鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

カテゴリ: 71 音楽/クラシック

むかし、高校生の頃だから、東京オリンピックの前、レコード屋に行ってため息を付きながら眺めていたレコードがある。

ライナーのバルトーク弦・打・チェレスタ、ライナーのローマの松、ミュンシュのオルガン交響曲と海、コンドラシンとRCAのイアリア綺想曲だ。これにアンセルメのダッタン人の踊り、オーマンディの山人の歌も加わる。

陳腐な言い方だが、めくるめく音の洪水に脳みそが方向感覚を失うのだ。

どうせ買ったって、家の貧弱な再生装置じゃレコード屋の試聴室で聞く音は出ないよなと、あきらめて帰ったものだ。

と言いつつバルトークだけは廉価版が出たときに買ったが、他はいつの間にか忘れていた。

今回久しぶりにようつべでミュンシュのサン=サーンスを見つけて聞いてみた。

相変わらずびっくりするほど音は良い。59年の録音とはとても思えないほどだ。とくにダイナミックレンジの広さには驚く。強音でも音が団子にならずに、各パートの音が明瞭に分離されている。

この頃のRCAの録音は世界最高レベルだったのだなあということがあらためてわかる。

ただし高音はざらつき艶はない。強音では折り返しがある。おそらくリマスターされた音源だろうが、原音の限界であろう。

もう少し新しい録音でいい演奏はないだろうかと探してみた。デュトワ、メータ、マゼール、バレンボイム、パーボ・ヤルヴィ…と一通り聞ける。良い時代になったものだ。

中で意外に良いのがジョルジュ・プレートル指揮ウィーン交響楽団の演奏だ。見た目の派手さはないが、目の積んだ演奏をしていて、普通にシンフォニックだ。とくに木管の美しさは印象的だ。

しかしミュンシュの刷り込みがひどくて、どんちゃか鳴ってくれないとどうも聞いた気がしない。「おうっ、はええとこどんちゃかやってくれ」という気分になる。

やはり、ミュンシュは空前絶後と言うべきか。

おっと、とんでもないものが出てきた。

オーマンディ・フィラデルフィアだが、こちらはFebruary 6, 1980の録音だ。その頃オーマンディーって生きていたっけ? Telarc SACD と書かれている。80年代にCDで発売されたもののリマスターらしい。

とにかくすごい音だ。

コメント欄がすごい。

Fuck, this Pipe Organ blow out my head and my speakers...

* This is why subwoofers were invented

むかし、ステレオが出始めの頃、ド派手な音のさわりだけ集めたサンプル盤みたいなものがあった。最初がツァラストラで、夜の女王のアリアだったり、最後がホルストのジュピターだったりする感じ。

この曲ってそれでいいんじゃない。プレートルには申し訳ないけど。

それで余白にオルガン独奏曲が入っているけど、「これで、オタクのコンソール使えるかしら?」という感じで響き渡る。

お早目のダウンロードを


youtubeの世界では、ウラジミル・バックがちょっとしたブームになっているようだ。


一気に大量のファイルがアップロードされている。

圧巻はショパンのバラード第1番だ。亡命前の1988年に録音されたもの。こういうのを完璧というのだろう。ナマの音が一つもない。すべての音が周りと溶け込みながら紡ぎ出される。一つひとつの音にニュアンスがある。

消えないうちにダウンロードして下さい。できるだけ良い装置で音量をギリギリまで上げて、眼をつぶって聞いてください。2つのマズルカ(Op17-4と68-4)のなんと寂しげなことか。消え入るような美しさだ。

サン=サーンスの「序奏とロンド・カプリチオーソ」は何度聞いても3本めの手があるとしか思えない。リストのハンガリア狂詩曲などシフラも真っ青だ。


そもそも、世にどれほどの音源があるのか。グーグルで“bakk discography” といれてみた。

dicogs というサイトにそれに相当するページがあった。

1) Владимир Бакк* - И. Гайдн* / Ф. Шуберт* / Ф. Лист* / С. Рахманинов* - Соната № 10 / Экспромт / Венгерская Рапсодия № 6 / Соната № 2 ‎(LP)    Мелодия  33 С 10—04837-8        1974            

2) Владимир Бакк*, Д. Cкapлaтти*, В. А. Моцарт*, А. Скрябин*, С. Прокофьев* - Untitled ‎(LP, Album)    Мелодия  С 10—10151-52  1978            

3) J. Brahms, R. Schumann, F. Chopin, A. Scriabin ‎(LP, Album)     Мелодия  C10 28871 001   1989  ブラームス後期小曲から5曲、シューマンのアラベスク、ショパンのバラード第3、スクリャービンのソナタ9番。

bakk1989

4) Frédéric Chopin, Владимир Бакк* - Ballade No. 1 / Fantasia / Sonata No. 2 Мелодия  1989

ということで、LPが4枚。いずれもソ連時代のもので、15年間も暮らした米国での録音は皆無である。

これにモスクワでのテレビ放送のエアチェック、ブエノスアイレスでの惨めな、しかし素晴らしい演奏というのがすべてである。

ロシア語はてんでダメだが、

1)はハイドン、モーツァルト、リスト、ラフマニノフと書いてあるようだ。

2)はスカルラッティ、モーツァルト、スクリアビン、プロコフィエフ、

3)、4)は英語でえす。

ただこのリストにはドビュッシーやフォーレ、サン=サーンスなどフランスものがないので、ひょっとするとそれは米国録音かもしれない。とすれば、この写真だが…

living legend

ここに中古が出品されている。2枚組で80ドルだ。


一つのコンサートのライブ録画がアップされている。

1993年6月12日、ブエノスアイレスのテアトロ・アルヘンティノ・デ・ラプラタでのコンサートの録画だ。名前はすごいが、実際は相当チンケだ。ピアノもフルコンサートではないし、椅子ときたらそのへんの折りたたみ椅子だ。念のいったことには、椅子がフロアーを傷つけないようにボードが敷いてある。

以前の年譜で行くと、ロシアから亡命してイスラエルに行ったあと、現地のユダヤ人コミュニティーの引きでアルゼンチンに渡って演奏活動を始めているから、その最初の頃の演奏であろう。

何とも言えないが、どうも盗み撮りかもしれない。カメラは最初から最後まで1台だ。しかし場所は特等席で、画面も最初は揺れるが、途中からはしっかり固定される。三脚を立てている可能性が高い。

変な言い方だが公認の盗み撮りかもしれない。音質は最低だ。覚悟して欲しい。

おそらく最初の曲目がモーツァルトのきらきら星だ。始まってしばらくしても会場のざわつきは収まらない。その中で第なんとか変奏のところで、突然度肝を抜く腕前が披露される。

多分その後がフランクのコラール前奏曲だ。会場はざわついたままだがバックは集中していく。

スカルラッティのソナタはすごい。

演奏は最初は緊張気味でミスタッチも多い。しかしどんどん演奏が白熱してくる。それとともにざわついていた会場が、水を打ったように静まり返っていく。

バックは数曲のソナタを続けて演奏している。何番と言い当てるほどスカルラッティを聴き込んでいないが、すべて一度は耳にした有名職である。

バックのスカルラッティはまるでベートーヴェンのソナタのようだ。荒っぽいといえばそれまでだが、辛気臭さはどこにもない。

最後がスクリャービンか。鬼神の如き演奏だ。この曲はソ連時代のまともな録音が聴けるのだが、全然迫力が違う。「死んでもいい」くらいの気持ちで弾いている。

この演奏のコメント欄に身内と思しき人が書き込みしている。
Thank you so much for posting his works. I also have the tapes/dvd's of them.

So happy the world can now see.  My heart to you. B

My genius boy.

実はこの身内の人は同じ演奏を楽屋裏の方から撮影していた。そのもう一つの音源はさらにひどい。しかし演奏を終えたあとのバックの深い溜め息がなまなましく伝わってくる。

アンコール曲がシューマンのアラベスク。(ひょっとすると順番違っているかもしれない)


最後に今回探し当てた音源の一覧。前よりは増えていると思う。

bakk01
bakk02
こんな記事がありました。

GUILD FOR INTERNATIONAL PIANO COMPETITIONS

3 piano scholarships awarded

June 27, 2001

The Guild for International Piano Competitions has awarded its first three scholarships. Yoko Sata Kothari of Palm Beach Gardens received the “Kathleen McGowan Thousand Dollar Key.” Carl DiCasoli of Palm Beach Gardens received the “Lillian Abraham Thousand Dollar Key.” Gregg Taylor of Miami received the “Annette Megaro Thousand Dollar Key.”

The three namesakes are members of the guild.

The amount of each grant is decided by guild master pianist-in-residence Vladimir Bakk of West Palm Beach. Each scholarship entitles the recipient to 10 hours of coaching by Bakk.

“The financial value of the grant is $1,000, but its artistic value is priceless and could be life-altering,” guild president John Bryan said.


晩年を知る手がかりかもしれません。

リャードフのピアノ曲を聞いていて、モニーク・ダフィル(Monique Duphil)というピアニストに当たった。
作品11の1というポピュラー曲だが、思いっきりリズムを揺らしてロマンチックに弾いている。
他の演奏はないかとYou Tubeを探してみたが、まともな音質の演奏はない。そもそも作品11の1そのものが消えている。ラフマニノフの第二協奏曲のライブと言うか盗み撮りがアップされているが、子供は騒ぐはフラッシュを目の前でバチバチやらかすとか、とにかく拷問に近い状況でのパフォーマンスだ。
ダウンロードしておいてよかったなと思いつつ音源を探してみると、ナクソスで86年に出た「リャードフ名曲集」というCDの中の一曲だとわかった。
ナクソスのディスコグラフィーを見ると、彼女の音源はほぼこれだけ。あとはバイオリンソナタの伴奏が1枚。
絶版になっていなければ購入することとして、とりあえず紹介しておく。
フランス、ボルドーの生まれ。パリ音楽院でマルゲリート・ロンとジャン・ドワイアン、ジョセ・カルヴェに学ぶ。ピアノ部門の首席、室内楽で対象を獲得し卒業。
15歳で音楽院協会(Societe des Concerts du Conservatoire)のコンサートにデビュー。その後相次ぐ成功により、今までに5大陸50カ国で演奏を行っている。

これが若い時の写真。最近のものはあまり見ないほうが良いと思う。
ナクソスの紹介はあまりに簡潔なので、別の資料も紹介しておく。
1980年にアメリカ・デビュー。オーマンディ、シャルル・デュトワなどと共演している。現在では香港に本拠地を置き日本を含むアジア・オセアニアで活発な演奏活動を行っている(と書かれているが日本語の紹介ページはほぼ皆無)
年齢不詳なのだが、室内楽の共演者を見ると主たる活躍期間は1970年前後と思われる。いまは教育者としての活動が主のようで、92年からオハイオ州Oberlin College Conservatory of Musicの教授職にある。


本日は音楽鑑賞三昧。
最初はオーギュスタン・デュメイというフランス人のバイオリニスト。以前にも書いたことがあると思うが、もう6,7年も前、釧路時代にテレビで度肝を抜かれたことがある。
関西フィルの演奏会が放送されて、この人がいきなりラヴェルのツィガーヌを弾いて、それがすごかったのだ。多分ホールの音響がよく響いたのも関係しているだろう。
その時はそれで終わったのだが、しばらくしてからベートーヴェンのバイオリン・ソナタを聞いて、この人はただのフランス物のスペシャリストではないなと感じた。私はむかしからコーガン・ギレリスの親子コンビが好きだったのだが、録音も考えるといまやこちらが上だ。あの入れ墨おばさんのピレシュが洒落っ気を入れて、それをデュメイが受け止めるという演奏スタイルだ。
ここまでが既報。
本日はデュメイとピレシュに中国人のチェロ弾きが加わったブラームスのピアノトリオ第1番。二人の掛け合いもさることながら、中国人のチェロの美音に心奪われた。Jian Wangというらしい。
ウィキペディアで調べると、ジャン・ワン(王健)という。68年、西安の生まれ。文化大革命の只中だ。かなり苦労したらしいがアイザック・スターンの引きでアメリカに留学し頭角を現したらしい。
とにかく音が明るく伸びやかで、バイオリンでも弾くように良く鳴る。ピレシュがまた良くて、ガンガン押さえつけるのではなく、要所要所に刺さりこんできて味の効いたフレーズを奏でる。第2楽章ではヤマハ・ピアノの弱音の抜けの良さが堪能できる。
これを受け止めるデュメイの貫禄が聞きどころだ。
この曲ではカッチェン・スーク・シュタルケルの名演があってどうしようもないみたいなところもあるが、ブラームスらしくないブラームスを聞きたいときは一番のおすすめと思う。

昨日書いた記事を訂正しなくてはならない。

リヒターはバッハのチェンバロ協奏曲をたった一度しか録音していないようだ。そしてアルヒーヴで発売されたのは7つの協奏曲と2台の協奏曲の1,2番だということだ。

そしてチェンバロの音がやや引っ込み過ぎというのも、すべての録音に共通しているようだ。つまりニコニコにアップされた音は多少お化粧していた可能性があるということだ。(久しぶりにニコニコを訪ねたが、もう削除済みだった)

厚く整った弦楽、足元を固めて行くようなバス・パート、そこに音量は小さいがカリっと明瞭に浮かぶチェンバロ、作品の魅力をくっきり聴かせてくれます。リヒターの演奏とアルヒーフの録音技術も車の両輪の関係でしょうね。(Micha クラシックとリュートの楽しみより)

うーむ、そうか。“カリッと明瞭に浮かび”上がってこないのは、私の耳のせいでしょうかね。この間高音域聴力を調べたら、まったく聞こえず、愕然としたばかり)

すこしこの録音について情報を集めておこう。


1.なぜチェンバロ協奏曲と呼ぶのか

大変お恥ずかしい話だが、いままでクラヴィアとチェンバロの違いがわからなかった。むかしはクラヴィア協奏曲と言ったような気もする。

同じ楽器を演奏しているのに、片方では平均律クラヴィア曲集だし、片方ではチェンバロ協奏曲だ。なぜなんだというと、意外とみんな微妙に勘所を外して答えてくれる。

いろいろな文章を読んで、今のところ「こうだ」というポイントを書いておく。

2.クラヴィアは非営業の鍵盤楽器

まずクラヴィアというのは鍵盤楽器のことだ。ただしオルガンは除く。バッハの主な仕事はオルガン弾きだった。だからバッハの場合は、もともとは本業以外の内輪の鍵盤楽器という意味がふくまれる。ここが一つのポイント。

3.クラヴィアには2種類ある

これが話をややこしくしている原因である。

一つはおなじみのチェンバロであり、もう一つがクラヴィコードという楽器である(他にLauten-Clavicymbelというのもあったらしい)。見た目は似ているが音を出す原理はだいぶ違う。

チェンバロは弦をはじいて音を出すからハープの親戚である。クラヴィコードは弦を叩いて音をだすので、強いて言えばツィンバロンの親戚筋に当たる。

バッハはクラヴィコードを自家用に愛用していたらしい。きっと作曲の作業のときはクラヴィコードを使っていたのではないだろうか。

だから独奏用の曲はすべてクラヴィア曲となっている。平均律は原語では“Das Wohltemperirte Clavier”となる。「クラヴィコードで作ったんだけど、チェンバロで演奏してもいいよ」てな感じで、クラヴィア曲と名付けたのではないかと想像する。

4.英語だと分かりやすい

ウィキの英語版を見るとクラヴィア曲ではなくキーボード曲と表現されている(もちろんクラヴィア曲という人もいる)。身も蓋もない表現だが、分かりやすい。「所詮それだけのことよ」と突き放した感じが気持ち良い。ドイツ語だとKlavierwerke – BWV 772–994

5.なぜチェンバロ協奏曲なのか

いまや日本ではチェンバロ協奏曲と呼ばなければならない雰囲気になっている。しかしクラヴィア協奏曲と呼んではいけないのか。答は「いいんだよ、なんと呼んでも」ということだ。

実際にキーボード協奏曲と書いてあるのもある。ペライアのCDのタイトルはそうなっている。リヒターが55年にアメリカで演奏会を開いたときの録音がプレミアLPで出ていて、そのタイトルもクラヴィア協奏曲となっている。

ちなみにドイツ語版ウィキでは“Sonaten mit Cembalo oder Continuo, BWV 1014–1040”だ。

なお、蛇足ではあるが、


チェンバロ cembaloはイタリア語。正式にはクラヴィチェンバロclavicembalo という。 英語ではハープシコード harpsichord(竪琴+弦)、 フランス語ではクラブサン clavecinです。
即ち、チェンバロ cembalo = ハープシコード harpsichord = クラブサン clavecin

ハープシコードとクラヴィコードとチェンバロとクラヴィーアの違いは何?より引用。)

6.にもかかわらず、チェンバロ協奏曲なのだ

本当は5.まで書いておけば良いのだが、ついでに言っておくと、協奏曲が弾けるキーボードはチェンバロしかないのだ。だからチェンバロ協奏曲なのだ。

クラヴィコードではとても弦合奏に太刀打ちできない。あまりにもか弱い音なのだからしょうがない。

ではチェンバロなら良いかというと、それでも足りない。埋もれてしまう。

それをなんとかしようと工夫して作ったのがバッハのチェンバロ協奏曲ということになる。言ってみればロドリーゴのアランフェス協奏曲みたいなものだろうと思う。このひ弱な楽器をいかにフューチャーしながら曲として面白いものに仕上げていくかという苦労は買わなくてはいけないだろう。

かくしてバッハは世界初のチェンバロ協奏曲の作者として名を馳せることになる。

7.バッハはどこまで本気だったのか

蛇足も良いところだが、さらに書き連ねる。

2台、3台、4台までふくめてずいぶんたくさんのチェンバロ協奏曲を書いたものだが、バッハはどこまで本気だったのだろうかとふと思ってしまう。

そもそもこれらの曲は余技だった。ライプツィヒの聖トマス教会のオルガン奏者を務める一方、休みの日にはアマチュア楽団の演奏を楽しんだ。それがけっこう人気になってしまうと楽団に曲を提供するようになる。その殆どは旧作に手を入れでっち上げた曲だ。3,4,6番などは原曲に比べれば明らかに手抜き工事だ。

バッハは、ライプツィヒのアマチュア楽団(コレギウム・ムジクム)の指導と指揮活動を1729年から1741年まで務めています。

一連のチェンバロ協奏曲は、すべてこの楽団のために書かれたものです。
…そのほとんどがオリジナルではなくて、自作または、他の作曲家の作品(多くがバイオリン)を編曲したものなのです。(クラシック音楽へのおさそい~Blue Sky Labelより)

おそらく、バッハは音楽が教会からサロンへと進出していく、その端境期に生きたのではないだろうか。朝は協会に行ってオルガンを弾いて業務をこなす。その後は家に帰ってクラヴィコードを相手に曲作り、という日課の中にサロンでの音楽シーンが付け加えられた。やがて世俗の仕事のほうが本業より忙しくなる。サロン音楽の必須のアイテムがチェンバロだったとすれば否応なしにチェンバロに取り組まざるをえない。

サロンという空間で、10人程度の弦合奏が相手であればなんとか太刀打ちできるだけの音量が期待できるからである。

とりあえず、このくらいで

以前、ニコニコ動画が音質が良かった時代にカルル・リヒターのバッハは売り物だった。あのときにバッハのチェンバロ協奏曲を聞いて感動したものだった。最近、You Tubeにも同じ曲がアップされて聞いたのだが、まったく印象が異なる。
はっきり言ってYou Tubeのほうがリアルな録音で、ニコニコの方は相当いじった録音であろうと思う。録音の日付を見るとリヒターは60年代の初めに一度録音して、70年代の初めに再録音したようだ。それでニコニコの方は旧録音でYou Tubeのほうが新録音ではないかと思う。
旧録音ではチェンバロの音量が弦楽合奏と対を張っている。しかし新録音ではかなり弦合奏の奥に引きこもりがちだ。実際のコンサートでは多分それが当たり前なのだろう。
むかしはそうやって録音するのが当たり前だったのかもしれない。高校の頃にFMで聞いたジョージ・マルコムの演奏もそんな感じだった。カークパトリックもレオンハルトももう少しチェンバロの音が出張っている。
ところが旧録音の方で慣れてしまっている私の耳には(年齢のせいもあって)チェンバロの音が聞こえてこない。まるで成人病検診の聴力検査みたいだ。「そういえば鳴っているね」というほどの音でしかない。チェンバロ練習用のマイナスワン演奏かと思ってしまう。
リアルの音量バランスで言うと、やはりチェンバロを2、3台並べてやらないと協奏曲にならない。だからバッハはそちらの方に力を入れたのではないかと思う。
それではと言うのでピアノで弾いた録音を探してみる。引っかかったのがペライアの演奏。アカデミー室内楽団を弾き振りしている。実に素晴らしい演奏だ。ペライアは大好きな演奏家で、弱音の美しさがたまらない。
しかしバッハとなると、それがアダになる。「そんな艶めかしい曲ではないでしょう」と思ってしまう。それと弦とのバランスが勝ちすぎている。弦合奏がただの合いの手になってしまっている。ショパンを弾くようにバッハを弾いてはやはり困るのである。
なかなか難しいのだ。
ドンデラー(ピアノと指揮)ドイツCOの演奏があって、ドンデラーは“キーボード”に徹している。こうするとピアノと弦とのバランスがとれて聞きやすい。その代わりピアノにはニュアンスもへったくれもない。
しかし聞いていくうちに、「やっぱりペライアはいいなぁ」と思い始めたから、こちらもいい加減なものである。

