鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

カテゴリ: 80 日々雑感

ネットでとりよせた鷹勇の特別本醸造。
何年ぶりかの鷹勇だったが、一瞬われを疑う。
これは酒じゃないよね、醸造用アルコールだね。だから「特別本醸造」なんだねと納得する。
たしかに鷹勇というのは最初の一口からグッとくる酒ではない。ぐい呑で一杯飲み終わった頃に、「えっ、これってなに」という酒ではある。
それにしても、この愛想の無さはなんだ。見事なまでのドキュメンタリーな乾燥感、口に広がるはずの“かぐわい”がない。上半分がヘラでこそぎ取られたような空虚感、舌に残るのは少々の糠のにおいだけだ。
困ったもんだね。これだけひどいと、ひとにくれてやるわけにもいかない。
だますわけにも行かないから、自決用の手榴弾を渡すように、「鷹勇の最期を確認してください」と言いながら渡すほかないだろう。




このところイライラが募っている。
夜中に咳が続いて、おそらくは左舌区の気管支拡張に、上顎洞感染が重なっているためのものと思われ、これまでもときに悪化・寛解を繰り返してきたが、どうも今回はしつこい。
とりあえず少しタバコを辞めてみて経過を見ようということにした。とはいっても、何度も繰り返された試みであり失敗に終わった試みであるから、半日くらいとタカをくくっていたが、なんと朝から寝るまで吸わずにしまったのである。
そうなると2日目は、禁煙を止めづらくなる。3日目はますますだ。さりとて吸いたい気持ちが軽減したわけではない。そもそも禁煙しようという決意などないのだから、辛いのだけがダラダラ続く。
生活のリズムが3拍子で形成されてきたから、これをどうするのかが戸惑いだ。“食う、飲む、吸う”あるいは“仕事する、飲む、吸う”の3拍子目がない生活というのはどう送るべきなのか、とりあえずは飲む、飲む、飲むでお茶とコーヒーとバターピーナツ
肝心の咳の方だが、たしかに朝の咳込みは多少軽くなったようだが、タバコをやめた努力のわりに見返りは少ない気もする。
明らかな有効性が確認できれば、それで目的は果たせたことになるのだから、その時点で喫煙は再開しようと考えている。ただ後鼻漏の方はいまだに続いており、このままでは週をまたぐことになりそうかな、と覚悟しつつある。
ということで、しばらく根を詰めた作業はしないようにします。
どうでもいいけど
3拍子の名曲をご紹介します。
NELLY OMAR - DESDE EL ALMA

