マンローーについて書かれた最良の日本語文献は桑原さんのドキュメンタリーです。しかしこれはマンローー亡き後の関係者からの聞き書きを集めたものです。
マンローーが日本語もしゃべれないままに50年も日本に居着き、最後は北海道の山の中で敵国人として冷たい目を浴びせられ、生活の糧も奪われ死んでいく過程というのはなかなかわからないところがあります。
その点で、マンローが心を許し頼みとしたイギリス人考古学者セリグマンへの手紙は、その内心を知る上できわめて貴重なものと言えるでしょう。
「アイヌの文化と伝統」はマンローの遺稿集です。これをセリグマンの妻で同じく考古学者だったセリグマンが一冊の本にまとめ上げました。
セリグマンの書いた序文はマンローの手紙の内容を駆使して書かれており、マンローの「アイヌ観」を知る上で最高の文献だろうと思います。ここでは全文をそのまま訳しておきます。
後半は校閲者の渡辺仁に対する反批判のような中身になっていて、どうも前後関係とかがわからないと意味が読み取れません。
渡辺氏は後に東大教授、北大教授を歴任し、この世界のボスになった人です。この後マンローについて言及した様子はなさそうで、彼がマンローを黙殺すれば、学会も黙殺せざるを得なかった可能性があります。もう一つは1950年代前半に東大の文化人類学教室が中心になって「アイヌ民族綜合調査」というのが行われ、既存の「北海道諸学者」の学説が随分批判されたらしい。そこまで関連付けるべきかわからない。とりあえずこの本に収録された渡辺氏の「紹介」を読むことにするか。
若干ややこしくて煩わしいところもあると思いますがご了承ください。



序文  B・Z・セリグマン

NEIL GORDON MUNROは1863年にエジンバラで生まれ、教育を受け、最終学歴として医学を学びました。

卒業直後、彼は極東へ向かいました。最初はインド、その後香港を経て日本へと旅を続けました。

 1893年に横浜の総合病院の院長になり、時々ヨーロッパに戻ったが、その時から死ぬまで日本を我が家としました。(“時々”と書かれているが、1回のみである)

 彼は日本の先史時代に興味を持ち、とりわけアイヌの人々の伝統と暮らしに関心を集中するようになりました。彼は19世紀末からの20年間に、何度もアイヌの人々のもとを訪れています。これまで出版されたアイヌ関係の著作は次のとおりです。

1.「日本の原始文化」 日本アジア協会の連載記事 Vol。 34、1906。
2.「先史時代の日本」 横浜 1908年 エディンバラ 1911年。
3.「ヨーロッパと日本の巨石群に関する考察」 横浜、1909年。
4.「いくつかの巨石群: 起源と遺物」 横浜、1911。
その他の雑誌にアイヌと自然に関するさまざまな記事を載せています。

彼は貴重な先史時代の遺物のコレクションをエジンバラ博物館に提供しました。

二風谷定住への経過

後年、マンローは軽井沢療養所の院長を務めました。その任が解かれ、軽井沢での診療と並行して長期の自由行動が許可されると、夏は軽井沢で働き、それ以外は北海道に長期滞在するようになりました。

その頃から、彼の主な関心は先史時代の考古学的研究から、アイヌ人の生活に関する民俗学的研究に移っていきました。アイヌの生活を見るにつけ、マンローの嘆きは深くなりました。

当時アイヌの人々は、長年の狩猟と食料収集の生活をあきらめ、農業から生計を立てるために働かざるを得なくなりました。彼らは貧しく、アルコールに溺れ、人生への興味を喪失し退化していました。その数も疫病などにより減少していました。

セリグマンとの出会い

1929年に私の夫、故C. G.セリグマン教授(F.R.S.)は日本を訪れました。軽井沢まで出向いてマンローに会いました。そのとき、セリグマンは1923年の大地震で、マンローのアイヌに関するすべてのメモ、標本、写真が失われたことを知って愕然としました。

