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コスタンツォ・ポルタ(イタリア・ルネサンス期の作曲家)を聴く
アカペラの多重合唱は流れ行く大河の趣き。和音は多彩でうねるように連なり、ひたすら鼓膜を震わし続ける。頭蓋骨が共鳴りするようだ。保守的な作風だったとの記載があるが、聴いた感じでは決して古臭さを感じさせず、ときにロマン派的なひびきを漂わせる。
モテット5冊 a 5-8 (1555-85); ミサ曲1冊 a 4-6 (1578); 序曲2冊 a 5 (1566, 1588); マドリガル4冊 a 4-5 (1555-88); 賛美歌4冊 (1602); 別れの詩とカンテカa 8 (1605) が残されている。
どうも出世とは縁のなかった人で、学歴としてはヴェニスのサン・マルコ寺院聖歌隊の楽長であったエイドリアン・ウィラートに師事という程度。あとは生まれ育ったパドゥアの教会でほぼ一生を送ったようである。
一方で、「彼は有名な対位法の教師になっており、次世代の多くの作曲家がポルタからコントラプントの技術を学んだ」という記述もあり、その音楽家としての才能は広く認められていたようだ。どうもこのディスクレパンシーが気になる。
「晩年はパドヴァで過ごしたが、明らかに困難な時代であった。パドヴァの音楽的水準が下がり始め、さらに体調不良と、後任の作曲家の嫉妬という重荷に直面した」(Wikipedia) のである。
バロック音楽の分類と整理について
ルネッサンス音楽とバロック音楽の隙間
まずはイタリア人音楽家の大量流出、そして落ち着き先での現地音楽界の席巻。やがて現地音楽家の成長と音楽の現地化。
最後には、ルネサンス音楽(の中期)をフランドル楽派が仕切ったように、ドイツ楽派(バッハ)がバロック音楽を仕切るようになり、古典派音楽へと移行する、というようなシナリオが描けそうだ。
バロック音楽の主要な作曲家
表を見てもらえばわかるように、バロック音楽を代表する作曲家の生年は見事に揃っている。ほぼ半数が1670~1680年の20年間に収まってしまう。まさに「バロック・ブーマー」世代である。
バロック・ブーマーの先駆けとなったリュリ
フィレンツェの粉挽き職人の家庭に生まれ、音楽の専門教育を含めて、ほとんど正規の教育は受けていない。14歳で国を出て、フランス貴族の家で下男として働きながら音楽を手ほどきされる。20歳でパリに出て、バレーの公演でルイ14世の目に止まり、寵愛を受けるようになった。ルイ14世が親政を開始するとその権威はますます高まった。そして、55歳で事故死するまで実に35年にわたり、フランス音楽界の頂点に立ち続けたのである。(ウィキの記事の要約)
モンテベルディ→リュリ→コレッリの懸隔が意味するもの
ルネサンス音楽の流れ
これだけ名望があり、功なり名遂げた人が、どうしてフランドルの片田舎に骨を埋めることになったのか、なにか裏がありそうだが…
音楽の革新を目指し、ソプラノパートに明確な旋律、楽器の伴奏で支えるモノディ様式を確立。バロック音楽への橋渡しとなる。
レインゴリト・グリエールについて
ということで資料を集めようと思ったが、ろくなものはない。とりあえずウィキに毛の生えた程度のまとめで紹介しておく。
問題はベルリン・フィルの体質だ
ピアノ演奏におけるロシア楽派
「ロシアのピアニスティックな伝統」という言葉には、多くの混乱があります。この言葉は、ロシアからやってきた成功したピアニストに適用されています。それは突然現れた大道芸の達人がコンテストの賞品をかっさらうイメージを思い起こさせます。
「ほとんどのプレーヤーがそうであるように、無意識のうちに手首を硬直させることがないよう注意する必要があります。ただそれだけです」
腕の重さの使い方について、彼は次のように述べています。
「...集中的に意識することで、腕に力を入れるのではなく、力の表示を指先に移すように努める必要があります。 ...私が提案する方法は...腕を実質的にぐったりと脱力したままにします。しかし、この腕の緩みを獲得するには、細心の注意を払って数ヶ月のあいだ修行することが必要です」
ジーナ・バッカウアーは彼との共同研究をこう要約しました。「ラフマニノフと一緒に勉強することは私の人生で最も素晴らしい経験の1つでした...…彼は本当に音色の素晴らしいスペシャリストの一人でした。彼が生み出そうとしていた音のなかで、音色は最も重要なものでした。テクニックなどは二の次で、そもそも色、色、色でした」
教えるとき、彼は生徒たちに「左手の色が最も重要だった」と教えました。 「あなたは色のために練習しなければなりません」と彼は言いました。
「それぞれの色は、それぞれの指に乗ることができなければなりません。それができるようになると、演奏に本物の色が浮かび上がり、解釈はわざとらしくなくなります...…色と指のパレットを使用すると、テンポを揺らすことなく雰囲気を作り出すことができます」
ここで議論されたピアニストがお互いに賞賛をあたえ、影響を受けたことは明らかです。しかしそれとは別の、「外部」からのインスピレーションもありました。ラフマニノフとホロヴィッツはどちらも、偉大な歌手によるフレージングの影響を強く受けていました。
「私は作曲について考えるときいつも、シャリアピンと彼の歌について考えます。 彼は私の理想でした」
多くの場合、フレーズはフルトーンで始まり、美しく制御されたディミヌエンドに向かいます。そして終わりに差しかかって消えていきます。ほとんどの場合、最後は肺から排出される空気の自然法則に従って、ほとんどささやきとなります。 そのような言い回しが、最も絶妙な表現力をもたらします。
たとえばスクリャービンの練習曲嬰ハ短調、作品2の1は、作曲家が反対のマークを付けているにもかかわらず、逆ダイナミクスを意識的に選択しました。そのおかげで、ノスタルジックな感情が染み込んでいます。
しかし彼にもっと大きな影響を与えたのは、イタリアのバリトン、バッティスティーニでした。子供の頃、ホロウィッツはピアノ演奏よりもオペラや歌手にずっと興味を持っていました。
彼は後に次のように回想しています。
「そのころ私はピアニストよりも、歌手のレコードを収集していました。私はバッティスティーニとカルーソに興味があり、ピアノで歌手を真似ようとしました。それは今日でも私の演奏に当てはまります。
キーボードで最も重要なことは音色と節です。ピアノのリサイタルよりもオペラのほうがはるかに素敵です。ピアノリサイタルは退屈してしまいます。
彼らは良いオクターブ奏法、ダブルノートをやって見せます、でもそれで何ですか? それらはみな同じようにしか聞こえません。音色と節がなければ意味がありません。
私が学んだアントン・ルビンスタイン、偉大なルビンスタインも、彼の生徒たちに「人間の声の音を真似てみてください」と教えました。
ホロウィッツは続ける。
「強さと軽さ、それが私のタッチの秘密です。授業中のルビーニの声色を真似ようとして、何時間も座っていたものです」
さらに別のインタビューで、ホロウィッツは次のように説明しています。
「ルビーニはベルカント・スタイルのバリトン歌手の中で最も偉大でした。そして彼の歌のスタイルはとても自由でした。彼はいつもある音符から別の音符にスライドしていました。こんなポルタメントだらけの歌手は聞いたことがありません。
ホロウィッツはこれを「レガート・ペダリング」と呼んでいます。
「...最も重要なことは、ピアノという打楽器を歌う楽器にすることです...… 私が歌の質感を得るために用いる1つの方法は、ダンパー・ペダルを頻繁に使用することです。
あるコードから次のコードに変更するときに、ダンパーペダルが十分長く踏み込まれたままにすると、2つのハーモニーが一瞬重なります。このことでレガート・ペダリングの結果である歌唱風の質感が生成されます」
フィンガー・レガートの秘密は、ホロウィッツの言葉によれば、「前の音符を追うように、シンプルに、とてもシンプルに演奏すること」でした。
この指示は、ヨゼフ・ホフマンの意見に直接対応しています。
「レガート・スタイルで最も美しい音色は、指が鍵盤を滑走し鍵盤に「しがみついて」歌うことによって生みだされます...常に2本の指が同時にキーを押さえ、音を出している必要があります」
当然のことながら、ヨゼフ・レヴィンは根本原則の章を「美しいレガートの基礎」と名付けました。その中でも、「...常に2つの音が共鳴りする瞬間を持っている」と主張しています。
ホフマンは著書「ピアノ演奏」の1セクションを「ブレンディング」に捧げました。
「...一見異質なトーンのブレンドが、音色を特徴づけるための手段であることがたくさんあります...…ブレンディングに関連して、次のことを覚えておく必要があります。それは、ペダルは単に音色を伸ばすだけでなく、音に色付けするための手段でもあります。そしてその効果は抜群です。
ピアノチャーム(piano-charm すみません、意味不明でした)という用語で一般的に理解されているのは、ペダルを芸術的に使用することによって様々な音色が生み出されることです。
...時々、不協和音を意図的に混合することによって、奇妙なガラスのような効果を生み出すことができます。
その典型をショパンの協奏曲(アンダンテ、101、102、103小節)の刺繡のような素晴らしいカデンツァに見出すことができます。このようなブレンドは、これにさらに強弱のグラデーションを加えることで多数の効果を生み出します...」
教え子の一人、Eduardus Halimはこう語ります。
「ホロウィッツは音を重ね、ハーモニーをブレンドすることにためらうような人ではありませんでした。それは美しい効果でした...ハーモニーが空中に浮かんでいるようにさえ見えました。そのハーモニーはペダルを踏まれたときに浮かび上がる倍音の衝突に引き立てられました...」
ノイハウスの言葉を借りれば、「マルチプレーンの色調のテクスチャを作成することです。それはピアニストにとって骨の折れる事ですが、成功すればまことに満足のいく仕事です」
これは、深く浸透して突出する重い音が、軽いさらりとしたタッチと並び立つように、腕の重みを分散することによって実現されます。それは内声部を引き立たせる場合に特に効果的です。
2声部、あるいはそれ以上から構成される対位法では、旋律線の組み合わせが驚くべき「サラウンド」効果をもたらすことがあります。この場合、名画が持つ遠近感のように、各々の声部がリスナーから異なる距離にあるかのように聞こえます。 すべてのメロディーラインは同時にはっきりと聞こえ、それぞれが完全な独立性と自由をもって呼びかけ、応えます。
ラフマニノフはピアノ音楽を作曲するときに、このポリフォニック効果を念頭に置いていました。彼はホロヴィッツとともに、このテクニックの最大の開拓者でした。 変ト長調の自作の前奏曲の演奏と、彼自身の歌曲「デイジー」のピアノ転作の録音です:
私はリヒテルを尊敬しています。しかし、彼がハインリッヒ・ノイハウスによって訓練されたにもかかわらず、私はリヒテルが同じロシア・ピアニズムの伝統に属しているとは思いません。ピアニスティックで芸術的な原則の多くに関する限り、彼はむしろ異端者です。それはリヒテルがノイハウスに師事し、一人立ちする前は、主に独学だったからでしょう。
以前のレコーディングでは、彼は優秀な技術者、燃えるような情熱を持った名手として登場しました。しかしそのころ、テクスチャの密度の繊細な差別化、彼の特徴である深い「黄金の」トーンはまだ身につけていません。
バッハ(シローティ)のプレリュード ロ短調の録音は、それらを身に着けたピアニストとしての大きな進化の証です。
ここで議論されたピアニスト(この記事でロシア・ピアニズムのすべての代表者を議論することは不可能です)が、音色、色、レガート、フレージング、ペダルの使用、 内なる声など。性格の異なる数世代のピアニストが同じ原則を共有し、解釈において同じ理想を志向したのは単なる偶然でしょうか。
ホロウィッツはパデレフスキーのことを語っています。
「学生時代、まだ周りには彼と一緒に活動したり、コンサートで演奏を聞いたりした人たちがたくさんいました。私はその人たちから多くの話を聞きました。演奏を聞いた人は誰もその経験を忘れることができませんでした...
