鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

カテゴリ: 80 日々雑感

現在のカテゴリー分類
01 国際政治/経済 (668)
11 日々雑感 (239)

新カテゴリー分類
ワンボタン・ワンプッシュで済むことが原則である。
無駄な作業を増やしたくないので、現在の分類をなるべく活かす。
項目は少し絞り込む。現在大小のカテゴリー合わせて49の項目があり、30程度には減らしたい。
ということで、以下のごとし。

10 国際政治・経済
11 東アジア
12 アジア(11諸国以外)
13 中東(マグレブ諸国含む)
14 ヨーロッパ
15 米国(カナダ含む)
16 ラテンアメリカ
17 その他(ほぼアフリカ)

20 歴史(基本的には日本史)

30 国内政治(財政含む)
31 対米従属(国家・経済構造の分析含む)
32 政治革新(各種の運動課題含む)
33 原発(東北大震災含む臨時的項目)
34 国内経済
35 社会問題(労働・福祉など)
36 社会理論(社会主義・哲学を含む)

40 自然科学
41 臨床医学(一部医療問題を含む)

70 芸術・文学
71 音楽(クラシック)
72 音楽(クラシック以外)
73 オーディオ・パソコン操作

80 日々雑感

ということで全23カテゴリー。これで始めてみよう。

最近、カテゴリーがうまく機能していないと感じるようになった。

最大の理由は

  • ブログをはじめた日

    2014/03/16 (開始日から1130日目)

  • これまでの投稿数

    4033

となっていることである。1130日というのはライブドアに引っ越してからの日にちで、ブログそのものを始めたのは2011年5月であるから、すでに6年を経過している。

とはいえ、問題はそれだけではない。

一つは、2段階のカテゴリーをフル活用しようとしたのがあだになっていること、10x10で100くらいに分類しようとしていたが、これでは煩雑すぎる。

一段階だけで済ますやり方に変えなければならない。(実際にはすでにそうしているのだが)

もう一つは関心領域が大分変わってきて、多少趣味的な様相を呈してきている。もう少し社会に向き合わなければならないのだが。

それで、経済・金融分野の記事が激減し、政治分野もかなり減った。らの話題はほとんどタッチしなくなっている。目下は音楽、古代史と生物学的なところに集中している。

これはカテゴリー分けの問題以前の話だ。読者にも不満を感じさせているかと思う。

まぁ、それはそれとして、とりあえずカテゴリー分けを検討しようかと思う。

そこで日本十進分類法を勉強してみることとした。

十進法は10X10で百項目にわかれる。これをそのまま使うことはありえないだろう。

自分のこれまでの記事と照らし合わせながら、20カテゴリーくらいに整理してみたい。

00

ここには必要なカテゴリーはない。

10

これは哲学だけで十分だ。心理学は医学の一分野と受け止めているので、哲学的心理学は興味の範囲外だ。

20


これは私の主たる興味分野だ。ただ政治史というのは多くは現代史であり、現代政治と深く関わる。現代政治経済を把握しようとするなら、歴史的視点から認識しなければなならないというのが、私の主義だ。

どのように分けるかとなれば、政治のカテゴリーの一分野として扱うことになるだろう。

とは言いつつも、世界の各国の社会状況は350統計という項目しかないので、各国の歴史カテゴリー内の「現代史」として突っ込むしかなさそうだ。

30

このカテゴリーは、取り付く島がない。いかんともしがたい。私も細かく分けすぎていて、それが失敗のもとになっている。

平和という項目も民主主義という項目も対米従属という項目もない。仕方がないのでこれを一応政治として括る。

ただ政治を語る場合、2つの問題がはみ出す。

一つは超十進分類的に安保体制が覆いかぶさるので、この問題は別途項目を立てなければならない。強いて言えば313「国家の形態、政治体制」にふくまれる。

もう一つは政治闘争の主体に係る課題である。むかしは統一戦線と言い、今は野党共闘と言う。これも強いて言えば315「政党、政治結社」にふくまれる。それ以外が310「政治」ということになる。

「憲法守れ」や、「言論の自由を守れ」は320法律のカテゴリーではなく310政治のカテゴリーにふくまれるものであろう。

330経済は一つのカテゴリーでよい。金融問題も経済一般としてそれほど矛盾はない。340財政(アベノミクスや消費税)は基本的には310政治の枠組みで語る。

経済的な対米従属は、安保体制=313国家の形態で語ったほうが良い。

国際的な経済情勢の分析(リーマンショック、欧州債務危機、租税回避など)は、国際政治・経済の枠組みで語ることになる。これは333経済政策・国際経済ではなく、十進分類を超えたとことに設定すべきであろう。

またマルクス主義経済学については経済もふくめた社会理論として、362社会史・社会体制の項目を当てるのが良いかもしれない。

非正規、過労死、貧困、医療介護などはひっくるめて社会問題として368社会病理に括っておく。

原発は基本的には政治課題ではあるが、多面的な要素を抱えているので、臨時的に項を起こしておいた方が良いであろう。

40自然科学は一つのカテゴリーで十分であるが、医学は医療と関わるだけに線引が難しい。一応臨床医学は臨床薬学や医療と合わせて別項目を立てておく。

50技術・工学と60産業は不要である。何処かに収まるはずだ。

70芸術・美術は、記事の量から見て76音楽は別にせざるを得ない。直接ここに入るわけではないが、オーディオを中心としてパソコン・アプリの遍歴がかなりの量を占める。成り行き上、音楽の項目の付帯項目としてパソコンのプログラム関連の記事もここに突っ込んでおく。

80言語の項目は当面不要である。90文学は芸術に突っ込んでいるが、当面不自由はないのでこのまま行く。


こんな感じで外観がつかめてきたので、明日は一定の成案を立ててみようと思っている。

おやすみなさい。

なんでも年表 一覧

 

膨大かつ雑多な年表が溜まりました。こちらにまとめて掲載します。同じものをホームページの方にも置きます。
ジャンル分けは、とりあえず話題別年表、地域別年表に大別しますが、話題と言ってもどんなものがあるのかわからないので、とりあえずアップの日付順に載せ、順次括っていきたいと思います。これを作るのにマル2日かかりました。


話題別年表
政治的できごと(世界)
ケネディ暗殺事件
キューバ・ミサイル危機
ゲバラの死

ウォーターゲート事件
イラン・コントラゲート事件







南シナ海と南沙諸島をめぐる紛争年表ブログに分割掲載していたものを増補・一本化しました。

南沙諸島関連年表 1

南沙諸島関連年表 2

南沙諸島関連年表 3


政治的できごと(日本)

大久保利通の足跡 (大久保個人をかなり越えてしまっている

日清戦争 年表

日露戦争 年表

GHQの戦後改革 タイムテーブル  戦後改革をGHQからの目線で整理してみました。

GHQの戦後改革 その1

GHQの戦後改革 その2

GHQの戦後改革 その3

GHQ年表 補遺分

GHQ年表 補遺 その2

満州事変と一夕会 年表

対中侵略と国内政治の流れ 年表

内務省年表(とりあえず戦争責任との関係で)

