鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

カテゴリ: 80 日々雑感

本日、8日間の欧州旅行を終えて帰ってきた。家に電話したら妻が入院していた。
妹に見てもらっていて、訪問看護や介護の支援で無事入院はしていたが、それにしても5日間も知らずに過ごしていた。かなり気が滅入る。
それでも夜、自宅に落ち着いてから資料を整理し始めたが、カメラの写真のTiffファイルを削除しようとしたらJPEGファイルも一緒にやられた。プラハとウィーンの写真は全てアウトとなった。
頭が真っ白になった。しばらく充電が必要だ。

“とんかつ・カツ丼・カツカレー”
というのは、テニスの大坂選手が「いま食べたいものは?」と聞かれての返事だ。さらにデザートは抹茶アイスクリームだと言う。

この人、優勝したのもすごいが、優勝後のインタビューがチャーミングで素晴らしい。
顔立ちや体付き、片言の日本語などから、“日本人の血も混じったアメリカ人”と思っていたが、このセンティメントは日本人のものだ。
それにしても「とんかつ・カツ丼・カツカレー」はみごとなコピーだ。子供の頃から口ずさんでいたのではないかとさえ思わせる。
というのは、カツ丼というのは言わないだろうと思うからだ。今やカツ丼といえば日本人にとってやや郷愁を感じさせる食べ物になっているからだ。香の物の小皿に味噌汁がついてくる。香の物は大方鮮やかな黄色のたくあんが4切れ、ということは輪切りで2枚。この付け合せは天どん、うな丼、親子丼と変わらない。これがお重になるとお吸い物に代わる。
最近の若者にはちょっと古風で、いまなら串カツになるのではないだろうか。
悪者が捕まって、取り調べを受けて、最後にカツ丼を食うと人情刑事に自白するというのが、一時期の刑事ドラマの定番だった。あれは親子丼の具の鶏肉が入っていないやつがカツの上に載っていたのではないか。
それにしても、日本人のソウルフードといえばラーメン、カレー、スパゲッティ。それに続いてとんかつ、コロッケ、餃子となる。
もともとの和食といえばそば・うどんくらい。天ぷらだって元はポルトガルだ。ただしこれらの全てにご飯がつく。これが日本だ。
むかし日本は島国根性でだめだと自己卑下していたが、日本人くらい物好きで好奇心旺盛な民族はないのではないかと思う。
もう一つ、市井の日本人は外国人にも分け隔てなく付き合う。嫌韓だとか、チャンコロだとか、力を背景に威張り散らすのは一部の連中に過ぎない。
それというのも、逆に日本人の均質性が根っこにあるからだろう。均質的だから多様性を受け入れる。ワン・オブ・ゼムになりきれるというのは日本人の特質だろうと思う。ただし日本語の壁は未だにかなり厚い。

大変ありがたいコメントをいただいた。
そのままではもったいないので、あらためて記事として起こさせてもらうことにする。
まずは下記の記事をご参照いただきたい。この手の記事は観光や空港のページのQ&Aにしばしば載るのだが、たちまち潰される。かくして都市伝説のみが残る。
私の元記事は、そういう情報に網を張っていて捕まえたものである。だから、半分はそもそも噂話、半分はかつては真実だったが今ではそうではないというものである。ある意味、そういう情報をたくさん持っていると、ダメ元でそれなりに楽しめることもある。空港での暇つぶし・足慣らしにはもってこいだ。

に付けられた as さんのコメントです。

喫煙者にとってとても助かる情報ありがとうございます! 
先日バルセロナ・パリに行ったので共有させていただきます。 
どなたかの参考になれば。(いずれも制限区域内) 

■バルセロナ(BCN) 
シェンゲン内路線は、ショップエリアの両端(マクドナルドの先とロンシャンの先)に屋外喫煙所あり。 
シェンゲン外への国際線には喫煙所無し。 
(2018/08) 

■パリ(CDG) 
ターミナル2E:搭乗ゲートフロアの下の階に喫煙所あり。(エールフランスラウンジ並び) 
ターミナル2F ホールK:K37ゲート近くの喫煙所は廃止(看板はまだあります)、代わりにゲートの両端(K31、K51/53近く)の半地下に喫煙所あり。但しラウンジからはかなり距離があります(片道5分以上) 
ターミナル2F→2Eのトランジットでの移動通路にも喫煙所あり。 
(2018/08) 

■ローマ(FCO) 
ターミナル1:国内線(シェンゲン内)、国際線共に喫煙所あり。ラウンジ内は禁煙です。国内線は至る所に、国際線は免税店エリアは1フロア上に、サテライトでなければゲート近くにもあります。(サテライトは不明) 
(2017/12) 

■ミラノ(LIN) 
国内線(シェンゲン内)はillyの傍に喫煙所あり。国際線は不明。 
(2017/12) 

■ミラノ(MXP) 
国際線アリタリアラウンジ近くに喫煙所あり。ラウンジ内は禁煙。国内線は不明。 
(2017/03) 

「ネット墓」の構想がどうも進んでいかない。
最大の問題は技術インフラのほぼ完全な欠如である。
誰かテクニシャンに入ってもらうしかなさそうだ。
葬儀屋さんとまず相談してみよう。
バーチャル墓の一番いいのは、埋葬許可証がいらないことで、場所や広さに制限が不要なことだ。
墓地運営協会を作って、各種サービスを提案し提供することになる。中心になるのは「デジタル位牌」である。要はパソコンが各自一台あれば良い。その部屋で小人数で見るもよし、大きな部屋のスクリーンに映写しても良い。
問題は故人の遺した電子データをいかに利用可能にするかだ。おそらくデータのほとんどは断片的なものであり、どう閲覧可能にするかは検討課題だ。もちろん本人の意志を尊重はするが、本人に任せる言われても途方に暮れるだけだろう。
これはまさにリポジトリの技術であり、インデクシングの技術である。
いちど有志で検討会を開いて見る他ない。


この夏、北海道はずっと雨ばかりで、たまに晴れるとドライブしたくなる。この間は層雲峡まで行ってきた。お金さえ気にしなければ、今は上川町まで高速で行ける。計時はしなかったが3時間足らずでつくと思う。
上川から一般国道に降りてしばらく走るともう層雲峡だ。下の地図で見て、山に登っていくケーブルカーが見える。その出発点が層雲峡温泉だ。
そこからなんとやらの滝とやらを右手に見ながら進む。滝上の山にはまだ残雪がある。少しづつきつくなる上り勾配に差し掛かってしばらく走った頃、道は二股に分かれる。
両方とも国道で、まっすぐ東に行くと天北峠を越えて北見につながる。右に曲がるとダムの堰堤の上を通って湖沿いに三国峠に伸びていく。三国峠の向こうは十勝平原だ。まぁ北海道の中心と見てよいだろう。
大雪山
ここを三国峠の方向に曲がり、ダムの堰堤を越えトンネルを潜ると、右に登山道が見えてくる。最初の100メートルほどを行くと舗装は切れる。車がすれ違うのも危険を感じる悪路を延々と登っていくと、山の中腹で道そのものが切れる。これが銀泉台である。
なんでこんな半端な道があるかと言うと、登山者のためのアクセスなのである。車は通れないが道は山頂に向かって続いている。多分銀泉なのだろう、蛇口があって、トイレがあって、無人の事務所が置かれている。
私は登山などという無駄な遊びは好きでない、景色だけならテレビ見ていればたくさんだ。ということで早々に退散したのだ。
すみません。ネットしたところ、行き方&現地レポートという詳しいページがあって、動画まで掲載してくれています。
もみじの名所でシーズンには山麓からシャトルバスが運行するそうです。
朝6:00から昼過ぎまで30~45分間隔で運行。運賃は銀泉台まで片道500円。細くて未舗装部分が多い道を、ガタガタ走ること約35分。ようやく銀泉台へ到着します。
復路の最終は16:30です。
その帰りの途中、もう麓に近いあたりで道を歩いている青年を見つけたのだ。およそ登山者には見えない出で立ちで、まちなかを歩くふうに悠々と歩いている。しかも何故か下っている。
流石に気になる。止まって話を聞いた。見た目は日本人風だ。しかし言葉は片言だ。
「いったいどうしたの。みちにまよったの?」
「国道に出ようと思っています」
「国道に出るってゆったって、ずいぶんあるよ」
「大丈夫だと思います」
「第一危険だ。この辺は人はいないがクマが出る。私なら絶対歩かない」
「…」
ということで、とりあえず後部座席に収容する。
車の中で聞いたところ、この青年はマレーシア人。層雲峡温泉のホテルに「研修」に来ているそうだ。今日は非番で、朝の10時過ぎにふらりと宿舎を出て、散歩の延長でここまで歩いてきたらしい。私と同じ道をたどって、途中まで登ったが先が見えないので歩いて戻る途中だったという。
距離測ってないが、ある自転車乗りのブログで、温泉から二股まで11キロと書いてある。
無謀なことをするものだ。熊に襲われなくても大雪の山は夜はしっかり冷える。どうせ携帯など持っていないだろうし、持っていても圏外だ。
「メクラ蛇に怖じず」とはこういうことを言うのだろう。
ともかく層雲峡温泉までは車で送ってやった。さほどありがたい様子は見せなかったが、仕方がない。


それで、すっかり忘れていたのだが、この間の山口県大島の子供の行方不明事件のテレビを見ていてふと思い出した。人間というのは見知らぬところで迷子になると、似たような行動をとるものだなと思った。マレーシアの青年の場合、さすがに「これは戻るべきだ」と判断したのだが、それまでずいぶんと突き進んでいる。
そこには「進む勇気」も「退く勇気」も関係ない。前頭前野が止まるのだ。そして前頭前野が止まったとき、人間というのは無意識下に歩みを続けるものなのだ。なぜなら、前頭前野は「止まれ」という司令も出せなくなるからだ。そして無意識下であっても下位中枢がしっかりと歩行行動を支えるのだ。

「セルフアーカイブ」についての誤解

すみません。セルフアーカイブの意味を誤解していました。セルフアーカイブというのは著作権の関係でかなりスレスレの行為のことを指しているようです。

ウィキによると、

デジタル文書の無料のコピーを、オープンアクセスに供するためにウェブ上に置くことである。
通常セルフアーカイブと呼ばれるのは、学位論文や査読付きの学術雑誌や、国際会議において刊行された学術論文をその著者が所属する機関のリポジトリやオープンアーカイブに登録することである。

ということで、論文の二度出しである。約91%の査読付き雑誌が、論文の著者にプレプリントやポストプリントをセルフアーカイブすることを認めている。

いくつかの条件が整えばOKということになって来てており、最近ではオープンアクセスへの"green road"と呼ばれているようである。

ということで、「自主的アーカイビング」みたいな高尚なものではなく、「勝手にアーカイブ」みたいなちょっと生臭い話である。



リポジトリー について勉強した。
広島大学 学術情報リポジトリ というサイトがあって、そこに学術情報リポジトリとはというページがある。
考え方を整理する上でたいへん役に立つページなので、骨子を紹介する。

1.学術情報リポジトリとは?
論文、報告書、図書、研究データなどの学術成果物を公開するためのプラットフォームです。

これらの成果を保存し、無償で広く公開することを主たる事業とします。

学術情報リポジトリは広島大学の学術成果のショーケースとなります。

2.学術情報リポジトリのメリット

学術成果(雑誌掲載論文など)の可視性が高まります。
ご自身の研究成果一覧を作成することができます。
メタデータ(タイトル、著者名、キーワードなど)を作成すれば、より検索されやすくなります。
各コンテンツにパーマネントリンク(固定URL)を付与し、リンク切れをなくしています。

3.著作権の問題
出版社や学会に著作権が譲渡されていれば、話は複雑なので、各自前もって処理してください。

4.オープンアクセスについて
リポジトリはオープンアクセス(OA)の一種です。
オープンアクセスとは「誰もが、インターネット上で障壁なく、学術研究成果を利用できること」です。
リポジトリーでは既発表資料をOA化することになります。これを「セルフアーカイブ」と言います。

ということで、我々がやりたいことと言うより、それを裏で支える側の“ものの見方”になっているが、そう飲み込んで読めばかえって話はわかりやすい。
この文章では最終ゴールとなっている「セルフアーカイブ」が、私達には出発点であり、セルフアーカイブという行為と、それを公開するという行為がくっつくと「オープン・アクセス」という発想になってくる。
それを“プラットフォーム”(乗り場)の形で社会システム的に支えてくれるのがリポジトリーという受け皿だ。
したがって、この文章の結論になっている、しかし我々の行動の出発点になっている「セルフ・アーカイブ」という考えかたをもう少し突っ込んで置かなければならない。



結局何がしたいかと言うと、
1.ホームページを有効活用したい
ファッションよりも倉庫としての検索の容易さが目的。
毎月それなりの使用料を払っているのだから…
2.ブログ記事をばらしてファイル化し、索引を付けて別保管したい
要は
ブログへのアップロードと、ファイル作成+ホームページへのアップロードが、ワンタッチで行えるようにするということだ。
過去のファイル整理はその後だ。
Chrome Editorというのが役に立つかも知れないので、チャレンジしてみる。
狙いとしては、ブログ記事の作成をこれでやる。
出来上がったらブログにコピペし、ファイルはドキュメントに保存する。保存したファイルをジャンル分けして、ホームページの書棚に格納する。
これで電子書庫が出来上がるが、その索引機能は別途勉強する。図書館に設置されている検索端末のようなものを作る。
グーグルの利用も考える。



「ネット霊園」か「思い出倉庫」か

ネーミングは「ネット霊園」だが、実質は「思い出倉庫」だろう。
“人繋がり” が形成できるかどうか、“場” が作れるかどうかなので、
目的を共有する集団が形成できるかどうかがカギになる。

基本活動
故人ロッカー: ハードディスクなど記憶媒体の整理。文書ファイルを図書分類で整理して保存。画像ファイルを年月日順に保存。
閲覧室で鑑賞。
アナログ資料のデジタル化。(これは実費を旨とする)
遺言 遺族・縁者メッセージ 公開
メーリングサービス 死亡広報

オプション活動
ヴァーチャル法事 偲ぶ会(オフ会) 
資料虫干し公開 資料に基づくセミナー

定点活動
遺品・パソコン閲覧スペース

財務活動
維持基金(会費?)の管理・運用
基金運営委員会(税務)


※ 終活援助まで手を出せば一気にビジネス化するが、そこまでやるか。

※ 葬儀屋さんと組んで、葬儀サービスの一環としてやることにすれば、財務・税務は回避できる。

今朝のニュースで「パティシエ・ロワイヤル」というコンクールが行われたと報道されていた。菓子職人のコンテストらしい。
王立菓子職人てなんだろうと思ったが、「バトル・ロワイヤル」のモジリだと薄々わかってきた。
少なくとも日本のある世界では、“ロワイヤル”がコンテスト(勝ち抜き)という意味で、なんの不思議もなく用いられていることがわかった。

