこにはもっとも肝心な要素「安全性」という弱点がある。
原発はいかなる面から見てもベースロード電源としての資質を失ってしまった。
ましてこれを再生可能エネルギーと比べることなど、ナンセンスの極みであろう。

とりあえず、いったん項をとじるが、先ほどの基本的な事項についての勉強は、これからとりかかる。

福井地裁の判決は、あらためて読み直すとかなり難しい。文章の問題だけではなく、論理展開がちょっと跳んでいるところがある。

とくに後半のところは少し補足的な解説が必要だと思う。

「万が一」論の中身

C) 「新規制基準に求められるべき合理性」の箇所では、最高裁「伊方判決」を根拠にしながら、「万が一」論が展開されている。

「伊方判決」の趣旨は、当該原子炉施設の周辺住民の生命、身体に重大な危害を及ぼす等の深刻な災害が万が一にも起こらないようにすること。そのため、原発設備の安全性につき十分な審査を行わせることにある。

そうすると、新規制基準に求められるべき合理性とは、原発の設備が基準に適合すれば深刻な災害を引き起こすおそれが万が一にもない といえるような厳格な内容を備えていることである。

万が一論は2つの内容を含んでいることが分かる。すなわち万が一の天変地異が起こりうることを前提にして、

1.万が一の天変地異が起きても、万が一の事故が起こらないようにする手立て

2.万が一の事故が起きても、それを深刻な災害としないための厳格な安全基準

を求めるものである。

この「万が一」論は一般的な議論ではなく、判決を踏まえた議論であり、伊方判決なるものの理解が必要である。

伊方判決の概要

伊方判決というのは、平成4年(1993年)10月29日に最高裁判所第一小法廷にて発せられた判決である。もう23年も前のバブル期のものだ。私は知らなかった。

事件名は「伊方発電所原子炉設置許可処分取消」と称される。つまり住民原告が伊方原発の設置禁止をもとめた訴訟である。最初の訴えは1973年のことだ。もう42年も前、私が大学を卒業して北海道勤医協に就職した年だ。

訴えの内容は、設置許可の際、原子炉等規制法に基づいて行われた国の安全審査が不十分だというもの。

78年に一審判決、84年に二審、その後最高裁に上告されていた。一審判決に関しては小出さんが語気鋭く批判している。ただ訴訟が成立したこと自体が、原告適格性(住民の公訴権)の承認という意義を持つことは留意されるべきであろう。

ウィキペディアに判決要旨が紹介されている。関連箇所?を拾ってみる。

1.裁判所は政府委員会が出した「安全性に関する判断」の適否を審理・判断する。(…ことができる)

2.判断に不合理な点があれば、原子炉設置許可処分は違法と解すべきである。(…ことができる)

3.原子炉設置許可処分の取消訴訟においては、行政庁がみずからの判断に不合理な点のないことを立証する必要がある。

4.(もし立証を怠れば)行政庁の判断が不合理であることが、事実上推認される。

ということで、ここには「万が一論」は登場していない。あまり注目されていなかったのかもしれない。

判例倉庫には判決全文が載せられている。

ここに以下のクダリがあった。

原子炉設置許可の基準として、右のように定められた趣旨は、

①原子炉が原子核分裂の過程において高エネルギーを放出する核燃料物質を燃料と して使用する装置であり、

②その稼働により、内部に多量の人体に有害な放射性物質を発生させるものであって、

③原子炉を設置しようとする者が原子炉の設置、運転につき所定の技術的能力を欠くとき、又は原子炉施設の安全性が確保されないときは、

A 当該原子炉施設の従業員やその周辺住民等の生命、身体に重大な危害を及ぼし、

B 周辺の環境を放射能によって汚染するなど、深刻な災害を引き起こすおそれがある

以上①~③にかんがみ、右災害が万が一にも起こらないようにするため(努力しなければならない)

(このことは)原子炉設置許可の段階で、

①原子炉を設置しようとする者の右技術的能力

②並びに申請に係る原子炉施設の位置、構造及び設備の安全性

につき、科学的、専門技術的見地から、十分な審査を行わせることにあるものと解される。

「技術的能力」というのは、万が一にも壊れない原子炉そのものの安全性であり、施設の位置、構造、設備の安全性というのは原子炉が損傷を受けても重大な事態に至らないための周辺的安全対策である。

これが福井地裁判決の法的根拠を形成しているのである。

ということで、結果的には原告側敗訴でったが、重要な前進があったのである。それが「万が一論」である。

 

大変な判決が出たものだ。推進派は真っ青だろう。

これが通れば日本の原発はアウトだ。原子力規制委員会など何の意味もなくなる。

とりあえず判決要旨(正確には要旨の要旨)を掲載しておく。法律言葉というのは、私の感覚からすれば悪文の極みであり、相当センテンスをぶった切って修文している。小見出しは私の付けたものである。

NPJ訟廷日誌 より

高浜原発3、4号機運転差止仮処分命令申立事件

主文

1 関西電力は、福井県大飯郡高浜町田ノ浦1において、高浜発電所3号機及び4号機の原子炉を運転してはならない。

2 裁判費用は関西電力の負担とする。

理由の要旨

1. 基準地震動について

A) 「基準値振動」を越えれば大変なことになる

「基準地震動」は当該原発に想定できる最大の地震動である。基準地震動を超える地震が到来すれば、施設が破損する。施設の設計は基準地震動を超える地震を想定していないからだ。

その際、事態の把握は困難で、時間的な制約の下で収束を図るには多くの困難が伴う。その結果、炉心損傷に至る危険を含んでいる。

B) しかし実際には「基準値振動」は何度も越えられている

現在、原発は全国で53基あるが、その所在地は20ヶ所にも満たない。このうち4ヶ所で、「基準地震動」を超える地震があった。それも、この10年足らずのあいだに起きたのだ。

ゆえに、これらの原発で「基準地震動」の値は信頼出来ないことが明らかになった。

C) 高浜原発だけが信頼に足る「基準値振動」を持っているという根拠はない

本件(高浜)原発の「基準値振動」はこれら4つの原発と同一の手法で定められている。すなわち、過去における地震の記録と周辺の活断層の調査分析である。

それにもかかわらず、本件原発の地震想定(700ガル)だけが信頼に値するという根拠は見い出せない。

D) 「基準地震動」を基準とすること自体にも問題がある

基準地震動は計算で出た一番大きな揺れの値ではないし、観測そのものが間違っていることもある。原発の基準地震動を策定すること自体が無意味であり、合理性は見い出し難い。

これは基準値振動の提唱者自身が語った言葉である。

2.「基準値未満なら安全」とはいえない

A) 関西電力の無責任な耐震安全性引き上げ

高浜原発が運転を開始した時、基準地震動は370ガルであった。その後、「安全余裕がある」との理由で550ガルに引き上げられた。このとき根本的な耐震補強工事は行われないままだった。さらに新規制基準が実施されたのを機に、700ガルにまで引き上げられた。このときも根本的な耐震補強工事は行われないままだった。

原発の耐震安全性確保の基礎となるべき「基準地震動」を、何のしかるべき対応もなしに数値だけ引き上げるということは、社会的に許容できることではない。債務者(関西電力)のいう「安全設計思想」とも相容れないものである。

B) 700ガル以下なら安全だろうか

とはいえ、関西電力は基準地震動を700ガルまで持ち上げた。では700ガル以下なら安全だろうか。

実際には700ガルを下回る地震によっても、①外部電源が断たれ、②主給水ポンプが破損し、③主給水が断たれるおそれがある。関西電力はこのことを自認している。

外部電源と主給水によって冷却機能を維持するのが原子炉の本来の姿である。外部電源と主給水は安全確保の上で不可欠な役割を担っている。これら「第一次設備」はその役割にふさわしい耐震性を求められる。それが健全な社会通念である。

しかるに、関西電力はこれらの設備を「安全上重要な設備でない」と主張している。このような債務者の主張は理解に苦しむ。

C) 「多重防護」の主張は的外れだ

関西電力は「原発の安全設備は多重防護の考えに基いている」という。しかし、多重防護とは「堅固な第一陣が突破されたとしてもなお第二陣、第三陣が控えている」という備えを指すのである。第一陣の備え(外部電源と主給水)が貧弱なため、いきなり背水の陣となるような備えは、多重防護とは言いがたい。そのような「第一陣軽視」の考えは、多重防護の意義からはずれていると思われる。

このような考えのもとでは、「基準地震動」である700ガル未満の地震においても、冷却機能喪失による炉心損傷に至る危険が認められると言わざるをえない。

3. 小括

日本列島は4つのプレートの境目に位置するという、世界で見ても特異な位置にある。このため、全世界の地震の1割が我が国の国土で発生している。「日本国内に地震の空白地帯は存在しない」と考えなければならない。

関西電力は他の原発敷地と高浜原発との地域差を強調している。しかしその地域差なるものは、それ自体確たるものではない。まして、我が国全体が置かれている上記のような厳然たる事実の前では大きな意味を持たない。

各地に幾たびか激しい地震が到来した。また原発敷地にも、5回にわたり基準地震動を超える地震が到来した。それらが高浜原発には到来しないというのは、根拠に乏しい楽観的見通しにしかすぎない。

その上、基準地震動に満たない地震によっても、冷却機能喪失による重大な事故が生じ得ると考えられる。であれば、高浜原発の危険は、「万が一」というレベルをはるかに超える現実的で切迫した危険であるとみなされる。

4. 「使用済み核燃料」というもう一つの問題

使用済み核燃料は、将来、我が国の存続に関わるほどの被害を及ぼす可能性がある。しかしそれは目下のところ、格納容器(最終処理)のような堅固な施設によって閉じ込められていない。

その理由は「使用済み核燃料を閉じ込めておくための堅固な設備を設けるためには膨大な費用を要する」ということになっている。

そこでは、「国民の安全が何よりも優先されるべきである」との見識は前提とされていない。すなわち、「深刻な事故はめったに起きないだろう」という見通しのもとに、姑息的な対応で済まされているといわざるを得ない。