マンローは自費でアイヌの研究を行ってきましたが、震災で深刻な経済的損失を被り、研究を続けることができなくなっていました。

セリグマンはそれまでの交流の中で、マンローの正確な観察力とアイヌへの知識、アイヌの人々への親密な観点を確信していました。

そこでイングランドに戻ると、セリグマンはマンローが調査を続けることができるように、ロックフェラー財団に研究資金を申請しました。

 1930年に資金が供与されると、マンローはすぐに北海道の沙流川流域の二風谷に小さな家を建て、そこに定住しました。そしてアイヌの生活と伝統について集中的に研究を始めました。

彼の仕事の方法はクリニックを開くことでした。彼の妻は訓練を受けた病院看護師で、多くの患者をこなすことが出来ました。二人はクリニックに群がったすべての人に無料の治療を与えるました。

アイヌの人々はマンロー夫婦を信頼しました。そして待合室でうわさ話、歌、伝説、むかし話をする用になりました。待合室は、そこに来たすべての人のためのオープンハウスとなりました。

マンローは多くの長老(エカシ)と知り合いになりました。マンローは「友」とか「先生」と呼ばれました。エカシはマンローの貴重な情報提供者となりました。

1932年、2番目の不幸がマンローを襲いました。12月のある朝、夜明け前に、マンロー夫婦の自宅兼クリニックである二風谷の茅葺きの住居が焼失しました。

マンロー夫妻は炎から脱出しました。マンローはアイヌの研究メモを保管していたブリキの箱をなんとかして救いました。しかし彼のすべての所持品、彼の本、彼の写真や他の科学資料は焼けてしまいました。

北海道の冬の厳しい寒さは老マンローを痛みつけました。健康は損なわれ、その後遺症は彼を一年者あいだ苦しめ続けました。いつ軽井沢に戻って夏季療養所で仕事をしたのか、また年間を通じて北海道に留まったのかは定かではありません。

しかし、彼は屈しませんでした。

セリグマンはさらなる助成金を申請しました。 1933年にロックフェラー財団はもう一度寄付を行いました。さらに王立協会と英国科学振興協会からも助成が行われました。 日本アジア協会からの支援もありました。

大英協会内のアイヌ研究小委員会が結成され、これには現在、ダリルフォード教授、ラグラン卿、F.S.A。、アーサーD.ウェイリー、C.H.、C.B.E.、F.B.A。が含まれ、私自身が議長を務めています。

1934年、モンローはセリグマンあての手紙で、永遠にアイヌに留まるつもりだと書いています。

この手紙の中で、アイヌに関するさまざまな研究成果が語られています。

彼はアイヌ語で録音し、翻訳しました。数多くの歌と伝説、さまざまな病気の治療のための50の祈りが採集されました。また困難な出産のときのさまざまな治療、そして儀式と悪魔払いの儀式の説明を書き記しています。また、音楽や娯楽についてもメモをとっていました。

村で興味深いセレモニー(多分イヨマンテのこと)が行われたときには、映画を撮影しました。映画の出来栄えに満足しなかったので、2回目のときは、プロの写真家に撮影を依頼しました。そして写真家の指示の下で働いたり、スチール写真を撮ったりする役に回りました。

 マンローはまた妊娠、出産、精神の瞑想、病気の治療に関連する儀式の映画などを撮影しました。儀式の踊り、醸し酒の儀式、そして熊を犠牲に捧げる儀式も撮影されたといいます。

 残念ながらこれらの映画は消失し、最後の一巻だけが英国に届きました。それは 現在、王立人類学研究所が所蔵しており、1933年1月10日から展示されていました。

 最近、ポジティブが元のネガから作成され、1961年9月のアテネの Comité International du Film Ethnographique et Sociologique (文化人類学映像に関する国際委員会)の会議で示されました。

クマの儀式は、すべてのアイヌの儀式の中で最もよく知られています。マンローも何度か目撃しましたが、彼の本のなかではきちっとした説明はされていませんでした。

マンローは、「家の中で行われる祭りはイヨマンテの前半を構成する。それは新築祝いの式典に似ている」と述べ、儀式のために準備されたイナウの写真をセリグマンに送りました。

熊送り(イヨマンテ)のため、熊の子が捕らえられました。熊の子は細心の注意と敬意をもって世話をされ育ちます。熊の子は神の代表として、ときには神(カムイ)自身として扱われました。