パデレフスキーもその一人でした。彼はルビンスタインを聞いたときのことを話しました。そのときパデレフスキーはまだ19歳だったのです。それはパリでの出来事でした。
当時のルビンスタインは年を取り、病気になり、目の病気、緑内障を患っていました。彼はシューマンの嬰ヘ短調ソナタを演奏しました。
パデレフスキーは、最初しばらくのあいだ、動きがひどかったと言いました。ルビンスタインはミスを連発しました。 しかし、彼がゆったりしたメロディーの第2楽章に来たとき、彼は今まで聞いたどのピアニストよりも深い感銘を与えてくれました。
「私はフェリックス・ブルーメンフェルドに師事しました。彼はアントン・ルビンスタインにピアノを、そしてチャイコフスキーに作曲を学んだのです。フェリックスはアントンの右腕でした。そして彼の演奏をあらゆる角度から心から知っていました。
ホロヴィッツは、ルビンスタインによって設立されたロシア・ピアニズムの伝統に属することを非常に誇りに思っています。
「私はウクライナで生まれ、キエフ音楽院で学んだロシアのピアニストです。私の音楽家としての精神はロシアの伝統を反映しています。あるアメリカの批評家は、私の演奏をアントン・ルビンスタインの伝統を引き継いでいると言いました。彼は正しかったと思います。
ルビンスタインの直弟子の中で最も有名なヨーゼフ・ホフマンは、私がリストのペトラッチのソネットを演奏するのを聞いて、私に言いました。「私の先生は、あなたのペダリングを気に入ったと思う」
この人物(ルビンスタイン)はロシア・ピアニズムに一つの基準をセットしました。その後の数世代の音楽家が、その基準に照らして自分自身を設定しました。彼らはみなルビンスタインの演奏スタイルの特徴となったいくつかのポイントを積極的に評価しました。これがロシア・ピアニズムの源流となったのは偶然ではありません。
ホロウィッツは自分を「最後のロマンティック」と呼ぶのが好きでした。 では、ホロウィッツを最後にロシア・ピアニズムの伝統は消滅したのでしょうか?
今日の技術環境では、多くの若いピアニストがよりロマンチックな形式の音楽表現を模索しようと頑張っています。ホロヴィッツのような素晴らしい個性を模倣しようとすることもありますが、最終的には彼らのマニエリスム(個性表現)だけに挑戦します。
最後にホロウィッツからの言葉を覚えてもらいたいと思います。
「どんな模倣でも模倣は似せ絵です。自分の力でやってみてください」
そして古い中国のことわざ引用します。
終わり
https://www.youtube.com/watch?v=WStgClQWtrw
フィッシャーの「半音階的幻想曲とフーガ」を聴いている
タカーチSQにがっかり
あのタカーチSQがなんと武蔵野ホールでコンサート、
ハイドンの鳥(抜粋)とラズモフスキーの3番なんて許せる?
鳴り始めて、思わず「ええぞ-!」
第2バイオリンのナオミちゃんがめちゃかわゆい。まるでセンターみたいに、果敢に突っ込んでくる。
「タカーチってこんなんカルテットだったんだ」とうなづきながら聞きすすめる。
武蔵野小ホールの響きも有無を言わさぬものがある。
ハイドンが終わってちょっとしたインタビューが入って、いよいよラズモフスキーが始まる。第1楽章が無難に終わり第2楽章に入り、やがて第2バイオリンのソロというところで、「なんやねん、このひとは」と驚き。思わず耳を疑った。
大枚はたいてコンサート会場まで歩いた人と違って、テレビ桟敷であぐらかいている人は容赦がない。
私としてはアルバン・ベルクなきあと、プラザ-クSQかエルサレムSQかタカーチかと思っているわけだから普通にいいんじゃ困るんだよね。
東京SQもそうだけど、こんなふうに「昔の名前で出ています」じゃ困るんですよね。グレン・ミラーやベンチャーズやこんなのに金払わされるんじゃほとんど詐欺だ。
名を惜しめ!
サヴァリッシュさん、ごめんなさい
ところでサヴァリッシュはその後1989年から91年にかけて「ロンドン・フィル」とも全集録音(EMI)を行っているが筆者はどちらかと言えばこの素朴な「ウィーン響」との旧全集に親しみを感じている。
これはフォンタナで出していたサヴァリッシュのブラームス全集に対する評価である。
自宅で一人きりで日本酒を2合ほど飲んだところ。BGMでシューベルトの「グレート」をかけている。
流石にムラムラと来た。
これは素朴な録音ではなく無惨な録音である。
フィリップスという会社が二枚舌で、その1枚でサヴァリッシュとウィーン交響楽団をなめきって、もう1枚で我らごとき貧乏学生をなめきっているという、悪夢のようなレコードだ。
たしかに1時間を超える長時間演奏をLP1枚に収めるのはもともと無理な話だ。それを1200円で売るのだからありがたい話ではある。
しかし聞こえてくるのは「へ」みたいな音ばかり。500円はたいてナガオカのサファイア針を買ってきたが音は一向に変わりばえしない。音が良くなると聞いてスプレーを買ってきて滴り落ちるほどにふりかけたが一向に変わらず、最後は石鹸をつけてスポンジで洗ったりしたが、多分悪くなっただけだろう。
当時の純朴な私は我が耳の悪さを嘆いて終わったのだが、今では分かった。駅前通りのおしるこ屋のおしるこが嫌な甘みがして、駅のトイレで吐いたときの思い出、サッカリンの毒だ。
その思いでをシュターツカペレ・ドレスデンとの演奏で洗い流している。サヴァリッシュさん、ごめんなさい。
サヴァリッシュの「未完成」交響曲
それで、勉強はとてもする気にはならず、残り少ない人生を家でグダグダとしている。目下はFLACデータベースというサイトで音楽を楽しんでいる。高音質が売りでYou Tubeの低音質に泣いていた私にはうれしい限りだ。
そこで本題にはいるが、このサイトでサヴァリッシュ指揮ドレスデン・シュターツカペレの演奏でシューベルトの交響曲全集が聞ける。1967年の東独現地録音。別にデジタルでもなく新しい録音でもなく普通なのだろうが、大変素晴らしい音が出ている。
未完成交響曲を聞いてそのあまりの美音にびっくりした。残響をたっぷりとっているが、ホールが最後まで鳴っている。この間ペテルブルクで聞いたマリインスキー劇場のようだ。
未完成というのはむかしワルターのレコードで「運命」と抱合せになっていた。その後高校に入って小遣いを貯めて買ったのがジョージ・セルの未完成だった。あまり感激した覚えはない。友達が貸してくれたミュンヒンガーの未完成は、私のセットが安物だから、どうやっても最初の低弦の音が聞こえなかった。
大学に入ってもレコードを買うようなカネはなかったから、フォンタナの安売りレコードにすがるしかなかった。その頃買ったのがサヴァリッシュとウィーン交響楽団のハ長調交響曲だった。これも音は最悪で、スピーカーの前に座布団で蓋をしているような情けない音だった。まぁ1時間を超えるような曲をLP1枚に詰め込んでいたのだから仕方ないのだろうが。
それがトラウマになったのか、サヴァリッシュというとなにか敬遠するようになっていた。
そのむかしはNHKの番組に登場して、さっそうたる指揮ぶりを披露してくれて、私なりにフアンだったのだ。一言でいうと「明晰」というのが一番ピッタリしている。しかしレコードではそのような雰囲気はさらさらなかった。
初出の時から廉価版扱いだったようです。PHILIPSにとって、サヴァリッシュはその程度の指揮者だったわけです。サヴァリッシュは、このときのPHILIPSとの専属契約は『私の長い経歴のうちでも、ひどく後悔することとなったもの』と振り返っているそうです。mitch_haganeさん
今回サヴァリッシュの演奏は、日本デビューの頃と同じく颯爽としていて、ケレン味がない。音は磨かれてつやつやとしている。とくに内声部の音がスーッと浮かび上がってくるさまは、なんとも気分が良いものだ。
おそらくギリギリまでレガートをかけて、弓を弾き切っているのだろう。ホールの特質を飲み込んだサヴァリッシュが独特の音を作り出したのだろう。そして生来のリズム感の良さが、それを崩さずに持ちこたえさせているのだろう。
ヴァントと北ドイツ放送SOの未完成に度肝を抜かれてもう20年も経つが、これもまた一つのシューベルト像であろう。それでは少しサヴァリッシュを漁ってみようか。
サヴァリッシュ+シュターツカペレ・ドレスデンのシューマンは、シューベルト交響曲全集のあと、70年代に入ってからで、残念ながらまだ著作権切れにはなっていない。
You Tubeで聞いているが、これはシューベルト以上にすごい。ひょっとするとサヴァリッシュがこのオケを世界最高のオケにまで育てたのではないかと思われてきた。よく聞いてみるとたしかに、サヴァリッシュ好みの彩り濃く切れの良い音を出すオケだ。あの頃欧州公演を果たしたN響は、たしかにこんな音を出していたように思える。
追加: シューベルトのハ長調交響曲を聴いた。私は何でもセルの演奏を基準にしているが、どちらかというとセルはシューベルトが苦手だ。
この演奏はセルよりすごいと思う。サヴァリッシュのすごいのは対旋律を必ず浮き出すことだ。ほとんど偏執的だが、それが煩わしくならないのは人徳なのだろう。
少なくともサヴァリッシュはこれでフォンタナ盤の恨みを果たしたと言える。
“フォーレ” ピアノ四重奏団のブラームスが素晴らしい
多分ヤバそうな音源だから早く見ておいたほうが良い。
Dec 2014, Toppan Hall, Tokyo
と書いてある。
これと同じ演奏家の同じ曲が2007年の発売だから、まだ現役だろうと思う。
CDの方の謳い文句は
アルゲリッチが、「彼らの演奏を聴いた人は誰でも必ずまた聴きたくなるでしょう」 と絶賛したフォーレ四重奏団の新録音。
誠にさっそうと、シンフォニックに演奏していて、ながら聞きしているとピアノ協奏曲みたいに聞こえることがある。アルゲリッチはこういうふうに演奏したかっただろうと思う。
ピアノ四重奏曲というのはそれほど多いわけではないので、四重奏曲を専門にやるアンサンブルというのもそう多くはない。むかし名前は忘れたがLP時代に四重奏団があって、やはりピアノ協奏曲っぽい雰囲気で演奏していたように記憶している。
モーツァルトをこのノリでやられるとちょっと引いてしまいそうだが、ブラームスの、とくに若書きの曲だと、これでぴったりという感じだ。(モーツァルトはクリーンとアマデウスSQで決まり)
アップされているのは第1番 ト短調 作品25 のみ.
