鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

カテゴリ: 71 音楽/クラシック

昨日、上原彩子さんのリサイタルに行ってきました。
どこからどういうふうに金が出ているのかわからないが、とにかくめっぽうコストパフォーマンスのいいリサイタルでした。
札幌の隣町、北広島市で行われた演奏会ですが、土曜のマチネーで3千円です。隣町と言っても私の家からはとても近くて、車で1時間足らずでつきます。おまけに会場入口でスタンプを押してもらうと駐車料金がただなのです。
ふつう札幌中心部のホールに行けばタクシー代だけで往復6千円はかかるので、まことにありがたい話です。
それで演奏のほうですが、ドビュッシーの前奏曲第一と喜びの島、シューマンの子供の情景とリストの愛の夢、そして休憩後にリストの巡礼の年から「ダンテを読んで」とつながっています。
上原さんの売りは日本人初のチャイコフスキー・コンクール優勝者ということにつきます。流石にそれだけのことはあって、指回り、タッチいずれも見事なものでした。
ただ、演奏はあまり面白くはないのです。
なぜだろうと、天井を仰ぎながら考えていました。なにかリズム感がないのです。アンコールにやったくるみ割り人形の「花のワルツ」はおはこなのだろうと思いますが、どうもワルツには聞こえない。一方で「子供の情景」はメロディーラインが和音に埋もれてしまうのです。
私は音楽というのはメロディーがまずあって、それにコードが付いて曲になると思っているので、メロディーが聞こえない演奏は好きになれません。
もう一つリズムですが、こちらは音楽にとって必須ではありませんが、「ノリ」はとても大事だろうと思います。ワルツがワルツに聞こえないというのは、やはり相当問題があるのではないでしょうか。
ロシア人は一般的にリズムがだめな人が多いです。韓国の演奏家は一体にノリが良く、グルーヴ感を持っています。
日本人はどうなんでしょうか。結構いい人もいると思いますが、上原さんは若干問題がありそうな気がします。
もっと歌ってほしいと思います。そして体で踊ってほしいと思います。
そういうわけで、CDのサインセールは申し訳ないが遠慮させていただきました。

シューマンの蝶々は名曲とは言えないかもしれないが、謝肉祭と並んでわかりやすくて景気のいい曲だ。
あまりYou Tubeに音源が多いわけではないが、そこそこ聞ける。
今回聞いたのはエゴロフ、アラウ、リフテル、レイヌ・ジャノリの4種類。いずれも良い演奏だ。結局好き嫌いの話になるから、その時々の心理状況にも影響される。腕前から言えばリフテルが圧倒的で、しかもこれはコンサート・ライブだが音質テストのサンプルにしてもいいくらいのすごい音質だ。ただ、「そこまで攻め込まなきゃなんないほどの曲なの?」という感じが残る。フィナーレは明らかにやりすぎだ。
エゴロフもだいたい似たような攻め方をしていて、もっとシャープだ。レイヌ・ジャノリは私のお気に入りだから、これはもうしょうがない。
というわけで最後に、期待もせずアラウの演奏を聞き始めた。これが意外にすごい。とくにリズムのとり方が独特で、「これがシューマンの演奏じゃないの?」という感じで説得される。
Silent Tone Record/シューマン・ピアノ作品集/クラウディオ・アラウ/欧PHILIPS:6768 084/クラシックLP専門店サイレント・トーン・レコード
というページでとりあえず聞くことができる。盤起こしなのだろうか、通常のCDを越えたすごい音がする。ただし3分で切れる。
意外な取り合わせの一つかもしれない。わたしは同じような「意外な取り合わせ」としてルビンステインのシューベルトを聞いたことがある。
人間何ごともやってみなければわからないものだ。

ドヴォルザークのドゥムキーの演奏をYou Tubeであさっているうちに、何か名前は知らないがえらく生きのいい演奏にあたった。
Queyras,Faust,Melnikov という三人のトリオだ。「3人だからトリオだ、何が悪い」と言われているようで、第一印象はよろしくない。「あんたらハイフェッツかオイストラフのつもりしてるんか」、とタメ口の一つも叩きたい。
名前は多国籍っぽいが例によってユダヤ系か?
しかし演奏は良いんだ。私の好きなのはボーザール・トリオで、録音曲目は限られているけどギレリス・コーガン、ロストロポービッチも良いですね。
トリオというのは音としてまとまっていないと曲としての面白さは出てこないと思う。さりとてたった3人でやるのにあまり人の顔ばかり見ていても仕方ないので、そのへんの兼ね合いなんだろうと思う。
そんでもって、そこはやっぱりピアノ弾きに仕切ってもらわないとうまくいかないでしょう。ピアノはオーケストラの代わりみたいなところがあるのだから…
それでこのトリオも、ピアノが仕切っているみたいに聞こえる。しかし誰が何を演奏しているかもわからなくて、じつに困った団体だ。むかしならレコード会社が有無を言わせず名前つけるのだろうが…

といっているうちに、ドゥムキーが終わって、つぎのファイルが始まった。
Spring Sonata/Isabelle Faust と題されている。画面は静止画面で、バイオリン弾きの女性とピアノ弾きの男性が並んでいる。女性はゲルマン系の美人でこれがファウストでしょう、男はラテンというかひょっとしてアラブ混じり。名前はメルニコフとスラブっぽい。

演奏はバイオリンのオブリガート付きのピアノ・ソナタ。そもそもそういう曲なんだからしょうがない。むかしのグリュミーを起用したハスキルの演奏もそうだった。

これにケイラスというチェロが加わってトリオになったんだね。了解。
これはギレリス・コーガンのコンビにロストロポービッチが加わったのと同じだ。ギレリスが仕切ったのと同じようにメルニコフが仕切っているのでしょう。

連中がどういうかは別にして、私の心づもりとしてはメルニコフ・トリオとして覚えておくことにしよう。



困った。思い出せない。
誰か分かる人いますか。
童謡ですよね。かなり有名な…
歌詞が思い出せない。
後ろが「小川さらさら 春の色」なんだけど
前が思い出せない。
出だしがわからないと、さすがのグーグルでも
検索には引っかかってこない

このファイルはVotreValseという人が公開したもの。
題名は
Très jolie - Emile Waldteufel - Valse française となっている、8分40秒ほどのかなり長いワルツだ。
説明欄には
Magnifique valse française d'Emile Waldteufel : apprenez à danser cette valse avec notre école de danse VOTRE BAL / VOTRE VALSE
としか書いていない。
どうもクルト・レーデル指揮スロバキア国立フィルの演奏でワルトトイフェルの全集が出ていて、その中の1曲らしい。

いろいろ調べていくうちに、この曲の題名はT Valse française ではなく「Tres jolie, Op. 159」だと分かった。

これであらためて検索すると、いくつかの演奏がヒットして、情報がわかってきた。

日本語ウィキでワルトトイフェルの項目を開き、作品番号159で当たると、次の説明が出てきた。

『愛しの彼女』 Très jolie op.159 (1878)
青木爽により「春の川で」という日本語の歌詞が付けられ、NHK「みんなのうた」で広く知られるようになった。

なるほどそういうことだったかい。

そこで、あらためて、青木爽+「春の川で」で検索してみる。

NHKみんなのうたのサイトで「春の川で」がヒットする。残念ながら映像も音源も失われてしまったようだ。

うた西六郷少年少女合唱団
作詞青木爽
作曲ワルトトイフェル
編曲小林秀雄

となっていて、しっかりワルトトイフェルの名がクレジットされている。こちらが知らなかっただけだ。

放映されたのが1965年03月と言うのは驚きだ。私は受験の真っ最中で東京・京都と走り回っていた。
流石にこの頃、家にもテレビはあったが、「みんなのうた」を憶えるほど見ていたとは思えない。

記憶装置にそれだけ余裕があるならもう少し英単語でも憶えていたはずだが、まぁ、だからこんなものなのかもしれない。

しかし歌詞も載っていないのは困るな。

Hoick というサイトに歌詞が載っている。
著作権の関係でなかなか難しいようだが、
私の憶えていたのとは全く違う歌詞だ。
一体これはなんなんだ!
うろ覚えの所に自分で勝手に創作した歌詞を乗せていたのか?

