鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

AALA関連記事は「aala_newsの編集日記」http://blog.livedoor.jp/aala_news/ に移りました(6Nov.2023) 中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 「ラテンアメリカの政治」(http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ )がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

カテゴリ: 12 国際政治/経済 アジア(東南アジア、南アジア)

年表づくりという形でバングラデシュの状況を整理してみて、あらためて佐藤宏さんの見解に深く頷くものがある。

とにかく、たった40年前に数百万の人々が殺されたのである。この事実をまずもって私達は深く認識しなければならないだろう。

関係者がまだ生きているから、100万人を殺した血まみれのおぞましい虐殺者たちにも生きていく権利は認めざるを得ないのだから、とりあえず、そのことには蓋をして、バングラデシュは経済的自立への道を歩んでいるのである。

しかし往々にして虐殺者への憎しみは火を噴く。なぜなら、虐殺者たちはいまだ虐殺を反省せず、平然と公職につき、イスラムの名において自らの行動を合理化し続けているのである。

だから、彼らは攻撃されればされるほど原理主義的にならざるをえない。「俺のどこが悪い。イスラムの原理に従って行動しただけだ。やれるものならやってみろ、こちらも容赦しないからな」と開き直ることだ。

だから、バングラデシュの原理主義はイスラム原理主義一般よりさらにカルト的で、後ろ暗いものがある。はっきり言えば、身を隠すために「原理主義者」を装った薄汚いイスラム同胞虐殺者の末裔の集団だ。

しかし彼らをここまでのさばらせた最大の原因は、前与党のBNPにあるのだろう。

現与党のアワミ連盟とBNPの支持率は拮抗している。バングラデシュは小選挙区制だから、1,2%の得票率の差で圧倒的勝利か惨敗かということになる。

そこで、一定の底堅い支持率を持つJI の票は魅力的だ。そこでBNPは悪魔と取引し、JIを認めてしまった。これで死に体だったJIは一気に息を吹き返し、そのコマンド組織であるJMBも力を得たのだ。

もともと、BNPも独立戦争を戦った集団であり、JI に対する反感は強いはずなのだが、それ以上に目の前の票には魅力があったのだ。

こういうのを「野合」というのだろう。

バングラのかんたんな経過

バングラデシュ 年表

バングラデシュにおける「野合」 その結果としてのテロ

バングラのかんたんな経過

バングラデシュ 年表

バングラデシュにおける「野合」 その結果としてのテロ

一つのベンガルの時代

 8世紀 中葉にパーラ朝がなり、仏教王朝が繁栄した。

12世紀 ヒンドゥー教のセーナ朝にとってかわられた。

16世紀 イスラムが多数派となる。ムガル帝国の下で商工業の中心地へと発展する。

1651 イギリスの東インド会社、コルコタに商館を設け、ベンガル、ビハール内陸部との交易に乗り出す。

1757  プラッシーの戦い。東インド会社がベンガルのナワブ軍に大勝。ベンガルに対する植民地支配が開始される。

1765 イギリスがディワニーと呼ばれる徴税行政権を獲得。その後イギリスはベンガルからインド全域に支配を拡大した。ベンガルはその中心となり「黄金のベンガル」と称された。しかし織物をはじめとする伝統産業は英国の商品により壊滅。

ベンガル人の誇る文豪タゴールの詩「ショナール・バングラ」(黄金のベンガル)が下敷きとなっている。「おぁ黄金のベンガルよ。我は汝(なんじ)を愛す…」という詩は、バングラ・デシュの国歌となっている。

1905年 イギリスはインド人の分断を意図し、ベンガル分割令を発布。ヒンドゥー教徒中心の西ベンガルとイスラム教徒中心の東ベンガルとに分割する。(梅干しを二つに分けるとき、カルカッタという種が入っている方が西ベンガルで、入っていないほうが東ベンガル)

1929年 ムスリム上層農民を基盤とする「全ベンガル・プロジャ党」が結成される。ベンガル人意識が後退し、ムスリムとしての意識が高揚。

1943年 ベンガルで大飢饉。150万~300万人の死者を出す。

1946年8月 コルカタ(旧カルカッタ)暴動。ムスリムとヒンドゥーの衝突で4千人の死者を出す。

東パキスタンの時代

1947年8月 英領インドがインドとパキスタンに分かれ独立。東ベンガルはパキスタンへの参加を決定。パキスタンは「回教徒の清らかな国」を自称した。宗教はインド亜大陸の最高の掟となった。

1949 年 東西パキスタンはベンガル語とウルドゥー語という言語の違い、西パキスタンの政治的優位などから矛盾が拡大。アワミ連盟の前身である「東パキスタン・モスリム・アワミ連盟」が設立される。

1952年2月21日 パキスタン中央政府、ウルドゥ語を公用語に強制。これに抗議するダッカの学生デモに警官が発砲、軍隊が出動し多数の死傷者を出す。後に「犠牲者の日」と呼ばれ、最初の独立への運動とされる。

1955 年 アワミ連盟、政教分離の観点から党名中の「モスリム」を削除する。

1966年 アワミ連盟が6項目綱領を提案。国防・外交・通貨以外を州管轄事項とするよう求める。中央政府はムジブルを「インドと結託した反国家分子」として逮捕。

1970年12月 パキスタンで初めての総選挙。人口に勝る東パキスタンに基盤を有するアワミ連盟が第一党となる(アワミ連盟は東パキスタンで162議席中160議席を獲得)。中央政府は国会を開催せず、アワミ連盟を無視しさまざまな妨害工作。

バングラデシュ独立の闘い

1971年
3月1日 パキスタン中央政府、憲法制定会議の無期延期を発表。
3月2日 ムジブル・ラフマンがパキスタン政府への非協力を宣言。パキスタン中央政府は軍を空輸しアワミ連盟幹部を拘束。ムジブル・ラーマン総裁は西パキスタンに連行される。国家反逆罪に問われ、死刑を求刑される。

3月25日11PM パキスタン軍がダッカ市内の攻撃を開始。大学の構内などで大量殺戮がはじまる。新聞社や警察署なども攻撃され破壊され、数多くのスラムも焼き払われた。

3 月26 日 東パキスタンは独立を宣言。パキスタン軍を離れた東ベンガル部隊、国境警備隊が中心となり、ムクチ・バヒニ軍(バングラ・デシュ解放軍)が形成され、パキスタン軍に対抗する。

東の部隊は東ベンガル連隊6千人のみであった。そのため、当初、解放軍の実質は国境警備隊の1万5千人、武装警察隊の4万5千人が担った。ムクチ・バヒニは終盤では志願兵を含め10万人以上に達した。

4.09 イスラム協会やムスリム連盟などが「平和委員会」を結成。実際は独立解放派の肉体的抹殺を目的とする。イスラム協会は実力部隊として「ラザカル」を創設。その学生は「アル・バタル」を組織。ムスリム連盟は「アル・シャムス」を組織する。

パキスタン軍は各地で大量虐殺を行った。死亡者は9ヶ月で300万人に達する。
ジェノサイドにはバングラデシュに住む少数民族ビハリが手先になった。ビハリは東パキスタン独立時にインドのビハール州から移民したイスラム教徒。非ベンガル系で、何故か西パキスタンと同じウルドゥー語を話す。
パキスタン軍はビハリを武装し、「ラザカル」(民警)という名で呼ばれる現地傭兵とした。ベンガル人を殺したのはこのラザカルだった。ラザカルはベンガル人の捕虜を一人もつくらなかったといわれる。全部殺した、という意味だ。

12月3日 インド政府が東パキスタンの内戦に介入(第三次印パ戦争)。

12月16日 西パキスタンの派遣軍がインド軍に降伏し撤退。東パキスタンは「バングラデシュ」として独立を果たす。

西パキスタン軍は多くの置き土産を残した。狂信的な極右回教徒組織「アル ・バド」は、ダッカ陥落の直前に知識人、学者、ジャーナリストを惨殺した。
また、大量の武器をラザカルの手に残した。解放直後、クチ・バヒニは各地で ビハール人、「ラザカール」、ベンガルトの敵対協力者に「目には目を」式の報復を行なった。ラザカルの残党とビハリは、文字通り必死の戦闘を繰り返したという。 

ムジブルとアワミ連盟の時代

1972年1月 ムジブル、パキスタンから戻り首相に就任。「3年待って欲しい。3年たったら我々はこの国をショナール・バングラ(黄金のベンガル)にするだろう」と呼びかける。

3万7,471人がコラボレータ(パキスタン協力者)として逮捕される。起訴されたのは2千人程度で、実際に有罪となったのは752人だった。

1972年8月 独立戦争におけるゲリラ闘争の指導者として国内闘争を主導したタヘル大佐、「人民の軍隊」を主張し、ナジブル首相に解任される。この後タヘルは地下に潜入,武装活動を続ける。

12月 憲法が公布される。「社会主義」、「民族主義」、「政教分離主義」、「民主主義」を国家の基本原則とする。

1974年

9月 バングラデシュを大洪水が襲う。被災地では3万人が餓死。これまでの経済の疲弊、オイルショックによる不況に拍車がかかる。買占め,売おしみが横行,ダッカ市内の米価は2.6倍となる。

12月 ムジブル・ラーマン、汚職・密輸の蔓延、治安の悪化に対処するため非常事態宣言を公布。

二つのクーデター

1975 年

1 月 ムジブル・ラーマン首相、憲法を改正。議院内閣制から大統領が実権を有する大統領制に変更。大統領の権限を大幅強化、自ら大統領に就任。綱紀粛正の訴えとは逆に身内の重用、大統領親衛隊(ロッキ・バヒニ)の強化などに批判が強まる。

ロッキ・バヒニ(国家安全保障部隊)はアワミ連盟内の急進派約6,000人を殺害、ほぼ同数を逮捕、拷問したとされる。

1月 東ベンガル・プロ レタリア党(ナクサライト)の委員長シラジ・シクダルが逮捕される。タヘル大佐の人民革命軍と共同行動をとっていた。

8月 7人の少佐(いずれもムクチ・ビハニ出身)による反乱計画が実施される。ファルーク・ラーマン少佐(戦車連隊大隊長)は自分が首謀者だったと主張している。CIAが裏で策動したとも言われる。

15日未明 約300人の兵士と戦車・装甲車などが大統領親衛隊(ロッキ・バヒニ)司令部を攻撃。同時に別部隊がムジブル一族の邸宅を襲い、皆殺しにする。

午前5時30分 反乱軍のダリム少佐(前ダッカ守備隊長)がバングラデシュ放送を通じ演説。「ムジブル大統領は殺害され,新大統領に就任したアーメド前商相の指揮の下に,軍が権力を握った」と発表,同時に全土に戒厳令を発布。

午前10時30分 アーメド前商相が放送を行ない,大統領就任を告げる。前政権の腐敗を強調。

8月20日 アーメド大統領声明。腐敗政治家・官僚を一掃。単一政党BAKSALの解散、大統領親衛隊ロッキ・バヒ二の解散、価格統制の廃止、銃・弾薬の回収を行う。

9月9日 アーメード政権,「国防軍に関する政府の見解」を発表,その中で,「過去3年半の国防軍に対する無視・軽視を考え,政府は独立戦争を戦った人々を相応しい,名誉ある地位につけること」を明らかにする。

9月 青年将校らは大統領官邸内に陣取り,中央コントロールセンターを通して軍の支配を図る。ジアウルら陸軍首脳部は青年将校に原隊復帰を命じるが無視される。

11月3日 アワミ派のムシャラフ准将による対抗クーデター勃発。ムシャラフ・クーデターの背後には、既得権益の確保を狙うインドが存在していたとされる。

11月3日午前2時 カリド・ムシャラフ将軍に率いられたダッカ駐屯第46歩兵旅団3大隊が大統領官邸を包囲,放送局を占拠した。青年将校の身柄引渡し,ジアウル陸軍総参謀長の解任,権力の引渡しを要求する。

午後10時 政府と反乱部隊が合意。政府側は青年将校とその家族29人の国外退去,ジアウル陸軍総参謀長の解任とムシャラフ准将の少将昇格・陸軍総参謀長就任,アーメド大統領の辞任を受け入れる。

ジアウル将軍は兵営内に監禁される。青年将校らは行きがけの駄賃に前副大統領、前首相、前蔵相、前工業相を殺害。

11月4日 前政権幹部4人を失ったことから、ムシャラフ派の権力構築が難航。急拠計画を変更,軍革命評議会を結成して,軍政を敷くこととなる。カリルル・ラーマン軍統合総参謀長はムシャラフの就任要請を拒否。

カリルル・ラーマンはパキスタンから帰国した正規軍グループを代表する人物。軍内パキスタン派は一連の事態に対して一貫して中立を保った。

11月5日 人民革命軍がダッカに出現。兵営内で大量の反軍ビラをまくなど宣伝行動。

上級将校が「自己の利己的・野心的権力欲」のためにクーデターを繰りかえし,下級兵士を利用収奪しているとして,兵士 たちに対してムシャラフ派将校の指令に従わず,「人民の軍隊」のために彼等の上級将校と闘争するよう呼びかけた。

11月5日 人民革命軍に呼応した下級兵士たちは「12項目要求」を掲げ, 各地の軍隊内部で将校との闘争を開始する。

12項目要求: 給与の引上げを含む経済的諸要求,政治犯の釈放,汚職,腐敗分子の財産没収,将官と兵士の差別撤廃,将校当番制度の廃止など。さらに軍を支配階級のためのものから人民に奉仕する軍とする。そのために真の革命的兵士により中央革命軍事会議を設置、軍最高司令官もこれに従えというものであった。

11月7日 民族社会党(JSD)に属する左翼軍人グループが決起。「セポイの革命」と呼ばれる。

独立達成後、「ムクチ・バヒニ」の左翼は民族社会党(JSD)に結集し、その軍事組織であるPRA・RSOとして活動した。これらは「人民革命軍」と呼ばれ、アブ・タヘル大佐(退役)に指導されていた。
セポイの乱については、いずれ稿を改めて紹介する。

1時30分 「人民革命軍」が監禁されていたジアウルを救出。1時間余の交戦の末,ムシャラフ少将ら34人を殺害する。

4時30分 放送局を占拠した兵士は、「セポイの革命によりムシャラフ派が追放され,ジアウル・ラーマンが陸軍総参謀長に復帰,戒厳令総司令官に就任した」と放送。

5時 ジアウルが放送演説。「陸海空軍,BDR,警察その他多くの人々の要請により,わたしが暫定的に戒厳令総司令官についた」と発表する。

夜 アーメド前大統領がテレビ演説。「バングラデシュの独立と主権を守るための兵士たちの比類なき革命に心から感謝する」と述べる。

人民革命軍はジアウルを通して「軍の革命的改組」をはかろうとした。ジアウル革命軍事会議の設置に反対し、サエム大統領を戒厳令総司令官とし,三軍総参謀長・文民による諮問委員会の設置を提案。両者の押し合いが続く。

兵営内では将官と下級兵士のきびしい対立。ダッカだけで40人以上の将官が殺される。

7日夜 ムシャラフ派に擁立されたサエム大統領は,自ら戒厳令総司令官に就任すると共に,三軍総参謀長を戒厳令副司令官に任命した。

8日 サエム大統領、国会の解散 と閣僚の解任,総選挙の1977年2月までの実施を発表。

11月9日 JSDと人民革命軍がダッカで集会を開こうとするが、ジアウルは実力で阻止。このあと軍内統制を強化する。

11月11日夜 ジアウルが全国放送で演説。①現政権はいかなる政党にも関与しない中立暫定政権である,②軍は国民の間に不安と不満をつくり出す動きと対決する,③軍の最大課題は軍人の利益と福祉を守り,国軍を近代的で有能な軍隊にすることである,とのべる。

15日 戒厳令規則が改定。軍・BDR・警察の名を騙り,反国家的活動を教唆・煽動したものは厳罰に処すと発表。

11月25日 タヘルとJSD指導者たちは反国家的活動を行なったとの理由で再逮捕される。

11月26日 サエム大統領、民間から4人の諮問委員を任命,三軍参謀長と共に諮問委員会を創設。事実上の軍政に移行。

11月25日 軍統制派は、アブ・タヘル大佐らセポイの革命指導者を半国家活動の容疑で逮捕。タヘルが死刑、その他も重刑に処せられる。

12月28日 軍統合総参謀長のポストを廃止。カリルル・ラーマン統合参謀長の事実上の解任となる。

ジアウルの時代

1976年

1月 ジアウル、陸軍の再編・強化に着手。4個師団を9個師団編成とする。兵力はパキスタン帰還兵約1万人を含め,約3万5000人に達する。

4月30日 空軍総参謀長のタワブ少将が解任され、国外に追放される。タワブは回教徒指導者を使って各地で大規模な「祈りの集会」を開かせる一方、8月クーデターの首謀者ファルーク大佐を国内に導き入れた。