N響の歴史的名演 “リンツ”
モーツァルトの交響曲第36番「リンツ」だが、もとは相当地味な曲だ。
取り立てて美しい緩徐楽章があるわけでもなく、取り立てて壮大なフーガがあるわけでもない。楽器編成は、「これでも交響曲と言うべきか」というくらい簡素で、どちらかといえば「ノリ」で勝負の曲だ。
それを艶っぽく、「これぞモーツァルト」というテクスチュアにして聞かせてくれた。随所に粋なひと刷毛をあしらいつつ、透明さを失わない。
まぁブロムシュテットの腕ということになるのだろうが、そのニュアンスをここまで表現できる楽団としての水準はさすがという他ない。N響の歴史的名演と呼んで良いのではないだろうか。
とにかくすごいリンツだ。カルロス・クライバー以来の衝撃だ。これは冥土の土産話になる。
どうでも良いが、池田昭子さん、相変わらずきれいだけどちょっと老けたかな。第2オーボエに回ったんだ。
洋楽レコード業界の戦後史
フルトベングラーの第9
「大戦中の緊迫感」というのは、ドイツがポーランドやユーゴ、ロシアで数十万、数百万の罪なき人々を虐殺するというジェノサイド的状況がもたらした緊迫感なのであって、到底その思いは共有できない。
カラヤンとフリッチャイのウィーン対決
「すぐ出来ますよ」と言われて、要はその間近くで待っていろということだ。
なるほど、量販店のカウンターのそばは、何かと手に取りたくなるようなものが並んでいる。飽きないといえば飽きないのだが、ついいろんなものを買わされてしまうことになる。電池とか懐中電灯とか、USBやスマートホンの小物とかである。老眼鏡や安物時計も目に飛び込んでくる。
なかでも私は、むかしの習性からか、CDやDVDのワゴンがあるとどうしても手にとってみたくなる。
「おっ!」と思わず声を上げてしまったのが、紙製のジャケットに入ったCD。なんと税抜き198円となっている。ワオっと飛びついて、一気に10枚をゲット。これで2200円だ。ひどいものだ。
と、ここまでが前フリ。
そこで買ったものの1枚がカラヤンとウィーンフィルのモーツァルト40番だ。ジャケットには録音が1960年となっている。
何回も再発を繰り返していて私もLP時代に二度買った。最初は中古で、最後は石鹸で洗ったがシャリシャリ・パチパチノイズはとれなかった。二度目はロンドンの名盤シリーズで1000円だったと思う。どちらにしてもシケた話だ。
それで盤の由来を調べてみた。
そうすると、どうも録音は60年ではなく59年らしい。59年の後半にカラヤンとウィーンフィルは半年かけて世界を一周した。日本でもあちこちで演奏したようだ。その出発前にウィーンでLP数枚分の録音を行って、今で言うプロモーションに使ったらしい。その1枚がモーツァルトの40番だ。
ネットで調べると、この盤を60年録音と記載したレコードが結構出回っている。ただしその場合は60年の何月にどこで録音したとかというデータはないので、多分59年録音盤を60年版と称して売っているだけのことだろう。
聴き比べてみると、時々クラリネットが勝手にコブシを入れるのだが、それが同じだ。
ということでこの音源の由来を調べているうちに、ネットで別の音源を発見してしまった。それが本日の主題であるフリッチャイの40番である。この録音は何月かはわからないが、同じ59年で、秋以降なことは間違いない。ムジークフェラインの大ホールでの録音だそうだ。おそらくウィーン交響楽団の秋の定期で振ったついでに録音したのであろう。
白血病になる前のフリッチャイはベルリンが本拠で、RIAS交響楽団を振ってカラヤンのベルリン・フィルと対抗していた人だ。それがわざわざウィーンまで出かけて他流試合の相手と録音を残すというのも変わった話だ。
ただこの録音についてはいろいろな思いがあったのだろうと思う。59年にこの40番を録音して2年後に同じウィーン交響楽団と41番を録音して、その次の年には亡くなっている。
まず考えられる理由は、死ぬ前にウィーンの楽団を振って40番と41番を冥土の旅の置き土産にしたかったのであろう。しかしその直前にカラヤンがウィーンフィルを振った40番が、世界のベストセラーになってしまったことが念頭になかったとは言えないだろう。
とにかく異様なまでの遅いテンポにまずは驚く。「疾走する悲しみ」どころではない。「匍匐前進」だ。
それでも第一主題はまだいいのだが、第二主題に入るともはやエンストでも起こしかねないテンポまで制動される。それというのも、第一主題がこのテンポでなければならないからだ。フリッチャイはそう主張する。そしてその主張は第一楽章の終わる頃には有無を言わせぬ説得力を持って迫ってくる。
ムジークフェラインでの録音にも拘らず音はデッド気味でマイクが近接している。それはポリフォニックな効果を生んでいる。これってセルの音作りじゃない?
そして終楽章のフーガに突っ込んでいくに従い、体中が音で満たされ、溺れていくような錯覚に包まれていくことになるのである。
この演奏を聞き終わってカラヤンをふたたび聞くと、なんとヘルベルト・フォン・チャラヤン(もちろん決してチャラくはないのだが…)
1959年における40番の、この2つのウィーン録音は、1970年のセルの東京文化会館ライブとともに、40番の演奏を語る上で欠かすことの出来ないものだろうと思う。(フルベン信者の皆さん、ごめんなさい)
蛇足だが、41番もすごい。ボディービル・コンテストに出場したモーツァルトという感じだ。ベートーベンの2.5番と言うべきか。
しかし第4楽章はぜひ聞くべきだ。「いいか悪いかじゃない。ジュピターを語るなら、まずこれを聞いてからにしてくれ!」と、フリッチャイが吠えているような気がする。録音は秀逸そのものである。グラモフォンがデッカに対抗してメラメラと燃えていた「リヒテルのチャイコン」時代だ。
「音楽/クラシック」ジャンル 記事一覧 5
6.雑
ベルリン・フィル御三家
「音楽/クラシック」ジャンル 記事一覧 4
「音楽/クラシック」ジャンル 記事一覧 3
4.指揮者
「音楽/クラシック」ジャンル 記事一覧 2
「音楽/クラシック」ジャンル 記事一覧 1
モントゥーのフランク交響曲がいい
この曲のスタンダード演奏となっているクレンペラーの演奏も、クライマックスへ向かっての追い込み感が素晴らしい。まるでワグナーの序曲を聞いているような気がする。
追加
この間テレビに有馬稲子が出ていた。山本富士子も姿をさらしている。
頼むから、テレビに出ないでほしい。とくにこういう“見た目いのち”で“性格ブス”の人は、美しさが醜さに転化する。
「歌える・踊れる」は演奏の二大条件
どこからどういうふうに金が出ているのかわからないが、とにかくめっぽうコストパフォーマンスのいいリサイタルでした。
札幌の隣町、北広島市で行われた演奏会ですが、土曜のマチネーで3千円です。隣町と言っても私の家からはとても近くて、車で1時間足らずでつきます。おまけに会場入口でスタンプを押してもらうと駐車料金がただなのです。
ふつう札幌中心部のホールに行けばタクシー代だけで往復6千円はかかるので、まことにありがたい話です。
それで演奏のほうですが、ドビュッシーの前奏曲第一と喜びの島、シューマンの子供の情景とリストの愛の夢、そして休憩後にリストの巡礼の年から「ダンテを読んで」とつながっています。
上原さんの売りは日本人初のチャイコフスキー・コンクール優勝者ということにつきます。流石にそれだけのことはあって、指回り、タッチいずれも見事なものでした。
ただ、演奏はあまり面白くはないのです。
なぜだろうと、天井を仰ぎながら考えていました。なにかリズム感がないのです。アンコールにやったくるみ割り人形の「花のワルツ」はおはこなのだろうと思いますが、どうもワルツには聞こえない。一方で「子供の情景」はメロディーラインが和音に埋もれてしまうのです。
私は音楽というのはメロディーがまずあって、それにコードが付いて曲になると思っているので、メロディーが聞こえない演奏は好きになれません。
もう一つリズムですが、こちらは音楽にとって必須ではありませんが、「ノリ」はとても大事だろうと思います。ワルツがワルツに聞こえないというのは、やはり相当問題があるのではないでしょうか。
ロシア人は一般的にリズムがだめな人が多いです。韓国の演奏家は一体にノリが良く、グルーヴ感を持っています。
日本人はどうなんでしょうか。結構いい人もいると思いますが、上原さんは若干問題がありそうな気がします。
もっと歌ってほしいと思います。そして体で踊ってほしいと思います。
そういうわけで、CDのサインセールは申し訳ないが遠慮させていただきました。
アラウのシューマン「蝶々」は聴きもの
あまりYou Tubeに音源が多いわけではないが、そこそこ聞ける。
今回聞いたのはエゴロフ、アラウ、リフテル、レイヌ・ジャノリの4種類。いずれも良い演奏だ。結局好き嫌いの話になるから、その時々の心理状況にも影響される。腕前から言えばリフテルが圧倒的で、しかもこれはコンサート・ライブだが音質テストのサンプルにしてもいいくらいのすごい音質だ。ただ、「そこまで攻め込まなきゃなんないほどの曲なの?」という感じが残る。フィナーレは明らかにやりすぎだ。
エゴロフもだいたい似たような攻め方をしていて、もっとシャープだ。レイヌ・ジャノリは私のお気に入りだから、これはもうしょうがない。
というわけで最後に、期待もせずアラウの演奏を聞き始めた。これが意外にすごい。とくにリズムのとり方が独特で、「これがシューマンの演奏じゃないの?」という感じで説得される。
Silent Tone Record/シューマン・ピアノ作品集/クラウディオ・アラウ/欧PHILIPS:6768 084/クラシックLP専門店サイレント・トーン・レコード
というページでとりあえず聞くことができる。盤起こしなのだろうか、通常のCDを越えたすごい音がする。ただし3分で切れる。
意外な取り合わせの一つかもしれない。わたしは同じような「意外な取り合わせ」としてルビンステインのシューベルトを聞いたことがある。
人間何ごともやってみなければわからないものだ。
何やら覚えにくいトリオ(ワタシ的にはメルニコフ・トリオ)
Queyras,Faust,Melnikov という三人のトリオだ。「3人だからトリオだ、何が悪い」と言われているようで、第一印象はよろしくない。「あんたらハイフェッツかオイストラフのつもりしてるんか」、とタメ口の一つも叩きたい。
名前は多国籍っぽいが例によってユダヤ系か?
