鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

13年4月、ぷらら・Broachより移行しました。 中身が雑多なので、カテゴリー(サイドバー)から入ることをおすめします。 過去記事の一覧表はhttp://www10.plala.or.jp/shosuzki/blogtable001.htm ホームページは http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」です。

カテゴリ:03 日本経済 > 構造問題/対米従属

安部首相が「面舵いっぱい」の路線を多少修正しだようだ。
安倍政治を彩ってきたのは、きわめて危険な右翼傾向であると同時に、見ていて恥ずかしくなるほどの幼稚さであった。
日本の伝統のなかでこれほど幼稚な首相を抱いたことがあっただろうか。
麻生といい、  といい目を覆うほどの政治の劣化がもたらされている。
短期的に見れば小選挙区制、テレビ時代という要素は無視できないが、日本から急速に物を考える人間がいなくなっているというトレンドを見過ごす訳にはいかないだろう。

ところで、このような政権を生んだのは、一種の「権力の空白」だった。
現在もこのような極右に対する有効な対抗勢力は存在していない。

なぜこのような空白が生まれたのか。
私は国民と財界の力勝負が一種の膠着状態に入ったためだと見ている。
民主党を押し上げた国民の深部の力は、みずからの希望を民主党政権に託した。
このとき財界とメディアの逆襲が始まった。自信喪失の自民党にとってかわり、民主党の換骨奪胎作戦を開始した。

まず伝家の宝刀、東京地検特捜部を使って鳩山、小沢の追い出しに成功した。いわばクーデターが行われたわけである。

ついで連合マシーンを使って菅を送り込んだ。一応民主党トリオの一角だから格好はつく。
菅が首相就任早々に財界よりの方針を打ち出した時は唖然としたが、スポンサー筋に言い含められていたのであろう。菅の方も首相になるためなら毒でも飲む気分だったろう。

二人三脚の政治がスタートしたとき、東北大震災が発生し、福島原発の事故が発生した。

菅は財界を無視し、反原発に舵を切ろうとした。この時財界はしゃにむに菅を引きずり下ろし、野田を新たな首相に据えたのである。

これが国民感情を逆なでし、民主党は見捨てられることになる。さらに消費税をめぐる顛末は、自民党以下の醜態をさらけ出した。

こうして国民の望んだ民主党は姿を消し、財界党に成り果てた。そのとき、消極的なオルタナティブとして自民党が登場し、さらに維新旋風が巻き起こった。

原子炉内部の国民の不満という巨大なエネルギーが行く先を求めて右翼になだれ込んだのである。

自民党の政権復帰後、時代を風靡した経団連は鳴りを潜め、ふたたび裏方に回った。この経過のなかで国民対財界という対立図式は消え去り、国民の不満は見事に吐出されてしまったのである。

そして残ったのが、やるせない不満と鬱屈した気分だ。

権力の空白は、こうした権力を巡る抗争の結果としてもたらされたものである。

これは一時的なものだ。我々は学んだ。日本の代表としての大企業や財界が我々の味方ではないこと、政治が混乱すれば前面に出てきて国民の分裂を行うことを。
だから政治には何よりも財界からの独立が求められることを知った。

これが、何よりも大切な教訓である。


ふと思った。与謝野はトロイの木馬だ。

脇さんの演説を読んで、先日の藤井・与謝野の座談会を思い出した。

座談会の記事を読んだ感想で、藤井と与謝野の違いをメモしておいたが、いま考えるとこの違いには重要な意味があったのではないかと思うようになった。

民主党政権の後半期は間違いなく「連合」党であった。ということは限りなく「経団連」党であった。

そして経団連の意を体した切り札として送り込まれたのが与謝野ではなかったかと思う。

菅直人は、民主党御三家の一人ではあったが、だいぶ見劣りのするタレント幹部にしか過ぎなかった。

彼が首相になる時は「連合」の意向を最大限受け入れるしかなかった。もちろんその背後には経団連がいる。

菅は経団連会長の傀儡となることによってのみ首相になれたのである。その際、「お目付け役」として送り込まれたのが与謝野という構図なのだろう。

与謝野はどう間違っても民主党ではないし、リベラルでもない。それに経済理論家でもなければテクノクラートでもない。東電出身の叩き上げ政治家でしかない。たしかに毛並みは良いかも知れないが、尊敬されるほどの人格者でもない。