「通用するならいいか」と言われると、「ノー」だ。言葉としてあまりにもひどすぎる。

と、思ったら
そもそもまったく関係ない用法が立派に単語化しているのもあるようだ。

ロワイヤル(〈フランス〉royale)
卵とブイヨンを合わせて蒸し、卵豆腐のように固めたもの。トマトやグリンピースなどで色づけしたものもある。スープの浮き実に用いる。
ウィキペディアのロワイヤルの項目にも山程の用例が列挙されている。

とはいえ、これらの名は、いわば景気づけにロワイヤルと名付けられたに過ぎない。
コンテストやコンクールの意味にロワイヤルという言葉を与えるのはあまりに無謀だ。

はバトル・ロワイアルに関する言葉の乱れをあとづけている。
まず「バトルロイヤル」(battle royal)というのがあって、「プロレスリングで、多数のレスラーがリング上で戦う試合方法」なのだそうだ。
これを、おそらくカッコよく言うつもりで「バトル・ロワイアル」と言い換えた人がいて、「1999年に刊行され、後に劇場映画化もされた人気小説のタイトル」なんだそうだ。
これがいわゆる「デス・ゲーム」作品の先駆けとして、後年多くのフォロワーを生み出し…
若者言葉として定着したらしい。
そして最後に、ロワイヤルが「バトル・ロワイヤル」の意味を持たされた、ということなのだ。

昼飯のあいだにテレビのニュースショーを見る。
本日はボクシング協会のスキャンダルで揃い踏みだ。
ただ当事者にとっては到底許せないだろう。太えやつではあるが、キャラ的にはどことなく憎めないところがある。「仁義なき戦い」で言えば金子信雄くらいのレベルかな。
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         たかしさんのツィートより
少なくとも山口組の司組長のレベルではない。成り上がりの小悪人で、取り巻きとセット価格でなんぼのものだ。チンケな悪人なだけにわかりやすい悪戯をする。
スイート借り切というが、1泊2万円のスイートなんて笑っちゃう。
豪華なおもてなしセットというが、麦焼酎と梅酒ですよ。しかも1日じゃなく4,5日分だ。それも大した銘柄物ではない。「チョウヤのウメッシュで代替可」ってかわいいじゃないですか。カンロ飴と森永ミルクキャラメルとセンベエ盛り合わせがマスト・メニューだそうで、別に目くじら立てるほどのものではない。
日本大学に比べれば、可愛いもんだと思います。メディアにしてみれば叩きやすいでしょうね。こんな小悪人、叩き放題だ。

伊藤美誠・早田ひなは世界一だろう。
ソウル・オープンの中継を見たがとにかくすごい。
おそらく伊藤美誠はシングルでも中国選手を上回りつつあると思うが、これに早田がついたダブルスでは早田のドライブがすごい威力を発揮する。
とにかく早田のドライブはたぶん世界一の回転量だろうと思う。この人がしっかり打ったドライブを返せる人はほとんどいない。野球でいうとチーム打率3割のチームにホームラン40本の外人助人が加わったみたいなものだ。全盛期の内川と絶好調のデスパイネの組み合わせだ。
早田ひなの凄さは身重だとか筋肉だとかとは違うと思う。そのムチのような柔らかさに強さの秘密があるのだろう。だから決まったときの玊ぢからというか破壊力は見た目とはぜんぜん違う。
ダブルスをやったときに早田がドライブを打つ場面が作れれば、そのゲームは間違いなく取れる。相手もそうなったら諦めている。早田がドライブを打ったら、早田にドライブを打たせたら、その時点でとりあえずは終わりだ。
それにシングルプレーヤーとしても、もはや平野美宇を抜いてNo.2、美誠に迫るレベルに達している。
ダブルスというのはメジャーなゲームではないから、なかなかそこまで話を持っていくのは厳しいが、見る分には大変面白い試合なのでぜひ頑張って欲しいと思う。
それにしても早田さん、去年とは別人だ。堂々としていま一気にきれいになってきた。


あまり教えたくないけど、もし廃線になってしまったら、それも困る。
ということで、とびっきりの鉄道を紹介する。
それは根室本線で厚岸を出てから根室に向かうところだ。別寒辺牛湿原という。
皆さんは宮崎駿の「千と千尋の神隠し」という映画を見たことがあるだろうか。
あの映画のそろそろ終わる頃に、醜悪でシュールな温泉旅館から海の中を浮かぶように走る列車が登場する。顔なしお化けが横に座って、それが能面のように悲しみを湛えながら列車がしずしずと進むのだが、そんな場面が現実に存在するのだ。


厚岸の駅を出てから数分、突然視界を遮る一切のものが消え去る。360度が湿原となる。線路だけが砂利と枕木の分だけ僅かに高い。生き物はいるのだろうが人という生き物はいない。
こんな世界がおよそ20分は続く。
本当にあるんですよ。花咲線の根室行の列車、絶対に一度は乗ってください。あとせいぜい5年です。

北海道に穂別という町がある。正確に言えばあったということになる。平成の大合併で隣のむかわ町に合併された。

この町に恐竜博物館があって、これも正確に言うと恐竜ではなく水中に暮らした爬虫類らしいのだが、先日そこに見学に行ってきた。

小さな町には不似合いな立派な建物だが、見学者はほとんどいない。いずれ恐竜のように絶滅するのであろうか。

その博物館の受付で古老が語る穂別昔ばなしみたいな本があって、何気なく手にとってパラパラとめくったところ、これが意外と面白い。

つい買ってしまい、家で読み始めた。面白いと言ってもA5(全書版)で400ページの大著だ。途中で流石に飽きてきた。

一体何でこの本が面白いのか、いろいろ考えてみたが、結局これはガルシア・マルケスの「百年の孤独」なのだと思い至った。

1.アイヌ先住民

穂別の町は鵡川という川沿いに長く伸びている。明治に入るまでは川沿いにいくつかのアイヌ人集落があって、半農半漁、自給自足の生活を送っていた。とはいうものの、ほぼ無人の野と言ってよい。

なにせ理由は不明だが江戸中期からアイヌ人の人口はどんどん減って、明治に入ると全道でも数万というくらいだったから、アイヌの社会を征服して植民地化したと言うには程遠いものだった。

2.食い詰め者の群れ

町の歴史の最初はハグレモノの進入に始まる。ほとんどが食い詰め者かダマサれて来た人たちだ。明治40年ころの話だ。

最初は鵡川の下流の方から入ってきた。この人たちは押し出されていやいや入ってきた人たちだから、入り込みのスピードは遅かった。

ついで夕張から峠を越えて入ってきた。夕張がそもそも炭鉱で人が増えた流れ者の街である。山の向こうなら土地も豊かで食っていけるという風のうわさに乗ってしまうものがたくさんいた。夕張からの流れ、食い詰め者の流れが優勢となった。

この本のすごいのは、その人達(1900~1910年ころの生まれ)が健在(1990年現在)で、淡々とその苦労を語っていることだ。

その生き方は、突き放して言ってしまうと、人間と言うよりまるで虫けらのいのちだ。それが土地にしがみついて、黙々と働き続ける。しかしそういういのちは積み上がっていくのではなく、次々と入ってきては、そのほとんどが次々と消耗していくかのようだ。

何年かに1回は冷害がやってくる。その間に日照りがあり、洪水がある。焼畑農業は数年で地面が痩せてダメになる。住居・衛生環境は最悪で医療アクセスもほとんど期待できない。

災厄があり、病気があり、怪我があり、そのたびに人々は食い詰めて、街を出ていくか野垂れ死にしていくのだ。

それでも、しがみついて生きていく人もいる。子供の代には何かしら良くなるのではないかと思って頑張る。しかしその夢が叶うことはない。子供の代にも貧困はつきまとう。

ただ子供の代の人々は初代の獣のような生活に比べればよほど人間らしい。教育の力である。入植者がいかに学校教育を希望の糧としたか、その思いが切々と伝わってくる。そしてこの二代目たちが街の骨格を形成する。

3.町に凄まじい変革の嵐が襲う

鵡川の河口の方から鉄道線が伸びてきた。そうすると移出用の作物づくりが始まる。種子から灌漑設備、肥料・農薬と金もかかるようになる。当然町の中に金持ちが出現し、彼のもとで働く小作人も出現する。

こんな山の中に鉄道がどんどん入り込んできたのは、鉱物資源のためである。線路は国鉄ではなく炭鉱会社ものであった。

穂別の北部・西部は夕張から続く石炭の鉱脈であった。一方東部には日本国内で最大のクロームの鉱脈が連なっていた。石油の油田すらあった。

もちろん木材も伐採されたし、その後の二次林では木炭づくりも行われた。

これにより典型的な北海道の地方都市の体裁が、こじんまりと育ったのである。

4.沈滞から滅亡へ

この繁栄期は大正10年(1921)ころから、第二次大戦を挟んで昭和40年(1965年)ころまで続いた。

穂別は近辺一帯では豊かな街だった。町を鵡川とこれに並走する国鉄線が縦貫していた。穂別炭鉱、茂別炭鉱に新登川炭鉱、富内周辺のいくつかのクロム鉱はほかの街にはないものだった。石油は穂別炭鉱に近いところで採掘され、一時期は灯油として町内に供給されたこともある。
農業も稲里・長和の稲作は豊かな実りを与えた。夏の夜はホタルが乱舞した。豊田から仁和に至る鵡川沿いにも洪水さえなければ実りが期待できた。和泉の河岸段丘ではホワイトアスパラが全道ブランドとなっていった。

北海道はすべて昭和40年が境目である。すでに閉山の動きは始まっていた。農業構造改善と減反の嵐も始まっていた。北洋漁業の減船はもう少しあとのことになる。
すでに出稼ぎは長期化し、挙家離村の動きも始まっていた。

この頃から、私の穂別でのセツルメント活動が始まる。町には古い貧困と新しい貧困が重畳していた。

それまでの貧しさとは違い、先見えないひたすら沈殿していく貧しさがそこにはあった。

戦後生まれが三代目としてあとを継ぐはずであったが、彼らはすべて町を離れた。鉄道が廃止になり炭鉱やクローム鉱がすべて閉鎖され、林業が不採算となった今、そこに生きる縁はなかった。

2代目は跡継ぎを失ったまま齢を重ね、その土に帰る他になくなった。

今その作業がほぼ終了しつつある。


「忙しい何日間」という思考単位がある。
色んな人とあって、いろんな事実を知って、いろんなことを経験した。
それを納得するためにはもう一回り勉強しなければならないということがわかって、一方ではそんな経験に打ちのめされてヘトヘトになって、歳のせいで回復力が遅いからズルズルともう何日間という日が過ぎていいく。
若い時なら、こういうことは経験値として積み上げられ肥やしになっていくのだろうが、高齢化して精神的なスタミナと記憶力とが同時に落ちていく時代に入ると、ただの「骨折り損のくたびれ儲け」ということになる。余分なことはしないほうが良いのかもしれない。
ただそれを振り返っておくことだけは間違いなく良いことだろうと思う。そこで、この1週間を書き留めておくことにする。
11日の国際部会での議論。
いろいろな人がいろいろな発言をしたが、私の発言は次のこと。
1.リーマンショックから10周年立ったが、それは終わっていない。ねずみ花火みたいに彼方此方跳ね飛びながら、まだ続いている。これがわからないと、今の世界、これからの世界は読み解けない。
2.トランプの政策はすべて反オバマで貫かれている。だからオバマ政策の吟味が必要だ。オバマドクトリンというのは半分はリベラルな素敵な政策だ。残りの半分はエスタブリッシュメントの政策の焼き直しに過ぎない。トランプはそのうちのどちらに反抗しているのか。
議論の中で、アメリカ・ヨーロッパでのリベラル派の動きについて評価を求める意見があった。なかには「連帯」の相手をそちらにすべきではないかという声もあった。
私は、ずるいことに、あるときは、サンダース・コービン・メランションを一体として論じるべきと行った。別なときには、それぞれの特殊性を踏まえないといけないと言った。
そこをもっと説得力を持って語らなければならない。

じつは他にも話がある。久しぶりに天気が良いので、穂別まで行ってきた。恐竜の骨格が掘り出されたので大変夢のとこ度である穂別は学生時代に農村セツルで何回も入ったところなのでその思いもある。

ということで、ものすごいでかい問題意識が残ってしまった。
まずはとにかく書くだけ書いておこう。







どうもまことに不思議な事件だ。
事件の経過
総武線の幕張本郷駅で、痴漢が捕まり、その置換が取り調べのすきをついて逃げ出し、架線を支える電柱によじ登って立てこもった。
結局2時間後に“保護”されたのだが、なんとズボン、靴下を脱いで下半身はパンツ一丁という、中途半端にハレンチな状態で2時間も頑張ったのだと言う。
男の立てこもった電柱は、電車に電気を送る電線がむき出しではりめぐされ、触れば即死という環境。助かったのは何よりだった。被害者には申し訳ないが死んで許しを請うほどの罪ではない。
よじ登ったのが土曜の夜10時、“保護”されたのが12時と言うから、居合わせた人には大迷惑ではあるが、仕事に差し支える時間ではないから、「まぁ、飲み直そうか」ということかな。
推定される発症機序
発症の機序はおそらくパニック障害で、逃避反応として説明できる。ベースのメンタルには解離性人格障害(むかしで言うヒステリー)があったのだろう。
しかしそれだけで済ませられるかというところが大問題だ。
第一に、「痴漢として捕まった」ことが、瞬間に人格を崩壊させるような強烈なストレッサーになりうるということを示す症例だ。
非常に珍しいケースで、しかも社会病理の一現象の可能性があって、「東京という大環境」抜きには現れない反応ではないか。
第二に、無意識のうちに下着を脱いでしまうというのは、20年くらい前に有名な男性タレントが酩酊して公園で裸になり、警察のお世話になったという事件があった。 別に露出狂というのではなく、人に見せるというのでなく、脱いでみたくなるという意識下の欲望というのがあるのかもしれない。
考察されるべき事件の特殊性
ということで、今回の事件の興味は痴漢行為で捕まった時の心理状態に、他の状況とは異なる特殊性があるのかということ。 もう一つは脱衣行為というのが逃避反応(憑依)の一型としてあり得るのかということである。
これからワイドショーでやるだろうから、少し注意してみておこう。

