鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

カテゴリ: 33 原発(東北大震災含む臨時的項目)

土曜日の赤旗に、感動的なニュースが載った。

原発の町伊方町で町議選に76歳の遠藤もと子さんが立候補するというのだ。

遠藤さんは隣町の八幡浜市で市会議員を5期務めた現職議員。それが市議を任期途中で辞任して伊方町議会議員に立候補した。

伊方町では昨年8月、町長はじめ全町会議員 が再稼働を容認し、3号機が再稼働された。

「原発に反対する議員が一人もいない議会を変え、町民の声で政治を動かしたい」というのが立候補の動機。

「人生最後の力を振り絞って頑張ります」と立候補の挨拶をした。文字通り人生最後かもしれない。

伊方町には合併前の当時から、共産党の議席がありません。町議選をたたかうことも初めてです。

移住して活動を開始した遠藤さんは、拡声器をつけた軽自動車を自ら運転し、細長い佐田岬半島の隅々の集落を訪ねて訴えています。そして漁港に面して広がる小さな集落の入口などで宣伝を重ねています。町民と対話し、寄せられた意見はノートに書き留めています。

「原発をなくしたら町が寂れてしまう」と心配する男性にはこう応えます。「廃炉に向けた作業で雇用は確保されます。再生可能エネルギーへの転換が本格的になれば、新しい雇用が生まれます」と展望を示しています。

遠藤さんと対話し共感した元公務員の80代の男性は、「遠藤さんを絶対に勝たせないといけない」と入党しました。町で36年ぶりの新入党者です。遠藤さんを紹介する「伊方民報号外」の束を抱え、集落の一軒一軒に配り歩いています。

何か叱咤されているような気持ちになる。76歳ですよ、私より5つも上なんです。

私も今月いっぱいで職場を降りることにしたが、「それで終わりというわけにはいかないな」と感じています。

以前、パタゴニアで風力発電をやって、それを水素にして日本に運ぶというプロジェクトを紹介した。

このプロジェクトは軍事産業の代表である三菱重工のものだったから、紹介をためらったが、あまりにも気宇壮大で痛快だったので度肝を抜かれた。

このプロジェクトの発案者が勝呂幸男さんという方で、三菱の社員であるとともに、日本風力エネルギー協会の会長も務めている。元々はタービン屋さんのようだ。

その後、石油もガスも安くなり、電力各社が原発に執念を燃やし続けるため、話題にはなりにくくなった。しかしいつも心の片隅には残っている。

風力が話題に上らなくなったのは外的環境のせいだけではない。日本での風力発電が極めて多くの問題を抱えているためだ。この点についても以前書いた。「日本では風力はお呼びではない」とまで書いた。

そんなとき、勝呂さんの文章が目に止まった。題名は「風車導入拡大へ向けて課題を克服しよう」というもの。

ある意味では、執念の一文だ。

勝呂さんによれば、風力発電の課題は風車の信頼性に尽きる。

まず風車の信頼性に関わる事件がいくつか紹介される。

1.カリフォルニア風車ブームの挫折

かつてPURPA法を適用した風車が所謂カリフォルニア風車ブームを起こした。しかし運転後に多くの故障が発生し評価は失墜した。

故障の原因は、つきるところ風力変化の評価が不十分だったためだ。

2.国際電機会議(IEC)の技術標準

カリフォルニアの総括の中から標準設計基準が提唱され、これがIEC技術標準として固められた。

3.宮古島の風車倒壊

日本では宮古島に立てた風力発電の風車が転倒した事件が衝撃を与えた。

宮古島は80m/secの強風番付一位の実績があり、IEC標準からは到底,標準風車を設置出来ない所である。

なのに建ててしまったという問題がひとつ。そして建てられた風車の最大耐強風設計が60m/secだったということ。

つまり建ててはいけないところに、建ててはいけないものを建ててしまったということである。

4.「日本製だから安全」と言われるように

勝呂さんは、「この話がわが国の風車導入の実際を象徴的に表している」と嘆く。

このような気象条件に対する無理解ばかりではなく、落雷への配慮もなされていない。

そもそもIEC標準の基礎データとなっているのはヨーロッパのもので、後から米国のデータも取り入られたが、日本やアジアのデータは反映されていない。

個別の気象条件に合わせた日本発の建築基準を作り上げることが、今後の課題だ。


とまぁ、こんな具合だ。

厳しい言い方をすれば、これまでの日本の風力発電はなんのデータもなしに、外国仕様の風車を建てているだけだ、ということになる。

つまり、「これからは基準を作ってやっていきましょう」ということだ。会長さんがそう言っているのだから間違いない。

そこには相次ぐ風車事故への深刻な反省は見られない。「とんでもないことをしてしまった。二度とこのような間違いを繰り返さないためにどうしたら良いのだろう」という発想が窺われない。

どうも勝呂さんという人、攻めのタイプのようだ。

勝呂さんの専門であるタービン・ボイラー技術の歴史というのは、安全性構築の歴史と言ってもよい。ものすごい威力はもっているが、そのぶん危険性も高く、それがネックとなって伸び悩んだ時期がある。産業革命の頃だ。それが内燃機関として発展するのは、まさに安全性問題が解決したからだ。ソロバン勘定はその後だ。パタゴニアの風力発電も、足元の安全が確保されなければ夢物語だ。

三菱といえばゼロ戦を作った会社。世界トップの性能を誇ったが、それは防御や安全性、居住性などを一切無視したものでもあった。軍事産業を主軸に成長したこの会社には、伝統的に安全軽視の風潮があるのかもしれない。

いずれにせよ日本では当分、安全性を最重要課題とする技術構築という視点は生まれそうにない。日本の気象条件に合わせた、安全で安定した風力発電は期待できないということだ。

石炭火発 やはり技術的に無理がある。

火力発電の進歩はボイラー・タービンと除染装置の両面から進化してきた。

しかしある程度の進歩に達すると、そこで停滞せざるを得なくなる。

その時ブレイク・スルーの鍵となったのは燃焼素材の転換である。最初は石炭、その後石油、そして天然ガスと素材革命が行われた。

いまさらながら、それらの進歩を振り返ってみれば、化学的には当然の過程とも言えよう。

燃焼というのは気体にまで分離した炭素分子が酸化することである。もちろん固体も液体も酸化はする。しかし鉄が錆びるのは厄介な出来事でしかない。液体が酸化するのもお酢を作る作業を除けばあまりいいことはない。開封して1週間もしたお酒は、飲めないことはないが、味は情けないほどに落ちる。

