鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

カテゴリ: 80 日々雑感

12時間 眠るの記

起きてすでに1時間半、頭は依然ボーっとしてる。ボーっとしているというのは、頭の中にボーっという音が流れていることだ。

理由はおそらくリリカのせいだ。


おばさんを30時間も寝かせるの記

むかし30年も前、訴えが多く興奮気味の初老のおばさんを入院させたことがある。

とりあえず、トリプタノール10ミリを飲ませて寝かせつけたのだが、これが寝ること寝ること、24時間立っても目が覚めない。

流石に心配になって精神科の医師に相談したが、「バイタルが安定しているなら、そのまま、起きるまで寝かせときなさい」というつれない返事。
おかげでその日は病院泊まりで様子を見るハメになった。

夜の10時ころ、ナースから「目が覚めました」との連絡。急いで駆けつける。

延々30時間、ひたすら寝続けたことになる。尿失禁なし。まだ寝ぼけてはいるが、外来を受診したときとはうって変わって落ち着いた症状。

ただ話を聞くとどこか変だ。入院する前、あれだけ喋り続け訴え続けていたのが、借りてきた猫さながらにニコニコと、すっかりおとなしくなっている。

記憶もなくなっているわけではないが曖昧だ。とくに激しく訴えていた行動そのものに対する記憶が曖昧だ。

結局、そのおばさんはそのまま落ち着いた状態に戻り、現状を受容しそのまま退院となった。その後の外来での精査も異常なく、トリプタノールも使うことなく経過した。

原因は爺さんの金遣いが荒くなり、家計に支障をきたしたことだったと記憶している。それ以上の詮索はしなかった。

トリプタノールについて

トリプタノールというくすりは、難しくいうと三環系の抗うつ剤で、うつ病ないしうつ状態に使うくすりである。いまだに現役ではあるが、古典的なくすりで、副作用もふくめ究明され尽くしたくすりである。

ただ、私が勉強し尽くしたかと言われると、かなり心もとないところもある。

ただこれは睡眠薬ではなく、普通に使っても人によって多少眠くなる程度のものだ。

私はこのときの結果から、睡眠に入るにはいくつかのかぎ穴があるのだなと思うようになった。ベンザリンやレンドルミンのようないわゆる睡眠薬は、万人に効く睡眠薬であるが、人間には個別に秘密のかぎ穴があって、トリプタノールが選択的にすごく効いてしまうような受容体があるのだろうということである。

「トリプタノール受容体の活性化」仮説

これから先はただの空論であるが、それがある種の人間に特殊なものなのか、つまりDNAに規定されたものなのか、それともある特定の環境に置かれた際に誰にでも出現するものなのか、という選択である。

それが、この度、12時間の連続睡眠をもって一つの結論に達した。トリプタノールによる過剰睡眠現象は人間にとって普遍的なものである。

異なるのは前提となる精神状態であり、うつないし類うつ的な状態のときに、このかぎ穴が開くということである。

話が長くなったので、一旦話を終わる。今日も外来だ。

縁切りの手紙

「幸せの黄色いハンカチ」の冒頭画面だ。武田鉄矢がこの手紙で絶望の淵に追い詰められて、マツダの自動車で旅に出る。

ロードムーヴィーの出だしとしてはきわめてよくあるパターンだ。

しかしその縁切りの手紙にどう書いてあったかはまったく覚えがなかった。

これがその手紙だ。

enkiri

今の人は知らないだろうが、好きか嫌いかをあらわす、あるいはその行為がもう終わりかどうかをあらわす唯一の手段は手紙だった。

今ならメールで「さよなら、ごめん」で終われるのだろうが…

なお、「いつまでもお友達でいましょうね」は、女が男に告げる縁切りの常套句だった。

これは別れに際して言うべき言葉ではなかった。

これが「二度とおめぇの顔なんか見たくねぇよ」という言葉の日本語訳だというのは、男にはなかなか飲み込める言葉ではなかったからである。

桃井かおりは武田鉄矢と結婚できたか

あの映画に感激した人が、もし10年後、20年後に振り返ったら、あの二人は結婚できただろうか、その生活は長続きできただろうかという疑問に突き当たるだろう。

その問題は俗物である武田鉄矢にあるのではなく、本質的に人間的自立を求める桃井かおりの側にあるのだ。

幸せとは何なのか、ある意味でその答えをもらってしまった桃井かおりに、武田鉄矢との生活に共感はできないはずだ。なぜなら幸せについてのもっとも俗物的な理解について共感することはできなくなってしまったからだ。

その時子どもができてしまっているかどうかは決定的な問題だ。ここではできてしまったときのシチェーションを可能な限り統計的に後追いしてみる。

多分札幌にまともな仕事はないから職と給料をもとめて武田鉄矢は内地へと戻っていく。

札幌に残った桃井かおりには安定的な職はない。頼るべき身よりもないからたちまち貧困の底へと突き落とされる。仕送りはだんだん減り、間隔は遠くなり、やがて途絶える。

そこへ炭鉱閉山で離職した健さん夫婦が流れ込み、桃井かおりは健さんたちと共同生活を送るようになる。桃井かおりの同輩はそんな身よりもないから、「夜の街」で稼ぐか生保を取るか、たいていはその両方を選択して生きていくことになる。

桃井かおりはそんな女友達のために一肌脱ぐようになり、やがてNGOの代表として働くようになる。

給料のピンハネ、勝手な理由をつけた首切り、パワハラにセクハラ、生保課の保護打切りのおどし、子どもへのいじめと不登校、非行グループへの参加…

地獄への行進曲だ。しかしそこには助け合う組織があり、相互の堅い信頼があり、未来への確信がある。

幸福の黄色いハンカチ、第二部を

幸福の黄色いハンカチの第二部は作られなければならない。それは桃井かおりのその後の生き様を描く映画でなくてはならない。

黄色いハンカチはもう一度、多分札幌の空のどこかに掲げられなければならない。

山田監督、生きているうちによろしくおねがいします。


「いわゆる夜の街」は発言者の品位だ

それは「強烈な正義感」に基づく曖昧な定義だ。つまり禁じ手である。とくにその表現が社会的弱者に向けられている点で、きわめて危険な思想だ。

同時にそれは口にするのもはばかるような下品な言葉で、人中で大きな声でしゃべるような言葉ではない。若い人にはわからないかもしれないが、それはたんなる繁華街ではない。それは「夜の街」という一つの単語であり、立ちんぼであろうと赤線であろうと、つまりは売春街なのだ。

「夜の繁華街」と「夜の街」とはまるで違うものなのだ。

むかしたしかそんな名前の映画があった。「こんな女に誰がした」というのが主題歌だったんではなかったか。

それはともかく、人の上に立つ人で、これほど危うい情緒的表現で人々を貶める人物は見たことがない。

一言で言って、人としての品性が感じられない。厚塗りの顔をひんむくたら、真っ黒なドロドロとしたものがうごめいているのではないかと思ってしまう。

第一に、それは強烈な嫌悪感をうちに秘めた言葉だ。聞くだけでもおぞましい言葉で、公の場で然るべき立場の人が口にするような言葉ではない。

彼女には独特の「健全な街」概念がある。それが基準になって、それ以外の世界を嫌悪し排斥することになる。
彼らをいなくても良い人々、いないほうが良い人々と捉えているようだ。

「夜の街」はたちまちのうちに黒い世界、闇の世界を指す言葉に置き換えられていくのではないか。あるいはそれを期待して吐き出された言葉ではないか。そういう危うさを強烈に感じる。

第二に、それはきわめて曖昧で境界はあえてぼかされている。具体的な業態に基づく区別ではなく、曖昧で強烈な正義感に基づく分類だからである。

その言葉をあえて認めたとして、「あれは夜の街、これは健全な街」という線引が生じることになる。

その際に強烈であることと曖昧であることが、きわめて危険な傾向を生じることは避けられない。

悪がランキングされ、「夜の街」は無間地獄として位置づけられる。しかもそれは「いわゆる夜の街」として恣意的に拡大解釈されていくことになる。

第三に、これはあまり考えたくはないことだっが、このようなソーシャルバッシングは、「このようなウジ虫どもに営業を保証する義務などない」とし、「補償なしの自粛」を強要する手段としても使いうることだ。

これは弱者を不良者として切り捨てる思想であり、うまく行けば偏見と憎しみをその糧に、包囲網をさらに拡大していくことも可能である。

ではどう表現すべきか。事実に即してありのままに客観的に語ればよいのである。

夜の繁華街は夜の繁華街として語ればよい。たまたまクラスターが発生したとしてもカラオケやクラブやライブハウスは「いわゆる夜の街」とは無縁である。スナックなど女性の接待を伴う店でも、別にいやらしくない健全な店はたくさんある。


Note というサイトの6月5日号に
という記事がある。飲食店/人/組織づくりコーチの野口信一さんが書いている。一昨日アップされたばかりだ。

かゆいところに手が届くような、親切な文章で、裏返せば危機感がひしひしと伝わってくる文章だ。詳細は本文をご覧いただきたい。

 ここに掲げるのは野口さんの労作だ。
業態

地域によって業態表現や呼称、客単価額や閉店時間など様々で、仕事で全国47都道府県に行き、各地の“夜の街”を訪れた小生としての標準化ではあるが、凡そ間違ってはいないと思う。
とある。

野口さんの提言は下記のごとくである。

①業態呼称を公明正大に行政が利用し、
②“接待を伴う飲食店”や“夜の街”と総括するのではなく、
③“イカガワしい秘匿性の高い業種”扱いをせず、
④個別の業態として世に認知されるべきだ。

この提案が正しいかどうかはわからないが、少なくとも行政が率先して「いわゆる夜の街」と差別をするよりははるかにマシと思う。


取り越し苦労といえばそれまでだが、これまでも私達は、部落民、朝鮮人、アイヌ人、沖縄人などに対する根拠のない、常軌を逸した差別が行われるのを見てきた。

この都知事発言がある種の職業、職域に関わる人々への集団「虐殺」につながらないよう見守りたい。

1.病状経過

その後も線香花火のようにあちこちでパチパチする筋のような痛みは取れない。それどころか範囲は拡大傾向だ。

左大腿内側の灼熱痛フラッシュも治ってはいない。ただ柔道の投げをくらわないように、瞬間それを避ける技は身につけつつあるようだ。

それでも2日に1回は起きる。最近はなぜか1回起こすと爽快にさえなる。なぜかというと1回起こすと、おおむね24時間は次の発作はないからだ。

やはり、集中力は格段に落ちる。気分は限りなくダークグレーに近いブルーだ。

2.整形受診の結果

実は金曜日に整形外科も受診した。椎間板由来のものではないかと考えてのことだ。6方向のXP撮って、たしかに左L4-5の椎間板に軽度の変化は認めた。

しかしそれは現在のマニフェステーションを説明するほどのものではない。

複合性局所疼痛症候群(CRPS)の話をしたら笑われた。それは交通事故の裁判病名でしょうということだ。

それで、結論としては椎間板症は否定、やはり帯状疱疹と考えるべきではないかとの意見だった。

ただし発症後の経過としては、すでに抗ウィルス剤(バルトレックス)の有効期間は過ぎており、様子見るしかないでしょうということになった。

3.リリカとNSAIDSが効かなくなってきた

ということで、私の病気は行き場を失ってしまった。

ただ実のところ、それほど深刻だったわけではない。こういう病気はたいていは時間が解決してくれるからだ。

しかし事態はちょっと深刻になってきている。というのは、リリカとNSAIDSが効かなくなってきた。

最初はロキソニンを1日2回くらい飲んでいれば、ほぼ症状はコントロールできていた。

さらに皮膚の表面のひりひり感もリリカでかなり抑えられていた。後は伝家の宝刀、アルコールがある。

しかしこの2,3日はまったく薬が効いている印象がない。リリカは眠気が来るので、1日数回も寝ている。寝ている時間以外はヒリヒリ痛との共存を迫られている。


4.明日ヘルペス抗体価を見て考えよう

12日に採血したウィルス抗体価が明日に判明する。「もう遅い」と言われても、臨床症状の進展も結構遅いのだ。まだ間に合う可能性はある。

それより困るのは抗体価が陰性に出た場合だ。
とりあえず打つ手はなくなってしまう。

これから先はまた報告する。

妻が死んで1年が経ち、かつて一家4人で暮らした家に、齢いいくばくもない男やもめが一人で暮らしている。
いつの日にか認知機能が落ち、足腰が弱り、尋ねるものさえいなくなる時代が来る。その日までの唯一の楽しみは飲むこと、それも誰かを相手に気炎を上げることである。
今回の外出禁止令はかなり強力で、下手をすれば数日間は誰とも顔を合わさずに日が過ぎていく。実はこの間にかなり強力な末梢神経性のラディカルペインの発作に悩まされている。

最低数秒、長ければ20秒ほどの下肢痛発作があり、その間は息もつけない。部位は決まっていて左大腿内側の手掌大の局面だ。突如焼かれるような灼熱痛が襲い、大転子外側に筋の強縮が起こる。そこから歯磨きのチューブを絞るように痛み物質が注入される。
独居とあれば一人もがいているほかない。原因はどうもヒマに任せてやった無理なストレッチにありそうだ。

昨日は一応採血して調べたがなにもない。むかし最後の苦し紛れ病名に使った“Painful Bruising Syndrome” ということになりそうだ。「ひょっとしてヒステリーかもしれない」と書いてある。アホか! 誰もいないところでそんな小芝居して何になろうか。

類似病名を探してみたら随分たくさんある。整形関係では「複合性局所疼痛症候群」(CRPS:
 Complex Regional Pain Syndorome) というようだ。
ビリっと電気が走るような激痛(電撃痛)や火で焼かれているような激痛(灼熱痛)が発生する。
多くは、疼痛部位に浮腫や皮膚血流の変化を伴い、交感神経の関与が疼痛を引き起こす一因と考えられる。
ということで、症状的にはほぼピッタリ適合する。「バーナー症候群」というニックネームもあるらしい。言い得て妙である。

リリカを処方してもらったのでしばらくはそれで様子を見ようと思う。なにかいちご状血管腫のようにインデラールが利かないだろうか、という気もする。

それにしても、仕事に行けば所構わずぶっ倒れるので、多くの方に心配をおかけしている。自分ではわからないが、呼吸が止まり、眼がうつろになり、顔面が蒼白になるようである。
自分としては、まったく正気で、痛みのために息もつけないでいるだけなのだが…