5日(木)にふらりと宗谷まで行ってきました。
前に書いた天北線を見たかったのと、まだ宗谷岬を見たことがなかったので、それが目的と言えば目的ですが、まあどうでもよいことです。
家からすぐそばにインターがあるのでそこから高速で士別まではすぐに着きます。すぐといっても180キロ、“普通”に走って2時間はかかります。そこから天北線の出発点である音威子府についたのは途中休憩を挟んですでに12時を過ぎていました。
途中の美深にチョウザメの飼育場があるのですが、まったく宣伝もしておらず、看板すらありません。探すのに思わぬ時間がかかりました。しかしそれだけの価値はある立派な見物です。
入場料はなんと無料。隣接する道の駅にもそれらしき土産も何もありません。商売けがないというよりなにか隠しているようにさえ感じてしまいます。
私なら、チョウザメではなく「美深ザメ」とかネーミングして「ゆるキャラ」を作って全道キャラバンするね。チョウザメ・ステーキとかチョウザメ・バッグを販売して付加価値を大いにアップする。もちろんキャビアはそれ相当の値段をつけて、高級レストランに提供する。国際コンクールに出して箔をつける。まだそこまで成熟していないようだけど。
とにかく行こうと思う方は必ずネットで確認してください。その気にならなければ間違いなく見過ごします。美深なんてザラに行くところじゃありませんから、これは一生の不覚です。
もう一つの美深名物が羊かんです。これは左翼の人には泣ける話です。音威子府駅の職員がJR合理化と闘って東京に飛ばされた。北海道ではよくある話です。それが東京で配置された職場で羊かんづくりを学んで、美深に帰ってから羊かん作りを始めました。これが地元では評判になってかなりの売れ行きらしいのです。
とりあえず買ってきたがまだ食べてはいません。だいたいこの手の食い物は苦手なのです。見ただけで歯が疼いてくる。
音威子府駅はかなり観光化されていて、天北線に関するミニミュージアムも併設されています。なかなか充実しています。
音威子府で何か食おうと思いましたが、駅の立ち食いそばは1時で営業終了、目の前でシャッターを下ろしてしまう無情ぶり。道の駅に行ったら「本日休業」というありえない掲示。町内に食堂はなくなんとコンビニさえもありません。今回の旅行でわかったのですが、道北ではコンビニというのは決して「ありふれた光景」ではありません。「いなか」というのはInconvenient Countryの略だと心得たほうが良さそうです。
結局、空腹のまま音威子府を出発し天北線へと入りました。国道は天北線の線路跡と並行しながら走るのですが、それらしき遺物はなかなか見つかりません。一番良かったのは「北音威子府」の駅でした。
R0012325
89年の廃線から20年、今にも木立の向こうから列車がやってきそうな景色です。空き缶も、菓子の袋もまったくありません。この駅名板は国道からも木立を透かして見えますが、誰も気づかないようです。(一昨年、地元の有志が再建したのだそうです。がっくり)
峠を越えた小頓別は鉄道の走っていた様子はもはやなく、旅館「丹波屋」も崩壊は時間の問題のようです。上頓別はすでに集落そのものが消滅していました。
飯が食えるかと期待してやってきたピンネシリの道の駅もお休み、こうなれば中頓別まで走るしかありません。やっと中頓別のドライブインに到着。もうすでに3時ですからざるそばで手早く済ませて、と思ったらなんと20分も待たされました。ズルっとかきこんで浜頓別へ。
浜頓別の街はまだ活気があります。表通りこそシャッター街ですが、民家はこざっぱりとして廃屋はありません。ここもホタテ景気なのでしょうか。話に聞いた大通り、北1条、南1条をしっかり確認すればあとは用は無し。
陽が少し傾いてきました。暗くなる前には宗谷岬に着きたいと車を飛ばしました。なが~い直線道路、あたりには人家はなく「鹿の飛び出し注意」の看板ばかりが目につきます。そろそろお出ましの時間です。釧路で鹿には慣れています。道路に群れる鹿の群れの中を突っ切ったこともあります。
ようやく宗谷岬についたのが4時半を少し回ったあたり、もう日は沈んで夕焼けの空が広がっています。車窓の右前方にいくつかの島が見えてきました。それはだんだんとつながって山並みを形成します。宗谷岬は実は最北端というよりはサハリンに一番近いところなのです。明治の初め、樺太アイヌが島を追われて最初に定着したのがこの辺りです。気持ちわかりますね。
写真にとったのですが、小さすぎてわかりません。仕方がないのでほかの方の写真を拝借します。
樺太遠景
津軽海峡北部のハチクマさんのサイトより転載
最短直線距離で43キロだそうです。札幌・小樽間くらいです。借りておいていうのも何ですが、夕方のほうがもっとスッキリ見えます。風の強い日は水蒸気が飛ばされてよく見えます。
宗谷岬についた途端、吹き飛ばされそうなほどの強風、気温も急降下してとても長居できる雰囲気ではありません。
宗谷海峡
間宮林蔵と三角塔のあいだに見えてはいるのですが…
宗谷岬と稚内のあいだがけっこうありまして、ホテル到着が6時過ぎ。朝からずっと運転で頭の中がゴーッとなっています。しばらく休んでから街に繰り出しました。
稚内なんだから魚を、それもちょっとおごって寿司でも…と探して、そのうちにあまりの寒さでエイっと飛び込んだ寿司屋。
稚内では一流らしく、けっこう繁盛していました。カウンターの隅に座って熱燗を頼んで、空腹が手伝ってけっこうメートルが上がりました。味はいわゆるむかし風の寿司屋の味です。シャリの粒立ちがピンとせず5,6粒多い。甘みが強く酸味が足りない。ネタに下ごしらえをしない。鮪の赤身も赤貝も“まんま”で出てきます。アワビは噛み切れず残ってしまう。値段だけは老舗らしく一流です。
嗅覚はあるつもりなので、もう少し暖かければそれなりの店を見つけたと思うのですが、残念。
帰りにコンビニでコップ酒と酔ざましの牛乳を、と探したのですが、例によってコンビニがない。札幌なら石を投げれば当たるほどのコンビニが、探せど探せどない。
30分歩いてやっと駅のそばに見つけて買いました。宿につく頃には冷え切って、酔いだけが残っているという悪いパターンです。風呂で温まるといっそう酔いが回ってそのままバタンです。
ところで泊まったホテルかこれ。
ホテルサハリン
エンブレムの小さい字はロシア語でガスティニツァ・サハリンと書いてあるようです。ガストとはドイツ語でゲストのことですから。ゲストハウスという意味でしょうか。ホテルと言うにはちょっと気が引けるという感じかもしれません。
とにかく名前が気に入りました。「稚内に行ってホテル・サハリンに泊まってきた」というだけでシャレてますよね。
JTBやるるぶでは出てこない店だと思いますが、私はジャラン派なので見つけることができました。ロビーがかすかに魚臭いが、決して悪くはないホテルです。セザリア・エボラ風のおばさん(もう少し美人)がフロントを仕切っています。朝食が7時から8時までというのがすごいでしょう。
場所は最高です。あのルネッサンス桟橋の付け根から10メートル。時化れば舞った飛沫が飛んでくる場所です。朝日は宗谷岬の方から港越しに上がってきます。このときだけ宗谷岬がくっきりですが、太陽が上に上がると霞んでしまいます。
一人旅なら絶対のおすすめです。このマッチだけでもちょっとした自慢です。5,6個おねだりしてせしめてきました。
帰りに困ったことがいくつか
私の車は6年前のWishです。ナビがその時のものなので、最近の高速が載っていません。道北ではかなり部分開通していてバイパス代わりに無料利用できます。ところがそれがナビに組み込まていないのです。乗っているあいだは快調なのですが、降りてからのアクセスがわからず何度も迷子になりました。今度の定期点検のときにバージョンアップしてもらわくては…
国道275号線というのは地味な道路で、わりと遠慮しながら走っています。ときとして間道のほうが立派で間違えてしまいます。ひどいときは2,3キロ行ってから「あれ変だぞ」と引き返したりしました。そういうときに限ってナビが方向感覚を失ってしまうのです。
ときどき道路地図を見て、全体のイメージを持ってから運転するほうが無難です。
とにかく全行程750キロ、東京-青森よりもっと長い。71歳のジジイがよくも走ったものだと感心しています。ガソリンは満タンで余裕の完走でした。

Youtubeで耳掃除の動画を1時間見続けた。
eariss という耳掃除専門業者の宣伝映画らしい。
さすがに気分はあまり良くはない。ニオイがないのが救いだ。
今夜は夢を見そうだ。
とくにリンクは貼らないでおく。

以前から気になっていた室蘭に行ってきた。
室蘭には出張で何回も行っているのだが、その気で市内を見て回ったことはなかった。
多分、この地図を見てくれれば、誰しも、とっても気になる街だと思う。

室蘭
絵に描いたような良港だ。函館や小樽など比べ物にならない。港であればこうありたいという自然の条件をすべて備えている。広さはお釣りが来るほどで、防波堤など不要だ。後背地も広大だ。
しかし船の時代は終わってしまったから、どうしようもないのだ。
いまは乗換駅だった東室蘭が街の中心になっている。しかし室蘭駅はいまだに室蘭にある。市役所や市立病院やNHK放送局も室蘭にある。
室蘭本線は半島の西側をのたうつように走り室蘭の市街に至る。山裾に線路が敷かれているのだから仕方ないのだが、その海岸沿いは広く埋め立てられて新日鉄や日本製鋼の工場敷地になっているのだから、なんとなく割り切れないところがある。敷地の中を突っ切れば距離は半分で済むだろう。

かつて室蘭は北海道で5番目に大きい街だった。
都市人口推移
北海道が一番威勢が良かった昭和30年、札幌の人口は45万、これに次いで函館が23万、小樽が18万、旭川が14万、室蘭と釧路が11万、夕張が10万、帯広と苫小牧は5万足らずだった。
上の図では2000年までしかないが、2017年の今、状況はさらに惨憺たるものとなっている。