それは到底燃焼とはいえない。石炭が燃えるのも、その塊がバラバラの炭素になって、それが酸素と結合するからである。

つまりものが燃焼するのは液相・気相という前過程を踏んで初めて実現するのである。

現在の石炭火発は炭塊を微細粉粒化し、あらかじめかなり熱してから燃焼過程に突っ込む仕掛けになっているようだが、いくら微細と言っても固相状態であることに変わりはない。ムラとムダは必然的に生じる。

また除染についても、炭塊にしみこんだ有害物質を燃焼前に除染するのはきわめて困難である。


コストの問題として考えるなら、地球的に見て環境コストを上回るだけの経済コストを生み出すのは困難と言わざるをえない。

ただそこにはタイムラグがある。後の世代につけを回すのであれば、あるいは一時しのぎの便法として用いるのであれば、別の計算が成り立つだろう。しかしそれは正義とはいえない。

つまりコストとして石炭火発を考えるのは邪道だということである。

したがって、長期のベースロード電源として石炭火発を考えるのは正しいとはいえない。

資源の問題として考えるなら、とりあえずは「内部留保」とし、あまり使わないのが最良であろう。石炭中の炭素を液化、気化する技術が開発されれば、ふたたび脚光を浴びる日も来るかもしれない。

発電の歴史(火力発電を中心に)

1832年  フランスでピクシーが発電機(直流)を発明

1840 イギリスでアームストロングが水力発電機を発明

1878(明治11年) 日本初の電灯が点灯(3月25日=電気記念日)。これは今日の電球ではなくアーク灯。

1879 アメリカでエジソンが電球を発明

1881 アメリカでエジソンが石炭火力発電所を完成

1887年(明治20年) 日本橋茅場町に25kWの火力発電所が設置される。その他浅草火力発電所200kWや千住火力発電所77.5MWなど。

1892(明治25年) 京都に日本初の水力発電所完成。(東北の三居沢発電所が最初との説あり)

1893年 「日光第二発電所」(東京)が運転開始。

1898年 蒸気タービン発電機が実用化され、ピストン型蒸気機関に取って代わる。高圧高温の蒸気を発生して、蒸気タービンを回転させて電力を発生することから汽力発電と言う。

1912年 水力発電が233MWに達し、火力発電を上回る。

1912 横川~軽井沢で日本初の電気機関車が走行開始。

1918年 GEがガスタービンの本格製造を開始。燃焼排ガスを用いて直接タービン発電機を回転させる。発電効率は蒸気タービンより落ちる。

1939 電力会社が国策会社「日本発送電」に統合される。

1943 配電統制令により全国に9配電会社設立

1950年 電気事業が再編成される。民営の電力会社の「9電力体制」が出来上がる。(後に沖縄を入れて10電力と呼ばれる)

1954  世界初の原子力発電所完成

1955年 三重火力発電所が操業開始。大規模火発のハシリとなる。

1963年 「火主水従」の始まり。火力発電が9750MWに達し、水力発電を上回る。

1966年 原子力発電の最初の商用発電所として、東海発電所125MW(日本原子力発電)が運転を開始する。

1967年 初の超臨界圧の発電機が導入される。

1969年 燃料としてLNGが導入された。

1970年 最初の大規模原発として敦賀発電所が運転開始となる。

1974年 単機容量が1,000MWを超える発電機の導入。ボイラー性能は蒸気温度550℃、圧力24.1MPaに到達。(蒸気温度374.1℃以上、蒸気圧力22.1MPa以上を超臨界圧、593℃以上、24.1MPa以上を超々臨界圧と呼ぶ)

1974年 サンシャイン計画がスタート。オイルショックを機に、石油に代わるエネルギーの研究・開発がすすむ。

1980年代 LNGの安定供給が進んだことから、コンバインドサイクル発電が主流となる。高温の燃焼ガスをガスタービンで用い、ガスタービンから排気される低温ガスを蒸気タービンで利用する。

タービン翼の冷却技術の向上で燃焼ガス温度が1500℃まで可能となる。送電端の発電効率が50%を超える。

1986年 チェルノブイリ原子力発電所で事故発生

1989年 31MPaの超々臨界圧の蒸気圧力をもつプラントが導入される。タービンは1,600℃級が導入され、コンバインド・サイクルでは熱効率60%以上が可能となる。

1995年 電力自由化が始まる。新規参入者(PPS)には高額な送電線使用料やインバランス料金が壁となる。

2000年  大気汚染防止法が制定される。

①電気集塵機、②原油の「水素化脱硫」、排煙脱硫の導入により、環境特性が改善。③脱硝については燃料寄与NOxについて低NOx燃焼器、空気寄与NOxについて選択触媒還元脱硝装置(乾式アンモニア接触還元法)が導入されている。(石炭については入り口脱硫は行われていない?)

2008年 発電量に対する比率は、LNG 34%、石炭 18%、石油10%(オイルショック時75%)となる。

2011年3月11日 福島原発事故。

2016年4月 電気事業法改正。一般家庭等でもIPPから購入可能になる。ただし自由化で先行する英国やドイツでは電気料金が急激に上昇している。

Don’t go back to the 石炭〜石炭火力発電に反対 |石炭発電|石炭火力発電|反原発

というサイトを見つけた。ブログ形式で膨大な資料をアップしている。

その中から「なぜ石炭が問題なの?」というファイルを紹介させてもらう。ちょっと思い入れがある文章だが、事実問題を抜書きしておく。

石炭火発の流れ: 戦後復興期に石炭から石油への移行が進んだが、オイルショックで石炭が見直され、東日本大震災のあとはジワリと増えた。現在は発電の30%を石炭火発が担っている。

石炭火発の長所: ①化石燃料の中では安い。②石炭は埋蔵量が多く、価格も供給も安定。③主要輸入先であるオーストラリアやインドネシアの政治的安定。

ただし価格の面では楽観を許さない。世界各国で石炭火発の増設が相次ぎ、供給面のフアンは予想を超えて広がっているとされる。(具体的な数字は挙げられていない)

また採炭に伴う環境破壊について、現地での反対運動も活発化しつつあるという。

石炭火発の現状: 10電力の運営する石炭火発が45基、その他の事業者による石炭火発が49基、合わせて94基の事業用の大規模石炭火発が運用中。

さらに自家発電設備として石炭火力の自家発電設備を持つ事業者も相当数あるようだ。このサイトでも正確な数はつかめていないようだ。

政府の石炭火発政策: 日本のエネルギー政策は、「3E」原則を基本としている。3Eとは、安定供給(Energy Security)、経済性(Economic Efficiency)、環境適合性(Environment)である。

しかしこれは原発全盛時代の「原則」で、原発は実は環境不適合であることが明らかになった。その後は環境適合性は後回しにされたままである。

石炭火発の技術革新: たしかに最新の「超々臨界圧火力発電」(蒸気温度593℃以上、蒸気圧力24.1MPa以上)は以前の石炭火発に比べ、大気汚染物質(NOx、SOxなど)の約9割を除去できるようになっている。CO2排出もへっている。業界ではこれをもって「クリーン・コール」と呼んでいる。