調べていたらarcadiaさんのブログで同じようなことをいていた。方向は逆だったが。

初めて聞いた名前の作曲家だが、まず曲名が良い。
ピアノ曲集で「砂丘にある家」という題名。1905年の発表で、作曲家の名前はガブリエル・デュポン、フランス人らしい。全10曲でたいしたメロディーもなく、寄せては返す波のような音の繰り返しだ。40~50分もそれが続くから、真面目に聞いたら飽きる。バックグラウンドで鳴っていればよいのである。
グーグルで「画像」と入れると色んな絵が出てくる。

「La Maison dans les dunes」の画像検索結果
「La Maison dans les dunes」の画像検索結果


関連画像
このデュポンという人の曲で有名なのはマンドリンという歌曲。ほかには「憂鬱な時間」Les heures dolentes というピアノ曲集もあってこちらのほうがそれなりにメロディーもあって聞きやすいが、その分陰にこもって、ひたすら長いのは同じだ。

これほどまでに日本国内で無視されている日本人演奏家も珍しい。
とにかくインターネットで井上奈津子と入れてもまったくヒットしない。
色々やってみて、まあとにかくイタマール・ゴランと入れたら、英語のプロファイルが見つかった。
大阪生まれで、10歳ころからフランスに渡って勉強したらしい。パリ音楽院を優秀な成績で卒業した。そこそこの入賞歴はあるがメジャーなものがないと日本のメディアは取り上げない。
それにしてもこれだけ無視されているのも珍しい。
私はヒマに任せてラベルのピアノ曲をYouTubeであさっているうちに、その名前(Natuko Inoue)を偶然見つけた。
マ・メール・ロアのピアノ連弾は効果が上がる曲なので、結構顔見せに取り上げられる。とくにコンサートで指揮者が元ピアニストだったりすると、コンチェルトのあとのアンコールに取り上げられることになる。
YouTubeではアルゲリッチとバレンボイムの同郷連弾が聞ける。
ということで、肝心の井上さんの演奏はなんとイタマール・ゴランとの共演だ。これはコンサート・ライブで、ユトレヒトで行われたジャニーヌ・ジャンセン室内音楽フェスタの一幕だ。
「これはちょっと身分が違いすぎるのでは?」と気になって調べたのだが、日本語ファイルはゼロ。
あるフェスティバルのサイトに下記のプロファイルが掲載されていた。
natsuko

Natsuko Inoue was born in Osaka, Japan, where she started her musical studies. She left to France at the age of ten, continuing her education and specialization at the National Conservatory of Paris under the supervision of Georges Pludermacher, where she graduated with the prestigious 1st Prize in piano. Natsuko Inoue has been a regular participant of the most important concert venues and music festivals worldwide, such as Internationaal Kamermuziek Festival Utrecht, Festival Pablo Casals at Prades, Dubrovnik Summer Festival. She received numerous awards such as the 1st Prize of Radio France, “Maurice Ravel” Prize, 1st Prize of Steinway competition and special chamber music awards. She is currently working and performing with numerous artists and orchestras in the United States, Europe and Japan. Among them, her husband, the pianist Itamar Golan, with whom she performs together regularly at piano four hands, presenting original projects and unusual, fascinating repertoires.
 
ということで疑問は氷解。
これからもご健闘をお祈りいたします。
イタマール・ゴランは10年位前に衛星放送の朝のリサイタルで初めてみた。誰かバイオリンの伴奏できたのだが、バイオリン弾きのことはとんと覚えていないで、この伴奏者が記憶に焼き付いた。
伴奏のくせにゴシゴシと押し付けてきて、場合によっては食ってしまう勢いだ。「お主、やるな!」というイメージだったが、その後、来ること、来ること。日本に帰化したのではないかと思っていたら、やはりこういうことをしてたのだ。
それにしても、ゴランの記事は山ほどあるが、井上さんについては全く触れられていない。昔の2枚目役者は独身のふりをしていたが、まさかそんなことでもあるまいに…

ところで、演奏の方はとっても良い。リンクしておきます。
Ravel: Pavane pour une infante défunte & Ma mère l'oye, quatre mains
題名には井上さんの名もゴランの名も出てこないから、ヘタをすると見逃す。
映像を見ると、たしかに夫婦でないと弾けないような運指ですね。

はなはだ僭越ながら、お屠蘇で酔った勢いで書いてしまう。
初期ドビュッシーというのはどうも変だ。ピアノ曲を経時的に聞いているとどうも納得がいかない。
そもそも作曲家としてはきわめて出発が遅い。
1880年、18歳のときにメック婦人のお抱えピアニストになり、お屋敷暮らしをした。そのときにメック夫人がドビュッシーの曲をチャイコフスキーに見せたが、「稚拙だと酷評された」とウィキには書いてある。チャイコフスキーとメック夫人との関係はこの頃からちょっと怪しくなってきていて、ドビュッシーに肩入れするメック夫人に、チャイコフスキーは面白くないものを感じていたかもしれない。
とは言え、実際に聞いてみたその曲(L.9 ボヘミア風舞曲)はたしかに稚拙と言われても仕方ないところがある。
ちなみにドビュッシーはピアノ三重奏曲をメック夫人に見せて、メック夫人は「ピアノ・トリオって良いわねえ」くらいのことを、チャイコフスキーあてに書いたらしい。
それでチャイコフスキーは、ニコライ・ルビンシュテインが死んだのを機に「偉大な芸術家の思い出」というトリオを書いたのだそうだ。ウソか本当か知らないが、そう書いてある。
84年にカンタータを書いてローマ大賞をとったというから、学才は間違いなくあるのだろうと思うが、ピアノ曲はチャイコフスキーの「酷評」後10年間発表していない。
それが1990年、いきなりまとめてドカーンと発表する。「二つのアラベスク」にはじまって、マズルカ、夢、スティリー舞曲、スラブ風バラード、ワルツ、ベルガマスクとほぼ連番でピアノ曲が並ぶ。
在庫一掃のクリアランス・セールの如きだ。
おそらく実作の年度はそうとう違うのだろう。まとめて聞いて「ドビュッシーってどんな作曲家?」とわからなくなってしまう。
だが、結局すごいのはベルガマスク、とくに月の光とアラベスクの1番だけだ。他はほぼヒラメキを感じない。さすがに稚拙とは言わないが、陳腐で凡庸だ。
たぶんドビュッシーは、作曲法というより、こういうコード進行を手に入れたのだろう。ジョアン・ジルベルトがボサノバのコード進行を発明したように。
ドビュッシーは印象派と呼ばれるのを好まず、象徴派と呼ばれたがっていたようだが、技法的に言えばスーラの点綴法みたいに分散和音を振りまいて雰囲気を出しているみたいなものだ。表現法(イディオム)なのであって、それほど高踏的な内容ではない。
調性の放棄と全音階への親和性は、論理的必然性というよりはイベリア趣味とか東洋情緒の受け入れの形で現れる。
結局、ドビュッシー的な音の世界は20世紀に入って「喜びの島」まで本格化しないのではないか。
この流れを追っていくと、どうもドビュッシーはロシアの作曲家の後追いをしているのではないかという気がしてくるのである。
端的に言えば、ドビュッシーがコード進行や音階などで新味を打ち出すとき、その数年前にロシアの作曲家が同じようなことをしているのである。
後期のリャードフ、アレンスキー。これに踵を接したラフマニノフとスクリアビンは、まさに「映像」においてドビュッシーが目指してたものではないか、そう思う。
それを、酔った勢いでいうと、記事の見出しの如くなるのである。

以前こんな文章を書いていて、誰かさんが読みに来たようだ。

あらためてYou Tubeで「パガニーニのソナタ」を開いてみると、ずいぶん曲数が増えている。
そのうちに訳が分からなくなってきた。以前の記事にも書いたのだが曲の分類がメチャクチャである。
おそらく書いたのがめちゃくちゃで、管理の仕方もメチャクチャだったから、ゴミ屋敷状態になるのも無理はない。

