鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

カテゴリ: 80 日々雑感

 2006/02/20(月)の2チャン記事


競馬客目当て 路上賭博開帳 
京都府警、容疑で9人逮捕 

  京都競馬場に通う客目当てに、キャラメル箱を使って賭博を開張したとして、 
  京都府警組対二課と伏見署などは19日、常習賭博の疑いで、大阪市住之江区浜口西1丁目、 
  工務店経営伊藤剛容疑者(63)ら男8人と女性1人を現行犯逮捕した。 

  調べでは、伊藤容疑者らは、19日午前10時55分ごろ、 
  京阪淀駅から競馬場に向かう途中の京都市伏見区淀池上町路上で、 
  大阪府枚方市の自営業男性(55)を相手に、キャラメル箱3箱を巧みに置き換え、 
  裏に印をつけた箱を当てさせる賭博を開いた疑い。 

  同署によると、競馬の開催日に合わせて路上に机を設置、 
  客が勝てば賭け金の3倍を返す条件で賭博を開いていた。 
  伊藤容疑者ら男4人が交代で胴元を務め、残り5人はサクラや見張り役だったという。 

京都新聞 

 というわけで、未だにデンスケ賭博はなくなったわけではない。

だまされたことがないからいうのだが、非常に大掛かりで組織的だが、リスクの割には見返りの少ない詐欺で、一種の伝統芸能であり「文化遺産」である。

主犯の職業が工務店経営というのも、いかにもそれらしい。

ところでデンスケの語源となった増田伝助であるが、どうも氏素性がはっきりしない。

多くの記事では栃木県足利警察署の刑事で、一説では署長となっている。

彼が1935年に宇都宮競馬場の場外で行われたいたルーレットもどきの賭博を見抜き摘発したことからその名がつけられたというが、どの記事も伝聞であり、真偽の確かめようがない。

2ちゃんの発言にこんなのがあった。

増田伝助は、1990年か91年頃に亡くなったはず。 
新聞に死亡記事が出てて、デンスケ賭博の語源がわかった記憶がある。

もう少し調べると、

増田美正隊長は長身のキリリとした美青年。 父君は増田伝助氏という栃木県警の名捜査官。 親子二代の警察官だ。

というのもある。

そこで増田美正で検索すると、

警視庁第六機動隊長・増田美正警視(東北大・昭和35年組)

秦野人事により新設された上級職の増田美正隊長指揮のミニ機動隊・六機」

と、いずれも佐々淳行『東大落城 安田講堂攻防七十二時間』に名が出てくる。

ということで、誰かその記事を探し出して紹介してくれると良いのだが…



2015年04月18日 世界の空港 喫煙スペース一覧 その2
に多くのアクセスをいただいております。

みんな見てくれるのになにもしないのでは申し訳ないので、少し増補します(2017年8月)

というよりも、下記のサイトを見つけたので、そこからのコピーです。別に難しい英語ではないので、そちらに行ってみてください。

Smoking areas at airports

最近、メールを開くといろいろな人のツイッターが飛び込んでくる。

面白いものも中にはある。全体的にツィッターだと、一言だけだから勢いが良い。本音むき出しになる。

1.孫崎さんのツィッター

細野氏離党意向、どうぞどうぞ。即実行して下さい。慰留しなくていいよ。

…細野氏、離党決意、大歓迎。決意を揺るがすことなく決行して下さい。

気持ちはわかるが、もうすこし民進党の動き注意深く見守る必要があると思う。

やはり、まだ当分、日本を変える上で民進党という党の全体像を見ていかなくてはならない。

1年前、民進党が野党共闘の方向にこんなに近づくとは想像できなかったのだ。民進党は野党共闘の方向に決定的に動くのかの瀬戸際にある。逡巡したり抗ったりする気持ちはひとりひとりの党員の胸中にあるだろう。

それは日本国民の揺れる気持ちをある意味で代弁しているのだろうと思う。

揺れるということがある意味ではすごいことなのだ。

2.小池書記局長の発言

内閣改造があったが、革命という言葉をね、軽々しく使わないでほしいと思います。人づくり革命(担当相)と。革命っていうのはもう政治権力が変わるわけですよ。ある階級からある階級に政治権力が変わるような重い言葉だと思う。

私も気持ちとしてはよく分かる。「共産党は革命政党だ」と叩かれ続けて、頑固に守り続けてきたその言葉を大事にするのは当然だ。

だけど、「革命」は本来共産党の専売特許じゃない。ある意味で人民主権を端的に表した言葉だ。「人民は反人民の政権を打倒する権利がある」ということで、ある意味では憲法の精神だ。もっと日常的に使われてほしいという気もする。


昼から暇だから、テレビのワイドショーを見ている。
松居一代の話題で持ちきりだ。
どう見てもおかしい。まともではない。
そんなことは最初からわかっているのだが、テレビは最初は松居一代の発言を「事実」として追っていた。そんなところにもメディアの衰弱を感じてしまう。
今日は臨床心理士だとか心理学者だとか精神科医などがいろいろ出てきて、聞いたような解釈を加えていた。
それは要するに「はい松井さんの病気は何丁目何番地です」というだけの話だ。しかしそれがコメンテーターそれぞれに違うのだかたら、困ったものだ。
多分臨床的に一番問題になるのは、それが統合障害(昔の言い方だと精神分裂病)なのかどうかの判断だ。
そう言ってもおかしくないような徴候はたしかにふくまれている。しかしどうも違うような気がする。典型的な破瓜病に見られる思い詰めたような深刻感がない。
全体として受ける印象は乖離性障害(昔の言い方だとヒステリーあるいは憑依)だ。しかも発作性というより持続性だから、何らかの器質的脳障害がベースにある可能性が高い。例えば認知症の周辺症状としての被害(物盗られ)妄想だ。年齢から見ればまっさきに思いつくのはアルコール症だ。女性のアルコール症には何度もだまされた経験がある。
ただ明らかな攻撃性と自己防衛機転の脱落(離人症)を伴っており、健忘症の合理化のような現実に対する受身的な開き直りのレベルではすまないところがある。視床ないし視床下部の器質的・機能的障害が伴っていると見るべきかもしれない。

本日は天気がいいのでドライブ。

前から気になっていた美流渡に行ってきました。美流渡と書いてミルト、なんとなく素敵な名前でしょう。

岩見沢の街に入るちょっと手前を右に曲がります。三井グリーンランド(遊園地)を左に見ながら進んでいくとだんだん両側の山が迫ってきます。この沢を登りきると、その向こうが夕張になります。

とりあえず地図を載せておきましょう。

これが現在の地図。何もないのっぺらぼうです。

美流渡
これが昭和29年測量の地図ではこうなります。(上の地図の東半分)

美流渡2

美流渡の市街地の他、二つの沢に集落が認められます。奥の方の集落が万字炭鉱です。昔はそこまで鉄道が延びていて、万字線と呼ばれました。もう一つの沢が上美流渡炭鉱で、美流渡駅から軽便鉄道が延びていたそうです。

wikiより

北海道岩見沢市の志文駅で室蘭本線から分岐し、空知郡栗沢町(現在の岩見沢市栗沢町)の万字炭山駅まで23.8kmを結んでいた

上志文、朝日、美流渡、万字、万字炭山の5駅があった。



 1914年(大正3年)に万字軽便線として全線が開業した。1985年(昭和60年)3月31日限りで廃線となった。万字はかつての鉱区所有者朝吹英二の家紋「卍」に由来する。昭和51年に閉山となった。



昨日から1泊2日で東京まで行ってきました。
一度に書ききれないほどたくさんの経験をしてきました。
とりあえず、忘れないように書き込みだけしておきます。
1.三鷹まで行って滝平次郎の展覧会を見てきました。大枚はたいてプログラムも買ってきました。いろいろ感想はあるが、いずれ作品も紹介しながら感想を書いてみたいと思います。
2.帰りに駅前通りの喫茶店によってきました。昭和53年に何回か入ったところで、まだやっていることに感心しました。女子医大研修のときに何回か、三鷹中央病院の外来をやりに行ったことがあります。三鷹の駅からバスに乗って4つ目か5つ目かの駅だったかな。それで仕事の帰りに寄りました。一度、隣のテーブルに手塚治虫が座って、編集者と話し込んでいるのに耳をそばだてた思い出があります。
3.夕方からは日本AALAの主催の勉強会が中野サンプラザであって、それに出ました。第一演題が横浜国立大の先生の「ラテンアメリカの政治状況」みたいな話でした。いろいろ言い分もありましたが、おとなしく聞いていました。これも後で紹介します。
4.第2演題が、今回の旅行の主目的だったベネズエラ大使の講演です。時間がないせいもあって米州機構(OAS)からの脱退の問題に集中して話しされました。大使の深刻感は大変なものがあって、60年代のキューバのように明日にでもアメリカが戦争を仕掛けてくるのでは、という感じで話されていました。これについても2,3日のうちに文章を上げたいと思っています。
5.講演の最中に見覚えのある人が入ってきました。いろいろ考えているうちにニカラグアの大使だと気づきました。これにはちょっと感激しました。そしてベネズエラ問題はラテンアメリカ全体の問題なのだとあらためて気付かされました。もちろん講演の後は大使と交歓を深めました。聞くところによると、あのドゥルセ・マリアはニカラグア大使館の館員になっているようです。ちゃんと給料もらっているかな?
6.会議の後、吉田万三さんたちと繰り出しました。中野の街は大変賑やかでなかなか開いている店がなかったのですが、なんとか腰を落ち着かせることが出来て、総勢6人でワイワイと語り合いました。私はベネズエラに運動を集中させるよう力説しましたが、どう反応してくれるのかな。7月末の総会が楽しみです。
7.結構飲んだと見えて、次の日起きたらもう8時でした。中野サンプラザの上がホテルになっていて割りと感じのよいところでした。16階から19階までがホテルになっているのですが、18階のみが喫煙可になっています。
外から見ても分かるように、中野サンプラザは上のほうが、多分日照権の関係で細くなっています。その分、見晴らしはよい。快適な環境でした。そちら方面に仕事の方にはおすすめです。朝飯はかなり貧弱なので素泊まりのほうが良いかもしれません。
8.朝は阿佐ヶ谷まで行って、多喜二宅のあった馬橋の探索です。北口で降りて線路際の細い道を行くと、予想通りに「The踏切」に出ました。といっても今は高架ですからその下をくぐるのですが。そこから道は車もすれ違えないほどに細く、緩やかにうねりながらどこまでも続いてゆきます。
東京とは思えないほどに静かで、どこかで大工仕事をやっている音が響くくらいです。横に入る道はさらに車も通れないほどに狭く、そのほとんどが行き止まりです。たまにお屋敷もありますが、ほとんどは庭もないような小家が立ち並んでいます。多喜二が住むにはふさわしい環境と言えなくもありません。
大きな稲荷神社があって、その先に杉並第6小学校があって、そこから道は東へと向かっていきます。結局多喜二の家はわかりませんでしたが、街の雰囲気はわかりました。古地図にあった馬橋の風情が未だ残っているということもわかりました。
時計はすでに11時をまわり、6月の直射日光は流石に体にきつい。そこから阿佐ヶ谷駅まで戻りましたが、駅前商店街にたどり着いた頃には体中から汗が吹き出してきました。
9.最後の目的地、高円寺の古書店です。2年前に来て憶えていたと思ったが迷いました。20分ほど道草をしてようやく見つけました。
買った本の題名だけ、とりあえず。
「1億人の昭和史10―不許可写真史」 毎日新聞 1977年
「騎馬民族の道はるか」森浩一 NHK出版 1994年
「古代史  津々浦々」 森浩一 小学館 1993年
10.帰りは結構危うかった。高円寺を出たのが12時半。中野で快速に乗り換えて神田で乗り換えて、あとは浜松町まで快速、と思ったら京浜東北が「信号確認のため」と称してストップ。どうなるかと思ったが、浜松町でモノレールの快速に滑り込みセーフ。
出発1時間前に羽田についた。お陰で靴磨きまで出来た。とは言うものの、崎陽軒のシュウマイは品切れで買い損ね、お土産無しで帰る羽目となった。
11.羽田からの飛行機は乗客確認で20分の遅れ、千歳からの快速は15分待ち、ということで札幌駅に着いたのが18時ちょっと前。ということは飲み屋はもう開いている。それじゃ、というわけで帰宅前にいっぱい引っ掛けてということになる。フクラギのキモとヒモと刺し身をサカナに八海山を、結局三杯も飲んでしまって、我が家についたのが8時半という1日であった。
体のあちこちが近藤選手並みに痛い。明日は起きれるだろうか。

カテゴリー再分類がいったん完了した。なんだかんだと5日間かかった。

時間がかかった最大の理由は、見出しが不適切で、見出しだけ読んでもなんの記事やらわからないというところにある。

日記であれば前後の関係で想像がつくこともあるが、もう5年以上前のものもあるので、それだけではわからない。

仕方がないので本文を読む。そして見出しだけで記事の内容が想像がつくくらいまで、補足する。

子供の頃、大掃除という風習があった。年に一度は畳を剥がして、天日干しする。その間に古い新聞紙を剥がして新しいのに取り替える。

それからDDTを撒いて、畳を敷き直すということになる。その間にふすまや障子を拭いたり洗ったりする。

親戚の家に手伝いを頼み、子供も動員しての大作戦となるのだが、この時作業が止まってしまう最大の理由は、古新聞を読み始めてしまうことだ。

「温故知新」というが、まるっきり今でもニュースだ。普段、新聞というのは一面からではなく逆から読んでいるので、目が届かないところがあって、そこに案外面白い記事があるものだ。

親父に「コラッ」と怒鳴られて、しぶしぶ作業に戻る。

今回もそれをやってしまった。だから、途中で疲れてくる。見出しだけでなく中身にも手を入れだす。そうするとわからないことが出てきて、それをまたウィキなどで調べだす。

そんなこんなで5日間が過ぎていったのである。

一応、出来上がったのか下の表である。多分行き先間違いもあるだろう。気づき次第訂正していくつもりである。

カテゴリ別アーカイブ

極端に多いジャンルもなく、少ないジャンルもなく、ほぼ良い具合にバラけたと思う。

境界領域の記事がこちらに入ったり、あちらに入ったりという混乱はあるが、ある程度は仕方あるまい。

“右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします”というセリフをある程度胸を張って言えそうだ。

ついでに、なんでも年表集のあり場所をリンクしておく。

現在のカテゴリー分類
01 国際政治/経済 (668)
11 日々雑感 (239)

新カテゴリー分類
ワンボタン・ワンプッシュで済むことが原則である。
無駄な作業を増やしたくないので、現在の分類をなるべく活かす。
項目は少し絞り込む。現在大小のカテゴリー合わせて49の項目があり、30程度には減らしたい。
ということで、以下のごとし。

