考古学には発達史がない?

はじめに

実はいまだにマンローにハマっていて、とにかくアイヌ研究史の中でマンローが無視されている印象があり、それじゃ考古学の方ではどうなのかと思って調べてみた。

とりあえずの結論としては、マンロー無視は考古学においても同じだということがわかった。

それも驚きの一つではあるが、そもそも日本の考古学には歴史がないということにびっくりした。

まずネットで調べられる範囲で、いろんなキーワードで検索をかけたが、江戸時代の博物学的なものから始まって、貝塚や遺跡が見つかるたびに認識が深まって、先史時代の全容が次第に明らかになっていく…みたいな記載を期待したのだが、今のところ見つけられていない。

昨日は道立図書館に行って検索をかけたのだが、どうもこれと言ったものは見当たらない。

勘ぐると、マンローの名を表に出したくないためにそういう事になっているんでは…とさえ思えてしまう。

マンローは自著に「日本の先史時代」と名付けた。彼の問題意識は鮮明だ。発掘して遺物を見つけ出しては、それらを時系列の中にはめ込んで、「日本の先史時代」を浮かび上がらせることこそが目的なのだ。

無論考古学の内容は他にもある、江戸時代や奈良時代を掘り出し、歴史の内容を豊かにすることも大事なことだ。

しかし、文字のない時代は考古学しか語れない。先史時代は考古学の独占販売なのであり、先史時代を詰めていくことが考古学の最大の目的意識でなくてはならない。

大事なことは考古学的方法ではなく、対象とする時代だ。カッコを付けない考古学は、先史時代(研究)学と呼ぶべきだろう。

考古学は古物を見てものを考える学問だ。だから何を見てどう考えてきたかの歴史が考古学史を形成する。いろいろあって良い学問なのだ。

空がわき道に逸れないようにするためには、学問の歴史を絶えず念頭に置いて考えていかなければならない。

もう一つは、ゲノム解析による日本人の形成過程がかなり明らかになっているので、この道筋に沿って古物を構成していかなければならないということである。

とくにY染色体ハプロの解析は考古学の画期となっており、まさにこれを持って考古学史は有史時代に突入したと言ってよいだろう。

そんなことを念頭に置きながら、雑音のない旧石器と縄文を中心に、年表づくりに取り掛かりたい。当然のことながらマンローとその周囲は大きく取り上げることになる





水戸光圀、古代石碑の記事に従い、栃木県侍塚古墳を発掘。

蒲生君平、古墳を陵墓として崇拝の対象とする。前方後円墳は君平の造語。

木内石亭と弄石社: 石斧や石鏃を古代人の作成したものと判断

1823 大シーボルト、初回の訪日。植物学者として多くの標本を持ち帰る。帰国後に全7巻の『日本』を刊行。
はべらぼうに面白い。一読をおすすめする。
ウィキには「トムセンの三時代区分法を適用して、日本の遺物を年代配列し叙述」とあるが、どこかはわからない。

1869 小シーボルト(シーボルトの次男)が兄とともに来日。墺外交官業務の傍ら考古学調査を行いう。『考古説略』を発表、「考古学」という言葉を日本で初めて使用する。

小シーボルトは町田久成、蜷川式胤ら古物愛好家とともに古物会を開催。「考古説略」を出版し欧州の考古学を伝える。

1876 ベルツ、東大医学部の教授となる。小シーボルトの影響で骨董品収集を趣味とする。

1877 モースが東大の生物学教授となる。偶然車窓から大森貝塚を発見。教室員とともに発掘に取り組む。

小シーボルトが第一発見者を争うが、実地研究で先行したモースの功に帰せられる。このあと小シーボルトは考古学の学術活動から手を引く。

1879 モース、ダーウィンの推薦を受け、『ネイチャー』誌に大森貝塚に関する論文を発表。このとき "cord marked pottery"の用語を使用。これが『縄文土器』の語源となった。

モースは考古学の素養はなかったが、講演活動を通じダーウィンの進化論を精力的に紹介した。

1877 帝国大学理科大学動物学科の学生坪井正五郎、同志10名により「人類学の友」を結成。

1886 坪井らにより「東京人類学会」が結成される。機関誌第1号を発表。

1895 坪井正五郎、通俗誌に「コロボックル風俗考」を発表。石器時代人はアイヌ人に置き換えられたと主張。アイヌ伝承の「コロボックル」を旧石器人と解釈する。

1897 ベルツ、樺太アイヌ調査の為、北海道石狩を訪問。ベルツはマンローとともに横浜の三ツ沢遺跡の発掘にも参加している。

1916 東大の他、京大や東北大でも考古学教室が開かれ、従来とは異なる思潮が競合するようになる。

1919 史跡名勝・天然記念物保存法が成立。重要遺跡が「史跡」として保存されるようになる。

1925 大山巌の次男大山柏が大山史前学研究所を設立。

1928 広義の人類学(自然人類学、考古学、民族学)に関心をもつ若手研究者により人文研究会が設立される。江上波夫、岡正雄らが参加。

1928 清野謙次、『日本石器時代人研究』を発表。縄文人骨のマススタディにより「超万世一系」論を提唱。

1930 東京帝大の山内、甲野、八幡らは、縄文土器の編年によって縄文人の歴史を探ろうとし、「編年学派」と呼ばれる。出土層の層位に着目し編成。

1932 山内清男、「日本遠古の文化」を発表。縄文は狩猟・漁獲・採集文化であり、弥生は農耕の文化と規定。

1943 小林行雄、弥生土器の型式と様式をカテゴリー化する。

1948 登呂遺跡発掘調査をきっかけに日本考古学協会が発足。「文化戦犯」を排し、「自主・民主・平等・互恵・公開の原則に立って、考古学の発展をはかる」と謳う。

1949 アメリカの化学者リビー、二酸化炭素同位体測定法を発明。

1959 近藤義郎、弥生農村を倉庫を共有する「単位集団」<大規模な工事にあたる「農業共同体」の2階層に集団化する。

1960 坪井清足、縄文時代を生産力の停滞と呪術支配の世界として定式化。マルクス主義の公式を当てはめたものとされる。

1970 所沢の砂川遺跡。旧跡時代の遊動型キャンプの遺跡。原石の加工処跡を中心とする放射線型遊動生活が想定される

1975 下條らにより、磨製石器(弥生時代)の石材研究が一般化。北部九州における石器生産の専業化が明らかになる。

1980 群馬の下触(しもぶれ)牛伏遺跡。旧石器時代・前半期ナイフ形石器群期の遺跡。直径数十メートルの石器ブロックを形成。打ち欠け石器のほか局部磨製石斧も出土。大型哺乳動物の共同狩猟のためのキャンプと考えられる。
後半期ナイフ形石器群期では大型キャンブは消失し、落とし穴による小型獣捕獲(富士山南麓)へと代わっていく。

1981 西田正規、紋切り型縄文観を批判、温暖化に伴う多様化が生活の多様化を生み出したところに縄文時代の特徴を見るべきだと主張。「タコ足的な生業活動」と形容する。

1982 馬淵久夫、青銅器の鉛含有量測定により、産地の同定を行う。同じ頃、釉薬の鉛成分の分析も一般化。

黒曜石の放射性同位元素分析により、産地の同定が行われるようになる。

1992 三内丸山遺跡の発掘が始まる。780軒にもおよぶ住居跡や大型掘立柱建物が存在したと想定される。ここから豊かな縄文のイメージが広がる。

1999 青森県太平山元遺跡の土器、AMSによる再検討で従来より4千年遡る可能性が指摘。
この土器は日本最古とされ、縄文文様はないが縄文土器に比定される。