1896年(明治29年)
2月09日 朝鮮政府内の親露派が朝鮮皇帝の高宗を確保し、ロシア公使館に移す(露館播遷)。
2月11日 親露派のクーデターが成功。王室内の親日派が全滅し、日本は政治的に大きく後退。
3月 造船奨励法、航海奨励法公布。各種増税法公布。
3月31日台湾総督府条例公布により、軍政から再び民政に移行
4月1日 大本営の解散
4月20日 日本勧業銀行法・農工銀行法など公布
5月01日 小村外相がソウルでロシア公使と第一次日ロ議定書(小村・ウェーバー協定)を交換。日ロ両軍が“居留民保護のため”ソウル、釜山、元山に兵員を配置することで合意。
6月03日 李鴻章、ロシアと対日共同防衛の密約を結ぶ。ロシアは満州を縦断してウラジオに至る東清鉄道の敷設権を獲得。
6月09日 ニコライ二世の戴冠式に出席した山県特派大使、露外相ロバノフと朝鮮問題第二次議定書(山県ロバノフ協定)に調印。朝鮮への対等な権益、朝鮮警察・軍への不干渉で合意。
7月21日 日清通商航海条約(不平等条約)締結。
7月 李氏朝鮮でも英米露仏などに鉱山採掘権、鉄道敷設権などが供与される。
10月12日 李氏朝鮮の高宗、ロシア公使館から王宮に帰り、皇帝として即位。国号を大韓帝国と改称する。ロシアの要求により、イギリス人海関税務司を解任し、ロシア人アレクセーエフを登用。
11.14 ドイツ軍艦、膠州湾を占領
12月15日 ロシア軍艦、旅順入港
1897年(明治30年)
10月12日 朝鮮国、国号を大韓帝国に改称。朝鮮国王も大韓皇帝となる。
1898年(明治31年)
3月27日 ロシアは清国から大連・旅順の租借権と、ハルビン-大連間の鉄道敷設権を獲得。ドイツが膠州湾の租借権、膠済鉄道敷設権、鉱山採掘権を獲得。
4月25日 西・ローゼン協定。朝鮮において日露が政治的に対等であることを確認。
9月21日 戊戌(ぼじゅつ)政変
98年 イギリスが九龍半島と威海衛(威海)を租借。
1899年(明治32年)
3月 中国山東省で義和団が蜂起。「扶清滅洋」を唱え、急速に勢力を拡大。
9月06日 米西戦争が終了。フィリピンを併合したアメリカは、ジョン・ヘイ国務長官が門戸開放宣言を発表。
99年 フランスが広州湾を租借。
1900年(明治33年)
6月20日 義和団、北京の各国領事館を包囲。北清事変と呼ばれる。清の西太后は義和団を支持し、各国に宣戦布告する。
7月 米・英・仏・ロ・日など8カ国が共同出兵。ロシアは混乱収拾のため満洲へ侵攻し、全土を占領下に置く。
1901年(明治34年)
9月07日 清国、義和団事件の最終議定書に調印。
10月08日 林董(はやし・ただす)駐英公使、イギリスと同盟交渉開始。イギリスは、ロシアの南下に危機感を持ち、「栄光ある孤立」外交を転換。
12月02日 伊藤博文、ロシア外相と日露協定について交渉を開始
12月06日 伊藤博文、日露協定を先決とし、日英同盟締結の延期を桂首相に勧告する。
政府内では小村寿太郎、桂太郎、山縣有朋らの対露主戦派と、伊藤博文、井上馨ら戦争回避派との論争が続いた。 |
12月23日 伊藤博文、ロシア外相に日露協定交渉打ち切りを通告
1902年(明治35年)
1月30日 第1回日英同盟協約が調印される。日本が二国以上と戦う時は、イギリスの参戦を義務づける。日露が戦った場合、清が参戦すれば英国も参戦するということになり、清は動けなくなる。
4月08日 ロシアと清の間で満州還付条約調印。3段階の撤兵計画が確認される。
4月21日 桂太郎首相・小村寿太郎外相・伊藤博文・山県有朋、京都で対ロシア方針を協議。
山縣の別荘・無鄰庵で伊藤・山縣・桂・小村による会談。記録類によればむしろ伊藤の慎重論が優勢であったとされる(ウィキペディア) |
6月14日北京駐在の各国公使、義和団事件の賠償金についての配分議定書に調印
1903年(明治36年)
2月7日 ロシア、満州からの第2次撤兵を中止。実質的領土化を図る。
4月18日 ロシアは満州還付条約を履行せず。撤兵の交換条件として7項目要求を持ち出す。清は要求を拒否。
5月 ロシア軍、鴨緑江を越えて大韓帝国領内の龍嚴浦に、軍事根拠地の建設を開始。
6月30日 内村鑑三、万朝報で非戦論を展開。
内村の非戦論はちょっとピンぼけのところがある。内村は、日清戦争は結局「利欲のための戦争」であったとする。その結果、「朝鮮の独立は却て弱められ、支那分割の端緒は開かれ、日本国民の分担は非常に増加され、東洋全体を危殆の地位にまで持ち来つた」と非難している。結局何をもって戦争反対の理由としているかが分からない。 |
7月23日 林董駐イギリス公使、日露交渉開始についてイギリスの諒解を求める。
8月12日 ロシア、旅順に極東総督府を設置。
8月12日 栗野慎一郎駐ロシア公使、ロシア政府に、6ヵ条の日露協商基礎条項提出。中国東北部・朝鮮半島に関する交渉開始
日本側は朝鮮半島を日本、満洲をロシアの支配下に置くという妥協案、いわゆる満韓交換論をロシア側へ提案した。しかしロシア側では主戦論が優勢であった(ウィキペディア) |
8月29日 戦争回避論をとなえたウィッテが大蔵大臣を更迭される。
10月03日 ロシア、日本の提出した日露協商基礎条項を拒絶、対案を提出。小村外相とローゼン駐日ロシア公使との交渉開始
ロシアは日本側への返答として、朝鮮半島の北緯39度以北を中立地帯とし、軍事目的での利用を禁ずるという提案を行った。朝鮮の側から見ればじつに勝手なものである。 |
10月08日 日米が歩調をあわせ、清との追加通商条約。安東、大東溝の開港と奉天の開市を認めさせる。
10月28日 ロシアが奉天を武力占領。清の軍を城外に退去させる。
11月15日 万朝社を退社した幸徳秋水、堺利彦らが「平民新聞」を発刊。唯一の反戦派新聞となる。内村鑑三も退社するが、平民新聞には加わらず。
12月28日 聯合艦隊が編成される。東郷平八郎が司令長官に就任。
12月30日 日本、戦争が勃発した際の清国・大韓帝国に対する方針を閣議で決定
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