タワブはバングラデシュ回教共和国への改名、パキスタンとの連邦制を主張。ファルークはジアウルへの反乱を呼びかけた

11月 サエム大統領、総選挙の無期延期を発表。戒厳令総司令官の任務をジアウルに移譲する。これにより軍政が継続されることとなる。

11月29日 ジアウルが戒厳令司令官に就任し、実権を掌握。

12月 ジアウル・ラーマンが全国放送で演説。民族主義,自力更生,国民参加の3つの基本原理を掲げる。民主主義・社会主義については触れず。

1977 年4 月 サエムに代わり、ジアウル・ラーマンが大統領に就任。憲法を改正し「政教分離主義」が削除される。さらに憲法冒頭に「恵み深く慈悲に溢れた神の名にお いて」とのコーランの文言が追加される。さらに独立戦争中に大量虐殺を繰り返したJI の政治活動再開が認められる。

1978年4月 ジアウル大統領、民政移行に備えバングラデシュ民族主義党(BNP)を設立。資本主義化政策をとる。

1979年 議会選。BNPが、議席の3分の2を獲得する。戒厳令が解除される。

1981 年5 月 ジアウル、軍人グループにより暗殺される。夫人のカレダ・ジアがBNP党首に就任。

エルシャドの時代

1982 年3 月 エルシャド陸軍参謀長が無血クーデター。戒厳令司令官となる。

1983年12月 エルシャド、大統領に就任。エルシャドは2年後に議会制に戻すと誓約したが守られなかった。

1986 年1月 エルシャド大統領、権力の受け皿として国民党(JP)を設立。(現在は3派に分裂し弱体化)

1987年  パキスタン協力者たちの軍政下での復権を描いた『71年の殺人者と手先たちの消息』が刊行され、1 年間で1 万部売れる。

1988 年5月 憲法改正によりイスラム教は国家宗教とされた。

1990年12月 エルシャド政権、民主化運動の高揚の中で退陣を迫られる。軍事政権の時代が終わる。

バングラデシュ民族主義党 (BNP)の時代

1991年2月 総選挙。ジアウル派のバングラデシュ民族主義党 (BNP) が民間実業家、退役軍人などの支持を集めアワミ連盟 (AL) を破る。ジアウル未亡人のカレダ・ジアが初の女性首相に就任。

7月 憲法改正。大統領による独裁を防ぐため、再び議院内閣制に復帰する。

95年2月 総選挙の実施(野党はボイコット)。カレダ・ジア政権の再発足。

3月 憲法改正により、暫定選挙管理内閣制度を導入。BNP政権は直ちに退陣。

6月 やり直し総選挙でアワミ連盟が勝利。ムジブル・ラーマンの長女シェイフ・ハシナが首相に就任。

2001年10月 第3回総選挙。バングラデシュ民族主義党(BNP)はイスラム協会(JI)、国民党(ナジウル・フィロズ派)、イスラム統一連合(IOJ)と4党連立を組み政権を握る。

2003年,JMBのアジトで爆発事件が発生し,大量の爆発物などが発見される。

2004 年4月 チッタゴンの国営肥料工場にて、AK47 ライフル銃690 丁、手榴弾25,020 個、銃弾180万発をなどトラック10 台分の武器が押収される。

8 月 アワミ連盟事務所前での集会に手榴弾。20名が死亡。この他アワミ連盟への襲撃が相次ぐ。

2005年8月 JMBが非合法化される。JMBはダッカを含む63県で爆弾テロを実行。

2006年 軍が政治介入。BNP・JI 政権を退陣させ、選挙管理内閣に移行。

2007年3月,JMBの指導者及びナンバー2を含む最高幹部6人が,2005年の爆弾テロで死刑を執行される。


アワミ連盟の時代

2008年12月 総選挙でアワミ連盟などからなる「大連合」が300議席中262議席を獲得し圧勝。ハシナがふたたび首相に選出される。BNPを中心とする4党連合は、汚職への批判などから大惨敗を喫し32議席に激減。

2010年5月 再建されたJMB指導部がふたたび摘発される。

2013年 ハシナ政権、JI の独立時の戦争犯罪への追及を開始。

1月21日、パキスタン兵による残虐行為に加担した罪で、JIのアブル・カラム・アザド、デルワール・ホサイン・サイディ、アブドルカデル・モラーに死刑判決。

2月 判決を支持する人々がダッカ中心部の広場で座り込み。まもなく中心人物が暗殺される。

4月6日 JIが組織した20万人のデモ。「政府も無神論者の仲間だ」と主張し、厳格なイスラム法に基づく憲法改正などを要求。JIと連立するBNPはJI支持の態度を表明。

7月 高裁、JI の選挙管理委員会への登録を違法とする。この間、イスラム主義者らと警察との衝突などにより約500人が死亡し、数千人が逮捕される。

12月 モラーが処刑される。

モッラは民兵を率い、学者や医師、作家やジャーナリストを殺害した。レイプや350人以上の非武装の民間人の集団虐殺も指揮した。その残虐行為の大半が行われた地名から「ミルプールの虐殺者」と呼ばれていた。

2016年

5月 JI幹部モティウル・ラーマン・ニザミが処刑される。

6月 ハシナ政権によるJI の取り締まり作戦。武装グループや野党関係者らを合わせ計1万1千人を一斉に逮捕。背景にイスラム過激派による相次ぐテロ事件(宗教的マイノリティ、無神論者、世俗主義者、与党幹部などへの襲撃)





引かなければよかった。とんでもないものを引いてしまった。

グーグルで “佐藤宏+バングラデシュ”で検索したら、こんなものが引っかかってしまった。

アジ研(今はJetroの部局)の研究双書のNo.393「バングラデシュ:低開発の政治構造」の編者が佐藤さんなのだ。しかも全編読めてしまう。

昔は市ヶ谷のアジ研の図書館に行って、ノートに書き写すしかなかったのだが、今はタバコを吸いながらグラスを片手に読めてしまうのだ。時代の進歩を恨めしく思う。

全部で400ページもあるから、そう簡単に読めるものではない。鍵がかかっていてコピペができない。老い先短い私としては当面あきらめるほかない。

その代わりに、コピペ可能な資料を使って年表づくりに入ることにする。まずその前にウィキで地理のお勉強。

バングラデシュはベンガル語で「ベンガル人の国」を意味する。インド西ベンガル州とともにベンガル語圏に属す。

人口1億5,250万人で世界第7位。、都市国家を除くと世界で最も人口密度が高い国である。

1971年にパキスタンから独立。かつて「黄金のベンガル」と称された豊かな地域であったが、インフラの未整備や行政の非能率から、現在はアジアの最貧国に属する。


7月8日 「かんたんな経過」のつもりが思いのほか長くなりました。とくに独立戦争から独立直後の数年間については知らないことばかりです。

バングラデシュ年表として別記事にしますので、そちらに移動してください。



ということで、とりあえずの印象としては

1.旧支配層の度を超えた暴力性

2.民衆の主権者意識の希薄性

3.宗教を超えられない民族意識の未成熟。

4.裏返せば、民族意識を閉じ込めるほどに強烈なイデオロギー的アイデンティティー。

があり、それらがいずれもこの国の成り立ちの特殊性に起因している、ということだ。

一言で言えば、自立した国家イメージと一貫した国家戦略が描けない「従属国家」で、インドとパキスタンとの絶縁後の展望が見いだせない「漂流国家」であったことが、支配層の姿勢を頑ななものとしているのだろうと感じる。

とは言うものの、パキスタンとしての建国後すでに70年、バングラデシュとしての独立後50年を経過しており、すでに「普通の国」への脱皮を終えつつあると見てよい。

それだけに追いつめられた旧支配層(BNP-JI-JMB)が、イデオロギー性と凶暴性をさらに増すことはありうるのかもしれない。

バングラのかんたんな経過

バングラデシュ 年表

バングラデシュにおける「野合」 その結果としてのテロ

バングラデシュのテロはその後の情報で、ISとかアルカイダというより、国内の従前型テロ組織の犯行であることが明らかになってきた。

この点について、本日の赤旗に『南アジア研究者』という怪しげな肩書の佐藤宏さんが解説してる。

肩書は怪しいが、内容は的確で、たしかに専門家である。72歳という年齢がベテランぶりを物語っている。佐藤さんの指摘は今回のテロが『国内産』だということに尽きる。

以下、概要を示しておく。

1.犯行はJMBによるもの

JMBの正式名称は「バングラデシュ聖戦戦士団」である。

JMBは「イスラム協会」の学生組織のメンバーが90年代末に創設したテロ組織である。08年にも同時爆破テロを行っている。

2.背景にはバングラデシュ独立以来の角逐がある

バングラデシュは西パキスタンとの独立戦争を闘った後、71年に独立を実現した。(独立というべきか、分離というべきか、定義には面倒なものがある)

独立戦争の期間、独立(分離)反対派のうち、「イスラム協会」(JI)は武装闘争に走り、同胞の虐殺も厭わなかった

3.軍部はJIを泳がせた

独立を達成した「アワミ連盟」はムジブル・ラーマン政権を樹立したが、4年後に軍事クーデターにより打倒される。

軍部は政権居座りを図り、「アワミ連盟」を弾圧した。一方で「バングラデシュ民族主義党」(BNP)を立ち上げ、JIを登用した。

4.なぜテロに訴えるのか

09年以来、アワミ連盟が政権に復帰した。宗教分離(セクラリズム)とインドとの善隣外交を進めている。

旧軍部(BNP)はインドとの緊張緩和に反対し、JIを利用して政権の転覆を企んでいる。その尖兵としてイスラム協会(JI)が用いられている。

テロはバングラの悪しき伝統となっている。

独立戦争中、JIのテロ組織は独立派、知識人、ヒンズー教徒の多くを虐殺した。今もなお各地に多くの遺体が埋められたままである。

最近、活動を強めたJMBもその伝統に従い、ヒンズー教徒、キリスト教徒、民主活動家へのテロを繰り返している。

今回のテロもその一環としてとらえるべきである。

バングラのかんたんな経過

バングラデシュ 年表

バングラデシュにおける「野合」 その結果としてのテロ

今日、シンポジウムに参加した北海道の4人で感想会をやったのだが、議論している最中に、「どうもインドネシアのアルムタキさんの発言(とくに前半部分)は、インドネシアにおける“ASEAN神話”なのではないかという話になった。

一見きわめて理路整然としていて、もっともらしい「反省」も付け加えられていて、真実味を増しているが、どうも時系列的に見るとそのようには進んでこなかったのではないかと思えてくる。

具体的に言えば、ASEANがインドシナ諸国を迎え入れて、大きくその存在感を発揮し始めた時期と、インドネシアが東チモールを武力制圧していた時期は完全に一致するのである。

アルムタキさんの発言には、マレーシアとの歴史的紛争は出てくるが、そこにはスカルノの名前も、スハルトの名前も出てこない。なぜかオブラートに包まれているのである。

当然のことながら、9.30のクーデターも、共産党員100万人の大虐殺も出てこない。だからASEANをバンドン宣言と結びつけるのは難しいのである。

アルムタキさんはお見受けしたところ若い研究者である。おそらく9.30の時は生まれていないだろう。知っていて隠し立てしているのではなく、知らないのではないかと思う。

だからアルムタキさんのASEAN認識には、スカルノ時代のリアルな把握はふくまれていない、その代わりにスハルト時代に編み出された「神話」が刷り込まれているのではないかと想像する。

バンドン宣言も、スカルノも、その神話の中のフィギュアとして織り込まれているにすぎないのではないか。

そして100万のインドネシア共産党とアイジット議長の名は封印され、歴史の闇の中に閉じ込められているのではないだろうか。

ベトナムのグエン・バン・フィンさんは、控えめな態度に徹しつつも、そこのところの継承性を強調することで、間接的ながらアルムタキさんのASEAN神話を否定している。

つまり「スハルトというのは極悪非道の男だが、インドネシア解放闘争を闘ったものの一人として、曲がりなりにもバンドン精神だけは持ち続けた」という評価になるのではないだろうか。


残念ながら、「9.30事件」についてはまとめて語るべきほどのものを持ち合わせていない。

とりあえず、ウィキペディアを参照のこと。

2.インドネシアとASEANの教訓

もっとも注目の講演。

ASEANというよりも、インドネシアがスカルノ時代・スハルト時代・ポスト・スハルト時代という正反対みたいな動きの中で、どこが変わらずに引き継がれているのかということが、私の興味でした。

演者はイブラヒム・アルムタキという人で、肩書はハビビ・センターのASEAN研究プログラムという部門の責任者だそうです。ハビビというのはスハルトの後に大統領を務めた人だから、政府系のシンクタンクなのだろうと思います。

インドネシアの文献といえば、はるか昔にインドネシア共産党のアイジット議長の演説を読んで以来です。アイジットの論調とはかなり立場を異にしていることに留意しておく必要があります。

① アジア太平洋地域には信頼が欠如している。

ASEANが共同体に向けた最終段階に入っている一方で、東アジアとアジア太平洋地域は緊張と不安感の出現を目の当たりにしている。

のっけから挑発的な現状規定です。思わず身を乗り出すところです。

② 二つの事態が緊張を呼んでいる

ひとつは尖閣問題だ。中国は東シナ海のほぼ全域に防空識別圏を設定し、戦闘機によるパトロールを開始した。日本と米国は、この措置に公然と挑んだ。

これは、単純な判断ミスだけで大規模な衝突の口火が切られかねない、深刻な懸念を呼んでいる。

もう一つは、日本の新しい国家安全保障戦略(2013年)である。国防予算は10年ぶりに増加し、無人機、ステルス機、潜水艦、水陸両用車両の購入、上陸作戦部隊の創設を織り込んだ。

これに安部首相の好戦的・復古的姿勢が相乗し、深刻な懸念を呼んでいる。

この二つに加えて、北朝鮮の核問題、南シナ海での紛争も緊張を呼んでいる。

これらの事例は、私たちがアジア太平洋地域に平和の共同体を構築する上で、巨大な挑戦課題が待ち受けていることを示している。

実に良い表現ですね。

と、ここまでが前置き

③ かつてインドネシアは東南アジアの緊張の要因であった

まさかここから入って来るとは驚きでした。

東南アジアもかつて「信頼の欠如」に悩まされた。インドネシアはその主犯であった。

マレーシアとシンガポールに対して好戦的な軍事体制をとった。それに加え、軍事力を用いて西パプアと東チモールを併合した。インドネシアは拡張主義的傾向を持ち、地域のトラウマの主因であると見られていた。

しかし、こうした武力侵攻は国益追究の有効な手段にはならず、実際には国に害を及ぼした。

ここでアルムタキさんはインドネシアの歴史の教科書の一節を引用しています。

インドネシア(マレーシアではない)は、この事件で高い代償を払った。インドネシア経済は国際ボイコットの結果として瓦解し、侵略者と見られたインドネシアの国際的イメージは崩壊した。インドネシアはきわめて効果的に孤立させられ、後に国連を脱退した。

うーむ、ここまで厳しい反省をするのか。私のイメージとしてはマレーシアとインドネシアの覇権主義の衝突くらいに思っていましたが。

この厳正な事実は、次の結論に至らしめた。すなわち、ジャカルタと東南アジアの国々のお互いの国益を増進するには、平和的な共同体を構築することがより効果的な道であると。つまり、この地域の諸政府が外交上の懸念に気を取られないようにすれば、国内の平和と安定、発展の確保に集中できるということである。

④ スハルト政権における路線転換

この辺りの論理の筋道は若干眉唾なところもあります。その本音はその次の段落に述べられています。

東南アジアはソ連と中国による脅威だけではなく、国内の共産主義運動の脅威にも直面していた。総じて、冷戦体制の地政学的背景に牛耳られていた。

それを鑑みれば、互いの衝突をできるだけ控え、「国内の治安確保に集中する」ことが得策だという冷徹な判断でもあった。

それがSEATOとは一線を画す「スハルト」流のASEAN路線であったのでしょう。

本音はともかく、ASEAN路線は、国連を脱退するなど隘路に突き当たってしまったインドネシアが、国際関係へ復帰するための路線として受け止められているようです。

⑤ “First among Equals” 路線

これを訳者は「同輩中の首席」と訳しています。なかなかうまい訳ですが、その含みも押さえるとすれば、やはり英語をそのまま持ってきたほうがいいでしょう。

インドネシアは域内大国です。しかし現下の国際情勢のもとでそれを振りかざしても何の益もありません。全部足してもとるに足らないほどの力にしかなりません。まして兄貴風を吹かせて他の国との矛盾が拡大すれば、ますます強大国の思うままになってしまいます。

ここではグッと我慢して、Equals の一員として自らを位置づけなければなりません。ここが大東亜共栄圏の思想と全く違うところです。しかし誰かがイニシアチブをとらなければそもそも話が始まらないのですから、発起人とか世話役とか幹事とか音頭取りとか、いろんな言い方がありますが、相対的大国であるインドネシアが何らかの役割を発揮しなければなりません。

