医師・作家 マ・ティーダ
  き き て 道 傳  愛 子

本日朝、教育テレビで放映されたマ・ティーダさんのインタビューを見て感動しました。
途中からだったので全編見たいと思いましたが、ネット検索したところ、上記サイトに全文が掲載されていました。ここでは少しでも多くの人の眼に触れてもらうために、宗教的内容に触れた部分を割愛し、要約のみ紹介させていただきます。それでも十分に長い。覚悟はしてください。

マ・ティーダさんの経歴

ナレーター:  去年十二月、国際交流基金アジアセンターの招きで、一人のミャンマー人が来日しました。マ・ティーダさん。外科医として貧しい人々の診療にあたり作家としても活動してきた女性です。
マ・ティーダさんは、ミャンマーの軍事独裁政権に抵抗する民主化運動で捕らえられ、およそ六年間の獄中生活を送った方です。
ミャンマーが、まだビルマと呼ばれていた時代、学生や僧侶をはじめ数多くの市民が民主化を求めて立ち上がりました。運動の広がりを恐れた軍は、武力で鎮圧に乗り出し、抵抗する人々に向けて次々と発砲。数多くの死傷者を出しました。
ナレーター: その後、クーデターによって全権を握った軍の支配は続きました。マ・ティーダさんは、当時外科医を目指す医学生でした。軍政批判を続けたアウンサンスーチーさんと共に抵抗運動を続け、一九九三年に逮捕されます。懲役二十年の刑でした。
獄中では、病気になっても適切な治療が受けられず、重い子宮内膜症になるなど過酷な日々を送りました。



マ・ティーダさんの獄中生活 

ティーダ:  狭い独房に入れられた私は、読み書きも許されず、友人や親戚、仲間たちと連絡もできませんでした。世界の全ては3.6メートル四方の御独房で、あれもこれも禁止されました。
そこで私は毎日二十時間近く瞑想を行いました。それにより、とても深く自分自身を見つめることができました。そしてやがて、私の自由は、刑務所でも奪えないと分かりました。

道傳インタビュアーの導入

道傳:  バンコク駐在の特派員になってから、私はミャンマーの民主化を取材してきました。マ・ティーダさんと知り合ったのは、二○一三年のこと。以来五年間、親交を重ねてきました。
今回の来日にあたり、獄中生活の支えとしたご自身にとっての仏教とは何か。それはどのような生い立ちの中で育まれたものなのか、聞きました。

道傳:  マ・ティーダさん、今日はありがとうございます。
ティーダ:  お招きありがとうございます。
道傳:  あなたは、ミャンマーで民主主義のため、文字通り闘ってきました。その人生に一番影響を与えたのは、どなたでしょう?
ティーダ:  両親です。母からの影響はとても大きいですが、一番は慈愛の心です。母は、誰に対しても真の思いやりがあり、早朝に三時間以上も祈っていました。
道傳:  遠い親戚の叔父さんが来て、家族と住むようになった話もありましたね。どういう経緯で? 彼は刑務所から釈放されたばかりだったとか?
ティーダ:  彼は民主化運動を支持する学生だったので、逮捕され、インセイン刑務所に入れられました。
釈放の時も、家族が出向いて連れ帰ることができません。そこで私の父が我が家に連れてきました。彼はひどい病気でした。すごく痩せていて、肌からは、小さな虫が湧き出していました。
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父が教えた市民精神

ティーダ:  父は、なぜ彼が逮捕されたか。それがどういうことなのか説明し、とても辛抱強く、彼の傷の手当てし、面倒を見ていました。
実は父は医師になりたかったのですが、第二次世界大戦で、両親を亡くし、医大に行くお金がありませんでした。
父もまた私に大きな影響を与えました。父の方が私よりずっとリベラルです。私にとって、父は、ミャンマーの完璧な市民でした。
父は、シャン族と中国人の混血で、母は、モン族と中国人との混血です。多くの血が混ざっています。父は、私たち子どもたちに、市民としての精神が、民族の誇りより、いかに大事か教えてくれました。有名でもリーダーでもないけれど、父こそ私のお手本であり、市民の手本だと思っています。

リベラルであるということ

道傳:  お父さんは、リベラルだったとおっしゃいましたね? あなたよりも?
ティーダ:  私たちの文化には、古臭いところがあります。たとえばビルマ人は通常、男性と女性の下着を一緒に洗わないのです。しかし、父は、そんな伝統には従いませんでした。「どっちも同じ布だろ」と言っていました。そのように、父はいつもリベラルで、無意味な伝統に従わず、合理的に行動しようとしていました。

