ベースロード電源との配分、揚水発電との組み合わせ等が必要な、「扱いにくい電力」であることは間違いありません。エジプトだと淡水化プロジェクトとの組み合わせがもっとも有望なのではないでしょうか。水素プラントが早く実用レベルまで達することが望まれるでしょう。
カテゴリ: 33 気候・エネルギー・環境(原発)
瀬川奈津子さんの、培養肉という「理想」
同じ時代や文化圏でも、視点の置きようで食肉や動物愛護の捉え方は変わる。人間の目線での「かわいそう」という気持ちを重視すれば、と畜や狩り自体の否定につながる。だが違う観点に立てば、「死」を理解しない動物を食べること自体は問題なく、むしろ飼育や狩りの過程から苦痛を取り除くことのほうが重要との考え方もできる。培養肉は殺生せずに作れるから優れているとする考え方は、食文化をめぐる摩擦をかえって先鋭化しかねない。新技術は環境負荷の低減には資するとしても「万能の解」にはなり得ず、自らの倫理観や思想を他者に押しつける道具となる危うさもある。培養肉への信奉が、より良き世界を求めるイデオロギーになることを警戒したい。高い理想の探求はイノベーションの源泉でもある。だが培養肉に関しては「美味しいものを、手に入りやすい形で提供する一手段になれば」と捉えるくらいが良いのではないか。
この頃はCOP26の真っ盛りで、SDG狂騒曲 の趣があった。私はそれに強い違和感を感じ、「これはヨーロッパの巻き返し戦略ではないか」と見ていた。
EV推進の理由がわからない
それにしても、CO2削減のためとはいえ、これだけの性能ギャップを座視して良いものだろうか。
欧州サイドのSDGに胡散臭さを感じるのは私だけだろうか?
「緑の免罪符」とオーストリア
EUは今年1月から、「緑の免罪符」(グリーン・ラベル)を発行しようとしている。
原発は気候保護にはいささかも貢献しない。それは未来を危険にさらすだけだ。原子力エネルギーは持続可能ではなく、脱炭素のつなぎ役にもならず、かつ、あまりにも高コストだ。原子力自体の危険性は、すでに十分に立証されている。それは安全上の懸念と核廃棄物の処理方法の未確立という2つの致命的欠陥を背負っている。「緑の免罪符」は原子力と化石燃料の交換というイカサマ塗装計画(green-washing)にほかならない。我々はすべての法的措置を準備し、「緑の免罪符」が発効すれば直ちに、欧州司法裁判所に提訴するつもりだ。
メルケル政権のもとで原発離脱を決めたドイツなど5カ国は「反核同盟」を結成した。オーストリア、ルクセンブルクをふくむそれらの国は、「原発のグリーン認定は、脱炭素に向かおうとする欧州への信頼性や有用性を損なう」と反対している。
ドイツなど五か国の支援も当てにできる。スペインの立場は非常に明確だ。スペインは原子力エネルギーにも化石ガスにも免罪符は与えられないと考えている。
石炭よりはマシだからという理由で、それが良いものや持続可能なものに変身するわけではない。それはまだ化石エネルギーです。我々が「イカサマ塗装計画」の片棒を担ぐ必要はない。LNGはLNGとして別の扱いをすべきなのも間違いない。
EUの LNG+原発 「容認」決定について
外国の記事は未だ出揃っていない。ガーディアンの記事を読みかけたところだが、専門用語が多く、手こずっている。
「フォンデアライエン、ショルツ、マクロン」が
1ブリュッセルの「グリーンディール墓」の周りに集合
未だ事の真相がわからないのだが、問題はさほど単純なものではなさそうだ。オーストリアが反対する理由は原発再稼働の方なのだが、派手に動いている気温派の方はLNGだろうと原発であろうと、「ダメなものはダメ」的なニュアンスが強い。
私はもともと脱炭素計画にはスケジュール的にきついところがあるので、何かあれば一時的なモラトリアムも必要だろうと考えていた。
とくに最近のインフレ・モノ不足は、エネルギー不足に起因している可能性が高いので、一定の投資と設備更新はこれからも必要ではないかと考えている。先進国の人々なら多少の我慢もできようが、飢餓線上にある新興国や途上国の人々にとっては不可欠だ。
人権や民主などの美しい言葉を並べる先進国が、コロナのワクチンの際にはいかに自国優先に徹し、買い占めに狂奔したかを我々は見てきた。そしてそれがデルタやオミクロンなど変異種の発生を促してきたかも見てきた。
つまり言いたいことは、まず第一に考えなければならないのが「全人類の生命や生活の安全を保障する」という課題だ。
その点で、LNG開発への投資・支援については一般論として納得できる。
しかし原発は違う。これは待ったなしの緊急課題だ。しかも温暖化より遥かに深刻で差し迫った課題なのだ。あえて誤解を恐れずに言うなら、温暖化課題の達成がそのために遅れようとも優先して取り組むべき問題なのだ。
こういう問題を内包しているだけに厄介だが、とにかくLNGと原発を同じ水準で議論するようなことだけはやめてほしい。そのことを切に願う。
緑色の帝国主義と途上国
リード
地球温暖化と戦うことは、すべての国に正味ゼロの炭素排出への道を提供することだ。しかしそれでけではない。それは世界中の人々のエネルギー需要を満たすための最善の方法を見つけることでもある。
これは朗報だ。
これが豊かな国々の言い分だ。
行き過ぎたEV推進論に物申す
もし北欧の人々の身長が日本人より低かったら同じことをしただろうか。
ペナルティの押し付け先が間違っている
しかしもしペネルティを課すのなら、それは電力構成に関してのペナルティであるべきで、ハイブリッド車に責任を押し付けるのは不当というほかない。
化石燃料は悪者ではなく、御先祖が残してくれた大事な遺産
それを真っ先切って散々使って、地球を汚しておきながら、いまさらしゃあしゃあと御託を並べて、人を人非人のごとくに罵る。
その裏では欲の皮つっぱらかして、舌なめずりしながらそろばんを弾く、こいつはどういう料簡か。
COP26: 大喜びできない理由
南の子供たちがいま死にかけているときに、金持ちが自分の子供や孫の将来について話すことは不道徳です。
COP26: 植民地からの収奪
COP26と先進国
先進国は長い間、リオ条約について約束を破り、実行をサボってきた歴史があります。それが、気温の上昇とその影響という点で、現在の地球的状況に非常に強い影響を及ぼしています。科学はこれをはっきりと認識しています。科学を提唱する人々は、過去を無視して未来を見通すことはできません。 2つは相互に関連しています。私たち発展途上国は、貧困を根絶し、持続可能な発展を遂げるという課題に取り組んでいます。今では、それに加えて野心的な気候変動対策にも取り組んでいます。「公平性」と「共通だが差異を持つ責任」の原則は、私たちにとって交渉の余地がありません。大会も2週目に入ると、その「原則の問題」はさらにクローズアップされるようになりました。私たちは先進国のパートナーに、誠意を持って交渉し、義務を守るよう要請します。パンデミックの真っ只中、希望を持ちながらこの会議に参加できるのも、ここに集まった何千人もの人々のおかげです。私たちは各国の責任者たちを失敗させるわけには行ません。先進国のパートナーが人々の希望への障害にならないように、強く要請するものです。
オーストラリアは世界の野良犬
憶えておかなければなりません。オーストラリアは一人当たりの排出量が2番目に多い国なのです。しかもオーストラリアは一人当たりのメタン排出量が2番目に多い国なのです。
オーストラリア政府がやるべきこと
オーストラリア政府は2050年までに排出量を純ゼロという目標を打ち出している。しかしそれは、石炭とガスの生産を大幅に拡大するというオーストラリアの計画と矛盾しています。いま開発中の新しい化石燃料プロジェクトは、毎年17億トンの温室効果ガス排出をもたらすでしょう。それは200以上の石炭火力発電所の年間排出量と同じで、世界の航空機の発生するCO2の2倍に相当します。オーストラリア政府は、化石燃料への補助金をやめるべきです。そして、再生可能エネルギー源の開発に着手しなければなりません。労働者の再訓練と再配置についても急がなくてはなりません。
締約国は、公平性に基づいて、“共通だが差異のある責任”とそれぞれの能力に従って、気候システムを保護すべきである。それは現在および将来の世代の人類の利益のためである。したがって、先進国の締約国は、気候変動とその悪影響との闘いにおいてイニシアチブを握るべきである。
気候問題NGOの主張を学ぶ
強引で独りよがりで、「告発」いのちの行動スタイルは、問題がきわめてシリアスで、緊急で、人々の生活の質に直接関わるものだけに、もっと真剣な対話が必要だと考えざるを得ない。
ただ一通りの勉強が終わり、流れが見えてきたところで、「それでどうするんだ」ということになれば当然彼らの言うことも聞かなければならないし、そのことでムダな摩擦を起こすことなく前進していきたいからだ。
という組織もあるが、「CAN憲章」(仮訳)というのを読んでもさっぱり趣旨がわからない。ネットで見る限り、メディアの論調に近い主張を行っているのはこの組織のようだ。「化石賞」を発表して大々的に取り上げられている。
