日清戦争(中国側では甲午戦争、または第一次中日戦争と呼ばれる)

ウィキペディアを根っこに、各種資料から補強。

1894年(明治27年)

3月29日 東学党、朝鮮全羅道で蜂起。その後農民の反乱と合体し朝鮮半島南部に拡大。甲午農民戦争と呼ばれる。

5月31日 朝鮮政府、東学党反乱を抑えきれず、清への援兵を決議。

5月31日 硬六派が伊藤内閣に対し弾劾上奏決議案を提出。衆院で可決される。

94年6月

6月01日 東学党軍が全羅道の中心地前州を占領。

6月1日 杉村大使、「袁世凱いわく朝鮮政府は清の援兵を請いたり」と打電

6月02日 伊藤内閣が閣議を開催。衆議院を解散。さらに、陸奥外相が日本軍の派遣を提起。これを受けた閣議は、清が朝鮮に出兵すれば公使館・居留民保護のため出兵すると閣議決定。

6月4日 清の北洋通商大臣李鴻章、朝鮮政府の要請を受け出兵を指令。

6月5日 参謀本部内に大本営を設置(形式上戦時に移行)。広島の第五師団を元にして8,000人規模の混成部隊が編制される。

6月6日 天津条約にもとづき、清が日本に朝鮮出兵を通告

6月7日 日本も同条約にもとづき、清に朝鮮出兵を通告。1個大隊800人が宇品港を出て朝鮮半島に向かう。

6月8日 駐韓公使袁世凱の兵1500人(2100人説あり)がソウル南方60キロの忠清道牙山湾に上陸

6月09日 清国は日本軍出兵に警告を発す。

6月10日 朝鮮政府、甲午戦争指導者の全琫準との間に「全州和約」を結ぶ。

農民軍は,両国に武力介入の口実を与えないよう,悪質官吏の処罰や身分の平等などを要求する弊政改革案を条件として全州和約を結び,政府軍と休戦した(世界大百科事典)
しかし成立したという「一次資料」の根拠はなく、そういう動きがあったと推定されるにとどまる(Wikipdia)と、向こうもなかなかしぶとい。ただ、改革案が紙で残っており、全琫準の証言も残っており、和平に向けた具体的な動きも確認されているのだから、紙がないことをもってこれらを否定するのは、「真っ黒でなければ白」という論理に至る。学問的にはリアルとはいえない。

6月11日 朝鮮政府軍が全州に入り、権力を掌握。東学党軍はこれに抵抗せず。

6月12日 駐韓公使大鳥圭介の率いる陸戦隊400人が仁川に上陸。

6月14日 朝鮮公使、陸奥外相に日本軍の撤退を要求。

6月16日 陸奥外相、清国公使と会談。東学党反乱の共同討伐を提案。清国はこの提案を拒否。

6月22日 日清国交の急迫にともない御前会議が開かれる。

94年7月

7月03日 大鳥公使、御前会議の決定を受け朝鮮政府に内政改革を要求。

7月03日 衆議院、内閣弾劾上奏案を可決する。

7月09日 イギリスが日清調停案を提出。清はこれを拒絶する

7月10日 駐露公使西徳二郎より、これ以上ロシアが干渉しない、との情報が外務省にとどく。

7月11日 伊藤内閣、清との国交断絶を表明する「第二次絶交書」を閣議決定

7月16日 日英通商航海条約が調印される。領事裁判権などの不平等条項の撤廃を達成する。

7月16日 清、軍機処などの合同会議を開き、開戦自重を唱える。

7月20日 駐朝公使大鳥圭介、朝鮮政府に対して最後通牒。

7月23日 大鳥の手勢が朝鮮王宮に乱入。国王高宗を手中にする。閔氏を放逐し反閔派の興宣大院君(高宗の父)を国政総裁にすえる。

7月25日 大院君、清との宗藩関係の解消を宣言する。大鳥に牙山の清軍掃討を依頼。龍山に集結した日本軍の混成第9旅団が牙山に向かう。

7月25日 豊島沖海戦(高陞号事件)。仁川南西方の豊島沖で日本海軍が清国艦隊を砲撃。済遠を撃沈し、広乙を座礁させる。さらに英国汽船「高陞号」を臨検し、敵性船舶として撃沈。高陞号は清国陸兵千百人、大砲十四門を積み牙山に向かっていたが、ほとんどが見殺しにされる。