10 国際政治・経済
11 東アジア
12 アジア(11諸国以外)
13 中東(マグレブ諸国含む)
14 ヨーロッパ
15 米国(カナダ含む)
16 ラテンアメリカ
17 その他(ほぼアフリカ)

20 歴史(基本的には日本史)

30 国内政治(財政含む)
31 対米従属(国家・経済構造の分析含む)
32 政治革新(各種の運動課題含む)
33 原発(東北大震災含む臨時的項目)
34 国内経済
35 社会問題(労働・福祉など)
36 社会理論(社会主義・哲学を含む)

40 自然科学
41 臨床医学(一部医療問題を含む)

70 芸術・文学
71 音楽(クラシック)
72 音楽(クラシック以外)
73 オーディオ・パソコン操作

80 日々雑感

ということで全23カテゴリー。これで始めてみよう。

最近、カテゴリーがうまく機能していないと感じるようになった。

最大の理由は

  • ブログをはじめた日

    2014/03/16 (開始日から1130日目)

  • これまでの投稿数

    4033

となっていることである。1130日というのはライブドアに引っ越してからの日にちで、ブログそのものを始めたのは2011年5月であるから、すでに6年を経過している。

とはいえ、問題はそれだけではない。

一つは、2段階のカテゴリーをフル活用しようとしたのがあだになっていること、10x10で100くらいに分類しようとしていたが、これでは煩雑すぎる。

一段階だけで済ますやり方に変えなければならない。(実際にはすでにそうしているのだが)

もう一つは関心領域が大分変わってきて、多少趣味的な様相を呈してきている。もう少し社会に向き合わなければならないのだが。

それで、経済・金融分野の記事が激減し、政治分野もかなり減った。らの話題はほとんどタッチしなくなっている。目下は音楽、古代史と生物学的なところに集中している。

これはカテゴリー分けの問題以前の話だ。読者にも不満を感じさせているかと思う。

まぁ、それはそれとして、とりあえずカテゴリー分けを検討しようかと思う。

そこで日本十進分類法を勉強してみることとした。

十進法は10X10で百項目にわかれる。これをそのまま使うことはありえないだろう。

自分のこれまでの記事と照らし合わせながら、20カテゴリーくらいに整理してみたい。

00

ここには必要なカテゴリーはない。

10

これは哲学だけで十分だ。心理学は医学の一分野と受け止めているので、哲学的心理学は興味の範囲外だ。

20


これは私の主たる興味分野だ。ただ政治史というのは多くは現代史であり、現代政治と深く関わる。現代政治経済を把握しようとするなら、歴史的視点から認識しなければなならないというのが、私の主義だ。

どのように分けるかとなれば、政治のカテゴリーの一分野として扱うことになるだろう。

とは言いつつも、世界の各国の社会状況は350統計という項目しかないので、各国の歴史カテゴリー内の「現代史」として突っ込むしかなさそうだ。

30

このカテゴリーは、取り付く島がない。いかんともしがたい。私も細かく分けすぎていて、それが失敗のもとになっている。

平和という項目も民主主義という項目も対米従属という項目もない。仕方がないのでこれを一応政治として括る。

ただ政治を語る場合、2つの問題がはみ出す。

一つは超十進分類的に安保体制が覆いかぶさるので、この問題は別途項目を立てなければならない。強いて言えば313「国家の形態、政治体制」にふくまれる。

もう一つは政治闘争の主体に係る課題である。むかしは統一戦線と言い、今は野党共闘と言う。これも強いて言えば315「政党、政治結社」にふくまれる。それ以外が310「政治」ということになる。

「憲法守れ」や、「言論の自由を守れ」は320法律のカテゴリーではなく310政治のカテゴリーにふくまれるものであろう。

330経済は一つのカテゴリーでよい。金融問題も経済一般としてそれほど矛盾はない。340財政(アベノミクスや消費税)は基本的には310政治の枠組みで語る。

経済的な対米従属は、安保体制=313国家の形態で語ったほうが良い。

国際的な経済情勢の分析(リーマンショック、欧州債務危機、租税回避など)は、国際政治・経済の枠組みで語ることになる。これは333経済政策・国際経済ではなく、十進分類を超えたとことに設定すべきであろう。

またマルクス主義経済学については経済もふくめた社会理論として、362社会史・社会体制の項目を当てるのが良いかもしれない。

非正規、過労死、貧困、医療介護などはひっくるめて社会問題として368社会病理に括っておく。

原発は基本的には政治課題ではあるが、多面的な要素を抱えているので、臨時的に項を起こしておいた方が良いであろう。

40自然科学は一つのカテゴリーで十分であるが、医学は医療と関わるだけに線引が難しい。一応臨床医学は臨床薬学や医療と合わせて別項目を立てておく。

50技術・工学と60産業は不要である。何処かに収まるはずだ。

70芸術・美術は、記事の量から見て76音楽は別にせざるを得ない。直接ここに入るわけではないが、オーディオを中心としてパソコン・アプリの遍歴がかなりの量を占める。成り行き上、音楽の項目の付帯項目としてパソコンのプログラム関連の記事もここに突っ込んでおく。

80言語の項目は当面不要である。90文学は芸術に突っ込んでいるが、当面不自由はないのでこのまま行く。


こんな感じで外観がつかめてきたので、明日は一定の成案を立ててみようと思っている。

おやすみなさい。

なんでも年表 一覧

 

膨大かつ雑多な年表が溜まりました。こちらにまとめて掲載します。同じものをホームページの方にも置きます。
ジャンル分けは、とりあえず話題別年表、地域別年表に大別しますが、話題と言ってもどんなものがあるのかわからないので、とりあえずアップの日付順に載せ、順次括っていきたいと思います。これを作るのにマル2日かかりました。


話題別年表
政治的できごと(世界)
ケネディ暗殺事件
キューバ・ミサイル危機
ゲバラの死

ウォーターゲート事件
イラン・コントラゲート事件







南シナ海と南沙諸島をめぐる紛争年表ブログに分割掲載していたものを増補・一本化しました。

南沙諸島関連年表 1

南沙諸島関連年表 2

南沙諸島関連年表 3


政治的できごと(日本)

大久保利通の足跡 (大久保個人をかなり越えてしまっている

日清戦争 年表

日露戦争 年表

GHQの戦後改革 タイムテーブル  戦後改革をGHQからの目線で整理してみました。

GHQの戦後改革 その1

GHQの戦後改革 その2

GHQの戦後改革 その3

GHQ年表 補遺分

GHQ年表 補遺 その2

満州事変と一夕会 年表

対中侵略と国内政治の流れ 年表

内務省年表(とりあえず戦争責任との関係で)

内務省の歴史 年表

戦後引揚事業 年表

経済的できごと

トービン税・金融取引税に関する年表

FATCAとCRS 経時記録

1997年論 まずは年表から (1997年、消費税引き上げで惹起された経済危機を時系列にしたもの)

アジア通貨危機年表 (増補版)

98年のルーブル危機

金融自由化、プラザ合意、バブル景気の三題噺 レーガン就任からバブルに至る10年間の時系列

日米構造協議年表 その1

日米構造協議年表 その2

日米構造協議年表 その3

みずほ 迷走の15年 (みずほ銀行の合併後の内部混乱の経過)

弁護士CM乱発のわけ その2

ギリシャ危機年表

 

世界史的なできごと

カリブの海賊の年表

“インディアン”抵抗史 (米国の先住民、いわゆる“インディアン”の歴史です)

青銅器時代を学ぶ

ケルト人について (文章の後半が簡単な年表になっています

清教徒革命年表 今後の課題

清教徒革命年表

赤いウィーン 年表  第一次世界大戦後、10年以上にわたって続いたウィーン「革新都政」の年表です。

「赤いウィーン」前史

大恐慌からニューディールへ 政治年表

ナチス・ドイツ「経済奇跡」年表

日本で知られていないドイツの反ナチ闘争

「仕上げ」としての大テロル

フランスのレジスタンス 年表

1946年、イランで原爆使用計画? (WW2の直後に起こったイラン紛争の経過です)

ハンガリー事件年表 その1 (解禁文書で見る経過)

ハンガリー事件年表 その2

ハンガリー事件年表 その3

大躍進運動 年表

東アジア共同体とASEAN 年表

ブラジル、民主化の闘い 略年表

 

日本のできごと

明治の農業改良運動 年表

太平洋炭鉱の歴史 年表 

堺県の歴史 年表

戦後の日本人慰安婦(パンパン)

バプテスト 年表 (日本におけるバプテスト教会の活動の歴史)

奄美共産党 年表 その1

奄美共産党 年表 その2

奄美共産党 年表 その3

奄美共産党 年表 その4

山口組内紛の背景

ビキニ核実験 被爆年表

ビキニ年表 増補版

イラク問題と山崎拓

APF・昭和ゴム 関連年表

脱原発年表 2011年

脱原発年表 2012年

脱原発年表 2013年

 

自然科学的なできごと


先カンブリア紀 年表 を増補

先カンブリア紀 年表

始生代への旅

原生代と古生代 年表

うつ病年表が挫折した

ワニの進化と直立歩行の真偽について

ゲノム研究 年表

素粒子物理学 年表

電子からレプトンへ

ニュートリノに関する年表 

iPS細胞 年表

 

思想的なできごと

カール・ポラニー年表

カール・ポラニー年表の増補 ついでに一言

ホッブス、ロック関連の年表

ミル親子 年譜

オーストリア学派とオーストリア社会民主党 「論争」の年表

フランス構造主義の年表 

ソシュールは誰に何を対置したのか (文章の一部が、いわゆる「ソシュール言語学」の成立をめぐる簡単な年表になっています

戦争責任論の系譜

武谷関連年表(自分流)

 

芸術上のできごと

5人組とチャイコフスキー 年表

リャードフとリャプノフの関連年表

剣道歴史年表

自然主義文学 年表的理解

大逆事件と啄木 年表

ボサ・ノヴァ年表
ボサノヴァ年表の解説というか…
地域別年表
日本
樺太(サハリン)の年表 その1

樺太(サハリン)の年表 その2

最上徳内と間宮林蔵

間宮林蔵に関する年表

最上徳内に関する年表

アイヌの北限の歴史

アイヌ民族年表

古代出雲のトロイ戦争か

分子人類学の「日本人起源論」 増補版

青銅器時代を学ぶ

長江文明 の流れ

三韓および倭国年表

日本書紀抜きの日本史年表  

衛氏朝鮮は天孫系の源流ではなさそう

三韓時代以前の朝鮮半島南部

蘇我稲目は倭国の末裔?

大和王朝の世界史への登場(7世紀の日本) 年表

古墳時代ではなく倭王朝時代と呼ぶべきだ (古墳時代の簡単な年表)

渡来人は現代朝鮮人と同一なのか (内容はほとんど米作り年表)


世界
米 国 340kb


#1米国史1,123kb カボットのニューファウンドランド探検から「門戸開放」まで

#2米国史2,65kb  フィリピンの反乱からケネディの当選まで

#3米国史3,116kb  対キューバ断交からクリントン弾劾まで

#4ケネディ暗殺,73kb

#5ウォータゲイト事件の経過,13kb

#5イラン・コントラゲイト事件の経過,38kb

#6インディアン抵抗史,37kb


ヨーロッパ (332 kb)
        
#1 スペイン年表~1930  150 kb レコンキスタから人民戦争前まで
#2 スペイン年表~現在まで  99kb スペイン人民戦争を中心に現在まで
#4 ポルトガル年表  122kb  19世紀以降を扱う。それ以前はスペイン年表内に格納。リスボンの春・カーネーション革命を中心に

ポーランドについてのかんたんなお勉強

スペイン統一左翼の歴史 その1

スペイン統一左翼の歴史 その2

スペイン統一左翼の歴史 その3

イタリア共産主義再建党の歴史 その1

イタリア共産主義再建党の歴史 その2

イタリア共産主義再建党の歴史 その3

 

朝鮮半島戦後史(1469 kb)
インドシナ戦争・ベトナム戦争(675 kb)
中国革命関連

毛沢東のライヴァルたち (下記の8+1本をまとめ、増補したものです。長征以前が対象です)

魔都上海年表

上海年表 補遺

内山完造の動き

 

中東関連

中東現代史年表 その1  86kb  イランとイラクが中心です

中東現代史年表 その2 (というより,ここ2年余りのイラク問題経過表) 118kb

パレスチナ(イスラエル)年表  105kb

エジプト 2013年  「7月4日事件」の8月末での整理です。

 

第三世界(440 kb)
ネパールの年表

バングラデシュ 年表 

ルワンダ史  大虐殺を挟んだルワンダの歴史。

西サハラの闘い その2

西サハラの闘い その3

南部アフリカ(南アフリカ,ナミビア,アンゴラ,モザンビーク,ジンバブエ,ボツワナ,ザンビア)  157kb

おそらく、ほとんど何の役にも立たない年表ですが…

 

 

 

 

4月からの生活設計
3月を以て、老健・特養での勤務も満了となる。
あとは悠々自適と行きたいが、「自適」の意味がわからない。かと言って事業を起こすほどの馬力もない。
いろいろ考えているが目下のプランは下記のごとし。
まずオフィスを持つ。
名称は「老人医療問題相談所」くらいにしておく。
売り込みは2枚看板だ。
A)老人医療問題相談事業
1枚目は「老人医療に関わる医学的助言」だ。主に在宅の介護スタッフやソーシャルワーカーを念頭に置いたものだ。
現場ではスタッフが医学的情報の断片化、医療側との意思疎通の困難に頭を抱えている。専門知識を踏まえた統合プランを求めている。
これのお手伝いがなんとかできないだろうか。
もちろん医学的知識だけではなんともならないのだが、それがないと一歩が踏み出せないのである。
そのために具体的にはどうしたら良いのだろうか。
① まずは電話あるいはメールでの相談に応じる。
② 話が複雑な場合(たいてい複雑だから相談するのだが)、依頼者との面接からはじまり、家族や介護役との相談、施設系担当者との連携が必要になる。
③ 場合によってはケアの対象に直接会う、担当医との連絡なども必要になるかもしれない。
④ 最終的にはあらあらのレポートを作成した上で関係者会議を開いて、合意を形成していくことになる。
⑤ このためにはこちらにも専門的知識の引き出しが必要になるから、他団体・専門医の間に人脈を形成しなければならない。
⑥ これらの経験を通じて得た教訓を公にし、ノウハウの積み上げを図り、多くの人々と共有していきたい。
といったあたりが、とりあえず頭に浮かんでくる。
よく考えてみれば、これらの実践はまさしく“Medical Social Work”そのものである。
B)老人医療問題研究会
どちらが手段でどちらが目的かはわからないのだが、どちらかと言えば、こちらのほうがやりたい方。
学生時代にやっていたセツルメントや社医研活動をもう一度やってみたいという思いである。
研究そのものが目的というより、お互いに知恵を持ち寄っての「勉強会」だ。「同好の士よ集まれ」というサークル活動に近い。会議そのものよりも「アフターアワー」を楽しみたいという密かな希望もある。
こちらの方は会員制になるだろう。その場所を提供できればいいなと思っている。
① 事例検討と講義、討論という例会。
② みんなの意見を載せる会報の定期発行。
③ できれば調査活動などのキャンペーンも組みたいが、そこまで馬力があるか。
C) スローガン
運動だからスローガンが必要だ。
思いつくままに上げておく。
①医療に学びを、現場に知恵を
②現場の悩みを受け止め、整理する
③現場の悩みを医療につなげ、展望を与える
④現場の問題を掘り下げ、みんなのものにする
お、まぁこんなところか。後は経営担当者と営業担当者を見つけなければならないな。