外信部記者の目を覆うばかりの劣化がその背景にある。「AALAニューズ」の編集を担当して1年、束になっても私一人にも勝てないのではないかと、つくづく情けない。
家庭内蓄電が大幅節電のカギを握る
小規模リチウム電池と、電力価格の価格変動制、リアルタイムの料金計算、さらにAIを利用した蓄電と電力使用の最適化により電力削減はおそらく半減できるだろう。
さらに冷房と時間的にシンクロする小型太陽光発電との併用、そして電気自動車(私は完全電気化には大いに疑問がある)との共用を導入すれば、電力会社からの購買代金はおそらく三分の一(ガソリン代込みで)まで低減できるだろう。
ただそうなった場合、安全保障の課題として電力事業をどう支えていくかという問題が発生するかもしれない。
気候変動論 これから勉強を続けるための視点
これまでCO2問題からカーボンニュウトラル問題、カーボンサイクルと、古気候学、さらにエネルギー問題と、途上国の発展課題、そして発電・交通におけるイノベーション課題とずっとレビューしてきた。
そして情勢展開の原動力となってきたのが、気候変動という一点に的を絞ったESG投資という「資本の力」だという認識に到達した。
「資本主義の自浄作用」といえばきこえは良いが、どうも眉唾くさい。
気候変動をもたらしたのも資本の論理であり、それを化石燃料の使用禁止という荒業で乗り切ろうというのも資本の論理である。
現に、石油の値上げ、天然ガスの高騰という形で、既存産業はしっぺ返しをしているように思えてならない。そのアオリを食らうのは庶民、とくに途上国の民衆だ。
しかし世界の超富裕層は物価が10倍になろうが知ったことではない。気候災害に備える保険金が半分になればバンザイなのだ。
産業革命、産業革命というが、実はその間に世界の人口は10億から70億に増えている。しかも7倍化した人間がなんとか生きて行けているのだ。これを発展と言わずしてなんという。
その上でこれ以上の温暖化にはブレーキを掛けましょうと言うならわかるが、このままっではまるでハルマゲドンだ。そうやって脅すのが、資本の論理というもののもう一つの側面だ。
かつてマルサスの人口論をもとにした人口ハルマゲドン説、ローマクラブのエネルギー資源枯渇
論をもとにした資源ハルマゲドン説、プラゴミなどが溢れて地球が壊れるという廃棄物ハルマゲドンなどさまざまな「科学的ペシミズム」が流されてきた。
しかしいままでのところ、自然界のフィードバック、人間社会のフィードバック、イノベーションなどによって、なんとか乗り切ってこられたのも間違いない。(原子力だけは目下のところどうしようもない)
問題は化石燃料ではないと私は思う。責任は化石燃料にどっぷりと使って、環境破壊に頬っかぶりして利益を追い求めてきた大企業の無責任さにあるのだ。そのような生産体制・消費生活を改革することが最大の解決策なのだということで、意思統一する必要があるのではないか。
気候変動とESG投資の動き
気候変動とESG投資の動き
2006年 「世界経済フォーラム」(いわゆるダボス会議)の議論の中で「ESG投資」が取り上げられる。
2017年 「クライメート・アクション100+」が発足。年金基金、保険会社、運用金会社など575社が結集(21年現在)。世界のCO2 排出の80%を占める167社に直接圧力をかけることを目的とする。運用資金の合計は54兆ドルに達する。(日本の国家予算は1兆ドル)
2019年 クライメート・アクションよりさらに厳しい目標を掲げた「ネットゼロを目指す資産保有者連合」が発足。企業側が要求を無視すれば、株式と債券の全売却も考慮するという強硬方針を掲げる。年金基金、保険会社のみでスタートしたが、その後運用会社も協賛行動を取るようになり、事実上CA100と同規模となる。
国内ESG投資の「過去」「現在」「未来」 | NOMURA
夫馬賢治 「超入門 カーボン・ニュートラル」
より作成
その後、19年の国連責任銀行原則(PRB)の導入を機に、投資(株式・債券)介入の動きは銀行界(融資規制)へも拡大していくが、こちらは別項で。
2021年11月04日 BIS ショック 「気候変動」が一気にグローバル課題となる
BIS ショック 「気候変動」が一気にグローバル課題となる
恥ずかしながら、同時代を生きている私もまったく気づかなかった。
この1ヶ月というもの、ネットで色々な文献を集めては読み込んでいるのだが、いつ誰がどうやってこの「ブーム」に火をつけけたのか、要領よく書いてある解説書は見つからない。
仕方がないので、本屋さんに行って新書コーナーのところにそれらしきものはないかと探してみた。とりあえず見つけたのが下記の本である。
書名はいかにもの感じだが、内容はかなりよくまとまっている。
環境主義者でなく、むしろ政治的上部構造の中心部が、まったく違った論理でアプローチし、戦略を打ち立てた。こう言っては大変失礼だが、グレタ・トゥーンベリさんが頑張っているから脱炭素が進んでいるわけではない。
一番の旗振り役は金融界だ。金融と言っても普通の商業銀行ではない。まずは保険業界、ついで長期預金を扱うファンド系から始まっている。
こうして「カーボン・ニュートラル」旋風が、辺り一帯の一切をなぎ倒していった。このような経過が浮かび上がってくるのだ。その圧力たるや凄まじいもので、ひたひたと押し寄せつつある。これが津波の第一波なのかもしれない。
ここでは2つの流れ、一つは2005年ころから投資家の間に始まったESGの流れ、もう一つはわずか2年足らず前にBISレポートをもって始まった、国際金融機関と各国中銀の気候変動プロジェクトについて焦点を当ててみたい。
最初は、超短期の経過で広がった中銀+国際決済機関の動きを追ってみる。
この流れが、会議論者の息の根を止めた。日本でも1年前の9月、菅前首相の就任演説で国家的努力目標に据えられた。多分この動きだけ見ておけば、今日の「猫も杓子も」状況は理解できるだろう。
気候変動が巨大な金融危機を引き起こすリスクがある
「世界帝国主義」の総意が示されたことで、産業界や経営者の顔色も変わった。言い方は悪いが、一種の大政翼賛会である。
もはやすべての産業が気候変動プロジェクトに絡み取られたのである。
石油火発にも未来はない
発電方法 | CO2排出量 |
---|---|
石油火力発電 | 695g-co2/kWh |
LNG火力発電 | 375g-co2/kWh |
石炭火力発電 | 863g-co2/kWh |
つまり石炭火発と同様、「石油火発にも未来はない」のだ。
石炭発電装置: 熱→電力転換効率の低さが致命的
注意しなければならないのは、石油もCO2 排出量においてはあまり良くはないということだ。
発電コストが低く効率的に発電ができます。石炭火力発電の価格は1kWh当たり12.3円です。LNGは13.7円、石油は30円~40円となっています。
「カーボン」がらみの用語集
わからなくなった時に、この記事を参考にしてください。
カーボンニュートラル カーボンネットゼロ カーボンゼロ ゼロカーボン (ゼロエミッション) | 二酸化炭素の排出を全体としてゼロにする (排出量ー吸収量=0) |
カーボンオフセット | 排出量をできるだけ削減し、削減が困難な部分をクレジットを購入して埋め合わせること |
ネガティブエミッション | 大気からCO2を吸収すること |
カーボンネガティブ カーボンポジティブ ビヨンド・ゼロ | 排出される二酸化炭素よりも、大気から吸収する二酸化炭素の量の方が多い状態 |
人の活動に伴って発生する温室効果ガスと、吸収作用の保全・強化による吸収量との均衡が保たれた社会。
森林の地球温暖化防止機能
よ
くある質問 - 林野庁
よりQ11 の回答は、なかなか難しい。要するに木材が朽ち果てずに土中に沈み込み化石化する以外はCO2削減にはならない。アモルファスな炭素の単体のみがCO2の吸収としてカウントされるということである。
草や海藻、植物性プランクトンの行なった光合成は、直ちに細菌や動物性プランクトンの栄養となり、彼らが有機物を分解してCO2に変えてしまうかぎり、CO2の削減には役立たないということだ。
私はどうも異なるレベルの話をしているように思えてならない。
大気圏の二酸化炭素として存在する炭素は8,100億トンにすぎない。炭素の約9割が鉱物として存在する。
それから見ると8億トンは誤差レベルに過ぎない。どうもCO2濃度を規定するのは別の要因がありそうな気がしてならない。
もちろん短期的には、化石燃料の大々的な使用が始まったのが19世紀なかばだから、それからのカーブを注意深く眺めれば、化石燃料のこれ以上の過剰消費は避けなければならない。これ自体は当然のことなのだが、結局ではどうするかというところに戻っていく。
やはりこれはエネルギー問題なのである。
「人工光合成」について
日本の太陽光発電は世界より2倍高
ヨーロッパが良いかというとそうも言えない。風が止まったらロシアから天然ガスを買うしかない。足元を見たロシアは価格を釣り上げる。ロシアのような国に生殺与奪を預けるのは安全保障上の重大問題だ。
ようするに科学はコストを問わないが、技術は技術の革新性だけでなく、コスト、安全性の3秒師をもとめる。ということは、化石燃料時代と同様に、これからもエネルギーは輸入する以外にないと腹をくくる事だ。