内務省の歴史 年表

戦後引揚事業 年表

経済的できごと

トービン税・金融取引税に関する年表

FATCAとCRS 経時記録

1997年論 まずは年表から (1997年、消費税引き上げで惹起された経済危機を時系列にしたもの)

アジア通貨危機年表 (増補版)

98年のルーブル危機

金融自由化、プラザ合意、バブル景気の三題噺 レーガン就任からバブルに至る10年間の時系列

日米構造協議年表 その1

日米構造協議年表 その2

日米構造協議年表 その3

みずほ 迷走の15年 (みずほ銀行の合併後の内部混乱の経過)

弁護士CM乱発のわけ その2

ギリシャ危機年表

 

世界史的なできごと

カリブの海賊の年表

“インディアン”抵抗史 (米国の先住民、いわゆる“インディアン”の歴史です)

青銅器時代を学ぶ

ケルト人について (文章の後半が簡単な年表になっています

清教徒革命年表 今後の課題

清教徒革命年表

赤いウィーン 年表  第一次世界大戦後、10年以上にわたって続いたウィーン「革新都政」の年表です。

「赤いウィーン」前史

大恐慌からニューディールへ 政治年表

ナチス・ドイツ「経済奇跡」年表

日本で知られていないドイツの反ナチ闘争

「仕上げ」としての大テロル

フランスのレジスタンス 年表

1946年、イランで原爆使用計画? (WW2の直後に起こったイラン紛争の経過です)

ハンガリー事件年表 その1 (解禁文書で見る経過)

ハンガリー事件年表 その2

ハンガリー事件年表 その3

大躍進運動 年表

東アジア共同体とASEAN 年表

ブラジル、民主化の闘い 略年表

 

日本のできごと

明治の農業改良運動 年表

太平洋炭鉱の歴史 年表 

堺県の歴史 年表

戦後の日本人慰安婦(パンパン)

バプテスト 年表 (日本におけるバプテスト教会の活動の歴史)

奄美共産党 年表 その1

奄美共産党 年表 その2

奄美共産党 年表 その3

奄美共産党 年表 その4

山口組内紛の背景

ビキニ核実験 被爆年表

ビキニ年表 増補版

イラク問題と山崎拓

APF・昭和ゴム 関連年表

脱原発年表 2011年

脱原発年表 2012年

脱原発年表 2013年

 

自然科学的なできごと


先カンブリア紀 年表 を増補

先カンブリア紀 年表

始生代への旅

原生代と古生代 年表

うつ病年表が挫折した

ワニの進化と直立歩行の真偽について

ゲノム研究 年表

素粒子物理学 年表

電子からレプトンへ

ニュートリノに関する年表 

iPS細胞 年表

 

思想的なできごと

カール・ポラニー年表

カール・ポラニー年表の増補 ついでに一言

ホッブス、ロック関連の年表

ミル親子 年譜

オーストリア学派とオーストリア社会民主党 「論争」の年表

フランス構造主義の年表 

ソシュールは誰に何を対置したのか (文章の一部が、いわゆる「ソシュール言語学」の成立をめぐる簡単な年表になっています

戦争責任論の系譜

武谷関連年表(自分流)

 

芸術上のできごと

5人組とチャイコフスキー 年表

リャードフとリャプノフの関連年表

剣道歴史年表

自然主義文学 年表的理解

大逆事件と啄木 年表

ボサ・ノヴァ年表
ボサノヴァ年表の解説というか…
地域別年表
日本
樺太(サハリン)の年表 その1

樺太(サハリン)の年表 その2

最上徳内と間宮林蔵

間宮林蔵に関する年表

最上徳内に関する年表

アイヌの北限の歴史

アイヌ民族年表

古代出雲のトロイ戦争か

分子人類学の「日本人起源論」 増補版

青銅器時代を学ぶ

長江文明 の流れ

三韓および倭国年表

日本書紀抜きの日本史年表  

衛氏朝鮮は天孫系の源流ではなさそう

三韓時代以前の朝鮮半島南部

蘇我稲目は倭国の末裔?

大和王朝の世界史への登場(7世紀の日本) 年表

古墳時代ではなく倭王朝時代と呼ぶべきだ (古墳時代の簡単な年表)

渡来人は現代朝鮮人と同一なのか (内容はほとんど米作り年表)


世界
米 国 340kb


#1米国史1,123kb カボットのニューファウンドランド探検から「門戸開放」まで

#2米国史2,65kb  フィリピンの反乱からケネディの当選まで

#3米国史3,116kb  対キューバ断交からクリントン弾劾まで

#4ケネディ暗殺,73kb

#5ウォータゲイト事件の経過,13kb

#5イラン・コントラゲイト事件の経過,38kb

#6インディアン抵抗史,37kb


ヨーロッパ (332 kb)
        
#1 スペイン年表~1930  150 kb レコンキスタから人民戦争前まで
#2 スペイン年表~現在まで  99kb スペイン人民戦争を中心に現在まで
#4 ポルトガル年表  122kb  19世紀以降を扱う。それ以前はスペイン年表内に格納。リスボンの春・カーネーション革命を中心に

ポーランドについてのかんたんなお勉強

スペイン統一左翼の歴史 その1

スペイン統一左翼の歴史 その2

スペイン統一左翼の歴史 その3

イタリア共産主義再建党の歴史 その1

イタリア共産主義再建党の歴史 その2

イタリア共産主義再建党の歴史 その3

 

朝鮮半島戦後史(1469 kb)
インドシナ戦争・ベトナム戦争(675 kb)
中国革命関連

毛沢東のライヴァルたち (下記の8+1本をまとめ、増補したものです。長征以前が対象です)

魔都上海年表

上海年表 補遺

内山完造の動き

 

中東関連

中東現代史年表 その1  86kb  イランとイラクが中心です

中東現代史年表 その2 (というより,ここ2年余りのイラク問題経過表) 118kb

パレスチナ(イスラエル)年表  105kb

エジプト 2013年  「7月4日事件」の8月末での整理です。

 

第三世界(440 kb)
ネパールの年表

バングラデシュ 年表 

ルワンダ史  大虐殺を挟んだルワンダの歴史。

西サハラの闘い その2

西サハラの闘い その3

南部アフリカ(南アフリカ,ナミビア,アンゴラ,モザンビーク,ジンバブエ,ボツワナ,ザンビア)  157kb

おそらく、ほとんど何の役にも立たない年表ですが…

 

 

 

 

