鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

13年4月、ぷらら・Broachより移行しました。 中身が雑多なので、カテゴリー(サイドバー)から入ることをおすめします。 過去記事の一覧表はhttp://www10.plala.or.jp/shosuzki/blogtable001.htm ホームページは http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」です。

カテゴリ: 11 日々雑感

「国沢 福岡 タクシー」でグーグルしてみると、もう一つの記事がある。

ほかならぬ国沢さんのブログで、2016年12月5日の発信。事故の翌日である。

題名は「福岡で高齢運転手のタクシーが暴走?(4日)」というもの。

急いで書いたものらしく、あまりまとまりはないが、それだけに率直な感想が伺える。

書き出しは

ニュース見てると何が本当で、何が間違いで、何がワザと危機感をアオっているのか解りにくい。

ということで、「わざと危機感をアオッている“何か”」をひしひしと感じているようだ。

もう一つがプリウス(の過去)にかこつけて、

また「プリウスなので暴走した」と根拠無いデマを流す輩も少なくない。

とプリウスを擁護する。

国沢さんによれば、「初期型プリウスのトラブルはブレーキ抜け」なのだそうだ。

「ブレーキ抜け」については国沢さんが別の記事で説明している。正直のところよく分からない。ただ対処法は分かっている。
「もしプリウスですっぽ抜けに遭遇したなら、そのままブレーキを踏み込むこと。瞬時に油圧は立ち上がります」ということだ。

そのうえで、国沢さんは事故原因を次のように想定している。

疑われるのは踏み間違えか、フロアマットにアクセル挟まったのか解らないけれど、機械的にアクセル全開になったということである。

つまり初動段階では国沢さんは踏み間違い説に立っていると考えられる。

いずれにしろ車載のEDR(イベントデータレコーダ)にエアバッグ展開した手前の状況が残されており、そいつを解析するだけで判明するだろう。

ここまでは自動車評論家として無難な記事だが、この後警察批判が始まる。

こういったデータ、警察が全て握りつぶしちゃってるあたりに問題ある。

そして、その典型例として「札幌で燃えたPHVの情報」を持ち出す。恥ずかしながら、札幌に住みながらこの事件は知らなかった。たしか他の三菱車炎上事件は記事にした覚えがあるが…。

三菱自動車に聞いてみたら「警察や消防から何の問い合わせも無く、こちらとしては調べようがなく困ってます」。200Vの普通充電中に燃えたことだけ伝わっているため、充電を必要とするクルマに乗ってる人はみんな不安。記者クラブに入ってないメディアは取材すら出来ないし。

と続く。

この最後の「記者クラブに入ってないメディアは取材すら出来ないし」というのがどうやらこの記事のキモのようだ。

このあたりが伏線になって、馴れ合い記者クラブのはしゃぎぶりに「頂門の一針」となったわけだ。

たしかに福岡県警の記者クラブは爪剥がし事件でも、警察の片棒担いでバッシングしたもんな。

三菱自動車の発火事件は以下の記事を

そこに一石を投じたのが 自動車評論家の国沢光宏さんが書いた「福岡の暴走事故、フロアマット2枚だけが原因ではない」である。12/10(土) 21:14の投稿となっているから、一通り報道が出回ったすぐ後に書かれたものと思われる。
国沢さんが真っ先に指摘するのは、「福岡県警に思い込みがあるのではないか」ということである。
そう言われると、北九州の病院での「爪剥ぎ事件」で、看護婦さんを1ヶ月も拘置所に閉じ込めて無理やり有罪に仕立てたのも福岡県警の「思い込み」だったね。
この後の話はかなり専門的になる。
1.ブレーキ・オーバーライド
プリウスには、「アクセルとブレーキを同時に踏んだらブレーキを優先させましょう」という仕組みが導入されている。 これが「ブレーキ・オーバーライド」と呼ばれるシステムだ。
だからアクセルペダルにマットがかぶさっていたとしても、ブレーキを踏めば止まるはずだ。
2.アクセルがマットに引っかかる確率は低い
アクセルを目一杯踏み込まない限りアクセルペダルがマットの下に挟み込まれることはない。事件の発端、すなわち公園で暴走が始まったときの状況からは、このような事態はきわめて考えにくい。
3.負圧に頼らない強力なブレーキシステム
プリウスには、負圧(アクセル戻した時にブレーキ力を高める装置)に頼らない強力なブレーキシステムが装備されている。マニュアル車におけるエンジンブレーキのことのようだ。
だから、どのような状況のもとでもブレーキを強く踏めば必ず止まる。「プリウスはそのくらい優れた車なのだ!」
ということで、国沢さんは警察のおかしな挙動にも触れている。
そもそも暴走事故の99%はアクセルとブレーキの踏み間違いか、フロアマットの引っかかりに起因する。自動車関係者ならどんなシロウトだってこの二つを疑う。なのに警察がフロアマットが2枚だったことを公表したのは本日。そしてブレーキ・オーバーライドの機能については未だ考慮に入れていない。
報道各社の動きは国沢さんの記事の後ばったりと止まってしまう。国沢さんの記事は正論だが、妖刀村正のようで、どちらにどう切れるのかが見て取れない。読みようによっては「プリウス、褒め殺し」ともなりかねない。だから途方にくれているのではないだろうか。
国沢さんは
いつまでも自動車ユーザーの不安を煽る情報ばかり流していないで、正しい事故原因の公表をお願いしたい。
と、警察にきついお灸をすえた上で、今後の原因解明に向けて以下の提言を行っている。
とにかくEDR(イベントデータレコーダー)の情報を開示すること。エアバッグが開いた事故は、必ずEDRに記録されている。
その中で重要な情報は
1)衝突時の速度。
2)アクセルの操作状況。
3)ブレーキの操作状況。
4)加速していたのか減速していたのか

という4種類の情報だ。
たしかに新聞でも「県警はEDRの解析を急いでいる」と書かれている。しかし、もし急ぐなら上記のデータはすぐにでも開示できるはずだ。あんたがたシロウトに「解析」しろとは頼んでいない。生データをそのまま公開しろということだ。それならすぐできる。
遅くなればなるほど、「何かを隠そうとしているのではないか」と勘ぐられることになる。福岡県警のためにも、それは好ましい事態ではないだろう。
*これとは別のデータもあるはずだ。
車両のセンサーが故障を 検知した際に車両の状態を記録する「フリーズフレームデータ」が 車内のコンピューターに残っている可能性もある。(毎日新聞 12/10(土) 3:00配信 )
ということだ。こちらはあくまで可能性だが…

