鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

AALA関連記事は「aala_newsの編集日記」http://blog.livedoor.jp/aala_news/ に移りました(6Nov.2023) 中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 「ラテンアメリカの政治」(http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ )がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

カテゴリ: 71 音楽/クラシック

ルネサンス音楽と言っても半端な数ではない。おそらくそのうちで一度でも効くことができる数は限られたものであろう。
ただし聴いた範囲で分かったことがある。それはルネサンス音楽の文献を開いて出てくる作曲家が素晴らしくて、そうでないひとはチンケだとは限らないということである。
これがルネサンス音楽の面白いところで、たとえは悪いが、ガラクタ市でお気に入りを掘り出したときの喜びと似ている。
今日見つけたのはコスタンツォ・ポルタ(Costanzo Porta)というイタリアの作曲家。1528年 – 1601年となっている。結構長生きしたようだ。時代としてはパレストリーナと完全にだぶる。
教会づきの作曲家として修行を積み、名声を博したとされる。特に対位法の専門家として有名であった。
というわけで、パレストリーナと一緒に聞くチャンスが多いと思う。聞いてもらえば分かるが、パレストリーナよりはるかに劇的で迫力みなぎる。面白い。「第一旋法のマニフィカト」は冒頭ほとばしるパイプオルガンの不協和音に仰天する。
アカペラの多重合唱は流れ行く大河の趣き。和音は多彩でうねるように連なり、ひたすら鼓膜を震わし続ける。頭蓋骨が共鳴りするようだ。保守的な作風だったとの記載があるが、聴いた感じでは決して古臭さを感じさせず、ときにロマン派的なひびきを漂わせる。

 モテット5冊 a 5-8 (1555-85); ミサ曲1冊 a 4-6 (1578); 序曲2冊 a 5 (1566, 1588); マドリガル4冊 a 4-5 (1555-88); 賛美歌4冊 (1602); 別れの詩とカンテカa 8 (1605) が残されている。

どうも出世とは縁のなかった人で、学歴としてはヴェニスのサン・マルコ寺院聖歌隊の楽長であったエイドリアン・ウィラートに師事という程度。あとは生まれ育ったパドゥアの教会でほぼ一生を送ったようである。

一方で、「彼は有名な対位法の教師になっており、次世代の多くの作曲家がポルタからコントラプントの技術を学んだ」という記述もあり、その音楽家としての才能は広く認められていたようだ。どうもこのディスクレパンシーが気になる。
「晩年はパドヴァで過ごしたが、明らかに困難な時代であった。パドヴァの音楽的水準が下がり始め、さらに体調不良と、後任の作曲家の嫉妬という重荷に直面した」(Wikipedia) のである。

目下ルネサンス音楽にハマっているのだが、どうもバロック音楽との境目がよく分からない。

「聴いたまんまでしょう」と言われればそれまでだが、実は聴き込んでいくと逆に境目が流動的になる。

1.モンテヴェルディはどっちの人だっけ、
2.フランスはリュリから? それにしてもフランスは孤立しているな
3.ダウラントがルネサンスで、パーセルがバロック?
4.やはりコレルリからだと座りがいいな
5.ドイツはいきなりバッハ?
6.忘却の彼方に沈むスペイン、フランドル
7.ルネサンス音楽のように地方差を考慮に言えるべきかな

ということで、当面、以下のようにする。

1.モンテベルディは音楽的にはバロックの先駆者であるが、人脈から見るとコレルリとの間にかなりの空白があり、スクールの始祖とは言いにくい。そのままルネサンス末期に留め置く。

2.したがってバロック音楽の初代はコレルリということになる。高給を求め王宮や教会をめぐる渡り職人というキャラもコレルリにふさわしい。

3.リュリは年齢的にはその間の人だが、パリ・バロックというべき潮流の人。バロック音楽は複線で形成されたものと理解したい。

4.バロック音楽のジャンルでは実に膨大な楽曲が作られた。それだけに掘り出し物も少なくない。しかし残りの人生を考えると、やはりルネサンス音楽の方に集中したい。

barokku

ルネッサンス音楽とバロック音楽の隙間

この間、ルネサンス音楽とバロック音楽の音源を整理してみて気づいたことがある。

1.ルネサンス音楽は1600年をもって、行き詰まってしまった。

2.その背景は音楽そのものというより、ルネサンス音楽を生み出した社会そのものの衰退ではなかろうか。

3.1600年からの70年間はルネサンス音楽が、新たな社会基盤と飛躍をもとめて苦闘した時代のような気がする。

4.1670年代あたりから、生まれ変わったそれが爆発する。特徴は大衆化、ポップス化、娯楽化、華美化などである。まとめると商業化ということになろうか。
それはおそらく、イタリア・ルネサンス音楽の「モノディ化」の文脈に相当する。

5.もう一つの特徴は、それがゴールド・ラッシュにも比べられるブームだったことである。
まずはイタリア人音楽家の大量流出、そして落ち着き先での現地音楽界の席巻。やがて現地音楽家の成長と音楽の現地化。
最後には、ルネサンス音楽(の中期)をフランドル楽派が仕切ったように、ドイツ楽派(バッハ)がバロック音楽を仕切るようになり、古典派音楽へと移行する、というようなシナリオが描けそうだ。

バロック
バロック音楽の主要な作曲家

バロック音楽は「松坂世代」が作り上げた

表を見てもらえばわかるように、バロック音楽を代表する作曲家の生年は見事に揃っている。ほぼ半数が1670~1680年の20年間に収まってしまう。まさに「バロック・ブーマー」世代である。
この世代的特徴はルネサンス音楽作曲家の「ベタ」な分布と対照的である。

6.この時代の音楽を「バロック」という形で括ってしまうのは、納得がいかないのだが、このバロック・ボーイズの作り出した世界を、総じてバロックということに異論はない。クラシック音楽における「松坂世代」だ。


バロック・ブーマーの先駆けとなったリュリ

実はこの世代論的バロック音楽論に気づいたのは、この表に於けるリュリの特異性だ。

一人だけ飛び抜けて年長である。それは、この人のキャリアが極めて奇異なものであり、さまざまな僥倖が重なった結果、このようなキャラが誕生したものと見るのが妥当であろう。
フィレンツェの粉挽き職人の家庭に生まれ、音楽の専門教育を含めて、ほとんど正規の教育は受けていない。
14歳で国を出て、フランス貴族の家で下男として働きながら音楽を手ほどきされる。
20歳でパリに出て、バレーの公演でルイ14世の目に止まり、寵愛を受けるようになった。ルイ14世が親政を開始するとその権威はますます高まった。
そして、55歳で事故死するまで実に35年にわたり、フランス音楽界の頂点に立ち続けたのである。(ウィキの記事の要約)
こんな幸運が世界にそういくつもあるものではない。しかし彼を嚆矢としてイタリア人音楽家が次々に祖国を後にし、第二のリュリを目指したことは間違いない。野球で言えば野茂である。

それがバロック・ボーイズを生み出し、それが「バロック音楽」の芯になっていたのは間違いないだろう。

モンテベルディ→リュリ→コレッリの懸隔が意味するもの

ルネサンス音楽の最後でもあり、バロックの始祖でもあると言われる、モンテベルディが生まれたのが1567年。リュリとのあいだに実に65歳の年の差がある。(ただモンテベルディは相当の長生きだったので、時期的にはかぶっている)

バロック世代の長兄と目されるコレッリとリュリとの年齢も21年離れている。
 

ルネサンス音楽の流れ

むかし受験勉強していた頃、夜の11時半になると第2放送のルネッサンス音楽の時間を聞いてから寝るのが常であった。
ほとんどが馴染みのない人名と、曲名と、「異様」な響きの音楽であった。
当時は他に選択肢がなかったから仕方がなかったのだが、気持ちを落ち着かせ、眠りを誘う効果はあったと思う。
大学に合格後はとんと聞かなくなり、それらの名前も忘却の彼方へと沈んでいる。

そろそろ終末期を迎えて、一度追い込んでおこうとは思っていたが、今回はとりあえずウィキに毛の生えた程度のおさらいをしておこうかと思う。

「ルネッサンス音楽」と言う言葉には「ルネッサンス美術」のような思想性は含まれていない。

様々な定義があるが、最大公約数的な定義は「1450年頃から1600年頃までに発展した音楽」ということ。したがって、西欧の「1450年頃から1600年頃」というのがどんな時代だったかということが反映される。

ルネサンス音楽の解説には楽典的な記述が延々と続き、まことに鬱陶しい。音楽の流れを見るのにはフランドル楽派が圧倒的な影響力を持つ前半と、イタリア各地で広がるモノディ様式の後半に分ければ十分であろう。後半はイタリアだけでなくフランス、スペインにも拡大し、フランドルも影響力を保ち続けたから、途中からはむしろプレ・バロックと考えたほうが良い。



前期

1420年ころ 
デュファイ(ブルゴーニュ楽派)が、フランスの複雑なリズム、イギリスの3和声、イタリアの旋律を融合し、ルネサンス音楽の基礎を形成。
中世音楽を引き継ぎ、無伴奏の宗教合唱曲が中心。ミサ曲、モテート、シャンソンなどが作られた。おおらかなメロディと温かみのある響きが特徴。

中期

1470年ころ
北部フランスでフランドル楽派が登場。ブルゴーニュ楽派の音楽を引き継ぎ、さらに発展させた。強大な影響力で、ヨーロッパ全土を席巻する。
ジョズカン・デ・プレらが、循環ミサや対位法など、西洋音楽の基本となる様式を完成。

後期

1500年ころ
音楽の中心はフランスからイタリアに移る。ヴェネツィア楽派は2つのグループが掛け合いで曲を進行させる協奏曲スタイルを創造。

* 後期はルネサンス音楽の黄金時代である。イタリアでもローマ楽派、フィレンツェ楽派が活躍。フランドル楽派も引き続き活動した。他にイギリス、スペインなどで独自の楽派が活躍するようになった。

1545年
トレント公会議、「言葉」での音楽表現を妨げる、過剰なポリフォニー音楽を禁止。

1580年ころ
「旋律」を重視するフィレンツェ楽派が登場。「和音」を重視するフランドル楽派に代わり、主流となる。

楽器による伴奏の上に、主役のメロディがのる形式が登場。モノディ様式と呼ばれる。

終期
オペラの登場

モンテヴェルディがモノディ様式を発展させ、不協和音や半音階などを使用して曲作り。


メロディ重視の音楽は、ほぼ連続的にバロックへとつながっていく。


主な作曲家の年表

ルネサンス音楽に先立つ作曲家

ギョーム・ド・マショー Guillaume de Machaut
~1377年 没年のみ明らか。フランスのランス出身。
「ノートルダム・ミサ曲」のほか、たくさんの世俗曲を残した。


ジョン・ダンスタブル John Dunstable

~1453年 没年のみ明らか。イングランド出身。ルネサンス音楽の嚆矢という説もある。
百年戦争に従軍。3度・6度の和声(透き通らずに共鳴りする和音)をフランスに持ち込んだ。


ブルゴーニュ楽派

ギョーム・デュファイ Guillaume Dufay

~1474年 ブリュッセル近郊のベーアセル出身。フランドルで名を挙げた後、ローマで教皇庁の歌手となる。
ルネサンス音楽の3つの源泉を統合し循環ミサを完成させた。

フランドル楽派

ジョスカン・デ・プレ Josquin Des Prez

~1521年 ミラノ出身。ミラノ公、教皇庁、フランス王などに使えた後、フランドルの主任司祭となる。
ルネサンス期最大の巨匠。通模倣様式(through-imitation)を確立。通模倣様式はバッハにより完成されフーガとなる。
これだけ名望があり、功なり名遂げた人が、どうしてフランドルの片田舎に骨を埋めることになったのか、なにか裏がありそうだが…

ヴェネツィア楽派

モンテベルディ Monteverdi

音楽の革新を目指し、ソプラノパートに明確な旋律、楽器の伴奏で支えるモノディ様式を確立。バロック音楽への橋渡しとなる。
1607年 40歳で最初のオペラ「オルフェオ」初演。その後サンマルコ寺院の楽長に就任。1643年に没するまで、ヴェネツィアで活動。







グリエール 生涯と作品

ということで資料を集めようと思ったが、ろくなものはない。とりあえずウィキに毛の生えた程度のまとめで紹介しておく。


1875年 レインゴリト・グリエール(Reinhold Moritzevich Glière)、ウクライナのキエフに生まれる。
父はザクセン生まれのドイツ人でプロテスタント。
ロシアに移住しポーランド人の管楽器製造職人の徒弟となった。主人の娘と結婚しグリエールをもうけた。
生下時の名はReinhold Ernest Glier、どこにもロシアの血も文化もない。フランス風な綴りは本人が勝手につけたもの。
1891 年にキエフ音楽学校に入学、94年にモスクワ音楽院に進んだ。タネーエフやアレンスキーなどに師事した。スクリャービンやラフマニノフと同世代となる。
1900 年に卒業し、一幕のオペラものの作曲で金メダルを獲得した。モスクワの音楽学校の教職に就き、併せて私教師としてミャスコフスキーとプロコフィエフを教えた。
タネーエフの引きでベリャーエフ・サークルのゲストメンバーとなる。
1905年から1908年にベルリンで研修、クーセヴィツキーと知己を得た。1912年にはグリンカ賞を獲得しているが、どうも作曲の水準よりも人脈の豊富さで出世していったように見える。
1913年、郷里キエフに設立された音楽院の教授となる。在任中にロシア革命が勃発した。
革命後のモスクワ音楽院から招聘され、1920年から1941年まで教鞭を執った。ここでハチャトリアンらを教えた。
1927年、バレー音楽「赤いケシ」を発表し人気を博した。これは政治宣伝による効果が大きかった。
彼は文化人の論争には一切関与しなかった。そのためソビエト政権下で苦しんだ多くの作曲家から、憤りを買った。


下記の記事についていろいろご意見を頂いている。


どうもいろいろ不快な思いをさせたようで、大変申し訳なく思っている。

それぞれの奏者の腕前については、私は何も言うことはないし、読み返しても確認できる。とはいえ、ライスターを悪者に仕立てたのはとんだ勇み足であった。

マイヤーの話もムターの話も、それ自体を問題にしているわけではない。

ただ、ベルリン・フィルの長期低落傾向について思いを致すとき、「カラヤン+御三家の長期体制、そしてベルリン・フィルの体質が関係しているのではないのか?」というのが、正直な感想である。

ベルリンの壁崩壊後に、ベルリン・フィルの特殊な(政治的)存在意義の希薄化をもたらした。しかしベルリン・フィルの体質にも問題はなかったろうか。

フルトベングラーがニキシュの後任として常任指揮者に就任したとき、ベルリンの音楽界はクレンペラーとワルターが分け合っていた。ともにユダヤ人である。

その5年後にワインガルトナーがウィーンフィルを去ったときフルトベングラーが後任となった。マーラーの後継者たちはここでも排除された。

有力候補と見做されながら、団員投票ではユダヤ人マゼールは選ばれなかった。バーンステインに至っては言わずもがな。ところでアバードってどんな人だっけ?

もう一つが男社会。ウィーフィルの女嫌いは有名だが、カラヤンのDVDを見ると、ベルリンフィル(あの頃)でも女性は全面排除されている。大相撲並みである。



日本では「ロシア・ピアニズム」という言葉が普及しているので、それに合わせます。著者は、自身が若手の有望なピアニストのようです。

はじめに

「ロシアのピアニスティックな伝統」という言葉には、多くの混乱があります。この言葉は、ロシアからやってきた成功したピアニストに適用されています。それは突然現れた大道芸の達人がコンテストの賞品をかっさらうイメージを思い起こさせます。

そして、セルゲイ・ラフマニノフやスビアトスラフ・リヒテルとは異なる美的原則を持つピアニストも、同じ「偉大なロシアの学校」の代表者であると見做されることがよくあります。

この用語の本当の意味を発見するために、私はこの伝統に属していた演奏家たちに共通する、ピアニスティックな特徴を見ていきます。

セルゲイ・ラフマニノフ、ヨゼフ・レヴィン、ヨゼフ・ホフマン、ウラディミール・ホロヴィッツ、ハインリッヒ・ノイハウスなどのピアニストの録音の遺産に触れてみましょう。さっと聴いただけでも、これらのピアニスト全員が絶妙に美しい音色を持っていたことが明らかになります。

 この分野での彼らの信じられないほどの成功は、ピアノを歌わせるときの響きと音色(singing tone and colour)が、世代とこえて引き継がれ、育て上げられたことによるものでした。


ヨゼフ・レヴィンたちの演奏術

 ヨゼフ・レヴィンは、著書「ピアノフォルテ演奏の基本原則」の中でひとつの長い章を書き、それを「美しい音色の秘密」に捧げました。そこでは、「鳴り響く歌う」音色をどのように達成するかを説明しています。

「最初の主要原則は、可愛らしい、鳴り響く、歌う音が必要な場合、キーが指のなかでもできるだけ柔らかく、弾力性のある部分で触れられるようにすることです...

指を爪のところからさかのぼって最初の関節に行きます。そこから少し後ろに戻ると、そこには肉のクッションがあって、弾力性があり、抵抗力が低く、しなやかであることがわかります。古いヨーロッパのいくつかの演奏法も示唆していますが、指先ではなく、指のこの部分でキーを叩くのです...」

 彼はまた、良い音色を生み出す上で、自由な手首と腕が果たす役割の重要性を強調しています。

「...非常に柔軟に保持された手首は、手と腕の重力だけでキーを鍵盤の底まで運ぶことができます。そのとき、打撃の感覚はまったくありません」

そして

「...手が下がるとき、指腹のできるだけ広い面をキーにかみ合わせます。手首は非常にリラックスしているため、通常はキーボードの高さより下まで沈みます」

この最後の一節は、ホロヴィッツの有名な「フラット・フィンガー=ロー・リスト」技法が独特かつ奇妙なものではなく、歌のトーンの理想を追求するための必然的な行いであること、それはこの伝統の不可欠な部分であった、という事実を証明するものとして、特に興味深いものです。

ヨゼフ・ホフマンもこうアドバイスしています。
「ほとんどのプレーヤーがそうであるように、無意識のうちに手首を硬直させることがないよう注意する必要があります。ただそれだけです」
腕の重さの使い方について、彼は次のように述べています。
「...集中的に意識することで、腕に力を入れるのではなく、力の表示を指先に移すように努める必要があります。 ...私が提案する方法は...腕を実質的にぐったりと脱力したままにします。しかし、この腕の緩みを獲得するには、細心の注意を払って数ヶ月のあいだ修行することが必要です」

ハインリッヒ・ノイハウスもそれを彼の著書「ピアノ演奏の芸術」で非常に雄弁に述べています。「飛び出す準備ができていること、自分の前の兵士のように」

 

ロシア・ピアニズムと「音色」

 セルゲイ・ラフマニノフも音色に関心を持っていました。
ジーナ・バッカウアーは彼との共同研究をこう要約しました。「ラフマニノフと一緒に勉強することは私の人生で最も素晴らしい経験の1つでした...…彼は本当に音色の素晴らしいスペシャリストの一人でした。彼が生み出そうとしていた音のなかで、音色は最も重要なものでした。テクニックなどは二の次で、そもそも色、色、色でした」

これは、技術の性質に関するホロウィッツの言葉と非常によく似ています。

「...しかし、私には驚異的なテクニックはありません。私の指はキーボードを急速に上下させます。たしかにそれも必要ですが、2、3分も聞き続ければとても退屈になります...ピアノという楽器は、大きな音から小さな音まで可能です。しかし、演奏される多くの音はその間にあります。それらのさまざまな音を出すことができるようにすること、今ではそれをテクニックと呼んでいます。それが私がやろうとしていることです」

私たちにとって幸いなことに、ホロウィッツは長生きしたので、高度な最新の機器で演奏が録音されました。彼が楽器にもたらす素晴らしい色彩効果の証拠が不足することはありません。

教えるとき、彼は生徒たちに「左手の色が最も重要だった」と教えました。 「あなたは色のために練習しなければなりません」と彼は言いました。
「それぞれの色は、それぞれの指に乗ることができなければなりません。それができるようになると、演奏に本物の色が浮かび上がり、解釈はわざとらしくなくなります...…色と指のパレットを使用すると、テンポを揺らすことなく雰囲気を作り出すことができます」

