グエン・ドクさん(ドクちゃん)について
最近、この記事が読まれているようです。読まれた方、背景説明が必要なので下記をご参照ください
枯葉作戦とは何だったのか(再掲)
原著「先天障害と、枯葉剤との関連」 フエ医大
AALA関連記事は「aala_newsの編集日記」http://blog.livedoor.jp/aala_news/ に移りました(6Nov.2023) 中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 「ラテンアメリカの政治」(http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ )がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。
道 AALA 副理事長 鈴木 頌
この文章は当初、故レ・カオダイ先生(当時ベトナム赤十字総裁)が中央病院で講演していただいた際に、学習資料として作ったものです。いまから6年前、1999年のことでした。無事手術を成功させたドク君が中央病院を訪問するに際し、大幅に増補・改訂しました。あらためて、アメリカ帝国主義と闘うことなしに世界の平和も人々の健康な生活も保障しえないと痛感します。-2005年6月
アメリカにとって史上最大の戦争
ベトナム戦争は、物量の規模からいえば第二次大戦をしのぐ史上最大の戦争でした。
現在も正確な統計は出ていませんが、およそ300万人近くのベトナム人が死亡、400万人のベトナム人が負傷しました。また5万8千人以上のアメリカ兵が死亡しました。アメリカにとっても大変な戦争でした。アメリカ政府の発表によると、ベトナム戦争に使った費用は3520億ドルであったといいます。延べ650万人の若者が動員され、直接戦争に参加しました。1969年のピーク時には、南ベトナムの地に54万3千4百人のアメリカ兵が駐屯していました。
ベトナム戦争のあいだに、アメリカは785万トンの爆弾(銃弾は含まない)を落としました。あの第2次世界大戦中にアメリカが各戦場に落とした爆弾の量は205万7244トンだったことを考えると、面積あたりの爆弾はとんでもない量になります。
アメリカが北ベトナムに落とした爆砲弾は、ベトナムの各施設を破壊しつくしました。小学校から大学までの各学校2923校、病院、産院、診療所1850ヶ所、教会484ヶ所、寺、仏塔465ヶ所が灰燼に帰しました。
そのなかでも、戦争後も長期にわたり人々を苦しめているのが、枯葉剤による被害です。
枯葉剤の使用法
アメリカは1961年から、南ベトナムの解放運動を阻止するために、軍事介入を開始しています。それが本格化するのは63年にケネディが暗殺され、ジョンソンが大統領になってからでした。しかし「枯葉作戦」はそれよりずっと前、61年11月には開始されています。
「枯葉作戦」のそもそもの目的は、第一に解放戦線の隠れ家であるジャングルを絶滅させることです。そして同時に、解放区で作られる農産物を汚染し、食べられなくすることも目的としていました。
散布面積の合計は、170万ヘクタール。南ベトナムのジャングルの20%、マングローブ森の36%に及びました。これは、四国全体の面積にほぼ匹敵します。枯葉剤の散布量は、1ヘクタールあたり平均して27リットルといわれます。
対象の多くは密林で、水田や耕作地への散布は14%ほどでした。ベトナム戦争の最も激しかった60年代半ばには、解放戦線の補給路とされた「ホーチンミン・ルート」周辺の密林に集中して、大規模な散布作戦が繰り返されました。
71年に催奇形性の報告が相次ぐ中で作戦が中止されましたが、それまでに投入された薬剤は72,300立方メートル、溶剤以外の有効成分は55,000トンに及びました。
枯葉剤の種類と作用
散布された枯葉剤は、日本でいう除草剤に近い薬剤で、エージェントと呼ばれましたベトナムでは主にオレンジ、ホワイト、ブルーの3種類のエージェントが用いられました。オレンジとホワイトは、植物の成長や代謝を阻害するものです。
このうち特に大量に使用されたのがエージェント・オレンジでした。これは2・4-D(ジクロロフェニキシ酸)と2・4・5-T(トリクロロフェノキシ酢酸)の混合物です。ホワイトは、2・4-Dと4-アミノ-3・5・6-トリクロロピコリン酸の混合物です。
稲を枯らすのにはオレンジやホワイトでは効果が薄いため、ブルーと呼ばれる薬剤が用いられました。ブルーは、カコジル酸を元にしたもので、植物の脱水化をもたらすことによって、枯れさせるといわれます。
通常の散布作戦の場合、エージェント・オレンジを搭載したC123輸送機が、2機編隊で出動します。危険地帯へ出動するときは、F-4ファントムが護衛の任につくこともありました。
現場の森林上空に達すると、翼面と胴体後部のノズルから薬剤を噴霧します。散布から24時間以内に木々の葉は変色を始めます。そして1ヶ月すこしで落葉します。
つぎつぎに生まれる新芽を殺すため、除草剤は繰り返し撒かれる必要がありました。またその濃度は通常使用時の10倍に及びました。こうして枯葉剤は、密林のあらゆる植物を殺してゆきました。
ダイオキシンとは何か?(ちょっと難しいぞ)
ベトナムで使用された三種類の枯葉剤のうち、エージェント・オレンジには、大量のダイオキシンが混入していました。散布量から換算すると総量170kgに達すると見られています。
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2,3,7,8-ダイオキシン |
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史上最悪の毒物といわれるダイオキシンは、正式名称を「ポリ塩化ダイベンゾダイオキシン」といいます。化学構造はその名のとおり、二つのベンゼン核(いわゆる亀の甲)が二重酸素結合し、結合部以外の炭素に塩素が結合したものです。
ダイオキシンはひとつの化学物質ではなく、どの炭素にどのように塩素が結合するかによって性質が異なってきます。理論的には75種の同族が存在し、毒性は千差万別です。
その中では、「2,3,7,8-ダイオキシン」の毒性が最強です。この他に「コプラナーPCB」と「ジベンゾフラン」も毒性が強く、これら三つは「ダイオキシン類」として同等に扱われています。ダイオキシンの急性毒性はあのサリンの2倍、青酸カリの1000倍といわれています。
ダイオキシン類は常温で白色の個体です。水には溶けにくく脂肪にはよく溶けます。吸収されたダイオキシンは脂肪組織に蓄積します。半減期は3~10年といわれ、きわめて代謝を受けにくいとされます。
1958年にウサギが極微量のダイオキシンで死んだことが、ドイツの学者により最初に報告されました。おなじ頃、米国でもダイオキシンの混入した飼料を与えられたヒヨコ数百万羽が死んでいます。しかしダイオキシンの名を一躍有名にしたのは、ベトナム戦争で用いられた枯葉剤です。
アメリカ軍が撒いた枯葉剤によって、流産や奇形の発生が多いことが報道されるようになりました。そしてエージェント・オレンジに大量のダイオキシンが混入していることが明らかになりました。このことを通じ、ダイオキシンは史上最悪の毒物として有名になったのです。