あまりにも大きな「誤報」の可能性があるだけに、もう少し状況を見聞したい。

グーグルで「福岡 タクシー 二重マット」で検索してみる。

産経以外の報道はないかと調べてみると、日経新聞が同日に同内容の報道を行っている。

運転席の床に備え付けてあるマットの上に、市販のマットを重ねて置いていたことが10日、県警への取材で分かった。

運転席の足元には純正品のマットの上に市販のマットが重ねてあったという。

朝日新聞は同日に「病院突入のタクシー、マットずれペダル操作に影響か」という記事を掲載している。

運転手が「(運転席の)マットの上に、市販のマットを敷いていた」と供述していることが分かった。「上のマットは買った」と説明。固定されていない状態で、事故前にずれた可能性があるという。

と具体的である。

毎日もほぼ同様の記事を掲載していることがわかった。

【平川昌範、佐野格】 の署名入り記事で、12月11日 07時00分にアップされている。産経の報道から1日遅れの後追いである。

タクシーと同型車にはアクセルとブレーキを同時に踏むとブレーキが優先されるシステムが導入されている。

とも書き加えられている。

ということで、産経の勇み足ではないことが分かった。産経の記事を元にしたコメントが圧倒的に多いのは、ネットの世界で一番利用しやすいのが産経だからというのにすぎないようだ。

記事そのものは朝日のほうがはるかに具体的である。


ということで10日の時点で、二枚重ね説が圧倒的になった。とくに背景としてアメリカでの「暴走」問題で二枚重ねが原因の多くを占めていたことが、その印象を強めた。

コメントの中には明らかにトヨタ側に立って、トヨタ無罪説へと流し込むような記述もかなり目立つ。



いずれにせよ、この記事は少し自力で調べてみないと、確たることは言えない。

グーグルで “プリウス 福岡 タクシー” で検索してみたらものすごい数のヒット数だ。探偵気分で事故原因を追究する記事もてんこ盛りだ。どう手を付けたら良いのかわからないくらいだ。

目下、原因をめぐってはマット派と反マット派に二分されている。赤旗の記事はマット問題に触れていないが、触れていないということ自体が反マット派であることを意味するとみてよい。

ということで、マット説をまず調べてみよう。

マット説が浮上したのは12月9日。これは「捜査関係者のリーク」という形で明らかにされた。

報道(産経新聞)によると、

タクシーの運転席の足下には、備え付けのマットの上に別のマットが重ねて敷かれていた。2枚はメーカーの純正品と市販の社外品で、上に敷かれたマットは特に固定されていなかった

ただしこれは正式な発表ではない。しかも事故発生(3日)の6日後ということで、十分に怪しい。

その前の報道は車両の不具合が濃厚という方向で足を揃えていた。

それが、どうもこの記事以来、沈黙しているような気がする。

これだけ全国報道されたのだから、はたしてそれが事実なのか福岡県警に問い合わせるべきだろう。イエスかノーか、それともノーコメントか。その結果くらいは報道すべきではないか。

ただ、事実として他社はこの報道に追随していないようだ。

10日の朝日新聞

事故後に県警が運転席を調べたところ、ペダルを踏む支障になるような物は見つからなかった。

これが本当だとすると、なぜか6日後にマットが出現したことになる。

同じく10日の毎日新聞

アクセルとブレーキの踏み間違え事故を研究する立命館大の土田宣明教授は「踏み間違えは誰にでも起こりえる。しかし今回が踏み間違えだとしたら、300メートルも判断を切り替えずにアクセルを踏み続けたことになり不思議だ」と話す。

ここでもマットの話には触れられていない。

なお途中から車が加速したのは、ドライバーがエンジンブレーキをかけようとしてシフトダウンしたのが原因のようだ。

このほかNHK読売新聞と調べたが、二重マットについての言及はゼロ。面と向かっては否定しないが、完全に無視している。

ひょっとすると、この産経新聞の報道は“ガセネタ”の可能性もありそうだ。

プリウスがやばい

12月3日にプリウスのタクシーが病院に突っ込んだ事件。

「ブレーキとアクセルの踏み間違い」と考え、最近頻発する高齢ドライバー問題と同じだと思っていた。

しかしそれに疑問を呈する記事が赤旗に掲載された。遠藤記者の調査報道だ。

1.ペダルの踏み間違いが考えにくいわけ

まず、記者はヒューマン・ファクターが考えにくい理由を列挙する。

A) 運転手は64歳で高齢とはいえない。健康状態は問題なく、アルコールも検出されていない。個人タクシーで過労状態でもない。

B) 94年に個人タクシーの営業許可をとって22年、熟練ドライバーということができる。運転の技倆・経験ともに申し分ないといえる。

C) 車は「ブレーキが利かない」状態で、350メートルを暴走している。この間、および事故直後においても運転手の意識状態には明らかな異常はなく、体調の変化もない。

これらの点から、記者はきわめて慎重な言い方ながら、「プリウスの側に何らかの問題があったのではないか」と強く示唆している。

2.プリウスの側に問題があった可能性

そこで、記者はプリウスの側に問題があった可能性について調べている。

A) 関係者の証言

自動車業界関係者(匿名)は「運転技術があるタクシーの運転手が、20~30メートルならまだしも、300メートルも暴走して、その間何も手を打てなかったのは奇妙だ」と話します。

B) 国交省の「不具合情報」

国交省は01年以降、ユーザーの苦情を「自動車のリコール・不具合情報」で開示している。

「プリウス」で検索すると、「ブレーキの不具合」が128件あった。また「エンジンの急加速(吹け上がり)」が17件あった。

もちろんこれらすべてが製品の不具合に起因するものではないだろうが、実際にあるのだ。

3.緊急時の対処法がない

ここが一番の問題になる。今回の事件は、緊急時対応法が事実上なかった可能性を示唆している。プリウスのような高度に自動化された製品においては、フェールセーフ機構のあるなしは致命的なものとなる。

