六朝時代における南北対立

倭の五王の歴史的事実は六朝時代の史書群の中にしかない。その史書群は日本書紀の作者たちも読んでいた。日本書紀の作者たちの情報入手先は、百済に持ち込まれ蓄えられた情報(百済本紀をふくめ)を介してのものである可能性が高い。
いろいろな憶測はできるにしても、五王の情報を跡づけるには六朝時代の史書群を読み込み、この時代の朝鮮半島がどう動いていたのかを探るしかない。
その際の最大のキーポイントは中国本土と朝鮮半島を南北に隔てる深い境界線である。見方を逆にすれば、中国南部と朝鮮半島南部をつなぐ「海上の太い帯」の存在である。
中国大陸北部は五胡十六国の時代であり、目は北や西の内陸地方に向いていた。北部を統一に導いた北魏も西域とつながる鮮卑人の国であった。朝鮮半島北部も南満人国家である高句麗が支配していた。
南朝鮮(倭国も含む)の諸国は、敵国高句麗を通過してまで北魏とつながる関心もなければ利益もなかった。
したがって倭は南朝に対して、南朝鮮の諸国とひとやまいくらの存在として存在していて、その中の盟主(の一つ)的存在であったと言える。

六朝政権の根本的利害

このような南北対立の地政学的構図を念頭に置くなら、六朝側の根本的要求は朝鮮半島での北方勢力の南方進出を阻止することに尽きる。黄海越しに柔らかい脇腹を突っ突かれるのはまっぴら御免被りたいところだ。

その観点からすれば最も重要な同盟者は百済であり、倭国はその強力な支援者として評価されるのだ。おそらく20年ほど前、高句麗の好太王が攻め込んだ時代に、倭が百済と新羅の支援者として出兵したことを六朝政権は忘れていなかったのではないか。



六朝時代と五胡十六国時代の経過

三国時代の呉が滅亡した後、呉の支配域に継起した諸国の総称。

222年 呉が魏より独立。建康(建業)に都をおく。魏、蜀が並び立つ三国時代の開始。

265年 黄河流域の魏が滅亡し、晉の支配が始まる。

280年 晉の攻撃を受け、呉が滅亡。晉が全土を統一。

317年 晉が北方民族に敗れ滅亡。黄河流域では五胡十六国時代の戦乱期に入る。(五胡は匈奴、鮮卑、羯、氐、羌)

317年 晉の残党が長江流域に逃れ、東晋が成立。(それまでの晉は、通常、西晋と呼ばれる)

386年 黄河領域を鮮卑出身の北魏が統一。五胡十六国時代が終わる。統一の完遂は442年まで降る

413年 倭王讃が東晋に遣使。その後477年までに少なくとも9回が確認される。

420年 内紛により東晋が滅亡。宋の時代に入る。これ以降中国は南北朝時代に入る。

449年 北魏軍が宋に侵入。国土は荒廃し、国力は低下。その後内紛が続く。

477年 (宋書))倭国が宋に遣使。

478年 (宋書)順帝は武を「使持節 都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭王」に除す。武の確実な遣使はこれが最後となる。

479年 宋が滅亡。斉の時代に入る。

479年 (南斉書)太祖高帝、武の将軍号を「鎮東大将軍」に進めた。

502年 斉が滅亡。梁の時代に入る。この後の数十年、南朝は最盛期を迎え、北魏をしばしば打ち破る。

502年 (梁書本紀)武が「征東将軍」に進号された。この後、倭王朝と南朝との関係は途絶える。

534年 北魏が分裂。東魏、西魏となる。

549年 梁で内紛。武帝が死亡し、梁は実質的に崩壊。

557年 梁が滅亡。その後1年にわたり王不在が続く。

558年 最後の王朝、陳が始まる。

577年 西魏の後身北周が、東魏の後身北斉を倒し中国北部を統一。

581年 隋の楊堅が北周を引き継ぎ隋を起こす。

589年 最後の王朝、陳が滅亡。隋が中国全土を統一。六朝文化が終焉を迎える。