1.「球磨の巡礼歌」の構造的本質
何回も歌詞を見返しているうちに分かったのだが、この歌、もはや五木とも子守歌とも言わず、「球磨の巡礼歌」と呼びたいのだが、この歌詞の「本歌」は以下の2つだ。
何回も歌詞を見返しているうちに分かったのだが、この歌、もはや五木とも子守歌とも言わず、「球磨の巡礼歌」と呼びたいのだが、この歌詞の「本歌」は以下の2つだ。
一.おどまくゎんじんくゎんじん ぐゎんがら打てさるくちょかでままたゃて ろにとまる二、おどんがうっちんだら 往還端いけろ人の通る数 花もらう
これ以外の歌詞は本歌取りというか返し歌というか、そんな感じの対話だ。
2.“ぐゎんがら打てさるく” 集団
この “ぐゎんがら打てさるく” がよく分からない。明らかに大音を立て、自らを目立たせるふるまいだ。
この “ぐゎんがら打てさるく” がよく分からない。明らかに大音を立て、自らを目立たせるふるまいだ。
これは旅芸人なのではないだろうか。彼らが非人であったゆえにその歴史が隠されてきたのではないか。
ネットでもこの辺になると極端に情報が少なくなる。
できるだけ不適切な記載を予防するために、「部落解放同盟東京都連合会」のホームページから勉強しようと思う。
3.乞胸(ごうむね)について
江戸の被差別民に、乞胸(ごうむね)と呼ばれるグループがあった。大道芸を業としていた。乞胸たちは一般の町人や武士からは蔑視されていた。


明治3年、平民も苗字を名乗ることになったが、乞胸は布告から除外された。
4.辻勧進(つじかんじん)について
芸のない者や女や子どもたちが、往来に出て銭を乞うこと。おつうの境遇はかなりこれに近い。れっきとした武家の娘だが、おそらくは因果を含めて養家を追い出されたのであろう。あるいは耐えかねて家出したのか。戦後の浮浪児を忍ばせる。
実母とは知らず、この家においてくれと懇願するさまは、なんとも悲惨だ。
実母とは知らず、この家においてくれと懇願するさまは、なんとも悲惨だ。
ところでサイトの指摘では、辻勧進も乞胸の大道芸の一つに入っていた。ほかに猿若、義太夫節、物真似、講釈などが乞胸のレパートリー。無芸も芸の内ということか。
5.願人(がんにん)について
乞胸(ごうむね)とほとんど同じく大道芸を生業とする。
しかしその成り立ちは少し違った。願人は僧侶のたく鉢を起源とする下層の僧侶であった。ありていに言えば乞食坊主である。乞食坊主といえども坊主は坊主、このため願人は寺社奉行の管轄とされていた。

江戸時代中期には、大きな鉄の鉢をたたいて「お釈迦、わい!」と大声で叫びながら往来していた、という文献があるそうだ。 まさにこれこそ “ぐゎんがら打てさるく” の実像だ。
それが幕末ころには、もっぱら踊りや謡などを街頭で見せて銭を稼ぐ存在となった。いわば “願人の乞胸化” である。
願人芸人化の象徴が「住吉踊り」である。「一人が長い柄の派手な傘を持って歌いながら踊り、それに合せて数人の踊り手が団扇を持って周りを輪になって踊る」芸で、俗に言う「かっぽれ」である。

明治6年に「願人呼称廃止」が布告され身分が引き上げられたが、物貰いが禁止されたため、生活はかえって困窮したという。
6.女太夫(おんなだゆう)について
女太夫は非人小屋に所属し、一人あるいは二三人ずれで三弦を弾きながら市中の店や門口に立って歌・浄瑠璃を奏で、銭を乞う。


正月には綺麗に化粧し、新しい服を着て日和下駄をはいて、「なまめきたる」風姿で唄う。
とくにこれを「鳥追」(とりおい)芸という。
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