 

フレージング: ピアノの音と人間の声

明らかに、ピアノで「歌う」技は、たんに美しい音を生み出す能力に還元することはできません。歌の質を達成する上で最も重要なのは、これらの音をフレーズに統合することです。

ここで議論されたピアニストがお互いに賞賛をあたえ、影響を受けたことは明らかです。しかしそれとは別の、「外部」からのインスピレーションもありました。ラフマニノフとホロヴィッツはどちらも、偉大な歌手によるフレージングの影響を強く受けていました。

ラフマニノフは、交響的舞曲のリハーサル中にフィラデルフィア管弦楽団に演説したとき、次のように述べています。
「私は作曲について考えるときいつも、シャリアピンと彼の歌について考えます。 彼は私の理想でした」

フョードル・シャリアピンとラフマニノフのフレージングの明らかな類似点の1つは、特定の音楽の音節を強調して長くし、他の音節を短くすることです。これにより、メロディーラインに自然なスピーチのような趣きが与えられます。

多くの場合、フレーズはフルトーンで始まり、美しく制御されたディミヌエンドに向かいます。そして終わりに差しかかって消えていきます。ほとんどの場合、最後は肺から排出される空気の自然法則に従って、ほとんどささやきとなります。 そのような言い回しが、最も絶妙な表現力をもたらします。

ウラディミール・ホロヴィッツはしばしばこのようなフレーズを愛用し、ときには作曲家の節回しや強弱の表現に反することさえありました。
たとえばスクリャービンの練習曲嬰ハ短調、作品2の1は、作曲家が反対のマークを付けているにもかかわらず、逆ダイナミクスを意識的に選択しました。そのおかげで、ノスタルジックな感情が染み込んでいます。

ホロヴィッツもまた、シャリアピンを大いに賞賛しました。そしてしばしばラフマニノフを喜こばそうとして、彼の歌をパロディ化しました。

しかし彼にもっと大きな影響を与えたのは、イタリアのバリトン、バッティスティーニでした。子供の頃、ホロウィッツはピアノ演奏よりもオペラや歌手にずっと興味を持っていました。

彼は後に次のように回想しています。
「そのころ私はピアニストよりも、歌手のレコードを収集していました。私はバッティスティーニとカルーソに興味があり、ピアノで歌手を真似ようとしました。それは今日でも私の演奏に当てはまります。
キーボードで最も重要なことは音色と節です。ピアノのリサイタルよりもオペラのほうがはるかに素敵です。ピアノリサイタルは退屈してしまいます。
彼らは良いオクターブ奏法、ダブルノートをやって見せます、でもそれで何ですか? それらはみな同じようにしか聞こえません。音色と節がなければ意味がありません。
私が学んだアントン・ルビンスタイン、偉大なルビンスタインも、彼の生徒たちに「人間の声の音を真似てみてください」と教えました。
ホロウィッツは続ける。
「強さと軽さ、それが私のタッチの秘密です。授業中のルビーニの声色を真似ようとして、何時間も座っていたものです」


ペダリングとレガートの芸術

さらに別のインタビューで、ホロウィッツは次のように説明しています。
「ルビーニはベルカント・スタイルのバリトン歌手の中で最も偉大でした。そして彼の歌のスタイルはとても自由でした。彼はいつもある音符から別の音符にスライドしていました。こんなポルタメントだらけの歌手は聞いたことがありません。
私はそれが好きだった。ピアノでやってみます。あなたはペダルでそれを行うことができます。私はいつもそうやっています」

ホロウィッツはこれを「レガート・ペダリング」と呼んでいます。

「...最も重要なことは、ピアノという打楽器を歌う楽器にすることです...… 私が歌の質感を得るために用いる1つの方法は、ダンパー・ペダルを頻繁に使用することです。
あるコードから次のコードに変更するときに、ダンパーペダルが十分長く踏み込まれたままにすると、2つのハーモニーが一瞬重なります。このことでレガート・ペダリングの結果である歌唱風の質感が生成されます」

このペダリングの原理は、レガートの品質を向上させるだけでなく、ピアノ音の「響きの寿命」を大幅に延ばす効果もあります。そうしないと、打楽器ではすぐに音が消えてしまい、歌曲に必要な音のラインを維持できなくなります。

上記の演奏を、ショパンの夜想曲作品9 No. 3 を演奏する「私の音楽の祖父」ハインリッヒ・ノイハウスの演奏と比較してください。 ホロウィッツとノイハウスという二人のピアニストは、ノイハウスの叔父であるフェリックス・ブルーメンフェルドによって手ほどきを受け、のちにアントン・ルビンスタインに師事しました。だから同じようなレガートが出現するのは偶然ではありません。


ただし、このペダル・レガート効果は、適切なフィンガー・レガートの代わりにはなリません。それは、フィンガー・レガートの効果に追加されたものです。

フィンガー・レガートの秘密は、ホロウィッツの言葉によれば、「前の音符を追うように、シンプルに、とてもシンプルに演奏すること」でした。

この指示は、ヨゼフ・ホフマンの意見に直接対応しています。
「レガート・スタイルで最も美しい音色は、指が鍵盤を滑走し鍵盤に「しがみついて」歌うことによって生みだされます...常に2本の指が同時にキーを押さえ、音を出している必要があります」
当然のことながら、ヨゼフ・レヴィンは根本原則の章を「美しいレガートの基礎」と名付けました。その中でも、「...常に2つの音が共鳴りする瞬間を持っている」と主張しています。


音のブレンディング

ペダルには別の芸術的な使用法があります。それがブレンディングです。それはとても特別な色彩効果を生み出すことができます。

ホフマンは著書「ピアノ演奏」の1セクションを「ブレンディング」に捧げました。

「...一見異質なトーンのブレンドが、音色を特徴づけるための手段であることがたくさんあります...…ブレンディングに関連して、次のことを覚えておく必要があります。それは、ペダルは単に音色を伸ばすだけでなく、音に色付けするための手段でもあります。そしてその効果は抜群です。

ピアノチャーム(piano-charm すみません、意味不明でした)という用語で一般的に理解されているのは、ペダルを芸術的に使用することによって様々な音色が生み出されることです。
...時々、不協和音を意図的に混合することによって、奇妙なガラスのような効果を生み出すことができます。
その典型をショパンの協奏曲(アンダンテ、101、102、103小節)の刺繡のような素晴らしいカデンツァに見出すことができます。このようなブレンドは、これにさらに強弱のグラデーションを加えることで多数の効果を生み出します...」

ホロウィッツは絶妙なペダリングが賞賛された演奏家です。彼は教え子たちと一緒に多くの時間を費やしました。

教え子の一人、Eduardus Halimはこう語ります。
「ホロウィッツは音を重ね、ハーモニーをブレンドすることにためらうような人ではありませんでした。それは美しい効果でした...ハーモニーが空中に浮かんでいるようにさえ見えました。そのハーモニーはペダルを踏まれたときに浮かび上がる倍音の衝突に引き立てられました...」


音の層のフィーチャリング(差別化)

ロシア・ピアニズムが持つ非常にユニークなテクニックは、音楽の質感をさまざまな密度と色のポリフォニックな素材に分割することです。それはこの楽派の保有する最も優れた機能です。

ノイハウスの言葉を借りれば、「マルチプレーンの色調のテクスチャを作成することです。それはピアニストにとって骨の折れる事ですが、成功すればまことに満足のいく仕事です」

これは、深く浸透して突出する重い音が、軽いさらりとしたタッチと並び立つように、腕の重みを分散することによって実現されます。それは内声部を引き立たせる場合に特に効果的です。

2声部、あるいはそれ以上から構成される対位法では、旋律線の組み合わせが驚くべき「サラウンド」効果をもたらすことがあります。この場合、名画が持つ遠近感のように、各々の声部がリスナーから異なる距離にあるかのように聞こえます。 すべてのメロディーラインは同時にはっきりと聞こえ、それぞれが完全な独立性と自由をもって呼びかけ、応えます。

偉大なロシアのピアニストたちはこの魔法の能力を培い、芸術の形にまで高めました。
ラフマニノフはピアノ音楽を作曲するときに、このポリフォニック効果を念頭に置いていました。彼はホロヴィッツとともに、このテクニックの最大の開拓者でした。 変ト長調の自作の前奏曲の演奏と、彼自身の歌曲「デイジー」のピアノ転作の録音です:

ホロヴィッツの考える「ラフマニノフの音」を知りたいときは、彼の最初のピアノ協奏曲の録音の第2楽章に進んでください。

このパフォーマンスを、たとえばスビアトスラフ・リヒテルの演奏と比較してみよう。すると、フレージング方法と内声部の扱い方など、リヒテルのピアニズムが古い世代のピアニストとはかなり異なっていたことがすぐにわかります。
私はリヒテルを尊敬しています。しかし、彼がハインリッヒ・ノイハウスによって訓練されたにもかかわらず、私はリヒテルが同じロシア・ピアニズムの伝統に属しているとは思いません。ピアニスティックで芸術的な原則の多くに関する限り、彼はむしろ異端者です。それはリヒテルがノイハウスに師事し、一人立ちする前は、主に独学だったからでしょう。

一方、ノイハウスのもう一人の偉大な生徒であるエミール・ギレリスは、キャリアの後半になってからこの声部の差別化のテクニックを意識的に開発しました。

以前のレコーディングでは、彼は優秀な技術者、燃えるような情熱を持った名手として登場しました。しかしそのころ、テクスチャの密度の繊細な差別化、彼の特徴である深い「黄金の」トーンはまだ身につけていません。
バッハ(シローティ)のプレリュード ロ短調の録音は、それらを身に着けたピアニストとしての大きな進化の証です。


アントン・ルビンスタインの芸術

ここで議論されたピアニスト(この記事でロシア・ピアニズムのすべての代表者を議論することは不可能です)が、音色、色、レガート、フレージング、ペダルの使用、 内なる声など。性格の異なる数世代のピアニストが同じ原則を共有し、解釈において同じ理想を志向したのは単なる偶然でしょうか。
芸術がこれらのミュージシャンの測定の標準であった一人の男がいました。 アントン・ルビンスタインの名前は、彼ら全員のために特別な魔法を持っていました。 ヨゼフ・ホフマンは幸運にも彼と一緒に勉強し、後に「ルビンスタインが私に遊び方を教えてくれた方法」に関する章を書きました。

ラフマニノフは、ルービンスタインからのレッスンを受けていませんでしたが、彼の有名な歴史的コンサートで演奏するのを聞きました。「...ルービンスタインの芸術は私の想像力を征服し、間違いなく私のピアニスティックな形成に大きな役割を果たしました...私は聞いていました。 ラフマインの秘密のひとつにペダルを踏むことは、彼自身が「ペダルはピアノの魂である」と非常に適切に表現しました。それはすべての人に大いに役立つでしょう。 ピアニストはそれを覚えています。」

ヨゼフ・レヴィンはラフマニノフと同じ頃、ルビンスタインを聴きました。それ以来、ルビンスタインを生涯の理想と仰ぎ、演奏を続けてきました。 

ホロウィッツはルビンスタインを聴いていません。ルビンスタインはホロヴィッツが生まれる10年前に亡くなりました。でもホロヴィッツは彼の名前に敬意されるのを聞いて育ちました。そして彼の演奏の思い出を聞くことにとても熱心でした。

ホロウィッツはパデレフスキーのことを語っています。
「学生時代、まだ周りには彼と一緒に活動したり、コンサートで演奏を聞いたりした人たちがたくさんいました。私はその人たちから多くの話を聞きました。演奏を聞いた人は誰もその経験を忘れることができませんでした...
パデレフスキーもその一人でした。彼はルビンスタインを聞いたときのことを話しました。そのときパデレフスキーはまだ19歳だったのです。それはパリでの出来事でした。
当時のルビンスタインは年を取り、病気になり、目の病気、緑内障を患っていました。彼はシューマンの嬰ヘ短調ソナタを演奏しました。
パデレフスキーは、最初しばらくのあいだ、動きがひどかったと言いました。ルビンスタインはミスを連発しました。 しかし、彼がゆったりしたメロディーの第2楽章に来たとき、彼は今まで聞いたどのピアニストよりも深い感銘を与えてくれました。

ホロヴィッツは自分自身を「ルビンスタインの孫弟子」と呼びました。
「私はフェリックス・ブルーメンフェルドに師事しました。彼はアントン・ルビンスタインにピアノを、そしてチャイコフスキーに作曲を学んだのです。フェリックスはアントンの右腕でした。そして彼の演奏をあらゆる角度から心から知っていました。

ホロヴィッツは、ルビンスタインによって設立されたロシア・ピアニズムの伝統に属することを非常に誇りに思っています。

「私はウクライナで生まれ、キエフ音楽院で学んだロシアのピアニストです。私の音楽家としての精神はロシアの伝統を反映しています。あるアメリカの批評家は、私の演奏をアントン・ルビンスタインの伝統を引き継いでいると言いました。彼は正しかったと思います。
ルビンスタインの直弟子の中で最も有名なヨーゼフ・ホフマンは、私がリストのペトラッチのソネットを演奏するのを聞いて、私に言いました。「私の先生は、あなたのペダリングを気に入ったと思う」

これらの引用からも、アントン・ルビンスタインがロシアのピアニストの伝統の発展にどれほど深く影響したかは明らかです。

ロシア・ピアニズムは消滅したのか?

この人物(ルビンスタイン)はロシア・ピアニズムに一つの基準をセットしました。その後の数世代の音楽家が、その基準に照らして自分自身を設定しました。彼らはみなルビンスタインの演奏スタイルの特徴となったいくつかのポイントを積極的に評価しました。これがロシア・ピアニズムの源流となったのは偶然ではありません。

これらの偉大な演奏家は、強烈な音楽的個性にもかかわらず、ロシア・ピアニズムの一員として認識されています。

 ホロウィッツは自分を「最後のロマンティック」と呼ぶのが好きでした。 では、ホロウィッツを最後にロシア・ピアニズムの伝統は消滅したのでしょうか?

今日の技術環境では、多くの若いピアニストがよりロマンチックな形式の音楽表現を模索しようと頑張っています。ホロヴィッツのような素晴らしい個性を模倣しようとすることもありますが、最終的には彼らのマニエリスム(個性表現)だけに挑戦します。

最後にホロウィッツからの言葉を覚えてもらいたいと思います。
「どんな模倣でも模倣は似せ絵です。自分の力でやってみてください」
そして古い中国のことわざ引用します。
「師の足跡をたどろうとしてはならない。そうではなく、彼が求めていたものを探せ」

終わり

ハイルディノフの演奏はここで見ることができます。
https://www.youtube.com/watch?v=WStgClQWtrw

いまはエド・ウィン・フィッシャーの演奏するバッハの「半音階的幻想曲とフーガ」を聴いている。
この曲、この演奏は東京オリンピックの頃ラジオの深夜放送で聴いたとばかり思っていたが、どうも違うようだ。

受験勉強のギヤーが本格化したのはオリンピックのちょっと前である。
この頃の私はかなり追い込まれて悲惨な状況であった。学年順位が三桁まで落ち、数学と物理が完全にお客さん状態に入っていた。

新聞部ではかなり睨まれ、「學テ特集」号は紙面の半分が白紙の状態で強行発行した。

学校から帰るとまず一眠り、その後ダラダラして8時から勉強が始まる。そして11時半になると、第二放送をつけてクラシック音楽を聞き始めるのがルーチンだった。

クラシックと言ってもルネッサンスからせいぜいバロックまでだから、お経を聴いていたようなものだ。

いまでも中身はほとんど覚えていない。オルランド・ラッソとかジョスカン・デュプレとか、いまでも名前しか知らない人たちのマドリガルを流していた。

その番組で皆川達夫さんの解説でこの演奏を聞いたように覚えていたが、今ネットを探してみると、そんなことはありえない。

皆川さんはそれからしばらくしてFM放送で解説を始めたから、そちらを聴いた記憶が連動しているようだ。

あの頃はすごい演奏だと思ったが、今聞くとかなりあらっぽい。バッハの演奏はむかしからロシア人と決まっているようで、リヒテル、ニコラエーヴァ、ソコロフも良いが、いまはころりオフをスタンダードとしている。

グールドは良くも悪しくも異端だ。本人もそう思っているはずだ。そこを考え違いしてもらっては困る。

今朝は早起きして衛星放送。
あのタカーチSQがなんと武蔵野ホールでコンサート、
ハイドンの鳥(抜粋)とラズモフスキーの3番なんて許せる?
一般 5,500円 友の会 4,800円
25歳以下 1,000円
て、ほとんど犯罪的。
タカーチ弦楽四重奏団 - 遊びをせんとや生まれけむ - ギリシアの遺跡を訪ねて
鳴り始めて、思わず「ええぞ-!」

第2バイオリンのナオミちゃんがめちゃかわゆい。まるでセンターみたいに、果敢に突っ込んでくる。
「タカーチってこんなんカルテットだったんだ」とうなづきながら聞きすすめる。
武蔵野小ホールの響きも有無を言わさぬものがある。
ハイドンが終わってちょっとしたインタビューが入って、いよいよラズモフスキーが始まる。第1楽章が無難に終わり第2楽章に入り、やがて第2バイオリンのソロというところで、「なんやねん、このひとは」と驚き。思わず耳を疑った。
大枚はたいてコンサート会場まで歩いた人と違って、テレビ桟敷であぐらかいている人は容赦がない。
私としてはアルバン・ベルクなきあと、プラザ-クSQかエルサレムSQかタカーチかと思っているわけだから普通にいいんじゃ困るんだよね。

東京SQもそうだけど、こんなふうに「昔の名前で出ています」じゃ困るんですよね。グレン・ミラーやベンチャーズやこんなのに金払わされるんじゃほとんど詐欺だ。
名を惜しめ!