2月10日 追記

ペライアのバッハは良い。こういう演奏は類を見ないが、良いものは良い。

最初は違和感を覚えた。「こんなものバッハじゃない」と思った。しかし慣れてくると「バッハじゃなくちゃいけないのか?」と思うようになってくる。そういえばポリーニのバッハを聴いたときもそんな気分になったことを思い出す

ニコラーエヴァ以来、「バッハはロシア人」と相場が決まっているようだ。

しばらくはソコロフを聞いていたが、何かうっとうしい。そこで最近はコロリオフを聞く機会が多かった。

コロリオフという人はソ連崩壊時に西側に移った人で、ソコロフやクシュネローヴァと似たような経過だ。バッハは良いが他の作曲家になると何故かスカスカの人だ。

いづれにしてもロシア系の、特に最近のピアノ弾きは情緒がない。エドウィン・フィッシャーの半音階的幻想曲とフーガでバッハに目覚めた私としては、もっと情緒纏綿たるバッハが聞きたいのである。

ペライアはそういうバッハではない。あくまでも美音である。しかし下品ではない。ペライアは「綺麗なら良いだろう」と開き直っている。

私もなんとなくそんな気分になっている。いまは「イギリス組曲」を聞いているところである

「ピアノの詩人」といえばショパンの代名詞。世界中どこに行っても通用する。ところが誰がいつからショパンを「ピアノの詩人」と呼ぶようになったのかが判然としない。
それはいつかまた詮索するとして、「ロシアのショパンたち」を書いていて「なるほど」と思ったことがある。
ショパンは別格として、「ピアノの詩人」と言われておかしくない人はたくさんいる。どちらかと言えば小品にさえを見せる人たちだ。
意地悪く言えば、あまり大河小説のような大作は書けない人、小物作曲家というイメージもある。今では死語になったが「女性的」という言い方もできる。
ところで、ロシアの「世紀末」作曲家たちを聞いていると、そういうちょっとネガティブな枠組みと違う「ピアノの詩人」概念が存在するのではないかと思うようになった。
逆説的だが、ピアノで詩を作り歌う才能がない人というのが世の中にいるのではないかという考えである。
ラフマニノフの場合
最初に気がついたのはラフマニノフだ。
ラフマニノフについては以前、1901年の前奏曲(作品23)の途中でプッツンしたのではないかと書いたことがある。
ラフマニノフといえばチャイコフスキーも目をかけたモスクワ音楽院の俊秀で、大谷ではないがピアノと作曲の両方でトップをとった。前途洋々の人だったはずだが、途中で作曲の方はあきらめている。多くの解説では彼の持病であるメランコリーが関係しているのではないかと言われている。
私もそれを念頭に置いて「プッツン説」を唱えたのだが、あらためて聞いてみて、もっと問題は本質的ではないかと考えたのである。
彼の作品一覧を見て気づいたのだが、彼はそもそも最初からピアノ曲をあまり書いていない。作品番号がつかない初期作品を除くと、作品3の「幻想的小品集」が92年、2台のピアノのための「幻想的絵画」を挟んで、4年後の「楽興の時」が作品16、それから5年をおいて作品23の「前奏曲集」が出たのが1901年である。
この前奏曲集は前にも書いたとおり、途中からカスの集まりになっている。本来なら24曲書くのが筋なのに、10曲でやめてしまった。
それから9年もあとにもう一度、残り13曲を発表するのだが、私の耳からすればカスばかりだ。その後の曲もほぼ同断だ。
なぜか
それはラフマニノフがピアノの名人ではあっても作曲の名人であっても、「ピアノの詩人」ではないということではないか。
彼のピアノ独奏の名曲はほとんどが、“ゆびぢから”でピアノを目一杯鳴らすものばかりだ。「詩人というよりは「プロレスラー」だ。たしかに彼は名ピアニストで名作曲家であるかもしれないが、それは大谷風の二刀流であって、そこに渾然一体となった「詩人」がいるわけではない。
カトワールの場合
カトワールはなかなか良い室内楽を残している。ピアノトリオからカルテット、クインテット、弦楽四重奏曲と一通り取り揃えている。
さぞピアノ独奏でも良いものがあるのではないかと思ったが存外少ない。彼の曲を聞いていると、歌うのは弦楽器、ピアノはそれを支えるのが役割という分担があるように聞こえる。
だから「ピアノで歌いなさいといわれると、ちょっと困っちゃうんだなぁ」という感じがする。もちろん作曲をする時はすべてのパートをピアノで音作りしていくのだろうが、そのときピアノは「音出し装置」、作曲ツールとしか位置づけられていないのではないか。
どうも「ピアノで歌う」というのは、バイオリンとか他の楽器で歌うのとは次元の異なる感性を必要とするのではないかと思う。ピアノというのは本質的にリズム楽器みたいなところがあって、音はポクポクとぶつ切りでしか出てこない。「歌」が音の連続性・持続性を要求するものだとするなら、ピアノは歌とは本質的になじまないのである。
そういう本質的な限界を持った楽器で、それにもかかわらず歌を歌うとするなら、間隙を埋める装飾音符とかいろいろアヤを付けなければならない。
しかしアヤを付けすぎるといかにも野暮ったい演歌になってしまいかねない。その辺の兼ね合いがピアノ曲の制作や演奏には問われるのであろう。そのセンスが「詩人の魂」となるのであろう。

たしか前にも書いたが、ギレリスとコーガンは義理の親子で、コーガンはギレリスに心酔していたという話だ。
ギレリスというのは謙遜な人で、ソ連の演奏家としては最初に西欧にエクスポーズしたのだが、「世界一のピアニスト」と賞賛された時にマジに否定したそうだ。
「ソ連には私よりはるかに上手い人がいる」とコメントしたのだが、それがリヒテルだった。
しかし「そうだろうか」と私は思う。テクニックと言うだけならたしかにそうなのかもしれない。しかし聞いて「良いな」と思うのは、私ならギレリスだ。
リヒテルなら、どの曲を演奏しても曲の中にぎりぎりと切り込んでいく、そういう凄さがある。それを傍で感じる時はすごいなと思う(だがいつもそうではない)。
ギレリスの演奏は鍵盤をオーケストラのようにあやつる指揮者のように聞こえる。それがどう違うかというと、多分リズム感と響きなのだろうと思う。
ギレリスの演奏はどっしりと安定して、優しい。ギレリスの演奏は気持ちいいのである。リヒテルは時として不機嫌でそっけなく、人の心を不安定にさせる。音色は綺麗とは言い難い。ベートーベンのソナタで、その違いは顕著だ。
シューマンやドビュッシーはギレリスには合わない。ところがブラームスのピアノ協奏曲第2番はギレリスの不朽の名演だ。グリークの叙情小曲集は珠玉の一枚だ。
いま、アシュケナージやプレトニョフが指揮者として大をなしている。私が思うにはギレリスこそ大指揮者になったのではないかと思う。彼には大谷選手並みの素質があったと思う。惜しいことだ。
そのギレリスが娘婿のレオニード・コーガンと組んでベートーベンのバイオリンソナタを出している。これはこの曲のベストだと思う。学生時代、FONTANAという廉価版シリーズでグリュミオーとハスキルのレコードを買ったが、音のバランスが悪かったせいかもしれないが、この曲へのマイナス・イメージが焼き付けられた。それがこの演奏で払拭できたのである。
たしかにコーガンのバイオリンは線が細く硬質で、オイストラフと比べての話であるが、きまじめだ。しかしそれがギレリスのバックを得て生き生きと踊り始めるようになる。(この話は以前書いたよね)
さて、話がようやく本題に入る。
このギレリスとコーガン親子にロストロポーヴィッチが加わったのがこのトリオである。名前はついていないが、どう考えてもギレリスを中心にしたトリオだ。だからこれから先はギレリス・トリオと読んでおく。
このギレリス・トリオが演奏したのがチャイコフスキーの「偉大な芸術家の思い出に」だ。

このあと、つらつらと書き連ねた文章があっという間に消えた。
もうやめた。
これだけあれば、一応は足りている。
You Tubeでは同じ年の同じ演奏でモーツァルトのピアノトリオ第一番が聞ける。おそらく同じレコードの裏面なのだろう。こちらのほうがピアノの大音量がかぶさらない分聞きやすくなっている。ただしロストロポーヴィッチの出番は殆どない。目立ちたがり屋だから無理やりしゃしゃりこんでくるが、そもそも音符がないのだからどうしょうもない。

こまった。
レビコフのピアノ曲集全曲盤を買ってしまった。
AnatolySheludyakov-VladimirRebikov
見ての通り、シェルデャコフというピアニストがレビコフのピアノ曲全曲をCD3枚に吹き込んでしまったのだ。
やっと名曲百選を作って、レビコフをかなり押し込んだのだが、これから聴き込んでいくととてもそのレベルでは収まらないかもしれない。困ったものだ。

すみません。たくさんのアクセスいただいているようですが、実は勝手に改訂してしまいました。下記をご覧ください。
2017年07月06日2017年07月15日2017年07月17日

ジャ~ン! 自分でファンファーレ

1年をかけて、やっと終わった。

「ロシアのショパンたち」

一応、100曲を選び終えた。

作曲家別に、おおよそ古い順に並べていく。

グリンカ

1 ノクターン「別れ」 ヘ短調

2 マズルカ ハ短調

バラキレフ

3 1864 ひばり (原曲はグリンカ)

4 1859 ポルカ嬰へ短調

5 1902 トッカータ 嬰ハ短調

6 1902 ノクターン No.3 ニ短調

ムソルグスキー

7 1859 子供の遊び スケルツォ

8 1865 子供の頃の思い出 第2曲 最初の罰

9 1865 ロギノフの主題による「夢」

10 1879 クリミアの南岸にて 第1曲アユダク山麓グルズフ

11 1880 村にて

12 1880 涙の一滴

ボロディン

13 「小組曲」より 1.修道院で

14 「小組曲」より 2.間奏曲

15 「小組曲」より 7.夜想曲

キュイ

16 Op.20 2台のピアノによる8つの小曲 第8番子守歌

17 Op.21 組曲_1-即興曲

18 Op.21 組曲_2-Tenebres_et_lueurs

19 Op.21 組曲_3-間奏曲

20 Op.22 ノクターン

21 Op.31 3つのワルツより 第2番 ホ短調

22 Op.40 「アルジャントーにて」no 6 「おしゃべり」練習曲

23 Op.64 前奏曲集 第2番 ホ短調

24 Op.64 前奏曲集 第4番 ロ短調

25 Op.64 前奏曲集 第6番 嬰ヘ短調 Andante

26 Op.64 前奏曲集 第7番 イ長調

27 Op.64 前奏曲集 第8番 嬰ハ短調

28 Op.64 前奏曲集 第9番 ホ長調

29 Op.64 前奏曲集 第10番 嬰ト長調

30 Op.64 前奏曲集 第16番 ヘ短調

31 Op.64 前奏曲集 第18番 ハ短調 Allegretto

32 Op92 3つの旋律スケッチ 第1番

33 Op92 3つの旋律スケッチ 第2番

34 Op92 3つの旋律スケッチ 第3番

アレンスキー

35 Op.15 2台のピアノの組曲から I. ロマンス

36 Op.15 2台のピアノの組曲から III. ポロネーズ

37 Op.23 2台のピアノの組曲「影」から 3.道化

38 Op.23 2台のピアノ組曲「影」から 5.バレリーナ

39 Op.25 4つの小曲から No.1 即興曲

40 Op.25 4つの小曲から No.3 練習曲 (中国の主題による)

41 Op.28 「忘れられたリズムによる試み」から 1-ロガエード

42 Op.41 4つの練習曲から No.3 変ホ短調

43 Op.65 2台のピアノ組曲「子どもたちの組曲」から 8. ポーランド風に

リャードフ

44 Op.3a 6つの小品 3 フーガ ト短調

45 Op.4 4つのアラベスク No. 2 イ長調 アレグレット

46 Op.9 2つの小品 1ワルツ ヘ短調

47 Op.11 3つの小品 第1番 前奏曲 ロ短調

48 Op.23 小品「湿地にて」ヘ長調

49 Op.31 バラード“古い時代から”第1曲 マズルカ ト長調

50 Op.32 ワルツ「音楽の玉手箱」

51 Op.36 3つの前奏曲 第2番 変ロ短調

52 Op.37 練習曲 ヘ長調

53 Op.38 マズルカ ヘ長調

54 Op.44 舟歌 嬰ヘ長調

リャプノフ

55 Op.1 No.1 練習曲 変二長調

56 Op.1 No.2 間奏曲 変ホ短調

57 Op.1 No.3  ワルツ 変イ長調

58 Op.6 7つの前奏曲 第6番 ヘ短調

59 Op.8 ノクターン 変ニ長調

60 Op.11 超絶技巧練習曲 第3番 鐘

61 Op.11 超絶技巧練習曲 第6番 嵐

62 Op.36 マズルカ 第8番 ト短調

63 Op.41 降誕祭 第1曲 クリスマスの夜

64 Op.41 降誕祭 第3曲 クリスマスの歌

65 Op.41 降誕祭 第4曲 クリスマスの歌手たち

66 Op.57 3つの小品 第2曲 春の歌

レビコフ

67 Op2_3 メランコリックなワルツ ロ短調

68 Op8_9 マズルカ イ短調

69 Op10_8 ワルツ 小さなワルツ ロ短調

70 Op10_10 ワルツ ロ短調

71 Op15_2 悪魔の楽しみ

72 Op21 クリスマスツリーよりワルツ 嬰ヘ短調

73 Op23_2 冬の歌

74 Op23_4 エスペランサ(希望)

75 Op23_5 スヴェニール

76 Op28_3 羊飼いの踊り

77 Op29_3 モデラート・コン・アフィリツィオーネ

78 ワルツ ヘ短調

79 秋の花々 モデラート

80 秋の花々 アンダンテ

81 小さな鐘の踊り

スクリアビン

82 Op1 ワルツ ヘ短調 1985

83 Op2 3つの小品 第1番 練習曲 嬰ハ短調 1887

84 Op3 10のマズルカ 第1番 変ロ短調

85 Op3 10のマズルカ 第3番 ト短調.flac

86 Op3 10のマズルカ 第6番 嬰ハ短調

87 Op8 12の練習曲 第12番 嬰ヘ短調 悲愴

88 Op9 2つの左手のための小品 第1番 前奏曲 嬰ハ短調 1894

89 Op9 2つの左手のための小品 第2番 ノクターン 変ニ長調 1894

90 ワルツ 嬰ト短調 1886年

ラフマニノフ

91 Op.3 幻想的小品集 第1番エレジー 変ホ短調

92 Op.3 幻想的小品集 第2番 前奏曲 嬰ハ短調

93 Op.5 組曲第1番「幻想的絵画」 第4曲 ロシアの復活祭 ト短調

94 Op.16 楽興の時 第3曲

95 Op.16 楽興の時 第4曲

96 Op.23 前奏曲第2番

97 Op.23 前奏曲第3番

98 Op.23 前奏曲第5番

99 Op.34 No14 ヴォカリーズ

100 Op.39 絵画的練習曲《音の絵》No_2 イ短調

基本的にはすべてYou Tubeで聞けるものばかりである。リンクはすぐ切れる。しかしそのうちまた出てくる。あえてリンクはしなかったので、自分で検索してほしい。

選曲の基準はショパンっぽいこと、聞きやすいことである。必然的に大音響のうざったい曲は少ないが、入ってはいる。彼らのお手本はショパンとリストだったから、どうしてもリストっぽさが混じるのであろう。あのブラームスだって初期の曲はバリバリだ。

もちろんいつまでもショパンの真似ばかりもしていられないから、経歴を重ねるとともに独自の音作りに移行していく。だから基本的にはキャリアの浅い時期の曲が多くなる。いわゆる「初期の習作」である。

したがって音源探しは意外に難しい。見つけた曲以外にも佳曲はたくさんあるだろうと思う。また聴き込んでいくうちに味が出てくるブラームスの間奏曲みたいのものもあるだろう。

結局なんだかんだとCDも買ってしまった。挙げておくと、

1.Lyadov Complete piano works: Marco Rapetti (5枚組)

2.Vladimir Rebikov Piano works: Jouni Somero (1枚)

3.Cesar Cui Complete works for piano solo:  Osamu Nakamura (1枚目のみ)

4.Cesar Cui 25 Preludes: Jefrey Biegel (1枚)

5.Borodin Complete piano music: Marco Rapetti (1枚)

6.Sergei Lyapunov Piano music: Margarita Glebov (1枚)

とりあえず、これでアップロードしておくことにする。後はチャイコフスキーが第一次候補で40曲ばかり残っている。これを絞り込んで30曲位にすれば完全に終わる。チャイコフスキーを「ロシアのショパンたち」に括るのは、いささか無理があるが、そこは勢いだ。

なぜ、ドイツでは変ロがBなのか

かねがね疑問に思っていたが、あるQ&Aのページにこんな記載があった。

ドイツ音名ではBは変ロで、ロはHですが、これについては(うろ覚えですが)こんな話を読んだ記憶があります。

ヘ長調の属七の和音はハ-ホ-ト-変ロになります。古典的な転調ではよく登場する和音です。

理論書などでロと変ロを書き分けるとき、角張った書体のbを本位のロに、丸さのある書体のbを変ロに宛てる習慣ができたのだそうです。

そのうち、角張ったbがhと混同されるようになって、ドイツ語の世界ではロ=H、変ロ=Bとなったのだそうです。

ということで、かなりいい加減な習慣のようだ。

fraktur
下段の小文字、左から二つ目が“b”,8つめが“h”である。

ドイツ語の勉強の時は、イヤでもドイツ文字を読まなければならなかった。これはフラクトゥールというらしい。第二次大戦後は使われなくなった。ご同慶の至りである。




ロシアの作曲家たちのピアノ小曲を、この半年間聞き続けてきた。当初の目標は「タンゴ名曲百選」みたいに良さげな曲をコンピレートすることだった。しかし結構分厚い。
最初はYou Tubeだけで済ますつもりだったが、CDを買い足したりして、どんどん膨らんでしまった。
同じ曲を違う演奏で聞いていくと、つまんない曲だと思ったのがキラキラと光ったりするから、なかなか油断がならない。
ここまでの感想で次のようになった。
shopantati

作曲家の数は13人だ。曲数は217になる。随分と偏った選曲だが、ピアノ小曲というジャンルに絞っているので、こうなるのも仕方ない。ラフマニノフとスクリアビンはすべて聞いてはいないので(この二人は夏には鬱陶しい)、もう少し増えるかもしれない、
まあこれは中間発表ということで、最終的には百曲に絞り込むことになる。


リャプノフを聴きこんでみた。
とても良い。
以前にもリャプノフについて書いたことがある。あの時はやや突き放した書き方になってしまったが、聴きこんでみるとなみなみならぬ力量に改めて驚く。
作品1の3つの小品(練習曲、間奏曲、ワルツ)がすべて良い。メロディーにあふれていて、音が透き通っている。鮮やかなデビューである。作品3の「昨夜の夢想」もメンデルスゾーンの無言歌のようで、エレガントこの上ない。
作品6の7つの前奏曲のアンダンティーノ・モッソとレントは限りなく美しい。作品8の夜想曲は間違いなくショパンに比肩される。
作品9に始まる8曲のマズルカは、ショパンのレベルを超えて大規模で内容豊かなものとなっている。
そしてリャプノフの代表作である作品11の12曲の超絶技巧練習曲である。全12曲のどれもが聴き応えのあるものであるが、私としては3,5,6,7,9,10をとる。トランンセンダントであるか否かは分からないが、リストの超絶技巧練習曲とはまったく異なり技巧のひけらかしはなく、あくまでトランスペアレント(透明)である。
作品23の即興的ワルツになると多少モッタリ感が出てくるが、相変わらず美しい。作品25のタランテラも最後まで疾走感が途切れない。作品27のピアノソナタは超絶技巧練習曲とならぶリャプノフの代表作である。
ところが作品29の即興的ワルツでは何か曲想が走らず疲れが見える。作品31のマズルカ第7番もどことなく緩みが見える。これが08年の作品だ。
作品36の最後のマズルカ(第8番)では歩みは少々途切れがちになるが、まだ十分に美しい。
これが1910年の作品40の前奏曲集になると、曲の展開力は失われ、つぶやき風の内省的な音楽に変わっていく。主旋律は借り物風のテーマになり、ドビュッシーもどきの短い細切れ風のものとなる。あの光彩陸離たるリャプノフの姿は消え、貸衣装姿のリャプノフが浮かび上がる。
作品41の降誕祭も作品45のスケルツォも少しも面白くない。作品46の舟歌はリャプノフの代表作の一つとされるが、華やかさにはかける。作品49の「ロシアの主題による変奏曲とフーガ」、作品57-2のプランタンの歌はさすがにリャプノフと思わせるが、それにしても一体どうしたんだ。同じ変奏曲でも1915年の作品60のグルジアの主題による変奏曲は無惨ですらある。
この後のリャプノフには良く言えば渋みみたいなものが出てくる。多分もっと聴きこめばそれなりの味わいは出てくるのだろうが、とりあえずは作品36まででよい。我々の聞きたいのはショパン風リャプノフであって、ブラームス風味ではない。
それにしても、ロシアの作曲家が揃いもそろってみんな途中からちょん切れてしまうのはなぜか。これまではそれぞれの作曲家の特性と思ってきたが、これだけ揃うと、それだけではなく時代背景があったのかとも考えてしまう。
はっきりと断言はできないが、1910年を挟む数年間にそれらは集中しているようにも思える。第一次世界大戦が14年からで、ロシア革命が1917年だから、それよりちょっと前だ。
ちょっと思いつくのはフランスにおける印象派音楽の隆盛、ウィーンにおける無調派音楽の登場の影響である。
こういう風潮が風靡すると、曲の善し悪しよりも新しいかどうかが評価の基準になりがちだ。頑迷牢固とか因循姑息とか旧態依然とか言われると、結構みんな参ってしまうのかもしれない。
音楽かというのは芸術家だから世事に疎いかと思いがちだが、人気稼業でもあるから世間の評判は気になるものである。とくにクラシック音楽の場合は「評論家」という存在がランク付けして、それが人気にも収入にも直結する「いやな世界」だから、これで葬り去られてしまうことがしばしば起きた可能性もある。
だって、リャプノフという稀代の作曲家が、いまはすっかり埋もれてしまっているんだから…
ということは、20世紀初頭に活躍していまはすっかり無名になっている作曲家の中には、発掘するに足るタレントがまだまだいるということだ。少なくともその可能性はある。

