1904年(明治37年)

2月04日 日本、対露開戦を決定(緊急御前会議)

1月23日 韓国、日ロ開戦の際は中立の立場をとると声明。

04年2月

2月04日 緊急御前会議が開かれ、対露開戦を決定。

2月06日 小村外相が、ロシア公使に国交断絶を通告。栗野公使がロシア政府に国交断絶を通告。

2月06日 聯合艦隊(第一艦隊、第二艦隊)が佐世保を出港。旅順に向かう。

2月08日 陸軍第12師団(小倉)の一部が仁川港に上陸。

2月08日 第一艦隊の駆逐艦数隻が旅順口を夜襲攻撃。港外に停泊していたロシア艦艇数隻に損傷を与えた。

2月09日 仁川沖で上陸部隊の護衛にあたった第二艦隊第4戦隊が、仁川港停泊中のロシア艦を攻撃。巡洋艦ヴァリャーグほか1隻を自沈に追い込む。

2月09日 連合艦隊主力が旅順港外のロシア艦隊に砲撃。双方被弾を受け戦闘終了。その後連合艦隊は旅順港を離脱し、牙山湾に向かう。

2月10日 日本、ロシアに対し宣戦布告を行う 日露戦争勃発。清は中立の立場をとる。詔勅に曰く、「韓国の存亡は実に帝国安危の繋がるところ」と。

2月11日 日本軍上陸部隊がソウル市内に入る。一部はそのまま北上し、平壌の確保を目指す。

2月11日 日本、大本営を宮中に設置

2月17日 日本、ロンドン市場での英貨公債募集を閣議決定。当時の国家予算2億5千万円。その6倍の戦費が予想される。

2月23日  林公使、高宗に日韓議定書を強制。開戦前に「局外中立宣言」をした大韓帝国における軍事行動が可能となる。

第一条 …東洋の平和を確立するため、大韓帝国政府は大日本帝国を確信し、施設の改善に関しその忠告を容るること。
第四条 …大韓帝国の…領土の保全に危険ある場合は、日本はすみやかに臨機応変の措置をとるべし。而して大韓帝国政府は…十分便宜を与うること。日本は…軍略上必要な地点を使用するを得ること。