両親と

医学生から活動家に

ティーダ:  父方のいとこが何人かシャン州にいたので、ほぼ毎年、夏に行きました。ある地域には電気もなく、どんな生活をしているか分かりました。私たちのヤンゴンでの生活とはかけ離れていて、私は、彼らのことがとても気になりました。
それで、私は幼い頃から、どうしたら助けを必要とする人々の力になれるか、いつも考えました。
道傳:  しかし、思いやることと、実際に行動することは違いますよね。医学生として、民主化運動に参加することを決め、なぜ行動し、立ち上がろうと思ったのですか?
ティーダ:  立ち上がるということではありません。ちょっと助けたいような気持ちです。自分を英雄と思ったこともありません。
チャップリンの映画に、こんな話がありますね。彼は、どこかに向かい、走っていたと思います。そして、彼を追って、他の人もみんな一緒に走っていました。誰かが「止まれ」と言い、全員一列になって止まりました。そして、誰かが、「勇敢な者は一歩前に出よ」と言いました。チャップリンは、動かずにいたのですが、他の人たちが一歩後ろに下がってしまった。
ですから、私は刑務所にいた時も、こう言っていたんです。「自分は動かずに立っているのに、周りが後ろに下がるのです」と。それで私が「勇敢な者」になってしまう。英雄などにはなりたくありません。それだけのことです。
道傳:  しかし、社会が何か間違っていると感じていた?
ティーダ:  もちろんです。電気がない、良い道路もない状況で生きている人々を知っていたので、、社会はどこか間違っていると思いました。
また、私には恐怖もありました。私が恐れたのは不正義を許し、受け入れてしまうことだったのです。

1988年の民主化闘争

ナレーター:  一九八八年三月に始まった学生による反政府デモは、八月になると呼びかけに応じた一般市民や僧侶などにも広がり、大規模な民主化運動に発展しました。当時母親の看病のため夫の母国イギリスから帰っていたアウンサンスーチーさんは、民主政権の樹立を訴え運動の象徴的な存在となります。
アウンサン・スーチー:  私が国外で生活し、外国人と結婚しているのは事実です。しかし、祖国への愛と献身は、過去も未来も揺らぐことはありません。独立の父アウンサン将軍の娘として、この闘いの先頭に立ちます。この闘いは第二の独立闘争です。
民衆:  規律を守って闘おう! 規律を守って闘おう! 規律を守って闘おう!
ナレーター: しかし、翌年、スーチーさんは自宅に軟禁されます。軍は選挙で彼女が率いる国民民主連盟が圧勝しても、政権を譲ろうとはしませんでした。
当時多くの政治犯が収監されたインセイン刑務所。スーチーさん軟禁後も抵抗を続けたマ・ティーダさんが、逮捕され送られた場所です。一九九三年、二十七歳になろうとしていた頃でした。

アウンサンスーチーの側近となり、そして逮捕

道傳:  アウンサンスーチーさんとは、どのようにして知り合われたのですか?
ティーダ:  当時、私たちはストをし、毎日デモをしていました。そのとき、アウン「サンスーチーさんのアシスタントにならないか」と誘われたのです。
その時は断りました。誰か一人のために働く気にはなれなかったし、また当時は結構、彼女に否定的な感情もありました。「ずっと私たちの国から離れていたのに、今になっていきなり現れて」と。それが最初に思ったことだったんです。
しかし、彼女の演説の語り口からその心情が十分伝わってきました。口だけではなく、心からだと。
ティーダ:  私の仕事は彼女とスタッフの健康をケアすること。もう一つ、すべての報告やデーター収集、メモの作成などをしなければなりませんでした。
道傳:  逮捕されたときには、何をしていたのですか?
ティーダ:  私は外出中でしたが、自宅の前で張られていました。そして家宅捜索され、「探し物をするだけだ」と言われ、部屋や本を調べられました。
そして、治安秩序の侵害で七年、違法組織との接触で三年、違法印刷物の発行と配布に各五年、合計で刑期二十年の刑です。