A) トヨタ側の説明

取説に「車両を緊急に停止するには」という項目が書かれている。

①ブレーキペダルを両足でしっかりと踏み続ける

②シフトをN(ニュートラル)にする

③パワースイッチを3秒以上押し続けて、ハイブリッドシステムを停止する

ただハイブリッドシステムが停止すると、パワーブレーキ、パワーステアリングなどが効かなくなるらしい。

「ブレーキの利きが悪くなり、ハンドルが重くなるため、車のコントロールがしにくくなり危険です」と警告されている。

B) トヨタのおすすめ

記者は取説を踏まえた上で、トヨタ自動車東京本社に問い合わせた。

答えは以下の通り。

(取説)は予期せぬ事態が起きたときに備えて、それに対処するために記載しているだけだ

お薦めしているわけではないということだ。

通常は暴走などの具体的な不具合は想定していない。

「なぜならプリウスは絶対安全だから」ということなのか。原発と同じ論理で、「安全神話」の上に「想定外」の言い訳が乗っかる構造だ。

フェールセイフの発想はそもそも存在しないのだ、ということになる。

4.私のささやかな経験 自動装置は壊れるものだ

20年前、エプソンのラップトップを使用中に突然ピンク色の煙が上がった。煙は5秒ほどの間猛烈に吹き上げた後自然鎮火した。もちろんエプソンはお陀仏となった。

15年前、ブラックアイスバーン状態でカペラを運転していた。スリップした途端にエンジンは切れ、ハンドルは固定され、車はそのまま進んだ。赤信号で停車中の車に追突して止まった。そもそも20キロ程度のノロノロだったから、幸いなことに先方は無傷だった。

半年前、レノボのパソコンが高熱を発しお釈迦になった。16万円の当時最新機だったが、修理に出したらCPI周りが溶けていて、修理不能と言われた。

1週間前、我が家の電気冷蔵庫が突然止まった。冷凍食品は全て解けてだめになった。日立のサービスマンが来て天板を開けてプリント基板をちょいといじったら元通りになった。

「最近は自動調整機能が極めて多いので、リレーが混線してしまう」という話だった。「よくあるのか」と聞くと返事を濁していたが、少なくはないようだ。

そういえば、20年近く前、近くの北広島の養護施設に自衛隊のジェット機から180発の機銃弾が撃ち込まれる事件があった。

あれも、パイロットが操縦桿を右旋回したら、自動発射装置が誤作動してしまったのが原因だった。

機械は壊れるものだ。しかも壊れたら対応不能だ。

装置の心臓部はブラックボックス化し、いざという時に手に負えなくなっている。


最近、メールボックスにトゥイッターやらフェースブックやらのかけらがやたらと飛び込んでくる。

日によっては到着メールの半分くらいがその手のメールになっている。

正直いってあまり触りたいツールではない。

ネットというのは不特定多数に対して発信するものであるから、紙媒体に近い存在である。

私はホームページの時代から実名でやっている。実名ブロガーは少数派であるが、記事のクオリティーに対する責任の証と考えている。

紙媒体と比べると、あとでこっそりと訂正して知らんぷりすることができる分、便利ではある。ただ私は後から補充することはあっても、抹消訂正はしない。訂正は元の文を残した上で「すみません、間違えていましたので、下記のごとく訂正いたします」と書くようにしている。

だから、バグヘッド・エンペラーの使用感想に対するクレームはいまだに来るが、それで良しとしている。

そのせいか、かなりきわどい記事を書いてもネトウヨの集中砲火は浴びずにすんでいる。もちろん時々は来るし、いくつかはコメントを拒否した。いつかは集中攻撃を浴びるだろうと覚悟はしているが。

こういう人間にはどうもツイッターは性に合わない。

だからこの手のアプリをなんというのかが、未だによく分からない。

ウィキペディアで調べると、ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)と総称されるらしい。

主なSNSとして下記が挙げられている。何かどこかで聞いた名前がたくさんある。

Ameba
Facebook
Google+
GREE
Instagram
LINE
LinkedIn
mixi
Miiverse
Mobage
Myspace
Pinterest
Sina Weibo
Skype
Tumblr
Vine
WeChat
Twitter

今のところは縁なき衆生だ。

最近、と言うよりだいぶ前からだが、ソバをズルズルと吸い込んで食べるのが流行りのようだ。
流行りというより、それが「由緒」正しい食べ方のように押し付けられている。
元々田舎じゃ、そうやって食っていたかもしれない。米も食えなかった貧しい人たちの食い物だ。
それが江戸の出稼ぎ労働者に広がって、「江戸っ子」気取りの変な作法になったんじゃないかと思う。
だいたい「江戸っ子」というのが上品だと思うのがいけない。彼らは「下品さ」を開き直って、「貧乏なのが粋なんでぇ、無作法なのが粋なんでぇ」と強情を張っているにすぎない。
鮨だって素手でつまんで一気に頬張るし、鮨屋だって最初っからそのつもりで握っている。

昔だったら話は分かるんだ。そういう場末のこ汚い店に、上品な客が現れて鮨を箸で摘んで食べたりすりゃ、「そんな食い方するもんじゃねえ、鮨ってぇもんはこうやってつまんでポーンと口に放り込むもんだ」と言いたい気持はよく分かる。
しかし、これだけ国中に広がった食い物だ。どう食べたって文句はない。私は箸を使う。いちいちタオルで指を拭くのが面倒だし、第一、タオルがネチョネチョで不愉快だが、タオルを代えてくれる寿司屋にお目にかかったことはない。

落語にあるように、江戸っ子だってソバはたっぷりつゆにつけて食べたかったのだ。ただ江戸っ子の流儀からすれば、「そいつは粋じゃない」からやせ我慢していたに過ぎない。

蕎麦屋の講釈は不愉快なほどに理屈っぽい。そのほうが空気が絡むとか、なんだとか真顔で平気で喋る。理屈っぽいのは信州人の山家の血だ。江戸っ子から見れば、そういうのを「無粋」というのが分からないのか。

私は、断固噛み切る。つゆが絡むというのなら、ソバをズボッとつゆに漬ければ済む話だ。噛み切った残りがまた椀に戻るのが不潔だというが、マイつゆだ。串かつのソース二度漬けとは違う。
昔、小学校には必ずあおっぱな垂らしたやつがいたもんだ。昔はティシューなどという気の利いたものはないから、いい加減垂れてくると、思いっきり鼻を吸うと青い二本の紐がジュルジュルっと鼻の穴におさまる。
あの光景が思い出されてならない。
「おいおい、つゆが飛び散るではないか」