目下のところ、格納容器に代わるべきものとして使用済み核燃料プールが位置づけられているが、その給水設備も耐震性はBクラスにとどまっている。

5. 当面、守られるべき住民の安全について

A) 安全性確保に必要な方策

本件原発の脆弱性は、

①基準地震動の策定基準を見直し、基準地震動を大幅に引き上げ、それに応じた根本的な耐震工事を実施する、
②外部電源と主給水の双方について、基準地震動に耐えられるように耐震性をSクラスにする、
③使用済み核燃料を堅固な施設で囲い込む、
④使用済み核燃料プールの給水設備の耐震性をSクラスにする

という各方策がとられることによってしか解消できない。

さらに、地震の際には事態の把握の困難性が予想されることから、使用済み核燃料プールに係る計測装置がSクラスであることが必要である。さらに、中央制御室へ放射性物質が及ぶ危険が予想されることから、耐震性及び放射性物質に対する防御機能が高い免震重要棟の設置が必要である。

B) 原子力規制委員会の新規制基準には合理性がない

しかるに原子力規制委員会が策定した新規制基準は上記のいずれの点についても規制の対象としていない。免震重要棟についてはその設置が予定されてはいるが、猶予期間が設けられている。

地震が人間の計画、意図とは全く無関係に起こるものである以上、かような規制方法に合理性がないことは自明である。

原子力規制委員会が設置変更許可をするためには、

①専門技術的な見地からする合理的な審査を経て、申請に係る原子炉施設が新規制基準に適合するか否かを判定しなければならない。
②新規制基準自体も合理的なものでなければならない

C) 新規制基準に求められるべき合理性

最高裁判所平成4年10月29日第一小法廷判決(いわゆる伊方判決)の趣旨は、当該原子炉施設の周辺住民の生命、身体に重大な危害を及ぼす等の深刻な災害が万が一にも起こらないようにすること。そのため、原発設備の安全性につき十分な審査を行わせることにある。

そうすると、新規制基準に求められるべき合理性とは、原発の設備が基準に適合すれば深刻な災害を引き起こすおそれが万が一にもないといえるような厳格な内容を備えていることである。

しかるに、新規制基準は上記のとおり、緩やかにすぎ、これに適合しても本件原発の安全性は確保されていない。新規制基準は合理性を欠くものである。

そうである以上、その新規制基準に本件原発施設が適合するか否かについて判断するまでもなく債権者らが人格権を侵害される具体的危険性即ち被保全債権の存在が認められる。

6 保全の必要性について

本件原発の事故によって債権者らは取り返しのつかない損害を被るおそれがある。したがって、本案訴訟の結論を待つ余裕はない。

現時点においては、すでに原子力規制委員会の設置変更許可がなされており、現状を保全する(緊急の)必要性も認められる。


を参照されたい。


前の記事で「だったら上げなさい」と書いた。私達としても関電が潰れて社員が路頭に迷うようなことがあってはいけないと思う。


ところで、気になって給料を調べてみた。いまでは便利なことに日本最大級の年収ポータルサイト「平均年収.jp」というサイトがあって、簡単に調べられる。

そこの、関西電力の年収に興味がある方のための基礎知識」というページから紹介する。

関西電力の年収は?

平成22年度版の従業員一人あたり平均年収は約945万円という噂があります(ゆかしメディア調べ)
総人件費と従業員数から算出した数字となっており、完全ではありませんがこのような上記年収となっています。

平均年収は40歳前半の800万~810万ぐらい。50代の管理職クラスになると、技術関連で1100万。経営企画で1230万となってます。
ボーナスは197万8900円程度で、「雑給」という用途不明の項目もあるようです。

秋山喜久会長は2006年に退職しましたが、退職慰労金の額はナント推定10億円でした。
関西電力は2年前、 美浜原発の事故で11人の死傷者を出した。在任中にそんな大事故を起こしていながら、『規定通り10億円もらいます』とは、呆れた話です(当時の記事から)
役員クラスでない従業員も退職金は3000~5000万ぐらいと言われます。よって、関西電力の生涯年収の総額は4億3000万程度と考えられます。

いいんですか、赤字企業がこんなにもらって。しかも赤字を出した社長は責任を取るどころか堂々と10億のゲンナマを取っていった。これって電気料金ですよね。

前の記事で

いま電力各社は、原発再稼働を進めるにあたり、何もその理由を語らない。語るべき理由がないからだ。

と書いた。その証拠をお見せする。

ちょっと古い報道だが、2014年12月24日の電事連会長の記者会見についての報道があった。

電力会社がいま、何を口実に原発再稼働を進めようとしているのかが分かる。

電事連会長は関西電力の八木会長であり、質問では関電の経営状況の話題から始まっている。

1.原発再稼働
原発再稼働が大きく遅延し、火力燃料費をすべて吸収するのは限界。4期連続赤字で、このままでは企業存続が危ぶまれる。

(だったら上げなさい)

2.MOX使用計画

高浜では再稼働時にMOXを使う予定。地元(高浜町と福井県)の理解をいただきたい。

(どさくさMOXだ。なぜMOXかの説明なし)

3.廃炉について

このまま早期廃炉になると、一括で多額の費用計上となる。(だから反対だ、と匂わせている)

4.固定価格買取制度

再エネの導入拡大と国民負担の抑制を両立するには、制度の抜本的改正が必要だ。(要はやめちまえということだ)

5.発送電分離

安定供給の確保の面でいまだ課題や懸念が残っている。エネルギー間の公平な競争環境の整備が必要。(反対。ずっと“先送り”せよ)

5.原油安の影響

燃料費調整制度で収支には中立(これはウソ)。円安も影響しており、トータルとして注視していく。(“注視”するのみ。還元するつもりはない)

6.2015年への抱負

電力小売り自由化に備えて、スピード感を持って競争基盤を構築する。原発再稼働を何としても成し遂げる。(もはや国民のためとか、国家のためとは一言も言わない。全ては自分のため)

東洋経済オンラインより


原発、もうひとつのウソ

原発は安全神話のもとに進められた。福島のあと、この安全神話を信じる日本人はいなくなった。少なくとも表向きは…

それではなぜ原発を再稼働するのか、それは「原発なしには生きていけない」神話のためである。

それは3つの柱からなっている。

一つは「資源小国である日本は原発なしには生きていけない」、という神話であり、一つは「日本を支える企業が電力料金のために破産する」という神話であり、もうひとつは「電力会社が経営的に成り立たない」という神話であった。

それらはそれなりに説得力があった。経営の側からイロイロ算盤を弾いて数字を出されると、こちらもたじろぐ場面があった。

しかし、それらの話は全てウソであった。

日本は生きている。たしかに苦しいが、それは原発を止めたせいではなく、経済政策の失敗によるものだ。

企業は、とくに大企業は空前の利益をあげている。破産どころの話ではない。大企業は国民に向かって大ウソをついたのだ。それを反省する様子も見えない。

電力会社は経営的に成り立っている。そもそも電力会社が成り立たないわけがないのだ。赤字が出れば、すべて電力料金に転嫁すればいいだけだからだ。

電力料金はたしかに上がった。なぜか、原発に回していたカネ(国費)を一般火発に回していないからだ。「原発より火発のほうがコストが高い」と主張していたのはウソだったのだ。

差し引きすれば、火発のほうが安いことは明らかだ。

「原発なしには生きていけない」神話は、もはや完璧に破産した。

いま電力各社は、原発再稼働を進めるにあたり、何もその理由を語らない。語るべき理由がないからだ。

しかし「語れない理由」はある。それは原発維持がアメリカ軍産複合体の要求だからだ。そして原発稼働によって生み出されるプルトニウムが喉から出が出るほど欲しいからだ。

ということで、ALPSには実施上のさまざまな問題があって汚染水処理がうまく行っていないということは分かった。

しかしALPSは本質的に役に立たないという学者もいるようだ。

東洋経済オンラインの2013年10月22日の記事

東電・東芝の「ALPS」は、役に立たない

東工大・冨安名誉教授に汚染水処理の対案を聞く

というものだ。冨安さんは、東工大で原子炉工学研究所教授を務めた専門家。

汚染水というのは正確に言うと処理対象水(RO濃縮塩水)というのだそうだ。

この中にはストロンチウム90が1リットルあたり1600万ベクレルふくまれている。他の各種に比し圧倒的な比率だ。

ALPSの欠陥

東電は現状の技術では除去が困難なトリチウムを除く62の放射性核種を、ALPSを用いて規制値以下に減らすとしている。

しかし、富安さんによればALPSによる処理はコスト的に無駄であるだけでなく、危険だ。

なぜ無駄か?

ストロンチウムと比べて相対的に微量で、危険性の少ない核種も高いコストと手間ひまをかけて基準値以下に減らそうとしている。そのためにALPSは設備が大がかりになった一方で、最も重要なストロンチウム除去のための工程が合理的に設計されていない。

なぜそのようなことをしたのか。東電はALPS処理済み水の海洋投棄を想定しているからだ。

なぜ危険か?