刑務所での生活と瞑想

道傳:  刑務所での一日は、どのようなものでしたか? 決められた日課など、朝は何時に起床とか?
ティーダ:  朝とても早いです。私たちは食事の時間を待ちました。でも与えられるのは、味のないお粥だけです。そんなまずいお粥とお湯が一杯だけでした。
二週間に一度の両親との面会の時、食べ物を差し入れてもらいました。ですから、食べ物は家族の差し入れが頼りでした。夕方になると、独房の外に出て、歩く時間が十五分与えられました。それ以外の時間は独房の中に。それが五年六ヶ月六日の生活です。
道傳:  二十代三十代の頃と言えば、本をたくさん読んだり、友人に会ったり、海外旅行したり、経験を積み自信をつけたり、そういう機会をすべて失ったのですね?
ティーダ:  そうです。でも刑務所で、私が最も恐れたのは、本が全く読めなくなることです。当時は本を読まないと、罪を犯しているようで、とても辛かったのですが、私は「ヴィパッサナー瞑想」で自分を読むことができたのです。これで心が解放され、本がなくても気にならなくなったのです。
以下中略

宗教はアヘンか?

道傳:  私が、軍事政権時代のミャンマーを取材していたとき、多くの人がパゴダに行って参拝し、寄進し、とても熱心に祈っているのを見ました。現世より来世が良くなるようにと。
現世には全く希望がないから、支配や政治の問題を問わずに、現世をあきらめ、来世に期待しようと自分に言い聞かせる。このような考え方は、軍事政権にとっては非常に好都合だったでしょうね?
ティーダ:  はい。独裁者たちによって、社会がそのように形作られてきたのです。宗教指導者の中には、社会を良くする方法が分からないため、目的をそらす人たちがいます。
私は、ブッダの教えとは、自分自身を教化することだと思ってきました。祈ったり崇拝することで、許されるとか、何か得られるとか、徳が積まれ救われるとか、豊かになるとか、これはブッダの信仰のあり方ではありません。
私は、現世で自由になりたいのです。来世までは待てません。いつも現世こそが、私にとって最上の恵みだと感じています。

釈放後の生活 医師として文筆家として

医師として

ナレーター:  釈放後、マ・ティーダさんは医師になり、ムスリムの人々を無料で受け入れる病院で働きました。
その後は慈善病院にもボランティアとして勤務。貧しい生活で医療費を払えない人やさまざまな宗教の人と向かい合ってきました。
私がミャンマーを訪ねた時、マ・ティーダさんは、医師としての仕事と共に、文筆家として雑誌や新聞の編集にも力を注いでいました。自分で考え行動する。その土台となる情報や知識を、みんなで共有することが、民主化に必要な第一歩だと考えたので。
「木霊(こだま)」という新聞の編集責任者を務めるマ・ティーダさんは、冒頭に論説を掲げ、「国民の声を自由に響かせよう」と訴えています。若い世代に向けた月刊誌も編集。メッセージ欄を設け、検閲の廃止など表現の自由の大切さを伝えてきました。

社会からの同調圧力と排除

道傳:  二○一四年に取材したとき、あなたはムスリム無料病院で診療なさっていました。なぜムスリムの病院で診ることを選んだのですか?
ティーダ:  当時、反政府の医師である私を受け入れてくれる病院は、ただ一つ、ムスリム無料病院だけでした。
すべての政治囚とその家族は、政府や軍の諜報部だけでなく、社会にも差別されました。多くの人が私たちを避け、かなりの距離を取りました。
釈放された政治囚とその家族は、治療を受けられる場所がありませんでした。ムスリム無料病院は、その唯一の場所だったのです。
道傳:  これはあなたに、今まで話さなかったことですが、私がヤンゴンの人々に、あなたのことを聞いたとき、あなたが、ムスリム無料病院で患者を診ていることを、快く思っていない人たちがいました。
私は驚き心配になりました。人々が、民主主義や包容力のある社会について語っていた時に、まだ少数の人たちが、ムスリムを診るべきでない、というような話をしていたので、なぜだったのでしょう?
ティーダ:  人々は今、独裁や軍事政権とは別の恐れがあるのかもしれません。仲間内で圧力をかけ合い、その圧力への恐れが広がっています。
そのような同調圧力を受けた人々は、私がムスリムのような「異なる人々」に奉仕するのは間違っていると考えるのだと思います。
道傳:  それはどんな「恐れ」でしょうか?
ティーダ:  私たちの社会には批判・中傷が飛び交っています。人々はそれを非常に恐れています。
私はいつも、自分の責任の主体は、自分自身だと考えているので、十分な支持がなくても、批判されても、自分でいられるのだと思います。

文筆活動の展開方向

道傳:  一方で、あなたは、作家としても非常に活動的ですね。今はどんなメッセージを?
ティーダ:  「インフォ・ダイジェスト」に取り組んでいます。毎月一つの問題を取り上げ、事実や数字、図表情報を載せます。
独裁と闘うため、最も重要なのは知識、そして知恵なのです。しかし、十分な知識なくして、どうやって間違っていることを指摘し正せるでしょうか? 