しかし最新鋭の石炭火発でも、CO2排出量は天然ガスの2倍以上のレベルに留まっている。(LNG1500度の341g-CO2/kWhに対し、810)

石炭ガス化複合発電などの新技術

目下、エネルギー効率向上の切り札とされるのが「石炭ガス化複合発電」(IGCC)である。IGCCでは石炭をそのまま燃焼させるのではなく、いったんガス化させることになる。

ガス化の技術がキモであり、あとは天然ガスによる発電と同じだ。ただしこれはコスト面の課題が大きいと思う。

安定供給を至上命題とするなら(例えば石油封鎖を受けた戦時中のように)、石炭からガソリンを作るというプロジェクトも成立しうるが、いま石炭火発を成立させているのはローコストというだけだ。そんな手間をかけるなら天然ガスの確保に向かうほうがはるかに安上がりになる。


以上3つの記事を上げておく。一つにまとめれば良いのだが、今のところそこまでの気は起きない。ご容赦の程を。
もう一つ、感想にしか過ぎないが、石炭が存在する限り石炭火発の技術は生き延びるだろうと思う。原子力発電と同じ論法で「百害あって一利なし」とは断言できない。もちろん再生可能エネルギーの使用が優先するのではあるが。
仮定の話として、石油並み(9割位)の燃料効率とCO2排出量、環境汚染度が実現できれば、コストと供給の安定性の視点からはゴーサインが出る可能性もある。その分はむしろ電気の乱費をなくすことのほうが能率的かもしれない。
また、途上国が経済的な理由から石炭火発に固執せざるを得ないとするなら、せめて石炭火発の性能をよくしてやれば、それ自体は環境改善につながる。この辺は環境スワップでなんとかならないだろうか。
前門の虎(CO2)、後門の狼(コスト)という状況が続くだろうが、地球の歴史が残してくれた貴重な資源だ。なんとか活用の方法を考えたいものだと思う。

前の記事のポイントは2つだ。

一つは、いかなる新技術をもってしても石炭火発のクリーン度は低い、ということだ。

もう一つは、石炭火発の導入はひたすら電力業界の利益のためであり、日本の利益のためではないということだ。

ただいずれも、前回記事だけでは証明は不充分である。

とくに、ホンネは電力業界のためであるにせよ、それでは国際的に通用するものではない。公にはどういう理屈で石炭火発を合理化しているのかがはっきりしない。

フクシマを経験した国が「原発も推進します、石炭火発も推進します」というのでは、物笑いの種にしかならない。

もう少し他の記事を探すことにする。

JB Press というサイトの「 国際的批判を受ける日本の石炭火力 」という記事。副題は「石炭火力に強まる逆風、しわ寄せを受けるバイオマス発電」となっている。

著者は宇佐美典也さんという人。「パリ協定」成立直前の2015年11月の記事である。

1.石炭火発の新技術

たしかにエネルギー源として利用可能な石炭は、一つの魅力ではある。技術開発で無公害ないし低公害の利用法ができれば、産炭地である北海道の再生の可能性も出てくる。

石炭火発の新技術には大きく言って2つの方式がある。一つは「超々臨界圧方式」と、何やらすごい新技術のようだ。

もう一つが複合発電方式であ。石炭をガス化して、それを石炭燃焼によるエネルギーと混ぜて使うという、何やらインチキ臭い方式だ。

ところが、残念ながらこれらの技術は名前の割にはとんと大したことがないようだ。

 

発電効率(%)

CO2排出量(g/kWh)

現在の石炭火発

40

820

超々臨界圧方式

46

710

複合発電方式

50

650

現在のLNG火発

52

340

というのがあらあらの数字で、いずれにしても現在のところは使いようがない。

2.東日本大震災と発電コスト

発電コストにはランニングコストと環境コストがある。

東日本大震災のあと原発が停止し火力発電がフル稼働した。それは緊急避難的な色合いを持ち、その中に石炭火発もふくまれていた。

火発が全面稼働した結果、CO2排出量は大きく増加しランニングコストも大幅に上昇した。東日本大震災以降、20%以上も電気料金が上昇した。

その中で、発電コストを抑えるために、火発の中でも経済効率の良い石炭火力の新設・稼働という考えが浮上した。人の道から言えば邪道だが、経済学的には一つのオプションである。

ただしそれはあくまでも緊急避難であり、その先にどう石炭火発を削減していくかという展望が必ず語られなければならないであろう。

「CO2地下貯留技術と石炭火力発電を組み合わせる」という手段が語られているようであるが、これは本末転倒というほかない。第一それ自体がコストとなる。まずは削減ありきなのである。

3.小規模石炭火力発電という裏事情

この記事で初めて知ったのだが、電力10社の石炭火発への傾斜には、後発電力会社による小規模石炭火発の増設計画があるようだ。

電力自由化に伴い、電力10社は後発電力との競争を強いられることになった。後発会社が市場に参入しようとすれば、価格面での魅力が必要である。

そこでこれらの会社はコストの安い小規模石炭火発に目をつけた。そこには法の抜け穴があったのである。

これまで石炭火力発電に関しては「エネルギー使用の合理化に関する法律(省エネ法)」による規制・指導が行われてきた。これは大手電気事業者の持つ大型の石炭火力発電のみを対象とするもので年間600万kWh 以下の発電設備についての規制はなかった。

そもそも法律そのものが「省エネ法」であって「CO2 排出規制法」ではないから、基本的にはザルだ。

そこを狙って小規模石炭火力発電の新増設計画が相次いだ。

環境省にせっつかれた経産省は規制の内容を厳格化しようとしている。まさに泥縄だ。

4.「超々臨界圧方式」の意味

経産省は一方で電力10社からも突き上げられる。そこで考えたのが規制の網を小規模石炭火発にも広げること、一つは規制基準を底上げすることである。

とくに後者が問題となる。経産省の目論見は電力10社の保護にあるのであり、石炭火発の削減にあるのではない。

そこで持ち込まれたのが「超々臨界圧方式」である。前の表をもう一度ご覧いただきたい。従来型石炭火発の発電効率が40%、「超々臨界圧方式」が46%だ。

そこで経産省は規制値を41%に設定したわけだ。これで後発電力会社の進出は抑えられる。それと同時に電力8社の石炭火発への道が開かれ、「低コスト・高排出量」型発電へのゴーサインが出ることになる。まさに「超々グッドアイデア」である。