しかし演奏は良いんだ。私の好きなのはボーザール・トリオで、録音曲目は限られているけどギレリス・コーガン、ロストロポービッチも良いですね。
トリオというのは音としてまとまっていないと曲としての面白さは出てこないと思う。さりとてたった3人でやるのにあまり人の顔ばかり見ていても仕方ないので、そのへんの兼ね合いなんだろうと思う。
そんでもって、そこはやっぱりピアノ弾きに仕切ってもらわないとうまくいかないでしょう。ピアノはオーケストラの代わりみたいなところがあるのだから…
それでこのトリオも、ピアノが仕切っているみたいに聞こえる。しかし誰が何を演奏しているかもわからなくて、じつに困った団体だ。むかしならレコード会社が有無を言わせず名前つけるのだろうが…
といっているうちに、ドゥムキーが終わって、つぎのファイルが始まった。
Spring Sonata/Isabelle Faust と題されている。画面は静止画面で、バイオリン弾きの女性とピアノ弾きの男性が並んでいる。女性はゲルマン系の美人でこれがファウストでしょう、男はラテンというかひょっとしてアラブ混じり。名前はメルニコフとスラブっぽい。
演奏はバイオリンのオブリガート付きのピアノ・ソナタ。そもそもそういう曲なんだからしょうがない。むかしのグリュミーを起用したハスキルの演奏もそうだった。
これにケイラスというチェロが加わってトリオになったんだね。了解。
これはギレリス・コーガンのコンビにロストロポービッチが加わったのと同じだ。ギレリスが仕切ったのと同じようにメルニコフが仕切っているのでしょう。
連中がどういうかは別にして、私の心づもりとしてはメルニコフ・トリオとして覚えておくことにしよう。
ワルトトイフェルの『愛しの彼女』が「春の川で」に
デュポンの「砂丘の家」が良い
ピアノ曲集で「砂丘にある家」という題名。1905年の発表で、作曲家の名前はガブリエル・デュポン、フランス人らしい。全10曲でたいしたメロディーもなく、寄せては返す波のような音の繰り返しだ。40~50分もそれが続くから、真面目に聞いたら飽きる。バックグラウンドで鳴っていればよいのである。
グーグルで「画像」と入れると色んな絵が出てくる。
このデュポンという人の曲で有名なのはマンドリンという歌曲。ほかには「憂鬱な時間」Les heures dolentes というピアノ曲集もあってこちらのほうがそれなりにメロディーもあって聞きやすいが、その分陰にこもって、ひたすら長いのは同じだ。
井上奈津子さんに関して
とにかくインターネットで井上奈津子と入れてもまったくヒットしない。
色々やってみて、まあとにかくイタマール・ゴランと入れたら、英語のプロファイルが見つかった。
大阪生まれで、10歳ころからフランスに渡って勉強したらしい。パリ音楽院を優秀な成績で卒業した。そこそこの入賞歴はあるがメジャーなものがないと日本のメディアは取り上げない。
それにしてもこれだけ無視されているのも珍しい。
私はヒマに任せてラベルのピアノ曲をYouTubeであさっているうちに、その名前(Natuko Inoue)を偶然見つけた。
マ・メール・ロアのピアノ連弾は効果が上がる曲なので、結構顔見せに取り上げられる。とくにコンサートで指揮者が元ピアニストだったりすると、コンチェルトのあとのアンコールに取り上げられることになる。
YouTubeではアルゲリッチとバレンボイムの同郷連弾が聞ける。
ということで、肝心の井上さんの演奏はなんとイタマール・ゴランとの共演だ。これはコンサート・ライブで、ユトレヒトで行われたジャニーヌ・ジャンセン室内音楽フェスタの一幕だ。
「これはちょっと身分が違いすぎるのでは?」と気になって調べたのだが、日本語ファイルはゼロ。
あるフェスティバルのサイトに下記のプロファイルが掲載されていた。
Natsuko Inoue was born in Osaka, Japan, where she started her musical studies. She left to France at the age of ten, continuing her education and specialization at the National Conservatory of Paris under the supervision of Georges Pludermacher, where she graduated with the prestigious 1st Prize in piano. Natsuko Inoue has been a regular participant of the most important concert venues and music festivals worldwide, such as Internationaal Kamermuziek Festival Utrecht, Festival Pablo Casals at Prades, Dubrovnik Summer Festival. She received numerous awards such as the 1st Prize of Radio France, “Maurice Ravel” Prize, 1st Prize of Steinway competition and special chamber music awards. She is currently working and performing with numerous artists and orchestras in the United States, Europe and Japan. Among them, her husband, the pianist Itamar Golan, with whom she performs together regularly at piano four hands, presenting original projects and unusual, fascinating repertoires.
ということで疑問は氷解。
これからもご健闘をお祈りいたします。
イタマール・ゴランは10年位前に衛星放送の朝のリサイタルで初めてみた。誰かバイオリンの伴奏できたのだが、バイオリン弾きのことはとんと覚えていないで、この伴奏者が記憶に焼き付いた。
伴奏のくせにゴシゴシと押し付けてきて、場合によっては食ってしまう勢いだ。「お主、やるな!」というイメージだったが、その後、来ること、来ること。日本に帰化したのではないかと思っていたら、やはりこういうことをしてたのだ。
それにしても、ゴランの記事は山ほどあるが、井上さんについては全く触れられていない。昔の2枚目役者は独身のふりをしていたが、まさかそんなことでもあるまいに…
ところで、演奏の方はとっても良い。リンクしておきます。
Ravel: Pavane pour une infante défunte & Ma mère l'oye, quatre mains
題名には井上さんの名もゴランの名も出てこないから、ヘタをすると見逃す。
映像を見ると、たしかに夫婦でないと弾けないような運指ですね。
ドビュッシーってパクっていない?
初期ドビュッシーというのはどうも変だ。ピアノ曲を経時的に聞いているとどうも納得がいかない。
そもそも作曲家としてはきわめて出発が遅い。
1880年、18歳のときにメック婦人のお抱えピアニストになり、お屋敷暮らしをした。そのときにメック夫人がドビュッシーの曲をチャイコフスキーに見せたが、「稚拙だと酷評された」とウィキには書いてある。チャイコフスキーとメック夫人との関係はこの頃からちょっと怪しくなってきていて、ドビュッシーに肩入れするメック夫人に、チャイコフスキーは面白くないものを感じていたかもしれない。
とは言え、実際に聞いてみたその曲(L.9 ボヘミア風舞曲)はたしかに稚拙と言われても仕方ないところがある。
ちなみにドビュッシーはピアノ三重奏曲をメック夫人に見せて、メック夫人は「ピアノ・トリオって良いわねえ」くらいのことを、チャイコフスキーあてに書いたらしい。
それでチャイコフスキーは、ニコライ・ルビンシュテインが死んだのを機に「偉大な芸術家の思い出」というトリオを書いたのだそうだ。ウソか本当か知らないが、そう書いてある。
84年にカンタータを書いてローマ大賞をとったというから、学才は間違いなくあるのだろうと思うが、ピアノ曲はチャイコフスキーの「酷評」後10年間発表していない。
それが1990年、いきなりまとめてドカーンと発表する。「二つのアラベスク」にはじまって、マズルカ、夢、スティリー舞曲、スラブ風バラード、ワルツ、ベルガマスクとほぼ連番でピアノ曲が並ぶ。
在庫一掃のクリアランス・セールの如きだ。
おそらく実作の年度はそうとう違うのだろう。まとめて聞いて「ドビュッシーってどんな作曲家?」とわからなくなってしまう。
だが、結局すごいのはベルガマスク、とくに月の光とアラベスクの1番だけだ。他はほぼヒラメキを感じない。さすがに稚拙とは言わないが、陳腐で凡庸だ。
たぶんドビュッシーは、作曲法というより、こういうコード進行を手に入れたのだろう。ジョアン・ジルベルトがボサノバのコード進行を発明したように。
ドビュッシーは印象派と呼ばれるのを好まず、象徴派と呼ばれたがっていたようだが、技法的に言えばスーラの点綴法みたいに分散和音を振りまいて雰囲気を出しているみたいなものだ。表現法(イディオム)なのであって、それほど高踏的な内容ではない。
調性の放棄と全音階への親和性は、論理的必然性というよりはイベリア趣味とか東洋情緒の受け入れの形で現れる。
結局、ドビュッシー的な音の世界は20世紀に入って「喜びの島」まで本格化しないのではないか。
この流れを追っていくと、どうもドビュッシーはロシアの作曲家の後追いをしているのではないかという気がしてくるのである。
端的に言えば、ドビュッシーがコード進行や音階などで新味を打ち出すとき、その数年前にロシアの作曲家が同じようなことをしているのである。
後期のリャードフ、アレンスキー。これに踵を接したラフマニノフとスクリアビンは、まさに「映像」においてドビュッシーが目指してたものではないか、そう思う。
それを、酔った勢いでいうと、記事の見出しの如くなるのである。
パガニーニのソナタ 全体像
そもそもソナタ ホ短調という曲を作品3の6という言い方が良くない。
どうもこれはMS133につけられた作品3というのは、変な話だが作品番号ではなく、ルッカソナタ集の第3集という意味らしい。
というのも、MS9のバイオリンソナタ集がルッカソナタの第1番と名付けられているからだ。そしてMS10が2番で、MS11がどういうわけか4番なのである。そこにMS133のルッカソナタ第3番がハマるとするとぴったりだ。
ルッカ・ソナタについて
それにしてもルッカソナタというのがどういうソナタなのかの説明がどこにもない。これも困ったことだ。
ホームページ作成会社のホームペーじの「息抜き」というところをクリックすると「のぶながわが人生」というホームページが現れる。この中の一つにパガニーニの紹介がある。
ここにルッカの説明があった。
パガニーニは1805年から4年間公式演奏活動を停止して愛人のところにこもっている。20歳前後のことらしい。そこがルッカというところでその間に作曲したソナタが30曲あり、これらを総括してルッカ・ソナタと言っているようだ。
で30曲。曲名としては
作品3 6曲(MS-133)
作品8 6曲(MS-134)
てなこともあるので、当面はMS番号がついているもの以外の曲は、とりあえず不明曲に分類しておくしかなさそうだ。
ドイツ局の「バイオリン3人娘」
Violin Summit with Baiba Skride, Alina Pogostkina and Lisa Batiashvili
