五木の子守唄 とりあえずのまとめ

「成り行き」話はさらに進んで、「球磨の巡礼歌」の類歌探しに入った。

しかしそれはなかった。調べた限りではこの歌はかなり孤立した歌であった。

1.子守歌に紐付けられてしまった巡礼歌

日本の子守歌としては江戸の子守歌、中国地方の子守唄、竹田の子守唄、島原の子守唄が知られている。

五木の子守唄も子守歌としてはかなりそちらの系統と共通している。しかしそれは、何度も繰り返すように、五木村に伝わる「守子歌」に関しての話だ。

五木の子守唄の本質は、「おどま勧進勧進」に始まる巡礼歌であり、それは五木村とも守子歌とも縁のないものだ。


2.芸者歌になった巡礼歌

ここから先は、私の推論に過ぎないことをご承知いただきたい。

おそらく昭和のはじめにこの歌を採譜した地元の音楽教師田辺隆太郎は、人吉の芸者から聞き取ったに違いない。

その「芸者A」はそれより前、おそらくは大正時代に聞いた巡礼歌を、「五木の子守唄」として広めたのであろう。

BS朝日の放送では、「旋律も拍子も違う2つの五木の子守唄」が採譜されたとある。

ここまでは正しいが、「1つは五木地方の子守唄、2拍子。もうひとつは五木四浦地方(現相良村・四浦)の子守唄、3拍子」というのは間違いと思う。

五木四浦の子守歌というのは、じつは芸者歌であり、そのルーツは巡礼歌であったと考えるべきだろう。

巡礼は無宿人(浮浪者)であり、流しの芸人でもあった。そして幸運にも宿場に居着いて、地付きの芸者に成り上がったかも知れない。

明治まで「芸人」は職能ではなく、まずもって身分(河原乞食)であったから、巡礼歌を守子歌でもあるかのように偽装する必要があったのではないか。


3.「巡礼歌」の構成

ここから先はもはや「五木の子守唄」と呼ぶのはふさわしくない。「巡礼歌」と呼ぶことにしたい。

歌詞から言うと、この「巡礼歌」は二つつの本歌と、それに対する問答歌からなっている。

最初は

おどまくゎんじんくゎんじん ぐゎんがら打てさるく
ちょかでままたゃて ろにとまる

の本歌に対する二連の返し歌からなる

二つめは

おどんがうっちんだら おかん端いけろ
人の通る数 花もらう

の本歌に対する三連の返し歌。

花は何の花 つんつん椿
水は天から もらい水

おどんがうちんちゅうて 誰が泣ゃてくりゃか
裏の松やみゃ せみが鳴く

せみじゃござらぬ 妹でござる
妹泣くなよ 気にかかる

順番は私のアレンジである。


4.巡礼歌の旋律

歌のメロディはヨナ抜き短調で、御詠歌と同様だ。古関裕而の採譜と照菊のレコードに差がないことから、すでに戦前「五木の子守唄」として完成していたものと思われる。

しかし聞けば分かるようにこの旋律は子守歌系ではなく御詠歌の流れをくんでいる。九州でどのような御詠歌が歌われていたかは「九州詠歌青年会」の男声合唱で偲ぶことができる。

聞いてもらえば分かるように、三拍子系であることにさほどの意味はない。変形七々七五の歌詞にメロディが乗ったものである。


5.巡礼の歴史

2020年11月29日 「五木の子守唄」は子守唄ではない
http://shosuzki.blog.jp/archives/84519534.html

の最後に
旅役者や大道芸や瞽女たちは流れ者の芸者だが、「ヘンド」たちは御詠歌を歌うだけしか能がない。彼女たちは、より悲惨な運命に翻弄されて行ったのではないかと危惧する。

と書いたが、それがずっと気になっていた。それが最後の記事でそれなりにスッキリした。

つまり、旅芸人とヘンドの間には理屈で考えるほどの差異はなかったということだ。

皆それなりに、したたかに生きていたのだ。巡礼おつうのように、やすやすと息絶えていたのではない。

流れ者(無宿人)には2つの系統があった。一つは旅芸人系(乞胸)であり、もう一つが願人系である。

遍路(ヘンド)は寺社建立への寄付を募る願人系で、もともとは芸で身を立てていたわけではない。

しかしそれだけで食っていくわけには行かないから、鳴り物入りで練り歩いたり、それが「大きな鉄の鉢をたたいて、大声で叫びながら練り歩く」ようになった。

さらに進めば、何らかの芸をすることで糊口をしのぐようになる。それが御詠歌であり、義太夫であったのであろう。

こうなってくれば「女太夫」と変わりない生活になる。やがてそれが地着きの芸者へと変化してのかも知れないし、地元の子女に音曲を伝えたのかも知れない。


6.遍路のイメージ

九州における遍路のイメージは、2つの記述の間を行き来する。

一つは北原白秋が故郷柳川での子供時代のイメージに沿って、多少美化しながら描いたもの。
春なれば街の乙女が華やぎに
君もまじりて美しう、恋の祈誓の
初旅や笈摺すがた鈴振りて、
大野の南、菜の花の黄金海透く
筑紫みち列もあえかのいろどりに、
御詠歌流し麗うらと練りも続く日、

もう一つは高群逸枝が水俣の田園を歩く遍路たちの列に憐憫の眼差しを交えて描いたものである。
この歌は五木のみならず、肥後一円で歌われた。私は熊本南部の水田地帯に育ったが、10、20人とうち群れて、肥後の大平野をあかあかと染めている夕焼けのなかで、この歌を声高く合唱する子守たちのなかに私もよくまじっていた。
ただし、歌詞は、平地から山地に入るにしたがって深刻となり、球磨の五木へんで絶頂にたっしていたとおもう。
そのわけは、後にいうように、そのへんが子守たちの大量給源地であったからだろう。