スクリアビンというのはとんでもない野郎で、とてつもない量のピアノ曲を書き記している。とてもすべてを聞くことなどできない。

と言いつつ、作品48までは来た。

といっても、スカルラッティはもっとたくさん書いている。

K: Ralph Kirkpatrick (1953; sometimes Kk.) で 555曲

L: Alessandro Longo (1906) で 500+21曲

P: Giorgio Pestelli (1967) で 559曲だ。

CD だとK だったり、L だったりしてもうさっぱりわからない。ハイドンの交響曲を全部聞いたという人は時々いるが、スカルラッティを全曲聞いたという人はそうはおるまい。

スクリアビンに戻ろう。以下の表がYou Tubeで聞けるスクリアビンのピアノ曲の一覧。ソナタは抜いてある。

一見して分かるのは、作品8の「12の練習曲」が1984年、作品49の「3つの小品」が1905年。この12年間の間にほとんどの作品が収まっていることである。

そのあと、10年ほどスクリアビンは生きているが、ピアノ曲には、さほどめぼしい作品はない。

だからスクリアビンの作曲家としての生涯は、3つに分けることができる。1904年に猛然と曲を書き始めるまでの時代、猛然と書いた時代、そして書き疲れたか書き飽きた時代の3つである。

Scriabin1

scriabin2

ここまで聞いたうえでの暫定評価だが、まず前奏曲は全て跳ばしてよい。ラフマニノフは結構前奏曲を看板にして一生懸命書いているが、スクリアビンにとっての前奏曲はメモ書きみたいなものだ。

これといった旋律はなく分散和音とムードだけだ。聞くのなら全曲をBGMで流すことになる。

と書いておくと、後の仕事がだいぶやりやすくなる。

順番に行こう。

作品1のワルツと作品番号なしのワルツは同じ頃の作品だ。なぜ嬰ト短調のほうが発表されなかったのかは、聞いてみれば分かる。同じ時期にもう一曲ワルツがあるようだが、こちらはYou Tubeで聞くことはできない。

作品2の第1曲は、スクリアビンの一番有名な曲になっている。私としては韓国の女流 Hyo Jee Kang がお気に入りである。ギレリスも優しさがあって好きだ。

他の2曲は飛ばして構わない。

作品3の10のマズルカはみんな良いのだが1,3,6あたりを入れておく。スクリアビンの曲はぼんやりした曲が多いので、どうメリハリを付けるかで印象が変わってくる。

その後作品7まではめぼしい物はない。

作品8の12の練習曲については以前書いたとおりである。

これまでソコロフとマガロフで聞いてきたのだが、どうも流れが悪くて面白いとは思わなかった。クシュネローバの演奏はリズムがしっかりしていて、テクスチャーが良く見える。よく弾きこなしているのだろう。この人の演奏で初めて、良い曲だということが分かった。

作品9の2曲はいずれも佳曲である。左手のみという制限がついたために嫌でも旋律線を重視するほかなくなったのであろう。シンプル・イズ・ベストである。溢れるようなメロディーはこれを最後に影を潜める。

作品11の前奏曲集もクシュネローバの演奏が聞ける。この曲はズーコフ、プレトニョフ、レトベルクなど多くの全曲演奏がアップされているが、私にはクシュネローバが一番心地よい。

いろんなロシアの作曲家を聞いてきたが、ピアノ独奏というジャンルは厳しいものだと思う。ほとんどの作曲家が30歳ころを境にメロディーの泉が枯れる。

最初の主題はどうでもいい、民謡とかの借り物でも良い。それは神様のものである。それにどういう対旋律を噛ませれば主旋律を浮き立たせることができるか、自分の曲になるかである。

これはセットアッパーと似ている。セットアッパーは一球一球が勝負である。だからストレートとフォークボールしかない。回転のよく効いたストレートで高めをえぐり、低めに落ちるフォークでの三振を狙う。

大抵はそれができないから、そのまま終わってしまうのだが、何人かだけがその後もメロディーを生み出し続ける。

知るかぎり、それはチャイコフスキー、リャードフ、キュイの3人である。後の二人は他に仕事があったりグータラだったりして使い惜しみしたから長持ちしたのである。

これがソナタだといろいろごまかしも効くし、全然関係のないメロディーを第二主題にしてそこまでなんとか繋げば良いのだから、ある意味話は楽だ。

アレンスキーなどはそうやって選手寿命を伸ばした。

そろそろ、アルコールも回ってきて、頭は回らない。とりあえず、スクリアビンの前巻は終了。



ラフマニノフのピアノ曲を流して聞いてみた。
ラフマニノフの後半はまことにつまらないのだが、一体なぜなのかを知ろうと思ったわけだ。
感じたのは作品23の「10の前奏曲」の7番までは、良い悪いは別にして感じは出ているのだが、8番から後にはまったく歌がないということだ。
とにかくストライクが入らないのだ。いかにも置きに来るストライクはあるのだが、まるっきりの棒球だ。
ふつう前奏曲といえば24曲と相場は決まっている。しかしこの人は10曲で一旦やめちまって、残りは仕切り直ししている。おそらく仕切り直しせざるを得なかったのだろう。これが1901年のことだ。
それで9年もしてから残り13曲を発表している。どれもこれもさっぱりだ。9年間にぼちぼち書き溜めたのだろうが、インスピレーションは完全に枯渇している。ラフマニノフという人は頑張り屋で、そうなっても一生懸命曲を吐き出すだが、ほとんど黒色胆汁だ。
同じ年に「音の絵」と題して8曲、6年後に同じ「音の絵」作品39という名前で9曲をまとめているが、これも随所にかすかな残り香を感じさせるものの、かえって哀れを感じていしまうという具合。派手な和音ばかりが耳につく。
ロシアの演奏家は偉大な作曲家に敬意を払ってこれらの曲もせっせと弾いているが、こちらは義理もないので、以後は願い下げにしたい。
作曲家にはこういう人がいるようで、リャプノフも超絶技巧練習曲とソナタを書いた後、突然止まってしまう。そこへ行くと我がリャードフはぐーたらを続けていたせいか、50歳過ぎても才能は落ちない。むしろ冴えてくる。
すごいのはチャイコフスキーで、若い時からすごくて年取ってもまったく落ちない。もう少し長生きして欲しかった。
参考までに私のラフマニノフ・ベスト
rachmaninov
演奏家については別にこだわっているわけではない。たまたまあった音源という程度。






恐るべし、ニコライ・メトネル

リャードフ、リャプコフ、レビコフと聞き進んできてニコライ・メトネルに入った。

レベルが違うと感じた。一番の特徴は「駄作」がないということである。それだけで驚異だ。

もちろんYou Tubeで全曲が聞けるわけではないから、「駄作」率は分からない。

しかしリャードフ、リャプコフの場合少なくとも半分は聞く必要のない曲である。レビコフだと8割は無意味な曲だ。アントン・ルビンシュテインはほぼすべてが駄作だ。

スクリアビンもラフマニノフも、ロシア革命の頃で終わっている。後期の曲は聞くだけ無駄だ。(スクリアビンは革命前に死んでしまったが)

ドイツの「楽聖」と呼ばれる人たちでさえ、かなりの駄作が混じっている。シューベルトなど駄作の山だ。

そこへ行くとメトネルの歩留まりは7割を超えている。誇張して言えば、メトネルには駄作がない。

すこしメトネルのBiography を述べておこう。

Nikolai Karlovich Medtner

1880年、モスクワの生まれ。ロシア人と言っても父方・母方とも祖先はドイツ人。モスクワ音楽院でピアノを専攻する。

スクリャービン,ラフマニノフに次第三のスターと注目され、若手ピアニスト兼作曲家として売りだした。

ロシア革命の4年後(41歳)に亡命。各地を転々とした後パリに居を構える。しかしパリでは花咲かず、35年(55歳!)にロンドンに移住し、ここで成功する。遅咲きの極である。

51年にロンドンで死亡。この時71歳。下の写真が1947年、死の4年前である。「心臓死」は当然であろう。

作曲の腕は学生の頃から認められていた。タネーエフは「メトネルはソナタ形式とともに生まれてきた」と言って絶賛した。

曲は「超保守的」で、和音はリストはおろかブラームスより古い。折り目の付け方はバッハ的でさえある。

「スクリャービンの芳醇な香り漂う和声から,ラヴェルの目も眩むようなオーケストレーションへとさまよい,リヒャルト・シュトラウスの耳を劈くような大音響から,ドビュッシーの繊細きわまる微妙な陰影へとさまよっている」(ミャスコフスキー)時代にあって、メトネルの曲は色彩感に乏しい、ドイツ的な音楽と批判されたようだ。

その中で、ミャスコフスキーが一貫してメトネルを擁護した。またラフマニノフは、メトネルを「現代最高の作曲家」と賞賛したそうだ。

(高橋健一郎「ロシア文化史におけるニコライ・メトネルの音楽」より引用)

以下がとりあえずYoutubeで集めた範囲の曲目。

Medtner

チャイコフスキーのピアノ小曲の名曲選を書いているうちに、HTMLエディターが突然クラッシュした。5時間分の作業が、その瞬間に水の泡と消えた。このエディターは一定時間がたつと自動的に保存機能が働く。初期設定で10分間隔で保存が働くので、ふつうは大丈夫なのだが、ソフトそのものがぶっ飛んでしまうとどうしようもない。
本当は作業を始める前に、「ファイル名を付けて保存」とすればよいのだが、つい忘れてしまう。現にこの文章もまだ裸のままだ。まぁ“自己責任”だ。“Get over it” だね。
今日はもうとても、作業を繰り返す気分にはならないので、とりあえず結論だけ書いておく。

チャイコフスキーはOxana Yablonskaya で決まりだ。
理由は、ロシア人でリズムとテンポの感覚があるのはこの人だけだからだ。
せっせとアップしてくれる人がいるから、Youtube で “Yablonskaya Tchaikovsky” と入れて、片っ端からダウンロードするだけでかなりのものは集まる。
音質もなかなか良いから、ながら聞きするにはこれで十分だ。ただビットレートがAACで100kbだから、強音部では音が飽和する。音量を上げると、折り返しが耳について小うるさい。本気で聞くならやはりCDを買うべきだろう。
1995/4/7 Tchaikovsky: Piano Music, Vol. 1 Oxana Yablonskaya
1998/11/6 Tchaikovsky: Piano Music, Vol. 2 Oxana Yablonskaya
で、アマゾンだと国内新品は購入不可。出品販売で中古か輸入品が買えるがどうしようか。
しかしこの2枚ではとてもチャイコフスキーのピアノ曲の全貌をカバーできない。
本当の全曲集は Victoria Postnikova のものと、フランコ・トラブッコのCD7枚組だ。ポストニコヴァは何と2,865円! 絶対損はない。トラブッコの演奏は断じてお勧めしない。
1枚ものの選集は山ほどある。おすすめはリヒテルだ。立派の一言に尽きる。しかし面白いかどうかは別。イロナ・プリュニは選曲が抜群。浸りたい人には絶対のおすすめ。プレトニョフは、一応一通り聞いた人が面白がって聞く演奏。素人は手を出さない方が無難。

キュイ、アレンスキー、リャードフ、リャプノフと聞いてきて、チャイコフスキーはさすがにロシアを代表する作曲家だとつくづく思う。
かなり曲数を絞っても、CD3枚はほしいところだ。夢はそういうコンピレーションを作って、ヤブロンスカヤに録音してもらうこと。売れないだろうなぁ。

最近のYoutubeはすごいもので、アントン・ルビンステインのピアノ小曲だけでこれだけ聞ける。
anton
一応全部聞いたが、つまらないものばかりだ。結局ヘ長調の「メロディー」一発の人だ。
この人は交響曲を6曲、ほかにコンチェルトやソナタなど大曲をずいぶん書いているようだ。そちらは遠慮しておく。
編曲すると隠れたよさが引き出されるのか、「天使の夢」 はオーケストラやバイオリン独奏版のほうが定番。

ミャスコフスキーという作曲家がいる。プロコフィエフと同年代、交響曲をなんと27曲も作曲したという実にロシア的な作曲家である。
スターリン時代を代表する作曲家で、いかにもそれっぽい曲もあるが、「おやっ」と思わせる佳曲もある。御用作曲家ではあるが、ジダーノフ批判の対象にもなったことがある。まぁ、そういう辺に位置する人である。
この人を紹介した記事に面白いものがあった。
19世紀末にミャスコフスキーはペテルブルク音楽院に入学している。プロコフィエフとは同期のようだ。当時の指導教官がリャードフ、これがミャスコフスキーには気に入らなかったらしい。ぐーたら教官と刻苦勉励型の生徒では馬が合わないのは当然だろう。しかしプロコフィエフはぶーたらをいいながらもリャードフの管弦楽法をしっかりと吸収している。
そしてプロコフィエフと反リャードフで意気投合したのだそうだ。それ以来二人は無二の親友になったという。かなりあいまいな記憶で書いているのだが、当時のペテルブルクの雰囲気がうかがわれて、楽しいエピソードではある。
ミャスコフスキーの交響曲のかなりがYoutubeにアップロードされている。しかしほとんど聞いていない。せめて10曲くらいにしておいてほしかった。ほんのちょっと聞いた範囲でのお勧め曲を挙げておく。
弦楽四重奏曲 第7番 「コーカサスの主題による」 タネーエフ四重奏団
ピアノソナタ 第7番 演奏者不明(Hegedus という人の演奏がNaxos から出ているので、それかもしれない)
とにかく、屈託なく、さらさらと音が流れていくのがよい。

トロップのロシアピアノ小曲選にレビコフという作曲家の作品が三つも含まれている。まったくの初耳の人だ。

ワルツがとてもよい。

とりあえずウィキペディアから

1866年5月31日 クラスノヤルスク — 1920年10月1日 ヤルタ ということでリャードフらと完全にかぶる。モスクワ大学哲学科を卒業。モスクワ音楽院にも学んだ、というからロシア・アマチュアリズムの人。

初期作品はチャイコフスキーの影響を示している。抒情的なピアノ小品集(組曲、連作、アルバム)のほか、児童向けの合唱曲や童謡を手懸けた。後年では、新しい進歩的な和声法を利用した。

ウィキペディアには辛らつなレビコフ評も載せられている。

ようつべで検索するとかなりの曲が聞ける。cubusdk という人が自演でアップしてくれているようだ。演奏は悪くない。ただしエレクトリック・ピアノのようでエコーも人工的だ。(Sound from ROLAND RD-700GXとのコメントがある)しかし聞く分には一向に差し支えない。

以下にリンクを張っておく。

情緒のある風景/ Stimmungsskizzen  Op.10  1 Ländliche Scene (Pastoral scene) 2 Volkslied (Folk song) 3 Lustige Stimmung (In cheerful mood) 4 Trost (Depre

Vladimir REBIKOV: Valse Miniature, Op. 10, No. 10

Vladimir REBIKOV: Waltz in B minor, Op. 10, No. 8

夢, 5つの音楽風刺劇/ Les Rêves, 5 mélomimiques  Op.15

Vladimir Rebikov : Naïade , Op. 15 No. 1

クリスマスツリー, 組曲/ Christbaum, suite  Op.21  [1 piano 4 hands]

Vladimir REBIKOV: Op. 21, Valse (Yolka)

 Vladimir Rebikov - Waltz, from "The Christmas Tree" (PIANO SOLO VERSION) Yevgeny Yakovlev

黄昏時に/ A la Brune  Op.23  [1900年]

Vladimir REBIKOV: Chant d'hiver Op. 23, No. 2(Winter Song)

Vladimir REBIKOV: Persuasion (Op. 23, No. 3)

Vladimir REBIKOV: Espérance (Op. 23, No. 4)

Vladimir REBIKOV: Souvenir (Op. 23, No. 5)

Vladimir REBIKOV: Il était une fois.... (Op. 23, No. 8)

田園生活の情景/ Scènes bucoliques  Op.28

Vladimir Rebikov: 2 Dances from op.28 Jouni Somero, piano

Vladimir Rebikov - Scenes bucoliques Anthony Goldstone

Fleurs d'Automne f-moll (1 Moderato 2 Andante 3 Moderato)作品29

Vladimir REBIKOV: Fleurs d'automne I

Vladimir REBIKOV: Fleurs d'automne II(秋の葉 おそらく第2曲アンダンテ)

同じ曲で管弦楽作品もあった。

Misha Rachlevsky - A Russian Mosaic - Chamber Orchestra Kremlin: Vladimir Rebikov (「秋の葉」の3曲全曲が聞ける)

Vladimir REBIKOV: Valse Mélancolique B minor

Vladimir REBIKOV: Waltz in F# minor

ほかのサイトでもいくつかが聞ける

Vladimir Rebikov - Small Bell Dance in E Flat Major Anatoly Sheludyakov

こちらは合唱曲

Russian Orthodox Music - Have Mercy On Us, Vladimir Rebikov / Children's & Youth Choir "Sophia"

もういい加減やめにしたいのだが、最後っ屁で、リャードフとリャプノフの関連年表。

 

リャードフ

リャプノフ

1855

サンクト・ペテルブルクに生まれる

 

1859

 

ヤロスラヴリで生まれる。まもなくニジニ・ノヴゴロドに移る。

1870

ペテルブルク音楽院に入学。R・コルサコフに学ぶ。

 

1878

ペ音楽院で教職につく。門下にプロコフィエフ、ミャスコフスキーなど

モスクワ音楽院に入学。

1885

 

バラキレフを慕いペテルブルクに移る。帝国地理協会の民謡収集部に所属する。

1886

ロ短調の前奏曲(作品11の1)を発表

 

1893

「音楽の玉手箱」を発表

 

1897

 

超絶技巧練習曲の作曲を開始。完成は1905年

1905

「ババ・ヤガー」を発表。以後、管弦楽曲に集中。09年には「キキモラ}

 

1910

ディアギレフの新曲依頼をキャンセル。代わりに提供されたストラビンスキーの「火の鳥」が大ヒット。

 

1911

 

ペ音楽院教授に就任。

1913

 

プラタナスの歌を含む小曲集(作品57)を発表

1914

死亡

 

1924

 

革命を逃れパリに移るがまもなく死亡。

 二人が旺盛に作曲活動を展開した時期はほぼ重なり合っている。

まず最初は1880年代後半から1890年代前半にかけてであり、ともにピアノ小曲を中心にコツコツと積み上げている。

この時期においては、リャプノフのほうが大規模曲も手がけたりして一歩先を行っているようだ。ただリャードフのロ短調の前奏曲や「音楽の玉手箱」に匹敵するような有名曲は、リャプノフにはない。

例の93年の民謡収集旅行の後、リャプノフは超絶技巧練習曲の作曲にとりかかり8年の歳月をかけて完成させる。この間リャードフはピアノ小曲をポツポツと作りつつ、管弦楽法の習得をすすめる。

リャプノフは超絶技巧練習曲の後もピアノ・ソナタなど活動を展開するが、形式的にはリストのレベルに留まり、ロシア民謡の吸収も未消化に終わっている。

もともとメロディーで勝負する人ではないが、後半になるとますますメロディーが枯渇してくる印象だ。

いっぽう、リャードフは1905年の「ババ・ヤガー」で管弦楽曲作家として華麗なデビューを果たし、ピアノ小品でもいくつかの佳品を作曲している。

リャプノフは作品57の小曲集などいくつかの佳品を残すが、結局、超絶技巧練習曲の作家として終わってしまう。

リャードフは、大掛かりな管弦楽曲は作れるようになったが、長い構成的作品は作れないままに終わった。しかしそのモダンな手法はストラビンスキーやプロコフィエフに受け継がれている。

