“Medicine in Japan and Scotland : Dr. N. G. Munro” TURNER, Roderick J. 東邦大学 2014

ブログ主からの一言

多分、留学生の研究発表みたいな論文だろうと思う。それにしてはよくまとまっており、勉強になるところもある。結局日本人の研究者がいかに勉強していないかということだろう。

私注を入れるうちにいつの間にか当初の量の数倍に膨れ上がってしまった。いずれターナーの文章に示唆を受けた私のオリジナルとして発表していくことになろうかと思う。

少なくとも日本で考古学を志そうとするなら、マンローの学問的足跡を確認せずに自らの立ち位置を定めることは出来ないのではないか。



あらすじ

マンローはアイヌの人々を無料で治療した医師として知られています。しかし彼の功績はそれだけでありません。

彼の日本での生活のほとんどは、考古学的・人類学的研究、各地での発掘作業と遺物の収集、晩年のアイヌ文化の客観的で厳格な記録に当てられました。
その中でも最も重要な学問的貢献は、アイヌの遺産の文書・記録化と保存にあったと言えるでしょう。

マンローは1888年にエジンバラ大学で医学の学位を取得しました。その後、インド・香港を経由して日本に定着。医師としての活動の傍ら、生涯を通じて日本で研究を続けた。

他にもアイヌに携わった英国人は、イギリス聖公会のジョン・バチェラー牧師などたくさんます。しかし彼が治療した何千人ものアイヌ人の患者にとって、マンローほど大切な人はいないでしょう。

しかしマンローの名は日本でもスコットランドでもあまり知られていないままです。


序章 生い立ち

ニール・ゴードン・マンローは、1863年6月16日、スコットランドのロッキーで生まれました。父は現地の開業医だったロバート・ゴードン・マンロー、そして母親はマーガレット・プリングル・マンローでした。

ニールはキンロスの学校に通いました。彼の家族は1882年にラトに引っ越しました。
1879年、彼はエジンバラ大学の医学部に入学しました。

入学して3年目、彼は深刻な肺感染症(おそらく結核)になり、チュニジアに移住して療養生活を送りました。

このためか、彼は医学部を遅れて卒業し、医学博士の学位を取らないままインドへの旅に出るのです。



この目的地が考古学への関心を引き起こしたのか、それとも主題への既存の関心が場所を選択する要因になったのかは、未解決のままです。

(注: 彼は学生の頃からすでに考古学に興味を持ちテームズ河畔の遺跡発掘に参加したりしています。療養先のチュニジアでも発掘に手を染めていました)

1888年に大学を卒業した後の3年間はほとんど記録がなく、私たちはほとんど知ることができません。ただしその足どりについては、乗船名簿や宿泊記録などいくつかの記録が残っています。

ビクトリア朝の理想とスコットランド人の冒険心に従って、彼は行動したと思います。
(注: スコットランドは自然環境が厳しく多くの若者は国外を目指しました。その中でエジンバラ大学医学部の先輩ダーウィンの活躍は、マンローにとって大いなる刺激だったと思われます)

彼はしばらくの間、P&Oフェリーラインで働いていましたが、この間は確かにインドに航海していました。彼が1891年5月に日本の横浜に到着したのは香港経由でした。
(注: 彼はインド航路を運行する海運会社に船医として採用され、インドに渡っています。そこでも発掘活動を行いましたが、健康を害し香港に移動。今度は横浜航路の船医となりました。その間も病気が悪化し、横浜の横浜総合病院に入院しました。退院後もそのまま外人病院に雇われ、横浜に居着いてしまいました。その後、彼は父親の死にも帰国することなく、1942年の彼の死までずっと日本から出ることはありませんでした)

彼は1898年に横浜総合病院で医師として働き始めました。共同でこの病院を設立したことも記録に残っています。1899年に彼は日本で医療免許を与えられました。

(注: この病院の院長になったことはありますが、設立したのは個人開業のクリニックです。総合病院の設立は維新直後のことです)