ではどんな役割なのか、それが“First among Equals”という形で示されているのです。ニュアンスとしては「兄貴分」というところでしょうか。

アルムタキさんは「兄貴分」というのがいかに辛い役回りであるかをるる説明していますが、これはとりあえず省略させてもらいます。

⑥ 多国間主義(マルティラテラリズム)と積み上げ主義

インドネシアの対ASEAN関係の基本形態は、ひとつは多国間主義であり、もうひとつは「規範に基づくアプローチ」である。これはASEAN全体にも受け入れられている。

これは、2つともこなれていない英語であり、専門家は平気で使うが素人にはさっぱりわからない言葉です。私の理解した範囲で説明すると、多国間主義はサシの会議をなるべく避け、平場の議論で合意を獲得していく志向です。だから「平場主義」というのがいいと思います。中国ではラウンドテーブル方式という言葉が良く使われ、6カ国協議がその典型です。

歩みはのろいのですが、少数意見がよく反映されます。合意された中身は確実です。何よりもいいのは、積み上げを通じてそこに一種の思想が形成されることです。だから合意はマキャベリズム的合意ではなく、関係諸国の相互信頼と前向きの姿勢を基盤とする、一種の思想的合意となっていきます。

しかし「会議は踊る」状態になっても困るので、毎度毎度しっかり議定書を作成し積み上げていく必要があります。これが「規範にもどづくアプローチ」であり、「尺取り虫型」の積み上げ方式といえるでしょう。この方式の良い所は各分野への応用が効くことです。外交関係は政治ばかりではなく、経済、金融など多岐にわたり本質的に重層的ですから、議定書積み上げ方式は長い目で見てもっとも有効だといえるでしょう。

⑦ ASEANは平和の枠組みではなく、地域の主権擁護の枠組み

平和はそれ自体が目標でもあるが、地域主権擁護のための手段でもあります。地域主権擁護の試みとしてはSEATOがありましたが、これは軍事同盟による地域の防衛という発想と結びついていました。それに対してASEANは、平和的手段によって地域の主権を守ろうというところに特徴があります。

1976年に締結された東南アジア友好協力条約(TAC)は、「外部の干渉を受けず、地域が自ら管理する地域秩序」を打ち出し、その組織原則とした。


この後も発言は続きますが、若干政府の宣伝みたいな文言が並ぶため省略します。

赤旗にシンポジウムの要約が載った。

要約の要約を紹介しておく

緒方さん(共産党副委員長)の発言

東西、あるいは南北という国際関係が変わり、東アジアが経済の中心になろうとしている。

東アジア共同体を展望することまますます重要な政治的・理論的課題となっている。

“ASEAN+3”の枠組み形成から、東アジア首脳会議の「バリ宣言」(11年)の原則確認と流れは形成されつつある。

日本共産党の「北東アジア平和協力構想」: 日米・米韓の軍事同盟を廃棄することを条件としない。「バリ宣言」の内容は、軍事同盟の存在下でも確認・実行が可能だ。

アルムタキさん(インドネシア)の発言

かつて東南アジアは「信頼の欠如」に悩まされた。インドネシアは好戦的な姿勢を取り、地域の不安定の主要な原因となっていた。

しかし(スカルノ→スハルトの政権交代に伴い)、東南アジア諸国の国益増進のためには平和的共同のほうがより効果的であるとの認識に達した。

外交的な懸念に気を取られないで済めば、平和と安定と繁栄のために時間とエネルギーを注ぐことができる。

諸国間の関係を軍事同盟から平和の同盟に変えていく。そのために必要なのは「多国間主義」と「規範に基づくアプローチ」である。

これは平和の共同体への非平和的脅威に対し、対話や外交という平和的手段で対処することを意味する。

共同体的解決というのは、すべての当事者を排除しないということである。

南基正さん(韓国)の発言

1998年から2005年にかけて、東アジア共同体構想の議論は非常に盛り上がった。しかしその後失速してしまった。

東アジア共同体のためには、日本と南北朝鮮との3つの二国間関係が重要であり、日韓関係がその核心となっている。

日韓のあいだに歴史問題が浮上しているが、根本は朝鮮半島における冷戦システムの解体にある。

これを解決するためには、1965年の日韓条約では不十分である。

この条約は韓国が非民主的な体制であった時に、米国の要請に基づいて締結された。

現在、韓国は民主化されており、国民の要求は受け止められなければならないし、米国の強制ではなく自発的な関係が再構築されなければならない。

劉成さん(中国)の発言

中国人と日本人の違いは本質的なものではなく、置かれた歴史的状況に規定されている。相違はたんなる“時間差”だ。

国際問題解決のためには、①ラウンドテーブル方式で、②行政優位で進めていくことが重要だ。

かつて奴隷制がタブーとなり、植民地制がタブーとなったように、戦争をタブー視する日がいつかは来る。

どの国にもそれぞれの夢があるが、平和こそすべての人類の共通の夢なのだ。

大西広さんの発言

東アジアでは、ASEANにおけるインドネシアの役を中国が果たすことになるだろう。それを日本が受け入れられるかどうかが問題だ。

「どう対抗するか」という発想から抜け出せないままでは活路はない。

グエン・バン・フィンさん(ベトナム)の発言

バンドン会議の精神は平和、独立、連帯だ。この精神は非同盟運動に受け継がれてきた。その具体的成果がASEANだ。


さすがに赤旗のまとめは簡潔で要を得ている。私のように細部に拘泥することはない。

ASEANの歴史的位置づけを巡っては、インドネシアとベトナムのあいだに食い違いがある。

インドネシアの総括は非常に具体的で説得力のあるものであるが、やはりベトナムの視点が最初に来るべきだろう。

スカルノはバンドン宣言を発したにもかかわらず、それと矛盾するような行動をとった。それがあらためて原点に立ち返ったところからASEANがスタートしたと見るのが正しいように思う。ただおそらく9.30事件を経験していないアルムタキさんの中では、そのような歴史的認識は断絶している可能性がある。

劉さんの「時間差」論は面白い。私は韓国にも中国にも行っているので、感覚的によく分かる。

韓国は日本に20年位遅れて後を走っている。中国はおそらくそこからさらに20年位遅れているだろう。

富裕層の生活スタイルとか、街の風景とかはいまやほとんど違わなくなった。市民の生活レベルでも、その差は縮まっているかもしれない。

しかし、文化もふくめた「民度」の差はいまだに歴然としている。そういうところも見ながら判断していく必要があると思う。

レセプションの時にお会いした時にも言ったのだが、大西さんは、実にクリアカットな論理で迫るのだが、時に、ちょっとクリアに過ぎるのではないだろうか。そこが良いところでもあるのだが。

アジアインフラ投資銀行についても、とりあえず政治的アドバルーンのようにも思え、私は日経新聞ほどには評価できないでいる。

いまはちょっと“幼児帰り”しているが、やはり日本が政治・経済・文化のどの面をとってももっとも成熟した環境にあり、東アジアの共同を考える上では日本の積極的役割が不可欠だろうと思う。

その辺のダイナミクスは、韓国の南さんがみごとに解き明かしている。国際感覚を身につけるのに、韓国ほど格好のフィールドはあるまい。

赤旗に「ベトナム戦争の世界史的意義…終結40年に考える」という古田元夫さんの文章が載った。

短いが、中身は相当難しい。

ここではベトナム戦争とASEANの関係について述べられている。

1.不戦共同体としてのASEAN

ASEANは域内諸国を包摂し、域外(とくに東北アジア)にも大きな役割を果たしている。

それは、「不戦共同体」というあり方においてもっともその有効性を発揮している。

「不戦」は冷戦構造の克服によって実現した。それは冷戦構造を未だ脱却できずにいる北東アジアと対照的である。

2.なぜASEANは冷戦構造を脱却できたか

東南アジアにおける冷戦構造の集中的表現は、南北ベトナムの分断と抗争であった。

この問題がベトナムの統一という事態を受けて消失した。これが核心である。

そしてもう一つがベトナムのASEAN路線への転換であり、ASEAN諸国のベトナム受け入れという選択であった。

これによりASEANの「不戦共同体」という枠組みが出来上がった。だから「不戦」がASEANの中核的概念をなすのである。

3.利害で出来上がった共同体ではない

従って、ASEANは「利害で出来上がった共同体ではない」ということができる。

巷間では、ASEANは純粋な経済共同体であり、「社会主義体制」の中で行き詰まったベトナムが、ASEAN諸国の外資導入を余儀なくされたとされるが、そうではない。

1990年近くまで対立関係にあった両者が95年に合同を果たしたのは、ベトナム戦争という惨禍を経て、共に平和の希求という点で一致したからである。

それは双方の冷戦構造の克服努力の上に達成されたものであり、ベトナム戦争と今日のASEANの発展は、同一の流れに位置するのである。


短い文章のなかで、古田氏の所説が十分に説得力を持っているかと言われると、確信は持てない。例えばポルポト時代の対立、親中反越路線の克服など検証すべき課題はいくつかある。しかし最後の一節だけは、実感として論証無用で同時代人に訴える力を持っている。

「巷間では、ASEANは純粋な経済共同体であり…」と言われると、自分に向けられた批判に思えて、思わずギクッとする。


ASEANの成立事情について詳しく書かれた論文を見つけたので、これに基づいて年表を増補します。

アジア冷戦とASEANの対応 ZOPFANをてがかりに」 黒柳米司
反共・親米のタイ、フィリピンと、反共・非同盟のインドネシアの間を取り持ちながら、マレーシアがまとめ役になって進んできたというのが経過のようです。
当初、フィリピン、タイはASEANに対して冷ややかでしたが、ベトナムのカンボジア侵入、中越戦争を挟んでASEANの重みを評価するようになったようです。
その後、フィリピンのマルコス政権打倒、インドシナ三国のASEAN加盟などを通じて影響力を広げてきました。
ASEANは経済共同体としての顔と、安全保障共同体としての顔を持っています。どちらもシステムとしては未成熟なものですが、ネゴシエーションの蓄積とノウハウについては学ぶべきものがあるでしょう。それがASEANを実態以上に大きく見せている秘密なのでしょう。

松岡完「地域介入の論理 ケネディ政権と東南アジア」(97年)という論文がある。

「誰がどういった」という事実が書き連ねられている論文で、やや散漫なのだが、いくつかの発言を引用しておく。

1.はじめに

米国は共産中国封じ込めの必要から、東南アジアを一つの地域としてつくりあげる必要を痛感するにいたった。それが1954年、東南アジア条約機構(SEATO)が設立されたときである。

そこには同時に、地域の諸国が経済面の集団化によって繁栄を達成すること、人種的・文化的な共通点を軸に緊密な関係を樹立することも期待された。

こうした多面的な地域統合の発展は遠い将来、東南アジアに日本・韓国・台湾・インドなども加え、「米国の影響力と力に結びついた一つの地域」を生みだすはずであった。

2.東南アジア中立化構想

ケネディ政権の幹部の一人ガルブレイズ(当時インド駐在大使)らは、「急速に悪化する東南アジアでの力の均衡を食い止めるためには、ラオス・ベトナムにとどまらず、東南アジア全域で中立の帯を実現するしかないと主張した。

ケネディ自身は、中立の東南アジアという壮大な構想が「我々の探求すべき究極の目標」であることは認めながらも、「未だその時期ではない」と結論していたという。

3.地域一体化を目指す戦略

この時期の米政府の現場幹部は以下の認識で一致していた。この地域は歴史も文化も置かれた立場もまったく異なる諸国の集まりにすぎない。ベトナム人、タイ人、カンボジア人の間にはまったく共通の感情がない。

東南アジアの人々をひとつにまとめ上げ、自分たちが運命共同体だという感覚をもたせるのは至難のことであった。

3.SEATOと英仏 

SEATOの軍事行動についてオーストラリア・ニュージーランドの態度はせいぜい懐疑的、イギリスは「いかなる軍事介入への参加にもまったく消極的」であった。フランスは「きっぱりと介入を拒否」していた。

アジアの加盟国は英仏両国への不信感を強め、英仏の除外もしくは全会一致制の破棄をもとめた。

SEATO戦略はジョンソン大統領の時代に最終的に放棄された。


というような流れで、個人の発言を拾っていくと歴史はどうにでも塗り替えられていくので、例えばJ.F.ダレスを善意の塊であるかのように描き出すこともできるのである。

SEATOは反共軍事同盟そのものであり、その本質を糊塗しても仕方ないのではあるが、SEATOが認めざるを得なかったいくつかの事実は、ASEANを考える上で念頭に置いておいて良いのかもしれない。

すなわち

1.この地域は歴史も文化も置かれた立場もまったく異なる諸国の集まりである。

2.東南アジアを一つの地域としてつくりあげることは、東南アジアにとってだけでなく周辺諸国の平和のためにも決定的に重要である。

3.中立の東南アジアという壮大な構想が「我々の探求すべき究極の目標」である。

4.この統合は地域の諸国が経済面の集団化によって繁栄を達成すること、共通点を軸に多面的な信頼・協力関係を築くことで実現される。

       

時系列で見た

東アジア共同体とASEAN

雑誌「前衛」2004年9月号 特集「アジアの安定と平和への前進」などより作成しました.

2004年10月

増補 2014年10月

増補 2015年1月

 

54年5月にディエンビエンフーの歴史的戦闘、8月にはジュネーブ条約が締結された。

9月、インドシナ情勢に危機感を抱いた米国が、南アジア条約機構(SEATO)を結成。

加盟8カ国中、東南アジアからの参加国はフィリピン、タイのみ。他はオーストラリア、フランス、イギリス、ニュージーランド、パキスタン。

55年 インドネシアのバンドンで、アジア・アフリカ諸国首脳会議が開かれる。非同盟志向を反映した「平和十原則」を採択。

61年 マラヤ連邦のラーマン首相が提唱し,タイ、フィリピン、マラヤ連邦の親米3カ国をメンバーとして東南アジア連合(Association of Southeast Asia, ASA)が結成される.インドネシアのスカルノはこれに強い警戒感を抱く。

63年9月 マラヤと北ボルネオが統合しマレーシア連邦が成立。インドネシアとの関係が悪化する。

64年9月 トンキン湾事件。米国の東南アジア干渉が本格化する。

65年8月 経済的苦境の中、シンガポールがマレーシア連邦より離脱する。

65年9月 インドネシアでクーデター。スハルトが共産党員数十万を虐殺。強力な反共政策を実行。

66年 第1回南東アジア開発閣僚会議、アジア開発銀行の設立で合意。ほかにアジア太平洋協議会(ASPAC)などを通じて地域協力の動きが活発化.米国は親米・反共諸国による一連の地域主義イニシアチブを歓迎。

66年 ASAにインドネシア、シンガポールを加え、新たな機構設立の気運が高まる.

インドネシアは反共に転じたものの、武装闘争で独立を勝ち取った国として強いナショナリズムを保持していた。インドネシアとの窓口となったマレーシアは、インドネシアの主張を受け入れる形で(形だけ)、ASEAN結成にこぎつけたと言われる。


1967年

8.08 ASEANがバンコクで創設される.5カ国外相がバンコク宣言に署名。反共同盟としての色彩が濃厚だが地域の独自性と自決も掲げた.年1回の外相会議のみで、組織としての実体はなし.

バンコク宣言: “東南アジア諸国が地域としての独自性を確固なものとし、地域の問題を自らの手で解決 していくことが、地域の平和と安定に繋がる”
 ①域内における経済成長、社会・文化的発展の促進,②地域における政治・経済的安定の確保,③域内諸問題の自力解決,を柱に掲げる.

67年 ビルマ、セイロンなど非同盟諸国は加盟招待を辞退。社会主義諸国は「SEATOの補完物」と非難。

68年1月 南ベトナムでテト攻勢。ベトナム問題が重大化する。SEATOは機能せず、タイとフィリピンが個別に関与。

71年11月 クアラルンプールで第4回ASEAN特別外相会議を開催。インドネシアのイニシアチブのもとで、共通の外交路線たる「東南アジア平和・自由・中立地帯」(ZOPFAN)宣言に署名。主要目標は反共産主義ではなくなる。

ZOPFAN宣言第1項 東南アジアが域外大国からのいかなる形態や態様の干渉からも自由な平和・自由・中立地帯としての承認と尊重を確保するため当面必要なあらゆる努力を払う。このため,地域としての強靱性(RESILIENCE)を構築することを目指す。「平和と自由」はバンドン宣言を下敷きにしたもの。

73年 パリ条約調印。ベトナム戦争が終結する。

1974年

74年 ジャカルタにASEAN中央事務局が設置される.