明日は整形受診してMR撮って貰う予定。結果はその時に。

すっきりと一周忌 

1年前の午後8時、痰が詰まって妻は死んだ。思いの強い人だったから、誰かに憑いたり、死んだ後に消火器を爆発させたり、いろいろあった。
預金、生命保険、不動産…と、後始末にはいろいろ苦労させられた。が、それも半年でほぼ片付いた。
そして今日、コロナもあったりして、誰も居ない二人っきりの命日だ。
実はひそかに、午後8時、何かが起きるかと思って期待しながらカウントダウンしたが、何も起きなかった。
遺骨はあっても人の気配はなくて…ただちょっと寂しかっただけ。
何も起こらなかったし、誰も来なかったし、コトリと音も立たなかった。
それで8時半、一人ぼっちのカウントダウンは終わった。
一応これでもう終わりだろう。こんなものだろう。あとは店じまいして、その後は自分の店じまいに取り掛かろう。

志村けんのだいじょうぶだぁ けんと陽子の就寝コント 22

がめちゃくちゃ面白い。ほとんど予言みたいだ。
こういうのを「濃厚接触」というのだろう。
こんな人を持ち上げちゃいけないが、こき下ろすばかりでもいけない。
それにしても、夫婦の力関係ってあの頃はこうだったんだ。
今見ていると、ことばの端々がいちいち気になる。
私自身はしむらけんのセリフの半分以上は飲み込んでいたと思う。
たいていはそんなものだった。だからこれがコントになったのだ。
これ以上言うと、今の世の中ではいろいろと差し障りがあるので…

モスクワでの行き帰りの飛行機でやっていた「邦画」の主人公。
映画は吹き替えで、中国語がかぶっていた。
だから言葉はわからないし、筋はわからない。でもこの横顔が素敵だった。nana
ストーリー的には脇役らしいのだけど、映像的な存在感は主役を上回っていた。
それにしても変な話だけど、今どきの青年に共通する「生活感が乏しいところに生活感がある」という不思議な人畜無害的透明感。女性の半分はブスではなく美しいという、統計的には単純な事実。
水たまりはたいてい泥水なのだが、蒸留水でできた水たまりが、いまにも日なたで干せ上がるみたいなウソっぽいリアルさ。
横置きの黒御影の墓石の「六甲の水」に差し込まれた一輪の白バラのアイミョン的ワールド
こういう世界、嫌いではない。
気持ち悪いクロスオーバーおっさんやなぁ…

当面の予定

ちょっとつらいのだが、とりあえず原発稼働の停止を命じた福井地裁判決の学習を優先することにする。
まさに転進である。3月7日の学習会、樋口英明さん(元福井地裁裁判長)の「私が大飯原発を止めた理由」の事前学習資料だ。

レニングラード、モスクワ、スターリングラード、及び東部戦線全体の学習はいったんおいて、機関紙の原稿をあげなければならない。

実は、自分に課した任務からすれば、「ブロック・チェーンと仮想通貨」の学習が最優先なのだが、3月12日からのロシア行スタディー・ツァーが間近に迫った今は、急速に事前学習を強めなければならないのだ。

ということで、頭の冴えている午前中にやるべきことをやらなければいけない。(と言いつつ映画に行ってしまった)




シャッターというのは間違いなく和製英語だろうと思っていたが、なんと由緒正しい英語であった。
カタカナ通りにシャッターと発音するとこれは「ぶち壊す」(Shatter)という意味になる。
シャターと言わねければならないらしい。

今でこそ我が家の車庫も電動式シャッターだが、その昔はおいそれと一般人が導入するようなものではなかった。

そこでシャッターの歴史を紐解くことにした。

スズキシャッターという会社のホームページに「シャッターの歴史」という年表があったので、まずはそれを利用させてもらう。ただし法令関係の記載がやたらと多いので、少し技術面に絞り込んで使わせていただく。

EXTERIOR SHUTTERS


欧米諸国でシャッターという場合のニュアンスはやや異なるようである。
そのむかしはシャッターといえばルーバーシャッター、つまり鎧戸のことを指した。最古のものは古代ギリシャの大理石製のものとされる。その後細工の容易な木製に変わった。ガラスのない時代は窓といえばルーバーのみであった。

熱帯地方の植民地に作られた屋敷では、通風性を旨とするプランテーション・シャッターが普及し、コロニアル・スタイルの特徴となった。

近代に入って窓ガラスが普及し、ルーバーの角度は可変式となり、装飾の要素が強まった。

1837年 シャッターの祖形となる木片をつづり合わせた木製シャッターがイギリスで作られる

原理的には、シャッターとは何枚もの細長い部材をすだれのように連接し、これを枠体に巻き込んだもの。

1862年 ロンドン大博覧会に木製シャッターが出品される

1872年 クラーク・バーネット(英)、スチール・シャッターの特許申請。近代シャッターの最大の目的は防火にあった。(FIRE AND SMOKE-PROTECTION SHUTTER)

1896年(明治29年) 日本で最初のシャッター(英国製)が日銀本店に取付けられる。当時は「畳込防火鉄戸」と呼ばれていた。

1903年(明治36年) 梅川鉄工所が国産スチール・シャッターの生産を開始する。

この頃から洋式建築にはシャッターなどの建築金物が輸入されるようになった。

1906年(明治39年) サンフランシスコ大地震発生。スチール・シャッターの防火性能に注目される。

1923年(大正12年) 関東大震災。日本でもシャッターの有効性が認識されるようになる。 

1932年(昭和7年) 白木屋に大火発生。これをきっかけに「百貨店規制」の引き金になる

1950年 建築基準法が施行される。耐火建築物や特殊建築物での設置が義務付けられる。

1955年(昭和30年) 軽量シャッターの導入が相次ぐ。小規模な建築物や店舗やガレージなどにもシャッターが普及するようになる。

 

私の「相続」奮戦記 2

死後手続き・相続の体験を綴る

以下は心覚えのための記録であり、ひと様に見せるようなものではないが、ひょっとして参考になるかも知れないので載せることにする。

3.闘いの幕が切って落とされた

5月7日火曜日、長いGWが明け、いよいよ戦闘開始だ。

とにかく何から何まで連休明けに集中しているから大変なことになっている。区役所には8時半についたが、そもそも駐車場が空き待ちの長蛇の列。

基本的には急ぎの仕事が3つある。健康保険と介護保険の解約が一つ、つぎに年金の解約が一つ、そしてもう一つが電話の名義変更だ。

水道・ガス・電気等は最初から私の名義だから良いのだが、その他については遅れれば違約金とか罰金とか下手すれば電話が止まってしまう。

4.医療・介護保険関連の解約手続き

健康保険の手続きは意外に煩雑だったが、これは当方の事情によるものであった。つまり1ヶ月前の3月31日に健康保険の任意継続が切れて、国保に切り替えたばかりだったのである。

4月のはじめに健康保険の事務所に行って解約手続きをして、今度は区役所で国保加入の申請をした。たしか銀行振込にするために銀行にも行って、なにか書類を書いた記憶がある。

そうして2週間ほどしてから新しい国民健康保険の保険証と高齢者医療のカードが送られてきた。その直後の死亡だった。「もうちょっとどちらかがずれてくれればよかったのに」と思ったが、「まぁその分だけ長生きしたのだから良しとしなければ」と納得させた。

意外にも、この手続は、基本的には区役所の窓口ですべて解決した。保険証と死亡届を提出し、1時間ほどで銀行の引き落とし口座を閉じてもらうための手続きが完了した。

続いてが介護保険の解約。介護保険には家族とかいうのはなくてみんな保険本人だ。したがって私の分離して保険料を変更してなどという手続きは必要ない。国民健康保険の隣の窓口で簡単に手続きを終了した。

ただし介護保険の給付に絡んでの自己負担、実費負担はたくさんある。それらはすべて銀行口座から引き落とされているのだが、在宅サービスだけで4,5ヶ所の会社が絡んでいる。こちらは基本的にケアマネのところで終了手続きをすることになっていて、私が関わる必要はない。

のだが、妻の銀行口座が閉鎖されると、その分が一斉に請求書の山となって押し寄せてくる。それは一つ一つ対応する以外にないのだ。

医療・介護保険の他に、それに追加して特定疾患の指定取り消しと身体障害者指定取り消しもある。前者は区役所隣の保健センターが窓口、後者は区役所2階の福祉課が取扱部署となる。

それぞれで返納手続きをしなければならない。ただしこの2つは、悪用さえしなければ、特に何もしなくても自然消滅するらしい。身障者に配布される「おむつチケット」はやかましくチェックされる。

なお葬祭料補助というのがあって、これは国保の一環とされているようだ。面倒ではあるが3万円もらえるようなので、一応手続きはしておいた。会葬御礼のはがきがあればよい。

しかし、今から考えれば、ここまでは最初のジャブに過ぎなかった。

死後手続き・相続の体験を綴る

以下は心覚えのための記録であり、ひと様に見せるようなものではないが、ひょっとして参考になるかも知れないので載せることにする。

1.妻の死から葬式まで

4月27日の夜、妻の容態が急変して救急車で病院に向かったが、間もなく死を告げられた。

年齢的にはまだ若かった。だが、多系統萎縮症という病期の性格上、これから先は生きていても苦しいだけで、病期的には頃合いであったかも知れない。

飲み友達の青山君に連絡して、葬儀社への連絡を頼んだ。それから出入りのヘルパーさんの土田さんに身の回りの処理を頼んだ。

青山さんが知り合いの葬儀屋さんに連絡をとってくれ、30分ほどで霊柩車がやってきてくれた。

じつはこの葬儀屋さん、種市さんという。バリバリの活動家で、私自身も顔見知りの「民主的な葬儀屋さん」である。いわば民医連の葬儀屋版ということで、テレビドラマになってもおかしくないような立派な筋の通った営業をしている。

それはそれとして…
いまや「一人暮らし老人」となった私が自宅に妻を連れて帰ってもどうしようもないので、葬儀屋さんに一泊させてもらうことにした。

とりあえず遺体を広間に安置した後、葬式の段取りの相談が始まった。式は家族葬、無宗教というところまではスラスラと行ったが、お悔やみ欄に載せるかどうかが思案どころとなった。結局載せてもらうことにした。

今考えると、お悔やみ欄に載せたら家族葬ではないのだ。じゃあどちらにすべきだったのかと考えると、やはり載せて正解だったと思う。

80,90の婆さんならそれで良いが、69歳という齢ではまだ娑婆に色気もある。友達の何人かにも来てもらいたかろう。

それは家族葬ではなく、ただのお葬式だ。それでいいのだと納得した。葬儀屋の種市さんも飲み友の青山さんも「ウンウン」とうなずいた。

2.序盤戦の開始

翌30日(日曜日)は友引で、通夜と葬式が1日づつ後ろにずれた。別に占いを信じるわけではないのだが、焼き場の関係でそうせざるをえないのだ。実のところ、これは私にとってはありがたかった。

なにせ土曜の夜中の急死で、しかも未だかつてないという長期連休の初日であるから、お役所関係は全てストップだ。ということは葬式以外の仕事はできないということだ。

現金はなぜかあった。たまたま、まったく無関係のことで150万ほど引き出していたからだ。これも今から考えると不思議な事で、カミさんの所業ではないかと考えている。

葬儀屋の費用は170万円。不足分は後日払込となった。無宗教だと安い。戒名もお経もいらない。ムダに頭を下げる作業も省略できる。

偲ぶ会は私が病状経過を報告して、私の選んだ写真をストリーミングで流した。15分の長さで、その間ロシアのショパンたちのピアノ曲を流した。写真はダブリがあったり大きさが不揃いだったり、手作り感というかでっち上げ感たっぷりだった。

弔電を紹介し、後は全員に一輪づつお花を捧げてもらい終了。全部で30分だが、十分だった。後で皆さんに良かったと褒められた。

ただし写真の選択とスライド化は私にしかできないので、きわめてタイトな仕事となった。私がそれにかかりっきりになったのだが、青山さんが受付を、土田さんが接待を仕切ってくれてまことにありがたかった。

3.最初にして最大の教訓…日記をつけること

死亡日がGWの幕開けということと、そのGWが史上空前の長期に渡るということで、ポッカリと空白が生まれた。

29,30日で葬式が終わり、妹家族と息子家族で8人が寝起きした我が家は、5月3日には私一人となった。正確には骨と遺影があるが、これをボデーカウントするとかえって気持ち悪い。

仮設祭壇は花で埋まり、ユリの匂いが殊の外辛い。

恒例のメーデー集会、憲法記念日集会も今年は面倒だ。本屋で「死後のしごと」という新書を買って読んで暮らしていた。

その時愕然としたのだが、業務量の煩雑さと膨大さは半端ではない。本を読もうとするのだが、活字が頭の中に入ることを拒否する。目は活字の上を泳いでいる、本はボールペンの赤線で埋まっていく、しかし脳は反応しない。

このぐーたら脳にやるべき仕事を押し込むためには、音読し、書写し、ポイントとなる事実に番号を割り振るしかない。

ことの大変さに気づいた私は、ノートに書き出すことにした。今考えるとこれがどれほど身を助けたかしれない。

メモ帳では絶対に足りない。ノートは開いたら左側から書き始めなければならない。片面では足りず見開きにしなければならないことが多いからだ。

左側には問題リストを書き出す。書類や名刺、連絡先、メモ紙を貼り付ける。貼るのは便利だし、後々かならず役に立つが、貼るだけでは頭には入らない。その貼ったものが何なのか、どんな意味を持つのかを右側に手書きする。一つの資料には必ず2つ、3つの意味があるのだ。

どんなに整理された文章であっても、それはあくまで文章である。最終的にはそれを片手に現実にぶつかっていく他ないのである。その決意を育てるための文章化なのだ。

本日の「赤旗」にこんな記事がのりました。
sima
50年も北海道に住んでいて、恥ずかしい話、こんな島があるということも知りませんでした。
まずどんな島か確認します。
これが道北地方の地図。猿払村は宗谷岬からオホーツク海岸沿いに南下したところです。
map1
これが猿払村周辺の地図。沖合に二つ島があって、その1つが「エサンベ鼻北小島」です。国道から見えるはずですが、私は見た覚えがありません。
map2
これが最大拡大図です。右下の小さな粒がエサンベ鼻北小島です。港や家屋の大きさと比べても、いかに小さいかはよく分かります。
map3
ただ岸からの距離、国道が高台を走っていることから見て目視は十分可能です。私が見落としただけなのでしょう。
これは海上保安庁の「海底地形図」というものだそうです。堂々とした立派なものです。map4