カルテというのは患者の情報の集約点として位置づけられている。しかし医者にとってはメモ紙でもある。
カルテは余分なことを書くのを許されない。しかし何が余分なことなのか、そもそも余分なことってあるのか。
「この人は生粋の札幌っ子なのに阪神フアンだ」などと書くと「他事記載」として叱責の対象となる。
研修医時代には「うるせえばばぁだ」とドイツ語で書いたのがバレて、院長に大目玉を食らった。
ある患者の治療方針をめぐっては、他の医者とカルテ上で大喧嘩したことがある。
最近では医事訴訟の際にカルテが最大の証拠となるから、さらに記載にはうるさくなった。電子カルテになったのだから自分用のカルテと病院用のカルテを作って、自分用のカルテから必要分をコピペするのもありかと思う。
グループホームに訪問診療に出かけるようになって、認知症の患者のアナムをとるのにハマってしまった。ナースが「回想療法ですか」と言ったが、別にそんな知識はない。偉そうに言えば患者から尊厳を引き出したいのだが、平たい話、スナックの姉ちゃんから生い立ちを根掘り葉掘り聞きただそうというのだ。スナックの姉ちゃんはそんな客の下心などとうにご存知だから、作り話をペラペラ喋る。ところがこちらもプロだから、そういう作り話の中から真実を引きずり出そうとする。
こういう虚々実々の駆け引きがスナック通いの醍醐味なのだ。
アルコールのせいで話が跳ぶ。
私がアナムをとったのはコテコテのアルツハイマーのばあちゃん。しかし攻撃性はない。
「生まれはどこ」
「山形県北村山郡マルマル村字マルマル」
しかしそんな村はない。あとで明治時代の地図を見るとたしかにある。しかし字(あざ)になるとさすがに分からない。
川の河岸段丘の上にあった集落のようだ。下を流れてたのが最上川なのかその支流なのかもわからない。そこの尋常小学校を出たあと奉公に出て結婚したらしい。そのへんからもう記憶は曖昧だ。
ところが、修学旅行の記憶だけは鮮明だ。朝まだ暗いうちから家を出て、随分と歩いて駅まで行った。汽車を乗り継いで仙台に行った。仙台で止まった旅館の布団の暖かかったことは憶えている。
「仙台はどうだった?」と聞いても分からない。
おそらく昭和10年前後のことだ。そのちょっと前、東北は大凶作で「娘売ります」の看板が出ていた頃だ。実家は大奮発して娘を修学旅行に送り出したことだろう。
その後も、訪問のたびに話の続きを聞き出そうと思うのだが、もう出てこない。しかしヘルパーさんの間で修学旅行の話はすっかり有名になって、心なしか彼女を見る目が優しくなったように思える。
私も訪問診療の帰りはるかに手稲山を仰ぎ見る癖がついてしまった。






一応書いてみる。酒飲み話だ。

4月にいまの仕事を辞めてからやってみたいこと、それはもう一度セツルメント活動を再開することだ。

身過ぎ世過ぎでやってきたが、それはもう良い。もう一度、勤医協の歯車になるのもしんどい。

老後の趣味でブログに精を出すのも人生だ。しかしそれで一生を終えるのも癪だ。趣味の世界は趣味の世界だ。やはり世のため人のため、さらには正義のために働きたい。

といっても、そちらの方の才覚はない。

そこで思い出したのが、学生時代のセツルメント活動だ。あれをやれば良いのだ。誰かがマネージメントしてくれれば、むかしの仲間を集めて、貧困層の医療の悩みに手を差し伸べれば良いのだ。

全生連でも民医連でも良いレポートをたくさん出している。しかし残念ながら医学的な面でのフォローが欠けている。医者が関与していないからだ。

理由ははっきりしている。医者が忙しすぎるからだ。しかし忙しさを理由に関わらなくなって、いつの間にかそれが当たり前になってしまったことも反省しなければならない。

昔セツルで論争があって、セツルメント活動は学生でもできることをしてすこしでもお役に立とうという実践優位論と、学生は学ぶことに徹するべきで、そこで得た観点を卒業後の生活に活かしていくべきだとする学習優位論があった。

もちろん原論的には学習優位なのだが、そこには「やむにやまれぬ大和魂」みたいなところがあって、現場の指揮者は威勢のいい実践優位論に傾きがちであった。

いまもしこの歳になってセツルメントをやるのなら、原論的には実践優位になるのだろうが、むしろ今だからこそ学習優位論に立ちたくなる。

気持ちは「勉強させてもらいます」が我々の合言葉になるだろう。しかしまわりからは、「せっかくお医者さんにきてもらったのだから」という期待が高まるに決まっている。だからそれにはそこそこ応えなければならない。

しかしそこはギブアンドテークしかない。というより健康相談と健康調査が否応なしにセットだ。「授業料はお返しします。その分勉強させてください」ということになる。

フィールドは山とある。セツラーはセツル(定着)どころか狩人のように動き回らなければならない。三大学の衛生学教室や公衆衛生学教室の力を借りなければならない

金の亡者たちが世界を壊していく。
そういう景色が眼前に展開されつつある。
レーガン以来わずか30数年で、世界の景色は一変した。雪が降るように不信が降り積もり、不寛容の風が吹きつのる。世の中、原理主義だらけだ。
貧富の差がこれだけ広がり、世界の一方に富が積み上がる一方で、世界のもう一方に貧困と不満、政治への不信がうず高く積み重なっている。人が人を信頼しなくなり、政治や民主主義を信用しなくなり、野蛮な力への信仰が止めどもなく広がっている。
恐ろしいものが恐ろしく見えなくなってしまう。汚らわしいものが汚らわしく見えなくなってしまう。
過ぐる2つの大戦で1億人が死に、そこから人類は教訓を得たはずなのに、人類は一方における金の亡者、他方における野蛮な暴力主義の台頭を阻止し得ないでいる。
ソドムがナチズムを生む。不徳ものを罰し得ない社会の劣化は必ずその罰をもたらす。

とにかく対話を広げよう、ダメなものはダメとはっきり言おう、恐れてはならない。口角泡を飛ばして議論しよう、
とにかく街頭に出よう、団結の輪の中に入れ。行動をともにしよう、その力が政治を変えていく、それは確かめ済みではないか。
統一しよう、小異を捨てて大同につこう、そして大同につかせよう。冷笑や批判は保留しよう。ヒューマンな心と連帯の精神が何よりももとめられている。
一番苦しんでいる人に救いの手を差し伸べよう。通り過ぎるのはやめよう。立ち止まって声をかけよう。そこにいるのは私なのだ。
現場をだいじにしよう。現場は生きることの価値を教えてくれる。現場の集団は勇気を与えてくれる。
学習しよう。学ばなければ闘いはない。学ぶことは闘うことだ。闘うより学ぶことのほうが大切だ。
人間はもっと美しいもののはずだ。その下心のない美しさに、てらいなく心の底から感動しよう。