74年 田中角栄首相がインドネシアを訪問。日本の経済進出に反対するデモが発生。

5月 マレーシアが中国との国交を樹立。「共産中国に対して東南アジアの中立化を保障するよう求めながら、他方で中国を承認しないとはいえない」とする。その後フィリピン、タイが相次いで中国承認。

1975年

75年4月 サイゴン陥落.これを機にドミノ理論と対米追随路線に対する深刻な反省が生まれる。

75年 「ZOPFAN宣言」の具体化を目指す事務折衝会議(CSO)が平和・自由・中立の定義に関する最終報告を作成。

平和: 域内諸国間に調和と秩序ある関係が普及している状態。国内状態には関わらない。
自由: 域内諸国の内政外交に他国から規制・支配・干渉を受けない状態。
中立: 国際法上の国家間紛争にいかなる形態でも加担しない(非党派性)

75年 CSO、域内外諸国の内外政の指針となるべき14項目の「行動基準」を作成。TACの原型となる。

1.独立・主権・領土的一体性、2.国家的アイデンティティの尊重、3.内政不干渉、4.紛争の平和的解決、5.外国の軍事基地の不在、6.核兵器の使用・貯蔵・実験・通過の禁止、7.対外貿易の自由、8.国家的強靱性強化のための援助受け取りの自由などを提示

1976年

2月 バリ島で第1回ASEAN首脳会談.政治、安全保障、経済協力のための6つの原則を盛り込んだ「ASEAN協和宣言」(DAC)を発表.

2月 「東南アジア友好協力条約」(TAC)が調印される.元々はインドシナ諸国への和解のジェスチャーとされる。現在は域外国の調印も得て,行動枠組みを規定した実質的な根拠法となっている.

東南アジア友好協力条約Treaty of Amity and Cooperation in Southeast Asia
国連憲章を土台に,
域内諸国間の平和的関係を維持する規範として定める.
①独立・主権・領土保全などの相互尊重,
②外部からの干渉なしに自国を運営する権利,
③相互の内部問題への不干渉,
④紛争の平和的手段による解決,
⑤武力行使と武力による威嚇の放棄,
⑥諸国間の効果的協力

1977年

6月 東南アジア条約機構(SEATO)が解散される。

8月 クアラルンプールで第2回首脳会議。引き続き、日本との首脳会議。

8月 ASEAN+日本首脳会議で福田首相が対ASEAN政策を説明.

福田ドクトリンの骨子: ASEAN が地域機構として確立していることを確認し連携する。
日本は①軍事大国とならず,東南アジアと世界の平和と繁栄に貢献.②心の触れあう信頼関係の構築.③ASEAN連帯強化に協力し,インドシナ諸国との相互理解を醸成する。

1979年

1月 ベトナム軍のカンボジア侵攻。ASEAN諸国はカンボジアの自決権を侵すものとして非難。

79年 ポルポトを支援する中国はベトナムに武力「懲罰」作戦を展開。

80年3月 インドネシアとマレーシア、タイの安全確保とベトナムの中ソとの関係整理を条件に、インドシナ地域におけるベトナムの主導権を容認。「クアンタン原則」と呼ばれる。

ベトナム軍侵入と中国のベトナム攻撃をめぐりASEANは二派にわかれた。シンガポール・タイはベトナムの軍事的脅威を重視し中国への傾斜を強めた。インドネシア・マレーシアは中国を真の長期的脅威とみなし、ベトナムを緩衝国家と位置づけた。

6月 カンボジア駐留ベトナム軍がタイ領内に越境攻撃。ASEAN外相会議でベトナムを名指しで非難。

81年 マハティール・ビン・モハマド,第4代マレーシア首相に就任.「ルック・イースト政策」を発表する.

84年 独立して間もないブルネイが加盟。6カ国となる。

85年 プラザ合意成立.急激な円高を背景に,日本の対ASEAN直接投資が拡大.各国は輸出指向の開放的経済政策を推進.

86年2月 フィリピンで「黄色い革命」。マルコス独裁政権が倒れ、アキノ政権が成立。スハルトは開放政策に舵を切る。

1987年

12月 10年ぶりとなる第3回ASEAN首脳会議がマニラで開催される.マニラ宣言を採択。

マニラ宣言(ASEAN行動計画): 1.東南アジア平和中立地帯構想(ZOPFAN)の早期達成と東南アジア非核兵器地帯(SEANWFZ)の早期創設。
2.東南アジア友好協力条約を修正し,域外諸国の加入も可能とする.
3.特恵貿易取り極め(PTA: Preferential Trading Arrangements)の推進。

12月 ASEAN首脳会議に引き続き、日本との首脳会談。竹下首相は、ASEANの民間経済部門の発展と、域内経済協力への支援を表明。

89年11月 オーストラリアのホーク首相がアジア太平洋経済協力閣僚会議(APEC)を提唱.べ-カー米国務長官が協賛する形で実質的な合意がなされた.第1回会合がオーストラリアで開催される.

90年末 マハティール首相が東アジア経済グループを提起.APEC に対抗する形で打ち出された。

東アジア経済協議体(EAEC): 翌年にマハティールはグループ構想をさらに展開。当面協議体(EAEC)として出発することでASEAN各国(とくにインドネシア)の了解を取り付ける.今日の東アジア共同体構想につながるものと位置づけられている.

91年 カンボジア和平協定が成立.

1992年

1月 シンガポールで第4回ASEAN首脳会議.AFTA(ASEAN自由貿易地域)の形成を目指す「シンガポール宣言」が採択される.

①CEPT 93年1月から15年以内に「共通効果特恵関税」制度を導入する,2010年までにはASEAN原加盟6カ国、18年までに他の4カ国の域内関税を完全撤廃
②AFTA 上記の積み上げの中からASEAN自由貿易地域の創設.
③TAC拡大 
東南アジア諸国の「東南アジア友好協力条約」への加盟を促進

6月 マハティール,東アジア経済協議体(EAEC)を改めて提唱.米国の妨害により、一旦挫折する。

米国はEAEC構想に対し,自らを排除する地域組織と敵視し、成立を妨害した.この結果,ASEAN外相会議は,「ASEAN経済閣僚会議がEAECに支援と方向を与える」と決議するに留まった.

7月 バンコクで第27回ASEAN外相会議,ベトナム、ラオス、カンボジア、ミャンマーの加盟に関する協議。ジャカルタにあるASEAN事務局を拡大・強化することで合意.

7月 ASEAN外相会議,「南シナ海におけるASEAN宣言」を発表.南沙諸島紛争の平和的解決の諸原則を提示.

7月 ASEAN外相会議に引き続き第1回ARF閣僚会合。アジア太平洋地域17か国とEUの外相を結集した歴史的会議となる。

9月 インドネシアで第10回非同盟諸国会議.南北の経済格差問題がクローズアップされる.

9月 第26回ASEAN経済閣僚会議。CEPTスキームに関する協議。引き下げ期間の短縮と対象品目の拡大で合意。

9月 マハティール,国連で演説。非同盟とASEANの立場を強調.

マハティール演説の骨子: 
1.ヨーロッパは保護主義的貿易ブロックを選択してきた。自分たちの高い生活レベルと生産コストを守 り通すために、東アジア諸国との競争を拒絶し、EAECを阻止しようとている。
2.欧米は今後も、民主主義、人権、労働条件、環境破壊、知的所有権などあらゆる問題であら捜しをして、それを口実に私たちへの差別政策を正当化しようとするだろう。それはアジア人に対する人種差別である.
3.米国が反対しても,東アジアはEEC,NAFTAとならぶ三つの主要地域グループのひとつになるだろう

92年 ベトナム,ラオスが東南アジア友好協力条約へ加盟.ミャンマー、カンボディアは95年に加盟.

1993年

1月 AFTAがスタート.域内貿易の関税を5%以下に下げることを目標とする.

1月 クリントンが大統領に就任.EAECの結成を妨げる立場から,APECの強化に乗り出す.

7月 クリントン大統領が早稲田大学で講演.「新太平洋共同体」構想を発表。

新太平洋共同体: ソ連崩壊後のアジアでの覇権確立を目指す構想。経済から軍事協力まで視野に入れ、APECの中核的重要性を強調する.

11月 シアトルでAPEC非公式首脳会議が開かれる.アジア・太平洋諸国の首脳を網羅。マハティールは,「身内の結婚式に参加するため」会議を欠席.

1994年

7月 東南アジア諸国連合地域フォーラム(ARF)の第1回閣僚会議が開かれる.「アジア太平洋地域の政治,安全保障協力強化の主要なフォーラム, 平和と安定構築の主軸」となることを目指す.

対話パートナー国: 米・日・韓国・露・中国・印・豪・カナダ・ニュージーランド・EUの10カ国ヴィエトナム、ラオス及びパプア・ニューギニアの5カ国も正式メンバーとし て加わる.その後さらにカンボディア、ミャンマー、モンゴル、北朝鮮が加わる.

11月 インドネシアのボゴールで,APEC首脳会議が開催される.「APEC加盟の18国・地域は2020年まで に域内貿易の自由化目標を達成する」とするボゴール宣言を発表.

ボゴール宣言: ①自由化のみが強調され,域内協力が進展しなかったこと,②APEC構成国 の中で,南北アメリカとアジアとの間に格差がつけられたことから,ASEAN諸国の失望を呼ぶ.

1995年

7月 ブルネイで第28回ASEAN外相会議。ベトナムがASEAN加盟、カンボジア・ラオスがオブザーバー地位取得、ミャンマーがTACに加入。

8月 ASEAN外相会議に引き続き第2回ARF閣僚会合。①信頼醸成の促進、②予防外交の進展、③紛争へのアプローチの充実という3段階に沿って漸進的に進めることで合意。

12月 バンコクで第五回ASEAN首脳会議.東南アジア10ヶ国が初めて勢揃いする。

バンコク宣言: 
1.東南アジア非核兵器地帯条約(SEANWFZ)に署名.97年に発効.
2.AFTA域内関税制度の前倒し実施
3.一般的紛争処理メカニズム(DSM)の設置、

12月 日本が東アジア首脳会議への不参加を表明したもとで,中国と韓国のみで地域協力機構の設立に動く.

うわさ話: 某外交官は日豪財界人会議で.「EAECは日本が参加しなければ成り立たない.日本は参加しないから,それは自然死する」と述べたとされる.

 

1996年

7月 ASEAN拡大外相会議.中国,インド,ロシアを対話パートナーとして承認.中国はこれに対応して銭基深外相を会議に派遣.

11月 ジャカルタで第1回ASEAN非公式首脳会議. カンボディア、ラオス、ミャンマーのASEAN同時加盟を決定。 東チモール問題に関しインドネシアへの支持を表明。

11月 バンコクで第1回ASEM 首脳会議(アジア・欧州)を開催.欧亜間の経済、政治、文化面での対話と協力推進を目的とする.以後隔年ごとに開催.

96年 ASEANの主催でメコン開発閣僚会議.ASEAN首脳会議の議論を経て,日本を招請せずにおこなわれたことから,日本政府に衝撃を与える.

1997年

1月 橋本首相がASEAN諸国を歴訪.関係修復を図る.対話緊密化と多角的な文化協力を謳うが,東アジア共同体構想への言及なし.

7月 後発国の追い上げで輸出停滞に陥ったタイ政府は、バーツ切り下げで打開を図る。これをきっかけにバーツの投機売りが始まる。

7月 タイが金融危機に陥る.投機資金が急激に逃避したことから,短期的なバーツの流動性危機を引き起こす.

8月 インドネシアでルピアの暴落が始まる.

8月末 日本が中心となりアジア通貨基金(AMF)構想.米財務省はIMFの権限を侵食するものとして猛反発.

9月 香港でIMF・世銀の年次総会.マハティール首相は,「実需を伴わない為替取引は不必要、不道徳で非生産的だ」と強く非難.ジョージ・ソロスは、「為替取引きの制限は破滅的な結果につながる」と脅迫.

9月 香港でIMF年次総会に引き続き先進七か国蔵相・中央銀行総裁会議(G7).AMF構想は中国が保留に回ったため流産.

11月 APEC非公式首脳会議.「市場参加者の役割についてIMFが行っている研究の結論を期待する」とし,通貨取引の在り方全般をIMFに丸投げ.

12月15日 クアラルンプールで第二回非公式ASEAN首脳会談.「2020年 ASEANビジョン」を発表.「2020年までにASEAN共同体となることを目指す」とする.

12月 ASEAN首脳会談、「思いやりある社会の共同体」の考えを打ち出す.

思いやりある社会の共同体: 社会的弱者を放置すれば,格差が広がり,社会が分裂して社 会の強靭さが損なわれるとし,
①思いやりある社会の建設,②経済統合の社会的影響の克服,③環境の持続性の促進,④ASEANとしてのアイデンティティーの創出などを掲げる.

12月16日 日・中・韓国の首脳が招待され,ASEAN首脳会談に引き続き東アジア首脳会議.ASEAN+3の始まりとなる.通貨の安定策、痛みを伴う構造調整、日本(など先進国)の支援強化で認識の一致。

ASEAN+3成立の裏側: 当初日本には参加の意思はなかった。ASEANが日本抜きで開催する方向を明らかにしたことから,動向を見て急遽日本政府も参加を決断したと言われる

12月16日 ASEAN9カ国首脳と江沢民主席の会談.共同声明を採択.

中国・ASEAN共同声明: 
1.21世紀に向けた親善相互信頼パートナーシップの形成。
2.中国はASEANの平和・自由・中立地帯構想を支持し東南アジア非核兵器地帯条約の発効を歓迎.
3.ASEANは「一つの中国」 政策を順守.南沙諸島問題では「武力に訴えることなく,平和的手段で意見の相違や紛争を解決する」ことを誓約.

12月 マハティール首相,国民経済行動評議会を組織.ダイム特別相、ノルディン・ソピー戦略国際問題研究所長らに通貨危機への総合的対応策の検討を命じる.

97年 インドネシアでスハルト独裁体制に対する政治危機が深刻化.米国は金融危機に対して一切の支援を拒否し,IMF基準の押し付けに終始した.米国とAPECへの失望が広がる.

1998年

5月 スハルト大統領が辞任.ハビビ副大統領が大統領に就任.

6月 米フィナンシャル・タイムズ紙,「日本株式会社は死にかかっている」と報道。金融市場が麻痺して円が対外責任能力を喪失した状況にあると評価。いっぽう元の防衛に成功した中国は,「世界の金融政策形成に対する影響力を持つものとして登場した」と述べる.

7月 中国,ASEAN拡大外相会議に参加.「東南アジア友好協力条約」への加入に前向きな姿勢を表明.

7月 マハティール,IMF路線で財政再建を図るアンワル副首相を更迭.短期資本を規制し,独自の為替管理で危機に対応.日本はマレーシア支持の姿勢を明確にする.この年マレーシアの成長率はマイナス7%.

10月 宮沢蔵相,先進7カ国蔵相・中央銀行総裁会議(G7)で新宮澤構想を発表.

新宮沢構想: ヘッジファンドなどによる短期的な資本取引の規制。アジア諸国に300億ドルの資金供与、を柱とする。

11月 米国防総省,東アジア戦略報告を発表.日米同盟を「21世紀においても米アジア安保政策のかなめ」と位置付ける.またARFの役割を積極的に評価.

12月15日 ハノイで第6回ASEAN首脳会議.経済回復を目指す特別対策「大胆な措置に関する声明」を発表.

大胆な措置声明: 
1.CEPT実施率の努力目標 を1年間前倒しする.
2.そのために6ヵ年行動計画(ハノイ行動計画)を実施する。
3.マクロ経済と金融に関する協力の強化を主柱とし,経済統合の強化,ASEANの機構とメカニズムの改善をはかる。

12月16日 ASEAN首脳会議に引き続いて第二回ASEAN+3首脳会議.並行して日中韓三国首脳会議も開催。以後,ASEAN首脳会議とASEAN+3首脳会議はセット となる.

各国の提案合戦: 金大中の提唱で,協力のための検討機構として,東アジア・ビジョン・グループ(EAVG)を設置.中国の胡錦濤副主席は,金融危機打開のため東アジア蔵相会議の開催を提案.小渕首相は新宮沢構想を発表する一方.蔵相会議への米国の参加をもとめ,顰蹙を買ったといわれる(外務省のホームページには記載なし)

98年 この年のASEAN経済成長率はマイナス7%,インドネシアでは13%の落ち込み.対米不信はロシア危機の際に米財務省がヘッジファンドの救済に乗り出したことからさらに増幅される.

 

1999年

8月 マハティール首相、中国を訪問.EAECを基礎に地域の安全保障問題などを協議する「東アジア共同体」を実現するよう呼び掛ける.

10月 インドネシア大統領にワヒドが選出され。本格的民政に移行する。

11月 マニラでASEAN首脳会議。通貨金融面の協力のため、ASEAN 監視システム(ASP)の設置で合意。南シナ海問題で地域的行動規範が必要との認識で一致。

11月 マニラで第三回ASEAN+3首脳会議.初の共同声明となる「東アジアにおける協力に関する共同声明」を発表.