ストロンチウムの吸着タワーは、チタン酸塩を吸着材としている。チタン酸塩は過度にストロンチウムを吸着した場合、放射線化学反応を起こす。

このときベータ線が水に照射して水素を発生し、これによる水素爆発のおそれがある。

発想が間違っている

第一に考えるべきは、海洋投棄を前提とせず、できるだけリスクが少ない形で汚染水を溜め続ける方法に切り替えることだ。

この後、富安さん独自の処理法が展開されているが、コメントできる立場にはない。

いずれにせよ、前の記事で私の感じた素朴な疑問が裏打ちされたような気がする。

肝心なのはストラテジーで、これは4段階に分ける必要がある。

一次除染: セシウムの除去をふくむ前処理

二次除染: ストロンチウムの除去

三次除染: ストロンチウム以外の61種の核種の除去

四次除染: トリチウムの除去

ALPSは二次と三次を一度にすまそうということだが、そのために技術的困難が生じている。

これはある意味で簡単なことで、「四次除染を行わない限り、海上投棄は認めない」という態度を示せば済む話である。

トリチウムが十分に比重が重ければ、やがて海底深く沈殿することになるだろうから、海洋投棄はありえない話ではない。

しかし沈まずに漂い続けるのなら、てんでアウトだ。善悪・可否の判断以前に漂着地である米国の世論が黙ってはいないだろう。

アメリカがダメと言って、それを日本は押しきれるだろうか? ありえない話である。

土曜日の赤旗一面トップは、かなり恐ろしげな見出しである。

「汚染水コントロール不能」

ただ縦見出しは「東電、年度内処理を断念」とあって、両者を総合すると、“未だにコントロールが未達成”だということのようだ。

中核となる事実は、東電の社長が次のような事態を公式に明らかにしたことだ。すなわち、

1.東電は安部首相に対し、放射能汚染水を3月末までに全量処理すると約束した。(2013年3月)

2.目標達成は不可能であり、断念する。

ということだ。ただし汚染水処理そのものは進んでおり、予定量の半分程度は処理済みである。

ということで、見出しは、ややセンセーショナルに過ぎる感もある。

福島原発の廃炉にとって最大の課題が汚染水処理だ。いまそれが最大の難関を通過しているということなのかもしれない。東電に好意的に見れば。

そこでネットから情報を集めてみた。


ALPSとはなにか

汚染水処理はどのようになされるのか。その中核となるのがALPS(多核種除去設備)という装置らしい。

そしてALPSの不具合が多々あって、それが処理の遅れに繋がっているらしい。東電側はそう説明している。

そこでALPSだが、ちょっとだけ記事を深読みしてみた というブログの

2013-09-14 福島原発 ALPS トリチウム

で要領よく説明してくれているので紹介する。

まずALPSの名前は、Advanced(高度な)Liquid(液体の)Processing(処理)System(装置)の頭文字なのだそうだ。

f:id:news0109:20130914140308j:image

この図のごとく、16個のタワーが立って、その中を通過していくあいだに62種類の放射性物質が除去されるというもの。

処理能力は1日500トンとされているので、結構なものだ。まぁ1年もあれば処理は完了する計算だ。

この後、このブログではトリチウムの危険が訴えられているが、それはうまく行ってから発生する話。

そもそもALPSが回っていないところに問題がある。

なぜALPSが回らないのか

以下は IWJ Independent Web Journal というサイト

2015/01/26 予定していた年度内の汚染水全量処理は断念、新たな目標日程は検討中~東電定例記者会見

という記事からの引用。

ALPSの稼働率が想定通りに上がらない。特にストロンチウムを除去する吸着剤の性能低下が当初想定より早い。

また前処理が悪く、処理前の水にカルシウムや不純物が多く含まれている。このため、頻繁に運転を止め、クロスフローフィルターの逆洗洗浄を行う必要がある。

ということで、除去装置はすでに第一、第二、第三世代と投入されているが、能書き通りの稼働には至っていない、ということのようである。

私は考えるのだが、ストロンチウム除去プロセスがLimitting Step になっているのなら、新型施設の設計時にどうしてそこを強化しなかったのかがわからない。場合によってはストロンチウム単独の処理施設を作ったほうが安上がりではないだろうか。

遅れている理由は他にもある

今月に入って、作業者の死亡事故が続いて起きた。このため21日以降、全ての工事作業が中断されている。

総点検の結果、相当安全設備の不備がひどいこと分かった。このため操業停止期間はさらに長引く可能性がある。

問題は汚染水処理だけではない。海水配管トレンチの充填止水工事、凍土遮水壁もとまっている。


と、とりあえずこんなところか。

変な話だが、致命的なコントロール不能=失速・きりもみ状態に入っているわけではないことが確認できて、ひと安心した。

しかし、どこか一段落しないことには、原発再稼働はムリだろうね。

こういう状況が世界に知られたら、安部首相は大嘘をついたということで、オリンピックを返上しなければならなくなるかも知れない。

今年4月に広瀬隆さんが鹿児島で行った講演の記録があって、そこにいくつかの図表が載っていたので、転載させていただく。

川薩
この記事は1997年3月26日の出来事だそうだ。キャプションによると、日本の原発が初めて地震の強い揺れに直接襲われた日なのだそうだ。直下型でマグニチュード6.2というのは相当のものだと思う。
川薩の川というのは川内のことのようだ。阿久根というのは地図で言うとこのへん。川内の隣町だ。

akune

そういえば、前にえびの地震というのもあったな。

それで、さっきの地震が3月だが、その2ヶ月後には川内を地震が直撃した。

川内

それ自体きわめてやばい話だ。次はまさに原発の直下だ。

だが、もっと恐ろしい話がる。見出しに「川内原発停止せず」と書いてある。二回目の地震のその時、九電は深度6弱でも原発を止めなかったのだそうだ。脇見出しには過去最大71ガルと書いてある。

止まったのは原発ではなく、原発を管理する人間の思考が止まったのだ。これが一番恐ろしいことなのだ。「止める」という発想がそもそもない。車にはアクセルとブレーキのペダルがあるが、ブレーキを踏むつもりがなければブレーキはブレーキではなく、たんなる飾り板でしかなくなる。


広瀬さんはこう語っている。

これは信じられない事です。
原子力発電所というのは危険ですから、普通の地震でも原子炉は止めるようになっているはずなんですが、
止めなかったんです。
「なぜ止めなかったのか?」
それは私は今もってですね、九州電力を信頼できない一番の根幹になっています。

それで今回の申請だが、なぜ通ったのかがわからない。断層なくして地震なしだ。10年ちょっと前には、あわやあと一歩という直下型地震があった。

とすればそこには断層があるのであり、それは定義上は紛れもない活断層ではないか。


多分全国版には載らないと思うので紹介しておく。
「取材メモ」というコラムに(善)さんという記者が書いた記事。
電源開発が原子力規制委員会に大間原発の新基準適合性審査を申請しました。ここには三つの「初」があります。
一つ目は、建設中の原発の審査申請は初めてということ。
二つ目は、世界初のフルMOX原発であること。フルモックスというのは危険性の高いMOX燃料のみを使うということです。
三つ目は、電源開発が初めて作る原発だということです。つまり原発を作ったこともない会社が初めて作る原発が、世界初のフルモックス型だということです。
この原発、東日本大震災と東電福島原発の事故のあと工事が止まりましたが、12年10月に民主党野田政権の容認のもとに工事を再開しています。(以下略)
これにもう一つ「初」を付け加えるならば、「化石化」することを前提に作られる初の原発だろうということだ。大間という町は今後半世紀のあいだ日本中に恥を晒すことになるだろう。



という記事で「朝の風」の大谷門主の発言を紹介した。とりあえず、全文再掲する。
西本願寺(真宗本願寺派)の大谷門主が、非公式な発言としたうえで、以下のように述べている。(29日付)

原発は人間の処理能力を超えたものである。
使用済み核燃料の処理方法がないものをどうして許したのか。
廃棄物だけ残していくのは、倫理的・宗教的に問題がある。

これだけで発言の真意を窺うのはいささか軽率かもしれないが、安全性でも、エネルギー論でもなく、使用済み核燃料というこの一点に「原発と人の道」の関係の本質をとらえる眼は確かだ。
大谷門主は、原発の核となる概念として廃棄物を取り出し、人間としての業も見据えながら、未来への視座を打ち出した。
きわめて説得力の高い主張だ。

経済、経済というが、要するにお金のことである。しかしそうやって手に入れるお金は、結局子孫にツケを回して得るお金である。お金回りが苦しいからといって、子孫のお金に手をつけていいのだろうか。娘を身売りする親と選ぶところはないのではないか。

この一点において、原発は没義道そのものであり、仏の道、人の道に反するのである。

「どうして許したのか」という問いかけは、自らへの責めもふくんで、厳しい。
それはいまなお「許そう」としてる人々にとっては、さらに厳しい。

その大谷門主の発言がふたたび本日の「朝の風」に登場した。

今度は公式の文書での発言である。

大谷門主、大谷光真師は6月に退任されているので、正確には前門主ということになる。門主在任中は発言を控えていたということのようだ。

主な内容は以下のとおり

現代の原子力発電所には、未解決の問題がいくつかある。

第一は、現代の科学技術では、放射性廃棄物の無害化ができないこと。

第二は、一度大きな事故があれば、対処できなくなる可能性があること、

第三は、原子力発電所を運転するためには、平常時でも一定数の労働者の被曝が避けられないこと、

したがって、原発は「検討するとき」だ。

ということで、指摘はより包括的になっている。

出処は著書「いまを生かされて」(文藝春秋)の「あとがき」

川内原発をめぐる記事から拾ったもの。“要確認”の記述である。
住民からは、「ヨーロッパではメルトダウンに備えてコアキャッチャーが装備されている。なぜコアキャッチャーを装備しないのか?」との質問が出ました。
規制庁は下記の設備が「コアキャッチャーと同等の安全性を確保している」と答えています。
その設備とは、
緊急時には、圧力容器の上から水をスプレーし、それが格納容器の下部に溜まって、水深1.5メートルのプールができ、溶け落ちた核燃料を受け止めて冷やす
というものらしい。
これに対し元燃焼炉設計技術者の中西雅之氏が下記のごとく指摘している。
溶融した核燃料に限らず、鉄や銅などの高温の溶融物が大量の水と接触すると、水蒸気爆発の危険があり、その対策は高温溶融炉設計の常識です。水を張って溶け落ちた核燃料を受け止めるなどとんでもない
水蒸気爆発といえば、御嶽山の噴火でおなじみだ。あれはマグマと地下水の接触だったようだが、今度は核物質だから、放射性物質があの噴火の煙のように世界中に撒き散らされることになる。
素人で分からないが、中西氏が正しいなら規制委員会が間違っているかウソをついているかということになる。
「世界最高水準の規制基準」という看板をめぐるガチンコ勝負だ。

