鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

AALA関連記事は「aala_newsの編集日記」http://blog.livedoor.jp/aala_news/ に移りました(6Nov.2023) 中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 「ラテンアメリカの政治」(http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ )がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

カテゴリ: 33 気候・エネルギー・環境(原発)


2019年01月06日 に「エジプトの太陽光発電」という記事を書いた。

いまみたいにSDGの観点からエネルギー問題が語られる時代より、ちょっと前の話として語っている。

2011年の東北大震災と、その後の原発事故以来、私のエネルギー問題での最大の関心は原発に代わる代替エネルギーだった。


CO₂ 問題は主要な問題ではない

最近の議論で一番気になるのは、温暖化がCO₂ によるものだというすり替えである。

たしかに物理化学的に考えればCO₂ の大気中濃度の上昇が直接地球を温めているのは間違いない。

しかしその理由は、炭素資源を始めとする在来型資源の浪費である。CO₂にとってはとんだ濡れ衣だ。

一方でCO₂ 問題は広い意味での「大気汚染」の問題であるから、省エネ技術の進歩と環境規制の強化によって解決するほかない。

気温との相関関係を問うなら、一番に考えなければならないのは、世界の総人口の増大であり、人々の生活水準の改善(例えば肉の消費量、砂糖やアルコールの消費量などなど)である。



炭素資源はエネルギー安保に関わる問題

私にとって炭素問題は主要な関心ではなく、むしろ資源安保問題として捉えられていた。例えば天然ガスの輸入先を多様化し、ロシアに強度依存することだけは避けるべきである。

ロシアの覇権主義は根深く、その資源外交は安全保障の面から見てきわめて危険であると考えたからである。


技術プロパーで解決すべき

二酸化炭素の一番の特徴は不活性と水溶性にあり、扱いはきわめて容易である。その増加は技術プロパーで十分克服可能であり、むしろ一種の資産と考えていた。


蓄電なき電力は資源の浪費型利用

電気が良くて石油・LPGはダメという根拠はない。

むしろ必要なときに必要なだけ使うのなら石油・LPGのほうが地球に優しい。蓄電できなければ、膨大なエネルギーはそのまま無駄になる。

ボタンを押せば瞬時に動くというのは、この上ない贅沢だが、必要ないのならやめるべき。

電気がダメだというわけではない。蓄電技術が備わって、はじめて電気がSDGの切り札となるのかも知れない。

文末に以下のごとく書いたのはそのことを表している。

ベースロード電源との配分、揚水発電との組み合わせ等が必要な、「扱いにくい電力」であることは間違いありません。エジプトだと淡水化プロジェクトとの組み合わせがもっとも有望なのではないでしょうか。
水素プラントが早く実用レベルまで達することが望まれるでしょう。

これが3年前の蓄電の技術的展望だった。

いまではだいぶ変わっている。当時は液体水素が最有力視されたが、貯蔵技術が難しい上にあまりエネルギー変換効率が良くない。少なくともLPG代わりに使うような仕掛けにはならないということが分かった。

現在もっとも有望なのはアンモニア製造だ

アンモニアは肥料材料として必須であるが、電気の塊と言われ、製造費の高さが悩みのタネとなっている。

目下のところは製鉄工場でコークスと混焼するプラントが動き始めているようだが、私はそのレベルに収まるようなものではないと思う。

自然の炭素サイクルを窒素サイクルまでふくめて考える、これが21世紀型の発想転換ではないだろうか。






昔は面白い文章があると、メモしたものだが、これが、後では、とんと役に立たない。
要点を絞り込むのだが、絞りすぎると、思い出そうとしても何のことやら私からないのだ。
メモ帳に残された電話番号、誰の番号だったかわからずに、そのまま捨てたことのなんと多いことか。
それから見ると、今はとにかくスマホがある。本や新聞やら、気に入った段落があるとやたらとパチパチ。
最近のカメラ機能の素晴らしさ、かなり雑なとり方してもちゃんと読める。間にガラスがあるときも、かなり斜めに撮っておいて、後で台形補正すれば照明の映り込みは排除でき、大抵の仕事には困らない。
究極のずぼらは、本の1ページを写して、あとでグーグルドライブでOCRにかける方法だ。
この「あとで」というのが曲者で、多分そうやってとった写真の9割はそのまま、画像フォルダーの奥深くしまわれることになるのだが。

この三連休は、そうやって溜まった画像の虫干し、これも一種の断捨離だ。

1.培養肉という「理想」

日経新聞の去年9月26日の記事だ。
結構長い記事だが、最後の段落だけ抜き出しておく。
同じ時代や文化圏でも、視点の置きようで食肉や動物愛護の捉え方は変わる。人間の目線での「かわいそう」という気持ちを重視すれば、と畜や狩り自体の否定につながる。だが違う観点に立てば、「死」を理解しない動物を食べること自体は問題なく、むしろ飼育や狩りの過程から苦痛を取り除くことのほうが重要との考え方もできる。

培養肉は殺生せずに作れるから優れているとする考え方は、食文化をめぐる摩擦をかえって先鋭化しかねない。新技術は環境負荷の低減には資するとしても「万能の解」にはなり得ず、自らの倫理観や思想を他者に押しつける道具となる危うさもある。

培養肉への信奉が、より良き世界を求めるイデオロギーになることを警戒したい。高い理想の探求はイノベーションの源泉でもある。だが培養肉に関しては「美味しいものを、手に入りやすい形で提供する一手段になれば」と捉えるくらいが良いのではないか。
瀬川奈津子
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この瀬川奈津子という方、どういう人なのか調べてみた。

日本経済新聞社の編集委員 先端技術とルールのほか、知的財産戦略など企業法務を担当している。

担う分野は花形分野ではあるが、現場で経験を積んだ人らしく、チャラチャラせず筋が通っている。ポートレート写真もあるが、あまり好きそうではない表情が現れている。

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この頃はCOP26の真っ盛りで、SDG狂騒曲 の趣があった。私はそれに強い違和感を感じ、「これはヨーロッパの巻き返し戦略ではないか」と見ていた。

そしてヨーロッパメディアのブルドーザのような支配力・世論形成力に舌を巻くとともに、そういう世界にある種の危うさを感じていた。

とにかく、リベラルの装いを凝らした一面的な価値観の押しつけへの反感は、たんなる皮膚感覚に留めず、そのたびに論理化していかなければならない。

これが去年の9月末に私の到達した結論「西側リベラル」との対決だった。

それがまさにウクライナ問題で馬脚が現れている。

当時読んだこの瀬川さんの一文は、その判断材料のひとつとなっている。そういう記憶がある。

日本でEVが売れる日は遠い

政治とは直接関係ない話題。16日の日経新聞。

見出しは「EV苦戦 中古市場が映し出す」というもので、ちょっと複雑なパラメータを用いているものの、EVの弱点をえぐっている。日経としての立場上、表現は抑えているが、添付されたグラフを見る限り、私には「EVに未来なし」とさえ見えてくる。
ある意味、それほどまでに日本のHV、とりわけプリウスの性能が優れているということなのだろう。

比較方法

中古車売買情報サイトの価格情報をEVとHVで比較し、さらに参考値として前ユーザによる走行距離も比較している。

img20220518_14381174

見づらくて申し訳がないが、新車価格というところに縦帯がある。

EV(リーフ)が380~480万円、HV(プリウス)が260~360万円に設定されている。

これに対して中古車価格帯が、年式別に表示されている。

リーフでは20年式で早くも新車価格帯と完全に分離する。18年式で新車平均価格の半分以下に落ち込む。14年式の平均価格は100万を割り込む。

これに対しプリウスが新車価格帯と分離するのは15年式から、11年式でも販売価格は100万をキープする。

買値で100万安く売値で50万高ければ、軽が1台買える。よほどの物好きでなければリーフは買わない。

性能的な差ではなく人気の差だとすると、なぜこのような差があるのかが気になる。

それを示唆するのがもう一つのグラフ。

img20220518_16271961

リーフ(EV)はユーザーが売りに出すまでの走行距離が、他車に比べ圧倒的に短い。プリウスの6割しか走らない。

買っては見たものの、なにかしら不満があって買い替えるケースが多いと想像される。

ここから先は、統計はなく関係者の経験的観測だ。

中古車情報サービスの「カーセンサー」の西村編集長の談話。

1.購買層が「新しもの好き」である可能性。お金もあって、気が短い人たちを対象としているため。

2.電池の性能から見て長距離走行には向いていない。

3.電池切れの危険を常に案じながら走るストレス。

4.充電・放電を繰り返す電池そのものの寿命に対する不安

西村編集長によれば、中古電池の性能は走行距離だけによるものではないそうだ。

急速充電は電池を痛めるし、家電への給電を行うと寿命が縮む。

電池そのものの劣化は車の劣化とは異なる。メーカーの保証期間は8年、その後はつねに故障の危険にさらされる。

バッテリーの交換に要する費用は「数十万円」という、この曖昧さがさらに不安を煽る。

その結果EVを手放した人の半分はEVにとどまるが、残り半分はガソリン車に復帰するそうだ。

記者は、「EV離れを防いで普及を促すには充電インフラの拡充や電池の性能向上を急ぐ必要がある」と結んでいるが、記事を熟読すればそんな結論などでてこない。

「イーロン・マスクなどに騙されるんじゃない。むかしカローラいまプリウス、これが家訓です」

ちなみに私は販売終了になったウィッシュ、ホンダのパクリで有名な純ガソリン車である。


それにしても、CO2削減のためとはいえ、これだけの性能ギャップを座視して良いものだろうか。
トータルに見れば、決して地球環境にとって良いことをしているようには思えない。

欧州サイドのSDGに胡散臭さを感じるのは私だけだろうか?



「緑の免罪符」とオーストリア

COP26と「緑の免罪符」

EUは今年1月から、「緑の免罪符」(グリーン・ラベル)を発行しようとしている。
さまざまな経済活動のうち、一定の環境基準を満たし「グリーン」と見なせるものを分類し、「持続可能な金融」という名の資金を呼び込もうとするものだ。

「免罪符」のリストには原発と天然ガスも含まれている。原発大国フランスなどの主張を考慮したためである。

去年11月、マクロン大統領はCOP26のさなかに演説し、「脱炭素社会の実現には原発が欠かせない」と訴えた。この一種のブラック・ユーモアには、原発を推進したいフィンランドやチェコなど10カ国が賛成に回っている。
すでにEUを離脱した議長国イギリスのジョンソン首相も、「脱炭素のために原発が必要だ」と主張している。

これを受けた欧州委員会のフォン・デア・ライエン委員長は「緑の免罪符」の発行を検討すると発表した。


オーストリアが断固反対の立場を明確に

これには少なからぬ関係者が反対した。中でもオーストリアとルクセンブルクは、EU司法裁判所に提訴すると訴えた。

ゲウェスラー

オーストリアのレオノーレ・ゲウェスラー(Gewessler)環境相は記者会見で次のように述べた。
原発は気候保護にはいささかも貢献しない。それは未来を危険にさらすだけだ。原子力エネルギーは持続可能ではなく、脱炭素のつなぎ役にもならず、かつ、あまりにも高コストだ。

原子力自体の危険性は、すでに十分に立証されている。それは安全上の懸念と核廃棄物の処理方法の未確立という2つの致命的欠陥を背負っている。

「緑の免罪符」は原子力と化石燃料の交換というイカサマ塗装計画(green-washing)にほかならない。我々はすべての法的措置を準備し、「緑の免罪符」が発効すれば直ちに、欧州司法裁判所に提訴するつもりだ。
他の国がすべて「緑の免罪符」に賛成かと言うとそうでもない。かなり賛否は分かれている。

まず賛成国を挙げる。筆頭は発電の約7割を原発に頼るフランスだ。さらにフィンランドやチェコなども賛成に回っている。これら12カ国は原発のグリーン認定を要求している。

一方で安全性や放射性廃棄物の問題から原発の持続可能性への疑念を持つ国もある。

メルケル政権のもとで原発離脱を決めたドイツなど5カ国は「反核同盟」を結成した。オーストリア、ルクセンブルクをふくむそれらの国は、「原発のグリーン認定は、脱炭素に向かおうとする欧州への信頼性や有用性を損なう」と反対している。

最大の反対国ドイツは、脱原発の方向を定め脱石炭を進めている。一方、CO2削減の当面の手段として炭素排出量の少ない天然ガスの積極的活用を訴えている。

いまのところ、ショルツ首相はフランスに配慮し、「反対だが対決はしない」態度をとっている。しかし連立与党から入閣したシュルツェ環境大臣は、「原発を持続可能だと分類するのは間違いだ。危険過ぎ、遅過ぎ、高すぎる」と批判している。


原発に依存しない脱炭素のロードマップ

ゲヴェスラーは、法廷闘争となればドイツとスペインが支援に回るだろうと語った。
ドイツなど五か国の支援も当てにできる。スペインの立場は非常に明確だ。スペインは原子力エネルギーにも化石ガスにも免罪符は与えられないと考えている。
原発については安静か反対かを問わず旗幟は明確だ。しかしLNGへの「緑のお墨付き」付与についての見解は今ひとつ明確ではない。

ゲヴェスラーの態度は明確だ。
石炭よりはマシだからという理由で、それが良いものや持続可能なものに変身するわけではない。それはまだ化石エネルギーです。
我々が「イカサマ塗装計画」の片棒を担ぐ必要はない。LNGはLNGとして別の扱いをすべきなのも間違いない。
今後この問題での意思統一も一つの焦点になるだろう。


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1.EU内には13カ国に100基余りの原発がある。90年代の33%前後から減少傾向にある。しかし19年時点でも発電量全体の26%を原発由来の電力が占めている。

2.国際原子力機関(IAEA)の所在地オーストリアは、脱原発の国でもある。オーストリアはこれまで40年以上、原発の利用を禁じてきた。
オーストリアは1970年代まで原発推進国だった。1976年には最初の原発が完成したが、稼働することはなかった。1978年の国民投票で原発稼働の是非が問われ、原発反対派が予想外の勝利を収めたからである。
この決意は、その後のスリーマイル、チェルノブイリを経て強固なものとなり、1999年に国会が「原子力のないオーストリア」宣言を議決した。


EUがLNG+原発の「容認」を決定したことについて、かなりの反発が巻き起こっている。オーストリアは決定の無効を申し立てる構えらしい。いくつかの国はそれに従う動きを見せている。もちろん環境派は凄まじい勢いで叫び立てているようだ。

外国の記事は未だ出揃っていない。ガーディアンの記事を読みかけたところだが、専門用語が多く、手こずっている。
EU
    「フォンデアライエン、ショルツ、マクロン」が
   1ブリュッセルの「グリーンディール墓」の周りに集合


未だ事の真相がわからないのだが、問題はさほど単純なものではなさそうだ。オーストリアが反対する理由は原発再稼働の方なのだが、派手に動いている気温派の方はLNGだろうと原発であろうと、「ダメなものはダメ」的なニュアンスが強い。

私はもともと脱炭素計画にはスケジュール的にきついところがあるので、何かあれば一時的なモラトリアムも必要だろうと考えていた。

とくに最近のインフレ・モノ不足は、エネルギー不足に起因している可能性が高いので、一定の投資と設備更新はこれからも必要ではないかと考えている。先進国の人々なら多少の我慢もできようが、飢餓線上にある新興国や途上国の人々にとっては不可欠だ。

人権や民主などの美しい言葉を並べる先進国が、コロナのワクチンの際にはいかに自国優先に徹し、買い占めに狂奔したかを我々は見てきた。そしてそれがデルタやオミクロンなど変異種の発生を促してきたかも見てきた。

つまり言いたいことは、まず第一に考えなければならないのが「全人類の生命や生活の安全を保障する」という課題だ。

その点で、LNG開発への投資・支援については一般論として納得できる。

しかし原発は違う。これは待ったなしの緊急課題だ。しかも温暖化より遥かに深刻で差し迫った課題なのだ。あえて誤解を恐れずに言うなら、温暖化課題の達成がそのために遅れようとも優先して取り組むべき問題なのだ。

こういう問題を内包しているだけに厄介だが、とにかくLNGと原発を同じ水準で議論するようなことだけはやめてほしい。そのことを切に願う。

The Bullet誌
December 13, 2021
 Prabir Purkayastha
「貧しい国々が緑色帝国主義に屈しないわけ」
Why Poorer Nations Aren’t Falling for Green-Washed Imperialism
https://socialistproject.ca/2021/12/why-poorer-nations-arent-falling-for-green-washed-imperialism/


リード

地球温暖化と戦うことは、すべての国に正味ゼロの炭素排出への道を提供することだ。しかしそれでけではない。それは世界中の人々のエネルギー需要を満たすための最善の方法を見つけることでもある。

現在の環境問題を考えると緊急の必要性となっている化石燃料は、世界の人たちが生きていくための糧でもある。

だから、球温暖化と戦うことは、貧しい国々が電力生産のために何を用いるのかを明示することでもある。そしてそのためにどのくらいのこすとがかかるのか、それを負担するのは誰なのかを明示することだ。

今回のCOP26は、それらのことをまったく示していない。先進国にその気があるのかを疑わざるを得ない。

欧州連合と英国はアフリカの人口の半分未満だが、アフリカの2倍以上のCO2を排出している。米国の人口はインドの4分の1未満だが、2倍の炭素を排出している。


化石燃料の廃止という重荷

再生可能エネルギーからの電力コストが化石燃料からの電力コストを下回ってきている。だから金持ちであれ貧乏人であれ、すべての国が化石燃料を完全に段階的に廃止し、再生可能エネルギー源に移行することが可能になるはずだ。

これは朗報だ。

しかしその際念頭に置かなければならないのは、現在化石燃料プラントから得ているのと同じ量のエネルギーを再生可能エネルギーから得るためには、その3倍または4倍の発電能力を確保しなければならないということだ。

理由は簡単だ。再エネ発電が “フル稼働で継続的に発電できる電力”(設備利用率)は化石燃料プラントの3分の1ないし4分の1だからだ。

風がいつも吹くわけではない、太陽がいつも輝いているわけではない。

つまりこういうことになる。化石燃料プラントから得られるのと同じ量の電力を生成するためには、それだけの投資をしなければならないということだ。

貧しい国々にお金を提供する約束をせずに、ネットゼロを誓うよう求める、そのような豊かな国々は、完璧な偽善者である。豊かな国々はOPECを振り返り、貧しい国々がネットゼロを約束した歴史的な会議だったと言うだろう。

「彼らは豊かな国々からお金を借りて約束を果たすべきだ。そうでなければ、制裁に直面することになるだろう」

これが豊かな国々の言い分だ。


石炭火発が敵視されるわけ

電力貯蔵は、2番目の問題だ。日ごとの変動または季節的な変動のバランスを取るために、この技術は欠かせない。

2021年、ドイツでは夏に風が大幅に減速し、風力発電の電力が急激に減少した。ドイツは石炭火力発電所からの発電量を増やすことで風力発電の低生産量のバランスを取った。

それがゼロバランスからの重大な逸脱であることは、この際無視しよう。

しかし石炭火発すらない国で、人はどうしたら良いのだろう。石炭火発に頼るしかない国で、人はどうしたら良いのだろう。

石炭を非難する先進国の論理には欺瞞がある。

たしかに同じ電力を生産する際に、石炭火発はLNG火発より2倍のCO2を排出する。しかしLNG火発の発電量が2倍なら、その国のCO2排出量は石炭火発の国と変わりない。


エネルギーをめぐる偽善

米国の一人当たりのエネルギー使用量はインドの9倍だ。英国の一人当たりのエネルギー使用量はインドの6倍だ。

先進国は途上国の3~4.5倍のCO2を排出していることになる。それはいくらサステナブルの電気を使おうと関係がない事実だ。肝心なのは先進国が電気の無駄遣いをやめることだ

もっと数字を並べよう。ウガンダや中央アフリカ共和国などのサハラ以南のアフリカの国々は、米国の90分の1、英国の60分の1にすぎない。

なぜ、どの国がすぐに炭素排出量を削減するべきかではなく、​​どの燃料をどう廃止するか​​についてだけ話しあわなければならないのか。これは「一億総懺悔」の論理による先進国の浪費のツケ回しだ。

偽善について最後に触れるべきはノルウェーの偽善だ。

ノルウェーは北欧とバルト諸国とともに、「2025年までにアフリカやその他の地域での天然ガスプロジェクトへのすべての資金提供を停止する」よう世界銀行に働きかけている。

同時にノルウェーは北海油田で、石油とガスの生産を拡大しているのだ。


さいごに

温室効果ガスの継続的な排出を止めなければ、世界のどの国にも未来がないことは明らかだ。

しかし「エネルギーの正義」なしに気候変動に取り組むことは、たとえそれが緑色の服を着ていても、植民地主義の新しいバージョンにすぎない。

ラマチャンドランはこう述べる。
「世界で最も貧しい人々の背後で気候変動がらみの野心を追求することは、偽善的であるだけでなく、最悪の場合、不道徳で不公正な “緑の植民地主義” です」

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Prabir Purkayasthaは、インドのデジタルメディア「Newsclick.in」の創立編集者である。この記事も「Newsclick.in」からの転載である。
グリーンウォッシング(greenwashing)は、環境配慮をしているように装いごまかすこと、上辺だけの欺瞞(ぎまん)的な環境訴求を表す。 安価な”漆喰・上辺を取り繕う"という意味の英語「ホワイトウォッシング」とグリーン(環境に配慮した)とを合わせた造語である。(ウィキペディア)

EV開発競争はジャンプのルール改正と同じ

私はトヨタ自動車の社長とまったく同じ見解だ(嬉しくはないが)。EV唯一強制はヨーロッパの陰謀であり、気候変動とは無関係だ。

ハイブリッドとEVと比べてどちらがCO2減少に有効かは計算しないとわからない。

はっきりしているのは電源がどのくらい脱カーボンかどうかである。

たしかにEV優位説は、脱カーボンが6,7割を越えれば正しいものとなる。つまり電源構成により決まるのであって、走行エネルギー源によって決まるのではないということだ。

だから、いまの日本においてはまったく無意味な、それどころか真逆の選択なのだ。

この辺の数字は記事により相当の差があり、なんとも言えない
わかりやすい記事としては、
というもので、「CAR and DRIVER」という雑誌からDIAMOND Online が転載したもの。

それを押し付けるのは風力先進国のヨーロッパであり、それをテコに日本車を駆逐しようとしているだけの話だ。

それは、かつてスキーのジャンプのルールをめぐって繰り返されてきた欧州の身勝手さと同じ論理だ。


最初のルール「改正」

最初にヨーロッパ勢が身勝手なルール改正を押し付けたのは、1998年の長野オリンピックの後だ。

スキー板の長さが、これまでの「身長+最大80cm」から「身長の146%」と変更された。

細かい数字はどうでも良いが、身長170cm の選手の板長は2センチ短くなり、185センチの人は5センチ長くなった。それでなくても身長の高い人のほうが有利な競技だが、さらに15センチ+2センチ+5センチ=22センチも有利になったわけだ。

もし北欧の人々の身長が日本人より低かったら同じことをしただろうか。

これでジャンプ王国日本は奈落の底に突き落とされたが、そこから少しづつ立ち直ってきた。

ヨーロッパの自動車業界はそれと同じことをやろうというのだ。こういうのを「経済外的強制」という。


ペナルティの押し付け先が間違っている

とはいえ、たしかに風力のほうがいいのは間違いないから、平等を期すためにペナルティを課すというのは理解できる。

しかしもしペネルティを課すのなら、それは電力構成に関してのペナルティであるべきで、ハイブリッド車に責任を押し付けるのは不当というほかない。

とくに途上国や新興国に対しては立ち上げコスト、ランニングコストを考えれば、ハイブリット車による節電こそ当面推進すべきイノベーションである。

もちろん未来永劫というわけではないが、風力や日光に恵まれない国などではぜひとも真剣に考えるべきイノベーションであろうかと思う。


化石燃料は悪者ではなく、御先祖が残してくれた大事な遺産

それと炭素悪者論であるが、化石燃料は先祖の生命が我々に残してくれた、貴重な遺産でもある。これを食いつぶすのではなく大事に使い、自らも次世代に残していくことが先祖への供養でもある。