適切なサイズに成長すると、檻に入れて育てられたクマは広場に引き出され、儀式的に殺されました。これがイヨマンテの後半部分を構成します。 

マンローはなぜか、アイヌの宗教についての本で、この最も重要な儀式を説明していません。それは重大で不思議な省略のように思われます。

そのため後の出版に際して、私(編者 B.Z.セリグマン)はマンローが映画(イヨマンテを撮影したもの)のために書いたキャプションから作成した説明を追加しました。

アイヌはまた狩により捕らえた熊を殺すときも類似の儀式を行いました。マンローはその儀式も何回か見ていますが、これについて書かれた報告は見当たりません。

この儀式についてはバチェラーが以前手短に説明を加えています。それがヘイスティングスの 『宗教と倫理の百科事典』第1巻に紹介されています。

マンローの最晩年

さて研究発表ですが、さまざまな悪条件により、マンローの予想よりも作業の進行が遅れがちになりました。二風谷の冬の厳しい気候と陸の孤島のような孤独な生活は、彼の健康を著しく損ないました。

マンローは出来上がった原稿の大部分を、1938年頃までにセリグマンに送りました。その間セリグマンは、マンローがなんとか生活できるようにと個人的な資金源からお金を集めました。

それは本の形で章立てて整理されました。しかしそれは完全ではなく、すぐに本にして出版できるほどの準備ができていませんでした、そして熊送りの説明も含まれていませんでした。

これらのポイントについて、マンローとセリグマンの間に手紙のやり取りがあったのですが、それは1941年の日本の世界大戦への参戦によって突然打ち切られてしまいました。


マンロー夫人と “貞操帯

戦後、私(セリグマン)はイギリス領事館から「マンローが1942年4月に亡くなった」という知らせを受け取りました。そのあとマンローの妻の住所はわからないままでした。

マンローはその手紙で彼女のことに何度も言及していました。その文面から、妻はマンローの診療の仕事を仕切り、家計を維持し、マンローの健康を守ってきたことがわかります。それだけでなく、彼女はアイヌ民俗の研究においても貴重なはたらきをしてきました。

長老はマンローに、女性が服の下に身に着けていた秘密の貞操帯(ウプショロクッ)によって魔法の力を行使できると言っていました。

(ウプショロクッは結婚した女性が下着を締める飾り紐で、強いられたものというより、女性の誇りを象徴する意味を持つ)

マンロー夫人はアイヌの女性たちにエカシの言葉を伝え、女性は自信を感じるようになりました。そのおかげで、マンローはこの主題を追究できました。そしてウプショロクッがアイヌの社会組織で重要な役割を果たしていることを発見できたのです。

マンロー夫人はアイヌの女性5人に、自分のウプショロクッの正確なコピーを織るよう依頼しました。そして出来上がったウプショロクッはのちに大英博物館に与えられることになりました。


マンローの研究態度

アイヌの習慣に関するマンローの記事が、メディアにたくさん掲載されたのは1934年のことです。彼は秘密のガードルが母系相伝することを報告しました。さらにそれらの持つ魔法の力、共同体における意味と重みについて言及しました。

マンローがアイヌ文化について本を書く目的は、アイヌの人々の慣習を注意深く観察し、報告するだけではありません、それは世界全体、特に日本人にアイヌの生き方を提示し訴えることでした。

アイヌの文化には考慮に値する価値があり、彼らは不条理な迷信だけを信じている未開の民ではありません。

 マンローはこの見解を一貫して強調しました、アイヌ人には、不合理に見えるかもしれない信念や儀式があります。それを記録するとき、彼はヨーロッパの民俗習慣と比較し共通点を見出すために苦労しました。

 実際、彼の未発表の記事の1つに発表の機会が与えられたため、彼はこの本をアイヌに対する「寛容の嘆願」にすることを意図していました。

もちろん、いまこの本を読んでいる読者にとって、そのような嘆願は不要です。だからそのような「奴隷の言葉」は省略されています。

マンローの関心は、北海道南部の沙流渓谷の二風谷でとどまるものではありません。彼は地区の情報提供者と協力し、道北の北見を何度か訪問しています。彼はサハリンにも調査に行くつもりでしたが、それはできませんでした。