そこで念頭に置くべきことが2つある。一つはこれこそ一丁目一番地なのだが、節約である。
またアンモニアの話
製鉄工場でコークスを燃焼させるときにアンモニアを使う(混焼)と、CO2の排出が少なくてすむ。それにこれまでとても高価だったアンモニアの製造コストが大幅にダウンするという、いわば一石二鳥効果の話だったように思うが、どうもこの手の話には裏があることが多い。
ただ原理的な話として、カーボンサイクルとは異なる窒素サイクルというものが、エネルギー代謝の経路として存在するというところはとても魅力的だった。
今回10月2日の日経新聞にアンモニアプラントの話が掲載されたので、ノートをとってみることにする。
記事の内容は「三井物産がオーストラリアにアンモニア・プラントを建設する」というもの。これも一石二鳥話になっていて、サブ見出しが「生産時のCO2は地中に」となっている。
リード部分
* 三井物産がオーストラリアに「燃料アンモニア」の生産工場を建設する。
* 総投資額は1千億円で、7年後に稼働を開始する。
* この他、三菱商事と伊藤忠商事が年100万トンを生産する予定である。
* これらにより2030年には300万トン、50年に3千万トンの燃料アンモニアが日本に供給される。
燃料アンモニアの原理
1.天然ガスを水素とCO2に分離し、
2.取り出された水素を窒素と反応させて作る。
上記の二次の還元過程により作成される。
この過程の内、水素を太陽光発電のエネルギーで水から取り出せば、CO2は産生されない。これを「グリーン・アンモニア」と呼ぶ。
天然ガスを使用し、CO2を産生するが、これを回収・貯留するものを「ブルー・アンモニア」と呼ぶ。
非常にいやらしい表現だが、エネルギーの視点から見ればわかりやすい。そのミソは、液化水素を直接使用せず、そのエネルギーをアンモニアに転嫁することによって高密度化するということである。つまり発電原料は水素であり、アンモニアは一種の蓄電体ということになる。
その水素に炭素という「黒いレッテル」を貼らないで済まそうとするから、CO2を地中に埋蔵することによって「青いレッテル」なるものをねつ造していることになる。これも「温暖化ガス」罪悪論の悪しき影響である。
燃料アンモニアの経済
アンモニアを日本まで輸送して発電用に使う。その発電コストは23.5円/KW時。これでもまだ石炭やLNGより割高だが、水素を輸入して使うより1/4で済む。すなわち一手間で一気に安上がりになるのだ。
ただし、CO2というゴミを現地に残してくるという「ブルー」を抱えていることも間違いない。現地の人にとってはブルーどころか真っ黒である。
アンモニアにはもう一つ課題がある。アンモニアはすでに世界で年間2億トンが生産されており、そのほとんどは肥料・工業用に使用されている。市場的に原料資料と燃料資源とが競合することになる。アンモニアをふくむ「窒素サイクル」の総合的検討が必要となる。
炭酸ガスを悪者扱いするのが気に食わない
ところで、グリーンとかブルーというのはCO2を悪者(ブラック)視する発想の延長上にある。
それは間違いだ。CO2は生命体(植物・動物複合体)にとってもっとも貴重な資源の一つだ。「緑の地球」はCO2が生み出したものだ。
しかも放置すれば還元・固化され、どんどん大気中から減っていく運命にある。それは生命体の基本的なエネルギー源を奪い、地球をふたたびスノーボールへと導きかねない危険をはらんでいる。
歴史を紐解けばわかるように、寒冷化に伴う異常気候は温暖化のそれよりはるかに深刻だ。冷害と飢饉は多くの人々の命を奪い、ホモサピエンスを何度も絶滅の危機に追いやった。
光と水さえあれば、光合成はいくらでも更新される。氷河期の末に位置する我々にとって、炭酸ガスの増加それ自体は恐れるほどのものではない、イノベーションで十分克服可能だと思う。例えば石炭だって神様からのいただきものなのだから、もっと賢く使う方法を考えるべきだと思う。宝の持ち腐れは究極の浪費だ。
恐ろしいのは資源の際限ない浪費と人間社会の劣化なのではないか。
スペイン脱炭素の挫折
主見出しが「風吹かぬスペインの教訓」
サイドが「発電量2割減、ガス危機に拍車……融通と蓄電 日本にも難題」
というもの
まず事実
* 欧州ではこの夏以降、異常気象のため広範囲に風が弱まっている。
* スペインの風力の発電量が2割減少した(昨年同月比)
* スペインだけでなく、多くの欧州諸国の風力稼働率が落ち込んだ。
* スペインにおける天然ガスのスポット価格は、3万円/メガワット時で前年比6倍に高騰した。
* 家庭向け料金も、政府のさまざまな支援にも関わらず、前年比35%上昇している。
ついで背景
とりわけスペインにおいて風の影響が強く現れたのには理由がある。
*スペインは脱炭素先進国。
電源構成を2000年と比較して、石炭は36%から5%に、石油は10%から5%へ減らした。一方で、比較的クリーンな天然ガスは9%から31%に高めた。
スペインの現在の電源構成は日本の2030年目標に近い。ゆえに他人事ではない。
明らかなことは、近未来においても日本における炭素燃料の「併用」は不可避だということだ。ゆえに石炭、石油から天然ガスへの移行が必須となる。
* スペインの弱点
大きく言って2つの弱点がある。
一つはピレネー山脈により欧州主部と分断され、電力融通の容量が小さいことだ。
もう一つは蓄電設備の充実が脱酸素化のスピードに追いついていないことだ。「風まかせ」にしない対策の実行が遅れている。これが電力逼迫を招いたといえる。
私たちが気を引き締めて臨まなくてはいけないのは、脱炭素は高コスト化と不安定化を伴うということだ。さらに炭素を燃焼させるという過程は、大なり小なり大気汚染という副産物を伴うことだ。
もう一つ気になるのは、脱炭素の切り札として電力ばかりがもたげられていることだ。しかし電気というのは、エネルギーの利用方法としては非常に無駄の多いものなのだ。使わなくても電流を絶えず流し続けるのは、水道の蛇口をあけっぱなしにしておくようなものだ。
それでも、脱炭素は炭酸ガスのバランスを保つために必要な努力である。節約+イノベーション+光合成促進という社会実験の三本柱で、CO2濃度をコントロールしなければならない。
もしエネルギー問題と切り離してCO2のみを標的とするのなら、一番良いのは光合成の促進だ。効率から言えば藻類の栽培が最適だが、葉緑体類似の光合成装置を製造する事ができれば、そのほうがはるかに能率的であろう。
そこでじゃんじゃん炭酸ガスを吸い取って酸素を生成すれば、化石燃料の使用を罪悪視する必要はなくなる。あとは環境破壊の問題であり、あるいは多様性の維持であって、温暖化の問題ではない。
イノベーション課題で言えば、とくに周辺技術と二人三脚でのCO2減少を注意深く行わなければならない。これがずっこけると、ただでさえ過小エネルギーに悩む途上国に、大きな負荷をかけることになる。
温暖化とCO2増加 その根拠
温暖化とCO2増加 その根拠
気温変化
IPCCによれば、地球の平均気温は産業革命前に比べて約0.8℃上昇した。
ただ200年で0.8度という気温上昇は、それ自体が危機と呼べるものなのだろうか、人類にとってさほどの害ではなかったのではないか。北極海の氷が溶けて、世界中の島が水没するような海面上昇は説明できないのではないかという感想だ。
また、「気温の上昇が人類の生産活動と化石燃料の消費の反映である」とするには、上昇カーブがあまりにも直線的だ。人口も生産量も等比級数的に増加していることを思えば、むしろそれらは、直接には気温上昇に寄与していないと読むべきではないか、と考えるのが自然だろう。
CO2濃度の変遷
CO2濃度は過去35年で年2ppmの増加を続けている。2020年には410ppmに達した。これは1985年の1.19倍に相当する。
IPCCの推計では、およそ200年前、「産業革命前」のCO2濃度は280ppmであった。これと比し現在は約1.5倍となっている。
このグラフはわずか35年の変化を見ただけなので、物を言うにはやや力不足だが、ここでもCO2増加の「直線性」が気になる。人口の爆発的増加、途上国の経済成長、熱帯雨林の破壊、砂漠化の進行などを考えればむしろ等比級数的な増加が予想されるが、それが等差的な増大を示すのならば非人為的な要因による増加とも考えられる。
また温暖化現象がどの程度CO2の増加に起因するものかは、これらの表を見ただけではなんとも言えない。今後CO2濃度が高くなるにつれ、赤外線吸収が飽和するため、温暖化への寄与率は低くなる可能性がある。
地球史とCO2濃度
CO2濃度は大幅に下がり続けてきた。恐竜が闊歩していたころは現在の数倍だった。
100万年程前に280ppm前後まで下がった。氷河期には180ppmまで下がり、光合成ができなくなり地球は砂漠化した。
図 地球のCO2濃度の推計。縦軸(RCO2)は、「産業革命前」(280ppm)に対する比。横軸の単位は100万年。-100が1億年前になる。左端は5億6千万年前のカンブリア爆発に相当。
目指すべきCO2濃度は何ppmか?