最近ごみの焼却との関係でダイオキシンが話題になっていますが、これはダイオキシン類が1300℃の超高温でしか高速分解しないからです。サリンは、空気中の水蒸気にさらされると無害になりますが、ダイオキシンは湿気にも高温にも強いのです。低温で焼却したごみには、ダイオキシンが濃縮されて含まれてしまうことになります。
カネミ油症事件(68年)、イタリアのセベソ農薬工場爆発事件(76年)については別に報告があるので、そちらをご参照ください。「ダイオキシンの基礎知識」というページが大変よくまとまっているのでそちらもご参照ください。「母は枯葉剤を浴びた」中村梧郎著は、いま文庫本で気軽に買えますので、ぜひご参照ください。レイチェル・カーソンの「沈黙の春」もついでにどうぞ。
ダイオキシンの人体への影響(かなり難しいぞ)
カネミ油症事件ではPCBを摂取した人の中から、にきび・体重減少・肝障害・心筋障害・ホルモン異常が現れました。さらに学習能力の低下など中枢神経症状も出現しています。(正確に言うとPCBではなくポリ塩化ジベンゾフランという狭雑物質)
ダイオキシンの1日あたり摂取許容量は、農薬の100万分の1です。このことはダイオキシン類の毒性が農薬より100万倍強いということを表わしています。
農薬などの有害物質は、細胞の中の酵素・遺伝子・染色体などに直接作用して、これらの働きを傷害します。その結果、健康が侵されることになります。このようなかたちで健康が害されるには、かなり高濃度の化学物質が必要です。
ダイオキシンがなぜ微量で生物効果を発揮するかは、「環境ホルモン」説で説明されています。
ホルモンはホルモン産生臓器から分泌され、血液を流れて標的細胞に到達します。そこで細胞のなかにあるホルモン受容体と結合して細胞核に入り、遺伝子を活性化させます。活性化した遺伝子は蛋白の産生などさまざまな作用を引き起こして、人体機能を調節することになります。ホルモンの役割は情報機能だけですから、その量はミクロどころではなくナノとかピコという微量でも足りるのです。
「環境ホルモン」説は、ダイオキシンがホルモンに成りすまして、遺伝子を狂わせてしまうというものです。自ら人体を傷害するのでなく、誘導された遺伝子が暴走していくので、極微量のダイオキシンでも重篤な障害を引き起こすことが出来ることができるわけです。
この節は、ダイオキシンが先天障害などを起こす機序の説明であり、現在主流となっている仮説を提示したものです。都合上すごく単純化しています。
あくまでも肝心なことは、ベトナムでの疫学調査によって枯葉剤散布と先天奇形などの障害との関係を立証することであり、「ダイオキシン猛毒説」や、「環境ホルモン説」を立証することではありません。
ベトナム戦争における枯葉剤被害
ベトナムでもカネミ油症と同じような障害が出ました。違っているのはそれが空から降り注いだということ、あたりが薄暗くなるほどの大量の薬剤に暴露されたということです。
匂いのする雨 |
しかし急性期障害の恐ろしさもさることながら、最も恐ろしいのは生殖障害や発ガンなどの遅発性障害です。表①に、枯葉剤の撒かれた地区で行われた健康被害調査の結果を示しました。
この表からは、枯葉剤が散布されたベンチェ省の各地区で、枯葉剤散布前に比べ、流産が2.2~2.7倍に、奇形は約13倍になっことが分かります。
①ベンチェ省の枯葉剤散布地区で行われた先天異常発生調査結果
先 天 異 常 | 散布前(A) | 散布後(B) | B/A |
流産 ルンフー村 | 5.22 % | 12.20 % | 2.3 倍 |
ルンファ村 | 4.31 % | 11.57 % | 2.7 倍 |
タンディエン村 | 7.18 % | 16.05 % | 2.2 倍 |
奇形児 | 0.14 % | 1.78 % | 12.7 倍 |
出典:綿貫礼子『自然』(1983.4)
13倍という数は、統計的手法のいかんを問わない説得力を持ちますが、後ろ向き研究であり、対照群の信頼性には疑問が出るかもしれません。
また枯葉剤被曝以外の要因、とくに飢餓と栄養障害の影響を排除できません。米軍は枯葉剤を撒いたあと、枯れ木にさらにナパーム弾を落とし燃やし尽くしました。枯葉剤に強い草本科の植物に対しては、害虫の卵を散布しました。孵化した害虫はたちまちのうちに稲などを食い尽くしました。それでも残ったところには、米軍兵がヘリでやってきて、農民の目の前で火炎放射器で焼き尽くしたそうです。
先 天 異 常 | A群 | B群 | A/B |
先天性奇形 | 3.14 % | 0.21 % | 15.0 倍 |
流産 | 14.42 % | 9.04 % | 1.6 倍 |
早産 | 2.01 % | 0.61 % | 3.3 倍 |
不妊 | 2.80 % | 1.20 % | 2.3 倍 |
出典:綿貫礼子『自然』(1983.4)
表②は、「イエンバイ調査」というかなり説得力のある疫学調査です。これは北ベトナムのイエンバイという人口三万の田園都市における悉皆調査です。地域としてはまったく枯葉剤に関係なく、ただ南での戦闘に参加した元兵士が1500人ほど住んでいるだけです。このうち結婚し子供をもうけた人は約1200人います。その配偶者はいずれも枯葉剤と無関係の女性です。
この兵士を枯葉剤を浴びたA群786人と浴びなかったB群418人に分け、比較対照しています。
この表からは、枯葉剤に直接さらされた兵士の子供たちも、明らかに影響を受けていることが分かります。これは、枯葉剤が精子に影響を与えているためでしょう。
これらの調査を通じて、先天奇形の頻度が異常に高いことに気づきます。これが枯葉剤被害のひとつの特徴かも知れません。胎内死にいたらない程度の胎児異常ということがいえるかも知れません。部位別に見た先天異常は先天性心疾患が約4割、無脳症など頭部疾患が2割を占めるなど、特異的なものはありません。
アメリカでも、ベトナム帰還兵とその家族に、癌から子供の発育障害にいたるさまざまな疾病が現われました。今日では、その原因が枯葉剤に混入していたダイオキシンであったことが確実視されています。
70年代後半にはアカゲザルにダイオキシンを投与するいくつかの動物実験が行われ、きわめて高率な生殖障害の出現が確認されています。今日でもこの実験結果に異論はないようです。
1993年、アメリカ科学アカデミーが、枯葉剤暴露とさまざまな健康障害の関係を調査した報告書を発表しました。これによると、「ダイオキシンへの暴露は軟部組織腫瘍・非ホジキンリンパ腫・ホジキン病の3種類の癌を発症する可能性がある」とされています。劣化ウランの場合と異なり、米国は枯葉剤とそれによる障害との因果関係を公式に認めていることになります。
いまも残る枯葉剤汚染
戦争が終わって30年余りたった今も、枯葉剤による被害はきわめて深刻です。とくに強調しなければならないのは、ベトナム戦争が終わってから生まれた子供たち15万人に、重篤な疾患をもたらし続けていることです。