2月24日  ロシア旅順艦隊は正面決戦を避け旅順港に待機。日本軍は第1次旅順口閉塞作戦を展開。輸送船5隻を沈めようとするが、湾口に至る前に沈没。

04年3月

3月06日 日本艦隊、ウラジオストック港を砲撃

3月11日 日韓議定書を受け、韓国駐剳(ちゅうさつ)軍司令部が設置される。

3月11日 平壌の外港の鎮南浦に近衛師団と第2師団が上陸を開始。

3月27日 第2次旅順口閉塞作戦。いずれの船も目標到達前に撃沈される。この作戦で広瀬武夫少佐が戦死。

3月29日 鎮南浦の上陸作戦が完了。陸路北上した第12師団と合流し、第1軍(黒木司令官)を編制。

04年4月

4月13日 海軍、旅順港の機雷封鎖を試みる。旅順艦隊の戦艦ペトロパブロフスク、触雷により撃沈。ロシア太平洋艦隊のマカロフ司令官が戦死。

4月25日 ロシアのウラジオストク巡洋艦隊が元山を砲撃。さらに通商破壊戦を展開。輸送艦金州丸を撃沈。

4月26日 第一軍、鴨緑江渡河作戦を開始。

04年5月

5月01日 鴨緑江会戦。日本第1軍がソ連軍東部兵団の拠点の九連城を占領。

5月03日 第3次旅順口閉塞作戦。結局、閉塞作戦は失敗に終わる。

5月05日 第二軍(奥司令官)が遼東半島西岸の塩大墺に上陸。大連確保を目指し金州城・南山へ向かう。

5月15日 ロンドン・ニューヨークで外債募集開始。

日銀副総裁の高橋是清は、ロンドンで500万ポンドの外債発行に成功。さらにニューヨークの金融街からも500万ポンドの外債引き受けと追加融資を獲得。

5月15日 旅順攻撃に参加した戦艦「八島」と「初瀬」がロシアの機雷によって撃沈。巡洋艦「春日」が「吉野」に衝突。「吉野」が沈没する。

5月18日 韓露間のすべての協約が破棄される。

5月19日 独立第10師団、大狐山に上陸。後に第4軍として拡大再編される。

5月25日 第二軍、金州城への攻撃を開始。

5月26日 金州城を占領。引き続き南山陣地への攻撃を開始。塹壕戦で守るロシア軍により死傷者4,000の損害を受ける。ロシア軍は弾を撃ちつくし退却。

5月30日 第二軍、大連を占領。

5月31日 海軍の封鎖失敗を受け、旅順攻撃を主任務とする第3軍が編成される。乃木希典中将が司令官に任命される。

04年6月

6月08日 第3軍司令部が大連に到着。第2軍の第一、第十一師団を加え編成を完了。

6月13日 日本第2軍が北進を開始。ロシアも旅順救援のため4万の兵力を南下させる。

旅順孤立を受け、ロシア極東総督アレクセーエフと満州軍司令官クロパトキンとが対立。クロパトキンは全軍を遼陽付近に集中して日本軍を迎え撃つ方針だったが、アレクセーエフの旅順救援の主張に応じ、軍の一部を南下させた。

6月15日 南下したロシア軍と第二軍(3万3千)が得利寺で対決。陣地戦に入ろうとしたロシア軍に対し、日本軍が両翼からの回り込みに成功。ロシア軍はこれを見て撤退。

6月15日 ロシアのウラジオ艦隊が対馬海峡で輸送船常陸丸、和泉丸を撃沈する。

6月20日  日本の満州軍総司令部が編成される。総司令官は大山巌元帥、総参謀長は児玉源太郎大将。なお海軍をふくめた日本軍の参謀総長は山縣有朋。

6月23日  日本艦隊、第三軍と呼応して、ロシア艦隊と旅順港外で交戦

6月 明石元二郎大佐、大使館付武官として情報活動をはじめる。革命運動への支援工作を進める。

04年7月

7月26日  日本第3軍、旅順攻撃を開始

04年8月

8月07日 第3軍が旅順要塞の前面に広がる大狐山と小狐山のロシア軍陣地を砲撃。これに呼応して海軍陸戦重砲隊が旅順港内の艦船に向け砲撃を開始。

8月08日 日本軍が元山に上陸。ウラジオから派遣されたロシア軍陸軍部隊を駆逐。

8月10日 黄海海戦。補給路を絶たれたロシア旅順艦隊は旅順を出港。ウラジオストクに向かおうとする。港外の日本連合艦隊との間で砲撃戦が開始。ロシア艦隊は旗艦「ツエザレウィチ」が被弾するなど、大きな損害を受けて旅順へ引き返す。

8月12日 ウラジオストックのロシア艦隊が旅順救援のため出港。

8月14日 蔚山沖海戦。日本第2艦隊が蔚山沖でウラジオストック艦隊3隻の捕捉に成功。1隻が航行不能となり、2隻はウラジオ港に引き返す。

8月19日   第3軍が第1回旅順総攻撃を開始。死傷者1万5千人の大損害を受け失敗。

8月21日 旅順で歩兵部隊の突撃攻撃が繰り返されるが、いずれも大量の犠牲を出し敗退。

8月22日 第1次日韓協約の調印。韓国政府の主要部門に日本人顧問が置かれる。これにより外交権が事実上奪われる。

8月24日 第1,2,4軍からなる満州軍が遼陽に迫る。

8月24日 ロシア、バルチック艦隊の派遣を決定。

8月26日 遼陽会戦が始まる。日本軍13万、ロシア軍約22万が激突。第2軍、第4軍が正面、第1軍が右側面を攻撃。正面は首山堡でロシア軍の強力な反撃を受け停滞。

8月31日 第1軍が右側面からの進出に成功。遼陽東北の饅頭山を確保。ロシア軍の退路を絶つ構え。

04年9月

9月04日 ロシア軍(クロパトキン司令官)は無傷で奉天方面へ撤退。橘中佐の奮戦が大宣伝される。

9月15日 元山を出発した日本軍1個師団と1個旅団が咸興を占領。

9月19日  第2回旅順総攻撃。203高地以外の作戦目標をほぼ達成。

04年10月

10月09日 沙河会戦。クロパトキン軍が反撃したため沙河の線でにらみ合いとなる。

10月15日 バルチック艦隊(ロジェストヴェンスキー司令官)が日本に向け出港。

11月26日   第3回旅順総攻撃が開始される。203高地の攻略は児玉源太郎が指揮。

12月04日 203高地の占領を達成。その後も東北方面への攻撃を続行。

12月31日 第4回旅順総攻撃を開始。

 

1905年(明治38年)