何気なく富良野まで行ってきた。
出掛けたのがすでに10時近かったから「大丈夫かな」と思いつつ出掛けたのだが、わずか2時間あまりで行けるということに驚いた。
高速で三笠まで行って、そこから桂沢湖経由で行くのだが、本当の難所は幾春別を過ぎてから芦別市に入るまでと、富芦トンネル付近だけだ。基本的に信号はゼロ、道路工事は常時2,3箇所でやっているがそれだけだ。ほとんどが速度制限なし、追い越しも可能だ。
帰りは、芦別経由で滝川から高速に乗ろうと思ったが、滝川に行くのと岩見沢に出るのと距離・時間ともに変わらないことがわかり帰路も同じ道を選んだ。ただ三笠から岩見沢に抜ける道はすでに家が立ち並ぶ生活道路になっており、信号待ちもかなりある。やはり三笠から高速に乗るのが正解なようだ。
札幌から行って一番のとっつき、38号線の右側に北の峰スキー場に登っていく道がある。その角の喫茶店は感じの良い店だ。ここで無料地図がもらえるので、それを見ながら市内観光に出掛けた。
スキー場からの展望は素晴らしい。富良野盆地を隔てて眼の前に富良野岳、その奥がかすかに噴煙を上げる十勝岳。さらにその奥には雪をかぶる大雪連邦だ。
スキー場付近はもったいないくらい閑散としている。店の半分位は暖簾を掲げているが、あたりには人っ子一人いない。すでに閉店状態となっているところもたくさんある。
ここには外国人観光客は来ていないのだろうか。千歳からのアクセスはニセコより優れていて、西武プリンスもまだ諦めているわけではなさそうなので、これから大化けするかもしれない。
山麓の道路を南に進むと山の中腹に堂々たる高層建築が見えてくる。これが西武プリンスだ。山道を登っていくと今まで見えなかったもう一つの山がホテルの背中に見えてくる。これが芦別岳だ。これも立派な山だ。
コーヒーでも飲んでいこうと思ったが、意外に混んでいる。駐車場は車でいっぱいだ。月曜というのにすごい集客力だなと思ったら、なにかイベントがあったらしい。それで中には入らずにそのまま下ってきた。
途中にチーズ館というのがあったが、正直チーズは買ってまで食べたいと思ったことはない。冷蔵庫の場所塞ぎをしている。
その脇に看板があって道を入っていくと写真の展覧会場があった。
東京から移住して住み着いたという写真家の個人ギャラリーだ。相当のお金持ちらしく、建物の作りは立派なもので、展示された写真も一見に値する。
なんでも高齢のためあと数ヶ月で店終いするそうで、希望すれば展示物も分けてもらえるらしい。何れにせよお早めに。
ドライブのとき、いつも昼めしには苦労する。
どの街でもそうだが、観光地はそれなりでも、旧市街の荒廃ぶりは凄まじい。今回も街の中心部をぐるぐる回ったが、どうもこれはと思える店がない。まあ滝川に行って探すかと離れかけたとき、国道沿いの生鮮卸市場のなかに海鮮丼の店が見つかった。看板を見ると海鮮丼900円とある。ついその値段に釣られて入ってしまった。
値段からはとても信じられない充実ぶりだった。いつまで続くかわからないが、当面は「孤独のグルメ」並みのおすすめだ。
ご多分に漏れず富良野も限界集落だ。しかしもともとが農家のセンターだから、落ちるスピードは比較的遅い。悲惨さがないから気持ち的には落ち着く。
外国人観光が根付くと以外に息を吹き返すかもしれない。札幌からのアクセスの良さを考えれば穴場的存在かもしれない。
帰札後、テレビの夕方のニュースが富良野の話題を2つも流していた。一つはプリンスホテルに倉本聰の企画した高級エストランが店開きしたという話だ。ホテルの駐車場が混んでいたのはこのせいだったのだ。縁なき話である。
もう一つは市内の住宅で殺人事件。83歳の旦那が80歳の妻を刺し殺したという話。妻は車椅子で旦那が介護していたというが、別にそれが原因で殺ってしまったというわけでもないらしい。こちらが年取ったせいもあるが、83という年は、特にいなかでは、高齢者というほどのものではない。
普段仲の良い夫婦だったが「カッとなってやった」ということだ。夫婦喧嘩の決着としては尋常ではない。妻からかなり言い込められたのであろう。しかし台所から包丁を持ってきて車椅子の妻に襲いかかるという図は想像しにくい。知人・友人からは計り知れないDVの積み重ねがあったのだろうか。
ちょっと一筋縄ではいかない事件のようだ。

映画は大した映画じゃない。ありきたりの月並みの映画なんだけど、女優さんがすごい。
映画の名前は「陽だまりの彼女」で、女優の名前は上野樹理。とにかくその存在感が半端じゃない。映画の筋書きの通り「化け猫」を演じきっている。
女優さんは顔はまったくの10人並みで、別に映画俳優になるような美人じゃない。ところが映画を見ているとグイグイと引きずり込まれていく。強いていうとヘップバーンだね。日本で言うと、出始めの頃の田中裕子かな? 大竹しのぶかな? 沢尻エリカかな?
あたり一面に印象を撒き散らしながら走りすぎていく。走りすぎた後どんな顔だったっけと言われると、とんと思い出せない。キラキラとした飛跡だけが残っている。

あまりに天気が良いので、嫁さんを放り出してドライブに出かけた。
一応目標を留萌に据えた。去年の今頃はポイヤウンベを求めて浜益まででかけたのだが、今回はさらに足を伸ばそうというのである。
一度おぼえた道を走るのはとても楽で、浜益まではなんの疲れも感じることなく進んだ。ただ予想外れは去年立ち寄った浜辺の喫茶店が、今年は臨時休業だったことである。臨時休業という貼札が来年にはそのままに風に吹かれているのが、このあたりの風物詩であるから気がかりだ。
とにかくここまではまったくなんの支障もなく来たので、そのまま進む。
浜益の次が群別でその次が幌、ここからふたたび難所に差し掛かるが、意外になんということなく通り過ぎて、雄冬を過ぎて増毛まで入ってしまった。
「この辺が岩尾温泉だったかな」と思いつつ通り過ぎてしまった。まだ冬季休業中だったのだろう。増毛も街には入らずそのままバイパスしてしまった。
そうして視界の正面、小高い丘の上に留萌の街の建物群が視野を占める。伏古の我が家からここまで2時間弱。年を追うごとに快適になる。もはや通勤圏内と言ってもいいくらいだ。

留萌の建物群は砂丘の上に突然、無防備に、まるで蜃気楼のように現れる。蜃気楼だと思ったら本当なんだ。日本中の街でこんな感じを味わったことなどない。(霧多布も同じように出現するが、だいぶ規模が小さい)
留萌の街は出現の仕方も蜃気楼のようだが、街全体がほとんどウソのような街だ。ここにこんな街がなくてもなんの問題もない。もっというと、こんなところにこんなふうにあってはいけない街なのだ。
北海道というのは悲しい島で、いたるところに昭和遺跡という名の廃墟が建ち並んでいる。
長崎の沖合に「軍艦島」という炭坑跡があって見事なゴーストタウンになっているが、北海道という島はそのすべてが「軍艦島」なのだ。
北海道に住んでいると、そして夕張とか美唄とか留萌とか行くと、もう日本は限界集落を越えつつあると思う。東京だけが生き残るのだろう。かつては東海道ベルト地帯は生き延びると言われたが、今や静岡もしっかり穴凹地帯になっている。
酒が回ってきて話があちこち飛び始めた。
留萌観光は一泊すべきだろう。稚内と同じくらい奥行きがある。歴史を学びながら見ていかないと本当の良さは分からない。
今回は留萌駅の無料駐車場に車をおいて歩くことにした。出発点がわからないとさっぱりわからなくなる。ここからまず港へ歩く。この港はたいそう立派なのだが、今日に至ってはなぜこんなに立派なのかがわからない。無駄に立派なのである。
駅と港とは相当の距離がある。歩く距離ではない。港をさらに岬の方に向かうと市役所がある。港から背後の坂に登っていく途中が商店街で坂を登ったところに走っているのが札幌からの国道である。
人口4万の街がこれだけ複雑だとそれなりなに都会の趣きがある。しかし人口2万を切った街でこれだけの構造はただひたすらに無駄に煩雑だ。
函館の十字街、室蘭の中央通り、小樽の都通り、札幌の屯田通り、釧路の北大通…ゴーストタウンはどこでもそうだ。
とにかく、一日も早く、一日でも多くこれらの街を歩くべきなのだろう。駐車禁止を気にせずにいたるところに車を止めて歩くべきなのだろう。警察も一日も早く一方通行とか駐車禁止とか右折禁止とか止めるべきだろうと思う。それが街の衰退に拍車をかけているのだから。




昔話だ。
私は96年と97年の2年間、小樽の診療所の所長を勤めた。有床診療所の一人所長だ。
着任したときはひどい赤字だった。とにかく入院患者を確保しなければ赤字は解消できない。そのためには外来数を増やすしかない。しかしそんなことが簡単にできるわけはない。当面は往診数を増やすしかない。高齢化社会だから、そして小樽は坂の町だから、往診数を増やすのは、外来数の減少に対応するためにも必要だった。
そうやって往診数を増やすと、外来数も増えたし、入院数も増えた。多分厚労省の在宅重視の政策にも適合しただろうと思う。本当の患者のニーズに適合していたかどうかは別だが…
往診増加は戦略的に取り組んだ。週1回の往診には外来部門の全職員が参加した。月4回の往診はそれぞれ東部(築港・朝里)、市街中心部、北部(手宮・赤岩・高島・忍路)、西部(長橋・オタモイ・塩谷)に分けて行った。5週目は遊んでいたのかな? どっちにしても5時からは夜間診療が始まるので、楽をしていたわけではない。
1.東部コース
この往診の密かな楽しみが、喫茶店での道草であった。3時間で10軒回るのだがその間に10分ほどのティータイムが入る。2年間の間に月1回づつ行くから、結局それぞれのコースで24回行ったことになる。
その立ち回り先は4エリアごとに決まっていた。決まってはいたが、しばしば新たに開拓された。
東部周回コースは、入れ替わりが激しかった。最初に行ったのは国道から奥沢に行く道路で、光満ゴムの工場の一寸先の三叉路にあった喫茶店であった。そこは2、3回行ってすぐに潰れた。その後は、潮陵高校の坂を登っていって朝里に抜ける途中の崖にあった喫茶店で、ここは港の夜景を眺めるアベック向けの喫茶店で値段も普通の倍はした。ここは可愛い看護婦さんが着いて来たときだけ行った。
朝里に往診に行ったときは思い切り山越えで奥沢に出た。途中に(といっても無理やり途中なのだが)終わるワインの工場があって、無料で試飲ができるのだ。けっこうこの無料は高くて、係の人に顔を覚えられて高級なものを出してくる。当たり前だ。ナースは白衣で行くのだから。だから、結局いい値段のものを買わざるを得ない。
この工場は峠の途中で、冬場はゾッとしない。ところが良くしたもので、奥沢の十字街より札幌方向、川沿いに酒造りの工場がある。「男山」というが旭川の男山とは違う。その工場に、その頃お誂え向きに試飲コーナーができてしまった。結局ここでいっぱい引っ掛けてご帰還ということになる。
2.中部コース
中部コースは実は意外に往診先が少ない。まちなかに住む人はあまり勤医協や共産党とは縁がないのと、わざわざ勤医協でなくてもけっこう医療機関はあるからだ。
したがって往診先は山側に偏ることになる。したがって喫茶店も山際の眺めの良い喫茶店が増える。
小樽商大に向かういわゆる地獄坂、その途中の喫茶店、小樽駅ウラの市役所から西に入った喫茶店、は何軒か行った。
一番見晴らしの良い喫茶店は、駅前からきた国道が長橋方面に左折するところを曲がらずまっすぐ山を登ったところにある。下るのはエンジンブレーキだが、フットブレーキを使わないとタコメーターは5千回転まで上がる。私のおすすめの喫茶店だったが、私が小樽を去って間もなく閉じた。
この峠から、さらに山に登っていく道がある。50メートルほどで行き止まるのだが、その前に住んでいるおばあさんのところに往診しなくてはならない。ここは冬場は車は登れない。徒歩で行くしかないのだ。
3.北部コース
第3週の北方面は比較的喫茶店が多いところであった。一番クオリティが高いのは赤岩の坂を登っていく途中、かなり奥の方に菓子屋さんの直営の喫茶店がある。ここは自家焙煎をしていて、それは良いのだが、あの頃のはやりで真っ黒に焦がしていた。コーヒーの苦いのと豆が焦げて苦いのとは違うのだが、分かってない。分かってないのはいいのだが、その勘違いを客に押し付ける。とは言うものの店全体の雰囲気は標準以上だから一応受け入れる。パウンドケーキもうまい。ただし高いから毎度という訳にはいかない。
ここから高島の港まで一気に下がるとき、途中に思わず見とれてしまう高島診療所がある。20年前のあの頃でほとんど世界遺産状態だったが、今はどうなっているだろうか。
そして港につくとそこに2階建てのレストランがあって、1階が地ビールの工場だった。このビール、相当ひどかった。もう今ではやってないだろうと思うが、
ここの2階で日の傾いた高島港から色内の埠頭を見通すのもなかなかの雰囲気だった。北部にはもう一つの穴場がある。ほとんど幽霊ホテル化した祝津のホテルだ。ほぼ宿泊客ゼロのホテルの最上階が回転式のレストランになっていて、ギイコギイコと動いてはときにガタガタときしむ。コーヒーを飲みながら密かにいつご臨終になるのかと指折り数えていたことを思い出す。

4西部コース
これまで色々書いてきたが、西部はほとんど喫茶店の記憶がない。多分なかったのだろう。虎吉沢を下り喜ったあたりに1軒くらいあったのだろうか。私の覚えているのは5号線を下りきったところで塩谷の市街に入り、そこを抜けて海岸に出たところにビーチハウス状の喫茶店があったことである。夏の海水浴のシーズンこそ若者が来ることはあっても、ここで通年営業というのは流石に辛いだろうなと思ったっが、そのとおり翌年には姿を消していた。

本当につくづく思うのだが、もう北海道の田舎は住み続けること自体が難しい。まったく人がいなくなってしまったから、世間というものが存在しなくなった。
店終いしなければならないが、問題は何処まで消滅してくのか、何処までなら維持しうるのかが見当つかなくなっていることだ。
私は思うのだが、これなら道端のどこでも、なにか目印を立てて穴を掘って骨を埋めても見つからないなということだ。もっと露骨に言えば、見つかって一言二言文句を言われても、それで知らんぷりしてしまえばOKだということだ。