というところか。

この二人をめぐる面白いエピソードがある。
リャプノフは田舎(ニジニー・ノヴゴルド)の出で、父が天文学者、兄が世界的に有名な数学者だ。完全に理数系の血を引いている。対してリャードフはペテルブルク生まれの街っ子。祖父と父親が指揮者という音楽一家だ。
リャプノフの写真を見ればわかるようにコチコチの堅物だ。リャードフはエスケープの名人、ペテルブルク音楽院を一度は放校になってるほどだ。

リャプノフはニコライ・ルビンステインの引きでモスクワ音楽院に進学し、チャイコフスキーの指導も受けている。ここで純西欧風の音楽理論で教育を受けたが、逆に民族風の音楽にはまってしまい、バラキレフの指導を受けるためにペテルブルクに移動する。リャードフはそのころペテルブルクの音楽院で相変わらずチンタラとやっていた。
二人は同じ校舎の中で生活するようになる。しかしいわば水と油だからそう気があうはずはないと思う。
ところがこの二人が1993年に突然長い旅を共にすることになるのだから不思議なものである。
そのとき、帝室地理協会という団体がバラキレフにヴォルガ地方の民謡採集を命じたのである。まぁ政治力に長けたバラキレフのことだから、協会の幹部をたきつけて調査費をせしめたのであろう。
このころはチャイコフスキーの名声がピークに達していたころだ。ペテルブルクのリムスキー・コルサコフもすっかりその気風に染まっている。
民族派の先頭を走り続けてきたバラキレフには面白くない時代だ。そこで民謡でも発掘してそれで巻き返しを図ろうという魂胆だったのではないだろうか。
民族派にあこがれてチャイコフスキーのところからバラキレフの下にはせ参じたリャプノフは当然喜んでこのフィールドワークに参加したことだろう。
ところがそこに、どこからうわさを聞いたものかリャードフが紛れ込んできた。親分のリムスキー・コルサコフも、バラキレフの調査とあれば、少なくとも表向きは反対する理由はない。どうせ遊んでいるようなリャードフのことだから、勝手にすればという感じで見ていたのではないだろうか。とくにこの時期、リャードフは完全なスランプ状態に陥っていた。92年に発表したのは作品29のピアノ小品ただひとつである。93年も数曲にとどまる。その中のひとつが「音楽の玉手箱」なのだ。これでリャ-ドフの首は皮1枚でつながったのだ。
ということで、バラキレフ、リャブノフ、リャードフの奇妙な三人連れがヴォルガ地方一帯をうろうろすることになる。
どういう旅だったのかは記載がないので分からない。ただこのたびの後、二人はともに民族色の強い音楽を書くようになったことは確かだ(特にリャードフ)
旅の結果、300の民謡が採集され、それらは97年に協会から刊行された。リャプノフはこの中から30曲を歌曲として発表している。
なかなか文献がないので想像するほかないが、ぐーたらな街っ子のリャードフがどのくらい足手まといになったかは想像するに余りある。

リャードフに続いてリャプノフ。この二人あまりにも似ている。
どこがどう似ているかは明日また検討してみようと思うが、両方ともすごい。
リャプノフはこれまで音源がなかったために知る機会がなかったのだが、この人のピアノは高音が実が詰まっている。40歳過ぎまでたいした曲を書いていなかったリャードフと比べ、リャプノフは若いときからしっかりした曲を書いている。有名なのが作品11の「12の超絶技巧練習曲」だが、その前後にもすばらしい曲がある。
まず「12の超絶技巧練習曲」について説明しておくと、これは実は3期に分けて作曲されており、はじめは1897年、完成は1905年となっている。8年がかりだ。59年の生まれだから38歳から46歳ということになる。こうなるともう別の曲集と考えたほうがいい。この練習曲集と時期的には重なりながら、作品8の夜想曲、作品9の二つのマズルカ、作品25のタランテラが作られている。いずれもすばらしい曲だ。
そして1908年に作られたピアノソナタはブラームスのピアノソナタを髣髴とさせる。というよりブラームスの上を行っている。ブラームスの強音は時として濁るが、リャプノフは透き通っている。ただブラームスは若いときのこの方向を捨てている(基本的には)ので、単純に比較はできないが。
この人も寡作で、遅咲きの桜である。最高作といわれる作品46の舟歌は52歳のときの作品だ。50を過ぎてからむしろ油が乗ってくる。56歳の時のバイオリン協奏曲は信じられないほどの瑞々しさをたたえている。ただ古いといえばあまりに古めかしい。この辺は近代音楽に果敢に(恐る恐る?)アプローチしたリャードフと違うところである。
58歳でロシア革命が勃発し、何年か後にはフランスに亡命し、まもなくパリに客死していく。
リャードフと同じく、もっと聞かれてよい作曲家である。

すみません。シラフで聴いてみると、ソナタの後はドンづまっています。斉藤祐樹投手みたいです。この人はここで終わってしまったようです。
基本的にメロディーメーカーではないのですが、ロシア民謡を採集しているうちにそれも枯渇してしまったようです。初期の曲の歯切れの良さも失われてゆきます。
借り物のロシア民謡のメロディーで変奏曲を作るのですが、やはり自発的に内在するメロディーがないと曲が進んでいかないのです。リストと似ていますね。
でも超絶技巧練習曲からピアノソナタにかけては間違いなく一流だと思います。

作品番号順に、めぼしい物を拾っていく。

Lyadov Arabesques Op. 4 - No. 4 in E

Lyadov 2 Pieces Op. 9 - 1 Valse in F sharp

LYADOV Prelude D flat major OP10 No1 (有名曲)

Lyadov - M.Rapetti-4 Preludes Op. 13 - No. 4 in F sharp minor

ここで、管弦楽にも手を出す。実際に手を出したのかどうかは知らないが、この曲作りは明らかにオーケストレーションを狙ったものだ。

Solovieva Liadov - About olden times, Op.21

悪い曲ではないのだが、ラペッティは持て余し気味だ。スロヴァーク・フィルの演奏で管弦楽版が聞けるが、編曲は陳腐だ。

この後作品番号の20番台はつまらない。こんな曲を年に2集くらい出していて、よく「音楽家」が続けられたものだと思う。実家に金があったんだろうね。

Lyadov - M.Rapetti-Bagatelle in D flat かなり長い不調の底から立ち直った頃の曲。

Inna Poroshina Lyadov-Mazurka in G Major, Op. 31, no. 1 (Rustic)

Robin Zebaida Plays Anatol Liadov's Prelude in B flat minor, Op 31, no 2

Cherkassky_Lyadov Musical Snuff Box, Op 32 超有名曲。と言うよりリャードフといえばこの曲しか知られていないと言ってもいいくらいだ。プレトニョフがアンコールで弾いた“ぜんまいのきれかかったオルゴール”という趣向もある。

Prelude Op 36_3 in G major この単純さはなんだ。それは次の曲で分かる。Lyadov - Etude op.37 - Grinberg

作品39の前奏曲集は二つの短調曲が良い

Lyadov 4 Preludes Op. 39 - No. 2 in C minor、 No. 4 in F sharp minor

作品40は全曲を聴くことはできないが、聴いた3曲がいずれも佳曲である。しかしあまりに短い。「俳句」みたいなものだ。

そして作品44がリャードフの最高傑作と思われる船歌だ。この辺りが40歳代前半でもっとも油の乗った時期になる。作品39より前は聞かなくてもいいくらいだ。

主題はきわめて単純だ。これをどう弾くかで曲の印象はまったく変わってくる。

試しに聴き比べてほしい。YouTubeで調べればすぐに出てくる。

Anatoly Lyadov Barcarolle for Piano Op.44 (1898) with pianist Miki Aoki

Tatiana Nikolaeva plays Liadov Barcarolle in F sharp major, Op. 44

作品48のカンツォネッタも名曲だ。

世紀が変わり、46歳になったリャードフに「先生、そろそろ長編をどうです。俳句ばっかりじゃ大作曲家になれませんよ」とそそのかされたのかどうか、書いたのが「ポーランド民謡の変奏曲」(作品51)、今度はそれなりに形になったようだ。

ならば、今度は大きい曲でということで書いたのが交響詩「ババ・ヤーガ」。「古い時代について」に比べれば、オーケストレーションはまことにみごとだが、どこまで自分でやったのやら。

リムスキー・コルサコフにも似ているし、プロコフィエフにも似ている。ディアギレフが食指を動かしたのもうなずける。何よりもの特徴は「短い!」ということだ。これでどこが「交響詩」というのだ。これではパ・ド・ドゥも踊り切らないうちに曲が終わってしまう。

作品57の「3つの小品」は、私のもっとも好きな曲。マズルカはゾクッとくるほどだ。

Victor Paukstelis plays Anatoly Lyadov Three Pieces, Op. 57

ピアノを相手に俳句みたいな曲ばかり書いていると、時代に対して超然としてくる。「浮世離れ」してくると、こんな曲も平気で書けることになる。

とても良い曲だが、「ショパンもどきでは?」と言われればそのとおりである。しかし素敵な曲だ。

大曲「管弦楽のためのロシア民謡」(大曲と行ってもたかが知れているが)はもっと演奏されて良い曲だと思う。編曲は大変シンプルで、リムスキーのような光彩陸離たる油彩ではない。そのかわりきわめてすっきりとして風通しが良い。プロコフィエフの古典交響曲みたいだ。

ただプロコフィエフには精密機械の感じがあるが、この人はお茶漬けサラサラのサラサラ感だ。日本人には理屈抜きに気持ち良い。

いよいよ最後に近づいた。リャードフ54歳の大作「キキーモラー」だ。おじさんギャグになるが、この曲は絶対に聞き漏らさないでください。You Tubeではアンセルメ(なんと1953年のステレオ録音)とスヴェトラーノフが聞ける。両方とももらさず聞いてください。(テルミカーノフの演奏もあった)

「火の鳥」になりそこねた曲であり、リャードフがストラビンスキーになりそこねた曲である。あえて言っちまうと、ストラビンスキーはリャードフの語法を“盗んだ”可能性もある。

これが1909年の作品。当然のことではあるが、19世紀を突破している。同年代のグラズノフが相変わらずの曲作りをしているのとは大違いだ。「三年寝太郎」のはずが、知らぬ間に新世代の語法を身に着けてしまったらしい。いかにも遅咲きの桜だ。

それから5年後、作品64の「4つの小品」でリャードフは無調音楽の世界に足を踏み入れている。とはいっても、恐る恐る片足突っ込んだ感じで、最後はシャバの調性世界に戻るのだが、59歳でこういう冒険をするというのもなかなかできないことである。

ネットで耳にできる限りで、最後の作品がバイオリンの小曲「挽歌」(1914年)である。

潮田益子 Lyadov Song of Sorrow op.67

これは完全な調性の世界である。せいぜいフォーレ風味くらいだ。

この年の8月、第一次世界大戦の始まった月、リャードフは世を去る。59歳だ。惻隠するに、まぁだいたいいい具合に世の中生きたんではないかと思う。

「もう少し…」という気もあるが、そのくらいが一番良いのだよ。


You Tube、You Tubeと書いていますが、実はかなりの部分は下記のサイトからのものです。

MP3LIO.NET

この検索窓に“Lyadov”と入れてください。Rapetti の全曲録音の殆どがダウンロードできます。(たぶん、厳格にやれば違法に近いと思うが)

この1週間、ロシア音楽にズブズブとはまっています。

とくにこの2,3日はリャードフばかりです。

ウィキペディアの曲名一覧を見てもらえば分かるのですが、この人は長い曲も書かないし、大規模な曲も書きません。

ひたすら4,5分の曲ばかりです。

だから有名にはなれませんが、いかにも日本人好みです。どうして日本でこれだけ冷遇されているのでしょう。

「日本で」と書いたのは、外国ではけっこう聞かれているからです。そこへ行くとキュイなんかは外国でもあまり相手にされていません。

YouTube などで集めたらこんなになりました。

Lyadov

たしかにピアノ作品を聞きたくてウィンドウ・サーフィンしたのでピアノ曲中心になっており、管弦楽作品のいくつかは落ちていますが、それにしても作品のほとんどがピアノ小品であることは明らかです。

1855年生まれで作曲番号のついた曲が1876年辺りからですから、21歳。プロの作曲家としては随分と遅咲きです。モーツァルトならもうケッヘル300番位です。

死んだのが1914年、59歳の時です。その年に作品番号のついた最後の曲「挽歌」を作っています。これが作品67になります。38年で67曲ですから年間1.8曲ということになります。

半年に1曲。しかもピアノ小品集ばかり。よほど生活が大変だったのでしょうか?。

どっこい、その生活たるや波瀾0丈で、まったく何もありません。

なぜか?。これに関してウィキペディアはきわめて辛辣です。

リムスキー=コルサコフの作曲科に籍を置いたが、常習的欠席を理由に、1876年に除籍された。

リャードフは、同時代の音楽家から高い評価を得たほどの技術的な手腕に長じていたが、持ち前の不甲斐なさから、進歩が妨げられた。

ここまで言うか?と思いますが、客観的に見て稀代の寡作家であることは間違いないようです。

日本ではこういう小説家いますよね。例えば広津和郎、上林暁。研ぎ澄まされた短編小説、いわゆる私小説をぽつりぽつりと書いて、数は少ないが熱狂的なフアンから神様扱いされたりして…。

私はリャードフってそういう人じゃないかと思います。上の表で言うと作品2の「ピリュールキ」から作品67の「挽歌」まで隙がない。「名曲」かどうかは別にして「駄作」はない。すべての曲に意味がある。

そうは言っても流れはあります。

一つは1989年、44歳の時に作ったバラード『古い時代から』(作品21)というのがあります。元はピアノ曲ですが、明らかにオーケストラ用の草稿です。ピアノ曲としては面白くもなんともありません。

ちょっと、流行作曲家に色気を示したのかもしれません。しかしそれは直ぐにやめてしまいます。聞いてもらえばわかりますが、あまり面白くはないのです。編曲のせいもあるのではないでしょうか。

ということでまたピアノ小曲集の作家に戻ります。

そうして次が48歳の時に作った「音楽の玉手箱」の大ヒットです。これで気を良くしたのかリャードフは長大作に手を出しました。それが「グリンカの主題による変奏曲」です。

しかし長大作を作るのには変奏を繰り返したり、フーガや対位法の技法を駆使しなければなりません。「グリンカの主題による変奏曲」を作ってみて、「オレはそういう理屈っぽいのには合っていないんだ」と思ったのではないでしょうか。

多分、それは正解だろうと思います。リャードフのためにあえて一言言えば、「そんなのはただの百姓仕事」なのです。

しかし、彼の理系能力には疑問符がつくものの、音感は大変優れていました。きちっとやれば、彼は立派な管弦楽作品も作れたと思います。

その証拠が1905年の交響詩「バーバ・ヤガー」(作品56)です。この時すでにリャードフは50歳。何かを始めるにはもう遅すぎる年ですが、とにかくこの曲があまりに素晴らしい。(そしてあまりに短い)

リャードフは立て続けて「管弦楽のための8つのロシア民謡」(1906年)、交響詩「キキーモラ –」(1909年)を発表し、一躍、管弦楽の作曲者として注目を集めることになります。

しかしこの時すでに54歳、当節で言えば70歳を過ぎたあたりでしょう。乾坤一擲の大勝負をかけるにはもうスタミナがついて行きません。

ディアギレフの委嘱に応じることができず、いわば代役として「火の鳥」を書いたストラヴィンスキーがトンビになって油揚げをさらっていくわけですが、やむを得ないことだったのではないでしょうか。

作品番号のついた最後の作品となる「挽歌」(作品67)は、フランス近代音楽風です。バイオリンがところどころで無調への揺らぎを示します。

保守的といえばそうなのですが、私には彼が慎重に着実に時代の流れを取り込もうそしていたのだろうと思います。リャードフにはそれが似合っています。


追補(2月1日)

hoi
大したものはないです。

作品53のホ短調のマズルカは作品57と通ずるものがあります。

リャードフの最後の10年は管弦楽作家だったようです。ピアノの小曲ばかりで室内楽も書いたことがなかった人なのに、ちょっと背伸びしすぎでしょう。



rosia

ここには私がかろうじて耳にしたことがある作曲家のみを上げてある。ウィキペディアにはこの倍くらいの作曲家が掲載されている。

注目すべきは、5人組最長老のボロディンから数えてもショスタコーヴィッチまでの間にわずか70年である。この短期の間に、次から次へと世界を魅了するような音楽家が現れたことになる。

特にリャードフからラフマニノフまでの20年というのが、ロシア音楽の黄金期であり、それは19世紀末のチャイコフスキー=リムスキー・コルサコフ時代からラフマニノフ・スクリアビン時代を通じてストラヴィンスキー=プロコフィエフ時代へとつながっていく。

そしてそれはロシア革命で中断され、スターリン時代に圧殺され、一旦音楽世界から顔を消した。

そしてソ連の崩壊にともなって、特に右側の列の人たちが続々と発掘されていることになる。

その中でもとくに、*印の人たちの曲が注目であり、以後、順番に紹介していく。




というサイトで、面白い記事があったので紹介する。

チャイコフスキーはメック夫人に宛てた手紙の中で、こんなことを書いております。(以下の引用は森田 稔「新チャイコフスキー考」より)

「キュイは才能のあるディレッタントです。彼の音楽は独自性はありませんが、エレガントで、優雅です。あまりに色っぽくて、言ってみれば、手入れがよすぎ て、したがって初めは気に入られますが、すぐに飽きられてしまいます。(中略)しかし、繰り返しますが、彼にはやはり才能があります。少なくとも趣味と感 覚があります」

これだけ読みますと、そんなに褒めてもいないようですが、同じ手紙のボロディンとムソルグスキーについて書かれた部分を見れば、チャイコフスキーがキュイをどう考えていたのかよくわかります。

◇ボロディンについて
「彼は知識の不足から身を誤りました。それで、彼はキュイほどの趣味もなく、技術があまりに足りないので、他人の援助がなくては一行も作曲することができません」

◇ムソルグスキーについて
「この人は友人キュイがいつもこせこせしているとはいえ、礼儀正しく優雅であるのと正反対です。彼は反対に自分の教養のなさを売りものにし、無知を誇りとして、出たとこ勝負でいい加減にやって、ただただ自分の天才を信じ込んでいるだけです」

虫も殺さぬ顔をして、腹の底ではこんなことを考えていたのですね。チャイコフスキーという人は…
でも考えて見れば、チャイコフスキーという人はもともとペテルブルク大学の法学部を卒業して大蔵省のエリート候補生だったわけで、このくらいのことは考えて当たり前かもしれません。

キタラのコンサート会場で、アレンスキーの評伝を販売していた。

高橋さんという方が書いたもので、ブックレット・サイズで650円。日本語で唯一の評伝だという。

それを昼から読み始めて、一気に読み終えた。なかなかに中身の濃い、力の入った労作である。

1ヶ月ほど前に5人組とチャイコフスキーの織りなす歴史について勉強したばかりで、それと噛み合わせると人脈が非常によく分かる。

1.西欧音楽への憧憬

2.国内音楽家の反発

3.「国内音楽家」の実態

4.5人組のペテルブルク制圧

5.チャイコフスキーは何をしていたか

6.モスクワ音楽院という微妙な立ち位置

7.ピアノ協奏曲第1番の意義

8.国内で不動の地位を獲得したチャイコフスキー

見た目には「正」のアントン・ルビンシュテイン、「反」のバラキレフと5人組、「合」のチャイコフスキーというきわめてヘーゲル弁証法的な流れだが、なにせ人間のやることだからそう綺麗には行かない。

ペテルブルク対モスクワという対立、チャイコフスキーとリムスキー・コルサコフの対立という図式のもとに世紀末のロシア音楽界が展開していく。

この対立は初期のアントン対バラキレフの対立のようにイデオロギー的なものではない。リムスキー・コルサコフはチャイコフスキーを尊敬していたし、チャイコフスキーもロシア民族色をしっかりと打ち出すことでは引けを取るものではなかった。

ただし、チャイコフスキーの下でモスクワ音楽院を管理するタネーエフは、ペテルブルクに対抗するべく西欧音楽理論の徹底をもとめていたようで、この辺が震源地かもしれない。

アレンスキーのモスクワ行き

こういう状況のもとでアレンスキーのモスクワ行きが実現するのだが、この話は20年前にチャイコフスキーがモスクワに赴いた話と瓜二つなのである。

アレンスキーはペテルブルク音楽院の作曲科を首席で卒業した。院長のリムスキー・コルサコフの覚えもきわめてめでたかったようである。

そのアレンスキーをモスクワのタネーエフが招請した。そして文字通り下にも置かぬ歓待ぶりを示した。この話、ニコライ・ルビンシュテインがチャイコフスキーをヘッドハンティングした話と完全にダブる。ひょっとすると伝記作者が作り上げてるかもしれない。