ウィキペディアによると、
1987年の測量では平均海面から1.4mの高さがあり、この測量に基づき海図や国土地理院の地図に記載された。
2018年に地元住民から「見当たらなくなっている」と通報があり、海上保安本部で調査中ということになっている。(ただしそれより1,2年前にはもはや見えなくなっていたという話もある)

ということで今回の記事へとつながっていくことになるのだが、海上保安本部の歯切れがえらく悪い。
そもそも10月に調べるといっておきながら、半年間も店晒しにするというのがおかしい。
多分万が一の可能性にかけているのだろうが、リプレー検証を何回やっても同じことだ。未練たらしい。
領海は減ることになるが、たかが500メートルだ。後々のことを考えればスッキリ諦めたほうが身のためと思うが、いかがであろうか。


あれこれと考えるのが面倒になってきている。自分が死ぬのと違って人が死ぬことは大変なことだ。

脳みその「やる気ホルモン」が枯渇しているのか、「やる気削ぎ物質」が蓄積しているのかわからないが、そういう実感はすごくある。
アルコールが入るとすこしやる気が出るのだが、そう思った瞬間には眠気が襲ってくる。おそらく眠るためには「やる気ホルモン」が必要なのだろう。だから思考用のやる気を横取りしてしまうのだ。

役所と年金事務所と共済組合にはすっかり馴染みになった。市役所の地下食堂のたぬきうどんが滅茶うまいことも知った。預金通帳のクレジットの引き落としも正体を突き止めた。
どういうわけか知らないが、私と妻に二重に地方税がかかっていたが、一応解消に成功した。
私の住民票と戸籍抄本、妻の除票というゾンビ住民票と戸籍謄本を揃えて年金事務所に行ったが「予約が必要だ」と帰された。

しかし、本日、これは前半戦というか序曲に過ぎないことがわかった。
預金、生命保険の全容把握と分与問題には気の遠くなるような実務が待っているらしい。たぶん人を頼むしかなさそうだ。
今夜はこれから飲みに行こうと思う。飲みに行けば次の日の活力が落ちるのは分かっているが、とにかく誰かとしゃべることだ。

妻の死にまつわる3つの不思議

1週間前、妻が死んだ。わざわざブログに書くほどの話ではない。…のだが…
とにかくやっと落ち着いて、気がついてみたら不思議な事がある。書いてもしようがないのだが、書かないと落ち着かなくてしようがない。

どう死んだのか

妻は「多系統萎縮症」(進行性の神経疾患)で、かなり長いこと在宅の寝たきり生活だった。10年前の失行・眼振・低血圧に始まり、構音障害、失声、嚥下困難と順を踏んで進んだ。律儀な病気である。このところ痰の量が増えて気になっていた。

容態を見計らって飯を食いに行って帰ってきたところ、呼吸困難となっていた。

長年医者をやってきたので、「やばい」ということはすぐわかる。病院に電話して、指示に従い救急搬送を依頼した。到着後間もなく心肺停止となった。

急変時の対応はできなかったが、死亡を看取ることはできた。とにかく十年の闘病生活が終わった。

最初の不思議

夫婦二人の生活だったから、すべて自分が対応しなければならない。葬儀屋の対応や身辺整理は友人がやってくれたが、とにかく次から次へと判断が求められる。

最初、一番悩んだのは葬儀会場に飾る遺影の選択である。「これがいい」と前から選んであった写真は、業者から次々はねられる。「これでは原画が悪すぎて、とても額縁写真にはなりません」というのだ。

そして業者が集合写真の一枚に目を留め、「これにしましょう」というのだ。私もあきらめかけて、「まぁそれでいいことにしようか」と言った途端、妻の寝室で「ドカン!」と大音響。

なんと、長年部屋の片隅においてあった小型消火器が爆発したのだ。白い粉末が天井まで飛び散り、薬品臭で部屋中が満たされた。

「怒ったぞ!」

これには業者もシュンとなり、私の選んでおいた、いささかピンぼけの写真を修正して使うことにした。

マボロシの女性との握手

お通夜が終わって、二、三杯のビールを飲んで、そのままバタンと寝た。

こういう寝方は、実は一番良くないのである。しばらくしたら必ず目が覚める。トイレに行ったら最後、夜が白み始めるまで、喪主でなくても眠れないのだ。

このとき、重大なことを思い出してしまったのだ。あの晩、飯を食っていると突然後ろから声をかけられた。振り向くと後輩のお医者さん。今はある病院の病院長をしている。

いろいろと話しかけられて、こちらも妻の容態の話、自分の介護の話など話した。それが「告白」のように聞こえたのであろうか、連れの女性がそっと手を出して私の手を包んでくれた。

こちらも人情もろくなっていたのか、なにげなしに手を握り返した。そうするとその女性はもう片方の手も差し出して、ぬくもりを倍返ししてくれたのである。

ほんの一刻だったが、1分にも2分にも感じられた。その時はただ嬉しく終わったのだが、ひょっとして、あの手の主は世を忍ぶ仮の姿で、実は妻だったのではないか?

時間は合わないでもない。あれから空を飛んで帰ったらピッタリかもしれない。それから、妻は急変したのではないのだろうか。
そう思ったらもう眠れなくなった。

失せ物、あるいは神隠しの予言?

朝が来て告別式の準備が始まった。控え室のテレビではモーニングショーで占いコーナーの放送が流れている。

「おとめ座の皆さん、ごめんなさい。本日は最悪です。失くし物に注意してください」

まさに私はおとめ座で、最悪で、しかも失せ物をしてしまったのだ。スライドショーを終わって、いざ引揚げようというときに、フォト・ファイルを入れたハードディスクがない。

全700ギガ。これまで撮りためたデジタル写真が、あの中にすべて入っている。音楽ファイルもすべて入っている。基本的には一巻の終わりなのだ。

ただ3、4年前に今のハードディスクに乗り換えたので、それ以前のファイルは古い方のハードディスクに残っているはずだが…

まぁ、こちらの方は持ち去るほどのものでもない。いつかは出てくるような気もしているので、あまり絶望はしていない。こういうのを「根拠のない楽観論」という。

ついでに、妻についても一言

つまり、なかなか情念の強い女性であった。そのくらいのことはするかもしれない。それでも、もう、こういうことはないだろう。

柳井政和

という文章を読んで本当に同感した。要旨は以下の通り

「Yahoo!ジオシティーズ」の終了、とうとう終わりが来たのだなという感想だ。

ブログとSNSの台頭により、個人でWebサイトを作るという文化は急速に廃れた。
情報を蓄積するだけで、外へと伝える機能がない個人ホームページは、その価値を大きく落としていった。

サーバー上で、効率的に時系列の情報を発信できる「ブログ」は万人ジャーナリストといった文化を作った。

インターネット上のコンテンツは、ストック型から、情報をニュースのように流して消費するフロー型に変わった。

しかし、サービスの終了によって失われる人類の情報資産は大きい。
様々な分野について、膨大な情報を集積しているホームページが少なからずある。

願わくば、そうした情報が、どこかに保存されて欲しい。そして簡単にアクセスできるようになって欲しい。こうした出来事のたびに、そう考えてしまう。


柳井さんはあの有名なソフト「メモリー・クリーナー」の作者だという。その柳井さんが知的胃酸を保存しようというのだから皮肉な話だ。
ともかく、そのような専門家でさえ悩んでいるのに、私ごときシロウトが口を挟んでもしようがないが、なんとかならないもんですかねぇ、柳井さん。
例えばトラストみたいなものを募って共同墓地を維持・運営するとかできないものですかねぇ。

それにしても、かつてデジタル化と光媒体は眩しく見えたものだ。それは永遠の輝きを放っているように見えたものだ。しかしそれは紙媒体やレコードなどのアナログ媒体よりよほど儚いものだった。壊れたCDやメモリーのなんと虚しいことか。
何時間もかけて作ったファイルがボタンひと押しで無限の彼方に飛び去ったときの虚しさはどうであろうか。

グーグル八分

グーグル八分」という言葉があるそうだ。日本語版ウィキペディアでは立派に一つの記事になっている。
英語では Google Censorship(Googleの検閲) と言うそうだ。
記事の中身を要約してみる。

概要

グーグル八分とはサイトの一覧から特定のサイトを取り除き表示しないようにすることである。

Googleは、検索エンジン運営者としての主体性の問題だと開き直っている。

いくつかの内部基準があり、情報の削除を行った場合はその事実を米国の第三者機関に提示し、該当する検索結果のページに告知することになっている。

しかしながら、検索エンジンサービスは事実上寡占状態であるため、一企業の内部的な決定で検索結果が操作されることには異論も多い。

またグーグルが米国の企業であることから、外国の私企業による情報の制限について危機感を持つ人々もいる。

グーグル八分の具体例

①グーグルダンス
検索順位を決定しているページランクの計算アルゴリズムは定期的に変更され、「グーグルダンス」と呼ばれる。
このため上位に掲載されていたサイトが、ある時に大きく順位を落とすことがある。
②検索エンジンスパムへの懲罰
ドイツBMW社が検索エンジンスパムとみなされる技術を用いたとしてグーグル八分を受けた
③中国における検閲
Google、Yahoo!、MSNはすべて共産党政府に都合の良い検閲を行っている(2006年 国境なき記者団)

検閲を回避する方法

ウィキペディア氏は、次の方法を提案している。
①複数の検索エンジンで検索して内容を比較する
②メタ検索エンジンを利用(昔はよくあったよね)
③検索エンジンを自作し、独自の検索データベースを構築する

③については、話題を絞って集団的に制作する動きもあるようなので、昔のような並立状態がそのうち再現するかもしれない。GAFAの存立基盤は意外に脆いものかもしれない。

旅行中の暇つぶしにと思って買った本。「50オトコはなぜ劣化したのか」(2016年)
ところどころ面白い。
基本となる気分は、真っ只中の「50オンナ」が、同世代男子に怒りを込めて投げつけた石つぶて。

一生懸命こらえているが、なぜか日本酒片手にウンウンうなりながら、書き飛ばしているさまが目に浮かぶ。一気に書き飛ばしているから底は浅いが流れは良い。精神科の医者にありがちな衒学趣味とか知ったかぶりもなくて、大変心地よい。70オトコには安心して読み、共感できる本である。
ただ、四方の目が気になるから新書版のカバーは一応裏返しにして読んだ。

ちょっと気になるのは小学館の編集部の感性。
作者の思いとか文章のテーマとは微妙にずれている。
フンドシの惹句は「女は変化と生きてきた、オトコは変化に乗り遅れた」とあって、一見文明論もどきにも見えるが、本文はさほど上品なものではない。オブラートの隙間から怒りというより軽蔑と憎しみがほとばしり出ている。

本文では「知の劣化」、「現実感の喪失」、「相対主義への逃げ込み」、「覚悟の欠如」などが挙げられるが少しデータの裏づけが欲しいところ。

最後のシメのセンテンスを拾っておく。
いったい50オトコはどこで何をしているのだろう。彼らはなぜ、社会の中心で混迷する日本の舵取りをしようとしないのだろう。
自分で言うのもなんだが、50オンナはけっこう頑張っている。逆打風にさらされながらもわが道を貫いている。
それなのに、50オトコときたらいったい…
まぁ、なんとかなるだろう」とタカをくくることに慣れている50オトコは、たとえ妻や子供に「安保法が成立したら、戦争ができる国になるかもしれない」と言われても、真剣にそれを考えることができない。
本書は、そんな同級生世代の50オトコたちに、「そのままでいいわけ? 自分も、社会も」と呼びかけるための檄文なのである。

デジタルアーカイブ 事始め 1

「デジタルアーカイブ」でグーグル検索すると、以下のような候補窓が開く。

デジタルアーカイブ_Google
「それで、いったい何を知りたいのだ?」と問い返されている気分だ。
私としては、前にも書いた「デジタル位牌」、あるいは「デジタル墓碑銘」みたいな物を作りたいのと、それを社会的に組織してみたいという夢があるのだが、それはいまのところ「夢想」に過ぎない。
まずはもう少し「ノウハウ」を勉強してみたいのだ。(そういえば最近は「ノウハウ」という言葉を使わなくなったなぁ)

まずはウィキペディア。
デジタルアーカイブ(以下DA)とは、博物館・美術館・公文書館や図書館の収蔵品を始め有形・無形の文化資源(文化資材・文化的財)等をデジタル化して記録保存を行うこと。
というのが基本で、つまりは図書館活動の一環ということだ。それは図書館の勝手であり、それだけの話しだ。

が、我々にとっては、文化資源がデジタル化することで、インターネットを経由して情報が得られるようになることのほうがはるかに重要だ。

インターネットでアクセス可能ということは、第一に無料であること、第二に手続き不要であること、言い換えれば匿名で使用できること、第三に複写・複製の制限がないことである。

率直に言えば、ネットで利用できないデジタル化は無意味だ。つまりネットで無制限にアクセス可能な文化資源のみをDAと言うべきだ。それ以外は“アーカイブのデジタル化”として論じるべきだろう。

そこで、現状としてはどこまでDAが広がっているのか、それはリアルアーカイブとの格差を縮小しつつあるのか、「DAリテラシー」のためのミニマムはどういうものか。
…というあたりを、基礎知識として確保したい。

いつまでもグーグルに独占させておくこともあるまい。そろそろ、DAに特化した検索エンジンができても良さそうな気がするが。
(個人的には見出し語にPDFとつけて検索している。これで大抵のものは引っかかるが、HTMLファイルを見逃すという弱点がある)

とりあえずこれで記事1回分にする。


デジタルアーカイブ 事始め 2

つぎはデジタルアーカイブ学会のサイト。

不思議なことに、ここには読むべきアーカイブは存在しない。
ただDAの当事者の抱える問題意識は「第3回研究大会 企画セッション」に示されている。

そのセッション名を列記しておく。

セッション (1) 記憶を集める・公開する―まだ存在しない「アーカイブ」を考える

デジタルアーカイブ構築の議論がさかんだが、技術への関心に先導され、「誰の」「どんな記憶を」「何のために伝承していくのか」という論点が置き去りにされている。
ボトムアップでアーカイブづくりを行う「イメージ」を作り上げたい。

セッション (2) デジタルアーカイブと東アジア研究

そういうセッション

セッション (3) デジタルアーカイブ推進法を意義あるものにするために

多少生臭い話

セッション (4) 災害資料保存とデジタルアーカイブ

大規模災害に際して、被災した資料をレスキューする活動がある。デジタルアーカイブ関係者がその最前線の活動にどのようにコミットするか。
とりあえず行政的課題でしょう。

