鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

カテゴリ: 16 国際政治/ラテンアメリカ

Oscar Schémel  “It Takes a Lot More Than Votes to Govern 

venezuelanalysis.com April14, 2017 より

最近の世論調査によると、76%のベネズエラ人は、マドゥロ大統領を辞任させるために国際的介入を認めていない。わが国への国際的な軍事介入には87%が反対している。

一方、9割が暴力行為を拒否し、グアリンバ(反政府集団の道路封鎖)を拒否している。

同様に、3人のうち2人は、アメリカ国家機構(OAS)の動きに対して否定的意見を持っている。

この調査は、84%のベネズエラ人が、政府と野党間の対話を促進する国際調停に同意していることを明らかにしている。

ベネズエラ人の83%が対話を支持している。そして67%は対話の優先順位が経済問題を解決することだと考えている。

確かに、今日、ベネズエラは平和、安定と進歩を望んでいる。大多数のベネズエラ人は妥協、均衡、合意、和解​​の気風を望んでいる。

疑いなく野党は「出口」政策を主張している。これはマドゥロに辞任を要求して、公然と反旗を翻す路線である。

国会では、国際機関や他の国が内政に介入し、我が国に対して制裁を課すようもとめている。

立憲制度の崩壊を推進し、街頭を抗議の暴動で燃え上がらせ、軍事的な蜂起を誘発し、政府の経済政策を妨害し、なすべき対話を押しつぶし、よってもって政府の破滅の条件を作り出そうとしている。

この国は解答と解決策をもとめている。その前で、野党は「今すぐマドゥロを取り除く」以外の提案を提示していない。それは彼らがチャベスに行った行為と変わらない。それが無力であるのは試され済みである。

国内外の極右勢力は、政権との併存も政権の交代も提案していない。コンセンサスなど念頭にない。

彼らがもくろんでいるのは、カオスを作り出し、ベネズエラ社会の中にノイローゼをもたらし、チャベス主義を根底から破壊することなのだ。そして国家と民衆の文化を作り直し、人々に絶望を課すことなのだ。

過激な反政府派は、国際社会や国際報道でボリバル政府を弱体化させ、侵食し、評価を下げることには成功するかもしれない。

しかし、そのことで良好なガバナンスと安定のために必要な条件を構築することはできないのだ。彼らにはそれが理解できないでいる。


Oscar Schémel はベネズエラの独立系世論調査会社の社長。このインタビューは暴力的な抗議デモで7人が死んだ日に行われている。

政府への批判はいろいろあるが、野党の抗議デモにはまったく、政権退陣以外の主張が見られないこと、外国の干渉を促していること、道路封鎖など行動に倫理性が見られないことについて、多くの国民が反感を抱いていることが分かる。

話を聞いていると、ますますタイでのタクシン親子政権への、無道な抗議行動が思い浮かぶ。それはまっすぐ軍事クーデターへと結びついていった。

最近のベネズエラの動き(BBCニュースとWkikiをもとに作成。ただしWikiは明確に野党側の立場)

2012年

10月 大統領選挙。チャベスが4選を果たす。投票率81%、チャベスの得票率は54%

2013年

3月 チャベスがガンで死亡。58歳。

4月 大統領選挙。チャベスの後継者マドゥーロ(Nicolas Maduro)が大統領に就任。選挙は僅差であり、野党は不正選挙と糾弾。

9月 大規模な停電。カラカスをふくめ全土の70%が影響を受ける。マドゥーロは「右翼のサボタージュによるもの」と非難。

11月 年間50%にのぼる物価上昇。国会はマドゥーロに1年間の非常大権を与える。マドゥーロは企業の利益率の制限を図る。

12月 地方選挙。与党勢力が10%の差で勝利。政府の経済政策への期待を表す。

2014年

2月~3月 ベネズエラ西部で治安の悪化(poor security)に抗議するデモ。これに呼応して、カラカスでも野党の支援する反政府デモが始まる。警察との衝突で28人が死亡。

11月 政府、石油価格補償を4年間の期限付きで削減すると発表。(これについては記事を参照のこと)

12月 ベネズエラ検事総長(chief prosecutor)、野党指導者マリア・コリーナ・マチャドがマドゥーロ大統領の暗殺計画に関わったと非難。

2015年

2月 政府、カラカス市長レデスマ(野党)が米国の支持するクーデター計画に関わったと非難。レデスマは否定。

12月 国会議員選挙。野党連合が議席の2/3を超える圧勝。最高裁が野党の3議員の当選を無効としたため、マドゥーロの提出する法案を拒否するための議席は割り込む。

2016年

2月 マドゥーロ、経済危機対策を発表。通貨の引き下げ、ガソリン価格の値上げ(20年ぶり)を柱とする。

5月 野党勢力、マドゥーロのリコールをもとめる署名180万筆を集めたと発表。以後、中央選挙委員会への「要請デモ」が繰り返される。

6月 スクレ州でガソリン値上げに抗議する暴動・略奪事件が発生。

9月 野党が数十万人をカラカスの抗議行動に動員。経済危機対策に失敗したとしてマドゥーロの退陣を求める。

10月 中央選挙委員会、署名180万筆は不正の疑いが強いため、国民投票の実施は当面見送ると発表。

10月 国会、「現状はマドゥーロによる事実上のクーデター状態である」と宣言。

10月 野党が提起したマドゥーロ退陣を求める全国行動。主催者発表で120万人が参加。同時に行われた全国ゼネストは低調に留まる。

11月 野党が呼びかけた大統領官邸へのデモは、2002年4月の再現が予想される中で、中止される。

12月 バチカンの調停による政府と野党との対話が決裂する。野党はマドゥーロが立憲体制と民主秩序を侵犯し、人権を侵害し、経済社会的基礎を台無しにしたとし、退陣を要求。

2017年

1月 野党指導者数人が政府転覆を呼びかけたとして逮捕される。与党・野党間の対話の窓口は消失する。

3月 ベネズエラ最高裁(TSJ)、国会議員の不逮捕特権を剥奪すると決定。野党側の言う「憲法危機」が始まる。

4月4日 野党のデモに対し、親政府派の「コレクティボ」が対抗し衝突。警察の他に国家警備隊(GN)が動員される。

4月8日 野党のデモ隊が裁判所を襲撃。野党デモが暴力的となる。

4月12日 ベネズエラのカトリック教会が、警察側の自重を呼びかける。(ベネズエラのカトリックは野党側の政治的拠点)

4月19日 野党勢力、全国動員でカラカス大集会を呼びかける。警察と警備隊は市街からのアクセスを遮断、市内各所で衝突が発生。少なくとも12人が死亡。集会そのものは成立せず。各種報道は数十万ないし6百万人が抗議に参加したと報道。

5月1日 マドゥーロ、制憲議会の設置を提案。全社会セクターの結集をもとめる。

5月 デモ隊と警察との衝突がますます暴力的になり、連日のように死者が発生。

1.ベネズエラを日本の国政システムに当てはめてはいけない

たしかにベネズエラ問題は難しい。問題そのものが難しいというより問題の枠組みが難しいのだ。

大統領を頭にいただく共和政治というのがピンと来ないことが最大の難所である。

とくに大統領の権力が強大な国の政治は、我々にはわかりにくい。

アメリカ然り、韓国然りである。そしてラテンアメリカのすべての国も基本的にはこのタイプである。

いっぽうヨーロッパの多くの国は大統領は置くものの、儀礼的なものであり、実質的には議院内閣制である。

したがって、三権分立とはいうものの、実体としての最高権力は議会にある。

日本もほぼこれに近い政体であるといえる。

なぜそうなったかというと、大本は戦後の天皇制廃止に伴う元首の位置づけにあるのだが、これはこれで大問題なので、とりあえずおいておく。

ところが地方自治体においてはアメリカ型のシステムが直輸入されているから、どことなくぎこちない。

2.ベネズエラを東京都政と比較する

とにかくベネズエラの政治システムを考える場合は、日本の国政を考えるよりは例えば東京都政を考えたほうがわかりやすい。

この間、東京都知事は石原から、猪瀬、舛添、小池と目まぐるしく動いてきた。

しかし、いずれも保守系の知事であるから都議会との軋轢はそれほどのものではなかった。小池都知事になってからいろいろスッタモンダがあるが、本質的なものではない。

しかしこれが例えば美濃部さんのような革新都政だと状況はガラッと変わる。

美濃部さんが出す施政方針はことごとく都議会の反対にあった。では美濃部さんは都議会が反対して法案が成立しなかったら、辞職すべきだったのか。あるいは議会を解散し選挙に打って出るべきだったのか。

美濃部さんはそうは考えなかった。彼は辞任もせず、都議会も解散しなかった。そして都議会の反対にも関わらず次々と革新的な施策を打ち出し、それを都知事の権限をもって実現していった。そうなると、都議会というのは存在意義を失ってしまう。

そこでいろいろとイチャモンをつけて、あわよくば辞任あるいは弾劾にまで持って行こうとする。

こういう行政と議会とのせめぎ合いになったとき、最後に決めるのは都民の世論である。

いずれにしても都政の進め方について、議会と知事はイーブンの関係にあるのだ。

3.ベネズエラをオバマと比較する

オバマは米国の政治史上もっとも進歩的な大統領だった。そう私は思う。やったことがトータルとしてもっとも進歩的だったとはいえないかもしれない。

核廃絶の思いも、医療保障への思いも、中東和平も、所得格差の是正も、キューバとの国交回復もすべて中途半端のままで終わらざるを得なかった。

ものの考え方はとても進歩的だった。しかし8年間の任期中、オバマはずっと議会内少数与党として行動する以外になかった。

議会、とくに下院は一貫してオバマを拒否し続けた。ではオバマは下院の支持が得られなかったら辞職すべきだったのか?

辞職せずに8年間も大統領の座に居座りつづけたことは、民主主義の破棄行為だったのか。

そうじゃないでしょう。逆でしょう。少なくとも米国の世論はそう考えた。「議会こそ最低」という世論が多数を占めた。だからオバマは8年間も大統領を務め続けることが出来たたのではないか。

ベネズエラのマドゥーロだって、議会で選ばれたのではない。国民の直接投票で選ばれたのです。議会に攻撃されたからといって辞める必要はないのです。

議会から攻撃されても、市民デモで攻撃されても、それが破廉恥な罪によるものでない限り、あらゆる手練手管を使って生き延びる権利もあるし、選んでくれた国民への義務もあるのです。

ここをまず押さえる必要があるのではないでしょうか。

4.議会と行政が対立したときの司法権の重要性

強い大統領制を敷く国においては、議会と行政との対立・ねじれはしばしば起こります。

下手をすれば、大統領の任期中ねじれ現象は続くことになります。

しかし行政を中断することは出来ません。だから世論を二分するような施策は別にして日常の行政は継続されなければならないし、場合によっては事実上の法改正となるような一定の判断もくださなければなりません。これは行政命令の形でくだされます。

こういうときが司法の出番となります。まず行政命令の適法性の判断です。これはさほど難しい話ではありません。過去の判例が事実上の法律となるケースは、日本でもよくあります。もっと大きな変更を加える場合は、既存法体系から言えば厳密な意味で適法ではなくなってしまいます。

その際は合憲性が問われることになります。

もう一つは、大統領が立候補にあたって掲げた公約です。これはある意味で国民の支持を受けた政策提案ということになるので、憲法判断において妥当であれば尊重されることになります。

これらの場合においては、「厳密に言えば適法ではないが、憲法の精神に照らして合法である」という判断がくだされれば、行政はその措置を実行することができるわけです。これはネガティブな意味での立憲主義といえるかもしれません。

それがもっとも極端な形で現れているのが、ベネズエラの状況です。

議会は、少なくとも多数派は、政府提案を一切承認するつもりはありません。ただひたすらに政権打倒に向けて動いています。こういう状況のもとでは議会は実質的に無意味なものになってしまいます。その際は、国の政治は政府が提案し、司法が承認し、これを受けて政府が動くという形にならざるをえないのです。

三権分立というのは議会が寝転べば、他の二権でやりくりするという内容もふくんでいることになります。

このような法原理を踏まえた上で、ベネズエラの政治情勢を見ていくことが必要かと思います。

ベネズエラ情勢がかなり緊迫しているようだ。
いまは「…ようだ」としか書けない。情報が不足している。
ただし、過去の経験から言って、ポイントは二つある。
1.ベネズエラの闘いは単純な政治戦ではない。これは階級戦だ。
2.駐在員情報はデマ以外の何物でもない。
ベネズエラは中南米の中でも特殊な国で、中間階級というものはまったく存在しない。駐在員は抑圧階級の中に身を置くしかない。もし中立的な情報を得たければバリオ(スラム)に拠点を構えなければならない。しかしそれではビジネスは成り立たない。
かつて2002年のクーデターのとき、日本では「駐在員の妻」が系統的にデマ情報を流し続けた。多分悪気はなかったと思うが、彼女の流した情報は徹底して反民衆的なものであった。
赤旗の特派員が現地に行ってやっと間違いに気づき、論調を改めた。それまでチャベス擁護の旗を振っていたのは、日本では私だけだった。
APもロイターも白人地区に住んで情報を集めている。駐在員も同じだ。
もっとひどいのがハイチで、このときはJornadaさえも反アリスティードの大合唱に加わった。
ハイチ政府擁護の立場に立ったのは日本では私だけだった。
いま考えれば、59年にカストロが農地革命を決意したとき、「人民裁判」を利用して反カストロのキャンペーンを張ったのも同じ手口だ。
赤旗の特派員はわざわざカラカスまで行く必要はない。ピストレーロが怖いからと言って、カラカスの高級ホテルに泊まって、在留邦人から情報をもらって垂れ流すのなら、赤旗ではなく白旗だ。行かないほうが良い。メキシコでJornadaを読んでいれば十分だ。もし行くならせめてカラカスの西部に宿を取り、スラムの住民と対話せよ。政府関係者や“まともな共産党活動家”から情報をとれ。

「キューバの教育」を主題として大使が講演するというので、にわか仕立ての勉強を始めたが、早くも捕まってしまった。
以前からこの人の文章が気になるのだが、以前は有機農業の分野だったから、「まあそれはそれとして積極的な受け止めなのだから」と見ていたが、最近では医療や教育の分野にまで手を広げて、「キューバこそ理想郷」みたいな話になってきているようで、早い話が、いっときの早乙女勝元さんの「コスタリカ讃歌」みたいな様相になっている。
かなりの人達が、この人の理論に心酔している。私が話すと、そういう結論にはなかなかなりにくいわけで、皆さん何か不満そうである。
とくに統計的な数字をいいとこ取りして、それを寄せ集めていくと実態とはかなりかけ離れたイメージが出来上がってしまう。これは注意しなければならないところだ。
私はこの間、逆の攻撃と相対してきた。
悪い数字だけを積み上げて、たとえばエクアドルはもうだめだとか、ベネズエラは破滅的状態にあるとかいうキャンペーンだ。
わたしは、「共通のマクロ指標で勝負しよう、世銀の数字で勝負しよう」と主張してきた。そして彼らがしばしば労働諸指標、雇用諸指標、貧困諸指標を分析の視野から欠落させることを、発展の持続性の観点から批判してきた。
経済の発展は生産の発展、消費の発展、欲望の発展の三者が揃って初めて持続的発展に至る。途上国の場合は収奪にとどまらない資本蓄積の発展がこれに加わる。

