酒井さんの本を読みすすめるうちに「ピアジェとチョムスキーの論争」という小論に目が止まった。酒井さんの議論を考える前に、まずは論争の中身を把握しておきたい。下記は学会のポスター発表による要約である。

ピアジェとチョムスキーの論争…言語獲得は生得か学習か…
柿原直美 (2006年) 早稲田大学教育研究科
(日本教育心理学会 第48回総会 ポスターセッションでの発表)


1975年、ピアジェとチョムスキーは言語獲得の生得性をめぐって論争した。
(きっかけは、異常な言語環境に育った子どもの例を解釈したチョムスキーに対しピアジェが噛み付いたらしい)

次の表は健常児と特殊な環境で育った子どもの言語発達を比較したものである。

言語習得


ヘレン・ケラーが言語を獲得できた理由

カマラとジーニーと違い、なぜヘレンだけが十分な言語を獲得できたのだろうか。

自伝には、聴覚や視覚を失っても、触党、嗅覚で周囲の状況を判断していたことが書かれている。
したがって知能は正常に発達していたと考えられる。

ヘレンやカマラは言葉の必要性を感じる機会はなかった。

種々のテストの結果、ジーニーは「右半球思考者」で、非言語課題のほうができた。

『固定の核』(fixed nucleus)

カマラとジーニーは自然に言葉を獲得できなかったが、その後不完全であっても言葉でのコミュニケーションが可能になった。
このことは、人間には言語に関わる生得的な才能があると考えられる。

すなわちチョムスキーが普遍文法と呼ぶ能力は持っている。

しかし人間は、脳も心も遺伝子的に完全に決まってから生まれるわけではない。

遺伝子は脳の構成要素に正確な構造を授ける。あとから決まるのは自己組織化の圧力である。

つまりチョムスキーの生得論は無条件のものではない。

ということで、柿原さんの論旨はどちらも正しく一理ある、ということで「両者、引き分け!」という心優しい評価である。

ただこの勝負はボクシングのチャンピオン決定戦ではないが、引き分けならチョムスキーの勝ちということになる。

おそらくチョムスキーはピアジェを読みこなしていただろうし、そのほとんどに対し賛成してるだろう。その上で、「生得的なものもあるんじゃないですか」と言うわけだから、そもそも勝負にならない。

その上で、ピアジェが突っかかっていったのが、「普遍文法」というきわめて挑発的な命名だ。無名の新人がデビューにあたってモヒカン刈りとふんどし姿で受けを狙ったような感じもする。

私としては、むしろ生得性に対する軽視がピアジェの最大の弱点だと思う。彼はアメリカ流の心理学に対して十分に唯物論的だが、時間軸の観念が乏しい。そこをヴィゴツキーやワロンに厳しく批判され、すこしは反省した。それでも最後まで枠組み概念への固執から抜け出せなかった。