北海道における酒造業のおいたち というページがあった。

北海道酒造組合の業界誌の第64巻第1号とある。日付けが入っていないが、図表や(注)を見るとおそらく昭和43年ころのものと思われる。

かんたんなものであるが、概要は分かるので、すこし内容を紹介しておく。

1.明治維新前の酒造業

一般には内地酒を移入していた。小規模な酒造は行われており、 200年くらい前、明和の頃に函館の逢坂七兵衛が酒造を営んだという記録が残されている。

2.明治初期

函館と道南地区の清酒 業者は、明治12年には19場を数えたという。

札幌では石川県出身の柴田与次右衛門氏が明治5年に酒造をはじめた。最初は濁酒、ついで清酒も手がけるようになる。そのご相次いで開業者があらわれ、明治25年には業者37人があわせて11,227石を生産した。

しかし北海道の酒造業が一気に拡大するのは日露戦争のあとからである。多くの酒造りが内地から進出、明治34年にはその数150に達した。

3.北の誉 御三家

最初に創業したのは小樽北の誉酒造で、明治34年。社長は野口吉次郎。ついで明治40年に旭川北の誉が創業となった。札幌北の誉は遅れ、大正3年の創業となっている。

4.旭川の酒造業

旭川には陸軍旭川師団があったことが理由であろう。

最初は明治32年、高砂酒造、塩野谷酒造が相次いで創業。翌明治33年には山崎酒造が札幌から移転開業している。

5.栗山の小林酒造

旭川が陸軍相手の商売とすれば、栗山は夕張炭鉱が商売相手だった。

小林酒造は明治12年に札幌で創業したが、時流を見て明治43年に栗山に移った。酒より他に楽しみのない1万の荒くれ男たちに独占販売するのだから、儲からない訳がない。

6.意外に伸びない北海道の清酒生産

清酒生産

コピペのコピペなので少々見づらいと思う。

これを見ると分かるように、北海道の清酒生産はほとんど増えていない。最新が昭和40年で、このあとはさらに下がっている筈だ。

解説によると、昭和14年の生産減少は、値崩れを防ぐために生産者組合が自主規制と生産 統制を実施したためだとされる。

この間人口は大幅に増えているので、道内の清酒消費に対する道内産のシェアが落ちているものと考えられる。内地物に押されているのだろう。

2016年現在の酒造蔵は11ヶ所まで減少している。道南には一つも残っていない。

これは分かる。学生時代ビラの原稿を書いて、カッティング、スッティングして、窓から忍び込んで教室に撒いて、それから飯を食いに行った。食堂でかじかんだ手で「アチチ」と言いながら徳利の首をつまんで湯呑み茶碗についでぐいっと行くと、生き返った心持ちになったものだった。しかし翌日つけはきた。激しい頭痛と吐き気、いわゆる二日酔いである。

日本酒というのは二日酔いするものだと思っていたが、おとなになってから良い酒を飲むと不思議と二日酔いしない。

理由は直感的にわかった。むかしの日本酒は、学生が飲むような安酒はとくに、混ぜ物が入っていた。飲んだ後にサッカリンと味の素のエグミが残るのである。良い酒にはそのような後味はない。

だから千歳鶴を飲んだあとの二日酔いは、実はチャイナレストラン・シンドロームではなかったかと思っている。

北海道の酒、あえて言わせてもらえば千歳鶴と北の誉はほとんど毒液のような酒だった。このような植民地の流れ者相手の商売がいつまでも続くわけがない。

その頃の小林酒造の酒は札幌では流通していなかったが、夕張の流れもの炭鉱夫に飲ませる酒が千歳鶴よりまともだったとは想像し難い。

本日の国際面の囲み記事。
コピペで紹介する。
交通マナー
「してやったり」の表情を浮かべる島崎さんは描かれていない。

もちろん、ファシズムは交通マナーとは関係ないが、そもそも日本をドイツやイタリアのファシズムと同一視するのもおかしいのだ。
日本は絶対主義天皇制が攻撃性を強めただけで、見かけは同じでも周回遅れである。
ヨーロッパのファシズムは民主主義の上に、民主主義の方法で、民主主義を否定するようにして生まれた。日本にはそもそも民主主義はなかった。
民主主義というと語弊があるかもしれないが、ファシズムは君主制(帝政)に代わるべきはずの共和制が産んだ奇形児である。
「見かけは同じでも周回遅れ」というのは、逆に言うと、「周回遅れだが見かけは似ている」ことになる。
日・独・伊三国の見かけ上の特徴は反動主義政治、独占資本擁護、軍国主義、対外侵略である。
それぞれが正反対と言うほどに異なる伝統・国民気質を持ちながら、同じような政治形態に至ったところに枢軸国家の歴史的本質を見なければいけない。言っちゃ悪いかもしれないが、フランスだって紙一重だったのである。それはアランさんのほうがよく知っているはずだ。ディエンビエンフーだってアルジェーだって、ベイルートだってルワンダだってフランスじゃん。今じゃフランスがファシストの世界最強の拠点だ。
この囲み記事は、そういうことを教えてくれる。それは、21世紀初頭の今の世界にこそ求められている視点である。

本日もぶらりとドライブ。旧夕鉄線沿いに栗山まで足を伸ばした。みぞれが降ったりやんだりの、ひたすら寒い初頭の一日であった。道路が夕張川をわたるとすぐ、右手に小林酒造の酒蔵が見えてくる。市民に開放されてなかなかの観光名所になっているようだ。

とくにあてと行ってないし、そろそろ昼時だ。どうせ見るものもないだろうが、ちょっと食べるくらいのところはあるだろうと、寄ってみた。

この天気で、みな行くところはないと見えて、意外と混んでいる。

本店の建物が北海道の有形文化財になっているということだ。小樽の銀行に真似て作ったとされ、道理で馬鹿でかい金庫が鎮座ましましている。たしかに色内の日本郵船の作りと似ている。しかし規模は大分小さい。

並んでいるものは小林酒造の製品がほとんどで、あとはちょっとした日用品とかが並べられている。所詮は栗山町だ、こんなもんでしょうと、外へ出た。

出た脇に「小林家」と看板があって通路がある。見学自由のようだ。

入っていくと2階建て木造の堂々としたお屋敷が立っている。とは言え、和風の民家であり、人を威圧するような厳めしさは感じられない。

小林家 正面

ホームページより)

これが中にはいって驚いた。入ってすぐの2、3部屋しか見ることはできないのだが、なんと部屋数が30ある(公式には23)という。

私の子供の頃、お屋敷といわれる家を何軒か知っているが、指折り数えると10部屋ちょっとがせいぜいだったように思う。我が家でも数だけなら6DKだ(6部屋目は無駄だったと後悔している)