話がそれた。私は喫茶店世代の頂点にいて、その衰退を見つめてきた。いったい喫茶店文化とは何だったのだろう。何故か真剣に考えてしまう今日このごろである。

今シーズンを占う開幕戦、まさに不安が的中しつつある。
一番のリスク、それは栗山監督のセオリー外しがますます深刻化していることだ。フロントとうまく行っていないのだろうと思う。横尾の2番というのはあまりにひどい。キャッチャーも「ウソでしょう!」というキャストだ。
中田は1ヶ月だ。それでダメなら終わりだ。大田も結局鵜久森と同じで、それで終わりの人だ。2軍のホームラン王というのは、むかしからそれで終わりと相場が決まっている。
だいたいどういう野球をやろうとしているんだろう。守って、後半逆転して、1点差で逃げ切るヒルマン野球やるしかないんじゃないだろうか。弱い貧乏チームなんだから、勝つにはそれしかないでしょう。
 1番西川、2番松本、3番田中、4番近藤、5番レアード、6番岡、7番杉谷、8番鶴岡、9番中島
つまり近藤をファーストで、田中をDHで使うということ。あとは小谷野を拾ってくるくらいかな。我慢していればそのうち糸井や陽岱鋼クラスは育ってくる。あとはそこまで経営陣が頑張ってくれるかどうかだ。

多分、いつまでも続くわけはないし、病気が病気だから、終わればそれで終わりだと思うから、毎晩嫁さんと付き合ってビデオを見ている。
仕事はしない、活動もしない、頭は使わない、体も使わない、こんな生活は相当フラストが貯まるが、それに慣れてきた自分にもっとフラストがたまる。
難しいビデオはダメだから、テレビドラマのシリーズのビデオ化されたものを片っ端から見るということになる。
名前をあげようと思ったら殆ど憶えていないことに気がついた。そこでメモ代わりに見たものを書いておく。
まずは「結婚しない男」という連続ドラマだ。主演が阿部寛と夏川結衣の組み合わせのラブコメディだ。全15作くらいある。これが終わってから、嫁さんが阿部寛をリクエストするようになった。こんなの何処が良いのかと思うが、まぁ好き好きだから仕方ない。
落ちこぼれ高校生を東大に入学させる高校教師の連続ドラマというのを借りてきた。実にバカバカしくて見る気になれないが、嫁さんが見たがる以上付き合わざるを得ない。
次が阿部寛がCM作家をクビになって専業主婦をやるという設定のドラマ。いささか飽きた。
その次がヤクザが介護ヘルパーになるという荒唐無稽のドラマ。草彅たけしの主演で、ここにも夏川結衣が顔を出す。これも嫁さんが食いついて強引にご相伴させられた。
それが終わるのを待って、夏川結衣の「結婚前夜」というのを見た。これはNHKの5話完結のドラマで、マイフェアレディが下敷きになっている。脚本が素晴らしい。さすがNHKだ。
こういう映画は嫁さんと並んで見るのがいささかしんどい。お互いそこそこ心当たりはあるであろうから、横眼でちらっと見られる瞬間がけっこうズキッと来る。
夏川結衣という俳優は美人じゃない。少なくとも一目惚れするようなご面相ではないが、なにか変に魅力的だ。どちらかといえば嫌いではないが、人前で、とくに女性に「この女優さん良いね」というのが下心をさらけ出して言うようで、ひょっとはばかられてしまう女優だ。
「あら、こんな人がいいの?」と言われそうな感じ、「あれっ、俺の最初に付き合った彼女みたい」とふと過去を振り返ってしまいそうな感じ、とにかく何か気になってしまう女優さんである。
あと面白かったのが「ナニワ金融道」で、途中からはけっこうコメディーになってしまったが、1、2作目は相当迫力あった。コメディではあるが、いしだあゆみがゲストで出た番組はロードムービーの趣もあり、単作としても最高だった。
吉永小百合の「母と暮せば」は泣きの涙、嫁さんと代わる代わるにティッシュの箱に手を伸ばしていた。
私の母は4人兄弟。母以外はすべて男で、すべて医者になった。長兄が大学でセツルメントもどきにはまったらしい。当局に赤色分子として目をつけられたようだが、とにかく昭和5年ころに無事に医者になって、なった途端にコレラもどきで死んじまったようだ。
次兄は静岡で開業し金持ちになった、末弟は北大に行って学者になった。母はこの弟のようになってほしかったようだが、後年になってからは「長兄の血なんだね」と言って諦めた。父は「歯医者でも良いんじゃないの」と密かに思っていたが、そのような道は母の念頭にはなかった。

ネットでとりよせた鷹勇の特別本醸造。
何年ぶりかの鷹勇だったが、一瞬われを疑う。
これは酒じゃないよね、醸造用アルコールだね。だから「特別本醸造」なんだねと納得する。
たしかに鷹勇というのは最初の一口からグッとくる酒ではない。ぐい呑で一杯飲み終わった頃に、「えっ、これってなに」という酒ではある。
それにしても、この愛想の無さはなんだ。見事なまでのドキュメンタリーな乾燥感、口に広がるはずの“かぐわい”がない。上半分がヘラでこそぎ取られたような空虚感、舌に残るのは少々の糠のにおいだけだ。
困ったもんだね。これだけひどいと、ひとにくれてやるわけにもいかない。
だますわけにも行かないから、自決用の手榴弾を渡すように、「鷹勇の最期を確認してください」と言いながら渡すほかないだろう。




このところイライラが募っている。
夜中に咳が続いて、おそらくは左舌区の気管支拡張に、上顎洞感染が重なっているためのものと思われ、これまでもときに悪化・寛解を繰り返してきたが、どうも今回はしつこい。
とりあえず少しタバコを辞めてみて経過を見ようということにした。とはいっても、何度も繰り返された試みであり失敗に終わった試みであるから、半日くらいとタカをくくっていたが、なんと朝から寝るまで吸わずにしまったのである。
そうなると2日目は、禁煙を止めづらくなる。3日目はますますだ。さりとて吸いたい気持ちが軽減したわけではない。そもそも禁煙しようという決意などないのだから、辛いのだけがダラダラ続く。
生活のリズムが3拍子で形成されてきたから、これをどうするのかが戸惑いだ。“食う、飲む、吸う”あるいは“仕事する、飲む、吸う”の3拍子目がない生活というのはどう送るべきなのか、とりあえずは飲む、飲む、飲むでお茶とコーヒーとバターピーナツ
肝心の咳の方だが、たしかに朝の咳込みは多少軽くなったようだが、タバコをやめた努力のわりに見返りは少ない気もする。
明らかな有効性が確認できれば、それで目的は果たせたことになるのだから、その時点で喫煙は再開しようと考えている。ただ後鼻漏の方はいまだに続いており、このままでは週をまたぐことになりそうかな、と覚悟しつつある。
ということで、しばらく根を詰めた作業はしないようにします。
どうでもいいけど
3拍子の名曲をご紹介します。
NELLY OMAR - DESDE EL ALMA

5日(木)にふらりと宗谷まで行ってきました。
前に書いた天北線を見たかったのと、まだ宗谷岬を見たことがなかったので、それが目的と言えば目的ですが、まあどうでもよいことです。
家からすぐそばにインターがあるのでそこから高速で士別まではすぐに着きます。すぐといっても180キロ、“普通”に走って2時間はかかります。そこから天北線の出発点である音威子府についたのは途中休憩を挟んですでに12時を過ぎていました。
途中の美深にチョウザメの飼育場があるのですが、まったく宣伝もしておらず、看板すらありません。探すのに思わぬ時間がかかりました。しかしそれだけの価値はある立派な見物です。
入場料はなんと無料。隣接する道の駅にもそれらしき土産も何もありません。商売けがないというよりなにか隠しているようにさえ感じてしまいます。
私なら、チョウザメではなく「美深ザメ」とかネーミングして「ゆるキャラ」を作って全道キャラバンするね。チョウザメ・ステーキとかチョウザメ・バッグを販売して付加価値を大いにアップする。もちろんキャビアはそれ相当の値段をつけて、高級レストランに提供する。国際コンクールに出して箔をつける。まだそこまで成熟していないようだけど。
とにかく行こうと思う方は必ずネットで確認してください。その気にならなければ間違いなく見過ごします。美深なんてザラに行くところじゃありませんから、これは一生の不覚です。
もう一つの美深名物が羊かんです。これは左翼の人には泣ける話です。音威子府駅の職員がJR合理化と闘って東京に飛ばされた。北海道ではよくある話です。それが東京で配置された職場で羊かんづくりを学んで、美深に帰ってから羊かん作りを始めました。これが地元では評判になってかなりの売れ行きらしいのです。
とりあえず買ってきたがまだ食べてはいません。だいたいこの手の食い物は苦手なのです。見ただけで歯が疼いてくる。
音威子府駅はかなり観光化されていて、天北線に関するミニミュージアムも併設されています。なかなか充実しています。
音威子府で何か食おうと思いましたが、駅の立ち食いそばは1時で営業終了、目の前でシャッターを下ろしてしまう無情ぶり。道の駅に行ったら「本日休業」というありえない掲示。町内に食堂はなくなんとコンビニさえもありません。今回の旅行でわかったのですが、道北ではコンビニというのは決して「ありふれた光景」ではありません。「いなか」というのはInconvenient Countryの略だと心得たほうが良さそうです。
結局、空腹のまま音威子府を出発し天北線へと入りました。国道は天北線の線路跡と並行しながら走るのですが、それらしき遺物はなかなか見つかりません。一番良かったのは「北音威子府」の駅でした。
R0012325
89年の廃線から20年、今にも木立の向こうから列車がやってきそうな景色です。空き缶も、菓子の袋もまったくありません。この駅名板は国道からも木立を透かして見えますが、誰も気づかないようです。(一昨年、地元の有志が再建したのだそうです。がっくり)
峠を越えた小頓別は鉄道の走っていた様子はもはやなく、旅館「丹波屋」も崩壊は時間の問題のようです。上頓別はすでに集落そのものが消滅していました。
飯が食えるかと期待してやってきたピンネシリの道の駅もお休み、こうなれば中頓別まで走るしかありません。やっと中頓別のドライブインに到着。もうすでに3時ですからざるそばで手早く済ませて、と思ったらなんと20分も待たされました。ズルっとかきこんで浜頓別へ。
浜頓別の街はまだ活気があります。表通りこそシャッター街ですが、民家はこざっぱりとして廃屋はありません。ここもホタテ景気なのでしょうか。話に聞いた大通り、北1条、南1条をしっかり確認すればあとは用は無し。
陽が少し傾いてきました。暗くなる前には宗谷岬に着きたいと車を飛ばしました。なが~い直線道路、あたりには人家はなく「鹿の飛び出し注意」の看板ばかりが目につきます。そろそろお出ましの時間です。釧路で鹿には慣れています。道路に群れる鹿の群れの中を突っ切ったこともあります。
ようやく宗谷岬についたのが4時半を少し回ったあたり、もう日は沈んで夕焼けの空が広がっています。車窓の右前方にいくつかの島が見えてきました。それはだんだんとつながって山並みを形成します。宗谷岬は実は最北端というよりはサハリンに一番近いところなのです。明治の初め、樺太アイヌが島を追われて最初に定着したのがこの辺りです。気持ちわかりますね。
写真にとったのですが、小さすぎてわかりません。仕方がないのでほかの方の写真を拝借します。
樺太遠景
津軽海峡北部のハチクマさんのサイトより転載
最短直線距離で43キロだそうです。札幌・小樽間くらいです。借りておいていうのも何ですが、夕方のほうがもっとスッキリ見えます。風の強い日は水蒸気が飛ばされてよく見えます。
宗谷岬についた途端、吹き飛ばされそうなほどの強風、気温も急降下してとても長居できる雰囲気ではありません。
宗谷海峡
間宮林蔵と三角塔のあいだに見えてはいるのですが…
宗谷岬と稚内のあいだがけっこうありまして、ホテル到着が6時過ぎ。朝からずっと運転で頭の中がゴーッとなっています。しばらく休んでから街に繰り出しました。
稚内なんだから魚を、それもちょっとおごって寿司でも…と探して、そのうちにあまりの寒さでエイっと飛び込んだ寿司屋。
稚内では一流らしく、けっこう繁盛していました。カウンターの隅に座って熱燗を頼んで、空腹が手伝ってけっこうメートルが上がりました。味はいわゆるむかし風の寿司屋の味です。シャリの粒立ちがピンとせず5,6粒多い。甘みが強く酸味が足りない。ネタに下ごしらえをしない。鮪の赤身も赤貝も“まんま”で出てきます。アワビは噛み切れず残ってしまう。値段だけは老舗らしく一流です。
嗅覚はあるつもりなので、もう少し暖かければそれなりの店を見つけたと思うのですが、残念。
帰りにコンビニでコップ酒と酔ざましの牛乳を、と探したのですが、例によってコンビニがない。札幌なら石を投げれば当たるほどのコンビニが、探せど探せどない。
30分歩いてやっと駅のそばに見つけて買いました。宿につく頃には冷え切って、酔いだけが残っているという悪いパターンです。風呂で温まるといっそう酔いが回ってそのままバタンです。
ところで泊まったホテルかこれ。
ホテルサハリン
エンブレムの小さい字はロシア語でガスティニツァ・サハリンと書いてあるようです。ガストとはドイツ語でゲストのことですから。ゲストハウスという意味でしょうか。ホテルと言うにはちょっと気が引けるという感じかもしれません。
とにかく名前が気に入りました。「稚内に行ってホテル・サハリンに泊まってきた」というだけでシャレてますよね。
JTBやるるぶでは出てこない店だと思いますが、私はジャラン派なので見つけることができました。ロビーがかすかに魚臭いが、決して悪くはないホテルです。セザリア・エボラ風のおばさん(もう少し美人)がフロントを仕切っています。朝食が7時から8時までというのがすごいでしょう。
場所は最高です。あのルネッサンス桟橋の付け根から10メートル。時化れば舞った飛沫が飛んでくる場所です。朝日は宗谷岬の方から港越しに上がってきます。このときだけ宗谷岬がくっきりですが、太陽が上に上がると霞んでしまいます。
一人旅なら絶対のおすすめです。このマッチだけでもちょっとした自慢です。5,6個おねだりしてせしめてきました。
帰りに困ったことがいくつか
私の車は6年前のWishです。ナビがその時のものなので、最近の高速が載っていません。道北ではかなり部分開通していてバイパス代わりに無料利用できます。ところがそれがナビに組み込まていないのです。乗っているあいだは快調なのですが、降りてからのアクセスがわからず何度も迷子になりました。今度の定期点検のときにバージョンアップしてもらわくては…
国道275号線というのは地味な道路で、わりと遠慮しながら走っています。ときとして間道のほうが立派で間違えてしまいます。ひどいときは2,3キロ行ってから「あれ変だぞ」と引き返したりしました。そういうときに限ってナビが方向感覚を失ってしまうのです。
ときどき道路地図を見て、全体のイメージを持ってから運転するほうが無難です。
とにかく全行程750キロ、東京-青森よりもっと長い。71歳のジジイがよくも走ったものだと感心しています。ガソリンは満タンで余裕の完走でした。