天変地異は昔からあった。報道されないだけだった。しかし何十万、何百万人が餓死するような飢饉、冷害、干ばつなどはむしろ減っている印象である。(目下根拠なし)
CO2濃度上昇が人類に悪影響を与えているという統計的根拠は乏しい。(断言はできないが)
人類はCO2濃度を下げるべきかどうか? 下げるならば、目標とする水準はどこか?
真鍋モデルをかじる
最初が真鍋淑郎さんの年譜
主業績は「大気海洋結合モデル」で、その概要は前の記事で紹介したとおりだ。学的キャリアは「大気海洋結合モデル」をIPCCの基本モデルとしたことだ。
次に「真鍋氏の気候モデル」が図示される。
これはたしかに良い図だ。これは地球が形成されて数億年、始原状態の地球の気候だ。
そこには海がない。おそらく大気は高温高圧の水蒸気と、大量の炭酸ガスに満たされているに違いない。
私の記事には、この説明がないが、この第一相についで冷却された水蒸気が液化して海洋を形成する。これに伴い炭酸ガスが大気の主体となり、大気圏を宇宙から守る時相が来る。これが第二相となる。
おそらくこれが「大気海洋結合モデル」というものであろう。
「大気海洋結合モデル」というのは海面を鏡の表面とした、2つの世界の炭素サイクルを描いたものと思われる。特に海面下の動きが重要で、炭酸ガスが海水中に溶融し、やがてカルシウムや珪酸と結合し、沈降し、マントルに達する。これが火山活動を通じて再び大気中に放出される。
第三相においては植物による光合成活動が始まる。おそらく25億年ほど前のことである。これにより炭素のみならず、水素、酸素が独自のサイクルを形成するようになり、それらが水、炭化水素、二酸化炭素、炭酸カルシウムなどの間で相互のやり取りを行うようになる。
大気中の二酸化炭素は光合成で減少すると、行き場を失った酸素が一気に増え、酸素の一部がオゾンとなることにより「第二の大気」が形成されるようになる。
第三相は、第二相のバランスの上で展開されるために一方向的である。炭酸ガスは一方的に減少し酸素は一方的に増える。これに対するカウンターバランスとして、もう一つの生物である動物が繁殖する。これにより炭酸ガスの減少と酸素の増大は相殺されるようになる。
これが5億年前のカンブリア時代以降の時代であり、第四相と呼ぶことができる。この後地球は幾多の寒冷期を経ながら徐々に温暖化に向かいつつある。
問題は、これが第五相に突入したのかどうか、それはいつからか、その指標はなにかということだ。
これまでの相展開の引き金となったのは、海洋の形成、植物による光合成、動物の繁殖による酸素消費と炭酸ガス生成、だった。第五相が来るのだとすれば(多分すでに来ているのだろうが)それは、化石燃料の過剰消費による人工的な気候変動であろう。
だとすれば、まず気候変動の主たる責任者である人類のなすべきことは、化石燃料にとどまらない自然資源の節約と賢い利用である。とくに水資源の保全は緊急かつ重大な使命であろう。
もう一つは資源へのアクセスの不平等である。これだけは絶対に言っておかなければならないが、世界の人々の90%以上は間違いなく過小消費である。
だから温暖化問題であろうと、気候変動問題であろうと、問題の焦点は過剰消費しているのは誰なのか、彼らを抑制するにはどうしなければならないのかである。
そして過小消費に苦しんでいる人々を、「人類共通の課題」なる名目のもとで、さらに過小消費の方向に追い込むような事をしては決してならないことである。
地球史から見た、炭素循環の三つのフェイズ
2.炭素循環
大気中の二酸化炭素(CO2)は、地球上の炭素循環に規定されている。
CaSiO3+CO2→CaCO3+SiO2
CaCO3+SiO2→CaSiO3+CO2
① 光合成による大気からの二酸化炭素の除去(有機物としての固定)② 生命活動による二酸化炭素生成。③ 生物の死骸の腐敗④ 人類の活動(化石燃料の利用)
とても良くできている図で、炭素循環の視点から見た地球史を3つのフェーズに分けて展開し、さらに大気をふくむ地球の階層的構造を大気・海洋・地殻・マントルという4層の相互関係という過程に捉えこんでいる。非常にわかりやすい概念図である。実際は宇宙空間まで書き込まなければならないのだろうが、モデルとしてはあまり煩雑化しないほうが良いだろう。
地球史として炭素循環を見た場合、以下の3つの時代に分かれる。
① 生命誕生前は大気中の二酸化炭素と海水に溶存する二酸化炭素、炭酸塩(石灰石)がバランスをとっていた。
近代社会は、炭素サイクルから見れば火山活動に類似し、酸素の蓄積と寒冷化に対する一種のフィードバックの役割を果たしている。
しかし、その規模は自然環境のキャパシティーに対し過大である。現代人は自然バランスに対して年間5.5%の過剰な炭素負荷をかけている。これは自然界のフィードバック機能のレベルを逸脱している。それが「化石燃料の過剰消費」の意味するものである。
定量的に考えて、それはあまりにも急速かつ過剰な負荷であり、それが気候変動に結びついていることは明らかである。
太古の地球には酸素がなかった
光合成はさらに盛んとなり、酸素はさらに増え、炭酸ガスはさらに減少した。これが炭酸ガスによる温室効果を弱め、地球の冷却化につながった。
この論文では他にオゾン層問題、水資源問題が触れられているが、ここでは省略する。
ここでは炭酸ガス現象の原因として、初期の10億年の自然冷却→海洋形成過程に伴う物理的溶融現象と30億年前からの植物光合成による炭酸ガスの還元と固定をあげている。前者の形成産物は炭酸ナトリウム→炭酸カルシウムであり、後者は「化石燃料」をふくむ有機化合物である。
この文章を読む限り、寒冷化過程は一方向性である可能性がある。これまでの説では一連の火山爆発がこの「寒冷化過程」を中断してきたが、それはフィードバックのメカニズムによるものではない。
もしそうだとすれば、人為的な化石燃料の消費は、寒冷化を阻止するための一種の「必要悪」として捉えられなければならなくなる。
温暖化論ではなく気候変動論
今朝のニュースで、今年のノーベル賞で日本人研究者が受賞したと報道された。
かなりご高齢の方で、「地球温暖化」のモデル研究を創始したことが受賞理由となっている。
見ていてふと気がついたのだが、メディアでは「温暖化」というのに、本人挨拶の中では「気候変動理論」と言っている。
「うん、そうだよな」と感じ入った次第。
「暖かくなりましたよねぇ」、「そうですねぇ」というだけではただの時候の挨拶だ。地球気候の変動のなかで位置づけて昨今の温暖化現象を位置づけないと、昼帯番組の気象予報士の話と選ぶところはない。
おまけにそれが様々な政治・経済的な思わく絡みで語られると、何やらきな臭くなってくる。いわば主張・風潮としての「反温暖化」主義としての色合いを帯びるようになってくる。
もうすこし価値中立的に自然科学としての枠組みで議論した上で、化石エネルギーの利用をふくむ人類のエネルギー課題、自然との共生の課題、資源の配分問題などの各論に踏み込んでいくべきではないだろうか。
そして倫理的大枠として、人類の発展史の中で捉えていく視点を失わないようにしなければならない。
例えばグーグル・アースで地球の夜景を眺める。これを見ていれば、温暖化の原因はたちどころに分かる。いまだに温暖化をもたらしている主犯は先進国、とりわけ大都市である。
もし「気候変動のモデル」について最良の証明をなした功績者を上げるとすれば、それはまさにグーグル・アースではなかろうか。
この間、人民連帯運動に関わってきて、いやおうなしに先進国の西欧的人権概念につきあわされてきた。その感想としては、「そもそも論抜きの絶対的価値観は非常に危ういものを持っている」ということだ。
例えば「2つの文明の衝突」などという議論は、人類は一つという前提を抜きには議論できないというアタリマエのことを省略している。
それは西欧文明の絶対的優位性という思考法の暗喩である。たしかに19世紀から20世紀にかけて西欧文明は先進性と相対的優位性を誇った。我々の知識や知恵には、それらの影響が圧倒的に込められている。
しかしそれは長い人類の歴史の中でほんの一瞬のことである。さらにそれは40億年の地球の気候変動の中で一瞬のことでもある。
そのうえで、過去数十年の気温の上昇は紛れもない事実であり、それが人類の化石エネルギーの大量消費に基づいていることも明らかであり、緊急に対策を迫られていることも明らかである。という当然の事実についてコンセンサスを共有する必要がある。
これは私たちが60年から70年代にかけて経験した「公害」問題のグローバル版と考えるべきであろう。
もういちどあの頃の経験や体験を呼び戻さなくてはならない。
おそらくその時の経験をもとにした対策・イノベーションで8割は解決できるだろう。そして残りの2割は社会変革の課題であろう。
「温暖化」を考える
●温暖化とは
温暖化とは、人間の活動が活発になるにつれて「温室効果ガス」が大気中に大量に放出され、地球全体の平均気温が急激に上がり始めている現象のことをいいます。