というTV番組があって、バイオリン3人娘として売り出そうという狙いらしい。
かなり酷な番組で、否が応でも三人を比較せざるを得ないことになる。
腕前から言ってもキャリア・知名度から言ってもバティアシュビリが抜きん出ているのは分かる。彼女から見れば、こんな三人組で売り出されるのはいささか心外ではなかろうか。
アリナ・ポゴストキナは器量が良くて愛想が良いから人気はある。腕は三人の中ではちょっと落ちる(と思う)。
バイバ・スクリーデはラトビア人。日本ではまったく無名だが、ドイツではそれなりの人気のようだ。田村俊彦と近藤真彦と、もう一人誰だっけ、の人である。
腕はしっかりしている。顔はそれほどでもない。「美人ヴァイオリニスト ☆ バイバ・スクリデ」という日本語のファイル(衛星放送のエアチェック)があるが、どちらかと言えば肉体美と言うべきか。
やっぱりそうだった。
2001年のエリザベート・コンクールで、第1位がバイバ・スクリーデ(ラトビア)、第4位がアリーナ・ポゴストキーナ(ロシア)となっている。
営業とは言え、腕と顔でヒト様と比べられるのは辛いところがありますね。
モーツァルトのディヴェルティメント
ーツァルトのディヴェルティメント
すみません。まったく自分の心おぼえだけのために、このファイルをアップします。
しかも、中味は森下未知世さんのサイト「Mozart con grazia」の抜粋にすぎません。
このサイトはとても親切で、ダウンロードした曲を整理するのにとても役に立ちます。「個人的な好みを語ることは野暮である」と考える方らしく、要点をきちっと教えてくれるのがありがたいところです。
こういう方の「個人的な好みを」お聞かせ願えればとも考えますが…
ディヴェルティメントは「喜遊曲」と訳されている。ヴァラエティに富んだジャンルで、楽器編成も様々だった。
セレナードは編成がかなり大きく、8楽章が典型である。ディヴェルティメントの方は室内楽的で、6楽章が多い。「新モーツァルト全集」ではディヴェルティメントを3つのグループに分類している。
- オーケストラのためのディヴェルティメント、カッサシオン
- 管楽器のためのディヴェルティメント
- 弦楽器と管楽器のためのディヴェルティメント
しかしモーツァルトがそのような区分を意識していたとは思えず、そのときどきの事情に応じて考えていただけではないか、と思われる。
1. ディヴェルティメント 第1番 変ホ長調 K.113
1771年11月 ミラノ [A] クラリネットが使われた最初の管弦楽作品
2. ディヴェルティメント 第2番 ニ長調 K.131
1772年6月 ザルツブルク [A] 作曲の動機や目的は不明
3. ディヴェルティメント ニ長調 K.136 (125a)
1772年1?3月 ザルツブルク [A] 旧全集では弦楽四重奏曲第24番
4. ディヴェルティメント 変ロ長調 K.137 (125b)
1772年1?3月 ザルツブルク [A] 旧全集では弦楽四重奏曲第25番
5. ディヴェルティメント ヘ長調 K.138 (125c)
1772年1?3月 ザルツブルク [A] 旧全集では弦楽四重奏曲第26番
6. ディヴェルティメント 第3番 変ホ長調 K.166 (159d)
1773年3月24日 ザルツブルク [B]
7. ディヴェルティメント 第4番 変ロ長調 K.186 (159b)
1773年3月 ミラノ [B] 作曲の目的は不明。
8. ディヴェルティメント 第5番 変ロ長調 K.187 (Anh.C17.12)
モーツァルト本人の作品ではない。
9. ディヴェルティメント 第6番 ハ長調 K.188 1773年夏 ザルツブルク [B]
10. ディヴェルティメント 第7番 ニ長調 K.205 (167A) 1773年7月 ザルツブルク [C]
11. ディヴェルティメント 第8番 ヘ長調 K.213 1775年7月 ザルツブルク [B]
12. ディヴェルティメント 第9番 変ロ長調 K.240
1776年1月 ザルツブルク [B] 大司教のための食卓音楽
13. ディヴェルティメント 第10番 ヘ長調 「ロドロン・セレナード第1」 K.247
14. ディヴェルティメント 第11番 ニ長調 K.251 1776年7月 ザルツブルク [C]
15. ディヴェルティメント 第12番 変ホ長調 K.252 (240a)
1776年1?8月 ザルツブルク [B] 舞曲風4楽章。大司教の食卓音楽。
16. ディヴェルティメント 第13番 ヘ長調 K.253
1776年8月 ザルツブルク [B] ディヴェルティメントの中で唯一の3楽章作品。
17. ディヴェルティメント 第14番 変ロ長調 K.270
1777年1月 ザルツブルク [B] 大司教の食卓音楽として
18. ディヴェルティメント 第15番 変ロ長調 「ロドロン・セレナード第2」
K.287 (271H) 1777年6月? ザルツブルク [C]
19. ディヴェルティメント ヘ長調 未完 K.288 (246c) 76年6月 ザルツブルク [A]
20. ディヴェルティメント 第17番 ニ長調 「ロビニッヒ」 K.334 (320b)
1779年?80年 ザルツブルク [C] モーツァルトのディヴェルティメントの中で最も有名な作品。 第3楽章のメヌエットはよく単独で演奏されるほどポピュラー。
このページには他にも12曲の断片が収録されているが、とりあえず省略する。
ということで、ディベルティメント…番とよんでも良いのだが、K136~138が抜けてしまうのが以下のも癪なので、ケッヘルで呼ぶのが一番いいのでしょう。
ということで、管楽合奏を除いたラインアップは以下の通り。
弦楽合奏を主体とするものはK131の第2番が最初。You Tubeではセルの凛とした演奏と、マリナーのしっとりとした演奏が聞ける
K136~K138の三曲は元の「旧分類」では弦楽四重奏曲に分類されていたため、ディヴェルティメントとしての番号がついていないのだそうだ。
You Tubeではニューヨーク・クラシカル・プレーヤーズというグループの颯爽とした演奏が聞ける。
K136はモーツァルトの曲の中でももっともポピュラーなものの一つだ。
小沢と水戸室内管弦楽団の演奏が抜群だ。水戸は指揮者なしの演奏もアップされているが、聴き比べるといかに指揮者が必要かがわかる。
K247、K251、K287、K334 の4曲は立派な管弦楽曲で、4楽章にまとめればそのまま交響曲となるほどである。You Tubeではカラヤンの名演奏が聞ける。胃もたれするという向きの方にはマリナーの演奏がスッキリするかもしれない。
K563 は異質のディヴェルティメントだ。昔からグリュミオー・トリオが定番だが、Veronika Eberle, Sol Gabettaらの演奏が素晴らしい音質で迫る。
Veronika Eberle Sol Gabetta
Deucalion Projectというサイト
あまりYou Tubeの特定のサイトを宣伝して良いことはないだろうし、ひょっとして迷惑かもしれないが、素敵なサイトを見つけると一言感謝したくなる。
それがDeucalion Projectというサイトだ。日本人のサイトらしくファイル名が日本語で入っている。2016/12/30 日に登録となっているのでまだ1年未満だ。
にも関わらず膨大なリストを抱えているのは、誰かのサイトをそっくりそのまま譲り受けたかららしい。
デュカリオンというのはプロメテウスの息子だから、世のために「悪事」を引き継いだということなのか。ありがたい話だ。
再生リストにはクラシック曲が作曲家別に多数並んでいる。特徴的なのはかなり地味目の曲が拾われていること、古めの音源が多いこと、音質がブラッシュアップされていること、だ。特に最後のポイントはだいじで、かつての新潮文庫的な匂いがする。岩波でも角川でもなくてクリーム色の新潮ですよ。わかります?
これから少し潜り込んで、よさ気なものをピックアップします。
まずはモーツァルトで、196本のファイルが並ぶ。
出て来る順に紹介するとセルのクラ協。ついでカサドシュとセルのP協が21~27と続く。つぎがチッコリーニの初期ソナタで15番まで。V協はオークレールで揃える。これは泣ける。音質もみごとに磨きあげられている。
後期交響曲は誰で揃えるというわけではないが、イッセルシュテットのプラハ(59年)とジュピター(61年)は聞きものだ。Fl協はモイーズのSPだが、さすがに辛いところがある。ハスキルのP協20盤はご存知の名盤。音質は最高だ。カザルスがいくつかあるが好みの分かれるところ。
弦楽五重奏をバリリで揃えた。いまあえてという感もあるが、音は素晴らしい。フルベンがP協20の伴奏をしているが54年5月のものらしい。ひどいものだ。グリュミオーとコリン・デイビスのV協は定番。音質も素晴らしい。
ユーディナとペルルミュテールのピアノは趣味の世界。タックウェルのHr協はステレオというのが強みだが、私はブレインでよい。
25番以降の交響曲がワルターでまとめてアプロードされている。おなじみで、音質も良いのでCD持っていない人はダウンロードしておいたほうが良い。
以降は特記するものはないので端折らせてもらう。
マゼールxクリーブランドがすごい
何か8ミリ映画にとった映像を流すみたいで、絵柄も音質も「良くもこんな絵を流すな」と感動するほどのものだった。
今でも覚えているのがヴィンシャーマンとバッハ・ゾリステンのリサイタルでバイオリンとオーボエの協奏曲の第3楽章を流した場面だった。多分大阪万博ころだったと思うが、まさに鳥肌モノだった。
それからだいぶ経っていたと思うが、クリーブランドがマゼールと一緒にやってきたときの演奏会の触りをやっていた。何かロシアの管弦楽曲ではなかったかと思うが、文字通り光彩陸離たるもので、クリーブランドからこんな音が出るんだ、と感心した覚えがある。
しかしどうもこの組み合わせは長続きしなかったようで、その後いろんな人が指揮者になって、そのたびにどんどんクリーブランドの音も落ちていった。だいたい街そのものが落ち目なのだからしょうがない。ということで、音的にはマゼールの時代がクリーブランドのピークだったのではないかと思う。
そんなことがあったことも忘れていたが、本日たまたまYou Tubeでこの組み合わせのベートーベンの第1交響曲を聞いて、あまりの腕前に腰を抜かしてしまった。
もともとマゼールはこの世代でピカイチの指揮者だと思っていたが、このオケからこれだけの音を引き出すのはやはりこの人しかいなかったのではないか。ただしもう少し禁欲的でも良かったか、という気もする。極彩色だが薄っぺらい。
すこしこの組み合わせの音源を探してみて、また報告する。
「ウィーンの三羽烏」とクリーン、ブレンデル
「ウィーンの三羽烏」という言葉が以前から気になっている。
いろいろネットで調べるのだが、英語記事をふくめて満足な答えは載っていない。
この世界のことだから、かならずとんでもない物知りがいて、「それはこういうことなんだ」と微に入り細にわたり説明してくれるものだと思っていたが、もうそういうおじさん方は死んでしまったのかもしれない。
三羽烏の由来
まずは、名前の由来だが、これがよく分からない。
「三羽烏」というのはいかにも日本の言葉である。この言葉のいわれも不詳のようだが、一番納得がいきそうな説明は有馬温泉の発見の由来にカラスが登場してきて、どうもこれが語源らしい。なかなか由緒ある言葉である。
しかしこんな言葉をウィーンの人々が知るわけがない。英語で言うと「ウィーンのトロイカ」(Viennnese Troika)と言うらしい。
トロイカというのは三頭建ての馬車のことだから、日本語としてはぴったりだ。ただいまの語感だとさすがに「三羽ガラス」は古い。「トリオ」くらいで済ますのではないだろうか。