彼の主な情報提供者は、アイヌの伝承にまだ精通している年配の男性と女性でした。

もしマンローの努力がなかったら、その知識の大部分は彼らと共に消えたでしょう。なぜなら、古い生活様式は日本(内地)の影響力が増大する下で急速に姿を消し、新しい生活条件では古い儀式、信念、伝説は無視されたからです。

彼の情報提供者は、もう誰も生きているとは思えません。

マンローーはたくさんの素晴らしい写真を送ってきました。その写真とオリジナルの原稿はすべて王立人類学研究所に寄託されています。多くがこの本に掲載されています。しかし残念なことに、英国に届いたのは写真だけであり、ネガをたどることはできませんでした。

何が渡辺氏との見解の違いを生み出したか

戦争中の出版は不可能でした。終戦の後、改めて出版への模索が始まりましたが、原稿を校訂できる有能な人物を見つけることが大変困難でした。

幸運なことに私たちは、ロンドン大学に留学していたすでにさんとめぐりあうことができました。

 彼は東京大学人類学部人文研究所の講師で、東京アイヌ合同研究委員会の研究委員でもありました。彼には1950年から1952年までの4回にわたる現地フィールドワークの経験がありました。このため彼の援助は非常にありがたいものでした。

原稿についての一般的なコメントに加えて、彼は自分の経験と日本語およびその他の情報源から得た脚注を追加し、この本の歴史的意義についての紹介を書きました。

渡辺氏はマンローが準備した論文を閲読しましたが、他の記事や材料は見ていません。

彼は多くの細部にわたる違いや誤りを指摘し、マンローの主要な解釈の一つを批判しました。これらの訂正、追加情報は、すべて脚注に組み込まれています。

私は事実問題での違いを検討する際には、いくつかの条件を考慮する必要があるとかんがえます。

すでに述べたように、マンローーは20世紀前半の数十年にアイヌの住む地域を訪問し、1930年からはそこに住み、12年後に二風谷で亡くなるまで、そこは彼の家になりました。

1930年代ですでに、若い世代は古い慣習を守っていませんでした。彼の信頼できる情報提供者はすべて高齢者でした。彼の情報は、長老との話し合いのなかで知った出来事に補足され、基づいていました。

1950年代に東京共同研究委員会と渡辺氏が調査を行ったとき、宗教的思想は、すでに生きている信念というよりも、神学のシステムとして理解されていたかもしれません。
これが解釈の主な違いのいくつかの理由になっているでしょう。

事実の違いに関して、マンローは二風谷地区と他の信頼できる地区を参照したと指摘しました。彼は地区ごとのバリエーションの存在を予測していました。

「霊返し」の儀式

渡辺氏との解釈上の主な違いは、植物の精神的本質に関するものです。

 マンローは、シランバカムイという植物の神があり、すべての植物はシランバカムイからラマト(精神または魂)を枝分かれさせていると述べています。

木にもラマトがあります。木の種類によっては、他の種類よりも霊的な力が強いため、より神聖であり価値があります。

渡辺氏は、すべての植物は「霊の化身であり、すべての獣、鳥、魚、昆虫はカムイ族の霊である」と述べています。「カムイの国では霊は人間の形をしていて、人間として生きる」が、アイヌの村を訪れると「木や草などに変装」するのだそうです。

マンローによれば、この本で「霊返し」と訳した式典は、化身と霊を引き離し霊をカムイの地に帰すことです。

渡辺氏によると、野菜で作られた捧げものは、しらんばカムイという単一神ではなく、それぞれの植物の霊からその美徳を引き出しているといいます。

動物の世界に関しては、解釈の違いはそれほど大きくありません。

アイヌはすべての動物がカムイであると信じてはいないと考えています。しかし同じ種のなかに良い動物と悪い動物がいることを示唆しています、そしてこれはクマ、ヘビ、キツネとスズメバチで特に注目されます。