もちろんモスクワ音楽院のカリスマであるチャイコフスキーもアレンスキーを大歓迎したという。かつての自分の姿をダブらせていたかもしれない。

一方、裏切られた形のリムスキー・コルサコフはアレンスキーに対してシニカルな態度を貫いたという。

アレンスキーはやはりつなぎ役であろう

ということで、鳴り物入りでモスクワ入りしたアレンスキーではあったが、その後小曲や室内楽で素晴らしい物は残しても、ビッグヒットを飛ばすには至らず、一生を終えている。

YouTubeでピアノ協奏曲や交響曲が聞けるが、やはり構成力に乏しいところがある。トルストイやドストエフスキーのあの辟易するようなスタミナとは対局に位置する人である。

小説家というよりはエッセイストなのだろう。

彼の最大の功績はラフマニノフを作り上げたところにあるらしい。「あーそうですか」と、とりあえずはそう言うほかない。なぜかというと、私もラフマニノフの大仰ぶりにいささか辟易する人間の一人だからである。

日本アレンスキー協会という団体がある。
名前からしてきわめてコアーな団体だ。
ロシアの作曲家アレンスキーを愛好する人々の集まりだ。
アレンスキーという名前を知ってるだけでもかなりの好きものだが、なんとその会の本部が札幌にあって、半年に1回くらい例会を開いている。
私はこんな団体が札幌にあるなど知らなかった。灯台下暗しである。
その例会の場所がまたコアーで、“りんゆう会”といい会社の小さなビルに間借りしている。社長さんが“文化好き”らしく、ビルの中に小さなホールを作ってしまったらしい。
2,30年前まではこういう話はけっこうあったのだが、昨今の経済情勢のもとでは、さすがの太っ腹の社長さんでも、そのような余裕はなくなってしまった。
このホールというのが便利そうで不便なところにある。札幌駅から歩くと2,30分のところにあるのだが、何も交通手段はないからひたすら歩くしかない。決してわかりやすいところではなく、周りは「えっ、なんで?」というくらい倉庫や民家や虫食い駐車場が立ち並ぶ辺である。
ところで、そのアレンスキー協会がキタラでコンサートをやるというので物は試しと出かけてみた。あいにくの大雪でタクシーも捕まらない。道路は延々渋滞の列、とても間に合いそうにないと思ったら、途中から急に道幅が広くなって、スピードも上がる。どうやら7時の開演には間に合った。例年、雪祭り近くなると中心街は大規模な排雪が入る。雪まつりさまさまだ。
寝るかと思ったが、どうやら最後まで寝ないで聴き通した。
いろいろな演奏家が立ち代わりで演奏するが、中に一人だけびっくりするくらい上手い人がいて、びっくりした。同じピアノだが、鳴る音が違う。なんでもショパンコンクールで入賞した人らしい。一人でコンサートをやっても稼げる人なのに、なぜわざわざ東京から来てたった2曲で済ませたのか分からないが、大方誰かに無理やり頼まれたのだろう。
さすがに練習不足で、譜面を見ながらの演奏。ミスタッチも多かったが、やはり図抜けていた。2台のピアノの曲では、音色がまったく違っていて、相方が可哀想なくらいだった。

わざわざ一項起こすほどのものでもないので、付記しておく。

ショパンコンクール入賞のピアニストは宮谷理香さんという方でした。

宮谷さんとアレンスキーのドゥオ組曲4番を演奏したのは川染さんという方で、日本アレンスキー協会の会長さんでした。

アレンスキーの評伝を書いた人は高橋健一郎さんという方で、この方は当日、朗読者(アレンスキー・メロデクラメーション作品68)として出演されていた方でした。おみそれしました。

ロシア語が堪能な方で、評伝も直接原語にあたりながら書かれたもののようです。

当日のプログラムですが、作曲者で言うとアレンスキーの他リャドフ、グラズノフ、イッポリトフ・イワノフ、リャプノフ、カリンニコフ、グレチャニノフ、ソコロフ、カトワールの作品が上演されています。

すこしYoutubeで作品を探してみます。


アマゾンから爆買いしたCDが次々と到着している。

しばらくはジョージ・セル漬けになる。

まずは一番聞きたかったメンデルスゾーンのイタリア交響曲。音は意外と硬いままで、期待していた艶やかさはない。本当にリマスターしたのかと一瞬疑う。

むかしエピックのLPで聞いた頃は、同じコロンビアでもフィラデルフィアやバーンステインの録音と比べると明らかに見劣りがした。値段もその分安かった。CBSの下請けがそれなりのレコードを作っているという感じだった。

ただこの録音は1967年のもので、セルの中では新しい部類に入る。だから音はこれで十分なはずで、あるとすればセルが注文をつけてこの音にしたのかもしれない。

よく聴き込んでいると、合奏があまりに緻密なのでこじんまりと聞こえるのかもしれないと思う。無駄な音が一つもなくて、一つ一つに意味のある音がぎっしりと詰まっているのが分かる。

確かに、「…ながら」で聞くにはいささかしんどい。

音楽を聞いた時の快感というのには二種類あって、身を委ねるような快感と、前のめりになって「ウムウム」と唸りながら握りこぶしを固めるような快感がある。たとえは悪いが、麻薬の快感と覚せい剤の快感の違いのようなものだ。

麻薬系の快感を与えてくれるのがマゼールとベルリン・フィルのイタリア交響曲だ(残念ながらYoutubeからは消えてしまった)。セルの演奏が正確なリズムで気分を煽るのに対し、こちらはソノリティーが命だ。

こちらはリマスターでかなり音質が改善されている。最近のデジタル録音に比べれば見劣りはするものの、高校生の時に買った25センチ盤とは雲泥の相違で、とうてい同じ演奏とは思えない。

ただ、セルにしてもマゼールにしてもこれがイタリア交響曲のスタンダードかと言われるとちょっと迷うところがある。やはりクレンペラーによる刷り込みの影響は大きいのだ。


まいった。

どうにもセルのヨハン・シュトラウスがいいのだ。

ウィーン・フィルのワルツを聞いていると、どうにも違和感がつきまとう。

いかにも上流階級のお遊び半分みたいな贅肉たっぷりの演奏がダラダラと続くと、ウソっぽくて仕方がない。

もっと猥雑で、イナセで、肩で風を切って歩くようなトっぽいのがシュトラウスではないかと思う。

それをクラシック音楽として宮廷でとりあげるなら、それに思いっきりカミシモを履かせるのが礼儀というものだ。

セルはヨハン・シュトラウスの曲を世紀の名曲のように演奏する。そして決め所ではけっこう見栄を張ったりする。袴と白足袋の間から毛脛をちらつかせる風だ。

やはり当時のウィーンとそこでのシュトラウスの位置を知っているから出来る芸当だろう。

セルは、知ったかぶりの人はスツェル・ゲオルギーと書いたりして彼がハンガリー人であることを強調するが、生まれがブダペストというだけである。3歳の時からウィーンで生活し、第一次大戦が終わる頃までウィーンで学び生活していた。ハンガリーにさほどの義理はない。

第一、ユダヤ人だから、もともと「街の子巷の子」でありコスモポリタンである。セルの出自を問うなら、むしろ当時ロンドン、パリと並ぶ国際都市ウィーンの申し子と言うべきである。

ナチスとその戦争さえなければ、マーラー、ワルターに続く世代としてウィーンで店を張っていたかもしれない。

ピアニストとしてのデビューは11歳。1908年のことである。

マッハを先頭に哲学、経済学でウィーン学派が盛んに議論を戦わせ、組織労働者に支えられて社会民主党が勢力を伸ばし、1905年のロシア革命に敗れたトロツキーやブハーリンが亡命生活を送っていた。それが当時のウィーンだ。

それらもろもろの通奏低音としてヨハン・シュトラウスが鳴り響いていた。もちろんラジオなどない時代だから、庶民は辻つじでコーヒーを片手に新聞を読みながら、辻音楽のワルツに聞き入っていたのである。

セル少年はその時代をまぶたと心と体に焼き付けて大人になっている。だからセルのワルツは庶民目線、間違ってもブヨブヨの演奏には成り得ないのである。

もちろんセルの通例として、キビキビとした、悪く言えばとんがった演奏は当然である。その限りにおいてはワルツのお気楽な雰囲気はない。

しかしそのことをもって、ウィーン情緒とかけ離れているということはできない。

彼の演奏のような雰囲気は決してウィーン情緒の主流ではないかもしれない。しかし当時のウィーンには彼の演奏のような生真面目な生き方も間違いなくあったのだろうと思う。

同じようなことはイッセルシュテットの浅草サーカス小屋風ブラームス・ハンガリー舞曲にも言える。

私はむしろそういう演奏にこそウィーン情緒、庶民のウィーンを感じてしまうのである。



アマゾンで爆買い
この間、ペライアのモーツァルトPコン全集を買ったのに味をしめて、爆買いしてしまった。
考えてみると、人生はせいぜい後15年。そこまで持っても間違いなく認知になる。
惨めな老後は送りたくはないが、子や孫に余分な金を持たす必要はない。
なにせ、嫁さんの介護がある以上、ふらふらと放浪生活は送れない。ペグ付きのフロート制で24時間に4本も杭があって、おまけに週に5日は外来がある。
欲求不満は物欲で満たすほかないのだが、物欲はテンで乏しい。ズボンの裾がほつれたらホッチキスで止めるという具合だ。
ということでアマゾンでCDのまとめ買い。
基本はYouTubeで聞いて「これはやっぱり本物で聞かなくちゃ」というもの。
一応、心覚えに書いておく。
1.シューマン:交響曲全集 セル
2.メンデルスゾーン:イタリア、宗教改革 マゼール
3.ライヴ・イン・東京1970 セル
4.アレンスキー ピアノ音楽
5.セル指揮ハイドン
6.ドヴォルザーク:スラヴ舞曲(全曲)セル 
7.モーツァルト:ポストホルン・セレナード&アイネ・クライネ・ナハトムジーク他 ジョージ・セル
8.メンデルスゾーン:交響曲第4番「イタリア」、劇音楽「夏の夜の夢」&序曲「フィンガルの洞窟」 ジョージ・セル
9.美しく青きドナウ&「こうもり」序曲~ウィンナ・ワルツ名演集 ジョージ・セル
10.ドビュッシー:海&ラヴェル:ダフニスとクロエ第2組曲他 ジョージ・セル
11.夕べの夢想~ロシア・ピアノ小品集-3 トロップ
12.ロシアン・メランコリー~ロシア・ピアノ小品集-2 トロップ
13.モーツァルト:交響曲第28・33・35・39~41番他 ジョージ・セル
14.プロコフィエフ:交響曲第5番、キージェ中尉&ストラヴィンスキー:火の鳥 ジョージ・セル
15.グリーグ:ペール・ギュント、ビゼー:アルルの女、シューベルト:ロザムンデ ジョージ・セル
16.アルバムの綴り~ロシア・ピアノ小品集 トロップ
17.ドヴォルザーク:交響曲第7番~第9番、スメタナ:モルダウ他 ジョージ・セル
ということで、しめて2万2千円。
どうやっても1枚800円見当だ。これではどうやってもデフレだ。
だいたい買いたいものは買えたが、買えなかったのがイッセルシュテットのベートーベン交響曲全集とハンガリー舞曲。
絶版になってしまっているようだ。
逆にジョコンダ・デ・ヴィトーのブラームス協奏曲やリヒターのバッハなどは、ネットにアップロードされた音源で十分という感じだ。






クレンペラーBPOのブル7(1958 ルツェルン ライブ)
というのがあって、結局最後まで聞いてしまった。
音はひどい。聞くに堪えない。
しかしクレンペラーの棒に絡みつくようなBPOの演奏があまりに素晴らしい。普通のオケなら指揮者の要求する以上の音は出さないだろうが、このオケはそれ以上の音を出す。
クレンペラーといえば淫行騒ぎで新聞を賑わすムッツリスケベの校長先生のイメージ。BPOがそのクレンペラーをからかっているのだろうか。
前にも書いたが、マゼールの振ったメンデルスゾーンの「イタリア」と同じ雰囲気だ。オケが遊んでいる。
とにかくこの頃のBPOときたら、ジーナ・ロロブリジータかミレーユ・ドモンジョばりのグラマーだ。それで小技もケレンもたっぷりだ。下品になる前の木暮実千代か京マチ子、新しいところで草笛光子の趣。
まぁしかし、それにしても、この録音はひどい。
演奏する方も一期一会だろうが、聞く方も一期一会で、二度と聞きたいとは思わない。
でも一度は、歌舞伎町のボッタクリで美人局にあったつもりで聞いてみてください。

最初にヒットしたのが いいたい砲台 Grosse Valley Note というブログ。

ワルターはこの曲を1959年の11/16と11/18に録音しています。

ワルターはこのブルックナーの9番録音する数日前の11/12と11/13の両日、 同曲をロサンゼルスフィルと演奏していたようです。

BRUNO WALTER DISCOGRAPHY

というサイトには (probably the Los Angeles Philharmonic) と記載されている。

またこのサイトには、Los Angeles  Philharmonic November 12 or 13, 1959; Los Angeles (live performance)  • Source: Private collection という海賊盤があることも記載されている。

次が、geezenstacの森 さんのブログ。

録音/1959/11/16,18 アメリカン・リージョン・ホール ロス・アンジェルス  P:ジョン・マックルーア

となっている。

「決してこの曲のベスト盤には入ってきませんが」というとおり、たしかにオーソドックスな演奏とは言えないが、「こちらのほうが正当だ」と主張しているようにも思える。

ところで、今度は7番のほうが気になる。残念ながら日本語の文章には見当たらない。

Recorded On: 11.13.19.22.27/3/61 at American Legion Hall

となっており、同じホールでの録音だ。技師が違うのだろうか。

なおニューヨーク・フィルとの演奏は

December 23, 1954; Carnegie Hall (live performance)

となっており、Testament SBT 1424 というCDがあるそうだ。

この録音とは直接関係ないが、第8番ワルター&ニューヨーク・フィルというページに、下記のような記述があった。

1941年1月のニューヨーク・フィルハーモニーとのライブ録音があるらしい。その試聴記である。

この演奏はとにかく独特である。デフォルメが凄い。…落ち着きは全くなくテンポをいじりまくる。…本来なら「邪道」「却下」と言いたいところだが、ここまで突き抜けてしまっていると却ってサバサバする。それどころか妙に魅力的なのである。…こんなハチャメチャ演奏してて委員会とは言いたくなる。

 

も、だいぶ実像とのズレが生じてきた。

今回、補筆改訂する。


なお、このレビューはピアノ小曲をあれこれ聴き比べながら作成したもので、作者の全体像は必ずしも浮かび上がって来るわけではない。最初にそのことをお断りしておく。

1.19世紀後半のロシア音楽界の概括

19世紀後半のロシア音楽の発展は、ヨーロッパ的なものとロシア的なものの相克の中で発展していった。

それはグリンカがロシア的なものを追求し始めたことから始まった。

アントン・ルビンシュタイン(以下アントン)のヨーロッパ基準の導入は、ロシア的なものを追求する流れと激しく衝突した。

それは、とくに5人組側で、主観的には「ロシア国民音楽はいかにあるべきか」をめぐる論争であったが、客観的には「何をなすべきか」の論争ではなく、「何から始めるべきか」をめぐる論争であった。

この衝突は数年後にアントンが撤退することで終了するのだが、アントンが提唱した音楽活動の近代化、プロフェッショナル化の方向はロシア派にも受け入れられた。

同時に、アントン派の中にも古典的な形式の中にロシア的なものを追求する流れが生み出された。

この二つの流れは1870年代後半には、事実上合流した。これを代表するものがチャイコフスキーであった。ロシア派の最後の担い手であったムソルグスキーは早逝し、バラキレフは長い沈黙に入った。

80年代を通じてチャイコフスキーはとくにヨーロッパで大活躍したが、その間にロシア国内では新しい波が訪れて、リャードフ、アレンスキー、グラズノフ、タネーエフらが次々と登場した。それはラフマニノフとスクリアビンによってピークに達する。

それらを束ねたのはR.コルサコフであった。そしてそれに財政的支援を与えたのは王侯貴族ではなく、ベリャーエフという新興の富豪であった。一方、ロシア音楽のヌーベルバーグを形作った作曲家たちの多くは、没落しつつある下級貴族の子弟であった。

ここにロシアの音楽論争の深い根があったと思われる。

 

2.西欧音楽への憧憬とグリンカ

1840年にチャイコフスキーが生まれている。バラキレフはその4年前だ。Rコルサコフはその4年後だ。彼らが青年期に達したときがロシア音楽の激変期となるのだが、それには40年から50年にかけての胎動期を見ておく必要がある。

この頃のロシアの音楽界は貴族を中心としたサロン音楽とオペラが中心で、演奏家も素人に毛が生えた程度の水準だったようだ。しかし西欧音楽への憧憬は強かった。次から次へと西欧の音楽家がやってきて公演していた。

要するにヨーロッパ人音楽家の草刈り場であったわけだ。

その中から、西欧に出て名前を上げる演奏家もポツポツと現れてきた。その代表がグリンカとアントン・ルビンシュタインで、彼らの曲は西欧でも評価されていた。

42年にはグリンカのオペラ「ルスランとリュドミラ」が初演されている。しかしロシア人の曲をロシア人は喜ばなかった。国内のマーケットは外国人で満たされていた。

このような状況に気落ちしたグリンカは40年代末には作曲活動を辞めてしまった。

今日ではグリンカのピアノ曲のほとんどをYou Tubeで聞くことができる。率直に言えば「ロシア民族音楽の始祖」と言うには程遠い。バラキレフが一生懸命かつぎあげた結果とも言える。

 

3.観念的運動としての「ロシア民族音楽」

最初、「ロシアの民族性」の考えは文学の世界からもたらされた。私は詳しくないので孫引きに留めるが、チェルヌイシェフスキーが「国民芸術論」を提唱し、これが音楽界、とくに若手音楽家に多大な影響をもたらしたようである。

彼は「芸術の現実に対する美的関係」を著し、「国民芸術」を称揚した。しかし「芸術の主題は知性の抽象ではなく客観的に観察し得る現実である」とのべ、技巧や形式を否定したともとられかねないところがある。

おそらく、彼は「芸術」の階級的側面を強調したかったのであろう。王侯貴族のサロンにおける美辞麗句を連ねた詩作ではなく、「民衆の生の声」で歌えということなのだろうが、これをそのまま音楽の世界に持ち込むにはいろいろ問題がある。

まず第一に音楽というのは作り手とともに演奏家が不可欠であり、それには必ず一定の修練を必要とすることである。もっと深刻なのは、音楽の世界ではそもそも「民衆の声」を語るほどに基礎ができていないということだ。

ということで、まずは実作活動から育て上げていかなければならない。

それに挑戦したのがバラキレフだ。

彼は52年にカザン大学に入学。専攻は数学だった。地元でアマチュア・ピアニストとして腕を上げたバラキレフは、音楽家で身を立てようとペテルブルクに出てきた。
kazan
ロシア連邦内のタタールスタン共和国の首都。ウラル山脈の西、ボルガ川中流域に位置する。スンニ派のトルコ系タタール人が人口の約53%、ロシア人が約40%を占める。いずれにしてもド田舎だ。

彼は早速、ひそかに師と仰ぐグリンカの元を訪れた。バラキレフと面会したグリンカは、バラキレフを後継者と評価したという。

当時すでにグリンカは引退しており、ロシア民族音楽を熱く語るバラキレフに心揺るがされかもしれない。バラキレフをそれとなく焚き付けた可能性もある。

後述するが、同じ年ウィーンにいたアントンは、「グリンカなどのロシア国民音楽の試みは失敗した」と述べている。グリンカにはそのことが念頭にあったとも考えられる。

55年、バラキレフは「国民音楽」を主張する評論家スターソフとともに「グリンカが残した国民主義的音楽の継承・発展」を提唱。「新ロシア楽派」を形成した。

そして実作に取り組むべく仲間を誘って勉強会を始めた。これが「五人組」の基礎となる。最初に参加したのはキュイとムソルグスキーであった。彼らはグリンカだけでなくシューマン、ベルリオーズなど後期ロマン派の作品のスコアを徹底して解析した。他の二人は当時はまだ素人同然であり、実際にはバラキレフが手を取り足を取り教えたらしい。

 

4.アントン・ルビンシュタイン旋風

時期が重なっていてわかりにくいが、さまざまなできごとをパズルのようにはめ込んでいくと、どうも僅かながらバラキレフの動きが先行しているようだ。

つまりアントンがいろいろ動いて、それに対するアンチテーゼとして五人組が登場したのではなく、きわめて萌芽的ながら、バラキレフたちが「ロシア民族音楽」の形成をもとめて動き始めたところに、ドカンとアントン旋風が襲来したというのが正確なようだ。少なくとも本人たちの気持ちはそうだった。

アントンは若いときから海外で演奏旅行を続けていた。リストの知己を得てドイツ圏内ではかなり名を挙げていた。その風貌から「小ベートーベン2世」と噂されたこともあったようだ。