Youtubeで耳掃除の動画を1時間見続けた。
eariss という耳掃除専門業者の宣伝映画らしい。
さすがに気分はあまり良くはない。ニオイがないのが救いだ。
今夜は夢を見そうだ。
とくにリンクは貼らないでおく。

以前から気になっていた室蘭に行ってきた。
室蘭には出張で何回も行っているのだが、その気で市内を見て回ったことはなかった。
多分、この地図を見てくれれば、誰しも、とっても気になる街だと思う。

室蘭
絵に描いたような良港だ。函館や小樽など比べ物にならない。港であればこうありたいという自然の条件をすべて備えている。広さはお釣りが来るほどで、防波堤など不要だ。後背地も広大だ。
しかし船の時代は終わってしまったから、どうしようもないのだ。
いまは乗換駅だった東室蘭が街の中心になっている。しかし室蘭駅はいまだに室蘭にある。市役所や市立病院やNHK放送局も室蘭にある。
室蘭本線は半島の西側をのたうつように走り室蘭の市街に至る。山裾に線路が敷かれているのだから仕方ないのだが、その海岸沿いは広く埋め立てられて新日鉄や日本製鋼の工場敷地になっているのだから、なんとなく割り切れないところがある。敷地の中を突っ切れば距離は半分で済むだろう。

かつて室蘭は北海道で5番目に大きい街だった。
都市人口推移
北海道が一番威勢が良かった昭和30年、札幌の人口は45万、これに次いで函館が23万、小樽が18万、旭川が14万、室蘭と釧路が11万、夕張が10万、帯広と苫小牧は5万足らずだった。
上の図では2000年までしかないが、2017年の今、状況はさらに惨憺たるものとなっている。

室蘭の地名はアイヌ色が濃厚だ。地図を見ても大黒島と白鳥大橋以外はすべてアイヌ語由来だ。駅名も輪西、御前水、母恋というふうに風情がある。
私は前から山の尾根を走る道路が気になっていた。どうしても一度走ってみたいと思っていた。あるひ、目が覚めて、天気が素晴らしいのに後押しされて、フッと出かけた。
札幌から110キロ、高速を使うと2時間でつく。ただし眠気はかなり強烈だ。100キロで走っていても車が止まっているように感じられる。
インターを降りて、地図でイタンキと書いてあるあたりから山道に入る。予想以上の難コースだ。しかし新日鉄の馬鹿でかい敷地を除けば景色は素晴らしい。日本製鋼を過ぎたあたりから尾根に出る。今度は太平洋が一望される。
地球岬からは噴火湾越しに恵山が目の前だ。これだけ美しい街なのに北海道の観光案内にも載らない理由は、ここがかつて公害の街だったからだ。
新日鉄の煙突から撒き散らされる鉄粉は、室蘭の町を赤茶色に染めた。企業城下町だったからそれを誰もなんとも言わなかった。もう50年も前、学生時代に泊まり込みで公害調査に来たことがある。細かい雪のように鉄粉が街なかを舞っていた。
それがいま高炉の火が消えて初めて美しさを取り戻した。
室蘭は観光の町としてもう一度再起すべきだと思う。
日本人は知らないが、中国人はそのことをよく知っている。地球岬は中国人だらけだ。



昨日は天気が良いので、ちょっと遠出してみた。

ある町のある喫茶店に入った。シャッター通りの商店街の一角、「英国屋」という。かなり傷んでいるが、かつてはブイブイいわせたであろう店だ。なにせ二階席まである。

おばさんが一人でやっているが、よく見るともはやおばさんではない。薄暗い店内で厚化粧だが、10分もして目が慣れてくると、私といいとこドッコイだ。

カウンター席の片隅に座るが、目の前に灰皿。喫茶店というのはこうでなくちゃいけない。

かれこれ小一時間も座っていたろうか、その間に来るはくるは、おばあちゃんの団体だ。

あとで指折り数えてみると、17,8人は来ている。ちょっとおめかしして、むかしの気分だ。

ここは完全におばあちゃんの社交場だ。

だんだん騒々しくなって、鶏小屋のようになってきたので退散した。

人通りの絶えた商店街、どこからこれらの人々は湧いてくるのであろうか。バスに乗ってやってくるのであろうか、人恋しくて。

しかしこののような残り火もあと数年であろう。

アーケード通りを歩いてみた。かどかどには拓銀や道銀の支店だった建物がそびえている.そして3~4階建ての立派な商家が軒を連ねている。もちろんほとんどが空き家だ。

函館の十字街はもうまったくの住宅街だ。小樽の駅前通りは崩れ落ちた商家が残骸を晒している。

江戸時代の宿場は街並み保存されているが、こういう建物は保存してもらえないのだろうか。
それより、地方の町並み、文化をここまで零落させた中央政治の冷酷さに胸が痛む。

 2006/02/20(月)の2チャン記事


競馬客目当て 路上賭博開帳 
京都府警、容疑で9人逮捕 

  京都競馬場に通う客目当てに、キャラメル箱を使って賭博を開張したとして、 
  京都府警組対二課と伏見署などは19日、常習賭博の疑いで、大阪市住之江区浜口西1丁目、 
  工務店経営伊藤剛容疑者(63)ら男8人と女性1人を現行犯逮捕した。 

  調べでは、伊藤容疑者らは、19日午前10時55分ごろ、 
  京阪淀駅から競馬場に向かう途中の京都市伏見区淀池上町路上で、 
  大阪府枚方市の自営業男性(55)を相手に、キャラメル箱3箱を巧みに置き換え、 
  裏に印をつけた箱を当てさせる賭博を開いた疑い。 

  同署によると、競馬の開催日に合わせて路上に机を設置、 
  客が勝てば賭け金の3倍を返す条件で賭博を開いていた。 
  伊藤容疑者ら男4人が交代で胴元を務め、残り5人はサクラや見張り役だったという。 

京都新聞 

 というわけで、未だにデンスケ賭博はなくなったわけではない。

だまされたことがないからいうのだが、非常に大掛かりで組織的だが、リスクの割には見返りの少ない詐欺で、一種の伝統芸能であり「文化遺産」である。

主犯の職業が工務店経営というのも、いかにもそれらしい。

ところでデンスケの語源となった増田伝助であるが、どうも氏素性がはっきりしない。

多くの記事では栃木県足利警察署の刑事で、一説では署長となっている。

彼が1935年に宇都宮競馬場の場外で行われたいたルーレットもどきの賭博を見抜き摘発したことからその名がつけられたというが、どの記事も伝聞であり、真偽の確かめようがない。

2ちゃんの発言にこんなのがあった。

増田伝助は、1990年か91年頃に亡くなったはず。 
新聞に死亡記事が出てて、デンスケ賭博の語源がわかった記憶がある。

もう少し調べると、

増田美正隊長は長身のキリリとした美青年。 父君は増田伝助氏という栃木県警の名捜査官。 親子二代の警察官だ。

というのもある。

そこで増田美正で検索すると、

警視庁第六機動隊長・増田美正警視(東北大・昭和35年組)

秦野人事により新設された上級職の増田美正隊長指揮のミニ機動隊・六機」

と、いずれも佐々淳行『東大落城 安田講堂攻防七十二時間』に名が出てくる。

ということで、誰かその記事を探し出して紹介してくれると良いのだが…



2015年04月18日 世界の空港 喫煙スペース一覧 その2
に多くのアクセスをいただいております。

みんな見てくれるのになにもしないのでは申し訳ないので、少し増補します(2017年8月)

というよりも、下記のサイトを見つけたので、そこからのコピーです。別に難しい英語ではないので、そちらに行ってみてください。

Smoking areas at airports

最近、メールを開くといろいろな人のツイッターが飛び込んでくる。

面白いものも中にはある。全体的にツィッターだと、一言だけだから勢いが良い。本音むき出しになる。

1.孫崎さんのツィッター

細野氏離党意向、どうぞどうぞ。即実行して下さい。慰留しなくていいよ。

…細野氏、離党決意、大歓迎。決意を揺るがすことなく決行して下さい。

気持ちはわかるが、もうすこし民進党の動き注意深く見守る必要があると思う。

やはり、まだ当分、日本を変える上で民進党という党の全体像を見ていかなくてはならない。

1年前、民進党が野党共闘の方向にこんなに近づくとは想像できなかったのだ。民進党は野党共闘の方向に決定的に動くのかの瀬戸際にある。逡巡したり抗ったりする気持ちはひとりひとりの党員の胸中にあるだろう。

それは日本国民の揺れる気持ちをある意味で代弁しているのだろうと思う。

揺れるということがある意味ではすごいことなのだ。

2.小池書記局長の発言

内閣改造があったが、革命という言葉をね、軽々しく使わないでほしいと思います。人づくり革命(担当相)と。革命っていうのはもう政治権力が変わるわけですよ。ある階級からある階級に政治権力が変わるような重い言葉だと思う。

私も気持ちとしてはよく分かる。「共産党は革命政党だ」と叩かれ続けて、頑固に守り続けてきたその言葉を大事にするのは当然だ。

だけど、「革命」は本来共産党の専売特許じゃない。ある意味で人民主権を端的に表した言葉だ。「人民は反人民の政権を打倒する権利がある」ということで、ある意味では憲法の精神だ。もっと日常的に使われてほしいという気もする。


昼から暇だから、テレビのワイドショーを見ている。
松居一代の話題で持ちきりだ。
どう見てもおかしい。まともではない。
そんなことは最初からわかっているのだが、テレビは最初は松居一代の発言を「事実」として追っていた。そんなところにもメディアの衰弱を感じてしまう。
今日は臨床心理士だとか心理学者だとか精神科医などがいろいろ出てきて、聞いたような解釈を加えていた。
それは要するに「はい松井さんの病気は何丁目何番地です」というだけの話だ。しかしそれがコメンテーターそれぞれに違うのだかたら、困ったものだ。
多分臨床的に一番問題になるのは、それが統合障害(昔の言い方だと精神分裂病)なのかどうかの判断だ。
そう言ってもおかしくないような徴候はたしかにふくまれている。しかしどうも違うような気がする。典型的な破瓜病に見られる思い詰めたような深刻感がない。
全体として受ける印象は乖離性障害(昔の言い方だとヒステリーあるいは憑依)だ。しかも発作性というより持続性だから、何らかの器質的脳障害がベースにある可能性が高い。例えば認知症の周辺症状としての被害(物盗られ)妄想だ。年齢から見ればまっさきに思いつくのはアルコール症だ。女性のアルコール症には何度もだまされた経験がある。
ただ明らかな攻撃性と自己防衛機転の脱落(離人症)を伴っており、健忘症の合理化のような現実に対する受身的な開き直りのレベルではすまないところがある。視床ないし視床下部の器質的・機能的障害が伴っていると見るべきかもしれない。

本日は天気がいいのでドライブ。

前から気になっていた美流渡に行ってきました。美流渡と書いてミルト、なんとなく素敵な名前でしょう。

岩見沢の街に入るちょっと手前を右に曲がります。三井グリーンランド(遊園地)を左に見ながら進んでいくとだんだん両側の山が迫ってきます。この沢を登りきると、その向こうが夕張になります。

とりあえず地図を載せておきましょう。

これが現在の地図。何もないのっぺらぼうです。

美流渡
これが昭和29年測量の地図ではこうなります。(上の地図の東半分)

美流渡2

美流渡の市街地の他、二つの沢に集落が認められます。奥の方の集落が万字炭鉱です。昔はそこまで鉄道が延びていて、万字線と呼ばれました。もう一つの沢が上美流渡炭鉱で、美流渡駅から軽便鉄道が延びていたそうです。

wikiより

北海道岩見沢市の志文駅で室蘭本線から分岐し、空知郡栗沢町(現在の岩見沢市栗沢町)の万字炭山駅まで23.8kmを結んでいた

上志文、朝日、美流渡、万字、万字炭山の5駅があった。



 1914年(大正3年)に万字軽便線として全線が開業した。1985年(昭和60年)3月31日限りで廃線となった。万字はかつての鉱区所有者朝吹英二の家紋「卍」に由来する。昭和51年に閉山となった。