室蘭の地名はアイヌ色が濃厚だ。地図を見ても大黒島と白鳥大橋以外はすべてアイヌ語由来だ。駅名も輪西、御前水、母恋というふうに風情がある。
私は前から山の尾根を走る道路が気になっていた。どうしても一度走ってみたいと思っていた。あるひ、目が覚めて、天気が素晴らしいのに後押しされて、フッと出かけた。
札幌から110キロ、高速を使うと2時間でつく。ただし眠気はかなり強烈だ。100キロで走っていても車が止まっているように感じられる。
インターを降りて、地図でイタンキと書いてあるあたりから山道に入る。予想以上の難コースだ。しかし新日鉄の馬鹿でかい敷地を除けば景色は素晴らしい。日本製鋼を過ぎたあたりから尾根に出る。今度は太平洋が一望される。
地球岬からは噴火湾越しに恵山が目の前だ。これだけ美しい街なのに北海道の観光案内にも載らない理由は、ここがかつて公害の街だったからだ。
新日鉄の煙突から撒き散らされる鉄粉は、室蘭の町を赤茶色に染めた。企業城下町だったからそれを誰もなんとも言わなかった。もう50年も前、学生時代に泊まり込みで公害調査に来たことがある。細かい雪のように鉄粉が街なかを舞っていた。
それがいま高炉の火が消えて初めて美しさを取り戻した。
室蘭は観光の町としてもう一度再起すべきだと思う。
日本人は知らないが、中国人はそのことをよく知っている。地球岬は中国人だらけだ。



昨日は天気が良いので、ちょっと遠出してみた。

ある町のある喫茶店に入った。シャッター通りの商店街の一角、「英国屋」という。かなり傷んでいるが、かつてはブイブイいわせたであろう店だ。なにせ二階席まである。

おばさんが一人でやっているが、よく見るともはやおばさんではない。薄暗い店内で厚化粧だが、10分もして目が慣れてくると、私といいとこドッコイだ。

カウンター席の片隅に座るが、目の前に灰皿。喫茶店というのはこうでなくちゃいけない。

かれこれ小一時間も座っていたろうか、その間に来るはくるは、おばあちゃんの団体だ。

あとで指折り数えてみると、17,8人は来ている。ちょっとおめかしして、むかしの気分だ。

ここは完全におばあちゃんの社交場だ。

だんだん騒々しくなって、鶏小屋のようになってきたので退散した。

人通りの絶えた商店街、どこからこれらの人々は湧いてくるのであろうか。バスに乗ってやってくるのであろうか、人恋しくて。

しかしこののような残り火もあと数年であろう。

アーケード通りを歩いてみた。かどかどには拓銀や道銀の支店だった建物がそびえている.そして3~4階建ての立派な商家が軒を連ねている。もちろんほとんどが空き家だ。

函館の十字街はもうまったくの住宅街だ。小樽の駅前通りは崩れ落ちた商家が残骸を晒している。

江戸時代の宿場は街並み保存されているが、こういう建物は保存してもらえないのだろうか。
それより、地方の町並み、文化をここまで零落させた中央政治の冷酷さに胸が痛む。

 2006/02/20(月)の2チャン記事


競馬客目当て 路上賭博開帳 
京都府警、容疑で9人逮捕 

  京都競馬場に通う客目当てに、キャラメル箱を使って賭博を開張したとして、 
  京都府警組対二課と伏見署などは19日、常習賭博の疑いで、大阪市住之江区浜口西1丁目、 
  工務店経営伊藤剛容疑者(63)ら男8人と女性1人を現行犯逮捕した。 

  調べでは、伊藤容疑者らは、19日午前10時55分ごろ、 
  京阪淀駅から競馬場に向かう途中の京都市伏見区淀池上町路上で、 
  大阪府枚方市の自営業男性(55)を相手に、キャラメル箱3箱を巧みに置き換え、 
  裏に印をつけた箱を当てさせる賭博を開いた疑い。 

  同署によると、競馬の開催日に合わせて路上に机を設置、 
  客が勝てば賭け金の3倍を返す条件で賭博を開いていた。 
  伊藤容疑者ら男4人が交代で胴元を務め、残り5人はサクラや見張り役だったという。 

京都新聞 

 というわけで、未だにデンスケ賭博はなくなったわけではない。

だまされたことがないからいうのだが、非常に大掛かりで組織的だが、リスクの割には見返りの少ない詐欺で、一種の伝統芸能であり「文化遺産」である。

主犯の職業が工務店経営というのも、いかにもそれらしい。

ところでデンスケの語源となった増田伝助であるが、どうも氏素性がはっきりしない。

多くの記事では栃木県足利警察署の刑事で、一説では署長となっている。

彼が1935年に宇都宮競馬場の場外で行われたいたルーレットもどきの賭博を見抜き摘発したことからその名がつけられたというが、どの記事も伝聞であり、真偽の確かめようがない。

2ちゃんの発言にこんなのがあった。

増田伝助は、1990年か91年頃に亡くなったはず。 
新聞に死亡記事が出てて、デンスケ賭博の語源がわかった記憶がある。

もう少し調べると、

増田美正隊長は長身のキリリとした美青年。 父君は増田伝助氏という栃木県警の名捜査官。 親子二代の警察官だ。

というのもある。

そこで増田美正で検索すると、

警視庁第六機動隊長・増田美正警視(東北大・昭和35年組)

秦野人事により新設された上級職の増田美正隊長指揮のミニ機動隊・六機」

と、いずれも佐々淳行『東大落城 安田講堂攻防七十二時間』に名が出てくる。

ということで、誰かその記事を探し出して紹介してくれると良いのだが…



2015年04月18日 世界の空港 喫煙スペース一覧 その2
に多くのアクセスをいただいております。

みんな見てくれるのになにもしないのでは申し訳ないので、少し増補します(2017年8月)

というよりも、下記のサイトを見つけたので、そこからのコピーです。別に難しい英語ではないので、そちらに行ってみてください。

Smoking areas at airports

最近、メールを開くといろいろな人のツイッターが飛び込んでくる。

面白いものも中にはある。全体的にツィッターだと、一言だけだから勢いが良い。本音むき出しになる。

1.孫崎さんのツィッター

細野氏離党意向、どうぞどうぞ。即実行して下さい。慰留しなくていいよ。

…細野氏、離党決意、大歓迎。決意を揺るがすことなく決行して下さい。

気持ちはわかるが、もうすこし民進党の動き注意深く見守る必要があると思う。

やはり、まだ当分、日本を変える上で民進党という党の全体像を見ていかなくてはならない。

1年前、民進党が野党共闘の方向にこんなに近づくとは想像できなかったのだ。民進党は野党共闘の方向に決定的に動くのかの瀬戸際にある。逡巡したり抗ったりする気持ちはひとりひとりの党員の胸中にあるだろう。

それは日本国民の揺れる気持ちをある意味で代弁しているのだろうと思う。

揺れるということがある意味ではすごいことなのだ。

2.小池書記局長の発言

内閣改造があったが、革命という言葉をね、軽々しく使わないでほしいと思います。人づくり革命(担当相)と。革命っていうのはもう政治権力が変わるわけですよ。ある階級からある階級に政治権力が変わるような重い言葉だと思う。

