泥沼の「五木の子守唄」
BS朝日 「歌の旅人」より
2009年8月14日「五木の子守唄」

一般に流布している「五木の子守唄」は、戦後の昭和25年(1950年)、作曲家古関裕而氏が、熊本・人吉地方で唄われていた民謡を採譜・編曲してオルガン曲として世に出したものだ。

五木地方の子守唄は、長い時間をかけて積み重ねられてきたため、歌詞のヴァリアントが非常に多く、記録されているだけでも70~80聯ほどもあるといわれている。

昭和5年(1930年)人吉市の小学校の教師、田辺隆太郎氏が、この地方の民謡を初めて採取・採譜して球磨民謡集を編纂した。
その中に旋律も拍子も違う2つの五木の子守唄が載っている。
1つは五木地方の子守唄、2拍子。もうひとつは五木四浦地方(現相良村・四浦)の子守唄、3拍子。


the Museというページ

ここではいくつかの文献を基礎にして、五木の子守唄に関するかなりラジカルな見解が述べられています。

最初は当地にゆかりの深い女性解放運動家の高群逸枝の著作「女性の歴史」にもとづいています。

一部紹介させていただきます。

この歌は五木のみならず、肥後一円で歌われた。私は熊本南部の水田地帯に育ったが、10、20人とうち群れて、肥後の大平野をあかあかと染めている夕焼けのなかで、この歌を声高く合唱する子守たちのなかに私もよくまじっていた。
ただし、歌詞は、平地から山地に入るにしたがって深刻となり、球磨の五木へんで絶頂にたっしていたとおもう。
そのわけは、後にいうように、そのへんが子守たちの大量給源地であったからだろう。

上村てる緒が採取した歌詞の一部及び近隣各地の歌詞と田辺隆太郎の2つの採譜は、今日では次に収録され、容易にチェック出来ます。
「日本わらべ歌全集 (25) 熊本宮崎のわらべ歌」(柳原出版 72年)

節回しが通常歌われているものと全く違うこと、下の句(7775形式の75部分)が繰り返される等の特徴に気づかれることでしょう。

上村占魚の証言
人吉出身で高浜虚子に師事した俳人、上村占魚 (1920 - 1996) の随筆「五木の子守唄と私」(「愚の一念」1965年 笛発行所 所収) には次の様な既述があります。

昭和4、5年、家には五木在から子守、女中が来ていたが、彼女達の歌は耳にしたことはない。家兄がうたうのはききおぼえた。

この中で彼は昭和15年頃北原白秋に人吉ヴァージョンと五木ヴァージョンを唄って聞かせたことも披露しています。白秋は色々なところで、この唄を高く評価していますが、これがそのきっかけだったのでしょうか。