昨日から1泊2日で東京まで行ってきました。
一度に書ききれないほどたくさんの経験をしてきました。
とりあえず、忘れないように書き込みだけしておきます。
1.三鷹まで行って滝平次郎の展覧会を見てきました。大枚はたいてプログラムも買ってきました。いろいろ感想はあるが、いずれ作品も紹介しながら感想を書いてみたいと思います。
2.帰りに駅前通りの喫茶店によってきました。昭和53年に何回か入ったところで、まだやっていることに感心しました。女子医大研修のときに何回か、三鷹中央病院の外来をやりに行ったことがあります。三鷹の駅からバスに乗って4つ目か5つ目かの駅だったかな。それで仕事の帰りに寄りました。一度、隣のテーブルに手塚治虫が座って、編集者と話し込んでいるのに耳をそばだてた思い出があります。
3.夕方からは日本AALAの主催の勉強会が中野サンプラザであって、それに出ました。第一演題が横浜国立大の先生の「ラテンアメリカの政治状況」みたいな話でした。いろいろ言い分もありましたが、おとなしく聞いていました。これも後で紹介します。
4.第2演題が、今回の旅行の主目的だったベネズエラ大使の講演です。時間がないせいもあって米州機構(OAS)からの脱退の問題に集中して話しされました。大使の深刻感は大変なものがあって、60年代のキューバのように明日にでもアメリカが戦争を仕掛けてくるのでは、という感じで話されていました。これについても2,3日のうちに文章を上げたいと思っています。
5.講演の最中に見覚えのある人が入ってきました。いろいろ考えているうちにニカラグアの大使だと気づきました。これにはちょっと感激しました。そしてベネズエラ問題はラテンアメリカ全体の問題なのだとあらためて気付かされました。もちろん講演の後は大使と交歓を深めました。聞くところによると、あのドゥルセ・マリアはニカラグア大使館の館員になっているようです。ちゃんと給料もらっているかな?
6.会議の後、吉田万三さんたちと繰り出しました。中野の街は大変賑やかでなかなか開いている店がなかったのですが、なんとか腰を落ち着かせることが出来て、総勢6人でワイワイと語り合いました。私はベネズエラに運動を集中させるよう力説しましたが、どう反応してくれるのかな。7月末の総会が楽しみです。
7.結構飲んだと見えて、次の日起きたらもう8時でした。中野サンプラザの上がホテルになっていて割りと感じのよいところでした。16階から19階までがホテルになっているのですが、18階のみが喫煙可になっています。
外から見ても分かるように、中野サンプラザは上のほうが、多分日照権の関係で細くなっています。その分、見晴らしはよい。快適な環境でした。そちら方面に仕事の方にはおすすめです。朝飯はかなり貧弱なので素泊まりのほうが良いかもしれません。
8.朝は阿佐ヶ谷まで行って、多喜二宅のあった馬橋の探索です。北口で降りて線路際の細い道を行くと、予想通りに「The踏切」に出ました。といっても今は高架ですからその下をくぐるのですが。そこから道は車もすれ違えないほどに細く、緩やかにうねりながらどこまでも続いてゆきます。
東京とは思えないほどに静かで、どこかで大工仕事をやっている音が響くくらいです。横に入る道はさらに車も通れないほどに狭く、そのほとんどが行き止まりです。たまにお屋敷もありますが、ほとんどは庭もないような小家が立ち並んでいます。多喜二が住むにはふさわしい環境と言えなくもありません。
大きな稲荷神社があって、その先に杉並第6小学校があって、そこから道は東へと向かっていきます。結局多喜二の家はわかりませんでしたが、街の雰囲気はわかりました。古地図にあった馬橋の風情が未だ残っているということもわかりました。
時計はすでに11時をまわり、6月の直射日光は流石に体にきつい。そこから阿佐ヶ谷駅まで戻りましたが、駅前商店街にたどり着いた頃には体中から汗が吹き出してきました。
9.最後の目的地、高円寺の古書店です。2年前に来て憶えていたと思ったが迷いました。20分ほど道草をしてようやく見つけました。
買った本の題名だけ、とりあえず。
「1億人の昭和史10―不許可写真史」 毎日新聞 1977年
「騎馬民族の道はるか」森浩一 NHK出版 1994年
「古代史  津々浦々」 森浩一 小学館 1993年
10.帰りは結構危うかった。高円寺を出たのが12時半。中野で快速に乗り換えて神田で乗り換えて、あとは浜松町まで快速、と思ったら京浜東北が「信号確認のため」と称してストップ。どうなるかと思ったが、浜松町でモノレールの快速に滑り込みセーフ。
出発1時間前に羽田についた。お陰で靴磨きまで出来た。とは言うものの、崎陽軒のシュウマイは品切れで買い損ね、お土産無しで帰る羽目となった。
11.羽田からの飛行機は乗客確認で20分の遅れ、千歳からの快速は15分待ち、ということで札幌駅に着いたのが18時ちょっと前。ということは飲み屋はもう開いている。それじゃ、というわけで帰宅前にいっぱい引っ掛けてということになる。フクラギのキモとヒモと刺し身をサカナに八海山を、結局三杯も飲んでしまって、我が家についたのが8時半という1日であった。
体のあちこちが近藤選手並みに痛い。明日は起きれるだろうか。

カテゴリー再分類がいったん完了した。なんだかんだと5日間かかった。

時間がかかった最大の理由は、見出しが不適切で、見出しだけ読んでもなんの記事やらわからないというところにある。

日記であれば前後の関係で想像がつくこともあるが、もう5年以上前のものもあるので、それだけではわからない。

仕方がないので本文を読む。そして見出しだけで記事の内容が想像がつくくらいまで、補足する。

子供の頃、大掃除という風習があった。年に一度は畳を剥がして、天日干しする。その間に古い新聞紙を剥がして新しいのに取り替える。

それからDDTを撒いて、畳を敷き直すということになる。その間にふすまや障子を拭いたり洗ったりする。

親戚の家に手伝いを頼み、子供も動員しての大作戦となるのだが、この時作業が止まってしまう最大の理由は、古新聞を読み始めてしまうことだ。

「温故知新」というが、まるっきり今でもニュースだ。普段、新聞というのは一面からではなく逆から読んでいるので、目が届かないところがあって、そこに案外面白い記事があるものだ。

親父に「コラッ」と怒鳴られて、しぶしぶ作業に戻る。

今回もそれをやってしまった。だから、途中で疲れてくる。見出しだけでなく中身にも手を入れだす。そうするとわからないことが出てきて、それをまたウィキなどで調べだす。

そんなこんなで5日間が過ぎていったのである。

一応、出来上がったのか下の表である。多分行き先間違いもあるだろう。気づき次第訂正していくつもりである。

カテゴリ別アーカイブ

極端に多いジャンルもなく、少ないジャンルもなく、ほぼ良い具合にバラけたと思う。

境界領域の記事がこちらに入ったり、あちらに入ったりという混乱はあるが、ある程度は仕方あるまい。

“右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします”というセリフをある程度胸を張って言えそうだ。

ついでに、なんでも年表集のあり場所をリンクしておく。

現在のカテゴリー分類
01 国際政治/経済 (668)
11 日々雑感 (239)

新カテゴリー分類
ワンボタン・ワンプッシュで済むことが原則である。
無駄な作業を増やしたくないので、現在の分類をなるべく活かす。
項目は少し絞り込む。現在大小のカテゴリー合わせて49の項目があり、30程度には減らしたい。
ということで、以下のごとし。

10 国際政治・経済
11 東アジア
12 アジア(11諸国以外)
13 中東(マグレブ諸国含む)
14 ヨーロッパ
15 米国(カナダ含む)
16 ラテンアメリカ
17 その他(ほぼアフリカ)

20 歴史(基本的には日本史)

30 国内政治(財政含む)
31 対米従属(国家・経済構造の分析含む)
32 政治革新(各種の運動課題含む)
33 原発(東北大震災含む臨時的項目)
34 国内経済
35 社会問題(労働・福祉など)
36 社会理論(社会主義・哲学を含む)

40 自然科学
41 臨床医学(一部医療問題を含む)

70 芸術・文学
71 音楽(クラシック)
72 音楽(クラシック以外)
73 オーディオ・パソコン操作

80 日々雑感

ということで全23カテゴリー。これで始めてみよう。

最近、カテゴリーがうまく機能していないと感じるようになった。

最大の理由は

  • ブログをはじめた日

    2014/03/16 (開始日から1130日目)

  • これまでの投稿数

    4033

となっていることである。1130日というのはライブドアに引っ越してからの日にちで、ブログそのものを始めたのは2011年5月であるから、すでに6年を経過している。

とはいえ、問題はそれだけではない。

一つは、2段階のカテゴリーをフル活用しようとしたのがあだになっていること、10x10で100くらいに分類しようとしていたが、これでは煩雑すぎる。

一段階だけで済ますやり方に変えなければならない。(実際にはすでにそうしているのだが)

もう一つは関心領域が大分変わってきて、多少趣味的な様相を呈してきている。もう少し社会に向き合わなければならないのだが。

それで、経済・金融分野の記事が激減し、政治分野もかなり減った。らの話題はほとんどタッチしなくなっている。目下は音楽、古代史と生物学的なところに集中している。

これはカテゴリー分けの問題以前の話だ。読者にも不満を感じさせているかと思う。

まぁ、それはそれとして、とりあえずカテゴリー分けを検討しようかと思う。

そこで日本十進分類法を勉強してみることとした。

十進法は10X10で百項目にわかれる。これをそのまま使うことはありえないだろう。

自分のこれまでの記事と照らし合わせながら、20カテゴリーくらいに整理してみたい。

00

ここには必要なカテゴリーはない。

10

これは哲学だけで十分だ。心理学は医学の一分野と受け止めているので、哲学的心理学は興味の範囲外だ。

20


これは私の主たる興味分野だ。ただ政治史というのは多くは現代史であり、現代政治と深く関わる。現代政治経済を把握しようとするなら、歴史的視点から認識しなければなならないというのが、私の主義だ。

どのように分けるかとなれば、政治のカテゴリーの一分野として扱うことになるだろう。

とは言いつつも、世界の各国の社会状況は350統計という項目しかないので、各国の歴史カテゴリー内の「現代史」として突っ込むしかなさそうだ。

30

このカテゴリーは、取り付く島がない。いかんともしがたい。私も細かく分けすぎていて、それが失敗のもとになっている。

平和という項目も民主主義という項目も対米従属という項目もない。仕方がないのでこれを一応政治として括る。

ただ政治を語る場合、2つの問題がはみ出す。

一つは超十進分類的に安保体制が覆いかぶさるので、この問題は別途項目を立てなければならない。強いて言えば313「国家の形態、政治体制」にふくまれる。

もう一つは政治闘争の主体に係る課題である。むかしは統一戦線と言い、今は野党共闘と言う。これも強いて言えば315「政党、政治結社」にふくまれる。それ以外が310「政治」ということになる。

「憲法守れ」や、「言論の自由を守れ」は320法律のカテゴリーではなく310政治のカテゴリーにふくまれるものであろう。

330経済は一つのカテゴリーでよい。金融問題も経済一般としてそれほど矛盾はない。340財政(アベノミクスや消費税)は基本的には310政治の枠組みで語る。

経済的な対米従属は、安保体制=313国家の形態で語ったほうが良い。

国際的な経済情勢の分析(リーマンショック、欧州債務危機、租税回避など)は、国際政治・経済の枠組みで語ることになる。これは333経済政策・国際経済ではなく、十進分類を超えたとことに設定すべきであろう。

またマルクス主義経済学については経済もふくめた社会理論として、362社会史・社会体制の項目を当てるのが良いかもしれない。

非正規、過労死、貧困、医療介護などはひっくるめて社会問題として368社会病理に括っておく。

原発は基本的には政治課題ではあるが、多面的な要素を抱えているので、臨時的に項を起こしておいた方が良いであろう。

40自然科学は一つのカテゴリーで十分であるが、医学は医療と関わるだけに線引が難しい。一応臨床医学は臨床薬学や医療と合わせて別項目を立てておく。

50技術・工学と60産業は不要である。何処かに収まるはずだ。

70芸術・美術は、記事の量から見て76音楽は別にせざるを得ない。直接ここに入るわけではないが、オーディオを中心としてパソコン・アプリの遍歴がかなりの量を占める。成り行き上、音楽の項目の付帯項目としてパソコンのプログラム関連の記事もここに突っ込んでおく。

80言語の項目は当面不要である。90文学は芸術に突っ込んでいるが、当面不自由はないのでこのまま行く。


こんな感じで外観がつかめてきたので、明日は一定の成案を立ててみようと思っている。

おやすみなさい。

なんでも年表 一覧

 

膨大かつ雑多な年表が溜まりました。こちらにまとめて掲載します。同じものをホームページの方にも置きます。
ジャンル分けは、とりあえず話題別年表、地域別年表に大別しますが、話題と言ってもどんなものがあるのかわからないので、とりあえずアップの日付順に載せ、順次括っていきたいと思います。これを作るのにマル2日かかりました。


話題別年表
政治的できごと(世界)
ケネディ暗殺事件
キューバ・ミサイル危機
ゲバラの死

ウォーターゲート事件
イラン・コントラゲート事件







南シナ海と南沙諸島をめぐる紛争年表ブログに分割掲載していたものを増補・一本化しました。

南沙諸島関連年表 1

南沙諸島関連年表 2

南沙諸島関連年表 3


政治的できごと(日本)

大久保利通の足跡 (大久保個人をかなり越えてしまっている

日清戦争 年表

日露戦争 年表

GHQの戦後改革 タイムテーブル  戦後改革をGHQからの目線で整理してみました。

GHQの戦後改革 その1

GHQの戦後改革 その2

GHQの戦後改革 その3

GHQ年表 補遺分

GHQ年表 補遺 その2

満州事変と一夕会 年表

対中侵略と国内政治の流れ 年表

内務省年表(とりあえず戦争責任との関係で)

内務省の歴史 年表

戦後引揚事業 年表

経済的できごと

トービン税・金融取引税に関する年表

FATCAとCRS 経時記録

1997年論 まずは年表から (1997年、消費税引き上げで惹起された経済危機を時系列にしたもの)

アジア通貨危機年表 (増補版)

98年のルーブル危機

金融自由化、プラザ合意、バブル景気の三題噺 レーガン就任からバブルに至る10年間の時系列

日米構造協議年表 その1

日米構造協議年表 その2

日米構造協議年表 その3

みずほ 迷走の15年 (みずほ銀行の合併後の内部混乱の経過)

弁護士CM乱発のわけ その2

ギリシャ危機年表

 

世界史的なできごと

カリブの海賊の年表

“インディアン”抵抗史 (米国の先住民、いわゆる“インディアン”の歴史です)

青銅器時代を学ぶ

ケルト人について (文章の後半が簡単な年表になっています

清教徒革命年表 今後の課題

清教徒革命年表

赤いウィーン 年表  第一次世界大戦後、10年以上にわたって続いたウィーン「革新都政」の年表です。

「赤いウィーン」前史

大恐慌からニューディールへ 政治年表

ナチス・ドイツ「経済奇跡」年表

日本で知られていないドイツの反ナチ闘争

「仕上げ」としての大テロル

フランスのレジスタンス 年表

1946年、イランで原爆使用計画? (WW2の直後に起こったイラン紛争の経過です)

ハンガリー事件年表 その1 (解禁文書で見る経過)

ハンガリー事件年表 その2

ハンガリー事件年表 その3

大躍進運動 年表

東アジア共同体とASEAN 年表

ブラジル、民主化の闘い 略年表

 

日本のできごと

明治の農業改良運動 年表

太平洋炭鉱の歴史 年表 

堺県の歴史 年表

戦後の日本人慰安婦(パンパン)

バプテスト 年表 (日本におけるバプテスト教会の活動の歴史)

奄美共産党 年表 その1

奄美共産党 年表 その2

奄美共産党 年表 その3

奄美共産党 年表 その4

山口組内紛の背景

ビキニ核実験 被爆年表

ビキニ年表 増補版

イラク問題と山崎拓

APF・昭和ゴム 関連年表

脱原発年表 2011年

脱原発年表 2012年

脱原発年表 2013年

 

自然科学的なできごと


先カンブリア紀 年表 を増補

先カンブリア紀 年表

始生代への旅

原生代と古生代 年表

うつ病年表が挫折した

ワニの進化と直立歩行の真偽について

ゲノム研究 年表

素粒子物理学 年表

電子からレプトンへ

ニュートリノに関する年表 

iPS細胞 年表

 

思想的なできごと

カール・ポラニー年表

カール・ポラニー年表の増補 ついでに一言

ホッブス、ロック関連の年表

ミル親子 年譜

オーストリア学派とオーストリア社会民主党 「論争」の年表

フランス構造主義の年表 

ソシュールは誰に何を対置したのか (文章の一部が、いわゆる「ソシュール言語学」の成立をめぐる簡単な年表になっています

戦争責任論の系譜

武谷関連年表(自分流)

 

芸術上のできごと

5人組とチャイコフスキー 年表

リャードフとリャプノフの関連年表

剣道歴史年表

自然主義文学 年表的理解

大逆事件と啄木 年表

ボサ・ノヴァ年表
ボサノヴァ年表の解説というか…
地域別年表
日本
樺太(サハリン)の年表 その1

樺太(サハリン)の年表 その2

最上徳内と間宮林蔵

間宮林蔵に関する年表

最上徳内に関する年表

アイヌの北限の歴史

アイヌ民族年表

古代出雲のトロイ戦争か

分子人類学の「日本人起源論」 増補版

青銅器時代を学ぶ

長江文明 の流れ

三韓および倭国年表

日本書紀抜きの日本史年表  

衛氏朝鮮は天孫系の源流ではなさそう

三韓時代以前の朝鮮半島南部

蘇我稲目は倭国の末裔?