あるブログにこう書いてあった。
ところでサヴァリッシュはその後1989年から91年にかけて「ロンドン・フィル」とも全集録音(EMI)を行っているが筆者はどちらかと言えばこの素朴な「ウィーン響」との旧全集に親しみを感じている。
これはフォンタナで出していたサヴァリッシュのブラームス全集に対する評価である。
自宅で一人きりで日本酒を2合ほど飲んだところ。BGMでシューベルトの「グレート」をかけている。
流石にムラムラと来た。

これは素朴な録音ではなく無惨な録音である。

フィリップスという会社が二枚舌で、その1枚でサヴァリッシュとウィーン交響楽団をなめきって、もう1枚で我らごとき貧乏学生をなめきっているという、悪夢のようなレコードだ。

たしかに1時間を超える長時間演奏をLP1枚に収めるのはもともと無理な話だ。それを1200円で売るのだからありがたい話ではある。
しかし聞こえてくるのは「へ」みたいな音ばかり。500円はたいてナガオカのサファイア針を買ってきたが音は一向に変わりばえしない。音が良くなると聞いてスプレーを買ってきて滴り落ちるほどにふりかけたが一向に変わらず、最後は石鹸をつけてスポンジで洗ったりしたが、多分悪くなっただけだろう。
当時の純朴な私は我が耳の悪さを嘆いて終わったのだが、今では分かった。駅前通りのおしるこ屋のおしるこが嫌な甘みがして、駅のトイレで吐いたときの思い出、サッカリンの毒だ。

その思いでをシュターツカペレ・ドレスデンとの演奏で洗い流している。サヴァリッシュさん、ごめんなさい。

相変わらず帯状疱疹は痛い。ズキズキ痛いのとヒリヒリ痛いのが別個に攻めてくる。空襲と艦砲射撃が交替に(ときに重なって)やってくるようなものだ。ただ悶絶するような灼熱痛発作は起きなくなった。「魔の三角地帯」は燃え尽きつつあるようだ。

それで、勉強はとてもする気にはならず、残り少ない人生を家でグダグダとしている。目下はFLACデータベースというサイトで音楽を楽しんでいる。高音質が売りでYou Tubeの低音質に泣いていた私にはうれしい限りだ。

そこで本題にはいるが、このサイトでサヴァリッシュ指揮ドレスデン・シュターツカペレの演奏でシューベルトの交響曲全集が聞ける。1967年の東独現地録音。別にデジタルでもなく新しい録音でもなく普通なのだろうが、大変素晴らしい音が出ている。

未完成交響曲を聞いてそのあまりの美音にびっくりした。残響をたっぷりとっているが、ホールが最後まで鳴っている。この間ペテルブルクで聞いたマリインスキー劇場のようだ。

未完成というのはむかしワルターのレコードで「運命」と抱合せになっていた。その後高校に入って小遣いを貯めて買ったのがジョージ・セルの未完成だった。あまり感激した覚えはない。友達が貸してくれたミュンヒンガーの未完成は、私のセットが安物だから、どうやっても最初の低弦の音が聞こえなかった。

大学に入ってもレコードを買うようなカネはなかったから、フォンタナの安売りレコードにすがるしかなかった。その頃買ったのがサヴァリッシュとウィーン交響楽団のハ長調交響曲だった。これも音は最悪で、スピーカーの前に座布団で蓋をしているような情けない音だった。まぁ1時間を超えるような曲をLP1枚に詰め込んでいたのだから仕方ないのだろうが。

それがトラウマになったのか、サヴァリッシュというとなにか敬遠するようになっていた。

そのむかしはNHKの番組に登場して、さっそうたる指揮ぶりを披露してくれて、私なりにフアンだったのだ。一言でいうと「明晰」というのが一番ピッタリしている。しかしレコードではそのような雰囲気はさらさらなかった。

初出の時から廉価版扱いだったようです。PHILIPSにとって、サヴァリッシュはその程度の指揮者だったわけです。サヴァリッシュは、このときのPHILIPSとの専属契約は『私の長い経歴のうちでも、ひどく後悔することとなったもの』と振り返っているそうです。mitch_haganeさん


今回サヴァリッシュの演奏は、日本デビューの頃と同じく颯爽としていて、ケレン味がない。音は磨かれてつやつやとしている。とくに内声部の音がスーッと浮かび上がってくるさまは、なんとも気分が良いものだ。

おそらくギリギリまでレガートをかけて、弓を弾き切っているのだろう。ホールの特質を飲み込んだサヴァリッシュが独特の音を作り出したのだろう。そして生来のリズム感の良さが、それを崩さずに持ちこたえさせているのだろう。

ヴァントと北ドイツ放送SOの未完成に度肝を抜かれてもう20年も経つが、これもまた一つのシューベルト像であろう。それでは少しサヴァリッシュを漁ってみようか。

サヴァリッシュ+シュターツカペレ・ドレスデンのシューマンは、シューベルト交響曲全集のあと、70年代に入ってからで、残念ながらまだ著作権切れにはなっていない。

You Tubeで聞いているが、これはシューベルト以上にすごい。ひょっとするとサヴァリッシュがこのオケを世界最高のオケにまで育てたのではないかと思われてきた。よく聞いてみるとたしかに、サヴァリッシュ好みの彩り濃く切れの良い音を出すオケだ。あの頃欧州公演を果たしたN響は、たしかにこんな音を出していたように思える。

追加: シューベルトのハ長調交響曲を聴いた。私は何でもセルの演奏を基準にしているが、どちらかというとセルはシューベルトが苦手だ。
この演奏はセルよりすごいと思う。サヴァリッシュのすごいのは対旋律を必ず浮き出すことだ。ほとんど偏執的だが、それが煩わしくならないのは人徳なのだろう。
少なくともサヴァリッシュはこれでフォンタナ盤の恨みを果たしたと言える。



がすばらしい。You Tubeでアップされている。
多分ヤバそうな音源だから早く見ておいたほうが良い。

Dec 2014, Toppan Hall, Tokyo
と書いてある。

これと同じ演奏家の同じ曲が2007年の発売だから、まだ現役だろうと思う。

CDの方の謳い文句は
アルゲリッチが、「彼らの演奏を聴いた人は誰でも必ずまた聴きたくなるでしょう」 と絶賛したフォーレ四重奏団の新録音。

誠にさっそうと、シンフォニックに演奏していて、ながら聞きしているとピアノ協奏曲みたいに聞こえることがある。アルゲリッチはこういうふうに演奏したかっただろうと思う。

ピアノ四重奏曲というのはそれほど多いわけではないので、四重奏曲を専門にやるアンサンブルというのもそう多くはない。むかし名前は忘れたがLP時代に四重奏団があって、やはりピアノ協奏曲っぽい雰囲気で演奏していたように記憶している。

モーツァルトをこのノリでやられるとちょっと引いてしまいそうだが、ブラームスの、とくに若書きの曲だと、これでぴったりという感じだ。(モーツァルトはクリーンとアマデウスSQで決まり)








アップされているのは第1番 ト短調 作品25 のみ.

今、聞き終わったところだが、すごい腕前だと思う。
モーツァルトの交響曲第36番「リンツ」だが、もとは相当地味な曲だ。
取り立てて美しい緩徐楽章があるわけでもなく、取り立てて壮大なフーガがあるわけでもない。楽器編成は、「これでも交響曲と言うべきか」というくらい簡素で、どちらかといえば「ノリ」で勝負の曲だ。

それを艶っぽく、「これぞモーツァルト」というテクスチュアにして聞かせてくれた。随所に粋なひと刷毛をあしらいつつ、透明さを失わない。

まぁブロムシュテットの腕ということになるのだろうが、そのニュアンスをここまで表現できる楽団としての水準はさすがという他ない。N響の歴史的名演と呼んで良いのではないだろうか。
とにかくすごいリンツだ。カルロス・クライバー以来の衝撃だ。これは冥土の土産話になる。
どうでも良いが、池田昭子さん、相変わらずきれいだけどちょっと老けたかな。第2オーボエに回ったんだ。

洋楽レコード業界の戦後史

この文章は下記の論文の要約・紹介である。
著者の生明さんはかなりの洋番マニアらしく、うんちくを披露している。生明さんには申し訳ないが、そちらのほうが面白い。
詳細・正確に知りたい人はリンク先へどうぞ。

広島経済大学経済研究論集 第31巻第4号 2009年3月


1.レコード生産の再開と社名復活

昭和20年10月、占領軍は蓄音機やレコードの生産を許可した。

日本を代表する2つのレコード会社、日本コロムビアと日本ビクターは、戦争中に横文字名称禁止令を受けて、それぞれ日蓄工業と日本音響株式会社に解消していた。

戦災を免れた日蓄工業(日本コロムビア)は、早くも10月、ポータブル蓄音機の生産・販売を再開した。また邦楽レコード(SP盤)も生産を開始した。

さらに12月には、洋楽のポピュラー盤,翌46年1月には洋楽のクラシック盤も発売を開始した。

日本音響株式会社(日本ビクター)は工場・倉庫が戦災で焼失したために遅れを取った。

しかしコロムビアの工場にレコード盤のプレスを委託して、昭和21年9月には邦楽の発売に漕ぎ着ける。

それより前、昭和20年12月には日本ビクターの名称に復している。また日蓄工業も昭和21年4月に日本コロムビアに戻した。

2.コンテンツの不足

この段階での音源は、戦前に支給された古い原盤を使用した再発売に過ぎなかった。

昭和20年12月、日蓄工業はアンドレ・コストラネッツ楽団の「ビギン・ザ・ビギン」と「眼に入った煙」(煙が眼にしみる)のカップリング盤を発売したが、
原盤は戦前にアメリカ・コロムビアから支給されていたものである。

昭和21年1月から発売されたクラシック盤も,ワインガルトナー,メンゲルベルク,ワルターなど戦前のコロムビア盤の再発売だった。

3.ライセンス制度への移行

コロムビア,ビクター両社とももとはCBS,RCAの子会社であったが、戦争中は完全に資本関係を断絶していた。

戦後も日本の厳しい保護政策のもとで戦前への復帰は困難であり、RCAとCBSの洋楽2大メジャーは経営を止めたままであった。そこで見いだされたのが「米国吹込み原盤輸入契約」制度であった。

昭和22年にコロンビアが米CBS・コロムビアと,ビクターは少し遅れて昭和25年に,米RCA ビクター社とライセンス契約を交わした。

4.初期のヒット曲…ポップス

昭和24年9月、コロムビアはポピュラー音楽は従来のM盤シリーズに代わりL盤シリーズが発売され、米国の戦後の作品が紹介されるようになった。

うんちく ①
L盤シリーズとは L1000番からのレコード番号が使われたからそう呼ばれるようになったものである(L盤の Lは,Limitedの Lという説と,M盤より1ランク上の Lという説がある)。

いっぽうビクターは、 S 盤シリーズを設けてポピュラーのヒット曲の発売を開始した。S 盤の S は Specialの S といわれる。

このコロンビアの L盤とビクターの S 盤は、 SPレコードの時代における洋楽ポップスの源泉となった。

初期の L盤からはダイナ・ショアの「ボタンとリボン」などの大ビットが生まれ,S 盤からはプレスリーの連続ヒットなどが生まれた。

5.初期のヒット曲…クラシック

コロムビアは昭和24年,新契約に基づく初の新譜として,ワルター指揮ニューヨーク・フィルのベートーヴェンの「運命」を発売した。

ビクターも昭和25年8月,ハイフェッツとビーチャム指揮のロイヤル・フィルによるメンデルスゾーンのバイオリン協奏曲を発売した。

以後両者が毎月新譜を発売するという体制が整った。


6.第三勢力とライセンス制(戦前)

戦前、ビクターとコロムビアは,原盤使用のためのライセンス契約は結んでいなかった。なぜなら両者は実質的には海外企業の日本支社だったからである。

両社は昭和2年に洋楽の原盤を持ち込んでプレスをするようになった。

これに対抗する勢力となったのがポリドールとキングレコードである。

日本ポリドール蓄音器商会は、独ポリドールの輸入を扱っていた阿南商会等が設立した、日本資本の会社だった。

大正15年、阿南商会の阿南正茂と,銀座十字屋の鈴木幾三郎がドイツに渡り,ポリドールの製造元であるドイツ・グラモフォンと折衝した。

その結果、ドイツ原盤の日本におけるレコード製造・販売について許可された。このライセンス契約に基づいて、昭和2年に会社が立ち上げられた。

これに続いたのがキングレコードである。
キングレコードは昭和11年(1936)に講談社のレコード部門として独立した。このときテレフンケンとのライセンス契約を結んだ。

テレフンケンは1932年にウルトラフォンという会社を引き継いで生まれた。グラモフォンやコロム
ビアには及ばなかったものの,ベルリン・フィルやアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団などのオーケストラ,ベートーヴェンの交響曲などをカバーしていた。

このことから、キングレコードはビクター,コロムビア,ポリドールに次ぐ第4勢力となった。

うんちく ②
生明さんのうんちくはポリドール、キングに続くというか続けなかった勢力も取り上げている。
日東蓄音器株式会社は西日本の雄と言われたが、ライセンス契約が不調に終わり、命運尽きたらしい。
東京レコード製作所は昭和9年、アメリカのジャズ・コード「ラッキー」と契約し評判となったが、社長が死亡しコロンビアに吸収された。
この他にも西宮市の内外蓄音器商会、名古屋のツルレコードという会社が洋盤をライセンス生産している。
さらにドイツの会社の日本支社というかたちで、は日本パーロフォン,日本オデオンという会社も存在したらしい。

7. アメリカン・ポップス黄金期

1950年代は、アメリカン・ポップスの黄金期であった。それらの音楽はレコードだけではなく,進駐軍のラジオ放送,朝鮮戦争に赴くミュージシャンたちのライブ公演を通じても流れ込んだ。

音楽も含めアメリカ文化の影響力は圧倒的で、レコード市場でも大きな比重を占めるようになった。

日本コロムビアのL盤,日本ビクターのS盤だけにとどまらず、多くのライセンス契約が締結され,アメリカのヒット曲が日本でも続々と発売された。

戦前からのキング,ポリドール,テイチクに、53年レコード事業を開始した東芝も加わり、6社の競争体制となった。

アメリカ側のレコード会社はあまりに煩雑なため省略する。原文をお読みいただきたい。

ヒット曲も量産された。
男性歌手ではペリー・コモ,ナット・キング・コールなど。
女性歌手ではペギー・リー,ダイナ・ショア,ジョー・スタッフォード,ドリス・デイなどである。

8.ジャズなどの発展と群小レーベルの割拠

1940年代から60年代にかけてはアメリカのジャズの発展期・隆盛期でもあった。多くのジャズ専門のレコード会社が誕生し,後世に残る名演名盤を送り出した。

代表的なレーベルを設立順に挙げると,ブルーノート,アトランティック,プレスティッジ,リバーサイド,ヴァーヴ,インパルスなど。

ロックンロールも誕生した。ビル・ヘイリー、チャック・ベリーやリトル・リチャードなどが一つのジャンルを築いた。そしてプレスリーがブレイクして大スターになった。

その後ブリティッシュ・ロックが盛んとなり、ビートルズ、ローリング・ストーンズなどが生まれる。

アメリカでは哲学的なメッセージとクラッシック音楽を土台とするプログレッシブ・ロックが大きな影響を与えた。

黒人層の音楽が白人にも受け入られるようになり、メジャー化した。リズム・アンド・ブルースがソウル・ミュージックになり、70年代のディスコサウンドにつながって行く。(このくだりは「へぇ?」)

さらに1960年代のフォークソングも一つのウェーブとして浮かび上がった。その中心にいたボブ・ディランはロック歌手に変身する。

これらのレーベルはマッチのラベルのごとく多様で錯綜している。もはやオタクの世界であるので、ここでは省略する。

9.日本と欧米レーベルの整理統合

70年代に入るころから、アメリカのレコード産業に変化が生まれてきた。ポピュラー音楽のレーベルが少しずつ統合され始めた。

そしてWEA、MCA 、ポリグラムの3社の誕生につながった。これに戦前からのCBS コロムビア,RCA ビクター,EMIを加えたビッグ・シックスが覇を競う時代となった。

この頃日本は戦後成長から高度成長に移行し、62年には貿易自由化,63年には為替自由化,1967年からは資本自由化に踏み切った。

この中で世界のビッグ・シックスと日本がどう組み合わさっていくのかが問われる。

順に見ていくと、最初は1968年CBS レコードとソニーとの合弁だった。翌年には東芝音楽工業が英国EMI、キャピトルと合弁して東芝EMIが生まれる。日本グラモフォンはドイツ・グラモフォンとの合弁会社となった。

以下列挙すると
松下電器+日本ビクター+フィリップスで日本フォノグラム
パイオニア+渡辺プロダクション+ワーナーの顔ぶれで,ワーナー・パイオニア
日本ビクター+RCA の折半出資によるアール・ブイ・シー
日本ビクター+MCAの合弁でMCAビクター

という形で、 6つの世界のメジャーの合弁化が完成したことになる。
この間のゴタゴタで、日本コロンビアとキングレコードが提携先を失い没落した。日本コロンビアは2017年に上場廃止。キングレコードは2000年にクラシック盤の供給を停止。レコード会社としては健在。

キングレコードとライセンス関係を結んでいた英デッカも80年にポリグラムに買収され、ポリグラムはシーグラムに買収され、ユニバーサル・ミュージックの傘下に入る。

以下略

フルトベングラーのまともな録音

信者にはとても嫌みな演題であろうが、やはり気になる。
他になければ我慢して聞くのだが、同じ曲に対していくつも音源があると、その中のどれを聞けばいいのかと、普通の素人は思う。しかし困ったことに、信者はそれが答えられないのだ。
しかも困ったことに、この音源は論外という結論も出せないのだ。
だから、結局私のような素人が入っていて判断するしかない。

一番の問題は第九である。

まず、音源がいくつあるのかを明らかにしなければならない。ついでそれらをリマスターしなければならないのだが、もちろんそれは原理的には無限にあるのだが、一応メインに流布されているエディションを総ざらえしなければならない。

そのためには、まず権威あるあるいは、ありそうな文献によって整理しなければならない。

思い出すと、かつて私はそれをやったことがあるのだ。それが「ウラニア盤のエロイカ」だ。

多分、第九の整理はもっと大変だろうと思う。

まずは「フルトベングラー  第九 録音」と入れてグーグル検索だ。

最初にヒットしたのが、タワーレコードのサイト。
https://tower.jp/article/feature_item/2018/10/17/1114

TAHRA原盤 フルトヴェングラー4つの”第九”が最新リマスタリングで蘇る!

という記事だ。

冒頭の文が以下の通り。

フルトヴェングラーの第9は、亡くなるまでの17年間に13種類の録音があります。

これを聞いただけで早くも戦意消失する。

ただその後救いの手が差し伸べられる。

その中でも特筆すべき演奏はつぎの4種。

それは

1.1942年3月 『ベルリンの第九』
「大戦中の緊迫感に満ちた劇的な爆演」だそうだ。

2.『ストックホルムの第九』
大戦中にストックホルム・フィルに客演した「凄演」だそうだ。

3.『1952年ウィーンの第九』
至高絶美の演奏で彼のベストではないか、と評されている。

4.1954年のルツェルン音楽祭公演
「最晩年の深い思索と境地を感じさせる感動的名演」だそうです。

ということ、まず音源的にはこれに絞っていいのだろうが、史上最も人口に膾炙されている51年のバイロイトがここには入っていないので、これを

5.1951年、バイロイトでのライブ録音
として付け加えておくことにする。

ただし私の個人的思いではあるが、フルトベングラーほど第9にふさわしくない音楽家はいないと思う。
「大戦中の緊迫感」というのは、ドイツがポーランドやユーゴ、ロシアで数十万、数百万の罪なき人々を虐殺するというジェノサイド的状況がもたらした緊迫感なのであって、到底その思いは共有できない。
ヒトラー賛美と民族浄化の進軍ラッパを吹きながら、戦後もいけしゃあしゃあと「芸術」活動を展開し続けた男に賛辞を送る気分にはならない。
藤田嗣治の戦争画を「緊迫感に満ちた劇的な美しさ」とは言えないだろうし、広島の上空に立ち上ったきのこ雲の悪魔的な美しさを、肯定的に眺めることは難しいだろう。


話せばちょっと長いのだが、腕時計の電池が切れて近くの量販店に交換に行ったのだ。
「すぐ出来ますよ」と言われて、要はその間近くで待っていろということだ。
なるほど、量販店のカウンターのそばは、何かと手に取りたくなるようなものが並んでいる。飽きないといえば飽きないのだが、ついいろんなものを買わされてしまうことになる。電池とか懐中電灯とか、USBやスマートホンの小物とかである。老眼鏡や安物時計も目に飛び込んでくる。
なかでも私は、むかしの習性からか、CDやDVDのワゴンがあるとどうしても手にとってみたくなる。

「おっ!」と思わず声を上げてしまったのが、紙製のジャケットに入ったCD。なんと税抜き198円となっている。ワオっと飛びついて、一気に10枚をゲット。これで2200円だ。ひどいものだ。

と、ここまでが前フリ。

そこで買ったものの1枚がカラヤンとウィーンフィルのモーツァルト40番だ。ジャケットには録音が1960年となっている。
何回も再発を繰り返していて私もLP時代に二度買った。最初は中古で、最後は石鹸で洗ったがシャリシャリ・パチパチノイズはとれなかった。二度目はロンドンの名盤シリーズで1000円だったと思う。どちらにしてもシケた話だ。

それで盤の由来を調べてみた。
そうすると、どうも録音は60年ではなく59年らしい。59年の後半にカラヤンとウィーンフィルは半年かけて世界を一周した。日本でもあちこちで演奏したようだ。その出発前にウィーンでLP数枚分の録音を行って、今で言うプロモーションに使ったらしい。その1枚がモーツァルトの40番だ。

ネットで調べると、この盤を60年録音と記載したレコードが結構出回っている。ただしその場合は60年の何月にどこで録音したとかというデータはないので、多分59年録音盤を60年版と称して売っているだけのことだろう。

聴き比べてみると、時々クラリネットが勝手にコブシを入れるのだが、それが同じだ。

ということでこの音源の由来を調べているうちに、ネットで別の音源を発見してしまった。それが本日の主題であるフリッチャイの40番である。この録音は何月かはわからないが、同じ59年で、秋以降なことは間違いない。ムジークフェラインの大ホールでの録音だそうだ。おそらくウィーン交響楽団の秋の定期で振ったついでに録音したのであろう。

白血病になる前のフリッチャイはベルリンが本拠で、RIAS交響楽団を振ってカラヤンのベルリン・フィルと対抗していた人だ。それがわざわざウィーンまで出かけて他流試合の相手と録音を残すというのも変わった話だ。

ただこの録音についてはいろいろな思いがあったのだろうと思う。59年にこの40番を録音して2年後に同じウィーン交響楽団と41番を録音して、その次の年には亡くなっている。

まず考えられる理由は、死ぬ前にウィーンの楽団を振って40番と41番を冥土の旅の置き土産にしたかったのであろう。しかしその直前にカラヤンがウィーンフィルを振った40番が、世界のベストセラーになってしまったことが念頭になかったとは言えないだろう。

とにかく異様なまでの遅いテンポにまずは驚く。「疾走する悲しみ」どころではない。「匍匐前進」だ。

それでも第一主題はまだいいのだが、第二主題に入るともはやエンストでも起こしかねないテンポまで制動される。それというのも、第一主題がこのテンポでなければならないからだ。フリッチャイはそう主張する。そしてその主張は第一楽章の終わる頃には有無を言わせぬ説得力を持って迫ってくる。

ムジークフェラインでの録音にも拘らず音はデッド気味でマイクが近接している。それはポリフォニックな効果を生んでいる。これってセルの音作りじゃない?

