日本考古学の歩み

ろくに知りもしないでいうのも何だが、年表づくりしてみて、なにか徒労感に襲われる。

記載すべきことと、省略して良いことの重み付けが、そもそもよく分からない。

なんだかんだ言いながらも、考古学が始まって以来すでに100年は立っているはずだ。その100年、考古学は何をやってきたか、それを考古学者は自ら語ろうとしない。

なぜだろうか?

私はどうも、最初の階段についての統一した認識がないからだと思う。

私は考古学は何よりもまず集古の学だろうと思う。それはまず博物学として始まり、それが分類され、時間軸上に位置づけられていくことが絶対的な実務だ。

もちろんそれには考える過程も含まれている。だからそれだけで考古学と呼んでよいのかも知れない。

しかし日本の考古学は、絶対的な宿命、「日本人はどこから来たのか」という命題を抱えてきた。

これは今から考えてみれば無理な話で、考古学にそんな問題への答えなど出せるわけがないのだ。

この呪いから解き離れたいまは、安んじて博物学に徹していればよいのだ。それは有史時代の考古学と同じ目的意識だ。

ただゲノム解析というのはきわめてラフなスケッチであり、その間隙を埋めながら先史時代を豊かに描き出すかは依然として考古学の役割である。

あまり卑弥呼云々の歴史学的な要請にこだわることなく(経営的にはゆるがせに出来ないが)、淡々と歩みをすすめるべきではないか。

マンローの位置づけについて

このような日本の考古学の発展史からすれば、マンローはその始祖と言ってもよいのではないだろうか。

その根拠は三つある。

一つはまずなんと言ってもその圧倒的な資料数にある。二度の火災でその多くが灰燼に帰したが、それでも国内外の資料数とその多様性は圧倒的である。

第二には、近代的で大規模な発掘手技と、周囲状況や位層解析もふくめた科学的な分類・整理である。三ツ沢と鹿児島の発掘は今日でも圧巻である。

第三には、考古学を博物学にとどまらせず人類の歴史と結びつけて「先史時代の歴史学」と位置づけたことである。

これは「言わざるべきことを言わない」戒めであるとともに、「言うべきを言いきる」ことの大切さを諭しているのだろうと思う。

マンローがただ一人の始祖というわけではない。数人の外国人がマンローの周囲にあって共同したり支援したりの関係にあった。この「マンロー・グループ」は、広く言えば東京・横浜在住のヨーロッパ知識人社会と言ってもよい。

その代表が東大医学部教授のベルツであり、オーストリア大使館のシーボルト(小シーボルト)である。

マンローの「日本先史時代」論は彼らとの交流の中で生まれ、固められたものであろうと思われる。しかし、それはユーラシア大陸を挟んだ対極にあるブリテン島の歴史を知るものの論理であり、その中で少数者として劣位にあったスコットランド人の思いであったろう。

マンローの日本人起源論は、平たく言えば「アイヌ先住・渡来人重畳」説である。ここで「アイヌ」と言うのは、今で言えば「縄文人」であろう。

これはブリテン島において、イベリア半島から移住した先住民文化の上にアングロ・サクソンと呼ばれる大陸系が侵入し、混血の度合いに応じた「英国民」を形成した経過に比するものがある。(ただし先住民=ケルトというのは不正確であること。イングランド人はアングロ・サクソンと自称するが、DNA的には先住民の血を濃く残していることを付記しておかなければならない)

マンローの業績はその俯瞰性や先見性において群を抜くものであった。しかし彼は日本のアカデミーとは隔絶していた。彼の活動の地は横浜に限定され、出版は英語に限られていたから、決して多くの日本人の目に届くものではなかった。

例えばモースのように有能な通訳を抱え、日本人目当てに通俗的な講演会を行っていれば、その影響力は計り知れないものとなったであろう。

なぜマンローは孤高の位置に留まったのか

多くの謎に包まれているが、最大の問題は、彼が終生、日本語を喋れなかったことだ。喋らなくても良い世界の中にいて、そこから出ようとしなかったことだ。
北海道から西南諸島に至るまで縦横無尽に動き回り、多くの人と接触しているが、それはすべて通訳を介してのものだ。

これは彼の個人的習性に関わっていると言わざるを得ない。

飽くなき好奇心と、地球の果てまで赴く行動力は彼の個性を何よりも特徴づけている。しかし、それと対照的に事物への執着と裏腹な人物への無関心が同居している。さらに自らの弱点をさらすことへの病的な臆病さも見え隠れする。

今で言う発達障害だが、こういう人が医者になると、普通はあまりいいことはない。しかし幸いなことにマンローはまずまず如才なく医者稼業を送っていたようだから、弱点を補強するだけの修養は積み重ねていたのだろうと思う。

今回、彼の二大論文である「先史時代の日本」、「アイヌ、伝説と習慣」の一端に触れることで、おおよその射程は定まったように思われる。