東京新聞に掲載された、反原発の詩歌から。

俵万智さんの歌が良い。

「海辺のキャンプ」と題された連作から

雨の降る確率 0 %でも 降るときは降るものです、雨は

声あわせ「ぼくらはみんな生きている」 生きているから この国がある

「なかったことにできるのか」という若松丈太郎さんの詩の終連

無残としか言いようがない現実がある

あったことを終わったことにするつもりか

あったことをなかったことにするつもりか

おなじことをくりかえすために

いまあることをなかったことにできるのか

阿修羅より引用 

武谷問題で言い忘れたことがひとつある。

私が加藤氏を批判するのは、「坊主憎けりゃ袈裟まで」というやり方がおかしいということであって、「坊主=日本共産党」が憎いということについては、共感できないわけではない。

逆に「悪いのは共産党で、武谷氏は被害者みたいな言い方も、やめたほうが良い」という、加藤氏の言い分にも一理はある。しかし共産党と武谷を串刺しにするのは、もっと乱暴だし、もっと傲慢だ。


いわゆる「50年問題」だが、その主要な側面は「分裂」にあるのでもなく、「極左主義」にあるのでもなく、党の事実上の「壊滅」にある。さらにマクロな視点に立てば、共産党の「壊滅」は、主要には「プログラムされた死滅」ではなくアメリカと支配層による「殲滅」作戦の結果である。


しかし厄介なのが対外盲従性の問題で、これは50年以降の党の弱体化にともなって強まっただけではなく、6全協以降の再建過程で明らかに強化されている。いわば外圧を背景に党が再建されたことの必然的結果といえる。

再建された党が掲げた親ソ・親中の路線は、しばしば現場の方針と齟齬をきたした。それがモロに大衆運動と激突したのが60年代前半だった。


しかし、事後的にではあるが、それらは全て基本的には現場の方針にそって修正されていった。歴史的に振り返れば、間違いなく共産党は各種課題と真摯に向き合ったと思う。それはこの間に共産党が「知識人の党」(グラムシ)となったからだ。


このへんはむしろ加藤さんの専門領域だろうと思うが、私が共産党に接近した昭和40年ころ、共産党というのは実に奇妙な組織だった。組織のトップは戦後の労働運動を通じて専従となり、レッドパージや反動攻勢を生き抜いてきた人々だった。

しかし企業からはパージされ労働現場に足場を持っているわけではなかった。基本的な足場は生協や民医連などの市民運動であった。


いっぽうレッドパージは大学には貫徹せず、組織が無傷のまま残されていた。ここが多くの活動家の巣立ちの場所となった。これらの事情は、逆に共産党が高度成長の時期を生き延び、さらに成長を遂げた背景となっている。そして共産党がソ連や中国に対し自主独立の立場を打ち出し得た理由となっている。


繰り返すが、日本共産党も私たちも原子力の平和利用について幻想を持っていたことを自己批判しなければならない。問題は具体的に提起されている。現実の原発には平和利用の可能性も安全な運用の可能性もなかったのだ。

私たちは原発の安全性について度重なる警告を発してきたが、それを根本的に否定してこなかった。

いまやこう言わなければならない。「原発は根本的に否定されなければならない」と。





どうも人のフンドシで相撲をとるというのは気持ちの悪いもので、尻のあたりがむず痒くなってくる。とりあえず、ネットで拾える範囲内で自分流の武谷三男関連年表を作成してみた。

1949年 日本学術会議の発足。最初の学術会議において、武谷は坂田昌一とともに、慎重に原子力研究を進めるべきだとして提案。急ぐべきだという茅誠司、伏見康治と衝突した。(これは武谷自身の文章で、しかも回顧談みたいな形での記述だから、真偽の程は定かではない)

1949年 ソ連が原爆実験に成功。米の核独占体制が崩れる。この後、米ソの核開発競争に入っていく。

1950年 朝鮮戦争が勃発。世界平和評議会は核兵器の禁止を訴えるストックホルム・アピールを発表。

50年 ストックホルム・アピールへの賛同署名、日本国内で650万筆を達成。

「安全性の考え方」より:
この頃の国民の原子力問題に対する関心の度合いを思い出してみよう。広島・長崎に対する原爆攻撃の非人道さに対して広く国民のふんがいは存在していたが、 敗戦の結果、それをあからさまに述べることははばかられていた。それは第一には占領軍の報道管制によって、原爆の詳細が伝えられなかったからであり、また 第二には日本民主化の主目標が日本帝国主義を批判することにあったからである。
原爆の非人道さに対してはじめて行なわれた抗議は、世界平和会議がストック ホルムに集まり、原子兵器の禁止を要求したストックホルム・アピールを作り発表した一九五〇年のことであった。このアピールへの署名が日本の中で六五〇万 も集まったのであるから、原子兵器に対する全国民的な憎しみ・反対は明らかであろう。

1952年 『科学』誌上にて原子物理学者の菊池正士氏が原子炉推進論を展開。日本学術会議の茅誠司氏と伏見康治氏が秘密裏に原子力計画を進める。

1952年4月 サンフランシスコ講和条約が発効。

1952年8月 武谷、「原子力を平和につかえば」という文章を『婦人画報』で発表。「原子力の平和利用」を主張。

広島、長崎の無残な記憶がますます心のいたみを強くしているのに、ふたたび日本をもっとすさまじい原子攻撃の標的にしようという計画がおしすすめられてい る。そのような計画は権力と正義の宣伝によって行われるので、国民の多数がこれはいけないと気がついたときには、手おくれになるかも知れない。
…今日研究が進められている水素爆弾1発で関東地方全域に被害をおよぼすことができる。一方で、原爆製造をしているアメリカの原子炉では、100万キロワットの電力に相当する熱を冷却水を通じて捨てている
  キュリー夫人、ジュリオ=キュリー夫人、マイトナー女史、このような平和主義的母性の名をもって象徴される原子力が、このような、人類の破滅をも考えさせ るものにどうしてなったのだろうか。原子力は悲惨を生むためにしか役立たないのだろうか。このような大きなエネルギーを、人類の破滅のためにではなく、人 類の幸福のために使えないのだろうか。
そうだ! 原子力はほんとは人類の幸福のために追求 され、また人類の将来の幸福を約束している。それを現実化するためには,戦争をほっする人々に権力を与えないだけで十分なのだ.

1952年11月 オスロのオランダ・ノルウェー合同原子力研究所の天然ウラン重水型研究炉が完成。武谷は『改造』に「日本の原子力研究の方向」を掲載。「大国から独立に、独力のすぐれた原子炉を完成」したと評価し、「直ちに日本も原子炉の建設にのり出すことを提案」した。

提案に盛り込まれた諸原則: 
・日本では、人を殺す原子力研究は一切行わない
・日本には、平和的な原子力の研究を行う義務がある
・諸外国は、日本に対して、平和的な原子力の研究へのあらゆる援助をすべき義務がある
・諸外国は、日本に対して、ウラニウムを無条件に入手できる便宜をはかる義務がある
・日本で行う原子力研究の一切は公表すべきである
・日本で行う原子力研究には、外国の秘密の知識は一切教わらない
・外国と秘密の関係は一切結ばない
・日本の原子力研究所のいかなる人が、そこで研究することを申し込んでも、拒否しない
これらを「法的に確認してから、日本の原子力研究は出発すべきである」とした。この提言は、最終的に、「公開」「民主」「自主」からなる原子力三原則という形でまとめられる。

53年 武谷、原子力研究のはらむ3つの危険を指摘。1.原子力研究は桁ちがいの予算と多数の専門家を動員するので、政府の研究統制を助長する危険がある、2.自由な研究、他部門の研究を圧迫する危険、3.秘密の問題をひきおこし、自由な討論をはばむ危険。

54年2月24日 この日付の極秘報告書が明らかにされている。「米国務省解禁文書」で、タイトルは「日本に於ける原子核及び原子力研究の施設及び研究者について」

原子力問題が面倒な理由の一つは、左翼の反米運動の材料として使われているためである。
坂田昌一名古屋大学教授や 武谷三男氏など「素粒子論研究者の極左派」が、「最も強く、保守政府の下での原子力研究に反対している。
この「極秘」資料は、文部政務次官だった福井勇が吉田茂政府の下でまとめたもの

1954年3月1日 ビキニ環礁での米国による第一回目の水爆実験。近くで操業中の第五福竜丸が被曝する事件が発生。

3月3日 改進党(中曽根康弘党首)が原子炉予算案を提出。中曽根氏は「学者がぐずぐずしているから、札束で頬をひっぱたくのだ」といったと伝えられている。

3月14日 第五福竜丸が帰国。死の灰(放射性降下物)が脚光を浴びる。

4月3日 「原子炉予算」が国会で可決。

武谷の述懐: 物理学者が原子力に反対するといわれた。原子力をうみ出したものがそれに反対するわけはないんで、われわれのほこりである原子力が正しく発展することを祈っているんですよ。
「物 理学者は原子力は素人でしかないからもう何の役割もない。物理学者の意見は素人の一般論だ。原子力の主体は技術者である」と、宇田委員長や業界は主張し、 伏見康治氏なども同類だ。これほど危険な見解はないのである。原子力は決してまだ完成したものではないどころか、まだ実験研究 の段階にすぎない。原子核物理学者を中心にして様々の専門科学者、技術者が協力し て発展さすべきものである。

54年 米国の原子力委員会はリビー博士(ノーベル賞受賞者)らを派遣して“日本放射能会議”を東京で開く。米国側の出席者は「汚染マグロの放射能は、人体に対する“許容量”にははるかに及ばないほど少ないものだから“安全”である。」と主張した。これに対し武谷は、許容量の概念を否定。長期予後に関して被曝に閾値はないことを主張。

1954年5月28日 中野区議会において「原子兵器放棄並びに実験禁止その他要請の決議」が全会一致で可決される。

1954年4月 日本学術会議総会が原子力三原則をふくむ声明。

54年8月6日 岩波新書『死の灰』が発行される。死の灰の組成から、爆弾の構造を突き止める。

1955年 原子力基本法が制定される。原子力三原則を取り入れたものとなる。第2条において「原子力の研究、開発及び利用は、 平和の目的に限り、安全の確保を旨として、民主的な運営の下に、自主的にこれを行うものとし、その成果を公開し、進んで国際協力に資するものとする。」