ただオシの強さだけで政界を生き抜いてきた人物だ。

もちろん、財政の改革も、社会保障の再確立も重要な課題だし、ともに金が絡む以上一体的にやってゆかざるをえないことも自明だ。

しかし普通に考えるなら三方一両損で行くのが政治の世界だ。これを全部国民負担としておっかぶせて、大企業がぬくぬくと儲けを貯めこんでいくような政策は、長期的に維持不可能だ。

何よりも国民が許さない。

その国民が許さないような政策を民主党は受け入れてしまった。文句をいうような幹部は潰された。だから民主党は潰れたのである。

そして与謝野はトロイの木馬となった。

政界再編の最大の功労者は米倉会長

9月30日は日本政治の潮目となるかもしれない。

その最大の功労者は経団連であり、米倉会長であろう。

その功績は、民主党をぶっ潰し「二大政党制」を崩壊させたことにある。

この20年間で、日米権力層は小選挙区制と二大政党制という支配の二本柱を完成させた。

しかし民主党が政権を取り、その財界後見人として米倉が登場してから、この支配システムはどんどん壊されてきた。

おそらく権力の謀略と思われる鳩山、小沢の追い落とし、連合と手を組んだ菅直人の押し出し。それも言うことを聞かないと見ると、露骨な退陣策動で本籍右翼、財界言うがままの野田を総理に据えた。そのたびに民主党は打撃を受け、ついには雲散霧消した。

なんとかこれに代わる受け皿をと狙ったのがみんなの党であり、維新であったが、これらの政党にもいかなる革新性をも付与しなかった。

目先を変えて、マスコミで煽れば国民は騙せると思っていたのだろうが、その路線が不発に終わったとき恐ろしい時代が来るのだということを、彼らは想像しようとすらしなかった。

いまでさえ、安倍首相の高人気を見て「まだ大丈夫、まだ行ける」と思い込んでいるようだが、これほど危険なことはない。

理由

1.安倍路線は国民の総意よりはるかに右に偏位している。国際的に見てもそうだ。安倍晋三というのは幼稚な人物で、この先突っ走っていってどうなるか分かっていないし、分かろうともしない。

2.財界がそういう「右翼の軍国主義者」とでも平気で手を結ぶということが誰の目にも明らかになっている。財界は大衆的支持を失うだけでなく、国民の反感をみずから煽っている。

3.メディア支配は脆い。堺市長選で見られたように、力関係次第では民衆の立場に立つ可能性もある。小選挙区制が諸刃の刃であるのと同じに、メディアも諸刃の刃となる可能性を持っている。

4.安倍内閣の「得点」は、金融緩和で円安を誘導したことに尽きる。それだけだ。金融緩和には必ず終りが来る。その後ひどいツケが残される。アベノミクスの化けの皮がはがされるのは時間の問題だ。


毎度読むたびに虫酸が走るが、読まない訳にはいかない。

経団連のコメント:
1.日本再興戦略の実行、大胆な規制改革、エネルギー政策の再構築、TPPを始めとする経済連携の推進など山積する課題を遂行せよ。
2.消費税率の着実な引き上げを不可欠の課題として最重視せよ。
3.(財界は)安倍政権の政策遂行に全面的に協力する。

経済同友会のコメント
1.少なくとも3年間の安定した政権となった。この3年間は日本再興の最後のチャンスだ。
2.経済政策のみならず、選挙制度、統治機構改革などの重要課題を遂行せよ。

ということだが、上記を見てはっきりしているのは消費税の引き上げが当面する最重要か愛として位置づけられていることだ。

しかも重要なのは、財政健全化という錦の御旗なしの主張となっていることだ。財政健全化を言えばアベノミクスと正面から衝突するので、この理屈は使えない。そうすると法人税引き下げのための財源ということになるのだが、そこは口が裂けても言えない。

米倉会長は、消費税で不況となっても「ある程度覚悟しなければならない」と強調しているようだ。

「我々が亡き後に洪水来たれ」とは、資本家の無節操ぶりを表すのによく使われる言葉だが、米倉会長は生きているいるうちに洪水を来たそうとしている。我が家はかすっていくだけだと踏んでいるからだ。