故レ・カオダイ先生の報告によれば、ベトナム全土で100万人を超す人たちが、いまなお外形的障害、ガン、神経障害、免疫障害、流産、遺伝疾患などで苦しんでいます。重大なのは、ダイオキシンによると見られる障害がいまもなお、新たに発生しているということです。
ホーチミン市(旧サイゴン)の市立ツーヅー産婦人科病院は、枯葉剤被害者のセンターとして有名な病院です。ベトちゃん・ドクちゃんが分離手術を受け、いまも暮らしている病院でもあります。多くの日本の方が訪問し、多くの報告を出していますが、どんな方にも丁寧に対応してくれるようです。
そこのデータを見ると、年間およそ3万件の出産があるようです。一日当たり100人近い分娩数です。そのうち先天障害の比率がおよそ300件、1%に達するといいます。(申し訳ありませんが、直接データに当たっていないので、それぞれの文献をお読みください.日本では妊娠早期に出生前診断が行われ、満期分娩にまで至らないケースもかなりあるため、一概に比較はできません)
03年、ドイツの Schecter らは、中部ベトナムで人々が毎日食べている食物をサンプリング調査しました。その結果、「いくつかの食品が許容濃度をはるかに越える高濃度のダイオキシン類で汚染されていた」と報告しています。例えば放し飼いのアヒル、ニワトリや川魚などです。これらの結果は、枯葉剤のもたらしたダイオキシンが、いまもなお、環境中に広く残留していることを示しています。
戦争の加害者である米国政府は、いまだに枯葉剤被害の責任を負おうとしていません。ベトナムでは昨年、「枯葉剤被害者協会」が設立されました。そして、当時枯葉剤を製造したダウケミカル社など七社を相手取って裁判を起こしました。しかし今年3月、ニューヨーク連邦地裁はこの訴えを棄却しました(現在控訴中)。
ダウケミカル社などはすでに20年前、ベトナム帰還兵の枯葉剤被害集団訴訟に対し、総額1億8000万ドルを支払うことで和解しています。「ベトナム戦争の枯葉剤被害者に支援を」(http://www.vysa.jp/aovn/)をご参照ください。
【付録】ベトナム戦争とは何だったのか
第二次世界大戦終了直後の1945年8月19日、ベトナムは独立を宣言しました。ハノイ、フエで蜂起が起こり、ベトナム民主共和国が樹立されました。国家主席にはホーチミンが就任しました。
しかしその1ケ月後、旧支配者フランス軍がふたたび戻ってきて植民地支配を復活しました。1946年9月26日、北部を解放したホーチミンは、ベトナム南部の国民に独立闘争を呼びかけました。この「第一次インドシナ戦争」は長期化し、次第にフランス軍は消耗していきました。
1954年、有名なディエン・ビエン・フーの戦いでフランス軍は、大敗を喫しました。その後のジュネーブ会議で、ベトナムは北緯17゜線を境に2つの国家に分割されました。南ベトナムでは、アメリカの後押しを受けたゴン・ジン・ジェムが指導者となりました。
ジェム政権は祖国統一を定めたジュネーブ協定を裏切り、腐敗を強め、反対者へは厳しい弾圧で応えました。ジェム政権への反対運動が激化していくなかで、1960年12月「南ベトナム民族解放戦線」が結成されました。民族解放戦線はアメリカと南ベトナム政府に宣戦布告し、「第二次インドシナ戦争」が始まりました。
アメリカは本格的な軍事介入に乗り出しました。61年にはゴン・ジン・ジェムを放逐し、軍事政権を樹立。その「要請」に応えて、膨大なアメリカ軍がベトナムへ送リ込まれました。
強大な軍備を持つアメリカ軍に対し、解放戦線はジャングルでゲリラ戦を挑みました。戦争は泥沼化し、アメリカ軍も多大な損害を被むりました。
アメリカ軍は、解放戦線の根拠地であるジャングルに、大量の枯れ葉剤を撒きました。北ベトナムへの空爆も始めました。しかし60年代後半になると、次第に解放戦線の優位が明らかになり始めました。アメリカ国内では、多大な人的損害と莫大な戦費から、次第に反戦運動と厭戦気分が高まっていきました。
ジョンソンに代わり大統領となったニクソンは、北爆を停止し、撤退への道を模索するようになりました。パリで、北ベトナムとアメリカの交渉が行われ、1973年、和平合意が調印されました。これにより即時停戦とアメリカ軍の撤退が決定しました。
その後もアメリカは、南ベトナムのカイライ政権への大規模な軍事援助を続けました。米軍を肩代わりした南ベトナム軍と解放戦線のあいだに戦闘が続きましたが、南ベトナム軍の敗勢は次第に明らかになりました。
75年初め、北ベトナム軍と解放戦線は最終総攻撃に転じ、各地で南ベトナム軍を壊滅。次第にサイゴンへ迫りました。こうして4月にはついにサイゴンが陥落し、ベトナム全土が解放されました。第二次世界大戦の終わった日から、実に30年をかけてベトナムは民族独立をかちとったのです。
【付録2】コロンビアにおける枯葉剤
アメリカは数年前から、南米コロンビアでも除草剤を大量散布しています。これはコカイン畑を絶滅させるための作戦とされていますが、実際にはコカインも一般作物も関係なく、高い空から、あたり一面にばら撒いているというのが実情です。低いところを飛ぶとゲリラに撃ち落されるからだそうです。
ベトナムで枯葉剤が問題になったのは、エージェント・オレンジに不純物としてふくまれていたダイオキシンによるものです。コロンビアではこれとは違う「グリホサート」(商品名ラウンドアップ)という薬剤が用いられているので、ダイオキシンによる汚染の心配はありません。しかし現実にはさまざまな健康被害が報告されています。
「ラウンドアップ」を製造しているのはモンサントという会社です。この会社は遺伝子組み換え大豆も製造しています。遺伝子組み換え大豆は「ラウンドアップ」に耐えられる能力を持つように遺伝子を操作されています。
この大豆を植えた畑にどっぷりと「ラウンドアップ」を振り撒けば、大豆以外には草木一本成長しないことになります。それは「沈黙の春」を髣髴とさせるおぞましい光景です。モンサント社は行きかえり往復で大もうけし、消費者は「ラウンドアップ」漬けの大豆を食わされることになります。
【付録3】ドク君の社会活動をどう見るか
4月30日の中日新聞に次のようなコラムが掲載されました。
「べトちゃん・ドクちゃん」も今年で24歳にもなったそうで、兄「べトちゃん」は脳障害で寝たきりなのだが、弟「ドクちゃん」は元気に生活し、仕事もこなしている。しかも最近半年間ほど付き合っていた彼女と別れたとの事。そしてもちろんのこと彼は「戦争の負の象徴」としてメディアにさらされ続けなければならない状況であり、戦争の悲劇を訴え続けなければならない自分の運命をも受け入れている。
ここで疑問に思ったのは果たして本当に彼は「戦争の負の象徴」としての役割を引き受ける必要があるのだろうか、ということだ。そしてメディアの役割というものをもう少し考えなければならないと思う。(中略)
彼はもちろんのことある意味で報道被害にあっているといえなくも無い。それは「戦争の負の象徴」として戦争の悲惨さを伝えるという役目を背負わされたというところである。しかし彼はその役目を真摯に受け止め、果たそうとしている。
良く練られた文章だと思います。そして読む人になにか考えさせる中身を持った文章です。
筆者は繰り返し問いかけています。 彼は「戦争の負の象徴」としての役割を引き受ける必要があるのだろうか?
