この文章は
去る15日、開かれたニカラグア革命41周年記念学習会での発言に加筆したものです。

ニカラグア革命41周年、おめでとうございます。

ニカラグアは私にとって奇跡の国です。そして昨年ニカラグアを訪れて、もう一つの奇跡を体験しました。

それは「愛と平和、許し」の3つのモットーを加えた政策を打ち立てて、その実現に成功しているからです。

この話はちょっとややこしいので、後回しにして、まずは私がどのようにニカラグアから、奇跡を授けられたかを順番に語っていきます。

1.ニカラグア 最初の奇跡

1979年7月、ニカラグアは革命に成功しました。ソモサ独裁を許さないと決意を固めた若者が、資本家層もふくめて国民の圧倒的支持の下に決起したのです。

1979年という年、ラテンアメリカのほとんどの国が軍事独裁政権の支配のもとにありました。

革命どころか、反政府の意思表示さえ困難な状況にありました。

そんな中、武装したゲリラが一斉蜂起し、武力革命を成功させたのです。

まさにミラクルです。

とはいえ若者たちが作った新政府はか弱いものでした。ソモサを打倒するところまでは一致したものの、資本家はそれ以上の改革には反対でした。

文盲一掃、医療無償化、農地改革の改革三本柱は、至るところで壁に突き当たりました。

しかし若者たちはそれにめげることはありませんでした。愛と平和の旗印を掲げ、教会の改革派と一緒に粘り強く運動を進めました。

2.米国と真っ向勝負した10年間

明日にでも潰れるだろうと思っていた新政府は、結局10年も続くことになりました。これが第二の奇跡です。

米国と資本家の思いのままにならない政府に対し、ついに破壊命令がくだされました。新政府樹立から5年目のことです。

ニカラグアの北と南から米国の雇兵部隊が侵略を開始しました。同時に厳しい経済制裁と、ニカラグアは独裁だというキャンペーンが開始されました。

こうして人口600万、北海道ほどの小国が米国を相手に一騎打ちすることになったのです。私たちは随分支援もしましたが、正直言ってとても太刀打ちできないと思っていました。

しかしそれからの5年間をニカラグア政府は耐えたのです。恐るべきインフレがやってきて、市場からは物がなくなりました。

そして5年後の選挙でついにサンディニスタは政権の座から降ろされました。

5年間の内戦で国の経済はずたずたになり、ニカラグアは中米の最貧国と呼ばれるようになりました。

実は本当のニカラグアの奇跡はここから始まったのです。

3.雌伏の15年とニカラグア革命

政権から降りた後もサンディニスタへの支持はほとんどそのまま維持されました。

アメリカな何度もこの厄介な国から手をひこうとしましたが、そのたびに親米政権が選挙で負けそうになるので、手を引くことが出来ませんでした。

こうして15年が経ち、ついにサンディニスタは政権に返り咲いたのです。しかも新米政権がルールを敷いた選挙で勝ったのです。

今や政党となったサンディニスタは、あのときの大統領オルテガをふたたび大統領に就任させました。

4.安定した多数者革命

それからのニカラグアの政治はもう一つのミラクルでした。

中米最貧国と言われたニカラグアを年率5%の経済成長に乗せ、あわせて医療・教育・福祉の大幅拡充を実現してきました。

とくに愛と平和を基調とする国内宥和政策は、資本家層やカトリック教会からも広い支持を受けるようになりました。

こうしていまでは国内で圧倒的多数の支持を受け、中米でもっとも安全な国として国際的注目を浴びるようになりました。

5.「愛と平和」の革命

ところで1年ちょっと前に、ニカラグアでも学生らの暴動があり国際的に注目されました。
メディアの多くは、サンディニスタ独裁に対して自由を求める若者が決起したと報道しましたが、事実は白黒逆だったのです。

ただここでは事実問題では争いません。この暴動への対処を政権幹部に聞いたとき、またしてもあの言葉が飛び出したのです。

「私たちの対処の基本は愛と平和、そして赦しだ」

こうして明らかな殺人・放火の犯人のほかは恩赦が与えられました。その代わりに社会の中での教育がもとめられました。

「これはソモサの残党、コントラ兵士に対して我々が行ってきたこととおなじことだ」と指導者は語ります。

サンディニスタに批判的な勢力もこれを受け入れ、事態は急速に沈静化に向かいました。残ったのは明らかに米政府や右翼勢力と結びついた雇われ勢力のみとなりました。

私たちがニカラグアを訪問したのは暴動から3ヶ月あとでしたが、もはや暴動の跡はまったく見当たらず、市民もまったく何事もなかったように活動していました。

「愛と平和と赦し」 これが、ニカラグア革命が到達した最大の教訓です。それ自体が奇跡ではないでしょうか。

ただ、学内施設が破壊された国立自治大学だけは、まだ連中への怒りが収まらないようでした。