4月からの生活設計
3月を以て、老健・特養での勤務も満了となる。
あとは悠々自適と行きたいが、「自適」の意味がわからない。かと言って事業を起こすほどの馬力もない。
いろいろ考えているが目下のプランは下記のごとし。
まずオフィスを持つ。
名称は「老人医療問題相談所」くらいにしておく。
売り込みは2枚看板だ。
A)老人医療問題相談事業
1枚目は「老人医療に関わる医学的助言」だ。主に在宅の介護スタッフやソーシャルワーカーを念頭に置いたものだ。
現場ではスタッフが医学的情報の断片化、医療側との意思疎通の困難に頭を抱えている。専門知識を踏まえた統合プランを求めている。
これのお手伝いがなんとかできないだろうか。
もちろん医学的知識だけではなんともならないのだが、それがないと一歩が踏み出せないのである。
そのために具体的にはどうしたら良いのだろうか。
① まずは電話あるいはメールでの相談に応じる。
② 話が複雑な場合(たいてい複雑だから相談するのだが)、依頼者との面接からはじまり、家族や介護役との相談、施設系担当者との連携が必要になる。
③ 場合によってはケアの対象に直接会う、担当医との連絡なども必要になるかもしれない。
④ 最終的にはあらあらのレポートを作成した上で関係者会議を開いて、合意を形成していくことになる。
⑤ このためにはこちらにも専門的知識の引き出しが必要になるから、他団体・専門医の間に人脈を形成しなければならない。
⑥ これらの経験を通じて得た教訓を公にし、ノウハウの積み上げを図り、多くの人々と共有していきたい。
といったあたりが、とりあえず頭に浮かんでくる。
よく考えてみれば、これらの実践はまさしく“Medical Social Work”そのものである。
B)老人医療問題研究会
どちらが手段でどちらが目的かはわからないのだが、どちらかと言えば、こちらのほうがやりたい方。
学生時代にやっていたセツルメントや社医研活動をもう一度やってみたいという思いである。
研究そのものが目的というより、お互いに知恵を持ち寄っての「勉強会」だ。「同好の士よ集まれ」というサークル活動に近い。会議そのものよりも「アフターアワー」を楽しみたいという密かな希望もある。
こちらの方は会員制になるだろう。その場所を提供できればいいなと思っている。
① 事例検討と講義、討論という例会。
② みんなの意見を載せる会報の定期発行。
③ できれば調査活動などのキャンペーンも組みたいが、そこまで馬力があるか。
C) スローガン
運動だからスローガンが必要だ。
思いつくままに上げておく。
①医療に学びを、現場に知恵を
②現場の悩みを受け止め、整理する
③現場の悩みを医療につなげ、展望を与える
④現場の問題を掘り下げ、みんなのものにする
お、まぁこんなところか。後は経営担当者と営業担当者を見つけなければならないな。

60年前のミスコン狂騒曲

最近もAKB48の「選挙」とかでCDを買わされたとかいう話があるが、昔はもっと壮絶だ。

余市町で昭和33年に起きた出来事。余市町のホームページに「ミス観光余市」と題する記事が掲載されている。

直接ご覧になっていただくほうが手っ取り早いが、ちょっと蛇足ながら余市に関する周辺情報を。

余市は元々アイヌ人の大きな集落があったところで、余市川の河口を港とし、鮭漁やニシン漁を営んでいたようだ。江戸時代になって松前藩が交易場所を作り、近辺のセンターとなった。幕末に入ると幕府の直轄するところとなり、遠山の金さんも視察に訪れている。明治に入ると日本人の入植が盛んになり、黒川町と山田村には会津藩の武士、登町や仁木町に阿波の人々が入植している。港町にはニシン漁を営む網元が軒を並べた。

多彩な出身地と農業、漁業、さらにマンガン鉱山の開発、ニッカウィスキーの進出などにより余市町は発展した。市街地そのものが港町(浜中・沢町)、国鉄駅周辺の黒川町、浜沿いの大川町に分かれ、町内でも部落ごとの拮抗関係が見られた。郊外の登町、豊丘町、さらに古平方面に向かって白岩、潮見、豊浜の部落もそれなりに威勢を張っていた。

ついでながら私も昭和50年から2年間、勤医協余市診療所の所長を務めたが、この診療所は全道で最初の勤医協診療所であった。

選挙になると、共産党でさえ揉める。私が赴任したとき町議は二人だったが、任期中に選挙があり、これまで候補を立てていなかった黒川町から3人目を出すということになった。

ところがどうも情勢は利あらず、3人目の出馬を断念することになった。黒川町の連中がかっかと来たことは言うまでもない。会議は数時間に及びすったもんだした。

てなことを念頭に置いて読んでもらうと一段と面白いと思う。


ということで、読み終えた人に追加情報。

町民一人あたり6.5個というが、当時、一家6人が相場だから、6.5X6=40箱だ。

戦後昭和史というサイトによると、昭和33年の消費者物価指数は現在の6分の1である。20万票X10円X6=1200万円となる。

トップの人はすごい。10月1日の中間発表を見て発奮して1ヶ月で2,205票から2万890票まで一気に積み上げた。もちろん自腹ということではないだろうが、3位から急上昇で逆転ということだから、それ相当の支出(軽自動車1台分くらい)はしたに違いない。

投票用紙がえげつない。①余市町内限定で、②製造工程で投票用紙を封入したのだから、町内で買うしかない。たちまち売り切れるはずだ。

それを20万箱も作ったのだから、最初から狙い目どおりだ。しかし欲しい人はどうしてもほしいから、投票用紙には闇値がついたことであろう。まさに狂騒曲だ。

10円のキャラメルは今の感覚では60円となる。そんなものだろう。

フルヤのウィンター・キャラメルは昔は全国で売られていた。静岡でも売っていて食べた記憶もある。味も全国レベルだった。グリコやカバヤよりは1クラス上だった。横長のレイアウトで箱いっぱいにスキーヤーの写真が印刷された、キャラメル界の常識を破る斬新なデザインだった。

フルヤ1

ただ、余市で一箱10円で売られていたのはこちらの方かもしれない。

フルヤ2

古谷製菓は札幌駅の東北、サッポロビールの工場に隣接していた。こういうアコギな商売をしていたからか、昭和40年代には姿を消し、工場だった廃屋も20年位前に取り壊された。

さぞや歯医者も儲かったのではないかと想像する。


北大でもミスコンをしているそうだ。

しかも北大祭の実行委員会の主催行事のようだ。

女性蔑視とか、差別だとかいうつもりはない。私も美人は好きだ。人一倍好きだ。「雨夜の品定め」も学生時代にはやったものだ。

ただミスコンとなると、教養ある人物が表立ってなすべきことではない。品性の問題だ。卒業生として「情けない」という気持ちは抑えることができない。恥ずかしげもなく、おったったペニスを人前にさらけている。

小学校から高校にかけて、ここまで教育が劣化しているのだ。おとなになるための教育が放棄されているのだ。

その結果として、北大はもはや文化的知性の象徴ではなくなったということだ。

「恥を知れ!」


本日のまんまる団地は傑作。著作権無視で転載。
manmaru

1万5千回とはすごい。
14669 ÷ 365=40年となる。休刊日とか入れたらもっと長くなるだろう。
オダ シゲさん、本当にご苦労さま。

最近、メールボックスにトゥイッターやらフェースブックやらのかけらがやたらと飛び込んでくる。

日によっては到着メールの半分くらいがその手のメールになっている。

正直いってあまり触りたいツールではない。

ネットというのは不特定多数に対して発信するものであるから、紙媒体に近い存在である。

私はホームページの時代から実名でやっている。実名ブロガーは少数派であるが、記事のクオリティーに対する責任の証と考えている。

紙媒体と比べると、あとでこっそりと訂正して知らんぷりすることができる分、便利ではある。ただ私は後から補充することはあっても、抹消訂正はしない。訂正は元の文を残した上で「すみません、間違えていましたので、下記のごとく訂正いたします」と書くようにしている。