表現の自由が民主主義の基本

道傳:  なぜ発言したり人の話を聞くことは、民主主義の過程で重要なのでしょう?
ティーダ:  「表現の自由」こそ鍵で、他の権利にも関わります。表現の自由なしに、他の権利を確立できるでしょうか。かなり難しいです。
道傳:  表現の自由が、逆にヘイトスピーチ(憎悪表現)を惹起することもあると思いますが、どう考えますか?
ティーダ:  ミャンマーでは、いまだに多くの人が、民主主義と自由を区別できません。
人々は、自由を味わったことも、自由を行使する権利を持ったこともありません。ですから、自由をよく理解していないのだと思います。
少しの自由を得ると、その自由を行使したくなるものです。しかし使い方を理解していないので適切に使うことができません。自由を行使する際に他者のことなど気にしなくなります。自由な言論だと思っていることが、ヘイトスピーチになっていることを知らないのです。
ですから、他者の権利を擁護できないと、表現の自由という権利が確立されたことにはなりません。
道傳:  民主主義にとって重要な前提ですね。

表現の自由と情報公開

ナレーター:  マ・ティーダさんは、「表現の自由」の問題と共に民主化にとって大きな壁となっているのは、情報の閉鎖性だと考えています。
ミャンマーではいまだにあらゆる情報が軍によって管理され、軍を通してしか伝わらないのが現状だと報告しています。そして事実を報道しようとするジャーナリストが、危険な状況に置かれていると訴えました。
ティーダ:  一年半ほど前、ワという地方で、戦闘がありました。取材に行こうとしたジャーナリストが、軍に「死刑を含む軍法を適用する」と脅迫され、取材できなくなりました。
紛争が起きている場所や危険なところに赴いて、取材しようとするジャーナリストの安全が確保されなければ、国民はいったいどのようにして事実を知ることができるでしょうか。
私はこの正しい情報を得る「知る権利」について尽力しています。政府は、一次資料を出すべきです。国民は、その情報にアクセスできる権利を持つべきです。そうすれば、国民はそのデータから直接事実を知ることができます。情報を操作されるようなこともなくなるでしょう。

ロヒンギャ問題を民主化への糸口へ 

ナレーター:  今、ミャンマー西部ラカイン州のイスラム系の人たちをめぐる問題が発生しています。彼らはロヒンギャと呼ばれていますが、その多くが迫害され、難民となっています。
マ・ティーダさんは、この問題で、非難の応酬ではなく事実を明らかにすることが、ミャンマーの真の民主化への糸口になると考えています。
道傳:  ミャンマーの最近の課題に、ロヒンギャの人々に関する問題があります。これは、ミャンマーの民主主義にとってひとつの試練となっていますが、どんな試練なのでしょうか?
ティーダ:  この問題は、私たちの過去と深く関係しています。
情報が欠如しています。そのため、現在の問題が何かがわからないのです。外国メディアと国際社会も、情報の欠如に苦しんでいます。そのため人種と宗教の歴史などの文脈を、深くは掘り下げられないでいます。
私たちは、外国メディアも、国内の政府メディアも信じていません。それは歴史を通して経験してきたことです。信頼できる情報は圧倒的に不足しています。全体状況を詳しく知ることができません。

情報不足は問題を過度に単純化する

多くの人は情報が不足した状況では、問題を過度に単純化してしまおうとします。それでとても考えが足りない、単純なコメントを出します。しかしそれは現実と違います。
いまだに多くの人が、チッタゴン丘陵地帯で、何が起きているか知りません。そこに暮らす仏教徒の少数派が、暴力的な扱いを受けていることなどについても知らされていません。
道傳:  あなたは、罪ある強者から、罪なき弱者に、罰が転嫁されると書いていました。
人々が状況に対して怒っているけれど、どうすればいいか分からない。そういう状況があって、そんなときに怒りを強者に向ける代わりに、弱者を攻撃する傾向があるかも知れません。これはミャンマーで起きていることの説明の一つになるでしょうか?