1898年に彼は、アイヌの本拠地である巨大な北の島である北海道を初めて訪れました。

 1905年にマンローは帰化し日本人になりました。カタカナっでマンローとしましたが、その後漢字で「満郎」と名乗るようになりました。

興味深いことに、Munroの以前の当て字は「卍樓」でした。ただしマンロ自身の書簡や他の学者によるこの変更への言及はありません。
卍(マンジ)は、ヒンズー教、仏教、ジャイナ教に関連する古代の宗教的シンボルです。
しかし第二次世界大戦前にナチスが、(ハーケンクロイツ)を党章として採用してからは使わなくなったようです。

一度だけ日本を離れ、帰国したことがありました。1909年にエジンバラで医学博士号を取得するためです。
(注: 医学士の免許はあるため診療は可能でした。ただ考古学の論文を発表するにあたって医学博士の肩書きはあったほうが幅が効いたようです。結局、マンローは1909年になって「日本におけるガン」と題する学位論文を作成。エジンバラに戻って学位審査を通過し博士号を受けることになります)


女たらしのマンロー

スコットランド人は、女性を追いかけることについて「積極的」であると考えられています。女たらしで有名なスコットランド人にトーマス・グラバーがいます。長崎のグラバー邸の主です。
プッチーニのオペラ「マダムバタフライ」は、グラバーの妻ツルをモデルにしたと言われます。(諸説あり)

マンローも艶福家で、4人の妻と結婚しています。他にヨーロッパ旅行中に知り合ったフランス人女性がいますが、日本に来てすぐに別れたようです。

1895年、マンローは最初の妻であるアデル・レッツと結婚しました。アデレは横浜のドイツ人商社の社長令嬢でした。

二人の間には2人の息子がいました。弟のロバートは1902年に亡くなりました。ロバートへの肉親の情が1908年出版の「日本のコイン」に示されています。
アデル・レッツも1905年に亡くなっています。

その年、文郎は高畠トクと結婚しました。
(注: 暴き立てるのも気が引けるが、マンローは高畑トクと結婚したくてアデルと離縁したのだ。国際結婚では離婚が難しいため、日本に帰化したのだ)

そのトクとも1909年に離婚したが、二人の間には娘のアイリス/あやめがいました。

1914年、今度はスイス商社の令嬢(母は日本人)アデーレ・ファーブルブランドと結婚しましたが、1937年に離婚しました。そして4人目の妻、木村チヨと結婚しました。

チヨは看護師として軽井沢のクリニックでマンローの医療を手伝う中で結ばれることになりました。1942年にマンローが死んだときは最後を看取りました。彼らには子供がなく、1974年に彼女は亡くなりました。いまは同じお墓に葬られています。


マンローと考古学

考古学はおそらく日本でのマンローの作業で、最もよく文書化・記録化された領域です。彼日本中の何百もの発掘調査を監督ました。いくつかの遺跡では乞われて参加しました、

縄文時代やその後の工芸品を何千と集めました。そして人類学的パラダイムに基づいてそれらを整理しました。そして日本の先住民としてアイヌの優位を確立しました。

(注: 正確にはアイヌ人ではなく縄文人です。アイヌ人は北海道に暮らした縄文人で、いくらかのオホーツク人の血統を伝えたものです。日本人は、主として半島からの渡来人と縄文人が交わって形成されたとされます)

私たちにとって特に興味深いものは、日本の考古学におけるマンローの役割に関連することです。

マンローの最も注目すべき発掘には、横浜近郊の三ツ沢、大森、根岸があります。彼はその他に北海道での遺跡発掘、神奈川県箱根、鹿児島県でも調査を行っています。(注: 軽井沢は長野ではなく川崎の遺跡である)

彼の初期の考古学の仕事は「先史時代の日本」(1908年、1911年再版)で集大成されました。彼のもっとも重要な理論的貢献は日本における先史時代のアイヌとの関係を明らかにしたことです。