私も気持ちとしてはよく分かる。「共産党は革命政党だ」と叩かれ続けて、頑固に守り続けてきたその言葉を大事にするのは当然だ。

だけど、「革命」は本来共産党の専売特許じゃない。ある意味で人民主権を端的に表した言葉だ。「人民は反人民の政権を打倒する権利がある」ということで、ある意味では憲法の精神だ。もっと日常的に使われてほしいという気もする。


昼から暇だから、テレビのワイドショーを見ている。
松居一代の話題で持ちきりだ。
どう見てもおかしい。まともではない。
そんなことは最初からわかっているのだが、テレビは最初は松居一代の発言を「事実」として追っていた。そんなところにもメディアの衰弱を感じてしまう。
今日は臨床心理士だとか心理学者だとか精神科医などがいろいろ出てきて、聞いたような解釈を加えていた。
それは要するに「はい松井さんの病気は何丁目何番地です」というだけの話だ。しかしそれがコメンテーターそれぞれに違うのだかたら、困ったものだ。
多分臨床的に一番問題になるのは、それが統合障害(昔の言い方だと精神分裂病)なのかどうかの判断だ。
そう言ってもおかしくないような徴候はたしかにふくまれている。しかしどうも違うような気がする。典型的な破瓜病に見られる思い詰めたような深刻感がない。
全体として受ける印象は乖離性障害(昔の言い方だとヒステリーあるいは憑依)だ。しかも発作性というより持続性だから、何らかの器質的脳障害がベースにある可能性が高い。例えば認知症の周辺症状としての被害(物盗られ)妄想だ。年齢から見ればまっさきに思いつくのはアルコール症だ。女性のアルコール症には何度もだまされた経験がある。
ただ明らかな攻撃性と自己防衛機転の脱落(離人症)を伴っており、健忘症の合理化のような現実に対する受身的な開き直りのレベルではすまないところがある。視床ないし視床下部の器質的・機能的障害が伴っていると見るべきかもしれない。

本日は天気がいいのでドライブ。

前から気になっていた美流渡に行ってきました。美流渡と書いてミルト、なんとなく素敵な名前でしょう。

岩見沢の街に入るちょっと手前を右に曲がります。三井グリーンランド(遊園地)を左に見ながら進んでいくとだんだん両側の山が迫ってきます。この沢を登りきると、その向こうが夕張になります。

とりあえず地図を載せておきましょう。

これが現在の地図。何もないのっぺらぼうです。

美流渡
これが昭和29年測量の地図ではこうなります。(上の地図の東半分)

美流渡2

美流渡の市街地の他、二つの沢に集落が認められます。奥の方の集落が万字炭鉱です。昔はそこまで鉄道が延びていて、万字線と呼ばれました。もう一つの沢が上美流渡炭鉱で、美流渡駅から軽便鉄道が延びていたそうです。

wikiより

北海道岩見沢市の志文駅で室蘭本線から分岐し、空知郡栗沢町(現在の岩見沢市栗沢町)の万字炭山駅まで23.8kmを結んでいた

上志文、朝日、美流渡、万字、万字炭山の5駅があった。



 1914年(大正3年)に万字軽便線として全線が開業した。1985年(昭和60年)3月31日限りで廃線となった。万字はかつての鉱区所有者朝吹英二の家紋「卍」に由来する。昭和51年に閉山となった。



昨日から1泊2日で東京まで行ってきました。
一度に書ききれないほどたくさんの経験をしてきました。
とりあえず、忘れないように書き込みだけしておきます。
1.三鷹まで行って滝平次郎の展覧会を見てきました。大枚はたいてプログラムも買ってきました。いろいろ感想はあるが、いずれ作品も紹介しながら感想を書いてみたいと思います。
2.帰りに駅前通りの喫茶店によってきました。昭和53年に何回か入ったところで、まだやっていることに感心しました。女子医大研修のときに何回か、三鷹中央病院の外来をやりに行ったことがあります。三鷹の駅からバスに乗って4つ目か5つ目かの駅だったかな。それで仕事の帰りに寄りました。一度、隣のテーブルに手塚治虫が座って、編集者と話し込んでいるのに耳をそばだてた思い出があります。
3.夕方からは日本AALAの主催の勉強会が中野サンプラザであって、それに出ました。第一演題が横浜国立大の先生の「ラテンアメリカの政治状況」みたいな話でした。いろいろ言い分もありましたが、おとなしく聞いていました。これも後で紹介します。
4.第2演題が、今回の旅行の主目的だったベネズエラ大使の講演です。時間がないせいもあって米州機構(OAS)からの脱退の問題に集中して話しされました。大使の深刻感は大変なものがあって、60年代のキューバのように明日にでもアメリカが戦争を仕掛けてくるのでは、という感じで話されていました。これについても2,3日のうちに文章を上げたいと思っています。
5.講演の最中に見覚えのある人が入ってきました。いろいろ考えているうちにニカラグアの大使だと気づきました。これにはちょっと感激しました。そしてベネズエラ問題はラテンアメリカ全体の問題なのだとあらためて気付かされました。もちろん講演の後は大使と交歓を深めました。聞くところによると、あのドゥルセ・マリアはニカラグア大使館の館員になっているようです。ちゃんと給料もらっているかな?
6.会議の後、吉田万三さんたちと繰り出しました。中野の街は大変賑やかでなかなか開いている店がなかったのですが、なんとか腰を落ち着かせることが出来て、総勢6人でワイワイと語り合いました。私はベネズエラに運動を集中させるよう力説しましたが、どう反応してくれるのかな。7月末の総会が楽しみです。
7.結構飲んだと見えて、次の日起きたらもう8時でした。中野サンプラザの上がホテルになっていて割りと感じのよいところでした。16階から19階までがホテルになっているのですが、18階のみが喫煙可になっています。
外から見ても分かるように、中野サンプラザは上のほうが、多分日照権の関係で細くなっています。その分、見晴らしはよい。快適な環境でした。そちら方面に仕事の方にはおすすめです。朝飯はかなり貧弱なので素泊まりのほうが良いかもしれません。
8.朝は阿佐ヶ谷まで行って、多喜二宅のあった馬橋の探索です。北口で降りて線路際の細い道を行くと、予想通りに「The踏切」に出ました。といっても今は高架ですからその下をくぐるのですが。そこから道は車もすれ違えないほどに細く、緩やかにうねりながらどこまでも続いてゆきます。
東京とは思えないほどに静かで、どこかで大工仕事をやっている音が響くくらいです。横に入る道はさらに車も通れないほどに狭く、そのほとんどが行き止まりです。たまにお屋敷もありますが、ほとんどは庭もないような小家が立ち並んでいます。多喜二が住むにはふさわしい環境と言えなくもありません。
大きな稲荷神社があって、その先に杉並第6小学校があって、そこから道は東へと向かっていきます。結局多喜二の家はわかりませんでしたが、街の雰囲気はわかりました。古地図にあった馬橋の風情が未だ残っているということもわかりました。
時計はすでに11時をまわり、6月の直射日光は流石に体にきつい。そこから阿佐ヶ谷駅まで戻りましたが、駅前商店街にたどり着いた頃には体中から汗が吹き出してきました。
9.最後の目的地、高円寺の古書店です。2年前に来て憶えていたと思ったが迷いました。20分ほど道草をしてようやく見つけました。
買った本の題名だけ、とりあえず。
「1億人の昭和史10―不許可写真史」 毎日新聞 1977年
「騎馬民族の道はるか」森浩一 NHK出版 1994年
「古代史  津々浦々」 森浩一 小学館 1993年
10.帰りは結構危うかった。高円寺を出たのが12時半。中野で快速に乗り換えて神田で乗り換えて、あとは浜松町まで快速、と思ったら京浜東北が「信号確認のため」と称してストップ。どうなるかと思ったが、浜松町でモノレールの快速に滑り込みセーフ。
出発1時間前に羽田についた。お陰で靴磨きまで出来た。とは言うものの、崎陽軒のシュウマイは品切れで買い損ね、お土産無しで帰る羽目となった。
11.羽田からの飛行機は乗客確認で20分の遅れ、千歳からの快速は15分待ち、ということで札幌駅に着いたのが18時ちょっと前。ということは飲み屋はもう開いている。それじゃ、というわけで帰宅前にいっぱい引っ掛けてということになる。フクラギのキモとヒモと刺し身をサカナに八海山を、結局三杯も飲んでしまって、我が家についたのが8時半という1日であった。
体のあちこちが近藤選手並みに痛い。明日は起きれるだろうか。