こういうのを「亡国の輩」というのではないかな、麻生さん。

都はるみのヒット曲で、「北の宿」という歌がある。

女心の未練でしょうか?
そうだ、そのとおりだ。

「仕方ない」という人もいるかもしれないが、時代劇の語りで言うなら「それは自分を棄てた男に対する未練であろうか」ということだ。

直視しなければならないのは、もはや彼は「私の彼」ではないということだ。カネを無心に来たらきっぱりと断ろう。

こんな曲もあった。
あの人は、行って行ってしまった。もう他所の人。

なんせ本人が、「おれっちはグローバルなマドロスさんだぜ」と言っているのだから間違いない。
ただそう言っておきながら、「居て貰いたいんなら、もっと金を出せ」というのは虫酸が走る。こういうのをやくざのヒモという。

東レの社長が、政府の経済審議会の委員になっている。
そいつが審議会の席上で、「俺の会社はグローバル企業だ。気に入らなきゃ出て行くまで」とほざいた。
もし「日本に籍は置いても、本体はグローバル企業だ」と認識しているなら、政府審議会の委員となる資格はない。日本の将来を語る資格はない。
「グローバルに展開していても、心は日本企業だ」というのなら、居ても良いが、偉そうにふんぞり返るほどのご身分ではないことを知るべきだ。


頃は安政2年(1855年)、幕末のことである。
零細漁民が場所請負人の仕掛けたニシン漁の大網を切るという騒動があった。
背景はなかなかややこしいが、次のようなものである。
北海道を仕切っていたのは松前藩という大名。当時北海道は米が取れないので石高はゼロ、にしんや昆布の売上で藩財政をまかなっていた。
といっても武士は商売は苦手、商人に漁場を請け負わせて、そこからピンはねするという商売である。
この請負人は、最初は各地に運上屋という施設をたちあげて、現地のアイヌ人や和人の漁民から買い上げる商売だったが、これではウマミが少ない。直接企業を起こして現地の人を使役して、自ら漁業を営むようになった。

そこから3つの問題が発生してくる。
一つは乱獲だ。請負人には資本があるから大規模漁業をやる。大網を仕掛けて文字通りに真を一網打尽にする。当然資源は枯渇してくる。中小漁民の顎は干上がるという具合だ。
二つ目は、「場所」での階級関係が変化してくる。それまでは地元民は通商相手であり、「メノコ勘定」といっても基本的にはイーブンだ。しかし彼らを労働者として使役するようになると、状況は一変し、対立は先鋭化する。
3つ目は権力の変容だ。請負人が財力を持つようになれば、松前藩の政治を動かすようになる。藩は請負人の顔色をうかがうことなく政治を行うことはできなくなってくる。
別に汚職などやらなくてもよい。藩の財政は運上金で成り立っているわけだから、請負人が困れば藩も困るのである。
とは言っても、松前藩としては資源が枯渇しては困るわけで、そこがローカルな権力のローカルたる所以だ。
藩としてはこれまでは目をつぶってきたが、ここいらが限界ということで「大網禁令」を発することとなった。

ここからが一躍現代的な話となる。
「大網禁令」を受けた請負人たちは、「恐れながら」と箱館奉行所に駆け込んだ。

ここが話しの難しいところだが、実は当時の北海道は幕府と松前藩の二重支配構造になっていたのである。
安政といえば、時代劇のフアンにはお馴染み、幕末の「安政の大獄」という時代で、吉田松陰ら勤皇の志士が獄に繋がれ、最後に大老井伊直弼が桜田門城外で水戸藩浪士によって斬殺されるという時代である。
その背景にあったのはアメリカのペリー船長の黒船だが、本当のところ最大の脅威はアメリカではなくロシアだった。
そのロシアとの最大の接点となったのが北海道、千島、樺太だったのである。
それまで北海道を全面的に管轄していたのは松前藩だったが、19世紀の初めからは幕府が直接管理に乗り出すようになった。
その拠点が箱館奉行所だった。松前藩も箱館奉行所には頭が上がらなかったのである。