7月29日 日本軍混成第9旅団が清軍と交戦し撃破する。このとき「成歓の戦い」でラッパ手木口小平が戦死したとされる。

94年8月

8月01日 日清両国、互いに宣戦布告。イギリス、ロシアは両国に対して中立を宣言

8月05日 大本営、参謀本部内から宮中に移動

8月20日 広島・宇治間の山陽鉄道が竣工開通する。宇品港が出撃基地となる。

8月26日 日韓攻守同盟条約が調印される。

94年9月

9月01日 第4回総選挙が行われる。

9月01日 第1軍(広島の第五師団を中核とする。司令官は山県有朋)が、清の拠点となっていた平壌へ向け、攻勢を開始する。平壌の清軍は牙山から撤退した葉志超軍と満州から南下した左宝貴軍の混成。

9月06日 日本軍迎撃にでた清軍、平壌への立てこもり作戦に変更。

9月13日 大本営、戦争指導のために広島移転。明治天皇が広島に入り、軍機・軍事予算の親裁を行う。

9月15日 平壌包囲戦の開始。日本軍1万7千人、清軍1万2千人の対決となる。

9月16日 葉志超は撤退を決断。清軍が夜間に平壌を脱出。日本軍が無血占領する。左宝貴は手勢をもって抵抗するが戦死。

9月17日 黄海海戦。日本艦隊が清の北洋艦隊に勝利。5艦を撃沈した日本が制海権をほぼ掌握。

9月19日 李鴻章、持久戦(西洋列強の介入を期待)を上奏

94年10月

10月15日 大鳥に代わり、井上馨が特命全権公使に就任。大院君に対し強圧策で臨む。「征清の軍は次々と戦勝して進攻しているが、朝鮮は改革の実が挙がっていない」との明治天皇の意を受けての人事。

10月24日 山県有朋を司令官とする第一軍(第3,第5師団)、鴨緑江渡河を渡り清国軍を追撃。

10月 大山巌を司令官とする第二軍(第1,第2師団)が編成される。遼東半島攻略に向かう。

10月 東学党と農民軍、「除去暴力救民、逐滅倭夷」を唱え、忠清道公州など各地でふたたび蜂起。日本軍および政府軍の前に鎮圧される。

蜂起は「倭寇が王宮を犯した」との報(おそらくは大院君筋)を得て準備された。工作が本格化したのは8月下旬頃であり、兵糧確保のため10月の収穫時期を待って蜂起に至ったという。

94年11月

11月06日 日本軍第二軍が大連を攻略。

11月21日 第二軍、聯合艦隊の支援を得て旅順口を占領。その後、旅順虐殺事件が発生

有賀長雄(第二軍付国際法顧問)の報告: 市街に在りし死体の総数は無慮二千にして其の中の五百は非戦闘者なり。湾を渉りて西に逃れんとしたる者は陸より射撃せられたり、是れ水中にも多く死体を存せし所以なり

11月22日 虐殺行為がさらに拡大。「実ニ惨亦惨、旅順港内恰(あたか)モ血河ノ感」となる。

従軍兵士の手紙: 敗兵及負傷者毎戸二三人つつ在らさるなし、皆な刀を以て首を切り、或は銃剣を以て突き殺したり、予等の踏所の土地は皆赤くなりて流るる河は血にあらざるなし。

山地第一師団長の側近は、「此ノ如キ非人道ヲ敢テ行フ国民ハ、婦女老幼ヲ除ク外全部剪徐セヨ」との命が発せられたと記録している。

11月22日 清国政府、アメリカ公使を経て講和の議を提唱する

94年12月

12月17日 アメリカの各新聞に、政府の弁明書が掲載される。ウィキペディアによれば大略以下のごとし。(南京虐殺が容易に想起される)

  1. 清兵は軍服を脱ぎ捨て逃亡
  2. 旅順において殺害された者は、大部分上記の軍服を脱いだ兵士であった
  3. 住民は交戦前に逃亡していた。
  4. 逃亡しなかった者は、清から交戦するよう命令されていた。
  5. 日本軍兵士は捕虜となった後、残虐な仕打ちを受け、それを見知った者が激高した。
  6. 日本側は軍紀を守っていた。
  7. クリールマン以外の外国人記者達は、彼の報道内容に驚いている。
  8. 旅順が陥落した際捕らえた清兵の捕虜355名は丁重に扱われ、二三日のうちに東京へ連れてこられることになっている。

1895年(明治28年)