1848年にドイツを中心に2月革命が起きると、彼はロシアに戻った。彼は宮廷ピアニストに招かれ、一躍ロシア音楽の一人者となった。オペラも上演するが、このオペラをめぐり「国民音楽」派の論客スターソフとの論争になる。

アントンは革命の鎮静を待っていったんドイツに戻るが、この滞在でかなりファイトを掻き立てられたらしい。

彼はウィーンの音楽雑誌にロシアの音楽状況に関して寄稿した。「①ロシア民謡はただ悲しいだけで単調である。②グリンカなどのロシア国民音楽の試みは失敗した。③ロシア民謡を取り込もうとすることが失敗の元となっている」と書いた。

この文章がロシア国内に激しい反発を呼んだのは当然であるが、それはもとより承知の上だ。

アントンの主張にはもう一つの側面があった。それはワーグナーなど後期ロマン派を評価せず、ソナタ形式や和声法・対位法を無上のものと捉える傾向があった。この点では彼は頑固だった。リストと対立することさえ辞さなかった。

それから10年経った1858年、アントンはベルリンでの成功を引っさげてペテルブルクに乗り込んできた。彼はペテルブルクの雑誌に寄稿。ロシア音楽界のオペラ偏重やアマチュア主義を非難。国内音楽水準の向上のためにプロの音楽家養成の必要性を訴えた。

彼はまず自宅に支援者を招き毎週のように演奏会を開いた。回を重ねるうちに参加者の中心メンバーの中からロシア音楽協会設立の機運が盛り上がった。なかなか巧みな作戦である。

音楽協会はコンサート向けの楽団を組織、アントンの指揮で定期演奏会が始まった。演奏会ではキュイの「スケルツォ」も初演されるなど、それなりの気配りもしている。

ついで彼は音楽学校の設立を目指した。音楽文化の建設には高等音楽教育が不可欠だと主張し、大公妃エレナ・パヴロヴナの賛同を得た。

大公妃の宮殿の一部を借り音楽教室を開校しプロ音楽家の養成に着手した。こうして62年にはサンクトペテルブルク音楽院が設立されることになる。

アントンは教師に外国人を起用した。ピアノ科教授にはポーランド人のレシュテツキを招聘した。この人事はなぜか5人組を痛く刺激したようである。

 

2.国内音楽家の反発と5人組

アントンの主張は二面性を持っている。ロシア音楽界の技術水準の向上を目指すのは正しいのだが、やはり上から目線になっている。そして音楽を「高尚」な芸術として高みに持って行こうとする。

小説でも文法は必要なのだが、何をもって「高尚」と成すかは人それぞれである。アントンは余分な議論を持ち込んだ。

それに対して、バラキレフやスターソフが一斉に反発した。技術の問題はさておいて、「グリンカが残した国民主義的音楽の継承・発展」を強く主張しアントンに対抗した。

言い分そのものはまことにもっともであるから、この若者集団は大いに注目を集め、アントンの対抗馬と目されるまでになった。ボロディンとRコルサコフが加わるのもこの頃のことである。

その背景にはクリミア戦争の敗北と新国王アレクサンドル2世による農奴解放(61年)などの国政改革により、国内に自由で進歩的な空気が広がり、既成の枠を飛び出したいという欲求が広がっていたことが影響している。

ただしこのあたりは政治史の話になるので詳述は避ける。

いずれにしても、一方における宮廷内改革、他方における大衆レベルの改革があり、「主義主張は異なれど、どっちも頑張れ」ということだったのではないだろうか。

時代の寵児となったバラキレフは篤志を募り無料音楽学校を設立した。音楽学校にはオーケストラが併設され、バラキレフが指揮者となって定期演奏会を開始した。

この無料音楽学校というのは、いまでいえばベネズエラのエル・システマみたいなもので、年齢・性別・職業の制限はなく、優れた声や音感に恵まれながら経済的な理由などにより音楽の勉強手段を持たない人々を広く受け入れた。毎週日曜日に開校され、ペテルブルク大学医学部の空き教室を利用して開かれた。

学生から選抜されたメンバーで合唱団とオーケストラが編成された。ロマーキンが合唱団を指導し、バラキレフはオーケストラを指揮した。

63年からは定期演奏会を開くほどになり、グリンカや5人組の曲の他、ベルリオーズやリスト、シューマンなどの新作を紹介した。最盛期には音楽院管弦楽団と人気を二分した。(ウィキより)

バラキレフ・グループは「小さいけれども、すでに力強いロシアの音楽家の一団」と称えられた。評論家のスターソフは、この作曲家集団を「五人組」と名付けた。

 

3.「国内音楽家」の実態

当時の国内音楽家の多くは、まさにアントンの言う「職業的訓練を積んでいないアマチュア集団」であった。ただアントンが批判しているのは「アマチュア主義」であって、その底にアントンは「作曲家の社会的地位の欠如」を見ていたのである。

「音楽界」という世界は、出来上がったものではなく、いわば無人の野であった。そこに畑を開くのか水田を作るのか、いずれにしても食べていける世界を作らなければならない。楽徒が育っていくのは、その次の世代である。

ここで私は、アマチュアの大量進出の基礎に下層貴族の社会進出という側面を見て置かなければならないと思う。アレクサンドルの農奴解放は下層貴族の没落をもたらした。

同時に、社会ヒエラルキーの中層に固定されて一生を送っていた人々が、社会教育の発展により別の道を与えられ、ペテルブルクという活躍の場を与えられることで表舞台に飛び出してきた。そういう時代として見ておかなければならないと思う。

たとえば、チャイコフスキーが入学したペテルブルク音楽院の第1期生は179人。税関の官吏、予審判事補佐、技術士官、近衛連隊の中尉などさまざまな経歴を持っていた。グルジア人やイギリス人も含まれていたという。

 

4.アントンの辞任と5人組

二つの学校の対抗と並立は67年まで10年にわたり続く。そしてアントンの突然の辞任をもって幕を閉じる。

辞任の理由には5人組からの攻撃もあっただろうが、主要にはパトロンたるロシア王室の無理解であった。王室は音楽院の教師や生徒たちを夜会で演奏させるなど、自分の使用人のように扱ったそうだ。これではハイドン時代だ。100年遅れている。

よくもアントンは四面楚歌の中で10年も頑張ったものだと感心する。

アントンがやめれば、彼の連れてきた外国人教授陣もいなくなる。こうしてペテルブルク音楽院は空き家状態になってしまった。

ドイツに戻ってしまったアントンに代わり、バラキレフが音楽監督に就任した。5人組が指導スタッフに参加する。形としては5人組がペテルブルクを制圧したように見える。しかし事態は逆であった。

しかしアントン辞任の原因となった王宮との関係は依然そのままであった。バラキレフはその非妥協的な性格から王室と衝突した。そして1年後には解雇されてしまう。

もっとも非妥協的なチェルヌイシェフスキー主義者であったムソルグスキーは、農奴解放後に実家が没落し、官僚の道もひらけず、バラキレフからは批判され、アルコールにひたるようになる。

69年に完成した歌劇「ボリス・ゴドゥノフ」は、思想性を理由に帝室劇場から上演を拒否された。71年にはついに無一文となり、Rコルサコフのもとに転がり込んで居候となる。

ボロディンとキュイには本業があった。残されたのはもっとも若いリムスキー・コルサコフのみであった。この頃、自由主義改革は終わり反動化の時代へと移行していく。

お互い切磋琢磨していた二つの音楽団体であったが、バラキレフがペテルブルク音楽院に移動したことにより、無料音楽学校の存在意義は薄れた。

1870年、バラキレフが音楽院を解雇された翌年、今度は財政難から無料音楽学校での連続演奏会が中止された。両腕をもがれたバラキレフは音楽活動ができなくなってしまう。

72年になるとさらに状況は悪化。経済的に困窮したバラキレフは、ワルシャワの鉄道会社の事務員となり、ペテルブルクを去る。

ただし無料音楽学校の演奏活動は止まったわけではない。何とかかんとか生き延びた。皮肉なことに、1917年にロシア革命が成立した時、革命政権がこれを解散させたのである。

5人組は「5人」のまま発展を止めてしまった。このあとも長期にわたり5人組の人脈は生き続けるが、思想としての5人組はほぼ終わりを告げたと見るべきであろう。

残されたRコルサコフはどうなったか。

バラキレフのいなくなったあとのペテルブルク音楽院は、アザンチェフスキーが院長となった。アザンチェフスキーは民族主義者ではなかったが、リベラルな近代主義者であった。

彼は民族派音楽にも配慮した。彼の下で現代派の旗頭チャイコフスキーの「ロメオとジュリエット」がとりあげられた。そして76年にはついにいわくつきの歌劇「ボリス・ゴドゥノフ」が上演されるに至ったのである。

彼は作曲と管弦楽法の教授をRコルサコフに依頼した。大抜擢ではあるが、Rコルサコフは困惑してしまった。モスクワのチャイコフスキーにまで相談を持ちかけたという。

後年の述懐によれば、「私はコラールの旋律に和声をつける事もできず、対位法そのものは1つも書いた事がなく、フーガの構造についてはおぼろげな概念さえ持っていなかった

 

5.チャイコフスキーは何をしていたか

チャイコフスキーは何をしていたか。実はこの間のゴタゴタを見事にすり抜けたのだった。

私はへそ曲がりだから、チャイコフスキー崇拝者がやるような無条件な賛美などするつもりはない。人前では虫も殺さぬ顔をしながら、ニコライ・ルビンシュタインがピアノ協奏曲の発表を邪魔したとか、アウアーがバイオリン協奏曲を悪しざまに罵ったとか手紙に書き綴るのは好きではない。

しかし彼の成し遂げた最大のこと、①ヨーロッパの最新の作曲技術を取り込みつつ、その上にロシア的なものを乗せて「ロシア国民音楽」を作り上げたこと、②その過程で標題性と叙情性という形で音楽の主題を把握したこと、は賞賛に値すると思う。

まず抑えておかなければならないのは、彼が稀代の秀才であったということである。ウラル山麓の鉱山町の役人の息子であったチャイコフスキーは、一家の将来を担い、ペテルブルクの法律学校に入学した。

この学校は東大法学部なみの難関で、卒業すれば半ば自動的に中央官庁のキャリア官僚になる。本当の金持ちは別な学校に行く。

彼も59年に卒業後法務省に入省、62年には早くも課長となっている。

しかし出世はそこまでだった。官僚の世界は地位が物を言う激烈なポスト争いの世界である。そこで生き抜いていく資質は、頭の良さとは別のものである。

入職後の成績は芳しくなかった。二度にわたり昇進を逃し、街頭を彷徨する日々を送っていた。家族への手紙で「すべてが不愉快だ。仕事もうまくいかないし、金もない」と書いている。

そんな中で61年、彼はロシア音楽協会の教室に聴講生として参加した。バラキレフと違って学生時代からミュージシャンとして活動していたわけではない。せいぜい学生合唱団に加わっていたという程度である。

おまけにその合唱団の指揮者はロマーキンであり、いまは無料音楽学校の指導者である。どうしてそちらに行かなかったのか。

想像するには、勤務先の法務省と音楽教室のあった大公妃の宮殿が近かったからではないか。それとたかが学生合唱団の一団員と指揮者の間にそれほどの義理があるとも思えない。

とにかく何気なしに入ったのであろうが、音楽はチャイコフスキーを一瞬にしてとりこにしたようだ。

翌年、音楽教室がペテルブルク音楽院に発展して、第一期性を募集した時、チャイコフスキーは躊躇なくエリート官僚の職をなげうって入学することになる。

ここでチャイコフスキーはアントンや外国人教師からみっちりと音楽の基礎を叩きこまれた。そして65年に卒業している。

シューベルト、シューマン、メンデルスゾーンをモデルとする保守的なアントンの先を行き、ベルリオーズ、リスト、ワーグナーの管弦楽法をも習得した。おまけにそのメトードで「序曲」を作ったことで、アントンは怒ったという。

やがて卒業という頃に、アントンの弟ニコライ・ルビンシュタインの訪問を受ける。モスクワ音楽教室の開設を準備中だったニコライは、教授を探してペテルブルグへやってきた。そして卒業作品を準備中のチャイコフスキーを見つけ口説いた。

すでにアントンは辞任の方向に動いていたし、その後の見通しも怪しげだということだったのだろう、チャイコフスキーはモスクワ行きを承諾した。この時チャイコフスキーはすでに26歳、一廉の処世術は身につけていた。


6.モスクワ音楽院という微妙な立ち位置

チャイコフスキーはみずから都落ちしたわけだが、果たしてそれに成算はあったのだろうか。法律学校を優等で卒業した人だ。それなりの計算があったはずだ。

まずデメリットを考えてみる。第一に西欧からはさらに離れる。第二に、それなりに音楽の中心である首都ペテルブルクからも離れる。第三に王室の援助は期待できず、モスクワの有力者にペテルブルクほどの資力もない。第四に組織者のニコライは、それなりに有名なピアニストではあるにしても兄アントンほどのカリスマ性はない。第五に、できたばかりの学校にどれほどの人材が集まるのかも分からない。優秀な人材はペテルブルクに行ってしまうだろう。

当時すでにチャイコフスキーはロシア随一の音楽理論家であった。彼にとってモスクワは、器としてはいかにも小さいのである。

チャイコフスキーはアントンの愛弟子と見られていて、それがアントンの辞任と時を同じくして弟ニコライの創設した学校に移るのだから、それが5人組の目にどう映るかという問題もある。

しかしチャイコフスキーを囲む状況はどんどん変わっていく。

まずバラキレフがチャイコフスキーに接触した。弦楽四重奏曲の作曲を勧め、第二楽章のアンダンテ・カンタービレにロシア民謡を用いるよう提案した。

バラキレフは60年に故郷のボルガ地方で、62年にはさらにコーカサスまで足を伸ばして民謡を採譜している。しかし膨大な資料を彼一人では使いこなせなかった。そこでアントン門下のチャイコフスキーに触手を伸ばしたのだ。

ペテルブルク音楽院に残ったリムスキー・コルサコフは、それまで音楽や作曲についての教育を受けたことがなく、就任後に和声法と対位法を学び始めた。この時、チャイコフスキーに相談し、助言を受けたと伝えられている。

もちろん、チャイコフスキー自身の能力が高かったからこそ状況が開かれたのだろうが、いずれにしてもチャイコフスキーに追い風が吹き始めたことは間違いない。


補.ピアノ協奏曲第1番の意義

しかしいくらチャイコフスキーが国内での影響力を強めたからといっても、所詮井の中の蛙、いつかは大海に漕ぎ出さなければならない。

その契機となったのがこの曲だろう。

この曲については必ずニコライが演奏を拒否してハンス・フォン・ビューローが成功させたというエピソードがついてくる。

これだけが取り出されて何度も何度も刷り込まれると、「あぁそうだったのか」と誰でも思ってしまう。しかし前後の関係から見ると、どうもこの話は素直には受け取れない。それを抜きにして考えてみよう。

なぜこの曲が成功したのか。結果的にはチャイコフスキーがモスクワもペテルブルクも乗り越えて、ハンス・フォン・ビューローに直接アタックして、それに成功したという事実が浮かび上がってくる。

ではなぜ天下のハンス・フォン・ビューローが、どこの馬の骨とも分からないチャイコフスキーという輩の曲を取り上げたか。私の推測では一つには国内に良い曲が枯渇していたこと、一つはロシアという異国趣味がマーケットに受け入れられるだろうという勘が働いたのではないかと思う。

興行的に見ると、クラシック音楽の市場は交響曲(コンサート)とオペラの間を行ったり来たりしている。ところが交響曲の方はシューマン、メンデルスゾーンで一服してなかなか次の演目が出てこない。ブラームスが孤軍奮闘しているが、いささか渋い。

一方、オペラの方はワーグナーが登場して次々とヒットを飛ばしていく。ハンス・フォン・ビューローに取っては面白くない時代である。

そこに西欧音楽の文法をしっかり踏んで、異国情緒を醸し出す手練手管にも熟達した作曲家が出てくれば大歓迎である。コンチェルトという「イロモノ」であれば、コンサートでの座りもいい。

とりあえず分かったのは、チャイコフスキーは5人組のあとの6人目だったということです。
ただしそれはあくまで出現順の番号としてそうだったということであって、5人組の思想とは別のところにチャイコフスキーの目標はあったのでしょう。
技術的に言えば、5人組の思いをもっと近代的な技法で描き出す試みであり、「ロシア的なものを」という思いは5人組に引けをとらないほど強烈であっただろうと思います。
ビジネス戦略的に言えば、西欧の音楽マーケットで「ロシアっぽさ」を売りにして成功し、それを逆輸入する形でロシア音楽の優位性を鼓吹しようという外圧利用型の迂回戦略です。これは戦後日本の例えばソニーの世界戦略でもよく見られたパターンです。

ウィキペディア「ロシアのクラシック音楽史」

国本静三「チャイコフスキーの生涯」

中林 曜子「チャイコフスキー≪ピアノ三重奏曲≫作品50について」

からの出典を重ねています。煩雑化を防ぐため、アントン・ルビンステイン、バラキレフ、チャイコフスキー、ムソルグスキーの4人に焦点を絞っています。
(2016年12月1日 1回目の増補しました)
(17年7月 2回目の増補です。今回は主に バクスト「ロシア・ソヴィエト音楽史」1971年 音楽之友社 からの出典です)

いろいろ地名が出てきますが、それはこちらの記事でご参照ください。

1836年 バラキレフ、ニジニ・ノブゴロドで中級官僚の息子として生まれる。

1840年 チャイコフスキー生誕。生地はウラル山脈西麓の鉱山町。父は製鉄場の監督官。

1842年 グリンカのオペラ「ルスランとリュドミラ」が初演。イタリア・オペラの席巻するロシア国内よりも、むしろ国外(フランス)で注目される。

グリンカはロシアの民族的旋律を積極的に使用。五人組によって「国民主義的音楽の嚆矢」ともてはやされたが、今日では多分に疑問とされている。

1844年 Rコルサコフ、ノブゴロドの田舎町に下級官僚の息子として生まれる。

1849年 ウィーンで活躍したアントン・ルビンステイン(以下アントン)、革命を避けロシアに戻る。宮廷ピアニストに招かれ自作オペラも上演するが、このオペラをめぐりスターソフとの論争になる。(スターソフは国民音楽を唱導する評論家で、のちに5人組のイデオローグとなる)

1851年 チャイコフスキー、ペテルブルグの法律学校に入学。ここは超エリート学校で、1835年に作られた。主に中流以下の貴族家庭の子弟が学んだ。チャイコフスキーは、繊細ではあったが、特別な音楽的才能は示していない。

1852年 バラキレフ、地元のカザン大学に入学。数学を学ぶ。

1854年 アントン、ベルリンなどの演奏旅行で成功を収める。リストとの交際が始まるが、ワーグナーなど後期ロマン派の評価について意見が分かれる。

1855年 アレクサンドル2世が帝位を継ぎ、自由主義的「大改革」を開始する。

1855年 アントン、ウィーンの音楽雑誌に寄稿。「①ロシア民謡はただ悲しいだけで単調である。②グリンカなどのロシア国民音楽の試みは失敗した。③ロシア民謡を取り込もうとすることが失敗の元となっている」と書き、国内に激しい反発を呼ぶ。

1855年 バラキレフと面会したグリンカは、バラキレフを後継者と評価したという。(当時すでにグリンカは引退しており、アントンを快く思わなかっただろう。バラキレフをそれとなく焚き付けた可能性もある)

1855年 チェルヌイシェフスキーが「芸術の現実に対する美的関係」を発表。「芸術の主題は知性の抽象ではなく客観的に観察し得る現実である」とし、形式的技巧を否定する。

1855年 バラキレフ、ピアノ演奏で名を挙げ、学業を放棄。ペテルブルクに出る。グリンカと会い音楽家となることを決意。音楽集団の組織化と理論化に着手。
1856年 バラキレフ、チェルヌイシェフスキーの「国民芸術論」の影響を受け、スターソフとともに「グリンカが残した国民主義的音楽の継承・発展」を提唱。「新ロシア楽派」を形成する。
1856年 Rコルサコフ、ペテルブルク海軍学校に入学。勉学の傍ら作曲を学ぶ。またチェルヌイシェフスキーやゲルツェンの著作にも親しむ。

1857年 バラキレフ、キュイ(55年)とムソルグスキー(56年)を巻き込みシューマン、ベルリオーズやグリンカの楽譜解釈に取り組む。またグリンカの主題を元にしたいくつかの曲を作る。

1858年 アントンが帰国。宮廷(とりわけ大公妃エレナ・パヴロヴナ)の支持を受けロシア音楽協会を設立。自ら芸術監督となる。

アントンは自宅で毎週演奏会を開いた。会の中心メンバーの中からロシア音楽協会設立の機運が盛り上がる。

1858年 チャイコフスキー、ロマーキンの学生合唱団に加入。ロマーキンはのちにバラキレフとともに無料音楽学校を創設。

1859年 アントン、音楽文化の建設には高等音楽教育が不可欠だと主張。大公妃の宮殿の一部を借り音楽教室を開校。プロ音楽家の養成に着手。


教師に外国人を起用。ピアノ科教授にはポーランド人のレシュテツキを招聘。ロシア音楽界のオペラ偏重やアマチュア主義、職業的訓練と社会的地位の欠如を批判。在来音楽家の排除に対しバラキレフらは激しく反発した。