請負業者が「恐れながら」と申し出た内容は次のとおりである。
1.今はそういう時代か。もし北海道がロシアに奪われれば、資源も持続性もへったくれもないでしょう。
たしかにこれは説得力がある。
2.大網禁止は国家収入の減少をもたらし、経済的な国力の低下をもたらすのではないでしょうか。
これなんぞ、今の経団連の国際経済競争力の低下の論理と瓜二つ。
3.いったん事あれば軍事的にも請負業者の船舶、軍船の運転能力が必要になるでしょう。

これを聞いた箱館奉行所は、松前藩の頭越しに、大網の運営を許可することになる。

原発の論理が似たような軌跡をたどっているが、大企業の本質は変わらないということだ。


最終的な議論の落ち着きどころが見えてきた。
問題はこうなる。

人を大事にするか、それとも利益か

これは国の原則でもあるが、経営の原則でもある。
今の経団連主流は明らかに利益が第一である。第一であるというより、すべてだ。
彼らは基本的就業構造を、育成型から略奪型構造に変えようとしている。
彼らがほしいのは人材ではなく才能なのだ。
しかし才能というのは属人的なものだ。
使い捨てしていけばいずれは枯渇する。焼畑農業みたいなものだ。
おそらくその時は畑そのものを捨てて、別な所で焼き畑をするのだろう。それがグローバルというものである。

これでは持続型の発展は望めない。それどころか至る所で砂漠化をもたらすだけであろう。

才能というのは人間の花に当たる部分で、根があって、茎があって、葉があって初めて咲くものである。人を育てなければ花は咲かない。肥料ももちろんだが丹精を込めることが大事なのだ。

そのことは97年以来の経験で十分分かっているはずなのだが、経団連幹部の暴走に誰も異を唱えようとはしない。

アメリカが怖いからなのだろうか。


「国民総所得を増やす」という騙し

私も知らずに恥をかくところだった。

安倍首相の言う「10年間で一人あたり国民総所得を150万円増やす」という公約。

この国民総所得というのは給与所得とも雇用者報酬ともまったく関係のない概念だということだ。

垣内さんによれば、国民総所得というのは、むかしよく使われていた国民総生産(GNP)のことだそうだ。

話の経過からすると、むかしの日本は、いつも貿易赤字を出してヒイヒイ言っていたので国民総生産=国民総所得で良かったのだが、貿易黒字国になって海外からの利子・配当収入が入ってくると。総生産よりも総所得のほうが多くなって来て、国内生産を反映しなくなってしまったために、経済指標がGDPに変わったのだそうだ。

だから、逆に言うと、国民総所得というのはGDPに海外からの利子・配当収入を足したものということだ。

したがって、安倍首相の言う「国民総所得を増やす」というのは、あらあらで言ってGNPを一人あたり150万円分増やすということにすぎない。

GNPが増えても給与は上がらない。そのことは過去10年余りで実際に経験してきたことだ。

ところが安倍首相はGNPを増やすことをもって、「国民の平均年収を150万円増やす」と言っているらしい。「らしい」というのは、各地の演説でしゃべっているという情報で、確認はとれていない。

たださすがに問題にはなっているようで、菅官房長官は「首相は分かりやすく説明しようとしたんだろう」と釈明しているようである。

しかし垣内さんはこれは「言い換え」ではなく、「すり替え」だと噛み付いている。

私から見れば「騙しのテクニック」だ。

むかしの旅役者の「美空びばり」並みのお粗末。


5月29日産業競争力会議での発言。

我々のようなグローバル企業の場合、世界中のどこで投資をするかという際に、様々な条件を比較した上で、国内有利であれば国内、海外が有利であれば海外ということになる。
(だから)国内で投資をできるよう、環境整備をお願いしたい


基本的に、会議の性格に相応しくない発言だということが、まるでわかっていない。
この会議の目的は日本の産業競争力をどう回復させるかということであって、冷やかし客相手の値引き交渉ではない。
榊原氏の発言は、「嫌ならいいんだよ、よそに行くから」と言わんばかりの冷やかし客の発言であって、日本の立場に立ったものではない。
たとえばGEでもシーメンスでも、聞かれれば同じことを言うだろう。なぜなら彼らもグローバル企業だからである。

会議のメンバーとしての立場がまったくわきまえられていない。普通はこんな発言をするものがいれば、「とっとと出て行け!」と怒鳴られる筋合いのものである。
そのことがまるでわかっていないから、そもそも話が通じないのである。

