翻訳者は裏切り者

「翻訳者は裏切り者」(traduttore-tradittore)という一種の箴言みたいなものがあって、翻訳業界ではよく口にされるようだ。

英語では “translator is a traitor” ということになるが、これではあまり面白くないので、わざわざイタリア語で表現する。それも翻訳家っぽい。

ネットで見ても様々な専門家の先生が御高説を披露されているが、「それで、あんたはどっちだい」という疑問に答えている人をとんと見ない。

例えば聖パウロなんかはヘブライ語をローマ語に訳した翻訳者でもあり、イエスの教えを伝えた伝導者でもあったし、予言者キリストの言葉を通じて人の道・信仰の道を教えた伝道師でもある。弾圧下のローマから逃げ出そうとした、文字通りの「裏切り者」となりかけてもいる。

それのどこに重点を置くかで翻訳事情はいろいろ変わってくる。それを「裏切り」と讒言されても、ちょっと…

私なんかはシロウトだから、思いっきり裏切っている。わかり易けりゃいいんだといって、難解なところは平気で飛ばす。なぜなら「本人が一番訴えたいことは誰でも分かるように話すはずだ」という信念を持っているからだ。ときには「本人がそこまでは言ってないだろう」という書き加えまでしている。

むかし医学書院から看護の教科書(ナースのための循環器患者教育マニュアル)を翻訳出版した。「よく練った訳文ですね」と褒められたが、聞こえなかったふりをした。おかげで結構売れた。

たしかに私は裏切り者の最たるものだが、「裏切る」とも「裏切らない」とも言わずに「ハイデッガーがどうした」などと講釈を垂れているような人々は、もっと愚劣だなと思う。

翻訳家というのは自分の気配を消して影に徹するのだと言われれば、それまでだが。