カテゴリー再分類がいったん完了した。なんだかんだと5日間かかった。

時間がかかった最大の理由は、見出しが不適切で、見出しだけ読んでもなんの記事やらわからないというところにある。

日記であれば前後の関係で想像がつくこともあるが、もう5年以上前のものもあるので、それだけではわからない。

仕方がないので本文を読む。そして見出しだけで記事の内容が想像がつくくらいまで、補足する。

子供の頃、大掃除という風習があった。年に一度は畳を剥がして、天日干しする。その間に古い新聞紙を剥がして新しいのに取り替える。

それからDDTを撒いて、畳を敷き直すということになる。その間にふすまや障子を拭いたり洗ったりする。

親戚の家に手伝いを頼み、子供も動員しての大作戦となるのだが、この時作業が止まってしまう最大の理由は、古新聞を読み始めてしまうことだ。

「温故知新」というが、まるっきり今でもニュースだ。普段、新聞というのは一面からではなく逆から読んでいるので、目が届かないところがあって、そこに案外面白い記事があるものだ。

親父に「コラッ」と怒鳴られて、しぶしぶ作業に戻る。

今回もそれをやってしまった。だから、途中で疲れてくる。見出しだけでなく中身にも手を入れだす。そうするとわからないことが出てきて、それをまたウィキなどで調べだす。

そんなこんなで5日間が過ぎていったのである。

一応、出来上がったのか下の表である。多分行き先間違いもあるだろう。気づき次第訂正していくつもりである。

カテゴリ別アーカイブ

極端に多いジャンルもなく、少ないジャンルもなく、ほぼ良い具合にバラけたと思う。

境界領域の記事がこちらに入ったり、あちらに入ったりという混乱はあるが、ある程度は仕方あるまい。

“右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします”というセリフをある程度胸を張って言えそうだ。

ついでに、なんでも年表集のあり場所をリンクしておく。

現在のカテゴリー分類
01 国際政治/経済 (668)
11 日々雑感 (239)

新カテゴリー分類
ワンボタン・ワンプッシュで済むことが原則である。
無駄な作業を増やしたくないので、現在の分類をなるべく活かす。
項目は少し絞り込む。現在大小のカテゴリー合わせて49の項目があり、30程度には減らしたい。
ということで、以下のごとし。

10 国際政治・経済
11 東アジア
12 アジア(11諸国以外)
13 中東(マグレブ諸国含む)
14 ヨーロッパ
15 米国(カナダ含む)
16 ラテンアメリカ
17 その他(ほぼアフリカ)

20 歴史(基本的には日本史)

30 国内政治(財政含む)
31 対米従属(国家・経済構造の分析含む)
32 政治革新(各種の運動課題含む)
33 原発(東北大震災含む臨時的項目)
34 国内経済
35 社会問題(労働・福祉など)
36 社会理論(社会主義・哲学を含む)

40 自然科学
41 臨床医学(一部医療問題を含む)

70 芸術・文学
71 音楽(クラシック)
72 音楽(クラシック以外)
73 オーディオ・パソコン操作

80 日々雑感

ということで全23カテゴリー。これで始めてみよう。

最近、カテゴリーがうまく機能していないと感じるようになった。

最大の理由は

  • ブログをはじめた日

    2014/03/16 (開始日から1130日目)

  • これまでの投稿数

    4033

となっていることである。1130日というのはライブドアに引っ越してからの日にちで、ブログそのものを始めたのは2011年5月であるから、すでに6年を経過している。

とはいえ、問題はそれだけではない。

一つは、2段階のカテゴリーをフル活用しようとしたのがあだになっていること、10x10で100くらいに分類しようとしていたが、これでは煩雑すぎる。

一段階だけで済ますやり方に変えなければならない。(実際にはすでにそうしているのだが)

もう一つは関心領域が大分変わってきて、多少趣味的な様相を呈してきている。もう少し社会に向き合わなければならないのだが。

それで、経済・金融分野の記事が激減し、政治分野もかなり減った。らの話題はほとんどタッチしなくなっている。目下は音楽、古代史と生物学的なところに集中している。

これはカテゴリー分けの問題以前の話だ。読者にも不満を感じさせているかと思う。

まぁ、それはそれとして、とりあえずカテゴリー分けを検討しようかと思う。

そこで日本十進分類法を勉強してみることとした。

十進法は10X10で百項目にわかれる。これをそのまま使うことはありえないだろう。

自分のこれまでの記事と照らし合わせながら、20カテゴリーくらいに整理してみたい。

00

ここには必要なカテゴリーはない。

10

これは哲学だけで十分だ。心理学は医学の一分野と受け止めているので、哲学的心理学は興味の範囲外だ。

20


これは私の主たる興味分野だ。ただ政治史というのは多くは現代史であり、現代政治と深く関わる。現代政治経済を把握しようとするなら、歴史的視点から認識しなければなならないというのが、私の主義だ。