大和王朝の世界史への登場(7世紀の日本) 年表

古墳時代ではなく倭王朝時代と呼ぶべきだ (古墳時代の簡単な年表)

渡来人は現代朝鮮人と同一なのか (内容はほとんど米作り年表)


世界
米 国 340kb


#1米国史1,123kb カボットのニューファウンドランド探検から「門戸開放」まで

#2米国史2,65kb  フィリピンの反乱からケネディの当選まで

#3米国史3,116kb  対キューバ断交からクリントン弾劾まで

#4ケネディ暗殺,73kb

#5ウォータゲイト事件の経過,13kb

#5イラン・コントラゲイト事件の経過,38kb

#6インディアン抵抗史,37kb


ヨーロッパ (332 kb)
        
#1 スペイン年表~1930  150 kb レコンキスタから人民戦争前まで
#2 スペイン年表~現在まで  99kb スペイン人民戦争を中心に現在まで
#4 ポルトガル年表  122kb  19世紀以降を扱う。それ以前はスペイン年表内に格納。リスボンの春・カーネーション革命を中心に

ポーランドについてのかんたんなお勉強

スペイン統一左翼の歴史 その1

スペイン統一左翼の歴史 その2

スペイン統一左翼の歴史 その3

イタリア共産主義再建党の歴史 その1

イタリア共産主義再建党の歴史 その2

イタリア共産主義再建党の歴史 その3

 

朝鮮半島戦後史(1469 kb)
インドシナ戦争・ベトナム戦争(675 kb)
中国革命関連

毛沢東のライヴァルたち (下記の8+1本をまとめ、増補したものです。長征以前が対象です)

魔都上海年表

上海年表 補遺

内山完造の動き

 

中東関連

中東現代史年表 その1  86kb  イランとイラクが中心です

中東現代史年表 その2 (というより,ここ2年余りのイラク問題経過表) 118kb

パレスチナ(イスラエル)年表  105kb

エジプト 2013年  「7月4日事件」の8月末での整理です。

 

第三世界(440 kb)
ネパールの年表

バングラデシュ 年表 

ルワンダ史  大虐殺を挟んだルワンダの歴史。

西サハラの闘い その2

西サハラの闘い その3

南部アフリカ(南アフリカ,ナミビア,アンゴラ,モザンビーク,ジンバブエ,ボツワナ,ザンビア)  157kb

おそらく、ほとんど何の役にも立たない年表ですが…

 

 

 

 

4月からの生活設計
3月を以て、老健・特養での勤務も満了となる。
あとは悠々自適と行きたいが、「自適」の意味がわからない。かと言って事業を起こすほどの馬力もない。
いろいろ考えているが目下のプランは下記のごとし。
まずオフィスを持つ。
名称は「老人医療問題相談所」くらいにしておく。
売り込みは2枚看板だ。
A)老人医療問題相談事業
1枚目は「老人医療に関わる医学的助言」だ。主に在宅の介護スタッフやソーシャルワーカーを念頭に置いたものだ。
現場ではスタッフが医学的情報の断片化、医療側との意思疎通の困難に頭を抱えている。専門知識を踏まえた統合プランを求めている。
これのお手伝いがなんとかできないだろうか。
もちろん医学的知識だけではなんともならないのだが、それがないと一歩が踏み出せないのである。
そのために具体的にはどうしたら良いのだろうか。
① まずは電話あるいはメールでの相談に応じる。
② 話が複雑な場合(たいてい複雑だから相談するのだが)、依頼者との面接からはじまり、家族や介護役との相談、施設系担当者との連携が必要になる。
③ 場合によってはケアの対象に直接会う、担当医との連絡なども必要になるかもしれない。
④ 最終的にはあらあらのレポートを作成した上で関係者会議を開いて、合意を形成していくことになる。
⑤ このためにはこちらにも専門的知識の引き出しが必要になるから、他団体・専門医の間に人脈を形成しなければならない。
⑥ これらの経験を通じて得た教訓を公にし、ノウハウの積み上げを図り、多くの人々と共有していきたい。
といったあたりが、とりあえず頭に浮かんでくる。
よく考えてみれば、これらの実践はまさしく“Medical Social Work”そのものである。
B)老人医療問題研究会
どちらが手段でどちらが目的かはわからないのだが、どちらかと言えば、こちらのほうがやりたい方。
学生時代にやっていたセツルメントや社医研活動をもう一度やってみたいという思いである。
研究そのものが目的というより、お互いに知恵を持ち寄っての「勉強会」だ。「同好の士よ集まれ」というサークル活動に近い。会議そのものよりも「アフターアワー」を楽しみたいという密かな希望もある。
こちらの方は会員制になるだろう。その場所を提供できればいいなと思っている。
① 事例検討と講義、討論という例会。
② みんなの意見を載せる会報の定期発行。
③ できれば調査活動などのキャンペーンも組みたいが、そこまで馬力があるか。
C) スローガン
運動だからスローガンが必要だ。
思いつくままに上げておく。
①医療に学びを、現場に知恵を
②現場の悩みを受け止め、整理する
③現場の悩みを医療につなげ、展望を与える
④現場の問題を掘り下げ、みんなのものにする
お、まぁこんなところか。後は経営担当者と営業担当者を見つけなければならないな。

60年前のミスコン狂騒曲

最近もAKB48の「選挙」とかでCDを買わされたとかいう話があるが、昔はもっと壮絶だ。

余市町で昭和33年に起きた出来事。余市町のホームページに「ミス観光余市」と題する記事が掲載されている。

直接ご覧になっていただくほうが手っ取り早いが、ちょっと蛇足ながら余市に関する周辺情報を。

余市は元々アイヌ人の大きな集落があったところで、余市川の河口を港とし、鮭漁やニシン漁を営んでいたようだ。江戸時代になって松前藩が交易場所を作り、近辺のセンターとなった。幕末に入ると幕府の直轄するところとなり、遠山の金さんも視察に訪れている。明治に入ると日本人の入植が盛んになり、黒川町と山田村には会津藩の武士、登町や仁木町に阿波の人々が入植している。港町にはニシン漁を営む網元が軒を並べた。

多彩な出身地と農業、漁業、さらにマンガン鉱山の開発、ニッカウィスキーの進出などにより余市町は発展した。市街地そのものが港町(浜中・沢町)、国鉄駅周辺の黒川町、浜沿いの大川町に分かれ、町内でも部落ごとの拮抗関係が見られた。郊外の登町、豊丘町、さらに古平方面に向かって白岩、潮見、豊浜の部落もそれなりに威勢を張っていた。

ついでながら私も昭和50年から2年間、勤医協余市診療所の所長を務めたが、この診療所は全道で最初の勤医協診療所であった。

選挙になると、共産党でさえ揉める。私が赴任したとき町議は二人だったが、任期中に選挙があり、これまで候補を立てていなかった黒川町から3人目を出すということになった。

ところがどうも情勢は利あらず、3人目の出馬を断念することになった。黒川町の連中がかっかと来たことは言うまでもない。会議は数時間に及びすったもんだした。

てなことを念頭に置いて読んでもらうと一段と面白いと思う。


ということで、読み終えた人に追加情報。

町民一人あたり6.5個というが、当時、一家6人が相場だから、6.5X6=40箱だ。

戦後昭和史というサイトによると、昭和33年の消費者物価指数は現在の6分の1である。20万票X10円X6=1200万円となる。

トップの人はすごい。10月1日の中間発表を見て発奮して1ヶ月で2,205票から2万890票まで一気に積み上げた。もちろん自腹ということではないだろうが、3位から急上昇で逆転ということだから、それ相当の支出(軽自動車1台分くらい)はしたに違いない。

投票用紙がえげつない。①余市町内限定で、②製造工程で投票用紙を封入したのだから、町内で買うしかない。たちまち売り切れるはずだ。

それを20万箱も作ったのだから、最初から狙い目どおりだ。しかし欲しい人はどうしてもほしいから、投票用紙には闇値がついたことであろう。まさに狂騒曲だ。

10円のキャラメルは今の感覚では60円となる。そんなものだろう。

フルヤのウィンター・キャラメルは昔は全国で売られていた。静岡でも売っていて食べた記憶もある。味も全国レベルだった。グリコやカバヤよりは1クラス上だった。横長のレイアウトで箱いっぱいにスキーヤーの写真が印刷された、キャラメル界の常識を破る斬新なデザインだった。

フルヤ1

ただ、余市で一箱10円で売られていたのはこちらの方かもしれない。

フルヤ2

古谷製菓は札幌駅の東北、サッポロビールの工場に隣接していた。こういうアコギな商売をしていたからか、昭和40年代には姿を消し、工場だった廃屋も20年位前に取り壊された。

さぞや歯医者も儲かったのではないかと想像する。


北大でもミスコンをしているそうだ。

しかも北大祭の実行委員会の主催行事のようだ。

女性蔑視とか、差別だとかいうつもりはない。私も美人は好きだ。人一倍好きだ。「雨夜の品定め」も学生時代にはやったものだ。

ただミスコンとなると、教養ある人物が表立ってなすべきことではない。品性の問題だ。卒業生として「情けない」という気持ちは抑えることができない。恥ずかしげもなく、おったったペニスを人前にさらけている。

小学校から高校にかけて、ここまで教育が劣化しているのだ。おとなになるための教育が放棄されているのだ。

その結果として、北大はもはや文化的知性の象徴ではなくなったということだ。

「恥を知れ!」


本日のまんまる団地は傑作。著作権無視で転載。
manmaru

1万5千回とはすごい。
14669 ÷ 365=40年となる。休刊日とか入れたらもっと長くなるだろう。
オダ シゲさん、本当にご苦労さま。

最近、メールボックスにトゥイッターやらフェースブックやらのかけらがやたらと飛び込んでくる。

日によっては到着メールの半分くらいがその手のメールになっている。

正直いってあまり触りたいツールではない。

ネットというのは不特定多数に対して発信するものであるから、紙媒体に近い存在である。

私はホームページの時代から実名でやっている。実名ブロガーは少数派であるが、記事のクオリティーに対する責任の証と考えている。

紙媒体と比べると、あとでこっそりと訂正して知らんぷりすることができる分、便利ではある。ただ私は後から補充することはあっても、抹消訂正はしない。訂正は元の文を残した上で「すみません、間違えていましたので、下記のごとく訂正いたします」と書くようにしている。

だから、バグヘッド・エンペラーの使用感想に対するクレームはいまだに来るが、それで良しとしている。

そのせいか、かなりきわどい記事を書いてもネトウヨの集中砲火は浴びずにすんでいる。もちろん時々は来るし、いくつかはコメントを拒否した。いつかは集中攻撃を浴びるだろうと覚悟はしているが。

こういう人間にはどうもツイッターは性に合わない。

だからこの手のアプリをなんというのかが、未だによく分からない。

ウィキペディアで調べると、ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)と総称されるらしい。

主なSNSとして下記が挙げられている。何かどこかで聞いた名前がたくさんある。

Ameba
Facebook
Google+
GREE
Instagram
LINE
LinkedIn
mixi
Miiverse
Mobage
Myspace
Pinterest
Sina Weibo
Skype
Tumblr
Vine
WeChat
Twitter

今のところは縁なき衆生だ。

最近、と言うよりだいぶ前からだが、ソバをズルズルと吸い込んで食べるのが流行りのようだ。
流行りというより、それが「由緒」正しい食べ方のように押し付けられている。
元々田舎じゃ、そうやって食っていたかもしれない。米も食えなかった貧しい人たちの食い物だ。
それが江戸の出稼ぎ労働者に広がって、「江戸っ子」気取りの変な作法になったんじゃないかと思う。
だいたい「江戸っ子」というのが上品だと思うのがいけない。彼らは「下品さ」を開き直って、「貧乏なのが粋なんでぇ、無作法なのが粋なんでぇ」と強情を張っているにすぎない。
鮨だって素手でつまんで一気に頬張るし、鮨屋だって最初っからそのつもりで握っている。

昔だったら話は分かるんだ。そういう場末のこ汚い店に、上品な客が現れて鮨を箸で摘んで食べたりすりゃ、「そんな食い方するもんじゃねえ、鮨ってぇもんはこうやってつまんでポーンと口に放り込むもんだ」と言いたい気持はよく分かる。
しかし、これだけ国中に広がった食い物だ。どう食べたって文句はない。私は箸を使う。いちいちタオルで指を拭くのが面倒だし、第一、タオルがネチョネチョで不愉快だが、タオルを代えてくれる寿司屋にお目にかかったことはない。

落語にあるように、江戸っ子だってソバはたっぷりつゆにつけて食べたかったのだ。ただ江戸っ子の流儀からすれば、「そいつは粋じゃない」からやせ我慢していたに過ぎない。

蕎麦屋の講釈は不愉快なほどに理屈っぽい。そのほうが空気が絡むとか、なんだとか真顔で平気で喋る。理屈っぽいのは信州人の山家の血だ。江戸っ子から見れば、そういうのを「無粋」というのが分からないのか。

私は、断固噛み切る。つゆが絡むというのなら、ソバをズボッとつゆに漬ければ済む話だ。噛み切った残りがまた椀に戻るのが不潔だというが、マイつゆだ。串かつのソース二度漬けとは違う。
昔、小学校には必ずあおっぱな垂らしたやつがいたもんだ。昔はティシューなどという気の利いたものはないから、いい加減垂れてくると、思いっきり鼻を吸うと青い二本の紐がジュルジュルっと鼻の穴におさまる。
あの光景が思い出されてならない。
「おいおい、つゆが飛び散るではないか」