ただ、いつ、誰が名付けたのかなど、そのいわれについては英語版でも説明はない。
なぜバドゥラ・スコダ、デムス、グルダなのか
つぎに、なぜバドゥラ・スコダ、デムス、グルダの3人が三羽烏なのか。なぜワルター・クリーンやブレンデルが入らないのかということだが、これについてもはっきりした答えはない。
考えられる理由はいくつかある。
ひとつは生粋のウィーンっ子かどうかという問題だ。
まずは5人の生まれと生地を表示する。
パウル・バドゥラ=スコダ |
1927 |
ウィーン |
イェルク・デムス |
1928 |
ザンクト・ペルテン |
ヴァルター・クリーン |
1928 |
グラーツ |
フリードリヒ・グルダ |
1930 |
ウィーン |
アルフレッド・ブレンデル |
1931 |
モラヴィア |
ザンクト・ペルテンは田舎だが、文化的にはウィーンである。
https://jp.depositphotos.com/31778515/stock-photo-austria-map.html
これでみると、バドゥラ・スコダ、デムス、グルダを括るのは理にかなっている。しかしクリーンは生まれはグラーツだが学んだのはウィーン音楽院だ。ブレンデルはグラーツの音楽院ではあるが、卒業後はウィーンに出てそこで勉強している。
だから、どうも生まれや育ちを詮索するのはあまり意味があるとも思えないのである。たとえばウェルナー・ハースは31年の生まれだが、彼はシュツットガルトで生まれてらい、ずっと西向きで暮らしている。ウィーンには見向きもしていない。これなら三羽烏に入れないという判断は良く分かる。
5人の音楽家への道
このあと、この文章ではあまり分け隔てせずに、「5人組」としてみていくことにしようかと思う。
彼らはいずれも辛い少年時代を送っている。物心ついたとき、ウィーンは大恐慌の中で疲弊しきっていた。労働者よりの政策をとってきたウィーン市政は転覆させられ、失業者5割におよぶ厳しい引き締め政策がもたらされた。
彼らがウィーン音楽院に入る頃、世間はもう音楽どころではなくなっていた。1939年になるとナチがやってきてオーストリアは併合される。保守派や富裕層は喜んでナチの前に身を投げ出した。
彼らはユダヤ人の排斥にも積極的に加担した。ウィーンフィルの楽団員のうち11人が馘首された。そのうち9人が強制収容所で死亡した。
その5年後に敗北の日がやってきた。1945年3月、ウィーン中心部にも空襲があり国立歌劇場やシュテファン大寺院などが破壊された。フルトベングラーはベルリンからやってきて、エロイカの放送録音を残したあとスイスに逃げ出した。
1ヶ月後、ソ連軍がウィーンに入った。彼らは市内で略奪を繰り返したが、ドイツ人は文句を言えない。ドイツ人はソ連に攻め入り数千万人を殺害したからだ。ナチに追随したものは口をつぐんだ。
1945年、オーストリアは二度目の敗戦を味わうこととなった。以後10年にわたり4カ国占領軍に分割支配されることとなる。
キャリアのスタート
戦争に敗けたときバドゥラ・スコダが18歳、デムスとクリーンが17歳、グルダが15歳で、いずれもウィーン音楽院の生徒であった。ブレンデルはまだ14歳でグラーツの音楽院に在籍していた。ここから5人はキャリアをスタートさせることになる。
もっとも目覚ましい功績を上げたのはグルダだった。かれは46年のジュネーヴ国際コンクールに優勝する。と言うよりこれが5人組で唯一のメダルだ。
年長のバドゥラ・スコダは、47年のオーストリア音楽コンクールに優勝した。毎日コンクールに優勝するみたいなもので、「だから何さ」というレベルだ。
ウィーン音学院のピアノ科のボスはエドウィン・フィッシャー、どういうわけかミケランジェリも指導スタッフの一人だったらしい。あまりコンクールには熱心でなかったのかもしれない。
49年のブゾーニ国際コンクールではブレンデルが4位に入賞している。51年にはクリーンがおなじブゾーニで3位、何か期するところがあったのか翌年も出場するが、結局おなじ3位。
この二人は、ブゾーニ・コンクールでの4位とか3位とかがキャリアハイになっている。いまなら考えられない出発点だ。
ということで、ブゾーニ・コンクールがウィーン音学院のピアノ科にとってはトラウマになってしまったのかもしれない。最後はデームスがブゾーニに挑戦し優勝している。なんと56年になってからの話で、小学生のコンクールに高校生が参加するようなものだ。
デームスのキャリアもそれほどのものではない。ウィーン音楽院を出たあとパリに行き、マルグリット・ロンの指導を受ける。そしてロン・チボー・コンクールに出るのだが、優勝はしていない。ほかのノミニーの顔ぶれを見れば到底勝てそうもないライバルばかりだ。
キャリア的にもそれほどの差はない
コンクールの実績から言うと、グルダを除けば50歩100歩である。クリーンとブレンデルは明らかに落ちるが、ほかの二人にそれを笑うほどのテクニックがあるわけでもない。
つまり、「ウィーンのトロイカ」はレコード会社のキャンペーンではないかということだ。
ここから先は、裏付けなしの推測なので「間違っていたらごめんなさい」の世界。
アメリカにウェストミンスターというレコード会社があった。タワーレコードの宣伝文句にこんなのがある。
1949年にニューヨークで創設され、短期間に綺羅星のごとく名録音の数々を残したウエストミンスター・レーベルは、創設の中心メンバーであったジェイムズ・グレイソンがイギリス人で、もともとロンドンのウエストミンスターのそばに住んでいたことにより、「ウエストミンスター」と命名されました。
これは別の会社の宣伝。
このレーベルは49年、ミッシャ・ネイダ,ジェイムズ・グレイソン,ヘンリー・ゲイジ、そしてチェコ出身の指揮者のヘンリー・スヴォボダによりニューヨークで設立されました。
ワルター・バリリとその四重奏団,ウィーン・コンツェルトハウス弦楽四重奏団,パウル・バドゥラ=スコダ,エリカ・モリーニ,レオポルド・ウラッハ,イェルク・デムスら、ウィーンを中心とした名演奏家たちを始めとして…
この会社がいわば経済苦境に苦しむウィーンの音楽界に、言葉は悪いが底地買いに入ったわけだ。
よく「音楽の都 ウィーン」と言うが、「音楽だけは」という皮肉にも聞こえる。20世紀の初頭ウィーンは決して音楽の都ではなく、すべてにおいて都であった。
それが第一次大戦に敗れ、国土が切り刻まれる中でメトロポリスの実体を失った。借金生活が成り立たなくなり、ナチスドイツに吸収され、ふたたび第2次大戦で残されたすべてを失った。
「音楽の都」というが、音楽を聞くにも演奏するのにもお金は要る。商売できなければ音楽家もみな逃げ出す。残ったのは年老いた二流の演奏家か、駆け出しのチンピラしかいない。
しかしそこはハプスブルク以来200年の音楽の歴史と伝統がある。掘り起こして火をかき起こせば、タダ同然で「お宝」が手に入る。それが上記に掲げられた演奏家たちであろう。
成功したとは言えない「トロイカ」キャンペーン
おそらくトロイカと言っても中心はグルダだったのではないだろうか。コンクール歴を見ても、16歳でジュネーブ国際コンクール優勝というのは相当のものである。
これに比べれば、バドゥラ・スコダは「毎日コンクール」優勝くらいの経歴で、デームスはロン・チボーに出たというくらいの経歴だ。
そこでウェストミンスターは、1950年にカーネギー・ホールにグルダをデビューさせたあと、三人組のセットで若手を売り出した。「たのきん・トリオ」みたいなものだ。しかし成功したとはいえない。やがてロシアからとんでもないピアノ弾きが続出するようになると、彼らのテクニックではとても太刀打ち出来ない。
ただピアニストが一流になっていくのはコンクール向けのテクニックばかりではないので、デームスもバドゥラ・スコダも長年かかって少しづつキャリアを積み上げ、一流ピアニストに成長していく。これが伝統の力だと思う。
ウェストミンスターの計算違いは、グルダがデッカに行ってしまったことだ。1954年にグルダはデッカにベートーベンのソナタ全曲を録音している。
Vox社で実績を積み上げたブレンデルとクリーン
底地買いと言っても、ウェストミンスターはそれほどアコギな仕事をしたわけではない。むしろ高級感さえ漂わせた。商売上手である。LPの値段も決して安くはなかった。高城さんのブログで昭和28年に3200円だったと書いてある。私はまだ小学校低学年で価格など知らなかったが、中卒の初任給くらいだろうか。
米Voxは安物レコードの象徴的存在である。貧しいヨーロッパで音楽家を一山いくらで買って、安物の録音機で録音しては売りまくるという下品な商売をしていた。とは言え、こういう会社があるからこそ我々ごときもレコードに接することができたのだから、足を向けて寝られるものではない。
「レコード芸術」で曲を知って、Vox盤、あるいはソノシートで我慢するというのが青春であった。二人の連弾のハンガリー舞曲とか、パツァークの独唱にクリーンが伴奏した「水車小屋の娘」なんかを聞いた記憶がある。購入の動機は曲ではなく、その時の財布の中身と価格のバランスと勇気のあるなしであった。
とにかくそこで二人は拾われた。表通りのクラブではないが、裏通りのキャバレーで華々しく活動した。
ここからブレンデルは羽ばたいて、フィリップスのエースに成長していく。クリーンはその後は鳴かず飛ばずで、70年代の末からようやくモーツァルトを中心に評価され始めた。アマデウス四重奏団との四重奏曲は驚くべき名演だ。
NHKテレビのピアノ教室の講師になってからは、日本でも名前が売れ始めたらしい。
You TubeにN響とやったモーツァルトの23番のライブビデオが残されている。あの澄んだ美しい音がどういうタッチから紡ぎされているかが分かる。蛇足ながら若杉弘の指揮も懐かしい。
とにかく5人が5人とも録音機会や発表機会に大変恵まれていたことは間違いない。あの時期にその場所でしか生まれ得なかったチャンスであった。それを一概に幸運とはいえない、不幸と裏合わせの機会であったが、彼らが懸命に活躍し、その機会をモノにしたことは間違いないだろう。
クリスタ・ランドンとランドン時代の終わり
ここまでハイドンのピアノソナタにはまり込んで、なんでこんなことまでしなければならないのかと思う。
結局前の記事で、肝心なことが説明できていないからである。
「ウィーン原典版」(ランドン版)というのが結局混乱の元だったのだろう。
こういうことになると、日本語のネット文献はとんと無力である。
調べてみて分かったのはこういうことだ。
ハイドンという人はドイツ人として初めて大衆の支持を受けた作曲家だ。しかも大変息の長い作曲家で、ウィーンで楽譜が売れ始めたのがかなりの歳になってからだ。だから楽譜が売れる前エステルハージの時代にかなりの曲が手書きコピーで流布された。つまり海賊版がやたらと多い人なのである。だから作品目録を作るに当たっては『伝 正宗』のヤマの中から本物を探し出す作業が必要になる。
1926年生まれのアメリカ人ロビンズ・ランドンが、第二次大戦後間もなくウィーンにやってくる。まさに「第三の男」の時代だ。
彼はボストンでの学生時代、ウィーンから亡命してきたガイリンガーというハイドン研究者の講義を受けて感動していた。ウィーンに来てからは、ハイドン研究の大御所ラールセン(デンマーク人)の指導も受けていたといわれる。
溢れんばかりの才気とやる気、それにかなりの資力(パトロン)もあったんだろうと思う、たちまちのうちにウィーンとボストンにハイドン協会を立ち上げてしまった。
彼のハイドン協会は、「不幸なハイドン」のために一刻も早く全集を完成しようと奔走するが、結局それは挫折する。
やがて戦後の混乱が落ち着いてくると、ラールセンは復興資金の集まるケルンに移り、ハイドン研究を継続する。そこにはラールセンより15歳年上のホーボーケン(オランダ人)も結集した。