1957年 武谷、岩波新書『原水爆実験』を発表。『許容量』理論を否定。放射線利用の利益・便益とそれに伴う被曝の有害さ・リスクを比較して決まる社会的な概念として”がまん量”を想定する。

1957年9月11日 武谷が講演。「戦前は放射線・放射能はそれほど危ないものと思っていなかった」ことを明らかにする。

戦前は放射線・放射能はそれほど危ないものと思っていなかったが、戦後になりまして、人体に及ぼす影響が非常な微量なものまで危険がある。もちろんすぐ死んでしまうというようなそういう危険ではない。そういう危険でないからこそ大変心配なのであります。
戦後において原子力の平和利用を提唱したが…最近は少し薬がききすぎて、今度は、原子力なら何でもいいんだという風潮 が生まれた。文明の利器、とりわけ原子力は非常な危険を有しているから、非常に慎重に扱わなくてはならない。
 まず、軍 事利用というものには許容量というものは許されない。例えば、水爆実験の死の灰などでは、どんな微量の放射性物質でも許されず、「警告単位」という考えで なければならない。平和利用に限定して、許容量という考えが許される。しかし、この平和利用といえども何の意味もなくこの放射線や放射能を受けるというこ とは許してはならない。
 放射線・放射能は量に比例して有害であり、毒物のような致死量が存在しない。白血病やガンというものの発生も非常に微量に至るまで受けた線量と比例して現れる。本来は許容量以下でも無駄な放射線をあびることはさけなくてはならない。

1956年5月22日 武谷、衆議院社会労働委員会で、放射性物質に対する許容度の問題について参考人発言。

放射線を扱うときの根本的なフィロソフィーはできるだけ放射線に当らないということである。放射線に当るということは多かれ少なかれ有害なことなのですけれども、それと引きかえに 得をしている。これは許容量というこ とがある程度意味がある。ところが何の関係もない人に、そういう放射線をこの程度なら当ててもよろしいという理由はどこにもない。 

1976年 武谷、「原子力発電」(岩波新書)を発表。

 

以上は、中嶋さんのブログ 東京の「現在」から「歴史」=「過去」を読み解く からの引用。

この中嶋さんは、加藤さんの講演の場にも居合わせたようで、以下のように感想を述べている。

加藤氏は、とりあえず日本マルクス主義について、もっとも狭義に日本共産党に限定しつつ、日本共産党が社会主義における核開発を肯定していたと述べ た。特に、日本共産党が社会主義における核開発を肯定する上でキーマンー「伝道師」とすら表現されているーとなったのが武谷三男であると加藤氏は主張し た。


「原子力 戦いの歴史と哲学」 武谷三男現代論集1 (1974年) という本で武谷が戦後の経過を回顧していて、

この文章をまとめた 瀧本往人のブログ では、武谷に控えめな、だが本質的な批判を行っている。

武谷の問題点は、大きく分けると二つある。

一つは、原子力を平和的利用とはいえ推進したことによる、現状への加担である。今からみると、 「原子力」に関する研究内容も技術も、「平和利用」として制限されるたぐいのものではなく、テロ対策も含めて、これ自体が、他国および自国の政治的、軍事的な道具でもあると考えるだろう。残念ながら当時の武谷にはそこまでは思い至らなかったようである。

もう一点は、明らかに彼の頭のなかには、米=資本主義=悪、ソ連=社会主義=善、という二項対立があったことである。当時の知識人において(たと えばサルトル)このことは、ある程度やむを得ないところもあるとは思うが、ソ連や、その後の中国に対する知識人の対応は、基本的に肯定的で、マイナスが あったとしても、及び腰で、米国に対する非難と比べるとかなり違った態度をとっている。

彼の言葉で「人類のため」というのがある。原子力 も「人類のため」に平和的に利用できる可能性をさぐっていた。しかし、彼が許せなかったのは、「自分だけ利潤をあげる」ために利用するの か、ということであった。そして、ソ連は「人民のため」であり「人類のため」と結び付けて考えられていたのであった。


瀧本さんは、終戦からの10年の武谷の位置取りについて、適確な指摘をしているが、私にはもうひとつの視点が必要ではないかと思える。それは時代とのアクチュアルな対決である。

第二次大戦がファシズムと民主主義との戦いであったことは言うまでもない。彼はファシズムに及ばずとも抵抗し、二度もパクられている。終戦直後に彼が日本ファシズムとの闘いを主要課題としたのは当然の事である。

その後闘いは急速に日本を単独占領するアメリカとの課題に収斂していく。これも当然のことだ。原子力問題はそれらの主要課題との関連で語られなくてはならないから、それがソ連の支持につながらざるをえないのは当時としてはやむをえざる制約であった。

これらは「民衆の敵」に対してアクチュアルであるがゆえのブレであり、アクチュアルであり続けることによって克服されていったブレであった。

ソ連も水爆を作るということになって来て、たとえソ連といえども到底支持できないということになる。しかし武谷は、それを理由にして、「民衆の敵」の攻撃と闘うことをやめたりはしなかった。我々はそこに、時代が生んだ「苦闘する知識人」としての武谷を見出すことになる。そこが武谷論のミソではないだろうか。

ただひとつ、武谷の看過し得ない詭弁については一言言っておきたい。

原子力は悪いように使える代物ではない。必ずいいようにしか使えない代物である

なぜなら原子爆弾が無制限に使われれば人類は滅亡する他ないからである。

人間に滅亡を防ぐ叡智がなければ、人類は平気で滅亡するだろう。

 

というサイトに、「第7章 原水爆への反応 唐木順三がらみで見ておくべき文献」

というページがあって、

「唐木順三が1980年の遺稿で武谷を手厳しく論難した」、という記載がある。

今次の敗戦は、原子爆弾の例を見てもわかるように世界の科学者が一致してこの世界から野蛮を追放したのだとも言える。そしてこの中には日本の科学者も、科 学を人類の富として人類の向上のために研究していた限りにおいて参加していたと言わねばならない。原子爆弾を特に非人道的なりとする日本人がいたならば、 それは己の非人道をごまかさんとする意図を示すものである。原子爆弾の完成には、ほとんどあらゆる反ファッショ科学者が熱心に協力した

という、加藤さんも引用した例の文章だ。

武谷三男は、『科学者の社会的責任』という本でこれに反論したそうだ。


Uchiiさんは、武谷さんの肩を持つ形で以下のように書いている。

世紀が変わった現在の人々には、この文章の文脈が無視されて、「ひどい文章だ!」と受け取られる可能性が高い。しかし、武谷が注意するとおり、この敗戦を 「解放」と受け取った武谷ら左翼知識人の文脈を忘れてはならない。「ヒロシマ・ナガサキの二重の意味」は、唐木には思考の範囲外なのだ。

さらに、アインシュタインの言葉の引用で唐木に追い打ちをかける。

マッカーシーイズムの吹き荒れた時代に書かれたアインシュタインの手紙(『リポーター』誌)を、原典も文脈も調べずに、単なる想像だけで意味を憶測し、勝手に思いこみを付け加える。

フランクやシラード、そのほかについても同じ。適当な引用文をつぎはぎ細工すれば、ほとんどどのような「印象」でも読者に与えることができる。こういった手口をできるだけ控え、恣意的でない記述を目指すのが「学術的」ということ。


私にはこの唐木・武谷論争の経緯はわからない。今のところそれれほど関わろうとも思わない。ただ、加藤さんの議論はこの話の蒸し返しではないかと感じたので、引用させていただく。







武谷三男の言動を調べていくうちに、面白い記事に出会った。
西谷勝さんのブログで、こう書かれている。

私が一度、何度目かの漫談の冒頭で「私たちの漫談を若者たちは《ジジイ漫談》と呼んでいますよ」と仕向けると、武谷さんはキツとして「若者が《ジジイ》ほどに頑張っていりや別ですがね」と応えたことがあった。

「ゆっちゃった!」という感じ。
「働き盛り」の現実派は、世の中良くしようとは、てんで考えていない。まして「世によって生かされている」なんてことはまるっきり考えちゃいない。人のアラばかりほじくって楽しんでいる。

どうも昨日のLivedoor Blog が調子悪かったような気がする。
文章が一つ消えている。
わたしも、ブログに載せたらどんどん元原稿を消してしまうので、もはや復元不能だ。
武谷三男の原子力認識の軌跡の文章は、その前に加藤哲郎「日本マルクス主義はなぜ原子力に憧れたのか」という論文の紹介と、自分なりの見解を提示していた。

いまさら書き直しもできないが、「日本マルクス主義はなぜ原子力に憧れたのか」という演題名は明らかに日本共産党への当てこすりである。

本題は共産党の原発政策が「原子力の平和利用」という呪縛を脱却できず、遅れを取ったのではないかという批判にあるようだが、それを終戦直後の原子力賛美の論調と結びつけようとするのがポイントのようだ。

加藤さんが作成した戦後の武谷三男(と共産党)の発言タイムテーブルを読みながら、我々の原子力認識の過程を後追いしてみたのが昨日の文章だ。

収集すべきデータの対象が増えてくると、どうしても取捨選択の必要が出てくる。そこにタイムテーブルの作成者の主観が入らざるをえない。
加藤さんのタイムテーブルは、終戦直後から約10年間の経過については、よく出来たものだと思う。
対象を武谷三男に絞り、悉皆調査的にデータベースをフル動員して出来ているから紛れが少ない。