1859年 ロシア音楽協会がコンサート向けの管弦楽団を組織。アントンの指揮で定期演奏会が始まる。キュイの「スケルツォ」も初演される。

1859年 チャイコフスキー、法律学校を卒業し、そのまま法務省にキャリア組として奉職。

入職後の成績は芳しくなかった。目標喪失症候群に陥ったようである。二度にわたり昇進を逃し、街頭を彷徨する日々を送っていたようだ。家族への手紙で「すべてが不愉快だ。仕事もうまくいかないし、金もない」と書いている。

1860年 バラキレフ、ボルガ川流域で民謡を採譜。62年にはコーカサスにも採譜旅行。その後民族色の強い曲を立て続けに発表。

1861年 アントン、ペテルブルクの雑誌に寄稿。ロシア音楽界が抱えるアマチュア主義を非難。プロの音楽家養成の必要性を訴える。

1861年 アレクサンドル2世による農奴解放などの改革が始まる。下級貴族や小荘園主には大きな打撃となる。

1861年 チャイコフスキー、ロシア音楽協会の教室に聴講生として参加。

1861年 海軍兵学校の学生だったリムスキー・コルサコフがバラキレフのサロンに加わる。最初は弟分の扱いで、本格的に作曲活動を行うのは、長い航海を終えた1865年のことになる。

1862年 音楽教室を母体としてサンクトペテルブルク音楽院が設立される。


一期生は179人。税関の官吏、予審判事補佐、技術士官、近衛連隊の中尉などさまざまな経歴を持っていた。グルジア人やイギリス人も含まれていた。

1862年 バラキレフらがペテルブルグ音楽院に対抗して無料音楽学校を設立。オーケストラを組織し、バラキレフが指揮者となって定期演奏会を開始する。

音楽院が古典派から前期ロマン派に比重をおいたのに対し、無料音楽学校は後期ロマン派やグリンカなど民族派の作品を演奏する。

1862年 チャイコフスキー、二度にわたり昇進に失敗したことから法務省でのキャリアアップを断念。音楽に専念することを決意。アントンの音楽院に入学する。

1862年 アントンの実弟ニコライ・ルビンシュタイン、ロシア音楽協会のモスクワ支部を組織。66年にモスクワ音楽院に昇格。

1863年 ボロディンがバラキレフのグループに参加。ボロディンは化学研究のためドイツに留学した際シューマンや後期ロマン派に心酔した。帰国後音楽の研鑽を積むためにバラキレフ・グループに接近した。

この人は稀代の秀才で、サンクトペテル大学の医学部を首席で卒業。この年30歳で早くも母校の教授に就任している。音楽活動はかなり晩年になるまで余技であった。


1864年 チャイコフスキー、「雷雨序曲」を制作。ベルリオーズ、リスト、ヴァーグナーの管弦楽法を取り入れた曲は、シューベルト、シューマン、メンデルスゾーンをモデルとする保守的なアントン院長の不興を買う。


チャイコフスキーの伝記は酷評、演奏不能などのオンパレードである(とくにウィキペディアの記載) しかしなぜ酷評を受けたのかの説明は殆どない。これでは少女漫画の世界である。

1865年 チャイコフスキー、音楽院を卒業。卒業作品「歓喜に寄せて」は5人組の一人、キュイから酷評される。


ただキュイというのは狷介かつ剣呑な批評家で、いたるところで筆禍事件を起こしている。したがって、その批評に不快感を催したとしても、ショックを受けるほどのものではない。問題はその背景に、アントン対バラキレフの対立があったか否かである。

1865年 ムソルグスキー、農奴解放で実家が没落し、官僚の道もひらけず、母の死を機にアルコールにひたるようになる。

1866年 ニコライ、モスクワ音楽院を創立する。ニコライはアントンとは異なり人格円満、5人組との交流もあった。

1866年 チャイコフスキー、アントンの実弟ニコライ・ルビンシュタインの招聘を受け、モスクワに赴任。


モスクワ音楽教室の開設を準備中だったニコライは、教授を探してペテルブルグへやってきた。そして卒業作品を準備中のチャイコフスキーを見つけ口説いた。(中林)

1867年 モスクワでバラキレフがスラヴ音楽の演奏会を組織。「小さいけれども、すでに力強いロシアの音楽家の一団」と称えられる。評論家のスターソフは、この作曲家集団を「五人組」と名付ける。

1867年 アントン、ロシア音楽協会とサンクトペテルブルク音楽院のすべての仕事から撤退し、ロシアを去る。

アントンは、パトロンの大公妃が教師や生徒たちを夜会で演奏させるなど、自分の使用人のように扱うのに耐えられなかったとされる。

1867年 ロシア音楽協会は音楽監督としてバラキレフを指名。その後も協会内アントン派との角逐が続く。

1868年 モスクワのチャイコフスキー、ペテルブルクのバラキレフとの直接交流を始める。


バラキレフはその非妥協的な性格から大公妃と衝突した。またムソルグスキーとリムスキー=コルサコフはバラキレフの過度の干渉を拒否した。孤立したバラキレフはモスクワのニコライとチャイコフスキーに接近した。

1869年 バラキレフ、ロシア音楽協会の幹部により音楽監督を解任される。
1869年 ムソルグスキー、「ボリス・ゴドゥノフ」を完成。帝室劇場の理事会に上演を依頼。帝室劇場は思想性を理由に「ボリス・ゴドゥノフ」の上演を拒否。その後数回にわたり上演拒否を繰り返す。

1869年 チャイコフスキー、モスクワ音楽院で使う理論書を執筆、西欧の理論書の翻訳も手掛ける。民族主義的な作品も手がけるようになる。出版業者ユルゲンソンの示唆によると言われる。 

1870年 財政難から無料音楽学校での連続演奏会が中止される。バラキレフはうつ状態となり音楽活動を放棄。

1871年 アザンチェフスキーがペテルグルグ音楽院の院長に就任。音楽院のカリキュラムを近代化し、作曲科の教師にリムスキー=コルサコフを招請。


アザンチェフスキーはチャイコフスキーの『ロメオとジュリエット』やムソルグスキーの『ボリス・ゴドゥノフ』を上演するなど、民族派音楽にも配慮した。その結果、無料音楽学校での連続演奏会の意義は薄れたという。

1871年 ペテルブルク音楽院の作曲と管弦楽法の教授にリムスキー・コルサコフが就任。リムスキー・コルサコフは路線転換にあたりモスクワのチャイコフスキーと相談したという。

私はコラールの旋律に和声をつける事もできず、対位法そのものは1つも書いた事がなく、フーガの構造についてはおぼろげな概念さえ持っていなかった。(後年の述懐)

1871年 リムスキー・コルサコフ、文無しのムソルグスキーを呼び、家具付きの部屋を借りて2人で共同生活を始める。 
1871年 チャイコフスキー、弦楽四重奏曲第1番の第二楽章(アンダンテ・カンタービレ)にロシア民謡をとりあげる。バラキレフの示唆を受けたものとされる。

バラキレフとの交流がルビンシュタイン兄弟との葛藤を生んでいた可能性がある。

1871年 それまでニコライの家に寄寓していたチャイコフスキー、家を出てアパートに居を移す。

1872年 チャイコフスキー、モスクワの新聞で音楽評を担当する。バラキレフとRコルサコフの曲に好意的な評価。

1872年 経済的に困窮したバラキレフは音楽界を退き、ワルシャワの鉄道会社の事務員の職に就く。その後バラキレフは自由主義から君主主義に移行、神秘主義者に変身する。

1873年 大公妃エレナ・パヴロヴナが死去。ロシア音楽協会とサンクトペテルブルク音楽院はロシア政府の経営となり、大公妃への依存から脱する

1874年 帝室劇場、ムソルグスキーの「ボリス・ゴドゥノフ」の公演を承認。全曲が初演される。

1874年 リムスキー・コルサコフ、バラキレフの引退後空席となっていた無料音楽学校の管弦楽団の音楽監督を引き継ぐ。

1875年 チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番が完成。ニコライに献呈するが、ニコライは「この作品は陳腐で不細工であり、役に立たない代物であり、貧弱な作品で演奏不可能である」とスターリンばりの罵詈雑言。


これもどう考えても単純な話ではない。
ニコライは10年前、卒業したてのチャイコフスキーをモスクワに招き、自宅に住まわせ、ともにモスクワ音楽院の創設期を担った人物である。何かウラがあると見なくてはならない。
ニコライに曲を弾いて聞かせたのが74年のクリスマスイブ。この時にニコライから批判されている。しかし1年足らず後の11月には、この曲がニコライの指揮でモスクワ初演されている(ピアノはタネーエフ)。
78年には、ニコライが死んで絶望する夢を見たことと、彼に強い愛情を感じていることを書き記している。

1875年 ドイツのピアニストのハンス・フォン・ビューローにピアノ協奏曲の楽譜を送る。ビューローの演奏により西欧各地で大ヒット。チャイコフスキーはロシアを代表する作曲家として知られるようになる。

前後の脈絡からすると、これはチャイコフスキーにとってだけでなくロシアの音楽界にとっても画期となる事件だったと思われる。同時にそれは、アントン-バラキレフ-5人組と続く革新運動が、挫折したところに生じた動きだったことを示している。

1876年 メック夫人、チャイコフスキーへの支援を開始。13年間にわたって年6,000ルーブルの年金を贈る。

1878年 チャイコフスキー、モスクワ音楽院講師を辞職する。その後約10年間、フィレンツェやパリ、ナポリなどヨーロッパを転々とする。

ここは「チャイコフスキー物語」の一番の突っ込みどころで、押しかけ女房との結婚生活の破綻が背景となって、自殺を図るなど深刻なうつ状態に陥る。ゲイの話も絡んでくる。ただ制作活動の行き詰まりではないから回復は早い。ひょっとするとたんなるトンズラにすぎないのかもしれない。

1878年 スイス逗留中のチャイコフスキー、ラロのスペイン交響曲に影響を受けバイオリン協奏曲を作曲。ペテルブルク音楽院教授レオポルト・アウアーに楽譜を送る。アウアーは演奏不可能として初演を拒絶する。


エキゾチズムの売れ線狙いで、しかもロシアをエキゾチズムの対象としてかなり野卑に描き出したのだから、その「似非民族主義」をアウアーが快く思わなかっただろうことは想像に難くない。
それにしても「書簡」という形で、あることないことネチネチと書き綴るのは、あまり上品な趣味ではない。「松居一代」なみだ。

1878年 ペテルブルク音楽院の学生リャードフが「5人組グループ」に加わる。
1878年 キュイ、軍事技術学校の築城学教授に就任。

キュイはバクストにより酷評されている。

キュイはその音楽様式においてロマン的な微細画家である。それらはサロンや家庭での演奏には適するが、音楽会の舞台用ではない。それはシューマンの劇的、律動的激しさも、ショパンの叙情的な表現力も持っていない。

1879年 ムソルグスキー、大蔵省を退職。友人の世話で会計検査院に入職。

1880年 メック夫人、パリ音楽院の学生クロード・ドビュッシーを夏の間の家庭音楽家として雇う。
1880年 ムソルグスキー、会計検査院からも退職。レオーノワ(歌手)のピアノ伴奏者として南部ロシアを楽旅。

1981年 ライプツィヒ音楽院教授アドルフ・ブロツキー(ロシア人ヴァイオリニスト)が初演。ハンスリックは「悪臭を放つ音楽」と酷評するが、次第に名曲との評価が定着。

1881年 ニコライがパリで客死。ニース滞在中のチャイコフスキーはピアノ三重奏曲を贈り追悼の意を表す。


なぜピアノ・トリオなのか。それはメック夫人がピアノ・トリオを書くようせっついていたためでもある。メック夫人は「ドビュッシーも書いたのに…」とけしかけている。後年、メック夫人はチャイコフスキーからドビュッシーに乗り換えている。

1881年 レーピン、『作曲家モデスト・ムソルグスキーの肖像』を製作。

レーピンのムソルグスキー
1881年3月28日 ムソルグスキー、アルコール中毒にて死亡(42歳)


ムソルグスキーは81年初めに心臓発作で入院していた。レーピンは入院先でこの絵を描いた。描き上げて11日後、ムソルグスキーは息を引き取った。付き添いが密かに与えたブランデーが発作死の引き金となったと言われる

1881年 リムスキー・コルサコフ、無料音楽学校の音楽監督のポストを辞退。バラキレフを呼び戻す。空いた時間はムソルグスキーの遺作を整理するために費やされる。

バラキレフは長年うつ状態にあったが、徐々に回復した。この間、Rコルサコフとリャードフの援助を受けていたとされる。

1882年 近衛師団や近衛騎兵隊の軍楽隊を基礎として「宮廷管弦楽団」が編成される。レニングラード・フィルハーモニー交響楽団の前身。
1883年 バラキレフ、宮廷礼拝堂の楽長に任命される。その後、無料音楽学校から撤退し、10年以上にわたり楽界での沈黙を守る。

1884年 リムスキー・コルサコフの家で音楽サロンが持たれるようになる。このサロンに材木商ベリャーエフが参加。サロンに集まった音楽家が、「ベリャーエフ・グループ」を形成。リムスキー=コルサコフによれば、「バラキレフ・グループは革命的だったが、ベリャーエフ・グループは進歩的(漸進的)とされる。

1885年 ベリャーエフ、Rコルサコフを指揮者としてロシア管弦楽演奏会を開始。またグリンカ賞を設ける。

1886年 ベリャーエフが音楽出版社を作り、その最高顧問にリムスキー=コルサコフ、グラズノフ、リャードフを招く。

1887年 チャイコフスキー、4ヶ月にわたりドイツ・フランスを演奏旅行。ドイツではブラームス、グリーク、R.シュトラウス、マーラー、プラハではドヴォルシャーク、パリではグノー、マスネと知己を得る。

1889年 パリ万国博覧会。ベリャーエフが企画しロシア音楽のコンサートが行われ、反響を呼ぶ。リムスキー・コルサコフ指揮でグリンカ、ボロディン、ムソルグスキーなどの楽曲が演奏された。

1891年 チャイコフスキー、パリに行き、その後アメリカに渡り、カーネギー・ホールの柿落としに自作品を指揮してデビュー。

1891年 モスクワ音楽院ピアノ科の卒業式で二人の金メダル(ラフマニノフとスクリャービン)が誕生する。作曲科の首席はラフマニノフが獲得。

1892年11月 チャイコフスキーがコレラで急死(53歳)。ロシア皇帝アレクサンドル3世は国葬を命じる。

1897年 バラキレフ、ロシア地理協会で収集された民謡を出版するための責任者となる。

1905年1月 「血の日曜日」事件が発生。リムスキー=コルサコフは政府批判を行ない、「学生達を扇動した」としてペテルブルク音楽院の教授職を解かれる。これに対しグラズノフやリャードフらが抗議の辞職。 (1年後に復職) 

1906年 音楽院の管理者側が折れ、グラズノフが院長に就任。Rコルサコフも教授職に復帰する。

1908年6月 リムスキー・コルサコフが心臓発作で死亡。二人の高弟グラズノフとストラヴィンスキーのほか、リャードフ、アレンスキー、プロコフィエフなどを育てる。

1910年 バラキレフが死亡。最後まで面倒を見たリャプノフが遺作の整理にあたる。




  

盲蛇に怖じずというか、酒の勢いでつい知ったかぶりをしてしまったようだ。

少し勉強をしていくうちに、チャイコフスキーと5人組の関係はさほど単純なものではないことに気づいた。

19世紀後半ロシアの枠組み

まず大枠を確認しておきたい。チャイコフスキーが生まれたのが切りの良い1840年。音楽の道に踏み込むのは1860年ころだ。

ロシアはロマノフ王朝の最盛期。南方や東方への膨張の真っ最中だ。しかし西欧の産業革命には乗り遅れ、国内的にはまだ中世の眠りの中にあった。

しかし西欧文化は新たな工業製品とともに怒涛のごとく押し寄せてくる。これらに対応し、西欧に追いつき追い越すためには、まず大量の知識人の養成が必要だ。それには従来の支配層たる荘園主の子息だけではとても間に合わない。

そこで中下層から優秀な人材を発掘し西欧式のエリート教育を施す必要がある。かくして知識の大衆化が一斉に始まる。同時に彼らを国家の枠にはめ込むためには、国民国家として民族精神を注入していかなければならない。「和魂洋才」である。

これらの時代状況は明治維新下の日本とまったく同様だ。違うところは、日本は曲がりなりにも権力交代を伴う政治変革があったが、ロシアはまったく旧態依然ということだ。

この辺の「鬱積感」というのが根っこにあるから、「和魂洋才」の「和」というのが問われざるを得なくなる。少なくともロシア近代化を目指す者にとって、「和魂」とは単純なツァーリ体制賛美ではなかったろう。

それは動揺を繰り返しつつ、究極的に1917年の革命へと向かっていく流れの源流となる。

変革の動きと西洋音楽の位置づけ

19世紀半ばに至って、西洋音楽は一面では大衆娯楽化し、他方で重厚長大化している。辺縁地域から文化としてそれを仰ぎ見た時、まずは100人をこす団員によって奏でられる、1時間に達するような長時間の交響曲である。

それは観客千人を越えるような大劇場で演じられ、莫大な費用が投じられ、それだけの見返りを産み出す。グランドオペラであれば、さらにその数倍の費用を要するであろう。

それはまさに資本主義の象徴としての意味を持っている。

しかし翻って見るに、ロシアにはそれだけの観客がいない。さてどうするかということである。

次は、もう少しチャイコフスキーと5人組をめぐる小状況(とくに人脈)について調べてみたい。


私は中学時代に音楽の授業でこう習った。

チャイコフスキーは親西欧的な性向で名声を博した。これに対しロシア5人組はロシア民族主義を押し出し、これがロシア音楽の二つの流れを形作った。

今では、これは大嘘だと言える。少なくとも事実は相当ねじまがって伝えられている。

結局、話はバラキレフの評価に行き着く。

バラキレフというのは実は大した人物ではない。グリンカを奉じてロシア民族主義を鼓吹するイデオローグにすぎない。

しかも民族主義と言っても国民を巻き込んだ民族主義ではなく、王宮や富裕層のサロンで展開された西洋風音楽の展開形態をめぐる内輪話にすぎない。

だいたいが、グリンカを奉じながらロシア民族主義を語るのが筋違いであり、グリンカは国内ではほとんど評価されることなく、むしろフランスやドイツで一旗揚げた人物である。

だからバラキレフの法螺話に乗ったのはサロンに出入りする高級軍人だけだった。だから彼らの民族主義はエリートのアマチュアリズムと何の矛盾もなく癒合したのである。

田舎出の音楽好きの秀才チャイコフスキーにとっては、それに迎合するか、それとも別な道を探すしか道はなかった。

だからチャイコフスキーはペテルブルク音楽院を出ながらモスクワ音楽院に移ったのである。そしてモスクワはペテルブルクよりはるかに遠隔の地にありながら、親西欧的な音楽を取り入れ、成功したのである

今でこそ政府のあるモスクワに対してペテルブルクは「古都」になっているが、チャイコフスキーの時代にはペテルブルクこそが首都であり、モスクワは「古都」に過ぎなかった。

おそらくバラキレフとチャイコフスキーの対立点は二つあったと思う。一つ(表面的)は芸術としての練度を重視するか、「民族性」を重視するかのちがいであり、もう一つ(実質的)はサロンの外の民衆に音楽を通じてどう接点を形成し、どう語りかけていくかの違いであろう。

そこのところでは5人組とチャイコフスキーとの間にさほどの違いがあるわけではない。バラキレフさえいなければ十分に両立可能なものであった。チャイコフスキーは仕切りなおしたグリンカだった。

しかし一度こじれた人間関係はいろんな余波を呼んでいくことになる。


すみません。上記の文章は一知半解、誤解に基づく独断です。

「日記」ですので、あえて抹消はしません。

を御覧ください。



ツィマーマンのショパンの協奏曲といえば、ジュリーニ・ロスアンジェルス交響楽団かコンドラシン・ロイアル・コンセルトヘボウと思っていた。 両方とも立派な演奏でショパンのコンチェルトはこれで決まりと思っていた。他に小澤征爾とベルリン・フィルというのもある。
 が、今度の録音は初めて聞いた。
ポーランド祝祭管弦楽団といういかにも覆面っぽい名前のオケで、ツィマーマンが弾き振りしている。 普通の演奏の倍も時間がかかっている。第二楽章など、止まってしまいそうだ。それだけでもすごいが、中身はもっとすごい。まいった!
私が知らなかっただけで、1990年というずい分昔の録音ではある。 フレーズというより、一つ一つの音符に意味が持たされている。音が呼吸している。 ポーランドの大平原の地面から湯気が立ち上っている雰囲気だ。最近のテレビで流行りだが、飛行機の空中撮影でなくパラグライダーで地面を舐めるように飛びながら牛や馬や低い木立を点綴させる撮影法だ。
これだけの演奏を楽団に強制して、実現させる力量(マネーの力か?)には圧倒される。
 ある意味で日本人好みの演奏かもしれない。前を向いて進むのではなく、下の景色を眺めながら進行過程そのものを楽しんでいる。
あぁ、やっと終わった。付き合わされるだけでも、けっこうぐったりだ。 まぁ、そう何回も聞きたいとは思わないが。

フルヴェングラーのモルダウ

1951年にウィーンフィルを振った演奏がYouTubeで聞ける。

テンポを遅くとって管楽器にたっぷり歌わせている。中間部はまるでローエングリーンを聞いているようだ。

51年の録音なのにどうして? というほどに音はひどい。元の音がひどいのか録音技師が勝手に音をいじったのか、とにかくひどいが、演奏はすごい。

本当はこう鳴っているんだろうなと想像しつつ聴きこむと、さすがにすごい迫力だ。

ただどうしても、私はフルヴェングラーを純粋に音楽として聞き通せない。何年にどこで録音した演奏で、その時フルトヴェングラーは何をしていたのかということが念頭に来てしまう。

Michel Orsoni さんという人がコメントしているのを引用する。

フルヴェングラーは「我が祖国」をコンサートの冒頭に演奏した。それは1940年11月7日、プラハでのことだった。(この録音の10年前)
1940年その時、プラハはナチに占領された。
スメタナの「我が祖国」はチェコ民衆の独立のシンボルとなった作品である。
彼の演奏はナチ占領という恐ろしい状況における、彼の民衆への支持表明の一つの方法だった。

私にはその逆にしか思えない。ナチの勝利したプラハに乗り込んだナチの御用演奏家が、これみよがしに「我が祖国」を演奏すれば、チェコの民衆がそれをどう思うかは、火を見るより明らかではないか。

私はフルトヴェングラーをこういう言い方までして褒めそやすフリーク共の神経が理解できない。

ディノラ・ヴァルシの全集が出るそうだ。

Legacy summarizes this collection with 40 recordings, divided into the categories live, studio, talk, and film.