とにかくウィキの曲名一覧を手がかりに、分かる範囲で整理ししてみた。
paganini

そもそもソナタ ホ短調という曲を作品3の6という言い方が良くない。
パガニーニはおそらく死後に次々に曲が発掘されたらしく、作品番号の付いた曲の数倍にのぼる。
ことにギター伴奏付きのバイオリンソナタは膨大な数に上っており、作品番号のついているのは氷山の一角にすぎないのである。

幸いなことにM.S.分類というのが出来上がっていて、これでほぼ全曲がカバーできている。なおありがたいことに、ハイドンのソナタと違ってウィーン原典版というやっかいな分類もないので、これに従えば基本的には整理できるはずだ。
ただマイナーな録音では作品番号しか書いてないものもあり、こういうのに限って作品番号が間違っていたりする。

ヴァイオリン・ソナタ第10番が分からない
最大の問題がヴァイオリン・ソナタ第10番と、第12番というファイルである。
これはたぶん、パガニーニの生前に発表されたのが作品2と作品3の二つのソナタ集(各6曲)で、これを通算したために第10番とか12番という言い方が生まれたのだろうと思った。
12番というのはYou Tubeではエリコ・スミという人が弾いているのだが、まさしく作品3の6である。
10番はレオニード・コーガンが弾いている。なかなかの名曲名演である。しからばこれは作品3の4かと思いきや違う。作品3の4はニ長調である。

作品3というので困るのはM.S.133のソナタ集「Sonate Di Lucca」にも作品3の番号が振られていることである。
おなじ作品3の1とか2でも、M.S.27のものとは全く異なる。
どうもこれはMS133につけられた作品3というのは、変な話だが作品番号ではなく、ルッカソナタ集の第3集という意味らしい。
というのも、MS9のバイオリンソナタ集がルッカソナタの第1番と名付けられているからだ。そしてMS10が2番で、MS11がどういうわけか4番なのである。そこにMS133のルッカソナタ第3番がハマるとするとぴったりだ。
ルッカ・ソナタについて
それにしてもルッカソナタというのがどういうソナタなのかの説明がどこにもない。これも困ったことだ。
ホームページ作成会社のホームペーじの「息抜き」というところをクリックすると「のぶながわが人生」というホームページが現れる。この中の一つにパガニーニの紹介がある。
ここにルッカの説明があった。
パガニーニは1805年から4年間公式演奏活動を停止して愛人のところにこもっている。20歳前後のことらしい。そこがルッカというところでその間に作曲したソナタが30曲あり、これらを総括してルッカ・ソナタと言っているようだ。
 Frassinet 夫人に捧げられた12曲
 Felice Baciocchi に捧げられた6曲
 T. 夫人に捧げられた6曲
 Princess Napoleone に捧げられた6曲
で30曲。曲名としては
 作品3 6曲(MS-133)
    作品8 6曲(MS-134)
 Duetto Amoroso(MS-111)
なのだそうだ。ツェントーネのように一つにまとまってはいない。

てなこともあるので、当面はMS番号がついているもの以外の曲は、とりあえず不明曲に分類しておくしかなさそうだ。
M.S.だからといって安心はできない
MSも完全ではない。例えばMS112(作品64)はチェントーネソナタと言われるが、この中には18曲のソナタがふくまれているから、おそらく6曲セットのソナタ集が三つふくまれているのだろう。とにかくそういうものだとおぼえておくしかない。
これらの整理はジュノバのダイナミック社が出した9枚のCDによる影響が強いようで、今後まだ変わっていく可能性も十分ありそうだ。なんとなくダイナミック社がM.S.を軽んじているのではないかという雰囲気も伝わってくる。
このところ、随分ソナタ集が出ているようだ。ソナタ集となっているものだけで10集ある。一つの集に6曲ふくまれるからこれだけで60になる。

困るのは、けっこう名曲だらけで、聞くしかないことだ。以前チャレンジしたタルティーニ全集は、玉石混交とはいうものの実のところほとんど石だらけで、途中でやめてしまった。

パガニーニの方はどうもそうは行かないようだ。この文章はもう一回くらい追補が必要かもしれないが、それほどの意義があるかも疑問の余地がある。
まずは少し聴き込んでみつことだろう。

Violin Summit with Baiba Skride, Alina Pogostkina and Lisa Batiashvili

というTV番組があって、バイオリン3人娘として売り出そうという狙いらしい。

かなり酷な番組で、否が応でも三人を比較せざるを得ないことになる。

腕前から言ってもキャリア・知名度から言ってもバティアシュビリが抜きん出ているのは分かる。彼女から見れば、こんな三人組で売り出されるのはいささか心外ではなかろうか。

アリナ・ポゴストキナは器量が良くて愛想が良いから人気はある。腕は三人の中ではちょっと落ちる(と思う)。
2

バイバ・スクリーデはラトビア人。日本ではまったく無名だが、ドイツではそれなりの人気のようだ。田村俊彦と近藤真彦と、もう一人誰だっけ、の人である。

腕はしっかりしている。顔はそれほどでもない。「美人ヴァイオリニスト ☆ バイバ・スクリデ」という日本語のファイル(衛星放送のエアチェック)があるが、どちらかと言えば肉体美と言うべきか。

やっぱりそうだった。

2001年のエリザベート・コンクールで、第1位がバイバ・スクリーデ(ラトビア)、第4位がアリーナ・ポゴストキーナ(ロシア)となっている。
営業とは言え、腕と顔でヒト様と比べられるのは辛いところがありますね。

ーツァルトのディヴェルティメント

すみません。まったく自分の心おぼえだけのために、このファイルをアップします。

しかも、中味は森下未知世さんのサイト「Mozart con grazia」の抜粋にすぎません。

このサイトはとても親切で、ダウンロードした曲を整理するのにとても役に立ちます。「個人的な好みを語ることは野暮である」と考える方らしく、要点をきちっと教えてくれるのがありがたいところです。

こういう方の個人的な好みを」お聞かせ願えればとも考えますが…


ディヴェルティメントは「喜遊曲」と訳されている。ヴァラエティに富んだジャンルで、楽器編成も様々だった。

セレナードは編成がかなり大きく、8楽章が典型である。ディヴェルティメントの方は室内楽的で、6楽章が多い。

「新モーツァルト全集」ではディヴェルティメントを3つのグループに分類している。

  1. オーケストラのためのディヴェルティメント、カッサシオン
  2. 管楽器のためのディヴェルティメント
  3. 弦楽器と管楽器のためのディヴェルティメント

しかしモーツァルトがそのような区分を意識していたとは思えず、そのときどきの事情に応じて考えていただけではないか、と思われる。

 1. ディヴェルティメント 第1番 変ホ長調 K.113

    1771年11月 ミラノ [A] クラリネットが使われた最初の管弦楽作品

 2. ディヴェルティメント 第2番 ニ長調 K.131

    1772年6月 ザルツブルク [A] 作曲の動機や目的は不明

 3. ディヴェルティメント ニ長調 K.136 (125a)

    1772年1?3月 ザルツブルク [A] 旧全集では弦楽四重奏曲第24番

 4. ディヴェルティメント 変ロ長調 K.137 (125b)

    1772年1?3月 ザルツブルク [A] 旧全集では弦楽四重奏曲第25番

 5. ディヴェルティメント ヘ長調 K.138 (125c)

    1772年1?3月 ザルツブルク [A] 旧全集では弦楽四重奏曲第26番

 6. ディヴェルティメント 第3番 変ホ長調 K.166 (159d)

    1773年3月24日 ザルツブルク [B]

 7. ディヴェルティメント 第4番 変ロ長調 K.186 (159b)

    1773年3月 ミラノ [B] 作曲の目的は不明。

 8. ディヴェルティメント 第5番 変ロ長調 K.187 (Anh.C17.12)

  モーツァルト本人の作品ではない。

 9. ディヴェルティメント 第6番 ハ長調 K.188      1773年夏 ザルツブルク [B]