そのうえで、終戦直後に形成されたプロトタイプ的な原子力観、そこで形成された原子力観が、いくつかの出来事を通じて変容していく過程が理解できる。

とは言うものの、「いくつかの出来事」はタイムテーブル内に明示されていないし、それがどう原子力観に影響したかも自明的に解き明かされているわけではない。

それらを列挙すると次のようになる。
1.“解放軍”としての占領軍からアメリカの支配への変化。
2.ソ連の原爆実験成功。
3.冷戦体制とレッド・パージ。
4.朝鮮戦争とストックホルム・アピール。
5.共産党の弾圧と分裂。ソ連・中国の干渉
6.米ソ両国の水素爆弾開発と核開発競争
7.ビキニの死の灰事件
そしてなによりも肝心なこと。それは原爆の恐ろしさが知られるようになったことである。当初は秘匿された広島・長崎の異次元の凄まじさが徐々に明らかにされ、国民に衝撃を与えた。
年表を見ると、戦後の一時期は広島に原発を作る話があったようだ。地元民にすら原爆の悲惨さは知られていなかったし、被爆者は世をはばかってひっそりと暮らしていたのである。
被爆の実相は、ナイーヴな原子力賛美者たちをして、慙愧の念をもたらしたに相違ない。そのタイムラグが、原子力観を根本的に転換させたに相違ない。
加藤氏は直接には「マルクス主義者の原子力へのあこがれ」を嘲笑するのであるが、それは日本国民への嘲笑のようにこだましてくるのである。

私なりに加藤さんの用意した資料を読み込んでみた。

無論これだけで「日本マルクス主義」の認識過程を網羅しているわけではないだろうが、武谷三男の見解の変化だけに絞れば、かなり説得力のある資料が収集されているものと思う。


「原子力」に対する認識の深化の過程

武谷三男の見解を中心に

A. 原爆も含めた原子力への野放図な賛美

1.原爆は反ファッショ科学者の協力の賜物(46年 武谷)

2.原子力の解放は科学史上の最大の出来事の一つ(47年 武谷)

3.世界の原子科学者は平和のために原子爆弾を造り上げた(48年 武谷)

4.(原子力が)人類絶滅の道具として使用することはあり得ない(48年 武谷)

5.原子爆弾は…平和のきっかけを作ってくれた(48年 武谷)

6.自然力がまちがってつかわれると人類はほろびるが、ただしく使われると人類の生活をどんどんたかめる(48年 武谷)

この頃、放射能問題はまったく触れられていないようだ。

B. 原爆と原子力の分離。一方で平和利用への賛美は続く

1.原子爆弾は最大の浪費である(49年 徳田)

2.われわれは原子力を、平和的建設の重要課題実現に役立てる(49年 ヴィシンスキー国連代表)

3.原子爆弾の犠牲になった唯ひとつの民族…広島と長崎をふたたびくりかえさない…戦争に生き残ったわれわれの任務(50年 ストックホルム・アピールの呼びかけ)

4.原子力の副産物の放射能も「化学変化の研究や医学に」(武谷 52年)

5.人を殺す原子力研究は、一切日本人の手では絶対行わない(武谷 52年)

平和利用には原爆=ダイナマイト論がふくまれる。

C. 水爆と原爆との評価の分離。「水爆は人類の敵」

1.原爆と違って水爆は戦争以外に全く役立たない。「水爆は人類の敵」(武谷 53年)

これは「ソ連の水爆実験を聞いて」という記事であり、ソ連製をふくめて水爆には反対という趣旨と解される

2.水爆のエネルギー、死の灰は予想以上(武谷 54年)

53,54年は核問題がらみの事件が集中して起きている。続けざまに事実を突きつけられるなかで、原子力観の根本的検討が迫られた時期だったのだろう。

この年表には出てこないが、講和条約後に広島・長崎の被爆の実相が次第に明らかになり始めた時代と、それは重なっている。

D. 原子力発電に慎重な立場

1.原子力の平和利用は重要であり、その時期がせまっていることもたしかである。(武谷 54年)

2.原子力発電は核兵器とは桁違いに困難であり、難問が未解決のまま山積している。「死の灰の処理」は容易ではない(武谷 54年)

2.のコメントはほとんど今日的である。気がつくのは認識の順序や過程が、実際にはかなりジグザグの経過をとっていることである。これらの認識が苦闘のなかで獲得されていったことに思いを致す必要がある。

E. 段階論(原水爆の克服→平和利用)の提起

1.原子兵器競争が続いている間は研究や平和利用の分野でのどんな試みもない。(世界平和評議会声明 55年)

2.現在の原水爆時代を克服しない限り、原子力時代は訪れない(武谷 55年)

議論としてはさらに一歩進んでいる。「核兵器ではなく平和利用」から原水爆禁止の先行へ。ただし、平和利用そのものは積極的に評価されていて、技術的困難性は議論の前面には出ていない。

F. 平和利用問題での揺り戻し

1.原子兵器が全面的に禁止され、鳩山政府が打倒されるまでは、わが国における原子力平和利用の問題は、実際に問題になりえないといった機械的な態度をとることは許されない。(前衛 56年)

2.原子力の…可能性を十分に福祉に奉仕させることは、人民民主主義、さらに社会主義、共産主義の社会においてのみ可能である。(共産党決議 61年)

世界平和評議会の2段階論は、「原水爆時代の克服」から「社会体制の変革」に置き換えられている。ただ2段階論がそれなりに引き継がれているとは言える。

武谷は共産党を離れ独自の動きを示すようになるが、物理学者をはじめとする科学者運動のなかでは依然大きな影響力を維持していた。


この後「あらゆる国」問題や原水協分裂→再統一の失敗問題が展開されるが省略する。

問題は日本における原研の創立と原発の操業開始に至るトバ口のところまでに、どのように原子力の平和利用に関する認識が変遷して行ったかということだ。

その点では、朝鮮戦争という隣国での大規模な戦争、明らかにされた被爆の実相、ビキニの放射能という3つの事件が大きく作用していたのだろうと思う。

現実を突きつけられることで、日本人の思考は大きく変化していくのであり、それが53年から55年にかけて集中的に現れたのだと思う。

この時期に共産党は事実上の壊滅状態にあった。その後6全協から8回大会を経て再建へと向かっていくのであるが、これらの変化をつかみとっていたとは言いがたく、核兵器についても原子力の平和利用についても時代に一歩遅れていたと言わざるをえない。


肥田舜太郎先生はずいぶん頑張っていらっしゃるというか、この歳になってもとんがり続けているので、その分人さまの批判にもさらされることになる。

竹野内真理という反原発の世界では有名な人がいて、この人が「娘道成寺」よろしく、紅蓮の炎で肥田先生を焼き尽くしにかかっているようだ。

満員電車の中で「痴漢だ、痴漢だ」と騒がれるようなもので、非常に困ったことではあるが、ある意味有名税みたいなものかもしれない。

それと比べると、もう少し隠微な批判がある。

肥田さんの書かれた「内部被曝」(2012年3月)という本への批判である。

題名は「内部被曝」(肥田舜太郎)の読み方。批判しているのは安井至という東大教授。環境学者を名乗る「隠れ原発論者」からの変化球である。

書かれたのは2012年4月1日。本の初版発行日が3月19日だから、異様に早い書評である。

まずは東大教授らしからぬかなり毒々しいレッテル貼りから始まる。

それにしても、まだまだ奇妙な出版物が出る。これは一体何なのだ。…この新書は危険な要素を含んだ出版物である。

ついで安井氏は、この本が恣意的で非科学的だと述べたあと

フクシマに対する差別意識を日本中に広めることが本書の目的

と、途方も無いことを言い出す。肥田先生は「工作員」だと言っているに等しい。これでは竹野内さんも真っ青だ。さらに二の矢が飛び出す。

そしてこの差別意識を利用して、原発を止めようとしている…福島県民のことを思うと、とてもやりきれない。

と嘆息してみせるのである。(…と思う、…のように見える などの表現は削除してある)

ついでこう言及する。

(このような主張は)放射線に対する過度な心配をする人々を増加させ、ある種の心身症を引き起こす原因を作り出す。

まさに原発事故発生時に東大教授たちが、「事実を話せばパニックが生じる」と言って、メルトダウンを隠蔽したのと同じ論理だ。

安井氏は「内部被曝が重大な影響を与える可能性がある」ことは認める。そのうえで、自然放射線との境界が曖昧であるとして、肥田先生がアオリをしていると非難する。これもあの時の「東大教授たち」と同じである。

著者は推測にすぎないことを多数羅列することによって、意図的に過大な影響があることを主張している

本書は落第である。できるだけ多くの人を騙す目的で書かれている

ここで安井氏は完全な「審判者」の立場に身をおいている。なぜなら彼は東大教授であり、環境学者であるからだ。

困った人だ。今や東大教授というのは、それだけで疑われ、裁かれる立場なのだが、そこが分かっていない。

そして悪影響の典型として持ち出すのが、先ほどあげた竹野内真理さんだ。ただ竹野内さんは福島事故の20年も前から原発反対運動に関わっている。こういうデマは、知っていてやる公安筋の悪質な手口だ。

安井氏は、ついでに、「チェルノブイリのかけはし」の野呂美加さんにも触れる。野呂さんたちは核被害の特効薬として「EM菌」というのを売り込んでいるようだが、私は寡聞にして知らない。

どうしてそのようなマイナーな話題を、安井氏は知っていて、それにわざわざ言及するのかも分からない。


以上が序論で、ここから膨大な本論(コメンタール)が始まる。

私も原著を見ていないので、目次を見ただけの感想から言えば、いくつかおやっというところもある。

例えば、「セシウムは心筋梗塞を起こす」というのは風が吹けば桶屋が儲かる的な感がある。「ベトカウ効果」については不承知である。「エイズの発症も放射線の影響」とか、「放射線の影響で学業成績も低下し、粗暴になる?」については眉唾である。

