支石墓(ドルメン)
日本においてそれは卓越した文化を形成したのか?

マンローの「先史時代の日本」はまことに素晴らしい本である。それはマンローの博識と偉大な仕事の結晶であり、シーボルトJrやベルツなど初期文化人の高水準の考察の賜であり、明治期考古学の金字塔と言っても差し支えない。

ただ、ドルメンについてだけは素直に首肯できないところがある。

もちろんドルメン文化が日本にも存在したことは認めるにやぶさかではない。しかし西日本の支石墓と北日本のそれとは、起原も時代も支えた人々もまったく異なるものだろう。

これをドルメンとして一括することは、私としては認められないのである。

この議論は、マンローの日本ドルメン文化論の誤解に基づくものかもしれない。まずはウィキペディアからドルメン論を学んでおきたいと思う。


A.起源
もっとも早い発祥は西ヨーロッパだが、それは起原ということではない
世界各地で独自に発展したと思われる。

①北西ヨーロッパ
紀元前4000年-3000年頃: 新石器時代から金属器時代初期に建造された。

②歴史的背景
農耕の伝播→人口増加→階層分化と関連している。
紀元前3500年頃に巨大な支石墓が激減し、小規模な支石墓へ移行。
紀元前2000年頃、西ヨーロッパの支石墓は消滅。
③消滅の理由
ウィキでは「上級階層を中心とする社会構造が崩壊し、民主的な共同体にとって代わられた」と説明されているが、到底納得できない。
私は石がなくなったためだろうと思う。畑作りに際して巨石を取り除いたのが、畑の開発が「完了」したために材料がなくなったのではないか。

④支石墓の作り手
ヨーロッパにおける支石墓の主な作り手は、ハプログループG2a (Y染色体)とされる。アイスマンがその典型
Haplogrupo_G_(ADN-Y)

⑤遼東~南満の支石墓
紀元前1500年頃に遼東半島付近で発生し、中国吉林省方面へ広まった。
巨大な一枚岩を天井石とし、これを複数の板石で支えるテーブル型構造で、北方式と呼ばれる。

⑥朝鮮半島の支石墓
朝鮮半島では世界の支石墓の半数、約4-6万基が存在する。遼東半島より出現は新しい。

南方式と呼ばれる。地表は土盛りで地下に支石構造の埋葬施設を持つ。

紀元前500年頃(水稲作の開始頃)から半島のほぼ全域で建造、特に南西部の全羅南道である。
日本では縄文時代晩期に浙江省様式の支石墓が長崎県に建造される。西北九州から広がることはなく、稲作受容期の弥生時代前期には早くも終焉。
朝・日での担い手はハプログループO1b2 とされる。