マンロー以前には、日本列島の最初の定住者をめぐる議論は、アイヌとは何の関係もありませんでした。マンローが最初にそれを主張したのです。

日本の先住民族はアイヌ人(縄文人)でした。彼らは日本列島全般にわたって生息し、南は琉球諸島から北は樺太島(現在はロシア領サハリン島)まで分布していました。
それは現代日本人の祖先ともつながっていました。

アイヌ(縄文人)は本州北部で比較的に密度高く暮らしていました。北海道だけでなく、特に青森でもおおくの縄文遺跡が見られます。
(注: 南西日本では常緑樹地帯で山のみのりは少なく、比較的に漁撈生活に特化していった可能性があります)

マンローの蒐集品

悲劇的なことに、マンローは二度の災難で本、資料、発掘品、手紙のほとんどを失いました。

経済的に余裕のない人々への無料のヘルスケアは、彼の人生の継続的なテーマでした。

最初は1923年の関東大震災です。横浜の自宅は多くのコレクションもろとも全焼しました。当時軽井沢にいたマンローは直ちに横浜に戻り、資料喪失のショックに耐え被災者の治療にあたりました。経済的に余裕のない人々への無料のヘルスケアを施すことは、マンローが生涯一貫して追求したテーマでした。

そして二度目は1932年、定住準備のため北海道の二風谷で借りていた家が焼失したときです。こうして日本国内に彼が集めていた資料はほぼなくなりました。

幸いにも、彼は1894年から少しづつ、考古学的資料をスコットランドに送り始めていました。このような努力のおかげで、スコットランド国立博物館にはマンローの集めたかなり大量のコレクションがあります。


マンローの医学研究の水準

マンロの死亡診断書には、1942年に79歳で癌で死亡したと記載されています。

彼は1882年に結核に罹患し、療養を余儀なくされました。彼はチュニジアに転地し、1年間の療養生活を送りました。その後彼は医学博士の学位を取らないまま医療を続けました。1909年になってやっとエジンバラ大学から学位を取得したのです。

彼の博士論文は「日本のがん」と題されています。タイプ原稿で30ページにもわたる長大論文で卒論というより「総論」の趣があります。審査にあたった教授たちはさぞ辟易としたことでしょう。

論文ではまず、日本の死亡統計が1899年以来に始まったことを明らかにしています。つまりこの論文のわずか10年前のことだということです。

医学校の出身者は20,592人。これに対し医師補が15,046人で医学レベルがきわめて低い。このため統計の信頼度は相当低い。

その事もあって、死因統計では「不明死」が多い。例えば1904年の統計では不明死が11%を占める。2位以下からが病名のついた病死となっている。

死因の上位を占めるのは脳溢血や脳軟化など脳血管疾患。感染症では脳膜炎、胃腸炎が多い。マンローはこの中から「近代疾患」としての結核とガンに注目する。

イギリスの近代統計からは次のことがわかっている。近代工業の発展に伴い人口の大都市集中が進む。これに伴い労働者の間に結核が蔓延する。結核は多臓器を犯すが、医学の進歩に従いこれらが結核菌の感染によるものであることが明らかになる。これらが相まって結核の全死因に対する割合が増える。しかし結核の蔓延はやがて正しい療養や予防の普及により減少するようになる。そしてこれに代わって癌による死亡が増えてくる。

ここでマンローは、日本における結核の有病率と発生率に関する広範なデータを検索し、都道府県別の結核とがんによる死亡を比較した。

その上で統計に関して考察を加えています。たとえば、肉を食べるという新たに広まった習慣にもかかわらず、横浜の胃がんによる死亡率は1908年には10万人あたり44.4人と低いのです。

それなのに奈良県は、10万人あたり92.8人という「驚異的な」ガン死亡率がある。つまり日本人のがん発生の機序は英国人とは異なるということを示しています。

マンローは奈良県のガンの高発生率が胃がんによるものであり、それが主として山林労働者の食習慣にあることを推測し、「癌の外因性は、生体組織への機械的、熱的または化学的攻撃であることが明確に確立されているようだ」と結論づけています。