「超々臨界圧方式」はCO2 排出量をたかだか100グラム削減するための技術ではなく、後発電力追い落としのための技術なのだ。

5.「バイオマス混焼」という裏技

だが、これでは新規参入組は枕を並べて討ち死にだ。流石にそれでは「電力自由化」の顔が立たない。

そこでさらに悪知恵の働く者がいて、「バイオマス混焼」という方式を考えだした。これは木材ペレットと石炭を一緒に炊くというものらしい。

木材は成長過程で光合成によりCO2を吸収している。だからCO2排出量は差し引きゼロだという理屈である。これを「カーボンオフセット」というのだそうだ。

例えば木材と石炭を同じ発熱量になるように混ぜれば、その火発のCO2排出量は半分になるという計算だ。

ただこの珍妙な方式は、さらに問題を複雑化するおそれがある。

そもそもがバイオマスをいちじくの葉っぱとする発想が歪んでいる。もし電力10社にもバイオマス混焼が許されるのなら、それは後発会社のメリットにはならない。結局、「超々臨界圧方式」など導入せずにバイオマス混焼で行くほうが安上がりだ。

第二に、バイオマスは質量ともに不安定な資源で、安定した供給が難しい。場合によっては資源価格が暴騰する恐れもある。そうなれば後発会社の死期を早めるだけの結果に終わるかもしれない。

第三に、主としてエコの観点からバイオマス専焼設備を運用する再エネ業者は息の根を止められるだろう。これでは本末転倒である。

というのが主な内容で、かなり話題が広範に扱われ、石炭火発問題の実態が見えてきたような気がする。

さらにもう少し学習を積み重ねたい。

「石炭火発推進」論への素朴な疑問。

石炭火発を増設しようという動きが強まっているようだが、目下のところあまり強い反対は起きていない。もちろん賛成か反対かといえば反対なのだが、原発をどうするかに比べれば二の次にされている。

たしかに原発をなくすことが最大の課題であるから、それに比べれば許容はされるかもしれない。それはそれで判断なのだが、どうも原発もあきらめず火発も推進するというのでは、理屈が立たないのではないかという気がしてならない。

かつて原発の最大の謳い文句だったのが「クリーン・エネルギー」である。だから今も変わらず原発を推進しようとする人が同じ口から「火発推進」を唱えるのは、天にツバをするようなものではないだろうか。

もうクリーンエネルギーなんて言うことをやめるのなら、原発もやめるべきだろう。いまや他に取り柄などないのだから。

と言っているうちに、計画はどんどん進行している。もう少し詳しく勉強しなければならないようだ。

ハーバー・ビジネス・オンラインというサイトの「日本だけ石炭火力発電所を増設」の謎(2016年2月) という記事を読んでみる。

1.石炭火発推進論の時代背景

まずは時代背景から

* 15年末にCOP21(気候変動枠組条約)、通称パリ条約が締結された。温室効果ガス(二酸化炭素)の削減について国際的合意が初めて成立した。

* 二酸化炭素産出の最大の元凶は石炭火発だ。すでに会議の前から火発の閉鎖は相次いでいる。日本においてもそれは同様だった。

* このなかで政府は先進国の中で唯一石炭火力を増設しようとしている。

これが建設計画の概要だ。

火発建設計画

             作成 気候ネットワーク 

2.なぜ政府は石炭火発を推進するのか

言うまでもなく、既存の9電力会社+電力村の強い後押しによるものだ。

では電力村はなぜ石炭火発なのか。ここの説明がこの記事ではちょっと不足している。

電力の小売自由化が進むと、発電事業だけでは利益が薄くても、安い石炭火力の電気を小売事業につなげることで競争に有利になる。

のだそうだ。もう少し他の記事で当たって見る必要がある。

3.「新型」石炭火発はクリーンか

推進側は「新型の発電所は汚染物質の排出が少ない」としている。しかし決して「クリーン」な電源とは言えない。

汚染物質の排出量は旧型に比べれば少ない、しかい天然ガスなど他の燃料に比べれば2倍である。

4.「新型」石炭火発は低コストか

日本では石炭火力によって犠牲になる環境コストが省かれているので、一見安く見えてしまう。これは原発のときと同じ論法である。

朝日新聞に面白いくだりがあった。

経産省にとっては、柏崎刈羽の再稼働こそ東電再建の「前提」と考えていただけに衝撃は大きい。

経済産業省の幹部は16日夜、「新潟県民にここまで原発再稼働アレルギーがあるとは」と嘆いた。

我々も嘆こうではないか

経産省や経団連にここまで原発再稼働アレルギーがないとは!

あたかも、そんなことなどなかったかのように


そもそもアレルギーというのは免疫反応です。2つの特徴があって、一つは即時型反応だということです。全身の粘膜や皮膚が総毛立って、粘膜が浮腫を起こします。

もう一つは病的な過剰反応だということです。もともと人間には防衛反応と学習反応があります。痛い思いをすると次からはそれがトラウマになって過敏に反応するのです。

大変困った反応なのですが、考えようによっては無いよりましなのです。バクチに負けて、あるいはサラ金に手を出してひどい目にあったら二度と手を出さないでしょう。顔を見ただけでもゾッとするはずです。

ところがまったく免疫ができない人もいるのです。アネルギーといいます。こちらのほうがはるかに怖い。

そういう人は懲りることなく同じ過ちを繰り返して、ついには破綻に追い込まれるのです。そういう欠陥人間が自分の連れ合いだったらどうします?


それにしても、今だから言うけど、この米山という人、顔で判断しちゃいけないけど、「我が方」にはいない顔だね。別世界の人ということでは大谷と同じだけど、大谷は良い星から来た異星人だけど、この人はどうなんだろう。とにかく「いい人」で有り続けることを願うのみだな。

熊本群発地震のあいだも川内原発がなんの対応もしないことに不満の声が高まっている。
この間のやり取りで、規制委員会の田中委員長の無責任さがかなり浮き彫りになった。以下は共産党井上議員の国会質問への感想。
田中委員長の見解は、一言で言えば「何もしない。不安はない」というものだ。これは個人ではなく、委員長としての発言としてはおかしい。
安全性をあらためて確認する責任は、立場上あるはずだ。
丸川原子力担当相の答弁もまことにおかしい。「これまでのところ川内現発で観測されたのは最大12.6ガルだ。想定基準地振動は620ガルだから、停止する必要はない」というものだ。
しかし益城町ではつい先日1580ガルを記録している。専門家の記者会見では、今後南西方向に地震が波及する可能性もあると、はっきり指摘している。
原発のきわめて深刻な危険性を鑑みれば、群発地震が収束に向かうまでは一時停止するというのが、論理的帰結だろう。未来永劫止めろと言っているわけではない(とりあえず今は…)
一番危険なのは、原発を管理する人物と、規制する人物、指導する人物にまったくそういう発想がないことだ。もし何かあれば「想定外だった」と言い抜ければそれで済むと思っている。
JRだって道路公団だって、その危険性を織り込んで、徐行したり運行中止している。「1580ガルが来たら止めます」などという人はいないはずだ。普通はそういうものではないでしょうか、皆さん。