Promotion price until December 31st 99,- €, afterwards 119,- €

Here you can find the complete tracklist as PDF

だそうだ。

2004年には来日して演奏。その録音も含まれるようだ。

参考までに私のディノラ・ヴァルシ関連記事

下記の演奏を見たら、カール・ライスターが嫌いになること請け合い。
https://www.youtube.com/watch?v=qBS7BC4aKGE
ブラームス クラリネット五重奏曲 ロ短調 作品115
2007年の紀尾井ホールでの録画=衛星放送のエアチェックだろうと思う。
カール・ライスターのほかは加藤知子 三浦章広 川本嘉子 山崎伸子の4人で、一所懸命やっている。
というよりいささか一所懸命やり過ぎている感もある。
クラリネットの入った弦楽四重奏の趣だ。それも気分はシンフォニー。
それがライスターには気に入らないらしい。クラリネットに弦楽四重奏による伴奏が入るようにしないとダメなようだ。
途中からはふてくされているように見える。弦の方も途中で気づいたらしく、少し引き気味に演奏している。
最後は…見てのお楽しみ。
ライスターの演奏を人間味に欠けると評する向きもあるが、これは恐らくテクニックの完璧さの裏返しであろう。
と、ウィキペディアには書いてあるが、そもそも演奏以前に“人間味に欠けている”のではないか。

なんというか、想像を絶する指揮者というのがいるのだ。今日それを初めて見た。
なんというか、演奏のじゃまをするのだ。
ばれないように書くのがとてもつらいのだが、
たとえば野球の始球式にいろいろ有名だったり、そうでなかったりする人が登場する。一番バッターが打席に入って空振りするのが礼儀になっているが、この指揮者ときたら空振りをさせないのだ。
…どうも違うな、
音符や休止符の長さを変えてしまうので、たとえば弦楽器だと弓の長さが足りなくなってしまう。弦楽器というのは弦を弓でこすって音を出すから、擦らないと音は出ない。だから音が切れてしまう。
これが素人の“指揮者”だったりすると、楽団の方も承知しているから、遅めに弦を動かして余力を残す。あるいはコンマスが合図を送ってボウイングを切り返す。管楽器なら第二奏者にバトンタッチする。
しかし相手がプロだと思えば、まさかそんなことは考えない。プログラムを見ると、この指揮者はけっこうそれなりにキャリアがあるように書かれている。ただし国内での指揮の経歴は書かれていない。
おそらくは指揮力以外の力に優れているのだろう。それと、おのれの能力を信じる心にきわめて長けているのだろうと思う。

私が思うには、指揮者というのはエアー打楽器の奏者みたいなもので、リズムとテンポを司るのが第一の役割だ。後は第一バイオリンの音量バランスを調整していけば良い。他のセクションは適当にやってくれる。
とにかく余分なことはしないで、しっかりリズムを刻めよ。それができないなら、「名指揮者」気分にならずに指揮棒持ったら。



YouTubeに初めてアップロードした。
初めてとあって、なかなか面倒だ。
まずはウィンドウズのダウンロードから何やらかんやらというソフトのセットをダウンロードした。
その中にムービーメーカーというソフトがあってそれだけ欲しいのだが、そういうわけには行かなくて、余分なものまで全部揃いで落とした。これが結構時間がかかる。
それでムービーメーカーというソフトを立ち上げて、そこにまず適当な写真を入れる。
写真をはめ込むと、次に「音楽をつける」というボタンを押す。そこで何を入れるかという画面が出て、そこに音楽ファイルを入れる。ほとんど手持ちはYouTubeから落として剥ぎとったAACファイルだが、AACは面倒そうなのでMP3に変換していれた。
それだけでもアップできるのだが、デフォールトだと静止画面は30秒ほどで切れてしまう。そこで「音楽の長さに合わせる」を選択すると、音楽がなっているあいだ画面が流れ続ける。これで完成だ。
これを動画ファイルとして保存する。これが結構時間を食う。
つぎに、YouTubeのホームを開くと、右肩に「アップロードする」というボタンがあるのでそこを押すと画面が出てきて、後は指示されたとおりに操作していけば完了だ。
つまり動画ファイルを作るまでがなかなか難しくて、出来上がってしまいさえすれば、後はさほどの苦労はない。
ということで、出来上がったのが「Sibelius Trial」というファイル、URLは以下のとおり。
https://www.youtube.com/watch?v=ND1CiD_Ndmw
時間は14分41秒。何故かと言うと、15分を越すといろいろ面倒な手続きをしなければならないようなので、という簡単な理由。
なぜこれをアップしたかというと、Audacity という“音質改善ソフト”のデモンストレーションである。
以前の記事で、Bughead Emperor について書いた時に「お化粧ソフト」と表現した。たしかに音は綺麗になるが、それは高性能だからではなく、原音にお化粧するのではないかと考えたからである。
このSibelius Trial の原音は以下のものである。
Sibelius - Symphony n°7 - Cleveland / Szell live
Live recording, Helsinki 23.V.1965 とのコメントがある。
必要な音はすべて入っている。しかしモノーラルであり、最強音が飽和している。全体として音がくぐもっている。しかも全体の音量と近接マイクのバランスが何とも不細工だ。
原音がおそらくエアチェックで、時代から考えるとAM放送の音源の可能性もある(AMというのは帯域を広く取れば意外にいい音なのだ。むかしはそういうチューナーがあった)。しかもアップロードの際の音量が大きすぎる。
しかしそれを乗り越えるほどの演奏である。セルとクリーブランドの最盛期のものだ。しかも本場に乗り込んでのライブだから力が入っている。いわば「お宝」音源だ。
そこで、とりあえず聴きやすくしてみようと思い立った。
やったのは以下のことである。
1.ノイズの除去。これで音のくぐもりはとれる。しかし間接音のかなりが失われる。
2.Clip Fix。これで飽和して失われた音が擬似的に回復される。しかしこれで回復されるのはせいぜい半分くらいである。これをやると音が硬くなりキンキンする。
3.ノイズの除去をすると間接音が失われるので、どうしても音はデッドになる。そこでGverbで残響をつける。Gverb の調整についてはいろいろな人が書いているので、それを参考にした。なおAudacity の最新版ではGverb が外されているので、サイトから拾ってくる必要がある。
4.それから疑似ステレオ化を行う。これはステレオトラックを一旦左右に分離して、片方のチャンネルの出だしを少しだけ削って時差を作り出す方法である。人間の耳はいい加減なので、これをステレオと感じてしまう。この効果は抜群なので、これだけでもいいくらいだ。ただしこのファイルはやり過ぎである。(効果を強調するため)
5.最後に圧縮を行って、音量を適正化する。
以上の処理を行ったのが、わたしのアップした“動画”である。
両方を聴き比べてみると、聴きやすさはずいぶんアップしている。しかし、原音にふくまれていた“雰囲気”はずいぶん失われてしまっている。この辺りは素人の限界なのだが、おそらくノイズの除去をどの程度までやるか、どこで我慢するかで変わってくるのだろうと思う。
いずれにしても自分でAudacity をいじってみると、いわゆる「高音質音楽ソフト」は何かをやらかしているに違いないと思う。
むかし、中学時代の同級生の女の子が同窓会で会うと見違えるほどの美人になっていて、びっくりしたおぼえがある。今や眉を剃って墨で描いて、アイシャドウを入れてつけまつ毛をつけるだけで、変身できる時代なのだ。ましてや聴覚など、だますのはいとも簡単だ。
ダマされないように気をつけるか、ダマされる快感をだいじにするか、そこはあなたのお好みしだい…ということになる。ただ、それを「高音質」と呼ぶのは羊頭狗肉のたぐいであろう。高音質というのはブスはブスらしく忠実に再生することのはずである。

アルハンゲルスキー 略伝

アルハンゲルスキーの生涯を記した記事があまりに少ないので、とりあえず紹介しておく。元ネタは

というサイトの

Alexander Andreyevich Arkhangelsky

という記事。

生年: 1846年10月23日

没年: 1924年11月16日

合唱指揮者 作曲家

有名なアルハンゲルスキー・クワイアの創設者。37年の間、合唱団を率いた。19世紀末のロシア合唱音楽のルネッサンスの先頭に立った。

アルハンゲルスキーは、ロシアのペンザ(Penza)で生まれて、そこの少年歌手となった。そして、セントペテルスベルグで訓練を受けた。

彼は、16歳で指揮活動を始めた。ロシア民族主義の影響を受けた彼は、宗教音楽が過度に「西欧化され」ていると感じた。そして古いロシア音楽のレパートリーを復活させようとした。

教会の権威は彼の改革の試みを受け入れようとしなかった。そのため彼は1880年にアルハンゲルスキー・クワイアをつくって、シベリアからロンドンまで演奏旅行を重ねた。

それはロシアにおける最初のアンサンブルの試みであった。それまで典礼の場では少年合唱が担っていたパートを女声合唱に取り替えた。同様にコンサート会場でも代えられた。

彼の残した曲はすべて合唱のためのものである。レクイエムが1曲(1892)、Vespers(Evening Prayer)

が1曲、ミサ曲が二つ、50あまりの小曲が残されている。もっとも有名なのは「クレド」と「神聖な輝く光」である。

かれはまた、ロシア民謡といくつかの「ロマンス」の編曲も行なっている。

アルハンゲルスキーは、ロシア正教音楽を確立することでチャイコフスキー、グラズノーフ、ラフマニノフらに影響を与えた。しかしソビエト時代の偏狭な非宗教的合唱は、彼の民主的な作曲へのアプローチを不可能にした。

彼はボルシェビキのファンでなかった。1917のロシア革命の後、彼はプラハに移住した、そこで、彼は死んだ。

1990年代、ロシアの教会音楽は復活した。それは数十年にわたって無名状態にあったアルハンゲルスキーの音楽を掘り起こした。

アルハンゲルスキー合唱団の録音(1902年から1916年にかけて)は、すべてリマスターされてCD化されている。そこには彼の作った曲もいくつか収められている。

(bio by: Bobb Edwards)


私のおすすめは以下のとおり

Arkhangelsky - "Blessed are they whom Thou hast chosen"

Arkhangelsky - "I Cried Unto the Lord With My Voice"

Arkhangelsky - "I Ponder Upon the Fearful Day"

Arkhangelsky - "Give ear to my prayer, o God"

Arkhangelsky - "Let us come zealously to the Mother of God"

とりあえずこのくらいにしておく。このくらい聞くと、正直のところ飽きてくる。

ついでに同時代の作曲家キュイの曲も聞いてみてください。

Cui: My Soul magnifies the Lord Op.98 (Song to the Mother of God: for soprano and choir)

César Cui - Everywhere Snow - Op.77 n.2

RADIANT STARS, César Antonovich Cui - LATVIAN VOICES

日本の左翼運動にロシア民謡がなかったら、だいぶ様相が変わっていたかもしれない。
とにかくロシア民謡の影響は圧倒的だった。私もその一人だった。
私が大学に入った昭和40年にはもう盛りは過ぎていたと思うが、とにかくあちこちで歌声をやっていた。
とにかく基本的には合唱だった。最初はそれが嫌だった。老健でゲームしたり歌ったりしているのを見ていると、いまだに引いてしまう。
それが否応なしに引きずり込まれたのは、ロシア民謡の威力だったのではないだろうか。
とくに男声合唱でポールシュカポーレ、仕事の歌とかエルベ川とかを聞かされると、すごいなと思わざるをえない。
赤軍合唱団とか、アレキサンドロフ歌と踊りのアンサンブルとかには完全に脱帽だ。
そんなことをすっかり忘れちまってずいぶん久しい。
ところがふとしたことからYouTubeでアルハンゲルスキーの曲を聞いて、「何だ、これか」と思った。
ロシア民謡のズシンと来る合唱も、ルーツはこれだ。
それどころかチャイコフスキーもロシア教会音楽のパクリだ。ロシア民謡からのメロディーがたくさんあるが、もろに民謡を採集したのではなく、一度教会音楽のフィルターを通っているのではないか。そんな気がしてくる。
アルハンゲルスキーはそんな教会コーラスの作曲家だ。彼の活動した時代はおそらくチャイコフスキーと重なってる。ただしアルハンゲルスキーは相当長生きしている。
YouTubeでは楽譜が流されるが、和音はきわめて単純明快、余分な冒険は一切しない。職人技だ。教会堂の中でそれぞれのパートがどう響くかということだけに神経を絞っている。
何曲聞いても同じだから、10曲くらい聞いておけば十分だ。あとはBGMとして掛け流しにしておけば良い。

アルハンゲルスキー(Aleksandr Andrejevich Arkhangel'skij)についてはウィキペディアで。
曲はとりあえずYouTubeのこの曲 Arkhangelsky - Vespers

クラシック音楽へのおさそい~Blue Sky Label~

ここのサイトの作者は、私にとってはまさにエヴァンゲリスト(伝道者)のような人です。多分私よりは10歳位若い方のようですが。

その作者が、実はジョージ・セルのフリークなのです。

こんなオード(賛辞)が書かれています。

セルはオーケストラのメンバーが常に他のメンバーの音を聞きあうことを要求しました。それは、特定のスタープレーヤーが突出した響きを聞かせることにはなんの価値も見いだしていなかったからです。
セルが求めたのは響きが完璧に均質化されたオーケストラでした。
それは、一見すると個々のプレーヤーが100点満点の精一杯の演奏をするのではなくて、少しレベルを落としてもいいので全体にバランスを大切にしたように聞こえます。
しかし、現在の再生システムでセルの演奏を聴くと、セルが求めたのはそんな生易しいものでないことが手に取るように分かります。
疑いもなく、個々の楽器は完璧に鳴りきっています。
まさにフルスイングしています。金管楽器だって力の限り吹いています。
誰一人として、まわりの様子を窺いながら「当てに」行っているような雰囲気は微塵も感じません。
それでいながら、オケ全体は極めて高い透明性を保持しています。…

セルの率いるクリーブランド管はどんなときでもフルスピードでコーナーに突っ込んでいきます。
そして、時には危ういラインで何とかクリアしているような場面も珍しくありません。しかし見るものの心を熱くする走りは決して小綺麗な走りではなく、そのような勇気と気迫あふれた走りの方です。 

うまい言い方をするものです。

なんというか、彼ほどの指揮者はいなかったか、いた。彼ほどのトレーナーはいなかったか、いた。しかし両方を兼ね備えた人はいなかった、ということになるのではないでしょうか。

ロンドン交響楽団を振ってもいいし、コンセルトヘボウでもベルリン・フィルでもいいのだが、それは他の誰かでも良い。セルとクリーブランドは一体であり、それは音楽史上の奇跡なのでしょう。

むかし、カラヤンという名指揮者がいた。
とにかく何でもカラヤンだった。
いま、カラヤンて何がいいんだろう。
YouTubeでもいまだにカラヤンの演奏はたくさんある。
しかし、どれを聞いてもいまいちだ。
というより、「この指揮者、ホンマにうまんかなぁ」という感じだ。
ベートーベンの交響曲、ブルックナーの交響曲、メンデルスゾーン、ドヴォルザーク…何を聞いてもつまらない。
ベトーッとした演奏で、おそらく故意にだろうが出だしを外す。
ネットでカラヤンの名盤、というのを探してみた。出てくるのはチャイコフスキーかR・シュトラウス、後はオペレッタみたいな色モノだ。
けっきょく、残っていくのはそういうものばかりということか。かなり淋しい話だ。
かつてはエピック盤のB級指揮者だったジョージ・セルが、リマスターで生き返って、いまや20世紀最高の指揮者の一人となったのとは対照的な凋落ぶりだ。H.S.イッセルシュテットがこれから評価を上げて来るだろう。
ヴァントも無尽蔵と思われるコンサート録音の内容次第ではトップに上り詰める可能性がある。
3人に共通する特徴は何か。それは叩き上げの職人だということだろう。お酒で言うと大吟醸ではなく特別純米だ。だからどうしても玄人好みになってしまう。

ルネ・レイボヴィッツのベートーベン交響曲全集がいつ日本発売になったかという質問がありました。

日記をつけているわけではないので、はっきりしたことは言えませんが、多分高校1年生の冬だったと思います。したがって昭和37年の末か38年の初めではなかったでしょうか。

数ヶ月くらい前から予約していたので、多分、発売と同時だと思います。実はこの時、全国模試で県で13番の成績をとったのです。それで強引にねだって買ってもらったのです。

そうは言っても、安いから買えたのであって、決してクラスで自慢できるような買い物ではありません。健気な庶民の精一杯の宝物でした。


録音の日時は以下のごとくで間違いないと思います

1961年4~6月
 ロンドン、ウォルサムストウ・タウン・ホール(Walthamstow Town Hall)
 プロデューサー:チャールズ・ゲルハルト(ガーハート)(RCA)
 エンジニア:ケネス・E・ウィルキンスン(DECCA)

には下記のごとく記載されております。

 Without exact release date, but released in the 60s

Recorded and Manufactured Especially for Reader's Digest by the Custom Record Division of the Radio Corporation of America

Other Versions (5 of 8) View All

1. De Negen Symfonieen Van Beethoven (7xLP + Box)         RCA, Reader's Digest, Reader's Digest   M80P, RDM 20    Netherlands     1961    

2. Las 9 Sinfonias De Beethoven (7xLP + Box)      Reader's Digest, RCA    RD4-06  Spain   1962

だそうです。今の常識から言えばずいぶんスローモーな話ですが、

だとすれば、1962年という年は妥当なところでしょう。

当時の出版事情からすれば、プレスは日本で行ったのではないでしょうか。RCAのプロデュースなので、日本ビクターかと思います。

逸匠列伝で引用している以下の行は今でも憶えています。

私たちはこの不朽の名作に対して、「王侯にふさわしい考え方」をしている指揮者に偶然出会ったのである。この九つの交響曲全曲をもう一度まとめて出そうという想念はパリの歩道に面したささやかなカフェーで生まれた。
私はルネ・レイボウィッツと一緒にモーリス・ラヴェルの「ラ・ヴァルス」と「ボレロ」の録音をやっていた。二人はコーヒーを飲みながら音楽について議論を戦わしていた。話はベートーヴェンに移った。
レイボウィッツはこう言った。

「世界で一番演奏回数の多いベートーヴェンの第五の出だしのところで、ここのところの小節が一度も正確に演奏されたことがないということに気がついたことがあるかい? それからここのところと…ここのところ」
そして48時間後には彼はベートーヴェンの交響曲の中で一般に行なわれている約六百ほどの誤りをみつけ出していた。
話し合いや手紙のやりとりを6カ月つづけたのち、私たちが「俳優としての王侯」をみつけ出したことは明らかとなったので、この劇をやらない理由はもうどこにもなかった。


Rene Leibowitz with his Ford Thunderbird in Paris (1961)


Rene Leibowitz with his Ford Thunderbird in Paris (1961)


ポーランド生まれのユダヤ人で、フランスに逃げてきたら、フランスもナチに占領されてしまって、戦争中は息を潜めていた人です。このアルバムで一財産作ったのでしょう。精一杯贅沢して、おしゃれしています。

 良かったですね。

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