安倍首相のいう「成長戦略」は矢の向きが逆だと言ってきた。
他の日本の矢が正しいかどうかは別にして、景気の振興、内需の拡大という方向はそれなりに感じられるが、「成長戦略」はどう見ても成長どころか内需の減退をもたらすものでしかない。

「世界で一番企業が活動しやすい国」というのは、いわば日本を多国籍企業の植民地とするということだ。

多国籍企業にとって一番仕事がしやすい環境とは、第一にタックス・ヘイブンになって資本の出し入れ自由の国になることだ。第二に労働力流動化が進んで首切り自由、労働者使い捨て御免の国になることだ。第三にあらゆる規制を取り払って、安全とか環境とかを一切考慮しないということだ。

(多国籍企業の道徳心のなさは、「課税逃れ」に典型的だ。
EUは、取り逃がしている税額が1兆ユーロ(約130兆円)になると見積もっている。これはEU加盟27カ国の財政赤字を合わせた額の2倍だ)

日本という国にとって、それが何を意味するか。
第一に国家の収入は減り、生産活動は外国に流れるということだ。第二に、勤労者の生活はますます悪化し、内需は収縮するということだ。第三にアメリカの悪いところがどんどん侵入し、自分のことしか考えない風潮が広がっていくということだ。

一言で言えば、「日本という国が壊れる」ということだ。

安倍首相の言葉を借りるなら、「世界で一番国内企業が活動しやすい国」にしなければならない。
いまや身も心も多国籍企業となった大企業ではなく、国内企業に軸足を置く産業政策への切り替えが必要だ。そのために成長力のあるものづくり産業を振興・育成しなければならない。

「経団連よさようなら」を宣言するのは、今でしょう。


産業政策を経団連から切り離せ

6月7日に政府の「ものづくり白書」が決定された。

白書は重大な懸念を表している。

①今後3年間に海外従業員数を増加させると回答した企業が53%に達した。

②海外生産を行なっている企業の33%が国内従業員数を減らすと回答した。

③生産設備の平均保有期間(設備更新の逆数に相当、設備老朽化の指標)は15.8年。これは20年前の10.3年に比べ1.5倍化している。

これらの企業は、内容から言って多国籍企業であり、多国籍企業を育成することは国のためにならない。これはアメリカの経験で明確に示されている。

巨大多国籍企業集団である経団連に追従する産業政策をすみやかに見なおすべきだ。「ものづくり白書」はそのことを明確にものがたっている。

死んだと思った米倉会長がまた顔を出した。
「これからの日本はものづくりに徹底すべき」だと強調したという。
なんとも白々しい話である。
「ものづくり」路線は、いわゆる「日本型経営」の中核に座る思想である。
それは「アメリカ型経営」とは相容れないものである。
ものづくりはひとづくりだ。米作りは田作りだ。
ひとづくりを放棄してものづくりはできない。
アメリカはすでに工業生産を放棄している。大企業は多国籍企業となって、海外生産に軸足を置いている。
だから会社が儲ければ儲けるほど、国内企業は衰退していく。
こんなことはもう30年も前からわかっていることではないか。30年も前に、日本はそうやってアメリカを批判したではないか。そして日本型経営の優位性を称揚したではないか。
それを忘れるほどに健忘症が進んでいるのなら、潔く会長を降りるべきだ。

“舞浜会議”をグーグルで検索すると、まっさきにこれが出てくる。

岩波書店から出版された朝日新聞の連載記事だ。

その冒頭に、「今井・宮内論争」というのが出てくる。

いかにも朝日の臭いがするドラマ仕立ての文章だ。

「企業は,株主にどれだけ報いるかだ.雇用や国のあり方まで経営者が考える必要はない」
 「それはあなた,国賊だ.我々はそんな気持ちで経営をやってきたんじゃない」
  94年2月25日,千葉県浦安市舞浜の高級ホテル「ヒルトン東京ベイ」.大手企業のトップら14人が新しい日本型経営を提案するため,泊まり込みで激しい 議論を繰り広げた.論争の中心になったのが「雇用重視」を掲げる新日本製鉄社長の今井敬と,「株主重視」への転換を唱えるオリックス社長の宮内義彦だっ た.経済界で「今井・宮内論争」と言われる.