そういう考えを持って議論を進めていく必要があるのではないだろうか。

それを真っ先切って散々使って、地球を汚しておきながら、いまさらしゃあしゃあと御託を並べて、人を人非人のごとくに罵る。
その裏では欲の皮つっぱらかして、舌なめずりしながらそろばんを弾く、こいつはどういう料簡か。

https://socialistproject.ca/2021/11/why-our-climate-isnt-jumping-for-joy-after-cop26/
2021年11月22日
カナダ社会主義プロジェクト紙
「COP26: 大喜びできない理由」
Why Our Climate Isn’t Jumping for Joy After COP26

リード
第26回締約国会議(COP)は2つの成果をもたらした。一つは来年も同じ会議が持たれるということ、もう一つは世界の指導者が気温上昇を1.5度未満に維持したいという願望で一致したこと。
2週のあいだ、昼は激しい議論、夜は企業が資金提供するカクテルパーティーが続いた。

各国は石炭の「段階的廃止」に同意しかかったが、結局各国の努力に任されることになった。化石燃料の補助金についての合意も徹底的に薄められた。

言葉、そして言葉

数千の文書が提出された。焦点が当てられるのは、すべての化石燃料ではなく石炭にあることは明らかだった。

それは先進国(日本を除く)ではもはや意味がなく、中国・インドを含む途上国にのみ課せられた課題だった。

強硬な石炭廃止派の人々は、補助金給付については何も述べなかった。インドと中国を非難するのはコストが掛からないし、自分たちに好都合だったからだ。

気候への財政支援

会議に出席した中国代表は、非常に筋の通った発言をした。

まず彼は、「中国はエネルギー転換を非常に重要視している」と述べた。その上で2つの困難を指摘した。

第一に、「誰もが電気にアクセスできるわけではなく、エネルギー供給が不十分である」ということだ。この認識を前提にしながら話を進めなければ、エネルギー転換はありえない。

世界の人口のうち約10億人はまだ電気に接続していない。彼らのほとんどは途上国の、したがって石炭の国の住民だ。明日石炭を切ることは、その人々を電気のない生活に追い込むことになる。

第二に、非難の言葉より「具体的な行動が必要です」とし、中国もふくめた先進国が合意した年間 1,000億ドルの「グリーン気候基金」を拠出するよう求めた。

企業幹部はラジオ体操のスタンプをもらうように群がった。彼らはホテルやレストランに群がり、政府の指導者やチャールズ皇太子とのプライベートミーティングを開催した。

国際商業会議所は政府に「目を覚ます」ように言ったが、自分が目を覚ます気はないようだった。


市民サミット

最も鋭い告発は、NGO「貧困への戦い」からのものだった。
南の子供たちがいま死にかけているときに、金持ちが自分の子供や孫の将来について話すことは不道徳です。

 

COP26: Colonial plunder
BY ANNA PHA

THE GUARDIAN
ISSUE #1987
NOVEMBER 15, 2021
https://cpa.org.au/guardian/issue-1987/5291-2/


COP26と先進国

グラスゴーでのCOP26気候変動会議が第2週に入ったとき、発展途上国と先進国の間の隔たりが明らかになってきました。それは植民地時代の歴史を明らかにしています。

先進国は、産業革命と植民地略奪によってもたらされた莫大な富の受益者として、気候変動の推進者でした。

いま先進国はその歴史に目をつむっています。そして、歴史的責任を認めず、自らの負担を拒否し、温室効果ガスの排出量を削減するためのコストを途上国に押し付けようとしています。

このまま行けば、COP26は発展途上国への植民地抑圧のあらたな形態になるでしょう。


「共通だが差異を持つ責任」の原則

ボリビアの代表はその生命のなかで次のように述べています。
先進国は長い間、リオ条約について約束を破り、実行をサボってきた歴史があります。それが、気温の上昇とその影響という点で、現在の地球的状況に非常に強い影響を及ぼしています。
科学はこれをはっきりと認識しています。科学を提唱する人々は、過去を無視して未来を見通すことはできません。 2つは相互に関連しています。
私たち発展途上国は、貧困を根絶し、持続可能な発展を遂げるという課題に取り組んでいます。今では、それに加えて野心的な気候変動対策にも取り組んでいます。
「公平性」と「共通だが差異を持つ責任」の原則は、私たちにとって交渉の余地がありません。
大会も2週目に入ると、その「原則の問題」はさらにクローズアップされるようになりました。私たちは先進国のパートナーに、誠意を持って交渉し、義務を守るよう要請します。
パンデミックの真っ只中、希望を持ちながらこの会議に参加できるのも、ここに集まった何千人もの人々のおかげです。
私たちは各国の責任者たちを失敗させるわけには行ません。先進国のパートナーが人々の希望への障害にならないように、強く要請するものです。
これまでのところ、西側指導者の公約は、地球温暖化を1.5°C未満に保つための政治・財政措置にはなっていません。「国策貢献」(NDCs)として知られる、2030年までの温室効果ガス排出量削減の公約は不十分です。

気候変動の科学に関する気候変動に関する政府間パネルによる最近の報告は、そのことを明らかにしています。

先進国は次の10年以内に脱炭素化する必要があります。 2050年では手遅れになります。


オーストラリアは世界の野良犬

多くの国が緊急性を考慮して元のNDCを増やしました。しかし我がオーストラリアはそうではありません。気候変動に大きく遅れをとっています。

オーストラリア政府は、2030年までに、2005年比較で26-28パーセントを削減するのを拒否しました。それどころか、政府は石炭とガスの生産をさらに拡大することを計画しています。

2050年のネットゼロ目標は遅すぎるだけでなく、具体的な計画に裏打ちされていません。スコット・モリソン首相はそれを「市場の神々」(彼の大企業の仲間)と各州に任せています。

オーストラリアは国際的な「野良犬国家」として際立っており、メタンガスの削減と森林伐採に関する国際協定の締結を拒否しています。

憶えておかなければなりません。オーストラリアは一人当たりの排出量が2番目に多い国なのです。しかもオーストラリアは一人当たりのメタン排出量が2番目に多い国なのです。

圧倒的多数の国は、石炭とガスをできるだけ早く段階的に廃止し、化石燃料産業への補助金を廃止する方向を受け入れています。

一方、オーストラリア政府の政策は、化石燃料会社に数十億ドルの補助金を引き続き分配し、新しい採炭場を開設し、ガス採掘の拡大を促進することです。


オーストラリア政府がやるべきこと

グラスゴーのCOP26会場にあるオーストラリアのパビリオンは、「ガスの巨人サントス」を宣伝していました。

オーストラリア研究所はこう述べています。
オーストラリア政府は2050年までに排出量を純ゼロという目標を打ち出している。しかしそれは、石炭とガスの生産を大幅に拡大するというオーストラリアの計画と矛盾しています。
いま開発中の新しい化石燃料プロジェクトは、毎年17億トンの温室効果ガス排出をもたらすでしょう。それは200以上の石炭火力発電所の年間排出量と同じで、世界の航空機の発生するCO2の2倍に相当します。
オーストラリア政府は、化石燃料への補助金をやめるべきです。そして、再生可能エネルギー源の開発に着手しなければなりません。
労働者の再訓練と再配置についても急がなくてはなりません。


貧しい国々が最も激しく打撃を受ける

先進国は、国連気候変動枠組条約(UNFCCC)とパリ協定に沿って、開発途上国に財政的支援を提供する義務があります。すべての開発途上国は、この資金を受け取る資格があります。

UNFCCCは、京都協定とパリ協定、そしてグラスゴーサミットを支える枠組みです。

それは1993年のリオ地球サミットで採択されました。それは、持続可能な開発、公平性、そして貧困撲滅という文脈に沿っています。

その焦点がグリーン経済という考えです。

UNFCCC第3条の第一原理は次のように述べています。
締約国は、公平性に基づいて、“共通だが差異のある責任”とそれぞれの能力に従って、気候システムを保護すべきである。それは現在および将来の世代の人類の利益のためである。
したがって、先進国の締約国は、気候変動とその悪影響との闘いにおいてイニシアチブを握るべきである。
発展途上国は気候変動の影響を最も受けています。しかし、そのいっぽう、気候変動を緩和するための財政的および技術的設備が最も整っていません。

途上国は、現在または予想される気候変動に適応しなければならず、また再生可能エネルギーに移行するためにも莫大なコストが必要です。このように、財政的リスクに直面しています。

発展途上国の代表は、すでに気候変動が土地や海、そして生存手段に壊滅的な影響を及ぼしていると報告しています。太平洋の島嶼国は、海面上昇によってその存在そのものが脅かされています。


途上国のCO2対策の財源に関する検討

交渉中の問題の1つは、先進国からの新たな融資誓約です。

以前の目標は、2020年までに年間1,000億米ドルを拠出すると言う条件で、これはパリ協定の下で設定されました。しかしそれは満たされておらず、2023年または2024年まで達成できるとは考えられていません。

先進国は現在、条約とパリ協定をめぐって強烈な行動に出ようとしています。年間1,000億ドルを超える拠出は拒否し、それについては、融資の形で応じるというのです。

しかし気候変動に対処するための資金を、融資の追加で手当するのは間違った方法です。それでは、人々の発展と幸福をさらに妨げるだけです。

すでにCOVIDは、彼らの経済的苦痛をますます強めました。これらの債務の返済は彼らの経済を壊滅させており、社会開発のために多くの必要な資金を奪っています。

多額の債務を抱えている開発途上国は、融資ではなく助成金を求めています。

ロシア、インド、中国は、一部の西側諸国の指導者から、十分な速さで動いていないとして非難されています。それは一定の政治的動機による非難です。

インドと中国は、条約の下で発展途上国として認められています。彼らがいま重荷を担うことは期待されていません。

とはいえ、中国は貧困緩和とピーク排出に向けて迅速に動いています。しかしインドを先進国として分類することは到底できません。

発展途上国はまた、気候変動に対処するための投資に、追加資金を求めています。これを書いている時点では、先進国は同意していませんでした。

会議会場の外では、環境、社会正義、労働組合、政治、教会、その他の組織からの15万人の抗議者が、グラスゴーの街頭に集まりました。

それらの全員が迅速かつ断固たる行動を求めています。

 (ガーディアンはオーストラリア共産党の機関紙です)

気候問題NGOの主張を取り上げるのを、意図的に後回しにしてきた。なぜかと言うと、COP総会のたびに繰り返される会場外でのNGOメンバーのデモや集会には、なにか相容れない肌合いを常に感じてきたからだ。
強引で独りよがりで、「告発」いのちの行動スタイルは、問題がきわめてシリアスで、緊急で、人々の生活の質に直接関わるものだけに、もっと真剣な対話が必要だと考えざるを得ない。
ただ一通りの勉強が終わり、流れが見えてきたところで、「それでどうするんだ」ということになれば当然彼らの言うことも聞かなければならないし、そのことでムダな摩擦を起こすことなく前進していきたいからだ。

ということで、日本のNGO組織の代表のサイトを読ませてもらうことにする。

https://www.kikonet.org/info/what-is-global-warming/intro

地球温暖化問題とは

気候変動をもたらしているのは、地球温暖化。
20世紀後半からの急激な温暖化は、人間の活動による温室効果ガスが原因です。
2013年のIPCC(気候変動に関する政府間パネル)報告によると、1880年から2012年にかけて、世界平均気温は約0.85℃上昇しました。

増え続ける温室効果ガス

CO2濃度は、産業革命前には280 ppm、2013年には、400ppmを越えた。

(前段との関係で言えば1880年の濃度と比べるべきである。産業革命前のCO2濃度については、数字そのものが確認できないし、さまざまなファクターが干渉するから単純比較すべきではない)

「2℃未満」の実現に向けて

① 産業革命前に比べて地球平均気温上昇を2℃未満に抑えることを目標とする。

(これも同じで、この文書ではそもそも産業革命前の平均気温が記されていない。大方の納得を得るためには1980年の気温との比較で目標を設定すべきである)

② そのために、大気中のCO2濃度を少なくとも450ppm以下に安定化させなければならない。

③ そのために、先進国は2020年に25~40%の削減を達成し、開発が急速に進んでいる途上国も予測される排出量の増加を抑えなければならない。

エネルギーシフト

温暖化問題の解決のためには、化石燃料を使い続け、エネルギーを大量消費する選択はない。

(これは書き方が逆であり、「エネルギーを大量消費し続け、そのために化石燃料に依存するやり方はもはや通用しない」、と書くべきである)

(原発についての記述には大いに不満が残る。「原発でCO2は減らせない」というのは論点のすり替えである。「原発はCO2以外にも深刻な問題が多い」というような各論的な問題ではなく、それは「絶対悪」である。あえて言うべきだ。少なくとも日本では「化石燃料より、原発稼働停止が優先する」と宣言すべきである)

……………………………………………………

なにか揚げ足取りみたいになってしまい申し訳ないが、全体としては非常によく分かる説明だ。

1.気候変動が最大の問題で、
2.その原因は温暖化にあり、
3.温暖化の問題は化石燃料の利用の野放図な拡大にあり、
4.その理由はエネルギーの浪費的使用をこととする昨今の生産・生活スタイルにある。

という論理構成である。これらの点については、なんの異論もない。

問題はそれが19世紀なかばの産業革命に始まり、化石燃料をエネルギー源として用いたことにあるという一部の主張にある。

これは一種の反文明論である。化石燃料を用いるようになり、人間活動のエネルギー的限界が突破されたことが、全体として如何に人間の幸福に結びついているかは疑いのない事実であり、これを否定するのは暴論である。

ただ、実際に運動に携わっている人たちの多数意見はそういうものではなく、ある意味メディアがカーボン・ゼロを歪めて煽り立てているのではないかとも思える。

「グリーンピース」など環境NGOも気候NGOとオーバーラップしながら展開しており、石炭火発廃止と原発汚染水対策、プラゴミ問題などを中心課題としてる。

「気候行動ネットワーク」( Climate Action Network:CAN)

という組織もあるが、「CAN憲章」(仮訳)というのを読んでもさっぱり趣旨がわからない。ネットで見る限り、メディアの論調に近い主張を行っているのはこの組織のようだ。「化石賞」を発表して大々的に取り上げられている。

外信部記者の目を覆うばかりの劣化がその背景にある。「AALAニューズ」の編集を担当して1年、束になっても私一人にも勝てないのではないかと、つくづく情けない。



さまざまなNGOの動きがニュースで流されるが、その辺の見極めもしながら接していくことが重要であろう。

 





1.日本の電力消費量は、2011年に発生した東日本大震災以降、増加速度が鈍化しつつある。

2.使用エネルギーにおける電力の比率(電力化率)も2005年以降漸減傾向にある。とくに東日本大地震のあと、家庭消費にその傾向が強まっている。
家庭の電力消費

3.電力の日内変動、年内変動は増強されている。電気は、貯めておくことができないため、発電設備の利用効率が下がっている。

日内変動

年内変動


………………………………………………………………………………………………………………

以上から言えることは、「冷房用電力をいかに賄うか」が節電の最大テーマになっているということだ。そしてそれを実現させるための最大の戦略が、家庭内蓄電にあるということだ。

小規模リチウム電池と、電力価格の価格変動制、リアルタイムの料金計算、さらにAIを利用した蓄電と電力使用の最適化により電力削減はおそらく半減できるだろう。 

さらに冷房と時間的にシンクロする小型太陽光発電との併用、そして電気自動車(私は完全電気化には大いに疑問がある)との共用を導入すれば、電力会社からの購買代金はおそらく三分の一(ガソリン代込みで)まで低減できるだろう。

ただそうなった場合、安全保障の課題として電力事業をどう支えていくかという問題が発生するかもしれない。

おそらくこの間の気候変動の流れを規定してきたのはESG投資の動きだろう。
これまでCO2問題からカーボンニュウトラル問題、カーボンサイクルと、古気候学、さらにエネルギー問題と、途上国の発展課題、そして発電・交通におけるイノベーション課題とずっとレビューしてきた。

そして情勢展開の原動力となってきたのが、気候変動という一点に的を絞ったESG投資という「資本の力」だという認識に到達した。

「資本主義の自浄作用」といえばきこえは良いが、どうも眉唾くさい。
気候変動をもたらしたのも資本の論理であり、それを化石燃料の使用禁止という荒業で乗り切ろうというのも資本の論理である。
現に、石油の値上げ、天然ガスの高騰という形で、既存産業はしっぺ返しをしているように思えてならない。そのアオリを食らうのは庶民、とくに途上国の民衆だ。
しかし世界の超富裕層は物価が10倍になろうが知ったことではない。気候災害に備える保険金が半分になればバンザイなのだ。

産業革命、産業革命というが、実はその間に世界の人口は10億から70億に増えている。しかも7倍化した人間がなんとか生きて行けているのだ。これを発展と言わずしてなんという。
その上でこれ以上の温暖化にはブレーキを掛けましょうと言うならわかるが、このままっではまるでハルマゲドンだ。そうやって脅すのが、資本の論理というもののもう一つの側面だ。

かつてマルサスの人口論をもとにした人口ハルマゲドン説、ローマクラブのエネルギー資源枯渇
論をもとにした資源ハルマゲドン説、プラゴミなどが溢れて地球が壊れるという廃棄物ハルマゲドンなどさまざまな「科学的ペシミズム」が流されてきた。

しかしいままでのところ、自然界のフィードバック、人間社会のフィードバック、イノベーションなどによって、なんとか乗り切ってこられたのも間違いない。(原子力だけは目下のところどうしようもない)

問題は化石燃料ではないと私は思う。責任は化石燃料にどっぷりと使って、環境破壊に頬っかぶりして利益を追い求めてきた大企業の無責任さにあるのだ。そのような生産体制・消費生活を改革することが最大の解決策なのだということで、意思統一する必要があるのではないか。



気候変動とESG投資の動き

災害保険の支払額

1995年 国連環境開発会議(リオサミット)が開催。気候変動枠組み条約が締結され、「条約締約国会議」(COP)の毎年開催を決定。

2000年 気候変動をテーマとする団体CDPが設立される。機関投資家に、CDPレポートに準拠して企業の気候変動対策を評価し、「環境に優しい投資」を優先するよう働きかける。

2006 年 国連で「責任投資原則」(PRI)が承認される。「原則」の前文でESG (環境・社会・ガバナンス)を提起。投資判断に ESGの要素を考慮するよう呼びかける。

2006年 「世界経済フォーラム」(いわゆるダボス会議)の議論の中で「ESG投資」が取り上げられる。

2012年 ESG投資の推進団体GSIAが、ESG 投資を7つの投資法に分類。うち、とくに規範選択(投資選択からのボイコット)とエンゲージ(介入)が「物言う株主」の動きへとつながる。投資家の関心は端的に気候変動に集中していた(夫馬)。

2013年 GSIAが、第1回目のESG 投資残高を発表。総資産残高13.6 兆ドルに対し,日本の残高は僅か 100億ドルにとどまる。

2014 年 第二次安倍内閣、日本再興戦略を発表。企業価値の持続的創造・向上のためESGの考えを取り入れるよう推奨。企業の大方は無視。

2014年 「年金積立金管理運用法人」(GPIF)、ESG 投資について検討を開始。

2015年9月 GRIFが、 PRI の署名機関となる。他の機関投資家の間にも大きな影響を与える。

2015年9月 国連サミット。17項目のSDGsを確認。

2015年12 月 気候変動枠組条約第 21回締約国会議(COP 21)でパリ協定が採択される。これを機にESGと気候変動が連動し始める。

パリ協定: 産業革命前からの気温上昇を2度未満に抑える。このため各国はCO2排出削減が義務付けられる。

2016 年9月 米中両国がパリ協定を批准。

2017年 「クライメート・アクション100+」が発足。年金基金、保険会社、運用金会社など575社が結集(21年現在)。世界のCO2 排出の80%を占める167社に直接圧力をかけることを目的とする。運用資金の合計は54兆ドルに達する。(日本の国家予算は1兆ドル)

画像1
(出所)『週刊東洋経済』21日発売号「脱炭素サバイバル」

2019年 クライメート・アクションよりさらに厳しい目標を掲げた「ネットゼロを目指す資産保有者連合」が発足。企業側が要求を無視すれば、株式と債券の全売却も考慮するという強硬方針を掲げる。年金基金、保険会社のみでスタートしたが、その後運用会社も協賛行動を取るようになり、事実上CA100と同規模となる。


国内ESG投資の「過去」「現在」「未来」 | NOMURA

PLAN「なるほど!脱炭素の歴史がキーワードと年表でよくわかる!」

夫馬賢治 「超入門 カーボン・ニュートラル」

より作成

その後、19年の国連責任銀行原則(PRB)の導入を機に、投資(株式・債券)介入の動きは銀行界(融資規制)へも拡大していくが、こちらは別項で。

 2021年11月04日 

正直のところ、これほどまでに気候変動問題が人類の共通課題となるとは思っていなかった。この“猫も杓子も温暖化” という「ブーム」が始まったのはいつのことなのだろう。

恥ずかしながら、同時代を生きている私もまったく気づかなかった。

この1ヶ月というもの、ネットで色々な文献を集めては読み込んでいるのだが、いつ誰がどうやってこの「ブーム」に火をつけけたのか、要領よく書いてある解説書は見つからない。

仕方がないので、本屋さんに行って新書コーナーのところにそれらしきものはないかと探してみた。とりあえず見つけたのが下記の本である。

夫馬賢治「超入門 カーボン・ニュートラル」講談社アルファ新書

書名はいかにもの感じだが、内容はかなりよくまとまっている。

環境主義者でなく、むしろ政治的上部構造の中心部が、まったく違った論理でアプローチし、戦略を打ち立てた。こう言っては大変失礼だが、グレタ・トゥーンベリさんが頑張っているから脱炭素が進んでいるわけではない。

一番の旗振り役は金融界だ。金融と言っても普通の商業銀行ではない。まずは保険業界、ついで長期預金を扱うファンド系から始まっている。

こうして「カーボン・ニュートラル」旋風が、辺り一帯の一切をなぎ倒していった。このような経過が浮かび上がってくるのだ。その圧力たるや凄まじいもので、ひたひたと押し寄せつつある。これが津波の第一波なのかもしれない。
だから脱炭素キャンペーンについてはそのお題目はともかくとして、その真意を冷静に見つめておく必要がある。

ここでは2つの流れ、一つは2005年ころから投資家の間に始まったESGの流れ、もう一つはわずか2年足らず前にBISレポートをもって始まった、国際金融機関と各国中銀の気候変動プロジェクトについて焦点を当ててみたい。

最初は、超短期の経過で広がった中銀+国際決済機関の動きを追ってみる。

彼らが脱炭素を進める理由は簡単で、気候変動が粗っぽくなってくると、気候災害が大規模化し、長期の経済安定性が損なわれる。このままでは運用が立ち行かなくなるというAIデータが山ほど出てきたからだ。

炭素だろうと温暖化ガスだろうと、それはどうでも良いので、とにかく気候を安定させてくれというのが、彼らの要望だ。


この流れが、会議論者の息の根を止めた。日本でも1年前の9月、菅前首相の就任演説で国家的努力目標に据えられた。多分この動きだけ見ておけば、今日の「猫も杓子も」状況は理解できるだろう。


1.BISレポート:金融界の始動

2020年1月 国際決済銀行(BIS)がレポートを発表。
気候変動が巨大な金融危機を引き起こすリスクがある
それには二種類ある。一つは異常気象による影響である。直接の被害であり物理的リスクとよばれる。