57年にホーボーケンが作品目録を提示した。ロビンス・ランドンは相当あせったようだ。
ランドンは妻クリスタ(5歳年上)とともにウィーンに戻った。他の研究者の協力を得て訂楽譜の編集を急ぎ、しばしばハイドン研究所より早く完成させて出版した。これがいわゆる「ウィーン原典版」である。
ピアノ・ソナタに関してはクリスタ・ランドンの名義で別目録を発表、ホーボーケンと真っ向対決の形になった。その不正確さ故に拙速の批判を浴びることがあったともいう。つまり巷の多くの『伝 正宗』を取り込んじゃったわけだ。
結局この混乱は、ロビンズ・ランドンが亡くなることで終りを迎えた。このあと「ウィーン原典版」、ランドン校訂の旧版を底本として改訂に着手し、新版ではホーボーケン番号順へ並び替えられたというから全面降伏である。クリスタ・ランドンの名は原校訂者として残されているが、その意味は定かでない。
PS
クリスタ・ランドンはほとんどネットでは紹介されていない。写真も見当たらない。
1921年、ベルリンに生まれる。父親は保守系の政治家だった。39年、クリスタが18歳のときに戦争を嫌ってウィーンに移住。そのままウィーンで終戦を迎えた。ウィーン音楽院を卒業後、当時ウィーンで創設されたハイドン協会に就職する。ベルリンなまりのきつい子だったという回想がある。
このハイドン協会というのがよく分からないが、多分ラールセンが中心となったのだろうが、アメリカからの資金提供を受けていたのではないか。ウィーンとボストンのダブルフランチャイズとなっている。そこに大学を卒業したてのロビンス・ランドンがやってくる。あるいはロビンス自身がフィクサーだったかもしれない。
クリスタは後にロビンスの二度目の妻となる。5歳年上の姉さん女房だから、傷心のランドンにとって慰め役になっていたのかもしれない。
クリスタはハイドン協会の解散後もケルンのハイドン研究所、ウィーンに立ち上げたウィーン原典版研究所と、ロビンスと行動をともにする。
彼女はウィーン原典版の発行と接して、77年になくなっている。ロビンスはその後3度めの結婚をしている。
生前はシューベルトの初期交響曲の校訂に携わったらしいが、ハイドンのピアノソナタにはほとんど研究実績がみあたらない。このことから、この大胆不敵な仕事は実のところロビンスのものではないかとも思われる。
多分、おおくの不正確さをふくんでいると思います。訂正・加筆を期待します。
ハイドンのピアノソナタ ここまでやってしまった
1947年 ボストン生まれのロビンズ・ランドン、ウィーンに軍務で赴任。ラールセンの下でハイドンの研究を始める。
1951年 楽譜は4巻まで出したあと中断。全集企画が流産する。
1968年 進まぬ作業に業を煮やしたランドンは、独自の『ウィーン原典版』の作成に乗り出す。この年に交響曲全曲の楽譜が発行される。
1972年 ハイドン研究所ゲオルグ・フェダー校訂の原典版ピアノ全集(ヘンレ社)が発刊される。
ランドンは他の研究者の協力を得て訂楽譜の編集を急ぎ、しばしばハイドン研究所より早く出版した。ランドン版に当たる第4番、第7番、第17番~19番、第21番~28番はホーボーケン版には該当するものがない。
1984年 アメリカのDover Publications 社、ペスラーの『ピアノ全集』全2巻を復刻・出版。
1994年 ロビンス・ランドンが「新発見のピアノソナタ」とした作品をめぐって論争。これらの楽曲は偽作であると結論された。
2004年 全音楽譜がハイドン:ソナタ集1、2を発行。各15曲が収録されている。いずれもホーボーケン表記を採用。ランドン表記を旧分類とする。
ハイドンのピアノソナタを聞くために
(なおオヴェ・アンスネスのソナタ集の番名は多分、「ウィーン原典版」の現行版ではなく旧版(ランドン版)を使っているのではないだろうか
一般的に言えば、ここに名前がない曲は聞く必要はないと思っていい。
なお、ウィキペディアではホーボーケン番号順に曲を並べているが、今日では意味が無いので利用しないほうが無難。ピティナの索引(全音楽譜版?)を使って一覧表を作らないとあとでひどい目にあう。
この記事は、その後180度転換されている。
2017年11月11日 ハイドンのピアノソナタ ここまでやってしまった
2017年11月11日 クリスタ・ランドンとランドン時代の終わり
をご覧いただければ理由はお分かりいただけるであろう。いまさら知らんぷりもできないので、恥をさらしておく。
通し番号記載は、今後姿を消していくであろう。
私もホーボーケン番号順に整理し直すことにする。整理し直したらもういちどブログに掲載することをお約束します。
シェーンベルク「浄められし夜」はサイトウ・キネン
どうもタバコを止めてから肉体的には多少良いが、精神的な持続性が落ちてしまったようだ。イライラと腑抜け状態が続く。
あと10年の生命、どう持たせればよいのか思案のしどころだ。
気持ちがひとところに落ち着かず蝶々のようにふわふわしている。
シェーンベルグの「浄められた夜が」演奏次第でずいぶん違う。カラヤンがどうも気に入らなくて、弦楽6重奏のテクスチャー感が出てこない。
エベーヌ四重奏団がすごく気に入ったのだが、弦楽合奏版を捨ててよいのかが気になって探してみたら、小沢指揮サイトウ・キネン・オーケストラの演奏がすごい。ただ、熱演はすごいのだが、やはりこの曲は弦楽6重奏曲だろうと思う。
ベートーベンの大フーガをフル・オーケストラで聴いても、ひたすら低音弦がうっとうしいのと同じだ。
それでなんとなしに小沢のディスコグラフィーを探していくうちに、入江美樹という奥さんが気になって、写真を探したらこんなのが出てきた。
顔はハーフだが体型は純日本風。亡命ロシア人の流れのようで、白人=上流階級ではない類(大鵬とかスタルヒンとか)の流れかもしれない。戦後の北海道にはちらりほらりと見かけたものだ。
滝川クリステルとは品格が違う。
後ろのアンちゃんがいかにも平凡パンチかJUNから抜けだしてきたみたいで、 ワタシ的にはハマってしまう。
あの頃の若者文化の憧れシーンをスカートめくりしたような気分だ。
それでその話がどうつながっていくかというと、小沢が活躍した頃のアメリカのミュージックシーンの話になって、Stu Phillipsの話に跳ぶのだ。ここがどうして跳ぶのかがよく分からない。
海馬の障害なのかもしれないし、私のブログの更新が進まない原因なのかもしれない。
とにかくこのLPが良いのだ。
ジャケットは相当いやらしい。
それでこのStu Phillips という人が、売れればなんでもいい人なのだ。
それで最大のヒット作がナイトライダーだ。ナイトは夜ではなく騎士の方のナイトらしい。いま考えればAIカーの走りだ。
多分このシリーズは見た。ハッセルホフという下品顔の俳優で“日本ハムの新庄”をさらに崩したけばい顔だ。
音楽はとんと覚えていない。今日び、こんなもの、リズムマシーンソフトでいくらでも作れる。
「見た」記憶はあるが、「さすがにここまでは」というのが
ということで、肝心なことが書いてない。
とにかく小沢征爾とサイトウ・キネンの「浄められし夜」は見ておいた方が良い。
チョ・ソンジンに度肝を抜かれる
それは英雄ポロネーズとかスケルツォの2番のようなとりとめない「駄作」から物語を紡ぎ出す、センスの絶妙さに現れています。
「嫌韓」の方にぜひ一度見てもらいたいと思います。きっと考えが変わるでしょう。
ピアノ協奏曲第1番
ピアノソナタ第2番
チョ・ソンジンは第一次予選にノクターンの作品48の1を選びました。この曲はルビンステイン風にエレジーっぽく弾くか、ポリーニみたいに行進曲風に行くかでずいぶん印象が違ってきます。
最初からずいぶん難しい曲を選んだもので、その冒険が必ずしも成功しているとは思えません、
You Tubeにはショパンコンクールで優勝したあとのベルギーでのコンサートもアップされています。正直に言えば弛緩しきっています。このままではダメでしょう。
「牧神」はモントゥーが良い
本日聞いたのはブーレーズ、モントゥー、ミュンシュ、レイボヴィッツ、カラヤンの旧盤と新盤、ラトル・BPO、ブラッソンというところ。この倍くらい音源がある。カラヤンの旧盤はツェラーのフルートというのが売りになっているが、You Tubeの音質はかなりの低レベル、新盤は85年のものらしいが、どうしようもなくうざったい。
ラトルの音源は05年の東京ライブらしい。何故か音がくぐもっている。一つひとつの音は素晴らしいのに残念だ。ブーレーズはいつもながら好きでない。嫌なやつだ。
モントゥーの録音は来日直前のものであろう、ステレオだ。デッカのおかげで素晴らしい音がとれている。ミュンシュの録音も引けをとらない。モントゥーはロンドン交響楽団、ミュンシュはボストン交響楽団で最高の技術水準だ。
レイボヴィッツはLPからの盤起こしで、音そのものは良いのだが低調の雑音が気になってしまう。
いろいろ聞いていると、この曲はフルート協奏曲ではなく、かなり指揮者次第で変わってくる曲だということが分かる。ワグナーを聞いているのではないかと錯覚することさえある。それはレイボヴィッツ盤を聴いていると良く分かる。
ということで、ミュンシュには悪いがこの曲向きではない。減点法で行くとモントゥー盤かなということになる。ブラッソンもとてもいいのだが、オケのレベルがちょっと物足りない。
まぁ今日はこんなところで。
レビコフの「秋の夢」
それなりのピアニストだったら、忌避するか大げさな響きに編曲するだろう。メロディーも月並みなセンチメンタリズムだ。
ただし、中山晋平の「波浮の港」を聞いて「あぁなんていいんだろう」と思う人にはお薦めだ。
そんなメロディーが次々と湧き出てくる。そんなレビコフの真骨頂が作品8のピアノ小曲集「秋の夢」だ。
全部で16曲からなる。まず右手のメロディがあって、左手は控えめに和音を奏でる。小学生でも演奏できそうな曲ばかりだ。
私はアナトリ・シェルデヤコフのピアノ全曲集を買ったのでそれで聞けるが、You Tubeでは全曲という訳にはいかない。というか、ほとんど聞けない。
ソメロというひとのCDも買ったが、金正恩みたいな写真のジャケットはおよそ反芸術的な雰囲気満載だ。
“Rebikov” で検索してみてください。なんとなくハマること請け合いです。
ベルグルンドのシベリウス全曲
しかも音が素晴らしい。
パーボ・ベルグルンド指揮ボーンマス交響楽団のシベリウス交響曲全集は、極めつけというほかない名盤だ。まったくもって奇跡の演奏であり録音だ。イギリスの片田舎の素人に毛が生えたような楽団のはずだが、これがベルグルンドの薫陶よろしきを得て、名指揮者と有名楽団の演奏をはるかに凌駕する世紀の名演を行ったのだ。
1970年台の録音だから、アナログだし古い。しかしアップロードするに際してすごいリマスターが加えられている。
ハムとランブルを除いて、S/N比が72dbまで向上したそうだ。聞いていると最近のDDDに勝るとも劣らない。
残念ながらビットレートは最近のYou Tubeのしばりで、AAC可変レートで128kbまでに押さえられているが、大型装置で聞いても十分耐えられる音質だ。
ついでにもう一つの演奏も紹介しておく。
同じパーヴォだが、こちらはパーヴォ・ヤルヴィ、ネーメではなくて息子の方だ。オヤジもずいぶん北欧モノを振っているが、息子もその薫陶を受けたのであろう、密かに得意としているようだ。
そのパーヴォ・ヤルヴィとパリ交響楽団との第一交響曲だ。「もういくつ寝るとお正月」が第2楽章に出てくる曲だ。冒頭のクラリネットがなんともいえずとろける。バーンステインとウィーン・フィルの演奏のときもクラリネットが素晴らしかったが、こちらは甘いショコラの風味だ。ヤルヴィはタクトを胸に押し当てたままである。