部屋数が多いのにも驚いたが、築120年というのに、手入れもしていたのだろうが、実にしっかりした作りだ。これだけの大工を良くも揃えたものだと思う。

家のぐるりを回ろうとしたが道路側に面した塀だけ見て10分もかかった。最後には迷子になってしまい、慌てて地図を便りに右往左往というみっともない仕儀になってしまった。

おそらく施主が造作道楽(と言うより造作狂)でひたすら間数を増やしていったのだろう。普通は洋館風の別邸を建てるとか、子どもたちには離れを設えるとかするものだろうと思う。宿泊客が多いのなら、いっそ母屋ごと明け渡して、自分たちはもう少しこじんまりと暮らしたいとは思わないのだろうか。

案内係の人(小林家のご家族らしい)の、最近の通信が泣かせる。

「春夏秋冬、外より寒い小林家」です。

スタッフは、2月のご案内のお客様を「チャレンジャー」と呼んでいます。

…家屋の見学には厚手の靴下が2枚必要です。ストッキングなんて裸足に氷水をかけた感じになります。ホント、どんなウチなんでしょ・・。

とにかく、公的な性格はまったくない(最初は多少あったようである)、まったくの私邸である。本店の方に仕事に必要な施設、設備は全て揃っている。常識はずれの無駄な贅沢としか思えない。とは言いつつも、貧乏人には「いかにも田舎の富豪がやることだ」と、せいぜい嫌味を言うくらいが関の山。

この間数への異様なこだわり、一見の価値はある。店などあまり見ずに、まっすぐお屋敷に行ってみたほうが良い。

杉江栄一さんがなくなった。本日の赤旗で報道された。1960年の入党とある。32歳で比較的遅い。
50年問題での葛藤は味わっていない人かもしれない。同志社大学を出て、長年中京大学で教鞭をとられた。どちらかと言えばローカルな活動である。反核活動で活発に動かれていたので、我々にも馴染みはある。
中京大学のレポジトリーでいくつかの論文が閲読できる。ただ紹介しようと思うと、鍵がかかっていてコピペができない。縦書きの論文なのでパソコンで読むには上下がはみ出して読みづらい。
アドベにはテキスト・ファイルに書き出ししてくれるオプションがあるのだが、1ヶ月数千円の会費をとると言う。アコギで実に不愉快だ。
ただアドベと言えども、秘密のキーがあってテキストがこっそり隠されているというのではなく、結局はOCRのエンジンで読み取るらしい。鍵のかかっていないファイルなら読み出してくれるが、結構間違いはある。
とすれば、OCRのソフトで読み取るほうが安いだろうと考えた。
それでフリーのOCRソフトを探したが、まぁ以前から分かっていることだが、ろくなものはない。結局、パナソニックの「読取革命」という有料ソフトを買う以外の選択はない、という結論に至った。
今アマゾンでセールをやっていて、定価の半額(7千円ちょっと)で買えるらしいので注文しようと思う。
まずはそれからだ。それがうまく行けば、グーグル・ブックスもいったんPDFに落としてファイル変換できるかもしれない。もちろん著作権侵害の疑いがあるなので、想像してみただけだが。
杉江さんの論文は、反核関係は既におなじみのものが多いが、若書きの「フランス人民戦線とその外交」が面白そうなので読み始めた所。
てなことで、一日終わってしまった。非生産的な一日だった。

いくつか写真を転載しておこう。

最初が野幌駅。昭和43年の撮影とある。

この写真は情報量が多く大変楽しめる。(写真の上でダブルクリックしてください)

野幌駅

写真の奥の方向が札幌である。夕鉄独自の駅舎はなく国鉄に乗り換えるだけのホームのようだ。

解説を読むと、ターミナル機能を果たしていたのは一駅隣りの「北海鋼機前」で、ここでバスに乗り換えてしまう人も多かったらしい。


*線路際の道は駅裏通りということになるのであろうが、結構人通りがある。

*ホルモン焼き「京城園」は、北海道では少数派だった民団系の店だろう。我々が行くのは「平壌園」とか「千里馬」という名前だった。しかし店主の出身は大抵が南だった。梅割りで悪酔いして「汽車は行くー、汽車は行くー、南を目指してー」と統一列車の歌を歌ったものだ。

*その隣はマーケットだ。新築らしく、フードサプライと気取っている。シャッターが降りているのは日曜日だからか。あの頃は平気で日曜休業だった。お陰で正月3が日サトウの切り餅とインスタントラーメンで過ごしたこともある。スーパーや生協が進出するのはもう少し後だ。もちろんコンビニはない。

*向こうからくる女性は当時の標準的モード。ミニの流行り始めで、真冬でも膝上スカートだ。パンストやパンタロンが流行るのはその次の年くらい。スラックスやジーパンはほとんどいなかった。

*一応道路は除雪されているようで、二人がすれ違うのに苦労はなさそうだ。その奥にたくさんの荷を積んだ日通のトラックが走っているから、その分の道幅はある。しかし真知子巻きのおばさんが道端に立って車をやり過ごしているところを見ると、それ以上の幅はなさそうである。

*酒井建築設計事務所の看板があって、その向こうのガラス戸にはカーテンがかかっていて、いかにも日曜日の雰囲気だ。屋根の雪は30センチは積もっていて、とりあえず落ちそうなところだけ雪下ろししている。しばらく雪は降っておらず、少し暖かいせいか解けかかって汚い。真冬というより早春、3月末という感じの雪だ。

*いかにも寒そうな曇天で、向こう向きの若い衆は黒いオーバーのポケットに両手を突っ込んで前かがみに歩いている。項(うなじ)の刈り上げがいかにも寒そうだ。

*その向こうが「サッポロパン」の店だ。じつは「サッポロパン」という会社はあまり聞いたことが無い。グーグルでもまったくヒットしない。その一軒おいて向こうが北海道新聞の販売店。戸口に一人立っているようだがはっきりしない。

*列車は2両連結の気動車。湘南型で連結器は昭和20年代のもの。この頃函館本線は電化されたばかり。夕鉄の上にも架線が張られているが、無用の長物。すでに彼我の差は明らかだ。

*ひとり、乗車口で荷物を積み込んでいるが、このあたりのホームは屋根もなく除雪されていない。一方階段の出口からこちらはそれなりに除雪されている。おそらくそこで車内整備をしてからこちら側に進んで、乗車を開始するのではないだろうか。