教育の問題は経済よりはるかに難しい。そこには振り出しからイデオロギーが介在するし、産業の発展段階や発展方向に規定されて教育の重点が異なってくるために、教育をどう見るかという国民的・時代的風土の違いがある。そして経済、政治、文化という3つの裾野を持つ複合的分野であるからだ。
できれば、教育学者・教育行政学者のコンセンサスとして、「教育マクロ」ともいうべきガイドラインを設定していただきたい。

キューバに関して私の感想を言うとすれば、小国として、貧困国としては、実によくやっているということだ。
いくつかの指標においては間違いなく先進国と比肩する水準にあるし、凌駕するものさえある。それはいくつかの国際機関によっても確認されている。日本の文部省のホームページでさえ認めている。
だが、それはやせ我慢してのつっぱり=米百俵の精神であることも間違いない。私はむしろそこにキューバの偉さを感じるのであるが、やはりいろいろ無理をしていることも間違いのないところで、教育を実体的にも国家目標としても支える経済的土台を作り上げていくことが、本当の改善につながるのだろうと思う。

キューバの大使がドレメ学院で講演するとのこと。質問が出たらどうしようと、とりあえず準備したのがこの記事。

やっつけ仕事なので、詳しくはそれぞれのリンク先に行ってください。

本当かどうかは知らないが、人生よありがとう というブログ

女と名のつく(赤ちゃんからおばあちゃんまで)90%の女性が、ピアスをしています。ネックレスや指輪、そして綺麗な髪と髪飾り。
マニキュア、ペディキュアは当たり前。

キューバの子どもは、お出かけの時、思いっきりのお洒落をします。
綺麗で可愛らしいお人形さんのようです。見ていても、楽しくなります。

キューバの女性たちのファッション、これは、凄い!
ボリュームいっぱいの女らしさを、飛び切り強調しています。
ピッタリ体のラインを見せた洋服や、スリットがどこまでも(?)入ったスカート、ほとんど着てないに等しいタンクトップ、競うように、セクシー満載です。

厳しいおしゃれ事情

ウェブマガジン「キューバ倶楽部」によると

不思議なのは、洋服もファッション雑貨も売っている店がほとんどなく、ファッション雑誌が一つもないのに、「どうしておしゃれなのか?」ということだ。

キューバは洋服や靴などを、ほぼ外国からの輸入に頼っている。医療や教育、家賃などが無料と社会保障が整っているとはいえ、生活物資の中でもとりわけファッションに回せるお金は少なそうだ。

キューバの人たちに聞いてみると、それぞれ「闇のルート」でやりくりをしているらしい。

おしゃれなキューバさんのこと

というブログの方はハバナでただただ感激しているようです。

買い物なのかパーティーなのか。

老若男にょ、道行く人皆とにかくおしゃれ。体にピタッと合ったキャミソール、新品みたいにキリっとしたシャツ、黄赤青紫オレンジ、原色たっぷりのワンピース…

パラソル

子供の写真。ブログ主さんは感激しているが、私にはよくわかりません。

子ども

 

サンチアゴの子どもたち(バックパッカー記より)

サンチアゴの子ども

バラコアの子どもたち(バックパッカー記より)

パラコアの子どもたち

これが中学生の制服。まあ制服だ。それ以上でも以下でもない。

中学制服

これはウェブマガジン「キューバ倶楽部」から

中学生の踊り

大学生かと思うが

大学生


 

 

下記の記事を見つけた。

出処は日本貿易振興機構(ジェトロ) 海外調査部米州課、日付は2017年4月、最新の情報である。ビジネスの視点から見たキューバの現状がよく分かる。これを要約・紹介しながら、自説を展開してみようと思う。


1.キューバ経済の実力

わかりやすい絵なので引用させて頂く。

出処はECLAなので確実だが、キューバ側がまともな数値を報告しているかが問題。

これが正味のキューバ経済である。ドミニカ並みの貧困国だ。ただしメキシコは石油でもうけている。パナマは運河でもうけている。ドミニカは出稼ぎでもうけている。キューバは何もない。

アメリカの禁輸は以前続いている。ソ連崩壊時のどん底から見ればよくぞここまで這い上がってきたという感じだ。

GDP推移

2.「経済とは何か」を考えてみよう

人々の生活は決して楽ではない。同じように政府の財政も大変厳しい。

ただ、そんな中でも医療・教育の無償はいまだに続けているのだ。耳にタコができるくらい何度も聞いているだろうが繰り返しておく。無料なのだ。

キューバの医療

教育と治安

これは社会主義だからというだけではない。中国では医療費は全額自己負担だ。昔は無料だったが経済が厳しくなったときにやめてしまった。

キューバはどんなに苦しくてもやめなかった。

あまつさえ、チェルノブイリの子どもたちを養育し、世界の若者に医師への道を開き続けてきた。ハイチやインドネシアの大災害のときは率先して医療チームを派遣した。

これは政治の根っこにヒューマニズムを据えて来たからだ。「キューバの社会主義はまず何よりもヒューマニズムなのだ」ということは、頭に入れておいてほしい。

3.貿易と経済の厳しい実情

そうは言ってもカスミを食って生きていくわけにも行かない。率直に現状を見ておくことも必要だ。

貿易

率直に言って、ベネズエラにおんぶにだっこの状況だ。原油が1バレル100ドルのときはベネズエラも鼻息が荒かった。

キューバはベネズエラから潤沢な原油の供給を受けた。その代わりに医療教育のために人的資源を送り貢献した。

このバーターが成功した結果、キューバはふたケタの経済成長を続けることが出来た。キューバの経済規模はソ連崩壊前の水準に復した。

一方、80年代に500万トン以上の生産を上げた砂糖産業は見る影もなく衰退してしまった。その代わりに観光産業が発達し、砂糖の目減りを補っている。

観光

観光客はここ10年足らずで3倍化し、観光収入も1.5倍化している。ただこのままではキャパの不足が足かせとなりかねない。

キューバ経済のもう一つの柱となっているのが、在米キューバ人の家族送金だ。これは今まで厳しく制限されてきたのだが、国交正常化に伴いほぼ自由化された。

家族送金

まだ急増というほどには至っていないが、それでもこの10年間で送金額はほぼ3倍化している。2015年実績では330億ドル、3兆6千億円というからすごいものだ。

ただしこの金には多少なりとも反政府的な色がついており、貰った人間にしてみれば不労所得であるわけだから、いろいろトラブルを生じかねない金でもある。

幸いなことに、米国内の反カストロムードは弱まりつつあり、送金の政治的意図はあまり気にしなくても良くなってきてはいる。

米世論

ギャラップ社の調査では2015年を境に、「キューバ・シー」の声が上回るようになった。在米キューバ人社会でも反カストロ・共和党よりも親カストロ・民主党の割合のほうが高くなっている。時代は変わりつつあるのだ。

キューバの経済改革

ソ連崩壊とその後の経済危機のあいだ、キューバは自立経済を模索した。中国風に言えば改革・開放と市場経済の導入である。

率直に言えばこれらの「改革」が順調に推移しているとは言い難い。それは「改革」がジャングルの掟の導入であり、キューバが目指してきた「ヒューマニズムにもとづく政治」とは根本的に相容れないところがあるからだ。

しかしこの「苦痛を伴う改革」が避けて通れないものであることは、施政者の一致した認識となっている。

それにしても、私などが見れば、もうすこし大胆にやってもいいのではないかと思うが…。

経済改革

キューバ経済の今後

ということで、ジェトロが描く明日のキューバ経済。と言うより短期見通し。

今後の経済

ご覧のようにかなりショートレンジの経済見通しとなっているから、本当はもう少し長期的・構造的な経済開発の視点で論じなければならないのだが、ジェトロという組織の性格上やむを得ないのであろう。

経済構造から言えば、一つは外資導入をどこまで進めるか。もう一つは第三次産業を如何に民間に委ねるか、ひっくるめて言えば資本の論理・市場の論理・多ウクラード社会の論理をいかにヒューマニズムの論理のもとに包摂するかが勝負の分かれ目であろう。

「ディーセント・ワーク」の基準をどこに置くかがポイントになると思う。

蛇足ながら、キューバと北朝鮮の違い

キューバは北朝鮮と似ていなくもない。まず第一に破産国家だ。金を貸してくれる国はない。第二にキューバ革命以来、アメリカの経済封鎖が続いている。アメリカに逆らいたくなければ、キューバとの貿易は遠慮するに越したことはない。第三に、それでもアメリカに逆らい続けている。強烈なイデオロギー国家だと言ってもいい。

しかし似ているのはここまでだ。

キューバは公然と、あるいはひそかに支援する国家に囲まれている。ラテンアメリカ諸国の真の思いはキューバと同じだ。強烈なイデオロギーではあるが、それはラテンアメリカの共通のイデオロギーだ。

もう一つ、アメリカの経済封鎖は今や世界中から非難されている。日本さえその合唱の輪に加わっている。

北朝鮮は政治的にもイデオロギー的にも世界から孤立しているが、キューバはそうではない。孤立しているのはアメリカだ。

最後に、繰り返しになるが、キューバの社会主義イデオロギーは、まず何よりもヒューマニズムに根拠をおいている。たしかに民主主義とか政治的自由とかに問題はあるかも知れないが、「弱者に目をやる優しさ」、ヒューマニズムこそが政治にもっとも必要とされているのではないか、そんな気がする。

いよいよ追い込まれてから、付け焼き刃のキューバの勉強。

20日の大使の講演までにはなんとかしないと。

最初は東洋経済オンライン 2015年1月の2本の記事

「レアメタル王・中村繁夫の「スレスレ発言録」というコラム記事の一つで、

1.米国はキューバを再び「属国」にできるか…かの国は、したたかな「赤いレアメタル大国」

2.キューバは、激しい変化の波に耐えられるか…米国との国交回復で何を失い何を得るのか

と題されている。

最初にハバナのホセ・マルティ国際空港の写真が載っている。30年このから変わっていないことが分かる。相変わらず貧弱だ。ただ自転車の代わりに車が走っているのが違っている。

国交が回復されれば、米国とキューバのとの交流は一気に進みそう。ハバナの「対岸」のフロリダ州は200キロ足らずだ(フロリダ州・タンパからのチャーター便でハバナに到着した人々、ロイター/アフロ)

最初のニッケルとのバーターをめぐる話は、かなりリスキーなものをふくんでおり、評価が難しいので省略する。「埋蔵金」話ではないが、実際には対米関係が大きな障壁となる。

貿易予算のかなりの比率をニッケル資源がまかなっているのは周知の事実であるが、資源ブームが過ぎ去った現在、ニッケルの国際市況も弱含みで…鉱山も老朽化で生産性は上がらない。

キューバ政府は、経済的困窮解決の切り札を観光産業に求めており、ここ数年は毎年約20%ずつ、観光客が増加している。年間の観光客は約200万人。…日本の観光客はまだ年間7000人ほどだ。

と書いた後で、筆者はキューバの意外な底力を提示する。

①医療・教育・文化大国 識字率世界一、教育指数世界5位。

②国際連帯「力」

そして、もう一つの潜在力としてマイアミの亡命キューバ人を上げる。

かつて亡命キューバ人は強力な反共・反キューバ勢力で、共和党の強固な地盤だった。しかし今や彼らの主流は民主党支持者であり、オバマの国交正常化を支持している。

著者の観測では

海外からの送金が自由化されることで、海外に離散した「キューバのディアスポラ」が帰国して、経済の立て直しを担うだろう。50年前にフロリダに脱出してアメリカで成功した200万人ともいわれる豊かなキューバ人が祖国の再構築に励む

と読んでいる。

そして最後は

私個人の意見としては、「最後の楽園、トロピカルキューバ」は今のままで残って欲しいと思っているのだが。

と結んでいる。

「文化で食べていく国」へ

キューバ経済の今後は広義の「観光」にかかっている

経済危機を目の当たりにした私は、この国の行く末を真剣に考えたことがある。

なんとか耐えなくてはならない。だがその先にあるのは何か?