重い問いかけであり、どう答えるべきか、悩むところです。 私の答えは「ある」と思います。もちろん彼にその「義務」はありませんが…
私たちにとっては、ぜひとも「役割」を引き受けてもらいたいのです。それは私たちが戦争に反対し、戦争犯罪に反対し、核兵器に反対し、枯葉剤に反対し、劣化ウラン弾に反対し、そのために声を上げようととしているからです。
その際だいじなポイントが二つあります。
ひとつはかつての「ドクちゃん」、いまのグエン・ドクさんが「戦争の負の象徴」なのか、それだけなのか? ということです。たしかにツーヅー病院の標本室にホルマリン漬けになった人々、写真に映された「ベトちゃん・ドクちゃん」の姿は、「戦争の持つ悪意」そのものです。
しかし私たちの目の前にいるグエン・ドクさんは、アメリカの「ジェノサイド」という邪悪な意志を跳ね返し、多くの試練を自らの生命力によって乗り越え、多くの人々の善意によって生かされ、今を生きているひとつの生命です。確かにドクさんは「戦争の負の象徴」ではあるが、善き人々による平和な未来を示唆する「正の象徴」でもあると私は思います。
ドクさんが生き生きと今を生きること自体が、自然と人類の生命力を確信させ、人々の善意の力を確信させ、ベトナムの山野に豊かな緑がよみがえる日、戦争も貧困もない「もうひとつの世界」が実現する日を確信させてくれるのです。
もうひとつのポイント。ドクさんの生は厳しいものです。部分的には、もうひとつの生によってあがなわれた生でもあります。その厳しい生を生きるため、成人に達したドクさんは、その生の意味を問わずにはいられないでしょう。
ドクさんが平和の実現のために自らの役割を担おうとすることは、ドクさんが「ひとりの人間」として生きようとする決意とおなじものです。だからこうして向かい合うだけで、そのことがとてもうれしく感じられるのです。
広島・長崎に原爆を落とし、ベトナムに枯葉剤を降り注ぎ、イラクに劣化ウランをばら撒いたアメリカは、いまもなお世界中で、人々に対する攻撃の手を緩めようとはしていません。そのアメリカのジェノサイド攻撃を受けながら、これまでを生き抜いてきたドクさんは、人々の平和への決意のひとつの「象徴」なのではないでしょうか。
2003年に発表された医学論文(原文は英文)の転載です。ドクちゃん関連の論文として再録しました。元原稿は私のHPです。http://www10.plala.or.jp/shosuzki/edit/ippnw/herbicides.htm
原著
いくつかの地域における先天障害と、ベトナム戦争時に米軍の散布した枯葉剤との関連について
Birth Deffects in Some Regions Were Sprayed Herbicides by US. Army in Wartime in Vietnam
グエン・ベト・ニャン(Nguyen Viet Nhan MD)
フエ医科大学の先生の書かれた研究論文です。札幌の「枯葉剤の会」から資料をいただきました。2003年発表のものです。原著は英文ですが、相当読みにくいものです。おそらく国内発表用の原稿で、ネイティブスピーカーのスーパーバイスを受けていないものと思われます。とりあえず訳しましたが、文章の細かいところで間違いがあるかもしれません。グエン・ベト・ニャンさんは、フエ医科大学のOffice of Genetic counselling and disabled children (OGCDC)の教授で、この教室はhttp://www.ogcdc.orgというホームページを持っています。このページには英語版もありますので一度ご覧ください。
1962年から1971年まで、米空軍はおよそ1900万ガロンの枯葉剤をベトナムに散布した。それらのうち、すくなくとも1100万ガロンがエージェント・オレンジであった。
ベトナムにおける枯葉剤作戦には、二つの軍事目的があった。それは、①草木を枯れさせて監視が行き届くようにすること、そして②敵の食料生産を破壊することである。
ダイオキシン(2,3,7,8-tetrachlorodibenzo-p-dioxin)は、通常TCDDあるいはダイオキシンと呼ばれる。それはさまざまな濃度で枯葉剤の中に混入している。エージェント・オレンジだけではなくピンク、パープル、グリーンにも数種類の化学物質が含まれており、動物実験では毒性を持つことが報告されている。
1994年から1998年にかけて、カナダのバンクーバーにあるハットフィールド・コンサルタント社とベトナム政府は、ハノイに「10-80共同研究委員会」を設置した。委員会はベトナムの環境中のダイオキシン濃度を確定するなどの研究に取り組んだ。
委員会は以下のような結論を得た。
①ダイオキシンに汚染された土壌が一ヶ所から発見された。そこはアルオイ(Aluoi)渓谷のア・ソー(A So)という部落の中だった。ここには以前米軍の小さな空軍基地と滑走路があったため、このダイオキシンはエージェント・オレンジに由来するものと推定された。
②エージェント・オレンジに関連したダイオキシン汚染が同じ地区で発見された。そこはアルオイ渓谷の元空軍基地の近くの養魚池で、草魚(Grass Carp)から微量のダイオキシンが検出された。その量は人間の最大許容摂取量に迫るものだった。そこがカナダその他の西側諸国であれば、摂取禁止となる可能性があるレベルである。
③空軍基地地域では、食物連鎖のパターンにエージェントオレンジが侵入していることが発見された。土壌、養魚池の沈降泥、養殖された魚、アヒル、そして人間である。(図1、とあるが、コピーが不良で意味不明)
これは、米軍が枯葉剤の散布をやめて30年たった後でも、ベトナムが未だにその影響を受けていることを意味する。だからこそ、戦争中に枯葉剤を浴びたこの地域で、次の世代として今を生きている人々に何が起きているか、我々は知りたいのである。
我々は後ろ向きコホート研究により、枯葉剤への暴露と先天障害発生との関連を調査した。調査対象地域は、中部ベトナムのクアントリ県カムロ(Camlo)で、戦時中に枯葉剤を浴びた両親とその子供たちを調査した。カムロはベトナムの中でも最も濃厚に枯葉剤を散布された地域として知られている。
対象地域としてフエ(Hue)を選んだ。ここも中部ベトナムの町であるが、戦時中に枯葉剤の散布は受けていない。
この研究において、曝露群はカムロ地区の0歳から14歳の子供すべてを対象とした。全体で19,83人である。そして非曝露群もフエの同年齢の子供すべてである。こちらは全体で74,753人である。
近代的医療技術の欠乏、弱体な保健システムなどにより精確な診断が制限されるため、我々はある種の先天障害のみをこの研究の対象とせざるを得なかった。
これらの先天障害は次の五つのクライテリアに基づいて選ばれた。①だれでも診断できる、②ありふれた障害である、③早期死亡をもたらさない、④後天的原因が否定できる、⑤“なんとか症候群”を含まない(ダウンは含む)。疾病分類はICD-10に基づいた。
