「普遍文法」(Universal Grammar)という、ややハッタリをかました言葉に、酒井邦嘉さんが乗っかる形で拡散しているようだ。

「普遍文法」で検索をかけたところ、下記のエッセーにヒットした。

「脳は文法を知っている」という題で著者は不明だが、酒井邦嘉さんのフリークを名乗っているので、関心領域としては一致するのではないかと思う。
http://mind.c.u-tokyo.ac.jp/Sakai_Lab_files/NewsJ/WAC2005_Report.htm

かなり長い文章なので、端折りながらたどってみることにする。


赤ちゃんは言語を理解するための基盤を持って生まれてくる。言語能力のなんらかの原型が最初から備わっていることを示す。

ということで、『言語を生みだす本能的能力』の存在がまず提示される。

チョムスキーはそれを言語学的に読み替えた。
1.それはルールの形をとっている。
2.そのルールはユニバーサルである。
3.それは脳に由来する。
(相当の注釈を必要とする定義である。ルールというのは、言語がたんなる音声ではなく言語であるための条件ということであろう。ユニバーサルというのは、諸言語の持つ特殊性は捨象されるということであろう。脳というのは、言語を操る生物、すなわち人間の脳ということであろう。したがって猿の脳が人間になるまでの全発達段階の反映としての脳であろう)

チョムスキーはわざと挑発的な物言いをした可能性がある。

あとは言語学的な例証が続くが、少なくとも無条件支持はしない。

おそらく原人から旧人への移行期に言語が形成されたと思われる。これは解剖学的に推定される。


文法のDNA化でなく、「主語の自立」で良い

動物や鳥類などの観察から言えるのは、主語の自立と中心化であろう。動詞はかなり初期からあったかも知れないが、それが述語になるのは、主語が確立するからであろう。

まず文章が文章であるための必須アイテムとして、主語が析出する。主語の析出が意味するのは個性的な主体の確立である。ついでそれに引きずられて、揺れに揺れながら述語が確立する。それだけの話しであって「普遍文法」などとおどろおどろしい言葉を持ち出すまでもない。

これらはすべて、群れの形成と群れと群(という鏡)によってもたらされた個、という彼我の関係の発生に起因するとかんがえられる。それは大脳の巨大化に要した時間とほぼ一致する。

言語は脳の自然現象

これはチョムスキーと言うよりは酒井さんの考えの受け売りのようだが、かなり明らかな誤りである。

そもそもチョムスキーが誤解を招くような物の言い方をしているのが問題なのだが、酒井さんはこれを素直に受け取って、「脳が言語を生み出している」と単純化する。

言語活動と脳血流分布

酒井さんは f MRI を使って文法的言語活動時と、記憶想起的言語活動時のフローの相違を検討した。

文法判断をしている時は、左脳前頭葉にある赤い部分が目立って活動している。記憶を使った判断では、べつの緑の領域で活動が目立った。

この実験により、ブローカ野が文法的言語活動の中枢であることが明らかとなった。
言語活動とfMR

(この写真はむかし見せられたことがある。ただし介入試験であるため、どこにどう介入したかの問題があって、評価は難しい。そもそも言語活動における脳の働きがこんなに単純なものか?、という感じを捨てきれない。むかし学会でこういう写真見せられると「キレイだね」とささやきあったことを思い出す。なにせ画像屋さんは画像が命ですから…)

ここまでがチョムスキーの紹介と、酒井さんの紹介。ここからは著者の「私的な思案」となる。
ここでは、「文法」という言葉に振りまわされている著者の姿を眺めることになる。

一言だけ私の意見を言わせていただきたい。
言語はたしかにコミュニケーション・ツールではあるが、そこにとどまるものではない。すでに内言語はコミュニケーション・ツールのカテゴリーをはみ出しており、それは思考のツールと言うべきものとなっている。
私たちは「言語」という言葉で、すでに「言語的知性」を語っている。そのような「知性」と「知的主体」の発展の仕方を語っているのだ。それは決して脳味噌のどこが光ったり、赤く染まったりしているかという問題ではない。



この文章も2005年のものなのでかなり古い。今の目で批判すべきものではなく、「あの時代にはこう考えていたのだ」的な、適当な距離をとったほうが良いのかも知れない。