1.普遍文法の隘路を抜け出すために

言語(母語)は生得的か学習によるものか、という議論は形而上学的で不毛なものだ。
こういう際は、ひとつ上のカテゴリーでの議論が必要になる。ではひとつ上のカテゴリーとは何か。
それはコミュニケーションの発達の歴史だろう。この事により人類発祥の前からの流れを一つの数直線に置くことができる。このパスは複線で、一つが必要性でもう一つが可能性(能力)だ。

おそらく言語はホモサピエンスかせいぜい旧人の時代までで、原人や猿人の世界までは遡れないだろうが、霊長類的コミュニケーションの発達史ということになれば、少なくとも100万年前、霊長類からの分岐ということになれば1千万年前まで遡ることができる。
Nature によれば、現生人類が旧人と分岐する約60万年前には、すでに遺伝学的には、現代のような音声器官が備わっていた

そうすると「生得的」という言葉でDNA絡みの適応説を切り捨てる必要もなくなる。獲得形質の「遺伝」というネオ・ラマルキズムは、堂々と議論の主役となることができる。

2.コミュニケーション・ツールという位置づけ

これは言語=道具論だ。それは言語の基幹をなす機能ではあるが、言語と言語で表された世界の全体を示すものではない。これは議論を紛糾させないために必ず必要なことだ。言語はまず人間同士の情報伝達手段として生起する。それは「群れ」のみなに通用する合言葉として、「口述的」な言語として登場する。

ついでそれは自分との対話を生み出す。これが内言語である。それぞれの人間にとって、内言語の世界は巨大である。内言語による言語活動は、用いられるワード数から言えば対話的言語活動の数倍から数十倍に及ぶのではないだろうか。

多くの場合、内言語活動は言語学の対象とはならない。むしろ思索として語られることが多く、哲学や心理学の主たる対象となる。

内言語を研究の対象とする学問と、対話的言語に関心領域を絞り込む学問では、どのように互いが努力してもすれ違いは避けられない。だから避けられないことを念頭に置いて注意深く議論をすすめるべきである。

3.「群れ」の発達と言語の発達

言語の成立を学ぶためには「群れ」、とくに人間の群れの歴史を知らなければならない。
おそらくそれは、エンゲルス風に言えば「猿が人間になるについての“群れ”の役割」ということになるだろう。

そこでは
ヒトから人間への媒介としての“群れ”
集団から群れへ
攻撃的な群れと防衛的な群れ、生殖時の一次的な群れ
運命共同体としての群れ
群れにおけるコミュニケーション
群れと情報蓄積
群れと役割分担
言語能力と群れ
“群れ”が個人に押す刻印としての母語
などが考察されることになるだろう

4.脳科学と脳神経学との違い


同じことが脳科学と脳神経学との関係においても言える。大脳各部、とりわけ側頭葉と前頭葉に興味を集中する脳科学は、ともすればそれが神経組織の一部であり、情報の二次処理の場であることを忘れがちになる。

我々がさまざまな脳の働きを発生学的にあとづけたとき、大脳の機能は一次的には大脳以外の部署で処理可能であることが分かる。だからスキナー箱のように、大脳の働きをなにか一次刺激を与えて、それにたいする大脳の一次応答を見る実験は、所詮は本質的なものではないといえる。

多くの脳科学者は医者ではない。むしろテクノロジー分野の人だったり、心理学者(スキナー派の)だったりするので、操作主義的傾向が非常に強い。脳をブラックボックスに見立て刺激を与え、そのアウトプットを解析する。医学者や発達心理学系の心理学者は、まず観察に始まり、分類し、インデックスを立てる。だから大脳の働きや言語の意味などを神経系全体の動きや、液性制御と切り離せないのである。私が「三脳系」説に固執するわけもそこにある。