だから、バグヘッド・エンペラーの使用感想に対するクレームはいまだに来るが、それで良しとしている。

そのせいか、かなりきわどい記事を書いてもネトウヨの集中砲火は浴びずにすんでいる。もちろん時々は来るし、いくつかはコメントを拒否した。いつかは集中攻撃を浴びるだろうと覚悟はしているが。

こういう人間にはどうもツイッターは性に合わない。

だからこの手のアプリをなんというのかが、未だによく分からない。

ウィキペディアで調べると、ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)と総称されるらしい。

主なSNSとして下記が挙げられている。何かどこかで聞いた名前がたくさんある。

Ameba
Facebook
Google+
GREE
Instagram
LINE
LinkedIn
mixi
Miiverse
Mobage
Myspace
Pinterest
Sina Weibo
Skype
Tumblr
Vine
WeChat
Twitter

今のところは縁なき衆生だ。

最近、と言うよりだいぶ前からだが、ソバをズルズルと吸い込んで食べるのが流行りのようだ。
流行りというより、それが「由緒」正しい食べ方のように押し付けられている。
元々田舎じゃ、そうやって食っていたかもしれない。米も食えなかった貧しい人たちの食い物だ。
それが江戸の出稼ぎ労働者に広がって、「江戸っ子」気取りの変な作法になったんじゃないかと思う。
だいたい「江戸っ子」というのが上品だと思うのがいけない。彼らは「下品さ」を開き直って、「貧乏なのが粋なんでぇ、無作法なのが粋なんでぇ」と強情を張っているにすぎない。
鮨だって素手でつまんで一気に頬張るし、鮨屋だって最初っからそのつもりで握っている。

昔だったら話は分かるんだ。そういう場末のこ汚い店に、上品な客が現れて鮨を箸で摘んで食べたりすりゃ、「そんな食い方するもんじゃねえ、鮨ってぇもんはこうやってつまんでポーンと口に放り込むもんだ」と言いたい気持はよく分かる。
しかし、これだけ国中に広がった食い物だ。どう食べたって文句はない。私は箸を使う。いちいちタオルで指を拭くのが面倒だし、第一、タオルがネチョネチョで不愉快だが、タオルを代えてくれる寿司屋にお目にかかったことはない。

落語にあるように、江戸っ子だってソバはたっぷりつゆにつけて食べたかったのだ。ただ江戸っ子の流儀からすれば、「そいつは粋じゃない」からやせ我慢していたに過ぎない。

蕎麦屋の講釈は不愉快なほどに理屈っぽい。そのほうが空気が絡むとか、なんだとか真顔で平気で喋る。理屈っぽいのは信州人の山家の血だ。江戸っ子から見れば、そういうのを「無粋」というのが分からないのか。

私は、断固噛み切る。つゆが絡むというのなら、ソバをズボッとつゆに漬ければ済む話だ。噛み切った残りがまた椀に戻るのが不潔だというが、マイつゆだ。串かつのソース二度漬けとは違う。
昔、小学校には必ずあおっぱな垂らしたやつがいたもんだ。昔はティシューなどという気の利いたものはないから、いい加減垂れてくると、思いっきり鼻を吸うと青い二本の紐がジュルジュルっと鼻の穴におさまる。
あの光景が思い出されてならない。
「おいおい、つゆが飛び散るではないか」

カルテというのは患者の情報の集約点として位置づけられている。しかし医者にとってはメモ紙でもある。
カルテは余分なことを書くのを許されない。しかし何が余分なことなのか、そもそも余分なことってあるのか。
「この人は生粋の札幌っ子なのに阪神フアンだ」などと書くと「他事記載」として叱責の対象となる。
研修医時代には「うるせえばばぁだ」とドイツ語で書いたのがバレて、院長に大目玉を食らった。
ある患者の治療方針をめぐっては、他の医者とカルテ上で大喧嘩したことがある。
最近では医事訴訟の際にカルテが最大の証拠となるから、さらに記載にはうるさくなった。電子カルテになったのだから自分用のカルテと病院用のカルテを作って、自分用のカルテから必要分をコピペするのもありかと思う。
グループホームに訪問診療に出かけるようになって、認知症の患者のアナムをとるのにハマってしまった。ナースが「回想療法ですか」と言ったが、別にそんな知識はない。偉そうに言えば患者から尊厳を引き出したいのだが、平たい話、スナックの姉ちゃんから生い立ちを根掘り葉掘り聞きただそうというのだ。スナックの姉ちゃんはそんな客の下心などとうにご存知だから、作り話をペラペラ喋る。ところがこちらもプロだから、そういう作り話の中から真実を引きずり出そうとする。
こういう虚々実々の駆け引きがスナック通いの醍醐味なのだ。
アルコールのせいで話が跳ぶ。
私がアナムをとったのはコテコテのアルツハイマーのばあちゃん。しかし攻撃性はない。
「生まれはどこ」
「山形県北村山郡マルマル村字マルマル」
しかしそんな村はない。あとで明治時代の地図を見るとたしかにある。しかし字(あざ)になるとさすがに分からない。
川の河岸段丘の上にあった集落のようだ。下を流れてたのが最上川なのかその支流なのかもわからない。そこの尋常小学校を出たあと奉公に出て結婚したらしい。そのへんからもう記憶は曖昧だ。
ところが、修学旅行の記憶だけは鮮明だ。朝まだ暗いうちから家を出て、随分と歩いて駅まで行った。汽車を乗り継いで仙台に行った。仙台で止まった旅館の布団の暖かかったことは憶えている。
「仙台はどうだった?」と聞いても分からない。
おそらく昭和10年前後のことだ。そのちょっと前、東北は大凶作で「娘売ります」の看板が出ていた頃だ。実家は大奮発して娘を修学旅行に送り出したことだろう。
その後も、訪問のたびに話の続きを聞き出そうと思うのだが、もう出てこない。しかしヘルパーさんの間で修学旅行の話はすっかり有名になって、心なしか彼女を見る目が優しくなったように思える。
私も訪問診療の帰りはるかに手稲山を仰ぎ見る癖がついてしまった。






一応書いてみる。酒飲み話だ。

4月にいまの仕事を辞めてからやってみたいこと、それはもう一度セツルメント活動を再開することだ。

身過ぎ世過ぎでやってきたが、それはもう良い。もう一度、勤医協の歯車になるのもしんどい。

老後の趣味でブログに精を出すのも人生だ。しかしそれで一生を終えるのも癪だ。趣味の世界は趣味の世界だ。やはり世のため人のため、さらには正義のために働きたい。

といっても、そちらの方の才覚はない。

そこで思い出したのが、学生時代のセツルメント活動だ。あれをやれば良いのだ。誰かがマネージメントしてくれれば、むかしの仲間を集めて、貧困層の医療の悩みに手を差し伸べれば良いのだ。