もう一つは、気温上昇に対応して経済システムを転換する際のリスクである。
それは異常気象が中長期に続くために余儀なくされるもので、とくに物価と通貨の安定、スタグフレーションの回避は金融的手法では解決できない。

移行リスクの一覧表(BIS)
BISの気候変動リスク

このリスクを回避するためには、中央銀行が自らCO2削減を実現させるべく努力しなくてはならない。


2.金融監督機関の結集: NGFS

2020年2月 フランス銀行とイングランド銀行の2中銀が呼びかけ、有志グループを形成した。NGFSは「気候変動リスクに係る金融当局ネットワーク」の略称。

NGFSには29カ国中銀が参加。フランス以外のEU中銀はECBとして一括参加。BIS、IMF、世銀もオブザーバー参加した。有志グループとは言っても実質的に有力国のほとんどを網羅している。

NGFSの声明はBISレポートを受けて、「気候変動対策が金融監督当局の仕事である」と明記した。とくに気候変動による為替不安定化対策を策定するよう呼びかけた。日銀もこの呼びかけに応え、各界に気候変動への対応を求めた。そして「対応」の内容を全面的に書き記した。これで一気に空気は変わった。

「世界帝国主義」の総意が示されたことで、産業界や経営者の顔色も変わった。言い方は悪いが、一種の大政翼賛会である。

金融政策への影響

2020年11月 FRBが定例の金融安定報告書を発表した。BISレポートを受け、「気候変動は資産価値を変動させ、金融危機を招くリスクを持つ」と警告した。注目されるのはこれがトランプ政権のもとで展開されたことである。

2021年、すなわち今年初め 金融庁が声明を発し、上場企業に気候変動に対する認識を強化するようもとめる。さらに今後、リスク影響を開示する方向を指し示した。日銀は金融機関への「立入検査」で気候変動に関する管理システムのチェックを点検項目に含めた。

もはやすべての産業が気候変動プロジェクトに絡み取られたのである。

 


前の記事で明らかになったことは、
石炭火発にはどう見ても未来はない」ということだ。

まず温暖化やCO2議論の前に、大気汚染、環境汚染(膨大な燃えカスが出る)、実際は高コスト と三拍子が揃っている。

機動性も疑わしい。そのことは3年前の北海道地震で試され済みだ。

ただ資源安保上の観点から自然資源がダウン、LNGがショートした場合の緊急リリーフとしての可能性は否定できない。一家に一台消火器、携帯コンロという具合である。それがいかほどのCO2を発生しようが問題ない。

とくにLNGに投機が生じた際に、経済基盤の弱い国では致命的となる危険がある。

その際、なぜ石油火発ではいけないかという話になる。

石油は資源安保という性格上使いにくいのだ。この辺を下記のブログ記事から洗っておく。

日本に限って言えば、日本は石油火発全廃の方針をとっている。


石井さんという方が個人で運営するブログの記事である。

1.日本では石油火力発電所の新設が原則として禁止

日本では1970年には石油火力発電が電源構成の59.0%を占めた。

その後オイルショックを契機に「脱石油」を国策とするようになった。

現在、石油火電は電源構成の9%にすぎず、すでに多くが老朽化している。

2.石油は国際投機商品

周知のごとく石油は供給が不安定で、激しく乱高下する。卸業者は高値に固定する傾向がある。

LNG火力は13.7円/kWh(原料+ラン費用)、一方石油火発は30~40円/kWh。これで石油を買うバカはいない。

3.石油はきれいな資源ではない

発電方法CO2排出量
石油火力発電695g-co2/kWh
LNG火力発電375g-co2/kWh
石炭火力発電863g-co2/kWh
石油のCO2排出はLNGの約2倍、石炭に近い。

したがって石油はLNGに太刀打ちできず、資源安保のツールにもならない。

つまり石炭火発と同様、「石油火発にも未来はない」のだ。
     


    石炭はCO2排出量が多いのか

    石炭が大気汚染の重要なファクターであることは言うまでもない。

    しかし石炭の炭素は石油や天然ガスの炭素より多くのCO2を産生するのか?

    もしそうでなければ、石炭が「温暖化」対策の槍玉に上がるのはなぜか?

    最初のファイルは気候ネットワーク・ブログの「なぜ石炭は「叩かれる」のか?」という記事


    まず電源別CO2排出量のグラフ
    karyokuco2hikaku-768x556

    これで見ると、発電量あたりCO2排出量は天然ガス(高効率)の2.4倍に達する。
    最新技術(超超臨界圧)を用いた石炭火発でもあまり事情は変わらない。
    注意しなければならないのは、石油もCO2 排出量においてはあまり良くはないということだ。

    重量あたりの発電量というわけではない。たしかに石炭はいかにも重量あたりの熱効率が低そうに見える。

    しかし同じ量のCO2を作るための炭素の量は、原理的には同じはずだ。

    なぜか?
    それは熱効率が悪いからだ。石炭何トンを燃焼させたかではなく、石炭中にふくまれる炭素1グラムを燃焼させた時の運動エネルギー出力が低いのだ。

    それはおそらく、炭素を個体の形で使用する燃焼形態に問題があるのだろう。それより液体の形で使う石油がより効率が良く、気体で使うLNGがより良いという理屈なのだろう。

    ただしそのことについてはこの文章には書かれていない。

    次は経産省・資源エネルギー庁のページ。

    という題である。

    ここに図が掲示されているが、かなりひどい図だ。
    燃料価格の推移

    縦軸が1千KCalの熱を得るための原料価格だ。実際に欲しいのは発電量1KW時の電力を得るための熱量(KCal)であり、その熱量を得るための原料価格だ。

    先程の図でいうと、発熱量(すなわちCO2発生量)に対する発電効率(すなわち熱→電力転換効率)が半分なら、原料コストは2倍になる。

    石炭は価格変動がなく安定はしているが、この4年間で見れば原油・LNGの半分程度であり、発電効率を勘案すれば決して安価とは言えない。

    なお、説明文の中に次のような表現があり気になった。

    ベースロード電源」(一定量の電力を安定的に低コストでつくることのできる方法

    これから太陽光・風力発電が主流となってくるのだから、この発想はまったく逆立ちしている。

    太陽光・風力発電をベースロードとし、その不安定性を補うためにLNG専焼火発を機動的に操業するというのが基本パターンとならなければならないのである。

    このベースロードという考えは早急に改めるべきである。

    後の記述は言い抜けとごまかしと針小棒大の積み重ね、詐欺の口上とほぼ同断。

    別の石炭火発派のHPにはこう書いてある
    発電コストが低く効率的に発電ができます。石炭火力発電の価格は1kWh当たり12.3円です。LNGは13.7円、石油は30円~40円となっています。
    嘘はついていない。石炭火発とLNGのコストはほぼ同じ(先程の計算では若干ながらLNGのほうが安い)
    発電の際のCO2発生が2倍であることは隠されている。

    ただ資源安保の観点からは、原発事故の後のときのように、LNGがスポット20ドルになったとき「石油・石炭を捨ててしまってよいか」という問題は残る。原油価格の同様は国の経済に大きな負荷となるからだ。

    現に風力不足のヨーロッパでは、ロシアのLNG便乗値上げに苦しんでいる。

    エコプラン社のHPから



    激しい用語の混乱

    各人が勝手にネーミングを行うことが混乱のもとになっている。

    わからなくなった時に、この記事を参考にしてください。

    カーボンニュートラル
    カーボンネットゼロ
    カーボンゼロ
    ゼロカーボン
    (ゼロエミッション)
    二酸化炭素の排出を全体としてゼロにする
    (排出量ー吸収量=0)
    カーボンオフセット排出量をできるだけ削減し、削減が困難な部分をクレジットを購入して埋め合わせること
    ネガティブエミッション大気からCO2を吸収すること
    カーボンネガティブ
    カーボンポジティブ
    ビヨンド・ゼロ
    排出される二酸化炭素よりも、大気から吸収する二酸化炭素の量の方が多い状態
     1.カーボンニュートラルとネットゼロ、どう違うの?
    環境省はこれらの用語を特に区別していません。

    ゼロエミッションという言葉は、人間活動による廃棄物を0に近づける問いう意味です。


    2.カーボン・オフセット

    改正温対法における「脱炭素社会」の定義。
    人の活動に伴って発生する温室効果ガスと、吸収作用の保全・強化による吸収量との均衡が保たれた社会。
    この均衡を保つため、企業や自治体が、排出した二酸化炭素を、森林吸収などで相殺・削減するという考え方(取り組み)です。


    3.カーボン・クレジット

    カーボン・オフを促進するために、カーボン・クレジットという考えが導入される。

    森林吸収や再生可能エネルギー等で削減した二酸化炭素量を、貨幣のように価値化するものだ。

    それは客観的でなければならない。そのために価値量を認証する制度が作られた。それがクレジット制度です。

    排出量取引制度に類似していますが、登録されると同時に失効し、転売はできません。

    温室効果ガス排出そのものを削減することにはならないので、技術開発やインフラ設備が整うまでの移行期間内での仮使用に限定される。


    4.ネガティブ・エミッション

    ネガティブエミッションとは、大気中へのCO₂の排出量をマイナスにすること、つまり大気からCO₂を吸収する技術である。

    具体的には

    a)CO2回収型バイオマス発電
    バイオマス発電に用いられる木材は生きているあいだに炭酸ガスを吸って炭素になったので、それを燃やしても排出量ゼロだ、という理屈。(こういう発想っていかにもヨーロッパ人ですね)
    これにCO2吸収装置をつけると、マイナスになる。

    b)直接空気回収
    吸着剤などを利用してCO₂を吸着・貯留することで大気中からCO₂を減らします。

    c)海洋吸収、植林なども広義のネガティブ・エミッション。

    森林の地球温暖化防止機能について

    Q1 森林吸収量はどのように算定するのですか?

    森林吸収量は次の計算方法を使って推定する。

    吸収量(炭素トン/年)=幹の体積の増加量(m3/年)×拡大係数×(1+地上部・地下部比)×容積密度(トン/m3)×炭素含有率

    幹の体積の推計法:  「収穫表」で種類と林齢から平均的な幹材積を推計する。

    枝・葉・根の量:    幹の体積に一定に比率をかけもとめる(1+地上部・地下部比)
     
    炭素の量は重量で把握するため、体積に密度をかける.

    ④ これにさらに炭素含有率をかける。

    拡大係数や地上部・地下部の比率、容積密度は樹種によって異なる。

    これで炭素の年間蓄積量がもとめられるので、植物の呼吸によるCO2算出はすでに相殺されている。


    Q11 吸収源対策として森林整備がなぜ重要なのですか

    京都議定書のルールでは、育成林で適正に手入れされている森林の吸収量だけが削減目標の達成に利用することが認められている。

    したがって育成林を保全することだけが、議定書上「意味のある」対策である。


    Q11 の回答は、なかなか難しい。要するに木材が朽ち果てずに土中に沈み込み化石化する以外はCO2削減にはならない。アモルファスな炭素の単体のみがCO2の吸収としてカウントされるということである。
    草や海藻、植物性プランクトンの行なった光合成は、直ちに細菌や動物性プランクトンの栄養となり、彼らが有機物を分解してCO2に変えてしまうかぎり、CO2の削減には役立たないということだ。
    果たしてカーボン・サイクルはそれほどまでにペシミスティックなものなのか。
    私はどうも異なるレベルの話をしているように思えてならない。

    大気圏の二酸化炭素として存在する炭素は8,100億トンにすぎない。炭素の約9割が鉱物として存在する。
    さらにそのうち還元された形、すなわち炭素粒・石油・石炭・天然ガス中が4分の3以上を占める。
    残り25%は炭酸塩の岩石である。

    水中で炭酸として溶けている炭素は36兆トン存在する。
    生体を構成する炭素でさえも2兆トンに達する。

    それから見ると8億トンは誤差レベルに過ぎない。どうもCO2濃度を規定するのは別の要因がありそうな気がしてならない。

    もちろん短期的には、化石燃料の大々的な使用が始まったのが19世紀なかばだから、それからのカーブを注意深く眺めれば、化石燃料のこれ以上の過剰消費は避けなければならない。これ自体は当然のことなのだが、結局ではどうするかというところに戻っていく。
    やはりこれはエネルギー問題なのである。




    経済産業省・資源エネルギー庁のHPより



    気候変動問題に関する国際的な枠組み「パリ協定」を踏まえて、2050年までに80%の温室効果ガスの排出削減を目指すことになった。

    そのための方法の一つとして光合成の促進、さらに人工的な光合成技術の開発が挙げられる。

    光合成と人工光合成

    「光合成」においては、植物が太陽光を使ってCO2と水から有機物と酸素を生み出す。

    「人工光合成」においては、CO2と水を原材料に、太陽エネルギーを活用する形で化学品を合成する。
    光合成模式図


    「触媒技術」が人工光合成の鍵

    人工光合成技術の核となるのが、「光触媒だ。

    人工光合成は、
    ① 太陽光に反応して水を分解し、水素と酸素を作り出す。
    ② 「分離膜」を通して水素だけを分離する。
    ③ 水素とCO2とを合わせ、「合成触媒」の存在下に有機物を産生する。

    という三段階からなる。

    人工光合成のプロセス

    光合成で言うと①と②が明反応、③が暗反応に相当する。

    エネルギー技術から言えば、③は不要で、H2を獲得し利用すれば良いことになる。ただしそれは原理的には、太陽光発電で得た電力で水を電気分解するのと同じだ。

    図を見ると、三つの未確立技術が直列につながっており、ほとんど夢物語の世界だ。

    とりあえず最初のハードルが、① 太陽光エネルギーによる加水分解である。

    植物の光合成における太陽エネルギー変換効率(一般的に0.2~0.3%と言われる。これをどれだけ効率アップできるかが技術的課題となる。

    日本では「タンデムセル型光触媒」の開発が進められている

    2016年度に太陽エネルギー変換効率3.0%(植物の10倍)を実現した。今後は変換効率10%を目指す。

    もう一つの課題である低コスト化に関しては、「混合粉末型光触媒シート」の開発が進行している。ただし、このシートのエネルギー変換効率は、まだ1.1%にとどまる。


    CO2削減と脱炭素化について

    ①+②は一言で言えば、「光触媒を用いた太陽光発電技術だ」結局は既存技術とのコスト勝負になる。

    これに対し、③のプロセスはそれ自体が論理的矛盾をはらんでいる。率直に言えばそうやって苦労して作り上げたH2を炭酸ガスをへらすために使うなんて、あまりのももったいないしバカバカしい話ではないか。

    そもそも化石燃料の使用を減らせば大気中の炭酸ガスは自然に減っていくはずだ。それは植物た光合成でどんどんCO2を消費するからだ。


    化学産業の陰謀?

    どうしても炭酸ガスの産業利用に結びつけたい人たちは、オレフィン製造プラント構想を持ち出す。

    工場から出るCO2を原料として基幹化学品(オレフィン)を製造すると、「CO2の固定化」を通じて脱炭素化に大きく貢献する。

    ただこの話は、エネルギーの流れから言えば逆方向なので、本筋はあくまでもH2のもつポテンシャル・エネルギーをどう展開して行くかに尽きるのだ。

    日本の太陽光発電は世界より2倍高

    日経の23日付に掲載されたグラフ

    太陽光コスト

    太陽光発電のコストを国際比較すると中国が5円、米国が6.5円。これに対し日本は13.5円に達する。

    欧州諸国は米中両国よりは高いが、フランス7.3円、ドイツ7.6円となっている。

    とはいえ、10年前は50円近くしたのだから7割減となっている。

    このコストというのがどういう計算なのか、どこまでが立ち上げコストなのか、稼働年数はどのくらいなのかがわからない。

    11年の福島直後にいろいろ調べたが、「風力はダメだろう」という話になった。台風銀座の日本では、一度台風が来るたびにいくつかがおしゃかになる。いまでは国内企業は見向きもしない。

    ヨーロッパが良いかというとそうも言えない。風が止まったらロシアから天然ガスを買うしかない。足元を見たロシアは価格を釣り上げる。ロシアのような国に生殺与奪を預けるのは安全保障上の重大問題だ。

    太陽光も多分ダメだろう。これは基本的には砂漠の民ための技術だ。サウジが計画中の太陽光発電のコストは1.4円。これでは日本どころかサウジ以外のすべての太陽光はアウトだ。

    ようするに科学はコストを問わないが、技術は技術の革新性だけでなく、コスト、安全性の3秒師をもとめる。ということは、化石燃料時代と同様に、これからもエネルギーは輸入する以外にないと腹をくくる事だ。

    ところで2030年問題だが、これは正直言って原発とトレードオフになる。そして日本では原発停止が再優先課題だ。

    おそらく、CO2を口実にした原発再稼働論が出てくるだろうが、ここは覚悟が必要だ。

    すでに原発ゼロでも日本のエネルギー需要はまかなえることが実証されている。しかし、そのかわり、LNGを中心とした化石燃料の使用を抜きに日本の生産と生活は考えられない。すくなくともここ数十年のレベルではそうなる。

    そこで念頭に置くべきことが2つある。一つはこれこそ一丁目一番地なのだが、節約である。

    そしてもう一つは緑化運動である。とにかく光合成効率の良い植物を、陸上、海上、屋上に敷き詰めることである。さらにこれはちょっと夢物語的だが、人工光合成の技術を開発することだ。

    そして光合成によるCO2減少を、温暖化バランスの収支計算に計上するようもとめることである。

    この間アンモニアの記事を紹介したが、自分でもなんのことかよく分からないままだった。
    製鉄工場でコークスを燃焼させるときにアンモニアを使う(混焼)と、CO2の排出が少なくてすむ。それにこれまでとても高価だったアンモニアの製造コストが大幅にダウンするという、いわば一石二鳥効果の話だったように思うが、どうもこの手の話には裏があることが多い。
    ただ原理的な話として、カーボンサイクルとは異なる窒素サイクルというものが、エネルギー代謝の経路として存在するというところはとても魅力的だった。



    今回10月2日の日経新聞にアンモニアプラントの話が掲載されたので、ノートをとってみることにする。

    記事の内容は「三井物産がオーストラリアにアンモニア・プラントを建設する」というもの。これも一石二鳥話になっていて、サブ見出しが「生産時のCO2は地中に」となっている。

    リード部分

    * 三井物産がオーストラリアに「燃料アンモニア」の生産工場を建設する。
    * 総投資額は1千億円で、7年後に稼働を開始する。
    * この他、三菱商事と伊藤忠商事が年100万トンを生産する予定である。
    * これらにより2030年には300万トン、50年に3千万トンの燃料アンモニアが日本に供給される。
    燃料アンモニア


    燃料アンモニアの原理

    1.天然ガスを水素とCO2に分離し、
    2.取り出された水素を窒素と反応させて作る。
    上記の二次の還元過程により作成される。
    この過程の内、水素を太陽光発電のエネルギーで水から取り出せば、CO2は産生されない。これを「グリーン・アンモニア」と呼ぶ。
    天然ガスを使用し、CO2を産生するが、これを回収・貯留するものを「ブルー・アンモニア」と呼ぶ。

    非常にいやらしい表現だが、エネルギーの視点から見ればわかりやすい。そのミソは、液化水素を直接使用せず、そのエネルギーをアンモニアに転嫁することによって高密度化するということである。つまり発電原料は水素であり、アンモニアは一種の蓄電体ということになる。

    その水素に炭素という「黒いレッテル」を貼らないで済まそうとするから、CO2を地中に埋蔵することによって「青いレッテル」なるものをねつ造していることになる。これも「温暖化ガス」罪悪論の悪しき影響である。


    燃料アンモニアの経済

    アンモニアを日本まで輸送して発電用に使う。その発電コストは23.5円/KW時。これでもまだ石炭やLNGより割高だが、水素を輸入して使うより1/4で済む。すなわち一手間で一気に安上がりになるのだ。

    ただし、CO2というゴミを現地に残してくるという「ブルー」を抱えていることも間違いない。現地の人にとってはブルーどころか真っ黒である。

    アンモニアにはもう一つ課題がある。アンモニアはすでに世界で年間2億トンが生産されており、そのほとんどは肥料・工業用に使用されている。市場的に原料資料と燃料資源とが競合することになる。アンモニアをふくむ「窒素サイクル」の総合的検討が必要となる。


    炭酸ガスを悪者扱いするのが気に食わない

    ところで、グリーンとかブルーというのはCO2を悪者(ブラック)視する発想の延長上にある。

    それは間違いだ。CO2は生命体(植物・動物複合体)にとってもっとも貴重な資源の一つだ。「緑の地球」はCO2が生み出したものだ。

    しかも放置すれば還元・固化され、どんどん大気中から減っていく運命にある。それは生命体の基本的なエネルギー源を奪い、地球をふたたびスノーボールへと導きかねない危険をはらんでいる。

    歴史を紐解けばわかるように、寒冷化に伴う異常気候は温暖化のそれよりはるかに深刻だ。冷害と飢饉は多くの人々の命を奪い、ホモサピエンスを何度も絶滅の危機に追いやった。

    光と水さえあれば、光合成はいくらでも更新される。氷河期の末に位置する我々にとって、炭酸ガスの増加それ自体は恐れるほどのものではない、イノベーションで十分克服可能だと思う。例えば石炭だって神様からのいただきものなのだから、もっと賢く使う方法を考えるべきだと思う。宝の持ち腐れは究極の浪費だ。

    恐ろしいのは資源の際限ない浪費と人間社会の劣化なのではないか。




    10月17日「日経新聞」より、パリ支局の発信記事で、

    主見出しが「風吹かぬスペインの教訓」
    サイドが「発電量2割減、ガス危機に拍車……融通と蓄電 日本にも難題」
    というもの

    まず事実
    * 欧州ではこの夏以降、異常気象のため広範囲に風が弱まっている。
    * スペインの風力の発電量が2割減少した(昨年同月比)
    * スペインだけでなく、多くの欧州諸国の風力稼働率が落ち込んだ。
    * スペインにおける天然ガスのスポット価格は、3万円/メガワット時で前年比6倍に高騰した。
    * 家庭向け料金も、政府のさまざまな支援にも関わらず、前年比35%上昇している。

    ついで背景
    とりわけスペインにおいて風の影響が強く現れたのには理由がある。

    donkiho-te

    *スペインは脱炭素先進国。
    電源構成を2000年と比較して、石炭は36%から5%に、石油は10%から5%へ減らした。一方で、比較的クリーンな天然ガスは9%から31%に高めた。

    スペインの電源構成
     スペインの現在の電源構成は日本の2030年目標に近い。ゆえに他人事ではない。
    明らかなことは、近未来においても日本における炭素燃料の「併用」は不可避だということだ。ゆえに石炭、石油から天然ガスへの移行が必須となる。

    * スペインの弱点
    大きく言って2つの弱点がある。
    一つはピレネー山脈により欧州主部と分断され、電力融通の容量が小さいことだ。
    もう一つは蓄電設備の充実が脱酸素化のスピードに追いついていないことだ。「風まかせ」にしない対策の実行が遅れている。これが電力逼迫を招いたといえる。



    私たちが気を引き締めて臨まなくてはいけないのは、脱炭素は高コスト化と不安定化を伴うということだ。さらに炭素を燃焼させるという過程は、大なり小なり大気汚染という副産物を伴うことだ。

    もう一つ気になるのは、脱炭素の切り札として電力ばかりがもたげられていることだ。しかし電気というのは、エネルギーの利用方法としては非常に無駄の多いものなのだ。使わなくても電流を絶えず流し続けるのは、水道の蛇口をあけっぱなしにしておくようなものだ。

    それでも、脱炭素は炭酸ガスのバランスを保つために必要な努力である。節約+イノベーション+光合成促進という社会実験の三本柱で、CO2濃度をコントロールしなければならない。

    もしエネルギー問題と切り離してCO2のみを標的とするのなら、一番良いのは光合成の促進だ。効率から言えば藻類の栽培が最適だが、葉緑体類似の光合成装置を製造する事ができれば、そのほうがはるかに能率的であろう。

    そこでじゃんじゃん炭酸ガスを吸い取って酸素を生成すれば、化石燃料の使用を罪悪視する必要はなくなる。あとは環境破壊の問題であり、あるいは多様性の維持であって、温暖化の問題ではない。

    イノベーション課題で言えば、とくに周辺技術と二人三脚でのCO2減少を注意深く行わなければならない。これがずっこけると、ただでさえ過小エネルギーに悩む途上国に、大きな負荷をかけることになる。



    温暖化とCO2増加 その根拠


    気温変化


    IPCCによれば、地球の平均気温は産業革命前に比べて約0.8℃上昇した。
    世界の平均気温
    ただ200年で0.8度という気温上昇は、それ自体が危機と呼べるものなのだろうか、人類にとってさほどの害ではなかったのではないか。北極海の氷が溶けて、世界中の島が水没するような海面上昇は説明できないのではないかという感想だ。

    また、「気温の上昇が人類の生産活動と化石燃料の消費の反映である」とするには、上昇カーブがあまりにも直線的だ。人口も生産量も等比級数的に増加していることを思えば、むしろそれらは、直接には気温上昇に寄与していないと読むべきではないか、と考えるのが自然だろう。



    CO2濃度の変遷


    CO2濃度は過去35年で年2ppmの増加を続けている。2020年には410ppmに達した。これは1985年の1.19倍に相当する。


    CO2濃度変化
    IPCCの推計では、およそ200年前、「産業革命前」のCO2濃度は280ppmであった。これと比し現在は約1.5倍となっている。

    このグラフはわずか35年の変化を見ただけなので、物を言うにはやや力不足だが、ここでもCO2増加の「直線性」が気になる。人口の爆発的増加、途上国の経済成長、熱帯雨林の破壊、砂漠化の進行などを考えればむしろ等比級数的な増加が予想されるが、それが等差的な増大を示すのならば非人為的な要因による増加とも考えられる。

    また温暖化現象がどの程度CO2の増加に起因するものかは、これらの表を見ただけではなんとも言えない。今後CO2濃度が高くなるにつれ、赤外線吸収が飽和するため、温暖化への寄与率は低くなる可能性がある。



    地球史とCO2濃度


    CO2濃度は大幅に下がり続けてきた。恐竜が闊歩していたころは現在の数倍だった。


    100万年程前に280ppm前後まで下がった。氷河期には180ppmまで下がり、光合成ができなくなり地球は砂漠化した。

    地球史とCO2


    図 地球のCO2濃度の推計。縦軸(RCO2)は、「産業革命前」(280ppm)に対する比。横軸の単位は100万年。-100が1億年前になる。左端は5億6千万年前のカンブリア爆発に相当。


    目指すべきCO2濃度は何ppmか?