60年前のミスコン狂騒曲

最近もAKB48の「選挙」とかでCDを買わされたとかいう話があるが、昔はもっと壮絶だ。

余市町で昭和33年に起きた出来事。余市町のホームページに「ミス観光余市」と題する記事が掲載されている。

直接ご覧になっていただくほうが手っ取り早いが、ちょっと蛇足ながら余市に関する周辺情報を。

余市は元々アイヌ人の大きな集落があったところで、余市川の河口を港とし、鮭漁やニシン漁を営んでいたようだ。江戸時代になって松前藩が交易場所を作り、近辺のセンターとなった。幕末に入ると幕府の直轄するところとなり、遠山の金さんも視察に訪れている。明治に入ると日本人の入植が盛んになり、黒川町と山田村には会津藩の武士、登町や仁木町に阿波の人々が入植している。港町にはニシン漁を営む網元が軒を並べた。

多彩な出身地と農業、漁業、さらにマンガン鉱山の開発、ニッカウィスキーの進出などにより余市町は発展した。市街地そのものが港町(浜中・沢町)、国鉄駅周辺の黒川町、浜沿いの大川町に分かれ、町内でも部落ごとの拮抗関係が見られた。郊外の登町、豊丘町、さらに古平方面に向かって白岩、潮見、豊浜の部落もそれなりに威勢を張っていた。

ついでながら私も昭和50年から2年間、勤医協余市診療所の所長を務めたが、この診療所は全道で最初の勤医協診療所であった。

選挙になると、共産党でさえ揉める。私が赴任したとき町議は二人だったが、任期中に選挙があり、これまで候補を立てていなかった黒川町から3人目を出すということになった。

ところがどうも情勢は利あらず、3人目の出馬を断念することになった。黒川町の連中がかっかと来たことは言うまでもない。会議は数時間に及びすったもんだした。

てなことを念頭に置いて読んでもらうと一段と面白いと思う。


ということで、読み終えた人に追加情報。

町民一人あたり6.5個というが、当時、一家6人が相場だから、6.5X6=40箱だ。

戦後昭和史というサイトによると、昭和33年の消費者物価指数は現在の6分の1である。20万票X10円X6=1200万円となる。

トップの人はすごい。10月1日の中間発表を見て発奮して1ヶ月で2,205票から2万890票まで一気に積み上げた。もちろん自腹ということではないだろうが、3位から急上昇で逆転ということだから、それ相当の支出(軽自動車1台分くらい)はしたに違いない。

投票用紙がえげつない。①余市町内限定で、②製造工程で投票用紙を封入したのだから、町内で買うしかない。たちまち売り切れるはずだ。

それを20万箱も作ったのだから、最初から狙い目どおりだ。しかし欲しい人はどうしてもほしいから、投票用紙には闇値がついたことであろう。まさに狂騒曲だ。

10円のキャラメルは今の感覚では60円となる。そんなものだろう。

フルヤのウィンター・キャラメルは昔は全国で売られていた。静岡でも売っていて食べた記憶もある。味も全国レベルだった。グリコやカバヤよりは1クラス上だった。横長のレイアウトで箱いっぱいにスキーヤーの写真が印刷された、キャラメル界の常識を破る斬新なデザインだった。

フルヤ1

ただ、余市で一箱10円で売られていたのはこちらの方かもしれない。

フルヤ2

古谷製菓は札幌駅の東北、サッポロビールの工場に隣接していた。こういうアコギな商売をしていたからか、昭和40年代には姿を消し、工場だった廃屋も20年位前に取り壊された。

さぞや歯医者も儲かったのではないかと想像する。


北大でもミスコンをしているそうだ。

しかも北大祭の実行委員会の主催行事のようだ。

女性蔑視とか、差別だとかいうつもりはない。私も美人は好きだ。人一倍好きだ。「雨夜の品定め」も学生時代にはやったものだ。

ただミスコンとなると、教養ある人物が表立ってなすべきことではない。品性の問題だ。卒業生として「情けない」という気持ちは抑えることができない。恥ずかしげもなく、おったったペニスを人前にさらけている。

小学校から高校にかけて、ここまで教育が劣化しているのだ。おとなになるための教育が放棄されているのだ。

その結果として、北大はもはや文化的知性の象徴ではなくなったということだ。

「恥を知れ!」


本日のまんまる団地は傑作。著作権無視で転載。
manmaru

1万5千回とはすごい。
14669 ÷ 365=40年となる。休刊日とか入れたらもっと長くなるだろう。
オダ シゲさん、本当にご苦労さま。

最近、メールボックスにトゥイッターやらフェースブックやらのかけらがやたらと飛び込んでくる。

日によっては到着メールの半分くらいがその手のメールになっている。

正直いってあまり触りたいツールではない。

ネットというのは不特定多数に対して発信するものであるから、紙媒体に近い存在である。

私はホームページの時代から実名でやっている。実名ブロガーは少数派であるが、記事のクオリティーに対する責任の証と考えている。

紙媒体と比べると、あとでこっそりと訂正して知らんぷりすることができる分、便利ではある。ただ私は後から補充することはあっても、抹消訂正はしない。訂正は元の文を残した上で「すみません、間違えていましたので、下記のごとく訂正いたします」と書くようにしている。

だから、バグヘッド・エンペラーの使用感想に対するクレームはいまだに来るが、それで良しとしている。

そのせいか、かなりきわどい記事を書いてもネトウヨの集中砲火は浴びずにすんでいる。もちろん時々は来るし、いくつかはコメントを拒否した。いつかは集中攻撃を浴びるだろうと覚悟はしているが。

こういう人間にはどうもツイッターは性に合わない。

だからこの手のアプリをなんというのかが、未だによく分からない。

ウィキペディアで調べると、ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)と総称されるらしい。

主なSNSとして下記が挙げられている。何かどこかで聞いた名前がたくさんある。

Ameba
Facebook
Google+
GREE
Instagram
LINE
LinkedIn
mixi
Miiverse
Mobage
Myspace
Pinterest
Sina Weibo
Skype
Tumblr
Vine
WeChat
Twitter

今のところは縁なき衆生だ。

最近、と言うよりだいぶ前からだが、ソバをズルズルと吸い込んで食べるのが流行りのようだ。
流行りというより、それが「由緒」正しい食べ方のように押し付けられている。
元々田舎じゃ、そうやって食っていたかもしれない。米も食えなかった貧しい人たちの食い物だ。
それが江戸の出稼ぎ労働者に広がって、「江戸っ子」気取りの変な作法になったんじゃないかと思う。
だいたい「江戸っ子」というのが上品だと思うのがいけない。彼らは「下品さ」を開き直って、「貧乏なのが粋なんでぇ、無作法なのが粋なんでぇ」と強情を張っているにすぎない。
鮨だって素手でつまんで一気に頬張るし、鮨屋だって最初っからそのつもりで握っている。

昔だったら話は分かるんだ。そういう場末のこ汚い店に、上品な客が現れて鮨を箸で摘んで食べたりすりゃ、「そんな食い方するもんじゃねえ、鮨ってぇもんはこうやってつまんでポーンと口に放り込むもんだ」と言いたい気持はよく分かる。
しかし、これだけ国中に広がった食い物だ。どう食べたって文句はない。私は箸を使う。いちいちタオルで指を拭くのが面倒だし、第一、タオルがネチョネチョで不愉快だが、タオルを代えてくれる寿司屋にお目にかかったことはない。

落語にあるように、江戸っ子だってソバはたっぷりつゆにつけて食べたかったのだ。ただ江戸っ子の流儀からすれば、「そいつは粋じゃない」からやせ我慢していたに過ぎない。

蕎麦屋の講釈は不愉快なほどに理屈っぽい。そのほうが空気が絡むとか、なんだとか真顔で平気で喋る。理屈っぽいのは信州人の山家の血だ。江戸っ子から見れば、そういうのを「無粋」というのが分からないのか。

私は、断固噛み切る。つゆが絡むというのなら、ソバをズボッとつゆに漬ければ済む話だ。噛み切った残りがまた椀に戻るのが不潔だというが、マイつゆだ。串かつのソース二度漬けとは違う。
昔、小学校には必ずあおっぱな垂らしたやつがいたもんだ。昔はティシューなどという気の利いたものはないから、いい加減垂れてくると、思いっきり鼻を吸うと青い二本の紐がジュルジュルっと鼻の穴におさまる。
あの光景が思い出されてならない。
「おいおい、つゆが飛び散るではないか」

カルテというのは患者の情報の集約点として位置づけられている。しかし医者にとってはメモ紙でもある。
カルテは余分なことを書くのを許されない。しかし何が余分なことなのか、そもそも余分なことってあるのか。
「この人は生粋の札幌っ子なのに阪神フアンだ」などと書くと「他事記載」として叱責の対象となる。
研修医時代には「うるせえばばぁだ」とドイツ語で書いたのがバレて、院長に大目玉を食らった。
ある患者の治療方針をめぐっては、他の医者とカルテ上で大喧嘩したことがある。
最近では医事訴訟の際にカルテが最大の証拠となるから、さらに記載にはうるさくなった。電子カルテになったのだから自分用のカルテと病院用のカルテを作って、自分用のカルテから必要分をコピペするのもありかと思う。
グループホームに訪問診療に出かけるようになって、認知症の患者のアナムをとるのにハマってしまった。ナースが「回想療法ですか」と言ったが、別にそんな知識はない。偉そうに言えば患者から尊厳を引き出したいのだが、平たい話、スナックの姉ちゃんから生い立ちを根掘り葉掘り聞きただそうというのだ。スナックの姉ちゃんはそんな客の下心などとうにご存知だから、作り話をペラペラ喋る。ところがこちらもプロだから、そういう作り話の中から真実を引きずり出そうとする。
こういう虚々実々の駆け引きがスナック通いの醍醐味なのだ。
アルコールのせいで話が跳ぶ。
私がアナムをとったのはコテコテのアルツハイマーのばあちゃん。しかし攻撃性はない。
「生まれはどこ」
「山形県北村山郡マルマル村字マルマル」
しかしそんな村はない。あとで明治時代の地図を見るとたしかにある。しかし字(あざ)になるとさすがに分からない。
川の河岸段丘の上にあった集落のようだ。下を流れてたのが最上川なのかその支流なのかもわからない。そこの尋常小学校を出たあと奉公に出て結婚したらしい。そのへんからもう記憶は曖昧だ。
ところが、修学旅行の記憶だけは鮮明だ。朝まだ暗いうちから家を出て、随分と歩いて駅まで行った。汽車を乗り継いで仙台に行った。仙台で止まった旅館の布団の暖かかったことは憶えている。
「仙台はどうだった?」と聞いても分からない。
おそらく昭和10年前後のことだ。そのちょっと前、東北は大凶作で「娘売ります」の看板が出ていた頃だ。実家は大奮発して娘を修学旅行に送り出したことだろう。
その後も、訪問のたびに話の続きを聞き出そうと思うのだが、もう出てこない。しかしヘルパーさんの間で修学旅行の話はすっかり有名になって、心なしか彼女を見る目が優しくなったように思える。
私も訪問診療の帰りはるかに手稲山を仰ぎ見る癖がついてしまった。






一応書いてみる。酒飲み話だ。

4月にいまの仕事を辞めてからやってみたいこと、それはもう一度セツルメント活動を再開することだ。

身過ぎ世過ぎでやってきたが、それはもう良い。もう一度、勤医協の歯車になるのもしんどい。

老後の趣味でブログに精を出すのも人生だ。しかしそれで一生を終えるのも癪だ。趣味の世界は趣味の世界だ。やはり世のため人のため、さらには正義のために働きたい。

といっても、そちらの方の才覚はない。

そこで思い出したのが、学生時代のセツルメント活動だ。あれをやれば良いのだ。誰かがマネージメントしてくれれば、むかしの仲間を集めて、貧困層の医療の悩みに手を差し伸べれば良いのだ。

全生連でも民医連でも良いレポートをたくさん出している。しかし残念ながら医学的な面でのフォローが欠けている。医者が関与していないからだ。

理由ははっきりしている。医者が忙しすぎるからだ。しかし忙しさを理由に関わらなくなって、いつの間にかそれが当たり前になってしまったことも反省しなければならない。

昔セツルで論争があって、セツルメント活動は学生でもできることをしてすこしでもお役に立とうという実践優位論と、学生は学ぶことに徹するべきで、そこで得た観点を卒業後の生活に活かしていくべきだとする学習優位論があった。

もちろん原論的には学習優位なのだが、そこには「やむにやまれぬ大和魂」みたいなところがあって、現場の指揮者は威勢のいい実践優位論に傾きがちであった。

いまもしこの歳になってセツルメントをやるのなら、原論的には実践優位になるのだろうが、むしろ今だからこそ学習優位論に立ちたくなる。

気持ちは「勉強させてもらいます」が我々の合言葉になるだろう。しかしまわりからは、「せっかくお医者さんにきてもらったのだから」という期待が高まるに決まっている。だからそれにはそこそこ応えなければならない。

しかしそこはギブアンドテークしかない。というより健康相談と健康調査が否応なしにセットだ。「授業料はお返しします。その分勉強させてください」ということになる。

フィールドは山とある。セツラーはセツル(定着)どころか狩人のように動き回らなければならない。三大学の衛生学教室や公衆衛生学教室の力を借りなければならない

金の亡者たちが世界を壊していく。
そういう景色が眼前に展開されつつある。
レーガン以来わずか30数年で、世界の景色は一変した。雪が降るように不信が降り積もり、不寛容の風が吹きつのる。世の中、原理主義だらけだ。
貧富の差がこれだけ広がり、世界の一方に富が積み上がる一方で、世界のもう一方に貧困と不満、政治への不信がうず高く積み重なっている。人が人を信頼しなくなり、政治や民主主義を信用しなくなり、野蛮な力への信仰が止めどもなく広がっている。
恐ろしいものが恐ろしく見えなくなってしまう。汚らわしいものが汚らわしく見えなくなってしまう。
過ぐる2つの大戦で1億人が死に、そこから人類は教訓を得たはずなのに、人類は一方における金の亡者、他方における野蛮な暴力主義の台頭を阻止し得ないでいる。
ソドムがナチズムを生む。不徳ものを罰し得ない社会の劣化は必ずその罰をもたらす。