セッション (5) 日本文化資源としてのMANGAをアーカイブする〜京都/関西における活動と課題

予算が取れそうなプロジェクトですね。

セッション (6) アーカイブの継承

これはデジタルであるか否かを問わず、いちばん大事なセッションです。

「デジタルアーカイブの黎明期から課題になっている、デジタルアーカイブの消滅と継続性、という問題に焦点をあてる」のだそうです。

この、もはや哲学的とも言える問題について、少し考えてみましょう。

アーカイブというのは「情報」という無形の財産を、「記憶遺産」として捉えたときに生まれる考え方です。

このまま滅びさせたくないからアーカイブ作りをするのに、そのアーカイブそのものが消滅してしまうんでは話しになりません。

去年だったか、孫を連れて「リメンバーミー」というアニメ映画を見に行きました。
えらく哲学的な映画で、「人間は二度死ぬ。一度目は肉体的に滅びる。そして二度目は、その人を憶えている人が誰もいなくなったとき、その時に精神を失う」というのです。
これはメキシコの古くからの言い伝えだそうです。

人は死ぬことは受け入れるが、自分が生きていたという証拠は残したいものです。しかしそれも無駄なことかもしれません。


デジタルアーカイブ 事始め 3

こんなことをいくらやっててもらちが明きません。

いま日本にDAと呼ばれる資源がどのくらいあるのか、どんな物があるのか、そのうちで公開されていてアクセス可能なものはどれくらいあるのか。

その話が書かれているのが下記の記事です。



で、国会図書館のリサーチ・ナビに掲載されています。

図書館や美術館・博物館、文書館などの所蔵資料や所蔵品のデジタルデータをデータベース化したものを一般的に「デジタルアーカイブ」と呼んでいます。

ということで「利用がしやすいDA」が一覧表になっているが、これが意外に少ない。

1. 国立国会図書館
2. 公立図書館
青森県立図書館  デジタルアーカイブ
大阪市立図書館デジタルアーカイブ
3. 大学図書館
東京大学 総合図書館
千葉大学 千葉大学附属図書館
九州大学附属図書館
京都大学京都大学図書館機構
島根大学附属図書館デジタル・アーカイブ
4. その他
国立公文書館デジタルアーカイブ
新日本古典籍総合データベース 国文学研究資料館

これだけだ。国会図書館はDAを相当狭く解釈しているようだ。国会図書館に限らず既存の図書館系DAはいわゆる「お宝画像」や「地域史」のアップに集中している。どうも私の考えたDAとは目指す方向が違うようだ。
私が考えているのはグーグルブックスや青空文庫に載るような普通の書物で、かつ「遺産性」の高いものだ。
各大学が力を入れ始めたリポジトリのようなものを、単行本くらいのボリュームで開示してくれるものがほしい。神田の専門書中心の古書店がまるごと収まるようなものだ。これはある程度公的な支えがないと不可能と思う。
現在のところ、「アジ研」(ジェトロ)のサイトがそういう目的に最もかなったサイトだろうと思う。

そろそろ全共闘礼賛はやめるべきでは

安田講堂が落城して何年とか言って、テレビで回顧番組をやっている。
なぜ何時までもこんな番組をやるのか。現代史から見れば、それは全共闘崩れを企業が歓迎したからだ。なぜか、彼らは戦闘的な言葉で戦後民主主義を攻撃し、個人主義、しかもエリート風の傲慢な個人主義を撒き散らしたからだ。
全共闘運動の真の姿は、権力と大企業による反民主主義キャンペーンなのだ。
全共闘の戦士たちはヘルメットを脱ぐとたちまちに企業戦士に変ぼうし、独占資本の尖兵となった。その変身ぶりには唖然としたものだ。
そういう連中がマスとしてなだれ込んだのがメディア世界、とくに放送・宣伝業界だった。
その彼らが現役、あるいは現場幹部でいる間、全共闘礼賛と民主運動の無視は続いた。
それを企業の側も良しとし、礼賛さえした。戦前に軍事産業や中国進出企業が軍部のテロを礼賛し、青年将校を持ち上げたのと同じだ。

若い人たちには関係ないかもしれないが、はっきりといっておきたい。間違ったことは間違っているのだし、悪いことは悪いことなのだ。石を投げ、放火し、鉄パイプで人を殴ることに一片の道理もありはしない。しかも群衆の一人として、匿名でそれを行う卑劣さもなかなかのものだ。

今、それが間違ったこととも、悪いこととも思われていないのは、そういうことをした連中、させた連中が日本の中枢を握っているからだ。
それを間違った、悪いことだと主張した人々が中枢から排除され、不当に差別されたままに、時代を経過しているからだ。

全共闘運動の階級的本質は以上に述べたとおりだ。しかしその時代的背景、あるいは世代論というのであれば、別の言い方もあるだろう。

私達の学生として生きた時代は、日本の戦後が終わり高度成長のトバ口へと立ったときだ。
ベビーブームとともに進学率が急上昇し大学が雨後の筍のように乱立した時代だった。

私は田舎の中学だったから、高校に行かない子が2割を越えていた。大学に行くのはエリートか金持ちだけだった。女の子は高校を卒業すると短大か洋裁学校に行って学歴を終えていた。

私が大学に入って数年のうちに大学進学は珍しいことではなくなり、大学生はエリートではなくなった。
学生という身分が分解して、社会的意味を持たなくなった。東大生と地方の私立大学生を「学生」という言葉で括ることに意義がなくなった。
かつて武井昭夫が主張した「層としての学生運動」というものはすでに存在根拠を失っていた。

全共闘運動の、とりわけその先駆けとしての東大全共闘のメッセージには、「エリート意識の自己否定」などという、聞いていて吐気がするほどのエリート意識が満ちている。これが第一印象だ。
それはおそらくは学生=エリートという「時代」の終焉に共鳴する、一種の「引かれ者の小唄」だったのではないかと思う。

全共闘運動が真面目でなかったと考える第二の理由は、エリートであれば果たすべき社会的役割とか、人民のためにとか、人民の中へという発想が全く見られないことである。
いわば受け身のエリート意識というか被害者意識で膨らませたエリート意識がそのすべてである。
全共闘はバリケードを作って立て篭ったが、セツルメント運動に飛び込んだり公害反対運動や障害者運動に取り組んだり、という話を聞いたことはない。
こんな運動が早晩隘路に突き当たるのは目に見えている。

第三に全共闘運動はエリート意識、あるいはエリート意識の自己否定にもとづいた、超個人的な運動だから、集団として自己規定することができない。あくまで“群れた個”であり、風に揺れる葦である。
学生という存在を、エリート性に置いてではなく知性に置いて捉えるのであれば、学生のマス化は何よりもまず知性のマス化として捉えられる。
そのときマス化された知性は、まず自らを集団的知性として組織しなければならない。それが真の“自己否定”というものだろう。量から質への転換を自らの手で切り開かなければならないのである。
連帯し構築する知性としての集団的知性、それこそがマス化した学生の目指すものではないだろうか。

私は民医連運動においてそういう流れの中に身を起き、鍛えられた。
医師個人の技術ではなく、医師集団の技術の水準をあげていこう。そのために一時的な不公平が生じてもみなで支えあおう。患者と住民の信頼を瞳のように守りながら技術建設していこうと誓いあった。それが北海道だけでなく、日本中すべての地域に澎湃として巻き起こったのである。

70年代に日本の学生が打ち立てた金字塔は、全共闘ではなく、まして安田講堂でもなく、おそらくは全日本民医連の運動の中にあったと思う。

伊藤美誠選手の中国三強撃破は衝撃的だったが、実はこれはかなり必然の結果のようである。
世界ランキングを見ると、中国は三強に続く若手が出てきていない。しかし日本は強豪が次々に輩出している。中でもすごいのが芝田沙季という選手で、この人の強さは全盛期の中国を彷彿とさせる。
今の卓球はサーブ、レシーブ、三球目攻撃でだいたい決まってしまうが、そのあとに本当の強さが出てくる。こういう選手は最初は目立たないが、受けに強いから、力がついてくると絶対に負けなくなる。チキータと高速サーブでじわじわといつの間にか追いついてくる。相手としてこんなにイヤな選手はいない。
こういう人は強い選手には勝てないが、弱い選手には負けないのだ。
早田にはこれがない。
このままなら多分、東京五輪は伊藤美誠と芝田沙季で、早田がダブルス要員ということになるのではないか。平野はまことに気の毒だが大化けしないと出場困難だ。
ただしまだほかに選手が出てくるかもしれない。

本日、8日間の欧州旅行を終えて帰ってきた。家に電話したら妻が入院していた。
妹に見てもらっていて、訪問看護や介護の支援で無事入院はしていたが、それにしても5日間も知らずに過ごしていた。かなり気が滅入る。
それでも夜、自宅に落ち着いてから資料を整理し始めたが、カメラの写真のTiffファイルを削除しようとしたらJPEGファイルも一緒にやられた。プラハとウィーンの写真は全てアウトとなった。
頭が真っ白になった。しばらく充電が必要だ。

“とんかつ・カツ丼・カツカレー”

というのは、テニスの大坂選手が「いま食べたいものは?」と聞かれての返事だ。さらにデザートは抹茶アイスクリームだと言う。

この人、優勝したのもすごいが、優勝後のインタビューがチャーミングで素晴らしい。
顔立ちや体付き、片言の日本語などから、“日本人の血も混じったアメリカ人”と思っていたが、このセンティメントは日本人のものだ。
それにしても「とんかつ・カツ丼・カツカレー」はみごとなコピーだ。子供の頃から口ずさんでいたのではないかとさえ思わせる。
というのは、カツ丼というのは言わないだろうと思うからだ。今やカツ丼といえば日本人にとってやや郷愁を感じさせる食べ物になっているからだ。香の物の小皿に味噌汁がついてくる。香の物は大方鮮やかな黄色のたくあんが4切れ、ということは輪切りで2枚。この付け合せは天どん、うな丼、親子丼と変わらない。これがお重になるとお吸い物に代わる。
最近の若者にはちょっと古風で、いまならハンバーグになるのではないだろうか。
悪者が捕まって、取り調べを受けて、最後にカツ丼を食うと人情刑事に自白するというのが、一時期の刑事ドラマの定番だった。あれは親子丼の具の鶏肉が入っていないやつがカツの上に載っていたのではないか。
それにしても、日本人のソウルフードといえばラーメン、カレー、スパゲッティ。それに続いてとんかつ、コロッケ、餃子となる。
もともとの和食といえばそば・うどんくらい。天ぷらだって元はポルトガルだ。ただしこれらの全てにご飯がつく。これが日本だ。
むかし日本は島国根性でだめだと自己卑下していたが、日本人くらい物好きで好奇心旺盛な民族はないのではないかと思う。
もう一つ、市井の日本人は外国人にも分け隔てなく付き合う。嫌韓だとか、チャンコロだとか、力を背景に威張り散らすのは一部の連中に過ぎない。
それというのも、逆に日本人の均質性が根っこにあるからだろう。均質的だから多様性を受け入れる。ワン・オブ・ゼムになりきれるというのは日本人の特質だろうと思う。ただし日本語の壁は未だにかなり厚い。

大変ありがたいコメントをいただいた。
そのままではもったいないので、あらためて記事として起こさせてもらうことにする。
まずは下記の記事をご参照いただきたい。この手の記事は観光や空港のページのQ&Aにしばしば載るのだが、たちまち潰される。かくして都市伝説のみが残る。
私の元記事は、そういう情報に網を張っていて捕まえたものである。だから、半分はそもそも噂話、半分はかつては真実だったが今ではそうではないというものである。ある意味、そういう情報をたくさん持っていると、ダメ元でそれなりに楽しめることもある。空港での暇つぶし・足慣らしにはもってこいだ。

に付けられた as さんのコメントです。

喫煙者にとってとても助かる情報ありがとうございます! 
先日バルセロナ・パリに行ったので共有させていただきます。 
どなたかの参考になれば。(いずれも制限区域内) 

■バルセロナ(BCN) 
シェンゲン内路線は、ショップエリアの両端(マクドナルドの先とロンシャンの先)に屋外喫煙所あり。 
シェンゲン外への国際線には喫煙所無し。 
(2018/08) 

■パリ(CDG) 
ターミナル2E:搭乗ゲートフロアの下の階に喫煙所あり。(エールフランスラウンジ並び) 
ターミナル2F ホールK:K37ゲート近くの喫煙所は廃止(看板はまだあります)、代わりにゲートの両端(K31、K51/53近く)の半地下に喫煙所あり。但しラウンジからはかなり距離があります(片道5分以上) 
ターミナル2F→2Eのトランジットでの移動通路にも喫煙所あり。 
(2018/08) 

■ローマ(FCO) 
ターミナル1:国内線(シェンゲン内)、国際線共に喫煙所あり。ラウンジ内は禁煙です。国内線は至る所に、国際線は免税店エリアは1フロア上に、サテライトでなければゲート近くにもあります。(サテライトは不明) 
(2017/12) 

■ミラノ(LIN) 
国内線(シェンゲン内)はillyの傍に喫煙所あり。国際線は不明。 
(2017/12) 

■ミラノ(MXP) 
国際線アリタリアラウンジ近くに喫煙所あり。ラウンジ内は禁煙。国内線は不明。 
(2017/03) 

「ネット墓」の構想がどうも進んでいかない。
最大の問題は技術インフラのほぼ完全な欠如である。
誰かテクニシャンに入ってもらうしかなさそうだ。
葬儀屋さんとまず相談してみよう。
バーチャル墓の一番いいのは、埋葬許可証がいらないことで、場所や広さに制限が不要なことだ。
墓地運営協会を作って、各種サービスを提案し提供することになる。中心になるのは「デジタル位牌」である。要はパソコンが各自一台あれば良い。その部屋で小人数で見るもよし、大きな部屋のスクリーンに映写しても良い。
問題は故人の遺した電子データをいかに利用可能にするかだ。おそらくデータのほとんどは断片的なものであり、どう閲覧可能にするかは検討課題だ。もちろん本人の意志を尊重はするが、本人に任せる言われても途方に暮れるだけだろう。
これはまさにリポジトリの技術であり、インデクシングの技術である。
いちど有志で検討会を開いて見る他ない。