    天変地異は昔からあった。報道されないだけだった。しかし何十万、何百万人が餓死するような飢饉、冷害、干ばつなどはむしろ減っている印象である。(目下根拠なし)

    CO2濃度上昇が人類に悪影響を与えているという統計的根拠は乏しい。(断言はできないが)
    人類はCO2濃度を下げるべきかどうか? 下げるならば、目標とする水準はどこか? 



    噛じるうちにも入らない。赤旗日曜版の解説記事の抜粋だ。年寄りにはこのくらいが良い。
    最初が真鍋淑郎さんの年譜

    真鍋年表
    主業績は「大気海洋結合モデル」で、その概要は前の記事で紹介したとおりだ。学的キャリアは「大気海洋結合モデル」をIPCCの基本モデルとしたことだ。

    次に「真鍋氏の気候モデル」が図示される。
    気候モデル

    これはたしかに良い図だ。これは地球が形成されて数億年、始原状態の地球の気候だ。
    そこには海がない。おそらく大気は高温高圧の水蒸気と、大量の炭酸ガスに満たされているに違いない。
    私の記事には、この説明がないが、この第一相についで冷却された水蒸気が液化して海洋を形成する。これに伴い炭酸ガスが大気の主体となり、大気圏を宇宙から守る時相が来る。これが第二相となる。
    おそらくこれが「大気海洋結合モデル」というものであろう。

    「大気海洋結合モデル」というのは海面を鏡の表面とした、2つの世界の炭素サイクルを描いたものと思われる。特に海面下の動きが重要で、炭酸ガスが海水中に溶融し、やがてカルシウムや珪酸と結合し、沈降し、マントルに達する。これが火山活動を通じて再び大気中に放出される。

    第三相においては植物による光合成活動が始まる。おそらく25億年ほど前のことである。これにより炭素のみならず、水素、酸素が独自のサイクルを形成するようになり、それらが水、炭化水素、二酸化炭素、炭酸カルシウムなどの間で相互のやり取りを行うようになる。
    大気中の二酸化炭素は光合成で減少すると、行き場を失った酸素が一気に増え、酸素の一部がオゾンとなることにより「第二の大気」が形成されるようになる。

    第三相は、第二相のバランスの上で展開されるために一方向的である。炭酸ガスは一方的に減少し酸素は一方的に増える。これに対するカウンターバランスとして、もう一つの生物である動物が繁殖する。これにより炭酸ガスの減少と酸素の増大は相殺されるようになる。

    これが5億年前のカンブリア時代以降の時代であり、第四相と呼ぶことができる。この後地球は幾多の寒冷期を経ながら徐々に温暖化に向かいつつある。

    問題は、これが第五相に突入したのかどうか、それはいつからか、その指標はなにかということだ。

    これまでの相展開の引き金となったのは、海洋の形成、植物による光合成、動物の繁殖による酸素消費と炭酸ガス生成、だった。第五相が来るのだとすれば(多分すでに来ているのだろうが)それは、化石燃料の過剰消費による人工的な気候変動であろう。

    だとすれば、まず気候変動の主たる責任者である人類のなすべきことは、化石燃料にとどまらない自然資源の節約と賢い利用である。とくに水資源の保全は緊急かつ重大な使命であろう。

    もう一つは資源へのアクセスの不平等である。これだけは絶対に言っておかなければならないが、世界の人々の90%以上は間違いなく過小消費である。

    だから温暖化問題であろうと、気候変動問題であろうと、問題の焦点は過剰消費しているのは誰なのか、彼らを抑制するにはどうしなければならないのかである。

    そして過小消費に苦しんでいる人々を、「人類共通の課題」なる名目のもとで、さらに過小消費の方向に追い込むような事をしては決してならないことである。



    第二部-1- 地球の歴史
    第4章 大気と海の歴史


    1. 大気の変遷
    a.酸素

    酸素を作り出すメカニズムは、ほぼ全て植物の光合成である。

    酸素は、まず鉄分を酸化させることで消費される。酸化鉄は19億年前以降はほとんど見られなくなる。鉄が酸化し尽くされると大気中に酸素が急にたまり出す。

    約3億年前に酸素濃度は上限(現在の約1.5倍)に達し、巨大な昆虫が登場する。

    b.二酸化炭素

    二酸化炭素は地球の温度を決める上で重要な役割を果たす。原始地球の大気中の二酸化炭素濃度は、現在よりもはるかに高かった。

    太陽の光度が増すにつれ、大気中の二酸化炭素は地殻に固定されていった。ただし、かなり大きな「ゆらぎ」もあった。

    ゆらぎ


    2.炭素循環

    大気中の二酸化炭素(CO2)は、地球上の炭素循環に規定されている。

    大気中の二酸化炭素は、ケイ酸塩・炭酸塩として固定され、大気中から排除される。これは 
    CaSiO3+CO2→CaCO3+SiO2
    として表現される。

    これらはやがて地表からも排除され、最終的には海洋底に堆積する。

    なおサンゴは炭酸塩を固定するときに二酸化炭素を放出しているが、必要な炭酸イオンは岩石の風化によってつくられており、陸-海全体としては不変である。

    海洋底がプレートの沈み込みによって地下深くに持ち込まれると、高圧高温下のもとに変成作用を受ける。

    そして 
    CaCO3+SiO2→CaSiO3+CO2
    の逆過程をたどり、火山ガスとして出てくる。

    このバランスで地球大気の二酸化炭素の濃度(量)が決まる。


    3.生命活動を含めた炭素循環

    これを考えるためには、
    ① 光合成による大気からの二酸化炭素の除去(有機物としての固定)
    ② 生命活動による二酸化炭素生成。
    ③ 生物の死骸の腐敗
    ④ 人類の活動(化石燃料の利用)
    などさまざまな変数を組み込んで考えなければならない。

    下図は著者山賀氏が作成したものである
    炭素循環の歴史

    とても良くできている図で、炭素循環の視点から見た地球史を3つのフェーズに分けて展開し、さらに大気をふくむ地球の階層的構造を大気・海洋・地殻・マントルという4層の相互関係という過程に捉えこんでいる。非常にわかりやすい概念図である。実際は宇宙空間まで書き込まなければならないのだろうが、モデルとしてはあまり煩雑化しないほうが良いだろう。

    地球史として炭素循環を見た場合、以下の3つの時代に分かれる。

    ① 生命誕生前は大気中の二酸化炭素と海水に溶存する二酸化炭素、炭酸塩(石灰石)がバランスをとっていた。

    ② 光合成の開始によって一方的に大気から二酸化炭素を取り除く過程が付加された。しかしまもなく動物の繁殖により植物とのあいだにフィードバックが成立した。

    ①+②による平衡が成立したのは、第一次平衡が約5.4億年前(古生代)、第二次平衡がオゾン層ができて動物が地上に上がった約4億年前と考えられる。

    これが産業革命以後、地殻に埋まっていた化石燃料を利用するようになってから、平衡の崩れが始まり、とりわけこの40年ほどで、崩壊の兆候が現れ始めている。


    4.現在における炭素循環の量的実態

    産業革命以前、大気と植物・動物間では年間110「ギガトン(10の12乗キログラム)」で釣り合っていたと考えられる。大気から海洋へは3ギガトン/年が移動し、そこに蓄積される。

    現在では人類は8ギガトン/年の炭素を消費している。そのうち6ギガトン/年は化石燃料である。燃やされた化石燃料の半分が、二酸化炭素として大気中に吐き出され、その半分が炭酸塩として海洋に蓄積されている。

    近代社会は、炭素サイクルから見れば火山活動に類似し、酸素の蓄積と寒冷化に対する一種のフィードバックの役割を果たしている。

    しかし、その規模は自然環境のキャパシティーに対し過大である。現代人は自然バランスに対して年間5.5%の過剰な炭素負荷をかけている。これは自然界のフィードバック機能のレベルを逸脱している。それが「化石燃料の過剰消費」の意味するものである。

    定量的に考えて、それはあまりにも急速かつ過剰な負荷であり、それが気候変動に結びついていることは明らかである。



    国立環境研究所 環境情報メディア 
    環境展望台」のページから

    太古の地球には酸素がなかった

    46億年前、誕生したばかりの地球の大気は、高温・高圧の水蒸気が大部分を占め、その他に二酸化炭素、窒素などを含んでいた。

    数億年かけて地表が冷え、水蒸気が雨となって地表に降り注いで海ができると、大気の主成分は二酸化炭素と窒素になった。
    大気組成の変化

    質問1: 気温が高かった理由、下がった理由は?
    質問2: 気圧は低下した?

    海に二酸化炭素が溶け込み、その一部がカルシウムイオンと結合して、「炭酸カルシウム」として海底に堆積した。

    その結果、大気中の二酸化炭素は減少し、大気の主成分は窒素になった。

    27億年前、光合成を行う「シアノバクテリア」が海中に誕生し、二酸化炭素と水から有機物と酸素を生成するようになった。

    その結果、大気中の二酸化炭素はさらに減少し、酸素が増えはじめた。

    光合成の増加は生物の陸上進出に伴い加速した。それは酸素が紫外線により変化した「オゾン」が大気の層として紫外線の地表への輻射を妨げたためである。
    オゾン層

    光合成はさらに盛んとなり、酸素はさらに増え、炭酸ガスはさらに減少した。これが炭酸ガスによる温室効果を弱め、地球の冷却化につながった。

    …………………………………………………………………………………………………………………………

    この論文では他にオゾン層問題、水資源問題が触れられているが、ここでは省略する。

    ここでは炭酸ガス現象の原因として、初期の10億年の自然冷却→海洋形成過程に伴う物理的溶融現象と30億年前からの植物光合成による炭酸ガスの還元と固定をあげている。前者の形成産物は炭酸ナトリウム→炭酸カルシウムであり、後者は「化石燃料」をふくむ有機化合物である。

    この文章を読む限り、寒冷化過程は一方向性である可能性がある。これまでの説では一連の火山爆発がこの「寒冷化過程」を中断してきたが、それはフィードバックのメカニズムによるものではない。

    もしそうだとすれば、人為的な化石燃料の消費は、寒冷化を阻止するための一種の「必要悪」として捉えられなければならなくなる。





    地球が灼熱地獄になってしまうとか、アイスボール化するという話ではない。だから電気自動車を買いなさいという話になると、夜中のテレビショッピングさながらだ。もう少しリアルに問題を見つめて評価すべきではないか。

    今朝のニュースで、今年のノーベル賞で日本人研究者が受賞したと報道された。

    かなりご高齢の方で、「地球温暖化」のモデル研究を創始したことが受賞理由となっている。
    見ていてふと気がついたのだが、メディアでは「温暖化」というのに、本人挨拶の中では「気候変動理論」と言っている。
    「うん、そうだよな」と感じ入った次第。
    「暖かくなりましたよねぇ」、「そうですねぇ」というだけではただの時候の挨拶だ。地球気候の変動のなかで位置づけて昨今の温暖化現象を位置づけないと、昼帯番組の気象予報士の話と選ぶところはない。
    おまけにそれが様々な政治・経済的な思わく絡みで語られると、何やらきな臭くなってくる。いわば主張・風潮としての「反温暖化」主義としての色合いを帯びるようになってくる。
    もうすこし価値中立的に自然科学としての枠組みで議論した上で、化石エネルギーの利用をふくむ人類のエネルギー課題、自然との共生の課題、資源の配分問題などの各論に踏み込んでいくべきではないだろうか。
    そして倫理的大枠として、人類の発展史の中で捉えていく視点を失わないようにしなければならない。


    例えばグーグル・アースで地球の夜景を眺める。これを見ていれば、温暖化の原因はたちどころに分かる。いまだに温暖化をもたらしている主犯は先進国、とりわけ大都市である。
    もし「気候変動のモデル」について最良の証明をなした功績者を上げるとすれば、それはまさにグーグル・アースではなかろうか。

    この間、人民連帯運動に関わってきて、いやおうなしに先進国の西欧的人権概念につきあわされてきた。その感想としては、「そもそも論抜きの絶対的価値観は非常に危ういものを持っている」ということだ。
    例えば「2つの文明の衝突」などという議論は、人類は一つという前提を抜きには議論できないというアタリマエのことを省略している。
    それは西欧文明の絶対的優位性という思考法の暗喩である。たしかに19世紀から20世紀にかけて西欧文明は先進性と相対的優位性を誇った。我々の知識や知恵には、それらの影響が圧倒的に込められている。
    しかしそれは長い人類の歴史の中でほんの一瞬のことである。さらにそれは40億年の地球の気候変動の中で一瞬のことでもある。


    そのうえで、過去数十年の気温の上昇は紛れもない事実であり、それが人類の化石エネルギーの大量消費に基づいていることも明らかであり、緊急に対策を迫られていることも明らかである。という当然の事実についてコンセンサスを共有する必要がある。

    これは私たちが60年から70年代にかけて経験した「公害」問題のグローバル版と考えるべきであろう。
    もういちどあの頃の経験や体験を呼び戻さなくてはならない。
    おそらくその時の経験をもとにした対策・イノベーションで8割は解決できるだろう。そして残りの2割は社会変革の課題であろう。

    温暖化防止京都会議のHPより

     ●温暖化とは

    温暖化とは、人間の活動が活発になるにつれて「温室効果ガス」が大気中に大量に放出され、地球全体の平均気温が急激に上がり始めている現象のことをいいます。


    温室効果ガス(Green House Gases)はCO2CH4N2Oの総称。

    世界の海水面は100年前よりも20センチメートルほど上昇した。ただし地球史的に、世界の海面高は100メートルも変動している。約7000年前の縄文時代は今よりも2〜3℃気温が高く、海面は3〜5メートル高かった。


    縄文の温暖化はミランコビッチサイクルによる。これは地球の回転軸がぶれることで、日射量が変化する現象で、約10万年の周期を持つ。



    ●温暖化の見通し


    現在のペースだと、80年後には気温が約2度上昇すると予測される。


    1990年に比べた変化】

    おn温暖化
    IPCC報告書より作成

    ●温暖化のメカニズム

    もしも地球上に温室効果ガスがなかったとすれば、平均気温はマイナス18℃となる。

    適温に維持されるのは、太陽からの輻射熱と温室効果ガスの蓄熱効果による。このうち温暖化に関係するのは、温室効果ガスの蓄熱効果だ。

    ●温暖化による影響

    1.水資源の不均一化 ~ますます深刻となる水不足や水被害~

    2.生態系の多様性が減退 ~絶滅する種が増える~

    3.沿岸域 ~海面上昇により沿岸域の低地が水没する~

    4.熱帯型感染症の拡大 ~死亡率や伝染病危険地域が増加する~

    5.公害との複合影響 ~温暖化は公害を加速する~

    6.温暖化と差別の増強 ~地球温暖化の影響は不公平である~



    地球史的に考えよう

    温暖化論についてどうも考えがまとまらず、前に進めない。自然破壊とか環境破壊という現状告発がまず出てくるのが、どうも引っかかるのだ。

    温暖化というのは、温室効果を持つ諸要因の複合的結果であり、必ずしもネガティブに捉えるべきものではなく、それ自身としてはニュートラルなものである。

    かつての地球において温暖化がいかに生物の進化をもたらしたかを考えてみよう。

    総じて温暖化は地球上にエネルギーが豊かになることを意味し、生命活動を活発にする。豊かな炭酸ガスは植物に光合成を促し、多くの酸素と炭水化物をもたらした。

    5千年ほど前、地球は長期にわたる氷河期を終え、温暖期を迎えた。海面は50メートルほど上昇し海岸沿いの平野はことごとく水没した。当時はそれは悪いことではなかった。森林だったり草原だったりした平野は、広大な大陸棚となり豊かな海産物を育んだ。日本の縄文文化は漁労を抜きに語ることはできない。海の幸を食べるために土器が発達し、船による交通の発達は北海道から沖縄までに縄文人が拡散することを促した。

    自然史・人類史という観点から見て、自然の脅威に打ち勝ち、自然の富を享受し、人類社会を発展させていくことは、基本的にはポジティブなことである。ただ人類の生産力が大きくなるにつれて、エネルギーの出納バランスが激変していることは間違いない。

    それと同時に、エネルギーの巨大なムダが生じており、これを節約することが最大の課題である。

    最大の無駄遣いは戦争であり、核兵器であるのだが、より根本的には大量生産と大量消費、利益の最大化を究極目標とするような資本主義のシステムである。


    エネルギー問題の応用問題の一つとして、環境問題を考えよう

    このままでいいことはないのだが、それを後ろ向きに捉えることはない。技術学的には各種のイノベーション、社会システム的には経済計画の積極的な導入である。

    とりわけ、原発原子力利用の封印に伴い、エネルギー問題の解決が早急に求められていると思う。

    原発以来、私の興味の中心は蓄電にあった。なぜなら電気を電気として生産し、消費するエネルギー循環が最大の無駄を生んでいると思うからだ。

    将来のエネルギー・システムの行方はわからないが、当面、必要なのは電気を可能な限りオン・デマンドで利用する方式の導入だろう。

    蓄電池もそうだし水素もそうだ。ほかにメタンガス、アンモニアなども考えられる。おそらくエネルギー効率としては最悪だろうが、揚水発電というのもある。

    そもそも化石燃料というのは、自然の与えてくれた究極の蓄電装置なのであって、利用しない手はないのである。

    問題はそれを一旦燃焼させてそのエネルギーを利用するという形態にあるのである。それこそがエネルギーの無駄遣いなのであって、温暖化の原因ともなっている。

    これはイノベーションの課題である。これまでも化石燃料はたんなるエネルギー源ではなく、合成繊維やプラスチックなど、さまざまな化学製品の元にもなっているのだから、そちらの方向にはどんどん展開していけばよい。

    ただし人間は人間以外の生物が繁栄することを望まないし、快適な家と昆虫などいない人工化された環境を望む。これは矛盾である。

    この矛盾が、人間社会にとって災厄となるのは、行き過ぎやスピードが早すぎるなど、フィードバック機構が働くなる場合がひとつ、もう一つは人間社会の方に適応力が失われたためである。

    私は、「人間社会の方に適応力が失われた」原因としては、何よりも単線的な思考過程と、一面的で性急な結論にあると思う。

    変化に明らかな行過ぎがあったり、変化のスピードが早すぎるのならそれを抑えなければならない。フィードバックが効かなくなっている現象があれば、そのフィードバック機構をちゃんと働くようにしてやることが大事だ。

    人間社会の対応というのは、文化論まで含んでくるから単純には行かないが、「むさぼるな、あせるな、無理するな」と言うことではないか。

    子供の頃、「渡良瀬遊水地」の話を聞いてなにか変に感動した記憶がある。最初は「それって、利水じゃないじゃん」と思った。せっかくの平地なんだからちゃんと水はけ良くして、たんぼにしてコメ作ればよほどいいのではないかと思った。自然に逆らわずに「ないものだ」と思って付き合うという利水もあっていいのだ、それが長い目ではいいのだ。

    しかしその後の話は、逆のせこい話ばかりだ。日本第二の湖八郎潟が干拓されて一面の田んぼになったが、なったとたんに減反だ。米作りを強行した農家は農協から締め出された。同じことが諫早湾でもやられた。

    諫早は経済的に見ても、本当になんの合理性もない愚挙だ、土地神話を盾にした土建屋のための干拓工事だと思う。最近佐賀県で頻発する水害と関係がなければよいが。

    これでは温暖化論にならない。もう少し、「ここが温暖化論の核心だ」というポイントを探り当てなければならない。

    CO2論の裏に「光合成の危機」があるのだろうか。植物原料の使用はむしろ推薦されるのに生物の成れの果て(特殊な形の)である化石燃料がなぜ悪者になるのか?

    次はこちらを少し探ってみる。




    前項で、環境問題とエネルギー問題を原理的に分離することが大事だと訴えた。

    それで環境問題に一本化した上で温暖化という最大の人類的課題を中心に据えれば、議論の風通しも良くなるだろうと思った。

    それであらためて共産党の「2030戦略」に取り組もうとしたのだが、依然としてガスがかかった状帯が続き、字面を追う目が霞んでくる。

    一体メインテーマは何なのだろう?

    温暖化?、CO2?、気候変動?