10. ディヴェルティメント 第7番 ニ長調 K.205 (167A)    1773年7月 ザルツブルク [C] 

11. ディヴェルティメント 第8番 ヘ長調 K.213      1775年7月 ザルツブルク [B]

12. ディヴェルティメント 第9番 変ロ長調 K.240

    1776年1月 ザルツブルク [B] 大司教のための食卓音楽

13. ディヴェルティメント 第10番 ヘ長調 「ロドロン・セレナード第1」     K.247

14. ディヴェルティメント 第11番 ニ長調 K.251     1776年7月 ザルツブルク [C] 

15. ディヴェルティメント 第12番 変ホ長調 K.252 (240a)

    1776年1?8月 ザルツブルク [B] 舞曲風4楽章。大司教の食卓音楽。

16. ディヴェルティメント 第13番 ヘ長調 K.253

    1776年8月 ザルツブルク [B] ディヴェルティメントの中で唯一の3楽章作品。 

17. ディヴェルティメント 第14番 変ロ長調 K.270

    1777年1月 ザルツブルク [B] 大司教の食卓音楽として

18. ディヴェルティメント 第15番 変ロ長調 「ロドロン・セレナード第2」 

    K.287 (271H)    1777年6月? ザルツブルク [C] 

19. ディヴェルティメント ヘ長調 未完 K.288 (246c)    76年6月 ザルツブルク [A]

20. ディヴェルティメント 第17番 ニ長調 「ロビニッヒ」 K.334 (320b)

    1779年?80年 ザルツブルク [C] モーツァルトのディヴェルティメントの中で最も有名な作品。 第3楽章のメヌエットはよく単独で演奏されるほどポピュラー。

このページには他にも12曲の断片が収録されているが、とりあえず省略する。

ということで、ディベルティメント…番とよんでも良いのだが、K136~138が抜けてしまうのが以下のも癪なので、ケッヘルで呼ぶのが一番いいのでしょう。
ということで、管楽合奏を除いたラインアップは以下の通り。
divertiment
弦楽合奏を主体とするものはK131の第2番が最初。You Tubeではセルの凛とした演奏と、マリナーのしっとりとした演奏が聞ける

K136~K138の三曲は元の「旧分類」では弦楽四重奏曲に分類されていたため、ディヴェルティメントとしての番号がついていないのだそうだ。
You Tubeではニューヨーク・クラシカル・プレーヤーズというグループの颯爽とした演奏が聞ける。
K136はモーツァルトの曲の中でももっともポピュラーなものの一つだ。
小沢と水戸室内管弦楽団の演奏が抜群だ。水戸は指揮者なしの演奏もアップされているが、聴き比べるといかに指揮者が必要かがわかる。
K247、K251、K287、K334 の4曲は立派な管弦楽曲で、4楽章にまとめればそのまま交響曲となるほどである。You Tubeではカラヤンの名演奏が聞ける。胃もたれするという向きの方にはマリナーの演奏がスッキリするかもしれない。
K563 は異質のディヴェルティメントだ。昔からグリュミオー・トリオが定番だが、Veronika Eberle, Sol Gabettaらの演奏が素晴らしい音質で迫る。
veronikasol
  Veronika Eberle
       Sol Gabetta


あまりYou Tubeの特定のサイトを宣伝して良いことはないだろうし、ひょっとして迷惑かもしれないが、素敵なサイトを見つけると一言感謝したくなる。

それがDeucalion Projectというサイトだ。日本人のサイトらしくファイル名が日本語で入っている。2016/12/30 日に登録となっているのでまだ1年未満だ。

にも関わらず膨大なリストを抱えているのは、誰かのサイトをそっくりそのまま譲り受けたかららしい。
デュカリオンというのはプロメテウスの息子だから、世のために「悪事」を引き継いだということなのか。ありがたい話だ。

再生リストにはクラシック曲が作曲家別に多数並んでいる。特徴的なのはかなり地味目の曲が拾われていること、古めの音源が多いこと、音質がブラッシュアップされていること、だ。特に最後のポイントはだいじで、かつての新潮文庫的な匂いがする。岩波でも角川でもなくてクリーム色の新潮ですよ。わかります?

これから少し潜り込んで、よさ気なものをピックアップします。
まずはモーツァルトで、196本のファイルが並ぶ。

出て来る順に紹介するとセルのクラ協。ついでカサドシュとセルのP協が21~27と続く。つぎがチッコリーニの初期ソナタで15番まで。V協はオークレールで揃える。これは泣ける。音質もみごとに磨きあげられている。

後期交響曲は誰で揃えるというわけではないが、イッセルシュテットのプラハ(59年)とジュピター(61年)は聞きものだ。Fl協はモイーズのSPだが、さすがに辛いところがある。ハスキルのP協20盤はご存知の名盤。音質は最高だ。カザルスがいくつかあるが好みの分かれるところ。

弦楽五重奏をバリリで揃えた。いまあえてという感もあるが、音は素晴らしい。フルベンがP協20の伴奏をしているが54年5月のものらしい。ひどいものだ。グリュミオーとコリン・デイビスのV協は定番。音質も素晴らしい。

ユーディナとペルルミュテールのピアノは趣味の世界。タックウェルのHr協はステレオというのが強みだが、私はブレインでよい。

25番以降の交響曲がワルターでまとめてアプロードされている。おなじみで、音質も良いのでCD持っていない人はダウンロードしておいたほうが良い。

以降は特記するものはないので端折らせてもらう。


毎年末にNHK教育テレビで「クラシック音楽今年の回顧」みたいな番組をやっていて、毎年それを見るのが楽しみだった。
何か8ミリ映画にとった映像を流すみたいで、絵柄も音質も「良くもこんな絵を流すな」と感動するほどのものだった。
今でも覚えているのがヴィンシャーマンとバッハ・ゾリステンのリサイタルでバイオリンとオーボエの協奏曲の第3楽章を流した場面だった。多分大阪万博ころだったと思うが、まさに鳥肌モノだった。
それからだいぶ経っていたと思うが、クリーブランドがマゼールと一緒にやってきたときの演奏会の触りをやっていた。何かロシアの管弦楽曲ではなかったかと思うが、文字通り光彩陸離たるもので、クリーブランドからこんな音が出るんだ、と感心した覚えがある。
しかしどうもこの組み合わせは長続きしなかったようで、その後いろんな人が指揮者になって、そのたびにどんどんクリーブランドの音も落ちていった。だいたい街そのものが落ち目なのだからしょうがない。ということで、音的にはマゼールの時代がクリーブランドのピークだったのではないかと思う。
そんなことがあったことも忘れていたが、本日たまたまYou Tubeでこの組み合わせのベートーベンの第1交響曲を聞いて、あまりの腕前に腰を抜かしてしまった。
もともとマゼールはこの世代でピカイチの指揮者だと思っていたが、このオケからこれだけの音を引き出すのはやはりこの人しかいなかったのではないか。ただしもう少し禁欲的でも良かったか、という気もする。極彩色だが薄っぺらい。
すこしこの組み合わせの音源を探してみて、また報告する。

「ウィーンの三羽烏」という言葉が以前から気になっている。

いろいろネットで調べるのだが、英語記事をふくめて満足な答えは載っていない。

この世界のことだから、かならずとんでもない物知りがいて、「それはこういうことなんだ」と微に入り細にわたり説明してくれるものだと思っていたが、もうそういうおじさん方は死んでしまったのかもしれない。

三羽烏の由来

まずは、名前の由来だが、これがよく分からない。

「三羽烏」というのはいかにも日本の言葉である。この言葉のいわれも不詳のようだが、一番納得がいきそうな説明は有馬温泉の発見の由来にカラスが登場してきて、どうもこれが語源らしい。なかなか由緒ある言葉である。

しかしこんな言葉をウィーンの人々が知るわけがない。英語で言うと「ウィーンのトロイカ」(Viennnese Troika)と言うらしい。

トロイカというのは三頭建ての馬車のことだから、日本語としてはぴったりだ。ただいまの語感だとさすがに「三羽ガラス」は古い。「トリオ」くらいで済ますのではないだろうか。