とにかく対話を広げよう、ダメなものはダメとはっきり言おう、恐れてはならない。口角泡を飛ばして議論しよう、
とにかく街頭に出よう、団結の輪の中に入れ。行動をともにしよう、その力が政治を変えていく、それは確かめ済みではないか。
統一しよう、小異を捨てて大同につこう、そして大同につかせよう。冷笑や批判は保留しよう。ヒューマンな心と連帯の精神が何よりももとめられている。
一番苦しんでいる人に救いの手を差し伸べよう。通り過ぎるのはやめよう。立ち止まって声をかけよう。そこにいるのは私なのだ。
現場をだいじにしよう。現場は生きることの価値を教えてくれる。現場の集団は勇気を与えてくれる。
学習しよう。学ばなければ闘いはない。学ぶことは闘うことだ。闘うより学ぶことのほうが大切だ。
人間はもっと美しいもののはずだ。その下心のない美しさに、てらいなく心の底から感動しよう。

北海道における酒造業のおいたち というページがあった。

北海道酒造組合の業界誌の第64巻第1号とある。日付けが入っていないが、図表や(注)を見るとおそらく昭和43年ころのものと思われる。

かんたんなものであるが、概要は分かるので、すこし内容を紹介しておく。

1.明治維新前の酒造業

一般には内地酒を移入していた。小規模な酒造は行われており、 200年くらい前、明和の頃に函館の逢坂七兵衛が酒造を営んだという記録が残されている。

2.明治初期

函館と道南地区の清酒 業者は、明治12年には19場を数えたという。

札幌では石川県出身の柴田与次右衛門氏が明治5年に酒造をはじめた。最初は濁酒、ついで清酒も手がけるようになる。そのご相次いで開業者があらわれ、明治25年には業者37人があわせて11,227石を生産した。

しかし北海道の酒造業が一気に拡大するのは日露戦争のあとからである。多くの酒造りが内地から進出、明治34年にはその数150に達した。

3.北の誉 御三家

最初に創業したのは小樽北の誉酒造で、明治34年。社長は野口吉次郎。ついで明治40年に旭川北の誉が創業となった。札幌北の誉は遅れ、大正3年の創業となっている。

4.旭川の酒造業

旭川には陸軍旭川師団があったことが理由であろう。

最初は明治32年、高砂酒造、塩野谷酒造が相次いで創業。翌明治33年には山崎酒造が札幌から移転開業している。

5.栗山の小林酒造

旭川が陸軍相手の商売とすれば、栗山は夕張炭鉱が商売相手だった。

小林酒造は明治12年に札幌で創業したが、時流を見て明治43年に栗山に移った。酒より他に楽しみのない1万の荒くれ男たちに独占販売するのだから、儲からない訳がない。

6.意外に伸びない北海道の清酒生産

清酒生産

コピペのコピペなので少々見づらいと思う。

これを見ると分かるように、北海道の清酒生産はほとんど増えていない。最新が昭和40年で、このあとはさらに下がっている筈だ。

解説によると、昭和14年の生産減少は、値崩れを防ぐために生産者組合が自主規制と生産 統制を実施したためだとされる。

この間人口は大幅に増えているので、道内の清酒消費に対する道内産のシェアが落ちているものと考えられる。内地物に押されているのだろう。

2016年現在の酒造蔵は11ヶ所まで減少している。道南には一つも残っていない。

これは分かる。学生時代ビラの原稿を書いて、カッティング、スッティングして、窓から忍び込んで教室に撒いて、それから飯を食いに行った。食堂でかじかんだ手で「アチチ」と言いながら徳利の首をつまんで湯呑み茶碗についでぐいっと行くと、生き返った心持ちになったものだった。しかし翌日つけはきた。激しい頭痛と吐き気、いわゆる二日酔いである。

日本酒というのは二日酔いするものだと思っていたが、おとなになってから良い酒を飲むと不思議と二日酔いしない。

理由は直感的にわかった。むかしの日本酒は、学生が飲むような安酒はとくに、混ぜ物が入っていた。飲んだ後にサッカリンと味の素のエグミが残るのである。良い酒にはそのような後味はない。

だから千歳鶴を飲んだあとの二日酔いは、実はチャイナレストラン・シンドロームではなかったかと思っている。

北海道の酒、あえて言わせてもらえば千歳鶴と北の誉はほとんど毒液のような酒だった。このような植民地の流れ者相手の商売がいつまでも続くわけがない。

その頃の小林酒造の酒は札幌では流通していなかったが、夕張の流れもの炭鉱夫に飲ませる酒が千歳鶴よりまともだったとは想像し難い。

本日の国際面の囲み記事。
コピペで紹介する。
交通マナー
「してやったり」の表情を浮かべる島崎さんは描かれていない。

もちろん、ファシズムは交通マナーとは関係ないが、そもそも日本をドイツやイタリアのファシズムと同一視するのもおかしいのだ。
日本は絶対主義天皇制が攻撃性を強めただけで、見かけは同じでも周回遅れである。
ヨーロッパのファシズムは民主主義の上に、民主主義の方法で、民主主義を否定するようにして生まれた。日本にはそもそも民主主義はなかった。
民主主義というと語弊があるかもしれないが、ファシズムは君主制(帝政)に代わるべきはずの共和制が産んだ奇形児である。
「見かけは同じでも周回遅れ」というのは、逆に言うと、「周回遅れだが見かけは似ている」ことになる。
日・独・伊三国の見かけ上の特徴は反動主義政治、独占資本擁護、軍国主義、対外侵略である。
それぞれが正反対と言うほどに異なる伝統・国民気質を持ちながら、同じような政治形態に至ったところに枢軸国家の歴史的本質を見なければいけない。言っちゃ悪いかもしれないが、フランスだって紙一重だったのである。それはアランさんのほうがよく知っているはずだ。ディエンビエンフーだってアルジェーだって、ベイルートだってルワンダだってフランスじゃん。今じゃフランスがファシストの世界最強の拠点だ。
この囲み記事は、そういうことを教えてくれる。それは、21世紀初頭の今の世界にこそ求められている視点である。

本日もぶらりとドライブ。旧夕鉄線沿いに栗山まで足を伸ばした。みぞれが降ったりやんだりの、ひたすら寒い初頭の一日であった。道路が夕張川をわたるとすぐ、右手に小林酒造の酒蔵が見えてくる。市民に開放されてなかなかの観光名所になっているようだ。

とくにあてと行ってないし、そろそろ昼時だ。どうせ見るものもないだろうが、ちょっと食べるくらいのところはあるだろうと、寄ってみた。

この天気で、みな行くところはないと見えて、意外と混んでいる。

本店の建物が北海道の有形文化財になっているということだ。小樽の銀行に真似て作ったとされ、道理で馬鹿でかい金庫が鎮座ましましている。たしかに色内の日本郵船の作りと似ている。しかし規模は大分小さい。

並んでいるものは小林酒造の製品がほとんどで、あとはちょっとした日用品とかが並べられている。所詮は栗山町だ、こんなもんでしょうと、外へ出た。

出た脇に「小林家」と看板があって通路がある。見学自由のようだ。

入っていくと2階建て木造の堂々としたお屋敷が立っている。とは言え、和風の民家であり、人を威圧するような厳めしさは感じられない。

小林家 正面

ホームページより)

これが中にはいって驚いた。入ってすぐの2、3部屋しか見ることはできないのだが、なんと部屋数が30ある(公式には23)という。

私の子供の頃、お屋敷といわれる家を何軒か知っているが、指折り数えると10部屋ちょっとがせいぜいだったように思う。我が家でも数だけなら6DKだ(6部屋目は無駄だったと後悔している)

部屋数が多いのにも驚いたが、築120年というのに、手入れもしていたのだろうが、実にしっかりした作りだ。これだけの大工を良くも揃えたものだと思う。

家のぐるりを回ろうとしたが道路側に面した塀だけ見て10分もかかった。最後には迷子になってしまい、慌てて地図を便りに右往左往というみっともない仕儀になってしまった。

おそらく施主が造作道楽(と言うより造作狂)でひたすら間数を増やしていったのだろう。普通は洋館風の別邸を建てるとか、子どもたちには離れを設えるとかするものだろうと思う。宿泊客が多いのなら、いっそ母屋ごと明け渡して、自分たちはもう少しこじんまりと暮らしたいとは思わないのだろうか。

案内係の人(小林家のご家族らしい)の、最近の通信が泣かせる。

「春夏秋冬、外より寒い小林家」です。

スタッフは、2月のご案内のお客様を「チャレンジャー」と呼んでいます。

…家屋の見学には厚手の靴下が2枚必要です。ストッキングなんて裸足に氷水をかけた感じになります。ホント、どんなウチなんでしょ・・。

とにかく、公的な性格はまったくない(最初は多少あったようである)、まったくの私邸である。本店の方に仕事に必要な施設、設備は全て揃っている。常識はずれの無駄な贅沢としか思えない。とは言いつつも、貧乏人には「いかにも田舎の富豪がやることだ」と、せいぜい嫌味を言うくらいが関の山。

この間数への異様なこだわり、一見の価値はある。店などあまり見ずに、まっすぐお屋敷に行ってみたほうが良い。

杉江栄一さんがなくなった。本日の赤旗で報道された。1960年の入党とある。32歳で比較的遅い。
50年問題での葛藤は味わっていない人かもしれない。同志社大学を出て、長年中京大学で教鞭をとられた。どちらかと言えばローカルな活動である。反核活動で活発に動かれていたので、我々にも馴染みはある。
中京大学のレポジトリーでいくつかの論文が閲読できる。ただ紹介しようと思うと、鍵がかかっていてコピペができない。縦書きの論文なのでパソコンで読むには上下がはみ出して読みづらい。
アドベにはテキスト・ファイルに書き出ししてくれるオプションがあるのだが、1ヶ月数千円の会費をとると言う。アコギで実に不愉快だ。
ただアドベと言えども、秘密のキーがあってテキストがこっそり隠されているというのではなく、結局はOCRのエンジンで読み取るらしい。鍵のかかっていないファイルなら読み出してくれるが、結構間違いはある。
とすれば、OCRのソフトで読み取るほうが安いだろうと考えた。
それでフリーのOCRソフトを探したが、まぁ以前から分かっていることだが、ろくなものはない。結局、パナソニックの「読取革命」という有料ソフトを買う以外の選択はない、という結論に至った。
今アマゾンでセールをやっていて、定価の半額(7千円ちょっと)で買えるらしいので注文しようと思う。
まずはそれからだ。それがうまく行けば、グーグル・ブックスもいったんPDFに落としてファイル変換できるかもしれない。もちろん著作権侵害の疑いがあるなので、想像してみただけだが。
杉江さんの論文は、反核関係は既におなじみのものが多いが、若書きの「フランス人民戦線とその外交」が面白そうなので読み始めた所。
てなことで、一日終わってしまった。非生産的な一日だった。

いくつか写真を転載しておこう。

最初が野幌駅。昭和43年の撮影とある。

この写真は情報量が多く大変楽しめる。(写真の上でダブルクリックしてください)

野幌駅

写真の奥の方向が札幌である。夕鉄独自の駅舎はなく国鉄に乗り換えるだけのホームのようだ。

解説を読むと、ターミナル機能を果たしていたのは一駅隣りの「北海鋼機前」で、ここでバスに乗り換えてしまう人も多かったらしい。


*線路際の道は駅裏通りということになるのであろうが、結構人通りがある。

*ホルモン焼き「京城園」は、北海道では少数派だった民団系の店だろう。我々が行くのは「平壌園」とか「千里馬」という名前だった。しかし店主の出身は大抵が南だった。梅割りで悪酔いして「汽車は行くー、汽車は行くー、南を目指してー」と統一列車の歌を歌ったものだ。

*その隣はマーケットだ。新築らしく、フードサプライと気取っている。シャッターが降りているのは日曜日だからか。あの頃は平気で日曜休業だった。お陰で正月3が日サトウの切り餅とインスタントラーメンで過ごしたこともある。スーパーや生協が進出するのはもう少し後だ。もちろんコンビニはない。

*向こうからくる女性は当時の標準的モード。ミニの流行り始めで、真冬でも膝上スカートだ。パンストやパンタロンが流行るのはその次の年くらい。スラックスやジーパンはほとんどいなかった。

*一応道路は除雪されているようで、二人がすれ違うのに苦労はなさそうだ。その奥にたくさんの荷を積んだ日通のトラックが走っているから、その分の道幅はある。しかし真知子巻きのおばさんが道端に立って車をやり過ごしているところを見ると、それ以上の幅はなさそうである。

*酒井建築設計事務所の看板があって、その向こうのガラス戸にはカーテンがかかっていて、いかにも日曜日の雰囲気だ。屋根の雪は30センチは積もっていて、とりあえず落ちそうなところだけ雪下ろししている。しばらく雪は降っておらず、少し暖かいせいか解けかかって汚い。真冬というより早春、3月末という感じの雪だ。

*いかにも寒そうな曇天で、向こう向きの若い衆は黒いオーバーのポケットに両手を突っ込んで前かがみに歩いている。項(うなじ)の刈り上げがいかにも寒そうだ。

*その向こうが「サッポロパン」の店だ。じつは「サッポロパン」という会社はあまり聞いたことが無い。グーグルでもまったくヒットしない。その一軒おいて向こうが北海道新聞の販売店。戸口に一人立っているようだがはっきりしない。

*列車は2両連結の気動車。湘南型で連結器は昭和20年代のもの。この頃函館本線は電化されたばかり。夕鉄の上にも架線が張られているが、無用の長物。すでに彼我の差は明らかだ。

*ひとり、乗車口で荷物を積み込んでいるが、このあたりのホームは屋根もなく除雪されていない。一方階段の出口からこちらはそれなりに除雪されている。おそらくそこで車内整備をしてからこちら側に進んで、乗車を開始するのではないだろうか。

*3月末とすれば、この明るさは夕方5時ころ。用事を済ませた人々がこれに乗って夕張に着くのは8時ころになるのだろうか。

*上方を右に展開してみよう。跨線橋は木製ではあるが、相当の力作である。なぜなら一番線と二番線の間に二本も線路があるからだ。つまりこの跨線橋は線路4本分の幅を両側だけで支えなければならない。
なぜ駅構内に2本もなければいけないのか、よく分からない。函館本線(と言っても小樽旭川間だが)は電化と同時に複線化されている。

本日は気持ちのよい晴天で、暑ささえ感じるほどだった。

出不精の私だが、思い切ってドライブに出かけた。

前から気になっていた「きらら街道」を走ってみたくなったのである。

この街道、野幌駅の南側からほぼ東に向けて走っている。東に向けて、といえば当たり前のように思われるかもしれないが、実は江別の東側に広がる広大な石狩平野、いかにも開拓地らしく道は完全な碁盤目を形成している。