そして終楽章のフーガに突っ込んでいくに従い、体中が音で満たされ、溺れていくような錯覚に包まれていくことになるのである。

この演奏を聞き終わってカラヤンをふたたび聞くと、なんとヘルベルト・フォン・チャラヤン(もちろん決してチャラくはないのだが…)

1959年における40番の、この2つのウィーン録音は、1970年のセルの東京文化会館ライブとともに、40番の演奏を語る上で欠かすことの出来ないものだろうと思う。(フルベン信者の皆さん、ごめんなさい)

蛇足だが、41番もすごい。ボディービル・コンテストに出場したモーツァルトという感じだ。ベートーベンの2.5番と言うべきか。
しかし第4楽章はぜひ聞くべきだ。「いいか悪いかじゃない。ジュピターを語るなら、まずこれを聞いてからにしてくれ!」と、フリッチャイが吠えているような気がする。録音は秀逸そのものである。グラモフォンがデッカに対抗してメラメラと燃えていた「リヒテルのチャイコン」時代だ。

5.室内楽

何やら覚えにくいトリオ(ワタシ的にはメルニコフ・トリオ)
2018-01-27 11:03:37 

パガニーニ弦楽四重奏団について
2017-08-02 23:59:32 

ハーゲン四重奏団の動画が面白い
2014-02-10 00:53:09

イ・ムジチの 「リュートのための古代舞曲とアリア」
2012-04-26 11:09:45


デュメイ・ピレシュとジャン・ワンのブラームス
2017-02-20 00:49:06 

マルツィのドヴォルザークVCがなぜかすばらしい
2017-08-27 23:04:14 

スメタナSQ の3つのドヴォルザーク:ピアノ5重奏曲
2017-08-10 00:24:03 

ギレリス・トリオの「偉大な芸術家の思い出」
2016-11-21 00:16:15 

コーガンとギレリスの「春」
2015-01-21 22:26:04 

前橋汀子のパルティータはエクスタシー
2012-10-15 23:47:54

ペイエとカピュソン四重奏団のブラームスは感心しない
2013-03-25 00:20:38
ケルン室内管弦楽団のバッハがいい
2014-11-07 22:18:08

マーラー ピアノ4重奏はプラザーク
2014-04-05 22:48:39

このメンデルスゾーンはレジェンドだ
2014-02-20 23:52:13

エベーヌ四重奏団のシッチャカメッチャカ
2014-02-20 00:27:16

バシュメットの音源
2011-05-08 23:55:25

アマデウスSQの名録音
2011-07-30 23:26:43

Werner Hinkのバッハ
2012-03-28 21:29:16

日本の女性バイオリニスト
2012-03-23 23:59:28
ヒラリー・ハーンが意外に良い
2012-02-29 20:57:49

弦楽四重奏はタカーチとプラジャーク
2012-02-20 23:51:09



6.雑

RCA交響楽団について
2012-01-09 20:52:17

シンフォニア・オブ・ロンドン という楽団
2013-12-07 16:26:58

プロアルテ管弦楽団
2014-02-02 15:20:04
ベルリン・フィル御三家
2013-09-15 23:22:52

ライスターが嫌いになること請け合い
2015-11-12 00:12:16 

レジスタンスの影の指導者 デゾルミエール
2014-05-09 12:42:35

ロジェ・デゾルミエールについて
2014-05-08 10:28:25

クラウディオ・アバド: 筋金入りの左翼ヒューマニスト
2014-01-23 17:04:28
チャイコフスキーから Lover, come back to me へ
2013-12-30 22:32:09

CDの爆買い
2016-01-17 00:38:14 

なぜ、ドイツでは変ロがB、ロがHなのか
2016-10-08 10:29:33 

ブログ記事一覧表 05 音楽
2015-06-25 23:00:13 

「歌える・踊れる」は演奏の二大条件
2018-06-17 22:49:49 

ドイツ局の「バイオリン3人娘」
2017-12-21 14:22:23 

Deucalion Projectというサイト
2017-12-18 22:00:50 

超絶的指揮者を見た
2015-09-07 00:01:27 
YouTube に初アップ
2015-08-30 23:52:52 

池田昭子さんがたっぷり
2014-09-21 21:55:32

レジェンドになった「レジェンド」
2014-03-07 12:05:40
戦後のトスカニーニは呪縛でしかなかった
2014-03-01 21:01:51
ピアノの音色は骨が出す(仮説)
2013-11-21 23:24:37

「25年目の弦楽四重奏」ねぇ…
2013-07-04 11:05:04

シューベルトの肖像画
2014-10-30 23:23:43

カザルスは王党派?
2014-04-30 11:00:12

カザルスは王党派
2014-04-30 00:22:46

「わが祖国」を通しで聞くのも悪くない
2013-04-02 22:32:23

貴志康一のヴァイオリン協奏曲
2013-03-01 11:03:32

ユジャワンのセミヌード
2013-01-12 13:15:17

合わない演奏家
2012-05-26 01:30:50

「ピアノの詩人」になれない人
2016-12-05 00:56:25 

5.ピアニスト

ドイツ系

「ウィーンの三羽烏」とクリーン、ブレンデル
2017-12-02 22:34:53 

ケルナーについて
2012-01-31 11:15:54

ベートーベン後期ピアノソナタはバレンボイム
2012-02-19 01:20:36

ため息の出るクリーンのブラームス
2013-05-16 22:27:18



スラブ系

カティア・ブニアティシュビリというピアニスト
2017-08-18 01:04:29 

若きリヒテルとギレリスの映像
2017-07-04 23:02:09 

ソコロフのバッハが良い
2013-03-20 15:52:21

ウルバロフというピアニスト
2017-07-02 00:36:35 

モニーク・ダフィルのリャードフ
2017-03-05 15:35:57 

チャイコフスキーはヤブロンスカヤ
2016-04-10 22:05:51 

ツィマーマンのショパン協奏曲に驚く
2015-12-07 00:19:56 

ブーニンはスタジオ録音を聞け
2014-10-28 23:11:04

ブーニンはいずれ復活するだろう
2014-10-27 23:07:54
ぬっと突き出されたシェバノヴァのマズルカ
2014-10-27 22:41:15

プレトニョフのワルトシュタインがすごい
2014-08-13 22:30:54

クシュネローバのYoutubography
2014-04-29 20:26:49

クシュネローバのスクリアビンが良い
2014-04-29 12:00:07

Vladimir Bakk を紹介する
2013-10-27 15:38:24
ウラディミル・バックの生涯
2013-10-27 16:48:36

ウラジミル・バックのミニ・ブーム
2017-03-09 22:28:00 

アンデルシェフスキーというピアニスト
2013-11-09 10:38:02

グリゴリ・ギンスブルク小伝
2013-10-07 22:21:50

ギンスブルクというピアニスト
2013-10-06 22:31:49

Viktoria Postnikova は3位
2011-05-22 23:48:28

Viktoria Postnikova が良い
2011-05-22 23:26:26



ラテン系

アラウのシューマン「蝶々」は聴きもの
2018-05-23 23:26:46 

レーヌ・ジャノーリの再紹介
2015-03-25 17:37:18 

レーヌ・ジャノリのシューマンは一聴の価値あり
2013-08-11 17:39:17
ブンダヴォエの感想
2015-03-22 11:13:00 

アニュエル・ブンダヴォエ 小伝
2015-03-21 18:02:31 

快演 ポリーニの平均律
2014-11-01 00:35:54

ポリーニはショパンコンクールが絶頂
2014-06-09 22:00:59

コミナーティのラ・ヴァルスがいい
2014-10-08 20:50:20

コミナーティをまとめ聞き
2014-05-23 11:12:38
ラローチャのフランク・交響変奏曲
2014-08-24 21:00:13

ディノラ・ヴァルシの経歴
2014-06-07 13:47:14
ディノラ・ヴァルシ(Dinorah Varsi)をヨイショする
2014-06-07 12:34:54

ディノラ・ヴァルシのブラームス
2014-05-24 23:13:43

ディノラ・バルシのノクターン
2014-06-08 22:31:02
ディノラ・ヴァルシの全集が出るそうだ
2015-11-16 11:15:21 


アメリカ系

ペライアのボックスセット
2017-08-12 12:04:35 

ペレイラのモーツァルト協奏曲
2013-02-01 00:09:11

ペライアのバッハに戸惑う
2017-02-05 23:34:06 

ペライアを“観て…”
2014-02-14 23:02:23

マレイ・ペライアが素晴らしい
2013-10-22 00:10:14

ペライア=ハイティンク・CSOの23番が良い
2013-06-29 23:14:57

ブロンフマンが良い
2012-02-13 10:17:34
グリモーのブラームスがいい
2013-06-17 21:02:55

ホロヴィッツのチャイ・コン(48年)がすごい
2014-04-13 12:35:23

割れたクリスタル
2012-03-05 21:51:20

ワイセンベルクねぇ、うーむ…
2014-09-06 23:01:07

youtubeで聞くナタン・ブランド
2014-07-14 13:35:29

ナタン・ブランドを聴くことなくしてシューマンを語るなかれ
2014-07-06 23:37:43


その他

井上奈津子さんに関して
2018-01-15 17:59:48 

チョ・ソンジンに度肝を抜かれる
2017-10-20 22:41:15 

Misato Yokoyama は要チェックだ
2014-04-12 23:00:38

Hyekyung Lee について調べた
2013-10-13 11:20:40

内田光子はモーツァルト弾きではない
2013-06-13 22:09:50

内田光子のベートーヴェン第3番
2012-05-02 23:24:25

B 演奏家編

4.指揮者

ジョージ・セル

セルのウィンナ・ワルツ
2016-01-21 23:02:25 

セルへの賛辞
2015-07-08 23:57:02 
セルのエロイカ
2015-02-03 23:36:0

セルとウィーン・フィルの運命
2014-11-23 22:37:42

ジョージ・セルのモーツァルト
2014-07-16 00:29:29

ジョージ・セルの新規アップ
2014-06-05 00:20:11

セルのメタモルフォーゼンがすごい
2013-08-01 22:23:01

セルのイタリアは絶品
2013-02-13 23:17:32

セルのドヴォ8(58年録音)がすごい
2013-04-09 21:29:28

YouTube で聞けるジョージ・セルの高音質音源
2013-04-30 23:44:36

セルはおしゃれ
2013-04-29 00:31:08


ワルター

ワルターのブル7と9は明らかに違う
2015-12-30 17:33:36 
ワルターのブルックナー7番が泣ける
2014-10-08 23:12:10

ワルターと未完成 話を戻そう
2012-06-24 00:22:13

ワルターの未完成 くどいようですが
2012-06-24 00:20:11

ワルターの未完成 いまさらですが
2012-06-23 22:48:07

ワルターのブラームス4番
2012-03-15 22:40:07

イッセルシュテット

HSイッセルシュテットのハンガリー舞曲がおすすめ
2014-12-09 23:57:53

イッセルシュテットのエロイカがすごい
2012-10-27 00:02:22

HSイッセルシュテットのハンガリー舞曲は幻のレコード?
2014-12-11 10:23:51

日本人はイッセルシュテット好きか
2013-03-21 14:00:38


マゼール

マゼールxクリーブランドがすごい
2017-12-14 23:08:25 

マゼール・NYフィルのブラームス1番が良い
2015-02-20 23:13:05 

「イタリア交響曲」マゼールBPOに唖然
2013-02-23 00:34:02

ヴァント

ヴァントとベルリン・ドイツ交響楽団の93年ライブ録音
2014-11-26 10:27:18

ヴァントのベト7,8がすごい
2012-12-20 23:37:19

クレンペラー

クレンペラーBPOのブル7
2016-01-15 00:45:59 

子供の神様 クレンペラー
2012-12-17 23:51:21

カラヤン

むかし、カラヤンという名指揮者がいた
2015-07-06 00:16:08 
カラヤン・BPOのブル9(ライブ)
2013-12-19 22:12:25

フルトベングラー
フルヴェングラーのモルダウ
2015-12-04 00:13:07 

ウラニア盤のエロイカを初めて聞く
2014-12-09 00:37:25

ブルックナー8番はフルトヴェングラー
2013-09-02 23:32:19



その他

バルビローリ指揮ハレ管弦楽団のマラー3番は聞ける
2014-08-07 00:14:45

シェーンベルク「浄められし夜」はサイトウ・キネン
2017-11-07 23:36:16 
ベルグルンドのシベリウス全曲
2017-08-31 23:57:56 
驚き、ベームのレクイエム
2014-09-30 23:17:50

ベーム・WPOの「未完成」は神がかり
2012-12-07 00:03:46

B級グルメ ホーレンシュタインのブル8
2014-06-04 00:36:09

フリッチャイの「春の祭典」は感激もの
2014-03-13 21:14:49

マッケラスのハイドン
2014-02-01 23:32:41

ガッティ(Gatti) がなかなか良い
2013-12-07 18:35:32
ブロムシュテットのブラームスがひどい
2013-12-01 23:02:38

ブロムステット=N響のブル7がなぜ?
2011-12-06 22:47:11

チェリビダッケの40番がそれなり
2013-09-15 20:31:05

ルネ・レイボウィッツの禿山の一夜
2012-04-10 19:38:09

レイボヴィッツ盤の発売日
2015-07-03 22:58:14 

なつかしのレイボヴィッツ
2012-12-24 15:13:25

オリヴァー・ナッセンの「ローマの噴水」
2012-04-26 11:42:53

ムーティてこんな良かったっけ
2012-04-03 23:20:52

ヤンソンスのマーラー3番が良い
2012-10-01 22:59:33
ライナー=ルビンステインのラフマニノフが良い
2012-08-06 23:48:03
ライナーとベイヌム
2012-10-17 23:55:58

だんだん落ちるクライバー
2012-06-29 22:33:23

クライバー・WPO ブラ4の79ライブって本当だろうか
2012-10-25 22:42:37

ヘルベルト・ケーゲルのブルックナー8番
2012-11-19 22:48:59

フェドセーエフのブル8
2012-12-05 23:02:40

サヴァリッシュが死んだ
2013-02-27 22:51:40
プレヴィン・コストラネッツのラプソディ・イン・ブルー
2012-12-22 23:44:47

デイヴィスのレクイエムが良い
2013-04-08 23:24:54

カンテルリのフランク交響曲がいい
2013-05-08 21:29:34

朝比奈のブル8は「名演」なのかもしれない
2014-12-25 23:04:51

コンセルトヘボウ(RCO)の視覚的特徴
2015-04-21 23:14:08 

YouTubeでオーケストラをランク付けすると
2015-04-10 23:53:47 

好きな指揮者 ベストテン
2013-03-20 21:57:03

ウィーンフィルがひどい
2012-10-14 00:24:31

本気のウィーンフィル
2012-11-20 22:47:44

ジャンル: 音楽/クラシック

Ⅰ 作曲家について

3.ロシア音楽

A) 五人組とチャイコフスキー

グリンカが良い
2011-05-08 23:48:27

アントン・ルビンステインのピアノ曲はつまらない
2016-02-28 21:43:21 

ロシア 音楽家たちの故郷
2017-08-19 16:10:40 

ロシアの作曲家一覧表 生年順
2016-01-27 16:11:15 

19世紀後半のロシア音楽を取り巻く状況
2015-12-14 16:27:39 

「ロシアのショパンたち」 ピアノ小曲百選
2016-10-30 21:43:48 

「ロシアのショパンたち」を聞き終えて
2016-08-09 23:08:58 

「ロシアのショパンたち」 ピアノ小曲百選  改訂増補版 その3
2017-07-17 15:31:12 

「ロシアのショパンたち」 ピアノ小曲百選  改訂増補版 その2
2017-07-15 16:54:08 

「ロシアのショパンたち」 ピアノ小曲百選  改訂増補版 その1
2017-07-06 23:56:23 

「5人組とチャイコフスキー 文章化」を改訂しました
2017-07-11 11:50:39 

5人組とチャイコフスキー 年表
2015-12-15 00:14:50 
5人組とチャイコフスキー 年表 を増補
2016-11-07 17:23:46 

「5人組とチャイコフスキー」年表の再増補
2017-07-10 09:28:52 

5人組とチャイコフスキー 文章化
2015-12-16 17:30:31 

チャイコフスキーと5人組のねじれ
2015-12-13 23:19:38 
チャイコフスキーは5人組の6人目
2015-12-15 00:31:08 

「五人組の論争」に関するチャイコフスキーの結論
2017-07-08 12:15:53 

批評家 チャイコフスキー
2016-01-25 23:13:27 

チャイコフスキー「こどものためのアルバム」の聴き比べ
2014-04-15 23:48:59

セザール・キュイについて
2012-12-16 13:37:06

キュイの「万華鏡」がすばらしい
2012-09-21 00:11:26
YouTubeで聴けるキュイ
2013-08-18 20:09:56


B) 五人組のあと

ロシアにはショパンが5人いた
2012-01-30 23:46:19

アレンスキーのピアノ小曲を聴く
2017-07-14 00:17:11 

アレンスキーの練習曲集(作品74)を聴く
2017-07-03 00:27:58 

アレンスキーは大河小説家ではない
2016-01-25 21:01:15 

アレンスキーをまとめ聞き
2015-01-04 22:42:54 
日本アレンスキー協会
2016-01-23 01:02:43 

リャードフを根こそぎ聞く
2016-01-31 23:44:33 

リャードフを聞いてください
2016-01-31 01:49:09 

リアードフのピアノ曲
2012-05-04 22:26:16

ミャスコフスキーとリャードフ
2016-02-27 10:21:06 

1893年、リャードフとリャプノフ
2016-02-15 23:26:50 

リャードフとリャプノフの関連年表
2016-02-19 16:32:19 

リャプノフを聴きこむ
2016-07-26 00:04:15 

リャプノフが綺麗だ
2016-02-15 00:23:54 

レビコフの「秋の夢」
2017-09-04 21:33:20 

レビコフという作曲家
2016-02-21 12:52:27 

レビコフの全曲集を買ってしまった
2016-11-05 01:17:00 

ラフマニノフ 前奏曲ト短調
2011-07-15 22:34:54

ラフマニノフの才能は前奏曲7番でプッツンした
2016-07-10 21:07:13 

恐るべし、ニコライ・メトネル
2016-05-19 00:15:39 

アルハンゲルスキー 略伝
2015-08-14 12:13:08 

アルハンゲルスキー ロシア民謡のルーツ
2015-08-01 23:49:40 

4.フランス音楽

オルガン交響曲(サン=サーンス)はTelarc SACD
2017-04-30 00:52:30 

ジャン=バティスト・マリの「詩人と農夫」
2014-05-08 00:07:12

フランクのソナタの聴きまくり
2014-05-12 23:52:33

モントゥーのフランク交響曲がいい
2018-07-05 22:43:24 

ワルトトイフェルの『愛しの彼女』が「春の川で」に
2018-01-20 12:34:11 
デュポンの「砂丘の家」が良い
2018-01-19 15:07:59 

ドビュッシーってパクっていない?
2018-01-06 22:45:08 

ドビュッシーの「版画」が聞けない
2012-02-27 22:55:07

「牧神」はモントゥーが良い
2017-09-20 00:30:54 

ジャンル: 音楽/クラシック

Ⅰ 作曲家について

1.ドイツ音楽(古典)

