真田十勇士というのはなんで覚えたのだろうか、どうも記憶がはっきりしない。
ふと三好青海入道というのが口の端に浮かんできた。まぁ猿飛佐助だが、あとはかろうじて霧隠才蔵、それに三好清海入道にはたしか弟がいたよな、というあたりで記憶はぷつっと切れる。
たぶん東映映画で憶えたんではないかと思うのだが、どうもそんな映画を見た記憶がない。これが里見八犬伝だと、なんか天守閣の屋根で錦之助と千代の介が見えを張っている場面が思い出される。ただしこちらの方は犬山とかいう名前がさっぱり思い出せぬ。どうも困ったものだ。
困ったときはウィキペディア。とりあえず真田十勇士をあたってみる。
十勇士の名前は猿飛佐助、霧隠才蔵、三好清海入道、三好伊左入道、穴山小助、由利鎌之助、筧十蔵、海野六郎、根津甚八、望月六郎の10人。ただし下の方は別バージョンがあるらしい。

真田十勇士はいずれも明治になってからの講談の創作のようだ。江戸後期に真田昌幸・幸村らが徳川家に抵抗する物語が『真田三代記』として語られるようになり、その中のサイドストーリーとして十勇士らの物語が挿入されたらしい。
面白いのは、最初の頃は霧隠才蔵が主役で、猿飛はあとから挿入されたまったくのフィクションらしいということである。

最初に猿飛佐助が出てくるのは1914年(大正3年)の立川文庫『真田三勇士忍術名人猿飛佐助』からであり、その後も主役の座は安定しなかった。
「真田三勇士」というのが当初の触れ込みで、顔ぶれは由利鎌之助と霧隠という具合。霧隠は今も猿飛を凌ぐほどの人気を博している。

映画で見た記憶だが、ウィキによると『真田十勇士 忍術猿飛佐助 忍術霧隠才蔵 忍術腕くらべ』(1954年 東映)というのが該当するようだ。私としてはまったく憶えがない。
いずれにしても猿飛というキャラにまったくリアリティーがないのは確かである

まぁ、どうでも良いが…

分かった!

映画のことなど憶えていないわけだ。

私の真田十勇士の記憶は少年画報に連載された杉浦茂の「真田十勇士」という漫画が源泉だ。「オール・ザット・十勇士」というサイトに詳しく触れられている。

猿飛佐助は信州鳥居峠の麓に生まれ、山中で猿と遊び暮らしていた。忍術の大名人戸沢白雲斎に教えられ、免許皆伝となる。巻物をくわえ、手で印を結べばたちまちドロンと姿が消えるという忍術の達人。これはどうも怪傑児雷也のパクリではないか。幸村のもとで諸国探索を言い渡され、三好清海入道と珍妙な道中を繰り広げる。
霧隠才蔵は浅井長政の侍大将霧隠弾正左衛門の遺児。伊賀流忍術の百々地三太夫に師事する。猿飛佐助と忍術比べで負け、弟分となり真田幸村に仕えることになる。
そうだ、そうなんだ。このときの刷り込みがもとで。甲賀は伊賀より強いという固定観念が出来上がったのだ。

俺の思想的ベースは杉浦茂だったのだ!
考えてみれば赤胴鈴之助も、途中からは武内つなよしだったけど、始まりは杉浦茂だったし、イガグリくんも杉浦茂だった(と思う)。


ウィキによると、上記のイガグリくんの記述は記憶違いでした。私は少年画報読者だったので、冒険王は従兄弟の家で読んでいたと思います。昭和28年の小学校入学なので、最初の1年は読んでなかったのかもしれません。

秋田書店の『少年少女冐險王』に1952年3月号から1954年8月号まで福井による執筆作が連載されていたが、福井が過労によって34歳の若さで急逝。有川旭一が正式に作品を引き継いで連載を続けた。

少し少年画報、冒険王、少年クラブについては記憶違いを修正しておきたいと思います。

それにしても、「手塚学」というのはすごいですね。「マンガ学」の一大分野を形成している。読んでいて嬉しいのは、私小説を書いていた小説家たちの無頼・露悪傾向に比べればはるかに健全だということです。
私の子供の頃の記憶をたどるなら、子供漫画界の座標軸を説得力をもって示していたのは馬場のぼるだろうと思います。彼らは絶えず子供を見つめて、子供の先に未来を見据えていました。同じ漫画家でも「漫画読本」で大人向けお色気漫画を書いていた連中とはまったく違います。