その方角は、なぜかは知らないが北西を向いているのである。これは札幌も同じである。

その中できらら街道だけは秩序を無視するかのように、あくまで斜めに突っ切っていくのである。

しかも真っ直ぐではない。なよなよと左右にカーブを描きながら、しかし全体としてはまっすぐに東を指して走っていくのである。

私はこれがかの北炭夕張鉄道の線路跡ではないかと思っていた。

地図ではどこまでというのがはっきりしないが、南幌町を越えて北長沼、中央農業試験場のあたりまでは特徴的な曲線美が追える。

ナビという便利なものがあるので、大体の見当はつくのだが、何ヶ所かで突然道が切れる。とくに南幌市街は団子の串のように見えなくなってしまう。

ただ、切れた方向をナビでたどるとまた復活しているのである。

夕鉄線路跡

なんだかんだと言いながら中央農業試験場まで行ってそこから引き返してきた。

ここからが普通の人と違うところで、帰ってきてから調べ物を始める。


一番頼りになったのが、ooyubari9201のblog というサイト。石炭最盛期の頃夕張にクモの巣のように張り巡らされた鉄道網を回顧するサイトだ。

これを見ると、夕張鉄道がニューロンのような構造をしていることに気づく。夕張の最大手であった北炭(北海道炭鉱汽船)は市内各地の炭鉱に樹状突起のように触手を伸ばし石炭をかき集める。それが夕張鉄道という軸索を通って次のニューロへと送られる。そして野幌駅という軸索末端で、国鉄とシナプス接合するという仕掛けである。

昭和35年ころ夕張は最盛期で12万人も住んでいた。夕張だけではない。石狩炭田を抱える空知支庁には82万人も住んでいたのである。そのとき札幌は50万人である。

要するに、夕張鉄道は北海道経済の中心をなす大動脈の一つであったのである。定山渓鉄道や天北線とはレベルが違う。

とは言え、この鉄道が夕張のためにだけ作られた盲腸線であることは間違いないし、石炭輸送が主目的である以上、途中の景色が割と寒々としたものとならざるをえないのも当然である。


25日の日曜から本日まで、釧路に旅行してきました。
 この間、パソコンには指一本触れない生活を送りました。
もちろん毎晩のごとく飲み歩いていたのですが、それでもずいぶん本が読めてしまいました。
行くに際しては「多分これ一冊あれば足りるだろう。ページを開けただけで眠くなるだろうという確信のもと、薮下史郎さんという人の書いた「教養としてのマクロ経済学」という本だけ持っていったのですが、なんと4日間で読んでしまいました。
ハードカバーで360ページ、これがなんと2千円というのですから、教科書用に大量印刷したのでしょう。数式のところはさっぱりですが、「これがマクロか」という感じはつかめました。
ただ一番知りたかったこと、「資産とは何か」というのはやっぱり書いてありませんでした。
マクロ経済と言っても、結局GDPから始まってしまうのですが、GDPというのは1年間の富の生産量ですから
 

天北線余話

今日は思い切って紀の国屋まで行って、ズラッと並んだ本を眺めてきた。タバコが吸いたくなって表に出たが、そのような喫茶店は見当たらない。やっと見つけたらスターバックスだった。

家を出たのが10時、帰ってきたらすでに3時半だった。その間ずっと紀伊国屋で立ち読みをしていたことになる。腰と膝にもきたが、眼に来た。最後は字が見えなくなってきた。

結局、重い本には手が出ず、買ってきたのが「北海道の鉄道廃線跡」(本久公洋著 北海道新聞社)という本だった。

ここに天北線の紹介があるので、少し抜書きしておく。ついでに他のネット文献からも拾って拡充しておく。

 

1898年(明治31年) 北海道官設鉄道、旭川から北に伸びる天塩線(初代)の工事に着手。当初の建設計画では音威子府までを天塩線とし、それより北を宗谷線と名付けた。

1899年 天塩線が和寒まで延伸。

1900年 天塩線が士別まで延伸。

1903年(明治36年) 北海道官設鉄道の天塩線が名寄まで開通。

1905年(明治38年) 日露戦争。日本の勝利に終わる。樺太の南半分が日本領となる。日本郵船が小樽と樺太の大泊港を直行で結ぶ定期航路を開設する。

1905年 天塩線が同一線名のまま官営鉄道(逓信省鉄道作業局)に編入される。同時に稚内までを結ぶ鉄道の敷設に拍車がかかる。

1911年 天塩線が恩根内まで延長される。

1912年(大正1年) 天塩線が宗谷線に改称される。

1912年 宗谷線が音威子府まで開通。このとき旭川と名寄間を宗谷線と改称する。

1914年(大正3年) 音威子府と小頓別の間が開通。これに合わせ旭川以北の全線が宗谷線と名づけられた。これにより天塩線の名称は一旦消滅。

1914年 小頓別からは歌登町営簡易軌道が分岐。鉄道開通に合わせ丹波屋旅館が建てられた。

1916年(大正5年) 小頓別と中頓別間が開通。

1918年(大正7年) 中頓別と浜頓別間が開通。

1919年(大正8年) 旭川から浜頓別までの開通分を宗谷本線と一括し改称。(21年に一旦宗谷線に戻るが、22年の全線開通に伴いふたたび宗谷本線に改称)

1920年(大正9年) 鬼志別まで延長開通。

1922年(大正11年) 稚内まで開通し、宗谷本線が完成する。

1922年 音威子府から北に、稚内から南に向けて日本海側を周る鉄道の敷設工事が始まる。ふたたび天塩線の名が用いられる。

1923年(大正12年) 稚内と大泊を結ぶ稚泊航路が就航。

1924年 函館から名寄までの急行列車が運行開始。名寄以北は普通列車として運行。

1924年(大正13年) 稚内から南下する天塩北線が兜沼まで開通。音威子府から日本海側に出て稚内を目指す天塩南線が問寒別まで開通。

1925年(大正14年) 天塩南線が幌延まで開通。

1926年(大正15年) 天塩線の幌延と兜沼間が開通。天塩線として一本化する。浜頓別経由の宗谷本線は総延長149キロで、完成に11年を要した。一方、天塩線は127キロで、完成はわずか5年であった。

1928年 函館と稚内を結ぶ急行列車が運行開始。この急行は浜頓別に向かわず、新設された天塩線を経由した。

1928年 稚内と稚内港間の路線が開業。

1930年(昭和5年) 天塩線が宗谷本線となる。旧宗谷本線は北見線に改称。天塩線という名称の路線は一旦消失。

1935年 宗谷本線の幌延駅から分岐し、遠別まで伸びる路線が開設。天塩線と命名される。

1939年 稚内が南稚内駅、稚内港が稚内駅に名称変更する。さらに稚内駅の先に稚内桟橋駅が設置される。

1958年 天塩線は羽幌線に編入され、天塩線の名称はみたび消失。

1958年 札幌・稚内間に夜行準急「利尻」が新設。

1961年(昭和36年) 北見線が天北線と改称。

1961年 函館と稚内を結ぶ急行「宗谷」が運行開始。札幌と稚内を天北線経由で運行する急行「天北」が運行開始。小頓別駅 - 中頓別駅 - 浜頓別駅 - 鬼志別駅に停車。

1980年 国鉄再建法が施行される。天北線は第二次特定地方交通線に選定される。

1989年(平成1年) 天北線が廃線となる。

 


You Tubeで下記の映像が見られる

【車内放送】昼間のブルートレイン!?急行「天北」(14系座席+寝台 ハイケンス 札幌発車後)

天北線(廃線)を行く 急行「天北」  

天北線

いなか(というよりほとんど僻地)の人にとって、豪華な急行列車はそのまわりに豊かさと札幌の臭いを撒き散らしながら走ってくる。

 

いまはどうなっているのだろうか、むかしは月曜の朝というと校庭で全校朝礼か決まりだった。
「整列」と号令がかかる。背の低いものから高いものへ並んだところで、今度は「前へならえ」だ。
両手を前にあげて前の生徒の肩に触れるか触れないかのところまで間合いを詰める。
このとき必ず前の生徒を突っついたり、くすぐったりする奴がいるから、前の先生が睨みつける。
しつこくやる奴がいると、先生が飛んできてげんこつをお見舞いする。理不尽なことに両成敗だ。
整列が終わると「気をつけ」、「休め」で、それから校歌斉唱だ。
「東はるかに駿河湾、北には仰ぐ富士の嶺、長田の里に生い立ちて、この幸何かに例うべき」
さすがに戦後のあの時期、君が代はなかった。
それから「気をつけ! 校長先生ご挨拶」となる。
校長が高さ1メートルほどの式台にのぼり、挨拶が始まる。
これが長い。時節の挨拶から始まり、今日がなんの日なのかを説いていく。最後は教訓話になりなんかカンカのご託宣をたれて終わる。この間10分位だろうか。
困るのは「冗談」を入れることで、その「冗談」がいかに面白いかを諄々と説くから、その間にこちらは固まってくる。「頼むから今日は冗談をいれないでくれ」と願うが、そういう時こそ「冗談」のワンツーパンチ。
大体、月曜の朝が元気なわけはない。日曜は目一杯遊んでいるのだから、半分死んだ気分だ。暑い日などはクラクラしてくる。まさに「ムカつく」気分だ。
いま考えると、それは教師にとっても同じだったに違いない。ただなんとなく、月曜の朝はかくあるべきものかと思っていたに過ぎなかったのではないか。そしてそれは校長先生も同じではなかったろうか。
それはまさに「時代の呪縛」であったに違いない。
そしてその「時代の呪縛」に誰よりも忠実であったからこそ、彼は校長になれたのであり、自ら「呪縛」者の先頭に立ったのであろう。
こうしてルーチンに忠実な人間が次々にトップをつなげていくにしたがい、ルーチンはますます陳腐化しこと無かれ化し冗長化していくことになる。
あぁこのいとうべきルーチン主義者共よ。一刻も早く引退せよ。さすれば、君らが何ほどの人間でもないことは直ちに分かる。
安心せよ、君らの後継者はゴテマンといる。絶望的なほどに地にあふれている。

老人は若返り、働き続ける 
高齢者人口が3割超
(毎日新聞の記事)

2042年、団塊ジュニア世代が皆、65歳に突入した直後だ。
このときに日本の高齢者人口はピークを迎えるという。
東京郊外は高齢者の集団住宅と化し、
地方の高齢者も介護者のいる東京へ集まり、
一極集中が続いているかもしれない。

「老人は若返り」というのが怖いですね。
そんな世界を見ないで死ねる幸せ。

20時30分現在、室温32度。これは北海道ではない。熱帯夜そのものだ。昨夜は12時過ぎまで30度超えだった。雨が降ってはやんで、しかも雨が止むと風も止まる。生温かい風がそよぎ始めると雨が降り出して、吹き込むから窓を締めるしかない。
眠れないからアルコールが進む。次の日にはテキメンに応える。昼ごろに脱水症状が消失するが、たっぷり水分をとってしまったから食欲が進まない。シャワーをあびると瞬間気持ちが良いが、やがて汗が噴き出してきて元の木阿弥、湯疲れしたぶんかえってだるい。ビールを飲むと若干気持ちが持ち直す。
しかしアルコール・ハイというのは歯止めが効かない。
まぁ、こんなのは数年に1回、しかもたったの2日だけだ。クーバに行ったと思え。しかもただだぞ。
飲め飲め、クーバの夜を満喫しよう。(とエンジンが入ったのはアルコールが回ってきた証拠)
グルポ・シエラ・マエストラのCDはどこだったかな。

などとやっているうちに、突然強風が吹き始めた。ついに台風が来たようだ。

 どうも、齢70歳(1946年9月生まれ)にしてもう一つチャンスが巡ってきたようだ。

とりあえずお世話になった老健で、相棒の医者が病気で倒れたために、いろいろ責任が生じてしまったのが、来年3月でお役御免になりそうだ。

これを機会に色々と勉強をしたいと思ったが、考えてみるとまだ五体は動く。スタミナはないが多少の金はある。もう厚生年金は払わなくてよい。

嫁さんの病気はますます進行しているが、介護の皆さんが頑張ってくれるおかげでなんとか日中のまとまった時間はとれる。

であれば、少し大江風に「遅れてきた青年」をやってみるべきではないかと考えている。学生時代のセツルメント活動を思い出して、社会貢献ができないかと思っている。

一番心残りなのは「無料・低額診療」だ。ココらへんは勤医協でしっかりやってはくれるだろうが、とりあえず前線で損はかぶってでもファーストエイドをやって後方に送る医療が必要だろうと思う。

こういう場所が街のど真ん中に必要だ。やばい人は郊外の住宅地にはいない。街の真ん中の十字街でウロウロしているはずだ。

都心の雑居ビルの2階にクリニックを作る。名前は「ゆうあい」だ。英語ならソリダリテ、“You & I” でも良い。しかしこれはどうでもよい、というか、みんなで決めることになる。

タレントのスカウトのように目が利く人が、そういう人を探しだして連れ込んでくる。まさに貧困ビジネスだ。悪徳業者との競り合いだ。

外国人も視野に入れている。もちろん金髪碧眼の外人ではない。AALAの人々だ。

これが経営的にペイするかどうかはわからない。どこまで持ちこたえられるかどうかも分からない。しかし人一人なんとか生きてはいけるだろうと思う。

なんとか仲間づくりをしなくてはならないな。

バカチョンカメラで診察室の窓から撮った麦畑です(写真の上でダブルクリックしてください)。雲は手前から奥へと進んでいきます。ここは広い野原で落雷の名所です。数年前に右側の電柱に雷が落ちて燃え上がる瞬間を、私はしっかりみました。
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この後1週間ほどで刈り取られました。
二階建てくらいの巨大なトラクターが入ってなぎ倒していくのですが、落ち穂を拾って驚きました。
穂の中の実が見事にこそぎとられているのです。脱穀作業なんてのはいまや昔話なんですね。
とにかく、子供の頃から持っていた農業に対するイメージがひっくり返りました。
「お百姓さんが丹精込めて育てた作物」というような神話はまったく通用しない世界が、目の前で展開されたのです。呆れるほどの「粗放な」農業ですが、それは有無を言わせぬ「豪快さ」でもあります。
そこは「やっぱ、サッポロ黒ラベル」でしょう。
こんなクリニック+老健+特養で働いてみたいという人、ご一報ください。なんと札幌市内から車で20分足らずです。