この夏、北海道はずっと雨ばかりで、たまに晴れるとドライブしたくなる。この間は層雲峡まで行ってきた。お金さえ気にしなければ、今は上川町まで高速で行ける。計時はしなかったが3時間足らずでつくと思う。
上川から一般国道に降りてしばらく走るともう層雲峡だ。下の地図で見て、山に登っていくケーブルカーが見える。その出発点が層雲峡温泉だ。
そこからなんとやらの滝とやらを右手に見ながら進む。滝上の山にはまだ残雪がある。少しづつきつくなる上り勾配に差し掛かってしばらく走った頃、道は二股に分かれる。
両方とも国道で、まっすぐ東に行くと天北峠を越えて北見につながる。右に曲がるとダムの堰堤の上を通って湖沿いに三国峠に伸びていく。三国峠の向こうは十勝平原だ。まぁ北海道の中心と見てよいだろう。
大雪山
ここを三国峠の方向に曲がり、ダムの堰堤を越えトンネルを潜ると、右に登山道が見えてくる。最初の100メートルほどを行くと舗装は切れる。車がすれ違うのも危険を感じる悪路を延々と登っていくと、山の中腹で道そのものが切れる。これが銀泉台である。
なんでこんな半端な道があるかと言うと、登山者のためのアクセスなのである。車は通れないが道は山頂に向かって続いている。多分銀泉なのだろう、蛇口があって、トイレがあって、無人の事務所が置かれている。
私は登山などという無駄な遊びは好きでない、景色だけならテレビ見ていればたくさんだ。ということで早々に退散したのだ。
すみません。ネットしたところ、行き方&現地レポートという詳しいページがあって、動画まで掲載してくれています。
もみじの名所でシーズンには山麓からシャトルバスが運行するそうです。
朝6:00から昼過ぎまで30~45分間隔で運行。運賃は銀泉台まで片道500円。細くて未舗装部分が多い道を、ガタガタ走ること約35分。ようやく銀泉台へ到着します。
復路の最終は16:30です。
その帰りの途中、もう麓に近いあたりで道を歩いている青年を見つけたのだ。およそ登山者には見えない出で立ちで、まちなかを歩くふうに悠々と歩いている。しかも何故か下っている。
流石に気になる。止まって話を聞いた。見た目は日本人風だ。しかし言葉は片言だ。
「いったいどうしたの。みちにまよったの?」
「国道に出ようと思っています」
「国道に出るってゆったって、ずいぶんあるよ」
「大丈夫だと思います」
「第一危険だ。この辺は人はいないがクマが出る。私なら絶対歩かない」
「…」
ということで、とりあえず後部座席に収容する。
車の中で聞いたところ、この青年はマレーシア人。層雲峡温泉のホテルに「研修」に来ているそうだ。今日は非番で、朝の10時過ぎにふらりと宿舎を出て、散歩の延長でここまで歩いてきたらしい。私と同じ道をたどって、途中まで登ったが先が見えないので歩いて戻る途中だったという。
距離測ってないが、ある自転車乗りのブログで、温泉から二股まで11キロと書いてある。
無謀なことをするものだ。熊に襲われなくても大雪の山は夜はしっかり冷える。どうせ携帯など持っていないだろうし、持っていても圏外だ。
「メクラ蛇に怖じず」とはこういうことを言うのだろう。
ともかく層雲峡温泉までは車で送ってやった。さほどありがたい様子は見せなかったが、仕方がない。


それで、すっかり忘れていたのだが、この間の山口県大島の子供の行方不明事件のテレビを見ていてふと思い出した。人間というのは見知らぬところで迷子になると、似たような行動をとるものだなと思った。マレーシアの青年の場合、さすがに「これは戻るべきだ」と判断したのだが、それまでずいぶんと突き進んでいる。
そこには「進む勇気」も「退く勇気」も関係ない。前頭前野が止まるのだ。そして前頭前野が止まったとき、人間というのは無意識下に歩みを続けるものなのだ。なぜなら、前頭前野は「止まれ」という司令も出せなくなるからだ。そして無意識下であっても下位中枢がしっかりと歩行行動を支えるのだ。

「セルフアーカイブ」についての誤解

すみません。セルフアーカイブの意味を誤解していました。セルフアーカイブというのは著作権の関係でかなりスレスレの行為のことを指しているようです。

ウィキによると、

デジタル文書の無料のコピーを、オープンアクセスに供するためにウェブ上に置くことである。
通常セルフアーカイブと呼ばれるのは、学位論文や査読付きの学術雑誌や、国際会議において刊行された学術論文をその著者が所属する機関のリポジトリやオープンアーカイブに登録することである。

ということで、論文の二度出しである。約91%の査読付き雑誌が、論文の著者にプレプリントやポストプリントをセルフアーカイブすることを認めている。

いくつかの条件が整えばOKということになって来てており、最近ではオープンアクセスへの"green road"と呼ばれているようである。

ということで、「自主的アーカイビング」みたいな高尚なものではなく、「勝手にアーカイブ」みたいなちょっと生臭い話である。



リポジトリー について勉強した。
広島大学 学術情報リポジトリ というサイトがあって、そこに学術情報リポジトリとはというページがある。
考え方を整理する上でたいへん役に立つページなので、骨子を紹介する。

1.学術情報リポジトリとは?
論文、報告書、図書、研究データなどの学術成果物を公開するためのプラットフォームです。

これらの成果を保存し、無償で広く公開することを主たる事業とします。

学術情報リポジトリは広島大学の学術成果のショーケースとなります。

2.学術情報リポジトリのメリット

学術成果(雑誌掲載論文など)の可視性が高まります。
ご自身の研究成果一覧を作成することができます。
メタデータ(タイトル、著者名、キーワードなど)を作成すれば、より検索されやすくなります。
各コンテンツにパーマネントリンク(固定URL)を付与し、リンク切れをなくしています。

3.著作権の問題
出版社や学会に著作権が譲渡されていれば、話は複雑なので、各自前もって処理してください。

4.オープンアクセスについて
リポジトリはオープンアクセス(OA)の一種です。
オープンアクセスとは「誰もが、インターネット上で障壁なく、学術研究成果を利用できること」です。
リポジトリーでは既発表資料をOA化することになります。これを「セルフアーカイブ」と言います。

ということで、我々がやりたいことと言うより、それを裏で支える側の“ものの見方”になっているが、そう飲み込んで読めばかえって話はわかりやすい。
この文章では最終ゴールとなっている「セルフアーカイブ」が、私達には出発点であり、セルフアーカイブという行為と、それを公開するという行為がくっつくと「オープン・アクセス」という発想になってくる。
それを“プラットフォーム”(乗り場)の形で社会システム的に支えてくれるのがリポジトリーという受け皿だ。
したがって、この文章の結論になっている、しかし我々の行動の出発点になっている「セルフ・アーカイブ」という考えかたをもう少し突っ込んで置かなければならない。



結局何がしたいかと言うと、
1.ホームページを有効活用したい
ファッションよりも倉庫としての検索の容易さが目的。
毎月それなりの使用料を払っているのだから…
2.ブログ記事をばらしてファイル化し、索引を付けて別保管したい
要は
ブログへのアップロードと、ファイル作成+ホームページへのアップロードが、ワンタッチで行えるようにするということだ。
過去のファイル整理はその後だ。
Chrome Editorというのが役に立つかも知れないので、チャレンジしてみる。
狙いとしては、ブログ記事の作成をこれでやる。
出来上がったらブログにコピペし、ファイルはドキュメントに保存する。保存したファイルをジャンル分けして、ホームページの書棚に格納する。
これで電子書庫が出来上がるが、その索引機能は別途勉強する。図書館に設置されている検索端末のようなものを作る。
グーグルの利用も考える。



「ネット霊園」か「思い出倉庫」か

ネーミングは「ネット霊園」だが、実質は「思い出倉庫」だろう。
“人繋がり” が形成できるかどうか、“場” が作れるかどうかなので、
目的を共有する集団が形成できるかどうかがカギになる。

基本活動
故人ロッカー: ハードディスクなど記憶媒体の整理。文書ファイルを図書分類で整理して保存。画像ファイルを年月日順に保存。
閲覧室で鑑賞。
アナログ資料のデジタル化。(これは実費を旨とする)
遺言 遺族・縁者メッセージ 公開
メーリングサービス 死亡広報

オプション活動
ヴァーチャル法事 偲ぶ会(オフ会) 
資料虫干し公開 資料に基づくセミナー

定点活動
遺品・パソコン閲覧スペース

財務活動
維持基金(会費?)の管理・運用
基金運営委員会(税務)


※ 終活援助まで手を出せば一気にビジネス化するが、そこまでやるか。

※ 葬儀屋さんと組んで、葬儀サービスの一環としてやることにすれば、財務・税務は回避できる。

今朝のニュースで「パティシエ・ロワイヤル」というコンクールが行われたと報道されていた。菓子職人のコンテストらしい。
王立菓子職人てなんだろうと思ったが、「バトル・ロワイヤル」のモジリだと薄々わかってきた。
少なくとも日本のある世界では、“ロワイヤル”がコンテスト(勝ち抜き)という意味で、なんの不思議もなく用いられていることがわかった。

「通用するならいいか」と言われると、「ノー」だ。言葉としてあまりにもひどすぎる。

と、思ったら
そもそもまったく関係ない用法が立派に単語化しているのもあるようだ。

ロワイヤル(〈フランス〉royale)
卵とブイヨンを合わせて蒸し、卵豆腐のように固めたもの。トマトやグリンピースなどで色づけしたものもある。スープの浮き実に用いる。
ウィキペディアのロワイヤルの項目にも山程の用例が列挙されている。

とはいえ、これらの名は、いわば景気づけにロワイヤルと名付けられたに過ぎない。
コンテストやコンクールの意味にロワイヤルという言葉を与えるのはあまりに無謀だ。

はバトル・ロワイアルに関する言葉の乱れをあとづけている。
まず「バトルロイヤル」(battle royal)というのがあって、「プロレスリングで、多数のレスラーがリング上で戦う試合方法」なのだそうだ。
これを、おそらくカッコよく言うつもりで「バトル・ロワイアル」と言い換えた人がいて、「1999年に刊行され、後に劇場映画化もされた人気小説のタイトル」なんだそうだ。
これがいわゆる「デス・ゲーム」作品の先駆けとして、後年多くのフォロワーを生み出し…
若者言葉として定着したらしい。
そして最後に、ロワイヤルが「バトル・ロワイヤル」の意味を持たされた、ということなのだ。

宣伝になるが、
日大田中理事長 記者会見しない理由
と入れて、グーグルすると5番目に私のブログ記事がヒットする。5月30日の記事である。
今後かなりの飛び込みがあるのではないかと期待する。
みなさんもご一読お願いします。

昼飯のあいだにテレビのニュースショーを見る。
本日はボクシング協会のスキャンダルで揃い踏みだ。
ただ当事者にとっては到底許せないだろう。太えやつではあるが、キャラ的にはどことなく憎めないところがある。「仁義なき戦い」で言えば金子信雄くらいのレベルかな。
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         たかしさんのツィートより
少なくとも山口組の司組長のレベルではない。成り上がりの小悪人で、取り巻きとセット価格でなんぼのものだ。チンケな悪人なだけにわかりやすい悪戯をする。
スイート借り切というが、1泊2万円のスイートなんて笑っちゃう。
豪華なおもてなしセットというが、麦焼酎と梅酒ですよ。しかも1日じゃなく4,5日分だ。それも大した銘柄物ではない。「チョウヤのウメッシュで代替可」ってかわいいじゃないですか。カンロ飴と森永ミルクキャラメルとセンベエ盛り合わせがマスト・メニューだそうで、別に目くじら立てるほどのものではない。
日本大学に比べれば、可愛いもんだと思います。メディアにしてみれば叩きやすいでしょうね。こんな小悪人、叩き放題だ。

伊藤美誠・早田ひなは世界一だろう。
ソウル・オープンの中継を見たがとにかくすごい。
おそらく伊藤美誠はシングルでも中国選手を上回りつつあると思うが、これに早田がついたダブルスでは早田のドライブがすごい威力を発揮する。
とにかく早田のドライブはたぶん世界一の回転量だろうと思う。この人がしっかり打ったドライブを返せる人はほとんどいない。野球でいうとチーム打率3割のチームにホームラン40本の外人助人が加わったみたいなものだ。全盛期の内川と絶好調のデスパイネの組み合わせだ。
早田ひなの凄さは身重だとか筋肉だとかとは違うと思う。そのムチのような柔らかさに強さの秘密があるのだろう。だから決まったときの玊ぢからというか破壊力は見た目とはぜんぜん違う。
ダブルスをやったときに早田がドライブを打つ場面が作れれば、そのゲームは間違いなく取れる。相手もそうなったら諦めている。早田がドライブを打ったら、早田にドライブを打たせたら、その時点でとりあえずは終わりだ。
それにシングルプレーヤーとしても、もはや平野美宇を抜いてNo.2、美誠に迫るレベルに達している。
ダブルスというのはメジャーなゲームではないから、なかなかそこまで話を持っていくのは厳しいが、見る分には大変面白い試合なのでぜひ頑張って欲しいと思う。
それにしても早田さん、去年とは別人だ。堂々としていま一気にきれいになってきた。


あまり教えたくないけど、もし廃線になってしまったら、それも困る。
ということで、とびっきりの鉄道を紹介する。
それは根室本線で厚岸を出てから根室に向かうところだ。別寒辺牛湿原という。
皆さんは宮崎駿の「千と千尋の神隠し」という映画を見たことがあるだろうか。
あの映画のそろそろ終わる頃に、醜悪でシュールな温泉旅館から海の中を浮かぶように走る列車が登場する。顔なしお化けが横に座って、それが能面のように悲しみを湛えながら列車がしずしずと進むのだが、そんな場面が現実に存在するのだ。


厚岸の駅を出てから数分、突然視界を遮る一切のものが消え去る。360度が湿原となる。線路だけが砂利と枕木の分だけ僅かに高い。生き物はいるのだろうが人という生き物はいない。
こんな世界がおよそ20分は続く。
本当にあるんですよ。花咲線の根室行の列車、絶対に一度は乗ってください。あとせいぜい5年です。

北海道に穂別という町がある。正確に言えばあったということになる。平成の大合併で隣のむかわ町に合併された。

この町に恐竜博物館があって、これも正確に言うと恐竜ではなく水中に暮らした爬虫類らしいのだが、先日そこに見学に行ってきた。

小さな町には不似合いな立派な建物だが、見学者はほとんどいない。いずれ恐竜のように絶滅するのであろうか。

その博物館の受付で古老が語る穂別昔ばなしみたいな本があって、何気なく手にとってパラパラとめくったところ、これが意外と面白い。

つい買ってしまい、家で読み始めた。面白いと言ってもA5(全書版)で400ページの大著だ。途中で流石に飽きてきた。

一体何でこの本が面白いのか、いろいろ考えてみたが、結局これはガルシア・マルケスの「百年の孤独」なのだと思い至った。

1.アイヌ先住民

穂別の町は鵡川という川沿いに長く伸びている。明治に入るまでは川沿いにいくつかのアイヌ人集落があって、半農半漁、自給自足の生活を送っていた。とはいうものの、ほぼ無人の野と言ってよい。

