酒井邦嘉「言語の脳科学」(中公新書 2002年)を読み始める

続くかどうかわからないが、今の所やる気十分である。

「ようやく骨のある言語と脳に関する本と巡り会った」というのが感想。
まだ読み始めでなんとも言えないが、ちょっと読んだだけで、考えのしっかりした論文だということは分かる。ただ初版が2002年というのがいかにも古い。この分野で20年前というのは、前提事実という点からは致命的だろう。

あのころは「脳科学」という言葉を使うのをやめようかと思ったくらい、アレルギーが出るほどの科学分野だった。「脳神経学」の肩書きは厚化粧のテレビ・タレントの専売特許に成り果てた。

いくつか似たようなテーマの本を買い漁ったが、2,3ページで腹が立って捨てた。

医者というのはまず訴えの時系列的な把握を通じて病歴を浮き立たせ、ついで慎重かつ注意深い観察へとつなげる。

ついで類似疾患との共通性、差異性を鑑別しついに一つ、あるいは複数の仮説に達する。それから緻密な実験モデルを組み立て、推論を実証する。

脳科学者の議論には、この積み上げがない。だから実験は多義的でトリトマのないものとなり、そこから恣意的な結論を引き出す。

私の言語論の出発点は、ピアジェ、ヴィゴツキー、ワロンである。まことに教条主義的なマルクス主義者である。

ヘーゲルが「手段の狡知」をとき、マルクスはそれを労働手段と捉えた。「資本論」を書くための作業仮説だから仕方がない。

わたしはそれは外在的なものではなく、人間的活動の「手段」の体系と考えている。その諸手段の中でもっとも本質的なものが言語だと考える。

私は以前、「言語のヘーゲル的理解」という記事の中でこう書いた。
人間的活動は人間的ツール(記号・シンボル)を用いることにより初めて人間的活動となる。
逆の言い方をすれば、言語は人間的活動と共関係を結ぶことで、活動にとって不可欠の要素となる。
そしてそのことで、初めて「可能態」をこえて言語となる。
ややくどい言い方になるが、このような相互依存を前提とする関係において言語を捉えなければならない。