違星北斗に思う その2

の続編である。

2022年5月6日 北海道文学全集 第11巻「アイヌ民族の魂」閲覧。日記より年表に補充する。


年譜 (違星北斗年譜より編集)

1901年(明治34年) 違星瀧次郎、余市町大川1丁目にて出生。家業はニシン漁であった。
祖父・万次郎は東京の開拓使仮学校付属の「土人教育所」に留学し、その後は開拓使の吏員となった。

違星の姓は、明治六年に名字を許されるに際し、「家紋」の “※” (違い星)を当てたが、役所でこれに「違星」(いぼし)の漢字を当てられた。北斗はこの姓を気に入っていた。

1908年(明治41年) 和人の通う6年の大川尋常小学校に入学。差別を受ける。

1914年(大正3年) 尋常小学校を卒業。いじめのため高等小学校への進学を断念し家業につく。

1917年(大正6年) 初めて家を出て、夕張で木材人夫になる。

1918年 足寄で鉄道工事の人足となる。このとき重病を患う(結核の発症?)
その後は余市付近での賃仕事に従事。

1923年(大正12年) 陸軍旭川第7師団に入営するが、1か月あまりで除隊。
直前に重症の急性肺炎を起こし入院しており、結核の増悪だった可能性がある。

1924年(大正13年) この頃、余市のアイヌ青年サークルに加わり文芸活動を行う。

1925年(大正14年)2月 東京府市場協会の事務員の職を得て、上京を果たす。(23歳)

金田一京助の元を訪ね、アイヌ文学者や研究者の知己を得る。

1926年(大正15年)8月 北斗、東京での生活を捨て、北海道での地位向上運動の展開を目指す。ここから日記が始まる

幌別のバチェラー八重子のもとに寄寓。その後平取に入り、バチラーの幼稚園を手伝う。

1927年(昭和2年)

1月 日雇い労働をしながら、日高のコタンを廻る。

2月 故郷の余市に戻る。ニシン漁に勤しむ。

4月末 病を得て、余市で療養する。

5月下旬 病が快方に向かう。自宅付近の大川遺跡を発掘、銅鏡や土偶を採集する。

7月 平取に戻る。バチェラー八重子の運営する教会・幼稚園にボランティアとして住み込む。
このときの歌が二首。
五十年 伝導されしこのコタン 見るべきものの 無きを悲しむ
平取に 浴場一つ欲しいもの 金があったら 建てたいものを

8月 ふたたび病勢が進む。日記で「自分の弱さが痛切に寂しい」と告白。札幌に出たあと、小樽から余市に戻る。

10月 短歌が『小樽新聞』など当地の文壇に受け容れられる。町内フゴッペ遺跡の評価をめぐり論争を挑む。

12月 再び余市を出て薬の行商人となる。ガッチャキ(痔)の薬を売る一方、各地で若者と対話。

1928年(昭和3年)

4月25日 北斗、千歳方面を行商中に喀血し余市にて闘病生活に入る。

1929年(昭和4年)1月26日 北斗、死す。享年27歳。

1930年(昭和5年) 『違星北斗遺稿 コタン』が希望社から発行される。


「違星北斗歌集 アイヌと云ふ新しくよい概念を」角川ソフィア文庫
という題名の本が最近出版された。電子書籍版もある。
角川 違星