ただ、いつ、誰が名付けたのかなど、そのいわれについては英語版でも説明はない。
なぜバドゥラ・スコダ、デムス、グルダなのか

つぎに、なぜバドゥラ・スコダ、デムス、グルダの3人が三羽烏なのか。なぜワルター・クリーンやブレンデルが入らないのかということだが、これについてもはっきりした答えはない。

考えられる理由はいくつかある。

ひとつは生粋のウィーンっ子かどうかという問題だ。

まずは5人の生まれと生地を表示する。

パウル・バドゥラ=スコダ

1927

ウィーン

イェルク・デムス

1928

ザンクト・ペルテン

ヴァルター・クリーン

1928

グラーツ

フリードリヒ・グルダ

1930

ウィーン

アルフレッド・ブレンデル

1931

モラヴィア

ザンクト・ペルテンは田舎だが、文化的にはウィーンである。

austria-map

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これでみると、バドゥラ・スコダ、デムス、グルダを括るのは理にかなっている。しかしクリーンは生まれはグラーツだが学んだのはウィーン音楽院だ。ブレンデルはグラーツの音楽院ではあるが、卒業後はウィーンに出てそこで勉強している。

だから、どうも生まれや育ちを詮索するのはあまり意味があるとも思えないのである。たとえばウェルナー・ハースは31年の生まれだが、彼はシュツットガルトで生まれてらい、ずっと西向きで暮らしている。ウィーンには見向きもしていない。これなら三羽烏に入れないという判断は良く分かる。

5人の音楽家への道

このあと、この文章ではあまり分け隔てせずに、「5人組」としてみていくことにしようかと思う。

彼らはいずれも辛い少年時代を送っている。物心ついたとき、ウィーンは大恐慌の中で疲弊しきっていた。労働者よりの政策をとってきたウィーン市政は転覆させられ、失業者5割におよぶ厳しい引き締め政策がもたらされた。

彼らがウィーン音楽院に入る頃、世間はもう音楽どころではなくなっていた。1939年になるとナチがやってきてオーストリアは併合される。保守派や富裕層は喜んでナチの前に身を投げ出した。

彼らはユダヤ人の排斥にも積極的に加担した。ウィーンフィルの楽団員のうち11人が馘首された。そのうち9人が強制収容所で死亡した。

その5年後に敗北の日がやってきた。1945年3月、ウィーン中心部にも空襲があり国立歌劇場やシュテファン大寺院などが破壊された。フルトベングラーはベルリンからやってきて、エロイカの放送録音を残したあとスイスに逃げ出した。

1ヶ月後、ソ連軍がウィーンに入った。彼らは市内で略奪を繰り返したが、ドイツ人は文句を言えない。ドイツ人はソ連に攻め入り数千万人を殺害したからだ。ナチに追随したものは口をつぐんだ。

1945年、オーストリアは二度目の敗戦を味わうこととなった。以後10年にわたり4カ国占領軍に分割支配されることとなる。

キャリアのスタート

戦争に敗けたときバドゥラ・スコダが18歳、デムスとクリーンが17歳、グルダが15歳で、いずれもウィーン音楽院の生徒であった。ブレンデルはまだ14歳でグラーツの音楽院に在籍していた。ここから5人はキャリアをスタートさせることになる。

もっとも目覚ましい功績を上げたのはグルダだった。かれは46年のジュネーヴ国際コンクールに優勝する。と言うよりこれが5人組で唯一のメダルだ。

年長のバドゥラ・スコダは、47年のオーストリア音楽コンクールに優勝した。毎日コンクールに優勝するみたいなもので、「だから何さ」というレベルだ。

ウィーン音学院のピアノ科のボスはエドウィン・フィッシャー、どういうわけかミケランジェリも指導スタッフの一人だったらしい。あまりコンクールには熱心でなかったのかもしれない。

49年のブゾーニ国際コンクールではブレンデルが4位に入賞している。51年にはクリーンがおなじブゾーニで3位、何か期するところがあったのか翌年も出場するが、結局おなじ3位。

この二人は、ブゾーニ・コンクールでの4位とか3位とかがキャリアハイになっている。いまなら考えられない出発点だ。

ということで、ブゾーニ・コンクールがウィーン音学院のピアノ科にとってはトラウマになってしまったのかもしれない。最後はデームスがブゾーニに挑戦し優勝している。なんと56年になってからの話で、小学生のコンクールに高校生が参加するようなものだ。

デームスのキャリアもそれほどのものではない。ウィーン音楽院を出たあとパリに行き、マルグリット・ロンの指導を受ける。そしてロン・チボー・コンクールに出るのだが、優勝はしていない。ほかのノミニーの顔ぶれを見れば到底勝てそうもないライバルばかりだ。

三羽烏はウェストミンスター社の宣伝?

キャリア的にもそれほどの差はない

コンクールの実績から言うと、グルダを除けば50歩100歩である。クリーンとブレンデルは明らかに落ちるが、ほかの二人にそれを笑うほどのテクニックがあるわけでもない。

つまり、「ウィーンのトロイカ」はレコード会社のキャンペーンではないかということだ。

ここから先は、裏付けなしの推測なので「間違っていたらごめんなさい」の世界。

 アメリカにウェストミンスターというレコード会社があった。タワーレコードの宣伝文句にこんなのがある。

1949年にニューヨークで創設され、短期間に綺羅星のごとく名録音の数々を残したウエストミンスター・レーベルは、創設の中心メンバーであったジェイムズ・グレイソンがイギリス人で、もともとロンドンのウエストミンスターのそばに住んでいたことにより、「ウエストミンスター」と命名されました。

これは別の会社の宣伝。

このレーベルは49年、ミッシャ・ネイダ,ジェイムズ・グレイソン,ヘンリー・ゲイジ、そしてチェコ出身の指揮者のヘンリー・スヴォボダによりニューヨークで設立されました。

ワルター・バリリとその四重奏団,ウィーン・コンツェルトハウス弦楽四重奏団,パウル・バドゥラ=スコダ,エリカ・モリーニ,レオポルド・ウラッハ,イェルク・デムスら、ウィーンを中心とした名演奏家たちを始めとして…

この会社がいわば経済苦境に苦しむウィーンの音楽界に、言葉は悪いが底地買いに入ったわけだ。

よく「音楽の都 ウィーン」と言うが、「音楽だけは」という皮肉にも聞こえる。20世紀の初頭ウィーンは決して音楽の都ではなく、すべてにおいて都であった。

それが第一次大戦に敗れ、国土が切り刻まれる中でメトロポリスの実体を失った。借金生活が成り立たなくなり、ナチスドイツに吸収され、ふたたび第2次大戦で残されたすべてを失った。

「音楽の都」というが、音楽を聞くにも演奏するのにもお金は要る。商売できなければ音楽家もみな逃げ出す。残ったのは年老いた二流の演奏家か、駆け出しのチンピラしかいない。

しかしそこはハプスブルク以来200年の音楽の歴史と伝統がある。掘り起こして火をかき起こせば、タダ同然で「お宝」が手に入る。それが上記に掲げられた演奏家たちであろう。

成功したとは言えない「トロイカ」キャンペーン

おそらくトロイカと言っても中心はグルダだったのではないだろうか。コンクール歴を見ても、16歳でジュネーブ国際コンクール優勝というのは相当のものである。

これに比べれば、バドゥラ・スコダは「毎日コンクール」優勝くらいの経歴で、デームスはロン・チボーに出たというくらいの経歴だ。

そこでウェストミンスターは、1950年にカーネギー・ホールにグルダをデビューさせたあと、三人組のセットで若手を売り出した。「たのきん・トリオ」みたいなものだ。しかし成功したとはいえない。やがてロシアからとんでもないピアノ弾きが続出するようになると、彼らのテクニックではとても太刀打ち出来ない。

ただピアニストが一流になっていくのはコンクール向けのテクニックばかりではないので、デームスもバドゥラ・スコダも長年かかって少しづつキャリアを積み上げ、一流ピアニストに成長していく。これが伝統の力だと思う。