おそらく両手を上げてしまったら、この国はブルドーザーでなぎ倒され、さら地にされてしまうだろう。

ふたたびサトウキビの農場や果樹園だけがひたすら続く国になってしまうだろう。

おそらくそれは成功するはずだ。肥沃な土地はみのりを待っている。しかしそこには革命前のような貧しいコロノや農業労働者の住む余地はない。

すでに農業のハイテク化は完成し、もはや労働力など必要としないからだ。

農業地帯に人がいなくなれば、地方都市は破綻する。ひたすらハバナへの一極集中が進む。それは巨大なスラムの出現を意味する。

片手を上げるとしたら、どちらの手を上げるのか。それは雇用を守ることに尽きる。

実は現在も、キューバは膨大な潜在失業者を抱えている。なぜか、産業がないからだ。

この国は投資を必要としている。しかしその金が利益を生まない限り、投資はありえない。

経済が収縮しても失業者が生まれる。だが経済が成長しても、利益第一主義を取る限り、失業者は減るどころか増える。主要には農村人口の「余剰化」による。

これはある程度はやむを得ないことだ。ではその余剰人口をどこで吸収するか。これについてはきっぱり言おう、第三次産業しかない。

それも広い意味での観光産業しかない。

これは1992年以降の、政策実績がはっきりと物語っている。

ただ、「観光しかない」というのはネガティブな表現ではない。世界には観光を売り物に出来ない国がたくさんある。

現代社会は、一方において深刻な飢餓を抱えつつも、ある意味で物質的には飽和された社会である。

動物的欲望は飽和され、それに代わって文化的欲望、すなわち真の人間的欲望が広がっていく時代となっている。その欲望実現のとば口が観光という行動なのである。

この大きな流れが18世紀の前半、イギリスにもあった。グランド・ツァーの時代である。

それまで続いたヨーロッパの戦乱が落ち着きを見せ、宿や駅馬車、交通網など旅行に必要な環境が整ってきた。

当時文化的な先進国であったフランスとイタリアが主な目的地で、一種の修学旅行ともいえる。

旅行は数年に及ぶこともあった。

同行の家庭教師が付くのが一般的で、旅行の間、若者は近隣の諸国の政治、文化、芸術、そして考古学などを同行の家庭教師から学んだ。(ウィキペディアより)

こういう高級なものばかりでもなさそうで、ケネディは議員になる前ハバナに数ヶ月滞在し、日夜女色に勤しんだという。

余談になってしまった。

観光する者にとって観光とは知り、学ぶことなのだ。そしてそれは欲求なのだ。

とは言いつつも、生理学的快楽もそこには必要なのだ。「飲む、打つ、買う」の三要素は必要だし、そこで儲けさせてもらうことも必要なのだ。

ここは大いに民間に開発してもらう。ここに多くの労働力を吸収してもらう。そのためには多少のことには目をつぶる。肝心なことは利益が再投資されることであり、雇用が増えることである。

率直に言って、今のキューバ人にはあまり働く気がない。労働市場での競争が成り立つには、しばらくは時間が必要である。

観光業は付加価値率がきわめて高い業種である。しかし陳腐化すればクズである。

それ自体が競争にさらされている。これは「水商売」と心得るべきである。今日持っている優位性をさらに活かすべく、イノベーション努力が必要である。

同時に、その優位性を大いに広げる営業努力がいっそう必要である。これもキューバ人の最も苦手とする分野である。

最後に、キューバ観光の優位点を上げておこう。

1.自然がそのままに観光資源である。長い海岸線、サンゴ礁とサンゴの作った白い砂。亜熱帯特有の環境。ただしカリブ海には似たような環境はたくさんある。

2.安全性は何物にも変えられらない社会資源である。ただしこれがいつまでも守られるかどうかは定かではない。それでも近隣国に比べれば比較的安全である状況は続くであろう。

3.アメリカに近いという地理的利点は同時に危険因子でもあるが、これは動かしようがない。「真夜中のカウボーイ」のラストシーンはマイアミ行のバスであったが、これがハバナ行の飛行機に変わる日は遠くない。島中アメリカ人だらけになるだろう。

4.非自然的な観光資源は、文化の多様性にある。何段階にもわたる白人文化と黒人文化の融合からキューバ文化は生まれた。キューバ音楽にとくに顕著だ。それが魅力となり、多くの観光客がリピーターとなる。

5.キューバ革命の精神もそれ自体が文化であり、キューバという国を輝かしている観光資源だ。フィデルとゲバラの精神は、キューバの美しい風土以上に美しく気高い。

6.観光インフラとロジスティクスには相当不安を抱えているが、対応策はこの文章の主意ではない。

ネットを見ていたら、「キューバの音楽おすすめ曲10選」というページがあった。

「すげぇことをするもんだ」と眺めていたら、私も「独断と偏見」で選んでみようと思い立った。

むしろ「思い出の10曲」というべきか。自分なりの思い出が絡んでいるからかなり他の人とは違うと思う。順位はつけない。

1. エレーナ・ブルケ 「ノスタルヒア」

もう20年も前の話になるが、エレーナ・ブルケが北海道にやってきた。

私は滝川まで追っかけをやって、聞いてきた。ダンソン系の楽団と帯同しての公演だったが、彼女の歌は数曲だった。しかも彼女の得意とするフィーリンはまったく歌わなかった。

札幌での公演の後、「ノスタルヒアを聞きたかった」と声をかけたが、笑っただけだった。その後1年もしないうちに死んだと聞いた。

いうまでもなく「ノスタルヒア」はアルゼンチンタンゴの名曲で、フィーリンでもなんでもないが、彼女の歌唱が一番良い。(「タンゴ名曲百選」を参照されたい)

2.シルビオ・ロドリゲス 「プラヤ・ヒロン号」

2回めのキューバは1993年、経済危機の只中。サンチアゴの街は灯火もなく真っ暗だった。

革命広場の一角にソンを聞かせるバーが有る。たしかカサ・デ・マタモロといった。外国人を相手に営業している店だ。

そこでトリオ・マタモロスのコピーバンドが演奏していた。一通り終わって、リクエストタイムになったのでこの曲を注文した。

マスターは首を横に振って「出来ない」と言っている。するとギターを弾いていたアンチャンが「なんとかできると思う」と言って、弾き語りを始めた。

「なんとかできる」どころではない、頗る付きの名演で、私は終わるなり彼に飛びついた。

開け放たれた窓の外には、黒山の人だかり。みんな押し黙って眼だけが輝いていたのを思い出す。

3.ベニー・モレ 「BONITO Y SABROSO」

別にそれほどの曲ではない、普通のマンボだが、思い出がある。カマグエイの国営ホテルはソ連の建てたもので、いろいろ泊まったホテルでも最低だった。野外のディスコ・パーティの音が夜中まで部屋中鳴り響いた。

朝食堂に行くと、革命前からのものと思われるジュークボックスがおいてある。中のドーナツ盤も相当の時代ものだ。ところがコインを入れるとなんと動くのだ。

さあ何をかけるかと言われても分からない。適当に押したのがこの曲だ。この曲が流れると渋面のウェイターの顔がとたんににこやかになる。なんと歩きながら腰を振る。ガイドさんに「これは一体何」ときくとベニー・モレだそうだ。

彼は革命後も逃げなかった。そして63年にアル中で死んだ。ひょっとして逃げ出す体力がなかったのではないかとも思う。

結局、彼はいまだに人気がある。なにが幸いするかはわからないものだ。

4.グルポ・モンカダ 「Caiman no come Caiman」

グルポ・モンカダは私の大好きなバンドで、いろいろ探すのだが見つからない。どうして日本ではやらないのか不思議だ。

もともとはチリのヌエバ・カンシオンみたいなグループだったようだ。道理でコーラスが美しい。それが途中からサルサバンドみたいになって、ノリの良いリズムでやっている。

演奏者も観客も白っぽいが、なるほどと頷ける。

この曲は経済危機の頃のヒット曲で、旅行中にガイドさんが「カイマン、カイマン」と口ずさんでいたのを覚えている。

5.エステル・ボルハ 「Mi vida eres tu」

キューバで買ったCDの一つが、レクオーナの曲を歌ったもので、伴奏はレクオーナ本人。

音はひどいものだ。相当お化粧して、You Tubeにアップロードした。もうボルハ自身も盛りを過ぎているようで、昔のような声のハリはないが、その分しみじみとしてうまい。

この曲の他の演奏を探していて出会ったのがヨハナ・シモンというソプラノ。声も顔もよいが、とにかく歌が素晴らしくうまい。

6.パブロ・ミラネス 「チャン・チャン

93年にキューバでCDを手に入れて以来のお気に入り。バラクーダよりさきに発見したというのが密かな自慢だ。

とにかくあの頃は見つけたら買わないと、いつ買えるかわからないという状態だった。このCDもサンチアゴのホテルのプールサイドの売店で買ったものだ。

ちなみにハバナクラブの21年ものは、プラヤヒロンに行く途中のワニ園の売店で手に入れた。

7.パブロ・ミラネス 「El Breve Espacio en Que No Estás」

これもパブロの曲。キューバ人で知らない人はいない。コンサートの最後に歌うと、聴衆の合唱となる。「トダビア」という歌だと思ったら、難しい題名がついている。日本語だと「あなたがいない隙き間」くらいなところか。

パブロについては 2014年10月15日 を参照されたい。

8.ロス・バンバン 「Aquí el que Baila Gana

キューバでいちばん有名な楽団といえばロス・バンバンで、そのいちばん有名な曲といえばこの曲でしょう。しかし題名の意味がわからない。「ダンスを踊りたい人はここへ」なんでしょうか?

9.レオ・ブローウェル 「11月のある日」

綴りは“Brouwer”だが、ブローウェルと読むらしい。レオ・ブラウアーと書くとガンダムのキャラになる。

ギターの独奏で、76年にウンベルト・ソラスが作った同名映画の付随曲らしい。いかにもそれっぽい。

「Un día de noviembre」の画像検索結果

http://www.penultimosdias.com/wp-content/uploads/2010/11/eslinda.jpg

何か、「ルシア」の映像が思い浮かびます。高倉健と倍賞千恵子よりはだいぶ濃ゆい。

10.

最後の1曲になってはたと困った。一つはゴンサロ・ルバルカバの82年ころの録音で、コンサートのライブだ。そのLPが見当たらない。

20年位前、ヒステリーを起こした嫁さんがレコードをすべて無断で捨ててしまった。あれは1984年にハバナに行ったとき、もらったものだ。

1曲めがチャポティーンで2曲めがルバルカバを中心とするバンドだった。15分位の熱演で、ジャズというよりファンキーだったように憶えている。

10年くらいしてからルバルカバが有名になって、ジャケットを見てみたらルバルカバの名前があった、というくらいレアな盤だった。

MDに落とした気もするがいまさら探す気にもならない。

ゲバラを歌ったカルロス・プエブラの「アスタ・シエンプレ」は93年に初めて聞いて、良いなと思ったが、今やすっかり観光ずれしてしまった。

オルケスタ・アラゴンのチャチャチャはなかなか1曲に絞りきれない。有名なのはエル・ボデゲーロだがBaile del Suavecitoの美しさも捨てきれない。

おお、そうだこれでいいんではないか

10.セステート・アバネーロ 「エレナ・ラ・クンバンチェラ」

そこそこヒットしたし、もろにソンなのは他に1曲もないし。グルポ・シェラマエストラのカバーも良いものです。テクニック的にははるかに上ですが、いちおうオリジナリティを尊重して。

最後はちょっと雑だったね。

キューバの音楽 歴史

Cuban Music History より

SHORT HISTORY OF CUBAN MUSIC と言いながら結構長い。おそらくウィキのMusic of Cubaを抄出したものであろう。そちらは本1冊分くらいある。
かなり不正確な記述が多く、そのままでは使えない。取捨選択して前の記事に取り込んである。しかしそのまま捨てるのももったいないので、アップしておく。

1910年代まで

民俗音楽

キューバの先住民はタイノ、アラワク、シボネイ人である。彼らはアレイートと呼ばれる独自の音楽を持っていた。

たくさんのアフリカ奴隷とヨーロッパからの植民者に飲み込まれそれらの音楽は姿を消した。

ヨーロッパのダンスと歌とは、最初はサパテーロ、ファンダンゴ、サンパド、レタンビコ、カンシオンであり、後にはワルツ、メヌエット、ガボット、マズルカなのである。

後者はあとから来た裕福な白人層に好まれた。

キューバ音楽の発展は、砂糖農場に持ち込まれたアフリカ人奴隷とスペイン本国あるいはカナリア諸島から植民した小規模自営農の混合がもたらした。

アフリカ人は大規模な打楽器集団とこれによる複雑なリズムをもたらした。もっとも重要な打楽器はクラーベ、コンガ、バタ(太鼓)であった。

この2つの民族集団のほか、中国人がもたらしたチャルメラは、今もサンチアゴのカルナバルで用いられている。

グアヒーラ

グアヒーラの起源は泥臭い田舎の音楽である。20世紀のはじめに登場した。多分それはプエルトリコのヒバロのような農民の音楽であろう。

その代表的な楽器が12弦のトレスと呼ばれるギターである。その調弦も独特である。

農民音楽(Música campesina)

農民音楽はセリナ・ゴンサレスにより広く知られるようになった。即興の歌と踊りであるデシマとヴェルソからなる。現代ソンの直接の先行者と言われる。

ダンソン

ダンソンのルーツはヨーロッパの舞踏である。それは1870年ころにマタンサスを中心に発展した。そこは大規模なサトウキビ栽培が営まれ多くの黒人奴隷が働いていた。

1879年、はじめてオルケスタ・ティピカによる完全な形でのダンソンが発表されている。作曲者はミゲル・ファイルデであった。

オルケスタティピカというのは軍楽隊の非公式な形態である。

音楽家たちはハバネラを発展させてアフリカ的要素を取り入れた。ダンソンは20世紀に入ってからJosé Urfe, Enrique Jorrín and Antonio María Romeuらによりさらに発展させられた。

チャランガ(ハイチからの音楽)

他にもキューバの民俗音楽の源流がある。例えばサンチアゴのボレロである。これはフランス領のクレオールがもたらした。一種のバラードで、チャランガという小さな編成で演奏された。

チャランガは1791年から始まったハイチ革命がもたらしたものである。ハイチから亡命した黒人たちはオリエンテに住み着き、独自の社会を構成した。そして独自のスタイルのダンソンを生み出した。

これはトゥンバ・フランセーサと呼ばれた。それは後にコンパルサ、マンボ、チャチャチャなどの源流となった。

チャングイ(Changuí)

ソンより速いリズムで、サンチアゴからさらに東のグアンタナモにかけて広がった音楽である。チャングイの起源はよくわかっていない。ソンとの前後関係も不明である。おそらく両者は並行して発達したのではないか。

チャングイの特徴はスピード、打楽器メイン、ダウンビートの強調にある。

エリオ・レベのチャングイ再発見に始まり、最近ではカンディド・ファブレやロス・ダンデンらによる現代的演奏もある。

もっとも重要なできごとはフアン・フォルメルとロス・バンバンによるチャングイの引き揚げである。彼らはトロンボーンとシンセサイザーを加え、打楽器群をさらに厚くして「ソンゴ」というジャンルを開拓した。

ソン

ソンはキューバ音楽のもっとも主要なジャンルである。そしてキューバ音楽のほとんどの基礎となっている。

その起源は東部である。スペイン人農民、チャングイの流れの合わさったものとされる。楽器編成的にはスペインのギターとアフリカの打楽器の混合である。

ソンの特徴は、今日ではきわめて幅広く、一言で語ることは出来ない。

リズム的には、バスの打撃がダウンビートの前に来ることが特徴となっている(前置きバス)。これはソンの派生リズムもふくめてきわめて特異的である。

ソンは伝統的に愛を歌い故郷を歌ってきた。最近では社会的・政治的志向を持つようになっている。

ソンの歌詞は典型的には10行(デシマ)、8音節(オクトシラビック)で、4分の2拍子で演奏される。

ソンのクラーベは裏打ち(tresillo)であったり前打ちだったりする。要するに調子っぱずれで、そのハズレ具合が、慣れてくると心地よいのである。

バタ(batá)とジュカ(yuka)

黒人共同社会の音楽でもっとも有名なのがルクミ(Lukumí)グループである。ルクミの音楽はバタというひょうたん製の打楽器群からなり、伝統的儀式に先立って演奏される。

1950年代、ハバナ地区のバタ奏者グループ「センテーロ」がルクミをキューバ音楽のメインストリームに押し上げた。そのあとメスクラやラサロ・ロスなどのグループ、マルティニクのズークもこの流れに加わった。