全生連でも民医連でも良いレポートをたくさん出している。しかし残念ながら医学的な面でのフォローが欠けている。医者が関与していないからだ。

理由ははっきりしている。医者が忙しすぎるからだ。しかし忙しさを理由に関わらなくなって、いつの間にかそれが当たり前になってしまったことも反省しなければならない。

昔セツルで論争があって、セツルメント活動は学生でもできることをしてすこしでもお役に立とうという実践優位論と、学生は学ぶことに徹するべきで、そこで得た観点を卒業後の生活に活かしていくべきだとする学習優位論があった。

もちろん原論的には学習優位なのだが、そこには「やむにやまれぬ大和魂」みたいなところがあって、現場の指揮者は威勢のいい実践優位論に傾きがちであった。

いまもしこの歳になってセツルメントをやるのなら、原論的には実践優位になるのだろうが、むしろ今だからこそ学習優位論に立ちたくなる。

気持ちは「勉強させてもらいます」が我々の合言葉になるだろう。しかしまわりからは、「せっかくお医者さんにきてもらったのだから」という期待が高まるに決まっている。だからそれにはそこそこ応えなければならない。

しかしそこはギブアンドテークしかない。というより健康相談と健康調査が否応なしにセットだ。「授業料はお返しします。その分勉強させてください」ということになる。

フィールドは山とある。セツラーはセツル(定着)どころか狩人のように動き回らなければならない。三大学の衛生学教室や公衆衛生学教室の力を借りなければならない

金の亡者たちが世界を壊していく。
そういう景色が眼前に展開されつつある。
レーガン以来わずか30数年で、世界の景色は一変した。雪が降るように不信が降り積もり、不寛容の風が吹きつのる。世の中、原理主義だらけだ。
貧富の差がこれだけ広がり、世界の一方に富が積み上がる一方で、世界のもう一方に貧困と不満、政治への不信がうず高く積み重なっている。人が人を信頼しなくなり、政治や民主主義を信用しなくなり、野蛮な力への信仰が止めどもなく広がっている。
恐ろしいものが恐ろしく見えなくなってしまう。汚らわしいものが汚らわしく見えなくなってしまう。
過ぐる2つの大戦で1億人が死に、そこから人類は教訓を得たはずなのに、人類は一方における金の亡者、他方における野蛮な暴力主義の台頭を阻止し得ないでいる。
ソドムがナチズムを生む。不徳ものを罰し得ない社会の劣化は必ずその罰をもたらす。

とにかく対話を広げよう、ダメなものはダメとはっきり言おう、恐れてはならない。口角泡を飛ばして議論しよう、
とにかく街頭に出よう、団結の輪の中に入れ。行動をともにしよう、その力が政治を変えていく、それは確かめ済みではないか。
統一しよう、小異を捨てて大同につこう、そして大同につかせよう。冷笑や批判は保留しよう。ヒューマンな心と連帯の精神が何よりももとめられている。
一番苦しんでいる人に救いの手を差し伸べよう。通り過ぎるのはやめよう。立ち止まって声をかけよう。そこにいるのは私なのだ。
現場をだいじにしよう。現場は生きることの価値を教えてくれる。現場の集団は勇気を与えてくれる。
学習しよう。学ばなければ闘いはない。学ぶことは闘うことだ。闘うより学ぶことのほうが大切だ。
人間はもっと美しいもののはずだ。その下心のない美しさに、てらいなく心の底から感動しよう。

北海道における酒造業のおいたち というページがあった。

北海道酒造組合の業界誌の第64巻第1号とある。日付けが入っていないが、図表や(注)を見るとおそらく昭和43年ころのものと思われる。

かんたんなものであるが、概要は分かるので、すこし内容を紹介しておく。

1.明治維新前の酒造業

一般には内地酒を移入していた。小規模な酒造は行われており、 200年くらい前、明和の頃に函館の逢坂七兵衛が酒造を営んだという記録が残されている。

2.明治初期

函館と道南地区の清酒 業者は、明治12年には19場を数えたという。

札幌では石川県出身の柴田与次右衛門氏が明治5年に酒造をはじめた。最初は濁酒、ついで清酒も手がけるようになる。そのご相次いで開業者があらわれ、明治25年には業者37人があわせて11,227石を生産した。

しかし北海道の酒造業が一気に拡大するのは日露戦争のあとからである。多くの酒造りが内地から進出、明治34年にはその数150に達した。

3.北の誉 御三家

最初に創業したのは小樽北の誉酒造で、明治34年。社長は野口吉次郎。ついで明治40年に旭川北の誉が創業となった。札幌北の誉は遅れ、大正3年の創業となっている。

4.旭川の酒造業

旭川には陸軍旭川師団があったことが理由であろう。

最初は明治32年、高砂酒造、塩野谷酒造が相次いで創業。翌明治33年には山崎酒造が札幌から移転開業している。

5.栗山の小林酒造

旭川が陸軍相手の商売とすれば、栗山は夕張炭鉱が商売相手だった。

小林酒造は明治12年に札幌で創業したが、時流を見て明治43年に栗山に移った。酒より他に楽しみのない1万の荒くれ男たちに独占販売するのだから、儲からない訳がない。

6.意外に伸びない北海道の清酒生産

清酒生産

コピペのコピペなので少々見づらいと思う。

これを見ると分かるように、北海道の清酒生産はほとんど増えていない。最新が昭和40年で、このあとはさらに下がっている筈だ。

解説によると、昭和14年の生産減少は、値崩れを防ぐために生産者組合が自主規制と生産 統制を実施したためだとされる。

この間人口は大幅に増えているので、道内の清酒消費に対する道内産のシェアが落ちているものと考えられる。内地物に押されているのだろう。

2016年現在の酒造蔵は11ヶ所まで減少している。道南には一つも残っていない。

これは分かる。学生時代ビラの原稿を書いて、カッティング、スッティングして、窓から忍び込んで教室に撒いて、それから飯を食いに行った。食堂でかじかんだ手で「アチチ」と言いながら徳利の首をつまんで湯呑み茶碗についでぐいっと行くと、生き返った心持ちになったものだった。しかし翌日つけはきた。激しい頭痛と吐き気、いわゆる二日酔いである。

日本酒というのは二日酔いするものだと思っていたが、おとなになってから良い酒を飲むと不思議と二日酔いしない。

理由は直感的にわかった。むかしの日本酒は、学生が飲むような安酒はとくに、混ぜ物が入っていた。飲んだ後にサッカリンと味の素のエグミが残るのである。良い酒にはそのような後味はない。