なにせ理由は不明だが江戸中期からアイヌ人の人口はどんどん減って、明治に入ると全道でも数万というくらいだったから、アイヌの社会を征服して植民地化したと言うには程遠いものだった。

2.食い詰め者の群れ

町の歴史の最初はハグレモノの進入に始まる。ほとんどが食い詰め者かダマサれて来た人たちだ。明治40年ころの話だ。

最初は鵡川の下流の方から入ってきた。この人たちは押し出されていやいや入ってきた人たちだから、入り込みのスピードは遅かった。

ついで夕張から峠を越えて入ってきた。夕張がそもそも炭鉱で人が増えた流れ者の街である。山の向こうなら土地も豊かで食っていけるという風のうわさに乗ってしまうものがたくさんいた。夕張からの流れ、食い詰め者の流れが優勢となった。

この本のすごいのは、その人達(1900~1910年ころの生まれ)が健在(1990年現在)で、淡々とその苦労を語っていることだ。

その生き方は、突き放して言ってしまうと、人間と言うよりまるで虫けらのいのちだ。それが土地にしがみついて、黙々と働き続ける。しかしそういういのちは積み上がっていくのではなく、次々と入ってきては、そのほとんどが次々と消耗していくかのようだ。

何年かに1回は冷害がやってくる。その間に日照りがあり、洪水がある。焼畑農業は数年で地面が痩せてダメになる。住居・衛生環境は最悪で医療アクセスもほとんど期待できない。

災厄があり、病気があり、怪我があり、そのたびに人々は食い詰めて、街を出ていくか野垂れ死にしていくのだ。

それでも、しがみついて生きていく人もいる。子供の代には何かしら良くなるのではないかと思って頑張る。しかしその夢が叶うことはない。子供の代にも貧困はつきまとう。

ただ子供の代の人々は初代の獣のような生活に比べればよほど人間らしい。教育の力である。入植者がいかに学校教育を希望の糧としたか、その思いが切々と伝わってくる。そしてこの二代目たちが街の骨格を形成する。

3.町に凄まじい変革の嵐が襲う

鵡川の河口の方から鉄道線が伸びてきた。そうすると移出用の作物づくりが始まる。種子から灌漑設備、肥料・農薬と金もかかるようになる。当然町の中に金持ちが出現し、彼のもとで働く小作人も出現する。

こんな山の中に鉄道がどんどん入り込んできたのは、鉱物資源のためである。線路は国鉄ではなく炭鉱会社ものであった。

穂別の北部・西部は夕張から続く石炭の鉱脈であった。一方東部には日本国内で最大のクロームの鉱脈が連なっていた。石油の油田すらあった。

もちろん木材も伐採されたし、その後の二次林では木炭づくりも行われた。

これにより典型的な北海道の地方都市の体裁が、こじんまりと育ったのである。

4.沈滞から滅亡へ

この繁栄期は大正10年(1921)ころから、第二次大戦を挟んで昭和40年(1965年)ころまで続いた。

穂別は近辺一帯では豊かな街だった。町を鵡川とこれに並走する国鉄線が縦貫していた。穂別炭鉱、茂別炭鉱に新登川炭鉱、富内周辺のいくつかのクロム鉱はほかの街にはないものだった。石油は穂別炭鉱に近いところで採掘され、一時期は灯油として町内に供給されたこともある。
農業も稲里・長和の稲作は豊かな実りを与えた。夏の夜はホタルが乱舞した。豊田から仁和に至る鵡川沿いにも洪水さえなければ実りが期待できた。和泉の河岸段丘ではホワイトアスパラが全道ブランドとなっていった。

北海道はすべて昭和40年が境目である。すでに閉山の動きは始まっていた。農業構造改善と減反の嵐も始まっていた。北洋漁業の減船はもう少しあとのことになる。
すでに出稼ぎは長期化し、挙家離村の動きも始まっていた。

この頃から、私の穂別でのセツルメント活動が始まる。町には古い貧困と新しい貧困が重畳していた。

それまでの貧しさとは違い、先見えないひたすら沈殿していく貧しさがそこにはあった。

戦後生まれが三代目としてあとを継ぐはずであったが、彼らはすべて町を離れた。鉄道が廃止になり炭鉱やクローム鉱がすべて閉鎖され、林業が不採算となった今、そこに生きる縁はなかった。

2代目は跡継ぎを失ったまま齢を重ね、その土に帰る他になくなった。

今その作業がほぼ終了しつつある。


「忙しい何日間」という思考単位がある。
色んな人とあって、いろんな事実を知って、いろんなことを経験した。
それを納得するためにはもう一回り勉強しなければならないということがわかって、一方ではそんな経験に打ちのめされてヘトヘトになって、歳のせいで回復力が遅いからズルズルともう何日間という日が過ぎていいく。
若い時なら、こういうことは経験値として積み上げられ肥やしになっていくのだろうが、高齢化して精神的なスタミナと記憶力とが同時に落ちていく時代に入ると、ただの「骨折り損のくたびれ儲け」ということになる。余分なことはしないほうが良いのかもしれない。
ただそれを振り返っておくことだけは間違いなく良いことだろうと思う。そこで、この1週間を書き留めておくことにする。
11日の国際部会での議論。
いろいろな人がいろいろな発言をしたが、私の発言は次のこと。
1.リーマンショックから10周年立ったが、それは終わっていない。ねずみ花火みたいに彼方此方跳ね飛びながら、まだ続いている。これがわからないと、今の世界、これからの世界は読み解けない。
2.トランプの政策はすべて反オバマで貫かれている。だからオバマ政策の吟味が必要だ。オバマドクトリンというのは半分はリベラルな素敵な政策だ。残りの半分はエスタブリッシュメントの政策の焼き直しに過ぎない。トランプはそのうちのどちらに反抗しているのか。
議論の中で、アメリカ・ヨーロッパでのリベラル派の動きについて評価を求める意見があった。なかには「連帯」の相手をそちらにすべきではないかという声もあった。
私は、ずるいことに、あるときは、サンダース・コービン・メランションを一体として論じるべきと行った。別なときには、それぞれの特殊性を踏まえないといけないと言った。
そこをもっと説得力を持って語らなければならない。

じつは他にも話がある。久しぶりに天気が良いので、穂別まで行ってきた。恐竜の骨格が掘り出されたので大変夢のとこ度である穂別は学生時代に農村セツルで何回も入ったところなのでその思いもある。

ということで、ものすごいでかい問題意識が残ってしまった。
まずはとにかく書くだけ書いておこう。







どうもまことに不思議な事件だ。
事件の経過
総武線の幕張本郷駅で、痴漢が捕まり、その置換が取り調べのすきをついて逃げ出し、架線を支える電柱によじ登って立てこもった。
結局2時間後に“保護”されたのだが、なんとズボン、靴下を脱いで下半身はパンツ一丁という、中途半端にハレンチな状態で2時間も頑張ったのだと言う。
男の立てこもった電柱は、電車に電気を送る電線がむき出しではりめぐされ、触れば即死という環境。助かったのは何よりだった。被害者には申し訳ないが死んで許しを請うほどの罪ではない。
よじ登ったのが土曜の夜10時、“保護”されたのが12時と言うから、居合わせた人には大迷惑ではあるが、仕事に差し支える時間ではないから、「まぁ、飲み直そうか」ということかな。
推定される発症機序
発症の機序はおそらくパニック障害で、逃避反応として説明できる。ベースのメンタルには解離性人格障害(むかしで言うヒステリー)があったのだろう。
しかしそれだけで済ませられるかというところが大問題だ。
第一に、「痴漢として捕まった」ことが、瞬間に人格を崩壊させるような強烈なストレッサーになりうるということを示す症例だ。
非常に珍しいケースで、しかも社会病理の一現象の可能性があって、「東京という大環境」抜きには現れない反応ではないか。
第二に、無意識のうちに下着を脱いでしまうというのは、20年くらい前に有名な男性タレントが酩酊して公園で裸になり、警察のお世話になったという事件があった。 別に露出狂というのではなく、人に見せるというのでなく、脱いでみたくなるという意識下の欲望というのがあるのかもしれない。
考察されるべき事件の特殊性
ということで、今回の事件の興味は痴漢行為で捕まった時の心理状態に、他の状況とは異なる特殊性があるのかということ。 もう一つは脱衣行為というのが逃避反応(憑依)の一型としてあり得るのかということである。
これからワイドショーでやるだろうから、少し注意してみておこう。

何気なく富良野まで行ってきた。
出掛けたのがすでに10時近かったから「大丈夫かな」と思いつつ出掛けたのだが、わずか2時間あまりで行けるということに驚いた。
高速で三笠まで行って、そこから桂沢湖経由で行くのだが、本当の難所は幾春別を過ぎてから芦別市に入るまでと、富芦トンネル付近だけだ。基本的に信号はゼロ、道路工事は常時2,3箇所でやっているがそれだけだ。ほとんどが速度制限なし、追い越しも可能だ。
帰りは、芦別経由で滝川から高速に乗ろうと思ったが、滝川に行くのと岩見沢に出るのと距離・時間ともに変わらないことがわかり帰路も同じ道を選んだ。ただ三笠から岩見沢に抜ける道はすでに家が立ち並ぶ生活道路になっており、信号待ちもかなりある。やはり三笠から高速に乗るのが正解なようだ。
札幌から行って一番のとっつき、38号線の右側に北の峰スキー場に登っていく道がある。その角の喫茶店は感じの良い店だ。ここで無料地図がもらえるので、それを見ながら市内観光に出掛けた。
スキー場からの展望は素晴らしい。富良野盆地を隔てて眼の前に富良野岳、その奥がかすかに噴煙を上げる十勝岳。さらにその奥には雪をかぶる大雪連邦だ。
スキー場付近はもったいないくらい閑散としている。店の半分位は暖簾を掲げているが、あたりには人っ子一人いない。すでに閉店状態となっているところもたくさんある。
ここには外国人観光客は来ていないのだろうか。千歳からのアクセスはニセコより優れていて、西武プリンスもまだ諦めているわけではなさそうなので、これから大化けするかもしれない。
山麓の道路を南に進むと山の中腹に堂々たる高層建築が見えてくる。これが西武プリンスだ。山道を登っていくと今まで見えなかったもう一つの山がホテルの背中に見えてくる。これが芦別岳だ。これも立派な山だ。
コーヒーでも飲んでいこうと思ったが、意外に混んでいる。駐車場は車でいっぱいだ。月曜というのにすごい集客力だなと思ったら、なにかイベントがあったらしい。それで中には入らずにそのまま下ってきた。
途中にチーズ館というのがあったが、正直チーズは買ってまで食べたいと思ったことはない。冷蔵庫の場所塞ぎをしている。
その脇に看板があって道を入っていくと写真の展覧会場があった。
東京から移住して住み着いたという写真家の個人ギャラリーだ。相当のお金持ちらしく、建物の作りは立派なもので、展示された写真も一見に値する。
なんでも高齢のためあと数ヶ月で店終いするそうで、希望すれば展示物も分けてもらえるらしい。何れにせよお早めに。
ドライブのとき、いつも昼めしには苦労する。
どの街でもそうだが、観光地はそれなりでも、旧市街の荒廃ぶりは凄まじい。今回も街の中心部をぐるぐる回ったが、どうもこれはと思える店がない。まあ滝川に行って探すかと離れかけたとき、国道沿いの生鮮卸市場のなかに海鮮丼の店が見つかった。看板を見ると海鮮丼900円とある。ついその値段に釣られて入ってしまった。
値段からはとても信じられない充実ぶりだった。いつまで続くかわからないが、当面は「孤独のグルメ」並みのおすすめだ。
ご多分に漏れず富良野も限界集落だ。しかしもともとが農家のセンターだから、落ちるスピードは比較的遅い。悲惨さがないから気持ち的には落ち着く。
外国人観光が根付くと以外に息を吹き返すかもしれない。札幌からのアクセスの良さを考えれば穴場的存在かもしれない。
帰札後、テレビの夕方のニュースが富良野の話題を2つも流していた。一つはプリンスホテルに倉本聰の企画した高級エストランが店開きしたという話だ。ホテルの駐車場が混んでいたのはこのせいだったのだ。縁なき話である。
もう一つは市内の住宅で殺人事件。83歳の旦那が80歳の妻を刺し殺したという話。妻は車椅子で旦那が介護していたというが、別にそれが原因で殺ってしまったというわけでもないらしい。こちらが年取ったせいもあるが、83という年は、特にいなかでは、高齢者というほどのものではない。
普段仲の良い夫婦だったが「カッとなってやった」ということだ。夫婦喧嘩の決着としては尋常ではない。妻からかなり言い込められたのであろう。しかし台所から包丁を持ってきて車椅子の妻に襲いかかるという図は想像しにくい。知人・友人からは計り知れないDVの積み重ねがあったのだろうか。
ちょっと一筋縄ではいかない事件のようだ。

映画は大した映画じゃない。ありきたりの月並みの映画なんだけど、女優さんがすごい。
映画の名前は「陽だまりの彼女」で、女優の名前は上野樹理。とにかくその存在感が半端じゃない。映画の筋書きの通り「化け猫」を演じきっている。
女優さんは顔はまったくの10人並みで、別に映画俳優になるような美人じゃない。ところが映画を見ているとグイグイと引きずり込まれていく。強いていうとヘップバーンだね。日本で言うと、出始めの頃の田中裕子かな? 大竹しのぶかな? 沢尻エリカかな?
あたり一面に印象を撒き散らしながら走りすぎていく。走りすぎた後どんな顔だったっけと言われると、とんと思い出せない。キラキラとした飛跡だけが残っている。