コンゴ系黒人はジュカという打楽器群を使っていた。これはブラジルのカポエイラと共通する。このジュカがルンバへと発展する。

ルンバ

ルンバはハバナとマタンサスの港湾労働者から発生した。さまざまな打楽器、歌手とコーラスからなる演奏は、民衆の踊りのためのものだった。

ルンバという言葉は、楽しい時を過ごすという動詞から来ているらしい。いずれにしても踊りのための演奏だ。

ルンバには3つの種類がある。columbia, guaganco そして yambúだ。

コルンビアは8分の6拍子、男性の一人踊りですごいスピードだ。攻撃的でアクロバティックな動きだ。

グアガンコは4分の2拍子。男女の踊りでもう少しゆったりとしている。男性は女性に対して一物を突き立てる動きを示す。

ジャンブーはグアガンコの前踊りで「年寄りのルンバ」と言われる。この踊りはすでに廃れてしまった。

1920~30年代

多様化と大衆化 

今日の形態のソンは1920年にトリオ・マタモロスがハバナに持ち込んだと言われる。

ソンはまもなく都会化された。トランペットや新たな楽器が持ち込まれた。そしてハバナの音楽シーンにとてつもない影響を与えた。

ソンははじめのトリオから7重奏団にまで発展した。

ときとともに音楽家はソンの漂白をはじめた。ハバナのナイトクラブを訪れる観光客に、難しいアフリカのリズムを伝える必要はないからだ。クラーベは固有のソンのビートを打つのをやめた。

キューバ音楽のアメリカ上陸

1930年代、レクオナ・キューバン・ボーイズとデシ・アルナスがコンガのリズムをアメリカに普及した。ドン・アスピアスがソン・モントゥーノを、アルセニオ・ロドリゲスがコンフント楽団を広げた。

ルンバはアメリカでますますポピュラーなものとなった。海外組のうちでもErnesto Lecuona, Chano Pozo, Bola de Nieve, Mario Bauza, などが有名である。

マンボが最初にアメリカに入ったのは40年代初めのことだった。最初のマンボ、その名も「マンボ」は、1938年カチャオ・ロペスによって作曲されたものだった。

それから5年後、ペレス・プラドがハバナのナイトクラブ、「トロピカーナ」の観衆にマンボ・ダンスを披露した。

マンボはそれまでのダンソンの形とはまったく違っていた。それはソン・モントゥーノとジャズの要素を取り入れていた。

1947年までにマンボは全米に広がった。しかしその熱狂はわずか2,3年で終わった。

革命の急進化 音楽家の亡命

66年から68年にかけて政府は極端に急進化した。残されたナイトクラブやレコード産業はすべて国有化された。

数多くの音楽家が仕事を失い、アメリカに去った。その一人にセリア・クルスがいる。彼女はグアラーチャの歌手で、亡命後はサルサの興隆に加わった。

イラケレのメンバー何人かも亡命し、パキート・リベラとアルトゥーロ・サンドバルは成功を収めた。

ハバネラ

19世紀後半、ハバネラはコントラダンサの枠を越えて発展し始めた。リズムは単純明瞭となり、スペインやアフリカの曲をレパートリに加えることで、より多彩なジャンルとなった。

1930年代、アルカノとマラビリョス楽団はコンガに触発され、ハバネラにモントゥーノを加えた。それはチャランガと呼ばれ、庶民のあいだに根強い人気を誇った。

1940年代と50年代

アルセニオ・ロドリゲスはキューバでもっとも有名なソネーロである。彼はソンのルーツをもとめ、アフリカのリズムを積極的に取り入れた。

中でもグアガンコの摂取が特筆される。また彼はリズムセクションの中にカウベルとコンガを取り入れた。また独奏楽器としてトレスをフィーチャーした。

さらにあるせニオはモントゥーノをメロディーの要素としてソロ楽器に受け持たせた。このスタイルはソン・モントゥーノと呼ばれるようになった。

1940年代、チャノ・ポソはニューヨーク・ジャズのビーバップ革命の一翼を形成した。ジャズにコンガなどアフロ・キューバンの楽器が取り入れられた。

米国におけるキューバ音楽

エンリケ・ホリンが率いるチャランガ、オルケスタ・アメリカはチャチャチャを生み出した。それは50年代に世界的なブームとなった。ティト・プエンテやペレス・プラドなどの超有名楽団もチャチャチャを演奏するようになった。

1960年代と70年代

モダンキューバ音楽は、これらの要素を絶えず撹拌し新たなものを生み出すゆりかごとして注目されるようになった。

例えばイラケレは大楽団編成にバタを用いたことで注目された。さらにキューバの音楽家は「モザンビケ」を生み出した。これはルンバやバタのドラム音楽を取り入れたもので、バタルンバとも呼ばれる。

カストロと亡命者たち

カストロ政権の音楽活動への強制は徐々に強まった。初期の支持者たちも次々と亡命した。

しかしソ連の崩壊とともに、音楽への圧力も弱まり、外国での演奏が自由になっている。

サルサ

1970年代に始まったソン・モントゥーノと他のラテンアメリカ音楽との融合は、サルサを誕生させた。それは今でもラテンアメリカでもっともポピュラーな音楽となっている。

ヌエバ・トローバ

ヌエバ・トローバは社会的メッセージを込めた歌のジャンルで、南米のヌエバ・カンシオンと響き合っている。

トローバは、シンド・ガライ、ニコ・サキート、カルロス・プエブラなど20世紀初頭に活躍したトロバドールの歌った曲を指す。

ソ連の崩壊後、ヌエバ・トローバも新たな方向を目指すようになった。例えばリウバ・マリア・エビアは高い詩的水準を保ちながらも、非政治的な方向を目指している。

カルロス・バレラは明らかに政府批判の立場に立って活動を行っている。

1890年代と90年代

ソンとヌエバ・トローバは現在のクーバにおいてももっともポピュラーな音楽ジャンルとなっている。

ソンは1985年に再結成されたセプテート・ナシオナル、オルケスタ・アラゴンなどむかしからの楽団がいまも担っている。彼らの主な活動は古いキューバの曲を発掘し、それを洗練させる方向に向かっている。

これに対しイラケレ、エネへ―・ラバンダ、ソン・カトルセなどはソンに新たな要素を加えようとしている。

エネへ―・ラバンダはヒップホップやファンクの要素を加え、「ティンバ」として売り出した。オルケスタ・アラゴンもティンバに取り組んでいる。

 

 

 

 

 

 

 

キューバ音楽の歴史……ソンを中心に

 砂糖ブーム以前のキューバ

1492年、コロンブスがキューバに上陸したとき、そこにはシボネイやタイノなどの先住民が暮らしていました。

彼らは奴隷狩りや征服者が持ち込んだ疫病によりわずか50年ほどで絶滅してしまいます。

征服者にとってキューバは魅力のない土地でした。最初は僅かに金が取れましたがたちまち枯渇してしまいます。そのうちメキシコのアステカ帝国やペルーのインカ帝国が知られるようになり、ほとんどの征服者はそちらに行ってしまい、後には無人の土地が残されました。

わずかに新大陸とスペインを結ぶ中継点としてハバナとサンチアゴの港だけが残されました。この状態で250年が過ぎていったのです。

砂糖産業の勃興と黒人奴隷の流入

新大陸諸国は母国スペインとの貿易しか許されていませんでしたが、イギリスが介入してきたことで新たな市場(と言っても密貿易)が開拓されるようになりました。

1762年、イギリスは短期間ハバナを占領。その後も経済的進出を強めました。

イギリスは大量の砂糖を買うようになりました。そのために砂糖農園が次々に開かれ、労働者として多くの黒人がつぎ込まれました。1800年には、白人人口29万人に対し黒人が34万人に達しました。ハバナの人口は10万を超え、新大陸でメキシコ、ニューヨークに次ぐ街となりました。

イギリス人は管楽器、弦楽器、鍵盤楽器などを持ち込みました。1776年にはハバナに最初の劇場「テアトロ・プリンシパル」がオープンしています。当時の裕福な白人が好んだのはメヌエットやガヴォットだったそうです。

奴隷の一部は解放され自由黒人となりましたが、食うためにはハバナに出て船乗りや職人相手の怪しげな仕事にありつくしかありませんでした。黒人の大道芸人が数多く生まれました。

彼らは白人の好むヨーロッパの音楽を黒人風にアレンジして演奏しました。黒人風というのは、音楽的に言えば3拍子を2拍子に変え、シンコペーションを加えることでした。

この「ロボット風」のぎくしゃくした演奏が、ハバナを訪れたヨーロッパ人には存外モテたようです。

ハイチ独立とフランス人農園主の流入

ハバナ近郊にサトウキビ農園が広がっていった頃、世界最大の砂糖産地ハイチでも大きな変化が起こりました。1790年、当時サン・ドマングと呼ばれたハイチの黒人奴隷が反乱を起こし、10年に渡る戦いの末フランス人を追い出して、黒人共和国を立ち上げたのです。

この結果ハイチを逐われた白人や黒人数千人が対岸のサンチアゴに流れ込みました。彼らは質の高いフランス文化を持ち込みました。その一つが音楽です。

フランス系ハイチ人の音楽はブルターニュ地方由来と言われます。それはコントルダンスという舞曲でした。このコントルダンスというのはもともとイギリスの田舎舞踊(カントリー・ダンス)がフランスに持ち込まれたものといわれます。

これがスペイン語に変わってコントラダンサと呼ばれるようになりました。

1830年頃、サンチアゴのコントラダンサはハバナにも広がりました。そこで黒人的な修飾を受けてコントラダンサ・アバネーラとなり、さらにリズミックな短い反復パターンのシンプルなアパネーラヘと変わっていきます。

外国との音楽的交流

1840年 スペインの作曲家イラディエールがキューバにやってきました。その滞在中にハバネラを知った彼は,そのスタイルをもちいて「ラ・パローマ」を作ります。You Tubeではビクトリア・デ・ロス・アンヘレスの素晴らしい歌唱が聞けます。

この曲はヨーロッパで大流行したばかりでなく、アルゼンチンにも拡散し、タンゴの源流の一つになったそうです。

なお一説ではボレロもコントラダンサから派生したと言われますが、これはれっきとしたスペイン音楽です。ダンス音楽ですが、コントラダンサよりも歌の要素が強いものです。

1900年頃ハバナに広がったボレロは、3拍子から2拍子となり、その後メキシコに伝播しました。

ボレロは1950年代にメキシコからラテンアメリカ全土に広まりました。トリオ・ロス・パンチョスなどメキシコの男性トリオが歌う甘い曲は、ひとからげにボレロと呼ばれています。

逆にメキシコから持ち込まれたのがグァラーチャです。これは本来メキシコ起源のアップ・テンポのリズムで、主にハバナの黒人街の淫売宿で流行したといいます。情交の際に男性が腰を前後に振る卑猥な仕草が踊りになったという下品者です。

今日ではグァラーチャ特有の形式というものは残っていないそうです。むかし「イカした」という男性の褒め言葉があって、これは情交の際に「女性をイカせる」というのが語源だそうなので、そういう風なトッポイ感じの曲ということなのでしょう。

あまりキューバの匂いはせず、むしろメキシコのマリアッチという感じです。

キューバ音楽を形成する3つの要素

19世紀後半にキューバ音楽を形成する3つの要素が出揃います。それがダンソンとソンとルンバです。色で言うならダンソンが白、ソンが褐色、ルンバがクロということになるでしょう。

まずダンソン。これは1880年にミケール・ファイルデが売り出したものです。1870年ころにマタンサス地方を中心に発展したといわれます。

スペインの舞曲を引き継いだと言われますが、ロボットのようなシンコペーションは黒人音楽の影響を受けたキューバ特有のものです。拍子も1/2から6/8と変化しています。

コントラダンサと異なりカップルで踊りますが、きわめて健全なおとなしいものです。これは白人上流社会で流行しました。

初期は軍楽隊が公務のあいだに演奏したようです。この編成はオルケスタ・ティピカと呼ばれます。これでは流石に無骨なので、後からは二本のバイオリンと1本のフルート、ピアノ・打楽器で編成されるようになりました。

白人農民音楽との融合によるソンの成立

次がソン。これはコントラダンサを根っこに発展したもので、東部のサンチアゴが起源です。

ソンの成立過程については十人十色で、定まったものはありませんが、アフロ=キューバン音楽とスペイン起源の田舎の音楽を受け継いでいるとされています。

そもそも混血音楽であることについては、大方の意見が一致しているようです。サンチアゴでは、「山の人のソン」が街に広がり、ソンが生まれたと言われています。

「山の人」というのは白人です。なぜなら黒人は農場を脱出しない限り「山の人」にはなれないからです。後から入植した白人はどうしても条件の悪いところに入らざるをえません。プエルトリコでいう「ヒバロ」です。カマグエイからオリエンテにかけては、そういうプアーホワイトが今でもたくさんいます。

そういうスペイン人移民がもたらしたのが、サパテーオというダンス音楽、デシマという歌詞を重視した音楽ジャンルです。デシマはほとんどソンそのものです。ギター、トレス、ボティーハ(あるいはマリンブラ)のトリオが基本となっています。

ただ東部地方は米西戦争後に大規模な砂糖農場の開発が進み、これに伴いハイチの黒人が多数入ってきました。したがって黒人の音楽も色濃く投影されています。サンチアゴよりさらに東、グアンタナモあたりでは、より黒人音楽のリズムをとどめたチャングイというスタイルが残っています。

ソンが芸術的レベルに達したのにはトローバ(ミンストレル)という旅芸人の存在が大きく関わっていました。彼らはギターの伴奏で時事ネタ、下世話ネタや、センティメンタルなバラードを歌い、人気を博しました。彼らによりソンは技巧的にも洗練された物となっていきます。代表的な歌手がシンド・ガライとぺぺ・サンチェスです。日本で言うと高橋竹山ということになるのでしょうか。

黒人の自立化とルンバ

最後がルンバ。これは我々が普通に言うルンバではなく黒人社会の打楽器音楽を指します。これには少し背景説明が必要でしょう。

キューバが世界一の砂糖産出国となるについては膨大な労働力が必要でした。他のラテンアメリカ諸国が独立した後もキューバは依然スペインの植民地にとどまりました。

スペインは国の総力を上げ砂糖増産に力を注ぎました。奴隷制度はラテンアメリカ諸国で最も遅く1873年まで続いたのです。

大規模農場が島の中西部に集中したことから、黒人社会もハバナやマタンサスなど西部を中心に形成されました。

膨大な黒人人口は、出身地によっていくつかの集団に分かれました。なかでもナイジェリア西部から来たヨルバ族は最大の集団を擁し、独自の文化・習慣を現在まで残しています。その典型がサンテリーア(ヴードゥー)と呼ばれる宗教儀式、コンパルサと呼ばれるカーニバルの仮装行列などです。