温室効果ガス(Green
House Gases)はCO2、CH4、N2Oの総称。
世界の海水面は100年前よりも20センチメートルほど上昇した。ただし地球史的に、世界の海面高は100メートルも変動している。約7000年前の縄文時代は今よりも2〜3℃気温が高く、海面は3〜5メートル高かった。
縄文の温暖化はミランコビッチサイクルによる。これは地球の回転軸がぶれることで、日射量が変化する現象で、約10万年の周期を持つ。
●温暖化の見通し
現在のペースだと、80年後には気温が約2度上昇すると予測される。
●温暖化のメカニズム
もしも地球上に温室効果ガスがなかったとすれば、平均気温はマイナス18℃となる。
6.温暖化と差別の増強 ~地球温暖化の影響は不公平である~
地球史的に考えよう
温暖化というのは、温室効果を持つ諸要因の複合的結果であり、必ずしもネガティブに捉えるべきものではなく、それ自身としてはニュートラルなものである。
5千年ほど前、地球は長期にわたる氷河期を終え、温暖期を迎えた。海面は50メートルほど上昇し海岸沿いの平野はことごとく水没した。当時はそれは悪いことではなかった。森林だったり草原だったりした平野は、広大な大陸棚となり豊かな海産物を育んだ。日本の縄文文化は漁労を抜きに語ることはできない。海の幸を食べるために土器が発達し、船による交通の発達は北海道から沖縄までに縄文人が拡散することを促した。
エネルギー問題の応用問題の一つとして、環境問題を考えよう
ただし人間は人間以外の生物が繁栄することを望まないし、快適な家と昆虫などいない人工化された環境を望む。これは矛盾である。
この矛盾が、人間社会にとって災厄となるのは、行き過ぎやスピードが早すぎるなど、フィードバック機構が働くなる場合がひとつ、もう一つは人間社会の方に適応力が失われたためである。
私は、「人間社会の方に適応力が失われた」原因としては、何よりも単線的な思考過程と、一面的で性急な結論にあると思う。
変化に明らかな行過ぎがあったり、変化のスピードが早すぎるのならそれを抑えなければならない。フィードバックが効かなくなっている現象があれば、そのフィードバック機構をちゃんと働くようにしてやることが大事だ。
人間社会の対応というのは、文化論まで含んでくるから単純には行かないが、「むさぼるな、あせるな、無理するな」と言うことではないか。
子供の頃、「渡良瀬遊水地」の話を聞いてなにか変に感動した記憶がある。最初は「それって、利水じゃないじゃん」と思った。せっかくの平地なんだからちゃんと水はけ良くして、たんぼにしてコメ作ればよほどいいのではないかと思った。自然に逆らわずに「ないものだ」と思って付き合うという利水もあっていいのだ、それが長い目ではいいのだ。
しかしその後の話は、逆のせこい話ばかりだ。日本第二の湖八郎潟が干拓されて一面の田んぼになったが、なったとたんに減反だ。米作りを強行した農家は農協から締め出された。同じことが諫早湾でもやられた。
諫早は経済的に見ても、本当になんの合理性もない愚挙だ、土地神話を盾にした土建屋のための干拓工事だと思う。最近佐賀県で頻発する水害と関係がなければよいが。
これでは温暖化論にならない。もう少し、「ここが温暖化論の核心だ」というポイントを探り当てなければならない。
CO2論の裏に「光合成の危機」があるのだろうか。植物原料の使用はむしろ推薦されるのに生物の成れの果て(特殊な形の)である化石燃料がなぜ悪者になるのか?
次はこちらを少し探ってみる。
温暖化については基礎学習が必要だ
自然界の気候変動サイクルとの鑑別
地球の歴史上から言えば、35億年前から褐藻類が繁殖し、20億年前の葉緑体を持たない最近の出現、6億年前のカンブリア爆発で動物類が発生するまでは酸素は貯まる一方だった。還元鉄が参加することが唯一の逃げ道だった。地球上は酸素だらけでとても寒くてアイスボールになった。その後も何度も氷河期と間氷期が繰り返された。逆に温暖期には今よりずっと炭酸ガス濃度が高かった時代もある。
このことから言えるのは、「CO2増加は温暖化の原因ではなく温暖化の結果であるかも知れない」ということである。
②化石燃料の消費によって生じた温室効果ガスが、人為的温暖化の主犯であることを認めるか、
③自然界によるフィードバックの可能性はないのか、その域を超えているのか、
④化石燃料枯渇とどちらが先行するか、したがってエネルギー対策といずれを先行すべきか
の問題が議論されるべき。
環境保護学の体系は多様であって当然
それと、率直に言って先進国議論になりがちなので、その議論がワクチン3回打ち論やブースター論のように、科学の装いを凝らした人種・民族差別になっていないかが心配だ。
温暖化をめぐる世界の動き
「気候危機と2030戦略」をエネルギー論の視点から読む
私たちはフクシマを経験して、何よりもエネルギー問題としてこの問題に向き合ってきた。それは電力業界、通産省などがフクシマを究極の環境汚染としての核汚染問題ではなく、日本のエネルギー政策に関わる問題として提起してきたからである。そして原子力を「クリーンエネルギー」と強弁してきたからでもある。
式で表すと クリーンエネルギー ー 原子力発電所 = グリーンエネルギー ≒ 再生可能エネルギー ということになる。
たぶん、ヨーロッパの環境主義者とは立脚点がすこし異なっているだろうと思う。
それこそが、「電力がいつでもどこでも瞬時に使える」という最大の特性を生み出すための必須条件なのだ。だが本当にそれが必要な時と場合が、果たしてどのくらい、現実に存在しているのだろうか。
下の図を見てほしい。「電気が切れる」キャンペーンの結果日本の発電量は10%以上減少している。原発停止による発電量低下の半分を相殺している計算だ。
エレクトリカル・ジャパン(Electrical Japan)
節電を姑息と侮ってはいけない。温暖化をエネルギーの過剰消費と考えるなら節電と、節電関連のイノベーションは根治療法なのだ。それに20世紀型の産業公害型の環境破壊と違い、21世紀型の廃棄物・温暖化型公害の主犯は生活公害だからだ。
(北海道胆振東部地震「泊原発が動いていれば停電はなかった」論はなぜ「完全に間違い」なのか)
CO2 に関しては、議論のすり替えが行われている。
B) 電気を必要なときに必要なだけ
上の図はトヨタのHPからの転載である。「目一杯使うのならこれだけ使えます」ということだが、もうちょっとちまちま使うなら、4日以上使える。電池がなくなりかけると自動車のエンジンが自動でかかるそうだ。まさにオートモバイルだ。ガソリンがあればもっと走って貯めれば、もっと使えることになる。
EV (完全電動車) なんてものは欧米・中国の自動車後進国の陰謀に過ぎない。株屋は別にして、見ている人は見ている。
5.化石燃料が悪ではない
全盛期から引きずってきた各種の「公害」は、化石資源の不適切な使用(電力使用がその典型)による環境汚染の問題だ。それをエネルギー損得の計算と混同してはならない。
西尾正道「被曝インフォデミック」を読んで
ここまで文字数 791字
アンモニアは炭化水素と並ぶ川上資源だ
アンモニアを燃料に使うというのは、「1万円札も燃料になります」という議論だ
アンモニア製造も脱炭素再生エネ活用、原料は空気と水秋田・ラオスで実証へ
野焼きを “非科学的” に考えよう
2.野焼きの焼畑との違い
番組の紹介では、野焼きによって管理された草原という環境を作り出し、年間のエネルギーやCO2の出納をちゃらにしつつ、人間の住める空間に変えるというのが野焼きのサイクルなのだという。
焼かれた野は、狩猟・採集文化の舞台なのだ。
そこが焼畑と異なるところで、焼畑の場合は焼いたあとそこから地力を収奪する。そして何年かの後にはそこでの耕作を放棄し再生を待つ、というサイクルになる。野焼きは植物が生え、育ち、生き物を育み、人間はそのおすそ分けに預かる。耕作はしない。
3.野焼きが縄文文化(南方)を生み出した
なぜなら、常緑樹林は落葉樹林と異なり、そのままではただの緑のジャングルでしかない。人間を寄せ付けない酷薄な自然である。縄文人が生きていく手段を提供することはできないからである。
もちろん、これは想像であり1万3千年前(最終氷期)の南部九州が常緑樹の森林だったとする根拠はない。だが落葉樹林であったとすれば、野焼きをする必要もなかったはずである。
その答えがわかれば、南部九州の縄文文化についてもおのずから回答が与えられるのかも知れない。
それは人類史的な確信であり、変革の立場からのダイナミックな視角であり、構造学的枠組みからの脱出である。