*3月末とすれば、この明るさは夕方5時ころ。用事を済ませた人々がこれに乗って夕張に着くのは8時ころになるのだろうか。

*上方を右に展開してみよう。跨線橋は木製ではあるが、相当の力作である。なぜなら一番線と二番線の間に二本も線路があるからだ。つまりこの跨線橋は線路4本分の幅を両側だけで支えなければならない。
なぜ駅構内に2本もなければいけないのか、よく分からない。函館本線(と言っても小樽旭川間だが)は電化と同時に複線化されている。

本日は気持ちのよい晴天で、暑ささえ感じるほどだった。

出不精の私だが、思い切ってドライブに出かけた。

前から気になっていた「きらら街道」を走ってみたくなったのである。

この街道、野幌駅の南側からほぼ東に向けて走っている。東に向けて、といえば当たり前のように思われるかもしれないが、実は江別の東側に広がる広大な石狩平野、いかにも開拓地らしく道は完全な碁盤目を形成している。

その方角は、なぜかは知らないが北西を向いているのである。これは札幌も同じである。

その中できらら街道だけは秩序を無視するかのように、あくまで斜めに突っ切っていくのである。

しかも真っ直ぐではない。なよなよと左右にカーブを描きながら、しかし全体としてはまっすぐに東を指して走っていくのである。

私はこれがかの北炭夕張鉄道の線路跡ではないかと思っていた。

地図ではどこまでというのがはっきりしないが、南幌町を越えて北長沼、中央農業試験場のあたりまでは特徴的な曲線美が追える。

ナビという便利なものがあるので、大体の見当はつくのだが、何ヶ所かで突然道が切れる。とくに南幌市街は団子の串のように見えなくなってしまう。

ただ、切れた方向をナビでたどるとまた復活しているのである。

夕鉄線路跡

なんだかんだと言いながら中央農業試験場まで行ってそこから引き返してきた。

ここからが普通の人と違うところで、帰ってきてから調べ物を始める。


一番頼りになったのが、ooyubari9201のblog というサイト。石炭最盛期の頃夕張にクモの巣のように張り巡らされた鉄道網を回顧するサイトだ。

これを見ると、夕張鉄道がニューロンのような構造をしていることに気づく。夕張の最大手であった北炭(北海道炭鉱汽船)は市内各地の炭鉱に樹状突起のように触手を伸ばし石炭をかき集める。それが夕張鉄道という軸索を通って次のニューロへと送られる。そして野幌駅という軸索末端で、国鉄とシナプス接合するという仕掛けである。

昭和35年ころ夕張は最盛期で12万人も住んでいた。夕張だけではない。石狩炭田を抱える空知支庁には82万人も住んでいたのである。そのとき札幌は50万人である。

要するに、夕張鉄道は北海道経済の中心をなす大動脈の一つであったのである。定山渓鉄道や天北線とはレベルが違う。

とは言え、この鉄道が夕張のためにだけ作られた盲腸線であることは間違いないし、石炭輸送が主目的である以上、途中の景色が割と寒々としたものとならざるをえないのも当然である。


25日の日曜から本日まで、釧路に旅行してきました。
 この間、パソコンには指一本触れない生活を送りました。
もちろん毎晩のごとく飲み歩いていたのですが、それでもずいぶん本が読めてしまいました。
行くに際しては「多分これ一冊あれば足りるだろう。ページを開けただけで眠くなるだろうという確信のもと、薮下史郎さんという人の書いた「教養としてのマクロ経済学」という本だけ持っていったのですが、なんと4日間で読んでしまいました。
ハードカバーで360ページ、これがなんと2千円というのですから、教科書用に大量印刷したのでしょう。数式のところはさっぱりですが、「これがマクロか」という感じはつかめました。
ただ一番知りたかったこと、「資産とは何か」というのはやっぱり書いてありませんでした。
マクロ経済と言っても、結局GDPから始まってしまうのですが、GDPというのは1年間の富の生産量ですから
 

職場でのパソコンは依然としてレノボのThinkPadでやっている。
これが最近すこぶる不調である。2日に1度はハングアップする。調べてみるとメモリーがやたらと使われている。
原因はファイアーフォックスにあるらしい。職場は親サーバーのネットワークの中で動いていて、ウィルスソフトも親サーバーに組み込まれている。このウィルスソフトが調子悪くなっているのも、パソコン不調の原因になっているかもしれない。
しばらくは懐かしのメモリクリーナをダウンロードしてしのいでいたが、作成中のブログ原稿が蒸発してしまうのにはほとほと困り果てた。
ついにメモリ増設に踏み切った。4ギガから8ギガにしたのでなんとか動くようにはなった。しかしファイアフォックスの作動が鈍いのには変わりない。windowsがまだ7のままなのも影響しているかもしれない。
しかたなくブラウザーをグーグル・クロムに切り変えた。
たしかにスピードは早い。しかし慣れていないせいもあるのかえらく使い勝手が悪い。メニューバーというものがないのはおおいに困る。その代わりにブックマークバーが出てくるのだが、私としてはその分画面が狭くなるのが不愉快である。
ルーチンの作業でインターネット画面、HTML作成画面、PDF画面、メモ帳を開きっぱなしにして、画面を行ったり来たりしながらの仕事になるので、とにかく画面に余分なものがでてほしくない。
致命的なのは、You Tubeのヘビーユーザーとしてはダウンロードがほぼ不可能であることだ。東京ローダーという外付けソフトで落とせることになっているが、実際にはほとんど落とせない。
ということで、当分は2つのブラウザーを使い分けるしかないようだ。むかしネットスケープとIEを併用していた頃を思い出す。(ネットスケープは良かった)
職場では作業スピードを上げハングアップを予防するためにクロムを主として使用する。使い勝手は非常に悪いが、なれるほかなさそうだ。
自宅では現在最高性能だと思われる東芝ダイナブックでwindows10環境のもとで、ファイアーフォックスを駆使する。後はファイアーフォックスがバグ修正しサクサクと動く日を待つ。これがユーザー側から見て最善のオプションと思われる。

天北線余話

今日は思い切って紀の国屋まで行って、ズラッと並んだ本を眺めてきた。タバコが吸いたくなって表に出たが、そのような喫茶店は見当たらない。やっと見つけたらスターバックスだった。

家を出たのが10時、帰ってきたらすでに3時半だった。その間ずっと紀伊国屋で立ち読みをしていたことになる。腰と膝にもきたが、眼に来た。最後は字が見えなくなってきた。

結局、重い本には手が出ず、買ってきたのが「北海道の鉄道廃線跡」(本久公洋著 北海道新聞社)という本だった。

ここに天北線の紹介があるので、少し抜書きしておく。ついでに他のネット文献からも拾って拡充しておく。

 