大規模な打楽器集団による複雑なリズムが特徴で、クラーベ、コンガ、バタ(太鼓)の複雑な掛け合いは黒人以外には真似出来ないものです。

ルンバはヨルバの文化の中では世俗的なジャンルにあたります。各種打楽器の合奏がモチーフとなり、独唱歌手とコーラスがコール・アンド・レスポンスで掛け合います。ルンバにはヤンブー、コルンピア、グァグァンコーなどの種類がありますが、いずれも限りなくアフリカンです。

独立戦争の終結と東西文化の混じり合い

キューバでは1867年から1900年まで30年にわたり独立戦争が戦われました。結果としてスペインからの独立は実現しましたが。今度はアメリカに従属した半独立状態になります。

一方で、国の東部と西部が一体となり、相互の交流が進みました。兵士によりハバナにソンが持ち込まれ、ハバナで流行していたダンソンと相互に影響し融合していきます。

ダンソンの演奏家が哀愁を帯びたソンの曲を演奏するようになりました。ソンの演奏家はダンソンの楽器編成を取り入れ、あらたな音色を獲得します。

ソンの元の編成はギター、トレスのほか、リズム楽器としてボティーハ(Botija)が加わっていました。これは詰まるところただの壺です。マリンブラ(Marimbula)というのを使うこともありましたが、これも木箱にブリキの短冊を釘で打ち付けたものに過ぎません。

花の都ハバナに出てきて、この「楽器」では流石に恥ずかしい。ということで、マリンブラとボティーハの代わりにアップライト・べ-スが導入されました。

marimbula-ma840

マリンブラ 今では立派な楽器として販売されている

サンチアゴのカサ・デ・マタモロでは今でもマリンブラが使われていますが、さすがにボティハはありませんでした。

Botija (cantir) de terrissa negra catalana, Museu Soler Blasco de Xabia.JPG
Botija (Botijo, Botijuela, Bunga)

 さらにリズム楽器としてボンゴが加わりました。これとギター、トレス、ベースの4人でバンドとしての基本は出来上がります。これに専属の歌手が、どういうわけか男性二人が加わります。この二人はただ歌うだけではなくクラベスとマラカスを担当しました。

こういうセステートの形が出来たのが1920年頃で、セステート・アパネーロ、セステート・ナシォナールがその代表となります。セステート・ナシォナールはさらにその後、トランペットを加えたセプテートの編成を確立します。

ソンのグループがブレイクした理由

1920年は第一次世界大戦が終わってアメリカが空前の好況を迎えた年でした。(多少憶え違いがあるかな)

アメリカの半植民地であるキューバも、そのオコボレで景気が良くなります。とくに観光業は空前の発展を遂げました。

何と言ってもアメリカの禁酒法が後押ししました。日頃つらい日々を送っている飲ん兵衛には、ハバナに行けば自由に酒が飲めるということはそれだけですばらしいことです。キューバの政府は賄賂次第でいくらでも融通が効きました。賭博も自由なら、売春も自由。不埒な連中には天国となったのです。

マフィアの息の掛かったカジノ付きホテルが続々と建ち、ダンス・ボールにはソンの楽団が進出しました。

1922年にはラジオ放送が開始されました。ちなみに日本では25年のことです。これでソンがブームにならないわけがありません。

ソンがアメリカにも進出

1928年、アメリカの興行会社がルンバを大々的にプロモートしました。ところでルンバというのは、黒人社会のかなり特殊な音楽ですが、ソン (son) がソング (song) と混同されないように、ルンバの名で売り出したとされています。つまりアメリカ資本がソンを勝手にルンバと名付けたわけです。

このキャンペーンの中で空前の大ヒットとなったのが「南京豆売り」です。これはドン・アスピアスとハバナ・カシノ楽団というグループの演奏でした。

楽団の編成はさらに大きくなり、ホーンセクション、ギター、ベース、シンガー、ピアノ、ボンゴにコンガが加わるようになります。これらの楽団はもうオクテットではなくコンフントと呼ばれるようになりました。

盲目のギタリスト、アルセニオ・ロドリゲスがニューヨークで活躍を開始。その楽団は第ニトランペット、サクソフォンなどをくわえホーンセクションも強化されました。これが現在のラテンバンドの標準編成となっています。

マチートはアフロ・キューバン・ジャズというジャンルを開拓し、米国で大活躍します。逆にジャズ畑のディジー・ギャレスピーがカーネギー・ホールでラテン・ジャズコンサートを開き大成功させるなどの現象も起きています。

もともとクラシック畑のエルネスト・レクォーナもレクオーナ・キューバン・ボーイズを結成して欧米を演奏旅行。シボネイ,ラ・コンパルサなどのヒットを飛ばしました。

マンボの爆発

ソンの楽団の成功を見てダンソンのグループもソンを演奏して成功をもとめるようになります。それが1938年のカチャオ・ロペス作曲「マンボ」でした。

ダンソンのリズムセクションを強化し、シンコペーションとしたことで、特有の「ダサさ」が一掃されています。しかし音の響きはいかにもダンソン風でした。

第二次大戦が終わって間もなく、ダンス音楽のジャンルとして「マンボ」が誕生します。

物の本には、ソンのモントゥーノ部分を膨らませたものとなっています。考案者は自称他称で5,6人はいるようです。

プエルトリコ生まれのティト・プエンテはニューヨークで楽団を組織し、最初にマンボの演奏をはじめました。カチャオ・ロペスもみずからのコンフントを結成し米国内を巡演しています。

しかし、なんと言おうとマンボはペレス・プラードのものです。

彼はキューバ生まれですがメキシコで実績を積み、ホーンを中心とするフルバンド・ジャズの編成を取り入れ、ド派手な演奏スタイルを作り上げました。

52年のマンボ・ナンバーファイブで成功したペレス・プラドはその勢いで米国に乗り込みます。

1955年、セレソ・ローサが全米ヒットチャートで10週連続第1位を記録し、マンボ人気は頂点に達します。日本でもこの頃からマンボ人気が広がり、菊池容子が大時代な歌詞でカバーしています。マンボズボン(裾広がりのジーンズ)がアンチャンたちの風俗になりました。

ペレス・プラードだけではありません。ラテンのリズムは全米を席巻しました。キューバ国内ではソノーラ・マタンセーラ、ベニー・モレー、フェリクス・チャポティーンらが活躍しました。ニューヨークではマチート、ティト・プエンテ、ティト・ロドリゲスら非キューバ人も含めたラテン系バンドが人気を博しました。

50年代はソンの黄金時代と言えるでしょう。

ジャズとの交流

ソンの黄金時代はジャズの黄金時代、ハリウッド映画の黄金時代とも重なっています。それらのキューバへの影響は大きいものでした。

特に戦後になってから、ジェームス・ムーディらによりアフロ・キューバン・ジャズの分野が開かれました。好事家にとってはかなり面白い曲があるようです。

ただジャズのリズムはソンやダンソンのものとは基本的に合わないため、融合という点では成功せず、共存という形を取ったように思えます。

一方ジャズ・バラードに影響を受けたロマンチック歌唱のジャンルでは、このリズムの矛盾が比較的少ないため、とくにクラブ・シーンを通じて普及していきました。

センティミエント(Sentimiento)と言ったりフィーリン(Filin)と言ったりするようです。現在はオマーラ・ポルトゥオンド、エレーナ・ブルケがその代表格になっています。パブロ・ミラネスも前から積極的に取り上げています。

チャチャチャ ダンソンの復活

こういう流れに背を向けて、ダンソンの伝統を守る人々もいました。良質な家庭音楽といった雰囲気を持つダンソンは、ラジオの普及のお陰で命を永らえました。ロメウの楽団とバルバリート・ディエスの歌はそんな古き良き時代を感じさせます。

そんな中で、53年にエンリケ・ホリンが発表したのがチャチャチャです。ダンソーンよりリズムの強いチャチャチャが演奏されると、みんな腰を振って踊り始めたといいます。メキシコ風のアブラギッシュなマンボは、淡白なキューバ人の口には合わないようです。

エンリケ・ホリンのチャチャチャはアメリカでもヒットしました。日本でも江利チエミが歌っていました。(この人は進駐軍のキャンプから売り出した人で、シシカバブからサザエさんまでなんでも歌う)

そのあと、チャチャチャがさらにアップテンポになったパチャンガが流行を迎えますが、これは突如中断します。

キューバ革命とアメリカとの断交

59年1月にキューバ革命が成功すると一気に状況は変わります。アメリカはカストロ政権を一貫して敵視し、キューバはそれと対抗してソ連との関係を強めました。

キューバはアメリカ文化を嫌い、ジャズやロック、ビートルズまで敵視しました。外国との交流が絶たれたなか、ヨルバ族の伝統などアフロ系文化が見直され、モザンビーケというリズムが流行します。

しかし率直に言えば多様な音楽文化は沈滞を余儀なくされることになります。シルビオ・ロドリゲスでさえビートルズを評価したという理由でポストを外され、調査船(表向きは漁船)に乗り込むことになります。この船旅の経験を元に作られたのが名曲「エル・プラヤ・ヒロン」だと言われます。

一方、ニューヨークのラテン音楽シーンもその影響を蒙りました。プエルトリコ人たちはパチャンガをさらに発展させる方向で、他の非キューバ系ラティーノはジャズ、とくにR&Bやロックをラテン系に解釈する方向で動きました。

63年にはアフロキューバン・ジャズのモンゴー・サンタマリアによる「ウォータ―・メロンマン」がヒット。ブガルーのさきがけとなりました。ほとんどロックのノリです。初期にはレイ・バレット、ルベン・ブラデスなどもこの流れに加わっていましたが、結局ブガルーはアメリカのポップスに吸収されるかたちで消滅していきます。

様々な傾向のミュージシャンがデスカルガと呼ばれるジャム・セッションを試みました。このなかでドミニカ出身のジョニー・パチェーコらによりファニア・レーベルが発足。一連の試みがサルサと名付けられました。

ニューヨーク・サルサについてはキューバの話と離れるため省略します。

キューバにおける音楽政策の見直し

キューバの急進政策は60年代後半の深刻な経済的困難を招きました。また極端な平等化を嫌う多くのキューバ人が脱出していきました。

この結果、急進政策の全面的な見直しが進められ、この中でキューバ音楽も息を吹き返していきました。

まず66年、ヌエーバ・トローバ運動が始まります。米国のフォークソング運動やチリなどのヌエバ・カンシオン運動と共鳴し、メッセージ性の高い歌が作られていきます。この運動の代表がシルビオ・ロドリゲスやパブロ・ミラネースでした。

つぎにロス・バンバンなどチャランガ(ダンソン系の楽団)が、「ソンゴ」というウラ打ちのノリの良さを強調した演奏で人気を獲得しました。中には1940年創立のオルケスタ・アラゴンみたいな団体も復活してきます。

オルケスタ・レベはネグロ系の音色を強く押し出したコンフントとして人気を博しました。より正調ルンバに近いのがロス・パピネスです。これに追随するように多くのコンフントが登場してきました。

政府はこの動きを後押しするように国内の腕っこきを集め、「イラケレ」を作ります。正直に言えば外貨獲得の目論見がミエミエですが、その腕前は各国で驚嘆されました。ただし何人かは海外旅行中に逃げ出しました。

70年代なかばには、若手音楽家がサルサのモダンな響きを取り入れ、新たなソンを作り出し、若者の共感を呼びます。代表的なものとしてグルポ・シエラ・マエストラ、アダルベルト・アルバレスなどが挙げられます。

最近の動き

最近と言っても、この20年ほどの動きですが、政府の「音楽立国」的な動きが加速されました。

ジャズもビートルズもお構いなしということになりました。売れ線と思えば音楽学校からどんどん逸材を突っ込んできます。

この結果、国内経済の苦境とは裏腹に音楽市場はかつてないほどの活況を呈しています。

ソンの世界ではNGラバンダを先頭にバンボレオ、パウロ・イ・ス・エリテ、チャランガ・アバネーラ、メディコ・デ・ラ・サルサなどの若い世代が競い合っています。

彼らの演奏の特徴はティンバと呼ばれます。ニューヨークサルサとの違いを強調するためサルサ・ドゥーラと呼ばれることもあります。高度なテクニックに裏打ちされているが、演奏はダンサブルで内容は平易です。

音色的な特徴はジャズ・ドラムの導入にあり、これによりはるかに複雑なリズムが刻まれるようになりました。サルサといえばティト・プエンテでおなじみのティンバレスですが、キューバのティンバはドラムにあると言ってもいいかもしれません。

ジャズではローカル色でなく世界標準の技術で勝負をかけ、多くのミュージシャンが輩出されています。ピアノでは大御所となったチューチョ・バルデスの他ゴンサロ・ルバルカバ、ロベルト・フォンセカ、ルイス・ルーゴ、アルフレッド・ロドリゲス、アロルド・ロペス・ヌッサなど枚挙にいとまありません。

他にもサックスのセサル・ロペスなどがいます。

総じて、見た目の特徴は白いことです。キューバにこんなに白人がいたかと思うほど、多くの白人音楽家が登場してきます。それも揃ってエリート顔です。

かと思うと、97年には老人ホームの年寄り演奏家を集めた「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」が、グラミー賞を獲得しました。これがキューバの底力です。

キューバ音楽の行方

そんなことわかりません。語る資格もありません。しかしキューバ音楽の水準が技術的には革命後最高のレベルに達していることは間違いなさそうです。

それ自体は大変結構なことですが、手放しで喜んで良いものかというといささか複雑なところもあります。

キューバ国民みんなの生活が豊かになって、本当に喜んで、こういう音楽を聞ける日がくればいいなと思います。

「カストロ 十話―知られざる逸話」

1.サメの泳ぐ海を泳いで逃げた

カストロが国立ハバナ大学に入学したのは第二次大戦の終わった年です。

カストロはやる気満々でオリエンテ(東部)の田舎から出てきました。

一説によれば、カストロはヒトラーの「我が闘争」を愛読,ムソリーニの演説フィルムを見ては,鏡の前で演説の練習をしたそうです.

当時の学生運動は軍隊帰りもいて、多少の暴力はいとわない血気盛んな時代で、3つの集団が覇権を争っていました。

カストロもそのひとつに近づくのですが、自分こそが指導者だと思っていますから、組織の論理で動くことはありませんでした。

当時の真正党政権は比較的進歩的でしたが、汚職・腐敗はひどいものでした。これを正そうという正統党を担いで学生を組織していきます。

このとき、隣の島ドミニカの独裁者トルヒーヨを倒そうという運動が持ち上がります。半分は暴力学生の矛先を外に向けようという支配層の思惑でもありました。これにカストロも乗ります。

カストロら参加者1200名が沖合の小島に集められ軍事訓練を開始しました。ところが直前になって、陰謀はアメリカの知るところとなり、米政府はキューバ政府に弾圧を求めました。

小島に取り残された参加者は一網打尽となるのですが、カストロはゴムボートで脱走.最後にはサメのいる海を泳いで対岸にたどり着き脱走に成功します。

カストロの偉いのはその日のうちにハバナにたどり着きただちに行動を開始したことです.カストロが政府非難の集会に顔を見せるや満場の拍手で歓迎されました.このような土壇場でのクソ力が何度カストロの命を救ったことでしょうか.

