5月11日の日経「オピニョン」が痛快だ。書いたのは日経コメンテーターの秋田浩之さん。
むかし読んだ「失敗の本質」という本を想起させる。いわばコロナにおける「失敗の本質」を論じたものだ。
日本の根本欠陥

見出しは「80年間、なぜ変わらない」というただ1本。

コロナ対応が、対米開戦へと突き進んだ戦前の政府とダブるというのだ。

ことは結局ワクチン接種の遅れに尽きる。

有事に機動的な対応ができない政治の欠陥を指摘する点では、伝統的右翼と同じ問題意識だ。
しかしそこからが違う。「だから国家統制を強化せよ!」との伝統的右翼の主張は拒否される。

秋田さんはきっぱりと主張する。そのような右翼的伝統こそが、80年間変わらずに日本を責め続けていると考えるのだ。

それが以下のフレーズである。

明治維新後、日本は日清・日露、第一次世界大戦、日中戦争と有事の連続だった。この間、国家は社会の統制を強めていった。
ではそれで危機対応力が高まったかといえば、そうではない。
大国との対立を調整できず、日米戦争に突入、国が滅びる寸前にまで行った。

いわば有事への「悪なれ」である。

それは次の3点に集約される。

① 行きあたりばったりの泥縄体質
② 縦割りを盾にした責任逃れ
③ 根拠のない楽観論

これが日本軍・政府の体質であり、それは戦後80年を経た今も色濃く残っている、というのが秋田さんの主張だ。

ここまでは快調なのだが、そこから先の「なぜ?」の議論が進まない。すぐにマニュアルとかプロトコールなど実務的な手続きに行ってしまう。彼らはもう、社会変革の実践の経験がない世代なのだ。

悪なれ体質は、批判・自己批判・相互批判の欠如が最大の原因である。踏まれた足は痛いが、踏んだ足は痛くない。「踏んだ足」はただ踏むだけでなく、「踏まれた足」を踏みにじるようになる。

私としては、統制ではなく議論の強化を望むし、その前提としての情報公開の強化こそが「悪なれ」を防ぐ唯一無二の保証だと思う。

明治維新は封建体制の打破、「万機公論に決すべし」の理想を掲げた。しかしそれは、80年にわたる「有事」の積み上げの中で窒息させられていった。

その80年と戦後の80年の積み上げを踏まえるなら、「実事求是」とたゆまぬ「公論」の育成こそが、「有事対応」に向けた最大の保障となるのではないだろうか。

日経新聞の奮闘に期待するところ大である。