19世紀の末、故郷山東省はドイツの植民地となってしまいました。
キリスト教会が強引な布教活動を行い、
皆、見て見ぬ振りをしていました。
そんなとき、拳法を修行する集団「義和拳」の若者たちが立ち上がったのです。
その中心にいたのが朱紅燈でした。
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朱紅燈は山東省泗水の生まれ。本名を朱逢明、天龍と号していました。ただし生地についてはいくつかの異説もあります。

貧しい家庭に生まれ、長じては「遊民」のような生活を送っていたようです。青年時代には白蓮教の影響を受け布教活動にも参加していました。

故郷が洪水に巻き込まれ、長清県へと移りました。

光緒24年(1898)から医業を始め、併せて拳法の道場も開きました。その拳法は「神拳」、会の名を
「大刀会」と名乗りました。

大刀会の会員は急速に拡大し、会は「山東義和会」を名乗るようになりました。そして朱紅燈は著明な指導者と目されるようになっていきました。

当時、山東省を流れる黄河はしばしば氾濫し、至るところで土砂が畑を覆いました。洪水後は干ばつが襲い、人々は食べて行けず、生活はまことに厳しいものでした。

キリスト教の白人宣教師は、西洋列強の力をカサに来て人々を抑圧しました。こうして民衆とキリスト教会の矛盾はますます激化していきます。

同じ1898年9月、朱紅燈は山東省平原縣に「興清滅洋」(西洋を滅ぼし清を再興しよう!)の大旗を打ち立てます、そして会の名称を「義和拳団」と改称します。

1899年春,朱紅燈は茌平に入り、彼の技を各所で繰り広げ、そこの反キリスト教会運動の指導者となりました。
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彼の指導の下、茌平の義和拳運動は著しい発展を遂げます。そしてその勢いは地域の村々へと連携を強めていきます。そしてキリスト教会への攻撃はどんどん激しさを増していきました。

十月,朱紅燈は隊伍を率いて李莊、起義に入りました。県知事蔣楷の治安部隊を打ち負かし、清国軍に強力なダメージを与えます。

李莊では、人々をせん動し教会を焼き討ちしました。

その後、朱紅燈の率いる義和拳の一行は、長清、禹城、茌平へと転戦しました。そしてこれまで民衆を弾圧してきた教会指導者に懲罰を加えました。

外国の手先となっていた暴力団にも懲罰を加えました。清軍の包囲を破り弾圧をはねのけました。このことが朱紅燈の名をますます高めました。

しかし朱紅燈の進軍は長くは続きませんでした。12月、彼は内紛によって傷を負いました。

彼は山東巡撫により捕らえられ、済南で公開処刑されました。


現在の中国では義和拳の朱紅燈が義和拳運動の創始者のように扱われ、英雄視されているが、どうも正確ではないようだ。

彼自身は明時代の高臣の子孫と称したらしいが、これはかななり怪しい。

朱紅燈の活躍したのは1899年末まで。このときは未だ騒乱は山東省内に限局されていた。彼らの運動は一種の空気抜きとみなされ、省当局は一定の泳がせ背策をとっていた。それどころか地方では一種の私設警察として庇護していた。
しかし最後にはドイツを始めとする列強の関知するところとなり、省長は更迭、泳がせ政策は弾圧政策へと変更された。

実はここまでは義和団運動の前史みたいなもので、それから飛び散った若者が華北一帯に広がり、西洋排斥運動に転化したあたりから、本格的な義和団運動が始まると見たほうが良い。

いづれにせよ、日本(ネット世界)では正確な情報が意外に伝わっていないことがはっきりしたので、この記事もなにかの役に立つかもしれない。

義和団事件の真相
も参照してください。