あまりに天気が良いので、嫁さんを放り出してドライブに出かけた。
一応目標を留萌に据えた。去年の今頃はポイヤウンベを求めて浜益まででかけたのだが、今回はさらに足を伸ばそうというのである。
一度おぼえた道を走るのはとても楽で、浜益まではなんの疲れも感じることなく進んだ。ただ予想外れは去年立ち寄った浜辺の喫茶店が、今年は臨時休業だったことである。臨時休業という貼札が来年にはそのままに風に吹かれているのが、このあたりの風物詩であるから気がかりだ。
とにかくここまではまったくなんの支障もなく来たので、そのまま進む。
浜益の次が群別でその次が幌、ここからふたたび難所に差し掛かるが、意外になんということなく通り過ぎて、雄冬を過ぎて増毛まで入ってしまった。
「この辺が岩尾温泉だったかな」と思いつつ通り過ぎてしまった。まだ冬季休業中だったのだろう。増毛も街には入らずそのままバイパスしてしまった。
そうして視界の正面、小高い丘の上に留萌の街の建物群が視野を占める。伏古の我が家からここまで2時間弱。年を追うごとに快適になる。もはや通勤圏内と言ってもいいくらいだ。

留萌の建物群は砂丘の上に突然、無防備に、まるで蜃気楼のように現れる。蜃気楼だと思ったら本当なんだ。日本中の街でこんな感じを味わったことなどない。(霧多布も同じように出現するが、だいぶ規模が小さい)
留萌の街は出現の仕方も蜃気楼のようだが、街全体がほとんどウソのような街だ。ここにこんな街がなくてもなんの問題もない。もっというと、こんなところにこんなふうにあってはいけない街なのだ。
北海道というのは悲しい島で、いたるところに昭和遺跡という名の廃墟が建ち並んでいる。
長崎の沖合に「軍艦島」という炭坑跡があって見事なゴーストタウンになっているが、北海道という島はそのすべてが「軍艦島」なのだ。
北海道に住んでいると、そして夕張とか美唄とか留萌とか行くと、もう日本は限界集落を越えつつあると思う。東京だけが生き残るのだろう。かつては東海道ベルト地帯は生き延びると言われたが、今や静岡もしっかり穴凹地帯になっている。
酒が回ってきて話があちこち飛び始めた。
留萌観光は一泊すべきだろう。稚内と同じくらい奥行きがある。歴史を学びながら見ていかないと本当の良さは分からない。
今回は留萌駅の無料駐車場に車をおいて歩くことにした。出発点がわからないとさっぱりわからなくなる。ここからまず港へ歩く。この港はたいそう立派なのだが、今日に至ってはなぜこんなに立派なのかがわからない。無駄に立派なのである。
駅と港とは相当の距離がある。歩く距離ではない。港をさらに岬の方に向かうと市役所がある。港から背後の坂に登っていく途中が商店街で坂を登ったところに走っているのが札幌からの国道である。
人口4万の街がこれだけ複雑だとそれなりなに都会の趣きがある。しかし人口2万を切った街でこれだけの構造はただひたすらに無駄に煩雑だ。
函館の十字街、室蘭の中央通り、小樽の都通り、札幌の屯田通り、釧路の北大通…ゴーストタウンはどこでもそうだ。
とにかく、一日も早く、一日でも多くこれらの街を歩くべきなのだろう。駐車禁止を気にせずにいたるところに車を止めて歩くべきなのだろう。警察も一日も早く一方通行とか駐車禁止とか右折禁止とか止めるべきだろうと思う。それが街の衰退に拍車をかけているのだから。




昔話だ。
私は96年と97年の2年間、小樽の診療所の所長を勤めた。有床診療所の一人所長だ。
着任したときはひどい赤字だった。とにかく入院患者を確保しなければ赤字は解消できない。そのためには外来数を増やすしかない。しかしそんなことが簡単にできるわけはない。当面は往診数を増やすしかない。高齢化社会だから、そして小樽は坂の町だから、往診数を増やすのは、外来数の減少に対応するためにも必要だった。
そうやって往診数を増やすと、外来数も増えたし、入院数も増えた。多分厚労省の在宅重視の政策にも適合しただろうと思う。本当の患者のニーズに適合していたかどうかは別だが…
往診増加は戦略的に取り組んだ。週1回の往診には外来部門の全職員が参加した。月4回の往診はそれぞれ東部(築港・朝里)、市街中心部、北部(手宮・赤岩・高島・忍路)、西部(長橋・オタモイ・塩谷)に分けて行った。5週目は遊んでいたのかな? どっちにしても5時からは夜間診療が始まるので、楽をしていたわけではない。
1.東部コース
この往診の密かな楽しみが、喫茶店での道草であった。3時間で10軒回るのだがその間に10分ほどのティータイムが入る。2年間の間に月1回づつ行くから、結局それぞれのコースで24回行ったことになる。
その立ち回り先は4エリアごとに決まっていた。決まってはいたが、しばしば新たに開拓された。
東部周回コースは、入れ替わりが激しかった。最初に行ったのは国道から奥沢に行く道路で、光満ゴムの工場の一寸先の三叉路にあった喫茶店であった。そこは2、3回行ってすぐに潰れた。その後は、潮陵高校の坂を登っていって朝里に抜ける途中の崖にあった喫茶店で、ここは港の夜景を眺めるアベック向けの喫茶店で値段も普通の倍はした。ここは可愛い看護婦さんが着いて来たときだけ行った。
朝里に往診に行ったときは思い切り山越えで奥沢に出た。途中に(といっても無理やり途中なのだが)終わるワインの工場があって、無料で試飲ができるのだ。けっこうこの無料は高くて、係の人に顔を覚えられて高級なものを出してくる。当たり前だ。ナースは白衣で行くのだから。だから、結局いい値段のものを買わざるを得ない。
この工場は峠の途中で、冬場はゾッとしない。ところが良くしたもので、奥沢の十字街より札幌方向、川沿いに酒造りの工場がある。「男山」というが旭川の男山とは違う。その工場に、その頃お誂え向きに試飲コーナーができてしまった。結局ここでいっぱい引っ掛けてご帰還ということになる。
2.中部コース
中部コースは実は意外に往診先が少ない。まちなかに住む人はあまり勤医協や共産党とは縁がないのと、わざわざ勤医協でなくてもけっこう医療機関はあるからだ。
したがって往診先は山側に偏ることになる。したがって喫茶店も山際の眺めの良い喫茶店が増える。
小樽商大に向かういわゆる地獄坂、その途中の喫茶店、小樽駅ウラの市役所から西に入った喫茶店、は何軒か行った。
一番見晴らしの良い喫茶店は、駅前からきた国道が長橋方面に左折するところを曲がらずまっすぐ山を登ったところにある。下るのはエンジンブレーキだが、フットブレーキを使わないとタコメーターは5千回転まで上がる。私のおすすめの喫茶店だったが、私が小樽を去って間もなく閉じた。
この峠から、さらに山に登っていく道がある。50メートルほどで行き止まるのだが、その前に住んでいるおばあさんのところに往診しなくてはならない。ここは冬場は車は登れない。徒歩で行くしかないのだ。
3.北部コース
第3週の北方面は比較的喫茶店が多いところであった。一番クオリティが高いのは赤岩の坂を登っていく途中、かなり奥の方に菓子屋さんの直営の喫茶店がある。ここは自家焙煎をしていて、それは良いのだが、あの頃のはやりで真っ黒に焦がしていた。コーヒーの苦いのと豆が焦げて苦いのとは違うのだが、分かってない。分かってないのはいいのだが、その勘違いを客に押し付ける。とは言うものの店全体の雰囲気は標準以上だから一応受け入れる。パウンドケーキもうまい。ただし高いから毎度という訳にはいかない。
ここから高島の港まで一気に下がるとき、途中に思わず見とれてしまう高島診療所がある。20年前のあの頃でほとんど世界遺産状態だったが、今はどうなっているだろうか。
そして港につくとそこに2階建てのレストランがあって、1階が地ビールの工場だった。このビール、相当ひどかった。もう今ではやってないだろうと思うが、
ここの2階で日の傾いた高島港から色内の埠頭を見通すのもなかなかの雰囲気だった。北部にはもう一つの穴場がある。ほとんど幽霊ホテル化した祝津のホテルだ。ほぼ宿泊客ゼロのホテルの最上階が回転式のレストランになっていて、ギイコギイコと動いてはときにガタガタときしむ。コーヒーを飲みながら密かにいつご臨終になるのかと指折り数えていたことを思い出す。

4西部コース
これまで色々書いてきたが、西部はほとんど喫茶店の記憶がない。多分なかったのだろう。虎吉沢を下り喜ったあたりに1軒くらいあったのだろうか。私の覚えているのは5号線を下りきったところで塩谷の市街に入り、そこを抜けて海岸に出たところにビーチハウス状の喫茶店があったことである。夏の海水浴のシーズンこそ若者が来ることはあっても、ここで通年営業というのは流石に辛いだろうなと思ったっが、そのとおり翌年には姿を消していた。

本当につくづく思うのだが、もう北海道の田舎は住み続けること自体が難しい。まったく人がいなくなってしまったから、世間というものが存在しなくなった。
店終いしなければならないが、問題は何処まで消滅してくのか、何処までなら維持しうるのかが見当つかなくなっていることだ。
私は思うのだが、これなら道端のどこでも、なにか目印を立てて穴を掘って骨を埋めても見つからないなということだ。もっと露骨に言えば、見つかって一言二言文句を言われても、それで知らんぷりしてしまえばOKだということだ。

話がそれた。私は喫茶店世代の頂点にいて、その衰退を見つめてきた。いったい喫茶店文化とは何だったのだろう。何故か真剣に考えてしまう今日このごろである。

今シーズンを占う開幕戦、まさに不安が的中しつつある。
一番のリスク、それは栗山監督のセオリー外しがますます深刻化していることだ。フロントとうまく行っていないのだろうと思う。横尾の2番というのはあまりにひどい。キャッチャーも「ウソでしょう!」というキャストだ。
中田は1ヶ月だ。それでダメなら終わりだ。大田も結局鵜久森と同じで、それで終わりの人だ。2軍のホームラン王というのは、むかしからそれで終わりと相場が決まっている。
だいたいどういう野球をやろうとしているんだろう。守って、後半逆転して、1点差で逃げ切るヒルマン野球やるしかないんじゃないだろうか。弱い貧乏チームなんだから、勝つにはそれしかないでしょう。
 1番西川、2番松本、3番田中、4番近藤、5番レアード、6番岡、7番杉谷、8番鶴岡、9番中島
つまり近藤をファーストで、田中をDHで使うということ。あとは小谷野を拾ってくるくらいかな。我慢していればそのうち糸井や陽岱鋼クラスは育ってくる。あとはそこまで経営陣が頑張ってくれるかどうかだ。

多分、いつまでも続くわけはないし、病気が病気だから、終わればそれで終わりだと思うから、毎晩嫁さんと付き合ってビデオを見ている。
仕事はしない、活動もしない、頭は使わない、体も使わない、こんな生活は相当フラストが貯まるが、それに慣れてきた自分にもっとフラストがたまる。
難しいビデオはダメだから、テレビドラマのシリーズのビデオ化されたものを片っ端から見るということになる。
名前をあげようと思ったら殆ど憶えていないことに気がついた。そこでメモ代わりに見たものを書いておく。
まずは「結婚しない男」という連続ドラマだ。主演が阿部寛と夏川結衣の組み合わせのラブコメディだ。全15作くらいある。これが終わってから、嫁さんが阿部寛をリクエストするようになった。こんなの何処が良いのかと思うが、まぁ好き好きだから仕方ない。
落ちこぼれ高校生を東大に入学させる高校教師の連続ドラマというのを借りてきた。実にバカバカしくて見る気になれないが、嫁さんが見たがる以上付き合わざるを得ない。
次が阿部寛がCM作家をクビになって専業主婦をやるという設定のドラマ。いささか飽きた。
その次がヤクザが介護ヘルパーになるという荒唐無稽のドラマ。草彅たけしの主演で、ここにも夏川結衣が顔を出す。これも嫁さんが食いついて強引にご相伴させられた。
それが終わるのを待って、夏川結衣の「結婚前夜」というのを見た。これはNHKの5話完結のドラマで、マイフェアレディが下敷きになっている。脚本が素晴らしい。さすがNHKだ。
こういう映画は嫁さんと並んで見るのがいささかしんどい。お互いそこそこ心当たりはあるであろうから、横眼でちらっと見られる瞬間がけっこうズキッと来る。
夏川結衣という俳優は美人じゃない。少なくとも一目惚れするようなご面相ではないが、なにか変に魅力的だ。どちらかといえば嫌いではないが、人前で、とくに女性に「この女優さん良いね」というのが下心をさらけ出して言うようで、ひょっとはばかられてしまう女優だ。
「あら、こんな人がいいの?」と言われそうな感じ、「あれっ、俺の最初に付き合った彼女みたい」とふと過去を振り返ってしまいそうな感じ、とにかく何か気になってしまう女優さんである。
あと面白かったのが「ナニワ金融道」で、途中からはけっこうコメディーになってしまったが、1、2作目は相当迫力あった。コメディではあるが、いしだあゆみがゲストで出た番組はロードムービーの趣もあり、単作としても最高だった。
吉永小百合の「母と暮せば」は泣きの涙、嫁さんと代わる代わるにティッシュの箱に手を伸ばしていた。
私の母は4人兄弟。母以外はすべて男で、すべて医者になった。長兄が大学でセツルメントもどきにはまったらしい。当局に赤色分子として目をつけられたようだが、とにかく昭和5年ころに無事に医者になって、なった途端にコレラもどきで死んじまったようだ。
次兄は静岡で開業し金持ちになった、末弟は北大に行って学者になった。母はこの弟のようになってほしかったようだが、後年になってからは「長兄の血なんだね」と言って諦めた。父は「歯医者でも良いんじゃないの」と密かに思っていたが、そのような道は母の念頭にはなかった。

ネットでとりよせた鷹勇の特別本醸造。
何年ぶりかの鷹勇だったが、一瞬われを疑う。
これは酒じゃないよね、醸造用アルコールだね。だから「特別本醸造」なんだねと納得する。
たしかに鷹勇というのは最初の一口からグッとくる酒ではない。ぐい呑で一杯飲み終わった頃に、「えっ、これってなに」という酒ではある。
それにしても、この愛想の無さはなんだ。見事なまでのドキュメンタリーな乾燥感、口に広がるはずの“かぐわい”がない。上半分がヘラでこそぎ取られたような空虚感、舌に残るのは少々の糠のにおいだけだ。
困ったもんだね。これだけひどいと、ひとにくれてやるわけにもいかない。
だますわけにも行かないから、自決用の手榴弾を渡すように、「鷹勇の最期を確認してください」と言いながら渡すほかないだろう。