共同声明の骨子: 金融安定のための「東アジアにおける自助・支援メカニズムの強化」で合意。他に経済・エネルギー・農業分野での協力をうたう。ASEAN側は安保問題も議論するよう提起.日本は安保条約を理由に安保問題の討議を拒否

99年 マレーシア,独自の経済再建に成功.成長率をプラス6%に戻す.

2000年

5月 チェンマイでASEAN+3蔵相会議,日本の提起した「チェンマイ・イニシアティブ」で合意.

チェンマイ・イニシアチブ: 通貨危機の再発に備え,ASEAN各国と日本、中国、韓国との間の二国間で総額 365 億ドルにのぼる通貨(外貨準備)のスワップ協定が調印される.IMFと連動するが、それ以前にも独自判断で総額の20%まで発動可能。

7月 バンコクでASEAN+3 外相会議。「東アジア協力に関する共同声明」の実施状況のレビュー。「インドネシアの主権、領土的一体性及び国家的統一を支持するASEAN+3 共同声明」を採択。

7月 外相会議に引き続き、ARF 閣僚会合。北朝鮮が初参加.

11月 シンガポールでASEAN首脳会議.ASEAN 統合イニシアティブ開始について合意。

ASEAN統合イニシアティブ(Initiative for ASEAN Integretion : IAI)
 先発6カ国が後発4カ国の発展を支援することで,域内の経済格差を縮小し、地域全体としてのASEANの競争力を強化することを目的とする.

11月 ASEAN首脳会議に続きASEAN+3首脳会議.東アジア研究グループの設置で一致。

東アジア研究グループ (EASG):金大中の提唱した東アジア共同体構想に基づき、これを具体化するための会議。

00年 中国とASEAN諸国,南沙諸島問題解決のための「南シナ海での関係諸国の行動に関する宣言」で合意.自由貿易地域(FTA)に関し意見交換するため中国・ASEAN合同協力委員会を立ち上げることで合意.

00年 ASEAN経済が復調する.この年の成長率は5.9%に達する.

2001年

2月 ASEAN 統合イニシアティブ(IAI)について検討するためのIAIタスクフォースが設置される.

7月 ハノイでASEAN外相会議.「より緊密なASEAN統合のための,発展格差縮小に関するハノイ宣言」を発表.後発諸国の引き上げに本腰を入れる姿勢を明らかにする.

11月 カタールのドーハでWTO閣僚会議が開催.新多角的通商交渉を開始することで合意.

11月 ブルネイでASEAN首脳会議.ASEAN+3協力をさらに促進するためASEAN+3事務局の設置を提案。 「テロリズムに対抗するための共同行動に関する2001ASEAN宣言」を採択.メコン地域の開発を優先課題とすることで合意。

11月 ASEAN+3首脳会議.

小泉首相の挨拶: 「福田ドクトリン」以降ASEAN 重視政策は一貫している。日本は軍事大国にはならない。自衛隊は戦闘行為に参加しない。
金大中の演説: 東アジア・ヴィジョン・グループ(EAVG)報告書を提出.「東アジア・サミット」・「東アジア自由貿易地域」の検討を進めるよう訴える.
朱鎔基首相の演説: 10年以内にASEAN諸国との自由貿易協定(FTA)を締結する。近隣諸国に市場機会を提供し、中国脅威感の軽減を図る。

12月 中国,世界貿易機関(WTO)に加盟.

01年 東アジアの貧困人口比率は84 年から2001年の間に38.9%から14.9%に低下し、絶対的な貧困人口も5億6,220万人から2億7,130万人に減少.

2002年

1月 小泉首相、シンガポールとのFTA成立に合わせ「東アジア拡大コミュニティ」の構築を提起。ASEAN+3にオーストラリア、ニュージーランドを含める。

4月 マハティール首相、小泉構想(と背後の米国)を厳しく批判。

マハティール批判: ヨーロッパやアメリカには排他的組織が認められ、アジアに独自のグループが形成できないのはおかしい.東アジアの国々が、ASEANプラス3などという名称で実態を隠さなければならないのは、恥じるべき措置だ。

7月 ASEAN外相会議。中国との協力関係の強化を掲げ、日本を牽制。

10年以内に中国・ASEAN 自由貿易地域を設置する。中国との経済協力の枠組み合意を目指す。来る首脳会議での署名を期待する。
…日本との緊密な経済連携が更に進展することを期待する

11月 小泉首相の私的懇談会「対外関係タスクフォース」が,「21世紀日本外交の基本戦略」と題した報告書を首相に提出.「米国追従一辺倒の路線の修正」を強調.

基本戦略の骨子:  アメリカは「反対意見や異なる価値への寛容の精神と道義性が弱まっている」との懸念を示し、日米関係について「安全保障関係を中心に総合的に再検討すべき 時期に来ている」と指摘.「日本は米国と同じ目的を持ちつつも、自らの座標軸を持って米国とは補完的な外交を行っていくべきだ」と主張.

11月 プノンペンでASEAN首脳会議.ASEAN 統合のロードマップ及び最終目標としてのASEAN 経済共同体のアイデアを検討。大メコン地域開発の推進で一致。

11月 プノンペンでASEAN+3首脳会議.東アジア研究グループが報告書を提出.東アジア共同体具体化のため,26項目の課題を提案.

26項目課題: 17項目が短期目標.①企業評議会の設置,②外資導入環境の整備,③投資情報ネットワークの設立,④技術移転と技術開発での協力,⑤シンクタンクの連絡網の確率,⑥東アジアフォーラムの設置,⑦貧困解消計画の作成など.
9項目が中長期目標.①東アジア自由貿易地帯(EAFTA)の設置,②東アジア投資地域の設定,③地域融資機関の確立,④地域為替管理機構の設立,⑤ASEAN+3首脳会議の東アジア首脳会議への発展など.

11月 朱鎔基首相は、日中韓3国がFTA締結に向けて協議を開始するよう提起.金大中大統領は、「東アジア・フォーラム」の開催を提案。小泉首相の発言は日・ASEAN 包括的経済連携の強化にとどまる。

 

2003年

1月 日本経団連,「活力と魅力溢れる日本をめざして」を発表.「東アジアの連携を強化」を提言.日本がリーダーシップを発揮し、2020 年までにアジア自由経済圏を完成させることを目指す.

3月 アメリカ,国連決議を無視してイラクに侵攻.

3月 アセアンでの対応は割れる。タイ,フィリピン,シンガポールなど非イスラム国がイラク「復興支援」に派兵.マハティール首相は 「国連は今すぐにアメリカに戦争をやめさせ、イラクからの撤退を求めるべき」と主張する.

03年6月

6月 ASEAN外相会議(引き続きASEAN+3外相会議、ARF閣僚会合)がプノンペンで開催。国際紛争について突っ込んだ見解を共有。

共通見解: 1.米国のユニラテラリズムを批判.「国連憲章をふくむ国際法の諸原則を厳密に遵守することの重要性を再確認」する.
2.南シナ海における関係国の行動に関する宣言。行動規範の策定を目指す。
3.北朝鮮にかかわる6カ国協議を支持。

8月 クアラルンプールで第一回東アジア会議開催.マハティール首相はアジア通貨基金(AMF)について強調.「理念や哲学を語り合う時期は終わった.これからは、どうやって作り上げるかを検討しよう」と述べる.

9月 北京で東アジア・シンクタンク・ネットワーク(NEAT)が設立される.「東アジア共同体」の現実化に向けロードマップ作りを開始.東アジア会議と内容的には重複.

03年10月

10月 バリ島で第9回ASEAN首脳会議.第二次ASEAN協和宣言(第二次バリ宣言)を発表.

バリ・コンコードⅡ: ASEAN共同体の2020年創設を確認。ASEANを「単一の市場,単一の生産拠点として確立」することを目指す.安保共同体行動計画の起草をイン ドネシアに,社会文化共同体計画をフィリピンに委託.
 第1回のASEAN首脳会議は76年に同じバリ島で開かれた.ここで協和宣言が発表され,東南アジア友好協力条約が締結された.第二次というのはこれを念頭に置いたもの.

10月 ASEAN首脳会議に引き続き,ASEAN+3首脳会議.中国とインドが東南アジア友好協力条約(TAC)に署名.

王毅外務次官(中国): TACは内部問題への不干渉,紛争の平和的解決,主権や領土保全の相互尊重など,各国が従うべき原則そのものだ.
シクリ外務次官(インド): 
TACの原則は,平和共存の五原則と一致しており,地域の平和,安定,進歩の利益や誓約を反映している.
小泉首相: 
TACの有無に関わらず,独自の立場でASEANとの協力関係を強める」としてTACへの加入を拒否.

10月 ASEANと中国、「戦略的パートナーシップ共同宣言」を採択.2010年までにASEANとの間でFTAを実施.貿易の拡大を確認.

ストレーツ・タイムズ紙(マレーシア)の論評: 中国の魅力ある攻勢は明白で,中国は日本を完全に凌駕した.中国はまた,東南アジア非核兵器地帯条約への加入を積極的に検討している.日本の官僚主義は,その慎重さと伝統的な思考を捨てなければならない.なにより対米追随を脱却し,自分自身の独立を図る必要がある.

12月 日本政府,東京でASEAN諸国との特別首脳会談を開催.これまでの消極的態度を改め,TAC加入を決定.中国のTAC加入へのあせりの表現と見られる.

03年 APEC首脳会議.ブッシュ大統領は対テロ戦争路線への支持を取り付けようとするが,「政治課題はなじまない」と拒否される.APECの存在感は急速に薄れる.

03年 中国と香港、台湾を合わせた中国圏への輸出が約13兆7000億円に達し、アメリカ向け輸出(約13兆4000億円)を上回る.

2004年

5月 日本政府の肝いりで,東アジア共同体評議会が設立される.関係省庁、シンクタンク、企業代表が参加。「日米同盟との両立を如何に図るか」を検討.議長の中曽根元首相,東アジア共同体について「中国に先に出られている」と危機感を表明.

04年6月

6月 クアラルンプールで第二回東アジア会議.アブドラ首相が基調演説.

アブドラ首相の基調演説: 東アジアのいかなる国,いかなる国民も,いかなる装いの下であれ,「大東亜共栄圏」の再現を望んでいない。
いかなる国家エゴイズムも,帝国的野望も,不平等国際条約も強制も,脅しも,威圧も,侮辱も,覇権もあってはならないと強調。

6月29日 ジャカルタで第37回ASEAN外相会議.多国間協調主義を基調とするASEAN憲章の作成を決議.

04年7月

7月01日 引き続きASEAN+3外相会議.EASG提案の前進を確認.また「東アジア首脳会議」の開催で合意.

前進した課題: ①ASEAN10カ国による自由貿易協定(AFTA)の進行.②ASEANと中国とのFTA協議の進展.③アジア債権ファンド(ABF)の設立など

7月 日本外務省,ASEAN+3外相会議に対し,米国を東アジア共同体へ参加させるよう示唆.

7月 引き続きARF閣僚会合。中国が軍及び政府関係者による「ARF 安全保障政策会議」(ASPC)の設置を提案し承認される。

7月 米太平洋軍,マラッカ海峡軍事行動での共同作戦を提案.マレーシアとインドネシアは,マラッカ海峡の安全は両国が責任を持つとし,米軍の提案を拒否.

04年11月

11月 ビエンチャンで第10回ASEAN首脳会議.2020年のASEAN共同体創設を目指し,地域統合の深化と,加盟諸国間の格差縮小をテーマとする.

11月 ASEANと温家宝首相の会談.①イラク情勢を憂慮し,国連が重要な役割を果たすべきとの認識で一致.②中国は東南アジア非核地帯条約の付属議定書へ署名の意向.③「全面的経済協力に関する枠組み」で合意.

2005年

05年7月

ビエンチャンで外相会議、+3外相会議、ARF閣僚会合が開催される。

05年12月

クアラルンプールでASEAN首脳会議。ASEAN憲章の起草で合意。元首脳や有識者の賢人グループに委ねられる。

憲章の骨格: 民主主義の促進、核兵器の拒否、武力行使・威嚇の拒否、国際法の原則順守、内政不干渉などが含まれる。

このあと初のASEAN+ロシア首脳会議も行われ、プーチンが参加。

第1回「東アジアサミット」(EAS)が開催される。参加国はASEAN+3に豪州、インド、ニュージーランドを加えた16ヵ国。ASEAN+3の枠組みを嫌う日本が押し出したもの。「東アジア首脳会議に関するクアラルンプール宣言」は抽象的なものにとどまる。

05年 ASEANと米国、パートナーシップ協定で合意。

2006年

5月 第1回ASEAN国防相会議。2020年までにASEAN安全保障共同体 (ASEAN Security Community: ASC) を創設することを目指す。

7月 クアラルンプールでASEAN外相会議。これまでの過程を整理し、1.ASEAN が「driving force」であり続けること、2.ASEAN+3 が東アジア共同体形成の主要な手段であり続けること、3.EAS が東アジアの平和と経済的繁栄について対話するためのフォーラムであること、を確認する。

8月 経済閣僚会議、ASEANの経済発展を確認。5.5%の経済成長、輸出が前年比13.5%増、投資も前年比48%増の380 億ドルに達した。 

8月 引き続き第1回ASEAN+3+3 経済担当閣僚会議。日本が16カ国の自由貿易協定(FTA)を提案。

2007年

1月 ASEAN安全保障共同体 (ASC)、ASEAN経済共同体 (AEC)、ASEAN社会・文化共同体 (ASCC) の3つからなるASEAN共同体を2015年までに設立することで合意(当初目標より5年前倒し)

11月 シンガポールで首脳会議。ASEAN 憲章が採択、署名され、さらに「ASEAN 経済共同体のための青写真」(ロードマップ)が署名される。

2008年

11月 ASEAN憲章、各国の批准を受け発効。 

2009年

 4月 財務相会合。「ASEANインフラ基金」創設について確認。また「チェンマイ・イニシアティブ」への各国の拠出額で合意。

2月 AFTAが改定され、より強制力をもった 「ASEAN物品貿易協定 (ATIGA)」 に発展。

2010年

10年 中国とASEANの間で自由貿易協定(ACFTA)が締結される。

2011年

  11月 バリ島で一連の首脳会議。最後の東アジア首脳会議 (EAS) には米国とロシアがはじめて参加。ASEAN+3+3+2となる。18カ国の賛成で「バリ原則宣言」を採択。武力行使や武力による威嚇の放棄を明記する。

11年 ASEANと中国、南シナ海行動宣言(DOC)履行のためのガイドラインを承認。

 2014年

 8月 ASEAN外相会議、バリ原則宣言を踏まえ、東南アジア友好協力条約(TAC)を発展させた「インド・太平洋友好協力条約」を提唱。


 すみません。とりあえずドカンと載せてしまいました。元々はホームページに乗せていたものですが、もう10年も経つので、増補・改訂しました。

近日中にまたホームページに戻します。その際、ダイジェスト版は残しておこうと思っています。



東南アジア金融危機が経済マクロに与えた衝撃についてはかなり詳細な報告があるが、それが民衆の生活に及ぼした被害についてはあまり知られていない。

北沢洋子氏の報告は,金融危機の実相を良く伝えている.長くなるが引用する.
1)  失業の増大
 金融危機の発生と、その後のIMFの引き締め政策押し付けによって、企業倒産と失業が急増した。ILOによると1,000万人が新たに失業した。インドネシアでは,靴などの非繊維製品部門の失業率は50%,建設部門では75%に上っている(アジア開銀)。
 タイでは
200万人が失業した。建設部門での失業は34%増となった。さらに半失業者の数が増加しており、740万人に達した。タイの繊維、エレクトロニクス産業の労働者の90%は女性であり、危機は女性により多くの打撃を与えた。
 韓国では17,613社が破産した。失業者数は178万人に及んだ。労働者20人中1人が失業したことになる。失業は、女性に、若年層に、未熟練労働者に集中している。解雇されなかった労働者も収入が激減した。労働権は侵害され、労組の組織率は著しく低下した。
2) インフレ
 インフレの昴進は貧困層の家計に打撃を与えた。インドネシアにおいては年率77.6%のインフレを記録した。インフレが貧困化の最大の要因であった。これはIMFのコンディショナリティによって、燃料、電気、大豆、砂糖、小麦粉などへの政府補助金が撤廃されたためである。食料品の価格が250%から500%も値上がりした。インドネシアの全所帯の4分の1が、肉、卵、魚といった重要な蛋白源の食料品への支出を減らしたというデータがある。
 インドネシアにおいては、農村部の世帯の収入は5%上昇したという記録があるが、一方都市部の世帯は
40%も激減している。労働者の賃金は30%減少し、世帯平均の支出は24%減となっている。
3) 貧 困
 1998年、世銀はこの地域の絶対的貧困者の数は倍増し、9,000万人に達したと述べた。そのうちインドネシアでは 1,700万人に達した.インドネシアでは、学生の就学率は25%下落した。子供の予防ワクチンの接種も有料となり、貧困家庭には負担できなくなった。5歳以下の子供に対する検診回数は、50%も減ってしまった。幼児死亡率は、30%上昇すると見込まれている。医薬品の不足から、多くの診療所が閉鎖に追い込まれている。
 タイでは、人口の
15%~20%に上る800万人が,1日2ドル以下の貧困状態にある。タイの失業者数の64%が、農村部に集中している。タイでは、農民が人口の60%を占めているのにもかかわらず、その収入はGNPの11%にすぎない。
 農村では都市の労働者からの送金が途絶え、都市から失業者が帰村した。さらに肥料・農薬・農機具などの値上がりと高金利によって農民の貧困化が進んだ。負債を抱えている農民は、
500万人に達すると見られる。
 韓国の貧困層は
550万人に上った。人々の収入は20%も減少した。一方、食料品の価格は20%、燃料は25%も上昇した。韓国の自殺者の数は月平均900人に上っている。離婚、家庭内暴力、犯罪の件数も増えている。


ASEAN年表の中にアジア通貨危機関連の事項がかなり膨大にに紛れ込んでいた。97年―98年分を抜き出しておく。ただしASEANを考える上で通貨危機は避けて通れない課題ではあるので、興味のある方はご覧頂きたい。


1997年

1月 橋本首相がASEAN諸国を歴訪.関係修復を図る.対話緊密化と多角的な文化協力を謳うが,東アジア共同体構想への言及なし.