どのように分けるかとなれば、政治のカテゴリーの一分野として扱うことになるだろう。

とは言いつつも、世界の各国の社会状況は350統計という項目しかないので、各国の歴史カテゴリー内の「現代史」として突っ込むしかなさそうだ。

30

このカテゴリーは、取り付く島がない。いかんともしがたい。私も細かく分けすぎていて、それが失敗のもとになっている。

平和という項目も民主主義という項目も対米従属という項目もない。仕方がないのでこれを一応政治として括る。

ただ政治を語る場合、2つの問題がはみ出す。

一つは超十進分類的に安保体制が覆いかぶさるので、この問題は別途項目を立てなければならない。強いて言えば313「国家の形態、政治体制」にふくまれる。

もう一つは政治闘争の主体に係る課題である。むかしは統一戦線と言い、今は野党共闘と言う。これも強いて言えば315「政党、政治結社」にふくまれる。それ以外が310「政治」ということになる。

「憲法守れ」や、「言論の自由を守れ」は320法律のカテゴリーではなく310政治のカテゴリーにふくまれるものであろう。

330経済は一つのカテゴリーでよい。金融問題も経済一般としてそれほど矛盾はない。340財政(アベノミクスや消費税)は基本的には310政治の枠組みで語る。

経済的な対米従属は、安保体制=313国家の形態で語ったほうが良い。

国際的な経済情勢の分析(リーマンショック、欧州債務危機、租税回避など)は、国際政治・経済の枠組みで語ることになる。これは333経済政策・国際経済ではなく、十進分類を超えたとことに設定すべきであろう。

またマルクス主義経済学については経済もふくめた社会理論として、362社会史・社会体制の項目を当てるのが良いかもしれない。

非正規、過労死、貧困、医療介護などはひっくるめて社会問題として368社会病理に括っておく。

原発は基本的には政治課題ではあるが、多面的な要素を抱えているので、臨時的に項を起こしておいた方が良いであろう。

40自然科学は一つのカテゴリーで十分であるが、医学は医療と関わるだけに線引が難しい。一応臨床医学は臨床薬学や医療と合わせて別項目を立てておく。

50技術・工学と60産業は不要である。何処かに収まるはずだ。

70芸術・美術は、記事の量から見て76音楽は別にせざるを得ない。直接ここに入るわけではないが、オーディオを中心としてパソコン・アプリの遍歴がかなりの量を占める。成り行き上、音楽の項目の付帯項目としてパソコンのプログラム関連の記事もここに突っ込んでおく。

80言語の項目は当面不要である。90文学は芸術に突っ込んでいるが、当面不自由はないのでこのまま行く。


こんな感じで外観がつかめてきたので、明日は一定の成案を立ててみようと思っている。

おやすみなさい。

なんでも年表 一覧

 

膨大かつ雑多な年表が溜まりました。こちらにまとめて掲載します。同じものをホームページの方にも置きます。
ジャンル分けは、とりあえず話題別年表、地域別年表に大別しますが、話題と言ってもどんなものがあるのかわからないので、とりあえずアップの日付順に載せ、順次括っていきたいと思います。これを作るのにマル2日かかりました。


話題別年表
政治的できごと(世界)
ケネディ暗殺事件
キューバ・ミサイル危機
ゲバラの死

ウォーターゲート事件
イラン・コントラゲート事件







南シナ海と南沙諸島をめぐる紛争年表ブログに分割掲載していたものを増補・一本化しました。

南沙諸島関連年表 1

南沙諸島関連年表 2

南沙諸島関連年表 3


政治的できごと(日本)

大久保利通の足跡 (大久保個人をかなり越えてしまっている

日清戦争 年表

日露戦争 年表

GHQの戦後改革 タイムテーブル  戦後改革をGHQからの目線で整理してみました。

GHQの戦後改革 その1

GHQの戦後改革 その2

GHQの戦後改革 その3

GHQ年表 補遺分

GHQ年表 補遺 その2

満州事変と一夕会 年表

対中侵略と国内政治の流れ 年表

内務省年表(とりあえず戦争責任との関係で)

内務省の歴史 年表

戦後引揚事業 年表

経済的できごと

トービン税・金融取引税に関する年表

FATCAとCRS 経時記録

1997年論 まずは年表から (1997年、消費税引き上げで惹起された経済危機を時系列にしたもの)

アジア通貨危機年表 (増補版)

98年のルーブル危機

金融自由化、プラザ合意、バブル景気の三題噺 レーガン就任からバブルに至る10年間の時系列

日米構造協議年表 その1

日米構造協議年表 その2

日米構造協議年表 その3

みずほ 迷走の15年 (みずほ銀行の合併後の内部混乱の経過)

弁護士CM乱発のわけ その2

ギリシャ危機年表

 

世界史的なできごと

カリブの海賊の年表

“インディアン”抵抗史 (米国の先住民、いわゆる“インディアン”の歴史です)

青銅器時代を学ぶ

ケルト人について (文章の後半が簡単な年表になっています

清教徒革命年表 今後の課題

清教徒革命年表

赤いウィーン 年表  第一次世界大戦後、10年以上にわたって続いたウィーン「革新都政」の年表です。

「赤いウィーン」前史

大恐慌からニューディールへ 政治年表

ナチス・ドイツ「経済奇跡」年表

日本で知られていないドイツの反ナチ闘争

「仕上げ」としての大テロル

フランスのレジスタンス 年表

1946年、イランで原爆使用計画? (WW2の直後に起こったイラン紛争の経過です)

ハンガリー事件年表 その1 (解禁文書で見る経過)

ハンガリー事件年表 その2

ハンガリー事件年表 その3

大躍進運動 年表

東アジア共同体とASEAN 年表

ブラジル、民主化の闘い 略年表

 

日本のできごと

明治の農業改良運動 年表

太平洋炭鉱の歴史 年表 

堺県の歴史 年表

戦後の日本人慰安婦(パンパン)

バプテスト 年表 (日本におけるバプテスト教会の活動の歴史)

奄美共産党 年表 その1

奄美共産党 年表 その2

奄美共産党 年表 その3

奄美共産党 年表 その4

山口組内紛の背景

ビキニ核実験 被爆年表

ビキニ年表 増補版

イラク問題と山崎拓

APF・昭和ゴム 関連年表

脱原発年表 2011年

脱原発年表 2012年

脱原発年表 2013年

 