川内原発を止めてください に協力を



原子力規制庁によりますと、午前0時3分ごろの地震で震度4を観測した鹿児島県薩摩川内市にあり、全国の原発で唯一稼働している九州電力川内原子力発電所1号機と2号機は、今のところ異常はなく、運転を続けているということです(NHK)

鹿児島県庁のホームページ

sendai sindo

このくらいなら連中はまったく気にしないだろう。なにせ1997年には川内市直下でマグニチュード6.5,震度6弱の地震が起きても平然と運行を続けた連中だ。

普通は徐行運転に切り替えるとか、運行を一旦停止して経過を見るとかするのが常識であるが、この連中にはそんな気はさらさらない。

良く言えば九州男児のきっぷの良さなのだろうが、「備えなくても憂いなし」

我々には工藤会も真っ青、ほとんど「キ印集団」と見受けられる。

原発は安全性の秤に乗せるには大きすぎる

1.安全性の議論はフェイル・セーフ機能の範囲内で行われるべきだ

原発の安全性はもう少し理屈の問題として詰めておく必要があるのではないか。

安全性という目盛りはたしかにある。論理的にも危険性の逆数として存在しうる。工学的にも多変量の連立方程式として算出しうる。社会的にも利便性と危険性認容の掛け算として想定しうる。

ただその扱える範囲には限界があるのではないか。歴史的にはその範囲は変化してきたし、拡大しつつある。それはフェイル・セーフの技術が発達してきたためである。

逆に言えばフェイル・セーフの機能が完全でなけれれば、あるいはフェイル・セーフ機能をはるかに越えるものには、そもそも安全性の概念は適用できないということになる。

2.社会的安全度という問題

一つの技術なりシステムというものの安全性は危険性の逆数だが、これが社会で汎用されるときには、利便性と秤にかけられる。

しかし実はこれだけではない。社会の多数の人が関われば関わるほど安全性は高度なものが要求されるようになる。

実験的な使用であればかなりのリスクは受忍されるが、多数の人がルーチンに使用するものなら、安全性ははるかに高度のものが要求される。

なぜなら事故が起きた時の影響ははるかに深刻だからである。

つまり利便性と危険性の秤は、その置かれた土台の広範性を念頭に置かなければならないのである。

3.量的・質的な安全性の限界

もう一つは、安全性が破たんした際の影響の深刻度がある。

これは薬の副作用を例にとるとわかりやすいのだが、薬局でもらう薬の説明書には副作用が書いてあるだろう。例えば吐き気などは極めてポピュラーな副作用だが、これはたいていは軽微であるために許容されている。

しかし数は少なくとも死に至るような副作用があれば、薬の使用に関しては厳しい注意が必要となる。

さらに常用量の問題があって、その範囲では安全性が確認されていても、10倍量飲まれたら安全性は保障できない。

つまり質的・量的な危険性は、安全性の秤を吹き飛ばしてしまうのである。

4.結論

原発は危険性と利便性の秤に乗せるには大きすぎる。

大きすぎるということは、物理的な危険性が現代技術の統制力の力を超えていることであり、その社会的影響力が社会システムの枠を大きくはみ出しているということである。

このことから考えれば、原発の安全性をうんぬんすること自体が論理矛盾であり、それは「安全性」の戯画に過ぎない。

肝心なことは、それを今まで認識できなかったことであり、今やっと認識できたということである。

原発に対する60年の認識の歴史は、結局、この認識に達するための歴史であった。

5.これからの原発

私個人としては、人間の力である程度統御が可能なレベルであれば、原子炉を用いた研究は続けるべきであると考える。

もちろん大型であろうと小型であろうと、原子炉の危険性は本質的には変わるものではない。

ただジェット機は墜落すれば数百人の命が失われる危険性を内包しつつ飛び続けているし、船は沈没すれば千人単位の命が危険にさらされる。

現代人は、今のところ、それを必要なリスクとして甘受している。

しかし原発はそのような安全性リスクの目盛りからははるかにスケールアウトしている。なぜ原発のようなビッグなシステムが、なぜろくな安全装置もなしに開発されたか、それはまさに原爆を製造するという目的のためであり、その副産物だからである。

戦争のための武器だから、どうせ人を殺すんだからということで、安全性にはさしたる考慮が払われないままに野放図に大規模化し、それがある日ぬっと娑婆の社会に乗り込んできたのだ。それが原発だ。

思えば不幸な生い立ちの子だ。

しかしこの子には、大きな将来性がある。一度サイズダウンしたうえで、正しく育てることは大事な仕事だろうと思う。


いろいろと、異論もおありでしょう。

私自身、意見変更の可能性もあります。とりあえずの感想としてお聞きください。

伊方原発が廃炉決定。まずは良しとしなければならない。

地図を見ただけでもその非人道性は明らかだ。事故が起きれば佐田岬半島の住民は皆殺しだ。

関連記事を見ていて、見逃せないポイントがあることに気付かされた。

それはヒトの問題だ。

建築後40年たつと、建てた時の人間はいなくなる。何かあったときに技術が継承されていないと、建築当事者には当たり前だったことが、まったく忘れ去られてしまう。

じつは、私の病院でも同じことがあった。同じ部屋にまったく違う電源があって、片方の電源がどこから来ているのかわからなかった。建設時の設計図や施行図を持って来いというが、これがなかなか見つからない。

結局最後は壁を壊しながら電線の先を探っていくことになった。最終的にはとんでもないところからきていることが分かり、しかも普通の差込口からの危うい電源であった。

「誰がこんなことをしたんだ」と怒鳴ったが、もちろんそんなことが分かるわけはない。強いて言えば「40年の年月がそうさせたのだ」と納得するほかない。

放射能による劣化が勿論最大の問題ではあるが。人間の脳みその劣化も頭に入れなければならない。安全性の技術を考える際にはヒューマン・ファクターを念頭に置かなければならない。