この文章は「結局,舞浜が,企業も国も漂流を始めた起点ということになった」という品川正治のセリフで閉められている。

いかにも大げさで好みではないが、「97年問題」の序曲という意味では面白いエピソードである。

94年はじめという時期は、バブル後不況のまっただ中で、各企業とも莫大な含み損を抱え四苦八苦していた時代だ。

しかもアメリカの外圧はとどまるところを知らず、露骨な内政干渉まで開始している。

景気の後退、資産内容の悪化、対米輸出の鈍化という三重苦が日本経済を襲っていた。このままでは立ち行かないという焦りはすべての産業人に共通していたと思う。

私は、舞浜会議は“ならず者”経営者の反乱宣言として捉えるべきだろうと思う。

おそらく彼らの主張は個別には採用せざるをえないものであったろう。97年問題での対応を見ると、むしろ遅すぎたのかもしれない。

首切り・合理化は世の習いであるし、不況の中で経営を守るためにはリストラは避けられない。いいとは言わないがやむを得ない場合はあるし、94年はまさにそういう局面だった。

宮内・牛尾らはそれを思想にしてしまった。そういう企業こそが良い企業なのだと開き直った。

そしてその理論的裏付けとして、80年代以降のアメリカの経営思想を直輸入した。それはアメリカの外圧をも背景としていた。ところが産業界幹部はこれまでの「日本型経営」路線に自信をなくし、アメリカの外圧に対して思考停止状態に陥っていた。

97年から00年までの不況は、バブルのつけを払わされた時期だったから、誰がどうやってもあまり選択肢はなかったと思う。

それをやむをえざる事態と見るのか、それこそが企業精神の発露と見るのかは決定的な違いがある。

それが今世紀に入ってからの路線の問題として浮かび上がってきたのだろうと思う。

経団連は一方では労働力流動化を訴えながら、他方では財政再建を強調するが、この二つは矛盾すると思う。
財政再建のためには、財政規律の強化と景気の回復が重要だ。財政規律の強化は支出減少を狙うものであり、景気の回復は収入増大を狙うものだ。
しかし財政規律の強化は不況局面では景気をさらに悪化させる可能性があり、慎重でなければならない。
とすれば、現在取りうる政策の主体は景気刺激策となるであろう。
ここまではごくごく常識の範囲内だろうと思うが、この常識が経団連には通じない。

TPPも同じで、日本の産業のかなりの部分に致命的なダメージを与える可能性があり、少なくとも現在の局面ではとるべき選択ではない。グローバル基準に見合った長期的な産業構造改革についての議論そのものは否定しないが、それは今、「バスに乗り遅れるから」とあせる話ではないだろう。

この常識も通じない。

景気回復と、それによる財政の再建という戦略は、アベノミックスですら掲げている。いまや日本の常識である。

その戦略の環となるのが内需の拡大であり、その前提となる雇用の拡大と雇用の質の確保である。

こういう流れから見ていくと、経団連の発想は日本を潰そうとしているとしか思えない。

今の時期に増税をやれば景気の底は抜け、財政危機はさらに深刻化する。労働力の流動性を高めれば、庶民の不安感はさらに高まり、支出は抑制される。

なぜそのような「やらずぶったくり」の愚かな主張をするのだろう。商売というのは相手があって、ウィンウィンの関係を築く中で成り立つものではないのだろうか。そうでなければ、それはビジネスではなく強盗だ。

しかし強盗というのは、相手に金があればこそ成り立つ。人を傷つけ、殺めても500円しか財布に入っていなければ、この商売成り立たなくなる。

こんな分かりきったことがどうして分からないのか。それが不思議だ。

本日の赤旗に三つの記事が並んでいる。
一つは、「日銀の当座預金が初の70兆円に」という記事。
日銀が量的緩和で多量の円を発行しているが、それが結局銀行から先には流れず、日銀の当座預金として積み上がっているという、笑い話のような話。
二つ目は、製造業の事業所数と従業員がさらに減少を続けているという記事。
事業所数が前年比3.2%減、従業員は3.8%減。従業員減は食品産業で8.3%減、情報通信機械器具(ケータイ)で8.9%減と高い。ただしデータは11年までのもので、やや古い。
三つ目は、経団連が提言を発表。消費税引き上げの断行、社会保障全般の給付削減をもとめたという記事。「さらなる消費税増税」も求めているという。