だから千歳鶴を飲んだあとの二日酔いは、実はチャイナレストラン・シンドロームではなかったかと思っている。

北海道の酒、あえて言わせてもらえば千歳鶴と北の誉はほとんど毒液のような酒だった。このような植民地の流れ者相手の商売がいつまでも続くわけがない。

その頃の小林酒造の酒は札幌では流通していなかったが、夕張の流れもの炭鉱夫に飲ませる酒が千歳鶴よりまともだったとは想像し難い。

本日の国際面の囲み記事。
コピペで紹介する。
交通マナー
「してやったり」の表情を浮かべる島崎さんは描かれていない。

もちろん、ファシズムは交通マナーとは関係ないが、そもそも日本をドイツやイタリアのファシズムと同一視するのもおかしいのだ。
日本は絶対主義天皇制が攻撃性を強めただけで、見かけは同じでも周回遅れである。
ヨーロッパのファシズムは民主主義の上に、民主主義の方法で、民主主義を否定するようにして生まれた。日本にはそもそも民主主義はなかった。
民主主義というと語弊があるかもしれないが、ファシズムは君主制(帝政)に代わるべきはずの共和制が産んだ奇形児である。
「見かけは同じでも周回遅れ」というのは、逆に言うと、「周回遅れだが見かけは似ている」ことになる。
日・独・伊三国の見かけ上の特徴は反動主義政治、独占資本擁護、軍国主義、対外侵略である。
それぞれが正反対と言うほどに異なる伝統・国民気質を持ちながら、同じような政治形態に至ったところに枢軸国家の歴史的本質を見なければいけない。言っちゃ悪いかもしれないが、フランスだって紙一重だったのである。それはアランさんのほうがよく知っているはずだ。ディエンビエンフーだってアルジェーだって、ベイルートだってルワンダだってフランスじゃん。今じゃフランスがファシストの世界最強の拠点だ。
この囲み記事は、そういうことを教えてくれる。それは、21世紀初頭の今の世界にこそ求められている視点である。

本日もぶらりとドライブ。旧夕鉄線沿いに栗山まで足を伸ばした。みぞれが降ったりやんだりの、ひたすら寒い初頭の一日であった。道路が夕張川をわたるとすぐ、右手に小林酒造の酒蔵が見えてくる。市民に開放されてなかなかの観光名所になっているようだ。

とくにあてと行ってないし、そろそろ昼時だ。どうせ見るものもないだろうが、ちょっと食べるくらいのところはあるだろうと、寄ってみた。

この天気で、みな行くところはないと見えて、意外と混んでいる。

本店の建物が北海道の有形文化財になっているということだ。小樽の銀行に真似て作ったとされ、道理で馬鹿でかい金庫が鎮座ましましている。たしかに色内の日本郵船の作りと似ている。しかし規模は大分小さい。

並んでいるものは小林酒造の製品がほとんどで、あとはちょっとした日用品とかが並べられている。所詮は栗山町だ、こんなもんでしょうと、外へ出た。

出た脇に「小林家」と看板があって通路がある。見学自由のようだ。

入っていくと2階建て木造の堂々としたお屋敷が立っている。とは言え、和風の民家であり、人を威圧するような厳めしさは感じられない。

小林家 正面

ホームページより)

これが中にはいって驚いた。入ってすぐの2、3部屋しか見ることはできないのだが、なんと部屋数が30ある(公式には23)という。

私の子供の頃、お屋敷といわれる家を何軒か知っているが、指折り数えると10部屋ちょっとがせいぜいだったように思う。我が家でも数だけなら6DKだ(6部屋目は無駄だったと後悔している)

部屋数が多いのにも驚いたが、築120年というのに、手入れもしていたのだろうが、実にしっかりした作りだ。これだけの大工を良くも揃えたものだと思う。

家のぐるりを回ろうとしたが道路側に面した塀だけ見て10分もかかった。最後には迷子になってしまい、慌てて地図を便りに右往左往というみっともない仕儀になってしまった。

おそらく施主が造作道楽(と言うより造作狂)でひたすら間数を増やしていったのだろう。普通は洋館風の別邸を建てるとか、子どもたちには離れを設えるとかするものだろうと思う。宿泊客が多いのなら、いっそ母屋ごと明け渡して、自分たちはもう少しこじんまりと暮らしたいとは思わないのだろうか。

案内係の人(小林家のご家族らしい)の、最近の通信が泣かせる。

「春夏秋冬、外より寒い小林家」です。

スタッフは、2月のご案内のお客様を「チャレンジャー」と呼んでいます。

…家屋の見学には厚手の靴下が2枚必要です。ストッキングなんて裸足に氷水をかけた感じになります。ホント、どんなウチなんでしょ・・。

とにかく、公的な性格はまったくない(最初は多少あったようである)、まったくの私邸である。本店の方に仕事に必要な施設、設備は全て揃っている。常識はずれの無駄な贅沢としか思えない。とは言いつつも、貧乏人には「いかにも田舎の富豪がやることだ」と、せいぜい嫌味を言うくらいが関の山。

この間数への異様なこだわり、一見の価値はある。店などあまり見ずに、まっすぐお屋敷に行ってみたほうが良い。

杉江栄一さんがなくなった。本日の赤旗で報道された。1960年の入党とある。32歳で比較的遅い。
50年問題での葛藤は味わっていない人かもしれない。同志社大学を出て、長年中京大学で教鞭をとられた。どちらかと言えばローカルな活動である。反核活動で活発に動かれていたので、我々にも馴染みはある。
中京大学のレポジトリーでいくつかの論文が閲読できる。ただ紹介しようと思うと、鍵がかかっていてコピペができない。縦書きの論文なのでパソコンで読むには上下がはみ出して読みづらい。
アドベにはテキスト・ファイルに書き出ししてくれるオプションがあるのだが、1ヶ月数千円の会費をとると言う。アコギで実に不愉快だ。
ただアドベと言えども、秘密のキーがあってテキストがこっそり隠されているというのではなく、結局はOCRのエンジンで読み取るらしい。鍵のかかっていないファイルなら読み出してくれるが、結構間違いはある。
とすれば、OCRのソフトで読み取るほうが安いだろうと考えた。
それでフリーのOCRソフトを探したが、まぁ以前から分かっていることだが、ろくなものはない。結局、パナソニックの「読取革命」という有料ソフトを買う以外の選択はない、という結論に至った。
今アマゾンでセールをやっていて、定価の半額(7千円ちょっと)で買えるらしいので注文しようと思う。
まずはそれからだ。それがうまく行けば、グーグル・ブックスもいったんPDFに落としてファイル変換できるかもしれない。もちろん著作権侵害の疑いがあるなので、想像してみただけだが。
杉江さんの論文は、反核関係は既におなじみのものが多いが、若書きの「フランス人民戦線とその外交」が面白そうなので読み始めた所。
てなことで、一日終わってしまった。非生産的な一日だった。

いくつか写真を転載しておこう。

最初が野幌駅。昭和43年の撮影とある。

この写真は情報量が多く大変楽しめる。(写真の上でダブルクリックしてください)