ウェストミンスターの計算違いは、グルダがデッカに行ってしまったことだ。1954年にグルダはデッカにベートーベンのソナタ全曲を録音している。

Vox社で実績を積み上げたブレンデルとクリーン
底地買いと言っても、ウェストミンスターはそれほどアコギな仕事をしたわけではない。むしろ高級感さえ漂わせた。商売上手である。LPの値段も決して安くはなかった。高城さんのブログで昭和28年に3200円だったと書いてある。私はまだ小学校低学年で価格など知らなかったが、中卒の初任給くらいだろうか。
米Voxは安物レコードの象徴的存在である。貧しいヨーロッパで音楽家を一山いくらで買って、安物の録音機で録音しては売りまくるという下品な商売をしていた。とは言え、こういう会社があるからこそ我々ごときもレコードに接することができたのだから、足を向けて寝られるものではない。
「レコード芸術」で曲を知って、Vox盤、あるいはソノシートで我慢するというのが青春であった。二人の連弾のハンガリー舞曲とか、パツァークの独唱にクリーンが伴奏した「水車小屋の娘」なんかを聞いた記憶がある。購入の動機は曲ではなく、その時の財布の中身と価格のバランスと勇気のあるなしであった。
とにかくそこで二人は拾われた。表通りのクラブではないが、裏通りのキャバレーで華々しく活動した。
ここからブレンデルは羽ばたいて、フィリップスのエースに成長していく。クリーンはその後は鳴かず飛ばずで、70年代の末からようやくモーツァルトを中心に評価され始めた。アマデウス四重奏団との四重奏曲は驚くべき名演だ。
NHKテレビのピアノ教室の講師になってからは、日本でも名前が売れ始めたらしい。
You TubeにN響とやったモーツァルトの23番のライブビデオが残されている。あの澄んだ美しい音がどういうタッチから紡ぎされているかが分かる。蛇足ながら若杉弘の指揮も懐かしい。

とにかく5人が5人とも録音機会や発表機会に大変恵まれていたことは間違いない。あの時期にその場所でしか生まれ得なかったチャンスであった。それを一概に幸運とはいえない、不幸と裏合わせの機会であったが、彼らが懸命に活躍し、その機会をモノにしたことは間違いないだろう。


ここまでハイドンのピアノソナタにはまり込んで、なんでこんなことまでしなければならないのかと思う。

結局前の記事で、肝心なことが説明できていないからである。

「ウィーン原典版」(ランドン版)というのが結局混乱の元だったのだろう。

こういうことになると、日本語のネット文献はとんと無力である。

調べてみて分かったのはこういうことだ。
ハイドンという人はドイツ人として初めて大衆の支持を受けた作曲家だ。しかも大変息の長い作曲家で、ウィーンで楽譜が売れ始めたのがかなりの歳になってからだ。だから楽譜が売れる前エステルハージの時代にかなりの曲が手書きコピーで流布された。つまり海賊版がやたらと多い人なのである。だから作品目録を作るに当たっては『伝 正宗』のヤマの中から本物を探し出す作業が必要になる。

1926年生まれのアメリカ人ロビンズ・ランドンが、第二次大戦後間もなくウィーンにやってくる。まさに「第三の男」の時代だ。

彼はボストンでの学生時代、ウィーンから亡命してきたガイリンガーというハイドン研究者の講義を受けて感動していた。ウィーンに来てからは、ハイドン研究の大御所ラールセン(デンマーク人)の指導も受けていたといわれる。
溢れんばかりの才気とやる気、それにかなりの資力(パトロン)もあったんだろうと思う、たちまちのうちにウィーンとボストンにハイドン協会を立ち上げてしまった。

彼のハイドン協会は、「不幸なハイドン」のために一刻も早く全集を完成しようと奔走するが、結局それは挫折する。

やがて戦後の混乱が落ち着いてくると、ラールセンは復興資金の集まるケルンに移り、ハイドン研究を継続する。そこにはラールセンより15歳年上のホーボーケン(オランダ人)も結集した。

57年にホーボーケンが作品目録を提示した。ロビンス・ランドンは相当あせったようだ。

ランドンは妻クリスタ(5歳年上)とともにウィーンに戻った。他の研究者の協力を得て訂楽譜の編集を急ぎ、しばしばハイドン研究所より早く完成させて出版した。これがいわゆる「ウィーン原典版」である。

ピアノ・ソナタに関してはクリスタ・ランドンの名義で別目録を発表、ホーボーケンと真っ向対決の形になった。その不正確さ故に拙速の批判を浴びることがあったともいう。つまり巷の多くの『伝 正宗』を取り込んじゃったわけだ。

結局この混乱は、ロビンズ・ランドンが亡くなることで終りを迎えた。このあと「ウィーン原典版」、ランドン校訂の旧版を底本として改訂に着手し、新版ではホーボーケン番号順へ並び替えられたというから全面降伏である。クリスタ・ランドンの名は原校訂者として残されているが、その意味は定かでない。
PS
クリスタ・ランドンはほとんどネットでは紹介されていない。写真も見当たらない。
1921年、ベルリンに生まれる。父親は保守系の政治家だった。39年、クリスタが18歳のときに戦争を嫌ってウィーンに移住。そのままウィーンで終戦を迎えた。ウィーン音楽院を卒業後、当時ウィーンで創設されたハイドン協会に就職する。ベルリンなまりのきつい子だったという回想がある。
このハイドン協会というのがよく分からないが、多分ラールセンが中心となったのだろうが、アメリカからの資金提供を受けていたのではないか。ウィーンとボストンのダブルフランチャイズとなっている。そこに大学を卒業したてのロビンス・ランドンがやってくる。あるいはロビンス自身がフィクサーだったかもしれない。
クリスタは後にロビンスの二度目の妻となる。5歳年上の姉さん女房だから、傷心のランドンにとって慰め役になっていたのかもしれない。
クリスタはハイドン協会の解散後もケルンのハイドン研究所、ウィーンに立ち上げたウィーン原典版研究所と、ロビンスと行動をともにする。
彼女はウィーン原典版の発行と接して、77年になくなっている。ロビンスはその後3度めの結婚をしている。
生前はシューベルトの初期交響曲の校訂に携わったらしいが、ハイドンのピアノソナタにはほとんど研究実績がみあたらない。このことから、この大胆不敵な仕事は実のところロビンスのものではないかとも思われる。


多分、おおくの不正確さをふくんでいると思います。訂正・加筆を期待します。

ハイドンのピアノソナタとナンバリングの歴史

飯森 豊水「J.ハイドン研究における近年の変化について」を下敷きにしながら歴史動向を探る。

1732年3月31日 ハイドンが生まれる。

1761年 ハンガリー貴族エステルハージ侯爵家に副楽長として仕える。

1770年頃 ソナタ(Hob18-19, 44-46)が作曲される。(出版は10年後)

1774年 ヴィーンのクルツベック社から6曲の鍵盤楽器ソナタ(Hob21-26)が出版される。この頃ハイドンにおけるソナタの位置づけが定着。

1776年 「6曲のソナタ」(Hob27-32)が発表され、流布する。

1780年 ヴィーンのアルタリア社から6曲のソナタ(Hob35-39, 20)が出版された。

1783年 ロンドンで3曲のソナタ(Hob43, 33, 34)が出版される。

1784年 シュパイアーで3曲のソナタ(Hob40-42)が出版される。

1789年 2曲のソナタ(Hob48-49が発表される。この頃からクラヴィアに代わってピアノが鍵盤楽器の主流となる。

1800年 ロンドンやヴィーンで3曲のソナタ(Hob 50-52)が出版される。いずれも94年の第2回ロンドン滞在中に書かれたもの。

1810年 ハイドンの死去。ブライトコップフ・ウント・ヘルテル社(以後ブライトコップフ)の代表でハイドンの友人グリージンガーによる伝記が出版される。

1879年 C.F.ポール、ハイドンに関する研究を開始。「グローブ音楽事典」でハイドンの項目を執筆。

1895年 高名な音楽理論家フーゴー・リーマン、ハイドンの手稿を発掘。発表された34作品に新たに発見された5曲を加え39曲とする。

1908年 ブライトコップ社による「ハイドン全集」の編集が開始。

1918年 「ハイドン全集」のうち、ピアノソナタの巻が発表になる。校訂者カール・ペスラーは一挙に52曲へ拡大した。

この全集は全3巻からなり、第1巻に第1-22番、第2巻に第23-38番、第3巻に第39-52番が収められた。彼はこの52曲のソナタを創作年代順に並べることを意図した。しかしとくに第1~17番を作曲順に並べるにはその判断の助けとなる資料がまったく欠けていたといわれる。