これが最初の武勇伝。

2.ボゴタ事件に遭遇

カストロと対立する暴力集団の幹部が暗殺されました。その場に居合わせた人物がフィデルを犯人だと名指ししたためカストロは逮捕されてしまいます.

これが偽証だったことが分かり警察からは釈放されますが、暴力集団はそれで許してくれるわけではありません。

当時法学部の自治会委員長だったカストロは、第1回LA学生会議がコロンビアで開かれるのを知り、これに飛びつきました。

コロンビアの首都ボゴタに到着したカストロは、学生代表として進歩派の代表ガイタンと会見の約束を取り付けます。ガイタンは自由党の大統領候補者として国民のカリスマ的人気を集めていました。

ところが会見の直前、ガイタンが街頭で暗殺されてしまったのです。これをきっかけに憤激した群衆が暴動を起こしました。「ボゴタソ」と呼ばれる事件です。

反乱のあいだフィデルはどうしたかということですが,この血の気の多い青年がじっとしているわけがありません.どさくさ紛れにいつのまにか学生の一団を率いることになります.

しかし、この手の暴動が長続きするわけがありません。やがて政府軍が進出し、暴動派の形勢は不利になりました。

カストロは近くの山に逃げ込み一夜を明かしました。そのあげくキューバ大使館に命からがら逃げ込みます.キューバ大使館はこの厄介者を密かにハバナ行きの家畜輸送機に潜り込ませます.

なおこのボゴタソはコロンビア全土に波及し、農民の抵抗の中からFALCが生まれていきます。今回の停戦に至る間、キューバがさまざまな交渉努力をしたのもそういう因縁でしょう。

3.ジャイアンツから指名されたカストロ投手

パターソンの本におもしろいエピソードが載っています.48年11月ボゴタソから半年後のことです.キューバ転戦中のメジャーリーグ選抜チームがハバナ大学と対戦します.

ハバナ大学の主戦投手はなんとフィデル.それがメジャーリーグを3安打無得点に抑えてしまったというのですからどうも開いた口がふさがりません.あまりにもハリウッド映画の世界です.

その年のストーブリーグではニューヨーク・ジャイアンツが彼を指名し年棒5千ドルを提示しました.しかしフィデルは熟慮の末この誘いを断り弁護士への道を選んだのだそうです.

このエピソードでもうひとつおもしろいのが,フィデルはあの立派な体形にもかかわらず豪速球投手ではなかったということです.逆にカーブを主体とした技巧派の投手だったそうです.

後年の彼の言動を検討しているとついこの話が思い浮かばれて微苦笑を禁じえません.

カストロは激しい学生運動を指導しながらも、野球もやり、恋もしました。バチスタとも遠縁にあたる名門令嬢と結婚し,バチスタからは過分のご祝儀をいただいたそうです。新婚旅行ではマイアミで高級車を乗り回して豪遊したそうです。

こっらの逸話はパターソンの本からのものですが、キューバではほとんど知られていません。7,8年後にハバナの地下で闘っていたコシオ元大使も知りませんでした。

革命前のキューバ

ちょっと数字を並べさせていただきます。53年度の国勢調査報告です.

国民一人当たり所得はラテンアメリカ諸国中5位と高位を占めます.自家用車普及率は第3位,テレビ普及率ではなんと1位です.53年に日本にテレビなどあったかしら?

 暗の部分がこれまたすごい.報告によれば「都市と農村をふくめて,キューバ全体で水道があるのは住宅戸数のわずか35%,屋内便所があるのは28%にすぎない.また農村の住居の3/4は掘ったて小屋(ボイオ)に住み,54%がトイレなしで小屋掛けカワヤも持っていない」状況でした.

 報告は衣・食にも言及します.これによると97%が冷蔵庫なし,水道なしが85%,電気なしが91%.牛肉を常食するのは4%,魚は1%,卵は2%,パンは3%,ミルクは11%,生鮮野菜は1%以下という具合です.一体何を食っていたのでしょう.

 次は保健・衛生です.報告は「医師は2千人に1人しかおらず,農村の大衆は医療を受けられないことが度々ある.多数の子どもが寄生虫に感染し,ひどく苦しみ,苦痛のうちに死んでいく」と告発しています.

 それから教育.学齢期児童の就学率は56%,地方では39%にとどまります.オリエンテの砂糖地帯ではさらにひどく,わずか27%です.国民の1/4が文盲とされ,都市部以外では42%にのぼりました.

 報告はさらに続きます.「農地のうち8割が遊休地であり,なんら利用されぬまま放置されている.一方で基礎食料のほとんどを輸入に頼っている.労働可能な人口の4人に一人は常時失業している」つまりばく大な富が再生産や投資に回されないで,死蔵されたり浪費されたりしているということです.

 報告は米国に従属した産業構造にも触れます.「電力の9割以上が米国の会社によって供給されている.電話はすべて米国の会社のものである.鉄道の多くもそうである.製糖工場の4割は米国のもので,とくに優れた性能のものはそうである」

 バチスタ政権下でどうしてこのような国勢調査報告が発表されたのかよく分かりませんが,これを読めば誰でも今日から革命家になってしまいます.

4.モンカダ兵営の襲撃

モンカダとシェラマエストラの戦いについては、すでに書きつくされているので飛ばそうかとも思いましたが、知らない人も増えているでしょう。簡単に書いておこうと思います。

大学を卒業したカストロは人権派弁護士として活動を開始します。とは言ってもゆくゆくは代議士になり大統領を目指すというつもりだったでしょう。

ところがまもなくバチスタ(元軍人で元大統領)がクーデターを起こし独裁政治を始めます。民主的な方法で政治の実権を握る可能性は消えました。

そこでカストロは武装蜂起を決意します。彼は仲間を募り、53年夏にキューバ第二の都市サンチアゴ・デ・クーバのモンカダ兵営を襲撃しました。

百人余りの手勢で奇襲をかけるのですが、さまざまな手違いで失敗。近くの山に逃げ込みます。逃げ遅れたものは逮捕され、そのうち70人ほどが拷問の末虐殺されます。

結局、カストロも住民の密告で逮捕され警察に連行されました。この警察というところがミソで、捜査隊長のサリアという人物はハバナ大学の同期生でした。彼は軍に手渡せば即刻射殺されることを知っていましたから、軍への引き渡し命令を巧妙に避け、フィデルをサンチアゴ市警察に引き渡すことに成功します。

こうしてかろうじて命をつないだカストロですが、決してへこたれもしないし、転んでもただでは起きません。

公判闘争では弁護士がつかない中で、自らの力で弁論を行います。その文章が「歴史は私に無罪を宣告するだろう」という論文です。この論文はニューヨークで印刷され密かに国内に持ち込まれました.そして地下活動により広範に流布していきます.

こうして、カストロは「テロリスト」から「キューバ人の希望の星」へと大転換を遂げていくことになります。

5.カストロのニューヨーク騒動

これも語り尽くされた話題ではありますが、カストロの行動パターンを見る上ではだいじなエピソードを含んでいるので紹介しておきます。

カストロは国連総会出席のため、60年9月18日から10日間にわたりニューヨークを訪れています。

以下は私のキューバ革命史からの転載です

ニューヨークに到着したフィデルらは数千の民衆の出迎えを受けました.代表団は国連ビルに近いシェルボーン・ホテルに入りますが,ここで早くも大騒動が持ち上がります.亡命者らによる騒動を懸念したホテルは代表団に対し「もしもの際の保証金」を要求しました.代表団はこの「不当かつ受理不可能な金銭的要求」に激怒します.ホテルを飛び出した代表団はなんと国連本部前の芝生にテントを張ってしまうのです.結局深夜になって支援団体の紹介を受けた代表団はハーレムのホテル・テレサに移動します.ひげ面の若者たちによるこのパフォーマンスには,さすがのニューヨークっ子も度肝を抜かれました.

続いての騒動は翌日早朝にフルシチョフがホテルテレサを訪問したことです.米国と並ぶ大国の指導者が突然ウラ寂れた下町に入ったのですから大変です.そのあともホテルテレサにはナセル大統領,ネルー首相など各国首脳がきびすを接するように訪れます.いうまでもなく黒人も大喜びです.ラングストン・ヒューズやマルコムXなど黒人運動の指導者があいついで訪問します.もう大変なお祭り騒ぎとなります.

第三のハプニングは22日に起きました.アイクはLA各国首脳を招き昼食会を開きます.キューバだけが招待されませんでした.露骨な当てこすりというか子どものいじめに近い幼稚さです.カストロの奇想天外ぶりが発揮されたのはこの時です.彼はみずから昼食会を開きます.招待されたのはなんとホテル・テレサの従業員でした.もう市民はヤンヤの喝采です.

ハプニングはこれで終わったわけではありません.27日代表団が帰国の途につこうとしたとき,米国はイチャモンをつけてキューバ航空機を差し押さえてしまいます.またもや一騒動?と思ったときソ連がさっと飛行機を提供します.代表団はこれに乗り意気揚々とニューヨークをあとにするのです.

という具合で、カストロは窮地に陥ったとき奇想天外な手段を編み出して、それを果敢に実行するのです。劇場型政治家の典型です。


この映画の恐ろしさは映画会社の宣伝しているような中身ではない。映画を見た人たちが抱いた恐怖感の中にあるのではない。

真の恐怖は、エル・クランの人々の行いが“非合法ではなかった”社会の恐ろしさにあるのである。彼らが平然と一般市民の生活を送っていたのは、かれらが狂気の人だったからではなく、ビジネスとして誘拐と殺害業を営んでいたからである。このような極悪ファミリーが、取り立てて罪悪感を抱かずに平然と社会生活を送ることができる、そのような社会の異常ぶりこそが恐怖の対象なのだ。

少し時代背景の説明が必要だろう。

記憶が曖昧になっているので、細部の間違いはご容赦願いたい。

1970年代の初頭、アルゼンチンではペロン大統領のもとで民主運動が高揚していた。しかし経済的には苦しさが募っていた。この中で軍部がクーデターを行い、親米・新自由主義の政策を強引に実行した。反対派は左翼といわずリベラルといわず片っ端から弾圧の対象となった。学生の一部は都市ゲリラ作戦を展開したが、それはカウンターテロの絶好の口実となった。

公然活動家には暗殺の恐怖が襲いかかった。地下に潜った活動家を軍・警察とグルになった「死の軍団」が追い詰め、誘拐し、拷問し、殺害した。遺体はヘリコプターで海上投棄されるか、見せしめのために街路に放り出された。子どもたちは取引の対象となった。

「死の軍団」のメンバーの多くは元軍人だったり、元警官だったり、場合によっては現職の警官だったりした。彼らは半ば公務としてこれらの任務を粛々とこなしたのである。昼は善良な警察官や市民、夜は覆面をした誘拐・暗殺犯、というシーンはある意味で日常茶飯事であったのである。

そのようにして人々を恐怖のどん底に貶める役割を「エル・クランの人々」も担っていた。つまり左翼もしくは左翼に同情的な人々を誘拐し暗殺し口をつぐませるのが商売だったわけだ。それは軍事独裁政府によって指示されていたから、その限りで“合法”だった。

内戦の頃は,夜間の外出は禁止されていました.夜,クリケットの応援歌は,しばしば男たちや女たちの絶叫で中断されました.軍隊に捕まった人たちです.彼らは拷問されたり体を切り刻まれたりしているあいだ,そして生きているあいだ,そのような叫びをあげていたのです.それは,決して罰せられることのない「死の軍団」のしわざでした.

朝になって,子供たちが住宅街の埃っぽい道を学校に向けて歩いていると,しばしば道ばたの死体と遭遇しました.それは昨日の晩,夜の闇の中で悲痛な叫び声をあげていた人たちのものでした.

J.P.Bone エルサルバドルからの便り

しかし軍政が終わり民主化運動が進むにつれそのような“ビジネス”は許されなくなった。収入の道も断たれた。だから彼らは誘拐ビジネスに手を染めたのである。軍部もこのような闇組織を維持したいから、これらの行動=殺しの民営化を黙認していたと考えられる。

彼らが左翼を誘拐し殺害することは軍部の公認であり、罪ではない。だから罪の意識は持ちようがない。彼らが間違ったのは、そのやり方は金持ちを相手にして使ってはならない手段だということを理解できなかったことである。

彼らに罪の意識はない。彼は自分を“普通の市民”だと思っている。極悪犯罪者が平然と社会生活を送っていたのではなく、彼らはちょっとやばいけれども、一つのビジネスを行っていると考えていた。

繰り返すが、軍政時代、彼らにとって左翼を誘拐し殺害することは、中身は別として、法形式的には極悪非道のことではなかった。現にそれを実行し、あるいは指示した軍の上層部はすべて恩赦法により免訴された。(後にキルチネル大統領によって厳しく指弾されることになるのであるが)

誘拐業はルーチンの政府業務代行であった。彼らの気分の中では、それがちょっとスライドして金持ちが対象に変わっただけのことである。だからパパは軍が保護してくれると確信し、逮捕されたときも平然としていたのである。

彼は人質を誘拐するとおもむろにタイプライターに向かいブラックメールを打ち始める。その用紙には左翼ゲリラMLNの名が刷り込まれている。こういうシーンが有ったことを覚えておられるだろうか。

これがまさに事件の本質であり、この映画の本質なのである。

この映画はアルゼンチンで大ヒットを達成したという。アルゼンチン国民はこの映画を見て、タイプライターの用紙にMLNの名が刷り込まれているのを見て、事件の本質を捉えたのであり、軍部をそこに見たのであり、なぜ秘密のテロリスト集団が富豪の誘拐を行うに至ったのかを理解した。

だからこの映画に熱狂し、恐怖したのである。

何故か、突然、「今日は映画に行こう」と心に決めた。

日曜の朝には、いろいろお勤めがある。まずはシャワーを浴びて、洗濯を始める。トーストとハムエッグを作って、コーヒーを沸かして魔法瓶に入れる。

関口宏のモーニングショーを見ながら、「ファイターズが日本一!」の新聞を読む。「信じられないくらい、皆よくやった。しかしシーズンを通してみれば、最大のヒーローは栗山だな」

と独り言を言いつつ、「そうだ、今日は映画日和だ」と思いついたのである。とにかくひたすら寒い。風は冷たい。カーディガンにジャケットではいけない。コートが必要だ。しかしマフラーと手袋はまだ早い。