    全部同じだといえば同じだろうが、それぞれが微妙に違う。

    とくにCO2をあまりに前面に突出させた論調には、何故か違和感を感じてしまうのである。

    三者の中ではまず温暖化が問題意識の中心に座るべきであろう。

    気候変動は温暖化がもたらした諸現象の一つとして捉えるべきであろうし、CO2は温暖化をもたらした諸要因の一つと捉えられる。

    すなわち炭素(多くは炭化水素)の酸化によって得られるエネルギの放出がもたらす二酸化炭素(温室効果ガスの主体)の増加と酸素の減少である。

    自然界の循環では、これは植物による光合成との差し引きとなる。炭酸ガスの増加は光合成の増加を促し、炭酸ガスの現象と酸素の増加をもたらす。現に生態系では藻類大発生のニュースがしばしばもたらされている。だから、そちらの事情も見て置かなければならない。

    自然界の気候変動サイクルとの鑑別

    温暖化さえも一つの表象であるし、そこに近代以降の人間活動の影響がどの程度含まれているのか。それをある程度定量的に評価しておかないと、科学的な議論にはならない。

    地球の歴史上から言えば、35億年前から褐藻類が繁殖し、20億年前の葉緑体を持たない最近の出現、6億年前のカンブリア爆発で動物類が発生するまでは酸素は貯まる一方だった。還元鉄が参加することが唯一の逃げ道だった。地球上は酸素だらけでとても寒くてアイスボールになった。その後も何度も氷河期と間氷期が繰り返された。逆に温暖期には今よりずっと炭酸ガス濃度が高かった時代もある。

    このことから言えるのは、「CO2増加は温暖化の原因ではなく温暖化の結果であるかも知れない」ということである。


    地球温暖化問題は政治と経済の問題である

    IPCCの温暖化論にはクリアすべき4つの理論課題がある。

    ①異常なスピードで人為的温暖化が進んでいることを認めるか、
    ②化石燃料の消費によって生じた温室効果ガスが、人為的温暖化の主犯であることを認めるか、
    ③自然界によるフィードバックの可能性はないのか、その域を超えているのか、
    ④化石燃料枯渇とどちらが先行するか、したがってエネルギー対策といずれを先行すべきか
    の問題が議論されるべき。

    これらの問題の検討は、直接に政治や経済の問題と関わる。だから批判意見を述べる人たちを「反温暖化論」者と決め付けるのは、真面目な議論ではない。


    環境保護学の体系は多様であって当然

    そもそも環境保護運動はローカルな保護活動が集合する中で、ある意味で運動論として集積されてきたわけで、必ずしも演繹的な体系を持つわけではない。

    それと、率直に言って先進国議論になりがちなので、その議論がワクチン3回打ち論やブースター論のように、科学の装いを凝らした人種・民族差別になっていないかが心配だ。

    やはりもう少し交通整理をしながら議論する必要があるのではないだろうか。

    ということで、共産党の政策の学習はひとまずおいておいて、すこし温暖化のメカニズムについて基礎学習をはじめたい。

    温暖化をめぐる世界の動き


    1972年 ローマクラブ、「地球の有限性」と「成長の限界」のメッセージを発する。

    1985年 地球温暖化に関する初めての世界会議(フィラハ会議)。オゾン層保護のためのウィーン条約が締結される。

    1988年 政府間の検討の場として
    IPCCが設立される。Intergovernmental Panel on Climate Change 邦訳は「気候変動に関する政府間パネル」

    1990年 「第2回世界気候会議」が、「気候変動枠組条約」を提起。2年後の国連総会で採択される。

    1992年 「環境と開発に関
    する国連会議」(地球サミット)が開かれる。地球環境問題が人類共通の問題であることを示す。

    1995年 ベルリンで気候変動枠組み条約に基づく第1回締約国会議(COP1)が開催。数値目標をともなった議定書作成に向け作業開始。

    1997年 京都でCOP3を開催。「京都議定書」が採択される。温室効果ガス削減の数値目標を全会一致で採択。

    2007年 ハイリゲンダム・サミット開催。「2050年までに地球規模での温室効果ガス排出を半減させること」で合意。

    2007年 IPCCがノーベル平和賞を受賞。

    2015年 国連総会でSDGs(持続可能な開発目標)を採択。

    2015年 COP21、パリ協定を採択。2020年以降の温室効果ガス排出削減のために新たな国際的枠組みとなる。

    2021年8月 国連IPCC、温暖化の原因が人間の活動によるものと初めて断定。



    「気候危機と2030戦略」をエネルギー論の視点から読む

    日本共産党がこの度、大長編の政策を発表した。日頃から、エネルギー問題に思うことがあり注目している。≒

    素朴な感想 

    目下のところ粗読み段階なので、偉そうなことは言えないのだが、初歩的な疑問がいくつかある。

    1.それはエネルギー問題なのか環境問題なのか

    「気候問題」は水・空気・海洋などをふくむ包括的な環境問題である。それは水質汚濁、農薬、砂漠化などにたいする闘いの延長線上に位置づけられる。同時にそれはCO2、温室ガスを介してエネルギー問題にもかかわっている。

    私たちはフクシマを経験して、何よりもエネルギー問題としてこの問題に向き合ってきた。それは電力業界、通産省などがフクシマを究極の環境汚染としての核汚染問題ではなく、日本のエネルギー政策に関わる問題として提起してきたからである。そして原子力を「クリーンエネルギー」と強弁してきたからでもある。

    式で表すと クリーンエネルギー ー 子力発電 = グリーンエネルギー ≒  再生可能エネルギー ということになる。

    たぶん、ヨーロッパの環境主義者とは立脚点がすこし異なっているだろうと思う。


    2.電気はエネルギーの一つの形態、不経済な形態に過ぎない

    20世紀を通じて、石炭や石油をそのまま燃やして使うというエネルギー利用は比重が低下した。

    その代わりにあらゆるエネルギーを電気という形に変換して使うことが主流となった。

    電気は、歴史上もっとも便利で清潔なエネルギー形態であるが、もっとも浪費的な形態だ

    一つは電力として利用可能なエネルギーになるために複数次の熱形態変換を行うからであり、一つはエネルギー発生場所と使用場所のあいだに、巨大な送電コストを要するからである。

    そしてもう一つは、これがもっとも重要なことだが、使わなければ消えていくことである。浪費ではなく巨大な空費である。電力消費量と発電量のあいだには、原理的に巨大な差がある。

    それこそが、「電力がいつでもどこでも瞬時に使える」という最大の特性を生み出すための必須条件なのだ。だが本当にそれが必要な時と場合が、果たしてどのくらい、現実に存在しているのだろうか。


    3.エネルギー的に最強の温暖化防止策は節電と蓄電だ

    A) 電気をこまめに切ることの有用性

    電気をこまめに切るだけでどれだけ節電できるかは、皮肉にもフクシマの後、電力会社のデマ宣伝によって明らかになった。

    NHKが毎日、「電気が切れる」と騒いで、原発再稼働を煽った。

    国民は実に素直にこれに従い、節電を心がけた。電力会社は青くなった。既存資源さえ遊休を生じてしまったのだ。いつの間にか電力会社はこのキャンペーンをやめてしまった。そして国民は誰も電力会社の言うことを信じなくなった。

    下の図を見てほしい。「電気が切れる」キャンペーンの結果日本の発電量は10%以上減少している。原発停止による発電量低下の半分を相殺している計算だ。
    発電量推移
         エレクトリカル・ジャパン(Electrical Japan)

    節電を姑息と侮ってはいけない。温暖化をエネルギーの過剰消費と考えるなら節電と、節電関連のイノベーションは根治療法なのだ。それに20世紀型の産業公害型の環境破壊と違い、21世紀型の廃棄物・温暖化型公害の主犯は生活公害だからだ。


    B) ベースロード電源論の逆立ち

    政府は原発維持のために「ベースロード電源論」を持ち出した。

    それは原発が、必要に応じていつでも反応できるからベースロードなのではなく、常時稼働していなければならないという運命を背負っているためである。

    「どんなときにも電気が使えるようにしておくために、原発を常時稼働させなくてはならない。そういう電源がベースロードとして必要だ」というのがおもてむきの理由だが、それは議論の根拠と結論がまったく逆立ちしている。

    九電が原発稼働を優先して太陽光の買電を停止した話は有名だが、これこそ電気が「空費」の塊だという最大の根拠だ(原価ではなく原理の話)。


    C) 夜中に電気が切れたらだめなのか? 蓄電論の提起

    バブルの頃は、すべてのテレビ局が24時間放送を垂れ流していた。最近は少し隙間ができた。

    なくても人間死なない。

    家電にはそうは行かないものがある。最悪のものがストーブ・ボイラーだ。北海道では死んでしまう。冷蔵庫やスマホも困る。

    これを維持するのが社会的ベースロードだ。原発は真っ先にくたばるから、なんの役にも立たない。あの時、泊原発は停止中だったが、稼働させようにも非常電源はイチコロだった。
    北海道胆振東部地震「泊原発が動いていれば停電はなかった」論はなぜ「完全に間違い」なのか

    まっさきに必要なのは、節約しながら2、3日しのげるくらいの蓄電池だろう。
    これはハイブリッド自動車(電池の着脱可能なもの)を改造すれば作れるだろう。これなら維持の手間もかからないし、いつでもどこでも使える。

    これと予備の蓄電池2、3個があれば、家庭生活はオンの字だ。体力に自信があれば除雪機プラス蓄電というのもありだ。


    4.CO2・電気 議論のすり替え

    A) 電気自動車唯一論の押しつけ

    CO2 に関しては、議論のすり替えが行われている。

    再生可能エネルギーか化石エネルギーかという議論が、電気かガソリンかに置き換えられている。

    繰り返すが、電気はエネルギーの発生源ではなくその保存形態に過ぎない。しかも保存形態としてはきわめて多くの欠陥を抱えた形態だ。

    いっぽう再生可能なエネルギーはクリーンではあるが未だ技術的に不安定なところがある。

    当面は蓄電技術のイノベーションが不可欠である。率直に言ってあと10年でどこまで解決可能かは分からない。

    B)  電気を必要なときに必要なだけ

    いま必要なのは、電気が本質的に抱える弱点をどう克服し、浪費・空費をどう抑えるかということではないだろうか。

    考えれば分かることだが、これはそろばんだ。

    たとえば、日中ソーラーで発電しそれをハイブリッド自動車のバッテリーに貯めるとする。それで夜間の暖房と冷蔵庫の電源を確保すれば、各家庭の配電メーターの円盤は回らくなる。

    そうすれば、夜間の無駄な火発の発電も減らすこともでき、「ベースロード電源」など考える必要もなくなる。

    おまけにガソリンの消費も抑えられることになる。ただし初期コストは覚悟しなければならない。

    haiburiddo

    上の図はトヨタのHPからの転載である。「目一杯使うのならこれだけ使えます」ということだが、もうちょっとちまちま使うなら、4日以上使える。電池がなくなりかけると自動車のエンジンが自動でかかるそうだ。まさにオートモバイルだ。ガソリンがあればもっと走って貯めれば、もっと使えることになる。

    トヨタ自動車(特に豊田社長)がいまもハイブリッドにこだわっていて、私としては結構尊敬している。そのために日本は環境後進国扱いされているようだが、騙されてはいけない。

    EV (完全電動車) なんてものは欧米・中国の自動車後進国の陰謀に過ぎない。株屋は別にして、見ている人は見ている。


    5.化石燃料が悪ではない

    化石燃料は大事に使わなくてはいけないが、ご先祖様が残してくれたものだ。使っていけないというものではない。人間は牛や豚や魚を殺して食べているのだが、それは自然の賜物であり循環なのだ。

    肝心なことは、消費との差し引きが自然界の酸素生成と炭酸ガス消費能力を上回ってはいけないということだ。貪るなということだ。

    全盛期から引きずってきた各種の「公害」は、化石資源の不適切な使用(電力使用がその典型)による環境汚染の問題だ。それをエネルギー損得の計算と混同してはならない。

    環境の問題については別途考えたい。

    このたび西尾先生の新刊「被曝インフォデミック」の読後感を書かせていただくことになった。
    何分にも放射線医学の権威である西尾先生の著書であるから、書評などとはおこがましい。それを承知の上で、2、3のポイントのみ紹介させていただきたい。

    1.ICRPについて

    原発問題を「エネルギー問題」として考えるか「被曝リスク」の問題として考えるかで、議論は大きく分かれるのだが、その際に論争の土俵として提示されてきたのがICRPの基準である。

    表題にある「インフォデミック」という言葉は、WHOによる造語で「偽情報の拡散」を意味する。

    つまりこの本は、ICRPによる「偽情報の拡散」を糾弾する目的で書かれている。

    ICRPは「国際放射線防護委員会」の略称である。この一見中立的な組織が、実は原子力産業側の立場に立った「たんなる民間団体」なのだ、というのが最初の論点である。

    そしてICRPの研究論理上の最大の問題は、内部被曝の検討を回避していることにある、と喝破する。

    2.内部被曝について

    内部被曝問題は、チェルノブイリで注目され、イラク戦争時に劣化ウラン爆弾との関連で議論となり、今では多くのエビデンスを得て重要性が確認されている。

    いまフクシマを経て、あらためて知見を整理すべきときになっている。

    西尾先生は内部被曝を原発被害の中心にすえ、子細な検討を行っている。

    内部被曝論の困難は、α線の直接証明が難しいことにある。状況証拠に頼ることになる。

    西尾先生は証拠を積み上げながら、有無を言わせず真相に迫る。

    3.トリチウムの健康被害

    トリチウムに関する記載は第7章に集中している。その内容は圧巻である。

    最新情報がてんこ盛りで、いまやこれを知らずに福島原発を語ることはできない。

    トリチウムは「人畜無害」どころか、原発が持っている「業」のようなものだ。世界中から原発が廃止されるべき究極の理由だ、というのが西尾先生の訴えだ。

    ここまで文字数 791字

    アンモニア再論

    下記の記事を下敷きにした記事です


    アンモニアを燃料に使うというのは、「1万円札も燃料になります」という議論だ

    前回も日経新聞からアンモニアのエネルギー利用を取り上げたが、結局尻切れトンボに終わった。

    前回のテーマは石炭火発でアンモニアを混焼燃料として用いるということだったが、そもそも石炭火発という時代遅れな装置では読む気が起きない。

    いくつかネットの記事もあたったが、「使えますよ」という記事ばかりだ。

    製造コストの高さから見ても、「とてもこれは使えないな」という印象だった。

    今度の記事は、アンモニア製造に自然エネルギーをくみこむことで、環境保全に役立てようということで、アンモニア燃料計画が「下りの技術」とすれば、こちらは「上りの議論」になる。

    8日の日経の科学技術面。
    見出しは三本
    アンモニア製造も脱炭素
    再生エネ活用、原料は空気と水
    秋田・ラオスで実証へ

    アンモニアは大事な化学原料

    最初に驚いたのだが、世界のアンモニア生産量は年間1億8千万トンだそうだ。

    合成繊維や化学肥料の材料だということで、そう言えばむかしグアノ(鳥糞)が輸入できなくなったドイツが窒素の固定法を発明して、肥料を字まかないできるようになったというふうな話を聞いたことがある。

    これが「ハーバー・ボッシュ法」というのだそうで、20世紀はじめから現在まで使われ続けている。

    これにもびっくりする。多量の水素を準備した上で、高温・高圧下で空中の窒素と反応させるのだそうだ。そのまんまである。

    1世紀も前の技術をそのまま使っているのだから、ほとんど奇跡的だ。

    水素3個と窒素1個が化学反応してアンモニアになるには大量の天然ガスが必要だ。

    記事によるとアンモニア生産のためのエネルギー消費は世界のエネルギー消費の1%にも達するそうだ。それだけの天然ガスを燃やすと、世界のCO2排出量の3%を超えるそうだ。

    アンモニアを燃やして燃料代わりにするという議論が、いかに本末転倒かがわかる。

    アンモニアを板に効率よく生産するかが最大の課題なのであって、それをただ燃やすというのは、1万円札を燃料にするのと同じことではないか。


    アンモニア生産の新技術

    そうするとこちらもがぜん熱が入る。

    課題は多分二つある。膨大なエネルギーを再生可能エネルギーでどう賄うかとういのが一つ。
    もうひとつは、化学反応だから、なんとか効率の良い触媒を開発できないかということだ。

    この記事の特徴は、情報を突っ込みすぎているために、「なぜ」というところをすっ飛ばしていることだ。しかしまさにそこが知りたいところなのだ。この辺が文系と理系の違いなのだろうか。

    まず最初の課題、これは再生可能エネルギーを加水分解に利用し水素を作ることだ。これは世界中で今取り組んでいる課題で、液化水素を天然ガスのように使おうとする計画だ。

    水素を産生するだけでなく、さらにその水素を使ってアンモニアを作ろうという研究も、それなりに進んでいる。

    それなりにと言うのは、水素をアンモニアに変換すると、エネルギー効率が格段に上がり、輸送効率や各種設備のサイズダウンが可能になるのだが、問題は現在の生産方法だと再生可能エネルギーには荷が重すぎるということだ。

    そこで、決め手となるのはやはり触媒の開発だ。ある意味できわめて20世紀的な技術ということになる。


    新触媒 エレクトライド

    日経が取り上げているのは、東京工大の細野らが開発した「エレクトライド」という触媒技術だ。

    ただしこれについては「セメントの構成成分からない、低温・低圧で合成できる」という以外に説明はない。おそらく酸化・還元工程を含むのだろうが…

    すでにこの化学工場と水力発電をコンバインさせたプラントがラオスで建設予定になっているそうだ。

    その他に同じ東工大の原らのグループが開発した触媒も紹介されている。

    こちらの方は「カルシウムや貴金属のルテニウムなどからなり、50℃未満でアンモニアを合成できる」のだそうだ。こちらのほうがいかにもそれっぽい。ただしなんとなくお正月用のヨイショ記事に見えなくもない。


    アンモニアは炭化水素と並ぶ川上資源

    とにかく炭酸ガスに目を奪われる発想ではなく、アンモニアを資源サイクルの起点として見ていく視点が必要だろう。

    前回のアンモニア記事にはそこが欠けていて、それがわかりにくさをもたらしている。今回の記事も煩瑣な点では同じだが、この視点が定まっているだけ、読み解き可能である。

    さらに続報を期待したい。

    1.九州南部縄文文化と野焼き

    先日、テレビで阿蘇山のカルデラ内の野焼きの風習が取り上げられていた。

    とくに私の興味を引いたのは阿蘇における野焼きが1万3千年前から続いているという事実だった。

    地層を掘り返せば、それはかなり明白な事実として確認できるだろう。

    阿蘇だけでなく姶良・鬼界カルデラから、霧島、雲仙、桜島と噴火の歴史はしおりのように地層に織り込まれているはずだ。


    2.野焼きの焼畑との違い

    そして1万3千年という数字が、南九州における早期縄文の出現とピタリと一致することが、私を驚かせた。

    まさに南部縄文は野焼きとともに始まった。そして火の大規模な使用が副産物としての素焼き土器を生み出し、縄文文化を導き出したと言えるのではないだろうか。

    番組の紹介では、野焼きによって管理された草原という環境を作り出し、年間のエネルギーやCO2の出納をちゃらにしつつ、人間の住める空間に変えるというのが野焼きのサイクルなのだという。

    焼かれた野は、狩猟・採集文化の舞台なのだ。

    そこが焼畑と異なるところで、焼畑の場合は焼いたあとそこから地力を収奪する。そして何年かの後にはそこでの耕作を放棄し再生を待つ、というサイクルになる。野焼きは植物が生え、育ち、生き物を育み、人間はそのおすそ分けに預かる。耕作はしない。


    3.野焼きが縄文文化(南方)を生み出した

    そしてこれこそが関東以北に起こった縄文文化とは別個の南方縄文文化を説明する根拠なのではないか、とひらめいたのである。

    なぜなら、常緑樹林は落葉樹林と異なり、そのままではただの緑のジャングルでしかない。人間を寄せ付けない酷薄な自然である。縄文人が生きていく手段を提供することはできないからである。

    もちろん、これは想像であり1万3千年前(最終氷期)の南部九州が常緑樹の森林だったとする根拠はない。だが落葉樹林であったとすれば、野焼きをする必要もなかったはずである。

    そうすると、おのずから目はグローバルな歴史へと広がる。世界における人類の歴史のトバ口で野焼きはどんな役割を果たしたのだろう。

    その答えがわかれば、南部九州の縄文文化についてもおのずから回答が与えられるのかも知れない。


    3.野焼きへの “科学的” 批判の嵐

    とは言うものの、今や野焼きは四面楚歌の状態である。というより犯罪扱いされている。

    これはエコロジーではなく「環境ハラスメント」である。しかもこのキャンペーンにはかなりの「科学者」が手を貸している。このあたり「嫌煙ハラスメント」と良く似ている。

    私は医師の端くれであり、科学的視点を無視するわけではない。だが、この論争にはもっと多くの、「非」科学者が絡むべきである、と考える。

    人類史の黎明期から延々と営まれ続けてきた「野焼き」という業が人類にとって悪いものであるはずはないのだ、という確信から出発すべきである。それは人類が初めて「環境」そのものを改編し、管理する瞬間だった。その炎は人類文化の発祥を告げる狼炎であったはずだ。

    それは人類史的な確信であり、変革の立場からのダイナミックな視角であり、構造学的枠組みからの脱出である。


    4.野焼きのエコロジー

    霧島市のホームページには次のような記載がある。
    かつては里山の雑木林から薪や炭を作り、落ち葉は田畑の肥料に利用するなど、人為的な管理により良好な環境が保たれていました。
    しかし生活様式の変化から、里地里山との関わりが減少し、手入れ不足による荒廃が進んでいます。
    スギ・ヒノキ植林地では適切な管理がされず、森が暗くなり下層植生が失われています。そのため、周辺の植生は単調になっており、そこに生息・生育する生きものも少なくなっています。
    …草地はこれまで、人の手により草刈りや火入れ等の管理を行ってきたことによって維持されてきました。しかし、人の手が入らなくなると、植生の遷移が進み木本類が侵入してきて草地は消滅します。
    CO2という単一のものさし、価値観で事物を裁断するのは、特定の立場の人々の思い上がりだと思う。


    水素を用いた自然エネルギー利用の第三段。
    これも日経新聞の12月28日付け一面トップだ。
    まずは三段からなる見出し
    三菱重が水素製鉄設備
    CO2 排出ゼロに
    欧州で来年稼働へ

    1.製鉄とCO2

    鉄鋼業界のCO2排出量は年間20億トン。これは20年前の2倍に達している。
    製鉄由来CO2排出量の、全産業に占める割合は25%。これも20年前に比べ5%増えている。
    すなわち製鉄工程のCO2排出は最大最悪となっており、その改善がCO2 削減の鍵を握っている。

    2.製鉄工程がCO2を生み出すメカニズム

    鉄鉱石は酸化鉄の形で採掘されている。これを鉄として用いるためにには還元(精錬)が不可欠だ。現在の精錬法は、石炭(コークス)を燃焼させて、炭素を鉄鉱石内の酸化鉄と結合させ、二酸化炭素として取り出すもの。ある意味では、炭酸ガス産出は精錬過程の本質的な一部だ。 

    3.炭素の代わりに水素で還元する

    炭素の代わりに水素を酸化鉄にくっつけると、炭酸ガスの代わりに水(H2O)が産生され、排出される。残りは還元されたFeとなる。

    もちろんそれにはエネルギーが必要だが、エネルギーの供給役は水素が果たす。それは石炭がエネルギーを供給すると同時に、酸素の受け手としての炭素の供給者になるのと同様である。

    4.水素製鉄の実用可能性

    このプラントはDRIとよばれ、“鉄鉱石を水素で直接還元する” 手法なのだそうだ。高炉に比べ生産量は少ないものの、投資額は半分以下となるらしい。ただし記事からは詳細は不明。

    ページ下に解説

    5.ネックは安価な水素の供給

    水素の現在の価格は1立米で100円。これを10円以下に押さえないと採算には乗らならしい。

    それにしても炭酸ガスといい水素といい、いざ使おうとなるとそうかんたんなものではないようだ。「雲をつかむような話」にならなければ幸いだが…


    水素DRI法の解説 (神戸製鋼所のページより

    以下の解説は神戸製鋼所のHPからのもの。日経新聞に紹介された三菱重工方式とはやや異なる可能性があるが、原理的には同じものと思われる。



    Midrex社の水素を活用した直接還元製鉄法。当社グループ100%子会社であるMidrex Technologies, Incの保有する技術。

    直接還元法(DRI: Direct Reduced Iron)