また自分の臨床体験からは、「低線量被曝」は危険ではない、問題は「内部被曝」である。「原爆ぶらぶら病」はうつ病の可能性が高い、などの実感を持っている。

第6章に関しては、論争するつもりはない。

コメンタールと言っても漠然たる学習ノートで、系統的な批判ではない。ただし批判してやるぞという系統的な意志には貫かれている。

結局、ケチつけや揚げ足取り的批判を除くと、昔ながらの「低線量被曝」=無害論に落ち着く。

これではどうしようもない。

そもそも内部被曝論は低線量被曝論に対する反論として出されているのであり、低線量被曝群から放射能症が多数発症している事実を説明するための理論である。

目下のところ仮説にとどまってはいるが、現実の被曝障害をもっともよく説明できるモデルであることも間違いないし、これに対する有力な反論も登場していないのである。

一体安井氏は肥田先生の所説のどこを批判したいのであろうか。読み終えて、そこが一番気になるところである。

本日の一面トップは「新規制基準1年」というもの

安部首相は、「独立した原子力規制委員会によって世界最高水準の新しい安全基準が策定されました」と言っている。

これが嘘だという一番の根拠が「コアキャッチャーがない」ということだ。

これはきわめて単純な話で、ヨーロッパの原発の多くはコアキャッチャーが付いている、ところが日本の規制基準にはコアキャッチャーが義務付けられていない。したがって世界最高の規制基準とはいえないというものだ。

あまりにも単純な話であるために、政府はまともな反論ができない。

メルトダウンが起きた時、日本の原発はどうなるのか。炉心溶融物を受け止めるコアキャッチャーがないので、炉心溶融物は圧力容器や格納容器を溶かして外に漏出します。炉心溶融物は建屋のコンクリートと反応します。ここで発熱ひどければ、コンクリートも溶かして建屋を抜け、外部へ漏れ出します。

(原発隣接地帯から: 脱原発を考えるブログ より)

こんな話がわかっているのに、なぜコアキャッチャーを義務付けないのか。

コアキャッチャーの設計図
日本原子力学会HP掲載資料から引用)

コアキャッチャー

なぜなら、上の図みたいなもの作ろうとしたら、原発、最初から建設しなおさなければならないからです。

(原発隣接地帯から: 脱原発を考えるブログ より)

(コアキャッチャーもどきのものは東芝が開発中だが、ポンプで冷却材を回して冷やす仕掛けであり、全電源喪失の際は機能しない、まがい物である)

(このブログにコメントがあって、コアキャッチャーを使うようになっちゃえば、所詮はもう終わっている、という話です。たしかにそうですね)

劇的変化だろうと思う。
震災直後は、まだまだ「それでも原発必要」という人がかなり多かった。
それが今では、公に原発維持を呼号する人はほとんどいなくなった。
なによりも、3年間原発なしで過ごしてきたという事実が大きい。
この事実が、原発推進論者のウソと下心を容赦なく暴き出している。
genpatuyoron
今や推進論者は、貿易赤字を口実にするしかない。
しかし、それは「いのちよりもカネのほうが大事か」、「子孫の未来よりもいまのカネか」という鋭い批判にさらされている。
第一、円安にすれば輸出が拡大して景気が良くなると言っていたのは誰だ。
円安で苦しむのは庶民、消費者、中小・零細業者だ。貿易赤字と原発をリンクさせれば、火の粉はお前たちに振りかかるだろう。

福井地裁判決 要旨の要旨

1.はじめに

組織の責務: 一度深刻な事故が起きれば多くの人の声明、身体やその生活基盤に重大な被害を及ぼす事業には、その程度に応じた行動の信頼性がもとめられる。これは当然の社会的要請である。

生存を基礎とする人格権: 生存を基礎とする人格権は公法、私法を問わず、すべての法分野において、最高の価値を持っている。
それは裁判においても依拠すべき解釈上の指針である。

人格権と憲法: 人格権は憲法上の権利であり、13条、25条に規定されている。それは我が国の法制下において唯一、最高の価値を有している。

人格権そのものにもとづく訴訟の妥当性: とりわけ生命を守り生活を維持するという人格権の根幹部分に対する具体的侵害のおそれがあるときは、人格権そのものに基づいて差止めを請求できる。
なぜなら、
人格権は各個人に由来するものであるが、それが多数の人格権を同時に侵害するときは、差し止めの要請が強く働くのは理の当然
だからである。

2.福島原発事故について

3.原発に求められる安全性

原発に「万が一」は許されない

「組織の責務」に鑑み、原発に求められるべき信頼性はきわめて高度なものでなければならない。

大きな自然災害や戦争以外で、憲法の人格権がきわめて広範に奪われる可能性は、原発事故のほかは想定しがたい。

かような事態を招く具体的危険性が万が一でもあれば、その差し止めが認められるのは当然である。

安全性判断は裁判所の最重要な責務

福島原発事故の後において、この判断を避けることは裁判所に課された最も重要な責務を放棄するに等しい。

原発の新規性基準があったとしても、その事項について裁判所の判断が及ぼされるべきである。

原子力規制委員会は「錦の御旗」ではない

原子力規制委員会が新規制基準への適合性の審査を行っているが、適合性という観点からではなく、安全性にもとづく裁判所の判断が及ぼされるべきである。

4.原発の特性

5.冷却機能の欠陥

6.閉じ込め構造の欠陥

世論の動きから見て、いずれこういう形の判決が出てくるだろうとは思っていたが、ここまで踏み込んで思いっきり腰を入れた判決が出るとは予想外であった。

1.人格権擁護の視点

判決は、人格権が侵害される恐れがあるときは、その侵害行為の差し止めを請求できる としている。これは憲法解釈をふくむ判断だ。

「国民の生存を基礎とする人格権」という考えは、私にとって斬新なものだ。少し勉強しなければならない。

この考えを基本に据えると、次のようなセリフが吐けることになる。

極めて多数の人の生存そのものに関わる権利と、電気代の高い低いの問題等を並べて論じることは…法的には許されない

2.裁判所の責務の提起

もう一つは、裁判所の責務にかかわる提起である。

「原発の危険性およびそのもたらす被害の大きさ」を認識したいま、司法が逡巡することは許されないという強い意思表示である。

判決は、こうした具体的な危険性が万が一でもあるかどうかの判断を避ける事は「裁判所に課されたもっとも重要な責務を放棄するに等しいもの」と言い切っています

この判断は、これからの各地で起こされるであろう裁判に与える、もっとも深刻な提起となっているであろう

どうも赤旗の見出しはミスリードのようだ。

最初に記事を読んだ時、日本の軽水炉型原発は欧州の加圧水型に比べ4つの欠点があるというふうに読んだのだが、そうではなかった。

どういう比較をしているのかと思って舩橋さんの参考人発言を聞いてみたら、「脱原子力大綱を読め」ということだったのは前報のとおり。

面倒なのでそのままにしようかと思ったが、やはり気になる。

そこで、その「脱原子力大綱」に行ってみた。

原子力市民委員会のホームページに「原発ゼロ社会への道――市民がつくる脱原子力政策大綱」(5.72MB)のPDF版が載せられている。その160ページが該当する部分だ。

taikou


4-7 新規制基準は「世界最高水準」には程遠い

福島原発事故の教訓と反省をもとに策定された新規制基準において初めて過酷事故が規制の対象になった。

その新規制基準について、「世界最高水準である」あるいは「世界一厳しい基準ができた」と田中俊一原子力規制委員長は公言しているが、それが事実かどうかを検証した。

福島原発事故が生じる以前の段階から安全性を高めた原発として設置が承認された欧州加圧水型炉(EPR)の安全対策に照らし合わせると、いくつかの重要な設備が新規制基準には入っていない。

これらの事実から、新規制基準が「世界最高水準」でないことは明らかである。

表4.3 安全設備に関するEPR と新規制基準の相違点

安全設備

EPR

新規制基準

安全上重要な系統設備の多重性

独立4系統

独立2系統

コアキャッチャー

設置

要求なし

格納容器熱除去設備

設置

要求なし

頑健な原子炉格納容器

大型ジェット旅客機の衝突に耐える二重構造

要求なし

(コアキャッチャーというのは、原子炉圧力容器外に流出した溶融炉心を格納容器内に貯留する設備のことで、そのものずばりである。格納容器の熱除去設備というのは、コアキャッチャーを水で循環冷却する装置で、さらに原子炉を水棺にできる機能も併せ持っている設備のことで、要するに溶けた炉心の二重の受け皿ということになる)

4-7-3 原子力規制委員長自ら安全文化を軽視

田中俊一原子力規制委員長が「新規制基準は世界最高水準である」と公言すること自体に、安全文化(セイフティー・カルチャー)に関わる大きな問題点が含まれている。

IAEA が注意を促す「安全文化が劣化する典型的なパターン」の第1項に「過信:良好な過去の実績、他からの評価、根拠のない自己満足」が挙げられている。

原子力規制委員長が「新規制基準は世界最高水準である」と公言することは、前節で明らかにしたように、この「根拠のない自己満足」に当たると言わざるをえない。


ということで、要するに日本の安全基準が緩いと言っているだけの話だ。軽水炉か加圧水型かはこの際関係ない。

大変お騒がせしました。

なおこの「脱原子力大綱」、題名とその厚さに怖気を振るってしまうのだが、中身は案外読みやすく、寝転んでも読める。

だいじな知識がぎっしり詰まっているので、ぜひご一読を。

 

 

 

赤旗の国会ニュースで、参議院外交防衛委員会での参考人発言があった。その見出しに、「世界最高水準安全は“錯覚かウソ”」とあった。

「うーむ、そういう切り口もあるなぁ」と感心して記事を読んだが、さわりだけで前後関係がはっきりしない。

もう少し詳しく知りたいと思ったら、「避難の権利」ブログ というサイトに発言の要約が載せられていた。その一部を紹介する


舩橋参考人(法政大学教授・原子力市民委員会座長)

1.原則的視点

原発輸出問題について考慮するべき論点として大局的原則的視点が必要。

まず、原発を輸出の是非、ついで国内の原発政策だ。

我が国の規範・原則である「平和・民主・自主」に立脚しなければならない。またそれが検証できなければならない。

2.エネルギー政策のありかた

エネルギー基本計画が閣議決定されたが、妥当とは思えない。

我々の「脱原子力大綱」と比較して、どちらが包括的かを検証してほしい。

3.原発の安全性と規制基準

原発に関わる危険は技術でコントロールできない。

「新規制基準」は安全基準ではない。過酷事故のリスクをゼロにすることはできない。

新規制基準は「世界最高水準」ではない。過酷事故対策についても欧州加圧水型基準にくらべても4つの点で劣っている。

4.原発輸出に伴う問題

日本が輸出した原発の放射性廃棄物をどうするのか? 日本が引き取るのか?。 他国に押し付けるのか?


