ジェームズ・スチュアートと剰余価値論の変ぼう
「小林昇の解説」から
重農学派が剰余価値説を提唱。
いかなる労働が交換価値をつくり出すか
→いかなる労働が使用価値をつくり出すのか
→いかなる労働が剰余価値をつくり出すのか
への転換。
ジェームス・スチュアートは農業から鉱工業一般に価値論を拡大するに当たり、多くの言葉を生み出し。多くの混乱をもたらしつつ剰余価値の探求を進めた。
もっとも単純化した形態では、スチュアートの主張はこうである。
商品には有用性だけではなく、特有の自然的な性質がふくまれている。これを「内在する価値」(intrinsic worth)と呼ぶ。
これに労働が加えられて商品となるが、そのための労働時間を「有用な価値」(useful value)とよぶ。
つまり商品の売値=交換価値は、材料費(スチュアートのいう内在価値)と労働量=労働時間(スチュアートのいう有用な価値)としてもとめられることになる。
たぶん、スチュアートはケネーの再生産表の厳密な適用によって価値の抽象化に成功したのであろう。
ここには商品の形態は姿を消し、これによって生産の本質が明確に掴まれている。
スチュアートの結論:
原文はこうなっている。
その譲り渡しによって一般的等価(Universal Equivalent)をつくり出す労働を、私は産業(インダストリ)と名づける。
私は次のように読み直す。
(商品の)譲渡によって一般的等価
“Universal Equivalent”が作り出される。このような商品生産体制を、私は産業 “Industry”と名づける。
スチュアートにあっては生産と労働の分離は行われていない。インダストリーにつながる“労働”については、労働ではなく生産というべきであったと思う。
「生産」という抽象的範疇はまだスチュアートの主張の中には現れない。おそらく産業というのが「生産」の概念を代用しているのであろう。
これは重農説における農業生産と労働の未分離が重石となってのしかかっていたのだろうと思う。率直に言って、それはマルクスにも引き継がれている。
このあと、労働の生産への置換えを注意深く進めながら、議論をたどってみたい。
スチュアートは、将来の資本主義的な生産様式における生産活動を、現在や過去の生産様式と区別する。
この生産活動は生産のブルジョア的形態であって、古代の形態とも中世の形態ともちがっている。
現在は封建的生産からブルジョア的生産への移行期にあり、前者は没落の段階にある。
その違いは、商品の交換過程にもっとも顕著に現れている。
封建時代にも商品はあり、商品が交換される際には貨幣が用いられていた。
しかし、商品は残余ではなく富の基礎形態(交換価値)となった。そして商品の販売は富を取得するための主要形態となった。
このような商品と貨幣のあり方はブルジョア的生産時代に特有のものである。
したがって主要な「生産」の性格は交換価値(富の素材)を生むという抽象的なものとなった。
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