いまやレアード選手は日本ハム切っての人気者である。
大谷選手というバケモノがいるから一番にはなれないが、人気では引けをとらない。
この間の“レアード・デーでは”顔写真のお面が入場者に配られた。
日本ハムは外人では泣かされてきたが、今度はとんでもない拾い物をした。
彼は守備の人として雇われた。グラブさばきは並としても三塁手としての強肩はそれだけで魅力である。それに引き換え当初の打撃はひどかった。1割8分くらいで大野奨太と肩を並べていた。外角低めに変化球を投げれば面白いように空振りしてくれた。ところが去年の夏くらいからそこに手を出さなくなった。相手は仕方がないからストライクコースに投げるようになる。そここそはレアードの一番大好きなコースだった。
今やレアードはすべての数字で中田を上回り、チームの頼みの綱になっている。
レアードのすしポーズはもうおなじみだが、ヒーローになった時のお立ち台での第一声が冴えている。
“ソーデスネー”だ。実によく見ていると思う。たしかにいわれてみると、日本人のヒーロー・インタビューの第一声がことごく“ソーデスネー”なのだ。
いわば合いの手なのだが、言葉通りに訳せば“I think so too”なのだが、こういう場合英語では“You see”となる。結構みんな乱発している。“You are right”ではちょっときついのだ。
こういう言葉の感じをつかめる人は「耳が良い」のだろう。見事なギャグだ。
こういう人はますます人気が高まるし、やめてもみんなの心に残るだろうと思う。

逆に落ち目の中田だが、昨日のバント処理は「カミ」だった。ホームラン2本分くらいの価値はある。久しぶりに中田の悪口を言わないで睡れた。

「えっ?」と思ったがたしかに同級生の高原くんだ。
「だから比例は共産党」という連載インタビューに堂々と写真入りで載っている。
尼崎の医師会長だそうだ。もっとも「前」だが。
談話を見ると、「正直言って共産党を改めて見直しました」と言っている。
この人、優しい顔しているが、学生時代はメットかぶっていた人だ。
2年前に久しぶりに同窓会に顔を出して、どういうわけか二次会は彼と堺の荒木君と3人で飲むことになった。
荒木君はバリバリの活動家で、いつもツメツメされる関係だった。だから相変わらずだったのだが、高原くんは意外だった。
至極まじめに日本の医療のこととか政治のこととか考えていて、話がどんどん弾んだ。
今回の赤旗談話も、生真面目なほどに語りたいことを語り尽くしていて、「もうちょっと話題を絞ったら」と言いたくなるほどだが、多分性格だろう。
記事を読むほどに同窓会の時のことが思い出されて、何気なしに愉快な気分だ。そして今日も酒が進む。

記事の作成が全然進まない。
未完成のまま店晒しになっている記事がいくつもある。
理由ははっきりしているので、飲み会が重なっているからだ。
おまけに注文していたチャイコフスキーやリャードフやリャピコフやキュイのCDがドサッと来て、それを聞くのに時間をとられているからだ。
まずCDの話から始めようか。
Postnikovaのチャイコフスキー全集は、想像はしていたが、つまらない。およそひらめきのない人だ。ロストロポーヴィッチの奥さんでなかったら、こんなCDは出なかったろう。
ただし安い。全7枚で3千円だ。安いと旨い。閉店間際のスーパーで4割引きで買った刺身がうまいのと似ている。
キュイは25の前奏曲は流石に良い。You Tubeでは全曲は聞けないのでありがたいCDだ。日本人のピアニストがキュイ全集を出していて、 その第1集というのが中古で手に入った。しかし流石につまらない。
ボロディンのピアノ曲が全て入ってCD1枚というのがあって、これも組曲以外はあえて聞くほどのものはない。
とにかく集中力がなくなって、いい曲も聞き流してしまっているかもしれないので、どちらにしてももう少し聴きこまなくてはならない。しかし時間はない。

古代史以前になるのだが、板付1と板付2の意味を探るのが、日本の起源を探る鍵になりそうだと思っている。これから考古学を志す人は、奈良の古墳などやらずに北九州をもっと徹底的に攻めて欲しいと思う。

オバマ演説の「クオ・ヴァディス」はやはり心に引っかかる。「二度と繰り返しませぬ」をそこまで読み込んだオバマに頭が下がる。

上海の小野寺機関の話は虚実交えて興味津々だ。最初に思っていたほど、ただの「あぶく」ではなさそうだ。

要介護5で安定してしまった認知症の人、ワーカーさんは余分なことはしてほしくないだろうが、医者としてはアリセプトとレミニールは一度は使ってみたい誘惑にかられてしまう。
山形県の山奥で育った人が、小学校のときに新庄から汽車に乗って仙台まで修学旅行に行った時のことを鮮明に憶えているのだ。多分昭和10年頃のことだ。その時の目が輝いているのだ。なんとかもう少し引き出せないものかと考えている。





ブログを書いていると、ときに身辺些事に筆及ぶことがある。
きわめて話が具体的なだけに、迂闊には書けないが、どうしても書いておきたいことがある。
今日の話はあまりに見事だったが、どう書けばよいのだろう。
例えば、長年の恋を実らせた、そろそろ世間的には“若い”とはいえない女性がいたとする。そこそこの美人だ、とわたしは密かに思っている、とする。
わたし的にはそれを聞いて素直に喜ぶんだが、あるおばさん、ふと、ため息のようにつぶやいた。
「居なかったんだねぇ…」
言ったそばから、慌てて取り繕ったが、そいつは後の祭りというもんだ。

これを立ち上げ画面の壁紙にしていたが、さすがにちょっとうっとうしくなってきたので変更しようと思う。
ということで、ブログに記録しておく。
天皇

ネトウヨのサイトからパクったもの。
いつ頃の写真か、今よりはだいぶ若いと思う。60代か。としても、もう20年前の写真だろう。
こういうカップルが何気なしに傍らにいるような、そういう時代がいとおしく思える。そんな時代になってしまった。
美智子さんの笑顔を見ていると、まったく何の論理性もなしに、「いまの日本、守らなくては」という気概がわいてくる。
これが昭和世代か。

開幕以来の数試合でいうのもなんだが、日本ハムのBクラスはほぼ確定だ。陽岱鋼、田中健介はすでに盛りを過ぎた。中田は今以上のものにはならないだろう。近藤はチームの中軸とはなるだろうがキャッチャーは無理だ。西川のちゃらんぽらんはチームにとってマイナスだ。若手の内の2,3人が大化けしないと未来は暗い。
大谷が大リーグに行ってしまうと客を呼べるようなキャラは皆無となる。
投手陣も野手ほどではないが、それほど未来は明るくない。有原がいまのところいいが、あの投げ方で150キロ出していたら肩か肘が壊れる。榊原が壊れたのと同じだ。バースは明日にでもクビ、メンドーサも来季はない。中村勝も明日はない、高梨が計算できるとしても、あとは上沢の再起(チェンジアップ系)を祈るのみである。
とにかく中田を4番から外す時が日本ハムを再びAクラスに引き上げるための試練の時になると思う。そのときはスモールベースボール以外にない。田中がファーストに回って「つなぐ4番」を復活させ、レフト石川、センター岡、ライト近藤を中心に若手で外野を埋める。セカンドは当面杉谷でしのぐが将来的には横尾。
陽岱鋼、中田、西川は悪いが戦力外通告だ。

正確に言うと、その3ではなく、写真集だ。

Viv's blog というページの2012年3月の記事で「喫煙所あります」というのがあった。

この記事によると、ダラスを旅行した時に、空港内に喫煙所があったそうだ。6メートル四方のガラスの檻の中で10人以上の人が吸っているさまはまるで「人間テトリス」だったそうだが、テトリスがどんなものかはわからない。

そもそもダラスに喫煙室があるとは聞いたことがないが…添付された写真はダラスではなくアトランタのもの。

次の写真はフランクフルト空港のキャメルのマーク入りの喫煙所。ミュンヘンにはキャメル・ボックスのほかにウィンストンの立派なラウンジが写真確認されている。

frankfurt

ワルシャワのショパン空港にはJTが立派なラウンジを開いている。

saltlake32631

上はソルトレークシティーの喫煙所。説明には“violated the Utah Indoor Clean Air Act 2007”と書かれている。

lambert_airports_death_boxes

これはセントルイス空港の“Death Box” 1998年の写真だからもう消えているだろう。

結局、嫌煙主義者の主張は「そもそもたばこを吸う姿が目障りだから消えろ」というものだ。それは美意識の問題ではないか。

間接喫煙を錦の御旗にしているが、密閉した喫煙スペースで“自己責任”で、人に迷惑をかけずに吸うのはプライバシーの範囲だ。

「そんなものに使う金が惜しい」というが、それだけの金は払っている。たばこ飲みほど日本の財政に貢献している人種はいない。

たばこの健康被害による経済損失というが、それならおよそ快楽行為はすべて経済的損失だ。あまり体にいい快楽行為というのは聞いたことはない。そういう計算はやめよう。

長髪やひげも、鼻ピアスも入れ墨も、競馬やパチンコも他人に迷惑をかけない限りはカラスの勝手だろう。「自己責任」を声高にしゃべる有名キャスターが、ヨットで遭難して救助を求めたのはいつの話だっけ。

あなたに何の迷惑もかけていないのに、あなたが不愉快だからと言って禁止するのは、プライバシーの侵害だ。

たばこの害は別問題だ。タバコの悪影響について争うつもりはない。「自殺行為」と言われても甘受する。(ただし「自殺行為」に等しいのであって、自殺行為ではない、と密かに思う)

発がん性、肺気腫は主としてタールに関わるものなので、何らかの改善が望ましいのかもしれない。

ニコチンについて言えば、アルコール、カフェイン、テオフィリンと同列だろう。嫌煙論者からは麻薬扱いだが、酒で廃人になる人はくさるほどいるが、タバコで廃人になった人など聞いたことはない。

大体、ダイエット中毒とかマラソン中毒の方が体にははるかに有害だ。(と、密かに思う)


前にも書いたかな。
パソコンが壊れた。
Lenovo のY560 というので、たしかにもう5年間フル稼働した。寿命と言われればそれまでだが、今考えるとどうも初期不良があったようだ。
最初から排気がやたらと高熱だった。ファンの音も相当うるさかった。
ie7 を搭載した最初のノートパソコンというのにつられて発売と同時に買った。大体これがよくない。初期不良はつきものだからせめて半年してから買えばよかった。
ソニーがMDを出した時も予約で買って、3回も修理に出して、結局パアになった。それにも懲りず、据え置き型のデッキが出るとそれも見ずてん買いした。
パソコンにMDデータが移せるのが売りの、それだけの機械も買ったが結局ほとんど使わずにほこりをかぶっている。出るのが(正確には出すのが)遅すぎた。もうMP3ファイルをDACでつなげる時代に入っていた。
かつてのLPやカセットやVHSハイファイでとった音源と同様、捨てるに捨てられず、本棚の上に山積みになっている。

例によって、アルコールが回り始めて話が跳んでいく。
パソコンは最初がNECの中古、続いてエプソンの中古。これは文字通り火を噴いてお陀仏した。
ここでNEC9800シリーズとさよなら、近くにマック教の教祖が居てマックに乗り換えた。この頃はDOSV器が出始めて、三つ巴だったから、選択しなければならなかった。
しかし私にマックはあわなかった。あれは理数系の人の機械だ。週に一度は爆弾が出て、ついにあきらめた。それから富士通のFMV、エプソンのエンデバーという通信販売、IBMのシンクパッドとつないできた。
なじみの小料理屋が引退して、居抜きで買った店主のところに通い続けるのと同じで、Lenovo を買ったが、しょせんLenovo は Lenovo だ。体になじんだ椅子とカウンターは同じでも、出てくるものは総菜屋よりひどい。

ということで、ネットで一番評判のダイナブックに乗り換えた次第。
これだけ東芝のことを叩いておいていうのもなんだが、東芝はいい。我が家はテレビも冷蔵庫も東芝だ。ソニーのように時限装置が付いていないのがいい。
病院ではエコーも東芝だった。「アロカを買え」という、さる筋からのかなり強力な干渉を蹴飛ばして買ったものだ。「おまけ」の量が違うのと、東芝の販売さんが「売ってやる」式に態度がでかいのは散々聞かされた。東芝の没落には営業の責任がかなりあるのかもしれない。

またまた話が跳んだ。
それでダイナブックだが、「予想外に良い」のだ。ハイブリッドというが、ほとんどハードディスクは動かない。1時間に1回くらいかすかにモーターの音はするが、基本的には無音である。したがってほとんど熱を発しない。
SSDはたしかに250ギガでは心もとないが、今のところ2テラのハードディスクを外付けしているので、それで十分だ。何より ie7 はSSDと組み合わせてはじめてその力を発揮するのではないかと思う。
Y560 と比べると軽量小型薄型だ。タブレットに近い。しかしそれは私にとってはどうでもいい。ディスプレイの光沢がなくなって、映り込みがなくなったのはうれしい。見やすいだけではない。時に画面に醜悪な年寄りの顔が映り込むのは勘弁してほしい。
画面が小さくなってしまったのは難点だ。画面に合わせて字も小さい。二画面操作になるとてき面に効いてくる。これは老眼がますます進行している私には脅威だ。

今回の買い替えはウィンドウズ10への乗り換えと同時進行だから、使い勝手はむしろ乗り換えに規定されている。使い手は当然ながらウィンドウズ7的な使い方をしたいのだが、そのためには相当環境をいじらなければならない。
まずはスタート画面に出てくるお仕着せアプリをすべて掃き飛ばすことから始める。ついでエクスプローラー画面も縦罫もツールバーもすっきりさせてなじみのスタイルに戻す。
後は呼びもしないのにしゃしゃり出てくる「吹き出し」を排除したいのだが、まだそこまでの作業はできていない。
ここまでの印象としては、ウィンドウズ10は7をはるかに超えるような水準にはないし、完成度もまだまだということだ。95→98SE→XP→7と進んできた私には、Me とかNT とか Vista などは縁なき存在だった。しかし通信速度、記憶容量が文字通りけた違いに増えて行く流れの中ではOSの改変は不可避的だった、7から10への「進化」にはそういう背景がない。理由なき改革は「進化」ではないように思えるが、いかがであろうか。
私の考える今一番のネックは、活字のテキストファイル化である。一つには著作権の問題がある。もう一つはそれがクラウド化されたとして、そこへのアクセスの問題=ハッキングやネット犯罪への対策がある。
現実の世界の中で「自己責任」がやかましく言われるようになったのは、ネット世界の影響があると思う。ネット世界が自由で開放されたものになればなるほど、自己責任の範囲も拡大せざるを得ないのである。