これは鉄則である。

川内に続いて高浜が再稼働(しかもプルサーマル!)、さらに伊方とどんどん進んでいく。

これらの動きで注目されるのは、再稼働がまったく無言のうちに進んで行っていることだ。

以前なら電力会社側が声高に電力の危機を騒いだものだったが、最近はまったく音無し。ある意味不気味な話だ。

福島の後、大企業側はNHKを動員して、電力が危ないと繰り返した。また電力料金が跳ね上がると脅した。

それが最近ではとんと聞かれないから、庶民の側では原発を再稼働する理由がさっぱりわからない。電力会社の都合としか受け取れないのだ。

福島以前、原発の宣伝は基本的には3本柱だった。安定供給、安全、安価という3つの「アン」である。

原発事故そのものが安全神話の崩壊を意味した。東大教授たちは大方の非難を浴び公の舞台から姿を消した。

さらに残る二つがひっくり返されていったのが福島以降の経過だ。とくに電力不足のキャンペーンは異常なものだった。

しかしこれはすでにクリアされた。もう「電気が足りなくなる」の嘘は通用しなくなった。それと同時に原発再開を前提に火発の再稼働を怠ってきた各電力会社も、火発へのシフトを開始した。

残る問題がコスト問題であった。

コスト問題というのは3つのフィクションの上に成り立っている。

ひとつは人命コスト、国土汚染コストなどのリスク対応コストが排除されたうえでコスト計算を行うというフィクションである。

ふたつ目は「核のゴミ」の廃棄・処理コストがゼロとして計算されるというフィクションである。

三つ目は電源開発などの名目による国税投下がコストから排除されるというフィクションである。これらは本来、電力会社がコストとして負担すべきものであった。

ただ、あえてそれらのフィクションを受け入れたうえで、攻撃的なコスト論争が行われ、液化ガスとの比較優位はほぼ否定された。

残された唯一の問題が、原油・天然ガス輸入増に伴う貿易赤字であったが、円安を上回る原油価格の低下により、この問題も自然解決してしまった。

つまり、電力会社には拠るべき再稼働の理由がなくなってしまったのである。


ネットを探してみると、経団連御用達の「ウェッジ」誌が再稼働推進論を打ち出している。

2015年08月18日(Tue)  川内原発の再稼働が必要な4つの理由  再稼働がもたらすリスクとベネフィット 

これを読みながら反論しようかと思ったが、読んでいるうちにアホらしくなったので止める。

一応リンクはかけておくので、目を通しておくほうが良いでしょう。


あまりにむごい 伊方原発

伊方原発が再稼働に向けて動き始めている。すでに外堀は埋められたようだ。

地図を見てみると、2つの点に気付かされる。

ひとつは、伊方原発が見事に中央構造線の直上に建てられているということだ。中央構造線は南アルプスに始まり、四国を横断して阿蘇山に至る大断層だ。とりわけ紀の川、吉野川、新居浜から佐田岬半島へと繋がるあたりは実にくっきりとしていて、ある種の美しさを感じてしまう。テレビの天気予報で毎日日本地図を見るたびに、まるで吉永小百合を見ているかのような錯覚にとらわれる。

これだけラインがくっきりしているといのは、その断層がまだできて間もない新鮮なものであることを示している。地形というのは絶えず侵食を受け、どんどん崩れていくものである。人間も年を取れば角が取れ、皮膚は渋皮のようになり、どんな美人でもただのババアになってしまう。

つまり伊方はとびっきり生きのいい断層のどまんなかにあるということが分かる。

もう一つは伊方原発が佐田岬半島の付け根に位置するということだ。半島を腕とすると、伊方原発は脇の下になる。動脈、静脈、知覚神経、運動神経、リンパ管のすべてが原発の直ぐ側を通過している。ここに何かあれば、たちまち腕そのものがダメになってしまう場所だ。

ダメになった腕はどうなるか、その住民はどうなるか。

瀬戸内海は島が非常に多い。しかしどういうわけかこの辺り一帯に限って島はない。周りは伊予灘と豊後水道だ。だから住民は放射能をたっぷり浴びて死ぬしかない。

それを分かっていて、やるのだから、随分むごいことをするものだ。

電気は足りているのだから、再稼働に国益はひとつもない。目的はただひたすら金のためである。

安全神話がまかり通っていた時代、騙されたと言い訳もできるだろうが、福島原発の後、その言い訳はもう通用しない。

賛成派の人というのは金のために、自分の利益のために目が見えなくなって、ご先祖様も子孫も半島の先に住んでいる人たちも、勝手に売り飛ばして恥じない人らしい。伊方原発というのは、存在そのものがそういうどす黒い悪意の塊りなのだ。地図を見ていて、つくづく思う。

つけたし

伊方町は佐田岬半島の全体をふくむ町である。

付け根から順に旧伊方町、旧瀬戸町、旧三崎町の3つの町からなる。人口はちょっと古いが平成大合併ころのもので、伊方町が1万人、瀬戸町が3千人、三崎町が4千人の人口を抱えていた。

いまはすべて合わせても1万人しかいない。過疎化のレベルを超えて限界集落化が進んでいる。

集落の名は全て「…浦」となっており、海岸沿いの僅かな平地にそって集落が点在しているさまが予想される。(グーグルの航空写真を見てもまさにそうなっている)

瀬戸町の中心三机には宇和島藩のお番所がおかれ、明治の頃にはなんと三机銀行まであった。ここが南北700メートルしかない地峡だったため、パナマのような地位にあったのである。徳川時代初期には実際に運河づくりが着工されたが挫折。おかげで宇和島藩は改易となっている。

佐田岬

旧伊方町は原発に身売りする代わりにたんまり金をもらったが、瀬戸町、三崎町はあずかり知らない。しかし事故が起きれば、伊方の人は逃げられても瀬戸町、三崎町の人は逃げ場所がない。

これはあまりに不条理ではないか。

佐々木則夫の名言 格言

というページがある(未だに)。

東京出身。早稲田大学理工学部機械工学科卒業後、東京芝浦電気(のちの東芝)に入社。主に原子力発電事業に従事し、原子力事業を東芝の主力事業に押し上げた人物。

というプロフィールの後、「名言」が載せられている。

*打ち合わせや会議は1日20件前後です。1件にかかる時間は長くても30分で、5分で終わる場合も少なくありません。

*どうして即断即決ができるのかという と、自分の中に公式のようなものができているからでしょう。マネジメントというのは工学に通じるものがあり、答えがだいたい決まっています。

*副社長のころまでは自分で資料を作成することも多かったのですが、トップは決断して指示を出すことが仕事の中心ですから携帯電話で十分です。

*電話は感情を伝えるのに効果的な手段ですが、ファクト(事実)を誤解なく伝えるという点ではメールに軍配が上がります。また、メールなら指示内容や回答がすべて残ります。

*私は1年間に1000通以上のメールを書くほどのメール魔です。メールで日常の注意点から具体的な仕事の内容にも言及すると、自分の思ったことに対する情報も集まり、自分の思いも直接伝わります。メールは単なる情報伝達以上の活用が可能なのです。

