石炭火発 やはり技術的に無理がある。
火力発電の進歩はボイラー・タービンと除染装置の両面から進化してきた。
しかしある程度の進歩に達すると、そこで停滞せざるを得なくなる。
その時ブレイク・スルーの鍵となったのは燃焼素材の転換である。最初は石炭、その後石油、そして天然ガスと素材革命が行われた。
いまさらながら、それらの進歩を振り返ってみれば、化学的には当然の過程とも言えよう。
燃焼というのは気体にまで分離した炭素分子が酸化することである。もちろん固体も液体も酸化はする。しかし鉄が錆びるのは厄介な出来事でしかない。液体が酸化するのもお酢を作る作業を除けばあまりいいことはない。開封して1週間もしたお酒は、飲めないことはないが、味は情けないほどに落ちる。
それは到底燃焼とはいえない。石炭が燃えるのも、その塊がバラバラの炭素になって、それが酸素と結合するからである。
つまりものが燃焼するのは液相・気相という前過程を踏んで初めて実現するのである。
現在の石炭火発は炭塊を微細粉粒化し、あらかじめかなり熱してから燃焼過程に突っ込む仕掛けになっているようだが、いくら微細と言っても固相状態であることに変わりはない。ムラとムダは必然的に生じる。
また除染についても、炭塊にしみこんだ有害物質を燃焼前に除染するのはきわめて困難である。
コストの問題として考えるなら、地球的に見て環境コストを上回るだけの経済コストを生み出すのは困難と言わざるをえない。
ただそこにはタイムラグがある。後の世代につけを回すのであれば、あるいは一時しのぎの便法として用いるのであれば、別の計算が成り立つだろう。しかしそれは正義とはいえない。
つまりコストとして石炭火発を考えるのは邪道だということである。
したがって、長期のベースロード電源として石炭火発を考えるのは正しいとはいえない。
資源の問題として考えるなら、とりあえずは「内部留保」とし、あまり使わないのが最良であろう。石炭中の炭素を液化、気化する技術が開発されれば、ふたたび脚光を浴びる日も来るかもしれない。