「ルアンダ動乱」を考える

言いたいことがたくさんありすぎて、ちょっと論旨が散漫だ。

歳のせいも多少はあるかもしれないが、基本的には服部さんの饒舌ぶりに原因があるかと思う。

繰り返しも多いが、おそらく単騎、世界の世論に対決して螳螂之斧をもって立ち向かおうとする気負いと悲壮感のなせる業であろう。小見出しはあえて服部さんに従わず独自に付けてみた。


1.国際メディアが変だ

虐殺はひどいが、それだけではなく「動乱」全体を把握、分析、報道すべきだ。この点で納得できない。

米国東北部エスタブリッシュメントのメディアはひどく公正さが欠けている。日本のメディアには客観的で自主的な判断がない。


2.「動乱」の被害者は誰だ

50万人のツチ人が殺されたというが、ツチ族はルワンダ国民750万人の10%強なので、半数以上が殺されたことになる。これはにわかに信じがたい。

一方、愛国戦線の報復を恐れたフツ族は大量に国外脱出した。国連難民高等弁務官の調査では総数411万、うち隣国に221万とされる。

これらを足したものが、動乱の被害者であることを看過すべきではない。


3.「愛国戦線」(ツチ)は正義の味方か

アメリカのメディアは「愛国戦線が正義の軍であり、フツ族が無条件に悪い」との姿勢をとっている。

しかしそもそも事の起こりは、愛国戦線がウガンダから武力侵攻したことにある。彼らは大統領機撃墜と同時並行でルワンダへの一斉攻撃を開始している。

大統領機撃墜事件の犯人は特定されていないが、携帯型地対空ミサイルはルワンダ軍にはなかった。
そもそも愛国戦線が最大受益者であることは間違いない。

愛国戦線は否定するが、短期間に400万のフツ人が国内外に逃亡したことは、武力による強制があったと考えざるを得ない。

愛国戦線は大統領を暗殺し、一斉攻撃を仕掛け、政治権力を獲得し、国民の過半数を国外に放逐し民族浄化に成功した。

それが、結果的にツチ人大量虐殺の発生により覆い隠された。


4.ツチ族への恐怖には歴史がある

ルワンダは19世紀末までは、少数派のツチ族が支配する王国だった。その後第一次大戦が終わるまでドイツ、ついでベルギーの植民地となった。支配国はツチ族による王政を継続したため、フツ族は二重の支配に苦しめられた。

60年からフツ族の反乱が始まり、国連監視のもとで国民投票が行われれ、共和国として独立することになった。

圧倒的多数派のフツ族が大統領選に勝利したが、ツチ族の一部は繰り返し国外から越境攻撃を繰り返した。

つまりツチ族の支配層は、かつて少数支配者であり、植民地時代には白人の協力者であり、独立後は政権転覆を狙う武装した撹乱者であった。

たしかに、そのたびに国内のツチ族への報復も繰り返された。しかし一般には武装勢力とツチ族市民は区別され、共存関係は保たれた。


5.愛国戦線の「黒幕」はウガンダだ

愛国戦線はウガンダで組織され、兵の訓練、武器の調達もウガンダで行われている。軍の指揮を執るのはウガンダ陸軍の将校である。

アフリカ諸国が加盟する「アフリカ統一機構」はウガンダの行動を憲章違反と非難した。

この共通認識があったから、タンザニア、ザイールなどが軍を派遣し、ベルギーも出兵した。フランスはルワンダの正式要請を受け派兵した。

これがメディアの言う「外国の干渉」の実体である。(ちょっと鵜呑みにはできないが)

これらについて米国メディアは沈黙を守り続けた。


6.愛国戦線による「民主主義」の実体

論理的に考えて、人口の1割しかいない少数派が、武力で政府を転覆して、9割の多数派の半分以上を国外に追い出して作られた政権が民主的であるわけがない。

フツ族はツチ族の多くを虐殺したゆえに、すべての結果を甘受しなければならないのか。


7.フランスへの非難は的外れだ

ルワンダがフランスから装甲車を買ったのは間違いない。それは服部さんが中央銀行総裁だったときからであり、別にフランスの軍事援助という性格のものではない。

むしろ政府軍を遥かに上回る装備をもつ「愛国戦線」の武器の出どころを問題にすべきだろう。なぜならそれば防衛用の装備ではなく攻撃用のものだからである。

誰かがウガンダ政府を経由して愛国戦線に供与したのだから、そこに「大国の影」を見るべきではないか。

8.日本政府が行うべきこと

このあと、日本政府がとるべき態度についても言及が行われているが、今ではすでに問題意識も含めて陳旧化しているので省略する。




かなり重複を省き、整理したつもりだが、それでも「要約」というには長すぎる。

取り上げた内容は、今日でも地域紛争問題に取り組むにあたって重要な示唆を含んでいる。

反省を込めて、もっとも痛感したのは、問題意識を報道の枠を超えて広げることの大事さだ。

ここではルワンダ住民虐殺事件ではなく、「ルワンダ動乱」という枠組みの提示がそれに当たる。

この視座を持たないと、善人があっという間に悪人に仕立て上げられる。