かつては里山の雑木林から薪や炭を作り、落ち葉は田畑の肥料に利用するなど、人為的な管理により良好な環境が保たれていました。しかし生活様式の変化から、里地里山との関わりが減少し、手入れ不足による荒廃が進んでいます。スギ・ヒノキ植林地では適切な管理がされず、森が暗くなり下層植生が失われています。そのため、周辺の植生は単調になっており、そこに生息・生育する生きものも少なくなっています。…草地はこれまで、人の手により草刈りや火入れ等の管理を行ってきたことによって維持されてきました。しかし、人の手が入らなくなると、植生の遷移が進み木本類が侵入してきて草地は消滅します。
水素製鉄について
これも日経新聞の12月28日付け一面トップだ。
まずは三段からなる見出し
三菱重が水素製鉄設備
CO2 排出ゼロに
欧州で来年稼働へ
1.製鉄とCO2
鉄鋼業界のCO2排出量は年間20億トン。これは20年前の2倍に達している。
製鉄由来CO2排出量の、全産業に占める割合は25%。これも20年前に比べ5%増えている。
すなわち製鉄工程のCO2排出は最大最悪となっており、その改善がCO2 削減の鍵を握っている。
2.製鉄工程がCO2を生み出すメカニズム
鉄鉱石は酸化鉄の形で採掘されている。これを鉄として用いるためにには還元(精錬)が不可欠だ。現在の精錬法は、石炭(コークス)を燃焼させて、炭素を鉄鉱石内の酸化鉄と結合させ、二酸化炭素として取り出すもの。ある意味では、炭酸ガス産出は精錬過程の本質的な一部だ。
3.炭素の代わりに水素で還元する
炭素の代わりに水素を酸化鉄にくっつけると、炭酸ガスの代わりに水(H2O)が産生され、排出される。残りは還元されたFeとなる。
もちろんそれにはエネルギーが必要だが、エネルギーの供給役は水素が果たす。それは石炭がエネルギーを供給すると同時に、酸素の受け手としての炭素の供給者になるのと同様である。
4.水素製鉄の実用可能性
このプラントはDRIとよばれ、“鉄鉱石を水素で直接還元する” 手法なのだそうだ。高炉に比べ生産量は少ないものの、投資額は半分以下となるらしい。ただし記事からは詳細は不明。
ページ下に解説
5.ネックは安価な水素の供給
水素の現在の価格は1立米で100円。これを10円以下に押さえないと採算には乗らならしい。
それにしても炭酸ガスといい水素といい、いざ使おうとなるとそうかんたんなものではないようだ。「雲をつかむような話」にならなければ幸いだが…
水素DRI法の解説 (神戸製鋼所のページより)
天然ガスベース |
水素還元 |
Fe2O3+3CO→2Fe+3CO2 |
Fe2O3+3H2→2Fe+3H2O |
Fe2O3+3H2→2Fe+3H2O |
|
燃料アンモニアよりメタン
CO2+水素 再利用で連携日中、メタンガス製造世界最大プラント建設へ
それと炭酸ガスを目の敵にして、CO2 削減を自己目的化するのは、どうも本末転倒の気がする。炭酸ガスの多い地球は、基本的には人類に優しい温暖な気候なのだ。
(少なくとも当面は)問題は、化石燃料の過剰使用による大気汚染であり、合成樹脂による環境汚染だ。さらに原子力の統御力なき利用による核汚染の拡散なのだ。
燃料アンモニアに未来はない
3.CO2 より NOx のほうが良いとはいえない
原理的にはNH3のHがO2と結合してNとH2Oになるのだろうが、NOx(窒素酸化物)の産生の可能性はないのだろうか。やはり気になってしまう。
CO2 より NOx のほうが良いとはいえないと思う。
結局は蓄電池問題なのだ
これまではどれが良いか問題のはなしである。それはこれからも続いていく話題になる。
しかし、なぜこんな話に門外漢の私がこだわるかということが実は一番の問題なのだ。
同日の日経の7面に
「50年排出ゼロ目標 電気料金値上げ抑制のためには9兆円投資が必要に」
という記事がある。
これによると蓄電池とCCS(二酸化炭素の回収・貯留)で9兆円の投資が必要とある。内訳は蓄電池配置に4兆円、水素発電所とCCSの建設に5兆円とされる。
ただ記事をよく読んでいくと、これは石炭火発をゼロにしたときの試算のみで、原発・火発はいまのままということだ。
原発と石炭火発をやめて自然エネルギーでそれを賄うとすれば、原発44基分44ギガワットの蓄電池が必要になる。その際は蓄電池本体で7兆、送電網増設に10兆円が必要になる。
アンモニアやメタンの話は、この発送電システムを全面オンラインにするが、一部オフラインにしてコスト節減は測れないかという話である。それと国内だけでなく海外の電力資源も使い回すとすれば、「動く蓄電体」の検討は不可欠の話題だ。
代替エネルギーに関する記事一覧
電池問題と水素
蓄電は原発事故以来、エネルギー問題の最大のネックだ。一番構造的にかんたんなのはポンプを回して揚水してこれを夜使うという方式だが、かなりロスが大きいようだ。
NAS電池はどうもだめなようだ。リチウムは資源問題が裏腹の関係になっている。
ということで一時は水素が究極のエネルギー源になるのかと期待された。何らかの形で獲得されたエネルギーで水を電気分解する。水素を液体にしてタンカーで運び、天然ガスのようにして使う。あるいはこれを燃焼させて電気を発生させる、という具合だ。
ところがこれが一向に進展しない。
11月のフィナンシャルタイムズによると、イギリスは国策として水素技術を追究し始めた。EUでもグリーン水素計画として、今後10年間で電解用の水槽を40ギガワット建設すると発表した。
そういう掛け声の割に実業界からは水素の声は聞こえてこない。
水素ガスは天然ガスに比べ発熱量が大幅に低い。水素爆発の危険を克服しきれていない。これらの障壁が重くのしかかっている。これは水素の代わりにアンモニアを使用するときにもおなじである。
今後、蓄電技術の分野では一段のブレイクスルーが必要となるだろう。
福井地裁 「原発運転差し止め」の意義
3月7日に「泊原発を再稼働させない連絡会」の講演会があって、元福井地裁の裁判長の樋口英明さんがお話をされることになっている。
①原子炉が原子核分裂の過程において高エネルギーを放出する核燃料物質を燃料と して使用する装置であり、②その稼働により、内部に多量の人体に有害な放射性物質を発生させるものであって、③原子炉を設置しようとする者が原子炉の設置、運転につき所定の技術的能力を欠くとき、又は原子炉施設の安全性が確保されないときは、A 当該原子炉施設の従業員やその周辺住民等の生命、身体に重大な危害を及ぼし、B 周辺の環境を放射能によって汚染するなど、深刻な災害を引き起こすおそれがある
第1回調査委員会の報告から垣間見える関電=解同の関係
その内容は発表されていて、関電のホームページで閲覧可能である。
第1回調査委員会の報告の要旨
ほとんどが言い訳と合理化、居直りに終止している報告であるが、そのなかでも以下の核心的事実は消すことができない。
①20人が金品の譲渡を受けていた。
かくして、暴力団による襲撃は組合内の左右両派の激突と描き出され、労働者への国民の支持は失われていった。
なお調査委員長を勤めた小林敬という人物は、大阪地検特捜部として「世紀のでっち上げ」を指揮した人物であり、その後罷免されたという経歴の持ち主だ。
秋霜烈日というのは検事としての厳しさを形容する言葉だが、この人は自分より目上の人にはめっきり優しくなってしまう二面性を持っているようだ。そういう人物を調査委員長に指名する関電の傲慢さが、150ボルトの電圧で感じられる。
ウィキペディアには次のような記載がある。
調査にあたって森山元助役から聞き取りをせず、一方当事者の言い分のみを記したことについて指摘されると、「そこまでは思いが至らなかった」と弁解した
森山栄治の経歴 ウィキペディアより
というのが、森山に関するあらあらの経過。これだけでも十分すぎるほどの悪漢だ。
しかし、どうも解せない。関電の役員は本当に被害者なのか。
おそらく贈られた賄賂の数百倍~数千倍が関電から森山に流れていただろう。それは消費者の支払った金である。返す先が間違っている。
言うまでもなく関電は独占企業で消費者には選択の余地はない。ある意味でこれは泥棒だろう。泥棒というより強盗でありサギだ。間違いなく刑事犯であり、牢屋に入るべき犯罪だ。
ところが、その後の報道がぱたっと止まっている。これはどうしたことか。
少し調べてみなくてはなるまい。
拾った日経新聞日曜版 その2 LNG値上がりの理由
北電は泊原発の運用資格を失った
この半年で、致命的打撃の可能性は一挙に現実化した。
それは北電に対する信頼性が地に墜ちたからだ。
この1ヶ月で東区の約10分の停電、北区の停電、夕張の停電と大規模停電が相次いだ。
その挙げ句に今回の地震だ。
電力インフラの脆弱性への不安はますます現実的になっている。
一番怖いのは、9月のブラックアウト以来、これだけの相次ぐ事故に対して、北電が一度も謝罪していないことだ。
悪いと思っていないということは、またやるつもりだということだ。
以前、JR北海道のトンネル火災事故のネット調査をしたことがある。あの時感じたJRの無責任ぶりがそっくりそのまま北電にも映されている。
端的に言えば北海道は内地ではないのだ。囚人労働や朝鮮人・中国人の強制労働で作った土地だ。人の命の値段は内地に比べて8割くらいだろうと思う。