1927年 オランダの音楽学者アントニー・ヴァン・ホーボーケン、ハイドンの楽譜等を写真で複製するなど収集を開始。1千曲のカードを数えるに至る。

1932年 ガイリンガー、「ヨゼフ・ハイドン」を執筆。代表的ハイドン概説書となる。

1933年 ブライトコップ社の「ハイドン全集」が挫折。

1939年 デンマークの研究者 J.P.ラールセン、ハイドン楽譜の真贋に関する先駆的研究。門下にホーボーケン。(ただしホーボーケンはラールセンより15歳年上)

1947年 ボストン生まれのロビンズ・ランドン、ウィーンに軍務で赴任。ラールセンの下でハイドンの研究を始める。

1950年 ボストン・ウィーンのハイドン協会による全集発行の企画がスタートする。ラルセンがシニア研究員、ロビンズ・ランドンが実務を担当した。

1951年 楽譜は4巻まで出したあと中断。全集企画が流産する。

1955年 ケルンに「ハイドン研究所」を設立。ラールセンが初代責任者となる。学問的に緻密な全集を新たに出版することを目的とする。

1955年 ロビンズ・ランドンが『ハイドンの交響曲』を出版。真正の交響曲を特定し、作曲順を推定する。

1957年 ホーボーケン、「ハイドン書誌学的作品目録」を作成。第1巻「20のグループの器楽曲」が発表される。この内「グループ16」(表記はHob.XVI:)がピアノソナタに割り振られる。

ホーボーケンは、すでに整理されているジャンルについてはできるだけそれを尊重するという方針を採る。したがって、ピアノソナタにおいてはペスラーの第1~52番がそのまま踏襲された。

1958年 ハイドン研究所、ハイドン全集の発行を開始。60年までに最初の8巻(ヘンレ社本)を出版。所長はラールセンからフェーダーに交代。

1968年 進まぬ作業に業を煮やしたランドンは、独自の『ウィーン原典版』の作成に乗り出す。この年に交響曲全曲の楽譜が発行される。

1972年 ハイドン研究所ゲオルグ・フェダー校訂の原典版ピアノ全集(ヘンレ社)が発刊される。

1973年 クリスタ・ランドン、ヴィーン原典版を発表。新たに13曲を加え(うち6曲は実体がない)、3曲を排除して62曲とした。全62曲に通し番号を付けなおした。

クリスタ・ランドンはほとんどネットでは紹介されていない。ウィーン音楽院を卒業後、ハイドン協会にくわわる。49年にロビンスの二度目の妻(5歳年上)となる。77年になくなっている。他にほとんど見るべき実績がないことから、ロビンスの仕事ではないかと思われる。

ランドンは他の研究者の協力を得て訂楽譜の編集を急ぎ、しばしばハイドン研究所より早く出版した。ランドン版に当たる第4番、第7番、第17番~19番、第21番~28番はホーボーケン版には該当するものがない。

ランドンおよびその陣営の研究者たちによる楽譜出版が、その不正確さ故に拙速の批判を浴びることがあった。最大の問題は根拠なしに創作順を推定して全面的に番号づけ直したころにある。

1974年 ケルンのヨーゼフ・ハイドン研究所、ハイドン関連文献の目録作成を開始。

1978年 ホーボーケンの目録第三巻(作品集、作品番号一覧、出版社一覧、被献呈者一覧等のデータ集および追補と訂正)が発行し、全目録が完成。

1976年 ランドン、5巻からなる膨大な『ハイドン:年代記と作品』を刊行。

1984年 アメリカのDover Publications 社、ペスラーの『ピアノ全集』全2巻を復刻・出版。

1994年 ロビンス・ランドンが「新発見のピアノソナタ」とした作品をめぐって論争。これらの楽曲は偽作であると結論された。

2004年 全音楽譜がハイドン:ソナタ集1、2を発行。各15曲が収録されている。いずれもホーボーケン表記を採用。ランドン表記を旧分類とする。

2009年 没後200年を機に、G.ヘンレ社より「ピアノソナタ全集(原典版)全3巻」が発行される。ケルンのハイドン研究所「ヨーゼフ・ハイドン全集」の一部を構成する。

鍵盤音楽担当編集者のフェーダーは、通し番号を付すのをやめ、全54曲を10のグループに分け創作順関係に融通性をもたせた。

2009年 「ウィーン原典版」、ランドン校訂の旧版を底本として改訂に着手。改訂担当者はライジンガー。ランドン独特の通し番号は旧番号として維持されたものの、並び順はホーボーケン番号順に並び替えられる。

2010年 ペータース社より「マルティエンセン編ピアノ・ソナタ集 全2巻」が発行される。

2013年 「ウィーン原典版ハイドン ピアノソナタ全集」が改訂。日本では音楽之友社から発行。

ハイドンのピアノソナタをまとめ聞きする。
ハイドンをまとめ聞きするというのは、そもそも無理なのである。
そんなことは前から分かっている。わかってはいるが一度やってみたいのである。それが性というものだ。
シンフォニーは10番位で最初に挫折し、それでも頑張って行くと、30番位でなにが何やら分からなくなってくる。
そのへんからは徹底的に流しまくって、聞いたことにして前に進んでいく。
それでも50番位でもうごちそうさまになる。
ニックネーム付きを選んで進むが、それでもパリセットに入る頃には耳がストライキを起こす。
最後は、そんなことで一生を終わるのかという、声が聞こえてくる。これはほとんど統合失調の手前だ。
交響曲で挫折したのなら、弦楽四重奏がどうなるかは火を見るより明らかだ。
それに比べればピアノソナタはかなり気楽に行けるのではないかと、またもや始めた次第。
以前、ピアノトリオはけっこう気楽に進んだので、少し頑張ってみよう。

ピアノソナタを聞くのにあたって最初に困ったのは、名前がばらついていることである。
ばらつくのは決定的な権威がいないからであり、譲りあいの精神が欠如しているからである。
みごとなほどにばらついており、そのばらつきに規則性がない。

バッハとモーツァルトは幸せである。ケッヘルとBWVでとりあえず収まってくれるからだ。
一番不幸なのはスカルラッティで、たいした有名でもないのにL(ロンゴ)とK(カークパトリック)が意地を張り合っている。
それでもまだKとLと名を名乗るから良いが、ハイドンの場合は名を名乗らない。


私のつたない記憶では、かつて一時はホーボーケンに統一しようという流れがあったと思う。
しかしそれはもうない。昔のピアノソナタ第何番に戻ろうとしている。しかし2,3割の人はいまだにホーボーケンにこだわっている。だから同じ曲がまったく違う番号で出てくる。その際鑑別するには曲の調性で判断する。また作品番号もついているのでこれでも推測できる。
とにかく音源がある程度溜まってくるとこれを整理していくだけでも大変なのだ。
ということで、これからハイドンのピアノソナタを聞こうと思っている人のために、あらあらの曲名一覧を提示しておこう。
(なおオヴェ・アンスネスのソナタ集の番名は多分、「ウィーン原典版」の現行版ではなく旧版(ランドン版)を使っているのではないだろうか
一般的に言えば、ここに名前がない曲は聞く必要はないと思っていい。
haydn_PS
なお、ウィキペディアではホーボーケン番号順に曲を並べているが、今日では意味が無いので利用しないほうが無難。ピティナの索引(全音楽譜版?)を使って一覧表を作らないとあとでひどい目にあう。
曲としては、31番、32番、33番、38番、47番、50番、53番、59番あたりが定番曲だろう。
演奏は誰が良いということはないが、録音が新しく良いものが良い。ピアノフォルテやクラヴサンの演奏は避けた方が良い。
ブレンデルがあらゆる面から見て無難。クリーンも良いがブレンデルより粒が小さい。アンスネスの立体感は高音質とあいまって魅力。リフテルはたまにスカがあるので注意。バックハウスは無理やりベートーベンにしようとする。エマヌエル・アックスの盤は思いっ切り残響も入ってピアノしているが、意外に良い。