映画館を出た時、風花のような雪がちらほら、地面をプラタナスの枯れ葉がカサカサという景色が、最初からイメージとして固まる。

ネットで調べたら、それなりに食指の動く映画がたくさんある。その中で「エル・クラン」というのが目に止まった。アルゼンチンの映画で、一家で誘拐ビジネスに当たったという連中の実話に基づくクライム・ストーリーだ。

「これはマストだ」と、瞬間確信した。

映画館は前から3列目、スクリーンに向かってやや右よりというのが生理的にあっている。一般の好みからするとかなり前だが、画面が大きくないと何故か損した気分になる。

映画館は昔と違ってそう大きくはないから後ろでも良いのだが、それなら家で大型液晶で見たほうが良い。いまの映画はそもそもDVDをプロジェクターで写しているだけだ。

映画館の良いところは非日常にある。「大衆の中の孤独」感を満喫しつつ、いつの間にか映画に没入するところにある。家で同じものを見ていたら気が疲れてしまって途中で抜け出したくなる。そのくらい映画は臭いを発する。その臭いに慣れて鼻がバカになってしまうところから映画の醍醐味は始まる。逆にそれが嫌で、映画館から足が遠のいてしまうところもあるのだが…

「エル・クラン」という映画は面白かったかといわれると、さほど面白くはなかった。衝撃的だったかといわれると、さほどでもなかった。

実話を題材にしているが、それをストーリーにまで消化しきれていない。普遍的なものにまで昇華されていないから、衝撃的な事実が乱雑に投げ出されるだけだ。

配給会社のホームページにはいろいろな人の感想が載せられている。「普通の家族にしか見えない人々が冷酷な犯罪を実行していくその落差と、平然としたヌケヌケぶりに恐怖感を覚える」というのだが、私はそれは違うと思う。

彼らの感想を読んでいると、何故かメキシコの麻薬カルテルの大量殺人を「恐ろしいことだ」と騒ぎ立てる人を白々しく思ってしまったときと同じような感慨が湧いてくるのだ。

(以下、私のこの映画に対する感想を書いたのだが、読み返すと、まったく乱雑だ。次の記事でもう少し分かるように述べることにする)


ベネズエラの政治危機

これまでのかんたんな経過

2002年のクーデターとその失敗、2003年の資本家スト、2005年のリコール投票と相次ぐ資本家の攻撃に耐え、民主主義を達成したチャベス政権は、その後の原油高を背景に中南米変革の旗頭となった。

南米諸国連合(ウナスール)は、各国での度重なるクーデター策動を封じ込め、アメリカを孤立させてきた。

しかしベネズエラ国内では反チャベス派の勢いがおさまらず、政権内の腐敗も発生したことから政権基盤は徐々に脆弱化し、ついに議会では野党が優位を占めるに至った。

チャベスが前立腺癌で死んだ後、副大統領のマドゥーロが後継者となりチャベス路線を継承してきたが、原油安不況の状況は政治環境を激変させた。

これを機にネオリベ派は一気に政府転覆を狙い、一方では生産サボや物資隠匿などの経済闘争、他方では大統領リコール投票の実施要求により政権を追い詰めようとしている。

国外ではアメリカがベネズエラを米州機構から追いだそうと画策し、事務総長はその先頭に立って反政府派と手を結んでいる。

危機の経済的背景

ベネズエラの経済が楽なわけはない。原油はベネズエラの輸出額の96%だ。原油価格が半分になれば、歳入は半分になる。格付けが下がれば為替価格は低下し購買力はさらに落ち込む。

基礎生活物資のほとんどを輸入に頼るこの国では、それはそのまま物価の上昇に繋がる。生産原料の輸入が止まれば生産は減退する。

これに異常な降雨不足が拍車をかけた。水力発電が止まり、厳しい停電を余儀なくされた。

世論調査でマドゥロ政権への支持率は20%、不支持率は67%となっている。不況の中での国民の怒りをマドゥロが一身に背負っている感がある。

マドゥロ政権は必死に活路を見出そうとしているが、通貨ボリーバルが三通りもある為替相場のもとで、ベネズエラ経済は国際的信頼を失っており、長期の維持は不可能となっている。

ただ、ひとつコメントしておきたいのは、悪名高きガソリン補助金の廃止に着手したのは、マドゥロ政権が最初だということである。

厳しい実力闘争

米国の支持を受けた反政府勢力は、ふたたび大統領リコール運動をはじめた。そして大企業による生産サボタージュを強化した。生活必需物資の9割は民間企業が支配しており、物流阻止、物資隠匿などが横行している。

政府は軍を出動し、主要5港を管理下に置いた。倉庫からは大量の食料品や薬品が発見され、供給に回された。

政府はさらに生産を停止させている工場を接収し、産業活動を止めている企業経営者の逮捕を命令した。しかし状況の好転は見られない。

アメリカではベネスエラ中央銀行の支払い用口座(シティバンク)が閉鎖された。「ベネスエラ経済の危機によるリスク増大」としている。

反政府デモは暴力性を強めつつある。指導者カブリーレスは軍に対し「憲法と政府のどちらの味方をするのか」と問いかけた。これはクーデターの呼びかけとも取れる。

米州機構は人権を口実にした攻撃を強め、12月までにリコール投票を実施なければ「米州民主憲章」に基づいて加盟資格を停止すると脅している。

アルマグロ事務総長は「(リコール投票は)12月以前に実施されるべきだ。実施されないと、ベネスエラ人民が意志表示する可能性が出てくる」と発言している。

かつてチャベスの下でラテンアメリカの変革を主導したベネズエラは、今や満身創痍の状態となっている。だが、依然として耐えている。

  

アルゼンチン マクリ政権のやったこと

これまでのかんたんな経過

2002年、アルゼンチンは奈落の底に沈んだ。国家として破産してしまったのだ。人々は食べるものさえなくなり、ネズミまで食べたという。

この時登場したのがキルチネルだ。彼は国際債務の支払を拒否し、最終的には7割の債務軽減に成功した。

それ以来、アルゼンチンは国債を発行せず、自らの努力とメルコスール諸国(とくにブラジル)との関係強化の中で経済を再建してきた。

おりからの資源・農産物価格の上昇の中でアルゼンチンは息を吹き返し、好調な経済を維持してきた。

キルチネルが2期大統領を務めた後、妻のフェルナンデスが引き続き大統領を務めた。キルチネル時代は13年にわたり続いた。

アルゼンチンはこの時の経過から強烈な反米意識を持ち続けてきたが、そのことはアメリカの金融支配層には不愉快なことだった。

ハイエナファンドが紙くずとなった債券をかき集め、額面通りの返済を迫った。これを米連邦裁が支持し、軍の練習船を接収しようとしたり、代理店銀行の口座を閉鎖させるなどの攻撃を行ってきた。

アルゼンチンはこれを中国との関係強化で乗り切ってきたが、経済が回復すればするほど外貨不足が重くのしかかってきた。

リーマン・ショック後の農産物不況と中国経済の減速により、この矛盾が一気に表面化した。

15年12月、不況下で正義党政権は支持を失い、保守派のマクリが勝利した。

マクリのやったこと

マクリというのは一言で言えばアルゼンチンのベルルスコーニ。ボカ・ジュニアーズのオーナーという大金持ちだ。

マクリの行ったことは不正義としか言いようが無い。

マクリは就任早々、為替相場を自由化した。結果は約4割のペソ切り下げとなった。これに伴い電気代を5倍、ガスを3倍化した。

マクリもひどいが閣僚もひどい。エネルギー相(シェルの元重役)は「もしこのレベルの価格で消費者が高いと思うのならば、消費するのをやめたらどうか」と言い放った。文化相は軍事独裁時代に3万人の人が行方不明になったという事実を否定した。

新政府は真っ先にハイエナファンドへの債務返還を約束した。そのために02年入りの国際を発行するという。これに応じて米国企業は計23億ドルの投資を決めた。あの悪夢への道を再開することになる。

最初の数ヶ月で、解雇が16万人にのぼった。政府も公務員3万人の解雇でこの動きを助長した。労働者たちは、警官たちと公証人によって、職場に入ることを阻止された。書類を読み上げることによって、かれらは解雇されたことを知らされた。

毎日のようにレストランが閉店に追い込まれ、大学、劇場、そのほかの場所は麻痺状態となり、無数の零細企業が廃業となっている。

マクリへの反感が広がっている

世論調査では65%の人がこの半年で貧しくなったと感じており、新政権への支持は減少している。

前政権派が多数を占める議会は、これを抑えるために解雇条件を厳しくする緊急法を採択した。しかしこれは大統領の拒否権発動で不発に終わった。

半年を経た現在、新政権の評判は芳しくない。マクリ大統領一族の名がパナマ文書に登場したのである。当時彼はフェルナンデス・キルチネル前大統領の汚職を見つけ出そうと懸命のキャンペーンを張っていたが、釣り上げたのは自分の体だったというお粗末だ。

たしかに中南米の革新政府とそれを支えた勢力は苦境に陥っている。人々はそこからの脱出を求めて、目新しさを訴えるネオリベ派に投票した。

しかしその先に待ち構えているものがなんなのか。アルゼンチンの姿はそれを鮮やかに示している。

ラテンアメリカ人民の闘い ハイライト編

前の記事 2016年07月21日

は、とりあえず記事をざっとめくったが、少しトピックスを絞って深読み。

ブラジル

これまでのザットしたあらすじ

ブラジルが60年代から70年代にかけて軍部独裁下にあったことは、ご承知と思う。

軍事独裁からの民主化を勝ち取る中で労働組合が先進的な役割を果たした。労働者は民主化の後に労働党という政党を結成した。

それが資本家の政党との長い間の角逐を続けた後に、2003年に大統領選挙に勝利した。これがルーラ政権であった。

これは民主勢力にとって大きな前進ではあったが、完全な勝利とは程遠いものだった。アメリカは資本回収の脅しをかけてルーラにIMF路線の踏襲を押し付けた。

当初ルーラ政権にとってできることは限られていた。アメリカの縛りだけではなく、議会においても少数与党としてさまざまな妨害を受けた。

ただその後の世界的な好況の中で、財政にも一定の余裕が生まれ、それを貧困層に振り向けることによって国内需要が生まれ、景気の好循環を実現した。

経済面では南米諸国間との交易を重視し、メルコスールという経済共同体を形成した。その中でブラジルは分別ある兄貴分として振る舞い、南米共同体構想の実現に向けて大きな役割を果たした。

国際的にも「ブラジルの奇跡」は大きな反響を呼び、その中でワールドカップやオリンピックの招聘に成功するなど華々しいパフォーマンスを実現した。

しかし国内においてはその後も少数与党の壁を破ることはできず、資本家政党との連合を余儀なくされてきた。

それらの溜まっていたツケがリーマン・ショックと中国経済の沈滞により、一気に吹き出した。

昨年のGDPはマイナス3.5%に達した。生産、労働、福祉の各方面で矛盾が噴出した。メディアはそれをルセウの失政として攻撃し、大規模な資本家ストを展開した。

しかし民主勢力が「軍事独裁に戻すな、民主主義を守れ」と立ち上がった。ルセウは辛くも大統領選に勝利し二期目の大統領に就任した。

ここまでが今年初めまでの状況である。


ペトロブラスをめぐるスキャンダル

従来ブラジルは石油の取れない輸入国であった。しかし相次いで海底油田が発掘され、現在はほぼ自給状態となっている。

石油事業を一手に引き受けるペトロブラスは国営会社であるが、現在は政府の意向と独立した独自の戦略のもとに運営されている。

急成長を遂げた会社だけに原油安の影響は甚大で、経済の低迷と相まって巨額の赤字を出すに至っている。

贈収賄の生まれるための条件が全て揃っていると言っても良いだろう。

このスキャンダルは単発ではない。与党の絡んだものもあるし、各州政府のたかりもある。

これはこれで解決しなければならない問題だが、それがルセウのところに向かうのは筋違いである。


ルセウの職務停止まで

野党と資本家たちはこれをルセウ弾劾と政府転覆に結びつけようと一気に力を発揮した。

それが3月のサンパウロでの数百万のデモである。有産者を中心に組織されたデモは、タイの軍事クーデター前のデモやベネズエラの野党デモと共通する。

これで政界に脅しをかけた。これで労働党と連立を組むブラジル民主労働党(PMDB)がビビってしまった。そして党がまるごと反大統領に寝返って弾劾裁判の開始に賛成してしまったのである。

5月にはルセウ大統領の職務が停止された。国会における採決はわずか1票差であった。そして副大統領のテメルが職務を代行することとなった。テメルはPMDBの議員であり、裏切りの中心にいた人物である。


ルセウは戦い続ける

ルセウ弾劾の容疑は「予算支出について粉飾があった」と言うものである。ルセウも労働党もこれを認めていない。

上院の調査委員会は「粉飾決算」にルセフが関与した証拠はない、との結論に達した。

本来、大統領弾劾審議は、大統領が直接関与した例外的に重大な過失がある場合に限って認められており、粉飾決算などを弾劾審議開始の理由にするのは違憲である。

「彼女は現在までのところ、一般犯罪との関連で、一つの責任も問われてはいない」(エクアドルのコレア大統領)のである。

ルセウは職務停止を「議会におるクーデター」と呼んでいる。連立与党であったPMDBが財界側に寝返り、ルセウを追い落としたとされる。最近わかったのは、ペトロブラス汚職に絡んだPMDB幹部が自らの訴追を避けるために芝居を打ったということだ。

議会採決の直前、PMDB党首がペトロブラス重役と会い、「捜査を止める唯一の方法は、大統領をルセフからテメルに替えることだ。国軍高官らもルセウ打倒を了解している」と発言。このテープが新聞にすっぱ抜かれている。

首謀者のクーニャ下院議長は、その後汚職によりその座を追われた。共謀者とされるテメル副大統領にも収賄疑惑が浮上している。

ルセウの与党は少数与党であるから、国会が支持しなければ政局運営がにっちもさっちも行かなくなる。

しかしルセウは国会議員に選ばれたのではない。全国民の投票で選出され国民の信託を受けたのであるから、三権分立の建前からすれば職務停止は越権行為である。

「新政権」は選挙の洗礼を受けないまま、社会保障の削減と労働者の権利剥奪に動き始めている。労働組合は全国行動などにより反撃を強めている。ブラジル共産党のフェガリは、「このゲームを変える民衆の能力をみくびっている」と語る。

 

ラテンアメリカ人民の闘い

ラテンアメリカの政治経済

現代ラテンアメリカ情勢 (伊高浩昭さん)

というサイトがあって、新しい情報を提供してくれている。
すこし、今回は日本語でお勉強。

はじめに

エクアドルのコレア大統領は経済不況の原因について、①原油の持続的な価格低迷、②中国経済の減速にともなうマーケットの縮小、③国際制裁に伴うロシア市場の縮小、④一次産品の国際価格低下による輸出額の減少、⑤国際的な投資額の減少に伴う外資導入の縮小を、ラテンアメリカ経済共通の困難として挙げている。