バッハ

バッハにおけるクラヴィア(キーボード)とチェンバロ
2017-02-06 13:56:11 

バッハ(リスト)前奏曲とフーガ BWV543を聴き比べ
2014-11-29 10:46:51
バッハのパルティータ 3つの演奏
2014-11-06 00:16:40

ハイドン

ハイドンの交響曲、源泉かけ流しと言うか
2012-10-24 22:15:38

クリスタ・ランドンとランドン時代の終わり
2017-11-11 23:06:29 

ハイドンのピアノソナタ ここまでやってしまった
2017-11-11 22:08:57 

ハイドンのピアノソナタを聞くために
2017-11-10 23:10:07 

ハイドンのピアノソナタを聴き比べる
2015-03-11 00:03:36 

モーツァルト

バイオリンソナタK304とピアノ・ソナタK310の関連
2012-02-13 21:13:24

K.304 はタルティーニ作曲?
2012-02-11 12:04:32

モーツァルトの背後霊タルティーニ
2013-05-25 15:31:28

モーツァルトのディヴェルティメント
2017-12-20 13:10:19 

ベートーベン

ワルトシュタインを聴く その2
2014-07-05 00:28:33
ワルトシュタインを聴く
2014-07-04 00:04:51

エグモント序曲の聴き比べ
2014-11-23 23:27:14

2.ドイツ音楽(ロマン派)

シューマン

決定 クライスレリアーナのベスト10
2013-10-12 18:01:47
YouTubeのクライスレリアーナ その2
2013-10-12 17:59:50

YouTubeのクライスレリアーナ その1
2013-10-12 17:58:21

クライスレリアーナ第一曲 Agitatissimo について
2012-02-05 23:06:50

シューマンのストイシズム
2012-06-05 00:36:20

シューマンの交響曲を聴いた
2013-02-01 22:39:26

ブラームス

ブラームスの4番を2日間聞き続ける
2012-05-20 23:50:04

ブラームス・クラ5重奏曲 イン・ザ・ムード
2017-08-12 12:21:46 

ブラームスのシューマン変奏曲
2012-11-05 21:09:08

その他のロマン派

パガニーニのソナタ ホ短調 作品3の6
2014-07-29 00:24:39

シューベルトを聞き続けた
2012-06-03 00:29:26

リストの曲名リスト
2013-10-29 23:13:52

タンホイザー序曲
2011-06-15 23:12:33

ツェムリンスキの名前は憶えておいたほうがよい
2012-12-19 23:31:39

シェーンベルクの弦楽四重奏
2013-09-25 23:10:15

その時はたしかにそう思ったが、この演奏を聞くとこれもまたいいのだ。どうも人間というのはいい加減なものだ。
この曲のスタンダード演奏となっているクレンペラーの演奏も、クライマックスへ向かっての追い込み感が素晴らしい。まるでワグナーの序曲を聞いているような気がする。
結局、山本富士子と有馬稲子と岸恵子とどっちがいいかみたいなものだ。
モントゥーの演奏のすごいのは音色の多彩さとニュアンスの豊かさだ。そうとう崩して歌うが、演歌っぽくなる寸前で止まっている。
多分、シカゴ交響楽団がすごくうまいのだろう。ただしモントゥーはその楽団さえテンポが怪しくなるほどに振り回している。
RCAビクターのリビング・ステレオの音質も素晴らしい。
とくにフランク嫌いの人におすすめの演奏だ。

追加
この間テレビに有馬稲子が出ていた。山本富士子も姿をさらしている。
頼むから、テレビに出ないでほしい。とくにこういう“見た目いのち”で“性格ブス”の人は、美しさが醜さに転化する。

昨日、上原彩子さんのリサイタルに行ってきました。
どこからどういうふうに金が出ているのかわからないが、とにかくめっぽうコストパフォーマンスのいいリサイタルでした。
札幌の隣町、北広島市で行われた演奏会ですが、土曜のマチネーで3千円です。隣町と言っても私の家からはとても近くて、車で1時間足らずでつきます。おまけに会場入口でスタンプを押してもらうと駐車料金がただなのです。
ふつう札幌中心部のホールに行けばタクシー代だけで往復6千円はかかるので、まことにありがたい話です。
それで演奏のほうですが、ドビュッシーの前奏曲第一と喜びの島、シューマンの子供の情景とリストの愛の夢、そして休憩後にリストの巡礼の年から「ダンテを読んで」とつながっています。
上原さんの売りは日本人初のチャイコフスキー・コンクール優勝者ということにつきます。流石にそれだけのことはあって、指回り、タッチいずれも見事なものでした。
ただ、演奏はあまり面白くはないのです。
なぜだろうと、天井を仰ぎながら考えていました。なにかリズム感がないのです。アンコールにやったくるみ割り人形の「花のワルツ」はおはこなのだろうと思いますが、どうもワルツには聞こえない。一方で「子供の情景」はメロディーラインが和音に埋もれてしまうのです。
私は音楽というのはメロディーがまずあって、それにコードが付いて曲になると思っているので、メロディーが聞こえない演奏は好きになれません。
もう一つリズムですが、こちらは音楽にとって必須ではありませんが、「ノリ」はとても大事だろうと思います。ワルツがワルツに聞こえないというのは、やはり相当問題があるのではないでしょうか。
ロシア人は一般的にリズムがだめな人が多いです。韓国の演奏家は一体にノリが良く、グルーヴ感を持っています。
日本人はどうなんでしょうか。結構いい人もいると思いますが、上原さんは若干問題がありそうな気がします。
もっと歌ってほしいと思います。そして体で踊ってほしいと思います。
そういうわけで、CDのサインセールは申し訳ないが遠慮させていただきました。

シューマンの蝶々は名曲とは言えないかもしれないが、謝肉祭と並んでわかりやすくて景気のいい曲だ。
あまりYou Tubeに音源が多いわけではないが、そこそこ聞ける。
今回聞いたのはエゴロフ、アラウ、リフテル、レイヌ・ジャノリの4種類。いずれも良い演奏だ。結局好き嫌いの話になるから、その時々の心理状況にも影響される。腕前から言えばリフテルが圧倒的で、しかもこれはコンサート・ライブだが音質テストのサンプルにしてもいいくらいのすごい音質だ。ただ、「そこまで攻め込まなきゃなんないほどの曲なの?」という感じが残る。フィナーレは明らかにやりすぎだ。
エゴロフもだいたい似たような攻め方をしていて、もっとシャープだ。レイヌ・ジャノリは私のお気に入りだから、これはもうしょうがない。
というわけで最後に、期待もせずアラウの演奏を聞き始めた。これが意外にすごい。とくにリズムのとり方が独特で、「これがシューマンの演奏じゃないの?」という感じで説得される。
Silent Tone Record/シューマン・ピアノ作品集/クラウディオ・アラウ/欧PHILIPS:6768 084/クラシックLP専門店サイレント・トーン・レコード
というページでとりあえず聞くことができる。盤起こしなのだろうか、通常のCDを越えたすごい音がする。ただし3分で切れる。
意外な取り合わせの一つかもしれない。わたしは同じような「意外な取り合わせ」としてルビンステインのシューベルトを聞いたことがある。
人間何ごともやってみなければわからないものだ。

ドヴォルザークのドゥムキーの演奏をYou Tubeであさっているうちに、何か名前は知らないがえらく生きのいい演奏にあたった。
Queyras,Faust,Melnikov という三人のトリオだ。「3人だからトリオだ、何が悪い」と言われているようで、第一印象はよろしくない。「あんたらハイフェッツかオイストラフのつもりしてるんか」、とタメ口の一つも叩きたい。
名前は多国籍っぽいが例によってユダヤ系か?
しかし演奏は良いんだ。私の好きなのはボーザール・トリオで、録音曲目は限られているけどギレリス・コーガン、ロストロポービッチも良いですね。
トリオというのは音としてまとまっていないと曲としての面白さは出てこないと思う。さりとてたった3人でやるのにあまり人の顔ばかり見ていても仕方ないので、そのへんの兼ね合いなんだろうと思う。
そんでもって、そこはやっぱりピアノ弾きに仕切ってもらわないとうまくいかないでしょう。ピアノはオーケストラの代わりみたいなところがあるのだから…
それでこのトリオも、ピアノが仕切っているみたいに聞こえる。しかし誰が何を演奏しているかもわからなくて、じつに困った団体だ。むかしならレコード会社が有無を言わせず名前つけるのだろうが…

といっているうちに、ドゥムキーが終わって、つぎのファイルが始まった。
Spring Sonata/Isabelle Faust と題されている。画面は静止画面で、バイオリン弾きの女性とピアノ弾きの男性が並んでいる。女性はゲルマン系の美人でこれがファウストでしょう、男はラテンというかひょっとしてアラブ混じり。名前はメルニコフとスラブっぽい。

演奏はバイオリンのオブリガート付きのピアノ・ソナタ。そもそもそういう曲なんだからしょうがない。むかしのグリュミーを起用したハスキルの演奏もそうだった。

これにケイラスというチェロが加わってトリオになったんだね。了解。
これはギレリス・コーガンのコンビにロストロポービッチが加わったのと同じだ。ギレリスが仕切ったのと同じようにメルニコフが仕切っているのでしょう。

連中がどういうかは別にして、私の心づもりとしてはメルニコフ・トリオとして覚えておくことにしよう。



困った。思い出せない。
誰か分かる人いますか。
童謡ですよね。かなり有名な…
歌詞が思い出せない。
後ろが「小川さらさら 春の色」なんだけど
前が思い出せない。
出だしがわからないと、さすがのグーグルでも
検索には引っかかってこない

このファイルはVotreValseという人が公開したもの。
題名は
Très jolie - Emile Waldteufel - Valse française となっている、8分40秒ほどのかなり長いワルツだ。
Votre Bal
説明欄には
Magnifique valse française d'Emile Waldteufel : apprenez à danser cette valse avec notre école de danse VOTRE BAL / VOTRE VALSE
としか書いていない。
クルト・レーデル指揮スロバキア国立フィルの演奏でワルトトイフェルの全集が出ていて、その中の1曲らしい。

いろいろ調べていくうちに、この曲の題名はT Valse française ではなく「Tres jolie, Op. 159」だと分かった。

これであらためて検索すると、いくつかの演奏がヒットして、情報がわかってきた。

日本語ウィキでワルトトイフェルの項目を開き、作品番号159で当たると、次の説明が出てきた。

『愛しの彼女』 Très jolie op.159 (1878)
青木爽により「春の川で」という日本語の歌詞が付けられ、NHK「みんなのうた」で広く知られるようになった。

なるほどそういうことだったかい。

そこで、あらためて、青木爽+「春の川で」で検索してみる。

NHKみんなのうたのサイトで「春の川で」がヒットする。残念ながら映像も音源も失われてしまったようだ。

うた西六郷少年少女合唱団
作詞青木爽
作曲ワルトトイフェル
編曲小林秀雄

となっていて、しっかりワルトトイフェルの名がクレジットされている。こちらが知らなかっただけだ。

放映されたのが1965年03月と言うのは驚きだ。私は受験の真っ最中で東京・京都と走り回っていた。
流石にこの頃、家にもテレビはあったが、「みんなのうた」を憶えるほど見ていたとは思えない。

記憶装置にそれだけ余裕があるならもう少し英単語でも憶えていたはずだが、まぁ、だからこんなものなのかもしれない。

しかし歌詞も載っていないのは困るな。

Hoick というサイトに歌詞が載っている。
著作権の関係でなかなか難しいようだが、
私の憶えていたのとは全く違う歌詞だ。
一体これはなんなんだ!
うろ覚えの所に自分で勝手に創作した歌詞を乗せていたのか?

調べていたらarcadiaさんのブログで同じようなことをいていた。方向は逆だったが

 を御覧ください。

初めて聞いた名前の作曲家だが、まず曲名が良い。
ピアノ曲集で「砂丘にある家」という題名。1905年の発表で、作曲家の名前はガブリエル・デュポン、フランス人らしい。全10曲でたいしたメロディーもなく、寄せては返す波のような音の繰り返しだ。40~50分もそれが続くから、真面目に聞いたら飽きる。バックグラウンドで鳴っていればよいのである。
グーグルで「画像」と入れると色んな絵が出てくる。

「La Maison dans les dunes」の画像検索結果
「La Maison dans les dunes」の画像検索結果


関連画像
このデュポンという人の曲で有名なのはマンドリンという歌曲。ほかには「憂鬱な時間」Les heures dolentes というピアノ曲集もあってこちらのほうがそれなりにメロディーもあって聞きやすいが、その分陰にこもって、ひたすら長いのは同じだ。

これほどまでに日本国内で無視されている日本人演奏家も珍しい。
とにかくインターネットで井上奈津子と入れてもまったくヒットしない。
色々やってみて、まあとにかくイタマール・ゴランと入れたら、英語のプロファイルが見つかった。
大阪生まれで、10歳ころからフランスに渡って勉強したらしい。パリ音楽院を優秀な成績で卒業した。そこそこの入賞歴はあるがメジャーなものがないと日本のメディアは取り上げない。
それにしてもこれだけ無視されているのも珍しい。
私はヒマに任せてラベルのピアノ曲をYouTubeであさっているうちに、その名前(Natuko Inoue)を偶然見つけた。
マ・メール・ロアのピアノ連弾は効果が上がる曲なので、結構顔見せに取り上げられる。とくにコンサートで指揮者が元ピアニストだったりすると、コンチェルトのあとのアンコールに取り上げられることになる。
YouTubeではアルゲリッチとバレンボイムの同郷連弾が聞ける。
ということで、肝心の井上さんの演奏はなんとイタマール・ゴランとの共演だ。これはコンサート・ライブで、ユトレヒトで行われたジャニーヌ・ジャンセン室内音楽フェスタの一幕だ。
「これはちょっと身分が違いすぎるのでは?」と気になって調べたのだが、日本語ファイルはゼロ。
あるフェスティバルのサイトに下記のプロファイルが掲載されていた。
natsuko

Natsuko Inoue was born in Osaka, Japan, where she started her musical studies. She left to France at the age of ten, continuing her education and specialization at the National Conservatory of Paris under the supervision of Georges Pludermacher, where she graduated with the prestigious 1st Prize in piano. Natsuko Inoue has been a regular participant of the most important concert venues and music festivals worldwide, such as Internationaal Kamermuziek Festival Utrecht, Festival Pablo Casals at Prades, Dubrovnik Summer Festival. She received numerous awards such as the 1st Prize of Radio France, “Maurice Ravel” Prize, 1st Prize of Steinway competition and special chamber music awards. She is currently working and performing with numerous artists and orchestras in the United States, Europe and Japan. Among them, her husband, the pianist Itamar Golan, with whom she performs together regularly at piano four hands, presenting original projects and unusual, fascinating repertoires.
 
ということで疑問は氷解。
これからもご健闘をお祈りいたします。
イタマール・ゴランは10年位前に衛星放送の朝のリサイタルで初めてみた。誰かバイオリンの伴奏できたのだが、バイオリン弾きのことはとんと覚えていないで、この伴奏者が記憶に焼き付いた。
伴奏のくせにゴシゴシと押し付けてきて、場合によっては食ってしまう勢いだ。「お主、やるな!」というイメージだったが、その後、来ること、来ること。日本に帰化したのではないかと思っていたら、やはりこういうことをしてたのだ。
それにしても、ゴランの記事は山ほどあるが、井上さんについては全く触れられていない。昔の2枚目役者は独身のふりをしていたが、まさかそんなことでもあるまいに…

ところで、演奏の方はとっても良い。リンクしておきます。
Ravel: Pavane pour une infante défunte & Ma mère l'oye, quatre mains
題名には井上さんの名もゴランの名も出てこないから、ヘタをすると見逃す。
映像を見ると、たしかに夫婦でないと弾けないような運指ですね。

はなはだ僭越ながら、お屠蘇で酔った勢いで書いてしまう。
初期ドビュッシーというのはどうも変だ。ピアノ曲を経時的に聞いているとどうも納得がいかない。
そもそも作曲家としてはきわめて出発が遅い。
1880年、18歳のときにメック婦人のお抱えピアニストになり、お屋敷暮らしをした。そのときにメック夫人がドビュッシーの曲をチャイコフスキーに見せたが、「稚拙だと酷評された」とウィキには書いてある。チャイコフスキーとメック夫人との関係はこの頃からちょっと怪しくなってきていて、ドビュッシーに肩入れするメック夫人に、チャイコフスキーは面白くないものを感じていたかもしれない。
とは言え、実際に聞いてみたその曲(L.9 ボヘミア風舞曲)はたしかに稚拙と言われても仕方ないところがある。
ちなみにドビュッシーはピアノ三重奏曲をメック夫人に見せて、メック夫人は「ピアノ・トリオって良いわねえ」くらいのことを、チャイコフスキーあてに書いたらしい。
それでチャイコフスキーは、ニコライ・ルビンシュテインが死んだのを機に「偉大な芸術家の思い出」というトリオを書いたのだそうだ。ウソか本当か知らないが、そう書いてある。
84年にカンタータを書いてローマ大賞をとったというから、学才は間違いなくあるのだろうと思うが、ピアノ曲はチャイコフスキーの「酷評」後10年間発表していない。
それが1990年、いきなりまとめてドカーンと発表する。「二つのアラベスク」にはじまって、マズルカ、夢、スティリー舞曲、スラブ風バラード、ワルツ、ベルガマスクとほぼ連番でピアノ曲が並ぶ。
在庫一掃のクリアランス・セールの如きだ。
おそらく実作の年度はそうとう違うのだろう。まとめて聞いて「ドビュッシーってどんな作曲家?」とわからなくなってしまう。
だが、結局すごいのはベルガマスク、とくに月の光とアラベスクの1番だけだ。他はほぼヒラメキを感じない。さすがに稚拙とは言わないが、陳腐で凡庸だ。
たぶんドビュッシーは、作曲法というより、こういうコード進行を手に入れたのだろう。ジョアン・ジルベルトがボサノバのコード進行を発明したように。
ドビュッシーは印象派と呼ばれるのを好まず、象徴派と呼ばれたがっていたようだが、技法的に言えばスーラの点綴法みたいに分散和音を振りまいて雰囲気を出しているみたいなものだ。表現法(イディオム)なのであって、それほど高踏的な内容ではない。
調性の放棄と全音階への親和性は、論理的必然性というよりはイベリア趣味とか東洋情緒の受け入れの形で現れる。
結局、ドビュッシー的な音の世界は20世紀に入って「喜びの島」まで本格化しないのではないか。
この流れを追っていくと、どうもドビュッシーはロシアの作曲家の後追いをしているのではないかという気がしてくるのである。
端的に言えば、ドビュッシーがコード進行や音階などで新味を打ち出すとき、その数年前にロシアの作曲家が同じようなことをしているのである。
後期のリャードフ、アレンスキー。これに踵を接したラフマニノフとスクリアビンは、まさに「映像」においてドビュッシーが目指してたものではないか、そう思う。
それを、酔った勢いでいうと、記事の見出しの如くなるのである。

以前こんな文章を書いていて、誰かさんが読みに来たようだ。

あらためてYou Tubeで「パガニーニのソナタ」を開いてみると、ずいぶん曲数が増えている。
そのうちに訳が分からなくなってきた。以前の記事にも書いたのだが曲の分類がメチャクチャである。
おそらく書いたのがめちゃくちゃで、管理の仕方もメチャクチャだったから、ゴミ屋敷状態になるのも無理はない。

