赤旗の論壇時評に注目すべき言葉があった。
三谷太一郎(東大名誉教授)の「非戦能力」という言葉である。
これは、以前とりあげた北大の遠藤乾先生の
「我々世代は、平和の歩みに誇りを持つべきだ」という表現とも似ている。
この「力」が実体としてどのようなもので、どの程度のものか、少し検討する必要があるだろう。
朝日新聞は全文を読ませてくれないので、転載したブログを探す。ujikenorio さんが全文を載せてくれている。ありがとうございます。
下記に要約を紹介する
同盟の歴史に学ぶ 東大名誉教授・三谷太一郎さん
2014年6月10日
1.歴史の文脈の中で集団的自衛権を考える
日本人の戦争観は敗戦直後とは大きく変化した。憲法9条の前提となっていた日本人の戦争観が変わった。
敗戦直後、「戦争の性質は根本的に変更された。いまや戦争は一般に違法なものとされ、しかも犯罪とされるに至った」という主張が一般的だった。戦争を放棄した9条は素直に受け入れられた。
『敗者の戦争観』はこういうものだった。
それがいま、『勝者の戦争観』に近づいてきた。与野党を問わず、戦争観が大きく変わった。それは武力の行使を政策手段としてみるということだ。
2.「日米同盟」観について
国民の「同盟」観も様変わりした。
1979年に大平首相が『日米同盟』という言葉を初めて公式に明言した。それまでは、安保を『同盟』と呼ぶことにはためらいがあった。
なぜなら1960年の安保改定反対運動があったからだ。それは安保を軍事同盟にしてはならないという主張だった。
運動は、その後の日本政治に大きな影響を与えた。
3.集団的自衛権は同盟の論理
過去に日本は二つの同盟を経験した。日英同盟と日独伊三国同盟である。
二つの軍事同盟に共通する要件: 共通の仮想敵国の存在と、互いの勢力圏の承認である。第三国が参戦した場合の参戦義務も規定されている。
日英同盟の場合、共通の仮想敵国はロシアだった。勢力圏は、英国が清国、日本は朝鮮だった。
日英同盟のもとで、日本は、第1次世界大戦でドイツに対して参戦した。日英同盟は防衛同盟よりも攻守同盟の性格が強くなった。
日英同盟は、日本の中国に対する侵食を加速する役割を果たした。
4.三国同盟と米国
三国同盟を結成するとき最も深刻だったのは、米国を仮想敵国とみなすべきかどうかであった。
松岡洋右外相はこのままでは対米戦争は避けられないと考えた。そして三国同盟により日本が『毅然(きぜん)たる態度』をとることのみが、戦争を回避する可能性を持つと考えた。
結果は破局であった。
軍事同盟は仮想敵国を想定しないと成り立たないが、それは『現実の敵国』に転化するかもしれない、という非常に大きなリスクを負うことになる。これが三国同盟からの歴史の教訓だ。
5.抑止力はリスクを伴う
軍事同盟の論理は抑止力だが、抑止力はリスクを伴う。
中国を『仮想敵国』のようにみなし、それに対する抑止力として、集団的自衛権の行使を考えるならば、相当のリスクを伴う。抑止力を高めることが相手国との緊張を高める。
これは「安全保障のジレンマ」と呼ばれる。
6.安定的な国際秩序は未完の課題
冷戦後の世界は多極化した。米国が空白を埋めて、絶対的なリーダーになるかと思われたが、現実は予想に反した。覇権構造が解体してしまった。
安定的な国際秩序は未完の課題である。
ナショナリズムを超える理念が存在しないことが最大の障害である。国益に固執した短絡的なリアリズムが世界を支配している。
外交の基軸を『日米同盟』の強化に求めるのは冷戦体制の延長である。それは多極化した国際政治の現実に適合したものとはいえない。
7.国際政治体制のありかたを示唆するワシントン体制
参考になるのは、第1次世界大戦後の多極化した国際政治である。
それは英国の覇権が解体し、米国主導の国際政治秩序がまだ確立しない過渡期であった。
そのなかで多国間条約のネットワークを基本枠組みとするワシントン体制という国際政治体制ができあった。
その特徴は、多国間協調、軍縮、経済的・金融的な提携という関係だった。この歴史的経験から学ぶべきだ。
これを崩壊させたのは当時の日本だった。
8.日本の安全保障は非戦能力を増強すること
はっきり言うと、戦争によって国益は守られない。
戦争に訴えること自体が、国益を甚だしく害することになる。
日本の安全保障環境は、戦争能力の増強ではなく、非戦能力を増強することによってしか改善しないであろう。
非戦能力とは国際社会における独自の非戦の立場とその信用力だ。これが日本が最も依拠すべきものだ。
日本の非戦能力は決して幻想ではない。それは戦後68年にわたって敗戦の経験から学んだ日本国民が営々と築いてきた現実だ。この現実を無視することは、リアリズムに反する。
9.理想に従うこと
必ずこれで日本の安全保障が確立するという選択肢はない。うまくいくかいかないかは少しの差しかない。
そういうとき、理想に従うことが人間としてあるべき姿ではないでしょうか。国家本位ではなく、人間本位の考え方とは、そういうものではありませんか
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