これは現代の医師や研究者にとって単純化しているかもしれませんが、細胞の病理学と生物遺伝学について深く理解している読者にとって興味深い提起です。

マンローは最新の医学をよく勉強していたようです。論文では「酵素・毒素・芽球・形成性」などの近代医学用語もしばしば用いられています。

イギリスではまた男性の癌が急速な増加を示していますが、日本でそれを証明することはできません。女性のがん死亡率が男性を上回っているというのも興味深い事実です。


マンローの理論活動

マンローは考古学研究、アイヌの生活についての民族学的研究で多くの業績を残しています。また学位論文「日本におけるガン」や「日本の古銭」の研究なども水準の高いものです。

その他にも多くの哲学的論文を新聞に寄稿したり、アイネシュタインが訪日したときは相対性理論についての解説を掲載したりしています。これらは英文で書かれ、残念ながらまだ閲覧していません。マンローは深い知的推論の能力を持ち、きわめて抽象的な概念に関して理解力を持っていたようですが、その水準は未知のもののようです。

マンローは最後まで日本語の読み書きも、会話さえ出来ませんでした。このため日本の学者との交流もきわめて限られていて、日本語での文献はほぼゼロ、身の回りの雑事を描いたルポに限定されています。

マンローは深い知的推論と抽象的な概念の理解の能力を持っていました、

彼の日常の活動は特に抽象的なというよりは肉体的であるという事実にもかかわらず、すなわち、彼の患者の治療と考古学的発掘でした。マンローが行った厳密で詳細かつ影響力のある調査の多くは、彼の「予備」の時間(つまり、非稼働時間)に行われたものです。

さらに、マンローや彼の業績の特定の部分に関する作品はたくさんありますが、私の知る限り、本や他の一般的な参考資料はほとんどありません


二風谷での研究活動

マンローと4人目の妻チヨさんは、1930年以降最後の12年間を北海道二風谷で過ごしました。しかし北海道の生活は初めてではありません。以前から何度も北海道を訪れ、アイヌ民族の研究に熱情を燃やしました。

彼はアイヌの人々の文化、言語、民間伝承、伝統、工芸品を考古学的に忠実に文書として記録していました。その間、アイヌの人々に軽費または無料の医療を施しました。

彼は1923年の関東大震災の後、軽井沢療養所で患者を治療するようになりました。これは夏の間、避暑客用に開放され、外国人コミュニティに人気がありました。

マンローは1930年には院長に就任しています。二風谷に居を定めた後も夏の間は軽井沢で診療を行い、そのお金で二風谷のための生活資金や住民のための治療資金を賄っていたようです。


まとめ

マンローは多くの側面を持つ水準の高い知識人です。ここではその多くを簡潔さのために割愛しましたが、もっとも脚光を浴びているアイヌとの彼の関係だけでも、いくつかの日本語のドキュメンタリー、本、展示会の主題となっています。

ここでは非常に初歩的な紹介を死、興味を持つ材料を提供できれば幸いです。そして、マンローへの興味の幅がさらに広がることを期待します。

何千ものマンローが2度の被災で失われました。しかし1923年と1932年の個人の手紙、データ、加工品、資料などがまだ大量に眠っています。

マンローが行った調査は厳密で詳細かつ影響力のあるものでした。しかしそれらはかれの「余暇」を使っておこなわれたものです。だから発表を前提に行われたものではありません。

さらに、マンローの業績の特定の部分に関する研究はたくさんありますが、私の知る限り、彼の生き方や業績を総合的に暑かった書籍はほとんどありません。

これは、スコットランドと日本の歴史に興味のあるすべての人にとって、とても不幸なことです。

マンローが愛し、共に暮らすようになったアイヌの人々に対するマンローの医療は、

アイヌ人々がいまもマンロー博士を忘れず、尊敬し続けている理由はたくさんあると思います。ともに暮らし医療奉仕を行ったことは、その理由の1つにすぎないと思います。

そして将来、両国の研究者は、マンローという人物について思いを同じくし、より深い理解を深めるでしょう。