コロナ禍の中で、人権の著しい不平等と、場合によっては人権侵害が問題になっている。ただ私の気になるのはいわゆる自由権的人権ではなく、社会権・生存権の方である。
私がこの間、口を酸っぱくして言ってきたのは、世界の人権に対する考えは変わってきているということだ。
ところが20世紀末から急速に国家間の垣根が取り払われ、ヒト・モノ・カネ・資本の移動が自由化してきた。世界は単一化しグローバル経済のもとに置かれることになった。
私がこの間、口を酸っぱくして言ってきたのは、世界の人権に対する考えは変わってきているということだ。
グローバル化と人権
これまで自由も平等も国家レベルで考えられてきた。
国家があり、憲法があり、それぞれに医療・教育などの制度があって、それを基準に国民としての人権というものが考え語られてきた。ところが20世紀末から急速に国家間の垣根が取り払われ、ヒト・モノ・カネ・資本の移動が自由化してきた。世界は単一化しグローバル経済のもとに置かれることになった。
グローバリゼーションは世界の人民が等しくチャンスを与えれるべきものとして構想されたはずだ。
しかし貧富の差はますます拡大し、途上国に貧困と戦争が蓄積しつつある。ひとりひとりの人間の法と人道のもとでの平等は、実現されたとも前進したとも思えない。
このような状況だからこそ、自由と平等をグローバルに構想することが必要だ。グローバルな世界のもとで、不自由で不平等な、絶望的な状態のもとに置かれているのは不条理である。それは人権の名のもとに救済されなければならないと思う。
したがって、国民ではなく「世界市民」としての人権が語られる状況が生まれているかのように見える。
「人権」論の発展の歴史
これまで人権の主要な内容として自由権が語られてきた。しかし現在は、自由権と生存権とが一体のものとして語られなければならなくなっている。
人権が人間の自由に関する権利だということについては、英国の名誉革命、アメリカの独立宣言、フランスの人権宣言以来変わりはない。
しかし、1948年に国連が世界人権宣言を発し、それ以来国際的な議論を交わす中で、以下のことが明らかになり、世界的な合意となった。
すなわち
自由権の実現を目指す社会的土台、すなわち社会権が、今日の世界における人権の主要な内容だということ。
社会権は、世界のすべての人の法的平等という考えに根ざすこと。
そして基本的生活権(健康で文化的な最低限度の生活)を前提条件とすること。
さらに、社会権が社会開発に伴なって拡大充実することが、真の自由権拡大につながっていくのだという、「発展的人権」の考えが今日の人権の中核をなす考えになっている。
そして今、我々はコロナの時代を迎えた。その結果、人権は生存権に集中して論じられるようになった。世界中のすべての人の人権はコロナの時代を生き抜く権利として提示されている。
それを示す基本文書が4月に発表されたグテーレス国連事務総長の声明である。
そして今、我々はコロナの時代を迎えた。その結果、人権は生存権に集中して論じられるようになった。世界中のすべての人の人権はコロナの時代を生き抜く権利として提示されている。
それを示す基本文書が4月に発表されたグテーレス国連事務総長の声明である。
コロナと途上国ファースト
考えていただきたい
自由な社会には社会的平等が必要であり、そのためには基本的生活権の確保が必要なのだ。
米国という一つの国家内でも、平等と生存権の重要性は証明されている。「黒人の命も問題なのだ」というスローガンが、今の時点での人権問題の所在を明らかにしている。
米国という一つの国家内でも、平等と生存権の重要性は証明されている。「黒人の命も問題なのだ」というスローガンが、今の時点での人権問題の所在を明らかにしている。
新型コロナによる死者の23%は黒人。米国の人口に占める黒人の割合は13.4%なので随分高い。
黒人は低賃金のサービス業で働いているから休めない。集合住宅に住んでいて、公共交通機関で通勤するから、不特定多数の人と接する機会が増える。
では黒人が病気になったらどうだろう。黒人は貧しいから保険に加入していない。そもそも黒人地域にはまともな病院がない。
このように差別の垣根は何重にも囲われている。黒人の死への道は掃き清められている。これを差し止めるには思い切った社会政策が必要なのだ。「黒人の命も問題なのだ」
国連の提起に真剣に耳を傾けてほしい
国連の提起に真剣に耳を傾けてほしい
途上国でコロナと闘うためには、ためらいなく、惜しげなく資源を投入する必要がある。多くの国では、そのための資源を十分に確保することができない。
公衆衛生能力の格差は、貧しい国をより高いリスクに晒している。
ユニバーサルな生存権を重視するのは、それが今日における人権の主要な側面であるからだ。平等な権利は互助の精神と表裏一体のものだからだ。
公衆衛生能力の格差は、貧しい国をより高いリスクに晒している。
ユニバーサルな生存権を重視するのは、それが今日における人権の主要な側面であるからだ。平等な権利は互助の精神と表裏一体のものだからだ。
4月、このような状況の中で、国連は事務総長報告「新型コロナと人権」を発表した。
少しその勘所を拾っておこう。
ウイルスは差別をしない。貧富を問わず一つの社会全部にとって脅威だ。新型コロナは、その地域の根本的な差別をあぶり出す。弱者層は一方的に人命を失い、生計の道を絶たれている。そこでは根の深い不平等があり、それがウイルスの広がりを助長し、さらに不平等を深めている。それぞれの国でウイルスとたたかうとき、そこに差別があってはならない。いま最も危険に晒されている国々は、それらを排除せず、特別な対策を講じるべきだ。
もしその国がウイルスの拡散を抑えることに失敗すれば、すべての国が危険に晒されることになる。世界は、最も弱い医療システムと同程度にしか強くない。このことを明記すべきだコロナ対策は基本的には隔離である。それだけに一層、排除と差別は拙劣なアプローチだ。インクルージョン(包括)は私たち全員を保護する、最も良いアプローチなのだ。
そして、「ためらいなく、惜しげなく」の発想が「お互い様」の精神に裏打ちされていなければなならないと思うからだ。
国境の枠にとらわれる限りこのユニバーサルな視点は隠れ勝ちになる。ともすれば二の次にされかねない、下手をすればバイキン扱いされかねない途上国の人々に手を差し伸べるにはどう考えたらよいか。
自由権は絶対に必要
自由権は絶対に必要
自由権は近代社会の中核だ。絶対に外すわけには行かない。
ただその前提が欠如した中では自由権は絵空事だ。途上国や新興国では往々にしてそうだ。ときによっては政治的宣伝手段ともなる。そのことを理解した上で、事実に即してことに当たるべきだ。
それが国連の人権枠組みに関するとらえ方の基本だ。
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