樋口さんの本を読んでいて、言葉が乱舞していると感じた理由は、一つは権利・人権論の考察がないこと、一つはあまりにも早く各論(リベラル対イリベラル)に入りすぎるからだ。

彼は政治学の総論を書いているのだから仕方がない。
しかしいまは、もっと根っこの方の問題、つまり政治哲学(目的論)が問われているのだろうと思う。

なぜならこの本の出版は去年の12月、つまりコロナ前のことであり、いまはコロナ後だからだ。

自由と平等の関係

近代社会において、人間の権利は自由と平等のうちに存する。

自由と平等は二項対立の関係ではない。人間は自由であるべきだし平等であるべきなのだ。
人間は不自由であってはいけないし、不平等であってはいけないのだ。

だから、人は自由であることを求め、平等であることを求める権利を持っている。

しかしふたつの権利はおのずから重み付けが違う。


自由権は原理的で、平等権は具体的

自由を求め、いかなる差別も拒否する権利は、社会的規範の中で暮らす人間にとってもっとも原理的なものだ。
一方平等を求める権利は、限定的で条件付きのものだ。

自由を求める権利は相対的で主観的なものだが、平等を求める権利には具体的な尺度がある。

平等は算術的な平等を意味するものではない。大事なのは、すべての個人が法のもとでの平等を享受することである。
平等の権利とは、良心に恥じることなく暮らしていく権利である。
そのために「まっとうな」生活水準を保持する権利である。


生存権と福祉の義務

注意しなければならないのは、人々の平等を求める権利に照応するのは「まっとうな」生活水準を保持であるということである。

それは憲法25条に規定された「健康で文化的な最低の生活」の維持である。

それ以下の最低の肉体的生存、あるいは傷病に対する療養などについては、本来は国が国民に対して追うべき福祉の義務に属することである。

それを承知の上で、ゼロレベルからの生存権を含めて、「具体的人権」として考えるべきであると思う。

そしてそれを「平等を求める権利」の発展形として考えるべきであろうと思う。


地球規模で考える自由権と平等権

これまで自由も平等も国家レベルで考えられてきた。
国家があり、憲法があり、それぞれに医療・教育などの制度があって、それを基準に国民としての人権というものが考え語られてきた。

しかし、20世紀末から急速にヒト・モノ・カネ・資本の移動が自由化し、ある意味で垣根が取り払われる状況も生まれている。

したがって、国民ではなく「世界市民」としての人権が語られる状況が生まれているかのように見える。

しかしその自由化は偽りの自由化(ネオリベラリズム)であり、強者にとっての自由化でしかない。

もし「世界市民」の社会みたいなものが生まれるとすれば、それは強者の社会でしかなく、弱者には厚い高い国境の壁が妨げとなる。

まずは移住の自由の大幅な拡大が、国際的に合意されなければならないだろう。


世界規模での平等と生存権の考え方

率直に言えば、「まっとうな」生活水準を保持する権利は、途上国においては程遠い現実である。

したがって、ゼロレベルからの生存権をふくめて、「具体的人権」として考える必要がある。

餓死しない権利、集団虐殺やレープから身を守る権利、奴隷労働を避ける権利などから始まり、初歩レベルの教育や医療を受ける権利が緊急に保障されなければならない。

新型コロナに感染しない権利、新型コロナで死なない権利は、まさにここにハマってくるものだろう。