ティーダ:  そう思います。ですから、国民の和解と和平のためにも、もっと真実を明らかにして行かなければなりません。
それを抜きにして「もう前に進まないといけない。過去のことは忘れろ。権力者の過ちとか、誰が正しいかは放って、何もしなくていい。とにかく前進するのだ」と言うのではうまくいきません。
私たちは、学び合い教えあうことで、社会に調和を取り戻そうとしていますが、それには時間がかかります。
道傳:  ロヒンギャの問題は、個別の問題として見るべきでなく、ミャンマーの民主主義にとっての試練だと言えますね? (ティーダさんはこの話題で、道傳さんと先進国メディアをえん曲に、繰り返し批判しているのだが、道傳さんには通じていないようだ)

ティーダさんとスーチーの相違点、共通点

道傳:  かつて、あなたはスーチーさんと緊密に動いていました。
ティーダ:  はい。短い期間ですが。
道傳:  では今、手を携え、一緒に働くのはどうですか?
ティーダ:  今、私は彼女と手を組んでいないとは思っていません。スーチーさんがそうであるように、私も私らしく、自分の国のために、何かしようとしています。それが助け合うことになると信じています。彼女のためだけでなく、社会のために。
道傳:  アプローチが違うということですか?
ティーダ:  そうです。私は自立していたいのです。私にとって一番素敵な言葉は「自立」です。ですから、皆のために道を作る意味でも、本当に自立していたいのです。
私たちは、他の誰かや政党に率いられるのではなく、全員一緒に目的地を目指さなくてはなりません。その基礎となるのが草の根の人々です。
彼らに力が必要です。私の目標は、私の国のすべての人が完全に自立し、基本的人権と相互理解と相互の尊重です。

ミャンマーに民主主義を

近影

ビルマ語には、「民主主義」の訳語がまだありません。人々は現実に向き合う準備がまだできていないのです。指導者か、政党か、誰か他の集団が、民主主義を運んで来てくれると、人々は考えていました。
自立していない人々は、多数派や力のあるところにいないと安心できません。安全のためだとして、武力やより大きな集団に頼ります。
人々はいつも、より大きなギャング(暴力的な権力集団)を求めているのです。それは自らの安全のためです。彼らはいつも自分たち民衆の力を過小評価し、いつも救世主を求め、より大きなギャングに繋がろうとするのです。
道傳:  今は、民主的な選挙で選ばれた政府がありますね。それでもまだ五十年間以上続いた軍政の負の遺産があるとお考えですか?
ティーダ:  現在の状況はクーデターの頃より悪いところもあります。軍事政権の時代には、権力には正統性がないと簡単に言えました。
選挙や憲法という過程を経た今、人々はわからなくなったのです。「2008年憲法」により、国軍司令官が内務省を統括することになりました。内務省は行政全体の最重要省庁ですから、軍が行政のほとんどを支配していることになります。軍事政権時代より軍の権限は強化されたのです。しかも合憲的に。
道傳:  独裁は必ずしも軍だけのものではないかも知れません。「非常に力強い権力」という意味で独裁を定義するなら。アウンサンスーチーさんにも、潜在的に大きな影響力があります。
厳しい言い方かもしれませんが、人々がそれに受け身になってしまって、「自分たちは深く考えなくていい」と思うようになるのでは?
ティーダ:  それもたしかに心配です。それを防ぐためにも、国のすべての人に、自立した存在になってほしいと思います。それが私の最終目標です。たんに民主主義や連邦制度ではなく、最終目標は「自立」です。

社会に広がる不寛容をどう克服するか

道傳:  なるほど。社会はより複雑になり、ミャンマー内外にも、不寛容が広がってます。宗教は、過激主義や不寛容の広がりに対して解決の手掛かりになるでしょうか?
ティーダ:  十年前の2007年に起きた「サフラン革命」に戻りましょう。あの時は僧侶たちが平和的な運動を率い、他の多くの仏教徒でない者たちも参加しました。かつて私たちの社会には、とても強い相互の調和があったのです。
いま私が強く望むのは、政治・宗教・社会の指導者たちが相互に大きな敬意を払うことです。それには間違いなく長い時間がかかります。でもそうしない限り変えていくことはできません。

 
     これはNHK教育テレビの「こころの時代」で放映されたものである