7月 タイで金融危機が始まる.米国の投機資金がタイから急激に逃避したことから,短期的なバーツの流動性危機を引き起こす.域内諸国と国際機関は,タイに対し総額 172 億ドルの金融支援を決定.

8月 インドネシアでルピアの暴落が始まる.

8月末 日本が中心となりアジア通貨基金(AMF)構想.大蔵省の榊原英資財務官が各国を回り根回し.

榊原のAMF構想 日 本の円を中心にアジア版基金を作り、通貨危機に見舞われた国には優先的に通貨準備を融通することを提唱.中国・香港・日本・韓国・オーストラリア・インド ネシア・タイ・シンガポール・マレーシア・フィリピンで1000億ドル規模の基金を作り、IMFを補完する役割を持たせることになっていた。

8月 米財務省はIMFの権限を侵食するものとして猛反発(サマーズ副長官とのやり取りなど緊迫した雰囲気は榊原氏の回想録参照のこと).

9月 香港でIMF・世銀の年次総会.マハティール首相は,「実需を伴わない為替取引は不必要、不道徳で非生産的だ」と強く非難.国際投資家のジョージ・ソロスは、為替取引きの制限は「破滅的な結果につながる」と反論.

9月 香港でIMF年次総会に引き続き先進七か国蔵相・中央銀行総裁会議(G7).三塚蔵相とルービン米財務省長官の個別会議.ルービンはAMF構想への強い反対を改めて表明する.説得を受けた中国が保留に回ったため流産.

10月 アジア為替・金融危機の第二波、台湾とシンガポールにも波及.台湾は経常収支黒字を継続してきたために為替相場が安定しており、シンガポールは東南アジアで最もファンダメンタルズが強固だったため,攻略は成功せず.第三波は香港へと向かう.

11月 韓国,香港株式市場暴落の影響を受けウォン相場が急落.短期融資の比率が高かった韓国は,債務借り換えに失敗し実質デフォ―ルト状態となる.IMFに緊急支援を要請.

11月 APEC非公式首脳会議.「市場参加者の役割についてIMFが行っている研究の結論を期待する」とし,通貨取引の在り方全般をIMFに丸投げ.

12月 アジア金融危機のただなか,クアラルンプールで,ASEAN30周年を記念する第二回非公式ASEAN首脳会談.「2020年 ASEANビジョン」を発表.「2020年までにASEAN共同体となることを目指す」とする.社会的弱者を放置すれば,格差が広がり,社会が分裂して社 会の強靭さが損なわれるとし,「思いやりある社会の共同体」の考えを打ち出す.

思いやりある社会の共同体: 当時の国際金融危機を背景に打ち出された.①思いやりある社会の建設,②経済統合の社会的影響の克服,③環境の持続性の促進,④ASEANとしてのアイデンティティーの創出などが掲げられている.

12月 日・中・韓国の首脳が招待され,ASEAN首脳会談に引き続き東アジア首脳会議.ASEAN+3の始まりとなる.当初ASEANは,日本抜きで開催する方向を明らかにし,この動向を見て急遽日本政府も参加を決断.

12月16日 ASEAN9カ国首脳が中国の江沢民国家主席と会談.21世紀に向けた親善相互信頼パートナーシップを謳う「中国・ ASEAN共同声明」を採択.中国はASEANの平和・自由・中立地帯構想を支持し東南アジア非核兵器地帯条約の発効を歓迎.ASEANは「一つの中国」 政策を順守.南沙諸島問題では「武力に訴えることなく,平和的手段で意見の相違や紛争を解決する」ことを誓約.

12月 マハティール首相,国民経済行動評議会を組織.ダイム特別相、ノルディン・ソピー戦略国際問題研究所長らに通貨危機への総合的対応策の検討を命じる.

97年 インドネシアでスハルト独裁体制に対する政治危機が深刻化.米国は金融危機に対して一切の支援を拒否し,IMF基準の押し付けに終始した.米国とAPECへの失望が広がる.

1998年

5月 スハルト大統領が辞任.ハビビ副大統領が大統領に就任.

6月 米フィナンシャル・タイムズ紙,日本の金融市場が麻痺して円が対外責任能力を喪失した状況にあるとし,「日本株式会社は死にかかっている」と表現する.いっぽう元の防衛に成功した中国は,「世界の金融政策形成に対する影響力を持つものとして登場した」と述べる.

7月 中国,ASEAN拡大外相会議に参加.「東南アジア友好協力条約」への加入に前向きな姿勢を表明.

7月 マハティール,IMF路線で財政再建を図るアンワル副首相を更迭.短期資本を規制し,独自の為替管理で危機に対応.この年マレーシアの成長率はマイナス7%.

9月 マハティール,IMF派のアンワル副首相を解任.日本はマレーシア支持の姿勢を明確にする.

10月 宮沢蔵相,先進7カ国蔵相・中央銀行総裁会議(G7)で発展途上国などの通貨危機対策として、ヘッジファンドなどによる短期的な資 本取引の規制案を提案.危機に陥ったアジア諸国を対象に 300 億ドルを資金供与する新宮澤構想を発表.東アジアにおける地域協力を先導する役割を果たしたと自称.

11月 米国防総省,東アジア戦略報告を発表.日米同盟を「21世紀においても米アジア安保政策のかなめ」と位置付ける.またARFの役割を積極的に評価.

12月15日 ハノイで第6回ASEAN首脳会議.経済回復を目指す特別対策「大胆な措置に関する声明」を発表.CEPT実施率の努力目標 を1年間前倒しする.2020年ビジョンを実現する行動計画として,2004年を期限とする6ヵ年行動計画(ハノイ行動計画99~04)を採択.マクロ経 済と金融に関する協力の強化を主柱とし,経済統合の強化,ASEANの機構とメカニズムの改善などに取り組む.

12月16日 ASEAN首脳会議に引き続いて第二回ASEAN+3首脳会議.並行して日中韓三国首脳会議も開催。以後,ASEAN首脳会議とASEAN+3首脳会議はセット となる.

各国の提案合戦: 金大中の提唱で,協力のための検討機構として,東アジア・ビジョン・グループ(EAVG)を設置.中国の胡錦濤副主席は,金融危機打開のため東ア ジア蔵相会議の開催を提案.小渕首相は新宮沢構想を発表する一方.蔵相会議への米国の参加をもとめ,顰蹙を買ったといわれる(外務省のホームページには記載なし)

98年 この年のASEAN経済成長率はマイナス7%,インドネシアでは13%の落ち込み.対米不信はロシア危機の際に米財務省がヘッジファンドの救済に乗り出したことからさらに増幅される.


増補版を掲載していますのでそちらもご覧ください。

国際会議や外交の場面にはやたらと略語が出てきます。とりあえず試験問題用のあんちょこ。ちょっと古いので近日中に改訂版を出します。

AFTA

ASEAN Free Trade Area

アセアン自由貿易地帯: 92年首脳会議で合意。08年までの創設をめざす

APEC

Asia-Pacific Economic Cooperation

アジア太平洋経済協力閣僚会議: 米主導で87年に発足。開店休業状態が続いたが、マハティール構想に対抗して再強化.

ASA

Assoclation of Southeast Asia 東南アジア連合: ASEANの前身.61年にマラヤ連邦が提唱し,タイ、フィリピン、マラヤ連邦の3カ国をメンバーとして発足.

ARF

ASEAN Regional Forum

東南アジア諸国連合地域フォーラム政治・安全保障分野を対象とする対話フォーラム.ASEAN+3+米・EU・加・露・印・豪.ニュージーランド・パプアニューギニア・モンゴル・北朝鮮・パキスタン.

ASEAN

Assoclation of Southeast Asian Nations

東南アジア諸国連合

ASEAN+3

ASEANに日本・中国・韓国を加えたもの

ASEAN・PMC

 

ASEAN拡大外相会議年1回、ASEAN外相会議に引き続いて開催。逐次域外国・機関(ダイアログ・パートナー)数を追加している。

CEPT

Common Effective Preferential Tariff

共通効果特恵関税制度: 92年首脳会議で合意.AFTAの創設に向けPTAを発展・包括化させたもの.最終目標は域内貿易の85%.

DSM

 

一般的紛争処理メカニズム: 95年首脳会談で合意.

EAC


東アジア共同体: 東アジア全体をカバーする共同体構想.ASEAN+3を基軸とする.

EAEG

East Asia Economic Group

東アジア経済グループ: 90年末にマハティールが提起した構想.今日の東アジア共同体構想につながる.

EAEC

East Asia Economic Caucus

東アジア経済会議: EAEG構想を協議体として妥協させたもの.EEC,NAFTAに相当する地域枠組み.

EAFTA


東アジア自由貿易地帯: EASGにより提起された26課題の一つ.

EAVG

East Asia Vision Group

東アジア・ビジョン・グループ: 98年のASEAN+3首脳会議で,東アジア協力を進めるための検討機構として設置された.

EASG

East Asia StudyGroup

東アジア研究グループ: 00年のASEAN+3首脳会議で,EAC構想を具体化するための検討機構として設置された.02年,EAC設立のための26の課題を提示.

FTA


自由貿易協定: 基本的には二国間の自由化取り決め。

IAI

Initiative for ASEAN Integretion

ASEAN統合イニシアティブ: 域内の経済格差の縮小、ASEANの競争力強化を目的とする.

ISIS


マレーシア戦略国際問題研究所: 東アジア共同体構想を推進するシンクタンク.理事長はノルディン・ソピー.

NEAT

Network of East Asian Thinktanks

東アジア・シンクタンク・ネットワーク: 03年9月北京の会議で設立が決まる.東アジア共同体へ向けたロードマップ作りを任務とする.

PTA

ASEAN Preferential Trading Arrangements 特恵貿易取り極め: 77年に導入されたASEAN諸国間の関税引き下げ合意.対象品目の関税率は最恵国待遇レートの半分となる.

SEANWFZ

Southeast Asia Nuclear Weapon Free Zone

東南アジア非核兵器地帯条約: 95年,ASEAN首脳会議で調印.97年に発効.

TAC

Treaty of Amity and Cooperation in Southeast Asia

東南アジア友好協力条約: 76年,第1回首脳会議で採択.

ZOPFAN

Zone of Peace, Freedom and Neutrality

平和・自由・中立地帯: 71年,ASEAN特別外相会議で宣言された.これをもとに東南アジア非核兵器地帯条約が締結.

 

 

 


前の稿で、東アジアの平和共存の原則について、うんとプリンシプルな論理構造を挙げておいたが、これは各方面からたくさんの構想が出されている状況の中で、それらを吟味する視点を整理しておきたかったからである。

もう少し実践的にこの問題を扱うとすれば、やはり歴史的な特殊性を避けては通れないだろう。

1.分裂国家群という特殊性

基本的にこの4.5カ国体制が成立したのは1949年の中国共産党軍による中国本土の解放、蒋介石軍の台湾確保と「中華民国」の創設、そして1953年、朝鮮戦争を挟んでの朝鮮半島の南北分裂の固定化という二つの歴史である。

いずれの国も相手国を仮想敵国としており、引き金から指を離してはいない。きわめて不安定な状態にある。

また現在の4.5カ国体制はいずれ将来的には3カ国体制に移行すると考えるべきである。そのためにも北朝鮮の国際政治への復帰、中台の平和的統一が織り込まれなければならない。

2.東西対立の集中点

この地域はもともと二つの体制の接点であり、冷戦終結後もいまだに冷戦体制を引きずっている。

政治・経済・社会のシステムが根本的に異なっており、共同は容易ではない。

3.侵略国対被占領国という歴史的関係

戦前・戦中において日本は占領国であり侵略国であった。他の国は被占領国であり被侵略国であった。

北朝鮮を除く国々との国交は正常化し、賠償問題も決着済みであるが、いくつかの戦争犯罪については未解決である。

そのこともあって、日本への警戒心は根強いものがあり、平和協力の障害となっている。

4.最大国である中国の特殊性

中国は「社会主義国」であるという特徴に加え、大国としての特徴を持っている。核保有国であり、安保理常任理事国であり、多民族国家であり、世界第二の経済大国であり、兵員数世界一の軍事大国である。

しかも現在急成長中であり、域内の力関係は大きく変わっていく可能性がある。



1.諸国間の平和と友好には三つのレベルがある

諸国間の平和と友好には三つのレベルがある。人民レベルのそれと、国家レベルでのそれだ。さらに東アジアには、たんなる政策レベルではない国家体制の違いが存在するので、ことなる体制間の共存と相互尊重という難しい課題も抱えている。

このなかでは、まずもって人民レベルの平和主義を全面に押し出さなければならない。それは揺るぎようのない非核と非戦の原則だろう。

2.東アジア諸国の憲法に9条を書き込もう

ここでは、東アジア全体が日本国憲法前文と憲法9条の精神を共有する必要がある。それは東アジア諸国の共同綱領としての意義を持っている。

ぜひ、他の国にもそこを確認してもらいたい。

もう一つは人権の尊重だ。友好というのはお互いの人権の尊重を前提にして初めて意味を持つ。とりわけ生存権、学習権、勤労権を尊重しなくてはならない。政治権力がこれを犯さないよう、相互に連帯し監視していく必要がある。

このためには、法治主義の原則を確認していく必要がある。

3.政府レベルでの共同も基本は同じだ

国家レベルでは話はちょっと複雑になる。しかし原則は人民レベルと同じだ。国家主権の尊重と国際協約の尊重は時により矛盾するが、未来志向の立場で実績を積み重ねる中で解決することだ。

人、モノ、カネの交流は原則として自由化の方向を目指すが、垂直型統合は認められない。とくに資本の身勝手な行動は認められるものではない。

体制レベルでは、さらに大きな違いが横たわっている。社会慣習や伝統などを尊重しつつ、幾世代かにわたり地道な相互理解の積み上げを行っていく覚悟が必要である。

総じて言えば平和の問題、人民の友好の課題では早急な共同行動が必要である。

人権の問題では相互の援助・支援から出発し、国際的な協定をそれぞれの国が内国化していくことが必要である。

4.経済的共同はグローバリズムと一線を画す

経済主権は国家主権の源である。経済主権を擁護する立場からは、ネオリベラリズムに基づく「開放」や「自由化」は受け入れられない。

各国の共通利害に基づく機関・基金の創設や各国人民にとってウィン・ウィンの関係になるような共同から推進していく必要がある。

共同市場化や共通通貨などについては、時期尚早であろう。

タイの情勢は相当厳しいようだ。
軍と反タクシン派、ひっくるめて反民主派と言っていいのだろうが、彼らがかなり狂気を帯びてきている。
多分そういう状況の反映なのだろう。

今年のミス・ユニバースのタイ代表に選ばれた女優ウェルリー・ディサヤブットさん(22)が、代表の座を辞退しました。
フェイスブックで、タクシン派を「反王室」と批判。「全員処刑されるべきだ」と書き込んでいたことが発覚しました。


妙齢の美女が「皆殺しだぁ!」と叫ぶ状況そのものがいかにもおぞましいが、二つの論理があって、それがともに独断と偏見だ。
一つは「タクシン派」=反王室派=非国民だとする独断であり、もうひとつは非国民であれば殺しても構わないというサロメ的発想である(日本の嫌韓右翼もそこまでは言わない)
ミス・タイという社会的影響力を考えれば、それは殺人教唆にも近い。
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タイはこれまで何回もクーデターを経験してきたが、ここまで理性や倫理を失ったクーデターは初めてだ。反民主派が相当追い詰められていることの証拠ではないだろうか。三つ指を掲げただけで逮捕とは常軌を逸している。私の持論だが、人間はなんにもなしに凶暴化することはない。必ず被害者意識(でっち上げられた被害者意識)、やらなければやられるという脅迫感が存在する。