結果と考察
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まずいくつかの先天障害についてカムロとフエを比較・検討する(表1および2)。一人以上の先天障害児を持つ家族の数は、以下の疾患において有意の差がある。
①口蓋裂(みつくち)、②先天性白内障、③斜視、④そけいヘルニア(脱腸)、⑤陰嚢水腫、⑥血管腫(赤あざ、青あざ)、⑦内反足、⑧多指症。
また、一人以上の先天障害児を持つ家族の数においても、カムロとフエとのあいだには有意の差が認められた。人口に対する先天障害者の比率も、カムロにおいて有意に高かった。
これらの事実は、両親の枯葉剤被曝と、彼らの子供たちにおける先天障害の出現とのあいだに相関があることを示している。相対的危険度(Relative Risk)もまた、枯葉剤被曝とこれらの障害のあいだに正の相関があることを示唆している。
これらの問題を説明するのに、これまでいくつかの仮説が提唱されてきた。
①戦争において使用された枯葉剤は半減期の短いものであった。しかし、戦争のために用いた枯葉剤は本来の使用量をはるかに超えていた。このために枯葉剤は散布地域に暮らす人々に染色体の突然変異を引き起こすことが可能となった。この染色体の変異が胎児の成長に支障をきたし、先天障害を引き起こしたと考えられる。
しかし我々は枯葉剤のこのような効果について、まだ十分な基礎研究が行えていない。
②これらの枯葉剤はやがて自然環境のなかで効果を失ってしまった。しかしダイオキシンは未だに土壌中に存在している。そして食物連鎖を通じて人体に取り込まれ続けている。それらは脂肪組織に沈着し、精巣や卵巣に取り込まれるであろう。
ダイオキシンはこれらの臓器・組織から精液・精子・卵子に移行しうる。そして受精卵の発育に問題を生じ、先天障害となって帰結することもありうる。たしかに多くの実験結果では、ダイオキシンの生殖器に及ぼす影響はネガティブとされているが、果たしてそれは確かだろうか?
③以上の二つの仮説を踏まえて
もちろん、枯葉剤の被曝と先天障害の関連については、もっと多くのエビデンスが必要である。それなしにベトナム戦争のときに枯葉剤を浴びた両親と、その子供たちにおける先天障害の因果関係を云々することはできない。
最終的結論を得るためには、もっと多くの基礎研究、もっと多面的な分野の科学者の協力が必要である。しかしベトナムの障害児はその日まで待つことはできない。なぜ私が微力を尽くしてまで彼らの不幸を救おうとするか、その理由はここにある。
もうひとつの理由は米国内のベトナム戦争復員兵のことである。彼らがベトナムに滞在したのはわずかな期間に過ぎない。その間、彼らは良い食料を与えられていた。それにもかかわらず、いまや彼らもある種の病気にかかっている。
その原因が、戦時中に枯葉剤に暴露されたことにあるということは、米国国立科学アカデミーによって確認されている。それらの病気の中には、彼らの子供におけるある種の先天障害、脊椎二分症も含まれている。
ベトナム人はこの土地で、枯葉剤が振りまかれたこの土地で、これから長いあいだ住み続けていかなければならない。ベトナム人は受精卵が形成された瞬間から、この地で成長することを義務付けられている。彼らは汚染されたこの土壌から収穫された食料を食べ続けなければならない。
我々すべては人類の一員である。米国の復員兵に起きたことがベトナム人には起きないと、はたして言い切れるだろうか?
アジアは,日米両国がともに重大な利益を有している地域であり,この地域の平和的発展と安定を促進する上で,長期的視野にたつた日米両国の協力が最も望まれるところであります。
我が国は,アジアの一国として,この地域における平和と安定の確保が,世界の平和と安定と不可分のものであり,また,我が国自身の繁栄にとつて欠くことのできないものであると考えます。そして,この地域の安定と繁栄のために積極的に貢献することが,我が国の果たすべき責任であることを自覚しております。
私が,昨年8月に行つた東南アジア諸国歴訪は,このような考え方に基づくものでありました。私は,最後の訪問地であるマニラにおいて,このアジアに対する我が国の基本的姿勢を3原則の形で明らかにしたのであります。
第1の原則は,我が国が,平和に徹する立場から,軍事大国とはならず,その余力をもつて,アジアひいては世界の安定と繁栄に貢献することを目指すということであります。このような決意の表明に対して,私が訪問した諸国はすべて強い賛意を表明しました。この事実こそは,これらの国々が我が国に何を期待しているかを雄弁に物語つております。
私がここで特に強調したいのは,このような我が国の役割は,日米安保体制に基づく協力関係の存在によつて初めて可能となつているということであります。アジア諸国が我が国に期待するものは非軍事大国である隣国として,もっぱら平和の構築に貢献することであります。私は,この点について米国の人々が正しい理解を持たれることを,強く期待いたします。
第2の原則は,我が国と東南アジアとの関係が打算に基づく関係や経済的支配の関係ではなく,相互信頼に基づいた真の友人としての関係でなければならないということであります。東南アジア諸国の間で,地域協力を通じ,国造りの努力がますます強まつている今日,我が国が,アジアの対等の「仲間」として協力する関係を確立することは,この地域の安定にとつてきわめて大きい意味をもつものと信じます。
私がマニラで強調した第3の原則は,アジア全体,なかんずく東南アジアの平和を確保するためには,社会体制の相違にもかかわらず,インドシナ諸国との間に平和で互恵的な関係を築き上げることが重要であるということであります。我が国がこのような外交努力を行うことは,東南アジア諸国間の平和な関係のために積極的な意味をもつものであると信じます。
我が国としては,今後も,以上に述べた3原則を東南アジアを始めアジア全域に対する我が国の政策の柱に据え,この地域の安定と繁栄のため,引き続き積極的に貢献していく決意であります。
私は,今回のカーター大統領との会談を通じ,米国が太平洋国家としてアジアに引き続き強い関心をもつており,今後とも,この地域の平和と安定を維持するため建設的な役割を果たすという決意に接し,大変心強く思いました。今回のモンデール副大統領によるASEAN3カ国,豪州及びニュー・ジーランードの訪問も,このような米国の決意を示したものであり,また,最近日本協会におけるマンスフィールド駐日大使,あるいは,ブレジンスキー大統領特別補佐官の講演において,米国のアジア太平洋地域に対するコミットメントが再確認されたことは,我が国としてもきわめて歓迎するところであります。
このように,米国が引き続き,具体的行動をもつてアジアに対するその関心とプレゼンスの維持の決意を示していくことは,きわめて重要であります。このことは,東南アジアにおける「米国のアジア離れ」に対する危惧を払拭し,また,我が国がアジアの安定と繁栄に対して果たす建設的な役割を支えるために,最も重要な鍵であります。