    これまでミトレックス社では天然ガスを還元剤とする直接還元鉄プラントを開発してきた。

    これは天然ガスを還元剤として、粉状の鉱石を加工したペレットをシャフト炉によって還元し、還元鉄を製造する方法である。

    今回は天然ガスではなく水素を還元剤とする直接還元鉄プラントを実証実験した。

    水素は天然ガスプラントの炉頂ガスに含まれる水素を回収し利用した。


    天然ガスベース

    水素還元

    Fe2O3+3CO→2Fe+3CO2

    Fe2O3+3H2→2Fe+3H2O

    Fe2O3+3H2→2Fe+3H2O




    燃料アンモニアよりメタン

    前項記事で燃料アンモニアをこき下ろした。
    今度は水素によりメタンガスを産生させ、これを貯蔵可能燃料とするプランだ。
    たしかにこれだと天然ガス並みのエネルギーが引き出せる。

    それが日経新聞12月20日付けの記事だ。見出しは下記の通り。
    CO2+水素 再利用で連携
    日中、メタンガス製造
    世界最大プラント建設へ
    内容は私の思いと多少ずれているので、そのまま紹介しても仕方ない。要点だけ紹介する。

    実は、水素は産業廃棄物でもある。
    それは化学産業や製鉄などで多く発生する。もちろん炭素燃料を使用すれば炭酸ガスが発生する。

    この2つを結合すると、メタンが発生する、というのが日経の話だ。

    ここから先は私の話。

    風力発電で得られる電気で水を電気分解して水素を獲得する。これを加圧・液体化して運搬するというのが、当初の話だった。

    しかしこれは、水素の容量あたりエネルギー発生量が低く、コスト的に厳しい。また輸送・貯蔵にもLNGの数倍の費用がかかるという。

    だが、ここで産生された水素を炭酸ガスと反応させて、メタンガスにしてはどうだろうか。

    メタンガスであればLPGとほぼ同等の燃料効率が期待できる。

    たしかにメタンガスの燃焼は炭酸ガスの産生をうながすが、それはもともと存在した炭酸ガスのリサイクルであって、その増加をもたらしたわけではない。

    それと炭酸ガスを目の敵にして、CO2 削減を自己目的化するのは、どうも本末転倒の気がする。炭酸ガスの多い地球は、基本的には人類に優しい温暖な気候なのだ。

    (少なくとも当面は)問題は、化石燃料の過剰使用による大気汚染であり、合成樹脂による環境汚染だ。さらに原子力の統御力なき利用による核汚染の拡散なのだ。


    問題は炭酸ガスの取り込み

    ただ記事を見ると、それでもコスト的には厳しい。工場内、あるいは近接する工場群のあいだの廃物のやり取りにとどまるようだ。

    問題はおそらく炭酸ガスの有効な取り込みなのだろうがこの仕組をもう少し知る必要がありそうだ。


    燃料アンモニア 

    はじめに
    私はこれまで水素こそが次世代エネルギーの核心と考えてきた。
    もちろん水素そのものはエネルギーの担体であり、人類が依拠すべきエネルギー源ではない。
    基本的なエネルギー源は、いまもこれからも太陽光と風力だ。
    水素はそれを輸送・保存可能なエネルギーとする一種の蓄電体だ。これは「エネルギーキャリア」と呼ばれるらしい。

    それを前提に考えるなら、水素はLPGのように取り扱うことも可能ではないか。

    そこで三井物産が10年前に提示した夢が広がった。パタゴニアで風力発電プラントを立ち上げ、そこで発電した電力を水解法で水素に変える。これをタンカーで日本まで運ぼうというのだ。
    しかしこれには強力が障壁があることがわかった。水素の重量・容量あたりのエネルギー発生量がかなり低いことである。したがって輸送コストが倍になる。
    これは引き続きエネルギー源を海外に広く頼ろうとする日本にとってはかなりの障害になる。

    はたと考え込んだときに、「燃料アンモニア」の記事が飛び込んできた。これは水素に代わりうるのだろうか?

    アンモニアを燃やして発電」という記事から勉強を始めたい。

    著者は小林 秀昭(東北大学 流体科学研究所 教授)という方です。


    1.ガスタービンで世界初を実現

    2014年、小林らはアンモニア燃料のガスタービン発電を実現した。
    さらに2018年にはメタンに20%のアンモニアを混ぜた燃料で2MWの大型ガスタービン発電に成功している。
    ということで、「アンモニアも混ぜたメタンガス」というのが真相のようだ。
    しかもそれが世界初というから、操業化までは道遠しの印象だ。
    まぁここまで来たのだから一応は目を通しておこう。

    2.アンモニアの燃焼性は低い

    アンモニアはメタンなどの炭化水素系燃料と比較して、炎を良い状態で安定させる“保炎範囲”がとても狭い。燃焼速度も非常に遅く、メタンのわずか5分の1に過ぎない。

    小林らはアンモニアを石炭火発で混焼させることで石炭の使用料を減らし、炭酸ガスの産生を減らすことができるという。

    ああ、ほとんど絶望的だ。さらにアンモニアの燃焼によって生じる窒素酸化物も厄介だ。

    3.CO2 より NOx のほうが良いとはいえない

    原理的にはNH3のHがO2と結合してNとH2Oになるのだろうが、NOx(窒素酸化物)の産生の可能性はないのだろうか。やはり気になってしまう。

    CO2 より NOx のほうが良いとはいえないと思う。

    結局は蓄電池問題なのだ

    これまではどれが良いか問題のはなしである。それはこれからも続いていく話題になる。
    しかし、なぜこんな話に門外漢の私がこだわるかということが実は一番の問題なのだ。
    同日の日経の7面に
    「50年排出ゼロ目標 電気料金値上げ抑制のためには9兆円投資が必要に」
    という記事がある。

    これによると蓄電池とCCS(二酸化炭素の回収・貯留)で9兆円の投資が必要とある。内訳は蓄電池配置に4兆円、水素発電所とCCSの建設に5兆円とされる。

    ただ記事をよく読んでいくと、これは石炭火発をゼロにしたときの試算のみで、原発・火発はいまのままということだ。

    原発と石炭火発をやめて自然エネルギーでそれを賄うとすれば、原発44基分44ギガワットの蓄電池が必要になる。その際は蓄電池本体で7兆、送電網増設に10兆円が必要になる。

    アンモニアやメタンの話は、この発送電システムを全面オンラインにするが、一部オフラインにしてコスト節減は測れないかという話である。それと国内だけでなく海外の電力資源も使い回すとすれば、「動く蓄電体」の検討は不可欠の話題だ。


    2020年12月03日に「電池問題と水素」という題名で記事を上げたところ、コメントを頂いた。
    正直のところ2013年くらい辺りから原発問題からはすっかりと足が遠のいてしまった。忸怩たる思いである。

    その後、数年間の代替エネルギーをめぐる動きをちょっとさらっておきたいと思う。

    その前にまず、以前書いた代替エネルギー関連の文章を改めてリストアップしておく。









    2013年03月16日  風力発電は日本ではだめ?



    2012年11月21日 沖縄米軍基地を太陽光発電基地に
    2012年10月26日 昭和基地の発電セットの詳細


    2012年10月25日 液化するだけが水素じゃない




    火力、風力、太陽光いづれでも結局、蓄電技術が物を言う。
    蓄電は原発事故以来、エネルギー問題の最大のネックだ。一番構造的にかんたんなのはポンプを回して揚水してこれを夜使うという方式だが、かなりロスが大きいようだ。
    NAS電池はどうもだめなようだ。リチウムは資源問題が裏腹の関係になっている。
    ということで一時は水素が究極のエネルギー源になるのかと期待された。何らかの形で獲得されたエネルギーで水を電気分解する。水素を液体にしてタンカーで運び、天然ガスのようにして使う。あるいはこれを燃焼させて電気を発生させる、という具合だ。

    ところがこれが一向に進展しない。
    11月のフィナンシャルタイムズによると、イギリスは国策として水素技術を追究し始めた。EUでもグリーン水素計画として、今後10年間で電解用の水槽を40ギガワット建設すると発表した。
    そういう掛け声の割に実業界からは水素の声は聞こえてこない。
    水素ガスは天然ガスに比べ発熱量が大幅に低い。水素爆発の危険を克服しきれていない。これらの障壁が重くのしかかっている。これは水素の代わりにアンモニアを使用するときにもおなじである。

    今後、蓄電技術の分野では一段のブレイクスルーが必要となるだろう。

    はじめに

    3月7日に「泊原発を再稼働させない連絡会」の講演会があって、元福井地裁の裁判長の樋口英明さんがお話をされることになっている。

    2014年5月、福井地裁で大飯原発運転差し止めの判決が出された。ついで2015年04月、福井地裁で高浜原発運転差し止めの判決が出された。

    これらは今日各地で出されている、原発差し止め判決の雛形ともなっているものであり、今一度確認しておくべきであろう。

    樋口さんは、この2つの判決を出された方である。演題はずばり「私が大飯原発を止めた理由」となっている。聞かない理由はないだろう。

    ただし話は法理論も入ってきて多少むずかしいと思う。少し私なりに勉強した中身を紹介しておきたい。

    Ⅰ.判決に至る経過

    こういう下世話な話は素人にもわかりやすい。それとこの判決の意味が逆に証明されたことにもなるので、分かる範囲で紹介しておきたい。

    樋口英明氏は当時62歳。福井地裁の裁判長を勤めていた。まず2014年に大飯原発の稼働を差し止めている。この判決は名古屋高裁(金沢支部)であっという間にひっくり返された。

    高浜差し止め判決については相当の悶着があった。3月になって、関電側は学者や専門機関による意見書の提出を要求、判決の引き伸ばしを図った。

    樋口裁判長はこれを認めなかった。すると関電側はその場で裁判官の交代を求める「忌避」を申し立てた。

    このような忌避が認められるわけはないが、名古屋高裁でそれが棄却されるまで、一時的に裁判は中断となる。

    ところがその間に4月になり、樋口氏は「定期異動」という名目で、名古屋家裁への転勤を命じられた。

    樋口氏の後任裁判長は同じ15年の12月に高浜の差し止め仮処分をあっさりと覆した。判決そのものも18年7月に高裁で覆されている。

    「グル」だと断定はしないが、相当いやらしい人事である。しかも福井地家裁から名古屋家裁・簡裁といういわば左遷人事である。ただしこの案件が継続審理だったために、旧ポストで仮処分決定を出すことには成功した。

    樋口氏はこの職を最後に定年退職となった。



    実は不勉強で、14年の大飯原発訴訟と15年の高浜原発訴訟の2つがあることを知らなかった。
    したがってその2つの判決の違いもよく分かっていない。両方とも樋口さんの作成したものである。

    最初の大飯原発判決は、「人格権」という考えから訴訟の妥当性を導き出し、「万が一」の論理から裁判による差し止めの妥当性を導き出す。

    いわば2階建ての論立てになっているが、詰まるところは裁判所の判断権原が司法の責務に由来していることの論証である。

    ① 人格権の枠組み

    人格権は生存を基礎としているから、すべての法分野において、最高の価値を持っている。
    人格権は憲法13条と25条に規定された権利である。
    それは裁判においても依拠すべき解釈上の指針である。
    生存に関わる人格権侵害のおそれがある際は、執行の差止めを請求できる。
    また、多数の人格権を同時に侵害する恐れがあるときは、なおさらである。

    ② 「万が一」の論理

    原発に求められるべき信頼性はきわめて高度なものでなければならない。

    大きな自然災害や戦争以外で、憲法の人格権がきわめて広範に奪われる可能性は、原発事故のほかは想定しがたい。

    かような事態を招く具体的危険性が万が一でもあれば、その差し止めが認められるのは当然である。

    ③ 裁判所の判断権原

    ①と②からして、原発の安全性判断を避けることは裁判所に課された最も重要な責務を放棄するに等しい。

    原発の安全性基準があっても、その事項については裁判所の判断が及ぶ。

    原子力規制委員会は新規制基準への「適合性」の審査を行うが、「安全性」については、裁判所の判断が別個に及ぶべきだからである。



    大飯原発から1年経って、こんどは高浜に関して同じような訴訟があった。

    高浜判決については、少し詳しく勉強した。おそらく判決も大飯から1年経ってさらに踏み込んでいるのであろうと思われる。

    判決内容は耐震性評価、使用済み核燃料の保管に関して具体的に踏み込んで問題を指摘している。

    念頭に置いているのは明らかに原子力規制委員会の安全性評価である。そこには「規律ある操業」を目標とする委員会への強い批判の声が聞かれる。

    1. 基準値震動について

    「基準地震動」は当該原発に想定できる最大の地震動である。それを超えれば炉心損傷に至る危険をも含む。

    「基準地震動」は計算で出た一番大きな揺れの値ではないし、観測そのものが間違っていることもある。基準地震動を策定する合理的根拠は見い出し難い。

    実際には「基準値振動」は何度も越えられている。原発の所在地は20ヶ所たらずだが、この10年足らずのあいだに4ヶ所で「基準地震動」を超える地震があった。

    高浜原発の「基準値振動」も過去における地震の記録と周辺の活断層の調査分析に基づいている。高浜のデータだけが信頼に値するという根拠は見い出せない。

    2.「基準値未満なら安全」とはいえない

    高浜原発が運転を開始した時、基準地震動は370ガルであった。その後関西電力は、「安全余裕がある」との理由で550ガルに引き上げた。しかしこのとき根本的な耐震補強工事は行われていない。
    さらに新規制基準が実施されたのを機に、700ガルにまで引き上げられた。このときも根本的な耐震補強工事は行われないままだった。

    原発の耐震安全性確保の基礎となるべき「基準地震動」を、何のしかるべき対応もなしに数値だけ引き上げるということは、無責任な耐震安全性の引き上げと言わざるを得ない。それは関西電力のいう「安全設計思想」とも相容れないものである。

    とはいえ、関西電力の基準地震動、700ガル以下なら安全なのだろうか。
    実際には700ガルを下回る地震によっても、①外部電源が断たれ、②主給水ポンプが破損し、③主給水が断たれるおそれがある。
    関西電力はこのことを自認している。

    関西電力は「原発の安全設備は多重防護の考えに基いている」という。しかし、多重防護とは「堅固な第一陣が突破されたとしてもなお第二陣、第三陣が控えている」という備えを指すのである。第一陣の備え(外部電源と主給水)が貧弱なため、いきなり背水の陣となるような備えは、多重防護とは言いがたい。そのような「第一陣軽視」の考えは、多重防護の意義からはずれていると思われる。

    外部電源と主給水によって冷却機能を維持するのが原子炉の本来の姿である。外部電源と主給水は安全確保の上で不可欠な役割を担っている。これら「第一次設備」はその役割にふさわしい耐震性を求められる。それが健全な社会通念である。
    しかるに、関西電力はこれらの設備を「安全上重要な設備でない」と主張している。だから「安全なのだ」ということになる。このような債務者の主張は理解に苦しむ。

    このような考えのもとでは、「基準地震動」である700ガル未満の地震においても、冷却機能喪失による炉心損傷に至る危険が認められると言わざるをえない。

    3. 小括

    関西電力は他の原発敷地と高浜原発との地域差を強調している。しかしその地域差なるものは確たるものではない。全世界の地震の1割が我が国の国土で発生しているのであり、「日本国内に地震の空白地帯は存在しない」と考えなければならない。

    その上さらに、基準地震動に満たない地震によっても、冷却機能喪失による重大な事故が生じ得るのである。すなわち高浜原発の危険は、「万が一」というレベルをはるかに超える現実的な危険である。

    4. 「使用済み核燃料」というもう一つの問題

    使用済み核燃料は、将来、我が国の存続に関わるほどの問題である。しかしそれは堅固な施設によって閉じ込められていないのが実情である。格納容器に代わるべきものとして使用済み核燃料プールが位置づけられているが、その耐震性はBクラスにとどまっている。

    なぜか? その理由は「使用済み核燃料を閉じ込めておくための堅固な設備を設けるためには膨大な費用を要する」からである。

    そこで「深刻な事故はめったに起きないだろう」という見通しのもとに、姑息的な対応で済まされている。すなわち、「国民の安全を何よりも優先」との見識は前提とされていないのである。


    5. 当面、守られるべき住民の安全について

    A) 安全性確保に必要な方策

    原発の脆弱性を補強し安全性を確保するためには、

    ①基準地震動の策定基準を見直し、基準地震動を大幅に引き上げ、それに応じた根本的な耐震工事を実施する、
    ②外部電源と主給水の双方について、基準地震動に耐えられるように耐震性をSクラスにする、
    ③使用済み核燃料を堅固な施設で囲い込む、
    ④使用済み核燃料プールの給水設備の耐震性をSクラスにする

    などの方策がとられなければならない
    さらに、中央制御室へ放射性物質が及ぶ危険が予想されることから、耐震性及び放射性物質に対する防御機能が高い免震重要棟の設置が必要である。

    しかるに原子力規制委員会が策定した新規制基準は、①~④について規制の対象としていない。免震重要棟については無期限の猶予期間が設けられている。かような規制方法に合理性がないことは自明である。

    B) 新規制基準に求められるべき合理性 「万が一」への備え

    平成4年の最高裁判決(いわゆる伊方判決)の趣旨は、まず「原発の周辺住民に重大な危害を及ぼす深刻な災害が、万が一にも起こらないようにする」ことである。そのため、「原発設備の安全性につき十分な審査を行う」ことにある。

    そうすると、新規制基準に求められるべき合理性とは、「深刻な災害を引き起こすおそれが万が一にもない」といえる厳格な内容を備えることである。

    しかるに、新規制基準は上記のとおり、緩やかにすぎ、これに適合しても本件原発の安全性は確保されていない。新規制基準は合理性を欠くものである。

    そうである以上、もはや新規制基準に適合するか否かについて判断する必要はない。そこには、住民が人格権を侵害される具体的危険性が明らかである。


    6. 保全(仮処分)の必要性について

    高浜原発の事故によって住民は取り返しのつかない損害を被るおそれがある。したがって、本案訴訟の結論を待つ余裕はない。

    すでに原子力規制委員会の設置変更許可がなされている現状では、現状を保全する(緊急の)必要性が認められる。



    「万が一」論の根拠は最高裁「伊方判決」である。これは1993年の最高裁第一小法廷判決を指す。

    「伊方判決」の趣旨は、原発周辺住民のに深刻な災害が万が一にも起こらないようにすること(一次予防)。そのため、原発の安全性に十分な意を尽くすこと(二次予防)にある。

    判決当時にはあまり注目されていなかった部分だ。判決全文(判例倉庫)を読むと、以下の行が出てくる。

    原子炉設置許可の基準として、右のように定められた趣旨は、
    ①原子炉が原子核分裂の過程において高エネルギーを放出する核燃料物質を燃料と して使用する装置であり、
    ②その稼働により、内部に多量の人体に有害な放射性物質を発生させるものであって、
    ③原子炉を設置しようとする者が原子炉の設置、運転につき所定の技術的能力を欠くとき、又は原子炉施設の安全性が確保されないときは、
    A 当該原子炉施設の従業員やその周辺住民等の生命、身体に重大な危害を及ぼし、
    B 周辺の環境を放射能によって汚染するなど、深刻な災害を引き起こすおそれがある
    以上①~③にかんがみ、右災害が万が一にも起こらないようにするため(努力しなければならない)

    これが福井地裁判決の法的根拠を形成しているのである。

    ということで、結果的には原告側敗訴でったが、重要な前進があったのである。それが「万が一論」である。

    第二次の第三者委員会の調査は進行中である。しかし去年にも一度内部調査は行われているのである。第二次の委員会が作られたということは、第一次の内部調査がいかにずさんであったかを証明している。
    その内容は発表されていて、関電のホームページで閲覧可能である。

    第1回調査委員会の報告の要旨
    ほとんどが言い訳と合理化、居直りに終止している報告であるが、そのなかでも以下の核心的事実は消すことができない。
    ①20人が金品の譲渡を受けていた。
    ②工事等の案件に関連して要求されることはなかった。
    ③森山が金品を渡すのは自己顕示欲の表れと考えられていた。
    ④対応者は金品の出所について深く考えたことはなかった。
    ⑤当社幹部が森山氏に特別対応した事実は認められなかった。
    ⑥対応者は後日返却する意図で金品を保管していた。会社としての管理はなされていなかった。
    ⑦スーツ生地、商品券など一部については費消された。(たしかに全部でなければ一部だよな)
    ⑧渡された金品の一部は所得税の対象だと指摘され、当該分を納税している。
    ⑨森山氏には地元重視の観点から工事概算額を提供していた。しかし森山の依頼を受けて吉田開発に発注することはなかった。(強姦犯が「服は脱がせたが、体には触らなかった」と言うが如し)
    ⑩森山氏はかなりの頻度で金品を持ってきたので、情報提供の見返りとして金品を持ってきているという認識は持たなかった。
    ⑪返却を押し通すことは困難だったが、機会を見つけて順次返却しており、その大部分は返却済みである。
    ⑫文書の提供は、秘密文書の指定・解除を行う責任者が行っており、社内ルールに照らして必要な手続きは行われている。しかし工事概算額や発注先を開示したことは適切とは言えない。(これは不適切な行為ではなく、談合であり犯罪行為である)
    ⑬提供は吉田開発ではなく森山氏に対して行われたのであるが、それが伝達される可能性を考慮しなかったのは軽率であった。

    関電と解同

    結局問題の根っこはここに行き着くようだ。
    60年代末から70年代にかけて、関西では解同の「糾弾」の嵐が吹きまくった。その典型が八鹿高校事件であり、あいつぐ自治体行政への介入だった。

    警察は見て見ぬ振りをし、メディアは沈黙した。ときによっては加勢までした。地域で解同とまともに立ち向かうのは共産党だけだった。

    なぜ民主主義の世の中でかくも野蛮なゴロツキ集団がのさばったのか、私たちはまだ十分な検証ができていない。

    そのかさぶたが剥がれ、血が吹き出したのが今回の関電汚職なのだろうと思う。

    おそらく、その腐れ縁は70年代前半、若狭湾に面して次々と原発が建設された時期に形成されたのであろう。

    60年代には、運動弾圧のために暴力団が投入された。三池闘争がその典型である。暴力団はしばしば右翼を偽装した。政治団体であれば思想信条の自由の原則が適用される、それを見込んでのことである。

    かくして、暴力団による襲撃は組合内の左右両派の激突と描き出され、労働者への国民の支持は失われていった。

    流石にヤクザや暴力団を直接雇うのは気が引けたのだが、そこにおあつらえ向きのゴロツキが登場した。それが解同である。

    彼らは「人権擁護」を掲げてこの世界に飛び込んできた。警察はそれを理由にして手を出さない。一種の治外法権的な雰囲気が形成された。

    朝日ジャーナルや全共闘もそれを煽った。解同の無法と闘う共産党は反人権団体だと逆宣伝された。

    それが結果として原発地元をズタズタにし、反原発派を排除し、原発建設への道を掃き清めたことになる。

    関電がそれを指示し、資金を投入したという証拠はない。しかしそれが今回の事件で垣間見えたということではないのか。関電の後ろ暗さが解同の暴力行為を助長してきたのではないか。
    そのような疑いが捨てきれない。



    なお調査委員長を勤めた小林敬という人物は、大阪地検特捜部として「世紀のでっち上げ」を指揮した人物であり、その後罷免されたという経歴の持ち主だ。
    秋霜烈日というのは検事としての厳しさを形容する言葉だが、この人は自分より目上の人にはめっきり優しくなってしまう二面性を持っているようだ。そういう人物を調査委員長に指名する関電の傲慢さが、150ボルトの電圧で感じられる。
    ウィキペディアには次のような記載がある。
    調査にあたって森山元助役から聞き取りをせず、一方当事者の言い分のみを記したことについて指摘されると、「そこまでは思いが至らなかった」と弁解した
    これを読めば、第三者委員会の再立ち上げの理由もよく分かる。どっちにしても小林敬という人物、もはや先はないだろう。