佐々木氏の秘密は下記にあるようだ

マネジメントというのは…答えがだいたい決まっています。

メール魔で…具体的な仕事の内容にも言及する

すなわち傲慢さと専制的手法だ。ゲームに参加するために不可欠な、ネガティブ・フィードバックのメカが取り外されている。

ちなみに私のメール観は以下の記事

この人はいずれ刑事被告人になる人だから、氏など付けたくないが、一応の礼儀として。
この人は三悪人の中でもとびきりの悪だ。
原発部門出身で原子力事業部長を務めた佐々木氏は、2006年ウェスチングハウスの買収の先頭に立ち、莫大な資金を投資した。そこで福島原発事故が起こり、結局稼働原発ゼロの事態に追い込まれた。
これは日本全体から見れば別に犯罪でもなんでもなく、たんなる一企業の経営上の失敗にすぎない。しかしもちろん経営者・佐々木則夫にしてみれば十分、致命傷だ。
このままいけば東芝もろとも海の藻屑と化す。
そこで粉飾決算をしまくりつつ、経団連に潜り込み、ひたすら原発再稼働に向けて策動を繰り返すことになる。
赤旗には以下のごとく記載されている。
安倍政権のもとで再開された経済財政諮問会議。この会議の民間議員に佐々木氏(当時社長)が任命されました。
会議のなかで佐々木氏は、原発の「利便性」について繰り返し発言していました。
例えば「いま、いろいろな意味で原子力に対する期待があり、…再稼働は非常に重要である」といった具合です。
記事は次のように結ばれている。
不正に手を染めることも厭わず、世論に挑戦し、再稼働を迫り続けた東芝のトップ。
原発利権の蜜の味は、人としての正常な感覚を狂わせるほどのものだったのでしょうか。

柳美里さんという作家の文章が、赤旗に連載されている。「南相馬 柳美里が出会う」と題されている。

今日の一節、ひょっこり訪れた唐突感が実にうまく描かれている。
柳さんは今年4月から南相馬に住み始めたのだが、そこに…

その2日後のことです。息子を高校に送り出した後、お弁当の残りをおかずにして朝ごはんを食べていると、庭にヘルメットとマスクで顔がほとんど見えない作業員たちが踏み込んできました。わが家の庭には柵がないので、外から自由に出入りできるのです。
そして彼らはいきなり雨樋の写真を撮りはじめました。パジャマ姿の私は、箸を持ったまま彼らを見上げました。…我が家の4匹の猫たちが伸ばした首を固くして、侵入者である彼らを警戒していました。
「雨樋の写真なんか撮るより、猫の写真撮りたいなぁ」と、作業員の一人が笑いました。
「どうぞ」と反射的に言った自分の声がひどく場違いに響きました。
…「除染作業中」「道路除染作業をしています」の看板や、「農地除染」ののぼり旗のある風景は見慣れたものだったのです。
しかしそれを自分の家の中から見るとなると――、体中の体液が凍りつくような緊張を覚えました。(以下略)

さすがに作家だけあって、文章にまったくむだがない。
夏の夜の怪談ではないが、後から背中にぞ~っとくるものがある。ハンカチ落としでタッチされて、「えっ、オレかい?」という感じかな。

ムダのない文章に無駄なものをつけて、まことに相済まないが、これが「アカの除染」だとすると、にわかに差し迫った問題になる。
ある朝、どこかの担当者がやってきて、家の中外を調べていく。「かわいい猫ちゃんですね」とお愛想の一つも言って帰って行くが、家の玄関には「要除染世帯」のレッテルがべったり貼られている。
そして何事もなしに、その日が暮れていく…

なお柳美里さんはやなぎ・みさとではなく、ゆう・みりと読む。おそらく在日の人だろう。




ひどいとは聞いていたが、まさか経産省が平気でこんな数字を出すとは。
赤旗には立命館の大島さんのコメントが載っているが、それより前にまずグラフそのものを見てもらいたい。
cost
さすがに原発のコストを下げるのは気が引けたのか1.2%挙げている。しかしこのくらいで済むとは思えない。補強工事分だけでコストは跳ね上がる。保険料も(保険が効いたとしてだが)数倍になっているはずだ。稼働停止中の維持コストも半端ではないはずだ。
まずこれだけでもこのグラフは信じられない。
さらに、この1.2%のコスト引き上げに連動するかのように、他の電源コストも引き上げられているのだ。
LNGが2.5%、太陽光が2.6%、風力はなんと5.1%も引き上げられている。
お聞きしたい。太陽の値段が上がったのか、風の値段が上がったのか?

大島さんのコメントによると、再生可能エネルギーのコスト引き上げは固定価格買い入れによる差額分を上乗せしたものだそうだ。
それならそれで良いが、ではなぜ原発に関わる税投入分を上乗せしないのか。

経産官僚は国家のエリートだ。国家にとってもっとも良い道を選ぶべきだ。電力会社のために、ウソまでついて国家の道を誤らせるのは、利敵行為と見られても仕方ない。

きょうの赤旗に下記の記事が載っていて、勉強になった。というより勉強させられた。
「2030年の電源構成比率 どう考える」という題で、中身は関西大学の安田陽さんという人のインタビューだ。
紹介と言っても難しすぎて(多分佐久間記者の端折りすぎ)、要約のしようがないのだが、感想的にいくつかあげておきたい。

1.ベースロード電源とは

定義を聞いても良く分からないが、図を見ると需要の波の最小量と同じことらしい。必要最小限供給量ということになる。であれば、そういう値はあって当然と思う。

2.なぜベースロード電源(という枠組み)が必要か
電源構成は安定して低コストほど良いわけだが(安全であることが前提だが)、そういうものは得てして小回りがきかない。電気は貯められないから、安定していて低コストでしかも小回りの効かないものをベースロードに当てて、それ以外を適宜ミックスしながら電力を構成しようということになる。
そのベースロードにあたるものが原発、火発、水力、地熱なのだそうだ。(ただしダムは放流を止め、石油・LPG火発は元栓を止めれば良いので小回りが効かないとは言えない)

ということで、最初から話が二重三重になっていて、つまづいてしまうのだが、
①「ベースロード電源(ベース電源)」と書かれているが、本当にベースロード電源とベース電源は同じ意味なのか、
②なぜベースロード電源の比率が原発比率の根拠になるのか、
③4割とか6割とかいうが、何の何に対しての割合なのか、
これらが省略されて、一気に本論に突っ込んでいる。
これについては、あとで別途調べてみなくてはならないだろう。とりあえず前に進む。

3.ベースロード電源は何割くらいが必要か
1,2,を前提とすると、次に問題になるのは最大供給能力に対して何割くらいが必要なのか、あるいは適当なのかという話になる。
安田さんの話だと、この計算がめちゃくちゃなようなのだ。経産省が提出した数字ではカナダ、米国、フランス、オランダではベース電源の比率が80~100%になっているという。その上で、日本は4割しかないからこれを上げる必要があり、そのために原発が必要という論建てになっている。