これに各国の特殊性に応じた特殊な困難が加わることになるので、実際上は7重苦、八重苦となる。

この中で、アルゼンチン、ブラジルの両大国が相次いで親米派の手に移り、UNASURは事実上解体状況となっている。これに勢いを得た親米勢力はベネズエラつぶしにすべての力を集中しつつある。

しかしことはさほど簡単なものではない。ブラジルのルセウ大統領を陥れた親米派の策略が暴露されつつある。ルセウの復権もありうる。一方で政権をとった親米政権が何をやるのかということもアルゼンチンで示されつつある。

ラテンアメリカは、まるで一つの国であるかのように情報が素早く広がる。親米派の情報管理の壁が崩れたとき、人民の大きな反撃はありうる。そのことを確信したい。

ボリビア

かつてボリビアは中南米最貧国の一つだった。豊かな地下資源があるが、それは一握りの富裕層に独占され、欧米の多国籍企業の支配のもとにあった。

ボリビアの国民は「宝の山の上の乞食」と呼ばれていた。

それが2006年にエボ・モラレスが政権について風向きが変わってきた。

彼は反米親キューバを唱え、民族衣装で国際会議に臨むなど派手な政治パフォーマンスで話題を呼んだが、それだけではなく10年にわたる内政でも着実に成果を上げている。

それが6月に発表された経済白書である。その内容を少し紹介する。

極貧率の減少: 10年前、この国の極貧率は38%であった。現在では半分以下の17%に減少している。ボリビアにおける極貧率の減少はラテンアメリカのなかでもっとも大きい。

極貧率減少をもたらしたもの: エボ・モラレス政権は天然ガス資源を国有化した。これにより国庫が潤うようになった。

政府は財源を救貧対策に集中した。具体的には

①子供(通学児童)、老人、女性(妊娠・出産後)への社会交付金を増額した。

額は子供で年29ドル、老人で平均300ドル、女性で260ドルだから大したものではない。

②最低賃金の段階的引き上げ。10年間にわたり平均5~10%の引き上げ。累積で2倍化したことになる(単純計算の場合)。

以上のような社会的前進にもかかわらず、モラレス政権は政治的には重大な後退を余儀なくされている。2月の国民投票で再選を可能にする憲法改正を図ったが、48%の賛成しか得られず、野党勢力に敗れたのだ。

モラレスは、この間のラテンアメリカの政治的後退を、経済的理由ではなくエディアとの闘いの不十分さに求めている。

これには理由がある。投票直前にモラレスの愛人問題、とりわけ二人の間に子供が一人いたという情報が流されたのだ。現在ではこれがデマだったことが確認されている。

 

コロンビア

6月23日、ハバナで政府とFARCの和平協定が調印された。その後タイムテールの詰めが進み、9月25日に国民投票が施行される運びとなった。今度こそ恒久的な平和の始まりとなることを祈るばかりである。

そもそもこんなに長引いたのは、元FARC活動家の身の安全を政府が保証できなかったからだ。80年代なかばFARCは和平に合意し、武器を捨て山から出てきた。そして政党を結成し選挙に臨んだのだが、その間に数千の活動家がテロの犠牲となった。

彼らはふたたび山に閉じこもった。それは深いトラウマになっている。だから和平が成功するかどうかの勝負はこれからというところがある。

根本にはコロンビアが農業国であり、オリガルキー(寡占層)が支配する構造が改められていはいないことにある。そしてオリガルキーの手先としてのコロンビア軍の残虐性が反省されていないことにある。

ガルシア・マルケスの小説にもあるように、この国は100年以上も血を血で洗うような戦争が続いてきた。第二次産業が安定的に発展するような経済・社会の変革が不可欠であろう。

 

アルゼンチン

15年12月、不況下でアルゼンチン前政権は支持を失い、保守派のマクリが勝利した。

マクリの行ったことはひどいとしか言いようが無い。

マクリは就任早々、電気代を5倍、ガスを3倍化した。おりからのドル高の中で食料品も値上げされた。

これについてエネルギー相(シェルの元重役)は「もしこのレベルの価格で消費者が高いと思うのならば、消費するのをやめたらどうか」と言い放った。

最初の数ヶ月で、解雇が16万人にのぼった。政府も公務員3万人の解雇でこの動きを助長した。労働者たちは、警官たちと公証人によって、職場に入ることを阻止された。書類を読み上げることによって、かれらは解雇されたことを知らされた。

毎日のようにレストランが閉店に追い込まれ、大学、劇場、そのほかの場所は麻痺状態となり、無数の零細企業が廃業となった。

半年を経た現在、新政権の評判は芳しくない。マクリ大統領一族の名がパナマ文書に登場したのである。当時彼はフェルナンデス・キルチネル前大統領の汚職を見つけ出そうと懸命のキャンペーンを張っていたが、釣り上げたのは自分の体だったというお粗末だ。

ただしキルチネルの不正蓄財額は半端ではない。900万ドルの隠匿金のほか、未申告の600万ドルも摘発されている。

世論調査では65%の人がこの半年で貧しくなったと感じており、新政権への支持は減少している。

前政権派が多数を占める議会は、これを抑えるために解雇条件を厳しくする緊急法を採択した。しかしこれは大統領の拒否権発動で不発に終わった。

さらに文化相は軍事独裁時代に3万人の人が行方不明になったという事実を否定した。

 

ブラジル

5月、予算支出について「粉飾」があったとして、ルセウ大統領の職務が停止された。国会における採決はわずか1票差であった。副大統領のテメルが職務を代行するが、ルセウも労働党もこれを認めていない。

上院の調査委員会は「粉飾決算」にルセフが関与した証拠はない、との結論に達した。

本来、大統領弾劾審議は、大統領が直接関与した例外的に重大な過失がある場合に限って認められており、粉飾決算などを弾劾審議開始の理由にするのは違憲である。

「彼女は現在までのところ、一般犯罪との関連で、一つの責任も問われてはいない」(エクアドルのコレア大統領)のである。

ルセウは職務停止を「議会におるクーデター」と呼んでいる。連立与党であったPMDBが財界側に寝返り、ルセウを追い落としたとされる。最近わかったのは、ペトロブラス汚職に絡んだPMDB幹部が自らの訴追を避けるために芝居を打ったということだ。

議会採決の直前、PMDB党首がペトロブラス重役と会い、「捜査を止める唯一の方法は、大統領をルセフからテメルに替えることだ。国軍高官らもルセウ打倒を了解している」と発言。このテープが新聞にすっぱ抜かれている。

首謀者のクーニャ下院議長は、その後汚職によりその座を追われた。共謀者とされるテメル副大統領にも収賄疑惑が浮上している。

少数与党のために国会が支持しなければ政局運営がにっちもさっちも行かなくなるのは当然だが、ルセウは国会議員に選ばれたのではない。全国民の投票で選出され国民の信託を受けたのであるから、三権分立の建前からすれば職務停止は越権行為である。

「新政権」は選挙の洗礼を受けないまま、社会保障の削減と労働者の権利剥奪に動き始めている。労働組合は全国行動などにより反撃を強めている。ブラジル共産党のフェガリは、「このゲームを変える民衆の能力をみくびっている」と語る。

 

ペルー

6月の大統領選挙でクチンスキーがケイコ・フジモリを僅差で破り勝利した。左翼「拡大戦線」(FP)が選挙最終盤でクチンスキー支持に回ったためだ。

前回の選挙もそうだったが、ケイコ・フジモリの主張はつまるところフジモリ政治をもういちど評価せよというものだ。現に国会の過半数(73/130)はフジモリ派が握っている。国民はフジモリを評価しているじゃないかということだ。

フジモリが弾圧を指示し、その結果多くの人が虐殺されたというのが罪状になっている。しからば、そこは問わないで「その代わりに娘が出てきたら、どうなんだ」と問うている。フジモリ政策の本体の評価だ。

リベラル系の論調にはそれが見いだせない。「独裁時代に戻る」というだけだ。

我々はかつて、それに対する答えとしてジャンタ・ウマラに期待した。しかし彼の行った政策はネオリベそのものだった。そしてクチンスキーは金融資本のテクノクラートであるから、さらに右に向かうであろう。

キューバ

米国との国交は回復したものの、50年間に蓄積されたキューバいじめのさまざまな法体系は、自由化の歩みを遅らせている。オバマは再三キューバ封鎖の解除を議会に要請しているが議会にはこれに応える動きはない。

それどころか、米連邦下院の共和党は経済封鎖強化策を予算に押し込んだ。そこには交流の制限、輸入の制限、送金・融資の制限が盛り込まれている。

経済成長はベネズエラ政情不安を受けて鈍化しており、観光産業の隆盛にもかかわらずGDPの伸びは1~2%に留まると予想されている。

キューバでは引き続き企業活動の自由化が進められている。理髪店からレストランに至るまで開業が相次いでいる。外交関係を再開して以来、ワシントンは私企業の発展を優先させており、今後も注意深い観察が必要である。

最後に6月のカリブ首脳会議でのラウル・カストロの開会演説を引用しておく。

ラテンアメリカにおける帝国主義と寡頭勢力による反転攻勢に無関心であってはならない。

米州諸国機構(OAS)は過去も未来も帝国主義の道具だ。キューバはOASに復帰する意志は毛頭ない。

 

ベネズエラ

ベネズエラの経済が楽なわけはない。原油はベネズエラの輸出額の96%だ。原油価格が半分になれば、歳入は半分になる。格付けが下がれば為替価格は低下し購買力はさらに落ち込む。

基礎生活物資のほとんどを輸入に頼るこの国では、それはそのまま物価の上昇に繋がる。生産原料の輸入が止まれば生産は減退する。

これに異常な降雨不足が拍車をかけた。水力発電が止まり、厳しい停電を余儀なくされた。

世論調査でマドゥロ政権への支持率は20%、不支持率は67%となっている。不況の中での国民の怒りをマドゥロが一身に背負っている感がある。

マドゥロ政権は必死に活路を見出そうとしているが、通貨ボリーバルが三通りもある為替相場のもとで、ベネズエラ経済は国際的信頼を失っており、長期の維持は不可能となっている。

ただ、ひとつコメントしておきたいのは、悪名高きガソリン補助金の廃止に着手したのは、マドゥロ政権が最初だということである。

米国の支持を受けた反政府勢力は、ふたたび大統領リコール運動をはじめた。そして大企業による生産サボタージュを強化した。生活必需物資の9割は民間企業が支配しており、物流阻止、物資隠匿などが横行している。

政府は軍を出動し、主要5港を管理下に置いた。倉庫からは大量の食料品や薬品が発見され、供給に回された。

政府はさらに生産を停止させている工場を接収し、産業活動を止めている企業経営者の逮捕を命令した。しかし状況の好転は見られない。

アメリカではベネスエラ中央銀行の支払い用口座(シティバンク)が閉鎖された。「ベネスエラ経済の危機によるリスク増大」としている。

反政府デモは暴力性を強めつつある。指導者カブリーレスは軍に対し「憲法と政府のどちらの味方をするのか」と問いかけた。これはクーデターの呼びかけとも取れる。

米州機構は人権を口実にした攻撃を強め、12月までにリコール投票を実施なければ「米州民主憲章」に基づいて加盟資格を停止すると脅している。

アルマグロ事務総長は「(リコール投票は)12月以前に実施されるべきだ。実施されないと、ベネスエラ人民が意志表示する可能性が出てくる」と発言している。

かつてチャベスの下でラテンアメリカの変革を主導したベネズエラは、今や満身創痍の状態となっている。だが、依然として耐えている。

 

ニカラグア

資源輸出国ではないことから、国際不況の影響もあまりなく着実な成長を遂げている。

3期目(85年にも一度当選)を目指すオルテガ大統領の人気は依然として高く、世論調査では44%が三選を支持。有力な対抗馬もいない。

別の世論調査では、与党サンディニスタへの支持率は89%にのぼっている。

ただ、ニカラグア大運河構想は香港側の事情でかなり遅れる見込みとなっている。そんなものなどないほうが幸せな気もするが…

 

エルサルバドル

映画「サルバドル」でもおなじみの大量虐殺の国エルサルバドルでも、ようやく虐殺者への追及が始まろうとしている。

和平後の93年にいったん恩赦法が制定されたが、サンチェス大統領がこれに異議を唱えた。これにもとづいて最高裁で審議が行われ、この程、恩赦法を違憲と判断した。

背景には和平後も政治全体に睨みを効かせていた軍部の影響力が減退したこと、FMLN政権の安定化があげられる。

従来、法廷と検察は内戦中の事件が問題になった場合、加害者に有利な姿勢をとっていた。無処罰・免罪の見直しが期待される。

 

 

 

 

 

 

やや古いが、昨年10月の世銀報告ではラテンアメリカ経済の全体傾向が示されている。

これによれば

商品相場の上昇と対中国貿易の伸びを基礎に順調な成長を遂げていたラテンアメリカ経済は、08年のリーマン・ショック、その後の中国経済の原則、原油価格など一次産品の暴落を背景に厳しい局面を迎えている。

一次産品輸出への依存度により各国の影響は様々であるが、全般的にゼロ成長ないしマイナス成長で推移することは間違いない。そして途上国には内需拡大により景気浮揚を図るという選択肢はない。

問題は各国の左翼政権がこの経済調整局面を乗りきれるかどうかである。

左翼的であろうと右翼的だろうと、ポピュリスムが今のラテンアメリカで成り立つ基盤はない。今バラマキをすればハイパーインフレになる。それは「失われた10年」で確かめ済みだ。

あるとすれば“民主的な引き締め”か、ネオリベ的な資産移動しかない。

引き締めにあたって保護すべきものが2つある。一つは生産組織だ。大企業と資本家を保護するのは悔しいが、これが潰れては元も子もない。

もう一つは貧困にあえぐ低所得者層だ。子供、老人、女性の生きる権利は最低限保障しなければならない。そうでなければ国家というものの存在意義が失われる。

そうすれば当然中間層、とくに官公庁に働く労働者にしわ寄せが行くしかない。しかしこの人達こそが左翼運動を支え文化を築き民主主義を守り育ててきた人たちである。

まずはこの人達が退路を断たなくてはならない。そのことによって富裕層を倫理的影響下に置き、貧困者の信頼を引き寄せることができるのである。

これができなければたちまちにして弱肉強食のジャングルが出現する。このことは「失われた10年」と「絶望の10年」を経て、ラテンアメリカ人民の体得した痛切な教訓である。

ベネズエラやエクアドル、ボリビアについてはいろいろな見方があるようだが、一番見なければならないのは10数年の闘いを経て、こういう層がどれだけ分厚く積み上げられてきたかである。


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