自然科学的なできごと


先カンブリア紀 年表 を増補

先カンブリア紀 年表

始生代への旅

原生代と古生代 年表

うつ病年表が挫折した

ワニの進化と直立歩行の真偽について

ゲノム研究 年表

素粒子物理学 年表

電子からレプトンへ

ニュートリノに関する年表 

iPS細胞 年表

 

思想的なできごと

カール・ポラニー年表

カール・ポラニー年表の増補 ついでに一言

ホッブス、ロック関連の年表

ミル親子 年譜

オーストリア学派とオーストリア社会民主党 「論争」の年表

フランス構造主義の年表 

ソシュールは誰に何を対置したのか (文章の一部が、いわゆる「ソシュール言語学」の成立をめぐる簡単な年表になっています

戦争責任論の系譜

武谷関連年表(自分流)

 

芸術上のできごと

5人組とチャイコフスキー 年表

リャードフとリャプノフの関連年表

剣道歴史年表

自然主義文学 年表的理解

大逆事件と啄木 年表

ボサ・ノヴァ年表
ボサノヴァ年表の解説というか…
地域別年表
日本
樺太(サハリン)の年表 その1

樺太(サハリン)の年表 その2

最上徳内と間宮林蔵

間宮林蔵に関する年表

最上徳内に関する年表

アイヌの北限の歴史

アイヌ民族年表

古代出雲のトロイ戦争か

分子人類学の「日本人起源論」 増補版

青銅器時代を学ぶ

長江文明 の流れ

三韓および倭国年表

日本書紀抜きの日本史年表  

衛氏朝鮮は天孫系の源流ではなさそう

三韓時代以前の朝鮮半島南部

蘇我稲目は倭国の末裔?

大和王朝の世界史への登場(7世紀の日本) 年表

古墳時代ではなく倭王朝時代と呼ぶべきだ (古墳時代の簡単な年表)

渡来人は現代朝鮮人と同一なのか (内容はほとんど米作り年表)


世界
米 国 340kb


#1米国史1,123kb カボットのニューファウンドランド探検から「門戸開放」まで

#2米国史2,65kb  フィリピンの反乱からケネディの当選まで

#3米国史3,116kb  対キューバ断交からクリントン弾劾まで

#4ケネディ暗殺,73kb

#5ウォータゲイト事件の経過,13kb

#5イラン・コントラゲイト事件の経過,38kb

#6インディアン抵抗史,37kb


ヨーロッパ (332 kb)
        
#1 スペイン年表~1930  150 kb レコンキスタから人民戦争前まで
#2 スペイン年表~現在まで  99kb スペイン人民戦争を中心に現在まで
#4 ポルトガル年表  122kb  19世紀以降を扱う。それ以前はスペイン年表内に格納。リスボンの春・カーネーション革命を中心に

ポーランドについてのかんたんなお勉強

スペイン統一左翼の歴史 その1

スペイン統一左翼の歴史 その2

スペイン統一左翼の歴史 その3

イタリア共産主義再建党の歴史 その1

イタリア共産主義再建党の歴史 その2

イタリア共産主義再建党の歴史 その3

 

朝鮮半島戦後史(1469 kb)
インドシナ戦争・ベトナム戦争(675 kb)
中国革命関連

毛沢東のライヴァルたち (下記の8+1本をまとめ、増補したものです。長征以前が対象です)

魔都上海年表

上海年表 補遺

内山完造の動き

 

中東関連

中東現代史年表 その1  86kb  イランとイラクが中心です

中東現代史年表 その2 (というより,ここ2年余りのイラク問題経過表) 118kb

パレスチナ(イスラエル)年表  105kb

エジプト 2013年  「7月4日事件」の8月末での整理です。

 

第三世界(440 kb)
ネパールの年表

バングラデシュ 年表 

ルワンダ史  大虐殺を挟んだルワンダの歴史。

西サハラの闘い その2

西サハラの闘い その3

南部アフリカ(南アフリカ,ナミビア,アンゴラ,モザンビーク,ジンバブエ,ボツワナ,ザンビア)  157kb

おそらく、ほとんど何の役にも立たない年表ですが…

 

 

 

 

4月からの生活設計
3月を以て、老健・特養での勤務も満了となる。
あとは悠々自適と行きたいが、「自適」の意味がわからない。かと言って事業を起こすほどの馬力もない。
いろいろ考えているが目下のプランは下記のごとし。
まずオフィスを持つ。
名称は「老人医療問題相談所」くらいにしておく。
売り込みは2枚看板だ。
A)老人医療問題相談事業
1枚目は「老人医療に関わる医学的助言」だ。主に在宅の介護スタッフやソーシャルワーカーを念頭に置いたものだ。
現場ではスタッフが医学的情報の断片化、医療側との意思疎通の困難に頭を抱えている。専門知識を踏まえた統合プランを求めている。
これのお手伝いがなんとかできないだろうか。
もちろん医学的知識だけではなんともならないのだが、それがないと一歩が踏み出せないのである。
そのために具体的にはどうしたら良いのだろうか。
① まずは電話あるいはメールでの相談に応じる。
② 話が複雑な場合(たいてい複雑だから相談するのだが)、依頼者との面接からはじまり、家族や介護役との相談、施設系担当者との連携が必要になる。
③ 場合によってはケアの対象に直接会う、担当医との連絡なども必要になるかもしれない。
④ 最終的にはあらあらのレポートを作成した上で関係者会議を開いて、合意を形成していくことになる。
⑤ このためにはこちらにも専門的知識の引き出しが必要になるから、他団体・専門医の間に人脈を形成しなければならない。
⑥ これらの経験を通じて得た教訓を公にし、ノウハウの積み上げを図り、多くの人々と共有していきたい。
といったあたりが、とりあえず頭に浮かんでくる。
よく考えてみれば、これらの実践はまさしく“Medical Social Work”そのものである。
B)老人医療問題研究会
どちらが手段でどちらが目的かはわからないのだが、どちらかと言えば、こちらのほうがやりたい方。
学生時代にやっていたセツルメントや社医研活動をもう一度やってみたいという思いである。
研究そのものが目的というより、お互いに知恵を持ち寄っての「勉強会」だ。「同好の士よ集まれ」というサークル活動に近い。会議そのものよりも「アフターアワー」を楽しみたいという密かな希望もある。
こちらの方は会員制になるだろう。その場所を提供できればいいなと思っている。
① 事例検討と講義、討論という例会。
② みんなの意見を載せる会報の定期発行。
③ できれば調査活動などのキャンペーンも組みたいが、そこまで馬力があるか。
C) スローガン
運動だからスローガンが必要だ。
思いつくままに上げておく。
①医療に学びを、現場に知恵を
②現場の悩みを受け止め、整理する
③現場の悩みを医療につなげ、展望を与える
④現場の問題を掘り下げ、みんなのものにする
お、まぁこんなところか。後は経営担当者と営業担当者を見つけなければならないな。