この記事は、その後180度転換されている。

をご覧いただければ理由はお分かりいただけるであろう。いまさら知らんぷりもできないので、恥をさらしておく。

通し番号記載は、今後姿を消していくであろう。

私もホーボーケン番号順に整理し直すことにする。整理し直したらもういちどブログに掲載することをお約束します。


どうもタバコを止めてから肉体的には多少良いが、精神的な持続性が落ちてしまったようだ。イライラと腑抜け状態が続く。

あと10年の生命、どう持たせればよいのか思案のしどころだ。

気持ちがひとところに落ち着かず蝶々のようにふわふわしている。

シェーンベルグの「浄められた夜が」演奏次第でずいぶん違う。カラヤンがどうも気に入らなくて、弦楽6重奏のテクスチャー感が出てこない。

エベーヌ四重奏団がすごく気に入ったのだが、弦楽合奏版を捨ててよいのかが気になって探してみたら、小沢指揮サイトウ・キネン・オーケストラの演奏がすごい。ただ、熱演はすごいのだが、やはりこの曲は弦楽6重奏曲だろうと思う。

ベートーベンの大フーガをフル・オーケストラで聴いても、ひたすら低音弦がうっとうしいのと同じだ。

それでなんとなしに小沢のディスコグラフィーを探していくうちに、入江美樹という奥さんが気になって、写真を探したらこんなのが出てきた。

入江美樹
顔はハーフだが体型は純日本風。亡命ロシア人の流れのようで、白人=上流階級ではない類(大鵬とかスタルヒンとか)の流れかもしれない。戦後の北海道にはちらりほらりと見かけたものだ。

滝川クリステルとは品格が違う。

後ろのアンちゃんがいかにも平凡パンチかJUNから抜けだしてきたみたいで、 ワタシ的にはハマってしまう。

あの頃の若者文化の憧れシーンをスカートめくりしたような気分だ。


それでその話がどうつながっていくかというと、小沢が活躍した頃のアメリカのミュージックシーンの話になって、Stu Phillipsの話に跳ぶのだ。ここがどうして跳ぶのかがよく分からない。

海馬の障害なのかもしれないし、私のブログの更新が進まない原因なのかもしれない。

とにかくこのLPが良いのだ。

Stu
ジャケットは相当いやらしい。

それでこのStu Phillips という人が、売れればなんでもいい人なのだ。

それで最大のヒット作がナイトライダーだ。ナイトは夜ではなく騎士の方のナイトらしい。いま考えればAIカーの走りだ。

多分このシリーズは見た。ハッセルホフという下品顔の俳優で“日本ハムの新庄”をさらに崩したけばい顔だ。

音楽はとんと覚えていない。今日び、こんなもの、リズムマシーンソフトでいくらでも作れる。

「見た」記憶はあるが、「さすがにここまでは」というのが

Knight Rider
ということで、肝心なことが書いてない。

とにかく小沢征爾とサイトウ・キネンの「浄められし夜」は見ておいた方が良い。


いまびっくりしている最中です。
チョ・ソンジン(seong-Jin Cho 趙成珍)というピアニスト。あまりにも素晴らしくて、あっけにとられています。
もともと韓国のピアニストは好きで、独特のグルーブ感はとても日本人の及ぶところではないと思っていましたが、ついにここまで来たかという感じです。
2015年のショパン・コンクールで優勝、ポロネーズ賞も併せて受賞したそうです。
というより、もはや世界のトップランナーとして完成しています。
私はツィマーマンが好きで、いわゆる「世界最高」だと思っていますが、彼がのして来たのはショパンコンクールを受賞してから数年後のことです。
逆にポリーニは受賞のときが一番で、その後は玄人筋の評判は良かったものの、私にとってはピンとこない存在でした。
ダン・タイ・ソンはコンクールで燃え尽きてしまったようです。ユンディ・リーはただの雑技団です。
しかしチョ・ソンジンはそういうレベルをはるかに超えています。ピアノ界の大谷です。
技巧も素晴らしいし、音色も最高ですが、それ以上にずば抜けた芸術的センスに惚れ惚れしてしまいます。
それは英雄ポロネーズとかスケルツォの2番のようなとりとめない「駄作」から物語を紡ぎ出す、センスの絶妙さに現れています。
You Tubeで探すと韓国には芸術的センスに溢れた人たちが山ほどいます。訴えてやまない国民性が芸術に向いているんでしょうね。
「嫌韓」の方にぜひ一度見てもらいたいと思います。きっと考えが変わるでしょう。
ピアノ協奏曲第1番
ピアノソナタ第2番
チョ・ソンジンは第一次予選にノクターンの作品48の1を選びました。この曲はルビンステイン風にエレジーっぽく弾くか、ポリーニみたいに行進曲風に行くかでずいぶん印象が違ってきます。
最初からずいぶん難しい曲を選んだもので、その冒険が必ずしも成功しているとは思えません、


You Tubeにはショパンコンクールで優勝したあとのベルギーでのコンサートもアップされています。正直に言えば弛緩しきっています。このままではダメでしょう。

流石に有名曲だけあって、You Tubeでもずいぶんとたくさんの演奏が聞ける。
本日聞いたのはブーレーズ、モントゥー、ミュンシュ、レイボヴィッツ、カラヤンの旧盤と新盤、ラトル・BPO、ブラッソンというところ。この倍くらい音源がある。カラヤンの旧盤はツェラーのフルートというのが売りになっているが、You Tubeの音質はかなりの低レベル、新盤は85年のものらしいが、どうしようもなくうざったい。
ラトルの音源は05年の東京ライブらしい。何故か音がくぐもっている。一つひとつの音は素晴らしいのに残念だ。ブーレーズはいつもながら好きでない。嫌なやつだ。
モントゥーの録音は来日直前のものであろう、ステレオだ。デッカのおかげで素晴らしい音がとれている。ミュンシュの録音も引けをとらない。モントゥーはロンドン交響楽団、ミュンシュはボストン交響楽団で最高の技術水準だ。
レイボヴィッツはLPからの盤起こしで、音そのものは良いのだが低調の雑音が気になってしまう。
いろいろ聞いていると、この曲はフルート協奏曲ではなく、かなり指揮者次第で変わってくる曲だということが分かる。ワグナーを聞いているのではないかと錯覚することさえある。それはレイボヴィッツ盤を聴いていると良く分かる。
ということで、ミュンシュには悪いがこの曲向きではない。減点法で行くとモントゥー盤かなということになる。ブラッソンもとてもいいのだが、オケのレベルがちょっと物足りない。
まぁ今日はこんなところで。


レビコフのピアノ曲はリャードフやリャプノフと比べると本当に雑な作りだ。
それなりのピアニストだったら、忌避するか大げさな響きに編曲するだろう。メロディーも月並みなセンチメンタリズムだ。
ただし、中山晋平の「波浮の港」を聞いて「あぁなんていいんだろう」と思う人にはお薦めだ。
そんなメロディーが次々と湧き出てくる。そんなレビコフの真骨頂が作品8のピアノ小曲集「秋の夢」だ。
全部で16曲からなる。まず右手のメロディがあって、左手は控えめに和音を奏でる。小学生でも演奏できそうな曲ばかりだ。
rebikohu
私はアナトリ・シェルデヤコフのピアノ全曲集を買ったのでそれで聞けるが、You Tubeでは全曲という訳にはいかない。というか、ほとんど聞けない。
ソメロというひとのCDも買ったが、金正恩みたいな写真のジャケットはおよそ反芸術的な雰囲気満載だ。
“Rebikov” で検索してみてください。なんとなくハマること請け合いです。

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