我が国としては,今後とも,米国との協力関係を基軸としつつ,この重要な地域に真の平和と繁栄がもたらされるよう,一層積極的に我が国の役割を果たしてまいりたいと考えます。
引用ついでに、結語の部分も紹介しておく。
結語
私は,新しい年の1月,国会における施政方針演説において,「世界のための日本の役割」に関する私の哲学を敷衍し,それを次の2つの基本理念として要約いたしました。
第一は,我が国は,平和に徹する信念を貫き通すことであります。我が国は永久に軍事大国への途を選ばず,世界のすべての国との友好協力及び国際社会との連帯を促進しなければなりません。
第二は,国際社会における責任を果たすことであります。我が国の有する経済力並びに人的な資源及び活力を,世界における平和と繁栄の達成という共通の目標に向け,増大しつつある国際的役割を果たさなければなりません。
私は,この基本理念こそが,今後日米友好協力関係を一層強固なものとするに当り,我が国の指針となるべきものと信じます。私は,この2つの理念を旨とし,米国と相携えて,より平和で繁栄する21世紀の世界を実現するため力を尽くす決意であります。
インド太平洋地域以外の同盟国やパートナー、特にEUと北大西洋条約機構(NATO)もこの地域に新たな関心を寄せるようになってきている。
DEC 9, 2021
The Straits Times
Tommy Koh
Singapore left out of summit
because US doesn't see it as a democracy
https://www.straitstimes.com/singapore/politics/spore-left-out-of-democracy-summit-because-us-doesnt-see-it-as-one-tommy-koh
はじめに
ベテラン外交官で元中米代理大使のTommy Koh氏の著書の出版記念講演会が開かれ、期せずして真剣な討論会となった。
「シンガポールから見た米国」を発表したトミー・コー元特使は、レクチャーのなかでこう語った。
コー氏の発言
シンガポールは、米国が招集した110カ国の民主主義サミットに招待されませんでした。
なぜなら、米国の民主党がシンガポール共和国を民主主義国として受け入れたことは一度もないからです。
まず、米国が都市国家という国家のあり方を軽視しているということです。
そしてもう一つは、この会議が当初から世界の分裂を前提した会議だということです。
2日間のバーチャル会議は、“より自由で開かれた社会” の推進にあったはずです。それを米国が推進しようという話だったのです。
しかし最初から中国とロシアは排除されていました。オブザーバーにすら招待されていません。
このような不寛容な自由とは一体何なのでしょうか。
中国とロシアは権威的で独裁的な国家と位置づけられ、いま、世界の民主主義の闘いが直面する敵と捉えられています。
しかし、そもそも、米国の国内では民主主義そのものが、さまざまな挑戦に直面しているではありませんか。
トランプ前大統領は、選挙での敗北を認めることを拒否しました。そして、1月にはトランプを支持する者がトランプの呼びかけを受けて連邦議会を襲撃しました。
マンスール米代理大使の釈明
講演の後のコメントをもとめられて、米代理大使ラフィク・マンスールは、「民主主義サミット」の目的について次のように述べている。
我々は世界的に民主主義を広げるつもりです。それは我が家(米国)でも始まることになるでしょう。
我々は非難を応酬するのではなく、取り組みや経験を交流したいと思います。なぜなら民主主義というのは、タフでハードな任務だからです。
コウ特使から不招致の理由を問われたマンスールは、「招待できる数は限られている」と答えた。
それは先週、米国国務次官補の東アジア太平洋問題担当ダニエル・クリテンブリンクが答えた中身を繰り返したものである。
そしてマンスールはこう付け加えた。
この決定は、米国とシンガポールとのパートナーシップの深さと広さを正しく反映したものではありません。民主主義についてシンガポールから学ぶことはたくさんあります。
米国擁護発言とコー教授の反論
元ニューヨークの国連常駐代表だった元外交官のカウシカン氏が、米国を弁護してフロア発言した。
米国はシンガポールを「共和国」としては招待しなかったが、その他の面では「大いに支持」しました。
しかし、コー教授はそれに反論した。
シンガポールは、
*選挙権の付与、自由で公正な選挙の定期的な実施、
*基本的な自由と権利を保護する憲法の制定、
*独立した司法および法の支配。
など、民主主義の基本的基準を完璧に満たしています。
留意すべきは、民主主義には単一のモデルはないということです。シンガポールの政治スタイルも、シンガポールならではのユニークな特徴を数多く備えています。
おそらく米国の目には、こうしたシンガポール・スタイルの民主主義は真の民主主義ではないと見えたたのではないでしょうか。
チャン教授のフロア発言
1996年から2012年にかけてシンガポールの駐米大使を務めたチャン教授は、次のように述べた。
民主主義サミットは明らかに良い考えではなく、招待された国のいくつかは眉をひそめる選択肢です。
米国は、中国とロシアの「人権侵害」とされるものに反対を表明しています。しかし、パキスタンやブラジルのような国々は、同様の批判に該当するにも関わらず招待されているのです。
コー教授の締めくくり発言
コー教授は、民主主義、人権、個人の自由を促進するという米国の主張の真意を理解する必要があると述べた。
多くのアメリカ人は、それがほとんど彼らの神聖な使命だと感じています。
これに関してはカウシカン氏も、コー教授に異議を唱えなかった。
アメリカ人は、彼らの魂を祝福します。それは発作的なものであり、彼らは定期的にこの発作を繰り返します。そして、そのことを知っている私たちは、これらの発作にもかかわらず、依然として彼らを愛しています。
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民主主義サミットへの「参加資格」があるか否かを、米国が勝手に線引きしたことに違和感を覚えます。民主主義は米国の専売特許ではありませんし、サミット自体も何かを決める場ではありません。
招待する、しないではなく、目的とアジェンダを明確にしてオープンに参加を呼びかけ、出席の是非は各国に委ねた方がスマートだったのではないでしょうか。米国はアジア各国に対して「米中いずれかという踏み絵を迫ることはしない」と言っていますが、米国の方から選別をするなら同じことでは?稚拙に思えるやり方に、米外交の劣化を感じるのは私だけでしょうか。