60年前のミスコン狂騒曲

最近もAKB48の「選挙」とかでCDを買わされたとかいう話があるが、昔はもっと壮絶だ。

余市町で昭和33年に起きた出来事。余市町のホームページに「ミス観光余市」と題する記事が掲載されている。

直接ご覧になっていただくほうが手っ取り早いが、ちょっと蛇足ながら余市に関する周辺情報を。

余市は元々アイヌ人の大きな集落があったところで、余市川の河口を港とし、鮭漁やニシン漁を営んでいたようだ。江戸時代になって松前藩が交易場所を作り、近辺のセンターとなった。幕末に入ると幕府の直轄するところとなり、遠山の金さんも視察に訪れている。明治に入ると日本人の入植が盛んになり、黒川町と山田村には会津藩の武士、登町や仁木町に阿波の人々が入植している。港町にはニシン漁を営む網元が軒を並べた。

多彩な出身地と農業、漁業、さらにマンガン鉱山の開発、ニッカウィスキーの進出などにより余市町は発展した。市街地そのものが港町(浜中・沢町)、国鉄駅周辺の黒川町、浜沿いの大川町に分かれ、町内でも部落ごとの拮抗関係が見られた。郊外の登町、豊丘町、さらに古平方面に向かって白岩、潮見、豊浜の部落もそれなりに威勢を張っていた。

ついでながら私も昭和50年から2年間、勤医協余市診療所の所長を務めたが、この診療所は全道で最初の勤医協診療所であった。

選挙になると、共産党でさえ揉める。私が赴任したとき町議は二人だったが、任期中に選挙があり、これまで候補を立てていなかった黒川町から3人目を出すということになった。

ところがどうも情勢は利あらず、3人目の出馬を断念することになった。黒川町の連中がかっかと来たことは言うまでもない。会議は数時間に及びすったもんだした。

てなことを念頭に置いて読んでもらうと一段と面白いと思う。


ということで、読み終えた人に追加情報。

町民一人あたり6.5個というが、当時、一家6人が相場だから、6.5X6=40箱だ。

戦後昭和史というサイトによると、昭和33年の消費者物価指数は現在の6分の1である。20万票X10円X6=1200万円となる。

トップの人はすごい。10月1日の中間発表を見て発奮して1ヶ月で2,205票から2万890票まで一気に積み上げた。もちろん自腹ということではないだろうが、3位から急上昇で逆転ということだから、それ相当の支出(軽自動車1台分くらい)はしたに違いない。

投票用紙がえげつない。①余市町内限定で、②製造工程で投票用紙を封入したのだから、町内で買うしかない。たちまち売り切れるはずだ。

それを20万箱も作ったのだから、最初から狙い目どおりだ。しかし欲しい人はどうしてもほしいから、投票用紙には闇値がついたことであろう。まさに狂騒曲だ。

10円のキャラメルは今の感覚では60円となる。そんなものだろう。

フルヤのウィンター・キャラメルは昔は全国で売られていた。静岡でも売っていて食べた記憶もある。味も全国レベルだった。グリコやカバヤよりは1クラス上だった。横長のレイアウトで箱いっぱいにスキーヤーの写真が印刷された、キャラメル界の常識を破る斬新なデザインだった。

フルヤ1

ただ、余市で一箱10円で売られていたのはこちらの方かもしれない。

フルヤ2

古谷製菓は札幌駅の東北、サッポロビールの工場に隣接していた。こういうアコギな商売をしていたからか、昭和40年代には姿を消し、工場だった廃屋も20年位前に取り壊された。

さぞや歯医者も儲かったのではないかと想像する。


北大でもミスコンをしているそうだ。

しかも北大祭の実行委員会の主催行事のようだ。

女性蔑視とか、差別だとかいうつもりはない。私も美人は好きだ。人一倍好きだ。「雨夜の品定め」も学生時代にはやったものだ。

ただミスコンとなると、教養ある人物が表立ってなすべきことではない。品性の問題だ。卒業生として「情けない」という気持ちは抑えることができない。恥ずかしげもなく、おったったペニスを人前にさらけている。

小学校から高校にかけて、ここまで教育が劣化しているのだ。おとなになるための教育が放棄されているのだ。

その結果として、北大はもはや文化的知性の象徴ではなくなったということだ。

「恥を知れ!」


本日のまんまる団地は傑作。著作権無視で転載。
manmaru

1万5千回とはすごい。
14669 ÷ 365=40年となる。休刊日とか入れたらもっと長くなるだろう。
オダ シゲさん、本当にご苦労さま。

最近、メールボックスにトゥイッターやらフェースブックやらのかけらがやたらと飛び込んでくる。

日によっては到着メールの半分くらいがその手のメールになっている。

正直いってあまり触りたいツールではない。

ネットというのは不特定多数に対して発信するものであるから、紙媒体に近い存在である。

私はホームページの時代から実名でやっている。実名ブロガーは少数派であるが、記事のクオリティーに対する責任の証と考えている。

紙媒体と比べると、あとでこっそりと訂正して知らんぷりすることができる分、便利ではある。ただ私は後から補充することはあっても、抹消訂正はしない。訂正は元の文を残した上で「すみません、間違えていましたので、下記のごとく訂正いたします」と書くようにしている。

だから、バグヘッド・エンペラーの使用感想に対するクレームはいまだに来るが、それで良しとしている。

そのせいか、かなりきわどい記事を書いてもネトウヨの集中砲火は浴びずにすんでいる。もちろん時々は来るし、いくつかはコメントを拒否した。いつかは集中攻撃を浴びるだろうと覚悟はしているが。

こういう人間にはどうもツイッターは性に合わない。

だからこの手のアプリをなんというのかが、未だによく分からない。

ウィキペディアで調べると、ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)と総称されるらしい。

主なSNSとして下記が挙げられている。何かどこかで聞いた名前がたくさんある。

Ameba
Facebook
Google+
GREE
Instagram
LINE
LinkedIn
mixi
Miiverse
Mobage
Myspace
Pinterest
Sina Weibo
Skype
Tumblr
Vine
WeChat
Twitter

今のところは縁なき衆生だ。

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