    森山栄治 経歴

    1928年(昭和3年) 福井県大飯郡高浜町西三松で出生。

    1949年 京都府庁に就職。

    1969年

    12月 町長から招聘を受け高浜町役場に入庁。

    以後、民生課長、総括課長、企画課長、収入役や助役などを歴任。

    12月12日 関西電力高浜原子力発電所1号機に対する設置許可。

    1970年 大飯郡高浜町西三松の自宅に福井県内唯一の部落解放同盟支部として高浜支部を組織。「糾弾」を繰り返す。

    1970年 部落解放同盟の福井県連の書記長となる。高浜支部の書記長も兼任。

    1972年 部落解放同盟中央本部によると、「言動が過激すぎたため、2年で書記長職を解任された」とされるが、経過から見て真っ赤な嘘。

    1971年 福井県の客員人権研究員に就任。2018年まで在任。 

    1975年 高浜町の収入役に就任。

    1977年4月 高浜町助役に就任。

    1987年5月 高浜町役場を退職。その後、高浜の建設会社役員、高浜町都市計画審議会委員、高浜町教育委員長等を務める。

    1987年 関電プラント(関電子会社)顧問となる。2018年まで在任。

    1996年 法務省人権擁護局より感謝状を受ける。

    2004年 プルサーマル計画導入を推進し、反対派の今井理一町長と対立。

    2007年 原発警備会社「オーイング」の筆頭大株主となる。その後の12年間で10倍に売上を伸ばした。また顧問を勤めた建設会社吉田開発は、無入札による特命発注で売上を6倍に伸ばした。

    2009年 福井県人権施策推進審議会委員に就任。18年まで務める。

    2010年 任期満了に伴い、高浜町教育委員を退任。

    2017年 「オーイング」の取締役を退任。自宅を京都市から高浜町に移す。

    2018年

    1月 財務省国税庁金沢国税局の税務調査を受け、帳簿や資金の提供元や供出先が記されたメモが押収された。

    2011年から2018年にかけて、関西電力の八木誠会長や、岩根茂樹社長、豊松秀己副社長、森中郁雄副社長らに、「原発マネー」とおぼしき3億2千万円を渡していたことが、明らかとなる。

    2月 関西電力側から約1億6千万円相当を返還。

    10月 内部調査委員会を結成。委員長の小林敬は元大阪地方検察庁検事正で、証拠改ざん事件で懲戒処分を受けて退官した人物。

    2019年

    3月 90歳で死去。

    9月27日 上記情報を朝日新聞が報道。各社が追随。
    菅原一秀経済産業大臣は、記者会見で「言語道断。ゆゆしき事態だ」と語る。更田豊志原子力規制委員会委員長は、「まだそんなことがあるのか」「憤りを感じた」と語る。

    10月2日 関西電力が記者会見。金品の受領を断ると土下座を強要されるなど、断れない力関係にあったと説明(さぞかし楽しい土下座であったろう。できるなら私も、懐ろに小判を押し込まれてみたいものだ)

    10月9日 臨時取締役会が開かれる。八木会長と森中副社長、右城常務、鈴木常務、大塚常務が退任。


    というのが、森山に関するあらあらの経過。これだけでも十分すぎるほどの悪漢だ。
    しかし、どうも解せない。関電の役員は本当に被害者なのか。
    おそらく贈られた賄賂の数百倍~数千倍が関電から森山に流れていただろう。それは消費者の支払った金である。返す先が間違っている。
    言うまでもなく関電は独占企業で消費者には選択の余地はない。ある意味でこれは泥棒だろう。泥棒というより強盗でありサギだ。間違いなく刑事犯であり、牢屋に入るべき犯罪だ。
    ところが、その後の報道がぱたっと止まっている。これはどうしたことか。
    少し調べてみなくてはなるまい。

    拾った日経新聞日曜版 その2

    2.ホルムズ緊張 LNGも影響 海峡通過は14%だが、原油連動がアダに

    サウジの原油施設が攻撃され、11日にはイランのタンカーが紅海で攻撃された。

    こうした中でLNGの価格も上がっている。16年の底値がトンあたり3万円余だったのが最近では5万円を超える価格にまで達している。

    LNGは震災後の原発停止時の救世主となった。あのときはLNGを入手するために四苦八苦した。高いスポット買いを余儀なくされ、しかもパイプラインが不備なためにとんでもない輸送コストを強いられた。これが貿易赤字の大きな理由になった。

    現在では日本の発電力の4割をになっている。さらに都市ガスのすべても担っている。

    LNG価格は、購入3ヶ月前の原油価格をもとに決められることになっている。なにか変なのだが長年の商慣習らしい。

    これはかつてLNG産出国が中東の石油産出国と重複していたことから形成されたらしい。しかし現在では日本のLNG調達先は随分と多様化している。

    大まかに言うと豪州4割、東南アジア3割、中東2割、これにロシアとアメリカが合わせて1割という構成になっている。大変覚えやすい。

    これだと原油にお付き合いする必要はないし、ホルムズ海峡緊張で右往左往する理由もない。

    結局の所、日本は供給先(その多くが石油メジャー)からなめられているということなのだろう。

    ただ20年の長期契約がまだ残っているので、これが切れた後は順次、原油非連動型になっていくのだろう。それまではとりあえずスポット外の比率を高めることで対応するものと見られる。










    この度の地震で一番怖かったこと、それはブラックアウトの再現だ。
    この半年で、致命的打撃の可能性は一挙に現実化した。
    それは北電に対する信頼性が地に墜ちたからだ。
    この1ヶ月で東区の約10分の停電、北区の停電、夕張の停電と大規模停電が相次いだ。
    その挙げ句に今回の地震だ。
    電力インフラの脆弱性への不安はますます現実的になっている。
    一番怖いのは、9月のブラックアウト以来、これだけの相次ぐ事故に対して、北電が一度も謝罪していないことだ。
    悪いと思っていないということは、またやるつもりだということだ。
    以前、JR北海道のトンネル火災事故のネット調査をしたことがある。あの時感じたJRの無責任ぶりがそっくりそのまま北電にも映されている。
    端的に言えば北海道は内地ではないのだ。囚人労働や朝鮮人・中国人の強制労働で作った土地だ。人の命の値段は内地に比べて8割くらいだろうと思う。

    死ぬときは内地で死にたいと思う。
    それはともかく、こんな企業に原発は運営できない。これははっきりしている。現に9月の地震で外部電源は全停止したのだ。「自家発電でしのぎましたから、ご安心くだいさい」といっているが、自家発電しかなくなってしまった状況については説明も謝罪もない。
    こういう人は性犯罪者と同じで、反省がないから累犯性が高い。
    北海道の特殊性からいって、企業としての採算が非常に厳しいのはよく分かる。だから無理を言うつもりはない。しかし身の丈に合わせてやってもらうことは大事だ。
    80歳すぎの後期高齢者がジェット機を操縦するのだけは止めてほしいのである。

    いろんなページを見たが、発電機の周波数の説明がどうにもわからない。
    私は現在のところ、以下のように考えているが、いかがであろうか。

    電気は、「周波数」を一定(50Hz)に保ちながらお届けすることが大切です。
    周波数を一定に保つには、電気の消費(需要)と発電所の出力(供給)のバランスをとる必要があります。
    そこで、当社は周波数が常に一定となるように需要の変動に応じて、火力発電機や水力発電機の出力を調整しています。
    1.機器の使用に不具合
    なぜなら、周波数が変動すると産業用機器の使用などに不具合が生じるおそれがあるためです。
    2.出力が減ると周波数が下がる
    *北電のページでは周波数を「水の重量」に例えているが、これほどひどい例えは例えようがない。まったく連想できない例えである。
    3.太陽光や風力は出力変動を大きくする
    出力変動が大きくなるため火力発電などによる調整が追いつかず、周波数を一定に保つことができなくなるおそれがあります。
    4.火力発電所は「下げ代」が小さい
    受容の低下に対応して出力を低下させる調整能力を「下げ代」といいます。
    火力発電機は、運転を継続するために最低の出力維持が必要です。したがって発電出力を一定値以下にすることができません。
    つまり火力発電所は「下げ代」が小さいのです。
    *これは水力と比べたときの相対的なものだ。水力は容易にゼロ稼働からフル稼働まで調整できる。
    *同じ火力でも、どのエネルギーを使うかで変わってくる。最新鋭の天然ガス燃焼施設では対応の柔軟性は十分確保されてい。北海道に多い石炭専燃や重油火発は対応が遅い。
    *原発の「下げ代」は最悪で、ほぼゼロに近い。

    つぎが下記のページ

    0. 周波数について
    交流の電気の周波数は、電圧とともに電気の良しあしを決める重要な要素です。
    さらに、周波数は発電と需要(負荷)とのバランスをみる重要な指標で、発電が需要を上回ると周波数は上昇し、下回れば低下します。

    1.2.3.は省略
    4.周波数の変動
    発電所では、50Hz・60Hzの規格周波数から±0.1Hzから±0.2Hz内になるよう調節しています。
    周波数が大きく変化するとモータでは振動や発熱、回転ムラが発生することがあります。

    発電機そのものも回転数が変わるために、振動や機械系の疲労が問題になります。
    周波数が大幅に変化しますと、運転を続けることができなくなり、次々に発電機が停止して大きな停電になることもあります。
    *どうもわからないのだが、周波数の変化は結果であって原因とは言えないのではないか。周波数の著しい増減は需要と供給の著しい乖離の表現であって、だから危険を察知する重要な指標になるということではないのか。

    この文章は、本文より脚注のほうが読み応えがある。しかしわかりにくいのは同じだ。
    脚注
    1 回転数と周波数
    発電機はタービンの回転によって起電されます。周波数はタービンの回転数に比例します。
    *これが良くわからないのだが、例えば10回転のタービンに、5倍速のギアを噛ませて50回にすることなのか。
    タービンの機械的出力よりも大きな電気出力を出すと、タービンの回転数が下がります。
    *これも良くわからないのだが、そもそも坂道を登ってエンストを起こすのとは違う話だ。出力ということで mα と1/2mxVの2乗 を混同しているのではないか。
    もしわかりやすくいうなら、出血サービスを続けて貧血状態になって、最後にへたって動けなくなる。そのときに究極の疲労症状として回転数が下がってくるのなら、それはあくまで疲労現象の一つに過ぎない。
    この回転数(=周波数)の低下は、いろいろな制御も用いてタービンの機械的出力を増加することによって元の回転数へ戻されます。
    *供給力低下の続発兆候としてなら当然だ。回転数低下は結果に過ぎないのだから…
    *供給力変化と関係のない単純な回転数低下なら、タービンからのギア比を上げれば良いだけの話。
    2 飛行機では400Hz
    周波数が高いと発電機は小さくてすみます。このため、ある狭い範囲にだけ供給する場合、たとえば、飛行機では400Hzの発電機が使用されています。
    * 狭いというより低出力ということではないか。つまりギア比を低くしてトルク比を稼ぐ発想?

    3 アンバランスというのは仕事のアンバランス
    発電と負荷は電気的には常にバランスしています。それが電気の原理というものです。バランスが崩れるのは発電機を回すための仕事量(素材的には蒸気や水の量)と、発電している電力の大きさとの関係です。
    単位時間当たりのエネルギー(仕事量)が発電している大きさよりも大きければ周波数は高くなります。
    *ニュートラルでアクセルを踏み込むのとおなじで、
    空ぶかしすれば回転数は跳ね上がる。回転数を上げたから空ぶかしになったわけではない。

    4 最後はタービン出力の調整
    最終的にはタービン出力を調整して回転数を保ちます。太陽光発電や風力発電では調整できません。
    * 「オレは太陽光や風力は大キライだ」という姿勢が透けて見えます。



    ということで、“周波数” は決して交流電気エネルギーの発生のための本質的要素ではないということがわかった。
    それが意義があるのは、タービンの回転数の整数倍だったり、その逆数だったりして、回転数を間接的に反映しているからである。
    ただしそれは駆動輪から伝導する際のギア比によって操作可能であり、回転数を反映する仕方は条件的である。

    タービンの回転数は角速度である。産出エネルギは“重量✕速度の2乗÷2”だから、回転数は起電力の本質的な要素であるが、起電力そのものではない。

    物理屋さんのボキャ不足が起因しているのだろうと思うが、問題は周波数ではなく、発電機のタービンの発生エネルギーなのである。
    方程式は電力需要と電力供給量とタービンの出力から構成される。どういうふうに書けるかは知らないが、基本はそうである。
    もう一つの方程式がタービンの発生エネルギーを決めるもので、こちらは角速度=回転数とタービンの負荷重量から導き出される。
    重量は一定なので、出力は回転数によって決まる。需要量に比してエネルギーが不足すると、結果として回転は落ちてくる。要するにへたってくる。
    どうするか。タービンを回すエンジンの出力を上げればいいのである。
    出力を上げれば、回転数はふたたび増加し、供給エネルギーは増えるのである。

    これら一連の過程はタービンの回転数を見ればわかるのであるが、一定の固定した条件(例えばギアー比) のもとでは発電した交流電気の周波数で代用することもできる。

    おそらくはただそれだけの話であろうと思う。


    宮尾さんの講演レジメ「検証! 北海道のブラックアウト」
    での周波数についての説明は次のようになっています。
    自動車で坂道を登ることを想定してください。需要の変化は坂の勾配で、発電はエンジンです。
    坂がきつくなればエンジンの回転数が下がり、登る速さが下がります。
    エンジンの回転数が周波数で、登る速さが電圧です。
    需要と発電の関係は電力の電圧と周波数に関係します。
    電圧はトランスで変えることができますが周波数は変えられません。
    電力会社は周波数を監視して、周波数が低くなれば発電量を増やし、周波数が高くなれば発電量を減らします。
    北電の説明よりはわかりやすいですが、やはりこれを読んだだけではなんの事やらわかりません。
    電気屋さんの世界では交流電流の公式があるらしくて、多分それをそのまま、言葉だけ易しくして、いろいろな例えを使って話しているのですが、素人には直流電流におけるオームの法則で説明してもらわないとわからないのです。

    オームの法則に周波数は出てこないのです。

    消費電力は総抵抗として表現される

    電気屋さんの説明で決定的に欠けているのは、「消費電力の増加」が「電気回路の抵抗の増加」と同じ意味だということです。
    o-mu2
    オームの法則は直流ですが、同じ電圧のもとで抵抗と電流は反比例します。抵抗が増えれば電流は減るのです。
    o-mu
    電球を直流で2個つなげば、明るさは半分になります。つまり消費電力が増えれば電流は減る、したがって仕事量(W)も減るということです。
    交流では抵抗(R)と言わずにインピーダンス(Z)といいますが、単位は同じオーム(Ω)で理屈は同じです。
    発電所を出た電気が発電所に戻ってくるまでにたくさんの電気器具が使われれば、その回路の抵抗は増えるわけです。

    発電機の発生出力は電流の強さと同じです。電圧が一定の環境のもとでは、抵抗(電力消費)が増えれば電流は下がります。なぜなら抵抗が増えればタービンの馬力が同じでも回転数は下がるからです。

    もう一つは問題は、推力としてのタービンの出力(馬力)と、アウトプットとしての発電機の出力(仕事量)の違いが書き分けられていないことにあります。

    そして「周波数」がなんの関数なのかが示されていないことです。

    ブラックアウトに至る基本の流れは、タービンの出力が低下することにより、発電機からの電力の出力が停止することです。

    タービンの出力の低下はタービンの不具合による絶対的な低下と、需要に対し追いつかないための相対的低下があります。

    しかし、相対的な低下といえども最後にはタービンがへたって動かなくなるのであり、まずは絶対的低下だけ考えればよいのだろうと思います。

    つぎに需要の極端な低下や供給の過剰により、発電機に過剰な負荷がかかったときのことですが、これも最終的にはタービンの暴走→停止ということになるので、最終出口としてはタービンの不具合です。

    高血圧で脳卒中を起こそうが、低血圧でショックになろうが、最後は心臓が止まってご臨終になるのです。

    そしてブラックアウトを防ぐには、原因が何であろうととりあえずは心臓(タービン)が止まらないように動かすことです。「カギは周波数」ではないのです。

    e=Esin(2πft)

    というのが交流起電力の公式らしいが、私にはさっぱりわからない。読めば読むほどわからない。目をつぶると目の前をサイン、コサインが乱舞する。

    この公式を見れば、起電力は周波数 f の関数だと考えても不思議はない。しかしその本質は角速度の関数だということです。
    我々素人から言えば、それが回転速度の関数、つまり運動エネルギーの関数だということが、物の本質です。



    昨日、北電のブラックアウトの話を聞いて、自分の電気に関する知識が恐ろしく低いことに気づき、愕然とした。まずは小学生の基礎勉強から。

    ネットで「電力 歴史」で検索して見ると、いろいろなサイトが出てくる。これを年表化するところから始めることにする。


    紀元前4世紀頃 プラトンは、静電気について記載し、「琥珀が軽いものをひきつける」としている。この電気は琥珀のギリシャ語「エレクトラム」にちなんでエレクトリカと名付けられた。

    1746年  ライデン大学のマッシェンブレーケ、静電気を蓄えるライデン瓶を発明。一種のコンデンサーで,金属箔とガラスびんでつくられた容器。


    1752年 フランクリンが凧を上げて、雷が電気現象であることを証明した。

    はり金をつけたタコをあげ,伝わってきた電気をライデンびんにためた。その後金属棒をつけて花火が出るのを確認した。

    1785年  クーロン、磁石には陽極と陰極があり、磁力は極と極との距離の2乗に反比例することを発見。

    1791年  ガルバーニが,死んだカエルの足に金属を当て,足がけいれんすることを観察。カエルの体には電気を作る性質があると発表。

    1799年 ボルタ、ガルバーニの実験で電気を発生するのは金属であることを発見。2種類の金属に湿った布を組み合わせた「ボルタ電池」を発明する。

    1820年 エルステッド、通電した電線の傍の方位磁石が動いたことから、電流の磁気作用を発見。

    1820年 アンペールは、電気と磁気に関する理論を発表し電気力学の理論を確立。

    アンペールの法則: 磁場の大きさの積分は、経路を貫く電流の和に比例する。

    1825年 スタージョンが馬蹄形の鉄にコイルを巻いて電流を流すと磁気を帯びる現象を発見。

    1826年 オームは、電流、電圧と抵抗の関係を示す「オームの法則」を発見。

    1829年 ヘンリーが電磁石を改良、電信や鉄鉱石の選別に応用した。

    1831年 ファラデーは 電流が流れると磁気を生じ、磁気が変化すると電流が流れることを発見。電気と磁気の相互変換が実証された。これを電磁誘導現象と呼ぶ。

    1832年 ピクシーが発電機(直流)を発明

    1831年 クックとウィートストン、電信機の発明。37年に電信会社を起業。

    1834年 ダベンポート、ボルタの電池を利用した実用型直流電動機を発明。レール上を走行する電気機関車の実験に成功。

    1840年 ジュール、導体に電流を流して発生する熱量は、電流の2乗と導体の抵抗の積であることを発見。「ジュールの法則」と呼ばれる。

    1840年 アームストロングが水力発電機を発明。

    1865年 マックスウエル、Maxwellの法則を発表。電磁波(電気と磁気)の存在を予言。電磁波の速度が光の速度と同じだったことから、光も電磁波であることを予言した。

    1870年  グラムがダイナモ方式(シーメンス)による実用発電機を完成する。

    1876年 ベルが有線電話を発明。

    1878 日本初の電灯(アーク灯)が点灯。3月25日の点灯日が電気記念日となる。

    1879年 エジソンが、日本の竹をフィラメントに使用した電球を発明。

    1881年 シーメンス、水力により交流発電し電灯を点灯

    1882年  エジソン,電球普及のため発電所を建設し送電事業を開始する。(小規模な石炭火力発電所)

    1888年 ヘルツは、電磁波の存在を実験的に証明した。

    1890年 テスラ、交流モータと交流発電システムを発明。その後交流方式が世界中の電力システムに採用されるようになる。

    1892年  京都の蹴上で,琵琶湖の水を利用した水力発電所が作られる。

    1893年 スタインメッツ、交流電気の特性を数学的に表現する。

    1881 シーメンス、水車で駆動する交流発電機で街灯を点灯。

    1882 ゴードン、2相交流発電機を開発。

    1882 テスラ、回転磁界を考案。多相交流(2相)による誘導電動機の原理(回転磁界)を考案。これに基づき「2相モータ」の設計。

    1885 スタンレー、鉄の輪に二つのコイルを絶縁して重ね巻きにした誘導コイルを考案。最初の実用的な変圧器となる。

    1887 テスラ、ブラシレスの交流発電機を開発。エジソンとのあいだに「電流戦争」が始まる。

    1891 テスラ、高周波発電機(約15000Hz)を開発。無線通信に使用される。

    1891 テスラ、100万ボルトまで出力可能な高圧変圧器を発明。最初の長距離送電(距離175km)に成功。

    1893 スタインメッツ、交流理論を出版。

    1893 カリフォルニア、レッドランドの水力発電所が大規模発送電を開始。

    1893年 シカゴでコロンブス博覧会。照明装置をめぐりエジソン+GEとテスラ+WHが競争。テスラがエジソンの半値で入札。これにより交流派の勝利が確定。

    1895 ナイアガラ瀑布の水力発電所が発送電開始。60サイクルで運行され、以降この周波数が米国の標準になる。長距離送電開始にあたっては、電圧が11キロボルトに上げられた。



    1.電気の利用はまずボルタ電池から始まった。このため多くの装置は直流電気を前提に開発された。

    2.1830年にファラデーが電磁誘導を発見した後は、磁界の中で器械的運動(円周運動あるいはピストン運動)を行うことにより電気を導出する方式が主流となる。

    3.したがって発生する電気は交流となるため、直流への変換が求められる。しかしそれは余分なコストである。

    4.交流電気は変圧が容易なため長距離送電に向いている。このため交流が主流となっていった。

    5.交流の最大のネックである電動モーターはテスラの「2相モータ」の開発により突破された。

    最終的にテスラの交流発電方式がエジソンの直流式に勝って、世界標準となったらしいのだが、そのあたりの経過は、このたぐいの年表をいくら読んでもわからないようだ。もう少し的を絞って検索してみることにする。


    まず背景として北海道電力(以下北電)のお家の事情。Diamond Onlineが簡潔にまとめている。

    2012年に年次決算が赤字に落ち込んだ。その後3期連続の赤字となった。原発の停止に伴い火力発電所の比重が高まった。燃料費を吸収するために電気料金の値上げを迫られた。
    燃費効率の良い厚真発電所への集中が進んだ。厚真の設備利用率は2010年の64%から13年には85%まで増加した。この間リスク分散のための設備投資は行われず、ひたすら泊原発の再開が目論まれた。
    14年には3年連続の赤字決算となり、自己資本比率は5.4%にまで落ち込んだ。この赤字に対応するため北電は2年連続の電気料値上げを断行した。
    これらの場当たり的な保安・経営方針に対し各界から懸念がいついだ。15年の10月には経済産業省の専門家会合が「北海道電力においては、過去最大級の計画外停止が発生しても大丈夫なよう準備すべきだ。そのために多重的な需給対策を講じるべき」と提言したが、北電幹部には聞き入れられなかった。
    16年に北電の真弓明彦社長は、あくまで「泊再稼働によって供給面の正常化を図りたい」と発言し。泊再開と厚真への集中で保安上の懸念、経営上の不安を抑え込む姿勢を強調した。そして「泊原発の新規制基準に対する対応として2000億~2500億円を投じる」と突き進んだのである。
    その後もいくつかの機会はあったが、それらはすべて経営上の理由からスルーされた。17年には石狩湾新港のLNG火力発電所を稼働させる方向で話が進んだが、最終的には「道内の電力需要が伸びなかったため」という理由で、稼働を2~3年遅らせることが決定した。
    動くことのない原発の維持費は年間700億円、これまで5千億円が注ぎ込まれたことになる。
    三重苦
    そして今年3月期決算、自己資本比率は10.5%にまで戻したが、キャッシュフローは7期連続のマイナスに終わった。
    ある意味で、企業モラル的には全島停電の方向は定まっていた。もはやこれが宿命だったと言っても良い。後はいつ起こるかという問題だけだったのかもしれない。