第3楽章の明快でおしゃれな感覚は、終楽章のゴージャスな音色とともに、これがシベリウスであることを忘れさせてしまうほどだ。音質も良い。ぜひご一聴をお勧めする。
なおヤルヴィの演奏にはフランクフルト放送交響楽団とのものもアップされているが、こちらは凡庸で録音のクオリティーも低い。
マルツィのドヴォルザークVCがなぜかすばらしい
ドヴォルザークのバイオリン協奏曲ですごい演奏を見つけた。
スーク・ノイマン・チェコフィルの演奏がとにかくひどい音で、聞くに堪えない。諏訪内さんの演奏も良いのだが、古いアップのためか音がくぐもる。
何かもう少し良いものがないかと探してみた。
Johanna Martzy
という、聞いたこともない女流奏者の演奏で、フリッチャイとRIASがバックをつとめている。1953年の録音らしい。
DGGの正規盤だからそれなりに由緒ある録音なのだろうが、かなり聴き込んだLP(モノ)からの盤起こしで、かなりスクラッチ・ノイズが気になる。オケの音はかわいそうなくらい貧弱だ。
SERIOSO SERIOSO さんも流石に気になったのか、同じ演奏を2ヶ月後に再アップしている。こちらは同じDGGでもヘリオドール・レーベルで違う盤のようだ。ステレオと銘打っているがもちろん疑似ステだ。もちろん、ヌヴーよりはるかに音質は良い。たぶんリマスターして出してくれれば相当の音質で聞けると思う。
とにかくバイオリンの音色に酔いしれるべき演奏だ。どこまでが演奏家の腕で、どこまでが楽器の良さなのかは分からないが、低音での繊細さと高音での天まで伸びていく輝きが有無を言わせずに迫ってくる。
クレモナの名器を使用してたらしいがさもありなんと思わせる。
気になってヨハンナ・マルツィの音源をいろいろ探してみた。一世を風靡したらしく結構な音源がある。しかし結局のところこの演奏一発の人のようだ。結局名器に足を引っぱられてしまったのか
悪くはないがちょいと臭い。ヌヴーとはレベルが違う。この人でなければという人でもない。ブルッフあたりを入れていればもう少し人気が長持ちしたのではないかと思うが。
P.S. Beulah さんという方がものすごい音質でリマスターしている。これはリマスターが専門の会社のようで、デモンストレーションとして抜粋(約10分間)がアップされている。
ロシア 音楽家たちの故郷
ロシア音楽の年表でいろいろ地名が出てきますが、どうもピンときません。
少し勉強してみました。
江戸時代もそうなのですが、俗に「偉人」という人の多くは地方出身です。地方の小エリートが都会に出て勉強し偉くなっていくというのが、この時代(封建時代)の特徴のようです。なぜそうなのか、よくわかりませんが、地方には独自の文化があってその土壌が「偉人」たちを育んだのかもしれません。地方の疲弊は国の文化の多様性を失わせ、国を衰退に導いていくのかもしれません。
それはともかく、地名を地図で探すのですが、著作権の関係なのかまともな地図にヒットしません。グーグル地図は美しくないのですが、地名検索にはこれを使うしかありません。
とりあえず全体が分かる地図を掲載します。(画面上をクリックすると拡大されます)
RUSSIA - EUROPEAN REALM
というサイトからの転載です。
19世紀の地図も探しています。
ありました。
Russland und Scandinavien (Russia in Europe and Scandinavia), 1873という地図で、ありがたいことにラテン文字表記です。
15 Mb 9345x7606 pxというすごい画像で、光通信でもダウンロードに数分を要します。(ロシアのサイトなので、向こうの問題かもしれない)
こちらは細切れにして紹介します。
1.ヴォトキンスク
まずはチャイコフスキーの生まれたヴォトキンスク。ウィキには次のように紹介されています。
ウドムルト共和国の首都イジェフスクの北東50キロメートルに位置する。カマ川の支流ヴォトカ川が流れることからヴォトキンスクという。
これって分かりますか。
これがグーグル地図です。ボルガ河畔のカザンから東北東に直線で300キロ、東京―名古屋くらいです。
道路事情にもよりますが、馬車でも5日間でしょうか。
このヴォトキンスク、1873年の地図には名前すら載っていません。相当山奥の田舎町だったようです。
もともとこのあたりはウラルの山の中で、フィン人系の先住民が住んでいましたが、鉱山が発見され、18世紀末からロシア人が入り始めたようです。
チャイコフスキーが生まれた1840年ころには文化のブの字もなかったと思います。
現在ヴォトキンスクは人口10万を数えますが、これは第二次大戦中に重工業がウラル山中に疎開したことがきっかけになっています。戦後は弾道ミサイルの生産拠点となっており、アメリカの監視要員が駐在していたこともあったようですが、その後追放されたとの報道もあります。
最近は人口減少の兆しもあり、前途はなかなか多難と思われます。
いろんなページからチャイコフスキーのボトキンスクでの生活を辿ってみます。
ボトキンスクは鉱山の町で、父イリヤは鉱山で政府の監督官をつとめる貴族でした。といっても、家系的にはウクライナ・コサックの出で、医師であった祖父の努力によって、貴族に叙せられた家系です。母アレクサンドラはフランス人の血をひく女性で、先妻が死別したための後妻です。アレクサンドラの祖父はフランス革命をさけて亡命してきたフランス人の貴族でした。
母はチャイコフスキー自身が近寄りがたいと思うほどの美人で、フランス語とドイツ語が達者な教養のある女性でした。ピアノも弾き、プロの歌手ではないけれど素晴らしい美声の持ち主だったといいます。
チャイコフスキーが幼い頃は父の稼ぎも良く、彼が4才の時フランス人女性を住み込みの家庭教師として迎えます。ファニー先生は勉強を教えるだけでなく、世界の歴史や童話や易しい小説を読んで聞かせ、いつも側にいて優しく見守ってくれていました。
モーツァルトのオペラやシュトラウスのワルツが大好きで、覚えた節を自分なりにピアノで弾いたりするなど音楽的才能はあったようですが、特別教育を受けた様子はありません。
彼は7歳でフランス語による詩を作り、オルゴールを聞いて一人泣いているような子どもだった。(8歳のときに一家でモスクワに出たあと、ボトキンスクに戻ることはなかったようです。
0~8歳までの時期というのは、強烈な印象を残しているものと思いますが、直接ボトキンスクの思い出を題材にした曲というのはないようです。
カティア・ブニアティシュビリというピアニスト
グルジア出身でおよそ30歳くらい。ヨーロッパでは大変な人気らしい。
たいしたコンクール歴もないが、ルックスが良い。豊かなバストでたまらないお色気だ。ムター人気と似通ったところがある。しかしこの人の見せ場はルックスではなく、ハリウッド女優も真っ青のパフォーマンスにある。
独奏は大したことはないが、コンチェルトになると俄然すごい。管楽器奏者の独奏場面では口には笑みをたたえ、目では睨みつける。「にっこり笑って人を斬る」眠狂四郎の趣きだ。
要するに“あんみつ姫”さながらのスーパーわがまま姉ちゃんなのだが、大きな瞳で見つめられてニッコリ微笑まれると、ついその気になってしまうというあんばい。これには男女の差はなさそうだ。
もちろん毎日一緒に暮らしたくはない。Never and Neverだ。
グリークをお勧めする。とくに終楽章はホロビッツの爆演を思い起こさせる。
ブラームス・クラ5重奏曲 イン・ザ・ムード
それをムード音楽のように演奏している人がいる。
邪道とはいえ、これが意外に良いのだ。
Clarinet Quintet in B minor, Op. 115 - Autumn mood, Johannes Brahms
というYou Tubeのファイル。
Chamber Music Society of Lincoln Center
という団体の演奏で、ライブ録音らしく終わりに拍手が入る。
クラリネットは、一瞬耳を疑うような音を出す。
しかし、それでも良いのだ。
第一楽章の第一主題はスローなワルツだ。「うーむ、そうか」と納得してしまう。
だいたいこの曲の演奏はクラリネット奏者の名で呼ぶことが多い。ウラッハ盤とかライスター盤という具合だ。しかし、この演奏ではクラリネットは5重奏の1メンバーで、タクトは第一バイオリンが握っている。
それが良いのだろう。こちらはブラームスを聞きたいので、ライスターを聞きたいわけではない。
この線で、もう少し上手いグループが演奏してくれないだろうか。
ペライアのボックスセット
マレー・ペライアのゴールドベルク変奏曲を聞いている。
ずいぶん色々聞いてきたつもりだが、やっぱりこれしかない。
と思って、ついに買う決意をした。
と思ったら、アマゾンで三種類も出ている。
① MURRAY PERAHIA THE FIRST 40 YEARS Box set
これがなんとCD73枚組で2万6千円。
流石に「うーむ」と唸る。生きているあいだに全部聞けるだろうか。
② MURRAY Perahia AWARDS Collection Box set
これはCD15枚。なんとかなりそう。値段は4234円という中途半端なお値段だ。タワーレコードでは3622円になっている。
③ MURRAY PERAHIA PLAYS BACH CD, Import, Limited Edition
これがCD 8枚。もちろんゴールドベルクも入っている。3369円。
これは②で決まりだね。
長年、ソニーで録音していたペライアがグラモフォンに移籍して、腹いせにソニーが投げ売りしているらしい。
スメタナSQ の3つのドヴォルザーク:ピアノ5重奏曲
スメタナSQ の3つのドヴォルザーク:ピアノ5重奏曲
それほどの曲とも思わないが、たまたまYou Tube で現役盤以外の二つの演奏を聞くことができた。
みんなピアニストが違うので、しゃべるには分かりやすい。
最初がシュテパンというピアニスト。これは60年代に出たスプラフォン盤らしい。
次が、1978年にヨセフ・ハラのピアノによる演奏。これは1978年11月18日、新宿厚生年金会館でのライブ録音。最後に拍手が入る。
この2枚目については「私のクラシック」というブログに経過が詳しく書かれている。
そして現在現役盤となっているのがパネンカとの共演。1996年日本でのスタジオ録音らしい。
なぜこんなことを書くかというと、私はあまりスメタナ四重奏団の演奏が余り好きでないからだ。
ゲスの趣味だが、どちらかと言えば私は朗々と歌ってほしい。
靴下の上からくすぐられても、余り感じないのである。
最初の頃、「スメタナは録音に恵まれていない」と思っていたが、そればかりでもないようだ。
それになんと言ったって、結成が1942年。ナチス支配下のプラハである。
正直言って結成(96-42=)54年を経たロートル軍団に緊張感など求めようがない。
というわけで、このやや冗長な5重奏曲を緊張感をたたえながら弾ききるのは無理だろうと思う。
聞けばわかると思うが、You Tubeでしか聞けないだろうが、60年代のシュテパンとの演奏が一番良いのだ。
シュテパンというピアニストがよいのだ。節度を保っているが、決して伴奏者の位置に留まってはいない。
どうせすぐ消えるだろうが、一応リンクはしておく。
Dvořák - Piano quintet n°2 - Smetana SQ / Stepan
Dvořák - Piano quintet op.81 - Smetana SQ / Hála
ついでに、私の好きな演奏はこちら
Dvorak, Piano Quintet No 2, Op 81, Juilliard Quartet, Rudolf Firkusny, Piano
フィルクスニーは好きなピアニストで、ドヴォルザークのピアノ協奏曲が良い。
つまりは、新世界交響曲をチェコフィルで聞くかニューヨークフィルで聞くかという趣味の問題。