AUKUSは、これまで議論してきたQUADと同様です。それは複雑で急速に進化する地政学的環境に「ボカし操作」を加え、それに従わない場合のコストをASEANに示しています。
AUKUSは、「ASEAN加盟国の意見はもはや重要性を持たない」という戦略思考に立っています。この地域での運営方法と戦略は、これからはスーパーパワーが決めるものなのです。
AUKUSは、他の諸国(中国のこと)がこの地域、特に南シナ海で、より攻撃的な行動を取るように仕向けることになるでしょう。マレーシアは、ASEAN創設国が1971年に合意したように、この地域が引き続き「平和、自由、中立の地域」であるため、引き続き努力します。今の状況のもとでは、この原則(1971年合意)に対し支持を保留する国もあるかもしれませんが、その人たちにもこの基本原則はいくらかの圧力となるでしょう。
“軍部の皆さんへ”
あなた方は私を歴史に書き留めることができますあなた方の苦くねじれた嘘で、あなた方は、私をほこりだらけの場所に投げ込み踏みにじることができます。が、それでも、ほこりのように、私は立ち上ぼるでしょう。
私たちは民主的に選出されたミャンマーの指導者です。だから、自由で民主的な世界が私たちを拒絶するなら、それは彼らが民主主義を拒絶することを意味します。米国などの国は、ベネズエラの現政府を違法と判定し、野党指導者フアン・グアイドをその国の合法的な指導者として認めました。同じようにわたしたちも承認されるべきです。
ASEANにはお互いの問題についてコメントしないという原則がある。それを踏まえた上でインドネシアは、交渉による解決を奨励する努力を続けている。暴力の急増は容認できない。インドネシアはこの種の行為を強く非難する。ミャンマー国民の安全と幸福が最も重要である。ミャンマーに民主主義、平和、安定を取り戻すために対話を追求すべきだ。インドネシアは不干渉の原則を継続的に尊重しながら、ミャンマーに支援を提供していく。
スマホのインターネットが完全に遮断されたため、情報の確認が困難になっています。WiFiはほぼ完全にアクセスできなくなりました。軍事評議会の報道窓口にコメントを求めましたが、電話に出ません。
警察が発砲したとき、エンジェルは私に叫びました。 『座って!座って!弾丸が飛んでくるよ。まるであなたは舞台に立っているようだ』
これが私が何かを語る最後かもしれない。あなたをとても愛している。忘れないでください。
彼女は幸せな女の子でした。彼女は家族を愛し、父親も彼女をとても愛していました。いまは戦争中ではありません。人々に実弾を使用する理由はありません。彼らが人間であるならば、そうしてはいけないはずです。
軍用トラックの車列が通過したとき、14歳の少年を含む4人の子供が兵士に射殺された。兵士たちは彼の体をトラックに積み込み、現場を去った。
暴力はますます深刻になっている。緊張が高まりとても恐ろしい。明日何が起こるかわからない、不安だ。最近では銃声がより近くで聞こえるようになった。
この農業法は農業分野の規制緩和を狙ったものです。農業団体は、農産物の買いたたきを招き農家の経営を脅かすとして、完全撤廃を求めてきました。去年末にデリーでの集会を開催しようと、多くの農民が地方から集まりましたが、政府は集会の開催を阻止しました。農民はそれからの2ヶ月間、州境で泊まり込みの抗議行動を続けてきました。…厳しい寒さの中ですでに100人以上の農民が命を失いました。政府・与党はマスコミを使って、農民の抗議行動を「反国家的」「過激な反社会分子」「一部の富裕農民の運動」と呼ぶなど、中傷と分断を図ってきました。この日は一部のデモがルートをそれて市の中心部に向かい、警官隊と衝突。警察は催涙ガスと警棒による殴打で対応しました。農民団体は、農民の大義を傷つけることを狙ったものだ、と暴力を非難、インド共産党(マルクス主義)のイエチュリ書記長は、「今日の上お経はモディ政権が作り出したものだ」と批判しました。
最初にタイの経済・社会状況をマクロに抑えておきたい。
タイ王国は、富の約70%を1%の富裕層が保有する世界一の格差社会である。格差が放置されていることから内需の増大は見込めず、中間層が育ちにくい環境が続いている。
格差が大きいということは都市と地方の格差も大きいということであり、貧富の差に加え地方の文化格差も大きい。
したがって地方から都市への人口圧力も大きく、バンコクのスラム街では、約200万人が不衛生かつ狭小な環境での生活を強いられている。そこに住む人は犯罪、流行病、家庭内暴力・性的虐待、麻薬に悩まされていて、識字率も低い。
さらに最近では国際都市バンコクに隣国ミャンマーやラオスからの経済難民も押し寄せている。
(バンコクのスラムは、国境を越えて人々が暮らす より)
なお民主派学生・知識人のたたかいは、農村地帯の貧農を支持基盤とするタクシン親子の政権とは性格を異にしており、同一視することはできない。むしろ民主化運動参加者には、タクシン流政治を不潔だとして嫌悪感を持つ人も少なくない。長期的に見てこれは幸せなことではないと、私は思う。
民主派の要求は政治体制の変更である。しかしタクシンの政治は経済の変更である。それは01年の首相就任時に掲げた貧困対策の三本柱、すなわち①農民負債の返済猶予、②低額の健康保険、③庶民銀行の設立だ。
貧困層を味方につけなければ闘いは敗れるだろう。経済政策を掲げなければ、民主化は中途半端に終わるだろうと、私は思う。
以下は今年に入ってからの民主化の動きの経過である。
2020年 タイ民主化運動
1月
2月
民主化運動を担う政党、「新未来党」(FFP)が憲法裁判所により解散命令を受ける。新未来等は昨年の民政移管選挙で躍進し変革の担い手として期待されていた。
3月
末 プラユット首相が非常事態を発令。その後数度にわたり延長される。
4月
は全土を対象に外出禁止令を発動する。
5月
新型コロナウイルスにより非常事態宣言。バンコクはロックダウンされる。
6月
初め 最大与党・国民国家の力党で派閥抗争が表面化し、執行部の半数が辞表を提出する。
4日 民主活動家ワンチャラーム・サタシット、亡命先のカンボジアで行方不明になる。
市中感染の減少を踏まえ、夜間の外出禁止措置が解除される。非常事態宣言は解除されることなく、繰り返し延長される。
7月
ロックダウン解除に伴い、学生のデモが再拡大。中高生、女学生を中心のデモとなり、学内えの抗議活動と結合して展開される。
さらに軍事政権の支持派もデモに参加するなどかつてない広がりを見せる。
8月
3日 人権派のアノン弁護士が集会で演説。「タイ社会に寄り添う王室を」と呼びかける。
16日 バンコクの集会に、1万人ないし3万人が結集。クーデター以来、最大規模となる。議会の解散、新憲法制定、批判者に対する弾圧中止の3項目の要求をかかげる。さらに国王ラーマ10世への批判も公然と掲げられる。
9月
5日 バンコクの集会。三本指のピースサインと手首に巻いた白いリボンの高校生が目立つ。