    その時何が起きたのか
    いまだよくわからないところがある。報道記事だけが頼りなので、情報が錯綜しているところもある。どこがよくわからないのかは記事の中で明らかにしていく。

    (宮尾さんの2018.12.12レジメに詳しいタイムテーブルが載っていたので、引用させていただきました)

    6日午前3時8分

    地震発生。震度7という北海道ではじめての強度の地震が、苫東厚真発電所から14キロの場所で起こった。もっとも震源に近い地震計は安平町追分駅近くのもので、ここでは加速度1,505ガルを記録している。

     

     発電所では3台の発電機がフル稼働していた。発電量は165万KWであった。これは道内発電量の半分に当たる。


    午前3時9分 1分後に2号機、4号機が、地震動を感知し緊急停止した。2台の発電機の出力は合計で115万キロワットだった。1号機は地震感知器がついてないため稼働を続けることができた。

    3時9分 北電は、一部地区への電力供給を強制的に止めて需要を抑える「負荷遮断」を複数回実施し、札幌を除く全道の強制停電を行う。同時に本州からの送電も増加させた。

    3時11分 札幌の電気使用量が徐々に増加。各家庭がテレビをつけたためとされる。北電は知内・伊達の重油火発の出力を上げることで対応を図る。

    3時21分 苫東火発1号機(35万キロワット)、急速に出力を落とす。地震の検知機能がないため止まらないできた。しかしタービンに重大な障害を負った。

    午前3時25分
    2号機、4号機が停止した後も稼働していた1号機が止まった。
    このとき厚真火発の他に奈井江、知内、伊達の3火発が稼働していた(ともに2基中1基)。これら3基は急激な出力変化に耐えられず、自動停止した。これにより北海道内で稼働中のすべての発電機が停止し、ブラックアウト状態となった。


    ここで一休みして説明に入る。
    厚真火発(輸入炭専焼)は道内需要量310万キロワットの半分以上の165万キロワットを供給するスーパー火発、言い換えればそれ自体が一極集中のヤバイ存在である。

    ただし厚真だけが発電所ではない。以下世に倦む日日  ブラックアウトの謎より引用する。
    北電の持つ水力発電所の設備は強大で、主な発電所だけで12ヵ所あり、その発電能力は全体で165万kWに達する。
    北電管内の太陽光発電による発電量は132万kW、風力の発電量は38万kWあり、合わせて170万kWに達する。
    つまり自然エネルギーによる発電量だけで、厚真発電所の電力生産量の2倍の規模に達する。
    主要電源
          日刊「赤旗」より
    これにプラスして火発がある。発電能力は以下の通り。
    奈井江(石炭 最大35万KW)、知内(重油 最大70万KW)、伊達(重油 最大70万KW)。これは過旗報道によるもので、他については申し訳ないが調べていない。砂川が突如稼働したり、苫小牧が音無しのままだったりと分からないことも多い。
    しかしかなりのものになると思う。したがって、いったん全面的な「負荷遮断」を行った上で逐次範囲を区切った再稼働を図るなら、数時間のうちに全面再開することは可能なはずだ。
    世耕弘成経産相が大見得を切ったのもそういう計算を元にしていたのだろうと思う。それが当てが外れたのには何かウラがあるはずだ、と私は睨んでいる。


    泊原発が危機一髪
    6日午前3時25分 第1回目の全電源喪失。これにより冷却用プールの燃料棒を冷やせなくなった。非常用ディーゼル発電機6台を使って冷却は維持された。

    その後いったん外部電源が確保されるが、ふたたび喪失。外部電源の喪失状態が続く。

    午後1時 喪失から約9時間半後、外部電源が復活。水力発電所の電気を優先的に送り電源を確保したとされる。


    ここで原発に関する説明

    もし泊が稼働していたらどうなっただろうか、それは原発大好き人間が言うように「救い主」になっただろうか。いえいえそうではありません。
    火力発電所が停止することで電力の需給バランスが崩れると、泊原発から発電された電力は「出口」を失う。普通の火発ならここでブレーキが掛かって緊急停止する。
    しかし原発は止まらない。
    原子炉内にはやがて蒸気がたまってくる。それを排出し、制御棒を注入して核反応を抑え、炉内を冷やすため冷却水を注入する。
    これらの操作にはすべて外部電源が必要だ。(すみません、引用先忘れました)
    震源地から100キロ、震度はわずか2であり、地震による直接的影響はない。停電による二次被害、すなわち人災である。危険なのは地盤ではなく、北電という会社の経営基盤、安全基盤、技術基盤の脆弱性なのだ。
    原発派(大方、北電社内からだろう)のページにこんな記載があった。
    泊原発1~3号機は運転を停止しており、原子炉内に核燃料は入っていない。非常用発電機は最低でも7日間稼働を続けることが可能だ。
    原子炉に入っていないけれど冷却槽内には入っている。冷却槽がどこにあるかぐらい誰でも知っている。いまだにこんなダマシをしているんだ! 我々はポストフクシマ世代なんだよ。



    6日早朝 官邸で地震災害についての関係閣僚会議

    朝8時 世耕経産相、「北海道電力に数時間での停電復旧を指示」と報道。結局約束は実現せず。

    60万キロワットを送ることが可能な本州からの支援ケーブル、系統電源の喪失により自動停止していることが判明。系統電源とは送電のために必要な電源で、北電から供給されなければならない。

    6日午後12時 北電が記者会見。水力発電を動かし、火発を順次稼働させると発表。厚真発電所の修復に一週間を要するため、この間道民に節電を要請する。

    午後4時 砂川発電所を動かし始め、全体の11%への供給を回復。

    6日午後4時 北電の真弓明彦社長が会見。「すべての電源が停止してしまうのは極めてレアなケースだと思う」と述べ、失笑をかう。また緊急停電対応については「あまりに強い揺れで急激な供給力の喪失があったため、間に合わなかった」と説明したそうだ。
    17分あれば、揺れが収まってからトイレまで行って便座を上げてスボンを下げてパンツを下げて便座にまたがる暇はあるだろう。「間に合わなかった」という表現が遅刻した学生の言い訳みたいで、思わず苦笑してしまう。

    道民の一人として、このときのムカつくような怒りを共有している。夕方くらいまでには直ると思ってたから「おいおい、大丈夫かよ」という感じだ。しかもこいつらまったく「済まない」などとは思っていない、「すみませんが節電に協力してください」という“すみません”しか言ってない。
    「きわめてレアなケース」ではなく「あってはならないケース」なのだ。百歩譲って「きわめてレアなケース」だったとしても、それはこちらの言うセリフで、北電側には「きわめてレアなケース」が何故起きてしまったのかを説明する義務があるはずだ。なぜならそれは「レアなミス」なのであり、あなたが起こしたミスだからだ。
    医者はミスを犯したときの対応について、40年も前からそのように教育されている。
    暗闇の狸小路
         暗闇を迎えた狸小路 スマートホンが道を照らす
    7日 原発再稼働派の池田信夫、「大停電の再発を防ぐには、泊原発の再稼動が不可欠だ」と主張。ホリエモンこと堀江貴文も「これはひどい。泊原発再稼働させんと」とツィッター。電源喪失の情報は東京では伏せられていたのだろうか。

    8日 北海道電力の真弓明彦社長が記者会見。供給電力は350万キロワットまで回復したがピークに比べ1割不足しており、計画停電を検討していると発表。

    11日 厚真発電所の点検結果と復旧の見通しを公表。1号機はボイラー管2本の破損、2号機はボイラー管11本が損傷。タービンから出火した4号機は冷却後に点検予定。

    12日夜 経産省、北海道停電について「速やかに検証に着手したい」と改めて表明。経済産業省の認可団体「電力広域的運営推進機関」などから停電前後のデータ提出を受けるとする。

    14日 北海道電力の真弓明彦社長が「謝罪」会見。ブラックアウトまでの経緯については「検証中」とする。経産省の出方を見ながら小出しに「謝罪」をしているが、本気度ゼロ。

    15日 発電機が耐震基準上、最低の震度5相当だったことが判明。東日本大震災後、社内で耐震基準の見直しを議論し、「変更は不要」との結論をだしたという。

    19日 苫東厚真火力発電所の1号機(35万キロワット)が復旧。地震前のピーク需要を上回る供給力を確保する。

    19日 「電力広域的運営推進機関」が有識者らによる第三者委員会を設置。

    どうも気になるのだが、「電力の7分の1が太陽光」という赤旗記事のウラが取れない。

    岡本記者の計算式は5653万キロワット(7月の最大需要)を、太陽光発電の供給実績800万キロワットで割ったものであろう。
    しかし東電自身はそのことを、少なくとも積極的には明らかにしていない。
    いちばんの問題は最大需要がキロワット/時であるように太陽光発電の供給実績の単位がキロワット/時なのどうかだ。

    ともかく東電の昨年夏実績を調べてみるしかない。ところがこれがない。

    仕方がないので、“太陽光発電+ニュース”で類似した報道がないかを検索することにする。

    9月3日の朝日新聞DIGITALで
    太陽光発電、九電が停止要求の可能性。原発再稼働で供給過多?  電気の需要を超えて供給が増えると、電気の周波数が変動して大規模な停電につながりかねない。

    というニュースがあった。
    九州では太陽光発電が普及し、4月29日午後1時には電力消費のう8割以上を太陽光発電がまかなった。
    九電は太陽光発電による揚水発電などで需給のバランスを調整してきた。これらの調整が難しくなれば「出力制御」する他ない。
    九電では原発が再稼働し原発4基態勢になった。このため消費の少ない春/秋には電気が余ることになる。
    というのが要旨

    スマートジャパン 2018年07月17日
    中国電力エリアの太陽光発電が「出力制御枠」に到達、今後の接続は無補償に
    中国電力が再エネ電気を受け入れられなくなった。
    この後は、再エネ事業者が年間30日を超えた無補償の出力抑制に応じることを前提に、接続を受け入れることとなった。
    中国電力への接続は2018年7月11日現在387万kW、さらに接続申し込みは273万kWに達している。

    スマートジャパン 2018年6月
    このほど閣議決定された「第5次エネルギー基本計画」は再生可能エネルギーが“主力電源”と宣言した。
    国のエネルギー基本計画では2030年時点での再生可能エネルギー比率が22~24%、その中で太陽光発電には7%となっている。
    これを克服するためには“コスト競争力”を持つことが必要だ。非化石価値取引市場が創設され、経済化が可能になっている。
    さらに自家消費を活用することで、系統への負荷を下げることができる。

    赤旗とほぼ同内容の記事があった。
    中日新聞 2018年7月25日
    中部電力の管内は、猛暑で想定を上回る電力需要となっている。
    しかし、電力は潤沢に供給され、エアコン使用にも耐えている。
    理由は急速に導入進む太陽光発電のためである。太陽光は晴天時に500万~600万キロワットの出力がある。
    電源構成の6割を占める液化天然ガス(LNG)は日没後の太陽光の電気が急減する中で出力調整に力を発揮している。
    7月の3日間の最大電力は2600万キロワットで、想定していた2500万キロワットを上回った。
    それでも供給余力を示す予備率は7%以上あり、中電は節電を呼び掛けていない。
    良いことづくめの太陽光だが、今後は「電力余り」が深刻な課題となりそうだ。閑忙期の春、秋には火力発電は出力を絞らざるを得ず、投資回収が難しくなっている。

    一方で、関西電力の態度は対照的である。
    関西電力の管内で、暑さで冷房需要が増加し、余力が2%しかない「非常に厳しい」状態となった。
    関西電力は、東京電力や中部電力など、合わせて5社から計100万キロワットの電力の融通を受けて乗り切った。
    関西電力については、新エネルギーの採用率が低いことが挙げられている。平成29年度の関西電力発電量で、新エネルギーの割合は、0.029%しかない。
    これにははっきりした理由がある。関西電力は原発に凝り固まっており、いまや前世紀の遺物と化しているのだ。原理主義者・関電のページを見ると唖然とする。それがこの「細野真宏の世界一わかりやすいエネルギーの授業」というページだ。 
    正しいか正しくないかという問題以前に、関西電力のホームページとしてこのような記述がいかがなものか? と、思わず苦笑してしまう。電力料金がこのような形で使われることの妥当性は、法的にも問われるのではないだろうか。
    kansaidenryoku

    テーマ1の「『太陽光発電は原子力発電の27基ぶん』って本当?」という見出しは、小泉元総理大臣が喋った言葉を「無知のたまもの」と嘲っているのだ。
    中身は見てくれればわかるのだが、これは稼働率を掛けていない瞬間の数だから、全然話にならないといっている。
    しかし御承知のように電気というのは生もので、ピーク時にどれだけ点数を叩き出せるかが問題になるのだ。野球でも最近では打率より得点圏打率や出塁率を評価するようになっている。
    「足りなきゃ他人から借りりゃいい」と思っている人に意見されたくはない。
    第二に稼働率を言うなら有効稼働率を考えるべきだ。経済的に見た原発の最大の弱点がそこなのだ。とにかく需要がなくても発電し続けなければならない。それは捨てるしかない。
    それに比べると、とにかく太陽光はコストが安い。これが決定的な利点だ。ちまちまとやっているから小回りも融通も効く。台風で吹き飛ばされたら、拾ってきてまた据え付ければよい。
    問題は火発との折り合いなのだろうが、そのへんはパブリックなコスト負担でもよいのだろうと思う。そうしてもなおかつ安い。

    私のアイデアだが、かつての休耕田のように農民を売電地主にしてはどうか。こういう形で整備された平地を残しておくことは、将来の役に立つのではないかと思う。

    許せない北電の怠慢

    おそらく世界的に見ても例のない事態ではないだろうか。500万人が住む島のすべての電気が一瞬にして止まってしまったのだ。これは天災ではなく人災だ。
    これだけの重大事故を起こしながら、北電のトップに反省の色が伺えないのも摩訶不思議である。
    停電以来私たちの情報はラジオに頼ってきたのだが、ここで北電の代表が喋ったのを聞いた記憶もないし、まして謝罪の言葉も一切聞いていない。
    だいたいが、こんなクソマニュアルが作られ、平然としてまかり通っていたところに、北電という組織の企業精神の最大の堕落を感じる。

    メディアの情報で下記のことがわかった
    ① 道内最大の厚真火力発電所が地震によって運転をストップした。
    ② このため需給バランスが一気に崩れ、他の発電所に過重な負担がかかったため、それらの発電所も緊急停止した。
    ③ 東京の人の評価では、北電はこれらの可能性を想定していなかった、らしい
    というのである。
    それならそれで分かった。あとは順次運転を再開して、厚真火発がダウンしたための不足分は、いろいろ融通しましょう、ということになる。
    それができないのだ。
    6日の朝から日暮れまでは10時間はある。その間になんとかなると誰でも思っていた。
    昼前には経産大臣が直接会見し、「4時間以内に復旧させるよう北電に指示した」と語った。これはNHKのラジオでも流された。
    しかしそれは遅れに遅れた。というより、北電は為す術を知らなかった。
    午後になって、経産省は矢継ぎ早に指示を出した。水力発電をただちに稼働せよ、これによって厚真以外の火発の再稼働を行え、本州からの送電受け入れを開始せよ、救急用に全国から電源車を確保せよ…
    まさかと思った電気のない夜がやってきた。これほどまでに北電がアホだとは思わなかった。
    しかも反省の色をサラサラ見せない。「受忍せよ」という態度がありありだ。
    これはブスの根性悪だ。
    「おカミ」として業務を独占している植民地会社の、最悪の面がさらけ出されたということだ。内地並みの水準で見るなら会社の体をなしていない。

    電力会社がやってはいけない最大のミスが「全電源停止」だ。そこまで行かないように、何重ものフェイルセーフのネットを掛けていくのがすべてのマニュアルの肝だ。
    想定外というが、想定外とは言わせない。地震で発電所が落ちるなんていうことはこれまでいくらでもある。
    「周波数が合わない?」
    とぼけたことを言いなさんな。子供のいいわけじゃあるまいし。周波数があっていないのはアンタ方の頭でしょう。
    それで周波数が合わなかった。「だから俺達は悪くなかった」って言えるのですか。言うつもりなのですか。
    これからの時代もっとも怖いのはサイバーテロだ。北朝鮮がミサイル飛ばしたと行ってアラート鳴らしているが、あれは反共宣伝にしか過ぎない。もし北朝鮮が日本を攻撃するならサイバー攻撃に決まっている。発電所1ヶ所壊すだけで北海道がマヒするのだから、これほど美味しい標的はない。
    エネルギーの根幹を託されている人間であるなら、そのことに思いを致すべきだ。

    ミスは誰でもある。しかし反省しないミスは、ミスではなく犯罪だ。
    とりあえず、総務・経理担当以外の会長・社長・執行役員は全員辞職すべきだ。第三者を入れた監査体制を強化するとともに、早急に国の責任で技術監査を行うべきだ。
    他の電力会社から人材を突っ込まなくてはならない。とくに保安・技術部門には少なくとも2けた規模で幹部を突っ込まなくてはならない。当然、来たい人など誰もいないだろうから、経産省に一度アマアガリしてから出向してもらうことになるだろう。

    これら技術幹部にやってもらいたいのは、技術優先の企業風土の涵養、すなわち集団的技術形成だ。
    馴れ合いを排し、異論も受け入れ、叩き合い・磨き合いの精神を引き継ぐことなしに技術は進歩しない。

    土曜日の赤旗に、感動的なニュースが載った。

    原発の町伊方町で町議選に76歳の遠藤もと子さんが立候補するというのだ。

    遠藤さんは隣町の八幡浜市で市会議員を5期務めた現職議員。それが市議を任期途中で辞任して伊方町議会議員に立候補した。

    伊方町では昨年8月、町長はじめ全町会議員 が再稼働を容認し、3号機が再稼働された。

    「原発に反対する議員が一人もいない議会を変え、町民の声で政治を動かしたい」というのが立候補の動機。

    「人生最後の力を振り絞って頑張ります」と立候補の挨拶をした。文字通り人生最後かもしれない。

    伊方町には合併前の当時から、共産党の議席がありません。町議選をたたかうことも初めてです。

    移住して活動を開始した遠藤さんは、拡声器をつけた軽自動車を自ら運転し、細長い佐田岬半島の隅々の集落を訪ねて訴えています。そして漁港に面して広がる小さな集落の入口などで宣伝を重ねています。町民と対話し、寄せられた意見はノートに書き留めています。

    「原発をなくしたら町が寂れてしまう」と心配する男性にはこう応えます。「廃炉に向けた作業で雇用は確保されます。再生可能エネルギーへの転換が本格的になれば、新しい雇用が生まれます」と展望を示しています。

    遠藤さんと対話し共感した元公務員の80代の男性は、「遠藤さんを絶対に勝たせないといけない」と入党しました。町で36年ぶりの新入党者です。遠藤さんを紹介する「伊方民報号外」の束を抱え、集落の一軒一軒に配り歩いています。

    何か叱咤されているような気持ちになる。76歳ですよ、私より5つも上なんです。

    私も今月いっぱいで職場を降りることにしたが、「それで終わりというわけにはいかないな」と感じています。

    以前、パタゴニアで風力発電をやって、それを水素にして日本に運ぶというプロジェクトを紹介した。

    このプロジェクトは軍事産業の代表である三菱重工のものだったから、紹介をためらったが、あまりにも気宇壮大で痛快だったので度肝を抜かれた。

    このプロジェクトの発案者が勝呂幸男さんという方で、三菱の社員であるとともに、日本風力エネルギー協会の会長も務めている。元々はタービン屋さんのようだ。

    その後、石油もガスも安くなり、電力各社が原発に執念を燃やし続けるため、話題にはなりにくくなった。しかしいつも心の片隅には残っている。

    風力が話題に上らなくなったのは外的環境のせいだけではない。日本での風力発電が極めて多くの問題を抱えているためだ。この点についても以前書いた。「日本では風力はお呼びではない」とまで書いた。

    そんなとき、勝呂さんの文章が目に止まった。題名は「風車導入拡大へ向けて課題を克服しよう」というもの。

    ある意味では、執念の一文だ。

    勝呂さんによれば、風力発電の課題は風車の信頼性に尽きる。

    まず風車の信頼性に関わる事件がいくつか紹介される。

    1.カリフォルニア風車ブームの挫折

    かつてPURPA法を適用した風車が所謂カリフォルニア風車ブームを起こした。しかし運転後に多くの故障が発生し評価は失墜した。

    故障の原因は、つきるところ風力変化の評価が不十分だったためだ。

    2.国際電機会議(IEC)の技術標準

    カリフォルニアの総括の中から標準設計基準が提唱され、これがIEC技術標準として固められた。

    3.宮古島の風車倒壊

    日本では宮古島に立てた風力発電の風車が転倒した事件が衝撃を与えた。

    宮古島は80m/secの強風番付一位の実績があり、IEC標準からは到底,標準風車を設置出来ない所である。

    なのに建ててしまったという問題がひとつ。そして建てられた風車の最大耐強風設計が60m/secだったということ。

    つまり建ててはいけないところに、建ててはいけないものを建ててしまったということである。

    4.「日本製だから安全」と言われるように

    勝呂さんは、「この話がわが国の風車導入の実際を象徴的に表している」と嘆く。

    このような気象条件に対する無理解ばかりではなく、落雷への配慮もなされていない。

    そもそもIEC標準の基礎データとなっているのはヨーロッパのもので、後から米国のデータも取り入られたが、日本やアジアのデータは反映されていない。

    個別の気象条件に合わせた日本発の建築基準を作り上げることが、今後の課題だ。


    とまぁ、こんな具合だ。

    厳しい言い方をすれば、これまでの日本の風力発電はなんのデータもなしに、外国仕様の風車を建てているだけだ、ということになる。

    つまり、「これからは基準を作ってやっていきましょう」ということだ。会長さんがそう言っているのだから間違いない。

    そこには相次ぐ風車事故への深刻な反省は見られない。「とんでもないことをしてしまった。二度とこのような間違いを繰り返さないためにどうしたら良いのだろう」という発想が窺われない。

    どうも勝呂さんという人、攻めのタイプのようだ。

    勝呂さんの専門であるタービン・ボイラー技術の歴史というのは、安全性構築の歴史と言ってもよい。ものすごい威力はもっているが、そのぶん危険性も高く、それがネックとなって伸び悩んだ時期がある。産業革命の頃だ。それが内燃機関として発展するのは、まさに安全性問題が解決したからだ。ソロバン勘定はその後だ。パタゴニアの風力発電も、足元の安全が確保されなければ夢物語だ。

    三菱といえばゼロ戦を作った会社。世界トップの性能を誇ったが、それは防御や安全性、居住性などを一切無視したものでもあった。軍事産業を主軸に成長したこの会社には、伝統的に安全軽視の風潮があるのかもしれない。

    いずれにせよ日本では当分、安全性を最重要課題とする技術構築という視点は生まれそうにない。日本の気象条件に合わせた、安全で安定した風力発電は期待できないということだ。

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