この3つを見れば、分かることは唯一つ。
お札をいくら刷っても無駄。景気を良くするには経団連と手を切るしかないということだ。
その裏にアメリカがいるとしても、経団連が旗を振っていることは間違いない。
この連中と付き合っている限り、日本は奈落の底に沈んでいくばかりだ。

むかし民族独立行動隊の歌というのがあって、
「民族の敵、国を売る犬どもを…」という一節があったが、まさにその通りの状況になってきた。

このごろ鳴りを潜めていると思ったら、米倉がまた騒ぎ始めた。
しかも経団連会長として言ってはいけないことまで言い出した。

短報記事で詳細不明だが、
①憲法改定に賛成。
②集団自衛権が確保されるべきだ。
③憲法96条の先行改定にも「異論はない」

この人の頭はいかれているとしか言いようがない。
経済団体の長が言っていいことと悪いことがある。
その見境がつかなくなっている。

それが安倍首相に詫びを入れるためのセリフだとすれば、品性の低劣さに吐き気を催す。

経団連として、この発言は問題にしないのだろうか。

柳沢記者がいいグラフを作ってくれた。
産業競争力会議で、経済同友会の長谷川代表が主張した「日本は解雇規制が強すぎる」という意見に対する反論。
反論と言うよりは、「一部当たっているな」ということがよく分かる。

http://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/5/6/5603167b.jpg

わざと天地を逆にしてあるのは、長谷川氏らの思いを強調するためだ。我々としては左側の国を先進国として、そちらを目指すべきだと考えるのに対し、長谷川氏らは右側の諸国こそが目指すべき先進国だと考えていることになる。
会議の席上、長谷川代表は「国際最先端をよく検証した上で、日本が不利にならないような施策を検討していただきたい」と強調したそうだ。

この記事の中身はもうひとつある。

それは労働規制緩和=アメリカ流の労働慣行の押し付けが米国の要求でもあることだ。
09年版「日米投資イニシアチブ報告書」は下記のように書いている。

日本の労働市場の柔軟性を高めることで、日本が外国からの直接投資にとって、より魅力的なものになるだろう

この文章が、そのまま日本政府の政策になったと考えると、非常にわかりやすくなる。つまり労働規制の緩和とは、労働者いじめ政策ということより米国金融資本の意向を受けた政策なのだということである。
こういうのを、昔は「売国」政策と呼んだものだが…

志位さんが7中総の結語で下記の文章を引用していた。あまり面白いので再引用する。

 壊れゆく日本という国 神戸女学院大学名誉教授・内田樹

「企業利益は国の利益」 

国民に犠牲を迫る詭弁 政権与党が後押し

起業したのは日本国内で、創業者は日本人であるが、すでにそれは随分昔の話で、株主も経営者も従業員も今では多国籍であり、生産拠点も国内には限定されない「無国籍企業」になっている。

そういうグローバルな展開をするのは企業の自由かもしれない。だが、企業のグローバル化を国民国家の政府が国民を犠牲にしてまで支援するというのは筋目が違うだろう。

国民国家の末期を官僚もメディアもうれしげに見ている

ことあるごとに「日本から出て行く」と脅しをかけて、そのつど政府から便益を引き出す企業を「日本の企業」と呼ぶことに、私は強い抵抗を感じる。

彼らにとって国民国家は、「食い尽くす」までは使いでのある資源である。

コストの外部化を国民国家に押し付けるときに、「日本の企業」だからという理由で合理化するのはやめて欲しいと思う。


まことに同感である。この共感を広げなくてはと思う。

それにしても

国民国家の末期を官僚もメディアもうれしげに見ている

という見出しは、思い切り刺激的である。 


この論文の全文は、内田さんのブログで閲覧できる。「国民国家」論も展開されている。

参照されたい


経団連が「産業競争力会議」を独立強化させ、競争力強化法(仮称)の制定を求めることを決めたそうだ。
中身は解雇自由化、残業代不要の労働時間規制の適用除外、労働者派遣制度の規制緩和などだそうだ。

そうやって日本の産業競争力を劣化させてきたのは誰なのか、いまやあなた方に国際競争力を語る資格はない。そのことは誰の目にも明らかになっている。

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