このところイライラが募っている。
夜中に咳が続いて、おそらくは左舌区の気管支拡張に、上顎洞感染が重なっているためのものと思われ、これまでもときに悪化・寛解を繰り返してきたが、どうも今回はしつこい。
とりあえず少しタバコを辞めてみて経過を見ようということにした。とはいっても、何度も繰り返された試みであり失敗に終わった試みであるから、半日くらいとタカをくくっていたが、なんと朝から寝るまで吸わずにしまったのである。
そうなると2日目は、禁煙を止めづらくなる。3日目はますますだ。さりとて吸いたい気持ちが軽減したわけではない。そもそも禁煙しようという決意などないのだから、辛いのだけがダラダラ続く。
生活のリズムが3拍子で形成されてきたから、これをどうするのかが戸惑いだ。“食う、飲む、吸う”あるいは“仕事する、飲む、吸う”の3拍子目がない生活というのはどう送るべきなのか、とりあえずは飲む、飲む、飲むでお茶とコーヒーとバターピーナツ
肝心の咳の方だが、たしかに朝の咳込みは多少軽くなったようだが、タバコをやめた努力のわりに見返りは少ない気もする。
明らかな有効性が確認できれば、それで目的は果たせたことになるのだから、その時点で喫煙は再開しようと考えている。ただ後鼻漏の方はいまだに続いており、このままでは週をまたぐことになりそうかな、と覚悟しつつある。
ということで、しばらく根を詰めた作業はしないようにします。
どうでもいいけど
3拍子の名曲をご紹介します。
NELLY OMAR - DESDE EL ALMA

5日(木)にふらりと宗谷まで行ってきました。
前に書いた天北線を見たかったのと、まだ宗谷岬を見たことがなかったので、それが目的と言えば目的ですが、まあどうでもよいことです。
家からすぐそばにインターがあるのでそこから高速で士別まではすぐに着きます。すぐといっても180キロ、“普通”に走って2時間はかかります。そこから天北線の出発点である音威子府についたのは途中休憩を挟んですでに12時を過ぎていました。
途中の美深にチョウザメの飼育場があるのですが、まったく宣伝もしておらず、看板すらありません。探すのに思わぬ時間がかかりました。しかしそれだけの価値はある立派な見物です。
入場料はなんと無料。隣接する道の駅にもそれらしき土産も何もありません。商売けがないというよりなにか隠しているようにさえ感じてしまいます。
私なら、チョウザメではなく「美深ザメ」とかネーミングして「ゆるキャラ」を作って全道キャラバンするね。チョウザメ・ステーキとかチョウザメ・バッグを販売して付加価値を大いにアップする。もちろんキャビアはそれ相当の値段をつけて、高級レストランに提供する。国際コンクールに出して箔をつける。まだそこまで成熟していないようだけど。
とにかく行こうと思う方は必ずネットで確認してください。その気にならなければ間違いなく見過ごします。美深なんてザラに行くところじゃありませんから、これは一生の不覚です。
もう一つの美深名物が羊かんです。これは左翼の人には泣ける話です。音威子府駅の職員がJR合理化と闘って東京に飛ばされた。北海道ではよくある話です。それが東京で配置された職場で羊かんづくりを学んで、美深に帰ってから羊かん作りを始めました。これが地元では評判になってかなりの売れ行きらしいのです。
とりあえず買ってきたがまだ食べてはいません。だいたいこの手の食い物は苦手なのです。見ただけで歯が疼いてくる。
音威子府駅はかなり観光化されていて、天北線に関するミニミュージアムも併設されています。なかなか充実しています。
音威子府で何か食おうと思いましたが、駅の立ち食いそばは1時で営業終了、目の前でシャッターを下ろしてしまう無情ぶり。道の駅に行ったら「本日休業」というありえない掲示。町内に食堂はなくなんとコンビニさえもありません。今回の旅行でわかったのですが、道北ではコンビニというのは決して「ありふれた光景」ではありません。「いなか」というのはInconvenient Countryの略だと心得たほうが良さそうです。
結局、空腹のまま音威子府を出発し天北線へと入りました。国道は天北線の線路跡と並行しながら走るのですが、それらしき遺物はなかなか見つかりません。一番良かったのは「北音威子府」の駅でした。
R0012325
89年の廃線から20年、今にも木立の向こうから列車がやってきそうな景色です。空き缶も、菓子の袋もまったくありません。この駅名板は国道からも木立を透かして見えますが、誰も気づかないようです。(一昨年、地元の有志が再建したのだそうです。がっくり)
峠を越えた小頓別は鉄道の走っていた様子はもはやなく、旅館「丹波屋」も崩壊は時間の問題のようです。上頓別はすでに集落そのものが消滅していました。
飯が食えるかと期待してやってきたピンネシリの道の駅もお休み、こうなれば中頓別まで走るしかありません。やっと中頓別のドライブインに到着。もうすでに3時ですからざるそばで手早く済ませて、と思ったらなんと20分も待たされました。ズルっとかきこんで浜頓別へ。
浜頓別の街はまだ活気があります。表通りこそシャッター街ですが、民家はこざっぱりとして廃屋はありません。ここもホタテ景気なのでしょうか。話に聞いた大通り、北1条、南1条をしっかり確認すればあとは用は無し。
陽が少し傾いてきました。暗くなる前には宗谷岬に着きたいと車を飛ばしました。なが~い直線道路、あたりには人家はなく「鹿の飛び出し注意」の看板ばかりが目につきます。そろそろお出ましの時間です。釧路で鹿には慣れています。道路に群れる鹿の群れの中を突っ切ったこともあります。
ようやく宗谷岬についたのが4時半を少し回ったあたり、もう日は沈んで夕焼けの空が広がっています。車窓の右前方にいくつかの島が見えてきました。それはだんだんとつながって山並みを形成します。宗谷岬は実は最北端というよりはサハリンに一番近いところなのです。明治の初め、樺太アイヌが島を追われて最初に定着したのがこの辺りです。気持ちわかりますね。
写真にとったのですが、小さすぎてわかりません。仕方がないのでほかの方の写真を拝借します。
樺太遠景
津軽海峡北部のハチクマさんのサイトより転載
最短直線距離で43キロだそうです。札幌・小樽間くらいです。借りておいていうのも何ですが、夕方のほうがもっとスッキリ見えます。風の強い日は水蒸気が飛ばされてよく見えます。
宗谷岬についた途端、吹き飛ばされそうなほどの強風、気温も急降下してとても長居できる雰囲気ではありません。
宗谷海峡
間宮林蔵と三角塔のあいだに見えてはいるのですが…
宗谷岬と稚内のあいだがけっこうありまして、ホテル到着が6時過ぎ。朝からずっと運転で頭の中がゴーッとなっています。しばらく休んでから街に繰り出しました。
稚内なんだから魚を、それもちょっとおごって寿司でも…と探して、そのうちにあまりの寒さでエイっと飛び込んだ寿司屋。
稚内では一流らしく、けっこう繁盛していました。カウンターの隅に座って熱燗を頼んで、空腹が手伝ってけっこうメートルが上がりました。味はいわゆるむかし風の寿司屋の味です。シャリの粒立ちがピンとせず5,6粒多い。甘みが強く酸味が足りない。ネタに下ごしらえをしない。鮪の赤身も赤貝も“まんま”で出てきます。アワビは噛み切れず残ってしまう。値段だけは老舗らしく一流です。
嗅覚はあるつもりなので、もう少し暖かければそれなりの店を見つけたと思うのですが、残念。
帰りにコンビニでコップ酒と酔ざましの牛乳を、と探したのですが、例によってコンビニがない。札幌なら石を投げれば当たるほどのコンビニが、探せど探せどない。
30分歩いてやっと駅のそばに見つけて買いました。宿につく頃には冷え切って、酔いだけが残っているという悪いパターンです。風呂で温まるといっそう酔いが回ってそのままバタンです。
ところで泊まったホテルかこれ。
ホテルサハリン
エンブレムの小さい字はロシア語でガスティニツァ・サハリンと書いてあるようです。ガストとはドイツ語でゲストのことですから。ゲストハウスという意味でしょうか。ホテルと言うにはちょっと気が引けるという感じかもしれません。
とにかく名前が気に入りました。「稚内に行ってホテル・サハリンに泊まってきた」というだけでシャレてますよね。
JTBやるるぶでは出てこない店だと思いますが、私はジャラン派なので見つけることができました。ロビーがかすかに魚臭いが、決して悪くはないホテルです。セザリア・エボラ風のおばさん(もう少し美人)がフロントを仕切っています。朝食が7時から8時までというのがすごいでしょう。
場所は最高です。あのルネッサンス桟橋の付け根から10メートル。時化れば舞った飛沫が飛んでくる場所です。朝日は宗谷岬の方から港越しに上がってきます。このときだけ宗谷岬がくっきりですが、太陽が上に上がると霞んでしまいます。
一人旅なら絶対のおすすめです。このマッチだけでもちょっとした自慢です。5,6個おねだりしてせしめてきました。
帰りに困ったことがいくつか
私の車は6年前のWishです。ナビがその時のものなので、最近の高速が載っていません。道北ではかなり部分開通していてバイパス代わりに無料利用できます。ところがそれがナビに組み込まていないのです。乗っているあいだは快調なのですが、降りてからのアクセスがわからず何度も迷子になりました。今度の定期点検のときにバージョンアップしてもらわくては…
国道275号線というのは地味な道路で、わりと遠慮しながら走っています。ときとして間道のほうが立派で間違えてしまいます。ひどいときは2,3キロ行ってから「あれ変だぞ」と引き返したりしました。そういうときに限ってナビが方向感覚を失ってしまうのです。
ときどき道路地図を見て、全体のイメージを持ってから運転するほうが無難です。
とにかく全行程750キロ、東京-青森よりもっと長い。71歳のジジイがよくも走ったものだと感心しています。ガソリンは満タンで余裕の完走でした。

Youtubeで耳掃除の動画を1時間見続けた。
eariss という耳掃除専門業者の宣伝映画らしい。
さすがに気分はあまり良くはない。ニオイがないのが救いだ。
今夜は夢を見そうだ。
とくにリンクは貼らないでおく。

以前から気になっていた室蘭に行ってきた。
室蘭には出張で何回も行っているのだが、その気で市内を見て回ったことはなかった。
多分、この地図を見てくれれば、誰しも、とっても気になる街だと思う。

室蘭
絵に描いたような良港だ。函館や小樽など比べ物にならない。港であればこうありたいという自然の条件をすべて備えている。広さはお釣りが来るほどで、防波堤など不要だ。後背地も広大だ。
しかし船の時代は終わってしまったから、どうしようもないのだ。
いまは乗換駅だった東室蘭が街の中心になっている。しかし室蘭駅はいまだに室蘭にある。市役所や市立病院やNHK放送局も室蘭にある。
室蘭本線は半島の西側をのたうつように走り室蘭の市街に至る。山裾に線路が敷かれているのだから仕方ないのだが、その海岸沿いは広く埋め立てられて新日鉄や日本製鋼の工場敷地になっているのだから、なんとなく割り切れないところがある。敷地の中を突っ切れば距離は半分で済むだろう。

かつて室蘭は北海道で5番目に大きい街だった。
都市人口推移
北海道が一番威勢が良かった昭和30年、札幌の人口は45万、これに次いで函館が23万、小樽が18万、旭川が14万、室蘭と釧路が11万、夕張が10万、帯広と苫小牧は5万足らずだった。
上の図では2000年までしかないが、2017年の今、状況はさらに惨憺たるものとなっている。

室蘭の地名はアイヌ色が濃厚だ。地図を見ても大黒島と白鳥大橋以外はすべてアイヌ語由来だ。駅名も輪西、御前水、母恋というふうに風情がある。
私は前から山の尾根を走る道路が気になっていた。どうしても一度走ってみたいと思っていた。あるひ、目が覚めて、天気が素晴らしいのに後押しされて、フッと出かけた。
札幌から110キロ、高速を使うと2時間でつく。ただし眠気はかなり強烈だ。100キロで走っていても車が止まっているように感じられる。
インターを降りて、地図でイタンキと書いてあるあたりから山道に入る。予想以上の難コースだ。しかし新日鉄の馬鹿でかい敷地を除けば景色は素晴らしい。日本製鋼を過ぎたあたりから尾根に出る。今度は太平洋が一望される。
地球岬からは噴火湾越しに恵山が目の前だ。これだけ美しい街なのに北海道の観光案内にも載らない理由は、ここがかつて公害の街だったからだ。
新日鉄の煙突から撒き散らされる鉄粉は、室蘭の町を赤茶色に染めた。企業城下町だったからそれを誰もなんとも言わなかった。もう50年も前、学生時代に泊まり込みで公害調査に来たことがある。細かい雪のように鉄粉が街なかを舞っていた。
それがいま高炉の火が消えて初めて美しさを取り戻した。
室蘭は観光の町としてもう一度再起すべきだと思う。
日本人は知らないが、中国人はそのことをよく知っている。地球岬は中国人だらけだ。



昨日は天気が良いので、ちょっと遠出してみた。

ある町のある喫茶店に入った。シャッター通りの商店街の一角、「英国屋」という。かなり傷んでいるが、かつてはブイブイいわせたであろう店だ。なにせ二階席まである。

おばさんが一人でやっているが、よく見るともはやおばさんではない。薄暗い店内で厚化粧だが、10分もして目が慣れてくると、私といいとこドッコイだ。

カウンター席の片隅に座るが、目の前に灰皿。喫茶店というのはこうでなくちゃいけない。

かれこれ小一時間も座っていたろうか、その間に来るはくるは、おばあちゃんの団体だ。

あとで指折り数えてみると、17,8人は来ている。ちょっとおめかしして、むかしの気分だ。

ここは完全におばあちゃんの社交場だ。

だんだん騒々しくなって、鶏小屋のようになってきたので退散した。

人通りの絶えた商店街、どこからこれらの人々は湧いてくるのであろうか。バスに乗ってやってくるのであろうか、人恋しくて。

しかしこののような残り火もあと数年であろう。

アーケード通りを歩いてみた。かどかどには拓銀や道銀の支店だった建物がそびえている.そして3~4階建ての立派な商家が軒を連ねている。もちろんほとんどが空き家だ。

函館の十字街はもうまったくの住宅街だ。小樽の駅前通りは崩れ落ちた商家が残骸を晒している。

江戸時代の宿場は街並み保存されているが、こういう建物は保存してもらえないのだろうか。
それより、地方の町並み、文化をここまで零落させた中央政治の冷酷さに胸が痛む。

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