95年1月

1月08日 衆議院において戦時の挙国一致を議決する。

1月20日 第一軍が山東半島へ上陸。威海衛への攻撃を開始する。

95年2月

2月01日 広島で清との第一次講和会議が開かれる。日本は委任状の不備を理由に交渉を拒絶する。

2月02日 連合艦隊、北洋艦隊の威海衛基地への総攻撃を開始。

2月05日 旅順虐殺事件による影響が心配されていた日米新条約が、米国上院にて批准される。

2月12日 清の北洋艦隊が日本軍に降伏。提督丁汝昌は服毒自殺。

2月17日 連合艦隊が威海衛に入港。陸海軍共同の山東作戦完了。日本が制海権を完全に掌握

95年3月

3月上旬 第一軍、遼河平原作戦完了。日本が遼東半島全域を占領

3月16日 直隷決戦に備え、参謀総長小松宮彰仁親王陸軍大将が征清大総督に任じられる。

3月19日 清国側講和全権代表の李鴻章が門司に到着。

3月20日 下関の料亭「春帆楼」で講和会議が始まる。日本側代表は伊藤博文。

3月23日 日本軍、澎湖諸島を攻撃、占領する。

3月24日 李鴻章交渉の帰途、暴漢に狙撃され顔面を負傷する。日本はこのあと条件を緩和して、講和を急ぐ。

3月30日 日清休戦条約の調印。日本側、李鴻章の負傷を受け講和条件を引き下げ、早期の妥協を図る。

95年4月

4月17日 日清講和条約の調印。1.朝鮮の独立、2.遼東半島、台湾、澎湖諸島の割譲、3.賠償金2億両の支払い、列国と同等の通商特権付与などを承認。

4月23日 ロシア・フランス・ドイツが三国干渉。日本に対し清への遼東半島返還を「勧告」する。

4月29日 広島の大本営において御前会議。三国干渉の受け入れを決定。

4月 東学党指導者の全琫準、密告により捕らえられ、処刑される。

95年5月

5月04日 伊藤内閣、遼東半島返還を閣議決定。三国に遼東半島返還を伝える。

5月25日 台湾で反乱が発生。台湾民主国の成立を宣言する。

5月29日 日本軍、割譲された台湾北部に上陸を開始

5月30日 明治天皇、広島から東京に還幸

95年6月

6月07日 日本軍が台北を占領。

7月06日 朝鮮の閔妃(明成王后)、大院君政権を倒し、ロシア公使支援のもとに親露派政権を建てる。

8月06日 台湾総督府条例が公布される。台湾で軍政をしく。

10月08日 朝鮮で乙未事変発生。日本公使三浦梧郎(梧楼)が王宮を襲撃して閔妃を殺害。大院君を擁立する。以後、武断路線への転換が推し進められる。

10月21日 日本軍、台南、安平を占領、台湾民主国滅ぶ。

10月21日 興中会の孫文、広州蜂起に失敗。広州より香港に脱出。その後横浜で興中会を組織。

11月8日 清と遼東還付条約を締結

11月18日 台湾総督、大本営に全島平定を報告

95年 清国賠償金を原資として、八幡製鉄所を建設するため製鉄事業調査会が設置される。

1896年(明治29年)

2月09日 朝鮮政府内の親露派が朝鮮皇帝の高宗を確保し、ロシア公使館に移す(露館播遷)。

2月11日 親露派のクーデターが成功。王室内の親日派が全滅し、日本は政治的に大きく後退。

3月 造船奨励法、航海奨励法公布。各種増税法公布。

3月31日 台湾総督府条例公布により、軍政から再び民政に移行

4月1日 大本営の解散

4月20日 日本勧業銀行法・農工銀行法など公布

5月01日 小村外相がソウルでロシア公使と第一次日ロ議定書を交換。日ロ両軍が“居留民保護のため”ソウル、釜山、元山に閉院を配置することで合意。

6月03日 李鴻章、ロシアと対日共同防衛の密約を結ぶ。ロシアは東清鉄道の敷設権を獲得。

6月09日 ニコライ二世の戴冠式に出席した山県特派大使、露外相ロバノフと朝鮮問題第二次議定書に調印。朝鮮への対等な権益、朝鮮警察・軍への不干渉で合意。

7月21日 日清通商航海条約(不平等条約)締結。

7月 李氏朝鮮でも英米露仏などに鉱山採掘権、鉄道敷設権などが供与される。

10月12日 李氏朝鮮、高宗、ロシア公使館から王宮に帰り、皇帝として即位(大韓)。ロシアの要求により、イギリス人海関税務司を解任し、ロシア人アレクセーエフを登用。

11.14  ドイツ軍艦、膠州湾を占領

12月15日 ロシア軍艦、旅順入港