19日 タマサート大学を占拠した学生が、隣接する王宮前広場に進出。5万人以上が参加し、14年以来最大規模となる。リーダーの一人は、国王と王室について糾弾し、王室改革が必要だと訴えた。
20日 続開集会、王室関連予算の透明化や王室への表現の自由などを求めた請願書を警察当局に提出。
10月
13日 バンコクで最大規模の反政府集会。その後連日の集会とデモを開催。
14日 デモ隊の脇を王妃が乗った車が通る。デモ参加者らは3本指を立てて罵声を浴びせる。
15日 プラユット政権は本格的な弾圧に乗り出す。非常事態宣言を発令し、5人以上の集会を禁じる。学生はSNSで直前に複数の開催場所を告知。数カ所に分散して交差点や道路を占拠。
15日 メディア側は規制は「報道の自由を脅かすもの」と反発。
16日 放水によってデモを強制排除。この場面はSNSでライブ中継され批判が集中する。集会はいったん解散。夕方から市内の交差点で集会開催。
16日 プラユット首相が記者会見。「権力を見くびらない方がいい。誰もがいつ死ぬか決まっている。病気か事故か、それともほかのことで。それは今日か、明日かもしれない」と恫喝。
16日 アムネスティ・インターナショナルは「平和的な抗議行動に対する過剰で不当な力の行使で、合法性や必要性を欠いている」との声明。
16日 24時間で20人を越えるデモ指導者らを逮捕。
17日 市内各地に分散してゲリラ集会が開かれ、交通網がまひする。この五月雨集会とデモは、その後も中高生を主体に連日続く。
17日 インラック前首相がSNSでプラユットの退陣を促す。
18日 この日は戦勝記念塔前でメイン集会。約1万人が集まった。
21日 プラユット首相、非常事態宣言を解除すると発表。議会に解決を委ねるよう呼び掛ける一方、辞任の要求は拒否。逮捕者の釈放も拒否。
21日 バンコク中心部で1万人規模のデモ行進。「プラユット首相は退場を」と連呼しながら首相府付近まで進む。
23日 ワチラロンコン国王やスティダー王妃が王室支持者に「あなたはとても勇敢だ。ありがとう」と声をかけた。
24日 タイ議会、憲法改正の判断を先送りする。現行憲法(17年制定)は、250人の上院議員を軍が任命する独裁憲法。
25日 ふたたびバンコク都心部の交差点を占拠し、抗議集会を開催。
11月
16日 国会で憲法改正について議論することが決まる。与野党と反体制派に近い市民グループが計7案を国会に提出。
17日 黄色のシャツの王室支持派がデモ隊と衝突。50人以上が負傷する。デモ隊の一部はバリケードを突破し、国会に向かう。
18日 タイ国会、憲法改正草案を検討する会議の設置を決める。野党がもとめた王室改革などは、改正対象から外れる。
ベトナムの外交政策
By Shindo
はじめに
7月23日、ポンペオが猛烈な反中国と反共産主義の演説をした。注目を引いたのは、ベトナムが、台湾、日本と同列に親米国として扱われていることだ。
米越関係はどう変わってきているのか
「抗米救国の戦い」を20年にわたり戦ったベトナムが、今や、米国と密接な関係に入っている。
以下の年表を作ってみた。
1995年、ベトナム、アメリカとの国交を正常化
2009年以降、南シナ海を航行する米空母が、ベトナム軍・政府関係者と提起交流を開始。
2010年8月、次官級の米越国防政策対話の初会合。これに合わせ空母「ジョージ・ワシントン」が共同演習に参加。
2011年9月、「防衛協力の推進に関する覚書」が締結される
2013年7月、オバマ大統領、米越包括的パートナーシップを提唱
2015年7月、ベトナム共産党書記長が訪米。米越共同声明発表
2016年5月、対越武器禁輸措置が完全撤廃される。
2016年10月、米艦2隻がカムラン湾に入る。
2017年8月、リック国防相が訪米し、マティス国防長官と会談。米空母のベトナム寄港で合意。
2017年11月 トランプ大統領がハノイを訪問し、チョン共産党書記長と会談。
2018年3月 空母「カール・ビンソン」がダナンに寄港。
このように米越関係は驚くほど親密である。
日越関係はどう進んでいるのか
日本との関係も進展している。内容省略。
東アジアの持続的平和共同体をめざして
新藤さんはベトナムの外交政策を評価したうえで、下記のごとく総括している。
ベトナムは社会主義の道を歩んでいると言い切れるでしょうか。
ベトナムの外交政策には、中国包囲策としてのパートナーシップが見え隠れしています。
最後に新藤さんは、諸外国との原則的関係として以下の点を強調している。
① 実情をリアルに見たうえで、友好と連帯を進める。
② 非同盟運動の原則(平和5原則+バンドン十原則)
③ 貧困・格差の解消、地球環境の保全
この記事は新藤さんの書いた「ベトナムの対米、対日外交政策」を読んだ私の感想文である。
私が思うに、非同盟諸国との付き合いにはいろいろ事情があるということだろう。
その辺も察した上でたがいに礼儀を尽くし、友好を深めるというのが新藤さんの主張だと思うので、私もまったく賛成である。
「小異を残して大同につく」の視点から、コントロヴァーシャルな話題はできれば避けたいし、手のひら返し的な評価や、ジャーナリスト的なほじくり返しもやりたくない。
しかし人権絡みの議論が出る際は、国際的な評価が迫られる場合も出てくる。その際は、とくに人権そのものよりも、人権の基礎となる社会権・生存権の状況を判断することが重要だろうと思う。そうすれば、乏しい情報を元にいたずらに打撃的な評価をする愚は避けられるだろうと思う。
これを新藤さんの3つのポイントに加え、第4のポイントとして提案しておきたい。
1.人権侵害はあった。報告書は戦争犯罪や深刻な人権侵害、違法行為があったと認定。「一部の治安部隊要員が武力を過剰に行使し、住民殺害や住宅破壊に関わった」と指摘しながらも、「引き金になったのは武装集団による警察署などへの攻撃だ」と断じた。2.ジェノサイドは認められないすなわち、治安部隊の行為が特定集団の壊滅を目的としていたことを示す証拠はない。だから、「ジェノサイドの意図があったと合理的に結論付けられない」という論理である。
入手可能な情報に基づいて、戦争犯罪、重大な人権侵害、および国内法違反が2017年8月25日から9月5日に発生した…これらの重大な罪と違反は複数の者によって犯されたが、ミャンマーの治安部隊のメンバーが関与したと信じる合理的な根拠がある。
ウィキペディアによれば、マナスには、2001年に米空軍基地が設置されました。アフガニスタン作戦の拠点でしたが、2014年に米軍は撤退しています。
退任後も影響力を残す前大統領にジェエンベコフ氏が反発し、友人同士だった2人はすっかり険悪になった。
オーソドキシー(正統派)には世界の平和に関わる深刻な疑念がある。①非ムスリムを差別と憎悪の対象とし敵視する。②世界単一のイスラム国家樹立を究極の政治目標にもつ。③国家法・人定法を神の法ではないと否定する。④ムスリムがたたかう紛争に参加することを義務付ける。