“人権は「普遍」なのか” 

人権概念の発展をあとづけた本を読みたくなり、図書館に行った。意外にも、率直に言って期待に答えるような本はあまりなかった。

とくに1948年の世界人権宣言の後の人権概念の発展過程を、「自由と平等」のもとに整理していくような論考は見当たらない。

なかで題名が刺激的なのと、薄くて2,3時間で読めそうなので、下記の本を借りだした。

岩波ブックレットNo.480 
人権は「普遍」なのか
ー世界人権宣言の50年とこれからー

という本で、人権宣言50周年の記念シンポの記録である。50周年というのは1998年のことだから、かなり古い本ではある。

私が人権宣言(+規約)以降の一大発展と考える「人間開発報告」(93年)と「持続可能な開発」(02年)はここには反映されていない。

1.
最初の講義が「人権の境界」(鵜飼哲)というので、死刑と戦争を題材に人権を語る。聞いただけでうんざりするような「倫理的」命題だ。

「近代ヨーロッパの崩壊とその先に立ち現れる全体主義」などという無内容を乗り越えて、現代人権理論は発展しているし、その一粒一粒としての人権も多彩化している。

それを認めない人との間の議論は不毛だ。

それにしても恐ろしく観念的な議論を繰り返している。

言語学をソシュール派が占拠したように、人権哲学のフィールドにはハンナ・アーレント派がはびこり、腐臭を放っている。

これが、1998年の日本における人権概念と人権思想だったのだということがあらためて想起される。

2.
次の講義が「プロセスとしての人権」(増田一夫)というもので、これぞまさしくアーレントの紹介に過ぎない。

結びの言葉だけ引用しておく。
これから(人権の普遍化に向けて)、私たちが発明していかなければならない政治とは、現在とは別様な世界のあり方、より良い共生のあり方を考える自由の技法としての政治なのです。
何たるレトリカルかつ無内容な、かつアーレント的な文章。2日はいた靴下の匂い!

3.
次の「アジアにおける人権」(坪井善明)はまともな講義。

「飢えというのは物理的な空腹ではなく、それをなんともできない無力感だ」というアジアの人々の声を引用している。

これは非常に大事な指摘だろうと思う。「飢えから逃れ、飢えを克服しようと希望する」ことが人権の核になるのだということを指摘している。

いわば「希望権」だ。それが生存権の根源だ。

坪井さんは“人権は「普遍」なのか” というゲームみたいな問いに、ふたつの補助線を用意している。

一つは歴史的に見ることであり、一つは階級的に見ることである。

フランス人権宣言は革命によって、革命勢力の合意として作られた。

その革命勢力の末裔がベトナムを植民地支配した。

そしてフランス人権宣言は、今度は民族解放勢力の旗印となった。

こうして人権は「普遍化」されたのではないか。

植民地が開放された後も、先進国との間には大きな社会的ギャップが残り、拡大している。

世界はそのような不公平を拒否し、苦闘してきた。そうして人権はさらに多様化し。ブラッシュアップされている。

一方で、欧米諸国の中には過去の植民地支配への反省が見られない人がいる。

彼らは、古いままの人権概念を振りかざして、自分たちの考えの普遍性を僭称しているが、その人権概念が自分たちだけにしか通用しなかった事を忘れている。

このように個別的には、非常に正しい、示唆的な意見をたくさん提起してる。

しかし残念ながら、これを人権枠組みの中に整序するところまではいっていない。

他のシンポジストの意見から見れば、これが時代の制約であった可能性は否めない。

他途中の演題は個別課題の人権なので跳ばす。

4.

最後の演題が「人権の普遍性と文化の多元性」という、なにか語呂合わせのような演題。

主催者の樋口陽一さんのまとめ的発言となる。

冷戦時代、人権というのは資本主義側の専売特許みたいなところがあって、社会主義国では使わなかった。

ベルリンの壁崩壊の後、「人権」は世界の共通語となったが、そこには人権宣言の中核概念たる人権と、かつて社会主義国からブルジョア的自由だと批判されていたような自由がゴチャ混ぜになっている。

白人有産階級だけがおう歌する自由は、大多数の人にとっては自由の剥奪であり人権侵害である。

現代ではこう言える。自由権のみを以て人権を論じる人がいれば、その意見は無視すべきである。なぜなら、大多数の人々にとって自由権は社会権の上に成り立つものだからである。

このあと樋口さんは人権をめぐるいくつかの誤解に答えている。
人権は西洋人が考え出した贅沢品ではないか?
人権の強調は西洋による文化帝国主義ではないか?
などは間違いだ。
それは支配者の言い種だ。
人民大衆は、人権をまさにもとめている。