死ぬときは内地で死にたいと思う。
それはともかく、こんな企業に原発は運営できない。これははっきりしている。現に9月の地震で外部電源は全停止したのだ。「自家発電でしのぎましたから、ご安心くだいさい」といっているが、自家発電しかなくなってしまった状況については説明も謝罪もない。
こういう人は性犯罪者と同じで、反省がないから累犯性が高い。
北海道の特殊性からいって、企業としての採算が非常に厳しいのはよく分かる。だから無理を言うつもりはない。しかし身の丈に合わせてやってもらうことは大事だ。
80歳すぎの後期高齢者がジェット機を操縦するのだけは止めてほしいのである。
発電所の周波数について
私は現在のところ、以下のように考えているが、いかがであろうか。
*北電のページでは周波数を「水の重量」に例えているが、これほどひどい例えは例えようがない。まったく連想できない例えである。
*これは水力と比べたときの相対的なものだ。水力は容易にゼロ稼働からフル稼働まで調整できる。*同じ火力でも、どのエネルギーを使うかで変わってくる。最新鋭の天然ガス燃焼施設では対応の柔軟性は十分確保されてい。北海道に多い石炭専燃や重油火発は対応が遅い。*原発の「下げ代」は最悪で、ほぼゼロに近い。
つぎが下記のページ
*どうもわからないのだが、周波数の変化は結果であって原因とは言えないのではないか。周波数の著しい増減は需要と供給の著しい乖離の表現であって、だから危険を察知する重要な指標になるということではないのか。
*これが良くわからないのだが、例えば10回転のタービンに、5倍速のギアを噛ませて50回にすることなのか。
*これも良くわからないのだが、そもそも坂道を登ってエンストを起こすのとは違う話だ。出力ということで mα と1/2mxVの2乗 を混同しているのではないか。もしわかりやすくいうなら、出血サービスを続けて貧血状態になって、最後にへたって動けなくなる。そのときに究極の疲労症状として回転数が下がってくるのなら、それはあくまで疲労現象の一つに過ぎない。
*供給力低下の続発兆候としてなら当然だ。回転数低下は結果に過ぎないのだから…*供給力変化と関係のない単純な回転数低下なら、タービンからのギア比を上げれば良いだけの話。
* 狭いというより低出力ということではないか。つまりギア比を低くしてトルク比を稼ぐ発想?
*ニュートラルでアクセルを踏み込むのとおなじで、空ぶかしすれば回転数は跳ね上がる。回転数を上げたから空ぶかしになったわけではない。
最終的にはタービン出力を調整して回転数を保ちます。太陽光発電や風力発電では調整できません。
* 「オレは太陽光や風力は大キライだ」という姿勢が透けて見えます。
ということで、“周波数” は決して交流電気エネルギーの発生のための本質的要素ではないということがわかった。
での周波数についての説明は次のようになっています。
自動車で坂道を登ることを想定してください。需要の変化は坂の勾配で、発電はエンジンです。坂がきつくなればエンジンの回転数が下がり、登る速さが下がります。エンジンの回転数が周波数で、登る速さが電圧です。需要と発電の関係は電力の電圧と周波数に関係します。電圧はトランスで変えることができますが周波数は変えられません。…電力会社は周波数を監視して、周波数が低くなれば発電量を増やし、周波数が高くなれば発電量を減らします。
電気屋さんの世界では交流電流の公式があるらしくて、多分それをそのまま、言葉だけ易しくして、いろいろな例えを使って話しているのですが、素人には直流電流におけるオームの法則で説明してもらわないとわからないのです。
オームの法則に周波数は出てこないのです。
電球を直流で2個つなげば、明るさは半分になります。つまり消費電力が増えれば電流は減る、したがって仕事量(W)も減るということです。
発電機の発生出力は電流の強さと同じです。電圧が一定の環境のもとでは、抵抗(電力消費)が増えれば電流は下がります。なぜなら抵抗が増えればタービンの馬力が同じでも回転数は下がるからです。
電力の歴史
北海道全島停電事件の経過
14年には3年連続の赤字決算となり、自己資本比率は5.4%にまで落ち込んだ。この赤字に対応するため北電は2年連続の電気料値上げを断行した。
動くことのない原発の維持費は年間700億円、これまで5千億円が注ぎ込まれたことになる。
ある意味で、企業モラル的には全島停電の方向は定まっていた。もはやこれが宿命だったと言っても良い。後はいつ起こるかという問題だけだったのかもしれない。
(宮尾さんの2018.12.12レジメに詳しいタイムテーブルが載っていたので、引用させていただきました)
発電所では3台の発電機がフル稼働していた。発電量は165万KWであった。これは道内発電量の半分に当たる。 |
午前3時9分 1分後に2号機、4号機が、地震動を感知し緊急停止した。2台の発電機の出力は合計で115万キロワットだった。1号機は地震感知器がついてないため稼働を続けることができた。
午前3時25分
2号機、4号機が停止した後も稼働していた1号機が止まった。
このとき厚真火発の他に奈井江、知内、伊達の3火発が稼働していた(ともに2基中1基)。これら3基は急激な出力変化に耐えられず、自動停止した。これにより北海道内で稼働中のすべての発電機が停止し、ブラックアウト状態となった。
厚真火発(輸入炭専焼)は道内需要量310万キロワットの半分以上の165万キロワットを供給するスーパー火発、言い換えればそれ自体が一極集中のヤバイ存在である。
ただし厚真だけが発電所ではない。以下世に倦む日日 ブラックアウトの謎より引用する。
北電の持つ水力発電所の設備は強大で、主な発電所だけで12ヵ所あり、その発電能力は全体で165万kWに達する。北電管内の太陽光発電による発電量は132万kW、風力の発電量は38万kWあり、合わせて170万kWに達する。
日刊「赤旗」より
これにプラスして火発がある。発電能力は以下の通り。
奈井江(石炭 最大35万KW)、知内(重油 最大70万KW)、伊達(重油 最大70万KW)。これは過旗報道によるもので、他については申し訳ないが調べていない。砂川が突如稼働したり、苫小牧が音無しのままだったりと分からないことも多い。
しかしかなりのものになると思う。したがって、いったん全面的な「負荷遮断」を行った上で逐次範囲を区切った再稼働を図るなら、数時間のうちに全面再開することは可能なはずだ。
世耕弘成経産相が大見得を切ったのもそういう計算を元にしていたのだろうと思う。それが当てが外れたのには何かウラがあるはずだ、と私は睨んでいる。
泊原発が危機一髪
6日午前3時25分 第1回目の全電源喪失。これにより冷却用プールの燃料棒を冷やせなくなった。非常用ディーゼル発電機6台を使って冷却は維持された。
その後いったん外部電源が確保されるが、ふたたび喪失。外部電源の喪失状態が続く。
午後1時 喪失から約9時間半後、外部電源が復活。水力発電所の電気を優先的に送り電源を確保したとされる。
もし泊が稼働していたらどうなっただろうか、それは原発大好き人間が言うように「救い主」になっただろうか。いえいえそうではありません。
火力発電所が停止することで電力の需給バランスが崩れると、泊原発から発電された電力は「出口」を失う。普通の火発ならここでブレーキが掛かって緊急停止する。
しかし原発は止まらない。
原子炉内にはやがて蒸気がたまってくる。それを排出し、制御棒を注入して核反応を抑え、炉内を冷やすため冷却水を注入する。
これらの操作にはすべて外部電源が必要だ。(すみません、引用先忘れました)
原発派(大方、北電社内からだろう)のページにこんな記載があった。
泊原発1~3号機は運転を停止しており、原子炉内に核燃料は入っていない。非常用発電機は最低でも7日間稼働を続けることが可能だ。
60万キロワットを送ることが可能な本州からの支援ケーブル、系統電源の喪失により自動停止していることが判明。系統電源とは送電のために必要な電源で、北電から供給されなければならない。
6日午後12時 北電が記者会見。水力発電を動かし、火発を順次稼働させると発表。厚真発電所の修復に一週間を要するため、この間道民に節電を要請する。
17分あれば、揺れが収まってからトイレまで行って便座を上げてスボンを下げてパンツを下げて便座にまたがる暇はあるだろう。「間に合わなかった」という表現が遅刻した学生の言い訳みたいで、思わず苦笑してしまう。
医者はミスを犯したときの対応について、40年も前からそのように教育されている。
暗闇を迎えた狸小路 スマートホンが道を照らす
太陽光発電を見直す
九州では太陽光発電が普及し、4月29日午後1時には電力消費のう8割以上を太陽光発電がまかなった。九電は太陽光発電による揚水発電などで需給のバランスを調整してきた。これらの調整が難しくなれば「出力制御」する他ない。九電では原発が再稼働し原発4基態勢になった。このため消費の少ない春/秋には電気が余ることになる。