05年1月

1月02日 東北方面の防衛線を突破して望台を占領。これを受けてロシア軍のステッセル司令官は降伏。ここまでで日本軍は6万の死者を出す。

1月05日 乃木、ステッセルの両将軍、水師営で会見

1月22日 血の日曜日事件が発生。生活苦の打開・立憲政治の実施・日露戦争の即時停止などを求めてデモ行進していた民衆に対して軍が発砲。第1次ロシア革命が勃発する。

1月25日 満州のロシア軍、援軍を受け反撃に出る。日本軍の最左翼に位置する黒溝台方面で激戦となるが、戦線突破できず。

1月28日 ロシア軍、黒溝台からの撤退を指示。

1月29日 平民新聞、廃刊に追い込まれる。

2月21日 奉天会戦が始まる。旅順の戦いを終えた第3軍が満州戦線に参加。奉天に向け進軍開始。ロシアは予備を投入し抵抗。左翼の第3軍に攻撃が集中。

05年3月

3月10日 クロパトキン司令官が奉天撤退。満州軍が奉天を占領。ロシア軍のヒットアンドアウェイ戦法の前に満州軍は満身創痍となる。

3月 ロシア軍は昌図・開原の線に新たな防御線を設定。バルチック艦隊の到着を待つ。

05年4月

4月21日 日本、講和条約大綱を閣議決定

05年5月

5月01日 日本、樺太上陸作戦を準備(第13師団担当)

5月27日 日本海海戦。バルチック艦隊は艦艇のほとんどを失い、司令長官が捕虜になる。日本の喪失艦は水雷艇3隻にとどまる。

05年6月

6月01日 日本の高平公使、ルーズヴェルト大統領に日露講和の斡旋を希望

6月09日 ルーズヴェルト大統領、正式に日露両国に講和を勧告

6月12日 ロシア、講和勧告を受諾。

6月14日 戦艦ポチョムキン号の反乱が発生。ロシア第一次革命が拡大。

05年7月

7月03日 小村寿太郎外相、高平小五郎駐米公使を講和全権委員に任命

7月07日 日本の第13師団、南樺太に上陸

7月24日 日本軍、北樺太に上陸を開始

7月29日 米陸軍のエドワード・タフト長官が訪日し桂首相と会談。極東における両国の勢力範囲を定めた桂-タフト覚書が成立。米国のフィリピン領有と朝鮮における日本の特殊権益を承認。

7月31日 樺太のロシア軍が降伏

05年8月

8月10日 アメリカのポーツマスで、日露講和会議がはじまる。日本は樺太の割譲、遼東半島の割譲、朝鮮の支配権、賠償金を要求。ロシア側はこれらを全面拒否。

8月12日 第2回日英同盟協約調印。

8月23日 日本、南樺太の割譲と12億円の賠償金をもとめる。ロシアは賠償金について全面拒否。

05年9月

9月01日 咸鏡道の日本軍、ロシア国境の豆満江河畔に達する。

9月05日 日露講和条約調印。日本は賠償金を断念。領土(南樺太)、権益(朝鮮)要求を認めさせる。

犠牲者の数字を見る限りはとても勝利とはいえない。ロシア側の被害は戦死者2万5331人、負傷者:6127人、病死:1万1170人。これに対し日本側は総動員数107万人。うち戦死者4万7152人、負傷者:1万1424人、病死:2万1802人であった(一説では死傷者21万人)。逆に言えば見事な外交上の勝利であったとも言える。

9月05日 日比谷焼打事件。3万人の講和反対集会。一部が暴徒化し警察、新聞社のほか米大使館にも襲撃。

9月06日 東京市、および東京府の5郡に戒厳令

05年10月

10月15日 日露講和条約の批准通告・発効

10月16日 日本、日露講和条約を公布、さらに平和回復の詔勅を下す

10月30日 ニコライ2世が、立憲政体の採用と国会の開設を約束。ロシア第一次革命は収束に向かう。

05年11月

11月17日 講和条約を背景に、第2次日韓協約(乙巳保護条約)が調印される。この条約に署名した韓国政府閣僚は乙巳五賊と呼ばれる。

第一条: 日本は…今後韓国の外交に関する関係を管理指揮する。第二条: 韓国は今後日本の仲介によらずして国際的条約もしくは約束をなさざることを約す。

05年12月

12月21日 第1次桂太郎内閣総辞職

12月22日 満州に関する日清条約調印

1907年 帝国国防方針が決定される。第二次日露戦争を想定し、平時25師団、戦時59師団の計画。朝鮮軍の増強が焦点となる。

この後の経過は韓国戦後史年表 0へと続く