とにかくウィキの曲名一覧を手がかりに、分かる範囲で整理ししてみた。
paganini

そもそもソナタ ホ短調という曲を作品3の6という言い方が良くない。
パガニーニはおそらく死後に次々に曲が発掘されたらしく、作品番号の付いた曲の数倍にのぼる。
ことにギター伴奏付きのバイオリンソナタは膨大な数に上っており、作品番号のついているのは氷山の一角にすぎないのである。

幸いなことにM.S.分類というのが出来上がっていて、これでほぼ全曲がカバーできている。なおありがたいことに、ハイドンのソナタと違ってウィーン原典版というやっかいな分類もないので、これに従えば基本的には整理できるはずだ。
ただマイナーな録音では作品番号しか書いてないものもあり、こういうのに限って作品番号が間違っていたりする。

ヴァイオリン・ソナタ第10番が分からない
最大の問題がヴァイオリン・ソナタ第10番と、第12番というファイルである。
これはたぶん、パガニーニの生前に発表されたのが作品2と作品3の二つのソナタ集(各6曲)で、これを通算したために第10番とか12番という言い方が生まれたのだろうと思った。
12番というのはYou Tubeではエリコ・スミという人が弾いているのだが、まさしく作品3の6である。
10番はレオニード・コーガンが弾いている。なかなかの名曲名演である。しからばこれは作品3の4かと思いきや違う。作品3の4はニ長調である。

作品3というので困るのはM.S.133のソナタ集「Sonate Di Lucca」にも作品3の番号が振られていることである。
おなじ作品3の1とか2でも、M.S.27のものとは全く異なる。
どうもこれはMS133につけられた作品3というのは、変な話だが作品番号ではなく、ルッカソナタ集の第3集という意味らしい。
というのも、MS9のバイオリンソナタ集がルッカソナタの第1番と名付けられているからだ。そしてMS10が2番で、MS11がどういうわけか4番なのである。そこにMS133のルッカソナタ第3番がハマるとするとぴったりだ。
ルッカ・ソナタについて
それにしてもルッカソナタというのがどういうソナタなのかの説明がどこにもない。これも困ったことだ。
ホームページ作成会社のホームペーじの「息抜き」というところをクリックすると「のぶながわが人生」というホームページが現れる。この中の一つにパガニーニの紹介がある。
ここにルッカの説明があった。
パガニーニは1805年から4年間公式演奏活動を停止して愛人のところにこもっている。20歳前後のことらしい。そこがルッカというところでその間に作曲したソナタが30曲あり、これらを総括してルッカ・ソナタと言っているようだ。
 Frassinet 夫人に捧げられた12曲
 Felice Baciocchi に捧げられた6曲
 T. 夫人に捧げられた6曲
 Princess Napoleone に捧げられた6曲
で30曲。曲名としては
 作品3 6曲(MS-133)
    作品8 6曲(MS-134)
 Duetto Amoroso(MS-111)
なのだそうだ。ツェントーネのように一つにまとまってはいない。

てなこともあるので、当面はMS番号がついているもの以外の曲は、とりあえず不明曲に分類しておくしかなさそうだ。
M.S.だからといって安心はできない
MSも完全ではない。例えばMS112(作品64)はチェントーネソナタと言われるが、この中には18曲のソナタがふくまれているから、おそらく6曲セットのソナタ集が三つふくまれているのだろう。とにかくそういうものだとおぼえておくしかない。
これらの整理はジュノバのダイナミック社が出した9枚のCDによる影響が強いようで、今後まだ変わっていく可能性も十分ありそうだ。なんとなくダイナミック社がM.S.を軽んじているのではないかという雰囲気も伝わってくる。
このところ、随分ソナタ集が出ているようだ。ソナタ集となっているものだけで10集ある。一つの集に6曲ふくまれるからこれだけで60になる。

困るのは、けっこう名曲だらけで、聞くしかないことだ。以前チャレンジしたタルティーニ全集は、玉石混交とはいうものの実のところほとんど石だらけで、途中でやめてしまった。

パガニーニの方はどうもそうは行かないようだ。この文章はもう一回くらい追補が必要かもしれないが、それほどの意義があるかも疑問の余地がある。
まずは少し聴き込んでみつことだろう。

Violin Summit with Baiba Skride, Alina Pogostkina and Lisa Batiashvili

というTV番組があって、バイオリン3人娘として売り出そうという狙いらしい。

かなり酷な番組で、否が応でも三人を比較せざるを得ないことになる。

腕前から言ってもキャリア・知名度から言ってもバティアシュビリが抜きん出ているのは分かる。彼女から見れば、こんな三人組で売り出されるのはいささか心外ではなかろうか。

アリナ・ポゴストキナは器量が良くて愛想が良いから人気はある。腕は三人の中ではちょっと落ちる(と思う)。
2

バイバ・スクリーデはラトビア人。日本ではまったく無名だが、ドイツではそれなりの人気のようだ。田村俊彦と近藤真彦と、もう一人誰だっけ、の人である。

腕はしっかりしている。顔はそれほどでもない。「美人ヴァイオリニスト ☆ バイバ・スクリデ」という日本語のファイル(衛星放送のエアチェック)があるが、どちらかと言えば肉体美と言うべきか。

やっぱりそうだった。

2001年のエリザベート・コンクールで、第1位がバイバ・スクリーデ(ラトビア)、第4位がアリーナ・ポゴストキーナ(ロシア)となっている。
営業とは言え、腕と顔でヒト様と比べられるのは辛いところがありますね。

ーツァルトのディヴェルティメント

すみません。まったく自分の心おぼえだけのために、このファイルをアップします。

しかも、中味は森下未知世さんのサイト「Mozart con grazia」の抜粋にすぎません。

このサイトはとても親切で、ダウンロードした曲を整理するのにとても役に立ちます。「個人的な好みを語ることは野暮である」と考える方らしく、要点をきちっと教えてくれるのがありがたいところです。

こういう方の個人的な好みを」お聞かせ願えればとも考えますが…


ディヴェルティメントは「喜遊曲」と訳されている。ヴァラエティに富んだジャンルで、楽器編成も様々だった。

セレナードは編成がかなり大きく、8楽章が典型である。ディヴェルティメントの方は室内楽的で、6楽章が多い。

「新モーツァルト全集」ではディヴェルティメントを3つのグループに分類している。

  1. オーケストラのためのディヴェルティメント、カッサシオン
  2. 管楽器のためのディヴェルティメント
  3. 弦楽器と管楽器のためのディヴェルティメント

しかしモーツァルトがそのような区分を意識していたとは思えず、そのときどきの事情に応じて考えていただけではないか、と思われる。

 1. ディヴェルティメント 第1番 変ホ長調 K.113

    1771年11月 ミラノ [A] クラリネットが使われた最初の管弦楽作品

 2. ディヴェルティメント 第2番 ニ長調 K.131

    1772年6月 ザルツブルク [A] 作曲の動機や目的は不明

 3. ディヴェルティメント ニ長調 K.136 (125a)

    1772年1?3月 ザルツブルク [A] 旧全集では弦楽四重奏曲第24番

 4. ディヴェルティメント 変ロ長調 K.137 (125b)

    1772年1?3月 ザルツブルク [A] 旧全集では弦楽四重奏曲第25番

 5. ディヴェルティメント ヘ長調 K.138 (125c)

    1772年1?3月 ザルツブルク [A] 旧全集では弦楽四重奏曲第26番

 6. ディヴェルティメント 第3番 変ホ長調 K.166 (159d)

    1773年3月24日 ザルツブルク [B]

 7. ディヴェルティメント 第4番 変ロ長調 K.186 (159b)

    1773年3月 ミラノ [B] 作曲の目的は不明。

 8. ディヴェルティメント 第5番 変ロ長調 K.187 (Anh.C17.12)

  モーツァルト本人の作品ではない。

 9. ディヴェルティメント 第6番 ハ長調 K.188      1773年夏 ザルツブルク [B]

10. ディヴェルティメント 第7番 ニ長調 K.205 (167A)    1773年7月 ザルツブルク [C] 

11. ディヴェルティメント 第8番 ヘ長調 K.213      1775年7月 ザルツブルク [B]

12. ディヴェルティメント 第9番 変ロ長調 K.240

    1776年1月 ザルツブルク [B] 大司教のための食卓音楽

13. ディヴェルティメント 第10番 ヘ長調 「ロドロン・セレナード第1」     K.247

14. ディヴェルティメント 第11番 ニ長調 K.251     1776年7月 ザルツブルク [C] 

15. ディヴェルティメント 第12番 変ホ長調 K.252 (240a)

    1776年1?8月 ザルツブルク [B] 舞曲風4楽章。大司教の食卓音楽。

16. ディヴェルティメント 第13番 ヘ長調 K.253

    1776年8月 ザルツブルク [B] ディヴェルティメントの中で唯一の3楽章作品。 

17. ディヴェルティメント 第14番 変ロ長調 K.270

    1777年1月 ザルツブルク [B] 大司教の食卓音楽として

18. ディヴェルティメント 第15番 変ロ長調 「ロドロン・セレナード第2」 

    K.287 (271H)    1777年6月? ザルツブルク [C] 

19. ディヴェルティメント ヘ長調 未完 K.288 (246c)    76年6月 ザルツブルク [A]

20. ディヴェルティメント 第17番 ニ長調 「ロビニッヒ」 K.334 (320b)

    1779年?80年 ザルツブルク [C] モーツァルトのディヴェルティメントの中で最も有名な作品。 第3楽章のメヌエットはよく単独で演奏されるほどポピュラー。

このページには他にも12曲の断片が収録されているが、とりあえず省略する。

ということで、ディベルティメント…番とよんでも良いのだが、K136~138が抜けてしまうのが以下のも癪なので、ケッヘルで呼ぶのが一番いいのでしょう。
ということで、管楽合奏を除いたラインアップは以下の通り。
divertiment
弦楽合奏を主体とするものはK131の第2番が最初。You Tubeではセルの凛とした演奏と、マリナーのしっとりとした演奏が聞ける

K136~K138の三曲は元の「旧分類」では弦楽四重奏曲に分類されていたため、ディヴェルティメントとしての番号がついていないのだそうだ。
You Tubeではニューヨーク・クラシカル・プレーヤーズというグループの颯爽とした演奏が聞ける。
K136はモーツァルトの曲の中でももっともポピュラーなものの一つだ。
小沢と水戸室内管弦楽団の演奏が抜群だ。水戸は指揮者なしの演奏もアップされているが、聴き比べるといかに指揮者が必要かがわかる。
K247、K251、K287、K334 の4曲は立派な管弦楽曲で、4楽章にまとめればそのまま交響曲となるほどである。You Tubeではカラヤンの名演奏が聞ける。胃もたれするという向きの方にはマリナーの演奏がスッキリするかもしれない。
K563 は異質のディヴェルティメントだ。昔からグリュミオー・トリオが定番だが、Veronika Eberle, Sol Gabettaらの演奏が素晴らしい音質で迫る。
veronikasol
  Veronika Eberle
       Sol Gabetta


あまりYou Tubeの特定のサイトを宣伝して良いことはないだろうし、ひょっとして迷惑かもしれないが、素敵なサイトを見つけると一言感謝したくなる。

それがDeucalion Projectというサイトだ。日本人のサイトらしくファイル名が日本語で入っている。2016/12/30 日に登録となっているのでまだ1年未満だ。

にも関わらず膨大なリストを抱えているのは、誰かのサイトをそっくりそのまま譲り受けたかららしい。
デュカリオンというのはプロメテウスの息子だから、世のために「悪事」を引き継いだということなのか。ありがたい話だ。

再生リストにはクラシック曲が作曲家別に多数並んでいる。特徴的なのはかなり地味目の曲が拾われていること、古めの音源が多いこと、音質がブラッシュアップされていること、だ。特に最後のポイントはだいじで、かつての新潮文庫的な匂いがする。岩波でも角川でもなくてクリーム色の新潮ですよ。わかります?

これから少し潜り込んで、よさ気なものをピックアップします。
まずはモーツァルトで、196本のファイルが並ぶ。

出て来る順に紹介するとセルのクラ協。ついでカサドシュとセルのP協が21~27と続く。つぎがチッコリーニの初期ソナタで15番まで。V協はオークレールで揃える。これは泣ける。音質もみごとに磨きあげられている。

後期交響曲は誰で揃えるというわけではないが、イッセルシュテットのプラハ(59年)とジュピター(61年)は聞きものだ。Fl協はモイーズのSPだが、さすがに辛いところがある。ハスキルのP協20盤はご存知の名盤。音質は最高だ。カザルスがいくつかあるが好みの分かれるところ。

弦楽五重奏をバリリで揃えた。いまあえてという感もあるが、音は素晴らしい。フルベンがP協20の伴奏をしているが54年5月のものらしい。ひどいものだ。グリュミオーとコリン・デイビスのV協は定番。音質も素晴らしい。

ユーディナとペルルミュテールのピアノは趣味の世界。タックウェルのHr協はステレオというのが強みだが、私はブレインでよい。

25番以降の交響曲がワルターでまとめてアプロードされている。おなじみで、音質も良いのでCD持っていない人はダウンロードしておいたほうが良い。

以降は特記するものはないので端折らせてもらう。


毎年末にNHK教育テレビで「クラシック音楽今年の回顧」みたいな番組をやっていて、毎年それを見るのが楽しみだった。
何か8ミリ映画にとった映像を流すみたいで、絵柄も音質も「良くもこんな絵を流すな」と感動するほどのものだった。
今でも覚えているのがヴィンシャーマンとバッハ・ゾリステンのリサイタルでバイオリンとオーボエの協奏曲の第3楽章を流した場面だった。多分大阪万博ころだったと思うが、まさに鳥肌モノだった。
それからだいぶ経っていたと思うが、クリーブランドがマゼールと一緒にやってきたときの演奏会の触りをやっていた。何かロシアの管弦楽曲ではなかったかと思うが、文字通り光彩陸離たるもので、クリーブランドからこんな音が出るんだ、と感心した覚えがある。
しかしどうもこの組み合わせは長続きしなかったようで、その後いろんな人が指揮者になって、そのたびにどんどんクリーブランドの音も落ちていった。だいたい街そのものが落ち目なのだからしょうがない。ということで、音的にはマゼールの時代がクリーブランドのピークだったのではないかと思う。
そんなことがあったことも忘れていたが、本日たまたまYou Tubeでこの組み合わせのベートーベンの第1交響曲を聞いて、あまりの腕前に腰を抜かしてしまった。
もともとマゼールはこの世代でピカイチの指揮者だと思っていたが、このオケからこれだけの音を引き出すのはやはりこの人しかいなかったのではないか。ただしもう少し禁欲的でも良かったか、という気もする。極彩色だが薄っぺらい。
すこしこの組み合わせの音源を探してみて、また報告する。

「ウィーンの三羽烏」という言葉が以前から気になっている。

いろいろネットで調べるのだが、英語記事をふくめて満足な答えは載っていない。

この世界のことだから、かならずとんでもない物知りがいて、「それはこういうことなんだ」と微に入り細にわたり説明してくれるものだと思っていたが、もうそういうおじさん方は死んでしまったのかもしれない。

三羽烏の由来

まずは、名前の由来だが、これがよく分からない。

「三羽烏」というのはいかにも日本の言葉である。この言葉のいわれも不詳のようだが、一番納得がいきそうな説明は有馬温泉の発見の由来にカラスが登場してきて、どうもこれが語源らしい。なかなか由緒ある言葉である。

しかしこんな言葉をウィーンの人々が知るわけがない。英語で言うと「ウィーンのトロイカ」(Viennnese Troika)と言うらしい。

トロイカというのは三頭建ての馬車のことだから、日本語としてはぴったりだ。ただいまの語感だとさすがに「三羽ガラス」は古い。「トリオ」くらいで済ますのではないだろうか。

ただ、いつ、誰が名付けたのかなど、そのいわれについては英語版でも説明はない。
なぜバドゥラ・スコダ、デムス、グルダなのか

つぎに、なぜバドゥラ・スコダ、デムス、グルダの3人が三羽烏なのか。なぜワルター・クリーンやブレンデルが入らないのかということだが、これについてもはっきりした答えはない。

考えられる理由はいくつかある。

ひとつは生粋のウィーンっ子かどうかという問題だ。

まずは5人の生まれと生地を表示する。

パウル・バドゥラ=スコダ

1927

ウィーン

イェルク・デムス

1928

ザンクト・ペルテン

ヴァルター・クリーン

1928

グラーツ

フリードリヒ・グルダ

1930

ウィーン

アルフレッド・ブレンデル

1931

モラヴィア

ザンクト・ペルテンは田舎だが、文化的にはウィーンである。

austria-map

https://jp.depositphotos.com/31778515/stock-photo-austria-map.html

これでみると、バドゥラ・スコダ、デムス、グルダを括るのは理にかなっている。しかしクリーンは生まれはグラーツだが学んだのはウィーン音楽院だ。ブレンデルはグラーツの音楽院ではあるが、卒業後はウィーンに出てそこで勉強している。

だから、どうも生まれや育ちを詮索するのはあまり意味があるとも思えないのである。たとえばウェルナー・ハースは31年の生まれだが、彼はシュツットガルトで生まれてらい、ずっと西向きで暮らしている。ウィーンには見向きもしていない。これなら三羽烏に入れないという判断は良く分かる。

5人の音楽家への道

このあと、この文章ではあまり分け隔てせずに、「5人組」としてみていくことにしようかと思う。

彼らはいずれも辛い少年時代を送っている。物心ついたとき、ウィーンは大恐慌の中で疲弊しきっていた。労働者よりの政策をとってきたウィーン市政は転覆させられ、失業者5割におよぶ厳しい引き締め政策がもたらされた。

彼らがウィーン音楽院に入る頃、世間はもう音楽どころではなくなっていた。1939年になるとナチがやってきてオーストリアは併合される。保守派や富裕層は喜んでナチの前に身を投げ出した。

彼らはユダヤ人の排斥にも積極的に加担した。ウィーンフィルの楽団員のうち11人が馘首された。そのうち9人が強制収容所で死亡した。

その5年後に敗北の日がやってきた。1945年3月、ウィーン中心部にも空襲があり国立歌劇場やシュテファン大寺院などが破壊された。フルトベングラーはベルリンからやってきて、エロイカの放送録音を残したあとスイスに逃げ出した。

1ヶ月後、ソ連軍がウィーンに入った。彼らは市内で略奪を繰り返したが、ドイツ人は文句を言えない。ドイツ人はソ連に攻め入り数千万人を殺害したからだ。ナチに追随したものは口をつぐんだ。

1945年、オーストリアは二度目の敗戦を味わうこととなった。以後10年にわたり4カ国占領軍に分割支配されることとなる。

キャリアのスタート

戦争に敗けたときバドゥラ・スコダが18歳、デムスとクリーンが17歳、グルダが15歳で、いずれもウィーン音楽院の生徒であった。ブレンデルはまだ14歳でグラーツの音楽院に在籍していた。ここから5人はキャリアをスタートさせることになる。

もっとも目覚ましい功績を上げたのはグルダだった。かれは46年のジュネーヴ国際コンクールに優勝する。と言うよりこれが5人組で唯一のメダルだ。

年長のバドゥラ・スコダは、47年のオーストリア音楽コンクールに優勝した。毎日コンクールに優勝するみたいなもので、「だから何さ」というレベルだ。

ウィーン音学院のピアノ科のボスはエドウィン・フィッシャー、どういうわけかミケランジェリも指導スタッフの一人だったらしい。あまりコンクールには熱心でなかったのかもしれない。

49年のブゾーニ国際コンクールではブレンデルが4位に入賞している。51年にはクリーンがおなじブゾーニで3位、何か期するところがあったのか翌年も出場するが、結局おなじ3位。

この二人は、ブゾーニ・コンクールでの4位とか3位とかがキャリアハイになっている。いまなら考えられない出発点だ。

ということで、ブゾーニ・コンクールがウィーン音学院のピアノ科にとってはトラウマになってしまったのかもしれない。最後はデームスがブゾーニに挑戦し優勝している。なんと56年になってからの話で、小学生のコンクールに高校生が参加するようなものだ。

デームスのキャリアもそれほどのものではない。ウィーン音楽院を出たあとパリに行き、マルグリット・ロンの指導を受ける。そしてロン・チボー・コンクールに出るのだが、優勝はしていない。ほかのノミニーの顔ぶれを見れば到底勝てそうもないライバルばかりだ。

三羽烏はウェストミンスター社の宣伝?