二度にわたり総選挙で成立した合法政府を暴力的に倒し、国際的な非難も強まるなかで、彼らは孤立感を深めている。それが彼らを暴力思想に駆り立て、凶暴にしているのだろう。
このようなお嬢さんが自分の頭で考えて出した結論ではないだろう。誰かがそのような方向で扇動している。ルアンダで隣人殺しを煽ったラジオのキャスターのように…

こういうなかで総選挙実施のスローガンを前面に出すのは危険がともなう。もちろんそれは最終的には民主主義の証として必要だろうが、まず和解政府の樹立が先決だろう。

そして暴力思想の孤立化を目指すことだ。彼女が人間性を取り戻し、心から発言を恥じるようになるまでは粘り強い運動が必要だろう。

ネットではもう少し詳しく書かれている。

ウェルリーさんは西部カンジャナブリ県出身で、身長170センチ、体重54・5キロ。タイ国立カセサート大学人文学部で学ぶかたわら、女優、テレビ番組の司会者としても活動中だ。

 ウェルリーさんは5月の選考会でタイ代表の座を射止めた。しかし、地元メディアによると、昨年11月にフェイスブックで、タクシン元首相支持派を「反王室」と批判。「これら悪の活動家には大変憤慨している。全員処刑されるべきだ」などと書き込んでいたことが発覚した。
 ウェルリーさんは「不適切」だったと認め謝罪したが、タクシン派の反発は強く、代表の資格を問う声が上がっていた。地元メディアによれば、9日記者 会見したウェルリーさんは「私が栄冠に輝いた時、家族は喜んでくれたが、世間の批判が高まり、幸せではなくなった」と涙ながらに語った。

ミスタイ
こういうのをワニの涙というのあろう。「タクシン派」を殺すときも、そうやって随喜の涙を流すのだろうか。
「不適切」かどうか、ということはやりかたの問題だ。それは、「思いは間違いではない」というのと同じことだ。
何年か前に、自民党の女性議員がワイドショーで陰湿な生活保護いじめをやって、それが反撃されると自分が被害者であるかのように涙を流したことがあった。

「女のいやらしさ」を見せつけられたみたいで、ひどく気分が悪かった。思い出すだけでも吐き気がする。


時事通信の配信だが、「処刑」という言葉の真偽ははっきりしない。

驚いたことにもうWikipediaに Weluree Ditsayabut の項目がある。しかも9日の辞退のことまで記載されている。

ここで引用されているのはバンコク発ロイター電。

Thai beauty queen quits after calling for ousted PM's supporters to be executed

というのが見出し。

Miss Universe Thailand has renounced her title over remarks she made on social media including one that redshirt activists should all be executed.

…comments she made months earlier soon surfaced, … referring to the redshirts, which said: "I am so angry at all these evil activists. They should all be executed."

となっており、時事通信はこれを拝借したのではないだろうか。

Bangkok Post では以下のように書かれえいる。

According to a Khaosod report, Fai on Facebook in November accused pro-government red-shirt supporters of being anti-monarchist, and said that the country would be cleaner without them.

ここでの内容はいわゆる「民族浄化」である。ただタイは現在検閲下にあるから、タイの現地紙だから正確ということにはならないのも事実である。




この年表で、ネパール共産党のあらましの流れが分かるでしょう。(かえって謎が深まるかもしれないが)

Nepal Communist Party: Division and Emergence of Maoist Line by Surendra K.C

という文献からのものです。訳文にはかなり誤りがあると思うので、原文にあたることをおすすめします。

1949年9月15日 カルカッタでネパール共産党(マルクス主義)が創設される。インド共産党(マルクス主義)の影響を受け、国王独裁制、封建制、帝国主義と闘う方針を打ち出す。書記長にはPushpa Lal Shresthaが就任。

CPN(ML)のホームページでは49年4月22日と記載されている。

1951年 ネパールで共産党の指導する民主化運動が盛り上がる。Rana体制が崩壊。

1952年1月24日 Raksha Dalの蜂起。共産党が非合法化される。

1952年 党政治局会議、プシュパラル書記長を追放しマンモハン・アディカリを書記長に選出。

1954年 最初の党大会がパタンで非合法下に開催。Manmohan Adhikariが書記長に選出される。

1956年4月 共産党が合法化される。共産党は「立憲君主制を受け入れ平和的手段で社会主義思想の宣伝を行う」との声明を発表。

1956年 アディカリ、中国共産党大会に出席。そのまま病気療養に入る。その間、ラヤマジが書記長代行を勤める。

1957年 カトマンズで第二回党大会が開かれる。共和制を目指す綱領を採択。Keshar Jung Rayamajhiが書記長に選出される。

1960年12月 王室のクーデター。共産党のRayamajhi書記長は、「進歩的ステップ」とこれを賞賛。インド共産党の指導者Ajoy GhoshはRayamajhiに路線を修正し君主制反対の闘いを再開するよう勧告。

1961年初め 全ての政党が禁止される。政府は共産党への弾圧を開始。Rayamajhiは君主制への支持を続けたため党内で孤立。

党内矛盾解決のためDarbhanga(インド)で中央委員会総会が開かれる。Rayamajhi派は立憲君主制の維持を主張。Pushpa Lal派は議会の再開に向けた大衆動員を主張、Mohan Bikram Singhは憲法制定議会の創設を主張する。

1962年4月 党内派閥の一つがVaranasi(インド)で「第3回党大会」を開催。民族民主革命の路線を採択。Rayamjhiの除名を決定。書記長にTulsi Lalを選出する。

中央委員会を掌握したRayamajhi派は、この大会を承認せず。党はTulsi Lal Amatya派と、Rayamjhi派に事実上の分裂。以後最大17派にまで分裂。

1,968年 ラヤマジ派が総会を開催。反対派はこれをボイコット。以後ラヤマジ派は四分五裂し力を失う。残党(NCPマナンダル派)は94年に統一共産党に合流。

1968年 プシュパラル(初代書記長)とTulsi Lal、インドのゴラフプールで別党の結成を宣言。インド・ビハール州との国境地帯で、インド共産党(ML)の支援を受け、独自の党組織の建設に着手する。

1971年5月 共産党トゥルシ・ライ派、ジャパ(Jhapa)地方で武装闘争を開始。

1971年 アディカリとビクラム・シンが8年の刑期を終え出獄。全共産主義者の結集と単一党の形成を呼びかける。

1974年 ビクラム・シン、みずからの同志を集め集会を開催。第4回党大会と呼称する。

1975年12月 アディカリとビクラム・シンらにより党再建のための「中核」が結成される。

1975年 ジャパの武装闘争に連帯する全ネパール共産主義者革命共同委員会が設立される。

1977年 「4大会」派、指導者のシンを女性問題で解任。Nirmal Lama を新たな指導者に据える。1年後にラマからシュレスタに交代。シンは78年にNCP(マシャル派)を結成。

1978年12月26日 ネパール共産党(マルクス・レーニン主義)が創設される。全ネパール共産主義者革命共同委員会を母体とする。書記長にC. P. Mainaliを選出。

1979年10月 マシャル派が第五回大会を開催。若手のキランを書記長に選出するが、これを不満とするシンらは新たにマサル派を結成。マサル派からはさらにバッタライらの「反乱グループ」が分離する。

1982年 ネパール共産党(マルクス・レーニン主義)が路線を大転換。武装闘争を放棄し、人民民主主義闘争路線をとる。武装闘争に固執するマイナリは書記長の座を追われ、ジャラ・ナト・カナルに交代。

1989年 統一左翼戦線が組織される。民主政治をもとめる運動の中で、党派を乗り越えた統一が進む。

1991年5月 議会選挙が行われ、統一左翼戦線が躍進。

1991年 ネパール共産党マルクス主義派とネパール共産党マルクス・レーニン主義派が合同して統一共産党を結成。

1991年 マシャル派、4大会派、マサル派、反乱マサル派などがネパール共産党「統一センター」を結成。

1991年 「統一センター」がまもなく分裂。マシャル派と反乱マサル派が共同しマオイスト党の結成に動く。他の党派は「統一センター」の名称を維持。

1993年 統一共産党の党大会が開かれる。議長にマン・モハン・アディカリ(旧マルクス主義派)、書記長にマダン・クマール・バンダリ(旧マルクス・レーニン主義派)が就任する。

バンダリ書記長が事故死。後任書記長には同じ旧マルクス・レーニン主義派のマダブ・クマル・ネパールが就任。

1994年 統一共産党が与党となりアディカリが首相に就任。王室と共産党の共存を目指す。まもなく野党の不信任により政権崩壊。

1998年 統一共産党がインドとの条約をめぐって分裂。サハナ・プラダンを党首とし、バムデヴ・ガウタムを書記長として「ネパール共産党マルクス・レーニン主義派」(第2期)が結成される。

2001年 王室内クーデター。ギャネンドラ国王が即位。

2002年 ネパール左派共産党が統一共産党に合流。

2002年 第二期マルクス・レーニン主義派が統一共産党に再合流する。残留派はマイナリを書記長に選出し党を維持。

2006年4月 4月革命。国王は主権を国民に返還。下院が復活し、制憲議会選挙の開催が決定される。

06年11月 政府とマオイストが包括的和平協定。13,000人以上の死者を出した10年間におよぶ内戦が終結。国連がマオイストの武器と兵力を監視下におく。

2007年1月 暫定議会が発足し、マオイストもこれに加わる。

08年2月 南部平原地帯のマデシ人の武装闘争、政府との和解に達する。

2008年4月10日 制憲議会選挙。統一共産党はネパール書記長が落選するなど惨敗を喫し第3党に転落する。

4月 ネパール書記長、選挙での敗北の責任を取り辞任。ジャラ・ナト・カナルが新書記長に就任。

5月28日 制憲議会が招集される。圧倒的多数により共和制を宣言。ギャネンドラ国王は退位。

2008年8月15日 制憲議会での首班指名。統一共産党の支持によりプラチャンダ政権が誕生。

8月31日 連立与党となった統一共産党、副首相兼内相のバムデヴ・ガウタムを含む6人が入閣する。

2009年2月16日 統一共産党の第8回党総会が開催される。マオイストとの教頭、議長人事をめぐり激しい闘いが展開される。議長選挙ではマオイストとの連合維持を主張するカナル書記長が、ネパール元書記長の率いる反マオイスト連合を破る。書記長にはイシュワール・ポクレル副議長にはアショク・ライ、バムデヴ・ガウタム、ビディヤ・デヴィ・バンダリが選出される。

09年4月 カナル議長が中国を訪問。「いかなる外部勢力によるネパール国内での反中国活動に断固反対する」と発言。

2009年5月4日 統一共産党、国軍参謀総長の解任に反発し連立を離脱。プラチャンダは辞任に追い込まれる。

2009年5月23日 制憲議会において、統一共産党のマダブ・クマル・ネパール元書記長が22党の支持を受け首相に選出される。マオイストなど3党が投票をボイコットしたため無投票での選出となる。

ネパール制憲議会選挙の暫定結果
【制憲議会240議席】

・ネパール会議派(ネパーリコングレス党)=105議席
・ネパール統一共産党=92議席
・マオイスト=26議席
・その他少数政党=17議席

またややこしい結果になった。
会議派が比較多数を占めたが、過半数には届かず。
統一共産党とマオイストが連合すれば、政権確保も可能。あとは中間政党がどちらに転ぶかだ。
ただマオイストはこれだけ惨敗すると独自路線を強めざるをえなくなるだろう。
問題はむしろ統一共産党の内部にありそうだ。
マオイスト同様、共産党の中にもかなりダラ幹がいて、会議派にすり寄ろうとしている。いずれ割れるしかなさそうだ。その時どちらがどちらを追い出すかだが、まとも派の勝利を期待したい。

マオイスト党幹部 人名解説

マオイストの多くは二つの名前を持っています。本名とゲリラ名です。彼らが政治の表舞台に登場するまではゲリラ名で呼ばれていたので、今回、文章を書くときはかなり混乱しました。

マオイストというのは通称で、正式名はネパール共産党毛沢東主義派です。ただ現在は統一毛沢東主義派と変わっています。これは2009年1月に小さなセクトと合同したからです。

マオイスト党は95年に結成されています。この時の書記長がプスパ・カマル・ダハルです。ダハルはその時以来プラチャンダ というゲリラ名で有名になりましたが、合法闘争に復活してからは本名のダハルで活動しています。

(マオイスト党の前にも多くの共産主義者のセクトがあったが、とても追い切れないので省略)

マオイスト党のもう一人の看板バタライにはゲリラ名はありません。なぜなら彼はマオイスト党の公然組織「統一人民戦線ネパール」の代表だったからです。

バブラム・バタライはインド共産党(CPIM)ともつながりのある知識人です。武装闘争を指導したわけではなく、一時は平党員に格下げされるなど党内での地位は必ずしも高くありません。

マオイストを割ったのが、モハン・バイディア。ゲリラ名はキラン。この人は実はダハルの先輩に当たる人で、マオイスト党の前身組織で総書記を務めていました。武装作戦の失敗の責任を取り、いったん退き、後任にダハルが就いたという経過になっているようです(カトマンズ・ジャーナル)。

ダハルが首相になった後、ダハルは議長となり、書記長にバイディアが就任しました。

4人目の幹部がラム・バハドゥール・タパです。ゲリラ名はバーダル。ロシアに留学し原子工学を学んだという知識人です。

最初のダハル内閣では国防相を務め、軍とゲリラとの統合を進めました。今回の分裂劇では、バイディアと行動を共にしました。

ウィキペディアでは、「全党的に人気があり、プラチャンダ(ダハル)の最大のライバルであるという見方も存在する」と書かれています。

他の有力者としては

チャンドラ・プラサト・ガジュレル。ゲリラ名はガウラブ。ダハルの腹心と言われ、党のスポークスマンとして国際的にも知名度が高いそうです。

クリシュナ・バハドゥル・マハラは教育者として合法面で活動してきた人物で、多くの活動家を育てたことでも知られているようです。

この間、ネパールは史上かつてない激変を経験しました。その中で二つの巨大な前進を成し遂げました。

一つは、封建的な王制を廃止し、共和制へと移行したことです。

そしてもうひとつは、事実上の内戦と言われたマオイストの武装闘争を停止し、平和を実現したことです。

これらの前進の意義はいくら強調してもし過ぎることはありません。ここをまず踏まえておかないと、目の前の困難にとらわれて議論が後ろ向きになってしまいます。

同時に、この巨大な変革をもたらしたのは、直接的にはネパールの抱える深刻な経済的・社会的困難であったことも見て置かなければなりません。

それは、旧支配層がもはやこれまでの形態では統治を続けていけなくなるほどの厳しい困難でした。

それは新自由主義経済の浸透によってもたらされています。王制を支え、封建的な社会関係を構築してきた地主層が、新自由主義の前に没落しつつあることが、そこには反映されています。

それに代わる社会をバラ色に描き出すほどには、状況は改善されていません。インドをバックとする資本家が新たな支配者になるのか、それとも人民みずからが主人公となる自主独立の国家として自立していくのかの2つの道が、選択を迫られているといえます。

ちょっと古いですが、以下の文章をご参照ください。

 ネパール:国王独裁の崩壊  ネパール:毛沢東主義者をどう見るか


このほどネパールで制憲議会選挙が行われました。予想された大混乱もなく無事完了したようです。

結果はこれからのようですが、途中経過の限りでは、マオイストの惨敗のようです。まぁ一つの時代の終わりというふうにも見えます。

フランス革命のように、まず王政が倒され、ついで革命を推進したジャコバンが凋落する、という過程にも見えます。

もちろん、インドと中国という大国が干渉しまくっていますから、事態はもう少し薄汚れたものになっていますが…


2008年

4月10日 制憲議会選挙。マオイストが第一党となるが過半数に達せず。
ネパール共産党毛沢東主義派 229  ネパール会議派115, ネパール統一共産党 108, 以下54 - マデシ人権フォーラム、21 - タライ・マデシ民主党、8 - 国民民主党、9 - ネパール共産党マルクス・レーニン主義派、9 - 友愛党、8 - 人民戦線ネパール、5 - ネパール共産党ユナイテッド派

5月28日、制憲議会で連邦共和制採択。王制は廃止される。
7月22日 マオイスト党中央書記局会議が開かれる。他党の抵抗が強いことから、政府の組織を断念し、野党に留まることを決定。
8.15 マオイストが統一共産党、マデシ人権フォーラムと連立政権を組む。プラチャンダが首相となる。財務大臣にバブラム・バッタライ、国防大臣にバーダル(ラム・バハドゥール・タパ)などが就任。他党との関係をめぐりキラン(モハン・バイディヤ)、バーダルら党内原理派と激論が戦わされる。
11.16 制憲議会、新憲法制定に向けた作業日程を可決。
12月 マオイスト活動派がヒマール・メディア紙を襲撃。プラチャンダ首相は、「毛派のふりをして党に汚名を着せる行為」と非難。


