社会知性開発研究センター/古代東ユーラシア研究センター/年報第4号
のサイトに「鼎談」という記事があった。   2091_0004_07.pdf   (1.55MB) 


2017 年 7 月 15 日に古代東ユーラシア研究センター主催の「渡来民に関するシンポジウム」が行われ、武末純一、亀田修一、土生田純之の3人が講演した。
その後、三人による「鼎談」があって、細大漏らさず文字起こしされている。

少々、忌憚のなさすぎる会話がかわされる。ゴシップ風味、楽屋落ち風のネタも有り、シロウトには少々読みにくい。だが、それだけに大迫力で外野席には面白い。

その鼎談の最後の方、土生田さんが百済の前方後円墳について、以下のように自説を語っている。

少々長めに引用する。小見出しは私がつけたもの。

百済の前方後円墳

① 誰が建てたもの?

これはおもに「倭系官僚説」と、「在地首長説」というのがあります。私は「在地首長説」を支持します。

② 倭系官僚という人々がいた

当時の百済の官僚のなかで有名な人に日羅がいます。

そのお父さんがいまでいう熊本県八代方面の人で、向こうへいって現地の奥さんを娶って、その子どもが日羅です。ですから、いま風にいえばハーフです。

③ 日本名と百済名の複合名

百済の官僚を見ていくと、日羅をはじめ、日本名と現地の名前とが合わさった「複合名」がたくさん出現する時期があります。たとえば物部の○○というぐあいです。6 世紀後半にたくさん出てきます。

④ 複合名の隆盛と前方後円墳は時期が合わない

しかし倭系官僚が活躍するのは 6 世紀後半ですが、前方後円墳はだいたい 6 世紀前半です。時代が合いません。ただし否定はできません。

⑤ 前方後円墳は百済ではない

これに対し、私は在地首長説を主張しています。と言っても当時は在地の首長だけれども、そのあと完全に百済に編入されます。

(百済はもとはソウルを中心とする国だったのが高句麗に圧迫され南下を繰り返した。南下に際し旧馬韓の諸国を版図に入れ、倭に任那の宗主権放棄を迫った)

つまり百済からみて未だ十分に支配できていない南端の僻地になるのです。


⑥ 秦韓、慕韓は倭の五王のねつ造

あの辺り(馬韓南部の地域)は、日本の倭の五王が秦韓、慕韓などいろいろな国を捏造したところです。

そして倭は馬韓を変形して慕韓と名付けました。そこはまだ百済にまだ完全に併合されていない地域でした。

それは同時に、前代における馬韓の中心地でもなく、その周辺地域にあったということも意味します。


⑦ 日本の前方後円墳との違い

そういう地域の人が百済の迫りくる危機
に対して身の危険を感じて、日本ともつながっているというふうに示したと私は考えています。

実際に古墳の様子を見るとだいぶん違いますので、(倭系官僚が直接建設したのではないと思われます)



⑧ 一代限りで終わった前方後円墳

(百済の前方後円墳は)光州市の月桂洞1- 2 号墳を除くと全部一代しかありません。

そのあとは完全に陵山里式という百済の中枢の石室になったりします。

(これに対し、地方の有力者は百済の官僚機構に取り込まれ、その結果複合名の官僚が増えたのではないかと考えられる)



感想

1.慕韓、秦韓は倭の創作

慕韓、秦韓を倭の五王の創作だと言い切ったことには度肝を抜かれた。しかし言われてみると確かにそうかも知れない。

五王のしんがりを務める武はたしかに複雑な側面を持つ。それまでの4王が霧の中の人物であるのに比べると、この王の周辺事実の多さは圧倒的だ。

百済の皇太子を人質に取り百済に対して優越性を保持し、新羅に対しても睨みを効かせ、しばしば武力干渉を行う。一方では、彼を最後に中国への遣使が途絶えるなど重大な内部問題を内に抱えていた。

6世紀のはじめ(おそらく死後)、百済の領土要求に屈し、任那の重要部分を割譲している。おそらくこれが遠因となり筑紫君磐井の乱を起こしている。

2.好太王碑では任那と加羅は別物

高句麗は紀元400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。倭軍が退却したので、これを追って任那加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。

好太王の碑にそう書かれており、これを信用しない限り議論は進まない。

これを素直に解釈すれば旧三韓のうち弁韓と辰韓が新羅・加羅・安羅の三国に再編成されたと見るのが自然であろう。そして馬韓は任那へと再編されたと考えられる。

洛東江バルジのやや南方の慶尚南道咸安郡伽倻邑というところで大規模な遺跡が発掘され、安羅の都ではないかと言われている。ただ韓国の命名はきわめて恣意的で、すべて伽耶連合の属国として強引にくくろうとする。任那は任那伽耶で、安羅は安羅伽耶である。いつまでこの絶望的な反日の歪みが続くのであろう。

加羅と伽耶の異同は不明だが、好太王碑に伽耶の記載がない以上、伽耶は加羅の後の時代による別称だと考える。これについてはなんとなく同意がある。

3.馬韓南部の前方後円墳の意味

私は以前から主張してきたのだが、前方後円墳はぼた山なのではないか。とくに地面を鏡のごとく水平にならし水の流れを整える水田づくりには膨大な残土が出る。それを丸く積み上げれば巨大な土饅頭となる。それを墓にするのは支配者にとって一石二鳥だ。

だからそれは文化の中心ではなく、周辺部の水はけの悪い新田開発地帯にドカドカと建てられる。いくら大きくてもそれほどの価値はない。廃坑のボタ山がいくら大きくても大した価値がないのと同じだ。

同じことが全羅南道の不便な湿地帯にも言えないだろうか? と密かに思っている。

古墳時代という時代区分は、どうも面白くない。もしヤマトの勢力が最強の力を握った時代だとするなら、ヤマト時代と呼ぶ米ではないか。マンローがいみじくも述べたように…