キャリア的にもそれほどの差はない

コンクールの実績から言うと、グルダを除けば50歩100歩である。クリーンとブレンデルは明らかに落ちるが、ほかの二人にそれを笑うほどのテクニックがあるわけでもない。

つまり、「ウィーンのトロイカ」はレコード会社のキャンペーンではないかということだ。

ここから先は、裏付けなしの推測なので「間違っていたらごめんなさい」の世界。

 アメリカにウェストミンスターというレコード会社があった。タワーレコードの宣伝文句にこんなのがある。

1949年にニューヨークで創設され、短期間に綺羅星のごとく名録音の数々を残したウエストミンスター・レーベルは、創設の中心メンバーであったジェイムズ・グレイソンがイギリス人で、もともとロンドンのウエストミンスターのそばに住んでいたことにより、「ウエストミンスター」と命名されました。

これは別の会社の宣伝。

このレーベルは49年、ミッシャ・ネイダ,ジェイムズ・グレイソン,ヘンリー・ゲイジ、そしてチェコ出身の指揮者のヘンリー・スヴォボダによりニューヨークで設立されました。

ワルター・バリリとその四重奏団,ウィーン・コンツェルトハウス弦楽四重奏団,パウル・バドゥラ=スコダ,エリカ・モリーニ,レオポルド・ウラッハ,イェルク・デムスら、ウィーンを中心とした名演奏家たちを始めとして…

この会社がいわば経済苦境に苦しむウィーンの音楽界に、言葉は悪いが底地買いに入ったわけだ。

よく「音楽の都 ウィーン」と言うが、「音楽だけは」という皮肉にも聞こえる。20世紀の初頭ウィーンは決して音楽の都ではなく、すべてにおいて都であった。

それが第一次大戦に敗れ、国土が切り刻まれる中でメトロポリスの実体を失った。借金生活が成り立たなくなり、ナチスドイツに吸収され、ふたたび第2次大戦で残されたすべてを失った。

「音楽の都」というが、音楽を聞くにも演奏するのにもお金は要る。商売できなければ音楽家もみな逃げ出す。残ったのは年老いた二流の演奏家か、駆け出しのチンピラしかいない。

しかしそこはハプスブルク以来200年の音楽の歴史と伝統がある。掘り起こして火をかき起こせば、タダ同然で「お宝」が手に入る。それが上記に掲げられた演奏家たちであろう。

成功したとは言えない「トロイカ」キャンペーン

おそらくトロイカと言っても中心はグルダだったのではないだろうか。コンクール歴を見ても、16歳でジュネーブ国際コンクール優勝というのは相当のものである。

これに比べれば、バドゥラ・スコダは「毎日コンクール」優勝くらいの経歴で、デームスはロン・チボーに出たというくらいの経歴だ。

そこでウェストミンスターは、1950年にカーネギー・ホールにグルダをデビューさせたあと、三人組のセットで若手を売り出した。「たのきん・トリオ」みたいなものだ。しかし成功したとはいえない。やがてロシアからとんでもないピアノ弾きが続出するようになると、彼らのテクニックではとても太刀打ち出来ない。

ただピアニストが一流になっていくのはコンクール向けのテクニックばかりではないので、デームスもバドゥラ・スコダも長年かかって少しづつキャリアを積み上げ、一流ピアニストに成長していく。これが伝統の力だと思う。

ウェストミンスターの計算違いは、グルダがデッカに行ってしまったことだ。1954年にグルダはデッカにベートーベンのソナタ全曲を録音している。

Vox社で実績を積み上げたブレンデルとクリーン
底地買いと言っても、ウェストミンスターはそれほどアコギな仕事をしたわけではない。むしろ高級感さえ漂わせた。商売上手である。LPの値段も決して安くはなかった。高城さんのブログで昭和28年に3200円だったと書いてある。私はまだ小学校低学年で価格など知らなかったが、中卒の初任給くらいだろうか。
米Voxは安物レコードの象徴的存在である。貧しいヨーロッパで音楽家を一山いくらで買って、安物の録音機で録音しては売りまくるという下品な商売をしていた。とは言え、こういう会社があるからこそ我々ごときもレコードに接することができたのだから、足を向けて寝られるものではない。
「レコード芸術」で曲を知って、Vox盤、あるいはソノシートで我慢するというのが青春であった。二人の連弾のハンガリー舞曲とか、パツァークの独唱にクリーンが伴奏した「水車小屋の娘」なんかを聞いた記憶がある。購入の動機は曲ではなく、その時の財布の中身と価格のバランスと勇気のあるなしであった。
とにかくそこで二人は拾われた。表通りのクラブではないが、裏通りのキャバレーで華々しく活動した。
ここからブレンデルは羽ばたいて、フィリップスのエースに成長していく。クリーンはその後は鳴かず飛ばずで、70年代の末からようやくモーツァルトを中心に評価され始めた。アマデウス四重奏団との四重奏曲は驚くべき名演だ。
NHKテレビのピアノ教室の講師になってからは、日本でも名前が売れ始めたらしい。
You TubeにN響とやったモーツァルトの23番のライブビデオが残されている。あの澄んだ美しい音がどういうタッチから紡ぎされているかが分かる。蛇足ながら若杉弘の指揮も懐かしい。

とにかく5人が5人とも録音機会や発表機会に大変恵まれていたことは間違いない。あの時期にその場所でしか生まれ得なかったチャンスであった。それを一概に幸運とはいえない、不幸と裏合わせの機会であったが、彼らが懸命に活躍し、その機会をモノにしたことは間違いないだろう。


ここまでハイドンのピアノソナタにはまり込んで、なんでこんなことまでしなければならないのかと思う。

結局前の記事で、肝心なことが説明できていないからである。

「ウィーン原典版」(ランドン版)というのが結局混乱の元だったのだろう。

こういうことになると、日本語のネット文献はとんと無力である。

調べてみて分かったのはこういうことだ。
ハイドンという人はドイツ人として初めて大衆の支持を受けた作曲家だ。しかも大変息の長い作曲家で、ウィーンで楽譜が売れ始めたのがかなりの歳になってからだ。だから楽譜が売れる前エステルハージの時代にかなりの曲が手書きコピーで流布された。つまり海賊版がやたらと多い人なのである。だから作品目録を作るに当たっては『伝 正宗』のヤマの中から本物を探し出す作業が必要になる。

1926年生まれのアメリカ人ロビンズ・ランドンが、第二次大戦後間もなくウィーンにやってくる。まさに「第三の男」の時代だ。

彼はボストンでの学生時代、ウィーンから亡命してきたガイリンガーというハイドン研究者の講義を受けて感動していた。ウィーンに来てからは、ハイドン研究の大御所ラールセン(デンマーク人)の指導も受けていたといわれる。
溢れんばかりの才気とやる気、それにかなりの資力(パトロン)もあったんだろうと思う、たちまちのうちにウィーンとボストンにハイドン協会を立ち上げてしまった。

彼のハイドン協会は、「不幸なハイドン」のために一刻も早く全集を完成しようと奔走するが、結局それは挫折する。

やがて戦後の混乱が落ち着いてくると、ラールセンは復興資金の集まるケルンに移り、ハイドン研究を継続する。そこにはラールセンより15歳年上のホーボーケン(オランダ人)も結集した。

57年にホーボーケンが作品目録を提示した。ロビンス・ランドンは相当あせったようだ。

ランドンは妻クリスタ(5歳年上)とともにウィーンに戻った。他の研究者の協力を得て訂楽譜の編集を急ぎ、しばしばハイドン研究所より早く完成させて出版した。これがいわゆる「ウィーン原典版」である。

ピアノ・ソナタに関してはクリスタ・ランドンの名義で別目録を発表、ホーボーケンと真っ向対決の形になった。その不正確さ故に拙速の批判を浴びることがあったともいう。つまり巷の多くの『伝 正宗』を取り込んじゃったわけだ。

結局この混乱は、ロビンズ・ランドンが亡くなることで終りを迎えた。このあと「ウィーン原典版」、ランドン校訂の旧版を底本として改訂に着手し、新版ではホーボーケン番号順へ並び替えられたというから全面降伏である。クリスタ・ランドンの名は原校訂者として残されているが、その意味は定かでない。
PS
クリスタ・ランドンはほとんどネットでは紹介されていない。写真も見当たらない。
1921年、ベルリンに生まれる。父親は保守系の政治家だった。39年、クリスタが18歳のときに戦争を嫌ってウィーンに移住。そのままウィーンで終戦を迎えた。ウィーン音楽院を卒業後、当時ウィーンで創設されたハイドン協会に就職する。ベルリンなまりのきつい子だったという回想がある。
このハイドン協会というのがよく分からないが、多分ラールセンが中心となったのだろうが、アメリカからの資金提供を受けていたのではないか。ウィーンとボストンのダブルフランチャイズとなっている。そこに大学を卒業したてのロビンス・ランドンがやってくる。あるいはロビンス自身がフィクサーだったかもしれない。
クリスタは後にロビンスの二度目の妻となる。5歳年上の姉さん女房だから、傷心のランドンにとって慰め役になっていたのかもしれない。
クリスタはハイドン協会の解散後もケルンのハイドン研究所、ウィーンに立ち上げたウィーン原典版研究所と、ロビンスと行動をともにする。
彼女はウィーン原典版の発行と接して、77年になくなっている。ロビンスはその後3度めの結婚をしている。
生前はシューベルトの初期交響曲の校訂に携わったらしいが、ハイドンのピアノソナタにはほとんど研究実績がみあたらない。このことから、この大胆不敵な仕事は実のところロビンスのものではないかとも思われる。


多分、おおくの不正確さをふくんでいると思います。訂正・加筆を期待します。

ハイドンのピアノソナタとナンバリングの歴史

飯森 豊水「J.ハイドン研究における近年の変化について」を下敷きにしながら歴史動向を探る。

1732年3月31日 ハイドンが生まれる。

1761年 ハンガリー貴族エステルハージ侯爵家に副楽長として仕える。

1770年頃 ソナタ(Hob18-19, 44-46)が作曲される。(出版は10年後)

1774年 ヴィーンのクルツベック社から6曲の鍵盤楽器ソナタ(Hob21-26)が出版される。この頃ハイドンにおけるソナタの位置づけが定着。

1776年 「6曲のソナタ」(Hob27-32)が発表され、流布する。

1780年 ヴィーンのアルタリア社から6曲のソナタ(Hob35-39, 20)が出版された。

1783年 ロンドンで3曲のソナタ(Hob43, 33, 34)が出版される。

1784年 シュパイアーで3曲のソナタ(Hob40-42)が出版される。

1789年 2曲のソナタ(Hob48-49が発表される。この頃からクラヴィアに代わってピアノが鍵盤楽器の主流となる。

1800年 ロンドンやヴィーンで3曲のソナタ(Hob 50-52)が出版される。いずれも94年の第2回ロンドン滞在中に書かれたもの。

1810年 ハイドンの死去。ブライトコップフ・ウント・ヘルテル社(以後ブライトコップフ)の代表でハイドンの友人グリージンガーによる伝記が出版される。

1879年 C.F.ポール、ハイドンに関する研究を開始。「グローブ音楽事典」でハイドンの項目を執筆。

1895年 高名な音楽理論家フーゴー・リーマン、ハイドンの手稿を発掘。発表された34作品に新たに発見された5曲を加え39曲とする。

1908年 ブライトコップ社による「ハイドン全集」の編集が開始。

1918年 「ハイドン全集」のうち、ピアノソナタの巻が発表になる。校訂者カール・ペスラーは一挙に52曲へ拡大した。

この全集は全3巻からなり、第1巻に第1-22番、第2巻に第23-38番、第3巻に第39-52番が収められた。彼はこの52曲のソナタを創作年代順に並べることを意図した。しかしとくに第1~17番を作曲順に並べるにはその判断の助けとなる資料がまったく欠けていたといわれる。

1927年 オランダの音楽学者アントニー・ヴァン・ホーボーケン、ハイドンの楽譜等を写真で複製するなど収集を開始。1千曲のカードを数えるに至る。

1932年 ガイリンガー、「ヨゼフ・ハイドン」を執筆。代表的ハイドン概説書となる。

1933年 ブライトコップ社の「ハイドン全集」が挫折。

1939年 デンマークの研究者 J.P.ラールセン、ハイドン楽譜の真贋に関する先駆的研究。門下にホーボーケン。(ただしホーボーケンはラールセンより15歳年上)

1947年 ボストン生まれのロビンズ・ランドン、ウィーンに軍務で赴任。ラールセンの下でハイドンの研究を始める。

1950年 ボストン・ウィーンのハイドン協会による全集発行の企画がスタートする。ラルセンがシニア研究員、ロビンズ・ランドンが実務を担当した。

1951年 楽譜は4巻まで出したあと中断。全集企画が流産する。

1955年 ケルンに「ハイドン研究所」を設立。ラールセンが初代責任者となる。学問的に緻密な全集を新たに出版することを目的とする。

1955年 ロビンズ・ランドンが『ハイドンの交響曲』を出版。真正の交響曲を特定し、作曲順を推定する。

1957年 ホーボーケン、「ハイドン書誌学的作品目録」を作成。第1巻「20のグループの器楽曲」が発表される。この内「グループ16」(表記はHob.XVI:)がピアノソナタに割り振られる。

ホーボーケンは、すでに整理されているジャンルについてはできるだけそれを尊重するという方針を採る。したがって、ピアノソナタにおいてはペスラーの第1~52番がそのまま踏襲された。

1958年 ハイドン研究所、ハイドン全集の発行を開始。60年までに最初の8巻(ヘンレ社本)を出版。所長はラールセンからフェーダーに交代。

1968年 進まぬ作業に業を煮やしたランドンは、独自の『ウィーン原典版』の作成に乗り出す。この年に交響曲全曲の楽譜が発行される。

1972年 ハイドン研究所ゲオルグ・フェダー校訂の原典版ピアノ全集(ヘンレ社)が発刊される。

1973年 クリスタ・ランドン、ヴィーン原典版を発表。新たに13曲を加え(うち6曲は実体がない)、3曲を排除して62曲とした。全62曲に通し番号を付けなおした。

クリスタ・ランドンはほとんどネットでは紹介されていない。ウィーン音楽院を卒業後、ハイドン協会にくわわる。49年にロビンスの二度目の妻(5歳年上)となる。77年になくなっている。他にほとんど見るべき実績がないことから、ロビンスの仕事ではないかと思われる。

ランドンは他の研究者の協力を得て訂楽譜の編集を急ぎ、しばしばハイドン研究所より早く出版した。ランドン版に当たる第4番、第7番、第17番~19番、第21番~28番はホーボーケン版には該当するものがない。

ランドンおよびその陣営の研究者たちによる楽譜出版が、その不正確さ故に拙速の批判を浴びることがあった。最大の問題は根拠なしに創作順を推定して全面的に番号づけ直したころにある。

1974年 ケルンのヨーゼフ・ハイドン研究所、ハイドン関連文献の目録作成を開始。

1978年 ホーボーケンの目録第三巻(作品集、作品番号一覧、出版社一覧、被献呈者一覧等のデータ集および追補と訂正)が発行し、全目録が完成。

1976年 ランドン、5巻からなる膨大な『ハイドン:年代記と作品』を刊行。

1984年 アメリカのDover Publications 社、ペスラーの『ピアノ全集』全2巻を復刻・出版。

1994年 ロビンス・ランドンが「新発見のピアノソナタ」とした作品をめぐって論争。これらの楽曲は偽作であると結論された。

2004年 全音楽譜がハイドン:ソナタ集1、2を発行。各15曲が収録されている。いずれもホーボーケン表記を採用。ランドン表記を旧分類とする。

2009年 没後200年を機に、G.ヘンレ社より「ピアノソナタ全集(原典版)全3巻」が発行される。ケルンのハイドン研究所「ヨーゼフ・ハイドン全集」の一部を構成する。

鍵盤音楽担当編集者のフェーダーは、通し番号を付すのをやめ、全54曲を10のグループに分け創作順関係に融通性をもたせた。

2009年 「ウィーン原典版」、ランドン校訂の旧版を底本として改訂に着手。改訂担当者はライジンガー。ランドン独特の通し番号は旧番号として維持されたものの、並び順はホーボーケン番号順に並び替えられる。

2010年 ペータース社より「マルティエンセン編ピアノ・ソナタ集 全2巻」が発行される。

2013年 「ウィーン原典版ハイドン ピアノソナタ全集」が改訂。日本では音楽之友社から発行。

ハイドンのピアノソナタをまとめ聞きする。
ハイドンをまとめ聞きするというのは、そもそも無理なのである。
そんなことは前から分かっている。わかってはいるが一度やってみたいのである。それが性というものだ。
シンフォニーは10番位で最初に挫折し、それでも頑張って行くと、30番位でなにが何やら分からなくなってくる。
そのへんからは徹底的に流しまくって、聞いたことにして前に進んでいく。
それでも50番位でもうごちそうさまになる。
ニックネーム付きを選んで進むが、それでもパリセットに入る頃には耳がストライキを起こす。
最後は、そんなことで一生を終わるのかという、声が聞こえてくる。これはほとんど統合失調の手前だ。
交響曲で挫折したのなら、弦楽四重奏がどうなるかは火を見るより明らかだ。
それに比べればピアノソナタはかなり気楽に行けるのではないかと、またもや始めた次第。
以前、ピアノトリオはけっこう気楽に進んだので、少し頑張ってみよう。

ピアノソナタを聞くのにあたって最初に困ったのは、名前がばらついていることである。
ばらつくのは決定的な権威がいないからであり、譲りあいの精神が欠如しているからである。
みごとなほどにばらついており、そのばらつきに規則性がない。

バッハとモーツァルトは幸せである。ケッヘルとBWVでとりあえず収まってくれるからだ。
一番不幸なのはスカルラッティで、たいした有名でもないのにL(ロンゴ)とK(カークパトリック)が意地を張り合っている。
それでもまだKとLと名を名乗るから良いが、ハイドンの場合は名を名乗らない。


私のつたない記憶では、かつて一時はホーボーケンに統一しようという流れがあったと思う。
しかしそれはもうない。昔のピアノソナタ第何番に戻ろうとしている。しかし2,3割の人はいまだにホーボーケンにこだわっている。だから同じ曲がまったく違う番号で出てくる。その際鑑別するには曲の調性で判断する。また作品番号もついているのでこれでも推測できる。
とにかく音源がある程度溜まってくるとこれを整理していくだけでも大変なのだ。
ということで、これからハイドンのピアノソナタを聞こうと思っている人のために、あらあらの曲名一覧を提示しておこう。
(なおオヴェ・アンスネスのソナタ集の番名は多分、「ウィーン原典版」の現行版ではなく旧版(ランドン版)を使っているのではないだろうか
一般的に言えば、ここに名前がない曲は聞く必要はないと思っていい。
haydn_PS
なお、ウィキペディアではホーボーケン番号順に曲を並べているが、今日では意味が無いので利用しないほうが無難。ピティナの索引(全音楽譜版?)を使って一覧表を作らないとあとでひどい目にあう。
曲としては、31番、32番、33番、38番、47番、50番、53番、59番あたりが定番曲だろう。
演奏は誰が良いということはないが、録音が新しく良いものが良い。ピアノフォルテやクラヴサンの演奏は避けた方が良い。
ブレンデルがあらゆる面から見て無難。クリーンも良いがブレンデルより粒が小さい。アンスネスの立体感は高音質とあいまって魅力。リフテルはたまにスカがあるので注意。バックハウスは無理やりベートーベンにしようとする。エマヌエル・アックスの盤は思いっ切り残響も入ってピアノしているが、意外に良い。