ということで、肝心の「4つの点」が書かれていない。

仕方ないので審議中継を閲覧することにする。

苦労してやっと頭出しに成功して聞いていたら、「4つの点の内容については我々の大綱を参照してほしい」ときたもんだ。30分時間を無駄にした。

赤旗もまじめに報道してほしいものだ。

内閣の閣議決定したエネルギー基本計画の骨子


energy


ようするに、原発は続ける。再稼働はやる。核燃料サイクルも続ける。もんじゅはやめないということだ。
もし電源各社や経団連は押さえられたとしても、原発を隠れ蓑にしたプルトニウムの生産はやめられないということなのだろう。
日米同盟という錦の御旗を前にしては、豪腕安部首相といえども楯突くことは許されないだろう。まぁ最初からその気などないのだろうが。
ただ、それを良いことにして図に乗る経済団体の冷血・厚顔ぶりも頭にくるが。


原発をなくす運動と再生エネとは直線的に結びつくものではない。むしろ温暖化効果と、輸入コストの増大を覚悟のうえで、火発に戻るかどうかという決断である。

原発がコスト的に見て論外であることは言うまでもないが、反原発イコール再生エネとはならないのである。

オイルシェールなども目下は夢物語と考えるべきである。

伝統的火発時代に戻ると決断した上で、

1.火発の技術革新が必要である。

おそらくこの半世紀、火発は過去のものと見られ技術革新や設備の更新は行われてきていないだろうと思う。

逆に言えば10%を超えるレベルで効率化、低公害化は可能と思う。マスコミもあぶくみたいな再生エネを追いかけるより、そちらの報道に力を入れるべきではないか。

2.電力価格が安価であり続けると、省エネへの意欲も薄れる。

こちらも現在の日本の技術力をもってすれば十分改善可能と思う。

また自然エネルギーは、省エネルギー・省電力の手段としてとらえればはるかに多様で柔軟な発想が出ると思う。

その上で、政策課題として

3.原発地域の振興

4.自然エネルギーやエネルギー転換技術の研究

という感じになるか。

日本のマス・メディアはまったくこのニュースを報道していない。

WSJの日本語版がかろうじて扱っている。

1.RWEというのはドイツの公益大手電力会社である。

2.13年度の通期純損益は28億ユーロの赤字(前年は13億ユーロの黒字)となった。(営業利益は59億ユーロの黒字)

3.再生可能エネルギーの過剰供給状態が、火力発電事業や卸売り電力価格を圧迫したためとされる。

4.欧州各地の石炭・ガス火力発電所から48億ユーロの減損損失が生じ、10億ユーロ前後のコスト削減にも関わらず減損分を吸収できなかった

5.減損は主として電力余剰から生まれている。RWEは赤字火発を整理し発電量を6.6ギガワットまで減らす方針。(2.3ギガワットの削減)


原発がコスト的に見て論外であることは言うまでもないが、反原発イコール再生エネとはならない。

安定供給をめぐる最大の問題は、再生エネ補助金が20年の時限付きであることだ。

補助金が切れたとき、再生エネ生産者は生産を続けるだろうか。それは可能だろうか、この辺りは今後突きつけられてくるだろう。

火発は原発廃止の受け皿としてはかなり長期に存続するであろうし、その経営がリーゾナブルな水準で維持できるような仕掛けが必要だろうと思う。


ベタの記事だが、注目すべき内容と思う。

ドイツの電力大手のRWE社が13年通期決算を発表。純損益が約4千億円の赤字となった。

これは1949年の西ドイツ建国以来初の通期決算赤字だとされる。

理由としてあげられているのが、再生エネによる電力が普及したための電力市価の下落だ。

ちょっと補助金のからくりがあって、市価の下落イコール電力コストの低下という訳にはいかないが、販売価格が下がったことは事実。

これにより、政府の補助金を受けられない火力発電所では投資額に見合う収益があげられなくなったそうだ。

おそらく電力各社が恐れているのもこういう状況であろう。

長期的な方針は別として、再生エネへの補助金をとりあえず調整する必要があるだろう。

価格、安全性、と並んで安定性は電力の必須条件である。そのために一定の火発の存在は不可欠である。

この辺りは発送電分離を前提にしないと話がややこしくなる。

いづれにせよ温暖化の問題も相まって再生エネへの転化は避けられない方向であろう。

まさにエネルギー革命だ。

電力各社も、ハラを決めるべきだ。

雲仙でバイナリー発電。

雲仙の小浜温泉で、バイナリー発電の実験が行われている。

この温泉は湯温が高く105度と煮えたぎっている。湧出量も一日1万5千トンという膨大なもの。その7割が海に流されているという。

ここで去年の4月からバイナリー発電の実用試験が行われている。

バイナリーというのは、このお湯で直接タービンを回すのではなく、沸点の低い「代替フロン」を沸騰させてタービンを回して沸騰させるというもの。

正確にはこの間に「真水」の加温という過程が挿入されるようだ。

なかなか良さそうに聞こえるが、実際の発電量は840~1680KW時程度、出力は低く、ばらつきは大きい。

さらにお湯を送るのに管を通すのだが、「湯の花」のせいですぐに詰まってしまう。このためにお湯の量は想定より少ないという。

おそらく発電計画が率直に言ってずさんだったと思う。いったん真水を沸騰させるのなら、真水を送るべきであったろう。

さらに、3つの泉源の湯を1箇所に集めているというが、金額によってはむしろ泉源に1つづつ発電機を備え付けたほうが良いかもしれない。

地熱発電が環境問題をはらんでいる以上、このような「廃物利用」的な利用もありと思うが、レベルからすれば節電程度であろう。

むしろ本格的な地熱発電をした時に、その効率をさらに上げる技術として組み合わせるべきかもしれない。

 

 

本当かどうか知らないが、紹介はしておいたほうが良いだろう。
週刊朝日のコピペ。


 福島第一原発が全電源喪失で冷却機能を失った際、東京消防庁による注水によって破局的事故が回避された。

 このとき、作業実施までの間、東電と消防庁に“攻防”があった。

 東京消防庁は原発内部の図面を手に入れようとしたが、東電は「テロ対策に関わる最高機密」という理由で提出を渋った。

 予防部職員の機転で何とか図面が手に入り、消防庁の注水が成功した。これにより壊滅的事態が避けられた。

 もし秘密保護法が成立すれば、この職員は秘密漏示罪に問われるだろう。

週刊朝日 2013年11月22日号

赤旗の一面トップは原子力規制委員会の第28回定例会(23日)の報道。

いくつかの発言を取り上げている。

「柏崎の刈羽原発が(再稼働を申請するくらい)万全だというなら、その(スタッフを含めた)リソースを福島原発に投入できないのか」という意見が3人の委員から出されている。

原文を見てみようと思ったら、まだ文書化はされておらず、会議映像がそのままYouTubeにアップされている。

全1時間45分、とても長くて付き合いきれない。と言いつつ流していたら、1時間10分過ぎにやっと報告が終わって、議論が始まった。

先ほどの発言は、まぁもののついでみたいな発言だが、全体の議論は極めて悲観的なムードで展開されている。

その理由はいくつかある。

まず第一が、現場の消耗だ。委員が一様に強調するのがここ。

現場は疲弊しているだけでなく、線量が限界に達するスタッフが続出し、人的に現在の力量を維持できなくなっている。

第二に、次から次へと難題が出てきて、今後も止まりそうにないこと、しかも対応能力が落ちていく危険性が高いことだ。

「人は石垣、人は城」というが、予期せぬ事態が続出する状況にあって、最大の防壁は技能・経験も含めた人の力だ。その防壁が脆弱になっていることに最大の危機がある。

第三に、東電トップの誠実さに疑問があり、抜本的な対策が確立されないままになっていること(ケチっている可能性がある)

第四に、東電が誠実であったとしても、そこには限界があり、政府の関与が不可欠だということ。しかし安倍首相は政府が責任を持つといったのに、いまだに具体的な動きが見られないことだ。

会議の最後は、委員長が東電社長と会って、きちっと話し合いを持ち、とりわけ現場スタッフの確保と配慮について対策を促すことになったが、「きっとのらりくらりと逃げまわるだろうな」という表情が田中委員長の顔には浮かんでいる。

これは実写ならではの情報だ。

御用とお急ぎの方も、最後の5分だけでも良いから、見てやってください(とくに1:14頃からの中村委員の発言)


この会議がいいのは現場主義を強く押し出していることだ。現場主義の視点から問題を捉え直していることだ。

現場には答えがある

この点についてはルネサス山形工場の関連記事でも触れた。

ウンザリさせられるありきたりの案から離れて、現場レベルの深い情報を賢く活用し、現場の士気を鼓舞するような、力強い産業政策を打ち出すならば、日本国内にも、まだまだ収益化できる半導体の工場と設計部隊がある。(DIAMOND online より引用)


安倍首相は「港湾内への流出は完全にブロックされている」と豪語した。それ自体もウソであることは確かだが、主たる流出ルートは港湾外から直接外洋に向けて出来上がっていることが分かった。
漏洩した汚染水の主流が港湾内には行かないのだから、むしろより危険である。そこにはカーテンも、いちじくの葉一枚もない。場末のストリップ小屋のごとく全スト状況である。
安倍首相は「漏れていない」といったわけではなく、漏れてはいるが「完全にブロックされている」といったのである。しかし事態は、「漏れていて、ブロックもされていない」のである。
これが世界に知られれば、三つ目の事実が衆目のもとに晒されることになる。「この国の首相は、この国の政府は嘘つきだ」
安倍首相は「右翼で、軍国主義者で、しかも嘘つきだ」という烙印を押されることになるのである。

同時に、そういう人物を首相に仰ぎ、「ウソ」で五輪招致を実現し浮かれている極楽とんびにも厳しい目が注がれることになる。

天皇家がこのスキャンダルに紙一重で巻き込まれなくてすんだのが、唯一の救いと呼べるかもしれない。

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