野幌駅

写真の奥の方向が札幌である。夕鉄独自の駅舎はなく国鉄に乗り換えるだけのホームのようだ。

解説を読むと、ターミナル機能を果たしていたのは一駅隣りの「北海鋼機前」で、ここでバスに乗り換えてしまう人も多かったらしい。


*線路際の道は駅裏通りということになるのであろうが、結構人通りがある。

*ホルモン焼き「京城園」は、北海道では少数派だった民団系の店だろう。我々が行くのは「平壌園」とか「千里馬」という名前だった。しかし店主の出身は大抵が南だった。梅割りで悪酔いして「汽車は行くー、汽車は行くー、南を目指してー」と統一列車の歌を歌ったものだ。

*その隣はマーケットだ。新築らしく、フードサプライと気取っている。シャッターが降りているのは日曜日だからか。あの頃は平気で日曜休業だった。お陰で正月3が日サトウの切り餅とインスタントラーメンで過ごしたこともある。スーパーや生協が進出するのはもう少し後だ。もちろんコンビニはない。

*向こうからくる女性は当時の標準的モード。ミニの流行り始めで、真冬でも膝上スカートだ。パンストやパンタロンが流行るのはその次の年くらい。スラックスやジーパンはほとんどいなかった。

*一応道路は除雪されているようで、二人がすれ違うのに苦労はなさそうだ。その奥にたくさんの荷を積んだ日通のトラックが走っているから、その分の道幅はある。しかし真知子巻きのおばさんが道端に立って車をやり過ごしているところを見ると、それ以上の幅はなさそうである。

*酒井建築設計事務所の看板があって、その向こうのガラス戸にはカーテンがかかっていて、いかにも日曜日の雰囲気だ。屋根の雪は30センチは積もっていて、とりあえず落ちそうなところだけ雪下ろししている。しばらく雪は降っておらず、少し暖かいせいか解けかかって汚い。真冬というより早春、3月末という感じの雪だ。

*いかにも寒そうな曇天で、向こう向きの若い衆は黒いオーバーのポケットに両手を突っ込んで前かがみに歩いている。項(うなじ)の刈り上げがいかにも寒そうだ。

*その向こうが「サッポロパン」の店だ。じつは「サッポロパン」という会社はあまり聞いたことが無い。グーグルでもまったくヒットしない。その一軒おいて向こうが北海道新聞の販売店。戸口に一人立っているようだがはっきりしない。

*列車は2両連結の気動車。湘南型で連結器は昭和20年代のもの。この頃函館本線は電化されたばかり。夕鉄の上にも架線が張られているが、無用の長物。すでに彼我の差は明らかだ。

*ひとり、乗車口で荷物を積み込んでいるが、このあたりのホームは屋根もなく除雪されていない。一方階段の出口からこちらはそれなりに除雪されている。おそらくそこで車内整備をしてからこちら側に進んで、乗車を開始するのではないだろうか。

*3月末とすれば、この明るさは夕方5時ころ。用事を済ませた人々がこれに乗って夕張に着くのは8時ころになるのだろうか。

*上方を右に展開してみよう。跨線橋は木製ではあるが、相当の力作である。なぜなら一番線と二番線の間に二本も線路があるからだ。つまりこの跨線橋は線路4本分の幅を両側だけで支えなければならない。
なぜ駅構内に2本もなければいけないのか、よく分からない。函館本線(と言っても小樽旭川間だが)は電化と同時に複線化されている。

本日は気持ちのよい晴天で、暑ささえ感じるほどだった。

出不精の私だが、思い切ってドライブに出かけた。

前から気になっていた「きらら街道」を走ってみたくなったのである。

この街道、野幌駅の南側からほぼ東に向けて走っている。東に向けて、といえば当たり前のように思われるかもしれないが、実は江別の東側に広がる広大な石狩平野、いかにも開拓地らしく道は完全な碁盤目を形成している。

その方角は、なぜかは知らないが北西を向いているのである。これは札幌も同じである。

その中できらら街道だけは秩序を無視するかのように、あくまで斜めに突っ切っていくのである。

しかも真っ直ぐではない。なよなよと左右にカーブを描きながら、しかし全体としてはまっすぐに東を指して走っていくのである。

私はこれがかの北炭夕張鉄道の線路跡ではないかと思っていた。

地図ではどこまでというのがはっきりしないが、南幌町を越えて北長沼、中央農業試験場のあたりまでは特徴的な曲線美が追える。

ナビという便利なものがあるので、大体の見当はつくのだが、何ヶ所かで突然道が切れる。とくに南幌市街は団子の串のように見えなくなってしまう。

ただ、切れた方向をナビでたどるとまた復活しているのである。

夕鉄線路跡

なんだかんだと言いながら中央農業試験場まで行ってそこから引き返してきた。

ここからが普通の人と違うところで、帰ってきてから調べ物を始める。


一番頼りになったのが、ooyubari9201のblog というサイト。石炭最盛期の頃夕張にクモの巣のように張り巡らされた鉄道網を回顧するサイトだ。

これを見ると、夕張鉄道がニューロンのような構造をしていることに気づく。夕張の最大手であった北炭(北海道炭鉱汽船)は市内各地の炭鉱に樹状突起のように触手を伸ばし石炭をかき集める。それが夕張鉄道という軸索を通って次のニューロへと送られる。そして野幌駅という軸索末端で、国鉄とシナプス接合するという仕掛けである。

昭和35年ころ夕張は最盛期で12万人も住んでいた。夕張だけではない。石狩炭田を抱える空知支庁には82万人も住んでいたのである。そのとき札幌は50万人である。

要するに、夕張鉄道は北海道経済の中心をなす大動脈の一つであったのである。定山渓鉄道や天北線とはレベルが違う。

とは言え、この鉄道が夕張のためにだけ作られた盲腸線であることは間違いないし、石炭輸送が主目的である以上、途中の景色が割と寒々としたものとならざるをえないのも当然である。


25日の日曜から本日まで、釧路に旅行してきました。
 この間、パソコンには指一本触れない生活を送りました。
もちろん毎晩のごとく飲み歩いていたのですが、それでもずいぶん本が読めてしまいました。
行くに際しては「多分これ一冊あれば足りるだろう。ページを開けただけで眠くなるだろうという確信のもと、薮下史郎さんという人の書いた「教養としてのマクロ経済学」という本だけ持っていったのですが、なんと4日間で読んでしまいました。
ハードカバーで360ページ、これがなんと2千円というのですから、教科書用に大量印刷したのでしょう。数式のところはさっぱりですが、「これがマクロか」という感じはつかめました。
ただ一番知りたかったこと、「資産とは何か」というのはやっぱり書いてありませんでした。
マクロ経済と言っても、結局GDPから始まってしまうのですが、GDPというのは1年間の富の生産量ですから
 

天北線余話

今日は思い切って紀の国屋まで行って、ズラッと並んだ本を眺めてきた。タバコが吸いたくなって表に出たが、そのような喫茶店は見当たらない。やっと見つけたらスターバックスだった。