ちょっと待ってよ。一体これはどういう数字なの。そんなに恣意的に、政治上の算術で出す数字じゃないでしょ。電力需要の振幅と最小需要量から自動的に出てくる数字じゃないんですか。ごく単純に言えばススキノのネオンが消える頃の消費電力量でしょう。
まぁ、とにかくここも保留にしておいて前に進もう。

4.ベース電源という考えそのものが時代遅れ

安田さんによると、ベース電源という考えそのものが、すでに時代遅れなのだそうだ。
答えは簡単で、「安定していて、低コストでしかも小回りの効かない」発電様式が衰退し、「安定していて、低コストでしかも小回りの効く」ものが主流になりつつあるからだ。
水力も夜間の揚水で電力供給にもメリハリが付き、火発も石油やLPGであれば出力の調整は容易だ。
「安定していて、低コストでしかも小回りの効かない」発電というのは原発と石炭火発のみだ。だからこの2つが時代遅れなら、ベース電源という考えも時代遅れということになる。

5.今の時代は「優先給電」
考えてみると、「安定していて、低コスト」をベースロードとして優先すれば、「不安定で高コスト」の再生可能エネルギーは立つ瀬がなくなる。
再生可能エネルギーが不安定なのは分かっている。空が晴れなければ、風が吹かなければ、電力は発生しない。雪が積もればアウトだし、強風で壊れた風車は枚挙に暇ない。
しかし高コストというのは必ずしも当たっていない。立ち上げコストを組み込んでしまうから高コストになる。理屈の上では原料コストはゼロなのだ。不安定さは風力・太陽光の組み合わせでかなり克服できる。
そこで打ち出されたのが「優先給電」の考え方だ。
これは、経産省とは真逆の発想で、再生可能エネルギーをいわばベースロード電源にしてしまう考えだ。
その上で、再生可能エネルギーの不安定さを「安定していて、低コストでしかも小回りの効く」LPG火発や揚水発電で補完しようということだ。

6.どっちにしても原発はお呼びでない
経産省のベースロード論の上にたっても、原発はお呼びではない。
「安定しているが小回りは効かない」という元からの弱点に加え、コスト比較でもLPGより優れているとはいえなくなった。しかもそこにはもっとも肝心な要素「安全性」という弱点がある。
原発はいかなる面から見てもベースロード電源としての資質を失ってしまった。
ましてこれを再生可能エネルギーと比べることなど、ナンセンスの極みであろう。

とりあえず、いったん項をとじるが、先ほどの基本的な事項についての勉強は、これからとりかかる。

福井地裁の判決は、あらためて読み直すとかなり難しい。文章の問題だけではなく、論理展開がちょっと跳んでいるところがある。

とくに後半のところは少し補足的な解説が必要だと思う。

「万が一」論の中身

C) 「新規制基準に求められるべき合理性」の箇所では、最高裁「伊方判決」を根拠にしながら、「万が一」論が展開されている。

「伊方判決」の趣旨は、当該原子炉施設の周辺住民の生命、身体に重大な危害を及ぼす等の深刻な災害が万が一にも起こらないようにすること。そのため、原発設備の安全性につき十分な審査を行わせることにある。

そうすると、新規制基準に求められるべき合理性とは、原発の設備が基準に適合すれば深刻な災害を引き起こすおそれが万が一にもない といえるような厳格な内容を備えていることである。

万が一論は2つの内容を含んでいることが分かる。すなわち万が一の天変地異が起こりうることを前提にして、

1.万が一の天変地異が起きても、万が一の事故が起こらないようにする手立て

2.万が一の事故が起きても、それを深刻な災害としないための厳格な安全基準

を求めるものである。

この「万が一」論は一般的な議論ではなく、判決を踏まえた議論であり、伊方判決なるものの理解が必要である。

伊方判決の概要

伊方判決というのは、平成4年(1993年)10月29日に最高裁判所第一小法廷にて発せられた判決である。もう23年も前のバブル期のものだ。私は知らなかった。

事件名は「伊方発電所原子炉設置許可処分取消」と称される。つまり住民原告が伊方原発の設置禁止をもとめた訴訟である。最初の訴えは1973年のことだ。もう42年も前、私が大学を卒業して北海道勤医協に就職した年だ。

訴えの内容は、設置許可の際、原子炉等規制法に基づいて行われた国の安全審査が不十分だというもの。

78年に一審判決、84年に二審、その後最高裁に上告されていた。一審判決に関しては小出さんが語気鋭く批判している。ただ訴訟が成立したこと自体が、原告適格性(住民の公訴権)の承認という意義を持つことは留意されるべきであろう。

ウィキペディアに判決要旨が紹介されている。関連箇所?を拾ってみる。

1.裁判所は政府委員会が出した「安全性に関する判断」の適否を審理・判断する。(…ことができる)

2.判断に不合理な点があれば、原子炉設置許可処分は違法と解すべきである。(…ことができる)

3.原子炉設置許可処分の取消訴訟においては、行政庁がみずからの判断に不合理な点のないことを立証する必要がある。

4.(もし立証を怠れば)行政庁の判断が不合理であることが、事実上推認される。

ということで、ここには「万が一論」は登場していない。あまり注目されていなかったのかもしれない。

判例倉庫には判決全文が載せられている。

ここに以下のクダリがあった。

原子炉設置許可の基準として、右のように定められた趣旨は、

①原子炉が原子核分裂の過程において高エネルギーを放出する核燃料物質を燃料と して使用する装置であり、

②その稼働により、内部に多量の人体に有害な放射性物質を発生させるものであって、

③原子炉を設置しようとする者が原子炉の設置、運転につき所定の技術的能力を欠くとき、又は原子炉施設の安全性が確保されないときは、

A 当該原子炉施設の従業員やその周辺住民等の生命、身体に重大な危害を及ぼし、

B 周辺の環境を放射能によって汚染するなど、深刻な災害を引き起こすおそれがある

以上①~③にかんがみ、右災害が万が一にも起こらないようにするため(努力しなければならない)

(このことは)原子炉設置許可の段階で、

①原子炉を設置しようとする者の右技術的能力

②並びに申請に係る原子炉施設の位置、構造及び設備の安全性

につき、科学的、専門技術的見地から、十分な審査を行わせることにあるものと解される。

「技術的能力」というのは、万が一にも壊れない原子炉そのものの安全性であり、施設の位置、構造、設備の安全性というのは原子炉が損傷を受けても重大な事態に至らないための周辺的安全対策である。

これが福井地裁判決の法的根拠を形成しているのである。

ということで、結果的には原告側敗訴でったが、重要な前進があったのである。それが「万が一論」である。

 

↑このページのトップヘ