ありがとう、sznm_0さん
このやり方で幽霊ファイルがあっさりと消えてくれました。
いつもファイルをデスクトップにダウンロードしているのですが、MP3のダウンロードサイトからのファイルが、結構バグが多くて、ダウンロードが途中でストップしてしまうのです。
そうすると、0kbのファイルがデスクトップに残ってしまい、どうやっても消えてくれなくて困っていました。
WEBで見るとずいぶんたくさんの解決法が載せられていて、どれも難しく、説明はそれ以上に難しく、まるでいじめを楽しんでいる雰囲気があります。
やっと簡単かつ確実な方法を教えてもらいました。
詳しくは
http://www.geocities.jp/sznm_0/free-file_del.html
を見てもらえばいいのですが、見るほどのことはありません。
要はDOSで、
CD DESKTOP
でDIRを動かして
DESKTOPになったら
DEL *.*
でみんな消えます。
残るのはカラのゴミ箱だけです。
よくよく考えれば、バカボンのパパではないが、「それでいいのだ!」です。実にシンプルです。
頻用するアプリケーションはツールバーに入れていけばいい。そうでもないものはスタート画面で開ければいい。そういうことです。
これは思想革命(目からうろこ)です。
本当にありがとうございました。

天北線 地図の旅

以前、天北線を列車時刻表から引っ張ってきたことがある。もう一度載せておく。

宗谷本線の位置

 これを国土地理院の地図と比べるとだいぶ様子が違う。音威子府から浜頓別までは現在の国道275号線にほぼ一致する。

275号線といえば、実は毎日私が通勤で走っている道路である。札幌の国道12号線から東橋のところで分岐し、その後は石狩川を挟んで12号線と並行しながら北に走っていく。いわば1級国道である12号線の裏街道となっている。

迂闊にも私はそれが旭川に入って終わるのかと思っていた。しかし実際には旭川には入らずにさらに雨竜川を北上する。そして朱鞠内湖の西を廻った後、名寄に出て国道40号に合流する。

しからばそれで終わりかと思いきや、音威子府までの道を国道40号と共有した後、音威子府からふたたび分かれ、旧天北線のコースを辿ってオホーツク海側の浜頓別に達する。

275号はそこで終わり、オホーツク海岸を網走から稚内へと走る238号線へと座を譲るのである。

つまり275号線というのは、むかしの鉄道路線で言うと札沼線、深名線、天北線という裏街道を一手に引き受けていることになる。

ヒマというわけでもないが、ちょっといまの地図で昔の駅をプロットしてみたいと思う。


天塩川は士別、名寄と続く平野の中をゆったりと北上するがここで、行き止まりになる。川は西に向かい、何重にも続く険しい山並みに切れ込んでいく。それは石狩川が旭川平野から空知平野へと抜けていく姿にも似ている。そこにも神居山がある。アイヌの人々はそこに神を見たのだろう。

まあ、そちらはそちら。今回は天塩川に注ぐ音威子府川を遡る形で北上する。

いまの地図では音威子府駅には鉄道の分岐点らしき姿はまったく見当たらない。引き込み線もないし、操車場跡らしき痕跡も見当たらない。駅前にもしもた屋が5,6軒ばかり。事務所や倉庫らしきものも見当たらない。

近くの道の駅で買い物を済ませて出発するしかないようだ。

やがて275号は宗谷本線の下をくぐり、西へ向かう鉄道と分かれる。多分この辺りで鉄道もふた手に別れたはずだが、地図の上ではそれらしきものは見当たらない。

500メートルほど進むと、道路の右手に痕跡が現れる。

 痕跡1

この辺りでは道路の東側を並走していたようだ。

痕跡2

地図の右下5,6軒ばかりの家がおそらく上音威子府の駅のあったあたりだろう。

左上には鉄橋への坂を登る土盛りが残っている。この後音威子府川とも離れ、その支流、天北川に沿ってさらに北上する。

275号は一気に尾根まで出て、そこから山を巻くようにし天北峠を越えている。しかし汽車にそのような芸当ができるわけはない。おそらくどこかにトンネル(天北トンネル)を掘って山向の栄川流域に出たのではないだろうか。

ウィキペディアによると上音威子府の後、天北トンネルを抜けたあとに天北栄という仮駅があったという。しかし現在の地図ではトンネルの痕跡もなく、小頓別までの間、ただ一軒の家もない。

痕跡3

小頓別の集落である。ここで栄川は南から来た頓別川に合流する。

郵便局を左に曲がって切通をまたぐその下が線路跡であろう。小頓別の駅跡には倉庫らしきものが二棟残っている。

小頓別を抜けると栄川の川幅は広がりその周りにはいくばくかの平地が形成される。岩手という10軒ばかりの集落があるから、開拓の手が入ったのだろう。頓別川には秋田という集落名もある。

いずれ鉄道がなくなったように、それらの集落名もなくなるのであろう。アイヌが死して地名を残したように、それらの開拓者たちも地名に名を刻むことになるのかもしれない。

それからの駅間はひたすら長い。上頓別は集落そのものが良く分からない。一応地図でT字路になってるあたりがそうではないかと想像している。線路の痕跡もまったく見当たらない。無意味な道路のある+字辺りはウィキペディアにのみ登場する「恵野」駅ではないかと想像している。

痕跡4

それにしても、時刻表の地図ではひたすら東に向かっているように見える天北線が実は北西に向かっているとは驚きであった。ずいぶん思い切ったデフォルメをするものである。

痕跡5

ピンネシリの集落は温泉があるおかげか、道の駅もあり、20戸近い建物が残っている。支流の稚内宇遠川の流域には豊平という集落もある。しかしここにも鉄道跡を思わせる痕跡は見当たらない。

ピンネシリの近くから線路跡を思わせる点線が登場する。この点線は一旦途切れるが集落を過ぎてまた盛り土の線として続く。途切れた部分も、道の駅を除けばそれらしくスペースが開いている。

痕跡6


松音知はもっとも線路の遺構が残された場所になる。地図上でこれが線路跡とはっきり同定できる。その代わり駅もふくめて集落そのものは消失してしまっている。

その代わり、ピンネシリと松音知のあいだにあったという周磨駅が、「いかにも」と想像される場所があった。チュピタウシュナイ川の合流点である。ただ地図上に地名の記載はない。

松音知を過ぎると、頓別川は知駒内川を合わせ大河の風貌を示し始める。天北線も上駒を過ぎて、最初の堂々たる街に到達する。これが中頓別町である。

それで駅とか線路跡がどうなっているかというと、地図の上ではさっぱり分からない。寿駅も新弥生駅も地名はあっても、それ以上の情報はない。

下頓別から先は海岸まで一面の平野だ。天北線は常磐という小集落を経由して浜頓別へと入っていく。ここから再び線路跡が出現する。

275号線で常盤橋という橋をわたってしばらくすると右手に入る道がある。ここにいかにも駅があったような雰囲気だ。

此処から先は、浜頓別まで、まるで今でも鉄道が走っているような地形がそのまま残されている。土盛りの線路跡が綺麗な弧を描いて街の真ん中に堂々と進入している。町並みもいかにも駅舎があり駅前広場があった雰囲気が残っている。

痕跡7

この浜頓別という町、なかなかに気取った街だ。札幌そのままに大通りが東西に走り北1条から4条まで、南は3条まで碁盤目に作られている。ちょっと西に傾いたところまでそっくりだ。

ここから天北線は北へ向かうのだが、南にも網走を目指して途中まで興浜北線が走っていた。駅から進行方向とは逆に南に向かい、旭ヶ丘と書いてあるあたりから東北東に伸びている直線がその跡地であろう。

天北線が宗谷本線として健在なら、この街は一つの中核都市になっていたかもしれない。そういう自負が伝わってくる街並みだ。

最後に国土地理院の全体図を載せておく。時刻表の地図との違いを体感されたい。

zentaizu
今回調べてみて分かったのは、これが当初の宗谷本線であったことはごく自然のことであったろうということである。上音威子府と小頓別の間の天北トンネルを除けば、これといった難所はない。多少距離は長くても案外こちらのほうが早かったかもしれない。

これに対して音威子府から中川に向かうルートは難所だらけだ。工費も相当かかっただろう。建設当時の土木工事の力量を考えれば、天北ルートは結構合理的だったのである。時刻表の「地図」に騙されてはいけない。



さて今度はこれをグーグルマップや古地図、“てっちゃん”たちのサイトで補強しなければならないが、それはいずれのこととしよう。

 

「ハッピーバースデー・トゥー・ユー」といえば誕生日の定番曲だ。ところがこれに著作権があって、歌うたびに払わなければならないらしい。

赤旗の記事ではベタのトピックス扱いだが、TPP問題と絡めると、これはかなり深刻だ。

まずはウィキペディアで「ハッピーバースデー・トゥー・ユー」の項目

ただしウィキペディアの説明は要領を得ないところがあり、下記の記事で補っている

ギガジン 2015年9月24日

 

「ハッピーバースデー・トゥー・ユー」の発祥

世界で一番歌われている歌としてギネス・ワールド・レコーズに載っている。また「世界で最も金を稼ぐ歌」としても知られる。理由は著作権があるからだ。

アメリカ人のミルドレッド・ヒルとパティ・ヒル(以下ヒル姉妹)が作詞・作曲した「Good Morning to All」のメロディを原曲としている。これの替え歌が「ハッピーバースデー・トゥー・ユー」になったのだそうだ。

原曲が作曲されたのは1893年。明治で言えば26年。日清戦争の始まる前の年になる。替え歌のほうは1920年頃だそうだ。

Good Morning to All を含むソングブックが出たのが1924年、ぎりぎりまだ大正だ。

この曲の替え歌が広がって、1931年にはブロードウエイのミュージカルでも歌われるようになった。

この後は、Wired の記事から

「ハッピー・バースデー」の歌詞は、1911年にメソジスト監督教会発行の歌集の中で掲載されている。その歌集には、この歌の所有者や著作権に関する記述はなかった。
また、それより前の1901年には、インディアナ州のある教師が、「ハッピーバースデー・トゥーユー」という歌詞の曲を子供たちが歌ったという記述を残している

1912年まで、さまざまな企業が未許可で楽譜の出版を始めており、その中にはハッピーバースデー(トゥーユー)として今日知られている歌も含まれていた

ヒル姉妹の著作権の訴え

ここでヒル姉妹が登場する。このミュージカルが無断使用に当たるとして訴訟を起こしたのだ。このときは著作権が成立していなかったため、請求は棄却された。

この頃アメリカ国内では登録していない曲の著作権は認められていなかった。

そこで改めてヒル姉妹は曲に対する著作権を登録した。

ここで変なのは、ヒル姉妹が登録したのは曲であって歌詞は登録しなかったのです。ところがエージェントのほうでは Good Morning to All の歌詞も登録しているようです。

さらに変なのは、こちらの出所はウィキではなくギガジンの記事ですが、

原曲よりも人気になった替え歌「Happy Birthday to You」の著作権は、1935年にクレイトン・サミーらによる共有名義で正式に著作権登録がされています。

さらにCNNニュースでは、クレイトン・サミーが姉妹から著作権を託されたとある。

曲の著作権、Good Morning to All の歌詞、Happy Birthday to Youの歌詞の三つの異同がどうもはっきりしない。これが分からないと後の訴訟問題が分からない。困っている。

ここまでが著作権の成立に関する経過。

著作権法の変遷(ミッキーマウス保護法)

国際的な著作権に対する取り決めには「ベルヌ条約」というのがあって、加盟国には著作者の没年後少なくとも 50年間保護する義務が課せられている。

この保護期間は長くても良いので、実際にヨーロッパでは70年間に設定されている国が多い。

したがってベルヌ条約によれば、後に死んだ妹が1946年没なので、少なくとも1996年までは保護されることになる。

アメリカにはベルヌ条約とは別に独自の著作権法がある。1909年の第一次著作権法では登録後最大で 56年間保護されることになっていた。

76年の第二次著作権法、93年の著作権延長法が成立した。これにより登録後95年間は著作権が保護されることになった。

ギガジンによると、この二度にわたる著作権の延長は、下記の事情によるようである。

アメリカでは、ミッキーマウスの著作権の効力が切れそうになるとディズニーの強力なロビー活動を展開。これにより著作権法の有効期限が延長されるのが常でした。過去何度も繰り返されてきた一連の著作権の延長措置は「ミッキーマウス保護法」と揶揄されています。

つまり現状でもアメリカ国内では2030年まで著作権が成立し続けるのである。

GMTY vs ワーナー

ウィキペディアには

今回問題となったのは、「タイム・ワーナー」が著作権を主張したことである。

と書いてあるが、これはダブル間違いのようである。以下はギガジンから。

まず事件の発端

ニューヨークの映像制作会社「グッドモーニング・トゥ・ユープロダクション」(以下GMTY)が、2013年に「Happy Birthday to You」というタイトルのドキュメンタリー映画を制作。映画の中にこの曲を挿入した。

これに対して著作権を管理する音楽出版会社「ワーナー・チャペル・ミュージック」(以下ワーナー社)が使用料の支払いを求めた。

映画製作会社は料金支払いを拒否し、「ワーナーは歌そのものの著作権を保持していない」として提訴した。

話がややこしいのだが、

1.ワーナーというのは楽譜出版社であって、映画会社の「ワーナー」ではない。(ただしワーナー・ミュージック・グループの傘下にあり、ワーナー映画と結びついているかも知れない)

2.支払いを請求したのはワーナーだが、裁判所に提訴したのは、つまり原告は映画制作会社である。

ワーナー社は、1998年にヒル姉妹のエージェントだったサミーの会社を買収。歌の著作権もワーナーに帰属することになった。

訴訟のてん末

GMTYの女社長ジェニファー・ネルソンは相当戦闘的な人。「サミー社が(ヒル姉妹から)譲り受けたHappy Birthday to Youの著作権は、歌そのものではなくピアノを使った編曲に限られる。そのためワーナーがサミー社を買収することで承継したのはピアノの編曲部分に限られ る」と主張した。

何か「ベニスの商人」みたいなせりふだが、肝心なことは、作者を保護すべき著作権が作者のあずかり知らないところでビジネスの道具になって、芸術を圧迫することへの怒りであろう。

Happy Birthday to Youの歌詞が含まれる1924年に発行された書物「Harvest Hymns」を手に、ワーナーが保有するというHappy Birthday to Youの著作権の効力に疑問を投げかけるネルソン氏。 (ギガジンより)

そして2015年9月22日、カリフォルニア州連邦地裁の判決が下った。

1.著作権継承の事実は認定

2.ピアノを使った特定の編曲にのみ著作権を限定

3.裁判官の個人的意見として、「1935年の著作権登録作者とされるパティ・ヒルがこの曲を作曲したかどうかは疑問が残ると指摘する。

ということで、原告側の言い分が認められた。しかし判決内容はCNNニュースでは異なっている。

「サミー社はハッピー・バースデーの歌詞についての権利は取得しなかった。従ってサミー社の権利を引き継いだ被告には、ハッピー・バースデーの歌詞に対する有効な著作権はない」とされている。

今回、話題になったのは

今回、またこれが話題になったのは、下記のニュース(2016年2月15日)

「ハッピーバースデー・トゥーユー」の著作権使用料を徴収してきた音楽出版社のワーナー/チャペルが、これまでに使用料を支払った人たちに1,400万ドル(18億円)を払い戻す和解案に合意した。

この報道に続いて、多少の解説が加えられている。

ワーナー/チャペルは1998年以降、ハッピーバースデー・トゥーユーの使用許諾料で、毎年200万ドル(2億4千万円)以上を売り上げている。総額でおよそ5000万ドルを手に入れた。さらに著作権保護期間の終了する2030年までの間に、さらに1650万ドルが入る見通しだった。

無断使用には15万ドル(200万円)の制裁金が課せられる。考えればあこぎな会社である。

もうひとつ訴訟には内容があった。それは使用許諾料を支払ったすべての人たちに代金を返せという内容だ。これにワーナー側が同意したのが今回の和解の内容だ。

今後「Happy Birthday to You」はパブリック・ドメインとして扱われる

めでたしめでたしか?