悪い動物からの保護は、カムイ族の首長に訴えることによって得ることができます。なぜなら良い首長は自分の悪い部下を抑制することができるからです。


アイヌ語の発音と語尾音について

主に口唇、口蓋、および口蓋音に関して、渡辺氏との違いも発生します。

マンローーはそれらをb、d、g(シランバ、イオマンデ、オンガミ)として、渡辺氏はp、t、kとして音訳します。 私はマンローのスペルを保持しました。一貫性を保つために渡辺氏のスペルを変更する必要がありました。

この決定を支持するために、私は二風谷(ニブダニ)がマンローが住んでいた村の公式の住所であることに言及しておきます。

アイヌ語の完全な歴史的・文化的記述とアイヌ語の構造を説明することは、マンローの目的の一つでした。彼はそれをアイヌの過去と現在と呼びました。

しかし、マンローが残した材料を検討した後、私たちの委員会は、「アイヌの過去と現在」まで語るには不足していると判断しました。そしてこの本には、「儀式と信仰、そしてアイヌの日常生活への影響」に限定して扱うのが最善であるという結論に達しました。

 マンロー本来の意図を反映するためには、ノートからラグラン卿が編集した「アイヌの家の建設」に関する記事、それに狩猟技術、織物、その他の活動に関するノートが、やがて全面公開されることが望まれます。

この本の章別構成について

第1章、第2章、第3章、第4章、第5章、および第11章は、マンローの書いたとおりに掲載されます。

第 6、7、8、9、10章では、マンローが書いたいくつかの個別の記事に含まれる文章、彼のオリジナル作品に散在する情報、および多数のメモを整理したもの、さらにCGセリグマンへの手紙から抜粋し編集したものです。これら貴重な資料は、私が知る限り、いまだかつて公開されていないものばかりです。

 マンローーは祖先崇拝、母性、愛国心などについて観察した中身の重要性を理解してなかったかも知れません。それは私も最初は同じだったようです。

私は社会的組織に関する第12章を作成しました。マンロー自身の仕事から、祖先崇拝、母性、愛国心などを抜き出し、戦後に現場で働いていた日本人作家の情報も付け加えました。これによりシークレットガードルに関するマンローの情報についてもより広い視野から科学的に追跡できるでしょう。

 読者は、第2章、第3章、および第4章が大変かもしれません。カムイ、イナウはアイヌにとって非常に重要であり、注意深い説明と写真はマンローの誠実さへのオマージュです。

これらの章を読み飛ばしたいと思ったら、飛ばして構いません。後で間違いなく興味が生じるでしょう。これらの章は参照としても使用できます。


マンロー夫人との接触

英大使館員だったヒュー・ギブ氏の努力により、1959年10月にマンロー夫人と連絡をとることができました。彼女は夫のアイヌ研究がようやく出版されることを知って喜こびました。

彼女の証言により、オットマンローの死の際にフォスコ・マライーニが二風谷にいたこと、マンローが彼にタイプ手稿がいっぱい入ったリュックサックを託したことが明らかになりました。

私は出版社を介してマライーニに手紙を送りました。マンローの手紙で言及されていた未発表資料、貴重な映画がようやく見つかるのではないかと期待を膨らませました。

6か月後、彼はリュックサックを持ってロンドンのわたしのところまで来てくれました。しかし残念ながら、中身は作成した本のカーボンコピーと、付録Iとして本に付け加えたいくつかの伝説とメモだけでした。

謝辞

私は英国協会の委員会のすべてのメンバーに感謝します:

マンローの本のオリジナルの活字書を読み、渡辺氏に援助を与えてくれたフォルデ教授に。

アイヌ語と日本語の単語のスペルと翻訳をチェックしてくれたArthur Waleyに。

特にラグラン卿は、この作品の改訂と再編において、より簡潔にするために努力していただきました。  彼はまた、インデックスを作成してくれました。

アイヌに関する最新の書誌を紹介してくれたワシントン州議会図書館のW. H.ギルバート氏に感謝します。王立人類学研究所の司書であるカークパトリックさんには、このリストを確認していただきました。この本の主題に直接関係する作品のみを含めることにしました。

B. Z. S.

London, 1962