この記事は、その後180度転換されている。

をご覧いただければ理由はお分かりいただけるであろう。いまさら知らんぷりもできないので、恥をさらしておく。

通し番号記載は、今後姿を消していくであろう。

私もホーボーケン番号順に整理し直すことにする。整理し直したらもういちどブログに掲載することをお約束します。


どうもタバコを止めてから肉体的には多少良いが、精神的な持続性が落ちてしまったようだ。イライラと腑抜け状態が続く。

あと10年の生命、どう持たせればよいのか思案のしどころだ。

気持ちがひとところに落ち着かず蝶々のようにふわふわしている。

シェーンベルグの「浄められた夜が」演奏次第でずいぶん違う。カラヤンがどうも気に入らなくて、弦楽6重奏のテクスチャー感が出てこない。

エベーヌ四重奏団がすごく気に入ったのだが、弦楽合奏版を捨ててよいのかが気になって探してみたら、小沢指揮サイトウ・キネン・オーケストラの演奏がすごい。ただ、熱演はすごいのだが、やはりこの曲は弦楽6重奏曲だろうと思う。

ベートーベンの大フーガをフル・オーケストラで聴いても、ひたすら低音弦がうっとうしいのと同じだ。

それでなんとなしに小沢のディスコグラフィーを探していくうちに、入江美樹という奥さんが気になって、写真を探したらこんなのが出てきた。

入江美樹
顔はハーフだが体型は純日本風。亡命ロシア人の流れのようで、白人=上流階級ではない類(大鵬とかスタルヒンとか)の流れかもしれない。戦後の北海道にはちらりほらりと見かけたものだ。

滝川クリステルとは品格が違う。

後ろのアンちゃんがいかにも平凡パンチかJUNから抜けだしてきたみたいで、 ワタシ的にはハマってしまう。

あの頃の若者文化の憧れシーンをスカートめくりしたような気分だ。


それでその話がどうつながっていくかというと、小沢が活躍した頃のアメリカのミュージックシーンの話になって、Stu Phillipsの話に跳ぶのだ。ここがどうして跳ぶのかがよく分からない。

海馬の障害なのかもしれないし、私のブログの更新が進まない原因なのかもしれない。

とにかくこのLPが良いのだ。

Stu
ジャケットは相当いやらしい。

それでこのStu Phillips という人が、売れればなんでもいい人なのだ。

それで最大のヒット作がナイトライダーだ。ナイトは夜ではなく騎士の方のナイトらしい。いま考えればAIカーの走りだ。

多分このシリーズは見た。ハッセルホフという下品顔の俳優で“日本ハムの新庄”をさらに崩したけばい顔だ。

音楽はとんと覚えていない。今日び、こんなもの、リズムマシーンソフトでいくらでも作れる。

「見た」記憶はあるが、「さすがにここまでは」というのが

Knight Rider
ということで、肝心なことが書いてない。

とにかく小沢征爾とサイトウ・キネンの「浄められし夜」は見ておいた方が良い。


いまびっくりしている最中です。
チョ・ソンジン(seong-Jin Cho 趙成珍)というピアニスト。あまりにも素晴らしくて、あっけにとられています。
もともと韓国のピアニストは好きで、独特のグルーブ感はとても日本人の及ぶところではないと思っていましたが、ついにここまで来たかという感じです。
2015年のショパン・コンクールで優勝、ポロネーズ賞も併せて受賞したそうです。
というより、もはや世界のトップランナーとして完成しています。
私はツィマーマンが好きで、いわゆる「世界最高」だと思っていますが、彼がのして来たのはショパンコンクールを受賞してから数年後のことです。
逆にポリーニは受賞のときが一番で、その後は玄人筋の評判は良かったものの、私にとってはピンとこない存在でした。
ダン・タイ・ソンはコンクールで燃え尽きてしまったようです。ユンディ・リーはただの雑技団です。
しかしチョ・ソンジンはそういうレベルをはるかに超えています。ピアノ界の大谷です。
技巧も素晴らしいし、音色も最高ですが、それ以上にずば抜けた芸術的センスに惚れ惚れしてしまいます。
それは英雄ポロネーズとかスケルツォの2番のようなとりとめない「駄作」から物語を紡ぎ出す、センスの絶妙さに現れています。
You Tubeで探すと韓国には芸術的センスに溢れた人たちが山ほどいます。訴えてやまない国民性が芸術に向いているんでしょうね。
「嫌韓」の方にぜひ一度見てもらいたいと思います。きっと考えが変わるでしょう。
ピアノ協奏曲第1番
ピアノソナタ第2番
チョ・ソンジンは第一次予選にノクターンの作品48の1を選びました。この曲はルビンステイン風にエレジーっぽく弾くか、ポリーニみたいに行進曲風に行くかでずいぶん印象が違ってきます。
最初からずいぶん難しい曲を選んだもので、その冒険が必ずしも成功しているとは思えません、


You Tubeにはショパンコンクールで優勝したあとのベルギーでのコンサートもアップされています。正直に言えば弛緩しきっています。このままではダメでしょう。

流石に有名曲だけあって、You Tubeでもずいぶんとたくさんの演奏が聞ける。
本日聞いたのはブーレーズ、モントゥー、ミュンシュ、レイボヴィッツ、カラヤンの旧盤と新盤、ラトル・BPO、ブラッソンというところ。この倍くらい音源がある。カラヤンの旧盤はツェラーのフルートというのが売りになっているが、You Tubeの音質はかなりの低レベル、新盤は85年のものらしいが、どうしようもなくうざったい。
ラトルの音源は05年の東京ライブらしい。何故か音がくぐもっている。一つひとつの音は素晴らしいのに残念だ。ブーレーズはいつもながら好きでない。嫌なやつだ。
モントゥーの録音は来日直前のものであろう、ステレオだ。デッカのおかげで素晴らしい音がとれている。ミュンシュの録音も引けをとらない。モントゥーはロンドン交響楽団、ミュンシュはボストン交響楽団で最高の技術水準だ。
レイボヴィッツはLPからの盤起こしで、音そのものは良いのだが低調の雑音が気になってしまう。
いろいろ聞いていると、この曲はフルート協奏曲ではなく、かなり指揮者次第で変わってくる曲だということが分かる。ワグナーを聞いているのではないかと錯覚することさえある。それはレイボヴィッツ盤を聴いていると良く分かる。
ということで、ミュンシュには悪いがこの曲向きではない。減点法で行くとモントゥー盤かなということになる。ブラッソンもとてもいいのだが、オケのレベルがちょっと物足りない。
まぁ今日はこんなところで。


レビコフのピアノ曲はリャードフやリャプノフと比べると本当に雑な作りだ。
それなりのピアニストだったら、忌避するか大げさな響きに編曲するだろう。メロディーも月並みなセンチメンタリズムだ。
ただし、中山晋平の「波浮の港」を聞いて「あぁなんていいんだろう」と思う人にはお薦めだ。
そんなメロディーが次々と湧き出てくる。そんなレビコフの真骨頂が作品8のピアノ小曲集「秋の夢」だ。
全部で16曲からなる。まず右手のメロディがあって、左手は控えめに和音を奏でる。小学生でも演奏できそうな曲ばかりだ。
rebikohu
私はアナトリ・シェルデヤコフのピアノ全曲集を買ったのでそれで聞けるが、You Tubeでは全曲という訳にはいかない。というか、ほとんど聞けない。
ソメロというひとのCDも買ったが、金正恩みたいな写真のジャケットはおよそ反芸術的な雰囲気満載だ。
“Rebikov” で検索してみてください。なんとなくハマること請け合いです。

なぜ、ダウンロードをそんなに頑張ったかというと、ベルグルンドのシベリウス全曲を見つけたからだ。
しかも音が素晴らしい。
パーボ・ベルグルンド指揮ボーンマス交響楽団のシベリウス交響曲全集は、極めつけというほかない名盤だ。まったくもって奇跡の演奏であり録音だ。イギリスの片田舎の素人に毛が生えたような楽団のはずだが、これがベルグルンドの薫陶よろしきを得て、名指揮者と有名楽団の演奏をはるかに凌駕する世紀の名演を行ったのだ。
1970年台の録音だから、アナログだし古い。しかしアップロードするに際してすごいリマスターが加えられている。
ハムとランブルを除いて、S/N比が72dbまで向上したそうだ。聞いていると最近のDDDに勝るとも劣らない。
残念ながらビットレートは最近のYou Tubeのしばりで、AAC可変レートで128kbまでに押さえられているが、大型装置で聞いても十分耐えられる音質だ。
ついでにもう一つの演奏も紹介しておく。
同じパーヴォだが、こちらはパーヴォ・ヤルヴィ、ネーメではなくて息子の方だ。オヤジもずいぶん北欧モノを振っているが、息子もその薫陶を受けたのであろう、密かに得意としているようだ。
そのパーヴォ・ヤルヴィとパリ交響楽団との第一交響曲だ。「もういくつ寝るとお正月」が第2楽章に出てくる曲だ。冒頭のクラリネットがなんともいえずとろける。バーンステインとウィーン・フィルの演奏のときもクラリネットが素晴らしかったが、こちらは甘いショコラの風味だ。ヤルヴィはタクトを胸に押し当てたままである。
第3楽章の明快でおしゃれな感覚は、終楽章のゴージャスな音色とともに、これがシベリウスであることを忘れさせてしまうほどだ。音質も良い。ぜひご一聴をお勧めする。
なおヤルヴィの演奏にはフランクフルト放送交響楽団とのものもアップされているが、こちらは凡庸で録音のクオリティーも低い。

ドヴォルザークのバイオリン協奏曲ですごい演奏を見つけた。

スーク・ノイマン・チェコフィルの演奏がとにかくひどい音で、聞くに堪えない。諏訪内さんの演奏も良いのだが、古いアップのためか音がくぐもる。

何かもう少し良いものがないかと探してみた。

Johanna Martzy

という、聞いたこともない女流奏者の演奏で、フリッチャイとRIASがバックをつとめている。1953年の録音らしい。

dvorak

DGGの正規盤だからそれなりに由緒ある録音なのだろうが、かなり聴き込んだLP(モノ)からの盤起こしで、かなりスクラッチ・ノイズが気になる。オケの音はかわいそうなくらい貧弱だ。

SERIOSO SERIOSO さんも流石に気になったのか、同じ演奏を2ヶ月後に再アップしている。こちらは同じDGGでもヘリオドール・レーベルで違う盤のようだ。ステレオと銘打っているがもちろん疑似ステだ。

もちろん、ヌヴーよりはるかに音質は良い。たぶんリマスターして出してくれれば相当の音質で聞けると思う。

とにかくバイオリンの音色に酔いしれるべき演奏だ。どこまでが演奏家の腕で、どこまでが楽器の良さなのかは分からないが、低音での繊細さと高音での天まで伸びていく輝きが有無を言わせずに迫ってくる。

クレモナの名器を使用してたらしいがさもありなんと思わせる。

気になってヨハンナ・マルツィの音源をいろいろ探してみた。一世を風靡したらしく結構な音源がある。しかし結局のところこの演奏一発の人のようだ。結局名器に足を引っぱられてしまったのか

悪くはないがちょいと臭い。ヌヴーとはレベルが違う。この人でなければという人でもない。ブルッフあたりを入れていればもう少し人気が長持ちしたのではないかと思うが。

P.S. Beulah さんという方がものすごい音質でリマスターしている。これはリマスターが専門の会社のようで、デモンストレーションとして抜粋(約10分間)がアップされている。


ロシア音楽の年表でいろいろ地名が出てきますが、どうもピンときません。
少し勉強してみました。
江戸時代もそうなのですが、俗に「偉人」という人の多くは地方出身です。地方の小エリートが都会に出て勉強し偉くなっていくというのが、この時代(封建時代)の特徴のようです。なぜそうなのか、よくわかりませんが、地方には独自の文化があってその土壌が「偉人」たちを育んだのかもしれません。地方の疲弊は国の文化の多様性を失わせ、国を衰退に導いていくのかもしれません。

それはともかく、地名を地図で探すのですが、著作権の関係なのかまともな地図にヒットしません。グーグル地図は美しくないのですが、地名検索にはこれを使うしかありません。

とりあえず全体が分かる地図を掲載します。(画面上をクリックすると拡大されます)

Russiamap

RUSSIA - EUROPEAN REALM

というサイトからの転載です。

19世紀の地図も探しています。

ありました。

Russland und Scandinavien (Russia in Europe and Scandinavia), 1873

という地図で、ありがたいことにラテン文字表記です。

15 Mb  9345x7606 px

というすごい画像で、光通信でもダウンロードに数分を要します。(ロシアのサイトなので、向こうの問題かもしれない)

こちらは細切れにして紹介します。

1.ヴォトキンスク

まずはチャイコフスキーの生まれたヴォトキンスク。ウィキには次のように紹介されています。

ウドムルト共和国の首都イジェフスクの北東50キロメートルに位置する。カマ川の支流ヴォトカ川が流れることからヴォトキンスクという。

これって分かりますか。

ヴォトキンスク

これがグーグル地図です。ボルガ河畔のカザンから東北東に直線で300キロ、東京―名古屋くらいです。

道路事情にもよりますが、馬車でも5日間でしょうか。

このヴォトキンスク、1873年の地図には名前すら載っていません。相当山奥の田舎町だったようです。

もともとこのあたりはウラルの山の中で、フィン人系の先住民が住んでいましたが、鉱山が発見され、18世紀末からロシア人が入り始めたようです。

チャイコフスキーが生まれた1840年ころには文化のブの字もなかったと思います。

現在ヴォトキンスクは人口10万を数えますが、これは第二次大戦中に重工業がウラル山中に疎開したことがきっかけになっています。戦後は弾道ミサイルの生産拠点となっており、アメリカの監視要員が駐在していたこともあったようですが、その後追放されたとの報道もあります。

最近は人口減少の兆しもあり、前途はなかなか多難と思われます。


いろんなページからチャイコフスキーのボトキンスクでの生活を辿ってみます。

ボトキンスクは鉱山の町で、父イリヤは鉱山で政府の監督官をつとめる貴族でした。といっても、家系的にはウクライナ・コサックの出で、医師であった祖父の努力によって、貴族に叙せられた家系です。

母アレクサンドラはフランス人の血をひく女性で、先妻が死別したための後妻です。アレクサンドラの祖父はフランス革命をさけて亡命してきたフランス人の貴族でした。

母はチャイコフスキー自身が近寄りがたいと思うほどの美人で、フランス語とドイツ語が達者な教養のある女性でした。ピアノも弾き、プロの歌手ではないけれど素晴らしい美声の持ち主だったといいます。

チャイコフスキーが幼い頃は父の稼ぎも良く、彼が4才の時フランス人女性を住み込みの家庭教師として迎えます。ファニー先生は勉強を教えるだけでなく、世界の歴史や童話や易しい小説を読んで聞かせ、いつも側にいて優しく見守ってくれていました。

モーツァルトのオペラやシュトラウスのワルツが大好きで、覚えた節を自分なりにピアノで弾いたりするなど音楽的才能はあったようですが、特別教育を受けた様子はありません。

彼は7歳でフランス語による詩を作り、オルゴールを聞いて一人泣いているような子どもだった。(Rimshotさん

8歳のときに一家でモスクワに出たあと、ボトキンスクに戻ることはなかったようです。

0~8歳までの時期というのは、強烈な印象を残しているものと思いますが、直接ボトキンスクの思い出を題材にした曲というのはないようです。





カティア・ブニアティシュビリというピアニストがいる。名前を憶えるのにだいぶ時間がかかった。
グルジア出身でおよそ30歳くらい。ヨーロッパでは大変な人気らしい。
たいしたコンクール歴もないが、ルックスが良い。豊かなバストでたまらないお色気だ。ムター人気と似通ったところがある。しかしこの人の見せ場はルックスではなく、ハリウッド女優も真っ青のパフォーマンスにある。
独奏は大したことはないが、コンチェルトになると俄然すごい。管楽器奏者の独奏場面では口には笑みをたたえ、目では睨みつける。「にっこり笑って人を斬る」眠狂四郎の趣きだ。
要するに“あんみつ姫”さながらのスーパーわがまま姉ちゃんなのだが、大きな瞳で見つめられてニッコリ微笑まれると、ついその気になってしまうというあんばい。これには男女の差はなさそうだ。
もちろん毎日一緒に暮らしたくはない。Never and Neverだ。

グリークをお勧めする。とくに終楽章はホロビッツの爆演を思い起こさせる。


ブラームスのクラリネット5重奏曲といえば、ある意味“暗さ”が売りの曲だ。
それをムード音楽のように演奏している人がいる。
邪道とはいえ、これが意外に良いのだ。
Clarinet Quintet in B minor, Op. 115 - Autumn mood, Johannes Brahms

というYou Tubeのファイル。
Chamber Music Society of Lincoln Center
という団体の演奏で、ライブ録音らしく終わりに拍手が入る。
クラリネットは、一瞬耳を疑うような音を出す。

しかし、それでも良いのだ。
第一楽章の第一主題はスローなワルツだ。「うーむ、そうか」と納得してしまう。

だいたいこの曲の演奏はクラリネット奏者の名で呼ぶことが多い。ウラッハ盤とかライスター盤という具合だ。しかし、この演奏ではクラリネットは5重奏の1メンバーで、タクトは第一バイオリンが握っている。
それが良いのだろう。こちらはブラームスを聞きたいので、ライスターを聞きたいわけではない。
この線で、もう少し上手いグループが演奏してくれないだろうか。






マレー・ペライアのゴールドベルク変奏曲を聞いている。

ずいぶん色々聞いてきたつもりだが、やっぱりこれしかない。

と思って、ついに買う決意をした。

と思ったら、アマゾンで三種類も出ている。

① MURRAY PERAHIA THE FIRST 40 YEARS Box set

これがなんとCD73枚組で2万6千円。

流石に「うーむ」と唸る。生きているあいだに全部聞けるだろうか。

MURRAY Perahia AWARDS Collection Box set

これはCD15枚。なんとかなりそう。値段は4234円という中途半端なお値段だ。タワーレコードでは3622円になっている

MURRAY PERAHIA PLAYS BACH CD, Import, Limited Edition

これがCD 8枚。もちろんゴールドベルクも入っている。3369円。

これは②で決まりだね。

長年、ソニーで録音していたペライアがグラモフォンに移籍して、腹いせにソニーが投げ売りしているらしい。

 

 

スメタナSQ の3つのドヴォルザーク:ピアノ5重奏曲

それほどの曲とも思わないが、たまたまYou Tube で現役盤以外の二つの演奏を聞くことができた。

みんなピアニストが違うので、しゃべるには分かりやすい。

最初がシュテパンというピアニスト。これは60年代に出たスプラフォン盤らしい。

次が、1978年にヨセフ・ハラのピアノによる演奏。これは1978年11月18日、新宿厚生年金会館でのライブ録音。最後に拍手が入る。

この2枚目については「私のクラシック」というブログに経過が詳しく書かれている。

そして現在現役盤となっているのがパネンカとの共演。1996年日本でのスタジオ録音らしい。

なぜこんなことを書くかというと、私はあまりスメタナ四重奏団の演奏が余り好きでないからだ。

ゲスの趣味だが、どちらかと言えば私は朗々と歌ってほしい。

靴下の上からくすぐられても、余り感じないのである。

最初の頃、「スメタナは録音に恵まれていない」と思っていたが、そればかりでもないようだ。

それになんと言ったって、結成が1942年。ナチス支配下のプラハである。

正直言って結成(96-42=)54年を経たロートル軍団に緊張感など求めようがない。

というわけで、このやや冗長な5重奏曲を緊張感をたたえながら弾ききるのは無理だろうと思う。

聞けばわかると思うが、You Tubeでしか聞けないだろうが、60年代のシュテパンとの演奏が一番良いのだ。

シュテパンというピアニストがよいのだ。節度を保っているが、決して伴奏者の位置に留まってはいない。

どうせすぐ消えるだろうが、一応リンクはしておく。

Dvořák - Piano quintet n°2 - Smetana SQ / Stepan

Dvořák - Piano quintet op.81 - Smetana SQ / Hála

ついでに、私の好きな演奏はこちら

Dvorak, Piano Quintet No 2, Op 81, Juilliard Quartet, Rudolf Firkusny, Piano

フィルクスニーは好きなピアニストで、ドヴォルザークのピアノ協奏曲が良い。

つまりは、新世界交響曲をチェコフィルで聞くかニューヨークフィルで聞くかという趣味の問題。


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