1898年(明治31年) 北海道官設鉄道、旭川から北に伸びる天塩線(初代)の工事に着手。当初の建設計画では音威子府までを天塩線とし、それより北を宗谷線と名付けた。

1899年 天塩線が和寒まで延伸。

1900年 天塩線が士別まで延伸。

1903年(明治36年) 北海道官設鉄道の天塩線が名寄まで開通。

1905年(明治38年) 日露戦争。日本の勝利に終わる。樺太の南半分が日本領となる。日本郵船が小樽と樺太の大泊港を直行で結ぶ定期航路を開設する。

1905年 天塩線が同一線名のまま官営鉄道(逓信省鉄道作業局)に編入される。同時に稚内までを結ぶ鉄道の敷設に拍車がかかる。

1911年 天塩線が恩根内まで延長される。

1912年(大正1年) 天塩線が宗谷線に改称される。

1912年 宗谷線が音威子府まで開通。このとき旭川と名寄間を宗谷線と改称する。

1914年(大正3年) 音威子府と小頓別の間が開通。これに合わせ旭川以北の全線が宗谷線と名づけられた。これにより天塩線の名称は一旦消滅。

1914年 小頓別からは歌登町営簡易軌道が分岐。鉄道開通に合わせ丹波屋旅館が建てられた。

1916年(大正5年) 小頓別と中頓別間が開通。

1918年(大正7年) 中頓別と浜頓別間が開通。

1919年(大正8年) 旭川から浜頓別までの開通分を宗谷本線と一括し改称。(21年に一旦宗谷線に戻るが、22年の全線開通に伴いふたたび宗谷本線に改称)

1920年(大正9年) 鬼志別まで延長開通。

1922年(大正11年) 稚内まで開通し、宗谷本線が完成する。

1922年 音威子府から北に、稚内から南に向けて日本海側を周る鉄道の敷設工事が始まる。ふたたび天塩線の名が用いられる。

1923年(大正12年) 稚内と大泊を結ぶ稚泊航路が就航。

1924年 函館から名寄までの急行列車が運行開始。名寄以北は普通列車として運行。

1924年(大正13年) 稚内から南下する天塩北線が兜沼まで開通。音威子府から日本海側に出て稚内を目指す天塩南線が問寒別まで開通。

1925年(大正14年) 天塩南線が幌延まで開通。

1926年(大正15年) 天塩線の幌延と兜沼間が開通。天塩線として一本化する。浜頓別経由の宗谷本線は総延長149キロで、完成に11年を要した。一方、天塩線は127キロで、完成はわずか5年であった。

1928年 函館と稚内を結ぶ急行列車が運行開始。この急行は浜頓別に向かわず、新設された天塩線を経由した。

1928年 稚内と稚内港間の路線が開業。

1930年(昭和5年) 天塩線が宗谷本線となる。旧宗谷本線は北見線に改称。天塩線という名称の路線は一旦消失。

1935年 宗谷本線の幌延駅から分岐し、遠別まで伸びる路線が開設。天塩線と命名される。

1939年 稚内が南稚内駅、稚内港が稚内駅に名称変更する。さらに稚内駅の先に稚内桟橋駅が設置される。

1958年 天塩線は羽幌線に編入され、天塩線の名称はみたび消失。

1958年 札幌・稚内間に夜行準急「利尻」が新設。

1961年(昭和36年) 北見線が天北線と改称。

1961年 函館と稚内を結ぶ急行「宗谷」が運行開始。札幌と稚内を天北線経由で運行する急行「天北」が運行開始。小頓別駅 - 中頓別駅 - 浜頓別駅 - 鬼志別駅に停車。

1980年 国鉄再建法が施行される。天北線は第二次特定地方交通線に選定される。

1989年(平成1年) 天北線が廃線となる。

 


You Tubeで下記の映像が見られる

【車内放送】昼間のブルートレイン!?急行「天北」(14系座席+寝台 ハイケンス 札幌発車後)

天北線(廃線)を行く 急行「天北」  

天北線

いなか(というよりほとんど僻地)の人にとって、豪華な急行列車はそのまわりに豊かさと札幌の臭いを撒き散らしながら走ってくる。

 

いまはどうなっているのだろうか、むかしは月曜の朝というと校庭で全校朝礼か決まりだった。
「整列」と号令がかかる。背の低いものから高いものへ並んだところで、今度は「前へならえ」だ。
両手を前にあげて前の生徒の肩に触れるか触れないかのところまで間合いを詰める。
このとき必ず前の生徒を突っついたり、くすぐったりする奴がいるから、前の先生が睨みつける。
しつこくやる奴がいると、先生が飛んできてげんこつをお見舞いする。理不尽なことに両成敗だ。
整列が終わると「気をつけ」、「休め」で、それから校歌斉唱だ。
「東はるかに駿河湾、北には仰ぐ富士の嶺、長田の里に生い立ちて、この幸何かに例うべき」
さすがに戦後のあの時期、君が代はなかった。
それから「気をつけ! 校長先生ご挨拶」となる。
校長が高さ1メートルほどの式台にのぼり、挨拶が始まる。
これが長い。時節の挨拶から始まり、今日がなんの日なのかを説いていく。最後は教訓話になりなんかカンカのご託宣をたれて終わる。この間10分位だろうか。
困るのは「冗談」を入れることで、その「冗談」がいかに面白いかを諄々と説くから、その間にこちらは固まってくる。「頼むから今日は冗談をいれないでくれ」と願うが、そういう時こそ「冗談」のワンツーパンチ。
大体、月曜の朝が元気なわけはない。日曜は目一杯遊んでいるのだから、半分死んだ気分だ。暑い日などはクラクラしてくる。まさに「ムカつく」気分だ。
いま考えると、それは教師にとっても同じだったに違いない。ただなんとなく、月曜の朝はかくあるべきものかと思っていたに過ぎなかったのではないか。そしてそれは校長先生も同じではなかったろうか。
それはまさに「時代の呪縛」であったに違いない。
そしてその「時代の呪縛」に誰よりも忠実であったからこそ、彼は校長になれたのであり、自ら「呪縛」者の先頭に立ったのであろう。
こうしてルーチンに忠実な人間が次々にトップをつなげていくにしたがい、ルーチンはますます陳腐化しこと無かれ化し冗長化していくことになる。
あぁこのいとうべきルーチン主義者共よ。一刻も早く引退せよ。さすれば、君らが何ほどの人間でもないことは直ちに分かる。
安心せよ、君らの後継者はゴテマンといる。絶望的なほどに地にあふれている。

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