家を出たのが10時、帰ってきたらすでに3時半だった。その間ずっと紀伊国屋で立ち読みをしていたことになる。腰と膝にもきたが、眼に来た。最後は字が見えなくなってきた。

結局、重い本には手が出ず、買ってきたのが「北海道の鉄道廃線跡」(本久公洋著 北海道新聞社)という本だった。

ここに天北線の紹介があるので、少し抜書きしておく。ついでに他のネット文献からも拾って拡充しておく。

 

1898年(明治31年) 北海道官設鉄道、旭川から北に伸びる天塩線(初代)の工事に着手。当初の建設計画では音威子府までを天塩線とし、それより北を宗谷線と名付けた。

1899年 天塩線が和寒まで延伸。

1900年 天塩線が士別まで延伸。

1903年(明治36年) 北海道官設鉄道の天塩線が名寄まで開通。

1905年(明治38年) 日露戦争。日本の勝利に終わる。樺太の南半分が日本領となる。日本郵船が小樽と樺太の大泊港を直行で結ぶ定期航路を開設する。

1905年 天塩線が同一線名のまま官営鉄道(逓信省鉄道作業局)に編入される。同時に稚内までを結ぶ鉄道の敷設に拍車がかかる。

1911年 天塩線が恩根内まで延長される。

1912年(大正1年) 天塩線が宗谷線に改称される。

1912年 宗谷線が音威子府まで開通。このとき旭川と名寄間を宗谷線と改称する。

1914年(大正3年) 音威子府と小頓別の間が開通。これに合わせ旭川以北の全線が宗谷線と名づけられた。これにより天塩線の名称は一旦消滅。

1914年 小頓別からは歌登町営簡易軌道が分岐。鉄道開通に合わせ丹波屋旅館が建てられた。

1916年(大正5年) 小頓別と中頓別間が開通。

1918年(大正7年) 中頓別と浜頓別間が開通。

1919年(大正8年) 旭川から浜頓別までの開通分を宗谷本線と一括し改称。(21年に一旦宗谷線に戻るが、22年の全線開通に伴いふたたび宗谷本線に改称)

1920年(大正9年) 鬼志別まで延長開通。

1922年(大正11年) 稚内まで開通し、宗谷本線が完成する。

1922年 音威子府から北に、稚内から南に向けて日本海側を周る鉄道の敷設工事が始まる。ふたたび天塩線の名が用いられる。

1923年(大正12年) 稚内と大泊を結ぶ稚泊航路が就航。

1924年 函館から名寄までの急行列車が運行開始。名寄以北は普通列車として運行。

1924年(大正13年) 稚内から南下する天塩北線が兜沼まで開通。音威子府から日本海側に出て稚内を目指す天塩南線が問寒別まで開通。

1925年(大正14年) 天塩南線が幌延まで開通。

1926年(大正15年) 天塩線の幌延と兜沼間が開通。天塩線として一本化する。浜頓別経由の宗谷本線は総延長149キロで、完成に11年を要した。一方、天塩線は127キロで、完成はわずか5年であった。

1928年 函館と稚内を結ぶ急行列車が運行開始。この急行は浜頓別に向かわず、新設された天塩線を経由した。

1928年 稚内と稚内港間の路線が開業。

1930年(昭和5年) 天塩線が宗谷本線となる。旧宗谷本線は北見線に改称。天塩線という名称の路線は一旦消失。

1935年 宗谷本線の幌延駅から分岐し、遠別まで伸びる路線が開設。天塩線と命名される。

1939年 稚内が南稚内駅、稚内港が稚内駅に名称変更する。さらに稚内駅の先に稚内桟橋駅が設置される。

1958年 天塩線は羽幌線に編入され、天塩線の名称はみたび消失。

1958年 札幌・稚内間に夜行準急「利尻」が新設。

1961年(昭和36年) 北見線が天北線と改称。

1961年 函館と稚内を結ぶ急行「宗谷」が運行開始。札幌と稚内を天北線経由で運行する急行「天北」が運行開始。小頓別駅 - 中頓別駅 - 浜頓別駅 - 鬼志別駅に停車。

1980年 国鉄再建法が施行される。天北線は第二次特定地方交通線に選定される。

1989年(平成1年) 天北線が廃線となる。

 


You Tubeで下記の映像が見られる

【車内放送】昼間のブルートレイン!?急行「天北」(14系座席+寝台 ハイケンス 札幌発車後)

天北線(廃線)を行く 急行「天北」  

天北線

いなか(というよりほとんど僻地)の人にとって、豪華な急行列車はそのまわりに豊かさと札幌の臭いを撒き散らしながら走ってくる。

 

いまはどうなっているのだろうか、むかしは月曜の朝というと校庭で全校朝礼か決まりだった。
「整列」と号令がかかる。背の低いものから高いものへ並んだところで、今度は「前へならえ」だ。
両手を前にあげて前の生徒の肩に触れるか触れないかのところまで間合いを詰める。
このとき必ず前の生徒を突っついたり、くすぐったりする奴がいるから、前の先生が睨みつける。
しつこくやる奴がいると、先生が飛んできてげんこつをお見舞いする。理不尽なことに両成敗だ。
整列が終わると「気をつけ」、「休め」で、それから校歌斉唱だ。
「東はるかに駿河湾、北には仰ぐ富士の嶺、長田の里に生い立ちて、この幸何かに例うべき」
さすがに戦後のあの時期、君が代はなかった。
それから「気をつけ! 校長先生ご挨拶」となる。
校長が高さ1メートルほどの式台にのぼり、挨拶が始まる。
これが長い。時節の挨拶から始まり、今日がなんの日なのかを説いていく。最後は教訓話になりなんかカンカのご託宣をたれて終わる。この間10分位だろうか。
困るのは「冗談」を入れることで、その「冗談」がいかに面白いかを諄々と説くから、その間にこちらは固まってくる。「頼むから今日は冗談をいれないでくれ」と願うが、そういう時こそ「冗談」のワンツーパンチ。
大体、月曜の朝が元気なわけはない。日曜は目一杯遊んでいるのだから、半分死んだ気分だ。暑い日などはクラクラしてくる。まさに「ムカつく」気分だ。
いま考えると、それは教師にとっても同じだったに違いない。ただなんとなく、月曜の朝はかくあるべきものかと思っていたに過ぎなかったのではないか。そしてそれは校長先生も同じではなかったろうか。
それはまさに「時代の呪縛」であったに違いない。
そしてその「時代の呪縛」に誰よりも忠実であったからこそ、彼は校長になれたのであり、自ら「呪縛」者の先頭に立ったのであろう。
こうしてルーチンに忠実な人間が次々にトップをつなげていくにしたがい、ルーチンはますます陳腐化しこと無かれ化し冗長化していくことになる。
あぁこのいとうべきルーチン主義者共よ。一刻も早く引退せよ。さすれば、君らが何ほどの人間でもないことは直ちに分かる。
安心せよ、君らの後継者はゴテマンといる。絶望的なほどに地にあふれている。

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