中国電力が再エネ電気を受け入れられなくなった。この後は、再エネ事業者が年間30日を超えた無補償の出力抑制に応じることを前提に、接続を受け入れることとなった。中国電力への接続は2018年7月11日現在387万kW、さらに接続申し込みは273万kWに達している。
このほど閣議決定された「第5次エネルギー基本計画」は再生可能エネルギーが“主力電源”と宣言した。国のエネルギー基本計画では2030年時点での再生可能エネルギー比率が22~24%、その中で太陽光発電には7%となっている。これを克服するためには“コスト競争力”を持つことが必要だ。非化石価値取引市場が創設され、経済化が可能になっている。さらに自家消費を活用することで、系統への負荷を下げることができる。
中部電力の管内は、猛暑で想定を上回る電力需要となっている。しかし、電力は潤沢に供給され、エアコン使用にも耐えている。理由は急速に導入進む太陽光発電のためである。太陽光は晴天時に500万~600万キロワットの出力がある。
7月の3日間の最大電力は2600万キロワットで、想定していた2500万キロワットを上回った。それでも供給余力を示す予備率は7%以上あり、中電は節電を呼び掛けていない。
一方で、関西電力の態度は対照的である。
正しいか正しくないかという問題以前に、関西電力のホームページとしてこのような記述がいかがなものか? と、思わず苦笑してしまう。電力料金がこのような形で使われることの妥当性は、法的にも問われるのではないだろうか。
テーマ1の「『太陽光発電は原子力発電の27基ぶん』って本当?」という見出しは、小泉元総理大臣が喋った言葉を「無知のたまもの」と嘲っているのだ。
中身は見てくれればわかるのだが、これは稼働率を掛けていない瞬間の数だから、全然話にならないといっている。
しかし御承知のように電気というのは生もので、ピーク時にどれだけ点数を叩き出せるかが問題になるのだ。野球でも最近では打率より得点圏打率や出塁率を評価するようになっている。
「足りなきゃ他人から借りりゃいい」と思っている人に意見されたくはない。
第二に稼働率を言うなら有効稼働率を考えるべきだ。経済的に見た原発の最大の弱点がそこなのだ。とにかく需要がなくても発電し続けなければならない。それは捨てるしかない。
それに比べると、とにかく太陽光はコストが安い。これが決定的な利点だ。ちまちまとやっているから小回りも融通も効く。台風で吹き飛ばされたら、拾ってきてまた据え付ければよい。
問題は火発との折り合いなのだろうが、そのへんはパブリックなコスト負担でもよいのだろうと思う。そうしてもなおかつ安い。
私のアイデアだが、かつての休耕田のように農民を売電地主にしてはどうか。こういう形で整備された平地を残しておくことは、将来の役に立つのではないかと思う。
北電幹部は謝罪し総辞職せよ
③ 東京の人の評価では、北電はこれらの可能性を想定していなかった、らしい
これからの時代もっとも怖いのはサイバーテロだ。北朝鮮がミサイル飛ばしたと行ってアラート鳴らしているが、あれは反共宣伝にしか過ぎない。もし北朝鮮が日本を攻撃するならサイバー攻撃に決まっている。発電所1ヶ所壊すだけで北海道がマヒするのだから、これほど美味しい標的はない。
エネルギーの根幹を託されている人間であるなら、そのことに思いを致すべきだ。
76歳の遠藤さんが伊方町議選に挑戦
原発の町伊方町で町議選に76歳の遠藤もと子さんが立候補するというのだ。
遠藤さんは隣町の八幡浜市で市会議員を5期務めた現職議員。それが市議を任期途中で辞任して伊方町議会議員に立候補した。
伊方町では昨年8月、町長はじめ全町会議員 が再稼働を容認し、3号機が再稼働された。
「原発に反対する議員が一人もいない議会を変え、町民の声で政治を動かしたい」というのが立候補の動機。
「人生最後の力を振り絞って頑張ります」と立候補の挨拶をした。文字通り人生最後かもしれない。
伊方町には合併前の当時から、共産党の議席がありません。町議選をたたかうことも初めてです。
移住して活動を開始した遠藤さんは、拡声器をつけた軽自動車を自ら運転し、細長い佐田岬半島の隅々の集落を訪ねて訴えています。そして漁港に面して広がる小さな集落の入口などで宣伝を重ねています。町民と対話し、寄せられた意見はノートに書き留めています。
「原発をなくしたら町が寂れてしまう」と心配する男性にはこう応えます。「廃炉に向けた作業で雇用は確保されます。再生可能エネルギーへの転換が本格的になれば、新しい雇用が生まれます」と展望を示しています。
遠藤さんと対話し共感した元公務員の80代の男性は、「遠藤さんを絶対に勝たせないといけない」と入党しました。町で36年ぶりの新入党者です。遠藤さんを紹介する「伊方民報号外」の束を抱え、集落の一軒一軒に配り歩いています。
何か叱咤されているような気持ちになる。76歳ですよ、私より5つも上なんです。
私も今月いっぱいで職場を降りることにしたが、「それで終わりというわけにはいかないな」と感じています。
日本での風力発電は見込み薄
以前、パタゴニアで風力発電をやって、それを水素にして日本に運ぶというプロジェクトを紹介した。
このプロジェクトは軍事産業の代表である三菱重工のものだったから、紹介をためらったが、あまりにも気宇壮大で痛快だったので度肝を抜かれた。
このプロジェクトの発案者が勝呂幸男さんという方で、三菱の社員であるとともに、日本風力エネルギー協会の会長も務めている。元々はタービン屋さんのようだ。
その後、石油もガスも安くなり、電力各社が原発に執念を燃やし続けるため、話題にはなりにくくなった。しかしいつも心の片隅には残っている。
風力が話題に上らなくなったのは外的環境のせいだけではない。日本での風力発電が極めて多くの問題を抱えているためだ。この点についても以前書いた。「日本では風力はお呼びではない」とまで書いた。
そんなとき、勝呂さんの文章が目に止まった。題名は「風車導入拡大へ向けて課題を克服しよう」というもの。
ある意味では、執念の一文だ。
勝呂さんによれば、風力発電の課題は風車の信頼性に尽きる。
まず風車の信頼性に関わる事件がいくつか紹介される。
1.カリフォルニア風車ブームの挫折
かつてPURPA法を適用した風車が所謂カリフォルニア風車ブームを起こした。しかし運転後に多くの故障が発生し評価は失墜した。故障の原因は、つきるところ風力変化の評価が不十分だったためだ。
2.国際電機会議(IEC)の技術標準
カリフォルニアの総括の中から標準設計基準が提唱され、これがIEC技術標準として固められた。
3.宮古島の風車倒壊
日本では宮古島に立てた風力発電の風車が転倒した事件が衝撃を与えた。
宮古島は80m/secの強風番付一位の実績があり、IEC標準からは到底,標準風車を設置出来ない所である。
なのに建ててしまったという問題がひとつ。そして建てられた風車の最大耐強風設計が60m/secだったということ。
つまり建ててはいけないところに、建ててはいけないものを建ててしまったということである。
4.「日本製だから安全」と言われるように
勝呂さんは、「この話がわが国の風車導入の実際を象徴的に表している」と嘆く。このような気象条件に対する無理解ばかりではなく、落雷への配慮もなされていない。
そもそもIEC標準の基礎データとなっているのはヨーロッパのもので、後から米国のデータも取り入られたが、日本やアジアのデータは反映されていない。
個別の気象条件に合わせた日本発の建築基準を作り上げることが、今後の課題だ。
とまぁ、こんな具合だ。
厳しい言い方をすれば、これまでの日本の風力発電はなんのデータもなしに、外国仕様の風車を建てているだけだ、ということになる。
つまり、「これからは基準を作ってやっていきましょう」ということだ。会長さんがそう言っているのだから間違いない。
そこには相次ぐ風車事故への深刻な反省は見られない。「とんでもないことをしてしまった。二度とこのような間違いを繰り返さないためにどうしたら良いのだろう」という発想が窺われない。
どうも勝呂さんという人、攻めのタイプのようだ。
勝呂さんの専門であるタービン・ボイラー技術の歴史というのは、安全性構築の歴史と言ってもよい。ものすごい威力はもっているが、そのぶん危険性も高く、それがネックとなって伸び悩んだ時期がある。産業革命の頃だ。それが内燃機関として発展するのは、まさに安全性問題が解決したからだ。ソロバン勘定はその後だ。パタゴニアの風力発電も、足元の安全が確保されなければ夢物語だ。
三菱といえばゼロ戦を作った会社。世界トップの性能を誇ったが、それは防御や安全性、居住性などを一切無視したものでもあった。軍事産業を主軸に成長したこの会社には、伝統的に安全軽視の風潮があるのかもしれない。
いずれにせよ日本では当分、安全性を最重要課題とする技術構築という視点は生まれそうにない。日本の気象条件に合わせた、安全で安定した風力発電は期待できないということだ。