カルテというのは患者の情報の集約点として位置づけられている。しかし医者にとってはメモ紙でもある。
カルテは余分なことを書くのを許されない。しかし何が余分なことなのか、そもそも余分なことってあるのか。
「この人は生粋の札幌っ子なのに阪神フアンだ」などと書くと「他事記載」として叱責の対象となる。
研修医時代には「うるせえばばぁだ」とドイツ語で書いたのがバレて、院長に大目玉を食らった。
ある患者の治療方針をめぐっては、他の医者とカルテ上で大喧嘩したことがある。
最近では医事訴訟の際にカルテが最大の証拠となるから、さらに記載にはうるさくなった。電子カルテになったのだから自分用のカルテと病院用のカルテを作って、自分用のカルテから必要分をコピペするのもありかと思う。
グループホームに訪問診療に出かけるようになって、認知症の患者のアナムをとるのにハマってしまった。ナースが「回想療法ですか」と言ったが、別にそんな知識はない。偉そうに言えば患者から尊厳を引き出したいのだが、平たい話、スナックの姉ちゃんから生い立ちを根掘り葉掘り聞きただそうというのだ。スナックの姉ちゃんはそんな客の下心などとうにご存知だから、作り話をペラペラ喋る。ところがこちらもプロだから、そういう作り話の中から真実を引きずり出そうとする。
こういう虚々実々の駆け引きがスナック通いの醍醐味なのだ。
アルコールのせいで話が跳ぶ。
私がアナムをとったのはコテコテのアルツハイマーのばあちゃん。しかし攻撃性はない。
「生まれはどこ」
「山形県北村山郡マルマル村字マルマル」
しかしそんな村はない。あとで明治時代の地図を見るとたしかにある。しかし字(あざ)になるとさすがに分からない。
川の河岸段丘の上にあった集落のようだ。下を流れてたのが最上川なのかその支流なのかもわからない。そこの尋常小学校を出たあと奉公に出て結婚したらしい。そのへんからもう記憶は曖昧だ。
ところが、修学旅行の記憶だけは鮮明だ。朝まだ暗いうちから家を出て、随分と歩いて駅まで行った。汽車を乗り継いで仙台に行った。仙台で止まった旅館の布団の暖かかったことは憶えている。
「仙台はどうだった?」と聞いても分からない。
おそらく昭和10年前後のことだ。そのちょっと前、東北は大凶作で「娘売ります」の看板が出ていた頃だ。実家は大奮発して娘を修学旅行に送り出したことだろう。
その後も、訪問のたびに話の続きを聞き出そうと思うのだが、もう出てこない。しかしヘルパーさんの間で修学旅行の話はすっかり有名になって、心なしか彼女を見る目が優しくなったように思える。
私も訪問診療の帰りはるかに手稲山を仰ぎ見る癖がついてしまった。






一応書いてみる。酒飲み話だ。

4月にいまの仕事を辞めてからやってみたいこと、それはもう一度セツルメント活動を再開することだ。

身過ぎ世過ぎでやってきたが、それはもう良い。もう一度、勤医協の歯車になるのもしんどい。

老後の趣味でブログに精を出すのも人生だ。しかしそれで一生を終えるのも癪だ。趣味の世界は趣味の世界だ。やはり世のため人のため、さらには正義のために働きたい。

といっても、そちらの方の才覚はない。

そこで思い出したのが、学生時代のセツルメント活動だ。あれをやれば良いのだ。誰かがマネージメントしてくれれば、むかしの仲間を集めて、貧困層の医療の悩みに手を差し伸べれば良いのだ。

全生連でも民医連でも良いレポートをたくさん出している。しかし残念ながら医学的な面でのフォローが欠けている。医者が関与していないからだ。

理由ははっきりしている。医者が忙しすぎるからだ。しかし忙しさを理由に関わらなくなって、いつの間にかそれが当たり前になってしまったことも反省しなければならない。

昔セツルで論争があって、セツルメント活動は学生でもできることをしてすこしでもお役に立とうという実践優位論と、学生は学ぶことに徹するべきで、そこで得た観点を卒業後の生活に活かしていくべきだとする学習優位論があった。

もちろん原論的には学習優位なのだが、そこには「やむにやまれぬ大和魂」みたいなところがあって、現場の指揮者は威勢のいい実践優位論に傾きがちであった。

いまもしこの歳になってセツルメントをやるのなら、原論的には実践優位になるのだろうが、むしろ今だからこそ学習優位論に立ちたくなる。

気持ちは「勉強させてもらいます」が我々の合言葉になるだろう。しかしまわりからは、「せっかくお医者さんにきてもらったのだから」という期待が高まるに決まっている。だからそれにはそこそこ応えなければならない。

しかしそこはギブアンドテークしかない。というより健康相談と健康調査が否応なしにセットだ。「授業料はお返しします。その分勉強させてください」ということになる。

フィールドは山とある。セツラーはセツル(定着)どころか狩人のように動き回らなければならない。三大学の衛生学教室や公衆衛生学教室の力を借りなければならない

金の亡者たちが世界を壊していく。
そういう景色が眼前に展開されつつある。
レーガン以来わずか30数年で、世界の景色は一変した。雪が降るように不信が降り積もり、不寛容の風が吹きつのる。世の中、原理主義だらけだ。
貧富の差がこれだけ広がり、世界の一方に富が積み上がる一方で、世界のもう一方に貧困と不満、政治への不信がうず高く積み重なっている。人が人を信頼しなくなり、政治や民主主義を信用しなくなり、野蛮な力への信仰が止めどもなく広がっている。
恐ろしいものが恐ろしく見えなくなってしまう。汚らわしいものが汚らわしく見えなくなってしまう。
過ぐる2つの大戦で1億人が死に、そこから人類は教訓を得たはずなのに、人類は一方における金の亡者、他方における野蛮な暴力主義の台頭を阻止し得ないでいる。
ソドムがナチズムを生む。不徳ものを罰し得ない社会の劣化は必ずその罰をもたらす。

とにかく対話を広げよう、ダメなものはダメとはっきり言おう、恐れてはならない。口角泡を飛ばして議論しよう、
とにかく街頭に出よう、団結の輪の中に入れ。行動をともにしよう、その力が政治を変えていく、それは確かめ済みではないか。
統一しよう、小異を捨てて大同につこう、そして大同につかせよう。冷笑や批判は保留しよう。ヒューマンな心と連帯の精神が何よりももとめられている。
一番苦しんでいる人に救いの手を差し伸べよう。通り過ぎるのはやめよう。立ち止まって声をかけよう。そこにいるのは私なのだ。
現場をだいじにしよう。現場は生きることの価値を教えてくれる。現場の集団は勇気を与えてくれる。
学習しよう。学ばなければ闘いはない。学ぶことは闘うことだ。闘うより学ぶことのほうが大切だ。
人間はもっと美しいもののはずだ。その下心のない美しさに、てらいなく心の底から感動しよう。

北海道における酒造業のおいたち というページがあった。

北海道酒造組合の業界誌の第64巻第1号とある。日付けが入っていないが、図表や(注)を見るとおそらく昭和43年ころのものと思われる。

かんたんなものであるが、概要は分かるので、すこし内容を紹介しておく。

1.明治維新前の酒造業

一般には内地酒を移入していた。小規模な酒造は行われており、 200年くらい前、明和の頃に函館の逢坂七兵衛が酒造を営んだという記録が残されている。

2.明治初期

函館と道南地区の清酒 業者は、明治12年には19場を数えたという。

札幌では石川県出身の柴田与次右衛門氏が明治5年に酒造をはじめた。最初は濁酒、ついで清酒も手がけるようになる。そのご相次いで開業者があらわれ、明治25年には業者37人があわせて11,227石を生産した。

しかし北海道の酒造業が一気に拡大するのは日露戦争のあとからである。多くの酒造りが内地から進出、明治34年にはその数150に達した。

3.北の誉 御三家

最初に創業したのは小樽北の誉酒造で、明治34年。社長は野口吉次郎。ついで明治40年に旭川北の誉が創業となった。札幌北の誉は遅れ、大正3年の創業となっている。

4.旭川の酒造業

旭川には陸軍旭川師団があったことが理由であろう。

最初は明治32年、高砂酒造、塩野谷酒造が相次いで創業。翌明治33年には山崎酒造が札幌から移転開業している。

5.栗山の小林酒造

旭川が陸軍相手の商売とすれば、栗山は夕張炭鉱が商売相手だった。

小林酒造は明治12年に札幌で創業したが、時流を見て明治43年に栗山に移った。酒より他に楽しみのない1万の荒くれ男たちに独占販売するのだから、儲からない訳がない。

6.意外に伸びない北海道の清酒生産

清酒生産

コピペのコピペなので少々見づらいと思う。

これを見ると分かるように、北海道の清酒生産はほとんど増えていない。最新が昭和40年で、このあとはさらに下がっている筈だ。

解説によると、昭和14年の生産減少は、値崩れを防ぐために生産者組合が自主規制と生産 統制を実施したためだとされる。

この間人口は大幅に増えているので、道内の清酒消費に対する道内産のシェアが落ちているものと考えられる。内地物に押されているのだろう。

2016年現在の酒造蔵は11ヶ所まで減少している。道南には一つも残っていない。

これは分かる。学生時代ビラの原稿を書いて、カッティング、スッティングして、窓から忍び込んで教室に撒いて、それから飯を食いに行った。食堂でかじかんだ手で「アチチ」と言いながら徳利の首をつまんで湯呑み茶碗についでぐいっと行くと、生き返った心持ちになったものだった。しかし翌日つけはきた。激しい頭痛と吐き気、いわゆる二日酔いである。

日本酒というのは二日酔いするものだと思っていたが、おとなになってから良い酒を飲むと不思議と二日酔いしない。

理由は直感的にわかった。むかしの日本酒は、学生が飲むような安酒はとくに、混ぜ物が入っていた。飲んだ後にサッカリンと味の素のエグミが残るのである。良い酒にはそのような後味はない。

だから千歳鶴を飲んだあとの二日酔いは、実はチャイナレストラン・シンドロームではなかったかと思っている。

北海道の酒、あえて言わせてもらえば千歳鶴と北の誉はほとんど毒液のような酒だった。このような植民地の流れ者相手の商売がいつまでも続くわけがない。

その頃の小林酒造の酒は札幌では流通していなかったが、夕張の流れもの炭鉱夫に飲ませる酒が千歳鶴よりまともだったとは想像し難い。

本日の国際面の囲み記事。
コピペで紹介する。
交通マナー
「してやったり」の表情を浮かべる島崎さんは描かれていない。

もちろん、ファシズムは交通マナーとは関係ないが、そもそも日本をドイツやイタリアのファシズムと同一視するのもおかしいのだ。
日本は絶対主義天皇制が攻撃性を強めただけで、見かけは同じでも周回遅れである。
ヨーロッパのファシズムは民主主義の上に、民主主義の方法で、民主主義を否定するようにして生まれた。日本にはそもそも民主主義はなかった。
民主主義というと語弊があるかもしれないが、ファシズムは君主制(帝政)に代わるべきはずの共和制が産んだ奇形児である。
「見かけは同じでも周回遅れ」というのは、逆に言うと、「周回遅れだが見かけは似ている」ことになる。
日・独・伊三国の見かけ上の特徴は反動主義政治、独占資本擁護、軍国主義、対外侵略である。
それぞれが正反対と言うほどに異なる伝統・国民気質を持ちながら、同じような政治形態に至ったところに枢軸国家の歴史的本質を見なければいけない。言っちゃ悪いかもしれないが、フランスだって紙一重だったのである。それはアランさんのほうがよく知っているはずだ。ディエンビエンフーだってアルジェーだって、ベイルートだってルワンダだってフランスじゃん。今じゃフランスがファシストの世界最強の拠点だ。
この囲み記事は、そういうことを教えてくれる。それは、21世紀初頭の今の世界にこそ求められている視点である。

本日もぶらりとドライブ。旧夕鉄線沿いに栗山まで足を伸ばした。みぞれが降ったりやんだりの、ひたすら寒い初頭の一日であった。道路が夕張川をわたるとすぐ、右手に小林酒造の酒蔵が見えてくる。市民に開放されてなかなかの観光名所になっているようだ。

とくにあてと行ってないし、そろそろ昼時だ。どうせ見るものもないだろうが、ちょっと食べるくらいのところはあるだろうと、寄ってみた。

この天気で、みな行くところはないと見えて、意外と混んでいる。

本店の建物が北海道の有形文化財になっているということだ。小樽の銀行に真似て作ったとされ、道理で馬鹿でかい金庫が鎮座ましましている。たしかに色内の日本郵船の作りと似ている。しかし規模は大分小さい。

並んでいるものは小林酒造の製品がほとんどで、あとはちょっとした日用品とかが並べられている。所詮は栗山町だ、こんなもんでしょうと、外へ出た。

出た脇に「小林家」と看板があって通路がある。見学自由のようだ。

入っていくと2階建て木造の堂々としたお屋敷が立っている。とは言え、和風の民家であり、人を威圧するような厳めしさは感じられない。

小林家 正面

ホームページより)

これが中にはいって驚いた。入ってすぐの2、3部屋しか見ることはできないのだが、なんと部屋数が30ある(公式には23)という。

私の子供の頃、お屋敷といわれる家を何軒か知っているが、指折り数えると10部屋ちょっとがせいぜいだったように思う。我が家でも数だけなら6DKだ(6部屋目は無駄だったと後悔している)

部屋数が多いのにも驚いたが、築120年というのに、手入れもしていたのだろうが、実にしっかりした作りだ。これだけの大工を良くも揃えたものだと思う。

家のぐるりを回ろうとしたが道路側に面した塀だけ見て10分もかかった。最後には迷子になってしまい、慌てて地図を便りに右往左往というみっともない仕儀になってしまった。

おそらく施主が造作道楽(と言うより造作狂)でひたすら間数を増やしていったのだろう。普通は洋館風の別邸を建てるとか、子どもたちには離れを設えるとかするものだろうと思う。宿泊客が多いのなら、いっそ母屋ごと明け渡して、自分たちはもう少しこじんまりと暮らしたいとは思わないのだろうか。

案内係の人(小林家のご家族らしい)の、最近の通信が泣かせる。

「春夏秋冬、外より寒い小林家」です。

スタッフは、2月のご案内のお客様を「チャレンジャー」と呼んでいます。

…家屋の見学には厚手の靴下が2枚必要です。ストッキングなんて裸足に氷水をかけた感じになります。ホント、どんなウチなんでしょ・・。

とにかく、公的な性格はまったくない(最初は多少あったようである)、まったくの私邸である。本店の方に仕事に必要な施設、設備は全て揃っている。常識はずれの無駄な贅沢としか思えない。とは言いつつも、貧乏人には「いかにも田舎の富豪がやることだ」と、せいぜい嫌味を言うくらいが関の山。

この間数への異様なこだわり、一見の価値はある。店などあまり見ずに、まっすぐお屋敷に行ってみたほうが良い。

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