2009年

1.12 マオイストと「ネパール共産党統一センター・マサル派」が合同。
2.11 マオイスト党のマトリカ・プラサド・ヤーダブ政治局員がマサル派との合同に反対し離党。ネパール共産党毛沢東主義派の再建を宣言。
5.03 ダハル首相は軍トップのカトワル参謀総長を一方的に解任。
5.03 統一共産党、友愛党が連立を離脱。ヤーダブ大統領もカトワルの参謀総長続投を支持する。
5.04 連立内閣が崩壊しダハル首相は辞任。
5.23 統一共産党と会議派を中心とする連立政権が成立。統一共産党のマダブ・クマール・ネパールが首相に就任。マオイストは首相選出過程をボイコット。

2010年

1月 マオイストを含む主要政党の幹部からなる「枠組み」が構築される。

5.02 マオイストは憲法の早期制定をもとめる大規模集会を開催し、無期限バンダ(強制ゼネスト)を宣言。

5.08 マオイストのバンダが多くの批判を受け中止される。

5月28日 制憲議会が期限を迎える。制憲議会の1年間延長とネパール首相の早期退陣が決定される。

6.30 ネパール首相が辞任。このあと半年以上にわたり首相不在の期間が続く。

11.21 マオイストの第6回中央委員会拡大会議。約6000 人の党員が集まる。ダハル議長とバイデャヤ副議長、バッタライ副議長がそれぞれの方針案を提出。

会議はインド主敵論をめぐり紛糾。これを否定するバッタライ副議長が離党を図ったが、ダハール議長派がバッタライ副議長に同調する。これに抗議するヴァイデイア副議長派がマオイスト党から分離した。
バイデャヤはバッタライ副議長よりダハル議長のほうが危険だと指摘。議長の贅沢を非難し、汚職や密輸に関わっていると糾弾する。

2011年

2.03 マオイストがネパール退陣を条件に統一共産党への支持を表明。カナル委員長が首相に選出される。

5月28日、ネパールの制憲議会が開催され、主要3政党の合意に基づき、議会がさらに3カ月延長される。

8.28 カナル連立政権が崩壊。バブラム・バッタライ(マオイスト党副書記長)が、統一マデシ人民戦線(UDMF)などの支持を得て新首相に選ばれる。制憲議会の任期が3ヶ月間延長された。

10月 インドとネパールが「相互投資振興に関する協定」を締結。

11.01 主要3政党の間で軍の統合問題に関する7項目合意。元マオイスト兵2万名は、国軍編入を希望する者、社会復帰プログラムを希望する者、退職金の支払いによる自主除隊を選ぶ者の3つのグループに分けられる。

11.29 制憲議会の任期が6ヶ月間延長される。

2012年

1月 マオイスト最高幹部の力関係。7人の本部書記のうちダハール派3名、バイデイア派3名、バッタライ派1名で勢力は拮抗。ただしタパ書記長はバイデイア派。

2月8日 非認証兵士(末端ゲリラ)約7500人の除隊作業が完了。28ヶ所のキャンプ中13ヶ所が閉鎖される。

3.28 マオイスト派中央委員会の開催。149名の委員のうちバイディア派50名が欠席。

3.31 国軍統合組の人選に不満を持つマオイスト兵士が反乱の動き。

4.10 バッタライ首相(マオイスト党)が「軍統合に関する特別委員会」を招集。全てのマオイスト・キャンプをネパール軍の管理下に置き武装解除。

4.11 マオイスト党のバイディア派は武装解除を降伏行為と非難。抗議行動を開始する。

4月 ダハール議長、党内の集会において12項目協定の役割はPLAの国軍編入により終わった。再び武器をとって戦う事は自殺行為であると述べる。

5月1日 全政党による連合政権への合意を受けてバッタライ内閣は解散。引き続きバッタライ前首相による新しい内閣が誕生した。大臣は主要4党に概ね均等に割り振られる

5月27日 延長を重ねてきた制憲議会が最終的に解散。バッタライ(マオイスト派副議長)による管理内閣が発足。601人の議員は特権を失う。

6.16 マオイストが3日間にわたる全国幹部会議を開催。バイデイア副議長が独立を表明。ダハルはバイディア派との合意なしに何もしないと演説し、バッタライは「党の結束のためにはいつでも首相を辞める用意がある」と演説し慰留する。

6.19 副議長モハン・バイディア、新党(ネパール統一共産党革命的毛沢東主義)の幹部会議を招集。バイディアが議長、タパ書記長とガジュレル書記が副議長となる。

6月 バイディア派のガジュレル副議長、テライ地方のビジネス・グループと会合。「バイディア派は資本主義に賛成であり、個人の財産所有を支持する」と述べた

7月15日 バイデイア議長が中国共産党の招待により訪中する。

7月17日 マオイスト派拡大評議会、ダハール議長の提案を承認して閉幕。地方グループがバッタライ副議長の失政を攻撃。机、イス等の投げ合いとなる。

9月5日 アメリカは新大使が着任。マオイスト派をテロリスト・ストから外すと発表

9月 バイデイア派、インドの車のネパール国内での通行を妨害すると発表。ネパール・インド友好条約(1950)の廃棄をもとめる。全政党や各団体からの猛烈な反対にあう。

10月 バイデイア派は、ダハル派幹部が短期間に不正蓄財で大金持ちになったと抗議。マオイスト派の兵士の社会復帰等に費やした金額は15Billionルピーに達する。

11月 バイデイア派、主要な敵はインドの覇権主義者とし、さらにマオイスト党(ダハール派)、コングレス党、共産党、主要なマデシ・グループ、政府官僚、財界のリーダー等を含めて攻撃の対象とする。

2012年12月1日 国勢調査の結果ネパールの人口は2650万人。10年間で約330万人増えた。人口の55%が25歳以下

2013年

13年1月

1月9日 バイデイア派の第1回全体集会がカトマンズで開かれる。バイデイア議長、タパ書記長らが一万人の参加者を前に中国を賛美する演説。

集会には中国大使、北朝鮮大使も出席。

13年2月

2.02 第7回マオイスト(プラチャンダ、バッタライ派)拡大代表者会議が開かれる。

(小倉清子氏は「マオイスト党が21年ぶりの党大会を開催。武装闘争を放棄し、議会政党となることを正式に決議」と記載している)

2.11 第7回マオイスト拡大代表者会議が閉幕。25年間議長を務めたプスパ・カマル・ダハール(プラチャンダ)が再任される。副議長にバプラム・バッタライとシュレスタ、書記長にポガティ。

2.27 最高裁長官が首相就任。

13年3月

3月 暫定管理内閣のバッタライ首相が辞任。キル・ラジ・レグミ最高裁判所長官を首相とする選挙管理内閣がスタート。

3月 食品検査局。通称「ミネラル・ウオーター」のうち三分の一が飲料に適してないと発表。約300社の飲料水の製造会社があるが約半数は無許可。

3月 主要4党による合意が成立。制憲議会選挙を6月21日に行うこととし、選挙管理内閣がその間の政務をとることとなる。主要4党とはマオイスト派(ダカール、バッタライ派)、共産党、コングレス党、UDMF(連合マデシ戦線)のこと。バイデイア派はこの合意はインドによる謀略だと反発

4月マオイスト派のダハール議長が、中国・インドをあいついで訪問。

5.30 政党の選挙管理委員会への登録が終了。134の政党が登録するが、バイディア派は登録を拒否。

13年7月

7.01 バイデア派がポカラで中央委員会を開催。選挙をボイコットすることを決定。最強硬派のチャン副議長は、再び武装闘争も辞さないと述べる。

7月 マオイスト内部でバッタライ副議長とダハール議長の主導権争いが激化する。バッタライ副議長は辞任を示唆。

7月 共産党統一派のマダブ・クマール・ネパール議長(元首相)、要職を辞し最高顧問に退く。

8.26 マオイスト軍を国軍に統合する作業が正式に終了。70人の元マオイストに「中尉」の階級が与えられた。ネパール軍へ統合されたマオイスト兵は1400人にとどまり、残りの約15000人は支給金を受け取って除隊。

8月 ネパール・ルピーがインド・ルピーに連動して急落。インフレに拍車をかける。

13年9月

9月 カタール駐在シャルマ大使、”カタールはオープン・ジェイル”と発言。ネパール政府は大使を召喚。

カタールでは数万人にのぼるネパール人労働者が働いているが、今年の6月から8月までに44人の死者がでている。

13年10月

10.01 バイデイア派が国連に書簡を送り、制憲議会選挙に反対の立場を強調。

10.18 IMFの現地調査団、ネパールのインフレ率が7.5%、経済成長率が4.5%、年間個人所得は721ドルと発表。(実際のインフレ率は30%以上と言われる)

13年11月

11月11日 マオイスト派など33の政党がバンダ(ストライキ)を開始する。当初は投票日までストを続けるとしたが、各方面からの圧力が強く1日のみで中止。

16日夜 インド国境が20日まで完全に閉鎖される。カトマンズは警察、軍隊が要所を警備する。

11月19日 制憲議会選挙。選挙当日の車両の使用が禁止される。 


フィリピンの米軍基地が復活しつつあるとの面川記者のレポート。
フィリピンは1991年に米軍基地撤廃を決め、翌年にはすべての米軍基地が撤去された。
しかしいまやスービック元海軍基地は事実上再基地化されつつある。

スービックはマニラの西方にあり、いわば東京に対する横須賀の位置にある。南シナ海を睨む絶好の位置にあり、湾の深さは大型艦船の停泊が可能で、国際空港も整備されている。旧米軍の設備もほぼ手つかずに残っている。

92年の返還後、スービックは経済特別区に指定された。
「観光、工業、商業、金融、投資のセンター」として位置づけられ、現在は1500の企業が進出し、9万人の労働者が働くまでに至っている。
スービック行政長官は「軍事施設から経済特区に転換した成功例」と胸を張っている。

ところがそのおなじ行政長官が再基地化を奨励しているという。
「米軍艦船の寄港はあるが、経済特区は順調に発展している」
「米国の支援で道路、電気、水道などのインフラが整った」
「米軍の寄港が増えれば経済活性化につながると期待している」

まぁ、地元としてはそういう志向になるのは致し方ないことだが、本筋としては米国のアジア重視政策と兵力配置のりバランスの一環である。中国向け軍事力の最前線に位置づけられるのは間違いない。

「南シナ海を平和の海に」というのは沿岸諸国の共通の願いのはずだが、中国の無謀な軍事進出が、南シナ海を「相互不信の海」に変えようとしている。

なんとか早く手をうってほしいものだ。

インドの民衆運動

今日,インドは世界最大の人口を抱える国です.現代インドのイメージはしばしば貧困・低開発などに象徴されますが,それはインドという巨大な国を表すイメージの一面に過ぎません.

インドには言語・宗教・社会・文化の驚くべき多様性があります.したがってそのあいだには常に強い緊張が存在しています.それは混乱を生むこともあります.しかしそれらが統一の方向に進めば,その多様性は創造力をはらむものでもあります.

インドで産業の発展が遅れた理由

もともとインドに産業がなかったわけではありません.それらは英国植民地時代に破壊されたのです.

独立後,インドは強力な公共部門を建設することで産業発展を図りました.化学,電力,鉄鋼,輸送,石炭,繊維,金融などの基幹産業は急速に拡大しました.

しかし1980年代に入ってそれまでの産業政策は大きく転換しました.LPGと呼ばれる経済構造の変革が急速に進行しました.LPGというのは自由化(Liberalization),民営化 (Privatization),世界化(Globalization)の頭文字をとったものです.

農産物の価格保証・食糧配給制度は解体されてしまいました.これらの矛盾は最下層カーストであるダーリットにしわ寄せされ,封建制度の残滓である筈のカースト制度がむしろ強化される結果となっています.


ダーリットについて

正確に言えばダーリットはカーストの一つではありません。社会の外に排除され,かつて不可触賎民と呼ばれていた人たちです.インドで4人に一人はダーリットです.ダーリットの権利は憲法に保障されていますが,社会からの非人間的な排除,資源からの排除で苦しまなければならない状況は変わっ ていません.

インドのカーストは4つのバルナ(階層)からなっています.最上位がバラモン,次がクシャトリヤ,これは士農工商の 士にあたります.次がバイシヤ,これが商です.最下層にあたるのはシュードラで,日本語で言えば奴婢ということになります.ここから先がよく分らないので すが,不可触賎民(dalits)ということで,これは階層とは関係なしに特定の職業にかかわる人ということで,日本語で言うとエタ・非人です.

他の階層の区別は分りにくくなっているのですが,ダーリットだけは特定の職業と結びついているだけになかなか差別が 解消されないようです.もうひとつは,ダーリット階層の政治力が信じられないほど強いことです。例えばビハール州の政権は長年ダーリット政党(ジャナタ・ ダル)が握っており,ウッタルプラデシュ州でも,もうひとつのダーリット政党(Bahujan Samaj)が,他の低位カースト政党と連立政権を組んでいるそうです.


民衆の苦しみ

インドでは,大都市における貧困層の爆発的増大が問題になっています。

あなたは世界の十大都市を言えますか? いろいろな統計のとり方はありますが,ムンバイ・ブエノスアイレス・カラチ・マニラ・デリー・サンパウロ・ソウル・イスタンブール・上海・ダッカというのが現在のランクです.インド亜大陸の都市が1,3,5,10位を占めているのです.絶好調のときの日本ハム並みです。ちなみに東京は15 位.ニューヨーク17位,ロンドンが20位となっています.

そこでは古臭いカースト制度がむしろ強化され,宗教原理主義の温床となっています.そして貧困者や低位カースト,女性や子供,人権活動家などに対して血生臭いテロ.虐殺・拷問が繰り返されています.

なかでもすごいが,やはり子供の人身売買の問題です。「インド・タイムス」のレポートを紹介します.

インドでは年平均3万人の子供が失踪している.その4分の1は地上から消滅したようだ.臓器移植に用いられた可能性もある.保護された女子のうち,9割は売春行為で起訴されている.そして8割が有罪となっている.いっぽう取引業者160人のうち警察に記録があるものはわずかに二人だ.明らかに警察のシステムに問題がある。


さまざまな運動の統一

この国の女性も,進んだものと遅れたものの双方から被害を受けている階層です.この国の多くの人々が生活に苦しんでいるからこそ,女性にそれがしわ寄せされているのです.

だからこの国の女性運動は,たんに性差別の問題を取り上げるのではなく,政治の革新を中心課題として離さないのです.そして異なるタイプの運動を幅広く統一する柔軟さを失わないのです.

ガンジー主義者,社会主義者,共産主義者,さまざまな社会運動,ダーリット組織がともに立ちあがりつつあります.それはただ選挙のときだけではなく,日常の市民活動の中でさえそうなのです.

コミューナリズム(宗派主義)は,グローバリズムと並んで,インド社会が闘わなければならない重大な問題となっています.世俗主義(セクラリズム)を守り支えるために,多くの組織が立ちあがりつつあります.

世界社会フォーラムのホームページから


インドから人権を考える、というのは私にとって宿題だ。
とにかくインドというのは想像を絶するひどい国だ。人間が虫けらのごとく扱われている。なぜなら虫けらのごとく大勢の人が住んでいるからだ。しらみのごとく人間が湧き出してくるからだ。
この国では何でもありだ。人間を殺すのは犬畜生を駆除するのと変わりない。
とにかくインドに行くということは、脳ミソを洗濯機に放り込むことだ。
「一切衆生」の考えはその“カオス”から生まれてくる。
「人権」という言葉も一回そこで洗いなおさなくてはいけない。



61年8月10日が、アメリカが枯葉剤の散布を開始した日だそうです。それから50年ということで赤旗が特集を組みました。
ベトナム政府によると枯葉剤を浴びたベトナム人は480万人、本人と子孫合わせて約300万人に健康被害があるとされる。とくに悲惨なのは第二世代、第三世代に移っても障害者が減らないことだ。
ハノイの医療施設の所長は「第三世代の被害者がどんどん増えている。この小さい施設ではとても対応しきれない。手の届かない被害者も大勢いるはずだ」と訴えている。
現地では血液検査などはできず、問診に頼る診断ということになっている。枯葉剤の影響ということに異論を唱える向きもあるかもしれない。以前フィリピンで公害だと騒がれた皮膚病が、実は疥癬だったという事件もあった。
しかしそういう人に訴えたい。疫学的には枯葉剤の被害は証明されている。根本的には土壌の浄化以外にないが、当面必要なのは遺伝子診断もふくめた正確な診断のための技術であり、財政的な支援であろう。
ぜひ投げ捨てないでほしい。

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