ワーナーが和解に応じたのは、

このまま裁判に負ければ、これまで取り立ててきた著作権使用料をも返還しなければならない可能性が出てきました。ワーナー・チャペルは裁判を和解に持ち込むことで、すでに得た利益を守るほうが得策と判断したといえそうです。

とされている。(

つまり、まだそれでもワーナーの側には儲けが残るのである。いわば「やり得」だ。

考えてみると、この件では著作権をめぐる強引な拡大解釈がある。曲(メロディー)に関して著作権を主張するのは当然だが、作曲年が1893年の作品が百数十年を越えて有効という解釈には無理がある。

第二に替え歌であるハッピーバースデーの歌詞に著作権を主張するのはまったく筋違いだ。もし著作権があるならそれは替え歌を作った人に帰すべきだ。

もっともその人はメロディーを盗用していたことになるから、メロディーの使用料をヒル姉妹に払わなければならないことになる。

 

修理に出したパソコンの見積もりが出た。
なんと10万円。DVDドライバーの交換をすればさらに5万円。これは購入価格と変わらない。
ようするに修理なんかするな、新品を買えということだ。
たしかに買ったときからCPU周りが異常に熱かった。初期不良だったのかもしれない。
Core i7 の出始めで、ラップトップとしては最初の機種だったかもしれない。
以前なら、技術革新が日進月歩だったから、4,5年で買い替えだったが、いまどき5年でお釈迦はちょっと早すぎる。それにThink Pad ではなく Idea Pad というLenovo の独自開発商品だから、基本的なところでチャチな可能性もある。
「自力でフアン交換を」とも考えたが、ネットの解説ページを見て断念。ファンは一番奥にあって、完全解体修理をするつもりでやらないとならないようだ。それにマザーボードやキーボードもすでに影響を受けているようで、もはや素人が手を出せるような状況ではない。
どうもCore i7がはかばかしい普及を見せないのも、この辺に原因があるのかもしれない。
とにかく嫁さんにパソコンを借りっぱなしになっていて、そろそろ目つきが厳しくなってきたので、もう決断するしかない。
ということで、東芝のダイナブックに決めた。アマゾンで16万円、ハードディスクではなくSSD内蔵というのが売りのようで、ただし容量は少ないから外付けハードディスクが必須だ。
まぁ、そのうちSSDの価格も下がるだろうから、いずれは差し替えもあるかと思う。

結局思い悩んだ末に、パソコンを修理に出した。見積もりで6万円と脅された。明らかに買い換えろという姿勢だ。

とにかく正規の見積もりを聞いた上で判断することで、機械は置いてきた。見積もりだけで6千円はかかるという。ハードディスクが壊れたわけではなく、冷却ファンがだめになっただけだから、どう考えてもねじ回し一本で済む作業だ。ひどいものだ。

ついでに内蔵CDの交換も頼んだら、こちらも6万円という。別に不自由しているわけではなく外付けのCDプレーヤーでちゃんとやれているので、即座に断った。

考えてみると、「パソコンて何なんだ」と思ってしまう。CPUさえあればほかに何にもいらないんじゃないか。後は全部外付けで間に合ってしまう。

ハードディスクは2テラの外付けが2万円以下になっている。SDも100ギガで1万円ちょっとだ。もう“まわりもの”の時代は終わった。CDとかDVDはそもそも過去の遺物だ。

後はディスプレイとキーボードのみだが、これも単体で買えばせいぜい数万円のものだ。とすればパソコンはどうしてこんなに高いのか。

買い替えも考慮に入れていたからパソコン売り場に回ってみた。もうそろそろ5年になるから今までなら断然買い替え、なのだが、新製品には驚くほどに魅力がない。

当然、ie7以外の機種など姿を消していると思いきや、それ以下のCPUが平気で顔を利かせている。SSD内蔵品(ハードディスクとのハイブリッド)も数えるほどだ。ie7とSSDの組み合わせなら20万円を超える値段がついている。

いったいこの値段は何だ。

ついにハードディスクが壊れたようだ。
2010年の6月に買ったものだからもう5年半になる。壊れておかしくない頃かも知れない。
価格ドットコムで調べたが、やはりパソコンの世界は沈滞傾向のようだ。
いまだにCPUはCore i7、記憶装置は多少大きくなっているが、今は外付けがどんどん進化しているから、スペックとしてはほとんど進化していない。それだけではない。値段も5,6年前とほとんど変わらない。メーカーはただのんべんだらりと生産しているだけだ。買い換えるだけのインセンティブが何もない。
今のメインはオーディオだから、ハードディスクそのものが目触り、耳障りになっている。これをSSDにすれば処理スピードは格段に上昇するだろうし、何よりも静かだ。
ということで、SSD内臓のパソコンを探すことにした。
もっともこれからはDACがオーディオの主流となるかもしれない。フォステックスのHP_A8にはSDカードの差込口があって、ここにファイルを入れればまったくパソコンなしで音が聞ける。
今のところ「ただつけて見ました」というだけで、使い勝手はひどく悪い。しかし原理的にはそのほうが正しいのかとも思う。
内蔵する再生ソフトが取り替え可能であれば、パソコンの再生ソフトを移植すればよい。さらに言えば、この貧弱なリモコンと、貧弱なディスプレイをスマートフォン並みの機能にアップさせれば再生装置として完成である。
今のところこの市場はオーディオ関連の中小企業のしのぎを削る場面となっているが、大手企業(たとえばソニー)が参入すれば事態はずいぶん変わってくるのではないか。最も大手にそれだけの力が残っているとすればの話ではあるが。
目下のところ、ハードディスクをはずしてそこにSSDを収納できないかを検討中である。いろいろなレポートを読むと、なんとなくやさしそうにも、難しそうにも見える。
問題はハードディスクのところにSSDがサイズ的にうまくはまってくれるかどうかということと、ハードディスクの中身がうまく移植できて、ウィンドウズが走ってくれるかどうかということだ。
もし動かなかったとしたらこのパソコンはお釈迦になる。「自己責任」だ。ただデータは外付けハードディスクに落としてあるし、知的財産の毀損はない。あるのは数万円の失費のリスクのみだ。
やってみるか。

名前出していいのかわからないが、そういう名前でコメントしてくれたので、そういう人だということにして使わせてもらう。
12月14日CDG利用しました。
喫煙所ありました。
K37横です。
JAlがK41から搭乗なのですぐ近くです。
ローマ(FCO)もありました。
これでは流石に何のことやら分からない。
解説すると、CDGは Aéroport de Paris-Charles-de-Gaulle の略。パリ国際空港のことだ。
K37とかK41というのは搭乗口の番号。
JA lというのは日本航空。社用の人でないとなかなか使えない。
国際線Aérogare 2のターミナルEのことだろう。
cdg
きっとこの辺りだ。以前報告した通り。
ついでに
ローマ(FCO)というのは Aeroporto di Fiumicino の略。正式にはローマ市ではなく近郊のフィウミチーノ市にある。正式にはレオナルド・ダ・ヴィンチ空港と呼ばれるが、「丹頂釧路空港」と同じで、誰もそうは呼ばない。
ここも、情報通りに喫煙所があったということで、ご同慶の至りである。

Four comfortable furnished smoking lounges equipped with strong exhaust fans allow passengers to smoke in these designated areas within the airport. They are located in:

  • the Departures Area of Terminal 1 airside, beyond the security checkpoint
  • Terminal 3, Boarding D area for international departures
  • Terminal 3, Boarding G area for international departures
  • Terminal 3, Boarding H area for international departures
禁煙対策にはラチェットがかかっていて、一度進むと後戻りは効かない。今はただ「嫌煙テロリスト」みたいな大統領が登場しないことを祈るのみである。







毎日新聞16日朝刊編集長のこだわり(松木健)
この1年の世相を表す「今年の漢字」に「安」が選ばれました。今年成立した安保関連法の「安」であり、同法で集団的自衛権を行使できるようにした安倍晋三首相の「安」でもあります。「安心、安全」の「安」というより、「不安」の「安」のような気もします。

まことにそのとおり。
啄木になにかそんな歌があった気がするが、思い出せない。
「これも忍びよる認知症か」と、また不安
不安を隠すのに酒の量が増える、これもまた不安
しかし、酒は相変わらずうまい。これは「安心」の安

セキュラリズム secularism の意味が知りたくて、辞書を参照した。

英和辞典・和英辞典 - Weblio辞書

というページに、“世俗主義”と記載されている。ただ語源的ニュアンスも加味すると祭政の“分離主義”と言う方がピッタリ来るようだ。

宗教を俗世界から切り離すこと、とくに政治の世界から切り離すのが本来の趣旨らしい。

ところで、この辞書には発音もついていて、例文の“読み”を聞くことが出来る。

最初のフレーズが

an advocate of secularism

だが、聞いてびっくりする。

アン・アーキティ・セキュンナリザとしか聞こえない。

dもvも聞こえない。

それでは advocate (動詞)はどうなのか。

advocate は単独ならアボケッ、後ろに目的語がつけばアーボケだ。

あぁ、オレには英会話は無理だ。

毎日新聞から高齢者事故の一覧表を転載する。

 ◇高齢者による主な突入事故

 発生日   場所              運転者    人的被害

<2012年>

 4月21日 津市の電器店          男性(78) 3人軽傷

12月20日 西東京市の喫茶店        男性(80) 4人死傷

<13年>

 3月 2日 千葉県流山市の居酒屋      女性(69) 8人重軽傷

 7月13日 兵庫県尼崎市の動物病院     男性(67) 4人重軽傷

 8月12日 東京都羽村市のプール施設の屋台 男性(79) 5人死傷

<14年>

 3月26日 鳥取県境港市のスポーツクラブ  男性(65) 1人重傷

 9月 5日 東大阪市のコンビニ       男性(79) 2人死傷

<15年>

 2月 3日 山口市の駅改修工事現場     男性(81) 3人重軽傷

 2月11日 和歌山県白浜町のスーパー    男性(79) 1人死亡

 6月24日 和歌山県有田市の事務所     男性(69) 1人死亡

 8月 1日 北海道室蘭市の衣料品店     女性(65) 4人軽傷

 ※年齢、被害は事故当時

ちょっと待てよ。65歳は高齢者か?
せめて75歳にしてよ。
それから、公共施設の高齢者割引、あれもやめてほしいね。
このあいだ夷酋列像の展覧会に行ったら、切符売り場で65歳以上かと聞かれた。
答える筋合いはない。
あんたよりたくさん給料もらっている。タバコも吸えるし酒も飲める。同情しこそすれ同情されるいわれはない。

だいたい悪いのは車のほうだ。
ついこの間まで(といっても4年になるが)、マニュアル車に乗っていた。マニュアルは嘘つかない。
最近はすっかり左足がなまってしまったが、使えといわれればいまでも使える。
だからブレーキは左足で踏むようにすればいいと思う。少なくとも踏み間違いはなくなる。
おそらく踏み間違いはバックの時に多いのだろうと思う。ペダルが視野から外れる。
これはマニュアル車でも同じだが、左足がクラッチの位置にあるから、ブレーキ・ペダルを間違えることはない。

こういうのはどうだろう。70歳過ぎたらマニュアル車しか乗ってはいけないということにする。そうするとマニュアル車を運転できない人はあきらめるしかない。口惜しかったら雪道の坂上発進やってみろ。下り坂のふかしながらのシフトダウンやってみろ。

オートマに乗り換えた時感じたのだが、これは精巧なコンピュータだということだ。人間にできないようなことまでやってしまう。しかしそこには小脳の機能しかなくて大脳の機能がない。大脳の機能が落ちた人間が運転するには怖すぎる。
大脳の機能が落ちた人間には格落ちのオートマのほうがふさわしいのかもしれない。

せっかくの3連休、これでパアになった。
予約を入れておいたが、いつまでも順番が来ない。雑誌を見たら、ソフトを導入するとすぐにダウンロードできるというので、直接あたってみた。かんたんにやれそうなので入れてみた。
しっかりバックアップしてからやれと書いてあったが、そんなことをしていたら日が暮れてしまう。
私のモットーは「備えなくして憂いなし」だ。
30分ほどで立ち上がった。
1.第一印象は、とにかく使い勝手が悪いということだ。
スマートフォンの指使いみたいな感じで、いまだにガラ系の私としては感覚的に合わない。
スタートボタンを押してみると、まったく異次元の世界が広がる。
2.ネットにつなごうとしたらエッジというブラウザーが出てくるが、まったく絵だらけで異次元だ。「俺はfirefoxでいいんだ」というがそこに行かせてくれない。
3.矢印がやたらと動くので、タッチパッドを無効化しようとしたが操作できない。シナプティクスのドライバーがないと言われる。仕方ないのでシナプティクスのサイトでWIN10用のドライバーを探してダウンロードして立ち上げたが、さっぱり効いているのかどうか分からない。
4.とにかくコントロールパネルを開こうと思ったが、ない!
雑誌を見ると、スタートボタンを右クリックすると出てくるという。たしかに出て来た。しかしこれではスタートボタンの意味がない。
むかし富士通やシャープのパソコンを買うと、デスクトップ画面いっぱいに要らないソフトがならんでいたが、あんな感じだ。
5.ソフトが壊れている。
自慢ではないが私の使っていたHTMLエディターは10年以上も前に買ったホームページ・クリエーターというソフトだ。今はそもそも会社がない。英文和訳ソフトも10年以上も前のシェアソフトでいまはバックアップもない。
この二つが壊れた。これがないと私は生きていけない。
Foobarも動かない。ファイルにアクセス出来ない。「聞きたかったらウィンドウズ・メディアプレーヤーでどうぞ」という仕掛けになっている。
6.先ほどやっとWIN7への復帰に成功したところ。
ソフトは壊れたままだ。どうしようかと頭を抱えている。
みなさん、寿命のあるかぎりはwin7を離れてはいけません。
そのうち11とか12とか出てくるでしょう。
MeとかVistaを買った人に比べればお金を出していないだけましですが、壊れたソフトを戻すには「まるごとバックアップ」による修復を試みるしかないのでしょう。
とりあえず明日は復元でなんとかならないかためしてみるつもりです。
それでは、お寝みなさい。





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